1 :
陽の沈まぬ国よ、再び・・・ :
03/02/07 01:54 第1次大戦で力及ばず、民族自決の原則で解体されたオーストリアはハプスブルク帝国。 しかし、解体の直前まで、ロスチャイルドをバックに、広大な国土を統合する鉄道建設 がすすめられ、銀行制度が整備され、中欧の大国として近代国家の道を着々と歩んでい ました。 その大帝国の力は、モーツァルトやシュトラウスの音楽やユーゲントスティル様式の建築 は勿論のこと、経済学のハイエクやベームバヴェルク、論理実証主義、そしてEUの源泉を なした汎欧州主義など、学問・思想の各方面に及びました。 しかし、1918年、敗戦の結果無残に崩壊したオーストリア帝国は、本来ドイツ語圏だっ た南チロルまで切り離されて、やがてこのような文化・芸術の伝統も衰え、欧州の二流国と して、地味な道を歩む運命となります。 しかし、いまでも、かつてハプスブルクの版図に含まれていた、トリエステ(現イタリア領)、 リボフ(現ウクライナ領)、オラディア(現ルーマニア領)などを訪れ、その素晴らしい建築 の遺構に触れるたび、この欧州の大国が永遠の幻のかなたに消えてしまったことを、悔やまず にいられません。 もし、ハプスブルク帝国が21世紀の今現存していたら、どんな国になっていたでしょうか。 そんな、ハプスブルク帝国への想いを、皆で語り合いましょう。
2 :
世界@名無史さん :03/02/07 02:07
トルコと似てる。
3 :
世界@名無史さん :03/02/07 02:34
オーストリアとハンガリーは今でも仲がいいね。
4 :
世界@名無史さん :03/02/07 04:59
各民族がいがみ合い、テロが頻発するひどい国家になったろうな。 一部では虐殺が起き、反政府組織とゲリラ戦は膠着状態。
5 :
世界@名無史さん :03/02/07 10:06
>>4 いやいや、
文化の薫り高いハプスブルク帝国が、世界の大国で国連常任理事国だったら、
サルの顔したブッシュや悪魔の顔したパウエルがのさばるようなこともなく、
世界はもっと平和だっただろうな…
いずれにせよ、アングロサクソンの台頭を許した大きな原因は、ドイツと
オーストリアの両方が大戦であぼ〜んしたこと。大陸ヨーロッパがフランス1
国だけでは、弱すぎ。
6 :
世界@名無史さん :03/02/07 11:02
旧ソ連や旧ユーゴスラビアのような状態になっていた。
7 :
世界@名無史さん :03/02/07 13:12
各民族に高度な自治権を与えていれば、緩やかな連邦国家として 生き残っていたと信じたい。 チェコ人にはハンガリー並みの自治権を与えようとしていたんだっけ?
8 :
世界@名無史さん :03/02/07 15:58
オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラビア・クロアチア・ガリツィア・トランシルバニア七重帝国略して ハプスブルク帝室主義王国連邦としてやっていって戴けたら(かっこよさげで)よろしいで砂
滅びるべくして滅んだんじゃないかしら。現在の欧州で多民族を束ねるほど王権は強くないのでは?
滅びるべくして滅んだっつうか自滅だろ 実質ナポレオン時代から2流国家になりかけてたし
11 :
世界@名無史さん :03/02/07 17:30
確かに19世紀からはボロボロだもんね
13 :
成功の種はあった :03/02/07 20:50
>>12 >実質ナポレオン時代から2流国家になりかけてたし
フランスがフランス革命を通じ、共和派の進歩的な潮流を代表したとすれば、
ハプスブルク帝国が、欧州で保守的潮流の代表だったわけだ。
それで、ベートーベンですら、あのナポレオンといういんちきな独裁者に
交響曲を献呈しそうになったほどだった。
しかし、このハプスブルク帝国に流れる保守思想は、意外なことに、ハイエク
の思想につながり、今日のネオリベラリズムをイデオロギーの面から支えること
になっている。
ロスチャイルドも、こうした保守的な思想潮流に乗りながら、オーストリアを近代
国家再生へと再生する賭けをしたわけだ。
そしてそれは、かなり成功しそうになっていた…
もし、第1次大戦で敗戦せず、経済力が高まっていれば、当然ウィーンの求心力も
大きくなったはず。
>>9 >現在の欧州で多民族を束ねるほど王権は強くないのでは?
20世紀になれば、いずれにしても立憲君主制だから、王権の有無は、余り関係
ない。当時のオーストリアでは、これに代る、新たな多民族国家論が模索されて
いた。
14 :
世界@名無史さん :03/02/07 22:03
「ハプスブルクであること」に、フランツ・ヨーゼフが囚われすぎたのが 滅亡の最大要因だろう。 保守的で、政治改革にも消極的。 大体、皇太子(甥の方)の結婚に反対してたんだから、暗殺されても 放っておけばいいものを、国家の威信とやらで戦争に踏み切る。 軍備も旧式なのしかなく、これが第一次大戦での敗因となった。 正直言って、ハプスブルク家は結婚で領土増やしてきた面がかなりあるから、 (通史を見るに、あまり戦争は得意ではない。はっきり言って 他国・他勢力に依存しすぎ) 国際情勢の変化でそれが出来なくなれば、領土を増やすのをやめるか やり方を変えて最新軍備を導入するかしかない。 それを怠ったんだから負けるのは当たり前だった。
15 :
世界@名無史さん :03/02/07 22:06
まあ、我が身を顧みず、バルカンなんかに進出したのがいけなかった。
16 :
世界@名無史さん :03/02/07 22:14
>5 地中海の主は二度に渡って戦勝国でしたが何か?
17 :
世界@名無史さん :03/02/07 22:48
帝国が存続するためには、良い貿易港が欲しいなあ。
18 :
世界@名無史さん :03/02/07 22:56
うーんハプスブルグ帝国存続には第一次大戦発火点の暗殺事件に暗殺されたのが プロシャ独逸最後の皇帝(当時は皇太子だっけか?)だったら、あすこまで冒険的な 事件と戦争にはならんかったのでは
19 :
ゑ゛じゃないか解放戦線伊勢派 ◆Q.pECj.Kaw :03/02/07 22:58
第一次大戦でオーストリアだけでなく、なにげにハンガリーも領土大削減されてるな。 海への出口にスロバキアにトランシルバニア・・・。
20 :
世界@名無史さん :03/02/07 23:27
>>19 現ルーマニア領トランシルバニアは、戦後に至るまで、ハンガリーが領有権を
主張していた。ハンガリーの少数民族が、多数住んでいる。
今は、ハンガリーの方がルーマニアよりずっと発展しているから、これらの少数
民族は、恨めしいだろうね。
21 :
世界@名無史さん :03/02/08 00:29
同じ共産主義陣営内でもハンガリーとルーマニアは仲が悪かったよな。
22 :
世界@名無史さん :03/02/08 00:35
ハンガリー本土の大部分がオスマン帝国の直轄支配を受けてる時代も オスマン帝国の保護国とはいえトランシルバニア公国は ハンガリー人貴族の中から公を選出したりして自治を行ってた 歴史のある地域だしな。
ハプスブルク帝國で内乱おこったっけ?
こんなスレが建っていたとは……。
25 :
世界@名無史さん :03/02/08 09:58
>>23 コシュート?とか、ハンガリーの独立騒動があったが。
26 :
世界@名無史さん :03/02/08 10:39
第二次大戦中ハンガリーはトランシルバニアやカルパト・ウクライナを領有してたな。 ルーマニアも枢軸の一因だったのに同じ枢軸国のハンガリーやブルガリアに領土削り取られた のはなんで?
27 :
世界@名無史さん :03/02/08 10:48
>26 ソ連に奪われたモルダヴィアを回復する交換条件として。
28 :
チャウシェスク :03/02/08 10:54
>>26 >ルーマニアも枢軸の一因だったのに同じ枢軸国のハンガリーやブルガリアに
>領土削り取られた のはなんで?
ルーマニアは、第2次大戦中に、恥知らずにも枢軸国→連合国へと、立場を鞍替え
した。こうして媚を売ったおかげで、トランシルバニア獲得に成功した。こちらの
側で削り取られてはいない。
ルーマニアから削り取られたのは、北ブコビナ。ここは、元ハプスブルク帝国だ
ったが、ソ連領(今はウクライナ領)になった。モロトフリベントロップ秘密協定
で、ソ連領とする区域に入っていたためだ。
29 :
世界@名無史さん :03/02/08 12:00
>28 >恥知らずにも枢軸国→連合国へと、立場を鞍替え そりゃソ連が攻め込んできたからだろ。それはハンガリーも同じだし しょーが無いと思うが。イタリアのほうがよっぽどヘタレと思う。 1次大戦でルーマニアが獲得したトランシルバニアを、なぜ同じ枢軸国だった ハンガリーに奪われなきゃならなかったのか? ルーマニアのアントネスクってハンガリーのホルティに比べて相当ヘタレだったのか?
30 :
ゑ゛じゃないか解放戦線伊勢派 ◆Q.pECj.Kaw :03/02/08 12:17
31 :
世界@名無史さん :03/02/08 17:53
1次大戦後、独立したハンガリーが王制を宣言したため、 オーストリアを追い出された皇帝一家が嬉々としてハンガリーに 行ったけど、摂政ホルティに丁重に追い出されたらしいな。
32 :
世界@名無史さん :03/02/08 18:20
>31 確か、「王のいない王国」ですよね。 ホルティは何を考えて王制を採ったのでしょう。
33 :
世界@名無史さん :03/02/08 18:35
>>32 フランコ時代のスペインも確か王なき王国だったとおもう。
34 :
ゑ゛じゃないか解放戦線伊勢派 ◆Q.pECj.Kaw :03/02/08 19:29
35 :
世界@名無史さん :03/02/08 19:49
>31 国王即位どころか皇帝一家を逮捕・処刑してもおかしく無い世情だったらしい。 そのなかで皇帝一家を「丁重に」国外追放したホルティは忠義の旧臣と言われたらしいぞ。 皇帝一家にはボロクソ言われたらしいが。
36 :
モーツァルト@音楽史さん :03/02/08 20:57
>>1 >モーツァルトやシュトラウスの音楽
ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトという古典派音楽という芸術
ジャンルそのものが、ハプスブルク帝国の産物であることは、今日、音楽史の中では
ほとんど忘れ去られてしまってるね。
なぜモーツァルトがオペラ「後宮からの逃走」や「トルコ行進曲」を書いたか、なぜ
「ドン・ジョバンニ」の初演が今はチェコのプラハだったかということも、当時のハプ
スブルク帝国の版図のありさまを抜きにしては、本来語れないよね。
ウィーンが、今のような小さなオーストリアだけの首都だったら、これだけの芸術が
花開くことはなかったはずだな。
37 :
世界@名無史さん :03/02/09 09:02
>>36 >ハプスブルク帝国の産物であることは、今日、音楽史の中では
>ほとんど忘れ去られてしまってるね。
クラシックを聴く人なら誰でも知っていると思うが・・・
38 :
世界@名無史さん :03/02/09 09:38
つーか、どっちにしてもドイツの伍長殿にあぼーんされるんじゃないの?
39 :
世界@名無史さん :03/02/09 10:08
>38 その伍長は実はオーストリア人だけどね。
40 :
世界@名無史さん :03/02/09 10:11
>>39 なら、オーストリア皇帝→神聖ローマ皇帝フカーツとなったかもしれん
と言ってみるテスト
41 :
世界@名無史さん :03/02/09 10:15
ハプスブルク帝国を評価してる人多いですね ジョージ・ケナンとかゴーロ・マンとかも確かそうだったような
42 :
世界@名無史さん :03/02/09 12:09
43 :
世界@名無史さん :03/02/09 12:22
ユーゴスラヴィアが四分五裂していまだに血みどろの虐殺を続けてるように、 ハプスブルク帝国も社会制度の変革とともに血塵と業火の中で滅亡していたに違いない。
44 :
シュヴァルツェンベルク :03/02/09 13:59
>>9 氏に同意。「王朝」という概念は求心力としては弱いでしょう。
王家だけなら、オーストリア公国、のような形でリヒテンシュタインのように存続していた
余地はあったかもしれないが…。
>>41 シュテファン・ツヴァイクもね…感傷が先に立ってはいるが
>>43 そうならなかったのは不幸中の幸いだと思う。
45 :
世界@名無史さん :03/02/09 14:33
戦争起こしたのが、国益に基づく判断でなくて 王家の事情ってのがイタいよなあ。 ただ、その後の連合国側の処理がお粗末だったために 新興諸国はナチス・ドイツにあっさりなびいた。 戦後は戦後でソ連の衛星国になるし。 NATOやEUを「欧州という共通の家」 と表現しているのを聞くと、やり切れない。 独立によってナショナリズム的感情は一時的に 満足したかも知れないが、その後の歴史を考えると 良かったのかどうか。 理想と現実の乖離がこの地域の実情だと思う。
46 :
世界@名無史さん :03/02/09 16:18
ハプスブルクは遠くなりにけり
47 :
世界@名無史さん :03/02/09 16:21
やっぱり「民族自決」というのは、ごく限られた地域でしか通用しないのかも。 なんでもかんでも西欧と同じにするのが果たしていいことなのか。
48 :
世界@名無史さん :03/02/09 16:33
>>47 そうだね、日本民族なんか自決したくないんじゃない?
何でもアメリカに決めてもらわないと、何も自分たちでは決められない、いや決めたくない。
>1 フランツ・ヨーゼフ帝は、時代の流れの見えていない、 血統至上主義に凝り固まった頭の固いジジィとしか言い ようがない。 後継者のカールやその妃ツィタも、ハンガリー王位を求 めてのこのこハンガリーにやってくるあたり、やはり時 代を読めていない。政治見識ゼロだ。 彼らが典型的なハプスブルグの皇帝・皇族なのだとすれ ば、その帝国が生き残ることに何の意味があるのか? 仮に第1次大戦を生き延びたとしても、第2次大戦では 命脈を絶たれるだろう。たとえ戦争で倒れなくとも、い つかは革命で崩壊する。 ハプスブルグのラストエンペラー・カールが退位宣言書 に署名させられたのは、交戦国の軍によってではなく、 蜂起したウィーンの民衆によってだった。
50 :
モーツァルト@音楽史さん :03/02/09 19:58
>>37 >クラシックを聴く人なら誰でも知っていると思うが・・・
そうかな?
たとえば、「新世界より」交響曲を書いたドボルザーク。チェコ人ということになっているが、
当時はもちろん、ハプスブルク帝国=オーストリアの臣民だった。
プラハという都市で活躍したのだが、ハプスブルクの音楽芸術の伝統をいうまでもなく受け継
いでいる。
しかし、ハプスブルク崩壊後、ナショナリズムの高揚で、ドボルザーク=国籍はオーストリア
とは、誰も言わなくなっただろ?
ハンガリー狂詩曲のフランツ・リストも同じ。
また、「トルコ行進曲」。なぜ、モーツァルトが「トルコ」に強く関心を抱いたのか? 近く
にクラシック音楽愛好家がいたら、聞いてみるといい。
そのうち何人が、ハプスブルク帝国とオスマントルコが実は当時国境を接していて、オーストリ
アとトルコとは、対抗しあう隣国だった、と答えられるか?
そういう時代に、モーツァルトが、「後宮からの逃走」でイスラムとの融和を説いている。
ブッシュにハプスブルク王家の爪の垢を飲ませてやりたいほどだ。
51 :
世界@名無史さん :03/02/09 20:52
ハプスブルク家は長らく神聖ローマ皇帝だったわけだが、 ボヘミア王の資格で選帝侯だったわけだよな?
52 :
世界@名無史さん :03/02/10 22:35
>51 そのとおり。ハプスブルク家はボヘミア王の資格で選帝侯でもあった。 ただし、形式的にはボヘミアも選挙王制で、ハプスブルク家 の当主が選出されなかった一時期は選帝侯位を失った。
53 :
オーストリア社会主義共和国? :03/02/14 23:40
>>49 >蜂起したウィーンの民衆によってだった。
まあ、ハプスブルク王家が腐ってたのは事実と思うけどね。
で、もし、帝国が解体する前に、蜂起したウィーンの民衆が社会主義革命を起こし、
帝国の領域全体が社会主義国になってたとしたらどうだろうか。
実例としては、ロシアと中国がある。帝国の領域が、そのまま今の国家領域になって
いる。
55 :
世界@名無史さん :03/02/15 00:04
>53 ソ連におけるロシア人、中国における漢民族のような核になる民族が無いから オーストリア=ハンガリー帝国全体が丸々社会主義国にはなれないんじゃないかなぁ。 オーストリア=ハンガリー帝国全体ののドイツ人の割合って何%くらいだったのかな?
56 :
世界@名無史さん :03/02/15 01:55
帝国内の王国の国号と君主の称号,敬称はどうでしたか?
>>52 ボヘミアって選帝侯だったんだ。知らなんだ・・・
要するにフェルディナント1世時代からちゃっかり選帝侯もやってたんだ。
1805年時点でハプスブルク家のフランツ2世の肩書きは 「神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王兼ハンガリー王兼オーストリア公」? トスカナとかパルマとかはどういう扱いだったんだろう?
59 :
世界@名無史さん :03/02/15 09:43
>58 トスカナは弟のフェルディナントが大公だったと思うが。パルマは知らん。 神聖ローマ皇帝兼ハンガリー王兼ボヘミア王兼オーストリア大公兼ロートリンゲン公」 かな?ロンバルディア=ヴェネト王はナポレオン戦争後だったかな?
60 :
世界@名無史さん :03/02/23 16:09
>>55 ロシア帝国でも、中央アジアなんかではロシア人の割合は低かったし。
チェコの周辺にドイツ人が多数居住していたことは、戦前のズデーテンの状況からも明らか。
ドイツと連携を保ちながら、民族の自治をなるべく拡大するような方向で、結構いけたんじゃないか?
61 :
世界@名無しさん :03/02/23 16:43
>55 1910年の統計でハンガリーを除く地域でドイツ人の比率は35%ぐらい。 ハンガリーでは10%程度。 ドイツ人の比率は意外と(?)少ない。 ところでハプスブルク王家の復位の話は無いのだろうか? 10年程前に現当主 がテレビに出ていたのを覚えているが。
62 :
世界@名無史さん :03/02/23 17:19
>61 ハンガリーの社会主義政権の終了後、現当主のオットー殿下を大統領候補に推す勢力があったな。 本人は固辞したけど。殿下は自由を求める東独国民をハンガリー経由で西側に逃す ような活動をしてたな。また、当時、自由化を推進してたハンガリーの社会主義政権もそれを黙認してた。
63 :
世界@名無史さん :03/02/24 21:57
もしも崩壊しなかったら... もれはきっと、レンベルク大学の学生だっただろう。。
64 :
世界@名無史さん :03/02/24 22:35
>>61 オーストリア側
ドイツ系35%、チェコ系23%、ポーランド系17%、ウクライナ系12%、スロベニア系4.5派%、イタリア系2.7%
ハンガリー側
ハンガリー系47%、ルーマニア系14%、ドイツ系9.7%、スロバキア系9.4%、クロアチア系8.8%、セルビア系5.3%
出典はたぶん同じです
セルビアの5.3%がすごいね。 ヴォイヴォディナに逃げてきた連中なんだろうけど。 同じ難民由来の、チェコ領内にいたクロアチア人の数がイタリア人以下 なのとくらべると、本国の近さもあるのだろうけど、セルビアの多さを 感じる。 よくそんなところで、シュヴェイクは「ナ ベレフラド!」なんて大声 で叫べたものだ(ハンガリー王国は遠いし外国だから良いのか。。)。 ルテニア人の12%もすごい。ガリツィアの人口は希薄かと思っていたが、 スロヴェニアよりも多い(この「スロヴェニア」にはヴィンディッシュ は入ってないのかな?)。
66 :
世界@名無史さん :03/02/25 22:55
>>65 もう少し詳しいデータを出しとくと
オーストリア側が2796万3800人、ハンガリー側が2088万6000人
オーストリアの各州の民族比も残ってて
ウクライナ系はガリツィア(798万477人)で40.2%、ブコヴィナ(79万4929人)で38.4%。
ガリツィアの民族比は@ポーランド系(58.5)、Aウクライナ、Bドイツ(1.1)
ブコヴィナの民族比は@ウクライナ、Aルーマニア(34.4)、Bドイツ(21.2)、Cポーランド(4.5)
ガリツィアで人口比を「稼いでる」ようだ。
67 :
世界@名無史さん :03/02/25 23:55
>>38 どうせならば、ハプスブルクを王政復古させてやって
傀儡として操れば良かったものを<ナチス
まぁ、ブウコヴィナはルーマニア系がおおいってのがルーマニアへの 併合の理由だったからね。 レス感謝。 次はガリツィエンに旅行にいきたいなぁ... レンベルク、ブロディ、ストリイ、チェルノヴィッツ。コロミアも興味在り。
69 :
世界@名無史さん :03/02/26 18:06
>>68 えっ、ブウコヴィナ旅行したんですか?
それはスゴイ。泊まるとこありました?
>>69 いいところだよ。物価は安いし。スチャバのレストランじゃ、500円で郷土料理
の豪華フルコースランチだ。
ホテルは、今ルーマニアは市場経済なんで、直接ファクスか何かで連絡すれば問題なし。
しかも、日本人はルーマニア入国にビザすら不要になった(昨年4月から)。
だが、できればウクライナ領チェルノフツイ(チェルノヴィッツ。チェルノブイリとは
まったく違うので心配しないで!)にも足を伸ばしてほしいね。こっちは、旧ソ連なので
ビザとか結構まだ面倒だが。
ブコヴィナ行ったことないです。 スチャバの教会にはあまり関心ないですが、カルパチアルーシの木造教 会は見てみたい(こっちはガリツィアですね)。 わたしの言うブコヴィナは、北ブコヴィナというべきだったですね。 見てみたいのは、チェルノヴィッツだったら司教宮殿。大学なんだけど、 すごいよ、妙な様式。混淆。あれをチェコ人が作ったというのだから、 不思議。 ブコヴィナに興味あるなら、チェルノヴィッツのガイドブックの復刻が あって、チェルノヴィッツ市街図の附録がついているのがあります。 スチャバの辺の情報は少なかったが、ヴァトラ・ドルネイなんかの温泉 地の情報がけっこうあって面白かったですよ。 ドイツアマゾンでチェルノヴィッツと検索すると、多分出て来ます。 1907年版の復刻だったかな?お薦めです。
>>71 >カルパチアルーシの木造教会
ウジゴロド(ハンガリー語地名Ungvar)の野外民族博物館にありますYO。
カルパチア山脈以南のウクライナ領は、ハプスブルク崩壊後チェコスロバキア領
となったのを、第2次大戦中にソ連が事実上強制併合、そしてソ連崩壊後はそのま
まウクライナ領となっている。
千島・樺太のような歴史を持っている場所だから、日本人にも親しみがわくかも。
漏れが乗ったタクシーの運転手は、「ここは昔、チェコスロバキア領だった」と
いって、わざわざ昔の官庁街を案内してくれた。チェコ系、またはハンガリー
系のマイノリティーだったんだろうか。町並みはまったく中欧の面影で、ソ連、
スラブという感じはない。町中に、EUの野立看板が目立った。
73 :
Windischgraetz ◆z4Op9cXCnM :03/02/27 03:27
そうね、カルパチアルーシ、というか、ザカルパチアか。 ポーランドの山の方(バルデヨフから北に入った辺)にも 沢山あるらしいので、ガリツィアを巡ってから、ウング ヴァール、カシャウ、バルトフェルト経由して行ってみた いと思っています。 でも、ザカルパチアってウクライナ人(というかルテニア人) が多かったんですよね?ルテニアが多かったのに、町並み が中欧というのはルテニアが都市部にいなかったからかな? ウズホロドにいらしたとは、うらやましい。。 ところで72氏は結構旅行為さっていますか?次の計画は どちら?
ハプスブルク帝国の「足跡」をたどりたいなら「ハプスブルク帝国を旅する」(加賀美雅弘著、講談社現代新書)。
折れもこれでハプスブルク史に開眼した。旅行書としても面白い。
>>65 >ガリツィアの人口は希薄かと思っていたが
実際にはオーストリア諸邦の中でガリツィアが一番人口が多かった。もちろん面積の違いはあるが。
@ガリツィア(798万)Aボヘミア(671万)B下オーストリア(326万)Cモラビア(260万)
1910年のデータ
75 :
世界@名無史さん :03/02/27 22:22
ブタペストって第一次世界大戦後、略奪にあったんですか?
76 :
世界@名無史さん :03/02/28 01:41
>>74 >「ハプスブルク帝国を旅する」(加賀美雅弘著、講談社現代新書)。
この本、ハプスブルク帝国領でも一番面白い、ウクライナ領部分の、レンベルクやチェルノヴィッツなんかについては
ほとんど言及がなかったと思うが?
>>73 >ところで72氏は結構旅行為さっていますか?次の計画はどちら?
有難うございます。
いまは、ハプスブルクではありませんが、旧プロイセン→ドイツ領シュレジエン州
の、古い温泉保養地(クアオルト)探訪の旅を考えております。
戦前のアルトハイデルベルク的な(日本の旧制高校なんかのドイツ語のイメージと
いってもいい)ドイツが、戦後ポーランド領になったあと、社会主義の間いわば凍
結保存されていて、本物のドイツに行くよりも、古きよき落ち着いたドイツを味わ
えると聞いたものですから。
近所には、ワンダーフォーゲル運動のフィールドになったようなズデーテン山地の
ハイキングコース、冬はスキー場もあって、西欧とちがい、まだ比較的安価で楽し
めるようです。
もちろん、キャーピー言ってる日本の観光客など、必死に探しても誰も来ません。
そして、国境の反対側に足を伸ばせば、勿論なつかしのハプスブルク(モラビア
あたり)。
いまは、ポーランド、スロバキア、チェコ、全部日本人はビザ不要になりました。
79 :
Windischgraetz :03/02/28 10:14
>>76 そうそう。
ユダヤ人が多い、と記述されているところを見ると、ユダヤ憎悪が見られる、
というような程度の言及で終わっている。
>>77 いいなぁ...旧制こうこう、もれも憧れましたよ。
マントつくったもん。白線帽も(徽章は3高)。
Glatzの近くに、4箇所ほど温泉があって、そこにはわたしも行ってみたい。
Bad Kudowa、ホテルモルトケ...
チェコ側にナホド(某チェコ人建築家の出身地)もありますから、あわせて
辿ってみたいと思ってながら、時間とお金がありません...
わたしの計画(ガリツィアやザカルパチア)あたりでは、Reimannschau
という温泉があって、
シュレジエンだったら、Laumannというところから低地、高地シュレジエンの
ガイドがありますから、御覧になってなかったら、御覧ください。この出版者、
郷愁に満ちたラインナップです(先日、ゲルリッツのガイドを買いましたが、
これもすごい!)
なんか、2chでみなさんのようなハプスブルク系に出会えるとは嬉しいです。
81 :
世界@名無史さん :03/03/03 18:20
自分はまだウィーンにも行ったことないですよ、トホホ ザッハートルテ食ってみたい
>>80 亀レスでどうもすみません・・・
白線帽とマントで京都の町を闊歩された旧制3高卒ですか・・・ 人生の大先輩で
すね。おみそれしました。
私も制帽は高校(もちろん新制)入学のとき買って、高1の頃かぶっていましたが、
周りのクラスメートから「いつまでそんなものかぶってるんだ」と揶揄されて、
かぶるのを止めてしまったような世代です。そのころは、マントはなかったけれど
制服は詰め襟を着ました。ですが、紛争で自由化され、これも今は存在しません。
さて、Laumannについての情報、有難うございます。シュレジエンのクアオルト探訪の
折には、是非購入して持って行きたいものです。
郷愁に満ちたドイツの出版社で私が知っているのは、東プロイセン関係で、Rautenberg
というのがあります。
ゲルリッツは、私も訪れました。ナイセ川によって東西に永遠に分断されたままになっ
た、悲劇の都市ですね。旧東独部分は統一後かなり町が美しくなりましたが、ポーランド
領になってしまった部分は、まだまだで、これが元来1つの町だったかと思うと、悲しさ
がこみ上げてきます。
ゲルリッツのあたりは、旧シュレジエン州でごくわずか戦後もドイツ領として残った場所
ですね。旧東独部分のゲルリッツには、シュレジエンの品々がずいぶん並んでいました。
統一のとき、残った部分が余りに少ないので、強引にザクセン州に編入されてしまったの
が残念です。
ザカルパチアの温泉保養地も、いってみたい場所のひとつですね。
レンベルク(リボフ)から、チョップへのカルパチア山脈横断鉄道は、ハプスブルク時代の
建設で、ソ連領に編入されてから広軌に改築されていますが、その景観は素晴らしいです。
5時間くらい、全く退屈することなく、絵のように美しい車窓を楽しめます。
ただ、橋梁にはことごとく銃を持った兵士が警備していて、カメラを向けるのははばから
れるようです。最近のウクライナ政府は、かなりロシアよりになっていますので、また、ソ連
の面影が復活しているのでしょうか。
いえいえ、似而非3高生であります。。(作った、というのは、パテで、でつ、 70歳でガリツィエン、シュレジエンはしんどいでしょう)ですから、82さま の方が、人生の大先輩、おそらくわたしの父と同じ世代とお見受けします... Laumann、やっぱり御存じでしたね!あっちで見つけて以来、金が出来ては 注文しています。でも、シュチェッチンやブレスラウが絶版になっていて、残 念。。 レンベルクからスタニスラウ、コロミア、チェルノヴィッツと行きたいのです が、ストリイ、ウングヴァール、ムンカーチとは全く方向が違うので、どうい うルートにしようか、思案中です。 ひとつ、伺いたいのですが、夜行は危険ではありませんか?時間を有効に使い たいので、移動はなるべく撮影ができない時間に、と考えているのですが...
84 :
加筆@Windischgraetz ◆z4Op9cXCnM :03/03/04 12:57
すみません、加筆です、 「ウクライナの」夜行は、という意味です。 チェコやセルビアでは、夜行でも全く問題ありませんでした。 (と、感じていました)
85 :
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>>77 >>84 (>77は74とありますが折れのレスじゃありません)
いいですねえ、シレジア地方。折れもシレジアとかポンメルンとか東プロイセンとか
失われた文化にすごく興味がありますね。ゲルリッツと同じように北部のステッチンにも
興味があります。ステッチンはなぜか「オーデル・ナイセ以西」なのにポーランドに割譲されちゃった。
ドイツ北東部にも「メクレンブルク・フォア・ポンメルン州」といって、ほんのちょっとだけ
旧ポンメルン地方が入ってる。特にオーデル川下流の河口付近というのは東部でもドイツ保守主義の
牙城だったそうです。だからWW2後にドイツ人がオーデル以東から追放されても、結構多くの
ドイツ系が留まったそうです。
ハプスブルク関係だとジーベンビュルゲン(トランシルバニア)やイストリアに行ったことが
ありますが、両地域とも各国が取り合った結果、「プチ・エスニッククレンジング」が起きてます。
88 :
◆z4Op9cXCnM :03/03/05 01:19
スマソ、74じゃなくて73だった。
ということで、改めまして。。 シュチェッチン(シュテッティンというべきか<ドイツネタのところでは)は、 戦争で壊れた建物のレンガ部材を、まずワルシャワに供出させられたと聞きま した。いったことはないのですが、大変興味在ります。 あと、オドラ/オーデル川あたりでは、フランクフルトの川の向こうとこちら とか...現代の日本人であるためか、川一本の国境というのに興味があって、 チェスキ・チェシン/テシェン・アン・デア・オルザのチェコ側とポーランド 側(チェシン)を2度、いったり来たりしました。 オーデル河口にドイツ系がとどまったというのは、一寸不思議な感じもします。 なんというか、追放というのは命令な訳で、それをどうやって残ったのか、そ の点に興味がでますね。技術を持っていたのか。。 イストリア、いつか行ってみたいところです。 ポーラの軍港。テゲトホーフ。 イタリアがイストリアを返せ、と言っているのは有名ですが、スロヴェニアも クロアチアに、イストリア問題で不満があると聞いています。 だから、スロヴェニア人とクロアチア人は、仲が悪いと...
>>87 >ステッチンはなぜか「オーデル・ナイセ以西」なのにポーランドに割譲されちゃった。
これは、オーデルナイセ線をドイツ東方国境にするといいながら、河口部分だけは、
旧ポンメルン州の西側の州境を東方国境にしたためです。その趣旨は、勿論、ベルリ
ンの外港(北京に対し天津、東京に対し横浜というような位置)をドイツからもぎ取
って、復興の機会を奪うためでした。
>>83 >夜行は危険ではありませんか?時間を有効に使い
>たいので、移動はなるべく撮影ができない時間に、と考えているのですが...
カルパチアの山中を夜行で移動するのは、もったいなすぎです。
ぜひ、美しい車窓が存分に楽しめる、日中の移動をお勧めします。
旧ソ連の列車は、どれも寝台4つが1室の、クペというコンパートメントです。知ら
ないロシア人、ウクライナ人と一晩を車室で共にすることになります。ロシア人は大
体英語やドイツ語等しゃべれませんから、こちらがロシア語が出来ないと、全くコミ
ュニケーションがとれません。
しかし、車掌に賄賂を払うと、個室を用意してくれることがあります。私は、賄賂
US$50で、4人のコンパートを24時間(チェルノビッツ→キエフ)独占しました。
内側から鍵をかけると、誰も入ってこないので安心して寝られます。JRの寝台料金と
比べると、US$50は、決して日本人には高いとは思えません。
なお、寝台券は一切発行されず、このUS$50は、車掌の懐に急行したものと思われます。
ただし、この「賄賂」のほかに、正規の乗車券(運賃部分)は、別に予め購入しておく必要
があります。「賄賂」は、寝台個室の使用に対するものだけです。
91 :
83Windischgraetz ◆z4Op9cXCnM :03/03/05 02:23
>>90 レス、感謝です。
賄賂が高い!!!(笑)
わたしは、向こうから言ってきたので10ドル払って2つベッドの部屋をベオグラード
からジダニモストまで占領しましたが...あれは8時間くらいだったか?
3倍としても、30ドルですよね?
ロシアの方が物価が高いのは事実だったか...(わたしがセルビアに行った時、バスが
9円でしたか。。)ベッド数当たりで見れば、セルビアの方が割高ですが。
昼間の移動を考えてみます<美しい車窓という、プラス要因を考慮して!
>>90 >その趣旨は、勿論、ベルリンの外港(北京に対し天津、東京に対し横浜というような位置)
>をドイツからもぎ取って、復興の機会を奪うためでした。
なるほど興味深い指摘です。チャーチルが「ステッチンからトリエステまで鉄のカーテンができている」
と言いましたが、トリエステもかなり歴史的には面白い。
>>89 にもありますが、
トリエステは旧ユーゴ側も外港としてぜひとも手に入れたかった所(元々はウィーンの外港)。
WW2後、トリエステ周辺は「トリエステ自由国」になった。
このうちトリエステ市周辺がA地区(英米軍が解放)、南のコペルやピランがB地区(ユーゴ軍が解放)になり、
最終的にA地区がイタリア側へ、B地区がユーゴ側へ分割されます(1954年)。
(このコペルやピランはスロベニアがわずかに海に接する部分)
91年にユーゴ内戦が起きた時もセルビア主体のユーゴ軍がトリエステ領有を蒸し返したそうです。
>>89 >スロヴェニアもクロアチアに、イストリア問題で不満があると聞いています。
>だから、スロヴェニア人とクロアチア人は、仲が悪いと...
その通り。せっかくイタリアから分捕ったイストリアがほとんどクロアチア側に入れられた。
スロベニア側になったのは前出の旧トリエステ自由国のB地区のみ。
それ以前に1947年に手に入れた部分がクロアチア側に含まれた。だからスロベニア側は多いに不満がある。
ブダペストの外港だったリエカ(フィウメ)もクロアチア側だし。
ちなみに前に出てきた1910年の人口調査だと トリエステ(19万913人)のうち @イタリア系(62.31%)Aスロベニア系(29.81)Bドイツ系(6.21) イストリア(38万6463人)のうち @イタリア系(43.52)Aセルビア、クロアチア系(38.14)Bスロベニア系(14.27) トリエステの北部にあるゲルツ・グラディスカ(24万9893人)のうち @スロベニア系(61.85)Aイタリア系(36.06) このゲルツ・グラディスカとはイタリアのゴリツィアという町の辺り たしかにトリエステというのは街中にもポツポツとスロベニア系の名前の表札を見かけました(語尾が〜nik)。
(^^)
95 :
世界@名無史さん :03/03/15 02:38
>>92 それにしても、敗戦国のはずのイタリアが、トリエステも南チロルも戦後確保し続けた
というのは、すごいと思うが・・・
やっぱり、さっさと降参しちゃうのが勝ち、ってことだったのかな?
>>95 WW1、WW2ともイタリアは戦勝国だよ、一応。戦争の途中で連合国側についたからね。
97 :
世界@名無史さん :03/03/15 23:01
>>96 ずるいね。日本も、ミッドウェー海戦あたりでさっさと尻尾を巻くべきだったにゃー
そうすれば、広島長崎に原爆も落ちなかったし、千島、南樺太、台湾くらいは戦後も
確保できただろうに。
>>95 逆に言うと戦勝国なのに領土を減らした可哀相なケース>WW2
WW1だってフィウメとかトリエステとかダルマチアとか南チロルが欲しくて参戦したのに、
実際獲得できたのは南チロルとトリエステとイストリアだけだったし。
>>97 スレ違いだが折れもそう思う。もっと早く手を打っとけば日本にとっても有利な条件で
戦争を終わらせることが出来ただろうが・・
99 :
世界@名無史さん :03/03/23 16:44
>>96 風見鶏のような、狡く汚い香具師だな。イタ公は。逝ってよし。
中途半端に弱い国が、一番漁夫の利を占めるってことか。
100 :
世界@名無史さん :03/03/23 22:48
101 :
世界@名無史さん :03/04/03 03:31
>>98 イタ公は、侵略で得た南チロルを早くオーストリアに返還しなさい。
ドイツ語を話す人が圧倒的なあそこは、もともとあなたの国の領土じゃありません。
102 :
世界@名無史さん :03/04/03 23:45
>>101 ん? チロル全体でイタリア系は42%いたぞ(1910年)。
敗戦国のドイツ・オーストリア圏が 蝙蝠戦勝国のイタリアより繁栄してるのが気持ち良い。
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
106 :
世界@名無史さん :03/04/20 13:45
>>103 繁栄?
オーストリアは、ハプスブルク崩壊で完全に欧州の2流国に転落
ドイツは、経済的には確かに復興したが、文化・芸術・科学・技術の面で昔日の面影は無し
敗戦の痛手は、いまもドイツ語圏に大きくのしかかっている。
これは、永遠に修復できない損失だ。
107 :
世界@名無史さん :03/05/15 01:12
>>106 ロシアやニュージーランドの奥地にまで、フランツヨゼフという地名が・・・
日の沈まぬ国だったハプスブルク、2度と戻ってこない過去の栄光だね。
108 :
世界@名無史さん :03/05/18 18:43
とりあえず「ハプスブルクの栄光」というページに行ってみたら
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
110 :
世界@名無史さん :03/05/24 23:27
いま、トリエステオペラが日本に来てるね。 19世紀始め創立とか宣伝してるけど、音楽の国ハプスブルク帝国による創立だったとは 書いてない。イタ公が一から作ったような印象を与えていて、許せね〜 あと、トリエステのオーストリア領事館は、いまでも、ハプスブルク領時代目抜き通りだっ た通りに居を構えています。トリエステには、ハプスブルク時代にオーストリアが建設した、 世界でも稀有の「ロープウエー式路面電車」があります。
111 :
Windischgraetz ◆z4Op9cXCnM :03/05/25 00:00
トリエスト、かっこういいよね。
112 :
世界@名無史さん :03/05/25 00:04
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
114 :
世界@名無史さん :03/06/02 20:15
>>110 正しくは「ケーブルカー式路面電車」だな。サンフランシスコにもあるけど。
ここの路面電車は途中から小型の電気機関車が押してくれるのがミソ。マニアには垂涎もの。
トリエステはスロベニア領事館もあるし、トリエステの駅のキヨスクには旧ユーゴ諸国の新聞が一通りそろってる。
コソボのアルバニア語の新聞も売ってる。土地柄を感じさせる。
116 :
世界@名無史さん :03/06/02 23:34
トリエステは鉄道の本数は少ないし、空港へは遠いしと不便なのが残念。 マックスの呪いか?
117 :
Windischgraetz ◆z4Op9cXCnM :03/06/03 16:14
トリエストの市役所となりの肉屋でくったサンドウィッチがうまかった。
そういえば、Adobe社のソフトをなにげに見ていたら、紛争が生じたときは、 次の国々の場合には、オーストリアの法律で裁判する、と書いてあって、その国名 リストが、ハプスブルク帝国の版図とほとんど同じダタ。 ハプスブルク帝国は今にまだ生きているんだと、チョト感激した。 それにしても、オーストリアには、ハプスブルク帝国再興を主張する政党は現れないのか? 漏れなら、断固支持するところだが・・・
120 :
世界@名無史さん :03/06/04 23:17
>>116 たしかにミラノからの列車はほとんどベネチアに行ってしまうので、直行する列車は少ない。
1日に2〜3本だろう。ベネチアの手前のメストーレ駅で乗り換えるが、それでも1時間に1本くらい。
もっと不便なのは旧ユーゴからの列車で、朝1本、夜行1本の計2本。それでも列車はガラガラだったから
増便の見込みは薄いだろう。
121 :
ミラマー城 :03/06/07 09:34
トリエステに逝ったら、ハプスブルク帝国の別荘、ミラマー城は必見。 ここから、メキシコの領土に王族が旅立った。メキシコも、ハプスブルク帝国領 だったのだ。 で、このミラマー城には、「日の沈まぬ国」の地図を絵にしたものが飾ってある。
122 :
ハンマーと鎌 :03/06/11 01:56
123 :
歴史学者の戯言 :03/06/11 17:56
単に中欧にハプスブルグ帝国が存続するだけでなく、オスマン=トルコ帝国が 何某かの形で存続できていたら、紛争のかなりの部分が減ってたろうな。 と思う。 まあ帝国じゃなくても立憲君主で連邦ないし合衆国としてでも。
124 :
世界@名無史さん :03/06/11 18:19
確かに「もしもオスマン=トルコ帝国が崩壊しなかったら」のほうが面白いは面白いのだが。
126 :
世界@名無史さん :03/06/11 23:35
してみると昨今のEUはハプスブルグ(神聖ローマ+スペイン)の欧州統一 の宿願を果たしつつあるといえるのかも。 まあEUが形を変えたハプスブルグの再興としても・・対するオスマン帝国 相当するイスラム圏は今のトコあの体たらくだし・・・ はあ願望としちゃ統一イスラムみたいなオスマン帝国の再興と、統一欧州= ハプスブルグの再来が、地中海で海戦やらかしてとかやってほしいが無理だろな。
トルコ主導の統一イスラムは面白そうだけど戦争は勘弁
128 :
世界@名無史さん :03/06/12 22:15
>>126 EUの原型となるアイディアを考えたのは、帝政時代のオーストリア人貴族、グーテンホフ・カレルギー。
彼は、日本人とケコーンした。
こんな雄大なことを考えられただけでも、当時のオーストリアが大国だったとわかるな。悲しい。
今のEUは、たしかに領域的には、
>ハプスブルグ(神聖ローマ+スペイン)の欧州統一の宿願を果たしつつある
といえるかもしらんが、同じ宿願は、ヒトラーもナポレオンも持っていたわけで、別にハプスブルク
固有じゃない。
むしろ、今のEU統合の中で、オーストリアは完全に脇役に追いやられている。中心は、独仏だ。
この点も、オーストリアファンには悲しいことだよね。
129 :
Windischgraetz ◆z4Op9cXCnM :03/06/13 10:00
>>128 ン?結婚?
彼のおっかさんが、牛込の出身だったんだよね。
オスマン=トルコ大帝国が存続するとするとオスマン家を帝国統合 の象徴として緩やかな連邦制度−多分にアメリカ合衆国をモデルに 立憲君主制度でもとるのかな。 問題は版図だ北アフリカ・エジプト・バルカンそしてアナトリア にカフカス・シリアはじめ中東。こんな版図を保つには西欧列強に それなりに対抗できる体力が必要だし、少なくとも第2時大戦まで 乗り切れば米ソ冷戦。反共の防壁と石油資源を武器に結構有力國 になりそうだ。 21世紀まで乗り切ったオーストリア帝国とオスマン立憲君主帝国 うーんぜひとも見てみたかったよ。
前世紀初め頃には日本をモデルにした立憲君主制に移行する事を模索するグループが存在していたようですね。 第一次大戦の結果が違っていたら、あるいは彼らの構想が実行されていたかも知れません。
三十年戦争で、スペインと教皇が勝利してプロテスタントの芽を摘み、 プロテスタント諸侯の領地がハプスブルク領に組み込まれて、 ハプスブルク朝統合欧州帝国が成立する──というシナリオはどうかな? ヨーロッパは中東並みに何でもかんでも宗教が問題になる社会であり続け、 異端審問によって近代科学の発生が抑圧される。 史実の近代欧州史では戦争が絶えなかったが、 統合欧州の成立によって戦争は起こらなくなり、軍事技術も停滞する。 それでも、ハプスブルク帝国の版図の中で民衆は平和を謳歌し、 江戸文化の西洋版といった感じの、マターリした平和な文化が開花する。 しかし、欧州における激しい異端弾圧は多くの宗教難民を生むことにもなる。 弾圧された異端派は続々と新大陸に移民し、新大陸の人口は急速に増加する。 新大陸に移民した人々は、実際主義的な精神で新たな文明を築き始める。 近代という歴史段階はここから始まることになるが、 欧州本土では新しい発見や発明が抑圧されているので、 科学技術の進歩は史実よりもずっと遅れる。 この結果、アジアの諸文化圏と欧州との発展段階の格差は開かず、 欧州系諸国と他の文化圏は対等の立場で交流していくことになり、 この世界の科学技術文明は、最初から多文化混合的な形で発展する。 2003年現在、蒸気駆動の飛行船という最先端の技術に、 その世界の人々は21世紀の夢を託している……。
133 :
世界@名無史さん :03/06/16 12:42
ああ、ハプスブルクと言えばスペインの方もあったな。 近世の欧州地図を眺めていると、 ハプスブルク領は細切れに散らばっていて何か気持ちよくない。 オランダは放棄して、オーストリアとスペインでイタリアを攻め、 ハプスブルク領を地理的につながった形にしようとか思わなかったのかね。
134 :
世界@名無史さん :03/06/16 22:30
フランスに局地戦で勝つなどチャンスがあったはずなのに・・・ 国王を捕虜にまでしとるのに・・・・・ せめて南仏を割譲するなり出来てれば・・・
136 :
世界@名無史さん :03/06/18 00:46
>132 どっちにしろイギリスor北米で科学が発展するだろうな。 >133 ヨーロッパ全土を制圧すれば領地は繋がるので欧州制覇に乗り出した。 もう少し地道かつ入念に結婚と暗殺・入札を繰り返しておけば・・・
137 :
世界@名無史さん :03/06/19 00:16
英仏100年戦争でイギリスが勝ってれば・? 少なくともヴァロア朝は成立しなくなるし・・・でも最大のチャンスは 神聖ローマ帝国皇帝カールX世(スペイン国王カルロスT世)彼の 治世は欧州統一もしくはその端緒を掴む絶好のチャンスがいっぱいあった ように思えるんだが。運が悪かったが彼と息子の運と方向性次第では ハプスブルグ朝汎ヨーロッパ帝国・・実現したかもね。
マーチャーシュ・コルヴィヌスが長生きしてマクシミリアン1世のかわりに 神聖ローマ皇帝位についたら、というほうが欧州統一の可能性は高そう似思えるが。 このスレの趣旨とは真っ向から対立しますが。
140 :
世界@名無史さん :03/06/20 11:38
オランダは経済的に手放すべきじゃあないだろお
142 :
世界@名無史さん :03/06/20 20:56
現実の歴史を知っていると、
>>132 は不自然に思えるけど、
実は、西欧以外の文化圏全てがたどった自然な道のりだよね。
もっと強力な意思と軍事的才能を持った君主がハプスブルク家にいたら、
西欧も同じ道をたどる可能性は確かにあったと思う。
でも、そうして西欧が統一されたら、史実の西欧の特殊性もなくなってしまい、
西欧による世界征服は起きなかったかもしれない。
だとしたら、戦下手なハプスブルク家の君主たちに、
西欧人は大いに感謝しないといけないわけだな。
143 :
世界@名無史さん :03/06/20 22:57
>>142 戦の上手下手の問題だけじゃないと思う。なにしろ教皇が皇帝権力の
増大を恐れてフランスとかオスマントルコに肩入れしたり・・腐敗した
あげく新教の怒りが爆発した後の尻拭いだけ都合よくやらせたりとか・・
てわけでローマ教皇と言う足かせが最大のネックか?でも教皇の支持が
なくてはハプスブルグの権威は無いわけで・・・・
すくなくともハプスブルグがもうちょいイタリー半島や教皇に拘泥しなければ
144 :
世界@名無史さん :03/06/21 03:39
>>143 信長の権力増大を恐れた天皇が、
武田やら毛利やらを陰で扇動していた構図と、
少しだけ似ているね。
そか、イタリアは西欧の「近畿地方」なんだな。
経済力や人口はイタリアがずばぬけてたしね。
147 :
世界@名無史さん :03/06/21 21:33
神聖ローマ皇帝は当然キリスト教世界(つまり全欧州)の代表にして ローマ教皇を代行し異教徒を打つユーロクリスチャン版の征夷大将軍 そしてその名の如くローマ=イタリアの王位をついでるってことでしょ・ よく歴史の本なんぞで神聖ローマ帝國とイタリアは別物に塗り分けてるが 当時の(特に帝國側)にしたら室町幕府と堺や京の町衆の関係みたいなもので 基本的にイタリアはドイツの延長で、フランスやブリテンの諸侯の盟主も自分 だとか考えてたのかもね。だから余計な領土欲を持ちにかったとか・・ もともとフランスもイタリ―も自分の監督下とか考えてたんならね。 してみるとハプスブルグは守護大名でブルボン朝とかチューダースチュアート 朝とかは戦国大名てのりかね?
マクシミリアンのメキシコ帝国がフアレスを打倒して パナマ運河建設にハプスブルグが一枚噛んで、とかなったら その後の歴史はどうなったでしょう? アメリカはあそこまで大きな領土を持ち得ず、 イギリスに伍してフランスが海洋帝国を作り、 ハプスブルグは・・・どうなるのでしょうか?
149 :
世界@名無史さん :03/06/22 11:03
なんだかんだでアメリカが勢力を強引に伸ばしたんじゃないかな。 まあフランスの影響力は無視できなくなるにしても。 ハプスブルグは所詮中欧以外じゃ華にみえない。私的に無茶苦茶違和感ある だからそんな想定考えたくないな。どこかで米仏双方に足引っ張られて メキシコ帝國はが瓦解したんじゃないか。
150 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/22 11:14
>>144 ソースは何ですか。関係は良好であったというか四面楚歌の状況下で
信長の味方は家康と天皇ぐらいという事がありましたが。
(上杉に洛中洛外図屏風を贈ったり、毛利に香典を送ったり、伊達や
宇都宮から鷹を送られたりはしていますが。)
151 :
世界@名無史さん :03/06/22 16:27
>138 マーチャーシュ王は第二のオットカルみたいなもんだから、 選帝侯達は賛成しないだろうなぁ。 おまけに彼は嫡出子が居ないから王朝は一代限りになって しまうし。 彼としてはオーストリアを制圧し、ボヘミアを狙い、最終 的には神聖ローマ皇帝の位を狙っていただろうけど。 誰か仮想戦記でも書いてみない?って売れないよなぁ。
すでにこのスレが火葬戦記になってきていると思うのは漏れだけでつか?
153 :
世界@名無史さん :03/06/28 03:05
>>150 ×天皇
○義昭
の誤記あるいは誤解かと思われ。
154 :
パシッチ ◆mWYugocC.c :03/06/28 11:55
サライェヴォ事件age〜
>>150 天皇が反信長の有力大名を煽動していたかどうかは別として、信長が勢力を
増大し朝廷を圧迫することに対して、正親町天皇が危惧を懐いてたとしても
強ち不思議ではないでしょう。立花京子さんは本能寺の変に朝廷が関与して
いたのは確実との見解を発表しています。
同氏著「信長権力と朝廷」(岩田書院刊)に詳説されています。今谷明さんも
以前から天皇と信長との間には相当の緊張関係があったとの指摘を繰返し
主張しています。
なんか本能寺の変の部分だけ記載がないとか言う日記を書いた貴族いたよね。 それが朝廷の関与云々というのの根拠のひとつとか言われてたけど。 けどその書けてた部分でてきちゃったね。
162 :
世界@名無史さん :03/06/28 22:13
一つの方法としてはWW1の時の帰趨次第か。万一休戦で終わってれば。 なんぞのIF歴史本の引用だが、封印列車が転覆事故起してレーニン以下が 死去、清朝では西太后が暗殺され麻薬と催眠の気違い兵士の万歳突撃で英国 とのアヘン戦争を和解交渉まで持ちこんだ恭親王が強引な富国強兵し明治日 本と強引な共同指導で朝鮮の近代化を強要。日英同盟に準じて日本は欧州に 派兵。サラエボではオーストリアじゃなく間違いでドイツの皇太子が暗殺 されていたとかのご都合本があった。 欧州でのWW1和解交渉では、欧州各国(なんとロシアはケレンスキー首相 ドイツはローザルクセンブルク外相が代表だそうだ 藁) そして清と日本と朝鮮そしてオスマン-トルコの代表も出席し・・・・・。 すげーとある種違う意味で感心したが。
163 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/28 22:18
>>153 ああ、なるほど。
>>157 このあいだ太政大臣・関白・征夷大将軍のうちいずれかを・・・という
件について述べた論文をちらりと見たのですが、やはり意見の対立はあ
りますね。ただ今谷さんは信頼出来ないので有名な方ですので取り上げ
ると却って印象が悪いかと(都合のいい展開で叩き易いという方です)
WWT休戦、封印列車が転覆してレーニン以下が死去… アメリカから日本を経由してロシアに入ったクラスノシチョーコフを首班とする 極東共和国が資本主義を基盤にしつつ中道左派な政府を建設。 ウラル以西に重心を置くヨーロッパロシアとエニセイ川以東を支配する極東共和国が並立。 両国間の小競り合いにより東欧、ザカフカス、中央アジア方面へのロシアの圧力が減少。 その隙にナショナリズムの赴くままにバルカンへの侵攻を図るトルコ共和国。 反トルコをアイデンティティとして復興を図るハプスブルグ… 無理か。
165 :
世界@名無史さん :03/07/01 16:22
最大時の、ハプスブルグ帝国領土と大日本帝国領土とを比較すると、 どちらのほうが面積が大きいですか? 領海も入れると日本のほうが大きいのはわかりますが。 また、よろしければ当時の経済力の比較なども教えてください。
166 :
世界@名無史さん :03/07/01 22:47
比較が微妙だ・・。何せハプスブルグ帝国は長続きしてるが 日本は帝国としちゃ短期間すぎる。大日本帝国がせめて200年は 続いてみんことにゃ植民地の民政の成果とか、植民地への 先行投資の回収とか・・・・、まあ陸地面積だけからすれば 日本が上だが中国人の反日行為とか、ジャングルとか・・・ とてもとてもハプスブルグの版図ほど恵まれてないような気が・・。
>>166 レスありがとうございます。
無理のある厨房質問なので適当なお答えで充分です。
168 :
世界@名無史さん :03/07/02 00:49
>>166 単純に・・
面積は満州国を含めれば日本が広かった。
ただし最大時ハプスブルク領土っつうのがスペイン王等も兼ねていた時代だと
南米〜メキシコ〜フィリピン、イベリア半島にネーデルランド、両シチリアが加わるので
ハプスブルクの方が第二次大戦中の占領地を含めた日本よりも圧倒的に広い。
経済的にはハプスブルク領土のが恐らくは繁栄していたでしょう。
実際ハプスブルク時代の民衆生活は同時代の日本より水準が高く、
又、二重帝国の経済はドイツ帝国と極めて密接にリンクしていましたので。
ついでに、ハプスブルク二重帝国もチェコ人の夜郎自大な民族主義の台頭。
セルビア・ルーマニアやイタリアの拡張主義や国内セルビア人のテロ活動。
ドイツ人・マジャール人・スラブ系人の微妙な人口比率。
指導民たるドイツ人の帝国が隣にもう一つあり求心力に問題があった事。
政情不安なバルカン半島との隣接と、日本に比べて統治領域が恵まれていた
環境にあったとは言えないでしょう。
169 :
パシッチ ◆mWYugocC.c :03/07/02 09:58
二重帝国はハンガリー人とスラヴ系諸民族をどうバランス取るかに苦慮し続けますからねえ。 「今からどっかの国の皇帝になるには」なんてスレがあるけど、 間違ってもあんな国の皇帝にはなりたくない(笑
170 :
世界@名無史さん :03/07/02 13:32
ハプスブルク家は名前からしてもドイツ系だけど、 スペインをはじめドイツ語圏外の領土では、 宮廷での言語状況はどうなっていたんだろう? 仮にハプスブルク朝欧州帝国が成立したとしたら、 宮廷や行政機構の言語はどういう形になっただろう?
カルロス1世は「スペイン語でしか話す気はない」と言ったそうですが。
1. ラテン語復権! 2. 宮廷といえばふつ〜フランス語っしょ。ブルボン家の言葉? だってもう 征服しちゃったし〜
オーストリア帝国はラテン語使ってたんじゃなかったっけ。 二重帝国のハンガリー側はハンガリー後が採用されて、少数民族が大ブーイング。
174 :
世界@名無史さん :03/07/03 22:50
>170 ハプスブルグ家は、今のスイスの出身です。
175 :
世界@名無史さん :03/07/04 15:18
>>170 仮に統合欧州帝国が成立したら、当時の感覚では
首都はローマ以外にありえない。
公式にはラテン語を使い、日常的には
「簡易ラテン語」としてのイタリア語を使うようになるんじゃないかな。
国名も「なんたらローマ帝国」を名乗るんじゃねーの。
「真ローマ帝国」「新ローマ帝国」「再生ローマ帝国」「後ローマ帝国」……。
176 :
世界@名無史さん :03/07/04 17:02
後の歴史の動き(大ドイツ主義・氾ゲルマン主義など)との絡みを 考えてみると、マリア・テレジアが選定侯クラスの有力諸侯と結婚する ってのが、一番可能性が高いような。 ドイツへの足場がしっかりしてれば、ハンガリー方面への進出にそれほど こだわらなかっただろうし。 この場合、宗教からして相手はバイエルンの可能性が高いが、 そうしたらオーストリア継承戦争も起きず、 結果としてプロイセンの台頭もなかったかも知れない。 フリードリヒが最初からバイエルンも敵に回すような 勝ち目の薄い戦争をしかけるとは、ちょっと思えないんで。 七年戦争はフランスとオーストリアが同盟結んで、追いつめられての 戦争だから、状況が違うしね。 多分、第一次世界大戦の様相は変わっていたと思う。
シルバニアファミリー
178 :
世界@名無史さん :03/07/04 17:59
ハプスブルグ朝欧州帝国・・出来たとしたらローマは 日本における京都だな、名目的首都、精神的拠り所・宗教的権威 だな。そいでウィーンが幕府所在地ようするに政治的・軍事的首都 だな。 公式言語は儀礼的にはラテン語・・だろうが実質的には違う実用性高い 言語が身分とか序列により多構造階層的に、それぞれ使う。 フランスのパリとかスペインのマドリードとかはウィーン=江戸に 対して尾張名古屋や仙台とかの有力諸侯の城下町に相当するとして・・ ウィーンに出仕する貴族はラテン語を社交公用語、各国の宮廷では フランス語とかスペイン語とか使う。下層民は更に地域言語とか方言。 問題はロシアとブリテンの扱いだよな。ロシアはシベリアとかに東方拡大 する前に征討する必要性ある。
ウィーンが京都っぽいってのはよく聞くけど、江戸ってのは聞かないなぁ〜
180 :
世界@名無史さん :03/07/04 18:03
やっと始まる映画「踊る大捜査線2」の青島刑事って格好良いですよね。私はコー ト、靴、時計など小物を揃えて映画を見に行きます。ただコートは暑いですよね?
181 :
世界@名無史さん :03/07/04 18:06
てことはイワン4世からロマノフ朝成立前の動乱期とかだな。 これで欧州帝国はモスクワ周辺まで拡大、逆にシベリアは空白のまま 放置だな。 スウェーデンが台頭するが・・まして新教徒の帝国だし。まあハプスブルグ お家芸の政略結婚で徳川将軍と薩摩島津のような関係になるのか。 ブリテンがどうなるのかは分からん・・。
182 :
世界@名無史さん :03/07/04 18:11
確かにウィーンが京都っぽいが・・どちらかといえばベルリンが 江戸だが。しかしそれだとハプスブルグの主旨に反する。 やむを得ずローマ=京都、ウィーン=江戸なんだな。
アルブレヒト1世とその子供のルドルフが長生きしてれば 神聖ローマ帝国を一枚板にしていっきに欧州を制覇出来たかも。 この時点でベーメン王位を失いさえしなければ・・・
京都、奈良に例えたらどうか
185 :
世界@名無史さん :03/07/04 18:38
いい加減日本にたとえたらってのやめれ。 純粋にウザイ。
186 :
世界@名無史さん :03/07/04 18:58
でぱ・・ちと話を変えてフランス革命&ナポレオンで登場した 国民国家という概念はハプスブルグ帝国にマイナスの衝撃しか 与えんかったように思えるが、プラスの要因はなかったのか? 国民国家、民族自決のなかでハプスブルグの生き抜く道は? なにより国民国家はともかく民族自決の概念とは正反対のアメリカ の台頭を見るに、再台頭の可能性はなかったのか? 2ちゃんの痴性のご意見を賜りたい。 漏れはいくら考えてもわかんなかった。
187 :
世界@名無史さん :03/07/04 20:44
そのためには、皇帝が実権を放棄すること。 要は日本やイギリスのような「君臨すれども統治せず」という 政体に持っていければ、まだ見込みはあった。 フランツ・ヨーゼフが保守的で、しかも長生きしすぎて、 社会の発展に政治が追いついていかなかった。 19世紀のうちに彼が死んでいれば、或いは別の可能性もあったろう。 とは言え、それで後の戦争という悲劇がなくなったかどうかは 分からんが、革命であっさり王朝が崩壊することはなかったろうな。
民族国家の根本的メリットは、 国家の統合理念や存在意義を主張する必要が無いことだろう。 民族国家トルコは、政教分離しても国家が解体する心配がないから、 イスラムを「単なる文化」として相対化し、近代化することができた。 しかし、「イスラム共同体」を統合理念としたオスマン朝では、 イスラム的見地から疑わしい近代思想は導入不可能だった。 イスラムを相対化するような近代思想を持ち込んだら、 帝国の存在意義自体に異を唱える勢力が現れ、 帝国がばらばらになってしまう可能性が大きかったからである。 汎欧州国家に可能な統合の理念はキリスト教しかない。 ハプスブルク朝欧州帝国が実現していたら、 「キリスト教共同体」を国家の存在意義として宣伝するはずである。 その帝国では、完全な政教分離はなされないことになる。 そのため、近世における科学の発展に足枷が科されるだろう。 20世紀におけるソ連にも、同様の議論が当て嵌まる。 マルクスレーニン主義を完全に放棄するならば、 ユーラシア大陸北部がまとまる国家形態の必然性もなくなってしまう。 それゆえ、本心ではうんざりしていたソ連後期の指導者たちも、 国家の統合理念としてのマルクスレーニン主義を放棄できなかったのである。 ハプスブルク朝欧州帝国は冷戦期の東欧に似た社会かもしれない。 当時の東欧の思想警察が宗教警察に置き換わっているわけである。
189 :
世界@名無史さん :03/07/05 21:22
ハプスブルグ朝統合欧州帝国ねー。 そんなもの出来るとしたら、欧州統一最大の障害といえる ロシアとイングランドはどうなる? どっちも上手に始末しないとせっかく統一した欧州帝国は 瓦解すると思うが。んでローマ教皇をいかに政治から切り離すか。 これをクリアしたら案外長続きするだろうか? 国名は神聖ローマ帝国じゃなくて・・ローマは首都には無理だろう。 オスマンにおけるメッカみたいな立場か。 東ローマの皇冠を継ぎしキエフルーシと西ローマの皇冠を継ぐ神聖ロ ーマ等が合体し、キリスト教世界の統一者だからやっぱ「神聖ローマ 帝国」が正式名称で略称ローマ−ハプスブルグか欧州帝国。 でも多分予想としちゃ各地の有力な王侯に姻戚関係と名誉職的な 「7選帝侯」を授け妥協と協力を仰ぎ自分から権威低下させていきそうな。 スペイン(マドリード)、フランス(パリ)、イングランド(ロンドン) スウェーデン(ストックホルム)、プロシャ(ベルリン)、ロシア(モス クワ)ポーランド(ワルシャワ)あたりか。 やがて再び分裂・・。
190 :
世界@名無史さん :03/07/05 23:35
素朴な疑問だがプロシャが破れて大ドイツ主義が打ち勝ってたら? 寧ろ短命になったかな。
191 :
世界@名無史さん :03/07/08 01:46
>189 ロシアとイングランドは欧州扱いしなければよい。 今の日本が台湾や樺太を日本扱いしないように。
>>190 細かいことだがオーストリアは大ドイツ主義じゃなくて
オーストリアに含まれるすべての民族とオーストリア外のすべてのドイツ人を統合した
「中欧7000万帝国」を唱えていた。
大ドイツ主義はオーストリア帝国の解体が前提だから当然反対していた。
193 :
世界@名無史さん :03/07/08 03:20
>>1 三十年戦争の段階で圧倒的大勝利してないと無理。
三十年戦争で勝利したとしても無理でしょう 十九世紀に起きたことが十八世紀になるだけで そしてヨーゼフ二世は断頭台の露と消える・・・
195 :
世界@名無史さん :03/07/11 23:45
>194 こうして墓碑には 「もっともよき人を持ちながら〜」 の言葉が刻まれた
>>191 イギリスはともかく、ロシアはなんとか取り込もうとするんじゃないのかなぁ。
一応東ローマ皇帝の末裔を自負してるし、むしろ積極的に取り込んで
東西ローマの統合とロシア・ベラルーシのオーストリア化に邁進しそうだが。
民族主義というか、ゲルマン民族からスラブ人を敵とする考えは
最晩年のオーストリアでもなかったように思える。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
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このスレには詳しい方もいるようなので質問します。 しばしば「オーストリア・ハンガリー二重帝国」と呼ばれるこの政体ですが、ハンガリーの君主も皇帝と名乗っていたのでしょうか? 然りとすればその称号にはどんな根拠があったのでしょう(オーストリアのそれは神聖ローマ皇位だと思うのですが・・・それで正しいでしょうか)?
ハンガリーは王
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
>>200 お答えありがとうございます。
オーストリア・ハンガリー二重帝国≠オーストリア帝国+ハンガリー帝国
ということですね。
では重ねて質問になってしまうのですが、なぜ「オーストリア・ハンガリー・ボヘミア帝国」ではないのですか?帝国内でのハンガリーとボヘミアの地位の差はどこから生じたのでしょうか?
>202 ちゃうちゃう。 元々、Austria帝国だったのが、1848年の革命でHungaryが頑強に抵抗し、 1867年の普墺戦争により、ドイツ人の支配力が弱まり、Hungaryがそこに つけ込んで成立したのが、Austria=Hungary二重帝国で、これは、 Austria帝国(ツィスライタニア/8民族15州17議会)と、Hungary王国(トラン スライタニア)から構成されています。 で、1867年〜1878年の自由主義時代にベーメン(Bohemia)の老年チェコ党は ロシアの汎スラブ主義と結びついたことが、領内ドイツ人の疑心暗鬼を生み、 しかも、その政策実現方法が屡々過激に過ぎたことが弾圧の口実をドイツ人 に与えたことがあったからではないかと思います。
>>203 すみません、少し勘違いしていたようです。
1867年以降のボヘミアの情勢が良く判らないのですが、まず何故普墺戦争後の時点でボヘミアはハンガリーのような王国とされなかったのでしょうか?
そうなっていれば、老年チェコ党がロシアに接近することもなかったのではないかと思うのですが。
素人考えですが、ハプスブルク家の下で一王国としておいた方が、ロシアに引き込まれる危険を犯すより良いのではないでしょうか?当時のオーストリアの指導者の考えはどうだったのでしょう?
宜しければご教示お願いします。
>204 こちらも素人の域を出ませんが…。 まず、1848年革命の際、AustriaとHungaryの革命軍鎮圧にCroatia太守イェラチッチの軍が活躍しています (これは多分に統治国Hungary(反革命側)の圧力もありますが)。 対するベーメン(Bohemia)のSlav人は、Austro-Slavismを唱え、帝国と対立します。 即ち、Slav民族としての対応がこの時点でばらばらであり、大きなうねりになりませんでした。 この時点で、ベーメン自体はドナウ連邦の中の一国家として独立する可能性がありました。と言うのも、 中央集権派だったMetternichが失脚し、国内を14州に分けて立憲君主政治を行う4月25日憲法が制定 されています。 しかし、この憲法は国内叛乱が燻っていたために撤回され、連邦化は失敗に終わりました。 その後、一連の革命の鎮圧を経て、再び中央集権派が力を盛り返し、この政策は有名無実と化して いきます。 1867年に二重帝国が成立しますが、これはAustriaから見れば、妥協の産物でしかありません。 しかも、相次ぐ敗戦でGermanyとItalyでの橋頭堡を相次いで失い、後にはドナウ沿岸から黒海に向かうルートの 確保が、二重帝国の外交方針となります。 即ち、仮想敵国はRussiaになったわけです。 と言うことは、帝国領土の隣にSlav民族の国が出来ると、Russiaとその国を橋頭堡に挟撃を受ける可能性が あった訳で、しかも、この頃から相当の工業化が進んできたベーメン(Bohemia)を王国として成立させるのは とんでも無いということになります。
206 :
世界@名無史さん :03/08/18 20:38
ボヘミアン
207 :
世界@名無史さん :03/08/19 15:45
ハプスブルグ帝国が崩壊していなかったら? 今の民族紛争はなかった。 ナチスも存在しなかったのでは? 今、あの頃を懐かしんで「中欧復活」を願う人々が多い。 ユ−ロはまだまだ上昇するでしょう。 外貨が欲しいから。
208 :
世界@名無史さん :03/08/19 17:38
もし今日までハプスブルク帝国が滅んでいなかったとしても明日滅ぼされるだろう もし明日までハプスブルク帝国が滅んでいなかったとしても明後日には滅ぼされるだろう
209 :
世界@名無史さん :03/08/19 17:52
ハプスブルク帝国が崩壊するときにユーゴのような内戦が起こったら えらいことになるな。世界大戦を一回起こすくらいのパワーはある。
210 :
世界@名無史さん :03/09/28 16:39
>>207 東欧の社会主義諸国が民主化されて急に出てきた「中欧」ってことば。
はじめは聞きなれなかったが、要するに、欧州の旧ドイツ語圏(ドイツ、ハプスブルク)
のことなんでつね!
211 :
世界@名無史さん :03/09/28 16:44
EUに飲みこまれつつある今、どうでもよいこと
212 :
世界@名無史さん :03/10/08 17:49
ハプスブルク帝国が崩壊しなかったなら、今のパレスチナみたいに 紛争の絶えない所だっただろうね。
EUってのは、プロシアのドイツ民族主義に対抗した ハプスブルグ的理念=オーストリア的理念の延長・継承したものなんだがな。
214 :
世界@名無史さん :03/10/08 23:18
そこで何故「プロシアのドイツ民族主義」になるのか。 民族主義なんてどこの国でも似たようなものだろう。
213の言っている事とは少し違うかもしれませんが・・・ オーストリアの立場から言えば、民族主義一般がどうのではなく、「プロシアの」ドイツ民族主義を認める訳にはいかなかった、と言う事ではないでしょうか。 プロシアによるドイツ民族の統一を認める事はすなわちオーストリアの存在を否定する事につながる訳ですから。
216 :
世界@名無史さん :03/10/09 04:35
オーストリア的理念ってのはプロシアが主導権を奪おうとした民族主義に
対抗的に形成されたもの、という説明に「なんでプロシアがでてくんだ?」はないだろ。
>>214 はヨーロッパにおけるナショナリズムの歴史を知らないのだな。
どこの国にも似たように一様にあったわけでも大昔が一貫してあったものでもなくて、
波があったんだよ。それにヨーロッパが翻弄されてた激動の時代ってのがあったわけ。
たまにはあげてみますか。。
218 :
世界@名無史さん :03/11/03 07:56
うつだ。。 あげてないじゃん。。
219 :
世界@名無史さん :03/11/10 07:48
オーストリア・ハンガリー・チェコ・スロバキア・スロベニア の五国が連邦を形成する可能性は? (もちろんほぼゼロだろうとは思うが) もしその可能性があるとしたら?
>>219 クロアチアとボスニアも入れておきたい。。
>219 19世紀末に、フランツ・ヨーゼフ一世が暗殺されて、フランツ・フェルディナントが 帝位に就いていたら有り得た可能性大。 暗殺されたフェルディナンド皇太子は、オーストリア、ハンガリー、クロアチアの 三重帝国案を推進してたし、ボスニアへの進出も躊躇った可能性があるし。 尤も、ボヘミア方面の独立の可能性が少ないと思う。
奴は皇太子ちゃうって(笑 それはともかく、フランツ・フェルディナントが皇帝になっていたらバルカン史は全然違ってた可能性はありますね。 プリンツィプは何でこんなの暗殺したんだか。
223 :
世界@名無史さん :03/11/12 22:37
それにしても、いまウイーンに旅行する香具師で、そこが大帝国の首都だったということを どのくらいの人が記憶しているんだろうか? あんな小さなオーストリアが、こんな大帝都を建設できるはずも無いのだが。
>222 安重根が伊藤博文を暗殺した様なモノではないかと(結果的にどちらも裏目に出ている気がする)。
225 :
世界@名無史さん :03/11/13 15:41
もし帝国が崩壊していなくてもバルカン諸国は独立していただろうな。 のこるのは「オーストリア・ハンガリー」
226 :
世界@名無史さん :03/11/14 23:06
>>225 でも、旧東欧と西欧では豊かなほうだったから、
案外先進国になっていたかも・・・。
227 :
世界@名無史さん :03/11/15 11:35
「オーストリア・ハンガリー」のまま冷戦で西側についていればね
228 :
世界@名無史さん :03/11/15 12:36
>>224 だから、日本軍の工作員が独立派の中に入ってた説もあるな。
皇太子ルドルフが帝位についていたらどうなっていただろう? ルドルフは進歩的な思想の持ち主だったといわれているし、ドイツのヴィルヘルム二世を 嫌う一方でイギリスの王室とは良好な関係だったらしいね あの時代のオーストリアは誰が改革に着手しても上手くはいかなかったとは 思うけど興味深い。
230 :
Reichsprotektor ◆z4Op9cXCnM :03/12/16 05:09
あげます。。 わたしの論文は崩壊ぎみです。。提出まであと5時間。。
231 :
世界@名無史さん :03/12/21 00:19
チンパンジーが帝位についているようなアメリカ帝国は、早く崩壊すべき。 ハプスブルク帝国のほうが、よほどまともだった罠
>>229 フランツ・ヨーゼフもドイツは嫌いだったようです。
というか保守派になればなるほど、成り上がりのプロイセンには反感があったかと。
しかし地政学的にロシアの脅威に対するにはドイツとは対立できないし
そのころオーストリアに残されていた、バルカンへの進出には
イギリス・フランスは良い顔をしなかったし、組む相手がいないという現実的な判断
だったかと。
ただ確かにルドルフは国際的にも認知されていたし、民族主義者のフランツ・フェルディナンド
よりは歓迎されていたと思われるので、サラエボで撃たれたのが彼だったら
もう少し列強の同情を引けて、開戦しないで面子を保つ方向へ持っていけたかも・・・と
愚考しますが。
コシュートとは別に、1930年代にナチスの大ドイツ主義に対抗してドナウ連邦構想をオットー・フランツ・ヨーゼフが提唱してアメリカの方で持ち上がったらしいけどオーストリアの方があっさりナチスにいかれちゃってダメだった。 いつもながらアメリカは向こう見ずっていうかいい加減だな・・・二重帝国の民族主義を煽ったのはウィルソンだし。(彼は独立までさせる気は無かったそうだが
>229・232 結局、彼を暗殺したのは何処の国だったんでしょうね? このスレ好きだから、保守。
235 :
世界@名無史さん :04/01/10 02:08
ルドルフやフランツ・フェルディナンドが争点になってるようですが 第一次大戦終結時までフランツ・ヨーゼフが生存していたら 戦後のオーストリアはあるいは違った形になったのではないでしょうか? 更にエリザベートも殺害されていなかったとしたら、ハンガリーの繋ぎ止めに 一定の効果があったのではないかなとも思います。 やはりカールとツィタの経験と知名度の無さが帝政の終焉に響いたと思うのですが。 >234 もしも暗殺だとするならば、国内の非ドイツ人民族主義者のような気が。 暗殺なら隠蔽しないで公表した方が帝位継承者の自殺というスキャンダルより 帝国に対するダメージを軽減できるように思うので やっぱり自殺なんじゃないかなと思うのですが。 話題が無いのは寂しいのでage保守で。
236 :
世界@名無史さん :04/01/15 00:53
戦後ハンガリーに国王を空位、独裁者ホルティを摂政とする王政国家が できたね。空位の王位にハプスブルク家が招かれるのではということは 当時噂になっていたらしい。
237 :
世界@名無史さん :04/01/15 02:16
けど悪名高いヴェルサイユ体制がハプスブルクを許さなかった。これは歴史の汚点だね。ハプスブルク帝国を破壊してしまったのが,その後の東欧諸国にとってマイナスだったと思う。植民地支配の方法としては,オーストリアのハプスブルク帝国が一番穏健だったわけだし。
238 :
世界@名無史さん :04/01/16 00:47
二重帝国崩壊後の旧帝国領諸国のその後は全くいいことないな。セルビアなんかと一緒になっちまったクロアチアなんか特に。
セルビアなんかとは失礼な。 大体アレはクロアチア側が必死になって(ry
>>237 植民地じゃないんじゃないか?
と言ってみる。
同君連合であって。
241 :
世界@名無史さん :04/02/07 02:21
age
1つの民族一つの国家を実現したら、ソ連に圧力かけられて傀儡になってしまった。 オーストリア帝国つぶしたやつらは馬鹿
243 :
kreuzer :04/02/07 19:20
ハプスブルク家の傍系が製造している、ワインの銘柄をご存知の 方おられますか?
皇帝を廃位して島流しにしたのはオーストリア国民自身だろ? 13だか14世紀からオーストリアを統治してきたっつーのに 日本の天皇みたいな求心力はなかったんだろうか?
一番大きいのは戦争に負けたってことだろうけど、 背景にはアイデンティティの問題もあるかと。 王家といっても、ハプスブルク家はずっと外国の王家と縁組み してきたせいでオーストリア人の血はほとんど全く引いていない。 言い換えれば、血統的には限りなく「外国人」に近い。 日本みたいに、臣下でもいいから同じ国民と結婚していれば 違ったんだろうがね。 実際、ルドルフの娘か姉妹で(記憶曖昧)、臣下の貴族と結婚している ハプスブルクの王族は共和政になってからも結構人気が高く、 結婚の時に継承権を放棄させられたこともあって、オーストリア 国内に死ぬまで住んでたらしい。
へぇ。おかげですっきりしたよ。
>>245 そんな事言ったら、元来ハプスブルク家はオーストリア土着では
ないんですが・・・。
確かに最後の帝妃となったツィタはイタリア人と蔑まれていましたが
それは当時、イタリアが三国同盟を裏切ってオーストリアと開戦していた
からで、外国人だからというわけではないですし。
ちなみに臣下と結婚したフランツ・フェルディナンドの人気もイマイチでした。
まぁ、これは彼の性格によるところが大きいようですが。
それに前帝フランツ・ヨーゼフの存在感が圧倒的過ぎて、カールが存在感を
持つ前に終戦を迎えてしまった、といった方が適切でしょう。
実際、解体後の悲惨さとあいまってハプスブルク朝への懐古がかなり幅を
利かせた時代もありました。
そもそも欧州で土着の王家はかなり少数派。
249 :
世界@名無史さん :04/03/01 20:26
モーツァルトの交響曲に「プラハ」という題名のものがある(38番)のも、 歌劇「ドンジョバンニ」がプラハで初演されたのも、みんなチェコがハプ スブルク帝国の一部だったからだよね。 そして、モーツァルトやベートーベンがトルコ行進曲を書いたのは、ハプス ブルクとオスマントルコ帝国とが国境を接していて、当時ウイーンにトルコ から楽士が沢山入り込んでいたからだよね。 今の音楽史では、そんなことが全く問題にされていない。 ハプスブルクの存在を語らなければ、音楽の歴史は語れないというのに。
問題にされてないって……有名な話だと思うが。
251 :
世界@名無史さん :04/03/01 21:27
ハプスブルク帝国がもしも残っていたら、確実にヴァルカン半島の拡大版になると思う
縮小だと思いますが。 一番の基地外の数が少ない。
253 :
世界@名無史さん :04/03/01 21:41
254 :
世界@名無史さん :04/03/02 00:37
ハプスブルク帝国があったら第三帝国は成立しなかったかも。
255 :
世界@名無史さん :04/03/02 00:40
>>254 ハプスブルク帝国その物がナチのようになったりしてな
立憲君主制とナチズムは相性が良くないんじゃないかなあ?
>>251 スタートレックじゃないんだからヴァルカンはどうかと。
257 :
世界@名無史さん :04/03/02 06:27
というか多民族・多文化・多言語の帝国で ファシズムは自殺行為。
258 :
世界@名無史さん :04/03/03 00:35
イタリア型のファシズムなら平気だろう。ナチズムならドイツ人以外は離反確実
259 :
カウニッツ :04/03/03 00:58
ウィルソン大統領って本当にアホかと馬鹿かと…。 オマエなぁ、民族自決ぐらいでヨーロッパに関わるなよと。 もう見てらんない。 中欧はハプスブルクで良いんだよ、ハプスブルクで! 以上、パクリでした。
260 :
世界@名無史さん :04/03/03 01:53
ウィルソンがいなくても相当遠心力が働いていたから、同じことだったかと。
一般人はどうだったしょうね?<遠心力 社会に対する不満というものと、国家に対する不満というものは 必ずしも一致しないんじゃないかと思うのですが、
ハプスブルク家統治下の国民族等は とうじ誰もほんとにハプスブルク家が無くなるなんて思ってなかったと思う。
スロヴェニア人は親ハプスブルク、クロアチア人は反ハンガリーで親ハプスブルク、 ポーランド人は反ドイツ(プロイセン)・反ロシアで親ハプスブルク、ハンガリー人は現状追認だろうから、 チェコ人さえなんとか出来れば大丈夫な気がする。ボスニアは切り離したほうがいいかもしれんが。 つまり三重帝国論だが・・・。 でも「コリア人は東洋のチェコ人」とか言われるらしいからなぁ・・。
>>263 東洋のチェコ人とは...フス、ジシュカ、ドボジャーク、スメタナ、ヤン・コチェラに
相当するのは誰でしょうね?
ジシュカ=イ・スンシン?
ヤン・コチェラ=パク・キルヨン?
ドボジャーク...
スメタナ...
フスは...
265 :
世界@名無史さん :04/03/05 01:00
>>264 のような言葉遊びは論外として、
そもそも向こうでは「チェコ人」とはどういうイメージで語られ、
「コリア人」とはどういうイメージで語られているのか、
がわからないと無意味な言説ではないか?
>>263 はおそらくハン板的な「コリア人」像を思い浮かべ、
それを「チェコ人」像にまで拡大して当てはめているのだろうが、
それはあくまで日本でのイメージでしかない。
もしかしたら向こうの人間が言う「コリア人は東洋のチェコ人」というのは
単に「常に周囲の大国に小突き回されてきた可哀相な民族」という程度の
イメージでしかないかもしれない。
その辺どうなのよ。
>>265 言葉遊びじゃなくて、東洋のチェコ人やら東洋のラテン人やら、
東洋のアイルランド人やらと「自称」していますから、それに
従うとしたらどうなるかって書いたんですけどね。
パクキルヨンはそれなりにモダニストとして立派な作品を残した
と思うし。
本筋に戻すと、
チェコ人の自嘲ですが、
「おれたちは何をしたら良いのか解らない、だからドイツ人
(彼の言う「ドイツ人」にはオーストリア人が含まれる)に
命令された方が好都合だ」
という発言を聞いた事があります。「勤めていた会社が買収された
が、チェコ人に経営されていた時よりもずっと良くなった」と。
チェコ人には時々、事大主義を感じます。その点で共通項がある
と思います。
スロヴァキアの田舎で「キナ(?)?コレア?」と質問された事があります。 おじいさんでした。「ヤパン」と言いましたら、「オオ、ヒロシマ、**...」と 日本に関係した単語をいくつか並べられました。 モラヴィアの友人にアジア人のイメージはどうなのか、と尋ねた事があります。 チェコではアジア人と言えば中、韓、工業地帯ではこれにベトナムが加わるよう です。 中国、韓国の人々はだいぶ商売で荒っぽい稼ぎをしたらしく、かなりマイナス イメージがあるようです(これは、ハン板での他の人の情報とも合致します)。 ベトナムに対してはどうなのか、と質問したところ、かわいそうなイメージだ とか。これは、社会主義時代に留学や外貨獲得のために集団で移入してきていた ことを覚えているからでしょう。 「韓国人は東洋のチェコ人」というイメージが良い意味なのか、悪い意味なのか 知りませんが、少なくとも、「今の」チェコやスロヴァキア人にとっては韓国人 が「大国に小突き回された民族」というイメージはないと思います。 他のヨーロッパについては、詳しく尋ねた事はありませんが、1国だけ付け加え ますと、日本語専攻のポーランド人学生が韓国語を暫くの期間だけ勉強した事が あると言っていたのを記憶しています。彼女にとって韓国がどんなイメージなの か聞きませんでしたが、東洋全般に対する漠とした憧れ(?)があるようだった ので、韓国に対しても同じ感覚(ボンヤリしたイメージ)しか持ち合わせてない のかも知れません(当然ですが、この場合には『コリア人は東洋のチェコ人』 などというイメージは感じる事さえできないでしょう)。
268 :
世界@名無史さん :04/03/05 19:00
そもそもアメリカは民族自決をハプスブルクに要求するより 自国のインディアンの自決をしてやれよと・・・
269 :
世界@名無史さん :04/03/05 19:36
>>203 >で、1867年〜1878年の自由主義時代にベーメン(Bohemia)の老年チェコ党は
>ロシアの汎スラブ主義と結びついたことが、領内ドイツ人の疑心暗鬼を生み、
>しかも、その政策実現方法が屡々過激に過ぎたことが弾圧の口実をドイツ人
>に与えたことがあったからではないかと思います。
チェコ人は、ビロード革命の影響で、日本では漠然と「冷静・穏健」みたいな
イメージを持っている人が多いようですが、案外過激なところもあるんですかね。
中華帝国にしろ、ローマ帝国にしろ、イスラム帝国にしろ、モンゴル帝国にしろ 世界にはいろんな過去からの権威があって、皇帝や、それに準する存在が脈々と存在した筈なのに 20世紀にそれらの後継は全部亡くなってしまいましたが、何故なんでしょう?
271 :
世界@名無史さん :04/03/06 05:30
英帝 日帝 など残ってるのもあるので 住んでるやつの愛着の差
272 :
世界@名無史さん :04/03/06 05:43
PMK渋谷店の塩沢麻衣さん、かわいい。
273 :
世界@名無史さん :04/03/06 08:58
どこにでも朝鮮ネタを書くヤツは氏ね
>>273 書いてあったから返事しただけなだけどね<東洋のコレア人
>>271 インド帝国のないイギリス王国が帝国と呼べるのだろうか?
『の』が入ってないじゃん。。 返事しただけなのだけどね。
277 :
世界@名無史さん :04/03/07 11:25
eu
278 :
世界@名無史さん :04/03/31 19:26
>>270 歴史が古い分、急激な文化・科学の発展に対応しきれなかったのでは?
帝政は究極のトップダウン方式だと思いますが、中世から脱却する際に
強力な武器になった官僚組織が、帝政の利点を相殺してしまっていたのかも。
>>275 でも現在でも英国王はローマ法王、天皇と並んで最上級の外交儀礼を
受けていますよね。
確か米大統領がホワイトタイ装着の上、空港まで出迎えるのがマナー
なんでは無かったでしたっけ?
279 :
(`ρ´) :04/03/31 23:44
オルバース爆動か!?
281 :
世界@名無史さん :04/04/01 23:26
>>256 シェーネラーやルエーガーがいるからナチ化したかも。
現にヒトラーは反ユダヤ主義をウィーンで植え付けられた。
282 :
世界@名無史さん :04/04/02 01:29
>>281 反ユダヤ主義はヨーロッパならどこにでもあるが、
やはりナチス政権が成立するにはワイマール共和国の特殊な事情無しでは無理ではなかろうか。
283 :
世界@名無史さん :04/04/08 19:43
ちと疎いんで質問です。 WW1の遠因ともなったオーストリア=ハンガリー帝国による ボスニア・ヘルツェゴビナの併合について 露墺の間で、ロシアの戦争にオーストリアが出兵し支援すれば ボスニア併合を黙認すると密約してたのが、オーストリアが ロシア支援しないままボスニア併合を実施した因縁がある。 とか聞いたんですが・・。
>>283 そこらへん複雑すぎて説明出来る地震が無い
>>283 1877年1月に両国で結ばれた秘密条約の事でしょうか?
当時、ロシアはバルカン南部を巡ってイギリスと厳しく対立していまして
オーストリアはイギリスから出兵を含む、同盟関係を求められていました。
しかしオーストリア側にはロシアと結ぶべきだと言う意見も根強く
・ロシアがトルコと開戦した場合は中立の立場を取る事
・出兵が上手く行ったらオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合できる事。
・ロシアはルーマニアとロシアの国境地帯に当たるベッサラービアを併合する。
という条件で秘密協定を結びました。
しかし露土戦争の結果、結ばれたサン・ステファノ条約によってロシアが上記の領土以上の
要求を認めさせ、大ブルガリアの成立となったわけですが、オーストリアに取って
隣国であるブルガリアがロシアの影響下に入る事は非常に都合が悪い。
結局、英仏独を引き込んでのベルリン会議である程度、ロシアを妥協させる事に
成功したのですが、ロシアはただでさえクリミア戦争でオーストリアが自国の側に立たなかった事に
非常に悪印象を抱いていたのに、またも邪魔されるという結果になったので
一層、両国間の関係は冷却しました。
ちなみにクリミア戦争時の日和見主義はビスマルクの説得による部分が大きく
ロシアはおろか、英仏もこれに良い感情を覚えなかったので、オーストリアは
ドイツと接近せざるを得ない状況になっていきました。
この辺のオーストリア外交は失敗の連続だったと言ってしまっても良いのかも知れません。
286 :
世界@名無史さん :04/05/11 01:17
思い切り遡りますが、ヨーゼフ2世のバイエルン継承政策が成功していたら オーストリアは今でも、それなりの力を保てていたのではないでしょうか? 実際、現在のバイエルンはドイツ連邦の準加盟州という所を見ると やはり宗教の壁などは大きいのではなかったかと思うのですが。 ドイツ系の力が増せば、ベーメンやハンガリーに対しても、もっと強気に 出られたんじゃないかなぁ・・・と思いますね。 いや、強気すぎて離反されてしまうかも知れませんけれども。
287 :
世界@名無史さん :04/05/17 22:41
ドイツの南北分裂が決定的となる オーストリア(バイエルン含む)=カトリックと プロイセン=プロテスタントが対立。 ドイツとは言わずもはや別の国・言語に。
伝統好きのヨーロッパ人が事ハプスブルクに関しては あっさり捨て去ったのが納得行かない
289 :
世界@名無史さん :04/05/18 00:07
ハプスブルグ帝国というのは、民族的には複雑怪奇な国だったけど、 経済的には結構絶妙な統一性のある国家だったと聞いたことがあります。 つまりドナウ川周辺諸国はそれぞれが補完関係にあってお互いをそれな りに支え合う関係だったんでしょう? それが民族自決という一応経済とは関係のない要因で相互に切り離され たので、経済的には混乱したらしい。 もし、ハプスブルグ帝国がうまく民族融和に成功していれば欧州でも一流の 経済大国になれたかも? もっとも、当時の民族自決の嵐の中で民族融和なんてとても不可能だったん でしょうね
290 :
世界@名無史さん :04/05/18 00:53
熱心に民族運動してたのはチェコ人だけの気もするんだがな。 (セルビアは帝国外ということで ウィルソンが薮蛇なことをしたのと、オーストリアが敗戦国になったのが大きいわけで… 戦勝国側に鞍替えしようとセルビアに合邦したクロアチア人、スロベニア人なんて その後の運命最悪。 ハンガリーもルーマニアに侵食されちゃったし…。
ウィルソンはオーストリアを連邦共和国に変えるだけで、帝国の解体は望んでなかったんじゃなかったっけ。 どのみち帝政の終焉は避けられないが。 戦前もギリギリの綱渡りで命脈を保ってたんだし。
292 :
世界@名無史さん :04/05/18 03:14
ヴェルサイユ体制を望んでた連中が破壊したんじゃないのか?
帝国の末期には、各地で民族評議会が成立、ウィーンでも労働者兵士がデモを繰り広げた。 つまり、直接的には大衆の運動が高揚したために、帝国と君主政は崩壊した。
ひとつの帝国(国家)だから、ソ連などと対等の関係であって 分割したら主従関係になちゃうって当時の偉い人は気がつかなかったのかな?
気づいていたし、大戦前の民族運動はあくまで主流派は帝国内での地位向上が目的でした。 しかし、大戦末期、ヨーゼフ帝崩御、ジクストゥス事件などで皇帝の信頼が 失墜してしまい、良識派がコントロールできなくなってしまったようです。
>294 偉い人からみれば、戦争の末期には社会(民主)主義者が全権力を握り、社会主義共和国の樹立を防ぐ必要がある。 何かしらの妥協が必要だった。 それに独立しておけば、ウィーンの社会民主主義者主導の政府の指導を受けずにすむ。
297 :
世界@名無史さん :04/05/18 21:32
第一次大戦末期、負けるにしても正々堂々負けてれば ハプスブルクのおとり潰しは無かったのかな?
298 :
世界@名無史さん :04/05/18 21:38
皇太子が危ないとわかり切っている地域にのこのこ出かけて殺され、 戦争になって崩壊なんて、太平洋戦争開戦に負けない自殺行為だった ようにも思える。 こんな行動したこと自体、どの途滅んだのかも、という気が。
戦前から社会民主主義・労働運動や、それぞれの民族主義運動は大変活発であった。 その頃から、帝国はいずれ保たないと言われていた。 戦争はキッカケにすぎないし、また他国が帝国を解体したわけでない。
300 :
\[´L`] ハイル・ヘス :04/05/18 22:52
たぶん\(^■^ ラ が併合して帝国は消滅させられただろうね。 しかしそのことで「裏切り者」にされて、暗殺されたかも。
301 :
世界@名無史さん :04/05/18 23:41
第一次大戦当時といったら、 皇室の権限もだいぶ落ちていた。 帝国が続いていても帝政は遅かれ早かれ終焉していたと思う。 しかしハプスブルグには千年近くの歴史、伝統がある。 現在もあったとしたら、 イギリスのように立憲君主政をしていると思う。
1918年の時点で共産革命が起こったらどうなるだろう? ツァーのロシアが「赤い帝国」ソ連となって西側の干渉を受けたのと同じように、 共産化したハプスブルクも英仏を主力とする西側軍に攻撃されていただろう
303 :
世界@名無史さん :04/05/20 05:20
ハプスブルクは、フランツ・ヨーゼフは殊の他、戦争に弱い。。。
>302 実際にドイツやハンガリーでは共産主義者は権力を獲得したし、オーストリアの社会民主主義者も生産手段の社会化に取り組んだ。 それに当時のマルクス主義者の見地では、ドイツやオーストリアでの社会主義革命の勝利は世界革命の始まり。 まあ君のような懸念を持つか、それとも闘いぬくかが社会民主主義とボリシェヴィズムの境目だったわけだが。
305 :
世界@名無史さん :04/05/22 06:29
上のほうでチェコ問題が出ていますので少し私見をば。 おそらく20世紀初頭のハプスブルク帝国は、クロアチアにハンガリーと同等の権限を与えた三重帝国への移行は検討しても、チェコに対しては、ハンガリーと同等の扱いにしようとはしなかったと思います。 チェコは、神聖ローマ帝国およびウィーン体制下のドイツ連邦の領域内ですし、二重帝国移行後にもオーストリア側に属しています。(これはスロヴェニアにも当てはまります) また、後年、スデーテン問題が噴出するように、当時のチェコにはドイツ系住民がかなりの割合で存在しますし、中世にはプラハが事実上のドイツの首都であった時期もあります。 よって、当時のドイツ人から見たら、ベーメン、メーレン、スロヴェーン、クーステンラントなどは、異民族地域ではなく、ハプスブルク帝国の本国であるオーストリアの一部と認識されていたと思うのです。 特に、保守的といわれるフランツ・ヨーゼフ帝などは、間違いなくこういう認識に立っていたのではないでしょうか?
>>305 ベーメンを含めた三重帝国にするという案もあって
実際に言語令なんかもありましたけれども、これに対しては
ハンガリー側が強硬に反対していたので、多分不可能だったと思います。
クロアチアに関しても、ハンガリー側が絶対に納得しなかったでしょう。
(これらが実現すると相対的にハンガリーの地位が下がるから)
二重帝国という対処法から考えると、やはりハプズブルク帝国は
末期的な状況ですよね。
307 :
世界@名無史さん :04/05/23 13:50
微妙に言ってることがちがうよな。
308 :
世界@名無史さん :04/05/23 22:48
サッカーも崩壊前は凄く強かったなぁ。
309 :
世界@名無史さん :04/05/23 23:10
摂政ホルティに復位を拒否された末裔もいたな
310 :
世界@名無史さん :04/05/24 20:27
誰のこと?
311 :
世界@名無史さん :04/05/24 21:14
ホルティてフランスに支援されて王政復古拒否したんだな
312 :
世界@名無史さん :04/05/25 03:44
>>306 だから当時はベーメンはドイツの一部という認識なので、ベーメンの住人が異民族という発想がそもそもないの。
>>312 フス戦争以降、ベーメンの民族意識は高まる一方でしたよ?
特にアウグスライヒによって今まで同じ扱いだったハンガリーが
オーストリアと同格になってしまった事で、ベーメン人の不満が
高まったという事をご存知でないわけがないと思いますが。
フランツ・ヨーゼフにオーストリア皇帝位を譲ったフェルディナント帝は
ベーメン王の位は譲らず、ベーメン独自の象徴となっていましたし。
確かにベーメンは神聖ローマ帝国の一角をなしていましたが
元来、異民族への妥協の産物だったわけで。
フランツ・ヨーゼフ帝がベーメンをオーストリアの一部として
捉えていたら(アウグスライヒ上の区分ではなく)言語令なんてものは
出さないと思いますが。
314 :
世界@名無史さん :04/05/26 02:02
>>312 言語令以外にも、1907年の普通選挙では、民族別に選挙区を設置したのだが。
315 :
世界@名無史さん :04/05/26 04:53
ベーメンを早めにドイツに同化しなかったハプスブルク家は、自分で自分の首を絞めたわけか。
同化しなかったハプスブルク家が悪いんじゃない。 それを言訳にし、あるいは悪用した、裏切者や他国が悪い。 ウイグルやチベットに漢族を入植させている中国が、 自分で自分の首を絞めたハプスブルクよりも立派だとは言えないだろ。
オーストラリアやシンガポールの地下資源狙いのインドネシア介入も、 結局は対抗するための民族入植を強めただけだった。 オーストラリア人やシンガポール人には痛くも痒くもないから平気なんだろうけど。
318 :
世界@名無史さん :04/05/26 05:18
でもさー、エルベ以東の北ドイツだってもとはスラヴ人地域だったわけでしょ。 しかし、ドイツ人の地道な東方殖民によって、ザクセン、ポンメルン、ブランデンブルク、メクレンブルク、シュレジエンなんかは、ほぼドイツ化できていたわけで。 そういう意味では、長い間ハプスブルク家の支配にあったベーメンやスロヴェニアがあまりドイツ化されなかったのって不思議だね。
というよりもゲルマン人も東から西に移動してるから、 スラブ人が昔から北ドイツやチェコに居続けていたわけじゃないと思うが。
実は同じ国、同じ文化圏、同じ経済圏で民族の融和が進んでいたのに、 後になって思い出したようにドイツとの差別化を主張したともいえる。 要するに19世紀以降の行き過ぎた民族主義の賜物ということも出来る。 30年戦争で戦場になったのはチェコだけじゃない。 血液のDNA鑑定ではオーストリア人もチェコ人も変わらないだろう。
321 :
世界@名無史さん :04/05/26 05:37
>>319 エルベ以東の北ドイツの場合は、いったんスラヴ人の土地になったのをゲルマン人がとりかえしてるじゃんって話です。
ゲルマン移動後の空白でここにスラヴが入ってきたというのは、わかっているつもりです。
322 :
世界@名無史さん :04/05/26 20:08
>>317 どうしてこいつは、大洲トラリアの話をしているんだ?
323 :
世界@名無史さん :04/05/26 20:13
>>322 「世界で船舶保有2位はシベリア」とか言ってる厨房だからだろ
>>315 同化しなかったというか、タイミングを逃して出来なかったという感じだと思います。
オーストリアが近代国家への道を歩み始めたのは、マリア・テレジアの時代ですが
彼女の時代は対プロイセンを制度改革で手一杯。
後を継いだヨーゼフ・レーオポルドの兄弟は進歩的な考えの持ち主でしたけど
統治期間が短すぎて、『ハプスブルクの帝国』としての国民国家の意識形成が
出来なかった。
フランツ1世はナポレオンと、それに呼応した民族主義の高まりで対処療法が精一杯。
フランツ・ヨーゼフの時代になってしまうと、既にオーストリアが多民族国家であるという
意識は完全に固定してしまっていて、『一致団結』するにはハプスブルク家の伝統から来る権威
に頼るしかなかった、という事が言えると思うのですが。
よく考えると、マリア・テレジアが対プロイセンの援助を得る為に
ハンガリーを独自の制度で統治する事を認めたというのが、長期的に見ると悪手だったのかも。
325 :
世界@名無史さん :04/05/26 23:18
むしろ、オーストリア継承戦争で、ハプスブルク家がドイツ側の領土を全て失い、神聖ローマ皇帝位もヴィテルスバハ家に永久に奪われるくらいに、もっとボロ負けしていたほうがドイツにとっては良かったのかも。 マリア・テレジアが中途半端に優秀(ウィーンを列強の圧力から維持できる程度の実力はあるが、ドイツを統一できるほどの天才的力量はない)というのが、長い目で見ると凶と出ていたのかも。
326 :
世界@名無史さん :04/05/26 23:28
> ヴィテルスバハ家に永久に奪われるくらいに、もっとボロ負けしていたほうがドイツにとっては良かったのかも。 それでもドイツの状況が好転したとは思えないです。
327 :
世界@名無史さん :04/05/26 23:35
ヨハン=サルバドールについて
328 :
世界@名無史さん :04/05/28 05:07
>>325-326 オーストリア継承戦争でハプスブルク家がボロ負けしていた場合をシュミレートしてみた。
まず、領土分配では、ハプスブルク家の帝冠とドイツ側の領土はすべて、列強で分割。
帝冠、シュタイアーマルク、オーストリア、スロヴェニア・・・バイエルンへ
ベーメン、メーレン・・・ザクセンへ
ルクセンブルク・・・ファルツへ
南ネーデルラント・・・フランスへ
シュレジエン・・・プロイセンへ(これは史実通り)
こんな感じでしょうか?
旧ハプスブルク家領の主要部分は、ヨーゼフ1世の娘婿であるバイエルンとザクセンが獲得し、その他を反ハプスブルク側の他の国が分け合う感じです。
マリア・テレジアには、一応ハンガリー王位くらいは残されると考えます。
この場合、バイエルンが南ドイツの大部分を領有することになり、さらに史実通りならこの戦争の30年後にはバイエルンとファルツが同君連合になるはずなので、ヴィッテルスバハ家の勢力が強大となり、19世紀におけるドイツ統一運動の主体となると予想されます。
もし宗教的にカトリックのヴィッテルスバハ家がドイツ統一の主体であったとしたら、ホーエンツォレルン家の場合よりは、教皇庁やフランスなどのドイツ統一問題への干渉が緩やかとなり、統一がスムーズに進んだかも知れないですね。
329 :
世界@名無史さん :04/05/28 06:13
妄想乙!
331 :
世界@名無史さん :04/05/30 15:51
私は薔薇の定めに
332 :
世界@名無史さん :04/05/30 16:16
333 :
世界@名無史さん :04/05/30 23:22
薔薇は薔薇は気高く咲いて〜♪
334 :
世界@名無史さん :04/05/30 23:33
>328 強大な力を持ってドイツを統一したバイエルンにルイ二世が即位・・・・ ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
ドイツが南北朝に分裂するだけだと思われ。
>>328 >さらに史実通りならこの戦争の30年後にはバイエルンとファルツが同君連合になるはずなので
プロイセンはじめ、他のドイツ諸侯の横槍が入って、例えば・・・
バイエルン継承戦争勃発→バイエルンの半分ほどと旧ハプスブルク領は他家へ
ただしハンガリー・ハプスブルク家へは渡らず
ウィーン体制下までこの枠組みが維持される→大ドイツ統一
>>328 実際にドイツにおけるハプスブルクの根絶を目的とした四国同盟が結ばれています。
大筋の合意内容を挙げてみると
・バイエルン公はベーメン王を兼ね、神聖ローマ皇帝に選出される事。
・プロイセンは緒戦で占領したシュレジレンを獲得する事。
・ザクセンはメーレンを獲得する事。
・フランスはオーストリア領ネーデルラントを獲得する事。
(・同盟に参加していないスペインにはロンバルディア地域を与える事)
・ハプスブルクにはハンガリー王位の保持を認める事。
しかしオーストリアはマリア・テレジアの諸改革によって始めて近代国家への
道程を歩み始めたといって過言では無いわけですから、バイエルンが強大化できるか
どうかは疑問が残りますね。
カール・アルベルトや、息子のマクシミリアン・ヨーゼフにそんな大々的な改革を
行うだけの実力があるとは思えないですし、断絶後のプファルツ系にしても
あの狂気の血統が続くわけで・・・。
むしろプロイセンによるドイツ統一が早まるような気もします。
338 :
世界@名無史さん :04/06/02 09:25
>335 バイエルン(南ドイツ)・プロイセン(北ドイツ)・ハンガリーで鼎立した方が パワーバランス的には均衡を保てたと思われ。
ハンガリー・ハプスブルク家のウィーン奪還というシナリオもありかも。 でもって、オーストリア東部のハンガリー化が進む。
でもそうなると、オーストリア残存部とシュタイアーマルクやケルンテン、 スロヴェニアやイタリア北東部との往来が難しくなるか。
341 :
世界@名無史さん :04/06/06 10:46
>>337 その場合、オーストリアやスロヴェニアは、どうなるという想定だったのですか?
ハプスブルク領のままですか?
ハンガリー女王の称号のみ認め、他の相続権は否定ということのようなので バイエルン侯かザクセン侯(前者か)に持っていかれるところだったのでは?
343 :
世界@名無史さん :04/06/07 00:28
バイエルン(バヴァリア)の首都ミュンヘンなら、1815年のドイツ連邦の領域全体の首都になっても、ほぼ真ん中くらいになるので、かなりGOODかも! 少なくとも、著しく端に寄っているウィーンよりは。
連邦の首都? 連邦議会の所在地に過ぎないのでは?
345 :
世界@名無史さん :04/06/08 16:12
>>344 あのドイツ連邦の領域で統一国家ができても、その首都として遜色ないっていいたいのです。
346 :
世界@名無史さん :04/06/08 16:14
このスレの流れをハプスブルク家ヲタ(例えばカウニッツとか)が見たら、どういう顔するかな?藁
>>341 確かオーストリア世襲領はバイエルンに併呑されるという事になっていた筈です。
スロヴェニアは元来神聖ローマ帝国内の領邦として捉えられていたので、これも
オーストリア大公領に付随して考えられていたと思います。
>>325 オーストリア継承戦争の勝利でマリア・テレジアはミュンヘンを中心としたバイエルン領の
主要部分を占拠していますが、皇帝選挙でフランツに票を投じる事などを条件にこれを返還しています。
当時の情勢ではフランスは大敗して意気消沈していたし、プロイセンも単独ではこれ以上進撃する事は不可能だったみたいです。
なので、しようと思えばバイエルン領を吸収する事も可能だったと思われます。
このある意味でバカ正直な位に大義名分に拘る所はハプスブルク家共通の特質みたいですね。
348 :
カウニッツ :04/06/09 00:22
>>347 さん、ごめんなさいね。反論です。
>しようと思えばバイエルン領を吸収する事も可能だったと思われます。
それはとても無理です。オーストリアの強大化はフランスの国益に反すると言うのが
外交革命以前のバランスオブパワー的な認識で、プロイセン国王すら自国の大臣に
そう言っている位ですので、ある意味フランスは国の総力を挙げてハプスブルクに
向って来ます。オーストリア継承戦争でフランスは全力ではオーストリアを攻撃していないのは
御存知とは思いますが。鋭い方なら「常にフランスの敵役にまわったイギリスの存在」を
挙げるでしょうが、イギリスの外交文章などでも、オーストリアとプロイセンの両国の
バランスオブパワーと言う点でむしろプロイセンへのシュレジエンの無償割譲をオーストリアに
勧めていたぐらいなので、シュレジエンの代わりにバイエルンと言うのはイギリスすら
認めないところとなるでしょう。そんなごり押しをオーストリアがするならば、ドイツは
三十年戦争の再来のような、いやむしろもっとハプスブルク家に不利な国際関係での
ドイツ・オーストリアの荒廃は目に見えているのではないでしょうか。プロイセンが単独ではと
書かれていますが、イギリスの重石のとれたフランスが本気で向かってくるならば、
そちらにオーストリアの戦力は消耗され、プロイセンにまわす余力は無いでしょう。
またプロイセンの占領政策は、徹底的に財を搾り取り、「戦争は戦争を賄う」ですから
補給線の心配も無いので、ウィーンは敵の手に落ちる可能性もあったと言えます。
>>348 イギリスの重石と仰いますが、あの当時のハノーヴァーがどれほどプロイセンに
圧力になっていたでしょう?むしろハノーヴァーの保全を考えて(プロイセンに恩を売ろうとして)
シュレジレン割譲を勧めていたわけで。完全に決裂してもイギリスが大陸に軍隊を派遣するとは考えにくいです。
オーストリア継承戦争の終結直前時は、プロイセンもシュレジレン戦で予想以上の打撃を蒙っていましたし
フランスに至っては指揮官が逃げ帰るのが精一杯で、すぐには身動きの取れない状況にありました。
ですから占領を続ける事自体は可能だったのではないでしょうか?
もっともバイエルンという非オーストリア国家を抱え込む事で、復讐戦の遂行を目的のひとつとしたオーストリアで行われた諸改革のスピードは
やはり相当な部分で遅れるでしょうし、強大化を恐れたフランスとの外交革命も成立するかどうかは分かりませんが。
私としてはバイエルンの併合をするべきと言う点を強調したいんでは無くて
返還への動きと後のポーランド分割やバイエルン継承戦争時での彼女の態度から見ると
国際情勢も勿論、視野にいれているでしょうけれど、それよりもむしろ
ハプスブルク家としての矜持が、大儀の無い領土拡大を嫌ったのではないか?
というような事を言いたかったのです。
あ、カウニッツさんの仰るイギリスの重石はフランスに向けてでしたね。 すいません、対プロイセンへの圧力と読んでました。 ただ英仏による新大陸の争奪戦が並行して行われていたわけですから 両国の共闘というのは考えにくいような気がします。(フランスが譲歩すれば話は別ですが) むしろフランスがドイツ問題に全力投球を決めた場合、ハプスブルクとブルボンのパワーバランス均衡の為に それまでの消極的な関係から、より好意的な態度になるのかもしれません。 (ただし、これもプロイセンとハノーヴァーの地理的関係から考えると疑わしいですね) もしもフランス軍がすぐさま再編されてドイツに再侵入した場合、オーストリア継承戦争時に地盤になった バイエルンが占領されているわけですから、その他の諸侯領からの略奪が主になると思います。 そうなると戦の帰趨、戦場となる地域が受ける被害は別として、ハプスブルク対ブルボンの構図が ドイツ(主に南)対フランスに強化されて、ハプスブルク主導による南ドイツの統一に向かうような気もします。 そうすると嫌でもハノーヴァーとプロイセン、ザクセンといった北の新教側諸侯も一層の連帯をせざるを得ないわけで このスレでも触れられているドイツの南北分裂が起こるのかも知れません。 ここまで来るとif話というか妄想の域かも知れませんが。
351 :
世界@名無史さん :04/06/09 10:24
カウニッツとヤーノシュが釣れた♪
352 :
世界@名無史さん :04/06/17 00:17
選帝侯がイギリスへ転出した後のハノーファーって、誰が治めていたんでしょう?
353 :
世界@名無史さん :04/06/17 02:51
>>352 選帝侯が転出
の意味するところが英国ハノーヴァー朝なら
英・ハノーファー同君連合だろ
354 :
世界@名無史さん :04/06/17 03:29
>>337 >>347 もう少し質問させて下さい。
・この当時のロンバルディアって、ハプスブルク領だったのですか?
・当時ハプスブルク領だったルクセンブルクは、どうなる予定だったのですか?(一応、南ネーデルラントとは区別されていますよね?)
・メーレンをザクセンが獲得した場合、ザクセン、メーレン、ポーランドが同君連合状態となり、プロイセン領を取り囲むような感じになってしまうと思うのですが、プロイセンはこのことに難色を示さなかったのですか?
以上3点、よろしくお願いします。
>>354 >ロンバルディア
ヴェネツィア領です。その後、ナポレオンによって滅ぼされるまで
ヴェネツィアが保持し続けていました。
トスカナ大公国はマリア・テレジアの夫であるフランツの所領でしたけど。
>ルクセンブルク
これについては分かりません。しかしハプスブルク家をドイツから追い落とすのが
四国同盟の主目的だったので、何らかの形で喪失したんではないでしょうか?
>ザクセンに関して
実際に実現していないので、これも何とも・・・なんですが
七年戦争でのプロイセンの動きから見ると、ザクセンも仮想敵国家として
見なしていたようですから、機会を伺ってザクセンも攻撃対象になったのではないでしょうか?
あくまでシュレジレンを奪う為の方便と考えていたと思います。
実際、オーストリアからの打診にいち早く応じていますし。
>>352 353さんの言われる通り、同君連合でしたけど、ヴィクトリア女王の即位と共に
同君連合は解消されました。(ハノーヴァーは女性の統治を認めなかった)
で、領主不在の間、ハノーファーはどうやって治められていたわけですか?
>356 国王の代理として総督が統治したそうです。 (王族か王妃の縁戚といった人間が総督に任命されていたようですね。)
>>355 ロンバルディアがどこを指すかによるが、ミラノ・マントヴァはハプスブルク領じゃない?
359 :
世界@名無史さん :04/06/18 02:39
ヴェネツィア領じゃないんだ。
>>359 確かにそうだけど、ウィーン会議でのオーストリア獲得領の主要部分が
ヴェネツィア領ロンバルディアの獲得である事も事実。
ヴェネツィアは地中海の制海権を失ってから、ロンバルディアの農業経営に
国の命運をかけていたから。
361 :
世界@名無史さん :04/06/18 12:59
>>352 >>353 確かイギリスでヴィクトリア女王が即位した時にドイツでは女性の継承を基本的に認めていなかったため、傍流から選帝侯が選ばれてドイツ革命まで存続した筈です。
(オーストリアではマリア=テレジア即位のために法律を改正してそれを認めないとしたプロイセンなどとの間に「オーストリア継承戦争」が起こった)
>>361 ヴィクトリア女王自身も傍系ですよ。ついでにいうと、ヴィクトリア女王の祖父
ジョージ3世の時代に(1814〜)ハノーファーは王国になっています。
ジョージ3世の後、息子のジョージ4世、その弟ウィリアム4世と続いて、
その後はウィリアムの弟ケント公エドワード(すでに死去)の娘ヴィクトリアが
イギリスの王位を継承し、ケント公の弟カンバーランド公アーネストが
カンバーランド公位を保持したまま(!)ハノーファー王位を継承しています。
で、ハノーファー王兼カンバーランド公エルンスト・アウグスト(アーネスト)の息子
ゲオルク5世の時、普墺戦争でオーストリア方についたのを理由にプロイセンは
ハノーファーを併合しています(1866)。
カンバーランド公位はその後もこの家系に継承されているようですが、
ハノーファー王位は名目的に残されたんでしょうか?
プロイセンはハノーヴァーを併合したあと 同国に含まれていた Lüneburg, Bremen(Herzog) Verden, Hildesheim(Fürst) の称号を得たけど Hannoverは得ていないみたい。 消滅?
第一次大戦の前年頃から、ゲオルク5世の直系が ハノーファー王やブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の称号を 名乗っていたようです。イギリスの爵位は継承されなかったようなので、 イギリス王室との縁を切った見返りか、懐柔策のようなものだったのでしょうか?
365 :
世界@名無史さん :04/06/19 22:41
ハノーファーとイギリスの同君連合は1837年まで続いていたんですね。 でももしその時、同君連合が解消されなかったら、ドイツ統一はどういう展開に なっていたんでしょう? いくらなんでも、ドイツ民族主義の高揚した時代に いつまでも同君連合を存続できたとも思えませんが。
366 :
世界@名無史さん :04/06/20 20:28
普と墺・英・仏間戦争でプロイセン没落だったりして…。
プロイセンを敵に回したらハノーファーを守りきれない、というのは 七年戦争の頃からのイギリスの認識だったと思うのですが。 何か大きな見返りと引き換えに譲渡したんじゃないですか?
368 :
世界@名無史さん :04/06/22 01:33
じゃあWWTではどうして敵に回したの?
370 :
世界@名無史さん :04/06/22 18:12
ちょっと時代変わるけど、スペイン継承戦争、 戦い時代はオーストリアの勝ちなんだから、なんとかする方法なかったの? ヨーゼフ1世が死ななければスペイン・オーストリア再合併できたの?
371 :
世界@名無史さん :04/06/22 18:13
× 戦い時代は ○ 戦い自体は
372 :
世界@名無史さん :04/06/22 18:42
クロアチアも綺麗な建物多い国だけどこの帝国の関係ですよね
373 :
世界@名無史さん :04/06/22 21:35
>>370 再合併ではない。カール5世のようにスペインとオーストリアの君主を兼ねるのではなく、
ハプスブルクの一門から(再び)スペイン王を出すことを考えていたのだから。
南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)とイタリアの旧スペイン領が得られたのだから、
戦果がなかったわけではない。
>>370 あの戦いはオーストリアの勝利ではありません。
むしろイギリス対フランスの戦争で、カール6世はあくまで錦の御旗的な存在でした。
戦後交渉で誰が一番得をしたかを考えれば自明の理でしょう。
イギリスはフランスがスペインを併合する事を恐れていたし、同時にハプスブルクが
スペインとオーストリアを同一君主の手によって支配する事も恐れていました。
それと、フランスが低地地方(広義のネーデルラント、現在のベネルクス3国)へ進出するのも イギリスは阻止したかった。
でも、実際戦いには勝ったわけじゃん。 なんでハプスブルグはスペイン継承放棄で納得したのかが分からないです。 どういう交渉があったの?イギリスが脅したの? さすがにイギリスとしてもフランスとハプスブルグ両方的にするのはつらいから そんなに強く出れるとも思えないんですが。 それとも場合によってはいきなり英仏同盟みたいな動きがあったの?
>>373 そうして獲得した南ネーデルラントを、バイエルンと引き換えにしようという皇帝が
2代後に現れるわけだが。
>>376 ヨーゼフ1世が急死して、当初、スペイン王になるはずだったカールが
オーストリア系ハプスブルク家の相続者になったので、イギリスが
カールの元でオーストリアとスペインを一手に握る事を恐れて、王位を捨てる様
通告しています。
その当時はフランスも青息吐息の状態だったし、オーストリアは単独でフランスと
戦う余力はなかったので、イギリスの提案を呑むしかなかった。
イギリスの大陸政策の基本戦略は
>>375 の通り、低地フランドル地方が地続きの勢力下に
入る事を防止する事が骨子だったので、そもそもハプスブルクがもたらした
ネーデルラントをオーストリアに割譲させたわけです。
ただ、広大な飛び地を加えた事で、オーストリアの軍事力は相対的に低下して
その後のオーストリア継承戦争を招いた、という見方もあるので
確固とした戦果というよりは、面子とイギリスの戦略で獲得した領土という方が
正しいのかも。
379 :
世界@名無史さん :04/06/24 00:03
もしカールがスペイン国王に即位した後でヨーゼフ1世が死んでいたら? マリア・テレジアにはハンガリーの代わりにスペインだけが残る、という事態に?
オスマントルコ
>>379 その場合、他の男系で傍系の相続者がオーストリア系を相続したと思われます。
国事勅令って、それを嫌って自子による相続を目的としたものだったわけですから。
しかし、これでは面白くないので、もしもカール6世の元でスペイン・オーストリアの
再統合が行われたと仮定して、マリア・テレジア時代に継承戦争が起きるとすると
三十年戦争でスペイン系が自国の存続が危うくなる位にオーストリア系に仕送りしていた
事から考えて、しかも今度は同一君主なわけですから、スペイン一国潰す位の勢いで
オーストリアに資金を継ぎ込みそうな気がします。
と、なると継承戦争の時点でプロイセンに勝っちゃうかも。まさに資金不足による兵力不足が
敗因の第一だったわけですから。
でブルボン支配下以上に荒廃しそうなスペインですが、ハプスブルクの王統は
スペインで保持されるのかも知れません。
382 :
世界@名無史さん :04/06/27 11:16
この時代のスペインって、すでに没落していません?
>>382 確かに衰退期に入ってはいましたが、決定的に没落するのはブルボン朝の
時期だと思います。
384 :
世界@名無史さん :04/06/28 01:06
>383 盛り返したのもブルボン朝
ナポレオン戦争、数次の革命と内戦、フランコ独裁を経て復活した 現在の国王もブルボン朝
386 :
世界@名無史さん :04/06/29 00:31
スペイン・ブルボン(ボルボン)家の王って、ナポレオンの時代あたりから、 何度も王位を追われたり、他家に横取りされたり、おまけに分裂まで しているのに、よくしぶとく存続しているものだ。
387 :
世界@名無史さん :04/06/29 11:26
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1030673447/597n スペイン・ブルボン家歴代(名前、在位期間、続柄)
Felipe V 位1700-1746 フランス王 Louis XIV の孫
Fernando VI 位1746-1759 子
Carlos III 位1759-1788 弟
Carlos IV 位1788-1808 子
(フランスによる占領)
Fernando VII 位1814-1833 子
Isabel II 位1833-1868 娘
(第一次革命)
Alfonso XII 位1874-1885 子
Alfonso VIII 位1886-1931 子
(第二次革命)
Juan Carlos I 位1975-現在 孫
388 :
世界@名無史さん :04/07/14 00:58
>>373 サルデーニャ島をサヴォイア家に与えたのは何故?
389 :
世界@名無史さん :04/07/14 01:27
シチリアとの交換
390 :
世界@名無史さん :04/08/03 23:15
>739 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 04/08/03 02:10
>
>>729 >バイエルン選帝侯から皇帝になったヴィッテルスバッハ家のカール7世は
>母親と妃がともにハプスブルク家の皇女で、マリア・テレジア、カール7世、
>カールの妃マリア・アマーリア・ヨーゼファ・アンナは、ともにいとこ同士になる。
>
>カール7世はこのようにハプスブルク家とはきわめて近い関係にあったわけで、
>そのために帝位を得られたのだから、ここでも世襲がまるっきり覆されたわけではない。
ヴィッテルスバッハ家に帝位が移ったのにも、それなりの正当性があったわけだ。
391 :
世界@名無史さん :04/08/06 02:41
考えようによっては、フランツ1世が帝位を継承する方が よっぽどゴリ押しだったのかも知れない。
>>391 いや。、ヴィッテルスバハ家は女系の繋がりがあっただけだから
世襲とは言い難いと思います。
女系相続を正式な相続として認めない原則に照らして、ハプスブルク家を
帝位相続候補から排除した結果、ヴィテルスバハ家が帝位の最有力候補になったと
いう感じでは?
(政治的な取引があった事はもちろんですが)
オーストリア世襲領をヴィッテルスバハ家が得るとした条約の要因は
血縁的な繋がりでしょうけど。
393 :
世界@名無史さん :04/08/06 21:58
で、スレタイに合った話題は? 18世紀知ったか合戦?
394 :
世界@名無史さん :04/08/06 22:07
>>393 流れとしては第一次大戦前後ではもう収拾不可能。
マリア・テレジアからフランツ2世までの停滞期に国家意識の形成が
出来ていたら?という話になっている。
その延長で南ドイツの分離の可能性とかも挙がってるみたいだけど。
395 :
世界@名無史さん :04/08/06 22:17
>>1 まEUの加盟国がかなりすくなくなってるのは間違いない 地域的にはそんなにかわらないだろうけど
396 :
世界@名無史さん :04/08/06 23:15
スペインブルボン朝って、ハプスブルク側の事情もあったけど 最後のスペインハプスブルクの王様が結構馬鹿で、ルイ14世 (ローマ法王含む)のカネにモノをいわせた宮廷工作で、 王位を乗っ取ったのが真実だろ。かなり巧妙にやったんで 遺言が開封されるまでバレなかった。 んでそれに気づいたイギリスが激怒し、継承戦争になって 合邦禁止条約をむすばされたうえ、戦時中のスペイン植民地は イギリスに占領されてしまった。結構高い代償だったわけね
397 :
世界@名無史さん :04/08/07 14:32
神聖ローマ帝国の域内(チェコやスロヴェニアを含む)と域外に分割して、 域内は徹底的なドイツ化を推し進め、域外はマジャール人中心で支配を固めれば それ以上バラバラにならなかったような気がするのだが。
398 :
世界@名無史さん :04/08/07 20:21
スロヴァキア人やクロアチア人はマジャール化されちまえってことかえ?
399 :
世界@名無史さん :04/08/07 20:43
>>397 それを目指したのがアウグスライヒ政体だと思うんですが・・・。
その結果、マジャール人以外の諸民族が大反発してエラい目に遭いましたが。
400 :
世界@名無史さん :04/08/07 21:18
_ ∩ _ ∩ にっぽん! ( ゚∀゚)彡 ( ゚∀゚)彡 にっぽん! ┌─┬⊂彡┌─┬⊂彡 |●| |●|
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>>399 アウスグライヒは文字通りハンガリー人への「妥協」で、
情勢さえ赦せば解消したかったと聞いていますが。
とはいえ、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアの諸民族の運動を見ると、
アウスグライヒのせいでかなり混乱させられたのは事実らしい。
クロアチアの場合、
1)狭義のクロアチア(ザグレブを中心とした地方)とスラヴォニアのハンガリーからの自立
2)ダルマチアのオーストリアからの自立
3)両者の統合
という3つの問題があって、ハンガリーは2)においては協力者にして先輩、1)においては敵、ということになるわけです。
スロヴァキアの場合は更にチェコとの関係が問題になるので、更にややこしいことになるようです。
403 :
世界@名無史さん :04/08/07 23:21
>>402 確かに妥協ですよね。
ただオーストリアによる一元支配が不可能なので、マジャール人を
支配層に加える事で、他の少数民族(ドイツ・マジャールに比べて)を
支配する事を目的としたわけですから間違っていないとは思いますが。
実際、ハンガリー側では強烈なマジャール至上主義による政治が行われてました。
オーストリア側はベーメンのチェック人が強力だったので不可能だったわけですが。
404 :
世界@名無史さん :04/08/14 00:56
やれやれ、ルクセンブルク家がとっととハプスブルク家をつぶせば、 あとホーエンツォレルン家にブランデンブルクをむざむざ渡さなければ、 こんなことにならなかったものを。
405 :
世界@名無史さん :04/08/17 17:53
二重帝国時代の地図を見ると、ハンガリー以外の地域ですが、 各地域に分かれていて領邦だそうです。 たとえば、ボヘミアとモラビアが分かれていて。 この時期、皇帝は、ボヘミア王位も名乗っているとは思うんですが、 ボヘミア王国というまとまり自体は、二重帝国への編成の中で、 なくなってしまったんでしょうか。シレジアも別ですし。 シレジア候や、モラビア候をも名乗っているのでしょうか。 二重帝国の前は、モラビアやシレジアはボヘミア王の宗主権下にあった と記憶しており、ボヘミア王国の版図に含まれていた(もち、名目の話でしょうが) と思っています。二重帝国になって、ボヘミアからは独立したような感じでしょうか。 (ガリチアとかのことはよくわかりません。もともと、ボヘミアの下であったかどうか) また、オーストリアという領邦があるのかと見ると、 オーバーオーストリア、ニーダーオーストリアがあり、それぞれ領邦議会もあった模様。 ほかに、シュタイアーマルク、やクライン、ケルンテンなどという領邦もある。 結局、オーストリアという領邦はない模様。 いわゆる、特許状で、オーストリア辺境伯領が成立した。 この領主が、オーストリア辺境伯。 そして、このオーストリアは、今のオーバーオーストリア、ニーダーオーストリアかなぁ。 ひとつであったけど、その後分割相続などあり、二つと認識されるようになった?。 その後、大特許状(偽書)を発端に、太公という概念が出てきて。。。 ただ、これはあくまで、まず、ハプスブルク家の人間のタイトルであって、 「まず、どこかに太公領なり、太公国がある。その領主を太公と呼ぶ。」 という順序ではない、その逆のような気がします。 結局、オーストリア太公国という領邦は、存在していないと思う。なんとなく、 そう思ってしまってましたけど。
406 :
世界@名無史さん :04/08/17 17:59
第一次大戦後、チェコスロバキアが成立しますね。 スロバキアが単独で独立しなかったのは、 この地がチェコと同一民族という意識が、第三者の目から見ても、あったんでしょうか。 また、ボヘミア人にとって、取り戻すべき地という感じ(マジャールに支配されている同胞) といかんじが主たる原因であったんでしょうか。 ま、スロバキア人の視点がないんですが、これはどうだったんでしょう。
407 :
世界@名無史さん :04/08/17 18:04
第一次大戦後、チェコスロバキアが成立しますね。 スロバキアが単独で独立しなかったのは、 この地がチェコと同一民族という意識が、第三者の目から見ても、あったんでしょうか。 また、ボヘミア人にとって、取り戻すべき地という感じ(マジャールに支配されている同胞) といかんじが主たる原因であったんでしょうか。 ま、スロバキア人の視点がないんですが、これはどうだったんでしょう。
408 :
世界@名無史さん :04/08/17 20:27
>>406-407 チェコとスロヴァキアを統合して1つの国家と国民=民族を形成するということが
公然と語られ出したのは、1918年(独立宣言の年)のはじめになってからに過ぎない。
ドイツ人やマジャール(ハンガリー)人への対抗上、手を組んだというのもあるし、
汎スラヴ主義の影響もあったのではないか。
地理的・言語的に近く、800年前までは1つだった、同じ西スラヴの2つの近縁民族
という意識であって、同一民族というのではなかろう。
409 :
世界@名無史さん :04/08/18 02:21
>>405 上オーストリアと下オーストリアを合わせてオーストリア太公国
太公国の下部に上下オーストリアがある。
(ドイツでは長男だけでなく子供全員が爵位を相続出来るので、事実上ハプスブルク家の人間はすべてオーストリア太公となる)
ボヘミア、モラヴィア、シュレジエンは聖ヴァーツラフの王冠諸邦と呼ばれ、1つの王冠(ボヘミア王)のもとにある。
モラヴィア辺境伯領もシュレジエン公国も元々ボヘミアとは別地域扱い。(但しボヘミア王国の一部でもある)
ハンガリー、クロアチア、トランシルバニアが聖イシュトヴァーンの王冠諸邦で、ハンガリー王冠に属する。(アウスグライヒでハンガリー王国)
ガリツィア王国はポーランド分割で得た地域。
410 :
世界@名無史さん :04/08/18 02:48
>>407 チェコスロバキア人なるものをWW1のころからチェコ人が言い出した。
(同時期、セルビアとクロアチアは一つの民族だとセルビア人が言っている。早い話が拡張主義)
第三者…例えばヴェルサイユの主役の一つアメリカは良く分かっていなかった。
(チェコ人とポーランド人にはウィルソンの知り合い(マサリク、パデレウスキ)がいて、スロバキア人にはいなかった)
スロバキアは上ハンガリーとも言われどちらかと言えばハンガリーの一部と見なされていた。
ボヘミア王国と違って独立国としてスロバキアは過去存在しないし、公領、伯領などとしてもスロバキアというのは無かった。
ルテニア人もそうだが大抵こういう場合独立は難しい。
二重帝国が崩壊するとすぐにハンガリーとチェコ、ルーマニアの間で武力衝突になり、
その結果を反映して国境が大体画定。(これを講和会議が追認する形になる)
つまり簡単に言えばスロバキア人はあまり相手にされてない。
というよりチェコ人ポーランド人セルビア人だけが相手にされた感がある。
(フィンランド人やラトビア人はどちらかと言えばドイツとロシア革命のおかげで独立したと言える)
勿論周辺国に対抗するには大きくなったほうがいいし、(WW1後の東欧は殆ど無法地帯)
敗戦国民になるのは嫌だというのもあった(新規独立国は戦勝国ではないが敗戦国でもない)
結局スロバキア人はこれに不満で、ナチスドイツに早々についてチェコスロバキア解体となる。
ついでにスロバキア南部はハンガリー人ばかりで解体のときにハンガリーに併合されたが戦後元に戻された。
ルーマニアのトランシルバニアと並んで今も相変わらず揉めているようだ
>>410 >(同時期、セルビアとクロアチアは一つの民族だとセルビア人が言っている。早い話が拡張主義)
逆。二民族の統合を宣伝したのはクロアチア人中心のユーゴスラヴ委員会。
セルビアは当初相手にしていなかったが、大戦で国土全域を占領された上に第一の同盟国ロシアがポシャったんで、
ユーゴスラヴ委員会に協力し、戦後の統一王国の王にセルビア王を推戴すること、
国名に「セルビア」を残すことを約束させた。
1795年から1919年において、オーストリア刑法の最高刑は何だったんでしょうか? やはりドイツ語圏だから斬首刑でしょうか?
なんでドイツ語圏だと斬首刑なんだ。
414 :
世界@名無史さん :04/08/21 22:07
>>343 遅レスだが、ミュンヘンでもドイツ連邦の中央というには
南に寄り過ぎている。ニュルンベルクかヴュルツブルクあたりでないと。
>>409 ありがとうございます。新たに、確認するようで恐縮ですが、
ちなみに、ケルンテンやクラインは、上下オーストリアと同じ扱いでしょうか。
ハンガリー王がクロアチア王を兼ねると
聞いたことがありますが(クロアチア王家が断絶した際からの伝統で)、
クロアチアは、ハンガリー王国とは別であるが、
イシュトバーン王冠のもとにはあるという意味ですか。
ハンガリー王位は、ハンガリー王国の君主という性格と、
ハンガリーのほか、クロアチア王国とトランシルバニア公国も統べるという性格
の二つを有するということでしょうか。
416 :
世界@名無史さん :04/08/25 00:58
>>415 クロアチアは当初、独自の王冠を持っていましたが、後にハンガリー王国に
編入されているので、王国の区分としてはハンガリーに属します。
ハンガリー王冠に付随する王位としてはボヘミア王位が挙げられるかと。
ハプスブルク家がオーストリアに加えて、ハンガリー・ボヘミアを手中に収めたのは
この慣習によってであるわけで。
ボヘミア王位(聖ヴァーツラフ王冠)とハンガリー王位(聖イシュトバーン王冠)は別物でしょ。 ハンガリー王位が1526年にハプスブルクに移ったのは、ラヨシュ2世の妹婿がフェルディナンド1世だったから。 ボヘミア王位は同じく1526年からハプスブルクが継承しているけど、こちらは選挙王制。 ボヘミアが選挙王制だったせいで、1618年にいきなりファルツ伯フリードリヒ5世がボヘミア王になる、なんて事態も起こりえたわけです。 但しその後、三十年戦争のさなかにボヘミアは世襲王国化されますが。
418 :
世界@名無史さん :04/08/25 01:58
>>415 上下オーストリアがArchduchyに対して
ケルンテン、シュタイアーマルク、クラインはDuchy
格で言うなら下で、形式としてはオーストリアと同君連合で、ハプスブルク家世襲領地。
かなり昔には別の人間が公爵をやってたこともある。
二重帝国ではArchduchyやボヘミアやガリツィアと同じ扱い(帝国議会に代表を送る諸領邦)だな
419 :
世界@名無史さん :04/08/25 19:22
>>417 違う。ボヘミア王位はハンガリー王が兼ねるという慣習が出来てた。
(ハンガリー王をボヘミア王に選出する)
フェルディナント1世がボヘミア王位を獲得したのは、ラヨシュ2世が
戦死して、ハンガリーの相続権を獲得したからに他ならない。
1618年にフェルディナント2世が廃されて、プファルツ宮中伯が選出されたのは
ルードルフ2世がプロテスタントのボヘミア貴族達に与えていた信仰の自由を
剥奪した事が原因。
420 :
世界@名無史さん :04/08/25 19:47
ハプスブルク共和国だけで金メダル5個くらいはとってたんじゃねーか? 多分。
>>419 うへ、そんな慣習があったんですか? たしかに1419年からボヘミアとハンガリーは同君連合ですが。
それでも選挙という手続きを経て、しかも等族たちが自主的にその慣習を破ったという実例もあるのに、
「付随した」は言いすぎだと思うのですが。
422 :
世界@名無史さん :04/08/26 14:55
>>421 フェルディナント1世がハンガリー王位を獲得した時、ハンガリー貴族の
大部分はこれに反発して、ハンガリーの実効支配はほとんど不可能だったわけで。
そんな形ばかりの王冠でも、それによってボヘミア王に選出され、こちらは実際に支配した訳
ですから、これは付随して獲得したと言っても過言では無いのでは?
まぁ、ニュアンスの問題かと思いますが。
ハンガリー王がボヘミア王を兼ねていたのであって、ボヘミア王がハンガリー王を
兼ねていたわけではないと言う事に注目するべきなのかも。
423 :
世界@名無史さん :04/08/27 23:41
>>418 >上下オーストリアがArchduchyに対して.....
(1)Archduchy of 上オーストリア
(2)Archduchy of 下オーストリア
この同君連合が、俗に Archduchy of オーストリア と呼ばれていた。
ということでしょうか。はじめに、上下オーストリアありき、といった感じ。
>>409 >オーストリア太公国。太公国の下部に上下オーストリアがある。
いや、先に、オーストリア太公国があって、ということでしょうか。
それを分割しても、双方とも、太公国であるということでしょうか。
*****
上オーストリア太公国、下オーストリア太公国、ケルンテン公国、
クライン公国、ボヘミア王国 、、が並列的に同君連合なんでしょうか。
それとも、上下オーストリア太公国の同君連合として、まず、オーストリア太公国があり、
次に、オーストリア太公国、ケルンテン公国、クライン公国、ボヘミア王国、、、
の同君連合があるのでしょうか。
424 :
世界@名無史さん :04/08/28 00:53
「太公」じゃなくて「大公」なのだが・・・・・・
>>424 オーストリアは「太公」でいいんじゃなかったっけ。
ふつうの「大公」Grossherzogと区別するために、Erzherzogを「太公」と訳す。
426 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:14
>>424 大公(Grand Duke)とは王と公の間の称号ですが、ハプスブルク家のそれは
これとは違い、Archdukeのスペルで表されます。で、普通の大公と区別するのが
大変なので日本語でも太公と表現する事があるわけです。
決まっているわけではないので混乱するのも仕方ないですけれど。
ちなみにこの太公はオーストリア公ルドルフ4世(建設公)が「捏造」し、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によって1453年に帝国法となった称号です。
『神に選ばれた一族』位に考えておくと良いかも知れません。
というか称号の構成要素はまったく違うよね。 太公:Erzherzog=高位の公爵 大公:Grossherzog=大きな公爵 もう変えようないけど、Erzherzogの「太公」という訳は混乱の元という気がする。 Erzbishof「大司教」の類推からだろうか。
428 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:29
「太公」は漢語で父親、祖父、老年者などの尊称なので、 あまり勝手な?使われ方されても困るのだが・・・・・・
太公望の「太公」か…… 変でも定着しちゃってるからなかなか変えられないんですよね、こういうのって。
430 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:41
むしろ忠実に訳して聖別公とか聖公とかしてもいいかも。 こうすると少し贔屓が過ぎるかも知れないけれど。
431 :
世界@名無史さん :04/08/28 01:48
>>423 いつの時代の話かという事にもよりますが、ハプスブルク家が皇帝位を世襲
するようになってからは、オーストリア公領(太公領)、ボヘミア王国にその地域の下位爵位が
吸収されていった様ですね。
マリア・テレジアの称号を記したコインにはハンガリー、ボヘミアの女王
オーストリアの女公、ブルグント公、チロル伯とありますから。
チロルはオーストリア公領に吸収されてもおかしくない様にも思いますが
ハプスブルク家を財政上から強力にバックアップしていた事が考慮されたのでしょうか?
432 :
世界@名無史さん :04/08/28 02:20
>>423 ドイツスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1042532422/344 >>431 オーストリア太公領とチロル伯領やケルンテン公領その他はあくまで別。かつてはハプスブルク家の人間がバラバラに相続していたが、
次第に全部オーストリア太公が世襲するようになったので事実上一体化してるけど。
ナポレオン戦争ではチロルとザルツブルクはバイエルンに割譲されたな。
マリアテレジアの正式な称号は
神の恩寵によりローマ,ドイツ,ハンガリー,ボヘミア,ダルマティア,クロアティア,スラヴォニア等々の皇后にして女王,
オーストリア女大公,ブルグント,ブラバント,ミラノ,シュタイアーマルク,ケルンテン,クライン,マントヴァ,パルマ,ピアチェンツァ,
リンブルフ,ルクセンブルク,ヘルダーラント,ヴュルテンベルク,上下シュレジエン女公爵,
シュヴァーベンおよびトランシルヴァニア女侯爵,神聖ローマ帝国,ブルガウ,モラヴィア,上下ラウジッツの女侯爵,
ハプスブルク,フランドル,ティロル,フェレット,キュブルク,ゴリツィア,グラディスカ,アルトワの女伯爵,ナミュールの女伯爵,
スラヴォニア辺境,ポートナオン,サラン,メヘレン等々の女領主,ロレーヌおよびバール公妃,トスカナ大公妃等々
433 :
質問ばかりで済みません :04/08/28 23:13
@ローマ,ドイツ,ハンガリー,ボヘミア,ダルマティア,クロアティア,スラヴォニア等々の皇后にして女王 皇后にして女王ってどういうことでしょうか。 ローマ皇后にしてローマ女王、ドイツ皇后にしてドイツ女王、ハンガリー皇后にしてハンガリー女王、以下略。 でしょうか。 Aここでいうドイツって、なんなのかな、東フランク王国であって、 オーストリア、ブルグンド、ブラバンド、ミラノ、シュタイアーマルク、ケルンテン、クライン、等を、版図に 含む、ドイツ王国なのでしょうか。
434 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:16
@神聖ローマ帝国の皇后、ドイツの王妃、後の国々の女王ということでは?
>421 ハンガリー王はクロアチア王を兼ねるというのは慣習としてアールパード家 のカールマン王の時代からありますが、ボヘミア王を兼ねるという習慣って ありましたっけ? ラヨシュ2世の父親のウラースロー2世はボヘミア王に加えてハンガリー王 になった人ですが、この時はマーチャーシュ王の庶子コルヴィン・ヤーノシ ュ、ハプスブルク家のマクシミリアン1世、ポーランドのヤン・オルブラフ トが候補でいて、結局、サポヤイ・ヤーノシュを始めとする貴族連中が一番 扱いやすそうなウラースローをマーチャーシュの未亡人ベアトリクスと結婚 させるという形で王位につけたと聞いてます。
436 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:21
Aミラノやブルグントは神聖ローマ帝国の域内だった時代でもドイツには含まれず、 それぞれイタリア王国、ブルグント王国の領域として帝国に属していたのでは?
437 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:45
>シュヴァーベンおよびトランシルヴァニア女侯爵,神聖ローマ帝国,ブルガウ,モラヴィア,上下ラウジッツの女侯爵 神聖ローマ帝国の女侯爵とは、 帝国諸侯として、侯爵位を持っていたということでしょうか??
438 :
世界@名無史さん :04/08/28 23:53
426どの ルードルフ4世の捏造時は、 プファルツエルフェルツォークで、 オーストリア公国が(もちろんケルンテン公国などもですが) オーストリア太公国になるという話ではなかったですね。 そしてそのときは、オーストリアは上下の二つの領邦ではなく、 ひとつだったような。
439 :
世界@名無史さん :04/08/31 21:16
>>53 誰もレスしていないようなので…。
オーストリアの社会民主党は当時の社会主義政党では比較的穏健な部類(特に指導者のカール・レンナーは国民の幸福に役立たないイデオロギーなんか不要と主張して自党左派とモスクワの顰蹙を買っていた)。
むしろ、旧帝国諸民族による緩やかな連邦国家への参加か革命で成立した社会民主党政権下のドイツへの吸収合併を願った。
しかし、フランスが猛反対して×。
現在でいうならオリックス=ドイツ、近鉄=オーストリアかも…。
>422 モハーチ戦の後の戴冠の順番はボヘミア→クロアチア→ ハンガリーのようです。 ハンガリーの場合はハプスブルク家側についた方が少ない ような有様だったようですが・・。
441 :
世界@名無史さん :04/09/11 15:47:30
>>438 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1042532422/ の341
に詳しい話が。。。
よって、ルドルフ4世建設公の時も、
別に、どこかが、Erzherzogtum (太公国)になったわけではなく、
以前として、オーストリア公国(Herzogtum)は、公国のまんまであった、
そのほかも同様、という訳で。
また、エルンスト鉄公のときにも、同様で、どこかが、Erzherzogtum (太公国)
になったわけではない(はず??)。
フリードリヒ3世が、例の偽書を正当と認めるとき、
@Pfaltzを外すと同時に(外したつもりはないかも??、どうだろ)
A本拠地オーストリアを、Erzherzogtumにしたのかもしれない(わかんないけど)。
442 :
世界@名無史さん :04/09/11 16:06:06
>432
>ハプスブルク,フランドル,ティロル,フェレット,キュブルク,
>ゴリツィア,グラディスカ,アルトワの女伯爵,ナミュールの女伯爵,
ハプスブルクなんて、とっくに失っているのに。
>>437 >神聖ローマ帝国の女侯爵とは、
>帝国諸侯として、侯爵位を持っていたということでしょうか
たしかに、何でしょうね。
>>442 まぁエルサレム王もとっくに…だし、英国王も結構あとまでフランス王なのってるからね。
444 :
世界@名無史さん :04/09/12 19:25:40
>>443 エルサレム王位は、だれが、ずっと名乗っていたんですか。いつまで名乗ってたんですか。 (素人質問スマン)
445 :
公候伯子男のスレッドで拾った :04/09/12 19:49:50
下のラテン帝国のプリンスというのは良心的なのかな。
皇帝とは名乗っていないわけで、「後継者」と言っているだけだからね。
ちなみに、この書き込みに対して、誰もレスしてはいないようだね。お気の毒。
342 :世界@名無史さん :04/01/13 20:28
爵位(タイトル)について、ここが一番よいでしょうか。
下記は、ラテン帝国の皇帝子孫(傍系だと思ふ)が、アンティオキア大主教により、
帝国の後継者に認定された(プリンスダグラス殿下:Principality of St.Michel de Clermont)
とのこと書かれているサイトです。
ttp://www.kcc.zaq.ne.jp/dfahy603/order1.html (参考:こちらはラテン帝国皇帝系図、プリンスダグラスの位置付けは良く分かりませんね。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/World/Hugues/Capet/capet-10.htm )
@このタイトル(爵位)を与える権限は、例えば、ダグラス氏をプリンスに任じる権限は、
西洋では、いまでも大司教(大主教)とか、司教(主教)とかにはあると一般的に認められているのでしょうか。
Aラテン帝国は、カトリック系だと思いますが、アンティオキア大主教が出てきてもいいのでしょうか。
ラテン帝国がカトリック国家としての位置づけに関わってくる由々しい問題ではないでしょうか。
一方、カトリック側は、今は俗界のことに関わるなとか、教皇勅令?みたいなものが出ていて、
ダグラス氏は、カトリックには頼めなかったと予測してはどうでしょうか。
Bなお、ラテン帝国は、「帝国」なのに、彼がプリンスに任じられたのは、
ラテン帝国皇帝でなく、皇帝継承権者にすぎないからでしょうか。言い換えると、
継承権者の称号は、プリンスなのかと(教皇なら皇帝授与できるが、
主教では軽すぎて、プリンスまでしか授与できないとか、かも知れませんが)。
マイナーな話題ですが、よろしくお願いします。
クレルモン大公てなんね? クレルモン伯ならわかるけど。
>>445 認められているわけがない。
ついでにアンティオキアはユスティニアヌス〜ヘラクリウスまでの神学論争で
カトリック、ギリシア正教の正統派(コンスタンティノープル)のどちらからも
離反しています。(確か細々と宗派が残っていたはず)
ラテン帝国の戴冠をする大主教は多分、エルサレム王国時にカトリックが任命した
アンティオキア大主教でしょう。
>445 なんか訳のわからないサイトですな。 以前、系図系のサイトとかで話題になっていた記憶があります。 ラテン帝国の帝位ですか・・・。
>>440 ボヘミアの戴冠を可能にしたのは、ハンガリー王位の継承権が発生したから
という事に注目すべき。
ハンガリー王位に就くのが遅れたのは、ハンガリー貴族の反発があったからであって
慣習とは別問題。
>450 不勉強で今ひとつ良くわかりません。 その慣習というのはいつごろ成立したものなのでしょうか。
>>451 慣習なので明確にいつ、という話は難しいと思うのですが
(私は450さんでは無いので、不勉強という事もあります)
ボヘミアとハンガリーの間の同君連合はベーメン王カレル1世(カール4世)
の次男でハンガリー王だったジギスムントが兄の死去に伴ってベーメン王を継承
した事が嚆矢になっているようです。
ルクセンブルク王権の断絶後の継承争いやフス戦争によって極度の混乱状態に陥った
ベーメンは当時、オスマン・トルコの支援の元で勢力を拡大していたハンガリー王の
マーチャーシュに王冠を委託しています。
ベーメン王位のハンガリー王位に対する従属という慣習は、ここに端を発するようですが
ポーランド、リトアニア、ハンガリーにまたがったヤケヴォ家の勢力拡大の波に飲み込まれた
だけという見方も出来るかと。
ただ一旦は王位から追い出したハプスブルク家の嫡流を再び、王位に呼び戻したのは
ハプスブルクが対トルコの最前線にいた事と並んで、ハンガリーの合法的王位継承権を保持
していたことが大きな原因となっているようですね。
>452 マーチャーシュ王はカトリック派の貴族に推戴されてオロモウツ司教によって 戴冠されていますね。 しかし、後のヤゲヴォ家のブワディスワフ王はフス派のボディエプラディの イジー王による後継者指名によるもので、マーチャーシュ王の戴冠とは無関係 だと思います。また、彼はマーチャシュ王の死後にハンガリー王に選ばれてお りこのあたりの時代に関してハンガリー王位にボヘミア王位が従属したいたと は思えないのですが。どんなものなのでしょうか・・・。 何か、わかりやすく解説したような書籍があれば是非読んでみたいと思うので すが、ご紹介いただければ幸いです。
454 :
世界@名無史さん :04/09/21 09:24:10
ハプスブルク連邦政府が見たかった。
455 :
世界@名無史さん :04/09/21 23:44:39
大カール時代の「帝国」が統一国家になってたら… スペイン・イタリア・オーストリア・ベネルクス・アメリカ植民地… これだけの大帝国がなんで1〜2世紀程度で崩壊したのかしらん。 ベネルクスでは叛乱が起きて大変だったけど、 イタリア・スペインはうまく治まってたんでしょ? 集めた税金でなにしてたんだ??
ネーデルラントの叛徒と戦い、地中海でオスマン海軍と戦い、 イギリスの私掠船と戦い、イタリアではフランスと戦い、 フランスのユグノー戦争に介入し、カタルーニャとポルトガルの分離主義者の動きを抑圧しました。
>>456 領土が広ければそれだけ統治するのも大変っつーことですな
458 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/09/23 01:02:56
>452 質問ばかりで申し訳ないのですが、 >オスマン・トルコの支援の元で勢力を拡大していたハンガリー王の というのは、江村先生の本以外で記述されている書籍はあるでしょうか? 非常に興味のある話なので、詳細がわかるような資料があれば読みたいと 思います。
459 :
質問の書き子が続いていますが。 :04/09/25 14:25:49
オーストリアの前史として、お教えくださればありがたく。。。 (1)オーストリアの始まりは、 オーストリア辺境伯の設置からということでよろしいのでありましょうや。 (2)バーベンンブルク家がオーストリア辺境伯となった経緯、 どなたがご存知ではありませんか。 (976年バーベンブルク家のレオポルドが就任し、レオポルド1世に) (3)オーストリア辺境伯位が、オースリア公位になった理由はなんでしょうか。 とくに領域が広がるとか、伴ったでしょうか。 たしか、1156年のバーベンブルク家のハインリヒ2世の時ですが。
460 :
質問の書き子が続いていますが。 :04/09/25 14:34:10
(4)バーベンブルク家は、1246年断絶して、 その後オーストリア公位は、1252年にプシュミスル家のオタカルが就きます。 この1246年から1252年までのブランクは、何を意味するのでしょう。 すぐに、オタカルが公位につかなかったのは、何か不都合があったのでしょうか。 (オタカル自身は、1246年から、オーストリア公も名乗っていたのかもしれませんが、どうでしょう) (5)オタカルは、皇帝ルドルフ(ハプスブルク家)に反抗し、それは1276年のオタカルの敗死を招きます。 1276年まで、オタカル自身はオーストリア公を名乗っていたと思われますが、 それは正しいでしょうか。 一方、皇帝側は、オタカルのオーストリア公の位は、1276年までは認めていたのでしょうか。
461 :
質問の書き子が続いていますが。 :04/09/25 14:37:31
なんか長くてすみません。 ちなみに手元の資料では、オーストリア歴代公位が、 ハプスブルクのルドルフ4世まで(1356年)となっています。 このあとは、オーストリア太公になるからなのでしょうか。 私の感じでは、宮中太公という位は位として、オーストリア公位はとりあえず そのままだとおもうんですけども。
>>459-460 (3)フリードリヒ1世バルバロッサは即位当初、ライバルであったザクセンの
ハインリヒ獅子公に譲歩せねばならない立場にあり、やむなく何の落ち度も
ないバーベンベルク家のハインリヒ2世から所領のバイエルンを取り上げて
獅子公に与えた。見返りにハインリヒ2世は辺境伯から公となり、様々な
特権も与えられた。
(5)マルヒフェルトの戦いとオタカル2世の死は1278年。オーストリア他の
公位はそれに先立って(名目上は)取り上げられていたのではないか。
スレ違いだが、ここが一番専門家が多いと思うので質問御免。
1.クリミア戦争で、オーストリアがロシアに対して中立(かなり英仏寄りだが)の姿勢をとるなど、
二月革命以降、オーストリアがロシアと距離を置くようになったのは何故?
>>285 のビスマルクの説得の部分など、具体的に。
2.オーストリアがバルカン半島方面に興味を示すようになるのは、具体的にはいつ?
1878年のベルリン会議の時は当然として、50年代、60年代頃から野心は抱いていたのだろうか。
普墺戦争でヴェネツィアを失い、アドリア海への玄関口をかなり塞がれたことと関連はあるのだろうか。
詳しい御仁がいたら、回答求む。
464 :
463 :04/10/01 01:19:00
おっと、目立つようにage
465 :
世界@名無史さん :04/10/02 15:24:25
age
466 :
世界@名無史さん :04/10/02 15:29:56
462さま お返事ありがとうございます。 1276年までオーストリア公となっていましたので、そこで死んだのかと早合点していました。 実際は、1276年に、皇帝から剥奪を宣され、 敗死は、1278年ですね。敗死までは、オーストリア公を名乗っていたとは思いますが。 お教えいただいたところで、また質問するようなんですが、 「見返りにハインリヒ2世は辺境伯から公となり、様々な特権も与えられた」 とは、どんな特権なんでしょうか。オーストリア公位に付随する特権でしょうか。
467 :
世界@名無史さん :04/10/04 11:49:47
初めまして、ハプスブルク家の政略結婚について詳しく教えて いただけますか?
468 :
世界@名無史さん :04/10/10 05:56:46
仮に第一次世界大戦で崩壊せず、第二次世界大戦も器用に生き延びたとして、 結局旧ソ連やユーゴスラビアみたいになったんだろうか。
469 :
世界@名無史さん :04/10/10 10:19:15
簡単に言えば自然崩壊
470 :
世界@名無史さん :04/10/12 03:24:15
462さんじゃないですが
>>466 オーストリア公国のみの特権として、子供達は性別に関係なくハインリヒが
受封した公領を相続し、継承できるという特権を与えられたのが特筆すべき事かと。
当時、女子はレーエン保持者として認められていなかったので、これは帝国史上画期的な
出来事だったと言えます。
471 :
世界@名無史さん :04/11/03 00:04:34
>1 日本に訪れたハプスブルグの人が日本の生活環境の利便性に驚き、鶴の一声で 吉野家のような形態の店やコンビニの誘致が行われる。 それにより伝統的なカフェの形態が変わり、コンビニや老舗のカフェの外で テーブルに座り、コーヒー飲みながら牛丼などを食べるようなる。
472 :
世界@名無史さん :04/11/07 19:51:03
>>462 様
「見返りにハインリヒ2世は辺境伯から公となり、様々な特権も」
これは、なんと呼ばれているんですか、
バツバツ年の特許状という風に特定すればよいんでしょうか。
たびたび恐れ入りますけど。
473 :
世界@名無史さん :04/11/07 19:52:27
とりあえず、まず、頭を整理したいんですが。。。。 オーストリアといった場合、二つで構成され、 上オーストリア(オーバーエーストライヒ)、(ニーダーエーストライヒ)ですよね。 ちなみに、ウンターエーストライヒ、ユーバーエーストライヒというものは存在しないですよね。 それでなんですが、 このオーストリアの 「オーバー・・・」、と「ニーダ・・・・」ですけど、 これはいつごろから分かれたんでしょう。 オーストリア辺境伯領の設置のときは、まだひとつであった、 ハプスブルク家が得た時点でも、まだひとつであった、というふうに愚考するんですが。 ハプスブルク家のお家の事情で分かれたんでしょうか、 線引きも当初、二転三転あったんでしょうか。 よろしくお願いします。
474 :
世界@名無史さん :04/11/07 20:17:00
470さんへ: >女子はレーエン保持者として認められていなかったので、これは帝国史上画期的な >出来事だったと言えます。 サリカ法云々どころではないんですね。 マリアテレジアのために、国事詔書だしたりしないで、 堂々と、知らん顔で、押し通せばよかったかも、 フランツを皇帝にしないで、彼女を皇帝(女帝)にすれば良かったんではないかと。 フランツは皇婿 ?で、いいと思うよ。 (注:私は、そのときのオーストリア公位と、当時のオーストリア公位を区別していませんが、 その後、明示的な変遷があったかもしれませんね。 また、さらに、オーストリア帝位も別にあるということを、これまた、無視していますが、 少しく、乱暴かもしれません。)
475 :
世界@名無史さん :04/11/07 20:43:21
>>474 >マリアテレジアのために、国事詔書だしたりしないで、
>堂々と、知らん顔で、押し通せばよかったかも、
> フランツを皇帝にしないで、彼女を皇帝(女帝)にすれば良かったんではないかと。
> フランツは皇婿 ?で、いいと思うよ。
オーストリア公位やハンガリー王位はそれで乗り切れたとしても、
神聖ローマ皇帝位は無理だったと思われ。
476 :
Richelieu :04/11/08 03:07:54
実質は、どちらでも変わらなかっただろう... それよりも、ヨーゼフ1世にカール6世以外の継承者がいた場合 現スペイン王家は、ボルボンではなく、カーサ・デ・アウストリア のままだった。そうであれば、シチリアもこパルマもハプスブルグ家 のままであったかも知れない。 となると、イタリアは、ほとんどハプスブルグのもので、ピエモンテの サボイア家がイタリアを統一余地はなかったのでは。
477 :
世界@名無史さん :04/11/08 10:02:20
俺のだビスタハプスブルク一族の名前がついてる
>>473 いまぱーっと『世界歴代王朝王名総覧』確認してみたんだけど、少なくとも1665年までは上下が別の人に統治されたことはないみたい。
>>472 「小特許状」と呼ぶようです。「太公」位捏造のほうを「大特許状」。
>>459-460 (1)(2)
オーストリアの始まりは976/978年にバーベンベルク家のレオポルド1世がオーストリア辺境伯になったことです。
これ以前、オーストリアはバイエルン大公領の一部だったのですが、
時のバイエルン大公ハインリヒ喧嘩公(在位955-76、オットー大帝の甥)が皇帝オットー2世に反乱を起こし、失敗して大公位を失いました。
で、バイエルン大公位はオットー2世の甥にあたるシュヴァーベン大公オットーに。
バイエルン東部はオーストリア辺境伯領として、バーベンベルク家のレオポルド1世に。
ケルンテンはザーリアー家のオットー(オットー2世の妹の息子)に。
と、分割されました。
なぜバーベンベルク家なのかとかは良く分かりませんが、947年までバイエルンの大公位にあったルイトポルト家の縁戚であったことと関係があるのかも。
長文カキコスマソ。続きます。
(4)オタカールはバーベンベルク家が小特許状で女子相続が認められることに目をつけ、
バーベンベルク家の公女と結婚し、公位を手に入れました。
1252年というのは結婚した年なのでは?
ちなみにこの公女、もと修道女だったことを理由にさっさと離縁されてます。
(5)山川の『ドイツ史1』pp.294-295あたりによると、
・1274年、ニュルンベルク帝国議会が招集され、「帝国改革」が話題になった。
・宮中伯ルートヴィヒはオタカールの世襲領であるボヘミアとモラヴィアのの臣従と、
エーガーラント、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの帝国への返還を期待していた。
・ボヘミア王オタカールはレーン宣誓、帝国レーン受領を果たさず、訴訟を拒んでこの召喚に応じなかった。
・結果、1年と1日後、自己のレーンを失い、また、1275年に平和喪失刑を受けた。
・オタカールは1276年、そして1278年と帝国軍と戦い、1278年に戦死した。
法的にオタカールがオーストリア公位を喪失するのは1275年ということになるはず。
また、オタカールが召喚に応じなかったことにより、彼のオーストリアその他の公位領有そのものが違法とされたので、
多分系図によっては1246-78年のオーストリア公位は空欄となっていると思う。
>>474 >>475 氏指摘の通り。問題は皇帝位だったので、小特許状関係ないです。
480 :
世界@名無史さん :04/11/18 16:05:30
突然すいません。 卒業論文でハプスブルク家の政略結婚についてやるのですがお勧めの本やサイトなど教えて頂けますでしょうか? 今探していて煮詰まっている状況です。涙
482 :
世界@名無史さん :04/11/18 19:28:10
終わったな・・・
483 :
世界@名無史さん :04/12/05 18:43:17
>ケルンテンはザーリアー家のオットー(オットー2世の妹の息子)に。と、分割されました。 ケルンテンも、大公領ですか(ヘルツオークツム)。 このころの大公とは、かつての部族大公の大公ではないんという風に見えます。 バイエルン族の大公がバイエルン大公だとすると、 バイエルン族自体が、ケルンテン大公領と、バイエルン大公領とオーストリア辺境伯領に 分かれたという感じでしょうか。 そうすると、 今の、バイエルン州(もと、バイエルン王国ですが)は、 もともとのバイエルン(3分割される前)の一部と(バイエルン)と、 それとフランケン族のフランケン州を引き継いでいるというわけなんでしょうか。 民族?的には、本来は、バイエルン州の南部に人たちは、オーストリアの人と 言語(方言)面や文化面も近い、 フランケンの人たちより、むしろオーストリア人と似ている、わけでしょうか。
484 :
世界@名無史さん :04/12/05 18:51:49
>オーストリアといった場合、二つで構成され、 >上オーストリア(オーバーエーストライヒ)、(ニーダーエーストライヒ)ですよね。 >ちなみに、ウンターエーストライヒ、ユーバーエーストライヒというものは存在しないですよね。 上記は、473より写したもの。 現在のバイエルン州には、オーバーバイエルン、ニーダーバイエルン がある。英語だと、アッパーババリアとローワーババリアだけど。 またフランケンに着目すると、オーバーフランケンと、ウンターフランケン。 英語では、アッパーフランコ二ア、ローワーフランコニアで。 (ウンターも、ニーダーも、ローワーになってしまう) ウンターと、ニーダーの使いわけというかニュアンスがわかる人いる?ドイツの地理に詳しい人?
>>483 ケルンテンは大公領ですね。
ただ、シュタウフェン朝のもとでは大公領の分割が何度か起こってるので、
部族大公というよりは、帝国の官職として扱われた面が大きいのかも。
>今の、バイエルン州(もと、バイエルン王国ですが)は、
>もともとのバイエルン(3分割される前)の一部と(バイエルン)と、
>それとフランケン族のフランケン州を引き継いでいるというわけなんでしょうか。
正確にはフランケンの一部ですね。フランケンはフランクフルトあたりまであったので。
出自から言えば、オーストリアとバイエルンは非常に近いと思います。
もちろん、976年からずっと別の歴史を歩んできたことも無視できませんが、
それを言ったらフランケン東部がバイエルン領になるのも1815年のことですし。
>>484 わかんね(笑
地名の一部になるときはニーダーが普通で、ウンターは形容詞として使うと思ってたけど、フランケンはウンターフランケンって言うんだ?
ニーダーライン・ヴェストファーレン州って言い方はするけど、「ライン川の下流域」って言うときはder untere Rhein。
486 :
世界@名無史さん :04/12/10 11:55:32
>>484 オランダはネーデルラント(ドイツ語読みだとニーダーラント)だけど、
確かニーダーフランケンと言ったら、オランダの方を指したような気がする。
多分両者を区別するためにウンターを使ったんじゃない?
あと、ニーダーに対応する言葉はホッホだけど、
地名でもホッホHochが使われている例はあるのかな...
487 :
世界@名無史さん :04/12/18 03:26:48
488 :
世界@名無史さん :04/12/27 19:15:16
ちょっとごめんなさい。 バイエルン州とは、英語でいうと、ステーツ・オブ・ババリアでしょうか。 ドイツ語では、ラント・フォン・バイエルンですか(ラントは、領邦だから、違うかも)。 さらに聞きますが、 たとえば、バイエルン州には、オーバーバイエルンがあるということですが、 オーバーバイエルン県なのですか。違うかなぁ。 そして、これ、プリフェクチュアー・オブ・オーバーババリアでしょうか。
489 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:15:45
>部族大公というよりは、帝国の官職として扱われた面が大きいのかも。 部族大公と、まさにいえるのは、どの時代の大公でしょう。 それぞれ、いつ作られて、いつまでのが、そういえるんでしょう。 。。。。。。。。。
490 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:26:55
491 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:32:34
492 :
世界@名無史さん :04/12/27 22:39:07
>それを言ったらフランケン東部がバイエルン領になるのも1815年のことですし フランケンというのは、もともと、部族大公であったでしょうか。 そもそも、フランケン族というのは、なんでしょう。フランク王国の支配部族でしょうか。 しかし、サリ族なり、なんなりの合体・連合したものだと聞いています。 (バイエルンやその別れのオーストリアは、サリカ法とは関係ないことがわかりますよね) このフランケン族の中心ていうのは、パリやアーヘンのあたりではないんでしょうか。 あるいは、ここはラテン化したケルトが中心なのか、少なくとも人口面でみると。 ドイツのフランケンは、フランケン族が、フランク王国の拡大時に、意図的に入植したところではないか、 という記憶があります(もともと誰が住んでいたのかニャ)。 いずれにしても、このフランケン、由緒正しきフランケンが、今では、ばらばらになっているんですね。
493 :
世界@名無史さん :04/12/30 17:29:52
フランケンが、フランク人の場所か、 フランク王権に従い、入植した人(フランク人ばっか??、フランク人中心??) の場所か、わかりません。 教えてください。 @さて、フランケンは、東と西に別れ?たって、なんで。 A西フランケンは、ナッソー伯、ぷふぁるつ伯の領邦に編成された? B東フランケンは、ビュルツブルクを中心として統一を保った? Cその東フランケンが、現在のバイエルン州のウンターフランケン、ミッテルフランケン、上フランケンの3地域につながる? Dその東に、上プファルツがあるけど、これは、何でしょうか。プファルツ伯領の飛び地があったのでしょうか。 プファルツ伯領の本拠地は、下プファルツ(フランクフルト中心?)で、飛び地がこの上プファルツの地でしょうか。
494 :
バイエルン:ヴィッテルスバッハ家 :05/01/04 22:17:43
1777年、旧家系が断絶し、 同じヴィッテルスバッハ一族のライン・プファルツ選帝侯カール・テオドールが跡を継ぐと、 彼はバイエルンに執着せず、オーストリアがバイエルンに侵入するのを許し、 またバイエルンとスペイン領ネーデルラントを交換しようという皇帝ヨーゼフ2世の提議に応じた。 しかしこれは同じヴィッテルスバッハ家系のツヴァイブリュッケン侯の反対にあい、 プロイセン王フリードリヒ2世の干渉をうけ、バイエルン継承戦争(1778-79)となった。 結果、バイエルンは旧状のままとどまることとなったが。 ○オーストリアが、バイエルンに侵入したのは、何年のいつごろでしょうか。そのとき、そういう口実を使ったんでしょうか。 ○バイエルン継承戦争自体は、プロイセン等の参戦からスタートなんでしょうか。口実は、なんでしょうか。○ツヴァイブリュッケン侯って、ミニ領邦の殿様ですか。そんな人にも、発言権あるんですか。 ○ヨーゼフ2世の提議ですが、「スペイン領ネーデルランドを交換する」って、スペイン王の承諾はどうなるんでしょうか。詳しく説明がほしいです。
495 :
世界@名無史さん :05/01/04 22:22:24
>>488 バイエルン自由国 Freistaat Bayern
雪国から帰省して、帰省先でも雪に遭った。なんだかなあ……
一気に長文カキコします。
>>489 部族大公の成立は10世紀初め、東フランクのカロリング家の断絶と前後します。
東フランク王権が弱体化したので、各地の部族が独立の兆しを見せ始め、
それに対して王権は、部族の長に大公という位を与えることで王国内につなぎ止めました。
これが部族大公です。
部族大公の力は、オットー大帝の時にいったん弱まります。
オットーは部族大公の反乱を鎮圧して自らの親族を大公に送り込んだり、大公と婚姻関係を結んだりして、大公位を意のままにしました。
以後、部族大公は、世襲される部族の長という側面と、国王によって任命される王国の官職という側面を持つことになります。
特にフランケンやシュヴァーベンの大公位は、ドイツ王の親族や臣下にゆだねられることが多く、官職の性格の強いものでした。
それに対してザクセンやバイエルンは部族を束ねる長という性格が強いように思います。
ふつう、「部族大公」という言葉は大空位時代ぐらいまで使用されるようですが、
私は、1180年のザクセン公領の分割が部族大公の時代の終わりなんじゃないかと思っています。
これによって大公は部族を代表する存在ではなくなりました。
>>492-493 フランケンは、メロヴィング期の王たちがアレマン人とチューリンゲン人を追い出して作り上げた部族です。
オストフランケンとも言ったみたいですね。
部族大公としての成立はいつ頃なのかあまりよくわかっていないらしい。
>>493 フランケンは、東西に別れたわけではなく、バラバラになったあとその東部がバイエルンに併合されていきました。
(ただ、ヴュルツブルク司教が東フランケン公を称してはいたようです。ドイツ王権はこれを承認しませんでしたが。)
バイエルン領になったのは、
・ヴュルツブルク司教領……ナポレオン戦争の時、ファルツをフランス等に譲る代わりに併合が認められた。
・ニュルンベルク城伯領……1415年以降ブランデンブルク領。ウィーン会議でバイエルンに譲渡。
・アンスバハ辺境伯領、バイロイト辺境伯領、クルムバハ辺境伯領……1791年プロイセン領。ウィーン会議でバイエルンに譲渡。
などです。
上プファルツはプファルツ伯領の飛び地で、ウェストファリア条約でバイエルン領になりました。
>>494 なんかその説明話が前後してる気がする。
オーストリアがバイエルンに侵入したのって、
カール・テオドールがバイエルンとネーデルラントの交換に応じてからだと思うんですが。
>○ツヴァイブリュッケン侯って、ミニ領邦の殿様ですか。そんな人にも、発言権あるんですか。
バイエルン公家の断絶した1777年時点で、ヴィッテルスバハ家で存続していたのは、
プファルツ・ズルツバハ侯家(1742年以降プファルツ選帝侯)のカール・テオドールと、
プファルツ・ツヴァイブリュッケン侯家だけでした。
カール・テオドールには子供がなかったので、継承権第一位はツヴァイブリュッケン侯のカール・アウグスト・クリスティアンだったのです。
ちなみにカール・テオドールが1799年に死去すると、カール・アウグスト・クリスティアンの弟のマクシミリアン・ヨーゼフが継承しています。
>○ヨーゼフ2世の提議ですが、「スペイン領ネーデルランドを交換する」って、スペイン王の承諾はどうなるんでしょうか。詳しく説明がほしいです。
スペイン継承戦争の結果、ネーデルラントは1713年にオーストリア領となりました。
オランダではないということで「スペイン領」と書いたのでしょうけど、誤解を生む書き方ですね。
499 :
世界@名無史さん :05/01/05 22:47:26
もしヴィッテルスバハ家がネーデルラント王になってバイエルンがハプスブルク領になっていたら、 ドイツは南北に割れていただろうね。
500 :
世界@名無史さん :05/01/06 20:02:20
ネーデルランドとプファルツが纏まった方が、 バイエルンとオーストリアが纏まった方が、 まとまりがよかったと思うのは、僕だけか。 ドイツの人で、いまさらながら思う人もいるんじゃないかな。 バイエルン人は、プロシア人よりオーストリア人に親近感あるって聞いたことあるんだけど。
501 :
世界@名無史さん :05/01/06 20:09:13
502 :
世界@名無史さん :05/01/06 20:24:16
>私は、1180年のザクセン公領の分割が部族大公の時代の終わりなんじゃないかと思っています。 @ 分割の後、その地は、どうなったんでしょうか。 Aザクセン大公の地位自体は、別の領邦の君主に行ったのでしょうか。 今のザクセンの地域は、ザクセン部族とは無関係で、ただ、その地を治める 殿様が、ザクセン大公の位を持ったという訳なのか、そんな気がしているんですが。
503 :
世界@名無史さん :05/01/07 00:12:11
フランケンというと「フンガー」しか思い浮かばない
504 :
世界@名無史さん :05/01/07 22:51:18
弱小国
バイエルンと南ネーデルラントなら十分釣り合うんじゃないか?
507 :
世界@名無史さん :05/01/09 20:32:33
当時のバイエルンには、なにかたいした産業ってあったの。 広さと、ビールくらいでないのかと思う。 かたや、南ネーデルランドは狭いけど、羊毛工業の伝統とか港とか、あると思う。 よって、プファルツは海へ繋がることができて、それなり意味あると思うけど、どう。 ハプスブルクにとってのメリットは、まず、領土が広くなること、 飛び地より繋がっている方が良い、とか。海なら、イタリア経由があるからそれほどこだわらないとか。
508 :
世界@名無史さん :05/01/09 21:24:35
>>505 ザクセン公領は、ヴェストファーレン、ブラウンシュヴァイク、ザクセン
ですか。ありがとうございました。結局的には、ザクセン公というひとつの公位が、
3つの公位に分裂したんですね。
分裂後のザクセンは、今のザクセンとザクセンアンハルトのあたりですか、あるいは、もっと別?
3つの公領と、ザクセン発祥であるニーダーザクセンとの兼ね合いはどうなるんでしょうか。
509 :
世界@名無史さん :05/01/10 18:23:31
>>492-493 >フランケンは、メロヴィング期の王たちがアレマン人とチューリンゲン人を追い出して作り上げた部族です。
>オストフランケンとも言ったみたいですね。
約5つ訊いていいですか。
@ すると、本来のフランク王国の支配部族は、あえて言えば、ウエストフランケンともなる、のでしょうか。
Aフランク王国の支配部族はどのあたりに住んでいたんでしょうか。
Bこの支配部族(ウエストフランケン?といってはだめだと思うが)は、部族大公領を形成しなかったんですか。
Cあれまん人とちゅーりんげん人を追い出したとのことですが、この人たちはこの後、どこへ行ったんでしょうか。
D追い出した後、移住してきたのは、誰なんでしょうか。
510 :
世界@名無史さん :05/01/10 19:49:04
>>497 フランケンは、東西に別れたわけではなく..................
とのことですね。
現在のバイエルン州の中フランケン県、上フランケン県、下フランケン県は、
だいたい、昔昔のフランケンの東部分ということ、と理解しました。
上プファルツ県は、昔のフランケンなんでしょうか。知りたいです。
>>506-507 当時のヨーロッパの羊毛工業って、どれほどのものだったんでしょう?
盛んだったのはもう少し前だと思ってたんだすけど。
> よって、プファルツは海へ繋がることができて、それなり意味あると思うけど、どう。
そうですね。ルクセンブルクが当時はネーデルラント領内だったのを忘れてました。
>>508 新しいザクセン公領が現在のいわゆるザクセンです。
>3つの公領と、ザクセン発祥であるニーダーザクセンとの兼ね合いはどうなるんでしょうか。
兼ね合いとはどういう意味でしょう?
>>509 @〜B
西のフランク(ヴェストフランケン)についてですが、
西フランクが根拠地としたのはパリです。パリの真ん中にシテ島という川中島がありますが、
この島が「イル・ド・フランス」と呼ばれ、これがパリ周辺の地方名となりました。
西フランクでは部族大公領は周辺部にしか発生せず、
連続的に王に支配されたイル・ド・フランスが部族大公領になることはありませんでした。
Cアレマン人は別名シュヴァーベン人です。つまり、彼らは南に逃れてシュヴァーベン大公領を形成しました。
現在のバーデンからスイスにかけての地域です。
チューリンゲンの方は大公領にはならなかったようですが、北東に逃れました。
チューリンゲンはスラヴ人への防衛のため、ドイツ王から派遣された人に統治されるようになるのですが、
当初はこの派遣された人の称号は「大公」「伯」「侯」等々、一定していなかったようです。
のちに辺境伯に定着しますが。
Dフランク人が移住してきたから、フランケンというのです。
>>507 塩といえばザルツブルクが有名だけど、
現在でもバイエルン各地に岩塩の産地が点在している。
ミュンヘンも塩の交易で栄えた町。
余談だけど、現在のドイツは州によって教員や公務員の給料が異なるが、
その中で一番給料が高いのが、ダイムラーベンツや
ロベルトボッシュの本社があるバーデンヴュルテンベルク州、
確か二番目がBMWやアウディ、ジーメンス社のバイエルン州、
三番目が金融の中心のあるヘッセン州らしい。
牧歌的な風景ばかりが観光スポットで登場するけど、
ミュンヘン〜シュトゥットガルトを結ぶ高速道路はトラックの
往来が激しく、麦畑の中に化学工場の煙突がどかんとあったりして、
南ドイツは結構産業が栄えている。
ドイツの場合人口の多そうなイメージのある北部の方が今では貧しい。
石炭や造船は日本と同様斜陽の産業で、旧西ドイツでは
ニーダーザクセン州が一番貧しく、旧東ドイツの各州は更に貧しい。
513 :
世界@名無史さん :05/01/16 17:28:08
>新しいザクセン公領が現在のいわゆるザクセンです。 >>3つの公領と、ザクセン発祥であるニーダーザクセンとの兼ね合いはどうなるんでしょうか。 >兼ね合いとはどういう意味でしょう? 1180の分割以前のザクセン公領は、今のどこにあたるんでしょうか。 そこは、領域としてニーダーザクセンのほか、オーバーザクセンも含んでいたということでしょうか。 言い換えると、「新しいザクセン公領」というのは、 それまでのザクセン公領とは、領域的には重なっていたのでしょうか。
514 :
世界@名無史さん :05/01/16 17:34:07
>>501 オーバープファルツ(上プファルツ)が、“旧オストフランケン”に属するのか、
バイエルン部族居住地(バイエルン)に属するのか、
ここではっきりすると嬉しい。無論、境界がそれほどキチンとあるとは思ないが。。。。
もし、バイエルンなら、
1214年の“バイエルンのヴィッテルスバッハ家”にプファルツ宮中伯領(下プファルツ)が加わるわけだが、その前では、
ニーダーバイエルン地域の一部とみなされていたんではないか。どうか。
否、ニーダーバイエルンの一部ではなく、オストバイエルンと呼ばれていたのかも。
その後、1329年に、ヴィッテルスバッハ家から、プファルツ系が分家する時、
この地は、プファルツ系に加わって、そのときから、オーバープファルツという呼名が使われだした。のかな。
オーバープファルツの中心の古都?のレーゲンスブルクは、
フランケンアルプ(フランケンのアルプス)山地と
バイエルン森(バイエルンの森という山地のこと?、「山地」でいいのか、不安だが。)
の境にあるから、オストフランケンなのか、オストバイエルン(ニーダーバイエルン)か、
微妙と思う。
515 :
世界@名無史さん :05/01/17 03:09:14
>それを言ったらフランケン東部がバイエルン領になるのも1815年のことですし ウイーン会議の結果ですか。 一方、シュワーベンがバイエルン領になるのは、いつでしょうか。
シュヴァーベンがバイエルン領になったことはないでしょ。
517 :
世界@名無史さん :05/01/18 03:34:09 0
>>516 バイエルン州の南西にシュワーベンという地域ありますけど。
これは、
@第二次大戦後の連合国による占領の中でバイエルン州に組み入れられたにすぎないわけ?ですか。
A歴史的に「シュワーベン」っていわれる地域と、
今のバイエルン州のシュワーベンはどんな関係でしょうか、一部に過ぎないのですか。
シュヴァーベンの東のほうか。 あの辺がバイエルン領になったのは1803年・1805年だったかな。
歴史的にシュヴァーベンといわれるのはスイスからバーデン、ヴュルテンベルクにかけての地域だな アルザスのあたりはどうだっけか…
520 :
世界@名無史さん :05/01/19 22:10:19 0
メッテルニヒが失脚してから駄目になった
521 :
世界@名無史さん :05/01/22 19:21:38 0
518殿、 すると、ナポレオンへの協力姿勢の見返りとして、 バイエルンが獲得した訳ですな。あわせて、王国への昇格も得たわけだし。 バイエルンが獲得する前は、小国が分立していたわけですかな。 さて、どなたか、ご存知か。
522 :
世界@名無史さん :05/01/22 19:42:45 0
519氏がアルザスの名を挙げましたが、、、、、、 アルザス(エルザス)といえば、ロレーヌはどうなんですか。 シュワーベンではないですか。 前者はエルザス語というドイツ語方言だそうですけど、 ロレーヌの庶民語は、フランス系の言語だったんでしょうか。 フランスの大貴族でロレーヌ公なんていうのがチョクチョク出てきますが、 フランス王がロレーヌ公領(公位)に対し、主君に地位を持っているのは 確立されているみたいに見えますが。
523 :
ヴュルテンベルクについて :05/01/22 20:14:41 0
>歴史的にシュヴァーベンといわれるのはスイスからバーデン、ヴュルテンベルクにかけての地域だな p://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/etc/deutschland/wurtenberg.htm によると、1268年シュヴァーベン公断絶後、近代まで続いたシュヴァーベン地方の有力国。とのこと。 シュワーベン公国は断絶して、分裂しちゃったんでしょうか。 その一部がヴュルテンベルク公国として残ったのですか。 シュワーベン公位自体は、廃止になってしまい、 あらたに、ヴュルテンベルク公位を作ったのは、 シュワーベン公位はあまりに名跡ゆえ、皇帝に脅威だったんでしょうか。
524 :
515以下を読んで :05/01/22 21:40:51 0
すると、 シュワーベン県は、 バーデン・ヴュルテンベルク州に入れたほうが、 文化習慣的には、座りがよさそう。 バイエルンに吸収されたのも、たかだか200年前に過ぎないし。 そのときのいきさつって、シュワーベン民衆の感覚でどうだったんでしょ。 火事場泥棒のような、悪印象ではなかったのかなぁ。すごく疑問だよ。 シュワーベン民衆では(無知蒙昧ゆえ)、不適当ならば、 シュワーベンの知識層、地主・貴族層でも、いいけど。
525 :
世界@名無史さん :05/01/22 21:51:56 0
>>508 >>511 >>513 の話に加わらせてもらいます。
まず、今の「ザクセンアンハルト州」っていうのは、
ザクセン地域とアンハルト地域の二つからなっているんですか。
それでもって、
その昔、3分割されたうちのザクセンの一部をなしているのは、
このザクセン地域ですか、それともアンハルト地域も、ですか。
その3分割されたザクセンというのは、
今のザクセンアンハルト州のザクセン地域?と、
他には、今のザクセン州くらいですか。
それとも、もっと広かったのですか。
526 :
世界@名無史さん :05/01/22 22:52:00 0
>>523 ×:あらたに、ヴュルテンベルク公位を作ったのは、 ○:あらたに、ヴュルテンベルク伯位を作ったのは、 作ったっていうのは、皇帝がそれを認めたってことですかね。 グラーフなんですかね。(ラントグラーフ方伯ではなくて)
そういえばシュヴァーベン公の称号をオーストリアの皇帝が持ってたような…。
シュヴァーベン公国が無くなったのはずっと昔のことだし、
(革命前は帝国都市や教会領やハプスブルク家領やホーエンツォレルン家領が入り乱れて、
ドイツでも有数のごちゃごちゃした地域だった。)
ドイツ諸邦の領土は飛び地だらけだから
>>524 の観点から文句を言うやつは居ないと思う
>>525 アンハルトってのはザクセンの北西にあった小さな公国。今のルクセンブルクよりやや小さい位。
3分割されたザクセンのうちのザクセンは、のちに2分割され、東側が後にザクセン選帝侯領、
西側がザクセン諸公国(コーブルクとかヴァイマールとか…)になってる。
ザクセン諸公国は今のチューリンゲン州かな。
ザクセン選帝侯はナポレオン期に王国に昇格するけど、普墺戦争で負けて南半分だけになっちゃった。
それが今のザクセン州とほぼ同じ。
プロイセンがとった分はブランデンブルク州とザクセン・アンハルト州に入ってるね。
ちなみに、ザクセン・アンハルト州は旧ザクセンの一部と、旧アンハルトと、旧ブランデンブルク領のマグデブルクやアルトマルクからなってるようだ
つーかブランデンブルクの西半分にアンハルトとザクセンの一部くっつけただけじゃねーか…?
529 :
世界@名無史さん :05/01/23 21:54:51 0
部族大公としてのザクセン公位? ザクセン公:ザクセン家( −961) オットー(初代)、ハインリヒ(東フランク王)、オットー(東フランク王、皇帝) ザクセン公:ビルンガー家(961−1106) ヘルマン(初代)、・・・・マグヌス(5代) ザクセン公:××家ズップリング伯ロタール(皇帝) ザクセン公:ヴェルフェン家(1137) ハインリヒ傲慢公(バイエルン公) ザクセン公:アスカン家(1138−1142) アルプレヒト熊公 ザクセン公:ヴェルフェン家(1142−1180) ハインリヒ獅子公(バイエルン公) 最初のザクセン家だが、 ドイツ王家(皇帝家)としてのザクセン家・ザクセン朝なら、よいが、 ザクセン公家としての、ザクセン家というのは、ピンと来ないけどね。
530 :
世界@名無史さん :05/01/23 21:58:39 0
アスカン家や、ヴェルフェン家も、また、ズップリング伯ロタールも ザクセン部族出身の豪族でしょうか。
>>522 ドイツはもともと5つの公爵領の集合体として出発しました。
ロレーヌ(ロートリンゲン)はそのひとつ(あと4つはバイエルンとザクセンとフランケンとシュヴァーベン)。
10世紀半ばに公爵位を巡って争いが起きたらしく、上下に分裂。
上ロートリンゲン公がのちのロレーヌ公。
マリア・テレジアの夫の時にトスカナと交換でフランス領。
下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。
1430年からブルゴーニュ公、次いでハプスブルクと同君連合です。
起源をたどるとフランスとは関係ない、といいたいところですが、911-28年に西フランクに属したことがあるみたいで、
なんだかどっちつかずな印象を受けますね。
>>530 ヴェルフェンはバイエルン出身じゃなかったっけ。
532 :
世界@名無史さん :05/01/27 16:49:00 0
533 :
世界@名無史さん :05/01/30 23:14:09 0
>下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。 下ロートリンゲンのあたりをブラバント地方と呼んだことからくる別名ですか。 東フランク王から頂いた正式名称は、 つまり、爵位の特許状に載っているのは、「下ロートリンゲン公」という解釈でよいですか。
534 :
世界@名無史さん :05/01/31 00:23:03 0
IFスレッドということで書くと、 その1:マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、 ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、 ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。 その2:オーストリア系とスペイン系にハプスブルク家が分かれるとき、 ネーデルランドが、スペイン系に行かなければ、 多分、オランダもドイツから分かれることはなかったと思う。 第一、そもそも、ハプスブルクにスペイン王位が転がり込んでこなければ、 オーストリア系とスペイン系に別れることもなかった訳だから、そういう意味では、 二つの偶然?(ハプスブルク家のお家の事情)が重なったことで、 オランダが生まれたことになる。 言い方を変えると、つまり、低地ドイツ人が、オランダとドイツに分かれたことになる。
535 :
世界@名無史さん :05/01/31 00:34:36 0
もし、ハプスブルク帝国が崩壊しなかったら、ですが、第一次大戦の敗戦で、 ハプスブルク家が生き延びるのは大変そうな気がします。 バイエルンが、反プロシアの意識から、土壇場で、ドイツから離脱し、 協商側につけば、戦後は、オーストリアを併合して南ドイツの統一国家を作れたかもしれない。 ドイツ弱体化を狙い、プロシア憎しの、フランスにとっての利益にも適合するし、 ヨーロッパ事情に疎く、ひたすら民族自決に拘るウイルソン大統領に対しては、もともとのバイエルン部族という意味では、 バイエルン地方とオーストリアは、同族であるとして、誘導できそうな気もする。 チェコとスロバキアを一緒にしたくらいであるのだから、バイエルンとオーストリアは、 一体化が適当とも言える(ウイーンが地方都市に転落するけど、これは、オーストリア側に矜持のみが障害に過ぎないし)。 もっとも、当時のバイエルンは王が、無能とされ、それどころではなかったようだが、 万一、それなりに政府の混乱がなければ、イタリア王・政府のような芸当もできただろうに。
536 :
高地ドイツ人のこと。 :05/01/31 00:35:14 0
もし、ハプスブルク帝国が崩壊しなかったら、ですが、第一次大戦の敗戦で、 ハプスブルク家が生き延びるのは大変そうな気がします。 バイエルンが、反プロシアの意識から、土壇場で、ドイツから離脱し、 協商側につけば、戦後は、オーストリアを併合して南ドイツの統一国家を作れたかもしれない。 ドイツ弱体化を狙い、プロシア憎しの、フランスにとっての利益にも適合するし、 ヨーロッパ事情に疎く、ひたすら民族自決に拘るウイルソン大統領に対しては、もともとのバイエルン部族という意味では、 バイエルン地方とオーストリアは、同族であるとして、誘導できそうな気もする。 チェコとスロバキアを一緒にしたくらいであるのだから、バイエルンとオーストリアは、 一体化が適当とも言える(ウイーンが地方都市に転落するけど、これは、オーストリア側に矜持のみが障害に過ぎないし)。 もっとも、当時のバイエルンは王が、無能とされ、それどころではなかったようだが、 万一、それなりに政府の混乱がなければ、イタリア王・政府のような芸当もできただろうに。
537 :
世界@名無史さん :05/02/05 19:42:12 0
>>534 の「その2」ですが、
スペインのトラスタマ家が断絶しなければ、ネーデルランドは、オーストリアと
別々の君主に治められることはなかったのに、ですね。
フリードリヒ3世の後は、ハプスブルクは、分家を作らないで一体で継承する体制でしたから。
また、スペインを相続するとしても、弟のフェルディナンドが、スペインを継げば
やはり、オーストリアとネーデルランドは、一体としてカールが引き継いだでしょうに。
トラスタマ家の断絶は仕方がないとして、ハプスブルクがオーストリアとスペインに分かれるとき、
どうして、カールがスペイン王位を継いだんでしょうか。フェルディナンドこそ、
スペイン生まれで、スペイン王に相応しいと思うのですが。大変知りたいんですが。
>>537 だからこそです。
アラゴンで養育されたフェルディナントがスペイン王になると
ハプスブルク家ではなく、スペインの国益の為に動く恐れがあると
考えたマクシミリアンらが、アラゴン王を説得して引き離しました。
539 :
世界@名無史さん :05/02/05 23:57:01 0
帝国領の間を埋めればよかったんだよ。 バラバラであるための高コストが是正される
>>539 授封強制という制度がそれを許しませんでした。
もしもそれが無かったら、シュタウフェン朝の時点で
南ドイツの大半は皇帝領になっていたと思われます。
541 :
世界@名無史さん :05/02/06 00:31:47 0
>540 ハプスブルクには掟破りの親戚に授封という手があるのだから可能。
542 :
世界@名無史さん :05/02/06 19:00:56 0
授封強制という制度って?
543 :
世界@名無史さん :05/02/06 20:27:22 0
>>540-541 フリードリヒ1世がハインリヒ獅子公の封を没収しようとした際に
ハインリヒの帝国レーエン没収が皇帝の権力増大に結びつく事を懸念した
他の諸侯がこれに難色を示しました。
フリードリヒと諸侯の折衝の末、皇帝が何らかの理由によって封を没収した際は
短期間の内に他の臣下にこれを再授封するという制度が確立する事になりました。
これが『授封制度』と呼ばれるもので、この制度の成立はドイツの統一を著しく妨げました。
で、そもそも封の没収というものは、皇帝の独断で行いうるものではありませんでした。
常に問題となっている諸侯と同格の諸侯の賛同が必要でした。
よってハプスブルク家といえども、結婚政策によらない封の拡大はなかなか難しかったという
経緯があります。
ドイツ統一のチャンスはシュタウフェン朝で既に失われる決定打があったというのが
私の考えです。
(カール5世の勢威などを考えると異論もあると思いますが)
>>544 の
『授封制度』→『授封強制』に修正して下さい。
>>533 たぶん特許状では「下ロレーヌ」の方だと思いますが、私自身が見て確認したわけではないので何とも……。
>>543 ロレーヌ(ロートリンゲン)は部族名ではありません。
「ロタール王の」という意味で、これは中フランクの分割相続時にロタール2世に相続されたことによります。
つまりもともと中フランク王国領で、メルセン条約その他の結果ドイツに帰属した領域です。
住んでいるのは恐らくフランク人が多数ではないかと……フランクの故地ですし。
>>543 >>546 さんの説明に補足を。
ロートリンゲン(ロタリンギア)は特にロタール王国が消滅した際に
誕生した空白地の事を指す場合もあります。
ロタール王国の版図からイタリア王国と、ブルグント(ブルゴーニュ)地方
そしてアーヘンやケルンなどの若干の所領を除いたのが狭義な意味での
ロタリンギアだったかと思います。(細かい点はうろ覚えですが・・・)
中世初期はこのロタリンギア争奪戦が非常に熾烈で、独自の王権も成立したのですが
最終的には東西フランクに(主に東)分割吸収されたようですね。
部族的にはクローヴィス以前にはあのニーベルンゲンの歌に出てくる部族の
子孫が国家を形成していたかと思います。
>>547 ややこしい話ですが、
勇者トンヌラさんの言われてる「ロタール王国」はロタール1世の王国で、
私の言っている「ロタール王国」はロタール2世の王国です(笑
中フランク王ロタール1世(818-44)の死後、王国は分割され、
長男ルートヴィヒ2世(844-75)がイタリア王、次男ロタール2世(855-69)がロタリンギア王、
三男シャルル(855-63)がプロヴァンス王。
ここでロタール2世が相続した地域をロタリンギアというわけです。
で、ロタール2世の死を受けて、870年にメルセン条約が結ばれるという流れです。
>>548 これはお恥かしい。汗顔の至りです。
なので言い訳代わりに断絶後の同地方について少し。
ロタリンギア及びプロヴァンスはブルグント王国時代からの
勢いある貴族が多数いたのでドイツ王権による支配に頑強に抵抗しました。
890年には最有力者であったヴィエンヌ伯ルイ(盲目侯)がヴァランスで
戴冠しています。
>>547 で挙げた独自の王権はこれを指します。復興されたブルグント王国は
13世紀にはアルル王国と呼称されるようになります。
550 :
世界@名無史さん :05/02/09 14:14:02 0
>>542 受封強制はザクセンシュピーゲルで規定されている制度でドイツ国王に戻された帝国諸候領を1年と1日以内に誰かに受封しなけりゃならないって制度だよ。
しかし、これは机上の空論で受封強制は存在しなかったって説が有力だって話だったばずだがな。
ミッタイスとかブルンナーとか前世紀初め頃の研究者が実在を主張してゲッツとかの60年代の研究者が否定したとかなんとか。
違ったかな。
551 :
世界@名無史さん :05/02/19 20:11:27 0
>>534 下のマルガリータは、マリアの間違いかと。
>その1:マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、
> ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、
> ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。
@ブルゴーニュ公国から、アルトワなどが奪われたのは、
二人の婚約の後で、フランス側がマリアとの結婚を果たせないことが
確実になった時点はないかな。
親父の突進公亡き後の、公国の動揺状態を狙った事件のはず。
Aマリアの事故死後の、フランスの介入では、マックスの対応が良く(戦闘指揮を含め)、
どこも奪われなかったんでは。
552 :
世界@名無史さん :05/02/26 20:50:15 0
下ロレーヌやブルグンド(アルル)が、 後のブルゴーニュ公国につながるのでしょうか。 どのように編入されていくのでしょうか。
553 :
世界@名無史さん :05/03/05 19:45:07 0
505 :カラジチ ◆mWYugocC.c :05/01/08 11:56:45
>>502 >ザクセン公領は、ヴェストファーレン、ブラウンシュヴァイク、ザクセンに分裂しました。
>ヴェストファーレン公位はケルン大司教が兼任。
>ブラウンシュヴァイク公位はヴェルフ家が保持、のちのハノーファー選帝侯。
>「ザクセン公」位はヴェルフ家からアスカニエル家に移りました。
ザクセン公のタイトルが、
ザクセン族の本拠であるニーだーザクセンあたりを継承した者ではなくて、
ザクセン族の新開地を引きついた地域の方で引き継がれたのは、
どうしてだと思います。
アスカニエル家が、この名前に拘ったのでしょうか。
554 :
ザクセンとは、 :05/03/05 20:45:37 0
ゲルマン元祖9部族の一つというゲルマン諸侯の中では最も古い名前 だそうです。
555 :
ザクセン :05/03/05 20:54:24 0
556 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:12:45 0
ザクセン大公ハインリヒ獅子公―中世北ドイツの覇者 MINERVA西洋史ライブラリー カール ヨルダン (著), Karl Jordan (原著), 瀬原 義生 (翻訳) 価格: ¥5,250 (税込) ドイツ中世の代表的な貴族といえば、 皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサとザクセン大公ハインリヒ獅子公である。 2人は従兄弟で、仲が良く、南北ドイツでの支配拡張にあたっては、 ともに協力しあった仲であった。しかし、権力の絶頂期にさしかかると、 イタリア政策をめぐって対立し、ついには不倶載天の敵となる。 ハインリヒは皇帝と競い、戦いに敗れ、帝国追放の身となる。 ハインリヒの登場は、領邦国家体制へというドイツ中世国家の転換期を 意味し、彼はまた商業を育成し、都市建設を促進した。 ハンザ同盟の盟主リューベック、ハンブルク、そしてミュンヘン市の建設は 彼に負うている。本書は、そうした獅子公の時代と人間像を活写した、 王統派ドイツ中世史研究の傑作といえよう。 イメージを拡大 エディション: 単行本
557 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:57:16 0
英vs露 がハプスブルグvsトルコ になったのかな
558 :
世界@名無史さん :05/03/05 23:10:58 0
同じ民族なのにどうしてドイツとオーストリアは別れたままなの? これからも合併はありえないの?
559 :
世界@名無史さん :05/03/05 23:27:27 0
>>558 すでにEUの枠内で合邦の効果を果たしているから、その必要はない。
560 :
世界@名無史さん :05/03/06 02:11:23 0
>>555 ザクセン=ラウエンブルクはニーダーザクセンの外れのほうの公国で、
ウィーン会議の結果デンマーク領となり、
シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の結果プロイセン領となった。
>>558 同じ民族だからといって1つの国をつくらなきゃいけない理由は無いだろ
561 :
世界@名無史さん :05/03/06 02:29:20 0
>>560 >>555 こんなところで、ザクセン=ラウエンブルクのことを教えていただけるとは。
ちなみに、ザクセン=ヴィッテンベルクの方は、
オーバーザクセン、まさにその地と理解して大丈夫でしょうか。
また、ザクセン=ラウエンブルクのアスカン家(アスカニエル家?)は、いつごろまで
続いたかも、ご存知でしょうか。
>>561 非常にごちゃごちゃして分かりづらいのだが、
1689年までと思われる。
その後はブラウンシュヴァイク系諸邦(ヴェルフ家)を転々とした模様。
563 :
世界@名無史さん :05/03/07 03:22:18 0
ということは、1423年の時点では、 ラウエンブルク系のアスカン家は残っていたんですね。 >本家筋のザクセン=ヴィッテンベルクのアスカン家断絶の際、 継ぐのは、(素人的に考えると)、 分家ともいうべきザクセン=ラウエンブルクのアスカン家だと思うのですが、 何かあったんでしょうか。
564 :
世界@名無史さん :05/03/07 05:13:54 0
>>590 君さ・・・明日も明後日も、ずーっとこのまま
そんな書き込みばっか続けていくつもりだとおもうけどさ、
現実を見てごらんよ。まだまだ先が長い人生だろ?
その年で社会から落ちこぼれてさ、これからの生活は
どうするんだい?生活費は?老後は?家族は?
この先何年、何十年も毎日毎日こんな事ばっかり
やっていくのかい?今だけ今だけと思いながら
目をそらしても時間は間違いなく過ぎていってるんだよ?
もう取返しつかないところまで来ているね。
君・・・本当にどうするんだい(w?
565 :
世界@名無史さん :05/03/07 21:29:46 0
> > 564は590に言っているようですが、それは560の間違いですか? > >さて、他所からコピーしますけどね。 >Saxe-Coburg and Gotha公家は、ザクセン選帝侯の一族で、 >この一族は全員Duke/Duchess of Saxonyの爵位を帯びるようです。 >おっしゃる通り、ザクセン領の公爵位という意味だと私は理解しています。 >Saxe-Coburg and Gotha公家のメンバーは、 >Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gotha, Duke/Duchess of Saxony (Highness)を帯びます。 tp://pages.prodigy.net/ptheroff/gotha/saxony.html >>ヴェッテン家については、上記のようなわけなんですね。しかし、 アスカン家の一族も 「Duke/Duchess of Saxonyの爵位を帯び」ないのかなぁと思いますね。
567 :
世界@名無史さん :
05/03/16 20:42:07 0 ビクトリア女王の夫君のアルバート公ですが、 彼は、Saxe-Coburg and Gotha公家の出身で、 @Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gothaと呼ばれるわけですが、 同時に、ザクセン選帝侯の一族の一族なので、 ADuke/Duchess of Saxony (Highness)なわけです。 この場合の @Prince は、王子というか、王族出身というか、の意味であって、 Princepalityの首長の意味ではないのですが、 ではAは何かというと、ドイツでは、古くは?、子ども全員が、親の爵位を名乗る習慣があり、 それの流れなわけです。 古い「ザクセン領の公爵位」を名乗るのは、その分家全員にとって、既得権益なわけです。 その「既得権益」というものが、ヴェッテン家(ヴィッテナー家)にあるのなら、 アスカン家(アスカン家傍流のラウエンブルク系)にもあるはず、ということが言いたいわけですね。