新・女傑について

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1世界@名無史さん
女戦士や女将軍以外の女傑について語ろう!
2世界@名無史さん:02/05/07 09:51
こちらも縛り付きの女傑なのか…
3世界@名無史さん:02/05/07 09:57
則天武后
後の武則天
4世界@名無史さん:02/05/07 09:58
>>3
>則天武后
どんな女性だったの?
5世界@名無史さん:02/05/07 10:00
後から来た人は、なんでなのか疑問に思うだろうな……。
事情を知らない人にもわかりやすいように、タイトルはもっと工夫してほしかった。
まあいいや。

「戦場に出てないと女傑でない」というよくわからん女傑の定義のために旧女傑スレ
を追い出された、則天武后とかマリア・テレジア、ナイチンゲールみたいな女傑に
ついて語りましょう。
6世界@名無史さん:02/05/07 10:45
エリザベス1世
16世紀のイギリス女王
少女時代は苦労の日々だったらしい。
また、彼女は一生独身だった。
イギリスの絶対王政が最盛期を迎えた時代だった。
7世界@名無史さん:02/05/07 10:48
田中真紀子
田中角栄の娘
カリスマ性が高い
でも、女傑といえるかどうかは疑問だな?
8世界@名無史さん:02/05/07 10:50
>>5
>ナイチンゲール
詳しく解説してほしいよ。
9世界@名無史さん:02/05/07 11:34
>>8
フローレンス・ナイチンゲールは、当時身分の低い者の職業とされていた
看護婦に自らなり、世間の無理解と戦い、看護婦団を率いてクリミア戦争
の野戦病院で傷病兵たちを救う活動を行い、衛生を改善し、看護婦という
職を白衣の天使に高めた偉大な女傑。
10世界@名無史さん:02/05/07 12:10
>>9
ナイチンゲールはクリミア戦争時の野戦病院では実はそれほど活躍している
わけではないね。地位の高い女性が野戦病院の看護婦になったという事実が
衝撃的だっただけど。

帰国後の衛生改善運動で統計・グラフを駆使して有力者とわたりあい、
論争に勝利してきたことが偉大。
11世界@名無史さん:02/05/07 17:51
>>7
田中真紀子を女傑に入れるのは、少し無理があると思う。
まだ、土井たか子の方が女傑の資格があると思う。
なぜなら、旧社会党時代に委員長としてマドンナブームの
先頭に立ったからである。
12世界@名無史さん:02/05/07 17:59
>>10
それじゃ単なる女性の偉人ってことかい?
13世界@名無史さん:02/05/07 18:23
>>12
【女傑】 女子で傑出した者。男まさりの女。女丈夫。(広辞苑)

ナイチンゲールは十分傑出しているし、男まさりの偉業をなしとげている。
14世界@名無史さん:02/05/07 18:45
>>12
>それじゃ単なる女性の偉人ってことかい?
女性の偉人は、女傑だよ。
15世界@名無史さん:02/05/07 19:09
スウェーデン女王クリスティナは女傑かね?
ウエストファリア条約で頑張った。
半陰陽だったという噂もあるけれど
16世界@名無史さん:02/05/07 19:38
まあ、こっちは広い意味での女傑にしましょう。
つまり、
1:歴史に名が残っている女性。
2:「何か」を成し遂げた女性。

あっちは、何か=戦場での功績、という限定ですが、
こっちは、政治だろうと文化だろうと何でもあり、ってことでどうでしょうか?
17世界@名無史さん:02/05/07 20:14
>>16
女傑って言葉のイメージは重要だと思うよ。
たとえば、すぐれた作品を残した女流作家がすべて女傑かというと
それは違うような気がする。(女傑の女流作家ももちろんいるが。)
並の男は彼女の前ではたじたじとなってしまうような、そんな女性、
(直接的な意味でなく、比喩的な意味で)戦ったり指導したりした
女性という条件を個人的にはつけたいな。
18世界@名無史さん:02/05/07 20:19
>>9
あまり知られていないけど、ナイチンゲールはアイルランド人に対し、
根深い差別感情を持っていた。
もっとも、これは当時の英国人には普通のことだったのかもしれない。
19チャチャですが:02/05/07 20:26
>>17
>並の男は彼女の前ではたじたじとなってしまうような、そんな女性、
>(直接的な意味でなく、比喩的な意味で)戦ったり指導したりした
>女性という条件を個人的にはつけたいな

その定義で行くとフェミのリーダーはみんな女傑ですか?(W
アメリカの公民権運動にも参加したNOW(全米女性機構)の結成者初代リーダー、ベティ・フリーダンとか
20世界@名無史さん:02/05/07 20:32
ゴルダ・メイア。
なんたってあのイスラエルを治めていたんだから。
21世界@名無史さん:02/05/07 20:37
アサシン
22世界@名無史さん:02/05/07 20:48
17>>19
なおかつ、世界史版で語る以上は、歴史的意義のあることした人ね。
その人はともかく、たとえば田島なにがしなんかは、ここで語るべき人じゃない。
23世界@名無史さん:02/05/07 21:00
>>17
確かにバージニア・ウルフは女傑といえるが
ジェイン・オースティンは女傑といいがたい。
紫式部なども女傑には入れたくない(異論はあり得るが)。
24世界@名無史さん:02/05/07 21:06
>>17
>女傑って言葉のイメージは重要だと思うよ。
>たとえば、すぐれた作品を残した女流作家がすべて女傑かというと
>それは違うような気がする。(女傑の女流作家ももちろんいるが。)
>並の男は彼女の前ではたじたじとなってしまうような、そんな女性、
>(直接的な意味でなく、比喩的な意味で)戦ったり指導したりした
>女性という条件を個人的にはつけたいな。
私も、そう思うよ。
>>19
>その定義で行くとフェミのリーダーはみんな女傑ですか?
女傑に入る人と入らない人がいると思う。
>>22
田島陽子は女史ではあっても、決して女傑ではないと思う。
25やっぱり:02/05/07 21:06
エカテリーナ二世でしょう。情人を五十人以上作ってました。
26世界@名無史さん:02/05/07 21:09
>>18
>あまり知られていないけど、ナイチンゲールはアイルランド人に対し、
>根深い差別感情を持っていた。
じゃあ、ナイチンゲールはアイルランド人の看護はしなかったの?
>もっとも、これは当時の英国人には普通のことだったのかもしれない。
同じ白人同士で差別していたの?
27=19:02/05/07 22:25
>>24
>>>>19
>>その定義で行くとフェミのリーダーはみんな女傑ですか?
>女傑に入る人と入らない人がいると思う。
>>22
>田島陽子は女史ではあっても、決して女傑ではないと思う。

なるほど。田島女史の件は同感します。

では、あらためて、アメリカの公民権運動にも参加したNOW(全米女性機構)の結成者初代リーダー、ベティ・フリーダンを女傑に挙げます。
後年、NOW内での有色人種差別、同性愛者差別などをこっぴどくラディカル・フェミに叩かれた−−要するに敵も多かったところも女傑らしい(W
功罪あるが、女傑と思います。
28=19:02/05/07 22:30
>>26
>同じ白人同士で差別していたの

そうです。
ナイチンゲールがアイルランド人の看護をしなかったかどうかは知りませんが。
イングリッシュはアングロ・サクソンの国教会派(一応新教)で、アイリッシュはケルト系で旧教が主流でした。後、連合王国はアイルランドを植民地的に支配してた関係。
29【^▽^】足軽浪人ジョーカー@長屋:02/05/07 22:31
因みにナイチンゲールはユニテリアンでした。
30ナポレオン:02/05/07 22:45
>>20
「全世界に同情されながら死ぬよりも、
全世界に憎まれながら生きているほうがいい」
並みの男でもこうまでは言い切れないでしょう。
さすが絶滅政策を生き延びた民族の戦闘国家を率いただけのことはあります。
31世界@名無史さん:02/05/08 00:32
多分ゴルダ・メイアは近代国家で血縁に関係なく最高権力者になった
最初の女性でしょう。

>30 カコイイ
32世界@名無史さん:02/05/08 07:46
>>31
しかも、若いころはすごい美人
ttp://member.nifty.ne.jp/amatumikaboshi/bj/bj_16.htm
33世界@名無史さん:02/05/08 11:15
>>32
そうなの?
34世界@名無史さん:02/05/08 20:26
大辞林では「強固な意志と優秀な智慧と卓越した実行力を持った女性」とか書いてあったと記憶<女傑
35世界@名無史さん:02/05/08 20:32
中国史上唯一の女帝、武即天。
偏見から随分悪口を書かれちゃったけど、
世界史的にも「女傑」ナンバーワンだと思う。
正式の帝号は何と言うのかな?(厨房でスマソ)
36林彪:02/05/08 20:44
>>35
聖神皇帝武則天・・・・だったかな?
もっと長いかも
37世界@名無史さん:02/05/09 00:13
政敵に倒されては立ち上がったインディラ・ガンジーも女傑だと思う。
(昔はあのガンジーの娘と思い込んでいた)。
38世界@名無史さん:02/05/09 01:03
武則天は晩年愛人の張兄弟の悪口を言った、
自分の孫と甥の子供を殺しています。
39世界@名無史さん:02/05/09 18:29
マリア・テレサ女帝がないよ。
子供はボコボコ産むわ、しかもそれまでの冷たい王族の家庭と
違い、夫や子供に愛情を注ぎ、政治もしっかり見る。
美貌・健康・運・頭脳のそろった珍しい女性。
40世界@名無史さん:02/05/09 18:40
ロラン夫人でてないね。
ジャン・マリ・ロラン・ド・ラ・ブラチエール夫人で
ジロンド派の女王。
41世界@名無史さん:02/05/09 18:41
「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか!」
42世界@名無史さん:02/05/09 22:09
女傑というとどうしても吉本せいを連想してしまう。
43世界@名無史さん:02/05/10 21:28
>>42
関西人?(藁
44世界@名無史さん:02/05/10 21:30
>>40
ロラン夫は本当に政治力があったのか?
あれこそ妻の七光りでは?
45世界@名無史さん:02/05/10 21:41
46世界@名無史さん:02/05/10 22:22
>45
「女傑について」で女傑の定義について論争があって
女戦士・女将軍―「女傑について」
それ以外―「新・女傑について」
になった模様。
47世界@名無史さん:02/05/10 23:43
>>45
腐れフェミ女?(藁
どうでもいいけど、人にえらそうに言う前にもっと
賢くなれよな。
48世界@名無史さん:02/05/10 23:46
>>40
その時代ならやさしげな暗殺の天使
シャルロット・コルデ

暗殺なんかしそうに見えないんだよな、肖像画見てるとさ。
49世界@名無史さん:02/05/10 23:51
>>48
浴槽に入れたんだよな?
マラーも女だと思って安心したか?
50世界@名無史さん:02/05/10 23:52
偉業を達成した女性ならいいんですね?
だったらキューリ夫人。
51世界@名無史さん:02/05/10 23:58
>>48
フランス革命時はいろんな女性が活躍してたね。
52世界@名無史さん:02/05/11 00:04
>50
第一次世界大戦では、放射線技師による軍医務室を編成。
レントゲン車を自ら運転し、兵士の命を救った。
立派な女傑でしょう。
53世界@名無史さん:02/05/11 00:09
医学のためには大変な貢献だ
54世界@名無史さん:02/05/11 00:10



  美人の女傑に萌え!
55世界@名無史さん:02/05/11 00:11
ブスでも立派な人物なら萌え!
56世界@名無史さん:02/05/11 00:14
COBOLの母、グレース・マレー・ホッパー
57世界@名無史さん:02/05/11 00:18
地道に世の中に貢献してる女はたくさんいるだろうな。
58世界@名無史さん:02/05/11 00:34
カトリーヌ・ド・メディチ

女傑だが偉人ではないか・・・・・
59世界@名無史さん:02/05/11 01:03
女戦士や女将軍以外の女傑については、こちらのスレでお願いします。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1020732444/l50
60世界@名無史さん:02/05/11 01:04
ん?
61世界@名無史さん:02/05/11 01:04
スマソ、間違えた

ここで良いんだ
62世界@名無史さん:02/05/11 01:19
>>56
誰それ?
63世界@名無史さん:02/05/11 01:22
>>48
女性の暗殺者珍しいね
知りませんでした。
明日本屋に行くかアマゾンで調べてみよう。

伝記みたいなの出てるかな?
64世界@名無史さん:02/05/11 01:31
エジプトの女性ファラオのハトシェプストが出てない
たくさんの観光客がテロで殺された
ハトシェプスト神殿を建てた人ね
65世界@名無史さん:02/05/11 02:33
>63
死刑判決後、彼女が望んだのは自分の肖像画。
死刑前日までモデルをつとめた。
確かに美人。
66世界@名無史さん:02/05/11 03:01
クレオパトラが出てない!
実際はそれほど美人じゃなかったんだってね?
でも何カ国語も話せて頭の回転が早かったとか
67世界@名無史さん:02/05/11 07:23
サラ・ベルナール
美しい女優というだけでなく当時の女優と言う概念を変えた。
片足を切断されても不屈の闘志で舞台にのぼった。
最後は国葬だったんじゃなかった?
68世界@名無史さん:02/05/11 07:58
女性で偉業を達成した人ならどの分野でもいいというのが
書きやすいなあ。
69世界@名無史さん:02/05/11 08:00
サッフォー       紀元前7世紀 ギリシャ・レスボス島/シチリア・シラクサ

ギリシア時代の有名な女流詩人
女性への愛を詠い、「レズビアン」の語源がコノ「レスボス島」にある。
70世界@名無史さん:02/05/11 10:46
なんか・・・
ここ、旧スレより人気あるよな?
71世界@名無史さん:02/05/11 11:15
>>67
マルチポストするな!
72世界@名無史さん:02/05/11 11:42
>>7
旧スレにヒステリーックフェミ婆がいるんで
みんな嫌ってるんだよん
73世界@名無史さん:02/05/11 12:00
マルガレーテ・フォン・エスターライヒ

オーストリアのマクシミリアン1世の娘
早くに母を亡くし嫁いだ先のスペインでも夫の皇太子
ファン王子をすぐになくし、自らも流産。
失意のうちに故郷に帰るが、再婚
されられ、流転の後にオーストリアに帰り、兄フィリップの
息子2人を育て自らもネーデルランド総督として
政治を行う。
王女といっても政略結婚はさせられるし、子供産まなきゃならないし
大変だなあ。
74世界@名無史さん:02/05/11 12:07
>>70
女戦士意外なら芸術家でもいいし、学者でもいいし
偉大な功績を残した女性ということなので
当然旧スレよりかける人数は多くなると思われ。
75世界@名無史さん:02/05/11 12:09
ストウ夫人 
「アンクルトムの小屋」で世上に大反響をもたらし
南北戦争にもつながっていった。
76世界@名無史さん:02/05/11 12:27
おなじみ男装の麗人ジョルジュ・サンド



日本では「ショパンの恋人」「男装の麗人」といったイメージで知られている
19世紀フランスの女流作家(1804〜1876)。
彼女の本名はオーロール・デュパン、結婚後はデュドヴァン男爵夫人という。
27歳のときに小説『アンディアナ(アンヂアナ)』で文壇に華々しくデビューして以来、
71歳で死ぬ直前まで執筆活動を続けた。
サンドは、60編以上の中・長編小説、多数の短編や劇作、エッセイ、
そして近年まとめられた26巻におよぶ膨大な書簡集を残している。
77世界@名無史さん:02/05/11 12:38
女性の「男装」には心理学的意味づけがあるのかな?
男尊女卑社会での抑圧から放たれるといったような・・・。
秋瑾も男装した写真を残してるしね。
しかし男が女装したらタダの変態だよな(笑)
78世界@名無史さん:02/05/11 13:13
男装の麗人といえば
川島芳子も!
79世界@名無史さん :02/05/11 13:46
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80世界@名無史さん:02/05/11 14:14
うわ〜い、スパイだ、スパイだあ〜!
81世界@名無史さん:02/05/11 14:15
川島芳子は中国人・・・・じゃなくて
満族だよな?
粛親王の王女だったか?
82世界@名無史さん:02/05/11 14:20
二つめの名前〜川島芳子〜


芳子 少女時代 清国の王族だった僕は
日本人 川島浪速の養女になる
新しい名は 芳子




芳子の本名は顕ウ(けんう)、字は東珍(とうちん)。川島芳子という名を持ったのは9歳の時。
実父・粛親王の義兄弟だった川島浪速と養子縁組をすることになり、
ヨシコという名をもらいました。

川島ははじめ大石良雄にあやかって「良雄」を名づけ、
粛親王の意志どおり芳子を男の子として育てようとしました。
しかし、近所の手前もあり、また芳子の愛くるしさと利発さとに
思い直し女の子して育てることにします。
そこで「良雄」の「良」の字をとって「良子(よしこ)」と名づけました。

一般に「芳子」と書かれていつのまにかそうなってしまいましたが、
本当は「良子」だったそうです。



さて、ここで芳子が川島浪速の養女になるまでの経緯をみてみたいと思います。

芳子の実父・粛親王は清朝復辟の願いを捨ててはいませんでした。
まずは張作霖に密使を送って協力を求めますが交渉は決裂。
そこで日本の援助を得て袁を討とうと機を狙っていました。
運良く日本では袁の共和政府に反対している大隈重信が総理大臣に
就任。粛親王はさっそく清朝復辟の信念を大隈内閣に伝えました。

粛親王を援助して「満州」の独立をはかろうという気運の生まれていた
日本政府は、親王側の交渉相手を指名するよう要請してきました。

粛親王は迷わず義兄弟の契りを結んでいる川島浪速を指名します。
しかし、当時の川島の資格は軍の三等通訳官程度。
格式を重んずる日本側は難色を示し、関東都督(後の関東軍)を通して
候補者をあげますが粛親王はどうしても受け入れません。
日本側も「ただ親交があるというだけでは日本要路の了解はとりつけがたい」と、
川島浪速では納得しません。


83世界@名無史さん:02/05/11 14:22
そこで、粛親王は川島に自分の子を養子にやって公然たる親戚関係をつくろうと決意します。
川島はこの申し出に大感激し、王子を養子に望みましたが、
清朝の皇室典範によると、男子を皇族以外の他家へ養子に出すことはできません。
そこで川島になついていた顕ウ(芳子)を養女にすることに決まった、
といわれています。
また、粛親王は自分の子どもの男子はみな不甲斐ないものばかりで、
清朝復辟の志を継げるのは顕ウだけだと思っていたともいわれています。
川島の養女になることが決まった時、「お前は東洋の日本にいく。
東洋の珍客として、立派な人物となってくれるように東珍という字をやろう」と、
正式に「東珍」という字が与えられました。
こうして芳子は日本の川島浪速のもとに養女としてやってきました。
「約束どおり、君に玩具を進呈する。可愛がってやってくれ」という
実父・粛親王からの手紙を持って……
「東珍(芳子)を満蒙独立・清朝復辟というわれわれの意志をつげるような
人間に育てあげよう」――実父・粛親王と養父・川島浪速の願いを担って
芳子は育てられていくのです。
84世界@名無史さん:02/05/11 14:29
スパイとしてはたいした働きはしなかった。
それがマタハリと同様
85世界@名無史さん:02/05/11 14:34
考えたらスパイとして優秀だったらあまり人に
名前を知られないと思うんだな。
それがスパイの宿命。
86世界@名無史さん:02/05/11 14:35
いま>>85がイイこと言った!!
87世界@名無史さん:02/05/11 14:38
や〜
旧スレよりこっちのほうがいいねえ
解説つきで親切だし、うるさい規制もないし
88世界@名無史さん:02/05/11 14:38
すると、明石もゾルゲも2流?
89世界@名無史さん:02/05/11 14:51
>>88
ゾルゲは捕まってから正体がバレ短だからよし
90世界@名無史さん:02/05/11 14:53
マタハリは結局オランダ人だったんだろ?
91世界@名無史さん:02/05/11 14:59
マタハリ・・・インドネシア語で
「暁の目」
92世界@名無史さん:02/05/11 15:02
>>89
ゾルゲは一流っしょ
93世界@名無史さん:02/05/11 15:05
スパイすれになっているな(w
今まで書いたらフェミ女に怒鳴られてたのでみんな
一気に爆発した感じだ。
94世界@名無史さん:02/05/11 15:08
レ二・リーフェンシュタール
ある種の女傑
というより芸術家かな?
もう仕儀映画化されるらしい
95世界@名無史さん:02/05/11 15:23
>>94
才能はあると思うがナチ嫌いに敬遠されてるんじゃないか?  
96世界@名無史さん:02/05/11 15:26
1938年、ヴェネチア映画祭において、当時最優秀作品賞にあたる「ムッソリー ニ杯」を
ベルリンオリンピックのドキュメンタリー映画、
「民族の祭典/美の祭 典」(監督:レ二・リーフェンシュタール)が受賞した。
これは当時強大な力をほこっていたナチス・ドイツとファシスト・イタリとが
結託、その政治的圧力がかけられたため、とも言われている。
(作品自体は、素晴らしいものであるが)。  
それに対して反感を抱いたのが、フランス代表団の映画評論家、ルネ・ランジ ュと
若い外交官、フィリップ・エルランジェだった。
自由な映画祭の必要性を感 じた彼らは、映画祭の翌日には
帰りの汽車の中でフランスでの映画祭開催の着想 を練っていた。
97世界@名無史さん:02/05/11 15:36
98世界@名無史さん:02/05/11 15:39
既存スレにも書き込めよ!
99世界@名無史さん:02/05/11 15:40
糞スレ立てんな!ヴォケがああぁ!!!!!!!!!!
                                  ゛。゚∵
                       \从          …、∧∧
                    −−== 買j⊃   \从/∵  )>>1
               ____从//W       煤@ニ=−※⌒)
           ∧∧/ (⌒ノ  |※ ″        /W\…、  ||
          (   | ノ /  ノ¨・      \从   ∵。`ーノ   ノー″
         /   └ノ  /―┘…、゜ −−== 買j⊃  /  _ ノ
        //  _____ノ   W\ `  /W \从/ρ( // | 
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     ヽ、_)    ヽ__ノ
100世界@名無史さん:02/05/11 15:43
李氏朝鮮皇后閔氏

女傑と思う?
101世界@名無史さん:02/05/11 15:44
>>98
女戦士・女将軍の話題じゃないから
102世界@名無史さん:02/05/11 15:45
閔氏 実際には国を滅ぼした王妃という印象が強い
日本軍に殺されたのもある意味自業自得なところはある。
大院君とも対立してたしね。
103世界@名無史さん:02/05/11 15:48
名女王というとスペインのイザべラ女王が浮かぶ
夫について戦場にも行くし、政治も見るし
コロンブスの航海を援助したのも後のスペインの
隆盛に結びつく
104世界@名無史さん:02/05/11 15:51
>>103


狂女ファナのことは心配だっただろうな・・・・
105世界@名無史さん:02/05/11 15:54
ハプスブルグ家最後の皇妃ツィタ
パロマ家の出身で一生お家最高の夢を忘れなかった
106世界@名無史さん:02/05/11 15:56
>>103
>スペインのイザべラ女王
彼女については、こちらの既存スレで語るべき!
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
107世界@名無史さん:02/05/11 15:57
    _人
                      ノ⌒ 丿
                   _/   ::(
                  /     :::::::\
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                  \_―― ̄ ̄::::::::::\
              \  ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)  /
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108世界@名無史さん:02/05/11 15:57
ポンパドゥール夫人

本当はどれくらい能力があったんだろう?
国王の愛人というだけか?
109世界@名無史さん:02/05/11 15:59
>>106
はあ?
110世界@名無史さん:02/05/11 16:01
>>106
女戦士・女将軍の話じゃないから。
111世界@名無史さん:02/05/11 16:02
>>105
サラエボで暗殺された人ですか?
112世界@名無史さん:02/05/11 16:21
>>111
違う違う
サラエボで暗殺されたのはフランツ・フェルディナンドの妻
ゾフィー
貴賎結婚だったので伯父のフランツヨーゼフ帝からは
嫌われていた。
ツィタはフランツ・ヨーゼフの甥のオットー大公の息子
カール大公の夫人。
そしてこの人が最後の皇帝ということになる。
113世界@名無史さん:02/05/11 16:24
サラエボじけん
--------------------------------------------------------------------------------
サラエボ事件
1914(大正3)年6月28日
ボスニアの首都サラエボ(Sarajevo)を訪問中の
オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公と大公妃ゾフィア夫妻が
セルビア人ガブリロ・プリンチップの銃撃を受け、暗殺された事件
事件はオーストリアとセルビアとの戦争に発展
第1次世界大戦の呼び水となる
暗殺時に皇太子が着用していた軍服・軍帽と夫妻が乗っていた乗用車が
ウィーン軍事史博物館に保存されている
114世界@名無史さん:02/05/11 16:32
オーストリア帝国は瓦解したけどハプスブルグ家は
もちろん存在してる。
115世界@名無史さん:02/05/11 16:33
今の家の当主はオットーという人じゃなかったか?
116世界@名無史さん:02/05/11 16:38
>>108
成り上がりのせいか料理はうまかったらしい
117世界@名無史さん:02/05/11 16:41
メアリー・スチュアート
118世界@名無史さん:02/05/11 16:44
>>106

9 :1です :02/04/27 23:15
>6
>則天武后は、女傑にはいる?
今回は、入れません。
今回の女傑の意味は、女戦士や女将軍のことだよ。

だそうです、以上。
119世界@名無史さん:02/05/11 16:45
メアリー・スチュアートは恵まれた前半生を送ったせいで
苦労知らず・世間知らずの観あり
120世界@名無史さん:02/05/11 17:08
>>119
メアリはスコットランドでは悲劇の女王という扱いなんでしょうが
自分の愛人が夫を爆殺というのはいくらなんでもいただけませんな。
121世界@名無史さん:02/05/11 17:10
>>119
メアリー・スチュアート=織田信長タイプ(苦労知らず)
エリザベス1世=徳川家康タイプ(忍耐)
122世界@名無史さん:02/05/11 17:11
ポーランドの女性詩人ヴェスワヴァ・シンボルスカ
1996、ノーベル賞
123世界@名無史さん:02/05/11 17:13
ヴェスワヴァ・シンボルスカは1923年生まれで、今年で79才。1945ー48年、
ヤギェウウォ大学で ポーランド文学と社会学を学び、
1953年から「Zycie Literackie」の編集グループの一員として活躍。
代表作は「自問」("Pytania zadawane sobie": 1954)、「塩」("Sol": 1962)、
「万一」("Wszelki wypadek": 1972)、「大きな数字」("Wielka liczba": 1976)など。人間の存在と、人間と歴史との関係を良くモチーフに取り入れている。
124世界@名無史さん:02/05/11 17:18
文学や詩人方面には女性けっこう多いね
125世界@名無史さん:02/05/11 17:34
既存スレにも、もっと良スレをつけてやれば盛り上がるのに・・・?
誰か、既存スレを復活させてくれる奴はいないのか?
放置するから荒れるんだ!
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
126世界@名無史さん:02/05/11 17:35
糞スレ立てんな!ヴォケがああぁ!!!!!!!!!!
                                  ゛。゚∵
                       \从          …、∧∧
                    −−== 買j⊃   \从/∵  )>>1
               ____从//W       煤@ニ=−※⌒)
           ∧∧/ (⌒ノ  |※ ″        /W\…、  ||
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     ヽ、_)    ヽ__ノ
127世界@名無史さん:02/05/11 17:36
>>126
?
128世界@名無史さん:02/05/11 17:37
作家ならシャーロット・ブロンテ&エミリー・ブロンテ姉妹
129世界@名無史さん:02/05/11 17:38
>>127
たぶん>>126>>125に同意してるんだと思う。
130127:02/05/11 17:39
はあ?
すれ違いなのになぜ荒らす?
131世界@名無史さん:02/05/11 17:39
>>127
そうだよ・・・
>>125>>126は、このスレを重複スレだと指摘してるんだと思うよ。
132世界@名無史さん:02/05/11 17:40
>>129
いい加減荒らすのはやめてください。
みっともないですよ。
削除依頼を出します。
133世界@名無史さん:02/05/11 17:41
シャーロット・ブロンテ(1816〜1855
)イングランド北部ヨークシャーのThornton(ソーントン)で、
ブロンテ家の三女として生まれました。
途中、父の転勤でイングランド北部の小さな田舎町、Haworth(ハワース)へ
移り住み、そこで生涯を過ごしました。
ブロンテ姉妹が育った家は、現在The Bronte Parsonage Museum(
ブロンテ博物館)になっています。
1846年、エイロット・アンド・ジョーンズ社から自費出版したときに、
性別が分からないCurrer Bell(カラー・ベル)という
ペンネームを使いました。
1854年、結婚しました。新婚旅行中亡くなりました。
夫のニコルズは61年にアイルランドに戻り、
農夫となって再婚したそうです。
134世界@名無史さん:02/05/11 17:43
>>132
激しく同意!
このまま荒らし続けるなら、両方のスレとも削除依頼を出すぞ!
135世界@名無史さん:02/05/11 17:45
エミリ・ブロンテ(Emily Jane Bronte) 1818−1848
ハワースの牧師館で読書好きの娘時代を送り、架空の国アングリアやゴンダルを
舞台にした物語に想像の翼をひろげ、創作に向かう。
18歳のときに教師となるが半年でやめる。
1842年、姉のシャーロットとともにブリュッセルに半年間遊学。
以後はハワースで暮らし、詩や散文の執筆に励む
1846年に妹のアンを含めた三姉妹で詩集『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集』を
自費出版した。
翌年『嵐ヶ丘』が出版されたが、評判はかんばしくなかった。
そうした中で喘息を病み、明くる年の12月19日に30歳で死去。
136世界@名無史さん:02/05/11 17:46
>>129,131
ジサクジエンカコワルイ
13799:02/05/11 17:47

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138世界@名無史さん:02/05/11 17:49
エミリー・ブロンテは牧師館で育っていく時、余り男性に
接触しなかったそうだが、あれだ家の激しい男性像をどうやって
作ったのか不思議だ。
139世界@名無史さん:02/05/11 18:26
皇帝ネロの母アグリッピナ
女傑だけど悪女だね
140世界@名無史さん:02/05/11 18:49
「孟母三遷」
孟子の母
お受験ママの元祖
141世界@名無史さん:02/05/11 18:56
>>136
>>129>>131が自作自演かどうかはわからんが、どっちも荒らしレスだよ。
その意味では、同意するよ。
142世界@名無史さん:02/05/11 18:58
まったく、なんでこのスレが荒らされなきゃならんのだ。
旧女傑スレで、女戦士・女将軍以外の女傑を語るなというから、それらを
語るこのスレができたのであって、このスレが重複スレ呼ばわりされるい
われはない。
(旧女傑スレは、明らかに女戦士スレとの重複だけどね。)

ところで、呂后ってもう出たっけ?
143世界@名無史さん:02/05/11 19:02
>>142
>ところで、呂后ってもう出たっけ?
既出だったと思うよ。
144世界@名無史さん:02/05/11 19:05
宋三姉妹
145世界@名無史さん:02/05/11 19:09
>>144
宋慶齢(二女)
中国共産党に一身を尽くした女性だよ。
国を愛した女性だよ。
彼女は十数年前に死んだ筈だよ。
146世界@名無史さん:02/05/11 19:12
>>144
宋美齢(三女)
蒋介石夫人
彼女は権力に執着した女性だよ。
彼女は、たしか現在も生きてる筈だよ。
147世界@名無史さん:02/05/11 19:13
>>146
死んだというニュースは聞かない
凄い長生きだ
もう100歳超えてるんじゃなかったか?
148世界@名無史さん:02/05/11 19:14
長女・宋靄齢(アイレイ)、
が抜けてるよ
149世界@名無史さん:02/05/11 19:17
長女・宋靄齢
財閥の御曹司・孔祥熙と結婚
政治的にはあまり活躍はしなかった。
金に汚なかったといわれているが・・・・・。
150世界@名無史さん:02/05/11 19:25
>>147
>もう100歳超えてるんじゃなかったか?
もちろん超えてるよ。
でも、まだ長寿世界一までは達してない筈だよ。
151世界@名無史さん:02/05/11 19:30
汪精衛夫人の陳璧君
この人が凄い女傑


汪精衛(1883〜1944)
広東出身の政治家
日本に留学し、中国同盟会に入会。
1911年帰国して醇親王暗殺に失敗。
後孫文の側近として要職を占める。
で、この陳璧君も革命家で若い頃から活動に奔走。
汪精衛とは恋愛結婚なんだが、ダンナがえらくなってから
自分もどんどん政治に口を出すようになりほとんど
尻にしいていた。
が、さすがに筋金いりの志士であったためか
発言には注目すべきものがあり、
戦後漢奸として裁判を受ける時も堂々として
こびることはなかったという。






152世界@名無史さん:02/05/11 19:35
中国女はみんな女傑!
153世界@名無史さん:02/05/11 19:53
なぜ初の女性宇宙飛行士がない?
ワレンチナ・V・テレシコワ
154世界@名無史さん:02/05/11 19:53
「わたしはかもめ」
155世界@名無史さん:02/05/11 19:54
>>154
彼女の宇宙での第一声
156世界@名無史さん:02/05/11 20:06
157世界@名無史さん:02/05/11 20:10
>>156
激しく同意!
このスレは、重複スレだよ。
158世界@名無史さん:02/05/11 20:11
>>156
はぁ?
159世界@名無史さん:02/05/11 20:13
ネロの母、アグリッピナはカリギュラの妹だったな。
なんという兄妹なんだろうか?
160世界@名無史さん:02/05/11 20:13
みなさん、どうやら旧スレは女戦士・女将軍だけのスレでは
なくなったようです。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
161世界@名無史さん:02/05/11 20:16
オクタヴィアヌスの母もユリア、娘もユリアだっけ?
同じ名前ばかり。
162世界@名無史さん:02/05/11 20:17
ローマ人の女性は個人名はなく(!)、ノーメンの女性形でしか呼ばれませんでした。

ユリウス一門に生まれた女性は、「ユリア(Julia)」になります。
カエサルの最初の妻・コルネリアとの娘、カエサルの姉妹、伯母、アウグストゥスの娘はすべて「ユリア」と呼ばれました。
163世界@名無史さん:02/05/11 20:17
>>160
このスレの健闘が、旧スレの1を説得に成功したようですね。
>>1
ご活躍、おめでとう!
164世界@名無史さん:02/05/11 20:18
>>1
このスレの役目も、ようやく終了したようですね。
長い間、ありがとう!
165世界@名無史さん:02/05/11 20:18
あー、うっとおしいんで、以後>>156-157みたいなのは
完全無視の方向で行きましょう。

激しく既出でしょうが、エリザベス1世はすごい女傑ですね。
「私は国家と結婚した」なんて聞くと、しびれますわ。
まあ、実際は愛人作ったりしてたけど・・・ゴニョゴニョ
166世界@名無史さん:02/05/11 20:24
何香凝(1877〜1972)
広東省南海の人。香港で生まれた。
日本に留学して、中国同盟会に加入し、東京女子美術学校を卒業した。
1914年中華革命党に参加。1924年、国民党中央婦女部部長に選出された。
翌年には夫の廖仲?トが右派のため暗殺された。1928年、仲?ト農工学校を広州に設置。
翌年、蒋介石政権の一切の職を辞し、英仏に遊学し作画を楽しんだ。
1931年、パリより帰国して、上海で「時局に対する意見」を発表するなど
抗日救亡に奔走した。
1948年、香港で国民党革命委員会の結成に参加した。
翌年、新政権工作に参与した。建国後、国務院華僑事務委員会主席・
全国婦女連合会名誉主席・中国国民党革命委員会副主席を歴任した。
1972年、北京で病没した。『何香凝詩画集』。
167世界@名無史さん:02/05/11 20:25
>>165
エリザベス1世はに限らず名君は勉強家だよな。
168世界@名無史さん:02/05/11 20:26
エカテリーナ2世なんかロシア人でさえない。
猛勉強してロシア語を会得したというが・・・・。
169世界@名無史さん:02/05/11 20:27
>>168
我々に納得いかないのはエカテリーナ2世の産んだ子は夫の
子じゃないわけだろ?
それを貴族たちもうすうす知ってて彼女のクーデターにのった
んだよ。
その辺がワカラン。
170世界@名無史さん:02/05/11 20:30
>>165
ついに、旧スレも女戦士・女将軍以外の女傑について認めたよ。
みなさんの努力の成果ですね。
171世界@名無史さん:02/05/11 20:32
エカテリーナ2世 (在位1762〜1796)

ドイツ・プロイセンのシュテッティン、アンハルト・ツェルプスト公クリスチャン・アウグストと
その妻ヨハンナ・エリザベートの娘、ゾフィ・アウグスタ・フレデリカ。

エカテリーナは、ロシア女帝エリザベータが後継者としてドイツから
呼び寄せた甥ピョートルの妃として、ドイツ・プロイセンから迎え入れられました。
ピョートル公はホルシュタイン侯に嫁したピョートル1世(大帝)の娘アンナの子で、
生まれつき病弱底能なうえ、呼び寄せられたことに不満を持ち
エリザベータとの折り合いが良くありませんでした。
ドイツで生まれ育ったためロシア語がまったく話せず、
なにかにつけドイツびいきで、エリザベータの宿敵、
プロイセンのフリードリヒ2世(大王)を崇拝してました。
おもちゃの兵隊ごっこに明け暮れる無能な夫に見切りをつけたエカテリーナは、
ロシア語を習い啓蒙主義の著書などを読みふるなどして政治に関する知識を拾得し、
ロシア人となるべく日々精神修行に邁進しました。
1762年、エリザベータが歿するとピョートル公がピョートル3世
(在位1762年1月5日〜6月29日)として即位しました。
彼は、即位するとただちに7年戦争で結んでいたオーストリアとの
同盟を破棄し、戦線を離脱したうえ窮地に追い込んでいたフリードリヒ2世(大王)と
勝手に講和してしまいました。
これには命をかけて戦った軍隊からも強い不満が巻き上がりました。
また、夫婦生活においても女性問題でエカテリーナと不仲になり、
ことあるごとに離婚をほのめかす有様でした。

ロシアを軽蔑し、ロシアの宿敵フリードリヒ2世を
崇拝するピョートル3世にロシア人の怒りが爆発し、
1762年6月28日、貴族や近衛連隊の支持を得て
エカテリーナの愛人グレゴリー・オルロフらがクーデターを決行しました。
エカテリーナは即位の式を行うとただちに反乱軍の先頭に立ち、
ピョートルがいるオラニエンバウムの宮殿へ軍を進めました。
ピョートルは驚きながらもほとんど抵抗することなく降伏し、
翌日退位させられました。
その後、ロプシアの別邸に幽閉されましたが、
ふとした喧嘩がもとでオルロフの弟に誤って殺害されてしまいました。
夫殺しの汚名を恐れたエカテリーナは、夫が死に至った原因と
自分の正当性を訴える公布を発し、この窮地を切り抜けました。

彼女は法治主義と法の前の万人の平等を唄った訓令を発しながら、
その実、ロシアを統治するには貴族階級の協力が不可欠と考え、
貴族の特権を拡大して農奴制を強化する政策を押し進めました。
そのため農民の立場が悪化し、1773年にブガチョフの反乱が起こりましたが、
これらの首謀者に対しては厳しい態度で望みました。
その後も啓蒙主義者のヴォルテールやディドロなどと
文通を交わし啓蒙君主ぶりを発揮する一方、
1789年にフランスで革命が起こるに至っては大いに激怒し、
著しく反動的・圧制的になりました。

、1796年11月に脳卒中により死去しました。

172世界@名無史さん:02/05/11 20:33
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173世界@名無史さん:02/05/11 20:34
個人的にはポチョムキンが好き。
174世界@名無史さん:02/05/11 20:35
>>166
何香凝は具体的に何をした人なんですか?
175世界@名無史さん:02/05/11 20:36
>>174
政治家の妻

しかしこの時代の中国女性は芯が通ってる
176世界@名無史さん:02/05/11 20:38
汪精衛は中国共産党からも国民党の台湾からも漢奸とされて
凄く非難されてたな。


あれはやっぱり日本軍と戦わなかったのが利いたのか?
177世界@名無史さん:02/05/11 20:39
「大漢奸」
178世界@名無史さん:02/05/11 20:39
>>173
戦艦ポチョムキンの名前の由来になった人ですか?
179世界@名無史さん:02/05/11 20:42
180世界@名無史さん:02/05/11 20:45
エカテリーナ2世にあった日本人がいたな?
そういう小説があった。
181世界@名無史さん:02/05/11 20:49
このスレに削除依頼を出したぞ!
182世界@名無史さん:02/05/11 20:50
ま、それまではマターリと遊んでましょう(藁
183世界@名無史さん:02/05/11 20:52
>>181
内容は明らかにこっちが上(W
184世界@名無史さん:02/05/11 20:54
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/saku/982571380/l50
本当に削除依頼が出てるよ!
185世界@名無史さん:02/05/11 20:55
削除依頼がみんな通るということもない
が、通っても別にかまわん。
186世界@名無史さん:02/05/11 20:57
ほかの新しいスレを作って名前を変えて「世界史の中の女性」みたいな
スレをつくりゃいいのだ。
内容も名前も変えてナ。
187世界@名無史さん:02/05/11 20:58
ということで

メアリー・シェリー
あの「フランケンシュタイン」の作者
188世界@名無史さん:02/05/11 21:00
 著者のメアリー・ウルストンクラフト・シェリーは1797年にロンドンで生まれた。
父親ウィリアム・ゴドウィンは急進的革命思想家であり、文学者であった。
彼は18世紀啓蒙主義の流れに与する根っからの合理主義者・理性万能主義者であり、
英国のインテリ急進派の旗頭的人物であった。
 一方、母親のメアリー・ウルストンクラフトは「女権の擁護」の著者として知られ、
近代女権運動の鼻祖ともいうべき女傑であった。
また、彼女は情熱的な恋に身を燃やすタイプの女性で
画家ヘンリー・フュスリと不倫関係に陥ったり、
アメリカ人と同棲してファニーという娘までもうけたりしたという。
 こうした著名な文人を父母に持つメアリー・シェリーであるから、
彼女の処女作である、この「フランケンシュタイン」に
両親の多大な影響がみられるのはいうまでもない。
父親ゴドウィンの著作「ケレイブ・ウィリアムス」からは主人と従者、
追う者と追われる者の関係、そして悪は社会や環境によって生まれるといった思想が、
同じくゴドウィンの著作「聖レオン」からは科学的真理を追求するあまり
身内の者を死に至らしめるマッド・サイエンティストの精神が見事に
受け継がれているものと考えられる。
189世界@名無史さん:02/05/11 21:00
>>184
ふざけんな!
普通は既存スレを守るべきだが、今回の場合は既存スレ側に非がある!
傲慢な削除依頼がまかり通らんように、みんなで反論しよう!
190世界@名無史さん:02/05/11 21:01
>>189
>>184ではなくて>>181に言うべきだよ!
191世界@名無史さん:02/05/11 21:02
あっちの削除依頼出して来い
192世界@名無史さん:02/05/11 21:06
削除依頼出しても相手にされないよ、多分。
勝手にやってくり。
193世界@名無史さん:02/05/11 21:07
9 :1です :02/04/27 23:15
>6
>則天武后は、女傑にはいる?
今回は、入れません。
今回の女傑の意味は、女戦士や女将軍のことだよ。


ということだろうが? 
194世界@名無史さん:02/05/11 21:08
勝手に1人でローカルルール変えたり、こっちにレスが
たくさんつくのを嫉妬したり、誰が見ても向こうが悪い
195世界@名無史さん:02/05/11 21:15
ハプスブルグ家の女傑といえば、フランツヨーゼフ1世の母
ゾフィーを思い出します。
気の弱い夫のカールを尻にひき息子を意のままに操ったということで。
196世界@名無史さん:02/05/11 21:16
ゾフィーが息子に出させる絶対主義的な弾圧ぶりは
民衆の怒りをかい、オーストリア帝国の崩壊を早めたと
言われています。
197世界@名無史さん:02/05/11 21:17
>>194
>こっちにレスがたくさんつくのを嫉妬したり
だから、さすがの>>1も危機感を抱き始めたのだと思うよ。
198世界@名無史さん:02/05/11 21:24
イザベラ・デステはがいしゅつ?
ルネサンスの芸術家たちのパトロンでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたデッサンが有名です。
199世界@名無史さん :02/05/11 21:24
一応、依頼板に相手にしないでって言ってきたけど、大丈夫かな?
しかし、どえらい失敗しちゃって欝・・・
200世界@名無史さん:02/05/11 21:25
http://www.jeton.or.jp/~vinci/html/izabera.html

イザベラの肖像です。
201世界@名無史さん:02/05/11 21:27
>>199
ご苦労さまでした。
そんな2ちゃんねるのスレがどうのこうのでそう気をもまないで(w
のんびり世界史の楽しい話をしましょう。
202世界@名無史さん:02/05/11 21:29
http://www2.odn.ne.jp/~cai62190/man.htm

イザベラの宮殿の写真です。
203世界@名無史さん:02/05/11 21:29
200まで来たね。
204199:02/05/11 21:33
>>201
言われてみりゃ、そうなんだけどね。
漏れのせいでこのスレッドたったようなもんだから(武則天の話題出した)
ちょっと熱くなってるのかもしれないです、スマソ。
205世界@名無史さん:02/05/11 21:35
>>204
俺もだいぶ前スレじゃなくてレスの削除依頼出したことが
あるけど相手にされなかったことがあるぞ。
全部言いなりに削除するわけじゃない。
206世界@名無史さん:02/05/11 21:38
さて,1920年代のゲッチンゲンで最も勢いのあった数学者は
歴史上最大の女性数学者である
エミー・ネーター(Emmy Noether,1882-1935)員外教授であった。
「女性数学者」という表現は誤解を招く。
「20世紀の偉大な数学者の一人」という表現の方が適切である。
207世界@名無史さん:02/05/11 21:44
リーゼ・マイトナー

核分裂を発見した物理学者。
原子記号に名前がつけられている。
208世界@名無史さん:02/05/11 21:46
女性飛行家 ハンナ・ライチ



http://www2g.biglobe.ne.jp/~aviation/hanna.html
209世界@名無史さん:02/05/11 21:49
>>188
メアリ・ウルストンクラフトとヒュスリの娘ファニーの名前は
メアリが16歳のときから愛していた女性の名からとった。

彼女の著書より(1792年)。
「女性には強靭な精神力を持つことが許されなかった。
そのせいで美徳の名に値するものを身につけられなかった」

210世界@名無史さん:02/05/11 21:51
一口に活躍した女性と言ってもいろいろな分野に及んで
いるのですね?
参考になります!
211世界@名無史さん:02/05/11 21:56
メアリー女王(ブラディ・メアリー)

ヘンリー8世の跡を継いだのは、三番目の妃ジェーン・シーモアとの子エド
ワード6世であった。しかし彼はヘンリー8世の荒婬による先天性梅毒で、
わずか26歳で死亡した。

皮肉にも熱心なカトリック教徒キャサリンの娘メアリーが国王となり、メア
リー1世となった。
彼女は亡父ヘンリー8世から疎まれていたが、女王となるや亡母キャサリン
の「結婚無効」を元に戻し、ヘンリー8世とは逆に「ローマ教皇権の至上主
義」を復活した。
プロテスタントを徹底的に弾圧、処刑したので「血なまぐさいメアリー」
(ブラディ・メアリー)」とのあだ名が付いた。
(カクテルを飲まれる方は多分ご存知・・・)
しかしその在位はわずか5年で他界した。
212世界@名無史さん:02/05/11 21:58
考えたらこの人も可愛そうな生い立ちだね?
母親は父のヘンリー8世に無理やり離婚されるし
自分はなかなか王位につけないし、やっと中年になってから
即位しスペインのフィリップ2世と結婚しても
年下の夫からは見向きもされないし・・・。
213世界@名無史さん:02/05/11 22:03
あまり知られていない学者―フランシス・ケルシー。
1960年前後、アメリカの食品医薬品管理局に勤めていた。
彼女はある新薬の販売を認めなかった。強い圧力がかかっても認めなかった。
その新薬の名前は「サリドマイド」。
214世界@名無史さん:02/05/11 22:08
>>213
そのいわくつきの薬「サリドマイド」が今、難病治療に
効果を上げ、注目されてるの、知ってる?
劇薬はある病気には特効薬になるんだねえ。
215213:02/05/11 22:15
>214
知らなかったけど、検索したらホントだ。
「神と悪魔の薬」だって。アリガト
216世界@名無史さん:02/05/11 22:20
女性科学者ならDNAの写真を初めて撮ったロザリンド・フランクリン。
後にDNA解析でノーベル賞をとったワトソンとクリックは
彼女の功績を盗んだ、という説もある。
彼女は若死にし、ワトソンは著書で彼女をこき下ろしている。
217世界@名無史さん:02/05/11 22:23
>>214
よく知ってるなあ〜。
218世界@名無史さん:02/05/11 22:32
「女傑について」よりこっちのほうがよっぽどためになるのですが
なぜ削除依頼なんか出すんだろう?
フェミ女性ならここみたいい世界じゅうからいろんな分野で
活躍する女性がかかれるのは嬉しいはずなのに・・・。
219世界@名無史さん:02/05/11 22:33
旧スレの方も、ついさっき女戦士・女将軍だけという縛りが無くなったよ。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
220世界@名無史さん:02/05/11 22:36
「王冠をかけた恋」のシンプソン夫人は女傑というより
うまくやったなとゆう感じ
221世界@名無史さん:02/05/11 22:37

はじめは人妻だって聞いたよ
222世界@名無史さん:02/05/11 22:39
フランスの毒殺犯ラ・ヴォワザン
黒ミサやったり貴族の依頼で人を殺したり
魔女に近い
223世界@名無史さん:02/05/11 22:43
さっき、旧スレを見て確認したよ。
そしたら、本当に縛りが解除されてたよ。
でも、このスレが削除される必要はないと思うよ。
削除版には、ちゃんと事情を説明しておいたよ。
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/saku/982571380/l50
224世界@名無史さん:02/05/11 22:44
>>223
つまり、これからは新・旧どちらのスレでも自由に女傑を論じられるんだね。
225世界@名無史さん:02/05/11 23:05
しばらく来なかったら、ここにたくさんレスついてて
面白かった!
科学者の女性が多いのにビクーリ!!
226世界@名無史さん:02/05/11 23:06
>>221
離婚したんじゃなかった?
王様にあった時点では結婚してたかもしれないけど
227世界@名無史さん:02/05/11 23:10
>>48
女性の暗殺者いたんだな!
しかもマラー暗殺? 昔世界史でチラッとやっただけだから知らなかった
YO!
228世界@名無史さん:02/05/11 23:11
>>49
浴槽に招き入れたということは女ならでは、の殺し方をしたのだろうか?
229世界@名無史さん:02/05/11 23:13
>>65
しかも美人かよ!
230世界@名無史さん:02/05/11 23:15
前に知りたかったスパイの話も載ってる
川島芳子「ラストエンレラー」で変な軍服着てた人
だよな?
皇帝の親戚?
231世界@名無史さん:02/05/11 23:17
旧スレの女戦士・女将軍だけという縛りが無くなりました。
したがって、旧スレでも自由に女傑が論じられるようになりました。
一応は皆様にお知らせいたしておきます。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
232世界@名無史さん:02/05/11 23:18
>我々に納得いかないのはエカテリーナ2世の産んだ子は夫の
>子じゃないわけだろ?

ひええ〜
233世界@名無史さん:02/05/11 23:19
>>231
そんな荒れてるスレに行きたくない
しかも自分でそういう状況を作ったんだろう?
234世界@名無史さん:02/05/11 23:21
アグリッピナは息子のネロを皇帝にするために
再婚したクラウディウスを殺害した
235世界@名無史さん:02/05/11 23:23
>>233
>そんな荒れてるスレに行きたくない
放置するから荒れるんだ!
良レスをつけてやれば、あの旧スレも復活できるよ。
236世界@名無史さん:02/05/11 23:25
マザー・テレサがまだ出ていないような気が・
237世界@名無史さん:02/05/11 23:26
>>236
ガイシュツだと思うぞ、探して見れ
238世界@名無史さん:02/05/11 23:28
>>237
ないよ!
239世界@名無史さん:02/05/11 23:31
マザー・テレサ、愛と献身の生涯
1910年 マケドニア(旧ユーゴスラビア)のアルバニア人家庭に生まれる。
18才でインドにわたり、カトリックの修道女になる。

女子高の歴史、地理の教員、その後校長。

1948年(37才)、派遣伝道師としての身分の除籍をローマ法王に申請。
    (修道院の外に住んで、スラムで働く許可)

(「お嬢様育ちのあなたがスラムに行くなんて無茶よ」と言われながら、)

「地上最悪の貧民窟」カルカッタのスラム街に住み、青空教室を開設。

(薬を買って粗末なサリーをまとい貧民街に立ったとき、所持金わずか5ルピー。)

「富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。」

1950年、インドに帰化。「神の愛宣教者会」設立
1952年、路上で死にそうになっている人を連れてきて、
最期をみとるための施設「死を待つ人々の家」を開設。

(地元住民の強い反対と施設撤去を求める誓願。
何しろ、ヒンズー教徒の国ですから、
キリスト教のシスターは良く思われません。
また、どうせ死ぬ人のためにそんなに苦労しても
あまり意味がないのではないかという批判もあったそうです。
でも、マザーは、最期の一瞬だけでも人間らしく扱われることの大切さを知っていました。)

ある日、コレラで死にそうなヒンズー教徒の僧を引き取り、死をみとったことをきっかけに、
住民の彼女を見る目が変わる。

「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。
世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。
見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた
人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

1979年、ノーベル平和賞受賞

「わたしは受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって
賞を受けました。」

(ノーベル平和賞と言っても、政治家や活動家が受賞する際には、
委員会の中でも意見が分かれることが多いそうですが、
マザーの受賞の時には、満場一致だったそうです。
彼女は、賞金の全額を寄付しました。
また、受賞後に問題が生じることもあるようですが、
マザー死去の報を聞き、委員長は、
「マザー・テレサの平和賞受賞はわれわれが大きな喜びと満足感を持って
振り返ることのできる受賞だった」と語っています。

受賞後も、朝4時に起床、シスター達と一緒に、路上生活者や
ごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活を
ほとんど変えずに行い続けた。
1997.9.5(日本時間9.6)死去
9.13、インドで国葬が行われることに決定。

国家元首でも首相でもないのに、異例の国葬です。
マザーがどれほどインドの人々に愛されていたかが、わかります。

240世界@名無史さん:02/05/11 23:33
今回みたいに、既存スレの方が分が悪いケースは前代未聞だな!
241世界@名無史さん:02/05/11 23:39
明の皇帝朱元璋夫人の馬皇后。
女傑というより内助の功、いや外助の効か?
242世界@名無史さん:02/05/11 23:40
>>240
こっちは悪くないのに荒らされなくりましたからね
243世界@名無史さん:02/05/11 23:41
>>242
荒らされなくりましたからね

荒らされまくりましたからね


スマソ(w
244世界@名無史さん:02/05/11 23:42
>>234
あの時代のローマ皇帝一族の神経は一般庶民には想像を
絶するものがありますね。
245世界@名無史さん:02/05/11 23:44
マザーテレサは列聖されるのだろうか?
246世界@名無史さん:02/05/11 23:47
ネフェルティティ
ミタンニ国からやって来た妃タドゥケパ。その神秘的な美しさから
「我々のもとにやってきた美女=ネフェルティティ」と呼ばれる。
しかし、若く美しすぎた彼女には、悲劇の運命が待っていた。
247世界@名無史さん:02/05/11 23:49
>>246
誰の妃?
どこの国の人でしょうか?
248世界@名無史さん:02/05/11 23:51
>>242−243
このスレを荒らしまくってた連中は、おそらく既存スレの住人だと思われます。
249世界@名無史さん:02/05/11 23:51
>>200
イザベラ・デステ
塩野七生が「ルネッサンスの女達」で取りあげてたね?
芸術家のパトロンだったけどそれほど強国でも金持ち国でもなかったので
レオナルド・ダ・ビンチに肖像を頼む時デッサンしか書いてもらえなかった
というのは本当かね?
250世界@名無史さん:02/05/11 23:55
ネフェルティティ
エジプトの4大賢人の一人「ハプの子、アメンヘテプ」を持ち、
自分は酒だ、女だと遊びほうけるアメンヘテプ3世とその息子4世
(後のアクエンアテン)に嫁いだのがネフェルティティである。
彼女は本名を「タドゥケパ」と言い、ミタンニ王国の王女であった。
アメンヘテプ3世がミタンニ王国を訪れたとき、彼女の美しさに
惚れ込んで6年もかけてミタンニ国王に頼み、
膨大な黄金を積んで彼女を手に入れた。
このとき彼女はまだ15歳の少女だった。
ということはアメンヘテプ3世がタドゥケパに惚れ込んだとき
彼女はまだ9歳。
そしてアメンヘテプ3世は40代半ばのおっさんである。
現代風に言えばロリコンもいいところだ。
このおっさん、ロリなだけではなく、ラムセス2世には及ばずとも
かなりの女好きで、ハーレムには常時300人の女を囲っていたという。
さて、6年もかけて美しい女王を手に入れたロリータ王アメンヘテプは
持病の歯槽膿漏が悪化し、ネフェルティティが来て、
わずか2年でこの世を去る。
この時アメンヘテプ3世の第一王妃として君臨していた
「ティイ」の計らいで、ネフェルティティは後継者のアメンヘテプ4世の
妃になる。
アメンヘテプ4世は、父と違いハーレムも持たず、
彼女一人を大切にしたイイ男である。
彼は宗教改革に乗り出すことにする。国家神を「アテン神」へと変え、
都もテーベから移し、自らの名も「アクエン・アテン
(「アテン神に気に入られし者)」と改名する。
新都で建てた宮殿で3人の娘と夫婦は楽しく暮らすはずだった。
ところがアクエンアテンは、病気に悩まされるようになる。
どうやら「脳水腫」だったらしい。

彼はどんどん理想に走るようになり、政治をきちんと行わなくなる。
彼は長女に称号を与え、スメンクカラーという人物と婚姻させ王位を継承させようとした。
そのうえ三女のアンケセパーテン(後のアンケナーメン)を妃にしてしまう。
唯一自分だけを愛してくれていたアクエンアテンの
この行動はネフェルティティにはショックだったに違いない。
スメンクカラーが死んだ翌年、アクエンアテンもこの世を去る。
一人残された彼女は、自分と同じように寡婦になったアンケセパーテンと
我が子のように可愛がった子を、婚姻させることで、
王位継承させることにした。
息子がいなかったネフェルティティが我が子のように可愛がったこの子が、
ツタンカーテン(後のツタンカーメン)である。
ツタンカーテンの即位2年目、彼女はその生涯の幕を閉じた。
享年37歳だった。

251世界@名無史さん:02/05/11 23:55
この旧スレを、果たして本当に既存スレと認められる?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
252世界@名無史さん:02/05/12 00:00
>>251
tumannai
253世界@名無史さん:02/05/12 00:03
>>228
マラーは何か思い皮膚病をわずらっており
1日じゅう浴槽につかって仕事をしてたそうです。
シャルロットが入った時は彼女はあらかじめマラーに
「相談したいことがあるんで会いたい、ある政治家についての
密告をしたい」と言う風な手紙を書いて油断させて
おいたそうです。
254世界@名無史さん:02/05/12 00:05
>>235
自分が荒らしたんだから自分が責任取れよ
255世界@名無史さん:02/05/12 00:08
>>253
なんだ
色じかけ(言葉が古い?)じゃなかったのか。。。。。
256世界@名無史さん:02/05/12 00:09
>>248
違う範囲でそれぞれマターリとやってればよかったのに
257世界@名無史さん:02/05/12 00:10
旧スレが女戦士・女将軍だけという縛りを無
くしたのは、どういう魂胆だと思いますか?
258世界@名無史さん:02/05/12 00:12
>>257
はじめはひたすら逆切れして怒っていたが
誰も来ないしこっちのスレは削除依頼出しても
無視されるしで弱気になったものと思われ。
259世界@名無史さん:02/05/12 00:13
>>258
常識考えて こっちのスレが削除されるわけない
削除人もバカじゃないんだから
260世界@名無史さん:02/05/12 00:14
聖女バルバラ
261世界@名無史さん:02/05/12 00:16
コルテスの妻(正式ではない)で、彼のアステカ征服に力を貸した
インディオの女性マリンチェ
262世界@名無史さん:02/05/12 00:18
>261
あっという間にスペイン語をマスターしたのだから、頭は良かったのだろう。
「女傑」とは思わないが興味はある。
なんでアステカ滅亡に手を貸したのだろう?
263世界@名無史さん:02/05/12 00:18
>>261
マリンチェはメキシコでは、売国奴と言われているらしいのだが
実際はアステカに支配され、奴隷にされて、残酷に殺されて
いた部族の出身ではないかと言う説がある。
264262:02/05/12 00:24
あっ、答がすぐ下に…。
265世界@名無史さん:02/05/12 00:26
あら、同じ時間に(w
266世界@名無史さん:02/05/12 00:31
宇宙飛行士今ならカナーリ安全に行ってこられるが
ワレンチナ・V・テレシコワの時代は命がけだったらしい。
まあ旧ソ連は女の強いところだからね。
267世界@名無史さん:02/05/12 00:36
アメリカでも1960年代初頭に女性を宇宙に行かせる計画があった。
13人の女性が適正試験に合格したが、結局誰も行かれなかった。
行かれなかった理由は不明。
268世界@名無史さん:02/05/12 00:42
>266
テレシコワより前に宇宙に行った女性がいましたね。

ストリエルカ(雑種犬)。
269世界@名無史さん:02/05/12 00:52
>>258
>はじめはひたすら逆切れして怒っていたが
>誰も来ないしこっちのスレは削除依頼出しても
>無視されるしで弱気になったものと思われ。
旧スレの>>1が女戦士・女将軍だけという縛りを
無くした後に、このスレに削除依頼が出されて
いる点だ。
おそらくは、このスレの削除依頼を出したのは
旧スレの>>1というよりは・・・
むしろ、事情を知らない人が勘違いして出した
可能性が高いと思われる。
270世界@名無史さん:02/05/12 01:02
>>269
事情はROMしたらすぐわかる
271世界@名無史さん:02/05/12 01:04
ハワイの最後の女王リリウオカラニ
「アロハオエ」の作者
女傑じゃないけど気の毒な身の上なので
(アメリカに合併される時幽閉された)
272世界@名無史さん:02/05/12 01:11
>>271
TVでやってなかったっけ?
ハワイの王様が明治時代に日本に来たこと
その時に一緒に紹介されてた記憶アリ
273世界@名無史さん:02/05/12 01:25
東ローマ帝国のユスティニアヌスの妻テオドラ。
ヌードダンサーからトップレディーに成り上がり、ニカの乱では
一度は弱気になって帝都を逃げようとした夫を叱咤して乱を鎮圧
させた女傑。
274世界@名無史さん:02/05/12 01:42
女戦士・女将軍以外の女傑を追い出した旧スレの連中は、おそらく女戦士・女将軍だけに
ついて語りたかったのだろうと思われる。
しかし、やがて女戦士・女将軍ネタが切れると連中は飽きて手を引いたものと思われる。
その後に荒らし連中が入ってきた可能性が高いのである。
つまり、女戦士スレと同じ運命を辿るに至ったのである。
これが、旧スレを追い出された連中が立てた新スレの方が健闘している大きな原因である。
さすがの>>1も当初は女戦士・女将軍についてだけ語りたかったのであろうが、旧スレが女
戦士スレと同じ運命を辿っていることに気づき苦肉の策として女戦士・女将軍以外の女傑も
認める選択をしたものと思われる。
さらに、その後に入ってきた連中が女戦士・女将軍以外の女傑を語り始めているものと思
われる。
だから、現在の旧スレの連中は当時の我侭な連中とは違うと思われる。
つまり、旧スレの住人は既に入れ替わってるものと思われる。
新スレの住人が責めるべきは、当時の我侭な連中であって現在の旧スレの住人ではないと思う。
275世界@名無史さん:02/05/12 01:53
>>274
結局旧スレの>>1は悪くないっていいたいのか?
276=274:02/05/12 01:58
>>275
旧スレの>>1も悪いよ!
それと、当時の我侭な旧スレの連中も悪いよ。
さらに、その後の荒らし連中も悪いよ。
責めるべきは奴らであって、決して現在の旧ス
レの善良な連中ではないということだよ。
277世界@名無史さん :02/05/12 02:19
>>274ー276
わかったから、もうやめなされ。罵りあいは見苦しいだけだ。
ようやく沈静化したんだから、ちゃんとした話に戻そうや。
それとも、新手の荒らしか?違うだろ?
だったらやめような。

>>271に興味もって調べたら、こんなのでた。

カラカウア王の没後、後継者として指名されていた妹のリリウオカラニが53歳で王位に就きます。
リリウオカラニは兄以上に反動的で、1893年、王権の強化拡大をうたった新憲法を無理矢理に施行、
怒ったハオレ実業家達のグループによってイオラニ宮殿で幽閉、退位を要求されます。
ここにハワイ王朝は終焉したのです。
幽閉されたリリウオカラニは1896年、許可を得て渡米し、
ワシントンで「ハワイの女王の手によるハワイの物語」を出版、王権の正当性を訴えます。
また、1889年にカラカウア王がハワイ語で出版していたクムリポを英訳するなど、
文化的貢献度の高さでは群を抜いています。
有名な「アロハ・オエ」も彼女の作詞作曲によるものです。

これだけやってれば、女傑と言ってもいいんじゃない?
ちなみにリリウオカラニはこんな人↓
http://www.legendaryhawaii.com/history/lili.jpg
こっち↓は渡米後かな?
http://www.firsthand.co.jp/firsthand/gazou/history2.gif
278世界@名無史さん:02/05/12 02:45
ビザンティン帝国女帝エイレーネー(在位797〜802)
この人、なんか中国の則天武后に妙に似てます。
その文化圏で前代未聞だった女性の皇帝になったことといい、自分が
権力握るためには、実の子にも平然とひどいことをしたことといい、
意外に政治能力があったことといい……。
ちなみに、エイレーネーは自分の子コンスタンティノス6世を廃位し
て、その目を潰してます。
279世界@名無史さん:02/05/12 03:04
>その目を潰してます
コ、コ、コワイヨー
280世界@名無史さん:02/05/12 03:11
278>>279
補足しておくと、ビザンティン帝国では、クーデターで皇帝を倒して
自分が皇帝になった人ってのは割とたくさんいて、その場合に前皇帝
の目を潰したり鼻を削いだりってのは割とよくあったこと。
特にエイレーネーだけがやったわけではなく、前皇帝の復権を阻止す
る手段として割合一般的だったのです。
ただ、自分の息子に対してこれをやったのは、彼女だけでしょうね。
281世界@名無史さん:02/05/12 03:18
>>280
それは前帝の神性を削いでしまうといった意味合いがあったのでしょうか。
282世界@名無史さん:02/05/12 08:56
そういえばベネチア絡みの十字軍の時も
発端は皇位継承のごたごたから始まった



283世界@名無史さん:02/05/12 09:04
>>274
そういうのご都合主義っていうんだよん。。
だいたいな、新しい連中がどうのこうのといってるが
ぜ〜んぶ、お前1人で書いてるという考え方もできるんだぞ!
284世界@名無史さん:02/05/12 09:11
目をつぶす>ビザンチン帝国でよく聞く話だ
285世界@名無史さん:02/05/12 09:15
>>282
何回目の十字軍だったか?
4次かな?
286世界@名無史さん:02/05/12 09:30
明時代に宮女達が団結して寝所で皇帝を暗殺しようとした
事件があるんですが、詳細をご存知の方おられますか?
287結論:02/05/12 11:40
旧スレと新スレのどちらが既存スレかということなのですが・・・
先にたてたという意味では、たしかに旧スレ側にも既存スレだと主
張できる名文はある。
しかし、旧スレ側が女戦士・女将軍以外の女傑を追い出したことが
新スレがたてられた原因でもある。
さらに、新スレがたてられた後になってから旧スレ側が女戦士・女
将軍以外の女傑を認めたわけである。
その意味では、新スレ側にも既存スレだと主張できる名文はある。
つまり、既存スレの定義をどう解釈するかの違いだと思う。
みんなは、果たしてどちらのスレが既存スレだと思う?
288世界@名無史さん:02/05/12 12:14
>>287
んなこたどうでもイイ
良いレスがついて、みんなが楽しめるスレは良スレ。となれば
どっちが優秀かは言うまでもないわな。(藁)
289世界@名無史さん:02/05/12 12:24
>>286
世宗の時、就寝中に何人かの宮女に首を絞められて
殺されそうになるという事件があった。
「宮婢の変」というのがそうでは?

290世界@名無史さん:02/05/12 12:42
孟母三遷の、孟子のお母さん。教育ママの元祖?
291世界@名無史さん:02/05/12 12:45
>>290
がいしゅつ


>>289

腹上死した人ですか?
292世界@名無史さん:02/05/12 12:51
前に女スパイの話題が出ていたけれど、エリザベス・ヴァン・リューは優秀。
南北戦争時、北軍のスパイ網を組織していた。
彼女の部下の黒人女スパイがジェファーソン・デイヴィス大統領の家に
召使として入り込み、デイヴィス情報はグラント将軍に筒抜けだった。
リューはいつもブツブツ言いながら町を歩いていたため、
周りの人は皆、害のないキチガイだと思っていた。
293世界@名無史さん:02/05/12 13:02
>290
母親ならジンギスカンの母親ホエルンが女傑。
294世界@名無史さん:02/05/12 13:21
エイダ・オーギュスタ。人類初のプログラマー(バイロンの娘)。

>>56
「バグ」の発見も彼女だね。
295世界@名無史さん:02/05/12 13:21
>>291
違う!
世宗は怪しげな不老長寿の薬を飲んで死んだんだ。
「紅鉛丸」という処女の血を使った、毒の成分の入った
薬を勧められて飲んでいるうちに体の具合が悪くなり
ある朝頓死してたというわけ。
世宗はうらわかい少女が大好きな変態おやじで
そもそも宮女達に殺されるほど恨まれたのも
同じベッドに一度に10人の女を呼んで乱交するのが
常だったが、当時の純情な女性達はみんなそれを嫌がっていて
ある日思いつめて皇帝殺害におよんだわけだ。
296世界@名無史さん:02/05/12 13:39
>>295
まさか・・・
その血をそのまま飲んだんじゃないだろうな・
恐ろしや・・・・
297世界@名無史さん:02/05/12 13:44
>295
その後、宮女たちは処刑?
298世界@名無史さん:02/05/12 13:54
>>278
このコワーイ女はイコンを復活させた功績かなにかで列聖されてる。
ちなみにエーゲ海のサントリーニ島は、「サント・イレーネ」に由来するそうだ。
299世界@名無史さん :02/05/12 14:27
>>288
>良いレスがついて、みんなが楽しめるスレは良スレ。
類似重複スレでも、既存スレより良いレスがついてみん
なが楽しめるスレは良スレなんだね。
私も、その意見に賛同するよ。
300世界@名無史さん:02/05/12 16:47
300ゲトッ!
301世界@名無史さん:02/05/12 16:55
>>295
不老長寿の薬には水銀が入ってることが多く
かなり危険だったらしいね。
火薬も不老長寿の薬つくりから偶然生まれたものだとか。
302世界@名無史さん:02/05/12 17:56
>>268
それ犬の名前?
ライカ犬って聞いたけど
303世界@名無史さん:02/05/12 18:19
神仙術ー不老長寿の薬  
人間は死をおそれ、不死を願う。その考え方は、二つに大別される
一つは、なんらかの形で現実の肉体的生命が存続するという考えで、
もう一つは、肉体は死とともに解体するが、霊魂は死後も存続するという考え方である。
中国における神仙術、エジプトにおけるミイラ保存、
また、キリスト教の復活思想も、第一の考え方に立ったものである。 
<神仙術>とは、不老不死の存在(神山・仙人)を信じて、
それをえようとする術である。
<方術>ともいわれ、それを行う者を方士という。
中国の戦国時代の末(紀元前三世紀頃)におこり、秦の始皇帝の時盛んになった。 
神仙術にともなって、不老長寿の薬(仙薬)や不死の国(仙郷)が考え出された。
不老長寿の薬として、金丹・丹砂・芝菌・胡麻などがある。
金丹とは、金石を練ってつくったもの、丹砂とは水銀と硫黄の化合した赤色の土、
芝菌とは、めでたいとされた一種のきのこである。
また、丹砂から黄金をつくり、それを食器とすれば長寿を得られるという
伝説もおこり、錬金術のような特殊な術も行われた。
 不死の国としては、東方海上に存在すると信じられた「蓬らい(字が無い)」
・「方丈」・「えい洲」の三つの神山が有名で、
不死の仙人の住む仙郷である。
「こんろん山」や「天台山」も仙郷と考えられた。 
神仙術は陰陽道と関係があり、後には老子・荘子こ思想と結び付き、
さらに道教へとつながる。
 一度死んで復活するのでなく、
現実の生命をそのまま延ばそうとする神仙術は、
中国人の現実的な考え方の現われといえる。  
304世界@名無史さん:02/05/12 18:22
 中国での火薬の発明は、不老不死の薬を求めて繰り返された試行錯誤の中での偶然の産物だったようである。
羅針盤によって方位を求めることも、風水の必要から始まったというところが、いかにも中国らしい。
東アジアでの印刷も、文面を美しく整えることに主眼があったようだ。
これに対して、さまざまな国が覇権を争うヨーロッパでは、
火薬は強力な武器を作るため、羅針盤は航海に役立てるため、
印刷は文書を大量に配るために役立つものと考えられた。
中でも、のちのヨーロッパの世界制覇を可能にしたのは
火薬の改良だったといってよい。
ヨーロッパの黒色火薬の性能は中国のものを遥かにしのぐものとなり
、17世紀には大規模な工事の発破にも用いられるようになった。
羅針盤についても、方位盤の上にピボット(垂直軸)を立て
それに針をつけるという改良が、すでに14世紀の初頭に行われていた。
これだと水がこぼれる心配がないので、
航海への応用が飛躍的に容易になり、いわゆる大航海時代が到来した。
305世界@名無史さん:02/05/12 18:23
即天武后について。
唐の太祖の後宮にいた。
その時、皇太子時代の高宗が見そめた。
高宗即位後後宮に入り、寵愛激しく、皇后の座を得る。
(キツめの美人だったらしい)
優柔不断で病弱な高宗に代わって権力を壟断。
仏教を重んじ、道教、儒教より上とした。
我が子を名目的に即位させ、国号を唐から周に変更。
後には自ら即位して「金輪神聖皇帝」と号す。

人材を見抜く目があり、多くの名臣を排出した。
政治家としては一流といえる。
その死後太子李重俊(即位して玄宗)が挙兵し、武一族からか権力を奪う。
(国号も、周から唐に戻す)

政治家としてみれば、玄宗よりはだいぶ上。
この時代、日本は持統天皇の時代(持統天皇の方が先輩)
日中そろって、女帝の時代が現出していた。
306世界@名無史さん:02/05/12 18:26
不老長寿について

 二千年ほど昔、中国に始皇帝という人がいました。
 広い中国を、起源前217年に、秦という国名で始めて統一した人です。  
その後にいく度も作られた中国の国家は、現在の中華人民共和国も含めて、
この始皇 帝の作った、中国で始めての統一国家である”秦”という国の
範囲を出ませんので、始皇 帝は、中国という国の範囲を決めた人ともいえます。
始皇帝は13歳で即位し、36歳で 中国全体を統一し、50歳で死亡するという、
今から考えるとずいぶん早足で、といって も当時としては50歳はかなりの長命なのですが、
一生を送った人です。  

 中国で始めての絶対権力者となった始皇帝ですが、
晩年は、世の絶対権力者の悲しい 宿命でしょうか、
不老長寿の夢を追って、秦の国を滅亡させる原因になるほどの金をつぎ 込み、
薬さがしに奔走しました。
 この不老長寿の薬探しを始皇帝にけしかけた人物が徐福とされています。  

 徐福は伝説上の人物ではなく、実在の人物です。
中国の山東半島にある徐福の出生地、 徐阜村には今でも、
徐福から数えて弟70代目の子孫・徐広法さんが住んでおられるそう です。
 徐福が、始皇帝の命をうけて不老長寿の薬を求めて
海を渡って訪れた先が日本とされ ています。
しかし、せっかく日本に渡っても、不老長寿の薬なぞあるはずもなく、
かとい って、中国にもどれば始皇帝の怒りにふれ死刑にもなるということで、
伝説ですが、徐福 はそのまま日本に残り、中国文化を日本に根づかせたとされています。

当時、日本は縄文 分化の時代で、徐福がもってきた中国文化が弥生文化を
作ったのではないかとの説も、縄 文文化と弥生文化の交代時期と
徐福が日本に向かって旅だった時期が一致しますので、
真 実かどうかは??ですが、あるくらいです。  
307世界@名無史さん:02/05/12 18:27
楊貴妃が出てないのは本人に政治に介入する気がなかったから?
あれだけの傾国の美女だと国も滅ぶのか?
308世界@名無史さん:02/05/12 18:28
309世界@名無史さん:02/05/12 18:29
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310世界@名無史さん:02/05/12 18:31
>>308
まだ来てるのか? ヒステリーフェミ女
311世界@名無史さん:02/05/12 18:33
>>309
★ 依頼が全て果たされるわけではありません。
削除するかどうかは削除人個々の判断です。
削除を行ったことに対する批判はともかく、削除しないことを批判するのは
ご遠慮下さい。
削除理由に見合った削除対象を書きましょう。
「レス削除」や「スレッド停止」で済むものに「スレッド削除」を求めたり
、「あぼーん」で済むものに「あぼーん無し」を希望したりすると、
削除はしてもらえないときがあります。
312世界@名無史さん:02/05/12 18:36
>>308,309
自分の所に人が来ないからと言って嫉妬するのは
見苦しい
313世界@名無史さん:02/05/12 18:40
>307
中国史上、美人の代表は
褒ジ(西周を滅ぼす)
夏姫(陳を滅ぼし、楚衰退の原因を作る)
西施(呉を滅ぼす)虞 (項羽の愛人)
楊貴妃がダントツって感じはないな。
314世界@名無史さん:02/05/12 18:42
楊貴妃ってホントに美人だったのかねえ?
史書では太目の女で脂肪たっぷりって感じ。
あの当時はグラマー美人がはやったんだな。
どこかの本に楊貴妃は西域のコーカソイドの血が入ってる
んじゃないかって説が書いてあった。
今で言うハーフ美人だね。
315世界@名無史さん:02/05/12 18:44
楊貴妃は、「長恨歌」のおかげで日本でも有名になっただけって感じ
(逆に言うと、他の傾国の美女たちはそういう歌がないか、あっても
日本にまでは知られなかった)だね。
316世界@名無史さん:02/05/12 18:47
褒娰は痩せ型美女だったらしいな。
結核でいつも、うかない顔をしてたんじゃないかと
言う説も読んだ。
317世界@名無史さん:02/05/12 18:48
>当時、日本は縄文 分化の時代で、徐福がもってきた中国文化が弥生文化を
>作ったのではないかとの説も、縄 文文化と弥生文化の交代時期と
>徐福が日本に向かって旅だった時期が一致しますので、

徐福の来日はあったと思いますが、それが弥生の始まりということはありません。
弥生時代の始まりは、従来より200年ほど遡るようですし、
縄文→弥生の変化は、カナーリゆるやかに進行してます。
影響がなかったとまではいいませんが、
大きな影響を与えたと言ったら言い過ぎでしょう。
318世界@名無史さん:02/05/12 18:52
>316
そりゃ西施(字が違うけど許せ)の方だろ。
(「ひそみに習う」って言葉を産んだ。)
褒じの方は、「龍の精から産まれた」という伝説の美女だ。
319世界@名無史さん:02/05/12 19:15
>>312
>自分の所に人が来ないからと言って嫉妬するのは見苦しい
私も一応は同意する。
ただし、彼らにも自分たちの側が既存スレだという名文があ
るだけに厄介だよ。
320世界@名無史さん:02/05/12 19:17
>>319
女戦士・女将軍以外の女傑でもOKとした時点で
すでにこっちが既存スレだろ、論理的に。
321世界@名無史さん:02/05/12 19:18
わ〜い、美人だ、美人だ!
322世界@名無史さん:02/05/12 19:21
>>320
>女戦士・女将軍以外の女傑でもOKとした時点で
>すでにこっちが既存スレだろ、論理的に。
本来は、その通りなのだが・・・
「新・女傑について」というスレ名にしたのが、彼
らに余計な名分を与えてしまったのかもしれん。
ただし、既存スレの定義の解釈の違いだと思う。
323世界@名無史さん:02/05/12 19:23
>>319
2ちゃんねるのスレを私物化して他人にあれこれ
怒鳴り散らしたり、よそのスレを荒らすヤシに名分など
ない!(キッパリ)
324世界@名無史さん:02/05/12 19:24
>>319
下記を参照
>>287
>旧スレと新スレのどちらが既存スレかということなのですが・・・
>先にたてたという意味では、たしかに旧スレ側にも既存スレだと主
>張できる名文はある。
>しかし、旧スレ側が女戦士・女将軍以外の女傑を追い出したことが
>新スレがたてられた原因でもある。
>さらに、新スレがたてられた後になってから旧スレ側が女戦士・女
>将軍以外の女傑を認めたわけである。
>その意味では、新スレ側にも既存スレだと主張できる名文はある。
>つまり、既存スレの定義をどう解釈するかの違いだと思う。
>みんなは、果たしてどちらのスレが既存スレだと思う?
つまり、こっちにも既存スレだと主張できる名分があるのである。
325世界@名無史さん:02/05/12 19:29
要するにこっちの勝利だよ!
こっちが健闘したおかげで、ついに旧スレの>1も
女戦士・女将軍以外の女傑についても認めざるを
得なくなったんだよ。
あの頃にみんなが要望したことを、旧スレの>>1
受け入れたんだよ。
326世界@名無史さん:02/05/12 19:36
では今までの整理を

@ 「女傑」スレでは女戦士・女将軍に限ると言う
  ルールをたてた。
A そこに書き込んで「女傑」のスレ主に注意された
  人々が「新女傑」スレをたて一般的に偉大な業績のある
  女性を対象にスレを立てる
B 「女傑」スレに書き込んで怒られたり、
  間違った回答をされた人々がいて、みんなが嫌気がさした
C 怒った人々が「女傑」スレに煽りをいれたり
  抗議をしはじめる
D 「新女傑」スレにみんなが一斉に書き込むようになり  
  「女傑」スレは閑古鳥状態になる
E 「女傑」スレから荒らしが「新女傑」スレにくるように
  なる
F 「女傑」スレのスレ主がルールを変更するが
  誰も「女傑」スレに書かず「新女傑」スレに来る
G かまわず「新女傑」スレにみんなが書き込んでいると  
  逆切れした「女傑」スレ主(?)が「新女傑」スレの
  削除依頼を出す
327世界@名無史さん:02/05/12 19:46
>318
病がちな西施は、胸に手を当てて眉をひそめることが多かった。
その様子がまた何とも言えず風情があったので、
村の娘っ子たちがマネをし、胸に手を当てて眉をひそめて見せた。
その様を見てビックラこいた村の若もんは、逃げ出した。
以上「ひそみに習う」の故事でした。
328316:02/05/12 19:47
>318
うおぉおぉ〜!
スマソ!
俺の間違いだぁ〜!  しかもわざわざsageで書いて
くれたんかい?!
それを自分でageてる俺って・・・・(ワラ
329世界@名無史さん:02/05/12 19:48
>>314
>楊貴妃ってホントに美人だったのかねえ?
当時の感覚では美人だったのだろう?
330世界@名無史さん:02/05/12 19:54
付け加えるなら、女戦士・女将軍を語りたいなら、旧「女傑」スレより先に、
(荒れていたとはいえ)「女戦士について」というスレがあった。
だから、旧「女傑」スレ自体が重複スレである。
旧「女傑」スレでは、「女戦士」スレは荒れていたから書きたくない、とい
う論理で重複を正当化していた。
ならば、旧「女傑」スレが荒れている今、もし仮にこのスレが重複スレだと
しても、「荒れているスレには書きたくない」というまさに彼ら自身の論理
によって「新女傑」スレの存在は正当化される。
331世界@名無史さん:02/05/12 19:56
スレがどーのこーのは詰まんないから向こうでやってよ。
332世界@名無史さん:02/05/12 19:59
女傑スレも、ようやく本来の意味で女傑が論じられるようになったんだね。
333世界@名無史さん:02/05/12 19:59
>>329
>当時の感覚では美人だったのだろう?
さて、それはどうだろうね?
334世界@名無史さん:02/05/12 20:00
>>329
唐代の化粧は凄いもんがある。
真っ黒な口紅を塗ったり、頬の真ん中に真ん丸く
頬紅をいれた。
ウオータープルーフなどない時代だったから汗を
かくと顔が真っ赤になり黒いよだれをたらして
化け物みたいになったそうだ。
335世界@名無史さん:02/05/12 20:01
周の幽王は、褒の国から献上された美女に心を奪われ、
すでにいた王妃を追放し、さらに皇太子を変更した。
いかに彼女の歓心を買おうとしても、彼女は決して笑うことはなかった。
ある時、兵士の手違いから、「外敵襲来」の狼煙を上げてしまった。
諸侯が兵を率いて駆けつけてみると、ただの手違いであった。
諸侯が怒ったのはいうまでもない。
ところが、この時初めて、褒ジが笑ったのである。
味をしめた幽王は、2度、3度と虚報の狼煙を上げた。
ついには、狼煙が上がっても駆けつける諸侯はいなくなった。
この時に、あの追放された王妃の父が兵を挙げ、幽王を攻めた。
救援に駆けつける諸侯がなかった幽王は敗れ、周は一旦滅亡した。
「笑わない王妃が国を亡ぼした」という話。
オレ的には、褒ジ(女似)が美女ナンバーワンだな。
何もしないのに、美貌だけで国を亡ぼすとは。スゴ過ぎ。
336世界@名無史さん:02/05/12 20:33
帝王は女なんかいくらでも手に入るのに
1人の女に振り回されるのが出るのは不思議だな。
337世界@名無史さん:02/05/12 20:50
オスマントルコのスレイマン大帝の妃が出てないよ!
338世界@名無史さん:02/05/12 21:13
おや、久しぶりにきたらえらいことになってるね
こっちのほうが面白いのであげときます
339世界@名無史さん:02/05/12 21:20
>>234
賢人セネカがネロを良い方に導けそうな時も
あったんでしょうかね?
340世界@名無史さん:02/05/12 21:22
既存スレの方が分が悪いなんて前代未聞だねえ?
でも面白いから事態を静観しようかな!
341世界@名無史さん:02/05/12 21:55
こっちのほうが内容がはるかに濃いね。
342世界@名無史さん:02/05/12 22:04
エジプト王家は近親結婚するんですよね?
それはプトレマイオス王家になっても同じだったのか?
343世界@名無史さん:02/05/12 22:19
>>342
王の正妻の娘と第二第三夫人の息子が結婚するという
ケースなどがよくあったようだ。
344世界@名無史さん:02/05/12 22:21
ハトシェプストはトトメス1世の第一王女として生まれ,
1世の側室の男子トトメス2世と結婚した。
(つまり,ハトシェプストとトトメス2世は異母姉弟の関係にある。
第18王朝では近親結婚は珍しくなかったらしい。)
父王トトメス1世の死後,トトメス2世が王位に就いたが
彼が治世中の数年間もハトシェプストは実権を握っていたようである。
トトメス2世が在位数年で早世した後,その子トトメス3世は王位継承者だったが,
若年のため,ハトシェプストは皇太后として君臨することを許された。
やがて国王の称号を名乗り,治世は彼女の没するB.C. 1458年まで22年間
(一説に15年間)続いた。
345世界@名無史さん:02/05/12 22:23
女王はカルナックに4本のオベリスクを立てたが,現存するのはこの1本だけである。台座には各面に横書きで8行ずつ,
合計32行のヒエログリフが刻まれており,
そこで建立の事情を説明している。
一部を紹介すると,
「私は玉座にすわり,私を作ってくれた父王トトメス1世のことを思い出した。
そして私は私自身に対してこう命じた。
父王のために[トトメス1世の]大塔門の間にある堂々たる列柱室に空に
届くようなピラミディオンを戴くエレクトラム(琥珀金,金と銀の自然合金)
の一対のオベリスクを作るようにと。
私は第15年冬の第2月1日に[作業に]着手し,
翌16年夏の第4月30日まで作業を続けた。
山からオベリスクを切り出すのに7カ月を費やした。」
人々が彼女の誠実さを疑わないよう,ハトシェプストはさらに
「私は父王に素直な心をもって行動した。
それはまさに王たる者がどのような神々に対したのと同じである。
これを聞く人々は,これが私の自慢話だなどと言わないでほしい。
むしろこう言ってほしい“なんと彼女らしいことだ。
彼女は父王に対してほんとうに誠実だ”と。
神は,私がほんとうに[上・下エジプトの]二つの国の王座を支配する者
アメンの娘であり,アメンの栄光をたたえる者であることを存じておられる。」
と続けている
346世界@名無史さん:02/05/12 22:24
>>344
ハトシェプストは男装の女王ですよね。
つけひげをつけた彫像が残っていますね。
347世界@名無史さん:02/05/12 22:28
「もしクレオパトラの鼻が1cm低かったら、歴史は変わっていただろう」
かのパスカルがこう表現したクレオパトラ、詳しくはクレオパトラ7世が登場したのは、
そんなエジプトが最後の光彩を放つ時代だったのです。
彼女は当時17歳。8歳年下の弟プトレマイオス13世と結婚し、
エジプトを共同統治して平和に日々が続くかに思えました。
が、共同統治を始めて間もなく、参謀たちの策略にかかりクレオパトラは
王位を奪われ、シリアへ逃亡生活を強いられたのです。
この時、エジプトを訪れ、姉弟の争いを調停するという名目で
現れたのが、ローマの将軍ジュリアスシーザーでした。
348世界@名無史さん:02/05/12 22:29
>>326
>A そこに書き込んで「女傑」のスレ主に注意された
>  人々が「新女傑」スレをたて一般的に偉大な業績のある
>  女性を対象にスレを立てる
>F 「女傑」スレのスレ主がルールを変更するが
>  誰も「女傑」スレに書かず「新女傑」スレに来る
もし「新女傑」スレがたてられる以前に「女傑」スレの>1が
ルールを変更していれば展開はどうなったと思う?
349世界@名無史さん:02/05/12 22:33
>>348
ハア?
いまさら何言ってんだよ?
旧レスの1かい?
350世界@名無史さん:02/05/12 22:33
新手のアラシなのか?
351世界@名無史さん:02/05/12 22:34
>>348
粘着フェミ女の荒らしだな(藁
352世界@名無史さん:02/05/12 22:35
クレオパトラの近親結婚だったのか・・・・
353世界@名無史さん:02/05/12 22:37
>>352
正しくはクレオパトラ7世
映画などの影響もあってエキゾチックなエジプト美人を連想するけど
ギリシア人なんだな。
354世界@名無史さん:02/05/12 22:38
プトレマイオス朝
355世界@名無史さん:02/05/12 22:41
アレキサンダーの遠征がなければクレオパトラも生まれて
いない  と。
356世界@名無史さん:02/05/12 22:45
このスレも伸びたねえ〜。
357世界@名無史さん:02/05/12 22:48

マリー・ローランサン

パリ生まれの女流画家。ブラックの紹介で、キュビスムをはじめた頃のピカソと知り合う。
この頃詩人アポリネールとつきあう。
キュビスムや抽象、ダダなどの活動にも関わるが、軽いタッチとパステル調の
淡い色彩で描く、センチメンタルな女性像で人気を得る。
358世界@名無史さん:02/05/12 22:50
>>356
あっちは
あれダメ、これダメ、と何様のつもりだスレだったからな。
359世界@名無史さん:02/05/12 22:51
>>358
傲慢でワガママでヒステリーだったな。(藁
360世界@名無史さん:02/05/12 22:53
ここは作家・画家・芸術家・詩人・政治家・科学者
何でもあり
立派な業績を残した女性なら
でもこれが本当だろう
361世界@名無史さん:02/05/12 22:54
>>358
たしか、あっちは女将軍・女戦士だけの専用スレだったよね。
362世界@名無史さん:02/05/12 22:55
>>361
もともとはな。(w
363世界@名無史さん:02/05/12 22:55
>>361
つまり、あっちは女戦士・女将軍以外の女傑について論じたら駄目なの?
364世界@名無史さん:02/05/12 22:56
プトレマイオス王朝は現地の人と混血はしなかったん?
365世界@名無史さん:02/05/12 22:59
>>364
多少ははいるだろうが、近親結婚の意義はほかの家の
血を入れないということにあるんだから
そう激しく混血はしなかっただろう
366世界@名無史さん:02/05/12 23:00
>>363
女戦士の名前をあげても、自分の好き嫌いで
勝手にダメだなんて支離滅裂なことわめく女だったんだよ!
367世界@名無史さん:02/05/12 23:01
>>363
女将軍・女戦士だけの専用スレなんだから駄目でしょうね。
368世界@名無史さん:02/05/12 23:02
192 :世界@名無史さん :02/05/07 00:27
武則天タンについて語りたいなあ・・・


193 :世界@名無史さん :02/05/07 00:28
>>190
同意!
女傑の定義は、やはり実際に戦場で戦った女性に限ると思う。



194 :世界@名無史さん :02/05/07 00:40
>>192
このスレでは、武則天は女傑とは認められんだろうな?



195 :世界@名無史さん :02/05/07 00:45
>>194
武則天は上のほうで1がはじいてまふ
369世界@名無史さん:02/05/12 23:03


9 :1です :02/04/27 23:15
>6
>則天武后は、女傑にはいる?
今回は、入れません。
今回の女傑の意味は、女戦士や女将軍のことだよ。
370世界@名無史さん:02/05/12 23:05
>>366
>女戦士の名前をあげても、自分の好き嫌いで
>勝手にダメだなんて支離滅裂なことわめく女だったんだよ!
たぶん、女戦士・女将軍以外には興味ない奴なんだよ。
371世界@名無史さん:02/05/12 23:05
粘着うぜ〜。旧スレに去れよ、くずども。
372世界@名無史さん:02/05/12 23:06
>>371
どっちが粘着なんだよ?(大笑い
373世界@名無史さん:02/05/12 23:09
>>371
帰れよ、腐れフェミ女!
ほかのまともなフェミ女が見たら泣くぞ!
374世界@名無史さん:02/05/12 23:10
>>368
ということはここで武則天を語ってもいいわけだ。(w
375世界@名無史さん:02/05/12 23:12
エジプトの本をよんでいたら、あそこの王家は女性が王権を
相続して、男の方が婿入りするというよな記述があったんですが
どうでしょう?
376世界@名無史さん:02/05/12 23:28
>>375
ハトシェプストは 第18王朝の女王。
兄弟であり夫でもあったトトメス2世の死後、義理の息子(トトメス2世の側室の子)であった
幼い王トトメス3世との共同統治者として実権を握る。
その後、トトメス3世が若年であることをいいことに、
完全に彼を無視した独裁政治を行なう。
国内の充実を図り、ブントへの貿易を目的とした遠征隊を送った。
王家の谷に父王の葬祭殿に似せているが、
もっと規模の大きいハトシェプスト葬祭殿を建設。
彼女の彫像は、腰布を巻き、ファラオの冠を被り、
付け髭を付けた男装の姿で残されている。
よほど、女性で有ることを嫌っていたのだろう。
彼女の死後、甥のトトメス3世によって、
彼女の石造や遺物は破壊されたり、名前をすげ替えられたり
したためか、ラムセス王の作成した王名表からも外されている。
かろうじて残された遺品から、その名は確認されたが、
長い間男性の王と信じられていた。
つまり名目上は王女に王権があるように見えても
実際には女が権力をにぎると言うことは歓迎されては
いなかった。
彼女の場合、甥であり義理の息子のトトメス3世との
仲が悪かったということはあるが・・・。
377世界@名無史さん:02/05/12 23:32
ザスーリチ(ヴェーラ・イヴァーノヴナ)1849-1919
スモレンスク県の貴族の出身。トポレフ狙撃者として有名。
背はかなり低く、大きな灰色の目が印象的な理知的な顔立ち。
2人の姉の影響で革命思想を学び、69年のネチャーエフ事件の共犯嫌疑で2年間拘禁。
75年キエフ・ブンタリに加わる。
革命家に獄中で体罰が加えられていることを知り、
78年1月24日ペテルブルク特別市長官トレポフを狙撃、
陪審裁判で無罪。79年チョールヌィ・ペレヂェールに属し80年亡命。
当時農村共同体についてマルクスと文通。マルクス主義者となる。
その後労働解放団の一員として活動。
1900年イスクラ編集局員、03年メンシェヴィキ指導者。
第一次大戦を支持し十月革命に反対した。
378世界@名無史さん:02/05/12 23:36
バールジナ(Sofiya Illarionovna Bardina 1852-83)・・・・
ロシアの女性革命家。1874年スイスから帰国し、モスクワでナロードニキに参加した。
1875年五十人裁判にかけられ流刑、後に亡命した。
379世界@名無史さん:02/05/12 23:41
ペロフスカヤ(ソフィア・ルヴォヴナ)1853-81
アレクサンドル2世暗殺でつとに有名。
祖先は有名なラズモフスキー家で祖父は文部大臣、
父はペテルブルク総督を務めた。
受験勉強中チャイコフスキー派集団に参加、1872年ナロードニキとなり、
74年逮捕。大学では農民に直接の援助を与えるため薬学を修め、
看護学校を1年で卒業。77年に再び逮捕されたが無罪。
78年「チョールヌィ・ペレヂェール」に参加、
79年から「ナロードナヤ・ヴォーリヤ」執行委員会メンバーとして
皇帝暗殺計画に参加。
この時亡命を勧めた友人に「外国で無益に生きるよりも、
私はむしろロシアで絞刑に処せられた方がいい」と言い放った。
「ナロードナヤ・ヴォーリヤ」指導者で農奴出身のジュリアボフと
恋愛関係だった。
79年にはツァーのお召し列車爆破計画で自ら地雷を仕掛けるなど
テロ活動に積極的に参加。
81年3月1日、アレクサンドル2世暗殺を指揮、成功。
3月10日ネフスキー大通りで逮捕。
4月15日27歳でジュリアボフ、キバルチッチ、ミハイロフ、リサコフと共に
処刑。ギロチン社の古田大次郎ら、日本にも熱烈な支持者多し。

 

380世界@名無史さん:02/05/12 23:42
う〜ん、ロシアも女傑多し!
381世界@名無史さん:02/05/12 23:48
>>380
革命のあった国には多いと思う
382世界@名無史さん:02/05/12 23:59
で、則天武后の話になります?
383世界@名無史さん:02/05/13 00:05
400 :1です :02/05/11 20:03
まさか、私もこんな新スレ如きに負けるとは思わなかったよ!
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1020732444/l50
そこで、私は類似スレに対抗するため対策を考えたよ。
よって、今後は女戦士・女将軍以外の女傑についても認めるよ。
384世界@名無史さん:02/05/13 00:06
>>383
なんじゃあ?
385=383:02/05/13 00:07
この発言について、みんなはどう思う?
386世界@名無史さん:02/05/13 00:09
>>385
なんとも思わねえから 皆こっちに来てんだよ!
387世界@名無史さん:02/05/13 00:10
アメリア・イヤハート
第2次大戦前の伝説的女性パイロット。
1937年、世界一周飛行の途中、南太平洋で消息を断つ。
388世界@名無史さん:02/05/13 00:12
女性パイロットというとアメリアのほうが印象強いんだよな
389世界@名無史さん:02/05/13 00:13
>>383=385
また煽りですか?
390世界@名無史さん :02/05/13 00:13
>>385
旧スレの1が傲慢な信長的戦略を改めて、妥協を余儀なく
する秀吉的戦略に転換したんだろうな。
まあ、今更どっちでもいいけどね。
391世界@名無史さん:02/05/13 00:17
新スレのほうが為になるので来てます
392世界@名無史さん:02/05/13 00:19
色々な国の女性の色々な職業。
色々な生き方。


面白いです。
393世界@名無史さん:02/05/13 00:21
>>390
>旧スレの1が傲慢な信長的戦略を改めて、妥協を余儀なく
>する秀吉的戦略に転換したんだろうな。
それで失われた関係が回復する筈がないわ!
394世界@名無史さん:02/05/13 00:28
>>393
剥げ動!
あんなにひどい対応されんだぞ!
395世界@名無史さん:02/05/13 00:29
いつのまにかもうすぐ400
396世界@名無史さん:02/05/13 00:30
>>387
アメリア・ハートの行方不明についてはスパイ説も
ありましたね?
397世界@名無史さん:02/05/13 00:34
武則天  ブソクテン
字 −
生没年 624?〜705
時代 唐(周)

唐の三代皇帝高宗の皇后。姓は武,名は照。高宗の死後周王朝をたて,
中国の歴史上唯一の女帝,則天武后として知られる。
 14才のときに太宗の後宮に入り,太宗の死後,感業寺で尼となる。
太宗の後を継いだ高宗は武照をひそかに自らの後宮に入れ,
652年,太子弘を産み昭儀の地位を与えられる。
高宗の皇后王氏と側室の蕭氏の争いに乗じて,
高宗の寵愛を一身に集めることに成功すると,自ら産んだ女児を殺害し,
皇后のしわざと思わせ,655年,高宗は重臣の反対を押し切り
彼女は皇后の地位を手に入れた。
生まれつき病弱で,気の弱い高宗は武后の言いなりとなり,
弘を皇太子にすえ,皇后になる際に反対した重臣のみならず,
協力した長孫無忌などの実力者を排除し権力の掌握に努めた。
しかし,自ら前面にでて政務を執ることは避け,
高宗の玉座の後ろに簾をかけその背後から指示を出すという
「垂簾の政」を行った。
太子弘は成人するにつれ優れた資質を発揮し,人望も厚かった。
脅威を覚えた武后は675年,彼を毒殺し,弟の賢をたてる。
が,680年,賢も廃しその弟の哲を皇太子にする。
 638年,高宗が崩御すると,哲を即位させたが(中宗),
翌年にはこれを廃して,弟の旦を帝位につける(睿宗)。
これまでは,名門出身ではなく,実力者を宰相にするなどの
政治能力の高さを発揮していた武后だが,これ以降は密告を推奨し,
密告者を登用するなど酷吏を行う。
一方で,周の天子が政務を執ったとされる明堂の復元,
女帝の出現を予言したとされる『大雲経』の喧伝,
武周新字(則天文字)の制定などを行い,
690年9月9日,国号を周と改め帝位に就く。
武后の在位は15年にわたったが,
705年,宰相張柬之(チョウカンシ)らに退位を迫られて,
中宗に帝位を譲り,唐朝は復興した。
武后は上陽宮に移され,同年に亡くなる。則天大聖皇后と諡され,
その遺言に従い高宗の眠る乾陵に合葬された。
398世界@名無史さん:02/05/13 00:36
水戸光圀の「圀」という字は則天武后が作った新しい
漢字です。
399世界@名無史さん:02/05/13 00:36
>>394
>あんなにひどい対応されんだぞ!
現在なら、ああいうひどい対応はされないと思うよ。
400世界@名無史さん:02/05/13 00:37
クリスティン・ヨルゲンセン(旧名:ゲオルグ・W・ヨルゲンセン)。
1952年26歳のとき、コペンハーゲンで性転換手術(男→女)をした。
その後はナイトクラブのエンタティナーとして活躍。
手術が初めてかどうかは定かではないが、公にしたのは彼女が最初。
401世界@名無史さん:02/05/13 00:39
>>399
もう遅いって。
402世界@名無史さん:02/05/13 00:40
>>399
旧スレの1の本性が見えたからな
403世界@名無史さん:02/05/13 00:41
>>399
フェミでもいいけど、あんなに自分勝手でわがままで
見も知らぬ人を怒鳴るような1のたてたスレは願い下げだよ。
404世界@名無史さん:02/05/13 00:41
>>398
「国」じゃなかったのか?
405世界@名無史さん:02/05/13 00:44
>>399
ここでは「女傑」すれの1はものすごく嫌われてんの!
わかってんのか、
406世界@名無史さん:02/05/13 00:48
>>285
遅レスですが
1204年、ヴェネツィアとローマ教皇の策略によって、
第4次十字軍がコンスタンティノープルを攻略し、ラテン帝国を築いた。
数多くのギリシャ人が虐殺され、聖遺物が略奪される中、
ビザンティン帝国は首都をニケーア(イズニック)に移して国力を保ち、
50年後にコンスタンティノープルを奪回した。
407世界@名無史さん:02/05/13 00:50
>>302
ゴメン訂正しておく。
宇宙に行った最初の女性。
ライカ犬(シベリアンハスキー)のクドリャフカ。
地球に戻る設計はされていなかったので、宇宙にて死去。
408世界@名無史さん:02/05/13 00:54
>>406
キリスト教徒がキリスト教徒を攻めた
と評判の悪い十字軍だな?
409世界@名無史さん:02/05/13 01:05
まず、ビザンチン帝国の皇帝位継承について帝国内部で対立が生じ、
その過程で第4次十字軍をコンスタンティノポリスへ呼び入れることと
なりました。それによって、ラテン人の首都駐留という事態に至ります。
そこにおいて、ローマ法王との対立、ラテン人とギリシア人の文化的対立が生じ、
更にラテン人排斥の動きとなります。
その結果ラテン人が勝利し、ラテン人の君臨が始まり、ラテン帝国の成立に至ります。
一方、アジア側においては、ギリシア人によるニカエア帝国が存続し、
後ラテン人たちを圧倒し、東ローマ帝国の復活となります。
ラテン皇帝は計5人。1204年から61年まで57年間と半世紀続いたことを思うと、
一時的占領とは決して思えません。
1261年、ギリシア人皇帝が復活するわけですが、
その後一公国としての存在まで勢力が衰退するといっても、
紀元前に始まった帝国が、13世紀まで存続していること自体、
ローマ帝国の偉大さを感じざるをえません。
410世界@名無史さん:02/05/13 01:46
う〜ん
ここ凄いね!
411世界@名無史さん:02/05/13 01:49
旧スレで女性戦士について1さんに聞いても
納得いく答えが返ってこんのだよ。
あまりにも1さんが。無知で
412世界@名無史さん:02/05/13 01:50
江青について、ここで聞いたほうがいいいな。
413世界@名無史さん:02/05/13 01:56
マダム・タッソー。
蝋人形のすぐれた職人であった彼女は1802年ロンドンに蝋人形館をつくる。
彼女はマリー・アントワネットの蝋人形を作るため、
処刑に立会い王妃のデスマスクをとった。
414世界@名無史さん:02/05/13 01:59
虞美人が出てないなあ〜。
旧スレなら薄幸の美女というだけで
怒られたけどさ。(藁
415世界@名無史さん:02/05/13 02:02
1938年、延安にて演劇団の公演が行われた。題は「上海の血祭り」。
前年に発生した上海事変が題材の革命抵抗劇だった。
中国では内戦状態であっても上海で作られる映画は満州を含む全土に配給されていた。
演劇も同じだった。
そこで歌い踊る準主役の女優江青(当時24歳)の美貌に毛沢東は
取り憑かれた。
江青はこの時、すでに4回の結婚と離婚を経験したスキャンダル女優と
して有名だった。毛沢東は病弱な妻に離縁を申しつけ、江青と結婚した。
党主席の人倫に反する結婚に周囲は反発した。

 結婚に際し党首脳部は毛沢東に一つの条件をつけた。
けして江青を政治に関わらせてはならない。
これは後に行われる凄惨な江青の所行を予見したかのような約束だった。
416世界@名無史さん:02/05/13 02:04
江青は文革で政治の表舞台に飛び出すと、たちまち党内No.6の地位についた。
当時の江青は自分が党主席の地位に上り詰める野望を抱いていた。
特に林彪の失脚・墜落死以降は公言してはばからなかった。
しかし、毛沢東は四人組の無能さを知っていた。
党主席には周恩来が据えられた。そして毛沢東の命で、トウ小平は再び政治の表舞台に復帰した。
417世界@名無史さん:02/05/13 02:08
418世界@名無史さん:02/05/13 02:09
1966年5月毛沢東が文化大革命を発動、中高生からなる紅衛兵を煽動(せんどう)して
共産党“実権派”劉少奇・◆小平からの奪権闘争を始めたところ、
解放軍の老元帥らが反抗の構えを示し翌年「2月逆流」が生じた。
その間隙(かんげき)を縫って各地で共産党独裁を批判し
民主化を要求する労働者や新紅衛兵ら造反派が立ち上がったため、
毛は68年上半期に軍を投入して労働者組織を鎮圧し、
8月になってようやく紅衛兵組織を解散させている。
この“帝政”復古に功績があったのが毛夫人の江青
(チアン・チン、こうせい、1914−91年)。
彼女は上海市を地盤とする張春橋、姚文元ら
党宣伝スタッフに支えられて中央マスメディアを征服、
狂気の文革を扇動し、毛の軍内最大の支持者で解放軍元帥にして
国防部長の林彪と、老“皇帝”毛の後継の座をめぐって争うまでに至った。
やがて林彪クーデター(71年9月)などの宮廷茶番劇を経て、
毛が死去し(76年9月)江青ら“4人組”が逮捕されるまで(同10月)、
文革はブレーキのきかぬ慣性運動を続けた。
上海女優だった江青が毛の3代目正夫人となったのは日中戦争下の1938年
共産党“解放”区延安でのこと、やがて毛の寵愛(ちょうあい)を失い
文革期には「政治的夫婦」を自称していたという。
「映画の都」上海でスターとなる夢は日本の侵略により挫折し、
“暴帝”毛沢東との恋愛結婚は毛夫人という虚名だけを残し、
その後は権力の亡者となっていく江青
419世界@名無史さん:02/05/13 02:12
エヴァ・ペロン
政治家なのになぜ出ていないの?
420世界@名無史さん:02/05/13 02:20
♪エビ〜タ〜〜〜〜〜♪♪
421世界@名無史さん:02/05/13 11:00
映画になったね
マドンナの主役で
422世界@名無史さん:02/05/13 11:17
エヴァ・ペロン
エヴィータ  アルゼンチンの大衆から「聖母エビータ」として慕われた
元女優のマリア・エバ・ドウアルテ・デ・ペロン。
彼女は田舎の貧しい私生児として生まれた。15歳の時に女優を目指して
ブエノス・アイレスに出てきた。しかし、ラジオ番組や映画のチョイ役に
やっと出られるほどの売れない女優だった。
1944年、軍部の実力者となっていたペロンと知り合って恋におち、
45年のペロン失脚の時には労働者を動員し、デモを組織して復活させ、
労働者のアイドル的存在となった。この直後ペロンと結婚した。
46年ペロンは圧倒的な支持で大統領に選出され労働者よりの政策をすすめていく。
エバ夫人の影響も大きく、慈善団体エバ・ペロン財団の活動などで
非公式ながら政府の重要メンバーとなった。52年エバが死去。
数十年後の78年にはアンドリュー・ロイド・ウエバーが
ミュージカル「エビータ」でグラミー賞を、96年には映画
「エビータ(主演:マドンナ)」でアカデミー映画主題歌賞を獲得するなど、
エバの人気は絶えない。

423世界@名無史さん:02/05/13 11:25
今のアルゼンチンの惨状を見たらどう言うかな?
しかし彼女が長生きすたらどこかでメッキが剥げてた気がする。
424世界@名無史さん:02/05/13 11:45
もうずーっと昔のことなんで、はっきり記憶してないんだが、
テレビ(NHKだったように思う)で「エバの仮面を剥ぐ」みたいな
歴史ドキュメントをやったことがある。
彼女は本質は権力亡者で、大衆人気を利用して独裁者を目指してた。
そんな風な描き方で、最後は自ら軍を掌握してクーを計画してた、
というようなナレーションにかぶせて、軍服姿の彼女の巨大なポスターが
街角に貼り出されてる映像も出ていた。
この番組みた人いたら情報キボン。
425世界@名無史さん:02/05/13 12:06
>>403
>フェミでもいいけど、あんなに自分勝手でわがままで
>見も知らぬ人を怒鳴るような1のたてたスレは願い下げだよ。
そうだそうだ!
あんなスレ、たとえ縛りが無かったとしても・・・
私は、相手にしなかったよ!
新スレがたてられる以前に縛りが解除されていたとしても、あん
なスレで論議する気にはなれなかったよ!
426423:02/05/13 12:11
はっ、今見直したら
「長生きすたら」なんて書いてるよ、恥〜
427世界@名無史さん:02/05/13 12:18
>>402
>旧スレの1の本性が見えたからな
新スレがたてられた当時は、女戦士・女将軍を論じてくれる連中がいたから・・・
むしろ、それ以外の人は邪魔者扱いされたんだと思う。
しかし、女戦士・女将軍ネタが切れてくると連中は飽きて手を引いたのだろう。
そうなると、女傑スレは閑古鳥状態!
そこで、旧スレの1は女傑スレが女戦士スレと同じ運命を辿ることに気づいたのだろう。
そこで、今まで邪魔者扱いしていた人たちに注目し始めたのだと思う。
まあ、私は旧スレの1が態度を軟化させること自体が予想外だったけどね。
もともと、旧スレの1が勝手すぎるんだけどね。
428世界@名無史さん:02/05/13 12:46
>>423
元女優で成り上がりだからなあ〜
あのまま早死にしなかったらイメルダになってたかも。
429世界@名無史さん:02/05/13 13:42
マルコス(イメルダ・ロムアルデス) Imelda Romualdez MAR‐ COS 

故マルコス・フィリピン大統領夫人。1929年7月2日生まれ。
レイテ島のスペイン系財閥の旧家出身。
54年ミス「マニラの女神」となり同年下院議員だったマルコスと結婚。
75年マニラ首都圏知事。78年居住環境相。
82年大統領が職務を遂行できない場合代行する最高評議会の委員に
任命され、マルコスの後継者と目されたが、
アキノ暗殺事件後の83年11月22日同委員を辞任。
86年2月25日マルコス大統領辞任で米国へ出国。91年11月4日帰国。
92年5月大統領選挙に出馬、落選。95年下院議員。
98年の大統領選に出馬したが直前に取り下げ。
430世界@名無史さん:02/05/13 13:43
旧スレに対して、反対に逆削除依頼を出しといたぞ!
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/saku/982571380/l50
43199:02/05/13 13:43
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432世界@名無史さん:02/05/13 14:05
イメルダ
マラカニアン宮殿に残された靴しか覚えてない
433世界@名無史さん:02/05/13 14:06
現代、福祉の世界でソーシャルワークやソーシャルワーカーは常識だが、
20世紀初頭に初めてソーシャルワークを理論家/体系化したのが
アメリカ人女性のメアリー・リッチモンド。
福祉を学んだもので、彼女の名前を知らないものはいない。
434世界@名無史さん:02/05/13 14:13
ジャーナリストの、アグネス・スメドレーなんてどう?
上海で、ゾルゲや尾崎秀実と交流のあった人。
435世界@名無史さん:02/05/13 16:07
>>180
大黒屋光太夫
436世界@名無史さん:02/05/13 16:09
>>180
激しく遅レス、すまん



鎖国の世にロシアを見た大黒屋光太夫は、井上靖の小説『おろしや国酔夢
譚』の主人公
437世界@名無史さん:02/05/13 16:12
>>430

 彡⌒ミ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ('Θ`,, )  < どうでもいいよ...
 (  U)    \________
 (__(_)
438世界@名無史さん:02/05/13 17:44
こ、こんなところに?
439世界@名無史さん:02/05/13 19:00
>>430
どうやら旧スレは削除されたようです。
440世界@名無史さん:02/05/13 19:03
>>439
でも、抗議が出てるみたいです。
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/saku/982571380/l50
441世界@名無史さん:02/05/13 19:20
え? 旧「女傑」スレはまだ存在してるよ。
私が見ているこの時間で、この板の154番目。
442世界@名無史さん:02/05/13 19:36
ど〜でもいいよ
443世界@名無史さん:02/05/13 19:37
旧スレを残しておいたら、なぜ新スレのほうに人が集まるのか
みんな納得してくれる。
444世界@名無史さん:02/05/13 20:00
444
445世界@名無史さん:02/05/13 20:26
イメルダまだ生きてるのか?
446世界@名無史さん:02/05/13 20:27
かなりの人数が出たので整理してみました。
落とし・分類ミスは訂正してください。

【女王・女帝】
武則天、マリア・テレジア、エリザベス1世、クリスティナ女王(スエーデン)、
エカテリーナ2世、ハトシェプスト(ファラオ)、クレオパトラ7世、
イザベラ、メアリ・スチュワート、メアリ女王(イギリス)、
リリウオカラカニ(ハワイ女王)、エイレーネー(ビザンチン帝国女帝)、
447世界@名無史さん:02/05/13 20:27
【王妃・王女など】
カトリーヌ・ド・メディチ、閔氏(朝鮮皇后)、ツィタ(オーストリア王妃)、
マルガリーテ・フォン・エスターライヒ(オーストリア王女)、
アグリピッナ(ネロの母)、呂后、馬皇后、ネフェルティティ(エジプト王妃)、
テオドラ(東ローマ皇后)、ゾフィー(ハプスブルグ家)、スレイマン大帝の妃、
ポンパドゥール夫人、楊貴妃、夏姫、西施、虞、褒娰
448世界@名無史さん:02/05/13 20:28
【政治家など】
ロラン夫人(ジロンド派の女王)、宋三姉妹、ゴルダ・メイア(イスラエル首相)、
インディラ・ガンジー(インド首相)、何香凝(国民党副主席)、江青、
エヴァ・ペロン(アルゼンチン)、イメルダ・マルコス、
田中真紀子、土井たか子
449世界@名無史さん:02/05/13 20:29
【人文科学】
ヴァージニア・ウルフ(作家)、キューリー夫人、サッフォー(詩人)、
グレース・マレー・ホッパー(COBOLの母)、サラ・ベルナール(女優)、
ストウ夫人(アンクルトムの小屋)、ジョルジュ・サンド(男装の作家)、
レニー・リーフェンシュタール(映画監督)、
ヴェスワヴァ・シンボルスカ(ポーランドの詩人)、
シャーロット・ブロンテ(ジェーン・エア)、エミリー・ブロンテ(嵐ケ丘)、
メアリー・シェリー(フランケンシュタイン)、
イザベラ・デステ(ルネッサンスのパトロン)、
エミー・ネーター(数学家)、リーゼ・マイトナー(物理学者)、
フランシス・ケルシー(学者)、ロザリンド・フランクリン(DNA学者)、
エイダ・オーギュスタ(プログラマー)、マリー・ローランサン(画家)、
メアリー・リッチモンド(福祉学者)、マダム・タッソー(蝋人形)、
450世界@名無史さん:02/05/13 20:29
【革命家・スパイなど】
シャルロット・コルデー(暗殺の天使)、川島芳子、マタハリ、汪精衛、
エリザベス・ヴァン・リュー(南北戦争スパイ)、ザズリーチ、
バールジナ、ペロフスカヤ(三名ロシア革命家)、
451世界@名無史さん:02/05/13 20:30
>>446
ご苦労さんッス
452世界@名無史さん:02/05/13 20:30
【その他】
フローレンス・ナイチンゲール、ベティ・フリーダン(NOW結成)、
アサシン、ホエルス(ジンギスカンの母)、孟母、テレシコワ(宇宙飛行士)、
メアリ・ウルストンクラフト(女権論者)、ハンナ・ライチ(飛行家)、
アメリア・イヤハート(飛行家)、シンプソン夫人、ラ・ヴォワザン(魔女)、
マザー・テレサ、聖女バルバラ、マリンチェ(アステカ滅亡)、吉本せい(吉本興業社長)、
クリスティン・アンゲルセン(性転換)、クドリャフカ(宇宙犬)、
アグネス・スメドレー(ジャーナリスト)、
世宗を殺そうとした宮女たち、アメリカの宇宙に行かれなかった宇宙飛行士たち
453世界@名無史さん:02/05/13 20:33
以上です。初めてこんなことやりました。
多分、分け方とかおかしいかもしれません。
知らない人が多く、勉強になりました。
454世界@名無史さん:02/05/13 20:41
宇宙犬つうのがワラエル
455世界@名無史さん:02/05/13 20:42
ご苦労様です。
これだけのことをしてくれた人にケチをつけるようでなんですが
ご本人が訂正があればと言ってますので、言わせていただきます。
>>449は、【人文科学】ではなく、【科学】でくくった方がよかった
と思います。
キュリー夫人など物理学者や数学者は、人文科学ではなく自然科学
ですから。
456世界@名無史さん:02/05/13 20:46
1つだけ訂正
汪精衛夫人の陳璧君
です。
書き方がややこしかったですね、スマソ。
457世界@名無史さん:02/05/13 21:29
そうそう、こういう礼儀や優しさが旧スレの1には
決定的に欠けてるところなんだよな。
458かちゅ〜しゃで書き込めた!:02/05/13 21:44
>>453
乙かれさま〜なのです。

はじめてこのスレ見ましたけど、こーゆーふーに整理されてるととってもわかりやすいです。

んで、革命家のトコみると大物が抜けてるですね。

ここは「ローザ・ルクセンブルグ」をぜひ追加してホシイです。

ドイツの革命家で、スパルタカス・ブントの指導者。
レーニンがだめならローザがいるさと新左翼に持ち上げられてましたけどなんか女々しい
詩を書いていたような気もするんですけどだれか知りません?
459世界@名無史さん:02/05/13 21:51
旧スレ落ちそうなので

 1.秋瑾とは
  秋瑾−清朝末期の民族主義者、美貌の革命家。その情念を詩歌に託した。
満洲民族の王朝・清朝を打倒し、漢民族の国家を再興しようとした。
しかし、事敗れ、刑死する。時に、三十一歳であった。
古い伝統に抗した、女性解放の闘士でもあった。
巾幗の英雄・鑑湖女侠とも云われたように、英豪の気概溢れる才媛で
ある。
 

 2.秋瑾の略歴
   秋瑾、本来の名は閨瑾だが日本留学時代に閨字を取って秋瑾とし、
以降、これで通す。字は卿。
時に競雄とも号し、鑑湖女侠とも呼ばれた。
彼女は、光緒元年(一八七五年)十一月八日(陰暦十月十一日:異説五種あり。)
福建省侯県の官吏の家に生まれた。
秋氏の本籍は、陸游と同じ浙江山陰(現紹興)。四人兄妹の二番目で、
父は専門の家庭教師を子供達に付け、秋瑾の成績は、兄妹中で最も聡明であったという。
そのため、父は彼女をとりわけ可愛がり、自ら唐詩、宋詞を教えた。
結果、十一歳で詩を作ったという。
460世界@名無史さん:02/05/13 21:53
一六,七歳の頃、故郷の紹興へ帰ったが、そこで彼女は学業の余暇に親戚の者より、
拳法、棒術、剣術、短い棒術、騎馬等を積極的に修得していった。これも彼女らしさの萌芽であろう。
一八九六年、四月(異説三種あり)、二十二歳の時、王家に嫁いだ。
しかし、秋瑾は婚家と夫・王廷鈞が吝嗇であるばかりか、薄情でもあり、
守銭奴の様相を呈していたという。
もっとも、夫が実際にその通りだったか、どうかは別として、
秋瑾は、そのように感じていたことは事実である。
彼女の結婚生活は、不満と鬱屈と憤りの日々であった。
恐らく価値観に大きな差異があったのだろう。
 日清戦争を経て、一九〇〇年、北清事変(義和団事件)で列強への宣戦布告。
それに伴う八ヶ国連合軍の北京占領と、秋瑾は、自分の祖国へも目を向けることとなった。
 このころ、夫との間も冷え、夫の古い因習的な女性観にも反撥を感じていた秋瑾は、
先ず叛逆の第一歩として、三寸金蓮と呼んで、世の男が尊んでいた纏足からの解放であった。
纏足からの解放は、自分だけではなく、「天足会」(自然の足の会=反纏足の会)を通じて、
外の女性へも働きかけていった。
そればかりではなく、女の装いをする事を嫌い、男装して背広、革靴、
鳥打ち帽という姿をし出した。男装の麗人の出現である。
この頃、自ら競雄と号しているが、その思想と行動がよく理解できる号である
(競雄:男と雄(雄々しさ)を競う)。
461世界@名無史さん:02/05/13 21:56
やがて、秋瑾は常に男装をして過ごすようになったが、
その一年ほど後、夫との結婚生活も終局を迎えた。
この頃、京師学堂の日本人教師の服部博士の夫人である服部繁子や
知り合いの妾の日本人女性から、日本の富強の原因や経過の状況を聴き、
また、日本の女子教育の現状を知るに従い、救国のため、、自己の自立のため、
女性解放のため、日本に留学して、先進的な知識と
学問技芸を身につける必要を感じた。
これはひとり秋瑾のみではないことは、北清事変当時(1900年)の
日本留学生数が、四年後の秋瑾渡日の(1904)年には、
約十倍になっていることでも分かる。
このころの詩に寶刀歌や寶劍歌があり、その軒昂たる意気と愛国の至情が伝わってくる。
「寶劍歌」の「世無平權祗強權, 話到興亡眦欲裂。 千金市得寶劍來,公理不恃恃赤鐵。
死生一事付鴻毛, 人生到此方英傑。」 を見ても分かるとおり、武力で以て
、国家を倒すことを歌っている。
やがて、日露戦争の年に日本に渡った秋瑾は、日本留学の中国人学生の間に広まっていた
民族主義の革命運動(現在の社会主義革命とは別物。
天命を革(あらた)めること)に触れ、革命組織に加わることになる。
そこで秋瑾は、本来の名である閨瑾から閨字(閨は婦人の意)を取り、瑾とした。
つまり、女を取り去った。日本には二年しか居なかったが、
ここで秋瑾は、革命家として大きく成長する。
帰国後、革命家としての彼女の人生は、ここから始まった。
光復軍を組織し、武器を蓄え、武装蜂起の準備をしていた。
彼女の人生は、その末期に苛烈に燃え上がり、その一年半後には、
紹興の軒亭口にて若くして燃え尽きた、とも謂える。
462世界@名無史さん:02/05/13 22:02
旧スレで武侠小説マニアにつっかかってた秋瑾ファンの人もこっちに来たか。
別にいいんだけどね。
旧スレに書いてた人のほとんどが結局こっちに来てるような気がするなあ。
それはともかく、気がつけば、この新スレ、レス数で旧スレを追い越してるね。
463世界@名無史さん:02/05/13 22:07
>>459
>旧スレ落ちそうなので
旧スレは、既に倉庫にいってるよ。
464世界@名無史さん:02/05/13 22:09
蔡元培
当時の中国を代表する知識人の一人である。
彼は、科挙試験の最高位を究めた人物で、翰林院に籍をおいていたが、
政治改革の願望を 断ち難く、また、西洋学術の輸入・紹介の意欲を打ち消し難く、
ついに、官僚としての立 身出世の道を自ら放棄し、南洋公学における教職を志願した。
彼が校長を務めていた愛国女学校では「愛国女学校では優等生にフランス
革命史やロシア虚無党の歴史を教え、理化学に時間を割いて
爆弾製造の技術を教えた」


これ女性テロリストの養成学校?
465世界@名無史さん:02/05/13 22:10
>>458
ローザ・ルクセンブルグも旧スレにあったんですけどね?
また書いときましょうか?
466世界@名無史さん:02/05/13 22:11
問題ばかりの既存スレよりは、優秀な新規スレの方が認められるんだね。
今回は、その良い例になったね。
467世界@名無史さん:02/05/13 22:17
ルクセンブルグ・
 ローザ
Luxemburg.Rosa


1871.03.05-1919.01.15
【女性革命家/ドイツ】
 
 ポーランドに生まれ、革命家の亡命地チューリヒで政治、経済学を学ぶ。
1893 ポーランド労働者運動を指導
1897 ドイツに移り社会民主党内で修正派と闘い、大衆ストライキの戦術的意義につい
   て対立、党機関から追放。
1914 第一次世界大戦勃発とともに右傾した社会民主党を離脱。
1916 非合法団体”スパルタクス”
   を結成、反戦活動を行う。
1918 逮捕されるがドイツ共和国の誕生で釈放。
1919 スパルタクスはドイツ共産党を名乗り、大衆行動を指導し
   1月20万人を動員して各地を占拠したが、政府軍に鎮圧され、
   彼女はらえられて虐殺された。
   ときに48歳。
468446:02/05/13 22:20
>>455-456 ご指摘ありがとうございます。
新しい人がどんどん出てきているので、次回整理するときは訂正します。
(もちろん他の方が整理も大歓迎。コピペもちろん可)。
他、レスをくださった方たちもありがとうございました。
疲れるより楽しかったです。
469世界@名無史さん:02/05/13 22:22
スパルタクス団は戦時中は独立社会民主党に属していた。
独立派は戦時中、和平提案受け入れを主張し多数派から分裂した。
指導者はカールリープクネヒトとローザルクセンブルグで、
1918年10月からの騒乱で街頭に出て演説し
デモ隊のリーダーとなったのはリープクネヒトだった。
その後もリープクネヒトは一貫して武装蜂起を主張し
ルクセンブルグはむしろ抑える方にまわった。

また社会民主党(多数派、独立派)とスパルタクス団を分けるのは、
目先では議会廃止か否かだった。
ただ議会に代わりレーテ(評議会=ソビエト)に権力をという主張を
行ったがレーテ多数派は常に社会民主党の指導下にあった。
470世界@名無史さん:02/05/13 22:28
>>457
>そうそう、こういう礼儀や優しさが旧スレの1には
>決定的に欠けてるところなんだよな。
折角、旧スレの1の方が先にスレをたてていたのになあ。
471世界@名無史さん:02/05/13 22:30
>>470
旧スレの1さん?(w
472世界@名無史さん:02/05/13 22:50
レーニンはローザを評価してるようだが、一般的には
ソ連寄りすぎってことない?
473世界@名無史さん:02/05/13 23:10
>>462
ヽ(`Д´)ノ!ウワァァン  俺じゃないよう!
しかも俺のより詳しいよう!!





>>459=461
サンクス!
474世界@名無史さん:02/05/13 23:13
>>472
ソ連寄りもなにも、当時、共産革命を目指してた人たちの意識は、
「ソ連と共に世界に理想の社会を築こう」ってことですから。
今となっては実感ないけど、当時の人たちは、真剣にソ連主導に
よる世界革命を怖れていたんですよ。
アメリカの赤狩りもその恐怖の裏返し。
475世界@名無史さん:02/05/13 23:20
女傑というイメージとは、だいぶ違うけど、それなりに鮮烈なイメージのある女性ということで、
シモーヌ・ヴェイユはどうでしょうか。
まぁ、同じシモーヌでもシモーヌ・ド・ポーポワールよりはずっと尊敬に値する生き方をした人
です。
同姓同名で、実際にも従姉妹だったか姪にあたるんだったか、フランスの閣僚になった人も
いましたね。
476世界@名無史さん:02/05/13 23:24
>>475
つーか、ご本人が自由フランス亡命政府の閣僚になってなかったっけ?
477世界@名無史さん:02/05/13 23:31
>>476
とりあえず、コピペで略歴なぞ。

ベイユ Simone Weil 1909‐43

フランスの実存的思想家。ユダヤ系の医師を父にパリに生まれ,エコール・ノルマル・シュペリウール
を卒業後,ル・ピュイ市の高等中学校哲学教師となる。
ここでサンディカリストと交わって労働組合運動を支援した。 34 年 12 月から翌年 7 月までアルスト
ムとルノーの工場で現場の生活を体験し,彼女自身の激しい頭痛と不眠がこれに合わさって〈人間の
悲惨〉をなめつくしたという。
その後再び教師生活にもどったが,スペイン内戦のさい人民戦線派義勇軍に応募した。 38 年ソレム
の修道院で〈苦しみのうちに神の愛を愛するキリスト受難の思想〉を深く体験したという (《ペラン神父
への別れの手紙》)。 40 年ドイツ軍によるパリ陥落後マルセイユに行ってペラン神父を知り,農民哲学
者として知られたティボンGustave Thibonとも交わった。
42 年アメリカに亡命し,その後ド・ゴールのひきいる自由フランス軍に加わるべくロンドンに渡ったが,
過労に倒れて客死した。
ベイユは,資本主義のみならず社会主義にも食い込んで国家をも労働組合をも支配する官僚主義を
〈党派〉〈太った動物〉と呼んで批判し,身をもってその罪悪を味わったのであるが,苦難のなかで〈恩
寵の重力〉と〈待ち望み〉を学んで,霊魂の普遍的共同体を求めつつ歩いた。
G.マルセルは彼女を〈絶対的なものの証人〉と呼んで実存思想家のひとりに数えている。
主著として《重力と恩寵》 (1947),《超自然的認識》 (1950), 《神を待ち望む》 (1950) などがあり,邦訳
も多くなされている。なお,数学者アンドレ・ベイユはその兄。


これ見ても、亡命して自由フランス側に参加していたことはわかるけど、それ以上はちょっとわから
な。
もっとも、シモーヌ・ベイユを評価するのに、大臣になったことがあるかというのは関係ないような気
がするけど。

478世界@名無史さん:02/05/14 00:36
ヴィクトリア女王がでてませんな?
本人が直接政治をとってたわけじゃないけど
あの子沢山でヨーロッパ各地に子孫と血友病の遺伝を
残した。
479世界@名無史さん:02/05/14 00:47
マーガレット・サッチャーはヴィクトリア女王と
比べられることを喜んでいた。
480世界@名無史さん:02/05/14 00:47
ヴィクトリア女王の子孫たちは、血友病の患者が数多く出た事で
知られていますが、
女王の両親及びその祖先、
そして女王の夫君アルバート公は健常者であったので、
恐らくヴィクトリア女王本人が突然変異か何かによる
血友病遺伝子の保因者であったのだろうと言われています。
女王の9人の子供たちのうち1人が患者(男)、3人が保因者(女)で
、彼らを通して血友病はヨーロッパの王室に広がり、
さまざまな悲劇を引き起こしました。
以下の系図では、女王の子孫たちの中で血友病の患者及び保因者で
あった人々のみを取り上げています。
(なお、現在では血友病患者であった男子は全て子孫を残さずに死亡しており、
血友病の遺伝子は絶えたとされています)

   





                                                          
481世界@名無史さん:02/05/14 00:51
夫のアルバート公がしっかり者で、女王を支えていた。
482世界@名無史さん:02/05/14 01:00
ヴィクトリア女王。
キレイ!カワイイ!(若いとき限定)。
483世界@名無史さん:02/05/14 01:01
>>481
公が亡くなってからはずっと喪服だったんですよね?
484世界@名無史さん:02/05/14 01:06
>483
未亡人になってからはアルバート公の待僕
ジョン・ブラウンと恋におちたらしい。
485世界@名無史さん:02/05/14 01:15
>>482
小柄だったそうだ
486世界@名無史さん:02/05/14 01:24
ロシアでアレクセイが血友病じゃなかったらラスプーチンの
台頭もなく、ロシア革命が遅れてた





かな?
487世界@名無史さん:02/05/14 01:42
>>436
その作者を井上ひさしと思ってた折れは逝ってヨシ
ですか?(ワラ)
488世界@名無史さん:02/05/14 12:28
>>487
ワラタ
489世界@名無史さん:02/05/14 12:30
ラスプチーンには毒入りのワインも彼には効き目がなく、
4発のピストルが撃ち込まれ、最後に棍棒で頭を砕かれて、
その死骸はこもで巻かれてネヴァ川に放り込まれた。
3日後に氷の下から死体が引き上げられたとき、
両肺は水でいっぱいであった。
川に放り込まれたときも息があったのである。
490世界@名無史さん:02/05/14 12:47
伝説的だな
ロシア人は今ですらそうだが、そういう神秘主義に傾きやすい
傾向がある
491世界@名無史さん:02/05/14 13:56
そういやアナスタシアは本物だったの?
492世界@名無史さん:02/05/14 18:37
ジョージア.オキーフ [ Georgia O'keeffe ] 1887.11.15−1986.3.6

アメリカの女流画家。ウィスコンシン州サン.ブレイリーの近くに生まれ、
ニューメキシコ州サンタフェで没。シカゴ美術研究所、
アート.スチューデンツ・リーグ、およびコロンビア大学でダヴに学び、
ダヴの自然を擬抽象的に捉える作風に強い影響を受ける。
1924年スティーグリッツと結婚。自然の事物を画面に大きく取り扱った幻想的な作品を描いた。
代表作「牛の頭蓋骨−赤、白、青」(1931、メトロポリタン美術館)。
493世界@名無史さん:02/05/14 18:39
アメリカ南西部、ニュー・メキシコの村ゴーストランチ。
ここに、画家ジョージア・オキーフがその生涯の大半を過ごした家がある。
1929年に初めてこの地を訪れたオキーフは、アメリカ精神誕生の地といわれる
ニュー・メキシコの、果てしなく荒れ地が続く風景に魅せられ、
半世紀をここで暮らした。

 20世紀を代表する女流画家、ジョージア・オキーフ(1887−1986)。
女性的な線の巨大な花や砂漠の骨など独自の画題を、鮮やかに描いた。
フェミニズムを先取りしたような自信と独立心にあふれた生き方も、
伝説となっている。
494世界@名無史さん:02/05/14 18:43
オキーフ、良いねえ、
サンタフェに美術館あったね?
495世界@名無史さん:02/05/14 19:00
エリザベト・ヴィジェ・ルブラン
Elisabeth Vigee-Lebrun
フランス 、 1755-1842
パリで、肖像画家である父親と美容師である母親との間に生まれる。
父親は彼女が15歳の時に亡くなったが、彼女が描く肖像画で、
母親と弟は生活していた。
彼女の評判はすぐに上がり、貴族や社交界から注文を受けるようになる。
その中には、ロシアの皇帝のナンバー3とうたわれた人物もいる。
女王マリー・アントワネットに気に入られ、多くの肖像を描いた。
フランス革命勃発後は、フランスを離れ、ヨーロッパ各国を旅し、
先々で、肖像画家として成功した。
496世界@名無史さん:02/05/14 19:08
>>492
この人写真見た時先住民の血が入ってるのかと思った。
エキゾチックな美人だ。
497世界@名無史さん:02/05/14 20:11
>>337
遅スレになりましたが。

オスマントルコのスレイマン大帝の妃、通称ログサリーナ
ですね?
ロシア出身の女奴隷でスレイマンの寵愛を受け
自分の子ではない皇太子ムスタファを殺害、ムスタファを
支持していたスレイマン大帝の右腕イブラヒム・パシャも
殺して、自分の子を皇太子につけます。
しかし彼女が愛したバヤズィットではなく、セリムが跡を継ぎ
オスマントルコは衰退への道を歩んでいきます。
498世界@名無史さん:02/05/14 20:32
>>497
写真をみたことがある
あまり美人とは思わなかった
499世界@名無史さん:02/05/14 20:51
>>491
俺はウソ臭いと思う
が、彼女の真贋については当時の王侯貴族間でも
意見が真っ二つに分かれたそうだ
500世界@名無史さん:02/05/14 20:55
ロシア帝国ロマノフ王朝最後の皇帝
ニコライ二世の遺骨のDNA鑑定

1891年 (明治24年)、滋賀県で津田三蔵巡査がロシア皇太子ニコライに刀で切りつけ負傷させた。
当時の松方内閣は対ロシア外交を考慮して津田の死刑を要求したが、
大審院長児玉惟謙は司法権の独立のために拒否した。
これが世に言う大津事件で、博物館に今も証拠品が保存されている。
ニコライは1894年に、双頭の鷲の紋章で知られるロシア帝国ロマノフ王朝の
第18代皇帝ニコライ二世として即位したが、日露戦争で破れ、
1917年の二月革命 (三月革命) で皇位を追われてシベリアの
エカテリンブルクに流された。
翌1918年に、アレクサンドラ皇后 (当時46歳。ニコライ二世は50歳)、
皇女オルガ (23歳)、皇女タチアナ (21歳)、皇女マリア (19歳)、皇女アナスタシア (17歳)、
皇太子アレクセイ (14歳) と4人の従者とともにボルシェビキに
処刑された (射殺、銃剣による刺殺、あるいは銃床の床尾による撲殺と言われる)。
いったん埋められたが、白ロシア軍の接近に伴い遺体を隠ぺいするために、
(目撃証言によれば) アレクセイと女性1人の遺体は灰になるまで焼かれ、
他の9人の遺体はどこかに埋めなおされ、行方不明となった。
皇帝一家の遺体が発見されないことがいろいろな憶測を呼んだ。
皇帝や皇女、皇太子が実は生き延び、国外へ脱出したという噂が飛び交い、
世界中から自分が第4皇女アナスタシアであると主張する女性が続出した。
その代表がアンナ・アンダーソンである。
彼女は1938年にドイツの法廷に自分の出生の証明とニコライ二世の
遺産の相続権を主張して訴え出、筆跡鑑定人や法医学者などの専門家が
その訴えを支持する鑑定結果を出したが、
1970年に証明不能であるとして棄却された。
アンナは1984年に死亡したが、90年代になって遺髪や組織のDNA鑑定が行われ、
アナスタシア本人ではないと証明された。
しかし今でもDNA鑑定された資料が本人のものでないと異を唱える人が
いるらしい。
501世界@名無史さん:02/05/14 20:59
おや、500
すぎたな
502世界@名無史さん:02/05/14 21:21
>>501
そうやって文句をつけようと思えばいくらでも
つけられる。
実際にはアナスタシアの真贋によっていろいろな
方面に影響が出るので信じる、信じないと言う2手に
別れたらしい。
503世界@名無史さん:02/05/14 21:33
>>497
ログザリーナ、トルコじゃ評判悪い
イスタンブールに行った時、スレイマンのことを話してたら
みんなが「あの女は魔女だ!」なんて
言ってたね。
大して美人でもないのに大帝をたぶらかして、
政治を混乱させた女とみなされてるらしい。
504世界@名無史さん:02/05/14 22:19
>>495
ヴィジェ・ルブラン。
自画像凄い美人!
505世界@名無史さん:02/05/14 22:22
>>504
彼女はマリー・アントワネットの肖像画を描く時
カナーリ美人に描いたらしい。
とはいえ,ほかの人の証言もあるので
本当に美しかったのだろう。
506世界@名無史さん:02/05/14 22:33
伝説の存在だが与那国島の英雄サンアイ・イソバ(15世紀)。
島を襲った宮古軍を撃退。
その後は酋長として、人減らしの悪法(妊婦に岩の割れ目ジャンプさせるなど)を
止めさせ、水田・牧畜を奨励し、与那国を統一した。

507世界@名無史さん:02/05/14 23:26
まだ歴史になっていないからダメ?
アウンサンスーチー

<某所よりコピペ>
1945年ビルマ、ラング−ン生まれ。「ビルマ独立の父」アウンサン将軍の娘。
60年母キン・チ−のインド大使着任に伴いインドへ。高校卒業後一時ニュ−デリ−の
レディ・シュリ・ラム・カレッジに在籍した後、イギリスへ渡りオックスフォ−ド大学に進む。
大学卒業後69年から71年までニュ−ヨ−クの国連本部で働く。
72年ヒマラヤ文化研究家で、大学時代の知己、マイケル・アリスと結婚する。
結婚後はブ−タン、ネパ−ルにも滞在。
73年に長男アレクサンダ−、77年次男キムが誕生。
85年から86年にかけては京都大学東南アジア研究所の客員研究員として
日本に滞在。
88年3月母の看病のため、民主化運動の燃え盛るビルマへ帰国。
7月20日国営新聞は前日におこなわれた政府主催のアウンサン将軍追悼式に参加した
アウンサンスーチーの写真を大きく掲載した。「建国の父」の娘として伝説的ですらあった
彼女がビルマに戻っていることを知った民衆は、民主化運動への合流をアウンサンスーチーに要請、
8月26日シュエダゴンパゴタで約50万人の民衆を前に初めて政治的な演説を行う。
9月27日、「国民民主連盟」(National League for Democracy)を結成。
90年5月総選挙でNLDは80%を越える議席を獲得したが、軍事政権はこの結果を無視し、
現在も国会を開催していない。
 91年にノ−ベル平和賞を受賞。しかし1989年から国家防御法により自宅軟禁を受けていたため
授賞式に出席できなかった。
一時の中断を経て、移動や外部との接触禁止など実質的軟禁状態が続く、激しい弾圧の下
におかれている。

(うーん少女漫画ネタ向きの波乱万丈の人生だと思うけど、
まだ見かけたことないなあ)
508世界@名無史さん:02/05/15 01:19
フランク王国の女性の王妃達の話が出ていない

「ニーベルンゲンの歌」の中で、悲劇の発端の一つを担うものが
プリュンヒルトとクリエムヒルトの「女の争い」だ。
2人の貴婦人の、威光とプライドをかけた醜い言い合い…。
 この原点とされるのが、フランク王国の歴史である。
フランケン人には、国を子供の間で分割相続するという相続法を使っており、
この時も、国は3人の兄弟によって分割統治されていた。
アウストリエンを治めるジゲベルト(ジキベルト)の妻は、
西ゴート族の王アタナギルトの娘、ブリュンヒルト。
対して、ノイストリエンを治めるヒルベリク(ヒルペリッヒ)の妻は、
同じフランケン族の、あまり高貴ではない血筋の娘、フレーデグンテだった。
異民族とはいえ王女であるブリュンヒルトは、フレーデグンテを見下そうとし、
互いにいがみ合い、不和を深めることになる。
もちろん、このブリュンヒルトは「ニーベルンゲンの歌」に登場する
プリュンヒルトのモデルであり、異民族の王女という点においても
一致している。
 
ただ、フレーデグンテはクリエムヒルトではない。
争い相手としてのフレーデグンテの「役割」はクリエムヒルトに継承されたが
、その性格や所業までもは継承されなかったようだ。
ヒルベリクとフレーデグンテの関係は、もつれにもつれている。
既に妻がいたにも関わらず、ヒルベリクは、愛人フレーデングンテと
結婚したいがために先の王妃アウドヴェラを追放する。
にも関わらず、兄の妻、ブリュンヒルトの持つ財産に心惹かれ、
フレーデグンテを再度追放して、さらにブリュンヒルトの姉・ガルスウィンダと
結婚しようとするのだ。
だが、これを快しとしなかったフレーデグンテは、ガルスウィンダを暗殺。
ムリヤリ、王妃の座に収まってしまう。
このような経緯を考えるなら、ブリュンヒルトとの仲が険悪になるのも当然だろう。
身分の違い云々が無くても、2人は仇同士なのだから。
姉の復讐に燃えるブリュンヒルデにささのかされた夫・ジゲベルトは
ノイエトリエンに攻め込むもフレーデグンテに暗殺され、
アウストリエンの実権はブリュンヒルデの手に落ちる。
一方で、フレーデグンテも、不甲斐ない夫を自らの放った刺客によって暗殺、
ノイストリエンの実権を手に入れた。
509世界@名無史さん:02/05/15 01:31
中世の貴族の女性もなかなか偉丈夫(偉丈妻?)だったらしい
夫画十字軍に従軍する例が多かったから。
510世界@名無史さん:02/05/15 01:36
マーガレット・サンガー
産児調節運動をおこし、避妊を普及させる運動を行う。
多くの女性の子沢山による貧困地獄からの脱却を促した。


来日したこともある。
戦前の(特に戦争中は)産児調節を勧めた女性は投獄
されたらしいね。
あの加藤シヅエがそうらしい。
511世界@名無史さん:02/05/15 01:42
加藤シヅエも女傑?
日本人なのでここにはいれんけど
512世界@名無史さん:02/05/15 03:16
太平天国には「女営」というものがあって女兵が活躍したと伝えられています。
その中でも特に有名なのが洪宣嬌という女性です。彼女は天王洪秀全の実妹で
もともと縄妓であったといわれています。李自成の参謀と伝えられる李巌の彼女
の紅娘子も縄妓ということになってます。その方が話が面白くなりますものね。
太平軍の中核となっている客家は元来の風俗として纏足してませんから、軽業に
向いてるってわけでしょう。彼女は女営の将軍として赤馬に乗り双剣を振るって
指揮したそうです。広東の金鶏嶺という山には洪宣嬌の錬兵城というのもあって↓
http://203.161.229.88/OTA/china_attraction/cn_jingjiling/jingjiling.htm
御覧のように彼女の颯爽たる石像も立ってます。
太平軍の女英雄としては蘇三娘や胡九妹とかもいて、彼女等は小説・電影・電視の
好個のキャラとして持て囃されています。洪宣嬌は花木蘭・穆桂英・梁紅玉と共に
四大女英雄なんだそうです。
なお太平天国で実施されたとする女科挙では傅善祥が女状元として有名です。
ところが近時の研究では洪宣嬌や女営や女科というものには、概して否定的か
懐疑的です。
513世界@名無史さん:02/05/15 03:17
テロワーニュ・ド・メリクール
ベルギー生まれ。フランス大革命に感銘を受け、それまでの生活(高級娼婦だっ
た)に決別。乗馬服で男装し、腰にはサーベル、ベルトに2丁の拳銃、鍔広帽
子といういでたちでパリの街を歩いた。そして、革命のために女性も戦おうと
呼びかける。1792年8月10日のチュイルリー宮殿襲撃には、実際に彼女自身も
参加した。
しかし結局は、革命後も男性社会であり、女性の武装化を主張する彼女は周囲
に受け入れられず、そのため彼女は精神病となり、精神病院に収容されて、そ
のまま正気に戻ることなく没した。
514世界@名無史さん:02/05/15 03:20
唐賽児
明初に生まれ。
弥勒菩薩を熱心に信仰し、夫の死後、夫の墓参りに行った帰りに、
石の箱に入った宝書と神剣を得て、鬼神を使役するなどの奇跡を起こす。
彼女の信者はかなりの地域に広まった。
永楽18年、山東を襲った災害が引き金となり、浜県の農民数千人が放棄し、
この反乱軍を指揮したといわれる。

朝廷は高鳳を派遣し、鎮圧をはかるも逆に撃退され、高鳳は戦死。
唐賽児の同志である董彦杲らも蜂起し、筥、即墨を攻め落とし、安丘を包囲した。
事を深刻に受け止めた朝廷は、安遠侯、柳升を総司令官とする精鋭部隊を投入、
唐賽児の拠点を包囲した。
唐賽児は偽りの投降をして官軍を油断させ、寝入ったところを急襲し、
混乱に陥った官軍は、副司令官、劉忠を流れ矢で失う。
柳升は夜が明けてから事態に気づき、あわてて反乱軍を追うも、
男女あわせて100人あまりを捕獲しただけであった。

その後も、反乱軍は安丘を攻撃するも城は落ちず、
筥、即墨の民衆を集め1万の兵を編成し、安丘を再度攻撃した。
されど、山東海上で倭寇に備えてた衛青が安丘を救援するため、、
1000騎の率いて昼夜を問わず走らせ駆けつけ、
2度に渡る戦いのあと、反乱軍を撃退。
王真も150人の兵を率いて諸県の反乱軍を掃討し、ついに平定された。
朝廷は唐賽児を捕獲しようと、全国をくまなく探すも見つからなかった。

朝廷は唐賽児を妖婦と呼んだが、唐賽児は仏母と称してたという。
515世界@名無史さん:02/05/15 03:21
13世紀のエジプトの女王(スルタナ)。
十字軍に追い込まれ王が死ぬが、王妃である彼女は王の死を隠し、
十字軍を破り、ルイ9世を捕虜にする。
この功績が認められ、女王に推戴される。
アイバクと結婚し、彼をスルタンにするが実権は握り続ける。
権力争いから夫を殺すが、彼女も夫の前妻に殺される。
516世界@名無史さん:02/05/15 03:21
マーガレット・アンジュー
サフォーク公ウィリアム・デ・ラ・ポールの愛人でヘンリー6世の妃
軟弱なヘンリー6世に代わってランカスター派を支えた
1471年のテュークスベリーの戦いで敗北して追放された
ヨーク家やウッドヴィル家の人たちに呪いをかけた人
517世界@名無史さん:02/05/15 03:23
ヴァレリア・ホミヤコヴァ
ソヴィエト第586女子戦闘機連隊
ソヴィエト 世界で始めて空中戦で敵機を撃墜した女性。
518世界@名無史さん:02/05/15 03:25
カタリーナ・エランツァオ
カリブ海の女海賊
イスパニア(スペイン)出身
時代は、大航海時代
519世界@名無史さん:02/05/15 03:28
タイ四大女傑
タイには「ゆりかごも揺すれば刀も振り回す」という言葉がある。
つまりタイの女性は普段は良妻賢母だが、
いざとなったら勇敢に戦うということである。
「確かに強いよ」、とつぶやく男性も多いだろう。
立派な王様もいるが、少なからぬ女傑もここに紹介しよう。

タオ・スラナリー

タオ・スラナリーは本名モー夫人といって、
当時のナコーンラーチャシーマーの副知事夫人。
1826年、ラオスのアヌ王はベトナムに後押しされて
タイに反旗をひるがえし、イサーンに攻め込み、
ナコーンラーチャシーマーに達した。
このとき知事はじめ首脳陣はシーサケット方面にでかけていたため
町はすぐに攻め落とされ、モー夫人共々たくさんの住民が捕虜となって
ビエンチャンに連行されそうになったが、
途中ピマーイ郡のサムリットで泊まった時、
一計を案じたモー夫人は敵兵を酒食でおおいにもてなして油断させ、
皆で逆襲してラオス軍を追い散らした。
さらに砦を作って、反撃してくる敵を相手にバンコクからの援軍が
来るまで持ちこたえ、ついにラオス軍を撤退させた。
この功績によりモー夫人はラーマ3世からタオ・スラナリー(
「勇敢な女性」)という称号を賜り、
タイ国4大女傑の一人として今もおおいに住民の尊敬の的となっている。

シースリヨータイ王妃
16世紀半ばアユタヤ時代のチャックラパット王の妃。
王は1549年に侵攻してきたビルマ軍と交戦し、
象に乗ってビルマのプレー王と対戦したが劣勢となった。
男装してやはり象に乗り参戦していた王妃は間に割って入って
夫の危機を救ったがプレー王の刃にかかり戦死を遂げた。
難を逃れた王は二人の王子とともに王妃の遺体をアユタヤに運び
仏塔を建てて手厚く葬ったという。
タイ女性の鑑として讃えられている。

タオ・テープサトリーとタオ・シースントン

18世紀末のプーケット知事トーンカムの娘。
父なきあと長女チャンの夫が知事となったが、
この夫もあいついで亡くなって手薄なところに
ビルマ軍が攻め込んできた。
チャンと妹のムックは子供の頃から武術を身につけていたので、
住民を指揮してこれを撃退した。
プーケット・タウン郊外に二人の銅像が建っている。
520世界@名無史さん:02/05/15 03:31
 ベトナムでは女性が強い。
生活は昔も今も苦しいが、家庭内のことはきちんと処理するし、
その上生活費までも稼ぎ出す。それでいて不平の一つも言わない。
踏みつけられても、踏みつけられても雄々しく立ち上がる
雑草のごとき君なりき≠ナある。
これは母系社会の名残であるのか、
外からの侵略、内乱が連綿と続いた歴史がそうさせたのか、
良くわからない。
それと関連して、ベトナムの母親の子供に対する態度は
日本とは比較にならない。
軟弱な子供に育つと将来生きていけないので、
子供の頃からバンバン叩いて体罰を加えて子供を鍛える。
子供が悪くても悪くなくてもお構いなく、
母親の気分でやっている様な気がする。
それがベトナム流の子供の鍛え方である。
日本の育児書によると、子供が悪いと自覚する時以外は
体罰を加えてはいけない≠ニ書かれてるが、そんな軟弱な育て方
をされた日本の子供がベトナムに行ったら、
すぐにノイローゼになるだろう。
そもそもベトナム女性が強いのは古代からで、
救国のために立ち上がった女性が多い。
その伝統は、ベトナムでは知らない人がいないハイ・バ・チュン
(徴側・徴弐の姉妹)から始まる。

521世界@名無史さん:02/05/15 03:34
西暦三九年、後漢(首都:洛陽)から派遣された交趾太守・蘇定は、
「金銭を見れば顔をほころばす」(東関漢記)ような貪欲な男であり
人々を苦しめたため、朱鳶の貉将の子供であった詩策(ティ サック)が
蘇定を諌める書簡を送ったところ、四○年に蘇定は詩策を殺害した。
圧政のうえに夫を殺された二十六歳の徴側(チュン チャック)
(父は麋冷(メーリン)の貉将、母は雄王の末裔とされている)は
双子の妹である徴弐(チュン ニ)とともに
人々が集まっても疑われない春祭り、四一年一月六日を期して鋒起した。
名声は轟き、九真、日南の他、合浦(現在の中国広東省)が呼応し、
またたくの間に六五の城塞(郡都)を攻略し、
蘇定は中国に逃げ帰った。
徴側は徴王と称し、国名を徴(チュン)として麋冷(メーリン)を都とした。
これに対し、光武帝は馬援を伏波将軍に任命し、
二万の軍と共に攻撃をかけ、十カ月交戦が続いたが、
形勢が悪くなった徴側の軍は禁谿(カム・ケ)まで退却した後壊滅し、
敵軍に捕らわれ辱めを受けることを恐れた姉妹は喝門(ハット・モン)
(ダイ河と紅河の合流点)で入水し自殺した。
ハノイ市内のドン・ニャン通りには徴側・徴弐姉妹を祀る廟があり、
姉妹の命日とされる旧暦の二月五日には盛大な祭りが開かれる。
また、ハイ・バ・チュンに従って奮戦した三六名の女将軍も賞賛され、
各地の廟で祀られている。
一九五四年のジュネーヴ協定でベトナムの平和が回復された後、
初めてベトナムを訪問した周恩来首相は、
徴側・徴弐姉妹を祀るこの廟に尊敬の念をこめて膝まずき、
ベトナムの世論から大いに評価されたらしい(『ベトナム民族形成史』、
J・シェノー著、理論社)。
中国は永年のつき合いから、ベトナムの民族性を熟知しており、
ベトナム人の心の琴線に触れるような行動をとるのであろう。
さて、ハイ・バ・チュンの次に、中国(呉)の侵略に敢然と立ち向い、
奮迅の働きをした女性がバ・チュウ(趙嫗)である。
ベトナムの人々にはバ・チュウとして良く知られているが、
本名は趙氏貞又は趙貞娘であり、中国の史籍には趙嫗と記録されている。
522世界@名無史さん:02/05/15 03:36
バ・チュウは九真(クーチャン)(現・清化(タイン ホア)
省農貢(ノン コン)地区)の人で、小さい頃父母を亡くし、
国を憂う兄と共に育った。
バ・チュウが二十歳になった頃、兄の趙国達が良縁を捜し、
嫁がせようとしたが同意せず、
「私は強風に跨り、荒波を踏みつけ、東海の鯨を切り刻み、
呉軍を討伐して山河を取り返し、奴隷の境遇から民衆を救い出したい。
他の人の真似をして頭を垂れ、
腰を屈めて侵略者の婢妾になるのはまっぴらだ」
と言い、それ以後は山に入り一○○○名以上の義勇兵を集め、
日夜軍事訓練に励んだ。
二四八年、兄が鋒起し九真郡庁を襲撃した時、バ・チュウが駆けつけ、
蕊翹将軍と称して五メートルの長い乳房を両肩に振り分け、
黄色い衣をまとい、象に乗って疾走し、敵をなぎ倒した。
兄はバ・チュウが卓越した戦略家であることを見てとって、
鋒起軍勢の首領とした。
鋒起軍は百戦百勝で瞬く間に九真郡の敵兵を蹴散らしたので、
呉軍はバ・チュウを麗海婆王と呼び、恐れ慄(おのの)いた。
交州の刺史・陸胤が兵を率いて九真に至り、バ・チュウ軍と六カ月間、
激烈な戦いを繰り広げたが、多勢に無勢、ついに敗走につぐ敗走のすえ、バ・チュウは自殺した。
享年二十三歳であった。

このように救国の戦いから、一七九二年頃、ベトナムを訪れた英国人ジョン・バロウが
「この地の女性は非常に活動的で、家を建て、陶器を作り、船を漕ぎ、
物を売り、綿を摘み、糸を紡ぎ、織物を織るなどの仕事をしており
……女性たちがありとあらゆる仕事を担っている……」と
旅行記に書いている通り、現在でも国会議員を含むあらゆる職業に
ベトナム女性が進出している。
523世界@名無史さん:02/05/15 03:43
フリーダ・カーロについて

 フリーダ・カーロは1907年7月6日、メキシコ市郊外にある
コヨアカンにある青い壁のある家(現在はフリーダ・カーロ記念館となっている
この家は、通称<青壁の館>と呼ばれている。)に生まれた。
ドイツからの移民でハンガリー系ユダヤ人の写真家である父ギリェルモ・カーロと、
スペイン人とインディオの混血である母マティルデの間の3人目の娘であったが、
父には前妻の娘が2人いたため、全部で4人の姉と1人の妹がいた。
フリーダという名は父によって、ドイツ語で「平和」という
意味を持つFriedeからつけられたものだ。
 ギリェルモは当時のメキシコで写真家として成功しており、
メキシコ政府からの委託を受けていた。
彼の正確で精密な仕事は後年のフリーダの画風に大きな影響を与えたという。
しかし、1910年のメキシコ革命以降、一家の財政も楽ではなくなった。
独裁政府から公式写真家として仕事を受けることはなかったのである。
 革命の動乱の中、昼も夜も街の中では至る所では、
殺人、略奪、破壊、強盗が起こり、たくさんの血が流れたいた、
その同時期の1913年に、6歳のカーロは小児麻痺を患い、
右足に障害が残ってしまう。
財政難にもかかわらず、父はフリーダの為にお金をつぎ込み、
リハビリを熱心に進めた。しかし病後のフリーダは、周囲の子供達から
「棒足フリーダ!」とからかわれ、非常に感受性の強い少女時代を過ごすこととなった。
フリーダは孤独感の深まる中で、空想の世界へと入り込み、
また高ぶる自意識から自己陶酔の世界を生んでいったのである。
524世界@名無史さん:02/05/15 03:45
 国立予科高等学校時代

 フリーダは姉妹の中では最も頭がよかったし、よその男の子にもひけをとらない子だったので、
ギリェルモはフリーダに国立予科高等学校
(大学での本格的な研究のために必要な準備課程であり、現在では日本の大学の教養課程に相当する。)
への入学を薦める。フリーダは入学試験に無事合格し、入学した。
1922年のことだ。その頃はまだその学校が女子の入学を許可したばかりであり、
男子が2000人に対して女子が30数人という中の1人に、
フリーダは入ったのだ。
 元々は伝統のある由緒正しいイエズス会の学校であった予科高等学校は、
革命によって国家主義の波に洗われ、様々な変革がもたらされ、
メキシコの愛国主義的感情を再生させた中心の一つとなっていった。
メキシコの原始芸術運動を尊重する原始主義である、
起源への回帰が興奮をもってむかえられるとともに、
土着の根源にまつわる全てのものが価値の高まりをみせた。
文化に関するあらゆる分野の古典を全ての人の手に届くようにする
という野心的な政策から、図書館があちこちで開放され、
大作家の作品が普及版に収められた。様々な文化的催し物が、
低料金で人々に提供された。
 そしてまた同じ頃、メキシコの第一級の壁画家達が大活躍した。
そのうちの1人である、ディエゴ・リベラこそが、
後にフリーダの夫となる人物である。
525世界@名無史さん:02/05/15 03:46
壁画運動

 1920年代に高まった壁画運動は、ラテンアメリカ絵画にとってだけでなく、
現代芸術の動向の中でも非常に画期的なものであった。
近代絵画は、”芸術のための芸術”という呪縛にとらわれ、
ついにはダダのように芸術の破棄をもくろむ運動も生んだ。
それに対して壁画運動は、この潮流とは逆に、
社会と芸術の関わりを重視し、西欧文明批評、
政治プロパガンダ的内容を含んだ壮大なプロジェクトを遂行していった。
この壁画運動の画期的な点は、まずそれまで美術とは無縁であった
社会下層の大衆を第一の観客として設定したことだ。
次には、メキシコ土着の芸術的完成、風習、生活様式を肯定的に
見ようという自覚である。
壁画には、国民の遺産となるような記録としての、
教育の手段としての意味がなければならなかった。
従来のタブロー画であると、
個人が秘蔵してしまえば誰の目にも入らなくなるが、
公共建築に固定された屋外の壁画ならば、誰でも見ることが可能だ。
また、文字の読めない人々に対する視覚的な効果を考えたのである。
こうして、西欧においては一時期途絶えていた壁画という分野が、
メキシコという第三世界の中から強力な美術の表現様式として復活し、
逆に欧米へと輸出された。
 文化相により、壁画が政治的にも教育的にも効果があると判断され、
リベラら壁画運動家達に壁画制作の許可を与えられ、
1922年に制作されたその記念すべき第1号は、
奇しくもフリーダの通っていた国立予科高等学校の壁であった。
 活気にあふれたメキシコの20年代は、芸術を科学と同じく、
進歩のための重要な推進力であると考えられていた。
芸術家達は自分たちが行動せざるを得ない歴史的状況にいると自覚し、
自分たちの芸術とそれを取りまく世間や社会との関係を認識していた。彼らは自分たちの役割が何であるかを理解していたのだ。
526世界@名無史さん:02/05/15 03:48
青春期

 この1920年代は、長かった革命の成果が実りつつある時期でもあり、
フリーダの青春期は、メキシコという国家の活気に満ちた成長期と
重なった。フリーダは高等学校で「カチュチャス」
(メンバーのかぶっていた鳥打帽に由来する名前。)
と呼ばれるグループに入り、仲間と共に議論を重ね、読書に耽った。
このグループは、創造的、開放的、独創的で、挑発的な、
精神におけるアナーキスト集団といったところであった。
彼らは当然の如く壁画の制作中のディエゴ・リベラに対して
いたずらを働く。
またフリーダは、好奇心からディエゴの制作する姿を長時間眺めたりもした。
 しかし、まだここでは2人の出会いとまでは至らない。
その頃フリーダは、カチュチャスのリーダーである
アレハンドロ・ゴメス・アリアスに、恋心を抱き始めるのである。
アレハンドロは、後に弁護士、政治評論家として、
メキシコ国民の絶大な尊敬を集めた人物だ。
フリーダは初々しく情熱的な手紙を数多くアレハンドロに送っている。
彼らはいかにも若く、美しい青春を過ごしていた。
この時のフリーダは、画家になろうなどと考えたことは一度もなく、
将来は医者になりたいと思っていた。
527世界@名無史さん:02/05/15 03:49
悲劇

 そんな幸せな高校生活もつかの間、フリーダの後の人生にとって決定的な悲劇が起こる。
1925年9月17日の夕方、アレハンドロと共に木造のバスで帰宅途中、
乗っていたバスが路面電車と衝突したのだ。
その事故で、ステンレスの手すりがフリーダの腹部を貫通し、
脊髄と骨盤がそれぞれ3カ所折れ、右足は11カ所骨折、
そのほかに肋骨や鎖骨も折れていた。
フリーダは体の痛みと死の恐怖に苦しむが、
手術は成功し一命をとりとめる。当時の医療水準を考えると、
まさしく奇跡であった。
事故から3ヶ月ほどで自力で歩ける程度には回復したが、
後遺症は残り、ずたずたにされた下腹部への恐怖がフリーダを苦しめる。
自分はもう子供は産めない体なのか、誰に聞くこともできなかった。
そして事故から1年後に、また病状がぶり返し、動けなくなってしまう。
以後、30数回の手術と、28個のコルセットによって、
フリーダは絶えず背中と右足の痛みに苛まれることになった。
 ベッドに横たわったままのフリーダは、必死の思いでアレハンドロに
手紙を書いた。
アレハンドロは、苦しむフリーダに冷淡な態度でしか答えることができなかったが、
しかしフリーダは自分が生き、存在していることの証として、
手紙を書き続けた。
528世界@名無史さん:02/05/15 03:51
自画像

 そんなある時、母親がベッドの天井に鏡をつけた。
自分の顔を見続ける羽目になったフリーダは、無性に絵が描きたくなり、
自分をモデルに自画像を描きだした。
この鏡との睨み合いが、自分を描くことが生涯のテーマになる大きなきっかけだった。
彼女にとって絵を描くとは、自分を描くことに他ならなかったのだ。
体が不自由ながらも、母の工夫によって、フリーダは絵を描くことができた。
丁寧に描き出された彼女の最初の絵は、アレハンドロのためのものだった。
1926年の9月、その自画像はアレハンドロに送られる。
 アレハンドロはフリーダの絵にいたく感動し、
しばらく離れていた心がフリーダのもとへと帰っていった。
しかし心は戻っても、アレハンドロ本人は、地理的に遠いところにいた。
それでもフリーダは手紙を送り続けた。
彼こそがフリーダにとって命の綱であり、生きる勇気と希望であった。
 この恋文は、一時ふたりの関係を修復したかのように見えたが、
やがてアレハンドロは、フリーダの友人と恋に落ち、
フリーダの元から去ってしまう。
その時から、残されたフリーダの絵画の人生がはじまるのである。
529世界@名無史さん:02/05/15 03:52
ディエゴ・リベラとの結婚

 1928年の初頭頃には、フリーダはメキシコの芸術界に出入りするようになり、
共産主義闘争にも参加していた。共産党にも入党した。
フリーダのまわりは、議論の熱気で包まれる。
国家状況、闘争の活動方針、思想や芸術に対してとるべき行動など、
話題はいくらでもあった。そんな熱気の中で、
フリーダはとうとうディエゴ・リベラと出会う。
 ディエゴ・リベラは、20世紀のメキシコ人画家としては最も有名な存在だ。
1886年生まれのリベラは、20歳の頃にイタリアへ渡り
ルネサンス壁画を研究した後、ヨーロッパ各地をまわるが、
1921年メキシコに帰り、壁画運動の旗手となる。
女性関係の華やかな人物としても有名であった。
フリーダは、この、太った醜い、しかし魅力的で、
メキシコ社会のインテリや芸術家の世界で名を馳せていたリベラの所へ、
大胆にも自分の絵を見せに行く。
リベラはフリーダに絵を続けるよう勧めると同時に、
フリーダ自身にも興味を持つ。
2人は急速に親しくなり、1929年の夏に2人は結婚する。
その時フリーダは22歳、リベラは43歳を迎えるところで、
リベラにとってフリーダは3人目の妻であった。
リベラは非常にバイタリティとユーモアにあふれた人物であり、
彼はフリーダの率直さ、頭の回転の速いウィットに富んだ快活さに強く
惹かれたようである。
530世界@名無史さん:02/05/15 03:54
同じ年、2人はコヨアカンに近いサンアンヘルに2人のアトリエ兼住居を建てようと、
当時まだ若かった建築家のファン・オゴルマンに設計を依頼する。
オゴルマンは1931年に計画に着手し、1932年に完成した。
オゴルマンの建築は完全に幾何学的な近代建築で、
メキシコの機能主義的建築のもっとも初期の作品であるが、
非常に巧みな構成を持ち、スケール感があり、
力強いヴォリュームのある建築となっている。
また壁に塗られた色彩と内部空間には、メキシコ特有の魅力にあふれている。(
この建築は今もサンアンヘルに残っており、近年修復された。)
この家は二棟に分かれており、赤く塗られた「大きな家」が
リベラのアトリエで、
青く塗られた「小さな家」がフリーダのアトリエだった。
家の周りにはサボテンの垣根がぐるりと囲んでいる。
 2人が実際にこの家で暮らした期間は、
1933〜35年と、1938〜39年という短い期間だったが、
その間に多くの画家がこのアトリエで生み出され、
世界中の芸術家がこの家を訪れることとなった。
まさにこの家は、当時のメキシコ文化の中心とも言える場所であったのだ。
 また、有名画家の家を若くして設計したオゴルマンは、
その後リベラの政治的なバックアップもあり、
大がかりな公共建築などを多く手がけていったが、
しかし自ら取り入れた近代建築に失望し、
1950年代に建てた自邸は、怪奇趣味的で幻想的な建築であったし、
結局建築そのものに失望したのか、
活動の中心を絵画へと移していった。
彼のプレ・コロンビア的な幻想絵画への転向には、
やはりリベラの活動や言動が大きく影響したようである。
531世界@名無史さん:02/05/15 03:56
2人の結婚生活は、初めから決して平穏なものではなかったようだ。
2人は共産党員であったが、リベラが政府委託の仕事を
引き受けたことなどから、党が彼を批判し、
2人とも離党することになる。
1930年にはフリーダは初めて妊娠するが、
胎児の位置が異常であったために中絶を強いられた。
フリーダは肉体や精神の苦悩に絶えず襲われたが、
しかし彼女の強靱な精神力は、苦悩の全てを彼女自身を
燃焼させるエネルギーへとかえていった。
 彼女はリベラの好きなメキシコの民族衣装で着飾り、
周りに人を集めては、女王の様に、陽気な振る舞いを見せた。
フリーダが常にメキシコに古くから伝わる民族衣装、
特に母親の出身地であるオアハカ地方のテワナ衣装に身を包むのは、
リベラがそれを好んだからであり、また衣服は彼女にとって大切な思想でもあった。
古い因習にとらわれず、革新的な考えを持つフリーダであったが、
その一方でメキシコの根っこを大事にし、自分のアイデンティティを
育てていったのである。
 1931年には2人でニューヨークへ行く。
フリーダにとって初めての大旅行となったが、
そこで彼女の病状は悪化し、また定期的に絵を描き始める。
夏にはまたメキシコへ戻るが、この頃の2人は充実した幸せな日々を
送っていたようだ。
ロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインとも友達となった。
「メキシコ万歳!」を撮影しにメキシコを訪れていたのだ。
そして冬にはまたニューヨークへ戻った。
近代美術館にて「ディエゴ・リベラ回顧展」が開かれたのだ。
この回顧展は大盛況であったようだ。
 翌1932年、アメリカでフリーダは2度目の妊娠をするが、
今度は流産してしまい、彼女の苦悩はさらに深まっていったが、
さらに1934年にメキシコで、再び中絶することになる。
彼女はやはり妊娠できる体ではなかったのだ。
しかもさらに悪いことに、リベラはフリーダの妹クリスティナと
仲が深まってしまった。この2人の関係は長く続き、
リベラの数多い女性関係の中でも特に、フリーダを深く傷つけた。
532世界@名無史さん:02/05/15 04:05
リベラに傷つけられてばかりでは辛すぎるとばかりに、
フリーダもリベラ以外の男性達との恋愛に身を任せ、
時にはリベラの女達とも同性愛を楽しんだ。
 その中の1人に、イサム・ノグチがいる。
彼は当時すでにニューヨークで注目されだした新進気鋭の彫刻家で
あったが、グッゲンハイム財団の奨励金を得てメキシコへやって来て、
市内の建物の壁画を8ヶ月かけて制作していたのだ。
ノグチはフリーダに会ったとたん一目惚れした。
2人はたちまち恋に落ち、何ヶ月もの間、
ディエゴの目を盗んでは密会をしていた。
しかしリベラは自分の勝手な女性関係にも関わらず、
フリーダの男性関係には非常に嫉妬し、
結局彼がノグチを追い出してしまった。
 そして次にやってきたのは、あのトロツキーであった。
1937年、スターリンに追われてメキシコにやってきた
トロツキー夫妻を、リベラ夫妻はコヨアカンの<青壁の家>に
迎え入れた。そしてトロツキーもまた、フリーダと恋に落ちたのであった。
フリーダは華やかな民族衣装と軽妙な会話で、
傷つき疲弊した亡命者トロツキーを慰めた。
リベラは2人の関係に気づかなかったようだが、
トロツキーの妻はもちろん気づいていたし、
2人の背後には困難な政治的背景があり、
結局2人の恋は静かに終わりを迎える。
しかしトロツキーは他に安住の地を見出すことができずに、
コヨアカンに留まり続けた。
同じ頃、リベラは反トロツキーへと転身してしまう。
533世界@名無史さん:02/05/15 04:07
1938年には、今度はアンドレ・ブルトン夫妻がサンアンヘルへと
やってくる。
アンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム運動の指導者であり、
シュルレアリスムを体現する詩人・作家であった。
ブルトンはフリーダの絵を見て、彼女が生来のシュルレアリストであることを
宣言したが、フリーダは傲慢で理屈っぽい態度に対して不満を抱く。
また、彼女の描いた「水が私にくれたもの」という絵を見てブルトンは、
彼の書いた小説「ナジャ」の主人公が語った
『私は鏡のない部屋の中の浴槽に浮かぶ思考である』という言葉を
知らずに描かれた、その言葉どおりの絵だと語った。
そしてブルトンはフリーダの展覧会をパリで開くことを勧め、
約束する。
 ブルトンにとってトロツキーとの交流も、
非常に実りあるものであったようだ。
彼はトロツキーを、非常に賢明で理解力のある人物だと思った。
トロツキーは、この1938年における芸術は、
革命的性格を守り続けるためには、あらゆる形態の政府から独立して
いなければならないし、如何なる命令に従っても、
奉仕をしてもならなく、自分自身の方向と義務に向かって行動し、
また誠実な人々によって行わなければならない、と考えていたが、
ブルトンもまさしく同じ様なことを考えていたのだ。
2人の間で、独立した革命芸術家の国際同盟をつくる構想が
持ち上がった。
その結果が「独立革命芸術のために」という共同声明である。
そしてブルトンはフランスへ帰っていった。
 その年の秋、フリーダはニューヨークで個展を開く。
そこで写真家のニコラス・マーレイとの恋愛によって、
体の痛みを慰めた。ディエゴはメキシコに残っており、
2人の関係はおおっぴらなものとなっていった。
 そして翌年の1月に、パリの個展へ向けてフランスへ出発した。
展覧会の準備には様々な困難が伴い、フリーダは孤独感を味わったが、
それでもマルセル・デュシャンや、イブ・タンギー、マックス・エルンストら
当時のフランスを代表するような芸術家達との出会いに喜びもした。
展覧会は、結果として商業的に成功はしなかったものの、
様々な芸術家から彼女は認められることとなり、
ルーブル美術館が彼女の絵を買った。彼女の評価は、
ここに極まったのである。
534世界@名無史さん:02/05/15 04:09
展覧会の後、フリーダはまたニューヨークへ戻るが、
写真家のニコラスは別の女性と結婚してしまい、
悲しみの中リベラとの再会を恐れながらもメキシコへ帰る。
リベラはリベラでフリーダのいない間も恋愛沙汰がいろいろあったようで、
なんと女優のポーレット・ゴダードともしばらく恋愛関係にあったようだ。
そして結局2人は離婚する。
フリーダは精神的な辛さと肉体的苦痛の両方に苦しめられながら、
それでも数多くの絵を描いた。
そして1939年から40年にかけてメキシコで開かれた
「国際シュルレアリスム展」へ2作品出展した。
 1940年5月、壁画家シケイロスらによるトロツキー暗殺未遂で、
ディエゴは即警察から疑われるが、
ボーレット・ゴダードのおかげで難を逃れ、
サンフランシスコへ発った。
そして8月21日、トロツキーはメキシコで暗殺される。
フリーダの信用していた人物が実行者であったため、
フリーダは倒れてしまう。
フリーダは治療のために、サンフランシスコへ行き、
リベラと再会する。そして2人は再び結婚するのである。
同じ年の12月8日のことであった。
535世界@名無史さん:02/05/15 04:10
しかしフリーダの健康状態は年々悪化し、体はそろそろ限界がきていた。
新しいコルセット、背中の手術、耐えられないほどの苦痛に抵抗するには、
やはり絵を描くことしかなかった。
50年代までの間に、彼女は数々の美しくも苦しげな絵を描いた。
そしてフリーダは、ゆっくりゆっくり死へと向かっていった。
 1950年にはフリーダは最悪の状態になり、
何度も何度も手術を繰り返した。
しかし彼女にはそれに耐え抵抗する力は残されていなかった。
そして1953年、46歳になったフリーダは最後の手術を行い、
右脚膝下を切断した。
1954年の7月2日、ほとんど力の残っていないフリーダだったが、
スカーフをかぶり、リベラが押す車椅子に乗って、
無理矢理共産主義者のデモへ参加する。
そして7月13日、フリーダは肺塞栓症を起こして死亡する。
536世界@名無史さん:02/05/15 09:03
>>515ってシャジャル・ドッル(真珠の小枝)ですよね。
最期は女奴隷たちに木靴で殴り殺された。
537世界@名無史さん:02/05/15 12:36
イサム・ノグチは後にあの李香蘭こと山口淑子と結婚した芸術家
だよな、たしか?
538世界@名無史さん:02/05/15 14:49
イサム・ノグチ
だれそれ?
日系? 日本人?
名前がカタカナになってる
539世界@名無史さん:02/05/15 15:18
トロツキーがKGBに殺されたというのはガセですか?
540世界@名無史さん:02/05/15 15:44
>>512
懲りないやっちゃな
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
でレス294を読め
541世界@名無史さん:02/05/15 15:49
542世界@名無史さん:02/05/15 16:07
>>538
イサム・ノグチ(1904−88)
 
1904年、ロサンゼルスに生まれる。父は詩人・野口米次郎、
母はアメリカ人作家のレオニー・ギルモア。
幼少期を日本で過ごし、14歳で単身渡米。
高校卒業後彫刻を学び始める。1927年、グッゲンハイム奨学金を得て
パリに留学、半年ほどブランクーシの助手を務めた。1929年、ニューヨークの
ユージン・シェーン画廊で最初の個展。1930年北京に滞在し、
斉白石に毛筆デッサンを学ぶ。翌年来日、
京都の陶工・宇野仁松に陶芸を学び、埴輪や禅の庭に感銘した。
帰米後は社会派の作家たちと交流し、公共モニュメントや公園設計、
舞台装飾、家具デザインなども幅広く手がける。
戦後の1950年に再び訪日、東京・三越で日本最初の個展を開催した。
環境との結びつきを重視した象徴的な造形は、
西洋近代の造形感覚に東洋的精神性を融合させたものと評されている。
1969年、東京国立近代美術館のために「門」を、
翌年大阪万博のために噴水を制作。
1972年、香川県牟礼にアトリエを設ける。1
984年、コロンビア大学より名誉博士号授与。
翌年ロング・アイランドにイサム・ノグチ・ガ一デンミュージアムを
開設。1986年、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレの合衆国代表に選ばれた。
カサハラ画廊での新作展を目前にした1988年末、ニューヨーク大学病院にて、
心不全のため没。享年84歳。

イサム・ノグチは、日本とアメリカを代表するばかりでなく、
世界の美術史に名を刻む偉大な彫刻家である。
また、彫刻という分野に留まることなく、庭園を主題とした環境芸術や
舞台芸術、応用芸術へと、幅広い活動を通して、彼を育んだ日本、アメリカ、
ヨーロッパ、中国といった東西の文化、さらに世界そのものを考え続けた。
精力的かつインターナショナルな創作活動は、その生涯に渡って持続され、
晩年には香川県の牟礼にアトリエを設け制作に励み、
カサハラ画廊(当時・大阪)を個展の場とし、創造性豊かな作品を発表した。
間(はざま)にあって求め行くこと。
生い立ちと存在理由、東洋と西洋、伝統と革新、自然と人工、
愛と憎しみ・・・。イサム・ノグチはこの間(はざま)に運命づけられ、
幅広い活動で、豊かに深くその人生を生き抜いた。
彫刻家・イサム・ノグチ。彼こそ、開かれた芸術世界を探求し続けた2
0世紀を代表する芸術家のひとりであるとともに、
偉大なる地球人であったといえる。
543世界@名無史さん:02/05/15 16:28
李香蘭タン、萌え〜(;´Д`)…ハァハァ
544世界@名無史さん:02/05/15 17:18
劇団四季のミュージカルで見たなあ・
本当は日本人なんだって?
545世界@名無史さん:02/05/15 17:26
フリーダ・カーロ


眉毛のつながった人
546世界@名無史さん:02/05/15 18:20
>>545
美人じゃないのか?
547世界@名無史さん:02/05/15 20:12
山口淑子
政治家?
548世界@名無史さん:02/05/15 22:00
ルイ16世とマリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズ。
王政復古への執念を燃やして、革命政府転覆運動を率先して組織。
ナポレオンは「彼女はブルボン家唯一の男性である」と言った。
549向こうの467:02/05/16 00:02
>>540-541
おそらく、向こうのスレで必死なヤツ(自称「私は1じゃない」))がいて、
いちおう義務として誘導を試みたんだよ。その時に
「気に入ったレスがあるならコピペして向こうに書き込め。向こうの住人は心が広いから許してくれる」
って主張したんだよ。あいつが1じゃないなら、ここにすがりつく理由は
ほぼこれでなくなると思ったから。
俺の意見に賛同してくれた人が、コピペしてくれたんだと思う。

だから、俺が512の代わりに謝るよ。そういう意味でやった行為ではありません。
不快に思った方がいたとしたら、謝るよ、ソマソ。
550世界@名無史さん :02/05/16 10:12
もし、旧スレの1が女傑スレをたてなければ・・・
たぶん、新スレもたたなかったと思うな。
旧スレの1の性格は嫌いだが、旧スレの1が女傑スレをた
てたから女傑について論じられるということも事実だぞ。
551世界@名無史さん:02/05/16 14:38
>>550
自己弁護は見苦しい
そもそも世界史板に「女傑スレ」なんかなくっても
一向にかまわんのだから。
552世界@名無史さん:02/05/16 14:52
>>539
トロツキーは、健康の悪化ではなく、スターリンが放ったスパイによって、
6ヶ月後の8月20日に頭をピッケルで打ちぬかれた暗殺されることになる
(死亡は翌日)。犯人のラモン・メルカデルは、後にソ連から勲章を授けられる。
このトロツキー暗殺の詳しい事実関係については、
この作戦を実地指導した元GPUの幹部がソ連崩壊後にあらわした手記を見ればよくわかる
553=550:02/05/16 14:53
>551
だから、私は旧スレの1も嫌いだよ!
554世界@名無史さん:02/05/16 14:54
アラン・主演の映画に「暗殺者のメロディ」というのがある。
1940年のメキシコ・シティーを舞台に、ロシア革命の推進者で亡命中の
革命家トロツキーと、彼の信奉者ギタ、そしてギダを欺いて利用しながら
密かにトロツキーの命をつけ狙う暗殺者ジャクソンの姿を描いた
心理サスペンス。


このギタという人物がフリーダに信頼されていたという人。
555世界@名無史さん:02/05/16 14:57
>>553
何か誤解していないかね?
この新スレを読めばわかるように、ここは必ずしも女性だけの
ことを書いてあるのではない。
傑出した女性にまつわる男性や、歴史関係のことも掘り下げて書いて
あるから今までの旧スレに見向きもしなかった俺や
ほかの人達も来てるんだよ!
556=550:02/05/16 17:19
>555
>傑出した女性にまつわる男性や、歴史関係のことも掘り下げて書いて
>あるから今までの旧スレに見向きもしなかった俺や
>ほかの人達も来てるんだよ!
つまり、君は旧スレなんか別にどうでもいいわけですね?<笑>
それならば、それで別にいいんですよ。
私は、なにも君の意見に干渉する気は無いですよ。
557世界@名無史さん :02/05/16 17:21
558世界@名無史さん:02/05/16 17:55
>>556
ROMしてるだけの俺が言うのもなんだが
ここの住人は面白くてためになるスレを歓迎するのであって
どっちのスレが正しいのどうのなんて興味ないと思うぞ。
面白くて多くの人が書きこんでくれるスレが残るというだけの話だろう?
559世界@名無史さん:02/05/16 18:02
うーん、いつまでも旧スレへの粘着レスしか書いてない様なら嵐と変わらんな。
560世界@名無史さん:02/05/16 18:17
>>559
アンタわざわざsageで・・・・・・(わら
561世界@名無史さん:02/05/16 18:26
荒らしなんですけど何か?(藁
562世界@名無史さん:02/05/16 18:32
ああ、そうなの
563世界@名無史さん:02/05/16 19:10
アルミテジア・ジェンティレスキ
Artemisia Gentileschi
イタリア , 1593-1652
Altemisia はローマに生まれた。父親オラツィオ・ジェンティレスキは画家である。
近年、フェミニスト(男女同権主義者)の
批評家が、彼女を復活させるまで、多くの彼女の絵画は父親が描いたもの、
とされていた。
カラバッジョの影響が濃く、影と光を巧みに描いた。
彼女の才能は若い頃から花開き、父親はそれを理解して、
遠近法をもっと習得させようと、個人的に教師をつけた。
女性的な絵画も描いているが、彼女は暗く、激しい、場面を描くことで知られている。
フェミニスト(男女同権主義者)の批評家によると、
彼女の絵画の暴力的な描写は、彼女自身が受けた暴力から来るのではないか、
と言われている。
19歳の時に、Altemisia は個人教師から何度もレイプされて、それを訴えている。
しかし、その訴えは、レイプをしたほうよりも、された彼女自身を傷つけた。

彼女の訴えを確かめるために、彼女自身が実際に、親指締め具で拷問を受けているのである。
そのあげく、訴えられた男は、無罪放免となっているのである。
裁判の一ヵ月後、彼女は結婚し、フィレンツェに移り住んだ。
そこでメディチ家の援助を受け、すばらしい絵画を描いている。
1616年、女性で初めて、正式なアカデミーの会員となった。
後にナポリに移り、そこで安楽に暮らした。
Artimisia は肖像画家として知られていたが、歴史絵画、宗教絵画が評判になり、
並外れた女性画家としての名を残した。



>>550=556
ここで主に女流画家や芸術家方面を書いてきたものですが
旧スレには書きません。
だってサラ・ベルナールを書いたら罵詈雑言をあびたもんでね。
564世界@名無史さん:02/05/16 19:27
ほかのここに書いてる人達も自分の書き込みをした後に
旧スレの1(あるいは旧スレでせっかく書き込んでくれた
人々を罵倒する人間に何か一言言えば良い。
565世界@名無史さん:02/05/16 19:53
皆怒ってるよ〜。
566世界@名無史さん:02/05/16 19:55
>>550=556
灰、堂でもいいです。
♪腐れフェミ女は死んでね♪
567世界@名無史さん:02/05/16 20:05
初期の頃の旧スレの連中が勝手な振舞いをしたのがムカつく!
我侭にも、自分たちの好きな女戦士・女将軍以外を書き込んだ
人に罵詈雑言を浴びせたからな!
だが、その連中も現在では旧スレから手を引いている筈だよ。
なぜなら、もうネタ切れなんだよ。
だから、旧スレが閑古鳥状態なんだよ。
それで、旧スレの1がルールを変更したに違いないよ。
568世界@名無史さん:02/05/16 20:12
>567
ならば、悪いのは・・・
旧スレの1と、自分たちが好きな女戦士・女将軍以外を書き込んだ
人に罵詈雑言を浴びせた我侭な連中じゃないか!
たしかに、あの連中は酷い!
569世界@名無史さん:02/05/16 20:13
スピリドーノワ(マリヤ・アレクサンドロヴナ)1884-1941

美しき隻眼の女性テロリスト。
15歳にして小学児童保護教会の会合に出たという理由で逮捕歴を持つ。
1905年タムボフ県の農民一揆鎮圧を指揮した副知事ルジェノフスキーを、
翌年1月16日銃で暗殺。当時21歳。自殺を企てたが憲兵によって阻止された。
コサック士官アブラモフとジュダーノフは彼女の衣服を剥ぎ殴打し、
皮膚を焼いて共犯者を自白させようとしたが、
マリヤは一言も発しなかった。
半死の態でタムボフ監獄に移された時は拷問のため
すっかり人相が変わっていたという。
その後軍法会議の場で「私を殺せ。だが、諸君は人民の自由と幸福、
正義と廉直の勝利、そして友愛、平等、自由の理想がもはや虚しい響きではなく、
真の生活に具体化された時代が到来する私の信念を、決して殺せない。
かかる未来のために、個人の生命を犠牲とすることこそ幸福なのである」と叫んだ。
死刑の判決を受けるも、フランスの婦人が新聞に抗議文を寄せたほか、
知名人の署名による抗議で終身懲役に減刑された。
シベリアのアカトゥイ監獄に送られたマリアは
沿道いたるところで赤旗と革命家の示威運動で歓迎され、
監獄では看守や兵士までが歓迎の大示威行進を行ったという。
17年、2月革命によって解放、11月の第1回左派エスエル党大会で
指導的役割を果たし最高幹部の一人となる。
18年ボリシェヴィキ批判、エスエル反乱後逮捕され禁錮刑。
地下活動の後、25年以降は辺境へ追放された。


ガイシュツですか?
まだ書いてないと思うけど・・・・。
ところでおれもここにしか書く気がしない。

570世界@名無史さん:02/05/16 20:15
>568
>たしかに、あの連中は酷い!
そうだそうだ!
あの連中は、旧スレの1と同罪だ!
571世界@名無史さん:02/05/16 20:20
>>570
連中というより全部旧スレの1の仕業だと思うね、おれは、
ここの板見てみろ!
あんなひどい暴慢で横暴なヤツがほかにいるか?
荒らしたりふざけてるのとはわけが違う!
572世界@名無史さん:02/05/16 20:23
旧スレの横暴
まずこれね


165 :世界@名無史さん :02/05/06 20:23
くノ一は、女傑に入るでしょうか?
スパイ行為とかで、一応は戦いに参加してるわけですからね。
みんなは、どう思いますか?



166 :世界@名無史さん :02/05/06 20:28
一応この板世界史なんだし
フィクションと脳内史実はナシにしない?


167 :世界@名無史さん :02/05/06 20:37
>>165
くノ一は、女傑に入らないよ。
女傑というのは、女将軍などの女性だよ。
573世界@名無史さん:02/05/16 20:34
次ここね


267 :世界@名無史さん :02/05/07 22:16
穆桂英・秦良玉で二大女傑だと思う。
花木蘭は架空の人物だから落選だよ。
洪宣嬌はカルト教団だから落選だよ。



268 :世界@名無史さん :02/05/07 22:17
>>267
なんで梁紅玉が落選なの?



269 :世界@名無史さん :02/05/07 22:19
>>267
>穆桂英・秦良玉で二大
574世界@名無史さん:02/05/16 20:36
291 :世界@名無史さん :02/05/08 11:22
近代中国の女傑しか語ってない人が、よく武侠小説マニアを非難できた
もんだ。似たようなもんじゃん。
違うというなら、欧米やイスラム圏やアジア諸国の女傑も語ってくれよ。


292 :世界@名無史さん :02/05/08 11:57
>>291
激しく同意!
ついでに、日本の女傑も語ってくれよ。
575世界@名無史さん:02/05/16 20:37
>>291
ここで語ってくれてるだろ?


>>202
ここは世界史板だろ?
いつから日本史スレになったんだあ?
勝手に変えないでくれ!
傲慢なやつめ!
576世界@名無史さん:02/05/16 20:39


189 :世界@名無史さん :02/05/07 00:24
新ルール:
積極的に戦争を起こした女指導者

を追加しますか?


190 :世界@名無史さん :02/05/07 00:26
>>189
結構増えるだろ、それだと。


191 :世界@名無史さん :02/05/07 00:26
>>189
女将軍か女戦士だろうね。
積極的に戦争を起こした女指導者は疑問
577世界@名無史さん:02/05/16 20:39
>>189
オイオイ、勝手に新ルールを自分達だけで作るなよ!
578世界@名無史さん:02/05/16 20:41


327 :世界@名無史さん :02/05/08 22:21
女傑の血液型には、何型が多いんだろう?



328 :世界@名無史さん :02/05/08 22:25
>>327
たぶんB型だと思う。



329 :世界@名無史さん :02/05/08 22:29
A型にもAAとAOがあるし、B型にもBBとBOがあるよ。
女傑の多さは、BB>BO>AB>O>AA>AOだと思う。
保守的なAOだけは、6タイプで唯一女傑が少ないと思う。
579世界@名無史さん:02/05/16 20:42
>>327
世界史板で語るようなことかい?!
勝手に人が書いたものにあれこれケチつけてるくせに!
580世界@名無史さん:02/05/16 20:43
341 :世界@名無史さん :02/05/09 10:46
>>337
>なんだよ、結局、女戦士スレとかわらないじゃん。
女戦士スレよりはマシ!
一緒にするな!
581世界@名無史さん:02/05/16 20:44
>>337
エラソーに人を怒鳴るなよ!
何様だ、お前は?
582世界@名無史さん:02/05/16 21:00
350 :世界@名無史さん :02/05/10 22:01
中国の女将軍たちは纏足で活躍したのでしょうか?
それとも纏足ではなかったんでしょうか?
オバカな質問ですいません。


351 :世界@名無史さん :02/05/10 23:01
>>350
纏足なわけ無いでしょう!
583世界@名無史さん:02/05/16 21:02
>>351
人を罵るな!
しかもこれは間違った答え



354 :世界@名無史さん :02/05/10 23:35
>>350
辛亥革命の女性志士のみならず、共産党の中でも
幼児に纏足をさせられながらその後それをとき
長征や軍事訓練に携わった女性は多くいます。


「纏足物語」 岡本隆三 東方書店

纏足を解いた跡、少林寺拳法の達人になった女性の話が
詳しく載っているので参考までに。


355 :世界@名無史さん :02/05/10 23:41
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4497861635/qid=1021041565/sr=1-5/ref=sr_1_2_5/250-4926757-8404233

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584世界@名無史さん:02/05/16 21:08
400 :1です :02/05/11 20:03
まさか、私もこんな新スレ如きに負けるとは思わなかったよ!
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1020732444/l50
そこで、私は類似スレに対抗するため対策を考えたよ。
よって、今後は女戦士・女将軍以外の女傑についても認めるよ。
585世界@名無史さん:02/05/16 21:08
>>400
なんだよ、その勝手さは?!
586世界@名無史さん:02/05/16 21:14


461 :世界@名無史さん :02/05/14 18:23
451>>457
おやおや、全部私が書いた455、456のどこがコピペ?
コピペだと言うなら、その元をぜひ教えてほしいもんだね。
根拠もなく人を誹謗するもんじゃないよ。

さて、フランス革命というのは、かなり女性が参加していた革命で、
前述のメリクール以外にも、名もない民衆の女性たちが多数参加して
いる。フランス革命が後の時代に与えた影響を考えると、この、名も
ない女性戦士たちこそ、世界史上最大の女傑と言えよう。
587世界@名無史さん:02/05/16 21:16
ここ見てる限りじゃえらくえらそうな人を見下した
失礼な話し方をするヤシだね?
書き方に特徴があるから同一人物だってわかるな。
588世界@名無史さん:02/05/16 21:28
>>461
そういっておきながらこれは何だよ?
お前も根拠も鳴く人を誹謗してるがろうがあ?!
本当に勝手な自己中なやつだ!
氏ね!

455 :世界@名無史さん :02/05/14 17:35
451だけど、前にも言ったように、私はこのスレの1じゃないよ。
>>9で戦士・将軍以外を女傑と認めなかったくせに、>>400で変節してる1は
私もあまり好きではない。
ではなぜ、こっちを上げているかというと、自分たちこそ正義と言わんばかり
の新スレによる旧スレ叩き(そのかなりの人が、もともとはこっちのスレで書
いてた人だろ?)が、ここの1よりも気にくわなかったから。新スレが勝利し
た今、旧スレを哀れに思ったからさ。私はひねくれ者なんで。
まあ、どうせこう書いても、人のことを「知識なさすぎ」なんて言ってるよう
な人は信じないのだろうけどね。
それと、新スレはいつの間にか、世界史上の女性なら女傑っぽくない人でもな
んでもあり、みたいになってきたように思うので(楊貴妃も女傑? 彼女何か
男まさりのことした?)もっと女傑らしい女傑についてこっちで語らせてもら
うよ。
589世界@名無史さん:02/05/16 21:32
480 :通りすがりの見物人 :02/05/15 01:48
>>1
俺。私。
男を装うのか。女を装うのか?(w


481 :世界@名無史さん :02/05/15 01:56
451=478
ああ、ちゃんと推敲しないでアップいたから、一人称が混乱してたな。
何度も言うが、私は1じゃないよ。
別に装ってるわけでもなんでもなく、私は男性。
478の、俺が盛り上げてやろう、の部分には、「」をつけるべきだった
な。日常では「俺」を使ってるもんでね。
それにしても、一人称に「私」を使うと、それだけで女を装ってること
になるとは知らなかったよ。


482 :世界@名無史さん :02/05/15 01:59
それにしても、「通りすがり」程度の見物人がなんで、私を1だと
思ってるんだろ。不思議だねえ。
さて、私はそろそろ寝るよ。
これ以降の、反論、煽り、その他へのレスはまた明日。おやすみ。
590世界@名無史さん:02/05/16 21:34
>>482
ほう、人にレッテルを貼るなと罵っておいて
自分が勝手に人を誹謗すんのかよ?(ワラ
591世界@名無史さん:02/05/16 21:35
>>482
ホントにえらそうな態度だな、ええっ?
自分を何様だと思ってる?!
592世界@名無史さん:02/05/16 21:37
>>590
通りすがりの見物人って、480自身が名乗ってるよ。
593世界@名無史さん:02/05/16 21:42
>>592
それをこの482が勝手に空想をたくましくしてくれるのさ!
594世界@名無史さん:02/05/16 21:42
どんな嫌なやつかわかるだろう、ここの板の住人も?
595世界@名無史さん:02/05/16 21:43
自分を棚に上げて人を罵り人を見下す、この旧スレの1および
自称1じゃないヤツ(1とは決めつけてないぞ〜!)
596世界@名無史さん:02/05/16 21:45


485 :世界@名無史さん :02/05/15 18:38
451>>483
>ここにまともな書き込みすることを俺は「擁護」と言ってるの。

私はそうは思わないな。
あるスレッドにまともな書き込みをすること、その板の1を擁護、支持するか
どうかはまったく別のことだと思っている。
極端な話、私がこうして書き込みをしている結果、1のしてきたことのまずさ
がみんなに蒸し返されているぐらいだしね。

>「datに落とすにはもったいないと思うならレスをコペピして向こうに書き込んだら?
>そしたら、このスレ落ちても文句ないだろ?」
そういう問題じゃないよ。
仮に、私が、あるスレの1をものすごく嫌っていて、そのスレのdat落ちを望んで
いるとしよう。そんな私が、そのスレの人に対して、
「もったいないレスは、ぜんぶ別スレにコピペして、このスレは落とそう」と
そのスレの住人に呼びかけたとする。
なんなら、そのスレというのが、新女傑スレだとしてもいい。どうせ仮定の話
なんだから。
どうだい? そんなことをもし私が言ったら「なんて身勝手な主張をするヤツだ」
って思わないかい?

すぐに勘違いして揚げ足を取る煽り君もいるから何度も強調しておくが、今の
はあくまでたとえ話だ。
私は、>>463で、明言しているように、新旧女傑スレが両立することに賛成だ。
新女傑スレが盛り上がっていることは、喜ばしいことだと思っている。
それはそれとして、旧女傑スレも再びまともなレスで盛り上ってほしいと思っ
ているのだよ。
すべての元凶ということになっている(それについても、私には疑問があるの
だが……それは別の話)1がやっていたような形ではなく、ちゃんとした戦場
の女傑を語る場として、このスレに生まれ変わってほしいと思っている。
(私1人でそれができるかどうかはわからない。いや、1人じゃ無理だろう。
はっきり言って、私の持ってるネタはすぐにつきる。)
だが、そう願うことが、そんなにいけないことなのか?
なにも、私を応援しろとは言っていない。
このスレがそんなに嫌いならば、私がこのスレで何をしようと無視していれば
いいだけのことじゃないか。
過去に問題はあったとはいえ、まがりなりにもよいレスもあったスレを、みん
なでよってたかってdat落ちさせようとしているなんて、心が狭すぎないか?
新スレの住人は「人間ができてる」のだろう?
なら、私のやってることぐらい許してくれてもいいんじゃないか?
597世界@名無史さん:02/05/16 21:46
>594
>どんな嫌なやつかわかるだろう、ここの板の住人も?
旧スレの1も新スレの住人も、どっちも嫌な奴だよ!
598世界@名無史さん:02/05/16 21:46
>>485
許してくれだあ〜?
よくもまあ、これほど人を罵り誹謗して、そんな甘ったれたことを
かけるもんだ!
未来永劫お前を許さんぞ!
599世界@名無史さん:02/05/16 21:50
>>597
見てたけど旧スレのやつらのほうがはるかに
嫌なやつらだYO!
600世界@名無史さん:02/05/16 21:51
スレ主旨と関係ないレスはsageる。
これは常識だとばかり思っていたが?
601世界@名無史さん:02/05/16 21:52
あ。600 .
602世界@名無史さん:02/05/16 21:53
>599
>旧スレのやつら
旧スレの1だけとは限らんぞ!
603世界@名無史さん:02/05/16 21:53
削除依頼出しました
604世界@名無史さん:02/05/16 21:53
取り込み中でしょうか?
ローザ・ルクセンブルグの思想について書こうと
思ったんだけど
605世界@名無史さん:02/05/16 21:54
また次回来ます。
606世界@名無史さん:02/05/16 21:55
>>602
だからやつ等と書いてるのでは?
607世界@名無史さん:02/05/16 21:57
>>603
ご苦労さん!
608世界@名無史さん:02/05/16 22:01
どうやら、旧スレと新スレは引き分けになるぜ!
609世界@名無史さん:02/05/16 22:05
ま、両方なくなりゃ1番いいわな。
610世界@名無史さん:02/05/16 22:05
とりあえず、暴れてた人の正体

358 :女傑スレ2本 :02/05/16 21:48 ID:0AiyUiob
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1020732444/l50
もう両方削除してください。
毎日ageて罵り合いしかしてません。
正直ウンザリです。


359 :p16109-adsao05douji-acca.osaka.ocn.ne.jp :02/05/16 21:56 ID:rftcLKoG
>358
大賛成!
こんなものは、はっきり言って両成敗だ!
611世界@名無史さん :02/05/16 22:06
旧スレは隔離スレってことで、こっちはマターリと。
612世界@名無史さん:02/05/16 22:07
>>604
あっ ローザルクセンブルグ教えてください。
知りたかったんだ。らっきー
613世界@名無史さん:02/05/16 22:10
>>604
>612と同じくー。ローザの思想知りたーい。
614世界@名無史さん:02/05/16 22:10
>610
どうやら、旧スレの1よりは・・・
むしろ、旧スレと新スレを両方とも潰す目的の奴が
暴れてた可能性がありますよ。
615世界@名無史さん:02/05/16 22:17
ローザ・ルクセンブルグの思想
こっちはレベル高いよな、やっぱり・・・。
あっ、今日は荒れてたのでsageで
616世界@名無史さん:02/05/16 22:29
「資本蓄積論」って「資本論」に対する反論の書なの?
彼女の現在の評価はどうなの?
617世界@名無史さん:02/05/16 23:43
あれ、旧スレでこっちの569のコピペしてるね?
時間がこっちのが早い。
まあ、向こうのもコピペされてたからなあ。
でもこれじゃ重複スレとみなされてしまうかも。
削除依頼が出てるんだから。
旧スレの人気をつけてね。
618世界@名無史さん:02/05/17 00:11
>>616
どこでの評価でしょうかね?
旧ソ連? 欧米? お国のドイツ?
619世界@名無史さん:02/05/17 00:30
ありゃりゃ、今日は大変なことに

とりあえず

クマラトゥンガ(チャンドリカ・バンダラナイケ) Chandrika Bandaranaike KUMARATUNGA 
スリランカ大統領。1945年6月29日コロンボ生まれ。
2000年10月に死去したシリマボ・バンダラナイケ前首相と、
その夫で暗殺されたソロモン・バンダラナイケ元首相の2女。
パリ大卒。人権活動家として知られた夫とスリランカ人民党を創設したが、
夫は88年シンハラ人過激派とみられるグループに暗殺された。
94年8月の総選挙で、スリランカ自由党(SLFP)を中心とする
「人民連合」の代表として勝利、首相に。
11月の大統領選にも勝ち、同12日第4代大統領に就任。99年12月再選。
620世界@名無史さん:02/05/17 00:43
>619
おっかさん、世界初の女性首相だね。
セイロンをスリランカに変えたのもおっかさんじゃなかった?
621世界@名無史さん:02/05/17 00:59
関係ない話題なんで下げるけど、旧スレの人たちあれだけ
荒らされて、削除依頼出されてるのに、まだわかってないんだな
チョト呆れた。
コピペがどうのこうのと言ってるんだから。 はぁ。
622世界@名無史さん:02/05/17 01:02
王光美(1921〜)
北京の人。北平輔仁大学を卒業し、1946年に共産党の英語通訳として
延安に。物理学教師。二年後、劉少奇と結婚した。
文革中に投獄されるが、文革後は中国社会科学院副秘書室長として
復活した。政治協商会議委員、同常務委員。
623世界@名無史さん:02/05/17 01:03
>618
そこまで考えていなかった(恥
オヤジの35年前くらい前の百科事典を見たら
「彼女の論は間違えていた」なんてことがはっきり書かれていたので、
今の評価が気になった。
624世界@名無史さん:02/05/17 01:07
>>622
劉少奇夫人になったために江青から激しい嫉妬を受けた
そうだな。
大学での才媛だったために。
625世界@名無史さん:02/05/17 01:11
>>624
文革の時は夫劉少奇とともに激しい弾圧と非難を受けたな。
1967年、夫の国家主席・劉少奇と共に批闘大会にかけられ、外遊で旗袍を着て、
晩餐会でネックレスを身に付けたことが、毛沢東夫人・江青の逆鱗に触れた。
旗袍、ピンポン玉でつくったネックレス、サングラスという服装をさせられて
公衆の面前で恥さらしにされた。
626世界@名無史さん:02/05/17 01:14
四人組の最重要人物・江青

“四人組”という言い方は、彼らが失脚してからの呼称である。文革期には文革精神の担い手として、
大きな政治的影響力をもつかに見えた。
しかし、毛沢東の死後、一カ月も経ずして粉砕されてしまった。

“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。
このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く
形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。
つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。
したがってここでは江青に焦点を当てることにしよう。


江青(女)、一九一五年生まれ〔文革開始の六六年には五一歳であった〕。
山東省諸城県の人、一九三三年青島で中国共産党に〔一八歳で〕入党した。
山東実験戯曲学校の実験京劇団で学び、青島大学図書館で働いたことがある。
その後上海に移り、業余劇社などの劇団、映画界に入り女優となる。
上海で逮捕され、脱党したことがある。
抗日戦争以後延安へ行って、魯迅芸術学院で教えた。
627世界@名無史さん:02/05/17 01:14
朝鮮(新羅?)の妓生で敵将を酔わせた後、崖に連れ出して
敵将を抑え込んで崖から一緒に飛び込んだ女性がいた。
名前・背景失念。
628世界@名無史さん:02/05/17 01:16
江青について知るには、二冊の伝記がある。
一冊はアメリカの女性ロクサヌ・ウィトケの書いた『江青同志』である(邦訳あり)。
もう一冊は珠珊『江青秘伝』である。
後者はまず「江青野史」として、香港『新晩報』に連載され(八〇年)、
その後増補して『秘伝』となった。著者珠珊は朱仲麗の筆名であり、
彼女は王稼祥夫人である(『中国老年』八八年八期)。
朱仲麗は医者としてモスクワの精神病院に押し込められていた賀子珍
(毛沢東の長征時代の夫人)を救出した経緯などから、
江青を個人的にもよく知る立場にあった。

江青はかねてから政治的野心をもっていたといわれるが、
具体的な政治活動を始めたのは一九六三年一二月、毛沢東が文芸問題に
ついての指示を出して以来である。
江青は当初北京で活動しようとしたが、彭真以下の北京市委員会の妨害に遇って
果たせなかった。まもなく上海市委員会第一書記柯慶施の支持を得た。
柯慶施は部下の張春橋を江青の助手につけ、
さらに姚文元もこのグループに加えた。こうして姚文元によって、
呉「海瑞罷官」批判論文が執筆されることになった。
この活動はむろん毛沢東の支持のもとで行われた。
江青は第二の仕事として、「部隊文芸工作座談会紀要」をまとめたが、
この作成過程で、毛沢東は三度にわたって朱筆を入れている。
この文書は「林彪の委託によって、江青がとりまとめた」とされている。
ここに文革推進の両輪、すなわち林彪の軍事力と江青の口を通じて
下達される毛沢東の文革イデオロギーとの結合という構図の原点が見られる。
629世界@名無史さん:02/05/17 01:18
江青が中央文革小組の第一副組長(まもなく組長陳伯達に代わって、
事実上の組長の役割を演ずる)になったことについては、
むろん毛沢東の賛同を得ている。
これらの事実は毛沢東が江青夫人を積極的に起用したことを示している。
この意味で江青の行動は基本的に毛沢東の責任であると見なければならない。
630世界@名無史さん:02/05/17 01:19
毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は
単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、
神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として
否応なしに重要なものとならざるをえなかった。
江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を
最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。

江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、
“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、
文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、
陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、
打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、
紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。
こうして一見大衆運動的偽装のもとに、
実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という
秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。
631世界@名無史さん:02/05/17 01:43
へー
ここあらしがあったんだ?
珍しいね
2つともスレを削除したいというのは
ほかのやつか?

わかった!
フェミ女嫌いのウヨ男だな?
違う?
632世界@名無史さん:02/05/17 06:22
>>627
たしか論介(ロンゲ)とか言う名前だったはず。
漏れの記憶だと、敵将を誘惑して、そいつが事に及ぼうと、抱きついた瞬間に飛び込んだはず。
あちらではえらい持ち上げられてて、忠烈だの、愛国だのの冠つきで神さまあつかいだとか。
まあ、漏れもそれほどよく覚えてるわけじゃないんだが。
633世界@名無史さん:02/05/17 10:08
>631
>へー
>ここあらしがあったんだ?
>珍しいね
>2つともスレを削除したいというのは
>ほかのやつか?

>わかった!
>フェミ女嫌いのウヨ男だな?
>違う?
その可能性が高いかもしれない?<笑>
634世界@名無史さん:02/05/17 11:50
>633
それは、果たしてどうだろうね?
635世界@名無史さん:02/05/17 11:53
旧スレと新スレの両方とも削除ということで決着だね!
636世界@名無史さん:02/05/17 12:24
ワロタ モットヤレ ゲラゲラ
637世界@名無史さん:02/05/17 12:53
>636
荒らしを煽るな!
638世界@名無史さん:02/05/17 15:39
>>630
江青と林彪夫人の葉群の仲はどうだったんだろう?
639世界@名無史さん:02/05/17 15:41
コピペして広めてください

チベット三州での死者数(1949-1979)

     ウ・ツァン  カム    アムド    合計
 拷問  93,560   64,877   14,784   173,221  
 死刑  28,267   32,266   96,255   156,758
 戦闘  143,253  240,410   49,042   432,705
 飢餓  131,072  89,916   121,982   342,970
 自殺  3,375    3,952    1,675    9,002  
障害致死 27,951   48,840   15,940    92,731
 合計  427,478  480,261  299,648   1,207,387

チベット亡命政府 情報・国際関係省『チベット入門 』鳥影社 p.102

たった30年間で120万人以上ものチベット人が中国人によって殺されました

640世界@名無史さん:02/05/17 17:02
コピペして広めてください

チベット三州での死者数(1949-1979)

     ウ・ツァン  カム    アムド    合計
 拷問  93,560   64,877   14,784   173,221  
 死刑  28,267   32,266   96,255   156,758
 戦闘  143,253  240,410   49,042   432,705
 飢餓  131,072  89,916   121,982   342,970
 自殺  3,375    3,952    1,675    9,002  
障害致死 27,951   48,840   15,940    92,731
 合計  427,478  480,261  299,648   1,207,387

チベット亡命政府 情報・国際関係省『チベット入門 』鳥影社 p.102

たった30年間で120万人以上ものチベット人が中国人によって殺されました
641世界@名無史さん:02/05/17 17:23
林彪のクーデター未遂事件は結局は粛清なのか?
642世界@名無史さん:02/05/17 17:42
>>637
嵐ぐらい無視しろ
昨日と同じヤツなんだからさ
643世界@名無史さん:02/05/17 17:43
↓コイツ

359 :p16109-adsao05douji-acca.osaka.ocn.ne.jp :02/05/16 21:56 ID:rftcLKoG
>358
大賛成!
こんなものは、はっきり言って両成敗だ!



360 :p16109-adsao05douji-acca.osaka.ocn.ne.jp :02/05/17 11:58 ID:/BQHDEWh
358の言う通り、両方のスレを削除して決着を図って下さい
644世界@名無史さん:02/05/17 18:44
ナポレオンの妻ジョセフィーヌ、
残された肖像画で見ると、たいした美人でもないし
夫が成り上がっていく過程で、さして功績があったのでもないのに
なぜナポレオンはあんなに大事にしてたのか?
途中で離婚はされちゃうけどさ。
645世界@名無史さん:02/05/17 19:33
最初の妻ジョセフィーヌは数限りなくストーリーをもつ人でした。
ジョセフィーヌは最初の結婚当初は、これといって洗練された女性では
ありませんでした。結婚後、主人から教養を身につけるように
教育を受けさせられました。この結婚では子供二人をもうけましたが
残念ながら離婚となりました。
 結婚に失敗した彼女でしたが、みるみるうちに教養と社交術を身につけ、
女性として開花していったのです。その美しさ・優雅な身のこなしと、
雰囲気をたたえる甘い声は異性を魅了し、交際する相手にことかきませんでした。
そして、ついに出会ったのがナポレオンでした。ナポレオンはこの上なく彼女を愛し、
戦場でも絶えることなくジョセフィーヌに手紙を送り続けました。
これに対し、従順な妻を演じながら、夫を欺くジョセフィーヌでしたが、
湯水のごとく浪費する彼女にとって、財源となるナポレオンはありがたい存在でも
ありました。それほどでもなかったナポレオンへの愛も、その権力と財力、
あふれんばかりの愛により、次第に愛情を感じるようになりました。
1804年ナポレオンが終身の皇帝の称号を授かることとなり、
ジョセフィーヌもその皇后の座に着くこととなりました。

彼女は身につけるものから、調度品・美術品のほか、ありとあらゆる面に贅を尽くしました。
 パリ郊外に別荘を持ち、(これがマルメゾン宮殿です。)
花の好暮らし、多くの客を招いて、丹精こめて作られた花を見せたそうです。
別れた後もナポレオンはジョセフィーヌが以前と変わらぬ生活が送れるようには
援助していたそうです。
646世界@名無史さん:02/05/17 21:56
>>645
>結婚後、主人から教養を身につけるよう
>教育を受けさせられました。この結婚では子供二人をもうけましたが
>残念ながら離婚となりました。
ジョセフィーヌは最初の夫と離婚したのではなく、
夫がフランス革命で処刑されて未亡人となった
と記憶しているが。
647世界@名無史さん:02/05/17 23:54
かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、
暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」
と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、
六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、
六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。

江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった
楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、
さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。
これらの事件について、「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。
随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと
告発されている。

このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、
彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、
こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。
何が彼女をそうさせたのか。

彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てが
ない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるという
それだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、
この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、
がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、
おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。
648世界@名無史さん:02/05/17 23:56
“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なる小童にすぎなかった。
林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、
江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。
江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。
そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。
しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。
彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、
あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。
張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、
興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、
密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。
六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。
七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、
イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。
しかもそこには三文小説的なエピソードさえある。葉群は延安時代に教わったとの理由で、
釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、
ベッドで密談したことまで秘書に広言している。
これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。
武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、
中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、
林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は
空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。
649世界@名無史さん:02/05/17 23:58
林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、
六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。
これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。
葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、
康生に対しては親しみよりは畏敬していた。
陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、
葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。
650世界@名無史さん:02/05/17 23:59
なお、これまた三文小説的エピソードだが、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、
生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、
七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したという
エピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。
中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、
失脚後にこれらのプライバシー(原文=隠私)が容赦なく暴露されることである。
逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、
真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている
(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。
これが文化大革命のもう一つの側面であった。
651世界@名無史さん:02/05/18 00:00
概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では
相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、
江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、
のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。
六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、
林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、
「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、
江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、
その見返りを期待していた。
しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。

ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、
江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。
江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
652世界@名無史さん:02/05/18 01:20
>>641
林彪がソ連二逃げようとした飛行機は撃墜されて
彼の死体も確認できなかったほどだ。
当時の中国はまだ文革の最中だったので
他国のマスコミは取材も何もできなかった。
が、当時から撃墜されたのは毛沢東や4人組にとっては
暴かれては困ることを
彼が知っていたからだと言う憶測はなされていたね。
653世界@名無史さん:02/05/18 12:03
シャネルの創始者ココ・シャネルは孤児院で育ち、
その後20代後半まで男性に囲われていたようです。
そして、そのせいかココ・シャネルのデザインには
「男性からの独立」というメッセージが込められていると言われています。
例えばバッグのストラップ。
金属の鎖にカーフが絡めてありますが、
あれはバッグが肩からずり落ちないようにするためです。
つまり女性が自分でバッグを持ったまま両手を使って
作業ができるように、男性の力を借りなくても大丈夫なように、
という目的があってのことなのです。
そしてイヤリングやブローチに付いた大きなイミテーションのダイヤ。
当時、豪華な宝石は男性からプレゼントしてもらうものであり、
シャネルはそれを身に付けることは男性に束縛されること、
服従することと考えたのかもしれません。
そこでイミテーションのダイヤを身に付けることで
男性からの独立、女性の自立を表現したと言われています。
654世界@名無史さん:02/05/18 12:08
シャネルといえば「優雅」というイメージだが、
実はファッションの世界では革命的なデザイナーだった。
シャネルブランドの根底にあるものは「女性の解放」。
服ではコルセットを必要としない服や黒いドレスなどを発表したり
、コレクションでモデルに手をポケットに突っ込ませて歩かせたりと
それまで常識をことごとく打ち砕いてきたブランドなのである。
それでいて廃れるデザインではなく、
定番として残るようなデザインなのだから
シャネルはいまだにトップブランドなのである。
655世界@名無史さん:02/05/18 12:29
>>654
今じゃゴージャスの代名詞みたいだがな。
656世界@名無史さん:02/05/18 14:10
シャガラット・ドッル
ガイシュツだけど、詳しい説明がなかったので
見ても何のことかわからない人に


今から750年ほど前、現在モハメッドアリモスクの建つあたりに、
巨大な王宮があり、
王宮付属のハーレムがありました。
これは、そこでだれひとりの味方もいないと
いうのに、心のおもむくまま、情熱的に生きた一人の女性のお話です。

彼女の本当の名前はわかっていません。
エジプト人ではないことは間違いなく、
アルメニヤ系ともトルコ系とも言われるので、恐らくは真っ白い肌に漆黒の髪、
美しいだけではない知性的な目をした女性であったろうと思われます。
ハーレムに暮らす他の女性たち同様に、愛らしい子であったので宮廷から名指し
されたのか、それともいずこかで誘拐されたか、貧しさのために売られたか、戦乱で
孤児となったかでありましょう。

宮廷で仕える為の教育環境に育ち、生き方を習ったというより、たよりない暮らし中でも、
より良い品性の人を見習い、男性に身を任せるだけの暮らしであっても、より凛とした
生き方を捜して、身に付けていったのかもしれません。生まれながらの知性が彼女を
助けた、とも言えます。

彼女は最初、奴隷としてバグダードのカリフ、ムウタシムのハーレムにいましたが、
美しかったことから格好の贈り物として、エジプトの太守サーリフに与えらました。
エジプトへの旅はらくだに揺られての、長旅であったと思われます。
はじめて会う夫サーリフ、そしてサーリフのハーレムにも、各国から集められた美女が
多く居たといわれます。
サーリフは 彼女の、あまりの美しさは尋常ではないことから、どこでどうやって作られる
のか<謎の宝物>であった「真珠」が実る木のようだ、ということで
  「真珠の木」シャガラット ドッルと名前を与えられました。

しかし、美しさだけではハーレムでは生きてはいけません。運のいいことに、彼女は
しばらくして身ごもり、ハリールという王子をもうけます。これによりはじめてシャガラット・
ドッルは確かな地位を得た、と言えるでしょう。
もしハリール王子が生まれていなかったら・・多くのハーレムの女性同様、その存在も
わからないまま生涯を終わっていたことでしょうから。

シャガラット・ドッルのお墓に残されている正式の名前は アル・ムスタアシミーヤ・
アル・サーヒリーヤ・マリカト・アル・ムスリミーン・ウンム・アル・マリク・アル・マンスール
・ハリール・アミール・アル・ムウスミニーン という大変長いものです。しかし、どれも
本名ではなく、この長い名前の意味は「カリフ・ムスタアシムの元奴隷であり、サーリフ
王の奴隷であり、イスラム女性の長であり、信徒の長の友であるマンスール王
ハリールの母」という、あっちにもこっちにも気を遣った名ではありませんか! 

シャガラット・ドッルの生きた時代は、生まれはどうあれ、男性でも女性でも才覚や
容姿が秀でていれば、修行を積んで一攫千金を得るチャンスを与えられた時代でした。
というのは、この時代、エジプトで誰よりも力を持っていたのはマムルークと呼ばれる
奴隷出身の兵隊だったのです。奴隷であっても 文武両道の修行をして王の直属
精鋭部隊として出世する道が開けていました。
エジプトとアラブのイスラム史上 初めての スルタナ(女王)となったシャガラット・
ドッルの生涯を、これからご紹介したいと思います。
657世界@名無史さん:02/05/18 14:11
エジプトにおいて現存する一番古いモスク、イブントウールーン(現在改装工事中)
四角い中庭の真中に沐浴をする為の水場があり、それをアーチ型の飾りを持つ
柱がまさにヤシの木のように立ち並んでいます。9世紀のトウールーン朝に
建てられたモスクで古いらせん状のミナレット(尖塔)が残ります。イラクの
サーマッラーで青年時代を過ごした イブン・トウールーンが、サーマッラーに
あったモスクを真似て作らせた、と言われています。
ここを出ると ガイヤーアンダーソン博物館がある。ここからカリーファ通りをてくてく
歩くと、いくつものお墓が両側に立ち並びます。

そこに、忘れられたように、シャガラット・ドッルの墓があります。
お墓は生前彼女が自分で作らせたものだそうで、規模は大きくはなく、入り口に
貝殻型のファサードがデザインされているが、近くにいくつもの墓があるので余程
注意しないと通り過ぎてしまうほどです。偉大なるスルタナの墓は訪れる人も無い
まま、ごみが溜まり荒れ放題となっていました。

曇り空のある春の日に、カギを開けてもらい中に入ることができました。壊れかけた
内部は木材が倒れ、殺伐たる有り様でしたが、 メッカの方向を指し示す壁がん
(ミフラーブ)だけがそのまま残っており、そのミフラーブには、ビザンチン風の
細かなガラスモザイクで、真っ白の実をいくつもつけた黄金の真珠の樹が
描かれていました。

物語は今から750年前、エジプトのスルタン サリーフのもとに 1人の女性が到着を
したところから始まります。
ハーレムの他の女性たちと同じように、彼女の出自は不明で一説によれば、
アルメニアの生まれと言われますが、実際生まれた時の名前さえも分かって
いません。
ただこのアルメニアという国は 熱心キリスト教徒国で、ローマ帝国がキリスト教を
公認するより先んじて、世界で最初のキリスト教国となったくらいです。ハーレムには
こういったクリスチャンの女性も多くいたというわけです。

当時、真珠は砂漠を越えて、ペルシア湾でベドウィンがすもぐりをして見つけ、
商人の手を経て運ばれてきました。ふだんらくだに乗っている人たちが海で真珠を
とるわけです。ペルシャ湾の真珠は日本が養殖をはじめて低価格で売り出すまで
続いていました。   
ハーレムの女性たちにとっては、貧しい男性の真珠取りのことなんかどうでもよかった
でしょうが、白く輝くその美しさは、植物の実なのかそれとも鉱石なのか、あこがれの
宝飾珠であったことでしょう。

美しきシャジャル・ドッルがスルタン サーリフのとの間に生んだ息子は世継ぎでは
ありませんでした。サーリフにはすでに長子トウーラン・シャーがおり、彼女の息子
ハリールは次男だったからです。
しかし彼女は自らを ウンム・ハリール(ハリールの母)と呼ばせました。それは、生涯で
初めての、そして最後の、穏やかな日々だったのです。
           つづく・・・のでありました。

イスラム教では偶像崇拝につながるからということで、積極的に肖像画を残さない為、
シャガラット・ドッルの姿も残されていません。個人的にはとても残念に思います。

でも、私が想像するハーレムやアラブの女性たちの姿は、なんとなくこんな感じの
たおやかで妖艶でエロチックで、宦官なんかもいたりして・・それは欧米人の目を
通してアラブを理解する「オリエンタリズム」である、と E・サイードが批判をしているもの
ですが、それでも誠に美しいのは否めません。

余談ですが、今でもサウジアラビアなどでは、偶像崇拝につながるといって、わざと
写真や絵に線を引いたりすることがあります。関係ないけれど ポケモンもサウジでは
偶像崇拝につながるということで禁止になったほどです。
658世界@名無史さん:02/05/18 14:12
ハーレムの寵姫シャガラット・ドッルは スルタンの息子カリールの母となり、自らを
「ウンム・カリール」と呼ばせました。ところがカリールは子供のうちに亡くなって
しまいます。しかし彼女はカリールの母という敬称を持ちつづけていました。

「誰々のの母」という呼び方は、高貴な人に限らず、現在でも使われています。
例えば息子サイードを持つ母を「ウンム・サイード」息子ムハンマッドの場合は
「ウンム・ムハンマッド」と呼ばれるのは普通のことです。また、父親がアリーの場合
「イブン・アリー(アリーの息子)」という呼び方をするのも連綿と使われている敬称
です。

これはほのぼのとして、誇らしげな呼び方ですが、ここに女性は登場しません。
意地の悪い見方かもしれませんが、あくまでも女性が一人前と認められるには
息子の存在が必要不可欠ということなのでしょうか。

知り合いのエジプト人の家族は娘が6人、そしてやっと7番目に息子が生まれました。
兄弟がたくさんいるんだね、と言うと、4番目に生まれた娘である友人いわく「7番目の
息子が生まれなければ、8人でも9人でも母は生んでいたはずだ」

エジプトの女性でジェンダー研究家として活躍している人がいますが、彼女の著作
「イスラームとジェンダー」によれば、預言者ムハンマドの時代(7世紀)には女性は
戦いの場にも現れ、不服を表現する権利を持ち、商売をする知恵と度量を持ち、
機会も与えられていた、と書いています。

それは例えばムハンマドの最初の妻ハディージャは結婚する前から商人でメッカを
中心に手広く商売を行っていました。ムハンマドが瞑想の為、岩屋にこもっている間に
生活を支えていたのもハディージャの商売の才でした。

ムハンマド没後にも、最も若い妻であったアイーシャが、ムハンマドの言行録編算に
大きくかかわっています。あの時にムハンマドがなんと言ったか、どうしたか、と
いうことを記録として残したその言行録は「ハディース」と呼ばれ、現在もイスラーム
国家の法律に大きく影響しています。アイーシャの発言が尊重され信頼されていた
からこそ、ハディースは生まれた、とも言えます。

また、アイーシャを含めたムハンマドの残した妻たちは、ウマイヤ朝国家から生活の
保障がされるまでは、商売をしたり繕い物をしたりして自らの生計を立てるという
たくましい生き方をしていました。

このように初期イスラームの女性たちは必要にかられて、ということもありますが、
社会の正規な戦力として地位を持っていたということが言えます。

しかし、時代はイスラム大帝国建設へと移り、特にアッバース朝時代以降、女性に
対しての全般的な規制が高まっていったと言われています。

女性は隠すもの隠れているもの、庇護のもとにあるもの、まさにそういう生き方が
形をなしていった時代に、シャガラット・ドッルは生きており、息子を得、息子を亡くした
わけです。そう思うと、彼女の「ウンム・カリール」という呼び名は、はかなくもろい
その後の生涯を予言しているように思えてなりません。
659世界@名無史さん:02/05/18 14:26
シャガラット・ドッル はハトシェプストみたいに
後の世で肖像なども抹殺されたんだろうか?
660世界@名無史さん:02/05/18 14:33
>>656
515でガイシュツのスルタナか?
661世界@名無史さん:02/05/18 16:34
もはや、日本人でじゃないだろう
オノ・ヨーコ!
662世界@名無史さん:02/05/18 16:41
安田財閥のお嬢様だな?
663世界@名無史さん:02/05/18 19:19
オノ・ヨーコは女傑と言うより猛女・魔女のよに思われてたらいい
レノンと結婚した当時は
664世界@名無史さん:02/05/18 19:28
アリス・ギー
世界初の劇映画を作った女性アリス・ギーだが、
彼女の作品の多くが夫や男性スタッフの名前で記録されている。
映画が巨大産業化していくなかで撮影所は男性の世界となり、
女性は疎外されていく。
665世界@名無史さん:02/05/19 01:50
>659
シャガラット・ドッル(=シャジャル・ドッル)の名は
カイロの通りの名として残っています。
遺体は放置され犬の餌食にされたので残っていませんが、墓はあります。
666世界@名無史さん:02/05/19 02:18
19世紀「インドネシア独立の母」チュッ・ニャ・ディン。
アチュ王国で原住民を指揮し、オランダ軍と戦った。
667世界@名無史さん:02/05/19 09:06
ヘレン・ケラー



 アメリカ・アラバマ州の北部、メキシコ湾から快い暖風の吹きよせるタスカンビヤの町近くで、
ヘレンケラーは1880年6月28日誕生した。
父アーサーケラーはスイス人の血をひく南北戦争当時の大尉、母のケイト・アダムスは父より20歳も若い妻だった。
この夫婦の間に生れたヘレンケラーは、この地方特有のツルバラやぶどうに包まれた
美しい田園住宅ですくすくと育ち、生後6カ月目には早くも片言ながら『こんにちは』を言い、
1歳の誕生日にはヨチヨチ歩き出すほどの成長ぶりだった。
しかし1歳9カ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、一時は医師も見放すほどの
重体に陥ったが、医師の努力で辛うじて一命だけはとりとめたものの、耳と目をおかされ、
光と音の世界から完全に隔離されてしまった。
幼いヘレンのわずかに記憶に残る言葉といえば、水を意味する「ウォー・ウォー」たった一言だった。
それでも母子の間では何とか手ぶり身ぶりで意味は通じたので、両親は希望を捨てなかった。両親は見識の高い人であった。
文献を調べて各方面の名医の診察を受けているうち、視力の回復は到底不可能だが、
視聴覚障害者にも立派に教育していくことは可能であるという確信を得た。
ある日ケラー大尉はヘレンを連れて、電話の発明者で障害者教育につくしていた
ワシントン市のアレキサンダー・グラハム・ベル氏を訪れ、
その紹介でパーキンス盲学校の校長アナグノス氏に手紙を出して、
ヘレンのために家庭教師のあっせんを依頼した。
そこで推薦されて来たのが、同校を優秀な成績で卒業したばかりのアンニー・サリヴァン嬢で、
このサリヴァンこそ、その後50年間ヘレンのよき半身となって献身的努力を続け、
後に米国の著名作家マーク・トウエインをしてナポレオンとともに『19世紀の奇跡』とたたえ、
聖女といわしめるまでにヘレンケラーを育てあげた『偉大なる教師』その人である。

 1887年、当時22歳の妙齢サリヴァンが、タスカンビヤにあるヘレンの家へ来たのは、
春3月のうららかな朝だった。ヘレンに会ってみると、7歳になった彼女は予想に反して四肢のすくすくと伸び、
リンゴのような頬をした元気のいい子だったのでほっとしたが、一方怒りっぽくて乱暴、
いささかも疲れを知らぬようにはね回り、両親も時に手を焼く有様なのを知って、
この子に素直さを教えることは並大抵の苦労ではないと直感した。
しかしヘレンは、頭脳が極めて明せきで、ことに記憶力がよく、適切な教育により素晴らしい
子供になれるとの確信を抱いた。
668世界@名無史さん:02/05/19 09:10
サリヴァンは着いた翌日から早速教育にとりかかった。まず最初に、パーキンス盲学校から贈られた人形をヘレンに抱かせ、
指文字で「DOLL(人形)」という字をその掌に書いた。
もちろんヘレンは何のことか判らなかった。繰り返しているうちに、それが自分の
抱いているものの名前であることを覚り、この調子で努力しているうち、
2週間目にはすべてのものに名のあることを理解するようになった。
もともと頭のいいヘレンの進歩は日に日に早くなった。サリヴァンはそれまでの経験によって、
点字によるよりも指文字の方が、興味と快感を伴いながら進歩も
早いことを知っていたので、最初から指文字による教育をはじめたのである。
教育をはじめて3カ月目、ヘレンはもう300の言葉を覚えた。これはヘレンの天賦の知力にもよるが、
サリヴァンの教育的手腕が普通でなかったことを物語るのである。
一例をあげると、ある日ヘレンがコップとその中に入っている水を同じものだと主張してゆずらず、
遂にサリヴァンとけんかになってしまった。サリヴァンはヘレンの気分を転換させるため、
しばらく他のことに興味を移し、その上で初めて戸外に誘い出し、ポンプ小屋に連れて行って、
持っているコップに冷たい水を注ぎこんでやった。と同時に「水」と指文字で書くと、
瞬間ヘレンの顔色がさっと変り、コップを落して打たれたようにじっと考えこんでしまった。
彼女の面にいつもと違う輝きが現れはじめた。自分の誤りが分ったのである。
−このことがあってから、あれほど頑固だったヘレンが急に素直になり、
サリヴァンの教えをよくうけ入れて、進歩も目立って来たと、サリヴァンの記録に残っている。

かくして相当の言語と知識を教えこむことに成功したサリヴァンは、
第二段階の教育方法として、ヘレンに『読む力』を与えることにとりかかった。
それは点字ではなく、一つ一つの語を別な紙に凸文字で書いたものを、
順序よく並べることによってである。次いで書くことを教えた。
ヘレンの知りたいことをよく注意し、教育と生活を近づけ、興味を引き立てながら、
独学によって知り得るすべてのものを、教え授けるようにした。
これによってヘレンの思想はだんだん整理され、観念の正確さを加えることが出来たと
後にサリヴァンは語っている。
そこで1889年10月、ボストンのパーキンス盲学校に赴き、
ここでヘレンは生まれてはじめて自分と同年輩の多くの盲児と遊ぶことが出来た。
そこで元気にはしゃぐ子供たちが、みんな自分と同じ盲人であることを知った時の驚き、
しかも子供たちが実に幸福そうであること知ったヘレンの喜びは筆舌につくし難く、
『私はどんなに生き甲斐を感じたことでしょう』と彼女の自叙伝に
述べているのを見ても想像できる。この旅行では、ワシントンに行って
大統領クリーヴランドに招待されたり、古戦場を訪れたり、
生れてはじめて汽船に乗ったりして、生活の内容もだんだん深くなっていった。
669世界@名無史さん:02/05/19 09:12
 1890年、ヘレン11歳の春は、一生忘れ得ない思い出の年である。それは彼女が長い年月、目は見えないとしても、
何とかして話したい、語りたいと念願していた、その悲願が達せられたからである。
それまでは、例え一言でも声というものを発してみたいばかりに、
常に片手で自分の喉を押え、片手を唇にふれて声を出そうと努めてみた。
サリヴァンの口中に指を突っこんで話す時の舌の位置を知ろうと努め、
そのためサリヴァンが嘔吐したことは一再でなかった。はじめ周囲の人々は、
そんな出来もしないことを無理に実現しようとして不成功に終った場合の悲哀を考え、
またそれによって指文字や点字による指導が、その進歩を妨げられることを恐れて、
容易に手を出しかねていた。しかしヘレンは、当時ノルウェーで聴覚障害者の発声研究が
一部成功したことを伝え知って矢も盾もたまらず、サリヴァン先生もその熱意に動かされて、
遂にボストンのホレースマン聾学校にヘレンを伴い、校長のサラー・フラー女史に読話と発音法を
学ぶこととなったヘレンの自伝を読むと、
『私は校長先生が一言を発するごとに彼女の顔の上に手をあて、その唇の運動や舌の位置を探って、
その真似をして、一心に学んだ結果、1時間後には六つの音の要素(M.P.A.S.T.I)
を覚えこんだ。かくて私は最初に「It is warm today.(今日は暖かです)」
と自分には聞えないながらも、声だけは発し得た時の驚きと喜びは、
終生忘れ得ないことです。それは聞き取りにくい言葉ではあった。しかし正しく人間の言葉であった。
私はこれで永い間の苦悩から救い出された』
という意味のことを書いているのを見ても、その時の感激が如何に大きかったか想像出来る。
ヘレンは更に1894年から2カ年間、ニューヨークのライトヒューメーソン聾唖学校で発声法の研究を積んだが、
この時はドイツ人について勉強したので、わずか数ヵ月でドイツ語なら何でも判るようになったという。
ヘレンの頭脳が凡ようでなかったことはもちろんだが、明けても暮れても側をはなれず
その手助けをしたサリヴァンの献身的努力は言葉ではとうてい語りつくせない。
そのころにはヘレンの学問も相当すすみ、ラテン語、歴史文学、地理などには
特に興味を持ち、同じ年ごろの男女生徒の優秀なものと同等の成績を得たと、
伝えられている。
670世界@名無史さん:02/05/19 09:16
ヘレンの向学心と求知欲はますますおう盛となり、是非とも大学教育を受けたいと熱心な希望をもらしはじめた。
幸いある方面から物質的な援助もあって、その準備教育をアイアン博士について家庭ではじめた。
ヘレンはハーバード大学を特に希望し、その入学準備のためケンブリッジ市の女学校に入学した。
時にヘレンは17歳だった。
ハーバード大学の当時の入学試験科目は英語、歴史、フランス語、ドイツ語、ラテン、
ギリシャ両古典及び代数、幾何であった。女学校での教育の受け方は、
サリヴァンもヘレンと一緒に登校して同席し、教師の教えるところを
サリヴァンがそのまま指文字でヘレンに伝え、
また質問する時はヘレンが指文字でサリヴァンに伝え、更にサリヴァンから教師に口でその意味を説明するという極めて不便な方法であった。
ヘレンはラテン語が最も得意で、数学は一番苦手だった。かくて3ヵ年間の大学入学準備期間は
、睡眠時間も割いて、文字通り肉をきざみ骨を削る思いの勉強をつづけ、
また何度も点字本を読むために、指頭には血がふき出るほどだったという。
しかしこの労苦は遂に報いられる時が来た。2回にわたる入学試験の結果、視聴覚障害の身で、
しかも優秀な成績のもとに、
多年あこがれのハーバード大学附属のラッドクリフ女子大学入学の栄誉を勝ち得たのである。
ヘレン21歳の秋、世界歴史始まって最初のことと、当時の新聞はほめたたえたのである。
大学生活4年間のことは簡単にすすめよう。教室での勉強中も、休養の時間中も、
夜間他の人々が寝た後もヘレンとサリヴァンは忙しく指先を動かし、
あるいはタイプライターを打っていた。ヘレンは古典文学と哲学に
特に興味を持ち、そのために他から与えられる学資金も点字本を買ったり、
参考書を点字にほん訳する費用のために遣い果したほどだった。
4ヵ年の刻苦精励は当然報いられて、ヘレンは学友のなかでも極めて優秀な成績で
ラッドクリフ・カレッジを卒業、視聴覚障害者としては前代未聞の
バチェラー・オプ・アーツの学位を獲得した。卒業の年、1904年10月、
当時開催中のセントルイス博覧会は特にヘレンの卒業を祝して“ヘレンケラー・デー”
を設けヘレンを招いて大講演会を開催した。“聴覚障害者がものをいう”
奇跡の人、ヘレンの演説を開こうと、大講堂の窓という窓が人で折り重なるほどの
大盛況だった。壇上におもむろに進んだヘレンは、生まれてはじめて人前に立ち、
力一杯の声を張り上げたつもりだったが、自分ではその声がきこえない。
実際に喉から出た声は実に細く、側にいた人が辛うじてきき得る程度だったが、
それをサリヴァンを全然通せず、博覧会会長のフランシス氏がそのまま大声で
復唱して聴衆に伝えたところ、大講堂にあふれた聴衆は奇跡の実現に
大いに驚きかつ感激して、演説を終って退場するヘレンにわっと殺到し、
動けなくなる騒ぎに交通巡査が出動して整理しなければならぬほどだった。
671世界@名無史さん:02/05/19 09:19
発声方法にはまだ不完全な点が多かったので、1909年から3年間、ボストン音楽学校の
声楽教授ホワイト氏について勉強し直した。モントクレアで開かれた第1回公開講演
をきっかけとして、ヘレンはその後の40数年間、米国内はもとより
世界各国で行った講演は幾千回に上ったが、ことに視聴覚障害者の福祉のために
声をしぼって叫びつづけていたのである。
ヘレンの社会的活動はただに講演だけではない。今日まで米国内で関係した公共事業は数知れず、
また女史の訪問した海外の国々では、女史の来訪を記念して、
その国に視聴覚障害者のために幾多の福祉事業が生れ、現在大きく実っている。
女史の著書は、1903年大学在学中に執筆した『楽天主義』と『私の生涯』をはじめとして、
1905年随筆『暗黒より出でて』、1908年『私の住む世界』『闇より』、
1910年自由詩『石壁の歌』、1927年『私の宗教』、1930年『中流』
『私の近頃の生活』、1933年『夕暮の平和』、1938年『日誌』、1940年
『われら信仰を持たん』などがあり、何れも発行と同時に障害者はもとより
一般からもむさぼるように読まれた。
これらの著書に織り込まれたヘレンの高い思想、人生に希望と輝きを与える数々の著述並に社会的活動によって、
最大の名誉が与えられる日が来た。それは米国と英国の二つの大学から
学位がおくられたのである。一つは1931年、フィラデルフィアのテンプル大学からの
人文学博士であり、もう一つは1932年、英国グラスゴー大学からの法学博士である。
前者は一般世論をも考慮して特にサリヴァン女史にも同じ学位を贈ったが、
サリヴァンはその資格なしとして辞退し、再三すすめられて翌年ようやく
その光栄を受けたことは、サリヴアンの人柄の一端を物語るものといえよう。
ヘレンケラーは平和論者としても知られ、第一次世界大戦以後は、
サリヴァンの影響もあって社会事業を唱え、実際運動にも参加して、
恵まれない人達のために大いに献身した。また持論である平和主義に立脚して、
米国の大戦参加に極力反対したため、一部の人達から中傷され、
一時窮境に立たされたこともあった。
その生涯は幾多の苦難に満ちた道だったが、常に明るい希望と
たゆまない努力によってのり越えてきた。如何なる苦悩に遭遇しても
常に人生に希望を捨てないヘレンの楽天主義は、自ら体得した貴い収穫であり、
それに敬けんな信仰心もあずかって、力あるものになったのであろう。
672世界@名無史さん:02/05/19 09:21
しかし、ヘレンの一生にも悲しい二つの出来事があった。一つはヘレン37歳の夏、
一家が経済的に不如意となり、サリヴァン女史も病気療養中の時、
臨時に秘書を勤めた年下の一青年から愛の告白をうけ、
身も心もとけるような恋の喜びに胸をうちふるわせたことがあった。
青春におくれてほころびかけた恋のつぼみではあったが、母の猛烈な反対で
悲しい破たんに終り、楽天主義を強く唱えるさすがのヘレンも、
失恋の打傷に身も世もあらぬ悲しい幾日かもあった。
もう一つはサリヴァン先生の死であった。先生は寄る年波にはかてず、
70歳で貴い生涯を閉じたのである。臨終の枕辺に馳せ参じて、
先生の手をにぎりしめたヘレンが、如何になげき悲しんだか。
思えばヘレン8歳の春、当時22歳の娘盛りの先生が、はるばるタスカンビヤの家を
訪れて以来50年、限りない慈愛と忍耐をもってヘレンをして『世紀の奇跡』と
まで育てあげたこの先生、この手こそ瞬時もヘレンの側を離れず、
ヘレンの目となり、口となり、耳となり思想を教え、芸術を授け、
科学を伝えたその貴い手である。刻々と冷たくなっていく先生の
その偉大な手を力一杯にぎりしめて、泣きくずれるヘレンの姿には、
並いる者すべて涙せぬものはなかったという。
1936年10月20日、木の葉がはらはらと散り初める秋の夕暮であった。
サリヴァン先生の死後は、ポリー・トムソン女史が通訳となり、
昭和30年夏の第三次ヘレンケラー女史来日の際にも付き添ったほか、
世界各地の遊説に同行するなど、ヘレンケラーの晩年を
よく支えたとして知られます。
ヘレンケラー女史は1968年昇天されましたが、
その慈愛と勇気は全地球上に生きています
673世界@名無史さん:02/05/19 14:05
ヘレン・ケラーとサリバン先生の話は映画にもなってたな。
674世界@名無史さん:02/05/19 14:15
>>665
遺体が放置
凄い話だ
処刑された人間の場合はよくあることだけど
誰かがそのうち拾って埋葬するから
675世界@名無史さん:02/05/19 14:41
>>627

豊臣秀吉は、日本人にとっては英雄であり、とくに大阪人にとっては、徳川の江戸に対抗するよ
すがともなる人物である。しかし、民族がちがえば同じ歴史に対する評価も違ってくる。朝鮮人
にとっての英雄とは、李舜臣をはじめ日本軍と戦った人々であり、中には、日本の武将を誘い出
し、抱きついたまま道連れにして川に投身自殺した激戦地晋州(チンジュ)の女性、論介(ノン
ゲ)のような庶民の英雄も含まれる。

          
晋州にある義岩。論介は晋州きっての売れっ子妓生(強いていえば日本の芸者)であったが、接
待した侍頭の毛谷村六助を誘惑するふりをして誘い出し、「危岩」と呼ばれていた深い淵の上の
岩場で六助に抱きついたまま道連れにして身を投げたという。
「危岩」がそれ以後「義岩」と呼ばれるようになったというのは、韓国では誰でも知っている有
名な話である。

たいした武将でもなかったようだよ。
ささやかな抵抗が、民族英雄に祭り上げられたわけだ。


676世界@名無史さん:02/05/19 16:18
ドロシー・ホジキン

イギリス人化学者。
1910年5月12日生まれ。オックスフォード大学で考古学と化学を専攻する。
後にX線結晶解析により生体物質、特にペニシリンおよびビタミンB12 の
立体構造決定に成功する。1964年ノーベル化学賞を受賞。

677世界@名無史さん:02/05/19 16:26
>>675
美人局の一種か、日本から見たら卑怯な手口だな。でもおもしろい。
パルチザンってのはどんな手を使っても民族の英雄になれるから便利だ。
しかしその妓生はどうも女傑という雰囲気を持ってないな。
朝鮮人の女傑を上げるなら、
近代日本おなじみの閔妃の方がスケールがでかくて好きだ。
678世界@名無史さん:02/05/19 17:00
新羅には善徳・真徳・真聖と3人の女王がいたが
女傑だったのだとうか?
679世界@名無史さん:02/05/19 17:32
イザベラ・バード
英国人の女性旅行家で紀行作家。
明治11年47歳の時に来日し、通訳の青年を案内人として8月に北海道を訪れた。
函館から行程の陸路はすべて馬で踏破し、沙流川の河口から丸木舟で川を上った。
アイヌ集落の取材を目的とした来訪であったが、平村ペンリウク宅に
滞在しながらの4日間の観察叙述は、明治初期の民族誌的記録としては
きわめて貴重なものである。邦訳は「日本奥地紀行」として、
また北海道についての部分訳(訳者は二風谷に在住していた神成利男)は
「コタン探訪記」として出版されている。
680世界@名無史さん:02/05/19 22:20
>>678
あまりりエピソードを聞かないね
681世界@名無史さん:02/05/20 00:39
善徳が一番優秀な気がする。仏教の導入や瞻星台(天文台)建設など
文化面で業績を残している。
真徳の時代は悪くないが実権は後の武裂王が握っていたみたいだし。
真聖は淫乱No.1.
682世界@名無史さん:02/05/20 00:40
イザドラ・ダンカン


二〇世紀初頭、欧米のダンスの主流はバレエだった。
そこへ颯爽と登場イザドラ・ダンカン(一八七七−一九二七)は、
「バレエは動きも、コスチュームも、トウシューズも、みんな不自然で人工的だ」
と批判し、自然を讃え、古代ギリシャへの回帰を唱え、
体を締めつけないゆったりとした古代風のチュニックをまとい、はだしで踊った。
全裸で踊ったこともあった。
ダンカンはアメリカ出身だが、アメリカでは受けず、
ヨーロッパに渡ってから注目を集め、一世を風靡した。
彼女の踊りは、バレエのように決まったパターンを繰り返すのではなく、
内面から沸き上がってくる感情に忠実な、まったく自由奔放な踊りだった。
その舞踊スタイルは、やがてモダン・ダンスと呼ばれるようになり、
二〇世紀舞踊の主流となる。
彼女は女性解放を唱えた先駆的フェミニストでもあり、
私生活でも恋多き女として自由恋愛を実践し、新しい女性像を体現した。
自動車が川に落ちるという事故で愛児二人を失い、
自身もスカーフが自動車の車輪にからまって首の骨が折れるという事故で
死んだ。その点でも、じつに二〇世紀全体を先取りした人物であったといえよう。
彼女の創始したモダン・ダンスは、次々に後継者があらわれ、
それとともにスタイルも変化していったが、急速に世界中に広まり、
学校教育にも広く取り入れられた。幼稚園のお遊戯はその一例だ。
また、器械体操や新体操、シンクロナイズド・スイミングといった
スポーツにも取り入れられている。
日本でも、モダンダンスは第二次大戦前に輸入され、「洋舞」として定着し、やがては日本舞踊をはるかに上回る数の人びとを惹きつけるようになる。
683世界@名無史さん:02/05/20 00:48
>>682
20世紀の映像だったかな、テレビで踊っている場面を見たことがある。
正直 顔はとても美人とはいえない いやブスと言ったほうがいいレベルだが
芸術的には優れた女性だったのだろう。
しかしあの踊り 今見ると幼稚園のお遊戯みたいだった。(藁
684世界@名無史さん:02/05/20 12:49
アガサ・クリスティ
 アガサは、聖書の次に多く読まれている推理小説を書いた作家だと言われており、148の短編と66の長編の推理小説を世に出しました。
 彼女は、ヴィクトリア朝の華やかな文化の香りの余韻がまだ残る1890年に英国の南西部デボン州、イギリスのリビエラといわれる
リゾート地、トーキー(Torquay)というところでアメリカ人の父ミラー氏とイギリス人の母クラリッサとの
間に生まれました。その屋敷は、アッシュフィールドという名前でコンサバトリー(邸宅付き温室)や
大きな庭園のある典型的な中産階級の家でした。
彼女は、生涯学校へ通うことなく幼いときには乳母に育てられ、父親と家庭教師から
教養を身につけました。そうです、典型的な中産階級のお嬢様として人生をスタートしたのです。
しかしながら、彼女には、紆余曲折、波瀾万丈な人生が待ち受けていました。
それに立ち向かうがごとく、推理小説という世界の中に自分の才能を見いだし、
彼女らしい人間としての人生を見事に確立したのでした。
彼女は、1900年初頭から活躍した女性ですが、
現代の女性の生き方をその当時にもう実行し続けた人です。
私にとって最も憧れている女性、「アガサ・クリスティの世界」を
様々な角度からお話ししていきたいと考えています。
もちろん彼女の作品の中に多く登場する有名なキャラクターである、
とてもお庭を愛し度々お庭の中で事件の解明のヒントを得る
「ミス・マープル」や灰色の脳細胞により難解で一見完全犯罪かと
思われる事件をものの見事に解明する「エルキュール・ポワロ」のお話も
散りばめたいと思っております。どうぞお楽しみ下さいますように。
685世界@名無史さん:02/05/20 13:48
わ〜い、ポワロだ、ポワロだ!
686世界@名無史さん:02/05/20 14:46
帰って来たあうんさんすうちぃ
687世界@名無史さん:02/05/20 21:41
レビモンタルチーニ
イタリア出身
神経成長因子および上皮成長因子の発見により1986年ノーベル医学賞
688世界@名無史さん:02/05/20 22:00
マリア・ライヒェ。
ナスカの地上絵一筋のドイツ人数学者。
689世界@名無史さん:02/05/20 22:02
>>688
その人何かの番組で見た。
地上画の解説やってたと思う。
ナスカの地上画については意見がわかれてて
錯綜してるようだ。
宇宙人へのメッセージなんてのもあったなあ。
実際は農耕か灌漑に関係してる説が有力みたい。
690世界@名無史さん:02/05/20 22:09
>689
1997年に亡くなっています。
楠田江里子が結構はまっていたような。
691世界@名無史さん:02/05/20 22:50
オスマン帝国末期のスルタンの寵妃。名前忘れたけど、
フランス人で、ナポレオンの最初の妻、ジョセフィーヌの
いとこ。あー。誰か解説して。手元に資料がないので。
692世界@名無史さん:02/05/20 23:35
>691
げろ。わしもど忘れした。塩婆の小説でしかしらん。
小さいじぶん2人して、よくあたる占い師に”女王様”になると
ゆーてもらったとかいう・・・では>693 どうぞ!
693世界@名無史さん:02/05/20 23:57
>691、692
確か、エイメという名前だったと思う。
694世界@名無史さん:02/05/21 00:47
エーメ・デュブック。
マルチニック島育ち。留学先のフランスで修道院帰り海賊に襲われ、
トルコのハーレムに売り飛ばされる。
ハーレムでスルタンの寵愛を受け、息子が後にスルタンとなる。
53歳で死去。
695世界@名無史さん:02/05/21 02:07
>>692
塩婆・・・・なるほど、そういうあだ名になるんだな?(w

エメ・ドュブク・ド・リヴュリ
ノルマン系フランス貴族の生まれ。フランスの修道院で教育を受けた後
植民地マルティカ島に住む両親の元に返る途中でアルジェリアの海賊に
襲われ、奴隷となる。
ナポレオン妃ジョゼフィーヌは彼女の従姉妹に当たる。
その後スルタンのハレムに入り、スルタン・アブドゥル・ハーミッドの
寵愛を受け、1783年、後のスルタン「改革者モハメッド」を産む。
スルタン・アブドゥル・ハーミッドの死後は彼の甥セリムがつぐが
イエニチェリ軍団を改革しようとした彼は、逆にイエニチェリ軍団と
前スルタンの息子ムスタファに殺される。
しかし、ムスタファも殺され、その後やっと彼女の息子モハメッドが
後継者になる。
しかしすでに斜陽の老大国となっていたオスマン・トルコは
海外の領土を失い、坂を転げ落ちていく。
エメは最後までキリスト教徒としての生涯を終えたと
伝えられている。
696世界@名無史さん:02/05/21 02:10
ジョージ・エリオット (1819-80)

 ウォリックシャーの土地差配人の末娘として生まれる。本名メアリー・アン・エヴァンズ。
 イギリス中部の田園地帯で少女期を過ごした後、ロンドンに出て新聞編集に携わる。妻子ある男との同棲により、
世間からは冷たい目で見られるが、彼の強い勧めによって書いた小説が成功する。
筆名のジョージは、彼の名を取ったものである。
彼女の作品が次々と称賛をもって迎えられたため、男との関係も
しだいに容認されていった。
 彼女の作風は、人間を道徳的存在として把握し、その自我超越を主題とする。
イギリス小説に初めて真摯な目的意識を付与したことにより、
「イギリス初の近代小説家」と呼ばれている。
 
697世界@名無史さん:02/05/21 12:28
塩爺が出てからの綽名だよな。塩婆?(W
698世界@名無史さん:02/05/21 16:45
(シモンヌ・ド・ボーボワール)

1908-86
フランスの女性作家、ソルボンヌ大学卒。
哲学教師を経た後、1943年小説『招かれた女』を発表し、作家生活に入る。

戦後、1949年、実存主義の観点に立つ画期的な女性論『第二の性』(Le deuxieme sexe) を
フランス語で出版し、世界的な反響を呼んだ。現代の女性運動が始まる約20年前に出版された
この書は古いフェミニズムから新しいフェミニズムへと移る転換期の産物と
みなすことができる。
この本は論争を呼びかけたものでもなく行動を呼びかけたものでもない。
むしろ著者がフェミニストを自認する以前にかかれ、政治的ではないが
「他者」としての女性を長期的に探究した優れた学問的研究書である。

ボーヴォワールは歴史、芸術、精神分析学、生物学、神話、文学、
実存主義的哲学を探り、いかに男性が一貫して人間としての女性の権利を
否定し続け自分達と正反対の「女」と呼ばれる人為的な構造物をつくってきたかを
明らかにしている。著者は後に続くフェミニズムの理論家たちを触発してきた
草分け的な存在である。
終生、サルトルのよきパートナーとしてエネルギッシュな活動を続けた。
1966年には、サルトルと共に来日している。
699世界@名無史さん:02/05/21 16:49
>>698
しかもサルトルとは
男女の関係でなく付かず離れずのパートナーって当たりが格好良い
700世界@名無史さん:02/05/21 16:57
700!
701世界@名無史さん:02/05/21 20:08
日本に一番影響を与えた外国人女性ってルース・ベネディクトじゃない?
彼女が「菊と刀」で提案した「恥の文化」って今でも枕詞のように使われるし。
でも彼女は日本に来たことがない。
702ポワロファン:02/05/21 22:17
「アガサ・クリスティ」レスの続編はまだかあ〜?
703世界@名無史さん:02/05/22 17:36
アガサ・クリスティ 〜Agatha Christie (189?〜1976)

1890年代生まれ。確か女史は老いてなお古風な女性らしさを持ち合わせ、生年月日を明らかにしなかった筈だ。
 1920年に出版された「スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。第6作目の「アクロイド殺害事件」で
センセーショナルな人気を得るに至った。


クリスティは英国南西部のデボンシャー州で生まれた。この頃の女性には珍しく無いが、
正規の学校教育は受けていない。しかし幼少期からなかなかのインテリで、
ピアニストや声楽家を目差しフランスへ渡った事もある。
 当時から本に親しみ、詩やおとぎ話を書く少女時代を過ごした。
その時彼女を批評してくれた隣人は、なんとイーデン・フィルポッツであったと言う。
 1914年、アーチボルト・クリスティと結婚、第一次世界大戦では地元の病院で看護婦として働いた。
この頃、姉のマッジとミステリについてよく語り、病院でも看護や毒薬の知識を得て、
ミステリを書こうと思い立ったらしい。
 そう言われれば「スタイルズ荘」でのヘイスティングが傷病兵であった事、「そして誰もいなくなった」のアームストロング医師や、ロジャース夫妻の前主人への毒殺の疑惑など、詳細な描写が頭に浮かぶ。
1926年12月、アガサ・クリスティは11日間にわたり行方がわからなくなります。
この年『アクロイド殺人事件』を発表し、すでに人気作家だったアガサ・クリスティーの失踪に
英国中が大騒ぎとなります。新聞社が情報に多額の懸賞金を付けたり、一般人を含めた大勢の人が彼女の捜索に参加しました。
 アガサ・クリスティー本人は自伝でもこの事件については一言も触れていなくて、真相は謎のままですが、

 名声を得てからの女史は、離婚や失踪など、ゴシップの女王でもあった。
しかしその事がかえって女史にミステリアスなイメージを付加し、
その地位を確かなものにするきっかけになったとも言えるようだ。


 クリスティは晩年まで筆力に衰えを見せず、エルキュール・ポワロ、ミス・マープル等の
魅力的なキャラクターの作品を半世紀にわたって数多く発表し続けた。
1975年に発表された最後の作品「カーテン」は実は遺稿ではなく、
30年も以前から最後の作品として周到に用意されていた物だった。
この作品でポワロも大往生を遂げ、女史もまたその経歴に見事な幕を引いた。
704世界@名無史さん:02/05/22 22:45
パール・バック

 1892年6月26日、パール・バックはアメリカ、ウエスト・バージニア州の
ヒルズボロで生まれました。
両親は熱心なクリスチャンで、宣教師として中国へ赴いていたのですが、
母は出産のため一時里帰りして娘のパールを生んだのです。
その後、一家は再び中国へ渡り、パール・バックはその人生の半分を中国において過ごしています。

 パール・バックは『土の家』3部作(「大地」「息子たち」「分裂せる家」)と
『霊肉の書』といわれるご自身の父母を描いた自伝的作品「闘う天使」「母の肖像」、
これらの作品によりアメリカの女流作家として初めてノーベル文学賞に輝きました。
その中でも特に「大地」は爆発的なベスト・セラーとなり、世界30ヵ国語以上に翻訳され、
ピューリッツァー賞を授与されるにいたりました。

 骨太で逞しく、なおかつ繊細な、彼女の作風の背景には御両親の信仰と、
中国という大陸がもつ力強さと生命力、東洋の伝統的精神などがあげられます。
しかし、彼女の心の奥深さは、単に東洋の大地と精神によってのみ育まれたものではありません。
そこには 一人の娘の存在と母親としてのご自身の体験があるのです。
1921年、彼女は愛娘キャロラインを生みました。フェニルケトン尿症が悪化し、
重度の知的障害をもつ子供となりました。
生涯その知能は子供のままで、それ以上にはならなかったと言われています。
母親として通過した彼女の苦悩はたいへんなものだったに違いありません。
(母親としての彼女の心痛は「母よ嘆くなかれ」という本の中に書き記されています。)

 「大地」には主人公、王龍(ワンロン)の娘として一人の白痴の娘があらわれてきます。
娘は常に家族の悩みの種になり、足手纏いになりますが、
しかしその母、阿蘭(アーラン)や王龍、そして梨花(リーホウ)はつねに娘のそばに寄り添い、
暖かく見守ってゆきます。激動の時代を描きながらも、この娘の存在だけは変わることがなく、
読者に慰めと安らぎを与えます。
そして母親の阿蘭は「忍従」という言葉に象徴される東洋の伝統的女性像として描かれています。
逞しく大地に立つ母親の姿はそれ自体がこの物語のテーマであり、作者の心を端的に
表わしているもののように思われます。パール・バックはご自身の夢と理想、
そしてさまざまな思いをこの阿蘭に託し、
投影させたのです。
彼女は、大地にしっかりと根をおろした大木のような大家族を夢見ていたに違いありません。

「大地」は1930年南京において執筆され、1931年に出版されました。
20年代は実質彼女は娘の養育にかかりきっていたのでしょう。9年間手許において育てたキャロルを1
930年ニュージャージーにある養護施設に送りだし、その後本格的な執筆活動に入りました。
彼女の代表的な佳作は全て30年代に集中しています。
10年間のあいだ圧縮されていた彼女の思いや感情が、一気に爆発した期間と
言っていいのではないでしょうか。
ある解説者の話によると、初期のころの未熟で幼稚な作風にくらべると、
飛躍的に成長し「大地」という作品が突然あらわれた、と言っています。
理由はただ一つ。キャロルを育てた10年間が彼女の心を耕したのです。
この作品には彼女の決意がみなぎっており、キャロルの存在なしに「大地」という作品は
ありえなかったのです。

 40年代に入ってなおも彼女の執筆活動は続きますが、その重点は徐々に社会活動へと移っていったようです。
西側諸国の横暴をなくし、東洋との公平な交流をはたそうという目的で、1941年「東西協会」を設立。
またアメリカの軍人が駐留先のアジアで置き捨てた混血児たちを養子・養女として引き取り、立派な国際人に育てるために、
1948年「ウェルカム・ハウス」を開設されました。そこには常時30人〜50人ほどの混血児たちが共同生活していたそうです。
ノーベル賞で得た賞金や、原稿料や本の印税など、ほとんどのお金はそこにつぎこまれました。
里親として彼女は、嬉しそうに「なんと私はたくさんの子宝に恵まれているのでしょう。」と言ったそうです。





705世界@名無史さん:02/05/22 23:32
広末涼子 (1980〜)

1980年高知県高知市帯屋町のインテリア雑貨商の長女として生まれる。
中学時代は陸上部に所属。ハイジャンプとハードルで高知県大会2位。
1994年、第1回クレアラシル『ぴかぴかフェイスコンテスト』応募し
見事グランプリを獲得。そしてCMデビュー。その後、正統派アイドル
としてドラマ、CM、写真集などで大活躍、"広末旋風"を巻き起こす。
1997年4月に竹内まりやプロデュースのシングル「MajiでKoiする5秒前」
で歌手デビュー。以降、岡本真夜や原由子、広瀬香美、朝本浩文など
大物たちに提供された楽曲を、ヒロスエ風に歌いこなし、オリコン
チャートへのランクインも果たしている。2ndアルバム「private」では、
椎名林檎や古内東子などが楽曲を提供して話題となった。
1999年2月には初ライブを日本武道館で成功させた。同年4月からは早稲田大学に入学、
学業と芸能活動との両立を図りつつ、正統派アイドルから大人の女優へと脱皮中である。
706世界@名無史さん:02/05/22 23:54
>>705
おや、なんか懐かしい名前を見たぞ!(w
707世界@名無史さん:02/05/23 12:47
リゴベルタ・メンチュ
グアテマラの人権活動家で、1992年ノーベル平和賞受賞者
708世界@名無史さん:02/05/23 14:27
少数民族出身のおばちゃんだね
709世界@名無史さん:02/05/23 20:39
ヴァージニア・ウルフ
イギリスの女性作家
710世界@名無史さん:02/05/23 23:04
既出ですがイザベル1世って少女時代は王女なのに、百姓同然の生活で、
発狂した母親の介護、弟の世話をして過ごしていたんだね。
最近まで知らなかった。
711世界@名無史さん:02/05/23 23:35
コストシェヴァ、ヴェーラ(1879-1939)

ポーランドの女性革命家。1906年以来のポーランド左派社会党(左派PPS)の創立メンバー。
同中央委員。同党が1918年にポーランド・リトアニア社会民主党と合同して
ポーランド共産党を結成したとき、その中央委員。
ヴァルスキ、ヴァレツキとともに同党の最高指導者に。
1924年、コストシェヴァとヴァルスキとヴァレツキの党指導部は、
左翼反対派に対し明確な反対の立場をとらず、スターリンによって攻撃され、
指導部から排除。その後ブハーリニストになり、1927年に中央委員に再選。
1929年にブハーリニストとして指導部より排除。
1930年にソ連に住み、大粛清期に逮捕され、1939年に獄死。
712世界@名無史さん:02/05/24 00:12
・駆け落ちする王女
1469年、ナドリッドの南方、タホ川のほとりにあるオカーニャ市に当時置かれていた宮殿から、
捕らわれの王女がわずかな供回りとともに抜け出しました。
イザベル・ド・カスティーリャ、カスティーリャ王ファン2世を父に、
ポルトガルの王女イザベルを母に生まれた王女は、
当時、カスティーリャの王であった兄エンリーケ4世の王位継承者でした。
この王位継承者である王女の結婚相手をめぐって、兄エンリーケとその取り巻きは、
イザベルの甥であり、エンリーケの妻ファナの兄であるポルトガル王アフォンソ5世に
白羽の矢をたてていましたが、当のイザベル王女は、アラゴン王子のフェルナンドに
思いを寄せていました。
アラゴンとポルトガルは、共にカスティーリャの隣国です。
王位継承者であるイザベルは、どちらと結婚するにしても、その結婚の結果として、
隣国との国家統一という問題を考えなくてはいけません。
それだけに、結婚は単なる情熱の問題ではなく、きわめて政治的な問題ではありました。
しかしながら、イザベルは政治的な理由だけでフェルナンドを選んだとは思えません。
18才のイザベルに対してアフォンソ5世は37才、結婚しても一方的に牛耳られる心配が多そうです。
一方のフェルナンドは1つ下の17才、イザベルにすれば本気で渡り合える年頃です。
イベリア半島の中央に位置するカスティーリャ王国の命運を賭けた結婚に際して、
イザベル本人が、自分の意思で結婚相手を選ぼうとしたことは、
当時の王家の娘としては異例であっても、カスティーリャという国にとっては
幸運であったといえるでしょう。
アラゴン王子との結婚を内諾したイザベルに対して、
エンリーケ王とその側近は王女監禁という強硬手段に出ます。
おとなしく王に従ったかのように見せながら、したたかな王女は慎重に機会を窺っていました。
そして、アンダルシアでの戦闘に王がみずから出かけた隙を狙って、
わずかな従者を連れて王宮を抜け出したのです。
目的地はバリャドリット、オカーニャからは約250Km北北西に位置しています。
自ら馬にまたがり、先頭を切って走っていく少女がめざしたのは、
アラゴン王子との結婚という情熱的な出来事でした。
713世界@名無史さん:02/05/24 00:30
・不能の兄
のちに「イザベル王女の父」としての評価を受けることになるファン2世は、
2才にもならう身でカスティーリャの王位を継ぎましたが、
動乱のイベリア半島に君臨するには、あまりにも普通の人間でした。
そのことは、イザベルにとっても、カスティーリャ王国にとっても、、
また、イベリア半島にとっても、この時代には不幸なことでした。
これに加えて、イザベルの異母兄であるエンリーケは、「不能王(インポテンツ)」と
あだ名されるほどで、その娘ファナは議会によって「エンリーケの子にあらず」と
断定されてしまいます。つまり、エンリーケは王妃と寝床を共にすることもできなかった、
ということです。
更に、イザベルの母、ポルトガルのイザベルは、夫の死後、エンリーケに王宮から
追い出されてしまったこともあって、精神を病み、イザベルや弟のアルフォンソの顔も
判らないこともあったといいます。
家庭に恵まれなかったイザベルは、それゆえに幸せな温かい家庭を切望することになります。
その彼女にとって、20も歳が離れていて世継ぎの王子もいるアフォンソ5世は、
情熱を燃やす対象にはならなかったのでしょう。
一方のフェルナンドは若く、情熱的で、のちに「君主論」を著したマキャベリをして
チューザレ・ボルジアに匹敵する、と言わせた策士でした。
地中海への進出の道を断たれたアラゴンをカスティーリャに結びつけて
イベリア半島で確固たる地位に押し上げるために、イザベルとの結婚が
またとない機会であることも十分承知していたと思います。

それゆえ、バリャドリットからイザベル王女の密使が到着した時、
カタルーニャの反乱に忙殺されていたにもかかわらず、
イザベルとの結婚のためにバリャドリッドに駆けつけることを承知したのでした。
714世界@名無史さん:02/05/24 02:36
駆け込み恋愛結婚かあ〜。
715世界@名無史さん:02/05/24 12:51
他の王子をふったんだね。
716世界@名無史さん:02/05/24 22:53
李清照
元豊七年(1084)〜?、号は易安居士、済南(山東省)の人。
父は李格非(文叔)、蘇軾と交流があり、文名あり。
18歳で趙明誠(徳甫)に嫁ぐ。明誠は趙挺之の季子。
当時21歳で太学生。金石学者。
二人は書物を好み、寝食を忘れて楽しんだ。

25歳の時に明誠は官をやめ、明誠の故郷、青州で二人は暮らす。
この十年間を、後に李清照は趙明誠の『金石録』後序で懐かしく回顧する。
しかし、趙挺之は新法党で宰相になったが、蔡京と敵対し、
挺之の死後たった三日のうちに、趙一族が青州に追われて蟄居を迫られた、
のが真相らしい。
717世界@名無史さん:02/05/24 23:05
>>710
母親発狂したのか?
娘のファナが後におかしくなるもの関係あるかな?
718世界@名無史さん:02/05/24 23:47
・アラゴンの王子
アラゴン領のサラゴーサからバリャドリッドまで350Km、
途中、エンリーケ王に与する敵方の領地を100Kmばかり通過しなくてはなりません。
イザベルがオカーニャの宮殿を抜け出したことは、南方に進軍したエンリーケの耳にも
届いていましたから、イザベル奪回の王軍もまた、バリャドリッドに向かっている筈です。
そして、アラゴンから軍隊が出ようものなら、エンリーケの軍隊との小競り合いは必死という状況でした。
ここでフェルナンドは、まずかな供回りを2つに別けました。片方にはアラゴン王からカスティーリャ王に
宛てた親書を持たせ、アラゴン王家の旗印を立てて、華々しく表街道を走らせました。
これは囮で、フェルナンド自身は、裏街道を抜ける小さな商隊に身をひそめていました。
まんまと敵を欺いた一行は、予定よりも早く、バリャドリッドに到着します。
そして4日後、フェルナンドとイザベルは、わずかに2人を支持する貴族たちに見守られる中、
簡素な結婚式を挙げます。
結婚式の費用さえ2人にはなく、貴族たちの有志によって賄われたのです。
双方の親兄弟も出席しない、まさに駆け落ち同然の結婚式が、
やがて、カスティーリャとアラゴンの融合したスペイン帝国を導くことになるのでした。
719世界@名無史さん:02/05/24 23:49
・背景:イベリア半島の国土回復運動(レコンキスタ)
「ピレネーを越えると、そこはもう、ヨーロッパではない」
スペインを表現するのによく使われる言葉です。
ピレネーとは、フランスとスペインの国境にある山脈です。
この山脈を越えたところ、つまり、スペインのあるイベリア半島は、
中世を通じて、数奇な運命を辿りました。
というのも、ヨーロッパの中でここだけが、イスラム教徒に占領された経験を持つからです。
610年、メッカでムハンマドが神から神託を受けて始めたイスラムは、。
またたくうちに版図を広げ、1世紀のちの711年にはウマイヤ朝の軍勢がきた
アフリカ経由でイベリア半島に侵略を開始しました。
イスラム軍は更に北上を続け、ピレネー山脈を越えて、フランク王国に侵入しましたが、
カール・マルテルの率いる軍勢がトゥール・ポワティエの戦いでイスラム軍を
破ったため、ピレネー山脈の手前に撤退します。
エプロ河とドゥエロ河以北に追いやられたキリスト教国は、
780年に及ぶ国土回復運動を始めます。
「イベリア半島のすべて、キリスト教徒のものに」この合い言葉は
中世を通じて、異教徒と戦い続ける心情をイベリア半島の住民に植え付けました。
720世界@名無史さん:02/05/24 23:50
カスティーリャは、レオン王国がエプロ河の流れに沿って侵入してくる
イスラム軍から国境を守るために置いた伯領がもとです。
カスティーリャとは、城・要塞という言葉を意味するカステロ語から出たものです。
文字通り、イスrマウに対する要塞であったのです。
カスティーリャは国土回復運動を通じてその先兵でした。
レオン王国を併合した後は、ひたすら南進を続け、この時期、
イベリア半島の約半分を固有の領土としていました。
アラゴンもまた、対イスラム抗争から生まれた伯領がもとで、
カタルーニャ、バレンシアと連合王国を形成し、15世紀の始めに
アラゴンの王女レオノールがカスティーリャ王ファン1世と結婚すると、
その二人の息子がカスティーリャとアラゴンの王となったこともあって、
この2つの国を統一する気運が生まれました。
つまり、イザベルとフェルナンドは曾祖父を1にするまた従兄弟同士だったのです。
この当時、わずかに南のグラナダを根拠地として、イスラム勢力はまだ、
イベリア半島にしがみついていました。あと少し、あとほんの少しでイベリア半島は
キリスト教の手に戻ってきます。そのためには、カタルーニャの反乱に手を焼くアラゴンより、
アフリカに手をのばしているポルトガルのほうが良かったかもしれません。
しかし、イザベルはポルトガルをどうやら嫌っていた節があります。
自分の母もポルトガルの出身でしたが、それ以上に、ポルトガル王の妹が兄嫁として
君臨していたのです。このファナ王妃は醜聞のはなはだしい人で、
生んだ3人の子供の父は、いずれもエンリーケ王ではないと言われています。
敬虔なキリスト教徒であるイザベルにとって、いつも周囲に若い男をはべらせ、
兄の目の前でも平気だったこの兄嫁は、どうにも苦手で敬遠したい存在だったのでしょう。
その兄嫁が主導するポルトガル王との結婚は避けたかったのかもしれません
721世界@名無史さん:02/05/25 00:44
ジャニス・ジャップリン
いや〜、あのシャウト、凄いッス!
722世界@名無史さん:02/05/25 01:24
>>721
誰だ。そりゃ?
723世界@名無史さん:02/05/25 02:14
女性ロッカー
724世界@名無史さん:02/05/25 07:29
>>722
麻薬であっちの世界に逝っちゃったヒト
725生半可通:02/05/25 08:16
>>722
モアオーバーやらメルセデスベンツは名曲っす
売れなかったころのショーヤもライブでカバーをよく演奏しとりました

で、スペインにお話を戻すと・・
レコンキスタで培われた強固な宗教組織があった故
ヨーロッパで吹き荒れた新旧両派の宗教紛争が
イベリア半島では皆無だったんですかね????
726世界@名無史さん:02/05/25 12:36
クリスティのポワロ話はないのか〜〜〜?
727世界@名無史さん:02/05/25 14:06

ポワロファン?(w
728世界@名無史さん:02/05/25 23:31
ともあれ、フェルナンドと結婚したイザベルは、1474年カスティーリャの王となります、
フェルナンドは1479年にアラゴンの王となりますが、
カスティーリャの王位は継承しません。
そのため、この2人は「カトリック両王」と呼ばれます。それぞれが独立して王であり、
カスティーリャとアラゴンは内政をそれぞれ独立させて、ゆるやかな連合王国となるのです。
この王国が「スペイン帝国」として完全に1つのものになるには、
彼らの曾孫フェリペ2世の登場を待たなくてはなりません。

・グラナダ陥落と新大陸発見
1506年、イザベルとフェルナンドが結婚したバリャドリッドの街で、
1人の男が栄光と失意のうちに死にました。
クリストバル・コロン、ラテン語でコロンブスと呼ばれるジェノバ出身のこ男は、
自分がアジアに到着したと信じたまま、政治的に認められることなく
一生を終えたのです。
コロンブスのアジア到達、それは実はアメリカ大陸の発見だったわけですが、
これは実際には発見というものですらありません。
それ以前にも鯨取りの漁師が遠くニューファウンドランドまで出かけていましたし、
そもそもアメリカ大陸にはすでにそこに住む人々が存在したのですから。
しかしながら、コロンブスによりアメリカ大陸到達は、
その後のカスティーリャ・アラゴン連合王国の海外政策という意味で、
非常に重要な問題です。
というのもコロンブスによって「発見」されたアメリカ大陸、のちのスペインと
ポルトガルによって植民地化され、そこから上がる膨大な富がスペインの
黄金時代を築いたのですから。
とはいえ、コロンブスが目指したのはアジアでした。
正確には、かのマルコ・ポーロが見聞録に残した黄金の国「ジパング」だったのですが。
彼の「アメリカ発見」は偶然の産物に過ぎず、しかも彼自身は、最初に言ったように、
自分が発見したのはアジアだと信じて疑いませんでした。
729世界@名無史さん:02/05/25 23:33
1486年、ポルトガルからカスティーリャに移ってきたコロンブスは、カトリック両王に面会し、
アジアへの航海事業を援助してくれるように懇願します。
けれども、その時のイザベルとフェルナンドは、グラナダ攻略で頭が一杯でした。
イベリア半島の外のことなど、2人にしてみれば別世界だったのです。
それにポルトガルがいち早く海外事業に乗り出していました。
フェルナンドにしてみれば、アラゴンの伝統にのっとって、
海外に出るなら地中海、という思いもありました。
しかし、イザベルはコロンブスを追い払うようなことはしませんでした。
それというのも、コロンブスは十字軍への思いに取り付かれていたからです。
コロンブスの計画というのは、ジパングの黄金をもって、
エルサレムの神殿を再築するということでした。
これが信仰深いイザベル女王の心を捕らえない筈がありません。
イザベルはグラナダ攻略の事業が終わるまで待つようにコロンブスに言います。
コロンブスは他にもパトロンを探しながら、
結局はイザベルの手にすがるのを待つことになります。
730世界@名無史さん:02/05/25 23:52
>>729
本気で考えてたのか、十字軍?
731世界@名無史さん:02/05/26 00:24
ニュスライン=フォルハルトChristiane Nusslein-Volhard (1942〜)

ドイツ生まれ 発生遺伝学者,体節発生の制御遺伝子の配列を発見 。
1995年ノーベル生理学医学賞
732世界@名無史さん:02/05/26 00:33
学者だと呉健雄(ウー・チェン・シュン)が気になる。
核物理学者で教科書なんかによく出てくる。
20世紀初頭の中国生まれで、アメリカの大学卒。
アメリカ物理学協会会長にもなっている。
どんな紆余曲折があったのか?
733世界@名無史さん:02/05/26 01:04
呉健雄  コバルト60のβ崩壊(弱い相互作用)の実験(1957年)か。
小惑星2752番の名前にもなってるな。 Wu Chien-Shiung
命名は中国南京紫禁山天文台。
734世界@名無史さん:02/05/26 01:51
>>732
1957年にノーベル物理学賞を授与された 李 政道 や楊 振寧
との関係からでしょう?
彼女のコバルト実験も1957年のものだし。


735世界@名無史さん:02/05/26 02:31
宋姉妹と同世代か?
736世界@名無史さん:02/05/26 02:32
ゼンゼン関係ないが

世界史版に女生息してるとおもう?
737世界@名無史さん:02/05/26 03:22
>>735
子供の世代ではないかと。

738世界@名無史さん:02/05/26 03:26
楊 振寧 は1922年生まれなんで宋姉妹の孫に近い
年齢かも・・・。
739世界@名無史さん:02/05/26 03:27
>>736
コワ〜イ
フェミ女史がいますねえ。(w
本人は男だと言い張ってますが(w
740名無しさん:02/05/26 04:14
既出だが、則天武后。

だけど今回はこれで終わりじゃない。
彼女が女性として初めて皇帝になったとき、最初に
付けた名前知ってるか?
なんと「越古金輪聖神皇帝」だぜ!「越古金輪聖神皇帝」!

どこかの寺にある金箔の仏像の名前じゃないぜ(藁
(つまり古(いにしえ)を越えた、やまだかつてない
皇帝という意味らしい。確かに「金輪」際ないよな〜)

俺はこれを聞いたとき、かの『西遊記』孫悟空の贈り名・
斉天大聖を思う出して吹き出しそうになった。

だが、やはりあまりに趣味が悪いと言うことで結局は
「則天大聖皇帝」に落ち着いたそうな。

ちなみに「則天去私」は、漱石の座右の銘である。
741世界@名無史さん:02/05/26 04:33
贈り名って…
それに斉天大聖は…
ま、いいや
742世界@名無史さん:02/05/26 10:43
>やまだかつてない
ウケタ、ナンネンブリニキイタダロウ
743世界@名無史さん:02/05/26 14:06
孫悟空!
744世界@名無史さん:02/05/26 14:26
斉天大聖って号だよな。
745世界@名無史さん:02/05/26 18:40
ジャニス・ジャップリンといえばサマータイム
746世界@名無史さん:02/05/26 21:11
ヴァージニア・ウルフ
映画になった作品なかった?
え〜っと、バネッサ・レッドグローブが主人公の
何とか夫人・・・・・
思い出せん!
747世界@名無史さん:02/05/26 21:15
>746
「ダロウェイ夫人」。
「バージニア・ウルフなんかこわくない」という映画があった。
748世界@名無史さん:02/05/26 21:45
丁玲(ていれい/ティリン)(1907〜)
 女流作家。土地改革を描いた『太陽は桑乾河を照らす』(1949)他。
文化大革命中は5年間獄中に、1979年名誉回復。
婦人解放運動にも尽力
749世界@名無史さん:02/05/26 22:40
>>748
まだご存命でいらっしゃる?
750世界@名無史さん:02/05/26 22:54
>>139
余計な事いってしまったようだ。
すまんね。
751世界@名無史さん:02/05/26 22:56
   彡彡彡从乂个个乂#| ||#乂个个乂从ミミミミミ 〜
 彡彡彡彡 o∵o。∵∴。o∵゚∴o∵。o∵゚∴ミ☆ミミミミ 〜
 彡彡彡///   ノ(∵ー∵。∴ー∴。∵ー  \ ミミミ 〜
     |///  ⌒ー ゚∴ー∵。∴ー∴。   λ  〜
  ´つ   |//  ' ̄ ̄ ̄       ̄ ̄ ̄ `λ
      |/   /κ )  >))((<  (χヽ    λ ´つ
      |   /●/  ノ へ\  \●ミ λ
      |  彡/    (● ●)      λ
      ξヽ  #    ,へ-‐-へ、  メ   ∫
     ξヽ   ,-|/ m`l w ‘ω { `l   /∫ < ののがハロモニの主役なのれす
     ξ ヽ   / く γ/  ̄/ v`^ (、  /  ∫
     ξ   \   (ノ (_ _('`u'μ ν'/    ∫
    ξ     \`    `l´   ’  /     ∫
    ξ       ヽ  |-||||-|  /       ∫
752世界@名無史さん:02/05/26 23:18
>>750
誤爆?
753世界@名無史さん:02/05/27 00:39
当時グラナダにあったナスル朝王国は、内紛によって揉めていました。
スルタンの后が、キリスト教徒の娘に心を奪われたスルタンに愛想を尽かし、
息子のアブディルを唆してクーデターを起こしたのです。
グラナダは内紛状態になり、キリスト教徒には絶好の機会となりました。
イザベルは先頭に立ってグラナダ攻略の策を練り、国中から戦士を集め、
また他のキリスト教国の支持を仰ぎます。
しかし、イスラム教徒の軍隊は思った以上に強く、グラナダ攻略を心に決めてから
現実にグラナダを手に入れるまでに、10年以上の歳月を必要とします。
スペイン語には、イザベルという色の名称があります。鹿の皮をな、
えしたような薄い黄土色のことなのですが、これには面白い逸話があるのです。
グラナダを目前にした平野にサンタ・フェ(聖なる信仰)と名付けた陣地を敷いたイザベルは、
グラナダが落ちるまでここに住む決意をします。
そして、グラナダを我が物にするまでは下着を着替えない、と宣言するのです。
9ヶ月にも及ぶ最終戦の間、着替えることのなかった彼女の下着は、
薄く色付いていました。
その色を彼女の信仰のあかしとして「イザベル色」と呼ぶようになったのです。
今日では不潔だと言われそうな話ですが、当時では夏と冬と1枚づつしか下着を持たないのが
普通でしたし、洗濯も頻繁におこなえるものではありませんでした。
ましてや、グラナダ攻略には膨大な資金が必要です。
身の回りを質素にして余分な資金は少しでも兵力増強に回す、
というイザベルの熱意がひしひしと感じられます。
754世界@名無史さん:02/05/27 01:54
 シャーロット・パーキンス・ギルマン
1860年、米のコネチカット(Conneticut)州ハートフォード(Hartford)に生まれました。
ボストン市営図書館の館長を務め蔵書家でもあった父親は、シャーロットが一歳のときに家族を捨て、
1873年に正式離婚。
母、兄とともに苦しい生活を送ります。
シャーロットが18歳になるまで一家は友人や親戚から経済的援助をもとめて1
9回引っ越しをしています。
幼いシャーロットが自分なりの空想的お話を書いていると、母親が創造的活動は
精神的健全によくないという理由でやめるように注意したそうです。
18歳でロード・アイランド・デザイン学校に入学。
そこで絵画を学びます。
20歳になる頃には独身を通して一生を公共奉仕(public service)に捧げようと決心します。
そして1882年1月ハンサムな画家のチャールズ・ステットソン
(Charles Walter Stetson, 1858-1911)に出会います。
彼は二週間と少ししか経たないうちに彼女にプロポーズをしますが断られます
。ここには家族を捨てた父親が原因の男性不信があったのでしょう。
と同時に「あなたを愛しているとともに仕事も大好きなのです。
両立は不可能です」、「もし結婚したなら、私の思考、私の行動、
私の生活すべてが、夫と子ども中心になるでしょう。
私が計画している仕事をやるには自由でなければならないのです」という手紙を
チャールズに送っています。「仕事は尊重されねばならない」これが彼女の生涯変わらぬ主張でした。
しかし彼はあきらめず1884年5月、24歳で結婚。ちょうどMark Twain(1835-1910)の
The Adventure of Huckleberry Finnが出たときです。
しかし結婚生活がうまくいかず、娘キャサリンを出産後、強度の鬱病に悩まされました。
彼女は神経疲労"nervous prostration"とよんでいます。
ただ出産がこの鬱病の原因というわけではなく、結婚する以前から精神的に
不安定な気質は持っていました。「赤ちゃんのこと?五ヶ月世話をしました。
あの愛しい子をしっかりと抱きしめていたのだけど、
愛情と幸せの代わりに苦痛しか感じられなかった。涙が乳房にこぼれ落ち・・・
こんなつらい事ってない、母親になっても何の喜びも感じなかった」。
755世界@名無史さん:02/05/27 01:56
1887年離婚。以後は教壇に立ち、講演活動をし、新聞や雑誌の編集に携わり、
女性解放運動の先頭に立ち続けました。公衆の前で、演説する姿はカリスマ性があり、
あるジャーナリストとは「彼女の両目以外はダイヤモンドを身につけていなかった」
she wore"no diamonds but her eyes"と書いています。
1898年の主著である『女性と経済』のなかで、シャーロットは、
女性の家庭からの解放、女性の社会進出を謳っています。
彼女は、「結婚は売春の一形態である」、といいます。
「どちらの場合にも、女性は、彼との性関係のおかげで男性から
食べ物を手に入れる」。女性は家庭に縛られ、創造的で超越的な仕事に
従事することを妨げている。
この「父権制時代の名残り−−経済単位としての家族−−を打破すること」
が彼女の目標となります。
1900年、ジョージ・ホートン・ギルマンと結婚。
二人は子供はつくらないことに決めました。
1935年乳ガンの悪化を知って、クロロフォルムによって自殺しました。
756世界@名無史さん:02/05/27 02:00
代表作「黄色い壁紙」は、ちょうど「フェミニスト」段階にぴったりの男性文化への抗議の作品です。
この作品は最初、高名な作家ハウエルズ(William Dean Howells)に送られます。
彼はこの作品の「ゾッとさせる」(chilling)ところ、つまりポーのようなゴシック的要素の
みに興味を示しました。この短編はハウエルズから『アトランティック・マンスリー』
誌編集長スカダーに送られますが、あまりにも陰惨な内容ゆえ、
「他人に自分と同じくらい惨めな思いをさせたくない」と手紙が届き掲載を断られます。
757世界@名無史さん:02/05/27 03:15
マリー・アントワネットが出てな〜い!
758世界@名無史さん:02/05/27 14:01
則天武后の側近について書かれた本を読んだ記憶がある。

彼女の側近ナンバーワンは女性で罪人の娘だった。
罪人の娘だったが、あまりに賢いので宮中で教育を受けさせ、武后は甥と結婚させた。
信頼は厚く、多くの決裁は彼女(側近)に任せられた。
武后死去後も権力を握っていたが、韋后事件の関係で処刑された。
759世界@名無史さん:02/05/27 14:42
そういや西大后や則天武后のこと
ちゃんと書いたレスないね。
誰か詳しいこと教えて。
760世界@名無史さん:02/05/27 19:57
>>757
マリー・アントワネットおっかさんに似てる。
761世界@名無史さん:02/05/27 20:48
そして、グラナダを無血開城したイザベルを待っていたのは、コロンブスの航海事業でした。
1492年8月3日、イザベルから提督の地位を与えられたコロンブスは3隻の船で艦隊を作り、
未知の航海へと旅立ちました。「アジア」を発見すれば、総督の地位が待っていました。
約2ヶ月後、到着した島は、コロンブスの計算通りの距離にありました。
これはもう、伝説のキタイ(中国)、ジパング(日本)に近い、と考えたコロンブスは、
原住民をインディオ(インド人)と呼びました。
当時の呼称では、今日のインド以外のアジアは全てインドだったのです。
しかし、そこには黄金も香辛料もありませんでした。
金脈を見つけるために現地人を奴隷として鉱山に送り込み、
やがては現地人を奴隷として黄金の代わりに本国に送るという事態に到り、
イザベルはコロンブスに愛想を尽かしてしまいます。
結局、イザベルはコロンブスから提督の地位を取り上げ、
植民地経営は他の人間にまかせます、胡椒を見つけようと無理な航海がたたったコロンブスは、
失意のうちに本国に戻りましたが、死ぬまで「アジア」を発見したと信じていました。
のちにアメリゴ・ヴェスプッチの名前を取ってアメリカと呼ばれるこの大陸は、
「ノバ・イスパーニャ(新しいイスパニア)」としてスペイン帝国の植民地となり、
数々の悪評を振りまきながら、スペイン帝国の経済基盤として重要な役割を果たすことになります。
762世界@名無史さん:02/05/27 20:48
>757
宝石サギにかんたんに騙され、浮気もプラトニックなだけの
かわいい女性を、女傑と呼べるかなあ。

おっかさんは間違いなく女傑だけど。
763世界@名無史さん:02/05/27 21:21
>>757
アントワネットって頭悪かったの?
本もろくに読まない、外国語も勉強しない
綺麗なドレスや奇抜な髪型を編み出すのが趣味

・・・・・・ってどっかの国の亡き皇太子后みたい。
764世界@名無史さん:02/05/27 21:38
「小窩頭」というのは西大后ゆかりのお菓子

西太后が義和団事件で逃げた時に普段は食べたこともなかった
庶民の味、とうもろこし粉で作ったこのお菓子を始めて食べて
気に入り宮中のメニューに取り入れたとか。
765世界@名無史さん:02/05/27 22:00
西太后が汽車に乗って北京から奉天まで旅しなことがあった。
車中一週間、奉天滞在一週間の、わずか二週間のために、着替えはまるごと一両をクロゼットにして、
衣装二千着、靴三、四十足を持ち運び、百皿をそろえる食事のために、
四両からなる厨房を備えさせ百人以上の料理人を引き連れて旅する。
道中は北京〜奉天間、ほかの列車はすべて運行停止。
通過する列車の窓から西太后を見ることは禁じられ、線路周辺からも人影が消える。
スピードは平均時速16キロののろのろ運転。
しかも西太后の気まぐれな一声でどこを走っていても止まらなければならない。
車中の者はすべて腰掛けることを許されず、このルールは運転士にも当てはめられ、
立つか、床に寝そべるかの生活を強いられる。
さすが女帝。とにかく万事が極めつけの傍若無人ぶりである。わがまま放題の西太后と、
その周囲で右往左往する宦官や女官らのようすである。
766世界@名無史さん:02/05/27 22:05
西太后
葉赫那拉氏 慈禧

この葉赫那拉氏(エホナラ氏)は名家といっていいのかな?
767世界@名無史さん:02/05/27 22:11
そもそも何故自分の息子同治帝を暗殺したのだ?
768世界@名無史さん:02/05/27 22:23
>>762
プラトニックだったのか?
子供が浮気相手の子か?
というのもあったが・・・。
769世界@名無史さん:02/05/27 23:02
頤和園  


北京市街の西北約15kmに位置する。万寿山と昆明湖からなる中国の典型的庭園で、面積290haだが、
そのうち水面が4分の3を占めている。
現在は公園となっているが、元々は清朝の離宮で、英語名はサマーパレス。
中国最大規模の皇室庭園。

 中国の伝統的な造園技術により、万寿山や昆明湖など大規模な工事が行われた。
1860年のアロー号事件で、英仏連合軍に破壊されてしまうが、当時実権を握っていた西太后が、
国家の多額な軍事費を流用して再建させた。
それ故、西太后はこの離宮をこよなく愛し、避暑地としてここで過ごしていたという。

 公園の北には人工の山万寿山があり、南には人口湖の昆明湖、西湖、南湖が広がっている。
湖が多く、とても涼しい気持ちにしてくれる。頤和園の万寿山や湖の風景、
湖に沿って造られている長廊(728mの廊下)や湖にかかる十七孔橋などは
いかにも中国らしい建築物である。
園内北端には、蘇州街という江南の景色を模した宮市を再現しているところも面白い。



そりゃ、こんなもん作ってたら清朝も倒れるって。
770世界@名無史さん:02/05/27 23:58
>>767
天然痘で死んだんじゃなかった、同治帝?
771世界@名無史さん:02/05/28 00:26
>頤和園  
逝ったよ。いかにも女性が好きそうな場所だった。
北京を歩いているとヤマホド頤和園逝きのバスが来る。  
772世界@名無史さん:02/05/28 00:47
>>770
毒殺されたという根強い噂がアリ。
773世界@名無史さん:02/05/28 01:02
日本の孝明帝みたいなのかな?
774世界@名無史さん:02/05/28 05:21
でもぢ




でも西太后にとっては息子なんだが・・・・。
775世界@名無史さん:02/05/28 10:43
>>774
中国女はそれくらいするな。
776世界@名無史さん:02/05/28 10:51
ジャニス・ジョプリン

1943年1月19日、テキサス州ポートアーサー生まれ。
多感な14歳頃から保守的なポートアーサーの町や住人達の雰囲気になじめず、
深い疎外感を味わっていたが、17歳の時にレッド・べりーやベッシ―スミスなどのブルースに惹かれ、
自分でもブルーグラスのバンドでカントリーやブルースを歌いはじめる。
テキサス州立大学を中退後、いくつかの仕事を転々とし、`
66年、ヒッピーが登場して新しい若者文化の発信地となりつつあったサンフランシスコに移り、
そこで女性ヴォーカリストを捜していた地元のバンド゛ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー゛に
誘われて加入した。
バンドは`67年6月の「モンタレ―・ポップ・フェスティバル」に出演し一躍脚光を浴び、
そこで全身を震わせて歌うジャニスに将来性を感じたCBSが彼らと契約。
`68年8月発売したライヴ・アルバム「チープ・スリル」は、全米アルバム・チャートで
8週連続第一位というベスト・セラーを記録した。
その後、バンドを離れたジャニスは、ソロとしていくつかのバンドと
精力的なライブ/レコーディング活動を続けるが、以前から常用していた
ヘロインとアルコールは次第に彼女の身体を蝕みはじめていた。
`70年8月から新バンド゛フル・ティルト・ブギ―゛とニューアルバム
「パール」のレコーディングを開始したものの、ラスト1曲の歌入れを残し
ラスト1曲の歌入れを残し同年10月4日、ハリウッドのランドマーク・モーテルの
一室で死体で発見された。死因はヘロインの多量摂取。享年27歳だった。

777世界@名無史さん:02/05/28 11:41
「ジョプリン」 だったのか・・・・
778世界@名無史さん:02/05/28 13:00
うっ!
777取られた!
779世界@名無史さん:02/05/28 19:52
 ジャニスはテキサス州のポートアーサーという煙っぽくて湿っぽい石油精製の町で、三人兄弟の一番上として生まれた。
 50年代に郊外に住む中流家庭の他の子供達とさして変わらない環境で育ち、子供時代にはやや太りぎみだった体は
思春期には苦痛を感じるほどデブになった(彼女の母親は一度、娘の奇妙な服装は太りすぎなのを隠そうとしてだと説明している)。
 50年代後半のテキサス州にあった重苦しい雰囲気に嫌気がさしたジャニスは身近なすべてのもの、すべての人を憎むようになり、
テキサス大で「キャンパスで一番醜い人」に選ばれたことでその増悪が無慈悲にも戻ってくる。
 そんな時に「タイム」誌でジャック・ケルアックや「麻薬をやる堕落した不良たち」のことを読み、
ビートニクになることを決心してサンフランシスコに旅立った。 
その頃にできた友達は彼女のことを、病的なほどめちゃくちゃに覚醒剤に狂っていて
「目のまわりにきれいに小さなクマをつくって道を歩いているような人」だったと評す。
 ジャニスはすぐに、いやいやながらもテキサスに戻って重度メセドリン中毒を治すことになった。
次に何をやるべきか迷ったが、彼女の生をむりやり引きずっていく力になった゛あの声゛がやってきて、
ある雨の日の午後に、見捨てられた灯台でオデッタの曲をかけながら歌っていた彼女をつかまえたのである。

彼女は初め、画家になろうと野心を燃やしていた。 ポロック、デ・クーニングといった
抽象表現主義の荒々しい画家か、ゴッホ___あのとうもろこし畑に炎となって自分の原子を
描きつけた狂気の神秘家のように。 しかし、゛声゛に「おまえはシンガーなのだ」と告げられ、
彼女はカントリー・ミュージック・クラブ(以前はガソリン・スタンドだった)で
ウォーラー・クリーク・ボーイズというブルーグラスのグループと演奏を始めた。 
いっぽうサンフランシスコでは、ロックが徐々にフォークとジャズに取って代わっていき、
その地でできたロック・グループが実験的に、のちにサンフランシスコ・サウンドと
呼ばれるようになる曲を試し始めていた。 ジャニスと同じテキサス人の
チェット・ヘルムズがそのシーンの大物であり、彼は、配下のグループ、
ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーが「可愛い子ちゃん歌手」を
捜すことになると、オースティンで聞いたガラガラ声をした丸ぽちゃの女の子を思い出したのだ。
780世界@名無史さん:02/05/28 19:55
「トラヴィスは私をひょいとすくっただけだったね」と、ジャニスは、
自分の素晴らしい音楽人生の始まり方を訊かれてこう答えている。
「彼は、「服を取って来い、カリフォルニアに行くぞ」って言ったんだ。
ニュー・メキシコの途中まで行ったところで、だまされてビッグ・ブラザーに
参加することになったんだってわかったよ。あいつはすごくいい奴だったのにね・・・・・。
グループと初めて一緒になったのは、
えーと、どこでだったか憶えていない。エレキの音楽やドラムで歌ったことなんか
一度もなかったからすごくビビッたよ。でも、ステージに立って歌い始めたら、
ワオゥッ、すごかったんだ。憶えているのは興奮だけさ。
なんて素敵だったんだ。音楽がバンバン鳴って、みんなが踊っていて、
ライトがピカピカ点滅している。こっちは上でマイクに向かって歌を続けていてね。
で、それが気に入ったから言ったんだ。「仲間になるよ」って」

ビッグ・ブラザー(スペーシーな音を出す、ブロンドの長髪をしたインディアンたちのバンド)と
ジャニスの南部風ブルースの組み合わせはほとんど信じられないほど完璧で、
彼らはグレートフル・デッドやジェファーソン・エアプレーン、カントリー・ジョーなどと
ともにサンフランシスコのヒップな世界で中核をなした。
 この時点からジャニスは、彗星のように現れて消えた四年間の生涯を
滑るように息もつけないほど速く、そしてブルースの詩のように悲劇的で情熱的に進んだ。
もしもその進行をどこか途中で止められるのなら、1966年のパンハンドル公園か
サンフランシスコのサイケデリック祭りによる祝祭日のどこかにあったはずだ。
 彼女がもっとも清く澄んだ状態で、楽器を乗せた古いトラックの荷台からブルースをがなったあの夏至のころの
日付で。 彼女の髪の毛は電気を帯びて三角形に広がり、
イボ族の花嫁みたいにたくさんの腕輪をつけるから体重も増える。 
サザン・コンフォートのボトルをラッパ飲みし、うす汚いマザー・グースが
麻薬で恍惚となって忘我状態にある子供たちに童謡を歌ってきかせるように、
威勢のいいブルースをがなる。 彼女はサンフランシスコの申し子で、
新世界の夜明けのすべてを体現していた。
781世界@名無史さん:02/05/28 20:06
>>780
「ふらわーちるどれん」
とかいうヤシですか?
782世界@名無史さん:02/05/28 21:01
>>780
ちょいでぶのほうが良い声出るんだって?
オペラ歌手なんかそう。
783世界@名無史さん:02/05/28 23:20
>>769
日清戦争で艦隊の船を作る資金を流用して作ったんだよな?
中国人も何考えてんだか?
誰かが西太后をあっさり暗殺できなかったのか?
784世界@名無史さん:02/05/29 00:08
アンナ・パヴロワ
1881〜1931
今世紀最大のバレリーナ。
ロシアの貧しい家庭に生まれ、10歳のときペテルブルグ帝室舞踊学校に、入学する。
1899年、優秀な成績で卒業後、マリンスキー劇場に入団後、最初から小さいソロの役を踊る。

フォーキン振り付けの「瀕死の白鳥」で、世界中を感動させ、彼女の代名詞となる。

1931年、風邪をこじらせて、オランダのバーグで亡くなる。
最後の言葉は「白鳥の衣装を・・」と、舞台を気遣っていたという
785世界@名無史さん:02/05/29 00:14
西太后に寵愛された宦官に李蓮英(りれんえい)という人物がいる。
彼は河北省出身で宮廷に入いろうとしていた頃、西太后が当時流行の
ヘアースタイルをしたいという願望があることを耳にして、
彼は花柳界や演劇界などを歩き巡って流行の髪の結い方を勉強した後、
自らの生殖器を切り取って宦官となり、西太后の髪結いの係となった。
あるとき、西太后が病気になり、見舞いに来た光緒帝に「人肉を煎じて飲めば、
すぐ治るそうなのだが。」と言ったのに対して、光緒帝が返事に窮するのをみて、
近くにいた李蓮英はすぐさま退出し、
自分の股の肉を切り取って煎じ薬を作り、
このために寝込んでしまった。
この話しを聞いて、西太后は李蓮英に対しての寵愛を一段と深めたという。
李蓮英は宦官を取り仕切る大総管の地位についていて腹心の部下の典型のような
人物だが、程度の差こそあれ、同様のタイプが結構いたりするもの。
786世界@名無史さん:02/05/29 01:08
>>785
寵愛というか・・・・。
噂がたったよな、西太后と。
787YP:02/05/29 01:36
ジャニスより矢野顕子の方が数段グレイト。
あの満面の笑顔にはひれ伏します。
実際オフの顔を見た事ありますが、仏様に近いオーラを感じました。
788世界@名無史さん:02/05/29 04:10
矢野顕子折れも好きだが ここは世界史
あっ・・・・・ニューヨークに逝っちゃった彼女だから問題なし?
789世界@名無史さん:02/05/29 14:19
>>787
矢野顕子ファン降臨?(w
790世界@名無史さん:02/05/29 17:41
>>784
鎌倉のほうに記念館あった?
791世界@名無史さん:02/05/29 21:01
うふ
なんたって97年度年度代表牝馬エアグルーブちゃん!
秋の天皇賞でバブルガムフェローとの叩き合いで勝った
時のことが昨日のことのよう・・・。
792世界@名無史さん:02/05/29 21:15
北斉の蘭陵王の祖母にあたる、婁昭君。
彼女は鮮卑匹婁氏の出身で、東魏の大丞相・高歓の正
妻であるが、歓の死後も高氏の一族に強い発言力を有した。
 例えば彼女は、次男の高洋が東魏孝静帝を廃して初代北斉皇帝となったとき(斉・天保1年、
550年)も、洋の即位以前に禅譲についての相談をうけ、意見を述べているのである
793世界@名無史さん:02/05/29 21:22
>>791
う、う、馬?!
んで雄馬に勝った訳?
794世界@名無史さん:02/05/29 21:47
>793
エアグルーヴは天皇賞(紅一点で牡馬一線級に快勝)、オークスを勝った名牝。
牝馬としては史上2頭目の年度代表馬(19戦9勝)。
史上最高牝馬は19世紀のハンガリーの名牝キンツェム。
54戦戦って全てのレースに勝った。
日本で最高の牝馬はクリフジ(1945年頃に活躍)。
ダービー、オークス、菊花賞など11戦全勝。
スレ違いスマソ
795世界@名無史さん:02/05/30 00:12
>>793

うおっ、馬(笑)

ロマン派のバレリーナ、
マリー・タリオーニ

初めてつま先で優雅に踊った人
今までつま先で踊る人はいたが、マリーのように
妖精のように軽やかに踊った人はいなかった。


 マリーは、決してバレエの天才ではなかった。
猫背で、踊りも下手で、「お針子さんになった方がいい」と
先生に言われたほどでした。
 ところが父、フィリッポ(バレエ教師でダンサー)は、
娘を一流のダンサーにするため、毎日マリーが気を失うほどレッスンを重ね、
とうとうバレリーナ=マリーにしてしまった。
 マリーの肖像画は、今でもバレエ学校に飾ってあることが多いです。
796世界@名無史さん:02/05/30 00:41
>>790
それはロシアから亡命したエリアナ・パブロバのことでは?


   
 昭和16年5月、日本名霧島エリ子ことエレーナ・パブロワは、日本軍の
慰問団として訪れていた南京にて亡くなった。サンクトペテルブルクでバレ
エを学んだ彼女は、1917年に勃発したロシア革命により、多くのロシア
人がそうであったように、祖国をあとにし、長い旅に出ることとなった。バ
レリーナとしての才能と、つねに積極的な情熱にあふれた性格のおかげで、
歴史の荒波に翻弄されつつも、エレーナはハルビン、上海、そして日本にわ
らにもすがる思いで辿り着いて、母親と妹をひとりで養い続けたのであっ
た。
鎌倉の七里が浜に記念館があったはず。
797世界@名無史さん:02/05/30 00:58
>>748
丁玲、亡くなってなかった?
798世界@名無史さん:02/05/30 00:59
とっくにお亡くなりに

丁 玲( 1904 〜 1986 )
799世界@名無史さん:02/05/30 01:13
「小二黒の結婚」
800世界@名無史さん:02/05/30 01:14
800

キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! 
801世界@名無史さん:02/05/30 06:05
エリアナ。パブロブ、苗字が同じだったのでアンナと姉妹と思われて大変な
目にあったらしいと聞いた。
実際には日本のクラシックバレーを育ててくれた恩人の先生。
802世界@名無史さん:02/05/30 18:59
エアグルーブは可愛かったね、レースでは強いのに
普段は人なつっこくて、おとなしくて可愛い!



西太后の実家、葉赫那拉氏はドルゴンか誰か、
清朝初期に王族に后を出した家柄じゃなかった?
803世界@名無史さん:02/05/30 20:30
葉赫那拉今安在


葉赫那拉氏是滿族中的大姓,也是起源較早的姓氏之一。
據史料記載,葉赫那拉氏最早的祖先可追溯到五代時期的海西女真,其始祖叫星根達爾漢,
原姓土默特。

少數民族古籍專家張壽崇:關於葉赫那拉,北京圖書館藏有很多滿族的譜牒,
其中有一種是道光年間的本子,它對於他(葉氏)的始祖記載的很詳細,
葉赫那拉的來源,原來是蒙古人到扈倫部,他招贅在那?,
那拉的意思就是愛,他領有其地,並成為一國,因為他的國是在葉赫的河邊上,
建立的城市,所以叫葉赫那拉氏。

804世界@名無史さん:02/05/30 20:53
>>803
いくらなんでも五大十国時代というのはホラかと思われ。
805世界@名無史さん:02/05/30 21:25
五大→五代
だった・・・・・
806世界@名無史さん:02/05/30 22:48
エディス・ディルクセイ・カーワン(女性・1861〜1932)
西オーストラリア州出身の政治家で議会初の女性議員。
ソーシャルワーカーであり、フェミニスト。
女性の教育権や未婚の母の保護、子供を社会から守る運動など法整備への
礎を築いた
807世界@名無史さん:02/05/30 23:55
女性政治家だとイランのファロックロウ・パーサが気になる。
イラン初の女性国会議員で教育大臣にまでなったが、
秘密裁判にかけられ1980年処刑される。
どんな女性だったんだろう。
808世界@名無史さん:02/05/31 11:07
会津娘子隊age
809世界@名無史さん:02/05/31 20:58
キング夫人。
810世界@名無史さん:02/05/31 21:11
康煕帝の皇后孝荘文皇后ってホントに政治にタッチしてたのか?
811世界@名無史さん:02/05/31 22:56
>>809
マーチン・アーサー・キング夫人?
812世界@名無史さん:02/05/31 22:59
光緒帝の妃、珍妃
西太后に殺されたんだっけ?
故宮に珍妃井っていうのがある。
813世界@名無史さん:02/06/01 01:15
>>811
ビリー・ジーン・キング Billie Jean King 1943〜

 アメリカの女子プロテニス選手。はげしい闘争心の持ち主で、
女子選手の待遇改善を声を大にして要求し、1973年には、エギジビション・マッチでの男子選手の
ボビー・リッグズをやぶるなど女子テニスの人気向上に貢献した。
カリフォルニア州ロング・ビーチ出身。
ロサンゼルス州立大学(現カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)卒業。

 18歳のとき、当時の第一人者マーガレット・スミス・コートを全英オープン
(ウィンブルドン)でくだした(1962)。
1966年全英に優勝し、67年には全英と全米でシングルス、ダブルス、混合ダブルスの
三冠を達成。68年に3年連続で全英に優勝し、全豪も制して世界のトップにランクされた。
以下、71年全米、72年全英、全米、全仏、73年全英、74年全米、75年全英に優勝。
キングはダブルスでもすばらしい才能を発揮し、全英で10回、全米で5回優勝している。
814YP:02/06/01 01:38
>>813
ビリー・ジーン・キング
詳しくは無いけど、なんでか日本での知名度が異常に低い様な気が
する。
女性アスリートの先駆者として、スポーツに興味無い人に対しても
当たり前な有名人であってもいい部類の人だと思いますが。
815世界@名無史さん:02/06/01 10:37
>813
レズビアンであることも有名。
ナブラチロワとともに。
816世界@名無史さん:02/06/01 13:33
キング夫人・・・・・一応結婚はしてるんだよな?
817世界@名無史さん:02/06/01 15:45
 かつて、宮崎市定氏は、隋文帝の正妻・独孤氏の国政への関与力について、「北方民族の間
では、女子の発言権が大きい」と評された。
独孤氏は元々は北斉のライバル国・北周の
十二大将軍であった独孤信の女であり、鮮卑族の出身の女性である。
 一方、北斉であるが、こちらでも、「発言権が大きい」女性を見つける事が出来る。

蘭陵王の祖母にあたる、婁昭君がそれである。彼女は鮮卑匹婁氏の出身で、
東魏の大丞相・高歓の正妻であるが、歓の死後も高氏の一族に強い発言力を有した。
 例えば彼女は、次男の高洋が東魏孝静帝を廃して初代北斉皇帝となったとき(斉・天保1年、
550年)も、洋の即位以前に禅譲についての相談をうけ、意見を述べているのである。

818世界@名無史さん:02/06/01 22:06
スーザン・アンソニー
(1820―1906)
マサチューセッツ州のクエーカー教徒の家に生まれた。
娘時代、教職に就くが、その中で女性の社会的な地位の低さを痛感。
友人とともに女性解放運動に参加する。

 1868年、「ザ・レボリューション(革命)」という名の新聞を発行、
参政権を中心に労働条件改善なども掲げ、女性の権利獲得運動の輪を広げた。
思いやりのある人柄だが、運動は果敢で、女性の投票権を認めさせるために、
仲間とともに投票を強行し、逮捕されたこともあったという。

 運動の拠点になった、ニューヨーク州北西部のロチェスター市にある家は、
歴史的建造物に指定され、それを管理する団体がホームページで彼女について紹介している。
彼女は、生涯独身を貫き、85歳で逝ったが、
その14年後の1920年、全米の女性は憲法修正19条により投票権を獲得した。
同条は、スーザン・アンソニー修正条項とも呼ばれる。
819世界@名無史さん:02/06/01 23:41
>818
スーザン・B.アンソニーもレズビアン。
女性教師アンナ・ディキンソンに書いたラブレターが残っている。
820世界@名無史さん:02/06/02 00:03
漢あたりに女性の生き方を示した本を書いたり、
役人を務めたりした、才女4姉妹だか5姉妹がいましたね。
誰でしたっけ?
821世界@名無史さん:02/06/02 06:37
>>820
前後漢代に該当者ナシ。
実在か不明。
822世界@名無史さん:02/06/02 08:23
漢代の官僚で女?
十中十ありえんだろ。
823世界@名無史さん:02/06/02 08:37
班固の妹の班昭こと
曹大家が女四書の内の女誡
を著述しているが
4姉妹でも5姉妹でもないと思われ
824820:02/06/02 11:28
昔、駒田信二(?)という人が書いた本で読んだ覚えがあるんです。
漢ではないかもしれない。班昭の「女誡」的な本を書いた人。
「中国 姉妹」で検索すると宋姉妹ばかり出てくる。

825世界@名無史さん :02/06/02 18:20
旧スレの1が、なぜか急に謙虚になったぞ!
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
826世界@名無史さん:02/06/02 20:35
班昭  ハンショウ

生没年 40?〜115?
時代 後漢
後漢初期の詩人。『漢書』の著者班固,西域都護となった班超の妹。
曹世叔(ソウセイシュク)に嫁いだが,夫とは早く死別した。
 博学を持って聞こえ,兄班固が『漢書』を未完成のまま死ぬと,
和帝の命により彼女が仕事を継いだ。
同書のうち,八編の「表」と「天文史」が彼女の手になる。
 宮中に招かれて,皇后や諸夫人の教育にあたり曹大家(ソウタイコ)の称号で呼ばれた。
また『女誡』七編は,貞淑な夫人の道を説き,旅行の体験から生まれた「東征の賦」は,
父班彪(ハンヒョウ)の「北征の賦」とともに『文選』に収められている。
827世界@名無史さん:02/06/02 20:41
漢代以外の官僚で女?
十中十ナシ。
828世界@名無史さん:02/06/02 21:09
そもそも科挙受験資格は女にはなし。
829世界@名無史さん:02/06/02 21:46
>>824
出典を明らかにしないとここでは相手にされないよ。
歴史というのは「現実にあったこと」を扱う学問なんだから。
830世界@名無史さん:02/06/02 21:52
ニュスライン=フォルハルト (1942〜)
ドイツ生まれ、発生遺伝学者,体節発生の制御遺伝子の配列を発見
1995年ノーベル生理学医学賞
Christiane Nusslein-Volhard
831世界@名無史さん:02/06/02 23:44
魚玄機(843?〜868)
字は幼微,森鴎外に「魚玄機」の作がある。


魚玄機は長安の倡家に生まれ、聡明にして容姿が優れ、詩文を好んだという。
李億の妾になるが、後に李億の寵愛がなくなると道教に入り、女道士となった。
その後、小間使いを自分の情人と通じたと疑って責め殺してしまったため、
死刑になったと伝えられている。
『唐女郎魚玄機詩』一巻が伝えられている。
832山野野衾:02/06/02 23:50
>820
唐の第九代天子徳宗の貞元年間に宮中に召され、その才により学士となった
宋若シン(草冠に辛)ら五人姉妹でしょう。「女論語」を書きました。
833世界@名無史さん:02/06/03 00:17
>>831
鴎外の作品にあったな。魚玄機。
834世界@名無史さん:02/06/03 00:19

宋若昭
<徳宗朝の尚宮>

 父は宋廷芬。五人姉妹の二番目。姉妹みな、文章に長じていた。
 貞元年間に、其の才能の為に姉妹みな徳宗の禁中に召し入れられる。長姉が元和末年に亡くなってからは、
次姉の若昭が姉の禁中での職務を引き継ぐが、時の穆宗は若昭が尤も精通していると、尚宮の位を与えた。
 三代に渡って「先生」と称され、后妃・諸王・公主からは師と仰がれた。
宝暦初めに卒去。梁国夫人の号を贈られる。
835世界@名無史さん:02/06/03 00:58
メアリー・カサット
Mary Cassatt ( 1845-1926)
アメリカ   印象派

フランス印象派の中で活躍したアメリカ人女性画家。パリでドガを知って、印象派に参加。
アメリカに印象派を広めることに貢献した。
836820:02/06/03 01:08
>832.>834
ありがとうございます。確かにその姉妹です(女論語で思い出しました)。
唐の人たちだったんですね。胸のつかえがとれました。
いい加減な記憶の書き込みにレスを下さった皆さんありがとうございました。
837世界@名無史さん:02/06/03 11:44
キング夫人結婚してるとしたらバイ?
838世界@名無史さん:02/06/03 12:18
>837
結婚していたが離婚。その後、同棲相手の女性から慰謝料請求の訴訟を起こされる。
839世界@名無史さん:02/06/03 19:49
フランソワーズ・サガン(Sagan,Francoise 本名:クワレ Quoirez,Francoise)
 (1935.6.21-)
 フランスの作家・劇作家。ドルドーニュ地方カルジャック生まれ。
 ソルボンヌ大学を中退して、18歳の時『悲しみよこんにちは (1954)』で文壇デビュー、
 天才作家ラディゲの再来と騒がれ、世界各国で大きな反響を呼び起こす。
 フランス伝統の恋愛心理小説の流れを汲む作品を次々と発表し、フランスで
 最も読者の多い作家の一人として活躍。
 60年以降は、戯曲も多く手がけるようになり、バレエ台本やシャンソンの作詞にも活躍している。
 『悲しみよこんにちは (1954)』
 『一年ののち (1957)』
 『ブラームスはお好き (1959)』
 『すばらしい雲 (1961)』
840世界@名無史さん:02/06/03 21:29
>>839
ギャンブル遣りすぎて破産したことなかった?
841世界@名無史さん:02/06/03 23:08
>>839
破滅型作家?
842世界@名無史さん:02/06/03 23:11
シドニー=ガブリエル・コレット
 Sidonie-Gabrielle Colette(1873-1954)
フランスの女流作家。スキャンダルな生活、それに密着した作品で注目を浴びた。
代表作に「シェリ」「青い麦」などがある。
ゴンクール・アカデミーの会員に選ばれる。
843世界@名無史さん:02/06/04 01:01
アルテミシア1世
古代のハリカルナッソスの女王。サラミスの海戦で軍功をあげる。
844世界@名無史さん:02/06/04 12:49
>>841
フランスには多いな。
845世界@名無史さん:02/06/04 19:54
テオドラ 

西ローマ帝国は476年に滅んだが、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は
ヴァンダル人やゴート人と戦って、西ローマ帝国の領土の大半を再び手に入れた。
そのユスティニアヌス帝の妃がテオドラだった。
彼女は東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)の競馬場付属の劇場の女優、
あるいはヌードダンサーだったともいわれ、父親アカキウスはサーカスの熊使いだったという。

こういう環境のテオドラが皇帝と結婚したのは523年。彼はまだ皇帝ではなかった。
当時の皇帝は彼の伯父ユスティヌス1世で、彼はその養子となり、521年から執政官となっていた。
その頃、皇族や貴族が女優と結婚することは法律で禁じられていたが、ユスティニアヌスは伯父に頼んで
法律の適用を免除してもらい、テオドラと結婚した。
彼は40歳になっており、分別盛りのはずだった。
その彼が法律の適用を特に免除してもらうほど彼女に惚れ込むようになった原因や経過はよくわからない。
彼女の彫像が作られたときに、ある人が「美しくできているが本物には遠く及ばない。
……彼女の美しさを表現することは人間にできることではない」と言ったらしく、
彼女はその美貌で彼を虜にしたのだろう。

彼女はしかも気丈で賢かった。ユスティヌス帝は527年に死に、
ユスティニアヌスは皇帝になった。彼は在位中に西ローマ帝国の旧領を回復していく。
だが彼は、気の弱い面もあったらしい。
532年1月18日、コンスタンティノポリスで「ニカ騒動」という事件が起こる。
市民たちは競馬や戦車競争を見るのが好きだった。その戦車競争のチームのうち、
緑、青の2チームが有力で、これを応援する市民たちは緑党と青党の二派に分かれ、
政治的・宗教的にも対立した。
しかし、その対立する二派が税金問題についての不服から結束し、皇帝の退位をせまる騒動を起こした。
暴徒たちの合言葉が「勝利(ニカ)」だった。

ユスティニアヌスは国外逃亡を計画したが、
テオドラは「逃げるくらいなら皇帝のまま死にましょう」と励まし、
その言葉をよしとしたベリサリウス将軍が暴徒を鎮圧した。
3万の暴徒が殺され、都の大半は灰燼に帰して乱は終わる。
当時シリアやエジプトでは「単性論信者」が多かった。
それは異端とされたが、テオドラは夫に説いて彼らに寛大な政策をとらせた。
ラベンナのモザイク(写真)に見られる彼女の肖像には、
このように夫をよく支えた冷静で気丈な賢さがうかがえる。
846世界@名無史さん:02/06/04 21:11
テオドラがダンスしてるモザイク画どこかで見た気が
するな〜。
847世界@名無史さん:02/06/04 22:32
ナブラチロワもレズ?!
848世界@名無史さん:02/06/04 22:39
>847
本人とーっくにカミングアウト済み。
アメリカではゲイ/レズビアン向けのクレジットカードの広告にも出てる。
849世界@名無史さん:02/06/04 23:23
>>848
そ、そ、それは知りませんでした!
参考になりま〜す

・・・・・って何の参考ダヨ?(w
850世界@名無史さん:02/06/05 00:57
ディド 

イギリス・ロマン派の大画家ターナーは、カルタゴの建設の場面と
滅亡の場面の大作2点を残している。
カルタゴ帝国が3度にわたるポエニ戦争の結果、
ローマに滅ぼされたことは、古代史の中で広く知られた話だ。
カルタゴの名将ハンニバルが活躍したのはこのときだが、結局カルタゴは
ローマの強大な勢力のために没落させられる。

このポエニ戦争の話は歴史家たちにより様々に語り伝えられているが、
その建設の方の話となると実はよくわからない。元々カルタゴの町は、
フェニキア人たちが北アフリカのチュニス湾内に建てた都市で、
最初は「カルトハグシュト」と呼ばれた。
「新しい都市」という意味だそうである。
つまり、地中海貿易に活躍していたフェニキア人たちが
その拠点として新たに建てた町で、
その時期はおよそ紀元前8世紀終わり頃だったとされている。

しかし、ローマの詩人・ヴェルギリウスはこの
「新しい都市」建設にまつわるエピソードを、
華やかで悲劇的な恋物語に仕立て上げた。
その主役が、カルタゴを建設した女王ディドである。
ヴェルギリウスは、ディドが指揮して造り上げたこの町の様子を、
壮麗極まりないものとして歌い上げている。
実際にも、繁栄期のカルタゴは活気に満ちた豊かな町だったのだろう。
だが、その繁栄の町にトロヤ戦争で敗れた英雄アエネアスがやってくる。
悲運の英雄に深く同情したディドは手厚く彼をもてなし、
いつしか2人は互いに相手に惹かれるようになった。
ある時、大勢の部下と共に狩りに出た2人は突然、
激しい嵐に遭い、雨宿りのために2人だけで洞窟へ逃げ込んで、
そこで結ばれる。詩人の語るところでは、
これは神々の王ユピテルの妻、つまり神々の女王ユノーの
粋な計らいだったということになっている。

しかし、落城したトロヤに代わって新しい国を建設する使命を
神々から与えられていたアエネアスは、カルタゴに留まることはできなかった。
アエネアスとディドの悲劇は、義務と愛情との葛藤の悲劇であったといってもよい。
結局、アエネアスは恋人を見捨て、ディドは絶望のあまり自殺する。
それほどまで大きな犠牲を払って新しいトロヤを建設しようとした
アエネアスの末裔がロムルスとレームスで、
新トロヤとは実はローマに他ならないというのだから、
ローマとカルタゴは最初から深い因縁で結ばれていたことになる。
この悲劇の女王ディドの物語は、その後、ターナーのみならず、
多くの画家たちに霊感を与えている。
851世界@名無史さん:02/06/05 02:01
>>848
レズで思い出した〜〜〜。


サッフォ  
“文芸の女神”と哲人も賛美

エーゲ海は海も空も青い。その小アジア側のエドレミト湾の前に馬蹄に似たレスボス島が横たわる。
島の一番の町ミチレネは昔のポリス(市)の姿そのままに、
町筋を丘陵からなだらかに海岸まで延ばしている。

港の埠頭には大理石のサッフォの立像がある。
サッフォは紀元前610年頃この島で生まれ、この島で死んだ。
彼女はギリシャ古典時代の最大の女流詩人である。
プラトンは彼女を「第10番目のムーサ(9つの文芸の女神)」と賛美し、
アンチパトロスは「女性のホメロス」と褒め讃えている。
ローマの詩人カトルスは、その詩を模倣することに努めている。
そしてヘレニズムが広がると共に、その詩はギリシャ語の行われる各地で愛誦され、
今もエジプトの片田舎からその詩句を書いたパピルスが発見されている。

サッフォの詩はレスボス方言で詠ぜられ、その言葉は単純で平易、しかも優雅。
自然を見る目はあくまで客観的だが、それでいて巧みに対象に自己を投影している。
しかし、最も特徴的なのは恋愛を歌ったものであって、ひたむきな情熱が
そのまま感覚的に表現されている。「玉の緒よ絶えなば絶えね」
と詠じた我が王朝の閨秀歌人も、この点では比較にならない。

サッフォの詩の中には、娘クレイスに対する母としての愛情を歌ったものがある。
サッフォが結婚したという伝説は事実らしい。
しかしまた他の詩には、仲間の少女たちに関して歌ったものも多い。
それらの中には少女たちの美しさを讃え、これを恋い慕うと共に、
異性に対すると同じようにその心変わりを怨み、
遠く離れ去ったことを悲しむものもかなりある。
この点から、女性の同性愛をレズビアン・ラブ(レスボスの愛)またサフィズムと
呼ぶのも全く根拠のないことではない。

   星はあきらかな/月のあたりに/かがやいた/姿をひそめる/十五夜の
   銀のひかりが/陸にあまねく/照りわたるとき

   夕星は/かがやく朝が八方に/ちらしたものを/みなもとへ/つれかへす
   羊をかへし/山羊をかへし/母の手に/子をつれかへす        
 <<呉茂一氏 訳>>
852世界@名無史さん:02/06/05 12:33
美人だったのかな〜、
サッフォ
853世界@名無史さん:02/06/05 19:28
ロクサーネ 

アレクサンダー大王は「女性問題については誰も及ばないほど節制を守った」と、
プルタークは『アレクサンダー伝』に書いている。
大王の父フィリッポスは、遠征に出るたびに妻を替えたといわれており、
アレクサンダーはそういう父と比べると確かに品行方正だった。
捕虜にしたペルシャ王ダレイオスの妻子などにも紳士的に応対している。

それでも、彼をめぐっては何人かの女性たちがおり、
その中で彼が本当に心を動かしたただ一人の女性がロクサーネだったという。
彼女はバクトリアの土候オクシュアルテスの娘だった。
紀元前327年、アレクサンダーはオクシュアルテスと戦い、これを捕らえた。
その戦勝祝賀の宴会のときにロクサーネが踊るのを見て、彼はたちまち恋をした。
しかし、彼はその場で彼女を手に入れるようなことはせず、手続きを踏んで、
バクトリア風の結婚式を行って彼女を正式に妻にした。

この式のありさまを当時の画家アエティオンが描き、オリンピアの芸術競技で優勝した。
アレクサンダーはこの絵を大変喜び、彼に妻を与え重く用いた。
この絵は残っていないが、《美しい花嫁が伏し目がちに下を向き寝台に掛けており、
多くのキューピッドが周りにいて花嫁のベールや靴を脱がせている。
また、花婿のアレクサンダーを花嫁の方に押しているのもいる。
彼の幼いときからの友人ヘファイストスが松明を持って彼の側に立っている。》と
伝えられている。

アレクサンダーは紀元前323年、33歳でバビロンで急死。
ロクサーネはアレクサンダーの子を身ごもっており、やがて男の子を出産。
彼はアレクサンダーと父親の名を継いで名義上の王となり大帝国の統治者となる。
ロクサーネはアレクサンダーの母オリンピアスとも仲良く、
その庇護を受けている。容姿は美しかったが性格はきつかったらしい。
アレクサンダーはダレイオスの娘スタテイラも妻にしていたが、
ロクサーネはこのスタテイラとその妹を殺して井戸に投げ込み、
埋めてしまったという話をプルタークは伝えている。
854世界@名無史さん:02/06/05 22:21
セルマ・ラーゲルレーヴ(Selma Lagerlöf)

1858年11月20日、スウェーデンのヴェルムランド地方に生まれる。
小さいころから左足が不自由で、3歳半になると歩くこともできないほどになるが、いろいろな治療が奏効し、
歩けるようになる。15歳のとき、庭の森の中を散歩しているときにふと詩がうかび、
それがきっかけで文学を一生の仕事にしようと志す。
1885年、ストックホルムの女子高等師範学校を卒業、女学校の教員に採用される。
女学校で歴史を教えるかたわら、いっそう創作にはげむようになる。
1890年、「イェスタ=ベルリング物語」を懸賞小説に応募、みごと一等を取る。
1895年には、文学の道に専念するため教職を退く。
その後『地主の家の物語』『エルサレム』『アルネ師の宝』『キリスト伝説集』
『伝説集』などつぎつぎに発表、1904年にはスウェーデン・アカデミーから金賞を受賞。
そのころ、スウェーデン教育会では国内の地理や歴史を十歳前後の子どもたちに
わかりやすく知ってもらうための読み物を、すぐれた創作力のある作家に
書いてもらいたいという要望が出ており、セルマ女史がこれを担当。
こうしてできた物語が有名な『ニルスのふしぎな旅』である。
そして、1907年、ウブサラ大学から名誉博士の称号を受け、
さらに1909年、スウェーデン人として、また、女性としてはじめて、
ノーベル文学賞を授与される。その後も、セルマの創作力はおとろえることなく、
次々と独特の文章をもった作品が生み出されていく。
第一次世界大戦の最後の年、1918年には、『追放者』という作品をあらわし、
戦争反対の気持ちをうったえる。
]1940年3月16日、脳出血でたおれ、人々の悲しみのうちに、
モールバッカの家で亡くなる。ちょうど第二次世界大戦の最中で、
医師に「先生、平和になるのでしょうか?」とたずねたことばが最後のものとなる。
855世界@名無史さん:02/06/06 00:30
[ニルスのふしぎな旅]
昔読んだよ〜。
856世界@名無史さん:02/06/06 17:53
>>853
ロクサーネもその子供も暗殺されたんだろ?
857世界@名無史さん:02/06/06 21:08
 日本では女王様というと非常に珍しい者であるという印象を受ける方が多いと思いますが
実は女王様を珍しくもなんともないと思っている国があります。それはオランダです。
女王様といえば必ず引き合いに出されるのがこの国です。
オランダが王国となったのは実は結構新しく1800年代に入って、
ウィーン会議でオラニエ・ナッサウ家を王家とすることが決まってからです。
 最初はオランダも王様の国でした。ウィレムT世、ウィレムU世、
ウィレムV世と順調にナンバー・キングが続きました。
しかし、ウィレムV世の時に問題が起こります。ウィレムV世は
3人の王子に恵まれたのですが、3人とも夭折してしまい、
ウィレムV世が後に残されてしまったのです。
その上王妃にも先立たれてしまいました。しかし、陛下は再婚、
かなりの御高齢でしたが王女が誕生しました。
王女はウィルヘルミナと名づけられます。

 ウィレムV世はそれはもう大変な喜びようであったと
伝えられています。しかし、その喜びも束の間
ウィレムV世はウィルヘルミナ王女が10歳のときに亡くなってしまいます。
そのため、ヴィルヘルミナ王女が即位、ウィレムV世死去の悲しみを乗り越え、
ここにオランダ女王時代が始まります。
時は1890年のことです。因みに女王はまだ幼年であったため母后の
エンマが18歳になるまで摂政を務めます。

 ウィルヘルミナ女王1948年に親政50年を記念して退位されますが、
女王には御子様が一人しかいらっしゃいませんでした。
ユリアナ王女その人です。ここに親子による母から娘への王位継承が行われます。
これはかなり珍しいことです。欧州の女王様大国英国でも母から娘へ
という王位継承はありません。しかし、珍しいことはまだまだ続きます。
ユリアナ女王はベルンハルト殿下とご結婚され、御子様は四人いらっしゃったのですが、
全員王女様、王子様は遂に誕生しませんでした。
ここでもう一度王位の母娘による継承が行われます。1980年のことです。
そして今、オランダの国家元首はベアトリクス女王ということになっております。
実にオランダ王国はその王位に即いた者の半分が女王様なのです。
このためオランダ国民はここ100年以上王様というものを戴いたことがありません。
これも女王様ヒット率50%と驚きの数字のなせる技です
858世界@名無史さん:02/06/07 01:34
>>856
その後アレキサンダーの帝国は崩壊。分裂
859世界@名無史さん:02/06/07 08:28
>>857
今も女王?
860世界@名無史さん:02/06/07 11:12
ベティ・ウイリアムズ

 IRA(アイルランド共和国軍)とイギリス軍との間で、
テロと武力鎮圧が繰り返されてきた北アイルランドにおいて女性たちによる
平和行進を実現させ、1977年にノーベル平和賞を受賞した。
861世界@名無史さん:02/06/07 22:01
ルイザ・メイ・オルコット Louisa May Alcott(1832-1888) 作家

西部開拓時代に生きた前向きで進歩的な自立した女性

ルイザの父はエマソン、ソローとともにアメリカ思想史に名を残すほどの人でしたが、
理想主義の傾向が強く、時にはお金に困ることも……。
けれど、4人の娘達は「物質的困窮と不幸は違う」と教えられ育つのです。
ルイザは家計を助けるために16歳の時には家庭教師などを始めますが、
エマソンの娘に書いた物語「フラワー・フェイブルス」を
父が雑誌の編集者に見せたところ「お嬢さんは教師に向いています。作家にはなれません」と
言われたことが作家になろうと思ったきっかけだと言います。
南北戦争に従軍看護婦として北軍に参加した後、その経験を書いた
「病院のスケッチ」が好評となり、ロバーツ・ブラザーズ社のナイルズ氏に
少女向けの作品を書いて欲しいと頼まれます。
そして生まれたのが「若草物語」。
氏は最初の12章を読んで「退屈な話」と言いますが、
ルイザは落胆するどころか奮起して書き上げ出版します。
その結果は既に私達の知っている通り。
 常々、男に生まれたかったと言っていたというルイザは、
竹を割ったようなさっぱりとした性格で、美人ではなかったけれど、
背が高く均整の取れた、その気丈な性格が姿に現れているような印象深い女性
であったと彼女の伝記作家チェニィは伝えています。
 ルイザは姉と妹の幸せのために全身全霊を尽くし、
総ての子供のための学校作りを夢見た父の願いを
数々の小説の中で実現させ、
1888年に「花物語」を出版したあと亡くなりました。
父が死んで2日後のことでした。
 彼女のエピソードをみると、気が強くて意志の強い女性という印象を受けます。
負けん気が強いというのでしょうか。かといって、男勝りというわけではなく
、自分自身を見極める目をちゃんと持っていました。
女性問題に関しては日本より進んでいると言えるアメリカでさえ、
この時代の女性はまだまだいろんな制約や規制などがあり、
しきたりも重んじられていたことでしょう。

「若草物語」は、ハリウッドでは何度も映画化されている。それだけ愛されている作品なのだろう。
日本で有名なのは、1933年にジョージ・キューカー監督、キャサリン・ヘップバーン主演の作品と、
1949年にマービン・ルロイ監督で映画化され、ジューン・アリスンが主演した2作
(こちらがエリザベス・テイラーのエイミー)。


862世界@名無史さん:02/06/07 23:12
>859
今も女王。ベアトリクス女王。
ウィルヘルミナ女王は政治に大きく関わり、1924年にはソ連との外交樹立を阻止。
ドイツ占領下のオランダではイギリスに逃れ、ラジオでオランダ国民を奮起を促す。
ユリアナ女王は一時神秘主義治療師に傾倒し、批判を浴びる。
ベアトリクス女王はドイツ人と結婚し、一時は大騒ぎ。
皇太子は男性。
863世界@名無史さん:02/06/08 12:39
>>854
その本、白鳥だかガチョウが出てこなかったか?
うろ覚え
864YP:02/06/08 13:14
スレと関係ないけど・・
ペチャパイの女性が胸の開いた服着てるのを見ると更に肉体の暴
力に見えるの何故だろう。  
胸が無い女性は知的に見える、だからなのか個人的にはペチャの
方が好みなんだけど。その上での肉体的カムアウトだからかな。
ようするには「何か文句ある!?」と云われてるようだからなの
か・・
865世界@名無史さん:02/06/08 14:40
866世界@名無史さん:02/06/08 14:51
女王・・・・・高貴なイメージ
女王様・・・セクシャルなイメージ
女帝・・・・・犯罪のイメージ
867世界@名無史さん:02/06/08 16:10
インディラ・ガンジーとベナジール・ブットが首相だったら
印パ情勢は変わっていたのだろうか?
868世界@名無史さん:02/06/08 17:03
ブットどうしてるんだろ?
869世界@名無史さん:02/06/08 17:35
ブットは汚職の犯罪者だろ。

 
870世界@名無史さん:02/06/08 17:46
やっぱ女は全然いないな。

 
871世界@名無史さん:02/06/08 21:15
アン
(1665年〜1714年)

在位1702年〜14年。スチュアート朝最後のイギリス女王。
ジェームズ2世の次女。新教徒として育てられた。

1695年には女王メアリーもすでに死んでいたため、ウイリアムの死後王位は、
妹のアンに継承された。アンは危険と動乱にもまれて、臆病な少女に育ったが、
道徳的には純潔、控えめで感受性が強く、幼友達のサラ・ジェニングとの友情を大切にしていた。
サラは活発で明朗だけど疑い深く、積極的で自信の強い女性だった。
アンより5つ年上のサラは1678年にジョン・チャーチルと結婚し、
アンは1683年にデンマークの王子ゲオルグと結婚した。サラはアンの女官になったが、
アンは王女とは呼ばせず、二人は、フリーマン夫人、モーリー夫人と呼び合っていた。

夫達がジェームズを見捨ててウイリアムに走った時、アンは父と夫のどちらを取るかという
選択に迫られたが、夫と友達に対する愛情が勝ち、1688年、父を捨てて
サラとノッティンガムに出発することにした。
名誉革命後の12月19日に、アンとサラはロンドンに戻ってウイリアム三世と会った。

アンはどうしてもウイリアム三世が好きになれなかった。
彼が自分にも所有権がある父の財産を、ある友人に与えたと聞いて傷つけられた。
1691年頃、彼女は父の王位復権を望むようになった。
ウイリアムはマールバラ伯になったチャーチルとその妻のサラが、
ジェームズと連絡を取っているのではないかと疑った。女王メアリーはアンに、
サラとの交際を絶つように命令したが、アンはそれを拒んだ。

1692年1月、マールバラ伯は役職から追放され、彼とサラは宮殿への出入りを禁じられた。
サラと別れたくなかったアンはホワイトホール宮殿を去り、
シオン・ハウスに住んでそこにサラを呼んだ。5月、マールバラ公はロンドン塔に送られた。
サラはしばしば夫を訪ね、女王をなだめるためにアンとの交際を絶とうとしたが、
アンはそれを嫌がった。マールバラ伯が、ジェームズの王位復権の陰謀に加担した
という証拠は見つからなかった。ウイリアムは優れた将軍を必要としていたため、
彼を釈放し、以前の権威を与えた。
872gekiyasu:02/06/08 21:18

「 RX-2001 」がパワーアップした、
「 RX-2000V 」↓
http://user.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/NEO_UURONNTYA

店頭販売価格は、13900 円なんですが、
今回だけ、破格の 7100 円に設定して
おります。

ヤフー ID の無い方は、当社オンライン
ショップで、御購入下さい↓
http://www.h4.dion.ne.jp/~gekiyasu/
873世界@名無史さん:02/06/08 21:38
>>864
巨乳がヨシ。
874世界@名無史さん:02/06/08 22:20
>>871
10人以上子供産んだんだよな?
なのに1人も育たなかった。
これ異常じゃないか?
875世界@名無史さん:02/06/08 23:55
スチュアート家、嫌われてたからね。
876世界@名無史さん:02/06/09 12:00
だからってドイツから王様呼ぶこともなかろう?
877世界@名無史さん:02/06/09 14:32
>871
アンとサラの関係に同性愛の匂いがする。
878世界@名無史さん:02/06/09 15:10
>>876
当時、英国王はプロテスタントでなければならず、その条件に合致して
英国王室の(庶子でない正嫡の)血統の人間は、ジェイムズ1世のひ孫
にあたるハノーヴァー公ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)しか
いなかったのだ。
879世界@名無史さん:02/06/09 23:48
>アン女王
競馬の歴史で大きな功績を残している。
*賞金レースを発案し実施
*馬の品種改良を規格化
880世界@名無史さん:02/06/10 00:37
1702年、38才でアンは女王になった。だらしない者達は宮廷への出入りが出来なくなり、
コーヒー店や女郎屋にたむろするようになった。
コーヒーは1650年頃初めてトルコから輸入され、ロンドンでは1652年に初めてコーヒー店が出来たのだが、
コーヒーは眠気をさまし神経を刺激するので、たちまち人気が沸き、
1700年には、ロンドンのコーヒー店は3千軒にもなっていた。
アンの叔父にあたるチャールズ二世の時に、彼はコーヒー店が政治的扇動と陰謀の
中心になるのを恐れて弾圧しようとしたのだが、人々の、友達と会ったり、
気楽に話したいという気持ちが、チャールズを圧倒したのだ。

茶はやはり1650年頃、中国から輸入されたが。高価だったので、
イギリス社会ではコーヒーに取って代わるまでに100年かかった。
ココアはメキシコと中央アメリカから輸入された。1658年にバニラと砂糖を
ココアに混ぜた飲み物が出現し、このチョコレートがコーヒー店での人気のある飲み物だった。
すべての階層が長いパイプで煙草を吸うようになっていた。
婦人達はたばこがペストの菌を殺すと思いこんでいたので、
かぎ煙草や粉煙草を吸う習慣が盛んになっていたのだろう。

アンはその宗教心のあらわれとして、国教会の貧しい聖職者に
「初めての果実」と1704年には十分の1の献金を与えた。
この「女王アンの祝儀」は今でも毎年イギリス政府が実施している。
アンは毎年子どもを生んだが、一人を除いて幼いうちに死に、後継者は残らなかった。
881世界@名無史さん:02/06/10 02:07
Lavina Fontana
イタリア, 1552-1614
もし、女性画家がルネサンスを向かえたとしたら、それはフィレンツェでも、ローマでもなく、
ボローニャにおいてであったし、それは15世紀でもなく、
16世紀と17世紀においてであった。

Lavinia の幸運は、イタリアのボローニャで育ったことである。
中世からボローニャ大学では、女性への教育を行っていた。
学術、芸術の才能を伸ばすチャンスがあったのである。

ボローニャ大学出身の女性画家は、ボローニャの守護聖人・聖カタリナに値した。

初めて成功した女性画家は、Lavina Fontana であった。彼女は画家として、
家族を支えていた。父親は有名な芸術家であり、教師であった。
この父親の理解のもと、彼女は才能を伸ばしていった。

1577年に、父親のアトリエで働いていた Giano Paolo Zappi と結婚した。
Zappi は、彼女の才能を認め、自分の仕事をあきらめ、財政面での管理、
11人の子供の世話もして、妻を助けていった。

彼女は、当時階級が低いとされた、肖像画や静物画を描いていたのではない。
男性・女性のヌードを含む、聖書や神話を主題とした絵画を数多く描いた。

教会堂の祭壇背後の飾り壁を描いたりもした。当時、こういったものを描くには、
ヌードモデルを研究しなければならかった。彼女においては、差別など
払拭してしまうほどの才能があったのである。

1603年にローマに移って、ローマの巡礼教会のために、
有名な Strong of Ft. Stephen Marttye を描いているが、
残念ながら、1823年の火事で焼失している。

ローマの芸術院から、仕事を依頼されたのは、
女性では彼女が初めてである。
882世界@名無史さん:02/06/10 22:39
王位につくと彼女は、マールバラを伯爵から侯爵に引き上げた。マールバラ公は陸軍最高司令官に任命され、
その進言で友人のシドニー・ゴドルフィンが大蔵大臣になった。

アンは君主としては平凡であった。幼友達のマールバラ公妃らとの交友に熱心で、国政にはあまり関心がなかった。
それでこの時以来、ジョージ三世を除けば、政治の闘争は議会と国王の戦いではなく、議会と大臣との戦いになった。

1704年、内閣に新しい人物が入った。国務大臣ロバート・ハーリーと陸軍大臣ヘンリ・セント・ジョンである。
ハーリーはデフォーとスウィフトの雇い主で、ジョンは最後の地位であるボリングブルック子爵の名で
ポープやヴォルテールに影響を与えた人である。

内閣はイギリスとスコットランドの議会を統合した。この二つの国は、王は一人で一緒でも別々の議会を持ち、
経済と信仰では絶えず争ってきた。1707年、スコットランド議会は合同法案を受け入れ、女王がそれを承認。
2つの国は宗教については干渉しないことを約束し、大ブリテン王国のイギリス議会のもとに結合して、
貿易については完全な自由を持つことになった。
16人のスコットランド貴族が上院に議席を占め、45人が下院に選出された。
青地に聖ジョージと聖アンデレの十字架が交差する新しいイギリス国旗ユニオンジャックが制定された。

ホイッグ党が勝利を占めたので、ハーリとセント・ジョンは1707年に内閣から去ったが、ハーリーは
従姉妹のアビゲイル・マシャム夫人を通じて、引き続き女王に影響力を及ぼしていた。
マシャム夫人はサラがアンに紹介したのだが、心を落ち着かせるその物静かな雰囲気をアンは好んだ。
アンはトーリー党好みで平和の愛好者だったが、サラはホイッグ党的で、
対フランス戦争を最後まで続けたいというマールバラの望みを支持して欲しいと、
アンに言っていた。スペイン継承問題の戦争ではマールバラ公は、
1704年、ブレナムの戦いにおいてルイ一四世軍を破っていた。
アンはうるさいサラが疎ましくなってきていた。
1710年、サラが横柄に怒りをぶちまけた時、アンは彼女を宮廷から追放した。
883世界@名無史さん:02/06/11 20:38
画家や芸術家って女性が才能をふるいやすい気が・・・。
884世界@名無史さん:02/06/12 00:01
スペイン継承問題とは跡継ぎが出来なかったスペイン王カルロス二世の死後、
その継承権をめぐって行われた戦いで、ルイ十四世がスペインから嫁いできた
カルロスの異母姉にあたる妻、マリア・テレサの王位継承権を主張。
これに対し海上貿易、特に新大陸貿易確保の観点から、フランスとスペインの提携に反対する
イギリス・オランダと、スペインの王位継承権を主張するオーストリアが、
同盟を結んで戦った戦争である。これに平行して北アメリカの植民地でもアン女王戦争としてフランス・イギリスは
戦っていたし、西インド諸島でも貿易覇権をめぐり海上戦が激しく展開されていた。
これらの戦争によりフランスの退勢とイギリスの海上覇権が招かれた。

トーリー党が選挙に勝ち、ハーリーとセント・ジョンが権力を取り戻した。
ハーリーはゴドルフィンに変わり大蔵大臣に、そしてオックスフォード伯爵となり、
ジョンは陸軍大臣に、そしてボリングブルック子爵になった。
いまやイギリスは地主貴族の最盛期であった。
新しい内閣はマールバラの反対にもかかわらず、フランスと単独講和を結び、戦争終結を決意した。
1711年、ハーリーはマールバラを官物私用のかどで下院に告訴した。
下院は彼の有罪を決め、女王は1711年の大晦日、マールバラをすべての役職から解任した。
彼は亡命の旅に出て、アンの治世が終わるまでオランダとドイツに滞在した。

アンの最後の子どもも死んでいたので、議会はステュアート王朝が再び王座につくことを
防ぐため、、前もって王位継承令を通過させ、ウイリアムと女王メアリーの意志に反して、
イギリスの王位は「プロテスタントの王女ソフィア、またはその世継ぎ」に
受け継がれることとしていた。ソフィアはハノーヴァー選帝候の妻で、ジェームズ一世の孫娘に当たって
いたので、王家の血筋はひいていたのだ。

アンはこれを認めたが、勘当した弟への同情も沸いていて、
もし彼がカトリックの信仰を捨てるのなら、王位につく権利を支持しても良いと考えるようになった。
トーリ党は女王の考えに傾いたが、ホイッグ党はハノーヴァー家の王位継承を支持した。

大臣の争いに嫌気がさしていた女王は、重病にかかった。1714年8月1日にアンは死んだ。
ソフィアはその二ヶ月前に死んでいたので、息子に継承権が移っていた。
枢密院はソフィアの息子ハノーヴァー選帝候に使者を送り、イングランド国王ジョージ一世になったことを告げた。
885世界@名無史さん:02/06/12 15:59
碧霞元君(へきかげんくん)

 泰山府君(東岳大帝)の娘にあたる女神。天仙聖母。天仙娘娘。
父神である泰山府君にも負けない信仰を集めていた碧霞元君は、
泰山三郎や泰山四郎の姉か妹にあたるわだが、衆人の帰依ということにかけては
兄弟よりも遙かに上である。女仙・女神の中では西王母以上といってもよく、
多くの宮観・廟宇(びょうう)にその神像がもうもうと香の煙を浴びている。
泰山の頂にある碧霞宮はその本山、華北では妙峰山霊感官が名高く、
五月(陰暦)の娘娘祭は大勢の人を集めるという
886世界@名無史さん:02/06/12 16:00
というように女帝の存在は稀だった中国にも
神話や伝説には女神は多く存在するんだよね。
中国といっても南方にはアジア女系制の名残があると
いわれているのだが・・・。
887山野野衾:02/06/12 16:04
マ祖もそうですね。彼女は唐代の巫女だったそうですが。
888世界@名無史さん:02/06/12 23:23
中国でも北方は男系なんだな。
アジア全域かどうか不勉強でわからないけど、女性が強くて
女系が続いてる地域は結構あるんじゃないかな?
たとえば日本だと女の子しかいなかったら、入り婿して
孫の代につなぐけど、中国では女の子は何人産まれても
跡取りにはなれないんだよな。
昔の話だけどね。
889世界@名無史さん:02/06/12 23:30
>>886
>中国といっても南方にはアジア女系制の名残があると
>いわれているのだが・・・。
女系が多いのは長江流域あたりだよ。
南方といっても広東あたりまで行くと女系は少なくなるよ。
890世界@名無史さん:02/06/12 23:33
長江流域って「女か(字がない)」の神話のある地方
ですよね?
891世界@名無史さん:02/06/13 00:15
原始母系制ってやつ?
892世界@名無史さん:02/06/13 00:38
やはり、女性の地位が高いのは長江流域が一番だよ!
それより、北方に行っても南方に行っても男尊女卑の社会だよ!
893世界@名無史さん:02/06/13 16:59
Rechel Ruysch
オランダ 女性画家・17世紀、 1665−1750



アムステルダムに生まれる。父親は解剖学と植物学の教授であり、素人だが絵心もあった。
彼女は花を描く画家として有名になった。肖像画家と結婚し、10人の子供を持ったにもかかわらず、絵を描き続けた。
1708-1713の間、夫婦して宮廷画家として雇われた。
894極論だけどね。:02/06/13 17:05
黄河文明が龍のシンボリズムを産み、
長江文明が鳳凰のシンボリズムを産んだ。
そして龍が鳳凰の上に立って中国文明が成立した。
具体的にはそれぞれ、
皇帝と皇后のシンボルになることで
上下関係を明らかにした。
895世界@名無史さん:02/06/13 17:44
>>894
長江文明はシンボリズムを生むほどの統一性を持たなかったと思われ。
896世界@名無史さん:02/06/13 22:29
>>895
それは今までの発掘結果から見た「中原至上主義」にすぎないな。
今まで長江流域の発掘が遅れたのは政治的な原因が大きい。
実際、掘ってみたら何が出てくるかわからない国が中国。
897世界@名無史さん:02/06/13 22:54
うお〜、今来たらなんだか学術的なスレになってるぞ!
いいぞ〜!
898世界@名無史さん:02/06/13 23:05
>>896
(°Д°)ハァ?
上流域・中流域・下流域それぞれに相関性は持つが
独自性の強い文化の中心地を持っていた長江流域の文明に
共通のシンボルなど、寡聞ながら聞いたことが無いぞ。
なんで「中原至上主義」なんぞがでてくるのか不思議だな。
899世界@名無史さん:02/06/13 23:49
スマそ、教えてくだされい。隋代以降皇帝の尊号が何々帝から何々宗皇帝
に大きく変化していると思うのですが?なぜでしょう?教えてくだされい
900世界@名無史さん:02/06/14 00:36
900
901896:02/06/14 00:38
>>898
894じゃないんだが、何か?
長江文明に独自のシンボルがあったとは思わないので
894と論争してくれ。
902世界@名無史さん:02/06/14 00:48
>>898
諡(尊)号と廟号とがあり、〜宗は廟号にあたる。
たとえば唐の太宗の場合
廟号:太宗
諡号:文皇帝
改メ文武聖皇帝
改メ文武大聖広孝皇帝
となる。
〜帝が〜宗に変化したわけではない。
903902:02/06/14 00:50
スマソ
>>898>>899
904世界@名無史さん:02/06/14 01:18
な、なんだか中国史スレに・・・。
ま、いいか、たまには。
ここの住人は寛容だから。
古代中国の女系やシンボルの話も興味アリ。
905902:02/06/14 02:09
テーマからソレたお詫びに
武則天の諡号でも書くよ。

諡号:大聖則天皇后
 改メ天后
 改メ大聖天后
 改メ天后聖帝→聖后
 改メ則天皇后
 改メ則天順聖皇后
906世界@名無史さん:02/06/14 18:39
そろそろ、こちらの既存スレに移行しようよ!
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
907世界@名無史さん:02/06/14 18:40
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908世界@名無史さん:02/06/14 23:23
>>906
まだ荒らしかい? 
900まで進んでるのにな。(ワラ
こっちに人がたくさん来るのが悔しいか?
909世界@名無史さん:02/06/14 23:32
王妃マルゴ

マルゴはアンリ2世とメディチ家のカトリーヌとの7番目の子供として生まれます。
カトリーヌは次々と子供を産みながらも、アンリ2世から女性として顧みられることもなく、
夫の死後は黒衣の王妃として政治に没頭しました。
母親とは反対に、マルゴはその一生を子供を産むこともなく、次々と愛人を替え、
歴史上で最も放漫、淫乱、スキャンダルな女性といわれました。
母カトリーヌは王家の血筋が家族から絶えないように、マルゴの兄弟の次に王位継承権のある、
従兄弟のナヴァールのアンリとマルゴを結婚させます。
しかしアンリは自分に王位がまわってくると、マルゴとの結婚を解消します。
その後、瀕死の国の財政を救うため、メディチ家からマリーをめとり跡継ぎもできたアンリ4世は、
マルゴがパリに戻ってくることを許します。

マルゴは53歳になっていました。
マルゴは幼少の頃から女神のように美しく、肌の白さが自慢で、
いつも黒いシーツの上で愛人を迎えたといわれます。
そのマルゴも今はぶくぶくに太っていました。
それでもサンス館に住む彼女の側には美しい20歳の若い愛人がいました。
この若者は後に嫉妬に狂ったマルゴの元愛人にピストルで撃たれ、
マルゴの腕の中で死んでいきます。マルゴはこの18歳の元愛人の少年を
サンス館の前で打ち首にさせます。もうライバルはいなくなったのだから
自分も死んでも本望だと言って死んでいくのですが、
彼のライバルが決してマルゴの最後の愛人ではなかったのを知っていたのでしょうか。
とりあえず悲観にくれたマルゴは、その日にサンス館を去るのでした。

910世界@名無史さん:02/06/14 23:55
>>909
映画化されてたね。
イザベル・アジャーニが美人過ぎ!
911世界@名無史さん:02/06/15 10:15
マルゴ。肖像画で見る限り美人とはとうてい思えん。
あれで男狂いならそりゃ離婚されてもしかたないわな。
912世界@名無史さん:02/06/15 13:01
閔妃

悲劇の美女と思っていたけれど、大院君について書かれた文とか読むと、
結構イヤな女だね。
913世界@名無史さん:02/06/15 13:38
>>906
>そろそろ、こちらの既存スレに移行しようよ!
こちらが一概に既存スレとは言えないよ!
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1019912519/l50
914世界@名無史さん:02/06/15 16:32
>>913
うっるさいな、フェミ婆!
915世界@名無史さん:02/06/15 16:35
閔妃,権力志向の強い、支配欲満々の女だったな。
大院君との軋轢もバカな行為だ。
916世界@名無史さん:02/06/15 16:36
>>913
スマソ

>>913>>906
917世界@名無史さん:02/06/15 19:03
ナディン=ゴーディマ (Nadine Gordimer) 
1923年11月20日生まれ
【作家】 〔南アフリカ共和国〕
1991年ノーベル文学賞。
918世界@名無史さん:02/06/15 19:10
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  ┌V;;::::;/  (,;/     ヽ     _,--'        `ヽ;;;lヽ>=-,,ー-,-^--=, >-、
  |;;〆;:;;;i   ,,/,__   \   .ゝ  オッパイ     ` ヽ"~二ヽ  ~i;;::::::::;ヽ二"k,.,
  i;:;/::::ノ /~;^;;;:::::::~=--,, |-,~^-"~   見たかったん    | iヽ`    i;;i:;;::::/  ヽ,,.mn,,,,,/
  >;i~;;;)/;;;;;::::::::::::::::::::::::::::::::::~ヽ-,,_      でしょう?  ノ  `" ミ    ""`i しヽ |;;;;--,,,
 j;;;Y;/;;;;(二,,ヽ,,;;:::::::::::::::::::::::::::::\ー=フー,-.、        ヽ、             ,,,ノ:::::::::.ノ
 >;;;/::::::::::::::::::-,,,,=-n,;;;:::::::::::::::::::;::::\//./|;;;;;)-、       i、           `i;;::''''''''|
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ノノソ/ii  ヽ彡jj::::;;;;;;;:::::::::::::::)i|ミ;:;:;::::::|   ./:::/ |                      ヾ, |
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919世界@名無史さん:02/06/15 22:57
>>917
反アパルトヘイトの人?
920世界@名無史さん :02/06/16 09:54
楠本イネ (1827〜1903)シーボルトの娘−日本最初の洋方女医
 
父は1823年(文政6)8月に、オランダ東印度会社の商館医として
出島に赴任したドイツ人 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン
シーボルト(1796年2月17日ヴェルツブルク生) であり、母は丸山町
引田屋の遊女其扇(そのぎ・本名楠本たき)で、イネはこの2人の間に生まれた
混血児である。
 
 シーボルトはたきとイネをこよなく愛するが、シーボルトの5年間の任期が
終わり別れの時がやってくる。いつの日かまた会えることを祈りながら帰国の
支度をはじめた矢先、1828年(文政11)8月9日、長崎を襲った大暴風雨は、
シーボルトが乗船するはずであったコルネ リウス・ホウトマン号をも破損させてしまう。
その時、国外持ち出し禁制の地図や、葵の紋章のついた衣類等が役人にみつかったため、
シーボ ルトと、その収集に手をかした弟子や学者たちが、取調べを受けることになる。
厳しい詮議を受け、牢屋に入れられた者、遠島を申し渡された者などが出て、たきも取調べ
を受けたが「知りませぬ」で通しつづけ、シーボルトを守る。シーボルトは国外追放、
再度日本へ来ることが出来ない刑で、1829年(文政12)12月 30日、長崎港を離れていった。
 シーボルトは母子を気遣い、高良斉、二宮敬作らの弟子達と出島のド・ヴィレニューベと
ピュルガアに2人のことを託し、十分な生活費を置いて行く。イネが2才7ヶ月の時であった。
その後、シーボルトとたきの間には、お互いを思いあう文通が続くが、たきは間もなく
回漕業者俵屋時次郎と結婚する。
やがて、シーボルトの血を引くイネは、色白で背の高い美しい娘に育ち、伊予宇 和島の
二宮敬作の所で、外科、その他一般的医学を学ぶ。 その後、岡山の石井宗謙のもとで
産科学を学ぶが、宗謙の暴力によって犯され妊娠し、娘「ただ」を産み、長崎へもどる。
 イネは長崎にいる間、医者として開業しながら阿部魯庵について産科学を学んだ。
その時期に、長崎を訪れた村田蔵六(後の大村益次郎)と共に、二宮敬作の所に
再度勉学に出る。そして、蔵六にはオランダ語を習う。

たきの死後、1869年(明治3)2月から東京で暮らす。
イネは、東京府京橋区築地1番地で、産科医を開業し、
1879年(明治10)2月までここで生活をする。この間、
1873年(明治6)7月、福沢諭吉の推薦で、明治天皇の権典待葉室光子の
お産にたずさわったが、皇子は死産、光子も産後間もなく死去した。そして、
その骨折り に対してイネは「金百円」を下附された。

1875年(明治8)2月、医師学術試験規定が定められ、国家試験に合格しない者は
医師 としての資格なく、開業することが出来なくなった。しかも医師の試験の門戸は、
男子のみに 限られ、女性としては1885年(明治18)12月になって、はじめて
萩野吟子が試験に合格して、開業が許され、正式の女医第1号となる。しかし、イネは
吟子よりも15年前に、西洋医学の女医として技術をみがき、開業もしていたのである。
時代は流れ、医学も、オランダ医学からドイツ医学へと移り、1878年(明治10)
イネは築地の医院を閉じて長崎に帰る。
 1885年(明治17)銅座町55番戸で、産婆として再出発するが、明治24?年、
再び上京し、たかとその家族と住む。
 1903年(明治36)8月26日、食中毒の為、東京市麻布区飯倉町で、
77才の生涯を閉じ るが、幕末から明治にかけての波乱の中、しかも「混血児」
という不利な境遇を乗り越えたイネの一生は、偉大な父シーボルトの名に恥じないものであった。 医学にいどみ、オランダ語を学び、未婚の母という重荷を背負いながらも、強い意志と気力 をもって生き抜いた女性であった。

中学生の時に読んだ「銀のさじ」という本で彼女のことを知りました。
混血児、未婚の母(しかも師からの強姦…)という逆境にありながもがんばった
彼女は女傑の名にふさわしいのでは?
921世界@名無史さん:02/06/16 13:06
シーボルトってオランダ人に化けて日本にきたんだよな。
922世界@名無史さん:02/06/16 17:26
紫陽花って日本原産で、シーボルトがヨーロッパに持って帰って
品種改良し今の紫陽花になったんだよ。
だから紫陽花の学名は「オタクサ」」(お滝さん=イネの母の名前)
923山野野衾:02/06/16 17:31
>921
当時は阿蘭陀商館員としてアメリカやスウェーデンの人間も来日していたそ
うで、通詞に「阿蘭陀語がおかしい」と言われたシーボルト(バイエルン出
身)は「高地阿蘭陀人で、訛りがあるのです。」と誤魔化したとか。
スパイ容疑がかけられた時にはバイエルン政府も釈明しようとしたそうです。
何とか無事出国出来ましたが。
924世界@名無史さん:02/06/17 00:42
訛りのあるシーボルト。。。。
なんだか笑える。 オランダ語訛ってたのかな?
925世界@名無史さん:02/06/17 10:44
伊能忠敬の地図持ってたつうから、100%スパイじゃん。
どうやって入手したんだ。

おイネ「花神」では火噴き達磨とエー感じナンだが、
実際のとこどうだったんかな。
926山野野衾:02/06/17 11:35
>925
幕府天文方高橋景保の協力によるものでした。が、間宮林蔵が手紙を幕府に
届け出た事もあって発覚。
きちんとした資料を読んだ訳ではありませんが間宮は隠密めいた事をやって
いたらしく(訛りの強さもあって)隠密を生きて帰さぬと言われた薩摩から
も無事帰還して藩重役と回船問屋の抜荷を報告したとか。(うろ覚え失礼)
他にも色々と活躍していたのでは無いでしょうか。
927世界@名無史さん:02/06/17 12:12
>高地阿蘭陀人で、訛りがあるのです。

シーボルトおもしろすぎ。
高地オランダって・・・標高100mくらいか?w
928このスレの1です:02/06/17 12:12
今後は、この次スレに移行します。
以後は、このスレに書き込まないで下さい。
新・女傑について(Part2)
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1024283378/l50
929山野野衾:02/06/17 16:36
>927
928さんには悪いのですが・・・・高地阿蘭陀=独逸の事です。
930世界@名無史さん:02/06/17 22:01
>>927
標高10mでもオランダじゃ高地だろ?(w
しかしオランダ人と偽ってまで日本に来たがったシーボルト。
スパイと見られてもしかたがないが、なぜかドイツ人は日本に
親近感を覚える人が多いらしく、明治なってから来たべルツに
何十年も日本に住み着いて日本医学の祖となったあげく
とうとう日本女性と結婚。
最後はドイツにつれて帰ってしまった。
931世界@名無史さん:02/06/17 22:02
>>927
しつこいようだが余り頭がよくなさそうなやつなので
もう一度。
あのな、「高地阿蘭陀人」というのはあくまで
ドイツ訛りのオランダ語を日本の通訳に見咎められて
窮地の策で言ったこと。
932このスレの1です:02/06/18 00:44
>>929
>>930
>>931
注意書をよく読んで下さい!
Part2に移行するので、以後はこのスレに書き込まないで下さい!
933世界@名無史さん:02/06/18 00:47
( ´_ゝ`)< ふーん
934世界@名無史さん:02/06/18 12:20
まだ残ってる。使い切れ。
935このスレの1だ!:02/06/18 15:55
>>934
この糞野郎!
これ以上、このスレに書き込むなと言ってるだろ!
936このスレの1だ!:02/06/18 16:02
私は、女政治家以外を女傑とは認めないぞ!
初めて全部のスレを読み通したが・・・
テメーら勝手に拡大解釈しやがって・・・
二度と、このスレには何も書き込むな!<怒>
937世界@名無史さん:02/06/18 17:55
使い切っとくよ

861 名前: 板違いに抗議 投稿日: 02/05/29 04:03

        .
>>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2
>>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2
>>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2
>>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2 >>2
938世界@名無史さん:02/06/18 17:55
939世界@名無史さん:02/06/18 17:56
940このスレの1だ!:02/06/18 17:56
>>937
この糞野郎!
これ以上、このスレに書き込むなと言ってるだろ!
941世界@名無史さん:02/06/18 17:56
942世界@名無史さん:02/06/18 18:01
>>936

何をいまさらヒス起こしてンだよ?(ワラ
お前は「女傑スレ」の1だろ〜が?
デブでブス、40近い売れ残り婆のくせに大きな顔してん
じゃね〜よ。(ワラ
943世界@名無史さん:02/06/18 18:06
ベルツ夫人は「ハナ」だったっけ?
944世界@名無史さん:02/06/18 18:08
エルウィン・ベルツ
(Erwin Baelz ドイツ 1849−1913)


  東京大学医学部教師
  明治 9(1876)年6月7日−明治25(1892)年7月31日、
  明治26(1893)年8月1日−明治35(1902)年7月31日雇用

 ベルツは来日当初、生理学を講義したが、前任者が帰国するとその後を受
けて内科学を担当し、臨床の重要性を説いた。その他に産婦人科学、診断学
なども講義し26年間にわたって学生の教育指導と患者の診療に当たった。
その功績が認められ、明治25年には、医科大学名誉教師の称号が贈られた。
教鞭のかたわら、脚気の研究や温泉療法などにも多くの貢献をした。また、
旅館の女中さんの手のあかぎれを見て後に「ベルツ水」と呼ばれる薬をつくっ
てあげるといった、写真の厳しい映像とはうらはらに、優しさも備えていた。
東大退職後、宮内省侍医を勤め、明治38年に帰国した。医学図書館背後に
胸部銅像がある。
945世界@名無史さん:02/06/18 18:11
エルウィン・フォン・ベルツ(1849〜1913)と
花・ベルツ(1864〜1937)


旧姓荒井はつとベルツが夫婦となったのは、眞寿美・シュミット・村木によると、
これまで伝えられている明治20年頃でなく明治14年頃であり、花(はつをベルツがこう呼んだ)
17歳、ベルツ32歳の時であった。
徳之介(トク)、ウタの二子をもうけたが、ウタは3歳で病死する。
明治38年官を辞したベルツと花は正式に結婚してドイツに帰国し、
花は慣れない外国生活を送るのだが、ベルツが大正2年に没後、第一次大戦の敵国日本に戻ってくる。
花がベルツと巡り会った加賀屋敷の跡にその後建てられベルツの教え子たちの勤める東大病院で、
花は昭和12年に73歳で亡くなった。
花・ベルツの書いた「ベルツありし頃の思い出」は、手に入らない。


 母の国に渡ってきた トク・ベルツ(1889〜1945)


トク・ベルツは10歳で単身ドイツに渡りドイツの教育を受ける。
父母と別れ、異国の地で育った彼がどんなに苦悩したか、その後の人生にそれがどれだけ影を落としたか、
眞寿美・シュミット・村木は想像する。ナチの宣伝映画を作っていたゲッペルスに頼まれ
日本で映画を作るため、第二次大戦中に起死回生の思いで日本に渡ったトクである。
父の日記を編集する際に時勢に合うように改竄したのではないかという見解を「花・ベルツへの旅」のなかで、
著者は述べている。
トクはドイツ人としても根をおろせず、激動の歴史に翻弄された。
帰国出来なくなったトクは東京大空襲の日、孤独のうちに父の築いた東大病院で死すのである。


946世界@名無史さん:02/06/18 18:17
ドイツ人は他のヨーロッパ人より日本にいつきやすい
のかな?
947世界@名無史さん:02/06/18 18:21
ベルツに花をあわせたのは伊藤博文夫人らしい。
芸者あがりの夫人が顔が広かったのか?
花は写真をみると彫りの深いハーフみたいな美人。
948世界@名無史さん:02/06/18 18:43
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949世界@名無史さん:02/06/18 19:01
>>947
もしかして本当にハーフだったかもしれんね。
幕末や明治末期すでに少数だが外国人が来ていて
ハーフの子が生まれた可能性はある。
昔のNHKのドラマで日本の軍人の愛人になった
イギリス女が男の子を産むが、周囲の目を気にして
日本人家庭のもらわれていくという話があった。
長崎の白人専門娼婦が産んだ子は産むとすぐに殺された
らしいがな。
950世界@名無史さん:02/06/18 19:44
長崎の娼婦、中国人行きと白人行きがあったらしいね
んで中国男との子は日本人として育てられるが白人との
混血は殺されたって
951世界@名無史さん:02/06/18 20:07
ベルツと同時代に外科医も来てなかった、ドイツから?
952世界@名無史さん:02/06/18 22:28
べルツは草津の湯の効用を科学的に解明したんだな。
当時とドイツで温泉療法が注目を浴びていたらしい。
953世界@名無史さん:02/06/18 22:40
黒人女性活動家ファニー・ルウ・ヘイマー
954世界@名無史さん:02/06/19 21:56
どこに書くの?
955このスレの1だ!:02/06/19 21:58
この糞野郎ども!
これ以上、このスレに書き込むなと言ってるだろ!
956世界@名無史さん:02/06/20 02:09
>>952
温泉の成分や効能を書くようになったのもベルツのおかげなんだね
957世界@名無史さん:02/07/15 20:03
へたってないでカモン!
958世界@名無史さん:02/07/15 20:51
とことんやれ
959世界@名無史さん
age00000,,,,