神聖ローマ帝国の七選帝侯

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1馬鹿太モン
他にスレが無いようなので立てました。
大いに語ってください。

ちなみに私が学校で習ったのは、
マインツ大司教
ケルン大司教
トリア大司教
ボヘミア王       → オーストリアに併合
ザクセン侯       → ザクセン王
ブランデンブルグ辺境伯 → プロイセン王
(プ)ファルツ宮中伯

です。
のちにはバイエルン王やハノーヴァー王も選帝侯になったそうですが、
詳しいことはわかりません。
あと「宮中伯」って何でしょうか?
2世界@名無史さん:02/02/04 21:13
プファルツ宮中伯じゃ言葉が重複してるね。
「Pfalz」が「宮廷・宮中」という意味だからね。
地名を付けたいときは「ライン宮中伯」とか言ったりする。

「Graf(伯)」ってのは「書く」という意味から来ていて、「書記・役人」
くらいが本来の意味。なので「Pfalzgraf」ってのは、「宮廷を司る役人」と
いう感じだ。
3世界@名無史さん:02/02/05 00:42
ちょっとズレるが、
宮中伯は英語でCount Palatine
で、イングランドにも宮中伯領(Palatinate)はあった。(チェスター伯領とダラム司教領)

このPalatinateというのは、対スコットランド用の戦略拠点として作られたもので、
独自の宮廷・行政制度・司法体系・貨幣鋳造権を持つ「王国のなかの王国」とも言うべき存在だった。

で、ドイツのファルツ選帝侯もそういうことなのかな?・・・・と。
(ただし、イングランドの宮中伯領は、自立性の度合いで言うと、
 せいぜい大陸の標準的な諸侯領に等しい程度だそうだから、
 この類比にはあまり意味はないかもしれないが。)
4馬鹿太モン:02/02/05 20:01
>>2-3
ありがとうございます。
プファルツって、地名じゃなかったんですか。
ただそうすると、「ライン宮中伯」というのは普段は首都のアーヘンにいたんです
か?
5世界@名無史さん:02/02/05 21:08
細かいことですが、いま学会では選帝侯ではなく選定侯という術語使用が一般化しています。
皇帝を選ぶ諸侯ということの実質が明らかになって選定侯としているそうです。
6世界@名無史さん:02/02/06 07:57
>>5
そこの事情をもう少し詳しくきぼん。
実質がどう明らかになったせいで帝が定になったのでしょう?
7世界@名無史さん:02/02/06 20:24
マインツ・ケルン・トリアの大司教って、ハプスブルク家の四男坊とかが選ばれてたの?
8受験生:02/02/06 20:36
このスレを昨日見ていれば・・・鬱。
9世界@名無史さん:02/02/06 21:53
>>8
見ていれば・・・何?
10世界@名無史さん:02/02/06 22:24
10
11世界@名無史さん:02/02/06 23:29
バイエルンは三十年戦争中、1623年にプファルツをかねて選帝権を得た。
ときのプファルツ伯がプロテスタントに担ぎ上げられてボヘミア王になり、ハプスブルクに追い出されたとき。プファルツとバイエルンはともにヴィッテルスバハ家だし、バイエルンはカトリックの大諸侯だったからだろう。
ヴェストファーレン条約でこの選帝権は承認され、選帝侯は8人になった。

ハノーファーが選帝侯になるのは1692年。こっちの理由はわかんね(藁)
12世界@名無史さん:02/02/06 23:56
辞書を見ればすぐわかることだが、Pfalzという単語は英語のpalace同様に、ローマの
七つの丘の一つで王宮が置かれたPALATIUM(Palatino)の丘に由来する。
意外なところで、シャルルマーニュ伝説に登場する12人の英雄であるPaladinも
同系統の言葉。
13世界@名無史さん:02/02/07 00:37
>6
確かに、おたくの疑問はもっとも、今までは聖俗七選帝侯といって七人の合議制ないしは選挙で皇帝を選出しておった
ということで選帝侯といっておったらしいが、七人以外にも陰に陽に強い影響を与えたやつがおるとぞっと言うことで、
選定侯としたそうだ。
14世界@名無史さん:02/02/07 01:36
>3
ランカスターもPlatineじゃなかった?
156:02/02/07 07:56
>>13
おお。どうもありがとうです。
16世界@名無史さん:02/02/07 13:38
>>13
要するに七人だか九人だかの「選帝侯」以外にも、当時の有力諸侯や都市が
影響を与えてたってことかな。
ただ、当時の用語として「選帝侯」という言葉があったんなら、
歴史用語としてそれはそれで使う方がいいと個人的には思うけど。
17あやめ:02/02/07 14:14
Kurfurstのドイツ語の意味は何なんでしょう? 昔の概説書なんかには「選挙侯」と
表記したものも見かけますが、単純に「選挙する役」という意味なら「選定侯」でも
いいとは思いますが、「七人以外にも陰に陽に強い影響を与えたやつがおる」からと
いう理由なら、既に定着しているタームである「選帝侯」を無理に変える必要もなさ
そうに思います。これに限らず最近色んな学界で言葉にこだわる傾向が強まってます。
概念そのものの認識の変革を迫る十分な事情のあるものばかりでもなさそうです。
18あやめ:02/02/07 14:36
「選挙侯」が「選帝侯」になった事情を考えると、「選挙のよって侯爵の位を
得た」かのような誤解に導くという配慮でしょうか。そこで「皇帝を選挙する
侯爵」だよという意味をこめて、「選帝侯」という用語が一般化したのだろうと
思われます。
「選定侯」じゃ何を選定するのかわけが判らない、それに事実上の影響力を持つ
人物も含めた広義の概念を措定するのなら、本来の狭義の概念を表記するために
「選帝侯」も従来のまま保存しといても構わないように思います。
19あやめ:02/02/07 14:46
選挙のよって>選挙によって
皇帝を選挙する侯爵>皇帝を選挙する聖俗諸侯
と訂正しときます

ところで以前もどっかのスレで議論されてましたが「プファルツ」と「ファルツ」
どっちがより原音に近いのでしょうか?
20現役受験生:02/02/07 16:54
このスレを昨日見ていれば・・・・
・・・あの私大の問題が解けたのに↓

次の中から七選帝侯でないのを選べ(最初の)
1、バイエルン公
2、ザクセン公
3、マインツ大司教
4、ケルン大司教
21世界@名無史さん:02/02/07 17:21
>>20
ドンマイ、気にするな。
私大なんてドキュソの逝く所なんだから。
22世界@名無史さん:02/02/07 18:59
>17,18,19
確かに、ご意見御尤もと思います。
けれども歴史術語としてセンテイコウといえば神聖ローマ帝国の皇帝選出にタッチした諸侯というのが「常識」
としてあり、その実質に迫った結果ウェイトの点が明らかにされ、選帝侯を踏まえ選定侯としたとおもわれるのです。
まぁ術語の独占だとも思われないこともないのですが、そのへんは多めに見てはどうでしょうか?
学問というのは学説ないし価値観・方法論を単一化しようという意識が働きながら実際にそうなってしまうと
学問ではなくなるという逆説的なものですから・・・  御宅の意見は大切にしてください。
23馬鹿太モン:02/02/07 20:27
>>11
有難うございます。
そうですか、選帝侯は7人だけじゃなかったんですか。
24世界@名無史さん:02/02/07 22:20
独語のkürenは「選ぶ」とか「決める」っつー意味で、
皇帝なんて意味はまったく含まれてないよ。
ただし、伝統的に名詞のKurは「皇帝選挙(権)」を指す。

そもそも「選帝」なんて日本語はないよね。
Kurfürstを訳すためだけの造語と思われ。

ちなみに、英語ではElectorというまんまな訳語を使っている。
25世界@名無史さん:02/02/07 23:04
誰かハノーヴァーがセンテイコウになったいきさつを知らんのか?
ハノーヴァーがセンテイコウになった結果、どこかがその地位を追われたのか?
26世界@名無史さん:02/02/07 23:49
>19
私が習った大学の先生は、地元人の発音を聞いたが
どっちともつかなかったと言っていた。
27世界@名無史さん:02/02/07 23:51
>>11氏の記述を
http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm#Electors
で補うと、
1692年ハノーヴァー選帝侯(1708年、国会承認→計9)
1777年ファルツ家の断絶(計8)
1801年ライン左岸のフランスへの割譲に伴って、トリーア、ケルン選帝侯の廃止、マインツ→レーゲンスブルクへ。(計6)
1803年神聖ローマの清算に伴って、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・カッセル、ザルツブルクが昇格。(計10)

19世紀のは、ほんともう名目的なものなんでしょうね。

>>25
>11氏も書いてるけど、ハノーヴァー昇格は1692年で、既存の選帝侯はどこもなくなってない。
あと、時期的には9年戦争(アウグスブルク同盟戦争)の最中だから、
ルイ14世との外向的綱引きなどで、皇帝があめ玉握らせたんじゃないかな? 
詳しい事情はわからんが。
28馬鹿太モン:02/02/08 19:10
>>27
>1803年神聖ローマの清算に伴って、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・カッセル、ザルツブルクが昇格。(計10)
ザルツブルクって、モーツァルトの故郷ですよね。
ここを治めていたのは世俗の諸侯ですか?
それとも、モーツァルトの父親が息子を就職させようとしていた「ザルツブルク大司教」ですか?
29世界@名無史さん:02/02/08 20:38
27>
>>28
>ここを治めていたのは世俗の諸侯ですか?
>それとも、モーツァルトの父親が息子を就職させようとしていた「ザルツブルク大司教」ですか?

http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm#Electors
↑ここには「トスカーナ大公によって支配される、新たに創設された世俗の公国」とある。

ついでに、なんでトスカーナ?と思って調べてみると、こういうことらしいです。
(以下を参照。)
http://www.geocities.com/vrozn/last.html  

1.フランス革命戦争で、ライン左岸が仏に割譲され1801年のリュネヴィル条約でそれを確定した。
2.領土を失った帝国の諸侯達に代地を用意し、合わせて帝国議会の構成なども変更しなければならない、
 ということで、1803年に
  The Final Recess of the Imperial Deputation
 という手続きが行われた。
3.この手続きによってヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・カッセルが選帝侯になった。
4.同じく同手続きによって、イタリアの領地を失ったトスカーナ大公フェルディナンド(皇帝フランツ2世の弟)は、
 代地としてザルツブルク等々の所領を得、あわせて選帝侯の地位も得た。

...ということらしいです。(フェルナンドがトスカーナ大公を名目的に名のり続けたかは不明)

ついでに
5.ナポレオンの大陸軍にボコられた帝国は1805年にプレスブルク(ブレスラウ)条約を結び、
 これによって、ヴュルテンベルクとバイエルンは(帝国内の)王国に昇格。
 (おそらく選帝侯の資格は持ったまま。)
6.同条約により、フェルディナント大公はザルツブルクを失い、ヴュルツブルクの選帝侯となる。
7.1806年、神聖ローマ帝国の解体。

・・・・ということになるわけですが、「神聖ローマ帝国」の解体、
というのが法的にどういう事態を指すのか、よくわかりませんでした。
オーストリア帝国になった後、選帝侯の地位がどうなったのかも。
30世界@名無史さん:02/02/09 10:29
フリードリッヒ3世以来ハプスブルク家が帝冠を維持してきたわけで
すが(除くカール7世) その際、ハプスブルグ家が諸選帝侯から選挙さ
れるごとに何か見返りをあげてたんですかねー?また、常に満場一致
だったのかなー?
31馬鹿太モン:02/02/10 19:36
>>29
なるほど。
残念ながら私はこれらのソースは読めないのですが、整理すると↓こうなるのですか?
 ケルン大司教、トリーア大司教 → ヴュルテンベルク王、バーデン大公、ヘッセン・カッセル大公(この内どれかは新選帝侯)
 トスカーナ大公 → ザルツブルク大公 → ヴュルツブルク大公

あとついでに、
 マインツ大司教 → レーゲンスブルク
ということでしたが、このレーゲンスブルクの爵位は何ですか?
いつも質問ばかりでスミマセン・・・。
32世界@名無史さん:02/02/10 23:46
レーゲンスブルクはseeと書いてあるから司教なんじゃない?
この場合のseeは名詞で司教という意味。英和辞典見てね。
33馬鹿太モン:02/02/11 16:07
>>32
スミマセン、英語はいつも赤点でした・・・。
34世界@名無史さん:02/02/12 21:15
最近知ったんだけど、中世フランスを代表する王、フランソワ一世も神聖ローマ皇帝
に立候補してたんだね。
立候補資格って、あったのかな?
35世界@名無史さん:02/02/12 21:57
>34
立候補?
近代の選挙と選挙固有の意味の相違をご存知ですか?
選挙とは漢語で選び挙げること、ある役職などに適切な人物を抜擢することをいいます。中国では
それが官僚登用のことと直結していたため選挙イコール科挙なわけです。選挙とは登用制度のことを言うのですが
固有名詞化している時代もありました(隋朝)一般的に官吏もしくは役職登用制度を選挙というわけです。
それに科挙(選挙)イコール学科試験というイメージがありますがそれは方法として学科試験を科しただけで学科試験以前も選挙なわけです。
投票による近代選挙は適当な訳語がなくて、適当な人物を選ぶんだから選挙という訳語を当てただけに過ぎない。
フランソワの場合にしても近代以前なわけだから立候補という概念がなかったと思われる。
何らかの事前工作をしていたことがわかっているということでしょう。
36世界@名無史さん:02/02/13 01:38
>>34
まあ、立候補云々はともかく、
皇帝の被選挙資格は
◎18歳以上の男性
◎貴族の出身(4人の祖父母が全て貴族)
◎非聖職者
等で、
カソリックである必要・ドイツ人である必要は法的には要求されていなかったそうです。
(原理的にはプロテスタントである可能性も否定されていなかったらしい。)

だからフランソワも十分、候補者足りうる資格を持っていたということでしょう。
ただし、皇帝の居住は帝国内でなければならないようですから、
もし彼が選ばれていた場合、どういうことになっていたのか?

ソース→ http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm#Qualifications

ちなみに1356年の金印勅書の英訳は以下にありますが・・・
http://www.yale.edu/lawweb/avalon/medieval/golden.htm
(金印勅書の2条あたりが皇帝選挙に関する条項)

選挙手続きについて、フォーマル・インフォーマルともにもう少し情報が欲しいところではあります。
37通りすがり:02/02/13 02:57
<36さんの引用の文をざっと読みました。
どうやら、帝国内に封を保有しているということがありましたので、
フランス王ももちろん可能ではないでしょうか。
38世界@名無史さん:02/02/13 11:22
あれ、フランソワって帝国内に封地持ってましたっけ。司教だったとか?
39世界@名無史さん:02/02/13 13:00
そういえば、ブルゴーニュ家のシャルル・ル・テメレールも
皇帝に成りたがっていたなー?
40馬鹿太モン:02/02/13 20:05
いや〜、勉強になります。
>>36
>◎非聖職者
ということは、マインツ・ケルン・トリールの大司教たちはなれなかったんですか?
本職の聖職者ではなかったようですが。
41世界@名無史さん:02/02/13 20:18
大司教が本職の聖職者じゃない???
42馬鹿太モン:02/02/13 20:40
>>41
あ、つまりですね、本職の聖職者は下っ端で直接民衆に説教したりする人た
ちで、彼らの頂点に立つ大司教は有力諸侯の四男坊や五男坊が選ばれてたん
じゃないかと思っていたんです。
任命するのは教皇ですが、教皇とつながりの深い世俗諸侯の子弟が任命され
るという話を聞いたことがあるので・・・。

ちなみに例えにならないと思いますが、日本では源頼朝の外祖父は熱田神宮
の大宮司でしたが、実際に熱田神宮で神職についていたわけではなく、大宮
司という地位を貰った公家で普段は京都にいました。
司馬遼太郎は源義朝が都と東国を往復する間に熱田に立ち寄って子をなした
と言っていましたが、実際には源義朝と熱田大宮司との接点は京都でした。
長々とスミマセン・・・。
43通りすがり:02/02/14 04:06
遅くなりましたけど、手元にある史料によると、
フランソワ1世は、ストラスブール近辺に土地を手に入れていたようです。

そうそう、以前にイングランドにおけるpalatineとPfaltzについて述べられていましたけど、
同様のものとは言い難いと思うのですけど。
イングランドにおけるpalatineはMarkgrafに近いのではないでしょうか。
Pfaltzはどなたかが書いていたとおりですが、Aachenに由来するからではないでしょうか。
ザクセン朝やシュウタウヘン朝の頃は、親族がその地位を得ていたようですし。
ただ最後の辺に関しては、以前授業で読んだ年代記による印象によるのですけど。
44馬鹿太モン:02/02/14 21:11
>>43
ストラスブールですか。
その頃はまだ、正式にフランス領じゃなかったんですね。
そういやサッカーのヴェンゲル監督(元名古屋グランパス、現アーセナル)も、ドイ
ツ系のフランス人でしたね。
45世界@名無史さん:02/02/14 22:38
>>42
世俗の諸侯から任じられても聖職者になります。
46ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/16 00:51
>>25
ハノーファーが選定侯(kurfursten)になったことでその地位を追われたということはなかったよ。
むしろ、選定侯は1806年の神聖ローマ帝国滅亡までに9つに増えた。1648年に30年戦争の後、プフ
ァルツに第8番目の選定侯位が与えられた。(クールプファルツはそれ以前その選定侯位をバイエルン
に奪われていたのである)1778年にはこの第8番目の選定侯位はクールプファルツとクールバイエルン
の統合(プファルツ・バイエルン)により、選定侯カール・テオドールの抗議にも関わらず廃止された。
ハノーファーは1692年既に大軍旗職(Erzbanneramt)とともに第9番目の選定侯位を獲得していた。1803年に
はケルン、マインツおよびトリールの選定侯票が消滅し、これを機縁として短命な4つの選定侯位(ザ
ルツブルク、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン=カッセル)が追加された。
47ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/16 01:34
>>1 >>3
宮中伯(Pfalzgraf)とは元来国王の王宮区(ここには伯 Graf の権力が及ばなかった)
の警察長であったが、のちには国王裁判所の必要的陪席者、おそらくその常任的判決発見
人となり、最後には弁論指揮者となった。(即ち国王裁判所における司法のトップ)
宮中伯はやがて単なる国王の宮内官ではなくなり、オットー大帝の時代には部族太公を
統制するために、部族宮中伯を彼らの居住区に派遣した。しかしこれら宮中伯で13世紀を
超えて生き残ったのはロートリンゲンの宮中伯のみで、これもライン地方の大司教たちに
圧迫されてますます南方に退き、ついにハイデルベルクに居を定めた。これがライン宮中
伯である。やがて国王選挙に際しライン宮中伯は世俗諸侯の中でも「国王に対する裁判官」
という立場から指導的地位を得ることができた。帝国代理職を保有したライン宮中伯は太公
(Herzorg)としての正式称号はもっていないものの、バルバロッサの時代以降は実質的に
太公領となった。その頃にはバイエルンのヴィッテルスバッハ家がバイエルン公とともに
ライン宮中伯を継承するようになった。(後に分離するが・・・)
48ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/16 02:14
>>24
そもそもこのドイツの国王選挙に関しては「選挙(Wahl)」と「選定(Kur)」の
区別を明確にしておかねばなりません。ドイツの法制学者ミッタイスによるとこの
区別は大変重要で、歴史的にみるとアイケ・フォン・レプゴーという人が編纂した
「ザクセンシュピーゲル」という法律集で大系化されたといわれています。
さてその両者の違いですが、わかりやすく述べると前者(Wahl)は何人かの可能な
候補者のうちから一人を選び出すことであり、即ち選挙人が王位候補者に対して適
格かどうか審査する行為で、いわば「意志形成」の段階といえます。(その際は多
数決原理は働かず、若干の有力者の権威が決定力を持つ事がしばしばありえた)
一方後者(Kur)こそがこの問題に大きく関わる部分で、これら選定侯が特定の王位
継承者に帰依して、「国王の名前を叫ぶこと」つまり、選挙人達による「意志表示」
の段階であるといえます。選定は選定されるべき人間が選定を引き受けるための用意
があること既に宣言しているという前提に成り立ち、その前後において諸条件の提示
(選挙協約)のようなものもあった。(例:選定される者の息子を王位継承者として
指定する権利を放棄する等々・・) また選定は被選定者に対する意思表示なのだか
ら、選定と結合して誠実宣誓が行われる事も可能であった。従って選定侯たちが主と
して行った重要な行為は後者(Kur)であるのだから、一般的に「選定」侯の術語の
方が妥当だと言えるかもしれない。しかし、多くの著述には「選帝」侯の見られるの
で間違いであるとは言えないが、法制史の分野においては前者の訳の方が無難である。
49馬鹿太モン:02/02/16 20:33
>>47-48
「ドイツにん」さん、勉強になります。
ありがとうございました。
ところで、
>部族太公を統制するために、部族宮中伯を彼らの居住区に派遣した。
この辺について、もうすこし詳しく教えていただきたいのですが、「部族太公」と
は何でしょうか?
質問ばかりでスミマセン・・・m(__)m
50ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/16 21:15
>>49(馬鹿太モン様へ)
どうもレス Danke ! です。 いや、もう10数年まえのことですが、私の
卒論のテーマだったんで、嬉しくてついレスしちゃいましてすみません。
しばらく、離れていたので頓珍漢なこと書いたかもしれませんが、お許し
くださいまし。
ご質問の件でありますが、部族太公とは中世のドイツはこの部族太公制(Stammes
-herzogtum)を基本としております。太公(Herzog)とは元々純粋な軍事指揮者
であり、フランク王国時代の軍隊に10名ないし30名の太公がいたそうです。まもな
く彼らはシュバーベン、バイエルンなどといったフランクに併合された諸々の部族
と結びついたためにいわゆる太公門閥(例:バイエルンにおけるアギロルフィンガー
家、ザクセンにおけるリウドルフィンガー家など)に編成され、国王の任命権は有名
無実化しました。いわゆる日本の江戸時代における大名のようなものですね。それに
対し国王はそれを見張るために各地に巡察使として伯(Graf)を送りこみました。
これをグラーフシャフトといいます。しかしながら彼らも例に漏れず各地において土豪
化し、もはや国王の一官職ではなくなり封建的主従関係において一円的支配を行うよう
になりました。同様な形で宮中伯も辺境伯(Markgraf)、方伯(Landgraf)も国王の
一官職から封建的貴族となりその地域の支配者として君臨するところに至ったのです。
まあ、わかりやすく言えば地方で勝手気ままに振舞う軍事指揮者の太公を掣肘するために
国王が放った役人達がいわば「ミイラ取りがミイラ」になるという具合に同様の権力を
有す封建的諸侯が生じたということです。ここで重要なのは権力の大小はありますが、
すべて裁判権と一円的支配における軍事力を有していたということです。従いまして、
特に世俗の4人の選定侯のうち大公(ザクセン、ベーメン)、辺境伯(ブランデンブ
ルク)、宮中伯(プファルツ・ライン)はその点において有力で、国王の選挙にまで
関わるという具合になったのでしょう。しかしこれは後に極めてドイツ的な封建制度
の枠組みにおいて特殊な枠組みを創出することになり、国王の権力が極めて脆弱もの
となり、英仏のように中央集権化が遅れた一因になったのは言うまでもありませんね。
51ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 02:53
>>50の訂正:
(グラーフシャフトの説明)は以下のとおりです
彼らも例に漏れず各地において土豪化し、もはや国王の一官職ではなくなり封建的主従関係において一円的
支配を行うようになりました。

国王の権力が極めて脆弱ものとなり、英仏のように中央集権化が遅れた一因〜
 ↓
国王の権力が極めて脆弱なものとなり、やがてこれら諸侯の一円的支配は領邦
へと発展し、英仏のような中央集権化が遅れた一因〜
52世界@名無史さん:02/02/17 09:27
>>50
太公じゃなくて、公爵と書いたほうが良いと思われ・・。太公は一般的な用語ではないよ。たぶん、ドイツにんさんが参考にした本の特殊用語だと思う。
53ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 12:41
>>52
そうですか・・・
一応、参考にしているミッタイスの訳語では「太公」になってるんですがね。

kaizer=皇帝
konig=王
Erzherzog=大公(「太公」ではない)または親王
Herzog=公(=「太公」)
kurfurst=選定侯あるいは選帝侯
furst=侯
Markgraf=辺境伯
Pfalzgraf=宮中伯
Landgraf=方伯
Burggraf=城伯
graf=伯

に統一した方がいいかも知れませんね。しかし Stammesherzogtum の術語は
やはり「部族太公制」以外の適当な逐語訳が見つかりません。
54世界@名無史さん:02/02/17 13:09
日本語の「太公」って「爺さん」っつー意味しかないんだよね。
するとHerzogの訳としては意味不明だよねぇ。「長老」くらいの意味?

おれも、「部族太公」って訳してる本を見たことあるけど。
55世界@名無史さん:02/02/17 13:14
ちょっと初歩的な質問になると思いますが、
例えばブランデンブルクのように「MarkgrafにしてKurfurst」の
人物の場合、どちらを使うのが一般的なのでしょうか。
特に法令などに署名する場合。
領内ではMarkgraf、対外的にはKurfurstでいいのかな。
もしくはKurfurstになった時点でMarkgrafの称号は取り上げられたとか?
56馬鹿太モン:02/02/17 17:46
>>50
「ドイツにん」さん、度々どうもありがとうございます。
大変勉強になりました。

ところで選定侯とは少しかけ離れますが、プロイセンがドイツを統一して「ドイツ
帝国」を建国した際、ハノーヴァーとヘッセン・カッセルはプロイセンに併合され
たようですね。
「ヨーロッパ最後の王たち(創元社)」(だったかな・・・?)という本によると、
ハノーヴァー王の場合は王位がホーエンツォレルン家に渡り、最後の王の孫がプロ
イセン王女と結婚してプラウンシュヴァイク公となったそうですが、この「ブラウ
ンシュヴァイク公」もドイツ帝国内の諸侯だったんでしょうか?
それともプロイセン王国内の貴族なんでしょうか?
知っていたらで結構ですが、教えていただけないでしょうかm(__)m
57世界@名無史さん:02/02/17 18:19
>56
ハノーヴァー王ってイギリス王が兼任してなかったっけ?違ってたらスマソ。
58馬鹿太モン:02/02/17 18:24
>>57
ハノーヴァーでは女王が認められていなかったので、イギリスでヴィクトリア
女王が即位すると別の王が立てられ、同君連合が解消しました。
ちなみにハノーヴァー王の末裔はブラウンシュヴァイク公となりましたが、イ
ギリスからもカンバーランド公の地位を貰ったようです。
第一次世界大戦で敵となって剥奪されたようですが。
59ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 18:34
>>56
あ、すいません。
僕の専攻は中世のドイツ法制史なんで近世以降のことははっきりしたこと
が言えないので・・・。
申し訳ありません。

ブラウンシュバイクの件ですが、それならお答えできます。
ブラウンシュバイク公の元はあの皇帝バルバロッサと対峙した
ヴェルフェン家のハインリヒ獅子公であります。獅子公は再三
の皇帝からのイタリア遠征の要請にもかかわらず、無視しつづ
け、やがて誠実義務違反のかどでザクセン及びバイエルンにお
ける封土の多くを取り上げられました。その多領土のうちバイ
エルンはヴィッテルスバッハ家へ、ザクセンは西半分がヴェス
トファーレン公領とケルン大司教のフィリップへ、残りの地域
はアスカン家のベルハルトへ授封強制の原則によりこれら新し
い封臣に授与されました。一方獅子公はアハト刑に処されまし
たが、諸般の経緯によりザクセン地方のブラウンシュバイク周
辺にのみ封土を安堵され、代々ヴェルフェン家がブラウンシュ
バイク公を名乗りました。従ってこの12世紀の時点ではブラウ
ンシュバイク公は帝国の封臣であったこは確かです。ハノーヴ
ァー家のエルンスト・アウグスト公(英王ジョージ1世の父)
はヴェルフェンの系図を調べると、どうやらブラウンシュバイク
公の分家にあたるみたいですね。
60馬鹿太モン:02/02/17 18:38
>>59
どうも度々スンマセンです。
なるほど、神聖ローマ帝国では一諸侯だったんですね。
それが後にプロイセンに併合されたかどうかですな。
61ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 18:47
>>60
プロイセンに関しては大王とその父君軍人王のときに結構、派手
に侵略戦争の類をよくやっていたからね。その辺の頃を調べれば
何か手がかりになると思いますよ。確かその辺の時期にハノーバー
と姻戚関係を結んだような気がするが(?)
ちなみにこのプロイセンのホーエンツォレルン家も元はブランデン
ブルクの出ではなかったんだよ。中世のときはニュルンベルクの
しがない城伯(Burggraf)で15世紀皇帝ジギスムントの時代にブラ
ンデンブルク辺境伯に授封されたはずだよ。
62世界@名無史さん:02/02/17 19:02
>>47
宮中伯の権限について
>即ち国王裁判所における司法のトップ
から
>「国王に対する裁判官」
になったいきさつはどういうことなのでしょうか?
宮中伯は皇帝に対する司法権を名目的にであれ持ち続けていた、という説明を読んだことがありましたが、
皇帝権を抑制するようなお目付役的機能と理解してよろしいのでしょうか?

>>48
「選定」の手続きについて質問ですが、
「選挙」・・・適格者を選ぶ作業。我々の持つ選挙・選出のイメージに近い。
「選定」・・・特定人を国王として認める行為。象徴的・儀礼的行為だが国制上は極めて重要。
というふうに読んだのですが・・・・そういう理解でだいたいあってますか?

「選挙」・・多数決が原則だが、有力者の意向に左右される場合がしばしば。
「選定」・・全員一致で推戴する擬制をとる。
という理解でいいのかな?
それとも多数決かどうかはこの時代にはあまり関係ないんでしょうか?

いろいろ質問してすみません。ただせっかくの名スレ、せっかくの機会ですので。
63ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 19:58
>>62
まず第一のご質問の方からいいますと、やはり宮中伯も単なる一役人から
やがて国王から授封され一個の封臣になったという経緯が重要です。
最初は各部族太公領で「国王の名のもと」裁判官たる地位に留まっていた
のでありますが、やがて独立した地方権力となった今、今度は「国王に対
する」裁判官の地位にまで発展したものと思われます。このドイツ国王の
継承問題は特殊で、「国王は貴族の中の第一人者」に過ぎません。これは
宮中伯に限らず諸侯全般にもいえ、これら等族(シュテンデ)のうちでも司法
面において長けていた宮中伯がこの件に関して主張しえたことは容易に考
えられます。
64ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 20:15
>>62
もう一つのご質問ですが、所謂「選挙」そのものの手続きに関してですが、
おおよそ、貴殿の思っておられる点に関して異論ありません。
ただ、多数決、全会一致の件に関しましては、諸説ございます。前者のWahl
に関しましてはそのとおりでありますが、後者の Kur に関しましては時代
とともに変化してきたというのが正直なところであります。この多数決原理
はカール4世の「金印勅書」で明確に法文化されたのでありますが、それ以
前ではやはり建前として「全会一致の原則」がありました。全会一致といい
ましてもやはり被選挙者に対して異論をもつ諸侯もありましたでしょうし、
この人が選出されたら困るという事柄が往々にしたあったのは事実です。そ
の結果、いわゆる「二重選挙」というものがしばしば起こり、一度に2人以
上の国王が誕生したということも起こりえました。特にシュタウフェン朝断
絶後の「大空位期」、「跳躍選挙の時代」という難局を迎えた結果、皇帝カ
ール4世は国王選挙に関して多数決原理を採用するに至ったのであります。
65ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/17 20:32
追記事項
「選挙(Wahl)」・・多数決が原則だが、有力者の意向に左右される場合がしばしば。
  ↓
多数決の原理は働きません。(従って、何人かの被選挙者が選出されることもあった)
そして有力者の意向に左右される〜

この部分の訂正しておきます。
66世界@名無史さん:02/02/18 02:59
>>63-65
サンクス。
宮中伯・・・やっぱドイツ固有なんですか。
イングランドだと、議会(←諸侯会議)に国王弾劾権みたいなものがあって、
エドワード2世やリチャード2世廃位の根拠になったらしいんだけど、
この議会ってのがそもそも国王に召集される必要があったらしく、
法制上国王に対する抑制には成り得なかったと記憶していましたので、
ドイツの宮中伯についてのお話は実に興味深く感じました。

>>64,65
というと、
「選挙」=単独適格者の選出(政治的次元)
「選定」=その適格者への承認・忠誠義務の確認(象徴的・儀礼的次元)
というわけでもないのですね。

「選挙」=予備選挙。複数候補者が選ばれることもあり得る。(政治的・手続き的次元)
「選出」=単独適格者の選出+彼への承認。(政治的次元+象徴的次元)
ということなのでしょうか?

あと・・・スレ違いかな? お詳しそうなので・・・
法制史の良いサイトってあります?
前々から知りたかったんですけど。
法制史って「法」の分野でも「歴史」の分野でも鬼っ子でしょう? だからなかなか無い・・
日本語か英語でないでしょうか?(当方ドイツ語はダメ)

ミッタイス(の「ドイツ法制史」)と「ザクセンシュピーゲル」は邦訳ありましたよね。
ちょっと勉強してみます。
67馬鹿太モン:02/02/18 18:15
「ドイツにん」さん、いつもいつも勉強になって大助かりです。
ブラウンシュヴァイクについてのご返答もありがとうございました。

ところでもう一つ質問ですが、ハプスブルク家のルドルフ一世(だったかな?)が
神聖ローマ皇帝に選出された時は、何と言う地位だったんですか?
「オーストリア辺境伯」でしょうか?
それとも「オーストリア公」でしょうか?

また選定侯の一つボヘミア王はハプスブルク家のオーストリアに併合されましたが、
ここでハプスブルク家は何故「公」あるいは「大公」ではなく「王」と名乗らなかっ
たんでしょうか?
68ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/18 21:19
>>67
いえ、まだその時点ではオーストリアはハプスブルク家の支配のもとにはありませんでした。
そのときは今のスイスのアールガウ地方のしがない伯爵でした。そもそも彼を国王に選出
した経緯は大空位時代の末頃、強力な王権を有しない家門から王を選出するというのが各
諸侯の一致するところでありました。ところがそのルドルフ・フォン・ハプスブルクにた
ちはだかったのは選定侯でありべーメン王であったプシェミスル・オタカール2世でした。
1274年までにこの新国王(ルドルフのこと)に臣従せず、レーン宣誓、帝国レーン受領を
果たしていなかったオタカールはレーン受領に召喚された。この時のベーメン王の所領は
世襲レーンのベーメン、メーレン(ともに今のチェコ)とオーストリア、シュタイエルマ
ルク、ケルンテン公領であった。前者に関してはその領土の安堵と引き換えに臣従を果た
す事、後者に関しては帝国への返還を要求されたが、その一切の召喚を拒否しました。
これに対し国王ルドルフはオタカールに対し平和喪失刑(アハト)を申し渡し、両者の間
で戦争になった。その結果ベーメン王は1278年マルヒフェルトの戦いで戦死し、息子のヴァ
ーツラフ2世はベーメンの世襲領土のみ安堵できた。一方オーストリア及びシュタイエル
マルク、ケルンテンの各公領はハプスブルク家領となり選定侯の同意を得て、長子アルプ
レヒトと次子ルドルフに夫々授与した。ここにハプスブルク家によるオーストリア支配が
始まったのです。しかしこれは封建法的にみると授封強制の違反になるのですが今後よく
見られる現象となりました。これを一般に「家門政策」といい、ハプスブルク家は巧みに
この政策を展開し後に見るような「陽の沈まぬ」大帝国をつくりあげたのでした。そして
また、この政策はハプスブルク家に限らず多くの有力な家門もとったので、ドイツの領邦
化はますます進行せざる負えなくなったのです。
69ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/18 21:42
>>66
ミッタイスの『ドイツ法制史概説』は世良晃太郎先生の訳で創文社から出てましたね。
あと論文になりますが、このテーマに関しては・・・

直井淳「カール四世の黄金印文書について(一)(二)」:『史学雑誌』第六十五巻 第4・5号(1956)
町田実秀「中世ドイツの國王選擧と多数決原理」:『一橋論叢』第二十四巻 第四号(1950)

などが参考になると思います。

>>67
シュタウフェン朝末期、大空位時代、初期ハプスブルク家に関しては・・・
単行本では・・・

『ハプスブルク家(ヨーロッパ一王朝の歴史)』 A・ヴァントルツカ著 江村洋訳 (谷沢書房)
『騎士の時代』 フリードリヒ・フォン・ラウマー著 柳井尚子訳 (法政大学出版社 叢書ウニベルシタス 386)

論文では・・・

幅健志「ハプスブルク家異聞(その三)青龍の門 -王家創立の頃-」
    :『同志社外国文学研究』第42号(1985)

などが参考になると思います。
70ナナシ伯:02/02/19 07:15
金印勅書以前の選定侯の構成って,どうなっていたんでしょうか.
固定的ではなかったので金印勅書で固定化した,ってことなのかな.
もしその時々で変わっていたとしたら,どのようにして選任して
いたのでしょうか.
71馬鹿太モン:02/02/19 20:34
>>68
いつもいつも、ありがとうございます。
そうですか、その頃は「アールガウ地方のしがない伯爵」だったんですか。
ところでこのアールガウ伯とは、地方伯ですか?辺境伯ですか?
72ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/19 22:40
>>71
方伯(Landgraf)でも辺境伯(Markgraf)でもありません、ただの伯 Graf です。
73馬鹿太モン:02/02/20 20:54
>>72
わかりました。
いや〜、今更なんですが、実は私「ハプスブルク家(講談社現代新書 江村洋 著)」
という本を読んだことがあるんですが、ハプスブルクの長い歴史をさらっと述べた
だけの概説書みたいなものだったので、領地や爵位などについて詳しく書いてなか
ったんです。

>>1で私は「ライン宮中伯」のことを「(プ)ファルツ宮中伯」と書いて他の方たちに
正されましたが、この「(プ)ファルツ宮中伯」という表記も実はその本に載ってたん
です。

ついでにこの際ですからまた質問してしまいますが、辺境伯(Markgraf)の意味はわ
かりますが、方伯(Landgraf)と伯(Graf)の違いなども教えていただければ幸いで
すが・・・。m(__)m
74ドイツにん ◆ayJofU/E :02/02/21 02:38
グラーフシャフトと宮中伯については前にレスしたから省略するとして・・

辺境伯(Markgraf)
帝国の辺境を防衛する軍の指揮権を有する伯(Graf)のこと。わが国では鎮守
府将軍に該当します。主なものにオーストリア辺境伯(後のオーストリア公)、
ブランデンブルク辺境伯、マイセン辺境伯などがあり、フランク時代にはなか
った行政職です。

方伯(Landgraf)
12C頃に創設された行政職で、地方土着の貴族を帝国諸侯として承認したもの
です。テューリンゲン方伯、ヘッセン方伯などがあり、これらの地域では部族
大公制が存在しなかった地域で行政的にいわばその補完的役割をしたもので、
やがて国王より自立化した。

城伯(Burggraf)
12〜13C頃、中東ドイツ開墾事業のため創設された王領地内の城主である。
ニュルンベルク城伯などがある。
75馬鹿太モン:02/02/22 20:45
>>74
そうですか、よくわかりました。(^o^)丿

ところでこのスレでは、伯爵以上の貴族について語られていますが、子爵や男爵とい
うのは「諸侯」にははいらなかったのでしょうか?

まあ、選帝侯とは関係無い話になってしまうかも知れませんが・・・。
76世界@名無史さん:02/02/24 09:34
保全あげ
77世界@名無史さん:02/02/24 16:31
だいぶ前のだけど・・・。
>>39
ブルゴーニュ公「シャルル突進公」の望みについては、神聖ローマ皇帝になりたがって
たという説と、「ロタール王国」の復活だったという説とがあります。
ドイツとフランスの間に、バルト海から地中海にまたがるロタール王国(中フランク王国)
を建国するために、神聖ローマ皇帝の地位を利用しようとしたそうです。
結局、愛する一人娘をマクシミリアン・フォン・ハプスブルクに嫁がせた半年後、武運つ
たなくスイスとの戦いで敗死し、かれの領土はフランスとハプスブルクに分割されてしま
いましたが。
78世界@名無史さん:02/02/25 19:54
神聖ローマ皇帝って、カール五世(スペイン王としてはカルロス一世)の時からハプ
スブルクの世襲制になったんだよね?
それ以降は「選帝侯」の地位にどんな意味があったんだろ?
なんか↑の方のカキコ見てると、神聖ローマ帝国が滅んだ後でも「選帝侯」になった
諸侯がいたみたいだけど。
79世界@名無史さん:02/02/25 22:12
>78
一応、アルブレヒト2世あるいはフリードリヒ3世から世襲とされているが、
世間一般にハプスブルク家の世襲とみなされるようになったのはカール5世以降かな。
80馬鹿太モン:02/02/26 20:13
>>78-79
私が知っているのは、>>73でご紹介した
「ハプスブルク家(講談社現代新書 江村洋 著)」

という本によるものですが、何でもカール五世はハプスブルク家による世襲を制度
化するためにイタリアで教皇から戴冠してもらい、その際に弟(名前は忘れました)
をローマ王に指名したそうです。
つまり事実上、弟を皇太子扱いしたわけですね。
しかし後にカール五世はこれを悔やんだそうです。息子(これも名前忘れました)を
神聖ローマ皇帝にしたくなったけど。時すでに遅し。
結局弟が神聖ローマ皇帝、息子がスペイン王となり、ここでハプスブルクはオースト
リア系とスペイン系とに分かれたそうです。

ちなみにカールの曽祖父フリードリヒ三世は、無能を絵に描いたような人だったそう
ですが、長命で53年間も在位し、その間に他の選帝侯たちが次々と代替わりしたこと
で発言力が強まり、そこへ若く優れた武人である息子マクシミリアン一世が自然な流
れで皇帝に即位したそうです。
81世界@名無史さん:02/02/27 00:21
カール5世の弟=フェルディナント
     息子=フェリペ
82世界@名無史さん:02/02/27 00:57
世襲制にしたんじゃなくて、世襲するように仕向けてそれが継続したという方が正確。
皇帝となったものが息子を皇太子として生前に自分が死んだらこいつを皇帝に推戴してくれ、と有力者
まぁ選定侯に約束させたわけだ。ハプスブルク家内で誰を後継者(皇太子)にするかその優先順位が定まったのが
カール六世のプラグマティシュザンクチオンだな。
83世界@名無史さん:02/02/27 01:10
プラグマティシェじゃない?、多分。ものすごい細かいけど。
84世界@名無史さん:02/02/27 03:46
>83
ご指摘ありがとうございます。
確かにプラグマティシェザンクチオンでした。
こういう長ったらしい専門用語は打ち間違えて訂正したり小文字変換したりとややこしいものですね。
8583:02/02/27 04:15
いえいえ。重箱の隅をつついて申し訳ない。
86馬鹿太モン:02/02/27 20:09
>>81
お教えいただき、ありがとうございます。

>>82
訂正していただき、ありがとうございます。

ところでその、
>プラグマティ〜
とは何でしょうか?
87世界@名無史さん:02/02/27 20:22
選帝候がいる時代は皇帝の力がかなり弱かった時代ということなのでしょうか?
88馬鹿太モン:02/02/27 20:26
>>87
と言うより、「無い」も同然じゃないでしょうか?
一応帝国内のどこかの諸侯が皇帝になるわけですが、その諸侯の領内でだけ
絶大な力を持ち、帝国については優れた皇帝であれば、上手く諸侯たちを自
分の意にかなうように仕向けることができたという程度だと思います。
89世界@名無史さん:02/02/27 21:24
>>88
レスありがとうございました。
いや、巷にある「ファンタジー」の設定でたまに選帝候がいるのに王が権力持ってる
というのがあるもんで疑問になったんです。

巷というか、疑問に思ったのは下のサイトのだけですが(w
http://www.lares.dti.ne.jp/~munekata/siroma/index.htm
90世界@名無史さん:02/02/27 21:31
>88
そりゃぁ、ねぇ実力者が皇帝になったら推戴した選定侯自体窮地に立ちかねないでしょ。
だから、一番文句をいいなさそうな無能者を推戴するわけですよ。皇帝にしてしまったら、教権によっているわけだから
俗権ではいかんともしがたかったでしょうね。ハプスブルク家が皇帝位につけたのだってこいつならどうってこと無いよってな思惑があったからですし。
プラグマティシェザンクチオンとはカール六世の定めたハプスブルク家の相続順位法のこと。たしか男女にかかわらず長子に第一位相続権が発生するってな規定だったと思う。
91世界@名無史さん:02/02/27 21:53
中黒「・」か「=」つけようよ〜 <プラグマティシェ・ザンクツィオン
形容詞と名詞をくっつけて長い単語を作るのが好きなドイツでも
Pragmatishe Sanktionと分かち書きするんだからさ〜(笑)
9283:02/02/27 23:40
Pragmatischeじゃない? 再び重箱
93世界@名無史さん:02/02/28 18:29
選帝侯っていつごろ、どのようにして廃止されたんでしょうか?
やはり皇帝との熱いバトルが・・・?
94馬鹿太モン:02/02/28 20:15
>>90
どうもありがとうございます。
ところで、
>一番文句をいいなさそうな無能者を推戴するわけですよ。
皇帝に選ばれるのは、無能な人か、最も多くの賄賂を贈った人でしょうね。
カール五世が皇帝選挙でフランソワ一世に勝ったのは、お金の力だったようです。
父フィリップからブルゴーニュ公国(毛織物産業の中心地。当時のヨーロッパ最大
の経済発展地域。)を、母ファナからスペイン王国(大航海時代で世界中に植民地
を持ち、ついでにナポリ王国も。)という二つの経済大国を受け継ぎましたからね。

>>93
この質問には>>27,>>29で語ってくれていましたが、やはりプロイセンによるドイツ
統一ではないでしょうか?
選帝侯のハノーヴァーとヘッセン・カッセルがプロイセンに併合され、バイエルン、
ザクセン、ヴュルテンベルク、バーデンなどが自治王国としてドイツ帝国に組み込ま
れましたから。

そういえば、「レーゲンスブルク大司教」は最終的にどうなったんだろ?
95世界@名無史さん:02/02/28 21:35
>>94
ってことはプロイセンが統一されるまでは影響力をもちつづけていたのでしょうか?
96世界@名無史さん:02/03/01 00:14
>95
影響力って、どういう意味で?
誰が皇帝になるかに対してってこと?
97馬鹿太モン:02/03/01 19:58
>>95
その「影響力」なるものが何であったのかが問題ですね。
>>29のかたも疑問を提起されていましたが、
>オーストリア帝国になった後、選帝侯の地位がどうなったのかも。
わかりません。
>>27では
>19世紀のは、ほんともう名目的なものなんでしょうね。
とされていましたが・・・。
98世界@名無史さん:02/03/02 18:05
>>95
>プロイセンが統一されるまでは
「ドイツが統一されるまでは」の間違いでしょ?
99世界@名無史さん:02/03/02 19:38
>>98
うい。俺の間違いでした・・・。
100馬鹿太モン:02/03/05 20:59
そういえば選帝侯の中には聖職諸侯のマインツ、ケルン、トリール大司教らがいます
が、彼らと教皇庁との結びつきはどれ程だったんでしょうか?
完全に教皇の手先だったんでしょうか?
それとも自立してたんでしょうか?
あと他にも聖職諸侯っていたんでしょうか?

質問ばかりでスミマセン・・・m(__)m
101世界@名無史さん:02/03/05 22:16
聖職諸侯としてはマグデブルクなんかもそうだったような。
「マグデブルク司教領」という形で。
大司教の方が宗教的に偉かったのは事実だけど、諸侯としては
(つまり領内での権力の強さとしては)ほぼ同じではなかったかと思う。
102世界@名無史さん:02/03/05 22:20
ドイツ南部のヴュルツブルクの司教館てすごいね。
王侯貴族の居城にひけをとらない豪華さ。
司教座都市にはバロック建築の傑作がたくさんある。
103馬鹿太モン:02/03/06 20:19
>>101-102
「司教領」や「大司教領」というのは、事実上の国家だったんでしょうか?
「ローマ教皇領」は、ローマ教皇を王とした(なんか例えがヘンかも)国家でした
が、その下の大司教領や司教領は単に教皇領の飛び地だったというわけじゃないん
でしょうか?
104世界@名無史さん:02/03/07 21:08
↓関連スレ。このスレへのリンクも貼ってあるヨ。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1015251650/l50
105馬鹿太モン:02/03/11 20:47
面白いサイトをいくつか見つけました。

ザクセン王は、ポーランド王を兼任してたことがあったんですね。

http://www.din.or.jp/~a_ohno/Polen/Koenigreich%20Sachsen.htm

選帝侯についてはこちら。

http://www.f4.dion.ne.jp/~s.kazuya/d-yougo.htm#選帝侯
ここでは神聖ローマ帝国崩壊時の9選帝侯について、「レーゲンスブルグ大司教」が
無く、ベーメン(ボヘミア)王がまだあります。
とすると、ベーメン王でもあったハプスブルク家が選帝侯位の一つを持ってたことに
なりますね。
106世界@名無史さん:02/03/14 22:44
このスレ、すごい!
107世界@名無史さん:02/04/13 12:29
ハプスブルク家自身はボヘミア王の資格で選帝侯ということでいいんですよね?
108世界@名無史さん:02/04/15 00:18
そですね。
でもボヘミア王位自身も選挙王制、だったはず。
ほとんど名目上のもので世襲ばかりだったけど、
30年戦争の時に等族がハプスブルクの王を引きずり下ろしてプロテスタント側のプファルツ選帝侯に王位を与えたことが。
109世界@名無史さん:02/04/17 14:15
保全あげ
110世界@名無史さん:02/04/19 21:16
>108
すると一時的にハプスブルク家は選帝侯位を失い、
プファルツ選帝侯は2つの選帝侯位を持ってたわけか。
111世界@名無史さん:02/04/19 23:09
>>110
そです。もちろんハプスブルク側は認めず、戦争に。
これが30年戦争の始まりで、プファルツ選帝侯はメタメタに敗北。
二つの選帝侯位を取り上げられてイングランドに亡命します。
そのときプファルツ選帝侯位を任されたのが遠縁かつカトリックのバイエルン公で、
30年戦争後にバイエルン公が選帝権を得るのはこのあたりに原因があるようです。
112馬鹿太モン:02/04/27 19:10
どーも皆さん、お久しぶりです。

>>110-111
すると30年戦争後にハプスブルク家はボヘミア王位を奪還できたのでしょうか?

また、ファルツ伯・バイエルン王の他にヴィッテルスバッハ家が支配していた領邦
はあったのでしょうか?
113111:02/04/27 20:07
お久しぶりです。すっかり寂れましたな(苦笑)。

>ボヘミア王位
1620年にプファルツ選帝侯がオランダに亡命すると、皇帝フェルディナント2世はボヘミア王に返り咲き、あわせてボヘミアの選挙王制を廃止しました。ハプスブルクがボヘミア王位を世襲します。

ファルツとバイエルン以外に支配していた領邦、ですか……
地図を見てみるといくつか小さな領邦を支配してたみたいですけど。

あと、神聖ローマ帝国ではありませんが、1822年に独立したギリシアのオトン1世はヴィッテルスバハ出身です。
114馬鹿太モン:02/04/28 14:53
>>113
ご返答ありがとうございます。

ま、私もこのところ忙しかったもので、マタ〜リとやりましょう。
115世界@名無史さん:02/05/01 19:47
シャルル突進公って婿選びがうまかったんでしょうか、ヤパーリ。
116馬鹿太モン:02/05/01 20:06
>115
というわけでも無かったようです。
愛娘マリアとマクシミリアン一世との縁組は、マクシミリアンの父フリードリヒ三世
から持ち出されたもので、それに対してシャルルは色々と条件を付けたようですが、
フリードリヒ三世の老獪さに翻弄されて、結局無条件で縁組したそうです。
結果的には子孫は神聖ローマ皇帝となりましたが、ハプスブルク家としての繁栄でし
たし、「ロタール王国」の望みも無くなりましたね。
117世界@名無史さん:02/05/21 20:45
age
118世界@名無史さん:02/05/21 21:49
高校の時
 ブラ・ザ・フボ・ケル・ト・マイ・ッタ
(ブラザー父母蹴ると参った!)と暗記して
いたが、おっさんになったら、七人が少しし
か思いだせなかったが、すーとした。
119世界@名無史さん:02/05/27 12:55
実はフリードリヒ5世はベーメンから追い出された後もベーメンを称してたりする。んで、反皇帝の国もそれを認めてたみたい。
120馬鹿太モン:02/05/27 17:58
またまた面白いものを見つけました。
いろんな国の家系図が見られます。

http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/index.htm
121馬鹿太モン:02/05/27 18:00
あと、ついでにこれも。

http://plaza19.mbn.or.jp/~1700/
122シュパイエル:02/05/28 23:37
ここ、スゴイですねー!
とても勉強になります。

ところで、(スレのタイトルとはちょっと離れます
が)神聖ローマ帝国の「最盛期」って、どの時代な
のかなあ・・・。

皇帝権、支配領域及び(統治システムとしての)国
家機構の変遷をどう捉えるかによって、様々な意見
が出ると思われますが、個人的には11世紀前半の
「ハインリヒ2世(在位1002〜24年)、コンラート
2世(在位1024〜39年)及びハインリヒ3世(在位
1039年〜56年→彼の時代は治世半ばまでに限定)」
の時代かなあ、と思っています。

ハインリヒ3世って
 ◎治世初期(若しくは皇太子時代?)は4つの
  太公位を兼任していた
 ◎「黒王」と呼ばれていた
という記述を見たことがあるんですが、詳細知っ
ている方、是非教えて下さい!
123119:02/05/30 04:29
訂正です。
×ベーメンを称して→○ベーメン王を称して
スマソ。
124世界@名無史さん:02/06/13 11:05
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125世界@名無史さん:02/06/19 08:38
あげ
126世界@名無史さん:02/07/09 12:33
>>132
Heinrich V.d. Schwarze (Salier)のことだね。
叙任権闘争のきっかけをつくった人だよ。

>◎治世初期(若しくは皇太子時代?)は4つの
>太公位を兼任していた

バイエルン公 (在位:1027〜1056)
シュヴァーベン公 (在位:1038〜1045)
ケルンテン公 (在位:1039〜1056)
あとひとつ何のタイトルだったっけ?

ちなみにドイツ王位についたのは1039年、ローマ帝位についたのは1046年。
127世界@名無史さん:02/07/09 12:42
>>126
大丈夫・・・?
128あぼーん:あぼーん
あぼーん
129あぼーん:あぼーん
あぼーん
130あぼーん:あぼーん
あぼーん
131あぼーん:あぼーん
あぼーん
132あぼーん:あぼーん
あぼーん
133あぼーん:あぼーん
あぼーん
134あぼーん:あぼーん
あぼーん
135あぼーん:あぼーん
あぼーん
136あぼーん:あぼーん
あぼーん
137あぼーん:あぼーん
あぼーん
138あぼーん:あぼーん
あぼーん
139あぼーん:あぼーん
あぼーん
140パシッチ:02/07/15 09:52
なんだ良スレだったのに、廃れたあげくに荒らしかよ。

系図そのものが載ってるわけじゃないし、慣れないと見にくいけど、ここもいいサイトだよ。
http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/
141あぼーん:あぼーん
あぼーん
142あぼーん:あぼーん
あぼーん
143あぼーん:あぼーん
あぼーん
144あぼーん:あぼーん
あぼーん
145あぼーん:あぼーん
あぼーん
146あぼーん:あぼーん
あぼーん
147あぼーん:あぼーん
あぼーん
148あぼーん:あぼーん
あぼーん
149あぼーん:あぼーん
あぼーん
150あぼーん:あぼーん
あぼーん
151あぼーん:あぼーん
あぼーん
152あぼーん:あぼーん
あぼーん
153あぼーん:あぼーん
あぼーん
154世界@名無史さん:02/07/26 02:33
age
155世界@名無史さん:02/07/31 17:39
私が中国板でこのスレ紹介したばっかりに荒らされてしまいました・・・。
>>1馬鹿太モンさん、ごめんなさい・・・。
156世界@名無史さん:02/08/01 07:27
しかし、紹介しただけで、この意味の無い荒らし・・・・・・
やはりキティさんでしょうかねえ>荒らし。
157パシッチ:02/08/01 11:03
というか、このスレの内容の何が気に入らなかったんだろうね。
158155:02/08/01 15:31
>>157
違います。
中国板で、私に反感を持った奴が、報復に荒らしたのです。
159155の知人:02/08/01 16:09
ひどいですね、、、。
>>157
気に入るも入らないも、こんな事する人は内容を理解出来ない人種
でしょう。
>>1
すみません。
私にも責任が有ります・・・155さんは私との話の流れでこのスレを
紹介したにすぎません。
よもやこんな事になろうとは・・・・重ねてごめんなさい。
160世界@名無史さん:02/08/01 20:09
んなこたどうでもいいけどさ、>>141-153を削除してくれよ。
>>128-139は以前に削除依頼だして削除人さんがあぼ〜んしてくれたんだけど、
削除依頼の方法が変わっちゃってさ、どう対処したらいいのかわからんのだよ。
161あぼーん:あぼーん
あぼーん
162あぼーん:あぼーん
あぼーん
163あぼーん:あぼーん
あぼーん
164あぼーん:あぼーん
あぼーん
165あぼーん:あぼーん
あぼーん
166あぼーん:あぼーん
あぼーん
167世界@名無史さん:02/08/05 21:15
こぴぺうざ
168世界@名無史さん:02/08/07 11:36
今度もし二十三が中国板に出てきたら容赦はしない。
いくぞ、二十三!
169世界@名無史さん:02/08/07 11:39
二十三が発言したレスは全てこのスレにコピペされることになっています。
大量のアクセスポイントと新型荒らしツールを容易して待ってるYO!
170169訂正:02/08/07 11:39
二十三が中国板で発言したレスは全てこのスレにコピペされることになっています。
大量のアクセスポイントと新型荒らしツールを用意して待ってるYO!


171世界@名無史さん:02/08/07 12:32
>新型荒らしツール
プ

どんなもんか公開してみれ
172世界@名無史さん:02/08/07 18:49
スレ内容を選帝侯話に戻しましょうよ!この際!

で、当時(14,15世紀あたり)の神聖ローマ皇帝や選帝侯、有力貴族の
行政機構としての宮廷ってどんな感じだったんでしょうかね?
中公の世界歴史とか読んでもあんまりぱっと想像できなかったんですが・・・
(選帝侯話ってわけでもなかったか、スマソ)
173世界@名無史さん:02/08/07 19:01
>>172
宗教改革で有名なマルティン・ルターを匿ったのはザクセン選帝侯でしたよね。
ヴァルトブルク城は今でも残ってますけど、ここでは吟遊詩人たちの歌合戦も
行われたとか。
174世界@名無史さん:02/08/07 20:24
>173
詩が即興で作れる人は洋の東西を問わずもてはやされたようですよね。

ヨーロッパ中世というとメルヘンチックな物か、封建領主と教会が喧嘩したり癒着したりって言う
どうにも、ありきたりな漠然としたイメージしか思い浮かびませんで。(苦笑
実際のところ、
内政や財政を直接担当していたのはどういった人々で、どのように運営していたのかなぁと。
特に神聖ローマ帝国とその周辺とかは。(オーストリアもか?)
175世界@名無史さん:02/08/07 21:09
>>172
ルーカス・クラナハもザクセン選帝侯の宮廷に仕えていました。
フリードリヒ賢公やルターの肖像画を描いています。
176世界@名無史さん:02/08/08 01:56
>174
イギリスしかしらんけど、財政を司る役所はいくつかある。
納戸庁とか財務府とか。

納戸庁(Wardrobe=衣装だんす)…要は国王のたんすにお金をしまっていた
ところから発展したらしい
財務府(Exchequer)…原語のとおり、チェッカー模様の(布が張られた?)
でかい机があって、その升目に貨幣を置いてそろばん代わりに使っていた
元々は机そのものを指す言葉(というか机そのものが役所?)だったが、
次第に役所としての体裁が整うのにともない役所の名前になった

細かいところは違うかもしれんが、まあかなり原始的というか
のんびりしていたというか…
177あぼーん:あぼーん
あぼーん
178あぼーん:あぼーん
あぼーん
179あぼーん:あぼーん
あぼーん
二十三よ、君はホントに面白い奴だ。
ここまで僕の荒らしに反応してくれたのは君が始めてだ。
今回は君がまだ来ていないマターリースレも荒らしといたからまた反応してくれ。
カマッテやるYo。(はと
181世界@名無史さん:02/08/08 12:09
>>173,>>175
>行政機構としての宮廷ってどんな感じだったんでしょうかね?
ちゃんと文章読めよ。
182世界@名無史さん:02/08/08 16:09
>>176
S・B・クライムズ「中世イングランド行政史概説」
というのを呼んだことがあります。
多分、この分野で日本語で読めるものとしては他に類書がないように思いますが。

スレの正常化期待age
183172&174:02/08/08 18:36
>175
そうか、完璧に忘れてた! クラハナはザクセン選帝侯の宮廷画家だった!
(あまり綺麗な絵の人じゃないけど・・・)
>182
「類書がない」と言うことは、神聖ローマ帝国をあつかったものでも、
やはり「行政史」関係の日本語の書籍はまず無い感じなんでしょうか?

取り敢えず、スレ正常化を期待。
184176:02/08/09 01:06
>182
あー、そうそれよ、それ。

>183
まず「神聖ローマ帝国」の行政ってのがどれくらい論じられる
ものなのか。ものすご〜く高位の官職はあったけど、帝国としての
実務的な行政なんてあまり必要無さそうじゃない?
185世界@名無史さん:02/08/11 13:41
>>184
帝国としての行政なんてなかったんじゃないのかな?
世俗大公、伯領、教会領、および帝国都市などが行政権を握っていて
皇帝も所詮のその中のひとつにすぎず、自らの領地内における行政権
しかもっていなかったと思われる。つまり江戸時代の徳川家が薩摩藩
の行政にまで関与できなかったのと同じだということ。
186あぼーん:あぼーん
あぼーん
187あぼーん:あぼーん
あぼーん
188あぼーん:あぼーん
あぼーん
(中国板で)日本人なのに中国人を名乗る奴はたいてい二十三だ。
HNかえれば荒らしから逃れられるとでも思ったか?
お前のそういう嘘がウザイから荒らしてるだけ。
190世界@名無史さん:02/08/16 21:06
>>186-189
しつこいなお前。
そんなことは選帝侯とは関係ないだろ。
他所でやれや。
191世界@名無史さん:02/08/16 22:48
>>190
削除依頼お願い。
うちからだとなぜか書き込めなくて。

世界史板《レス》削除依頼
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/saku/982069810/
192世界@名無史さん:02/08/19 23:30
なにがあったのん?
193パシッチ:02/08/20 00:38
よくわからないけど、>>155->>158参照。
なんだかなー。
194世界@名無史さん:02/08/20 19:13
>>155
名無しで私だけじゃ何のことかわからんだろうが?
お前は一体何者なんだよ。関係ないところにやたらリンク貼るな。
中国板とドイツの選帝侯とどういう関係があるんだよ。
コテハンがあるならちゃんとコテハンを名乗ってこの件(荒らし)について釈明しる!
195世界@名無史さん:02/08/20 21:26
>>194
「二十三」という中国板にいる中国人のコテハンだよ。
しかも、荒らしに故意に、しかも確信犯的に反応して余計に荒らしを過激にさせて喜んでいる奴なんだからどうしようもないよ。
荒らしに反応するのはどんな理由があっても許されない行為。
「二十三」と荒らし犯人だけでケンカするだけならいいけど、全然関係無い中国版住人に迷惑かけて何の罪を感じてない身勝手な中国人です。
だから中国人は嫌われるんだよ。
196世界@名無史さん:02/08/20 21:30
中国人は自分勝手だから、荒らしに反応して他の人を巻き込んでも平気なんだろ?
自分さえよければそれでいいんだから。
197世界@名無史さん:02/08/20 21:43
198世界@名無史さん:02/08/20 22:00
>>195
中国板の揉め事がこんなところに飛び火して、こっちとしては全くえらい迷惑なことだな。

ところで、大方のレスがあぼ〜んされてはいるけど、>>189みたいに残っている奴(二十三(=統一協会)
◆K4yl88YU )があるようだが、君のいう「二十三」というコテハンそいつのことかい?
199世界@名無史さん:02/08/21 04:06
二十三は自意識過剰でちょっかい出すと面白い。(ゲラ
書きこみ禁止要望出してるとこが一番かわいい。(ムフ
二十三叩きはアクセス規制を受けても大量のアクセスポイントとネットカフェを使ってまだまだ続くよ。(はあと
でも、このスレはもう荒らさないから安心して。
中国板に来たら容赦しないけど。
実際、荒らしに反応して間接的に中国板を荒らし(破壊)した二十三は嫌われ者だし。
中国板の住人はみんなカンカンだぞ。
「荒らしとお前だけで喧嘩するならいくらでもやっていいが、
荒らしに反応して全然関係無い住人を巻き込むな。」だとさ。
まあ、荒らしに反応しなければわしもここまで出来なかったけどさ。
ブヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
ヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ。
http://qb.2ch.net/test/read.cgi/saku/1027521493/10-14
200世界@名無史さん:02/08/21 12:35
また腐れ荒らしが出てきたか。お前ら、ここが何のスレか知っているのか?
201通りすがり:02/08/21 15:28
行政史の話に戻しますが、
前出の諸子と一緒で私もイングランド史をやっていたものですけど、
イングランドに関しては、かなり論文という形なら研究蓄積はありますし、
城戸先生の本もあります。

ここはドイツのスレなので、岩波の「世界暦史 8」(新しいほう)に少しだけ、
ミニストリアーレスの使用から書いてました。
後はそんなに分からないので、山川の「ドイツ史 1」にも少し書いていたような。
それ以上だと、とりあえず、「西洋中世史研究入門」の文献一覧や、
「史学雑誌」の回顧と展望あたりで拾ってみたらいかがです。
202世界@名無史さん:02/08/21 17:00
質問です。
神聖ローマ皇帝ってローマ皇帝なの?
なんかの文献で、ビザインツの皇帝に「ローマ皇帝を名乗らしてほしい」と
使者を出したが、拒絶されたってあったんだけど、、、
203世界@名無史さん:02/08/21 17:47
>>202
それはカール大帝のことじゃないかな。
「西ローマ皇帝」と名乗りたいといったけど、ビザンツ側はあくまで
「フランク人の皇帝」としかいわなかったとか。
204202:02/08/22 09:04
ローマ教皇が「ローマ皇帝」の称号を与えるんだよね?
なんで、ビザンツに許可がいるの?????
ローマ帝国の流れをくんでるからですか?
205パシッチ:02/08/22 10:52
>>204
いや実は、「教皇が皇帝を選ぶ」ってのはこじつけ。
本当は西ローマ帝国を滅ぼしたとされているオドアケルがビザンツに帝位を返上したので、
ビザンツが東西のローマ皇帝を兼ねているはずなんだわ。
教皇はローマ市民の代表、だから皇帝を選ぶ権利あり、つーこじつけが後になってなされた。
206世界@名無史さん:02/08/22 12:27
>>205
>教皇はローマ市民の代表
え、そうだったんですか!? 知らなかった・・・
それを踏まえて教えて頂きたいんですが、そうなるとローマをふくむ総主教とかが、
ローマ皇帝権に介入するのは、ローマの法規上合法とされてたんでしょうか?
ユスティニアヌス帝くらいまでしか通用しない問題なのでしょうけども。
207世界@名無史さん
>>202 結局こういうことなんだね神聖ローマ帝国(皇帝)って。
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817 :世界@名無史さん :02/07/11 01:54
えらく「神聖ローマ帝国」って人気ある用語みたいだね。

でも、実際この名称がつかわれたのは、一般に言われている962年オットーの
戴冠よりだいぶん後のことなんだよ。オットーの帝国は単に「Imperium」と呼
ばれた。「ローマ帝国」という言葉がはじめて出現したのは、オットー3世の
印璽の銘、「ローマ帝国の復興(Renovatio Imperium Romanorum)」におい
てであり、コンラート2世の時代にこれが帝国の名称として用いられるように
なった。1157年以来、これと並んで「神聖帝国(Sacrum Imperium)」という
名称があらわれ、約1世紀間両者が併用された。1254年ヴィルヘルム・フォン
・ホーラントのとき「神聖ローマ帝国(Sacrum Imperium Romanorum)」とい
う形で一体化された。そして15世紀半ば以降、これに「ドイツ人の」という形
容句がつけられ「ドイツ人の神聖ローマ帝国(Sacrum Imperium Romanorum
Nations Germanicae)」となったが、それは帝国が伝統的な帝国理念と結び
つきを最終的に喪失して、単なるドイツ帝国に変化したものといえる。