1 :
名も無きハーンの1 :
02/06/30 06:00 13世紀初頭、突如として世界に登場したモンゴル帝国。 彼らは世界最強の騎馬軍団を率いてユーラシア大陸を席巻し、 最盛期には当時知られていた世界の7割を支配下に治めていたと言う。 しかし世界最強を誇ったモンゴル帝国も分裂、衰退していった。 ここでそんなモンゴル帝国について思う存分語りなさい。
いや。
3 :
名も無き汗の3 :02/06/30 08:06
4 :
名もなき汗の4 :02/06/30 08:39
街という街で犯しまくったモンゴル兵に乾杯さ
5 :
名も無き汗の5 :02/06/30 08:51
もんごりあーん
6 :
世界@名無史さん :02/06/30 09:12
/\ ┃┃ / ー //ノ /\、 \ ━━ ━╋━ ━━┓━━┓━━ /ヾヾ ヽ/ |:/ ヽlll \━━ ━╋━ ╋┓ ┃ ┃ ┃/ /== lヾ〜 新 | `ヽ、二 \━ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃/ / |=ー ス ./ -ニヽ、 _.\◎、=二ーフ ; ; / / 二 ヽー〜レ r-‐‐‐--、 二ニ\ へ ` ̄ ; / / <´@ ヽ )=ー ェ | ̄ ̄`i --' r‐‐---\ \;―― ,---、___ / 〃::::ヽ `ー ´/ー_ エ i、----//~l\ヽ_____/\ ∧∧∧∧∧ // ´ヾ ) ,、) ( エ .`| ̄ / ノ┐`‐--‐'´ / \ < > iiiiiliilillllilllillllllil,,, \=〜 ッ `l`l<ヽニ-'´ヽ、 ,-‐' /ト \< 新 >ll/二二二二ヽi )―_ ッ \`‐‐-‐-‐-> / | < 予 ス . >//〜〜〜ヾ/ノi / ――――――――――――< 感 レ >―――――――――――― ___ , - ´  ̄ `ヽ、:::::::::< ! の >ミ\_| ,'、 /\\ :::::::::::::::/ ,-´ ̄ 丶::::::<. > 彡 / \`\ / :::::::::::::/ / ,-´ ̄ ヽ ::::∨∨∨∨∨ # ,、―-、__\_`l | ::::::::::/ / ̄`/ / ̄` )::::::::::::::::/ ,、‐‐ 彡 ) −<、 `l \/ ::::::::| / ̄` |/o~ ヽ ( ::::::::::::/ ― l、 /``\/  ̄`― ̄ /立 ::::::::| / ̄`\ l `ー ´ )/ / <\_ ,、‐`|ll、 ) ) / ::::::::| ( / ~oヽヽ ヾ ヽ、 / \ `ヽ-、///ヽ-、,、/ 彡/ っ ::::::(ヽ `ー ´ ヽ `)ヽ- 、, // `\_ `―、/_|| `l |  ̄/ヽ | / /(_,-´ ,/ |/ 、ー、 \___二> ヽ / た ヽ ヾ | / __,-‐/ /|`l \ / / ヾ ヽ\_ ー=―― ´ / `l | \--、_ / ) / ッ
7 :
名もなき汗の7 :02/06/30 09:39
っていうかなんであんなにでっかい範囲を征服できたのよ?
8 :
名も無き汗の8 :02/06/30 10:25
>>7 常にモンゴル高原で戦い続けていたから戦慣れしている上に
全員騎馬部隊だからそりゃあ強いだろ〜。
まわりの国はみんな歩兵中心なんだから。
1人につき馬5・6頭もっていて
かわりばんこに乗って進軍したっていうんだから
移動力も抜群だしね。
補給の問題をどう克服してたのかが気になる・・・。 羊に草くわしておきゃあOK?なのか?
10 :
名も無き汗の9 :02/06/30 10:45
補給は現地調達じゃない? これは聞いた話だからよくわかんないけど 食料なくなったら馬くったらしいし のど乾いたら馬の血のんだらしい。
11 :
名もなき汗の11 :02/06/30 10:49
補給がなくて制圧はできないのでは・・・ やっぱ商人とかを味方にしてたのかな?
12 :
世界@名無史さん :02/06/30 11:30
チンギス=カンの子孫が君主として存在した最期の国は 20世紀初頭までロシアの保護国となりながらも存在してた ヒヴァ汗国?(君主はバトゥの子オルダの子孫だっけ?)
13 :
世界@名無史さん :02/06/30 11:33
>12バトゥの子オルダの子孫 ゴメソ。 ジュチの子オルダの子孫 に訂正。逝ってくる。
14 :
世界@名無史さん :02/06/30 11:46
ロシア貴族はリューリックと並んでチンギス=カンを自家の祖と する者が多いそうだが。
>11 でもものすごく人口密度の少ない地域に遠征してたんだから、 現地調達では間に合わないんでないの?
17 :
ハジ=ギレイ :02/06/30 12:52
軍勢は羊の大群と一緒に移動してたとか。
18 :
世界@名無史さん :02/06/30 16:28
>17 で、それを食べるわけね。 >14 っていうかジュチを祖とする家ね。 さっさとイワン3世、4世なんかに降ってロシア貴族になったモンゴル系貴族は ロシア貴族全体の1/3くらいを占めるよな。全部がチンギス汗の子孫ってわけ じゃないけど。
19 :
チンギスハン :02/06/30 18:49
東洋人がイスラム人やヨーロッパ人と戦ったっていうのは なんかロマンがあるよな。
20 :
世界@名無史さん :02/06/30 19:51
>>12 ヒヴァ・ハンはジョチの子シバンの子孫(シャイバーニー朝と同族)だったが、
18世紀くらいにチンギス裔ではないコングラト朝に交代したので
20世紀まで続いていない。
>>18 そうそう、17世紀くらいのロシア貴族の先祖を調べたら
3分の1以上がタタール貴族の子孫だったとか。
21 :
世界@名無史さん :02/06/30 20:38
>20 ボハラ汗国もチンギス汗系からマンギト朝に替わったのだっけ?
>>21 そうだよ。
ブハラの場合、マンギト朝君主はハンではなくアミールを名乗ったようだけど。
髭のない男が泉に口をつけて水を飲んだ。 これぞ地獄の使者。
24 :
ハジ=ギレイ :02/06/30 21:36
で、結局チンギス汗の子孫で最期まで君主だった国はどこで、いつ頃までよ? 18世紀のクリミア汗国?
イスラエルの子らを、北の国、 彼らが追いやられた国々から導き上げられた主は生きておられる 旧約聖書 エレミア書 第16章15節
26 :
世界@名無史さん :02/06/30 21:46
>>24 君主としてはクリミア(1783年滅亡)が最後かもしれないね。
ロシアや清の下でも、モンゴルやカザフでは20世紀まで
ハンの称号を持つ複数の家系のチンギス裔が部族長として続いていた。
>>26 >ロシアや清の下でも、モンゴルやカザフでは20世紀まで
>ハンの称号を持つ複数の家系のチンギス裔が部族長として続いていた。
すごいね。チンギス・ハンの名の偉大さ。
ヨーロッパ世界でのローマ皇帝に当たる権威の象徴が、騎馬民族の世界では、
チンギス・ハンの血と、ハーン位なんだろうね
28 :
世界@名無史さん :02/06/30 21:54
>>26 ていうことは、今現在でもチンギス裔の家系がユーラシアの東西に
結構数多く残存してるのか。特権は失ってるにしても。
29 :
世界@名無史さん :02/06/30 22:03
>28 チンギス裔はモンゴルやカザフの部族長、 ロシアの宮廷貴族、ロシアの領主貴族 の子孫として数多く存在してる。
30 :
世界@名無史さん :02/06/30 22:06
クリミア・ハンの子孫はトルコに亡命して続いている。
31 :
世界@名無史さん :02/06/30 22:37
エルマークとかロシアのシベリア遠征隊は、大陸の北の端に杭を立てて、「ここまでの土地は全部ロシア領」だと主張しました。 でも、世界史の図表を見ると大陸の北辺はモンゴル帝国の版図に含まれていません。 北極海を見たモンゴル人はいなかったのでしょうか?
戦前日本が立てた内蒙古自治政府の首班の徳王はチンギスハン直系だそうです。
33 :
世界@名無史さん :02/07/01 02:03
>>32 ,
>>33 というかモンゴル王族の殆どはチンギスハン-フビライハン-ダヤンハン
の直系。それほどチンギスハンのカリスマが強いってことでしょうねー。
35 :
世界@名無史さん :02/07/01 17:43
元が北に撤退したあとの北元って自然に滅びたの?
盟部の一政権になったんじゃねーの?>35
37 :
世界@名無史さん :02/07/01 21:05
>>35 順帝の子孫は1388年に最後のハーンが
アリクブケの子孫エスデルに殺されて絶えた。
ふつうはこれをもって北元の滅亡とするんじゃない?
でも、これ以降もチンギス裔のハーンが
明代を通じて立てられており(有力部族長の傀儡であった場合も多いが)、
特に15世紀末に即位したダヤン・ハーン(フビライ・ハーンの子孫)は
モンゴル高原の諸部族と再統一し、各部族に自分の子を長として送り込んだ。
モンゴルのほとんどの部族の長はチンギス・ハーンの子孫なのはそのため。
ダヤン・ハーン直系の全モンゴルのハーン家は1635年に後金(清)のホンタイジに
元朝の玉璽を献じて降伏し、これをもって北元は完全消滅した。
38 :
世界@名無史さん :02/07/01 21:14
イワン雷帝が一時帝位を禅譲したタタール人のシメオンって どういう血筋だったのかな。 まあ、あの辺だったらよくてもジョチ家か。
39 :
世界@名無史さん :02/07/01 21:43
>>38 シメオン・ベクブラトヴィッチはカシモフ・ハン国の出身。
カシモフ・ハン国はモスクワ大公が
サライやカザンからの亡命王族を立てて作った傀儡国家だから、
いずれにせよジョチの子トカ・テムルの子孫ということになる。
40 :
世界@名無史さん :02/07/02 01:42
>31 中国で発行してる歴史地図の元の版図は北極海まで行ってるよん(w
41 :
世界@名無史さん :02/07/02 02:00
レスの進行が、1の主旨とは違う方向に向いているが 読みごたえのあるスレッドになっている! 最近知った話ですが、今のモンゴル国を形成してるハルハ 族ってのは、チンギス以降のモンゴル史に於いてはかなり のオミソな部族と聞きました。 ですから、蒋介石だかが王朝の末裔たるモンゴルが住むフ フホト、内蒙古さえキープすれば『外蒙古なんぞソ連に くれてやるわ』とかなんとか言った理由もやっとなんかわっ た気がする。 モンゴル分断はソ連に分があったと最近まで思ってた。
43 :
世界@名無史さん :02/07/02 10:01
モンゴル帝国があれほど繁栄し得たのは、イスラム商人の存在を抜いては語れない。 彼らは大陸の東西交易の独占を目論見、様々な形でモンゴル帝国に貢献してきた。 やはり交易路の途中に国家がいくつもあると、税金がかかったり、 国家間の戦争などでうまく交易できないことも多い。 そこで、モンゴル帝国という存在に目をつけ、「自分たちの利益のために」 モンゴル帝国に協力した。 モンゴル軍の総兵力は、意外にも十万程度だったみたい。 もちろんチンギス・ハンの時代ね。 少数精鋭で高速機動を生かした戦術を立てていたと推察できる。 補給は羊を一緒に連れていったため、羊の血でのどをうるおし(今のモンゴルでも 一般的に飲まれる)、羊毛で衣類等を作り、羊肉を食べたりしていたので それほど問題にはならなかっただろう。現地調達もあっただろうし。
44 :
世界@名無史さん :02/07/02 20:30
>>40 中国は元朝、清朝の旧領土を本来の自国領と考えているフシがあるからな・・・。
なんかきな臭さを感じる。
45 :
世界@名無史さん :02/07/02 20:37
>38あの辺だったらよくてもジョチ家か。 よくてもって・・・。 ジョチ家はチンギス家の最高家格のひとつやん。
46 :
世界@名無史さん :02/07/05 20:08
47 :
世界@名無史さん :02/07/06 02:03
>>45 ボルテのレイプ疑惑とかあるから、他と比べるといわくつきの家系じゃない?
そのせいか大ハーンは出してない。
>>26 > ていうことは、今現在でもチンギス裔の家系がユーラシアの東西に
> 結構数多く残存してるのか。特権は失ってるにしても。
西蔵自治区の東北部にいるホル族という遊牧民集団は、元朝の文宗トクテムル
の子 孫という系譜を持つ領主に代々統治され、今の当主も「政治協商会議」か
なにかの役職をもらっている。
49 :
世界@名無史さん :02/07/06 08:52
>48 それってチンギス=カンの末裔って理由で役職もらってるの? だとしたら未だに特権が残ってるのか。
50 :
世界@名無史さん :02/07/06 09:03
>47 まあ確かに勢力が極めて強力な割に大汗を輩出してないのは疑惑のせいかも。 でもジュチの子孫にはその疑惑に影響されず、ユーラシア西北部では 最も聖なる家系として18世紀くらいまで各地の君主として君臨し、 その後も20世紀初頭まで領主や貴族として、チャガタイ裔やオゴタイ裔なんかより 長く栄えた。
51 :
世界@名無史さん :02/07/24 15:36
モンゴルをやってる先生が言ってなすってたことだけど、 モンゴルの食生活はほとんど何十種類もある乳製品でまかなってるそうで、 それにバター茶みたいなのに小麦粉を混ぜて食べたりとか、 干し肉のだしでスープにしたりで、 お客やお祝い事とか保存用とかがない限り 家畜をつぶして料理にするのはあんまりしないんだとか。
52 :
世界@名無史さん :02/07/25 11:19
ワールシュタットの戦いって死体の山ができるほど 激しい戦いじゃなかったって本当か? 何でも話しによると戦い前後のポーランド、 ドイツの騎士団の名簿に登場する人物の 名前が大して変わってないって話らしいいが 遊牧民史の教授の話なのだが ワールシュタットは欧州人の誇張ですか?
53 :
世界@名無史さん :02/07/25 11:25
モンゴルの統治により小公国乱立混乱状態だった 露西亜の地に法と秩序が生まれた。 タタールの頚木によって露西亜の近代化が 遅れたなんて言った、馬鹿な歴史家って誰? ロマノフ朝が農奴解放しなかったのが原因だろうが
54 :
世界@名無史さん :02/07/25 11:39
ジョミニはその著書戦争概論のなかでナポレオンの 征服には意味があったが。モンゴルの征服には 意味がなく悪しき侵略だと言っている。 東西文化の交流が一つの帝国の支配によって 深まったとか言う意味はあるだろ。 クラウゼヴィッツに並ぶ近代用兵学の開祖 がなんでこんなこと言うのか小一時間問い詰めたい
55 :
世界@名無史さん :02/07/25 23:29
昔、NHKスペシャルで塩引ってのを見たんだけど あれが世界最初の紙幣になるんですか?
56 :
世界@名無史さん :02/07/25 23:33
>>55 多分そうです。
北宋・南宋では交抄というのがありましたが、流通量は全く微々たる物でしから
塩引が事実上始めての、兌換紙幣と言うことになると思います。
57 :
世界@名無史さん :02/07/25 23:35
>>52 二、三百人程度のドイツ騎士団が、モンゴル軍と小戦闘をしただけでしょう。
58 :
世界@名無史さん :02/07/25 23:42
>>56 ということはすでに銀本位制が始まっていたということか。
なにげにスゴイ。
59 :
世界@名無史さん :02/07/27 18:43
>>58 それを駄目にしたのは暗黒の相続人”明王朝” 史上最悪変態虐殺大好き皇帝朱げんしょうのせいです。 杉山氏も、明をものすごく批判してたし。
60 :
世界@名無史さん :02/07/27 18:48
明は民族の誇りって部分だけでもってるようなもんでしょう。 ティムールが来たほうが中国にとっては良かったかも。
61 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:04
モンゴルの馬ってやっぱりそこら辺の草食わしとけばよかったの?
62 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:05
>59 う〜ん。明は確かに暗黒の相続人かもしれんけど、 モンゴルの他の相続人、ロシアやペルシャ、オスマントルコなんか、 明よりマシな相続人は他にもいたわけで。
63 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:06
ティムール、もうちょっと長生きしてくれれば あと、5年ぐらい。そうしたら、明なんて無かったのに・・・
64 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:11
>>62 明のせいで、東と西の、つまり東洋と西洋の力のバランスが崩れた。 フビライが目指した、陸と海の通商国家を、明は農奴制と海禁政策で 潰し、後の西洋列強の進出をもたらした。 つまり、モンゴル時代は、アジア>西洋だった。
65 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:13
64の続き アジア人としては、明は許せない。
66 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:15
>>63 なぜティムール帝国の拡大事業は一代で終わった。
蒙古は何世代にも渡って続けられたのに
両者の間に何か体質的な相違点はあったのか?
67 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:29
>>66 まず、ティムール帝国は実は一代では終わっていないと考えられる。 理由は、第二次ティムール朝とまで呼ばれるムガル朝の存在。 モンゴルの継承者たちは長く帝国を維持したと考えられる。 (オスマン、ロシア、ムガル、明などがモンゴルの継承者。) 体質的にも変わらない。いずれもモンゴルの制度を基礎にしていると思われる。
68 :
世界@名無史さん :02/07/27 19:33
理由は、第二次ティムール朝とまで呼ばれるムガル朝の存在。
69 :
世界@名無史さん :02/07/27 20:16
>>52 死傷者の数は、実際には数百人程度。 モンゴルは戦いの時に、恐怖を宣伝して、敵を腰砕けにする戦略を取っていた。 そのため、これは誇張された宣伝(デマ)に過ぎない。
70 :
世界@名無史さん :02/07/27 20:26
モンゴル遠征軍の主力は、少年部隊であった。 モンゴル高原を出発するときは10代前半の少年が大部分であった。 彼らは遠征先で落ち着くこともあった。 しかし、彼らの心の故郷は常に、はるかなモンゴル高原にあった。 このモンゴル高原こそ、イェケ・モンゴル・ウルスの象徴であった。
71 :
世界@名無史さん :02/07/27 20:28
72 :
世界@名無史さん :02/07/27 20:33
明はモンゴルの後継者か? 後継者たろうとしたのはわかるが他の後継国家とくらべると闇すぎる。(ロシアはちょっと微妙) むしろ鬼語のよーな存在では? ティムールが来たら文化交流が中国にもたらされ科学技術も弾圧されず 世界史ぜんぶが変わっていた可能性あり。 明みたいな国が出来たのも歴史の必然だろうけどね。
73 :
世界@名無史さん :02/07/27 20:40
北元→清の流れのほうが分かりやすいね。 ある意味明が今の中国の基礎を作ったとも言えるかも。
74 :
世界@名無史さん :02/07/27 21:09
>>67 モンゴルに継ぐ世界帝国としての
「ティムール帝国」の拡張事業は一代で終わっている。
ムガール帝国は彼らの子孫が築いた地方政権に過ぎない。
なぜ、世界帝国としてのモンゴルは100年以上に渡って伸張したのに
同じく世界帝国としてのティムールは、僅か一代で終わってしまったのだろうか。
75 :
世界@名無史さん :02/07/27 21:12
>>71 杉山教授そのままです。この人の本読んでモンゴルに興味持ちました。
76 :
世界@名無史さん :02/07/27 21:16
>>74 じゃあ、世界帝国の概念とは何ぞや?
77 :
世界@名無史さん :02/07/27 21:22
>>76 私は、多言語、多宗教、多文化に跨る広域国家という意味で呼びました。
版図の西端と東端が、それぞれ大西洋と太平洋に接しているか、
限りなく接していそうな国、という感覚でいます。
それだけです。
78 :
世界@名無史さん :02/07/27 21:24
>77 版図の西端と東端が、それぞれ大西洋と太平洋に接しているか 現在のアメリカ合衆国は世界帝国ですか?
オレはNHKの「大モンゴル」見て 「フビライってすげーんだな。」と思ったんだけど このスレの人で見た人いる? 史実考証的にどうなんでしょう?
ゴメン56じゃなくて55です
81 :
世界@名無史さん :02/07/27 23:38
よく言われるif物。 「欧州が完全にモンゴルの支配下になっていたら?」 さぁどうなんだろねぇ。 欧州にモンゴル政権が出来、そのうちにキリスト教に 教化されてくるのかしらん
82 :
世界@名無史さん :02/07/28 00:04
>>81 ロシアをみれば大体わかるのでは?
ヨーロッパまるごと巨大帝国になってる可能性大ですね。
そうなると、大航海時代はないかな?(陸運でマターリ輸送するから) アフリカとアメリカが平和そう・・・。
84 :
世界@名無史さん :02/07/28 00:27
でもいざモンゴル人が船に乗ったら、当地はとんでもない惨状に。
85 :
世界@名無史さん :02/07/28 00:33
以前に、どこかのTV番組で、モンゴル騎馬軍団の携帯食料を再現していた。 乾燥させた羊の肉を小さなボール状に固めたものだった。 これに湯をかけると羊肉スープの出来上がり。なんだか、日清チキンラーメンを 思い出した。彼らは、あまり野菜を食わないし、食わなくてもけっこう生きてい ける体質なんだよな。まぁ最小限の野菜は現地調達してたんだろうけど、メイン デッシュは、この元祖インスタント食品である『乾燥羊肉スープ』なのさ♪
86 :
世界@名無史さん :02/07/28 00:38
中国の判図に言及してる人がいたけど、台湾の中華民国政府が発刊している 世界地図を見たことがあるが、なんと、モンゴルや北朝鮮の北部が中国の領 土として描かれていた。そして、驚愕したのが、沖縄が、やはり中国領土と なっていたことである! このような地図が公的なものとして出回っている ことに日本国政府は、なぜ黙っているのか?
「捕らえた敵の目の前で相手の娘や妻を犯すほど楽しいことがあろうか」 という主旨のチンギスハーンの鬼畜発言を 何かで紹介していたのを読んだ覚えがあるんだが、 どの本のどのページだか思い出せず、見つけ出すことができないまま。 わりとメジャーな本のはず。心当たりのある方は教えてください。
88 :
世界@名無史さん :02/07/28 00:41
↑学研のチンギス・ハーンの本だyo オレ持ってるもん
今のモンゴル見てるとマターリしてるけど意外と残忍
90 :
世界@名無史さん :02/07/28 01:47
>>85 たしか「ボルツ」と呼ばれるものだと思います。
冬の寒いときに凍らせて乾燥させますので、原理はインスタント食品の
フリーズドライと同じです。
今でも食べてると思いますよ。
>>85 彼らは、あまり野菜を食わないし、食わなくてもけっこう生きてい
ける体質なんだよな。
というよりも彼らはビタミンをお茶からとるようにしてたんです。
それが中国王朝との紛争原因のひとつになるんですが・・・
>>87 ドーソンの「モンゴル帝国史」では?何巻何ページかは知らないが。
>>91 チンギスハンの頃はビタミンは馬乳酒から補給していたと思う。
モンゴルには羊と獣姦する風習があったんでしょ 余談だけど、遠洋漁業の漁師は嬰でやる風習があったんでしょ
94 :
世界@名無史さん :02/07/28 03:26
野菜食わなくてもいい体質説も 見てきたような言い切りっぷりでおもしろいのでアリ。
95 :
世界@名無史さん :02/07/28 04:01
ミネラルやビタミンを接種しなくも平気な体質の人は 人類ではありません
96 :
世界@名無史さん :02/07/28 07:03
野菜食わないイヌイットとモンゴル人は短命世界1と2。
97 :
世界@名無史さん :02/07/28 07:39
>93 イギリス人にもあったよねえ。 まあ、男の性(さが)ですな。
98 :
世界@名無史さん :02/07/28 10:37
モンゴルが黒海沿岸やコーカサスや西ルーシを席巻 ↓ 大量の戦災孤児が誕生 ↓ 彼らを奴隷としてエジプトやアラブに売り飛ばす ↓ マムルークの誕生 この流れって本当ですか?
>>97 ローマも凄かったらしいけどちょっとキショイよねえ
_ ┌ n /7 _________ | | ヘ 「ト L|ム//) | / | |__ く ゝ) _ へ人 ヘ∠  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄// | __| て彡 | ハ `┤フ⌒ヘ⊃ // ._ . | | .| ヘ .| ノ |-イ_ - 不 ーーイ ..... / \ .| | | | |\ ⌒\ .Y / √ /イ \二 彡 ..... //\ \ ._| |_| |___ ヘ i⌒ <〜 Y// / ヘ / ノ // \ \ |________| ーへ //⌒>イ.( ヘ 入 /  ̄  ̄ \《 / / |ヘ ノ </ーイ ヽヘノ へ ヘ√ | | | ̄ | ... _ .| |ーー| |へ ム┘ | | _ .. __| |__ //ーー// √ | | / / .. |__ __| √(⌒)□へ ww | | / / .. ┌─┘└─┐ i (^"^)\ ゝ <イヘ| | | / / .. └─┐┌─┘ |/ ヽイ⌒ -イヘ ヽヲiヘ | |/ / . , ─┘└- 、 . / /ヽヒ/ / ヽ / フ⌒( ヘ | / ... イ と‐┐┌- .,/ ./ ん )ヘ ( <⌒ へ ト ノ  ̄  ̄ ゝ,  ̄ ノ ./ )/ \ヽ人 ⌒) )イムi ) .  ̄ ん / √ イイヘムイ ..... | ) ( n /彳ヲ/ミヲ | ヘ ... ._ イ(⌒) ヒ > </ ( \ (彡ヘ _ ._| |__ ,.-‐.、 .| イ Eイ イ | ヘ ) mm7 | | .... |_ .// イ .| ) ( < イ ヽヘ ヘ ゝ .| └─┐ ...... / / | | へイ |ア~ヘ く ヘ人 | ┌─┘ ...... / / | | 入ノ \_/ヘ ヽ|_\へ . | | .... |__.....| | レイ // | ノ) へ ヘii| , ─┘└- 、 .... .| | | / ∠_/ んゝ \ イ と‐┐┌- .,/ . . .| | ゝ-イ  ̄ ゝ,  ̄ ノ .... . ̄  ̄  ̄ DIOはキリ番getに良く馴染むみたいです
101 :
世界@名無史さん :02/07/28 14:25
チンギス・ハーンとかすきで、勉強しようとは思うけど、ロシア史と同じくらい難しい。だって、名前が覚えられないんだもん。
102 :
世界@名無史さん :02/07/28 15:22
蒙古最強
世界史上最大版図っていってるけど 大英帝国やハプスブルグ(?)のスペインと比べてどうなの?
104 :
世界@名無史さん :02/07/28 20:33
新大陸発見前として最大なんじゃないの? 植民地全盛時代の国々と比べてもでかいと思うけど。
杉山正明の中国への敵意は凄まじい
モンゴル軍で働いてたイギリス人がいるらしいじゃん
107 :
世界@名無史さん :02/07/28 23:08
カナダとオーストラリアとアメリカ足しても モンゴルのでかさにはぎりぎり届かないと思う
>>105 いや、あれはラディカルさが売りであるわけだから、真に
受けるのはいかがなものかと。
いや、もしや京大の方ですか?
本はああでも、講議ではどんなかんじなんだろ。
109 :
世界@名無史さん :02/07/29 14:54
モンゴルのハーン、チンギス。 フンの王、アッティラ。 なぜか両者が似ていると思うのは、俺だけ? 遊牧民、侵略者、騎馬民族等々。
ちょっとお聞きしたいんですけど、 チンギス・ハーンの側室って いなかったんですか?
111 :
世界@名無史さん :02/07/30 00:43
>>110 彼のオルド(陣営)には5人の正妻の他に
300人近くの側室が居たかと思います。
112 :
世界@名無史さん :02/07/30 00:46
>>109 アッチラの功績というのは、不明ですね。
彼ら自身は自国の歴史について史料を残していませんから。
フン族について、詳しく考察して本とかはないのでしょうか?
113 :
世界@名無史さん :02/07/30 00:48
>>87 >「捕らえた敵の目の前で相手の娘や妻を犯すほど楽しいことがあろうか」
コーエーの攻略本に載ってます(笑)
オルドの項に。。
114 :
世界@名無史さん :02/07/30 17:03
ところで耶律楚材っていましたが、 杉山先生によれば極悪非道の人間という評価。 陳舜臣がいろんなところで反論していた。
モンゴルマニアは中国が嫌いなのです。 そして中国マニアはモンゴルが嫌いなのです。 田中芳樹など、モンゴルをボロカスに言ってます。
116 :
世界@名無史さん :02/07/30 17:12
杉山まんせー シナ豚うぜえ
117 :
世界@名無史さん :02/07/30 18:03
自分はどっちも好きっす!
118 :
世界@名無史さん :02/07/30 18:14
杉山先生の本とかは耶律楚材とかがやりだまにあってて、 そんなに歴史学者が毀誉褒貶なことバンバン書きなすってて大丈夫なんかなぁ、と いつもハラハラもんです。 西アジア系の人間なんですが、 遼や金についての歴史研究ってどこまで解明してるんでしょうか?
119 :
世界@名無史さん :02/07/30 20:10
やりつそざいは単なる占い師でたいしたことないと、読んだことがある。
たぶん杉山正明(藁
>>118 きみはアラブ人なの?
120 :
世界@名無史さん :02/07/30 21:01
杉山正明は耶律楚材がオゴダイ治世期に名乗った「中書令」は
実体は宰相ではなくてただの華北担当書記局長程度のもので、
楚材はことさらに肩書きを誇大に見せようとしていたんだ、
なんて書き方をしていたと思う。
前半はともかく後半は言い過ぎ。
>>119 118は西アジア史専攻って言ってるんでしょ。
それはともかく、西アジアの住民はアラブだけじゃないぞ(w
121 :
世界@名無史さん :02/07/30 21:06
今もモンゴル国民は相撲兵士で世界征服することを企んでいるようです
122 :
世界@名無史さん :02/07/30 21:18
耶律楚材は金=遼の人ですよね、 金はモンゴルにも南宋にも嫌われていたのに、 偉人として名前をよくぞ残していると思いますよ。 もっとも、現在のモンゴルや中東での評価は分かりませんが。
123 :
世界@名無史さん :02/07/31 00:59
杉山正明って、何かの本の後書きで 「今やモンゴルが史上最強とはいえない。モンゴルは陸海を支配していたが アメリカは空まで支配している」とか残念そうに書いてたな(w 突然消防みたいなこと書くから好き。
皆さん。 塩婆に次ぐ、何かと話題に事かかない杉山正明さんの名ニックネーム を考えましょう。(塩婆と同列にすんな!とかは別話で) 杉爺ではまだ若いと思うので、杉親父、杉パパ、杉モンとかどうかし ら? なんて言ってみるテスト。
杉様
アフガン航空相撲sage
急激に失速させる書き込みしてスマソ。 >ALL 俺は今後、杉様と呼ぶように致します。 女真も開封に遷都なんぞと、せこい行為をしなければ、元朝時 には支配階級側(色目人)に入れたのではないか? と、思うのは俺だけでしょうか?
色目人=支配階層ってのは古い見方じゃないかい?
>129 禿同。 支配層はあくまでもモンゴル軍団を構成する遊牧諸部族であったから。 行政担当の中央アジア・イラン方面出身のムスリムにしても、 モンゴル王族の個人的な寵臣の域を出なかったから、階層と言うには立場はかなり不安定。 それに大元朝でのムスリムは基本的に商人やその関係の居留民がほとんどだったはず。 モンゴルは遊牧民の王朝だから何処でも商人や旅人は厚遇されるのが大前提で普通。 それにモンゴル史研究の立場からすると、 チンギス汗による帝国創設以来のモンゴルとムスリムの結びつきの密度の高さを考えれば、 「色目人」という後世に作られたっぽい中国系の概念も 使う必要がそもそもあまりない感じがする。 「色目人」って名称が出てくるのが何時頃か、できれば ご存じの方情報のうPをお願いします。
131 :
世界@名無史さん :02/08/07 06:46
モンゴルが教皇と和平を結んで、十字軍に協力していたら面白かったなあ。
132 :
世界@名無史さん :02/08/09 00:17
>>131 イル汗は自分の方からそういう要請をしてたりしたらしい。
でも教皇はモンゴルがカソリックに改宗しなきゃダメと・・・
アンティオキアのボヘモンド(だっけ?)はフレグに合流して破門されてるし。
133 :
世界@名無史さん :02/08/11 05:10
トゥルイ←オゴティ、グユク←モンケ(←は死因をつくったと考えます) こうしてトゥルイ家は覇権をもって末子相続の正当性を主張。しかし、アリク ブガの戴冠を嫌ったフビライが末子相続を拒否、正当性を失って、他の汗国の 支持をも失い、一汗国に転落。アリクブガが大ハーンになっていれば、分裂は 意外と防ぐことができていたのではないでしょうか。
134 :
世界@名無史さん :02/08/11 07:45
モンケは末子でないし、また、モンゴル帝国が分裂したわけでもないと思うが。 アリクブカの降伏後はカイドゥも含めて他のチンギス一族は クビライの大汗位を認めてたはず。確かに全帝国あげての軍事行動はクビライ以後無くなるが。 まあ、正当性ということではクビライがアリクブカから帝位を簒奪した感は 拭えないが。
135 :
世界@名無史さん :02/08/11 08:07
もし支配領域が広がっていたら、どんどん新しい汗国ができていたのでしょうか? シベリア汗国、シンド汗国、アラビア汗国、エジプト汗国、ガリア汗国、日本汗国、…………
136 :
世界@名無史さん :02/08/11 12:45
シベリア汗国はあったじゃんよ。
137 :
世界@名無史さん :02/08/11 12:54
日本汗国はちょっとイイ感じ。
138 :
世界@名無史さん :02/08/11 12:57
139 :
世界@名無史さん :02/08/24 12:13
日本に白人がたどり着いたとき、日本人はさぞかしおどろいたろう。赤鬼は白人、黒鬼は黒人。 中世ルーシー、ヨーロッパ諸国ではじめて東洋人を見た白人は「なんじゃこいつら」と 思ったんでしょう。モンゴル軍は遠征のとき家畜や家族を連れてユーラシアの草原地帯を いどうする。一種の軍事基地が草原地帯をそのまま移動するようなもの。数週間 前には何もなかった平原に突如ゲルの集落ができている。今の宇宙人やufo、エイリアンの モデルになったのは実は西洋人からみたモンゴル軍だったりして。
141 :
世界@名無史さん :02/08/24 17:35
田中芳樹のモンゴル嫌いって初めて聞いた。どういうこといってたの? でもその指摘あたってるなぁ。 反対に司馬遼太郎なんかすごいモンゴル好き、中国嫌いだもんな。土地耕すのは いかん、つって。
142 :
電波@名無史さん :02/08/24 19:59
>>137 シンド汗国・・・ムガール帝国
日本汗国・・・後醍醐天皇政権
あと、高麗なんかかなりモンゴルの風習を受容しているから、高麗汗国とか(以下略)
143 :
山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/08/24 20:04
>142 寧ろ吉野に遷都した日本が抵抗する南北朝時代が見たい(?)。紀伊半島と 奥羽・関東が日本圏という事で。
144 :
世界@名無史さん :02/08/25 02:09
後醍醐天皇政権は汗国てゆーか汗国「かぶれ」ってかんじだな。
145 :
世界@名無史さん :02/08/28 00:20
足利幕府は何汗国?
146 :
世界@名無史さん :02/08/28 00:30
>>141 たぶん誤読。恥ずかしながら田中の本は全部読んだが、奴がボロカスに言うのは
アメリカと自民党。
たぶん『奔流』の元軍の描写を読んで勘違いしたのではないかと。
147 :
なぎさっち@マ板住民 ◆PaPa/MGE :02/08/28 09:08
>146 アルスラーン戦記で遊牧民族国家が壊滅状態に追い込まれたのが根拠、とか。
148 :
世界@名無史さん :02/08/28 10:50
warata
149 :
コギャルとHな出会い :02/08/28 10:51
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150 :
世界@名無史さん :02/08/28 11:39
151 :
世界@名無史さん :02/08/28 11:40
足利政権は大汗の影響はさして受けてないだろう。むしろ明朝寄り?
152 :
世界@名無史さん :02/09/06 02:05
陳舜臣の「チンギスハーンの一族」の評価はどう? 読ませるけど、小綺麗なのが難。もっと血生臭いのない? 殺戮、殺戮...娘z%tr*
153 :
世界@名無史さん :02/09/06 22:07
>152 朝日での連載開始時は「チンギスハーンの裔」だった気が。。。
154 :
世界@名無史さん :02/09/07 03:53
>>152 もっと、西方諸王家の方の活躍やら読みたかった。
佐藤賢一『赤目』はヌケるyoー
なんつーか、浪漫を感じるよね。 大陸の端から端まで駆け巡る騎馬民族。
>155 まぁ確かに萌えるね。 片やヨーロッパ遠征でハンガリーやらブルガリアまで攻め込み、もう一方は中国を南下すると。これだけ雄大な規模の二正面作戦なんざもう二度とないでしょうな。 オゴダイが長生きしてたらモンゴル鉄騎は大西洋まで到達したんだろうか?
157 :
世界@名無史さん :02/09/09 15:35
>>156 1945年、アメリカ合衆国はドイツ本土に侵攻、同時に沖縄に上陸しますた・・・。
>157 いや、馬や徒歩しかない時代にああいう規模で戦争を行ったからこそ萌え。 自動車や飛行機が実用化している時代は当時と比べて、相対的に世界の規模が狭くなっている。よって萎え。
著名なモンゴル史の研究家、杉山正明氏は 世界文化社『歴史クローズアップ』Vol.2の中で、 モンゴル騎馬軍団について 「破壊力などたかが知れている。」 「徹底した調査と諜略。できれば、戦うまえに、敵が崩れてくれるように仕向けた。」 「もうあらかた済んだあとを、ただ行進すればよかった。」 「モンゴル軍そのものは、はじつはあまり強くなかった。」 「事前の調査・諜略・根回しの結果であった」 と述べ、「破壊・殺戮・蹂躙」といったイメージを払拭し、 その成功を政治力・諜報力・工作力などにもとめている。 それに対し、元自衛隊陸将補で戦術研究家の松村劭氏は 文春新書『戦争学』の中で 「今日まで人類が創造し得なかった最も優れた軍事編制、峻烈な訓練、厳格な軍律を達成してみせたのであり、 今日においても可能な限り、近代軍が追及すべき理想像である。」 と述べ、様々な長所を挙げながら特に、 ・兵站部隊も含め全軍が騎兵部隊であることの機動力の優越 ・軽騎兵の射撃支援による相手の態勢の崩しと、重騎兵の衝撃行動によるコンビネーション を強調する。 モンゴル軍は多くの戦争で勝利を納めているが、その真の勝因は、 騎馬軍団が強かったから勝ったのか、それとも政治力、諜報力が優れていたから勝ったのか、 どちらにあるのか、モンゴル史に詳しい方教えて下さい。
160 :
世界@名無史さん :02/09/11 10:48
騎馬の破壊力は凄いのら 実はたいしたことないなんてことはないんちゃう
161 :
世界@名無史さん :02/09/11 11:00
>>157 同意。禿萌え
>>片やヨーロッパ遠征でハンガリーやらブルガリアまで攻め込み、もう一方は中国を南下すると。
>>これだけ雄大な規模の二正面作戦なんざもう二度とないでしょうな。
>>オゴダイが長生きしてたらモンゴル鉄騎は大西洋まで到達したんだろうか?
騎馬民族だからこそ成し得たんでしょうなあ
162 :
世界@名無史さん :02/09/11 11:01
164 :
世界@名無史さん :02/09/12 13:48
某中学歴史教科書 (扶桑社にあらず) を見ると、モンゴル帝国の地図で、 高麗だけ「元に服属した国・地域」として特別扱いしてる。 ちなみにチベットの場合はモンゴルの一部になっている。 高麗と、他の元の支配地域に何か違いがあったのか? 漏れの認識だと、元は中国伝統の中央集権型のシステムを持たず、 雑多な属国の集合体なんだけど。
>>164 俺の教科書だったら逆で、高麗は元の版図に入ってて吐番(チベット)は保護国になってるよ。
本によって違うんじゃん?
乙坂氏の研究によれば、 ・高麗 ・安南 ・チベット の三ヶ国は、 ・ジャムチ網の整備 ・王家と有力貴族家の嫡子の大都への出仕 ・指定された種目の貢納 などで、ほぼ同一の従属度であった。 すなわち、この三ヶ国を別個に区分するのはおかしい、ということになる。
167 :
世界@名無史さん :02/09/16 02:52
いや、最強はノゲイラだと思う。
168 :
世界@名無史さん :02/09/21 10:00
ダメージはサップより酷かったくせに―。
169 :
世界@名無史さん :02/09/21 23:06
ジャムカの子孫は居ないのだろうか? タイチュウト氏を名乗るものなら内蒙古に居るそうだが
170 :
世界@名無史さん :02/09/22 00:23
岡田英弘によると モンゴル帝国によって内陸の公益は活発化した。 それに対抗したのがヨーロッパの大航海時代であったそうだ。
171 :
世界@名無史さん :02/10/14 08:39
保全
172 :
世界@名無史さん :02/10/24 23:40
蒼き狼あげ
173 :
世界@名無史さん :02/10/25 00:07
モンゴルに滅ぼされた沿海州の東夏って国に詳しい人いない?
174 :
世界@名無史さん :02/11/04 16:09
秀吉が明滅ぼしとけばよかった。
175 :
世界@名無史さん :02/11/05 21:05
176 :
世界@名無史さん :02/11/05 21:06
177 :
世界@名無史さん :02/11/07 22:21
モンゴルの遠征が無かったらヨーロッパの暗黒時代は もっと長く続いていたと思う。 それまでは中国やインドの情報は皆無に等しく捏造された情報ばかり だったろうが、大陸の安定が訪れてそれらの情報がリアルに入って くるようになったのではないか?
178 :
世界@名無史さん :02/11/07 22:31
支配力、持続力、適応力から考えると、ローマ帝国のほうが上では?
179 :
世界@名無史さん :02/11/09 17:31
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< モンゴルモンゴル!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< もんごるもんごるもんごる!
モンゴル〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
>>3 ゴルゴナク? 夜の相手はラッチだけか?心から同情するよ(プ
>>4 金? 万里の長城なんか意味ねーんだよ(プ
>>5 高麗? 次のご主人様は俺だ、ちゃんと日本遠征に精を出せよ(プ
>>6 南宋? ゴルァ滅ぼされたくなかったらちゃんと歳幣もってこいよ(プ
>>7 ホラズム? 使節団を虐殺した報復は国家滅亡だったよな(プ
>>8 ポーランド? 騎士の突撃一辺倒な戦術なんか蒙古騎兵の足下にもおよばねーんだよ(プ
>>9 ロシア? ポルガ川が凍った時がお前の最後だな?(プ
180 :
世界@名無史さん :02/11/09 17:33
>>177 暗黒時代の打破と言う事に関しては、十字軍以降、
商業の復活と東方の文物の流入が見られたわけだから、モンゴルの侵攻は必ずしも必要では
ないと思う。
181 :
世界@名無史さん :02/11/09 19:57
カラコルム 裾に取り付き泣く子らを 置きてぞ来ぬや母無しにして −−−モンゴル兵の歌
182 :
世界@名無史さん :02/11/10 00:31
>>181 新説!万葉集は蒙古にまで伝わっていた!(w
>>181 軍勢の大半が結婚前の若者じゃないの
で遠征先で現地の人間と結婚(戦果?)
結局そこの人間になるんじゃない
杉山教授は湾岸戦争でイラクを一気に潰せなかったのは フランスのせいだとのたまっていた
185 :
世界@名無史さん :02/12/03 17:57
どなたも書き込まないみたいなんで、ちょっとお邪魔します。 フビライに対抗したアリクブカと、えーと何だっけオゴタイ家の。 そいつらの視点から見た本とか小説とかって、無いもんなんでしょうか? 学生時代に元史、新元史を読もうとした学生時代を思い出すなぁ。見事に挫折。 教授にも「あの時代の史料は、ボク読めないですから」とキッパリ言われたもんなぁ。 チンギスハーンの一族だっけ?書いた陳舜臣は偉いなぁと思ったもんだ。
186 :
世界@名無史さん :02/12/03 18:19
>>185 この時代のオゴデイ家やチャガタイ家、アリグブカ家などの
そのての話題は、ペルシア語史資料が無いと、詳しいことは解らないと思います。
だから作家の方がこの時代のことをやろうとすると大概挫折するらしいのですが・・・
まずは、故本田實信博士あるい志茂碩敏、加藤和秀両教授の著書あたりを
読まれることをお勧めしますが・・・・・・
187 :
世界@名無史さん :02/12/11 21:22
アイヌと戦争 どうなったん?
>>187 まあ、一部の連中が主張しているのは電波だろうな。
アムール流域でツングース系の部族が暴れたぐらいに見ておくのが今のところ妥当。
そろそろ荒らすぞ!
191 :
世界@名無史さん :02/12/18 19:04
ジンギスカン=源義経
>>188 電波??
モンゴルがサハリンにも「来襲」してアイヌも交戦した、ってのはそんなトンデモでもないと思うが。
193 :
世界@名無史さん :02/12/18 20:00
アイヌは元と交戦して勝っている。 いわば日本侵攻の北方ルートを潰したわけだ。 それに対して日本はアイヌ人の民族消滅を図ることで 報いた外道。
194 :
世界@名無史さん :02/12/18 20:49
>>193 まあ、正規軍同士が直接的に戦ったって話しなんじゃないとは思うけどねw
でも、戦闘があって、モンゴルがかなり苦労したのは事実。サハリン南端
には、間宮海峡を越えてくるアイヌを監視するための砦跡があるという。
195 :
世界@名無史さん :02/12/18 20:59
196 :
世界@名無史さん :02/12/18 21:36
>>194 あのへんの民族は正規軍も何もなかろう。
>>190 お前のようなキチガイは袋詰めにして馬で踏んで虐殺。
杉山正明教授、司馬遼太郎賞受賞記念age。
199 :
世界@名無史さん :02/12/20 22:50
>>193 樺太のギリヤークとかオロッコとかいわゆるアイヌよりもっと少数の民族だったと思うが。
アイヌはあの辺りでは多数派。圧迫者だったと。
http://www.alles.or.jp/~tariq/kampisosi/historyMakunsir.html 1264
文永5
元軍がアムール川下流域に侵出、東征元帥府を設置、
服属する吉里迷(ギリミ、ニブフ?)と対立している、
周辺の骨鬼(クイ、アイヌ?)と衝突。これ以後、
元軍は骨鬼と44年間もの戦いを展開する
1284-6
元朝のフビライ、軍勢をカラフトに派遣、現地の骨鬼と衝突する
1297
骨鬼、海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突
1308
骨鬼、毛皮の朝貢を条件に元軍と和睦
>
日本助かっているじゃん
蝦夷方面から南下されて東北から大軍が来たらアウトじゃん。
2度の役どころの話じゃないじゃん
>>200 その年表をまんま信じこむことは危険だと思うぞ。
>>201 見たけど、何故に危険?
史料は常に批判すべしというのならわかるが、
民族名もアムール下流のナナイ系語彙の呼称と矛盾しないし
この年表引用してるのは危険な史料でもないと思う。
203 :
世界@名無史さん :02/12/23 21:53
サハリン南端の元軍が作ったとされる砦跡は現在発掘されて、中国風の遺物な どが出土しているみたいですな。やはりそこまで、元軍が来ていたとみるべき でしょうね。
初めまして。杉山先生司馬遼太郎賞おめでとうだね。 学生時代、彼の講義はとってもパワフルで面白かったよ。確かに毒舌だけど、 それなりの根拠をあっちこっちの文献から引っ張り出してたし。 歴史家は適当で言いねぇって言ってました。作家は根拠が無くても適当に書けるからだって。 自分は歴史屋だから、根拠がないと書けないんだと。 学生にも同じように古文献を読解させたから、大橋の大漢和辞典をひく学生が図書館に群がってた事を思い出すなぁ 楽しい人だよ彼は。あんまり責めないでやってください。
うらやましければ作家になってみればいいんだ。
入力ミス。大橋の大漢和じゃなくて、諸橋でした。対不起! 世界@名無史さん、そういうことじゃないさ。 杉山先生既に何冊も本を出版してるじゃない。作家じゃなくて研究者の重さってわけ。 作家は研究者の資料をもとに本を出してるんだからさぁ。 研究で飯を食ってるわけだから・・ってこと。 杉山先生の講演とか講義一度でも聞いた事あるの? 本だけではいろいろ判断は出来ないと思うんだなぁ。
内蒙古政府が行ったチンギス=ハンの祭典にこんな言葉があった。 「中華民族の英雄チンギス=ハン」 腐ったやつらだぜ、漢民族ってのは。
208 :
世界@名無史さん :02/12/24 11:14
209 :
世界@名無史さん :02/12/24 11:32
学者なら根拠を示すのは当たり前。 それを作家はいいねえなんて全然違った分野を引き合いに持ち出して 自分のしてることは作家より高尚と言わんばかりの態度の学者って 良くいるが、そういう態度って滑稽だね。 漏れもほんとそれなら作家になればいいのにって思うよ。
210 :
世界@名無史さん :02/12/24 11:33
仕事であるからにはどんな仕事もそれぞれの重さがある。
211 :
世界@名無史さん :02/12/24 14:06
東チャガタイハン国の王家の子孫の方は、現在は何をして おられるのでしょうか?
212 :
世界@名無史さん :02/12/24 14:19
モンゴルってなに? 民族の名前?国の名前?集団の名前?
先生の発言の流れと言うか、前後の発言がないので、前回の書き込みでは全くニュアンスが伝わらないらしい・・・ 作家が羨ましいとか作家になりたいなどと思ってはいないのです。 歴史小説はフィクションだからある程度不自然でも出版できるってわけですよ。 私が思うに、数十ヶ国語を理解して文献を自分の目で研究して発表するわけですから、歴史研究者は 高尚?というか立派だと思うんだなぁ。彼だけに限らず・・・ 決して小説家を馬鹿にしているわけではありません。 でも歴史研究者(学者)あっての歴史小説家だと思うのです。 もうこの話題は終了しましょう。掲示板の趣旨から随分ずれました。 フビライをクビライと呼び、汗をハンではなくカハーンと言う本当の発音に近い読みが 世に知れ渡るようになり嬉しいですね。
>>207 ほんとだよな、我らが大和民族の英雄・源義経の功績を盗んでやがる。
こういうのって最低だよな
>>211 いちおう清朝の貴族になりましたが直系は絶えてしまったようです。
現在までチャガタイ家の直系の血筋を伝える家はおそらくないでしょう。
傍系がウイグル族あたりに埋没している可能性もあるとは思いますが。
>>213 歴史研究者の著作というものは
歴史研究者が史料に基づいた根拠のあることを書いたものだからこそ
信頼にたる歴史叙述とみなされるのであって
歴史研究者がいろんな言葉を読んで苦労して書いたものなんだから
ちょっとくらい間違いがあっても大目に見てやろう、
で済むものではないです。
杉山先生が基本的に研究者としての良心に従って
著述を行われているのはわかりますが、
この2chを含む諸所で見聞きする批判者の言に従うと
著作には先入観による読み違い、勘違い、勇み足と思われるところも
なきにしもないようですよ。
216 :
世界@名無史さん :02/12/25 07:49
>>215 そもそもほんとに筋金入った学者肌の学者ってそういうこと言わないよな。
漏れの知ってる重鎮みたいな先生は作家の想像力はすごいってみんな誉めてたよ。
217 :
世界@名無史さん :02/12/25 14:12
>>216 そうそう。ろくに小説書けない作家が学者はダメとか言ったりするのと一緒だな。
つか、仕事の中身も要求される才能も全然違うだろうに。学者と作家じゃ。 単にどちらも歴史を扱ってるからと言って、 どっちが楽だ、ダメだ、とか言うこと自体が無茶苦茶だよ。
219 :
世界@名無史さん :02/12/25 14:43
イルハーン国滅亡後、ペルシャにいた仏教徒は どうなりましたか?また、イランに現在も仏教徒は 存在するのでしょうか?
学者と作家の件まだ終わってなかったの〜?
>>215 確かに勇み足みたいなとが非常にある。それに自分の研究にナルシストなとこあるし。
例の“遊牧民から・・”の本、来月下旬辺りに文庫本になるらしいね。
売れてるのねぇ・・・。
10年程前の歴史ではなく豚と狼の杉様の話、皆さん読みたいかな?
とってもくだらないけど。
>>123 .124
あの人アメリカ大嫌いだったなぁ。
そういえば、我が大学時代にも、彼は杉様と呼ばれていたっけ。
10年経ってもキャラがかわってないのだねぇ。
221 :
世界@名無史さん :02/12/25 18:15
>10年程前の歴史ではなく豚と狼の杉様の話、皆さん読みたいかな? >とってもくだらないけど。 うん、おせーてください。 >あの人アメリカ大嫌いだったなぁ。 『遊牧民から見た世界史』で 「アメリカ史研究のうすさ、弱さは、日本という国の弱点につながりかねない。 国民各位の最高をお願いしたい」と書いてるね。 愛国者の杉様に萌えっ。
222 :
世界@名無史さん :02/12/25 18:54
>>219 そもそも、イル・ハーン国がなくなるまで仏教徒でいられたの?
223 :
世界@名無史さん :02/12/25 23:09
>>221 長いんだなぁ。数回にわたって書こう。
No.1
妙に動物園が好きでしょうがない。日本はもとより、外国へ行くと、すぐその町の動物園に行ってみたくなる。
動物園にも、お国柄と言うものがある。イスラーム圏の動物園には、日本の動物園ではちょっとお目にかかれない動物がいる。
別にかわったのじゃありません。豚です。
かわいそうに、豚はイスラーム世界では歓迎されない。ふだんの生活でも豚にはまずお目にかかれない。ハムになっても。
だいいち、ほとんど飼っていない。だから、動物園に豚がいる。
ところがその豚。こっちの目には、ちっとも豚に思えない。とくに筆者が豚にくわしいわけではありません。
でも、ふつう豚はふとっていますね、日本のイメージでは。
それがどうかというと、やせているんです。目つきはあくまでも鋭く、ランランと光っている。ほほ肉のそげおちたその顔つきは、
狼に似ている。「おや、豚さんも変身すればするものですね」と内心おどろいてしまう。
かたや、狼さんである。こちらはたいていブクブクにふとっている。もしくは、全体にふっくらと丸みをおびている。そのまなざしは、
まことにやわらかい。すっかり、おもがわりして、「あなたはいったいだれですか」とたずねてみたくなる。
豚小屋ならぬ豚のおりでは、異様な雰囲気がながれている。まわりに群がるムスリムの子供や大人は、「おっ、これが噂の豚か」などと、
わあわあがやがや、まあうるさい。
好奇とさげすみのまなこで見つめられる豚のほうも、牙をむき、きつい目をしてはげしくほえる。うーんその気持ち、わかる。
いっぽう、狼のおりのまえでは、尊敬と崇拝のいりまじった目で見つめる一団の人々がいる。そこは、なにかしら、ゆったりとした優雅な
空気につつまれている。
もちろん、豚にはだれもえさなんかやらない。だから、やせる。狼には、みんなうれしそうにたべものをやっている。だから、コロコロふとる。
イスラーム圏では、「三匹の子豚」のお話は、たぶんできないでしょうね。(つづく・・・)
誰かが批評していたとおり、やたらに句読点がおおい。ひらがなが多い・・・。
>>223 その微笑ましい文章は大学の紀要か何かに載ってたんですか?
225 :
世界@名無史さん :02/12/27 21:53
>>224 今日はつかれた・・・。つづきはまた今度。
学内の季刊新聞に掲載された物です。紀要は無理でしょう。
学生時代の資料とかノートを整理していたら出てきたのです。
226 :
世界@名無史さん :02/12/28 05:52
227 :
世界@名無史さん :02/12/28 09:37
まったくだ晒しage
228 :
世界@名無史さん :02/12/28 15:21
早く言ってくれよ!バイバイ。 疲れるじゃん。 221さんそちらでね。 支持者でもアンチでもないんだぜぃ。
230 :
世界@名無史さん :03/01/10 21:43
モンゴルの勢力版図と東西冷戦下の共産圏版図が そこそこ一致していると思うのですが、 因果関係を論ずるのはちょっと無理でしょうか?
231 :
世界@名無史さん :03/01/10 22:35
無理
(^^)
>>230 その説は随分古くから指摘されてる。
強いていえばモンゴル帝国ではなくモンゴル帝国の後継国家の体質からあたるべきだろう。
234 :
世界@名無史さん :03/01/25 16:05
朝青龍はチンギスハーンの直系なのか?
235 :
世界@名無史さん :03/01/28 01:17
ドルジ横綱推薦age
>230 地政学を学ぶことが君の助けになるかもしれない。
>>230 >モンゴルの勢力版図と東西冷戦下の共産圏版図
だからそれが「ハートランド」だろ。
これに対して、モンゴル以降の、ポルトガル・スペイン・日本の隆盛、
冷戦下の自由圏が「リムランド」だろ。
別に目新しい話でもないが。
238 :
世界@名無史さん :03/02/13 20:36
馬乳酒あげ
(^^)
240 :
世界@名無史さん :03/03/18 22:21
age
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
244 :
世界@名無史さん :03/05/28 04:44
耶律楚材に興味深々でっす
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
246 :
世界@名無史さん :03/06/04 20:38
あげ
247 :
世界@名無史さん :03/06/25 22:12
今のモンゴルはどうなんだ?
248 :
世界@名無史さん :03/06/25 22:24
【世界史上】モンゴル帝国最強伝説【最大版図】が・・・いつの間にか 【2hc史上】山崎渉最低伝説【最大版図】になってるな・・このスレ。
249 :
日本@名指しさん :03/06/25 22:27
朝の青龍 陰陽五行説でいう、東の方角、午前(朝)、青色、春、若年男子。 神獣は青い龍(しょうりゅう) 朝の赤龍 赤は南の方角、昼、夏、壮年。 神獣は朱雀(すざく) だからあの弟分レスラーの名前の意味がよくわからない。
250 :
世界@名無史さん :03/06/26 00:13
イスラム商人のおかげ!
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
252 :
世界@名無史さん :03/07/15 22:57
カルピスは創始者である三島海雲が、モンゴル自治区を訪れていなけれ ば、おそらくこの世には誕生していなかったでしょう。 三島は1902年、25歳のときに中国に渡り、綿羊の改良、軍事馬の調達、 現地産牛の輸出など、様々な事業を試みます。地理にも精通し、王侯貴 族とも親しくなるのですが、1908年にモンゴル自治区を旅した際、ジン ギスカンの子孫という貴族にもてなされます。 この日、供されたのは酸っぱい牛乳と、ジョウヒと呼ばれる酸っぱいク リーム。この酸っぱい牛乳こそが現在のカルピスを生むきっかけとなり ました。 この酸っぱい牛乳を飲んで数日過ぎた頃に、三島は自分の体調が以前よ りずっとよくなっていることに気づきます。弱っていた胃腸が整い、不 眠症は消え去り、体重も増えている。このとき彼は、その原因が先日ふ るまわれた「酸っぱい牛乳」にあることを実感します。 結局、三島は13年後に無一文となって帰国するのですが、すぐに知人か ら資金援助を受け、あのモンゴルで飲んだ「酸っぱい牛乳」を日本で商 品化しようと乗り出します。 もちろん最初から順風満帆だったわけではありませんでした。研究に研 究を重ねた末、牛乳から完全に脂肪を除き乳酸発酵させ、糖分をプラス する方法を生み出すにいたります。その基本的な製法は現在でも変わら ず、牛乳に植えつけるカルピス菌は代々増殖させて受け継がれ、大切に 使われているそうです。
253 :
世界@名無史さん :03/07/19 16:39
記録を信頼する限りでは、史上最大の虐殺は1221年イラン東北部にあるニシャプールの街で行われた。 わずか1時間の間にチンギス・ハーンの軍勢はたちまち175万人を殺し尽くしたという。B−29による空 襲は数年もかけてさえたった100万人程度であり、ヒロシマ原爆に至ってはわずか20数万人である。
254 :
世界@名無史さん :03/07/19 16:41
ギネス災害記録によると、人類史上最大の大量虐殺は モンゴル人による中国農民虐殺(1311-40)で約3500万人だとか。 大量破壊兵器もなかった時代によくも殺したものである。
255 :
世界@名無史さん :03/07/19 16:42
ワールシュタット(死体の山) モンゴル人はヨーロッパ侵略をしたときに、大虐殺したポーランド人の片耳を切り落として 戦利品として持ち帰ったという。切り落とした耳の数は大きな皮袋9個に一杯になったという。 ポーランドの人々は、この虐殺場所を「ワールシュタット(死体の山)」と呼ぶようになった。
256 :
世界@名無史さん :03/07/21 03:49
結果的にモンゴルの戦火を免れた西ヨーロッパと日本が、現代まで先進国として 発展していったのは偶然だらうか。
257 :
世界@名無史さん :03/07/21 03:52
モンゴルの戦火はアフリカも東南アジアも受けてないよ。
258 :
世界@名無史さん :03/07/21 16:56
南北のアメリカも
259 :
世界@名無史さん :03/07/21 17:01
東南アジアは侵攻していますね
260 :
世界@名無史さん :03/07/21 17:10
>253 スゴイ、一分間に3万人、一秒で500人殺している。死体の量は約9万トン。 もひとつ凄いのは、ニシャプールという街に175万人もいたということ。 いろんな意味で感動。
261 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/21 21:05
>>253 ニシャプールって、100万都市だったんですか!
衛星都市や周辺の農村部を含めた数字としても、かなり驚きの数字ですよ。
南宋の帝都臨安府さえ、首都圏全体で150万なのに…。
これほどの大都市を首都以外で抱えていたホラズムって、大帝国だったんですね。
>>256 偶然です。モンゴルの戦火に晒された地域のほとんどは、
ほとんどが15世紀頃には復興して以前の繁栄を取り戻しています。
>>257 陳朝大越(現在のベトナム北部)が攻撃を受けましたが、撃退しました。
チャンパ王国(現在のベトナム南部)は一時、王都を占領されています。
パガン朝(現在のミャンマー)は占領され、傀儡政権を立てられました。
シンガサリ朝(現在のジャワ島東部)は内紛に付け込んで占領することに成功しましたが、
内通者だったシンガサリ朝の王族ヴィジャヤの裏切りに遭い、敗走しました。
激しく攻められてます。
ホラズムが大帝国だったのは確かだけど、175万人というのはいくらなんでも 大げさじゃないかなぁ?
263 :
世界@名無史さん :03/07/23 03:07
単純に最大版図で考えると2位以下はどういう順位なのかな? 大英帝国、帝政ロシア、大日本帝国、ローマ帝国等
264 :
世界@名無史さん :03/07/23 03:15
モンゴル人の最大の功績は、火薬を殺略兵器にかえて世界に広めたことにある。
265 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/23 03:20
>>262 ニシャプールで殺されたのが、
175万人だろうと、17万5000人だろうと、1万7500人だろうと、
私たちにとっては大した問題じゃないんですけどね。
古都ニシャプールがモンゴル軍に屠られたという事実だけが重要なのであって。
>>261 しかし、東欧、イスラムや中国といったそれまでの先進諸国が、
蒙古来襲から西欧に一気に経済面、技術面で追い抜かれているのが偶然だとは思えんのよな。
やはり復興、回復までの期間が、先進国として発展に大きく水を差したんじゃないかと思うんだが。
ルネッサンスの繁栄は東方の戦火を逃れた物資や人材が、西欧に流入して起きた事なのではなかろうか。
第一次大戦後の繁栄のアメリカみたいに。
言っておくがモンゴルの侵攻を否定してる訳じゃないぞ。
267 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/23 21:31
>>266 >しかし、東欧、イスラムや中国といったそれまでの先進諸国が、
>蒙古来襲から西欧に一気に経済面、技術面で追い抜かれているのが偶然だとは思えんのよな。
そんな現象は起きていません。
西欧の東欧・中東・中華に対する技術的・経済的優位が完全に確立するのは、
18世紀になってからです。
>やはり復興、回復までの期間が、先進国として発展に大きく水を差したんじゃないかと思うんだが。
復興・回復はモンゴルとその後継者がしっかりとやってくれました。
モンゴルが支配しなかった地域は、自力で復興しました。
その間、西欧は無数の小王国や領邦に分かれて内輪もめしながら、
少しずつ経済成長・技術発展を進めていたので、
復興に邁進していた東欧・中東・中華を追い抜くことは出来ませんでした。
>ルネッサンスの繁栄は東方の戦火を逃れた物資や人材が、西欧に流入して起きた事なのではなかろうか。
ルネッサンスの起きた主な要因は、
@十字軍以後、東方交易が盛んになり、中東世界の高度な文化が流入してきたこと。
A東ローマ帝国の衰退により、イスラム勢力に占領された地域に住む旧東ローマ領の知識人が流入していたこと。
B有力者の間で、文化活動保護ブームが起きていたこと。
などがあげられます。
なお、東方交易が安定した背景には、
中東を宗教に寛容なモンゴル勢力が支配したからという要因があります。
また、東ローマ帝国の知識人が西欧に流れたのは、
主にオスマン=トルコ帝国のせいであり、モンゴル勢力のせいではありません。
268 :
世界@名無史さん :03/07/23 23:10
>>265 実はモンゴル侵攻前に、
ハナフィー派とシャーフィイー派との間で苛烈な権力闘争が繰り返され、
ニーシャープールをはじめホラーサーン地方全体で都市社会が崩壊してたって
説を聞いたことがあるけど・・・
269 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/23 23:54
>>268 >ハナフィー派とシャーフィイー派との間で苛烈な権力闘争が繰り返され、
>ニーシャープールをはじめホラーサーン地方全体で都市社会が崩壊してたって
>説を聞いたことがあるけど・・・
その説については、初耳ですね。
ホラーサーンはシーア派の地域だとばかり思ってましたから。
スンニ派に属するハナフィー派とシャーフィイー派が入り込む余地は無いと思ってました。
ただ、ホラーサーンを争奪していたホラズムとゴール朝はスンニ派王朝だったので、
無理矢理ホラーサーンにスンニ派を導入しようとして、二派の抗争を招いた可能性もありますが。
モンゴル侵攻以前にも、ホラーサーンではゴール朝とホラズムが激しい争奪戦を繰り広げていましたので、
その戦火の影響もホラーサーンを荒廃させる大きな要因だったかもしれません。
モンゴル侵攻以前からホラーサーンが既に荒廃していたという説は、
理由はどうあれ説得力があります。
モンゴル軍におけるモンゴル族の総兵力は5万〜10万程度で、 主力だったのはモンゴルに降伏したトルコ・漢族などがだった。 元寇の時に、直接蛮行を働いたのがモンゴル人とは限らなかったように、 「モンゴル軍の蛮行=モンゴル人の蛮行」とは言えないし、 あれだけの行為をモンゴルの人的資源だけでは到底出来ない。
271 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/25 02:27
>>270 まあ、俗にモンゴルの蛮行と言われるのは、
モンゴル人が手を下した蛮行では無く、
「モンゴル人がアタマ張ってる勢力」の蛮行という意味でしょう。
それにしても、派手に征服戦争をやった民族は、
どんな少数民族でも、急に人口が増えたように見られがちですね。
実際は、征服された民族の方が頭数がはるかに多くて、
兵隊もそういう連中が中心なってる場合の方が多いのに。
西洋からオスマン帝国への知識人の移動もあるでよ。 スペインのカソリック諸国は、1492年にグラナダを陥落させるまでは宗教的 に慣用で、ムスリムやユダヤ人の臣下を平気で抱えていたが、16世紀に入る と改宗か退去を強要、金持ち・知識人でスペインを離れざるを得なくなった 人々が大量に出現しました。 東欧のユダヤ人には、祖先がスペインから追放されて、オスマン帝国の保護 下に入った、という系統の人が多数います。
273 :
世界@名無史さん :03/07/28 22:35
274 :
世界@名無史さん :03/08/02 06:02
たった500人でインカ帝国を征服したピサロの方がずっと英雄的だい。
世界的知名度 チンギスハン>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>フランシスコ・ピサロ
276 :
世界@名無史さん :03/08/02 06:17
世界的知名度 アドルフ・ヒトラー>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>チンギスハン
278 :
世界@名無史さん :03/08/03 00:18
何故、北方の遊牧民ごときの支配を諸民族が簡単に覆せなかった のだろうね? 匈奴・鮮卑の侵入を防ぎ続けてきた漢王朝は偉大だな。
>>278 漢朝は高祖の頃、冒頓単于に敗れ屈辱的条件で講和を結んでいますが?
281 :
世界@名無史さん :03/08/03 01:12
うりゃんはたい、とか 漢字表記と読みを両方覚えなきゃいけないのはややダルイね
282 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/03 03:23
>>278 草原の民は、普段はただの羊飼い兼狩人ですが、
優秀な指導者が出れば、あっという間に最強の軍隊に生まれ変わるんですよ。
日常生活が軍事訓練みたいなもんですから。
草原の民をなめちゃあいけません。
波に乗れば、あっという間に大帝国が出来ちゃうんですから。
>>280 五胡十六国時代にも、草原の民が雪崩れ込んで、
華北取られちゃってますね。
>>281 元史読むの、マジでだるいです。
283 :
世界@名無史さん :03/08/03 03:39
>>282 ついでに補足。
遊牧民族自体も諸部族に分割して争っていたため、民族が統一した「武力」が生まれにくいことも起因する。
これが、遊牧民族の統一を果たしたチンギスが英雄と呼ばれる所以。版図を拡大したから偉大、というわけではない。
また、彼らには定住するという概念が存在しないため、反撃に打って出ることも困難を要した。(移住ルートは存在するが)
定住による防備(城郭戦)を得意とする中華圏の軍隊では圧倒的に機動力が欠ける。遊撃策が封じられれば篭城策しかない。
一方、モンゴル軍は中華圏の軍や将校を帰順させ、攻城技術を獲得することが出来た点で優位を築けたのである。
蛇足。永遠の青さん、歴史トリビアスレでのモンゴル帝国解釈につきあって頂けてありがとう。
>>283 まあ、かつての匈奴や契丹(遼)、セルジューク朝なんかも遊牧民族を統合して
大帝国を築いてますけどね。
その中でも最大のものが、モンゴル帝国だったと言うことで。
>>282 華北の五胡のうち、草原の民と呼べる遊牧騎馬民族は匈奴とその支族と言われ
ている羯族くらいではないでしょうか?
鮮卑は半農半牧と伝えられてますし、「てい」族及び羌族はチベット系と言われて
いるので、いわゆる草原の民とは異なるかと。
286 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/03 04:13
>>284 氐族と羌は外してもいいとは思いますが、
あの頃のモンゴル高原では鮮卑がたくさん住んでたらしいんで、
鮮卑も入れてもいいかと思います。
農業やってたのは、たぶん漢土に近い地域にいた連中でしょう。
柔然がモンゴル高原を支配できたのは、
鮮卑の主力が中国に行っちゃって、政治的空白が生じたからです。
287 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/03 04:22
>>284 どの本を読んでも、チベット系と書かれていますから、
チベット系である動かぬ証拠を考古学者や人類学者が持っているのでしょう。
私は中国の歴史に興味を持っています。中でもモンゴル帝国のエピソード には感動しました。金、南宋、モンゴルの三つの国同士の争い、有名な戦い、 名将軍…。その一つ一つが昔、実際に起こったことだと考えると、将軍や 兵たちの士気が伝わってきます。 大きなことを成し遂げた人や、功績を挙げずに死んでいった人。その人 たち全員が美しく感じます。戦争は好きではないけれど、そんな中で国のため、 カンのために戦い、散っていった人たちは何より輝いていると感じます。 私はそんな人たちは英雄といえると思います。今の時代、うそにうそを 重ねたごまかしばかりです。確かに昔は戦が頻繁に起きていたけれど、本当に 守るべきものは何かを理解しているのか分からない今よりずっといいと思います。 モンゴル時代の兵たちは、誰もが美しい英雄だと私は思い続けます。
>>287 そうでしたか…
トルコ系は鮮卑でしたっけ?
モンゴル系にツングース系とか色々ある上、勢力範囲が流動的すぎますし
この辺はちょっとややこしいですね
290 :
世界@名無史さん :03/08/03 04:41
>>288 幻想を打ち壊すようで気が進まないが、一言だけ。
如何なる時代、如何なる場所でも戦争は英雄を生まない。
>>289 鮮卑はトルコ系とする研究者が多いようですね。
鮮卑も唐代には完全に漢化してしまったので、実態はよく分からないわけですが。
>>290 チンギス=カンは戦争によって生まれた英雄ですよ
293 :
世界@名無史さん :03/08/16 04:00
モンゴルの人名って漢字からはどう読むか分からないんだけど、 注とかに音が記されているの? 成吉思とかって、とてもチンギスとは読めんでしょ・・・
294 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/16 23:58
>>293 当時の中国語の発音で、彼の称号を表記すると成吉思皇帝になるのでしょう。
(元史では彼がモンゴル高原を統一した時の称号は成吉思汗では無く、成吉思皇帝と記されています)
なお、元史によると彼の本名テムジンは鉄木真と表記されるそうです。
中国がすごいと思うのは、日本がまだあまり白人世界を 知らない時代から彼らと対等以上に遣り合ってたこと
297 :
世界@名無史さん :03/08/17 01:57
つーか、漢文で成吉思と書いてあるのをチンギスと読む根拠は何なの? やっぱ史書の注に読み方とか書いてあるんじゃないの?
>>297 逆でしょ。
中国語は音はなんでも漢字にしないと表現できないから。
299 :
世界@名無史さん :03/08/18 04:57
杉山正明以外に「ワールシュタットの戦いはなかった」と 唱えてる学者っています?
300 :
世界@名無史さん :03/08/18 07:33
>>297 漢字自体の発音の時代変遷については研究蓄積があるから
言語の発音をある程度は類推できます。
しかもモンゴルの場合モンゴル帝国時代に発明された
モンゴル文字があるから確実。
>>299 いません。
「クリコヴォの戦いはなかった」と唱えてる学者はいますが。
>>297 漢文に表音文字はありません。よって、註でも発音を正確に説明することは
不可能です(実際は表音文字でも不可能ですが)
モンゴル帝国の場合は、ペルシア語の文献もあるので、対照することでかなり
正確な発音が分かるんじゃなかったでしたっけ?
302 :
世界@名無史さん :03/08/19 02:31
モンゴル文字ってパスパ文字?
303 :
道光帝旻寧 ◆lPGL9UQfUY :03/08/19 04:58
臣民
>>301 ニ諭ス。
蒙古字韻ナル一書アリ。
八思八字ト漢字ヲ対比セルモノナリ。
コレヲ以テ華北ノ音価ヲ知ルヲ得。
304 :
世界@名無史さん :03/08/19 05:22
>>296 渡り合っていたのは中国を蔑視していたモンゴルなのだが。
>>299 >クリコヴォの戦いはなかった
誰ですか?
307 :
世界@名無史さん :03/08/20 21:03
ヤリツ楚材はなんの実権も持たないただの下級書士だったってほんと?
>>305 岡田英弘あたり。岡田のネタ元は、あるイギリスのモンゴル史学者の主張。
>>307 モンゴル帝国の宰相とは言えなさそうなのは確かっぽいね。
ペルシア語文献に名前も出てこないのは宰相とする説の致命的弱点だから。
華北担当大臣か漢字担当書記長官ってとこじゃないの。
でも当時の華北には漢人世侯がいて
モンゴル帝国中央の行政権限なんて微々たるものだからねえ。
309 :
世界@名無史さん :03/08/20 23:20
ピョートル1世までのロシアにはモンゴル時代の名残がどのような形で 残っていたんでしょうかね?イヴァン4世はママイと言う人の子孫 を名乗っていたと聞きましたが。
310 :
世界@名無史さん :03/08/20 23:32
パスパ文字は表音文字なんか?
311 :
世界@名無史さん :03/08/21 02:02
カラコルムって名前がイイ!
312 :
世界@名無史さん :03/08/21 10:22
か き つ ば た
313 :
世界@名無史さん :03/08/21 10:30
314 :
世界@名無史さん :03/08/21 10:49
299
>>300 やっぱそうですか、サンクス。
杉山さんの執筆した教科書には「ワールシュタットの戦」は
記載されとらんのかな。ほかにもこのセンセだけが主張して
著作にさも実証済みのように書いてある事件とか見解とかあったら
教えてください。
>>314 うーん、ちょっと思いつかないね。
杉山説の通説との齟齬は、モンゴル中心史観による再解釈の結果、という印象がある。
周知のように岡田英弘は実証不明の記述が山のようにあるけど。
316 :
世界@名無史さん :03/08/21 18:23
314
>>315 なるほど、そういう見方もできますね。
でも何かの概説書で、「実証はまだなんだけど、それやってると時間かかるから
結論だけ書いとくね」みたいな記述があって、いいのかなあコレと思った。
318 :
世界@名無史さん :03/08/23 04:28
トゥルイファン祭り開催中
319 :
世界@名無史さん :03/08/24 04:44
モンゴル語と古代匈奴語って共通点あんの?
320 :
世界@名無史さん :03/08/25 03:49
コーエーのゲームとかだと美形に書かれてるジンギスカンだけど 実際はつり目の下ぶくれ顔だよね? モンゴル人って一重まぶたでつり目で下ぶくれが多いと思う。
321 :
世界@名無史さん :03/08/25 03:50
見たのか?
322 :
世界@名無史さん :03/08/25 06:40
>>321 画像でな
でもあの画像もいつ描かれたかわからんな・・・
323 :
世界@名無史さん :03/08/25 06:55
>>308 ありがとうございます。
そのイギリス人て杉山正明がツッコミ入れながら訳してた何とか・モーガンでしょうか。
>>309 母方からキヤト・ママイの血を引いてるって話はありますね。
ママイはチンギス裔じゃないからあんまり自慢にならないけど・・・
325 :
世界@名無史さん :03/08/28 05:43
”蒙古襲来”は韓国による情報戦略攻撃ちゅうのもあるだろうな。 何が悲しゅうて、草原の民が海を渡り山ばかりの島国を 征服しようとしたか? 朝鮮人が手引きして、先頭に立って侵略しに来た。 「例の法則」が発動され、失敗 懲りずに再び侵略のお先棒を担いだが マタマタ失敗し それでチョン。 もう一度蒙古人を唆したが其の手は喰わなかった。 しかし、その後何を血迷うたかジャワ征服を企画し行動を起こした。
>>324 コリンズというひとです。
ちなみに岡田英弘はママイを
チンギス裔(ジョチの八男ボアルの子孫)と書いちゃってますが、
そういう説もあるのかな?
327 :
世界@名無史さん :03/08/31 14:49
バトゥage
>>326 >ボアルの子孫
ひょっとしてノガイと間違えたとか・・・(W
岡田英弘は読んでなかったけど面白そうですね。読んでみます。
329 :
世界@名無史さん :03/09/02 06:21
現在の中国人の顔ってかなりモンゴルの遺伝子が 混ざってるんだろうね・・・ 女真の遺伝子の方が多いかも知れないが。 〜漢代、〜宋代の中国人は顔の系統が大きく 違うような気がする。
330 :
世界@名無史さん :03/09/02 06:38
>>329 叔父を釜茹でにした皇帝もいる明朝は、宋朝より元朝の後継者だと
陳舜臣も書いてる
331 :
世界@名無史さん :03/09/02 07:29
>>325 モンゴルで海を越えた侵略行動採ったのは元朝だけ
332 :
世界@名無史さん :03/09/05 23:54
現在のモンゴル人にトルコ系のなごりみたいのってほとんど 無い気がするんだが・・・ 匈奴・鮮卑・突厥いずれもトルコ系説があったような? それにしては純アジア系だ。
インドネシアにも侵攻していたのか? なぜ南半球にある島国まで
サハリンにも侵攻してるよね、 こっちの方は北海道・樺太アイヌの諸部族が連合軍を 結成して、大陸に反抗してたはず。
335 :
世界@名無史さん :03/09/06 21:45
ジャワ島侵攻だろ。 海上交易ルートの中継地を押さえておきたかったのだと思われ。
336 :
世界@名無史さん :03/09/06 22:01
>>334 アイヌ+ニブヒ+ウイルタ連合軍だったようで。数十年粘りとおしたようですな
337 :
世界@名無史さん :03/09/07 01:26
━┳┳━ ( 箕 ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (#`ハ´) < 商から来たアル ( ~__))__~) \_____ | |(__)∧ アイゴー (__)<`Д´⊂⌒__フ ━┳┳━ ( 衛 ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (#`ハ´) < 燕から来たアル ( ~__))__~) \_____ | |(__)∧ アイゴー (__)<`Д´⊂⌒__フ ━┳┳━ ( 漢 ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (#`ハ´) < 郡県制を布くアル ( ~__))__~) \_____ | |(__)∧ アイゴー (__)<`Д´⊂⌒__フ
大汗民国が最強ニダ!!!
.∧_∧ ( `Д´) フランス(ルイ9世) _ _ . /| / .\ |\ キモイ/. /軽蔑 軽蔑\. \キモイ ./ |/ \| \  ̄ 敵視  ̄ .∧_∧ ────────→ .∧_∧ ( `Д´) ←───────― (`Д´ ) マムルーク朝 敵視 モンゴル
341 :
世界@名無史さん :03/09/21 08:41
342 :
世界@名無史さん :03/09/21 21:15
>>341 今はどうだか知らないが、ソ連崩壊直後はモンゴルにチンギス=ハンの資料が
無く、井上靖の「蒼き狼」を翻訳して教科書にしていたって話も。
343 :
世界@名無史さん :03/09/21 21:17
キリル文字がモンゴル文字に戻った
344 :
ayaya :03/09/25 04:02
345 :
世界@名無史さん :03/09/26 18:43
冨田勲の大モンゴルのサントラを入手したので 感激ついでに上げてみる。
346 :
世界@名無史さん :03/09/26 19:45
それ漏れもホスイぞ(w 今でも手に入るかな?
348 :
世界@名無史さん :03/10/10 04:01
最強のモンゴルが何でよわくなっちゃったの?
349 :
世界@名無史さん :03/10/12 03:47
永遠の青は基地外
350 :
世界@名無史さん :03/10/12 04:23
>>348 人間には不幸か、貧乏か、勇気が必要だ。でないと人間はすぐに思いあがる。
byツルゲーネフ
という言葉が当てはまらんかね。
貧乏だったモンゴル人が他国を征服した富を当然と思う二代目を生んだ時…
軍事力によって立つモンゴル帝国はおしまい。
351 :
世界@名無史さん :03/10/12 04:57
義経ってほんとすごいね。てへ。
義経=ジンギスカン説で思い出したが 本宮ひろしが信長=イワン雷帝とする漫画を書いていたな。 大風呂敷広げたわりに最後は整合性をつける気なくなって 信長がユーラシア全土を支配して終わりというひどい漫画だったなあ。
353 :
世界@名無史さん :03/10/19 11:08
テムジンと義経を同レベルで論じるとは、全く失礼。 客観的にみて、方や、世界選手権・ワールドカップで優勝、方や、村の大会で良いところまで行くが、準決勝ぐらいで敗退。 ぐらいの差じゃないか。
354 :
世界@名無史さん :03/10/19 11:12
義経=ジンギスカンいうのは満蒙開拓の当時、軍部の御用学者が 人心収攬の為に言い出したもの? それとも江戸時代からあったっけ?
モンゴル帝国はシステムとしてはローマや漢に劣っており、 指導者の能力が帝国の運命を左右したため、後継者に恵まれないと 崩壊する運命にあった。 アッティラのフン帝国やティムールなど、遊牧系の帝国は一概に ローマ・ペルシャ・漢など定住系の帝国にくらべ、 勢いがあるときはこれらの帝国を圧倒するが、 あっという間に興り、滅んで逝く傾向にある。
356 :
世界@名無史さん :03/10/19 12:18
>>352 本宮ひろ志の漫画は信長=イワン雷帝じゃないよ。
件の「夢幻の如く」じゃイワン雷帝はすっかり小物扱いだった。
最後はコサックに見限られてあぼーんだしな。
357 :
世界@名無史さん :03/10/19 12:21
「夢幻の如く」は、どこの国の人間も同じメンタリティを持ってて、実に光栄チックな漫画だった。 チンギス4風にゲーム化してりゃそこそこ売れたかもしれんと言ってみるテスト。
358 :
世界@名無史さん :03/10/19 14:13
「カラコルム」は テュルク・モンゴル語の「qara:黒;黒い」と テュルク語の「qorum:砂礫;大岩、岩の堆積」に由来してるとか。 史料に「カラコルム山」と出てくるけど、 実際カラコルムの南西15kmのところに石切場跡があって、 黒っぽい花崗岩質の岩塊や作りかけの亀趺とかがごろごろ転がってるんだそうな。
359 :
世界@名無史さん :03/10/19 14:24
>>354 平泉で自害したとされる義経ですが、
その後、北海道に渡りその地を征服したとされる伝承があります。
これは北海道開発が始まりつつあった江戸時代初期に広がったようです。
同様に義経=チンギスハン説は満州・モンゴルへの進出が始まりつつあった
明治後期から大正にかけての発祥だそうです。
江戸時代は、源義経=清朝皇帝愛新覚羅氏の始祖 というのもあったはず。 新井白石だったっけかなぁ?(うろ覚えでスマソ)
362 :
世界@名無史さん :03/10/20 14:21
源義経とは無関係に、むこうでは清朝皇帝愛新覚羅氏の始祖=ジンギス汗、という説もあった。
364 :
世界@名無史さん :03/10/21 20:02
>>362 オスマン朝の始祖=チンギス汗とかゆーよりも突飛だなぁ(w
むしろそれって愛新覚羅氏が意図的に(ry
いちおう、大ハーンの後継者ってーのがウリじゃなかったっけかな。 ロシア帝国も同様。 蒙古八旗とか従わせるのには実力だけじゃなくて「血」も必要だったろうし。 清朝スレがあんな状態じゃなけりゃ詳しくきけるのに。>清朝ネタ
366 :
世界@名無史さん :03/10/23 02:46
>清朝スレがあんな状態じゃなけりゃ詳しくきけるのに。>清朝ネタ 藻前、それをサゲで聞くなよ。もっと大きな声で聞こえるように言おう(w つーわけでアゲ。 ゚ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ /  ̄/\ | 緊急浮上!! 。 |_ /\ \ \__ _______/ 〃,| \ \./\ ∨ |_. \./\: \ ∠⌒∧ 〃:\  ̄ \ \./ \_(´∀` ||) |__|∴ : \_ \ /\ \ ̄\ゝ) ) //∴∵ : 〃\  ̄ \ :\ / \ \/// ∵ ∴ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
367 :
世界@名無史さん :03/10/23 14:58
火薬を殺略兵器にして世界に広めたのが、蒙古族最大の過ちだ。 全面禁止にして火薬の秘伝を消し去るべきだった。 武田騎馬軍団が信長の鉄砲隊に敗れたように、騎馬民族の優位を下げてしまった。
368 :
世界@名無史さん :03/10/23 22:11
『大元伝国之璽』を手に入れたいってもチンギス王家の当主になれたって訳じゃあないからねぇ それとも歴代清朝皇帝はやっぱり「カアン」って呼ばれてたのかな、モンゴルじゃあ
>>368 近世モンゴルじゃハンとカアンの区別がなくなってるはずだから
当然カアン(発音はハーンに変化)と呼ばれていたと思うが。
370 :
世界@名無史さん :03/10/25 23:23
近世モンゴル語じゃあ結局「ハーン」号に統一(?されちゃうのすか〜 ティムールの北元征討計画も、一生「キュレゲン」って呼ばれるままなのが嫌で 「ハーン」になるためにモンゴル本土のチンギス王家も屈服させたかったんかな〜 とか妄想しちゃう(w
371 :
世界@名無史さん :03/10/29 21:30
>>367 杉山正明に言わせると、元代に確立した海上覇権を明朝が手放したせいで西洋人の進出を
招いた、ってことになるらしいんだけどね。
「ヨーロッパ覇権以前」という本によると、中国が海上から撤退したのは明朝の失策という
よりはむしろ、疫病やら何やらで中国が荒廃してて、単純にシーパワーを維持する余裕がな
かったということだった。
372 :
ty270410 :03/10/29 21:49
ダヤン・ハンの子孫は外モンゴルのハルハ部で20世紀はじめの革命まで残って いた. チェチェン汗国,トシェット汗国,サインノヤン汗国など・・・・ それぞれの汗国に汗(ハン)がいた. 20世紀はじめに革命があり,チベット仏教のゲゲン・ホトクトが元首となり, やがて,共産革命が起こり,汗(ハン)は廃止された. 多分,いまも,子孫は残っていると思う.
373 :
世界@名無史さん :03/10/29 22:31
374 :
ty270410 :03/10/29 22:49
>>373 北コーカサスのチェチェンとモンゴルのチェチェン(車臣)とは,
全く関係がないと思います.
375 :
世界@名無史さん :03/10/30 01:32
>>374 なんで断言できるの? 北コーカサスのチェチェンの方の語源はなに?
376 :
世界@名無史さん :03/10/30 20:39
チェチェン人はイベロ・カフカース系民族で、 同じ北カフカースのイングーシ人とは兄弟民族なんだと。 自分たちのことは「Nokhchuo」って言うらしい。 ジョチ・ウルスのイスラーム化以後、北カフカースにもイスラームが徐々に浸透して その後オスマン朝の直接の影響下におかれたそうだから・・・ 「チェチェン」って呼んだのは、そーいった外のテュルク系の連中なのかもしれんねぇ。
377 :
世界@名無史さん :03/11/19 02:00
すごいな…。半月カキコなくても存続できるのかこの板は。
378 :
世界@名無史さん :03/11/19 02:12
エセン=大元天聖大可汗
380 :
ty270410 :03/11/19 22:53
>>379 エセンはチンギス・ハーンの血をひいていないオイラートの首領ですね!
でも,実力で可汗になったが,結局長続きしなかったようですね!
元が北へ帰ってからダヤン・ハンがでるまでの状況はよくわからないだけに
面白そうですね!
381 :
世界@名無史さん :03/11/20 20:26
で、ダヤン・ハンの父ボルフはハン位に即いたのかね? 岡田英弘氏はボルフ即位説を押しているけど、 『アルタン・ハン伝』が公開されるようになった80年代以降は、 森川哲雄らの論文でもあるように、ボルフ即位には どうも否定的な流れにあるようだけど・・・。 岡田英弘氏が数年前に、英文の論文で『アルタン・ハン伝』から見た ダヤン・ハンの即位を論じて自分の持論は正しいを主張したしいけど、 まだ読んでいないのだよね。
382 :
世界@名無史さん :03/11/20 21:05
ボルフ、「マンドハイ」では西の副王だったね。
383 :
世界@名無史さん :03/11/26 16:13
明軍の大都占領について。 杉山正明は「大都は明軍の略奪・暴行・破壊の巷と化した」と書いてて 田中芳樹は「無血入城だった」と書いてるんですけど どっちが本当だったんでしょう? なんか両方とも正反対の方向へバイアスがかかってる感じなので・・・
無血入場した明軍によって大都は略奪・暴行・破壊の巷と化した、とかw
田中芳樹なんてただの小説家じゃん。
>>384 それだ!
宮廷が守備隊ごとモンゴルへ帰ったんで無血入城→略奪・暴行・破壊の巷。
まあ朱元璋の軍は規律がよかったらしいけど。
387 :
世界@名無史さん :03/12/02 17:47
>>382 映画「マンドハイ」は、
モンゴル年代記『エルデニ=イン=トブチ(中国名:蒙古源流)』の
焼き直しだから。
西の副王=ジノン(晋王)、晋王は元朝の時にモンゴル本国の統治を
司ったモンゴル王家の王号の晋王に由来。
晋王は歴代、チンギスハンの4大オルドを管轄。
後に4大オルドはチンギスハン廟(ナイマン・チャガン・ゲル(八白廟))へと
変化。オルドスの地名はオルドに由来し、
元の中国放棄後はオルドスの支配者が晋王の王号を継承したらしい。
ダヤン=ハンの血統はなぞであるが、
父ボルフが晋王(ジノン)を名乗っていることからして、
オルドスに由来を持つモンゴル王族であることが考えられる。
ちなみにボルフの祖父アクバルジも晋王(ジノン)を名乗っている。
ただその系図にも疑問もあり、
もし早世したボルフの父ハグルチャクが、
エルベク=ハンに殺害されたハグルチャク=ドゥーレンテムル(エルベクの弟)で
あるとしたら、ダヤン=ハンの出自がアリク=ブケ系である可能性も生まれてくる。
ちなみに晋王家は元朝の時に大ハーンを輩出するも
天暦の内乱で王家断絶している。
なので、すんなり晋王家の子孫を追ってダヤンハンに繋げることはできない。
しかし、クビライの第9子寧王ココチの後裔である寧王フメケイが
元朝末期に4大オルドを管轄していたことが碑文より知られるので
晋王家の断絶以降もクビライの子孫がオルドの管轄を行なっていたのは確かです。
この寧王家の男系が明代もオルドスを支配して、
ダヤンハンの祖先になった、という推測もできそうな気がするのだけど、
まぁ、憶測の域をでないなぁ。
388 :
世界@名無史さん :03/12/02 18:28
チンギス・ハーンの子孫って今いるの?
たくさんいるよ。
390 :
ty270410 :03/12/02 21:50
>>387 さん!
すごいですね!
お書きになったあたりについて,論考などがありましたら
ご教示ください.
因みに岡田英弘氏の最近の日本語の文庫本は
読みました.
>>390 あまり参考にならないかもしれませんが、
モンゴルの北還からダヤンハンの治世までの論文で、有名どころを挙げておきます。
下記以外にも関連論文はあります。ダヤンハーン論争(つまり"2人のダヤンハーン”ね)
関係の論文はほとんど省いたので、興味があったら岡田英弘の論文から芋づる式で他者の論文を
探してください。また森川氏の各トゥメンのオトクに関する諸論文は時代が下るので省きましたが、
必読だと思います。
以下の論文以外にもこの時代を理解するにはモンゴル帝国時代の諸々の論文も必読ですよ。
時代はつながっていますから。
寧王フメケイのことなどは、3年前に自分が修士論文で触れたのが唯一だと思います。
でも対外的に発表していないので、現在は某大学でお蔵入り。
興味があったら探してみてくださいな。
和田 清
『東亜史研究(蒙古編)』
→和田清北元に関するすべての論文を収めた論集。我が国の北元史の研究は、
すべてここを基礎に行われている。すでに古くなった論説も含まれるが、
この詳細な論考は今もなお色あせていない。北元史を行う上では最重要に必読の書!
和田清は神田信夫・岡田英弘らの師でもありますね。
岡田英弘 「ダヤン・ハガンの年代(上)」『東洋学報』48-3号 「ダヤン・ハガンの年代(下)」『東洋学報』48-4号 →ダヤンハーンの生没・在位を前後のハーンを含めて考察。 「ダヤン・ハガンの先世」『史学雑誌』75-8号 →ダヤンハーン以前の北元ハーンの在位を考察。 「北元奉祀聖母瑪利亜攷」『国立政治大学辺政研究所年報』1号 →エシ・ハトン廟(ソルコクタニ廟)に関する論考。 「ドルベン・オイラトの起源」『史学雑誌』83-6号 →4オイラトの起源を考察。僕はこの論文が岡田英弘の最高傑作だと思っている。 あまりに鮮やかな論考でお手上げです。ただ前半のペルシア語資料による歴代北元ハーンの 考察は、明らかに本田実信のパクリだと思うのだがけれど・・・本人は未読と注しているけど。 「ダヤン・ハーンの六万戸の起源」『榎博士還暦記念東洋史論叢』 →結論はすばらしいのだが、その論考の過程を省略しているのが残念。 岡田英弘はこのころから「いちいち論述している時間がもったいない。結論だけ先に言うよ」 といった姿勢になっている。天才ゆえの悩みなのだろうが・・・ちょっとねぇ。 「ウリヤンハン・モンゴル族の滅亡」『榎博士頌寿記念東洋史論叢』 →ダヤンハーンに滅ぼされた6万戸の1つウリヤンハンについての論文。
「Dayan Khan in the Biography of Altan Khan.(『アルタンハン伝』におけるダヤンハン)」 『Altaica Osloensia, Proceedings from the 32nd Meeting of the Permanent International Altaistic Conference, Oslo, June 12-16』 →これが“381”で述べた未読の論文。読みたい! 「The descendants of Jochi Khasar in Altan Tobchi of Mergen Gegen (メルゲンゲゲン著『アルタン トブチ』におけるジュチカサルの子孫)」『第六屆亞洲族譜學術研討會會議記録』 →これも未読。まぁ、シグスティからボルナイを経てホルチン部につながるジュチカサルの子孫 について論じたものでしょう。 「The khan as the sun, the jinong as the moon(太陽のハン、月のジノン)」 『Altaica Berolinensia, The concept of sovereignty in the Altaic world, Permanent International Altaistic Conference 34th Meeting, Berlin 21-26 July』 →ハーンとジノンの関係に関する論文。 「Dayan Khan as a Yuan emperor: The political legitimacy in 15th century Mongolia(元の皇帝と してのダヤンハン(大元ハーン))」『Bulletin de l'Ecole Francaise d'Extreme-Orient』81号 →題目のとおりです。
本田実信 「On the genelogy of early Northern Yuan」『モンゴル時代史研究』 →ペルシア語資料を用いた北元ハーンの論考。すばらしいっす。 安藤志朗 「ティムール朝国制 - Diez A. Fol. 74 未完成ミニアチュールより」『東方学』87号 →ティムール朝に亡命し、後にモンゴルの帰ってハーンになったオルジェイテムルの ティムール朝における立場が論じられている。本田実信の論文をあわせて読むが可。 若くしてなくなった安藤氏、惜しい人物を亡くしたものです。 間野英二 「十五世紀初頭のモグリスターン−ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23-1 →東チャガタイハンの論文であるが、北元との関係が論じられていて必読。 森川哲雄 「Barsu boladの事績」『歴史学・地理学年報<九州大>』12号 →『アルタンハン伝』からバルスボロト(ダヤンハーンの第3子)を考察。 ダヤンハーンについても触れる。 谷口昭夫 「斉王ボルナイとボルフ・ジノン」 →ジュチカサルの子孫ボルナイとダヤンハーンの父ボルフの台頭を通して、 チンギス諸弟王家とダヤンハーン登場前夜を考察。
原田理恵 「ダヤン=ハーンの連邦」『山根教授退休記念明代史論叢』 →ダヤンハーンの事績を通してその六万戸の実態を論及。簡潔ではあるが、 流れを掴むにはよいのでは。 「一五世紀モンゴルの支配権力の変容」『文学部紀要』30号 →概論としてはよくまとまっている。 宮脇淳子 「モンゴル=オイラット関係史‐十三世紀から十七世紀まで」『アジア・アフリカ言語文化研究』25号 →時代を追った概論。まぁ、宮脇氏のもろもろの概説書と内容は差がないが、 論文形式なので詳細展開はされている。宮脇氏は岡田英弘氏の奥様であります。 まぁ師弟時代には、2人の関係を知った前妻がA.A.研に怒鳴り込んできたことは有名。 宝音徳根力 「十五世紀前後蒙古政局、部落諸問題研究」(内蒙古大学提出、博士学位論文、1997) ⇒131ページにも及ぶ力作。これはすごい。過去の日本の研究を詳細に踏まえた上で、 モンゴル人の著者ならではの視点で論述を展開。 北元ハーンの考察については意見は分かれるが、諸遊牧集団についての考察は 圧巻。ダヤンハーン六万戸もそうであるが、僕としてはチンギス諸弟4王家の論考は 実に鮮やかだと思った。近年、これほどの論文は他にはないであろう。
397 :
ty270410 :03/12/03 21:41
>>387 さん!
たくさんの論文をご紹介していただきありがとうございます.
日本語の論文は,国会図書館でさがして読んでみたいと思います.
多分,全部は所蔵していないと思いますが,主要な雑誌は所蔵していると
思いますので・・・・
よみましたら,また,お礼を書きます!
>>396 さん!
ありがとうございます.
因みに私は市井の一読史家です.
トルコ系というと 現在のトルコ共和国に住む掘りの深い濃い顔の人たちを想像しがちだが もともとのトルコ人はもろに黄色人種 西へ移動するにしたがって現地民と混血し変質していったんだよ
399 :
バトゥさん :03/12/04 00:31
オゴタイ-ハンがあと5年長生きしてたら・・ヨーロッパの歴史も変わっただろうな〜
400 :
世界@名無史さん :03/12/04 00:39
日頃の不摂生がたたったな。
401 :
世界@名無史さん :03/12/04 01:07
ギネス災害記録によると、人類史上最大の大量虐殺は モンゴル人による中国農民虐殺(1311-40)で約3500万人だとか。 大量破壊兵器もなかった時代によくも殺したものである。
402 :
世界@名無史さん :03/12/04 01:47
>>398 そうじゃなくてもともとコーカソイドが北アジアに住んでいた。
403 :
世界@名無史さん :03/12/04 02:19
ダヤンハンが滅ぼしたモンゴル六万戸の1つウリャンハイ万戸の遊牧集団は、 ブロンドの髪に蒼い瞳をしていたそうだよ。 このころはまでコーカソイドがモンゴル高原に残っていたということなのかな。 詳しくは岡田秀弘の論文「ウリヤンハン・モンゴル族の滅亡」を参照のことで。
404 :
世界@名無史さん :03/12/04 02:23
チンギスハーンの迷言 「捕らえた敵の目の前で相手の娘や妻を犯すほど楽しいことがあろうか」
405 :
世界@名無史さん :03/12/04 02:25
クビライなんかがルースィからモンゴル高原に呼び寄せたロシア人の末裔じゃないのか?
406 :
世界@名無史さん :03/12/04 16:18
古代よりコリアは、チャイナの諸王朝、北アジアの遊牧民族諸国と東アジアの覇権を賭けて 争いを繰り広げてきた。13世紀に入るとチャイナはモンゴリアによって征服されたが コリアを屈服させる事は出来なかった。コリアとモンゴリアは一時和議を結び、アジアの覇権を 共に両立させた。15世紀になるとモンゴリアはチャイナより撃退されたが、これは、コリアの 軍事力が絶えずモンゴリアを脅かした結果でもあった。 16世紀後半日本との戦争が勃発した。コリアは連戦連勝の名提督李舜臣の力により勝利した。 この勝利以後、李舜臣はアジア最高の司令官という名声を獲得し、歴史に永く刻まれる事となった。 一方敗れた日本の痛手は大きく王朝が交代するまでに至った。日本はその後、格下待遇の講和を 自ら結ばざる得なかった。 19世紀後半コリアは西洋文明を自らの文明に融合させ大きな飛躍を遂げた。極東アジアに進出してきた ロシアと肩を並べた。その背後で日本は策略によってコリアを貶めようとしていた。 よって、20世紀に入るとコリアと日本の間に永き戦闘が始まる事となった。
407 :
ty270410 :03/12/04 23:27
>>401 ギネスの出典はあやしいのではないでしょうか?
過大に誇張された資料に基づく舞文ではないでしょうか?
408 :
世界@名無史さん :03/12/05 19:00
1311−40というと、もう元の時代で南宋も滅びてるが・・・ 何で支配下の民を虐殺せねばならんのだ?
409 :
世界@名無史さん :03/12/06 19:35
モンゴル兵は残虐だというイメージしかないけど バグダード入城時は意外と殺戮やってないみたいだね もちろん皆無じゃないけどね
アステカやインカを占領したスペイン軍とバグダッドやキエフを占領したモンゴル軍を対比してみるという観点はあまり見られないような。
411 :
世界@名無史さん :03/12/10 21:48
モンゴルのハーンの最後の後継者ブルニってあまり語られないよね。 リンダンハーンの息子エジェが伝国の璽を後金のホンタイジに献上して以後、 歴代の清朝の皇帝がモンゴルに対してはハーンとして存在したけれど、 エジェの後継者たちはモンゴル諸侯に対して「蒙古王」を名乗っていたのよね。 まぁ、モンゴル大ハーン家としてのチャハル部は、 エジェ→アブナイ(弟)→ブルニ(子)と継承されたけれど、 結局その存在を危険視した清朝の謀略によって謀反の疑いをかけられ、 最終的にブルニが反乱を興してモンゴル本流の断絶になる。 チャハルと同様に、清朝その存在を危険視されたのはアルタン・ハーンの本流の 順義王家です。これも滅ぼされた。 チャハル王家と順義王家を押さえたことにより内モンゴルでは 清朝に対抗しうる勢力は完全に消え去ってしまったという訳さ。
412 :
世界@名無史さん :03/12/11 12:47
413 :
ty270410 :03/12/12 21:37
>>411 ダヤン・ハーンの直系で正統な子孫は内モンゴルにいたのですね!
外モンゴルのハルハ部もダヤン・ハーンの子孫が分封していますが,
いつ頃外モンゴルに拡散したのでしょうか?
414 :
世界@名無史さん :03/12/14 23:44
>>411 ダヤンハーン6万戸の1つハルハ万戸(トゥメン)は元々は
内モンゴル東部のハルハ河流域に存在していました。
ハルハは14世紀後半には左翼・右翼に分離独立した状態にあったようです。
ダヤンハーンは、ハルハ左翼を第5子アルチュボラト、
右翼を第11子ゲレセンジェに継承させました。
15世紀初頭のダヤンハーンの支配圏は内モンゴルから外モンゴル東部。
外モンゴル中・西部にはオイラートの勢力圏でした。
1538年、以前より離反を興していた6万戸のウリャンハン万戸が
大ハーンのボディアラク率いる5万戸+チンギス諸弟王家の
連合軍によって解体。
ウリャンハンの遺民は各部族に分民され、
その故地にはハルハ右翼が移り住みました。
これによりハルハ右翼は敵対するオイラートとの最前線に
位置することになったのです。
1547年にボディアラクが死ぬと、オルドス万戸の晋王ノヤンダラに代わり
実質のモンゴル右翼の指導者となっていたトゥメト万戸のアルタンは、
新ハーンのダライスン(ボディの子)を攻撃し
チャハル万戸とハルハ左翼(アルチュボラト系)を東方に駆逐してしまう。
一方ハルハ右翼(ゲレセンジェ系)はアルタンに協力し、
これによりハルハは完全に左・右翼に分かれました。
1551年、アルタンはダライスンと和睦。ダライスンの大ハーン位継承を
認め、代わりにアルタン自身も特別にハーンを名乗ることを認めさせます。
翌1552年にアルタン・ハーンはオイラート征伐を行い、
アルタイ山脈以東を獲得。その地には最前線のハルハ万戸右翼が
進出することになります。
これがハルハ(右翼、ゲレセンジェ系)が外モンゴルに
進出することになる結果です。
415 :
世界@名無史さん :03/12/14 23:45
>>411 続きです。
アルタンハーンの死後は、ハルハがモンゴルを代表してオイラート征討を
一手に引き受けることになり、一層外モンゴルに広がっていくのです。
1580年代末〜1623年までハルハはオイラートを支配するに至り
外モンゴルでの支配権を確立します。
17世紀になるとオイラートの反抗に加え、
モンゴル再統一を狙う大ハーンのリンダンハーンが内モンゴルをほぼ統一し、
ハルハへも攻撃を開始し始めました。
しかしリンダンハーンがチベット遠征の途中で病死すると、
1636年その後継者エジェは後金(清朝)に下り、内モンゴルの諸王公が清朝の臣下となりました。
モンゴル王公で唯一独立を保ったハルハも
オイラートに登場した英雄ガルダンによって駆逐され、
1691年に亡命先の内モンゴルにてハルハの諸王公は清朝の臣下となりました。
こんな流れです。
NHKの文明の道見た 石を600Mぶん投げる投石器萌え 石だけじゃなくて疫病に感染した動物の死骸とか投げ込んでも有効だったのね
417 :
世界@名無史さん :03/12/15 01:46
モンゴル軍が欧州でもっと頑張って白人をやっつけていれば、その後アジアが植民地化されることもなかったのにね。
418 :
世界@名無史さん :03/12/15 02:09
>>417 いや、大航海時代及び西欧諸国の当方進出には、これまで押さえつけられてきたモンゴル帝国という弁が
一瞬にして崩壊してしまったことへの感情の爆発というのもあっただろうから、もしモンゴルが欧州まで深入り
していたら、その後の膨張はより狂気を帯びたものとなっている可能性もある。(なんか変な文章だな。おれって文章構成力無いのね・・・)
419 :
世界@名無史さん :03/12/15 02:13
>>418 アナタ、文章構成力以前に「当方進出」なんて書いてる時点で・・・
>>419 いや・・・それは単なるミス、だれにでもある誤字だということにしてもらいたかった。
421 :
世界@名無史さん :03/12/15 03:15
>>418 もしそういうことなら、モンゴル軍は欧州の白人を徹底的に征伐するだろうから心配ないよ。
422 :
世界@名無史さん :03/12/15 03:18
モンゴルの支配に阿って勢力を伸ばしたモスクワは後にロシア帝国として大発展したなあ。
423 :
世界@名無史さん :03/12/15 05:45
>416 原始的な生物兵器ですな。
424 :
ty270410 :03/12/15 14:54
>>414 >>415 ありがとうございました.
文章を地図の上に書いて見てよくわかりました.
清に降った後に,セチェン汗,トシェット汗などにあらためて
清から封じられたというわけですね!
再度,ありがとうございました.
425 :
世界@名無史さん :03/12/15 15:43
>>417 馬鹿だな。モンゴル人が火薬と黄禍論を西洋に広めたから植民地主義が始まったんだよ。
こういうヴォケがいるから白人の植民地主義が肯定化されるんだ。
426 :
世界@名無史さん :03/12/15 15:53
>>422 モンゴル人は馬鹿だから、ロシア人と並行して近代化できなかったんだよ。
427 :
世界@名無史さん :03/12/15 16:01
黄色人種でも、力を得れば白人の国へ侵略していく好例だな。 モンゴル人がロシアへの侵略虐殺をやめたのは、力を失っただけで平和的になったからではない。 馬術だけが取柄だから、騎馬戦の優位が失われたらもうお終いだ。
モンゴル 800
>426 ロシアって近代化に失敗して革命が起ったのだが? 工業化はソ連になってからウクライナ・カザフの大量餓死を代償に達成された。
金とモンゴルの関係と、モンゴルとロシアの関係って似てるかも。
431 :
世界@名無史さん :03/12/17 14:10
>>424 清朝がハルハを「ハーン」として封じていません。
「ハーン」はあくまでハルハ側の自称です。
清朝がモンゴル王公に崩じたのは「ジャサク」です。
「ジャサク」に封じられたモンゴル世襲王公が旗(ホシューン)と
呼ばれる清朝が区分した遊牧単位を世襲支配しました。
当初ハルハは独立を保っていた時は、清朝は懐柔の意味で「ジャサク」を
ハルハ王公に与えていました(もちろん何の権限もない)。
ハルハの「ジャサク」が完全なる清朝の配下に意味を帯びるのは1691年以降です。
ハルハにハーンが登場するのは、大ハーン以外で最初にハーンを名乗った
アルタン・ハーンの死後です。
外ハルハ(右翼・ゲレセンジェ系)でハーンの名乗ったのは
ゲレセンジェの第3子ノーノホの子アバダイです。
元々はハルハ万戸右翼であったゲレセンジェ系ハルハは
遊牧地を広げた結果、それ自体さらに2つ(左翼・右翼)に独立分離し
始めました。
アバダイの系統は外ハルハ右翼の宗主で、アバダイはサインハーンを名乗り、
彼の後継者たちがトシェートハーンを名乗るようになります。
一方、始祖ゲレセンジェの正統「ジャライル皇太子」を継承したのが
長子アシハイの系統です。この系統が外ハルハの宗主であり左翼の指導者でありました。アシハイの孫ライフルはハーンと呼ばれ、その後継者たちは
ジャサクトハーンと呼ばれるようになります。
432 :
ty270410 :03/12/17 22:45
>>431 たびたびありがとうございます.
『世界年表』付録の「外ハルハ4部」の系図を開いて,ご教示のあとをつけて
みました.
明の時代に外モンゴルに牧地を広げてハーンを自称していたと理解して
よろしいでしょうか?
>>415 でご教示のように,1580〜1623年までにオイラートを従属させたということ
と理解しました.
重ねてありがとうございました.
433 :
世界@名無史さん :03/12/18 00:42
>>432 ハルハのハーン号は、オイラート征討の功が認められ、
ハルハの王公らによって「ハーン」と尊称されたり、
ダライラマから賜った称号に「ハーン」が入っていたりしたことから
始まり、次第にその称号が子孫に継承されていきました。
彼らの「ハーン」は、モンゴルの正統のチャハル部の当主が
継承する「ハーン」とは意味合いが違います。
チャハル部の「ハーン」はチンギス・ハンの嫡流を意味しますが、
ハルハの「ハーン」は、トゥメト万戸のアルタンが名乗ったような
遊牧社会の強力な支配者という称号と同じです。
元来、チャハルだけに許されたハーン号は、
アルタンがハーンを名乗って以降、その規制が緩やかになったのです。
でもハーンを名乗るのはボルキジン氏(チンギス・ハンの家系)に
限られました(後にオイラートでもハーンは登場しますが・・・)。
清朝がハルハをジャサクに封じた時、札薩克汗(ジャサクトゥハーン)旗
や土謝図汗(トシェトゥ・ハーン)旗などに区分されましたが、
ここに見える汗(ハーン)は、清朝がハーンとして封じた訳ではなく、
単なる行政区分の名称に過ぎません。
434 :
世界@名無史さん :03/12/18 00:42
>>432 >1580〜1623年までにオイラートを従属させたということ・・・
すみません。正確さを欠きました。
1580年代、アバダイ率いるハルハは一旦オイラートを支配下に置きます。
1586年にアバダイはダライラマ3世からハーンの称号を賜ります。
アバダイは息子のシュブーダイをオイラートのハーンとして任じるのですが、
アバダイの死後(1588年)オイラートにシュブーダイは殺害され、
ハルハのオイラート支配は頓挫します。
1606年ライフル率いるハルハ軍は。
再びオイラートを支配下に置くことに成功します。
ライフルは従兄弟のショロイ(ウバシ・ホンタイジ)を
オイラートのハーンに君臨させます。
彼がハルハのアルタン・ハーンです(トゥメト万戸のアルタンとは別人)。1623年にアルタン・ハーンは殺害され、ハルハのオイラート支配は終焉します。
こういうことです。
435 :
世界@名無史さん :03/12/23 00:55
モンゴル 800
436 :
世界@名無史さん :03/12/25 17:18
>>406 元が高麗と仲がよかったらしいが、現在のモンゴルと北朝鮮が友好関係にあるのもそのためか。
たった半年で世界の十分の一を占領(現地民解放)した 大日本帝国のほうがはるかに強い。 (時代が違いますが。)
>>437 惜しいのはその大半が海であったことだ。
>438 海を入れていいのなら、現在の米国は世界の三分の二を支配してるよ。
440 :
バトゥさん :03/12/27 11:45
日本と中国が陸続きだったら 本当に日本は元に征服されていたのだろうか・・
モンゴルは昔陸を支配していた アメリカは今、海と空と宇宙を支配している
>441 スペースシャトル爆発で現在有人飛行はロシア頼みなのだが・・・
ロシアは陸の覇権さえ失った。 しかし宇宙の王者はいまだに彼等だ。
445 :
世界@名無史さん :03/12/31 07:50
>>443 杉山っちは、ちょっと勘違いが多いなぁ。バトゥが建てた旧サライの都市の存在を
否定しているし・・・。ロシアでの旧サライに関する考古学論文を知らないのかしら。
446 :
ty270410 :03/12/31 12:39
>>445 杉山先生が旧サライの都市の存在を否定しているのは,
どこに出ていますか?
読んでみたいのですが!
教えてください!
>>446 講談社現代新書の『モンゴル帝国の興亡 上』の127ページですね。
『史上有名な「バトゥ・サライ」という都市は、実は幻影である』
(引用者注、原文都市の2字に傍点)とまで言い切っておられる。
この本、中央ユーラシア史に関心があれば一度くらい読んだことはありませんか?
448 :
ty270410 :04/01/01 00:17
>>447 ご教示ありがとうございます.
ご教示の本は,持っており,読んだことがあります.
今,改めてご指摘の箇所を見ております.
おっしゃるとおりでした.
お恥ずかしいことですが,読み飛ばしておりました!
ありがとうございました.
449 :
世界@名無史さん :04/01/01 01:57
>401 >ギネス災害記録によると、人類史上最大の大量虐殺は >モンゴル人による中国農民虐殺(1311-40)で約3500万人だとか。 いえいえ、毛沢東の大虐殺の方が上ですよ。
毛沢東は主に大躍進のときの失政による餓死者で虐殺じゃないだろ。 文革では強制収容->虐殺も発生したけど、その犠牲者は大躍進ときの 死亡者は比べものにならないほど少ない。 あ、トルキスタンやチベットの虐殺があったか。でも、これも数百万単位には ならないからなぁ。 虐殺ならやっぱり、青年トルコによるアルメニア人大虐殺、ナチスドイツによる ユダヤ人・スラブ人・ロマの大虐殺、クメールルージュのカンボジア大虐殺でしょ。
451 :
世界@名無史さん :04/01/04 00:20
杉さまの本と欧米人が書いた本を読み比べてみると 欧米人がいかにモンゴル史に関していい加減で偏見に満ちているかよくわかる 杉さまマンセー
452 :
世界@名無史さん :04/01/04 00:26
杉さまの書いてる一般向けの本でもっとも 信用度の高いのはどれですか?
453 :
世界@名無史さん :04/01/05 20:06
>>452 講談社現代新書の『モンゴル帝国の興亡』上・下かな?
454 :
〜434・445 :04/01/05 23:16
>>447 さん
代わって紹介して頂きありがとうございます。
まぁ日本におけるジョチウルス研究の状況を考えれば、
杉山っちの勘違いも納得でしょうか。
北元を専門にしていた僕がいうのもなんですが(今は素人)、
日本のジョチウルス研究といえば赤坂氏でしょうね。
史学雑誌の“ウズベク”の呼称に関する論文は感動したなぁ。
これからのジョチウルス研究の基盤となると言ってもよいのでは。
英文で海外に発表したのかな。
ただ、この懸案がこれまで解決されていなかったということは、
これまでの研究が不安定な基礎の上になされていることは想像しやすい。
これからロシアの論文などを読むときはこの点を留意する必要があるかも。
岩波講座で川口氏が発表した論文も面白かった。ただ疑問も多々あった。
シバン系資料の利用については赤坂氏が苦言を呈しているね。
それにシバン系のハーンとしたアジィーズやハサンを
掲載されている系図の通りに当てはめていいのかな?
“アジィ−ズ”は少ない名前だけど、“ハサン”はジョチ家に多く見られる名前。
系図の確定は案外難しいと思うのだけど。
また掲載の系図ではムリードはヒズルの子となっているけど、
子か弟かは検討の余地があると思う。
この時代はロシア側のニコン年代記の資料的価値が高いことを考えれば
弟と考えたいけどね。
ホ−ンダミールは子と言っているけど、テムルホージャについて述べていないので、
ムリードとテムルホージャの事跡を混同しているとも考えられる。
まぁ、貨幣が残る同時代のハーンのオルドメリクも絡んでくるから、
そう簡単な答えはでないだろうけど。
455 :
〜434・445 :04/01/05 23:17
>つづき でもノガイ(カラ・ノガイ)とトグリル・テムルについて述べている点はとてもよかった。 彼らについては、案外無視されることも多いから。 ただここも問題あり。 川口氏は『ドスト・スルタン史』の記述から両者を兄弟とし、 アブール・ガーズィ『テュルク系譜』も兄弟と言っているけど ホ−ンダミールは叔父と甥の関係と言っているのだよね。 どっちが正しいのか検討しなければならないのに、 全くそのような作業をした気配はない。 それにカラ・ノガイの父系についても問題がある。 父親サシはホ−ンダミールや他が伝えることであるが、 ホ−ンダミールが「サシの子ノガイ」と伝える部分を 2種のザファルナーマは「サシ・ブカ」と伝え、トグリル・テムルは サシ・ブカの甥とされている。 サシ・ブカに関しては赤坂氏も述べるように諸々と問題がある。 まぁ、僕はあたりは全くの素人だから、ただケチを付けるだけだけど、 せめて注ぐらいは付けてほしいかった。でないと、なんの疑いもなく読む人が多くなると思う。 岩波講座はそれなりに認知されている書籍なのだから。
456 :
ty270410 :04/01/06 21:36
>>454 >>455 すごいですね!
このあたりをMOディスクにダウンロードして
ゆっくり,諸論考を比較してみます.
不明の点がでたら質問します.
457 :
世界@名無史さん :04/01/09 13:01
キプチャック汗国ってベルディベク以降のハンってよく分からないね。
458 :
ty270410 :04/01/10 00:13
>>457 全くそのとおりですね!トクタミシュまでとその後に分けて,前者について・・・
赤坂先生の「14世紀中葉〜16世紀初めにおけるウズベク」『史学雑誌』
109(3)(2000)1--39
所引のヤズディーの『勝利の書』の前者の部分は,ご存じのように,
9.ベルディベク・ハン,10.ケルディベク・ハン,11.ナウルーズ,
12.チェルケス,13.ヒズル・ハン,14.ムルド,15.バザルチ,
16.サシブカ,17.トグルク・テムル,18.ムラード・ホージャ
19.クトルク・ホージャ,20.オロス・ハン,21.トクタキア,
22.テムル・マリク,23.トクタミシュ
となっています.
459 :
ty270410 :04/01/10 00:16
>>458 赤坂先生の同じ論文所引のホーンダミールの『伝記の伴侶』では,
基本的に『勝利の書』と同じですが,16.がサシブカではなく
16.トカイ
となっています.
これらのハンの系譜も知りたいですね!
460 :
ty270410 :04/01/10 00:29
>>459 Spulerの本の歴代表ではつぎのように多数を挙げているのは,
ご存じのとおりです.私はドイツ語が読めませんので,表記が
間違っているかも知れません.
13.ベルディ・ベク,14.クルパ,15.ネウルーズ,16.ヒズル・ハン,
17.テムル・ホージャ,18.ミュリド,19.オルドゥ・メリク,
20.アブドゥッラーフ,21.ケルディベク,22.ボロド・テムル,
23.トガイ,24.アジズ,25.アブドゥッラーフ,26.ジャニベク2世,
27.メフメド・ブラーク,28.アイベク,29.カリンハン,30.ウルス・ハン,
31.トクタキア,32.テムル・メリク,33.ハガン・ベク・ハン,
34.アラブシャー,35.トクタミシュ
各地に乱立したのでしょうか?また,これの最近の評価はどうなんでしょうか?
ご教示ください!
461 :
世界@名無史さん :04/01/10 00:48
・・・・ か ظفر نامهに حبيب السير
462 :
世界@名無史さん :04/01/10 12:27
>460
北大の長峯氏が修士論文で書いたそうですが残念ながら未見です。
ベルディ・ベクからトクタミシュまで1360〜1380年のジュチウルスのハンの
変遷はホント問題ですね。調べるのも多岐にわたる言語の壁が・・・。
中世ロシア語はお手上げだけどニコン年代記は英訳が全4巻で出版されているから
素人には嬉しい限り。
確かにこの時期は各地で有力な王公が割拠した時代です。
独自に貨幣を鋳造した人物もいます。自称ハンもいたことでしょう。
ママイはクリミアのほうで独自にハンを擁立していましたしね。
これら全部を含めてジュチウルスの正当なハンと見なすのには疑問。
この頃はまだ当時はベルケサライ(新サライ)を支配することが、
ジョチウルスの支配者たる権威の証みたいなところがあるので、
サライの支配者を正当なハンと考えて調べていくのが可なのではと思います。
でも初っ端で壁にぶつかります。
ظفر نامه(ザファルナーマ)やحبيب السير(伝記の伴侶)では、
ベルディベクの次はキルディベクとしていますが、
ロシア年代記がクルナ(クルパ)と伝えます。
これによりかつては両者を同一人物と考えた研究者もいましたが、
両者は別々に鋳造された貨幣が残るので明らかに別人です。
これはすでに遥か過去に議論された話ですが、最初からこんな感じですからね。
少なくも、これによりザファルナーマや伝記の伴侶は情報が
混乱していると考えてよいですね。赤坂氏も左翼・右翼を区別して考えていないと
述べてしますし。でも「ザファルナーマ」や「伝記の伴侶」の伝える情報は
重要なのは変わりないです。
下記のサイトで当時に鋳造された貨幣の一覧を見ることができます。
完全なものではないですが、まぁ、参考までにどうぞ。(ロシア語サイトです)
http://www.hordecoins.folgat.net/r_rulersGH.htm
463 :
世界@名無史さん :04/01/10 12:59
>>459 「トカイ」と「ノカイ」は、ペルシア文字で点が2つか1つかの違いでして、
点の抜け落ちを考えると、
この人物をどう読むかは議論の余地ありです。
Spulerが言う23.トガイなら前者になります。
ロシア年代記ではタガイとなっているらしい。
この人物をサシの子カラ・ノガイとするのなら後者ですかね。
ロシア年代記の伝えるタガイと「ドストスルタン史」等の伝えるカラ・ノガイが
単純に同一人物なら問題ないのですがそう甘くない。
ロシア側の情報によれば、タガイはヴォルガ川西岸に
独自の支配権を持っていたようですが、
カラ・ノガイは左翼(オルダウルス)のハンとしてシル川流域に
支配圏を築いていた・・・やぱり両者は別人でしょうね。
464 :
世界@名無史さん :04/01/10 13:34
ジョチ・ウルスの研究に用いられる史料はフレグ・ウルス、ティムール朝、 マムルーク朝、ルースィなどの外部の史料か、アブル・ガーズィーのような 後の時代の史料が多いようだが、ジョチ・ウルスには自前の同時代史料があまりないのか?
465 :
462の続き :04/01/10 13:39
ただ、ホーンデミールは「サシの子トカイ」と伝えているので、
この場合は、トカテムルの子孫のサシの子ノカイと考えてよいと思います。
ジュチ
|オルダ
|バト
|シバン
|トカテムル
||バイムル
|||トカンチャル
||||サシ
|||||ブチャック
||||||トグルク・テムル
|||||ノカイ(カラ・ノカイ)
|||||トグリ(トグリテムル)
|||||ボカル・クトルグ・ホージャ(ボグリホージャ)
ホーンデミールの伝える
16.サシの子トカイ
17.トグルク・テムル。トカイの従子であった。
19.クトルグ・ホージャ。トカイの兄弟
は、『ティルク系譜』や『ドスト・スルタン史』などの伝える左翼ウルスの
状況を伝えるものでは?と推測できますね。
ただ、これらの系譜情報は
>>455 で述べたように混乱していますし、
『ティルク系譜』『ドスト・スルタン史』も資料的には時代が下りすぎて
伝説的要素も強そうです。ですので、あくまで推測の域です。
で、問題は、ホーンデミールの伝える18.ムラードホージャですが、
彼については、左翼ウルスとの関係を述べる資料がない(たぶん)ことから
彼についてはこれまで多くの研究者が述べてきたように、
ヒズルの子あるいは弟のムリドと同一人物である気がします。
466 :
ty270410 :04/01/11 23:25
>>462 ,463,464,465
系図まで付けてのご教示ありがとうございます.
ご教示のコインのサイトを開いてみるつもりです.
(ただし,ロシア語は読めませんが,キリル文字の
音価はわかりますので・・・・)
467 :
世界@名無史さん :04/01/11 23:36
>>462 『ニコン年代記』の英訳は5巻+索引1巻やろ。
468 :
ty270410 :04/01/12 00:04
>>462 コインのサイト開いてみました.
英文がありました.ハンの表やリンクを楽しく読ませて
いただきました.
ご教示ありがとうございます.
469 :
462の続き :04/01/12 10:01
>>467 そうですね。『ニコン年代記』の英訳は5巻+索引1巻でした。
索引1巻は今年2004年に刊行予定のようですね。
http://www.darwinpress.com/nikonian.html 学生を止めてからは4年ぶりぐらいにモンゴル関係の史・資料を
見直している・・・うる覚えが多い・・・ガセを流してすみません。
ニコン年代記の英訳は手元にない・・・良い機会だから第3・4巻・索引ぐらいは
買うかな。全巻揃えるには金が厳しい。
アブール・ガズィーも大学の図書館に行ってコピーしてくるかぁ。
>>468 混乱期のコインについては、人名・鋳造地・鋳造年別に表にておくと、
理解しやすいと思います。
ベルディベク→クルパ→ナウルーズ→ヒズル(→バサルチ→ヒズル)→テムルホージャ
までのハン継承は問題ないと思うのですが、
コインから知られる情報では
各ハンのコインが、同じ鋳造場所・鋳造年が重なるのですよ。
ロシア側の情報によると重なっているようには思えない。
コインの鋳造年が重なっている理由として、
@実際にハンが並立していた
Aハン位継承を正当化するために前ハンのコインをしばらく鋳造し続けた。
A混乱期でハンの交代も早かったため、コインの鋳造も時間差ができた。
などでしょうか。
470 :
世界@名無史さん :04/01/12 11:54
↑のネームを直し忘れた。 462の続きではないのであしからず。
ベルディベクからトクタミシュまでの混乱期は自分も興味あるんで大変参考になります。 こないだロシアがクリコヴォの戦いの勝利を祝ったイベントをやったらしいけど それにタタール人の団体が抗議して書いた文章で 「そもそもママイ軍はクリミアの地方勢力であって当時のタタール全体を代表して いたわけではない」とあった。 ママイの本拠地ってクリミアだったのか・・・そんなことも知らなんだ。
「クリコヴォの戦い」って同時代史料には全く出てこないと聞いた事があるが。
ロシア人の初勝利は地味に「ヴォジャ河の戦い」だったりする。
474 :
ty270410 :04/01/12 21:35
>>465 教えていただいた系図を
1.山川の『中央ユーラシア史』の赤坂先生が書かれた系図
2.岩波の『中央ユーラシアの統合』の川口先生の書かれた系図
につなげてみます.
混乱期のハンの系図がある程度わかるような気がします.
475 :
ty270410 :04/01/12 21:39
>>469 ベルディベクからテムルホージャまでの継承は問題ないとの
ご教示ありがとうございます.
私は,趣味で史書を読んでいる市井の一好事家です.
諸先生のご教示はすごく刺激的で,しかもアトラクティブです!
ありがとうございます.
>>475 454・455・462・463・465・469 で述べてたことは、あくまで私個人の考えです。
アカデミックな人たちから見れば素人意見と笑らわれる程度のものです。
あくまでも私の専門は北元だったので・・・あまり信用しないでください。
『ニコン年代記』は1361年にテムル・ホージャが父ヒズルを殺害して
ハン位を奪ったとありますが、テムル・ホージャが新サライで鋳造した
761(1359/60)年の貨幣が残っているので、ヒズル殺害は1360年の後半ごろ
だったのではと推測されます。(ちなみにヒズルの貨幣は762(1360/61)年の
ものまで残っている。貨幣の年代の誤差については
>>469 を参照のこと)
テムル・ホージャの支配は短期で終わります。
『ニコン年代記』は、ママイが1361年にテムル・ホージャを殺害し 新サライを掌握したと述べています。ママイはアブドゥラーを新ハンに据えました。 762(1360/61)年に新サライで鋳造されたアブドゥラーの貨幣が残っているので、 このことは裏付けられます。 アブドゥラーの父系については、イブン・ハドゥルーンがウズベクの子孫と 伝えるのみだと思うのですが、ロシアの某サイトでは「ウズベクの子ホゼルベク の子アブドゥラー」と書かれていた。これは実に怪しい情報です。 アブドゥラーとママイの新サライ支配は短期で終わります。 ママイの支配を嫌う他の新サライのアミールたちが別のハンを擁立したので、 ママイはハンのアブドゥラーを連れてヴォルガ河を渡り西へ移動しました。 以降クリミアあたりを本拠に新サライ勢力と争うことになります。 アブドゥラーはハンの称号を捨てなかったので、ここにジュチウルスは2人のハンが 並立することになりますが、正統なジュチウルス政権は新サライ政府に あると言えるでしょう。ママイの支配圏は“ママイ・オルダ”などと呼ばれ、 アブドゥラー→ムハンバド・ブラック→トゥルンベク と3人の傀儡のハンを擁立していきます。彼らについては改めて述べます。 ロシア諸侯たちは、両ハンに朝貢して情勢を見極めていました。 この時期は各地でジュチ系の王公たちが独立・割拠しています。 新サライ政府、ママイ・オルダ、左翼のカラ・ノガイ、ブルガール地方のプラド・テムル、 ヴォルガ河北西岸のタガイ、アストラハンのチェルケス、シバン勢力、 などです。彼らは新サライの掌握を目指し絶えず争っている状態でした。
訂正 ×ムハンバド・ブラック ○ムハンマド・ブラック
>>464 ジョチ・ウルスには自前の同時代史料はないようです。
日本のモンゴル帝国史研究者がジョチ・ウルスを避けるのはそのためかと。
>>471 現在のタタール人の団体がママイ軍を地方勢力と言い切っているのは
非常に興味深いです。
>>472 「クリコヴォの戦い」については、存在そのものを否定している方もいるようですね。
記録に残るのは年代記だけで、当時の外交文書等は全く言及するところが無いとかで。
ただ言えることは、ロシア人が大騒ぎするほどの戦争では無かったといくことでしょう。
ママイ軍は全く痛手なしのようなので。
>>473 「ヴォジャ河の戦い」とは、どのような戦いですか?ご教授ください。
旧・新グリスタンとは今のどのあたりの地名でしょうか?
手元に資料がないので、ご存知の方よろしくお願いします。
480 :
世界@名無史さん :04/01/13 11:14
>>477 イブン・ハルドゥーンなんて、マグリブ・アンダルス史以外は一次史料としては使えんやろ。
>>479 「ヴォジャ河の戦い」はクリコヴォの二年前の1378年に、ママイ配下の
ベギチという者が率いる軍をドンスコイが破ったという戦いだそうで。
モスクワは1375年頃からタタールに対して攻勢に出てますね。
ブルガールに遠征したりサライの汗アラブシャーと戦ったりしてます。
トクタミシュにモスクワ焼かれるまでの短い間だけど・・・
482 :
ty270410 :04/01/13 23:39
>>476 >>477 >>478 >>479 ご教示ありがとうございます.
>>480 ご存じのようにイブン・ハルドゥーンには「歴史序説」のほかに「各国史」があります.
キプチャク汗国史に関するアラビア語史料を集めたチゼンガウゼンの史料集が
ありますが,その中にイブン・ハルドゥーンが採録されています.
岩波の川口先生の論考にも,チゼンガウゼンからの引用があります.
混乱期に関しては同時史料として貴重なのではないでしょうか?
483 :
ty270410 :04/01/14 08:45
>>482 訂正です.
イブン・ハルドゥーンの「各国史」ではなく,
アラブ,ナバタイ,シリア,ペルシャ,イスラエル,エジプト,ギリシャ,
ローマ,トルコ,ベルベルの「各歴史」があるとのことです.
ご存じと思いますが・・・・
多分,トルコ史にキプチャク汗国の混乱期の記述があるのでしょう.
これらの,「各歴史」の部分は,多分,欧文に翻訳されておらず,
内容はよくわからないようですが,チゼンガウゼンに採録されている
部分は,内容の片鱗を知る意味でも貴重であると思われます.
>>447 まぁそれを言ってしまえば混乱期のジョチウルス研究はもともこうもないです。
ロシア側の『ニコン年代記』なんかは成立は16世紀だし。
自前の史料がない状況下では、イブン・ハルドゥーンは充分に
利用価値のある史料だと思います。同時代史料ですしね。
ただ利用には出来る限り傍証が必要なのも確かでしょう。
ジョチウルスの記述はそれなりに正確であると理解されているようです。
>>481 ご教授ありがとうございます。とても参考になります。
1367年にニジニ・ノブゴロト公ドミトリーがブルガール地方のプラドテムルを
打ち破ったという事実もあるようです。新サライに逃れたプラドテムルは
乗じて新サライを支配権を奪ったのかも知れません。
なぜならば、768(1366/1367)年に新サライで鋳造されたプラドテムルの
貨幣が残るからです。このあたりの事情については、
まだ詳しく確認していないので、後の話題にしたいと思います。
事情をお知りの方がいらっしゃったらご教授ください。
ティゼンガウゼンの資料集については「もう古くて利用価値がない」と
言う人もいるようですが、僕はそう思わないです。
やはり便利ですよ、資料集ですから。
それが全てではないですが、利用勝手のあるものは利用するのが可かと思います。
まぁ、アカデミックな方たちは最終的には原典にあたる必要はあるのでしょうけどね。
ティゼンガウゼン資料集2巻のコピーは、他校の学生に貸したまま、
返ってこなかったなぁ。無念・・・また入手したい。
ママイ&アブドゥラーはを追い出して、サライのアミールが擁立したハンはキルディベクです。
762(1360/61)年と763(1361/62)年に新サライで鋳造された貨幣が残っているので証明されることです。
キルディベクについては過去に多くの研究者がナタンズィーの記述を引用してきましたが、
その信憑性が実に疑わしいのは周知のこと。
ちなみにナタンズィーは、
3.ジャニベク、4.ベルディベク、5.キルディベク、6.オルダ・シャイフ、7.ヒズル、
8.フラファ、9.テムル・ホージャ、10.ムリード、11.アズィーズ、12.ハージー
とハン継承を伝えています。この継承順だけでも実に怪しいことがわかります。
しかし、ハンの名前が決して的外れではないことも確かです。
ロシア史料は、サライのアミールたちが擁立したハンはムリード(ヒズルの弟)であると述べているが、
ムリードの前にオルド・メリクとキルディベクの2人のハンの存在を考えなければならない。
新サライで鋳造された貨幣は
テムルホージャ 761(1359/59)
アブドゥラー 761(1359/60)・762(1360/61)
オルドメリク 761(1359/60)・762(1360/61)・763(1361/62)
キルディベク 762(1360/61)・763(1361/62)
ムリード 762(1360/61)
(注)
>>477 アブドゥラーの761(1360/61)年の貨幣も存在するとのことです。
オルドメリクは人名ではなく称号だと述べる研究者もいます。 キルディベクについては過去に多くの研究者がナタンズィーの記述を引用してきましたが、 その信憑性が実に疑わしいのは周知のこと。 ちなみにナタンズィーは、 3.ジャニベク、4.ベルディベク、5.キルディベク、6.オルダ・シャイフ、7.ヒズル、 8.フラファ、9.テムル・ホージャ、10.ムリード、11.アズィーズ、12.ハージー とハン継承を伝えています。この継承順だけでも実に怪しいことがわかります。 しかし、ハンの名前が決して的外れではないことも確かです。 ここに見える6.オルダ・シャイフがオルドメリクに当たると考える研究者は多いですが、 伝える継承順や系図は全く信用できません。 ともかく、アブドゥラーが新サライを追われてから、短期間にオルドメリク→キルディベクと ハン位を継承し。最終的にサライのアミールの総意でムリードが擁立されたと考えることが できそうです。 オルドメリクの父系について。ナタンズィーは、オルダ・シャイフを 左翼(オルダ・ウルス)のエルザンの子と伝えていますが全く信用できません。 よってオルドメリクの父系は不明としか言いようがありませんが、 『高貴系譜』によると、ジュチの13男トカテムルの子バヤンの子ダニシュマンドの子 エルトゥタルの子にオルドメリクという人物がいます。 もしかしたらこの人物に該当するのかもしれません。この名前は多くありそうで、 全く系図には見かけない名前なので。 キルディベクの父系は、ティニベクの子とかジャニベクの子とか諸々の情報がありますが、 結局のところはティニベク・ジャニベクの弟とのことです。
487 :
世界@名無史さん :04/01/14 17:15
اولوس جوجى
488 :
世界@名無史さん :04/01/14 17:20
نطنزى
>>485 の前半部分は消し忘れです。
ここを読むと話が二重になってしまいます。
後半の「サライのアミールたちが擁立したハンはムリード」
からお読みください。
盛り上がってきたところで外野の些細なツッコミですがー。
>>474 たしか赤坂さんはウズベクの論文の注で
川口さんの系図の問題点をさらっと指摘しておりますので
単純にくっつけるのはよろしくないと思います。
川口さんも多分あとの論文ではさらっと修正してるのではないかと(未確認)。
491 :
ty270410 :04/01/14 21:27
>>490 ご教示ありがとうございます.
川口先生の系図の「シャイフ・アフマド」に関する部分ですね!
どうもおかしいな!と思っていましたが,
赤坂先生の論文の註に誤りが指摘されているとは,気が付きません
でした.
492 :
ty270410 :04/01/14 22:20
>>489 蒙古馬さんによって,ムリードまで来ました!
続きがまちどおしいですね!
Spulerの歴代表もずいぶん訂正が必要とわかりました.
それから,ウズベクに関する赤坂先生の論考は実に
豊富な情報を載せておられるとあらためて知りました!
ジョチウルス自体は同時代史料を残していないのか。 エジプトへ行った連中はアラビア語やマムルーク・キプチャク語で 年代記やなんやらいろいろ書き残してるのにな。
494 :
世界@名無史さん :04/01/14 23:38
残したけど現在は失伝している可能性もあるのでは?
ムリードは、ママイと激しく争ったことが知られています。 ロシア史料は1363年にムリードが新サライを支配いていたことを伝えています。 彼の貨幣をみると 新サライ 762(1360/61)年 新グリスタン 762(1360/61)年〜764(1362/63)年 ホラズム 762(1360/61)年 とあり、ロシア側の情報が正しいことが証明されます。 説明が遅れましたが、“グリスタン”とはサライの郊外、 ハンが実際に天幕を立てて住んでいた地域を指します。 ですので“グリスタン”は時にサライと同義語で語られることもありますが、 正確にはサライの郊外と理解するのがよいです。 つまり、グリスタンでの貨幣が残るということは、 サライを支配していたと理解できるわけです。 またホラズムの貨幣は、この時期までホラズムがジュチウルスの勢力下に あったのだとうかがえますね。 ムリードがどのようにハン位を終えたかは不明です。
>>494 ティムールがサライやブルガールを破壊して回ったせいかな。
ナタンズィーは、ムリードは部下のアミールのイリヤスの殺されたと、 伝えていますが信用はできないでしょう。 ムリードの後に新サライを掌握したのはアブドゥラーです。 ロシア資料がこの時期に再びママイが新サライを奪取したと伝えています。 それはアブドゥラーの764(1362/63)年の新サライでの貨幣で証明されます。 ロシア資料は、ムリードとママイが絶えず争ってしたことを伝えており、 ムリードの最後はママイとの争いに敗れ去った結果かもしれません。 ただ2度目のママイのサライ支配も短期で終わったようです。 765(1363/64)年にアゾフでの貨幣は、アブドゥラーがクリミアへ 戻ったことを物語っています。
ママイ&アブドゥラーから新サライを奪った人物はプラドであると思われます。 彼は“ミル・プラド”や“プラド・ハン”の名で764(1362/63)年の新サライでの貨幣が、 “プラド・ホージャ”の名で766(1365/66)年の新グリスタンでの貨幣が残っています。 過去の研究者には、この新サライのハンのプラドとブルガール地方の プラドテムルを同一人物と考えている人もいますが、ロシア史料は この時期のプラドテムルをハンとして扱っておらず、よって両者は別人と 考えるのが妥当だと思います。 プラドの父系は不明だが、もしかしたら後のサライのハンの アラブシャーの父プラドかもしれませんね。 ロシアのA.G.ムハマディエフは、1983年に刊行したジュチウルス貨幣の 研究書で、766(1365/66)年の“プラド・ホージャ”の貨幣について独立した 項目を設けず、代わりにデゥリラー・ホージャなる人物の766(1365/66)年の 新グリスタンでの貨幣について言及しています。 ムハマディエフ自身が述べるように、過去にデゥリラー・ホージャの貨幣に ついて言及されたことはありません。ムハマディエフは、 デゥリラー・ホージャの貨幣とプラド・ホージャの貨幣の関連を暗に匂わせて いますが、踏み込んだ論述はされていません。 最近の研究では両貨幣の関係をどう論じているか大変気になるところですが、 残念ながら今それを判断する材料を持ち合わせていません。ここでは、 プラドの後にデゥリラー・ホージャが新サライのハンになったと考えておきます。 デゥリラー・ホージャのあとに新サライを支配したのはアズィーズです。
499 :
ty270410 :04/01/15 22:09
>>497 >>498 ありがとうございます.佳境に入ってきたという感じです.
ヒズル,ムリード,アジーズは川口先生の系図のシバン裔と
理解してよいでしょうか?
また,プラドは川口先生の系図のアラブシャーの父の○に
該当するかもしれないということですね!
いよいよ,1360年代後半から,1370年代に入りますね!
楽しみです.
500 :
(^■^ ラ 【卍】 :04/01/15 22:13
大陸の野蛮人は、駆除せねばならぬ!
お前らナチスドイツとスターリンのせいでクリミアタタールはひどい目にあったんだぞ。
アズィーズの新サライで鋳造された貨幣は766(1365/66)年〜768(1366/67)年です。 ナタンズィーは、アズィーズはテムルホージャ(ヒズルの子)の子で、 1364年にハンに即いたと延べていますが、父系も年代も全く信用できません。 川口氏の岩波講座に掲載の系図に従うなら、 シバンの子サイルハーンの子クトルグテムルの子ブラルダイの子 バリクの子トゥイホージャの子アズィーズ となるのでしょうけど・・・確かに系図には「アズィーズ」を見ることができますが、 それとサライのハンのアズィーズが同一人物であるかは別の話です。 あくまで参考程度に留めて置くのが良いと思います。 アズィーズの貨幣にはジャニベク・ハンを名を刻したものが見られます。 これはジャニベクの名を出すことで、ハン位の正当性を表したものと考えられます。 この混乱期の貨幣には時にジャニベクの名のみを刻したものが発見されており、 過去の研究者たちは、ジャニベク2世、ジャニベク3世、というハンの存在を 作り上げましたが見当違いでしょう。 ジャニベクの名が混乱期のハンたちの正当性に利用されたと理解したいです。
アズィーズについてはロシア史料が多く述べるところですが、 その最後については述べられていない。 一般的には、アズィーズはママイによって排除されて3度目のアブドゥラーの サライ汗が成立したと考えられています。 アズィーズの最後の貨幣が768(1366/67)年であり、同じ768(1366/67)年に新サライで 鋳造されたアブドゥラーの貨幣が残るので問題ないように思えます。 しかし、ブルガール地方のプラドテムルの名を刻した768(1366/67)年の新サライの 貨幣が存在するのです。 プラドテムルについてはロシア史料が伝えるところが多い。 それによれば、プラドテムルはニジニ・ノブゴロド公国に攻められ、 アズィーズのオルドに避難し、そこで殺されたと述べています。 ニジニ・ノブゴロドの動きには、裏でアズィーズが絡んでいたとかで・・・。 まぁ、そこにはプラドテムルが新サライを支配したことは述べられていません。 このあたりの事情は、過去の研究者は「アズィーズ、ママイ、プラドテムルがサライを争った」 などの言葉でごまかしています。 ただはっきり言えることは、プラドテムルの貨幣が現実に存在するということです。
ニジニ・ノブゴロド公国に追われ新サライに逃亡したプラドテムルは、 そのままアズィーズを追い出し新サライを掌握したが、 すぐにアズィーズ反撃に会って殺害された。しかしアズィーズも ママイの襲撃を受けて新サライを追われた(または殺害された)・・・・・・・と理解できる のかもしれません。あくまで僕個人の推測です。 この辺の事情に詳しい方がいらしたらヘルプしてください。 まぁ、最終的に3度目のアブドゥラーの新サライ支配が始まるわけです。
>>499 ヒズル,ムリードはシバン裔ですけど、ムリードはヒズルの弟でしょう。
アズィーズに関しては上記で述べた通りです。
プラドの父系ですが、ただアラブシャーの父親と同名であるというだけで、
なんの根拠もありません。“プラド”は良くある名前ですから。
ただアラブシャーがサライ汗になったということは、
その父親もそれなりの勢力を持っていたのでしょうし、
もし父親もサライ汗であったのならアラブシャーがサライ汗に即くのに
不都合もなかっただろうなぁ〜とはと勝手に僕が思っているだけです。
プラドテムルの父系ですが、彼の貨幣には「トカルの子プラドテムル」とあります。
父トカルは研究者によってはヌガンと読まれ、これはノガイやタガイなのだろうと
されています。プラドテムルの支配圏ブルガールのに隣接する西側には
タガイの支配圏があります。ただ両者が交戦した様子は(僕が知る限り)ないです。
これは両者が親子であったとすれば理解できるのかもしれません。
新サライの北方はタカイ&プラドテムル親子の支配圏だった・・・こんな推測は如何でしょう?
ただ近接するロシア側の史料にはそんな親子関係は全く述べられていないことが
大きな難点ですけど・・・・。
A.P.グリゴリエフの「金帳オルダの王位におけるシバン家」という論文の 参考文献に、グリゴリエフが1983年に発表した「14世紀、60-70年代の 金帳オルダのハン」という論文があるのですが、 誰か読んだことのある人います??
この辺りの分野で帝政ロシア・ソ連(出身)の研究者は、 バルトリド、ミノルスキー、ペトルシェフスキーぐらいしか知らない。
508 :
ty270410 :04/01/16 21:38
>>502 Spulerの歴代表にジャニベク2世が,
>>462 でご教示くださったコインの表にジャニベク2世と
ジャニベク3世が載っていますね!
そういう事情ですか!実際にはいないということを理解しました.
>>498 デウリラー・ホージャは欧文では
どう書くのでしょうか?
Devlilar Khoja?
>>508 プラドテムルの貨幣にもジャニベクの名が刻まれているとのことです。
それは「神聖なるジャニベク汗、願わくば帝国を持続させたまえ」
というような内容だそうです。
アズィーズの貨幣の例も踏まえれば、やはり混乱期のジャニベク貨幣は
正統性の誇示に利用されたのでしょう。
デウリラー・ホージャですが、記載されている研究所のキリル文字を
そのままローマナイズすれば Deulillakh Khoja となります。
3度目のアブドゥラーの新サライ支配を終わらせたのは、
ハサンであると言われています。
ロシア史料は1368年にハサン・ハンが新サライを掌握したと伝え、
また770(1368/69)年と771(1369/70)年に新サライで鋳造された
彼の貨幣があるとのことですい(某研究書に書いてありますが、
別資料で確認する必要ありです)。
ところが、例の貨幣の一覧のサイトによると、
オルジェイテムルという人物による769(1367/1368)年の新サライでの
貨幣があるとのこと。インターネット上の文字情報だけなら
信用度は低いのですが、現物写真が掲載されているとなると
信用しないわけにはいきません。
http://www.hordecoins.folgat.net/rgalGH_saray_09.htm よって、
アブドゥラー(3度目)⇒オルジェイテムル⇒ハサン
とサライ汗が継承されたと理解できましょう。
オルジェイテムルについては今のところ情報を持ち合わせていません。
ロシア史料にそれらしき人物が登場するのかもしれませんが、
ざっとジョチ家も系図を確認したところ、該当しそうな人物は
いませんでした。今後の研究を待ちたいです。
ハサンについてですが、彼はプラドテムル亡き後、 ブルガール地方を支配した人物のようです。 サライのハンを追われた後にブルガール地方に戻りました。 1376年にブルガール地方のハンとして史料に再び登場します。 ハサンの父系について川口氏は、シバン家、掲載の系図では、 ミングテムルの子ビククンジの子としています。 サライ汗のハサンの父系について明確に述べている史料は 私の知る限りありません。 ハサンがシバン家であるという説は、、 1960年に刊行されたM.G.サファルガリエフ『金張オルダの崩壊』という 研究書の中で述べられていました。そこには「『高貴系譜』によれば ハサン・オグランとアリ・オグランはシバン家である」とあります。 確かに『高貴系譜』によればミングテムルの子ビククンジの子に ハサン・オグランとアリ・オグランの兄弟がいます。 しかし、サファルガリエフはこのアリ・オグランを後のサライ汗イル・ベクと 同じと考えているようです。 イル・ベクは貨幣にミングテムルの子とあるので、サファルガリエフの 理由でのハサンのシバン家は論拠は弱いと思います。 ですので、川口氏のあげる系図のハサンは、あくまでも 参考程度にするのが良いかと思います。
ハサンにあとはトゥルンベクという人物が登場します。 772(1370/71)年・773(1371/72)年の新サライの貨幣が残っています。 この人物は女性では?という説もあります。 それは貨幣にハヌム(婦人の敬称)が付けられているケースがあるからです。 アズィーズの王妃であったとの論もありますが、 この辺の論述については、よく把握していないので省略しておきます。 トゥルンベクはママイによって排除されたようです。 今回、ママイはアブドゥラーに代わって新たにムハンマド・ブラック を擁立しました。彼の新サライで773(1371/72)年と刻まれてた貨幣が 残っています。 ちなみにアブドゥラーの最後の貨幣が771(1369/70)年、 ムハンマド・ブラックの最初の貨幣も771(1369/70)年なので、 771(1369/70)年間にママイ・オルダのハンの交代があったと推測できます。
イブン・ハルドゥーンは、アルトラハンのチェルケス・ベクが776(1374/75)年に ママイからサライを奪い、以降ママイは本拠地のクリミアで独立していったと 述べています。よってムハンマド・ブラックの新サライ支配は3年あまり 続いていたということでしょう。 チェルケス・ベクは、ハージーチェルケス(サルキス)などと呼ばれています。 彼は、ナタンズィーの言う12.ハージー、ホーンデミールの言う12.チェルケスベクでしょう。アルトラハンの有力王公が新サライを奪ったわけです。 ただ彼の残る貨幣は新サライではなく、彼の本拠地アストラハンで 鋳造された776(1374/75)年のものだけです。ただそれ以前に、 チェルケス・ベクが貨幣を鋳造したことはないので、 776(1374/75)年の貨幣は、新サライのハンとしての鋳造したと考えて 問題なさそうです。 チェルケス・ベクは、偽ってジャニベクと称したとされていますが、 実際はヒズルやムリードの弟ハージーだと考えたいです。
ちなみにクリミアへ追い戻されたママイとムハンマド・ブラックについて。 イブン・ハルドゥーンはこれ以降、ママイは本拠地で独立していったと 述べています。この記述通り、これ以後ママイは新サライを取り戻す ことはせず、クリミアで勢力を拡大していきました。 1360年代の「シバン家のサライ汗 vs ママイ・オルダ」から 1370年代は「シバン家 vs 左翼ウルス(トカテムル家)」という 図式になっていきます。
515 :
ty270410 :04/01/18 09:09
>>509 デウリラー・ホージャのローマナイズ名ご教示ありがとうございます.
>>514 いよいよ,ウルス(オロス)出現の前夜になりましたね!
実にダイナミックな変動で,わくわくしております.
今までに,これほどまでに時系列に沿って詳しくこの時代に
ついて書かれた日本語の書物などに接していませんでしたので,
大変,感謝しております.
続きを楽しみにしております!
>>515 史料の記述や過去の研究を鑑みて、個人的に理解・判断して書いているので、
アカデミックな人たちから見れば厳しいご意見の嵐だと思います。
あくまでも参考程度の概述だと思ってお読みください。
ウルス・ハンの登場のところまできたので、ここで左翼ウルス(オルダ・ウルス)
について確認しておきましょう。
左翼ウルスの継承を辿っていくと、
1.オルダ(バトの長子)、2.コングラン(オルダの子)、
3.コニチ(オルダの子サルタクタイの子)、4.バヤン(コニチの子)
5.サシ・ブカ(バヤンの子)、6.エレザン(サシ・ブカの子??)
7.ムバラク・シャー(エレゼンの子??)、8.チンバイ(ムバラク・シャーの弟??)
となります。このうち信頼のおける系図情報で確認でいるのはサシ・ブカまで。
6〜8までの3代は信頼度の低いナタンズィーの著書を
典拠にもつ諸々に史料に限られる、ということは赤坂氏も述べている
ところです。6〜8までの3代の系図&当主継承がどれほど
信用できるかですが、ムバラク・シャーについては、オルダ・ウルスの本拠地
スィル河流域のスィグナクで鋳造された貨幣が残るので、
実在は確認できます。諸々と問題のあるナタンズィーの情報ですが、
人名についてはあながち見当外れではありません。
暫定的ですが、川口氏の述べるようにオルダ家による左翼ウルス支配は
ジャニベク汗治世の人物とされるチンバイで終わっと考えておきます。
チンバイの死去によるオルダ家断絶の後、1369年にトカテムル家のオロスが 左翼ウルスの支配者として登場する約10年間、 左翼ウルスのハン位はどのように継承されていったのでしょう。 『チンギスナーマ(ドスト・スルタン史)』など諸々の史料では、 カラ・ノガイの話を伝えています。彼の話は史料によって微妙に 話がずれているのですが、『チンギスナーマ』はベルディ・ベクの死後に カラ・ノガイがスィル河流域で左翼ウルスの王位に即き、後に弟トグリテムルが継ぎ、 その後にウルスがハンとなったと述べています。 ジュチ |バト |トカテムル ||バイムル |||トカンチャル ||||サシ |||||ブチャック ||||||トグルク・テムル |||||ノカイ(カラ・ノカイ) |||||トグリ(トグリテムル) |||||ボカル・クトルグ・ホージャ(ボグリホージャ)
ここで注目したいのは、ホーンデミールの記述です。彼は歴代の金帳ハンを、 14.ヒズル・ハンの子ムルド 15.バザルチ 16.サシの子トカイ 17.トグルク・テムル・ハン。トカイの従子であった。 18.ムラード・ホージャ。トグルク・テムル・ハンの兄弟 19.クトルグ・ホージャ。トカイの兄弟 20.オロス・ハン と述べています。そこにはムリード(ムルド)以降に立ったシバン家の サライ汗については1人も言及していません。 もしかしたら、16.サシの子トカイ以降の情報は、左翼ウルスのハンの 情報であるのかもしれません。左翼の王公トクタミシュがティムール朝に 亡命してたことを考えれば、ホーンデミール情報の混同も不思議ではないでしょう、 『チンギスナーマ』はクトルグ・ホージャ(ボグリホージャ)の 左翼ハンの即位について述べていませんが、彼については署名の入ったヤルリクが 残っているそうです。そのヤルリクがどのような内容であるのかは把握していないので、 何とも言えませんが、クトルグ・ホージャが左翼ウルスの指導者であったことは 確かなようです。 サライ汗ムリードと同一人物ではとされてきた18.ムラード・ホージャも、 実際に、左翼のハンとして存在したのかもしれませんね。 カラ・ノガイに関する情報は、史料によって内容がことなるので、 一度、ちゃんと整理してもらいたいですね、素人の意見ですけど。 そうすれば、何らかの真実が見えてくるのかもしれません。 最終的に1369年にオロスは左翼ウルスの指導者となり、 今度は新サライの支配を目指し進軍を始めるわけです。
519 :
ty270410 :04/01/19 09:14
>>516 >>517 >>518 オルダ・ウルスの状況をご教示ありがとうございます.
>>462 「北大の長峯氏」はGoogleで検索しました.長峯博之氏のことですね!
>>506 A.P.グリゴリエフの論文は青木書店の『系図が語る世界史』に
赤坂先生が書かれた論考の[研究論文等]に紹介された
Grigor'ev,1985のロシア語の論文ですね!
また,『高貴系図』とはムイッズ・アンサーブのことと
理解してよろしいのですね!
いよいよウルス(オロス)の登場ですね!
楽しみです.
>>519 そうです。修士論文は閲覧可能なのかもしれませんが、
A.P.グリゴリエフの論文は入手が難しいかも。
どこで入手したか記憶が定かでないです。
ムイッズ・アンサーブ(高貴系譜)も刊本は無く
写本のみなので、一般には入手が難しいのかな。
僕は学生時代に某氏から2種の写本をコピーさせて頂きました。
左翼ウルスについて補足を1つ。
トカテムルの子バイムルの子トカンチャルの子ブスクラクの子に
ムバラクシャーという人物がいます。
もし彼が左翼ウルスの当主のムバラクシャーであるならば、
オルダ家断絶は従来考えられているよりも早いのかもしれません。
サライ汗の話に戻ります。イブン・ハルドゥーンは、 776(1374/75)年に新サライを掌握したハジタルハン(アストラハン)の 王公チェルケスベクは、サライチクの王公アリベク(エルベク)に新サライを 奪われた。アリベクの後はその息子はハーンベク(カガンベク)が継ぐも 左翼ウルスのオロスが新サライの進入してハーンベクを追い出した。 と伝えます。オロスの新サライでの776(1374/75)年の貨幣が残るので、 この一連の新サライのハンの交代劇は1年たらずの短期間に 起こったのでしょう。 アリベクは本拠地サライチクで鋳造された775(1373/74)年の貨幣が 残っており、新サライ掌握以前から、独立した動きをしていたことを 知ることができます。 アリベク&ハーンベクはシバン家に所属します。 オロスも以前から本拠地シグナクで貨幣を鋳造し、ママイもクリミアで ムハンマドブラクの貨幣を鋳造、もう各地の諸侯が独立政権を築きつつ あったということでしょう。
オロスの新サライの貨幣には743(1342/43)年という奇妙な年代を刻したものが 残っています。A.K.マルコフは1896年刊行『エルミタージュ所蔵イスラム貨幣カタログ』において、この奇妙な貨幣について、ジャニベク汗の貨幣に鋳型を利用したためと説明しています。 オロスが新サライを掌握したことにより成立したジュチウルス史上初めての 白帳と青帳のハン位が統合は、あっという間に終わったようです。 サライチクに撤退したハーンベクがすぐに反撃し新サライを奪還しました。 ハーンベクの新サライで777(1375/76)年に鋳造された貨幣が残っています。 オロスは左翼ウルスへ撤退したということです。
ハーンベクは、従兄弟のアラブシャーにその地位を 追われたと考えられています。ハーンベクがサライ汗に即いた際、 アラブシャーはハーンベクの本拠地サライチクの 支配を受け継いだようで、アラブシャーのサライチクにおける 貨幣が残っています。しかし、その後779(1377/78)年に新サライで 鋳造されたアラブシャーの貨幣が現れるので、 アラブシャーはハーンベクを追い出して自らサライ汗と推測できます。 ただ、その時期については明言してる史料はないようです。 ロシア史料は、1377年にアラブシャーがママイの支配領域を越え、 ニジニ・ノブゴロトに進軍したとことを伝えます。 翌年にはママイもニジニ・ノブゴロトに進軍していることから、 この時は両者は協力関係にあったのかもしれないが、 アラブシャーが新サライを離れている間に、新サライの支配権は 左翼ウルスのオロスに落ちてしまったようである。。 779(1377/78)年にオロスが新サライで鋳造した貨幣が残っています。 これにより、再び左翼ウルスの汗と新サライの汗が1つに統合されました。 再び新サライの掌握に成功したオロスですが、 実際に新サライ奪還に従事したかは定かでありません。 この時すでにティムール朝に亡命していたトクタミシュが ティムールの支援を受けて左翼ウルスに攻撃をし始めたからです。 実際、オロス自身は新サライに代官を置いて、自らは本拠地でトクタミシュの軍勢と対峙しています。
524 :
ty270410 :04/01/20 16:45
>>520 ,
>>521 ,
>>522 ,
>>523 毎々詳しいご教示ありがとうございます.
>>512 ムハンマド・ブラックはSpulerのメフメド・ブラクですね!
>>521 アリベク(エルベク)はSpulerのアイベク
ハーンベク(カガンベク)はSpulerのハガン・ベク・ハン
にあててよいでねか・
ちなみに,私はドイツ語は読めませんが,国会図書館で
歴代表のところをコピーして持っています.
525 :
ty270410 :04/01/20 17:01
>>524 訂正:「あててよいでねか・」を
「あててよいですか?」に訂正します.
>>524 Spulerの研究書もHammmer-Purgstallと共に古典的名著の域に
入りつつ感があります。
その後、ロシアではいくつかのまとまった研究書が刊行されていますが、
一般には入手しにくいのが難点ですね。
Spuler は本文ではハーンベクについて殆ど述べるところがないのですが、
巻末の歴代ハン一覧ではハーンベクを
「1371-1375? Qarinhan(Aibek の子)」と「1377 Hagan Bek Han」
の2人に分けてしまっていますね。
両者が同一人物であることは、上記の説明でご理解いただけると思います。
ムハンマドブラクとアリベクは、おっしゃるとおりです。
さて、ゴール真近かです。 1377年にアラブジャーからサライの汗位を獲得し、ホラズムを除くヴォルガ河以東の ジョチウルスを掌握したオロスでしたが、 (諸説があり断言はできませんが)1377年冬にティムール軍との戦闘にて 戦死してしました。オロスの息子のトクタキヤが後を継ぎましたが 2ヶ月あまりで死去してしまい、1378年その後をテムルメリク(テムルベク)が継ぎました。 過去の研究者によってテムルメリクはトクタキヤの弟と認識されてきましたが、 それは間違いです。シャーミーの『ザファルナーマ(勝利の書)』に 22.ノムカン・テムルメリク(テムルベク)とあるように、ノムカン家の人物です。
□トカテムル |□ウルングテムル ||□アジキ |||□バキク ||||□テムルホージャ |||||□バダク ||||||□オロス |||||||□トクタキヤ ||□サリチャ |||□クンチュク ||||□クトルクホージャ |||||□トゥイホージャ ||||||□トクタミシュ |□クンテムル ||□アバイ |||□ノムカン ||||□クトルクテムル |||||□テムルメリク(テムルベク)
ティムール朝資料は、テムルメリクについて国政に興味を持たず酒と娯楽に溺れ、 人々はトクタミシュの登場を待望したと述べていますが、 これはトクタミシュの行動を正当化する寓話以外の何物でもないでしょう。 最終的にティムールの援護を受けたトクタミシュはテムルメリクを排除し、 左翼ウルスの首都とも言えるシグナクでハン位に即きました。 それは1378年か1379年のことです。 すでにオロスの時に左翼ウルスの汗位とサライの汗位は統合されていたわけで、 トクタミシュが左翼ウルスの汗位を獲得した時点で サライの汗位も獲得したと理解できそうであるが、 実際は新サライにはまだオロスに任じられていた代官が駐任していました。 1380年、トクタミシュは新サライへ進軍そして占拠し、ここに名実ともに ジョチウルスのハン位を獲得したわけです。 かつてはサライのハン位を狙ったシバン家王公たちであるが、 シバン家系の史料からトクタミシュの支配を容認していたことが窺えます。 新サライを掌握したトクタミシュは、その後、アストラハンに進軍して かつてサライ汗位を獲得したチェルケスベクを破り、 そしてクリミアに進軍してママイを破りジョチウルスの統一を果たすのですが、 このあたりについては諸々の論文に詳しいので、そちらに譲ることにします。 1つだけ付け加えておきます。 トクタミシュの進軍の時に、ママイが擁立していた汗はトゥルンベク という人物です。このトゥルンベクが嘗てサライの汗にあった女性かもと 推測されるトゥルンベクと同一人物であるかは検討が必要な題材です。
【混乱期のサライのハン位継承】 1357-1359 ベルディベク 1359-1360 クルパ 1360 ナウルーズ 1360 ヒズル(1度目) 1360 バザルチ・・・ジョチの子タングトの後裔 1360-1361 ヒズル(2度目) 1361 テムルホージャ 1361 アブドゥラー(1度目) 1361 オルドメリク 1361 キルディベク 1361-1363 ムリード
1363 アブドゥラー(2度目) 1363-1364/65 プラド(ミル・プラド、プラド・ホージャ) 1364/65 デゥリラー・ホージャ・・・シバンの4世孫 Dawlat Shah か? 1364/65-1366/67 アズィーズ 1366/67 プラドテムル 1366/67 アブドゥラー(3度目) 1367/68 オルジェイテムル 1368-1369/70 ハサン 1370/71-1371/72 トゥルンベク・ハヌム 1371/72-1374/75 ムハンマド・ブラク 1374/75 チェルケス・ベク 1374/75 アリベク 1374/75 ハーンベク 1374/75-1375/76 オロス(1度目) 1375/76-1977 ハーンベク(2度目) 1377 アラブジャー 1377 オロス(2度目) 1377-1378 トクタキヤ 1378-1379? テムルメリク(テムルベク) 1380〜〜 トクタミシュ 一応ここまで通観してきましたが、あくまでも私見ですので、 参考までにご理解ください。 トクタミシュ以降のジョチウルスの汗位継承については、 1360〜70年代以上に一層の混乱期であるといえそうですが、 とりあえず、ここで一区切りにしておきます。 久々に資料を見直したので、ポカがあるかもしてませんが、 それはお許しください。
532 :
ty270410 :04/01/21 00:18
蒙古馬さん!
>>454 (1月5日)以来,
>>531 (1月20日)まで,約半月あまり
ベルディベクからトクタミシュのサライ奪取までの
ジョチウルスの汗位継承についてご教示ありがとう
ございました.
この半月間,毎日が楽しみでした!
教えていただいたコインのサイトの英語版と参照してみる
つもりです.
(ロシア語版には詳細が記載されているようですが,
ロシア語も読めませんので残念です!)
重ねて,ありがとうございました.
>>532 少なからず期待に答えることができて何よりです。
上記でアラブシャーをアラブジャーと書いてしまいました。
訂正しておきます。
混乱期のジョチウルスの貨幣に関しては、
判読が難しいものもあるようで、研究書ごとで一致していないことが多いです。
19世紀に発見されたものから最近に発見されたものまで、
一冊の研究書で完璧に網羅しているものは
知る限りは無いように思えます。
ロシア人による研究書を探せばあるのかもしれませんが、
なかなか厳しそうです。
例のコインのサイトのデータも怪しい点が多々あり、
微妙なところです。一応、その辺の踏まえて参照するのが良いと思います。
534 :
ty270410 :04/01/22 17:42
>>520 長峯博之先生の論文ですが,抄録が出ていました.
『史朋』30(1998)p.43
「1360〜1370年代ジュチ・ウルス混乱期におけるオルダ・ウルス」
オルダ系,トゥカ・ティムール系
バトゥ系,シバン系
そしてウルス・ハーン,トクタミシュの統一という
筋になっていました.
535 :
ty270410 :04/01/22 18:02
>>531 デウリラー・ホージャはシバン4世の孫のDewlat Shahか
と書いておられます.
私は『集史』のBoyleによる英訳からジュチの子孫の系図を
作っていますが,シバンの孫と一部曾孫までしか載って
いません.お忙しいところ恐縮ですが,
もし,差し支えなければDawlat Shahまでの系図を教えて
いただきたくお願いします.
あつかましく,もう一つ,川口先生の系図に
アズイーズがシバンの子サルガンの子孫となっていますが,
アズイーズまでの系図をご教示いただきたく存じます.
よろしくお願いします.
>>534 長峯氏の修士論文は実に興味をそそられますね。
オルダ・ウルスについてなので、
カラノガイなどにも触れられているかもしれません。
サライの汗にも触れられていそうです。
後輩を頼ってみましょう。
□ Siban |□ Bahadur ||□ Juchi Buqa |||□ Yadaqul ||||□ Ming Temur |||||□ Elbek(エルベク) ||||||□ Qagan Bek(ハーン・ベク) |||||□ Pulad(プラド) ||||||□ Arab Shah(アラブ・シャー) |||||□ Bek Qundi ||||||□ Hasan(ハサン) |□ Qadaq ||□ Tula Buqa |||□ Mangqutai ||||□ Khizr(ヒズル) |||||□ Temur Khoja(テムル・ホージャ) ||||□ Haji(??ハージーチェルケス) ||||□ Murid(ムリード) |□ Sayilqan ||□ Qutluq Temur |||□ Buraldai ||||□ Baliq |||||□ Tui Khoja ||||||□ Aziz(アズィーズ) |||□ Buralqi ||||□ Dawlat Shah(デウリラー・ホージャ Deulillakh Khoja か?)
538 :
ty270410 :04/01/23 17:11
>>537 たびたびのご教示ありがとうございました.
シバンの子孫が混乱期にかなりサライの汗に
なったのですね!
重ねてありがとうございました!
誰だったか忘れたが、世界史上におけるモンゴルの大征服の最大の功績は、ユーラシア全土におけるペストの大流行だと皮肉ってるのを読んだことがある。
540 :
世界@名無史さん :04/01/27 14:42
蒙古八百
541 :
世界@名無史さん :04/01/27 16:47
イル汗国の最後ってぐっちょぐちょでよくわからん。
542 :
世界@名無史さん :04/01/27 19:14
>>539 ペストがクリミアのジェノヴァ人植民地にモンゴルによってもたらされ、そこから欧州に広まったのは
有名な話だが、その後の伝染経路を見ると、ハンザ同盟経由でノヴゴロドに達してそれからやっと
モスクワまで来てる。
キプチャク汗国とロシアってそんなに交流なかったのか?・・・謎だ。
543 :
世界@名無史さん :04/01/27 20:49
>541 アブーサーイード→アルパ=ケウン の後の君主がぐちゃぐちゃだな。 一応1411年をイル汗国が滅びたとしている場合が多いけど 1411年に誰が滅びたの?
544 :
世界@名無史さん :04/01/27 21:29
>>543 1411年はカラコユンルがイルハン国の継承国家ともいえるジャライル朝を滅ぼした年で、
イルハン国(フレグ・ウルス)の滅亡は、チンギスの弟のジョチカサルの7代目の子孫で、
ホラーサーンを支配していたタガイ・テムル(トガイ・テムル)が、在地勢力のサルバダールによって
騙し討ちで殺害されて、チンギス家の支配者がイランからいなくなった1353年とするのが妥当なんじゃないの?
なるほど。1411年はジャライル朝の滅亡年でしたか。 それにしてもアルパ=ケウンのようなフラグ裔ではない君主の出現でも フラグウルスの異常事態と思っていたけど、タガイ・テムルのような チンギス裔ですらない(チンギス家ではあるとはいえ)君主もいたのは驚きですな。 アルパ=ケウンといいイスデルといい帝国最盛期に日陰者だった アリク=ブケ家の者が帝国没落期に台頭してくるのですな。 同じく最盛期に日陰者のモンケ裔の動向も気になります。
546 :
世界@名無史さん :04/01/27 23:19
ヒヴァ汗国の君主は20世紀に至るまでジュチの子孫?
547 :
世界@名無史さん :04/01/27 23:30
アルパ=ケウンについては今は亡き岩武先生が論文を発表されていたな。
□ Chinggis Khan |□ Tului ||□ Hulegu @(1256-1265) |||□ Abaqa A(1265-1281) ||||□ Arghun C(1284-1291) |||||□ Ghazan F(1295-1304) |||||□ Oljeitu G(1304-1316) ||||||□ Abu Sa'id H(1316-1335) ||||||□ Sati Beg M(1337) ||||□ Geikhatu D(1291-1295) |||||□ Ala Farank ||||||□ Jahan Temur N(1338-1340) |||□ Yoshmud ||||□ Suke |||||□ Yusuf Shah ||||||□ Sulaiman O(1338-?) |||□ Taraghai ||||□ Baidu E(1295) |||||□ Ali ||||||□ Musa J(1336-1337) |||□ Ahumad B(1281-1284) |||□ Mongke Temur ||||□ Ambarchi |||||□ Qunchi ||||||□ Yol Qutluq |||||||□ Muhammad K(1336-1337) ||□ Ariq Boke |||□ Melik Temur ||||□ Mingghan |||||□ Sose ||||||□ Arpa Ke'un I(1335-1336)
□ Juchi Qasar |□ Baqa ||□ Ebugen |||□ Baba Bahadur ||||□ Sudi |||||□ Tughai Temur L(1337-1353)
550 :
世界@名無史さん :04/01/28 00:05
551 :
世界@名無史さん :04/01/29 00:50
『五族譜』(Shu‘ab-i Panjgāna) 『高貴系譜』(Mu‘izz al-Ansāb fī Shajarat al-Ansāb)
552 :
ty270410 :04/01/29 23:55
553 :
世界@名無史さん :04/01/31 10:52
質問。 例のコインのサイトを英語版で見てたら出土地にSaray al-jadidというのがあるけど ベルケサライのことですか?
556 :
世界@名無史さん :04/02/01 06:04
>553 コンギラト部では?
557 :
世界@名無史さん :04/02/01 08:27
>>553 ヒヴァは途中からコンギラト部。
マングトはノガイ・オルダやブハラの途中から。
20世紀まで続かなかったけどコーカンドなんて最初からチンギス裔じゃないしな。
560 :
ty270410 :04/02/08 00:02
岡田英弘先生の『モンゴル帝国の興亡』ちくま新書,2001 を見ていたら 北元のハーンの イエスデル 子のエンケ・ハーン 子のエルベク・ハーン 弟のクン・テムル オルジェイ・テムル ダルバク・ハーン がアリク・ブカの子孫とありました. これらの人物の系図はわかっているのでしょうか? ご教示ください!
山川の中央ユーラシア史によると、オルジェイ・テムルだけはオゴデイ裔らしいが。
562 :
世界@名無史さん :04/02/08 00:31
チンギス・ハーンとジャラールとの最終決戦ってすごいね。 ジャラールも結構がんばったんだね。 ワルシャワとの戦いなんて狩りだよ、狩り。
563 :
世界@名無史さん :04/02/08 04:14
ジャラールの親父のムハンマドって、 ほんとに情けなかったの? 一般には、ボロクソ言われてるけど。 カリフを支配下に置く寸前まで行ってたんでしょ?
ボロクソ言われてるか?そんなことないだろ。
565 :
世界@名無史さん :04/02/08 11:35
>>564 逃げたからね。
息子は勇敢に戦ったから余計に批判されるんじゃないの?
ジャラールがチンギス・ハーンに破れた最終決戦って、戦国時代の島津氏の野伏釣の戦法そのものだね。
ジャラールをワザと誘い込み、スブタイを回り込ませて包囲する。
狩りだよ、狩り。
566 :
世界@名無史さん :04/02/08 15:59
フラグの家臣「猿時代」
567 :
世界@名無史さん :04/02/08 16:01
インド方面司令官・サリ・ノヤン 「いつまでインドにいればいいんですか?」 モンケ 「永遠」 サリ・ノヤン 「ひ、ひでぇ 」
568 :
世界@名無史さん :04/02/08 16:30
フビライとハーン位を争った弟はアリク・ブハって呼ばれたり アリク・ブケって呼ばれたりしているけどどっちが正しいの? あのモンゴル文字でも、女性母音と男性母音の区別ぐらいは ブハの第一音節の母音でつくはずだが。
570 :
ty270410 :04/02/08 22:09
>>561 ありがとうございます!
赤坂恒明先生のウェブサイトにティムール朝の史書4種類の
ペルシャ語からの邦訳が載っていますが,そこにも
ご指摘のように書いてありました!
571 :
世界@名無史さん :04/02/09 20:17
カシュガル汗国、ヒヴァ汗国、コーカンド汗国、ブハラ汗国、クルム汗国
572 :
世界@名無史さん :04/02/09 21:07
東チャガタイ汗国がカシュガル汗国とビシュバリク汗国に分裂しんたんだっけ? どちらもチャガタイの系譜をひいているのかな?
573 :
世界@名無史さん :04/02/10 07:18
日本にイル・ハーン来日。
574 :
世界@名無史さん :04/02/18 19:42
チンギスハンの子孫は誰?フビライハンなの?
せめて教科書くらい読んでから聞け。
576 :
世界@名無史さん :04/02/18 19:59
>>574 特別に教えてあげよう
ブッシュ大統領だよ
577 :
世界@名無史さん :04/02/18 20:14
578 :
ty270410 :04/02/18 22:13
>>387 さん
教えていただいた次の論文をコピーしてきました.
仕事の合間に読んでみます.なにかありましたらまた投稿します.
岡田先生の「ダヤン・ハガンの年代(上),(下)」,「ダヤン・ハガンの
先世」
本田先生の「On the genelogy of early Northern Yuan」
岡田先生の引用文献を見るとチベット史の佐藤長先生もこのあたりに
ついて書いておられるのですね!
ともあれ,ありがとうございました.
579 :
ty270410 :04/02/18 22:22
チンギスハンの子孫は清の時代までは,モンゴル各地の封建領主として
多数残っていました.
1930年代に日本が満州国を設立した時に,モンゴル地域(いわゆる
東部内蒙古)には旗という行政区画を設置し,
チンギスハンの子孫の王侯は一応貴族として認め,
行政権は旗公署の役人が担当することにしました.
日本の敗戦後,王侯の特権は多分剥奪されたでしょうが,子孫は
現存していると思います.
>>577 さんが書いておられる徳王は西部内蒙古の王侯の一人です.
エンカルダだと、インド北部もモンゴル帝国の版図なんじゃが なぜ?
581 :
ty270410 :04/02/19 00:01
>>580 無知をさらしますが,「エンカルダ」とは何ですか?
教えてください!
583 :
ty270410 :04/02/19 21:53
>>582 ありがとうございました.
Googleで検索したら出てきました.
584 :
世界@名無史さん :04/02/21 01:17
世界帝国モンゴル。 当時、全人類の半分が、 その支配下にありました。
いや・・・・・・・人類の歴史を陰で操る謎の組織「男」 人類の歴史の半分は「男」の手によるものといっても過言ではない
586 :
ty270410 :04/02/27 22:21
モンゴル帝国の西端についてはよくわかりません! 東ガリチア(現在のウクライナ領)まで含んでいたと 考えてよいでしょうか? また,今のルーマニアの平原地帯,ドナウ河以北はモンゴル領と 考えてよいでしょうか?
モンゴル帝国ってだけじゃ漠然としすぎてるかと。
588 :
ty270410 :04/02/27 22:55
>>587 ジュチ・ウルス,または
キプチャク汗国の西端です.
13世紀〜15世紀のころです.
ジョチ家が直接治めている地域だとウクライナの南部地方あたり がそうなるかな。よく歴史地図にあらわれているモンゴル帝国の 西の版図はノヴゴロドをのぞいたルーシの諸侯領を上乗せした形 で示されています。
590 :
ty270410 :04/02/27 23:55
>>589 ありがとうございます.
ルーマニアの歴史のサイトを見ますと13世紀ごろの
ワラキア公の首都はトランシルバニアになっていますので,
今のルーマニアの平原部はジュチ・ウルスに含まれていた
のかな?とおもいました.
ヴラフ人は13世紀にモンゴル(ジョチ・ウルス)の支配下に入った後、 14世紀にはその支配を脱してワラキア・モルダヴィアの2つの大公国を建てたらしいが。
592 :
世界@名無史さん :04/02/28 23:40
父イェスゲイは他部族の女を略奪レイプしてテムジン産ませたんだよな。 激しくがいしゅつか。
593 :
世界@名無史さん :04/02/29 07:07
この辺に塩を撒いておきましょう。ザッ、ザッ。
594 :
世界@名無史さん :04/02/29 18:00
>>592 いわゆる略奪婚の話しですかね?
でもホエルン・エケを出したオルクヌウト氏族は同じモンゴル族だし、
イェスゲイが死んだ後オルドの管理は彼女が持ってたみたいだから正式な伴侶だったんでしょうな。
レイプ問題だったら帝国草創期にチンギスの長男だったジュチが一悶着あったわけでそっちの方が・・・
595 :
世界@名無史さん :04/02/29 18:14
>>590 聞くところによると、
トランシルバニアはマジャール人の定住以来ハンガリー王国の国家草創の地だったそうなので、
ワラキア公国の首都がカルパティア以西にあったというそのHPの情報は、
かなり現在のルーマニアの政治的見解に依拠したものやに思われるのですが・・・
古代ローマ人の末裔とマジャール人の如き新参者では勝負にならん!
597 :
ty270410 :04/02/29 21:40
リンク切れです。
599 :
ty270410 :04/03/01 21:42
600 :
ty270410 :04/03/01 21:44
601 :
世界@名無史さん :04/03/02 21:08
>>599 のところを一通り見て回りましたが、
イシュトヴァーン1世やベーラ4世などハンガリー王家がトランシルヴァニアに
ローマカトリックへの改宗やドイツ騎士団の入植、対モンゴル政策の展開を行った等の記事は見ましたが、
「13世紀ごろのワラキア公の首都はトランシルバニアになってい」るという記事は発見できませんでした。
申し訳ないです(汗
602 :
ty270410 :04/03/02 21:24
>>601 そうですか.
私の地名の読み間違えかもしれません.
もう一度確認します.
そもそもヴァラキア公国が成立したのは1325年では?
604 :
ty270410 :04/03/02 23:44
>>601 ワラキア公バサラブ一世の首都クルテア.デ・アルジェシュはトランシルバニアに
属すると思っていましたが,地図で調べましたらワラキア側の山麓でした.
アルジェシュ州の州都ピテシュティからさらにアルジェシュ川を遡ったところ
でした.トランシルバニアに近いのですが,かろうじてワラキアでした.
私の誤認でした.失礼しました.
605 :
ty270410 :04/03/03 00:34
>>603 ドナウ河口以北の平原は次々に
ペチェネーグ,ポロヴェッツ,モンゴルの支配下に
ありましたが,1330年前後にワラキア公国ができ,
今日のルーマニアの母体になったという解釈でよい
ですか?
606 :
ty270410 :04/03/10 14:53
本田実信先生の英文の北元のハーンの 論文を読んでいます. 中国語の翻字がWade式のローマナイズになって いるのは懐かしいですね!
607 :
世界@名無史さん :04/03/10 19:51
On the genealogy of the early Northern Yüan By M. Honda (Sapporo) Professor N. Poppe to his 60th birthday ↑ この論文のことですか?
609 :
ty270410 :04/03/10 23:39
>>607 そうです.
1958年に書かれた論文のようですが,私は1991年に
東京大学出版会から刊行された『モンゴル時代史研究』
所収のものをコピーしました.
これが終わったら,岡田英弘先生の
「ダヤン・ハガンの先世」を読んでみようと思っています.
仕事の合間に本田先生の論文を読んでいるので,ちょっと
時間がかかりそうです.
赤坂恒明先生のサイトにペルシャ語文献の翻訳があり参考に
なります.
610 :
世界@名無史さん :04/03/11 00:35
モンゴル帝国はジンギスカンこと源義経が弁慶や千島アイヌとで建国したもの。 ジンギスカンの墓は発見されたのに何故掘り返されないの?証拠が出てくる からだよねえ。鎌倉幕府こそチョンの植民地支配だった。日蓮は解放軍が 来ると予言していたもんね。
611 :
ty270410 :04/03/11 21:36
本田実信先生の漢字のローマナイズですが, Ming-shih-lu 最初,「明史・・・」と考えたのですが, 適当な漢字がなく,困っていましたが 中国語辞典(Wade式をピンインに直して)を 繰り返し見て 「明実録」 とわかりました. よく,かっこに漢字を入れている場合がありますので, 本田先生もそうして下さったら有り難かったのに! と思いました. もっとも,専門家の先生方には不必要なのかも知れませんが・・・・
若き日の本田先生がニコラス・ポッペの還暦記念の論文集か何かに寄稿されたのかな。 『ニコラス・ポッペ回想録』は以前に読んで面白かった覚えがあるけど、 モンゴル文語の文法書の方は本棚でホコリを被ってるなぁ。
613 :
ty270410 :04/03/11 23:03
>>612 そうかも知れません.
私はその論文集は見たことがありませんが,
東大出版会から刊行された『モンゴル時代史研究』に
再録されたものを見ています.
>>607 さんが示されたように
「N.ポッペ教授の60歳の誕生日に」と
英文の副題が付いています.
614 :
ty270410 :04/03/13 00:22
本田先生の論文からのまとめ(1) 1.Shun-ti T'o-huan T'ieh-mu-erh(1333-1370)[Mingu-shih-lu] ・Toγan Temur Uqaγatu[Erdeni-yin Tobci] ・UqaγatuまたはToγon[Altan Tobci] ・TuqtaまたはTuqtay[ペルシャ史料] 2.Ai-yu-shih-li-ta-la(<Ayusiridara)[Ming-shih-lu] 1.の子.(1370-1378).年号Hsuan kuang(Sen-kou) ・Ayushirindara[Shami] ・Khan Tayzi(Yuliktu)[Shami]は同一人物 ・Biliktu[ShajaratとKhwandamir]も同一人物 3.T'oku-ssu T'ieh-mu-erh(<Toγus Temur)[Ming-shih-lu] 2.の子.(1379-1388).年号T'ien-yuan ・Duqus Timur[Shami] ・Usqal[Erdeni-yin Tobci]:Biligtuの後継者 4.Yeh-su-tieh-erh(<Yesuder)[Ming-shih-lu](〜1392) Ariq Bokeの子孫 ・Yisudar[Shami] −−文字の上下のバーやウムラウトの類は省略してあります. 読み難いですが・・・
615 :
ty270410 :04/03/13 00:30
本田先生の論文からのまとめ(2) この後2代は内乱のため明の記録はない. 5.Engke Joriγtu[Erdeni-yin Tobci] ・Anka[Shami] 4.の子であることはペルシャ史料から確からしい. Ariq Boke家の一員 6.Elbeg Nigulesti[Erdeni-yin Tobci] ・Alyak(<Albak)[Shami] Qubilai家の一員と考えられる. 本田先生の考証は省略しました.
616 :
ty270410 :04/03/13 00:40
本田先生の論文からのまとめ(3) 7.K'un T'ieh-mu-erh:Ta-ta k'o-han[Ming-shih-lu] Shajaratのインド写本の註からAriq Bokeの子孫と考えられる. ・Gun Temur[Erdeni-yin Tobci]6.の後継者 ・Toγuγan[Altan Tobci]同上(1401〜1402) ・Kun Timur[Khwandamir]同上 ・Turan Timur[Shajarat]同上 ・Qaγucaγ Dugureng Temur Qungtayiji[Erdeni-yin Tobciと Altan Tobci]も同一人物かもしれない. この後は先生の考証が複雑ですから,少し時間を掛けて読みます.
乙。 ウムラウトは欲しい。 明実録、蒙古源流、アルタン・トブチはわかるけど、Shamiって何? 元朝のモンゴル人の名前はサンスクリットやチベット語起源が多くて困る。 両方知らないから意味がわからないし、そもそも綴りを復元できない。 例えばAyursiridaraってサンスクリットの Ayus (生) と zrIdhara (神の名前?) の複合語だよね。 ついでにこういう由来も解明できたらうれしい。
618 :
世界@名無史さん :04/03/13 22:44
>>617 Niz.ām al-Dīn Shāmī/نظام الدين شامىのZ.afar-nāma/ظفر نامه(『勝利の書』)のことだと思う。
Sharaf al-Dīn Yazdī/شرف الدين يزدىにも、ティムールについての重要史料として同名の書があるので紛らわしい。
619 :
世界@名無史さん :04/03/13 22:55
620 :
ty270410 :04/03/13 23:47
>>618 そのとおりです.ありがとうございます.
赤坂恒明先生のウェブサイトでペルシャ語ローマナイズで
母音の上のバーを:で示しておられます.
子音の下の点はピリオドで示しておられます.
以下,赤坂先生にならって表示してみます.
なお,ウムラウトは取り敢えず"で示します.
621 :
ty270410 :04/03/13 23:57
本田先生の論文からのまとめ(1) 1.Shun-ti T'o-huan T'ieh-mu-e^rh(1333-1370)[Mingu-shih-lu] ・Toghan Temu"r Uqaghatu[Erdeni-yin Tobchi] ・UqaghatuまたはToghon[Altan Tobchi] ・Tu:qtaまたはTu:qta:y[ペルシャ史料] 2.Ai-yu-shih-li-ta-la(<Ayushiridara)[Ming-shih-lu] 1.の子.(1370-1378).年号Hsu"an kuang(Sen-ko:) ・A:yu:shi:ri:nda:ra:[Sha:mi] ・Kha:n Ta:yzi:(Yu:liktu:)[Sha:mi]は同一人物 ・Bi:liktu[ShajaratとKhwa:ndamir]も同一人物 3.T'oku-ssu T'ieh-mu-e^rh(<Toghus Temu"r)[Ming-shih-lu] 2.の子.(1379-1388).年号T'ien-yu"an ・Du:qu:z Ti:mu:r[Sha:mi] ・Usqal[Erdeni-yin Tobchi]:Biligtu"の後継者 4.Yeh-su-tieh-e^rh(<Yesu"der)[Ming-shih-lu](〜1392) Ariq Bo"keの子孫 ・Yisu:da:r[Sha:mi]
622 :
ty270410 :04/03/14 00:01
本田先生の論文からのまとめ(2) この後2代は内乱のため明の記録はない. 5.Engke Jhorightu[Erdeni-yin Tobchi] ・Anka[Sha:mi] 4.の子であることはペルシャ史料から確からしい. Ariq Bo"ke家の一員 6.Elbeg Nigu"lesgu"i[Erdeni-yin Tobchi] ・Alyak(<Albak)[Sha:mi] Qubilai家の一員と考えられる.
623 :
ty270410 :04/03/14 00:09
本田先生の論文からのまとめ(3) 7.K'un T'ieh-mu-e^rh:Ta-ta k'o-han[Ming-shih-lu] Shajaratのインド写本の註からAriq Bo"keの子孫と考えられる. ・Gu"n Temu"r[Erdeni-yin Tobchi]6.の後継者 ・Toghughan[Altan Tobchi]同上(1401〜1402) ・Kun Ti:mu:r[Khwa:ndamir]同上 ・Tu:ra:n Ti:mu:r[Shajarat]同上 ・Qarghuchagh Du"gu"reng Temu"r Qungtayijhi[Erdeni-yin Tobchiと Altan Tobchi]も同一人物かもしれない. この後は先生の考証が複雑ですから,少し時間を掛けて読みます. なお,子音の上の∨はhを付けて示しました. また,γはghで示しました.Wade式のssuのuの上の弧は省略しました.
>>618 ありがと。
東方偏在の俺は満洲語とモンゴル語をちょっとかじっただけで
ペルシャ語やチャガタイ語はまったくわかりません。
この方面からの情報提供は助かります。
>>620-623 ありがと。
俺的にはモンゴル語が男性形か女性形かはとっても重要なので。
しかし北元の系統はほんと混乱してますね。
ある人はデルベクと書き、またある人はダルバクと書いてる。
モンゴル文字で正しく表記されているなら語尾が gh か g かで
判定できるはずなんだけど。
625 :
世界@名無史さん :04/03/14 03:51
>>569 ジュワイニーの『世界征服者史』ではاريق بوكا
ラシードゥ=ッディーンの『集史』ではاريغ بونكا
と綴られているけども、(ウイグル式)モンゴル文字での綴りは未確認(汗
626 :
ty270410 :04/03/14 21:30
本田先生の論文では,北元の可汗を7種の史料から表示しておられます. 1.Ming-shih-lu 2.Altan Tobchi 3.Erdeni-yin Tobchi 4.Z.afar-na:ma(by Niz.a:m al-din Sha:mi) 5.Z.afar-na:ma(by Shalaf al-din Yazdi:) 6.Shajarat al-atra:k 7.H.abib al-siyar(by Khwa:ndamir)
627 :
ty270410 :04/03/14 21:40
628 :
ty270410 :04/03/14 22:21
赤坂先生のサイトから(1) ・シャーミー,ウルグ・ユルト(大帳)の諸君主から 7代,トクタ・ハーンtu:qta qa:a:n: ・ホーンダミール,ウルグ・ユルトの諸君主から 7代,トクタtu:qta (本田先生はこの7代目をモンゴル史料のToghon Temu"rに比定しておられる.)
629 :
ty270410 :04/03/14 22:43
赤坂先生のサイトから(2) ・シャーミー 8代,ハン・タイジxa:n ta:yzi:(トレクtu:likの息子) スルタンとしての名はヨリクトyu:liktu: 9代,アユシリン・ダラ・ハーンa:yu:shi:ri:n da:ra: qa:a:n ・ヤズディー 8代,ハン・タイジxa:n ta:yzi:(トレクtu:likの息子) ハンとしての名はユリクトyu:lik tu: (赤坂先生註:bi:lik tu:の誤写.アユルシリダラと同一人物) 9代,アヌーシールワーン・ワーラー・ハーン anu:shi:rwa:n wa:ra: qa:a:n (アユルシリダラの転訛) ・ホーンダミール 8代,タイジ,トレクの子ta:yzi: bn tu:lik 統治期の名はビリクトbi:liktu: (赤坂先生註:biligtu" qaghanはアユルシリダラのことである.) 9代,アヌーシルワーン,ダーラー(ダリウス)の子 anu:shi:rwa:n bn da:ra: 彼の政権時代にハーン位に弱さが起こった. (赤坂先生註:アユルシリダラがペルシャの英雄の名に転化している.) (本田先生もペルシャ史料のこの2代は同一人物と推定しておられる.)
630 :
ty270410 :04/03/14 23:44
赤坂先生のサイトから(3) 10代 ・シャーミー:トグズ・テムル・ハーンdu:qu:z ti:mu:r qa:a:n ・ヤズディー:トグズ・テムル・ハーンduqu:z ti:mu:r qa:a:n (赤坂先生註:「WQWR>DQWZ TbMWR」) ・ホーンダミール:トク・テムルtu:q-ti:mu:r (赤坂先生註:tu:q-ti:mu:rはtu:qu:z ti:mu:rとあるべきもの) 11代 ・シャーミー:イェスデル・ハーンyisu:da:r qa:a:n ・ヤズディー:イェスデル・ハーンyisu:da:r qa:a:n ・ホーンダミール:メイスール・ダールmaysu:r da:r (赤坂先生註:「MYSWRDAR」は「YYSWDAR(yi:su:da:r)」とあるべきもの) 12代 ・シャーミー:エンケ・ハーンinka qa:a:n ・ヤズディー:エンケ・ハーンa:nka qa:a:n ・ホーンダミール:エンケ(メイスール・ダールの子)inka bn maysu:r da:r
631 :
ty270410 :04/03/15 00:01
赤坂先生のサイトから(4)
13代
・シャーミー:イリク・ハーンili:k qa:a:n
(赤坂先生註:「ili:k」>「ALYK」>「ALBK」すなわち「エルベクilbak」ならん.)
・ヤズディー:ウルンク・ハーンu:lunk qa:a:n
(赤坂先生註:「AWLYK」>「AWLBK」>「ALBK(ilba:k)」)
・ホーンダミール:(エルベク)・ハーンAPLNK qa:a:n
(赤坂先生註:「APLNK」は「AYLBK(i:lbak)」とあるべきもの)
14代
・ホーンダミール:(グン・テムル)KTYMWR
(赤坂先生註:「KTYMWR」は「KNTMWR(kun-timu:r)」とあるべきもの)
ここで
>>623 本田先生の論文からのまとめ(3)までに到達しました.
この先は錯綜していますので,ゆっくり読んでみます.
632 :
ty270410 :04/03/15 00:11
633 :
ty270410 :04/03/17 00:15
>>614 >>621 訂正します.
3.Toghus Temu"rは,2.Ayushiridaraの子ではなく弟です.
英文を読み過ごしてミスしました.
635 :
ty270410 :04/03/17 22:33
>>634 ご教示ありがとうございます.
実は私も見ております.
ただ,コピーしようとするとはみだして全部は
コピーできないので手書きで写すちもりです.
今後ともよろしくお願いします.
636 :
ty270410 :04/03/18 00:11
本田先生の論文からのまとめ(4)
>>623 からの続きです.
8.Kuei-li-ch'ih(Ming-shih-lu)(1403--1408)
・Shajarat,Kwa:ndami:r:Uruk Ti:mu:r
O"godeiの子孫と考えられる.
9.Pe^n-ya-shih-li,Wan-che^-tu"(Ming-shih-lu)(1408--1410)
・Sha:mi:Alji: Ti:mu:r,Ta:yzi: Oghlan
本田先生はTa:ji: OghlanはAlji: Ti:mu:rの後継者とされているが,
ティムールの朝廷に出仕し,死後モンゴルへ帰るなど事跡の符合から
同一人物と推論しておられる.
・Yazdi,Kwa:ndami:r:I:lchi: Ti:mu:r,Ta:yzi:
Ariq Bo"keの子孫と記載.本田先生はQubilaiの子孫と推論されている.
・Altan Tobchi:Ului Temu"r
・Erdeni-yin Tobchi:O"ljheitu" Temu"r
Oiradに殺される.この頃OiradはQaraqorumを掌握した.
637 :
ty270410 :04/03/18 00:22
本田先生の論文からのまとめ(5) 10.Ta-li-pa(Ming-shih-lu)(1410--1415)Oiradが擁立した. ・Altan Tobchi:Dalbagh ・Erdeni-yin Tobchi:Delbeg ・Khwa:ndami:r:Da:ta:y(<Dalbagの誤写<Delbeg〜Dalbagh>Ta-li-pa) Ariq Bo"keの子孫 11.Urda:y(Shajarat,Kwa:ndami:r)(1415〜1425) Ariq Bo"keの子孫のBilik(Malil) Ti:mu:rの子 ・Altan Tobchi:Oyaradai ・Erdeni-yin Tobchi:Eseku"
638 :
ty270410 :04/03/18 00:33
本田先生の論文のまとめ(6) 12.At'ai(Ming-shih-lu)(1425〜1438) ・Shajarat,Kwa:ndami:r:Ada:y O"gedeiの子孫のKuei-li-ch'ihの子 ・Altan Tobchi,Erdeni-yin Tobchi:Adai 東モンゴリアAsud部のArughtaiが擁立 13.T'o-t'o Pu-hua(Ming-shih-lu)(1433--1452) ・Altan Tobchi,Erdeni-yin Tobchi:Tayisung 1433年Oiradに擁立され,1438年Adaiを殺す. ペルシャ史料はAdaiで終わっている.
639 :
ty270410 :04/03/19 14:17
本田先生の論文のまとめ(7)終り ・Ariq Bo"keの子孫:Yesu"der,Engke,Delbeg,Oyaradaiの4人は確実, 多分Gu"n Temu"rを含めて5人 ・O"gedeiの子孫:Kuei-li-ch'ihとその子Adai ・Qubilaiの子孫:Toghus Temu"r,Elbeg,O"ljheyitu" Temu"r, Tayisungの4人 Qubilai系は東モンゴリアを本拠地としたが,全てのqaghanが 直接,あるいは間接的にOiradに殺され汗位をAriq Bo"ke系に 移されている. Oiradの本拠地は西北モンゴリアにあった. O"gedei系はKan-su(甘粛)辺外に根拠地があった. Oiradと関係が深かった. ごちゃごちゃ書いてしまいましたが,これで終わります. 汗の名前の異同と若干の系譜関連にしぼりましたので, 本田先生の論点をうまく書けませんでした. 英語力の不足をしみじみ感じています.
640 :
ty270410 :04/03/19 23:46
赤坂先生のサイトから(5) 以下は本田先生の同定へつなげます. 8.Kuei-li-ch'ih ・ホーンダミール:15代オロク・テムルUruk-Timu:r 9.O"ljheyitu" Temu"r ・シャーミー:14代オルジェイ・テムル・ハーン Uljay ti:mu:r qa:a:n ・ヤズディー:14代イルチ(オルジェイ)・テムル・ハーン i:lji: ti:mu:r qa:a:n (赤坂先生註:「AYLH.Y」>「ALJY(uljay)」) ・ホーンダミール:イルチ・テムル・ハンi:lci: ti:mu:r qa:a:n チムールの朝廷に来り.死後ウルグ・ユルトへ行ってハン位についた. (赤坂先生註:「AYLCY」は「ALJY(uljay)」即ち「オルジェイ(o"ljeyi)」と あるべきもの.) ・ヤズディー:15代タイジta:yzi: チムールの朝廷に来り,死後カルマクへ行ってハン位についた. ・ホーンダミール:チムールの朝廷に来り死後カラコルムへ行ってハン位に ついたのは,タイジ(ta:yzi:)という名前のハンであった. (本田先生はO"ljheyitu" Temu"rとTa:yzi:は同一人物と推論されている.)
641 :
ty270410 :04/03/20 00:04
赤坂先生のサイトから(6) 10.Delbeg ・ホーンダミール:17代デルベクWALTAY,アリク・ブケの子孫 (赤坂先生註:「WYLTAY」は「DALBAK(da:rba:k)」とあるべきもの.) 11.Oyaradai ・ホーンダミール:18代オイラダイ,メリクテムルの子 AWRDAY bn malil ti:mu:r アリクブケの子孫 (赤坂先生註:「AWRDAY」は「AWYRDAY(u:yrada:y」とあるべきもの.) 12.Adai ・ホーンダミール:19代アダイ,オルクテムルの子aday bn ARKMWR (赤坂先生註:「ARKMWR」は「ARKTMWR(uruk-timu:r」とあるべきもの) ここで赤坂先生のサイトからのまとめを終わります.次に読みたい 岡田英弘先生の論文は日本語ですから今度は楽です. 本田先生の場合のようなまとめはしません.
642 :
ty270410 :04/03/22 22:04
本田先生の論文を読み終わって−−英語力不足で苦労しました. 私見を一部まじえて全体のまとめをして見ます. トゴン・テムルが大都から退去(1368)後のモンゴリアの情勢は 興安嶺方面のフビライ系,漠北のアリクブカ系,河西のオゴデイ系, 西北モンゴリアのオイラド勢力が割拠していた.これらの勢力が次々と 覇権を争って登場する. [フビライ系時代](1368〜1388) フビライ系は1.トゴン・テムル,2.アユシリダラ,3.トグス・テムルの3代 20年 [アリクブカ系時代(オイラド勃興時代)](1388〜1425) 次に,オイラドに支援されたアリクブカ系が1388年にハーン位を獲得した. 4.イェスデル,5.エンケ,7.グン・テムルと続き,1400年前後にオイラドは カラコルムを入手しモンゴリアのほぼ全土の覇者となった.オイラドはさらに, オゴデイ系の8.クイリチを挿んで,アリクブカ系の10.デルベク,11.オイラダイを 擁立した.この間にフビライ系の6.エルベク,10.オルジェイ・テムルがハーン位を 奪ったが,いずれもオイラドに直接,または間接に殺された. 8代37年 [オイラド覇権時代」](1425〜) オイラドのマハムを継いだトゴンとその子エセンの代にオイラドは全盛を 迎えた. オゴデイ系の12.アダイ,フビライ系の13.オルジェイ・テムルを傀儡の ハーンとして擁立した. トゴンはハーン位を窺ったが果たせなかった.そしてエセンが登場する. ここで,本田先生の論文は終わっています.この間にマハムに見られる ようにイスラム勢力のモンゴリアへのアプローチが注目されます.
その辺りのことなら、岩波講座世界歴史11『中央ユーラシアの統合』に 所収の森川哲雄「ポスト・モンゴル時代のモンゴル」に詳しかったような。
645 :
ty270410 :04/03/25 00:03
>>643 ご教示ありがとうございます.
日本語なのでよくわかります.
森川先生の論文を参考にして,もう一度本田先生の
論文を読み返してみます>
岡田英弘「ダヤン・ハガンの先世」をゲットしたのでこれから読む。
647 :
ty270410 :04/03/26 22:04
>>646 私もこれから読むところです.
仕事の合間に読むので時間がかかりますが・・・
よろしく!
648 :
ty270410 :04/04/01 23:08
安藤志朗先生の「ティムール朝国制」東方学87(1994)135-119を読みました. 専門の方は先刻ご承知ですが・・・・・ ベルリン国立図書館所蔵のアルバム中のミニアチュール下絵に一人の君主を 囲んで20人の従者が描かれ,彼らに名前が記入されているのだそうです. 君主には名前が付されていないそうですが,安藤先生はティムール朝 第2代のハリール・スルタンと比定しておられます. 従者の最上位に4人のチンギス・ハン家王子がならび,その中で最も君主に近い 所に位置するのがTa:yzi: Ug`la:nだそうです.
649 :
ty270410 :04/04/01 23:19
安藤先生は本田実信先生の論考を引用しながら,さらにペルシャ語 資料を精査され,次のように結論されておられる. 1.ペルシャ語,漢文,モンゴル語史料のI:lchi Ti:mu:r/Ilchi Ti:mu:r, 完者禿,本雅失里,Oeljheitu" Temu"r/Oeljhei Temu"r/Ulai Temu"rは 同一人物である. 2.この人物は1404年時点でSha:mi:によってulug` yurtの玉座に対する 正統な権利を保持するとみなされていた. 3.彼は現実に1408年に玉座につき,1410年に没している.
650 :
世界@名無史さん :04/04/01 23:23
安藤先生にしろ岩武先生にしろ、若くして逝かれてしまわれたな。
651 :
ty270410 :04/04/01 23:32
安藤先生は彼がulug` yurtのハーン位への権利は何に基づくのであろうか, と疑問を提しておられます. Yazdi:はオゴデイ裔と記載し, Shagharat al-turkはアリク・ブケ裔と記載し, 明実録は「元裔」と記載している. このことから,安藤先生は明言なさってはおられませんが, ハーン位への正統な権利が認められることから 「元裔」(クビライ裔)ではないかと仄めかしておられます. 本田先生の論考の補訂として面白く読みました.
652 :
ty270410 :04/04/01 23:41
>>650 そうですか.惜しいですね!
私のような在野の読史家にもわかるように
しかも,史料に立脚して記述しておられ非常に勉強になりました.
4人の王子の2番目のChakira h_a:nも面白いですね!
またの機会に!
653 :
Michael Collins :04/04/02 01:12
ちょっと伝記物ではないのですが、井上靖さんが書いた「蒼き狼」 という本はストーリー性が非常に高く僕の推薦したい本です。 その本に書かれているとおり、モンゴル帝国は鉄木真(のちのジンギスカン) が登場するまで、ありえなかった国です。 どの国も、最盛期というのが存在します。 ギリシア、ローマ帝国、アレキサンダー、エジプト、インダス、 今のアメリカやソ連、ナポレオンのフランスなど枚挙にいとまがありません。 モンゴルが最盛期だったのはまさにジンギスカン、そのものによるところが 大きいと僕は思います。そんな、彼を読めばモンゴルの最盛期がいかにして 形成されたかが理解できると思います。
それよりも『元朝秘史』じゃねーの?
>>ty270410 紹介した論文を読んだようですね。 北元が専門でしたので、ちょっと横から口を挟ませてください。 北元ハーンのクビライ系の可能性を探るには、 まずはアユールシュリダーラとトグステムルの血縁関係(兄弟or親子)について 再考する必要があると思います。 トグステムルと崇禮侯バイダリバーラは同一か否かについても再考が 必要だと思います。 アユールシュリダーラが逝去した時、後継者候補が3名いて、 彼らは血縁も近かったことが明側の記録から知られています。 クビライには男子が多く、モンゴル北還後もクビライの男系が モンゴリアやチベット方面に残っていましたが、 クビライ系の中でも嫡流の嫡流筋でハーンの後継者になりうる人物も 3名は存在していたということです。 もしTayzi Uglan がクビライ系としてハーン位への正統な権利が 認めらていたとするのなら、クビライ系の中でも傍系ではなく、 嫡流の血統に属さなければ説得力がありません。 そういう意味で、クビライ系の嫡流に関して見直すことは意味があると思います。 ただ、アリク・ブケ自身はチンギスハンのオッチギンのオッチギンであり、 血統的に正統性があり、彼らの子孫も正統性を有していたと考えても おかしくありません。 実際、Tayzi Uglan の時代はアリク・ブケ系ハンの時代であり、 Tayzi Uglan自身はアリク・ブケ系の最も嫡流に近いという意味で、 ハン位への正統性があったと理解するもとも可能でしょう。
656 :
ty270410 :04/04/02 22:14
>>655 >紹介した論文を読んだようですね。
>北元が専門でしたので、ちょっと横から口を挟ませてください。
蒙古馬さん! お久し振りです.
ご教示くださったものの一部ですが,読んでいます.
今後ともご教示ください!今回のご教示に入る前に,少し前へもどります.
>>652 >4人の王子の2番目のChakira h_a:nも面白いですね!
赤坂恒明先生の『史学雑誌』109(3)(2000.03)1-39
所引のヤズディー『勝利の書』のジュチ・ウルス30代ハンの「チャキラJhakira」
ホーンダミール『伝記の伴侶』の31代ハンの「チャキラ」
蒙古馬さんにご教示いただいたコインの一覧表
http://www.hordecoins.folget.net/e_rulersGH.htm の42代Tchokre(Haji-Tarkhan)(ロシア語が読めないので英語版で!)
B.Spuler『Die Goldene Horde』のハンのリストの
「Chegre 1418?」(私はドイツ語が読めませんのでリストしか見ていません.)
これらが同一人物と考えてよいでしょうか?
また,Haji-Tarkhanは現在のアストラハンでよいですね?
安藤先生はジュチ・ウルスについても詳しいようにお見受けしました.
生前にまとめて書いていただきたかったと思っています.
657 :
ty270410 :04/04/02 22:42
>>655 >まずはアユールシュリダーラとトグステムルの血縁関係(兄弟or親子)について
>再考する必要があると思います。
>トグステムルと崇禮侯バイダリバーラは同一か否かについても再考が
>必要だと思います。
>アユールシュリダーラが逝去した時、後継者候補が3名いて、
>彼らは血縁も近かったことが明側の記録から知られています。
>クビライには男子が多く、モンゴル北還後もクビライの男系が
>モンゴリアやチベット方面に残っていましたが、
>クビライ系の中でも嫡流の嫡流筋でハーンの後継者になりうる人物も
>3名は存在していたということです。
ご教示ありがとうございます.
私は,本田先生の論文のp.601の記載からトグステムルはアユルシュリダラの
弟と思っていました.
Ando,Shiro Timuridische Emire nach dem Muーizz al-ansab : Untersuchung zur Stammesaristokratie Zentralasiens im 14. und 15. Jahrhundert K. Schwarz,1992 ↑入手困難みたいだなぁ。
659 :
ty270410 :04/04/02 23:46
>>658 先の『ティムール朝国制』もドイツ語で書かれたものを邦訳・補訂された
ものと書いてあります.
ご教示のムイッズに関するドイツ語論文も生前に邦訳されて,日本の
雑誌に採録しておいてくだされば,大変助かったのに・・・
と思います.(学者としては,その必要がなかったと推察しますが・・・)
660 :
ty270410 :04/04/03 00:01
>>655 >もしTayzi Uglan がクビライ系としてハーン位への正統な権利が
>認めらていたとするのなら、クビライ系の中でも傍系ではなく、
>嫡流の血統に属さなければ説得力がありません。
>そういう意味で、クビライ系の嫡流に関して見直すことは意味があると思います。
クビライ系の人物が多数残っていたとのご教示と,ここでのご指摘について
最近,発表された論文などありましたらご教示ください.
なお,本田先生は,和田清先生のUriyangqai XII,219-227によって
ブンヤシリをクビライ裔としておられます.(ご存じのとおり.)
>ただ、アリク・ブケ自身はチンギスハンのオッチギンのオッチギンであり、
>血統的に正統性があり、彼らの子孫も正統性を有していたと考えても
>おかしくありません。
>実際、Tayzi Uglan の時代はアリク・ブケ系ハンの時代であり、
>Tayzi Uglan自身はアリク・ブケ系の最も嫡流に近いという意味で、
>ハン位への正統性があったと理解するもとも可能でしょう。
岡田英弘先生は『ダヤン・ハガンの先世』の中でイェスデル以降
アリク・ブゲ系の王朝が建てられたと考えるべきとされ,(p.7)
『モンゴル帝国の興亡』(ちくま新書)では,オルジェイ・テムル・ハンは
アリク・ブガ家の人と書いておられます.(典拠不明)(p.151)
ご教示ありがとうございました.
> バイダリバーラ 明史に出てくる買的里八剌ですよね。 岡田先生がマイトレーヤパーラと表記しているのも同一人物でしょ?
本田先生の On the genealogy of the early Northern Yuan もゲット。
なんかどうでもいいことに拘っているような気が自分でもするんですが、
トグス・テムルのトグスって Toghus か Tögüs なのかどちらなんでしょうか?
辞書で調べたら Toghus は孔雀か何か、Tögüs は「完全な」で、
後者の方が断然それっぽいんですが、本田先生は Toghus と再構されてます。
もしかしてトルコ系の Toquz と関係があるんでしょうか?
ちなみにこちらの現代文語っぽいのは Tegüstemür Usqal Qaghan と綴ってます。
ttp://mongol.chosun.com/mongol/khan01/images/17_togstumur.jpg
和田清「東亜史研究 (蒙古篇)」を借りてきました。 本田先生の論考も岡田先生のもこれをベースにしているから。 しかしこの分厚い本、どこから手をつけたものか困る。 「北元の帝系について」という論考が10番目に配置してあるけど、これは薄っぺらくて、 重要なことは「兀良哈三衛に関する研究」にだいたい書いてある。 根拠になる史料をちゃんと引用してくれているのはありがたいけど 整理されてないから読むのが大変。
664 :
世界@名無史さん :04/04/07 23:34
もし今でもモンゴル帝国があったらこんなに文明は発達しなかっただろうな。
杉山センセイのぶっとい本が出てた
666 :
ty270410 :04/04/08 00:20
>>665 それはどんな本ですか?
教えてください!
667 :
ty270410 :04/04/08 00:22
>>663 和田先生の本は読みたいですね!
仕事が忙しくてアクセスできずにいるのが残念です.
一段落したら是非読むつもりです.
最近の杉山センセ関係の出版物ってNHKの文明の道のモンゴル帝国のと、 創元社の知の再発見叢書に序文を書かれてたのしか知らんなぁ。
670 :
ty270410 :04/04/08 22:47
>>669 ご教示ありがとうございます.
548ページの大著ですね!
教えていただいたサイトに目次が出ているかと思いましたが
出ていませんでした.
いずれ,書店で現物を見るつもりです.
大都周辺の遊牧首都圏について詳しく書いてあるなら読んでみたい。
673 :
ty270410 :04/04/09 21:37
>>671 ありがとうございます.
第6章と第7章はかって雑誌に発表されたのを読んだ
ことがあります.
その他は読んでいませんので,興味がそそられました.
書き下ろしは最初の方だけ?
杉チャマも赤坂先生を見習って少しはネットを活用しろよ。
676 :
世界@名無史さん :04/04/10 13:18
杉チャマの文章は小学一年生の頃の俺並に点が多くて読みにくいんだYOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!
今スレが上がって来てふと思ったんだが モンゴル帝国の後継である清、ロシア、ムガール、オスマン各帝国が栄え 中央アジアにはブハラ、ヒヴァ、コーカンドなど各ハーン国 17c〜18cくらいのこれらの諸国が最大版図であるような気がしてきた
清とオスマンはモンゴル帝国の後継じゃないだろ。領土が被ってるだけで後継なのかよ。
清朝は元帝国の御璽(?)をチンギス・ハーンの子孫から貰っているから、 一応後継者といってもいいんでないの? ま、あくまでも形式的だけどさ。 オスマンはさすがに違うだろ。オスマンに詳しい人、カキコよろ。
初代?スレイマン・シャーはモンゴルの侵攻からとんずらしてアナトリアに来たわけだから後継ってこたないでしょ。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1079830115/l50 「清朝最後の皇后・婉容」というスレで、満族美女の例として愛新覺羅烏拉煕春さんを紹介した上、
「アイシンギョロ家のみならずチンギスハン家の血も受継ぐ由緒あるレディです」と書いたところ、
ある世界@名無史さんから先日のレスで次のような指摘がありました。
「母方のボルジュキン氏は元王室の一族ではあっても、チンギス・ハン以前に別れた庶流と思われる、
チンギス・ハン直系の子孫は、キヤン氏を名乗っているはずでである」
しかし逃げを打つようですが烏拉煕春さんがチンギスハンの血を受継いでいるとは書いてません。
チンギスハンの子孫かもしれず兄弟とか血縁者の子孫かも知れず、両方の可能性があると考えたので
「チンギスハン家の血も受継ぐ」とぼかして書いたつもりです。それは一応しばらく置くとして
「ボルジキン氏は元王室からチンギスハン以前に別れた庶流」というのがボルジキン氏そのものが
元王室からすると庶流だという認識ならば誤解です。
そこでボルジキン氏とキヤン氏の関係について語りたいと思ったのですが、満洲関係のスレで長々と
モンゴルの史料を引用するのも憚かられますので、こちらを拝借することにしました。
先ずボルジキン氏とキヤン氏が史書でいつころどのように出ているか検証しましょう。 キヤン(乞顔またはキャウン奇渥温)複数形ではキヤト(乞牙タまたはキョト却特)については 「モンゴルン-ニュウチャ-トブチヤアン」(元朝秘史)ではイェスガイの兄の名をメンゲトゥ-キャンと 記しています。那珂通世訳の「秘史」ではこの個所に注して「乞顔は合不勒合罕(カブルカカン)の 子孫、蒙古の嫡流の姓なり、孛兒只斤は孛端察兒の子孫總體の姓にして、我が經基王の子孫みな 源氏と稱するが如く、乞顔はその宗家に限られ、我が新田足利徳川の如し」と説いています。即ち ボルジギン>キヤンという概念統属関係という理解です。「秘史」では次にイェスガイがテムジンを 連れて嫁探しに行く途中デイセチェンに遇ったことを述べた個所で、デイセチェンがテムジンを 手元に預かって娘のボルテの将来の婿にする思惑から、前夜に見た夢の話をする中で白い鷹が日と 月を掴んで手に止まった、これは貴方たちキャトの吉兆を告げに来たんだと語ります。
「ジャーミ-アッ-タワーリク」(集史)では第1巻の序の次の「ディーブ-ヤークーイの4人の子の 後裔から出たテュルク遊牧民族の一覧表」と同巻第4編「過去にモンゴルと呼ばれたテュルク諸部」に 述べられているところを綜合すると、ラシード在世当時から二千年前にモンゴルとテュルクとの間で 戦争があり、負けたモンゴルは大殺戮を受け2組の男女だけが生き残った、4人は山と森に囲まれた エルゲネクーンという所に逃げ込んだ、この男女の名をネクースとキヤーン(山から落ちる急流)という、 彼等の子孫は非常に繁殖し多くの部落を形成したが最初はキヤートと呼ばれていた、アランゴアの夫の ドボンバヤンもキヤート出身であった、モンゴルの諸部落は多くの氏族に分岐した末に2大支に分かれ、 デルレキン(一般)モンゴルとニルン(肋骨)モンゴルと呼ばれた、ニルンはアランゴアが夫が亡き後に 光に感じて生んだ3子の子孫である、氏族が分岐する過程で宗支関係が複雑に再生産され、キヤートの 姓は忘れられるようになったしまった、しかしアランゴア6代の後裔カブールカーンの6人の息子から 再びキヤンを称するようになった、イェスガイの兄はモンクトゥ(痣が目立つ)-キヤーンと綽名を得た、 彼の従兄弟や一族も全てキヤート部族に属することになった、キヤーンであるイェスガイはキヤート- ボルジキンと呼ばれた、ボルジキンとは青い(もしくは灰色)眼という意味であるということです。 「一覧表」の解説部分ではエルゲネクーンに逃れた男女から繁殖した部族は、ネクースなど18支族と アランゴアの子孫とに分岐し、後者は更にカタキンなど元来の16ニルンとキヤートニルンとに分かれ、 キヤートニルンはまたユールキン・ジーンクシュトとキヤートヤサール・キヤートボルジキンの2群に 分岐すると説かれています。
なおドーソンの「リストワル-デ-モンゴル」(蒙古史)にはイェスガイはテムジンの外にジュチハサル・ ハチュン・テムゲの3子があったが、その子孫はブルチュキンと称して他のキャウトと区別したとの 記述があります。即ちキヤン>ボルジギンという概念統属関係という理解です。 「集史」ではまた「カブールハーンの息子バルタンバートル紀」の「バルタンバートルと彼の妻子の 図像とその諸子の宗支の系図」に「あらゆるキヤートの人は全てモンクトゥキヤーンから出た後裔で、 彼が大英雄であったからこの名を得た、キヤーンとはモンゴル語で急な奔流の意味である」とあります。 元末の文献では陶宗儀の「南村輟耕録」の「大元宗室世系」と「列聖授受正統」に「烈祖神元皇帝、 諱は也速該(イェスガイ)「姓は奇渥温氏」とあり、「氏族」には「乞要歹」とあります。明初編纂の 「元史」の「太祖本紀」に「太祖法天啓運聖武皇帝、諱は鐵木真、姓は奇渥温氏」とあるのも、多分 「輟耕録」と共通の史料に基づくものでしょう。 これ以後では僅かに清の張穆の「蒙古游牧記」に引かれた博明の「西齋偶得」に「确特」という表記が 検出されるだけです。
ここで一応ボルジキン(孛兒只斤または博爾濟錦)について上レスで触れた以外に検出された記載を 見ることとします。 「秘史」ではカルチュの子としてボルチギダイメルゲンにつき那珂訳では「孛兒只吉タ(ボルチギト)の 善射者」と注しています。そしてアランゴアの子の後裔を叙した個所では「ボドンチャル(孛端察兒)は ボルジギン氏となった」として、那珂訳では「こは曽祖父孛兒只吉歹蔑兒干(ボルチギタイメルゲン)の 名に依れるなり」という注を付しています。しかしボルチギタイメルゲンがボルチギト氏の善射者と 呼ばれていたというなら、その時点で既にボルチギト氏が成立していたわけですから、ボドンチャルが 族祖であるという伝承と矛盾することになります。 「集史」では「カブールハーンの息子バルタンバートル紀」の「彼と諸子の生涯、その支族の系統の 詳細」に「(バルタンバートル)の3番目の息子はチンギスハーンの父のイェスガイバートルである、 キヤート-ボルジキンはその後裔から出た、ボルジキンとは青い瞳の意味である、実に奇怪なことに 現在でもイェスガイバートルとその諸子と血縁者の後裔は、大部分が青い眼と赤い髪を持つ人である」 これはアランゴアが異光に感じて懐胎した際に青い眼と赤い髪の人が出現したが、特殊現象として イェスガイに隔世遺伝したものだとモンゴル人は言っていると記述しています。「集史」の別の個所に 同様の記述があることは前のレスに書きました。
明末にモンゴルで編された「アルタントプチ」(黄金史綱)では既述したテムジンの嫁探しの話の中の、 イェスガイに対するデイセチェンの言葉が小林高四郎訳では「キョット本家のボルチギン姓の縁者よ」 とか「この夢はキャット一族のボルチギン姓のあんた方」とか語ったことになっています。「秘史」の 同じ個所ではキャトのみでボルジキンには言及されていません。またタイジュウトに奪われた馬を 取り返しに出かけたテムジンに出会ったボオルチュが、テムジンに対し「キョット族のボルチギン 姓の方よ」と呼びかけています。 次に清初のサガンセチェン(薩嚢徹辰)著の「エルデニイントプチ」(蒙古源流)では漢訳だと阿掄郭斡 (アランゴア)の子の後裔を叙した個所では「勃端察爾(ボダンチャル)は博爾濟錦(ボルチギン)を以て 氏と爲す」とあり、例のテムジンの嫁探しの個所ではデイセチェン(岱徹辰)はイェスガイに「却特の 嫡派なる博爾濟錦氏の親家よ、何づくに往くや」と呼びかけ、「我之(夢)を卜するに兆は爾(なんじ) 博爾濟錦氏に在り、古より以来我が家の俊雅なる女子は博爾濟錦氏の哈屯(ハトン、奥方)と作る者 最も多し」と口説いています。またテムジンがタイチュウトの捕虜になった際にチラウン(齊拉袞)と チンベイ(秦拜)が救助の相談をする個所では「禽鳥の救を求むるすら且つ之を籠中に養ふ、況や天命の 博爾濟錦の救を求めて前來するをや」と語り合います。また馬の奪還に向かうテムジンにボゴルチュ (博郭爾濟)は「大却特の苗裔なる博爾濟錦氏の汗の子よ」と呼び掛け、盗まれた馬を発見した際には テムジンだけが飛び込もうとするのを「我は爾が博爾濟錦の後裔にして是れ有福の人に係るを以て、 今日は相ひ隨がひて前來せるに、何の爲に游疑して斷ぜざらんや」と問いかけます。
「源流」の北元時代の部分では岱總汗(タイスンハン)即ち「明史」の「韃靼傳」に見える脱脱不花 (トクトアブファ)と思しき人物がオイラトのエセンに攻められ敗走の途中で、郭爾羅斯(ゴルロス)の 徹卜登(チェブダン)即ち「明實録」の「兀良哈の頭目なる沙不丹」に殺される個所で、チェブタンは 娘がタイスンハンに離縁され実家に戻されたのを恨んでいたので、いい具合に仇に出会った復讐だと 聞いた当の娘は「從前は我の過まちなり、若し害の博爾濟錦に及ばば罪(これより)大なるなからん矣、 今や彼は困頓跋渉す、若し保護を加はうれば將來に自ずから必らず益有らん」と諫めたのでしたが、 チェブタンは聴きいれずに殺害します。また額森(エセン)はタイスンハンの次弟の子の哈爾固楚克 (ハルグチュク)から別れさせた、娘の齊齊克拜濟(セチェクペイジ)の産んだ男子を殺そうとするのを、 エセンの祖母の薩穆爾(サムル)公主は彼を叱りつけて追い返しますが、エセンは「博爾濟錦の後を 絶やさんと欲すれども媽媽は允(ゆる)さず、今は須らく公主に背きて潛そかに之を殺すべし」という 相談をしているのが公主に洩れ、公主に巴延蒙克(バヤンモンゲ)と命名された男児は彼女の実家に 送り届けられることになります。その後にタイスンハンの異母弟の滿都古勒汗(マンドゴルハン)は 成長したバヤンモンゲに会うことになり、「此れ以て博爾濟錦の嗣を續ぐ可し」と喜んで彼に対し 博勒呼濟農(ボルフジノン)の称号を賜ります。この人の息子こそモンゴル中興の祖とされる達延汗 (ダヤンハン)で、マンドゴルハンの未亡人の滿都海徹辰福晉(マンドハイセチェンフージン)を妃とし、 オイラトから高原の主権を奪還しモンゴルを統一した英雄となるのです。
このように「源流」では元裔正統の保全が一つのプロットとなっている点が、「史綱」と比較すると 特徴として浮かび上がってきます。「源流」の著者がオルドスジノン家の出身であるのに、「史綱」が 元裔ではないトメト部系統の所傳であるためかもしれません。これはエセンによるモンゴルハーン位の 簒奪と元裔王室の族滅という史実が、強烈な記憶として「源流」の記述に反映したものでしょう。 以上を通観して認められるキヤンとボルジキンとの関係については キヤンとボルジキンのいずれが先に氏族を形成したのかは判然としないようです。 キヤンとボルジキンのいずれが他に対して包摂的であるかもやや曖昧ですが、「史綱」や「源流」は キヤン氏の嫡流がボルジキン氏であるとの理解を示していて、明末にはキヤン>ボルジキンという 統属関係がモンゴル人の間における通念となっていたものとして誤りはないでしょう。 チンギスハーンの直系の子孫のみがキヤトと称していたとか、傍系の子孫のみがボルジキンと称した ということはないと言ってよいと考えます。
689 :
世界@名無史さん :04/04/13 17:21
暇人
清代にチンギスハーン一族がボルジキンと称していたことの証拠を二三挙げておきます。 祁韻士の「皇朝藩部要略」の「内蒙古要略」には「科爾沁部(中略)八部十六旗と阿拉善青海兩厄魯特は 其の始祖は元の太祖の弟の哈布圖哈薩爾と爲す、阿巴葛・阿巴哈納爾の二部四旗は其の始祖は元の太祖の 弟の布格博勒格圖と爲す、翁牛特部の二旗は其の始祖は元の太祖の弟の諤楚因と爲す、其の土黙特右翼 一旗及び歸化城の間散補國公は皆な元の太祖の十六世の孫なる阿爾坦の裔なり、其の浩齊特(中略)十部 二十二旗と外喀爾喀とは祖を同じくし皆な元の太祖の十五世の孫なる達延車臣汗の裔なり、皆な姓は 博爾濟吉特なり」とあり、ハサル(哈布圖哈薩爾)・ベルグテイ(布格博勒格圖)・ハチュン(諤楚因)など チンギスハーンの弟たちと、ダヤンハーン(達延車臣汗)・アルタン(阿爾坦)などチンギスハーン自身の 子孫の姓がいずれもボルチギンであったことが明らかです。なお大元可汗宗家のチャハル部については 「其の察哈爾の八旗及び歸化城の土黙特の二旗は、其の初めは亦た元裔が之を掌ると雖も今は皆な治するに 京員を以てし、在京の八旗蒙古と相ひ等しく札薩克を設けず」として清廷直轄でジャサク(旗長)による 間接統治はしていません。 「清史稿」の「公主表」には太宗の第二女の温莊長公主の封号の馬喀塔が嫁した額哲について、姓を 博爾濟吉特氏として「察哈爾の林丹汗(リンダンハン)の子にして額爾孔果洛(エルホンゴル)と號す、 主に尚して察哈爾親王に封ぜらる」とあります。チャハル部長レグダンハーンがボルジキン氏であった ことは確実です。
キヤトを「确特」として表記している「西齋偶得」にも「今の蒙古の元裔は皆な博爾濟吉特氏なり」と あって、清代ではモンゴル人士の間でも専らボルジキンのみがアイデンティティとして伝えられていて キヤトは殆ど意識されることはなくなっていたようです。 最後に注意を喚起しておきたいことは、モンゴルに限らず北方民族の姓氏の使用実態は日本や支那や 欧米のそれと異なることです。「お名前は?」「小泉純一郎です」とか"What is your name?""My name is Condoleezza Rice. "とか名前と苗字をくっつけて名乗るということはありません。「お前は誰か?」 「テムジンよ」「どこの者だ?」「ボルジギットさ」といった按配になります。現代の内モンゴルでは 姓+名も見かけますが、外モンゴルでは名の頭に姓のキリル式イニシャルを加える程度です。なお内 モンゴルでは漢字表記が必要な事情もあって、ボルジキンは「包」という姓で書くのが普通だという ことです。満洲だって清朝時代は愛新覺羅溥儀なんて呼ばずに名の溥儀で通じてました。往々にして 名の上の一字を恰も姓のように用いる例も見られます。溥儀と同じ字輩で素人ながら本職の俳優さえ 一目置いたと言われる京劇アマチェア俳優の溥トウ(人偏に同)は厚齋という号から、一般には溥厚齋と 呼ばれていましたし、清末の國子監祭酒で彝器の鑑識に精しいことで知られた盛cは伯希という字から 盛伯希とか盛祭酒などと呼ばれていました。同様の事例は勿論これに止まりません。 漢民族でも古代の「姓」は「氏」と異なり名に冠して用いられたものではありません。「姫昌」とか 「嬴政」とか書いてる学者もいますが間違いも甚だしいと思います。
ちょっとつっこみ。 > 外モンゴルでは名の頭に姓のキリル式イニシャルを加える程度です。 イニシャルは父親の名前だと思う。 モンゴル国では長い間共産主義者が姓を禁じたので、 自分の姓を忘れちゃった人が多いらしい。 > 漢民族でも古代の「姓」は「氏」と異なり名に冠して用いられたものではありません。「姫昌」とか > 「嬴政」とか書いてる学者もいますが間違いも甚だしいと思います。 これは「徳川家康ではない。源家康だ!」って言うのと同じでは?
ーーーーーー清とオスマンはモンゴル帝国の後継じゃないだろ。領土が被ってるだけで後継なのかよ。 清が創立される前にノルハチを最大に支えていた勢力は先にモンゴル王リクデンに反発し満州に降参した内モンゴルのホリチン族だったことを忘れちゃいかない。 その上、明あるいはモンゴル(ハルハ、ズーンガル)などを征服するとき一番大きな役割果たしたのは内モンゴルの騎馬軍だった。 ノルハチがチンギスハーンの国印をもらった(?)のでチンギスハーンの後継であると自分自身でいっていたそうです。
>>692 つっこみありがとう(笑)
先ず「イニシャルは父親の名前だと思う」はそのとおりです。つまり父の名が姓というわけです。
但し婚外子で母子家庭である(またはあった)という場合(結構これが多いとか聞きました)は母の名を
姓として用いているようなので、「イニシャルは父の名から取った」とせず姓からと書いたのです。
でその父も当然ながら祖父の名のイニシャルを冠しており、祖父は曽祖父の・・・というわけになります。
姓は兄弟姉妹で共有されるのみで尊卑族間で常に断絶してしまいます。果たしてこれを姓と呼ぶべきか
疑問なしとしませんが、物の本によると"family name"に対して"patronymic name"というんですと・・・。
たしかこれ「父称」とか訳してて英語ではMac-・O'-・-ing・-s・-sonの類だと思いますので、発生的には
当たってるのかと思いますが、実態としてはこれら父称は「祖称」とでも言うべきものに転化していて
一代限りのモンゴル風とは異なります。モンゴルのは家族内の同列者を括るのだから「輩称」といった
呼び方を提案したいのですが、そうなると同族内の従兄弟や再従兄弟も含むことになって不適切かも。
ところで日本でも一代ごとに苗字が変わるという事態が近い将来に起こるんじゃないかと予想します。
それは例の選択式夫婦別姓が制度として実現するかもしれないからです。この場合には新生児の姓は
夫婦の協議によって決定されることになるようです。そうなると例えば次のような事例も発生するかも
しれません。
近藤仁さんと遠藤梅さんの子♂は夫婦協議の末に奥さんの姓に従うこととなり遠藤義と命名された。
遠藤義は長じて佐藤松と結婚し生まれた子♂は佐藤礼と命名された。佐藤礼は長じて加藤桜と結婚し
生まれた子♂は加藤智と命名され、加藤智は長じて伊藤蘭と結婚し生まれた子♂は伊藤忠と命名され、伊藤忠は長じて後藤梓と結婚し生まれた子♂は後藤孝と命名され、後藤孝は長じて須藤桂と結婚し
生まれた子♂は須藤信と命名され、須藤信は長じて安藤楓と結婚し生まれた子♂は安藤・・・・・・・。
この家系は夫婦別姓が実施されてから代々別姓を続け、長男の命名の協議をすると必ず奥さんの姓に
決定してしまう、しかし家は奥さんの姓を称する長男が継承してゆくという、ちょっと変わってるけど
有りえなくはないという伝統を持ち続けてるわけです。その結果として家の表札は近藤-遠藤-佐藤-
加藤-伊藤-後藤-須藤-安藤・・・と一代ごとに変遷してゆきました。土地の人たちはやむを得ずこの家を
「藤さん」とか「藤原家」とか呼んだそうです。下らない一席のネタでした。
つっこみの2番目の「徳川家康じゃなく源家康というのと同じだ」という点ですが、同じじゃないです。
源家康は歴史上ちっともおかしくないんですが、姫昌や嬴政は有りえない呼び方なんです。
但しモンゴル史のテーマじゃないので明日↓のスレに書くことにします。
春秋戦国検討委員会
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1045141279/l50
696 :
世界@名無史さん :04/04/22 09:46
杉山正明氏の記述は全面的に信用してもいいのですか?
)なにごとであれ「全面的に信用」はやばいっすよ 杉山先生にしろ平勢先生にせよ宮崎大先生にしろ白川大先生にせよ、エキサイティングな 学説の前では、一応ちょっと立ち止まりましょう もちろんこれらの先生の学説には優れたとこがあるだけじゃなく面白い、そこが危ない! 「英雄人を欺く」という東洋の諺を知ってますか?(英雄色を好むは知ってますよね) 世の権威者って割りと適当なこと言いますからね!用心しましょう
698 :
世界@名無史さん :04/04/25 22:13
>>697 あなたは、
氏のモンゴル関係の新説(従来のモンゴル史観と違うところ)のうち、何割が真実で
何割が誤っていると思いますか?
今夜その時歴史が動いたでモンゴル帝国とりあげる記念でカキコ。
何か変なスレが立ってるな・・・
702 :
世界@名無史さん :04/05/31 02:25
北方の騎馬民族モンゴルは、やはり「南方」「水」「船」とは相性悪いのかね。 元寇は言わずもがな、ベトナムでは干満の差を利用した作戦に引っかかって惨敗、 ジャワを攻めたときは現地の政争に巻き込まれ、いいようにあしらわれた。 船の戦で勝ったといえば、南宋を滅ぼした涯山の戦くらいか?
>>567 (亀レススマソ)
_
'´ ヽ
ri_,.1リノ)))〉 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〈「(l!゚ ヮ゚ノ| <. えいえんはあるよ……インドにあるよ……
ノ⊂)水!つ \_________
((( く/_l〉 リ
`` し'ノ
704 :
世界@名無史さん :04/06/08 00:26
おれは歴史が素人だからわからないんから聞くけど、 チンギスハンは中国人なのか? 中国人の友達に、チンギスハンは中国人のモンゴル族だから中国人だよと言われた。 彼女は、中国の領土が最大だったのは元の時代で、その礎を築いたチンギスハンは同じ中国人として誇りだといっていた。 これは、学校で習ったことらしく、日本に来てから、大河ドラマでチンギスハンがモンゴル人で元もモンゴル人の国だと言われてショックをうけたそうで、 とても怒っていた。 どうなんだ? モンゴル人の友達に聞いたら、チンギスハンはモンゴル人なのはあたりまえと言っていたし、チンギスハンは偉大だからどの国の人も自分の国の人にしたがる。 日本人もチンギスハンは日本人だと言ってるだろ?と言われた。 だけど、今のモンゴルとチンギスハンのころのモンゴルは同じなのか? どうなんだ?
>>704 中共の歴史教育なんて捏造しまくりだからな。ある意味アナタの友達は被害者といえる。
だいたいチンギス・ハーンが生まれたとされる場所は中国領ではなかろう。
チンギスハンは日本人だと日本では考えられてるとモンゴルの人は考えてるのか? 義経=チンギス説のせいか?笑える。
>>703 . . .... ..: : :__: :: ::: :::::: :::::::::::: : ::::
/金 \. . . .: : : ::: : :: :::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : ::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . ::::
/ :::/哀宗ヽ ヽ :l . :. :. .:: : :::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
えいえんなんて、どこにもなかったんだ。
チンギスハンはロシア人 中国に内蒙古があるのと同じく、ロシアにもブリヤートがあるし
ついでに、モンゴル人の友達が言っていたけど、モンゴルはカラコルムに街を再建して、世界首都宣言をする予定だと言っていたよ。
710 :
世界@名無史さん :04/06/09 01:26
草原のままの方が趣があるだろうに・・・
711 :
世界@名無史さん :04/06/09 03:55
中共の捏造なんてまだまだ。 モンゴルが中華民国から独立していたことすら学校で教わらず すべてのモンゴル人は中国人だと信じてる台湾人と話したことあるよ。
712 :
世界@名無史さん :04/06/26 20:06
台湾で売られている中華民国地図は清の版図のまんま。 外興安嶺以南のアムールランドからバルハシ湖方面まで色塗りかいヲイヲイ・・・
台湾うぜえ
>704さん チンギスハンは一応、元(大元)の 太祖皇帝として中国の正史・元史に記載されていますので 中国人だと言えない事も無いです。ただ、チンギスハン本人は 中国文明の領域外で生涯の大半を過ごし、金を攻めて北中国の 大部分を制圧した時も殆ど中国文明に興味を持たず、武将のムカリに 統治を委任して別の国へ向かっているような人物であり、 中国人といわれることを本人が望んでいるかどうかはわかりません。 ただ、五代フビライハンが大元の皇帝として中国に君臨した時、 「太祖(チンギスハン)の書いた漢字」なるものを通行手形?に 用いたようで、中国人としてのイメージはこの頃から段々に形成された ものだといえるのではないでしょうか。ちなみに中華人民共和国は、 モンゴルがチンギスハン崇拝を止めてしまった時に、内モンゴルに チンギスハンの廟を修築するなど、かなり以前からチンギスハン顕彰を やっていました。中国人のお友達の反応も無理からぬことだと思います。
>>696 まずは、虚心に人の言うことを聞くのも初学者には大切だと思います。杉山信者は世に少なくないけど、杉山自身は一見識をもった人であることは否定できないと思う。
相手の説を良く理解して、それでも納得いかないときに批判してこそ、創造的な文化活動というもの。知識もないのに批判にばかり感情的エネルギーを費やすのでは、杉山の中国学批判と変わらなくなってしまうよ!
716 :
世界@名無史さん :04/07/08 12:23
>>704 中華人民共和国政府は、少数民族の分離・独立の動きを弱めるための政治的な対応として、
「大中華民族」という歴史・民族観を作り上げているようです。
漠北高原や東北部、西域、チベットを含めた広い地域(清朝版図)を「大中華世界」として、
諸族の対立・抗争はあったものの歴史的に一体であったとする歴史観です。
その当否に触れるとイデオロギーともあいまって荒れるもとになるので避けますが、
この発想に従えば、チンギス=ハーンは「大中華民族」の下位集団である蒙族の出身、ということになります。
日本でいえば、北海道の出身者が世界を制覇したけど、道民はもちろん日本人である、というような考え方ですね。
歴史学は純粋に学術的な話ではなく、政治が絡みやすいので注意。
というか、所詮は国家・政府などは一過性(数ヶ月から数千年まで様々だとしても)のものであり、
一方で民族は流動的なものに過ぎないのですから、アイデンティティとしてはともかく、
過度に同一視しない方がよろしいかと。
717 :
世界@名無史さん :04/07/10 21:56
月刊現代8月号の蒋介石に関する記事で語られているけど、 モンゴルでは、客人に対して夜に妻を提供する習慣があるんだって。
718 :
世界@名無史さん :04/07/10 22:16
女子高生コンクリート殺人事件の容疑者の元少年再犯
◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。
◆全裸にしてディスコの曲に合わせて踊らせたり、自慰行為を強要。
◆性器や肛門に鉄棒、瓶などを挿入。花火を挿入して性器や肛門内で炸裂させた。
◆性器を灰皿代わりに使用した。
◆殴打された顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」と笑う。
◆ゴキブリ、大便を日常的に食べさせた。
◆度重なる暴行に耐えかねて、「もう殺して」などと哀願することもあった。
◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。
◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。
◆顔面を回し蹴りし、倒れると無理やり引き起こして、更に蹴りつける。
◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。
◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。
◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で太腿部等を力まかせに多数回殴打。
◆揮発性の油を太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。
◆ストレスと恐怖から、頭髪がすべて抜け落ちてしまう。
◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、
やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。
◆死んだのでコンクリート詰めにして放置。
遺体の性器には、オロナミンCの瓶が2本突き刺さっていた。
性器と肛門、顔面は完全に破壊され原型をとどめていなかった。
腕や足は、重度の火傷で体液が漏れ出していた。
解剖してみると、脳が萎縮して小さくなっていた。
あまりの地獄に、脳が自ら活動を停止する「自死」という状態だった。
(裁判記録より「一部」抜粋)
http://www.gazo-box.com/misc/src/1089252458340.jpg コンクリ犯人の学生時代・・・きもい
>>717 それはコーエーのチン4のハンドブックに載ってた話しだな。マルコ・ポーロが見聞きしたという設定の。
それでは中央アジアの仏教徒の村の風習でフビライが聞いて怒ったってやつ。
720 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 13:43
客がホモだったら、だんな自身が体を捧げたのかねw
>>704 トルコ人もチンギスハーンはトルコ人ってことにする人がいるらしいぞ
722 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :04/07/11 15:28
>>719 だけど、実際に日本人諜報員が、それで苦労したとか書いてあったよ。
723 :
世界@名無史さん :04/07/14 15:56
>>704 チンギス・カンの部族は
遊牧民族キタイ(契丹)から国名を変えた遼の部族の流れを組んでいるようです。
遼が中国北方を支配して宋を南方に追いやっていた時代があり、
それを考えれば中国の流れを組んでいるとも言えますが
民族的にはモンゴル高原の遊牧民の血を引いたモンゴル人というのが
正しいと思われます。
クビライが元を建国し、遊牧国家を脱却して農耕国家を目指して中国を支配すると
いう手法を取ったのが中国人云々のイメージに繋がったものと思われます。
はあ。元は農耕国家なんですか。
725 :
世界@名無史さん :04/07/16 22:27
質問なんですけども。 モンゴルの軍装って調べればすぐにわかるんです、結構本も出てて探しやすいですし、映像化もされてますから。 で、その同時代で、モンゴルに進行された国々の鎧とかを知りたいんですけれど わかりやすい(イラストとかが多い)本や、サイトってみなさん御存じないでしょうか?? 西遼やホラズムですとか、ロシア・キプチャクとかですが。 文章でも良いですから、どんな軍装だったのか教えてくださいお願いします。
726 :
世界@名無史さん :04/07/20 15:25
727 :
世界@名無史さん :04/07/20 17:59
728 :
世界@名無史さん :04/07/21 14:43
>>728 どんな大層な意見かと思って読んでみたら。
これ書いた人が無知…
というか敢えてカンと表記する理由がちゃんとあることを理解しないで
思い込みで偉そうなことを言ってるだけですなこれは。
『遊牧民から見た世界史』などではqanをカンと書く理由は
きちんと説明されてるでしょ。
理由を知った上でハンが良いというのならそれはいいのだが。
731 :
ty270410 :04/08/11 22:30
赤坂恒明先生の最近の論文を読みました. 赤坂恒明,「「金帳汗国」史の解体−−ジュチ裔諸政権史の再構成のために−−」, 『内陸アジア史研究』,19(2004.3.),p23〜41 以下に要約してみます.(不正確な点があれば,ごめんなさい.) はじめに 1.研究上の概念としての「金帳汗国」 ロシアにおけるモンゴル王朝という意味である. 2.中世ロシア史料『カザン帝国史』における「金帳」 金帳の初出史料.大オルダ滅亡後の史料.バトからアフマドもでのオルダ 3.東方イスラーム史料におけるジュチ家の歴世 小ムハンマドの後継君主として「カザフ」のハンを記載するものが ある.アブルハイルは新政権の樹立者ではなく,ジュチ・ユルトにおける ジュチ裔君主の一人として記載されている. おわりに−−「タタール人」の政権「金帳汗国」 ロシア中心史観から離れてジュチ裔諸集団を分析,再構成するのは 今後の課題である. いつもながら,史料博捜された上での立論,敬服しつつ読みました.
SFにありましたね 新遊牧国家を再建したチンギスハンの末裔が ハイテクを駆使してのし上がり 超大国アメリカに真っ向勝負するというのが (結局は負けちまうんだけど)
ビンラディン?
734 :
ty270410 :04/08/16 22:07
>>731 続きです.
アフマド・ハンが1481年に横死したのち,ハンが乱立した.
シャイフ・アフマド・ハンもその一人に過ぎない.1502年に
大オルダの滅亡というが,大オルダとは何をさすのか?
アストラハンのハンも同じく乱立したハンの1つである.
シャイフ・アフマド・ハンは後にアストラハンに帰還している.
シビル汗国というが,これもジュチ裔の政権の1つである.
ざっと,こんなことも述べておられます.
それを典拠を示して論じられておられるところが,凄いですね!
735 :
世界@名無史さん :04/08/19 01:16
>>326 亀レスだけど、コリンズについて詳細キボンヌ。
フルネームとか論文の名前とか。
736 :
世界@名無史さん :04/08/19 14:49
うろ覚えだがLeslie J. D. Collinsだったかな? 参考にならなくてすまん。
737 :
世界@名無史さん :04/08/19 16:33
日本ってよく蒙古に飲み込まれなかったな。 蒙古帝国版図を見ると蒙古の凄さがよく解る。 二度の元寇はチョン国が蒙古側に付き例の法則発動、 台風などのお陰で乗り切ったが 蒙古単独の日本侵略、台風が来ない時期に攻め込んできたら 日本はどうなっていたんだろうか。
738 :
ty270410 :04/08/19 21:51
>>735 >>736 Collins,L.J.D. 1970:
The Fall of Shaikh Ahmed Khan and the Fate of the People
of the Great Horde 1500-1504
London University, Ph.D.thesis
この論文は岡田英弘先生も引用しておられました.
Collins,L. 1991:
''On hte alleged 'destruction' of the Great Horde in 1502''
Byzantinische Forschungen Internationale Zeitschrift fuer
Byzantinistik, Band XVI, Manzikert to Lepanto. The Byzantine
World and Turks 1071-1571. Papers given at the Nineteenth
Spring Symposium of Byzantine Studies, Birmingham, March 1985
edited by Anthony Bryer and Michael Ursinus. Amsterdam, pp.361-399
大変長い出典です.前半は研究雑誌の16巻のようですし,後半はシンポジウムの
プロシーディングに載っているようですし,このあたりに暗い私にはよくわかりません.
赤坂先生の論文には,上記の2論文が引用されています.
市井の読史家の私には読むすべもありませんが,ご紹介します.
740 :
ty270410 :04/08/20 23:45
>>739 ご教示のサイトを開いてみました.
1502'Altin Ordaという論考で著者はL. Collinsですね!
まさに,これですね!
私も読めませんが,人名を拾っていきますと何が書いてあるかは,
想像がつきなすが,何がどう書いてあるかは,全くわかりません.
史料と引用文献が付記されていませんので,オリジナルというよりも,
博士論文の抄録のトルコ語訳かもしれませんね!
ありがとうございました.
741 :
ty270410 :04/08/21 21:35
>>740 岡田英弘先生がCollinsの説を紹介しておられますが,
それによりますと,
1502年に大オルダがクリム汗国に滅ばされたのは
実は,黄金のオルダのハンの地位が大オルダから
クリム汗国へ継承されたのだ
ということです.
赤坂先生は直接言及されておられませんが,
この説もロシアから見た説と思われます.
ご承知のように,ロシアはカルロビッツ条約の翌年の
1700年までクリム汗国へ貢納していました.
まさに,クリム汗国は黄金のオルダの継承者といえます.
Collinsの論文は読めませんが,先行学説を紹介しつつ
上記の論を提出していると推察されます.
http://www.kirimdernegi.org.tr/lesliecollins.htm は
http://www.euronet.nl/users/sota/emel.htm によると
トルコのクリミア・タタール系雑誌 Emel の
1998年1月-2月号に載ったものの転載のようですね。
さわりだけ辞書を引き引きがんばって読んでみたけど
岡田英弘か杉山正明を読んでいたのかと錯覚するような感じが。
外国にもこんな学者はいるのね。
「1502年の金帳汗国(大帳)」
この論文はあるヨーロッパ国家が消滅したことに関するものである。
この国家の最後はきわめて書き記すに価値あるものだ。
この国は征服、疫病、反乱あるいは住民投票という経過で消えたのではない。
逆に、歴史家の手によって消されてしまったのである。
机上で歴史家たちが彼らの仕事をそのようにしてしまったことにより
いま話題にしている国の存在は終わらせられてしまった。
歴史家たちがこのようにしてしまったとき、
史実は頭から用意され、誰もそのことに気づかなかった。
実際にはそれがなされたときにはまったく注意深く扱われていなかった。…
743 :
ty270410 :04/08/22 00:20
>>742 ご教示ありがとうございます.
そうですか!
そんな論調ですか.
岡田英弘先生によれば,ロンドン大学の博士論文は,
なぜか,出版されなかったと書いてありますが,
なんとなくわかるような気がします.
ありがとうございました.
745 :
ty270410 :04/08/22 23:25
>>744 >赤坂先生の論文は
>>731 のですよね?
そのとおりです.
>岡田先生のはどれなんでしょうか?
岡田英弘「国際セミナー「モンゴル帝国とその遺産」」(学会・研究動向)
『アジア・アフリカ言語文化研究所通信』72(1991) p54〜59
でCollinsの説を紹介しておられます.その後,通俗書でCollinsの説を
踏襲しておられます.
岡田英弘『チンギス・ハーン』朝日文庫,1994.1. p.274
岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』ちくま新書,2001.10. p.129〜130
クリコボの戦いについては,私もわかりません.
どうも。 岡田氏の文はすぐに入手できそうです。 赤坂氏の論文は所蔵している所が休館中だったりします。 ちなみに『モンゴル帝国の興亡』は読みました。 なんか概説書より論文なんかの方が便利ですね。 ちゃんと説明していて。 そういえば岡田先生が『エルデニ・イン・トブチ』の 翻訳を出すそうです。6,300円と結構な値段だけど どのくらい丁寧に書いてくれるのかな。
747 :
ty270410 :04/08/23 21:45
>>746 >そういえば岡田先生が『エルデニ・イン・トブチ』の
>翻訳を出すそうです。
そうですか.お知らせありがとうございます.
楽しみですね!私はダヤン汗出現までの
北元に興味があります.
サイキさんのホームページによると
戦時中に邦訳が出ているようですが,私は,まだ見ていません.
岡田先生の訳に,どれだけどんな訳注がつくのか楽しみです.
ありがとうございます.
岡田先生のセミナー報告を確認してきました。
これには載ってなかった、
>>743 > 岡田英弘先生によれば,ロンドン大学の博士論文は,
> なぜか,出版されなかったと書いてありますが,
のソースキボンヌ。
まさか、
岡田英弘『チンギス・ハーン』朝日文庫,1994.1. p.274
ではないですよね。古い集英社版なら持ってるけど、
論文に言及する感じじゃないし。
なんか教えて君ですみません。
>>747 よく知らないけど、戦前のは満洲語か漢文からの
翻訳ということはないでしょうか?
ちょっと前に、ハーバード出した影印本を眺めたけど、
私ではとても自力で読むのは無理そうでした。
749 :
ty270410 :04/08/24 21:35
>>748 >岡田先生のセミナー報告を確認してきました。
>これには載ってなかった、
載っていなかったですか.失礼しました.以前コピーを取った記憶があるの
ですが,見付からなかったので,赤坂先生の論文の引用がてっきりそれだと
思って書いてしまいました.もう一度,コピー探してみます.いずれにしても
ちゃんとした論文でなく,学会報告だったと思います.
>岡田英弘『チンギス・ハーン』朝日文庫,1994.1. p.274
>ではないですよね。
ええ,違います.
>よく知らないけど、戦前のは満洲語か漢文からの
>翻訳ということはないでしょうか?
そうです.満洲訳からの重訳です.
サイキさんのホームページのURLを書いておきます.(hを付けてください.)
ttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife/2887/siryou.html
750 :
世界@名無史さん :04/08/24 22:42
岡田英弘と杉山正明では現在どちらがモンゴル史の主流なの? 関東と関西でモンゴル史で明確な色分けがあるの?
751 :
ty270410 :04/08/25 21:07
>>750 岡田先生は主にモンゴル語と満州語の史料を使っておられます.
杉山先生は主にペルシャ語の史料を使っておられます.
どちらが主流ということもないように感じますが・・・
いかがでしょうか?
岡田センセは功績という面では絶大ですが ひとり偉大すぎるのか後継者や研究上の追随者があまりいないですからねえ。 モンゴル語を使う人にしろペルシア語を使う人にしろ 研究者の傾向としては本田実信か杉山正明に近い系統の人が多いのではないでしょうか。
明代・清代モンゴルに比べて、モンゴル帝国時代はモンゴル語の史料が少ないから、 モンゴル帝国を研究する際の根本史料がペルシア語と漢籍中心になるのは当たり前。
754 :
ty270410 :04/08/26 22:53
>>753 なるほど,そうですね!
集史もジュワイニもペルシャ語ですね.
モンゴル語の史料といえば,秘史くらいでしょうか?
と、いうかそもそも岡田英弘の専門の論文は
モンゴル史では北元以降のほうが多いような。
>>754 碑文があります。それにごく若干の文書。
ちなみに碑文は杉山正明も使ってますから
別に「杉山先生は主にペルシャ語の史料を使っておられます.」
ということはないと思いますが。
元典章の研究もしているそうですし。
756 :
ty270410 :04/08/27 21:25
>>755 岡田先生のダヤン・ハン関連とドルベン・オイラド関係の
論文は読みました.
杉山先生については,三王国とチャガタイ裔関連のものしか
読んでいませんでした.
ご教示ありがとうございます.
すっかり話題もかわってしまってますが、 赤坂先生の論文をゲットしました。 アジア・アフリカ言語文化研究 42 収録の、 宮脇淳子: トルグート部の発展 が博士論文が出版されていないことに触れていました。 79ページの脚注に 著者に聞いたところでは、本書は、さまざまな妨害を受けて、未だに刊行さ れていない とありました。 このタイトルだと、普通こんな情報が載ってるとは思わないよ。
758 :
ty270410 :04/08/27 22:59
>>757 赤坂先生の論文を入手された由,
いずれにしても,この論文は序説的ですので,
本論を待ちたいとおもいます.
宮脇先生の論文でしたか.失礼しました.
そういえば,赤坂先生の
>>731 論文の趣旨は以前に口頭発表
なさっていたようです.その要旨が次に掲載されています.
赤坂恒明「ジュチ裔諸政権と「キプチャク汗国」」
『史観』140(1999.03.)p.126〜128
岡田センセ、宮脇センセと夫婦揃ってモンゴル史研究にご活躍でなにより。
760 :
ty270410 :04/08/30 21:57
順帝トゴン・テムルが逃れた「応昌府」は現在どうなっているのでしょうか? 桑原てつ蔵先生の『考史遊記』(岩波文庫)所収の「東蒙古紀行」の中に 写真が数葉載っています.(p.370〜372.p.537) 明治41年(1908年)の壮挙ですね! 発掘など行われたのでしょうか?
モンゴル人の名前や名前の一部として「脱脱」というのが漢文に出てきますが、
これ、どう読めばよいのでしょうか?
本田先生は Toγto と読み、杉山先生もトクトと書いていたので
それに従っているようです。
一方、岡田先生は、タイスン・ハーン脱脱不花をトクトア・ブハと読んでいます。
Mongol Chronicles and Chinggisid Genealogies では Toghtogha Bukha としています。
最後のghは脱落するけど、前後の母音は長母音化しない、ということでしょう。
元朝秘史をローマ字化したサイトでは Toqto'a としており、
ttp://laurencio.webz.cz/mongolxel/toli/nigucha/tr07.htm この人は、現代語訳でも Тогтоа (Togtoa) と表記しています。
ttp://laurencio.webz.cz/mongolxel/toli/nigucha/nuuts07.htm 秘史のモンゴル語は脱落するγ音を表さないので、
岡田先生と同じタイプと言えます。
ところが、現代モンゴル人には Тогтох (Togtoh) という人がいます。
チェチェンハン・アイマグのト・ワンは Тогтохтѳр (Togtohtör) で、
楊海英氏もモンゴル文字の転写では Toγtaqutörü としていました。
表記が三種類もあるのが激しく謎です。
語源は、恐らく決めるいう意味の動詞 toγtu|qu 〜 toγta|qu、
あるいはその他動詞 toγtuγa|qu 〜 toγtaγa|qu です。
現代語ではそれぞれ тогто|х、тогтоо|х です。
誰かこの謎を解けませんか?
嘘ついてました。 杉山先生は「モンゴル帝国と大元ウルス」を見る限り、 トクトとトクトアの両方出してました。
ハンガリースレの住人です。 当該スレッドにて下記の質問をさせていただきましたところ、こちらをご紹介 いただきました。唐突に登場し質問をさせていただくのは誠に恐縮なのですが、 1285年にノガイ・ハーンの軍勢がハンガリー王ラースロ4世の援軍要請をき っかけにハンガリーへ侵攻したそうですが、詳細を知るのに適当な資料があれ ばご教示ください。
コリンズ氏の博士論文をゲットしますた。
765 :
世界@名無史さん :04/09/09 14:07
光栄のゲームに出てくるクマン族同盟って何?
幾つかある勢力を一つにまとめた時に適当に作り出した言葉だから気にすんな。 他にはヒンドゥー諸王朝とかルーシ諸公国とか。
768 :
ty270410 :04/09/09 22:30
>>767 ご紹介くださったロマン・ザカリさんの
ガリシア・ボルイニ地方の歴史のサイトは
大変魅力的でした.
英語なので一部しか読んでいませんが,辞書を片手に
じっくり読むつもりです.
日本語では絶対に読めない地方のまたとない記述ですね!
また,末尾の関連サイトの紹介もいいですね!
ペチェネーグなどが英文で読めるようですね!
ありがとうございました.
769 :
ty270410 :04/09/09 23:07
>767 御厚意、感謝いたします。 早速、訪れてみます。
771 :
ty270410 :04/09/11 20:17:40
ジュチ・ウルスとジュチ裔諸政権の推移について 赤坂恒明先生が原典に基づき精力的に論究されている. 日本語で読めるキプチャク汗国の通史はまだ見当たらないが (グレコフとヤクボフスキーの『金帳汗国史(初版)』の邦訳があるが, 希購本で,見るのはかなり困難である.) 以前にロシア史料,ロシア資料に基づいてトクタミシ汗までの 通史を加藤一郎先生が書いておられる. 1)モンゴル人によるルーシ支配の開始−キプチャク汗国の成立 『史潮』新10(1981),59〜74,92 2)13世紀後半のキプチャク汗国とロシア−汗国史へのエチュード(1) 『文教大学教育学部紀要』19(1985),14〜29 3)14世紀前半のキプチャク汗国とロシア−汗国史へのエチュード(2) 『言語と文化(文教大学)』1(1988),41〜63 4)14世紀後半のキプチャク汗国とロシア−汗国史へのエチュード(3) 『言語と文化(文教大学)』2(1989),49〜69 5)トフタムイシ汗とキプチャク汗国の解体−汗国史へのエチュード(4) 『文教大学教育学部紀要』26(1993),1〜13 集史などはTizengauzenから引用しておられる.今昔の感がある. でも,日本語でここまで読めるので概略を把握できる.助かる!
772 :
ty270410 :04/09/11 20:53:48
続いて中村仁志先生がトクタミシ以後について書いておられる. 1)ロシアとタタール世界−キプチャク汗国の継承国家− 『ARTES,宝塚造形芸術大学紀要』4(1990),85〜92 2)15世紀後半ロシアの対タタール外交 『史泉』76(1992),1〜15 3)クリミア汗国とロシア(16世紀前半) 『関西大学文学論集』43(2)(1993),37〜59 4)シャフ・アリーとサファ・ギレイ 『関西大学文学論集』文学部創設70周年号(1995),295〜309 カザンとクリミアに関する通史的な概略がわかる. ポスト・トクタミシ時代についての記述が少なく, いわゆる大オルダに関する記述がほとんどない. このあたりの通史がほしいですね!
773 :
世界@名無史さん :04/09/11 21:44:50
門ゴール
774 :
ty270410 :04/09/11 22:41:59
カザン,アストラハン,カシモフについては石戸谷重郎先生が 書いておられる. 1)16世紀中葉におけるロシアとカザン 『奈良産業大学紀要』2(1986),3〜25 2)イヴァン4世の東方政策−カザン・アストラハンの併合 『奈良文化女子短期大学紀要』17(1986),1〜20 3)イヴァン4世とシメオン・ベクブラトヴィチ 『奈良文化女子短期大学紀要』16(1985),1〜20 いずれもニコン年代記などのロシア資料を駆使しておられる.
775 :
ty270410 :04/09/12 21:16:53
石戸谷先生の論文は数種類のロシア年代記などの 一次史料を駆使しておられ,しかも,一部は邦訳を 付けて下さり,読み応えがありました. 1986年当時体調が悪いと書いておられましたが, どうなさったか,心配です.
たまたま『史学雑誌』第90編第8号に 岡田英弘氏が萩原淳平『明代蒙古史研究』の書評を書いてるのを読みました。 最初から最後まで批判していて、その徹底ぶりに笑ってしまいました。 なんでも漢文至上主義なんだそうです。 ローマ字表記の誤りから始まって、 本田実信先生の先行研究を読んでいないとか、 原文のモンゴル語や満洲語史料を使わず わざわざ史料価値の低い漢文を参照しているとか。 ここまで言われたら、漏れならちびっちゃうよ。 今調べていて気づいたんだけど、 萩原淳平先生って数年前にお亡くなりになっていたんですね。 恥ずかしながら、清代ハルハを研究している萩原守氏と混同してました。
すっかり話題が西方に移ってますが・・・
宮紀子: モンゴルが遺した「翻訳」言語―旧本『老乞大』の発見によせて―
が面白すぎです。
『内陸アジア言語研究』収録で
上下に分かれた連載なのに、上が出てから下が出るまで
ほとんど一年経ってます。長かったです。
元代の漢文に見えるモンゴル語直訳風の文体が、
当時の華北の口語に基づく「漢児言語」であるという主張と
あくまでモンゴル語の翻訳文で口語とはまったく別という主張が
対立していて、宮氏は後者の立場。
前者の舩田氏は自分のサイトを持ってます。
ttp://www.geocities.jp/funadayos/works/ydzref/ref_ydz_b.htm
おっと化けた。 yuwan ulus-un üge-yin kitad kücir orγiγulγ-a です。一応。 二、三ページの短い紹介記事で、だから試しに訳してみました。
岡田英弘氏は英語で大量に論文を書いてて、 その影響なのか宮脇淳子氏も英語で論文を書きまくっているようですが、 他の研究者はどうなんでしょうか? 本田実信氏や満洲関係の人なら、英語の論文や、 外人の論文が参照しているのを見たことあるけど、 杉山正明氏あたりは見たことも聞いたこともないので。
amazon.com.で一体、何冊くらいの欧米人の研究書(最近の出版物が多く ならざるを得ないが)が、御三方の著作なり論文について言及しているか調べてみたが、 Okada Hidehiro・・・・・・・18冊 Miyawaki Junko・・・・・・・3冊 Sugiyama Masaaki・・・・・・2冊 という結果だった。 杉山先生やその著作について言及していた2人の研究者は京大に留学していた人のようなので、 日本語が出来て直接、著者の教えを受けたり、付き合いがあったりする人ぐらいじゃないと 研究業績を単に知らないか、参照出来ないかのどちらかということか。
>>781 ありがとう。
やっぱり杉山氏は海外では知られてないのかな。
せっかく面白いことを言っているのに、
聞いているのが日本人と、せいぜい中国人ぐらいでは
もったいないと思うんだけど。
ちなみにそれ、どうやって調べるんですか。
amazon.comを見にいったけど、やり方がわからなかった。
783 :
ty270410 :04/09/27 21:36:08
>>781 引用をどのようにして調べるのかご教示ください.
理系では
Science citation index
という雑誌があると聞いたことがありますが・・・・
784 :
ty270410 :04/09/27 21:46:37
>>771 加藤一郎先生はロシア語史料で書いておられますが,
ペルシャ語史料でトクタミシュについて書いた次の論考を
見つけました.
加藤和秀『ティームール成立史の研究』1999 北大図書刊行会
の第5章の中の
305ページ〜309ページ,315ページ
です.
785 :
世界@名無史さん :04/09/27 23:19:59
俺の母方は口伝では弘安の役で捕まった蒙古兵らすぃ。でも蒙古とか中国とか高麗とかでは ない隠し姓あり。イラン系?西域の方っぽかった。なんか長ったらしかったぞ。 そのせいか俺の目の色が薄い赤と灰色が混じったような色で初対面も人にはあれ?ッといわれる。 室町期になると普通に侍としてリーマン生活してたらしい。 んなことより、俺もキエフ攻略戦に参加してロシア少女とはぁはぁしてぇ、まじしてぇ
786 :
世界@名無史さん :04/09/28 00:12:31
モンゴル帝国は世界最強だったが海をわたれなかった! 日本、ベトナム、インドネシアなどに大艦隊を送ったがみごとに失敗。 やっぱり騎馬民族、船には弱かったと見た!
787 :
世界@名無史さん :04/09/28 16:16:35
>>786 そりゃオマイ、船酔いでゲロゲロで戦なんかできねぇって。 可愛そうじゃん<モンゴル兵
788 :
世界@名無史さん :04/09/28 16:22:52
ジャワはラデン・ヴィジャヤが悪どい奴だったから仕方なし。
789 :
世界@名無史さん :04/09/28 16:24:51
790 :
カリム :04/09/29 12:57:29
私は横山光輝のチンギスハーンをてにいれたので一日で徹夜して読もうと 思います。あはははは。
>790 マンガじゃなく、歴史の本をちゃんと読めるようになってから また来て下さいね。
歴史の本だろうがよ。
793 :
ty270410 :04/10/04 21:28:47
794 :
世界@名無史さん :04/10/05 00:35:41
ま た チ ン ギ ス ハ ン の 墓 か
795 :
世界@名無史さん :04/10/05 00:50:14
前もあったよね、チンギスハン墓発見のニュース。 あれどうなったんだろ?
796 :
世界@名無史さん :04/10/05 02:09:49
今回はかなり期待が大きいな。 永遠に見つからないだろうと言われていた墓も かなり可能性が大だ。
>>793 その白石先生が『チンギス・ハンの考古学』で『元史』の歴代の記述と
アウラガ遺跡周辺の遺構群からここ一帯がチンギス・ハンの大オルドにして
かつ歴代モンゴル皇帝の墓廟跡だろうと推定していましたが・・・
その説の裏付けがとれたのでしょうか?
あのさ、チャガタイだかオゴタイが近親相姦したって話だけど本当? しかも相手はボルテの妹(つまり叔母)だっていうし。
800 :
世界@名無史さん :04/10/20 18:09:05
>>785 それが本当の話なら興味深い。
南宋攻めやハイドゥの乱では、黒海周辺から連れて来られたキプチャク人
(トルコ系)やアスト人(アス人。イラン系)部隊が活躍している。
当時アスト人部隊はバヤンの配下にいたことがわかってるので、元寇に部隊
ごと参加したということはなかったろうが、蛮子軍のお目付け役などで数人
単位なら日本に来ていたかもね。いや、妄想に近い話ですが・・・
801 :
世界@名無史さん :04/10/23 01:32:49
天順帝といって、元の泰定帝イェスン・テムルの皇太子で、 即位したもののすぐに敗れた人がいますよね? この人の名前は何なのでしょうか? よく聞くのはアスギバとアリギバ。アスギバは漢字表記で阿速吉八。 ローマ字表記では Asugiba と Arigiba らしいです。 でも他にも Asugbal と書いてあるのもあります。 岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』にはラキパクって書いてあるし。 岡田氏はアーユルパリバドラなんかと同じく モンゴル語を元のサンスクリット読みに翻訳したんだろうけど 綴りもわからなければ意味もわかりません。 Arigiba の頭の a は語頭に r が立たないように付け加えられた物で サンスクリットの p はモンゴル語では b になり、 音節末の子音は漢字表記に反映されなかったってことかな? ともかく、『元史』では紀がたれられていないし、 概説書の中にはイェスン・テムルの息子としか言っていないものもあったりで 困ってます。
802 :
世界@名無史さん :04/10/23 18:30:07
アリババ?
803 :
世界@名無史さん :04/11/01 15:41:08
質問なのです。13世紀のスィースタン(今のパキスタン)地方の 支配権てどう移っていったのでしょうか?歴史地図帳などを 見てみると、ホラズムもモンゴルもフラグ=ウルスも支配していない 様に見えるのですが。
>>804 本田実信「ヘラートのクルト朝政権の成立」『東洋史研究』第21巻第2号,1962年
(本田実信『モンゴル時代史研究』(東京大学出版会,1991年),127-163頁に「ヘラートのクルト朝政権」として所収)を参照の事。
「朝」は要らんかった。
>>805 ありがとうございます。大学の図書館で探して見ます。
808 :
世界@名無史さん :04/11/09 00:18:24
>>746 で言ってた『蒙古源流』の訳注、
ようやく出ましたね。
早いところ手に入れないとすぐに絶版になりそう。
809 :
ty270410 :04/11/10 21:52:59
>>808 岡田先生の『蒙古源流』刊行のお知らせ有難うございます.
早速,Amazonで注文しようと思いましたら在庫切れでした.
池袋,ジュンク堂で今日(04.11.10.)入手しました.
岡田先生の論考や著書に部分的に訳が載っていましたが,
全貌を見るのは初めてでした.
チベット仏教に基づく「序」から始まり,インド,チベットと
仏教の流通を語り,ついでモンゴルの歴史に入り,
中間に中国の歴史をはさみつつ,オルドスのサガン・セチェンに至り,
満洲の興起と明の歴史をはさみ,最後に清の康熙帝の即位と
パンチェン・リンポチェの死で結んでいる.
欲をいえば,人名,地名索引をつけ,ローマナイズした言語を付記して
頂くとよかったと思う.
書誌
岡田英弘訳注『蒙古源流』 刀水書房 2004.10.
A5判 571ページ+口絵・目次 26ページ
ISBN 4-88708-243-6
俺のチンギスハン評を聞いてください。 まず戦術ですが、チンギスハンがヒトラー(グデーリアン)やナポレオンのように 互いに近代兵器を用いた戦い、と言うのをしていないので慎重に判定してみました。 戦略については凄いの一言。全体像を常に把握して不利な局面では深追いをしない。 日本への遠征は失敗してますが、当時の日本の軍隊(って言っていいのかな)は実は弱くない。 またチンギスハンは朝貢を丁寧に(!)日本に促す文書を送っていて、その面でもかなり慎重です。 遠征失敗は神風のせいとする「通説」が罷り通ってますが、 当時の史料をよく調べると実は時期が微妙にずれています。 「定説」では日本から撤退している最中に「神風」が起こったようです。 (時期が近かった為 日本の宗教家が「霊験」として故事つけたようです) 日本の遠征を晩年までしつこく練っていたのは少しどうかと思いますが…(笑) 後継者選びもきちんと行っており、チンギスハンの政策を比較的うまく引き継いでいます。 (自治や信教の自由など) 本人のみならず後継者に受け継がせている、と言うのはけっこう凄いんじゃないでしょうか。
フビライとまざってないか?
というかフビライ・ハーン評と書こうとして間違ったんだろ。
すさまじい間違いをするやつもいるんだな。
フビライの安南遠征やジャワ遠征をどう評価するか? 杉山正明に言わせると「交易ルートを確保できたのでOK」ということだが。
816 :
ty270410 :04/11/19 21:41:14
>>809 『蒙古源流』を斜め読み,拾い読みしました.
岡田先生が,論考や一般書で北帰後のモンゴルのハンの伝承を
引用しておられるのを幾つか読んできましたが,
全巻を通して目を通してみるとまた別の印象を持ちました.
いってみれば,モンゴル,中国,チベットを舞台とする
一種の壮大な歴史書という感じがします.
17世紀に清帝国によって牧地も決められ相対的に安定したモンゴル,
すっかり,チベット仏教が定着したモンゴル,
そんな中で7種の先行文献に依拠しつつ著述された『蒙古源流』
とにかく,市井の読史家にとってはありがたいです.
そういえば,ラシード・ウッディーンの『集史』も世界史の体裁を
とっているそうですが,全巻を通して読むとまた違った印象があるだろうと
類推します.
本田実信先生が,中国史の目次だけ紹介されていましたが,そのままに
終わっています.
イブン・ハルドゥーンの『歴史』も序説だけでなく,全体を眺めたい
ものですね!
断片がティゼンガウゼン(ティーゼンハウゼン)に引用されているようですが,
日本語ではほとんど読めません.
史料としてよりも,どんな歴史観というか,歴史像を持っていたのか,
興味がありますね!
818 :
世界@名無史さん :04/12/07 00:09:08
>>816 "Jami` al-tawarikh"は商務印書館から漢訳本が「史集」というタイトルで出ています。
ロシア語からの重訳で全4冊1826ページ、「集史」日本語訳が望み薄の現在ではこれを
購読されるのが次善策ではないでしょうか。固有名詞についてはペルシャ文の原スペル
復元が可能な訳注が付いています。
神田の亜東書店では年末特価セールを行っていますが、正価4357円のところ50%off扱で
2178円で購入できます。
序でながら「資治通鑑」(岳麓書社刊)全4冊3796ページが4725円、「続資治通鑑」(古籍出版社刊)
1223ページが1690円とお買い得です。
819 :
世界@名無史さん :04/12/07 00:17:44
! بزبان فارسى "جامع التواريخ" را بخوانيم
821 :
ty270410 :04/12/09 23:02:54
>>820 「ペルシア語で『集史』を読みたい!」って書いてあるんですか?
823 :
ty270410 :04/12/10 21:32:03
>>822 やはり日本語で読みたいです!
英訳がありますが,英語が得意でないので,途中で止めました.
北川先生のジュチ紀のペルシャ語からの日本語訳を読んでみて,
非常によく理解できました.
全体像を知りたいですね!
824 :
世界@名無史さん :04/12/10 22:32:37
集史の英訳は抄訳でしょうか、それとも部分訳でしょうか。 全体が訳されているのでしょうか。 タイトル、出版社が分かれば教えてください。 よろしくお願いします。
825 :
ty270410 :04/12/11 00:08:38
>>824 すみません!
英訳の翻訳者など書誌を書いたメモを探しています.
たしか,ジュワイニの「世界征服者の歴史」の英訳をした人と
同一人物だったと思います.
抄訳ではなく,モンゴル史の部分の訳だったと思います.
John Andrew BoyleのThe successors of Genghis Khan?
The Succesors of Genghis Khan, translated from the Persian of Rashīd al-Dīn by J.A. Boyle (Columbia University Press, 1971).
829 :
ty270410 :04/12/11 00:38:18
>>824 メモがありました.
J.A.Boyle:The Successors of Genghis Khan,translated from
the Persian of Rashid al Din.
New York,1971
以上です.出版社名をメモするのを忘れました.
再度書きますが,モンゴル史の全訳,つまり「集史」全体から
みると部分訳です.
ボイルはジュヴァイニーを訳してるから、『集史』の言わば「本紀」のほうの 訳はオゴデイから成宗テムルの部分だけにしてチンギスは除いたんだろか。
831 :
世界@名無史さん :04/12/11 19:40:09
モンゴル襲来でよく女性はレイープされたっていうけど、どれが一番最凶? キエフルーシでは、一人残らず皆殺しにされたらしいけど・・ 国や諸都市を攻め落とした後も、住民への虐殺や強姦もあったのかな?
ホラズムが最凶でしょ。 チンギスの縁者が戦死した場所の住民は女子供まで斬首、都市は廃墟に変える。 背後からの奇襲を避けるため住民追い出して都市破壊もしてるし。
833 :
世界@名無史さん :04/12/11 21:09:36
>>829 どうもありがとうございます。
さっそく捜してみます。
834 :
ty270410 :04/12/11 21:52:33
835 :
世界@名無史さん :04/12/11 22:30:35
元の皇帝、仁宗はどうですか。 「モンゴルの残光」では、中国文化を理解した名君と言われていましたが、 講談社現代新書のモンゴル史の本では、ただの傀儡という評価でした。 実像はどうですか。 また、詳しい評伝などを知っている人がいたら教えて下さい。
836 :
世界@名無史さん :04/12/14 17:57:07
明とタタール、オイラート、ウリャンハの抗争を『騎馬民族史』で調べてるが、洪武〜永楽あたりまではともかく、それ以降の地名がさっぱりわからん。 何かいい資料があれば教えてくれ。
中国地図出版社刊行の『中国歴史地図集』なら、中国書籍を扱っている書店で購入できます。
838 :
世界@名無史さん :04/12/19 13:17:40
どなたか知っている方がいたら教えてください。 実は8.ジンギスカンのスレッドでも聞いてみたのですが、 ロシアの作家(歴史家?)が書いた ジンギスカン バトカン西へ行く 最果ての海(日本語タイトルは、「地の果てまで」 を20年前に読み、大変感銘を受けました。 入手したいのですが、絶版本を手に入れる方法はないでしょうか。 かつて、神田の古書店街を捜したこともあるのですが。 絶版本を復刻するサービス等でも結構です。 なにか分かる方がいたら、お願いします。
839 :
世界@名無史さん :04/12/19 13:20:58
838 すみません。著者と当時の出版社を書くのを忘れました。 著者は、V.ヤン。出版社は平凡社です。
840 :
世界@名無史さん :04/12/19 13:40:22
カチャ ;y=ー( ゚д゚)・∵. ターン \/| 1 |)
842 :
世界@名無史さん :04/12/19 22:47:08
>>841 さっそくの情報提供ありがとうございます。
ようやく原作者のフルネームが分かりました。v.ヤンは、Vasilii Ianだったのですね。
海外の出版社も含めて探してみます。
英語版でもあればいいのですが。
また、何か分かれば教えてください。
絶版書籍の復刻サービスなどはどこかやっているところはあるのでしょうか。
どうもありがとうございます。
先日、やっと『蒙古源流』を購入。北元以降のモンゴルやチベットの事情を知る機会が今まであまりなかったので、どんなことが実際書かれてるのか楽しみ。
846 :
世界@名無史さん :05/01/10 07:48:17
あ、いいな。俺も欲しい。
せっかくだから『アルタン・トブチ』の復刻もしてほしいな。
よく洋ゲーだとモンゴルの評価が低いが、 これは欧州人の嫉妬なんだろうなw
849 :
ty270410 :05/02/02 23:33:07 0
>>847 >せっかくだから『アルタン・トブチ』の復刻もしてほしいな。
そうですね!
たしか,小林高四郎さんの日本語訳が戦時中に刊行されて
いましたね!
蒙古からの使者は鎌倉まで来るに及ばず、博多にて首を刎ねよ
851 :
世界@名無史さん :05/02/03 00:08:07 0
モンゴルのことを学ぶならどこの大学の何学科に行けばいいの?
852 :
世界@名無史さん :05/02/03 01:18:14 0
>>851 国内は進んでるのか知らんがもういい。
モンゴルの大学行ってみそ。
>>851 時代や分野によって大学は違うかと。
今のところ関東ではモンゴル研究所を設置してる早稲田が近現代、前近代まで広くカバーしていたはず。
モンゴル語や漢籍をベースにした従来の研究もやってるが、チベット関係はどうだったか・・・
ペルシア語文献を駆使したジョチ家の研究で活躍してる赤坂先生も確か早稲田の出身だったはず。
>>852 こと歴史に限って言えばそりゃ無茶じゃないかね。
文書館に通い詰めて清代のモンゴル語・満州語史料を
バリバリ読みたいとか言うんじゃなかったら
無理にモンゴルの大学に行ってもそんなにメリットはないと思うよ。
855 :
ty270410 :05/02/03 21:44:13 0
>>853 赤坂先生のウェブサイトを見るとペルシャ語史料の輪読会を
やっておられるようですね!
856 :
蒙古馬 :05/02/04 05:53:27 0
まだこのスレッドが残っていたのですね。。。 >>ty270410さん ご無沙汰しております。 もうすぐ赤坂氏の研究書が出版されますよ。 注目すべきはジュチ家系図が膨大な頁を割いて所収されるとのことでしょう。 ネタばらしはマズかったかな…。まぁこれぐらいは平気か。 モンゴル系図やジュチウルスのに興味がある方は 期待して出版を待ちましょう!
857 :
世界@名無史さん :05/02/04 06:00:36 0
杉山センセのヤツみたいに、さりげなく色々直してるけど「おわりに」すらなくて書籍としてのまとまりゼロ、なんてことは無いでしょうね?
858 :
蒙古馬 :05/02/04 06:06:26 0
岡田英弘氏『蒙古源流』ですが、あの後書きはちょっとね…。 江実も訳本を貶され生涯恨み節を持ったまま亡くなられたのにもかかわらず、 最もかかって欲しくないだろう岡田氏に訳されるとは皮肉ですね。
859 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/02/06 21:10:59 0
>>801 大変な亀レスですけど、阿速吉八を岡田さんが「ラキバク」と表記している根拠ですが、
「フーラン-デプテル」に「その(泰定帝の)御子Ra khyi phagは帝位に40日即いた」と
あるのに拠ったものだそうです。また「蒙古源流」にはRazibag qaganとなっている
そうです。
これは岡田さんの「源流」新訳の訳注で判明しました。
志茂碩敏著「モンゴル帝国史研究序説-イル汗国の中核部族」(東大出版会刊)を 買いました。叔父はこの方とは岡田さんが日本で国際アルタイ学会を開催あれた折、 御夫妻で出席されていて、少し「集史」について教えていただいたそうです。 この本以外には出版された御著書はないのかしら?
>>859 ra khyi phag/Razibagの語頭に a がついたものを漢字で転写して
阿刺吉八(A-la-ji-ba)。これが誤写されて阿速吉八になったようです。
>>860 国会図書館所蔵のもの
ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究 / 志茂,碩敏,東洋文庫. -- 1993-1995
ペルシア語文化圏の成立と展開に関する総合的研究 / 志茂,碩敏,東洋文庫. -- 1986-1987
ポストモンゴル期におけるアジア諸帝国に関する総合的研究 / 志茂,碩敏,東洋文庫. -- 1999-2001
モンゴル帝国史研究序説 / 志茂碩敏. -- 東京大学出版会, 1995.2
>>859 ありがとうございます。
ここには報告してなかったけど、
実は私も蒙古源流の訳注で知りました。
864 :
世界@名無史さん :05/02/08 20:49:19 0
ジン ジン ジンギスカーン♪ ヘーダラ ホーダラ ハイダラ ハイダラ♪ ジン ジン ジンギスカーン♪ ヘーダラ ホーダラ ハイダラ イバネバ♪ 若者なら ガハハハハ♪ タンスは今 ガハハハハハ♪ 一緒に眼を回せー♪
865 :
ty270410 :05/02/08 21:46:35 0
>>856 蒙古馬さん,その節はありがとうございました.
ご教示いただいたウズベク・ハン没後,トクタミシ出現までの
混乱期のハンについての記録は大切にしております.
>もうすぐ赤坂氏の研究書が出版されますよ。
また,赤坂先生の研究書についてのご教示も
ありがとうございます.
楽しみにしております.
おっしゃるようにムイッズなどが豊富に引用されていると
嬉しいのだが・・・・と思っています.
ともあれ,ありがとうございます.
866 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/02/09 14:58:46 0
>>862 情報有難うございます
財団法人東洋文庫のサイトを見ても基盤研究事業としてこれらが挙げられていますけれど、
研究結果報告が出版されたという記載がありません。
でも国会図書館に所蔵されていると言うことですと、どこかから刊行されてるんでしょうね。
>>866 たぶん少部数のみの刊行で関係者にだけ配られた
もちろん非売品、ってとこでしょう
869 :
蒙古馬 :05/02/10 22:01:10 0
>>856 ty270410さん
赤坂氏の研究書は今月末に刊行されますよ。
700ページを超える大著です。内容はほとんど書き下ろし。
付録が充実していて、系図だけで137ページあります!
20世紀の末裔まで網羅するなど(現生存者までも)、
想像以上のジョチ系図の情報です。
価格は少々割り高ですが、
日本で初のジョチウルス研究書ですし(訳本は抜きにして)
興味のある方には必須の書になるでしょう。
系図以外の付録も含め、ty270410さんにはお薦めですよ!
870 :
ty270410 :05/02/10 22:11:12 0
>>869 蒙古馬さん,またまたありがとうございます.
楽しみにしています.借金してでも購入したいと
思います.
2月15日からしばらく留守しますので,帰宅後
Amazonあたりに頼もうと思います.
再度ありがとうございます!
(英語の手紙の末尾のthank you again!のつもりです.)
いつ出るか知らんけど『中央ユーラシアを知る事典』も楽しみだなあ
世界史の教科書だとモンゴル人>色目人>漢人>南人っていう階級制度があったって 書いてあったけど、最近読んだモンゴル関係の本にはそういうことは書かれてません。 実際どうなんでしょう。
民族を問わずハンの御目がねに適えば高い身分になる。
>>872 明代か清代など後代に流布された憶測というかデマの類のようです。
先行する遊牧国家の突厥やウイグル、遼が経済政策についてほとんどソグド人に任せっきりだったように
モンゴル帝国もまた経済政策についてはホラーサーン系のムスリム商人や貴顕・知識人層に重きを置いていました。
軍事・収税権はモンゴル王族・領主が完全に掌握しており、これら遊牧領主たちは莫大な資金を
臣従的な提携関係を結んだソグドやムスリム商人は、これ資本にして商交易や耕地開発に取り組み、領主への収益をさらに増やしていたようです。
実際の遊牧国家の国家構成は、遊牧君主・領主層の下にオアシス都市民などの経済官僚+定住諸民族
という二重構造が基本で、いくつもヒエラルキーがあったわけではないようです。
このような関係は遊牧勢力とオアシス都市民との長い交流によって形成されていた物ですが、
いわゆる中華世界の科挙システムを自然の物としていた南宋出身の知識人にとって、
経済や行政機構で実利・実戦力を求められる遊牧国家では、試験はなく、
実務担当の経済官僚達が、任意で推挙抜擢して官僚組織を整えていたため
今までのような科挙システムは通用しませんでした。
実際官庁に就職しようとなるとどこそこでどういう実績を持ったかが問題にされたのです。
大学の一般入試に合格出来たからといって即金融会社の一部門を任せられるのかという問題と似た感じでしょうか?
しかし、「元史」などを見る限り現地人の採用の多さから、必要人数以外に差別的な制限があったわけではないそうです。
ただし、経済官僚同士でもクビライの頃の宰相アフマドのような政争が絶えなかったのも確かです。
875 :
ty270410 :05/02/24 23:00:53 0
>>869 蒙古馬さん!
今日,遠くから帰宅して,早速赤坂恒明先生のウェブサイトを
開いたところ,自著の紹介が載っていました.
赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房 2005.02.予定
とあり,「価格は非常に高価で怖くて此処には書けません」
と書いておられます.
740ページもあるとのことで,非常に貴重な本だろうと推察します.
いつ刊行されるのか?楽しみなような,怖いような!!
876 :
蒙古馬 :05/03/01 21:08:02 0
> ty270410さん もう刊行されたようですよ。 価格は・・・・・・。 読んだら感想を聞かせてください。
877 :
世界@名無史さん :05/03/01 22:51:46 0
878 :
世界@名無史さん :05/03/08 23:43:35 0
皆様、初めまして。歌手の元ち○せさんの苗字はモンゴル、フビライと関係 ありますでしょうか?それともどちらかというと中国系(元寇の元?)?この地方(奄美)では変わった苗字が多いとはおもいますが、およそ 400年前、薩摩から一部の人が苗字を与えられそのときは縁起の良い寿、恵など が多かったというなかで元という字はどのような意味合いがありますでしょうか? どなたか推測でもお考えをお聞かせください。 お願いいたします。
879 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/09 00:48:49 0
薩摩は奄美には「郷」とか「徳」とか1字の姓しか許さなかった という説は何かで読んだことあります。逆に琉球には1字の姓を 許さなかったそうです。(いわゆる唐姓についてはは別ですが) 「元」がフビライと関係?それは先ずないでしょう。 薩摩には妙な苗字の事例があります。それは山口>山之口、宮園 >宮之園、山内>山之内、樋口>樋之口、木崎>木之崎のように 一般的な苗字の間に「之」の字を挿入して改変したらしいものを よく見かけることです。この事情はよく判りません。
880 :
世界@名無史さん :05/03/09 01:25:35 0
ギネス災害記録によると、人類史上最大の大量虐殺は モンゴル人による中国農民虐殺(1311-40)で約3500万人だとか。 大量破壊兵器もなかった時代によくも殺したものである。
よりによって検証が難しい情報をそのまま登録するのかギネスは(w
882 :
世界@名無史さん :05/03/09 23:29:36 0
879さんありがとうございます。 寿、恵などを使う意図はなんとなくわかりますが、 当時、元という漢字にどのような意味があったのでしょか? ご存知でしたらお願いいたします。
883 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/09 23:59:25 0
「元」は最初とか根源とかいうニュアンスのある字ですから、寿や恵などと 同様にめでたい文字と言うことで採用されたに過ぎません。特別に隠された 意味合いが篭められているということはないでしょう
884 :
世界@名無史さん :05/03/10 15:34:23 0
2ケタ多いだろw いやそれでも多すぎか
政府の統治能力によって把握できる数が変わってくるからなあ。 納税等を嫌ってとんずらこかれたぶんはカウントされないから。
1311-40って、元の一番平和だった時代だと思うんだが。
1211-40年と読み違えてた。(汗 金朝攻略戦の事かと思ってたが 1311-40年って仁宗アユルバルワダの初年皇慶元年から、英宗シデバラ、 泰定帝イェスン・テムル、天順帝アリギバ、明宗コシラ、文宗トク・テムル、 寧宗イリンジバル、順帝トゴン・テムルの治世9年の至正元年までか。 1341年に華南方面で反乱が続発したらしいが、それ以前は何かあったか?
>>887 トゴン・テムルが即位するまでは内紛続きじゃん
教科書に何も書いてないから「平穏だった」と
思っちゃだめよ
890 :
ty270410 :05/03/13 00:29:24 0
赤坂恒明先生の 『ジュチ裔諸政権史の研究』を 今日(05.03.12.)入手しました. 本文,注,史料,系図という構成になって います. 系図には圧倒されました. 本文もおいおい読むつもりです. 斜め読みした範囲では,〜14C前半までのジュチ・ウルスを 論じておられる第3章はかって雑誌に発表されたものに 大幅に加筆されており,左翼と右翼の消長が詳細に 論じられており,大変読み応えがありました.
891 :
世界@名無史さん :05/03/13 01:48:11 0
クチュ オゴデイの子。グユクの異腹の弟。才能,人柄とも申し分がなく、 オゴデイが後継として最も期待していた人物であり、 オゴデイの二大遠征の東方、対宋戦を担ったが湖広での戦中に病没。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 南宋って凄いね。アッバースや西欧は、運良く生き延びたって感じだけど、 南宋はオゴデイ、モンケが失敗して、フビライの長期戦でやっと滅んだって感じ。 この湖広の戦って、どんな陣容だったの?
オイラトのエセンって、可汗までは名乗らなかったのか流石に? どっちにしてもムッ殺されたことに変わりは無いだろうが。
>>890 『ジュチ裔諸政権史の研究』を探してみたけど、やっぱり本屋には置いてませんね。
図書館には購入依頼を出しておいたけど、どうなることやら。
ところで、赤坂先生はクリコヴォの戦いについて言及していませんか?
宮脇論文の脚注にしたがってCollins氏の博士論文を手に入れたけど、
まったくそれらしい記述が見つからず困っています。
だいたいこの論文は15世紀後半から16世紀初めにかけてを扱っていて、
ママイやトクタミシュなんてほんの数回しか出てきません。
894 :
ty270410 :05/03/17 23:00:20 0
赤坂先生のご本は
Amazonでは在庫切れ
池袋のジュンク堂では版元注文品
八重洲ブックセンターでは入荷なし
のようです.
>>893 >ところで、赤坂先生はクリコヴォの戦いについて言及していませんか?
言及しておられないようです.
第4章 14世紀中葉以降のジュチ・ウルス
では
第1節14世紀中葉〜16世紀初におけるウズベク
第2節「金帳汗国(キプチャク汗国)」という概念
の2節から成っています.
いずれも,最近ここから抜粋して雑誌発表なさって
おられますが,その典拠論考で浩瀚なものです.
895 :
ty270410 :05/03/17 23:17:39 0
赤坂先生のご本ですが,第2部の史料編もすごいです. 集史アラビア語版のテキストの影印(私は読めませんが) 五族譜のテキスト影印と訳(わかり易く表示されています.) 勝利の書なる選ばれたる諸史の校訳(注記つきです.) 同テキスト(43ページ) 以上の構成です. 勝利の書なる選ばれたる諸史の全貌がわかるのが 嬉しいです.
>>894 お返事ありがとうございます。
それは残念です。
897 :
ty270410 :2005/04/06(水) 21:42:22 0
赤坂先生の ウズベクについてのご論考は興味深く読みました. 従来はシャイバニ・ハンの遊牧ウズベクから分離して カザフが形成されたと読んでいました. 先生は,ウズベクの用語を当時の史料で博捜されて, ウズベクとは,カスピ海の東の草原ばかりを指すのではなく, 西の黒海北岸地方をも含むことを論証しておられます. そしてウズベクの名はウズベク・ハンに由来すると推定して おられます. ウズベク・ハンによって統一された地域がウズベクの地 であるということです. (先生はウズベク・ウルスとまではおっしゃっておられませんが そんな感じでしょうか?) そしてその地には分裂期以降さまざまなジュチ裔の政権が 生まれたとされています. 挙証の上での論考なので大変説得性があるように思われました.
しかし何で堺屋太一なんかにモンゴル帝国を語らせたんだろ 他にモンゴル通の作家いないの?
>>898 現代グローバリズムとモンゴル帝国の征服活動は共通点があるといいたかったのでは?
なんかそういう語り口は勘弁して欲しいな。 信長や竜馬に見る経営手腕とかなんでも現代と関連付けてやるのはどうだろうね。
>>900 そういう安っぽい切り口を好む視聴者(読者)がいるんだよ
プレジデントの読者とかさ。
別に吉田茂に見る経営手腕でいいと思うんだが それじゃあ駄目なのか
>>897 赤坂先生が書かれたウズベクについての論文、以前自分も読んでみました。
確か、ウズベク・ハンによるジョチ裔諸政権の再統一でムスリム化した遊牧諸族に
ムスリムとなったウズベク・ハンにちなんで自らを「ウズベク人」とする意識が形成さた。
と論じられ、これが黒海北岸からマーワラーアンナフルまでのジョチ裔諸政権に属す遊牧諸族の
「ウズベキー」という自称、他称となったというように結論されていたやに記憶してますが、
どうだったでしょう?
904 :
ty270410 :2005/04/07(木) 21:26:22 0
>>903 おっしゃるとおりです.
赤坂先生が以前に雑誌に発表しておられた論考に
若干加筆され,注を充実して著書に収めておられます.
創始者の孫クビライが日本遠征やったけど 南宋と高麗の軍隊を処分するためという目的もあって差し向けたってほんと? なんでも反乱起こされたらかなわんという理由で。。
>>905 いくつかの小説ではそういう解釈してるね。
史書にそういう記述でもあるんだろうか?
新参者を先鋒にするというならともかく 最初から負けると思って、わざわざ遠征なんかしないから 処分するためというのは、穿ちすぎな気が
だな。たとえ処分目的でも負ければ面子が潰れるわけだし。
909 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 14:26:41 0
>>905 旧南宋軍を接収した時に老人や子供など戦闘員に使えない弱兵が大勢いたので
「日本の土地を切り取ったらそこで何とか自活してください」みたいな感じで
農具とかを持たせて送り出した、ということらしい。
(「モンゴル帝国の興亡」の記述による)
高麗や女直の兵は一応実戦部隊だったのでは?
モンゴル軍の中では二線級の部隊だったろうけど。
>>909 元寇は高麗軍と南宋軍で編成されていたが、このときの南宋軍は
非武装の移民(を希望する)集団だったらしいね。
これはクビライの対南宋戦略の補助的役割に過ぎない、との見解がある。
つまり、軍事力を解体して、反乱予備軍を処分するためであると。
高麗軍についても、同様であった。
モンゴルの精鋭が来て上陸すれば日本を簡単に打ち負かせただろうに
まあ、とるに値しない存在だったんだろうな。なにせ貧しい農業国であったのだし。
911 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 04:06:17 0
マジャパヒト朝まで遠征したのももしや?
>>910 モンゴルの精鋭は船になんぞ乗りません。
博多などの港を支配下においてモンゴル騎兵が上陸したらどうなる?
915 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 12:47:13 0
太宰府まで占領されて、一部の人間が日本に帰順していたはず
916 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 18:10:52 0
917 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 18:21:49 0
ローマ帝国 モンゴル帝国 アメリカ合衆国 この三つが歴史上、最もデカイ覇権を握ったベスト3だろ。
ローマは地中海、北アフリカなど限定的。 モンゴル帝国には及ばない。 英国、米国も近代であって昔のとは意味が違うからな。 米国に保護されて経済大国化した日本を偉大な国みたいにいうアホはいないだろ?
920 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 13:02:12 0
モンゴルは悪魔のような軍隊だな。
♪1192作ろうジンギスカ〜ン♪
♪794坊さんジンギスカ〜ン♪
♪1941発ジンギスカ〜ン♪
♪ひつじ〜ひつじ〜ひつじ肉〜♪
この歌には、かつて行くところどころで大虐殺を行った
チンギス=ハーンのように大虐殺をしたいという
柚原このみの願望がこめられていたのだ!!
参考:
http://www.geocities.jp/ryuoutan/index.html (グロ注意)
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|ゝ、ヽ ─ / ヽ |
│ ヾ ゝ_ \ |
│ ヽ_ _ / /| |\ \|
\ヽ _ // / | \ |
ヽ\二_二// ∠二二二| ヘ|
| | | ヽゝソゝ|TT|<ゝソ フ |/b}
ヾ| ヽ___ ノ/|| .ミ__ ノ | ノ
| 凵@ /フ
| .F二二ヽ /|/
\. |/⌒⌒| イヽ
/. \ ==′/ |.| |
 ̄|| ヽ__/ / / ̄
\ヽ_____ノ ノ
───―――
922 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 13:56:38 0
>>918 領土面積×維持年数で算定すればローマもやはりモンゴルに引けを取らないんじゃないかな。
それに農耕民の帝国だと考えればやはり最大限の領土だろう。
そんな算式勝手に持ち出されても・・ ローマってペルシャ以西まで及ばなかったんだけど。
>>922 その算式でいったらエチオピア帝国もけっこういい線いったりしてw
勝手にって言うかそっちのほうが公平だろ 普通に考えたら
>>922 ×維持年数でいいなら日本だって結構良い線いくぞ。
多分。
年数は帝国の偉大さを計る尺度にはなりえないだろう。 やっぱり領域支配の大きさ。 世界帝国:モンゴル帝国 地域覇権国:歴代イスラム、シナ王朝、ローマ他
ま、そういうスレができたらやっぱり年数は重要な指数としてみなされるんだろうね。 ここはモンゴルスレだしまあしょうがない。
930 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 09:58:17 0
トキタン(;´Д`)ハァハァ 子供トキたんに有情拳(弱)を試したい〜ハフハフ〜 微妙に気持ち良よさげな感じに、、、、♪ あの虐待エロ師父ならやりかねん〜つか変わってくれ。 ちなみに有情拳を教える際、手取り足取り『こんな感じになるんだと』 試されたぜ。きっと〜♪、、、、迷惑な虐待エロ師父のヒイキ修行時代。 だからラオウには有情拳は教えられていないw ケンの有情拳はトキの見よう見真似。
イェケ・モンゴル・ウルス万歳 =大モンゴル国
年数を考慮してもモンゴル帝国は最強です ムガールも清もモンゴル帝国の後継だからな
>>904 赤坂先生の著作のほうをあたってみました。「金帳汗国」概念そのものが後代の
ロシア帝国によって形成されたものであることや、「金帳」や「青帳」、「白帳」
という言葉自体もオルドを指すのであって国家の名称ではないこと、「シャイバーニー朝」
や「アストラハン汗国」などを「ウズベク族」や「タタール族」という概念で別個に理解
することの誤りなど、傾聴すべき論説を原資料を駆使して論証されており改めて目から鱗の
落ちる思いがしました。
ジョチ家歴代統主の即位順を本文と注でシャーミーの『勝利の書』とヤズディーの『勝利の書』、
ホーンダミールの『伝記の伴侶』との記述を列挙して比較しやすく掲載されてるのがとても
嬉しいですね。アストラハンのことを(ハージー・タルハーン)と書かれてたのはそういう意味
だったのかと衝撃的でした。
完璧な仕上がりではありますが、ただ本田実信先生の本のような索引を付いていたり、
『集史』アラビア語版のほうは良いのですが、『五族譜』の写真版が小さくて読みづらい
ので原本は1ページづつ添付して欲しかったなと思いました(汗
やはり紙面の都合上やむを得なかったんでしょうか。