1 :
世界@名無史さん :
02/10/01 23:26 群雄が割拠した混乱期のイランを語ろう!
2get
3 :
世界@名無史さん :02/10/10 17:58
崩壊後、しばらくするとティムールが来た。 つづく
4 :
世界@名無史さん :02/10/10 20:46
サルバダール
5 :
世界@名無史さん :02/10/12 11:21
マニアックすぎ・・・
6 :
世界@名無史さん :02/10/12 12:18
シーラーズのムザッファル朝 ヘラートのクルト朝 サブザヴァールのサルバダール政権 バグダードのジャラーイル朝
7 :
世界@名無史さん :02/10/12 13:27
6に追加 チョバン朝、カラ・コユンル、アク・コユンル、アルトゥク朝、 アミール・ワリー政権、シャイフ・イブラーヒーム政権、タハルテン政権、 カーディー・ブルハヌッデイーン政権など
8 :
世界@名無史さん :02/10/12 13:45
俺はこの地域のこの時代の知識は全然ないのだけど、興味あり。 期待してる。
9 :
世界@名無史さん :02/10/12 14:34
『ハビーブ・ッスィヤル』とか『ターリヒ・グズィーザ』あたりを 読まないと、さっぱり分かんないからなぁ・・・ここらのことは。(滝汗
10 :
杉さま原理主義過激派 :02/10/12 14:39
イル汗国とか言うな!
11 :
世界@名無史さん :02/10/12 15:17
現代ペルシア語だと“サルサテ・イルハーニー”だったっけ? 故岩武先生は“イルハン朝”と書いておられたけど。 あぁ、なんと惜しい方を失ったことか!(哀涙
12 :
世界@名無史さん :02/10/12 16:15
>>11 安藤先生も若くして亡くなってるしなんか呪いでもあるのかねえ
13 :
世界@名無史さん :02/10/16 23:54
イルハンはイルハン国と関係有るの?
14 :
世界@名無史さん :02/10/17 00:07
白羊朝だの黒羊朝だのもこの時代だったっけ?
>>11 モンゴル語ならフレーグ・ウルス?
15 :
世界@名無史さん :02/10/17 00:10
黒羊朝=カラ・コユンル 白羊朝=アク・コユンル
16 :
世界@名無史さん :02/10/17 00:13
>>13 イル(国、ウルスと同じ)もハンもトルコ語で
イル・ハンは「ウルスの君主」の意だからおそらくそうでしょう。
同じくトルコ人名のハカン(帝王の意)も「可汗」から来た言葉らしい。
>>14 7に出てるカラ・コユンル、アク・コユンルが
黒羊朝、白羊朝のこと。
17 :
世界@名無史さん :02/10/17 00:44
イルハンの「イル」が「国とか部民」を示すという説は もうかなり古いよ。(先の岩竹先生の著作を見ればわかる。) 「イル」は「イルリグ」>「エリグ」(力のある)の転訛形 らしい。 ちなみに「イルハン」はフレグ一個人の尊称。
古いのかなぁ? 岩武先生の遺著のそれも最新の学説紹介って程度のもんだと思ったんだけど。 昔の本は突厥の伊利可汗の称号「伊利(イルリグ)」を イル(国)-リグ(〜なるもの)と解釈してたけど。 少なくとも今のトルコ人は イルハン朝に由来する固有名詞というよりは 「国の主」の意味で使ってると思う。
19 :
日本@名無史さん :02/10/17 01:04
正直情報が乏しい時期のような気がする。 イル・ハン国がいつ滅びたのかも良く知らない。オスマン朝とチムール 帝国がいつのまにか出てきたような感じを受けますが、オスマンは東ローマ ,チムールはチャガタイ・ハン国から領土を奪い成長したというイメージです。 イルハン国はフラグが西方遠征、アッバース朝のカリフを殺すといった印象 しか残っていません。いつ、どんな理由で滅びたのか教えて欲しい。
20 :
世界@名無史さん :02/10/17 01:29
>>13 “イルハーン”とは当時のテュルク系の言葉で「国王」の意味だけども、
これは元々フレグ汗個人の雅称というか諡号だったとか。
フレグ王家の当主たちをティムール朝以降“イルハーン”と呼ぶようになったらしい。
イブン・バットゥータは、フレグ直系最後のイルハーン、アブー・サイード汗を、
“イラクのスルタン”とか“イラクとホラーサーンのスルタン”といっているけど、
当の“イルハーン”たちが自分自身の王家を何と呼んでいたかは、
実は良く解ってなかったりする。
21 :
世界@名無史さん :02/10/17 01:44
>当の“イルハーン”たちが自分自身の王家を何と呼んでいたかは、 >実は良く解ってなかったりする。 集史やワッサーフ史、シャイフ・ウワイス史なんかには出てこないの?
22 :
世界@名無史さん :02/10/17 01:51
アフガニスタンで消滅寸前のモゴール民族が イル・ハン国の末裔だろうか?
23 :
世界@名無史さん :02/10/17 02:02
>>22 モゴールって、別名ハザラじゃないの?
だったら、別に「消滅寸前」ではなく、北部同盟三大種族の一つ。
モンゴル語をできる人は、梅棹忠夫が調査にいった1955年の時点で、
もう村に一人か二人、残っているかいないか、という程度になってい
たが、血統自体はしっかり存続している。
イル・ハン国の末裔ではなく、チンギス-オゴタイの時代にインド向けに配置されたタマー軍の末裔。
25 :
世界@名無史さん :02/10/17 02:10
ハザラもモンゴル軍の末裔とされているが ほとんどがシーア派のコミュニティで、 モゴールとは違うらしい。
>>25 あれま、そうですか。
梅棹本の地図、見直してみます。
27 :
世界@名無史さん :02/10/17 02:15
イル・ハン国は分裂していたところを チムールに滅ぼされて、末裔が痕跡さえもわからなくなったらしい。 ひょっとしたら、アゼルバイジャン民族が、チムール軍に吸収された モンゴル系の子孫なのかもしれない。
28 :
世界@名無史さん :02/10/17 02:25
梅棹本によると、ややこしいことに アイマク民族の一部族にも「ハザラ」というのがある。 モゴール民族は、アイマク民族の一部族の「タイマニ」との戦争に 敗れてから、彼らに同化したらしい。 アイマクというのも、モンゴル語に由来する言葉だろうか?
29 :
世界@名無史さん :02/10/17 02:36
いずれにせよ、内戦がやまねば詳しい調査もできず 未調査の小数民族コミュニティは存続できなくなっているはず
30 :
世界@名無史さん :02/10/17 03:16
モゴール(言葉はモンゴル語だが消滅寸前)はスンナ派だから シーア派のハザール(顔立ちはモンゴロイド、言葉はペルシア語)とは 全く別の民族。
31 :
世界@名無史さん :02/10/17 06:15
イランはイル・ハンが訛ったものですか?
32 :
世界@名無史さん :02/10/17 08:30
>>31 イランはペルシア語ではイーラーンと言って、
言葉の元を辿るとイーラーン<エーラーン<アルヤーンとなって
「アーリア」に由来するらしい。
事典を引くと「アーリア人の地という意味」と書いてある。
それにイラン(イーラーン)はIran、イル・ハンはIl Khan。
カタカナでは似ているようにも感じられるけど実はそんなに似てない。
33 :
世界@名無史さん :02/10/22 22:21
イラン・アフガン・パキスタンで「カーン」という名前があるのは モンゴルに由来するの?
34 :
世界@名無史さん :02/10/22 22:26
>>33 モンゴルというか、遊牧民に由来するのは確からしいです。
>>21 集史には“ドウラテ・イルハーニー”って書いてありました。
だから岩武先生とかが“イル・ハーン朝”って訳してる通りで良いんですね。
ペルシア語は不勉強で申し訳ないけどドウラト<ダウラ(dawla)ですよね? それならまさに「イルハーンの王朝」の意味か。 それに、イスラムの王朝名は家祖の名を冠するのが一般的だから イル・ハーンはフレグ個人の尊称という説にも符号しますね。
37 :
世界@名無史さん :02/10/23 22:21
バグダッドはイル・ハン国の時代、それ以後どうなったの? 支配者からどう扱われていたの?
>>36 ご指摘の通り、“ドウラト(dowlat)”はアラビア語の“ダウラ(dawla)”のことです。
(現代)ペルシア語ではアラビア語語彙などの-awは-owに変化します。
また、アラビア語のター・マルブータは-tか-hに書き換えられるので、
“王朝”を意味するアラビア語の単語“ダウラ”は、ペルシア語中ではdwltとなります。
ちなみに“ドウラテ”の-eは
ペルシア語の特殊な接続詞(で良かったか?)エザーフェで、
目的語彙に後置する修飾語との間にかかります。
(ここらの辺の言語学的な説明はか・な・り適当です)
>>37 故本田実信博士の研究によりますれば、イル汗朝に限らずジョチ王家も大元王家も
モンゴル帝国の諸王家は、すべからく冬営地(クィーシュラーク)と夏営地(ヤーイラーク)を保持していました。
これはモンゴル帝国が遊牧軍団を基礎とした遊牧帝国であったことに原因しています。
牧畜群≒遊牧軍団の保持・育成のための宿営地を季節移動が必要不可欠であったため、
各王家は、それぞれ複数の冬営地と夏営地を保有し、宮廷(オルド)もその時々に適した環境の
宿営地を季節移動していました。
イル汗朝ではフレグ汗以降、おおよそ西北イランの高原地帯が夏営地となり、
冬営地はその南北にそれぞれ選ばれました。
バグダードは、それ以前にもイル汗の冬営地とされてきましたが、
ガザン汗が登極して以降重要な冬営地の一つとなり、オルジェイトゥ汗、アブー・サイード汗に至っては、
冬、アーゼルバーイジャーンの低地地方に宿営する以外はおおむねバグダードが冬営地だったようです。
>>39 の続き
さて、かのイブン・バットゥータがバグダードを訪れたとき、
丁度アブー・サイード汗がバグダードに宿営しており、バットゥータは
その随行を認められて、その足でアナトリアへ向かうことになります。
バットゥータによれば彼が滞在した当時、バグダードのカリフの宮殿や
市街地の各所のモスクやマドラサは荒れ果てていたそうです。
しかし、市街地全体の各浴場はかなり整備・機能しており、
歴代カリフやイブン・ハンバルなどの著名な法学者や聖人などの墓苑では、
食事が無量で支給されていたり、かのニザーミーヤ学院では引き続き講義が
されていたので、
恐らく、イル汗朝下では、バグダードの「カリフの都」としての機能は完全に
失われたものの、都市としての機能は、歴代イル汗やヴァジールたちのよって
回復ないし保持されていたようです。
ちなみにイル汗などのモンゴルの君主は都市には住まず、
宮廷自体はその郊外に幕営していました。
41 :
世界@名無史さん :02/10/29 14:27
冬営地と夏営地って、清朝の北京と承徳みたいな、冬は皇帝・夏はハーンてやつだよね。 夏の都市は暑苦しいし、冬の草原は寒いし とても理にかなってうまい方法だと思った。
>>41 >>冬は皇帝・夏はハーン
清朝については全く存じ上げないので、ここで仰る意味ははかりかねますが、
大元朝では現在の北京=大都が冬営地、上都開平府が夏営地でした。
聞くところによれば清朝は、ウイグルやモンゴルの諸族に対しては、
モンゴル帝国の後継者と任じていたので、そのことを言っておられるのでしょうか?
43 :
世界@名無史さん :02/10/31 18:52
そうです。バグダッドにも似たような機能があったのなら面白いなと思った次第です。
44 :
世界@名無史さん :02/11/01 06:50
チムールに滅ぼされる前にフレグの子孫は絶えたので、 イル・ハン国は無くなったの?
45 :
世界@名無史さん :02/11/01 15:39
>>44 「イル汗“国”が無くなった」というのとは、ちょっと概念が違います。
モンゴル君主に従属する各名門モンゴル諸侯(アミールorヌーヤーン<ノヤン)達は、
モンゴル王家の権威の下、各所領を安堵されその地の租税を受領していたそうです。
各地方の所領単位から見れば、イル汗朝は、在地・譜代を問わず有力諸侯の連合体
としての側面を持っていました。
イル汗の王朝=チンギス汗の嫡流の一つであるフレグ王家の直系が断絶したため、
各諸侯はそれまで歴代イル汗たちのよって安堵された所領を最大限確保することになります。
これがティムール征服前に乱立していたモンゴル系諸政権のあらましです。
よく使われる例ですが、大会社がそれまで開発していたそれまでの各セクションが、
大会社の首脳部の交代・退陣などの混乱によって、
セクションごとに独立した会社を作ることになった、と言った感じでしょうか。
無くなったと言えば無くなった訳ですが、「解消した」といったニュアンスが近いかも知れません。
46 :
世界@名無史さん :02/11/01 22:01
アゼルバイジャンのタブリーズがイル・ハン国の冬の首都?」
47 :
世界@名無史さん :02/11/01 22:06
夏では?
48 :
世界@名無史さん :02/11/08 19:35
ペルシアとインドの一体性はともかく イランとアゼルバイジャンの一体性にまでは気付かなかった。 勉強になるなあ。
49 :
世界@名無史さん :02/11/08 20:25
>>27 サファヴィー朝はアゼルバイジャン国家と言う研究者もイランにはいるくらいだから
ひょっとしたらイル=ハン国〜ティムル〜サファヴィー朝の流れもしっくりくるかもしれない。
50 :
世界@名無史さん :02/11/08 21:26
現在の「アゼルバイジャン共和国」と 歴史的なアーゼルバーイジャーンは区別して考えるべきでしょう。 例えば「やまとのくに」と言った場合、現在の奈良県北部付近の歴史的な「大和国」と いわゆる日本全体をさして「大和国」と言う場合があるように表記上同じ名前でも 使われる意味が違う場合があることは考慮に入れるべきでしょう。 アゼルバイジャン共和国(が存在する地域)は、過去の「イラン世界」での枠組みはともかく、 現在の大多数の国民が、トルコ語と同じオグズ系のテュルク語である アゼリー語を話しているため、それとの相関関係が時折、 一緒くたにされたりしている気がします。 もっともこれは単に私個人が、よく言われるサファヴィー朝が「アゼルバイジャン国家」という いかにも、東方イスラーム世界の歴史現象を「国民国家」的世界観で無理矢理に 考えようとしている事に疑義を感じているだけなのでしょうが。
51 :
世界@名無史さん :02/11/08 23:41
>>50 >よく言われるサファヴィー朝が「アゼルバイジャン国家」という
少なくとも日本じゃそれどころか未だに
「サファヴィ−朝はペルシア民族国家の復興」という見方のほうが
まかり通っているように思うが…。
52 :
世界@名無史さん :02/11/09 16:04
イスラムの特に東方自治政権?は国民国家のように見えるとこあるよね。
53 :
世界@名無史さん :02/11/09 17:33
東方自治政権って何?
54 :
世界@名無史さん :02/11/13 17:52
サーマン朝などのペルシャ人政権のことか?
55 :
世界@名無史さん :02/11/28 22:44
age
56 :
世界@名無史さん :02/11/29 00:28
>>50 ,51
サファビー朝って、
キジルバシというトルコ軍団の力で
成り立ったと聞きましたが、
トルコ系の国というわけではないんでしょうか。
57 :
世界@名無史さん :02/11/29 01:42
>>56 その通り。
特にキジルバシの軍事力に全面的に頼っていたアッバース1世以前は
時代的に先行するトルコ系遊牧民の諸王朝と共通する要素が大きい。
しかし、国王のサファヴィー家がもともと遊牧部族長ではなく
定住民の神秘主義教団長だったから
ペルシア人の王朝とみなされることが多い。
実際のところサファヴィー家はペルシア系ではなくクルド系らしいとも言われるし、
初代国王イスマーイール1世は母が白羊朝の英主ウズン・ハサンの娘で、
トルコ系の血を強く受けていたようだ。
>>57 勉強になりますた。
ありがとうございますた。
59 :
世界@名無史さん :02/12/11 23:12
age
60 :
世界@名無史さん :02/12/12 02:41
イスラム国家の基盤って教団なのか民族集団なのか微妙なとこがあるけど この時代のペルシアってまさにその象徴みたいなとこがある。
61 :
世界@名無史さん :02/12/12 02:43
クルドって大きなグループでいうとペルシア系に近いんだよね?
62 :
世界@名無史さん :02/12/12 15:37
>>61 まあ、両方ともインド・ヨーロッパ語族のイラン語派だから
少なくとも言語的には近いんだろうね。
63 :
世界@名無史さん :02/12/21 08:26
あげさげ
64 :
世界@名無史さん :03/01/04 06:19
age
(^^)
66 :
世界@名無史さん :03/01/15 22:23
age
67 :
世界@名無史さん :03/01/31 09:17
age
イルハン国?フラグ・ウルス?フレグ・ウルス? 個人の好みかねえ
69 :
世界@名無史さん :03/02/07 15:45
「イルハン国」とは英語のIlkhanateから。 「フラグ」は ペルシア語で書かれたモンゴル帝国の正史といえる『ジャーミゥ・アッタワーリーフ』で などでHWL'KW(そのまま読めばフーラークorフーラーグになるけども(w)と書かれていることから。 (ペルシア・アラビア文字で「G」の文字が確定したのは16世紀頃) 「フレグ」はモンゴル語の母音調和でHuleguにつくるため。(現在はこちらが主流?) 「ウルス」はモンゴル語で「人々、人民」の意味で即ち「くに、領域、国家」。 ジュチ王家が「ジュチ・ウルス」と呼ばれていたらしく、各モンゴル王家の領域を、 クビライ王家は「大元ウルス」、ジュチ王家を「ジュチ・ウルス」、フレグ王家を「フレグ・ウルス」 などとアカデミックの分野で呼んだりする人もいる。
70 :
世界@名無史さん :03/02/07 15:52
ただしモンゴル王家の名称・自称で確実にその当時使われたのが判明しているのは
>>35 ,
>>38 で書かれてるフレグ王家の「イルハン朝」くらいかも。
>>70 「チャガタイのウルス」という呼び方は史料にあるらしい。
72 :
世界@名無史さん :03/02/07 20:37
>>69 >HWL'KW(そのまま読めばフーラークorフーラーグになるけども
そのつづりなら最後のク(グ)も長母音で
「フーラークー(フーラーグー)」でないかい?
>>71 同時代史料でしょうか?
>>72 >「フーラークー(フーラーグー)」でないかい?
ああ!入れるの忘れてた!・・・・・・ゴメソ
>>73 >バラクのマーワラーアンナフルからホラーサーンへの到来、アバカ・ハンの軍隊との戦闘、彼の敗北と敗走
> バラクは、ムバーラクシャーを排除して『チャガタイのウルス』に権力を確立すると、侵攻と侵略の道をとった。
『集史』「アバカ・ハン紀」のこの部分ですね?
原文では「ウールーセ・チャガターイ」となってますから、これもペルシア語表記ですね。
>岩武昭男氏によると、「チャガタイのウルス」という語は
>ペルシア語史料では一般的に用いられるそうな。
岩武昭男先生がですか!どこで言っておられたんでしょうか?
>>76 >岩武昭男先生がですか!どこで言っておられたんでしょうか?
氏の絶筆となった『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』(関西学院大学出版会、2001年)の中で
述べられていますね。ちょっと引用してみます(pp.54-55)。
なお、近年、モンゴル帝国研究の進展により、モンゴル語で「くに」を表す「ウルス」
の語を用いて、「フレグ・ウルス」という呼称を用いるようにもなってきているが、こ
れが正式な「国号」というわけではない(「国号」という概念自体がもともと中国の概
念である)。ペルシア語史料においては、「チャガタイのウルス」(ペルシア語でウル
ーセ・チャガターイ U`lu`s-i Chaghata`y)という語は一般に用いられるものの、私の
勉強不足でなければ、フレグ以降の時代に「フレグのウルス」と名のる例はほとんど見
られない。ここには明確な意識の相違があると考えられよう。チンギス=ハンの決定に
基づく。ジョチ、チャガタイの両ウルスとは、成立の原理が異なるのである。したがっ
て、イルハン朝国家を「フレグ」の「ウルス」と規定することは史料に即したものでは
なく、この政体のモンゴル的要素のみを見た研究者の考え方に基づくのである。
ちょっと調べたら「ジュチ・ハン紀」に ジュチ・ハンのウルス('wlws)の帝王位へのベルカイ(brk'y)の即位とその状況 という一節がありました。 また、「チャガタイ・ハン紀」に その死の後、その即位、次代から時の極みに至るその一族の、チャガタイのウルス('lws)の帝王位の状況 とも。 この「ベルカイ」はバトゥ即位の記事の次ぎに出てきているので ベルケ・ハン以外に考えられないのですが、どなたかご存じでしょうか?
>>77 わざわざレスをして下さってありがとう御座います。
>『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』(関西学院大学出版会、2001年)
岩武先生の「幻の作品」ですね。わたしも手に入れようとしましたが出来ませんでした。残念!(汗
岩武先生の正に絶筆。完成が期待されていただけに実に惜しいです。
>チンギス=ハンの決定に基づく、
>ジョチ、チャガタイの両ウルスとは、成立の原理が異なるのである。
なるほど、それで「フレグのウルス」ではなく「イルハンの王朝」
という言い方がされていたと考えられる訳ですね。勉強になりました(礼
よく調べもしない内に適当なことを言うものではありませんね。(汗
反省モノです(鬱
82 :
世界@名無史さん :03/02/16 00:34
>>81 >『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』
去年のW杯に、全国のにわかサッカー・ファンのミーハー女達が、
イルハン王子の本と間違えて買い、瞬く間に売りきれた説
(うそ)
83 :
世界@名無史さん :03/02/16 21:16
私はイルハン(トルコ)対カーン(ドイツ)の対決を見たかった。
84 :
世界@名無史さん :03/02/25 13:59
サファヴィヤー教団の詳細きぼん
85 :
世界@名無史さん :03/03/08 15:48
87 :
世界@名無史さん :03/03/18 22:25
ガザン・ハーンあげ
88 :
世界@名無史さん :03/03/31 07:47
age
89 :
世界@名無史さん :03/04/13 23:24
age
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
92 :
世界@名無史さん :03/04/26 02:15
age
93 :
世界@名無史さん :03/05/12 09:05
age
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
95 :
世界@名無史さん :03/05/28 09:24
age
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
97 :
世界@名無史さん :03/05/29 08:17
age
98 :
世界@名無史さん :03/05/29 08:17
age
100 :
世界@名無史さん :03/05/29 09:41
イルハーンとイランって音が似てるけど、 関係はあるの?
101 :
世界@名無史さん :03/05/29 15:12
デスピナについて知りたいんですが詳しい方いませんか? コーエーのゲームではアバカの后、ミカエル8世の娘位しか判らないし、 チンギス・ハーンの一族ではチョイ役でしかない。 もしくは詳しい書籍などはないでしょうか?
103 :
世界@名無史さん :03/06/01 06:19
イラン? 新婦が処女じゃなかったら新郎とその親と自分の親に 殺されるのが常識って国ね。
持参金が少ないと(ryなインドと、どっちが悲惨な国なのだろう。
105 :
世界@名無史さん :03/07/04 09:19
age
106 :
@@@@@ :03/07/04 13:00
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
109 :
世界@名無史さん :03/07/27 00:21
サファヴィー朝成立に関する詳しい本英語でもいいので何か知りませんか?
110 :
世界@名無史さん :03/07/29 17:55
>>100 取り敢えず中央公論の『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』が
サファヴィー朝の概説としては一番手頃かと。
あとは羽田先生の論考を一通りと、
シャルダンの『ペルシア見聞記』と『イスファハーン誌』、
"Cambridge History of Iran"の六巻目'Timurid and Safavid Periods'くらいあれば充分かな?
Charles Melvilleの"Safavid Persia"なんてのもあり。
111 :
世界@名無史さん :03/07/29 17:57
112 :
世界@名無史さん :03/07/29 17:57
113 :
世界@名無史さん :03/09/01 13:17
age
114 :
世界@名無史さん :03/10/11 11:21
>>103 ドーソンの『モンゴル帝国史』によると、
ミカエル8世パレオロゴスとディプロヴァタツェ氏の子女との間に産まれた、
マリアという庶出の王女らしい。
本来はフレグ・ハンに嫁ぐはずであったが、旅中にフレグが死にそのままアバカの宮廷に入り、
アバカの娶ることになった。
『集史』ではアバカ・ハン紀の王妃紹介の最後辺りに出てくるくらいで、
トレビゾンドの王女「デスピナ・ハトゥン」とある。
ミカエル8世は、庶子の娘エヴフロシニをノガイ(ジョチ・ウルスの将軍)に嫁がせているみたいですね。
116 :
世界@名無史さん :03/11/24 14:27
シャイバーニー・ハーンage
117 :
世界@名無史さん :04/01/14 00:58
忘れがちだけどサァディーはイルハン朝時代の人だったなぁ
サアディーの『グリスターン』にモンゴル支配をうかがわせるものって何かあったっけ?
119 :
ty270410 :04/01/15 23:18
>>115 ミカエル8世とはビザンチン帝国を再興した人ですか?
在位1259〜1282年
ノガイは部族名でなく,人名ですか?
ミカエル・パライオロゴスがボスポラス海峡の通行を邪魔しなかったおかげで マムルーク朝とジョチウルスの間でナイル・ヴォルガ同盟が成立しえたんだからなあ。
121 :
世界@名無史さん :04/01/15 23:27
イル汗時代のイラク居住のモンゴル人は何人くらいいたのだろう。 今でもイラクにモンゴル末裔は居るのでしょうか??
ノガイ ????〜1299 キプチャク=ハン国の有力者。ジュチの曾孫。 ベルケとマング=ティムールの代にイル=ハン国との戦いで功績を挙げ、東欧方面にも出兵しキプチャク=ハン国西部において独自の勢力圏を確立した。 マング=ティムール没後はキングメーカーの如くハーンの廃立に関与、対外的にもブルガリアやハンガリーに出征していたが後に自ら擁立したトクタと対立、内戦の末に敗死した。 某ゲーム系サイトより無断転用。
123 :
世界@名無史さん :04/01/16 20:19
>>121 モンゴル人の多くがいたのは北の、高燥で遊牧に適した、アゼルバイジャン方面だと思いますが。
彼らも、もとからいたトルコ系の遊牧民に吸収されてしまったのでしょうか?
124 :
ty270410 :04/01/16 21:09
>>122 そのノガイでしたか!
わかりました.ご教示ありがとうございます.
手元に『集史』の「ジョチ紀」がないからワカラン。
126 :
世界@名無史さん :04/01/16 21:22
ノガイと現存するノガイ民族は関係あるのですか?
127 :
世界@名無史さん :04/01/16 21:37
>>123 フレグ西征軍自体が多くのトルコ系諸族から成ってましたし、
セルジューク朝以来のオグズ系や、北方のジュチ・ウルス起源の遊牧民の流入もありましたから、
サファヴィー朝が出てくる頃にはモンゴル語話者はほとんどトルコ化したのではないでしょうか?
128 :
ty270410 :04/01/16 21:54
>>122 >>125 山川出版の『中央ユーラシア史』に載っている
赤坂恒明先生が書かれた系図に
ジョチ−−ボアル−−タタル−−ノガイ
と出ています.
ジュチの曾孫でした.
>>126 ノガイとノガイ・オルダ(自称はマンギトだったはずだが)が関係あり
ノガイ・オルダと北カフカスのノガイ人とが関係あるのならば…。
実際のところはどうなんだろねえ。
130 :
世界@名無史さん :04/01/17 01:10
>>117-118 つーか彼が活躍した頃はイル・ハーン朝はとっくに解体していたし。
当時のファールスは土着王朝でティムールに滅ぼされたムザッファル朝の支配下ですな。
131 :
世界@名無史さん :04/02/22 18:55
سلسله ايلخانان صفويه
132 :
世界@名無史さん :04/02/25 00:24
イルハン国の支配者は三木谷
ドーソン『モンゴル帝国史』を流し読みした程度の初学者です。 この中でしばしば出てくる「王」ってどのような立場なのでしょうか。 具体的には、モスル王とかファールス王などが出てきますね。 バグダッドのカリフにスルタンとして封じられていて、 世襲が認められていたのでしょうか。それとも、ホラズムやイラク =セルジュークなどの一領主に過ぎないのでしょうか。
134 :
世界@名無史さん :04/04/27 06:45
age
135 :
世界@名無史さん :04/04/27 07:27
>>133 ドーソンの意訳の可能性もあり。
『集史』フレグ・ハン紀には
ヒジュラ暦656(1258)年のシャアバーン月6日に、
バグダードを征服し終えたフレグの許に伺候していたモスルのスルターン・バドルッディーン・ルウルウが帰還し、
翌シャアバーン月7日、ファールスのアタベク・アブー・バクルの息子アタベクサアドが伺候した記事が載っています。
(ドーソンではアタベク・アブー・バクル本人が伺候したことになっている)
セルジューク系の地方君主たちはアタベクとかスルターンとか呼ばれるようですが、
あるいはそれらを一括してアラビア語文献で「マリク」と書いてあるのかも知れません。
>>135 レスありがとうございます。人物について称号が幾つか出てくるのですが、
・スルタン=地方君主(鎌倉時代の守護みたいなもの)
・アタベク=将軍(特定方面の軍事長官、スルタンと兼任?)
・マリク=以上を総称して「王」
という理解でよろしいのでしょうか。初歩的な質問で恐縮です。
137 :
世界@名無史さん :04/05/05 17:49
age
138 :
世界@名無史さん :04/05/05 20:50
>>136 ザンギー朝の創始者・ザンギーも、モスルからアレッポにかけて勢力を築いて
いた地方領主だったが、「アターベク」と呼ばれてたみたいだね。
ザンギーが不慮の死を遂げた後、後をついだヌールアッディーンはスルタンに
なったんだよな?
140 :
世界@名無史さん :04/06/13 12:48
>>136 遅レスで失礼します(汗
>・スルタン=地方君主(鎌倉時代の守護みたいなもの)
>・アタベク=将軍(特定方面の軍事長官、スルタンと兼任?)
>・マリク=以上を総称して「王」
>という理解でよろしいのでしょうか。
う〜ん、ちょっとその理解だと問題があるかも知れません(汗
例えばガズナ朝のスルターン・マフムードやイルハン朝のガザン・ハンのようなアッバース朝とは関係ない王朝の君主は、
自ら「スルターン」と称してますので、「君主」一般の意味が「スルターン」。
「アタベク」は元々はセルジューク朝やその後継王朝(ザンギー朝など)で王子の後見人たちのことをいう称号ですが、
セルジューク朝の王権が衰退しはじめるとアタベクたちが世襲化したり地方君主化した経緯がありますので、
時代状況を考慮して無理に訳さずそのまま「アタベク」と解して置くのが無難かもしれません(^^;
「マリク malik」については、他のセム系のヘブライ語やアラム語のmelekhやmalkaaが
「王」を意味するので「マリク」→「王」で良いかと思われます。
ただ、「預言者ムハンマドは王(malik)を名乗らなかった」という有名なハディースのためか
「王国 mamlaka」とか人名のマリク・シャーのような形で頻出するわりに、
歴史的にmalikを名乗った例はほとんどありませんので、その点は留意すべきかと思われます。
>そのせいで「スルターン」という称号が一般的だったのかもしれません。
「将軍」という訳語に一番近いのは「アミール」かも知れません。
「司令官」という程の意味ですが、ターヒル朝やサーマーン朝など「アミール」、ブワイフ朝が「アミール・アル=ウマラー(大アミール)」と称したのは、
一応、アッバース朝の権威を認めて在地の支配権を代行している、という名目が存在したためだそうです。
>そのためアッバース家の権威=カリフ位を認めないウマイヤ家の後ウマイヤ朝やアリー家のファーティマ朝は自らカリフと名乗っていました。
余談ですが、モンゴル系であるイルハン朝ではモンゴル君主の臣下である各部族の部族長たちのことを史書では「アミール」と呼ばれています(w
サファヴィー朝とか中世イラン史について日本語で読める本てあんまりないですよね。 イスラム思想史も大抵アヴェロエスとかで終わってるし。
>>141 さらに遅レスで恐縮です。
分かりやすいご説明ありがとうございます。やはり学問的には原書に当るのが、
最も良いとは思うのですが、アラビア語習得は大変ですので。
複数の文化圏に跨る歴史についての記述は、私には混乱してしまいます。
アミールとかノヤンとか。
144 :
世界@名無史さん :04/07/21 23:33
サファビー朝になっても戦争ばかりですよね
145 :
世界@名無史さん :04/08/30 21:52
すみません、「サファビー」ってのは何から名付けられたんですか? 「サフィー」からとかなんでしょうか?
サファヴィー朝の元になったサファヴィー教団の創設者のサフィーユッディーン・イスハーク S.afī al-Dīn Ish.āq/صفى الدين اسحاق 1334-3/1252の名のサフィー(s.afī/صفى)のアラビア語の形容詞形(s.afawī/صفوي)をペルシア語風に発音したもの(s.afavī/صفوى)。
147 :
世界@名無史さん :04/10/07 21:30:13
群雄割拠の戦国時代ねぇ…天下をとったのはアゼルバイジャーンの人達なんでしょ?
狂信的なカルト集団が天下取ったってすごいな。 オウムよりすごい。
149 :
世界@名無史さん :04/10/08 15:31:44
とある極東の島国では公○党が天下とってますが。
150 :
世界@名無史さん :04/10/08 16:54:17
サファヴィー教団関係者後継者は、スーフィー教団として現在も残っていないのですか?
ん、待てよ 「天下をとる」って言っても、何処までがイランなんだ? ササン朝の血を引いているとか称していたはずだから イスマイルシャーが旧ササン朝の領土を抑える気はあった筈だ だけんども、西はオスマン朝に東はシャバイニ朝に抑えられて… 取り敢えず国は出来たけど天下をとったとは言えないかも
152 :
世界@名無史さん :04/11/07 23:25:33
age
153 :
世界@名無史さん :04/12/19 09:44:43
age
154 :
世界@名無史さん :04/12/25 14:56:56
ま、イスマーイールはいちおうシェイバーニー・ハーンの頭蓋骨に金箔を貼って酌み交わし、 一時シェイバーニー朝は滅亡しているわけだが・・・ ササン朝とまではいかないけどね チャルディラーンで勝っていればまた違っただろうが・・・
155 :
世界@名無史さん :05/01/02 13:36:10
イスマイールとセリムって 常勝と不敗の闘いみたいでカッコイイですね
156 :
世界@名無史さん :05/01/02 13:43:08
あの戦いの後、常勝の誇りを粉々に打ち砕かれたイスマーイールが 急速に覇気を喪失して酒色に溺れ、若くして世を去ったというのも何か良い感じガス
158 :
世界@名無史さん :05/01/09 16:45:25
若くして死んだのは本当じゃん
160 :
世界@名無史さん :05/02/03 17:59:59 0
あんた新スレはりまくっているけど、ネタも振っていってよ! そうだろカイ・ホスローの名が泣くぞ
今頃言ってどうするよw
162 :
世界@名無史さん :05/02/11 20:31:29 0
チャルディラーンの戦いってのは、イラン版・長篠の戦いだね。 火器で武装したイェニチェリ軍団に砲兵部隊を擁するオスマン帝国軍が、 騎兵主体のサファビー朝軍を破ったんだから。 この戦いの60年後に信長が長篠で武田軍を破っている。
163 :
世界@名無史さん :05/02/11 20:46:14 0
イスマーイールは勝頼の百倍は才能があっただけに惜しいな。 世が世なら世界の覇者と呼ばれたかも知れない。歴史はあまりに非情だ。
サファヴィー朝のシャーは 何でシャーハンシャーもしくはパーディシャー名乗らなかったんだろ?
>>164 サファヴィー朝時代の歴史書、たとえばイスカンダル・ベクの『アッバース大帝年代記(ターリーヒ・アーラムアーラーイ・アッバースィー)』などには、
サファヴィー朝の君主を指して、
「ハーカーン・スライマーン・シャアン・シャー・イスマイール・バハードゥル・ハーン」とか
「スルターン・アラー・パードシャー陛下」という言い方は出てくる。
「シャー」や「パードシャー」という言い方は確実にある。
しかし自分が知る限り、イルハン朝からサファヴィー朝時代には、「パードシャー」という単語は頻出するが、
パルティアやサーサーン朝のような「シャーハンシャー」という言い方は見た覚えがない。
明清代の中国語ペルシア語辞典『回回館訳語』にも、
第1種雑字「君 把得沙黒(パードシャー(フ);「把」は実際には「立+巴」)」、第1種雑字続編「皇帝 哈恩(ハーン)」、
第2種雑字「君 傻諕(シャー(フ)」
と書かれていて、「シャーハンシャー」に相当する単語は見つからない。
恐らく「シャーハンシャー」という称号は、サファヴィー朝のみならずイスラム時代以降、
使われなくなった、名乗らなくなってしまった称号なのかもしれないが、自分にはよくは分からない。
「シャーハンシャー」という称号は20世紀、パフラヴィー朝時代になって
復活されたというような話を聞いたような気もするが、これもどうだったろうか。
でも、恐らく自分の領土に「シャー(王)」「パードシャー(帝王)」は自分一人しかいないのに、
わざわざ「シャーハンシャー(諸王の王)」などと言うのは屋上屋を架す感じがして
そもそも名乗る必要がなかったのではないかと思う。
たとえばイングランドの「king」が唐突に「emperor」を名乗る必要がないのと同じ気がするのだが。
その割には「インド皇帝」とか名乗ってるけどな。 ちなみに公式に英語で「エンペラー」と証した唯一の(略
あ、アメリカ皇帝「ジョシュア・ノートン一世」なんてのもいたか(w いい加減スレ違いなのでもう終わりにするが。
他のスレで散々、1876年にヴィクトリア女王が「インド皇帝」位についたという出来事があったからこそ イギリス関係で「emperor」号が使われるようになったという話題も念頭に置いて >たとえばイングランドの「king」が唐突に「emperor」を名乗る必要がない という一文を最後に付け加えたのだが・・・文意が理解されなかったようで残念。
169 :
世界@名無史さん :05/03/10 23:18:34 0
黒羊朝と白羊朝の南北朝のイメージもある でもトルコ系なんだよね?
170 :
世界@名無史さん :05/03/10 23:22:06 0
イルハンはナニしに日本きたんだろう・・・・・
172 :
世界@名無史さん :2005/03/25(金) 22:51:01 0
さぁイラン戦だ!
173 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 00:46:06 0
イランおめ!
174 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:03:09 0
あのイルハンも、イル汗国の子孫とか末裔?
175 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:17:43 0
>>174 王族があの美形を維持するのは無理でしょう。
176 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:18:05 0
↑遺伝的にね
177 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:20:09 0
美人のお后に似れば、女性系の美男子に・・・=イルハン
178 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:20:38 0
王族がサッカーするか?
179 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:21:36 0
つか、イランつえぇえよ。 バーレーンといい、あっちはなんであんなパワフルなんだ?
180 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:22:00 0
181 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:22:29 0
182 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 01:23:06 0
>>181 それはサッカーで成功してからでしょ!
ブラジルも然り
183 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 13:51:52 0
>>179 国が選手養成に力を注いでたりするからだろうか。
184 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 17:16:21 0
ムザッファル朝対ティムール朝
185 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 17:49:41 0
鎌倉〜戦国の間ですね。 日本も混乱期じゃん。
ヨーロッパも教皇や皇帝の力が衰えて戦争ばっかですしね
187 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 14:19:15 0
要するにみんな寒冷化と黒死病が悪かったんだよ!
188 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 21:27:23 0
ヨーロッパもイランもモンゴルも日本も荒れているのに 中国は明王朝のもと光り輝いていたのである!!!
189 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 23:42:33 0
明とかも結構荒れてる感じかも。 国が真っ二つにわれたこともあったし。
イル汗国崩壊後の群雄って… ジャラーイル朝 ムザッファル朝 サルバダール朝 クルト朝…ほか …ほか、何がありますでしょうか?
191 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 19:44:04 0
スーフィー朝・・・までいくともうイランじゃないな。
192 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 19:51:23 0
カラコユンル アクコユンル
黒羊朝と白羊朝は世界史上では影が薄いよね。
ジュチウルスは攻めてくるわでもーたいへん
196 :
世界@名無史さん :2005/05/16(月) 18:09:05 0
カラウナス軍団ってイル汗国崩壊後はどうなったんですか?
198 :
世界@名無史さん :2005/05/16(月) 19:02:39 0
「カラウナス」ではない。 「ニークダーリヤーン」だ。
200 :
世界@名無史さん :2005/05/17(火) 12:17:54 0
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8914/timur.html ここに書いてあるようにカラウナス=混血の意味があるんかいな
203 :
世界@名無史さん :2005/06/11(土) 23:12:56 0
キジルバシ軍団が通常の3倍速でage
204 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 17:15:22 0
アクコユンルやカラコユンルのトルクメンはイルハン朝時代はどこに隠れてたの?
205 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 21:00:19 0
当時はまだ、カラコユンルはイヴァ氏族、アクコユンルはバヤンドゥル氏族の頃だが。
206 :
世界@名無史さん :2005/06/15(水) 04:35:16 0
>>204 遊牧トゥルクマーンなんて、そこかしこに居たんだろ。
207 :
世界@名無史さん :2005/06/15(水) 17:44:29 0
>>205 イヴァもバヤンドゥルも初めて聞いたんですが、アゼルバイジャン辺りにいたんですか?
カユ氏族とかとなんか関係がありますか?
208 :
世界@名無史さん :2005/06/16(木) 21:24:44 0
ちょっとスレ違いかもしれないが、イランに旅行に行ったとき 土産物屋で古いコインが売っていたので買ってみた。 日本に帰ってからネットで調べまくったところイルハン朝の アブー=サイードのコインだった。 イルハン朝ってちゃんと貨幣も作ってたのか、と感慨深かった。
貨幣どころか紙幣も発行しましたが。
「とこしえなるアッラーの力によりて」とか刻んでありそうだ。
>209
イルハン朝時代の本物の銀貨持ってるとは羨ましい。
本田先生が講談社の本で載せてたガザン・ハンのディルハム銀貨と
同じ銘文のものを解説してる↓のサイトを見つけた。
ttp://mehmeteti.150m.com/ilkhanids/UM121.htm 表 lā'illāh illallāh muh.ammad rasūl-u-'llāhi s.alā' ?alaihi
d.uriba Amasya. Sanah 699.(arb.)
裏 1) Tengri-yin 2)Küchündür.(mong.)
3) Ghāzān Mah.mūd. (arb.)
4) Ghasanu 5) Deledkegülüg 6) -sen.(mong.)
縦書き)hP'ags-pa.
紀年と発効場所、あとパスパ文字はどーにも読めなかった。(汗
212 :
208 :2005/06/18(土) 16:22:50 0
>>209 のお、それは知らんかった。おおきにです。
そういや本家の元でも交鈔作ってたな。関係あるのかな。
>>211 僕が見てたのもまさしくそのサイト。
そのサイト、マイナー国家の貨幣を死ぬほど乗せてるな。
個人コレクションなんだろうか?凄すぎる。
ちなみに俺のやつ、5ドルと安かったんで、本物かどうか怪しい。
よほどの掘り出し物か、贋物か…前者だと信じます。
213 :
世界@名無史さん :2005/07/04(月) 21:28:43 0
iiiiiiiiiiiii
白羊黒羊がペルシャと呼ばれないのは シャーを名乗らなかったからだろうか? あ、パルティアがそうなのはササン朝のプロパガンダらしいけど。
お手紙書いた、さっきのお手紙御用事何?
216 :
世界@名無史さん :2005/07/10(日) 00:49:51 0
>215 ペルシャと名乗ろうとして国書を発送→食われる→問い合わせの国書を発送→(以下ループ)
厳密にはパルティアもサーサーン朝も「ペルシア」とは名乗ってない。 勿論サファヴィー朝もだけど。「ペルシア」と呼んだのはギリシアやローマや 主にその呼称の伝統を引き継いだ西欧の連中だけど。 サファヴィー朝も含めて彼らが標榜したのは「イラン」のほうね。 ただしその内容はイスラム時代にカスピ海南岸で醸成されてきた 現地の「伝統的なイラン観」+「イラン的シーア派要素」の二本柱。 トルコマン遊牧民オンリーのアクコユンル・カラコユンルは出自が別系統。 でも両朝の王号は「スルターン」だったか「シャー」だったか・・・ カラコユンル朝には「ジャハーン・シャー」とか「シャー・マンスール」みたいな 人名に「シャー」は使われてるけど。セルジューク朝も人名で「アルスラーン・シャー」 とか「マリク・シャー」とか個人名に「シャー」を付けてる王族は山ほどいるけど、 君主号としては「スルターン」を使っているが。 サファヴィー朝は確かにブワイフ朝以来500年ぶりくらいのイラン系っぽい王族が 主体となった王朝だけど、軍制とかはそれまでのテュルク・モンゴル系の王朝と殆ど 同じだったはず。
218 :
世界@名無史さん :2005/07/10(日) 11:51:29 0
個人名の中にシャーとかベクとか王号がそのまま入ってるのって、当時の人は違和感感じなかったんだろうか。
219 :
世界@名無史さん :2005/07/10(日) 13:52:42 0
>>217 シャー・イスマーイールの私兵は「箭筒士」と呼ばれてたらしいな。
モンゴル風のネルゲ(巻き狩り)もやってたという。
220 :
世界@名無史さん :2005/07/11(月) 00:13:26 0
>218 王貞治氏に聞いてみたら?
221 :
世界@名無史さん :2005/07/11(月) 04:02:59 0
>>220 ラーメン屋じゃなくて王族の王さんに聞かないと意味が無い。
サファヴィー朝より前は 総督レベルの領主も普通に「シャー」を名乗ってたわけなん? 実際ササン朝ではサトラップの替わりにシャーが使われてた感じだったし。
「箭筒士」は察するにはQolchiの類だと思うけれど、 コルチは私兵というよりも王直属の「近衛軍団」のこと。 キジルバシ各部族から選抜された優秀な若者たちで構成された。 制度的な直接的起源はモンゴル時代に遡る。 アミールで「シャー」の名前が見える人物は、イルハン朝やティムール朝時代に 何人かいないでもないが、セルジューク朝時代では王族限定っぽい。 とくにケルマーン王家ではカーヴルドの息子達の世代から「〜=シャー」という 人物ばかりになり、即位すると「スルターン・〜=シャー」という言い方をする。 「王族」に類する言い方は「シャーフ=ザーデ」。 王位につく条件は支配基盤のテュルク系遊牧軍団の支持如何によっているため、 ペルシア語やアラビア語での表現の仕方にはかなりルーズな部分があると 割り切った方が良さそう。 ちなみにセルジューク朝もティムール朝も王号は「スルターン」。
セルジューク朝のスルタンは(カリフの代行者な訳だから)皇帝に相当するんだろうけど ティムール朝のそれは結局ただの王様ってことになるんだろうな。 まああえてアミールを名乗らない時点で自称「皇帝」とも言えるような希ガス。
>>219 「ネルゲ」ではなく「ジェルゲ」。
ペルシア語に入って「جرگه」、読みはjirga,jargeなど。
アフガニスタンの国民大会議、「ロヤ・ジルガ」の「ジルガ」の語源。
>>223 「Qolchi」ではなく、「Qorchi」。
ペルシア語では「قورچى」と表記。
226 :
世界@名無史さん :2005/07/12(火) 16:32:55 0
ペルシャに入ったモンゴル語といったら「ソユルガル」もあるね。
>>199 バーブルの自伝にアフガンの山中に「ニクデリ」が住んでいると書いてるけど
そいつらの生き残りか。
王さんはいても、天さんはいない
229 :
世界@名無史さん :2005/08/19(金) 21:39:05 0
チュバン朝 ジャライール朝 アルトゥク朝 ティムール朝 スーフィー朝 クルト朝 サルバダール政権 バーワンド朝 マルアシー政権 キヤー政権 インジュー朝 ムザッファル朝 シャバーンカーラ朝 カラ・コユンル朝 アク・コユンル朝
230 :
世界@名無史さん :2005/08/20(土) 13:32:27 0
>>199 ラシード・アッディーンは「カラウナス」と「ニークダリヤーン」を区別して用いていたらしいが
231 :
世界@名無史さん :2005/09/04(日) 16:57:02 0
結局イランが他のイスラーム世界と切り離されたのは 「イル汗国の統治があったから」と(カリフとは別の世界) 「サファビー朝の統治があったから」の(古代イランの血統とシーア派) どちらが決定打だったんでしょう?
マムルーク朝やオスマン朝と対立してたからでないの
スンニ派とシーア派ってコーランを共通の聖典としてるってだけで 既に別の宗教みたいなもんだからな。
>231 アナトリア東部とイラクをオスマン朝にとられて現在のアラブ、 トルコ、イランの文化圏の大枠と国境制定にも大分作用してるので サファヴィー朝といいたいところだが・・・ 勿論シーア派国家という点ではなかなか特異な王朝だが、 オスマン朝とは国交断絶状態で、ウズベク諸王朝とも あまり良好な関係ではなかったが、ムガル朝とはバーブル の時代から比較的親和的なところがあった。 イラン高原が他と孤立しがちになったのは、むしろウズベクの侵攻を シャイバーニー・ハーンを倒して食い止めたはずなのに、サファヴィー朝が 同地域を征服できなかったこと。さらに後の時代にロシアや西欧の進出、 アフガニスタンのドゥッラーニー朝の独立などで勢力が各地に分立しすぎて 中央アジアを統合できる勢力がいなくなったせいではないかなと。
中央アジアを制したサファビー朝が ジュンガルや清朝と鑓り合う展開などあれば面白かったのに
>>231 古代イランの血統って何よ?
何か勘違いをしてるんではないかい。
サファヴィー家はサイイドの家柄だったらしいけど ササン朝の血も引いてると自称してたらしい。 そんなのが臣下へのアピールになったのか知らんが。
238 :
231 :2005/09/08(木) 21:43:31 0
ササン朝云々もあるだろうけど あの辺に住んでいる人達の「イラン人」意識 アーリア人の末裔 そんなのがイラン世界を創ったのではないかと… そういう血統
しかし、彼らのいう「イーラーン」は飽くまでも フェルドウスィーの「シャーナーメ」あたりで語られる世界での 「サーサーン朝」とか「イーラーン」なので、サファヴィー朝なのに 「古代イラン」というともっと古いオリエント学関連の古代史の文脈で 言ってるように聞こえてえらく違和感が・・・
240 :
世界@名無史さん :2005/09/09(金) 16:49:55 0
「王書」なんかはトルコ人も好きだったらしい。
241 :
世界@名無史さん :2005/09/09(金) 23:30:21 0
>>231 >>238 結局イラン高原の住民の使用言語が
印欧語系言語であり続けたことが一番だろうよ。
メソポタミア以西のセム語圏では、結局
アッカド語→アラム語→アラビア語と、
その地域の言語は同語族の言語で代替されて行き、
最終的には「アラブ世界」として一括りにされていく。
ここにも諸説あって、
住民移動はメソポタミア文明期からさほど無く、
方言程度の差の使用言語がどんどん替わっていったという考えと、
実際にアッシリア人(北から)、次にアラブ人(南から)の侵入により
人種ごと置き換わったという説があるけどね。
印欧語圏ということで、トルコ化した中央アジアとアナトリア周辺部分が切り離されると
オリエント東部の印欧語圏内部は、イラン、クルド、アフガンの三部分になる。
こうなった後で、後の二者が宗派により狭義のイランから分離されるという流れだろう。
サファヴィー朝はトルコの要素も強いの。 イスマーイールのトルコ語の詩なんかも有名でしょ。 だから、サファヴィー朝をイランの血統だの意識だのと結び付けるのは間違い。
シャーイスマイルの頃はそうかもしれんが シャーアッバスの頃はどうだったかね
>>199 > 「カラウナス」ではない。
> 「ニークダーリヤーン」だ。
>> 230
> ラシード・アッディーンは「カラウナス」と「ニークダリヤーン」を
> 区別して用いていたらしいが
カラウナスとニクーダリーヤーンは起源が異なる。
後にはカラウナスの「一部」とニクーダリーヤーンは融合して
しまったらしいので、両者は「ほぼ同じ」といえる場合もあるし、
「全然別」になることもある。
カラウナスは、オゴタイ・ハーン時代(1230年頃)にアフガニスタンに
派遣され駐屯し、フレグの西征時(1250年代)に増強された
「ヒンドゥスターン・カシミール鎮守府」の子孫。兵士が現地女と
結婚して産んだ(であろう)第2世代の混血児たちが主力となる
1260年代から「カラウナス」と呼ばれるようになる。
>>202 > カラウナス=混血の意味があるんかいな
カラウナスの語源は不明だが、志茂説では「qara(黒い)+
unas(匈奴)」か?とのこと。unas=hunasは匈奴というより単に
「人々」でいいんじゃないかな。つまり「(インド人などと結婚した
結果産まれた)肌の黒い人々」。
これが転じて一般名詞として「混血児」の意味を持つように
なったらしく、マルコ・ポーロは「カラウナス=混血児」と説明
している。チャガタイ家東西分裂時代には、東が西を「カラウナス
(混血児)」と誹謗したのも有名。
カラウナスはフレグ西征軍傘下に入り、大半はアバカー時代 (1265〜)にフレグ・ウルスの政府軍として再編された。 これが「親衛カラウナス万人隊(冬バグダード夏テヘラン周辺に 駐屯する近衛兵)」と「ホラサーン・カラウナス万人隊(ホラサーン 守備隊)」。 アフガニスタンに居残った部隊はチャガタイ家に寝返り (1265〜6年頃)、フレグ・ウルス東部に度々侵寇した。 これがマルコ・ポーロが報告している(1272年) 「盗賊カラウナス」。
ニクーダリーヤーンは、やはりオゴタイ・ハーン時代に ホラサーンに派遣されたジョチ家軍が起源。 フレグ西征軍傘下に入ったが、フレグ家とジョチ家間の戦争を 機にフレグ家から離脱(1262年)。司令官ニクーダルにちなんで 「ニクーダリーヤーン」と呼ばれるようになる。 逃げたあとは現在のアフガニスタン・イラン南部国境あたり (スィースターン〜ギャルムスィール)に本営を置いて遊牧し、 イラン方面で略奪行為を行っていた。
盗賊と化していたニクーダリーヤーン軍も1270年頃 チャガタイ家に身を寄せる。チャガタイ家傘下の 盗賊カラウナスとニクーダリーヤーンは行動を共にしたと みられ、両者は区別がつかなくなる。 フレグ・ウルス政府軍カラウナスのうち、ホラサーン・ カラウナス万人隊は1285〜90年にかけて解体され、 カラウナス兵の一部はやはりチャガタイ家やヘラートの クルト朝に身を寄せた。親衛カラウナス万人隊はフレグ家の お膝元に残ったが、最後はどうなったか知らない。
チャガタイ家傘下のカラウナス/ニクーダリーヤーン軍は、 1300年前後はチャガタイ家、フレグ家、反乱軍の間で あっちにつきこっちにつきしているが、14世紀前半フレグ家、 チャガタイ家ともに分裂時代に入ると、独立勢力となる。 1355〜6年には今度はアミール・カズガン傘下となり、 その死後1360年代は孫のアミール・フサインが継承。 アミール・フサイン配下の「カラウナス部」については 実態がよくわからない。
1383年にはカラウナス/ニクーダリーヤーンはティムールに 投降。これ以後「カラウナス」の名は消えていく。 15世紀に入るとニクーダリーとハザーラの名が並んで現れる ようになる。1469年以後、ティムール朝が分裂すると、 ニクーダリーとハザーラは今度はカンダハルのアルグーン家 傘下に入る(1479〜80年)。
>>227 > バーブルの自伝にアフガンの山中に「ニクデリ」が住んでいると
> 書いてるけどそいつらの生き残りか。
バーブルは「ハザール人、ニクーダリー人の中にはモンゴル語を
話す者がいる」と書いている(1504年頃の状況)。ニクーダリー=
ハザーラではないにしても、ハザーラ民族の形成にカラウナス/
ニクーダリーヤーンが参加しているのは間違いないだろう。
その後はまた独立勢力となるが、16世紀にはサファヴィー朝が
かなりちょっかいを出していたらしい(ハザーラがシーア派になった
のはこの時期と推測されている)。
17世紀にはまだ「ハザーラとニクーダリー」と併記されているが、
18世紀にはニクーダリーの名は消えていく。ハザーラなどの
民族に吸収されていったのだろう。アイマクやモゴールなどの
民族形成にも関係ありそうだが、その辺の過程はまだ解明
されていない。
これらのモンゴル起源の民族は、19世紀には南部から
勢力を広げてきたパシュトゥーン人に圧迫され、山岳部に
追い込まれていった。
以上が
>>196 > カラウナス軍団ってイル汗国崩壊後はどうなったんですか?
の答え。
253 :
世界@名無史さん :2005/09/29(木) 22:17:59 0
カラウナスやニクーダリーヤーンは離合集散が激しく歴史は複雑。 これでもかなり簡略化したつもり。 これ以上知りたい方は、志茂碩敏(カラウナス関連)、北川誠一 (ニクーダリーヤーン関連)、加藤和秀(チャガタイ家・ ティムール朝関連)諸先生の論考を当たってくれ。
>>253 北川誠一さんが中公の世界の歴史に書いてた「モンゴルとイスラーム」読んだけど面白かった。
イランの国境近くで汚い格好でうろうろしてたら「モンゴル人帰れ」と罵られたって話が笑えた。
255 :
世界@名無史さん :2005/09/30(金) 00:07:51 0
というかハザラがモンゴル人の残党というのは聞いてたけど まさかニークダリヤーンにつながるとはね。 そういえばインドにもムガル朝以前にモンゴル人の王朝があったとか。
>>255 モンゴル人じゃないよ、テュルクだよ。
デリー・スルターン5王朝のうち最初の4つ
(奴隷王朝=アルバリー朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、
サイイド朝)がアフガニスタン起源のテュルク王朝。
最後のローディー朝はアフガン(パシュトゥーン)。
257 :
世界@名無史さん :2005/09/30(金) 00:34:29 0
>>256 イルハン朝関係者の亡命政権みたいのがインドにあった気がしたけど
記憶違いだったかも。
>>258 それは南東インド・ゴルゴンダ王国(クトゥブ・シャーヒー王国)
じゃない?時代は16〜17世紀だけど。これはカラ・コユンル朝
(黒羊朝)の傍系が流れ流れて建てた、インドでは珍しい
シーア派のイスラム王国。
×ゴルゴンダ ○ゴールコンダ
ゴルゴンダが黒羊朝の系統だったとは・・・サンクス
×ニクーダリーヤーン ○ニクーダリヤーン 初心者がよくやる間違い。
「ニークダリヤーン」はいいのか?
それは問題外。 それにしても、素人丸出しの用語を使って能書きをたれているお人は何とも痛い。
264 :
世界@名無史さん :2005/10/03(月) 16:47:56 0
>>254 アジア人が欧米に行くとチンクとかいわれるが
イランではモンゴル人になるのか。
265 :
255 :2005/10/03(月) 18:50:10 0
orz
266 :
世界@名無史さん :2005/10/04(火) 18:56:42 0
>>264 ふと思ったがイラン人の頭の中では「トゥーラーン」ってどこまで伸びてるんだろう?
267 :
世界@名無史さん :2005/10/07(金) 04:25:18 0
宇宙
268 :
世界@名無史さん :2005/10/13(木) 14:48:28 0
歴史には全くの門外漢ですが、おたずねしたい事があって 書き込みをさせて頂きます。 過日、英書を読んでいますと、1700年頃にサファヴィー朝の宮廷に仕えた 宦官の Saru Taqi という人名が出て来ました(もちろん実在した人)。 この人物の名をカタカナで表記するならば、 どのように書くのが最も好ましいでしょうか? 「サル・タキ」、「サルー・タークィー」、等々 色々と考えられますが、判断がつきません。 母音の長短もあわせて御教示下さい。 どうぞ宜敷く御願い致します。
269 :
世界@名無史さん :2005/10/13(木) 21:05:05 0
age
>>268 まずは同じ質問のレスをいくつもコピペするのは
とかく「マルチウザイ」と言われるので控えられるように。
それはともかく、
1700年頃だとサファヴィー朝末期なので、日本で読めるような
刊行された資料は限られし、さらに「サファヴィー朝の英書」だけ
では何ともなので、とりあえず題名と著者名を挙げていただきたい。
271 :
世界@名無史さん :2005/10/14(金) 07:49:32 0
↑大宰相にまで陞りつめた人物に解説を施さねばならぬとは、 定めしド素人ばかりの板なんぢゃのう!!! 呆れ果てたる仕儀ぢゃて! 所詮、2チャンネルは、この程度の連中が したり顔で書き込んで居るのか(と深い吐息をつく)!
272 :
世界@名無史さん :2005/10/14(金) 12:39:09 0
モンゴル人の末裔であるハザラ人はイランでは、同じシーア派でも差別されるとか
オスマン朝ならサドラザム(<サドル・アァザム)の訳語として 「大宰相」の単語を当てているが、サファヴィー朝で「大宰相」の語を あてている役職があったろうか? 「ワズィール」は居たはずだが。
>272 ハザーラの源流をモンゴルにだけ求めるのは正しくない。 その基層にあるタジク、パシュトゥーン、テュルクの血の 方が濃い。
275 :
世界@名無史さん :2005/10/17(月) 22:40:49 0
イラン、パキスタンのバローチ人、アフガンのパタン・パシュト人は何時ゴロで来た民族?
ゴロで来たんだから 車輪の発見以後だろうな
277 :
世界@名無史さん :2005/11/07(月) 22:38:02 0
>>272 タリバーン政権期のアフガンでも迫害されてたらしいな。
278 :
世界@名無史さん :2005/11/12(土) 21:24:00 0
世界不思議発見、今日はイスファハン
>>278 確か先週の予告では、「シーラーズ」と言っていた気がするが、記憶違いかしら?
シーラーズを期待して見始めたら、シーラーズはかけらも出てこないで、
イスファハンの話だった。(でも面白かったけど)。ペルセポリスがシーラーズ郊外だから
「シーラーズ」と予告篇で言ってしまったのか?
280 :
世界@名無史さん :2005/11/20(日) 23:39:17 0
イスファハンで正解
281 :
世界@名無史さん :2005/11/21(月) 00:59:16 0
>>273 オスマン朝の場合、序列のある3〜4人(?)の宰相がいる上で
最高位の宰相がいるから「大宰相」の訳語をあてるのだとか。
サファヴィー朝の文官トップは「ヴァズィーレ・アァザム」だけど、
2名連立が基本形。わざわざ「アァザム」=「高位の」をつける理由は、
有力な武官の個人的な「補佐役」(ワズィールの原義)と区別するためらしい。
ライバルを蹴落とし、ただ一人の「ヴァズィーレ・アァザム」となった者は
「ヴァキール」(シャーの代理)とも称され、これこそ大宰相的なポジションだけど、
実際に「大宰相」の訳語をあてているケースは見たことがない。
ちなみに「サドル」は、サイイドなど宗教的な有力者相手の調整役的ポストで、
文官としてはヴァキールよりも下位だったそうな。
282 :
世界@名無史さん :2005/11/25(金) 00:43:04 0
イスラム期のイラン(651〜1925年くらい)を中心に扱った日本語の書籍って ないものでしょうか。イメージとしては、足利惇の「ペルシャ帝国」(エラムから 651年を扱う)の後編となるようなものがあるといいのですが。。。。 「シーア派とペルシャ」みたいな感じで、651年〜の通史を読んでみたいです。
283 :
世界@名無史さん :2005/11/25(金) 00:57:47 0
俺はローマ以後のエジプト史の本を読んでみたいよ。 642年のアラブ征服から、1805年のアリーの独立くらいまでの通史を1巻で。
マムルーク朝だけで一冊分の内容になりそうだな。
>>218 なるほど。カリム・ハーンは「大宰相」でもいいわけだ。
286 :
世界@名無史さん :2005/12/01(木) 18:07:31 0
サファヴィー朝の書物って少ないですねぇ とりあえず「世界の歴史」は読んだけど、 次はどれ読めばいいのかさっぱり・・・
287 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 11:32:59 0
288 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 11:34:09 0
>>282 山川出版社『新版世界各国史 トルコ・イラン』は?
『イラン・トルコ』だったやも。
289 :
世界@名無史さん :2005/12/02(金) 11:34:59 0
訂正 『新版世界各国史 西アジアU トルコ・イラン』
もう当たってるとは思うけど 那谷敏郎『三日月(クレセント)の世紀−「大航海時代」の トルコ、イラン、インド−』新潮選書 1990 はコンパクトにまとまってていい本だよ。絶版だけど。 最近儲け主義に走ってる新潮社が重版かけるわけないから、 講談社学術文庫あたりで再発してほしいね。
>>283 Cambridge History of Egypt, vol.T.
↑これがおそらく最も適切だと思う。
292 :
282 :2005/12/02(金) 23:36:17 0
皆さん情報ありがとうございます。 282の書き込みのあと、山川の各国史の存在を知り、先週末読みました。 かなりイメージに近い本でした。巻末の参考資料を見ると、英語書籍で 1040-1797年のイラン史の本があることがわかりました。 「クレセントの世紀」は持っています。いい本だと思います。この本を読んで、 その前後のザンド朝や、イル汗国以前のイラン史も知りたいと思ったのが 282の理由です。思ったことは、(651〜1400はおいといて)、 1.白羊朝、黒羊朝・サファヴィー朝の時代に一番詳しいのは「クレセントの世紀」 2.サファヴィー朝時代の人物伝があるのが、新潮社の新版「近代イスラームの成熟」 3.ザンド朝に一番詳しいのは、山川の「西アジア2」。しかし、河出書房新社の「中東とインド」に少し 載っているカリム・ハーンの逸話は、山川では出ていない。 4.カージャル朝については、山川、河出、新潮社新版それぞれ、微妙に違うエピソードが載っている。 と、こういう感想を持ちました。全部を一緒にしたような通史決定版がでてくれると嬉しいです。
293 :
282 :2005/12/02(金) 23:41:02 0
ただこのあたりを専門的に研究している人っていなそうな感じが。。。 サファヴィー朝の執筆者は、イスラームの研究者がカバーしているし、 イル汗国は、モンゴル史の一巻として、専門の方がいそうだし、 チムール時代はチムール朝の研究者がカバーするしで、ずばり「中近世イラン史」の 研究者っていないのでしょうか。
そこまで来たら日本語の本・論文探してるのは時間の無駄だよ さっさとCambridge History of Iranに行けばいい
>「中近世イラン史」
その区分だと中国史だったら「宋遼金元明清、全部専門です」とか
日本史だったら「鎌倉、室町、戦国、織豊、江戸全部やります」とかいう
無茶苦茶な内容を求めているのと同じなので、そもそも無理が有るのでは?
イスラム関係にしても、例えばイラン・中央アジアにおける法学や神秘主義教団
について専門にしてる人なら、それに関わる政治史にもある程度通暁してるとか、
本田實信先生とか杉山先生みたいにモンゴル帝国について研究していて、その関わり
から他のセルジューク朝みたいなイスラム時代以降のテュルク・モンゴル系諸政権の
動向を探ったり、遼金みたいな華北の遊牧諸政権について手が及んだりすることは
当然有るけど。
シーア派とイラン世界とかいうテーマだったら、やっぱりEncyclopedia of Islamとか
>>294 に出てきたCambridge History of Iranあたりを読みはじめてはどうだろうか。
宗教に関しては欧州での研究がやはり研究蓄積があるし。
アラブ征服時代からモンゴル時代までだったらC.E Bosworthがいるが・・
もうおじいちゃんになった碩学が「一般向けに通史を書いてみました」て 感じの本が読みたい
297 :
282 :2005/12/04(日) 02:34:58 0
Cambridge of History Iranですか。。最終的手段はそれしかないと 思ってるのですが、急に分厚く細かくなりますよね。 「宋遼金元明清」全部というのはその通りで、新旧10巻の講談社世界の歴史や 18史略になじんでいるわれわで日本人には違和感があっても、通史であれば、 その程度の密度で、まずはいいと思います。講談社世界の歴史の中国は、 まさにご指摘の構成です。中国史に関しては、だから、講談社の世界の歴史の中国の巻は (全集持っていますが)、物足りなくて読む気がしないし、この密度でいいのか?と 思ってしまうのですが、他の地域だと、そう思わないところが、われながら不思議。 ま、やっぱ、ものには順番というか、一気にケンブリッジの密度に飛ぶのはちょっと、 という気が。そもそも高いし(200$以上だったはずしかも1冊でしたっけ?あれって1巻 が2分冊になっている巻もありますよね)。 なので、イランについては。宋〜清に比肩する密度でも、取り合えずいいかな。と。
298 :
世界@名無史さん :2005/12/05(月) 15:41:26 0
じゃあこれだな↓ Percy Sykes : A HISTORY OF PERSIA (1915年) ちょっと古い本だけど、論文などで最近の知見を補完すれば 今でも充分使える。全2冊で1200ページくらい。 復刻版が最近も出てるから入手しやすい。 US$70くらいからある。
図書館で「イラン史」蒲生禮一(昭和32年)修道社という本を発見 イランの通史が1冊にまとまってる
「三日月の世紀」を読んでみたけどイマイチだったなぁ・・・ 参考文献も適当ぽかったし
301 :
282 :2005/12/10(土) 22:38:16 0
>>298 これはこれでちょっと読んでみたいですね。対戦前にかかれているということは
当時の世界観も反映しているのかいないのか。その辺含めて面白そう。
復刻版が出ているということは、かなりの名著なんですね。
302 :
世界@名無史さん :2005/12/21(水) 23:12:51 0
age
303 :
世界@名無史さん :2006/01/09(月) 14:22:42 0
,─────-, ,-´ //\\  ̄ ̄\ l´//´-'‐ \\``\ ') l / /∩\\\\ヽ\ ) ( './__ ∪ __\\\~~ ') ( _ / ´ ̄ ̄''─--,__ ) ノ 人( ヽ l从l i ) | 〈 | ̄`‐´ ̄| ̄レ' r 、 〈 .\i、__/~ゝ、_|__人i | / / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | 〈-, |ノ「" 〈 < シャーイスマイルが λ ―- irー┴、 L_ | 通常の3倍の早さで保守! ヽ. ゛ ‖ ζ ( \________________ r--┴┬‐´|| 〔 ̄i ゛Y ヾ 「'-―'》  ̄-=┴i . r‐-‐-‐/⌒ヽ-ーイ // 〃 〃´ `ー- ̄゛` ヽ、 |_,|_,|_,h( ̄.ノヽY ビシッ ー-ヽノ| `~`".`´ ´"⌒⌒) ノ^ //人 入_ノ´~| ̄ \_ //__/ /
白羊朝や黒羊朝の頃のシースタンやバルーチスタンがどうなっていたのか どなたかご教授願えないでしょうか?
↑ティムール朝のヘラート政権か
306 :
世界@名無史さん :2006/01/28(土) 15:51:46 0
現在、シースタンやバローチスタン東部はアフガニスタンだったりパキスタンの領土ですが ここを歴史的に云々イランが言い出す事はないのでしょうか?
>>304 あの辺は当時カンダハルのアルグン家が支配していたんじゃなかったかな。
フレグ家の末裔と称している連中。
以前ちょっと調べたら系譜はよくわからなかった。そのまま放って
おいてるけど、また調べてみようかな。
>>306 モフセン・マフマルバフは「アフガンがイランの一州のままだったら
あんな悲惨な歴史はたどらなかっただろう」みたいな事を書いてたな。
いったいいつの「イラン or ペルシア」のことを言ってるのやら。 現アフガニスタン全域を支配下に入れてたのは、たぶんハカーマニシュ朝まで 戻らないとないぞ。サーサーン朝がクシャン・シャーを置いて支配して いたのも一時期だったし。
>いったいいつの しかし、そういった昔の事を言い出す国があるような気もする
現イラン/アフガニスタン国境は1872年の「ゴールドスミド判定」で イギリスに押しつけられたものだから、イランもアフガニスタンも 納得してないでしょ。 特にイラン(当時はカジャール朝)はロシアも巻き込んで、しつこく ヘラートにちょっかい出してたから、たぶん今も諦めてないよ。 今ヘラートはイランからの交易と援助で復興著しい。新築ビルがバンバン 建ってる。
無駄に国力(特に軍事力)が充実してくると、領土侵略の野望を露わに するのはどの国も変わらない。いずれイランも、どえらい昔の話を 持ち出して、阿呆なこと言い出さないとも限らない。 今の国際情勢では、そんなことするとサダム・フセインの二の舞に なるのは明らかだから、近々はありえないとは思うが、 アハマディネジャド大統領だと、人気取りで何言い出すか わからんからなあ・・・。
ヘラートはもともと歴史的にもホラーサーンの主要都市だったのを ドゥッラーニー家がカージャール朝から独立した際に持っていかれたようなもので、 当然イランとしてはイギリスにかすめ取られた東部バローチスターンともども 奪還したいんじゃないかね。バローチスターンは炎暑の大地だからあまり 欲しいとは言わないだろうけど。
ヘラート、19世紀ではイランとアフガンで取った取られたのしてるけど サファビー朝は言わずもがな、アフシャール朝だって抑えている事を考えると 歴史的にはイランだよな 当然このスレ対象のイルハン朝やティムール朝も抑えている
モンゴルが侵攻して来た時、クルト家がヘラートからアフガニスタン全域を 統括していたけど、むしろこれは例外的な話。 そもそも、その前のガズナ朝やゴール朝はアフガン中央のガズナやゴール あたりを本拠にしていた。ホラズムシャー朝のおかげでゴール朝は解体して しまいゴール朝系の勢力はアフガン周辺の各地に分散したけど、フレグ西征時に クルト家の祖となったはシャムスッディーン・クルトは、この各地に分散していた 旧ゴール朝系の豪族のひとりとされている。 彼はモンゴル侵攻とホラズムシャー朝の滅亡の混乱時に、いち早くモンゴル側に 帰順したお蔭で自分の本拠地となっていたヘラートから、まだ動揺の続いて いたアフガニスタン一帯の統治に成功できた。
本来アフガン地域に属すとは言えないヘラートにいたシャムスッディーン・クルトが なぜアフガン全域を支配できたのかと言うと、 このヘラートにゴール朝の勢力が政権を立てたのは、まずゴール朝のスルタン・ ギヤースッディーン・ムハンマドがホラーサーン支配のためにホラーサーンの 主要都市だったヘラートを根拠地にしていたことが発端。 ゴール朝がホラズムシャー朝によって滅んだ後、モンゴルに抗戦していた ホラズムシャー朝のスルタン・ジャラールッディーンの根拠地がガズナだった せいで、アフガン内陸はモンゴル軍とジャラールッディーン軍との主戦場になった。 そのため荒廃が著しく、戦後復興のためマフムード・ヤラワチが総督として派遣されて 来たけど、アフガン全体を統括できるような旧来の在地勢力はヘラートのシャムスッ ディーン・クルトしか実質居なかったので、モンケの所領安堵とフレグの追認に よった結果、本来ホラーサーンの都市であるヘラートがこの一時期アフガンを 統括する立場を得た次第。
317 :
世界@名無史さん :2006/02/22(水) 21:06:24 0
age
シャー・ミール朝 ・・・までいくとアフガンですらないな
319 :
世界@名無史さん :2006/03/11(土) 12:02:55 0
age
320 :
世界@名無史さん :2006/03/15(水) 01:05:50 0
以前どこか英語圏のサイトでサルバダールのことを"Urban Mafia"と表現していた。 いくら何でも簡潔にまとめ過ぎだと思った。
321 :
世界@名無史さん :2006/03/21(火) 14:00:33 0
サファヴィー朝 16世紀末までサファヴィー朝の兵力の大部分はキジルバシとよばれる遊牧トゥルクメンの部族兵であり、トルコ式の合成弓や 騎槍、刀剣等で武装して、おそらくモンゴル帝国の時代とほとんど変わらない騎兵戦術で戦った。 アッバース大帝の国政改革以前、国土はシャー(大王)の直轄領のほかに50余州に分かれ、キジルバシの部族長たちが 各地のヴァキール(総督)として半独立的に統治し、500〜3,000の兵力を保持して有事に従軍する義務を負った。 シャーは直属の戦力として、キジルバシから選抜された親衛隊であるコルチ(箭筒士)を有していた。シャー・イスマーイールの 治世にはコルチの兵力は1,000〜3,000名で、キジルバシと合わせても野戦に動員できるのは2万人ほどであった。16世紀 半ばにコルチは5千名まで増員されていたが、王朝全体の兵力はたいして増加していなかったようだ。 戦闘隊形は右翼・左翼・中軍に分かれる伝統的なもので、通常はシャーの軍勢が中軍となり、両翼にキジルバシが配置された。 サファヴィー朝軍の圧倒的多数は中央アジアの伝統的な騎射兵であったが、シャー・イスマーイールの父・ハイダルの代から すでに火器の使用された記録がある。イスマーイールは攻城戦にマスケット銃や大砲を使用しており、シャー・タフマースプは 1528年のウズベク族との会戦で、荷車を連ねた防御陣地の背後からカルヴァリン砲や旋回砲を発射している。火器の入手源は ヴェネチア、ポルトガル、ロシアなどであった。またチャルディランの戦いの翌年に、オスマン・トルコの脱走兵の技術を利用して 2千挺の小銃を生産したこともある。
322 :
世界@名無史さん :2006/03/21(火) 14:01:28 0
サファヴィー朝は西のオスマン帝国、東の遊牧ウズベク族から攻撃を受けており、16世紀中はほとんど常に守勢に回っていた。 チャルディランの会戦で大敗北を喫してから、サファヴィー朝軍はオスマン・トルコの侵攻に焦土戦術で対抗するようになり、 ゲリラ的に輜重隊を襲うほかは戦わずにトルコ軍を消耗させた。東部ではウズベクの野戦軍と互角に戦っている。 16世紀末にアッバース大帝が即位すると、シャーの私兵的集団であったチェルケス人やグルジア人の「ゴラーム」が台頭し、 またイラン系定住民の兵士からなるトフェングチ(銃兵隊)とトプチ(砲兵隊)が設立された。Kenneth Chaseによると、当初 ゴラームは騎兵で銃兵隊は歩卒だったが、のちにゴラームも小銃を装備するようになり、銃兵隊に馬が支給されるに及んで 両者とも竜騎兵のような存在になったという。 17世紀初頭には10,000〜15,000のゴラーム、12,000の銃兵隊、12,000の砲兵隊が最大で4万近くの常備軍を形成し、 その他に10,000〜20,000のキジルバシと補助兵が召集可能だった。 ペルシャ語は詳しくないので表記が間違ってるかも
>>321-322 俺が適当に2次資料いくつか見て書いたのをこんな所に貼らないでくれ。
恥ずかしいから。
ケンブリッジヒストリーofイランのサファヴィー朝の地図には、 ヘラトどころか、シル河付近まで領土になっている。ためしにイランで出版された 地図をみてみたらサファヴィー朝はアム河以南となっている。 イランは中華思想があり、アフガンやコーカサス、トゥルクメニスタンあたりは 裏庭だと思っているいるから、領土を統一しないまでも、資金・技術援助をし、 大イラン圏にしようという意図がありあり。 アフガンにもシーア派がいて、タジク共和国はのタジク語はペルシャ語の一方言。 領土的主張はともかく関税圏や防衛同盟圏構想をもってもおかしくない。
325 :
世界@名無史さん :2006/03/21(火) 22:30:01 0
>>324 パルティアやササン朝時代の「諸王の王」なんて称号がそうだな。
326 :
世界@名無史さん :2006/03/23(木) 17:40:43 0
イランシンパどもが立てたスレか。 反米キチガイ国家イランを踏み潰せ!
イランがシーア派国家になる前の話をしてるんだよ。
つうか白羊朝までは便宜上「ペルシャ」って呼んだ方がいいかもね。 今や「イラン」という呼称自体に「シーア派勢力」という意味も含んでるような気がするし。
でもサファヴィー朝こそペルシアの復興者という気がする。 創始者がテュルク系だというのを置いとくとしても。 白羊とかは、もろにテュルク人同士の勢力争いの産物という感じで。
まあ、俺もそう思うけどね。 フレグ・ウルス〜アク・コユンルは、いろんな意味で「ペルシャ」じゃねえし。 ただ語感的には サファヴィー朝ペルシャ帝国よりは サファヴィー朝イラン帝国の方がしっくりくるよなあ。
331 :
世界@名無史さん :2006/03/24(金) 16:19:25 0
甲斐犬って知ってる?あれはキンタマ噛み切るのが得意技らしい。 体が小さくて動きが恐ろしく早いみたいだ。 実際飼い主が風呂で金玉噛み付かれた事もあるそうだ
332 :
世界@名無史さん :2006/04/03(月) 19:23:17 0
一体どっから誤爆を・・・
333 :
世界@名無史さん :2006/04/15(土) 17:21:01 0
あまりの場違いっぷりにゼタワロスw
334 :
世界@名無史さん :2006/05/14(日) 00:42:16 0
現代にサファビー家の末裔って居るの?
さふぁ
336 :
世界@名無史さん :2006/06/11(日) 19:07:42 0
age
337 :
世界@名無史さん :2006/07/06(木) 12:16:21 0
>>22 >>23 イルハン朝時代からアフガンの種族でモゴールバシって名前が出てくるらしいですね。
338 :
世界@名無史さん :2006/07/06(木) 17:11:10 0
シャー・イスマーイールの詩集(檄文)をどこか酔狂な出版社が日本語訳で 出してくれないかな? 「我が名はシャー・イスマーイール、神の化身なり 我が母はファーティマ、我が父はアリー」 どこか電波臭さを感じるが読んでいて興奮しそう。
339 :
世界@名無史さん :2006/07/16(日) 22:47:03 0
バグダード・ハトゥンってどういう方法で処刑されたのかご存知の方いらっしゃいます? 猟奇的な質問ですみません(^^; )
>>339 質問に質問で悪いが、誰だそれ?
検索してもフレグ・ウルスのテグデルが出てくるんだが
>>340 大アミールだったスルドス部のチョバンの娘で
ジャライル部の大シャイフ・ハサンの妻だったのが
アブー・サイード汗に見初められて后になった人です。
アルパ・ケウン汗の時代に対敵通牒の容疑で処刑された。
そういや小シャイフ・ハサンの妻イゼット・マリクも
「最も屈辱的な殺され方によって自分の罪の報いを受け、
その屍骸の肉片を切ってこれを食べる人もあった」
(ドーソン「モンゴル帝国史」)とか・・・
その頃にはモンゴルの伝統「貴人の死」は無かったの? フレグのアッバース朝カリフの処刑についても この方法で頃した説と 牢獄に金銀財宝と共に監禁して 「これだけの財貨を何故、軍備に使わなかったのか」と嫌味と皮肉を込めて 餓死させられたという説があるし
>>342 絨毯で巻いて踏み殺すってやつですよね。
女性にも適用されたのかな?
なんか溺死させられた人はいたような。
モンケがグユク皇后オグルガイミシュを絨毯で簀巻きにして 川に投げ込んで溺死させてる。 モンゴルでは高貴な女性の処刑方法は主にこれだった。
345 :
世界@名無史さん :2006/07/18(火) 21:15:28 0
貴人は血を流して殺すことができなかったので グユクの皇后は両手を後に回して袋に縫い込んでから川に投げられた
今の日本で容易に入手できるサファヴィー朝の資料本だと 中公版世界の歴史「成熟のイスラーム社会」しか無いのは寂しいな。 「三日月の世紀」は絶版だと言うし。
>>343 『集史』「フレグ・ハン紀」に載るカリフ・ムスタアスィムの処刑については、
「カリフの件(kaar)は彼に付き従っていた年長の息子と五人の宦官(khaadim)と共に
ワクフ村で片付いた(tamaam kardand)」としか書かれて無くて処刑方法は載っていない。
ムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』にしても「殉教をさせられた」的な言い方だった。
黄金で餓死云々は、ティムール朝の歴史家ミールホーンドの『清浄園』やアルメニアのヘトゥムの
年代記、フランスのジュワンヴィルによるルイ9世の伝記『ルイ聖王伝』あたりに出てくるらしいけど、
馬蹄で云々は、13世紀後半のバル・ヘブラエウス、14世紀のヌワイリー、タグリービルディーの
年代記に出てくるとか。(ドーソンの『モンゴル帝国史』の情報だと)
ドーソンの邦訳には詳しく載って無かったけど、バグダード・ハトゥンの処刑はハーフィズ・アブルーの
『ラシード集史続篇』あたりの情報だろうか? 確か、テグデル・ハンやバイドゥが処刑された時も、
例の簀巻きにして馬蹄に蹂躙されるってものだったような。
オリエントでは布で絞殺ってのも多いような
後、イスラーム圏ではミナレットから突き落として処刑するのもあった。
350 :
世界@名無史さん :2006/07/24(月) 18:24:06 0
処刑云々と物騒な話題になったな。 やはりモンゴルとは切っても切れない関係なんだな。
>>349 そういう処刑法が実際に行われていたという話はあまり聞いたことが無い。
>>350 モンゴルが布にくるんで〜という珍しい処刑法を行っていたのは結構有名な話しだし、
モンゴルの話題自体知られているものは数が限られているので処刑話しが出てくるのは致し方ない。
モンゴルでは家畜を屠殺する際に、可能な限り血を流出させないように解体するのが原則で、
これは血を食用としていたことと、大地を血で穢さないようするにというテュルク・モンゴル
系の遊牧民の伝統だったそうだ。今でもそのように屠殺が行われている。
(この習慣はムスリムが家畜を屠殺する際に頸動脈を斬って血抜きするという規定と相反するので、
中央アジアではかなり緒を引いて問題になった)
貴人の処刑でもこの「大地を血で穢さない」という原則のために、布にくるんで撲殺したり、
河水で溺殺したりということらしい。これもいろいろ言われている通り。
一方で、王族クラス以外の官吏や庶民の処刑については、斬首だったり五体を分割して市場に晒したりと、
モンゴルの習慣以外では、現地の住民は現地の刑法規定に則って罰せられていた。これは大元朝であれば
伝統的な五刑などが適宜執行されていたらしいことは『元典章』などで出てくるようだし、イランや
中央アジアでは罪科に応じて笞刑や斬刑などが行われていたことは、『集史』や『オルジェイトゥ史』
その他ティムール朝時代など後世の歴史書でも伺い知ることができる。
>一方で、王族クラス以外の官吏や庶民の処刑については フビライの寵臣だったアフマドの愛人は呪詛に人間の生皮を使っていたので 連座人共々、剥皮刑に処せられたな。 これなんかは土着の刑法を適用した例。
353 :
世界@名無史さん :2006/07/24(月) 21:43:18 0
シャー・イスマーイール1世がシャイバーニー・ハーンの頭蓋骨を 金箔の酒杯にしたのもモンゴルからの輸入ですな。
「フレグ・ハン紀」でモスルかどこかの領主の赤ん坊を 股裂きにしたとか書いてたような。
というか股裂きとは書いてなかったですね。
ttp://homepage3.nifty.com/yyajima/hulagu.html サンダグ・ノヤンが御前に着くと、フレグ・ハンはサーリフに大いに立腹し、その命令で
彼は羊の脂肪で包まれてフェルトと縄で固く縛られ、夏の太陽にさらされた。一週間後、
羊の脂肪が蟲となり、この不幸な者を食べ始めた。一ヶ月して、彼はこの罰と不幸の中で死んだ。
サーリフには三歳の息子がいた。彼はモスルに送られ、チグリス河畔で身体を半分に裂かれ、
見せしめのために町の両側に吊るされ、腐って朽ち果てた。
彼は腐ってそこから地面に落ちた / 天よ 汝はこれでも飽きたらないのか
汝はこの愛らしき者を育んでいたのに / その蟲たちの歯にくれてしまった
フレグの少年〜青年期についての記述が少ないですね。 同母兄のフビライと一緒に狩の獲物を祖父のチンギスに贈って 祝福されたエピソードくらいしか知られていない。 多分、モンゴル皇族の例にならって各言語を習得したと思われるから 少なくともモンゴル語・ウイグル語・ペルシャ語・アラビア語は 理解できたと推測。
357 :
世界@名無史さん :2006/07/30(日) 20:23:15 0
当時のモンゴル軍は多言語多民族だったから 司令官クラスにもそれ相応の言語レベルが要求されたでしょう。
元史の趙孟頫伝によるとフビライは漢語が出来なかったため 趙孟頫がモンゴル語に訳して褒められたという記述がある。 フラグもペルシャ語やアラビア語などの土着の言語は専ら 通訳に頼ったと思われる。
14世紀中頃、イルハン朝の官僚であったハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニーという 人物の書いた『選史(ターリーヒ・グズィーダ)』という歴史書によると、イラン北西部の主要都市 カズヴィーンの名士であったイフティハールッディーン・ムハンマドという人物について興味深い 記事を載せている。 彼はオゴデイの治世にモンゴル宮廷の官僚として活躍したようで、モンゴル語やテュルク語の文字と言葉の 修得に秀でた才能を発揮し、モンゴル人たちにも彼の書いた文章は完全な意味を成していたという。 特に『カリーラとディムナ』のモンゴル語訳、『スィンドバードの書』のテュルク語訳の著し大変美しい 表現をものにしていた。このためもあってか、「モンケ・カアンとその兄弟たち、おじの息子たち、 親族たちが彼の許で学んだ」と述べられている。 モンケがユークリッドの恐らく『幾何学原論』の命題を解くことを好んでいた、という『集史』に載る話は 有名だが、これはイスラム圏で普及していたアラビア語版を使っていたのだろう。また「兄弟」とはクビライや フレグらが含まれているだろうし、グユクはモンケの「おじの息子たち」のひとり。 グユクがプラノ=カルピニのジョヴァンニ修道士に託した教皇インノケンティウス四世宛ての勅書はペルシア語で 書かれていたものだったのも周知の通り。このことは『選史』の記事を考えればさらに興味深い。 というわけで、クビライやフレグらもウイグル語などのテュルク語の読み書きはもとより、恐らくペルシア語や 初等レベルの正則アラビア語が出来ていたとしても状況的に何ら不思議ではないだろう、と現在の研究では 考えられているのだそうだ。
360 :
世界@名無史さん :2006/08/04(金) 18:00:17 0
フレグのバグダードでの八十万人虐殺もデマですか?
>>360 フレグの征服によってバグダードで虐殺が行われたことは、とうの『集史』でも触れているし、
近い時代のペルシア語やアラビア語の文献で触れられているので、間違い無いだろうが、
当時のバグダードに80万人も人がいたかどうか怪しいのではないかと思う。
初期のバグダードの人口を支えていたサワード地方の開発は昔日の話だし、市街の規模は
2km四方くらい。当時の主要都市の具体的な人口推計がわかればある程度推測出来るだろうけど・・
「80万人」説の出所は15世紀に活躍したマムルーク朝の歴史家イブン・タグリービルディー
らしいが、これもアル=ザハビーなる人物からの情報らしい。
(ムハンマド・ブン・アリー・アル=ザハビー:1348年に没したダマスクス出身のハディース学者で
歴史家。『イスラーム史』という著作有り。イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』にも名前が出てくる)
ちなみに『集史』によると、
1258年2月10日(日)にカリフ・ムスタアスィムが降伏して、フレグに謁見。武装解除を行った。
同年2月13日(水)にバグダードで虐殺が始まる。
同年2月15日(金)にバグダード市街に入城。カリフの宮殿を接収。
同年2月20日(水)にフレグによってバグダードでの殺戮と掠奪とが解除され、生存者にも生命と財産の
安全保障がなされる旨、勅が下る。フレグ自身は空気の腐臭を避けてバグダードを移動。
同日、バグダード郊外でカリフとその親族、近臣らの処刑が執行される。
同年2月22日(金)にイルゲイ・ノヤンとカラ・ブカ率いるモンゴル騎馬部隊3000騎がバグダードの
後事を任される。「皆は殺された人々と自らの家族たちを埋葬し、死んだ動物(四足獣)
を道から取り除き、諸々のバーザールに繁栄を取り戻した」
とあって、少なくても屍骸の処理が親族によってできる限りは住民が生存していたらしいこと分る。
もちろん、陥落前にバグダードの市城から脱出しモンゴル軍に投降した人々も含まれると思うけども。
蛇足になるけど『集史』ではバグダード陥落後の虐殺での被害実数は載っていない。
バグダッドってティム−ルの7年戦役の際にも虐殺の憂き目に合ってるし 攻め込まれ易いとこだねぇ
交通の要所ということなんじゃなかろうかと。 都市としては栄えやすいが、逆に言うと四方八方から 敵がやってきて狙われる地点ということだし。
364 :
世界@名無史さん :2006/08/07(月) 17:40:16 0
金滅亡の際に開封にあった金王朝の史書を接収しているから バグダードでも同様にアッバース朝の記録を保存して それが後年の集史の原型になった事は想像に難くない。
でもアサシン派の山城にあった蔵書は燃やしたんじゃなかったっけ
ハサン=サッバーフの著作は一部が接収されて集史や アラー=ウッディーン=ジュワイニーの『世界征服者の歴史』にも 引用されているよ。 重要な書物や箇所は筆写して残して、後のは焼却処分したと思われ。
>>366 なるほど。小説の「サマルカンド年代記」で焚書したような印象が頭に焼き付いてました。
>>359 >クビライやフレグらもウイグル語などのテュルク語の読み書きはもとより、恐らくペルシア語や
>初等レベルの正則アラビア語が出来ていたとしても状況的に何ら不思議ではないだろう、と現在の研究では
>考えられているのだそうだ。
クビライの元王朝が漢化しなかったのも漢文化よりイスラーム文化を
深く学んだ結果かもしれないね。
けっこう漢化してたのでは? 大都が陥落した後漠北に逃げたけど草原での生活になじめずに 結局明に投降した連中がかなりいたらしい。
つーかクビライとアリクブカの内乱の際に 華北からの補給路を遮断してモンゴリアを経済的に孤立させて 勝利しているから 元王朝発足前からモンゴルが漢化(或いは華北の物資に頼り過ぎ)していたと 思うがどうかな?
372 :
世界@名無史さん :2006/08/08(火) 12:10:49 0
スレ違いかも知れませんが、お伺いします。 現代ペルシア語では、アケメネース朝(アカイメネース家)つまりギリシア語の アカイメニダイACHAIMENIDAIを、どのように発音・表記しているの でしょうか? ラティナイズ(=ローマナイズ)綴りも教えて下さい。 ちなみに「アカイメネース」なる個人名は如何様に表記出来るのでしょうか? これもローマナイズ形で御教示頂ければ幸甚です。 よろしく御願い申し上げます。
ハカマーニシュでは?
375 :
世界@名無史さん :2006/08/09(水) 19:13:23 0
>>371 だって成宗テムル以降の元の話題といったら皇位継承の内乱くらいだもの。
つまらないよ。
逆にフレグ・ウルスはガーザーン以後も結構面白いし
何よりスケールが違う。
○ナスィールッディーン・アブージャアファル・ムハンマド・ブン・ムハンマド・アッ=トゥースィー(1201-1274) シーア派史上最大の神学者。哲学者、数学者、天文学者。彼自身は十二イマーム派の法学者の家系だったが、 当初、イラン東部クーヒスターンとアラムートのイスマーイール派に仕えていた。クーヒスターン州長官ナースィルッダーン・アブドゥッラヒームに 献呈した『ナースィルの倫理学』や十二イマーム派神学を集大成した『神学綱要』、『イルハン天文表』など イスラム世界の神学、思想、数学、天文学で数々の不朽の業績を築いた。クーヒスターンとバグダードの宮廷との 政治的な抗争のため教主アラーウッディーン・ムハンマドの命によりマイムーン要塞に幽閉されていたが、フレグの 西征によって救出された。その博学さゆえに皇帝モンケの密命によって発見次第カラコルムへ招聘が約束 されていたが、モンケの死去によってフレグの預かりとなり、イルハン朝で多大な業績を残す。 バグダード攻囲戦のおりスンナ派廷臣が神罰を恐れたためフレグはこの可否を諮問されたが、歴代の正統 カリフやシーア派イマームが殺害されたときも何らも奇跡のような神罰が下らなかったことを例にあげて スンナ派人士の見解に論駁した。シーア派でしかも科学の大学者だったトゥースィーがどう意見するか、フレグは 十分承知していたうえでの諮問だったのでアッバース朝滅亡をトゥースィーに転嫁するのは間違いだろう。
>>375 イルハン朝もドーソンで読んだ限りでは有力者同士の
潰し合いしかやってないような印象が・・・
まあ戦国史みたいで面白いけど。
つーか、フレグ→アバカくらいしか無血での王位継承の例が無いよな。
アバカが死んだあたりから誰が即位するかで揉め通しで、 アルグンが病死するとガザンが即位するまでまたふた騒動ほど。 ガザン、オルジェイトゥ、アブー・サイードの治世は比較的統治が安定して 政権も比較的スムーズに移行したけど、ガザンからオルジェイトゥにハン位が 移る時も、ガイハトゥの長男アラーフランクが2度目くらいのハン位奪取に 動こうとした所を討伐されてる。オルジェイトゥからアブー・サイードにときは 他の王族の叛乱も無く即位しているね。 ガザンは治世初期にけっこう王族たちを処刑しているけど、それ以外は後の 二人の治世中には王族の粛清はあまり聞かない。ガザンがかなり徹底して王族の 「間引き」をしすぎたのでアラーフランクくらいしか残らなかったのかも。 大元朝はテムル・カアン以降かなり深刻な帝位争奪が長く続いたけど、 著作や絵画、工芸品の傑作は14世紀のものが多いようだから、王族同士の 内紛は漢土にはあまり影響が無かったんだろうか。
>>379 大元ウルスの場合は文化的先進地域が華南だったから
大都の政争は影響を及ぼさなかったんだと思われ。
381 :
世界@名無史さん :2006/09/02(土) 00:44:42 0
情報デス。早稲田通りの古本屋に、「三日月の世紀」が300円で置いてあった。 書店名を控えてこなかったが、通りの北側で、明治通りから、西早稲田のバス停の 真中へんだった。
地方在住者には無用な情報だな。 往復の交通費だけで他の専門書が何冊も買える。 しかし日本語で読めるサファヴィー朝の資料本が少なすぎだ。
書店名を控えてこなかったのは手落ちだったが、 どうしても欲しい人は、早稲田通りの当該区域の書店に片端から電話して 郵送してもらえばいいと思うよ。送料・手数料含めても1000円程度で すむと思うが。
面倒なので中公版『成熟のイスラーム社会』で我慢します。
サファヴィー朝についての原資料で日本語で読めるものというと 東洋文庫のシャルダン関連でいくつか本が出てる。 > 『ペルシア王スレイマーンの戴冠』『ペルシア見聞録』 あと羽田正先生が少し前に出した『シャルダンイスファハーン誌研究』なんて ものもあるが、サファヴィー朝全体についてとなると、今のところ 『成熟の〜』しか無いのが残念。アフシャール朝やカージャール朝などの近現代の イランについて同じような本が出て欲しいけど・・・
サファヴィー朝なら宮田律が 『物語イランの歴史』や最近出した 『中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ』に イスマーイール1世やアッバース1世の記述が載っている。 但し筆者の専門は現代イスラーム史及び国際政治なので 純粋な歴史書として楽しめるかは個人の好み次第。
387 :
世界@名無史さん :2006/09/16(土) 21:02:17 0
今日三日月の世紀を150円で手に入れた
今度のTBSの世界遺産はタフテ・ソレイマーン遺跡。 サーサーン朝の神殿遺跡にしてアバカ・ハンが宮殿を築いたことでも有名な スグルルクと称されたイルハン朝の夏営地が舞台。
389 :
世界@名無史さん :2006/09/17(日) 15:48:42 0
>>387 十倍の1500円で買おう。
て言うかイスラム関連の良書は絶版ばかりで困る。
390 :
世界@名無史さん :2006/09/17(日) 16:56:57 0
>387 新潮社もまた出せばいいのに。どうせ出版点数そろえるのだけで 汲々としてるんだから。 でも『三日月の世紀』には、今の風呂敷みたいな新潮選書の装幀は 似合わないな。
アマゾンで『サファヴィー朝』で検索したら19件しかなく しかもその殆どが専門書じゃない。
何故、日本語で読めるサファヴィー朝の歴史は イスマーイール1世とアッバース1世しかないんだ?
スレイマーンの戴冠が東洋文庫からでてるよ。
西アジア史に関して日本語の本だけで十分な情報を得ようなんて考えが無理。
395 :
世界@名無史さん :2006/10/05(木) 14:31:23 0
最低でも英語・フランス語・ペルシャ語は理解できないとな。
ドイツのSpularって人も何か書いてた。
397 :
世界@名無史さん :2006/10/07(土) 19:07:31 0
『Die Mongolen in Iran』や『Goldene Horde: Die Mongolen in Russland』のBertold Spulerか。
398 :
世界@名無史さん :2006/10/09(月) 18:58:37 0
ドイツ人のモンゴル史研究家とは珍しいな。 題名から察するにフラグウルスとジュチウルスの研究書か。 誰か既読した人いたら感想求む。
399 :
世界@名無史さん :2006/10/09(月) 19:00:24 0
在日米軍対応ハヤス!
【とうとう】 在日米軍基地周辺住民緊急レポ 【キタコレ】
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/fish/1154550793/ 602 :名無しさん@七周年 [sage] :2006/10/09(月) 13:12:37 ID:uBIKmoqB0
>>581 今まで見たことない戦闘機も飛んでるYO!www
なんか、でかいのも来た。輸送機っぽい。
今からちょっと基地を見に行ってくるw
753 :名無しさん@七周年 [sage] :2006/10/09(月) 13:53:16 ID:uBIKmoqB0
ちょwwwおまww普段5〜6機しかいない戦闘機が50機てwwwww
格納庫の戦闘機全部出したのかよw
しかも全部パイロットが乗ってて、いつでも出撃可能ってwウルトラマジテラヤバスwwwww
775 :名無しさん@七周年 [sage] :2006/10/09(月) 14:21:22 ID:uBIKmoqB0
なんか普段より基地がうるせえなーって思ったら、これかよwww
マジ、戦闘機が基地にあふれてて、びっくりした!w
なんか、戦闘機はエンジンふかしてるしwww
画像うpするけど、うpろだ教えて。
801 :名無しさん@七周年 [sage] :2006/10/09(月) 14:35:37 ID:uBIKmoqB0
>>769 変な形の戦闘機もいたよ!www
とりあえず、うpした。こんなのがわんさかといたw
http://kasamatusan.sakura.ne.jp/cgi-bin2/src/ichi55849.jpg
400 :
世界@名無史さん :2006/10/10(火) 23:25:58 0
400ゲット
401 :
世界@名無史さん :2006/10/11(水) 01:03:04 0
【北核実験】 イランが核兵器の所有を非難、北朝鮮の地下核実験で [10/10]
1 :有明省吾φ ★ :2006/10/10(火) 20:59:55 ID:???
[テヘラン 10日 ロイター] イラン政府のエルハム報道官は10日、
北朝鮮の地下核実験発表に関し、イランはいかなる国の核兵器所有にも反対すると述べた。
北朝鮮が9日発表した核実験の実施に対しては、
米国がこれまでより一段と厳しい内容の国連制裁決議案を求めるなど、
世界中から非難の声が上がっている。
記者会見で北朝鮮核実験について聞かれた同報道官は
「イランは核兵器の使用や製造に反対する。どの国にも核兵器を使用する資格などない」と述べた。
イランの核問題では、同国が核兵器への望みを持っていると西側諸国が非難する一方、
イラン側は核開発があくまで発電用だとの姿勢を崩していない。
ソース:Yahoo!ニュース(ロイター) - 10月10日19時26分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061010-00000546-reu-int
402 :
世界@名無史さん :2006/10/22(日) 00:33:52 0
タイムマシンで野盗時代のティムールを暗殺して その後イランの勢力図がどう変わるか観察してみたい。
トクタミシュがルーシ統一後に群雄割拠状態のトランスオクシアナに 乗り出してジュチウルスがサマルカンド周辺を占領すると思われ。 西アジアはオスマン朝が治めて史実のコンスタンチノーブル陥落が 30年ほど早まる。
>>403 ティムールがいないとトクタミシュがハンになるのも難しいんじゃ・・・
コンスタンチノーブル陥落は同意
405 :
世界@名無史さん :2006/10/23(月) 21:59:49 0
ティムールがいないと多分、後のサファヴィー教団のような イスラームの神秘主義教団が世俗化して地元の遊牧民軍事勢力と結託して サファヴィー朝のようなシーア派王朝がペルシャと中央アジアに乱立する。
ティムールが登場する前後には、ジョチ・ウルスではオルダ家もバトゥ家も 断絶しているので、トクタミシュ・ハンがいなくてもオロス・ハンのような トカテムル家の王族たちによるジョチ・ウルス支配という方向性はは殆ど 確定していたと思う。トクタミシュがハン位を獲得するまでハンを名乗る王族が 濫立状態だったけど、これらの王族にはトカテムル家の出身者も何人かいたし。 もしかしたらティムールが居なかった方がオロス・ハン家によるジョチ・ウルスの 再編が早まって、オロス・ハン自身がマーワラーアンナフル征服に乗り出してくるかも。
ウズベクの侵攻が100年早まるのか・・・ ママイは放置?
近所の図書館に『ペルシア王スレイマーンの戴冠』が入荷したので早速借りました。
いいな
もしオスマンが台頭しなかったら、東でウズベクを破り、西では小アジアを 制圧してヨーロッパまで・・・ 無理か。
411 :
世界@名無史さん :2006/12/02(土) 08:57:25 0
age
そういえば、セリムの遠征も、イスマーイールがバルカン勢力と通じたから だったけ?ひょっとしたらイスマーイールは旧ササン朝の故地以上を狙っていたのか? にしては、1回負けただけでずいぶんあっさりな引きようだが。
>>412 サファビー朝と通じていたのは小アジアのトルコ人じゃなかったか?
当時のバルカン半島にはハンガリーしか残っていないし
>>412 ヴェネチアなんかはオスマンに対抗するために
白羊朝のウズン・ハサンに火器を提供したりしていたが
そういやイランで最初に銃・砲が使用されたのはいつ頃でしたっけ・・・
>>414 ティムールが火器を攻城戦に使ったのが記録に残っているが
それが銃火器なのかは知らん。
案外、投石器の改良型かもしれんし。
416 :
世界@名無史さん :2006/12/10(日) 09:23:03 0
オスマントルコでも「テュフェング」とペルシャ語で銃のことを呼んでいる
全盛期のオスマン朝が何故にサファヴィー朝を滅ぼさなかったのが疑問なんだが
多分ローマがパルティアやササン朝を滅ぼせなかったのと同じ理由では・・・
419 :
世界@名無史さん :2007/01/05(金) 11:13:12 0
>>415 Tarikh-i Firishtaという史書などで1398年にティムール朝が
火薬を用いた記録があるらしいですが、どのような記述なのでしょうか?
どっちかいうとチャルディラーンの戦い以後 ほぼ死に体とみたペルシア方面はほっといてもOKと オスマン朝は認識して対欧戦争に没頭してたからじゃないかな。 アレクサンダーがなぜ予めイタリア半島を制圧しておかなかったのか という問いに似ている。
オスマンはヨーロッパ方面に没頭してたわけじゃなく かなり頻繁にペルシャに侵攻してる
422 :
世界@名無史さん :2007/01/06(土) 09:52:53 0
ヨーロッパで最新のイタリア式築城術の要塞を陥落させていたオスマン軍が バグダードの攻撃には結構苦労しているというのが面白い。 でもひょっとしたら防備の強さじゃなく兵站とかの問題だろうか。
423 :
422 :2007/01/06(土) 09:54:35 0
オスマン朝スレと間違えてあげてしまった。失礼
424 :
世界@名無史さん :2007/01/18(木) 19:31:21 0
シーア派が一般的になった当時のペルシャに本格的に侵攻したら 泥沼の宗教戦争になるんで、それをオスマン朝が嫌ったんじゃない?
オスマン朝軍がアーゼルバーイジャーン地方から東部へ侵攻出来なかったのは、 チャルディラーンの戦いの敗北以降、シャー・タフマースブなどが山岳地帯だった この地域に焦土作戦を行い、歩兵主体のオスマン朝軍の補給手段を断った事が大きい。 鈍重な銃火器の運搬が必要な歩兵、砲兵部隊は、アーゼルバーイジーャンの山間地域や イラク地域で兵站が延び切ったところをサファヴィー朝のキジルバシュ騎馬部隊の ゲリラ戦法に遠征の都度悩まされ、チャルディラーン以降の遠征はかなり苦戦している、 というようなことを羽田先生が本で書いていたような。 チャルディラーンの戦いにしても宿将の一人が戦死するまで優勢に戦っていたので、 戦い方次第ではサファヴィー朝側も充分強かったから、状況的に考えると、アーゼル バーイジャーン方面で領土の取り合いをしていたら、オスマン朝が先に息切れしちゃって 東部遠征をほとんどしなくなった感じがあるけど。
当時のオスマン朝の遠征軍は歩兵よりティマールル・スィパーヒーの方が多かったらしいけど まあ騎兵だけ勝手に先に進む訳にもいかないだろうし(中国のモンゴル遠征では結構あるけど・・・)
シパーヒーだけじゃサファビー朝のキジルバシュには勝てないんじゃないか チャルディランでも圧倒されてたし
マムルーク朝軍は簡単に撃破できたのにペルシャ方面は兵站問題ですか。
429 :
世界@名無史さん :2007/01/26(金) 09:46:47 0
ティムールとかの時代には攻城戦技術者や投石器を連れて 行軍速度が落ちるようなことはなかったんだろうか
430 :
世界@名無史さん :2007/01/26(金) 14:17:16 0
かさばる荷物を抱えての移動は時速何キロ単位で影響するだろうが、 そこは冬営期間を減らすとかで調整したんじゃないかね
マルムーク朝のエジプトへは海上補給できるやん。 陸上輸送と海上輸送は数十倍の効率の差がある。
>>428 シリアは豊かな地域だけど、小アジア東部からアゼルバイジャンは山岳地帯だから
食糧の調達が難しかったんだと思うが
433 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 13:20:55 0
モンゴルの征服後アッバース大帝がグラーム軍団を作るまで イランにエリート奴隷兵ってのはいなかったんでしょうか?
434 :
世界@名無史さん :2007/03/01(木) 16:51:45 0
>>433 イルハン朝軍には相当数のキプチャク系マムルーク兵がいたから
それをエリートと呼べるならそれに該当する。
イルハンってのは個人名かと思ったら違うのね。 もしかしてフレグ・ウルス歴代君主が帯びた称号みたいなもんか?
436 :
世界@名無史さん :2007/03/02(金) 09:08:43 0
>>434 イブン・バトゥータの旅行記を読むとアブーサイード汗やウズベク汗の宮廷で
「スルタンのマムルーク軍人」ってのが言及されてた。
従来のイスラム王朝にあったマムルーク等と同じものなのか読んでてよく分からなかったけど
実際にそういう奴隷軍人がいたということですね。
キプチャク汗国のマムルークもやはりキプチャク人が主力だったのだろうか?
ジョチ・ウルスはシャイバーニー朝くらいにならないと自分達の記録は残していないから 良く分らないが、イルハン朝でもチンギス・ハン時代同様、有力氏族の子弟が「ケシクテン」 (内廷の近侍衆)として君主の傍に近侍していたあったけど、マムルークみたいな奴隷軍人が これに加わっていたような話しはペルシア語資料あたりでは聞かれない。 家島彦一先生のウズベク・ハンの説明で「このスルタンは旅を続ける時には、いつも他とは 別個の彼自身による帳戸(マハッラ)[の編成]で進み、彼と共にマムルーク軍人たちと国家の 大臣たちを引き連れる。」と書かれているけれど、この「マムルーク」について脚注も解説も無し。 家島先生は普通にスルーしておられるけど、「ケシクテン」のことをイブン=バットゥータは 「マムルーク」と誤認したのかとも思えるが、あるいはモンケ・テムル・ハンからウズベク・ハンに 至までの間に、君主が即位する都度に行われた粛正をやりすぎた所為で各々の有力氏族は子弟を出せない までに弱体化し過ぎたとか、「ケシクテン」の人員を奴隷軍人に切り替えたのかとか、色々考えさせられる。
まあ、イブン・バットゥータの様なよそ者の記述を鵜呑みには出来ないしな。 杉山先生は、クビライが育成したキプチャク、アス、カンクリの親衛兵集団を 「東へ来たマムルーク」とかいう形容の仕方でどこかに書かれてた事があったけど。
なるほど・・・ イブン・バトゥータの記述ではキプチャク草原のタタール人が甘いものを嫌悪していた例として ウズベク汗が「マムルーク軍人」に菓子を食べれば自由の身にしてやるといわれて断った話が 載っていますが、解放されるのはその軍人の「一族ともども」だったような気がするので そうなるといわゆる「マムルーク」とは違い、氏族や部族全体でウズベクに隷属していたのだろうか。 もしかしてウズベクの即位のごたごたと何か関係があってそうなったのか。 イルハン朝では奴隷に売られたモンゴル人の子弟を買い戻してそれによって 一つの軍団を作った例があったとか。
孤児軍団
ルーマニアのチャウシェスク親衛隊みたい
まあ係累・縁故の無い孤児なら安心して使えるという利点もあっただろう。
定例保守兼話題求む。
444 :
世界@名無史さん :2007/06/04(月) 12:51:12 0
そういやサファヴィー教団ってサファヴィー朝国家成立後はどうなったんですか?
>>444 チャルディラーンの敗戦で教団としてのカリスマ性を失い
軍事貴族化したり在郷領主になったりと様々。
もうサファヴィー朝の初期の段階でサファヴィー教団時代の宗旨を払拭するために 12イマーム派のシーア派教学を採用して、レバノンやバーレーンから12イマーム派の ウラマーをイランに招聘したりしてるし、サファヴィー朝も段々後になってくると スーフィズムそのものを弾圧していくことになるからな。
>>445 それはキジルバシみたいな人々ですか?
それともスーフィー的な教団員が軍事貴族化した?
448 :
世界@名無史さん :2007/07/05(木) 01:05:12 0
449 :
世界@名無史さん :2007/07/05(木) 02:11:41 0
ティームールがオスマン・トルコのバヤジト1世と戦った後 オスマン軍に与したアルメニア人捕虜たちを全員、去勢した と聞いた記憶があります。 これは何という文献に記載されているのでありましょうや? また、それは耶蘇暦の1402年のことと看做してよいのでせうか
キジルバシが赤い頭なら カッパバシは河童頭なのか?w
452 :
世界@名無史さん :2007/08/16(木) 20:23:18 0
サファビー朝史関連で今でも入手可能な本を紹介して
那谷敏郎の「三日月の世紀」はもう売ってないか
454 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 22:57:18 0
発売されてからずいぶんたつけど、なぜかこの本あげた人いないよな。
サファヴィー朝もけっこう詳しいよ。でも主題はサファヴィー朝の歴史
じゃないから、そんなに期待しないで。でもこれは必読だよ。
http://www.bk1.jp/product/02774746 シーア派イスラーム 神話と歴史 学術選書
嶋本 隆光著
税込価格 : \1,890 (本体 : \1,800)
出版 : 京都大学学術出版会
サイズ : 19cm / 243p
発行年月 : 2007.4
中東における強大な勢力シーア派。わが国ではこれまでほとんど研究される
ことのなかった指導者イマームを中心に、その生誕と歴史をたどりながら、
現今のシーア派をとりまく思想的状況を解明する。
〈嶋本隆光〉1951年生まれ。UCLA歴史学科大学院修了。大阪外国語大学
教授。専門はイスラーム現代思想で、イスラームのシーア派に関する日本でも
有数の研究者。
むう、それは知らなかった。ありがとうございます。
サファヴィー朝とは関係ないけど、なぜか同じ頃スーフィズムの本も出てるから
こちらも一緒にどうぞ。
http://www.bk1.jp/product/02784215 スーフィズム イスラムの心
シャイフ・ハーレド・ベントゥネス著 中村 廣治郎訳
税込価格 : \2,940 (本体 : \2,800)
出版 : 岩波書店
サイズ : 20cm / 250p
発行年月 : 2007.4
信仰とは何か、神秘とは何か、異なった宗教の間の対話は、果たして
成り立つのか。スーフィー教団の導師が、自らの内面的な軌跡を通して、
率直かつ具体的に信仰生活の全容を語る。
〈シャイフ・ハーレド・ベントゥネス〉1949年アルジェリア生まれ。アルジェリアに
本部を置き、ヨーロッパ各地に展開するスーフィズムの教団である
アラウィー教団の4代目シャイフ(導師)。
457 :
世界@名無史さん :2007/08/23(木) 18:32:06 0
モンゴル帝国以後のイランや中央アジアを専門にやっている人たちは やはり当時の様々なスーフィー教団の系譜関係や活動などについても きっちり頭に入ってるんでしょうか? どうも一般書だと北川誠一さんの「モンゴルとイスラーム」あたりから その辺のテーマについては垣間見るぐらいしかできない。
458 :
世界@名無史さん :2007/10/18(木) 22:07:51 0
イスマイールの母親ってウズンハサンの娘なのね 女系でアクコユンルを引き継いだって感覚はないのかね?
459 :
世界@名無史さん :2007/11/17(土) 14:30:35 0
アクコユンルの末期に内紛に明け暮れていたウズン・ハサンの孫たちを瞬く間に 一掃してイラン高原を統一したからには、英主ウズン・ハサンの血脈をひく イスマーイールに対するトゥルクメン遊牧民の尊崇もあったんじゃないの?
460 :
世界@名無史さん :2007/11/28(水) 23:32:44 0
461 :
世界@名無史さん :2007/12/02(日) 12:09:34 0
462 :
世界@名無史さん :2008/01/02(水) 19:55:25 0
ホルムズ海峡にある港町バンダルアッバースってさ、 サファヴィー朝のアッバース大帝に由来してんだよな? 今のところ、バンダルアッバース・ネタが出てきてないようなので保守も兼ねてカキコ。
そういや白羊朝も地味にペルシャ湾まで領土広げてたね・・・
464 :
世界@名無史さん :2008/03/01(土) 18:37:26 0
黒羊朝、白羊朝の頃は、ヤズドとかケルマンは何処が支配していたの? ティムール朝か?
附庸国のシャバーンキャラってシャバーンカーラ朝ですか? ドーソンのモンゴル帝国史の6巻でちらっと見た名前だが、なんか途中で滅亡してたような
467 :
世界@名無史さん :2008/03/27(木) 09:14:31 0
サファヴィー朝やムガール朝について読んでると、君主が頭につける 王権の象徴となる羽飾り(ジケ?)というのが出てくるけど 昔からあったペルシアの伝統なんでしょうか。 それともモンゴル等の影響で出来たもの?
それより三日月の世紀の復刊まだ?
>>465 > jeqqe
似たようなものは以前からあったのかも知れないけど、
単語自体がテュルク・モンゴル語で、カーシュガリーの辞典にも出て来ないから
多分、モンゴルの影響かも。実際、イルハン朝とかで描かれたモンゴル人の絵には
貂皮っぽい帽子に山鳥の尾羽みたいな飾りをつけているものを良く目にするので。
>>469 >単語自体がテュルク・モンゴル語で、カーシュガリーの辞典にも出て来ないから
>多分、モンゴルの影響かも。
そうなんですか。
>実際、イルハン朝とかで描かれたモンゴル人の絵には
>貂皮っぽい帽子に山鳥の尾羽みたいな飾りをつけているものを良く目にするので
非常に長い昆虫の触角みたいなやつですね。
清朝皇帝(?)の肖像画でもあったような気がします。
>467 ササン朝の王権の象徴で鳥の羽を頭に飾るのがあったような 気がする。
472 :
世界@名無史さん :2008/04/30(水) 09:37:28 0
シルワーンのシャーとかどんな格好してたんだろうね。
473 :
世界@名無史さん :2008/05/01(木) 00:08:25 0
イランのミニアチュールに描かれている人物が、やけにナヨナヨした体形でアッサリ系の顔なのは、 支配者だったモンゴル人の影響?
475 :
世界@名無史さん :2008/05/01(木) 18:42:49 0
イル汗国時代の王様や貴族は、モンゴル顔の朝青龍みたいな連中だったのかな?
なぜモンゴル顔=朝青龍って発想になるのかw 朝青龍はどちらかというとあばた顔が過ぎる。 強いて言えば白鵬とかはモンゴルの現職のエンフバヤル大統領に似てるかな〜って感じだが、 「典型的なモンゴル人の容貌」とか言われてもピンと来ない。それじゃあ朝青龍がモンゴル人 の容貌の代表的な部類かと言われてもそれもまた微妙な気がする。 「ウランバートルとかハルハのモンゴル人ってこんな顔付きだよね」みたいな特徴ってあるんだろうか? イルハン朝時代からジャライル朝、ティムール朝時代に描かれたモンゴル人の容貌は、やや面長の丸顔に 引き目で天神髭というか八の字の口ひげに筆のように先の細くなった顎ヒゲを生やしている場合が多い。 マルコポーロだったかフランスの使節だったか忘れたけど、ガザンを指して、目が見えているのか居ないのか 分からない程細く、鼻は顔面中央で陥没しており非常に醜い、とか失礼極まりないことを言っていたと 思うが、マムルーク朝側やイラン周辺の歴史家たちはモンゴル人たちの容貌について特にこれといった 特徴を上げていないから、セルジューク朝系その他のテュルク系の連中とさして際立った容貌の違いは なかったんじゃないだろうか。 ただ、1260年に『ナースィル史話』を書いたジューズジャーニーはチンギス・カンがホラーサーンへ やって来た時のその容貌を書いていて、「背が高く、力強く立派な体格をしていて、顔には白くなった ヒゲを生やし、極めて敏捷な(or大胆な)猫のような眼をしていた」と言っているらしい。
>やや面長の丸顔に >引き目で天神髭というか八の字の口ひげに筆のように先の細くなった顎ヒゲを生やしている場合が多い。 モンゴル侵攻前の中東の絵画でもトルコ兵はそういう描き方だったはず。 イラン語で月のような丸顔mah-ruといったらしいけどよく知らん。
478 :
世界@名無史さん :2008/05/02(金) 20:51:24 0
ということは昔のトルコ人は、いまみたいな白人顔のイケメンではなくて、 モンゴル顔の東洋人のオヤジだったってこと?
今でもトルコは東部に行くと、モンゴル人顔が多くなる。
481 :
世界@名無史さん :2008/05/02(金) 22:26:52 0
そのテュルク系の顔というのは、現代トルコ人のようなコーカソイドっぽい顔ではなくて、 上のほうのレスにあるモンゴル人風の薄味の顔と解釈していいのかな?
482 :
世界@名無史さん :2008/05/04(日) 15:20:31 0
でも、征服したら現地のコーカソイドの美女を後宮に入れたり、レイプしたりするから、 子供の代で白人っぽい容貌、孫の代でほとんど白人になってるんじゃないの?
サッカーのイルハンはクリミアタタールの移民 先祖はクリムハンの住民
ここで評判の『三日月の世紀』は比較的古本でよく見るけど 『十三世紀の西方見聞録』がなかなか見つからない。
485 :
世界@名無史さん :2008/05/04(日) 17:23:49 0
カルムイク人が現在にいたるまでモンゴロイドの容貌を維持してるのは奇跡。
486 :
名無しの権瓶 :2008/05/04(日) 18:03:42 0
朝青龍は日本人が抱いていた、モンゴル人はいい人という概念を覆してくれた。
487 :
世界@名無史さん :2008/05/04(日) 21:30:39 0
朝青龍は日本人が抱いていた、モンゴル人は野蛮人という概念を思い出させてくれた。
椎名誠らのモンゴル理想郷プロパガンダがついに崩壊
489 :
世界@名無史さん :2008/05/06(火) 16:24:47 0
で、イル汗国の支配層は朝青龍顔の弁髪オヤジだったの? いまのトルコ人やイラン人みたいなコーカソイドのイケメンだったの?
弁髪の朝青龍の実兄なんだから弁髪のイケメンの訳ないだろ
なんでそんな朝青龍にこだわるのかw >他にもモンゴル人力士はいるだろうに イルハン朝の王族および中核部族は日本人でも割といるのっぺり顔が殆どで、 辮髪おやじだったのはまあ確実。ただし髪型は清朝の満州族みたいな辮髪とは全然違うけど。
>>491 アングロサクソンは神の〜とか言うスレで暴れてる白人厨なんだろ。相手にするなよ。
このスレで扱ってる時代からは少し外れるが 11世紀頃の「カーブース・ナーマ」でトルコ人とインド人の 顔の良し悪しについて書いてたな。
495 :
黒崎恵 :2008/05/17(土) 14:40:20 0
やっほ〜〜〜〜い?
東方見聞録(青木一夫訳)を見るとイル汗国はレヴァントのタルタル人とかタルタル王 とか書いてる。ちなみにキプチャク汗国はポネントのタルタル人とかタルタル王、 ハイドゥは大トルコのタルタル王、クビライは全タルタルの王で大汗。 住民や汗一族はどう呼んでたんだろ。単に地域名とか名前で区別してたのか?
>ポネント キプチャク草原の呼び名?
499 :
世界@名無史さん :2008/07/05(土) 21:47:06 0
>>473 イスラームでは偶像崇拝は禁止されていたせいで、
絵画は発達しなかったんでしょ?
ミニアチュールは中国伝来の絵画の影響で発達したんだから
顔の描き方も中国人風になってたんじゃないの?
>>493 中東ではイスラムの教義の影響でユダヤ教徒やキリスト教徒でも無い限り絵画は基本的に御法度で
絵画芸術は発達しなかったけど、代わりにアラビア文字による書道は隆盛した。
特にティムール朝後期ぐらいから出現した書体、ナスタアリーク体なんかは主にペルシア語の詩文
なんかの書写にマッチした流麗な書体で、詩文単品でも傑作が多いが、ティムール朝以降は大きな
『シャーナーメ』の一場面を描いた挿絵に、いくつかナスタアリーク体で本文の一部を添えたり
するようなものが定着した。
絵画についてはセルジューク朝からその兆候はあったみたいだが、イラン方面にも絵画芸術が
(といっても西洋画と違って基本的に写本の挿絵のみだが)本格的に隆盛・定着するようになったのは
イルハン朝時代から。勿論、イルハン朝時代からティムール朝時代に流入した中国絵画の影響が
大きいことはもう既に広く知られていることだけど、「なよなよ」した人物造型の原因は単にそれだけ
ではないと思う。
サファヴィー朝時代の作られた『ホスローとシーリーン』の写本なんか人物造型がいかにも
「なよなよ」した感じなのは、単に中国絵画の影響だけ、というよりも『ホスローとシーリーン』とか
『ライラーとマジュヌーン』を読めば分かると思うけど、実際、端正で「なよなよ」した容貌や肢体の
「王子さまやお姫さま」の話が好まれ、理想とされたからだと思う。こういう絵画作品や文学が愛好
されたのはセルジューク朝やイルハン朝やティムール朝といったテュルク・モンゴル系の遊牧政権の
宮廷である、ってことも一応は配慮せねばならんかも知れない。
501 :
世界@名無史さん :2008/08/26(火) 09:44:52 0
講談社の『興亡の世界史』シリーズで、この時期に関係しそうなやつは、 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(9巻) 羽田正『東インド会社とアジアの海』(15巻) かな?
age
503 :
世界@名無史さん :2008/10/27(月) 22:04:17 0
あがってないyo
504 :
月読 :2008/10/31(金) 14:50:15 0
サンドウィッチマン
505 :
世界@名無史さん :2008/12/09(火) 23:42:16 O
フラグ様素敵!俺の( * )を差し上げます
506 :
世界@名無史さん :2009/01/26(月) 00:01:38 0
保守
507 :
世界@名無史さん :2009/02/05(木) 09:33:39 0
>>462 バンダレ・アッバースについては、
>>501 が挙げた、
羽田正『東インド会社とアジアの海』(15巻)
に書かれている。
あそこらへんの領土の個人的理想は、ティムール時代。 どうして、その覇権が長続きしないんだろう。 言語的にはペルシア。民族的に主力なのはトルコ。宗教はイスラム。 こんな感じだったはずだけど、全然団結できてないし、イスラムつかえねー。
つ サファヴィー朝
理想版図 ペルシャ・(パキスタン)・アフガン・中央アジア5カ国・(ウイグル)
ウイグルってティムールですら征服してなかったような
512 :
世界@名無史さん :2009/04/24(金) 17:07:13 0
age
理想版図 ユーフラテス河、コーカサス山脈、テレク川、カスピ海、アラル海、ヤクサルテス河、パミール高原、カラコルム山脈、サトレジ河、インダス河が国境
>>514 時代背景的にしょうがないだろうがやはりオスマントルコの扱いが・・・
516 :
世界@名無史さん :2009/06/17(水) 13:57:01 0
ジャライルやスルドゥスといったモンゴル系の部族は サファヴィー朝がイランを統一した後はキジルバシに吸収されたり 周縁的な地位に落とされたりしたんでしょうか?
>>516 イスマーイール1世の頃にキジルバシ化してその後軍事貴族階級。
アッバース1世の頃には有名無実化して土着。
518 :
世界@名無史さん :2009/07/09(木) 17:26:29 0
>>482 そういえば最近、サファヴィー朝とカフカースの関係について論じた
研究書が出てなかったか?
519 :
世界@名無史さん :2009/07/09(木) 21:46:03 0
>>467 鳥の羽根飾りて確かマジャール族のアールパードや冒頓単于も頭に付けてたよな
あれって遊牧民の風習なのか?
ただインディアンやヨーロッパの騎士とかも同じように鳥の羽根飾り付けてるしな
よくわからん。
520 :
世界@名無史さん :2009/07/19(日) 09:22:49 0
>>519 アラブの王様やロビンフットだって付けてるぞ
弓矢と同じで普遍的なもんじゃね?
521 :
世界@名無史さん :2009/07/19(日) 09:56:24 0
台湾のアミ族も羽をつけて正装するが、彼らは農耕民族だ。
鳥の羽を飾りとしてつけるなんて、鳥の生息する地域なら、誰だって思いつくでしょ。
523 :
世界@名無史さん :2009/09/07(月) 22:33:50 0
age
524 :
世界@名無史さん :2009/09/11(金) 00:03:28 0
三日月の世紀が読みたいが絶版なので 替わりに何かサファヴィー朝を扱った本ないでしょうか?
527 :
世界@名無史さん :2009/10/18(日) 03:16:54 0
ageられてなかった…連投すまん
>>525-526 自分はまだ未見だけど、最近出た本で↓とかどうだろう。
前田弘毅『イスラーム世界の奴隷軍人とその実像
―17世紀サファヴィー朝イランとコーカサス』
(明石書店 2009/02/28 )
サファヴィー朝君主直属の親衛軍団であるグラーム集団を扱った専著。
コーカサスのグルジア出身の奴隷軍人たちを母体として編成されたサファヴィー朝君主の
エリート親衛軍団と、その歴史的活動を追ったものらしい。
サファヴィー朝はサファヴィー教団に従ったテュルクメン勢力の軍事的支援によってイラン高原を
制圧した政権だけど、平時からなかなか言う事を聞かないテュルクメンたちに代わる君主専属の
武力集団として成立、台頭して来たグラーム軍団を正面から扱っているので、とても興味深い。
佐藤次高先生が出された『マムルーク』はマムルーク朝の奴隷軍人(マムルーク)たちを扱った
専著だったけど、今回の前田弘毅先生の本はそのサファヴィー朝バージョンみたいな感じ。
おお!丁寧な紹介まで、どうもありがとうございます!! 早速注文してきました
530 :
世界@名無史さん :2009/10/22(木) 18:36:34 0
基本中の基本だけど「成熟のイスラーム社会」 半分がサファヴィー朝
今年も保守!
532 :
世界@名無史さん :2010/02/16(火) 14:16:24 0
>>484 、
>>525 サファヴィー朝をオスマン朝とムガル朝と比較した研究としては、
羽田正「三つの「イスラーム国家」」『イスラーム・環インド洋世界』
(岩波講座世界歴史14)がある。
でもシーア派とスンニ派って(少なくとも現代では)別宗教と言っていいぐらい教義が違うよね(´・ω・`)
隠れイマーム派だの分派が色々あるからね。
535 :
世界@名無史さん :2010/03/08(月) 17:07:33 0
>>533 シーア派のどの分派について言っているのかね。
椅子マイル派
537 :
世界@名無史さん :2010/06/17(木) 20:00:30 0
age
アッー!バース一世
539 :
世界@名無史さん :2010/08/04(水) 19:14:08 0
ナーディル・シャーっていうのは、ペルシアの救世主だな。 サファヴィー朝末期のアフガン人の侵略を撃退したりしてるだけでなく、 ロシアからカスピ海沿岸の北部諸州を返還してもらってるからな。 この点は、個人的には重要な事だと思う。 テヘランやタブリーズがないイランなんて考えられんよ・・。
アゼルバイジャーンが今より大きかったり、マーザンダラーンがCISの一部を構成したりすれば それはそれで萌える
541 :
世界@名無史さん :2010/08/09(月) 09:36:22 0
アフガン人騎兵ってトルコ・モンゴル系のように騎馬弓兵として戦ってたんですか? それともアラブ騎兵のように剣や槍で突撃が主?
542 :
世界@名無史さん :2010/08/09(月) 09:39:57 0
>>541 アラブ人騎兵でも弓使うよ
てか言語違うだけで戦術変わるとか意味分からんし
>アラブ人騎兵でも弓使うよ そうなんですか? いつ頃の時代の、どういった戦いに参加した アラブ騎兵についてそういった記録が残っているのでしょうか? >言語違うだけで戦術変わるとか そんなことは書いていないけど
544 :
世界@名無史さん :2010/08/09(月) 10:48:06 0
いや普通に考えれば分かるでしょ パルティアの時代から行われてた戦術だろ 逆に聞くけどなんで弓が使われないと勝手に想像してんだ
545 :
世界@名無史さん :2010/08/10(火) 09:17:07 0
>>544 それは知ってますが、アッバース朝時代にトルコ系グラーム、マムルークを用いる利点として
「馬に乗ったまま自在に弓矢を放つ」というのが挙げられてませんでした?
例えばアル・ジャーヒズの伝えるアッバース朝の武将の言として、戦うならハワーリジュ派とトルコ人と
どちらがいいかという問いに「ハワーリジュ派は勇猛だがトルコ人のように馬上から弓矢を放ってこない。
ハワーリジュ派と戦うほうがまし」というのがありました。
また、アラブやベルベルの影響はあってもペルシアやトルコの影響はほとんどなかっただろうマグリブや
アンダルスでも、有名なムーア式軽騎兵は近接兵器で戦っている。
早くからペルシアと戦っていたビザンツ帝国やステップ遊牧民と近接していた東欧では
騎馬弓兵が実際に導入されていますが、カスティリャやアラゴンやポルトガルなどがそうした兵科を
用いていた形跡はない。
>>540 じゃあ、ペルシアの首都はエスファハーンしかないな。
てか、普通にしっくり来るw