952 :
世界@名無史さん:02/10/11 16:56
>930
>つまり天皇は百済人と言いたいのだろ。
表現が不正確。百済の支配層が天皇家と同じ系統に属するということ。
>また百済が一時的に加羅を支配した年代は何世紀の出来事か
>詳しく教えてほしいものです。
これは私の書き方が悪かった。
「百済を建てた騎馬民族の一派が一時期加羅を支配し、その後列島に
渡ってこれも支配した」
というのは時系列を書いたのではない。
「百済を建てたのと同じ騎馬民族の一派が一時期加羅を支配し、その後
列島に渡ってこれも支配した」
という意味。
時系列で言えば加羅のほうが早くて、その後これを基地としてほとんど
同時進行的に倭と百済を征服したと思う。
したがって加羅を支配したのは4世紀中葉以前ということになる。
>また日本古墳に騎馬民族の痕跡が発掘されているのでしょうか?
>たいして装甲騎兵用の馬甲や馬具が発掘されていません。
「たいして」というのは実際に発掘されているのを否定してはいない
わけだね?
たしかに数は多くない。しかしそれならば装甲騎兵戦術の本場だった
高句麗の故地では一個軍団くらいの馬甲が発掘されているのかね?
<続く>
953 :
世界@名無史さん:02/10/11 16:59
継体天皇は、それまでの天皇家と血が繋がってないんでしょ。
954 :
世界@名無史さん:02/10/11 17:00
<続き>
>その時期は日本は百済の宗主国です。つまり、
>援助して当たり前の関係にあった。それは後の李朝と明の関係と同じ
>であったと考えられます。
しかしそれではもっと以前からの倭・百済関係を説明できない。
七枝刀の銘文は対等の関係に読める。そしてこの時代は両国とも建国して
間もないのに大規模な共同作戦を行っている。これをどう説明する?
955 :
世界@名無史さん:02/10/11 17:03
>932
>騎馬民族は、船の扱いはどうしたのでしょうかね。笑う
>騎馬民族が、航海術に優れていたとは思えないが・・・。
なんと単純なことか。
もっと専門的な騎馬民族である蒙古人はどうやって日本へ攻め寄せたか?
じぶんは航海に不得手だから高麗人や江南人に船を造らせ、水夫を出させた
ではないか。
扶余だって同じこと。扶余自身は支配者であり戦闘員であるに過ぎないが、
航海には被支配者の加羅人を使うことができただろう。
加羅人はそれこそ対馬海峡を「南北市糶」していた人達だ。
>それなのに、大軍勢を率いて、日本を征服することは、不可能だと思うけど。
戦術、戦闘力が隔絶していればなにも「大軍勢」はいらない。200人ほど
のスペイン人がインカ帝国を征服した例もある。
956 :
世界@名無史さん:02/10/11 19:11
騎馬民族が百済国と同質というのなら、まず馬韓を制圧して、
余力で日本列島に渡来するというように、波紋状に勢力拡大
していくはずです。
また朝鮮半島を簡単に南下できる勢力は移動に便利で定住しない
遊牧民だと考えて良いのでないのでしょうか?
できたら↑も回答おねがいします。
>しかしそれではもっと以前からの倭・百済関係を説明できない。
七枝刀の銘文は対等の関係に読める。そしてこの時代は両国とも建国して
間もないのに大規模な共同作戦を行っている。これをどう説明する?
これについては、理由は結構ある。本題だと思うが、
韓国側の史書に出てくる。史書に「三国史記」がまず挙げられるが
倭の記述が非常に多いことが判る。その中で
「397年倭と国交を結び、太子腆支を人質に出す」明らかに人質を出している
記載があります。この記載は、七支刀の献上から、20年後の出来事である。
百済と日本が共同作戦をした王は、年代的に神武皇后時の新羅再征であると
思いますが、近仇首王・枕流王だとは思うが、この時の百済国の最盛期
であると言える、この後の王から、段々と高句麗に攻め込まれ腆支王 に
至る。後の百済王も「日本書紀」「百済新撰」によると毘有王が
弟の蓋鹵王を倭に使わしたという話もある。もちろん「日本書紀」によると
百済は倭に朝貢していた記録がある。
これらのことからしても百済と対等であったとは言えないと思う。
また国力にしても、百済は九州一つ分の領土しかない上に、北には大国
の高句麗をひかえる体勢にあり、倭より高度な文化を持っていたとしても、
実際の戦力・国力的には、後顧に強大な勢力がない倭の方が有利だと言える。
957 :
世界@名無史さん:02/10/11 19:15
>954↑
958 :
世界@名無史さん:02/10/11 19:45
新羅は倭人の植民国家
959 :
世界@名無史さん:02/10/11 20:50
>>953 唐突に出てくるね。「携帯で断絶説」を唱える人は勧告の工作員、という仮説を
裏付けてる。
960 :
世界@名無史さん:02/10/11 21:26
あげ
962 :
世界@名無史さん:02/10/12 10:38
>956
>騎馬民族が百済国と同質というのなら、まず馬韓を制圧して、
>余力で日本列島に渡来するというように、波紋状に勢力拡大
>していくはずです。
「騎馬民族が百済国と同質」とは言っていない。百済の支配層が
いわゆる騎馬民族、具体的には扶余族だということ。
「百済国」はその支配層と土着民の被支配層とから成っている。
また騎馬民族なら「波紋状」に拡大するはず、というのもわからない。
蒙古帝国の拡大も波紋状というよりは放射状ではないか?
>また朝鮮半島を簡単に南下できる勢力は移動に便利で定住しない
>遊牧民だと考えて良いのでないのでしょうか?
私は扶余族が「遊牧民」だとは考えていない。
恐らく扶余族は狩猟・農耕民だったのが武力支配に特化したものだ。
遊牧民が「移動に便利」というのは家畜による自給自足の意味だと思う
が、扶余族は自給自足ではなく武力による略奪・寄生に依存しただろう。
言ってみれば大規模・組織的な馬賊集団というわけです。
<続く>
963 :
世界@名無史さん:02/10/12 10:40
<続き>
>「397年倭と国交を結び、太子腆支を人質に出す」明らかに人質を
>出している記載があります。この記載は、七支刀の献上から、20年後
>の出来事である。
人質を出したからと言ってただちに属国だとは言えない。
対等の同盟を結ぶにも人質を交換して違約のないことを誓い合うことが
ある。
>もちろん「日本書紀」によると百済は倭に朝貢していた記録がある。
>これらのことからしても百済と対等であったとは言えないと思う。
私が対等と言ったのは七支刀の時代のこと。
もちろん6、7世紀の百済は倭国の援助を受けているのだから対等とは
言えない。しかしあなたの言うような、明国と朝鮮の関係とは違う。
なぜなら朝鮮国王は明国に册封されているが、百済国王は倭国王に
册封されたものではないからだ。だから真の意味の宗主国ではないし、
救援の義務があるわけでもない。「宗主国だから救援するのは当たり前」
というのでは答にならない。なぜ宗主国・属国とも見える関係になったか
を、さかのぼって考えなければならない。
<続く>
964 :
世界@名無史さん:02/10/12 10:43
<続き>
それでは倭と百済の関係は何か。私はこれについての江上波夫の説に、
その限りにおいては共感を覚える。それは、天皇家が本家で、百済王家
を分家とする親戚関係だ、という考え方だ。
これならば建国早々から共同作戦を行ったり、伽耶の一部を気前良く
くれてやったり、滅びそうになれば國を傾けて救援したり、滅びたあと
は遺民を大量に受け入れて貴族に列したり、ということがいちいち
納得がいく。
だれかが書いたように古代国家というのは王権の私有財産、ということ
であれば、その行動は國の論理、民族の論理でなく、「家の論理」で
考えた方がよいのではないか?
966 :
世界@名無史さん:02/10/12 15:04
>>965 お疲れ様です。次スレでは最初に
倭の定義をしたほうが良くないですか?
>>966 どうもです。倭の定義というと、自分的には未だに不確かでして・・。
968 :
世界@名無史さん:02/10/12 16:55
>>962 「騎馬民族が百済国と同質」とは言っていない。百済の支配層が
いわゆる騎馬民族、具体的には扶余族だということ。
ここら辺が判らないのですが?
弥生人は通説によると、朝鮮半島からきた人となっていますね。
これには諸説あるが弥生人は渡来人によって作られたとされます。
ただ、百済国を扶余族である騎馬民族が建てた国であることは
間違ないでしょう。それは百済国のあった地域の古墳には騎馬民族
の痕跡を示す装飾品が、出土しているから伺える。
しかし、倭国を創設したのは扶余族だというのは、信用性が
ありません。
つまりさっきから私の言いたかったのは、百済国の支配層であった
扶余族がなぜ、海を越えて日本に国家を作らなければならないのか?
969 :
世界@名無史さん:02/10/12 16:55
つまり、百済国が馬韓地方統一したのは、4世紀初頭である。この
あと人口高により、他国に流入するころならありえるとは思う。
アメリカ大陸の様な移民です。
これも通説ですが、朝鮮半島から来る渡来人にしても、朝鮮半島
の戦乱の為である。つまり国取り合戦は、椅子取りゲームと同じで、
溢れた物は、どこかに行く。又は滅亡するという具合になる。
この時期の朝鮮半島の、情勢は紀元前には中国人流入、そして
衛氏朝鮮、武帝の楽浪郡設置と侵略されている。この結果、渡来人
が盛んになったとされている。しかし扶余族の流入に対しては、
時期的に釈然としないと思います。また逆に、扶余族によって圧迫
された勢力なら少しは信憑性がある気がします。
970 :
世界@名無史さん:02/10/12 16:56
>大規模・組織的な馬賊集団というわけです。
しかし、馬賊集団だとしても家族も連れての移動だと思います。
しかし上記で述べたとうり古墳に馬具などの装飾品が大量に出土
はしていないのです。
>江上波夫氏の騎馬民族と扶余族が同質であり、百済国と倭を作った
という説だったと思います。騎馬民族説の批判点を百済国と比較して
述べているみたいですね。確かに最近流行ってるようなのでわか
りやすいhpでもあれば教えてください。
>人質を出したからと言ってただちに属国だとは言えない。
対等の同盟を結ぶにも人質を交換して違約のないことを誓い合うことが
ある。
全く対等ではありません。
971 :
世界@名無史さん:02/10/12 16:56
「397年倭と国交を結び、太子腆支を人質に出す」
倭は皇子を人質に出した記録は「三国史記」にもありませんし、
もちろん「日本書紀」にもありません。百済国は一方的な人質を
出しています。また百済国が倭に攻め込んだことも「三国史記」
にもありませんし、もちろん「日本書紀」にもありません。
しかし、倭は朝鮮半島に進出した記録は数多く残されています。
これは、倭は朝鮮半島まで軍隊を送る能力を意味しています。
>もちろん6、7世紀の百済は倭国の援助を受けているのだから対等とは
言えない。しかしあなたの言うような、明国と朝鮮の関係とは違う。
なぜなら朝鮮国王は明国に册封されているが、百済国王は倭国王に
册封されたものではないからだ。だから真の意味の宗主国ではないし、
救援の義務があるわけでもない。ここら辺一体。
972 :
世界@名無史さん:02/10/12 16:56
一番最後の百済国は中兄大皇子は、百済王の位をに与えています。
この時点でサクホウされていると言って良いでしょう。
倭は聖徳太子のころから、中国と対等に外交を行ってきました。
有名な「日出天子から・・」あったはづです。
また斉明天皇時代には、第四回遣唐使には服属した蝦夷人を連れて
行って唐の高宗に誇らしげに見せたとされています。
天皇家にしてみれば東夷族を服属させたのだと言いたかったので
しょう。百済国は正に同じことを意味していたのです。
このことから、前に言ったが百済国と倭は朝鮮と明の関係と同じであ
って、白村江の戦いの出兵は、同属のよしみで助けたのではない
と判ります。
973 :
世界@名無史さん:02/10/12 16:57
ここまでです。↑
974 :
2チャンネルで超有名:02/10/12 16:58
975 :
世界@名無史さん:02/10/12 17:13
>>967 3世紀の倭と6世紀の倭は連続性が無い、
つまり別の集団と見て良いのでしょうか?
976 :
世界@名無史さん:02/10/12 17:17
977 :
世界@名無史さん:02/10/12 17:19
978 :
世界@名無史さん:02/10/12 17:24
>>977 三国志から隋書に至るまで、倭に対する記述はほとんど変わっていないから。
扶余人は、半農半猟
遊牧民じゃないよ。
980 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:13
>968
>つまりさっきから私の言いたかったのは、百済国の支配層であった
>扶余族がなぜ、海を越えて日本に国家を作らなければならないのか?
百済からではなく、加羅からと言ったはずだけど。
で、なぜ日本を?
それは3世紀までの加羅(広義の加羅)南部と北九州とは、出土品から
見て同じ倭人文化圏だったから、加羅を支配した扶余はついでに北九州を
支配した。そこから列島の支配を広げた。
なぜ支配を広げるかといえば結局はより多くの「人口」を支配したいからだ。
支配欲に対してなぜ?というならばジンギスカンやアレキサンドルの帝国
だって、なぜ?ということになる。
>しかし上記で述べたとうり古墳に馬具などの装飾品が大量に出土
>はしていないのです。
だから「大量に」出なければいけないのなら、本場の高句麗にはどのくらい
の馬甲が出たのか?と聞いている。
<続く>
981 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:15
<続き>
>ただ、百済国を扶余族である騎馬民族が建てた国であることは
>間違ないでしょう。それは百済国のあった地域の古墳には騎馬民族
>の痕跡を示す装飾品が、出土しているから伺える。
その程度には日本だって出ているよ。
いちばん出るのは加羅だ。加羅の古墳からはすべて揃った馬甲が少なくとも
2セット出ている。その形式は細部まで日本で出た馬甲、そして高句麗古墳の
騎馬図と一致する。(ここで馬甲と言っているのは馬兜その他を含む)
>百済国は一方的な人質を出しています。
上位にある豊臣秀吉が下位にある徳川家康に、妹の旭姫を「一方的」に嫁がせ
ている。これだって一種の人質だけど?
>また百済国が倭に攻め込んだことも「三国史記」
>にもありませんし、もちろん「日本書紀」にもありません。
では倭が百済国に攻め込んで、臣下の礼を取らせたことはあるの?
982 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:16
>>980 ありえないよ。
3世紀以降は畿内文化が主流であることは、考古学的に
証明されている。
983 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:18
>>981 百済国が倭の属国であることは、宋書や隋書で明らかですよ。
男と、女では意味が違うと思われ。
>>980 逆じゃないの?
畿内勢力が、半島南部に基盤を作ったじゃないの?
986 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:25
3世紀は微妙な時代で、北九州の勢力と畿内の勢力は、考古学的に見れば互いに
拮抗しているように思います。だから今だに邪馬台国九州説と畿内説が論争になって
いるわけ。ところが、4世紀になると完全に畿内勢力が主流となってくるのが、考古学的
に分かってます。
987 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:42
百済にせよ、加羅にせよ人口は日本に比べて圧倒的に少なかった
と思われるので、日本征服なんてありえないと思う。
988 :
ベンゼン中尉 ◆zydmbsoahk :02/10/13 00:56
百済は日本の属国というよりも、友好国という感じですね。
最期には日本に助けを求めてきましたね。
百済王朝の末裔も日本人の中にいるかもしれませんね。
989 :
世界@名無史さん:02/10/13 02:06
段々本性が見えてきましたね。
>>981 >それは3世紀までの加羅(広義の加羅)南部と北九州とは、出土品か
ら 見て同じ倭人文化圏だったから、加羅を支配した扶余はついでに北
九州を 支配した。そこから列島の支配を広げた。
なぜ支配を広げるかといえば結局はより多くの「人口」を支配したい
からだ。
倭人文化圏だったここまでは、特に問題はありません。半島からの
移住者はいたでしょう。しかし加羅地方は6世紀まで、小国が分散し
ていてとても百済が支配していたとは言えません。百済国が馬韓統一
したのは4世紀初めです。まして加羅地方を征服していません。
大和朝廷も4世紀には成立しています。九州も無理ですね。
990 :
世界@名無史さん:02/10/13 02:07
>だから「大量に」出なければいけないのなら、本場の高句麗にはどのくら
いの馬甲が出たのか?と聞いている。
騎馬民族が渡来したという4世紀代に馬具などの出土資料が皆無
である。
上位にある豊臣秀吉が下位にある徳川家康に、妹の旭姫を「一方的」に嫁がせ
ている。これだって一種の人質だけど?
「日本書紀」「三国史記」を合わせれば太子を2・3度人質に出しています。
それと徳川家康の時期は、家康が下位にあるとは言えません。秀吉に
服従していない、大名はたくさんいました。また太子は世継ぎですが
姫は姫です。全く例えにもなってません。
>では倭が百済国に攻め込んで、臣下の礼を取らせたことはあるの?
ありますよ「日本書紀」には朝貢しています。まあ古代史好きの
日本人なら「日本書紀」ぐらい呼んだ方が良いですよ。
991 :
世界@名無史さん:02/10/13 02:07
992 :
世界@名無史さん:02/10/13 02:19
ザインは別にどうでもいい。ゾレルンでは騎馬民族が来たんだよ。
だから馬具はいずれ発見されるはずだ。
993 :
世界@名無史さん:02/10/13 05:49
>990
>では倭が百済国に攻め込んで、臣下の礼を取らせたことはあるの?
>ありますよ「日本書紀」には朝貢しています。まあ古代史好きの
>日本人なら「日本書紀」ぐらい呼んだ方が良いですよ。
新羅王降伏の記事なら有名だが、百済王が倭に降伏した記事ってどこに
あるの?
994 :
世界@名無史さん:02/10/13 06:02
>989
百済が加羅を征服したのではない。
扶余が加羅を支配したのだ。
そして扶余は百済と倭に建国したが加羅は最後まで間接支配の形で
残った。
995 :
世界@名無史さん:02/10/13 08:48
997 :
世界@名無史さん:02/10/13 19:03
使い切らないと
998 :
世界@名無史さん:02/10/13 19:03
新羅
999 :
世界@名無史さん:02/10/13 19:04
百済?
旗田巍は完全な電波であることが証明された。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。