春秋戦国時代スレッド

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1白起
需要があるかどうかわからないけど、
中国春秋戦国時代について語りましょう。

2杜預(註):2001/01/04(木) 06:00
とりあえず左氏伝を読め!!
3晏嬰:2001/01/08(月) 09:00
絶対どっかにこういうスレがあると思ったけど
案の定、上がってないねぇ(藁

秦の始皇帝に統一されて以来、中華から中国として一つにまとまった感がある
から、なんか間口が狭くなった気がするね。
ちなみにオレは、春秋中期が好き。晋と楚が覇権を争ってる時代な。
あの時代は名宰相の時代で、子産、叔向&趙武、晏嬰とかすんげー好きなんだけど。
春秋戦国時代(もしくは三国時代以外)でイチオシの人っていますか?

けど、スレ違いとか言われたりレス付かなかったりして下がるんだろうなぁ。
4蘇秦:2001/01/09(火) 13:48
皆さん。
手を取り合って上げてみましょう。
ていうか、三国志関係ないような・・・
5呉王フッサール:2001/01/09(火) 13:59
  ,,,,,,,,,,,,,,,∧,,∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜′,,,,,,,,,,ミ,,゚Д゚彡<  高専ぶっ殺すぞゴルァ!
 UU"""" U U    \_____________
6孟嘗君:2001/01/10(水) 01:11
何を言うか。この春秋戦国時代こそが、中華の文化の基本だろうが?
中華の文化はここで花開いたといっても過言じゃないと思うぞ。
様々な価値観や思想家がたって、世界に誇る文明にとなったではないか。
劉玄徳が諸葛孔明に行った三顧の礼の原型は、商王朝の太祖湯王が
伊尹を登用した時だし。

ていうか、商王朝と夏王朝の革命の時代って言うと春秋戦国のもっと前の時代じゃん。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:22
>>6
中華の文化の基本を語る板じゃねえんだよ、ここは。
おとなしく沈んでろ。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:32
>>7
まぁ、三国志好きなら三国志だけにとどまらないで、
他の時代にも目を向けるのも良いんじゃない?

関羽が愛読した春秋左氏伝って何?
曹操が注釈つけた孫子って誰が書いたの?
諸葛亮が憧れた管仲や楽毅って誰?

とか疑問が湧くなら、そこから三国志に匹敵する(それ以上の)
「中国史」の楽しさを発見できると思うけどねぇ。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:47
>>8
ムムム、そうか。それはそうかもしれん。
そういうことなら、俺的には30件ほどsageで語ってもらってから、
たまに浮上してもらいたい。
熱くなってすまなかった。
10死して屍拾う者名無し:2001/01/10(水) 02:04
それではひとつ、ネタを振ってみましょうか。
「春秋戦国時代でいちばん好きな人物、あるいはエピソードは?」
私は君主なら鄭荘公、文人なら晏子、武人なら楽穀というところですね。
好きなエピソードは、たくさんあるけど・・・あえて言うなら『完璧』の話ですかね。
11王玄策:2001/01/10(水) 02:27
春秋戦国じゃなくて悪いが、俺が三国志以外の中国史を知りたいと思ったのが
この人、王玄策。

王玄策は、唐代(遣唐使の唐ね)の人だが、この人はインドのマガダ国の王様を
訪問したのだけど、その王は既に死去していてアルジュナという奴が
王位を簒奪していて、王玄策はアルジュナに捕まってマガダ国の牢獄に投獄されてしまう。
しかし、奇跡的にマガダ国から脱出した。
王玄策は、そのまま唐に帰らないで、ネパール王国まで行きネパール騎兵7000騎を率いて
マガダ国の象部隊を含む3万との決死の戦いをガンジス川で繰り広げる。

異国の地で、異国の兵を率いてしかも自分より大軍の兵を相手に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
王玄策は戦いを勝ち抜きマガダ国に平和を回復させた。
これは、中国史だけでなく、インド史にも残された信じがたい史実です。
この話を聞いたとき、こんなスッゲー漢(おとこ)がいたのかと驚いた。
三国志以外にも面白い「中国史」は存在すると思う。

どうです?>>9
12名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 02:40
>>10
出来れば、その人がどんな人かってのを紹介してくれるとありがたい。
楽毅、晏子は知ってるけど、荘公についてはあんまり知らないなぁ。
たしか、「周王が天下を主催する王朝時代」から、
「各国の覇者が周王に代わり天下を仕切る」春秋初期の特色である
覇者の時代の先駆者だよね。
どんなエピソードがあるか聞きたいなぁ。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 04:41
確か鄭の荘公って足から先に生まれてきたから「逆子」の意味の「寤生」ってい
う名前を付けられたんだよね。
うろ覚えッス。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 10:24
どうでもいいけど、>>5のフッサールは可愛いじゃないか。
夫差と掛けているあたりも好ポイントだ。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 00:25
16名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 00:56
春秋時代といえば管仲をおいて語れないだろう

管仲は中国史を代表する天下最高の名宰相で
その才能は司法・行政・軍事・外交オールジャンルに完璧と言って良く
「利益は人民に、次に国家が取る」の政治の理念で政治を行い
塩業・農業・商業を興しての産業推進・富国強兵を行い、
法治国家の先駆けともいえる法の制定など、数え上げるとキリがない。
戦っても中原諸国を瞬く間に屠り、当時の斉の軍は最強とまで言われた。
武を振りかざすだけでなく、外交を持って他国を懐柔してついに
斉の国は覇者の国として認定される。
孔明が憧れるのも当然だねぇ。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 01:06
子産も忘れて欲しくない。 左氏伝を読んでいると、春秋期きっての政治家に思える。
鄭と斉の差を考えると、実力は管仲に勝るとも劣らないのでは。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 00:19
>>17
子産は、政治家・外交官としてはすっげーと思う。
あと、礼の本義を体現した人でもあるよね。
ただ、戦功がないよね…

子産の言った、火の政治、水の政治は今の政治かどもがたまに引用するね。
水のような寛容な政治は、慣れ易いのでが溺れる者が多く過失が多い。
火のような厳格な政治は、始めから人が近づかないから過失が少ない。
ってやつ。

子産の死後、鄭の執政を継いだ子大叔は、水のような寛容な政治を行ったけど
盗賊がはびこり、鄭は乱れた。
で、盗賊を攻め滅ぼし火のような苛烈な政治を行った結果、鄭は平穏になった。

一流の政治家なら水の扱いを誤らないが、二流の政治家は、水の扱いを間違えるので
火のような政治の方が良いって意味だったと思う。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 01:14
>>18
子産は軍事も天才的だって聞いたことがあるよ。
ただ鄭が小国だからそんなに目立たなかっただろうけど。
子産ははじめて成文法を作りもしたね。

個人的には士会を推したいけどなにしろ宰相やってた期間が短い
からあんまり活躍してない…
20無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 08:01
>>19
けど、活躍の内容が濃いね。楚の荘王を敗退させたのは士会一人だけだし
イザコザで晋から秦に亡命したんだけど、秦で活躍しすぎて趙盾に連れて帰られるし(笑)
晋の国の法のプロトタイプを創ったのも士会だし。
晋の歴史上、士会こそが最高の宰相だと思うけどなぁ。
晋の歴史上ではね。
2119:2001/01/13(土) 04:01
>>20
そうそう。「晋は冬は雪で出てこれない」と楚が思ってたのを逆手に取ったやつね。
[必β]の戦いでも士会の率いる上軍は一兵も失わず引いたっていうし。
士会の兵術は春秋前期最高だと思う。
ちょっと引退が早かったのが惜しまれるね。
まぁそういう進退のあざやかさも含めて好きなんだけど。

他の国の宰相はどうかな。
楚って孫叔敖くらいしか思いつかない。
オススメの人物がいたら教えてください。
22無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 12:16
>>21
楚って国体が古いから、貴族以外が令尹になるって事が少ないんだよなぁ。
しかも、武一辺倒で傲慢な人が多いよねぇ。
そういう楚の令尹の中で、子文(闘穀於菟)は文武ともに優れた良い令尹
だったと思う。
楚の成王(荘王の祖父、三舎の恩で有名ね)に令尹に命じられるや、次々と明確な政策を実施。
その政策の結果、軍事力・民力は飛躍的に上がった。
政策の内容は知らないんだけど、成王の時に楚の国力が「方千里」と
言われるほどになったのは子文のおかげ。(それを容れた成王の英邁さってのもあるが)
その後、南方の勇として中原に進出して当時覇者だった斉と向き合うことになる。
しかし、斉の桓公・名相管仲を相手にするのはさすがに子文も大変だった
らしく、一歩退いた和平を締結する。(ここが偉いところ)
そして、管仲・桓公の死後、桓公の後に覇者になった宋の襄公を
泓水の戦い(ここで宋襄の仁の言葉が生まれた)で屠り、楚の覇権確立を狙い始る。
また、令尹引退後は後進を育て、成王を影から支えた。
2319:2001/01/13(土) 21:50
>>22
子文についてはあまり知らなかったよ。
子玉を推挙したのは子文だったっけ?
「子」がつく人が多すぎてごっちゃになってしまう。
楚の成王もなかなかの豪傑王だったと思う。
商臣を廃嫡しなければ終わりがよかったかもしれない。
廃嫡するとろくなことが起きないね。
ぱっと思いつくところでも趙の武霊王は沙丘の乱で餓死しちゃってるし。

宋の襄公は覇王と呼ぶには実力不足な感じがする。
この辺は人によって評価が分かれるところだと思う。
宋の襄公は孟子サマの推挙があったからこそ今でも残ってるような印象がある。
そもそも春秋の五覇の「五」って陰陽五行説からきてるらしいから、現代人からす
れば覇者が五人でなきゃならない必要性はないように思える。
あくまで私見だけど。

秦も楚と似ていて君主の権力が絶大だからあまり臣下が力を発揮しにくかった
ような気がする。
有名どころだと外国出身の客卿が多いね。
百里奚から始まり商鞅、范雎などかな。
李斯は名臣というより能吏ってイメージが強い。
24無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 22:58
外国出身の客卿を積極的に登用したからこそ、秦は天下を取ったね。
楚は、逆にそれを出来なかったから、天下を取れなかったんだよね。
まぁ、楚材晋用って言葉がある位だからねぇ。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 23:36
楚から晋に亡命した人というと苗賁皇とか巫臣とかが有名だね。
巫臣の、楚の隣国の呉を強くして楚を攻めさせて復讐するっていう計画の遠
大さには驚いた。
エン陵の戦いでは楚から晋に亡命した苗賁皇と晋から楚に亡命した伯州犂が
ともに軍師として戦っているところが面白い。
そういえば楚の荘王のときには申叔時、伍挙、巫臣など名臣がそろってる。
まさに楚の時代だったと思う。
26無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 00:11
巫臣って言うと、夏姫をカミさんにした人だよね。
で、その夏姫の娘をカミさんにした叔向が個人的には好きだなぁ。
斉の晏子との自分の国のグチの言い合いが笑えた。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 00:58
夏姫っていうのは実際どんなだったんだろう。
50超えても人を魅了するってのがすごい。
叔向が活躍した時代はまさに名臣、賢臣の時代だったと思う。
春秋を代表する賢人のぐちのやり取りってこうなのかって感じでなかなか
興味深かった。
28名無しさん@お腹いっぱい:2001/01/14(日) 01:53
巫臣が使命を放棄して晋に亡命したせいで斉と楚が連携できなくなって、
それで斉が鞍の戦いに負けてしまったからどうも巫臣は好きになれん。
29無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 13:47
>>27
確かに、名臣賢臣の時代だったね。
子皮、子産、叔向、趙武、韓起、晏嬰、向戎、季札…
春秋時代ではこの時代が一番好きだねぇ。
けど、裏では醜い権門の争いが繰り広げられていたのがとても残念だ。
ま、それだからこそ、上に挙げた人間たちの清廉さが引き立ったわけだが。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 20:54
>>29
挙げてある人の中で向戌(「戎」じゃなくて「戌」だったような…オレの間違い?)
っていうのはよく知らないな。
確か宋の人だよね?
右師にはなったのかな。
どんな人なのかよかったら教えてください。
3129:2001/01/14(日) 23:41
向戌は、2回目の晋楚の会盟を実現させた人だったと思います。
1回目の晋楚の会盟が、同じく宋の右師だった華元だと思うと、宋の宿命なのかも(笑)
3230:2001/01/15(月) 04:33
>>31
どうもありがとう。
その時の晋の宰相が趙武で楚の令尹が子木、かな。
てっきりこれは趙武の偉業だと思ってた。
33無名武将@お腹せっぷく:2001/01/16(火) 00:36
そういえば、今日は宮城谷昌光氏の「沙中の回廊」の発売日だ…
晋の文公の死後の話(先軫・士会などが活躍)らしいから、スッゲー楽しみだ。
宮城谷氏が春秋前期を扱うのは「沙中の回廊」で最後になるそうだ。
個人的には「奇貨居くべし」の続きが早く読みたい。
あまりに間があくと話の流れを忘れてしまいそう。
3533:2001/01/16(火) 23:59
>>34
「奇貨居くべし」マジ早く完結して、本を刊行して欲しいね。
5年位前に長編と知らず春風編を1冊だけ買って以来、ずっと読んでねぇっす。
よく悪役として描かれる呂不韋を氏の筆が、どのような像に書き上げるか楽しみです。

そういえば、沙中の回廊さっそくかったよん。
士会より、先軫や重耳の像が鮮やかで、脇役の方が立つという宮城谷節が随所に光ってます(藁
介子推もワンポイントでいい所もって行くし。
3634:2001/01/17(水) 02:10
先程asahi.comで「沙中の回廊」を1章分だけ拝読した。
宮城谷氏の作品のなかで士会と介子推が戦うのはこれで2度目だ。
お互い気がつかなかったのだろうか。
ま、あんまり本筋には関係ないのでどうでもいいことだが。
それにしても横書きだとちょっと読みにくい…

自分で書いてて思ったのだが春秋前期ってどのあたりなんだろう?
春秋と戦国の分かれ目もよくわからん。
晋が韓、魏、趙に分かれるところでいいのだろうか。
確か2、3個説があったはずだが。
3733改め叔向:2001/01/18(木) 00:32
>>36
34さん、士会と介子推が戦うのが二度目って…
沙中の回廊の冒頭には、はっきりと書いてあったけど
もう一つが記憶にないなぁ…
「介子推」の作中にはそれらしき記述が載ってましたけど、
士会の名が明記されてませんでした。43さんはそれを指してるのかな?

戦国時代についてですが、知伯(瑶)の死から戦国時代にするか
晋が完全に割れてから戦国時代とするかで意見が分かれたような…
知伯の死がBC450年ごろで、晋が三つに分裂するのがBC400年ごろだったと思いますが…
ま、アンマ気にしないので別にどっちでも良いのですが(藁
3834:2001/01/18(木) 02:07
>>37
「介子推」にも士会の名は出ています。
単行本と文庫本では記述が違うのかな。
文庫本には書いてありました。

知瑶の死からというのもあるのですか。なるほど。
知瑶は大鐘作って狄を滅ぼしたり晋陽を水攻めしたり、戦術が斬新でその頃の話
は結構好きです。
39無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 02:39
戦国四君の話が好きだ
40叔向:2001/01/19(金) 01:55
>>38
知瑶は、中国史上初めて水攻めを行った将らしいですね。
戦術家としては天才だったかも知れませんが、傲慢な性格が災いしましたね…
晋陽の戦いで趙無恤に敗れた後、頭蓋骨を杯にされたらしいです。
いかに趙無恤に憎まれていたか分かりますねぇ。

>>39
戦国四君と言えば、個人的には信陵君が一番魅力的ですかね。
あの時代、最強だった秦軍を二度破ってますからねぇ。
ただ、晩年が不遇だったのが残念でしたね。
41白起:2001/01/19(金) 20:34
戦国四君ではスケール的には孟嘗君田文がすごいですね。
函谷関を破って秦を屈服させたかと思えば、自分の出身国の斉の国王を
外国連合軍の力を借りて放逐したり、国家に対する忠誠心なんてかけらも
持ってない侠気の人。儒教が浸透した後の中国では到底許容され得ない
人物だけど、逆にこういう人物を輩出したダイナミズムがこの戦国期
のいいとこですね。
42叔向:2001/01/19(金) 22:38
>白起さん
孟嘗君って、斉の国王(緡王ですかね?)を追放しましたっけ?
勉強不足なもんで、よく知りません。
斉の緡王追われて、魏の宰相となって秦を牽制してたのは知ってましたが…
5カ国連合を率いて緡王を追放した人は燕の名将・楽毅だったと思いますが?
ただ、宮城谷氏の小説では裏で孟嘗君が糸をひいていた…
みたいな物語が展開してますね。

そういえば、斉を攻めた5ヶ国連合軍の秦将に白起もいましたね。
秦が誇る最強の武将ですが、楽毅と戦ったらどっちが強かったですかね?
個人的には、戦国期の最強の将と言えば呉起・楽毅のどちらかと思うんですが…
43無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 00:58
墨子がある意味最強だと思う。
44無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 02:47
>42
私は最強の将、というと白起だと思います。 ただ個人的には呉起・楽毅が戦略家な
のに比べ彼は生粋の戦術家というような違いを感じるので、一概には比べられない
とは思いますが。

ちなみにここの皆さん、宋についてはどう思いますか? 史記とかの印象だと七雄外
では一段上の強国で、雄に数えられてもおかしくないような気がするのですが。
45叔向:2001/01/20(土) 07:25
>>44
確かに、将という点では白起かも知れませんね。
楽毅、呉起は名将というよりも名相というべきかも知れません。

宋と言う国は、商王朝の遺民の国ですからね。
他の国とは別格だと思います。
そして、礼を知り君主の神聖を汚せなかったという国体が戦国時代で
1雄として成り立てなかった原因だと思いますが…

三晋(趙魏韓)、斉は君主を虐して立ってますし…
君主の神聖を汚せなかったと言う点では楚がそうですが、南の剄悍な兵と
優秀な鉄器、地の利(南に土地が伸ばせる)がありましたし…(それでも戦国期はいまいちだった)
秦に関してはいうに及ばず、
燕に関してはあんま知りません…北辺だったからかなぁ…

ただ、礼と文化を誇って春秋期の大国だった鄭と魯も戦国期では滅んじゃってますしね。
やはり、下克上というもの自体が国と合わなかったのではないでしょうか?
地の利も悪そうでしたし…
宋・鄭は秦・楚の強国に挟まれてましたし、魯は斉とずっと争ってますしね。
46白起:2001/01/20(土) 18:32
>>42
直接手を下したのは楽毅なんですが、封国のセツに帰還するため、
孟嘗君は斉に対抗する合従の成立に腐心した、という記事を
どこかの文献で読んだんですが、それがちょっと頭に
残っていたので、誤解を生じるような言い方になってしまいましたね。
宮城谷氏の小説は読んだことがありませんが、
裏で糸を引いていた、というのはその通りだと思います。
47無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 20:43
宋となると、どうしても襄公がまっさきに頭に浮かびますなあ。
斉のお家騒動を収拾したあたりまでは良かったのに・・・
あとは「桀宋」こと宋王偃ですか。
どっちにしてもあんまりいいイメージはなかったり。

それでも、同じ遺民国の杞よりは良いかも。
4844:2001/01/21(日) 00:44
う〜ん、そんなもんなんですかね。 対秦連合軍にも参加した事があった筈だし、康
王が魏・楚から地を奪ったりもしてるんで、韓ぐらいの力はあったんではないかと
思うんですが・・・
実際七雄といっても、時期にもよりますが本当に大国と呼べるのは秦・斉・趙・楚
ぐらいという気がするので、これらで四雄というか宋を加えて八雄と言った方がい
いのでは、と思っているもので。
49叔向:2001/01/21(日) 04:14
>>48
戦国期の宋については、桀宋の話くらいしか知らなかったのですが、
44さんの意見からすると、結構がんばってたんですねぇ。
そういえば、宋の最後って知らないんですけど
どこにどうやって滅ぼされたんでしょう…

5044:2001/01/21(日) 18:14
>叔向氏
B.C286年に、魏・楚と組んだ斉の緡王に滅ぼされた筈です。
確か「 史記 」あたりに、「 魏・楚から地を奪う事300里 」とかいう記述があっ
たので、両国から恨みを買ってたんでしょうねえ・・・
三カ国に叩かれ、康王も( 場所は忘れましたが )どこかに逃亡してその地は分けとら
れた、という感じの滅亡だったかと。
51無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 20:42
>>50
康王というのは宋王偃のことでしょうか?
宋王偃なら魏に亡命して魏邑の温で亡くなっています。
見当違いだったらごめんなさい。

戦国七雄に宋が入らなかったのはただ単に他の国に比べて早く滅ぼされてし
まったからだ、というのはだめでしょうか。
他の国は大体B.C.220年代に滅ぼされていますし。
これは私の推測なので間違っている可能性大です。
そもそも「戦国七雄」ってだれがどうやって決めたんでしょう?

>>43
墨者と孫子の兵法を修めた武将の戦いっていうのは想像すると楽しそうです。
「孫子」は「下兵は城を攻む」っといっていますし。
守城に関しては墨子が最強だと思っています。
個人的に墨子の兵法にはとても興味があります。
地聴などの対穴攻戦術には感動した記憶があります。
当時にして軍用犬の概念も持ってたらしいです。スゴイ…
秦は墨者結びついたため天下統一が早まったんだと思っています。
ただ資料が多く散逸しているのが残念。
墨子自体もよくわかってないみたいですし。

余談ですが、今日のセンター試験の「国語T」に晋の文公の話が出ていたそう
ですよ。
52叔向:2001/01/22(月) 00:25
>>50
44さん、ありがとうございます。
私も調べてみたのですが、康王は宋王偃のようですね。
ついでに言うなら、鄒や魯も攻められて緡王の臣下になってますね。

>>51
七雄の由来と言うか、何でそういわれてるかを調べてみたんですが、
BC300辺りに、楚・韓・趙・魏・燕・斉が連合して秦を攻めてますね。
たぶん、それが七雄とよばれる一つの原因ではないのかと思います。
それを考慮に入れるなら、蘇秦が宋を合従の連合に入れなかったから、
宋は一雄となれなかったんですね(笑
44さん、蘇秦に文句をいいましょう(ヲイ

墨子と孫子の攻防…考えただけで楽しいですね。
さすがに城攻めは下策として、孫子側が外交なりで手を打って
その城を無力化したりしそうですねぇ。
けど逆に、城攻めになると墨子側の勝利…でしょうね。
ただ、墨子は守った城を落とされたことがありませんが、
弟子は落とされてますね。

だけど墨子の思想っていうのは、兼愛で兵法とかは本筋から離れるので
兵法を主とした孫子との比較はチョット筋違いですかねぇ?
5351:2001/01/22(月) 01:36
>>52
そうですね、兵家と墨家をまとめて兵法で語るのはちょっと無理でしたね。
思想とか抜きにして純粋に武将として戦うの想像するのも楽しいかな、と
思いまして。

墨子の思想は兼愛だけではなく「非攻」というのもあります。

人を一人殺したら不義であるのに戦争で多くの人を殺し、それを不義としな
いのは矛盾である。
また戦争によって領土を拡大したから戦争には利益があるという主張は、戦
争によって国土を失い不利益を受けた国が数多くあることを無視した議論で、
間違いである。

という理由からおこったものです。
墨子は侵略のための戦争を否定しましたが他からの攻撃を受けた場合には自
衛のための戦争に立ち上がることもやむをえないとしました。
墨子の非攻説は一切の戦争を否定したものではありません。
ちなみに兼愛説は非攻の論の論拠となっています。

後々には墨者は傭兵として重宝されました。
非攻が口先だけで終わってはどうにもならないので墨子の教団は戦闘任務を
遂行する部門が一番重要視していたようです。
ですから私は墨者というのは兵法家の側面もあるように思います。

――蛇足――――
「墨子」の後半部には城攻めの常識的な方法に対する反撃についてまとめら
れている。
けれどこれらの多くが散逸している。
また、この部分は「墨子」本来のものではなく、後の兵法家が挿入したもの
だと疑った者も多い。
――――――――

以上、知っていることをつらつらと書いてみましたが間違ってるかもしれません。
(というか絶対どこか間違ってると思う)
違ってるところがあったら教えてください。
長文乱筆失礼いたしました。
54叔向:2001/01/22(月) 08:47
>>53
墨子について詳解ありがとうございます。
墨子については、殆ど無知だったのでありがたいです。
墨子の教団は戦闘任務を遂行する部門を一番重要視していたという
のに少し驚きました。
で、一つ確認にしておきたいのですが、墨者の集団が用兵として
雇われていたというのは、守兵としてですよね?
いや、そうでないと非攻に反しますし(笑
5551:2001/01/22(月) 19:50
>>54
そうです。
守るどころか逆に攻め込んでいってしまってはなにもなりません(笑)
傭兵、といっても彼らはほとんど無報酬でやっていたようです。
56白起:2001/01/22(月) 22:32
>>51
多分陰陽五行思想で三・五・七が重要な数字なんで
切りのいいところで「七」雄になったんじゃないかと思います。
八雄なら宋も入ってたかも(笑)九雄なら魯も追加。

ちなみに、戦国で一番最後に滅んだのは小国の衛で、
陳勝・呉広が挙兵したのと同年です。

>>55
すごいですよね、自らの思想を貫徹するために
見返りなしで自分の命を危険に晒すわけですから。
栄達を求める人間には墨家は全く向いてないだろう・・・
戦国以降、墨家が衰退したのは、どうもそこらへんに
原因があるらしいです。

あと、私的には墨家については技術者集団という
イメージが強いのですが、非攻や兼愛の
思想との結びつきがよくわからない・・・
誰か詳しい方、教えてください。
5744:2001/01/22(月) 22:52
>51氏
康王の方が好きなのでこっちを使ってましたが、勿論宋王偃の事です。亡命先の件は
ありがとうございました、思い出せなかったもので。
確か宋の遺民によって贈られた号なので、正式扱いされてないのかも知れませんが。

>叔向氏
わかりました、蘇秦を恨みましょう(笑
どうも中国史では五覇や十六国の様に実質外で決められているものも多いので、今更
文句をつけてもしょうがないんでしょうが・・・
でも、御二人には感謝します。 ちょっと他の方の意見を聞いてみたかったもので。

そういえば、「 墨攻 」とかいう題名の結構面白い小説を昔読んだ事があります。
墨家の方が城を守るお話だったと思いますが。
5851:2001/01/23(火) 00:07
>>12
>>10さんではありませんが鄭の荘公についての話を1つ。

祖父は桓公(友)で、この人は西周を滅ぼされたときの王である幽王の父
宣王の弟にあたる。
つまり幽王の叔父。
桓公の子の武公(掘突)が申公の娘の武姜との間にもうけた子が荘公。
名前は>>13さんがいってるように「寤生」。
逆子であることと容姿があまり優れなかったことから母の武姜にたいそう
憎まれた。(この心理が私にはちょっとわかりにくい…)
そのかわりに次の年に生まれた次男「段」を溺愛する。
そのため武姜は荘公を廃して公子段を君主の座につけたいと思っていた。

鄭荘公22年(B.C.722)、東周の卿士(朝政の補佐をする人)に任じられて
いた荘公は洛陽に参勤する、という情報を流した。
この情報は罠であったが、武姜はこれを信じて公子段に謀反を起こすよう
密書を送る。
この密書が荘公側の手に渡り謀反が発覚してしまう。
そのため謀反は失敗、公子段は自殺する。
この時母に殺されそうになった自分を嘆いて荘公は
「黄泉に至らずんば相見えず」
と死ぬまで武姜に会わないことを天地に誓う。
そして武姜を幽閉する。

2年余りが経ってから、武姜は人を介して荘公に自分を赦免してくれるよう
嘆願する。
荘公は自分が死ぬまで武姜に会わない、と誓ってしまったことを悔いる。
そこで大夫祭足が実際に黄泉で会えばいい、と進言する。
つまり地面に穴を掘れば黄色い水の沸く泉に突き当たるからそこで会えばよ
い、というのである。
かくして荘公と武姜は「黄泉」で「相見える」こととなった。

なんだか「渇しても盗泉の水を飲まず」っていう話を思い出しますね。
5951:2001/01/23(火) 00:25
>>56
結びつきについてはどうなんでしょう。
私も>>53に書いたことくらいしかわかりません。
ただ墨子とその後の時代の墨子集団の思想は若干違うような気
がします。

ところで蘇秦というのは何者なんでしょうか。
本を読んでいると実在しなかったと書いてあったり、「蘇子」
とだけ書いてあって三兄弟のほうか単独で出てくるほうかわけ
わからなくなってしまったり、で混乱してしまいます。

>>57
宋王偃が「康王」ともいうことは知りませんでした。
勉強になります。どうもありがとうございました。
私も「墨攻」を読んだことがあります。
確か漫画にもなっているんですよね。
漫画のほうは読んだことがないので今度攻城戦のイメージの
参考のために読んでみようかなと思っています。
60白起:2001/01/23(火) 22:55
>>58
「黄泉相見」の逸話ですね。この頓知(というか茶番というか)
を考え出した穎考叔を主人公とした話が「東周英雄伝」
という漫画の中にも出てました。
蛇足ですが、「東周英雄伝」には墨子の話も出てきます
(魯迅の「非攻」が原作かな?)水墨画と漫画絵を融合したような
絵がめちゃカッコよくてお奨めです。

>>59
蘇秦といえば、合従策の首魁で一時は6カ国の宰相を兼任する、
というとんでもないことをしでかした人ですね。
その割りに同じ縦横家の張儀に比べて陰が薄いような気がする・・・

実際、蘇秦の事跡は時間的空間的に矛盾するところが多いため
実は存在していなかったのでは、とする説もあるそうです。
史記蘇秦伝では蘇秦・蘇代・蘇獅フ順番の兄弟も戦国策
では蘇代・蘇氏E蘇秦の順のようにとれるような話もありますし。
蘇秦と同時期に合従策の成立に奔走した縦横家の事跡を
全て合従策の代表者である蘇秦の事跡としてしまったために
混乱が生じた、とする説が一番説得力があるようです。
6144:2001/01/23(火) 23:40
>白起氏
「 東周英雄伝 」ですか、いいですね。私も好きでした。確か3巻まででしたでしょ
うか? 私は特に「 貪財将軍 」が印象に残ってます。

しかしよく縦横家というと蘇秦・張儀と並び称されていますが、実在云々はともかく、
蘇秦( ないしはその一党 )の方がはるかに縦横家らしいような気がしませんか?
私のイメージだとどうも張儀(=虎の威を借る狐 )で、その論も結局の所脅迫に色
をつけただけのもので、合従家に比べると楽な仕事してる様に感じるのですが。

>51氏
こちらこそ亡命先を教えて頂いて感謝です。 しかし私は漫画版の「 墨攻 」は知り
ませんでした。原作に忠実なものなのでしょうか? ちょっと興味あります。
62無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:18
>>61
確かに、張儀はペテン紛いな(っつーかペテン)外交の数々を繰り広げてますが
アレだけ人に恨まれるような事をしながら、しっかりと人生を謳歌(?)したのが
凄いなぁと思います。
しかし、蘇秦ではなく屈原と比較しながら張儀を見てみると、
意外に張儀のアジが出ていいかなぁと思います。
ただし、屈原の人柄の方に惚れてしまいますが…
6351:2001/01/24(水) 02:24
>>60
穎考叔という人物についてはこの話に出てくることしか知らなかったです。
話の主人公になるくらいだから他にも活躍をしていたのでしょうか。

>>61
漫画版は小学館から出ているようです。
さっき少し調べてみたのですが原作を読んでから読むと面白いそうです。
6410:2001/01/24(水) 05:14
おっと、51さん鄭荘公の解説有難うございます(笑)いつか書こうと思ってたん
ですが、時宜を逸しておりましたよ。

で、穎考叔ですが、BC713年、兵車を巡るトラブルで大夫の公孫閼に怨みを買い、
同年の許攻略戦において彼に射殺されたという話が残ってます。
荘公はたいそう穎考叔の死を悼んだとか。

・・・他に事跡はないのかしら・・・
6551:2001/01/24(水) 18:24
>>64
許国攻めの際にはその公孫閼も瑕叔盈に射殺されたように記憶しています。
公孫閼はたいへん美男だったようですね。
「子都(公孫閼)の[女交]を知らざるは目を持たざるものなり」
と孟子は言ったとか。
66無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 21:36
「 墨攻 」の作者の中国古代ものは白川静に多くを依拠していますね。
「 墨攻 」も白川の、墨家は神に仕える技術者達から生まれた思想で、あの熱烈な活動ぶりは
宗教的な熱狂によるものだろうという説から発想している感じ。
67無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 03:03
白川静氏といえば、古代中国の文字(金文・甲骨文)などの著書を出されてますよね。
古代中国を知る者にとっては避けては通れない道でしょう。
68珍宝団:2001/01/28(日) 03:05
クンクン
69無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 04:36
皆さんは春秋五覇を選ぶとしたら誰を推しますか?
70舞名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 05:08
一般的に覇者と言われるのは、

斉の桓公
晋の文公
楚の荘王
宋の襄公
秦の穆公
呉王夫差
越王勾践

ってところですかね? 斉桓公、晋文公は外せないとして・・・
楚荘王、秦穆公ときて、あえて呉王夫差など選んでみたかったり。
71叔向:2001/01/28(日) 08:14
>>70
ですねぇ。最後の一人でもめますねぇ。
夫差は、句践を破るまでは良かったと思いますよ。
しかもちゃんと黄池で呉を中心とした諸侯の会盟を開いてますし。
個人的には宋の襄公ですかねぇ。斉の桓公から晋の文公へ覇権が渡るまでの
中継ぎ役として…って感じで。
宋襄の仁という後世の笑いだね(?自分はそうは思わないけど)を残してしまってますが
襄公の死後の宋のあり方を見たら、襄公も結構ありかなぁと思いました。
ただ、結構宮城谷氏の小説に影響されてたりして…
72万戸侯:2001/01/28(日) 13:45
鄭の荘公:中原で主導権を得たが楚まで影響力が及ばなかった。
斉の桓公:諸侯を制したが、晩年に恥。
宋の襄公:仁義ではあるが、楚に勝てなかった。
晋の文公:既に圧倒的だった晋の勢力を引き継いだだけ。
楚の荘王:諸侯を制したが、荊蛮である。
呉王夫差:黄池の会で晋と系譜を争って負け、その隙に越に攻め込まれた。
越王勾践:范蠡を去らせた。

軍事的優位から、斉桓、晋文、楚荘、勾践。一人足りない。
秦の穆公は天を祀り、西方を制した関中の覇王だが、
それを春秋世界に加えていいものかどうか…
7344:2001/01/28(日) 16:25
やはりこっちもなんか「5」という数字が優先ですね。 一応私は>>72+宋襄を挙
げたいですが。

そういえば、覇者って元来は楚に対抗する中原の盟主の意ではなかったでしょうか?
うろ覚えなんですがそんな記憶が。
やはり成王が参加した辺りから変わってきたんですかね。
74叔向:2001/01/28(日) 19:04
>>74
楚に対抗すると言うよりも、周王朝の意向を軽んずる諸侯を
周王の許可を取らずに征伐できるってな感じじゃありませんでしたっけ?
うろ覚えでよく覚えてないので間違ってると思うが…
75万戸侯:2001/01/28(日) 23:15
>>73
楚だけというよりも、周王を中心とする春秋世界を
戎狄から守るリーダーが覇者らしいですね。
そういう意味では晋の文公までが正式な覇者。
それにしても単独で国を滅ぼす戎狄と
群れなければ国を守れない諸侯の力の差が謎。
76昌文君:2001/01/28(日) 23:44
ところで、項燕ってどの時点で戦死したのですかね?

「始皇本紀」には、楚王負芻が捕らえられた後も江南で昌平君を擁立して
対秦抗戦を続行し、その後で王翦・蒙武率いる秦軍に敗れて自殺したとあ
りますが、「白起・王翦列伝」では楚王負芻が捕らえられる前にキ(御免
なさい、、字が出ません)で殺されたとあります。
司馬遷がそれぞれの記述において何を参考にしたのかが分かれば、自ずと
その答えは明らかになると思うのですが。

あと、項氏の者が項燕以前に出てくる文献は何かありますか?
同じく三閭以外の楚の貴族として宋氏がありますが、こちらはいくらでも
見かけるのです。
77昌文君:2001/01/28(日) 23:55
歴史に希望的推測は厳禁ですが、
個人的には後者の方が正しいと良いなあ、という感じです。
その付近で後に陳勝・呉広らが挙兵し、結局それが原因で秦が滅びた
というのは、この叛乱のプロローグとしては実に気持ち良いものです。
78無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 23:57
まった!実際,牛耳る儀式やったのが覇者だとしたら
覇者は誰と誰だ?
79無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 00:33
「孫堅が皇帝でなぜ孫策は皇帝ではないのか?」
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=980671898&ls=50

スレッドの話に絡んでそうな気がするのですが、兄→弟の王位禅譲って
戦国時代には良くあった物なのでしょうか?
私が知ってるのは呉の専諸の背景となっているものだけなのですが……。
御存知でしたら御教授下されば幸いです。
80無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 01:14
臥薪嘗胆で有名な伍子ショなんて結構すきだな。
でもそのライバルの范蠡のほうがもっと好きだけど。
81万戸侯:2001/01/29(月) 01:17
>>76
始皇本紀は秦の公式記録から取材してるので、信憑性が高いと思います。
列伝はどこから取材してるか分かりませんが、もし民間伝承だとすると、
項燕→陳勝・呉広という英雄の系譜への期待があるのかもしれません。

魯の僖公17年に項という国が滅んだようです。
誰がやったのか書いてませんが、淮水での会盟でのことなので諸侯連合かな?

>>79
兄弟は禅譲とは言わないと思いますが…
知る限り戦国時代に平和的に王位が引き継がれたことは無いと思います。
兄が急死しようものなら、外国の軍隊借りて親族ぶち殺して王になります。
君主は親子相続が基本ですが、先代の葬式やってしまえば、
たとえ在位一ヶ月でも公式に君主として記録されます。
いくら遺言とはいえ、「俺には天下を争う才能があるが、
お前はせいぜい国を守る程度だ」って言われたらキレますよ。
82叔向:2001/01/29(月) 01:26
>>79
あんまりありませんよ。大体そういう兄弟相続ってのはやる度に乱が起こるしね。
実際、兄弟相続で上手く行った例ってのは…無いか?

79さんが言ってる春秋時代の呉の兄弟相続は有名だけど、それ以外は
私の記憶にはありません。
弟が兄の君主の座を奪ったってのは往々にしてありますが…
83無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 01:26
>>79
私も81さんに同意です。
兄弟で禅譲というと伯夷と叔斉の話が思い出されますがこれは時代が
違いますし。
8479:2001/01/29(月) 01:35
むにむに。了解です。
85叔向:2001/01/29(月) 01:35
戦国時代じゃないですが、商王朝の時代に孤竹国の君主が死んだ時に、
末子の叔斉を君主に立てようとしたんだけど、
叔斉は長子が継ぐべきだといって断固譲らなかった。
けど、長子の伯夷は亡君の遺命だからって、叔斉に孤竹国を譲るべく
孤竹国を出奔ました…
けど結局、叔斉も兄の後を追っかけて出奔しちゃって、次子が君主の座に
就いたって話がありあますねぇ。

結局兄弟相続にはならないんで、アンマリ関係無いですけど…
86無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 02:01
ただこのへんって、現実としての長子相続と、君主道徳としての
有徳の者への禅譲っていう観念がまだ整理され切っていないような
印象を受けますね。
なんとなくですがー。
87昌文君:2001/01/29(月) 02:30
兄弟で禅譲と言えば、宋の公子目夷と襄公、秦の世父と襄公、等いろいろ
ありますよね。
目夷の場合は庶兄ゆえ内外に支援を得られず、という観がありますが。

秦の武公と徳公の場合も兄弟相続ですが、これは比較的平穏に行われたので
はないでしょうか?
この兄弟の場合、幼君即位(庶弟の出子)に伴う権臣(参父ら)の出現を
味わっているので、喩え我が子であろうとも幼い限りはこれを君主として
即位させてはいけない、という思いがあったのでしょう。
事実、武公の子である白は徳公によって平陽に封ぜられましたし。
尤も、そうでない場合も考えられますが、、、
武公の死去に伴って殉死させられたという66人が反・徳公派だった、とも
考えられるので。
88無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 03:36
目夷と襄公の場合は、実際は目夷は即位しなかったのだから兄弟で
禅譲とはいわないような気がしますがどうでしょう。
89無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 03:53
五胡十六国で言えば前涼(昭王→成王)、南涼(武王→康王→景王)
なんかがあるかな、うろ覚えだけど。
9089:2001/01/29(月) 03:59
ところで、廟号はすでに戦国時代からあったものなのですか?
9144:2001/01/29(月) 21:03
>叔向・万戸侯氏
ありがとうございます、どうも記憶が中途半端だった様で。

>90氏
廟号は漢の高祖からじゃないですかね?

あと、知っている方がいたら是非教えて頂きたいんですが、謚号の意味についての解
説が書かれた本はないでしょうか? たまに断片的なものは見るんですが、事典の様
にまとめてあるものはこれまで見つけられなかったもので。
9289:2001/01/29(月) 22:48
>>91さん
ありがとうございます。

>謚号の意味についての解説が書かれた本はないでしょうか?
「謚法」と言う、様々な謚号の意味が書かれた本があるようです。
ですが、一般の人が手に入れられるようなものなのか分かりません。
図書館にある全何巻もあるような漢字辞典にも謚号の意味が載っていました。
93万戸侯:2001/01/29(月) 23:12
謚法は「エ周書」の一篇です。って、古文漢文漢字のほうのスレで言ってました。
検索すればテキスト見つかります。簡単な漢文なので読めると思います。
9444:2001/01/30(火) 23:47
どうも、ありがとうございます。
ただ、謚法解については知ってるんですよ。 確かに大意はわかる( 気もする )ん
ですが、日本語訳のもの、もしくは別のものが無いかな、と思ったもので。
言葉が足りなかった様ですみません。

>89氏
そういえば、商の王にも「 太宗 」「 中宗 」とか廟号っぽいものを持っている人
がいました。 後づけでなければ、一応こっちが最古になるかも知れません。
95無名武将@お腹せっぷく:2001/02/10(土) 03:06
age
96七誌:2001/02/28(水) 23:27
sageるに惜しい優良スレッド、ageキャンペーン中!  
97無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 23:48
>>94
広辞苑から

びょう‐ごう【廟号】ベウガウ
宗廟の称号。中国などで、天子の霊を宗廟にまつる際につける尊号。高祖・太宗など。日本で将軍の御霊屋・神社などにも贈る。
98無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 00:47
廟号ってのとは違うかもしれないけど、周の康王。
99TAKEOFF@お腹すっきり:2001/03/02(金) 13:05
希少上げ
100無名武将@お腹せっぷく:2001/03/26(月) 03:57
春秋戦国って、三国時代より断然おもしろいと思うが、いまいちゲーム化されてないね。
KOEIでもそれ以外のメーカーでもいいからPS版で手ごろなのってありません?
101無名武将@お腹せっぷく:2001/03/26(月) 23:49
PSではないと思うなぁ。
昔、諸子百家っていうゲームがPCで出てたけど、内容は知らない。
この板で噂になってたけど、KOEIが覇王の道っていう春秋モノをだすらしいけど…
まじかね?
102無名武将@お腹せっぷく:2001/03/27(火) 23:16
>KOEIが覇王の道っていう春秋モノをだす

へえ、そうなんだ?
「孫子」っていうボードゲームは面白そうだったけど。

あと五胡十六国なんかもゲームにしたらむちゃくちゃ面白そう…
103age:2001/04/03(火) 11:28
勉強になるage
104無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 12:35
このスレすごく勉強になります。でかなり興味を持ったのですが
ここらへんの時代で良い入門書的な歴史小説ってありますか?
別スレで出てた陳舜臣氏の小説十八史略あたりも該当しそう
ですが、出来れば春秋戦国時代をメインに取り扱ったものが
良いのですが。春秋左氏伝は入門者には難しそう。
105縦横家@張儀:2001/04/11(水) 13:24
鄭問の「東周英雄伝」けっこうおもしろかった
よ〜な。漫画文庫のやつで結構入りやすいような。。。
106無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 15:11
入門書としては横山光輝の「史記」がいいと思う
107104:2001/04/11(水) 16:13
ありがとうございます。漫画があるのは知りませんでした。
入門にはピッタリですね。読んでみます。
次の段階もしくは歴史小説としてオススメはありますでしょうか?
聞いてばっかりですみません。
108無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 18:41
岩波文庫の「史記世家」全3巻と「史記列伝」(全5、6巻くらい)

現代語だから読みやすいし、むちゃくちゃ面白かった。
創作者がネタにしたがるのもわかるし、創作でこれをぬくのも難しいと思った。
109無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 20:05
>>108
中身は違うん?
110無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 20:49
ところで陳(田)恒の斉簒奪や、晋による鄭の併合、魏趙韓三氏による晋の分割等
について詳しい日本語の文献、小説等は何か無いでしょうか?

岩波の春秋左氏伝も知櫟の邯鄲攻め→敗亡までしかないので詳しい部分が分かりません。
陳恒の簒奪も尻切れ蜻蛉だし…。

>>108の2つはそのあたりどうでしょうか?
近所に岩波置いてるトコ無いんで確かめようが無い…。
111muni:2001/04/11(水) 21:08
安能務の「春秋戦国志」もなかなか面白いッス。
横山光輝の「史記」とだいぶ被ってますので、そこは趣味で。
112108:2001/04/11(水) 21:47
>>109
全文の直訳。でも読みやすいよ。ネットでも注文できるんじゃない? 文庫だから安いし。

陳(田)恒の斉簒奪や、晋による鄭の併合、魏趙韓三氏による晋の分割等も、もっちろ〜んでてくる。
むちゃくちゃマニアになると史記の和訳だけじゃ物足りなくなるだろうけど、まずまず楽しめると思う。
113無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 23:53
>>107
訳本なら左氏伝からでも大丈夫だと思います。 私はこれからこの時代に
入りましたが、面白くて結構すんなり読めました。
小説はあまり思い当たりませんが、左氏伝の類でしたら気合と興味があ
れば「国語」と「晏氏春秋」をお勧めします。 
114無名武将@お腹せっぷく:2001/04/11(水) 23:57
>陳(田)恒の斉簒奪や、晋による鄭の併合、魏趙韓三氏による晋の分割等
それならまず「世家」を読もう。
(結局「列伝」にも手が出るだろうけどね)
ちくま学芸文庫からは「本紀」や「志」「表」(+岩波文庫の「列
伝」では未訳の列伝)を含む「史記」のほぼ完全な訳が出ているけ
ど、これは訳が漢文訓み下し風でいま一つ。値段も岩波より高い。
115110:2001/04/12(木) 01:24
>>112 >>114
サンクスッス
今度街の方に出た時には探してみます
ネット通販は送料が気になる…
116無名武将@お腹せっぷく:2001/04/12(木) 17:49
秦って高校漢文の教科書では悪者の様に扱われているけど名君、名宰相が多いよね。
117おお:2001/04/12(木) 19:38
こんなスレがあったとは。
久し振りに宮城谷昌光の「晏子」(文庫版)の1巻を読み返したんだが、
崔杼の初登場時の台詞が「やあ」だというのに思わず笑ってしまった。
初読の時にはこの時代にあまり関心がなかったので何とも思わなかったが、
今読み返すと妙に可笑しく思えた。
118無名武将@お腹せっぷく:2001/04/12(木) 22:20
age

119無名武将@お腹せっぷく:2001/04/12(木) 23:56
漢・魏・趙・斉・燕・楚・秦
春秋七カ国
120無名武将@お腹せっぷく:2001/04/13(金) 00:13
>>119
・・・・・ネタか?マジボケか?ツっこんでいいのか?
判断に迷うな。
121無名武将@お腹せっぷく:2001/04/13(金) 00:37
>>120
おまけに間違いが二段構えというのが・・・
引っかけ問題だったらネタばらしゴメソ。
122無名武将@お腹せっぷく:2001/04/14(土) 06:13
周、魯、衛、宋、鄭、陳、中山
春秋戦国の七弱(w
代とか蔡、許や筥(くさかんむりのハズだが表示出来ん)ってのもありかな?
123無名武将@お腹せっぷく:2001/04/14(土) 19:32
宋はそんなに弱くないぞ! 少なくとも韓ぐらいの強さはありそうに思う・・・
そもそも「春秋戦国」とくっつける時点で無理有り過ぎ。 戦国ならともかく、春秋
なら下には下がまだまだいるし(魯にいたぶられていたチュとか、そのチュにいたぶ
られていた小チュとか)。
124無名武将@お腹せっぷく:2001/04/14(土) 20:28
「杞憂」で名を残した杞とか、「道を借りてカクを伐つ」のグとカクとか・・・。
挙げればきりがないな、春秋の弱小国。
125122:2001/04/14(土) 21:21
>>123-124
まあ>>119に対抗(wしてのものだからくくりが乱暴なのは勘弁

ただ虞やカクは晋のライバルの強国として滅びてると思うんだが
鄭や魯は命脈を永らえて弱国としての名声を確固たる物にしてるしね

チュや小チュ、杞あたりは周王によって定められた扶庸国として魯や斉の半属国
(盟下にあったってのが適当な表現かな?)みたいなもんだったし独立国として
挙げるのは抵抗があるな
まあそれだと筥も不適当だね、訂正。
126123:2001/04/15(日) 00:47
>>125
成る程、それは失礼しました。

チュや小チュは諸侯の会盟にも参加していますし、年中紛争も起こしていた様なので
独立国扱いしてもいいかな、と思ったのですが( 完全な扶庸国だと参加の権利も無
かった様な覚えがありますし、厳密に言えば蔡や陳も似たような感じかと。記憶違い
だったら失礼 )。

あと鄭も、なんとなく鎧袖一触で韓に踏み潰された様なイメージがある気がしますが、
史記を見る限りは結構互角に戦っていた様に思うので、衰えきった楚に瞬殺された魯
と一緒にするのはなんとなく悪い気がします。 相対的に見れば、充分弱小なんでしょ
うが・・・
127122:2001/04/15(日) 02:47
鄭は終わりのあっけなさよりは、春秋期を通じて晋と楚に
アゴで使われてたイメージを重視。

魯は、楚に面してなかった(春秋前期の話ね)というだけで災いを
免れてた部分はあると思う。
晋も斉も一応中華の雄って自負があって、その矜持を上手く突つく事で
遊弋して来たのが魯。
礼や理屈の通じない楚に抗し得ないのはある意味当然で、
往時は覇者(武公)さえ出した鄭と軍事面を較べるのは酷かと…

チュや小チュも会盟に参加した事はあったけど、その動向は
親分の大国に左右されてたから、ちょっと…
春秋期末にはもう会盟に参加する事も無くなってたし
そう考えると陳や蔡も不可だねえ、難しい(w

個人的には弱小だけどそれなりに命脈を保った、という定義が適当かも
そうなると陳は消えるね、郭隗と楽毅さえいなかったら燕が確定
だったんだけど
7国が通りがイイので数合わせで入れたけどやはり無理が(w

ところで西周〜春秋前期まで勢威を保ってた狄やら戎やらは最終的に
どうなったんだろね?
大国の支配に組み込まれたんだろうか?
128123:2001/04/15(日) 21:53
やはり定義付けは難しいですね。 まあ考えてみれば、七雄からして数が先行という
感じですし、あまり数字に拘る必要も無さそうですが。

しかし魯と鄭だと、往時はまだ魯の方が軍事面でも強かった様に思うのですが。
鄭なんか(比較的)新興のうえに、子産登場前までは内憂外患の標本の様な惨状でし
たし。

狄や戎は、おそらくは中国の黄金パターンにはまって次第に同化していき、集団とし
ては消えてしまったのでは無いでしょうか。 確か中原文化に慣れた熟狄とか呼ばれ
る一派もいましたし、それが同化の前段階と考えれば・・・
129122:2001/04/17(火) 03:14
う〜ん、軍事的な評価が割れてるねえ。
オレ的には鄭>魯なんだけどな。
魯軍が勢威を張ったのって周公旦以後は曹カイが軍師的な地位に
いた頃だけだと思うし。

鄭は春秋左氏伝あたりだと負けてばかりのように思えるけど、
殆どの場合、相手が春秋期の1、2を争う強国、楚と晋だったからね。
逆に言えば実戦経験は多い熟練兵だと思う。
多くの場合、鄭は楚の盟下にあった訳だけど楚は何年か置きに何がしか軍事行動を行ってたし、
それに対して戦下手な卿は出せんでしょ。
個人的な見方だけど、指揮に瑕瑾があればどうやっても国内での政権基盤も危うくなる訳で、
そういう意味では兵と共に卿も鍛えられてたと思うんだけど。
まあ内憂外患は子産登場前もそうだけど、彼の退場後もやっぱりそうなってるよね。(w

魯の相手は小国以外だと斉しかいない状況だっただけに年々弱くなってたんじゃないかな?
仮想敵たる斉もそんなに強いわけじゃなくて、晋には殆ど歯向かっておらず、三桓の専横以降は
三軍での統一行動自体殆ど無くなってたし。
あ、孔子が執政にいた時期は除いてね。
季孫行父・宿といった優れた指導者はともかく、それ以降の三桓に人物らしい人物も出なかったし、
軍制の面で鄭より優れていたとは思えないなあ。
130122:2001/04/17(火) 03:24
それから狄・戎に関してだけど、宮城谷氏の「沙中の回廊」の中に
晋文が三軍を整えた時に取り込まれたらしいという記述があった。

まあ小説だから鵜呑みには出来ないけど、献公の時期には驪戎を姻戚としてたし、
狐氏は狄の氏族だし、晋文や趙衰も狄の妾を迎えてた事実がある訳で、
割と信憑性は高いような気が。

晋が全部の狄戎を取り込んだとは思えないが、似たようなケースは斉であれ秦であれ
あったんじゃ無いかと思う。
131無名武将@お腹せっぷく:2001/04/17(火) 06:12
戦国七雄というのは戦国末期をとっただけであんまり意味ないでしょ。
宋、中山、越が王号を称したことがあり、国力、面積とも七雄に次ぐ存在。
魯、衛、鄭は同じくらいだろうけど、
魯は春秋期はともかく戦国期は衰退する一方で、鄭より強いなんてこたないと思うよ。
周や晋も弱体化したとはいえ最後に残った首邑が難攻不落の大都市国家で、
韓や魏の力をもってしてもなかなか落とせなかった。

五覇は蛮夷から中原を守るという本来の意味では斉桓公、宋襄公、晋文公、秦穆公の4人しかいない。
しかも宋襄は例の「宋襄の仁」を称揚するため儒家が押し込んだだけ。
秦穆も「西戎に小覇」をとなえただけ。で、このふたつは実質は覇者ではない。
楚荘王、呉王閤閭、呉王夫差、越王句践 は蛮夷だけど、
この頃中国に同化したということでなく、ようするに覇者の政治的意味がかわってしまったってこと。
たんに強者を五つあげるなら斉桓、晋文、楚荘、夫差、句践。
全部で8人だけど、最後の句践は、戦国時代の実質的開幕ということで、ちょっと別格に考えたいところ。
132123:2001/04/17(火) 22:10
>122氏
国力中心で考えて書いたのですが、確かに言われてみれば鄭の方が強そうですね。
持久力では劣るかも知れませんが。
どうも鄭というと、年がら年中戦争と内紛続きでガタガタ、というイメージが強いも
ので・・・(ついでに言うと、魯はゆっくりと衰退し続ける老大国という感じです)

狄・戎に関しては同感です。取り込めば即戦力になりますし。
まあ秦に至っては、公室自体が同類っぽい様な気もしますが。

>131氏
鄭と魯については、斉桓〜晋文期辺りのイメージで比較しておりました。戦国期なら
全く同感です。
しかし晋なんかは韓・魏・趙にあっさり引導を渡された気がしましたが?

覇者についても夫差を除けば概ね賛成です。
ただ当初の意味を重視し、「五」という数字を無視すれば、斉桓公・晋文公及び歴代
晋公(一部例外除く)で良い気もしますが。
133122:2001/04/17(火) 22:22
>>131
かなりの部分で同意
五覇って言葉そのものが七雄同様、字面だけのもんなんだよね

ただ覇者の意味付けの面で夫差・句践はちょっと外したいな…
覇者ってのはやはり強者にしても蛮夷からの守護者にしても
諸侯の支持が必要だと思う、個人的にね

蛮夷でも荘王は多くの諸侯の支持を得ていた事実もある訳で、
それを得られなかった夫差や句践は認めたくないな
闔閭はその辺上手くやっていた印象がある
弑逆で即位したにも関わらず


あと戦国時代の開幕は三晋成立時が妥当だと思ってたんだが…
句践(越)は余りに辺土だから中華の動向に関われなかった印象があるね
越の最後も鄭とは比較にならない位あっけなかったし
134叔向:2001/04/17(火) 23:59
>>133 >>132
でも、夫差は黄池で諸侯の集う会を主催したと思いますから、
覇者の資格はあると思いますが…
晩年の夫差を見ると、私もちょっと外したく思いますけど(笑

やっぱこれぞ覇者って言うと斉桓晋文といった所ですか…
135131:2001/04/18(水) 07:26
>>132
秦にかんしてですが、秦は初期には
北の「西戎」(後の義渠戎)、西の「犬戎」、東の「驪戎」に取り囲まれ
常に「戎」とは対立関係にあり、友好的な側面は歴史記述からはまったくうかがえません。
また秦がもしこれら「戎」と同類なのであれば、秦を蔑称する時に「秦戎」とでもいえばいいのに
実際には秦の蔑称は「秦狄」です。
秦はもともとは戎(チベット系)ではなく狄(トルコ・モンゴル系)だったのでしょう。

>晋なんかは韓・魏・趙にあっさり引導を渡された気がしましたが?

そんなことはなくて韓・魏・趙が知伯の領土を分割BC453した後も、
晋は首邑であるコウだけでなく、しばらく翼や曲沃と、その周辺を保持して
小国として割拠していました。(名目は三晋の君主ですが)
136無名武将@お腹せっぷく:2001/04/18(水) 07:32
>>132,>>133
覇者とは何か、ということですが、あまり現代の学者の言説にとらわれすぎのように思います。
これは「覇」という一種の特設の爵位であり、天王(天子たる周王)から任命されるもの。
いってみれば日本での朝廷と幕府みたいなものですね。
いくら実力行使で会盟を主宰しようが夷狄を撃退しようが諸侯の支持があろうが
私的な行為であれば意味がない。天王がその功績を認めて、はじめて覇者となる。
で、私がいった「覇者は8人」というのは、自分のオリジナルな考えで8人えらんだわけでなく
五覇について古来の諸説にあげられている人物は合計8人だ、ということです。
だから132さん「歴代晋公で良い気がし」ても、それはだめでしょう。
また133さん「覇者の意味付けの面で夫差・句践はちょっと外したい」というのもだめでしょう。
そうじゃなく、その8人から逆推して「覇者とは何か」と考えるべきではないでしょうか。
-----------------------------
なお、戦国の開幕時期はひとつだけでなく、通説以外にも、いくつか説があります。
越王句践がいかに他の7人の覇者と別格であるのか、
また越王句践が戦国の開幕といえるのかはまた今度にします。
137無名武将@お腹せっぷく:2001/04/19(木) 11:33
荒れていない良いスレだ。
138123:2001/04/19(木) 21:32
>131氏
秦については異種族、という意味合いで同類という言葉を使いました。ただそれほど
詳しく知っていた訳では無いので、説明ありがとうございました。
あと晋の晩年については「史記」の記述ぐらいしか知らないのですが、他に何か出典
をお持ちなのでしょうか? 確か「史記」だと、三家に頭を下げながら何とか翼と曲
沃のみを維持し、彼らが晴れて諸侯として認められた後は、程なくして分け取りにさ
れて消滅したと記憶しているのですが。

あと覇者については、自分でも少し定義と共に考えてみたいと思います。ただ夫差
は、書によっては盟主になっていないと思うのですが、その辺りはいかがなものな
のでしょうか?
139無名武将@お腹せっぷく:2001/05/09(水) 23:11
age!
140無名武将@お腹せっぷく:2001/05/09(水) 23:31
中山の楽毅はどうよ?
141無名武将@お腹せっぷく:2001/05/16(水) 05:27
さがりすぎ
142無名武将@お腹せっぷく:2001/05/16(水) 09:03
なるほど・・・自分で
スピンを かけるのをやめて

必殺パスの かいてんを
りよう したか

さすがだ 翼!!
143安倍晴明:2001/06/18(月) 01:35
もうちょっと詳細をキボンヌ
144無名武将@お腹せっぷく:2001/06/21(木) 04:50
age
145無名武将@お腹せっぷく:2001/06/21(木) 13:20
臥薪嘗胆age
146無名武将@お腹せっぷく:2001/06/22(金) 00:18
刎頚の交わりage
147あぼーん:あぼーん
あぼーん
148無名武将@お腹せっぷく:2001/06/22(金) 19:08
俺レンパ好き。
149無名武将@お腹せっぷく:2001/06/22(金) 23:17
漏れは臨床所。
完璧帰趙っすよ。
150無名武将@お腹せっぷく:2001/06/24(日) 20:33
出れば、うれーしー、おれは、趙もち、連破と蘭将如だね!趙は弱いけど、人材は豊富
燕は、楽穀、でも、4公子も捨てがたい・・・・
151張儀:2001/06/25(月) 22:17
俺の舌はまだあるか?
152無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 00:13
天道は是か非か
153無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 21:37
age
154無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 23:46
感動した!って話を教えて。
155無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 20:45
age
156無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 02:18
>>138
>あと晋の晩年については「史記」の記述ぐらいしか知らないのですが、他に何か出典をお持ちなのでしょうか?
> 確か「史記」だと、三家に頭を下げながら何とか翼と曲沃のみを維持し、彼らが晴れて諸侯として認められた
>後は、程なくして分け取りにされて消滅したと記憶しているのですが。

「翼と曲沃のみを維持し」とおっしゃるとおりです。私は「小国として割拠していた」と書きました。
同じことです。私がいいたかったことは、あなたが「韓・魏・趙にあっさり引導をわたされた」と
おっしゃったので、「そうではなくて晋を最後に陥落させるのはかなり困難だったらしい」ということを
いいたかったのです。出典は記憶が曖昧ですが戦国策か韓非子か史記の誰かの列伝だったと思います。
秦が周を滅ぼそうとした時に、それを思いとどまらせようとした者が、韓・魏・趙の力をもってしても
ただの一都市国家に転落した晋を落とすのにどんなに莫大な犠牲をしいられたか説明した後に、
「まして周は晋よりも数倍大きな街(城郭都市) です」といって説得するシーンがあったはず。

>あと覇者については、自分でも少し定義と共に考えてみたいと思います。ただ夫差は、書によっては盟主に
>なっていないと思うのですが、その辺りはいかがなものなのでしょうか?

さあ。それはわかりません。書によっては覇者に数えられてないというのは夫差に限りませんよ。
五覇といった時に、かならず入っているのは斉桓・晋文・楚荘の3人だけです。
157無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 23:03
介推サイコー!
158無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 23:12
楽毅サイコー!!
楽毅>孔明
159無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 23:18
久しぶりにきたらこのスレあったんですね。

>>156
楚荘は荊蛮の王なので除外する、という立場もあったと思うのですが
どうでしょうか。
拠りどころは忘れてしまいましたので自信を持っていえることでは
ないです。
自分自身覇者を5人に限定することにはどうも興味が持てないのです
がちょっと知りたいと思ったので書きました。
160無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 08:44
公孫慶忌かっこいい!!(俺は東周英雄伝読んだだけだけど)
161しばふ:2001/07/10(火) 13:48
ところでなんでみなさん覇者って言うのでしょう?
私は覇王だと思うのですが。
162無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 14:38
「覇王」だと周王をないがしろにしているような印象が
あるからではないでしょうか。
163無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 04:12
>>159
話がループしてる気がしますが、とりあえず。
孟子が五覇の中に呉・越を入れてないのは、異民族を排除したからだという説が主流ですが、
それだと楚の荘王が入っているのがおかしい、だから孟子も矛盾してるんだ、といわれてるわけですが、
やはり「五」という数にあわせるために、あんまり中華に同化してないものから落としていったんでしょう。
(それと貝塚茂樹によれば、世間で馬鹿にされてた宋の襄公を儒家は顕彰・称揚していたとのことで
五覇に宋襄を加えたのは孟子のこだわりでもあったかも知れませんね)
実力だけで5人とれば、斉の桓公・晋の文公・楚の荘王・呉王夫差・越王句践でしょうが、
「五」にこだわらず全員あげれば8人ですが、その中には覇者としての資格が疑われる者もいる、と。
このスレの結論としては、今のところそんなとこでは。

>>161,>>162
よくわかりませんが、正式にはたぶん「覇」か「霸」か「伯」で「〜者」とはいわないのでは?
「覇」という肩書きじたい周王を重んじてる印象があるので
「覇王」といっても「ないがしろ」にしてる印象は無いのではないでしょうか。
うろ覚えですが「覇王」という称号は最後の越王句践ひとりだけの専売特許だったように記憶してます。
たしかこの句践の「覇王」も周王朝から下賜されたような・・・。
164無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 16:49
>>158
>楽毅サイコー!!  楽毅>孔明

春秋戦国は名勝負が多いけど、楽毅はたしかにスゴイ。孔明や張良以上かも。
でも個人的には楽毅のライバルの田単が好き。
楽毅がすごければすごいほど、それと渡り合って独力で一国を復興させた田単に萌え。
165159:2001/07/11(水) 19:03
>>163
失礼いたしました。
上のほうにも書いてありましたね。
どうもありがとうございました。
166無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 19:06
このスレいいなー俺は史記列伝が一番好きだからね!
167無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 13:05
史記列伝をネットで買いました。
今日あたり届くと思いますが、楽しみです。
168無名武将@お腹せっぷく:2001/07/19(木) 04:05
>なお、戦国の開幕時期はひとつだけでなく、通説以外にも、いくつか説があります。

春秋時代と戦国時代の境をBC403とするのは北宋の資治通鑑(司馬光)の説で、
韓魏趙の三家は君臣の封建秩序を乱した者で、本来叛賊であるはずを、周の朝廷が公認して諸侯に列した年。
つまり天子みずから大義名分を踏みにじったことから春秋期→戦国期という転機がある、という見解。
これは儒教的な大義名分論にもとづくもので、歴史学的に妥当かどうかはかなり問題。
現在これが主流になっていますが、便宜的・習慣的に使われているだけです。

「春秋」の最後の記事と「戦国策」の最初の記事はかぶっているので、
その範囲を移行期として春秋/戦国をわける説もあり、
最後の覇者である越王句践の死をもって春秋の終わりとする説もある。
春秋と戦国の表面的な違いは「春秋十二列国」から「戦国七雄」への勢力図の変化であって
その差はなんといっても、三晋(韓魏趙)の存在であって、その領域は
智氏の旧領を分割したことで成立したのだから、知伯の滅亡=BC453から戦国時代とする説もある。
169無名武将@お腹せっぷく:2001/07/19(木) 18:17
いわゆる呉越の興亡の時代はふつう春秋後期とされるけど、
鉄器が実用化して戦闘が一変したのもこの頃で、
呉越抗争のあたりからすでに戦国時代とする説もあるね。
陳舜臣の説だったかな?
170無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 17:17
スレ維持あげ!
171無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 02:59
中国って三国志以外にも、春秋戦国とか五胡十六国とか
清末動乱〜国民党敗退までの近代史とか、
ゲームにしたらむちゃくちゃ面白そうなネタいっぱいなのに、
なんで三国志ばかりなんだろうね。
172無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 03:02
ほんまそう。春秋戦国や五胡より有名だけど、
水滸伝とかめちゃおもろかった。
妖術なんて三国志だとないからな。
あと何年までに中国統一しなきゃなんないとか。
173無名武将@お腹せっぷく:2001/08/20(月) 03:11
>>172
一応三国志演義の序盤にも張角あたりは妖術使ったりしてるぞ
174無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 09:41
感動!春秋時代の掲示板もあったんですね!また きまーす
175無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 17:17
いや、掲示板はないぞ・・・。
176無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 17:21
>>173
左慈も・・・
177無名武将@お腹せっぷく:01/08/30 17:10 ID:1sA68yCg
ちょっと気になるんですが、中国の騎馬戦術は趙の武霊王から始まったとも
言いますよね?武霊王の時は大臣や王族を説得するのにあんなに苦労してるって
『史記』に書いてるのにナゼ他の国はあんなに簡単に
騎馬戦術受け入れたんでしょう?
まぁ〜趙国の実績・実例があるのは分かりますが
178無名武将@お腹せっぷく:01/08/31 13:56 ID:BCInibEU
>>177 中国の騎馬戦術は趙の武霊王から はじまったのですか?
知らなかったです
スレ維持sage
180無名武将@お腹せっぷく:01/10/01 22:22
先日、香港に行ってきたのですが、
その時に中国中央電子台の(NHK三国志も製作)
東周列伝春秋編(全30編)をゲットしました。
これから見るのですが、メチャ楽しみだ…
ただし、全部中国語(北京語)だというのが…
まぁ、中文の字幕がつくので、何とかがんばって見てみます。
181無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 13:09
age
182無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 13:18
ワシは戦国編ももってるぞ。でも字幕がなくて・・・・・
多少の中国語には自信があるがぜんぜんわからん・・・・
 日本みたいに昔言葉でしゃべってんじゃねえか。
183*^ー゚)ノ♪:01/10/09 06:25
そう言えば、
戦国時代を題材にしたゲーム(日本製)はあったね。

*「孫子の兵法 百家争鳴」 1997/03/28 11,800円
>日本で春秋戦国のシミュレーションゲームが出るのは初めてでしょうか?
>94の領土があって,8つの勢力が争うなか,一カ国を選び,配下の将軍を
>用いて国力増大などを目指します。TGLとはこういう会社らしいのですが,
>そんな雰囲気は流石にありません(^^)。でもなんか面白くないなー、何
>しろ戦争が「完全自動」だしなー、あんまりやることないしなー...あ
>んまりやってないけど(^^)。続編に期待!

わしも一応遊んでみたが、かなりつまらん・・・。
184まむし直:01/10/10 01:50
およ? このスレまだあったのか!
こないだまでいろいろ書いてたの漏れですよん
>>184
春秋と戦国の変わり目についての定義キボーン
まだ待ってるぞー!

ところで資治通鑑の日本語訳ってどこの出版社が出してるか知らない?
186無名武将@お腹せっぷく:01/10/12 23:42
どうせだから上げておこう
187184:01/10/14 05:03
名無しにもどります。

>>185
春秋と戦国の変わり目についてはいろいろ書いてきたからもういいじゃん。
それと資治通鑑の日本語訳はたしか黄色い表紙で平凡社から出てたよ。
もしかしたら絶版かもしれないけど図書館いけばたいてい置いてあるんでは。
188無名武将@お腹せっぷく:01/10/14 05:15
基本的なことでスマンが、教えてくだされ。
越って、どう滅んだんだっけ?
滅ぼされるとしたら、楚か斉だと思うんだが、どちらに滅ぼされたんでしょうか…
できれば、アバウトな年代というか、中原の動きも教えて頂けると有難いんですが…

呉楚・呉越の争いって独立した流れで捉えてしまっいて、
中原諸侯の動きと連動して考えられないんですよねぇ…
呉楚の争いが起こっていた時代って、晋は趙武(韓起)・叔向による最後の安定期を終え
内乱の時代に突入ですよねぇ。たしか。(これもうろ覚え)
この後に呉越の争いが起きてるみたいなんだって事は、何となく分るんですが…
越の滅亡は斉の宣王末期かビン王の頃のはず
斉と組んで、斉に向かう楚軍の背後を衝こうとしたんだけど
逆に誘い込まれて壊滅させられ、そのまま勢いに乗った楚軍に滅ぼされた
190無名武将@お腹せっぷく:01/10/18 21:51
春秋戦国の国別に歴史を記した本ってある?
191188:01/10/18 22:18
>>189
なるほど〜、楚に滅ぼされたのですか…
そういえば、戦国期は楚が武威を轟かしたって話はあんまり聞かないんですが
やる事はしっかりやってんですねぇ(何のこっちゃ)

越も戦国中期まで存在してたとは…意外に頑張ってたんですね。
192無名武将@お腹せっぷく:01/10/18 23:31
風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不回還 戦国時代の終焉を遅らせようとした男
>>190
春秋期までなら国別に記述されてる訳ではないが左氏伝が詳しい
巻末に国毎の索引もあるし
戦国期以降まで知りたいならやや端折った感もあるが史記世家
どっちも岩波文庫刊がお手軽かな
194無名武将@お腹せっぷく:01/10/20 10:54
>>190
193のとおり左氏伝がおすすめ。岩波文庫で上中下3巻でてる。面白いよ。
戦国は「戦国策」かなあ。岩波文庫の史記は西暦表示があるから他社のよりだんぜんわかりやすいね。
195無名武将@お腹せっぷく:01/10/28 23:18
age
196無名武将@お腹せっぷく:01/10/28 23:34
田単ってどんなやつだったの?
197無名武将@お腹せっぷく:01/10/29 07:08
>>196
楽毅(伝説的な名将軍。孔明もみずからをなぞらえた)のライバルだyo!
198無名武将@お腹せっぷく:01/11/05 12:51
春秋戦国国別なら史記がいいみたいだね
199無名武将@お腹せっぷく:01/11/06 10:24
age
200無名武将@お腹せっぷく:01/11/06 13:58
韓、趙、魏の三晋は領土が流動的に変化するんで
地理がよく把握できねえよ。
趙都の邯鄲の位置がわかるくらい……。
魏の形は世界地図の鏡像と思ってる、左右が入れ替わってアフリカ・ヨーロッパは省略ね
アメリカ辺りに旧都安邑、インド辺りに新都大梁ってイメージ
その魏に囲まれた太平洋が韓かな?丸っこくて新鄭の位置はどの辺とは言い辛い

何にしても商君の改革以降のあの辺りの国境線て確定できるもんじゃないと思うけど(w
202無名武将@お腹せっぷく:01/11/06 21:05
まずタテ位置にしたタマゴ形(ふくれた楕円)を描きます、これが最盛期の晋。
このタマゴ形の右上3分の1を大きく切り取る線をひく、これが趙。
残った部分を、大きくくねった線で上下にわけます、
上が馬蹄形で魏(左右ふたつの領土が上のとこの細い回廊でつながってる)、
下がヒョータンをタテにしたくびれた形で韓(上下ふたつの領土が真ん中の細い回廊でつながってる)。
魏は韓によって左右に分断される一方、韓は魏によって左右から締め付けられてる感じで、両国は入り組んでる。

韓のくびれの左側と魏の左側の領地の下に挟まれた部分にヨコ位置に長方形を描けばそれが周。
その北に接する小円を描けばそれが晋の残りの部分(晋の最後の直轄領)。
203無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 01:55
史記が出典の故事って多いよね。
204無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 02:32
伍員(子ショ)燃え〜!

仇の楚王の墓あばいて、死体に鞭打ったり、
自刃する時の、捨て台詞もサイコー。
205無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 02:45
>204
伍子胥   ←ほら使え
206無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 02:57
>>204
復讐の為に仇の暗殺を図るというのは良く聞くが
復讐の為に嘗ての敵国に身を投じて故国を討つなんてのは伍員だけじゃあるまいか。
最期は父親と同じく主君に直諫を続け疎まれて死を賜るという死に方もまた涙を誘う。
207無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 03:25
日暮れて道遠し
208無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 03:29
>>206
春秋時代の巫臣も似ているな。
楚から晋に亡命して、楚を弱らせるために当時建国された呉に
戦車とその戦術を提供して、対抗させる。
手法は違えど、その根底にあるのは復習だしね…
仇討ちじゃないけど、復讐というなら范雎(魏で濡れ衣着せられて追放→秦の宰相))とか
張儀(楚で…以下同)ってのもいるな

しかし秦ってのは他国出身の宰相とか高官がやたらと多いんだけど
よそものでも受け容れられ易い素地があったのかね
上の二人もそうだし百里奚とか士会から商君、魏ゼン、孟嘗君、李斯と
他国出身者のオンパレードだもんなあ
210無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 17:01
>>209
そうだよな〜、秦って他国の偉材が大臣になる度にでかくなるよな。
そういや、魏ゼンって他国の人だっけ?昭襄王の叔父でしょ?

そういや、秦の建国っていつだっけ?
周商革命の時代に、一度周によって滅ぼされてますよね>秦
で、滅ぼされた秦の王族が悪来と飛簾で、この二人も商が滅びる時に死にましたよね?
あと、悪来の季勝は、趙の始祖なのでこの人が秦を再興させたと思えないし…
どういった経由で秦は復活したんですかねぇ?
誰か詳細キボンヌ
魏ゼンはその名の通り魏の王族の出身
妹だったか娘だったかが秦に嫁いだの
212無名武将@お腹せっぷく:01/11/11 22:31
>>211
ああ、ナルホド。
で、その魏ゼンの妹が宣太后で、昭襄王の母親って事か。
213無名武将@お腹せっぷく:01/11/12 07:01
孫武は呉王コウリョに仕えた後、どうなったのかな?
例の調練で寵姫を処刑したんで、王に恨まれて成敗されてたりして。
それに伍子胥との関係は?
214無名武将@お腹せっぷく:01/11/12 07:15
孫武が主役の小説ならあるよ。
215無名武将@お腹せっぷく:01/11/12 08:46
>>213
確か、夫差が太子に立てられたと同時に致史したと思いますよ。
晩年は、軍事に関わることなく穏やかな一生だったはずです。
呉起は、その気性から晩年は壮絶でしたが、孫武は引くべきところをしっかり引きました。

孫子は、軍略の才能もさることながら、彼の達観した処世術がこそが最大の評価点だと思います。
自分の兵法を人生でしっかりと実践できた人ですね。
216a:01/11/12 09:35
孫武は晉に隠居したんじゃなかったけ?
217無名武将@お腹せっぷく:01/11/12 20:12
>>211
魏ゼンって楚の人じゃないか?
218202:01/11/13 05:04
>>210は大きくかんちがいしてるのでは?
悪来が殺された時はまだ「秦」ではなく「鳥俗氏」。
その後、悪来の子孫は、趙氏の分家筋なのでその一族として続いていた。
(だから同じく「趙氏」と称していた)
で、そのまた分家筋の「非子」なるものが周の孝王に召し抱えられて
「犬丘」の地に所領を得、「秦贏」と名乗ったのが「秦」のはじまり。
(趙氏も秦氏もともに贏姓だとされるが、実は「贏」も「趙」も「秦」も
古くは同音で、「趙」は北方訛り、「秦」は西方訛り)
219無名武将@お腹せっぷく:01/11/13 07:51
>>218
ナルホド、勉強になります。
チョット自分でも調べてみましたが、飛簾の息子の悪来が秦の始祖で
もう一人の息子、季勝の子孫が趙の始祖みたいでね。

話はそれるんですが、秦のそのまた末裔が日本の長曾我部氏って話を聞いたんですが
本当ですかねぇ。チョット信じられない…
>>219
確かに長曾我部氏は秦氏の子孫を自称してたけど、秦氏自体秦の末裔かどうかははなはだ疑わしいからねぇ。
まあ渡来人の子孫自体は珍しくないからねえ
劉備が中山靖王の子孫を名乗ってたのと同じような感覚で名族の
子孫を名乗ったと考えれば納得も行く
なんせ当時は百姓出身の秀吉が藤原氏とか名乗ったりしてたし
222219:01/11/13 22:10
噂だけで判断するのもどうかと思ったので、チョットしらべて見たらこんなページ見っけた。
ttp://isweb22.infoseek.co.jp/play/gukko123/iinkai/senzo.htm
このページのドキュソな妄想はさておいて、注目して欲しいのが真中辺りにある系図ね。
帝センギョクから始まる系図なんですが、どうやら贏姓は飛簾から二つ(秦・趙)に分かれ
始皇帝を輩出した秦氏が更に東儀と長曾我部に分かれてるみたいですね。
この系図の信憑性自体がぁゃιぃ(超世紀家系図って聞いた事ない)のですが、
これを見る限りでは、長曾我部家の血筋もあながちブラフと言えないのでは…?

日本の戦国史は人並みしか知らないんですが、どっかで質問したら
答えてもらえますかねぇ>長曾我部家の血筋
>>222
そりゃ入手可能な資料を組み合わせて冗談で作った系図だろ
あっさり信じるなよ…
224222:01/11/14 01:12
そうなのか?そうなのか?
オレは騙されたのか?
やっぱ、史料を元に自分で調べなきゃいかんね…
(その史料もおかしい時があるから、大変だけど…)
225無名武将@お腹せっぷく:01/11/14 01:33
渡来人の自称先祖はハッタリでしょ。
坂上田村麻呂を出した東漢氏の祖は後漢の霊帝になってるし。
226無名武将@お腹せっぷく:01/11/14 03:16
帰化人の祖先はハッタリとは決めつけられない。
諸葛孔明の子孫も太公望の子孫もいないじゃない。
ハッタリなら、なんでわざわざ孫晧の子孫だの劉[王宗]の子孫だのと
かっこわるいキャラの子孫を名乗らねばならないんだ?
王昶の子孫とか、三国志ファンでもあんまり知らないマイナーキャラの子孫とか。
>>226
簡単だよ。マイナーな奴だと、誰も確かめようがない(藁
日本に渡ってきたならなおさら、ね。
228無名武将@お腹せっぷく:01/11/14 03:18
そうそうなんでもかんでも疑わなくてもいいんじゃないかい?
まず長曾我部氏や島津氏、その他たくさんの氏が、秦氏の系統から別れ出たのは本当だよ。
この秦氏という帰化人の氏族は、
律令時代の戸籍の残片からものすごくたくさんいたことがわかっていて、
各地の土豪が秦氏出身ということはなにも疑うべき理由がない。

秦氏は自称では秦の始皇帝の子孫だが、ほんとのことはわからない。
日本の学者の中では新羅系という説や加羅系という説があるけれど、
大和朝廷では実際には朝鮮系の帰化人の方が重んじられたのに、
朝鮮系がわざわざ偽って中国系を名乗るのはおかしいという批判もある。
実際、新羅は、三国志によれば秦人の移民だという秦韓(=辰韓)の故地であり
秦氏の祖先がここからきたという日本書紀の伝承を否定する具体的な根拠はない。

秦韓(=辰韓)の地は前漢の真番郡にあたり、
弁韓・辰韓が馬韓と比べて漢化がすすんでいたことなどから
多くの漢系移民がいたと推測されている。

もちろん秦の始皇帝の子孫が辰韓にいたかどうかなんてこたあわからないが、
趙高が胡亥を立てて二世皇帝とし、偽の勅書をだして太子の夫蘇を自殺させた時、
夫蘇は対匈奴軍の責任者に左遷されて代(今の大同)にいた。
この時代の遠征軍が屯田兵みたいなもので家族や生活物資ぐるみで一団となっている。
自分らのボスが始皇帝の下で失脚したとなったら、おそらくは
長城沿いに東西にわかれて逃走したであろう。東にいったものは遼東の壌平まではすぐ、
そこから穢狛(北朝鮮)に入って逃げ切った者も多かったろう。

証拠もないから学問的には伝承を肯定はできないが、
可能性としては絶対ありえない話でもないんだよ
229無名武将@お腹せっぷく:01/11/14 03:28
>>227
メジャーな奴だと「ハッタリ」で名乗った
マイナーな奴だと「確かめようがないから」名乗れた
ホントに便利な理屈だね

ハッタリでいいならマイナーな奴の子孫はいないだろう
確かめようがないからマイナーな子孫を名乗ったのなら
秦や漢の皇帝の子孫を名乗る奴はいないだろう
長曾我部って曾我部ってのが上方から土佐にやってきて
そのときに現地にも曾我部ってのがすでにいて
紛らわしいから住んでいる地名からとって
長曾我部と香曾我部ってなったと
司馬遼太郎の小説にあったんだが
231無名武将@お腹せっぷく:01/11/14 04:41
>>230
スレちがいでは。ここは春秋・・・
232無名武将@お腹せっぷく:01/11/14 05:15
話が少し違うかもしれませんがモーニングコミックスで
A4版の「東周英雄伝」という漫画は絵も良くてお奨めですよ
作者はチェンウェンさんという台湾の方です
絵は全て筆で水墨画のように書いているので新鮮ですしね
周は西周時代と東周時代がありますが、その東周時代の話を集めた物です
233:01/11/15 00:09
こちらもよろしくお願いします(^^)。

http://salad.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1005659817/l50
234219:01/11/15 14:05
>>218
>飛簾の息子の悪来が秦の始祖で

遠い先祖ではあるけど「始祖(=初代)」ではないよ。秦氏の始祖は非子。
235無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 10:38
魏ははじめhだったんだけど秦に河西の地をとられてΩに。韓はg。
戦国時代の韓と魏は面白い形しててフェチ心をくすぐる。
236無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 22:28
ちょいと質問。
たまに幾つもの名前で呼ばれる人っているじゃないですか。
たとえば鄭の子産って公孫僑とも呼ばれますよね。
それは何故なんでしょうか?
あと、確か子産は鄭の皇族だから姓は姫になりますよね。
一体本名(姓・いみ名・字)は何になるんでしょうか?
誰かご存知でしたら教えて頂けませんか?
237無名武将@お腹せっぷく:01/11/21 06:42
姓は「姫」、氏は「鄭」もしくは「公孫」、名は「僑」、字は「子産」。

・・・かな? すまん漏れもよくわからん
238無名武将@お腹せっぷく:01/11/23 00:43
>>236
子産の「子」は王族を表す字。
鄭子産と言うと「鄭の国の王族の産」と言う意味になる思います。
コレは国内、国外で広く使われるものだと思われます。
また、公孫も王族を表すもので、
公孫僑と言うと、「わが国の王族の僑」という意味になると思います。
ただし、コレは鄭国内限定でしか使用されないと思います。
>>237さんが言う通り、
姓;姫
氏:鄭、公孫
名:僑
字:子産
と、思いますので、日本で通例の、姓名字を連続して読む(諸葛亮孔明など)
とすれば 姫僑子産 (姫僑産かも)という事になります。
公孫子産や、鄭僑と言う呼ばれ方は一般的に無いと思います。
私も、余り詳しくないので断言出来ないですが、大きくは間違っていないと思います。
239無名武将@お腹せっぷく:01/11/29 02:08
囲魏救趙age
240転載くん:01/11/30 03:14
19 名前:世界@名無史さん :01/11/30 02:39
秦だけじゃなくて、楚以外の国はみな改革(中央集権化)している。
でも楚と同じく最後は秦にまけた。
ゆえに1への答えとしては、国家体制の問題じゃないと思われ。
まず、「なぜ楚がまけたか」ではなく「なぜ秦が一人勝ちしたか」と考えるべき。

20 名前:世界@名無史さん :01/11/30 02:57
左氏伝などの研究かなんかで、
晋の六卿のうち韓、魏、趙の三氏だけが、
また斉では田氏だけが他の慶氏、国氏、晏氏、魴氏と異なり
自領内で中央集権的な経営をやっていたらしい、というのを読んだような気がする。
つまり晋では国家分裂が、斉では国家纂奪が、国制改革でもあった。

秦では孝公の時、商鞅の「変法自強」があり、
燕では昭王の時「まず隗より始めよ」で有名な改革があった。

楚は、呉子の改革が抵抗勢力につぶされ、封建貴族の連合国家のようになってしまったので
東は呉越、西は巴蜀をしたがえたといっても現地の首長に貢納させていた程度。

もちろん楚以外は改革がつぶされなかったとはいえ、達成度や内実には差があったろうし、
秦以外の国は楚と同じように結局秦にやられちゃったわけで。

21 名前:もし(イフ)だが :01/11/30 03:06
匈奴と楚が同盟して秦を攻撃したらさすがに秦もひとたまりも無いだろう。
楚はこの頃はもう中華思想にどっぷりつかって匈奴を軽視していたのかも。

22 名前:世界@名無史さん :01/11/30 03:07
秦がなぜ強かったのかというと、賄賂攻撃に出て、
敵軍の作戦や敵国の政策をコントロールしたから。
賄賂といっても、金額を試算した論文をみたおぼえがあるが、
国家予算にも匹敵するとてつもなく莫大な資産を投じていたようだ。

その金はどこからでたかというと、西方との貿易から。
義渠戎を滅ぼすと、西方の「絹と玉」で有名な月氏などと直接交易するルートが開け、
巴蜀を併合してからは、巴蜀の物産を西方に転売して莫大な利益を産んだのであろうと。

23 名前:19=20=22 :01/11/30 03:09
ちなみに19=20=22です。昔よんだ論文の曖昧な記憶で書きました。
少し間違いもあるかも知れませんが大枠ではだいたいあってると思います。
241無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 02:49
奇貨居くべしage
242ガオペンギン:01/12/08 03:02
やはり戦争は経済が物を言うみたいですね。
現代戦と同じ
243無名武将@お腹せっぷく:01/12/09 07:42
秦は戦場の外での計略と根回しが上手いね。長平の戦なんかいい例。
国内では実際は小才子なだけの趙括を誇大に恐れるような風聞を立たせ
趙では名将廉パの誹謗を流して遂に廉パを更迭させて趙括を将軍にさせている。
その効があって常勝将軍の白起が趙軍をメタメタに破っている。
うーん、やはり戦は戦場で戦うだけのものでは非ず、だね。
244無名武将@お腹せっぷく:01/12/09 13:46
前々から不思議に思っていたのですが春秋戦国時代の指揮官は個人武勇より
指揮力を買われている人が多いですね。
戦いの進め方も補給線や諜報を大事にし近代的な匂いがします。
が、数百年後の三国志時代になると個人武勇の無い人が指揮官になるのは稀
のようで曹操(も晩年ですが)を除き補給・諜報を大事にする人が居ないよ
うに思えます。
普通、時代が進むほど戦略・戦術は進むモノなのですが何故、こんな逆転現象
がおこっているのでしょう?
245無名武将@お腹せっぷく:01/12/09 14:06
>>244
春秋戦国時代は指揮官の乗り物は戦車と決まっていた
騎乗では身を守るために指揮能力と同じくらいに個人の武力も必要とするが
戦車には車右という専属の護衛兵士が付いて指揮官を守っていた
それゆえに指揮官の武力はあまり必要とされなかったのではないか。と思う。
246無名武将@お腹せっぷく:01/12/09 14:19
>>244
ん〜、三国時代の戦争は諜報・補給を大事にしないというのは、特に記述がないだけでは?
基本的に補給と諜報無しでは戦争はできません。
ただ、官渡、孔明の北伐を見るとは補給を重視して戦略を立てているのが分ります。

春秋戦国時代の個人的武勇がない人が指揮官になると言うのも、記述がないだけで
それなりに武勇があったのではないかと思う。
春秋戦国時代は一騎打が殆ど無かったみたいだからね。
>>244
まあ三国時代は下克上が根付いたと言うか、家柄に関係無く功を上げれば
出世出来るようになってましたからね
逆に言うと下っ端から叩き上げるにはある程度以上の個人的武勇も必要で
あったと言う事で

一方で春秋戦国期はまだ士大夫等の身分制度がはっきり分かれていて
指揮官も士大夫以上の身分のものが多く、下っ端兵士からの叩き上げ
というのは殆ど見られず、その為統率力に加え武勇も備えてというふうな
人材が余りいなかったんじゃ無いでしょうか
宰相=軍司令官な図式もありましたしね
ただ戦術論・戦略論は諸子百家に代表されるように目覚ましく発展していた為
体系的に学んだ人材も多かったのだと思います
まあそれでも商君(戦場に於いてのみ)や趙括のように小才子的な傾向は
三国期より多かったのかもしれません

戦略・戦術も相応に進化してはいたんでしょうが、それが反映されるかどうかは
前線指揮官次第という事で
費偉、満寵、賈充らはその点、春秋期的な指揮官であったと言えるかもしれません
248244:01/12/09 16:33
>245-7
なるほど納得いきます。
戦車→騎乗への変化は特に大きそうですね。
三国志では特に蜀の軍団は関張の個人武勇に頼った戦いの記述が
多いのを不思議に思っていました。
考えたら法正・孔明迄、参謀が居なかったんですね。
も一つ>247さんの記述で思ったのですが、このタイプの指揮官は参謀へと変化
していったかもしれませんね。
春秋戦国期って、都市国家が発展して、最終的に巨大帝国(漢)になりあがる過渡期だよね。
だから、経済も文化も右肩あがりで、社会システムの急速な組み直しがおこっている。
ある階層に属してれば、むしろ平安にくらせた安定社会っていう一面もないではない。

でも三国志の時代は逆で、緩やかな崩壊過程にあった漢帝国が黄巾の乱の後、一気に瓦解して
経済も文化もめちゃくちゃ、人口も激減、社会共同体が分解して、人間がヤクザ組織に入ってようやく
生き延びられるような時代。かなり悲惨だったような気がする。

極論が多いレスなのでsageます。
250無名武将@お腹せっぷく:01/12/12 00:22
>>240
>楚は、呉子の改革が抵抗勢力につぶされ、封建貴族の連合国家のようになってしまったので
>東は呉越、西は巴蜀をしたがえたといっても現地の首長に貢納させていた程度。

これは嘘。春申君は、もともと呉や越の支配下にあった地域の県を治めたんだろ。
しかも、都を東に東に移していったし。
まあ、こういった地域でしっかり支配できていたのは、ごくごく僅かなだったと思うが。
現地の首長に貢納させていた、っていう根拠はないんじゃない?
楚は攻略した地域に県を置いていった。これは秦なんかと一緒。
ただし、県の性格がかなり違う。
地図上から見ると広大だけど、実際人口密度が極端にが低かったことが、
楚の敗北の基本的な原因のひとつだと思う。
251無名武将@お腹せっぷく:01/12/12 20:05
なんで食客は、3千人ばかりなんですかね?
3千は人数ではなく、沢山という意味をあらわしてるのかな。
詳しい人いますか。
252無名武将@お腹せっぷく:01/12/16 11:12
>>251
だと思われ。
趙括マンセーage
254無名武将@お腹せっぷく:01/12/28 16:44
age
保守sage
256240:02/01/04 22:27
>>250
そうかな。ちょっとちがうと思うけど。

>これは嘘。春申君は、もともと呉や越の支配下にあった地域の県を治めたんだろ。

なにがどう嘘なのか意味不明。
それは楚以外の諸国ではずっと後期になってでてきたもので公子の食邑。これは封建制への逆行。
まして楚においては中央集権の証拠じゃなくて地方分権の証拠じゃん。

>まあ、こういった地域でしっかり支配できていたのは、ごくごく僅かなだったと思うが。

そのとおり。他の諸国のように中央集権を貫徹できなかった。

それと人口密度は低かったろうけど、極端にかどうかはわからないね。
ようするに県城支配(都市民)に編成できた連中を支配できても、異民族のまま漢化しなかったのが
相当程度分布してて、そいつらのうちにも原始的な貢納関係を結んだ連中とまったく服属しなかったのがあったろうし
県城支配下の都市民にしても、中央に直結したものと、封建領主の食邑みたいのがあったろう。
>>244,245
ついでに言うと
この頃軍籍の上位に位置するものは貴族なので
それ程武に長けてなくても弓さえできればOKだったと思う。
258無名武将@お腹せっぷく:02/01/21 11:39
これはアゲとこう!
   ∧ ∧∩
   (#゚Д゚)ノ
   (|  |
  〜|  |
    ∪∪
259無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 00:30
春秋戦国時代の時代小説でおすすめを教えてください。
管仲とか楽ッキの小説なんかあったら読んでみたいです。
あとモウショウクンとか。

あんまり聞かないんですけど。
260無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 00:36
>>259
宮城谷昌光という作家がいくらでも書いてるよ。
地元じゃないと図書館にあんまり置いてないのかな?
261無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 00:41
安能務の「春秋戦国志」もある。
262260:02/01/25 00:46
言葉が抜けてた。宮城谷さんの故郷の愛知県の図書館ではたくさん置いてある
ことが多いという意味ね。
>>261
100円で(上)だけゲトしたがまだ読んでないな
あと宮城谷氏の小説は左氏春秋を傍らに置いて読むのがお薦め
時代の流れを感じ取れる気分(w
264無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 17:19
そういえば一年くらい前にいろんな本屋で「重耳」の文庫本が並んでた
のを見た(たしか上・下巻だったと思う)けど最近探しても見つからない
(泣)。
誰か作者と出版社を知ってたら教えてくれませんか?
あと読んだ事があったら感想もお願いします。
265無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 17:20
266264:02/01/25 17:28
>>265
ありがとうございます
267無名武将@お腹せっぷく:02/01/29 18:11
>>259
宮城谷の楽毅なら、あと一年ぐらいで文庫本出ると思う。
268無名武将@お腹せっぷく:02/01/29 18:13
封神演義以外で商滅亡から周誕生あたりを描いた小説あります?
269無名武将@お腹せっぷく:02/01/29 18:13
「孫子の兵法」という本も面白いよ。
270無名武将@お腹せっぷく:02/01/30 22:11
>>268
宮城谷正光の太公望・王家の風日はその時代が舞台になってます。

太公望は、その題名の通り太公望・呂尚が主人公の話。
太公望を核として周・商の両サイドの視点で話が進みます。
太公望がイメージとカナリ違ったので、ちょっと戸惑った。

王家の風日は紂王の叔父、箕子が主人公の話。
商サイドからの視点で話が進みます。

あと、酒見賢一の周公旦もその時代を描いていて、
周公旦を主人公として商サイドからの視点で話が進みます。
ココで描かれている太公望のイメージが自分的に一番しっくり来る。

あと、横山光輝の殷周伝説は封神演義ベースながらも、
なかなか面白く話が仕上がってます。
>>270
間違った。

>周公旦を主人公として商サイドからの視点で話が進みます。
周公旦を主人公として「周」サイドからの視点で話が進みます。

スマソ

272268:02/01/30 22:25
>>270
教えてクンのためにわざわざありがとう!
273無名武将@お腹せっぷく:02/02/04 09:02
これはアゲとこう!
   ∧ ∧∩
   (#゚Д゚)ノ
   (|  |
  〜|  |
    ∪∪
274春野カスミ:02/02/20 21:44
夏冬はないの?
275無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 00:15
保守sage
276無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 00:28
ホウケン VS 孫ビン  宿命?の対決。
277無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 00:37
「兵卒のレンパにございます。このムチで・・・叩いて、お願い・・・」
278無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 00:48
今日、本屋で伴野朗著作の伍子胥が出版されてた。
漏れ、持ち合わせがなかったので買えなかったけど、誰か買った人いる?
279無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 12:38
age
保守sage
始めは処女の如く、後には脱兎の如し
282無名武将@お腹せっぷく:02/03/29 00:34
dat落ちしたかと思ったぜ。あげとこう
話題も枯れて来たんで、私事ながらチト相談。
いま、春秋時代の人間を勢力(国)別に分類してるんだけど、
春秋時代の主な勢力(国)ってどれくらいあるかな?
戦国時代なら、秦/楚/斉/燕/趙/魏/韓/その他って感じで分類したんだけど、
春秋時代って、国とか多いから分類しにくくて…
今ん所、
周/斉/楚/秦/晋/鄭/魯/宋/呉/越/その他
って感じで分けたんですが、他に
この勢力は必要とかあったら教えてもらえません?
284無名武将@お腹せっぷく:02/03/29 01:05
>>283
「戦国七雄」とならぶ言い方では「春秋十二列侯」という言い方がある。
史記の表に出てくる13国がこれ。なんで13あるのかというと魯の「春秋」を編年の基礎にしてるので
重要な12国に魯を加えて13国ある。実際は魯は小国なのであまり重要ではなかった。
285284:02/03/29 01:08
>>283
>周/斉/楚/秦/晋/鄭/魯/宋/呉/越/その他

とりあえず衛、中山、燕がぬけてるね
286284:02/03/29 01:15
春秋十二列国は「魯、衛、晋、鄭、曹、蔡、燕、斉、陳、宋、楚、秦、呉」の13国。
283のあげた周、越の他にも中山が重要。(個人的には代、巴、蜀、莱etcも加えたいが)
どうでもいいんだけど今の世界情勢の縮図に見えるんだよね

周=国連
晋=アメリカ(含む北米)
宋=日本
斉=EU
魯=非EU欧州諸国
衛=中南米
秦=ロシア
楚=中国
陳=台湾
鄭=半島ニ国…荘公共叔鼎立時
呉=アラブ諸国
越=イスラエル

曹、蔡、燕は…、どこだろう?
戦国モードならこんな感じ
晋=EU、韓魏趙=仏英独、斉=米国、燕=日本、秦=ロシア、楚=中国
289散人陸圧 ◆.bP5sRhs :02/03/31 15:19
「隗より始めよ」で、日本にガクキ級の人材が現れないかなあ・・・。
>>289
桀宋の方が登場早そう(w
291転載くん:02/04/06 14:27
31 名前:世界@名無史さん :02/04/06 12:51
春秋戦国の韓、燕、越、趙は
リアルタイムではそれぞれ乾、奄、粤、超とかいてたらしいね。
>>291
あれ?
奄は黄河下流域の一部地方の地名(夏王朝期の古名)のハズ…
まあその地域は春秋初期には南燕という小国があったので
燕=奄が否定される訳じゃないけどね
293転載された人:02/04/07 07:15
>>292
奄じゃなくて偃(のツクリだけの字)だった。すまそ。

でも燕ってのはいきなり今の北京あたりにできたんじゃなくて
山東半島の奄(エン)の故地に置かれた国(奄=偃=燕)が成王の頃に北方に転封してできたんで、
奄の字もまんざら関係なくもないと思うけど。


294 :02/04/12 20:20
文庫版楽毅発売記念age
295色部もどき:02/04/12 21:04
状況からみて、戦国の意味もみてとれねーのかよ?
>>1の厨房め!
>>1の母より
296無名武将@お腹せっぷく:02/04/16 09:51
>>293
たしか春秋時代の国号は、南燕ではなかったか?
うろ覚えで、もうしわけないが。
297無名武将@お腹せっぷく:02/04/17 10:08
南燕は山東省ではなく河南省。これも分家。
298無名武将@お腹せっぷく:02/04/19 00:33
五胡十六国の南燕とは別ね。当たり前だけど。
299矢龍:02/04/20 16:05
失礼いたします。三国時代以外のようなので参上しました。よろしく。

小説十八史略を読んで、伍子ショの執念にラブ(はぁと)です。
俺は祭足にはぁとです。
鄭にしろ斉にしろ、後継問題などの内訌で揺らぐと、せっかくの覇権も
あっさり失ってしまうのがつらい。
覇権後も勢力を留めたのは晋くらいか
303無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 11:10
百里奚の後嗣である孟明視のことだが、、「孟明視」というのは名なのか、
それとも字なのだろうか?
「孟」とつくくらいだから、正嫡ではないにしろ庶兄で長男だっただろう
くらいは想像がつく。
となると「孟明視」は字ということになるのだが、三次の字というのは、なにか
腑におちない。
なにかで、「孟明」という表記を目にした記憶もある。
となると、「視」が名ということになるのだろうか。
浅学ゆえ、いまひとつはっきりしない。
いちおう『左伝』は持ってるのだが…。
304無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 12:49
孔子が、斉及び太公望呂尚がキライって本当ですか?
305無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 13:39
>>304
「嫌い」といった断定的な言い方は、多少の語弊があるのでは?

たしかに、孔子は「礼」の本質を追求した人間でもあり、斉への仕官の際には
景公が諾う方向に進んだ話を、晏嬰に断たれている。
そもそも斉は、国体や国民性が孔子の目指す「礼」とは相反する観があり、晏嬰
が孔子の仕官をはねようとしたのも、孔子の礼が当時の風潮にそぐわなくなって
きていたからではなかったろうか。
斉は礼徳よりは、むしろ法で治まっている国であり、孔子の掲げる(小難しい)
「礼」を持ち込んだ場合の危険性を懸念したのかもしれない。
とはいっても「論語」を読めば分かるが、晏嬰は孔子に賞賛されている面もあり、
一口には言い切れないのが真相だと思われる。
306無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 13:42
続き

「太公望がきらい」というのは、孔子が周公旦を最も崇敬したのは有名だが、
その後嗣である伯禽が祖である魯の出身であり、春秋時代、魯が概ね斉の下風
にたたされていた事からくるせいかもしれない。
斉の太祖が太公望であり、斉と魯の政体が正反対だったことも原因なのかも
しれない。

資料を見ないで書いているため、いい加減であろうし、あまりアテにはならん
かもしれない。
長々とすまない。
307無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 13:50
>>305,306
感謝、感謝。
祭足って春秋ではほんのちょっとしか出てこないよ
あの人の本では大活躍だが・・
309無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 14:56
この時代って刺客が多いよね、何気に
しかもみんなカコイイし
310無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 20:52
>>303
「孟明視」は字(あざな)が孟明。名が視。
このように春秋時代までは字が先で名が後にくる。
漢代以降では反対に名が先で字が後につく。「備玄徳」「亮孔明」みたいに。
311無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 23:08
魯公「政治の基本は身内を重んじてヨソモノを信じないことでしょうな」

太公「いや、それでは魯の国は外国からどんどん領土を削られて弱小国になってしまいましょう。
   むしろヨソモノであっても能力のある者はどんどん登用すべきですぞ」

魯公「なんと。それではいずれ斉の国は他人に国を乗っ取られてしまいますぞ」
312311:02/05/02 23:10
>>311
あ、魯公じゃなくて周公ダタ。鬱氏。
313無名武将@お腹せっぷく:02/05/03 10:47
>>310
わざわざありがとう。
疑問が氷解した。
やはり、自分のなかでの解釈でよかったんだ…。

つまり、「百里(姓)・視(名)・孟明(字)」ということになるのか。

他の人物でのケースは知っていたのだが、この人物だけは、いまいち
わからなかった…。
314無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 11:27
子産(公孫僑)の父親である子国って、姓・名で書くと「姫発」で、武王と同じ
だったりする。
当時、本人はそのあたりに対して、なにかしらの意識は無かったのだろうか?
315無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 12:15
晋に限らず春秋時代の国々における上卿って、ほとんど門閥といっていい感じで
どこか寡頭政治的だが、この人物が卿になっていれば、という人物に叔向がいる。
結局は平公の大傳に収まり、それなりに影響力もあっただろうが…。
>>315
叔向もそうだし斉の晏嬰もそうだけど、そういう人物の存在によって
力をつけた家は、次の代でライバルに叩かれてるね
六卿が確立する前の郤氏とかは郤克の死後族滅されてるし、その後
羊舌食我(叔向嫡子)は親交の深かった祁氏と一緒に六卿の手で
滅ぼされてる
晏圉(晏嬰嫡子)は田氏の陰謀に引っ掛かって魯に逃亡するハメになった

それを潜り抜けた例としては名宰相趙盾の後の趙氏とか
317無名武将@お腹せっぷく:02/05/09 10:35
>>316
たしかに、加速度的に権勢を増した家というのは、潰れるのも早いなぁ。
羊舌氏は公室の流れを汲んでいるから、叔向以前も晋に存在してはいたわけだが、
叔向の時代に、一気に大きくなった観もある。
(叔向って字の指すように、たしか嫡流ではないよね?)
晋でいえば、他に伯氏や胥氏も消えていったように記憶している。
六卿確立以前に滅んだ名家というと、実に多い気がする。

まぁ、こういった政争の一因には、晋の公族の力が弱いせいでもあるのだろうが…。
しかし、趙盾は名宰相といいきれるだろうか?
成り上がりはたいてい個人やせいぜい親子2代くらいの
個人的力量に依存してるからじゃない?

韓氏、魏氏、趙氏、田氏は当主の力量に依拠しない要素があった。
これらは他の氏族と異なり早くから内部で中央集権的な支配構造だったといわれている。
楚の若敖氏について疑問なのだが、

そのなかでも有名な闘椒(子越)でいうと、(子)越は字なのはわかる。
椒が名だということもわかるのだが、だからといって、闘が姓とは思えない。
若敖氏は楚の名門で、君主であった若敖の子から発していたはず。
となると、姓は楚王室の「ビ」(変換不可)とも思えるのだが、となると、闘は氏で
食邑名ということになるのだろうか?

未熟者に、どなたか御教示願いたし。
320無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 01:14
「闘椒」で名なのでは? 漏れもよくわからんが。
321無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 10:34
>>320
いやそれが、「春秋左氏伝」のなかに、成王の時代、名宰相として子文が有名だが、
彼は闘殻於莵と名づけられている。
(ついでにいうと、子文の後嗣は闘般という)
「左伝」は読みにくくて、なかなかはかどらないため、どうにもわからない。
どなたか、お願いできないだろうか…。
322無名武将@お腹せっぷく:02/05/18 16:32
楚の言語は当時まだ中原のことばにぜんぜん同化してなかったのかも知れないね。
呉、越もそうだけど、固有名詞なんかにまったく中華らしくないのが大杉。
いみな・あざな・姓・氏の風習もまったくちがったシステムだった可能性もある。
323無名武将@お腹せっぷく:02/05/20 12:24
日本の通字みたいなものでは?
北条氏の「時」とか足利氏の「義」みたいな。
324田単:02/05/22 18:52
趙の李牧がもう少し早く生まれていれば、秦の天下統一はもう少し
遅くなったんじゃないか、と思うのだが…

どなたかご意見ちょうだい。
>>324
趙の命運は武霊王の横死の時点で既に尽きていたと思われ

せめて武霊王の配下として李牧か廉頗か楽毅の内二人がいて、武霊王が
もう10年生きていれば秦のあそこまでの伸張は無かっただろうし、おそらく
燕も併合されていたと思う
ただその場合、斉の弱体化も無いので趙斉の二強時代になってのではないかと
>>324>>325
長平戦役での惨敗も、影響は大きいと思う。

趙は武霊王の死後、恵文王のもとで無難に経略がすすんでいる。
たしかに西方の領土は秦に蚕食されてはいたが、藺相如、廉頗をはじめとした
人材面も悪くなく、どちらかといえば西方よりも斉(東方)への侵攻が目立つ。
隣接した諸国との関係は良いとはいい難いが、少なくとも「閼与」で秦に勝利した
頃は、秦に対する最有力対抗馬であったはず。
(折も折、斉と楚の国威が著しく減退していた時期でもあるわけで)
残念なのは、恵文王の在位期間が没年齢に反して短いせいと、後嗣の孝成王が、
それまでの路線の変更を企図したせいかもしれない。

無論、決定打は廉頗の更迭になるのかもしれないが…。
327西成線利用者:02/05/23 12:27
>>325>>326
レスありがとう。
確かに、武霊王がもう10年も長生きしてたら、状況は大きく
変わった可能性が高いね。
そして彼のもとに藺相如、廉頗、妄想ついでに李牧なんかが
いれば、胡服騎射の趙軍が、各国を圧倒したかもね。
そうすりゃ、武霊王でなく、武王ですんでたかも…

それと、長平の戦いで趙の将軍が李牧だったら、白起対李牧の
名勝負になってたろうなー、とも妄想したりして。
328田単:02/05/23 17:54
↑このスレは私です。
武霊王時代の趙は胡服騎射ばかりが話題になるけど、外交・諜報でも
相当な力があったんだよね

中山攻略でも楼緩を送り込んで秦の動きを封じたり、ビン王に讒言させて
反趙の筆頭勢力だった孟嘗君を斉の政権中枢から遠ざけた上、配下を
桀宋の元に送り込んだりして薛(孟嘗君の領国)を牽制させてる
武霊王の死後、その手の外交は魏冉の独壇場だったけど、武霊王が存命で
全盛期の魏冉とやりあった場合を考えるとどっちに軍配が上がる興味あるね

>長平の戦いで趙の将軍が李牧だったら

廉頗のままでも趙の判定勝ち確定だったけどね…
兵站の問題があって秦はあのまま滞陣し続けるのは不可能だったし
守り続けるだけで上党は趙の物になってた、戦略的勝利

武霊王の死後、築き上げた諜報網が雲散霧消した趙と、魏冉の失脚後も
それを活用した范雎=昭襄王の差だな
諜報力が互角なら讒言を鵜呑みにしての廉頗の更迭は無かったと思う
330無名武将@お腹せっぷく:02/05/24 12:32
>>329
たしかに廉頗の更迭は、結果を振り返れば痛恨事だったろう。
ただ、原因が諜報力の差のみでは、無論なかったように思う。
というのもこの時期は、趙での恵文王から孝成王への代替わりとおおよそ重なる
ためである。

恵文王の時世では、藺相如、廉頗らを筆頭に東進路線に重点をおいている。
そのため、秦王との会盟(戦国時代では形骸化)や「完璧」の故事など、あくまでも
秦に対しては専守防衛に近い路線をとっている。
恵文王の死後、孝成王の代になるとその路線が覆された観がある。
また恵文王が知命そこそこで没しているため、孝成王はおそらく若年だったように
思われる。
君主の交替にたいていつきまとう、君臣間の溝が無かったとは言い切れない。
恵文王であれば廉頗を信頼もしようし、秦の諜報戦に対しては、藺相如等を起用して
乗り切れたはずである(恵文王治世時ならば、平原君の発言力も幾分弱い)

君主の資質も、戦国期では春秋期(中期以降)よりも影響があるように思われる。
331田単:02/05/24 18:14
>>330
そうだね、確かに史記を見ても、廉頗の充実記には斉をせめて…という
記述が多いよね。
武霊王時代は、北、西に目が向いていたようだが…

しかし、秦は諜報戦が得意だね。廉頗を引っ込めたのも、
信陵君を退けたのも、李牧を殺したのも、全部そうだものね。


この時代興味あるんですけど、これは読んどけって
本・小説・史書などありますかね?
>>332
入門編として宮城谷昌光
あとは岩波の春秋左氏伝と史記世家・列伝
あとは戦国策かな
334無名武将@お腹せっぷく:02/05/25 12:09
>>332
史書に関しては、明治書院からのものが、手に入れやすい範囲ではいい。
ちくま からでている「史記」なんかは、入門としては十分すぎるだろう。
335質問:02/05/25 13:24
趙が話題になってるので聞きたいが武霊王と恵文王ってどっちが王としての資質があると思う?
俺的には廉頗や、藺相如をうまく使った恵文王がよいと思うのだが・・・
武霊王はちょっと独断するとこが多かったし・・・
独断的なところもあったが武霊王によって趙の軍事力が増強されたのは事実。
恵文王は地味ながらも藺相如や廉頗をよく用いて秦の圧力に耐えたのも事実。
性質の違いもあるけど二人とも王としては及第点以上ではないかと・・・

それよりも悼襄王と趙王遷のどちらが王としてふさわしくなかったかだな(w
337無名武将@お腹せっぷく:02/05/25 14:23
>>335
王に求められる資質というのは、時勢が大きく影響するのではないだろうか。

武霊王の即位時、趙は近隣の魏、斉、秦等には及ばない程度の国力であり、武霊王
が軍国主義に傾いたのは、ある意味妥当であり自然かもしれない。
恵文王の時期(武霊王の死後)は、国力は飛躍的に増大はしているものの、「沙丘」
での一件があったわけで、国内を安定させるほうが肝要だったのではないか。
また武霊王の死も影響しただろうが、秦の台頭が顕著でもあり、国土の拡大を企図
しようにも頭打ちになっていた観がある。
国威を、伸張もしくは無難に維持したという事実を見るならば、武霊王、恵文王
ともに及第点以上といえるはずである。

つまるところ二人の王の評価というのは、時勢に適した治世を為したか否か、に
尽きるのではないだろうか。

余計だが、この二人の王、どことなく孫策、孫権と続く後漢末〜三国期の呉を
彷彿させる。
338無名武将@お腹せっぷく:02/05/25 15:04
>>336.337
つまり比べ様がないって事?
どちらもその時代を生き残るために最善と思われるやり方だったって事でいいのかな?
趙の悲しいところは器量のない孝成王が武霊王に憧れた点かな?

もう一つ趙に関する質問だか、趙における名宰相って誰がいる?
>>338
沙丘で公子章の襲撃を察知して恵文王の身代わりになった肥義
曲がりなりにも五国の合従を組織して(空中分解したけど)秦を攻めた
(他には犀首・孟嘗君しかやっていない)李兌
恵文王・孝成王二代に渡って無難に補佐した平原君

このあたりかなあ
肥義は名宰相だろうなぁ。
胡服騎射の際も、名言を吐いて武霊王を助けている。
他には、虞卿も名臣といえるのではないだろうか。
春秋戦国といえば宮城谷氏だが、若手の塚本青史はどう思う?
宮城谷氏の柔らかい文章とは対照的で新鮮だったんだけど・・・。
特に「白起」が面白かった。
342341:02/05/27 00:18
ごめん、今プロフィール見直したらあんまり若手じゃなかった・・・。
新進気鋭と言い直すべきかな?(スマンあまりいい言葉が思いつかない)
>>342
春秋末期の斉を舞台にした、「田釐子・成子」も書いてるな。
晏嬰の最晩年あたりからの話だ。
344無名武将@お腹せっぷく:02/05/27 12:55
>>338
迷宰相であれば、郭開が挙がるな。
他に、置相で田単や魏冉もいる。
345田単:02/05/27 12:59
>>339
平原君はちょっと落ちる気がするなぁ。

>>332
おすすめの本を読んだら、その後は安能務の「春秋戦国誌」も
観点が違っておもしろいよ。彼の「始皇帝」も薦める。
346332:02/05/28 00:25
333.334.345殿
ありがとうございます。

宮城谷氏って「楽毅」書いてた方でしたっけ?本屋で見かけた気が・・・。


>>339
247年の信陵君、241年の春申君の例は除外、ということ?
>>347
指摘スマンです、春申君の方は完全に失念してました

ただ信陵君の方は大梁防衛戦の延長にあるもので、信陵君自身が合従を
組織したというのとは違うと思うので敢えて外してます
しかし、趙は名将を多く輩出してるな。
廉頗、趙奢、楽乗、李牧が特に有名だろう。
廉頗と楽乗が燕の侵攻を撃退した際など、数分の一の兵力だったらしいし。
>>349
「不遇」の感が否めないけどね
スレの流れ見てもやっぱり趙が好きな人が多くて秦が嫌いな人が多いのかな・・・
>>350
というより、劣勢な側が挽回する、という展開を多くの人間は好むのだと
思われる。
文侯の時代の魏なんか、話題には挙がりにくいが好きなんだが。
352田単:02/05/28 17:44
趙を話題にしたけど、私は斉(田斉)が好きなんだけどね(この名前
名のってたらあたりまえか)。
ただ、田単以降、ぱっとしないんだよね。

>>351
文侯の時代の魏は、名臣が多いよね。このころから次の武侯までが、
魏の最盛期だよね。恵王になって、転がり落ちるね。
>>352
しかし名君の孫がヤバイジンクスでもあるのかねえ
  最盛期 引き継ぐ 転落
斉  威王   宣王   ビン王(樂毅にボロ負け・横死)
趙  武霊王 恵文王 孝成王(長平…)
魏  文王   武王   恵王(馬陵…)
楚  荘王   共王   平王(間に三代いるけど荘王の孫)(伍子胥…)

易姓思想もまんざらでたらめじゃ無いなとか思ったり
354353:02/05/28 19:55
間違えた
文王 武王×
文侯 武侯○
>>353
楚でいうなら、荘王の孫の霊王の方が、平王よりひどいのではないか?
戦国期でいうなら、懐王 頃襄王 孝烈王と徐々に持ち直したりもするな。

それにしても楚は、暴君、暗君が多い。
やはり国体が古くて君主の権威が強いせいだろうか…。
中原だったら、たちまち追放や暗殺で君主の代替があるものだが。
356田単:02/05/29 12:54
>>353
売り家と 唐様で書く 三代目 ってとこだね。
357無名武将@お腹せっぷく:02/06/04 13:50
「竹書紀年」に詳しい方、どなたかいない?
せめて抄訳でもいいから、読んでみたいのだが…。
358田単:02/06/06 18:59
最近レスがないなあ。白起さんは、またどこかの攻撃に
出向いているのかなぁ。
359355:02/06/07 14:04
>>358
こちらのスレに移行している。
ttp://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1022629885/l50
360無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 23:31
>>356
今本と古本があるよ
保守
362無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 05:38
やはりいいよ。
363無名武将@お腹せっぷく
戦国時代は熱いね。