1 :
神聖ローマ皇帝、オーストリア皇帝、ドイツ皇帝の代わりに:05/01/05 01:00:17
あるようでなかったので、立てました。
さて、まぁ。ボヘミア、ハンガリーも、含めますか。
2 :
世界@名無史さん:05/01/05 01:06:45
ボヘミアって今で言うとどの辺?
クィーンが唄った辺。
5 :
世界@名無史さん:05/01/05 03:16:00
姉妹スレッドは、以下のとおり。なぜか、ドイツがなかった。
現代のイギリス貴族の状況 : イングランドの他、スコットランドなどあり混乱する傾向あり。
【帯剣】 フランス貴族 【法服】 :ナバル王国がある筈だが、現状はすっきりしている。
そもそも、今日西欧(および、中欧、南欧大半、北欧、東欧一部)の
貴族制度は、フランク王国に源流を持つ。
その他は、ローマ起源(古代ローマ帝国、ローマ教皇、東ローマ系である。
5つの5等爵は、イングランド(GB。UK)特有のもの。
だから
>>4 のスレはドイツ中心に(自然と)収まってるっちゅうに
そもそも英仏の貴族スレも本来は重複スレになる
7 :
世界@名無史さん:05/01/06 00:07:21
フランク王国、東フランク王国、
での、有力者のその地位を追認したような部族大公の類や、
また、各種官職(伯、宮中伯、辺境伯、方伯、城伯、、、)群に淵源を持ちますね。
ただ、フランク王国、東フランク王国時代にさかのぼれるものでも、
こういったもの以外もあるでしょうね。
ついでに、
ボヘミア王国は現在のチェコを指す(つまり、ボヘミア、モラビア地域)。
ハンガリーは、現在のハンガリー共和国のほか、
トランシルバニア、スロバキア、ボイボジナ、また、クロアチアの大半を指す。
8 :
世界@名無史さん:05/01/06 19:47:30
>>7 部族大公の流れに注目すると、まず、思い浮かぶのは、ザクセン大公(大公だが、要するにヘルツォーク)。
カロリンガーフランクは、宮宰カールマルテルの時は、西のアラブを粉砕したわけだが、
それ以後は、敵の中心はゲルマン諸部族。これらを征服したと表現するか、統一したと表現するかは、別だが。
特に、最大の敵は、ザクセン族で、これらは、今のニーダーザクセンを中心にしており、ここが彼らの本拠地である。
かのシャルルマーニュは、かれらを徹底的に叩き、大虐殺までやってのけた。
(部族大公のはじめが誰か、大虐殺の前が後か、僕は知らないんだが)
のちに、東フランクで、ザクセン族の部族リーダーたるザクセン大公が、王位につくが、
東フランクの性格の変貌を示しているといえる。
このザクセン部族出身の王のもと、東フランクは帝国の再興を果たすのはご存知のとおり。
このザクセン朝をもたらした、オットーの血統は、ザクセン部族出身だろう。
しかし、ザクセン朝断絶後のザクセン大公は、ザクセン部族出身とは限らないと思われる(どうか?)。
9 :
帝国官職の流れに着目すると:05/01/06 20:18:57
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/etc/deutschland/pfalz.htm からの引用である。
>プファルツ(Pfalz)とは、中世の「王宮」のことで、
>それを管理するのが宮中伯(Pfalzgraf)である。
>よってプファルツはドイツ各地にあったわけだが、
>中でもライン宮中伯領(Pfalzgrafschaft)だった地域が、今日まで一般的に「プファルツ」と呼ばれているところである。
>すなわちマイン川以南のライン川両岸地帯のことである。(ただし現在のラインラント・プファルツ州はライン左岸のみ。)
>1156年に皇帝フリードリヒ1世赤髭王が、ロートリンゲン宮中伯領とその周辺の旧ザリエル家所領とをあわせて弟コンラートに与えたことから、
>この地域が1つの「領邦」となった。
>1214年に、この地域はバイエルン公ヴィッテルスバッハ家の所領となった。
>1329年に、東バイエルンの「上プファルツ(マイン川上流地域?)」とともにヴィッテルスバッハ家が分家しバイエルン公領から独立した。
>1356年の金印勅書でライン・プファルツ伯は7選帝侯の1つとなった。1225年にハイデルベルクに首府をおいた(1720年まで)。
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ