1 :
世界@名無史さん :
02/10/13 11:45 あれは今年(高二)の夏休みです。 僕は世界史の課題を調べに友達と図書館へ行ったのですが、 そこで不思議な本を見つけたのです。 本棚の上にひっそりと眠っていたその本は、黴臭くて、紙が黄色く 変色していました。 題名は「東土見奇聞」。聞かない書名です。 解説を見てみると、なんと八世紀の旅行家の著作とあります。 パラパラとページを捲っていたら、 僕の目はあるところで釘付けになりました。 『「34話…東方の大国、模奈亜(もなあ)国の話」 サラセン人の地を離れて北東に百日行程、何者も住まぬ 砂漠の地を超えてさらに北に六十日行程の道を行くと、そこには 大都市があり、そこに住む人々は自らを「モナー人」と名乗って いる…(中略)…そこに住む人々は、猫のように耳があり、 みな「オマエモナー」という挨拶を交わしている。これは、 「あなたはモナー人の資格がある人だ」 という意味である。…(中略)…この国では祭りが盛んであるが、 住民は神を崇めている訳でも、偶像崇拝者でもない。 住民は正直ではあるが、単純であり、騙され易い。 また「厨房」という言葉が相手に対する最大の 侮辱とされており、これを口にする者は冷静な傍観者であるか、 または彼自身が「厨房」であるかのどちらかである…(後略)』
2 :
世界@名無史さん :02/10/13 11:46
なんていうことだ。 こんな国家が存在したなんて聞いたことがない。 歴史界の新たな分野の開拓となりうるかもしれない…。 「おい、起きろよ。おまえ図書館来て寝ただけかよ」 友達が強く僕の肩を叩きました。 本がない。 「本?寝惚けんなよ。おまえは元から何も見てないだろ」 そんな…そんなまさか。あの質感、記述、夢であった筈がない…。 結局、あの後いくら探しても図書館に「東土見奇聞」は ありませんでした。 しかし、あれは夢ではありません。 と言う訳で、ここの皆さんにご協力をお願いしたく 書き込みを致しました。 いまだ知られざる大国「モナー朝」に関する情報、新たな発見、 何でもいいですからここに調査結果を発表しましょう。 皆さまのご協力をお願い申し上げます。
おなかがごろごろ、べちょべちょのゲリ便がぶちゅぶちょぶじょじょ じょお〜〜って音を立てて出てきそうです、全部出尽くしたら今度は 異様な臭いのする屁がぶっぶぶっぶぶっぶぶってな具合に出てきそうです 紙で菊穴拭いたら茶色の汁がべちょべちゅちょってついててそれはもう… トイレ出たあと違和感がするからまたパンツ見てみたら茶色のシミが…(´д`; )
4 :
世界@名無史さん :02/10/13 12:20
こういうくだらないスレ好き。 モナー朝、あったらいいね。
5 :
世界@名無史さん :02/10/13 12:21
モナ13世とか。
>>4 さん
あ、ありがとうございます。3の書き込みを見て、
回線切って首吊って史のうかとオモテマシタ(w
あれからの研究成果によりますと、
大体4〜5世紀頃、民族大移動でたった一つ東に移動した部族
「モナー族」が──位置は不明ですが──建国したようです。
黄金期はモナ五世(在位726〜755)の時代で、
ほぼ唐の玄宗の治世と同時代です。
>>5 さんの挙げられたモナ十三世は、十世紀中頃に即位し、
中興の祖とされています。
他の君主、また衰退・滅亡期についてはまだ謎が多いです。
皆さまの研究結果が待たれるところです。
7 :
世界@名無史さん :02/10/13 12:51
大変なものがうちの大学の研究室から見つかった! 実はうちの教授も、密かにこの幻の古代国家・モナー朝について 研究進めてて、結構資料は豊富に揃ってきてるんだよ。 で、今回見つかった新しい資料によると、これまで謎とされてきた モナー朝の滅亡がいつか裏付ける、有力な手がかりが得られたらしい。 教授が走り回って興奮しまくってたよ。 で、それによるとモナー朝は十三世紀、やはり当時のユーラシアの 大部分と同じようにモンゴルの襲撃を受け、かろうじて撃退したが、 これを契機として衰退に向かったらしい。 その後十五世紀頃には、もうほぼ国内は分裂、事実上崩壊状態だった ようだ。 そして最後の君主、モナ24世(在位1523〜25)の時代にウイグルの 進入を受け、滅亡したらしい。 モナ24世の最期の言葉、 「侵略者よ、オマエモナー」 は、あまりにも有名だ。
いまいち1の意図がつかめないんですが…(´д`; )
基地外1のおなにスレ。放置しる。
おにぎり三世は、暗殺を恐れるあまり 毎日、寝る場所を変えていたらしい また、王国滅亡の原因は、8頭身に追われた、1さんの 大移動が発端という説がある
>>7 >あまりにも有名だ。
専門家の間でゆうめいなのかな?
13 :
世界@名無史さん :02/10/13 16:21
だいぶ息の長い王国ですね。 モナ国王は24人もいたのか・・・
14 :
世界@名無史さん :02/10/13 21:09
>>1 「猫のように耳があり、・・」
とありますが、最近の研究では、頭につける飾り
と考えられています。モナ−朝初期から見られるものですが、
中国や西アジアの文化の影響を受けてからも一部の女性、男性に根強く
支持されたようです。モナ−朝後期には、「メイド服」と呼ばれる
ヨーロッパの影響を強く受けた衣装も作られていたようです。
モナ20世はこれら自国の文化を強く愛し、
「ネコミミとメイドが何より好き!!」
と叫びながら王宮の周囲を3周し、ビザンチンからの使者
を驚かせた、という記録が残っています。
15 :
世界@名無史さん :02/10/13 21:15
モナ24世の時代に、ウイグルは弱体化していたとはいえ モナー朝を責め滅ぼす力があっただろうか。 漏れはオスマン帝国に滅ぼされたという説を信じてるが… とマジレスしてみるテスト
16 :
棄教者 ◆egKIKYO7cg :02/10/13 21:58
藤村新一がモナー王朝の遺品を捏造しつづけていた、と自白したって今ニュース速報に流れていたYO! モナー王朝の研究はこれで振りだしに戻るってか?
17 :
世界@名無史さん :02/10/13 23:15
モナー民主主義人民共和国(日本語風に訳)という国もモナー朝近辺にあったらしい。 そこの書記は代々ニダー氏が継いでいたとの事。
18 :
世界@名無史さん :02/10/14 00:00
ヨルダン王国のフセイン国王の王妃の一人はモナという方です
19 :
世界@名無史さん :02/10/14 01:03
アメリカ合衆国のFBI長官はモナーという方です
20 :
世界@名無史さん :02/10/14 10:11
モナー朝では何故か「2」が好まれるらしいな。
モナ五世時代の著述家、モゥ=コネーヨの著書「2ゲット」の中に "2は1を支え、3に繋ぐ物。数に於いてこれを最上とす。"との一文があります。 モナー朝の文化にはどうも数秘術の影響が色濃く見られるようです。 他にもぞろ目の数や100の倍数が「キリバン」と呼ばれて好まれたとか。 モナー人たちは何か忌むべき事があったときに 「2ゲトズサー、ダスレイッテヨシ(我2の力を得て、悪魔を打ち払う)」 と唱えたという記述も同書に見られますね。
22 :
世界@名無史さん :02/10/14 13:33
>21 ピュタゴラス教団の影響じゃないの? 6で >大体4〜5世紀頃、民族大移動でたった一つ東に移動した部族 てあるから、民族移動期のモナー族はクリミア半島あたりにいたゴート系の 小部族とクリミアギリシア人との混成部族だった可能性がある。 キリスト教化されていたギリシア人の中に、ひそかにピュタゴラス教団の教 えを守っていたマイノリティがいて、迫害を逃れるために東遷に合流したとか。
23 :
世界@名無史さん :02/10/14 13:41
☆。:.+: /■\ .. :. ( ´∀`) モナーAA出てこない / ̄ヽ/,― 、\ o。。。 なんでやろ〜 .:☆ | ||三∪●)三mΕ∃. .:* \_.へ--イ\ ゚ ゚ ゚ +:..♪.:。゚*.:.. (_)(_) ☆。:.+: ☆。:.+::.. ☆:.°+ .. : 。*.:☆゚x*+゚。::.☆ο::.+。 *ρ 「なんでやろ〜♪」 「なんでやろ〜♪」 /■\ /■\ /■\ ( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`) ⊂ つ⊂ つ⊂ つ .人 Y 人 Y 人 Y し'(_) し'(_) し'(_)
24 :
世界@名無史さん :02/10/14 14:04
>>22 ああ、そうかもしれません。
モナー族の葬礼儀式では、中央アジアのゾロアスター教にみられる納骨器(オツ
アスリ)が用いられていたようなのですが、ピュタゴラス教団の影響があったなら
ゾロアスター教の儀式も取りいれやすかったことでしょう。
納骨器は"壺"と呼ばれ、"トプページ(家の門)"に飾ることによって先祖を祀って
いたようです。
ところでどなたかモナー族の宗教について詳しい資料をお持ちの方はいませんか?
独自の宗教を持っていたようですが。
25 :
世界@名無史さん :02/10/14 14:24
>22 しかしその説ではモナー語がどんな言語系統とも隔絶した 孤立語であることが説明できない。 語彙面ではギリシア語の影響が見られるが文法や数詞からみて印欧語とは 完全に別物だというのが現在の言語学会の通説のはず。 なので、別に原モナー人がいてそれがギリシア系を吸収し 現在のモナー民族になったと考える方が自然。
26 :
世界@名無史さん :02/10/14 14:28
#極悪非道のageブラザーズ 漏れら極悪非道のageブラザーズ! 今日もネタもないのにageてやるからな!  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ age (・∀・∩)(∩・∀・) age (つ 丿 ( ⊂) age ( ヽノ ヽ/ ) age し(_) (_)J #純真無垢なsageブラザーズ 僕たち純真無垢なsageブラザーズ! 人目につかないようにsageてあげるよ!  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ sage (・∀・ ) ( ・∀・) sage / \ / \ sage ⊂( ヽノ つ ⊂ヽ/ ) つ sage し(_) (_)J
27 :
世界@名無史さん :02/10/14 14:31
>24 13世紀に東方正教を受容するまでギコハニャーンと呼ばれる猫 をモチーフにした動物神を最高神として崇めていたようです。
28 :
世界@名無史さん :02/10/14 14:48
∧ )( ‖ γ .⌒ヽ ‖ | ̄~~匚| ‖(´∀`凵 ⊂彳¥ ノミ ‖/__iii_∪ ‖(Y_(Y__) サマルカンド壁画に描かれたモナー兵 (12世紀中葉) ・・・職人さん降臨キボン。
29 :
世界@名無史さん :02/10/14 15:11
モナコ公国はモナー朝の流れを一部受け継いでいるらしいよ。
30 :
世界@名無史さん :02/10/14 15:24
,,-' _,,-''" "''- ,,_  ̄"''-,,__ ''--,,__ ,,-''" ,, --''"ニ_―- _ ''-,,_ ゞ "- て / ,,-",-''i|  ̄|i''-、 ヾ { (" ./ i {;;;;;;;i| .|i;;;;;;) ,ノ ii ,, ( l, `'-i| |i;;-' ,,-'" _,,-" "'-,, `-,,,,-'--''::: ̄:::::::''ニ;;-==,_____ '" _,,--''"  ̄"''-- _-'':::::" ̄::::::::::::::::;;;;----;;;;;;;;::::`::"''::---,,_ __,,-''" ._,,-'ニ-''ニ--''" ̄.i| ̄ |i-----,, ̄`"''-;;::''-`-,, ,,-''::::二-''" .--i| .|i "- ;;:::`、 ._,-"::::/  ̄"''--- i| |i ヽ::::i .(:::::{:(i(____ i| .|i _,,-':/:::} `''-,_ヽ:::::''- ,,__,,,, _______i| ゚ ∀ ゚ .|i--__,,----..--'''":::::ノ,,-' "--;;;;;;;;;;;;;;;;;""''--;;i| .|i二;;;;;::---;;;;;;;::--''"~  ̄ ̄"..i| .|i .;.;"..;.;" .i| |i/ ".;.;".;": .;".;": . \( ⌒.i| |i )⌒)/".;.;".;": .;".;": ..;. ;( ⌒( .i| .|i⌒) )⌒".;.;".;":. .;".;": ..; 从へへΣ( ∩ ∧∧ ∩/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧∩\ ( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま! さいたま〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________ ________/ | 〈 | | .;.;"..;.;"..;.;". .;.;"..;.;"..;.;". / /\_」 / /\」 .;.;"..;.;"..;.;".  ̄ / / " モナー朝滅亡時の地方都市・さいたま市の様子
31 :
世界@名無史さん :02/10/14 18:08
>27 モナー朝の宗教は複雑で、ゾロアスター教と妖精信仰が混交したもののようです。 ギコ=ハニャーンは別名「光の猫」といい、アフラ=マズダの表象として信仰を 集めたようです。悪神モララーリマンは偽善的な行動で人々を堕落させようとし ますので、「嘘は嘘で見抜ける人でないと、モナーびととしてあるのは難しい」 という成句が戒めの言葉として残っています。 ギコ=ハニャーンに仕える大神官の権限は非常に大きく、モナー族入部以前から の支配層の子孫と思われる「管理する者」ヒーロユーキ家が代々世襲していまし た。アフリカ西部に見られる二重王権に似た構造がモナー13世の大改革まで 続きます。
32 :
世界@名無史さん :02/10/14 18:57
モナ文化はルネサンスにも影響を与え、 大作「モナー・リザ」を生み出した。
33 :
棄教者 ◆egKIKYO7cg :02/10/14 19:06
>>31 モナー歴610年に
「モナーの他に神はいない。ヒーロユーキはその預言者である」
とする新興宗教が起こったらしいですよ。
34 :
世界@名無史さん :02/10/14 19:20
聖典『モーナン』 「慈愛あまねきお方、モッナー」
35 :
世界@名無史さん :02/10/14 19:26
モナー文化の詩はかなり独特だそうですね。 普通、左から右に、上から下に向かって記述するそうですが、 詩では各行の文頭の文字を縦に読むこともできるとか。
36 :
世界@名無史さん :02/10/14 19:45
行の最後まで意味を持たせる詩もあったらしい。 この詩をこなす大家は、グラン・モナリストと呼ばれたと言う説もある。
37 :
世界@名無史さん :02/10/14 20:32
私は某大学の学生です。 先週のことなのですが、私は教養課程の「中央アジアの民俗U」 という授業を受けていました。 丁度ブルガリアの民俗音楽の話題に入ったとき、突然講義をされて いた教授が 「『(゚∀゚)アヒャヒャヒャ (゚∀゚)アヒャヒャヒャ 』うるせんだよー」 と叫んで暴れだし、講義資料のOHPの操作をしていた助手に取り押さ えられた事件がありました。
39 :
38(つづき) :02/10/14 21:33
その研究室にいる友人が言うには、 教授は、 18Cにチベットから清に献上され、 さらに20C初頭に石原莞爾が溥儀から半ば強制的に譲り受けた モナー末期の呪器の研究をしていて、それでおかしくなったそうです。 なんでも、それは一見何の変哲も無いイコン(icon)なのですが、 それを二回押すと無意味な記号の羅列が、頭の中を強烈な勢い で流れて行き何も考えられなくなるそうです。 私としては半信半疑なのですが、皆様どう思いますか?
それはもしや、15世紀モナー正教会の異端ブーラクラ派のイコン・・・? 信徒は専用の眼鏡「ブーラクラチェカ」を掛けて礼拝したといわれていますね。 信徒以外の者が裸眼で触ると発狂するように仕掛け、モナー総主教が送り込む 間諜を見分けたとか。
41 :
世界@名無史さん :02/10/14 22:55
モナー朝は蒙古に滅ぼされた後、最後の王モナ24世の孫、ギコ・ラクシュミー・ カコーログ王女が沿海州に再建した。この王朝は後モナー朝と呼ばれる。 封禁の地に新王国を作られた、清朝は30万の大軍を以って、攻め落とそうとしたが 、日本人傭兵隊の活躍もありこれを撃退した。 以後、19世紀中葉にロシアに征服されるまで王朝は200年の社稷を維持した。 徳川幕府とは友好関係を維持し、模名国として、10年に一度、国使を派遣した。
42 :
世界@名無史さん :02/10/15 00:35
モナー朝の経済は他の中央アジア諸国と同じく東西貿易に依るところが大きかったようですが、 独自の産業も発達していたようです。 特に無彩色ながら非常に細密な線刻がなされた「アスキアート式陶器」や、非常にカラフル に染められた絹糸で織られた「スレ」と呼ばれる織物は特産品としてとりわけ名高かったといいます。 モナ3世の治世には、「スレノモリ(スレの交易所)」を日に数万人が訪れたとの記録があります。 しかし時代が下ると、AA式陶器は鋳型を使用した「コピペ品」と呼ばれるものがほとんどとなり、 またスレも粗悪な絹糸が混ざった「駄スレ」と呼ばれる物が多くなって、次第に市場的価値を 失っていったといいます。 他にも独自の産業が多くあったようですが、あいにく私の手元の資料で知り得るのはこの程度です。 詳しい方の補完をお願いしたい次第です。
43 :
世界@名無史さん :02/10/15 01:08
王国は一時崩壊しかけたようですね。 その時に一部の国民が一致団結してその時の脅威に立ち向かったとか。
44 :
世界@名無史さん :02/10/15 07:31
「ユニクス団」という人たちがモナー朝をすくったらしいですね。 ところでモナー朝黎明期の「ネオム・ギチャ」という人が起こした事件について 詳しく知っておられる方いますか?
cccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccc
46 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/15 17:09
>43 でもダスレ・ノイチ中納言などは寵姫の為に狼煙で人を集めて「私の肛門も 滅亡しそうだ。」と馬鹿過ぎる事を言って民衆の怒りをかいました。 最後には自分の母・妹・主治医・家臣・寵姫まで加わってアボーン城内で彼 をメッタ刺しにしたそうです。それ以後馬鹿な事をする領主が出て来ると皆 この故事を語られたとか。 諫言といえば、セカイシ州(バンと読む)住民は君主のアホな政策の尻拭い が巧い事で知られていました。
モナ-朝の隣にはニダ−朝とよばれる王朝があり…
48 :
世界@名無史さん :02/10/15 18:51
【モナー王朝系図】 /\/\ ( ´∀` )モナーのご先祖 モナー伯 ・ ・ ∩_∩ (´ー`) モナー1世(初代モナー王朝国王) | ∩_∩ ( ´∀`) 丸耳1世 ┌─┴───────────┬────────┐ ∧_∧ ∧_∧ ∩_∩ ( ´∀`) モナー2世 ( ‘∀‘)ガナー公爵 ( ^∀^)モネー王女 ┌─┴─────────┬────────┐ . ∧_∧ ∧ ∧ ∧_∧ ∧_∧ ( ・∀・) = (*゚ー゚) ( ^×^) モネー ∂/ハ)ヽヽモナカ 王女 モララー皇太子 しぃ皇太子妃 王子 |ハ`∀´ノ ∧∧ │ (,,゚Д゚) ギコ伯 └┬────┘ ∧_∧ X ノ ハヘ X レモナ |゚ノ ^∀^)
49 :
内容が不確実 :02/10/15 18:52
>43-46
ユニクス団は、国土を縦横に走る街道の管理を宮廷及び隊商組合より委
託された街道維持請負人(古高モナー語でユニーカ:独りで動く者の意)の
互助組織として9世紀初頭に発生したとされている。構成員の性格上、ヒエ
ラルキーは緩く友愛的な組織であり、共通のスタイルを持ちつつ管理する
街道ごとに名称の違うスレ(
>>42 参照)を見にまとうことで成員の証として
いた。時代が下ると、隊商の運行経路のマスタープランの作成や宿泊所の
手配も請負うようになる。また、成員同士のネットワークを図るために発生
した駅站制度は、後のモンゴルのジャムチ制の確立に大きな影響を与えている。
50 :
世界@名無史さん :02/10/15 18:52
>>44 でも、結局それがモナーの歴史(言語)の解明を難しくしているんだよね
モナー中期ころ、あまりにたくさんの言葉が話され、また記録されたので、
政府機能が麻痺してモナーは滅亡寸前まで行った。
しかし、ユニクス団が言葉を圧縮してから話したり記録したりする事
(グ・ジップというらしい)を発明してそれを克服した。
#玄奘三蔵の記録にも出てくるけど
#話し手は、まず頭の中でモナー語の平文で文章を組み立てて
#それをグ・ジップで圧縮してから口に出す
#聞き手は、耳に入ってきたそれを展開して平分に戻してから理解する・・・らしい
そこまではいいんだけど、モナー滅亡とともにその圧縮のアルゴリズム
(グ・ジップ)が失われたため、今もってその膨大な記録のほとんどが読めない
結局「ネオム・ギチャ」の説話のように、周辺民族の伝承や記録をもとに
その歴史を類推するほか無いのが現状なんだよね
1001年8月25日、10世紀以降モナー朝を服属させていたビグローブ朝は、 モナー朝との国境に位置するカイセン関門を通過する隊商が輻輳し、自国 の軍勢や糧秣の運搬に支障を来たすことに業を煮やし、使者ヤーキーン・ アル・ビグロービーを遣わした。ヤーキーンは、脆弱な桟道の安全上1日に 数十名の通行しか許されないカイセン関門を隊商が通ることを今後全面的 に禁止する旨の通告を発したが、このことは中継貿易立国であるモナー朝 の死命を制する出来事であった。 7日間後の強制執行の意志を含むこの通告は公開の場で行われたため、 数時間のうちに宮廷の内外にも知れ渡ることになり、朝野はこの難問をどう 解決するかに湧き立った。ある者はビグローヴに巨額の貢納を行うことを 提案したが、もともと税率の低いモナー朝でそれだけの額を準備できる可 能性は低かった。
いち早くこの情報を掴んだユニクス団は、絶壁に嵌め込まれた木の板が連 なるカイセン関門の桟道を根本的に改造することを検討し始めた。短時間の うちに、唐土より伝来していた火薬を利用して絶壁に横穴を穿ち、これを繋げ 隧道と為すことが最良の策と判断し、火薬に改良を加えて爆発力を高めると ともに駅站制度を活用して全国より団員を集め、昼夜を分かたざる突貫工事 を開始した。宮廷の助けをほとんど借りず自弁で取り行なったこの工事は僅か 6日間で終了し、結果関門は実に16倍の通行に耐えられるように変貌した。 ヤーキーンは一部始終を見届け、隊商通行禁止令の撤回を宣言、「対モナー 7日間要求」による危機はここに回避された。 ユニクス団の構成員は救国の英雄たちとして称えられ、モナー朝文学を代表 する叙事詩「ユニーカラ」に謡われたほか、モナー朝独特の紙芝居「フラーシュ」 の格好の題材として老若男女に長く親しまれた。
うわっ! 50さんごめんなさい!49,51-52は続きものです。
54 :
世界@名無史さん :02/10/15 20:08
ニダー朝からも、徳川幕府へ将軍の代替わりごとに国使を派遣したが、使節の待遇 は御三家に準じるものであった。 一方、後モナー朝の国使の礼遇は将軍家世子に準ずる待遇であり、将軍自ら箱根の関 まで出向くことを慣例としていた。 特に5代将軍綱善公は、後モナー朝との友好を重視し、猫類を保護する「猫類憐れみ の礼」を発した。 この法律により、猫を殺した者は死罪。傷つけた者は遠島と言う厳罰であった。 さらに、野良猫を保護するために江戸郊外の中野に猫屋敷を作り、野良猫を収容した。 万民はこれを善政と称え賞賛した。
モナー国では「ウマーイボー」というものが主食になっていたと聞いた事が あるんですが、これはどのような食べ物だったんですか? 御存知の方、ご教示下さい。
56 :
世界@名無史さん :02/10/15 21:16
ウマーイーボーは貴族階級の常食であったが、庶民は年1度、ひろゆき祭で国から支給 される貴重な食品であった。 材料は鰹節と小麦粉、それにモナモナの実の粉で作られていた。 モナモナの実が大変な貴重品で、同じ重さの黄金と同じ価値があったと言う。 製造も、国家の専売であり、無許可でこれを作ると死罪に処せられた。
57 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/15 21:26
>55,56 でも第一王朝(半ば伝説的)に製造されたというばかりでそれ以降実 際につくられたという記録が無いんですよね。
58 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/15 21:46
それと1にはああ書いてありますが、実際には信仰対象の四柱の神が 存在しました。喜のモナー、怒のギコ、哀のシィ、楽のイヨゥ。この 四神が四季や四大元素を司るとされ、ユングの「四位一体」説のヒン トとなりました。 またシナから追ナが伝わると現地の信仰と習合して妖怪「イチサン」 を追い払う、というか追い求める鬼神「ハッ・トウ・シン」が民間で 信仰され行事にもなりました。 ⊂二 ̄⌒\ ノ) )\ ( ∧_∧ / \ /__ ) ´Д`) _ / /^\) //// / ⌒ ̄_/ / / / // ̄\ | ̄ ̄ / / / (/ 「 ̄\ \ ̄ ̄| ((/ |\ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒\ | \ \ \ |⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒| \ |_______| . ((( ))) . ( ;´Д`) 「イチサン」を追い払う「ハッ」の図。紀元14世紀のもの。但し 絵に込められた寓意の解釈には諸説ある。 / つ _つ . 人 Y し'(_)
,__ / ,шii■∧ _ \ (;=゚ω゚) // / | つ \ | | \_ 〜| | | : ∪∪ (_\ ィョゥ神線刻図 中国の影響を受け、皇帝の姿で描かれている。 右側部分が欠落しているが、おそらく悪神モララーリマンが対峙しているもの と思われる。 (エイエ=サヴァー碑文、9世紀)
60 :
世界@名無史さん :02/10/15 23:09
”イタチーガイ”という厳格な身分制度に根ざしたモナモン教に異を唱えたのが BC6世紀にチャンネラ族から現れたプッ(覚者)であった。 時を同じくして北モナー地方にはポカーン(勝者)と尊称された マハーゴルァ(大勇)がありポカーン教を創始する。 初期のプッ教におけるプッ典がチャンネラ語によって記されているのは モナモン階級の言葉であるダスレッド語を避けた為だと言われている。
>>53 こちらこそすみません。(同時に書き込んでしまったようですね・・・)
・ユニクス団の活躍については49,51-52が定説。
・ただ、記録が圧縮されていて、解凍方法が未発見なため、
現在モナー史の大部分は闇の中なことも事実。
ユニクス団が情報を圧縮してから記録・伝達することを始めた
という説もある
ということでよろしく
>50=61 全く同時同分に書き込んでましたね。いやはや。 ユニクス団の活躍については、モナー諸語の碑文、チャガタイトルコ語による 資料やロシアの各種年代記、サハ人の伝承などにばらばらに登場するので、 なかなか全貌がつかめません。定説というほどのものはないと思いますよ。 モナー朝の情報圧縮技術に関する研究は遅々として進んでいませんが、間接的な 成果として、モナー語の階級別分化をもたらした原因はこの情報圧縮にあるので はないかという見方もあるようですね。
63 :
世界@名無史さん :02/10/16 01:43
/~.\ /~\ |__ | | __| /(´∀` )( ´∀`) ←|-⊂ ノ ( う∩────Ε | ̄ ̄ ̄ ̄|└┘| | | | |____|__| ./ / \ / / | ● ●、 |Y Y | \ .│ | | | | ▼ | │ / ̄\ | \/ \ _人_| │ ノ__ |__ | \__/ ╋ (´Д`リ;.|ヽ||ノ| \ / ||⊂)))三三 |=○=| / /\ \ / />.|ノ||ヽ| (__) (__) (___) (__) ̄ ̄ モナー朝の危機をたびたび救ったゾヌ槍騎兵。 ゾヌはモナー朝のみで家畜化に成功したイヌ科の猛獣。 (※世界史AA作ろうYO!スレの1よりコピペ)
64 :
世界@名無史さん :02/10/16 01:49
モナー美術は、文字や記号と芸術の融合だったとか。
モナー朝の軍隊と戦う際の最も有効な手段が発見された。 まず武器は、諸庫から一つ、適当なものを選び出す。その使用法に熟達している必要は 全く無い。初めて見た武器でも十分役に立つ。適当な箇所を選んで投げるだけで、 相手はかなりのダメージを受ける。なぜならモナーにはモナサイ棟という武器庫があって、 そこに収納されていない武器は一切使えないからだ。従って、諸庫から武器を選ぶ際の 秘訣はただひとつ。それがモナサイ棟にはほとんど収納されていないことだ。反対に たくさんありすぎて、どれを選べばいいか判断に苦しむ武器もかなりの効力を発揮する。 さらに、近くを通った野夫に頼めば、モナサイ棟から次に相手が出してくる武器は おおかた予想がつく。それを先に投げつけると、更にダメージは大きい。この方法は すでに試験済みなので、是非試してもらいたい。上記のような武器を幾つか選んだ上で、 武器を次々に素早く取り替える方法もかなり有効である。
(‘ ε ’)イマオカ将軍
伊太利亜は報知でお願いします。
68 :
世界@名無史さん :02/10/16 13:14
>>42 にある”スレ”の製作は、基本的に幾人かの職工が任意に
絹糸を織り込む作業の繰り返しで行われた。
しかしその作業中、2人の職工が、同時にほぼ同じ種類の
絹糸を織り込んでしまうことがあった。
このとき、この2人は、周りの他の職工から「結婚しろ」と
せっつかれたそうである
69 :
世界@名無史さん :02/10/16 18:17
>>42 において紹介されている”スレ”の製作過程で、一度織り込まれたものと
同じ絹糸を再び織り込む行為は「ガイシュ・ツウ」と呼ばれ、特に学者や技術者
の衣服用に織られるスレにおいては最も忌避されるべきものとされた。
なお、この行為への嫌悪は近隣諸国においても同様であるが、他国では一貫して
「キシュ・ツウ」と呼ばれている。なぜモナー朝においてだけ呼称が異なるのか
については、モナー諸語の孤立性を勘案しても不自然であり、今後の研究が待た
れるところである。
70 :
世界@名無史さん :02/10/16 19:02
モナー語と近隣諸語を比較すると、かなりの語彙が共通することは 以前から知られていたが、最近の研究から、共通する語彙においては、 モナー語に特長的な音韻変化が認められることが分かってきた。 特に顕著なのが、(近隣諸語)○ッ○○ −> ○○ー○(モナー語) という変化である。例えば、「安楽な」を意味する「マッタリ」という 単語は、モナー語においては「マターリ」と発音される。 この発音の変化と、英語に起こった大母音推移との類似性に注目し、 その原因を探る研究が、現在言語学者の注目を集めている。
71 :
世界@名無史さん :02/10/16 19:06
モナー族が使用していた言語は現在使用されてはいないが、 僅かに残っている記録から見る限りいくつかの特徴が見られる。 @促音便の発音が長音に変わる。 A文書を書く際、当て字を多用する。 B語尾の変化が不規則に起こる。 また、語順からすればアルタイ諸語との相関関係が疑われるが、 まだ有力な研究成果は挙がっていない。
ゴメム。一部70さんとカブータ。
73 :
世界@名無史さん :02/10/16 19:17
>>66 イマオカ将軍は随分と国民に人気があったようですね。
弟の方も人気があったとか。
ところでモナー朝の国教はどうだったのでしょう? 一神教として唯一神「ひろゆき」を信仰したという説と 多神教として最高神「ひろゆき」のほかに「夜勤」「マァヴ」などという神が居たという説がありますが。
75 :
世界@名無史さん :02/10/16 20:05
分家としてアメザー朝があったとか
76 :
世界@名無史さん :02/10/16 21:16
いや、アメザー朝の武将だったモナー将軍が、 独立して王朝を立てた、とかいう感じじゃないか。
77 :
世界@名無史さん :02/10/16 22:53
>>76 歴史的にはそうなんだろうけど、
ひろゆきをはじめとする神々がモナーを作ったという伝説もありますね。
--
ひろゆきは、数ヶ月の引篭りの後、不毛の大地にアメゾという町を見つけた。
ひろゆきは、アメゾの隣にアメゾとそっくりな町を作った。
ひろゆきは、そこでは売手も買手も話手も聞手もみなナナシーと名乗れば
自由に商売ができるようにした(注1)。
アメゾの住人は、ひろゆきの町へそっくり移住した(注2)。
(注1)モナーンの聖典に言う「石が集まれば玉も集まる」か?
何れにしろ、現実的には盗品やバッタ物の交易・ガセネタの流布には
身元を明かさないほうが便利だろう。
(注2)新興モナーのチュウボウ(特殊部隊?)がアメゾのインフラを破壊
したので仕方なく移住したとするテクストもある。
モナ神話にある 「我国にあるところのギコ、これを全て宝となす。」 を皆さんどう解釈しましたか? 私はギコを国の宝にしようと言ったように思えるんですがこれだと 「皆多いに悲しみて宴を催し、後宝開きてギコ再び2を得んとす」 と繋がらなくなってしまうんですが…
79 :
世界@名無史さん :02/10/16 23:32
☆ . /:::\ (::::::::::::::). (,,゚Д゚) /::::: 人:ヽつ 〆_::::::ノ ”ゝ: . し J
80 :
世界@名無史さん :02/10/17 00:05
>79
カワ(・∀・)イイ!
王様ですか?
ところで、皆さんの博識には驚かされるばかりですが、どのような文献を
参考になさっているのでしょう?
私の手元には、ラシードの「集史」とロシアの原初年代記のほか、モナー人
自身の残した資料としては「網の愚者年代記」(「葡萄酒の」ヒーロユーキ著、
ゲオルギコ・フッサール訳、1897)程度しか揃ってないのですが。
日本で入手可能な資料についてご教示いただければ幸いです。
なお、「網の愚者の記録」については、下記URLでご覧になれます。
ttp://www24.big.or.jp/~faru/txt2001.html
Q:モナー朝の有名な思想家や文化人を教えてください
82 :
日本@名無史さん :02/10/17 01:10
ハイルモナー
>81 酉和 彦
>>78 うちとこのセンセイが、
「“宝”という名前を持つ個人あるいは組織が、国中のギコを
私物化しようとした」
という説をとなえたんですが、学会では一笑に付されてましたね
しかしセンセイはこの説にますます自信を深めているようです。
>>84 ウチのセンセのいうには、「国の”宝”は栖流宇を何よりも忌避したがる
傾向を持つので、徹底的に栖流宇してみるのはどうだろうか」という学説を
発表しようとしている。ちなみにセンセに送られた贈答品には鼈甲飴の香りがしたそうだ。
86 :
世界@名無史さん :02/10/17 11:59
太加羅、擬古を我が物にせんとす。 弐の住人、師を率いて太加羅の意を砕く。 是に拠りて擬古、再び解放されるを得たり。 「宋史太加羅伝」 この太加羅というのは、今まで朝鮮半島の加羅のことだと思われていたけど、 モナ神話に出てくる宝のことではないか、という説でしたよね。
センセは、いかなる外部組織をも巻き込まず、個人としてこの研究に全力を注ぐ覚悟らしい。 糸口を掴んでいる「国宝論」を中心に、この学説に賛同する者を主戦力とみなして頼りにしている ということだが、戦士諸君はくれぐれも個人情報を漏らさないよう細心の注意を払ってほしいそうだ。 だが、敵の数は思ったよりは少なく、敵の戦術はあまりにも稚拙である。背後に大きな組織が 絡んでいるとは今のところ推定できない。しかし、神々はこの戦いの様子を、一種の芸無感染する 気分で楽しんで見ているという可能性を感じる。だから、せいぜい我々も楽しもうではないか。 明らかに矛盾しているのだが、正直言って、「これで終わった」と思ったときは少し寂しかったのだ。 モナー人の研究は面白いが、人間としての人格を破壊するところまで芸無に熱中してはいけない。
宝の本質は、愛されたい、認められたいという悲しいまでの恩名心である。 (茶色に変身したときに明らかだったように)だからこそ恩名の数の 極めて少ない場所に棲息するのである。おそらく腐助詞だらけの某同仁板 にも棲息しているのだろうが、そこではあまり楽しむことができないのだ。 (先日少し見学したが、音符を使う恩名が多いのが特徴的である。 この板で音符を使うのは国宝のみだと思うので、明らかに同仁板から こぴぺしてきているようだ。貼り付ける嵐も恩名ばかりの板に嫌がらせ としてよく張られる嵐である)従って、国宝にとって、自分以外の恩名は すべて嫌悪の対象である。センセが漠然と別人JBを装ったとき、国宝は 誤解してある特定の人物(一目彫れした相手)と信じてしまったようだ。 だから、国宝はJBがまだこの板にいると信じて活動しているのである。 それはあまりにも悲しいし、国宝の行為は許しがたいが、これ以上精神的 苦痛を与えたくはない。故にこれからJBはできるだけ登場しないことに しようと思う。悪質な苛めにならぬよう注意しながら、センセは仮面を かぶり続けるだろう。檀氏諸君、少し国宝に優しくしてやってくれ。
とりあえずの作戦としては、宵庫は檀氏諸君が可愛がり(美女二人は参加せず) アフォなことしか書けずに欲求不満になり、流出してしまう七誌は栖流宇しまくる というのはどうだろう。で、来れないのは本当なので失礼。
91 :
世界@名無史さん :02/10/17 21:40
マターリ行きましょう ,,,,,,,,,,,,,, ∧彡 (,,,,,l,,⌒,l| ∧~∧ 彡 ・\ 8ハ*´ ー)( ´∀) 彡 ノ人ノ ) 8|( 》つ~)∠ 》つへノ//  ̄ |;;;|《__ノ[##フ=) / ノ/ (_ノ(_ノ >**> | 〆 / ____(_))___ | / /| | / /| | / / | | / / | | 秋野騎行図 (モナルカンドのタピストリー、14世紀)
92 :
世界@名無史さん :02/10/17 22:45
>>83 酉和 彦(?〜1175)
靺鞨人阿鋤部の長。モナー朝を訪れた彼は、その文化の爛熟・退廃を
ことのほか憎み、かの国を排除せんと企んだ。
そのために彼は流浪の身であったアメザー朝の末裔を推戴し、
モナー朝の西方に「太一国」を建てた。
しかし太一国の威勢はあまり振るわなかった。
一説には徴税の過酷が民の流入を阻んだらしい。
モナー朝学の最高権威といったら、やはりクレモナ大学でしょうか?
94 :
世界@名無史さん :02/10/18 00:14
モナスタンティノープル
95 :
世界@名無史さん :02/10/18 00:34
ニ・チャネル・ケンキーウ大学だと思います。
クレルモナ公会議
モナッサの屈辱
モナントの勅令
君主(モナーク)も、モナー朝から派生している。
ブルボン朝もモナヴァール・ド・アンリに由来する。
>92 ウマイ
>>57 (モナー朝の国教)
ひろゆきを唯一の裁定神・最高神とする教えが広く信仰されましたが、
ハンカーク地方では、「エロガゾーうp」と言う奇跡により
多くの神が出現したとも伝えられています。
また、史料が多く残されているセカイーシー州(BANと呼ぶ)の隣、
ミンゾク・シンワ州では、ナナシー全てが「天之御名無主」と
神号によく似た名称を称していたそうです。
104 :
世界@名無史さん :02/10/19 05:24
琉球スレに登場する尚モナー王もモナー朝と関係あるの?
105 :
世界@名無史さん :02/10/19 13:28
>80
「モナー典」持ってないの?今すぐ古書店へGO!
ガイシュツを含めると、以下3点は持っといた方がいいよ。
「モナー典」
モナー典プロジェクト編著、居間野宇智・朴李仁太邦訳 1927
モナー諸語についての最大の辞典であり、かつモナー文化・宗教・政治・経済体制
について広範かつ詳細にまとめられている。プロジェクトはゲオルギコ・フッサー
ルを筆頭に、ウジェーヌ・イョゥネスコ、エルネスト・モナンなど欧州の主要な
モナー朝研究者・文学者により結成され、当時フライブルク大学に留学中の居間野
も作業に参加している。
「ユニーカラ集」
作者不詳、銀田一鄙助訳、1959-64
モナー朝文学を代表する長編叙事詩。ユニクス団と呼ばれた組織が国難を救う過程
を描く。現在残っているテクストの大部分がモナー朝独特の技術により圧縮表記
されており、翻訳されたのは平文の部分のみである。
>>52 「2ゲット」
モゥ=コネーヨ著、宇和湾分須子訳、1982
数秘術を基礎とした神秘思想について述べ、現存するモナー語資料としては最長の
もの。著者はモナ5世時代の著述家で、大変短気であったとされ、捨て台詞を残し
て車を引いて去る線刻画が多数残されている。
>>21
(‘ ε ’)直系子孫モナ
107 :
世界@名無史さん :02/10/19 16:10
プル / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ((⊂ニヽ/ニ⊃)) < dj (゚Д゚,,) プル \_______ vv ヽ 〜 ( ( )O 〜 (/(/
とりあえず100超えた記念にこのスレと手元の資料を基に年表をまとめて見ました。 …空白が多いですね。やはりモナー朝はまだまだ謎の国家のようです。 4-5c モナー国建国(諸説あり) | ? ネオム・ギチャの乱 | 726 モナ五世即位 モナー朝黄金期=前期モナー文化 イスラム、唐との貿易(AA陶器、スレ) モゥ=コネーヨ「2ゲット」などの文学作品 755 五世崩御、モナ六世即位 | 950 モナ十三世即位 「次スレの令」:国内スレ産業を保護 「テン・プレ(国内図)作成」:国内情報伝達体系の確立 モナー朝中興期 1000 モナ十三世崩御 謎の遺言「アスワンハイダム」により国内が乱れる 1001 「ヤーキーンの最後通告」 ユニクス団による通商路確保、言語体系グジップの導入? | 1220頃? モンゴルの侵入 かろうじて撃退?国力は疲弊、滅亡の端緒を開く | 15c モナ二十世の治世 メイドスタイルの流行=終期モナー文化 国内は内乱に明け暮れる状態 | 1523 モナ二十四世即位 1525 ウイグルの侵入、モナー朝滅亡
109 :
世界@名無史さん :02/10/20 11:41
☆ Θ /:::\ ‖(::::::::::::::) __ ‖(´∀` ) //u\⊂ 人 ::::: \ ∧ ∧| θ | /く し\ ::::: \ ( ゚Д゚)つ / (_(_) / /  ̄ 『世界の覇者としてのモナ5世』(宮廷画家ショーボンス筆)
欝だズレタ
☆ Θ /:::\ ‖(::::::::::::::) __ ‖(´∀` ) //u\⊂ 人 ::::: \ ∧ ∧| θ | /く し\ ::::: \ ( ゚Д゚)つ / (_(_) / /  ̄ 『世界の覇者としてのモナ5世』(宮廷画家ショーボンス筆)
112 :
世界@名無史さん :02/10/20 14:25
モナー朝発足以来の悩みの種はコヴァ族であった。 アメザー朝時代から一大勢力を誇るコヴァ族に対し アメザー朝はコヴァ族にシソー地方を与え封土としていたが コヴァ族の増大によりシソー地方からコヴァ族は溢れ始めた。 コヴァ族はハングール州を制圧し、モナー皇室の一族と言われる ニダーを藩王に推戴。 ニュース州は度々コヴァ族の侵入を受け、被害が深刻になるに至り 皇帝に朝廷を懇願。ニュース州はコヴァ族に極東地方を割譲。 これを切っ掛けとしてニュース州の治安の低さを問題視する声が高まり ニュース州は首都ソクホー市に選民(キシャ)による統治を定めた プラス要塞を建設。ソクホー市の要塞外地域は流民の支配に任せた。 さらに、コヴァ族はアサピーの乱の鎮圧を名目としてマスコーミ州 にも侵出。これを占拠した。
隊長とひろゆきの争いは歴史的にどう評価されとるんだ?
モナ神話より 「夏、疫病各地に広まる。街は死人で溢れ、壊滅寸前まで追いつめられたが、 ある小地域に住む賢人、壊滅を防ぎ、神となる」
モナ国で禁忌とされる”チョソ”ってなんですか? 近親相姦?
モナ国初期より徐々に流入してきた朝鮮系の人々の総称。 チョソはモナ語で嘲笑という意味で、これは彼ら半島系移民者が 皆体を張ってモナ国に笑いを提供してくれた為に呼ばれた名である。 特に仮面を着用した芸「ジサクジエン」は彼らの最も得意とする芸であった。 しかし王国崩壊と同時に謝罪と賠償を要求したため 正史から抹消されてのである。 Λ Λ <=(..´∀`) 発掘されたログより復元された(一部改修)仮面のチョソ
李モナー朝とはなんですか?
118 :
世界@名無史さん :02/10/21 21:19
>>117 >>41 にある後モナー朝のこと。
ギコ王女が李氏朝鮮と婚姻関係を持ったため、その名がある。
清軍との対抗上、どうしても後ろ盾が必要だった。
日本人傭兵も、実は秀吉の朝鮮出兵で朝鮮に来た武将たちが指揮していた
という話だ。
一方、16世紀のモナー朝滅亡時、東方に向かい後モナー朝を形成した一団 とは別に、早くから正教会に帰依していた西部の住民を中心に、ロシアの庇護を 求めて西に向かった一団もあった。当初はウクライナを中心にオスマン朝との 商業活動に従事していたが、やがてこのディアスポラモナー人はアルメニア人 などと競合し、商業市場が「重く」なったため、これを避けて北部ロシアから バルト海方面に向かって活動範囲を広げた。 これらの人々は「ナンミーン」と呼ばれたが、この言葉は「いるべき所にいられ ない人々」という意味の後期モナー語に由来する。ナンミーンは各地で「ヒナン ジョ」と呼ばれるコミュニティを形成しつつ、一部はブルガリア、ポーランドや ドイツなどに移住を繰り返している。 なお、モナー朝研究の碩学ゲオルギコ・フッサールの母親シィルヴィア・ダッコ ヴァはナンミーンの出身である。
120 :
世界@名無史さん :02/10/23 19:40
モナ−朝初期から諸州を脅かしたと言われる「ドキュソ」、「アラシ」と 呼ばれる集団について詳しい方、ご教示下さい。 「ドキュソ」については「ネオム・ギチャの乱」との関連を指摘する 研究もあるとのことですが・・・
121 :
世界@名無史さん :02/10/23 23:01
ラストエンペラー愛新覚羅モナ
122 :
世界@名無史さん :02/10/23 23:21
ヒロユキ朝2ちゃんねる とモナー朝は同一国家ですか?
123 :
世界@名無史さん :02/10/25 13:22
あの耳のようなかぶり物をつけずに姿を人に見られることは モナー朝の男子にとって最大の恥辱だったらしい。 かぶり物を没収する「ヒキ」という刑罰があり、この刑に 処せられた者は自ら部屋に籠って餓死を静かに待ったという。
その際、受刑者は「ウツダシノー」とつぶやき続けたという。 意味はいまだにわかっていないが、なんらかの呪文の類ではないかという説が有力である。
125 :
世界@名無史さん :02/10/25 21:30
モナー朝の呪文といえば…。 「ヨ・シノヤ」、「ア・ユ」(こちらはとある歌姫の名という異説もあるとか)というかなり長い呪文があったとか。 どちらも、自らの思いを告白する謂いだと聞きましたが。
126 :
世界@名無史さん :02/10/25 21:51
「ネギダ・クギョク」「ユーノ・ジテエブル」の真相はまだ掴めないのでしょうか
127 :
世界@名無史さん :02/10/25 21:51
>>125 それ、ホントですか? あまりいい感じしないですね。
少なくても、「ヨ・シノヤ」提唱派のブレーンは、「ア・ユ」の呪文から逃れようと
しているように見受けられましたが・・・。
128 :
世界@名無史さん :02/10/25 21:58
>>125 用意してた服変えたでしょ? だからそう思った。
井田 李亜さんに関してはうまくいくかどうかわかりませんよ。 もともと体質に合わないことやってるから、これからどうなるか責任もてません。 モナー人は、餌のつけ方が下手だから、釣ってみたけど・・・。 釣った魚の処置に困ってるのは、はいどりひさんちじゃなくてこっちかも。
>>125 マジなこといえば、格が違いすぎる。婆の陰謀でしょう。政権交代の時期を迎えて、
敵も必死だから。智ちゃんのことで、わかってると思いますが…。
無視していればモナー朝は安泰です。別に傷付く人はいないと思うし…。
で、しつこいようですが、井田さんの件は、巧くいきそうですが、あくまでも
お礼というか、余興のゲームみたいなもので、途中放棄もやむをえない場合が
ありますので、念のため…。
不知火人が無実の罪をかぶってしまったようだが、仕方がない。 モナーは、法治国家であることに徹することにしよう。蚊空人、傷ツカナーイ。
…あの、自分なんか「変」なことしたんでしょうか。 客観的にみたら「呪文」っぽかったんですが…。 初心者禁止スレだったんですか?
何かを召還してしまったようだね。 >125のせいじゃない。気にすんな
暗黒神タシロ
三度過ちを犯した暗黒神タシロの姿を 聖書の表紙にしようという運動(祭り)が モナー朝の住民多数を巻き込んで そんな感じ
136 :
世界@名無史さん :02/10/26 11:05
タシロー朝て暗黒神タシロと関係あるの? どなたか詳しい方御教示下さい。
138 :
世界@名無史さん :02/10/28 22:43
あげ
139 :
世界@名無史さん :02/10/28 22:57
キモッ
140 :
世界@名無史さん :02/10/29 06:27
どこを縦読み?
2002.10.25 ワシントン(ロイター) 独考古学者、テル=ミ女神像の断片を発見? ドイツの考古学者ホッシュマンが24日、米モナー考古学の専門誌に 今回の中間報告を発表した。 注目の断片は古代モナー朝の都市ネェート=ヲチ(世界を眺める者)遺跡の神殿 ネェート=アドゥール(『アドゥール』とは『美しい女性』の意)跡の周辺から発見されており、 アカイイモチプスも一緒に発見されている事から同女神像である可能性が高いという。 神殿の石柱からはテル=ミ女神像は羞恥・醜悪の象徴とされ、長い間外の高台で 祭り上げられていたという旨の記録も見つかっており、今後の報告が期待されている。
>>141 古代語ではアカは紫に近い色を指していたらしいですね。
まあやはりペルシア語にいうマジュレス(議会)は モナー朝のマジレスから来ているのであろうか モナー朝もペルシアも隊商の往来によって栄えた商業立国であり 宗教芸術も含め両者には深い繋がりがあるように思えるわけだが
144 :
世界@名無史さん :02/10/30 03:55
ヒッキッーという反乱者がチュウボウという地方都市で反乱を起こしたとき コンフューシウスという聖人が一国の司法大臣の地位を投げ捨ててまで駆け付け たことは後の語り草になってるんだよね。まだモナー朝が統一王朝を建てる前の 時代のことだよ。
145 :
世界@名無史さん :02/10/31 20:50
あげ
146 :
世界@名無史さん :02/10/31 22:41
国民に多くいた「ヒキ」は前出のように一種の刑罰であったようですが、 当時は一般的に職業難な時代で、職にありつけなかった無能なものは 不満を溜め込んで自ら「ヒキ」になったとも言われています。
ディ・スワ・ク・ディェン共和国について詳しい方いませんか? モナー語では、「君たちは、ディエン共和国人のようだな」という 用例があるみたいなんですが。
モナー朝の名前の由来については、諸説有るものの ギリシア語で「孤独」を意味する「モナス」が転訛したという説が有力である。 モナー朝臣民には孤独な者が多数いたことを考慮するとまんざら無視できない。
149 :
世界@名無史さん :02/11/01 16:40
スレを織る作業の経過がよいと職工が 「リョ・ウ・スレノヨ・カン」 という文字を織り込むことが稀にあっ たという。
織っている途中でアラー氏呪われていると判断した職工は 「シ・ユウリ・ヨウ」 と織り込んでそれ以後の作業をやめてしまうようです。 もったいないと思った別の職工が引き継いだときには 「サ・イカ・イ」 とうまじないを織り込むことで、アラー氏の呪いを 払っていたと伝えられています。
14世紀の半ばには邪教徒アラーシが微意具流を祭り上げモナー国のリョスーレ と呼ばれる大都市郡を荒らしまわったがモナー国のアクキーンという戦法に敗れ去った 話は昔話としてかたりつがれている。 また、アラーシの残党はネンチャークと名を変え何度もモナー国を襲ったようだ。 なお、今しつこいものや人をあらわす時粘着というのはこのネンチャークが元になっているそうだ。
「リョ・ウ・スレノヨ・カン」
どなたかホ・シュと呼ばれる儀式について知ってる方いらっしゃいますか?
155 :
ホ・シュを再現してみます。 :02/11/06 06:59
ホ・シュ
>>155 さらに活性化させたいときは
ア・ゲ
が追加される。
モナー朝最大級の都市ニュースソクホウの堕落していく様にはロマンを感じるよね。
そうだね。ニュースソクホウ市は国内最大のマーケットをもち、常に世界中から 最新の情報が集まってくることから急速に人口が増加し、号を煮やした政府が 市をどんどん分割していった。中世ノブゴロドのように各区ごとに民会があり、 互いに抗争を繰り返したり、>144で言及されているチュウボウ反乱の遺民の子孫 が大量に流入したりして治安はどんどん悪くなって行った。 でも、ニューソク都市連合はモナー朝滅亡まで国内最大の人口を保っていたから、 魅力のあるまちであったことには間違いないだろうね。
>>158 いや最近の研究によるとモームス市の方が人口は多かったとする説もある。
もともとは「ナッチ」という異端の神を崇める者達を隔離するために造られた都市だったが、
隠れ信者も多く、一時期最大人口を誇ったらしい。
160 :
世界@名無史さん :02/11/07 23:45
ニュースソクホウ市には上記>112の記述にもある『キシャ』と呼ばれる同職ギルドが存在し、 市政に多大な影響力を持っていたという記述を読んだことがあります。 また、そのギルドの中でも『キャ・プ』と呼ばれるマイスター的な称号をもつ特権階級が存在し、 彼らの許可がなければスレを織ることが出来ない地区があったということなのですが、 これに関して詳しい史料をどなたか持っておられないでしょうか?
黒魔法セージ(sage)を唱えた!
ホ・シュ ア・ゲ
164 :
世界@名無史さん :02/11/09 18:59
カブイータ市はモナー朝の金融の中心地だったが、没落する山師も多く、 その者たちをジュカイという名の安息の地に送ることをなりわいとした モナー=カンコウという商人が隆盛を極めたそうだな。
165 :
世界@名無史さん :02/11/13 00:48
167 :
世界@名無史さん :02/11/15 05:20
あげ
ア・ゲ
169 :
世界@名無史さん :02/11/17 17:35
役目を終えたスレの化石が一杯みつかったよ。
く
そ
ス
レ
モ
ナ
176 :
世界@名無史さん :02/11/19 23:14
クソスレ防止あげ
177 :
世界@名無史さん :02/12/02 16:58
>ナッチ 異端の神説もあるんですか。宋から渡来したモナー朝の御用商人で、 宋の宣和年間の人と伝えられる紳商・宋清の随筆には、 「この市(モームス市)に嘗て名知(ナッチ?)なるものあり、 肥満にして甚だ増殖して市民迷惑す、故に肥満の人を罵るときしばしば名知といふ」 とあり、人の名だと思っていたのですが・・
モナー朝の戦闘はまず戦闘を行う事を提案した者の一騎駆けから始まった。 しかしその一騎駆け主(通称1)にセンスが無いと見なされた場合後続の者 が存在せず、からかいに来る「煽り」や「荒らし」、売り込みに来る商人が たまに現れるくらいであったという。 なお「煽り」は嘲笑に現れた者、「荒らし」は隊列を乱しに来た者を指す。 いずれも愉快犯であり、なんだかんだといってもモナー朝は平和であった。
179 :
世界@名無史さん :02/12/02 19:58
世界遺産候補の「ィョゥ神線刻図」は既出ですが、 このィョゥ神は中国三国時代の韋曜(いよう)を神格化したものだと されていますね。呉の大帝孫権は、モナー朝へ船団を送り込んで 拉致をしようとしたので、モナー朝では蛇蝎の如く憎まれており、 1さんが書かれていたモナー語の罵倒語「チュウボウ」の語源も、 孫権の字だと言われております。 そして、孫権に逆らって処刑された韋曜を「救世主ィョゥ」として崇拝するように なったとか。猫耳がついているのはモナー朝では「ィョゥはモナー人で あって、祖国のために身を投げうった人物」とされていたからだそうな。 ィョゥ神線刻図の右側も、孫権をモデルにした、悪神チュウボウ だという説もあるんですよ。
180 :
179(=) :02/12/02 20:18
そうそう、私の史料(当方中国史屋なので漢文史料ですが)を紹介します。 擬古巴爾編注『茂名雑誌大全』上海太公望書林、1983 中国側に残るモナー朝について述べた記述を網羅し、注を付した労作。 著者擬古巴爾(ぎこはに)は中国に於けるモナー朝研究の大家で、 後モナー朝の最後の王・宣宗の末裔。 今のところ漢文史料では最高のモノとされています。 惜しむらくは入手が非常に困難で、私も某図書館でしかみたことがありません・・ 阿本『茂名記聞研究』台北明名書房 1989 擬古巴爾の本に収録されなかった敦煌文書『茂名記聞』の研究書。 前に書いたィョゥ=韋曜を唱えているのはこの阿本です。
181 :
179(=177) :02/12/02 20:46
※前の名前欄は179(=177)と書くつもりで間違えました。 すいません。 さて、1さんの言って居られた「東土見奇聞」ですが、これは 後モナー朝に使節として滞在した江戸幕府の官吏、木村仲吾宣武の著した モナー朝史です。モナー朝に関してはモナー人そのものが非常に歴史的概念が 希薄であったため、通史としては木村宣武のものが最初で、 史料価値も高く、世界的にも高く評価されています。 江戸時代末期のベストセラーでしたから、探せば結構出てくるはず。
182 :
世界@名無史さん :02/12/02 22:20
>>181 おいおい、「東土見奇聞」は木村仲吾の本じゃないぞ。
1さんが書いているように『東土見奇聞』は八世紀の旅行家の著。
書いたのはチラ・ネーヨだっけ?
木村宣武のは、『東土史奇聞』。
あと木村宣武が鬼平犯科帳の「うさぎ」だってのが抜けてる。
彼は史実では丸耳のかぶり物をしていたので長谷川平蔵から「うさぎ」
と呼ばれていたわけ。通信使で来日した後モナー朝の王族のセガレなので、
猫耳だった。
183 :
世界@名無史さん :02/12/07 14:35
モナー朝の女性についてなんですが、「フジョーシ」若しくは「ド・ジンオンナ」 と呼ばれる女性集団について、詳しくご存知な方はいらっしゃいませんか? 色々と調べてみたのですが、「ヤオイ」なる極めて特殊な宗教(思想?)を 奉じていたことぐらいしか分かりません。 モナー朝女性史に関して詳しい方の解説をお願い致します。
184 :
世界@名無史さん :02/12/07 15:22
モナー朝の軍事制度は、当時にしては珍しい志願兵制度だったと言われている。 彼等は軍団単位で各州ごとに配置され、サクージ・ヨニンと呼ばれた。 モナー朝1000年以上の歴史の中には、多くの名将の記録が残っている。 彼等の中には出世して、王族と婚姻したものさえ出たという。 最盛期のモナ5世の時代には、数十の軍団が全土の治安を維持していた。 しかし「ネオム・ギチャの乱」を経て「アラシ」や「ドキュソ」の勢力が 全土で増大、サクージ・ヨニンの中にも彼等に同調する者が現れ、 モナー朝の治安は次第に悪化していったと言われている。 ちなみに、サクージ・ヨニンには戦闘の際「アボーン」と 掛け声を掛ける独特の伝統があり、モナー朝を滅ぼした蒙古人達は この掛け声を、死を招く声として恐れたという逸話が残っている。 ちにみにこの掛け声の意味は現在でも不明で、今後の研究が待たれるところである。
185 :
De Jinona :02/12/07 15:27
「棒が2本あれば、
その2本の棒はまず間違いなく
前後の脈絡なく不可避に相互に愛しあう」
の恐るべき宗教的ドグマのもと、脊髄反射で歴史の書き換え(妄想)を
おこなう恐るべき神秘集団です。
たとえば以下の妄想をみたときにはのけぞりました。
これが真実なら、明治政府は20世紀を迎えることなく醜聞のなか
自己崩壊をとげたでしょう。
帝政ロシア秘密警察によるユダヤ陰謀議定書にも比すべき、
日本国家を標的にした悪質なデマゴギーでしょう
http://www6.ocn.ne.jp/~chojabar/010820/yamakubo.html
186 :
世界@名無史さん :02/12/07 16:58
『オ・グーラ・ユーコ』という演芸家が大ブームだったそうです。 当時どの市にいってもオ・グーラ・ユウコの肖像が書かれた『スレ』を見つけることができたらしいです。
187 :
世界@名無史さん :02/12/07 17:22
うーん、勉強になるなぁ
188 :
日本@名無史さん :02/12/07 19:18
位置比定論争で、モナー朝がネパールあたりという説もあるね。蜀の侵略で 烏戈国が平定されたあと、危機感を持った呉が、遠交近攻策で友好関係を作 ろうとしたところ、拒否したので呉に攻撃されてひどい目にあったとか。そ の証拠がチュウボウという言葉だ、ということで。
189 :
世界@名無史さん :02/12/09 23:27
モナー朝の治安は治世を通じて常に悪く、隊商や旅行者の悩みの種であった。 これは、戸籍がなかったことや、貿易立国の国是としてどのような背景を持つ者 でも入国を許したこと、144で言及されているチュウボウの乱の遺民を取り締まる 力がなかったことなどが主な原因である。 なお、14世紀の旅行家イブン・バティストゥータはその著「三大陸蹴球記」の中 で、デリー=トゥグルク朝の使者がモナー朝の街道筋で旅客同士の喧嘩を目にし、 モナ王に「ここはひどい街道網ですね」と語ったことを紹介している。
190 :
世界@名無史さん :02/12/10 02:07
モナー朝もその末期には群雄割拠の状態となって、天下分け目の1000取り合戦が行われ、その後ニスレ・モナー朝(後モナー朝)が成立したということだ。
191 :
世界@名無史さん :02/12/10 06:40
「モナモナ4世が即位しますた」
192 :
世界@名無史さん :02/12/10 15:37
後モナー朝初代皇帝モナー9世の従兄弟にあたる ナナシー伯が1000取り合戦のどさくさに紛れて モナー朝(後モナー朝)から離反し ナナシー朝(首都:アットマ・ク)を建国し その後、後モナー朝と2年にわたって 戦ったアイデイ戦争について書かれている資料を ご存じの方はいらっしゃいませんか?
193 :
世界@名無史さん :02/12/10 15:54
>>193 それはもしかして、後モナー騒乱記第五集に乗ってる「エ・イデン・ニィの乱」
のことじゃありませんか?
194 :
世界@名無史さん :02/12/10 20:11
「モナモナ4世が崩御しました」
195 :
世界@名無史さん :02/12/10 21:10
それではモナー朝の医学についてモナー朝研究の第一人者
>>196 さんに
発表していただきましょう。196さん宜しくお願いいたします。
パチパチパチパチ
「おれは医者だ」「年収1千万」「愛車はポルシェ」「プ)失業者どもがよ」 いうお医者様のカキコォ(モナー朝における信仰告白行為)があれば、 それは10中8,9、失業者でヒッキーです
197 :
世界@名無史さん :02/12/10 23:26
モナー朝の資料を見ると「サイ・タマ」という言葉が よく出てくるが、これは何?
サイ・タマはモナー王朝黎明期に抗争を繰り広げたドコモ朝サイタマのこと? モナー王朝の黎明期はかなり殺伐としていたらしい。 ドコモ朝サイタマは外務大臣リョウコウの経歴に問題があるといいがかりを つけられて一夜で滅ぼされた。
ゾロアスター教アカピー派がフシアナ=サーンに騙された事件、 いわゆる「アカピの屈辱」について教えてください。
>ドコモ朝サイタマ 太陽崇拝をしていたと言う説があるのですが。
太陽崇拝をしていたのはサイタマ朝サイタマじゃないかな? サイタマ朝サイタマの言語は「サイタマ」という言葉だけで構成されており、 ほとんどが未解読の状態だよね。 東京美術館で開催中の「モナー朝美術展」でサイタマサイタマ・タブレットの レプリカが公開されているから、興味があったら見てきたら?
そうそう、東京帝国劇場では歌劇「ぃょぅ雷帝」も公開中だよ。
203 :
世界@名無史さん :02/12/13 20:25
「ぃょぅ雷帝が即位しました」
204 :
世界@名無史さん :02/12/13 22:54
>>35 遅レスだが、べつに不思議はないだろう漢詩の押韻や和歌の裏どりなどにも似たような技法は見られるし。
ただ唯一不思議なのが中国語や日本語と全く言語体系がちがうモナー語においてこのような技法があることだよ
205 :
日本@名無史さん :02/12/14 07:55
>204 遅すぎて、流れがわからん。
206 :
世界@名無史さん :02/12/14 10:01
saitama-!
207 :
世界@名無史さん :02/12/14 10:14
「ノ・ノタン」が初めて出てきた文献は何でしたっけ?
208 :
世界@名無史さん :02/12/14 10:36
■モナー朝建国伝説 モナー朝の建国の経緯については諸説あって、学会でもいまだ通説を持たない。 しかし近年発掘調査が行われたドコモ朝サイタマの首都、サイタマの遺跡から 発掘された碑文の中から、モナー朝に関係する一文が発見された。 「ヒロ・ユキ、イハン・ノツブシカータ州より興りてニチャンを為す。 これぞモナーの始源なりけり。」 現在でも出自が謎のモナー1世だが、この碑文の「ヒロ・ユキ」なる人物が モナー朝初代皇帝モナー1世である可能性が出てきた。 また現地で伝えられる民間の伝承では、モナー1世は、アス・キアート神 (現地で崇められている神)の声を聞いた細工職人が生み出したとも伝えられる。 ただしこれにはキリスト生誕伝説の処女受胎の影響も見うけられることから、 学会では後世に生まれた伝説として疑問視する声も多い。
209 :
世界@名無史さん :02/12/15 12:17
みんな正月映画の「モナー朝の夜明け」って観る?
210 :
世界@名無史さん :02/12/15 14:25
西暦2800年、首都を太陽系第三惑星地球から、アルテンバラン系第2惑星テオリア に遷都し、モナー連邦を誕生させ、この年をにちゃん暦元年と定めた。 しかし、連邦の民主共和政体は、堕落の一途を辿り、衆愚政治と化していた。 その中から、一人の独裁者が生まれた。アドルフ・V・ギコ−バウムである。 ギコ−バウムは士官学校を首席で卒業し、宇宙海賊の討伐に辣腕をふるい、28歳で 連邦軍元帥、統合作戦本部長(制服組の最高位)の地位にあった。 彼は30歳で軍を退役し、政界に転じ、彼が党首をつとめるギコ−党は連邦議会におい て、過半数を占め。35歳で連邦大統領となった。 彼は大統領就任後、社会秩序維持局を設置し、乱れた社会の統制を行い。大統領の権限 を強化した新憲法を発布した。 このような政策は一部の反感を買ったが、国民の大部分に支持され、40歳で国民投票 で終身執政官となった。 42歳の時には、自らアドルフ1世を名乗り。モナー帝国を成立させた。ここにモナー 連邦はモナー帝国にとって変わられたのである。 皇帝となったアドルフは、経済自由法を制定し、許認可事業を大幅に減らし、寡占・独占 業種の新規参入を促し、経済は活性化した。 47歳の時、断種法が制定され。医療保険法・連邦年金法・生活保護法・障害者保護法が 廃止された。断種法は遺伝的疾患を持つ者、障害者を処刑する法律である。 議会に一部残っていた、共和派に議員は皇帝弾劾の上奏文を提出した。これに対して、アド ルフは議会を永久解散し、共和派の議員は家族まで処刑された。 言論の自由は奪われ、社会保障はなく、貴族以外の人権が認めらない暗黒社会となった。 永遠に続くかと暗黒時代に一つの希望が開けた。(以下続く)
モナーの歴史がまた1ページ
212 :
モナー朝の宗教事情とユニクス教 :02/12/15 14:57
モナー朝の最大宗派はビルゲ教であり、マカー教、ユニクス教がそれに続く。 かの救国神話に登場するユニクス団はユニクス教徒の結社である。 ユニクス教には諸分派があるが、祭儀についての普遍性を重視することが 特徴である。 また、ビルゲ教、マカー教が経典を神官以外には非公開とする神殿宗教であるのに 対し、ユニクス教の大多数の分派では経典を公開し、またその編纂に広く在家から 参加を求め、また基本的に信徒には貢納を求めないことが特徴である(異説あり)。 しかし祭儀が頻雑であることや、商行為を規制する教義により商人たちの支援が 得にくかったこと、マカー教やビルゲ教がイコンを多用した平易な教えを 先駆けて導入したこと等によって教勢はふるわなかった。
213 :
世界@名無史さん :02/12/15 16:45
>>211 の続き
にちゃん暦200年、隠れ共和派の貴族、ヒロ・ユキは領地(惑星イッテヨシ)で隠遁生活
を送っていた。情報省の官僚だった彼は、オフ会で共和主義的発言をし、官を免職されたので
あった。
彼は惑星上に無尽蔵にある、ドライアイスを使って宇宙船を作り、帝国の支配の及ばぬ辺境
へ100万の同志を引き連れて出発した。
この度は、長征1万光年と呼ばれる過酷なものであった。途中で指導者、ヒロを失い。
30年余りの月日をかけて、居住可能な惑星を発見したのであった。
そして、この惑星をユキと名づけ、ウマカー棒同盟を建国したのであった。
214 :
世界@名無史さん :02/12/15 16:53
あーあ。
215 :
世界@名無史さん :02/12/16 02:51
>>210-213 SF風と世界史風をごっちゃにしない方がいいのでは?
ここは世界史板だから世界史の流れに沿って創作していった方が品があると思う。
SF風モナー史はSF板に移動して創作するべきだと思う。
217 :
SF板】モナーウォーズ :02/12/16 11:56
そうだね。 書いた後間違えたと思ったのだけど訂正をしなかった。 SF風のモナー帝国史を書きたい人はSF板にスレッドを作ったらいいのに。 スレッドができたら覗きに行くよ。 タイトルは「モナーウォーズ」にしたら面白いかもね。 スレッドを作りたいがSFの知識とSF創作の才能がなさ過ぎる。 誰か作ってくだされ。
[ドコモ朝サイタマ] モナー朝の黎明期に滅ぼされた勢力の一つ。 ドコモ朝サイタマはミカカ文化を代表する大国であったが、芸妓であるリョウコを 外務大臣として起用したことが引き金となり、モナー朝の攻撃を受けた。 科挙の試験を受けず不正に大臣となったリョウコを、伝統あるドコモ朝サイタマの 外務大臣にするのは問題があるとして、モナー族は抗議の使節団を送ったが、 ドコモ朝は逆にこれを削除の刑に処した。 これを口実にモナー族は、ドコモ朝に不満を持っていた反リョウコ派のアメゾ族、 ナミカレ族に呼びかけ、ドコモ朝への攻撃を開始した。 世に言う[ドコモ(広末)の変]である。
戦闘の初日、偵察部隊がドコモ朝サイタマの城壁に攻撃をしたが、敵将の関李任は 彼らを容赦なく虐殺した。 このため、モナー族はドコモ朝の友好国の商人に変装して城内に侵入しようとしたが、 猜疑心が強い関李任に捕らえられてしまい、全て虐殺された。 昼間の攻撃に成果がなかったため、モナー族は夜襲で戦う方針に変更した。 モナー族は「深夜0時ちょうどに、リョウコを起用するドコモ朝サイタマを攻撃する」と 反リョウコ、反ミカカ勢力の部族に呼びかけた。 決行の夜、この呼びかけに呼応した部族たちが続々と駆けつけて、攻撃に参加した。 ドコモ朝はモナー族たちの圧倒的な物量攻撃によって、一晩で壊滅的な打撃を受けて、 ミカカ帝国へと撤退した。 これによりモナー族の蛮勇は世界に広まり、恐れられるようになった。 そして、これが口車ひとつで100の兵を10000の兵に変えてしまう、世界中から恐れられる 「モナーの祭掛の陣形」の始まりであった。
220 :
世界@名無史さん :02/12/16 18:48
100前後で終わるスレが大半を占めるなか ここまできたこのスレは えらい。
221 :
世界@名無史さん :02/12/16 20:18
222 :
世界@名無史さん :02/12/16 20:21
モナー朝年表を誰か作れ)ゴルァ
223 :
世界@名無史さん :02/12/16 21:17
>>215 銀河英雄伝説をモナー風にアレンジしたんだけど、この板からは撤退します。 一応、歴史版だから、未来の話はおかしいわな。
224 :
世界@名無史さん :02/12/16 22:13
〜) Λ⌒Λ |.\ カエレ! 彡 `ハ´ミ ||\\ 三 ≫──> <──≪ 三 (⌒⊃y 二二つ) ) アボーン モンゴル! 〉 __ 〈 ||// γ~三ヽ 彡 〜) く く \ \ |./ /.//ミ=ミヽ ,.,.-''""`'ヽ彡 ≡≡ Λ⌒Λ 〈__フ 〈__フ 三 ≫──> ミ∧ | | (゚Д゚ ;)´-→ ) ≡ 彡丶`∀´ミ /・ ''⊂= ヽ丑ヾ : ノ ━━(∩━━∩━━━> (ノ〉/~ヾ. ヽ=ヽ丑ヾ ,..;ヽ\ \ ≡ / __ 〈 アラーシ イクナイ! : Y -→ (**) ´ ヽ \ \ ≡ / / / / 〜) ; // / : (土) ヽ_》 _》 〈__フ 〈__フ Λ⌒Λ /\ //::/ ; 彡 `ハ´/ /\\ ヽヽ_》 ; ア・・・アボ・・・ (⌒二二つ≫────> ‐ニ三ニ‐ 〈 〈 ヽヽ__// \ \ \ \./ <──≪ 三 〈__フ_フ
ko
>223 そういえばSF板で映像の世紀20世紀のパロ銀英伝でやってる凄い情熱家がいたな。 まあ、ここだと板違いだろうが、もしあんたなら才能あるよ。あっちの続き書いてくれ
いや、SF板のネタのレベルは高いから止めておいた方がいい。 あの程度だと、ボロカスに叩かれる。
@ 板違い。 A 内容をまるごとCOPYしただけ。 この2つの点を考慮すると、SF板よりもアニメサロンでスレを立てることをお奨めします。
ナッチズム [Nachism] モナー帝国の初期にアーベ=ナシュミンが創始した宗教。 帝国初期の「刺すか刺されるか」という殺伐とした風潮に異を唱えて、 「マターリ」という中庸論を展開した。 ナッチズムの特徴は、ただひたすらに「ナッチありがとう」と唱えることで、 憎しみや蔑みの感情を捨て、無の境地に達するという思想だった。 この思想は熱病のように帝国全土を覆い、至る所で「ナッチありがとう」 という祈りが繰り広げられた。 しかし、ナッチズムの場所を選ばない狂信的な布教活動には反発も強く、 ナッチズムは帝国の自由な言論を荒らす行為だとして弾圧を受けて、 ゲットー(隔離地域)へ移されてしまった。
ゲットーに追放されたナッチズムの信者たちは、自らをゲッターと称して、 挑発的な行為をする者に対し、スラブ系モナー語で「ニゲット(いいえ)」と 軽い忠告をするだけの穏健派として生まれ変わった。 その後、「朝の娘。」と呼ばれたナッチズムの後継者たちの活躍によって、 「マターリ」の思想は帝国全土に定着した。 ※「朝の娘。」は”笑いのダヤス””毒舌のアイボーン””喜びのリカッチ” ”無知の知ノノタン”などが有名。 ※”リカッチ”は帝国の最大勢力で、詭弁家たちのよる”うんこ論争”は 未だに結論が出ていない。
231 :
世界@名無史さん :02/12/18 03:41
232 :
世界@名無史さん :02/12/23 13:58
どなたかモナー朝の食文化について詳しい方はいらっしゃいませんでしょうか? イブン・バティストゥータの「三大陸蹴球記」では、米、牛肉、大量のねぎ、 「ギョーク」と呼ばれる食べ物が主な食材だったとあるのですが、このギョーク とは何でしょうか。 また、マララーコ・ポーロの「網方見聞録」によると、汁気の多い食べ物は大変 嫌われていたとのことで、親子連れの旅行者がうっかり「汁気を多くしてくれ」 などと口にすると刺されかねない雰囲気だったらしいのですが、乾燥地帯なのに モナー人はそれで平気だったのでしょうか?
233 :
世界@名無史さん :02/12/23 14:12
>232 ギョークって「ウマーイボウ」とは別の食べ物でしょうか?
234 :
世界@名無史さん :02/12/23 14:15
イブン・バディストゥータって平文社当用文庫で出てたっけ? ノルベルト・フォン・ノイラートが書いた「惨半島巡回記」は手元にあるん だけど「三大陸蹴球記」はたしか民明書房館叢書だったか・・ イブン・サマドゥーンの「世界史叙説」には、モナー人の風習にまつわる 記述があるそうだね。
235 :
世界@名無史さん :02/12/23 14:24
>233
>>56 で述べられているウマーイーボーのことですか?
56では、貴族階級の常食とされていますね。
記録の中では、殺伐とした大衆的な食堂でのシーンにギョークが登場するので、
おそらく別のものではないかと思われます。
むしろ、
>>126 の挙げている「ネギダ・クギョク」との関連性が気になります。
236 :
世界@名無史さん :02/12/23 14:41
>>199 ゴミウリ朝ナベツーネ皇帝によるシオジ・イ事件のもみ消しで宣伝された事件らしいですね
ゴミウリ朝はコヴァと合同でマスコミ州を牛耳り、コヴァ州、シソウ州にたびたび侵攻していたとか
237 :
世界@名無史さん :02/12/23 18:36
236 ←〜
インドのシオジー朝で活躍した”吟遊詩人の神様”アミル=タシローによれば、 モナー文学に多大な影響を与えた抒情詩「ソンナーコ・トヨリモ」に登場する ギョークが一番古い記録になるそうです。 (「ソンナーコ」は代表的なモナー文学で、多くの人が習作をしたことで有名です。)
239 :
世界@名無史さん :02/12/26 19:40
モナー・ルネサンス
セイジ州では、タカハ信仰の一環として 「ヒラサワカツエーマンセー」 「シンタローマンセー」 という謎の呪文が語り継がれていたとか 一説にはゴミウリ朝やアフリカ土人の秘密結社ニホ・ンカイギの 影響によるものと考えられているようです
241 :
世界@名無史さん :03/01/04 16:37
ゴミウリ朝とアンチ軍によるプ・ロヤキュウ州の壮絶な奪い合い
(^^)
当時の資料を調べていると>242のような落書きがたまにあります。 これはただの落書き?
244 :
世界@名無史さん :03/01/19 08:47
>>243 たまにというより、ほとんどすべての資料にあるような気がします。
モナー朝の文字の大きな特徴は表感文字もあわせて使われていたことです。 モナー朝では表音文字、表意文字、表感文字がありましたが、 その中でも特に表感文字の発達と高度な洗練は特筆するものがありました。
モナー朝の近くにはウクバールという国があったはずだ
ゴミウリ朝がサクジ・ョニン州へ侵攻を始めた関係でモナー朝が崩壊したとの情報も
248 :
世界@名無史さん :03/01/26 20:37
モナー朝滅亡はゴミウリ朝に原因が・・・
249 :
世界@名無史さん :03/02/04 13:52
>この思想は熱病のように帝国全土を覆い、至る所で「ナッチありがとう」 という祈りが繰り広げられた。 これが唱名念仏の元だとか、逆に唱名念仏が流入したものだという トンデモ説が昔あったなぁ・・ ナッチありがとうは漢文史料だと「南地阿李賀陶」。 南無阿弥陀仏と同じ6字だからだというのだが・・ ノノタンが観世音菩薩だとかなんだとか凄いこじつけがされていた。 『モナー朝から見た世界史〜煽りも荒らしも越えて』という本にあったよ。
250 :
世界@名無史さん :03/02/14 22:49
あげ 豆腐
251 :
世界@名無史さん :03/02/15 01:50
良スレにつきage
252 :
ゲオルギコ・フッサールの書簡 :03/02/16 01:07
モナー帝国はユーラシア大陸の中央部という民族・国家興亡が極めて激しい 地域において何故1000年近くも、そしてそれ以後も存続しえたのであろうか。 それはモナー族文化の恐るべき強靭さと柔軟さにあると私は考える。 モナー語には表音文字、表意文字、表感文字があるが、その中でも高度に発達 した表感文字(アスキーアート)がその鍵を握る。 (中略) 基礎となったのはモナ五世(ぃょぅ雷帝)の治世である。 モゥ=コネーヨ著「2ゲット」にて数秘術と線刻画との融合が図られ、 「ィョゥ神線刻図」にて表感文字としての、線刻画の哲学的意味が完成された。 また表音・表意文字がこれに一部融合し、独特の呪文にも似た単語・文脈体系 を形成することとなった。表感文字はコミュニケーションを図る上で感情の共 通化を容易にし、民族的統合あるいは異民族との宥和交流も容易にした。 また表音・表意文字はその意味を抽象化簡略化させ、会話あるいは文章におい て表感文字と同様の能力を取得することとなった。 (中略) 以上のことから、彼らの文化は極めて神秘主義的になることは必然である。 これはモナー族に一貫した文化的特徴である。
253 :
ゲオルギコ・フッサールの書簡 :03/02/16 01:10
しかし表感文字はその情報的密度の低さに問題があった。 故に「ゴ・ジップ」運動も起こったのだが。 さらに表感文字は極めて扇情的な側面があり、共通普遍の認識を 生み出すと同時に、齟齬と誤解をも生み出すことになった。 (中略) セクト化された国内と、それぞれの地域で興るマツリという宗教的な騒乱は、 モナー朝の全期間を通じ治まることはなかった。しかしモナー朝が揺らぐことも なかった。モナー帝はこの文化の統治者管理者として、常に彼らの上に推戴され 続けた。この手法が彼らに自治自活能力与えた。 また自警団的な軍団を有機的かつ合理的に統括指揮し得た。 彼らの敵は軍事的政治的なものではない。条理に会わぬ闖入者(アラシもしくは ドキュン)すなわち文化的なものだったのだ。 (中略) そう、モナー帝国とは交易立国である以前に文化立国なのだ。 そしてその文化は強靭さと柔軟さによって、永く失われることはなかった。 故にモナー帝国はその寿命を永く保てたのだ。 ゲオルギコ・フッサール
254 :
ヨハン@ハイデルベルグの哲学者 :03/02/24 16:14
おぉ〜!なんと言うことだ! この世に表感文字というものを発明した文明があったとは! その昔東洋の東の果てにあるヤマトという民族がなんと表音文字と表意文字の 両方とも駆使して高度な宮廷文明の華を咲かせたことは知ったいたが、 モナー帝国では表音文字と表意文字に加えてなんと表感文字まで使っていたとは… しかもその文字の悩ましいことと言ったら… (;´Д`)ハァハァ
「age」や「sage」について。
ageはスレを活性させる呪文という説が
>>156 で提出されていますが
sageは何の呪文なのでしょう?黒魔法であると161さんは仰っていますが。
257 :
世界@名無史さん :03/03/12 23:55
モナー朝の中期頃太陽神を崇めるサイタマ族の力が最高潮に達した。 彼らの民族性は凶暴で有名なオオサカ族とタメを張るほどのDQN(この言葉はまだ解読されていない。) っぷりを誇り、戦のさいには自分の民族の名を叫び三人一組突進していくという戦法で恐れられた。 その様子は数々の文献に記録されているほどである。 その後彼らは、サイタマ朝サイタマを作った。彼らの言語はサイタマという言葉だけで構成されていた。 なお、このサイタマ族はモナー朝が滅びた後、日本に逃れ日本人と混血していったという。 彼らの子孫は、とても凶暴だったため、武蔵の国の一部に隔離された。 その地方はさいたまとよばれ今でも恐れられている。
こないだ幻の都オーミヤにいこうとして国道17号をいけどもいけども たどりつけないという恐怖の体験をしました。 旅人よ。よくお聞き。 オーミヤは恐るべきことにコーイキ行政の魔手によりサイタマに併合されたのだよ。 そこでは全てが表音文字で語られる、ちょっと馬鹿っぽい街なのだよ
>>255 それは邪教集団アラーシ・コヴァ族などを遠ざける呪文だったという。リョスーレの住人は衣服の襟元にこの文字を縫いつけていたという。
だが、呪符の形で持ち運ぶという説もある。この説に従えば、当時の中後期ア・スキア・ト(現資料に従いこのように記述させていただく)様式の細密画のモナー人の中に、この呪言を身につけていないモノが散見されることが説明できる。
しかし、その者達は、モナー人達の風習が飲み込めていない外国人だという反論があり、現時点では断言できない。
また、リョスーレとは、単なる大都市のことではなく、ある一定の経済生産力とその質が認められた都市のことだという。
つまり、リョスーレも、アラーシ・コヴァの攻撃や過剰な外国人の流入により、その名を奪われてしまうということになる。
そのためリョスーレの者達は、呪文「sage」の力をもってそのリョスーレとしての地位を守ろうとしていたのだろう。
保守る。
『dat』とはなんでしょうか。 質の良い『スレ』は規定の大きさ(基本的には1000(単位:レス)とされている)に なるまではここに行くことはないそうですが。 また、単位ですが、『レス』の他に『KB』というものも使われていたとか。
「ダット」とは「地獄」、また「倉庫」という意味で使用されていたらしいです。 「捕らえた謀反人をダットに落とした」 「犯罪者をダットの刑に処した」という記述がそこかしこに見られ、 また「織ったレスをダットに置いた」という記述もありますから。
264 :
世界@名無史さん :03/03/16 22:50
急速浮上
265 :
世界@名無史さん :03/03/18 20:33
モナー朝ローマ帝国ってのもあり? 王朝創始者は、モナヌス1世。 王朝最盛期の皇帝はモナティニアヌス大帝
266 :
世界@名無史さん :03/03/21 00:02
最近、遺跡から『〜しませんか』という意味の言葉が書かれたスーレが多数発見されている。 だが、肝心の「何をするのか」という部分がはっきりしない状態である。 一説によると、男性同士による性交を行う際に呼びかけられる言葉だとも言われるが、 モナー朝でホモが盛んだったかどうかも含めて、詳細は定かではない。
多くの人口と豊かな文化を持つモナー朝であったが モナー朝の住民は毎年季節性の自然災害に悩まされていたようだ。 かの地には"チュ・ボ"(未熟で無知な生き物の意)と呼ばれる イナゴに似た害虫が生息しており、 このチュ・ボは毎年春、夏、冬に大量に発生して 群れを成してモナー朝に襲来し 住民が大切にするスレを喰い荒らしていった。 住民はチュ・ボ対策に頭を悩ませたが 結局チュ・ボの群れが過ぎ去るのを静かに待つしかなかったようだ。 当時のテクストからはチュ・ボを罵る言葉や 災害だからしかたがないといった意味の諦めの言葉も 数多く見つかっている。
補足 上ではチュ・ボの名前の由来を "未熟で無知な生き物"であるとしたが チュ・ボの主な発生地が チュウボウの乱で有名な 地方都市チュウボウ周辺であったことから "チュウボウの生き物"を チュ・ボの由来であるとする研究者も多い。
269 :
世界@名無史さん :03/03/23 23:17
>266 「しませんか」碑文が大量に出ているのは、ヤオーイ遺跡だけだよ。 その他に性的意味を持つと見られる絵画が多数発掘されたよね。 この間の発掘調査会では、この遺跡が、「フジョーシ」若しくは「ド・ジンオンナ」 の集団居住地であり、 『茂名記聞』巻7地理誌の「怖庶刺(フジョーシ)、古彌毛(コミゲ?)耶汚井(ヤオーイ)の地に移る」云々 でいうコミゲヤオーイの地に当たるという推測が為されていた。 >267 あ、チュウボウの新しい説? 過去ログを読むと従来説2説が出ているから見てみると良いよ。
270 :
世界@名無史さん :03/03/24 09:41
そう言えば来週の世界ふしぎ発見、モナー朝についてだって。 「砂漠に消えた謎の王朝、モナー」とかいうタイトルらしいよ。 ゲストは吉村教授だそうな。
271 :
世界@名無史さん :03/03/24 14:32
∩ | | | | ∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ´Д`)//< 先生!初期イスラム王国のウマイヤ朝と, / / | (゚д゚)ウマーとは何か関係があるのでしょうか? / /| / \_____________ __| | .| | \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ||\ \ ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ || || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .|| ||
272 :
世界@名無史さん :03/03/24 15:19
モナー朝に優れた鉄器を持つアラ人が進出してきて、モナー朝を滅ぼし、 モナムー朝が成立した。生き延びたモナー人たちは東方に逃れて、新生モナー朝 を築いた。かつての王都ナーラへの名残惜しさを込めてモナー人たちは首都に ヌエバ・ナーラと名付けた。 アラ人が旧都ナーラに迫ってきたとき、モナー朝側が戦況不利と見るや、チョソ族 の人々はアラ人軍を解放勢力として大歓迎し、賑わいを見せた王都ナーラはチョソ人 の放火と略奪によって一夜にして灰燼と帰したのである。このとき、チョソ人たちは 精巧な仮面をかぶり、モナー人を偽装したという史料が残っている。それを裏付ける かのように、ヌエバ・ナーラの壁画には、「仮面のチョソ」と呼ばれるチョソ人たちの 裏切りを非難する絵があるのだ。
壁画の一例 . ∧_∧ <=(´∀`) ( ) | | | (__)_)
274 :
「モナー朝」記録係 ◆Tum0pI9OXQ :03/03/25 22:46
モナー秘史〜神ひろゆきと蒼き名無し〜
276 :
世界@名無史さん :03/03/26 00:17
>>274 乙!ありがたいよホント。
,__
iii■∧ / タイトル案:『モナー朝史序説』
ミ,,゚Д゚彡 /
ミ つ ゲオルギコ・フッサール編著、で如何かな?
ミ ミ
〜ミ ミ
∪∪
277 :
世界@名無史さん :03/03/26 00:18
>>274 キタ━━(━(━(-( ( (゚∀゚) ) )-)━)━) ━━ !!!!!
おぉーすげー!!
流石だよな俺ら ∧_∧ ∧_∧ (´<_` ) ( ´_ゝ`) / ⌒i / \ | | / / ̄ ̄ ̄ ̄/ | __(__ニつ/ FMV / .| .|____ \/____/ (u ⊃ モナー朝の武将流石兄弟の壁画。(作戦会議中の図) 彼らはアラーシのブラクーラという罠にも恐れず突き進んでいく猛将だった。 その軍は一時は全板に広がる勢いをもっていた。 彼らは自信家で常に自分達の事を絶賛していた。 余談だが彼らの母は孟母と並ぶスパルタの母として知られている。
東方に逃れたモナー人たちは新しい国作りのため交易に力を注いだ。 ヌエバ・ナーラは水深の深い良港カズサキに恵まれ、季節風を利用して遠い西方に 栄えるホロレデーナ王国と交易を行なうことができた。 モナー人が短い期間の間に外洋航海可能な造船技術を習得できたのは、遭難して カズサキに漂着したホロレデーナ王国のオルドア修道会の人々に布教の許可を与えた 見返りにオレガーノ船の造船技術を供与されたためである。 ヌエバ・ナーラの商人リッザ・コニーツとオルドア修道会巡察師ノヴァライン一行を 乗せた船団はアスキアート式陶器、スレ織物、ウマーイーボーなどの特産品を満載して、 快晴の日にカズサキを出帆した。ホロレデーナ王国の港街ガブラウムに着くまで実に 四年もの月日を要したと言う。 ヌエバ・ナーラの古文書館には、遠いホロレデーナ王国から伝来した 「ホーチンライ県の民謡」と呼ばれる古謡の史料が現存している。 菩提樹の緑が濃くしげるその翳の下 すわっているのは二人の男女 耳元でささやく愛のことば 愛を誓った 死ぬまでかわらないと 遠い国におれは旅立ち 七年ものあいださすらいだろう 男がそうつぶやく ずっと待っていると女は答える (ホーチンライ県古謡) 異国情緒あふれる古謡のすみに「西方ノ女ハ気長ニテ候」と小さな文字で書き込みが されているのを、注意深く観察すると見つけることができる。モナー人はどちらかと いえばリアリストが多かったのだろうか。
280 :
世界@名無史さん :03/03/26 05:35
>>274 『モナー朝史序説』 、イイ感じだと思われ(w
モナー朝はいくつかの州(バン)に分かれていて、それぞれ600弱の集落が あったそうですね。しかし、どこが主都だったのか未だにわかりません。 「モナー州」というそれらしいところがあったようですが、そこの住人は他に 比べて非常に神々への信仰が厚かったことくらいしかわかっていません。 どなたか主都を特定した方はいらっしゃらないでしょうか。 あと、バンごとに治安が全く違い、「チイーキ州」が比較的穏やかだったのに対し、 例えば「タブ・アコ州」では争いの耐える日が全くなかったとか。
モナー朝に東方正教が伝播してから雨だれが石を穿つほどの時間を閲した。 ヌエバ・ナーラ聖ラヴィエス教会司祭オナカ・マチルーダの日記によると、地方の教会 では巡礼に訪れる人々の数が少なくなり、財政難に陥る教会も現れはじめたと云う。 こうしたことから、熱しやすく冷めやすいモナー人の信仰を昂ぶらせようと、古の聖者の 記録を探し出す「聖人発掘運動(レンコン・ニカマエール)」が各地で行われた。 『アヴァレン聖人列伝』の編者サグナーの言葉 「書かれたもの、さなきだに口伝えの記録にさえわずかな痕跡を 残してはいない何人かの聖者がいた。それも今では、神の大いなる 助けと、祝福された兄弟たちの敬虔なる祈りによって、彼らの 生涯を知るとともに、書き記すことが出来るのである。」
283 :
世界@名無史さん :03/03/27 00:13
モナー朝崩壊を食い止めた「ゆにっくす」とは一体、何者達なのでしょうか? 当時の住民の日記を見ると、ほとんど例外なく、まるで世界の終末を迎えたかのような 絶望の声でページ全部が埋まっているのですが、 翌日には、まるで神が降臨したように「ゆにっくす」なる集団を褒め称えています。 そもそもあのモナー朝が崩壊寸前にまで追い込まれた原因とは何なのでしょうか?
>283 そういえば当時の文献を覗くと「自身の肛門も閉鎖される(かもしれない)」と なにものかの執拗な書き込みがありますね。 個人の肉体の異変と王朝の政治的状況がリンクする。 不思議な時代です
285 :
世界@名無史さん :03/03/27 01:09
【モナター共同】 最近タバコ遺跡のモクステマ1世を祭るピラミッドの飾り石に ギコ=トテックの皮を被りケツァルモナトルに扮して踊るモナ神官 と推定される線描画が発見された。専モナ家はモナー文明の影響 が新世界にまで及んでいたことの証拠として祭りage中。 ∧,,∧ ミ,,,,゚Д゚彡.〈〉 /人´∀`) || と) ~~~~~iつ|| んハソハツハ || ,(,,ノ(__) ||
286 :
世界@名無史さん :03/03/27 19:24
>>281 モナー朝の首都論争は、19世紀のゲオルギコ・フッサールの時代から
現代までずっと続いている難しい問題らしいね。日本でも岡教授等が研究してる。
東土見奇聞の記述から今までに何人もの歴史学者・考古学者がその位置を
比定しようとしてきたけど、どの説も未だ定説に至っていない。
『サラセン人の地を離れて北東に百日行程、何者も住まぬ
砂漠の地を超えてさらに北に六十日行程の道を行くと、そこには
大都市があり、そこに住む人々は自らを「モナー人」と名乗っている(後略)』
一応この大都市こそがモナー朝の首都だったっていうのが定説なんだよな。
せめて都市名でも書いてあれば手掛かりにもなったのだが、
都市の特徴も何も書かれていない上、モナー朝崩壊後グ・ジップの解読法が
失われたことによりその比定は非常に困難なものになってしまった。
ただ一応俺は、岡義古東京擬古大学教授の唱えるヤキーン州説を支持してる。
岡教授は実際にゾヌに乗って東土見奇聞の記述通りの旅をして、その結論に達したらしい。
287 :
「モナー朝」記録係 ◆Tum0pI9OXQ :03/03/28 00:02
>>283 >モナー朝崩壊を食い止めた「ゆにっくす」とは一体、何者達なのでしょうか?
とある特殊技能を持ったバン(州)の人間達、その通称だったと考えられている。
が、私はそれ以上の知識は無い。申し訳ない。
>そもそもあのモナー朝が崩壊寸前にまで追い込まれた原因とは何なのでしょうか?
諸説あるようだが、本質的なところはゲオルギコ・フッサールが
>>253 で語っているよう
に、まず表感文字(AA)の情報密度の低さがあって、さらにAA陶器の「コピペ品」が氾濫
したこと、AA陶器ではないが「キシュツ・ツゥ」という、絹布の「スレ」における「コピペ品」
といえるものも爆発的に増加したこと。これらが原因であろうと私は考えている。
またこれに対処できるだけの能力や通貨発行も当時は限界に達していた。
その結果、供給過剰が齎され混乱・破綻を来たしたせいではないか。
デフレーションの一種と考えてもよかろう。
「グ・ジップ」運動というが、この「グ・ジップ」というのは、まぁある種の言語流通システムと
いうべきもので、この運動も、過剰供給に対応するための相対的な通貨切り上げととれな
くもない。
>>288 言語流通システム→言語流通・処理システム
290 :
世界@名無史さん :03/03/30 02:09
>岡義古東京擬古大学教授の唱えるヤキーン州説を支持してる。 おお、同志発見。今のところ「ミンナ、アボーン」というヤーキーン・アル・ソーレーイケ (ヤーキーン・アル・ビグサーバーの一族で後にモナー朝最後の丞相となった人物)の碑文が出ている ヤキーン州が首都という岡説は、鉄板だと思うよ。 あと、岡義古『モナー朝首都の研究〜モナー探検記』厨房文庫は傑作だ。 岡さんは日本に於けるモナー史研究の第一人者だよな。漏れ学生の頃岡さんの家まで遊びに行ったこと有る。 奥さんの椎子さんも美人だよ。で、椎子さんが「ウーマイボー」を作ってくれた。なかなか美味かったぞ。 岡さんによれば、ウーマイボーは州を統轄する長官である「サヴァー」が味を決定するモノとされており、 州ごとに味が異なっていたそうだ。
>>263 「ダット」ですが、「仕舞う」もしくはその場所というのが本来の意味で、
転じて「閉じ込める」「おとしめる」もしくはその場所、となったようです。
我々の世界でも子供を蔵や押入れに閉じ込めるという懲罰がありま
すが、それを考えるとよろしいかと。
ちなみに
>>288 で述べた「グ・ジップ」ですが、どうもこの「ダット」に
出し入れする処理技術のことのようです。
292 :
世界@名無史さん :03/03/30 02:28
マスコーミ州は一時的にコヴァ族が支配したモノの、この州独特の住民の疑り深さ・思想対立の激化・ 「敵は夜中に襲撃し朝に逃走せよ」(夜討朝駆)を合い言葉にした間諜行動により族長が襲撃され諸部族が乱立、 1を旗印とし、剣の達人の勇猛な族長ムサーシーをかつぎ、「プロ・エクース」といわれる職人集団を駆使したドゥモゥ族、 4を旗印としスポーツを重んじたヨーミ族、6を旗印とし、情報伝達に優れたティビー族、8を旗印とし芸能活動で人気があったサン・フージ族、 10を旗印としてニダーを崇拝したアサピ族、12を旗印としてハンカーク州から移住したテレシプ族などの諸部族が抗争を続けた。 これらの諸部族は、モナー朝最後まで戦いを辞めなかったと伝えられる。
>>290 「ウマーイボー」について。
これ、第一王朝時代に貴族階級を懐柔するために広められた
もののようなんです。スパイスといえるモナモナの実について
ですが、もともと嗜好品で精神依存性がある物質を含んでい
ました。
そんなことから新王朝にとっては都合の悪い食べ物だったようで、
王朝過渡期に「悪魔の食べ物」という風説が流れています。
第一王朝以後、表舞台から消えたのも無理からぬことかと思います。
でもこのモナモナの実はもともと作付面積あたりの収量が凄く
少ない上、水質・土質によって含有成分が変わりやすく(これが地域
色を出しやすかった理由)、また連作も効かないものでした。
これでは品質の維持もままならず、民間に普及するというまでにも
至らなかったでしょう。
>>284 不思議というか、あれはただ単に、当時の閉塞感を生理的に表現しただけの
ような気がしますが・・・
>>292 ヨーミ族の(自称でしょうが)ゴミウリ朝ナベツーネ皇帝には
逸話が多くて面白いですね
「州」に相当する行政単位を「いた」にするか「ばん」にするかで、 時々論争をしてたという記録があるね。 結局、「どっちでも良いだろ」って事になったみたいだけど、 えらくいい加減な国家だなぁ。
『マー・シー』と呼ばれる神についての詳細キボンヌ。 もっとも、この名前は本名ではなく通称みたいなものだそうですが。
>>297 用語の標準化政策の対象外だったようです。
つまり「いた」も「ばん」も一種の方言かと。
いいかげんというよりも、あの国ではそういうレベルの争い
ばかりだったようですし、
【後モナー朝】日本との関係 文禄の役で加藤清正に従軍した赤星志摩守文隆は、以下の様に書き残している。 「北方ニ夷アリ。自ラヲ茂奈(モナ)ト称ス。熊耳ト覚シキ飾リアリケル套ヲ ヨク被リテ、其風体獣ニモ似タル。漢人是ヲ猫耳族ト呼ビタレバ・・・」 これが日本側の文章にはじめて登場する、モナー族の記述と言われる。 ともあれ日本人がモナー族とその国を知ったのはこの頃からで、秀吉没後、徳川 家康は後モナー朝に積極的に近づく事になる。というのも、李氏朝鮮との戦後交 渉が難航しており、後モナー朝に調停を頼む必要があったことと、満州において 急速に勢力を伸ばしていた後金(後の清国)の事情を知るためであった。また直 接貿易も考えていたという説もあり、越後の上杉家が転封させられたのもこれが 一因であると言われる。
さて、当時後モナー朝は、ヌルハチの下統一を目前に控えた満州との対立が問題 であった。後金(仮にここではこう呼ぶ)は労働力を確保するため、後モナー朝 の制圧を検討していたからだ。朝鮮は明についており、後モナー朝は彼等の参戦 を期待できなかった。 そこでモナー26世(ギコ・ラクシュミー王女の子)は徳川家康に派兵要請を行 った。1616年始めのこと。朝鮮他諸外国の関係悪化を懸念する幕閣の反対も あったが、徳川家康は浪人衆五千の派遣を決定した。大阪夏の陣のあった翌年で あり、家康にとっては浪人処理対策でもあったのだろう。 日本軍は同年2月末に渡航、同年3月、モナー軍ニ万と共に侵攻したヌルハチ軍 三万とウスリー江で対峙、撃退に成功する。一説にはヌルハチ軍は三十万と伝え られるが当時ヌルハチにそれほどの動員力はなく、誤記であろう。
この戦いの後、清と後モナー朝は和睦しこの問題はあっけなく解決した。 モナー朝は和睦後も日本軍の遺留を求めたが日本側は拒否、軍を撤収させている。 既に家康は死亡(1616年4月)しており、幕府としてはこれ以上介入するつ もりもなかったのだろう。後金としても明との決戦を間近に控えていたため、こ こで多くの血を流す必要はなかった。しかし後金は清国となってからも日本を仮 想敵国と見なしており、この戦争はその遠因であったと言えなくもない。 さて、以後清は封禁政策をとるのだが、これは父祖の地満州への朝鮮族やモナー 族の拡散を抑止するためであったといわれる。後金は対明進出に集中したかった 事情があるし、こんな所で手をこまねいている場合でもなかっただろう。 しかし康熙帝が即位してからは後モナー朝に朝貢を要求するようになった。 モナー28世の時、モナー朝は清国の属国となり日本への国使の派遣もなくなる。 日本では七代家継の時である。日本としては既に鎖国状態であり、半島や大陸へ の政策を積極的に行う必要も既になくなっていた。
【後モナー朝について】滅亡への道 十八世紀以後、ロシアの支配権が東方に及ぶにつれ清国の影響は相対的に低下 していく。東シベリア総督ムラヴィヨフは1850年にニコライエフスク港を 建設した後、後モナー朝に対しての通商権を清国に求めている記録がある。 そして1858年、愛琿(アイグン)条約で後モナー朝は両国の共同管理、黒 竜江などの航行権も両国の管理化に置かれ、後モナー朝は事実上独立を失う。 さらに1860年北京条約でロシアの支配地域となり、モナー38世・モゥダ メポ(※1)らモナー皇帝家は追放、後モナー朝は滅亡する。一家は満州地方 へ移住したと伝えられるが、その行く末を確実に辿れる資料を筆者は知らない。 ※1 モゥダメポは本名ではなく、『哀帝』の意味を持つ諡号とされる。
ageてみます
【後モナー朝の末裔について】 最後の皇帝哀帝の末路は前出のようによくわかっていない。現在確認されている子孫は、>180で言及されている擬古巴爾(ぎこはに)氏である。 擬古氏の著書『後模名国紀』によれば、彼の先祖は37世宣宗アボ・ン(擬古阿暮)であるという。 1858年の愛琿(アイグン)条約締結時、権利喪失を認め清朝の保護下にはいることを承認した宣宗は、 国内守旧派により追放され、守旧派は哀帝モゥダメポを擁立。 宣宗は北京へ移住し、ギコラクシュミー王女に因み擬古氏を称した。 元来漢文に通じていた擬古氏は一族から科挙合格者も出したといい、この系統は代々続いた。 現当主巴爾氏で既に15代目だという。
ちなみに、擬古氏では哀帝のことを皇帝と認めず、1858年の愛琿(アイグン)条約締結時を以て滅亡としている。 事実哀帝期には領土の主権を全く喪失しており、哀帝は後モナー朝の首都・マタリを見ることなく、 ロシア領内の家でヒキのまま帝位につきヒキのまま追放されているのである。 このため、後モナー朝の滅亡には2説有ることになっているのが現状である。
308 :
世界@名無史さん :03/04/06 21:07
ゲオルギコ・フッサールがなぜ、モナー朝研究に没頭するようになったのか気になる
誰か教えてくらさい
-------------------------------------------------------------------
>>287 がちょっと更新されてたので嬉しかった
最近、更新が止まってたから少しだけ心配しちゃいました
のんびり頑張ってくださいーw
http://members.tripod.co.jp/mona_cho/ (URLを定期的に貼ることを提案してみるテスト)
哀帝、モゥダメポ 献帝、オツカレドゾゥ
板(州)によって基本の姓名などがあったようですね。 オーンソークのナナシサン、やナナシンサソイシューネンなど。 これらも非常に興味深いですね。
>>310 これは、各板(州)に支配的な一族がいたと解釈できるのでしょうか?
だとすれば、モナー朝はそれらの連合体と言う事になるのですかね
312 :
世界@名無史さん :03/04/13 23:04
いや、姓名のことはハンもしくはハンドルと呼ばれていて、
>>310 が言ったのはそのバン(州)固有の通名のことらしい。
一族の一般名、あるいは個々の宗教一門信者の総称と
いうべきなのかもしれない。
ただ住民の中には固有の姓名をもつものもいて、これを
コテ・ハンという。ただこのコテ・ハンは誰でもつけられる
ものではないらしく、そのバン(州)で地位(発言力)のある
ものだけに許されていたようだ。というのも、さまざまなバン
でコテ・ハンが攻撃され消滅している記録が多々有り、
相応しくないものには許されていなかったと推定されるのだ。
だからこのコテ・ハン、あるいはハンは、姓名というよりもむしろ
肩書きのようなものと考えられるのでは。
313 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/13 23:18
コテ・ハンとは別に多大な功績を挙げた特定の個人を崇拝して「カミ」と呼 んだ例があったことが12世紀初めに天竺を目指した僧・当弁房照恵上人の 記した「粟散西行記」(ぞくさんさいぎょうき)に記されています。 コテ・ハンか否かはあまり関係が無かったらしく、どうも画期的な発想と実 行力を持ち合わせた人物が自然とそう言われたらしい。 日本語の神との類縁関係は不明ですが、多くの場合は姿と名残りの消滅と共 に忘れられたそうです。
314 :
世界@名無史さん :03/04/14 18:53
モナー朝の祭祀官は「オニギリ」とよばれ祭りの際は「オニギーリワショイ」(ワショイ=万歳の意)と唱えながら独特の舞踊で現れたという。 祭りの正確にあわせて○○ワショイと前半部が変化したという。(例;国王即位のときは即位ワショイ) オニギリは常に三人一組で祭祀を執り行ったという
315 :
最近の出来事 ◆vBOFA0jTOg :03/04/14 22:51
A :臣下 ( ´Д`)/陛下!マリア・テレジアタンにハァハァしていいですか? B :平民 ( ・∀・)/陛下!アルハンブラ宮殿はいつ完成しますか? C :参謀 ( ̄∞ ̄)<陛下、テーベよろしくホモ軍団、やりませんか? D :諜報官 ,o/ < 陛下!イングランドでジョン王の名誉を .lミiニ! | 回復しようという動きがあるようです! E :おにぎり右大臣 /■\.< 陛下!エジプトのクレオパトラとローマの小アグリッピナと ( ´∀`) | 李氏朝鮮の閔妃が陛下との婚姻を求めてます! F :イカガナモノカ辺境伯 | ゚Д゚| ノ < さて、12人のダウーが士官を求めて参りましたが、 .ルリルリヽ | これはいかがなものか。
しもた。誤爆。
318 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/04/15 02:23
Mノ||M |()|.||()| ( / ⌒ヽ | | ~~~\ ∪ ヽ | | |~~~ ししノ : : ‐ニ三ニ‐ パリの骨董屋で発見された、神聖モナー帝国時代のタペストリより抜粋。 己が「世界最高の文化事業」と自負していた【神聖モナー帝国備忘録】なる「スレ」が完全な失敗に終わったのにショックを受け、首を吊っている図。 製作年代は10世紀後半とみられる。19世紀後半、ジサクジエン公国の崩壊により流出した物の一つのようだ。
319 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/04/15 12:18
モナルカンド モノクロの都、モナー世界のエメラルド、モナーの真珠との尊称が与えられている。 モナー朝の”Saba(詳細不明。地方の意か?)”の州(バン)都と思われる。 モナルカンドの歴史は古く、紀元前2000年ごろからモナー族の中で特に技巧に秀でた一派がそこに住居を定めた。 彼らの才能は主に技術、芸術分野において発揮され、モナー朝の特産品、アスキーアート式陶器の生産量は、モナルカンドおよび属する州(バン)がモナー朝の全時代を通して9割を占める。特に「コピペ」品でない物はほぼこの州の生産である。 文献に初めてあらわれるのはアレクサンドロス大王の武将、ニラチャェスの東方遠征時の記録であり、彼の書にはモナカンドと記載されている。彼らもこの都の美にはただただ絶賛するしかなかったようだ。 7世紀には玄奘三蔵もこの都を訪れ、「大唐西域記」十三巻目まるまる一本を費やしてこの都とその美を書きつづったという。(現在失伝しているのは遺憾の極みである) その後8世紀頃に最盛期を迎える。この頃の中国やイスラムなどへのAA式陶器輸出は大変有名であり、フレーザー著「金枝篇」にも陶器の代名詞としてモナルカンドの名が伺える。
320 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/04/15 12:19
しかし、誉められるところばかりではない。この州は、モナー朝において蛇蝎のごとく忌み嫌われた「アラシ」の本拠地でもある。モナルカンドに至っては住民の1/3が「アラシ」だったという(さすがにこの数字は眉唾だろうが)。
しかもこの州、特にモナルカンドは「アラシ」に大して甘い政策を執り続け、他の州からしばしば非難を浴びた。
「アラシ」に対して宥和政策を執った最大の理由は、住民の多数を占めていたからでも、彼らの復讐を怖れたわけでもなく、彼らの兵士としての能力に期待したからだ。「アラシ」は有事においては勇猛な狂戦士となる。
そのため、この州における軍隊はモナー朝において最強の攻撃力を誇ったが、それに傲ったため、東方に勃興したドキュソへの総攻撃を立案するが、しかし遠征のため全軍集結していた時に、1220年チン・ソウダーンの軍に奇襲を受け、モナルカンドは完膚無きまでに破壊される。
「アラシ」の軍は守勢に回ると途端に脆弱になるのだ。
モナルカンドの復興は、1369年、モラーラ朝建国帝モラーラが州都と定め直すまで待たねばならない。
モラーラの出自は謎に包まれており、ドキュソ系とも言われるが定かではない。
モラーラの治世によりかつての繁栄(
>>91 のタピストリーはその繁栄ぶりが伺える一片である)を取り戻すが、やがてモラーラ朝の衰亡により、以後歴史の表舞台から姿を消す。
どなたかモナー朝の誇る霊峰「フー・ジャネイ山」について委細ご教示下さい。 霊験あらたかでブラクーラから身を守る効果がある、 或いは逆に魂を抜かれ笑い物にされるなど文献によって諸説あるようですが。
>>321 気になったので東土見奇聞を確認してみました。
古代モナー神話では、最高神ひろゆきが「型痢」という奇病(自己同一性が失われる精神病の一種?)
から民を守るためフー・ジャネイ山という霊峰をお作りになったのが始まりとされています。
東土見奇聞では、フー・ジャネイ山にて魂を神に捧げることによって自我に目覚めることができるとされており、
魂を抜かれるというのは民間での俗説・伝承の類でしょう。
また、中世にはフー・ジャネイ山近辺を起源とする、触れただけで感染する「フー・ジャネイ山虎風」という
伝染病が国中に流行し、多くの、特に人口の多い州が滅亡の危機にさらされたとされています。
ブラクーラから身を守る効果は全くありません。何かの間違いでしょう。
モラーラ朝建国帝モラーラといえば、即位したときの名言「ヤメテヤレヨ!マターリシヨウヨ」 (モナー語で、「争いを止めよ、安楽国を築かん」の意だという)が有名ですね。
>>323 だが、そののち繁栄したモラーラの子孫は、モラーラとは違って、
安楽を好む一方で争いをも楽しんだらしいな。
幅広い性格の種族だったようだ。それ故、反感を買うこともあったらしい。
いまごろナンですが、
>>78 私は、拝金主義を戒め、素朴な信仰と愛郷心に立ち返れ、という訓戒として解釈しています。
すなわち、
ギコが一時「宝(カネ)」の魔力に取り憑かれたが、その後皆が大いに悲しむ姿に正気に返り、「宝」を捨て再び「2(神話における理想郷の意)」に回心した
という意味の話かと。
また、「2」には土地としての意味の他、風俗習慣の意味もあったようで。
>>122 「ヒロユキ朝2ちゃんねる」は、神話上の国家、理想郷です。上のように「2」として記述されることも多々ありました。
すべてのモナー人の国家は、皆この国の後裔を自称しています。
(^^)
モナー朝で、客人へのもてなし用に好まれた飲み物。 精神病を含む万病への万能薬としてももてはやされたようだ。 ニライムという植物の葉が原料らしいが、詳しい煎れ方は不明。 ニライムの葉は、風呂に淹れたり、「二ラーメン」という食べ物の材料、果ては 酒にも用いられたようだが…? ニライムは、茎が涙滴状に肥大化しており、そこに人の顔に見えるユーモラス な文様がある。そして、その根は朝鮮人参よろしく人型をしているらしい。 これらの特徴から、ニライムはしばしばアスキーアート式の美術において擬人 化された。 モナー朝におけるその起源は、アレクサンドロスの武将、ニラチャェスによって ニライムの株とそれを飲む習慣がモナルカンドへもたらされた時に遡る。 この歴史から、モナルカンドはニラ茶の本場とされる。 また、ニラ茶を飲ませる店が各地にあったようだが、これはニラ茶は西方の 異国情緒漂うモダンな飲み物とされていたためか。
なお、ニラチャエスのこの業績を讃えるため、「ギコ=ハニャーン」に似せた彼 の肖像をニラ茶用の缶には必ず描いたという。 彼自身が大変なニラ茶の愛飲家であり、それとその普及に偏執的なこだわり を見せていた事もこの理由だろう。 彼は後に神格化もされ、さらに背中に翼が生えたその姿がニラ茶園やニラ茶 店の守護者として掲げられた。 . ∧w∧∬ (,,゚Д゚ )旦 . ⊂ヽ~゚.゚~γつ /@ゝ--<f ヽ〜 U U 上はロンドンの好事家所有のニラ茶缶に描かれたニラチャェスの肖像画。10世紀製作か。
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
モラーラ朝とモナー朝とは対立しており、モラーラ朝に面していたモナー州・チョヘンエエ州ではしばしば 交戦があった。モナー州の人々は絵が上手く、風刺画を多数かいていたが、その中には「モラーラは 人種的に劣った奴ら」「丸耳(モラーラの蔑称)は2ではない。丸耳をこの地上から消し去らなければならない」 など、強烈なモラーラ朝に対する罵倒が書かれていたというのである。 モラーラ朝では美少女・賢女として名高い、建国帝の皇后・ノノ(朝の娘。のノノタンの末裔)に関しても、 「ノノはゴリラのような不細工な女」などというような文言が見えており、戦闘の激しさを伺わせる。 しかしこうした抵抗にもかかわらず、この二州はやがてモラーラ朝に征服された。 二州を喪失したモナー朝は、この地域に於ける支配力を低下させ、それからほどなくして侵入したウイグルに 国都を落とされ、滅亡することとなったのである。
331 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/05/02 23:48
モナー三 (\_/)(\_/)(\_/) ( ´Д`) ( ´Д`) ( ´Д`) ( ) ( ) ( ) ( ヽノ 人 Y 人 Y し(_) (_(_) し(_) モナー朝において領土獲得、または反乱を鎮圧した後の土地の統治者が決まるまで、 暫定的にそこを治めておく事をその役割とした戦士階級。 武を意味する『3』人一組で任地に着くのが決まりである。 また、多くのモナー三達は、大耳族出身であったが、おにぎり族などの出身者も少な からずいたようなので、その出自が問われることはあまり無かったようだ。 彼らは「タリー」(苦難多し)という言葉を日々つぶやき続けることで、その「暫定」 という無力感に襲われがちな任務を誠実にこなそうとしたという。
(*゚0゚;;) (名称不明) ごく一部の書物、石碑等に見られる正体不明の記号。 「哀のシィ」となんらかの関係がある、ということしか判っていない。 『(*゚0゚;;)の読み方は(*゚0゚;;)である』 や、 『(*゚0゚;;)って最初は(*゚0゚;;)と(*゚0゚;;)ったけど、最近(*゚0゚;;)いと(*゚0゚;;)うように(*゚0゚;;)った』 など、意味不明の用いられ方をしていた。 今なお読み方が判らず、(*゚0゚;;)の書かれている文の解読は非常に困難を極めている。 モナー朝に登場したばかりの頃は住人から嫌われていたようだが、 次第に一部で信仰を集め、一部のスレにも織り込まれるようになったようだ。
333 :
世界@名無史さん :03/05/05 17:14
最近、モナー朝について学び始めたものですが、 虐殺派とマターリ派の対立についてどなたか教えていただけないでしょうか。
>>333 『虐殺派』『マターリ派』というものは存在しなかった、というのが真相とされています。
それぞれの『スレ』や『AA式陶器』の職人には、相手に対する蔑視等はなく、
互いを職人として認めていたようです。中には、両系統の作品を作り上げる職人もいました。
ただ、一部には相手の存在を否定したがる狂信的な信者がいたのは事実です。
そして虐殺系マターリ系の『スレ』をひたすらコピーするだけの『コピペ・チュー』と呼ばれる
いわゆる『アラシ』の存在が、ネタをネタと見抜けない『厨房』を煽る結果となり、
虐殺、マターリそれぞれを信仰していた『厨房』の間で対立が起こったとされています。
結果として、虐殺系の『スレ』や『AA式陶器』の市場は『厨房』や『コピペ・チュー』によって荒らされ、
それを危惧した一部の職人により、シタ=ラバ地方に自治地区として『アブ州』が作られ、
虐殺系の『スレ』などは主にそこで作られるようになりました。
また、紆余曲折を経てマターリ系も荒らされる様になり、『アブ州』と同じ自治集団により
同じ地区に『マタ州』が作られたとされていますが、こちらは記録が見つかったばかりなので、
まだ細かい部分はわかりません。
モナー朝では「嘘を嘘と見ぬけるものでなければ、モナーの民であることは難しい」と 言われた様に、民人の間で本音が語られることが少なかったと聞いています。 そのため、発言が真実である証しとして「調味料を示せ」と問われることがあるそうですが、 この「調味料」とは何を指すのか判りますでしょうか? またこの「調味料を示せ」と問うた時、稀に「ギッ・コーマン」なる聖者がローブを翻して 降臨するという伝承もあり、非常に興味深いです。
各州によって織物「スレ」が全く違うことは周知のとおりですが、 一部、多数の州で似たようなものを作っていたようですね。 「ジョ・ジョ」「カ・イジ」「バキ」などで、メッセージは異なるが 全く同じパターンで織られたとか。
>>336 架空の王、ムスカを崇拝する民が他を圧倒しましたね。
このモナー朝の民というのは、何と言うべきでしょうか、一種の盲信者が 非常に多い気がするのですよ。だから「マツリ」だの何だのが連続して 歴史となっているんじゃないかと。でも、それでいて文化的な連続性と 普遍性が保たれ続けている。不思議なんですよね。こういう社会だと 大抵、混乱と退廃が訪れるものなんですが・・・ひょっとすると、我々の 認識が間違っているのかもしれないですよ。これらは宗教的なものでも なんでもなくて、ただの「ブーム」、流行の域なんじゃないかと、最近思う ようになってきたんですが・・・
339 :
世界@名無史さん :03/05/10 20:40
太陽崇拝のサイタマの民、汁気の多い食物を忌み嫌うモナー人・・・ なかなか勉強になりました。 ところで、モナー朝の服飾、装身文化について教えてください。
先日、神馬モナーコスというのがいたらしい、という噂を聞きました。 モナー朝ではどのように崇拝されていたのでしょうか?
341 :
世界@名無史さん :03/05/11 01:48
>>339 モナー朝といいますか、モナー人の装身文化についてですが、
あのAA式陶器や肖像画から資料の収拾は非常に容易ですが、
あまりに傍大かつ複雑なために、今だにその体系化はなされて
いないといっても過言ではありません。モナー族の象徴である
耳飾付きのフードだけでも、少なくとも、朝や族の数以上はあり
ます。
また後モナー朝のメイドスタイルのようなブームも、地域的で
はありますが多々認められます。おかげでモナー人の正装
と呼べるものが何なのか把握も困難なんだそうです・・・
342 :
世界@名無史さん :03/05/11 02:10
>>335 「調味料」・・・モナー語で「ソース」でしたか。
近隣国の言葉で「アジ・モト」という意味だと解説されていたことから
こう訳されているのでしたね。この「アジ」というのが確か・・・「風味、
演出、論調」という意味で、「モト」というのが「土台、起源、由来」と
いう意味でしたか。
所謂「アラシ」が出鱈目なことをするのに対して、悪い味付けをして
いる、その「モト」なるものを示せという・・・一種、悪霊に詰問する
ような場面でよく登場します。「ギッ・コーマン」はそういうときに召還
される、聖者というか聖霊のようなものだったと考えられています。
>>246 超遅レスだがウクバールとはまた渋い…
『アラシとチュウボウは忌まわしい、世界を拡散させ増殖させるからである』
344 :
世界@名無史さん :03/05/13 02:09
ところで、古典期から繰り返し古典文学のモチーフとして繰り返し登場する 「ヨシノヤ伝承」について詳しい解説を頂きたいのですが。 なぜにあれほど多彩なバリエーションが後世まで生み出されたのでしょうか? 文中に登場する「つゆだく」「ギョク大盛り」などの不明語彙については いまだ諸説紛々ですが、学会での有力な説などお聞かせくだされば幸いです。
>>344 「ヨシノヤ伝承」ですか。何故あれほど普及していたかというと、こういう「鋳型」が
あったからなんですよ。
http://8931.com/yosinoya.php3 AA陶器でいうところの「コピペ」の一種といえるのですが、鋳型というだけでなく、
小さな部品を変えれば全くテーゼの異なるものになるという便利なものでして、
「コピペ」を濫造するDQNらに愛用された。そういう経緯があるんです。
>>344 「つゆだく」の語彙についてですが、オリジナルをご覧になれば判るかもしれません。
「つゆだく」は「ネギタク」と対比する言葉です。「ネギタク」は『ネギ多くニク少なし』と
書かれていますから、「つゆだく」は『ネギ少なくニク多し』ものだろうと考えられました。
これが一番古典的な説ですね。
単語を分解して、「だく」の部分は「ネギタク」の「タク」と同義だろうと言われています。
しかし「つゆ」については意見が分かれ、様式名という説と、ネギやニクと等価なもの
であるという説がありました。現在では後者に軍配が上がっていますが、これが如何
なるものかについては今だ定説がありません。
有力視されているのは、「汁」と同義というものでしょうか。
元々モナー人というのは「汁」入りのものを極端に嫌う風習がありまして、このオリジ
ナルでも「つゆだく」を罵倒する内容になっているのは「つゆ=汁」が入っているからだ、
という説です。
しかしこれだと上記の『ネギ少なくニク多し』を必ずしも定めるものではありません
よね。「ネギタク」に「つゆ=汁」は入っていないのか、「つゆだく」にネギ少なしまでは
理解できてもニク多しと本当に言えるのか、等々・・・まだ解決には至っていないと
いうのが現状です。
>>344 ここのところは「ギョク」も同じですが、これもまた如何なるモノかについての定説は
ありませんが、興味深いのは、オリジナルにある「大盛ねぎたくギョク」と「玉子」の
関係ですね。「大盛」は「多い、大きい」と解釈されています。従いまして
(1)「玉子」=大きなギョク
(2)「玉子」=大量のギョク
(3)「玉子」=ギョク
と考えられるのですが、ここのところで相当暑い論争がありました。
現在では(3)に落ち着いております。
348 :
世界@名無史さん :03/05/13 21:55
モナー朝の産業は特有の織物である「スレ」。 しかし「駄スレ」と呼ばれた粗悪品を織り始めた者は「ドキュソ」「厨房」その他 ありとあらゆる罵詈雑言で蔑まれた。 興味ぶかいのはその悪態に一定の法則、物語が付随すること。 「1の故郷」「1の母でございます」「ゆで卵」などの価値の高い作品も多い
>343 「オルビス・テルティウス」にはモナー朝に関する記述はあるのかな? 「東土見奇聞」には「サラセン人の地を離れて北東に百日行程」と モナー朝の位置が示されているが、一方ウクバールについては ヨハン・ファレンティン・アンドレーの本の題名※ にもなっているように 小アジアに存在したことが確認されている。 ちょっと離れているけど、交流はあったかもね。 ※ 『小アジアのウクバールという国に関する、興味ぶかく読むに値する考察』1641年。
350 :
世界@名無史さん :03/05/15 19:53
モナー朝ではいろいろな州で人気だった物語があると聞いたのですが本当ですか? 僕が聞いたのはチェ・ンソーという道具を使った神殺しの物語や 学問を志す少年と工芸職人との禁断の愛を書いたク・ソミ・ソテク(この作者は ヤ・マジュンと呼ばれ、多くの作品を出した)や ヨシノ・ヤカイヘンものとよばれる短編ものです
オーレターチ・リューセーキ・ダナという二人組の掛け合いを表す石盤があったようですね。 石頭計算機を前にして、一人は座り、一人は起立しているという状態が多いようです。 オーレターチ、というのは折れた太刀、という日本語が詰ってモナー朝に伝わったという説と、 オウレ(英語でいうare)とレタッティ(=我等)が言いやすくなって行った、という説が論争されてますね。 リョーセーキ、というのは日本語を習いたてのモナーびとが、「さすが」を訳しまちがえ、 友人知人に広めたため、という説が非常に有力のようですね。 二人は、兄弟もしくは、姉妹のような近い関係だったようです。 女性がたまに現れて、しつけているような描写もある事からその女性は二人の母親ではないかと思います。
>>350 遺跡やスレを注意深く観察していくと、「ク・ソミ・ソテク」の近くにいつも 前述の「しませんか碑文」があるように思うのだが、気のせいかな…?
「しませんか碑文」については
>>266 >>269 だが、
>>269 にある『「しませんか碑文」が出るのはヤオーイ遺跡のみ』
という部分は既に覆されているな。
多くの州から発見されているのが現状。
最新の報告
「ク・ソミ・ソテク」の中に「ヤ・ラナイカ」(〜しませんか?の意)という言葉が登場する。
つまり、両者には密接な関係があると言ってよい。
ところで、「ガイドラ・イン」についての情報求む。
ヨシノヤ伝承もコレと関係あるそうなんですが。
第一次大戦後、オーストリアから分離独立した国でモナー王国という国 があったそうです。モナー王国はもともと18世紀の中頃に公国として成 立した国でしたが、19世紀のはじめの頃にオーストリアに征服され、その 後ずっとオーストリアに支配されていました。しかし、独立運動がつづい ていおり、オーストリアも自治州としての独立は認めると、譲歩を示しまし た。しかし、1892年にモナー民族解放同盟による反乱が起こり、危機感を 抱いたオーストリアは一切の独立を認めなくなり、それどころかそういう運 動を徹底的に取り締まりました(ちなみに解放同盟の反乱の指導者、ミフ ェール・モストコフら50名は処刑され、反乱に加わった者は過酷な運命が 待っていました)第一次大戦のときもモナー人に武器を持たせては危険と いうことで、1916年までモナー人兵士の仕事は労働・看護・運搬などでした。 大戦終了後、モナー人たちはモナー王国として独立を認められ、1918年に、 モナー王国(国王モナ1世)として独立しました。 モナー王国について 国名 モナー王国(立憲君主制) 人口 45万人 面積 3千平方キロメートル 人種 モナー人98%、少数民族としてチェコ人、スロバキア人、マジャール人など 議会 2院政(上院、下院) 軍隊 陸軍(正規軍1万、予備役1万)、空軍(300)、河川警備隊(400)。 義務兵制で、兵役は5年。18歳以上のすべての男子が徴兵検査 (ただし、一部の大学生は免除)を受ける。軍の最高司令官は国 王。 教育 義務教育は初等学校5年、中等学校4年の9年。高等学校は3年、 大学は6年制。 通貨 モネー 首都 モナー(人口29万) 産業 農業(45%)、観光(32%)、軽工業(12%)、その他
モナー王国の終焉 モナー王国は独立後しばらくは安定していたが、1926年の陸軍のマニュ ネム中将によるクーデター(未遂に終わり、首謀者のマニュネムいか12 名が処刑)以後、政情が不安定となり王への不信も高まった。1930年に はモナー1世は退位し、息子のモナー2世が即位して、たてなおしを図っ たが、世界恐慌のあおりも受けて失敗。1934年の陸軍のムサイ大将に よるクーデターでモナー2世は退位し、ムサイが国王として即位した。し かし、これを見たオーストリアがムサイに圧力をかけて1936年にこれを 併合。ここにモナー王国は消滅した。
356 :
世界@名無史さん :03/05/18 12:49
357 :
世界@名無史さん :03/05/19 17:48
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
モナー朝の遺跡に「コスーゥプレ」または「コスップレ」という言葉が 時々見えるのですが、一体何なのでしょうか? 同じところで出土する壁画に宇宙人のようなわかりにくい絵が あるのです。 もしかしてこれとなにか関連性があるのでしょうかねぇ… このことについて既にどこかの文献に出てますか? モナー朝史は謎が多くて歴史の流れを理解するのが なかなか難しいです。
360 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/05/27 20:22
>>359 「コスーゥプレ」または「コスップレ」ですね。
「コスップレ」が一般的な呼称なので、以後、こう言います。
始めに言及したのはエルネスト・モナンでした。
彼は付随する壁画やAA陶器に注目し、モナー朝前期には見られず、
「2ゲット」「東土見奇聞」(八世紀)には見られず、十一世紀に
入ってから急速に普及したこと、またこれらは明らかにモナー人の
様相ではなく、フランス人、ドイツ人、あるいはロシア人等のヨー
ロッパ人に酷似しているものが屡(しばしば)見受けられることな
どから、戦乱等で流浪してきたヨーロッパ人あるいは中央アジアに
古くからいたアーリア系住民を描写したものであり、コスップレと
はその民族名もしくは服飾名ではないかという説を唱えました。
(「モナー典」初版 5420ページ)
しかしこれらはヨーロッパ人の風俗風習には全く見られないものが
多かったこと、ヒーロ(偶像?)と呼ばれていたらしい宇宙人のよ
うなものも周辺諸国に全く痕跡が無い事、更に同一のものが広範囲
に認められるにも拘らず、極めて短期的集中的であり、またそれぞ
れの連続性一貫性が極めて乏しかったことから民族名説は疑問視さ
れるようになりました。
361 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/05/27 20:23
この論が転帰を迎えるのはクレモナ大学のモラーニ教授が提唱した 説からです。彼はコミーケ州がコスップレの始原であり、さらにア ニンメ州、ゲム州と極めて密接な関係にあることを突き止めました。 さらにモナー朝文化を嘆いた酉和 彦の書間から、酉和が文化の退廃 を嘆いているのはこれらの州を見聞してかららしいと推定し、モナ ンの異民族説を否定。コスップレはコミーケ州由来のものであり、 また一定の服飾等を示すものではなく、この州でよく見られたマツリ名 もしくはマツリで行われる行事を示すものではないかというものです。 (「モナー朝文化の変遷におけるコスップレの関与」 1991) 西教授はこの説を支持し、「網方見聞録」を著したマララーコ・ポ ーロの記録から後にコミケ州から独立したと推定される事、後のメ イドスタイルブームがこのコスップレ州から端を発した事を指摘し ています。 (「モナー朝のメイドスタイル」 1993) 前者はほぼ間違いないと言われていますが、メイドスタイルについ てはまだ定説に到っておりません。
362 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/05/27 20:35
>>350 本当です。
ただ作者不明のものが凄く多くて、作者名のはっきりしているものは
ごく僅かです。ヤ・マジュンは有名ですが、彼を騙ったものの作品も
少なからず見られます。大抵は「ドキュソ」による「コピ・ペ」もので
すが・・・人気作家の宿命でしょうね。
あと
>>348 に書かれてあるとおり、悪態の物語がかなりおおい。
「ドキュソ」はこういったものを好みましたから、まぁ沢山残っている
のも当然ですが。
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
364 :
世界@名無史さん :03/05/29 15:20
あ
365 :
世界@名無史さん :03/05/29 20:35
366 :
世界@名無史さん :03/05/29 20:53
ところで、モナー朝の構成民族は 「モナー族」「ギコ族」「シイ族」「イヨウ族」「ぬっへっほー族」 「サイタマ族」ですよね・・ 敵対民族として「ニダー族」「ヤマザキ族」がいたとか・・・
367 :
世界@名無史さん :03/05/30 00:16
368 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/30 00:18
>366 モナーも大耳・小耳などに分かれていたようですが。
モナー朝初期に見られた「マルミミ族」が歴史から消え去ったとされるのは なぜでしょうか、一部モナー族においては祖霊崇拝のような形で細々と伝承されていたと聞きますが 彼らは何処に行ってしまったのでしょう
370 :
世界@名無史さん :03/05/30 20:07
>>367 この研究者の、ニダー族についての解釈は、我々と開きがありますな。
371 :
世界@名無史さん :03/05/30 23:29
>367 どうやらこのページの研究者氏は、西方のナンミーンにより伝えられた、「西伝モナー史」を研究されている方のようですね。 このスレで語られてきたのは『東土見奇聞』を基礎とする「東伝モナー史」で、 江戸時代の折衷学派の儒者で、必殺仕事人差配職を兼ねた茂名村主水が、『東土見奇聞』に注を付けた 『東土見奇聞集注』を研究の起点にしています。集注は主水が後モナー朝の使臣から聞いた内容を 元にしているため、どうしても後モナー朝寄りになりがちです。 ニダー族(アサピ族と同一説有り)はナンミーンと為った後は善良になったらしいので、西伝モナー史に 於いてはさほどニダー族を異端視しないのです。むしろシィ族を異端視していますね。
372 :
世界@名無史さん :03/05/31 22:47
>>371 アサピ族は種族ではなく特定の思想集団ですよ。どの種族でもなれたそうです。
あとシィ族の迫害はギャークサーツボウとよばれる異常集団のしわざですよ。
373 :
世界@名無史さん :03/06/08 22:00
揚げ
モナー朝には女帝はいたのですか
375 :
世界@名無史さん :03/06/09 01:45
いました
茂名雑誌大全に収録されている判決文の多くにみられる「イッテ・ヨ・シ」なる言葉ですが、どういう意味なのでしょう? イブン・バティストゥータによると「死を命ず」とのことですが、この判決を受けた者はかえって活動が活発になることが多いので誤りのようです。
最近唱えられている、大耳族は戦士階級であると同時に 辺境地方における交易を担っていたという説は本当でしょうか。 その説によると「タリー」というのは割り符を意味する英語の"tally"と同様、 ラテン語の"talia"ないし"talea"から派生した語で、 大耳族はこれによって周辺民族と勘合貿易を行っていたというのですが。
378 :
世界@名無史さん :03/06/10 11:51
禿
379 :
世界@名無史さん :03/06/10 17:03
>>374 >モナー朝には女帝はいたのですか
公式記録からは抹消されていますが、実はいました。
女帝の名はJOYといいます。王家の傍流の血筋で、教育はほとんどうけていません。
夫と弟の力をかりて宮廷クーデターを起こし、即位を宣言しました。
しかしマクハリ宮殿での酒宴の席で、無実の宦官を殺すという事件があり、
人心は離れてしまいました(マクハリ酒宴事件と呼ばれています)。
伝聞によると、女帝の娘である幼い皇女が「宦官が私の悪口を言った」と女帝に告げ、
真に受けた女帝は宦官を全員呼び集め、そのうちの一人を夫・弟に命じて殴り殺させた
ということです。
即位前の悪事(税金横領―これでクーデター資金を貯めた―、自ら御した馬車で子供を轢き、
もみ消しのため子供一家を処刑)も露見し、女帝はメアリ・スチュワートのように
王宮を追い出されました。
その後の消息はまったく伝わっていません(秘密裏に暗殺された可能性大)。
その後も民衆はJOYという言葉が聞こえると耳を塞いだということです。
最近、モナー国の民話を読んだのですが、ケンカのシーンに 「IP抜いたろか、ゴルァ」というセリフがよく出てきます。 これはどういう意味なのでしょうか。
381 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/06/17 02:06
>>376 正確に言うと「死するに相応しい」「自決を勧める」という糾弾の意味です。
あれは判決文中の言葉ですから「死を命ず」でも誤訳という訳ではないのですが、
この判決というのが必ずしも強制力を伴わないものでして、故に活動が活発にな
ることもあったのです。殺される前の足掻きですね。
382 :
p197.net102.tnc.ne.jp :03/06/19 17:05
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
美術史を修め始めて間もない者ですが、ダ・ヴィンチの名作「モナリザ」の モデルとなった女性、それから印象派の巨匠モネ、この両名はモナー朝と 何か関係があるのでしょうか。
384 :
世界@名無史さん :03/06/19 22:11
385 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/06/22 17:02
386 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/06/22 17:34
>>380 「ゴルァ」は恫喝の常套句であることがわかっていますが、「IP」については全く不明です。
ただ仮説として考えられているものはあります。
まずモナー族は個人の秘密を非常に重視します。
「ナナーシ(あるいはその変形)」と呼ばれる一般呼称や、あの耳つきの套でさえ個々人の
情報を秘匿する手段であると言われています。そしてモナー族が脅したり訴えるには、し
ばしばこの個々人(の素状を)晒す方法が採られるのです。
またモナー族はいわゆる「弾劾主義」的な方法を採っていまして、何らかの訴えがあって
皆はじめて動き出します。そしてそして刑罰もまた個々人を晒すということが行われます。
「ヒキ」はその最たるものかもしれません。
以上から、この「IP」は脅される相手が秘匿したい何らかのもの・・・個人を断定しうる符号
のようなものではないかと考えられる、というものです。
しかしそれならば「公開する」「晒す」という述語が使われるはずであり、この「抜く」というの
は何を意味しているのかがわからないという反論も非常に多いです。確かに私もそう思い
ます。日本語でいう「タマ」のような、生命力を維持する鍵のようなものではないかという方が
より合理的な説明ができるのではないでしょうか。
モナー朝の手形について。 「ギコナビ」「ホトゾヌ」「カチュ」などと呼ばれていたそうです。 通称立国であったモナー朝において、マナーの良い旅人を保護するために作られました。 これを持っていると関所通行時に非常にスムーズに通れ、また、各地の倉(ダット)や図書館にて文物の自由な閲覧を許されました。 また、サクージョ・ニンとアラーシの間で戦闘が起こっているとき、旅人は締め出されるのが普通でしたが、 これを持っている人に限り戦闘中にも関わらず自由にその地域を歩き回れるという優れもので、 しかも無料で配布していました。 しかし、王室の狙いに反して意外なほど広がらなかったようです。
先年ガイドライン地方の石窟寺院から大量のコピペ経典が発見されて 話題になりましたが、私はこれらコピペ文化にイスラム商人が与えた 影響について興味を持っています。 私の乏しい知識では「25歳。去年まで金無し君だったけど」のコピペが 商人たちのもたらしたものらしいということですが、こういった例は ほかにもあるでしょうか? 修士論文のネタにと思っているのですが…。 また、このような経典がなぜガイドライン州に集められたのか、 いまひとつ合点がいきません。
>>388 ガイドライン州は巨大な市場で有名で、他の州で作られた織物(スレ)や陶器(AA)などの品が
有名なものからその亜種まで、数多く出入りしていたようです。
「あそこに行けばたいていの物は揃う」と手記を残した学者もいたとか。
390 :
世界@名無史さん :03/07/09 20:44
で、なにか?
>>387 >>しかし、王室の狙いに反して意外なほど広がらなかったようです。
うちの教授によると、手形は難解な言語で書かれてあり、その文面を定期的に
書き換える必要があったそうです。
そうしないと関所の事務手続きが遅れてしまうためです。
また、一個人に対して発行される物であるため、隊商団や大手神殿に属している
人たちは自由にインスト・・・じゃなかった利用することができなかった
そのため、その利便性のわりには利用者が伸び悩んでいるらしいです
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
394 :
世界@名無史さん :03/07/20 19:40
いったい上の文章はどの場所から発掘されたものですか? どのような人物がかいたのですか?
∧_∧ (・∀・∩) (⊃ ノ /( ヽ ノ \ / し(_) \ ←皇帝 / 【モララー様】 \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ /∧_∧ ∧_∧\ ←貴族 / ( ´∀`) (・∀・) ( ´_ゝ`) \ / 【モナー】【ジサクジエン】【ふーん】 \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / (-_-) ∧_∧ ∧_∧ ((( )))\ ←役人 / (∩∩) < `∀´> ( ´Д`) ( ´Д`) .\ / 【ヒッキー】 .【ニダー】 【八頭身】 【1さん】 \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / ∧∧ /■\ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧∧ ∧ ∧ \ ←地主 / (,,゚Д゚) ( ´∀`) ( ゚∀゚ )( ゚∀゚) ミ,,゚Д゚彡 ( ´ー`), \ / 【ギコ】 【おにぎり】 【さいたま】 【フサギコ】 【シラネーヨ】 \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / .∧∧ ノノノノ ● ●、 円_円 | | λ_λ \ ←平民 / (=゚ω゚) (゚∈゚*) \ ¥・∀・¥ ( ・∀・) ( `ー´) \ / 【ぃょぅ】 【クックル】 【ぞぬ】.▼ | 【マニー】 【マララー】 【ネーノ】 \
新史料追加 奴隷 ∧,,∧ ∧,,∧ ∧η∧ ハハ ∧,,∧ (;Д;,,) ミ,,;Д;ミ (;Д;,,) (;O;) ミ,,・∀・ミ 【ちびギコ】 【ちびフサ】 【レコ】【ベビギコ】【ぎゃあフサタン】
397 :
世界@名無史さん :03/07/21 01:50
近隣にはフタバ国という世界最大の色町があったそうな。 そこでは少女を愛する炉利などがいて、 一種の浮世絵といわれているドウジンなるものもあった。 総じて、モナー朝の人間は童貞率が高く、幼女や二次元に逃げがちであったという。
フタバ国はモナー朝の爛熟期から衰退期にかけて興った新興国ですね。 どうしてもその性的な文化の面ばかりが語られがちですが芸術的にもなかなかのものがあったようです。 で、そのフタバ国に伝わる「シポン(あるいはシポーン)」と呼ばれる遊女の伝説は史実に基づくものなのでしょうか? 大食という悪癖を持ちながらながら非常に可愛らしい美人であった故にフタバ国の皆に愛されていた彼女ですが、 ある特定の男と口づけを交わしていたことが発覚したせいで国を追われることになった…というものなのですが。 色の王国ことフタバ国にしてはそれらしくない(キス程度で追放?)エピソードなので少々気になります。
399 :
世界@名無史さん :03/07/28 07:17
ageます
400 :
世界@名無史さん :03/07/29 11:29
モナー朝全期を通じで、国内のニダー族と憲官(民兵)の間の抗争が続いた。 コピペ品陶器(AA)に描かれた図によると、憲官は激しく抵抗するニダー族を 捕らえた際には「ファビョーン」と称する火刑に処したようだ。(異説あり) このことはニダー本国の怒りを買い、たびたびモナー朝はニダー朝の攻撃に さらされた。ニダー軍は「エフグォ」という武器に長けていたとされるが それがどんな武器であるかは不明。一説によるとそれは汁であるという。 宮殿前でニダー朝の軍使が掲げた戦書には「モナーびとに告ぐ。 悔い改めざれば汁を与えん。」とあったことが多数の文献にある。 モナー朝初期においては「憲官はこれコヴァ族なり」とのニダー族の文献がある。 しかし時代が下ると「コヴァ族はニダーの手先」とする憲官文書が多く現れる。 これは憲官の間でニダーを討ち払う神として信仰された胡神ブーシュについて コヴァ族神官が「世界を破滅させる大悪神」とする教書を発したことにより コヴァ族とそれ以外の憲官が分裂したことによるとされる。 一説によるとかつてコヴァ神殿はニダー族に好意的であり、神殿草創期には ニダー族の信者も得ていた時期もあるとする研究もある。
401 :
世界@名無史さん :03/07/29 11:31
〜1001ストッパーが壊れた!?〜
科学板のとあるスレで、1001ストッパーが壊れ
1001以降もまだ書き込みできている模様。
1001 名前: 1001 投稿日: Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
1006 名前: マロン名無しさん 投稿日: 03/07/28 06:25 ID:Z0CeMHS7
何これ
1014 名前: マロン名無しさん 投稿日: 03/07/28 06:25 ID:AxlwdY4A
お〜い、まだ書けるぞ?
書き込みは1300レスを過ぎた今も続けられている。
●最もレス数の多いスレ(1001ストッパー導入後)
1位 12535レス(1001ストッパー5904)
ギガウイング2
↓のスレに直行し、2ちゃんねるの歴史に名を残そう!
http://science.2ch.net/test/read.cgi/future/1056396418/50-
402 :
世界@名無史さん :03/08/02 01:40
唐揚げ
∧_∧ ∧_∧ ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕 = ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
CX族の27時間作戦を妨害した件に詳しい方はいませんか?
405 :
世界@名無史さん :03/08/26 22:03
age
406 :
世界@名無史さん :03/08/26 22:09
毎年、約1万組の日韓結婚。 それに伴なう朝鮮化した混血児。 年間、日本の新生児約100万人のうち、 約1〜2万人の新生児に 容赦の無い朝鮮人の血が流し込まれている。 また、韓国朝鮮人の帰化が年間約1万人も!
407 :
世界@名無史さん :03/08/29 15:00
モミーカ・タ・オカが流浪の身でありながら 将軍にまで登りつめることができたのは 女性問題で上手く立ち回ることができたかららしい
408 :
世界@名無史さん :03/08/29 18:54
近年異常に山崎族が増加した。 彼らは密集地においては過激(荒らし)派が多く、過疎地においては保守派が多いという特性を持つ。 実際、彼らに保守られたスレは数知れない。 少数の関係においては以外といい人なのかもしれない。 まるでどこかの国民のようだ(w
409 :
世界@名無史さん :03/08/30 14:14
>>380 ,
>>386 >>321-322 で「フー・ジャネイ山」について言及されています。
まず、そちらからお読みください。
『東土見奇聞魂』では魂を神に捧げると書かれていますが、私は碑文にあたって具体的にどのような
ことをしていたのかを調べました。それによると、まずフー・ジャネイ・ザンというのは山の名前ではな
く、その山で取れた薬草の名前です。この薬草を飲むと血の色が変色し、どのような血の色になるか
によってその人の出身地が分かるというものだったようです。この血の色のことを「IP」と言っていたよ
うです。当時、自分の出身地を明らかにすることはかなり勇気のいることだったようで、フー・ジャネイ・
ザンで自らの出身地を明らかにすることで血統の正しさを証明していたといいます。なお、性質の悪い
イタズラで「不老不死の薬だ」とか「精力増強剤だ」などと言ってこのフー・ジャネイ・ザンを飲ませるこ
とがあったようです。これを真に受け、自分の出身がばれて大恥をかいた人がいたという記録も残っ
ています。
ちなみにこのフー・ジャネイ山の「フー」が転じて英語のwhoになったと言われています。
○ 「型痢」と「フー・ジャネイ・ザン」と「ト・リップ」の関係について このフー・ジャネイ・ザンという薬に「型痢」を防ぐ効果があったのは確かです が、自然に生えている薬草だったので、飲んだ人の体調によって血の色の変 わり方が違うという問題があったそうです。この問題を解決するために「ト・リ ップ」というものが開発されたそうです。これは化学物質を調合したもので、飲 んだ人の体調に関わらず安定して血の色を変えることができることから重宝 されたということです。
411 :
世界@名無史さん :03/08/30 18:23
「フー・ジャネイ・ザン」については様々な伝承が在るようですね。 私が採取した伝承によりますと、クラカと称される魔術師の一人が 最高神ヒーロ・ユーキのみの起こしうるはずの奇蹟を起こす薬草を発見し その秘密を公にしたため、大混乱が生じた。 このことはヒーロ・ユーキの怒りを買い、薬草を服用した者の血の色を 一人残らず変色させてしまった、というのが「フー・ジャネイ・ザン」の 起源とするものです。
412 :
世界@名無史さん :03/09/01 02:07
モナー朝において、ドクオ地方はかなり奇異な宗教を有していたようです。 男性しかドクオ教徒にはなれないという戒律があり、「ドクオ」とは 信徒のことをさす言葉です。 上級神官は「神聖童帝」と称され、一切の女と交わらないことが要求されました。 それより下級の僧侶は「素人童帝」と称され、遊女と交わることは許されていたようです。 「ヒキ」の刑(前述)に処された者や「キモ」の刑に処された者(この刑を受けると 女性と交われなくなるというので宮刑と思われる)が多く流入していたようです。 バナ(石碑)資料によるとイーケメン族がこの地方の先住民だったようですが ドクオ教徒が支配的になるとイーケメン族は激しく迫害されたそうです。
413 :
世界@名無史さん :03/09/01 02:21
ドクジョ地方の風習キボンヌ。
>>412 最近の説では「ヒキ」や「キモ」に処されたものが自己防衛のために作り上げた
宗教だとも言われていますね>ドクオ教
性的なことに関しては厳格であった彼らですが、文化面では割と自由かつ
活発であったようで「ドーセモ・テナイシ」とよばれるおとしばなしの様なものや
「ギシアン画」とよばれる現代で言うところの漫画の様なものが盛んに出版されて
いました。
ギシアン画はAA陶器の柄にも影響を与えモナー朝全体に広く知られるところとなりました。
モナ10世のあたりでは「マンドクセ」(ドクオ教典に現れる、血気盛んを戒める呪文)という
言葉が一般モナー人の間にもかなり膾炙していたようです。
415 :
世界@名無史さん :03/09/04 21:52
>>413 モナー全域で広く資料が発掘されるドクオ教とは対照的に
ドクジョ地方に関しては資料も少なく、まだまだ未解明の部分が多いのです。
現在まで採取された伝承によると、住民は極めて気位高く信仰心が篤い。
悪神「イキオクレ」を恐れること尋常ではなく、解脱の境地(ターマ・ノーコシー)
に達するための修行を、ほぼ全住民が励行しているといわれ
諦観に徹することを目指すドクオ教徒とは大きな対称をなすとされた。
>>415 数少ない記録によると、ドクジョ地方は法の厳格さで知られていた。
この地の慣習法「ロオカ・ルルール」では、ドクオ教徒及び「鬼女」
(何を意味する言葉なのか諸説あり)の進入を禁止し、極めて
閉鎖的な社会の維持を目指していたという。
しかし、貿易立国であるモナー朝においてはこの条項の厳守は
事実上不可能であり、この地方の住民の実に4割程度をドクオ
教徒が占めていたという記録も残っている。
また、これも今後の研究が待たれる所であるが、この地方の住民
は「30」という数字に嫌悪とプライドの入り混じった複雑な感情を
抱いていたようだ。倉庫跡から出土するスレの多くに、30と言う数字
と呪いの言葉、あるいは人間の尊厳を謳った言葉がセットで綴られ
ている。
>359 モラーラ朝の太祖建国帝マタリ・モラーラが定めた身分制度「マタリ制」ですね。 「一帝二モナ三八(頭)四ニダ五ギコ六さい(たま)七フ(サ)八ぃょ九ベビ十ぎゃぁ」 といわれる通り、モラーラ朝が朝貢していたモンゴルの身分制度の模倣である、 とされています。 最下層におかれたギャアフサ族はみな男女を問わず売春以外に仕事がなかった、 ぃょぅ族以下は官吏になれなかったなど、かなり厳しい身分制度だったようです。 また、最上級とされたモラーラ族には切捨御免に似た「虐殺許可」という 特権があったため、無法な殺人が多かったとされています。 反面、モラーラ朝建国に功績があった為、ニダー族は色目人に準ずる扱いを 受け、高官に就き激しい収奪をおこなった為庶民の反感を買いました。
418 :
世界@名無史さん :03/09/06 13:47
モナーの民が忌み嫌ったという「ヤマ・ザキ」とは何ですか? 妖怪とも、織物スレを食い荒らす害虫ともいうが。
419 :
世界@名無史さん :03/09/06 14:59
初めてモナー朝の史料を見たときから気になっていた、 『ゴ・ヴァーク』 とは一体何の事なのでしょうか。 そのあとにある 『イッ・テ・キマス』と共に不明です。 教えてください
>>418 >>408 には山崎族というものが出ていますが、それとの関係は不明。あるいは
部族名の語源ではないかと言います。ではこの場合は何なのかというと、悪
意を持った人間の意志が虫に変じて(霊魂が虫の形をとるという話は大林太
良先生の著作を参考になさって下さい)、多くの人々の記憶を呼び起こすと
いう信仰があり、その妖怪虫の事を指したそうです。
嫌な思い出を出された事もあればいい思い出を出されて喜んだ事もありまし
たが多くの場合過ぎ去った過去を呼び起こされる事は歓迎される事ではなく
各地で暴動が発生し、犯人探しも行われました。
なおこれに対し政府が何の対応もしなかった理由は今なお不明です。ボル・
ジョアという亜種も存在したといいこれ等を総称して「ムサベ」と言いました。
最近の研究でいくつか発見があったので発表しておきます。 @「宝」に関しては私の専門分野ではないので詳しくは知りませんが、中国 東周朝の秦で「陳宝」と呼ばれる二羽の雉の神が姿を現し、そのうち雌の方 が「宝夫人」として祠を建てられ、崇められたようです。ちなみに当時の記 述では「雄を得る者は王と為し、雌を得る者は覇と為す」と紹介されていま す。
Aモナー朝の輸出品のひとつであるアスキーアート式陶器の贋作の製作過程 において、「ミギク・リクー」と呼ばれる高度な技術が使われていたようで す。そこでは「カソル」と呼ばれる、粒子の直径が数十から数百μmの砂に 水を加えてペースト状にし、それを本物の陶器の回りに塗って乾燥させるこ とで型が作られました。もともと砂の粒子が細かいため、出来上がった型を 用いて作られた贋作は本物とおよそ250μmの誤差しかなく、ベテランの目利 きでも容易には見分けられなかった、とされています。出土した型の分析の 結果、「カソル」は火山灰の一種であり、モナー朝があった地域の地質では 見られないものであることが判明しました。「カソル」の流入ルートに関し て何かご存知の方から情報をいただけるとありがたいです。
Bモナー朝最大の謎の一つとされ、外征でたびたび活躍した「タシロ砲」お よびその砲弾が先月出土しました。私の研究室での化学分析の結果、砲弾か ら珪素とニトログリセリンが検出され、当時におけるダイナマイトとよく似 た起爆剤の使用が確認されました。砲身の腐食の度合いから年代測定を行う と、タシロ砲は西暦3〜4世紀以前には既に発明されていたことになります 。ユニクス団のトンネル貫通工事に関する記述では、起爆剤として唐の火薬 が使用されたと述べられていますが、6日以内にそれまでの16倍もの通行量を 許容するだけのトンネルを掘るには、ダイナマイトを使わなければ不可能で す。したがってモナー朝では、外交戦略上ダイナマイトの存在は伏せられ、 表向きには唐の火薬と説明していたと思われます。ただし、これ以降ダイナ マイトおよびタシロ砲に関する記述が全く見られなくなったことから、比較 的早い時期においてダイナマイトの使用目的が軍事から建築に転換され、や がて廃止となったことがわかります。これは、ダイナマイトの破壊力が危険 視され、社会的圧力により消滅したためと思われます。したがってノーベル はダイナマイトを発明したのではなく、再発見したと言えます。
424 :
世界@名無史さん :03/09/08 23:32
プッ教との関連が指摘されているフーン族の資料を探しています。
425 :
世界@名無史さん :03/09/09 21:41
>424 どなたかお詳しい方の降臨を待つとしましょう。 > モナ20世はこれら自国の文化を強く愛し、 > 「ネコミミとメイドが何より好き!!」 > と叫びながら王宮の周囲を3周し、ビザンチンからの使者 > を驚かせた、という記録が残っています。 当時のビザンチン帝国は首都と周辺のわずかな村落を除いて オスマン帝国に包囲されており、1400年にはわずかな包囲の 隙をついて皇帝マヌエルII世直々に援軍を求めて西欧各国を 訪問しています。 この時、西へ向かった皇帝とは別に、東へ旅立った使節がい ました。 彼らはビザンチン皇族とも縁深いモナー朝にまで達するので すが、当時のモナー朝は内乱に明け暮れる状態が続いており、 使節が望んだ結果は得られませんでした。 使節が市井の商店にて入手したと言われるア・スキア・ト様式 の細密画は、1453年のコンスタンティノープル陥落時の混乱で 一部が焼損する憂き目を見ました。
【使節が持ち帰った細密画】 ,,v‐v-/l_ (⌒) _「/ ̄ く / lYノノ/_ノl_ヽ)) <イ( l l )l> / ̄ ̄  ̄ ̄  ̄ <|)'|l、"(フノ|l < ■■■なのは■■■いと思いま■! ,(ヨリ<>o<>リ'] \___ __ _ |ト‐!]-ム- i']l ヽ_ノv__l/ / . ノ[//‐─‐/_/、 ( /E|, (フlヨ \ ,-| El___lヨ / └-\`^^^^^^´/  ̄ ̄ ̄ 画像の女性はメイド装束でありながら、その表情には怒り を露わにしており、これは内乱が続く当時の世情を戒める 女神の画像だったのではないかと推測されています。 また、この画像にはネコミミは検出されないことから この画像以外にもネコミミを伴ったメイドスタイルの画像 が存在していたとも言われます。
モナッサの屈辱といわれる事件について教えてください
ウツダー首脳会談が本日執り行われました。 ム・シッロー=イキロ補佐官の会見では話は以前平行線に終わり 協議はもちこしとなりました。
ゲオルギコ・フッサール Georgico Hussarl (1863-1936)
1863年4月8日、モラヴィア北東部ジュシェジエーツ(ドイツ語名ジサーク
ジエン)のユダヤ人街に生まれる。本名ゲオルク。父ヨフーンは布地問屋を
経営し、母シィルビアはナンミーン(※
>>119 参照)の富商ダッコフ家出身。
現象学の大家エトムント・フッサールは4歳違いの従兄弟に当たる。ゲオル
ギコという特異な名前は、幼い頃母親をはじめとするダッコフ家の人々に
付けられた愛称から採ったもので、ベルリン大学入学後から使用しはじめ
る。なお、通常の名前の後に−ikoあるいは−monaを付けて愛称とする
のはナンミーンの習慣である。
正教徒(母)を家に迎え入れたことで、一家はユダヤ人社会からやや孤立
状態にあり、回想録によると幼いゲオルギコはナンミーンの居留地「ヒナン
ジョ」で過ごすことが多かった。ここでモナー人の故地に関するいくつかの
伝承を耳にしたことが、後にモナー朝研究に向かわせた原動力になって
いるといわれている。
オルミュッツのドイツ語ギムナジウムに入学したころ、フェルディナント・ フォン・リヒトホーフェンの中国探検の記事に接し、地理学や歴史学、特に 内陸アジアへの興味をかきたてられる。1881年ベルリン大学(現フンボル ト大学)に進学し、ランケ門下で歴史学を学ぶ傍ら、大学付属東洋語学校で ペルシア語を習得し、モナー朝やサーマン朝、カラキタイなど中世中央アジ アにおける諸勢力の研究を開始。1884年にライプチヒ大学に移り、リヒト ホーフェンに地理学及び言語学を師事する。この時期にアラビア語、チャガ タイトルコ語、漢文を習得したほか、言語学者エルネスト・モナンとの出会 いを通じてモナー語研究に取り組むこととなる。学位論文『カラキタイに おけるイスラム知識人の活動について』(1886)や教授資格論文『中央アジ アにおける非トルコ系諸勢力の交易行動』(1889)は注目を浴び、その後の ドイツ中央アジア史研究の隆盛に大きく貢献する。
1889年にフライブルク大学に招かれ、以後退官まで同大で歴史学を講義。 1903年から1906年にかけて発表された『中央アジア研究』全3部が認めら れ、1904年に員外教授、1907年には正教授に昇格。1908年に発表され た『歴史研究の在地性について』では、トルファンにおけるドイツ隊の壁画 剥ぎ取りを痛烈に批判し、以後の論争の魁をなした。モナー朝をはじめと する彼の研究の集大成として1928年に出版された『モナー朝』(邦題『幻の 国家モナー朝〜その娯楽とネタ』、民明書房、1946)は、現在に至るまで 中央アジア史研究に欠かせない書となっている。 また、モナー諸語の研究では、モナンとともに『網の愚者年代記』(1897)、 『2ゲット』(従来のアラビア語からの重訳本に対し、初めて古低地モナー語 から直接翻訳に成功した。1901)、『ソンナーコ・トヨリモ〜モナー朝叙事詩 選集』(1909)など精力的にモナー諸語文献の翻訳を実施。1911年からは モナー典プロジェクトの発起人として事典の編集に奔走、第一次大戦期の 中断を経て1921年に『モナー典』を完成させるなど、モナー朝研究という 1分野を短期間に築き上げた。
1932年退官し、故郷のジュシェジエーツに隠棲するが、その後ユダヤ人で ある自分の研究成果がナチスによって否定されるのを目の当たりにし、心 痛のあまり病床に伏すようになる。1936年、50年連れ添った妻シィンゲ ボルグに看取られ死去。享年73歳。
フッサールの歴史学は、実証主義の限界を認識しながらも、厳密な文献 解釈に加えて俗謡の分析や図像の解釈など多様な手法を併用することに よりトータルな歴史現象を再構築することを強調する。ランケの強い影響下 にありながらもより柔軟な姿勢を持つものであり、ブルクハルトやホイジン ガなどにも大きな影響を与えた。 ベルリン大学で同門のマイネッケやリースとの交友は長く続き、なかでも フライブルク大学でも一時同僚だったマイネッケとの往復書簡は222通に 及んでおり、一部は出版されている。 また、従兄弟のエトムント・フッサールとも長く良好な関係を保ち、1916年 のエドムントのフライブルク大への招聘に尽力したことも知られている。 なお、ベルリン在学中に付属東洋語学校で巌谷季雄(小波)について日本 語も修めており、門下生の居間野宇智によると、フライブルク大留学中の居 間野に対してたどたどしい日本語を披露し、笑いを誘っていたという。
居間野宇智って「今の内」のネタじゃなく実在した人なの?
>>434 もちろんですって。確かに「いまのうち」とも読めますが正しい姓名は
「いまのたかとも」ですね。
まあ、彼も日本人の友人にはずいぶんネタにされたようですが。
彼のあだ名といえばもう一つ、フライブルク大時代の「ナー・カノヒト(間抜けな
大砲さん)」が有名です。
彼は気に入った本があると平気で読みながら歩いたそうです。一応口では
「すいません、ちょっと通りますよ…」と言ってはいるのですが、全然前を見て
いないので通行人にぶつかるわ部屋に乱入してものをひっくり返すわで
さんざんに恐れられていたとか。
と、私もあまり詳しいわけではありませんが。誰か評伝キボンタ。
いやはや、たいしたものです(・∀・)
437 :
世界@名無史さん :03/09/11 18:44
太陽を崇拝していたというサイタマ族ですが、その経典や儀式の式次第についての 研究はなされていますか? 大陽を背にして二人が叫ぶ壁画しか知らないので。
438 :
世界@名無史さん :03/09/11 19:48
タカラ家でしたっけ? ギコネコの生産技術を無断で盗用しようとしてモナー朝に征伐された没落貴族は。
居間野宇智 いまの・たかとも 1900-1963 東洋史学者。雅号仲人(ちゅうじん)。モナー史研究に新展開をもたらした人物。 東京小石川の漬物屋「居間野屋」の次男として生まれる。宇智という変わった名を 付けたのは、同じ町内に住む儒者茂名村賀那斎(主水)である。茂名村は、 モナー語「イマノウチ」(現時を幸いとす)と、淮南子の「宇を天という」からとって 「今のよいときに生まれた宇宙の智恵を身につけた人物」という意味の 「宇智」という名付けをしたそうである。 幼少のころより茂名村賀那斎から江戸モナー学と四書五経を習い、 長じて京都帝国大学で内藤湖南に師事。湖南の実証的な学風に強く共鳴した。その後湖南の助言によりフライブルク大学に留学。 生涯の師、ゲオルギコ・フッサールにめぐり合うこととなる。 高水準にあった江戸モナー学の伝統を受け継いだ居間野は、フッサールが余り得意としなかった 漢文資料に果敢に挑む、フッサールを大いに助けた。モナー典編纂時の中国側文献に関する 解説は、全て居間野の筆であると言われている。 彼は洋行後の生涯のほとんどをドイツで過ごしたが、ナチスには反対であった。 このため第二次世界大戦中はヨーロッパを転々とすることを余儀なくされている。 大戦後は日本へ帰国。母校京大で教鞭を執った。 主な著書に『漢文史料に見える茂那亜国史』、『モナー典』、『茂名記聞の研究』、 『ジサク・ジエン〜モナー民俗史の試み』、『或るドキュソの一生〜自序』、 『モナー〜うずもれた猫耳の国〜』などがある。
やはり多くは残されてはいません。ジ・ミーン島にある大聖堂トーホンブにあるステンドグラスが かつてそこに「サイ・ター・マ」として描かれている名残かと思われます。 かつて55年間に渡り支配を続けていたものの突如として現れた『シシート』に大敗を期し 一族だけでは巻き返しが出来ず『コメート』という新興宗教をとりこみ、なんとか国土を回復したそうです。 なかでも『サイ・ター・マ』は突撃隊の先頭にかざられた部族の旗だったとも伝えられています。
このうち民明新書で出した『モナー〜うずもれた猫耳の国〜』は昭和25年のベストセラー第11位に名を連ねており、 これまで一般に知られていなかったモナー史を広く紹介した名著である。筆者が東洋史学を志したころは、 小林高四郎の『ジンギスカン』と並び中央アジア史入門として学部生必読の書であったが、現在版元倒産により 絶版となっているのはまことに残念なことである。 彼は非常にまじめな人間であり、儒学をもって身を律していた。ドイツ時代のあだ名「ナー・カノヒト(間抜けな 大砲さん)」も嫌っていたのだ。私はしばしば「ナー・カノヒトなどいない!ここにいるのはイマノタカトモその人である!」と 怒鳴る彼を見たことがある。しかし、妻サクラー・タンさんの姿を見ると顔が緩みっぱなしであるという微笑ましい一面を 持っていた。 妻のサクラー・タンさんはナンミーンの一派サクラー(モナー語「愛らしき姫君」に由来)の出身であり、ドイツ時代に結婚している。 妻との間に三人の子を儲けたが、うち一人がナチスに殺害されたことを生涯悔やんでいた。 1963年、難解なサイタマ族の研究に寝食を忘れて打ち込む余り、体を壊し急死したことは、大いなる学会の損失であった。 死後学士院会員に列せられている。 岡義古『モナー朝研究史・第2章モナー典編纂群像』より抜粋。岡氏は居間野の門下。
>>441 居間野宇智の妻をサクラー・タンと表記するのは、岡先生が早とちり
しちゃったせいで、本当の名前はサクラー・カルトカプトゥーレ Sacra
CardCapture だよ。
居間野先生がいつもサクラー・タンとよんでたのは、女の子の名前の
後ろに -tann や -taso(tasso) をつける、というモナー朝時代からの
習慣があったから。男の子だと、上に出てるように -monaとかになる。
これは9世紀から確認されている古い習慣で、ロシア語の -chkaなど
との関連性が研究されている。
特別に愛らしい女の子や、非常に心惹かれる物事に対しては、強調形
として -taso-haa-haa と語尾に付けたらしい。このhaa-haaは呼吸音
に由来するという説があるが、いまだ明確ではないね。
モナー朝では歴史劇が盛んであり、歴史劇を専門にするジダイゲキー板という州まで存在したほどである。
歴史劇の脚本はほとんど散逸して現存していないが、残ったものの中には歴史資料として価値の高いものが多い。
1、モナの生涯
モナー15世の政争を題材にしている。このころゴルァ派とマターリ派の政争が激しく、国は乱れていた。
宰相だったマルミミ・モナはあくまでマターリを主張、ゴルァ派に虐待されそれがもとで急死し、国は益々衰退した。
この劇ではマルミミの主張を英雄的と讃えていることが注目される。
2、ぃょぅ太平記
モナー5世期に起こった長矩公ぃょぅ虐待事件を題材にしている。
族長を惨殺されたぃょぅ族が、苦難の末に力に勝る仇敵モララー族を滅ぼすまでの愛と冒険の物語。
3、JOY姉妹
謎の女王JOYの事跡を描いたものらしいが、残念ながら散逸。記録によれば「劇の最中に観客が嫌がって帰るために殆ど上映されなかった」
といい、居間野宇智はこの劇そのものの存在自体を疑問視している。
4、ギコがゆく
宝と戦い続けたギコ1世の物語。モラーラ朝の時、ギコを無道の悪魔と見なす狂信的モララ教徒に脚本を没収された為、消えている。
5、8と
>>1 と
エエ板の豪族・八頭族と1さん族の激闘を描いた軍記もの。モナー史最大の激戦「キモイ島の戦い」が山場。
「キモイデス、チョーキライデス」(汝こそ八か、よき相手なり)
「デハサクジョイライダシテキマス」(嗚呼一よ、今こそ雌雄を決すべし)は名文句としてしばしばコピペで使われた。
6、さいたまの坂道 さいたまの物語といわれているが、全編さいたま語により書かれているため内容は不明。部分的にモナー語の書入れが見られるが、 どうやら「ジューマンゴ・クマンジュー」という食べ物をめぐる話らしい。 7、千取り物語 サ・イアーク板の隠者が、千取り合戦(スレの末尾をつかむ争い)に明け暮れた人々の狂態を風刺的に描いたもの。 8、マス板風雲録 マスコーミ州の騒乱の記録。 カトゥーオ・ゴォ・エチゼー神は剣に優れた上容姿端麗、ヤオーイの憧れの的であり、モナー朝後期最強の武人であったが、 ニダーと密約を結んだアサピ族の逆賊クーメの裏切りにより、悲劇的最後を遂げる。この劇ではエチゼ神の英雄的事跡を 誇張し、アサピ族の悪逆無道さを詳細に描いたことで人気が高かった。 「アサピ捏造の段」(アサピ族が神を貶めるために珊瑚を傷つけ、ニダーの非道を助長する場面) が特に有名。 9、 黄金の虹板(別名・脳内妹神御事跡) 「エロガゾーうp」により誕生した多くの神を讃える内容。「子供見ることあたはず」と文献にあるように、神のしもべである 12人の巫女との激しい恋愛を描いた性的な劇であった。巫女たちは「この世ならぬ美しさ」であったといわれており、 みな主人公を激しく恋慕する。 なぜか、ドクオ板で大人気であったという。
>>441 さん
>岡先生が早とちりしちゃったせいで、本当の名前はサクラー・カルトカプトゥーレ Sacra
CardCapture だよ。
え、そーだったんですか・・ところで、 カルトカプトゥーレって何の意味なのでしょうか・・
神か何かの名前なのでしょうか?
>特別に愛らしい女の子や、非常に心惹かれる物事に対しては、強調形
として -taso-haa-haa と語尾に付けたらしい。
-taso-haa-haaは、サクラー遺跡から出土する文書には必ず出てきますね。
モナー朝で流行した歌謡の目録が発見されたので報告します。 今わかっているぶんでは 「マシェリ」 「チェチェコリ」 「ネン・ショ・ケー」 「アロエリナ」 これらはエエ板をはじめとして国内全土で流行しました。 替え歌が好きなモナー朝の民は、それぞれの地方に膾炙するように歌詞を変更して歌ったとのこと。 書籍やスレに表される場合、まずジエン神が歌い出す、というのが一般的だったようです。 また、珍しいものではハンカーク地方発祥の 「ミコ・ナス」という、神官と医者を兼務する人々の偉大さを称えた歌があり、 独特のメロディーでハンカークに行ったことも無い人々の心をすら広くとらえたとか。
アレから何年だ 9月13日セカンドモナパクトでモナー朝が壊滅の危機に瀕したのは。 そう、モナンゲリヲンだ!
>>422 カソルはイタリア近辺からトルコを経由してモナー朝に輸入されていたようです。
ベスビオ付近のものが特に有名で、モナー朝では「マウース・ド・ライバ」(イタリア語のモンタナ・デラ・ラバ
(溶岩の山)がなまったもの?)とその地を呼称していたそうです。
ちなみにミギク・リクーで作られたものが
>>42 で出ている「コピぺ品」ですね。
ウォタと称される下層民は基本的に蔑視・迫害を受けていた。 ウォタには幼女を犠牲に捧げる風習があるなどとモナー人の間で信じられて おり、捕らえられてヒキやキモの刑に処されるウォタも多かった。 しかしウォタは芸能、工芸に精通していることが多く、アスキ・アート職人の 多くもウォタ出身者であるという。モナー朝の文化を支えたのは彼らウォタ であったと言っても過言ではあるまい。
450 :
世界@名無史さん :03/09/20 11:04
ところでモナーといふ言葉の語源って何ですか? 個人的にはギリシア語のモナイコス(一人だけの棲家)だと推測していますが
>>450 広東の茂名県(実在するんですよ、これが)が起源とする説もあるそうです。
モナイコスはヒキの風習と関係ありそうですね。 茂名県との関係も知りたい所です。
モナー朝の軍事力は主都だったとされるヤキーン州にはなく、 ア・ンナイ地方の「アボーン・ヨセ」「アボーン・セリ」「アボーン・ギロン」の三州が保有していたと聞きました。 アラーシが乱を起こしたり、外敵が侵入したりすると即座にここへ伝わり、軍を動かしたそうですが、 首都と離れることによるクーデターなどの危険性は無かったのでしょうか。 あと、他に有名な歌謡があったら教えて下さい。
当時の地方の官吏で 司 智紐【じ ちちゅう】という同姓同名の特使がいたるところで現れたようですが 特定の人物ではなく雅号として用いられたのがもっぱらの通説です。
455 :
世界@名無史さん :03/09/22 20:10
ちょいまとめてみまふ。
モナー朝(当時はこの名称ではなかった)でAA式陶器のコピペ品がはびこって
いたころ、イタリアのベスビオからカソル(
>>422 >>448 参照)を輸入するため、
闇商人たちはイタリア、モナー朝間を頻繁に行き来していた。その時の通商路
としては陸路と海路の両方がはじめ存在していたが、労力節約のため海路の方が
よく利用されていたため、その中継地となるギリシアにモナー朝に関する多くの
情報がもたらされた。そのなかでもヒキはギリシア人に少なからぬ衝撃を与えた
らしく、「東方人(モナー人のこと)はモナイコス(一人だけの棲家)に住んで
いる」と言われるようになった。ローマ帝国ではモナー朝はモナキア(モナイコス
のラテン語形)と呼ばれ、それがアラブ世界を経てモナーに訛り、現在に至る。
歴史の先生が今日の授業で言っていたんですが、スペインのトマト投げ祭りはトマトを 投げて邪を祓うという、日本の節分の豆まきに近い意味合いがあり、前モナー朝において 邪教ユ・ウリョウの伝道師を「tomato」というもので撃退したことがその起源らしいのです。 なんでもこの邪教の伝道師はギョウシャと呼ばれ、現在日本語で使われている「業者」は この「ギョウシャ」に”業深き者”という漢字をあてたものだとか。 ギョウシャは同じ邪教のアラーシ教徒とは違い、一見プッ教徒などモナー朝に認められて いる普通の宗教のフリをして信者を集めるという、他の宗教には例を見ない方法でその 勢力を伸ばしていったそうです。 それを見かねた預言者ヒーロユーキが民衆を救うべく、モナー神に祈り授かったのが 「tomato」です。 「tomato」には人の誠実・不誠実を見分ける力があり、もし邪な心を持ったギョウシャが 近づくと、その魂を吸い取るとして大変恐れられたらしいのです。 ただ、この「tomato」については、新しい法制度とも神仏像とも言われ、詳しいことが 一切分かっていません。 個人的にはローマの「真実の口」のようなものだと思うのですが、皆さんはどう思われ ますか?
>>456 私の推測にすぎませんが、一種の踏絵だと思います。
だとすればギョウシャという言葉と同時期にtomatoも日本に伝わり、
それがキリシタンの踏絵へと変化したのかもしれませんね。
458 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/09/28 16:31
459 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/09/28 16:32
>>437 あの「壁画」について。
>>440 が述べられていますが・・・これでは少し誤解されるかもしれません。
経緯から言うと、あのステンドグラスこそ、オリジナルというか由来なのです。
サイタマ朝ができる少し前の話。
当時首都を根拠地としていたジ・ミーンのモナー党(当時)が、
>>258 にあり
ます「コーイキ行政」を動かして、DQNと見なしていたサイタマ族を包括的
に支配しようと目論んだのです。そして、トーホンブ大聖堂のステンドグラス
からヒントを得て、あのAA陶器を作りました。
このAA陶器はモナー朝全土で多くの支持を得、多数のコピペ品が作られました。
あの壁画にはサイタマ族に対する侮蔑の意味も込められていて、モナー朝の殆
ど全州に頒布したのも、実はサイタマ族ではありませんでした。このことから
しても、サイタマ族が作ったとは考えられませんね。つまるところ、あれはサ
イタマ族が崇めていたものではなく、モナー党のキャンペーンの産物なのです。
さいたま!AAの謎に迫る
http://www.turnatte.com/nezha/record/saitama.html 元々モナー朝の民、特に首都において、サイタマ族は侮蔑の対象でした。
この当時より大分前の話になりますが、「ダ・サイタマ」(垢抜けないサイタ
マ族)という言葉も流行していました。モナー朝に於いてサイタマ族の地位は
低かったのです。彼らはモナー朝先住民の流れを汲むという説もありますから、
まぁ無理からぬことかもしれません。
ですから、サイタマ族は地位向上を図らんとする反骨の士が少なくありません
でした。支配階級からDQNと見なされていたのも、彼らにコンプレックスが
あってのことでしょう。
460 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/09/28 16:33
さて、ここでアヰーカワという人物が登場します。
彼はサイタマ族の都市国家ウラーワ出身で、当時そこの首長を務めていました。
ウラーワ、オーミヤ、ヨーノーらの都市国家を統合する動きと、AA陶器のブー
ムが全土に拡がっていた機会を、彼は逃しませんでした。
彼はモナー党の支持を取り付けて統合サイタマの首長に納まるや否や、内外に
おいて積極的な活動を行いました。対外的には、あのサイタマAA陶器を逆にシ
ンボルとし、大量のコピペを頒布しています。
それからはモナー党内部の混乱や「シシート」に敗北を喫し衰退もあって、
サイタマは絶大な自治権を獲得、事実上の独立を宣言するまでに至りました。
これがいわゆるサイタマ朝です。ジ・ミーンのモナー党の企みは完全に逆手に
取られたのです。
>>440 のステンドグラスが「サイ・ター・マ」と呼ばれるようになったのも、
サイタマ朝が喜捨をしたときに名付けられたようです。表ではモナー党への謝
意を示しているのですが、皮肉、当て付けと言えなくもありません。
蛇足ですが、サイタマAA陶器の中で、あの三体がドアを開け家人を驚かせる有
名なものがありますが、これは彼らのオリジナルではなく、その宣伝活動を揶
揄したものだとされています。
461 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/09/28 16:35
さて、ではサイタマ族の太陽神信仰はオリジナルではないのかといわれるかも しれません。ここから先は私見になりますが・・・どうもそうではないようです。 といいますのも、サイタマ朝以前から「レズ・サポー」という集団があったことが 知られていますね。彼らは赤い服をよく着て他州に遠征し、その熱狂的で攻撃 的な行動でサカー州ではつとに知られていますが、この「レズ・サポー」の 「レズ」という言葉は「赤く輝くもの」という意味らしいのです。 赤く輝くものといえばモナー朝では古くから太陽を意味しており、サイタマ族 が太陽信仰をしていた可能性を示唆しているのです。 また、モナー党がサイタマ族を揶揄するためにあのステンドグラスの像を採用 したこと、それが広まったこと、そしてアヰーカワが逆手に取ったことという、 経緯から考えると、サイタマ族には古くから太陽神を信仰していたと説明する 事が合理的ではないかと、私には思えてならないのです。もし彼らの太陽神 信仰が前提に無かったならば、経緯を上手く説明する事ができないからです。 経典や儀式の式次第はどうなのかということですが、残念ながら私は詳しく説 明することができません。「レズ・サポー」を研究する事で、ある程度理解を深 められるかもしれません。
462 :
世界@名無史さん :03/09/29 01:11
ありがとうございます。 サイタマ族の紆余曲折の歴史、始めて知りました。ますます式次第を知りたく存じます。 ところで、モナー朝においては住民の体形はニ頭身が大半だったと言いますが、 稀に八頭身の者がいたと申します。この八頭身は大変恐れられていたといいますが 我が国の妖怪、手長足長と同じようなものですか?
463 :
世界@名無史さん :03/09/29 01:54
八頭身の者は優れた戦士でしたが妖怪として迫害されることもあったようです。 特に独特の「>>」模様で知られる北方の少数民族「イチサン」は極度に八頭身を嫌い 八頭身から逃れるべく移動を繰り返したといわれます。
464 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/09/30 23:25
このサイタマ族が先住民族であるという説。
いくつか有力なものがありますが、その一つは
>>198 にあります「ドコモ朝サイタマ」
の歴史。この国はしばしば「サイタマ朝サイタマ」と混同されるのですが、サイタマ
朝がモナー朝中期に建国されたものであるのに対し、このドコモ朝成立はそれよりず
っと前のことで、全く別の国家です。
詳しくは
>>218-219 に讓りますが、このドコモ朝。
モナー朝黎明期に「ドコモ(広末)の変」でモナー族に制圧され滅亡します。
このときの戦争理由に『伝統あるドコモ朝サイタマの外務大臣に・・・』とありますね。
お解りになるかもしれませんが、当時はモナー朝の方が格下でモナー族は新興勢力だ
ったのです。
また
>>208 にある碑文でモナーの始源について書かれていますね。
ヒロ・ユキ(ひろゆき)がモナー1世であるかについて、とりあえずここでは論じな
い事にしますが、少なくともこの碑文がドコモ朝サイタマ時代の、即ちモナー朝の黎
明期のものであることはほぼ定説になっています。また同碑文の字体文体の様式は後
のサイタマ族のものと多くの類似点があり、これらのことから「ドコモ朝サイタマ=
サイタマ族国家=モナー朝先住民国家」という説が作られたのです。
サイタマ族を研究する意義は非常に大きいですよ。
ここは昔からAA陶器の生産が盛んでして、モナー朝滅亡時にも
>>30 のようなものが
作られています(笑)。またモナー朝においては、ドコモ朝サイタマを倒してから急
速にAA陶器が生産・発達した歴史的経緯も考慮すると、AA陶器というのはモナー
族本来の文化ではなく、元々はサイタマ族の文化だった可能性もあるのです。
>>460 を書いた後調べ直したのですが、
>>440 のステンドグラスも諸部族を支配した証
しとして作成されたものらしくって、そう考えると、あのAA陶器のオリジナル図の由緒は
本当にサイタマ族にあったのかもしれません。
465 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/10/01 00:24
466 :
世界@名無史さん :03/10/01 00:46
でニダー民族がモナー帝国を脅かし始めたのがいつ頃でしょうか。
467 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/10/01 01:23
468 :
世界@名無史さん :03/10/01 23:54
太陽神「ダ・イチャン」信仰について何か知ってる人はいませんか? 何でもダ・イチャン教徒は勝負事に勝つことをよしとしない習慣を持っていたと 聞いたのですがこれは本当なのでしょうか?
469 :
世界@名無史さん :03/10/03 18:50
\ │ / / ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ─( ゚ ∀ ゚ )< さいたまさいたま! \_/ \_________ / │ \ ∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま! さいたま〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________ ________/ | 〈 | | / /\_」 / /\」  ̄ / / サイタマ人の太陽崇拝の基本体勢
470 :
モナー民俗学研究所アルバイター :03/10/05 02:59
>>468 あの教団のことですか?「ダ・イチャン教」ではなく、正確な教団名は「ハマ・ファン」です。
ここで「ダ・イチャン」が主神として祀られていた時期がありましたが、そのときのことで
しょうか。
「ダ・イチャン」は丸く光る形の偶像に描かれていたので、太陽神と同一視されていた
形跡がありますが、これには異論もあります。その代表的なものは、寧ろ「シュー・マ・イ」
に多くの類似点を見出せるというものです。元々教徒の多くはヨコハマ族でして、その産業
中心地区であった「チュー・カ・ガイ」の特産品に「シュー・マ・イ」というものがありました。
それが神格化されたものではないかと。ちなみに、ヨコハマ族は既出のサイタマ族とは無
関係です。
また一言申し上げておきますが、彼ら、そして「ダ・イチャン」は初めから「勝負事に勝つこ
とをよしとしない習慣を持っていた」というわけではありません。そもそも「ダ・イチャン」は
勝利の神として祀り上げられたものですから。
でも、誤解を招かれるのも無理はないかもしれません。
当時の教団には「ファン・タ・ジスタ」というものが蔓延していました。
これは「想像もできないような」非理論的な諸現象を許容し是認しようという運動でして、
一種の思想混乱現象です。これが勝利の神に適応されたらどうなるか。勝利の主神
「ダ・イチャン」はその性格を変貌せざるを得なくなります。
当時「ダ・イチャン」が発していたオラクルとして有名なものに、「ピッ・チャ・デニ」があります。
これは「デニ」という聖霊を召喚する言葉で、多くの場合、自身の破滅を意味しました。
「ファン・タ・ジスタ」の蔓延が「ダ・イチャン」自身に及んだ象徴と見て取るべきなのか、
あるいは「ダ・イチャン」が「ファン・タ・ジスタ」を拡めたということにされたのか。どちらが正しい
のか私には何とも言い難いのですが、「ハマ・ファン」歴史を振り返る限り、「ダ・イチャン」は
勝負事に対する意思を明確に集中できない神と認識されるに到ったのは確かなようです。
参考文献
http://www.geocities.co.jp/Athlete/3506/86/index.html
>>446 「スンスン・マトゥダ」と言う歌も見つけましたよ。
かなり広い範囲にわたって根強い人気を博したそうです。
どなたか「ロビンソン・ドキューソーの冒険」という娯楽小説についてご存知でしたらお聞かせください。
すいません、ちょっと調べているのですが ブルブ・ルガク学なんですがいまいち定義がわからなくて・・・・。 専攻の方いらっしゃいませんか?
>>472 とくに「恐怖」に焦点をあてた心理学です。
衝撃的な出来事で茫然自失→事態の認識→恐怖の反応にいたるまでの精神の動きを詳細に分析した学問で、現代心理学とも高い整合性をみせていると言われています。
亜派で「ザクド・ムゲルグーグ学」というのがあって、こちらはガン・ウォタという人々によって練られたそうです。
474 :
世界@名無史さん :03/10/13 21:46
学術age
475 :
世界@名無史さん :03/10/13 21:51
太陽崇拝以外に、月崇拝は無かったのでしか? #このすれ、まだ続いているとはオモワナンダ、サマルカンド
476 :
世界@名無史さん :03/10/14 20:56
ホシュア・ゲ
477 :
世界@名無史さん :03/10/15 16:17
実は現在もモナー朝に広がった病気が再び!? 恐ろしい病気を発見したそうです。 名前は「蓮」。 キレイな名前とはウラハラに、見たものを恐怖のどん底に陥れるとか。 グ・ローと呼ばれる凄まじい画像を見慣れている丘板地区の住人も恐怖したとのことです。 亜種として「連子等」(連コラ)という新たなウイルスも発見され、 関係ない地区にも広がり被害はかなり大きかった模様です。 今もチラホラと「連」は発見されており、予断は許されません。 ブルブ・ルガク学が現在でも調査中とか。 怖いですね、恐ろしいですね。キャー!
478 :
世界@名無史さん :03/10/31 17:05
ホシャーゲ
479 :
世界@名無史さん :03/11/02 18:06
まとめサイト見て辿りついた記念age
ようこそ。
モナー朝の婚姻風習は独特だったそうですがどのようなモノなのでしょうか?
保守
預言者として有名なキバ・ヤシについて知りたいのですが・・・
484 :
世界@名無史さん :03/11/24 12:49
a
モナー朝最古の文献「バーヤバーヤ」の叙事詩について なにか御存知の方いませんか?
>>485 詩聖ヴァーの最高傑作とされる長編叙事詩だね。
サンクスコ語独特の表現が他言語に翻訳不能なので我々が読むのは難しいらしい
自分でもちょっと調べてみました。 インドの「ラーマヤーナ」とほぼ同時期頃に作成されたと推測されています。 また、地方により『ウーワァン』『蒙古婦負与』など呼び方は様々なようです。 「バーヤバーヤ」は主にゲムイタでおおくの人に語り継がれ、自己の葛藤を昇華できずに 不遇を呪うという悲しき物語で共感を呼んだそうです。
488 :
世界@名無史さん :03/11/27 23:41
つい最近出土した古文書によると、時代はわかりませんが、モナー朝の安定期に 人間が大地による支配から脱するという伝承が各地で語られ、その影響により 当時の首都の商業区で大地に対する大規模な祭祀が行われたそうです。 モナー朝では口伝のみだったが、西ヨーロッパでは『materix』というタイトルで 三部作に翻訳・編纂されたそうです。母なる大地を子宮と見なしたのでしょうね。 これ以外の詳しいことは今のところ全く解明されていない状態なので 今後の研究に期待したいところです。
FMV-BIBLO アスキアート式土器に名将流石兄弟とともに描かれる智慧の書。 東の書家フジツーによって書かれたとの説が有力。 主に流石兄弟の兄である、アニージャによって読まれる。 また、その書はブラクーラを呼び出す力を持つとされる。 一度読んだページは紫色に変色するらしい。
>>488 祭祀の際には牛追い祭りのように追いかけると聞いたことがあるのですが、どうなんでしょうか?
大航海時代の変わった調理法を説明します。 料理の下手な人をからかうように例えとして モナー朝では『ガレー船切り』と呼んでいたそうです。 というのもリンゴの皮をむいたときに実よりも皮のほうが厚く 皿に並べるとまるでガレー船のよう(船底が平らに見える)だったのでこう呼ぶようになりました。 実際のところは航海の時に野菜など傷みやすく衛生面からこのような方法が 取られていたようです。
青年アムーロとペルシャの帝王シャー=アズナブルとの戦いをえがいた『ガンダーム』という 大叙事詩が流行しており、この叙事詩が市中で出回るや否や国民が皆これをこぞって求め、 モナー朝の一部の州では混乱に陥り通商が停止したそうです。
>488 『materix』(matrixous?)の祭祀についてですが、うちの大学の 図書館でこんな詩を見つけました。 逃走方一名、追跡方多数、集後乗電車、黒服黒眼鏡 周回三千周、御台場占拠、(中略) 逃方中央在、追方而周囲、逃方○○唱、追方皆飛散 (逃げる方は一名、追方は多数、集まった後に電気車(意味不明) に乗る。黒服黒眼鏡の集団が環状線を三千周する。(誇張と思われる) 御台場(ステージのことか?)を占拠する。 (中略) 逃げる方は中央に位置し、追う方は周囲を囲む、逃げる方が○○を 唱えると、追う方は皆周囲に散らばる。 この詩を読む限りでは、この祭祀が始ったとされる時代のかなり前から 珍走民族により各地で行われた原始宗教の祭典(珍走団原始集会)に 形態が非常に似ているのですが、これは偶然なのでしょうか。 黒服、黒眼鏡、環状線の周回と似ている要素が多いので、これが モナー朝内でより洗練された形に発展してこの祭祀に発展したのでは ないかという仮説が出ます。 仮にそうだとすると、蛮族と忌み嫌っていた珍走民族の風習をモナー朝 は祭祀に取り入れていたことになり、矛盾が生じます。 『materix』の祭典は本当はどのような形で行われていたのでしょうか また、本当に珍走民族との祭典との接点はないのでしょうか 研究者の方々、よろしくご教授願います。
隠れ里「カベ」とはどのようなものなのですか?
>495 「カベ」は様々な文献に断片的に登場するが、現存する地図に記載されて いないのみならず、モナー13世が編纂させた地理誌『水系厨』にもカベ州 (イタあるいはバン)の記述がない。 住民は自分達の住む地域をただ「カベ」とだけ呼び、モナー朝の他地域の ように地名+イタと呼ばれることを嫌ったという。このことから、カベという 言葉がイタと同様に行政区域の一般名詞、おそらく特別区といったような 意味を持っていたことが想定される。 このような特別区がなぜ設定されたのかについては諸説あるが、モナー朝 創成期にいくつか設けられた入植試験場所としての特別行政区のひとつ だったという説が現在は有力である。
ただしその社会は、住民の温和さ、交易従事者ナナシサーンの比率の 低さ、モナー人の多くが忌み嫌う「ジブンカ・ターリ」(その意味については 未詳)がこの地域ではタブー視されていないことなどを勘案すると、遁世者 やアラーシ・チュウボウの跋扈に嫌気がさして逃散してきた者などが土着 し、融合して形成されたものと思われる。 なお、11世紀ごろモナー朝の各地で流行したスレの様式「イマ○○イタ ニハオレ サマシカイ ナイ」(織り主の孤独さを自嘲するような独特の色調 を呈する)は、カベが発祥の地と伝承されている。
>494 その詩は、居間野氏によって江戸末期のモナー学派儒家・花谷昌斎の偽作とされていたはずです。 花谷は後モナー朝の詩人・擬古策羅(ギコサクラ)の漢詩「嘲厨房詩」(ちゅうぼうをあざけるうた)を改作し、 自らの文集「仕事人記」に載せたのですが、居間野氏は論文「江戸末期に於ける藻那朝研究に付いて」 (京都大学藻那朝研究会会誌『逝って良し』第5号掲載)で、用語を綿密に分析した結果、御台場という用語は 江川坦庵によって築造された東京のお台場を指し、モナー朝に於いては「ロビイ」と呼ばれていた事を指摘しました。 居間野によれば、これはモナー朝に伝わる「黒服」といわれる異民族の侵入伝承(茂名記聞巻54『衛賀版伝黒服帳』)を元に、 江戸末期の開国後の世相を憂えた昌斎が創作したものであるとのことです。 後にこの説は、高良良古により否定されましたが(中洲又有大学研究紀要『御前もな』第11号掲載論文『茂那朝に於ける黒服伝承』)、 更に岡義古により補強され(京都大学藻那朝会会誌『新逝って良し』第12号掲載論文『高良氏に対する反論』)、黒服という 現象そのものについても校証が深まりました。 岡氏によれば『materix』の祭典そのものがモナー14世の時に突発的な「祭り」として繰り広げられたものであり、 黒服は異民族ではなくモナー人の仮装であり、「モナー朝を変革しようとする一種の政治活動が、祭りに堕したもの」であるとのことです。
先日、モナー共和国に観光にいきました。そのとき様子を一部記したいと思います。 広報官 「モナー共和国アヒャポリス海軍基地にようこそ。 この度、わが共和国では新鋭巡洋艦「サーク・ジョイ=ライ」が就航いたしましたの本日はお披露目を 行いたいと思います。 まず、艦橋最頂部に見えます新型レーダー「クソスレアゲイレーダー」によりまして敵機を すばやく索敵し、晒し上げます。これにより従来のアボーン爆雷を併用し防空能力を生かしながら ストスレ(筆者注:軍事用語か何か)が可能となっております。また・・・」 このあとは専門的な話でよく理解できませんでした。
500 :
世界@名無史さん :03/12/22 21:36
太陽崇拝のサイタマ人は、夏至や冬至の日に特別な儀式をしていたのですか?
501 :
世界@名無史さん :03/12/23 05:22
『Materix』の外典として『Meatrix』なるものがあったようですね。 こちらはギリシア経由でヨーロッパ世界に広まったといわれています。 内容は豚肉の保存方法という日常生活に密接したものだったというのが大きな理由なのでしょう。 ただ、コショウの普及とともに徐々に忘れ去られ、大航海時代に新大陸にもたらされましたが、 未開の先住民にとってその技術は天の恵みだった、と言われています。
502 :
世界@名無史さん :03/12/23 05:46
モナー神話最大の神にして悪魔の一人であるタシロについて新たな発見がありました。 モナー朝において年に一度タシロの呪いを清める祭典があることはあまりにも有名ですが、 その祭典に伴う音楽の歌詞のラテン語訳が『Bendictmonaren』というタイトルで発見されたのです。 その歌詞と訳を載せておきます。 [コーラス] Estuans interius(心の中が燃えている) ira vehementi (激しい怒りとともに) Estuans interius ira vehementi Tashilo Tashilo [コーラス繰り返し] Sors immanis (奇妙な宿命) Et inanis (そして空虚) Sors immanis Et inanis [コーラス繰り返し]
503 :
世界@名無史さん :03/12/23 05:48
Veni, veni, venias,(来なさい、来なさい、さあ来なさい) Ne me mori facias(私に死なせないでほしい) Veni, veni, venias, Ne me mori facias [ヴァース繰り返し] [ソプラノソロ] Veni, veni, venias, Gloriosa(神々しい) Ne me mori facias Generosa(高貴だ) Veni, veni, venias, Gloriosa Ne me mori facias Generosa [ヴァース繰り返し] Tashilo Tashilo
モナー朝中期、宋清(>177)がある食物をもたらした事は、モナー人の食文化に大きな影響を与えた。 それは「ラメーン(羅雌)」である。これは当時の宋で流行していたラーメンを汁を嫌うモナー人の好みに合わせ汁なしそばに仕立てたものであり、 焼うどんのようなものであった。麺食の習慣が存在せず、「ネギダークギョク」以外の簡便な昼食を知らない人々に とっては、この新しい食物は驚くべきものであったといえる。何しろ小麦粉の粉を麺にして食べればいいので有るから。 ラメーンはやがて広く普及し、ギコ族がラメーンを販売し、ジエン神がそれを見守り賞賛する絵柄がどこの板にも見られるようになった。 ラメーン職人はあこがれの職業の一つであり、「ラオタ」(モナー語で「神の料理人」の意)と呼ばれていたという。 ラオタは領地を与えられ、グルーメ地方のラメーソ州を統治している。
全州規模の大祭とも戦争とも言われる、 ダウソ州が制したという戦の詳細について教えてください。
>483 バチカンの機密文書によれば、キバ・ヤシは、モナー朝最大の思想家であり、 ローマ教会でも一時的に列聖されたが、その後異端者とされ、列聖が取り消された。 キバ・ヤシ思想の特徴は 1:諸世紀やヨハネによる黙示録などについて独自の解釈 2:当時の最先端の科学と古典・聖典の大胆な融合 3:徹底した終末思想 の三点に集約される。 キバ・ヤシは「MMR」という謎のアルファベット三文字で 表される集団の教祖だったことがわかっている。 彼は、幾度となく法難を経験している。その一つが、 「ギャ・クテン・ノノ・ストラダ・ムス」の法難である。 この法難で、キバ・ヤシは、裁判にかけられるが、法学者ナル・ホドゥの 弁護もあって結果的に無罪を獲得している。 この法難を描いた叙事詩が存在していたらしいが、現在のところ発見されていない。
>508 たしか北ローマ24代皇帝のナ・ナンダッ帝の治世下での話ですね
>508 キバ・ヤシ思想はモナー朝領域内だけでなく、ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。 キバ・ヤシは当初、ローマ国教会において列聖されていたので、 バチカンにはキバ・ヤシ著作の写本や、キバ・ヤシ思想の研究書が大量に保管されていた。 彼の思想が異端とされ、列聖が取り消されてからもひそかに彼の思想研究は続いていたようだ。 フランス王フィリップ4世は、このキバ・ヤシ思想に魅せられ、 キバ・ヤシ思想の知を独占する教皇、ボニファティウス8世を襲撃、幽閉した。 これが1303年のアナーニー事件の真相である。このことは 1309―1377年の「教皇のバビロン捕囚」、1378―1417の大シスマを引き起こした。 フィリップ4世は、テンプル騎士団を解体させているが、どうもテンプル騎士団も キバ・ヤシ思想の秘密結社だったようだ。フィリップ4世と彼らの間にキバ・ヤシ思想を巡る なんらかのトラブルがあったようだ。 さて、キバ・ヤシ思想研究はフランス王家の秘密の学問として続いていくのだが、 その全盛期は、カトリーヌ・ド・メディチの時代である。彼女は教皇クレメンテ7世の縁者であり、 その血縁を生かして、フランスに大量のキバ・ヤシ思想の著作を持ち込んだ。 カトリーヌの部下の一人ノストラダムスはキバ・ヤシ思想の大きな影響を受けている。 その後、フランスにおけるキバ・ヤシ思想は衰退の道を辿る。キバ・ヤシ思想研究の衰退は はフランスの宰相を務めた枢機卿リシュリューの手によるものと推測される。
511 :
世界@名無史さん :04/01/25 00:15
モナー朝においては、抹殺、破壊を表す言葉として「アヴォン」なる言葉が使用されていたと申します。 この言葉は、西暦886年、デーン人によるフランス破壊を記録した詩人、 アボンに由来するものですか?
512 :
世界@名無史さん :04/01/28 19:37
挙
513 :
世界@名無史さん :04/01/30 17:59
age
『濡流報(ぬるぽ)』 殷の時代、中国では、しばしば日照りが横行し、そのたびに人々は甲骨を用いた占いで天候の行方を占ったといわれている。 この占いの結果、出された雨の知らせが、濡流報であった。 濡流報は、日照りで苦しむ農民達に歓迎され、農民達は、祝福の意味を込めて、 「賀(が)」と言って、濡流報を伝える者をもてはやしたという。 「濡流報」「賀」のやり取りは、初めは言葉だけのやり取りであったが、やがて杖や棒を用いて相手の頭をなでる行為が加わり 慣習化した。 後の三国時代には、連弩の技術を応用した自動式の賀装置も作られている。 なお、現代の「ぬるぽ」「ガッ」のやり取りは、いうまでもなく、濡流報が元になっており、棒のようなもので相手を殴るという 一見粗暴な行為に変化しつつも、祝福と感謝、五穀豊穣の願いが込められていることを我々は忘れてはならないだろう。 民明書房刊『知られざる甲骨文字発祥の歴史』より --------------------------------------- これって本当ですか?
どうやらモナー朝は頻繁に鎖国していたらしい。 これはヒトオ・オスギとよばれ 一斉にではなく、各都市によって時期が違い、 往々にして短期間で終わったようだが、 それは厳しく、その間はよそ者は全く入れなかったようだ。 教授によると これは主にチュ・ボの発生時期と関係があり、それで食えなくなった時に発令された。 しかし、センヨ・ウブ・ラウザという物を持っている者は入れたようだから これは身分証明書のような物だったと考えられる。
>>515 ヒキ=コモリというのとは何か関連性がありそうですね。
ラ・イタという地方について調べているのですが、全く違った情報があって混乱しています。 どうなっているのでしょうか。
518 :
世界@名無史さん :04/02/04 17:55
ヨルダン王国の現国王の母君(前国王フセイン王の王妃)は モナ王妃と名前だそうですが(実話)、モナー朝との関連はあるのでしょうか? 概出だったらすいません。
519 :
世界@名無史さん :04/02/05 01:36
>>518 国母のモナ様はイギリス人ですが(本当)、先祖はナンミーン(※
>>119 参照)
の豪商で、ナポレオン時代だったと記憶していますが、イギリスに移住したとか。
521 :
世界@名無史さん :04/02/05 23:05
初期のモナー朝に置いて最高神とされているギコ=ハニャーンですが、 これはモナー朝やアメザー朝の更に以前から存在したァーャシィ朝の神だったのを 取り入れたものであるという説があります。 他にも、人物を意味する単語「ヤシ」など、現在モナー朝の文化とされているものの中には 実はァーャシィ朝発祥のものが少なからずあるようです。
2年越しの超ど級遅レスだが、
>>6 の
6 名前: 1 投稿日: 02/10/13 12:34
>>4 さん
あ、ありがとうございます。3の書き込みを見て、
回線切って首吊って史のうかとオモテマシタ(w
に大爆笑してしまった・・・w 1さんいい人だ(´∀`)
523 :
あげ屋さん ◆P1AWcg9OTs :04/02/08 18:47
(・∀・)age!
524 :
世界@名無史さん :04/02/08 20:06
【大唐西域記・第七巻模奈亜国編】 模奈亜人は涼州の西砂漠の中にあり、山野に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。 涼州より模奈亜国に至るには、山脈に循って陸行し、突厥國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北九姓回鶻國に至る七千余里。 その風俗は淫らなる。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。 有無する所、タン耳・朱崖と同じ。
>524 あ、四庫全書総目提要にも記載されている偽書『大唐西域記逸文模奈亜記』だ。 後半が魏志倭人伝と丸っきり同じだからすぐわかる。
526 :
世界@名無史さん :04/02/09 20:48
後半どころじゃありませんよ(w)。
528 :
世界@名無史さん :04/02/10 19:52
模奈亜國在柔然東南山野中、世修貢職。 高祖永初二年、詔曰、模奈亜擬古萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。 太祖元嘉二年、擬古又遣司馬曹達、奉表獻方物。擬古死弟吉野家立、遣使貢獻、自稱使持節、 都督模奈亜九姓回鶻國諸軍事、安西大將軍、模奈亜國王、表求除正。詔除安西將軍模奈亜國王。 吉野家又求除正模奈亜隋等十三人。平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔竝聽。 二十年、模奈亜國王濡流歩遣使奉獻。復以爲安西將軍模奈亜國王。
安東将軍じゃなくて安西将軍ですか(w
530 :
世界@名無史さん :04/02/11 09:57
柔然とかなってるし(w 時代が違うんじゃないの?
ギコの弟がヨシノ・ヤだったとはw
532 :
世界@名無史さん :04/02/13 23:07
ヨシ・ノヤだよ。姓は吉、名は野屋、字は牛丼。
533 :
世界@名無史さん :04/02/14 21:49
モナー人は、男女で服装や言葉使いに差があったのですか?
534 :
世界@名無史さん :04/02/14 21:53
,. -‐ 、 '´ _,..ヾ;、 -- 、.,, へ、陛下〜 , -_‐、 ,ィ'::::;.::.:.ヽ:.:.:.:.:.:.:`丶、 l し ノ、 .,:':::;へ/´\lヽ、::.:.ヽ:.ヽ つ ヽ/:.:.〉、/:::/‐ァミ` -;:<ヾ::l::ヽ::゙, っ ゙、/:.:/:::/{ {::ソ イト_::ハ`'i:::::',:::! r‐ 、-、 〈:.:.:.:/:::;′ `´ __ ゙ー′ !:::::l:::l ,..-'、ー' l / / ヽ:.:l::::人 l ヽ |::::,'}/,.-''´ヽ:.:.゙、__ノ / /__. ヽ:'´:.:.l:丶、 ヽ- ' u ,.|::/-':.:.:.:.:.:.:.ヽ:.冫 ,. - ''/´:.:.:.:.:`丶、ヽ:.:.:l:.l:./ヾ、、 __,.. -:7:.:l/:.:.:.:.:.:.:.:.:.:./ ./:.:/:.:/:.:.:.:.:.:.:.:.:. :.:.ヽ,.l:.l:ム-へ-‐ '´/:.:/:./:.:.:.:.:.:.:.:.:.:/ / .:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.. ... :.. :.:', l:.:.:.:.○:.:\./:.:/:./:.:.:.:.:.:.:.:./ l:. .:.:.:.:.:. ...:.:. :.:.:.:::::::. :.:.::::l :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:./:./:.:.:.:.:.:,.-'′ !:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::.. ::::::::::::::!:.:l:.:l :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.,.-'´ 〃:./:.:.:.;ィ:.、:::.ヽ::::::::::::::::l::::l:::! :.○:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:l´ {!レl::/ l:ノ丶、::\::::::::::r 、:::| :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:| ` l::`ヽ `` `'>─<`丶、 :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:! f'、:::l゙ ー- ..r‐ュ/:.:.:.:.:.゙、:.:.:.ヽ :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.| .|:.゙、|`丶、!.イ/:.:.:.:.:.:.:.:.:.:',:.:.:.:l :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:! !:.:.:.:.:.:.:.:.:゙li/:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.,.:〉:.:.:.! :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.| ゙、:.:.:.:.:.:.:./:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:./ヽ:.:.:| :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|
535 :
世界@名無史さん :04/02/14 23:26
ギコ王の時代、モナー国は黄金期を迎えていた。 その黄金期に尽力したのは、宰相のコテ・ハンだった。 こんな逸話がある。 ギコ王が即位して間もない若き頃、モナー王国の女性の間で男装が大流行した。 もともと、ギコ王の好みで后妃やその侍女に、男装させたのがきっかけ。 女性が活動的な服装で街を闊歩し、流行が国中に広がっていった。 男たちの間では賛否両論、国を巻き込んだ論争になった。 そんなある日、宰相のコテ・ハンはギコ王を宮殿にて謁見した。 「王よ。今日限りお暇をいただきとうございます。」コテ宰相はおもむろに切り出した。 「予の政が不満か?」ギコ王は不快な表情をあらわにした。 「そうではございません。理由は私はこれから罪人になるからです。」 そう言ったコテ宰相は、すっと立ち、王の隣に座る后妃の近くに侍る多くの侍女たちに近づいた。 悲鳴が上がった。 コテ宰相は、侍女たちの男装の服を、新しく発明されたはさみで順に切り始めたのだ。 「気でも触れたか!宰相!」王が叫ぶと同時に、近衛兵がコテ宰相に飛びかかった。 取り押さえられたコテ宰相は言った。 「今この国は滅びようとしております。 この国では服装に男女の別無く、皆が同じ服を着るようになりました。」 自分の好みの批判と察して、ギコ王の眉間に青筋が浮かんだ。 かまわず宰相は続けた。 「その結果、女は家庭を守らず、家事を放棄し街に出るようになりました。 そこから親子の順、年令の順、身分の順も乱れ、礼は地に落ちました。 王よ。礼を失った人間は人間ではなく 人間の居なくなった国は国では有りません。」 ギコ王は、宰相が命を賭けて何を言いたかったのかをすぐに察した。 「宰相よ。予が悪かった。許せ。おろかな予にはやはり宰相が必要だ。 予の元を去らないでもらいたい。」 こうして、男装の流行も無くなり、何よりも礼を重んじる国家となったモナー国。 ギコ王の時代には、モナー国内で反乱など一切起こらなかったという。
536 :
世界@名無史さん :04/02/14 23:28
日本史板のフサギコ大名とどっちが強いかな
537 :
世界@名無史さん :04/02/16 00:43
モナー人の性別はどのようにして見分けるのですか? 今まで見た壁画や陶器画の人物像では、性別が判別しません!
>>515 >>387 と関連がありそうですね。
ところで「オンドゥル語」とは何なんでしょうか。
「ダディヤーナザァーン」「オンドゥルルラギッタンディスカー」「ウソダドンドコドーン」
などの文がかなり人口に膾炙していたようで、「スレ」にもたびたび出てくるのですが…。
539 :
世界@名無史さん :04/02/16 15:35
モナー朝滅亡の原因は、牛の伝染病によってモナー人の主食であった牛肉と葱煮込みが 供給不可能になり、怒った民衆による暴動、と聞き及びますが・・・
540 :
世界@名無史さん :04/03/01 00:28
吉利を象徴するギュ・ドヌで国が滅亡したというのは間違った俗説の一つに過ぎない。 野次馬がエスカレートして反乱を起こしたのも事実だけど、すぐに鎮圧され、一年足らずで 屋台にも再びギュ・ドヌが売り出されるようになって後遺症が全く残らなかったそうな。
541 :
世界@名無史さん :04/03/01 00:33
新しい説では、モナー朝滅亡の原因は、トリフルエンザと言う伝染病が蔓延し、国力が低下した結果、周辺遊牧民族の侵入を許したって。 極々少数説だけどね。 今後の研究の成果が待たれる。
モナー人の被り物は実は帽子ではなく顔全体を覆ったもので、家族以外には 素顔を見せなかったというのは本当ですか? 見られた時点で一族の恥として相続権を全て失ったそうですが。 他者と見分けをつけるために「トリプ」なる標札が必要とされ、偽造した者 は極刑に処せられたとか。
543 :
世界@名無史さん :04/03/01 11:32
>>542 ああ、それはモナー人ではなく、ニダー人の事ですよ。
執拗にモナー人を敵視し、そのくせモナー人の高度な文化に憧れ盗むニダー人。
被り物をして「自分はモナー人」と名乗るのだが、エラが張っているので他国人もすぐにわかったという。
確かに「トリプ」はモナー人でも使用していましたが、使い方がまったく別だったようです。
ニダー人の極刑はとても残酷だった様ですね。
ニダー人は、あらゆることでモナー人をコピーしようとするので、遺跡の発見当初はモナー人と勘違いされていた経緯があります。
あと、左翼思想家の政治的意図で、モナー人とニダー人を混同している文献もあります。
古い学術書かもしくは左翼学者の著書を読まれたのかな?
最新の研究成果は、ヒロユキ出版の「モナー朝の興亡」に記されているのでこちらをお勧めします。
544 :
世界@名無史さん :04/03/01 11:38
まだあったのかこのスレ
545 :
世界@名無史さん :04/03/01 12:09
ニダー人の口癖、「アイアムザパニーズ」とはどういう意味ですか? モナー人に対する嫉妬と敵意が込められた呪文だと聞き及びますが。
546 :
世界@名無史さん :04/03/01 16:45
※テストに出ます※ カブ州分割統治の勅令(13C中頃) 人口の急増とともに、次第にモネー地方を不安定に させたカブ州に対する勅令がモナ13世より発せられた。 カブ州は分割統治が行われ、それらは新カブ州、シキョー=イチ州、 シキョー=ニ州に分割された(シキョーは"流れる世界"の意味)。 しかし住民を無視した分割統治であったため自治政府と住民の抗争が激化。 中央政府はこの事態を憂慮し、特に内乱状態の激しかったカブ州を住人ごと 辺境の地「エ・クセ」に追放した。 備考:「エ・クセ」では過去の出来事を記録し、資料として保存することを厳しく禁じている。
547 :
世界@名無史さん :04/03/01 21:43
ところで皆さん モナー人の起源についての説ですが アーリア人の侵入によりマレーや太平洋上の島々に 逃げたインド先住民のドラビタ人の中央アジアに逃げたグループと 中央アジアに古くからいたアルタイ系の民族と ギリシア系やアラブ系のような民族の混成であったらしいのですが 本当でしょうか? (これを唱える学者の根拠は文法面でアルタイ、 [ l ]や[ r ]の発音でドラビダなど南方系、 単語の面で、ギリシア、アラブ系だということですが)
548 :
世界@名無史さん :04/03/01 21:49
モナー一族が建国する前って何王国が存在してたわけで?
549 :
世界@名無史さん :04/03/01 22:45
>>548 モララー王国や、サスガ王国、ショボーン王国など諸説ある。
実態究明にはまだまだ時間が掛かるが、モナー王国の文明レベルに比べれば程度は低かった様だ。
550 :
世界@名無史さん :04/03/01 22:46
551 :
世界@名無史さん :04/03/01 23:04
>>550 それは伝説上の国家。
伝説の君主ヒキ=コモーリ大帝がネ申から帝位を授かったなんていう伝説。
信憑性は低い。
もまいらアヤ=シィ朝を忘れていませんか?
553 :
世界@名無史さん :04/03/03 20:57
ヒッキー帝国(神話)→モララー王国→サスガ王国→ショボーン王国 →アヤ=シィ朝→モナー朝 ですか?
554 :
世界@名無史さん :04/03/03 21:50
そうなると『ひろゆき教』はいつからですか?
555 :
世界@名無史さん :04/03/06 15:36
世界を震撼させたという「サーガ・ケン・サーガ・シ・17」について教えてください。 後年、サーガを歌った詩も書かれたほどだと言うことですが。
556 :
世界@名無史さん :04/03/06 15:42
ジサーク=ジ=エーン王は? たしか、モララー王国を滅ぼしたった数年間だけ存在した世界最大の帝国を築いた王様だったはず
557 :
世界@名無史さん :04/03/06 17:21
>546 同時期にトーシ=イパーン州も成立してますな。
とりあえず過去レス全部読むといいと思うよ。
559 :
世界@名無史さん :04/03/06 22:17
>>556 ネコゴ・ロシ・ルディの乱により、モララー王国は荒廃し、王朝は弱体化した。
後の世に、ギコ王を拉致しようとした事で有名なタカラ族からこの乱に終止符を打つ人物があらわれた。
それがジサーク=ジ=エーンだと聞いております。
モララー王国を滅ぼしたといわれておりますが、実際は最後の王を排除し、王家を継承した形だと言う説もあるそうです。
とにかく戦略眼に優れた人物で、立った数年でかなり版図を広げたようです。
ただ、戦場で受けた流れ矢の傷が元で、王になって数年で亡くなったとの事。
ジサーク=ジ=エーンの急な死によってタカラ族の政権はあっけなく崩壊し、ポカーン族が勢力を伸ばし、サスガ王国が誕生したと聞いております。
560 :
世界@名無史さん :04/03/06 22:44
>>559 付け加えです、ネコゴ・ロシ・ルディ(ジサーク=ジ=エーン)の侵略に滅びた王国のひとつアヒャー王国の最後の王アヒャ=ヒャヒャー=ヒャー14世の子、アヒャ=ヒャー=ヒャードラ1世が現ネパールの地を征服しアヒャー朝を建国
この王朝は、4代王アヒャ=ヒャードラ4世と次王アヒャ=ヒャードラ5世の代に現ネパール並みの領土を確保した。
以後230年繁栄したが、突如進行してきた除・馳沖(ジ・チチュウ)により崩壊した
561 :
世界@名無史さん :04/03/07 01:48
>>560 アヒャー朝末期、必死に除・馳沖軍と戦って壮烈に果てた将軍クックルの存在を忘れてはならない。
クックル将軍は『前世は鳥』と言っていた程の鳥好きで、自分の伝令鳩(クックルー)を有していた。
国境を守備していた時に敵軍が襲来し、クックルーを宮廷に飛ばした。その時、敵軍三十万に対し、自軍は僅か五万。
しかし、獅子奮迅の奮闘をし、一時は敵軍を三十里後退させる程だったが、人海戦術の前に敗れ、五万の将兵と共に全員討死。
戻って来たクックルーは主人の死を悟って自ら命を絶ったという……。(つД`)
追加 除・馳沖(ジ・チチュウ)一族(除家)は秦の時代より続く名門官僚家で、その時代その時代の君主に反発するというとても挑発的な一族であった 特に前漢末期の除・衛(ジ・エイ)は新王朝創設と共に独立し、以後50年以上にわたって交州・広南の地を支配した そしてアヒャー朝を襲撃した除・馳沖は時の中華王朝の遠征部隊長としてアヒャー朝を攻め滅ぼした後、その地に山尖(サンセン)国を建国し中華王朝から柵封を受けた。 しかし、中華王朝内部が反乱や内乱が起こるとほぼ独立国波の自治政治を行ったが、その自治の為に国内は『鏝藩(コテハン)国』や『那南孜(ナナシ)国』などの小国に内部分裂し国家として衰えた。 最後は山尖国に服従していた異民族『武楚胡』(ムソウ)によって滅ぼされた
563 :
世界@名無史さん :04/03/07 13:53
age
564 :
世界@名無史さん :04/03/07 18:05
ス連邦は?
565 :
世界@名無史さん :04/03/07 20:07
>564 強大なモナー朝に対して(と言っても敵対していたわけではない)385もの多数の弱小国家群が連邦を結成したけど それでもモナー朝の数十分の一という規模にすぎなかったな。
566 :
世界@名無史さん :04/03/07 20:16
モナー朝はマーチ=ビビエス国と連邦を結成していたけど モナー朝側が圧倒的に強大で、マーチ=ビビエス国は 事実上モナー朝の一州というのが実態だったな。
>>564 >>565 に追加
元々はアメザー朝滅亡時に混乱を起さない為という目的で作られたアメザー朝建国民族と同じ民族の弱小国の同盟
アメザー朝衰退後、モナー朝と主導権対立をした物の、圧倒的な武力差で破れ衰退した
568 :
世界@名無史さん :04/03/08 17:17
あげ
569 :
モ?フ?フモマ゚チラネ?モ?ホ? :04/03/12 16:11
あげておく
571 :
世界@名無史さん :04/03/17 11:42
13世紀半ばにモナー朝が総力を挙げて鶴を育てたという記述を読んでからは 気になってしょうがないのですが、これについて研究をなさっている方に ご説明をいただけるとうれしいです。
572 :
世界@名無史さん :04/03/18 17:27
age
573 :
ロード オブ ザ ピース〜平和の法典 :04/03/18 18:51
東の果てに「ワジン=コビット族」の住む島国があった。 その国には戦争を放棄する「平和の法典」があって、それこそが世界に究極の平和をもたらすものと信じられていた。 コビット族の四人の勇者チクシ、クメ、ドイ、フワは、全世界に「平和の法典」を広めるために冒険の旅に出た。
574 :
ロード オブ ザ ピース〜平和の法典 :04/03/18 19:09
実はコビットたちは、彼等の国ジパンが、かつてミーニーランドと核戦争の末に敗れて支配され、 その保護国となっていることをすっかり忘れていた。 平和の法典に取り付かれた「クジョー」は、旅の仲間を陥れようと企んでいる。 進め!コビット世界平和のために!…あとは紫蘭
575 :
世界@名無史さん :04/03/22 00:01
age
576 :
世界@名無史さん :04/03/22 00:56
コビット族の四人はニダーやシナーを崇拝している。 しかしニダーやシナーはコビット族に嫉妬し、貶めることに全力を尽くしている。 四人はそれを知らぬ振りし、他のコビット達にはニダーシナー崇拝を押し付ける。
577 :
世界@名無史さん :04/03/22 01:25
モナー朝最大の政治家は誰ですか?
モララー宰相だろ
579 :
世界@名無史さん :04/03/23 12:23
モララー宰相はお受け乗っ取りを考えた悪徳者では?
580 :
世界@名無史さん :04/03/24 22:42
581 :
世界@名無史さん :04/03/25 11:30
ageageage
582 :
世界@名無史さん :04/04/21 01:01
d
583 :
世界@名無史さん :04/05/04 16:06
モナー朝の民と創造の神を共有するマチビビエスの民もいたようですね。
584 :
世界@名無史さん :04/05/12 20:15
ほす
585 :
世界@名無史さん :04/05/14 22:41
age
>571 「オ・ラナイ・カ」事件ですね。ある時、王朝霊廟に於いて不心得者がお使い姫の 鶴を焼死させた為、民衆がこぞって鶴を育てて霊廟に寄進したということだったと思いますが。 >573−574 「ケンカ・チュー」文書の一節ですね。アサピ族に故郷を負われた 民衆が夏になるとこういう風説を流布し、ニダーを憎んで関係の無い スレにも「ザイニッ・チニンテ(モナー語で「汝らは汚らわしき アサピの民なれば2にあらず、去るべし」の意味)」というのろいの言葉を織り込むように 強要し板を荒らしたとされ、セカイシ州では特に嫌悪されていたようです。 ちなみにこの文書にいうクメは マスコーミ州アサピ族酋長のクーメと同一人物説が有ります。 クーメは捏造のシンボルとされており、コガ・ジュンとともに かなり問題視されていたようです。
モナー国は象形文字とは逆で、文字が先に発明されて それによって絵が描かれる不思議な国
588 :
世界@名無史さん :04/05/15 17:44
〇_〇 ( ・(ェ)・) <クマァ! /J ▽J し―-J
589 :
世界@名無史さん :04/05/15 19:39
>>589 こいつのチンポは臭そうだぜw
DQNな奴は何処にでもいるんだな
590 :
世界@名無史さん :04/05/28 01:37
どなたかモナー近現代史に詳しい方おられませんか?
>>590 モナー近現代史はスターリンの粛清で大分ダメージ受けているからなあ、
世界史板は初めて来たがこんな面白い板だったとは知らなかった……w
593 :
世界@名無史さん :04/06/19 20:34
殺伐とした神格が多いモナー朝にあって、14世紀に急に登場する残虐な 女神がいる。残された画像石やイブン・バティストゥータ『三大陸蹴球記』 によると、この女神は鋭利な刃物を振りかざし、容赦なく人首を刈るとされて いる。 一方でこの女神の狂信者達は一般人に徹底して嫌われたという。ヒンドゥー 教のドゥルガー女神等との関連が指摘されているが、この信仰運動について 詳しい方、解説キボンヌ。
594 :
世界@名無史さん :04/06/20 00:38
>593 「ガクシュルム」と呼ばれる寺院に祭られた「ネヴャダ女神」のことでありますか? 「ヒキオタ族」に崇拝された邪神であります。
595 :
世界@名無史さん :04/06/20 12:13
|\ ,. ‐''":::::::::::::;::::`'-、 |ヘ| /::::::::::::::;:/´ヾヘ;:::::::::ヽ |ヘ| /::::::::::((,/ `、::r、:::゙, | ̄| ,'::::::::::::i゙ \ / i::::i このくそがき! (∃⊂ヽ !::::::::::::| ● ● l::::| / 〉 ちょっと学習ルームこいや! ─── └┘\ !::::::::::::! !:::!/\/ \/ \::::::::!"" ____ ""!::| \/ ──── ヽ |::::::| l, / ノ::i / `、 i:::::l、ヽ.,_ `''''" _,..イ:::::i / ───── ゙、 ヽ;i \ヽ,.l ̄_,l |:::/ / ゙、 ヽ`、 | / レ' / ────── ゙、 / `ヽ''" i. / / NEVADA |/ ─────── / |
596 :
世界@名無史さん :04/07/07 17:36
保守
モナー史における謎の存在tanasinnについてご教授下さい
598 :
世界@名無史さん :04/07/08 01:43
モナー朝の少数民族シイ族が暗殺集団ギャクサク・テューンに大虐殺されたそうだけど 詳しく教えて。
599 :
世界@名無史さん :04/07/22 20:07
>>598 シイ族は当時から差別され、人間として扱われていなかったようです。やがて大富豪の間で「スレ」にシイ族の血を塗りこむというのが流行り、金に目がくらんだ一部のスレ職人がシイ族の血を塗りこんだスレを作っていました。
しかし大富豪の間では流行ったものの人の血がついているスレは一般受けはせず、彼らは大富豪直属のスレ職人たち「ギャクサク・テューン」となったようです。このころからの軋轢が後の近・現代史のシイシイン共和国独立紛争の原因となったといわれています。
>>598 >>599 一方で大富豪派の文書によれば、シィ族は無知無教養、貧弱なくせに傲慢で自分たちは神から愛された存在だという不遜極まりない性格の持ち主であり、これに鉄槌を振るうは当然だという。
これほどまでに憎まれたのは彼らの持つ特異な風習が原因だといわれているが…
なお、大富豪派に反発する親シィ族派が幾度か反乱を起こした形跡も見受けられる。
601 :
世界@名無史さん :04/08/10 00:10
シィ族はもともと、遺伝的疾患からか気候風土故か男児の生存率がきわめて低く、 そのために女性を中心とした独自の文化を持っていました。他族の男性と交わることや 未婚の母となることは決してタブーではなく、むしろ積極的に他族の男性を誘惑したり していました。これがシィ族に対する差別や偏見を生んだモノと思われます。 他方で彼らの中には高い知能を持つものも多く、教師、医師・看護師、あるいは占い師などで 影響力を持つものもいました(皮肉にも彼女らの存在が、他部族の妬みからシィ族への偏見を強めることもありました) ただ彼らは少数民族であり、知能が高いしぃは社会にもうまく適応して多くは善良であったので 積極的に攻撃されるということはあまりありませんでした。(彼女らの色香は他族の男性を 数多く虜にしていたということも彼女らの立場を守った一因でしょう。)
602 :
世界@名無史さん :04/08/10 00:12
こうしたバランスを崩したのは、モナー朝治下でアスキアト地方を中心に何度か起こった 「サツバティズム」(人間は常に努力し、向上し、それをしない弱者・愚者は淘汰されるべきだという思想) 「マターリスム(努力や向上を否定し、ひたすら現世・現状の安穏を求める思想)」の論争でした。 この論争では当初はシィ族はどちらにもついていませんでした、一部のシィ族が「マターリスム」の 側に立って積極的な発言を繰り返し、それに影響を受けた支持者を大きく拡大しました。 彼女らはコレによってシィ族の地位向上をもくろみましたが、彼女らの思想は どんどん過激となり、またシィをもっともマターリの神に愛された民族であるとする選民思想になりました。 ついには「働くなんてマターリじゃない。おいしいものやお酒を持ってるのに しぃにくれないのは悪魔の手先だよ!」という発言で彼女らと支持者が富豪を襲撃し 金品を奪って、それで乱痴気騒ぎをするという次元が頻発するようになりました。 これは一部マターリニストの離反を招き、シィ族は(この論争に加わらなかったものも含めて) 単なる差別対象から攻撃対象となっていきました。 とくにシィ族に攻撃対象ににされ、生命・財産をねらわれた大富豪達の 怒りはすさまじく、大富豪波の宣伝戦略により彼らは淫祠邪宗の徒として 嫌われ、あちこちで迫害されるようになったようです。
シィ族の暴動(>602)及びそれに対抗する大富豪の 抗争は、モナー州・チョヘンエエ州全土を巻き込んだ 大抗争に発展、更に大富豪を支援したモラーラ朝の介入により 前後十年に及ぶ激戦が行われた。(>330参照) これを「シィ・モラーラの乱(虐殺房の乱)」と称する。 シィ族は「モナ・モラーラなどただの猫ではないか!」 「シィを国王としディ(シィ族の支族)を宰相とし 楽しくマターリしよう」「たたかいに加わらないシィは 地獄行き、たたかって死んだシィは永遠の命を得る」 などのような煽情的なスローガンを掲げ、やがて二州に とどまらず周辺の州までも襲撃し、それにニダー族や アサピー族などが加わり、一時はモナー朝 王宮を占拠したという。 この大乱を修める為、モナー朝はこれまで公認していなかった コブ派やケンカ・チューを急遽公認し、シィ反乱軍と戦わせたが、 全土に及んだ大乱の結果国土は荒廃し、やがてシィの死によって 終結した反乱の後、遂にウイグルの侵入を受け、滅亡した。
>>597 tanasinnについては学者の数だけ説があると言われているほど、
意見が分かれまくっている存在ですからねぇ・・・。
私は16世紀の修道僧であり、植物学者でもあった
シラ・ネィヨン(一説にはエ・クセ出身とも言われる)氏が主張した
「何者かによる愉快犯的な一種の集団催眠事件」という説を推しますがね。
605 :
世界@名無史さん :04/08/19 21:00
しぃ虐殺のありさま ∧_∧ (・∀・ ) 早く落ちろ ゴボッ!! .( ) ∧∧ 。 ハ,,ハ 〜 〜 \` / ,i | ハ,,ハ∧_∧ ねぇ、つぎ 落としていい? n(゙O゙ill/)从(n゙0)っi从 〜 〜 ギヂィ ,,(__(__)(゙0゚ill)・∀・ ) 从从W 从W ガボ‥シィノベビチャンガー… 从 (,ili゙0)')\ O(,,__⊂ )ヂィィーー!! ホカノ シィハ ドウデモイイカラ ,、,、 〜 ∧∧ 〜 ハ,,ハ アップ… 从i从w\\ | | | ハ,,ハ ∧∧ シィダケハ タスケテー!! 〜 (゙q゙ll)w ('(0Tili;;)从 从c(ili゙^゙)ッi从 〜 \\ (_(__)(0Tili)(ヽ(0゚ili ) ∧∧、 〜 从W从从 从从从V 〜 \\ c' ∧∧;:::,、,、(iliT0゙)っハ 〜 〜 バシャバシャ \\ .|\(>_<ili)(*゙o゙)j l(0<ili)ヽブルブル 〜 〜 '人从。vo \\ | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ク…クルチィ… 〜 , ハ,,ハ 、 i从(ヽハ,,ハ从 〜 \\ \|_________| ハ,,ハ 〜 `':::::::::: ´ 。从i,从゙从 〜 \\ W(;゚0゙ハ,,ハ ゲホッ‥ハナシテー!! 〜 〜 \\ i从(,i,,i,っi,゙Q゙)')W 〜 〜 \\ 从从从从从 〜 〜
606 :
世界@名無史さん :04/09/01 01:13
マターリスムの語源となった「マターリ」は、「安楽」「平穏」などと訳されますが 元は「平和」「安全」を意味する言葉であったようです。 モナー朝初期の混沌に疲弊した民衆が、神々に「マターリ」を祈願したという記録があります。 また政治的安定をもたらした王への賛辞として「マターリをもたらしたる者」という言葉が 墓碑に刻まれていたりもします。 国が安定すると、その指す意味は内面的なものとなります。戦争はなくなりましたが、 国の発展と共に、旧来の共同体が崩壊し産業構造も変わり、貧富の格差も広がりました。 こうした社会不安や物欲主義、サツバティズムに代表される個人主義・競争主義への不安から、 精神のよりどころとしての「マターリ」を 追求する思想が生まれました。これがいわゆる「マターリスム」です
607 :
世界@名無史さん :04/09/01 01:31
当初のマターリスムは、知的・精神的向上によって物欲や利己主義を 克服し、精神的幸福をめざそうとするストア派哲学にも似た思想でした。 ですがこの思想は一部の知識人や富裕階級、貴族にはうけたものの、 非現実的であり、大衆や中産階級には広がりませんでした。 つぎに、日常生活で快楽の状態を作り出し、それによって 精神的幸福と平穏を得ようとする思想が生まれました。 快楽の状態を作り出すために、心のコントロール方法が研究されたり、 また体操・ヨガ、アロマや花などが使われました。現代にも通じる考え方ですが これはいわばエピクロス派的思想であるといえます。 この思想は中産階級を中心に支持されました。 彼らの一部では、快楽を得るためのツールとして酒やドラッグまでも使われるようになり 社会問題にもなったようです。またこの思想は時代が下り支持層が広がるにつれて、本来の目標であった 精神的平穏は軽視されるようになり、「快楽」そのものが「マターリ」と見なされるようになりました。 この思想を信奉する者の一部が過激化し、しぃ族の事件のような問題を起こすのは ある意味では自然な流れといえます。
すみません、最近文献を読み始まった者です。 「香具師」という単語が時々出てくるのですが、発音も意味も分かりません。 ここで聞くのが正しいのでしょうか?
「こうぐし」。地理的に交易の要地であったモナー朝では四方八方から集った 商人たちの姿が見られましたが、中でも社会的地位が高いとされたのが香 料を扱う人々でした。 香具師というのも本来はそうした高位の商人たちを指した名称であったそう ですが、現代でも呼び込みに「社長さん」などと言う様に、相手の事をわざと 「香具師」と呼んで尊重する習慣が成立したそうです。 「こうぐし」という発音は日本からの旅行者によってつけられたもの。 なお現在でも露天商のことを「香具師(やし)」と呼ぶのはこれから来たもの で、うっかり「こうぐし」と発音してしまうと間違い扱いされます。 「やし」の発音は日本語の「やつ」が訛ったものだといいますが、地位の低下 もはなはだしい。 参考文献:『八幡愚童訓』丙本、『秤の本地』、民明書房刊『敬称百種』
610 :
モナー民俗学研究所アルバイター :04/09/02 16:22
>>608 [ya∫i]と読みます。
いささか侮蔑を込めた人称名詞(三人称単数)です。
モナー朝初期では[yatu]でした。それが中期の混乱期には[yati]となり
すぐ[ya∫i]となりました。[u]から[i]への転換は言語学上本来ありえな
いことなのですが、これについては「香具師」という単語と混用された
結果だという説があります。
香具師[ya∫i]は元々モナー朝内外を流浪する異民族でした。芸技や
交易で生計を立てていたといわれています。ロマみたいなものです。
モナー族は総じて彼らを余所者扱いし内心蔑視していました。それが
王朝の混乱期に侮蔑的な人称名詞である[yatu]とこの民族の呼称で
ある香具師[ya∫i]が混用され後世に到った…というものです。
しかしこの例に漏れず、モナー族には侮蔑的、差別的、恫喝的な表現
が随分多いのですよね。交易立国といわれていますが文化的には閉
鎖的でカルティックなものが多いように思います。カルトの連合国家だ
ったとも言われていますが…いろんな意味で不思議です。
611 :
世界@名無史さん :04/09/03 02:12
モナー朝においては「台所」を示す言葉がそのまま悪口であったそうですが、何故ですか? あと、織物に織り込まれた「ドキュソ」なる言葉はいかなる意味ですか?
質問ばかりで申し訳ありませんが、モナー朝は中世の中央アジアの王朝だったので、 もしかすると幻の「アフガン航空相撲」と関係するのではないかと思いました。 「アフガン航空相撲殺さる」という資料が現存しています。 関連をご存知の方いますでしょうか。
613 :
世界@名無史さん :04/09/03 12:42
モナー朝は「イタ」と称する、個人の技能別による居住区があったみたいですね 人口の多い居住区は天候不順なところで、嵐がよく発生したとか
モナー語のイタはもともと「平たいもの」と言う意味。技能別の居住区とみなされるが、日常的に行われるカキコ・ミという祭祀によって成立している祭祀共同体でもあるとされる。 イタはもともと祭祀に使用される祭壇の一群を指す言葉で、単独の祭壇はスレと呼ばれた。カキコ・ミは、このスレに自らの信仰、讃歌、祈願、呪詛、夢の内容などを刻み、神々の降臨を待つことが一般的である。 厨房と呼ばれる被差別階層がしばしば人身供儀に供されたが、中産階級の厨房狩りが厨房階層の存立を脅かすまでになると、神々の怒りによって嵐が起こるとされた。現在ではこれは厨房のイタ共同体に対する反乱であると理解されている。 ちなみに、スレはカキコ・ミに際して継ぎ足され、カコ・ローグと呼ばれる一連の史料群として、モナー民主共和国の文書館に保存され、一部の人間しか見ることはできなくなっている。 カキコ・ミは現在も続けられており、スレは増大の一途をたどっているが、これらのスレ群の文化的価値に関しては評価が一定しない。 カコ・ローグに関しては世界遺産への登録の申請が検討されているが、ユネスコのモナー族に対する蔑視とモナー文化に対する無理解から、いまだにめどが立っていない状況にある。
615 :
世界@名無史さん :04/09/03 18:15
モナー朝文化に対する評価は評価が二分していると聞いた。 すなわち、ユネスコを初めとするヨーロッパ式の保守的価値観からは、そもそも文化などとは呼べないものだとみなされているそうだよ。 ただし、モナー族の現代文明に対する隠れた貢献を評価する人たちは、カコ・ローグ文書などの文化的価値をことさらに仰ぎ奉る傾向がある。 確かにモナー族のカキコ・ミの中には人類文明に対するうがった洞察がまま見られるけど、本質的には迷信の色彩の強いものだから、モナー族の世界観の史料とはなっても、一般的な歴史資料とするのは難しいんじゃないかな。 個人的には、モナー族、特にチューボー階級と先鋭な対立関係にあったといわれる隣国ニダー朝に同じような文化があったのかどうか興味があるんだけど、誰か知らない?
616 :
世界@名無史さん :04/09/03 20:30
モナー朝の神官たちの間には相当根強いニダー嫌いが広がっていたといわれる。 ニダーに対する呪詛についてはカコ・ローグ文書はじめモナー朝史料には頻繁に現れるが、 ニダー朝に関する記述についてはモナー族の側の偏見をたぶんに含んでおり、 客観的な信憑性にはかける部分が多いとされる。 また、モナー朝治下には少数ながらもニダー族が生活しており、 ニダー擁護派あるいはそれをよそおう者の手になるカキコ・ミも多数残されている。 ただしニダー擁護派はあくまで少数派にすぎず、 極端な反ニダー主義支持者と同様にチューボー階級に属することが多かったため、 異端とされたア・オーリと呼ばれる呪術をしばしば行っていた。 ア・オーリはニダーにも反ニダー主義者にも共通する習慣であり、 モナー族の読書人階層はア・オーリの応酬(複:ア・ラーシ)はカキコ・ミの祭祀を汚すものとして厳しくこれを禁じていた。 しかし実際に残されたイタ文書を読み込んでゆけば、ア・ラーシは全内容の非常に大きな部分を占めていることがわかる。 今日ではア・オーリか否か判断に迷うカキコ・ミも多数残されており、 ア・ラーシの占める割合については論者によって見解が分かれるが、 究極的にはこうした悪意ある呪詛ないし自らの権勢の誇示こそがカキコ・ミの目的であるとして、 モナー文化そのものの価値を否定する向きはアカデミズムに特に根強い。 また、ニダー族以外にもシナー族やニガー族などもア・オーリの対象とされており、 モナー文化が強い選民思想に支えられていた部分があることは否定しがたい事実である。 モナー人の選民思想については、イザヤ・ベンダ氏の『モナー人とユダヤ人』に詳しいが、 総じて迷信深いモナー人の世界観に対し、イスラエル出身の著者の目は厳しい。
617 :
世界@名無史さん :04/09/03 21:09
ニダー人とシナー人もモナー人を嫌ってるらしいね。 モナー族の神話では太古の戦争でモナー朝がそれらの国々を治めたからって話だけど、 ニダー族やシナー族の神話ではニダー朝とシナー朝が戦争に勝利したと伝えられているらしい。 モナー神話ではモナー出身のメージーの神々がニダーやシナーに文明をもたらしたとされるけど、 ニダーにはイーナサック、シナーにはハンジーとか呼ばれる神々がそれぞれモナーに文明を伝えたとされる。 それぞれ神話の世界の話だからどうでもいいだろって思うんだけど、 モナー族にしてもシナー族やニダー族にしても自分らが正しいって今でもやりあってるらしいね。 傍から見てるとばかばかしいんだけど、文化人類学的には面白そうなテーマだよね。
>>615 ニダー族に関してはよく分っていない部分が多い。
モナー語は日本にも読める人が多いけど、同じくアルタイ諸語との類似が指摘されているニダー語に関しては、モナー語とは比較にならないくらい研究が遅れている。
モナー族のカキコ・ミに相当するものがニダー族にもあると考える研究者は多いんだけど、まあ言語の壁があって手をつけた人は少ないんじゃないのかな。
ちなみにモナー語、ニダー語、シナー語は語彙に関しては結構共通するところがあるみたいだね。
モナー語表記はシナー語表記の系統を継ぐものだけど、ニダー語はニダー族にしか分らない特殊な記号で表されるらしく、モナーとニダーのいがみ合いの一因となっていると聞きます。
619 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/09/11 03:40:03
軍事経済のリスクは雪達磨式に膨らみ、既に米国の国債赤字を発行限度額にまで押し上げている。
戦争はもともとハイリスク・ノーリターンなのである。
それにも関わらず米軍主導の経済運営を一体どこの国が望んでいるのかである。
表向き米軍に逆らわないのは単に米軍が世界最大の軍事国家であり、資本主義経済の利権を独占しているからであり、ひとたび世界に目を向ければそれこそ奴隷文明のハイリスクが渦巻いているのである。
軍事経済はそのリスクの切れ端に過ぎない。
実に狭い価値観の中で我々は背後から突き動かされているに過ぎないのである。
米国が我々のアイデンティティーを弾圧し、軍事経済を正当化してきたのなら、そこに最初から正義などあろうはずもなかったのである。
【米国主導の奴隷文明、すべてのリスクは弱者から被る】沖縄・琉球民族
http://homepage3.nifty.com/darkelf/
モナー人でありながら、ニダー朝やシナー朝に朝貢、三跪九叩の礼を欠かさなかったという アサピ族とは何者でありますか?
>620 アサピ族はマスコミ板6支族の一つですが、モナー朝滅亡時に 他板住民の恨みをかい、暴徒化したケンカン・チューに襲われ 最後の当主クーメ公(エヌス・テ公)は行方不明になり 都市ごと滅亡した為に記録が殆ど残っていません。 一説にはモナー朝を否定し他の国を崇める思想集団ではないかとも されていますが(過去ログ参照)、人種構成などは不明です。 「モナーの滅ぶるはアサピに始まる。アサピは捏造をもって 世人を瞞着し、クーメは流言蜚語をもって天下を乱す。 アサピなかりせばモナー朝滅びず、嗚呼アサピの罪は 人天ともに許さず」とは江戸モナー学の大家 だった茂名村賀那斎の名言ですが、茂名村賀那斎は実はアサピ族の 末裔であったとも言われており、一種の自虐思想にとらわれすぎた 偏見であるとも言われています。 アサピ族は分流のオイ・シンボ族のみが西方へ逃れることが出来たようです。 彼らは卵を用いた「オトッコ・ドン」というモナー料理を発明した ヤマオ・カシロなる料理人の末裔で、憎まれモノのアサピ族の中で 唯一技能を以ってモナー人に認められていました。 オイ・シンボ族の研究の第一人者、東西大の溝木慶子先生によれば、 オイ・シンボ族文書に於いては何故かモナー料理の起源をニダー族 とするものが多く、それゆえにケンカン・チューから憎まれることが 多く、ヤマオ・カシロも迫害を受けたようです。
622 :
世界@名無史さん :04/10/12 18:23:55
モナー朝の息吹を現代に伝える貴重な史料群を保守。
623 :
世界@名無史さん :04/10/29 19:18:06
モナー朝7代奇書の一つヤマ・ジューンの著した 「クソミソ・テクニカ」の詳しい情報を教えてください。
624 :
世界@名無史さん :04/10/31 10:42:43
>>623 クソミソ・テクニカはモナ−朝での同性愛文化を扱った作品です.
モナ−朝では同性愛を強く否定する傾向はそれ程ありませんでした.
そのため,同性愛者が迫害されたキリスト教圏からの脱出者が
一時モナー朝に一大コロニーを築くと言う時代もあったそうです.
クソミソ・テクニカはそのような時代を先取ってヤマ・ジューンによって
描かれた作品の一つですが,ごく少数の人にしか知られませんでした.
しかしモナー朝でその卓越したセンスが布教団体によって公開されるや否や,
モナー朝全土に飛び火しました.ヤマ・ジューンの作品はキミ・ニ・ニャンニャンや
ワクワク・ボウイなどがありますが,中でもクソミソ・テクニカは傑作との
呼び声が高く,「ヤラナ・イカ」「ウホッ」などはモナー朝独特の言い回しとして
定着していきました.ウホ=男同士の同性愛となるのはこの作品が強く影響しています.
布教集団にはクマセンなどの書物が有ったと言いますが,詳しいことは調査中です.
なお,同性愛を扱う集団には女性を中心としたヤ・オイーや,フジョ・シーなどもありましたが,
彼女達とは求める男像をめぐってしばしば論争が繰り広げられたようです.
AA壁画による、アサピ族像。 詞書は、アサピ族の思想をモナー朝の伝統芸能、「ジュゲーム」になぞらえて冷やかしたもの、とされているが 詳細は不明。 . それじゃあ何かい、ウチの 「珊瑚珊瑚、左翼の端くれ、 ∧_∧ 捏造売国の、中国様韓国様共和国様、 (-@д@) 覗きに露出に犯るところ、きのう人権きょう護憲、 (__|=L_) アンポアンポ、アンポにハンタイだ、 (_,,_,,_) ハンタイだのフンサイだ、フンサイだの誤注進の 彡※※※※ミ. ミスリードの似非紳士のアサピー」の報道で、未納が増えるって言うのか?
626 :
世界@名無史さん :04/11/17 00:15:42
ヤマ・ジューンの研究者である、南重慶師範大学の全不心教授は クソミソ・テクニカの流行こそ、当時のモナー朝にはびこっていた退廃風俗の 象徴ではないか、と熱く語る。退廃風俗の流行期と暗黒神タシーロに関する 文献が多い時期が重なると彼は主張する。暗黒神タシーロ崇拝の詳細は 未だ謎とされる部分が多いが、タシーロ崇拝文書からは数多く「覗き」や「痴漢」 となどの単語が多いことが確認されている。 タシーロ崇拝文書には麻薬について書かれた事項も散見されるが、これは暗黒神崇拝の シャーマンが存在したことを黙示しており、彼らモナー朝のシャーマンは麻薬によって 神懸かりの状態となる、南方的文化を持っていたと推察され、モナー朝の交易範囲が 広く南アジアまで通じていたとの説を支持する者も多い。 だが未だに謎の中の謎とされるのはタシーロ神関連文書うち、漢訳書(作成時期不明)に 「田代神三倍役満了」の一節である。三倍役満了とは何を意味するのか、今後の研究が 待たれる。
私はクソミソ・テクニカの流行を単純に風紀の乱れと取る考え方には反対です。 モナー朝の時代、あれほど広範囲な流行を見たことは風俗と言うだけでなく もっと根本的な理由があったと見るほうが自然tだと考えます。
628 :
世界@名無史さん :04/11/19 18:20:51
ちょっとお話中失礼ながら 教えていただきたいことがあります。 モナー朝を破ったと言われるメリ・ケーン(メリケン、俗称ヤン・キー)王朝に ついてはもう説明がありましたでしょうか? もし当方の過ちで見過ごしてしまっていましたらすみませんが もう一度情報を提供していただけませんでしょうか?
アリアケ侯の息女にして、ヤ・オイ伯爵夫人ショタコーンが描いたとされる ノートが現存している。確かに同性愛画であるが、クソミソ・テクニカの 同性愛画とは本質的に違う事が、素人目にでも確認できるであろう。 クソミソ・テクニカの写実的画風は、ショタコーン夫人やヤ・オイ伯領で発見 された類似の絵画の画風とはまるで違う物である。
630 :
世界@名無史さん :04/12/06 19:36:00
モナー朝では部族ごとに自殺の様式が決められていたそうですが モナー朝の文献にある「樹海」「練炭」「腹を切って死ぬべきである」 これらはどのように扱われていたのですか?
631 :
世界@名無史さん :04/12/06 23:28:29
「回線切って首つって氏ね」を忘れてはいかん。
>>630 おっしゃるとおり、自殺の様式は各部族ごとに特色がありましたが、
はっきりと決まっていたのかどうかは、よくわかっていません。
自殺の様式に関する決定的な文献は、王朝初期の「ノーム・ラ所見」で、
借金苦に陥ったモナー人が、手際よく樹海に導かれる様子が詳細に記されています。
当時は、借金を抱えたモナー人を樹海まで介添えする職人が存在し、
「樹海へ行く」を意味する「観光する」という彼らの隠語は、市民にまで流行しました。
樹海に入る自殺型式は、もともとはモネー地方に住んでいたカブ族の手法です。
また、これとほぼ同じ時期、主に都市部において、職を持たない解放奴隷が、
練炭を炊いた石室で集団自殺する構図の壁画が何点も残っています。
今わの際に、彼らが炭片で記したものと考えられています。
このように、自殺の様式は古代においては部族ごとの問題であったものが、
王朝初期では、階級ごとの嗜好上の問題に変化していました。
自殺者も、よくこの慣習を守ったため、次第に階級別の自殺手法は固定化してゆきました。
刑罰による自死を除き、王室が自殺の様式を規定した記録は残っていません。
633 :
世界@名無史さん :04/12/12 22:18:05
「回線切って首つって氏ね」はしばしば呪詛や死ねという意味で 理解されがちですが、モナー朝においては一般的な別れの挨拶として 「回線切って首つって氏ね」という語句が使われていたと伝承されております。
634 :
世界@名無史さん :04/12/12 22:31:26
最も豊富な自殺様式を誇ったのがメンヘール族です。漢文では躁鬱族と記されています。 彼らの間で流行した自殺様式は「練炭」ですが、その他にも多様な自殺様式を備え 模擬自殺も多数行われたようです。模擬自殺で最も多かったのが手首を斬る 「リスカ」の儀式で、次いで薬物を多量摂取する「オーバード−ズ」が流行していました。 メンヘール族がヒッキー族と交流関係にあったことが近年明らかになりました。
635 :
世界@名無史さん :04/12/14 20:43:55
「腹を切って死ぬべきである」の句は帝国元老院の選挙公報に記載されています。 モナー朝においては多神教の傾向が強く、主神にして全能神「ヒロ・ユキ・ウマイボーン」 暗黒神「タシーロ」少女神「ネヴァダ」など数多くの神が祭られていた。 一時期、南方からモナー朝に渡来した人物が一神教を唱え、悪人に自死を促し さらにモナー朝の性モラルを嘆き「パンパン的」という表現を使い非難した。 モナー朝公用語に「パンパン」なる言葉は無いので、彼の故郷の言葉であると推察される。 研究者の間ではこの人物はネストリウス派キリスト教徒であるという見方が定説となっている。
636 :
世界@名無史さん :04/12/28 18:28:09
珍スレage
637 :
世界@名無史さん :04/12/28 18:43:26
モナー朝の出来事が日本に伝わってできたことわざが思いのほかあると聞きましたが、 どんなことわざなのですか?
638 :
世界@名無史さん :05/01/08 02:31:07
乙乙
フランス中部リヨンにモナー朝崩壊時の難民が持ち出した書物が 「Des en chaoto coeu」という名で残っているにですがこれはなんですか
age
641 :
世界@名無史さん :05/02/03 23:01:03 O
モナー朝でもオクタヴィアヌスなどの三頭政治があったと書物にある。 一回きりで(812〜815)モナナ、モララー、ギコの三人。 モナナ(モナー15世)が813年キプロスの戦いでモララーを破り、814年ギコは失脚。 実権を取る。
ahe
643 :
世界@名無史さん :05/02/11 00:37:05 0
モナナ(モナー15世)は後に暗殺されるが、彼の遺した言葉 「しぃよおまえもなー」は有名である。
モナー15世モナナ(漢風諡号:武宗)は中興の祖13世モナモナ(烈祖) の十六男で、若い頃から明君として知られており、 山尖国滅亡後置かれた山尖州を治めていました。 >379の女帝JOY(平霊君)追放事件などの余波で 混乱していた国を立て直すため、チョウヘンエエ王モララー(モララー宰相) ・エエ王ギコと伴に一時的にまだ幼児であった14世ミニモナ(平宗) の職務を代行する形で三頭政治を行っていたようです。 >641に書かれているような経緯で政敵を葬り、帝位に登った のですが、引退したモララーにそそのかされたシィ族出身の愛妃シィ・チャン に襲われ後宮に於いて暗殺されました。 「シィヨオマエモナー」は「おお汝が族も我と同じき運命を辿るであろう」 という呪いの言葉であると伝えられており、これ以降シィ族は 弾圧され、初期モナー朝四姓の一といわれた栄華の日々に終わりを告げていく のでした。
マスコーミ州の ムサーシを祭り上げたドゥモゥ族・スポーツを重んじたヨーミ族・ニダーシナーを崇拝したアサピ族、 などの諸部族は、モナー朝最後まで戦いを辞めなかったと伝えられる、ということですが、 一説には、イヌアッチイケーとも呼ばれるドゥモゥ族とアサピ族の対立が引き金となり、 プソゲー・イ・ツュンヅューン族や、 隣国との関係でアサピ族と対立したサン・ケーイ族、ヨムハ・マイ・ニーチ族 なども参戦する大規模な内戦が起こり、 モナー朝滅亡の直接の原因になったという説もあるようですが、 どうなのでしょうか?
646 :
世界@名無史さん :05/02/17 00:39:51 O
モナー朝の末裔としてキルギスに小さいながら モナ=ハン朝があって、シタラッバと言う州に分かれていたが、ロシアの貧欲な ライブドゥアスキー将軍に征服されてしまったらしいのですが、こういった末裔諸国詳しいかたは いませんか?
>645 >イヌアッチイケーとも呼ばれるドゥモゥ族とアサピ族 イヌアッチイケーは尊号、ドゥモゥは俗称であるようですね。 >サン・ケーイ族、ヨムハ・マイ・ニーチ族 ヨムハ・マイ・ニーチはティビー族の雅称、 サン・ケーイはサン・フージ族の尊号のようです。 マスコミ板は称号が多く大変ややこしい地域だったようです。 >大規模な内戦が起こり、 モナー朝滅亡の直接の原因になったという説もあるようですが、 かなり有力な説ですね。 ことの発端はマスコミ板の目付役に任じられていた ドゥモゥ族宰相エービが寵姫ジュンとウドの甘言に乗せられ、 密かにニダー族を崇拝し、暴虐の限りを尽くしたことです。 エービはニダーを讃えモナーを貶めるスレを祭り挙げるように部下に 命令しましたが、モナー朝の巡察官アベシンがこれに気づき、スレを 焼却するように命じ、エービはそれに従いました。 しかし、盟約を破られたアサピ族は大いに怒り、ニダーの精兵を率いて ドゥモゥ族に攻め込みます。ところがエービは民衆叛乱により 既に逃亡しており、後継者ハーシも行方不明という状態で、 ドゥモゥ族民衆叛乱軍はアサピの支配を拒み、サン・フージ族に援軍を要請、 遂に大戦争となりました。
先日、学校の図書館でレポートのネタ探していたんだが面白いものを見つけた。 『モナー朝法制史』(1955年 著:猫華儀黄) 「……つまるところ、モナー朝においては成文法は非常に単純なものしか存在せず、 地域毎での自治が非常に発達しており、各州それぞれで実情に合わせた州法が定められていた。 これらは各州住民の中でも発言力の高い者=ジ・チチュウたちが合議の上で定めるものであり、 ロカ=ルルールと呼ばれる。 これは大まかな内容の州全体へ影響力のあるものと 細分化したルールを定めた各共同体=スル・ェッド毎のみに影響力のあるものの二つに分かれる。 これは、現行の法体系で表せばモナー朝法=憲法-州のロカ=ルルール=一般法-スル・ェッドのロカ=ルルール=特別法となる。 ただ、その効力は州によってまちまちであり、場所や時期によってはそれらを全く理解しない民度の低い民が多くを占める場所もあったことが幾つかの文献から伺える。 しかし、それらの法で特筆すべき美点は適応される対象が身分制を超えてすべての住民を対象としている点であり、 これはモナー朝創成期から滅亡期に至るまで一貫した為政者たちの姿勢であり、 特に創成期の時代(4〜5世紀)においては非常に特異であると述べることが出来るだろう……」 これを読むとモナー朝はその創成期から立憲君主国のようなものだったことが伺えるのだが、 果たして4〜5世紀にそんな高度な国家体制を成立できたのだろうか?
通して読んでみたけど結局のところモナー朝って何なんだろね。
650 :
世界@名無史さん :05/03/16 15:07:14 0
保守
651 :
世界@名無史さん :05/03/17 17:55:08 0
どなたか「ヌケド」について詳しい方はいらっしゃいませんでしょうか? 顔を白塗りにした赤髪の怪人ということしかわからないのですが、 歴史上の人物の名前なのでしょうか?それとも神話上の神なのでしょうか?
654 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 11:59:06 0
「二足歩行するクマと争っていた」という記述を読んだことがあるので 神話でしょうか? もっぱら挑発はヌケド、襲撃はクマから、という図式が通常だったと推測されています。
モナー朝中期にちびギコの反乱というのがあった 1日で王朝は反乱軍を制圧したそうだ。ちびギコ全員 強制労働と水税、トイレ税、寝る税を払うことになった。
656 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 13:28:03 0
シィ族の暴動の時に兵士相手にべビしぃ爆弾というのを使ったのを みて、モナー王はそれに対抗してちびギコ爆弾というもの作った、 両者とも威力、使い方、欠点なしということでモナー王はちびギコ爆弾 戦争の時に使っていたよ。ミサイルの元祖ともいうべき兵器だ。
工業高校で鳴らした俺達大藪部隊は、アフォしぃに大藪を侮辱されたが、 高校を中退し、家に隠れた。 しかし、家でくすぶっているような俺達じゃあない。 大藪侮辱すれば命次第でなんでもやってのける警察知らず、しぃを虐殺しアフォしぃを 皆殺しにする、俺達、大藪野郎2ちゃんチーム! 俺は、リーダーモララー。通称伊達さん。 ハードキルと虐殺の名人。 俺のような大藪愛好家でなければヒッキーどものリーダーは務まらん。 俺はモナー。通称ヤッピー。 自慢の肉体に、女はみんなイチコロさ。 ハッタリかまして、サリンからトマホークまで、何でもそろえてみせるぜ。 よおお待ちどう。私こそレモナ。通称ハッピートリガー。 処刑人としての腕は天下一品! ネカマ?本当に大藪好き?だから何。 クックル。通称軍曹。 殺しの天才だ。糞虫をぶっ殺してみせらぁ。 でも暴力租界だけはかんべんな。 俺達は、大藪を認めない世の中にあえて挑戦する。 頼りになる神出鬼没の、大藪野郎 2ちゃんチーム! 大藪を読みたいときは、いつでも言ってくれ。
世界史野郎 Aチームへの誤爆だな(・∀・)ニヤニヤ
>>653-654 答えから先に言うと、実在の人物が神格化したものです。
元の人物は本名ヌケレド・ヌケドナレド(異字多し)。モナー帝国メリケン州の出身。
料理人として著名で、店は帝国内だけでも優に千を越えたといわれています。耳飾り
がないことからモナ族の出身ではないとされていますが、あの耳なしにして白顔赤髪
の異形は彼の姿を模した店の守護神像です。守護神は店の営業を妨げる者に対して、
右親指を立て「オマエラオモテニデロ」と呟き殴り飛ばしたと言われています。
さて、アスキアート州でヌケドがクマと戦うAA陶器がよく発掘される事をご存知の
ようですが、その始まりは、実はよく判っていません。一説にはクマがヌケドの店で
無銭飲食をした、あるいはヌケドの料理を食い散らかし「マズイモナ」と罵倒したこ
とに由来すると言われていますが、肝腎のそのAA陶器が未発見なので説の確定
に到っていないのです。まぁクマは「ツリエ」と呼ばれる不味い食物も食い漁る浅ま
しい人の象徴とされていますので説得力はありますが。
ともあれ、ヌケドとクマの戦いは有史稀に見る乱闘であり、そのことがAA陶器に多
く刻まれ残されたという次第。
あとマクドといえばケンタキ州のガネル(ガネル・ザンタズ)との戦いが有名ですね。
密かに保守。
662 :
世界@名無史さん :2005/05/18(水) 04:30:26 0
おおっぴらに保守
そういえば、伝説の三剛者って、クックル・ヌケド・八ハジャであってましたっけ?
>伝説の三剛者 「三剛者は支那の春秋五霸の如く諸説あって定まらぬ」 (居間野宇智『モナー〜うずもれた猫耳の国〜』民明新書) のだそうです。 クックル・ヌケド・八ハジャ(西方伝承) ハハジャ・ア=ラヤダ・クックル(『茂名紀聞』の説) ブーン・ハハジャ・チーチャン(『茂名雑誌大全』の説) など、異説は甚だ多いです。 なお、ア=ラヤダはハハジャが 三体の女神像として祭られるようになったもので、異名同体とも いわれています。チーチャンはハ・カギ州に於いて祭られていた 女神で、若く美しい娘の姿をしていますが、これもハハジャの 若い頃の姿だとされています。この神の前で胸のことを語ること、 偽善者と罵ることは禁忌とされており、禁忌を破ったものはその晩チーチャンに 殺されると信じられていました。
>神馬モナーコス それはケイバ州の駿馬、ウインガーの尊号です。 ウインガーはモナナの乗馬で、モナナとともに神格化され、 「血の汗を流しラシを駆け抜ける馬」といわれていた 伝説の名馬ですが、普段は普通の馬より遅かったといいます。 ところが騎手が苦難に陥ると素晴らしい俊足で敵を振り切ったと 伝えられており、モナナが猛将・ポコタン王(ポコはモナー語「勇猛なる」、 漢風称号「猛武」)と戦った時、戦の直前まで病で寝込んでいたにも かかわらず敵を振り切り、本陣へ駆け込んでポコタン王を蹴り殺した という伝説が有名です。(この時、ポコタン王は「ポコタン、インシタオ!」 すなわち『嗚呼、勇猛なる我が敗れたのも天命である』と叫んだという) ウインガーはニュソクの戦いの後 数日で世を去り、その事から神馬として崇拝されるように なりました。 モナ21世の頃にはケイバ州産の馬は皆あやかってウインガーと いわれ、各板を駆け巡る駅伝もウインガーと呼ばれて親しまれたと いいます。
>>664 >ハハジャの若い頃の姿
血夷茶(チーチャン)は、棍棒を構えた怒黒茶(ド・クローチャ)という天使
を引き連れた、主原初(シュ・ゲンショ)の妻と『洛陽伽藍記』にありますが、
「ハハジャ」の夫とされる像とは、かなり姿が異なる様です。
主原初は、名前の通り始祖神であったとは『金剛三昧伝』の記すところ。
真の名「犯偈(パーゲ)」を呼ぶ事は忌まれ、また仏法の守護神とされながら
も、寺院内に祀られる事は厳禁であったという。
10世紀以降に、神格が変化したという事でしょうか?
この夫婦は流血と縁が深く、「喫肉事魔」と呼ばれたとか・・・。
三賢帝ってカワイソス3世とテラワロスとあと誰でしたっけ?
669 :
世界@名無史さん :2005/06/21(火) 12:19:51 0
あげ
670 :
世界@名無史さん :2005/06/21(火) 15:19:59 O
ヌケドが唱えた天下2分の計の話しは誰か知ってますか?
VIPPERと呼ばれる騎馬民族(政治集団?)を知ってますか? 「ジョルジュ」「ホライゾン」「スカルチノフ」 といった個性的な部族がたくさんあったみたいですけど?
神山財閥の総本山ね
>>671 彼らの民謡に覇飛磨手と呼ばれるものが存在したそうですが、
ご存じの方いらっしゃいますか?
国外の文献を訳したと思われる文献のさらに写しの一部があるのですが、 そこに「我は神の山にして満ちる月なり!」との文言がありました。 これはVIPPERの宗教を紐解くヒントとなるような気がしますね。
>>660 ちなみに、ガネルというのは、ケンタキ州から送られた名誉称号らしいね。
本名は、ハルラント・ザンタズというそうだ。
ちなみに、ガネルが展開した店の一部には、彼の像がたてられ、多くの人に親しまれた。
ただ、ある都市においては、あまりにも親しまれすぎて、何かしらの騒ぎがおこると、運河に投げ込まれたりしたそうだ。
都市の名前は失念した。
676 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 15:44:46 0
>>667 名前から見るに3人ともVIP地方の出身なのか。
677 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 16:37:19 0
ニダー族の復興
679 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 22:28:31 0
暴君サクランシジンが切捨て教徒を弾圧しました。
680 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 23:33:57 0
>>678 そうそう。商業都市オサカ。しまいには、ガネルの像は、鎖につながれ、
ドトーンボリ川(運河)の橋は、飛び込みが出来ないようにされたみたいね。
またオサカですか?
682 :
世界@名無史さん :2005/06/26(日) 09:20:41 O
またオサカや…
683 :
世界@名無史さん :2005/06/26(日) 10:36:03 0
オサカのドトーンボリ川流域はモナー朝建国を陰で支えた ナンパ・バシの本拠地なのにな。 モナー朝建国後、一万五千人とも二万人ともいわれるナンパ・バシが 粛清されて、その残党は地下にもぐってハンシン教を組織した。 ハンシン教の吉日にガネルの像がドトーンボリ川に投げ込まれるのは、 一般には単に祭りの際に群集が興奮してのことと思われているが、 実はハンシン教徒の間では彼がナンパ・バシの粛清を皇帝に進言したと 語り伝えられているため、それに対する報復の意味があるという。
大坂は、元々小坂(おさか)という地名でしたが、モナー朝起源なのですか?
685 :
世界@名無史さん :2005/07/16(土) 17:23:26 0
>666 >シュゲンショ神とチーチャン神 大黒天と鬼子母神がモナー朝に入って変容したというのが通説。シュゲンショは朱全忠の神格化であるという 説もありますなあ。後に明の洪武帝が後モナー朝を保護したために、洪武帝とも混同してまつられたと いわれており、信者たちは「クナンスレ(漢名洪武禅院)」といわれる寺院を建立し、苦難に耐える行事を 行ったといわれています。 >カワイソス3世とテラワロスとクォリティ一世 三賢帝は「武宗三賢」ともいいます。カワイソスは本名ブーソ、テラワロスは本名ビィップア、 クォリティの本名はタカス。 モナナの先陣として奮戦したビィップ族の族長たちで、死後功績により帝号を追贈せられたので こう称します。漢風では武雲帝・爆笑帝・高能帝とそれぞれ称します。 ブーソは集団戦術に長け、その突撃「ブーソラシ」は敵勢におそれられました。 ビィップアは謀略に長け、モナナ最強の敵・ダウソ族を謀略で滅ぼした人物。 タカスは名言「我は神の山にして満ちる月なり!」を残した人物。 >オサカ 後モナー朝と江戸幕府の通商関係を司った大阪茂名奉行のモナー朝名です。 のちに日本を意味するようになりました。 大阪茂名奉行職の下には茂名通事職があり、春日家が世襲していました。 春日家の現当主・10代目春日茂名大夫・春日あゆみさんの話によれば、 「マタオサカカ」とはモナー語で「わたしは日本へ行きます」の意味だと いうことです。
>>685 成る程、色々とありがとうございます。実にお詳しい。
>>680 では、地名の様ですが、日本の「小坂」からの移住者が14世紀に築
いた倭館が存在し、後に日本人町と呼ばれる地域が形成された様ですね。
そこで現地の文化と結合して、モナー朝内でも強烈な個性の文化が成立。
勿論、「モナー朝建国を陰で支えたナンパ・バシの本拠地」は前からあった。
旧名ナンバには、虎を崇拝する戦士たちの集団が存在したそうで、来日前
に王仁が詠んだという、
ナンバ津に勝つやこの虎冬ごもり 今は春べと勝つやこの虎
は、教科書でも有名。和歌形式である事から、疑問も出されていますが。
一連の風俗を、フラシュという絵画に仕立てたものもあった様ですね。
仕掛けがあって、絵が動いて音もしたといいますが、ヘロンの自動劇場の
様なものであったのでしょう。
何故か、
>>200 前後のサイタマと比較される事があったといいますが、由来
というか、因縁でもあったのでしょうか?
>>675 > ちなみに、ガネルが展開した店の一部には、彼の像がたてられ、多くの人に親しまれた。
> ただ、ある都市においては、あまりにも親しまれすぎて、何かしらの騒ぎがおこると、運河に投げ込まれたりしたそうだ。
運河に投げ込まれたこの失われた像を求めてナイトスクプ探検隊が組織され幾度か発掘調査をしたが、遂に発見する事は出来なかったそうだ。
688 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 00:50:05 0
モナー朝の盛衰史、興味深く読ませていただきました。 ところで、モナー朝におけるゲージュツには どんな物があったんでしょうか?
689 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 19:06:38 0
2005年7月12日、トリノの教会の地下奥深くから「東土見奇聞」の原版が 発見された。これによりモナー朝が実在した可能性は高くなった。 発見者はカリフォルニア州立ポテチヤード大学教授トーマス・アンダーソン博士。 煮茶根瑠新聞
三賢帝の出身地であるヴィプって、もともと流刑地だったんでしょ。 モナー朝中期以降、ヌ速市の治安が極度に悪化したから、そこで犯罪を犯した者たちを隔離すべく 新たに町を作った、それが本家ヌ速市をしのぐ勢力になるのは後期からだよね。 それから、テラワロス帝といえば、破顔大笑した肖像画が帝国各地から出土しているよね。
>>689 ゲージュツかぁ。
少し上で山野氏が「フラシュ」というものについて言及してるよ。
あと、このスレでは「AA陶器」あるいは「アスキーアート式陶器」なるものについての
話もこのスレでは何回か出ているよ。
個人的には「フラシュ」というものの形成発展の歴史みたいなものを知りたいな。
>>52 に「フラーシュ」というものについての言及があるけど、山野氏が言ってるものと同じなのかな。
692 :
世界@名無史さん :2005/08/01(月) 18:06:34 0
100ドキュソ金貨は金の含有量が79%だったよ
モナー朝の衰退には新人(にいと)と呼ばれる新しき人類が関与していたらしいです。 モナー朝後期ごろから登場した新人たちは働くことを拒否し、モナー朝の経済を荒廃させたそうです。 その存在に恐怖を感じた(呆れた説あり)当時のモナ朝の君主は、 彼らを別の鎖場(さば。区画のようなもの)に強制移住させました。 その後、不思議な団結力を見せた新人たちはその地を開拓し、 美府(びぷ。後にVIPと呼ばれるようになる)と呼ばれる自治領を築いたそうです。 それからの約50年は他のモナー朝管轄下地域を「突撃」の名目で侵略、占領し、 大使館を立てた後に引き返すという独特なことをしてきたそうです。 モナー朝の外へも場合によっては突撃したとか。 しかしそのような状態も長くは続きませんでした。モナー朝の自治領に対する規制も厳しくなり、 他の鎖場からの移民や内部からの厨も増え、自治領設立から100年経った頃には、 他の地域にはない活気を見せつつも、ある程度の落ち着きを見せるようになったそうです。 ここでプツンと文献は途絶え、これより先に何が起こったかは、今のところほとんど謎のままです。 しかし、かの地域に残る民謡覇飛磨手や、両腕を横にを広げる無数のブーソ族の彫像、静かに横たわるスカルチノフ族の石像などが かの地に文明が存在していたことをしのばせます。
694 :
世界@名無史さん :2005/08/02(火) 01:34:29 O
>>691 文学ではモ地方の若者と仏国の鞄職人の娘との恋を描いた長編詩「デ・ンシャ」などが有名。
695 :
世界@名無史さん :2005/08/02(火) 01:55:31 O
ヌ速市の人たちは大変な祭好きで有名だった。ただしほとんどの祭は公式のものではなく。ツーリと呼ばれる非合法組織によってに催されていた(「ツーリ・ボリ」とよばれる)らしい。でもヌ速市民にとってはどちらでもよかった模様。
ツーリの際、その犠牲者にテキーラをおごる「バボン」という習慣もあったそうな。 「まぬまぬみてみちぬちぬおき」という謎の呪文も残されているが、意味は不明だ。
マスコミ板6支族について教えてください。 旗印については アサピ族→11 ヨミリ族→10 サン族→12 マイニ族→1 NHK族→3・5 とうちの学校ではなっていたはずですが。 ちなみにニケイ族については習っていません。
6氏族それぞれに当てはめられていたという数(おそらく儀式的なものだといわれていますが)は なぜか地域の伝承によってさまざまに違います。 たとえば上の方で話が上がっていた商業都市オサカではアサピには6が当てはめられていた様です なぜこれほど地域によって差があるのか?というのはいまもって学会でも大きな 謎の一つです。
>>697 ニケイ族は13に割り当てられたそうですよ。
700 :
世界@名無史さん :2005/08/03(水) 08:22:08 0
「カーコ・ローグ」と呼ばれる、モナー朝の全てを記録した書物が 世界のどこかに隠してあるらしいですね。 現在見つかっているカーコ・ローグは、全体のほんの一部らしいです。
ドクオ州にデーン=シャーと呼ばれる教祖に率いられた宗教運動があったそうです。 デーンはニヒリズムに陥りがちな当時のドクオ住民に対し修業による救済の道を示し、 一部住民の熱狂的支持を得たもののドクオ人多数派には疎まれ、やがて迫害され地下に潜りました。 しかしモナー朝国外で多数の信者を獲得し、彼らが大挙巡礼に訪れモナー朝の人口構成をも変えたそうです。 なお、彼らはエルメスと呼ばれる最高神を崇拝し、これはギリシア神話のヘルメスとの関連も指摘されていますが 壁画ではカバの女神の形で描かれています。
>701 >694で言われている、長編詩「デ・ンシャ」は、デーン=シャーと彼を支えた人々が残した記録を元にしてるといわれてますね。
703 :
世界@名無史さん :2005/08/03(水) 21:43:25 O
>>696 ツーリは不可思議な踊りを信者が踊りあかすなど魔術信仰的な色彩を持っていましたからね。
ツーリの教儀は非合法とされていましたが隠れ信徒はモナー王国全土にいたようですね。モナー民は隣人がツーリ教徒ではないかということに非常に敏感でつねに疑心暗鬼になっていたようです。
またデーンとツーリ教団との関連があったかなかったかは諸説あるようですが。どちらとお考えですか?
モナー朝の社会的地位のある人々を失脚に追いやり続けた「キン・ターマ」 とは、どういう組織(?)であったのでしょうか。 これの「原因」の提唱者が、京都(モナー朝の)で捕えられたそうですが。
>>700 全てのカーコ・ローグを読むには、「マル」を呼ばれる宝玉が必要だったといわれています。
「マル」はごく一部の限られた人のみに与えられ、さまざまな特権を与えられたと伝えられています。
(名前に「マル」を冠することが出来る、など)
706 :
世界@名無史さん :2005/08/04(木) 21:50:07 0
モナー朝って最盛時には北インドから東にかけて細長く中国北方を迂回するような形で 満州の辺りまで延びていたほどの広大な領土を有していたそうですね
707 :
世界@名無史さん :2005/08/04(木) 23:23:02 O
そうですね。南は東工大のあたりからなぜか細長く北は駒場東大まで続く目黒区みたいな領土でした。
708 :
世界@名無史さん :2005/08/05(金) 00:13:07 0
反乱分子を始末するための秘密警察、サクジョニについて
VIPPERが都を追われて流れ着いた安住の地と思われる遺跡の発掘をしていると、 .,/i/i ミ 、| ./\_! ,.イ., / <;と_)_) 狐のような壁画をたびたび見かけるのですが、これは何を意味しているのでしょうか? どうも、VIPはこの狐を嫌いつつも畏怖しているような印象を受けるのですが…
710 :
世界@名無史さん :2005/08/05(金) 04:04:54 O
>>703 疑心暗鬼にとらわれたモナー民は「ツーリ・オーツ」あるいは「トツラレテミル・テスト」などの魔除けの文言を唱えてひとまず相手を牽制するのが常だったそうですね。
>>703 ドクオ地方で信仰されていたマンドクーセ教団は徹底的なデーン=シャー批判を繰り広げましたが
特に初期の批判のなかにデーン派がツーリであるとする文言が多いようです。
マンドクーセ教は
(1)欲望をありのまま認める(2)しかしそれが実現困難であることも認める(3)それにより執着から解放される
という思想が教義の根幹をなしており、それは修行による自己再生を説くデーン派の主張とは
真っ向から反するものでした。またデーン=シャーの教団が巨万の富を得たことも批判されました。
デーン自身はツーリではなくあくまでドクオ人の救済を意図したとされますが
デーンの隠棲後、流民ヴィッパーを中核とするツーリが幾度となくデーンの再来と称していたそうです。
712 :
世界@名無史さん :2005/08/05(金) 18:25:10 0
>>709 当時のモナー朝で権力を持っていたとある神官は、狐をシンボルとしていました。
彼らを別の差場に追い込んだのがその神官だったらしいのですが、
VIP地方の開拓を推進したのもその神官だったらしいです。
そういえば、モナー朝で一時大変流行した詩があると聞きましたが タイトルを忘れてしまいました。教えてください。 たしか「牛肉を簒奪」「マイヤフー」などの意味不明な 言葉が羅列された物だたと思うのですが・・・。
三年に一度、すべての板を巻き込んで行われる「トナメ」という大祭があったというのですが、 いったいどのようなものだったのでしょうか?
715 :
世界@名無史さん :2005/08/15(月) 23:18:07 0
hage
716 :
世界@名無史さん :2005/08/16(火) 07:18:28 0
カワイソス賢王の名言: ピ ザ で も 食 っ て ろ デ ブ
最も長い期間、第1王位継承者として将来を嘱望されながら ついに即位を果たせなかったワクテカ太子が己の身体に塗った油が出土。 当時の光沢をまだ失っていなかったという。
718 :
世界@名無史さん :2005/08/19(金) 06:51:34 0
恐怖政治が行われたというガクブル時代は、どの王の時代でつか?
719 :
世界@名無史さん :2005/08/20(土) 12:58:58 0
カチューシャ式土器 ジェーン式土器 ホットゾヌ式土器 ギコナビ式土器
ところでモーナ8世(敬宗和皇帝)の時代、マ・スコーミー州の民衆が ア・カイホウドゥと名乗ってバイコック朝アカピー帝国の主要都市・コエーラーンに潜入し 一軍の将校となった後、自分がモナー朝の人間であることを宣言して アカピー帝国を散々に痛めつけたっていうあの事件知っている人いますか?
>>720 それからがガクブル時代じゃなかったっけ?
722 :
世界@名無史さん :2005/08/21(日) 08:54:02 0
モナー朝では多神教が信仰され、その神様は「ネ申」と表記された。 ネ申が人々の前に現れた時、信者はそれに対して「キタ━━(゚∀゚)━━!!!!」 と唱えるのが通例だったという
>「トナメ」という大祭 是に関しては、岡義古先生の学位論文『モナー朝史におけるトナメの研究』が必読の書です。 岡論文に寄れば、従来「三年に一度」の大祭とされてきた「茂名記聞」該当箇所は、 「三百年に一度」の大祭の誤写に基づく物であり、実際513年の第一次トナメ、 813年の第二次トナメ以外のトナメ伝承は存在していません。813年の大規模なトナメ (これは祭りを通り越して合戦だったようです。もっとも、モナー朝においては 「センキョハマツリダ」と、戦争を祭りと同一視する傾向がありました) 以降、トナメ大祭は余りにも犠牲者が多かったために中止され、1113年のトナメは中止、 >655のチビギコの乱を経た1413年には既に祭りの仕方がわからなくなっていたようです。 もっともヌソクの民やトウヒョジョの民が古典芸能としてかなり変質した小規模な祭りを続けてはいたようです。 第2次トナメは、三頭政治の二人が互いに祭り上げられ、ストップマンことモララー二世(?〜814) と、モナー15世モナナ(武宗、784〜861)が互いに北帝・南帝を称する事態にまで発展し、 バイク族の滅亡やダウソ党の崩壊など大乱となってしまったようですね。 ご存じの通り南帝モナナがビィップ族・セカイシ族・ヌソク族・ニーピソ族・ニダ族・ グンイタ族・デーン=シャーの教団に推戴せられて、激戦の末勝利を収めました。 北帝モララー二世はトウシニ城で自害して果て、遺子スピソドリル(モララー三世)がジサクジエン州 にてダウソ党内の最強集団サトゥ・バツ派に擁立せられ、820年頃まで抵抗を続けたようですが、 821年にブーソ(カワイソス3世)、クワアテ(セカイシ族長、死後追号は武南穆王) らの率いる軍勢のラシを受け戦死。滅亡しました。 なお、モララー二世〜三世の政権を特に「北モナー朝」と称することがあります。 >711 マンドクーセ教はモナナにより非合法とされ、東遷して禅と混同されましたね。 禅には「無事是貴人」という思想があり、これが「動かないのが貴人」だと誤解されたのです。 酢屋道全はマンドクーセ教徒だったという説があります。
モナー朝が一時期都を置いていたといわれる さいたまの発掘が望まれるところです。
725 :
世界@名無史さん :2005/08/22(月) 01:07:26 0
ジサクジエン王国の末裔?
726 :
世界@名無史さん :2005/08/25(木) 23:06:20 0
+ + ∧_∧ + さいたま遺跡から出土した (0゜・∀・) ワクテカ王太子の肖像画 (0゜∪ ∪ + と__)__) +
727 :
世界@名無史さん :2005/08/28(日) 23:07:47 0
さいたま遺跡から出土した壁画 ─────────────‐ ━━━mm━━━━━━━━━ ||| lll | | 人 ガラッ | | (__) ||| ________ ||| | | (____) / \\( ・∀・ ) < おやじ!冷やしうんこ下痢だくで! \ \ \ ||| ガラッ ) ト、ヽ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ||| / ( | | ||| ━━━━━━━━━mm━━━ ─────────────‐ 「おやじ」はモナー語で父親ないし年配の男性を示す名詞だが 「冷やしうんこ」「下痢だく」については、いまだ意味が明らかにされていない
728 :
世界@名無史さん :2005/09/02(金) 06:40:02 0
∧_∧ ∧_∧ age (・∀・∩)(∩・∀・) age (つ 丿 ( ⊂) age ( ヽノ ヽ/ ) age し(_) (_)J
先日、発掘中の遺跡において、 「ヒック-オゥ-シッ ヒック-オウ-シッ ……」などという謎の文字列が彫りこまれた、 憤怒の形相で、先端に大きな輪が二つついた錫杖のような物を振りかざした女のレリーフが出土したのですが、 これは一体何を描いた物なのでしょうか……? この地方で崇拝されていた女神と、女神にささげる祝詞かなにかでしょうか…?
それはむしろ悪鬼だったような気がします
731 :
世界@名無史さん :2005/09/03(土) 01:48:12 0
モナー語で「シバクゾォ」。破壊・騒音を司る悪神です
732 :
世界@名無史さん :2005/09/03(土) 19:55:01 0
さぁ?w
>732 ピンクサバー島にあったハンカ・ク王国のカーナ朝からカクーニ朝への移行期に関わった 人たちの相関図だね。 すまんがハンカ・ク王国は専門外なんで詳しいことは分からんな それと、ピンクサバー島は非常に大きな島だったけど、 モナー朝に含まれるかどうかは各自意見が分かれるところで 昔から論争が絶えなかったけど、いまだに結論は出てないんだよね
>>734 マチビ・ビエス島とピンクサバー島はモナー朝の支配領域ではないという公式の布告は出ていたようですが、
それでも、統治形態や住民の交流がモナー朝領域とほとんど同じであり、
国境線が無きに等しい状態であったことが、意見がまとまらない原因なのでしょうね。
ピンクサバー島の入島制限も、有名無実のものであったようですし。
有名無実ではあったけど、ピンクサバー島で年齢詐称がばれたらかなり責められたときいたが
737 :
世界@名無史さん :2005/09/04(日) 00:42:00 0
モナー朝のジャンヌ・ダルクと言われる「サアヤ」はいつごろの人ですか?
>>732 155 名前:世界@名無史さん [転載sage] 投稿日:2005/08/28(日) 22:50:09 0
ウプレカス[Uprecus]
(紀元前1世紀前半〜没年不明)
ローマ帝国の思想家。(元軍人の説アリ)
当時帝国により厳重に秘匿されていたあらゆる伝統技術
の開放を訴え、ローマ市街で市民や外国人、奴隷達を煽動して暴動を起こした。
その為に帝国から疎まれ元弟子のコニウプにより毒殺(暴動の罪で処刑、地雷で爆殺説等あり)
されるが、彼の名は後世まで受け継がれ、自由を愛する文化人や思想家などに親しまれ続けた。
インターネット上で同人誌や商業漫画のアップロードを求める際に
「うpれカス」と叫ばれるのは、ウプレカスの名前をもじったものであり
「総ての文化(同人誌の内容)を開放せよ」
と彼の思想を踏まえた上での発言かと思われる。
460 [名無し]さん(bin+cue).rar sage
>>458-459 世界史さんやっぱセンスあるなー。
しかしウチは相変わらずひでえ扱いだなw
2005/09/02(金) 23:31:31 ID:26En4bbn
461 清き一票@名無しさん sage
>460
大量の文献を残したセカイシ族は、ご存知の通り南朝に加わっていたため
北朝に関する記述が厳しいのではないかという説は比較的早い段階から出ています。
しかし最近の学説によると、モナー朝では複数の部族に属するのは一般的だったとの
研究結果から、セカイシ族とダウソ党に同時に所属していた人間がいなかったため
だともいわれています。このことは、セカイシ族が極端なブ・ンケイ派であったことが
原因のようです。
モナー朝の最果てにあったとされるビビエスピンーク地方の洞窟から見つかった
数字板書なる古文書が見つかっています。
これはモナー朝の代表的な歴史家
モナドトスが著書「ザツス・レ(漢語訳 戸禹集保)」で
「トナメに関する最も客観的な文書」と評価している失われたヤホヒィ文書ではないかと
推測されていますが、書かれている言語がモナー朝の主な方言であるモエ語類に
属していることは分かっているものの、一般のモエ語よりも複雑なモエがあるため
いまだ全面的な解読にはいたっておりません。
2005/09/03(土) 20:03:57 ID:vEHPjbm0
740 :
世界@名無史さん :2005/09/09(金) 08:16:57 0
ホロン部というのは、オイラート部やジュンガル部のようなものですか?
英別樟という夷族がモナー朝の王に風貌が似た「ノマネコ」という男を立ててモナー王位を狙った事件だけど、 数日もしないうちに「これはモナー朝にひらめきを得て独自性を足したもの」とか釈明したそうだね。
742 :
世界@名無史さん :2005/09/10(土) 08:40:54 0
エイベクソ族に擁立された偽王は「ノマ・ワタ・マイヤッヒ」
>ホロン部というのは、オイラート部やジュンガル部のようなものですか? その通り。シナー族・ニダ族でアラシをする一派の蔑称です。南帝モナナの頃にニダー州やヌソク州を荒らし回ったとされています。 ところが、このホロン部というのはただ攻め込むだけで何もせずに去っていくことが多かったためか、 史料が非常に少なく、学界では「警戒心の強い両州住民が、新規の住民を警戒・恐怖する余りに シナー族以外の人間までホロン部といって罵ったのではないか?」という考え方から ホロン部の存在を疑問視する声も挙がっています。
744 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 09:00:51 0
ということは、「ニダー族ホロン部」という感じですな。 存在が疑問視されているということは部族を統一したという伝承のある 「ウリナラ・マンセイ」「シャザイシル・ハーン」「ファビョン・ハーン」の3代も 実在していなかったということでしょうか?
745 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 09:35:40 0
エイベクソ族は独自の文化を持たないが、他の民族の文化を模倣する事には 長けいた。これはエイベクソ族伝承の音楽から推察可能で、遠国の音楽を模倣 する事により、近隣の民族にはあたかも独自の文化であるかのように見せかけていた。 エイベクソ族の女王アユは、品位が低い衣装を纏い、行動もまた下品であったが 蛮族には人気があった。
746 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2005/09/11(日) 11:25:25 0
エイベクソ族の王は追放された後復活したんじゃなかったっけ?
>>743 や、それについては「前期ホロン部」と「後期ホロン部」に分ける見方も提案されていて、
後期ホロン部はシナー族、ニダー族以外の民族が
「ホロン部」の名を借りて「ツリ」をするのが目的だったという説もある。
エイベクソ族の女王はあくまでも象徴であり、実際の政務は摂政のマクース・マツーラなる人物が 行っていたとも言われています。 >746 それは摂政同士が争った内乱ですね。 マクース・マツーラと共同で摂政を務めていたヨーダが反乱を起こすものの エイベクソ族の資産価値が暴落、わずか3日で再びマクース・マツーラが 復帰した「ヨーダの乱」です この際に、女王がマクースを支持したことから、エイベクソ族の政治形態については 様々な学説があります。 多神教であったモナー朝でも、女王アユを崇拝することは被差別民への蔑称である 「DQN」と呼ばれることもあったそうです。
749 :
世界@名無史さん :2005/09/12(月) 16:56:24 0
さらにエイベクソ族の女王アユは女王崇拝の儀式の際に障害のある者を 晒し者にしたという記録も残っております。
敗れたヨーダは、若い頃の活躍が叙事詩化され、世界各地で知られていますね。 つい最近、宇宙で活躍する剣士の師として出ていたキャラも、実はヨーダがモデ ルだそうで、ある意味モナー朝「系」の遺産だと言える。 >749 障害者が「笑い」を誘ったのは、世界史から見れば、つい最近まで行われていまし たが、よりによって自分の崇拝者を対象にした事は、モナー朝からの強い非難を 呼び込んだそうですね。 女王の謝罪文なるものも存在していますが、これがモナー朝の文字で書かれたも のしか存在せず、価値観や表現からして、モナー朝で偽作された説が有力です。 なお、障害者をからかう事は、(モナー朝に言わせると)ニダー族でもよく行わ れていたという事になっています。ニダー側の言い分は存じませんが。
思想家「Z武」のことかと思ってしまいました。
752 :
シャザイシル・ハーン :2005/09/12(月) 23:16:29 0
モナー人は謝罪しる!
753 :
世界@名無史さん :2005/09/13(火) 08:12:30 O
オニギリの話題はもうでましたか?
オニギリとは
>>314 に出ている モナー朝の祭祀官のことですね。
エイベクソ族に擁立された偽王「ノマ・ワタ・マイヤッヒ」 もこの祭祀官制度を模倣していた様子が
現代に残された当時の壁画などからうかがい知れます。
なお、エイベクソ族はこれらを報じた文書などを圧力をかけて焼き払い、
内部の批判者を粛清したという噂があります(「エイベツクソの焚書坑儒」とも呼ばれる)
ノマウタの件は既に江戸モナー学の大家・茂名村賀那斎(主水)の『朱雲随筆』に取り上げられていますね。 「野間猫(ノマネコ)は茂名を騙る者なり。茂名の南に蛮あり、得夷辺区粗といふ。 その風茂名に似たり。この地の民近来尾張野間に至って野間猫と称し、 我は茂名也、と号す。世人これを信じること甚だし、言語道断、聖人の紫の正色を奪うを憎むもむべなるかな(以下略)」
ちびギコの話題はもうでましたか
757 :
1 :2005/09/18(日) 00:11:48 0
Σ(゜д゜;)まだあったのかこのスレ
758 :
世界@名無史さん :2005/09/18(日) 12:45:19 0
ここは、茂名の宣伝のため上げてみるべきか。
760 :
世界@名無史さん :2005/09/19(月) 18:21:15 O
最近発見された太陽神ワ・タヌキは御利益をもたらす郵政教の主神であったとか
ペログリ・ヤッシーの兄弟神か
賢人たちの対話を記録したヴィプ文書に頻出する 「肥え太りたる者よ、汝にピッツァなりとも与えん」 というのはどういう意味なのでしょうか?
妻帯せずに江戸モナー学に携わる者が苦しめられた偽史疑心闇々(ギシギシアンアン)とは 何を指したものなのでしょうか?
>>763 学問に携わる人間の心に憑く妖怪だったと伝わっています。
世間ではこんな楽しいことをしている、楽しんでいないのは君だけだ、などと耳元でささやいて心を乱し、学問を妨げる妖怪だったそうです。
765 :
世界@名無史さん :2005/09/21(水) 23:46:54 0
>偽史疑心闇々(ギシギシアンアン) これに苦しめられたのが茂名村賀那斎の高弟の一人・高山蘭兵衛こと高山鉄人軒(名は重岳)です。 彼は生涯独身童貞を貫き、ドクオ教の研究にいそしんだ篤学の士でしたが、50才を過ぎて 「勃然として色を思う」ようになり、偽史疑心闇々に悩みに悩み、52才を一期として縊死して果てました。 なお、偽史疑心闇々について高山は「深夜ぎしぎし、あんあんと人の声が如くならざるもの聞こえ誠におそろし おそろし」と恐怖に満ちたカキコォを残していますが、これは実際には隣家の若夫婦の嬌声であったとされています。 なお、居間野宇智(>439)が早く妻帯したのは師匠の茂名村賀那斎が高弟鉄人軒の自殺の二の舞を せぬようにと、共同研究者だったサクラー・カルトカプトゥーレとの結婚を強く勧めたからだといわれています。 ちなみにサクラー・カルトカプトゥーレは日本語に堪能で、大道寺伯爵家の令嬢・大道寺智代(後李王家室) と交友があり、居間野の研究資金の幾ばくかはサクラーの内助の功により大道寺家から渡されたものであることが わかっているので、茂名村が結婚を勧めたことはモナー学発展の大きな功績の一つだというジョークがあります。 ※サクラー・カルトカプトゥーレはモナー朝の「モエ」の権威。著書「サクラーの研究」など。
オ ネ ガ イ ヽ( 'A)ノ ヽ('A`)ノ タッチ!! タッチ!! ( ) ( ) / ノ < \ ヽ( 'A)ノ ( ) ('A`) ココニタッチ!! /ωメ ( )ヽ LL ヽ( 'A)ノ ( ) ('A`) アーナーターカラー! /ωヽ(人) LL タッチ!! ヽ( 'A)ノ ヽ ヽ ノωA`) 彡 (人) LL
767 :
世界@名無史さん :2005/10/13(木) 07:50:38 0
そんなことより 糸コンニャクを噛まずにいっぱい食べた翌日 ケツの穴から、糸コンニャクを引っ張り出すと 気持ち 工エエェェ(゚∀゚)ェェエエ工
>>747 「サヨ」「ブサヨ」と呼ばれていたモナー族の郎党だったという説もありますが、
異論もありますね。
770 :
世界@名無史さん :2005/11/15(火) 23:51:43 0
771 :
世界@名無史さん :2005/11/16(水) 01:48:26 0
ログ読んだがワロタ。良スレ。あげとく
>最近発見された太陽神ワ・タヌキは御利益をもたらす >郵政教の主神であったとか これとは別組織なのですが、郵政軍というものもあったそうです。 【郵政軍】造反組キリステ教の一派。1878年ごろカメイ卿が創始。 軍隊的組織のもとに民衆伝道と社会郵政事業を行う。
773 :
世界@名無史さん :2005/12/17(土) 14:43:29 0
age
774 :
世界@名無史さん :2005/12/31(土) 09:13:35 0
まじですか?Σ(´Д`;)!! 今おならしたとこなのに.∵(´Д⊂)∴
「ホ・リエモン」についてどなたかご教授いただけますか?
>>775 確か札束を積み上げて天まで届く塔を作ろうとして、神の怒りをかって天罰を受けた男だったような。
777 :
世界@名無史さん :2006/01/25(水) 07:51:04 0
仲間にムラ・カーミもいました
塔の建設に携わった二十万以上の民は混乱の末に、各地の森へ散っていったとか
780 :
世界@名無史さん :2006/01/27(金) 02:36:28 0
「ホ・リエモン」は拝金主義を訴え、金が世の中の真実であると説きました。 大衆の支持を集めるため彼は「パンと見せ物」の内見せ物に着目し庶民に人気のある 玉打ち遊びの興業の権利を得ようとしますが、豪族「ミッキータニー」に権利を奪われました その後、郵政軍のカメイ卿と合戦を行い負けたものの、王朝内に知らぬ人はいないと言われるほど 知名度を高めました。フジサンケイ部族との戦いでは多くの戦利金を獲得し かれは王宮「ライ・ブドーア」に黄金を積み上げました。その高さは天に届くとさえ言われました。 しかし「ホ・リエモン」の説く拝金主義の布教は多くの妨害に遭い 黄金をうず高く積んだ「ホ・リエモン」の王宮「ライ・ブドーア」は落雷により崩壊 「ホ・リエモン」は行方知れずとなりました。
ニダー族ホロン部に関してはまだ調査が進行中ということもあり 不明な点が多い。「ウリナラ・マンセイ」が部族を統一した点は およそ間違いは無いと考えられている。 「シャザイシル・ハーン」「ファビョン・ハーン」は首長であったかは 疑問視されている。同様の存在に「バイショウシル・ハーン」の存在がある。 彼は「シャザイシル・ハーン」の記述と共に登場する機会が多いため 親子または兄弟ではないかと推測されている。 また「シンス・ゴ」なる悪女の説話が口伝されているが、決定的証拠に 欠ける。
なお「シャザイシル・ハーン」については「シャザイ汁・ハーン」と記載された 文章が多く、彼が何らかのスープを発明したとの説もある。
シャザイ汁・汗
784 :
775 :2006/01/29(日) 14:09:18 0
785 :
世界@名無史さん :2006/01/29(日) 17:19:12 0
チクシという売国奴について教えて下さい。
786 :
世界@名無史さん :2006/01/29(日) 23:30:05 0
中国で発見された資料によると「畜死是著名売国奴朝貢中華…」と書かれています しかし似たような人物で同時期にに「本勝」という存在が確認されており 畜死の字が本勝であるという極論まで主張されています。
787 :
世界@名無史さん :2006/01/30(月) 12:28:51 0
「畜死伝」「本勝伝」どちらもマスコミ州アサピ族の戦士として世に出たとしていること、後にシューキーン党を指導して時の モナー朝に反旗を翻したなど両者の事績に共通点が多いことが、同一人物説の大きな根拠になっているようです。 ただし、「畜死伝」にのみ「ティビー族に請われ、副官サコ、寵妃クサマンと共に二十三郡を治める。」に始まる一章があり、 「本勝伝からの脱落」を主張する同一人物説派と「別人である決定的証拠」とする別人説派の間で未だに論争が続いていま す。また、「二十三郡」についても「統治した郡の数ではなく、そのような名前の一つの郡ではないか。」との異説も唱えられて います。謎の多い彼の実態を明らかにするには史料だけでは限界があり、ティビー地方の発掘調査が待たれています。
近年の調査では畜死、本勝らのマスコミ州アサピ族シューキン部は中国王朝と密通し、 モナー朝に反旗を翻したのは確実と見られています。マスコミ州は巨大な州で、 その支配権をめぐり多くの戦いが演じられましたが、アサピ族シューキン部と、 フジサンケー族セーロン部による南京ヶ原の合戦においてはセーロン部が偽造暴露弾なる 兵器を投入アサピ族シューキン部が弱体を晒し撤退に至っています。モナー朝でも露骨に 反旗を翻すアサピ族は迫害の対象となりました。
791 :
世界@名無史さん :2006/02/01(水) 09:04:33 0
書籍化か、まとめサイト。 誰か暇な人やってほすぃ
確かに、3年以上もスレが続く中で、 ずいぶんと情報が重複している感はありますね。
一説には、畜死は魏の陳思王の末、本勝は李勝の末だともいわれていますね。 そのせいか支那とコネクションがあったらしい。ティビー族のシンボルは 猪だったようで、支那にあこがれた一族だったことは事実でしょうね。 ただ、茂那村賀那斎は水戸学の鵜狩八平(元伯)の説を引いて 「案ずるに手媚(ティビー)の徒、その漢文を用うる所を見るに 甚だ稚拙にして語は茂臭甚だし、蓋し震丹人の末には非ず」 としています。 ちなみに鵜狩八平(元伯)は元モナー朝の名家ジダイゲキー州長官ウッカリ家 の出、本朝に帰化して鵜狩氏を称したといいます。水戸藩の修史事業に 携わり代々八平を襲名しました。元伯は6代目。
795 :
世界@名無史さん :2006/03/12(日) 13:55:36 0
796 :
世界@名無史さん :2006/03/18(土) 21:11:25 0
age
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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>>794 通報しますた!
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 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ( ´Д`) < 通報しますた!
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(ぃ9 | (ぃ9 ./ / \ \.∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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/ ∧_二つ ( / ∪ , / \_______
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/ / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ
/ ノ / / / / / ._/ /~ ̄ ̄/ /
/ / . / ./. / / / )⌒ _ ノ / ./ (゚д゚) シマスタ!
/ ./ ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 ゜( )ー
( _) \__つ \__つ).し \__つ ./ > (・∀・)シマスタ!
属国を従えてたって話をきいたことがあるぞ。
799 :
世界@名無史さん :2006/03/27(月) 23:15:20 0
あげ
もなー
801 :
世界@名無史さん :2006/03/28(火) 20:34:03 0
ヨンジュ・ナナ師と孫著(ソンチョ)について教えてください
802 :
世界@名無史さん :2006/03/28(火) 23:52:17 0
ヨンジュ・ナナ師と孫著(ソンチョまたはソンチョル)の戦記が近年の発掘に よって明らかになりつつある。南カザフ人文科学研究所らの研究によれば ヨンジュ・ナナ師は猪作権と呼ばれる特権制度に疑問を抱き、是を破壊する目的で 右意荷(ういに)と呼ばれる道具を開発した。この道具の詳細は未だ不明であり これからの調査研究の進展が待たれる。中国の文献では「右意荷使用容易財物得 女人猥褻画幼女熟女全獲得可、荷徒(注:ニト、荷物のような輩を指す侮蔑語と思われる) 右意荷代表的使用者」この道具はモナー朝の範囲を超え多くの国で使われ 猪作権を揺さぶった。だがモナー朝の古都巡察団がヨンジュ・ナナ師を逮捕し それ以降右意荷(ういに)を巡る情勢は流局化する。 続く。
803 :
世界@名無史さん :2006/03/29(水) 15:24:33 0
右意荷はそうとう便利だったらしいね でも右意荷を使ってる事が知れると、「荷厨」って呼ばれて蔑まれるようになったみたい
804 :
世界@名無史さん :2006/03/30(木) 00:43:14 0
西沢(さいたく)国から送られた偽書が元で失脚したナーガ・タギインについて詳しく
●コ・イズミ・ソーリ モナー国ジミン州出身。ジミン州が混乱の極みにあった末期、彗星の如く現れた将軍。 女将軍マキーコの助力を得て大将軍の地位にのぼりつめる。 「コーゾ・カイカク」(古きものは去れ、活力よ甦れ、という意味の古語) 「テイ・コ・セイリョク」(力に頼る物は力によって滅ぶ、という意味の古語) を旗印に掲げ、破竹の如き勢いで戦いに勝利し、最後の大会戦「ユウセイ大乱」に 置いて大勝利をおさめ、最終的に296州もの地域を傘下におさめた。 ●タ・ケベ コ・イズミ将軍の妻とも側室ともいわれるが定かではない。男性であったとの異説もあるが、 「コ・イズミの女房」という記録が残っており、男性というのはあやまりであろう。 側室ともいわれるのは「女房」ではなく「女房役」だという記録もあるためで、 とにかく正妃ではなかろうというのが定説となっている。 コ・イズミは絶倫であったらしく、家系図でも3人の嫡子と83人もの庶子があったことが 確認されている。 そのうち、タ・ケベが産んだ息子と推測されているのがタイ・ゾとホリエ・モンである。 ワセダ州商工ギルドの会長であったヤースイもタ・ケベの息子とする説もあるが、歳が 近すぎるため、養子ではないかと言われている。
●ホリエ・モン タ・ケベの息子たちのうち、謎が多いのがホリエ・モンである。タ・ケベの息子でありながら、 コ・イズミの83人の庶子の中に名を連ねてはいない。異父兄だったのではという説もあるが、 当時の書物の中にタ・ケベがホリエ・モンを「わたくしの息子であります」と群集の前で お披露目をする絵姿が多く見られ、コ・イズミの血を引くものでなければこのような 待遇はありえない。 一説によると、ホリエ・モンはフンショクという禁忌の錬金術に手を染め、リバウンドで 扉の向こう側に吸いこまれた、というにわかには信じがたい異説が存在する。 「リバウンド」「扉の向こう側」というのが何を指すのかは不明である。 単に牢獄の中とする解釈もあるが、単純にすぎるとして最近では重視されていない。 何にしろ、ホリエがおぞましい行為に手を染め、それゆえにその存在そのものが 歴史から抹殺されたであろうことが推察される。
●ナーガ・タギイン ジミン州と長く勢力を争っていたミンス州の武将。血気盛んで先走ることもあり、 軍法会議にかけられること5回とも伝えられる問題児である。 武人でありながら魔術をも操るコ・イズミ将軍にてこずったナーガをはじめとするミンス州軍は、 標的をコ・イズミの周辺に絞った。その標的となったのがコ・イズミの側室とも言われる タ・ケベである。 タ・ケベは前述のように、禁術によって堕落した息子ホリエ・モンがおり、本人にも その罪を負わせるべしとする民の声が高まっていた。 これを奇貨としたミンス州の一派がタ・ケベの身辺を調査しはじめた。おりしも親交深い 西沢国より雇い入れた間諜が、ホリエとタ・ケベとの間で交わしたとされる書簡を手に入れ、 それをナーガ・タギインに託した。 しかし、これは全くの偽書であり、それも相当腕の悪い贋作師の手によるものだったらしく、 何度も書き損じの跡が見られ、肝心な部分が読み取れない有様だった。 このような偽書をもって、意気揚揚とタ・ケベの罪を問うたナーガに対し、世の人々は呆れ、 逆にミンス全体を非難し、ナーガはこれによって失脚。ミンス州も大混乱に陥ったという。 当初は世間から非難されていたはずのタ・ケベは、いつの間にか面目を施し、 ジミンと勢力を争っていたはずのミンス州は、戦わずして敗北した。 このあまりに信じがたい手際に、これもまたコ・イズミ将軍の魔術ではないかという説が 根強く、「武人であり魔術師である」というコ・イズミ像を補填する証左の一つとなっている。
809 :
世界@名無史さん :2006/04/04(火) 11:51:49 0
だれかまとめて。
810 :
世界@名無史さん :2006/04/06(木) 23:25:19 0
博物館で展示されていたAA式陶器を眺めていて気づいたのですが、 1つの模様が時期を追うごとに省略化・簡略化されていっているみたいですね。 解説員の方から、日本の縄文土器や山手線の車体の塗装でも同じことが起こってると うかがって、とても面白かったです。
省略化こそ洗練の証、って感じですかねえ しかしAA式土器って面白いですね 810さんはこの前神戸であったAA式土器の展覧会見ました? 私現代の自分達とこんなにもものの表し方が違うのかと感動しましたよ
ググレカス オツカー・レイ クソスーレタ・テルナ
>>806 コ・イズミ・ソーリには4人の皇太子がいて、
ア・ベシンゾー、ローゼ・ンアソー、タニガ・キ・サダカズ、フクダヤ・スーオ
っていうのが覇を争っていたっつーけど、実際に当時の4人の勢力関係について誰か詳しく
>>813 詳細は記録の断片が失われて不明。
後見人のモリゼン・ソーリやアオキミ・キオ、
ライバル関係にあったヤマタク・ドヘンタイ、カトーコ・ウイッチ
コ・イズミの腹心、タケーナ・カヘーゾらの政争により焼失したとされる。
(゚д゚) ! _(ヽっノ_ ヽ ヽ ( ゚д゚)っ (彡ηr シコシコシコシコ・・・・・ . i_ノ┘ ⊂( ゚д゚ ) (゚д゚ ) っ . ヽ ηミ) (彡η r ≡=- サッ シコシコ・・・(⌒) | .しu ≡=- .. ''';;';';;'';;;,., シコシコシコ ・・・ ''';;';'';';''';;'';;;,., シコシコシコ・・・ ;;''';;';'';';';;;'';;'';;; ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;; vymyvwymyvymyvy、 ヽ(゚д゚)vヽ(゚д゚)yヽ(゚д゚)v(゚д゚)っ ⊂( ゚д゚ ) と( ゚д゚ ) 〃ミ ( ゚д゚ )っ ( ゚д゚ )つ ゝηミ ( ゚д゚ )っ ミ) ⊂( ゚д゚ ) .(彡η r しu(彡η r⊂( ゚д゚ ) .ゝ.η.ミ) i_ノ┘ . i_ノ┘ ヽ ηミ)しu (⌒) .| 三`J
○ <| ○|\ _ト○| ̄ヒ|_
817 :
世界@名無史さん :2006/05/03(水) 02:17:56 0
hoshu
819 :
世界@名無史さん :2006/05/27(土) 14:33:01 0
良スレあげ。 ってか何気に山野さんまで書き込んでるしw
820 :
世界@名無史さん :2006/05/27(土) 17:22:58 0
アカピ族は戦士「本勝」に離脱され、さらに砂漠珊瑚を 傷つけて民心を失ったうえ、モナー国の大多数を占める「ネ ラー」に熱湯浴(ネットウヨク)のレッテルを張って怒りを 買い、今や息も絶え絶えとのこと
821 :
世界@名無史さん :2006/06/24(土) 19:04:14 0
「だが、心配のしすぎではないか」の等の独特の文体で知られますね。
822 :
世界@名無史さん :2006/06/25(日) 21:35:27 0
ア・ベシンゾーの優位に対抗できず、フクダヤ・スーオが その他勢力との連携を進めた。しかし、
以前読んだ本に、ドコモ朝かサイタマ朝かどちらか不明ですが、サイタマについての 記述がありましたよ。 ただしその本はどうやら「異端」とされたらしく、言わば裏歴史を語った本だと いう事らしいのですが。 うろ覚えですが、内容はコーイキ行政の手による首都を中心とした合従連衡の最中、 サイタマ内部か対外的にか、首都を「ダイ・サイタマ」と呼ばせようとした動きがあり、 しかし首都の民らによってそれが阻止されたという内容だったと思います。 題名もよく覚えていません。何の気なしに手に取った本でしたので。 どなたか書名をご存知でしょうか?
モナー国もローマと同じく少子高齢化に悩まされ、バビロンのように 風紀が乱れたそうですね?
「ヨウツベ」なるものの記述がある時代から急激に増えるのですが、この「ヨウツベ」とは何者でしょうか。
826 :
世界@名無史さん :2006/08/25(金) 17:43:53 0
以前「しぃ族はその自己中心的な性格ゆえにモナー人の恨みを買い、虐殺された」 という学説を目にしましたが、そのシイ族の性格が、「我田引水な考え」を意味する 「恣意的」という言葉のもとになったのでありますか?
>>825 それは漢語文化圏では「妖壺」と音記されている『西域の魔術』ですな。
私は漢語文献しか参照できないのですが、「瞬」という魔術を用いた
視覚的な教義の解説を多くの人と無償・無対価で共有し、紹介しあうというものだったらしいです。
これだけでは何を言っているのか、と思われるかもしれませんが史書の記述も混乱しており、
イスラムなどの他宗派の断片的な記述が載せられ、人気を得る一方
視覚的な情報を否定するアッバード朝カリフからの抗議でそれを排除するなどの混乱も
実際にあったようです。もっとも、アッバード朝の没落後は「権利者が不明になった」とかで
「これは公正使用だ」とかいって無秩序に載せられていたようですが。
この顕教的な情報の配布は情報の独占を教義的に否定していたこと、
情報の提供に対価を求めなかったことで一時的に熱狂的な人気を得たようですが、
逆にこのためにこの宗教団体が活動資金を得る方法がなく、ほどなく衰退したようです。
しかし、地下で似たような視覚的な教義解説の無償共有という秘密結社は浸透したようで、
後に西洋に渡りフリーメーソンなどが紋章などの視覚情報を重視した起源であるという説を
唱える人もいるようです。
>>825 ようつべはモナー朝の紙芝居フラーシュに似ている物では?
葉っぱと鍵を崇める宗教が存在したという話ですが、その宗教の年齢制限とは一体・・・
最近の研究によるとモナー朝末期に出現したミキシ国の興隆がモナー朝の衰退と深いかかわりを持っているらしい。
フタバ公国、シタラーバ連邦、イチゴビビエス朝などの周辺民族の動きにも注目だ
トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス
832 :
世界@名無史さん :2006/09/14(木) 00:14:18 0
初期モナー朝発展史の論点 (単行本) 赤井 邦道(編) ------------------------- 商品の説明 内容(「BOOK」データベースより) いまだ不明な点が多い初期モナー朝における最新研究を赤井邦道、山崎渉、駄霊屋念ら新進気鋭の研究者により詳細かつ分かりやすく解説。初学者でも理解を深められる最良の手引書。 ------------------------- 第一章 先史としての後期ワクテカ文明の遷移 第二章 有力都市国家群の萌芽と興亡 ――ワロス、ショボーン、キタコレを中心として 第三章 モナー1世統治期におけるオニギリ祭祀の再評価 第四章 帝国の周辺民族とホロン部 ――ウリナラ・マンセイ、シャザイシル・ハンの実在性をめぐって 第五章 帝国初期の動揺 ――ググレカス運動、フュージャネイザンの屈辱、ツーホー=シマスタの乱 第六章 モナー朝思想家列伝――アラシ、ジサクジエン、ニゲトズザー 第七章 帝国の危機 ガクブル時代とノマネコ・インスパイア むすびにかえて ――モナー朝研究 今後の問題点 ---------------------------- 単行本: 402ページ 出版社: 名古屋大学出版会 (2006/09) ---------------------------- カスタマーレビュー ★★★★☆ 謎の多い初期モナー朝史の論点を整理した良書。, 2006/9/10 レビュアー: のまたこ (東京都町田市) - レビューをすべて見る 本書は、謎多き初期モナー朝における研究の中から特に近年注目されている論点について一般の読者にもわかりやすく解説した論集である。初期のモナー朝についての歴史には まだまだ論戦が続く部分が多いが、程よく論点が整理されていて読みやすい。惜しむらくは、帝国前期の記述のみで終わっている点。比較的研究が進んでいる後期の帝国についても同様な研究所の出版が望まれる。 このレビューは参考になりましたか? はい いいえ (このレビューについて報告する) ------------------------------ この商品を買った人はこんな商品も買っています 嫌韓流2 山野車輪 泣ける2ちゃんねる 泣ける2ちゃんねる管理人
833 :
世界@名無史さん :2006/09/19(火) 18:00:55 0
2ちゃんってマジで将来教科書に載ると思う。
中学生の公民の教科書の、最後のほうのページの年表にチョビッと一回だけ出てきそうだけどね。出ないだろう。
2ちゃんは現代版コーヒーハウスだよ。教科書に載ることはない。 100年後の岩波新書に出るかもね。
836 :
世界@名無史さん :2006/09/20(水) 00:17:22 0
「みらあまん」とは何のことですか。田代神と関係あるのですか。 また田代砲と田代神の関係、「たいむ」の表紙事件とは? 田代神の領域に近づきつつ有った「みらあまん」は何ですか。
837 :
世界@名無史さん :2006/09/20(水) 01:01:04 0
アサピ族の親戚の「おおにーし」について教えて下さい。 アサピ族と「おおにーし」はモナー人と敵対していたのですか。 ・「お花畑」・「脳内妄想」・「左巻き」についても教えて下さい。 「しゃー・みん・とう」と「おかーら」の名言中国様の許しを得たのですかの真意は? 「そう・か・学会」と「こーめ・いとう」についても。
モナー朝でたびたび発生し厨房とともに畏れられた 「オシテテクン」について教えてください。 スレを食い荒らす害虫だと聞いたのですが。
839 :
世界@名無史さん :2006/10/15(日) 15:12:56 0
祝四周年おめ!
そうか、ここもう4年目なのか。 趣味一般には6年がんばってるスレがあるが…w
2ch最古級のスレがCG板から発掘されたそうです。
衰退したアサピ族は、後に隣国ショギチエス州へ逃亡し、州牧ヨーネ・ 宰相トツゲキ・ジュダンの庇護の下、ネラーの襲撃により弱体化していた ティビー族を攻め、ティビーの主要都市メイジンを攻略して「西アサピ」を建国した。 しかし、ニケイ族に推戴せられてヨーネ・トツゲキを討った 第二代宰相サイキョ・ハーブ・ネグセ(ニケイ王座)は、 「アサピには信義がない」と断じてアサピの支援を打ち切った。 これがために西アサピはわずか数年でティビー族に滅ぼされ、 これを最後としてアサピ族はモナー史から姿を消したという。 余談ながら、ヌクドと争ったクマーはハーブに討たれたトツゲキ・ジュダンと 妻のナヲとの間に生まれた子で、アサピ最後の族長であるという説が 有力である。アサピ族はクマーを推戴してメイジンからさらに西遷し、 ハーブの部下セガーを撃退してドシロウトにたどり着いたが、 ここで里人オサカにクマーが討たれ、アサピは完全に滅んだ。 (クマー・ドシロウトの変) なお、ハーブの妻・リーエはオニギリ族の庇護者として知られている。
>「しゃー・みん・とう」と「おかーら」の名言中国様の許しを得たのですかの真意は? 「おかーら」というのはアサピ族の人於加羅(オカラ)のことですね。 アサピ族衰退期の宰相で、支那宋朝に於いて中華思想を大成した 司馬光の弟子の一人です。一説には日本伊勢北畠家の一族、北畠岡田勝也が 支那へ帰化した人物であるともいいます。 アサピのクーメに招かれて宰相になりました。 於加羅は衰退したアサピ族を支えるべく支那へ朝貢を繰り返し、 南宋の援護を得て形勢を挽回せんと奮闘しましたが、 手腕に乏しく、事あるごとに宗主国宋にお伺いを立てることばかりしていた ので、後に部下のマエバリに討たれたといいます。 「中国様に許しを得たのか」は、彼が常に逝っていたことで、 バカの一つ覚えのようにこればかり繰り返したようですね。
<モナー朝史年表> ※前期 前期ワクテカ文明 後期ワクテカ文明 4-5c モナー国建国(諸説あり) | ? ネオム・ギチャの乱 513 第一次トナメ | ググレカス運動、フュージャネイザンの屈辱、ツーホー=シマスタの乱 | 726 モナ五世即位 モナー朝黄金期=前期モナー文化 イスラム、唐との貿易(AA陶器、スレ) モゥ=コネーヨ「2ゲット」などの文学作品 755 五世崩御、モナ六世即位 三頭政治、デーン=シャーの教団の繁栄、長編詩「デ・ンシャ」 813 第2次トナメの大乱 モララー二世(ストップマン、?〜814)とモナナ (武宗、784〜861)が互いに北帝・南帝を称。 バイク族滅亡・ダウソ党崩壊 三賢帝(カワイソス3世・テラワロス・クォリティ一世)の活躍 821 北モナー朝のスピソドリル戦死、北モナー滅亡 モナナの王統が正統となる | 950 モナ十三世即位 「次スレの令」:国内スレ産業を保護 「テン・プレ(国内図)作成」:国内情報伝達体系の確立
>>829 でもミキシ帝国は直ぐに猛将ケ・ツゲバ・ガー女公の
愛人の失態をモナー朝に付け込まれ、
一挙に零落したじゃないか。
零落?
847 :
世界@名無史さん :2006/11/12(日) 18:59:03 0
ミキシ帝国は原則として血縁主義で、鎖国をしており、外国人の侵入を拒んでいました。 ただし通行手形(それはミキシ帝国民からの紹介状である必要がある)は一般民でも容易く 入手出来る物で、鎖国は形骸的でありました。 ですが、ヒキー族のような外部との交流の少ない民族にとっては、帝国の通行手形は手に 入れる手段がありません。ミキシ帝国に密入国しようと、通行手形を偽造した密入国者は 片っ端から処刑されたので、ミキシ帝国を恨む者も少なく無かったわけですが。
848 :
世界@名無史さん :2006/11/13(月) 22:27:17 0
モナー朝に於いてはほとんどの世界宗教はジンジャブッカク州 を除いては受け入れられなかったが、例外的にキリスト教のみは布教を 認定されていた。 ショギチエス州の長編叙事詩「ゲツカキシ」によれば、 第二次トナメの大乱の時、モナナ軍で活躍したショギチエス族長ヒフミンが キリスト教徒であり、ヒフミンの懇願によってヒフミンの一族のみは キリスト教の布教を許可されたという。 なお、ヒフミンは常に長い帯を結び、棒状の銀が好きで、 「アト、ナンプン!?」(モナー語でアーメンの意) の声とともに奇跡を起こしたとされ、後にローマキャソリック教会より 聖人に列せられた。 彼の奇跡には、貧しいヤマザキ・チンマルが恋人のヤウタンと 結婚式を挙げたときに、ヒフミンがチンマルを祝福して「ウナジュ」 という高価な食べ物を空中から現出させた、滝を一喝して止めた、 センチャンを浮いたり沈んだりさせたなどの事跡が有名である。 ヒフミン伝承は「ゲツカキシ」を離れ、バウ文書によって モナー朝津々浦々に広まったという。
>>848 ヒフミンに祝福されたヤマザキ・チンマルに関しては、
セカイシ州宰相だったヤマ・ノノ・ブスマの一族ではないかという
説がありますね。
>>849 ヤマ・ノノ・ブスマは、サンヤ・ノノ・ブスマとも呼ばれていたようですが、
果たして同一人物だったんでしょうかね?
851 :
りんご :2006/11/28(火) 19:37:49 0
モナー上手いですね(´∀`●)
近年発掘が進んできた、ミキ・シ帝国の興亡についてのご意見をお聞かせ願いたい 初期の集団から、爆発的とも表現される勢力の拡大、モナーとの確執、衰退期、と研究テーマにはことかきませんが、衰退の兆しとなる時期に「ケ・ツーゲ・バガー(異説有り)」なる人物?祭司?祭事?が見られ、どう解釈すべきか、わかりません モナー研究の方から、なにか資料はないでしょうか?
>>852 >>845 氏の言葉は参考になるかと。
この一件でミキ・シ帝国は信用を失墜し、外貨獲得手段である「カー・ブーシ・キ」もまた
信用を失い、これによってミキ・シ帝国の国威が斜陽化し始まったようですね。
有名な壁画で、現代のハンバーガーの様な文様ですが、詳細は分かっておりません。 研究者の多くは、あれは祭司であり、巫女であると考えています。 ギリシアにおける神殿売春と同様、ミキ・シ帝国の宗教も性行為と深い関係に有ったのです。 モナー朝と言っても州(イタ)によって習俗が違うのは皆さんご存じの通りですが モナー朝の大司徒が国勢調査の際に「童貞があまりにも多い地域」と嘆き特筆した地域で 反ミキ・シ帝国の狼煙が上がったのは、偶然とは言えないようです。
ミキ・シ帝国は当時広まりつつあったエスエ・ヌエス主義国のひとつですね 厳しい入国制限を行い、戸籍ですべての住民を管理し、治安を維持しようというものです。 ただミキ・シ国のそれはかなりいい加減なもので、同じ住民がいくつも戸籍を持っていたりしたようです。
>>850 サンヤ・ノノ・ブスマはヤマ・ノノ・ブスマと同一人物で、
武宗皇帝モナナの時の三賢に次ぐ「七俊」のうちの一人ですね。
念のため「七俊」を宋清の記録により
挙げておきます。サンヤ・ノノ・ブスマは成西文公・右宰相ですから
かなりの高官です。
東世界史・武南穆王・玖和亜手(クワアテ)、
西世界史・文北桓王・手黙(テモック)、
世界史成西文公・右宰相・参耶野野普須摩(サンヤノノブスマ)
群地(グンチ)公地覇譚版邪惟(チハタンバンジャイ)、
範版(ハンバン)公仁泰(ニダイ)、
普魯野玖(プロヤク)公大珍耶(ダイチャン)
惟後将儀(イゴシヨギ)公費普民(ヒフミン)
>856 ああ、やっぱりそうでしたか、ありがとうございます。 それにしても右宰相とは。正直言って驚きましたよ。
ゲバガ女公はミクシ帝国を攻撃せんとするネラーの一勢力に利用されたという説も。
859 :
世界@名無史さん :2006/12/15(金) 19:46:25 0
痢氏朝鮮
>>1 馬鹿か?お前小学生レベルの頭だろ?死ねよカス
削除依頼出して来い
レス数も500超えたスレで唐突にそんなレス付ける おまいの方がずっと馬鹿。 てか2chに来んなハゲ。
それにしても、工房だった1も今じゃもう成人してるんだな……
>>862 そうか、このスレももう4年ものなのか……。
趣味一般の6年ものは知ってるが、あっちこっち探したら
古いのが結構ありそうだな。
あけおめ!
865 :
世界@名無史さん :2007/01/12(金) 18:52:36 0
866 :
世界@名無史さん :2007/01/13(土) 03:01:11 0
て / ,,-",-''i|  ̄|i''-、 ヾ { (" ./ i {;;;;;;;i| .|i;;;;;;) ,ノ ii ,, ( l, `'-i| |i;;-' ,,-'" _,,-" "'-,, `-,,,,-'--''::: ̄:::::::''ニ;;-==,_____ '" _,,--''"  ̄"''-- _-'':::::" ̄::::::::::::::::;;;;----;;;;;;;;::::`::"''::---,,_ __,,-''" ._,,-'ニ-''ニ--''" ̄.i| ̄ |i-----,, ̄`"''-;;::''-`-,, ,,-''::::二-''" .--i| .|i "- ;;:::`、 ._,-"::::/  ̄"''--- i| |i ヽ::::i .(:::::{:(i(____ i| .|i _,,-':/:::} `''-,_ヽ:::::''- ,,__,,,, _______i| ゚ ∀ ゚ .|i--__,,----..--'''":::::ノ,,-' "--;;;;;;;;;;;;;;;;;""''--;;i| .|i二;;;;;::---;;;;;;;::--''"~  ̄ ̄"..i| .|i .;.;"..;.;" .i| |i/ ".;.;".;": .;".;": . \( ⌒.i| |i )⌒)/".;.;".;": .;".;": ..;. ;( ⌒( .i| .|i⌒) )⌒".;.;".;":. .;".;": ..; 从へへΣ( ∩ ∧∧ ∩/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧∩\ ( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま! さいたま〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________ ________/ | 〈 | | .;.;"..;.;"..;.;". .;.;"..;.;"..;.;". / /\_」 / /\」 .;.;"..;.;"..;.;".  ̄ / / モナー朝滅亡時の地方都市・さいたま市の様子
新たな発見などはそろそろ尽きましたかね…
868 :
世界@名無史さん :2007/03/03(土) 15:14:16 0
保守
.,Å、 .r-‐i'''''''''''i''''‐-、 o| o! .o i o !o .|\__|`‐´`‐/|__/| |_, ─''''''''''''─ ,、 / _ / \ / / i | ● (__人_) ● | キングカワイソス ! ノ 丶_ ノ カワイソス皇帝像(モナー暦850年ごろ。VIP地方出土) 王冠をかぶり、自らを皇帝でなく「キング」と呼んでいる。
タマちゃん
タマちゃんの本名は何
テラワロス 〆⌒ヽ_||i_〆⌒ヽ / iiii!!!!!! !!!!iiii ヽ 。| ( ゚__) (__゚ ) | 。 | (_Ti__)──(//| |) | 。 | ./ /┬UU┬" | ( | | j j| ┴┴・┴-┤ ) .| |' i | | ) ( | | ヽ/⌒⌒ヽ__/ | | | / ̄| / |/') ('ヽ ヽJ ̄u u ') テラワロス大帝像(モナー暦800年ごろ。ニューソク地方出土) 泣いている顔だとも、笑っている顔だとも言われている
874 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 15:57:30 O
ひたすら生魚片の上にタンポポの花を置いたという伝説のあるヤルーオの物語
876 :
世界@名無史さん :2007/05/27(日) 08:00:54 0
【ゆとり】大学生活板の自称・『聖戦』【ここに極まれり】
ダイガーク・セイカツ州の住民が『聖戦』と称して、たいした意味もなくカップル州の村を略奪しようとしています。
ただ強盗略奪するならまだしも、協力しない他の州の住民を使えないだのクズだの侮辱しだすわ、
カップル州板に行ったと思えばおっぱい鑑定スレでいやがる婦女子を陵辱し画像再うpするわ、
近年の同州の「ユートリーの教え」の害悪もここに極まれり、です。
いったいなにやってるんでしょうね。記念カキコでもしてあげてください。
http://ex22.2ch.net/test/read.cgi/campus/1180190479/l50 932 名前: 学生さんは名前がない [sage] 投稿日: 2007/05/26(土) 22:33:22 ID:goi0w2Bv0
おっぱいの子処女かよハァハァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / \ / ヽ l:::::::::. | |:::::::::: (●) (●) | |::::::::::::::::: \___/ | ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ 普魯野玖(プロヤク)公大珍耶(ダイチャン) の像 武宗皇帝モナナの時の三賢に次ぐ「七俊」のうちの一人。 ベイスタ軍を率いたとき、左翼と右翼を入れ替えるなどの数々のお笑い系采配で人気を集め、 後にターオの推挙を受けてモナナに仕えた。トナメの大乱ではイーグル軍を率いて奮戦。 戦後功績によって北方探題使プロヤク公に封ぜられフルスタ城を築く。 ___ |_E_|__ ⊂二二二(T^ω^)二⊃ | 46 / ( ヽノ ノ>ノ 三 レレ ダイチャンの家老の一人、ブーン・テッペの像。 三賢ブーンの一族。 _,,..,,,,_ / ,' 3 `∩ーっ l ⊃ ⌒_つ `'ー---‐''''' ダイチャンの家老の一人、ホライズン・フクモルの像。VIP州の人。
879 :
世界@名無史さん :2007/05/30(水) 19:13:11 0
モナー朝末期の民衆運動「オワタ」について詳しく
オワタ運動はモナー朝末期の政治的混乱に起因する貧困から 宗教的運動として帝国西部一帯の庶民に広がった暴動。 東部ではスレッドス=トッパーニヤリなる宗教家が反乱を画策したが未然に防がれた
\(^o^)/オワタ
無常観を基底とするオワタ運動はその刹那的な教義とはうらはらに 笑顔の意匠を自らのシンボルとして結束したという。 \(^o^)/オワタ
そのシンボルは石碑などに刻まれていたのでしょうか? それとも、もっと別の媒体に刻印されていたのでしょうか?
オワタ運動に関してはモナー朝における山岳信仰との関わりも指摘されている / ^o^ \フッジッサーン
興味深いことに、お互いの関連が無いとされる スレッドス=トッパーニヤリ教でも笑顔の意匠が用いられていた形跡がある 真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
____ /__.))ノヽ .|ミ.l _ ._ i.) (^'ミ/.´・ .〈・ リ モナー朝はわしが育てた .しi r、_) | | `ニニ' / ノ `ー―i ホシノセン1世
888 :
世界@名無史さん :2007/08/07(火) 06:30:22 0
保守
ユトリ問題 モナー暦900年ごろにユトリ氏ねとか、ユトリ乙とかいう言葉が流行ったらしい。 それはどうやら当時の教育制度にちなんでいるようで、ユトリ教育と言われたその制度は ずいぶんとレベルが低かったそうだ。そこから転じて幼稚なことをする人々も ユトリと呼ばれた。そこまでなら今までのモナー朝の歴史とあまり変わらないが なんと、この言葉に意義を申し立てる人々が出始めたのだ。知ってのとおり このモナー朝は、どんな言葉を言ってもいいのが特徴であり、良い所でも あったのだが、この様な現象が起こるということはこのころからモナー朝の 衰退が始まっていたのかもしれない。 よってこれをユトリ問題と名付け、今後も研究していきたいと思う。
890 :
世界@名無史さん :2007/08/28(火) 16:02:48 0
ググレカス(Gugurecus, 生没年未詳)は、古代ローマの思想家。 帝政ローマの時代に現在のアルバニアあたりで生まれたといわれている。 父は役人で、家の巨大な書斎にはあらゆる本が並べられていた。 このため物心ついた頃から興味を持ったものは何でも検索する習慣がつき、 13歳頃からはほぼ一日中図書館で過ごすようになった。それ以来さまざまな発見をしては、 それを地元の図書館で検索するという日々を続けていた。 だが20代になると、故郷の図書館の蔵書はすべて制覇したのか、図書館通いに飽きてしまい ローマに移住する。ローマでも毎日多くの事柄を発見しては図書館で検索しており、 その探究心と教養を買われて役人として出世する。何でも知っていたググレカスは人々の 注目を集めたが、やがて図書館で少し調べればわかるような事柄を質問されると即座に 「ググれカス」 という返答をすることが習慣となってしまった。このため人々の反感を買い、 ググレカスはローマで孤独に一生を終えた。 当時の人々からは憎まれたが、人が多様な物事に興味関心を持つことの自然さや、 それらの物事について検索する楽しみを見出した思想家として知られている。 なお、その祖父、モックーログ(mokuron 生没年未詳)は、脳の構造に目録が にていることを発見し、それが意志を持つのではないかと警戒した。
【ググレカス運動】
モナー帝国初期(6世紀前半)に勃興した教唆運動。
ドキュソ弾圧、あるいはアラシ弾圧運動ともいわれる。
『モナー典』によるとゴグル(ググル)が指導し、ググレカスとは初期モナー語で「ググルに訊け(従え)」
という意味であったと書かれている。ゴグル(ググル)はモナー3世当時の高官で言論統制に関わったとも
書の収攬に努めたともいわれているが、この運動自体に関しての詳細な経緯には不明な点が多く、
後世ググレカスの故事(
>>890 )と混同されたという説も根強い。
岡義古はモナー典の記述に関し否定的な見解を示している。
893 :
世界@名無史さん :2007/09/10(月) 23:20:00 0
ニダー朝と交易をしていた「ス・レ」(村落の転訛ヵ)に「火病」と云う 疫病が流行ったと聞きましたが、どんな病気だったのですか?
このスレを見てワクテカ王太子に興味がわいたのですが、 彼について書かれた資料でお勧めのものはありますか? あと、小説その他の創作物もあれば読みたいので教えてほしいです。
>>893 「火病」は「ファ・ビョン」と発音されていたようです。
罹患者は、突然火の点いたように発狂状態に陥り、おかしな事を言い出したりしたようですね。
>>894 史上、ワクテカ太子と呼ばれる人は実は3人いるんだ
悲運の王子ワクテカ
もうすぐスレできて6年・・・
「ワクテカ」は古モナー語で「輝ける希望」っていみだったかな モナー朝以前のワクテカ文明から来ている
そのような名前を持ちながら・・・おいたわしや
モナー朝で流行った「2じゃんねる」「4じゃんねる」というゲームについて 知りたいです。特に幻の役「ハッピーハッピー」について。
903 :
世界@名無史さん :2007/10/13(土) 02:31:10 0
スレ成立6周年だな レスも900を超えたし、もうすぐ寿命かなあ ずいぶん時が流れた
904 :
世界@名無史さん :2007/10/13(土) 02:33:58 0
すまん、スレ成立からは5周年だった 6年目に突入
905 :
世界@名無史さん :2007/10/23(火) 20:49:31 0
江戸モナー学の人々を書いた新書が民明書房から出たね。 水戸学の鵜狩八平・風間飛猿軒、居間野仲智の師匠の茂那村賀那斎、高山重岳軒、花谷昌斎、 幕臣として茂那奉行を務めた朝比奈正清など中々網羅度が高くて良い本だった。 茂男研究家の高山重岳軒のギシギシアンアンの話はいつ見てもひどい話だよね。 独男板のスレの研究を行っていた高山の隣の男が夜鷹を面白半分に引きずり込んで、 嫌がらせに夜通しギシアンを繰り返したというんだが、いくらなんでもなあ。
906 :
世界@名無史さん :2007/10/23(火) 21:05:06 O
モナー朝末期のネウーヨ派とプロシ=ミン団の抗争について 伺いたいのですが。
フュージャネイザンの屈辱 モナー朝前期に帝国西部ウラニ・チャーンネルで起きたと言われる伝説的な事件だが 近年の発掘成果ではこの時期、モナー朝の版図はこの地方には及んでおらず 舞台となった都市ウラニ・チャーンネルも架空の存在ではないかと指摘されている。
モナー朝では若い女性をスイーツと呼んだとか
モナー朝後期に麗しき姫君ハッネミクをめぐり クリプトン家とドワンゴ家がカスラック団を巻き込み、壮絶な抗争があったそうな
ハッネミクは実在しない人物だったと言う説もありますが
____ /__.))ノヽ .|ミ.l _ ._ i.) (^'ミ/.´・ .〈・ リ ハッネミクはわしが育てた .しi r、_) | | `ニニ' / ノ `ー―i ホシノセン1世
912 :
世界@名無史さん :2007/12/27(木) 09:59:05 0
@p
モナー朝で朝に晩にくり返し唄われた謎の童謡 (モナー朝は) 一万年と二千年前から続いてた 八千年過ぎた頃からもっと隆盛を極めた 一億と二千年後も栄えてる それを知ったその日からモナー朝の哀退が始まる
モナー朝と深いかかわりのあったニコニ公国で特に愛されたとか>ハッネミク
ホシノセン1世の自伝によれば、彼は数万人に及ぶ弟子を育てたという。 しかし彼の生存年代と合わない弟子の存在や、そもそもそれだけの人数を本当に育成できたのかどうかが 現在では疑問視されている
916 :
世界@名無史さん :2008/01/23(水) 02:44:40 0
保守
917 :
佳 :2008/01/25(金) 23:10:07 0
保守とは過疎地の住人が自らの存在を気づいてもらうためにあげる声のことで ある。
918 :
世界@名無史さん :2008/01/25(金) 23:31:22 0
ageと叫ぶ場合もあった。
すみません、このスレの皆様に質問があります モナー朝では「サメジマ」という言葉が非常に忌み嫌われ、 口に出しただけでもその人は不幸な最期を迎えることになるとまで言われていたようですが、 「サメジマ」とはいったい何なのでしょうか?
「サメジマ」とは、謎が謎を呼ぶ怪奇な事件だった…とだけ伝わっているようです。 一説には「サブリー・ミーナール」という謎の現象と同様だったのではないか、とも言われています。
ゆっくりしていってね!
_,,....,,_ _人人人人人人人人人人人人人人人_ -''":::::::::::::`''> ゆっくりしていってね!!! < ヽ::::::::::::::::::::: ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄ |::::::;ノ´ ̄\:::::::::::\_,. -‐ァ __ _____ ______ |::::ノ ヽ、ヽr-r'"´ (.__ ,´ _,, '-´ ̄ ̄`-ゝ 、_ イ、 _,.!イ_ _,.ヘーァ'二ハ二ヽ、へ,_7 'r ´ ヽ、ン、 ::::::rー''7コ-‐'"´ ; ', `ヽ/`7 ,'==─- -─==', i r-'ァ'"´/ /! ハ ハ ! iヾ_ノ i イ iゝ、イ人レ/_ルヽイ i | !イ´ ,' | /__,.!/ V 、!__ハ ,' ,ゝ レリイi (ヒ_] ヒ_ン ).| .|、i .|| `! !/レi' (ヒ_] ヒ_ン レ'i ノ !Y!"" ,___, "" 「 !ノ i | ,' ノ !'" ,___, "' i .レ' L.',. ヽ _ン L」 ノ| .| ( ,ハ ヽ _ン 人! | ||ヽ、 ,イ| ||イ| / ,.ヘ,)、 )>,、 _____, ,.イ ハ レ ル` ー--─ ´ルレ レ´ 有名な壁画ですね 家の前に掲げて来客をもてなした 邪な心を持つものを追い払う力があると信じられていたようで モナー朝後期、いろんな家の前に掲げられたようです
タイトル:【娯楽】幻の国家「モナー朝」【ネタ】
【糞スレランク:A+】
直接的な誹謗中傷:11/922 (1.19%)
間接的な誹謗中傷:53/922 (5.75%)
卑猥な表現:26/922 (2.82%)
差別的表現:86/922 (9.33%)
無駄な改行:1/922 (0.11%)
巨大なAAなど:41/922 (4.45%)
同一文章の反復:4/922 (0.43%)
by 糞スレチェッカー Ver1.13
http://kabu.tm.land.to/kuso/kuso.cgi?ver=113 これはヒドイですねwwwwwwwww
「今日爾前の戦略爆撃もしくは政治工作を施さないところに、突如として上陸部隊或は空挺隊 を送るような粗笨な戦略は、いかなる國でもこれを採らないとすれば、戦略の前駆として地方選挙 ありという奇警なる比喩もあり得る情勢であることを知らなければならぬ」 (『日本の運命−軍事地理学的に見た東亜』昭和25年11月刊、201〜2頁)
まじですか?Σ(´Д`;)!! 今おならしたとこなのに.∵(´Д⊂)∴
926 :
世界@名無史さん :2008/04/06(日) 22:34:17 0
age
あげ
929 :
世界@名無史さん :2008/05/15(木) 05:35:38 O
かつて彼の如く語る人を知らずと評され、大衆運動家とも扇動者とも言われるレ・ベルジャ・ネーゾについて詳細をご存知の方が居ましたら御教示下さい。
>>929 モナー朝末期に「プーレ・スー・テ・スーリー」という、民衆のごく一部に広まったとされる
石版があったようなんだが、それは容易に入手できた代わりに、手に入れるには
ちょっとした金銭が必要だった。もしかしたら何かの宗教の経典か免罪符みたいなものだったのかも
知れないが、詳細は分かっていない。
彼はそれを手に入れようとして、同じように押し寄せた民衆に向かって何事か叫んだらしい。
その言葉が民衆の心をつかみ、みながそれを賞賛し、真似て使い始まったんだとか。
ただ、その影響力は長くは続かなかったようだけれど。
ところで、過疎地とされた家の玄関などには「ホ・シュ」と書いた札をさげておく習慣があったと
聞いたんだが、どなたかご存知ないかな。
>>930 俺が聞いた話だと、家を長期間離れるときかけると聞いた。
留守の間、家を災害から守ってくれるお守りらしいぞ。
>930だが。
>>931 おお、ありがとう。
そうか、お守りだったのか。
ということは、「アー・ラシ」や「ダトオーチ」がそれだけ恐れられていたということかな。
これらの災害は、時に甚大な被害をもたらしたらしいからな。
hosh
モナー朝を震撼させたカトーの乱って何ですか?
935 :
世界@名無史さん :2008/08/11(月) 21:35:36 0
age
m
a
n
k
o
消える
飛行機
雲
僕たちは
見送った
眩しくて逃げた
モナー朝も終りか・・・
950
あの日から
変わらず
954 :
世界@名無史さん :2008/10/13(月) 03:46:15 0
6周年か… 2chの歴史の半分以上に亘って存在した王朝も とうとうその終焉の時が近づいてきたようだな… ビザンツ滅亡に似た感慨が胸を打つ
956 :
世界@名無史さん :2008/10/13(月) 11:56:06 0
,,-' _,,-''" "''- ,,_  ̄"''-,,__ ''--,,__ ,,-''" ,, --''"ニ_―- _ ''-,,_ ゞ "- て / ,,-",-''i|  ̄|i''-、 ヾ { (" ./ i {;;;;;;;i| .|i;;;;;;) ,ノ ii ,, ( l, `'-i| |i;;-' ,,-'" _,,-" "'-,, `-,,,,-'--''::: ̄:::::::''ニ;;-==,_____ '" _,,--''"  ̄"''-- _-'':::::" ̄::::::::::::::::;;;;----;;;;;;;;::::`::"''::---,,_ __,,-''" ._,,-'ニ-''ニ--''" ̄.i| ̄ |i-----,, ̄`"''-;;::''-`-,, ,,-''::::二-''" .--i| .|i "- ;;:::`、 ._,-"::::/  ̄"''--- i| |i ヽ::::i .(:::::{:(i(____ i| .|i _,,-':/:::} `''-,_ヽ:::::''- ,,__,,,, _______i| ゚ ∀ ゚ .|i--__,,----..--'''":::::ノ,,-' "--;;;;;;;;;;;;;;;;;""''--;;i| .|i二;;;;;::---;;;;;;;::--''"~  ̄ ̄"..i| .|i .;.;"..;.;" .i| |i/ ".;.;".;": .;".;": . \( ⌒.i| |i )⌒)/".;.;".;": .;".;": ..;. ;( ⌒( .i| .|i⌒) )⌒".;.;".;":. .;".;": ..; 从へへΣ( ∩ ∧∧ ∩/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧∩\ ( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま! さいたま〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________ ________/ | 〈 | | .;.;"..;.;"..;.;". .;.;"..;.;"..;.;". / /\_」 / /\」 .;.;"..;.;"..;.;".  ̄ / / " モナー朝滅亡時の地方都市・さいたま市の様子
>>953 いつまでも変わらずにいられなかったこと
悔しくて指を離す
O 人 o人 人. 人 人 人 人 人 人 人 /| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | □□ | | □□ | 卜| □□ | ヒ| |  ̄|| ̄ ̄ ̄|| ̄ L || || L 【イソノ式高床住居】 モナー朝イソノ遺跡の遺構から復元された住居。 住民が家に入るとき、左右に大きく揺れるなど不安定な構造だった。
>>959 あれは、激しく揺れても壊れない耐震構造の先駆けじゃなかったっけ?
耐震というよりも免震じゃないかな? 家全体で揺れを拡散・吸収してるみたいだし。 どっちの要素もありそうだけど・・・。
うまく飛べないけど
964 :
世界@名無史さん :2008/12/28(日) 20:10:41 0
保守
965 :
世界@名無史さん :2008/12/29(月) 00:17:10 O
なんだこのスレw 年末に変なの開いたが腹がwww
, -‐─── 、 _ /: : : : : : : : : : : : : : ヽ、 l, ' ` ‐----‐''ヽ: : : : : : ', l:! ノ: : : : : : :', i!,,__ ,,,,__ ヽ: : : : : : : ', . /', ィッヾ /ィッ、,,゙ ): : : : : : | /: :| / .::::}>ミ: : : : :} {: : ', (__,,) .::::::,'-''´: : : : } {: : :.', 、_,_ /: ,, : : : : :,' (_/ ヽ.‐- ///: : : : :{ -‐‐', / | ゙‐-‐ ' "´ lヽ、ヽ: : :ヽ `i ̄', | | / r‐ ̄ ', | } /〈 、 ./ l | l //ヽ`' セント・リー・ガッセン[Cent'lee Gassen] (1954- 米
モナー第一王朝も終焉の時を迎えようとしていた…
ほしゅ
970 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 17:30:21 0
>>875 モナー朝後期には※ビィップ州などでヤルーオを主人公とする「ヤルーオ・スレ」と総称される物語が多く製作されたが、その最初期のものだな
(※モナー朝はVIPPERの侵入を鎮めるためにニューソ州の一部を封土(バン)として与え、ビィップ州と呼ばれるようになった)
ニューソ・クデ・ヤルーオは実在の人物で、モナー朝後期の有力豪族
当時衰退期にあったモナー朝は騎馬民族VIPPER(
>>671 参照)の侵入に悩まされていたが、
ヤルーオはVIPPERのホライゾン部の下級氏族の出身で、小隊を率いてニューソ州にしばしば侵入した
ニューソ州の住民が彼に抗議すると、ヤルーオはこのような歌をもってニューソ州の民を嘲った
ホント ハビップ デヤリ タインダオ
(私はビィップに安住していたいのだ)
デモ ビッパー ハクオリ ティタカイス レシカア イテシテク レナイオ
(しかしVIPPERは私のような卑しい者を相手にしない)
ダカラ ニューソ クデ ヤルオ
(だから私は私のような賎民の地であるニューソにしか居場所が無いのだ)
ヤルーオはビィップ州やニューソ州以外の州(バン)にも勢力を広げ、その地の民を嘲笑した
その一方で彼は「エ・ロゲ」という新興宗教にはまり、自城の自室から一歩も出ようとしなかったという文献も残っており
真相は定かではない
971 :
世界@名無史さん :2009/03/24(火) 17:36:57 0
備考 ニューソ・クデ・ヤルーオというのは本名ではなく 上記のヤルーオの歌に由来する
ヤルーオの伝説はあまりに多く一人でこれだけのことを成し遂げたとは考えにくい 複数の伝説が合わさってひとつの伝説になったと考えられている
ニートは誰でも 仕事を探す 無職そのもの 希望の職にめぐり合うまで 探し続けるだろう きっといつかは 君も出会うさ 黒い企業に
974 :
世界@名無史さん :2009/05/30(土) 08:58:32 0
次スレたてたら?
975 :
世界@名無史さん :2009/08/29(土) 16:25:04 0
流れが極端に遅いんだから990以降でもだいじょうぶだろう
976 :
世界@名無史さん :2009/08/29(土) 21:57:13 0
モナ王はなんか関係あんの?
モナー朝後期のヤルーオの隆盛は周辺国家にも影響したらしく ニコドー(モナー国と二股の道でつながった場所?)国のアリーナ「ニコ・ナ・マ」で 芸術家「阿間野」を招聘して、公開でヤルーオを描かせたらしい。 当時かなり大きなイベントだったらしく、史料の発掘も間近と聞いたのですが。
978 :
世界@名無史さん :2009/10/11(日) 09:02:16 0
モナー朝後期のヤルーオは非常に大きい勢力だったらしい。
これについては江戸末期の茂那村賀那斎(茂那村主水)が『矢留氏族系譜考証』で明らかにして以来定説となっている。
そもそもヤルーオは三賢七俊の一普魯野玖(プロヤク)公大珍耶(ダイチャン)の子、矢留乎乎耶(ヤル・オーヤ)が族を起こした
といい、代々プロヤク州ヨコハマ郡を治めた。このヤル・オーヤの弟がヤラナイ・アキオであり、ヤル家とヤラナイ家が並立した。
碑文には、ヤルが珍妙な発言をした後、ヤラナイがヤルを蹴り飛ばす姿が描かれており、一種の芸人として有名であったらしい。
ヤルーオ族にはドアラ軍の将軍の一人だったヤル・オガサーラ、
>>806 のコ・イズミ・ソーリの後を継いだヤル・アソー、
コ・イズミ・ソーリと対立してジミン州行政長官の地位を追われたヤル・カメイなどがいる。
ヤル・アソーは宰相にまで上り詰めたが、名族の子弟として碌な教育も受けず、文盲で部下に書かせた上奏文すら
まともに読めず、大量の読み誤りをしたため極めて評判が悪かった。酒色にふけって政務を執らず、民衆はひどく疲弊した。
水害に襲われた村を見て「ここで良かった。俺の居る首都でなければどうでもいい」と発言し、反乱を誘発するなどモナー朝最悪の政治家といわれている。
茂那村賀那斎は「支那の劉禅の如し」と酷評している。
最終的にヤル・カメイと連合して挙兵したミンス族の可汗ポッポ率いるミンシュクンに攻め滅ぼされ、
タ・ケベ以下コ・イズミの子供たちともども討たれた。ヤル・アソーの族は逃亡してネトウヨ(モナー語で『亡国の徒』の意)と
いわれ、各地のスレを荒らしたので大変に評判が悪かった。
ネトウヨ文書では、逆にヤル・アソーこそ聖人君子であり、宰相となったポッポや財務長官のヤル・カメイは極悪非道とされているが、
茂那村賀那斎は「ヤル・アソーの政は按ずるに悪政なるべし、ネトウヨ族先祖の功績を誇張せしものならん。ポッポの政は未だ善政
ならざるも猶お平時の政ならん。ポッポの食は質素にして弁舌四海に重んぜらる、ヤル・カメイは税を軽くし贅を省けり」と論じている。
979 :
世界@名無史さん :2009/10/13(火) 00:04:10 0
七周年
981 :
世界@名無史さん :2009/12/16(水) 19:32:14 0
2002年からのこのスレも終りが近づいてきました
モナー朝では人が死んだとき 復活と再生を祈り、スレッドの終わりに「ウメ」(産め?)と幾重にも刻み付けたんだとか