【神聖ローマ帝国】

このエントリーをはてなブックマークに追加
52世界@名無史さん:02/03/13 17:26
>>15
中世のヨーロッパにも、日本の天皇制のように、王や皇帝が普通の人間とは
違う存在だとする考え方があったんですか?
53世界@名無史さん:02/03/13 22:14
「王の手」だっけ?
なんか王様がさわったら病気が癒されるとかって思想があった。
54リトル愚礼@ロズウェル逝きます!:02/03/14 00:44
>>53さん
それはフランス王では?
ライ病だったけ?
しかもその病気は、なんかほっといても直るというおまけ付。
55世界@名無史さん:02/03/14 01:09
>54
イングランド王もやっていたらしい。
しかしフランスと違ってけっこう早くやめてしまったそうな。
ライ病じゃなくてルイレキとかいうのじゃなかったかな
56通りすがり:02/03/14 10:52
その辺は、マルク・ブロックなり
カントロヴィッツあたりが参考になるのではないでしょうか。
両方とも翻訳有るし。でも古めかな。
57世界@名無史さん:02/03/14 11:06
>54
最初はハンセン氏病などもふくめた皮膚病一般で、だんだん瘰癧(るいれき)
に絞り込まれていったらしい。
ローマ教皇グレゴリウス7世などは、王の聖なる力は司祭よりも劣るのであり、
聖職者のみが超自然力を使えると主張した。
ところが一般人には、王こそ神の恩寵を得て、もっとも効果的に病を癒すという
信仰が広まった。
58世界@名無史さん:02/03/14 14:44
なんか、「日本の天皇制は特殊な王権」とか主張する人がいるけど、
世界史学ぶとそうでもないねえ。
59世界@名無史さん:02/03/15 11:04
ドイツの中でプロイセンて、日本でいえば東北地方みたいな
イメージなのかな?
どっちも異民族を征服して同化させた。
60世界@名無史さん:02/03/15 13:20
>>59
>どっちも異民族を征服して同化させた。

異民族征服同化という意味では東北地方というより関東以北のイメージ。
だから坂東武士の東京に天皇が乗り込んだのと、ベルリンに
ホーエンツォレルン家が乗り込んだのが似ている。
どちらも征服し同化した筈のの人間が過剰適応して、国家全体を
逆征服してしまった現象も似ている。
61世界@名無史さん:02/03/15 15:26
>>60
フランスでも、コルシカ出身のナポレオンが、フランス・ナショナリズムの
シンボルになっちゃったね。
ナチスの御用学者のアルフレート・ローゼンベルクはバルト海沿岸の出身だし。
辺境のほうがかえって純粋な形に保たれる。
62世界@名無史さん:02/03/15 16:45
シュタウフェン朝が終わったあと、いわゆる「大空位時代」に入って
いきますが、この大混乱の時代を経て「七選帝候」が確立していきます。
「神聖ローマ帝国」という名称が初めて現れたのは、フリードリッヒ2世の
対立国王としてヴィルヘルム・フォン・ホラントがでていたときです。
63アマノウヅメ:02/03/15 17:49
>>54
ルイ16世の戴冠式の時も、るいれき患者が大勢集まったそうです。
64世界@名無史さん:02/03/15 20:56
>>53
この時代には聖俗双方の聖性争いがあったみたいですね。
有名な「フリードリヒ不死伝説」(最後の審判でフリードリヒ1世が蘇って
腐敗したローマ教会を裁くという伝説)もそういうプロパガンダの一環らしいです。
65世界@名無史さん:02/03/15 22:52
いつになったら「候」と書く人がいなくなるんだろう・・・
このスレッドに来るような奴でも間違ってるんだから、一般人には識別不能か?
66世界@名無史さん:02/03/16 13:11
>>63
ロイヤルタッチはシャルル10世の時代まで続いた。
超ウルトラカトリック右翼の派閥(ユルトラ)だったから。

その後のルイ・フィリップの戴冠式は議会での宣誓だけだった。
市民とカトリック多数派による政教分離原則がはじめて守られた。
67世界@名無史さん:02/03/16 14:23
>>60
プロイセンが関東以北のイメージだとしたら、
京都や奈良はドイツのどの辺にあたるんだろ。
68世界@名無史さん:02/03/16 14:36
>>67
南ドイツのキリスト教布教時代の先進地域か、その後の西ローマ崩壊後の
フランク時代に急速に発展したライン地方。
69世界@名無史さん:02/03/16 18:47
>>52
ゲルマン人の伝統的な王権のありようは、王が宗教的な祭司の役割をかねる
「神聖王権」の性格が濃厚でした。
民族大移動の時代を経て、軍隊の指揮能力に優れた人物が王位につく
「軍隊王権」としての性格が強まっていきますが、そういう伝統が
全く消えたわけではないようです。
70世界@名無史さん:02/03/16 23:51
>>65
「候」でも、絶対に間違っている、とはいえないかも。

「侯」と「候」はもともと同じ文字だったらしいのれ。
71世界@名無史さん:02/03/17 19:44
神聖ローマ帝国の有名な将軍っているの?
72世界@名無史さん:02/03/18 17:10
>>71
ワレンシュタインとか?
73世界@名無史さん:02/03/18 19:38
時代が時代とは言え、傭兵じゃん……(涙)
74世界@名無史さん:02/03/18 19:42
神聖ローマ帝国の将軍ってもなあ…
オイゲンとかの時代まで行くともう帝国の将軍とはとても思えないし(w
75世界@名無史さん:02/03/18 20:46
バルバロッサはたくさんの鹿とノロシカが囲い込まれた動物園を、
巨大な生簀・鳥小屋とともに、カイザースラウテルンの新王宮建造にさいして
造営したんだよ。
その孫のフリードリヒ2世もパレルモの王宮に大規模な動物園を作った。
76世界@名無史さん:02/03/18 20:54
フリードリヒ2世のムスリム私兵軍団について教えてください。
77世界@名無史さん:02/03/21 20:05
>>76
シチリア島在住のムスリムがフリードリヒ2世の命令でイタリア半島の
ルチェーラに強制的に移住させられて、彼らの中にはフリードリヒ2世の
軍隊に入って優秀な兵士として活躍したものもいるけど、これのことかな?

フリードリヒにとって、北アフリカのイスラム君主たちの援助を受けて
反乱を繰り返すシチリアのムスリムは悩みの種だったので、こういう
措置をとったらしい。
78世界@名無史さん:02/03/22 19:43
バルバロッサは1164年と1174年の2回にわたってイタリアに遠征したけど、
このときの軍勢は傭兵団が主力だった。
皇帝の臣下であるドイツ諸侯がなかなか腰を上げようとしなかったため。
そこで封建正規軍の代わりに、フランドルやブラバントの出身者で構成される
「ブラバント団」を投入することにした。
そしてこれ以降、神聖ローマ皇帝の直属部隊は大部分が傭兵になる。
79世界@名無史さん:02/03/23 12:08
>>38
「カノッサの屈辱」のハインリヒ4世は、読み書きが出来たという点で
当時としては珍しい君主だったらしいね。
この時代、読み書きや教養はほとんどが聖職者のものだったから。
80世界@名無史さん:02/03/23 15:25
ヴァルヴァロッサフリードリッヒマンセー!
81世界@名無史さん:02/03/23 16:02
>>80
Barbarossaなんだから「ヴァルヴァロッサ」は変だ。
何でもかんでも「ヴァ」と書くのはまぬけそのもの。
82世界@名無史さん:02/03/23 22:55
>>33
フリードリヒ2世という名の君主は、ドイツ史上神聖ローマ皇帝とプロイセン国王
が有名ですが、
驚いたことに諸侯のなかにも3人います。
シュヴァーベン公フリードリヒ2世
プファルツ選帝侯フリードリヒ2世
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世

ハインリヒも、
ハインリヒ傲慢公(バイエルン大公)
ハインリヒ獅子公(ザクセン大公、バイエルン大公)

83世界@名無史さん:02/03/25 08:31
当時のヨーロッパにおいて、
イタリアおよびローマは、
戦国期の日本における畿内・京都、
中国における中原で、
ここに権力を打ち立てた者が全ヨーロッパに
「号令を駆けた」といった意識があったのだろう。

千葉にあるのに、東京ディズニーランドみたいな。
ところで、神聖ローマ帝国の首都?はどこですか。
84世界@名無史さん:02/03/25 11:08
>>83
中世にはまだ「首都」という概念は無い。
王や皇帝が用があるたびに各地方を回ってそこで宮廷を開いた。
85世界@名無史さん:02/03/26 17:20
自治都市についても語って欲しいな。
ハンザ同盟の盟主だったリューベックはホルシュタイン伯アドルフ2世が
東方植民政策の一環としてつくった街。
ここから6キロほど下流にスラヴ系ヴェンド人の集落の跡があって、
その名前がリウビケだった。
これがリューベックという名の由来。
86世界@名無史さん:02/03/26 22:28
いまだに正式名称に「自由ハンザ都市」とついているハンブルクとブレーメン、
っつーのもちょっと時代掛かってるような気がするよね。
しかも、ハンブルクは1市でハンブルク州を形成し、ブレーメンは飛び地の
外港ブレーマーハーフェンとあわせて2市でブレーメン州となっており、
帝国都市として伝統を残している。
87愚礼@倍南:02/03/30 01:49
>>62さん
確か・・・後一歩で皇帝になれたのに
ホラントに孵る途中、氷結していた湖(川か?)を渡っていたら
武具の重みで氷が割れあぼーん・・・

ソースはノーマン=デイヴィスの「ヨーロッパ史」っす。
88世界@名無史さん:02/03/30 14:20
カール5世が即位したとき、フランソワ1世が対立候補として立候補したので、
フッガー家に金を借りてやっと選挙に勝てたんだよね。
ものすごい金権選挙だったらしい。
89世界@名無史さん:02/03/31 14:32
>>40
ハインリヒ獅子公はザクセン・バイエルンの二大公領を領有し、40の都市と
70の城砦を支配しドイツの五分の二を押さえる大勢力でした。
日本でいえば秀吉に対する家康の立場。
バルバロッサは1156年に懸案になっていたバイエルン公領をハインリヒに
返還しましたが、その際もオーストリア辺境伯領をバイエルンから切り離して
独立の公領とすることで、ハインリヒの勢力を削ごうとしています。
最終的に、ハインリヒはイタリア出兵を拒否して、そのあと領土問題をめぐる
紛争で召還された皇帝の法廷に出頭せず、封建法違反の廉で失脚。
その後は往年の勢力を回復することなく死去。
90世界@名無史さん:02/03/31 16:40
>>88
カール5世はフランドルのヘント(ガン)で生まれて、ブラバントのメヘレン(マリーヌ)
で育った。
だからスペインの宮廷に行ったときはよそ者扱いされていたらしい。
その苦労から息子のフェリペ2世は「スペイン人の中のスペイン人」たるべく
育てた。
91世界@名無史さん:02/03/31 16:44
騎士の称号ほしい。
92世界@名無史さん:02/03/31 21:04
>>91
画家のティツィアーノはカール5世からもらったよ。
93世界@名無史さん:02/04/02 13:43
ドイツに行くと城砦が多くのこっていますが、神聖ローマ帝国では、
2回築城ブームが起こっています。
1回目はハインリヒ1世の治世(919-936)に、マジャール人やスラヴ人の
侵攻に備えて。
2回目は11世紀にノルマン人の侵攻や叙任権闘争が原因で。
この第2次築城ブームに、多くの城砦が土造・木造から石造に転換していきます。
また下級貴族を構成する騎士の多くも城主になりました。
94世界@名無史さん:02/04/05 16:03
>>86
他に「司教都市」というのもあったね。
司教が領主の代わりにいるだけというのが実態だけど。
ザルツブルク、レーゲンスブルク、バンベルク、ヴュルツブルクなど。
95世界@名無史さん:02/04/07 20:17
神聖ローマ皇帝の戴冠式はフランクフルトで行われたけど、
このときは市民がお偉方からお供の面々にいたるまで宿舎を
提供しなければならなかった。
市にとっては大変な負担だったが、街の誇りのために我慢してたとか。
96世界@名無史さん:02/04/11 02:43
ルードヴィヒ4世と教皇側との確執について
詳しくご存知の方おられましたら、教えてもらえませんか?
いや、「薔薇の名前」読んでるとこなんで。
97世界@名無史さん:02/04/11 13:14
>>96
叙任権闘争の時代のハインリヒ4世のことですか?
98世界@名無史さん:02/04/11 14:31
>>86
自由都市には行財政や軍事などの一切を取り仕切る市参事会(シュタットラート)
がありましたね。
もともと領主の役人が、市民の中から代表を選んで市政について相談して
いたのが、だんだん役人に市民の誰かが任命されるようになったり、
都市が金を払って領主から権利を買い取ったりして、市参事会による都市の
自治が確立しました。
市参事(ラーツヘル)の定員は12人ぐらいの都市が多かったようです。
99世界@名無史さん:02/04/11 20:04
>>97
それは「カノッサの屈辱」でしょう?
そうではなくてバイエルン公ルードヴィヒ4世のことです。
ちなみに彼と争った教皇は魔女狩り勅令で有名なヨハネス22世です。
100世界@名無史さん:02/04/11 21:43
>>99
この時代の神聖ローマ帝国は、ハプスブルク家とルクセンブルク家の
二つの陣営に分かれていて、その結果二重選挙になりました。
その背後には教皇ヨハネス22世とフランスの策謀がありました。
ルクセンブルク側はヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世バイエルン公
を選出しました。
ルートヴィヒは皇帝選挙をめぐる教皇との争いの中で、教会内の教皇批判勢力
であるフランチェスコ会を味方につけていました。
これに対抗して教皇もルートヴィヒを廃位したと主張したので、ルートヴィヒも
対立教皇としてフランチェスコ会士のニコラウス5世を教皇として選出します。
選挙侯たちは教皇の干渉に対して「レンス判告」を出し、選挙侯体制の
もとでの選挙を守ろうとしましたが、ルートヴィヒはこれに満足せず、
帝国法「リケット・ユーリス」を出して皇帝選挙に教皇権が及ばないように
しようとしました。
そしてルートヴィヒは最後には孤立して1346年に廃位されます。
101世界@名無史さん
>>100
どうも、ありがとう!
参考になります。ちなみに二重選挙といいますと
2人の教皇、2人の皇帝ということでしょうか?
たしかこの時は法王庁はアビニヨンですよね?