ただそれを認識していたのは徳川家では、家康と彼の参謀である
本多正信のみであったのだが。
これでは家康が謀反を決意したのは至極当然であったろう。
旧時代的な武将連を炊きつけ石田三成の暗殺をそそのかした際も三成
は佐竹義宣に助けられた上に、海運・外交担当で大老格の小西行長と
大老の宇喜多秀家によって武将達は処断されたし、
前田利家の死去に際して起きた家康暗殺疑獄でも、家康が前田征伐を
強行するなら考えがあると他の大老は一喝。湾内の鉄張り軍艦は家康に
無言の圧力を、他の大老には心強い後ろ楯となっていた。
ちょうど会津に帰国して領国整備に余念のない蒲生氏郷に武装の難癖
を付け諸侯に蒲生征伐を訴えて軍の動員を求めた。
家康は乾坤一擲の大勝負に打って出たのだ。
豊臣家の裁可を淀殿に嘆願し受けたものの、三成以下の奉行衆に
参陣する諸侯は各人の良識による志願に限るよう制約。
この背景には淀殿の妹が家康の嗣子秀忠の嫁となっており、彼女が
秀頼の後見を家康に頼む雰囲気があったからだ。
もはや家康に手は残されていなかった。
無理やり蒲生を討伐し伊達をはじめ奥羽と繋がり割拠する他に手はなかった。
だが実の所、伊達政宗は明の寧波に参陣し、最新かつ最高レベルの文化
と技術に触れて以来、松島港に仙台港を開き、港と一体の大城郭を松島に
建設し、進取の気風に溢れた伊達王国建設に邁進していた。
家康の蜂起を自分の国力を育てる為の時間稼ぎにしか考えていなかった。
中世的志向を持つ保守的な人物であった家康は、同じく封建的割拠傾向
を持つ武断派地方大名を積極的に取り込み東軍となったというのが通説
だが実際の有力大名の状況はどうであったのだろう。
当時高砂(台湾)都督なっていた加藤清正は三成はじめ奉行衆を快く
思っておらず武断派武将と親しかったのにも関わらず西軍に協力を図った。
対外戦争の経験と高砂の現地経営への腐心は清正をして封建的傾向
の強い東軍に付くより、近代的な官僚制度を持つ豊臣奉行衆の西軍に
協力するという選択をさせた。
西軍への協力の証拠として清正の管轄下にあった博多に待機していた
緊急展開用の機動兵団と水軍を拠出している。
後の東軍鎮圧にも積極的に活動もしている。
もはや彼には農業を中心とした近世的封建態勢に興味がなかったという
事だった。
黒田長政は家康に合流を迷ったが父・如水の諌めで参加を見合わせ
九州で割拠の機会を窺う事になった。
細川忠興も微妙な立場であった。家康に親しむところも多かったが
秀次とも親しく、そして三成ら奉行衆とは仲がよくなかったとも言う。
父である細川幽斎と話し合った上で中立の姿勢を見せていた前田利長と
行動を共にしていく。
小早川秀秋は家康に与力の暁には
「上方に二カ国の上、豊臣家当主として関白に推挙する旨」申し入れたが
ものの動向は明らかではなかった。
毛利家では吉川広家が三成や恵瓊憎さに家康に与すべく策動したが
他の老臣が家康不利と見て同意せず、独断で本多や伊井に書簡を送る
事になる。
島津では当主義弘と前当主で兄の義久が二頭体制で古臭い状況に
あった。
義弘は上方との交誼に役立つ伊集院一族を擁護し、守旧派の義久はこれ
を処断しようとしていたなど好例であろう。対明戦争では活躍したが家中の
統制の必要性は感じたところであろう。
病床についた秀次が義弘に命じた書状、この関白の書簡こそ家康が誼を
通じた義久の存在で島津家攪乱を図った策を無意味にする秘策であり
秀次が三成に送った心づくしであった。
島津家では大胆な家中改革が強引に進められ義久が大阪常番を示唆
された。
福島正則は武断派諸侯の頭目的存在であり親豊臣ではあったが家康
に組した。同床異夢といったところだろうか?
福島正則の参加は大きかった・・しかし徳川家康が催した軍であるのに
東軍は正則の私兵の如き有様となり東軍総大将が2人いるに等しい状況
にあった。
関東に向かった東軍の動向を見て三成以下は西軍として決起する。
ここに戦国最後の大戦が始まった。
大阪城留守居役は大老・毛利輝元に一任し、西軍総大将は小西行長に
副将は宇喜多秀家になった。
なぜ行長が大将となったかと言うと彼の持つ豊臣海軍の動員の為であった。
謀反人扱いされたまま関東に篭もるのは自殺行為だった。
もはや関東と徳川家の後進性はそこまで危機的状況になっていたのだ。
家康は長男である結城秀康を会津の蒲生氏郷に、次男秀忠の妻子を
越後の上杉景勝に差し出し、奥州の伊達政宗に忠輝を人質に差し出し、
屈辱的な土下座外交で関東不可侵の約束を交わした後に西に向かい
進んだ。
蒲生、上杉、伊達を相互に疑心暗鬼に陥らせ一丸となって関東に乱入
する事を抑える策であった。
戦は流石に野戦上手な家康だけあって長駆、関が原にもつれ込む。
ともかく京洛に行く、これしか徳川の生き延びる道はなかった。
そして家康の率いる東軍の軍勢と三成や宇喜多秀家らの西軍の軍勢
は関が原での野戦にもつれ込んでいた。
関が原の合戦は東西五分五分で勝敗を決しかねていた。
ここに歴史の大いなる謎がある。東軍は布陣でも数の上でも劣勢なのに
なぜ関が原での野戦に持ち込んだのか?である。
この時家康が松尾山城に後詰をしていた小早川秀秋に向け鉄砲隊を
乱射させたと言う。
まだ交戦もしていない軍に鉄砲を仕掛けた真意は歴史の謎とされている。
あるいは家康が秀秋の内応に一縷の望みをかけて行ったとも言われる。
吉川広家が不戦の密約を承諾していたからだとも言われる。
慶長の役の序盤である関が原の合戦は、ここに西軍の圧倒的勝利、
東軍の地すべり的な敗北となる。
しかし戦いはまだ続いていた。無傷の福島正則がいた。家康は彼の
立場と発言力がこれ以上増えることそして二頭体制の問題から正則を
岐阜城に後詰としていたのだ。家康は関東へ敗走する。
東海道には無傷の東軍が要所要所に立て篭もる。
東海道戦争は福島正則が大将となりゲリラ戦を展開、容易には前に進ま
せない。
行長の海軍による攻撃も山野に篭もっての抵抗戦には、その効果を発揮
しない。
江戸は海軍の攻撃により役に立たない。
息も絶え絶えの徳川家は本多忠勝、伊井直政が「今講和すれば大老は
罷免するが領地は安堵する」という吉川広家の申し入れを信じ降伏を受諾
江戸城を開城する。
この後も福島正則は東軍を束ね西軍との必死の条件闘争を展開していく。
この戦火が耐えるのに1年を必要とした。
戦後の処分は福島正則以下の東軍は寸土の捨扶持のみ許される過酷な
処断であった。
彼等には対外戦争で異国に土着しうる国造りをさせる、これが西軍での
考えであった。剣呑な武力を持った不満分子を国内に置く事など考慮の
余地はなかった。
そして彼らよりも情けない状況に置かれたのは徳川家であった。
徳川家に下された処断は相模・伊豆二ヶ国に封ずというものであった。
この期に及んで家康や彼の謀臣本多正信は、降伏受諾を吉川広家に申し入れた
際に領国安堵を確約していたとして激しく抗議する。
江戸城接収の任に当たった毛利秀元は、そのような約束事は吉川広家の
独断であり毛利輝元の署名すらない空手形だと弁明する。
結局の所、家康秀忠父子は苛酷な処分を受け入れる。
かつて小牧長久手の戦で故太閤秀吉を一戦とはいえ打ち負かし、大政所を
人質に受けて秀吉の下座の礼すら受けた稀代の武将も、時代遅れの田舎侍
であったと分析できる。
東軍をまともに束ねきれず、まして名目的な総大将が西軍に内応の二股をかけ
領土が安堵などという約束を信じて福島正則以下の東軍与力が戦の最中だと
いうのに勝手な講和まで交わしていたのである。
当時の資料から史家の中には
「毛利輝元は銀で瀬戸内海に橋をかけて上洛するが、家康は米で街道を
造り上洛する」
「前田利家と衆望を二分しており五大老は家康と利家の均衡であった」
などと評価されている事をあげつらい、徳川家康は天下を取りえたというIFを
唱える輩がいる。
が・・あえて断言するが、万一対明戦争が失敗に終わったとしても家康の
天下はないと思われる。
蒲生氏郷も言っているが家康は吝嗇で衆望を担うに値しない。
彼の関が原までの戦を見ても東軍の主導権すら福島正則に半ば奪われ
戦では天下や味方ではなく徳川の御家のみ大事の考えを露骨にしているが
このような心根で平和な天下を確立できはしなかったろう。
伊達政宗や福島正則に足元を見られ、吉川広家の子供騙しに飛びつく稚拙
な謀臣正信しか知恵のある側近がいないのでは、関が原で大勝利をしたとして
早晩大阪を追われ、三日天下に終り戦国乱世が再燃した危険性すらある。
やぱーり無理ありますか?(((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル
まあ一応妄想込みってことで。(藁
前半は大明征伐を無理やり成功させて
後半は関ヶ原のパロです。
続きはいりませんよね・?
718 :
世界@名無史さん:04/03/30 20:45
<4>スゥェディッシュ大公イエヤス・公子ノブヤスを守って
日本列島が信長によって切り取りペーストされてスカンジナビア半島と融合してしまった世界
さて・・・「幼児」はその後、20年にわたり自覚が無いままに過ごし、記憶も薄れていた。
そして、全てを思い出したとき、一時的に発狂し、再び「私」が日の目を見ることとなった。
その後、この世界では1999〜2001年にかけてのラゴウ星という凶兆の星の接近に伴う
運命の戦いが、人知れず行われた。
それは、全平行世界、全時間帯を舞台とする、決闘。
ありとあらゆる時代に跳び、一対の男女が戦う。
終わるのは、止めを刺すか、(あるいは愛し合うか。これは果たされる事は無かった)相打ちするか。
今まで数千年にわたり、決着がつかなかったこの戦いに、2001年、遂に決着がついた。
・・・私は、時空の流刑者として、その戦いを見ることが出来たが、それは、あまりかかわりのないことだ。
・・・そして,その中で、「私」だけが切り離されて、とある山の中に飛ばされた。
ご本山である。
その力の源であり決して動かぬ座主は女性。
白い装束に身を包む。その彼女の深い藍色の目と会ったと同時に、私は・・・
719 :
世界@名無史さん:04/03/30 21:00
次の瞬間に、洋風の神殿調の建物の中に居た。
そして、これまた洋風の王座に座るのは、日本の着物に身を包んだ若き侍であった。
「おぉ、そなたが、「ゆき」殿の申しておった「えーじぇんと」であるか。」
私は、何故か、そこが何者かによって,日本という存在が二重に存在するものの、住民がスカンジナビア半島の
もの達とそっくり入れ替わっている、特異な状況にあることを知った。
そういえば、私、こと「幼児」は根来忍者の子孫の家系に当たるので、「エージェント」に選ばれても不思議ではない、
と思うことにして話を聞くことにした。
「さて、貴殿に頼みたいのは、そちらの世界では既に亡くなっておるノブヤスが、この世界では生きておる。
我が子ノブヤスは、この世界にとり非常に重要な人物。是非、ジェノヴァまで、警護していただきたい。」
ここで、初めて私は目の前に居る人物が松平家康であることに気づいた。
信長や秀吉の居ないスカンジナビア=日本についての詳しい情報は与えられていないので分からないが・・・
面白そうだと思ったので、引き受けた・・・しかし、だ。道中の記憶は消されてしまった。
しかし、任務達成のご褒美なのか、別れ際の記憶は残してもらえたので、その旨を
話して終わりにしよう。
720 :
世界@名無史さん:04/03/30 21:29
さて・・・どこまで話したか・・・肉体年齢は数えで25歳だが、実際には何度もループを繰り返しているだけに
精神的には既に累積で150年は生きているものでね・・・・
そうそう、ノブヤスとの別れだったかな。
あれは聡明な・・・今で言えば、「奇跡のような清純派カリスマアイドル」と言った印象だったかな。
さて・・・そんな彼に帰り際に言ったのさ。
「・・・さて、ここでお別れだわ。(何故か女性の身体を与えられてた。)」
そうしたら、あの子、いや、あのお方はぞくぞくするような深くてまっすぐな瞳でこちらを見据えて言ったよ。
「そなたは来ないのか?寂しくなるな」と。
仮の姿とはいえ、こういう人物に仕えられて幸せだった、と思いながら、私は彼にペンダントを渡したのさ。
「・・・そう。でも・・・ここでお別れよ。これを・・・ペンダントよ。これをかけていれば、きっと、またエージェントが
助けてくれるわ。」
そのペンダントは・・・誰かの像のついたエメラルドブローチのようなものだったか、大きくて丸い鉱石だったか
・・・それは定かではない。
そして、私は、船を漕ぎ出し・・・ノブヤスがその後何を成し、どう死んだか、私には知る術も無く・・・
また、自殺体を見た。
・・そして更に20年が経過し、今ここにいる。
皮肉な事に、今回の「流刑」では、理系能力の一切が失われた。
・・・更に、恐ろしい事に、簡単な計算すらできない。
もはや、時空ドライブを作る事は無いだろう。
今まで多くの世界を駆け抜けてきた。
歴史の流れは一定ではなく、世の中の闇の深奥には因果律さえ覆す連中すら居る。
しかし・・・もう十分だ。今度こそ、天寿を全うしたい・・・・「歴史のやり直し」は、人生に対する冒涜なのだ、と
最近やっと気づいた・・・
(完)
>>717 基本的にこのスレは「突っ込み無し」ですから。
ちょと「展開」が早い気もします。
…荒巻義雄の「猿飛佐助」似ているような。
722 :
世界@名無史さん:04/04/01 23:10
>面白そうだと思ったので、引き受けた・・・しかし、だ。道中の記憶は消されてしまった。
妙にリアルですね。
語りたがりの多いこのスレでは逆に目立ちますね。
723 :
世界@名無史さん:04/04/15 01:20
構想
歴史の改変はほとんど行わず、第一次世界大戦の開戦理由だけを変える。
で、ハーグ密使事件を韓国じゃなくて、ベトナムにする。
ベトナム正史を軽く挙げた後に、数十年速くベトナム戦争に突入。
作家とかがベトナムについたら、共産主義以外に、どう転ぶか、等などを練ってるところ。
韓国の歴史教科書はほとんど妄想で架空って言うけど本当?
>717
面白かったッス!続きがあるなら読みたい。
726 :
世界@名無史さん:04/05/06 00:16
>>725どうもです。698-717にカキコした名無しです。
南北アメリカに旧大陸に匹敵する文明があったら で
名前を書いてくれと言われましたので過去に使ったカトーの名
を復活させました。
そして続きですか。
最近このスレが沈滞のようなのでカキコします。期待はしないでください。
DQN炸裂しまくりですから(藁
この慶長の役で面白い特色は、東軍を代表した武威、衆望共に天下に
並びなきカリスマ徳川家康が
家康ほどの突出した武将が不在のいわば烏合の衆の西軍に、
まして代表しているのは性格に圭角が多くはなはだ不人気な石田三成に
この戦争に負けた事である。
戦歴や戦争経過を見るに付け東軍が勝てた要素は無くはない。
結局の所は家康が破れたのは西軍にではなく、時代の流れに負けた
といえなくもない。
この戦争は戦国最後の梟雄である家康と言う個人と
豊臣政権というシステムとの戦いであったというのが正しいであろう。
徳川家康は図らずも師とした武田信玄と同じ運命を辿ったのである。
この一連の戦乱の影響は、それまで燻っていた政権内の内訌を一掃し、
これまで戦国時代をリードしてきた武断派と呼ばれる大名が政治権力を失い
反対に文治派という近代官僚的性格の強い大名が勢力を拡大した。
前近代的な地方割拠志向を求める地方武将の抵抗も大きく削減され
戦後には教訓を生かし豊臣家直属兵団という常備軍の設立も果たした。
戦国時代が目に見える形で終息を迎えたのであった。
慶長の役と日本全土の混乱が収拾すると、石田三成や長束正家など
豊臣の新興経済官僚は
官僚制の整備による中央政治制度の完成、交易独占の強化による富の
一層の集中、巨大な経済力を背景に常備軍の整備と強化
が推進されていったのだった。
慶長の役が一応の終息を見た後、淀殿が秀頼を残し大阪城を退去した。
詳細は不明であるが、一説には、淀殿が家康に気脈を通じ増田長盛に
家康への書状を交わさせていたなどの憶測を呼んだ。
淀殿が何故、大阪城を退去したのか?それは今もって謎とされる。
【海外雄飛】
豊臣秀吉が天下を統一した頃から堺、博多、京都、長崎の商人たちが
盛んに東南アジア諸国に貿易船を送るようになり、
慶長の戦が終り、天下が確かなものとなってから急速に増大し始める。
当時の豊臣政権は東アジア諸国に平和通交の新書を送り、朱印船によ
る交易を展開していく。
最初のうちは北は高砂(台湾)からマカオ、インドシナ半島の安南(ベトナム)
東京(トンキン:ベトナム北部)、コーチシナ、カンボジャ、シャムなどの他ルソン
ボルネオなど数十箇所に分散していたが、それらは次第に整理され
コーチシナ、カンボジャ、シャム、高砂(台湾)からマカオなどに集中していく。
というのも最初は単調な往復商いであったのが、日本人の拠点となる恒常的
なベースキャンプができ、そこに現地駐在員である手代が常駐するように
なったからだ。
船が帰国すると駐在員は奥地に商品の買い付けに行ったり販促ルートの
拡大に向かう。
あらかじめ生産者に手付金を渡し「先物買い」の約束をしたり、技術指導をし
収穫量を上げる努力をしている。
その結果、多いところで三千人、少なくとも二、三百人の日本人町が東
東南アジア各地に出現していた。
こういう日本商人の活動は、軍艦と大砲で脅かし、砦を築いて植民地化
を図る武力本位のやり方ではなく、じつに平和的に、合理的な経済活動を
行う事で、西ヨーロッパと五分か、それ以上の力関係において圧倒し、有利に
東アジア市場を制圧しつつあった。
これが元和年間の状況であった。
これに国家的な保護育成と奨励をすれば、貿易と商業活動の利益のみならず
豊臣家は東アジア最大かつ最強の絶対君主に成長する事も可能であった。
もし万一徳川家康が勝っていたら、当分は別にしても秀忠、家光の蝦夷地
での施策を見るに付け、(笑うなかれ)日本全体が鎖国令とやらの愚策の
災禍にあったかもしれない。
しかし豊臣家は直轄地が(その米の取れ高が)最盛期の徳川家より
低く、それを蔵入地として各地の大名に委託していた。
貿易の齎す財力を裏づけに火砲の力と軍事力を巨大化していく以外にない。
しかも対南蛮貿易や対明貿易は日本の独占に近くなり、これで得られる
富強は計り知れない。
当時の日本は間違いなく世界一の富裕国であったろう。
豊臣政権は施策として各地に港を開き、その港は豊臣政権の直轄支配地
とし豊臣家の指定した港以外では対外貿易を禁止する事を明確化
豊臣家の許可した朱印貿易船のみを積極的に東アジア各地に送り出した。
これにより諸国の大名が直接貿易を行う意味合いをなくしつつ、各地の良港
に貿易船を積極的に送り出すようにした。
貿易港は全て政権の直轄とし、貿易の集中管理、独占支配を行うのは当然
であった。
勿論全国の主要都市を直轄支配とするの相変わらずだが、商業活動を
活発にし都市が巨大化する中で、諸国の大名は事実上その影響下に
置かれていく。
例えば島津氏は対琉球貿易がドル箱となっていたが、その意味合いが
薄れ明や南蛮との交易が豊臣家のルートに誘引されていく状況の中
琉球の旨みを失い、島津氏は屋台骨が傾いていく事になる。
つまり闘わずして諸侯の弱体化が起きたのだ。
豊臣政権は施策として各地に港を開き、その港は豊臣政権の直轄支配地
とし豊臣家の指定した港以外では対外貿易を禁止する事を明確化
豊臣家の許可した朱印貿易船のみを積極的に東アジア各地に送り出した。
これにより諸国の大名が直接貿易を行う意味合いをなくしつつ、各地の良港
に貿易船を積極的に送り出すようにした。
貿易港は全て政権の直轄とし、貿易の集中管理、独占支配を行うのは当然
であった。
勿論全国の主要都市を直轄支配とするの相変わらずだが、商業活動を
活発にし都市が巨大化する中で、諸国の大名は事実上その影響下に
置かれていく。
例えば島津氏は対琉球貿易がドル箱となっていたが、その意味合いが
薄れ明や南蛮との交易が豊臣家のルートに誘引されていく状況の中
琉球の旨みを失い、島津氏は屋台骨が傾いていく事になる。
つまり闘わずして諸侯の弱体化が起きたのだ。
徳川家康の起こした慶長戦争が日本の海外進出や発展を遅らせて
一時的に西洋諸国に利した事実は疑いない。
しかし何の成果もなかったかと言えばそうでもない。
家康の独断専行は豊臣家の軍制や大老職の有り方を変える契機となった。
即ち「方面軍体制」の原型が登場したのである。
東海道担当=石田三成
北陸担当 =前田利政
南海道担当=小早川秀包
中山道担当=真田昌幸
東山道担当=佐竹義宣
中国路担当=毛利秀元
九州担当 =立花宗茂
奥州担当 =直江兼続
彼等を探題とし各管区の諸侯や在地武士団の統括や仲裁を行わせた。
諸侯は妻子の大阪集住や1年おきの参勤交代が徹底され、城代家老や
土着の武家を諸侯不在の間に取り仕切るものだ。
当初は反発や抵抗があったこの制度であるが、諸侯単位での財政が
度重なる天下普請(街道や河川工事など)と参勤交代での費用の圧迫
で疲弊するにつけ役目は変わり
各地の土着武士団は中堅テクノクラートとして行政を担い、彼等の任免
や転勤を宗主が行うようになっていく。
諸侯が実際に版籍奉還を行い宮廷貴族化するのは豊臣秀頼の孫の代
を待たねばならなかったが。
宗主の管轄する方面軍がそのまま道となり
各地の武士団が城や館単位で地方を治めるのが藩という
こうして道藩制度が確立し汎日本的な国家が具体化する事になった。
地方政治に直接介入していく遣り方は豊臣秀吉が関白太政大臣として
各大名の領内に蔵入地(直轄地)を置き、あるいは重臣に直接官位を授与
したりしていた。
これを大胆かつ大幅に実践したと言えよう。
朱印貿易船に乗った日本商人たちは、ポルトガルやイスパニア、イング
ランド、ネーデルランドなどの西ヨーロッパ諸国と競合・競争しながら
次第に優勢な地位を占めるようになる。
東・東南アジアの貿易はことごとく日本人の独占され、ヨーロッパ人は
その手を借りないと買い付けもできなくなっていた。
日本から持ち込まれた銀と銅銭が東アジア世界での国際通貨となり定着すら
していた。
こうした状況で元和6年オランダがイングランドと連署して豊臣家に
イスパニアの植民地経営を非難する「上申書」を提出
豊臣家が最も懸念していたキリシタン問題に触れた書簡は物議をかもし
真剣に鎖国が検討されかけたぐらいである。
が結局の所、慶長の戦が終り、諸国に溢れた浪人たちを海軍に組織し
南洋日本人町の保護にあてる方針に変わりはなかった。
南洋日本人町には日本の海軍基地が置かれ、朱印貿易船の護衛や町を
警護する。
元和9年の「アンボイナ事件」こそはそういったときに起こった事件であった。
事態を重く見た政権では直ちに艦隊を派遣、アンボイナ砦のみならず各地の
オランダ砦、更にはバタビアの総督府を陥落させ、マレー半島から東に
オランダ砦が一掃されるまで攻勢は続けられた。
この教訓を元に「南洋総督府」が置かれ特別な統括官庁として南洋日本
人町などの陸地の支配を中心とし、豊臣政権とは半ば独立した行政機関
となった。
そしてその支配下に強力な海軍を置いた。
今後貿易ルートが東アジア海からインド洋まで延びることを考慮したもの
であった。
既に台湾では加藤清正が砂糖や鹿革を独占的に長崎に売り、手にした
金と銅をイングランド人に売り、イングランド人はインドでそれを売るという
連係プレーで、東アジア海とインド洋が一体化していくようになっていた。
実に豊臣政権が東アジア世界に進出し、日本と南洋世界、中国大陸
を結ぶ交易網を造るの自然の流れであった。
ピークに達していた朱印貿易船の活躍
南洋日本人町の発展
中国人鄭芝龍・鄭成功父子の親日本感情
シャム。ソンタヤ国王の友好的態度
高いレベルの造船技術、その他の加工技術力
燃え立つ南方進出の国民的エネルギー
それらの自然に成長する力、溢れ出るエネルギーは日本の海外雄飛が
不可避の流れである事を証明していた。
諸侯は軍事力の牙を抜かれヨーロッパの絶対王政下の貴族のように
宮廷官僚化する趨勢にあった日本は「日本版絶対王政」形成の内乱も
静まり世情も安定したころ
秀頼の後を継いだ関白秀国(幼名国松)の元に
急使が届く。鄭芝龍の命を受けた武将、周崔之からの書状で
満州に起こった後金国が北京を占拠したというものだ。
鄭芝龍は福建地方の海賊の大頭目で南シナ海を制圧する軍閥に成り上がり
明も黙視できず彼を海将としていたのだ。
日本では直ちに国内の浪人10万を動員、福建沿岸に大艦隊を集結して
支援する。
国姓爺合戦であった。
この戦争は明を支援するのは名目であり、日本の真意としては少なくとも
福建地方沿岸だけでも日本商圏に取り込む事にあった。
中国南部は北部と違い流通経済が発達していたのも魅力的であった。
鄭芝龍・鄭成功父子の本国福建廈門(アモイ)には「仁・義・礼・智・信」と
名づけた五件の問屋があり、浙江杭州には「木・火・土・金・水」と名づけた
五件の問屋があった。
既にとおく南方の島々と明そして日本をつなぐ三角貿易を独力でつくり
大陸内の絹織物と生糸の産地を全て掌握、ほとんどの唐船をも支配していた。
そして彼は反ネーデルランドであり、非常な日本贔屓でもあった。
彼等との同盟・連携関係は
東アジア海と中国大陸、日本を結ぶ大デルタゾーンを形成する事となる。
貿易事業は飛躍的に拡大していく。
元和年間から寛永年間にかけて、日本の貿易構造は「材料を輸入し
加工品を輸出する」という形に変化しつつあったからだ。
当時の輸出入品目を見ると、東南アジアから衣服の原料となる
糸や織物、獣皮、魚皮のほか香木、薬草などの天然産原料か半製品を
輸入し、
銀と銅銭などの貨幣商品の他、銅、鉄、硫黄などの鉱産物、樟脳、麦粉
などの食料品、そして雑貨や工芸品などど加工品を輸出していたのである。
商品の種類は変わっても、貿易構造は現代と同じ「原料輸入・製品輸出」
型になりつつあった。
こうなると膨大な需要が見込める。
これが日本の近代への萌芽であり、日本から産業革命が起きる要因とも
なった。
まだ日本が広く、日本国内にも開拓開墾の余地があった時代に対外通商
の為は兎も角、蝦夷地、高砂、ルソンにと大規模な入植が敢行されたのは
慶長戦争で敗れた東軍処分の為であった。
がそれ以外キリシタン対策と言う問題を秘めていた。
まだまだ日本での全国統一市場の確立や各地域の殖産興業、産業振興を
進め、又農本経営的な開拓、新田開発、開墾事業を振興する余地もあり
内需拡大を要した時期にあって必要な人手を大勢海外に放出した事は
日本一国としては大きな痛手といえた。
しかし時代は大航海時代であり、さしもの日本もその流れには逆らえはし
なかった。
少し時を遡る・・・
【日本国王】
豊臣家は天皇家を輔弼する関白太政大臣という立場に立ち、古代からの
律令制官位に戦国の武将大名を就任させ朝廷権威を活用して武家の序列に
生かしていた。
つまり従来の武家政治に朝廷権威を密着させていた。
形式的な律令制秩序に戦国武将の序列をさせるというのは画期的なアイデア
ではあったが、やがて時代の要請にそぐわなくなるのは止むを得ない事で
あった。
江戸に置いて関東経営を任されたのは名目的には大老・宇喜多秀家
であった。
とはいえ彼の統治能力、指導に不安があり大阪での豊臣家の補佐という
大命もあった。
蒲生氏郷は徳川家と縁戚であった上、上杉と伊達との不毛な睨み合いに
拘泥し関東侵攻が遅れた。
佐竹義宣は中途半端に家中の親徳川派の動静に足をとられてしまった。
ここで齢8歳となったばかりの御拾(鶴松の弟)を奉じて三成ら奉行が
選んだ官僚団が送られ、家康が徳川家の力だけで遂行してきた江戸建設
を大規模な天下普請として遂行していく。
これは長らく敵地であった関東の民心慰撫と大規模な公共事業により
内需拡大を、そして東国ではまだ未発達な流通経済を整備していくという
様々な目的があった。
慶長10年ようやく元服した鶴松が関白太政大臣に就任。
鶴松は秀利となった。
小早川秀秋は豊臣家に戻り筑前豊臣家、豊臣秀次は尾張名古屋にて
尾張豊臣家、そして江戸に下向した御拾(後の秀頼)は江戸豊臣家として
正式に豊臣御三家の制度が整えられた。
血縁の少なさを補う制度としてこの後長く有効に機能していくこととなる。
江戸での大規模な普請事業そして東海道整備は徳川家にとって領内を
仮想敵である豊臣家に曝け出すに等しい行為であった。
これは徳川への挑発に等しいとする意見も出始めた。
政権内の対徳川強硬派の挑発行為は確かにあった。
その反対に御拾(秀頼)について付家老となった片桐且元に代表される
江戸家臣は徳川同情派が多かったし、亡き豊太閤秀吉の遺言にもあった
家康の初孫千姫と鶴松か御拾に娶らせるという約束は江戸豊臣家の
御拾(秀頼)で果たされた。
江戸城建築には関ヶ原合戦以後は手のひらを返したように西軍に降った
藤堂高虎が普請奉行を務めた。
彼はその後も多くの近世的城砦建築を残している。
関東には徳川寄りの風潮があったのは確かであった。
これが徳川家への対処の甘さに繋がったとも思われる。
そして再編途上の豊臣政権は余りにすべき事がありすぎたのだ。
地方政治など眼が行き届かないことがおおすぎた。
警戒すべき徳川にも杜撰な対応が目立ってきた。
そこを家康につけこまれ彼の勢力拡大を許すようになってしまった。
豊臣家が巨大な経済力を背景にして常備軍を整備して言ったのは
前にも述べたが関ケ原合戦後大量に発生した浪人を職業軍人として
金銭契約で数万の単位で雇用し能力に合致した役職に就け、武断派大名の
空いた穴をふさぐため、新たな豊臣家臣団として軍事集団を形成していった。
浪人を新たな武装集団として再編成するための組織造りと教育に時間が
かかっていた。
まだ徳川と豊臣双方は戦う時ではなかった。
徳川家は関東250万石から相模、伊豆二州10万石にまで激減してしまって
いた。
長男秀康はもとから豊臣びいきであり結城家の家督を継いでいた。
父・家康について好感情を持っておらず、熱心に江戸豊臣家の後見をして
一朝事あったときに協力など仰げない。
忠輝も岳父・伊達政宗や豊臣秀頼との親交が厚く徳川本家の味方を頼む
に足りる相手ではなかった。
このままでは徳川家は解体していくのは時間の問題であった。
家康は自分の寿命を推し量って自分亡き後の徳川の命運に暗澹たる思い
を抱いていた。
慶長13年御拾が元服、豊臣秀頼となり権大納言従三位となる。
そして慶長16年 徳川家康は江戸城を訪ね豊臣秀頼と会見する。
これが家康の最後の謀反への決意を固めたとも言われる。
あわよくば江戸豊臣家の事実上の乗っ取りを考えていたのが
秀頼の思ってもみない成長ぶりと器量そしてやがて自分の後を襲う秀忠の
器量を比べ、寧ろ徳川家の脅威だと認識したと言うのだ。
ついに大阪は徳川の取る行動を激しく非難し事実上の改易を命令した。
これは経済力、軍事力の圧倒的優位を確信しているが故の高圧的態度で
あるとともに、単に徳川氏の封じ込めもしくは殲滅を図るだけでなく、国内
安定の一挙解決を図る狙いがあった。
今までなんとかしのいできた家康も一か八かの賭けにでる事を決意する。
豊臣の侵攻軍を撃破し、その勢いと混乱を利用してもう一度戦国時代を
再来させ、その中での再起を図ろうとしたのだ。
まずは天皇をないがしろにしているので打倒しなければならないと全国に
檄を飛ばし、反豊臣勢力を結集しようとした。
これに、一部の大名達や、豊臣常備軍による徴兵で減少したとはいえ、
国内に残っていた浪人を始め、関ケ原などで敗退し滅ぼされた元大名、
豪族や武士達が多数参集した。また、それまでに徳川家に恩のあった
いくつかの遠方の有力者に、豊臣政権に非協力的であるよう働きかけも
積極的に行われた。
慶長19年冬、江戸に大火災が発生この混乱で足並みの乱れた江戸を攻略
そして箱根前面の富士川攻防戦、つまり徳川側が得意とする野戦で開始。
ここでの戦いに思わぬ敗退を喫した豊臣軍は、この戦いに日和見をした
地方諸侯たちの出遅れなどが原因で進撃が遅れ、またこれを見た諸大名の
中で豊臣政権に恨みのある幾つかが徳川陣営に付き、本拠地小田原には
十万人を越える軍勢が集結する事となった。
更には徳川方による数万の軍勢を用い甲州街道への積極的な侵攻が行われ、
甲州一円が徳川側の手に落ちる事になった。
冬ということで日本海側や奥州の諸侯が動けない事もあり、
その深刻度合いを増していった。
この不測の事態に豊臣政権は、豊臣秀頼が総大将となり諸将の動揺を沈め、
動揺が広がりつつあった全国の諸大名に激を飛ばしさらなる動員を命令
する事で対応
豊臣軍団の主力と西国大名の連合軍は尾張名古屋に参集した。
その30万とも言われる大軍団は日本国内の内戦だったとは言え、
豊臣政権の国力を見せ付ける何よりの証拠だった。
この時代にあって、これだけの大軍、しかも極度に火力装備がなされた
近代的な軍団を編成できる国は世界のどこにも無かった。
この戦力は、当時の全欧州のそれを完全に圧倒するとさえ言われており、
これ以上の軍事力を持つ国は巨大な領土と人口を擁する明帝国しか存在
しなかった。
しかも明は、その巨体と後進性ゆえ軍備の近代化は日本ほど進展して
いなかった。
そして完全な三兵編成(騎兵、砲兵、歩兵)が取られた豊臣軍団の大半が
職業軍人による常備軍だった。
つまり、当時の豊臣軍団は文字通り世界最強の軍隊(陸軍)だと言えるだろう。
圧倒的戦力を東海道と中山道に分けて進軍させ、徳川軍を圧倒的火力
と機動力でねじ伏せると、その勢いのまま関東地方へとなだれ込んだ。
もちろん北国からもそれぞれ数万の大軍が同時侵攻を行っており
海外から召集した大艦隊も海を埋めつくした。
最後の山場となる小田原篭城戦は、太閤の小田原征伐を彷彿とさせ
見た目にも戦国時代が終焉した事を全ての人に感じさせるものがあった。
徳川家康を始めとする一党の最後の詳細は、包囲軍に所属する強大
な砲兵部隊による間断ない砲撃によって炎上する城での切腹や
死に際を求め激しい剣劇を見せた事が伝わっており
軍記物に彩を添え、また様々な文献・絵巻物が時代の節目であった事を
伝えている。
ここで余り目立たないが見るべき所として征夷大将軍に島津豊久が
就いている。
無論幕府なる制度も史上二度と現れない。
この戦いは戦国の終わりであると同時に、幕府という武家政権の終り
でもあったのだ。
そしてその背景には関白を中心とした日本式宮廷儀礼を重んじた平安朝
以来の官位秩序の見直しになっていく。
この戦で公家の一部が徳川優位の戦況に、家康に将軍就任させるという
工作をしていた事実が発覚したのだ。
天皇が豊臣家の要請に関わらず徳川征伐の勅許を出さなかった事実も
あった。
既に朝廷では豊臣家の突出した海外との交誼、独断の多い外交に不快感
を見せていたのだ。
承久の乱・建武親政以来の主上御謀反という声すら上がっていた。
天皇家はローマ教皇のような精神的な権威であり、立場は日本国の
祭祀権に限られるとし象徴としての立場にする。
そのような本来なら不敬に当たる行為を断固として実行できた背景には
豊臣の強大だけでなく、このような天下の静謐に反した利敵行為に走った
事実を挙げておかねばならない。
天皇から関白太政大臣豊臣秀利にあて天下の総覧,大権を譲渡する
所謂『大政禅譲』が行われた。
以降豊臣宗家は「日本国王」の号を宣する事になった。
小田原で最期を遂げたのは徳川家康と松平忠吉であったが、皮肉にも
廃嫡されていた秀忠は命ながらえている。彼と徳川の一党には蝦夷地転封
という処断が降った。
とはいえその後の蝦夷地開拓では徳川家の功績は大であろう。
一旦土地に根を張ったら梃子でも動かない、頑固なまでの土着的な農兵
集団である三河武士は、蝦夷地を開墾し必死に自給自足の生活を送り
後の北海道の礎となる。
>>726とりあえず漏れが用意してた続きはここまででつ。
これ以上は続けるか迷ってます。
749 :
世界@名無史さん:04/05/06 01:09
【大覚醒時代】 ナドハ
“ソ連邦の大崩壊”後のロシアは、依然としてアメリカと並ぶ二大軍事的
超大国ではあるが、経済的には世界の三流国に転落し、その国際的地位
は低下している。
ロシアでは伝統的に西欧志向が強く、モスクワに比重があった。
シベリアは自然人口減退と過疎化に悩まされ続けた。
環太平洋圏の勃興にあわせアメリカや東アジア諸国の資本を導入し
シベリア開発に利用しようと図るが巧くいかない。
既に旧ソ連の中央アジア諸国ではソビエト化の為に政策的に送り込まれた
ロシア人移民は同化して埋没するか、ロシア本土に追い立てられつつあった。
やがてロシアですらタジク人、ウズベク人、カザフ人、その他のムスレム
民族が、支配階級であるロシア人より多くの子供を生んだ。
華人やタタールの出生率がロシア人を圧倒し追い越した。
EUで内部調整に力を取られロシアに期待と不安に満ちた目を注ぐ
欧州との絆は不信と期待の狭間で揺れ、
台頭著しい中国初め東アジア諸国、新たに自信と活力を取り戻した南部
国境沿いのイスラム諸共和国や更に南方のイスラム教国との絆は否応もなく
次第に密接になっていった。
以降、ロシアでは突然の断絶も血なまぐさい革命もなかったし分裂も起きは
しなかった。
モスクワはモスレムと黄河の大海に溺れ、苦笑いしつつ耐えるしかなく
そしてロシアそのものがムスリムやトルキスタンの民族に置き換わっていた。
ロシア人はロシアで少数民族となり埋没し同化混血するか
辛うじて一部がEUへと流れ込んだ。
誰もが気がつかない内にロシアにおける比重と関心はヨーロッパではなく
シベリアやトルキスタンに移ってしまった。
チェチェンの紛争そのものが意味をなくした。ロシアから独立する以前に
ロシア自体が乗っ取られたのだ。
20-21世紀、歴史上の偶然の巡り会わせから巨大な富がアラブ世界の
ものとなり、そしてイスラム教の革新運動が高まりを見せた。
富は地域紛争や貧富の格差、そして諸外国の介入や偏ったイスラム原理
主義思想のテロ行為を誘発もした。
が、それにもかかわらずイスラム教は出生率の高さと改宗により年間
5000万人のペースで増加し、活力を見せていた。
結局、キリスト教や共産主義といった西洋の宗教が衰退に向かっていた
のは顕著であった。
イスラムの新時代ナハドは、ムスレムに間で密やかに幾世紀もの間
予言され語られていたが、それが遂に現実となったとき、そこに働いた
歴史的な力は四つあった。
人口統計、石油、宗教的熱狂。
更に歴史的な偶然が働いた結果宇宙というフロンティアが見出された事。
最初に月そして火星に到着したのはアメリカであった。
だがアメリカは目的意識を見失い、宇宙を放棄した。
2003.9.11事件そしてアフガン、イラクへの相次ぐ介入、
そしてパレスチナ強硬派ハマスへの弾圧姿勢をとるイスラエルへの甘い
ダブルスタンダードの対応、
アメリカの紆余曲折は重力の井戸を突破するようなコストのかかる挑戦に
かける余力はなかったのだ。
火星への最初の有人探査船は、アメリカはテキサスから離陸した。
最初の離陸は悲劇的な空中爆発をとげ、
一部に「アッラーの神が下された罰だ」と叫ばれた。
そして2度目の離陸にはムスリムの乗組員が乗船していた。NASAでは
前回の事故をイスラム原理主義のテロと見て、この選抜をしたのでは?
との憶測も流れたが定かではない。
ともかくも、この二度目の挑戦は成功し、そしてアームストロングの名言と
並ぶ宇宙開発史上の至言を残した。
彼,アブーバクル大佐は、クルーの籤引きで火星に足跡を示す人類最初の
男となり、「ここもまた、アッラーの世界だ」と述べたのだ。
もっともNASAでは「これは最初の足跡だが、最後の足跡ではない」
とのセリフを予定していたのだが、それを語る以前にこの言葉が出たのだ。
このセリフこそそれから訪れるアッラーの世紀の到来を示していた。
最初に月そして火星に到着したのはアメリカであった。
だがアメリカは目的意識を見失い、宇宙を放棄した。
2003.9.11事件そしてアフガン、イラクへの相次ぐ介入、
そしてパレスチナ強硬派ハマスへの弾圧姿勢をとるイスラエルへの甘い
ダブルスタンダードの対応、
アメリカの紆余曲折は重力の井戸を突破するようなコストのかかる挑戦に
かける余力はなかったのだ。
火星への最初の有人探査船は、アメリカはテキサスから離陸した。
最初の離陸は悲劇的な空中爆発をとげ、
一部に「アッラーの神が下された罰だ」と叫ばれた。
そして2度目の離陸にはムスリムの乗組員が乗船していた。NASAでは
前回の事故をイスラム原理主義のテロと見て、この選抜をしたのでは?
との憶測も流れたが定かではない。
ともかくも、この二度目の挑戦は成功し、そしてアームストロングの名言と
並ぶ宇宙開発史上の至言を残した。
彼,アブーバクル大佐は、クルーの籤引きで火星に足跡を示す人類最初の
男となり、「ここもまた、アッラーの世界だ」と述べたのだ。
もっともNASAでは「これは最初の足跡だが、最後の足跡ではない」
とのセリフを予定していたのだが、それを語る以前にこの言葉が出たのだ。
このセリフこそそれから訪れるアッラーの世紀の到来を示していた。
これが低緯度地方に住む石油で豊かになったムスリムによるアメリカと
ヨーロッパの宇宙計画への投資熱となり、ソ連の遺産であったカザフの
バイコヌールでの宇宙計画にも及んだ。
やがて両者を占有したのであった。
そしてアッラーが財布の紐を握り、議事日程を決定させるようになった。
人口統計では、先に述べたとおりロシアは旧ソ連中央アジア諸国に
送り込んだロシア系移民の保護に向うどころではなくなった。
ぐんぐん増加していくロシア国内のモスレム人口を引き留め、モスレムの
宗教指導者をロシアの権力構造の内部に抱え、新たに活力と自信を
取り戻した南部国境沿いの旧ソ連イスラム諸国を懐柔していく他なかった。
イスラムの宇宙への進出は、西側への民間投資と、カザフスタンの
バイコヌール発射施設、日本の技術と投資で建設されたサウジ=イラン
共同発射施設を通しかなりの成果が上がり
一世代のうちに月、火星、、セレスにあった植民地や、木星以遠の宇宙
居住地はほとんどモスレムのものとなり、それから急激に発展し飛躍的な
成果を挙げた。
これが低緯度地方に住む石油で豊かになったムスリムによるアメリカと
ヨーロッパの宇宙計画への投資熱となり、ソ連の遺産であったカザフの
バイコヌールでの宇宙計画にも及んだ。
やがて両者を占有したのであった。
そしてアッラーが財布の紐を握り、議事日程を決定させるようになった。
人口統計では、先に述べたとおりロシアは旧ソ連中央アジア諸国に
送り込んだロシア系移民の保護に向うどころではなくなった。
ぐんぐん増加していくロシア国内のモスレム人口を引き留め、モスレムの
宗教指導者をロシアの権力構造の内部に抱え、新たに活力と自信を
取り戻した南部国境沿いの旧ソ連イスラム諸国を懐柔していく他なかった。
イスラムの宇宙への進出は、西側への民間投資と、カザフスタンの
バイコヌール発射施設、日本の技術と投資で建設されたサウジ=イラン
共同発射施設を通しかなりの成果が上がり
一世代のうちに月、火星、、セレスにあった植民地や、木星以遠の宇宙
居住地はほとんどモスレムのものとなり、それから急激に発展し飛躍的な
成果を挙げた。
地球上では人口統計の威力は遺憾なく発揮されていた。
徐々にある民族が別の民族に置き換わっていく。
これはロシアだけではない。イスラエルでも生じた。ただ単純にアラブ民族
の出生率が高かったのだ。
アラブ民族やパレスチナの民は、彼等の煽動的指導者が凄んだ様な
全面的聖戦に訴える必要はなかった。
イスラエルは妥当される事もなかった。ただ単純に、そしていつのまにか
イスラエル国民の多数派はパレスチナやアラブ民族にムスレムになって
いたのだ。
人口増加の波は、北へ、東へ着々と広がっていった。
西洋諸国はモスレムの足掛りが、昔からどの程度の範囲に広がっている
のか気がつくのか遅すぎた。
アルバニアには20世紀には人口の70%がムスレムであったがこれは
遠い昔のイスラムの侵略の遺産であり、これは他のバルカン諸国も少な
からずムスレム人口を抱えていた。
マホメットの帝国は西暦1683年にウィーンの城壁で阻止された。
がかつて武力によるイスラムの膨張で成し遂げられなかった、
それは今回の平和的浸透の前に成し遂げられた。
ドイツ、フランス、オランダその他の諸国は、それぞれかつての植民地から
“短期労働者ゲストワーカー”を輸入する習慣を持っていたが、
これら諸国に出稼ぎに出たゲストワーカーたちは、工夫を凝らして、その国
に居座る方法を編み出し、故郷から家族を呼び寄せた。
例えば1990年の時点でオランダの人口の10%は、すでにモスレムであり
インドネシア人、スリナム人、トルコ人、モロッコ人、そしてパキスタン人だった。
一旦彼等が労働組合を、風変わりな制度で牛耳るようになると、
彼等は更に、ゲストワーカーとその家族を呼び寄せた。
フランスで言えば、フランス国民はアルジェリア人を同化できなかった。
逆にフランスそのものがアルジェリアに吸収されてしまった。
イタリアはチュニジアとリビアを経由して、シシリーにも戻り、そこを拠点に
ブーツの形をしたイタリア全土に足掛りを作った。
スペインとポルトガルもまた、かつてコルドバ教主国であったように
ムーア人の国となった。
ドイツではトルコ人が幅を利かせ「ひさしを貸して母屋を取られる」の故事
を思い起こさせるようになった。
イギリスでは人口統計に加え俗物根性がちょっとした貢献をした。
既にイギリスはムスレムとは限らないがインド系が大きな割合を占めつつ
あった。