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無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 00:31:22
良スレ立てんな芋虫氏ね
立てたは良いが、適当な話題が見当たらん。
俺の場合、その嗜好ゆえに考える事が軍事に偏ってしまうしね。
大した話じゃないが、諸葛誕の反乱に際しての朱異の行動とかは、個人的には全く評価できないね。
と言うか、朱異自体をあまり高く評価していない。
安豊で三万もの軍を率いていながら、真っ直ぐに寿春へと向かい、
孫綝と協調する事無く河川への直接的な攻撃を行い、失敗して追撃され、多数の被害を出している。
孫綝と合流した後も、今度は黎漿水に対する直接的な攻撃に終始し、
最後は敵の迂回と物資集積基地の破壊を受けて撤退を余儀なくされている。
ただ、こういった事から分かるのは、やはりリデルハートの言うとおり、
安易な直接アプローチは、間接アプローチの前に容易に敗北を喫するという事だろうね。
諸葛誕の乱に関する話じゃないけど、朱異に関連してよく分からない事がある。
朱異の伝では、注釈の呉書に諸葛恪が合肥新城を攻囲した時の事が書かれてて、
その時の朱異の献策が、「軍を豫章に向かわせれば石頭城を突破できる」というものがある事。
石頭城では建業に向かう事になってしまうし、豫章という記述と合わせると、
これは石陽城の間違いなんだろうか?
陽と頭を混同する事があるのかどうかはしらんけど。
陸遜のヘソ出しはいい加減やめてほしい
大軍を率いている場合、複雑な行軍経路を取れないんじゃないかねー。
規模を適度にdivisionして有能な部下に任せてればもっとスムーズにことが運んだかもしれん。
落ちて暫くしていたけど、新スレが立ったんね
とりあえず
>>1乙
また存分に語ってもらいたい
>>1乙
三国志の大まかな部分はよくゲーム化されたりして有名だが
後期の事をあまり知れないので自分にとってはすごい有用なスレです
特に後期の呉なんかすごく興味深いです
>>6-7 どうも。
ただ、理想としては、俺がいようがいまいが活発に議論されてるってのが望ましいんだけどね。
>>5 複雑と言うか、朱異が安豊に存在しているというだけでもだいぶ違ったと思う。
魏は、王基らを前衛として寿春に派遣し、包囲陣地を築かせると共に、
司馬昭が皇帝を伴ってまず項まで進んで諸葛誕攻略の態勢を築き始めた。
その後、司馬昭は漸次前進して丘頭、寿春に至ったのだけれど、皇帝は未だ項にあった。
諸葛誕は文欽ら呉軍と合体して十数万の戦闘員で籠城してた上、外部に呉軍があったから、
この包囲には最低でも17,8万、或いは20万以上が割かれていたはず。
とすると、項にあって皇帝を守るべき軍は5万を大きく超える事は無い上、
穎水を中心とした水運で絶えず寿春への補給が行われていたはず。
もし朱異が麾下の3万を以って淮水を渡河し、汝陽の辺りに出たとしたら、
魏としては皇帝の軍自らがこれに当るか、或いは包囲の軍から割いて当らねばならないし、
包囲の陣地は物資の欠乏に悩まされ、皇帝とも遮断されるので大いに狼狽したはず。
連絡線の遮断と内線の有利を享受できる絶好の位置にあったのに、
徒に敵を正面攻撃して敗れ、呉軍の攻撃を東方からのものに限定した事によって、
魏軍は東方に全努力を傾注すれば良いという単純な状況となってしまった。
孫綝との合体による戦力の増加が、かえって敵の更なる戦力増加を生み、
有利よりもむしろ不利な状況に自らを追い込んでしまったと思う。
あまり意味は無いけれど、イメージを掴む為に計算してみると、
寿春近傍に20万人駐屯し、1人当り1日1.2リットルの穀物を消費するとすると、
1日に24万リットルおおよそ200トン程度必要になる。
戦国時代の秦が作った舫船は、50人と3ヶ月分の食糧を積んで航行したらしく、
これを、兵員の体重70kg、その諸装備20kgとして計算すると、積載量はおよそ10トン。
この舫船なら20隻強で1日分の穀物を運べるが、長江用の大型船を穎水で使う事はできないだろうから、
これよりは小さな船で運ぶ事になる。
大体半分の積載量の船を使ったとすれば50隻程だけど、1日分だけ運んでも仕方なく、
寿春近傍に数日から10日分の食糧を集積する基地を設けるとすれば、
数百隻の輸送船を絶えず動かしていなければならない。
恐らく、輸送量が膨大なので、淮水下流から徐州の、汝水と淮水を使って豫州の穀物なども、
寿春に向かって運んでいただろう。
いずれにしても輸送の多くは豫州を経由して運ばれていくと思うので、
安豊から北へ豫州方面に出る事で、包囲軍を強く締め付ける事ができたと思う。
包囲陣地への攻撃という直接アプローチではなく、その補給を締め付ける間接アプローチの方が、
より諸葛誕を助ける事になったと思う。
と言うか、諸葛誕側が勝利するにはそれしかなかったのではないかとも思う。
なんだか俺ばかりが書き込んでるし、以前も言った事だとは思うけど、
少なくとも235年以降に活躍した将帥で、それも呉における最高の人物は、
陶璜その人であると考えている。
彼は戦闘においてはそう華々しい才覚を示す事は無かったし、
戦略においても失敗をしなかったわけではない。
けれども、彼は実に見事な、当時としては最も綺麗に決まった間接アプローチによって、
交州における呉の支配を取り戻している。
これは実に素晴らしい事だと思う。
俺は、ただその一点を以ってしても、陶璜が三国時代を通じて十指に入る名将に列せられると考えている。
ここまで陶璜を評価しているのは俺くらいなもんだと思うけどね。
多くの人に、諸葛亮が死んでからの時代にろくな将軍がいないと思われているのは悲しい事だと思うが。
スレ終了
まぁ諸葛亮死後の呉と聞かれれば陸遜、朱然、丁奉、陸抗あたりをまず挙げるだろうね。
陸遜や朱然はそれ以前の活躍の方が顕著だから対象外かもわからんけど。
ある程度のレベル以上だと、優れた指揮官である事は分かっても、
誰と比較してどうだとかってのはよく分からなくなる。
ましてや、少ない記述から推し量るしかない場合は尚更だね。
だから、俺が陶璜を推すのは、結局は好みの問題になっているんだと思う。
例えば南北戦争のグラントとシャーマンは、どちらも有能な指揮官ではあるけど、
タイプは違うしどちらが上とも言い難い。
そういう場合に、自分自身がどちらを高く評価するかって言うと、
好みで評価するしかない。
俺の場合は、戦闘が巧みな指揮官がやはり好きだから、
巧みな戦術と指揮で会戦に勝利するのではなく、
どちらかと言うと戦略で勝利を得る事の多い呉の指揮官はそれほど好きじゃないんだな。
ところで、丁奉はそんなに評価が高いのだろうか?
個人的には、少なくとも史書を読む限りは、勇敢な部隊指揮官としては読めるけど、
大規模な軍勢を率いてはさほど有能さを感じられない。
自慰もたいがいに
単純に考えるとやはり消去法じゃないのかな。
呉の輝かしい時代を知る数少ない歴戦の宿将であり、
孫休のクーデターに協力した功臣という位置づけ。
呉末期になるとそもそも魏に対する大規模な軍事行動自体が少ないので、
彼を凌駕するような活躍を見せる場面がほとんどなかったし。
結局目立つ戦果を数多く挙げていた彼の評価が上がってしまう…みたいな。
丁奉はそもそも政変がなければあのまま部隊指揮官として生涯を送ったろうし、
勇敢な指揮で名を馳せたことを、そのまま評価してやればそれでいいんじゃなかろうか。
勇敢さってのも単純だがやはり得難い存在だよ。
特に官僚化が進んだ軍隊にとっては尚更だと思う。
丁奉って(たぶん)寒門で叩き上げって事からいけば極官はありえないほど高い
年功も影響はしてるだろうけど、やっぱり政変がモノをいってるんだろう
あとは政変までは政治の世界に余計な足をつっこまずにしっかり戦功をあげ続け
どの執政者にも疎まれなかったってのもあるんでしょ
上からすればこういう人物は叩き上げだけになおさら扱いやすいし
勇敢さというのは身に付けようとしてもそう身に付くものじゃないし、
丁奉の場合、それが無思慮と結びついておかしな行動に走ったという事も無いので、
勇敢な武人という彼の評価は揺るがないと思う。
ただ、ハンニバル麾下で活躍したハスドルバドルを名将と呼ぶのには抵抗があるように、
丁奉を名将というくくりに入れるのは、個人的には抵抗がある。
それが彼にとって幸か不幸かは分からないが、孫綝誅殺に加担する事で位人臣を極めたのが、
一つの転機だったろうね。
その後に戦功を挙げられなかったところを見ると、分不相応だったのかもしれないが。
269年〜270年正月にかけての穀陽襲撃では、得る所が無かった上、
退路に当る渦口で牽弘に敗れているあたり、むしろ攻めさせられた感が強いしね。
前に名前が挙がっていた朱異もそうだと思うけど、
国家的な観点で軍を動かした経験(才覚)のある人材が残っていなかったんだと思う。
目の前の敵を打ち破るとか、一郡を占拠して我が国の領土とするとかなら良いけど。
だから、功績を挙げて官位は上がるけど、後世の者からするとなんか物足りないのかな。
呉におけるそういう存在は陸遜が最後なのかな、やはり。
例えば三国志ファンの間でも名将の誉れ高い朱然なんかも、
優れた働きをしているのは数千を率いて戦っている時。
麾下部隊に対する優れた指揮によって切り抜けてはいるけど、
簡単に退路を断たれたり、戦略レベルでは失点も結構ある。
呉では多くの場合、戦争の際は、自分の私兵を中心に指揮する事になるから、
国家戦略と戦術を養う事はできても、間の軍事戦略については、
その素養を身に付ける機会に恵まれにくいのかもしれない。
そもそも恐らく数万人規模で攻めてきて、どうなったら数百人で行動中に奇襲を受けるハメになるのかとか、
魏・呉の史料にそれぞれ残る戦跡の、どれとどれが対応してるのかとか、朱然の行動は意外に謎が多い。
しかし「どちらかと言うと戦略で勝利を得る事の多い呉の指揮官はそれほど好きじゃない」なら、
有名な周瑜やどうやら一押しの陶コウよりもこういったタイプの方が当てはまるんじゃないの?
好きなのと評価できるのは別物、ってことも当然あるだろうが。
好きかどうかで決めるのは、どちらが上か判断しづらい場合だけで、
好きなタイプの指揮官だけを評価しているわけじゃないからね。
それに朱然は、戦闘と言っても誰かの麾下であったりとか、
小規模なものであったりするんで、本当に好きな指揮官とは少し違うんだよね。
朱然は言ってみれば、カエサルではなく麾下の軍団長の、
ナポレオンではなくミュラやネイのような功績しか見えてこないし。
あと、本当に凄いと思った指揮官は、好きなタイプか否かに関わらず好きになる。
陶璜に関してはそんな感じだね。
朱然とネイに通じるものがあるというのは判る。
Jominianと名乗るほどだから、こういったタイプの人間の能力に否定的な立場を取るのも当然なのかもね。
しかしここでネイについて語ってもしょうがないので、記述が錯綜する237〜246年の朱然について考えてみたんだが、
結論が出せない。
馬茂の乱との兼ね合いから、朱然伝にある246年の柤中侵攻はほぼ確実。
動かしようのない大舞台である241年の襄陽包囲と、その役者も呉側の朱然、魏側の司馬懿は間違いない。
夏侯儒の件とも年号・場所・人物ともに一致する。
となるとこれとは別に、朱然と胡質によって争われた戦いがあるはずなんだが、
237年の江夏と242年の樊城包囲と二度に渡って行われたと見るか、
孫盛の意見に従い年号・地名の誤りであって同一のものと考えるべきなのか…
しかし誤りとするなら随分と大胆な誤りだ。
戦闘が巧みな、と言っても、優れた戦術手腕と、それを支える戦略手腕あっての事だからね。
例えば、アレクサンドロス大王やフリードリヒ大王みたいな。
で、朱然の話だけど、242年の記述はあくまで柤中の事しか書かれていない事を考えると、
241年の樊城包囲と同一と考えるのが良いと思うよ。
司馬懿に敗れ、三州口まで追撃されたとは言え、柤中に入っていた諸葛瑾らは残っていた。
敗北によって離散した軍勢を集結させつつ、せめてもの戦果として、
柤中近傍の民衆を拉致しようとしたのかもしれない。
その内、荊州刺史が退路を断たんと進んできた為、勇戦して突破しつつ、
分遣した諸部隊を集めながら撤退した、という運びと考えるのが自然かと思う。
ただ、夏侯儒がケ塞まで前進したという事は、司馬懿もそこまでは前進したはずなんだよね。
というと、ケ塞から三州口まで追撃した事になるけど、これは指呼の間。
であるならば、司馬懿の追撃は晋書や晋紀にあるような大きな戦果は挙げてないのかもしれない。
まぁ、沔水に追い落とされて多数の被害を出した可能性はあるけど。
>>24 胡質伝を見るに、「朱然が樊城を包囲してる最中に軽騎で接近し城内を安定させた」とのことだから、
その線でいくなら、ここまでは胡質は夏侯儒と同行してたと見るべきだろうね。
あるいは柤中における胡質の進軍が先にあり、この敗北のせいで夏侯儒が戦力不足に陥り進軍できなくなったか。
そういえば上で挙がっていた朱異がちょうどこの時朱然の部下として参戦し、活躍していたらしいね。
魏書明帝紀の表現も「司馬宣王に防がせた」止まり。
交戦して敵を破っていれば「之を破った」、将官クラスの敵将を討てば「〜を斬った」と明記するのが常だから、
まぁそういうことなんだろう。
>>25 柤中は、漢族と異民族合わせて10万人も居住し、沃野でもあったから、
呉もここを奪う事にメリットを見出してたんだろうね。
柤中を襲うにしても、予め漢水の線で防御の為の態勢を整えてからでないと難しいので、
樊城の包囲に先立って朱然が柤中に入った可能性は低いと思う。
樊城が包囲されてから司馬懿の到着までに、樊城を攻めあぐねた朱然が、
戦力を柤中を掠める事に振り向けた可能性もあるけど、
蒲忠と胡質が数千ずつ率いている事を考えると、司馬懿の到着後と考えた方が良いだろうね。
ただ、胡質らは合わせて1万近い兵力だったろうから、勇戦しているとは言え、
僅か800しか率いていない朱然の前に易々と撤退するのも不自然なので、
或いは、襄陽・樊城の包囲が続けられている中、
朱然が(恐らく)峴山・中廬山辺りの谷間に少数で布陣している事を知った胡質らが、
それを攻撃しようと大きく敵軍を迂回して漢水を越え、朱然の退路を断った、という事も有り得るかもね。
で、朱然を撃破し切れない内に呉軍が戦力を集結して包囲されかかった為、撤退したのかもしれない。
そうすると、胡質は結構な戦略的手腕があった事になる。
仮に朱然を撃破できないにしても、呉軍は連絡線を遮断される事になるので、
胡質の行動によって樊城の包囲も自ずから緩むだろうしね。
241年ならそれこそ芍陂の全jらの軍も含めた同時侵攻だから、
朱然の樊城攻略と諸葛瑾の柤中占拠はほぼ同時のハズ。
また朱異の進言から朱然は包囲中、樊城周辺の陣容を掃討することで圧力を強めていたと判る。
柤中に限らず、一旦兵力の分散が行われていたのだろう(でないと朱然側の数が合わない)。
荊州刺史である胡質を中心に兵力1万未満なら、司馬懿の到着前であってもおかしくないのでは?
司馬懿の到着後に、一時とはいえまだ戦力の集中をかなえていないようではあまりに不用意だし(それでなくともだがw)、
第一そんな情勢なら司馬懿は戦力の小出しで様子見、なんてこともしないで一気に打って出るだろう。
司馬懿が出した軽騎=胡質というのも有り得ない話しではないけど、
その場合胡質伝の内容が先、朱然伝の内容が後と別けて考える方がいいのかも。
ただ呉主伝やらの時系列を見ても、そう長いこと陣を構えていたとも思えんのだが…
夏侯儒がケ塞まで前進しているので、仮に胡質がそれに同行していたとすると、
迂回部隊はケ塞の駐屯していた軍から抽出していた事になる。
敵に対して少なかったという以上、夏侯儒の軍は精々2万程度だろう。
その中から1万も割くというのは、5万を率いる朱然の眼前で行うには危険だろうって事ね。
朱異の進言である「外囲を破った」という外囲が何を指すのかは分からないが、
樊城まで包囲している以上、漢水渡河作戦が行われたはずで、それに付随したものだと思っていた。
ただ既に述べたように、朱然が軍を広く分散配置していたなら、軍を分割するのもそこまで難しくないし、
胡質が迂回と退路遮断を司馬懿到着に先立って行ったという事は有り得る。
司馬懿到着後ってのは、司馬懿到着〜樊城解囲ではなく、樊城解囲後の話ね。
晋紀等にある朱然の大敗が大いに誇張されたもので、樊城解囲後もまだ相当な戦力を有していたなら、
漢水を遮断しつつ、柤中の劫掠を行えた可能性もあるので、
その劫掠中の朱然を襲った可能性を述べたものだね。
この戦役の一つの問題は、直後に諸葛瑾が死んでいる事なんだよね。
朱然も車騎将軍とは言え、諸葛瑾は大将軍だったから、実質はともかく、名目は諸葛瑾が総司令官だったと思う。
となると、撤退自体、諸葛瑾の病状悪化によってなされたのかもしれない。
当然、全jの不甲斐ない撤退など、戦況の悪化も原因だったろうけど。
234年
諸葛亮の北伐に応じ、荊州に侵攻し威勢を示すが途中召されて孫権に従い合肥包囲するも間もなく撤退。(衛臻伝)
孫権の合肥新城攻めの際に全jとともに左右の督に任じられたが、病が発生したことから取りやめになった。(朱然伝)
236年
2万を率いて江夏郡を包囲するも荊州刺史胡質ら救援に駆けつけると撤退。(明帝紀。胡質伝)
241年
5万を率いて襄陽郡樊城県を包囲するも司馬懿が出馬してくると撤退、追撃を受け被害を出す。(三少帝紀及び注。張既伝注)
242年(237年のまちがいじゃね?by裴松之)
祖中へ侵攻、兵力を分散したところを攻められるが兵800を持って撃退。(朱然伝)
246年
祖中に侵入し数千人を斬殺あるいは捕虜とした。(三少帝紀注)
再び祖中へ侵攻、魏の将李興ら歩騎6000に退路を絶たれるが夜襲で持って打ち破り兵を還した。(朱然伝)
241年
衛将軍全琮を淮南へ、威北将軍諸葛恪を六安へ、車騎将軍朱然を樊へ、大将軍諸葛瑾を柤中へ派遣。全琮は王?に敗れる。(呉主伝)
↑訂正
241年
衛将軍全jを淮南へ、威北将軍諸葛恪を六安へ、車騎将軍朱然を樊へ、大将軍諸葛瑾を柤中へ派遣。全jは王淩に敗れる。(呉主伝)
諸葛瑾死去。(諸葛瑾伝)
えっと、つまり、朱然伝の242年の記事は237年の戦闘を242年の戦闘と混同してる?ってことか?
>>28 「あるいは柤中における胡質の進軍が先にあり〜」ってのは
胡質が衆人を振り切り先行したことで、
夏侯儒の軍が朱然に対してあまりに少なくなったのでは?という話しね。
諸葛瑾の死亡かぁ…
呉主伝を見ると四月に包囲し、五月に太子孫登が死去・魏側に救援が現れ、六月に撤退、閏六月に諸葛瑾が死去。
確かに関連を疑いたくもなるタイミングだけど、
やはり全jの撤退によって侵攻の失敗はほぼ決定的だったんじゃないかな。
胡質伝にある「軽軍を以って赴く」というのは、その行動を「兵、囲に臨み」とあり、
やはり樊城の近傍へと前進した事を指してると思うんだよね。
そうならば、同様の目的を持って前進した夏侯儒と行動を共にしてないわけは無いんじゃないかと。
胡質伝にある内容に先立って朱然伝の胡質の行動があったという可能性もあるにはあるが、
都督と行動を共にせず、独断で敵の後方深くまで前進するような事があるだろうかという疑問もある。
結局は、記述が少なくて結論は出ないんだけどね。
全jの撤退に関しては、それが行われて以降も樊は厳しく包囲され、
にも関わらず東方にあった軍を荊州に集結させるような事も無かったから、
ほぼ独立した戦場になっていた感がある。
呉のもともとの計画に、揚州に魏の中軍をひきつけ、その間に荊州を攻略する、という意図があったなら、
全jが敗れ、司馬懿が動いた時点で戦略は破綻していた事になるけどね。
実際、どちらが助攻でどちらが主攻だったのかは、史書からは明らかにできない。
ただ、全jが撤退しても尚、荊州を攻撃していた事を考慮すると、
あくまで目的は荊州にあったのかもしれないけど。
この戦いにしてもそうだけど、全jは消極的に過ぎるように思える。
慎重さを持つべきではない、とは言わないが、大胆でない将軍は決して名将にはなれない。
この戦役において、少なくとも芍陂到着からしばらくの間は、
孫礼麾下の少数の兵しかいなかった。
都督の王淩が戦力を掻き集めて来援するまでに、何としても孫礼の抵抗を排し、
一気に寿春まで前進すべきだった。
実際、戦場が芍陂近傍の何処であったかは分からないけど、
数万を率いながら迂回部隊の一つも送らず、単純な前進に終始し、
それが失敗し、王淩が到着しても、魏軍の固める堤防を闇雲に攻撃し、
それでいてあっさり退いている。
何とかこの揚州方面で全jが踏ん張っていれば、魏軍も軽々しく中軍を荊州に遅れなかったろうに。
前線を囲んで慎重に漸進するならするで、
こちらも堅固な陣でも築いて敵を迎え撃てばよかったように思うのだが…
それこそ同時侵攻なんだから、既に指摘の通り時間をかければ相手側に戦線を整える時間を与えることにはなるが、
逆に敵を引き付けることによって友軍の助けにもなるし、蜀側の動きも違ってくる。
全戦線に渡って大軍が迫るような状況が続けば、
実情以上に精神的に大きなプレッシャーをかけられたんじゃなかろうか。
まぁ、初めから、もっと蜀と連携すべきでもあったね。
この頃、西方では大した動きも無く、それも、荊州に戦力を集中できた一因だったろうから。
そういった点では、遠征は失敗したとは言え、蜀に出兵を促した諸葛恪の姿勢は評価できると思う。
仮に呉蜀が連携して戦争を遂行するとして、一つの問題は、
同一目的を持って、同一戦場にて戦力を合して戦うのがいいのか、
別目的を持って、別の戦場で戦うのがいいのか、という事だろうね。
前者は戦力の集中という点で言えば理があるし、最初の前進を迅速に行えれば、
局地的に相当な戦力優越を達成する事ができる。
更に言えば、一方の敗北が他方の敗北と同義なので、その戦場に限って言えば、
両軍共に努力を傾けるという期待が持てる。
ただ、対する魏としても、敵の目的が明確なので、同様に戦力を集中する事ができる。
また、例え連合国が勝利したとしても、その後の利害の調整が難しい。
後者であれば、各国が独立して戦っているので、一方の失敗は直接的には影響が無く、
自身の戦場に努力を傾け続ける事ができる。
魏としても、どの戦場を優先すべきかを慎重に判断しなければならないと共に、
戦力を多方面に分散しなければならない。
ただし、両国の利害は一致していない為、それぞれが簡単に戦争遂行を諦める公算も高く、
両者の歩調も合いにくい。
また、直接的な影響が無いとは言え、一方が敗北すれば他方の戦況が悪化するのは間違いない。
実際に両国が行ったのは、諸葛亮時代やそれ以降を通じて後者しかない。
かと言って、前者の方法を採ったとしても、成功の公算は高くないだろう。
両国が同一戦場に軍を進めたとしても、精々10万弱の戦力しか傾注できないだろうから、
後から来るであろう魏の中央軍によって、その初期の優越は簡単に覆される。
やはり後者の方式の方が優れているのだろうと思う。
それでも勝てなかったのは、地力が足りていないか、連携が取れていなかったからだろうね。
話は変わるのだが、やはりスレとしてある以上、特定の人だけで回すのは良くないと思う。
だが、どういった話題なら多くの人が話に参加できるのか、自分には考え付かない。
初心者からマニアまで広く参加できるような話題は無いだろうか?
>>37-39 この241年の頃というと、蜀ではちょうど蒋琬と費禕が(魏に対する)方策を協議したが結論が出せなかった年。
これって多分蒋琬伝にある漢水降りの件に該当すると思うのだが、
実現していれば西方・南方から襄・樊を狙う、38のいう前者の案だったわけだ。
元々両国が共同して一つの戦場を目指すとなれば、それは荊北しかあり得ないわけで、
赤壁以来の共同軍が実現するとすれば、この時が最大最後のチャンスだったのかもね。
とはいっても後が無かった起死回生を賭けた一戦だった赤壁とは違い、
一個の戦場に両軍の全戦力を傾斜なんてことは最早不可能なわけで、
呉側が戦線を東方は淮南にまで派遣して戦力(とリスク)を拡散させたのと同様、
蜀側も実行するなら漢中から西方経由で長安を目指すような部隊を派遣し、
魏側の注意と戦力の分散を計っただろうけど(つまり前者と後者の折衷案)
そもそも蜀側が決断できなかった最大の理由は、敵の目の前を横に突っ切るという戦線の脆さだろうし、
なんらかの方法でこれをカヴァーしないとまともに作戦が遂行できない。
両国がよほど綿密な協議の末に行うわけでもない限り、危なっかしくて実行できないのは当然。
もしこれが諸葛亮-陸遜ラインが健在な頃に練られたとしても、慎重な両者がゴーサインを出すことはないだろうし、
姜維-諸葛格体制なら案外飛びつくかもしれないが、まず成功はしないだろう。
(才能の程はともかく、こんな大規模作戦を上手く纏める人望・器量がなさそう)
その点両国に孫権・陸遜・蒋琬らまとめ役が健在で、
その下で姜維や朱然といった猟犬が腕を振るえたこの時期は、俺の中では一番「もしかしたら」を感じさせる。
スレの伸びを気にするのは不毛な気もするが一応考えて見ると、
やはりメジャーな人物に焦点を当てたほうが食いつきは良いのかなぁ…と思う。
他のスレでもよく名前が挙がるような人物を、他とは見る角度を変えて話してみれば新鮮…かもしれない。
>>40 西方と東方の両方に軍を出す事ができる状態だったかという疑問はある。
何せ、諸葛亮が宰相であった頃、国家の全力を傾けてようやく10万だから。
呉蜀の軍が荊州で合流するという事は、蜀も少なくとも襄陽の辺りまで軍を進めなければならない。
そこまでの前進を行うだけのものは、蜀にはなかったように思う。
蜀の連絡線は新城郡、そして雍州の魏軍に絶えず脅かされるが、呉にはそれがない。
呉も戦後、襄陽周辺の領有は譲らないだろうから、蜀の旨みは小さい。
あくまで荊州で軍を合流させるにしても、蜀はその前進を新城郡までで一旦留める方が良いと思う。
同時に、牽制の為に一部を雍州に向かわせる。
ただ、両戦場に対する戦力の配分をどうするかが難しいし、
結局、荊州での合流は果たし難いから、同一戦場での共闘という意味は小さくなる。
やらなかったのは、やらなかったなりの理由があるって事なんだろう。
蒋琬と姜維の関係は、陸遜と朱然の関係とはまた違うような気がする。
前者は、宰相と軍司令官、後者は軍司令官と麾下軍団長のような関係だと思う。
もちろん陸遜も宰相なんだけど、蒋琬と違い、朱然に軍事を殆ど一任するような事は無いだろうし。
蒋琬の下に姜維がいた頃と、姜維がトップだった頃とで、何処まで違ったかは、
自分には推測しきれないな。
荊州攻略を断念した後のプランでは、蒋琬は後詰と言いつつ涪にいたから、
どこまで姜維を支援しようとしたかは分からないしね。
自分としては、スレの伸びそのものを気にしているわけじゃないんだよね。
特定の人だけで話してて、他の人が入りずらい雰囲気が個人的に嫌だってのもあるんだけど、
多くの人が何か発言する方が、それが他愛の無いものだとしても、
考えが刺激されて良いアイデアが浮かびやすいだろうというのも大きい。
>>41 総括としては結局呉の北上を助けるための陽動に終始するような作戦に、
犠牲を払ってまで出兵なんてできない、ということだね。
蒋琬と姜維の関係は、孫権・陸遜と朱然より孫権と陸遜の関係に近いってことかな?
確かに姜維より王平などで喩えた方がしっくりいったかも知れない。
まぁそこら辺は名前が挙がったついでということで…
話題、話題ねぇ。
『好きなあの人・嫌いなあんちくしょう』を理由付きでとか。
>>41 まぁ、そういう事だね。
こういう連携は、「これ以上戦っても利益は無い」と、どちらかが判断した時点で瓦解するから、
やはり別々に戦った方が良いんだろうと思う。
両者の間に信頼関係が無かったら、こういった援軍は寧ろ害にすらなりかねないし。
クラウゼヴィッツもマキャベリも、その著書でそんな様な事を述べていたしね。
個人的に、蒋琬と姜維は、ビスマルクとモルトケとか、リンカーンとグラントみたいな関係だと思ってる。
好きな人物や嫌いな人物ってのは、やはりとっつきやすいのかねぇ。
ただ、自分は、嫌いな人物ってのはいないなぁ。
好きな人物だったら大勢出てくるけど。
>>43 蔣琬と姜維の間には費禕がいるぞ。
出先の蔣琬、留守を預かる費禕、その下の姜維って関係でしょ。
なるべくageで書き込むとか、他スレに宣伝してくるとかすれば
少しは人が増えるかもだけど変な人も増えそうだな。
>>45 費禕がいると何か変わるのかい?
宰相と、その下で軍事に従事する司令官という構図に変わりはないと思うけど。
費禕は姜維と違い、大司馬府の役職には就いてないようだしね。
費禕はあくまで、中央政府における蒋琬の次官。
姜維は中央政府でも将軍位を持ってはいるけど、蒋琬が死ぬまでは尚書台等には入らず、
大司馬司馬として、蒋琬の幕府内の軍事を取り捌いていたのだから、
二人の関係を考える上で、別に費禕の存在は大きな影響を及ぼさないと思う。
>>38 蜀と呉は国力に如何ほどかの差はあれど基本的に対等の同盟国同士。
その二国が同一戦域で歩調を合わせるという時点でもう不可能に近いんじゃ?
これが一方が盟主国で武威を背景に作戦を主導するというならまだわかるが、
双方が対等なら事前交渉の段階から利害の主張は必然的についてまわる。
腹の内ではどちらも、損失は最小にしかれど戦果は最上に、と考えているだろう。
たとえその段階で双方が納得ないし妥協できた結果として出征にこぎつけたと
しても、次には一元化されていない命令系統が常に足枷となって柔軟性を失う。
作戦ひとつにしても、どちらか一方が主導しもう一方が下風に立つ様なもので
あれば、たとえそれが最上の作戦であっても実行は難しい。
そうなれば結局は双方が自国の利益を損なわない(もしくは優先する)様になるし、
それでは双方が独自の意思で動くのと大差ない。
魏にしてみればそんな隙は見逃さないだろう。
戦力の集中といえば聞こえはいいけど、船頭多くしてなんとやらに近いともいえる。
って書き込んでる合間に結論はでてるのか。
博識な面々の前でスレ汚しになってしまったようだ…
>>46 宣伝か。初心者が増えるのは自分としては一向に構わない。
裾野が広がるだろうし、自分程度の知識で良いなら、教えてあげられる事は教えるし。
荒らしが湧くって事もあるかもしれないが、スルーすりゃ良さそうだし、
今の三戦自体に、そういったものが出るほどの活気がない気もする。
そういや、結構前だけど、むじんさんが、各人がその帰属意識を、
中央政府に持っているのか丞相府に持っているのか、という話をしていた。
姜維や王平は、大司馬府における中心的役割になっていたようだけど、
実際、どっちの方が大きかったんだろうね。
姜維は、蒋琬の死に伴う大司馬府解体後、録尚書事となっているが、
王平の場合はよく分からんね。
その後すぐに死んでいるから、蒋琬が死んだ頃には職務に就くような健康状態じゃなかったのかもしれない。
>>48 そうなんだよね。
よほどの事がない限り、同盟軍の結束は弱い。
その政治的意図が一致する事など、あり得ないと言っていいくらいのものだしね。
しかも呉蜀の両国は、共通の敵である魏を打倒した後は、
協力していた相手が、今度は打倒すべき相手になる事が分かりきっている。
そういった状況で、真の政治的結束は達成されようも無い。
>>47 ああ、漢水下りの件までは姜維は蔣琬とともに漢中に赴任してしばしば西方に攻め入ってたんだったね。
ちょっと勘違いしてたわ。
>>52 勘違いというのがちょっとよく分からない。
西方に攻め入る事は、直接には関係ない話だと思うよ。
漢水下りが論議される以前も以後も、蒋琬が死ぬまで姜維は大司馬の司馬だった。
興勢の役に際して、蜀の主力軍を、蒋琬ではなく費禕が率いているけど、
これは、費禕の大将軍就任共々、蒋琬の病状悪化に伴う措置だろう。
姜維自身は一貫して大司馬司馬だから、費禕の直属の部下となったわけではない。
だから扱いとしては、姜維も費禕も、蒋琬の部下と言う意味では同じで、序列はあっても、
姜維が費禕の指揮系統下に置かれたわけではないと思う。
蒋琬の死後は、録尚書事である費禕の次官ではなく、同格の録尚書事になっているし、
費禕の方が重みはあるし姜維を制する事はできるけど、ほぼ同様の権能を有していたと思うよ。
結論としては、別に蒋琬と姜維との間に、費禕という存在があったというわけではないって事かな。
まぁ、何が発端か分からないけど、リンカーンとグラントとかってのは、あくまで例えだし、
そんなに厳密に考えるような発言ではないよ。
>>53 そうじゃなくて、
漢中の蔣琬ラインと成都の費禕のラインがあって、姜維は費禕のライン、
蜀末期で言えば、姜維のラインと諸葛瞻のラインがあって蔣琬の時代の姜維は蜀末期の閻宇のポジションにあった。
だから蔣琬と姜維の関係を語るんならその辺を踏まえんといかんのではないかなあと勘違いしてたということ。
>>54 それは、「姜維は費禕に与して蒋琬を失脚させた」っていう、
むじんさんの考えと同じようなもの?
正直、自分は姜維が費禕に与していたとは思ってないから、その辺は納得しかねるな。
姜維はラインと言うより、蒋琬のスタッフだと思うよ。
ラインと言う点で言えば、蒋琬は録尚書事で、費禕は尚書令だったから、
これはラインと言えるけどね。
恐らく、ラインという言葉を指揮系統ではなく派閥のような意味で使ってると思うんだけど、
そういう話で言えば、姜維が費禕の派閥だったと明確に言える様なものは無いと思う。
>>55 いや、そこまでは思ってない。
が、途中から姜維は(あと費禕も)蔣琬と距離を置き始めたんじゃないかな?とは思ってる。
>>56 姜維は、蒋琬が涪に駐屯するようになって以降、逝去するまで共に涪にあったし、
恐らくまだ蜀の中では若手だったろうその息子に、漢城という要衝を任せてもいる。
費禕の息子とは関わっているように見えないが、
蒋琬の息子の方は引き立てているという事は、やはり姜維と蒋琬は親密だったと思うよ。
蒋斌の将才が優れていたからという選択肢すら切り出さないのは意図的なの?
>>57 > 姜維は、蒋琬が涪に駐屯するようになって以降、逝去するまで共に涪にあったし、
そうかなあ?
243年、姜維、鎮西大将軍・涼州刺史。費禕・姜維、蔣琬に聖旨を伝える。蔣琬、涪に引き返す。
246年、蔣琬死去。
247年、姜維、衛将軍・録尚書事。
てな感じで243年には蔣琬から離れてるような感じだけどなあ。
ただ244年の駱谷の役の時の動きがよくわからんのよねえ。
漢中では王平、劉敏、涪より諸軍、成都から費禕と動いてるわけだけど、姜維に関しては記述なし。
姜維は費禕とともに動いたのか、成都にあったのか、涪より諸軍を率いたのか、涪に蔣琬とともにあったのか。
> 蒋琬の息子の方は引き立てているという事は
別に蔣琬とあからさまに対立したわけではないし。
以下はもしかしたらだが、涼州方面ではなく漢水下りに方針が変更されそうになったことに対して反対の立場になっただけだと個人的に思う程度。
蔣琬の一族を排除する気などなかったろう。
あと費禕の子孫だが、費承は黄門侍郎、費恭は公主を娶り尚書郎まで昇ったが早世、長女は皇太子璿の妃。
姜維の関与は別にして蔣琬の子孫が費禕の子孫より引き上げられてるとも思えん。
だから姜維が蔣斌を特に引き立ててるとは思えない。
>>58 正直、漢城の責任者というのは能力のみを以って任せる事のできるような場所じゃないと思うよ。
漢城は、諸葛亮の時代には丞相府がおかれると共に、漢水を挟んだ南側に、
巨大な城を築いて増築もされている。
また、西晋の時代には梁州の治所にもなっている。
恐らく漢中の軍組織、行政組織の中心だったから、単純に能力だけで任命したとは思えない。
あなたが、「蒋斌は能力によって選ばれたのだ」と思うなら、それはそれで構わないけどね。
>>59 費承の黄門侍郎は六百石で、少府内では高い地位だし、出世していないわけではない。
けれども、陳祗ならともかく、姜維がタッチするような職ではない。
対して、蒋斌の方の漢城護軍は、その後の姜維の防衛戦略の中核であると共に、
既に述べたけど、漢城という漢中最大の拠点を任せるという人事。
「宰相の子息であれば当然」と言われればそれまでだけど、
少なくとも蒋斌と姜維との間に相当な信頼関係があったのは間違いないと思うよ。
興勢の役に関する姜維の動きは、書かれてない以上は、涪にいたと見た方がいいと思う。
姜維はこの時点で蜀でも相当な実力者だから、動いていたら書かれてるだろうし。
あと、費禕と共に聖旨を伝えた事を以って、姜維が費禕に近付いたと見るのも違和感がある。
そもそも、蒋琬はこの時だって大司馬録尚書事だから、彼が不在のままで、
彼の意向に反するような詔勅を勝手に発行して、それを伝えるだけなんて事態は、それこそ異常だろう。
姜維は、蒋琬に反対する為に、費禕と共に成都で詔勅の起草に携わったのではなく、
病気で動けない蒋琬に代わって、蒋琬の意向を代表する人間として成都に行ったと見た方が、
個人的には自然だと思う。
243年の姜維の鎮西大将軍・涼州刺史就任が大司馬府の司馬と兼任されてたか次第じゃないの?
兼任されていたなら姜維は蒋エンの属官のままだけど
そうじゃないなら姜維は蒋エンの下から離れて費イに着いたんじゃないかとする
59の意見はおかしくないと思うよ
だいたい、皇帝じきじきの聖旨が出されて方針を撤回するなんて、立案者の能力に皇帝じきじきのダメ出しがなされたようなもんだよ
あれは皇帝、費禕、姜維がグルになって蒋琬降ろし(逆クーデター)を実行したという見方が正しいと思うけどな
子供を取り立てるのはまた別の話だよ
姜維が取り立てるということは、諸葛亮の後任で大司馬にまでなった人物の子でありながら武官としての道しか開けていなかったということ。
それは不思議じゃないか?費禕の子が中央で出世しているのと対照的だ
>>61 魏延だって、征西大将軍領涼州刺史だったけど、且つ丞相府の前軍師だった。
だから、鎮西大将軍領涼州刺史というのは、姜維の司馬解任の根拠にはならないと思う。
異動を示す記述が無い以上は、そのままと見る方が妥当だと思うよ。
鎮西大将軍も涼州刺史も、大司馬の掾属との兼任が不可能な職務じゃないし。
記述が無いのに異動しているという主張が通ってしまうなら、何でもありになってしまうしね。
>>62 クーデター説は、飛躍していてどうしても受け入れがたいが、
強く否定する論拠も無いので、この件に関しては何とも言えない。
あと、蒋琬の子に関しては、蒋斌は漢城護軍となるまでの経歴は不明だけど、
弟の方はとにかくも太子僕になっていた。
太子僕は千石で、太子の側近だから、劉禅からその子へと帝位が移った時に、
顕官に昇ったであろう事は推測できる。
ただ、ニセクロさんが言うには、姜維、陳祗に抗いながら、その鋭鋒を避けようとする人たちが、
太子の下に逃げ込んでいたという推測ができるらしいから、
それが正しいとすると、兄は姜維の側にいながら、弟はそれに抗い、太子の下に逃げていた事になる。
とにかくも、「蒋琬の息子には軍人としての道しか開かれてなかった」とは言い難いだろうね。
姜維は確かに蒋琬時代で既に重用されていたけど、大将軍にまで登る契機は「蒋琬への諭旨」を成功させたことにあると思うんだよね
あの聖旨は、諸葛亮時代から傀儡同然であった皇帝がリーダーシップを発揮し、最高権力者に(柔らかではあるけど)強権を発動したという一大事件
なぜああも反対が多く孤立したのか、など不明な点もあるけど、蒋琬の病気と孤立という好機を見て、No2だった費禕と副官だったはずの姜維が自分を「説得」に来て、翻意を強いられたのだから、
これは実質蒋琬の政治生命に終止符を打つ事件だったと見るべき
そして寝返った姜維に恩賞として費禕の次席が与えられた。そう解釈してる。
まあ別に他人にその解釈を強制する気はないけどね
はっきりと書かれてない以上、いくら史書を探しても、
状況証拠となるような記述しか出てこない。
そうすると、自分の解釈も相手の解釈も、誰かに押し付けられるようなものじゃなくなる。
費禕らのクーデターもその類の主張になると思う。
そうすると、やはり、議論は結論の出ない様相を呈するようになる。
蓋然性の高い、決定的な解釈や記述が出てくるまでは、結論は出さない方がいいだろうね。
ただ少なくとも、上でも述べたけど、費禕は姜維に命令できる立場ではなかった、
というのは、認識としては正しいと思う。
たまに、費禕存命中は姜維は費禕の部下だった、と認識している人がいるけどね。
どちらも皇帝の部下であり、上司と部下ではなく同僚であるから、
一方が他方に命令するには皇帝の詔勅が必要になる。
費禕は録尚書事だから、詔勅を相当コントロールできる地位にいるけど、
これは姜維も同様なので、どちらも相手に譲歩する必要がある。
その結果が、姜維の中途半端な規模での出兵と、費禕の消極的な後詰に現れたんじゃないかと。
>>65 >諸葛亮時代から傀儡同然であった皇帝がリーダーシップを発揮し、
>最高権力者に(柔らかではあるけど)強権を発動したという一大事件
この辺の解釈は面白いと思う。
魏略の、「蒋琬死後は劉禅が国事を見るようになった」という記述と合わせると、
なかなか面白いストーリーが描けるんじゃなかろうか?
蒋琬に関連しての事だけど、個人的に、李福が死ななかったらどうなっていたのかが興味深い。
李福は、蒋琬の大司馬就任に伴って、その司馬と前監軍を兼任している。
更に彼は尚書僕射でもあったから、尚書台においても費禕に次ぐ地位にあった。
「監軍>護軍」という序列を考えると、前護軍の王平を制する事もできる地位でもあったし、
司馬の定員が一人である事を考えると、彼の存命中は、姜維も大司馬府に入ってなかった事になる。
姜維の大司馬司馬就任のタイミングを考えると、任命されたらすぐに死んでしまったようだけどね。
幾つで死んだのかは分からないけど、もっと長生きだったら、
費禕に次いで宰相の地位に上っていたかもしれない。
68 :
58:2008/03/24(月) 12:14:28
>>60 最初からそこまで書いていただければ理解できたんですけど。
私みたいに無知な者が口を挟むべきではありませんでしたね、失礼しました。
なんでそこまで卑屈なの!?
>>68 自分が何か気に障るような事を言っていたら謝る。
あと、知識の有無は気にする事では無いと思うよ。
よく分からない事として、東征中止を伝える時にも、涪に入った時にも、
廖立に会った時にも、姜維は「監軍」とされているというのがある。
そもそも、監軍とか護軍とかってのは、諸葛亮存命時、その軍隊を指揮する為、
丞相直属のスタッフ、或いは部下指揮官として置かれたと思っていたのだけれど、
これらの官職自体は、諸葛亮の逝去後も存在していた。
蒋琬の時代に中監軍であった姜維や、興勢の役で前監軍だった王平や、
左護軍だった劉敏などは、そもそも誰の監軍や護軍だったのだろうか?
普通に考えると、諸葛亮時代の各監軍や護軍は、蒋琬時代とは別物で、
新たに蒋琬の掾属として置かれたものと思うのだけれど、
それだと、姜維が「監軍」と表記された事の説明が付きにくいかもしれない。
蒋琬の掾属としてこれらがあったなら、むしろ司馬として表記するだろうからね。
そうすると、もともと監軍や護軍自体、丞相や大司馬の掾属ではなく、
軍隊そのものに置かれていた官職と考えた方がいいのだろうか。
それにしたって、輔漢将軍より優先するものなのかは分からないし、
丞相や大司馬など、諸葛亮や蒋琬の帯びていた官職が、
これらに対する指揮権を有していたのかの判断が付かなくなるが。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/24(月) 23:01:43
>>70 監軍や護軍って、「丞相監軍」みたいな呼ばれ方をしてない以上、蜀全軍に対する監軍なのかもな
前監軍、中監軍といった呼称も、監軍の管轄を示すのではなく格(順位)を示しているのかもしれん
将軍は自分が指揮官となって独立した兵を率いる資格
監軍は皇帝(丞相や大将軍)の兵を監察する権限
司馬は丞相(大将軍)の部下としての役職
こう分かれてるんじゃないのか
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/24(月) 23:33:11
>>71 監軍等が軍に対して何らかの権限を持っている以上、
誰かの指揮下でなければならないはずで、丞相や大司馬で無い以上は皇帝になると思う。
しかしそうなると、丞相や大司馬そのものには、監軍らを指揮する権限は無く、
その為の詔勅を皇帝より貰わなければならなくなる。
李厳の弾劾状に連ねてる名前を見ると、大抵は、軍師、監軍、護軍、典軍、参軍あたりを帯びている。
丞相府の掾属である事が確定的な軍師と参軍を除いても、
皇帝直属の部下として軍内の監察を行う人間が大量にいる事になる。
三国志本文だと、護軍とか監軍とか書かれるけど、この弾劾状では、
監軍、護軍、典軍、参軍には行が付いている。
軍師に関しては、劉琰には行が付いているけど、魏延には付いていない。
行と付くのが正式とするならば、彼らはあくまで監軍などを代行しているに過ぎない。
基本的に、監軍とかってのは正式な任官では無かったのだろうか?
各刺史と、楊儀の長史は領だから、兼任ではあるけど正式任官だろうね。
よく分からんね。
ただ、前後左右中の各監軍、護軍等は、督左部や督前部などがあり、
前後左右中の軍が存在していたと考えられるので、それぞれの監軍等だったと思う。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/25(火) 01:49:39
>>73 監軍や護軍が軍の監察などが役目だとすれば、丞相や大将軍に直接の指揮権が無い方が当然
また、相互監視だったり、例えば大隊ごとに監察が別に付くのだとすれば、監察が沢山居ても不思議でもなんでもない
名目上、皇帝では無い者が皇帝に直属すべき兵を率いる場合、皇帝が直率する代わりに(名目上)皇帝直属の監察が付いて司令官の暴走を監視する、こういうシステムだったのではないのかな?
ただし、現実にはその監察が丞相の指揮を受ける将軍でもあり、また丞相府の属官でもあったりするから、あくまでも名目上でしかないわけだが
>>74 いやいや、言葉足らずだったが、「軍の監察を任務とする役職は丞相の指揮下に置かれるべき」
という意味で言ったわけじゃないんだ。
丞相やら益州牧やらじゃ、監軍や護軍はおろか、将軍に対しても指揮権を持っているわけじゃない。
彼らを指揮できるのは皇帝だからね。
しかし、弾劾状を見るに、「監軍や護軍+将軍位」という人物が多数で、
丞相府の掾属が確実な人物の方が少ない。
しかし面子を見ると、彼らが軍の高級指揮官でもあった可能性は高い。
全軍の総司令官たる諸葛亮としては、彼らを指揮下におかないといけないんだけど、
それに該当する官職を持っている人物が少ないというのは問題だろうって事ね。
だから、監軍とか護軍とかってのは、丞相が各将軍に対する指揮権を有する為の、
例え掾属ではないにしても、半ば掾属のような官職であったとする方が、
軍組織という事を考えると自然かな、と思うんだよね。
また、彼らが高級指揮官であったとするならば、多数の監軍、護軍が、
連隊や大隊クラスの監察をする場合、互いに部隊を監察しあう事になる。
指揮官同士の猜疑心や軋轢を養うようなシステムを作るのは、あまり良いとは思えないんだよね。
仮に各隊に監察官を送るのであれば、指揮官とは別に送った方が良いと思う。
名目はあなたの言うとおり、軍の監察が役目だったのかもしれない。
ただ、個人的には、丞相が軍を指揮する為に設けた臨時の掾属と考えるのが良いのだろうと思う。
少なくとも蜀において、監軍や護軍が軍の監察をしていた様子は見られないしね。
諸葛亮麾下においては、正式な指揮権がなくても、各将軍は諸葛亮に従う義務が、
慣例として存在していたという可能性はあるけど、
命令違反で処刑された馬謖などを考えると、システムとして明確にあっただろうし。
後漢書百官志の将軍の項目では大将軍は五部を営すとある。
督前部などは丞相が軍を率いた時の五部のうち前部を督する役目と考えられる
行○○は臨時でその職を行っていることを指していた筈。
皇帝の行幸先での儀式や皇族の葬送などでそこに三公や九卿がいないとき
侍中などが行司徒などで司徒役をつとめて儀式を行うことがある。
護軍は諸将(軍)の取りまとめ役、監軍は監察、監督役と考えられる。
王平伝の興勢の役の時の前監軍王平と護軍劉敏との間のやり取りは監軍と
護軍にそれぞれきちんと役割が設けられていたればこその展開であるよう
に見える。
李厳伝の裴注にある諸葛亮の弾劾上表は当時の蜀軍の軍制、指揮統制の位
階とシステムを著した貴重な資料に見える
>>76 これはこれはニセクロさん。レスどうもです。
諸葛亮と、大司馬となった後の蒋琬を考えていたから、大将軍に注視してませんでした。
百官志も丞相と大司馬はチェックしたんですが、大将軍は失念していました。
改めて後漢書(続漢書)百官志を読んでみると、確かに、
大将軍は五部を統率する事が書かれています。
この記述は読んだ事があったのに忘れてましたよ。
とすると、大将軍であれば、前後左右中の各軍を統率する事は、
そもそもその職掌にある事であり、監軍や護軍が各軍に付されていたとしても、
それを統率する事も可能という事ですね。
しかし問題になってくるのは、諸葛亮は大将軍を兼務していたのかという事です。
これは史書に書かれてないんですよね。
蒋琬が大将軍となるまで、劉備・劉禅を通じて誰が大将軍だったのか書かれてないし。
漢ではもともと丞相ってのは軍をも率いる存在
これは漢建国の最初からそう
蜀では大将軍の上位互換として大司馬と丞相があったように感じる
>>78 と言うと、丞相や大司馬の時点で、五部を統率する事は可能だってわけだね。
であれば、監軍、護軍、領軍、典軍が各部に属する官職だったとしても、
彼らはそれを統率する権限があるわけだ。
以前むじんさんとも話したけど、これで、諸葛亮死後も監軍等が消えなかった理由の説明が付く。
もともと、李福の「前監軍領司馬」というのが、監軍が掾属でない事を示していたのかもしれない。
掾属の兼任を、自分は見た事がないので。
>>79 丞相が死んでも率いていた兵士は消えないからね
五部の兵は、丞相府の一部なんじゃなくて、大将軍や丞相などの最高位の人物に属する機構なんだろう
だから諸葛亮や姜維が降格しても、丞相や大将軍を代行しなければならなかった
代行しないと五部の兵が宙に浮く
逆に、大司馬がいながら大将軍が任命されている状態は、どちらが実際に五部の兵の指揮を執ったのかという極めて微妙な問題が発生するような気がする
>>77 >>78の人が言うように軍制に関して上位互換と見るべきだと思う
魏でも蜀でも大将軍<<大司馬だし
>>79 掾属の兼任について。
李厳伝の裴注にある諸葛亮の弾劾上表を見ると
領從事中郎武略中郎將臣樊岐と記名がある
若しかしたら丞相府の従事中郎かも知れない
>>80 そうだね。
大司馬も大将軍も共に五部の軍兵を統率するとなると、
どちらが正当な指揮権なのか判断付きにくい。
ただ、蒋琬と費禕に関しては、蒋琬の病状が一番の原因に思う。
姜維は中監軍でありながら、興勢の役で費禕と行動を共にしなかったけど、
これがどういう意味を持つのか、少し考えてみる必要があるのかもしれない。
>>81 武略中郎将って丞相の掾属でしたっけ?
言葉足らずでしたが、掾属二つを兼任するってのを見た事が無かったんですよ。
>>82 いやいや、百官志とかには掾属として書かれてないし、
そう考えるのが当然なんだろうけど、
上でも話したように、丞相等が各将軍を指揮する為の権限を有している必要があるって事から、
例え名目は掾属でなくても、実質は掾属のような扱いだったんじゃないかって事を言ってたんだよね。
>>83 >掾属二つを兼任する
なるほど。それは無いよね
従事中郎が掾属である可能性。武略中郎将は朝廷の官職かと
>>85 やはりそうですよね。
これでこの話については、大体の決着がついたようにに思えます。
ただやはり気になるのは、何故李厳の弾劾状には、「行」護軍とかってなってたのかって事ですね。
別に監軍や護軍を空位にする必要はないと思うのに、領ではなく行とした意味が分からない。
>>80 魏だと大将軍には大将軍の五部が、大司馬には大司馬の五部が組織されてたように見えるけどね
>>86 正規の監軍や護軍が別に居た可能性がある
李厳は丞相府事を署していたから後方兵站を担うために残されてたと考えられる
それとは別に前線の軍にはまた監軍や護軍が必要だから「行」職で就けたと
丞相長史は丞相に直参して働く奴と留府長史に分かれてたけど、監軍や護軍は
そこまで組織の進化ができてなかったと言うことかと
>>87 例えば、護軍の陳到が永安都督ととして李厳を補佐していたとか、
そういう記述を考えての事ですか?
確かにそういうのはあるかもしれませんね。
ただ、かなりの人数に「行」が付いているという事は、
同数が成都等に正規の監軍や護軍としていたという事になると思うのですが、
そういう人物があまり記されていないのが気がかりですね。
「行○○」には、正式任官にはキャリアが満たない場合というのもあるみたいだよね
正規の官は空位だったのかもしれんよ
>>89 そういう時もあるね。
件の弾劾状で最も先に来ているのが行中監軍のケ芝だけど、
彼は郡太守から尚書に遷り、呉への使いを成功させた後、
諸葛亮の漢中駐屯に伴って中監軍になっている。
費禕に関しては侍中もやってるし、その数年後に尚書令になるような人物だから、
中護軍を拝するに満たないって事もないように思えるんだよね。
そういや、費禕はその後丞相司馬を拝命してるけど、新たに中護軍が任命されたようにも見えないし、
中護軍領丞相司馬って事かな?
かなりの側近だよね。将軍位が偏将軍なのとはえらい違いだ。
よくこれで、魏延も、一瞬とは言え諸葛亮の遺言に従わず自分に従うと思ったもんだ。
>>90 ケ芝、費禕とも、その時点では将軍になったばかりと偏将軍でしかない、という、将軍位で言えばヒヨッコということにならない?
官僚としてはキャリア十分であったり、皇帝(諸葛亮)の覚えめでたい出世頭あったりしても、
軍部の序列ではまだ低く、本来中護軍や中監軍となるべき順位ではなかったのではないだろうか?
しかし(おそらくは諸葛亮の)抜擢を受けて高い地位につけられたため、「行」が付いた、と
「本官はあくまでも空位なんですよ。いま位が低い奴がこの職に就いてるのは臨時代行なんですよ」という、序列と体面を守るための組織運営上のある種の方便だね
>>91 そんなもんなんだろうか。
とすると、監軍や護軍は相当高位な武官位って事か。
確かに、前監軍やら中監軍やらは、各部に定員一人だろうから、
多数の軍人の中でも選ばれた人しか就けないだろうしね。
諸葛攀が行護軍翊武将軍になってたりするが、これははっきり「行」とあるね。
延熙六年の重鎮が、
前監軍鎮北大将軍王平
中監軍鎮西大将軍領涼州刺史姜維
前軍師?督江州車騎将軍領兗州刺史ケ芝
と、ケ芝の前軍師はこの時もそうだったかは分からないけど、
前二者は相当な高位だね。
魏でいえば、曹仁あたりはやたらと「行」が多いやね
曹仁の場合、やはり格が足りないからだろうね。
曹操の子飼いでは、そう易々と漢の将軍位は望めないって事だろう。
事N校尉という、よく分からん武官位ですら行が付いたしね。
魏国ができてから、急に行が取れて、すぐに車騎将軍にまで上ったのも、
そういう事が関係してるんだろうね。
話題も一段落したので、少し。
これはたまに思うし、今までも言った事あるけど、能力値系や名将選出系のスレでは、
どうしても諸葛亮死後〜三国統一までの人物は無視されやすい。
その状態を苦々しく思うとか、そういう事も無いんだけど、
この時代の人物を推すような主張が殆ど無い事はやはり寂しいものがある。
で、中には、「好きなんだけど、どういう点で優れているのか分からない」って人もいると思う。
かつての俺はそんな感じで、意見を言いたくとも言えなかった。
仮にそういう人がいればだけど、このスレで名将を10人程度、
できれば議論の上で選出し、それを纏める事ができれば、
多少なりとも名将系のスレなどで、彼らを推す人も増えるんじゃないかと思う。
とりあえず、近い内、何人かについて論拠付きで名将っぷりを述べてみようと思う。
名将談義というのはなかなか難しいもので、ただ讃えるだけなら良いんだけど、
比較するとなると途端に結論が出にくくなる。
知識の無い内は勝ち負けばかりに目が行くし、なまじ知識をつけると、
簡単に優劣をつけられなくなってしまう。
まだ深く考えてはいないので理由は述べられないが、個人的に10人選出すると、
蜀:姜維
呉:陸抗、陶璜
魏晋:ケ艾、王基、王渾、陳泰、王濬、羊祜、馬隆
(王昶、郭淮、杜預、毋丘倹、鍾会)
魏晋は迷うね。
見事な迂回をしてみせた王昶や、高句驪討伐の毋丘倹など、
光るものを持っている将軍は多い。
国力の違いもあるけど、少なくとも史書を読む限り、
呉蜀では10人しか選出できない場合、やはり合わせても3人か4人程度になると思う。
好みによって評価の細かい部分に影響が出るのは仕方ないことだし、
「個人的」という範囲から出て十傑選出ってのは難しいね。
接点のない(乏しい)武将の優劣なんて判断材料の選別から大変そう。
日記帳状態になるのも何なので、何か話題があったら、俺に気にする事無く書き込んでくれ。
まず姜維だけど、彼は三国時代には珍しく、戦闘における指揮が巧みだった。
三国時代で名将と呼ぶべき人物は、普通は軍事戦略における優秀さを発揮するものだけど、
彼の場合は、戦略よりも戦術においてその才能が発揮されている。
万単位の両軍が一個の戦場に集結し、そこで敵の撃破を行うという、会戦というやつだね。
戦闘はなるべく避けた方が良い、という考えはやはり正しいし、無駄な流血無く勝利を得る事は重要。
ただ、時代によってはそんな事をお構いなしに行動する人物がいる。
七年戦争初期のフリードリヒ大王やハンニバルとかだね。
ただ、軍事戦略面に関しては、直接アプローチに傾きすぎ、
その戦術を発揮できる状態まで、すなわち決戦まで持っていく事があまりできなかった。
決戦は、不期遭遇戦などを除き、敵味方双方が決戦を企図しなければ発生しないものだからね。
その点を考慮すると、姜維は十傑には入らないかもしれない。
けれど、その特異性という点を鑑みれば、入れるのは選択肢としては正しいと思う。
>>96 難しいだろうね。
正直、実際に交戦していても、簡単に優劣なんか付けられない。
勝敗を決する要素は、指揮官の才覚の差だけではないからね。
時代に合致しているか否かも、勝敗に大きく関わってくるし。
火力が機動力に勝る時代には、決戦戦争的な将帥は活躍しづらいし、逆もまた然りだしね。
南北戦争の英雄、ストーンウォール・ジャクソンの言葉に、
「神秘化せよ、誤りに導け、そして奇襲せよ」というものがある。
また、クラウゼヴィッツも、奇襲の要素を持たなければ戦力の優劣は覆せないと言っている。
ジャクソンの「神秘化せよ」という言葉は、リデルハートの言を借りれば「ジレンマに追い込め」という事。
三国志の戦争を、幾つも考えてきたが、こういった機動は殆ど見られない。
これは、代替目標への転進が可能な作戦線を採れって事だね。
姜維は256年にそういった機動を行えそうだったが、種々の制約から不可能だった。
実は、このジレンマに追い込むという機動の典型が、討蜀戦役にある。
この戦役での諸葛緒がまさにそれ。
諸葛緒の前進は、下弁より陽平関に向かうのか、それとも西へ転じて沓中へ向かうのか、
或いは白水まで出て関城を襲うのか、或いは真っ直ぐ四川盆地へ殺到するのか、
蜀側からすると全く分からなかった。
実際、諸葛緒が前進中である事を察知した廖化は、この神秘化された前進に惑わされ、
全く動く事ができなかった。
それだけ、下弁より南北に伸びる交通線は、魏蜀にとって重要なものだった。
この機動をプロデュースした鍾会と、事前に哨戒陣地を築いていた姜維の慧眼は、
感服すべきものがあると言える。
姜維の場合、築いていながら自分はその範囲の外にいたので、姜維にとってはあまり機能しなかった。
この辺りも、戦略面における姜維の資質不足の一つだろうね。
その慧眼を活かす術には長じていない。
どう考えても、呉と蜀はエントリーが難しい。
国力差が、勝敗に影響して勝利を遠のけているという事だけでなく、
軍事戦略レベルで活躍できる素地自体が呉蜀では少なくなっているという事の原因にもなっている。
もちろん、勇敢さや大胆さを指揮官の最重要資質と考え、実績によらず、
それらの諸要素が抜群と認められたら選出する、という考えもあるとは思うけど。
ただ一城を保持したりだとか、一部隊長(軍団長)として戦術レベルの果敢な突撃や、
巧みな防御戦闘で活躍したりだとかってだけでは、やはり土俵が違ってしまうしね。
こういう場合、やはり部門別でやるのが良いんだろうか?
どうでもいいが、このペースだと1000いかずに512kBに達するな。
>>99 その「神秘化せよ」ってのはそのまま「意図を悟られるな、狙いを絞らせるな」ってことだよね。
孫子で言えば虚実編のあたり。
狙いがわからないから相手はその全て(広範囲)に備えねばならず、
こちらはその内の一つ(一局面)に戦力を集中できる、と…
こういった作戦が上手く決まった戦いは確かに三国志では少ないね。
多分三国鼎立状態に入ってくると、双方とも最低限の要所の防衛に注力するから、
この敵戦力の分散が上手く行われなかったり、少数でも要害だったりして結局失敗するのかなぁと。
失敗はしたけれど諸葛亮の第一次北伐もそうなんかね?
姜維は割りと敵の虚をつこうと頑張ったね。結局は読まれてしまったことも多かったけど。
鍾会の征蜀時に諸葛緒に逃げ口をふさがれそうになった危機を脱した手もそうなのかな?
>>101 つまりはそういう事だね。
ただ、そういう作戦が少ない事には、特に蜀においては地理上の制約が最も大きいと思う。
山と高原の多い地帯で、主要な道路で数珠繋ぎに敵拠点が存在するので、
前進そのものが少数の作戦線に限定されてしまう。
また、兵站上の制約も大きいので、その目的も暴露されやすい。
こういう状況では、例えば諸葛緒のような、例えばシャーマンのような、
一本の作戦線で戦力を結集して前進しながら、それが敵を惑わすという状態は作れず、
敵を惑わすには、軍を分けて敵を分散させる必要が生じる。
ただ、こうした方法では、少ない戦力を更に分ける為、敵の分散を呼んだ後の、
敵の一部に対する自軍の集結を達成する事が困難になる。
ましてや、地理上の制約があるので、雍州では更に困難になる。
>>102 今挙げた最も効率的な方法ではないけれど、別働隊による敵戦力の分散を図ったという点、
諸葛亮が前進すると思われていなかった地点への前進という点を考えると、
あれは間接アプローチ的要素を多分に含んだものだったと思うよ。
姜維のも、神秘化という要素があるか無いかで言えば、ある。
ただ、その範囲は狭く、彼にとっては十分であったとは言え、
効果はそれほど大きいものではなかった。
敵後方に対する機動は、前線の軍隊に近ければ近いほど即効性が大きく、
遠ければ遠いほど、すなわち策源に近ければ近いほど、最終的な効果は大きくなる。
王基の冷静さ、前線の判断を優先する果断さは好きだし、将軍として重要な資質なんだが、
彼の場合、各戦役において支作戦や前衛を受け持ったりしただけで、
戦争全体を指導する立場ではなかった事が悔やまれる。
如何に戦局を決定付ける働きをしたとしても、作戦全体を立案・実行してる記述は無いので、
そこを以って否定されると、十傑に入れなくなってしまうかもしれない。
やはりこういうのは、選ぶ人によってガラリと変わるんだろうね。
極端に結果を重視する人とかは、蜀からは一人も選ばないかもしれないし。
そもそも残されている情報が極端に偏ってて断片的だし、
殆どの場合詳細な推移不明の戦しかないじゃない。
そりゃ判断も比較的明確な結果に偏ろうってもんだよ。
だからって検討をしなくて良いなんてつもりもないけど。
別に勝敗で判断する事を否定したわけじゃないけどね。
他に何も情報が無ければ、勝敗で判断するより無いだろうからね。
ただ、多少なりとも軍事の知識を付けた身としては、
勝敗のみを以ってする批判では、あまりに将帥が不憫に思えるし、
クラウゼヴィッツの言葉を借りれば、それを知恵の至極の結果とはできないからね。
例えそれが僅かであっても、与えられた情報から己の導きうる、最も仔細な考察をすべきだろうと、
自分自身に対しては思ってる。
何より、些細な情報からでも、そこから多くを考えて導いた意見に対して、
結果のみで否定をするのは、あまりに不誠実だと思うから、俺はそういう態度をとりたくはない。
ま、そういう人もそういう人なりの考えがあるんだろうし、
これは俺自身に課してる事だから、俺以外がそういう態度をとる事には何も言わないけどね。
>>106 姜維が好きだっていうのがひしひし伝わってくる
いや俺も好きなんだけどね
姜維北伐スレの最初期から細々と参加させてもらってる身でもあり…
>>107 そんなに伝わってるかい?自分じゃよく分からないけど。
姜維北伐スレは、2スレ目の前半まではROMってただけだったな。
俺が色々やってたのは、基本的には3スレ目だけだね。
たまにある、陸抗の高すぎる評価には前も疑問を呈したが、
それに関連して西陵の戦いについて少し考えてみた。
あれは敵城砦を前にしてcontravallationとcircumvallationを築く、
二重堡塁線の包囲形式が採られ、それによって西陵城周辺での戦闘に勝利したものだね。
個人的にはもっと効率的な方法、すなわち、西陵城を監視しつつ、
十分な野戦軍によって救援軍を撃破する方法の方が良かったと思う。
その方法が採られなかった理由は、一つには、
用意できる野戦軍の規模と、敵のそれとの比率が不均衡なまでに違っていた事が考えられる。
だがそれに加え、野戦による決戦に向かない呉軍の体質というものがあったのかもしれない。
呉軍が野戦を行っている、と言うより、三国共に、
両軍が戦闘隊形を整えてぶつかり合う、純然たる野戦を行っている事が殆ど無い。
だからこれは、呉軍のみにかかっている事では無いのだけれど、呉軍は他国より更に少ないように思える。
よくある記述が、「某の陣地を陥落させた」「〜ヶ所の陣地を陥落させた」とかってもの。
火力が優勢で、戦闘隊形と戦術機動によって敵を撃破するような戦いよりも、
戦場に野戦陣地を構築し、それの攻略に終始する陣地戦が常態だったんだろう。
そういう戦闘が常態では、十分な野戦軍を以ってしても、敵を早期に撃破するのが難しく、
決着がつくのに数日以上かかってしまう可能性が高く、要塞監視と野戦という方法よりも、
自分の構築した陣地線を敵に攻撃させる方が、結局は有利だったのかもしれない。
だから陸抗の方法は、当時としては合理性を追求したものなのかもしれないね。
実際、羊祜というのは、この時代を代表する名将十選に入るほどなのだろうか?
彼の指導した戦争と言うと、やはり西陵の戦いになるわけだが、
あの時の羊祜からは、特に冴えというものを感じない。
彼の兵力が8万なのか5万なのか、いまひとつはっきりしないが、
江陵に向かった羊祜、襄陽より陸路西陵に向かった楊肇、
巴東より水路西陵に向かった徐胤の三人が主な指揮官なのは確か。
楊肇の通った道というのは、恐らく陸抗らが永安を攻めた時に胡烈が用いたのと同じだろう。
この時は、胡烈は2万とされる軍を西陵に向かわせたが、その数年前の王基の言葉にあるように、
この道は険しく、また、羊祜を弾劾する上奏でもその事は述べられている。
西陵までではなくとも、公称2万の軍勢を通した実績がある道路であったが、
その上奏においては、楊肇の軍が少なかった事が書かれている。
やはり、最大でも楊肇の軍は1万を大きくは超えない兵力だったと思う。
陸抗の方であるが、同様に羊祜を弾劾する上奏に拠れば、3万を過ぎなかったとある。
これが荊州全体、すなわち楽郷や公安、江陵等に駐屯していた守備兵を含むのか否かまでは書かれてないが、
呉全体の総兵力や、荊州におけるそれまでの動員実績を考えると、それでは少ない。
これは、陸抗の手元にあった兵力と見た方が無難だろう。
羅憲を永安に包囲した時、留平を増援に得ていたとは言え、施績麾下の到着以前から、
3万を率いていたしね。
歩闡の兵力も、西陵督だった歩協の兵を引き継いだだけだろうから、数千と言ったところだろう。
さてそうすると、楊肇と歩闡をあわせても、2万数千で包囲する陸抗の半数程度になる。
自分が江陵に行けば、西陵の包囲は自ずと解けると思ったんだろうけど、
少ない事には変わりなく、この当りの羊祜の見積もりは甘かったと言わざるを得ない。
羊祜自身が江陵に到着した後、彼は何もしていない。
徒に時間を浪費しただけと言える。
ただここで、陸抗伝にある江陵の堰に関する話を考えてみる。
それによると、羊祜は江陵の堰をそのままにさせて、船で物資を運ぼうと考えていた。
この堰によって、漢水と長江が江陵周辺で繋がっていたわけではないだろうし、
ただ江陵まで運ぶだけなら、堰が切ってあろうがそのままだろうが変わりないはず。
と言う事は、江陵周辺の、恐らく沮水等の合流する枝江の南において大きな水量を確保する事で、
そこに船団の基地を設け、以って羊祜西進の助けとしたかったのではなかろうか?
もとより江陵の軍勢に、城を出て逆襲に転じる事が可能なほどの兵力は無い。
とするならば、西陵より江陵へ向かう陸抗を迎え撃つにしろ、
西陵の包囲陣地を攻撃するにせよ、羊祜が西進する事に問題は無い。
羊祜の本隊が西陵に到着すれば、恐らく西陵の包囲は崩れ去っただろうから、
実は、この堰の問題が、勝敗を決定付けた一つの要素だったのかもしれない。
しかし、堰を維持する事で長江に大船団を乗り入れる事が可能となったとしても、
呉の船団の攻撃も予想されたので、実施されたとしてどこまで効果があったかは分からない。
とりあえず、羊祜を名将十選に入れるかどうかは、呉討伐のプランにおける、
彼の貢献度がどの程度であったのかを詳しく計量する必要があるだろうね。
果たしてどれだけの人が読んでいるのか分からんし、ここにこれだけレスするなら、
ブログの方も更新した方が良いんじゃないかとも思うが、続ける。
羊祜による呉討伐のプランが具体的に示されたのが、晋書羊祜伝の羊祜の上奏。
これがいつの事かは分からないが、二度目の上奏があり、羊祜が咸寧四年(278)に死んでる事を考えると、
同三年の冬に何攀が羊祜の元を訪れる前の事だろう。
つまり、この上奏は、何攀の案を取り入れてないものという事になり、羊祜の負う所が大きい。
それによれば、
・梁、益の軍が水陸両道より呉へ攻め入る事
・荊州の軍が江陵へ向かう事
・羊祜直轄軍と豫州の軍が夏口へ向かう事
・自余の軍は秣陵(建業)へ向かう事
となっている。
対して何攀のものは、
・青、徐の軍は京口に
・揚州の軍は秣陵に
・兗、豫の軍は淮水を越え桑浦?に
・荊州、羊祜の軍が夏口に
・梁、益の軍が長江に沿って
というものだね。
揚州方面の作戦、江陵について言及しているかどうか、
豫州の軍の向かう桑浦が何処か分からないが、その点を加え、
三点が大きく異なる所だろう。
戦力の配分や細かい点の相違は他にもあるけど。
最終的なプランは、この二案を元に羊祜らが練り上げたものだろうけど、
実際の作戦においては、恐らく王渾の独断によって、揚州軍の動きは明らかに違う。
また、荊南諸郡の攻略が行われているのも相違点だろう。
羊祜、何攀両者のプランの相違、推測される最終案と実際との相違。
こういった点を考える事で、羊祜の働きがどれだけであったか見えてくると思う。
>>108 話しの腰を折ってしまうが、そもそも「野戦軍によって救援軍を撃破する方法」なんてものの確実性を考えたら、
首肯しかねる意見に思えるんだが。
「自身の野戦軍の規模が、敵に比べて明確に違って(少ない)」いなかったら野戦に持ち込むべきだった、って事?
拠点に籠もってそこを相手に攻めさせる(自分は迎え撃つ)方が、
(要塞監視に兵を割きつつ)うって出て野戦を挑むより有利であることは、
あの状況に限らない一般的な原則じゃなかろうか。
あの時代で言えば、
四次北伐時に祁山を囲む諸葛亮が、山河の険を駆使して築きあげた堅陣に攻勢をかけた司馬懿が破れ、
姜維が255年の狄道包囲時、城に監視を残して先に救援軍を撃破しようと陳泰を攻めたが破れなかった。
当然準備万端迎え撃つ側が有利だし、(そうはできない事情があるから)野戦に持ち込む必要が出てくる。
羊コの江陵包囲なんかはまさに陸抗を誘い出す為の布石で、
それが叶わなかったから一軍を割いて派遣し西陵を窺わせたのだろう。
(楊肇の兵力に関しては、晋書の記述差の三万人が総兵力と羊コが指揮する部隊の兵力差と考えると、
1万を大きくは超えない兵力という推察に同意する。多く見積もっても二万までだろう)
また、ここで羊コの方ならそれこそ総勢八万とも云われた大兵力を駆使し、
主力にて西陵を包囲する陸抗を攻める選択肢もあったろうけど、実際にはやっていない。
俺としてはやはり堅固な包囲陣を攻めた時の被害の大きさを慮ったのと、
陸抗の発言などから江陵の守兵は少なくなかったのではないか(逆襲に転じる事が可能)と思うのだがどうだろうか。
>>112 野戦に打って出るのが良いか、陣地に籠もってるが良いかを判断するのは、
慎重か大胆かというのが大きいだろう。
自軍の敗北と戦力の喪失を恐れれば、野戦なんて選択しないだろうが、
そのリスクを恐れない人間ならば、野戦を選択する。
「確実じゃないから良案ではない」と言うのは、個人的にはあまり歓迎できない考え方だね。
戦力劣勢なら、尚のことリスクを恐れず行動すべきだと思う。
それが優れた機動の後の敵の降伏によってもたらされるにせよ、
戦場における敵の殲滅によってもたらされるにせよ、
敵軍を破る事ができなければ、通常、戦争は終わらない。
急いで攻める必要が無ければ、どんな要塞に籠もっていようと、脅威には映らない。
戦いの主導権を握るという意味では、バトルドクトリンや戦術機動を駆使できる野戦の方が、
陣地を固守するよりも優れており、より指揮官の力量に戦果が依存する。
もちろん、指揮官の力量がものを言うけど、2倍程度なら撃破できない事は無い。
不確実であるという事は、劣勢を覆す要素もあるという事。
「拠点に籠もって相手に攻めさせる」ってのは当然、有利は有利だと思うよ。
ただ、陸抗のは要塞ではなく、contravallationとcircumvallationによる、
内外に設けた堡塁線であって、正面はかなり広くならざるを得ず、
多数の敵に攻撃されれば、劣勢な陸抗の戦力でカバーできたとは思えない。
二重堡塁線と野戦を天秤にかけた時、俺だったら野戦を選択する。
>>112 次いで、江陵とかの話だけど、陸抗の二重堡塁線は、そもそも大軍に対して有効だったのかは不明。
カエサルのアレシアでは、多数のガリア人を撃退できたが、
スペイン継承戦争では、仏軍は戦力で劣った敵軍にすら突破されている。
陣地というのは、しっかりと構築されていれば、確かに優勢な敵を拒止し得るものだけど、
そこに機動の余地は無く、指揮官の想像力が戦況に決定的な影響を与える事は無い。
また、敵を前にして、それを自由にさせておく事は、考えている以上に精神を消耗する。
陸抗も、楊肇率いる少数の軍しか到着していなかったにもかかわらず裏切りが発生しているしね。
こういう状況で羊祜が到着すれば、雪崩を打ったように瓦解した公算は低くない。
陸抗が西陵に大きな包囲陣地を築いているという報告を羊祜が受けていたなら、
それを簡単に手放して江陵には向かわないというのも予測できただろう。
仮に江陵に逆襲に転じるだけの戦力があったにせよ、要塞守備兵に満足な野戦ができるわけも無いのだから、
あまり大きな戦力を割かずとも、羊祜は西進できたはず。
江陵に数万もの兵が駐屯していたなら別だけどね。
陣地から引っぺがした方が良いから、羊祜もそうは思ってただろうけど、
西陵に向かわなかったのは、陣地を攻めたくなかったからとは思えない。
まぁ、この時代の二重堡塁線の有効性がどうであったかにもよるけど。
>>113-114 「目標達成により確実な案の方が良案である」というのは議論を待たないと思っていたが、
この場合は「情勢的に慎重策がより確実な案とは限らない」という主旨と受け取っていいのかな?
そうでないなら、言ってくれればもう首突っ込むのは止めておく。
主導権の奪い合いというのは、ようはどれだけ有利な体勢で敵と相対せられるかということであり。
指摘の通り攻める必要のない堅陣が意味のないのと同様、
特に利点のない状態で野戦に持ち込んだって意味はないだろう。
敵が攻めてくる(その必要がある)から、陣地を固守して迎え撃つことが優れてる、
また有利な体勢で戦闘を進められる状態にある(例えば前後で挟撃できるとか)から、野戦を選択することが優れてる、
戦略的な観点における主導権争いなら、こういったものの筈。
局地的な観点で一箇所を守れば固定され、攻めて出れば広く選べる、
だから戦術的な主導権争いにおいて野戦の方が優れている(選択肢が多い)ということなんだろうと思うが、
この二つの利点は概ね前者の方が優るというのが俺の知ってる常識論。
西陵の陣地がどれだけしっかりと構築されていたか、は確かに今となっては楊肇を防ぎえたことしか判らず、
呉側の結束に不安が残るのも事実だが、諸将の反対を押し切って長期間をかけて作った陣地に
おいそれと不備があるということもないかと。
江陵の戦力については、
貴方が「数千程度だろう」と推察した西陵内の軍勢を慮り陸抗が本格的な追撃を断念したように、
「要塞守備兵に満足な野戦ができるわけも無い」と断じるのは早計。
言葉尻や表現にいちいちイチャモンつけるのはあまり宜しくないが、
恐らくは徐胤にそういしたように、それなりの戦力を分散させる必要があっただろう。
続きね。
羊コは初め江陵を攻める様子を見せれば阻止のために陸抗が来るだろうと考え、
そこで陸抗を迎撃して破って…というプランを立てたが失敗。
次に楊肇らを派兵して西陵攻囲の勢いを弱めつつ、自ら本格的に江陵を攻勢して陥落させようとしたが、
先に楊肇らが耐え切れず瓦解、敵地での孤立を避けるため撤退…という経緯だと思う。
羊コの方に(戦力的優位に立ちながら)慎重策に過ぎ、
リスクを犯してでも結果を出す果断さが無いと非難されるなら庇おうとは思わないが、
あの状況で陸抗が陣地も捨てて決戦を挑みに行くことが、より良い方策だったとは思えないな。
>>115-116 あなたの批判は、「野戦は勝利できるかどうかが確実でない」という意味だと思ったが。
主力を撃破できれば晋軍が撤退するのはほぼ確実、となると、
確実性という論点は野戦に勝利できる公算にかかってくるもんだと思った。
で、そういう場合に、勝利が確実でないから野戦をしない、という考え方は批判されるべきって事ね。
防御は確かに強力だけど、あるラインを過ぎると、一気に崩壊して壊滅的な打撃を受ける。
羊祜が西陵まで前進した場合に、二重堡塁線がそうならないとは言えない。
「勝ったから正しかった」と言われればそれまでだが、
二重堡塁線に籠もっている事が万全だったとは、俺には思えない。
羊祜が西陵まで来てしまったら、最早陣地を固守する事しかできなくなるし。
それに赤谿から故市まで、恐らく西陵の全周を包囲した陣地だろうから、
単純にcontravallation、すなわち西陵と対面する堡塁線だけでも、その正面は数kmだろう。
さらに後方の敵に対する堡塁線も同様に数kmに達しただろうから、
少ない戦力で堡塁線を防御しきれたとは、自分にはどうしても思えない。
主導権の話は、純粋に戦術的なものだよ。
まぁ、陣地防御も、その位置の保持にのみ努力を傾けるようなら、戦略的にも主導権は握れないけど。
と言うか、ところどころ論点がずれてるように感じる。
敵主力を撃破するつもりなら、そもそも西陵に二重堡塁線など作るべきではないのだし、
「陣地を放棄して羊祜を撃破すべし」というわけではないんだね。
あとは、野戦に対する認識もずれてるかな。
戦闘の優位は戦略機動によってのみ作られるわけではなく、戦術機動によっても作られる。
マラトンもイッソスもカンネもファルサロスもリュツェンもロイテンも、
戦略における勝者の優位など殆ど無かった。
この辺りも、以前話した理想の指揮官像も影響してるんだろうね。
「要塞守備兵に満足な野戦ができない」と言うのは、断じるのは早計にしても、
そういった傾向は確実に存在する。
戦闘というのは、兵士が集まればできるというものでもない。
明確なバトルドクトリンのもとで、平時から厳しい訓練を積まねばできるもんじゃない。
そりゃ、戦う事はできるけれども、正規の野戦軍に対抗しうるとは思えない。
ゲリラ戦を展開するなら別だけど。
陸抗が西陵の守備兵の動きを考慮したのも、その長大すぎる正面を維持するには、
おいそれと陣地から軍を抽出できないからだろう。
初めから監視の為の陣地と、それを守る為の戦力を割くだけならば、
十分に要塞守備兵に対抗しうる処置は、羊祜には可能だったと思うよ。
羊祜が尚考慮したとすれば、東から援軍が来るかもしれないという事かと思う。
要塞の監視はできても、羊祜の本隊が離れては、増援に対抗しきれないって事なんじゃないかな。
そういや、これだけは言っとくと、俺は羊祜にしろ陸抗にしろ、そんなに叩きたいわけじゃない。
俺は天邪鬼な所があるから、賞賛ばかりされるような人物に対しては、
疑問を呈したくなるんだよね。
ただ、そうする事で、無批判な賞賛よりも、結果としては良きものが得られるだろう、
という目論見もあるけどね。
そういう批判を潜り抜けてこそ、真に優れた評価が下されると思うし。
>>117-118 まさしく野戦に勝利できる公算を慮ったわけだが。
「慎重か大胆かが決定する」わけじゃないだろうと。
羊コ軍が大軍を持って囲むということは遂になく、
他に類似例を知らない俺にはそれがどれだけ困難に思えるか判らないためなんとも言えないが、
三万人を動員して堡塁を連ねて尚防御しきれぬと断じるほどの戦力差があるとする方が信じられない。
川も通った険阻な地形、守るに適した位置にもあるのに。
まぁこれは無知故の愚考なのかねぇ。
戦術機動における優位なんてものを、今現在の視点からみて語りようがあるのかという問題がある。
「自分なら野戦を挑む」というが、じゃあ具体的にこんな機動戦をして羊コを撃破します、とか言える?
錬度の話をすれば、晋の野戦軍だって基本は各所の駐留兵の連合だろうに、
江陵の駐留兵と晋軍にどれだけの差があるんだ?
かつて江陵に駐屯していた朱然の逸話にもあるように、同様に平素より訓練を積んでいるだろうし、
貴方がイメージするような差があったのか疑問だ。
あの戦役で揚州軍の動向は全く見えないのは気になるよね。
以前なら数ヶ月もあれば増援の派遣が見られたもんだが…
>>120 前面と背面あわせて、守るべき正面は10km以上はあったと思う。
仮に10000mに3万人が均等に配置されたとすると、1m当り3人。
対する羊祜は、3,4万の戦力を、背面に限定はされるが、その正面の何処だろうと、
自由に攻撃する事ができる。
陣地を設けたと言っても、木柵と塹壕を、後は精々逆茂木を連ねた程度のものだろう。
敵は何処に戦力を集中するか分からない上、長大な正面を長期にわたって維持できるとは、
少なくとも自分は思えない。
あと、要塞守備兵の訓練と、野戦軍のそれとは少し違う。
封建軍隊のような寄せ集めならそうではないが、普通、
野戦軍というのは決められたバトルドクトリンを想定した訓練を積む。
まぁ、封建軍隊も、部隊それぞれが歩騎混合の独立戦闘単位だろうから、
単位ごとのバトルドクトリンに沿った訓練は積んでるだろうけど。
要塞守備兵を掻き集めて、フリードリヒ大王のやった斜行陣ができるか、
と問えば、恐らくできないだろう。
どういうタイミングでどういう機動をしたら良いかが、要塞守備兵には分からないから。
どういう風に羊祜を撃破するか、なんてのは、情報が少なくて自分には分からん。
戦場から自軍、敵軍の様子まで自分で決めて、それでシミュレーションしろってんならできるだろうけど、
そんな事に意味は無い。
俺が嫌なのは、「陸抗が二重堡塁線を設けたから勝てた」とか、
「二重堡塁線でなければ勝てなかった」とかって手放しで褒める事。
そういうのは、意識的にせよ無意識的にせよ、他の可能性を切り捨てているからね。
>>121 実際にその長大な正面面積を、楊肇の時は数ヶ月単位の長期に渡って守りきり大きな被害を与えたわけだが、
貴方の考えでは1、2万程度ならそれができるけど、3、4万だと途端に不可能になる類のものか?
その言葉通りなら楊肇にだって容易に突破できそうなものなのに。
ならその広大な戦線の長さが正しいのか、堡塁の内容と効果はいかほどなのか、
そもそも長大な戦線全てに均等に戦力を配置するような方策を取るのか、
合わせて考えてみた?
中段の内容が後漢末〜三国時代の軍制において当てはまってるのか甚だ疑問だ。
各国が各地の駐留軍には各個バラバラの方法で訓練を施し、統一を図ってなかったなんてことになるなら、
その各国の野戦軍は、一体いつどこから湧いて出て来てるのかと。
当時の中国の軍隊に野戦軍と駐留軍に明確な差があったこと、
駐留軍を束ねてもそれぞれ合図もバラバラで満足に指揮ができませんなんて窺わせる史料はあるのだろうか。
まぁどういう風に撃破するかシミュレートするのは無理だろう、と思って聞いたわけだが、
俺にしたらその如何こう言えない部分で有利に進めることを前提とした作戦で、
全体の作戦を四の五のされる方が嫌だよ。
「陸抗側が少数ながら優れた戦術機動によって多勢の羊コ軍を撃破するのが最善の策だ」、とかね。
その「陸抗が二重堡塁線を設けたから勝てた」ってのは、
俺が手放しで陸抗の作戦を支持して他の可能性を切り捨てている、と言ってると捉えていいの?
それとも一般論として「成功だけみて検討を加えてない場合」のこと?
>>122 最後の段についてだけど、それは一般論だよ。
んで、作戦計画というのは、もとより多数の不確実な要素から成り立っているのだから、
それに対する批判も、当然、多数の不確実な要素を含む。
そういった批判は、当該戦役が敗北に終わった場合は、大抵の場合許されるのに、
勝利に終わった戦役を批判する事は、それ自体が忌諱されたりする場合が多くある。
俺が言ってるのは、そういう現状は嫌だ、って事ね。
二重堡塁線が羊祜の到着で破られたかどうかも、当然、俺には断定できない。
ただ、楊肇の軍だけでさえ、呉軍は動揺し、裏切りまで発生していた。
そうした状況で、更に数万の増援が、それも大将であり、
呉でも慕われていた羊祜が来た後も、それが瓦解しなかった姿は俺には想像しにくい。
軍制に関しては、史料が無い以上、あったと断定はできないと思うよ。
通典には歩兵の、六韜には騎兵の基本的な動かし方が書かれてはいたが、
それらの部隊を組み合わせ、戦場でどう機動させるかまでは書かれていないから。
界橋の戦いというモデルケースはあるが、それしか無いから、それを全体に拡大はできない。
あと、満足に指揮ができない、とまでは言ってないでしょ。満足な野戦ができないというだけ。
それに、要塞守備兵を組み込むだけなら野戦はできるだろう。
俺が言っているのは、要塞守備兵のみでする野戦の事だね。
それと、「陸抗側が少数ながら優れた戦術機動によって多勢の羊祜軍を撃破するのが最善の策だ」
なんて断定した覚えは無いよ。
>>108を読んでもらえば分かるが、「個人的には野戦が良かったんじゃないかと思う」と言った上で、
その行動を否定し得る種々の要素を述べているに過ぎない。
少なくとも、この戦役を考える上では、俺は野戦を否定しているのが分かると思う。
だから、最初に言った事と被るけど、それ以降の議論は全て、
西陵の戦いを題材にはしているけど、戦争における一般論を述べたものだよ。
>>122 全然関係ない話で恐縮だが、もしかするとあなたは、
少し前に朱然の話とかにも付き合ってくれた人?
さて、多くを推測にしか拠れない以上、
お互いにこれ以上の議論に意義が無くなってきたように感じる。
水掛け論は嫌いなので、お互いに容れるべき点は容れ、
拒否する点は拒否するという事で、この辺で終わりにしたい。
これは俺自身に対する戒めのようなものなんだけど、
俺は戦術が好きなので、自然と、それについて詳しい西洋の戦史に傾いている。
武経七書の類も一通り読みはしたが、孫子は別として、俺の軍事に対する考え方の土台にはなっておらず、
その九割以上はジョミニ、クラウゼヴィッツ、リデルハート等の西洋発の名著と、
数々の西洋戦史なんだよね。
だから、さっきの軍制の点で呈せられた疑問のように、
自然と西洋的に軍事を考えてしまっているという欠点もある。
もとより、俺の意見を頭から信じる人などいないと思うけれど、
俺の意見を読む際は、その点を留意して、眉に唾つけて読んでもらいたい。
>>124 三戦板で厚顔無恥な人間を見かけたら、大体俺さ。今や人も少ないしね。
別に呉の人間の話題だけ、って訳でも無いんだけどね、一応。
>>126 いやいや、厚顔無恥だなどとは思ってないよ。
ただ、話した感じが似てたから、そうなのかと思って。
とすると、やはりスレに参加している人は少ないねぇ。
名将の話を続けた方がいいのか、或いは話題の転換を図った方がいいのか、思案のしどころだな。
西欧か東洋か以前に時代錯誤じゃね?>軍事論
1000年から違う時代の軍事理論をそのままあてはめるとか無意味でしょ
そっくりそのまま当てはめてるつもりもないけどね。
ただ、戦略にしろ戦術にしろ、その根本の原理は不変だと思ってるから、
そういった要素を考慮するのは構わないことだと思うけど。
まぁ、俺の考えてる事が無意味だと思うならそれはそれで構わないよ。
軍事にしろ歴史にしろ、俺が素人なのは変わりないからね。
1日に出た、渡邉義浩氏の「『三国志』軍師34選」という本を読んでみたのだが、
それの諸葛亮の項目の所で、陳倉の攻囲は陳式の武都・陰平攻略の為の陽動だと書かれていた。
そんな風に考えた事無かったけど、確かによく考えると、
陳倉の攻囲が228年末、郭淮を退かせ二郡を攻略したのが翌年の春だから、
これらが全く関係ない戦役と考える方が無理がある。
諸葛亮の失策としてよく挙げられる陳倉の攻囲だけど、
陳式の二郡攻略と合わせて考えると、実は高く評価すべき事だったのかもしれない。
> 陳倉の攻囲は陳式の武都・陰平攻略の為の陽動
ちょっとムリがあり過ぎないか?
・諸葛亮、陳式を武都・陰平二郡に派遣。
・郭淮、軍勢を率いこれを撃とうとする。
・諸葛亮、牽制のため犍為まで出てくると郭淮は撤退。
・陳式、武都・陰平二群を平定。
陳倉攻め以外は涼州方面に軍を動かしてるから、諸葛亮の目的は一貫して涼州方面あった。
それをカモフラージュするための陳倉攻めという考えなのかな?
陳倉攻めの経緯、曹真の読みとか、諸葛亮の撤退理由など、を考慮すると、単に直線的な攻めはムリと判断した結果のように思えるけどなあ……
>>131 両戦役の間は殆ど間が無いか、或いは重複しているぐらいのものなんだよね。
とすると、少なくとも、「陳倉は失敗したから、武都を攻めよう」なんて、
悠長な判断の元の行動ではないと思う。
むしろ、ほぼ同時期に兵を出し、陳倉の攻略と二郡の攻略を同時に狙ったものだと思う。
司馬懿と司馬孚の建言があるまでは、隴西で蜀軍に当れる戦力は数千、恐らく5千以下しかない。
東方からの援軍を遮断しさえすれば、少なくとも武都・陰平の攻略は難しくない。
折りしも、要衝陳倉の防備は不十分であったので、これを攻略して、
東方から来る魏軍を迎え撃ちつつ、陳式に二郡を攻略させる、といった感じだったのだと思う。
しかしながら、陳倉は予想以上に堅く、援軍到着前に攻略できなかった為、
援軍が武都の状況を知りそこへ援軍を出そうとする前に退き、
自ら武都へ出て攻略を急いだ、という事なのだろう。
陳倉の攻略はならずとも、故道の隘路を押さえておけば魏軍が武都へ真っ直ぐ来る事は防げるし、
二郡の攻略という戦果は保障される。
第一次北伐の手腕を考慮すると、陳倉攻略という単純な戦略だったとするよりも、
上記のような戦略だったとする方がしっくり来るように思える。
228年春 北伐
228年冬 陳倉攻め
229年春 陳式を派遣し武都・陰平侵攻
230年秋 魏の侵攻
230年冬?魏延らを派遣し陽谿で郭淮らを撃ち破る
231年春 北伐
234年春 北伐
か……
微妙だなあ……
>>133 微妙ってのは、連動してたか微妙って事かい?
明帝紀とその注に引く魏略、曹真伝に拠れば、諸葛亮は12月の10日以降に陳倉に到着し、
20日あまり城を攻撃した後、翌年春(正月)に退いている。
全軍を漢中に退かせたとして、沔陽に着くのは正月末か2月に入ってからだろう。
そうすると、作戦の準備期間なんて殆ど取れない。
やはり一連のものと考えた方が自然に思えるけどね。
そもそも第三次北伐はよく分からんのよね。
陳式はどこを策源とし、どこまで前進したのか。
郭淮は陳式迎撃の為にどこまで南下したのか。
そういった事が書かれてない。
まぁ、陳式の策源に関しては、恐らくは漢中じゃないかとは思うけど。
恐らく上邽にいたであろう郭淮が、武都・陰平へと向かうには、
諸葛亮が第一次と第四次北伐で用い、諸葛緒が討蜀戦役で用いた道路、
すなわち、祁山、建威を経由して南下するルートが最も適しているだろう。
とするならば、諸葛亮が建威に至ったという事が、連絡線が遮断された事を示す。
郭淮が下弁周辺に留まっていたなら、諸葛亮が建威に到着する前に撤退するだろうから、
陳式、郭淮共に二郡の奥深くまで南下していたか、諸葛亮がその前進を完全に秘匿していたかになる。
前者はともかく、後者であった可能性は低いだろうね。
また、建威を占拠されたとするならば、郭淮は隴西方面に抜けて撤退した可能性が高いと思う。
陳倉の攻略戦について、個人的に不自然だと思う点として、
郭淮が全く動いていないという事もある。
数万に包囲される中、たったの千人で守っている城なのだから、
例え雍州刺史麾下の数千と言えども駆けつけないのは不自然だと思う。
包囲を解く事はできないにしても、城兵を激励する効果もあるし、
実際三国志の中でも、徐晃や夏侯儒がそんなような事をしている。
また、五丈原の時は郭淮は真っ先に駆けつけてるしね。
何らかの理由で郭淮は動けなかったんだと思うけど、
既に陳式が動いていたのか、或いは、
諸葛亮伝の陳倉での王双撃破と二郡平定の功績を称える詔勅の中に、
羌族や氐族を降した事が書かれているのを考慮すると、
異民族の蠢動が既にあったのかもしれない。
どうでもいい話なのだが、何かヒントになるものはないかと思い、
html化されている姜維北伐スレの初代スレを読んでみた。
特に刺激は受けなかったが、2スレ目の後半からレスし始めたと思い込んでいたのが、
自分の勘違いだったのが分かった。
どうやら、末期からではあるが、初代スレから参加していたようだ。
どうにもレスが付かんね。
俺のいない間に伸びてたりすると嬉しいが、スレの内容や板の状況を考えるとそうもいかんか。
さて、何攀の訪問を受ける前の、羊祜のオリジナルと思われる呉平定作戦案だが、
これはやはり、揚州における作戦の短調さが気になる。
複雑な機動で無ければいけないという事もないし、単純に見える機動が、
実は優れた効果をもたらすという事もままあるので、それを以って批判はできないけどね。
羊祜の案だと、揚州、兗州、徐州、青州の諸軍、恐らく10万近い数になるであろう軍が、
建業目指して前進する事になっている。
これだけの数だと、益州と揚州と、どちらが主攻なのか分からないくらいだな。
この前進が成功したか否かは、今となっては分からないが、
タイミングによっては、敵の精強な水軍が残っている状況で、
大河を渡河する必要が生じてくる。
数kmの川幅を持つ大河を、敵水軍の眼前で渡河するという事は、相当な被害を覚悟しなければならない。
そうすると、結局、大軍を建業に向かわせたとしても、
攻勢の最終局面は、王濬の水軍が到着して敵水軍を蹴散らした後という事になる。
数を恃めば渡河は成功するかもしれないが、敢えて被害を増すような事はしないだろう。
やはり、全軍を集中させて建業の前で渡河するよりも、正面を広く取り、
複数ヶ所で渡河し、江南に渡った後に建業に向かう方が効率が良い。
京口周辺と建業周辺に渡河点を分散させる何攀案の方が、揚州における部分は優れてるだろう。
ただ、何攀案は、その陥落が荊州崩壊の起点となった江陵の攻略について言及していないのが気になるところではある。
久々にageる。
たまには兵站の話をすると、昔から、軍隊の消費する物資の全てを輸送で賄えた事はないんだよね。
現代みたいに、兵器の発達によって、弾薬など現地での調達が不可能な物資が、
軍需品の大多数を占めるようになってからは別だけどね。
例えば、数万の軍隊が1日に消費するであろう食糧の量なんかを計算した事のある人は分かると思うけど、
馬鹿馬鹿しいぐらいの量になるので、全てを輸送できるわけが無いってのは容易に想像がつく。
三国時代も当然の事ながら、そういう状況だったと思う。
んで、そういう時の軍隊ってのは、実は、移動している時よりも、
停止している時の方が物資の欠乏が起こりやすい。
また、前進に使った道路を後退に使うのが困難にもなる。
城塞が効力を発揮する理由の一つにはそういう事もある。
城塞を包囲する為に軍隊を停止しなければならず、
それにより物資の徴発が狭い範囲に限定されてしまうので、
すぐに徴発し尽くして欠乏するんだよね。
それを防ぐ為には、城塞に籠もる軍隊そのものを喪失させるのが手っ取り早い。
北伐から窺える姜維の戦略思想は、そういった決戦的なものが読み取れるけど、
軍隊をなるべく移動させ続け、城塞の包囲という愚を犯さないという兵站上の利点もある。
補給困難な土地を戦場とした事を考えると、当然の帰結と言えるのかもしれない。
139 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/04/15(火) 01:06:21
上げたはずが上がってなかった
予め言っておくが、次スレはいらんと思う。
>>140 >予め言っておくが、次スレはいらんと思う。
何故?
俺は常に読んでるし楽しんでるんだが
寂しい独り相撲の感覚からの結論なら思いとどまってもいいいのでは?
一人でネタを振ることに疲れたんだろ?
まあ、オレも多少のリアクションはしてもそんなに深くは語れないからなあ。
残念だがしょうがない。他の人が続行することに全く異論はないが今以上にネタを振ってくれるかわからん。
いやいや、別に一人でだらだらと語るってことに関しては、
それこそ4年前の姜維北伐スレの頃からあまり変わってないから慣れてるんだよ。
ただ、今回はいつも以上にとばしてレスしてはみたけど、
やはりどうにも、無い話題を無理矢理ひねり出してる感が強い。
話す事があるから書き込んでいるのではなくて、
スレを維持する為に書き込んでいるような感じになっているから、
続けても意味は無いだろうと思い始めてるんだよね。
後期だけじゃなくて三国志全体の考察スレに変えればどうで?
ジョミニさんのような考察って2chでは貴重だしなくなると寂しいなってのがほぼロム専の意見
姜維登場以前に関しては、やはり俺自身熱意があまり無いからね。
何か強く刺激するものが無い限りは、あまり書く事も無いように思える。
どの道落ちるのは数ヵ月後だし、それ以降に立てる事も止めないけど、
レス数が大幅に低下するのは否めないと思う。
どうせだから兵站についてまた述べる。
兵站を語る人が少ないのは、やはり地味だからだろうけど、
実際に考えると、相当に面白いものだというのが分かる。
軍隊を養う方法には、輸送によるものと、徴発等の現地調達によるものとがある。
また、これらの実際について言えば、通る先々その場で徴発したり、
出発点から携行したりという事の他に、予め集積する倉庫を設けるというものがある。
その倉庫に関しても、前方に設ける場合と後方に設ける場合がある。
前者は主として現地で調達した物資を集積し、後者は後方からの輸送による。
ただし、後方に設けた倉庫でも、倉庫周辺の地域で調達する場合もある。
前者は姜維が隴西に設けた邸閣などが、後者は呉が諸葛誕を救援する際に都陸に設けた邸閣などがある。
他にも、夷陵近傍の雄父の、寿春近傍の安城の邸閣、豫州南頓の邸閣などが、三国志には見える。
雄父の邸閣には30万斛以上、すなわち600万〜700万リットルくらいの米が集積されていた。
兵士一人当たり1リットルから1.2リットルほど消費するとすれば、
500万人分程の口糧が集積されていた事になる。戦時における前進用にしては集積された量が多すぎる。
雄父以外にも邸閣の置かれた位置というのは国内が多い。
恐らくは、戦時平時に関わらず、収穫された穀物を集積する施設であったに過ぎず、
単なる穀物倉庫を戦争に流用しているに過ぎないのだろう。
これとは対照的に、諸葛亮が第五次北伐に先立って斜谷の出口付近に築いたものや、
姜維が第三次北伐に先立って羌族の供出によって隴西に築いたものなど、
軍隊の前進をスムーズにする為の、完全な戦時用として築いた例が蜀にはある。
この事実も、蜀における兵站事情の厳しさを物語っている。
あとちょっと思ったのは、全体的に俺を買かぶり過ぎているように感じる。
俺がやってる事なんてのは、実際、大した知識も無しにできる事だと思うよ。
>>143でも言ってるように、考察し始めたのはたったの4年前だし、
話してる事のレベルは2年位前から変わってないし。
>>146 俺は兵站事情に関する考察は好きだがね
以前に食料の消費ネタに関して趙充国伝を挙げた
邸閣といえば、呉の赤烏八年に、三万の屯田民と作士を動員して句容から雲陽
まで運河を開通させた市場と邸閣を設けている
この雲陽は曲阿の名称の方が馴染み深いかもしれんね
あと苦言になるが、話題が地味とかスレ維持のために書き込むとか、わざわざ
書く必要はないだろう
たぶん俺を含めてスレの敷居を高く感じてる人がいるのかもしれないが、
些細な疑問でもあれば気軽に書き込める雰囲気こそ大事ってもんだろう
>>148 これでも数年間同じような事をやってるからねぇ。
今みたいに現状を嘆いた事もあれば、黙々とレスし続けた事もあるし、
多少挑発的な内容のレスをした事もあれば、数週間レスを控えた事もあった。
しかし数年間、全くと言っていいほどスレに変化は無かった。
だから、どう感じられようと、自分が限界を感じた時が限界だと思うのは、
自分としては仕方ないと思うけどね。
趙充国伝と言うと、兵士は日に2リットルや3リットルも穀物を消費するか否かを話した時か。
あの時はそこまで考えが至らなかったが、あの話は、「穀」と書かれているのか、
或いは「米」などと書かれているのかの違いによるものだと思う。
精白する事で、容積は半分くらいになるから。
「些細な疑問でもあれば気軽に書き込める雰囲気」というのは、
当然俺も望んではいたし、そんなような事も何回か言った事もあったけど、
今では半ば諦めてるんだよね。
俺のレスは、他人のレスを寄せ付けない空気を作ってしまうものだ、と考えるようにしてる。
いつまでもこんな話ばかりしてても仕方ないので、兵站―のみならず戦術にも関わってくる―の話をする。
諸葛亮の開発した新兵器元戎は、20cm程度の長さの矢を10発同時、或いは連続して発射するもの。
漢代の弩の臂の長さが60cm程である事を考えると、通常の弩に用いる矢は40〜50cm程の長さだと思うから、
元戎に用いる矢は相当短いという事になる。元戎は臂の長さも30cm強だろうね。
問題となるのは、元戎が通常の弩の10倍の矢を消費するという事。
恐らくは1本20g〜30g程度だと思うけど、1回の発射で10本消費するので、
100回射撃する為には1000本、すなわち20kg以上の量の矢を消費する。
華陽国志に拠れば、連弩士は3千人なので、100回射撃するには60トンの矢が必要になる。
ただ、1回の会戦で消費する弾薬量はたかが知れているので、
流石にこれだけの量を輸送する必要はなかったと思う。
普墺戦争におけるプロイセン兵一人当りの弾薬消費量は僅か7発だしね。
一会戦での射撃を5,6回とすれば、一人当たり1.5kg程度なので、十分携行できる量になるし。
うーん。
弾薬の量が輸送を圧迫するくらいになるんじゃないかと思って書き始めたが、
日に数十トン消費する穀物の方が重大な問題になるのは変わらないね。
元戎だろうと、弾薬が輸送の中心となるような状況にはならない。
やはり時代が下らんとそういう現象は起こらないね。
元戎について疑問なのが、「鉄を以って矢と為し」という魏氏春秋の記述だな。
まぁ、元戎自体魏氏春秋の記述なので、魏氏春秋だからどうと言うつもりは無いけど。
この、鉄を以って矢と為しという記述が、矢全体を鉄で作ってあるという意味だとすると、
かなり不自然な感じになる。
仮に矢の直径1cmとして計算した場合に、矢の質量は114gになる。
それを10本同時に発射するのだから、発射する質量は1kgを超える。
鉄の密度は木材の10倍程度以上になるのが普通だから、木材と鉄製矢じりの組み合わせの方が当然軽い。
ただでさえ有効射程の落ちる連弩に、わざわざ重い矢を使うだろうか?
しかし、通常の矢の作り方だとすれば、「鉄を以って矢と為し」などという記述が残るだろうか?
この全体が鉄製の矢を携行するとするならば、20回の発射をする分だけで20kg以上になる。
兵站の観点から言っても非現実的だな。
漢書刑法志に、戦国時代の魏の兵卒の武装として、
12石(漢代の度量衡なら372kg)の弩を操り、五十本の矢を背負ったと書かれている。
弩兵の携行する矢の量が、この頃と大きく変化していないとすれば、
三国時代も数十本を携行するのが普通だったという事だろう。
数十本というのを射撃量と考えれば、元戎では同じ回数射撃するのに10倍の矢が必要になる。
仮に1本を30gとしても、500本の携行で15kgとなる。
携行する荷物が矢だけなら背負えない事も無いが、通常、数日分の食糧も背負うし、
甲や武器など、重量のある諸装備を身に付けなければならない事を考えると、
500本もの矢を携行する事は現実味を帯びない。
ただそもそも、少なくとも野戦においては弩をそう何回も射撃する余裕は無いように思える。
魏の兵士も、50本の矢というのは、あくまで戦争全体で割り当てられている量であって、
一会戦で消費する量ではないだろう。
元戎の利点はそこにあるのだと思う。
有効射程は低下するものの、僅かな射撃回数で大量の矢を発射できるので、
会戦の初動において敵火力部隊を掃討するのが容易になる。
しかしながら、諸葛亮の戦い方は、この元戎の利点をあまり活かしたものではないように思える。
史書の記述を見る限り、諸葛亮は自軍を堅固な陣地に置く事を常とし、
純然たる野戦に踏み切った様子は見られない。
短時間の火力集中による敵火力の打破と、それに続く騎兵の駆逐と側撃という行動を可能にする元戎は、
陣地戦ではなくむしろ野戦によって、よりその性能が活かされる。
そういった点で、姜維のような戦い方の方が、より元戎を活かすものだったのだと思う。
軍隊に補給するに当り、輸送車両を軍団に随伴させるか、
或いは後方の基地と野営地とを往復させるかという問題がある。
三国志、と言うより、中国史全体に言えることかもしれないが、
後者より前者の方法が取られたように記述されている。
また、輜重を後方に留め置いて長駆前進するという行為も、頻繁に記述されている。
つまり、食糧と飼料が軍需品の殆どを占めていた時代であれば、
やはり軍隊の維持は現地調達に多くを拠る事ができたという事である。
蜀における補給が、前者の方式であるか後者の方式であるかを考える場合、
木牛の性能が指標となるだろう。
木牛が3人で運用される車両であるにせよ、4人で運用される車両であるにせよ、
その限界輸送距離は500kmを超える事は無い。
従って、木牛を輸送の中心に据えていたとするならば、蜀が軍団随伴方式を取る事はできない。
その為、基地から野営地までを複数区間に分け、各区間を輸送隊が往復する、中継往復制度が取られる事になる。
中継往復制度でも、軍需品の必要量全てを輸送する事はできないだろうから、現地調達に頼る事になる。
欧州において、それこそ第一次世界大戦まで、軍隊が食糧と飼葉を現地調達によって賄えた理由は、
人口の稠密さに拠るところが大きい。
隴西では、少なくとも戸籍を見る限り、人口稠密度の低さから現地調達で大軍を維持する事はできないだろう。
そこで、蜀における作戦地域では、戸籍に登録されていない人々、なかんずく異民族が重要になる。
異民族の支援、そうでなくとも彼らからの効率的徴発が無ければ、軍隊を維持するのは難しい。
軍隊の行動は、戦略上と言うより、専ら兵站上の理由によって決定される。
従って、北伐の正否は異民族を制する事ができるか否かにかかっていたと言っても、大げさではないだろう。
姜維の任命された倉曹掾とはどういった事を行う掾属なのか、常々考えていた。
続漢書百官志に拠れば、「倉穀の事を司る」とあるだけで具体的な内容は分からない。
通典や太平御覧の職官部にも、詳しい事は書かれていない。
だから殆どを想像に拠るしかない。
郡などに置かれた倉曹掾であれば、郡管轄の穀倉の管理という事は分かるが、
司徒や司空、丞相の幕府に置かれる倉曹掾が何を行うのだろうか?
諸葛亮の場合を考えると、彼は漢中に幕府の中枢を置き、
主として国境防衛と北伐という軍事行動を行った。
とするならば、諸葛亮の幕府は国軍の総司令部のような存在だったと言えるのかもしれない。
さて、そう考えると、少なくとも諸葛亮幕下の倉曹掾は、兵站監のような存在だったのだろう。
編成序列や必要な軍需物資の量を計算していたのは楊儀であるから、彼は参謀総長のようなものだ。
倉曹掾の仕事を考えるに、楊儀の定めた軍需物資の必要量をもとに、
現地での徴発計画の作成と、その実施を行ったのだと考えられる。
徴発すべき村落の殆どが羌胡のものであるとすれば、隴西の地理と彼らの風俗に熟知した姜維が適任である。
彼らを徒に刺激せず、且つ軍隊の前進に必要な量の徴発を行うには、
姜維のような人間が兵站監を担った方が都合がいい。
いつも見てるが、なかなか面白い
書き込みたい事もあるけど、規制の巻き添えをくらって携帯からなもんで
長文も漢字の変換も骨なんで御容赦
寂しさや虚しさもあるかもしれんが、息切れしない程度でやってもらいたい
>>156 ありがとう。貴方のようなレスは励みになる。
少し話は変わるが、俺もそれなりの数の軍事に関する著作を読んできた。
やはり、孫子、クラウゼヴィッツ、ジョミニ、リデルハートの四者は白眉と言えるが、
彼らに匹敵する存在として、マーチン・ファン・クレフェルトが挙げられる。
彼の著作で邦訳されているものは「補給戦」くらいしかなく、俺もそれしか読んだ事はない。
しかしながら、この本は―文庫にして400ページほどの量ではあるが―、
極めて有用な、知識―というよりも考え方をもたらしてくれる。
俺の兵站に関する考え方のほぼ全てが、この本に拠っていると言ってもいい。
ブライアン・ボンドなども相当に面白いが、クレフェルトはそれを上回っている。
軍事学の大家であるジョン・キーガンは、読もうと思いつつ今に至ってしまったので、
近い内に手に入れて読むつもりだ。
軍事に興味があるのならば、こういった古典以外の名著も読んでみると面白い発見がある。
>>130からの陳倉戦の話はちょっと眼から鱗だったわ
呉蜀同盟、孫権からの要請という政治的要素の方に余りに重みづけを課してたのと
どこかで単年度決算的な考えが俺の中にあったみたいだ。新鮮だった
>>151 元戎の矢については鋳造による大量生産ということだと解釈している
矢の短さも当時の弩の矢を打ち出す力の面で与えられた制約によるかと
矢の直径を5mm、矢尺を20p程度と考えると一本当たりの重さは30g程度
恐らくこの30gを出すため矢の長さを短くしたのでは?
>>153 クレーシーの戦いや長篠の戦いに見られるように
射撃による制圧力で敵戦力を壊滅させようというドクトリンを組む軍は
敵の騎兵による衝撃に脆い自軍射撃源を敵から守るために戦陣に於いて
自軍陣地に十分な縦深性を確保しようとする傾向にある
つーかそうしないとまともに戦えない。諸葛亮のとった手はクレーシーや
長篠に通じるもので極めて真っ当な考えと思う。
誘い受けするしかないわなーというのが感想
>>154 諸葛亮集にあるように一年分の糧秣を積載した木牛の総重量は推定で
1.5t程度になると思われるが、これを3,4人で運用できるものだろうか?
当時の古代中国では車というのは車軸が固定されて車輪が回る形式でその上
ベアリングというものが存在しなかった(西洋にはあったけど)
グリースというのはあった筈だが、3,4人で引き回せるものだろうか?
意外と運用に人数を食ったんじゃないかと思うんだが
尤も木牛については諸葛亮集の記述から力学的に歯車と梃子を組み合わせた
少ない力でもとりまわしの出来るモノだった可能性もあるけどね
あの轅を上げ下げすると牛が進むという記述部分、あれが味噌かも知れん
昔なんかのからくり人形かなにかでそんなのを見た記憶があるけど忘れたw
>>158-159 誰かと思えばニセクロさんではないですか。
陳倉の話は、自分も全く思いついてはいませんでしたので、
渡邉先生の著作を読んだ時は、自分も同様に目から鱗が落ちました。
元戎の矢は、確かに直径を5mmとすれば質量の問題は解決しますね。
自分は昔弓道をやっていたんですが、測ったことはありませんが、
その時の矢が大体1cmくらいだったと思うんで、1cmという数字にこだわってしまったのかもしれません。
陣地に籠もって敵を迎撃する事ができれば、当然、それだけでも敵騎兵への対策になると思いますし、
元戎も威力を発揮するとは思います。
クレーシー等も、敵騎兵に対する障碍と火力部隊の組み合わせで勝利を収めていると思います。
ただ、元戎というものを考えると、通常の弩と比較して、
短い有効射程と長い発射間隔という特徴があると思うので、
その最大の利点は最初の射撃で大きな火力を集中できるという事だと思うのです。
もちろん、1日から数日に亘る会戦全体で考えれば、通常の弩より総火力量は大きいとは思いますが。
それを考えると、迅速な接敵とそれに続く射撃で、一気に敵火力を掃討するのに向いていると思ったのです。
諸葛亮のやったような、決着まで数日以上を要するような陣地戦では、
周辺からの徴発が困難になる攻囲戦と同様な状況にありながら、
それこそ補給を圧迫するほどに矢を消費する可能性もあります。
ただまぁ、自分は野戦が大好きなので、相当バイアスのかかった考えをしているかもしれませんが。
木牛についてはどうなのでしょう。
諸葛亮集には、そんなに労力は要らないという記述もありますし、
5人以上で運用するとなると、そもそも実用に堪えないんじゃないかと思います。
5人で運用する場合、限界輸送距離は300kmを切ってしまいますし、
実際の運用となると、数十kmまで落ち込むと思います。
まぁ、何人で運用する車両なのか書いてないので、実際どうだったかは分かりませんが。
>>161 木牛についてはわからないことだらけだからはっきりとはいえないが
記述にある積載量とそれを運搬しうる木牛の重さから総重量を推定した場合
4人で運用するなら一人当たり300-400kgを20里輸送する形になる
諸葛亮集にある一日20里行っても人は大いに労すことないというのも
運用人数が書いてない以上、10人で運用して余り疲れないということなの
かもしれないんで。
木牛は思ったより効率は良くないんじゃないかと思う
諸葛亮の後継者の内、蒋エンは木牛に頼らない新侵攻路の開拓を試みてるし
費イは敵が釣りあげられてから大軍を動かす方針を立てたようにギリギリ
まで兵站上の負担を避けた作戦指針に舵を切りなおしてる
姜維は言わずもがな
また蜀平定後の魏晋もこの兵站輸送具への考慮をしてるように見えない
諸葛亮体制下で魏への侵攻を企てようとした時のみ余儀ない採用を迫られ
るような非効率的なものだった気がしてね
実用に堪えないと言うのも殆どそうなのかも知れないと思う
ただ木牛については色々想像を刺激させられる
二組の車軸に8つの車輪、片側二輪だろうと思うんだが
俺はこれ、前は大型ダンプやトラックのような片側二輪のものだと思ってた
しかし前回のレスみたいに考えると二輪の内一つは轅の上下の動きを車輪に
ギア比を変えて伝える歯車だったのかも知れないと思ってるんだな
これはスゲー興奮もので三国志マガジンが未だ健在だったころなら
速攻で大澤さんにメル凸して面白話とかして盛り上がってた処だw
やー何故あのころの俺はこれを思いつけなかったんだろうね不思議だ
>>160 >元戎というものを考えると、最大の利点は最初の射撃で大きな火力を
>集中できるという事
というのはその通り。俺もどっちかと言うと野戦志向つか諸葛亮チキン杉と
思ってる口なのだが
>それを考えると、迅速な接敵とそれに続く射撃で、一気に敵火力を掃討する
>のに向いていると思ったのです。
このドクトリンは弓兵の運用としては危なすぎると思う
そもそも代表的な成功事例がクレーシーや長篠といったもので
それらは1)敵が射界内での戦闘に踏み込むこと 2)その状態で敵と自軍
の射撃部隊との間に十分な縦深性が確保できていること を前提として成立
している。そうでない場合は敵の高速機動部隊(騎兵)に蹂躙されて糸冬了
って可能性が高いだろ
そもそも諸葛亮が撤退戦で異様な勝率を誇るのも追撃して来る敵部隊はその
侵攻路がフィックスされていてその事自体が弓兵の密集と制圧射撃で迎撃
すると言う視点で言えば一種の縦深性が確保された状態にある訳だから
そうでない場合、素早く近づいて一斉斉射ってのは実際の戦場では無理ぽ
それに近い戦い方は古代ローマやギリシャの重装歩兵のジャベリンによる
投擲攻撃なわけだが弓兵でそういう運用するのは可笑しくないか?
>>160 >諸葛亮のやったような、決着まで数日以上を要するような陣地戦では、
231年岐山の戦いのことを言ってるのならあれは運動戦だと俺は思ってるけど
>>162-164 木牛は実際、書いてある事が抽象的過ぎてどうにも分かりませんね。
舌とされているものは、腹から垂れ下がっているので、
斜面で下がって来ないようにする為のブレーキだったりとか、
牛の歯とされているものはギアの外から見える部分だったりとかするのかもしれません。
重量も不明ですが、穀物であれば1年分で350〜500kgなので、
全体で見れば1tはこえてたかもしれませんね。
元戎の運用はどうなんでしょう。
偏箱車や他兵科、他火力部隊との連携、騎兵の迂回不可能な狭い正面での戦闘を企図する、
元戎と強弩双方の携行などで、野戦での運用を行えないものかと思っていますが、
何分、「肘掛け椅子に座った頭のいい戦略家の創作物」とクレフェルトに揶揄された、
輸送五日制のような、寧ろそれよりも明らかに粗製の創作物に過ぎず、
戦史、特に戦闘史に対するより深い理解は必要だと思います。
基本的には思い付きで書いてますし。
祁山は、晋書宣帝紀の記述からすると、河川の流路を変えて堀としたり、
大規模な工事による強固な陣地に拠っていたように思えるので、
五丈原同様、基本的には自陣地を攻めさせる方式だったんじゃないかと思ってます。
郭淮伝からは、郭淮の働きで事なきを得たものの、
関中から大規模な輸送を必要とする状況だったので、
麦の刈り取りもそれを促すためのものだったんじゃないかと。
>>165 まず糧秣なんだけど、これも分らん所があって
カイって体積で描かれるのと石って重量で描かれるのとあって混乱すんのよ
元々は水が基準だったと思うんだよね、カイ=石って感じで。けど時代が下る
と比重が水より重くなってる。脱穀とか製粉した穀物の量になってるっぽい
ああ、言い忘れたけど
>>152、弩の張力12石って漢代で換算してるけど春秋
戦国時代の数値は秦による度量衡統一前のものの可能性があるから換算の
時に気をつけないと
漢代の学者が既に換算済みなのか換算せず書物にあった数値を記憶したのを
そのまま述べただけかの検討も必要だからすげー混乱するんだよね
祁山は所期駐屯軍を包囲したままで上ケイまで本体が向かってるからきちん
とした野戦陣地を築いて進出していたと思うんだ
あと魏の増援が来てしまったからにはやはり守りを固めるとも思うんだ
この辺は解釈の違いになると思うわけだが五丈原なんかは所期には明らかに
会戦を志向した形になってる
祁山の戦役で生じた運動戦の再来を狙ったもので陳倉方面へ派遣した分権隊
と本体との連携の取れるところで魏の本軍を誘いこんで会戦を期したと
これは司馬懿がその誘いに乗らなかったことで長期戦になるわけだが
諸葛亮に対して俺が抱く歯がゆい思いは会戦を志向しながら誘い受けを狙う
という何や訳の分らんことをしくさる癖に誘い受けが下手でその上臆病な所
まぁ誘い受け狙いは制圧射撃で敵をつぶすのを狙ってる以上仕方ないがね
しかしそれは敵も分ってるから易々と乗るわけは無いんだけど何だろねあれは
>>166 弩の張力の話は、漢書なんで一応漢の度量衡による値を付しただけで、
さすがにそれが実際だったという意味では使ってないですよ。
祁山に関しては、素直に読めば上邽東方での会戦を企図しつつ、
それが失敗した為に引っ込んだという事になるんですが、
自分は「諸葛亮スゲー」というスタンスで考えようと思ったんで、
もともと鹵城での勝利を狙っていたと考えた方がそれっぽいという事でそう解釈しました。
三国鼎立以降の戦争を考える上で、一つの重要な要素になっているのが、
戦争が、漢という国家の下での群雄の勢力争いという状態ではなく、
全土の統一を前提とした王朝間の争いになっているという事だと思う。
群雄の争いの様相であれば、各群雄間の講和などが成り立つので、
戦争を制限戦争の次元で行う事ができるけれど、
王朝として成立した後は、究極的には敵国を完全に、
国家を解体するというレベルまで屈服させなければならないだろう。
ましてや蜀と魏では尚更だろう。
こういう戦争では、戦闘における一度や二度の勝利では平和を築く事ができず、
それによって勝利を築く事のできる決定的な戦闘が起こらなくなる。
そしてそれは、10万以上を動員する事のできる大国間の、長期的な消耗戦となる。
このような状況で、相対的に弱小な国家が戦争に勝利する事ができるのだろうか、
と考えると、どうにも絶望的に思える。
決戦によって勝利を追求する姜維の方針は、他に選択肢があったかどうかはともかく、
時代に合致しているとは言い難いものなのかもしれない。
別に後期スレが潰れるのは構わんが、
Jominian ◆Henri9gNlM 氏のコラムが読めなくなるのはつまらんことになるなーという感じ。
多分、三戦でやるのが間違いなんだろう。
このスレが無ければ三戦には来ない、とは前にも言ったけど。
良禽は木を択ぶべきだ。
そこまで言うなら自分のサイトでやってろよ…って話し。
>>169 そう言ってくれるのは非常にありがたい。
だけど、これは自分が真面目に考えすぎてるからかもしれないが、
貴方の言うように、私のコラムのようなものに終始してしまっている事は、
掲示板という形態をとっている場所には不適当なんじゃないかと思ってしまうんだよね。
>>170 それは俺がって事?
最近は、各国に存在していたであろう異民族部隊が気になる。
例えば袁紹や曹操、一時期は劉備も率いた事のある烏丸の騎兵。
諸葛亮が南征のおりに組み入れた、青羌や叟族によって編成された部隊。
こういった部隊は、ロシアのコサック騎兵のように、例え正規軍として扱われたとしても、
その部族の特質を保存しているであろうから、戦争の形態が異なっていたと考えられる。
「政治とは異なる手段に拠る政治の継続である」とするような、
クラウゼヴィッツが文明人の戦争と考えた戦争とは異なる様相を呈すものだろう。
例えば異民族の騎兵は、漢人による騎兵部隊とは、
馬術の差とかいったものだけではなく、本質的に一線を画していたと思う。
そういった部隊を、軍隊の中でどのように用いていたのかを考える事ができれば、
結構面白いと思う。
>>172 異民族部隊は秦、前漢から盛んに用いられていたらしい
漢の胡騎、越騎とかね
これは「帰義蛮夷」と呼ばれる漢に帰順した異民族が軍事力を供給するものだったらしい
ご指摘のとおりその異民族単位で編成していたらしいところを見ると、その部隊ごとにその異民族の特質を保存していたんだろうね
後漢末から三国時代はそれを引き継いだわけだけど、非異民族兵士の割合と比重が低くなっているために異民族部隊がより目立ってくるんだろうな
光武帝も「突騎」と呼ばれる烏丸騎兵を主力として天下を統一したけど、
後漢は初期から末期まで烏丸が中国内地で重要な働きをしているね。
>>173 割合の差による、記述における特異さの差異か。
そういうのはあるかもしれんね。
長く漢人の中で暮らせば、次第に漢化していってあまり変わらなくなるだろうけど、
それでは、本来の異民族部隊としての特長すら消えるだろうからね。
反逆者になりうるリスクを負ってでも、部族の特質を保存したと思う。
後漢書の西羌伝なんか読むと、西羌は持久に能わないが、果敢に突撃するという記述もある。
これは、政治と言うより、彼らの文化によって決定された戦争形態である、
略奪と破壊という遊牧民の軍隊に現れる特徴に似ているように思える。
その後に続く、戦死を吉とし、病死を不幸とみなすという伝統などは、
ガリア戦記や、タキトゥスのゲルマーニアなんかに出てくる、ゲルマン諸族にも通じたもののようだ。
こういった異民族を軍隊に同道させた時の運用方法を考えていくと、
より深い戦争描写が可能になるんじゃなかろうか。
そういや、華陽国志南中志の、「青羌万余家於蜀、為五部、所無当前、軍号為飛軍」
というのは、無当監の率いる無当と同一なんだろうか?
それともやはり、飛軍は飛軍であって、無当とは別の部隊だったのだろうか?
>>174 個人的に、騎兵という兵科は、国家が固まった時代も重要ではあるけど、
動乱の時代の方がより容易に活用できると思う。
騎兵は抜群の機動力を誇るけど、組織的に運用された大火力や、
密集した歩兵の隊列に対しては大きな効果を上げにくい。
訓練も行き届かず、火力を満足に用意する事もできない、
戦乱の初期の頃であれば、騎兵をただ突っ込ませるだけでも敵を容易に崩壊させられるだろうけど、
よく訓練された兵を、しっかりとした指揮系統で運用するようになると、
指揮官の優れた戦術眼が無ければ騎兵を上手く扱う事ができない。
それが烏丸であったのは、匈奴の衰退など、中華の状態に拠るものでは無かっただろうけど、
光武帝の時代と後漢末期の双方で、異民族の騎兵が活躍したのには、
上記の理由も大きいんじゃないかと思う。
魏末期や晋(八王の乱以降を除く)では異民族の騎兵隊はどのくらい活躍してたんだろう
>>177 通典やら正史やらをざっと漁ってみたが、よく分からんね。
ただ、異民族部隊の組み込みは、国家の体制が揺らいでいる時に起こりやすい。
依然として統一が果たされていない上、異民族の内徙が進んでいた状況を考えれば、
彼らを傭兵として組み入れたままだったであろう事は、想像に難くない。
しかし、彼らの活躍の度合いまでは流石によく分からないな。
恵帝以降に各王が彼らの取り込みに躍起になっていた事を考えれば、
威力自体はそれ以前も保証されてただろうけどね。
異民族部隊は、しっかり手綱を握らないとやばいんだよね。
八王の乱然り、テオドシウス帝以降のローマ然り。
>>178 トウガイとか江統とか、異民族を戻せという論が出るのもわからんではないですわな
漢化とはいっても異民族は被支配者層へ組み込まれたから、このままじゃいつか爆発ですわ、って主張は単純だけど説得力がある
>>179 ケ艾で思い出したが、晋書段灼伝に、蜀討伐の折、
ケ艾麾下の軍に涼州の羌族、胡族5千人が随行して功績を挙げたとある。
また、同じく晋書載記姚弋仲伝に、赤亭焼当羌の柯迴がケ艾に随行して功績を挙げている。
この時、中軍と外軍とを同様に見る事はできないとして、
異民族は功績に釣り合う報酬を貰ってないんだけど、
ただ楊欣麾下の部隊だけは陰平から奇襲した時の功績で封を得た者がいる。
ローマにおける異民族の跋扈は、テオドシウスが、異民族兵を軍団の指揮系統に組み込まず、
異民族の首長にそのまま率いさせる同盟軍の形を取った事が大きな理由になっている。
蜀討伐の際に異民族を押さえつけたのも、彼らの跋扈を抑える為かもね。
氐や羌の性質についての記述を読むと、勇敢で死を恐れないというものが見える。
漢書や後漢書を見てみると、あの辺りは、遊牧する部族もあれば、
定住し村を作る部族もいるという事が分かる。
彼らの性質は、ステップの遊牧民と言うより、その辺縁、
西方で言えばゲルマン人に近い。
死を恐れずに戦うのは、あまり遊牧民的ではない。
遊牧民は、劣勢な時、敵が果敢に向かってくる時は簡単に退き、
勇敢さを示す事による名誉など考えず、ただ勝利と略奪のみを考える。
漢人の正規軍に取り込むのであれば、鮮卑や烏丸よりも、
羌や氐の方が馴染んだのかもしれない。
だけど蜀において、西南夷と違って、汶山や隴西の羌族を軍隊に取り込んだ記述は見受けられない。
まぁ、俺が見落としてたり忘れてたりするだけかもしれないし、
西南夷の事だって、三国志本文ではなく後出師の表や華陽国志にあるのだから、
記述が無い事が、即、羌族を組み込んでない事に繋がるわけではないと思うけど。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/18(日) 19:58:43
姜維が敵国から降ってきた者でありながらあそこまで出世したのは
劉禅が諸葛亮亡き後、皇帝権力の強化を狙って荊州人士や
益州人士と繋がりの無い姜維を利用したんだという説を聞いたことがある。
巷では劉禅は政治を放棄して享楽の世界に逃げ込んだ皇帝なんて
言われる事もあるけど、実際は権力を自分の下に集中させるため
絶えず腐心していた形跡があるらしい。
>>182 政治を放棄したというよりはする機会が実質的に与えられていなかったからね
諸葛亮が指名した者が次の録尚書事、都督中外諸軍事となっていた実態では、劉禅が主体的に政治を左右できる状況じゃあないんだよ
主導権は諸葛亮とその後継者たちにあったから
それに変化が訪れたのがショウエンの漢水下りを潰すあたりかも
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/19(月) 20:14:55
たしか3の猛将伝でちょこっとでなかったっけ?
不謹慎だが今度の地震で成都と緜竹と江由の位置関係がわかった。
震源地の辺りには、姜維城もあるし、彼が汶山の羌族討伐を行った辺りでもある。
また、蜀において、最も羌族の取り込みに成功した王嗣が治めていた辺りでもあるな。
王嗣といえば、実際彼は、姜維に相当期待されていた人物だったと思う。
彼は汶山太守として、羌族を手なずける事に大いに成功して姜維の期待に大いに答え、
陳祗の死後に、それまで陳祗が帯びており、四征将軍の上位にある鎮軍将軍を与えられている。
いずれは中央に送って、自らを補佐する人物として用いる予定だったのかもしれない。
そういや、蜀に降った武威の治無戴って、名前だけ見るとモンゴル系っぽいな。
比較言語学者じゃないし、そんな素養も無いから思いつきだけど。
いろいろと古今東西の戦例を見てみたが、
1 正面衝突の力押し、小競り合い
2 迂回機動による側面攻撃or包囲殲滅
3 待ち伏せによる奇襲
4 偽装退却で指揮系統を混乱させる
とかいうのがパターンっぽいな。
連携がイマイチな部隊で高度な戦術をやると失敗する、というのもあるようだ。
指揮というのは、素人の想像する以上に難しいらしく、
七年戦争中、1758年8月のツォルンドルフの戦いでは、
フリードリヒ大王はまずは斜行に拠る敵右翼の攻撃から始まり、
その後に敵左翼へと攻撃方向を転じる複雑な攻撃の後に勝利を収めたが、
接敵以降殆ど戦況を把握できなかったそうだ。
複雑な戦術であっても、戦闘時の機動そのものは単純だったりする。
ジョミニなどは、大まかに12種に戦闘隊形を分けていたりもするね。
基本的には、どのようにして敵の隊列を突破するのか、
或いは包囲するのか、という事に集約されると思う。
焦土作戦、ゲリラ、動員奇襲
・偽装退却
・流言による誘導
・鎚と金床
鎚と金床というと晋の征呉戦争ってそんな感じがするんだが。
中部と東部の北上ルートを同一の集団に押さえ込まれたまま、
上流から殴られるとあっさり崩れたな〜と。水利の力はすげー。
晋が呉を破った時は、まず王渾が荊州と揚州との結節点を破砕して、
最も重要な荊揚間の連携(陸軍)を挫き、次いで杜預と胡奮が、
荊州の中心である江陵周辺の諸城塞を包囲して敵戦力の集中を防ぎつつ、
王濬が西より各拠点を陥落させながら迫り、最終的に江陵で合流してこれを攻略、
以後は、胡奮、王戎らと協力しつつ長江沿いの拠点を攻略しながら東進、という流れ。
王濬を主攻とはしているが、王渾も主攻と変わらないくらいの働きをしているので、
中央の三軍が敵の牽制、両翼の王濬と王渾が敵を破砕するという形で、
イメージとしては、鎚と金床と言うよりは鋏のように感じる。
地形や、敵軍の重心位置の関係上、やや右翼よりに戦力が偏重し、
最終的に鋏の刃を閉じたのは中央ではなく左翼側になってはいるけどね。
ほ
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/14(土) 23:42:29
もうジョミニアンのライフ(ネタ)はゼロよ!
冗談はおいといて前期の話題はモチベーションでないだろうか?と質問
>>197 蜀スレなんかじゃ後漢末から三国時代にかけての経済ネタが盛況ですぜ
>>197 面白いと思えばモチベーションは上がるし、そうでなければ上がらない。
単に、俺が面白いと思う事が孔明死後に多いだけで、時代が違うからどうのってのはない。
姜維が絡めば、基本的にはモチベーション上がるけどね。
>>198 どうやらあの話は終わったみたいだけどね。
264年の永安での攻防戦に関して、
羅憲を突破できなかった事を以って陸抗を批判する声はあるが、
施績を批判しているのを見たことが無い。
陸抗が西陵から秭帰まで、施績が巴丘から西陵までと、
その管轄する地域を分割していたとは言え、都護督である施績の方が、荊州軍の総司令官だったはず。
ポジションとしては、蜀討伐における司馬昭、呉討伐における賈充のようなものだろうが、
この戦いの総指揮を行っていただろうし、中央から派遣されてきた留平を陸抗に随行させたとは言え、
まだ相当の戦力を、陸抗派遣後も有していたはず。
にもかかわらず、胡烈の西陵接近に対して何の手も打たず、むざむざ陸抗を帰還させている。
施績が責められない理由が無いように思える。
王基の人気が高まらないもんかな、と思ってるんだが、
王基をフィーチャーした作品とかは出てこないのだろうか?
能力値スレとかで「後期の人物を評価しろ」って意見が出る場合、
馬隆と並んで王基の名が挙げられる事が多いので、意外と人気はありそうだけど。
個人的には、三国志好きなら誰もが知っている、という位まで高まって欲しいが、まぁ無理だろう。
管輅と数日に亘って易の議論を行う程だし、毛詩に関する論文も書いてるし、
孝行な人で人格者だし、名将でもある。
欠点があった方が一般受けするんだろうか?
王基伝を読んでて思ったが、呉討伐の議論を受けて彼の述べた戦略は、
「水路を使って輸送しつつ、夷陵、江陵を攻め、同時に軍を分けて夏口に圧力を掛ける」
というもので、280年に実際に行われたものと、荊州に関しては変わりない。
羊祜らの戦略も、王基のものを大いに参考にした可能性はあるね。
この戦略は250年末に行われた遠征の失敗の後に述べられたものだけど、
注目すべきは「夏口に圧力を掛ける」という点だと思う。ここだけ250年の戦役と大きく違う。
250年末の戦役は、最終的に揚州からの援軍が来た事で撤退に至っており、
江陵や夷陵では比較的優勢に進んでいた。
夏口を抑えて揚州との連絡を断つ事が、荊州攻略で重要であると、この戦役から悟ったんだろう。
二年半ほど前、二スレ目の終わり頃の話だが、
このスレのまとめサイトを作ると言う話になった事があった。
暇を見て作ると言っていた人がいたんだが、結局開設されぬままで、
俺自身も、作ろう作ろうと思いつつ相当な時間が経過してしまった。
変化をつける為に、今更ながらwikiかなんかを作るのもありかもしれないが、
既にスレの内容が大きく変化し、スレの寿命も延びたようだし、意義が薄れてしまった。
未だ需要は存在しているのだろうか?
ないんじゃないかな
>>203 やっぱりそうかねぇ。
現在は、
>>1でステージ案とかも募集しているわりに、
そういうスレタイに沿った話ができない雰囲気なんじゃないかと思って。
まとめサイトででもそういうのがあれば、何か投下してくれる人が出てくるかもしれない、
とか思ったけど、人自体があまりいなさそうだからねぇ。
正直言って、三国無双自体がもう盛り下がってるしな
まぁね。俺も無双にあんまり期待してないし。
「姜維復活」とかなったら、懲りずに買っちゃいそうだけど。
5にはそもそもいない、と言う時点でもうどうしようもないよな
公式で予約開始した後で削除発表、とかはやめて欲しかったな。
ちょっとまた王基に関連して考えてみる。
王基が毋丘倹の乱を鎮圧する際に前進した南頓には、大邸閣があった。
この地は、原文では「計足軍人四十日糧」と書かれ、軍人40日分の食糧があったとなっている。
これは、何に対する40日分なんだろうか?
計算してみると、兵士一人の1日分の穀物消費を1.2リットルとすれば、
40日分で48リットル、すなわち2斛4斗の穀物を消費する事になる。
軍人が毋丘倹軍5,6万を指しているとすると、その総量は12万斛〜15万斛となる。
王基が251年に襲撃した雄父の邸閣では、30余万斛の米を奪取できたので、
大邸閣と言うからには、少なくともその程度の備蓄はあってしかるべきだろう。
王基の指揮した軍は、恐らく毋丘倹軍の規模を超える事は無いので、
この軍人というのは、毋丘倹討伐軍全体、或いは有事の際に動員可能な魏軍全体を指していると見ていい。
20万人程度は想定していただろう。
さて、ケ艾の提案した淮水及び穎水流域の屯田では、かなり広範に屯田兵を置き、
計算された収量も非常に大きなものであるから、こうした邸閣は南頓だけにあるのではないだろう。
南頓ほど大きくは無くとも、淮水、穎水に沿って邸閣が多数設けられていたとすれば、
毋丘倹は補給を気にする事無く長駆前進できたはずである。
この頃司馬師は、曹芳を廃し、名声のあった夏侯玄らを殺したばかりで、
廷臣や民衆の心の安定に努めねばならない時期であった。
その時に、地方を守護する都督が反旗を翻し、都に迫ったなら、
燻っている反乱の火を燃え上がらせる事ができたかもしれない。
毋丘倹は正月の12日に兵を挙げ、司馬師が討伐軍を起こしたのが同月25日であり、
文欽が楽嘉で敗れたのは翌月16日の事である。
この間約1ヶ月あり、許昌までの300km程の道のりを踏破する事はできたはずであり、
都の喉下に迫る事で、反乱の続発を期待する事ができたはずである。
そうでなくとも、敵軍に集結の暇を与えずに攻撃するだけの時間があっただろう。
しかしながら毋丘倹は、200km程進んだ項県に留まり、無為に時間を過ごした。
これに大きく関わっているのが王基であろう。
毋丘倹は少なくとも、南頓までは前進するつもりであった事が王基伝から分かる。
そこに王基が立ちはだかった為、彼は恐らく2か月分以上あったであろう食糧が奪えず、
自身より少ないとは言え数万を有する軍が城塞に立てこもっている為、落とす事も前進する事もできぬまま、
項で司馬師の大軍が到着するのを待たねばならなくなった。
王基が詔勅に従い、イン水にすら進まなかったならば、毋丘倹は穎水を渡り容易に許に迫っただろう。
王基が南頓を制した時点で決着はついたと考えられる。
諸葛亮が死んだ後が人気が出ない理由は、知ろうと思わなければ知る事ができない、
というのが最も大きいだろうけど、主人公が二回も代替わりし、三人目に突入しているのもあるのだろうか?
ドラゴンボールも悟飯を主人公にしようとして失敗したし。
流石に、最初の主人公と何ら係わりの無い人間が主人公になっても感情移入しづらいだろうからね。
まぁ、それでも姜維の人気だけは、諸葛亮時代以前の人物に匹敵してるとは思うが。
一番大きいのは演義が後半を端折りまくってることじゃないか
姜維はその中でクローズアップされているし
故人の意思を継いで一人で奮闘する姿が同情を得られるけど
他の人物は魅力を感じるには表現が少ない
あとは歴史の流れとして三国が膠着したまま安定したために
外征の重要さが希薄化され内紛が激しくなるのもよくないのかもな
自分は内紛とか政治闘争もそれなりに好きだけど
陰湿な要素が強すぎて、嫌いな人は見るのもいやだろう
演義で端折られてるのは、確実に現代の人気に影響してるだろうね。
まぁ、自分は毛本にしか触れた事が無いから、それ以前の版でどうなってるかは分からないけど。
ただ、諸葛亮らと違い、恐らく今の日本で最も人気のある諸葛亮死後の人物である
姜維ですら、後世の史書に殆ど出てこない事を考えると、
端折られるには端折られるなりの理由があったんだろう。
ここの逸話には魅力的なものもあるとは思うけど、
庶民にとっては前半の乱世真っ盛りの痛快なエピソードの方が良いって事だろうね。
内紛はそんなに激しかったかな?と思ったけど、小国同士の争いよりは、
当然、内部での闘争も多くはなるだろうね。
よく調べれば、以前からいたる勢力で内紛はあったとは思うけど。
姜維ですら、後世の史書に殆ど出てこない事を考えると
>諸葛瞻の事とかあるからじゃねーの
>>215 劉備の漢室復興の意志は
諸葛亮→姜維は受け継いだってなってるのに、それを追い出したのが
諸葛瞻ってなんか微妙じゃないか?
後世の作品は、蜀=正義・魏=悪。
そして蜀の滅亡は劉禅と宦官ってことにしたいのに、それが揺らぐ
諸葛瞻が追い出したってどういうこと?
>>216 諸葛亮が目標とした北伐の達成を、姜維が受け継いで行ったにもかかわらず、
その諸葛亮の息子である諸葛瞻が、黄皓と結託して姜維と閻宇を代えようとした事が、
後世の人にとって都合が悪い、という事かな?
東晋以降、蜀漢を正義・正統とする考えが起こったとしても、
殊更に姜維を避ける風潮が生まれる必要も無いように思える。
諸葛瞻も、その最期の時において黄皓を排さなかった事を悔やんでいるし、
諸葛瞻が黄皓にたぶらかされていた、という風に解釈すれば、
劉禅と宦官が蜀を滅ぼした、という考えを導く事もできるだろうから。
諸葛瞻が黄皓にたぶらかされていた
>これが問題だと思うんだ
馬鹿領主と佞臣が周り意見を聞かずに、蜀を滅ぼしたってしたいんじゃね
>>219 李密なんかは、張華との対話で、諸葛亮を用いて魏に抗し、黄皓に任せて国を失った事を以って、
劉禅を斉の桓公に次ぐとしているから、黄皓に罪を被せる風潮は、
少なくともかつての蜀臣たちの間にはあったのかもしれない。
姜維と諸葛亮の、後の史書に出ているかどうかの比較は、漢籍電子文献で検索かけた結果を見ただけだったんだけど、
よく内容まで調べると、諸葛亮について言及しているものの殆どは、
自分を諸葛亮に比している人の事だったり、諸葛亮の王佐の才を称えるものだったりする。
そうすると、姜維が出てこないのは、国を滅ぼした時の宰相だったからだろう。
司令官としての対魏の戦績は、姜維と諸葛亮でそうは変わらないけど、
諸葛亮が名将にして名宰相として称えられながら、姜維が言及されないのは、
劉禅を支えきれずに国を失った、宰相としての資質が、後世で言及されるほど高くなかったからと考えられる。
話は変わるが、読んでいて気付いた事がある。
馬隆が北方異民族対策に八陣を使った事は有名だが、
その後の、北魏の高閭の上表でも、八陣が騎兵対策、特に平地での対騎兵防御の法として言及されている。
諸葛亮の八陣ってのは、そういった用途に特化したものだったのかもね。
諸葛亮の八陣、これは実に興味深い。
李衛公問対に拠れば、方陣を基本とし、陣数は九、中心に大将がおり、
四面八向、隊の間に隊を容れ、陣の間に陣を容れる。
四頭八尾、敵がその中を衝けば、両頭皆救う。
大陣が小陣を包み、大営が小営を包む。
隅落鉤連、曲折相対の意味がよく分からんな。
鉤連は連なる事としても、隅を落とすとは何だろうか?
馬隆は八陣図を基に偏箱車を作ったとあるが、彼が八陣を運用したとは書かれてない。
高閭に拠れば、六万人で運用し、内訳は戈と盾で武装した者が二万、
弓が二万、矛を持った騎兵が二万となっている。
前を以って後と為し、後を以って前と為す、という八陣の対称性を再現するのには相応しい。
弓弩と偏箱車を主兵装とした馬隆の三千五百は、真の八陣ではないのだろう。
かつてニセクロさんもやっていたが、自分もその内、八陣について考えてみよう。
十面埋伏の計ってどんなの
>>222 何故ここで聞くのかは分からんが答えると、その名の通り、
伏兵十隊を置き、囮の部隊が敵と交戦しつつ、頃合を見て撤退し、
伏兵を配してある地点までおびき寄せて撃破する、というものだろう。
ちくまの正史三国志で、蒋琬伝を読んでいたんだが、漢水下りを中止された後の詔勅で、
「現在、涪は水陸両道によって四方に通じており、
ここで緊急事態が発生すれば必ず呼応するものが現れるでしょう」
となっている。
この緊急事態ってのは、そのまま読めば内乱の事だよね?
ちくまの訳を信じると、蒋琬はとんでもない%
また書き込みに失敗してる。最近多いな。
で、蒋琬は〜以降はこれね。
ちくまの訳を信じると、蒋琬はとんでもない事を言っている事になる。
ここは原文では「今涪水陸四通、惟急是応」だけど、
これって、訳し方がおかしいとかは無いのかね?
>>225 「惟急是応」
素人のオレが訳すとこう。
「急な事態に対応できるでしょう」
>>225 多分、訳者は文脈を読み違えている。
「姜維を涼州刺史に任命し、姜維が河右を制圧させるべきです。姜維が涼州を制圧したら自分はその後詰めになります。東北地方に何かあってもすぐ駆け付けることができましょう」
が大意。
で、この場合の東北は漢中を指す。なぜならその前段での涼州の分析で羌族が心中では漢中を欲してることを述べているから。
姜維が涼州を制圧したらその隙を羌族が漢中を狙ってくるかもしれない。それでも涪からなら、すぐ駆け付けられますから安心してください。
こういう文脈の中にちくまの訳をぶっこむと非常に浮いたものになってしまう。だからそこは「急な事態に応ずることができる」と解釈すべき。
「涪は四方に道を通じており、(どこかで)急な事態が起こっても対応することができる。だから東北(漢中)で何かが起こっても駆け付けられます(だから涪まで下がります)」
>>226-227 やっぱりそうだよね。
漢和辞典見ながら自分でも考えたが、「急な事態に対応できる」とするのが自然だと思った。
ただ、羌族が漢中を狙ってるって話は、少し違うように思える。
そこは「且羌﹑胡乃心思漢如渇」だから、
「且つ、羌胡の漢を思う心渇くが如し」で、漢ってのは漢室の事じゃないかと思う。
羌胡は漢室を慕ってるって言いたいんじゃないだろうか?
>>228 > そこは「且羌﹑胡乃心思漢如渇」だから、
> 「且つ、羌胡の漢を思う心渇くが如し」で、漢ってのは漢室の事じゃないかと思う。
その可能性はあると思う。
ただそうすると「若東北有虞、赴之不難」の「東北」が何処を指し「虞」とは具体的にどんな事態をさしてるのか、ちょっとわかりづらい気がするんだよね。
正直 「且つ、羌胡の漢を思う心渇くが如し」の辺りは文意が取りづらく、訳にそのまま乗っかった。ちょっとだけ反省はしている。
>>229 その前文は、
「以涼州胡塞之要、進退有資、賊之所惜」で、
「以うに涼州の胡塞の要、進退に資する有り、賊の惜しむ所なり」だから、
その後に「且つ」と来ているので、
「涼州の胡族の要地は、進退に資するので賊が重視しているが、
羌胡は漢室を慕っている(ので、狙うべきところです)。」
って事なんじゃないかと思う。
東北云々は、前の文章とは切り離され、あまり関係ない話になっていると思う。
あの上奏は、最初が、これまで魏の打倒を実行できなかった事の弁明、
次に、今後の方策、最後に、涪に戻るに当っての弁明、となっているんじゃないかと。
「私は涪に戻りますが、国土の防衛や魏の打倒を諦めたわけではありません」って感じで。
虞ってのは単純に、自分が涪に戻ったのに乗じて魏が攻めてくる事じゃないかな?
まぁ、そもそも、涪に行く事自体、個人的には理解し難い事なんだけども。
>>230 最後に郭淮を破ってる云々ということで涼州は取れない地ではないということを示唆してるのか。
それで姜維を差し向けるべきですと述べてるわけか。
それで思い出したが、東北の慮に関しては駱谷の役が念頭にあるんじゃないかなあ?
>>231 そうだね。
この郭淮を破っていると言う話が何を指しているのかは分からんけど、
恐らくは、魏延と呉懿が破った話じゃないかなと思う。
或いは、蜀と関係ない話で、
「郭淮は羌族と戦って敗れた事があり、その羌族と協力すれば涼州を取れますよ」
って事かもしれないけど。
駱谷の事が念頭にある、という事はあるかもしれない。
ただ、察知していたならわざわざ涪に退くのは逆に不自然なんだよね。
引き込むつもりだった割には、王平伝に拠ると準備不足が露呈している。
蒋琬の頭に何かあったとしても、具体的なものではなく、
攻めてくるかもしれない、という予感くらいじゃないかな?
>>232 蔣琬の上表は駱谷の役の後だと思ってたが前?
同年のことだからどちらの可能性もあるか……
と思ったら費禕伝を見る限り前っぽいなあ。
>>233 姜維が涪に戻ったのが242年正月、蒋琬が戻ったのが243年10月の事で、
魏が攻めてきたのが、更に翌年、244年の2月だから、蒋琬が戻ってすぐの事。
上奏自体は、242年に馬忠が成都に戻った後の事なので、恐らく243年の事だろうと思う。
ここで分かるのは、馬忠が費禕と共に漢中に来て蒋琬に聖旨を伝える前から、
姜維が涪に入って
なんだかp2の調子が悪いな。
途切れた後は、「涪に入って何らかの準備をしてたって事ね。」だ。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 12:48:39
>>235 蒋琬から兵を取り上げて軍事権を奪ってたんじゃない?>何らかの準備
>>236 その時に姜維が率いていたのは偏軍だから、恐らく、
蒋琬の死後、隴西に出た時に率いた規模とそうは変わらないと思う。
この時点では、大軍はまだ漢中にあって蒋琬の麾下にあったと思う。
この辺りのクーデター論は、以前も何回か議論した事があるが、
クーデターをはっきりと否定する記述もないし、はっきりと支持する記述も無い。
個人的な感情で言えば、蒋琬と姜維には親密であって欲しいので、
クーデター説を支持したくは無いね。
姜維にクーデターなんて無理だろ
>>238 そいつはどういう理由で?
まぁ、姜維は政治的な駆け引きとかは苦手そうだけど。
クーデターには、一応大義と実行力が必要だと思うけど
第一に大義がないし、政治手腕ないし、戦術神だけど戦術駄目だし
つまり、神は駄目だと。
クーデターについては、むじんさんが主張してたんだが、
軍事行動を抑制する蒋琬を失脚させる為のクーデターとの事。
この漢水下り中止の詔勅直後、軍の実質的指揮権が蒋琬から費禕に移った事、
費禕が大将軍に、姜維が鎮西大将軍に、馬忠が鎮南大将軍、王平が鎮北大将軍と、
一気に出世を遂げている事などから、彼ら四人を中心に蒋琬下ろしが行われた、って話。
詳しくはむじん書院に行けばあるけど、随分昔の意見なので、今むじんさんがどう考えてるかは知らない。
だからまぁ、姜維単独の話じゃなく、費禕らも関わってるので、
姜維の政治手腕そのものは大きな否定材料にはならないと思う。
戦術神だけど戦略駄目だし
>だよな
非荊州閥の人間に何が出来るのだろうかとは思う。
部将クラスの実力者たちを費禕がまとめただけに見えるが。
>>244 だからこれは蒋琬と費禕という荊州人同士の政争なんだよ
諸葛亮から大抜擢を受け、朝廷内で微妙に浮いていた蒋琬
彼は諸葛亮ルートではなく故郷荊州を取る方を選んだ
しかし、費禕が皇帝を味方に付け、実行部隊として「部将クラスの実力者」を使って蒋琬を丸裸にした
皇帝から強い調子で政策を転換するよう勅書で指示されるなんて、本来最高権力者としては自殺ものの恥辱
それが行われ、その詔を持っていったり「説得」に行ったりした者がその後の政権を牛耳ったという事が事件の意味を表している
この事件は蜀政権内では李厳更迭より重大な事件だったと思う
>>245 え、そこ断言しちゃうの?
そうも考えられる、ではなく???
>>246 そらまあ100%そうだ、とまでは言わないが
しかし、皇帝が尚書令や中監軍派遣して「やめろバカ」って言ってくるってどんな状況よ
蒋琬が全く上意も周囲の意見も聞かずに突っ走ったか、それとも蒋琬の計画を皇帝が頓挫させようとしたのか
いずれにしても尋常の状況じゃないよ
上の方でジョミニ杏が蒋琬が涪に入ることを疑問視していたが、これは実質的に権力を奪われて主戦場から離れた涪に配流されたと考えれば辻褄が合う
このときの上疏は費禕たちとの「議」の後、「命を承けて」なされた、つまり言わされたものだということでしょう
このスレもう機能してないしジョミニアン神社スレでも立てようぜ。
なんだ?神社スレって
あぁ、言い忘れてたけど、蒋琬が涪に入った事も、理由が考えられないわけじゃない。
漢中は、既に曹操が徙民した後だし、そこまで大きな生産力があるわけじゃないので、
数万の軍を漢中だけで維持できるわけではない。
従って、蒋琬率いる主力野戦軍数万を漢中に駐屯させるには、周辺、と言うより四川盆地から、
食糧等を輸送・集積する必要がある上、漢寿漢中間も桟道を経由する道なので、
その輸送コストは無視できるほど小さくない。
だから、今後大きな攻勢に出る気を蒋琬が失ったのであれば、
軍を、涪という、物資集積に便利だが、漢中に出るにもそこまで不便でない地に駐屯させるのも、
そこまでおかしな事では無いと思う。
クーデターというと表現がドギツイのかもしれないが、俺が言いたいのは
「蒋琬は費禕たちが「説得」した時点で政治的・軍事的発言力を失った」
だ
仕掛けたのは劉禅と費禕と姜維
おこぼれに与っていい思いをしたのが王平や馬忠
それまであまり節を仮す事のなかった蜀で、260年頃、
胡済、廖化らに相次いで節を仮した事をもとに、
「姜維の指揮していた主力野戦軍の分割が行われたのではないか」
という主張に持って行こうとしたが、どうも上手くいかなかった。が、別の収穫があった。
張翼伝を見ると、具体的な時期は分からないが延熙元年以降に、
張翼が督建威となり節を仮されている。
建威は確かに重要な地ではあるが、延熙の初め頃にどこまで重要視されていたかは分からない。
また、督とは言え、県でも郡でもない場所の督に節を仮すのは破格過ぎやしないだろうか?
それで廖化の伝を見ると、廖化が督広武になっているのが分かる。そして広武は陰平にある。
今度は魏書の方を見ると、明帝紀の注に引く魏書(王沈)、郭淮伝の両方に、
「蜀の陰平太守」として廖化が出てくる上、明帝紀の方では出兵している。
これらを考えると、督広武は実質的には陰平太守であるか、陰平太守を兼務し、
督建威も同様に、実質的には武都太守か、それを兼務する職であったのではないか。
また、張翼に節が仮されたのは、この廖化による攻勢を指揮したのが張翼だったからではないか。
という二つの事が推測できる。
ただ、この廖化の攻勢は、(恐らく)羌族の反乱に乗じたもので、蜀の主体的なものではないという事、
張翼は延熙元年に尚書となっているので、督建威への異動が同年の秋以前に行われた可能性が低い事、
廖化を指揮する人物としては、大司馬司馬の姜維の方が適任であったであろう事など、
この推測の確からしさを著しく低下させる材料もあるので、実際はなんとも言えない。
面白い事を閃いたと思っても、こんな結果になる事が多い。
>260年頃、 胡済、廖化らに相次いで節を仮した
これはどこに書いてあるの?
>>253 直接的な表現があるわけではないが、どれも蜀書にある。
廖化が節を仮されたのは右車騎将軍になった頃で、これは張翼伝から259年と分かる。
胡済に関しては、廖化ほど詳細な時期は不明だが、董和伝の注釈にある、
胡済についての記述から、督漢中となった後、兗州刺史を領した頃の事と分かる。
姜維伝及び後主伝から、256年の段階では「鎮西(大)将軍胡済という表記であり、
それが258年に「督漢中胡済」に変わった事が分かり、
大将軍が漢中にいる間は督漢中が置かれないのがそれまでの蜀の歴史から分かるので、
胡済の督漢中就任は258年だというのが分かる。
また、宗預伝から、諸葛瞻が都護となり兗州刺史が宗預に代わった261年頃には恐らく逝去している事が分かる。
これらから、胡済が節を仮されたのは258年から260年のどこかという事になる。
その年代特定がおかしいとは思わないんだけど
それだと費イが成都に帰還してから
姜維が大将軍になるまでの督漢中が空位になってしまわないかい?
そこだけちょっと引っかかる
名前が残っていないだけで誰かいたとするならそれまでの話だけど
言い方が悪く語弊があったが、正確には、
「大将軍が漢中に駐屯している時は督漢中は置かれない」
ではなく、
「軍の総司令官が漢中に駐屯している時は督漢中は置かれない」
だな。
・219〜227 魏延
・227〜234 諸葛亮漢中駐屯
・234〜238 呉懿
・238 王平
・238〜243 蒋琬漢中駐屯
・243〜248 王平
・248〜251 費禕漢中駐屯
・251〜253 不明
・253〜258 姜維総司令官に
・258〜261 胡済
・261〜264 不明
蜀書の記述を纏めるとこうなる。
姜維が総司令官となった後、258年までは、諸葛亮や蒋琬が駐屯していた時と同じ扱いで良いだろう。
問題は、不明となっている二ヶ所だが、これは最初の方は姜維で良いと思う。
姜維は督漢中にはなってないけど、仮節・衛将軍領涼州刺史であり軍のNO.2なので、
彼が漢中にいるなら、その軍勢を彼の麾下に置かせれば良く、敢えて督漢中を置いて指揮系統を複雑にする必要は無いだろう。
胡済死去〜滅亡までは、よく分からん。
個人的には、傅僉の関中都督という職が怪しいのだが、当時の傅僉に督漢中を務められるほどの格があったか分からんし。
左中郎から関中都督までの経歴が分からないしね。
ただまぁ、胡済と陳祗が死んで、諸葛瞻が都護になった頃は、
蜀の政治は乱れていたから、姜維との対立の中で督漢中を決める事ができなかった、という可能性はある。
NO2の姜維が管轄というのはありえる話だろうね
しかし費イと姜維の関係からいうと、それをしてしまう費イの政治姿勢に?マークが付くね
そもそも費イの漢中駐屯は王平死後の漢中軍を自分が直接統制する必要があったからだろうけど
成都を離れるときには自分の分身役を必ず置く彼が
漢中のような重用拠点を彼の姿勢とは相反する姜維に丸々与えたとなると
それだけ費イの力が弱かったのか、史書が書くほどには姜維を抑える気がなかったのか
まだ、この時期に費イと繋がりのある胡済が督漢中になっていたのなら
費イに漢中を抑える気があったと思えるんだけどね
>>257 そこは認識に違いがあるね。
俺は、249年の姜維の遠征を、243?年の蒋琬の上奏にある、涼州制圧作戦の実行だと思ってるから、
当然、費禕の漢中入りは、姜維の後詰となる為の行動になる。
また、費禕は姜維と対立し、北伐を抑制しようとした、とも思ってなく、
単純に、勝算があればやる、なければやらない、というスタンスだと思ってる。
だから、姜維とも政策上極端な対立は無かったと考えてる。
費禕の抜擢によって、彼の死後に姜維と共に政治を担った陳祗も、
反姜維でもなければ、反北伐でもないしね。
で、姜維が実質的な督漢中だったとしても、費禕は姜維を抑えられない、という事も無いと思う。
ライ降都督は勝手に交州には攻め入れないし、巴東都督も勝手に呉には攻め入れないだろう。
当然督漢中も同じだろう。まぁ、姜維は督漢中とは異なるけど。
姜維が勝手に遠征するには、249-250年の戦役で使った自分の軍だけでやるか、
或いは費禕が漢寿に連れてった主力軍を預かるか、漢中の軍を接収するかした後、
北伐を行う為の詔勅を出さなければならないだろう。
姜維は録尚書事なので、費禕を介さずに尚書を通して詔勅を出す事はできるかもしれないが、
そんな事をすれば反逆者扱いされる可能性が高いだろうから、姜維だってやらないと思う。
だから、費禕が姜維の主張に同意し、北伐実行の詔勅を出すなんて事をしなければ、姜維は漢中にいても勝手はできない。
勝手な遠征を抑制できるのなら、能力のある姜維を漢中に留め、
その防衛と敵情の把握をさせておく事は、理に適っていない、というわけでもないだろう。
個人的には姜維はあまり勝手な北伐をする人とは捉えてないんだよね
費イ生前時の彼の軍事行動にはその前に官位の引き上げや権限の引き上げが行われているから
上に必ず彼の行動を支援するものがいたのは間違いない
それを費イと捉えるなら両者の関係は険悪なものではなかっただったろうし
だからJominian ◆Henri9gNlM氏のその考えを否定する気は全くない
ただ、自分は魏略言うところの劉禅の親政がどこまで及んでいたか気になるんで
そこらへんを懐疑的に見る癖があるんだよね
まあ、劉禅の親政自体、魏略が言ってるだけで陳寿の文章から判断が難しいんで
それを前提にものを見るのは歪んだ見方だけどね
親政と言っても、皇帝のやる事なんて詔勅を出す事くらいだと思う。
それが部下によって上奏されたものなのか、自分の考えなのかの違いはあるけどね。
王沈にせよ魚豢にせよ、三国の統一を待たずに死んだから、
彼らの編纂した魏書や魏略の内、蜀や呉に関する事は基本的には伝聞だろう。
蜀に関しては、鍾会の乱で史料が焼失した可能性もあるしね。
仮に魚豢が、劉禅が国事を見るようになったという噂を聞いたのであれば、
個人的には、蒋琬の死より董允の死の方が影響が大きいと思う。
董允の死によって陳祗が侍中となり、黄皓を介した劉禅への働きかけが行われるようになるので、
それが敵国からは親政に見えたのかもしれない。
まぁ、陳祗は費禕と親しく、彼が黄皓を使って何らかの働きかけを劉禅に行ったとしても、
結局は費禕や姜維の意に沿わぬ詔勅は出さなかっただろうけど。
どうでもいいが、蒋琬の死から、呂乂の名声失墜を経て、
費禕、姜維、陳祗の三頭政治に至る辺りの話は、
突き詰めてけば結構面白いし、良い小説とかも書けるような題材だと思うんだよね。
でもあんまり注目する人がいないし、陳祗や呂乂なんてまともに考えてる人も少なそうだ。
個人的には、陳祗は物語の主役を張れるくらいの人物だと思うぜ。
陳祇、呂乂は、姜維ともども蜀衰亡の戦犯と考えてしまってる人が多いのかも
しれないね
尤も突き詰めて考察していけばそんな安直な結論はけしてでないわけだが、
小説化するにしても、まず何を主題にするか、そしてなによりもこの時代の蜀の
朝臣・軍部の要職にある人物たちの官爵の変遷において不明瞭な部分が散見
できるばかりか、真意がいずれにあるのかもどうにも断定できない部分があるし
誰を主人公にするかで切り口も変わってくるんじゃないかな
俺個人としては面白い題材だと感じるし、存在するなら是非にも読んでみたい
とは強く思わけだが
陳祗も呂乂も、戦犯と考えられるほどの知名度があるかどうかも怪しいと思う。
仮にも尚書令なのに、気にかけない人が多いからね。
呂乂が文俗の吏を好んで用いた事が、彼の名声を損なう事になったのは、
孟光に批判された延熙九年の大赦と共通するものがあるんじゃないかと思う。
分からない事が多い分、物語にするにしても著者の力量が物を言うかもしれない。
俺は基本的に小説は読まないけど、陳祗が主役だったら内容如何にかかわらず買って読んでしまうだろう。
陳祗は幼くして孤児となり、許靖の家で育った。
費禕も同様に幼くして孤児となり、その後、許靖の縁者である許叔龍、
董和の子董允と名声を斉しくし、董允と費禕は許靖の子の葬儀に同じ車で行くほどの仲だ。
恐らくは、費禕も董允も許靖の家に出入りし、許叔龍とも親しかったのだろう。
そして、そこにいたであろう陳祗とも親しかったと考えられる。
だから費禕と陳祗は、抜擢したからという事だけでなく、単純に親しかったと思う。
だが251年、呂乂が死に、陳祗が侍中守尚書令となると、費禕は漢寿に移動し、
少なくとも記録として成都に戻ったという内容は残ってない。
陳祗は侍中だけでなく尚書令の官もその身に帯び、黄皓という便利な使いっ走りもいる状況で、
彼の上司、すなわち費禕と姜維の二人の録尚書事が成都を離れている状態が生まれる事になる。
費禕を漢寿に向わせたのが、天文や占卜に通じた陳祗の意向だとしたら?
陳祗が成都を、皇帝権力を掌握する為の状況が彼の意思によって作られた事になる。
陳祗は実際費禕をどう思っていたのか?彼の腹にどす黒いものがあったのか?
気になるところではある。
265 :
sage:2008/08/31(日) 17:13:03
テスト
いくら考えても、八陣の具体的な形が思い浮かばない。
「陣間容陣 隊間容隊」は、ローマレギオンのような形が想像でき、
「大陣包小陣 大営包小営」とかは、戦術と戦略が同一の思想で貫かれている事を指しているようにも思える。
個人的には、ローマレギオン+諸兵科連合部隊、の線で考えられないかと思っているが。
三国志は戦闘の描写が少ないものの、洮西会戦は、ある程度まで推測できると思う。
あの戦いは洮水に落ちて死んだ者が多数いたので、
・追撃を受け、渡河が混乱・恐慌状態で行われた
・会戦の最中に洮水に追い落とされた
の2パターンが考えられるが、個人的には後者の可能性の方が高いと思う。
推測し得る戦場は狄道から近く、王経の渡河点は狄道近くで、戦場から10km程度の所だろう。
この距離なら、夜の間に渡河を完了して狄道に入る事ができるので、
戦闘が夕刻まで続いたとすれば、追撃を殆ど受けずに狄道まで撤退できたはず。
戦闘が早期に終わったのならば、潰走と言うより撤退なので、
騎兵戦力で優位に立つ魏は、会戦直後の騎兵による追撃を十分に防げたはずなので、
渡河時に甚大な被害を出すという事は考えにくい。
従って、王経の被害の多くは会戦によって生じたのだと考えられる。
であるならば、洮西会戦において、姜維は右翼を主攻とし、敵左翼を破壊後、
洮水方向に圧迫・包囲する事で戦闘に勝利したと考えられる。
「アニメや東方から入って、歴史は良く知らないが、プレイ動画に興味がある」
という人向けに、三国志の解説を行う動画がニコニコにうpされていたので見てみた。
こういう試みは面白いと思う。
だが自分としては、やはり陳祗等の知名度が低い、という事が真っ先に浮かんでしまった。
例えば、諸葛亮死後の蜀を解説する部分で、費禕の死後にすぐさま黄皓が台頭し、
政治を混乱させたかのように述べているけど、この認識は正しくないだろう。
黄皓が権力を握り出すのは陳祗の死後なので、費禕の死とはリンクしない。
陳祗が黄皓を使いだすようになって、彼が力を付け始めた時期を言ったとしても、
それは董允が死に、陳祗が侍中となった時なので、費禕の死の6,7年前の事。
解説をしようと試みるほどの人でも、諸葛亮死後の認識は曖昧なものなのかも。
初心者向けだから敢えて端折ったのかもしれないが、
この辺の時代はマニアックの域を脱する事は無いのだろう、と思う。
蜀将スレを見るに、蜀の話題は諸葛亮死後であっても蜀将スレでできるのだろう。
となれば、魏の話題は魏スレで呉の話題は呉スレでも代用できると思う。
むしろ、ここで語る人は蜀将スレにも顔を出しているだろうし、
人が少ない分、こっちは議論が進みにくい。
このスレの方向性を改めて考えるべきかもしれない。
考えられるのは、
・半ば俺の独り言スレになっている現状を維持する
・原点に立ち返り、後期無双妄想スレにする
・それ以外の道を模索する
だが、上二つでは人が増えない事が経験上分かっている。
そもそもの問題は、三戦における考察系住人の数が一時期に比べて著しく低下している事だろう。
数が少ないので、考察スレで議論している住人はどのスレでも同じような顔ぶれになり、
スレが違うだけで同じ人が同じような事を話している、という現象が起こっているので、
限定した話題のスレを立てる意義が大いに薄れている、という事態に陥っている。
一番の解決策は、やはり板人口の増加に他ならないように思える。
細々でも続いてくれればけっこう
三戦で生真面目に考え過ぎ
生真面目と言われればそうなのかもしれないが、スレとして存在している以上、
何か独自色を出したいとは思ってしまうんだな。
最近は官渡の考察を進めているので、このスレで書くような事があまり無いし。
じゃあスレタイに戻ろう。
操作できる武将とその武器・攻撃方法を上げていこう。
昔やったなぁ、と思ってログを漁ったが二スレ目からしか持ってなかった。
二スレ目でも結構無双の話してたな。俺もやたらとステージ案投下してたし。
操作できるべきは、真っ先には姜維だってのは割と共通な認識だと思う。
姜維に似合うのは演義にもあるように槍なんだろうけど、
個人的には北斗劉家拳伝承者姜維も面白そうだと思うので、ネタとしては素手もありかと思う。
矢を跳ね返し、魔闘気で無重力空間を作り出し、経絡破孔(蒼天なら経絡秘孔か?)を突いて一撃で相手を殺すチートキャラになるが。
魔界に踏み込んだ為に戦いに狂った、とかって理由で北伐させたりな。
傳僉なんかも演義では獲物が豊富で見せ場の多い人物だから面白そう
後期だとやっぱりゲームにするには厳しい。
魏も呉も蜀も逆臣抱えるようになるからな…
呉なんて孫権からしてやばいし、専横著しいし、終いには孫こうだし…
呉ファンは主君を先ず殺したいだろうから難しい。
中英の仮想対決スレで司馬炎軍団が結構話題になってたけど、
国力とか考慮に入れても曹操軍団にはやはり勝て無いんだろうか?
正直、そういうのってどうやって比べんの?
別時代の中華が突然隣に出現したりとか、或いは英雄集結シナリオみたいなのか?
どういう条件で考えるのかが分からないと比較しようがないと思うし、
そういう不毛になりそうな議論をする気力は俺には無いだろうな。
>>273 傅僉と言えば鉄扇だが、これって実際何処に記述があるんだろうか?
三国演義第百十二回を見ると、鉄[金間]というものを傅僉が使っている描写があるが、
金偏に間という漢字が何を意味するのかは俺には分からん。これが鉄扇なんだろうか?
傅僉は武勇の士として見せ場もある。個人的には、関城で死ぬシナリオが一番だと思う。
関羽とかも本人でやると生き残っちゃうが、死ぬシナリオがあっても良いんじゃないかと思う。
>>274 実際にゲームで出たとしても、そんな事を気にしてプレイする人は多くないように思える。
好きな人物が出てくる、操作できる、というだけで嬉しいもんだと思うがなぁ。
>>276 確かに別時代の勢力を比較するっていうのは不毛な議論かもね。
斜陽の蜀で死に逝くってのがかっこいい。姜維と似たような。
傅トウも傅僉もいいよなぁ…
蜀は国に殉じる人物が多いけど、呉は孫晧のせいで孫家がどんどん投降するから。
何で賈充は呉討伐を止めてたんだろう?
>>278 北方、西方戦線が大変だったからじゃない?
「外寧まれば内に憂いあり」
これを理由に反対する連中もいた
>>277 議論してる本人が楽しければいいと思うけど、よく気力が持つなあ、とは思うね。
しっかりと条件を決めて、その中で議論するならある程度できるかもしれないけど、
漠然と、どっちの王朝が上か、なんて問われても答えは出ないだろうね。
>>278 失敗したら失敗したでまずいし、成功したら成功したで杜預や張華の発言力が大きくなるからねぇ。
政治的な思惑が一番大きいんじゃないかな。
毋丘倹の高句驪討伐は外せないな。
>>276 >金偏に間という漢字
気になったので調べてみた。「カン」と読むらしい。
中国語の辞典を引いたところ「金属製で、刃がなくて竹刀のような形をしている兵器」らしいね。
これだけだと「鉄鞭」っぽくも思えるけど、手持ちの中国武器の本には鉄鞭とは項目が分かれてるし、よく分からない。
でも、無双の黄蓋が持ってるやつのもっと細いもの、と考えてもらっていいと思う。
しかし「鉄扇」という訳が、この[金間]と繋がるのかは微妙だなぁ。
誤訳か、[金間]に該当する日本語が無かったかのどっちかだと思う。
>>283 なんと!調べてくれる人がいたとは、非常にあり難い。
正直、この[金間]以外に傅僉の武器について書かれてるものが見つからなかったから、
もしかしたら毛本には無いのかも、とも思ったが、
よく考えたら演義の訳本を見てみれば良いんだな。
鉄扇が百十二回に出てくるなら、多分これの事なんだろうけど。
まぁ、四角い[金間]らしいし、隠し持っていたようだから、
鉄板、という表現があってるのかもしれないな。
>>284 傅僉の武器を「鉄扇」って書いてる日本語の本がどれだけ在るか、手持ちの分だけ調べたんだけど、
「鉄扇」表記はどうも柴錬三国志だけっぽい。岩波の訳本は「鉄簡」だったし、安能版は鉄[金間]ってそのまま書いてる。
平凡社の訳本がどう書いてるかが今分からないけど、傅僉が登場する日本語の本はこのくらいだし…
でもゲームのキャラとして考えるなら「鉄扇」が一番分かりやすくてインパクトがあるかもね
>>285 そこまで調べてくれるとは、頭が下がる。
やはり[金間]がそれに当っているようだね。
見栄えで言えば鉄扇だが、鉄簡の方が訳としては適当だろうね。
これは暗器みたいに使ってるから、戦国無双2の直江みたいに、
何か他の武器+鉄簡、とかってのもありかなと思う。
知名度の低さってのが、実際一番の問題だと思うんだけど、
シナリオの構成が難しいってのもゲーム化しづらい原因なんじゃないだろうか?
基本的に、雍州、荊州、揚州の三地域しか戦場が無いし、蜀の面子は南中関連以外には
雍州とラストステージになるであろう魏の蜀攻略しかない。
ただ、無双のステージの作り方って、一部を除いて一個の城や拠点を巡る攻防が多いから、
その点を考慮するとあまり関係ないのかもしれないけど。
鍾会に投降後のIfシナリオなんてのはどうだろうか
胡淵あたりを如何に素早く始末するのが鍵みたいな
>>288 真っ先に殺さなきゃいけないのは衛カンの気がする
無双的には、宛城みたいに孤軍奮闘するようなステージにするしかないのかな。
衛瓘のいる間は、一定時間ごとに敵士気上昇と味方士気低下が続く、とかはありだろうね。
胡烈が官舎を脱出し、胡淵と合流すると士気が決定的な状況になり、
味方軍団だった奴が寝返っていくとか。
気付けば無双関係のスレも殆どなくなったのだなぁ。
5 Specialも5 Empiresも話題に上る事も無いし、そういうのは全て歴ゲに行ったという事だな。
シナリオの話だが、北伐組はともかく、呉の連中とかは史実重視だと2,3ステージしか無い気がする。
丁奉辺りなら、東興の戦い、毋丘倹・文欽の乱、諸葛誕の乱の三つに加え、
内容は殆ど創作になるものの、蜀滅亡時に寿春に、268年に合肥に、269-270年に穀陽に出てるのである程度ステージ作れそうだけどね。
人物の知名度以外にも難しいものがあるねぇ。
今後も無双シリーズが続いていくなら、扱う期間を三国統一、或いは蜀滅亡まで伸ばした無双は出るかもしれんが、
諸葛亮死後のみを扱う作品は出ないだろうね。
292 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/29(水) 02:19:00
2週間以上もレスがつかないとは
それはともかく、冬に発売されるという5 Empires、エディットは付くらしいが、
消えた姜維の扱いはどうなっているのやら。
無印同様、存在自体が消えていると言う状況なのだろうか?
無双でいうと、蜀の陣営の頭数も問題だが、魏でも、徐質はもちろん、
演義で蜀将の引き立て役である王真や李鵬なんかも捨て難い存在感がある
王真なんてなんかカワイソウな末路で、変に感情移入してしまう
演義オリジナルキャラとは言え、王真と李鵬は、完全に傅僉の引き立て役だからなぁ。
史書ベースだと演義エピソードを自然に挿入しにくいが、特徴的な話は拾ってくべきだろうね。
逆に演義ベースでも、史書のエピソードの中で演義に取り入れられなかったものを拾ってくべきだと思う。
既存キャラを大幅に削らざるを得ない後期無双は、三国志であるからこそ出にくいのかもな。
全く別物ならキャラが削られるって事がないから、題材によっては逆に売れる見込みが立つのだろう。
>>294 引き立て役がいてこそ主軸の人物も輝くってもんじゃないか
そういう意味でも噛ませ犬の存在ってのは重要だよ
>>295 俺の言い方が悪かった。
別に李鵬とかがいらないって言うんじゃなくて、
かわいそうな末路なのも引き立て役だから当然だろうね、って意味だった。
読み返すと全然伝わらない書き方だったけど。
レッドクリフを蜀滅亡までやってほしい
金城孔明が死んだ後にチョウ・ユンファの姜維が鍾会との熱い男泣きドラマを演じ
ラストは鳩が舞う中で二丁連弩を横っ飛び連射!超観たい
レッドクリフ観てないんだが、二丁連弩なんて出てくんの?
パート2でリアル連弩がでるよ
八卦陣も映像でやってるよ
連弩は出てくるのか。手に持つくらいのサイズなんかな?
八卦の陣って、生門だとか死門だとかってやつか。
あんなよく分からんもの、よく映画で作る気になったもんだ。
まぁ、そういうファンタジーな陣形とかより、
マケドニアファランクスとかの方に興奮してしまう人間なので、
八卦の陣をどこまで楽しめるか分からないぜ。
机上で本読んで「これってファンタジーだから無価値」と完結しないで
とりあえず人数集めて実践してみました、というウー先生の心意気がわからないなら仕方ないな〜
無価値っつーか、実際現存した例えばテルシオなんかを現代で再現する、
とかそういうのに魅力を感じるのは当然だと思うが・・・
小説のは最悪どうにでもなるわけだし。
>>301 無価値なんて言った覚えは無いな。
価値が有るか無いかの話じゃなくて、実際に存在した戦い方の方が好きって事。
第一、監督の心意気や努力を買うという事と、それを見て楽しめるか否かは別の話じゃないの?
>>302がだいたい言ってくれてるけどね。
傅僉マジで使いてー・・・
蜀最後の後継者の生き様をこの手で操作してえよ・・・
3000で10万に立ち向かって格闘して死ぬシーンが感動すぎる
郭淮や陳泰が反司馬家のクーデターのどれかに呼応してたらと思うと夜も眠れません。
306 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/23(日) 00:58:52
文欽が郭淮に送った書簡では、郭淮が毋丘倹と同じ志を持っている事が、
毋丘甸の父宛の書簡で述べられているらしいが、これは本当だろうか?
郭淮が司馬氏に敵対した様子は見られないし、むしろ、
司馬懿が曹爽一派を誅殺した事で、これまでの雍州刺史から、
征西将軍都督雍涼諸軍事にまで昇進できているのだから、
反司馬氏の動きに呼応するとは考えにくい。
郭淮が生きていて、毋丘倹に呼応したなら、255年の北伐もまた違ったものにはなったろうね。
後の諸葛誕も厚遇されたが、結局は「次は自分か?」と暴発したということもあり、
昇進してるから呼応しない、ということもないと思う。
あの時代「地方で兵権を握る実力者」というだけで、司馬氏には脅威となりえただろうから。
(『魏王朝のため』という大義名分は誰でも使える状態だし)
ただ有力者が軒並み反旗を翻したわけでもなく、
やはり実際曹・夏侯家に親しいと危険、司馬家に近いと安定してる。
肝心の郭淮はというと、どうやら夏侯家と仲芳しくないらしく、
どちらかと言えば司馬家よりと見ていいだろう。
唯一の問題点は「奥さんが王凌の妹」だけだと思うが、
この時の司馬懿の対応の寛容さも、ある意味では「貴方は自陣営だと思ってますよ」というメッセージかもしれない。
賈充は同じような状況で、李豊の娘を捨てて郭氏の娘を娶ってるのも興味を引かれる。
ただ、異説とは言え息子のみならず、部下や異民族の長がああいった行動を取るってのは、
本来は危険っちゃ危険だよね。
308 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/24(月) 00:24:34
夏侯覇との不仲は書かれていたが、夏侯家そのものとどうだったかは書かれていないような。
ただ、247-248年の、羌胡の大反乱においても、都督の夏侯玄が郭淮を支援する様子が全く無かったし、
夏侯玄との関係も冷え切っていたのかもしれない。
曹真、司馬懿、趙儼と来て、次の都督が若い夏侯玄だったから、
20年も雍州を守ってきた身としては、何か含む所があったのかもしれない。
曹爽with夏侯玄の蜀遠征の際、自分の部隊を撤退させたよね、たしか。
被害を最小限に食い止める適切な判断であったけど、
その時の感情的なしこり(行き違い)があったのかもしれない。
もともと、司馬氏と結びつきが深い郭淮と、
司馬師に妹を毒殺された以降司馬氏とギクシャクしていたであろう夏侯玄との間に
ちょっとしたことで深い溝ができてしまうことは想像に難くない。
310 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/25(火) 21:38:37
駱谷の役の時は、何気に司馬昭もいたな。
司馬昭自身も王林の夜襲を受ける位置にいたし、先鋒の郭淮と近い場所に陣したのかもしれん。
郭淮は(恐らく)独断で軍を還したにもかかわらず、節を仮されてるし、
クーデター前で曹爽一派の力が依然あった事を考えると、夏侯玄にとって相当な汚点だったのだろう。
郭淮がどう思ってたかは分からないが、夏侯玄にしてみれば郭淮を疎ましく思っても仕方ないのかもしれない。
郭淮と夏侯覇の関係は、廖化を成重山に包囲した時にも表れている。
この時、夏侯覇は姜維を捕捉し、遅滞行動する任務が与えられていたけど、
姜維を捕捉できず、成重山では遊兵となり、最終的には羌胡と姜維との合流も許している。
姜維と夏侯覇では格が違った、と言えばそれまでだが、やる気があったのか疑いたくなる程の体たらくだった。
翌年、郭淮が征西将軍となり、陳泰、徐質、ケ艾らが来るとなかなかのチームワークを発揮するんだけどね。
ニコニコ動画に、劉備や曹操がアイマスの菊地真とかってキャラと武将を紹介するって動画があって、
それの一番最近うpされたのを見たんだが、五丈原以降を知らないという声や、
作者がその動画の中で、羅憲傅僉霍弋で蜀を立て直す、みたいな動画を作る事をほのめかしたら、
見たいと言う声も結構挙がっていた。
そういうので面白い動画を作れる人が、実際にこの時代のを作ってくれたら、
五丈原以降を語れる人も増えるかもしれんね。
軽薄っぽくなりそうな不安もあるけど
ライトなファンが増えたとしても、そもそも語る人の殆どいない現状よりは良いと思う。
その中から僅かでも、しっかり勉強しようという人が出れば嬉しいしね。
実際三国志ってそんなに面白くもないからな・・・w
315 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/19(月) 00:13:03
5 Empiresで孟獲が復活するそうで。
これで姜維が復活するという希望も、多少なりとも生まれたと言えるのだろうか?
孟獲は南蛮があるからという理由で出したとしても、追加が一人でなければ可能性はありそうだ。
かつてこのスレは、三戦板において考察スレというものが悉く崩壊し、
考察や議論を行うという気風が絶えていた頃、
そうした考察スレの流れを絶やさぬという意味において一定の役割を果たしたと思う。
しかし今や、順調に動く考察スレも幾つかでき、このスレの考察スレとしての役割は終えたように思う。
私のものを除けば、最後のレスは2ヶ月も前である事も、それを示していよう。
さればこそ、今一度原点に戻り、三国無双後期伝について考えていく事とする。
私が最後にステージやシナリオについての案を述べたのは、
残っているテキストを見ると2006年の6月なので、実に三年振りとなるが、
三国時代の戦争、とりわけ姜維の北伐については、当時考えていたものと大幅に違っている為、
暇を見て当時投下したものと今の考察の結果を照らし合わせて修正し、
ひっそりとこのスレで案を練るとする。
まぁ、意外と時間が掛かる上、満足いくものができるとも限らないのでどうなるかは分からないが。
楽しみにしてるよ!
>>317 おお、有難う。
実は一年ほど前、北伐における戦術レベルの動きについて、
完全な妄想ではあるが考えた事があり、その図のデータが残っていたりする。
それを用いる事で、かつては戦役全体を1ステージでカバーするような内容だったが、
実際の無双のように戦術レベルのステージにまで落とし込む事もできると思う。
まぁ、それでは自分の考察した主たる部分である、戦役全体の流れというものを反映できないのだけれど。
修正案を完成させてからここに載せるのでは、なかなか手をつけなくなりそうな気がするので、
とりあえず前回のものを載せて、このスレを使って練っていこうと思う。
まだ600レス、300kBもあるしね。
まぁ、三年半前に使ってたテンプレそのままだし、完成度も高くないので気が引けるが。
まずは第三次北伐(255年)だな。
255年 狄道包囲戦(姜維伝、陳泰伝 他)
ステージ構成:マップ全体は緩やかな斜面の高原。マップ中央に狄道、マップ南東に襄武がある。
マップ北西に枹罕があり、その西に船団(蜀本陣)がある。
高原を囲むように洮水が流れており、狄道襄武間の道は細い。
蜀軍
○勝利条件-陳泰の撃破→姜維の撤退 ○敗北条件-姜維の敗走
魏軍
○勝利条件-姜維の撃破→姜維の撤退(追加) ○敗北条件-陳泰の敗走
蜀軍:★姜維-来忠、向充、趙広、●夏侯覇-柳陰、王嗣、●廖化-蒋斌、●張翼-王含、●傅僉-蒋舒
蜀援軍:●治無戴-白虎文、伐同、蛾遮塞
魏軍:●王経-花永、張明、劉達
魏援軍:★陳泰-王頎、胡奮、王秘、牽弘、●ケ艾-ケ忠、師纂、●司馬孚-司馬望、王真、李鵬、●楊欣
※イベント1:三度出征す-ステージ開始前に発生。船上で夏侯覇と会話(魏は虚報に引っかからなかったという内容)
イベント2:攻其無備-蜀軍が故関の張明を撃破すると発生。王経軍団が狄道を出て姜維に向け移動開始。
※イベント3:其疾如風-王経軍団が姜維軍団に接近すると発生。蜀軍が王経軍団を包囲。
蜀軍士気上昇、王経軍団士気大幅低下。
※イベント4:洮水を血に染めて-其疾如風発生後、花永・劉達を撃破、又は敵兵200人撃破で発生。
逃げ惑い、洮水に落ちる魏兵。王経が撤退し、麾下の将は全て戦死する。
蜀軍士気大幅上昇、魏軍士気大幅低下。
※イベント5:蛇の絵に足を書く-洮水を血に染めて発生直後に発生。張翼が姜維を諫める。
イベント6:隴西をこの手に-蜀軍が兵を進め、狄道を包囲。王経軍団士気低下。蜀軍攻城兵器出現。
※イベント7:雍州激震-隴西をこの手に発生後、一定時間以内に王経撃破で発生。蜀軍士気大幅上昇。
魏援軍初期士気大幅低下。蜀援軍出現。統一ルートに分岐。
※イベント8:兵は拙速を聞く-隴西をこの手に発生後一定時間、又は雍州激震発生直後に発生。
陳泰・ケ艾軍団が襄武に出現。ケ艾が陳泰に進言、陳泰がこれを退ける。
※イベント9:戦の嗅覚-陳泰が高城嶺を越えると発生。援軍到着の狼煙が上がる。王経軍団士気大幅上昇。
陳泰が道の険しさを理由に伏兵の存在を疑う。その後南道を通ると伏兵出現。王経ハイパーアーマー化
※イベント10:寡を以って衆を撃つ-戦の嗅覚発生直後に発生。姜維軍団が魏援軍に接近。
姜維一定時間ハイパー化、後ハイパーアーマー化。陳泰が思わぬ抵抗に狼狽する。
イベント11:無尽の兵力-寡を以って衆を撃つ発生後、一定時間で発生。雍州激震発生条件消失。
司馬孚軍団が襄武に、楊欣軍団がマップ北部に出現。蜀軍士気低下、魏軍士気上昇。
蜀軍勝利条件変更、魏軍勝利条件追加。滅亡ルートに分岐。
戦役全体をステージとするか、一会戦をステージとするかは一つの問題で、
実際の無双でも益州攻略や江東平定は戦役、と言うか戦争全体を一ステージにまとめている。
その為に、個人的には大味な感がある。
なので、一会戦を1ステージとする方が面白いとは思うが、
その場合、例えば第三次北伐でも洮西、狄道と2ステージ消費してしまう上、
個々のステージの密度が小さくなってしまう。
まぁ、その辺は置いといて、
>>320で俺の現在の考察の結果と違う点は、
やはり陳泰の前進経路と姜維の伏兵の位置。
原文は「泰詭従南道」とあり、ちくまで「南道を通るふりをして」とあるが、
実際にあの辺りの現在の地形や水経注等から考えると、
襄武より北に出て狄道の真西に出る道の方が本来使うべき道であり、
それより南に伏兵を置くというのは個人的には考え難い。
また、南道を通る振りをするのなら、陳泰が通ったのは北道となるであろうから、
結局、主要道路を通ったという事になり、その場合、狄道の南東に出るのは変だ。
なので、姜維が伏兵を置いたのが北道、陳泰の通ったのが南道とするのが自然だと思う。
原文の解釈でも、強引ではあってもそれでなんとかなるような気がするし。
つまり陳泰は、狄道の南方より洮水の河岸に出て、姜維は東に山を置き、
その山に沿って南方に出て陳泰と干戈を交える。
その後、狄道において陣地戦を展開し、涼州より援軍が来た時点で撤退するという流れが良いと思う。
ステージの流れとしては、
(故関襲撃)→洮西の戦い→狄道南での会戦→狄道近傍での陣地戦→涼州の援軍→撤退
という形。
北伐に関する解釈はだいぶ変わったと思っていたのだが、実際はそうでもなかったようだ。
細かい部分の違いはあっても大筋に変化は無く、無双のステージ案という形では殆ど表れない。
姜維の戦略思想であるとか、その政治的な立場であるとかは大幅に変わってるんだけどね。
無双のシステムじゃ会戦は陣地戦の形でしか表現しづらいのがなぁ。
とりあえず、ステージ案ではなく何か別な物を考えるとして、それを何にするかを思案する事とする。
あまり思いつかないので、姜維のキャラクターでも考える。
大抵の作品で適当なキャラ付けがされてしまう姜維なので、
ここらで史書をベースにしたキャラクターを確立しとくべきだろう。
正直、ちょっと可愛がられただけで「丞相!丞相!」言いながら北伐するのは頭がおかしいし、
何の背景も無いのに「北伐!北伐!」と言い続けるだけの戦争狂になるのも変だ。
まず蜀に降る以前のエピソードで重要な点は、
・少年時代に父を亡くす
・鄭玄の学を好む
・決死の士を養う(傅子)
があるが、傅子にある内容は単体では用いる事ができず、決死の士を養うまでの理由が必要だな。
まぁ、傅玄が姜維の若い頃についてどこまで知っていたか分からんけどね。
父を亡くした話は見落とされがちだけど、これの仇敵は馬超の線が濃いね。
「少孤」からは十歳にも満たない頃という印象を受けるが、同じ記述の賈充が父を失ったのは十二歳の時。
姜維が十二歳前後というと、丁度馬超が冀城を攻略して刺史の韋康を殺した頃に当たり、
郡守の命が脅かされるような反乱は、この馬超の乱くらいしかない。
馬超は羌族や氐族を引き連れていたので、「羌、戎の反乱に遭遇した」という記述とも一致しよう。
馬超の一族のいる蜀に降る事の心境がどうであったのかってのは興味深いね。
鄭玄についてはまだ勉強中なのだが、狩野直喜の「魏晋学術孝」によれば、
鄭玄は古文学と今文学の折衷であったという事であるが、本当であろうか。
若い頃に大学で春秋公羊伝などの今文を勉強した事が一つの根拠のようだが。
しかしながら、やはり今文学の素養がありつつも、古文学者ではあろう。
例えば鄭玄は、孝経にあるような「至徳」を「孝悌」であると解釈したようだが、
こういった事から、鄭玄の学に孝の色を求めるのはやはり行き過ぎなのだろうか?
鄭玄と王粛の違いは、服喪期間、天子の祭る廟数、感生帝説の是非など、
礼制に関するものが専らなので、鄭玄と王粛の主張の違いから鄭玄の意思を読み取ろうとした事は失敗した。
やはり鄭玄が幾つもの経典に付した注釈から読み取っていくしかないのだろう。
適当な論文を入手できれば良いのだが、素人の三国志ファンには些か敷居が高い。
今文学の春秋公羊伝、古文学の春秋左氏伝、この両者の最たる違いは、
誰かの行動を評価する際、前者は動機を重視し、後者は結果を重視するという事であろう。
大きく分ければ古文学に属す鄭玄学であるから、やはり姜維も公羊伝より左伝を重視したであろう。
すると、宋襄の仁のようなものを評価する人間とはならなかったであろう。
姜維の思想を北伐へ結びつけるのはどうにも難しい。
一つには、彼の「漢」に対する思いがどのようなものであったのかというのがヒントにはなると思う。
本伝の蜀に降った時の記述には、彼は漢室に心寄せていたというものがあり、
それが本当ならば、魏にあっても漢に対する忠を持っていたという事になるのであろうか?
彼が官に就いた時を弱冠、つまり二十歳頃とすれば、丁度漢から魏へと移り変わる時期である。
彼の漢に対する忠が醸成されたとすれば、それより以前とする方が良く、
そうすると、羌族らの乱に遭遇して死んだ父姜冏、そしてその後馬超に対する反攻に踏み切った同族の姜隠らを見ていた幼き姜維、
というのは、漢への忠に結び付けるロジックを生み出す事のできる逸話になるかもしれない。
姜維が父の死の原因を何に求めたのか、というのは重要だろう。
馬超なのか、或いは羌や氐そのものなのか、更に大きく、羌、氐を統御し切れぬ国家の脆弱さなのか?
姜維は後に、羌や氐を服属させ、その力を援けとして魏に当たらんとしている。
従って、羌や氐そのものに対する怨恨は根深いものではなかったのだろう。
とするならば羌や氐を唆した馬超そのもの、そしてそれを抑え切れぬ国家の脆弱さになろう。
馬超らの反乱は形式的には漢に対する反乱であり、漢という国家の統制力が低下した事を示すだろう。
そして馬超の乱を平定した後も、曹丕の受禅により漢から魏へと移った後も、
李越や麹演、蘇衡ら、羌胡の反乱は絶えなかった。
そしてそれを、姜維は漢の民、後には魏の臣下として見ていた。
これは羌胡を力で抑え付ける後漢の、そして魏の政治の限界であり、
父の無念を晴らさんとするには、羌胡と漢の共生し得る国家を造る必要があった。
魏の対羌胡政策は変わらず、その臣としている限りは姜維の目指す国家を得る事は困難であった。
そのような事を心に抱いている時に訪れたのが、巴蜀の地に立った新たな漢への投降であり、
彼は魏ではなく、漢の臣として理想の国家、理想の涼州統治を果たすべくそこに留まる事を欲した、と。
父の無念を晴らす事のできる国家造りを、郷里にあって母に尽くす事よりも上位の孝と考えたともできる。
つまり、彼を北伐に駆り立てたのは、漢への忠でも魏の打倒でもなく、あるべき涼州の創造であった。
それは、大きくは隴西を羌胡と共に統べんとした彼の方針に、
小さくは彼の側近であった王嗣の対羌胡政策に表れる事となる。
この姜維像に、248年に蜀に降り、270年に晋への大反乱に参加した(であろう)白虎文を結びつければ、
より面白いシナリオになろう。
また、247年には、隴西での羌胡の対魏大反乱と、汶山での羌胡の対蜀反乱が起きている。
姜維は汶山の乱を鎮圧した事になっているが、恐らくこの頃汶山を治めるようになったのは王嗣であり、
彼が統治するようになってから汶山の羌は反乱していない。
これを汶山の乱→隴西の大乱という流れにし、姜維の汶山諸羌への対処を見て、
姜維に心服した隴西の諸羌胡が彼の協力を仰いだ、という形に持っていく事もできる。
結局、漢への忠とか鄭玄の学だとかが関係なくなり、
父の死のみをクローズアップした形になったが、我ながら良い妄想ができたと思う。
>>327 どもども。
姜維に対する情熱に関しては、恐らく多くの人に勝っていると自分では思ってる。
まぁ、レスよりもネタが続くかどうかの方が障害になるかもね。
史書の記述から人格を形作るのはどうにも大変で。
>>323-325は姜維の北伐に対する姿勢を考えたものだけど、
彼のキャラクターの表に出る部分は、やはり郤正の論文に拠るのが良いだろうね。
ただ分からんのは、官給を使い尽くしているのに生活は質素だったって事かな。
大将軍ともなれば俸禄も相当だと思うが、質素な生活で使いきれるものなのだろうか?
貧乏人や兵士に分け与えたとも書かれてないし。
大将軍の俸禄は月に米350斛、姜維より150年前の延平年間には、
中二千石の月180斛の内、72斛が米で支給され、102斛分は銭9千だった。
物価も違うだろうが、参考に、これを単純に当てはめると、大将軍で米140斛、銭18500となる。
俺には月に2800リットルの米を使い切る自信は無い。
ただ、1人当たり1日に1〜2リットル食べるとすると、一ヶ月にして30〜60リットル。
2800リットルだと50〜100人分に当たり、余った米を売却して得た銭と銭での支給分を使って、
米以外の食糧や衣類、家財道具等を賄うとすれば、10人も使用人がいれば使い切れそうだ。
なんだかんだで15頃の田と800株の桑があった諸葛亮より、資産は無かっただろうな。
郤正は姜維を評価するに当たり、「春秋褒貶の義と異にする」として、
当時の姜維に対する風当たりの強さを批判している。
郤正が「春秋褒貶の義」ではないとしたのは、「譽成毀敗、扶高抑下」とあるように、
「成功者を誉めそやし失敗者を貶し、高きを助け低きを抑える」風潮である。
これは、礼を遵守してその身を滅ぼす事となった宋の伯姫や宋の襄公を貶す、左伝のような見方である。
この言葉に続けた郤正の言は、姜維が自らの身を滅ぼし宗廟の祭祀を絶やした事を以って貶められ、
これを省みて再び評価をする者がいない事を批判するものである。
郤正の態度は春秋公羊伝のそれに当たる。
春秋公羊伝では、左氏伝と違い宋伯姫、宋襄公を高く評価している。
また、春秋公羊伝は、一度は経に反するとしても、最終的に善が成される事を「権」として高く評価する。
これは、姜維が乱という反経の中にあって、漢再興という善を拾おうとした事に酷似していよう。
郤正は左伝が隆盛する時代において公羊伝のような見方を尊重した事になる。
そしてその事は、姜維は春秋公羊伝におけるような評価、すなわち今文学におけるような評価をしてこそ、
賞賛されるべき人物であったという事になろう。
郤正がこうした態度を以って当時の姜維評に対する批判を行ったのには、一つに孟光の影響があろう。
孟光は公羊伝を好み、郤正は皇太子劉璿の才知に関する孟光とのやり取りによって感銘を受けている。
また、それ以前より郤正が何度も孟光を諮問に訪れているという記述もある。
公羊伝は親親の道を尊重するが、君臣の義と親親の道、二者択一の状況では君臣の義を尊重する。
姜維は蜀に降る際も、己の馬遵に対する忠、馬遵の魏に対する忠を貫かせようとしたが果たせず、諸葛亮の元へ降る事となった。
蜀に降っては、徳を以っての復讐という、父に対する大いなる孝を実践せんとすると共に、
新たに君臣の義を結ぶ事となった蜀への忠を貫くという善を為す事を良しとした。
魏に対する不忠という結果は抗わざるを得ないが、父への孝という動機を以って公羊伝の筆法で正当化する事ができよう。
降伏する時の姜維の苦悩を描く際に参考になろう。
姜維の話は一旦措くとして、次の人物に話を移そう。
姜維の次に考えるべきは、誰が何と言おうと司馬昭だ。
司馬昭は良い。
俺は、自分を三国志の人物に例えるなら司馬昭であると常々思っている。それくらい良い。
さて、史書の解釈の是非はさておき、物語の上で司馬昭のキャラクターを考える場合、
・兄に対する尊敬
・大いなる野心
の二つがまず挙げられる。
また、陳泰が賈充を斬るよう述べたように、皇帝弑逆の責任が賈充にあるのは明白である。
そして司馬昭は、曹髦の死を聞き、世間に謗られ、自らの名が貶められる事を恐れて地に身を投げ出すほど狼狽したにも関わらず、
陳泰の言うように賈充を斬る事もせず、自身の名と賈充の命の両方を庇う事のできる論法を見出さんとした。
その一方で、陳泰に対しても、彼を咎める事も排す事もしない。
陳泰と司馬昭とのやり取りからは、司馬昭の動揺の大きさが窺える。
事態の重大さから言って当然ではあるが、司馬昭は兄と違い曹爽誅殺の計画にも加われず、
計画を告げられた後も、泰然としていた兄と違い、終始落ち着かなかった。
広く先を見通す力があり、鍾会の乱の時の対応のように自信家の面もある。
側近や親しい人間に甘く、大きな事態が生じると酷く動揺する。
また、諸葛誕誅殺後の呉討伐計画や、姜維を暗殺しようとする所には彼の性急さが表れている。
才知に比して精神は脆弱であり、それが分かっているからこそ事前に手を打とうとする。
そしてそれが過ぎると、鄭小同を殺した時のような事が起こる。
兄を尊敬してやまず、遠大な志を持ち、才知も伴うが、
自信家であろうとする事で小心を覆い隠そうとする人間でもあった。
俺が司馬昭を描くなら、こういう人物になるだろう。
付け加えると、司馬昭の本来の性は小心者であり、
自信家は後天的なものとする方が良い。
少年の頃は自分の才覚を意識せず、自信家でもなかったが、
自分の能力が世間で評価された事を契機にして自信家となっていく。
その為、傍目には野心家・自信家で常に泰然としているように見えるが、
その実は、己の脆弱な心を自信という殻で守っているに過ぎず、
その殻を破るほどの事が起こると、小心者という本来の部分が出てくる。
そういう人物として描くと良いと思う。
中国史に限った事ではないが、高い位階にある小心者が強大な権力を握ると、
概して酷虐な面が露出・突出しやすくなる場合があるが、少なくとも司馬昭には
そういった面がそれほどみられないのも注目すべきところかもしれん
尤も俺は心理学なんて全くの専門外だが
俺も心理学について学んだ事は無く、この司馬昭像も俺自身の人格や経験に基づく妄想に過ぎないと思う。
軍事に関する諸書で得た知識で考えると、人間の心は、
大なり小なりショックを受ければ麻痺するし、サスペンスに置かれれば衰弱する。
そして強い精神を持っているかどうかは、それに対する耐性で決まるって事になる。
残虐な行為に走る人は、サスペンスに置かれる事への耐性が低いんじゃないかと思う。
だから普通の人には何でもない事にも精神をすり減らし、そこから逃避する為にそういった行動へ走るんじゃないかと。
俺の考える司馬昭は、精神が才知に比して弱いと言っても、そこまでじゃない。
自信と才知で補う事で、本当に予想外の状況以外には弱さを露呈しない。
そんな風に考えてる。
まぁ、この司馬昭像は、史書は参考にしてても俺の嗜好に沿って考えただけだから、
そこまで深いものじゃないし、一般的な司馬昭像とは異なるだろうと思う。
弟である李世民が編纂に関わった割に、兄司馬師が絶賛されて弟司馬昭は微妙な扱いという晋書の不思議
晋書の中では、司馬師も司馬昭も完全無欠な感じで書かれてると思うけどね。
司馬昭も微妙な扱いって感じではないと思う。
景帝紀の曹爽誅殺のくだりで、司馬師が悠然としてて司馬昭が落ち着かなくなっている構図は、
確かに司馬師の人物が司馬昭より上である事を示しているようにも読めるし、
司馬昭が事ある毎に「これは兄の天下である」とかって言ってるのを見ると、
司馬師>司馬昭というのが一貫してあるのかもしれないけどね。
司馬師の性格はどうだろうね。
景帝紀に拠れば、沈着で大きな知略を持っていたという事だが、
確かに諸葛恪の合肥新城攻め、毋丘倹の乱への対応を見ると、
みだりに戦闘を交えようとせず、慎重に事を進める姿勢が窺える。
毋丘倹の乱では王基と意見を異にして、
どれだけ王基が陳情しても軍の集結を待とうとした事は、逆に大胆さの欠如が見られるが、
一方で一族の害になると見るや、即座に夏侯徽を毒殺する果断さもある。
毋丘倹の乱では、目玉が飛び出たにもかかわらず、痛みをこらえ、努めて平静を装うなど、
動揺を周囲に悟られぬだけの意志の強さがある。
逆に李豊に面罵された時には、廷尉のもとに送るのを待たずに殺してしまっている。
毋丘倹の乱の時に見せた意志の強さは、プライドの高さを基にしているのかもしれない。
ただ、夏侯徽を毒殺した後に迎えたのが寒門の呉質の娘で、
三度目にしてようやく世々二千石の名門羊氏から迎え入れた事を考えると、
夏侯徽を殺すのは司馬師の意思ではなかったようにも思える。
夏侯徽との間には五女をもうけたが、羊徽瑜との間には子が無かったのも、
夏侯徽に対する寵愛の深さの表れではなかろうか?
夏侯徽の死は司馬懿の意思に拠るもので、次いで呉質の娘を娶ったのは、
司馬懿に対する反抗の意思を示したものとは考えられないだろうか?
最終的には司馬氏の繁栄を目標として父に従い、曹爽誅殺の頃には父の意思をよく理解する人間になっていた。
この辺りから、司馬師の人格を考えていけそうな気はする。
夏侯徽や李豊の件もそうだが、夏侯玄と張緝に対しても三族滅すという
性急にして過酷な処断なあたり、内と外で随分と違うな、司馬師って
沈毅で知略も豊かだとある一方で、文鴦が極少数で来襲した際には驚いて
しまってもいるけど、このへんはどう解釈すべきなんだろうか
何もかもを見通せる人間が不測の事態にみまわれた際にみせる脆さかなんか
なんだろうか
いままで司馬師・昭の兄弟の性情なんてそんなに気にとめてこなかったし
検証したこともなかったが、けっこう違うかもしれんな
>>337 そもそも、目玉が飛び出るという状況がよく分からない。
遠征前に手術したようだが、それによって目玉が飛び出るような事があるのだろうか?
医学の心得は無いのでよく分からん。
ただ、文鴦の行動に驚くのは仕方ないとも思う。
実際、文鴦麾下の精鋭十余騎以外の意気は阻喪してたし、
それだけで幾つもの陣営が落とされるのも予期しがたい。
甲状腺の病気等で眼球突出症状がでることはあるようだ
>>339 「眼球突出」でググってざっと読んでみた。
甲状腺眼症以外にも、眼窩腫瘍でも起こるらしいので、
瘤を切り取ったという記述からするとそっちだろうね。
まぁ、仮に眼窩腫瘍だったとしても、驚いた拍子に飛び出るという形が起こるのかは分からんが。
若い頃は夏侯玄、何晏らと親しく、夏侯玄の妹を娶ったり呉質の娘を娶ったり、
「朝廷の望」と言われた司馬懿とはどうも違うよね。
司馬懿が牛金を毒殺しようとする時も疑問を呈しているし、
司馬師が司馬氏を慕う名士の上に君臨するに足る人間になったのは、父の教育に拠る所が大きいように思う。
夏侯徽は鴆毒で死に、牛金も鴆毒で死んでいる。
考えれば考えるほど、夏侯徽を殺したのは司馬懿に思える。
魏氏春秋なんかでは、夏侯玄誅殺の際に司馬昭が助命を嘆願してるのも興味深い。
どうでも良い事だが、最近は俺の中で司馬昭の評価が高まっている。
1,2年前から、陳祗と司馬昭は好きな人物ランキングを付けるとしたら姜維に次ぐ位置にいる。
前から司馬昭みたいな人物は割りと好きな方だったけどね。
1位姜維、2位司馬昭、3位陳祗と言ったところだ。
一般的な三国志ファンとは掛け離れていそうだがな。
司馬昭好きが増える事を望むが、まぁ難しいだろう。
一般的なイメージがねぇ…
親子三人纏めて冷酷な悪役扱いされてるから
人間味のあるエピソードが少ないのも問題かも
>>343 弑君の汚名があるので、悪役というイメージから抜け出す事は難しいだろうね。
曹爽誅殺計画を聞いて、兄貴が熟睡する横でおろおろして眠れなかったり
夏侯玄の助命を泣きながら嘆願したり、諸葛誕撃破に調子乗って呉を攻めようとしたり、
賈充が先走って皇帝を殺した時に卒倒したり、その事を泣きながら陳泰に相談したり、
結構良いエピソードはあるんだけどね。
まぁ、そういうのを紹介する本とかは皆無だけど。
なるほど、確かにそう言った部分は人間味を感じられますね。
…ただ、そのシチュエーションの背景が誅殺だの暗殺だのドロドロしてるから
やっぱりそれで司馬昭のイメージが向上する人は少ないんじゃないかと思う。
個人的には司馬一族や賈充には結構興味を持ってるんだけど。
>>345 まぁ、どうあっても善人という評価にはならないだろうね。
ただ、歴史上の人物なのだから善人でなければ人気が得られないわけではないし、
多くの人は司馬師も司馬昭もよく知らないというだけだと思う。
諸葛亮死後を細かく解説する本は皆無だし、今やってるYahooの三国志特集でも、
三国志十大合戦と言いつつ五丈原までしか解説しない。
よく知らない司馬昭とかよりも、馴染み深い黄巾の乱〜五丈原までの人物の方が人気が出るのは仕方ないだろうね。
三国志に限らず野心家が好きという人はいるだろうけど、
如何せん野心家という点でも司馬昭より鍾会の方が目立ってしまっている。
日本の一般的な三国志ファンの間でも、司馬師、司馬昭兄弟より夏侯恩や程遠志の方が有名だと思うしね。
司馬昭の人物云々より知名度アップが先だろうと思う。
事績だけみると司馬師よりも司馬昭の方がより悪辣に感じるんだが、
こと人間性だけに焦点を絞ってみると司馬昭の方が人情家にみえなくもない
というのがなんとも
いままでは両者の性情なんて気にもとめてこなかったが、たしかに司馬師・昭の
両者って幾つかの某スレなんかでも父親の司馬懿と較べても査定の対象に
挙がる事すら稀だ
ここでそれを言うのもするのも野暮ってもんだろうが
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/18(水) 10:45:30
良スレ。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/18(水) 17:07:43
亡父への孝という観点はなかったなあ
老母を蜀での未来がどうだのとかいう理由で棄てて
費イがくたばった後は外様のくせに何故かトップに立って、国造りを忘れて狂ったように北伐の連打
トウ西の戦いで稀に見る戦功を挙げても満足せず
段谷でケ艾に凹られてもトウ中に屯田して半独立
ゲキ正、ケ芝あたりには好感を持たれるが無難な人々には露骨に疎まれてそうなKYな戦争狂
明らかに人格破綻者の諸葛カクと面談もせずに方針が一致したり
人格破綻者2号のショウ会を手懐けるあたりに非常に胡散臭さを感じるキャラだった
>>349 姜維は執拗なまでに北伐を繰り返したが、狂人ではあるまいし理由が無い事は無いだろう。
彼と実際に会った事があるであろう郤正の話から窺える姜維という人物は、
狂人でもなければ功名心に逸る人間でもない。
陳寿が「功名を立てる事を志した」と評したように、彼にそういう心があったのは確かかもしれないが、
それでも狂ったように北伐を行う姿には結び付かない。
傅子の記述を引いて、若い頃から功名心の塊であったかのように考える人もいるが、
傅玄が傅子を著したのは恐らく魏の末期であって、姜維の郷里である天水の人間から聞いたとしても、
彼が魏にとっての害悪として認識されていた以上、姜維を称えるような言葉は得られないであろうから、
傅子に郤正の言葉以上の重みは無い。
執拗なまでの北伐や、鍾会を唆してまで漢朝復興を志した姜維という人物は、
やはり功名心だけでは説明できないし、それ以上の理由を求めるべきだろうと思う。
まぁ、上の方で俺が言っている事も妄想の類であって、大きな根拠は無いのだけどね。
「何故か」とか不思議に思うことばかりだとすれば、それはその説が間違っているからだよね
>>351 間違っているとまでは言わないけど、我々が、考古学的な発見を除けば、
残された史料のみから考えざるを得ない以上、
より自然な、より史書の矛盾の少ない解釈を採用すべきだろうね。
良スレ発見。
まだ勉強中の身だけどちょっと聞いてみる。
曹爽誅殺について気になってるのが司馬孚が司馬師と一緒だってこと。
司馬孚ってどういう立場でクーデターに参加してたんだろう?
司馬懿はほんとは魏のために曹爽を誅殺するつもりたったのでは?
とはいえ夏侯徽の件なんかは自分も
>>336のような見解でいるので、
(夏侯徽を殺すことで曹家を煽ったような気もする)
なんか司馬懿や司馬師の人物像については色々つじつま合わなくてすっきりしないんだよな。
もしかしたら司馬孚が腹黒い人物だったという可能性もあるが、それもなんかおかしいと思うんだよね。
正解は無いと思うけど、この場合の「より自然な、より史書の矛盾の少ない解釈」はどうなるんだろう。
>>353 魏室へ忠義を尽くす事と、宗室とその取り巻きへの権力集中を許す事とは別って事じゃないかな?
曹氏の為に帝国があるのではなくて、民の為に天下を治める存在としての曹氏なのだから、
皇帝が私に傾き過ぎれば、天は曹氏を認めず、かえって天子の位を失いかねない。
したがって、名士たちを排斥して皇帝や宗室に権力を集中しようとする行為に対抗する事は、
広く見れば魏に対する忠義の表れとも言える。
高貴郷公の死にショックを受けて、それがもとで血を吐いて死んだ陳泰も、
曹爽誅殺の際は司馬懿の方に付いている。
曹爽誅殺が、少なくとも彼らの論理では魏室への反乱ではないという事だろう。
しかしながら、結局は司馬師、司馬昭兄弟の専横から司馬炎の受禅に繋がっていくので、
曹爽誅殺の頃の司馬孚の考えと、司馬昭らの意思が乖離していく事になったのかもしれない。
司馬懿の弟で司馬昭らの叔父である身としては、そういう状況でも上奏に名を連ねるしかないのだろう。
>>354 なるほどすっきりしました。
司馬孚としてはその権力集中に対する非難のつもりでクーデターに参加してた、
って考えになるわけですね。
しかしその後はこんなはずじゃなかったのに、ということか。
司馬孚も難しい立場の人だよね。
>>355 高貴郷公を平民の礼によって埋葬すべしとした皇太后の詔勅は、
司馬昭の意を受けて出されたものである事は明白だろう。
しかしながら、その翌日には王の礼で埋葬するべきであるという上奏が行われている。
この上奏は司馬孚、司馬昭、鄭沖、高柔によって行われたものだが、
前日の詔勅を考えると司馬昭の意思ではない。
つまり、司馬孚、鄭沖、高柔の三者の意思であると言える。
この辺からも、例え禅譲を防ぐ事ができずとも、
魏に対する忠義を表さんとする司馬孚の苦悩とかが読み取れると思う。
>>356 いや、それは敢えて皇太后に平民礼にさせた上で司馬昭が王礼を主張することで世評の口封じを狙ったんだろう
司馬孚の苦悩を読み取るのはちょっと違うんじゃないか?
>>357 司馬氏は、春秋(主に左伝)やその他の経の解釈によって権力行使の正当化を図ってるけど、
ここでは公羊伝を引いて平民葬を正当化しつつ、それに反駁する形として出している。
落として引き上げる事による言論封殺と言っても、皇帝を殺した事への批判がその程度で逸れるだろうか?
むしろ、最初からそういう計画であったのではなく、
経の解釈による行為の正当化を図ったものの、反発が大きかった為に、
王礼で埋葬せざるを得なかったと見た方が良いのではないだろうか?
高貴郷公は戊子の夜に決起を打ち明け、恐らく己丑の未明に殺された。
皇太后の詔勅はその日に出され、司馬孚らの上奏はその翌日。
緊急の事態ゆえに場当たり的にやっていたんじゃないかとは思う。
曹髦殺害自体が賈充の独断で
司馬昭にとっては予定外だっただろうからな
>>359 この辺の事を考えるに当たって、陳泰に今後を相談したのがいつだったのかって事があると思う。
孫盛の魏氏春秋だと、司馬孚と共に曹髦の遺体にすがり付いて哭したとなっている。
干宝の晋紀だと、曹髦が死んだ直後の事は書いていないが、
司馬昭が対策を考える為に諸官を召集しても至らず、荀や群臣が迎えに行ってやっと出仕した事が書かれている。
この両者を合わせて、仮に、曹髦が死ぬと遺体のもとに駆け付けて哭し、
その後引き篭もって出仕を拒むも、無理矢理連れ出されて賈充を斬る事を進言した、という流れにすると、
陳泰が司馬昭に賈充腰斬を突きつけたのは、どんなに早くても己丑だろう。
そうなれば、皇太后の詔勅が出された時点では陳泰の進言は無かったとするのが自然。
実際に、賈充への処罰を行わず、成兄弟を殺すに留める事に決定し、
それが正式な上奏となったのは曹髦の決起から20日後、皇太后の詔勅から19日後。
皇太后詔勅から司馬昭らの上奏まで僅か1日だった事を考えれば、この間は不自然だろう。
とすると、今後の方針を決定する為の会議は、主として庚寅の上奏以降に行われたんだと思う。
従って、己丑から庚寅までに行われた詔勅と上奏は、司馬孚、鄭沖、高柔を含む、
司馬昭の側近のみで決定されたもので、綿密な対策が論じられたわけじゃないだろう。
そうすると、まず皇太后の詔勅を出して、反応が芳しくなかったので、
反発を抑える為に上奏を行ったとするのが自然かなと思う。
これだと結局、司馬孚の意思は読み取れんけど。
夏侯徽って晋書だと自殺に見えるけど、毒殺って他の史書では書かれてたりするんですか?
毒の種類までわかってるとは知らなかった。
晋書だと「遂に鴆を以って崩ず」だから、鴆毒で死んだって事でしょ。
自殺を迫られたのか、自発的に死んだのか、はたまた毒を盛られたのかは分からないが、
直前の記述を見る限り、司馬師、或いは司馬懿の意思が夏侯徽の死の背景にあったのは確かだろう。
折角の流れなので、 Jominian氏の夏侯徽殺人犯は司馬懿説を聞いてみたい。
自発的に死ぬってのはちょっと変だと思うんだよな。
思いつめて自殺しても逆に両家の関係は悪化するだろうし、
それがわからない人だったとも思えない。
夏侯徽が父親同様心の弱い人だったという可能性もあるけれど…。
この件は推理する材料はいっぱいあるだけに気になる。
気になっても結論は出無いんだけどさ…。
>>363 現在、引っ越し等の関係でPCがネットに繋がってない上、今は結構忙しいので、
何か話せても、ネット環境の復活する今月下旬頃になると思う。
>>363 夏侯徽は、青龍二年に鴆毒で死んだ事くらいしか書かれてないんだよね。
だから、「司馬懿が殺した」ってのも、司馬師が夏侯徽を殺すような人間だったかどうか、
って事のみに立脚するしかない。
それは上でも少し述べてるけど、自分でもあれだけじゃ弱いように思う。
青龍二年ってのも曲者で、これは丁度五丈原とかぶるんだよね。
司馬懿はその後も公孫淵討伐まで関中にいたので、司馬懿犯人説を展開するのは結構難しい。
>>365 お、お帰りなさい。
五丈原があるからどういう推理になるのか興味あったんだけど、
やっぱり誰が犯人でも自殺でも色々しっくり来ないんだよねえ。
病死したのを晋書クオリティで脚色、って方が納得できる気がする…。
>>367 実際、司馬懿がその場にいない事には大きな支障は無いとは思うけどね。
人を遣ってどうにかするなり、息子に圧力を掛けるなりすれば良いんだし。
ただ、晋書景懐夏侯皇后伝に「帝深く之を忌む」とあるので、
司馬師の意思に反して司馬懿が夏侯徽を殺した、とするには、
その記述を否定し得るだけの根拠が必要だろうけど、それだけのものは無いだろうな。
青龍二年の段階では、その後の西晋樹立への過程としては、曹爽誅殺時のような決定的要素は無いだろうから、
司馬懿にせよ司馬師にせよ、敢えて夏侯徽を殺す必要は無いようにも思う。
一方で、「鷹揚の臣が力を付けぬよう配慮すべき」という高堂隆の進言にもあるように、
司馬懿が朝臣の信望を集めるようになっていたのは確かではあるけど。
夏侯玄と明帝との仲が険悪であった事も大きいのかもしれない。
司馬懿の意図がどうあれ、朝廷内で声望が高まり過ぎているので、
彼としては明帝に信頼されねばならない。
司馬師は、明帝に嫌われた夏侯玄、文帝に嫌われ明帝にも重用されなかった何晏と親しく、
その夏侯玄の妹を娶っている。
自分の嫡子が現政権に不満を抱いている層と親密では、
己自身の立場も危うくなるだろうと思う。
アレ
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/02(土) 15:59:00
晋の皇后>>>>>>超えられない壁>>>>>>魏の皇后
張春華マンセー
>>370 超絶下げマンビッチの羊献容さんですね、わかります。
亡国を二度も経験するなんてすごいよね
後期の人物詳しくないから自分も調べようと
人物事典(4000円くらいするやつ)を読んだんだけど
ここで議論されているのは高度すぎて
この本くらいじゃ参加できそうにないなあ・・・
質問みたいな感じになってるけど
ちくまの正史読めばこのスレの
話にも加われるんだろうか
蜀で黄皓が権力を握ったのは、まあ周知の通りだけど、
権力を握った宦官が黄皓だけとは考えにくいよなー。
と、最近思った。
まあ、ここにいる人たちにとっては普通の考えかもしれないけど。
こいつ無双キャラにできそうじゃね?とよく思うのは荀勗なんだよね。
賈充の腰巾着で佞臣とされるも、結構仕事はしてるし、しかも世説新語的ネタが豊富という・・・
音感神だとか超絶グルメだとか、鐘会とケンカしてみたりだとか。
キャラ立ってんなと思ったからなんだけど、もはや末期キャラではないか。文官だし。
377 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/22(水) 23:27:11
>>376 荀勖なら末期キャラなんでないの?
まぁ、キャラが立ってるとか重要だとかってのは、
無双という観点で見るとそこまで重要にはならないだろうね。
陳祗なんかは末期蜀のキーパーソンだが、無双に出るような人物じゃないし。
無双にかかわらず、各人物のキャラ付けを考えるのは、それはそれで面白いと思うけどね。
劉ショウの人物志のアドレスをkwsk
379 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/22(水) 23:37:47
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/22(水) 23:41:14
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魏晋
対呉:張遼>満寵>臧覇>司馬懿>陳登>夏侯尚=王昶>賈逵=文聘=蒋済=ケ艾=王基>曹休
対呉(晋代):羊祜>杜預>陳騫>王濬=王渾=張喬>羅憲=霍弋>王戎=周旨
対蜀:ケ艾>鍾会>曹真=陳泰=張郃>司馬懿>郭淮
対燕:司馬懿>毋丘倹
対南匈奴:曹操
対高句麗:毋丘倹
対烏丸:曹操=張遼=曹彰=田予=毋丘倹
対鮮卑:曹彰=馬隆>劉靖=田予>牽招
対羌:夏侯淵>文俶>司馬駿
対西南夷:霍弋
呉
対魏:周瑜>朱然>陸遜>施積>潘璋=朱桓=丁奉>呂範=全j=諸葛恪
対晋:陸抗>陶濬>施積
対蜀:呂蒙=陸遜>朱然>潘璋
対山越:呂岱>賀斉
対五渓蛮:潘濬>鍾離牧
蜀
対魏:劉備>諸葛亮>姜維=関羽>呉懿>王平=魏延=呉班>孟達
対呉:劉備>呉班
対五渓蛮:馬良
対西南夷:張嶷>姜維=李恢>李厳
↑についての意見を聞きたい
あと出てないのの補足&修正も指摘してくれたらありがたい
魏晋
対羌:馬隆>郭淮>夏侯淵>文俶>司馬駿
蜀
対西南夷:馬忠>張嶷>姜維=李恢>李厳
とりあえず馬
姜維は西南夷とやってない
てか何でそんな司馬懿の評価が低いのか。
あと司馬懿の奥さんは無双キャラに出来ると思う。
人殺しの妻なんて結構新鮮じゃない?
>>385 複数の戦線に顔を出してるから
総合ではダントツのトップ
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 12:27:28
スーマイーはツァオツァオなみ
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 13:01:37
メロンでWなんとか釣れた。
ちょいぽちゃだが素直な性格で指示に逆らわないし「ヤメ」と言うか、イクまでやり続ける。
これでメロンは安い。時間もこちらが「帰るか?」と聞くまでOKでやりたくなくなるまでぬくw
不思議なのは指で膣内をかき回すと痛がるが、
賃子で突きまくると「もっと、奥、奥ぅ」喘ぎまくり、足を腰に絡めて欲しがる。
言っとくが、いくら俺の賃子が粗賃だと言っても指よりは長いし太いからなwww
かくわいは使いたいなあ
391 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/25(土) 02:11:11
>>382 よく分からんが、その方面での功績か何かか?
パッと見て気付くのは、
>>383の言うように馬忠が抜けている事。
あと、霍弋を西南夷に入れているのは、南中を治めた功績なのか、
爨谷や馬融、楊稷らを派遣して交州以南の支配を行った事を指しているのか分かりにくい。
それと、呉の対晋で陸抗の次に陶濬が来ているが、これは陶璜の間違いかい?
姜維の場合、対西南夷というのは、反乱した汶山の諸胡を討伐し、
王嗣を太守に据えて以後反乱が起きないようにした事を評価しての事だと思う。
ただその場合、王嗣を入れるべきなのか姜維を入れるべきなのかという判断には困るね。
個人的な意見だが、対呉という点では、王渾は王濬より頭一つ抜けてるように思う。
呉平定戦はもとより、10万と号する呉軍を僅か5百で破った事もあれば、
揚州刺史を皖城に派遣して呉に大損害を与えた事もある。
呉平定戦で長江北岸で留まったのをマイナスと見ても、尚王濬より上だと思う。
また、対呉という意味で、呉平定の戦略を練った羊祜が最上位であるなら、
羊祜と共にその骨子を作った何攀も評価されてしかるべきだと思う。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 03:17:42
諸葛瞻は出さなきゃな
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 08:45:24
魏晋
対呉:張遼>満寵>臧覇>司馬懿>陳登>夏侯尚=王昶>賈逵=文聘=蒋済=ケ艾=王基>曹休
対呉(晋代):杜預>陳騫>王渾>王濬=張喬>羅憲=霍弋>王戎=周旨
対蜀:ケ艾>鍾会>曹真=陳泰=張郃>司馬懿>郭淮
対燕:司馬懿>毋丘倹
対南匈奴:曹操
対高句麗:毋丘倹
対烏丸:曹操=張遼=曹彰=田予=毋丘倹
対鮮卑:曹彰=馬隆>劉靖=田予>牽招
対羌:夏侯淵>文俶>司馬駿
呉
対魏:周瑜>朱然>陸遜>施積>潘璋=朱桓=丁奉>呂範=全j=諸葛恪
対晋:陸抗>陶璜>施積
対蜀:呂蒙=陸遜>朱然>潘璋
対山越:呂岱>賀斉
対五渓蛮:潘濬>鍾離牧
蜀
対魏:劉備>諸葛亮>姜維=関羽>呉懿>王平=魏延=呉班>孟達
対呉:劉備>呉班
対五渓蛮:馬良
対西南夷:馬忠>張嶷>姜維=王嗣=李恢>李厳
>>391 修正してみた。
羊祜は企画者というか現場の実行者として見るならどの程度だろう?
また魏晋を一くくりで見ているので出来れば統一した序列を教えていただきたい。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 10:02:28
呉に対士氏とかつけるべきかと
395 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/26(日) 01:44:58
>>393 誰にどの程度の功績があるかというのは、俺に断言できるようなものではないので、
教えてと言われても難しいものがある。
羊祜に関しては、彼が戦争を指揮したのは西陵の戦い程度しかないので、
それを材料に判断するほか無いだろう。
しかしながら、荊州を経営して、豊富な物資と精強な軍隊を作り上げた功績は、
戦勝の勝利とはまた別だが、小さいとは言えない。
また、詳細は分からないものの、要害の地に城を築いて肥沃な土地を奪い、
呉の領土を蚕食したのも彼の功績の一つ。
そのリストに関して、対呉での陳騫の高さと王基の低さが気になる。
陳騫の具体的な功績は、枳里城を落とし、涂中の駐屯地を陥落させた事くらいだと思う。
あとは、諸葛誕の乱で、王基の麾下として敵を防いだ事もあるけどね。
王基の場合、毋丘倹の乱、諸葛誕の乱への対処を対呉の功績として見れば、
夏侯尚や陳登よりも上ではないかと思う。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 03:53:00
魏晋
対呉
杜預>張遼>王渾>満寵>臧覇=羊祜>司馬懿=王基=王濬=張喬>陳登=羅憲
>夏侯尚=王昶=陳騫>賈逵=文聘=蒋済=ケ艾=霍弋>王戎=周旨>曹休
こんなもんだろうか
397 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/26(日) 22:30:35
>>396 「〜だから〜は優れている」とかは言えても、他者との比較となると難しいね。
特に功績となると、何処までを考えればいいのか、とか、功罪相半ばする事柄をどう見るのか、とかあるし。
例えば、司馬懿とケ艾は、淮水流域の開発を行った事で揚州方面の戦力増強を成し遂げたけど、
それが毋丘倹や諸葛誕の乱が大規模なものとなった要因でもある。
姜維にしても、最終的な結果を見れば、彼の北伐が蜀の寿命を縮めたと批判されても仕方ないし。
かつて蜀将スレや魏将スレで似たような事をやったが、その時は紛糾したな。
そういうリストを、多くの人が納得する形で作るのはやはり難しいのだろうね。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 10:13:43
まあ所詮与太話だし三国志初心者の目安になればいいんじゃないかな
姜維の北伐は戦果だけでなく被害、支出もデカいが派手ではある
それだけ大規模な動員が出来たしやったというの出来たがやらなかった人々より
戦争面では評価したい。勿論政治面ではワロスな評価になるんだろうが。
399 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/27(月) 22:11:07
張遼と満寵では、どちらの功績の方が大きいのだろうか?
満寵も幾度も呉軍を撃退し、更には合肥新城を築いた事で後の戦略状況を有利にしている。
張遼の功績の方が派手だが、対呉防衛への貢献という点では満寵の方が上ではなかろうか?
あと、荊州での功績と揚州での功績を比較した場合、同じような内容でも揚州>荊州となってしまいがちだが、
その辺りも検討する必要があるかもしれない。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 22:19:28
一発の大きさから言えば張遼じゃないのかな
全体の状況も危なかったし。
もちろん満寵の仕事もすばらしいが
曹操死後は魏が安定期に入って北伐自体がgdgdになっている
401 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/27(月) 23:02:06
当時、曹操は大軍を率いて漢中にあり、鄴に帰還したのは半年以上後の翌年二月。
従って、援軍の見込みも立たないので合肥を放棄するか否かの瀬戸際ではあっただろう。
まぁ、この時の于禁の動向が少し気になるけどね。
219年に関羽が樊を囲んだ時の事を考えると、この時も戦略予備になっていたと思うんだが、何処かに書いてないかな?
仮に合肥が陥落していた場合にどうなっていたか、まで考えるとわけが分からなくなるな。
張魯の降伏が11月なので、最悪、漢中攻略を放棄して東方に帰還したとも考えられるのだろうか?
そうなると、相当劉備を利する事になるな。
ただ、こういう事を考えると不確定要素が多過ぎて、根拠の確からしさも低下する。
10万と号する敵を寡兵で撃退した事は満寵も王渾もあるが、その時の状況がどうであったかもやはり加味すべきだろうか?
そうなると、防衛体制が整った時代よりも整っていない時代の方が功績を上とするという事であろうか?
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/28(火) 06:48:04
>そうなると、防衛体制が整った時代よりも整っていない時代の方が功績を上とするという事であろうか?
やってることが同じならそんなもんじゃないのか。
失地奪回で漢中に44年、江陵に72年掛かっているのを考えると
一度放棄したら簡単には戻らないだろう。
その意味で209年の蒋済の仕事も張遼の貢献に匹敵すると思う。
仮に合肥が陥落していた場合、孫権は安全保障上重要な土地を手に入れたことになり
より万全な状態で荊州制覇に向かったことだろう。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/28(火) 07:02:53
従姉と初めて関係を持ってから約10年。
最近マジで結婚しようか考えてる。
このままアラフォーwになってガキの産めない歳になっていくのはあまりに
不憫というかもったいない。
別に同情とかじゃなくちゃんとすきなんだけど。
404 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/28(火) 22:59:37
合肥の奪還が困難であったかという事はいまいち判別し難い。
実際に合肥が落ちたわけでもなく、漢中や江陵のケースが合肥に適用できるとも分からないから。
ただ実際の所、後年になると呉は直接寿春近傍まで軍を進める事が多くなり、合肥が係争の地ではなくなっている。
諸葛恪は合肥新城を攻めたが、これは合肥を攻略しなければ前進できなかったからではなく、
合肥を救援に来た軍と決戦、撃破するという意図を持っての行動だった。
これは恐らく、軍隊組織がより整備された事で、呉がより強固な兵站システムを有するようになった事と、
それに伴って合肥の戦略的価値が低下した事を意味しているのだと思う。
また、呉にとって合肥の価値が低下した一因に、合肥新城への拠点移設や、
司馬懿、ケ艾による淮水流域開発もあるだろう。
当然、張遼らが合肥を防衛した事の意義が低下するわけではないが、魏晋の対呉戦争・外交の功績を考えるのなら、
合肥を有する事、放棄することの意味が、時代を追ってどのように変化したかを考える必要もあると思う。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/28(火) 23:01:59
Jominianさんはケ艾と鍾会のどっちが知力高いと思う?
407 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/29(水) 22:12:35
正始年間頃以降、寿春や穀陽などへ軍を進めた例が見られる。
これらの土地は建業から約200kmの距離にあり、
この約200kmというのが呉軍が前進可能な距離だったのだろう。
どれだけ入念に準備しても、これを400kmや500kmに延ばすのは無理だろう。
したがって、呉が中原を窺うには、建業から150〜200km程度の距離の所に適当な拠点が必要であり、
それが合肥、或いは寿春であったのだろう。
国防という観点で見れば、合肥は必ずしも必要ではなく、
むしろ東興や濡須へ行った築城の方が有用に思う。
消極的には国防圏を淮水の線に押し上げる為、という目的もあるが、
どちらかと言うと、もっと積極的な、中原攻略の橋頭堡という意味合いが強いように思う。
合肥を得ても、それは物資を集積し、軍隊前進の為の拠点という意味合いを持つに止まり、
本格的な中原侵攻は、やはり寿春の攻略なくして有り得ない。
加えて、淮水流域は開発が進み、寿春より北東へ進む際は物資の獲得が容易であり、
寿春を得る事で一挙に許や洛陽を窺える事が可能となる。
寿春周辺の生産力で数万の軍を維持できるようになった事も、寿春獲得のインセンティブを高めたと言える。
やはり、寿春周辺の生産力向上と、寿春まで前進可能な兵站能力の獲得が、
合肥の戦略的価値を大きく低下させた主要因であると思う。
408 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/30(木) 02:17:44
合肥と言えば、253年に行われた諸葛恪の大攻勢だな。
五十万と号し実数二十万ともされる大軍を以って行われた戦争だが、
結果は徒に合肥新城を包囲するだけで終わってしまった。
これをもとに仮想戦記のようなものを考えるのも面白そうなので、少し考えてみよう。
まとまったら何処かに載せる。
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 08:04:33
洛陽−…−寿春−合肥−建業の押し合いじゃないのかね?
一発の大きさから言えば張遼じゃないのかな
全体の状況も危なかったし。
もちろん満寵の仕事もすばらしいが
曹操死後は魏が安定期に入って北伐自体がgdgdになっている
なんでコピペしてんの?それ書いたの俺だし
洛陽−官渡−原武−白馬−黎陽−
洛陽−孟津−−許−寿春−合肥−建業
洛陽−許−宛−新野−襄樊−江陵
洛陽−−−長安−陳倉−陽平関−漢中−関城−白水関−剣閣−葭萌関−涪−雒−成都
鄴、北平
長安、洛陽、宛、許
南鄭、襄樊、寿春
成都、江州、江陵、武昌、建業
竜編、番禺
あたりが重要拠点かな
414 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/30(木) 21:21:09
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 12:17:24
■自治新党の主な出来事■
2002年12月
学徒出陣が自治新党を結成(12月14日)
ヒュンケルの乱
クリスマス会盟(三戦板の自治を自治新党スレにすることを決議)
2003年01月
第一次自治統一戦争。
将星録の乱(ロコロール失脚)
2003年02月
自治統一(ムコーニン将軍による旧自治厨掃討戦。削除人も自治新党に統一することを決定。)
2003年06月
ロコーニンによる他板外征(失敗)
2003年07月
旧自治厨蜂起。第二次自治統一戦争勃発。
2004年08月
旧自治厨の復活勝利により、自治新党解散に追い込まれ、正統自治スレッドの座を明け渡す。
2005年10月
まあC将軍の活躍により旧自治厨を批判板へ追放することに成功。
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 17:42:12
wなんとかからセックスに持ち込むことがほとんど無い・・・
肉食系に強引に攻められたい
Mだから、物足りなくてつらい
お母さん
418 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/01(土) 00:09:08
図上演習で新たな諸葛恪の作戦案を練る前に、実際の作戦について考えてみると、
合肥新城を攻めた時の諸葛恪は全く評価できないという結論になる。
彼、或いは彼の幕僚を含めた当時の呉軍は、戦役の結果が動向よりも、
戦争を始めるにあたっての根本的な部分ができていなかった。
それは諸葛恪伝にある諸葛恪と幕僚とのやり取りから明らか。
諸葛恪は当初、淮南に軍を進め、その地の民と物資を掠めるつもりであったが、
いざ出兵すると、「合肥新城を包囲、攻略し、救援の魏軍を叩くべし」という幕僚の反対意見をあっさりと容れた。
出兵当初と目的も内容も大きく異なる意見をあっさりと入れるという事は、
そもそも彼が明確な目的と目標を持たないまま戦争に突入した事を示している。
これは軍を統帥する人間の取るべき態度ではない。
また、彼は幕僚の意見を入れて合肥新城を攻撃するが、その目的も合肥新城なのか救援の魏軍なのか曖昧なままであった。
その為、敵の救援が全く来ない状況にあっても、作戦を修正する事無く、
徒に合肥新城を攻囲する事に時間を費やしてしまった。
合肥新城の攻略が主たる目的だったにせよ、当初の計画からして城攻めの準備など碌にしていなかっただろうから、
城を攻めるにしても包囲と監視に留めるべきだし、その場合、軍を長期間一ヶ所に留めるべきでもない。
魏の救援軍を叩く事が目的だったなら―実際にもそうだろうが―、合肥新城の攻囲にかかずらってるべきではなく、
救援がすぐに現れない時点で魏領奥深くへ前進するべきだった。
彼の態度からは、終始曖昧な目的と目標で戦争を進め、戦争を終わらせる為のビジョンも無ければ、
作戦が頓挫した場合に修正する為の代替案も持っていなかった事が窺える。
彼は軍の最高司令官としての、また、戦争という手段を行使する権限を持つ政治指導者としての資質に欠けていたと言わざるを得ない。
いい加減な性格だって孔明にも言われてるしなー
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 09:18:07
格ちゃん、軍事でも割と期待されてたはずなんだけどねぇ。
格ちゃん個人の無能なのか、呉軍全体が劣化していたのか微妙なところだ。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 09:30:45
【三戦板自治新党 歴代党首】(2002年12月14日結党)
初代 学徒出陣(2002.12) …終身名誉党首
二代 宇喜多秀家(2002.12)
三代 ロコロール(2003.1)
四代 宇喜多秀家(2003.1)
五代 ムコーニン(2003.1〜5)
六代 ロコ太郎(2003.5)
七代 若人(2003.6)
八代 ロコ三郎(2003.6〜7)
九代 雨宮塔子(2003.8〜9)
十代 ムコーニン(2003.10〜2004.4)
十一代 学徒出陣(2004.5〜6)
十二代 御茶○刑事(2004.6〜8)
十三代 ピッキー(2004.8)
十四代 ムコーニン(2004.8)
十五代 ナイトワーカーズ・リターンズ(2004.8)
十六代 まあc(2005.10〜11)
十七代 張春華(2005.11〜2006.2)
十八代 ムコーニン(2006.2〜5
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 09:31:52
【三戦板之序列】
┌学徒閣下┬最高顧問―新党党首┬新党副党首―党首代行─幹事長─三元老─七奉行
│ ├八大英雄 . └征夷大将軍
│ │
│ │
│ ├ロコ家
│ ├婿家
│ ├魔玉家
│ ├斯波家
│ ├八戸家
│ ├ぴよ家 ─┬戸田家
│ │ └コロ家
│ ├メディシス家
│ └金王家─┬可児公家
│ . . . . └聖臣公家
│
├─────蛮王:ロコ皇帝(ロコモティブ)
├─────蛮王:三戦板天皇(クマッタ)
└─────蛮王:可児大帝(可児麿)
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 09:32:52
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 09:35:31
蛆虫の巣窟三戦
>420
丁奉とか留賛とか勇将はいたじゃないか
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 13:10:10
>>425 粒が本当に小さくなったとしか思えない件
まあこれを言ったら蜀なんて悲しすぎて言葉に上せることもできないが
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 13:36:33
■自治新党の主な出来事■
2002年12月
学徒出陣が自治新党を結成(12月14日)
ヒュンケルの乱
クリスマス会盟(三戦板の自治を自治新党スレにすることを決議)
2003年01月
第一次自治統一戦争。
将星録の乱(ロコロール失脚)
2003年02月
自治統一(ムコーニン将軍による旧自治厨掃討戦。削除人も自治新党に統一することを決定。)
2003年06月
ロコーニンによる他板外征(失敗)
2003年07月
旧自治厨蜂起。第二次自治統一戦争勃発。
2004年08月
旧自治厨の復活勝利により、自治新党解散に追い込まれ、正統自治スレッドの座を明け渡す。
2005年10月
まあC将軍の活躍により旧自治厨を批判板へ追放することに成功。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 17:12:13
775 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/08/01(土) 17:03:59
ほらどうした^^
もっと煽ってこいよ^^
776 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/08/01(土) 17:08:34
しっかしよ
こんなスレageてまで煽ろうとする奴って一匹しか思い当たらないのだが気のせいかね
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 17:15:08
天皇?死ねよ
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 17:20:59
778 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/08/01(土) 17:20:12
雑魚杉
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 19:46:58
36 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/08/01(土) 19:00:11
そそ
しっかしまあ肩書きつけないと喋れないのはきょぞ時代からかわってねーのなコイツ
37 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/01(土) 19:02:25
アダルトのととのえへのストーカーに匹敵する熱意だけど
間違ってたらどーすんの
38 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/08/01(土) 19:03:06
え
別に間違ってても気にしない^^
要は俺様が煽って楽しめれば別に問題ないし
432 :
ハカイダーレッド ◆dgpfWiY7Pg :2009/08/01(土) 20:08:25
433 :
ハカイダーレッド ◆dgpfWiY7Pg :2009/08/01(土) 20:10:23
434 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/02(日) 01:06:04
>>420 呉の戦争を考えてみると、もともと呉の戦争観というものが、
自国勢力圏近傍にある敵拠点を奪取する事にあったように思う。
敵軍そのものを目標とするというのは、基本的には敵の攻勢へ対応する時。
なので、諸葛恪にしても部下の将軍にしても、
合肥或いは寿春に攻撃をかけてそれを奪うという考えが根底に残り、
それ以外の行動を取る事を拒む空気が醸成されていたのかもしれない。
部下の将軍の進言も、「新城困、救必至、至而図之、乃可大獲」とあるだけで、
撃ち破るとも、図ってその後どうするとも書かれていないので、主眼は新城の陥落とも考えられる。
また、城攻めを想定しなかったとしても、城攻めは土木工事によって行われるので、
攻城土丘は当然の事ながら、兵器にしても複雑なものでなければ現地で製造する事で用いる事ができただろう。
この時も、諸葛恪が攻城用の堤を築いていた事が魏略から分かる。
だから、やたらと攻城兵器を繰り出していた陳倉での諸葛亮のような戦い方で無いなら、
城攻めの準備の有無というのはあまり関係ないのかもしれない。
諸葛恪は90日余りの城攻めによって新城を陥落寸前にまで追い込んでいたが、
守将である張特の詐術によって防御工事を行われてしまい、その後の攻撃によっても陥落させる事ができなかった。
この合肥新城の攻防自体、三ヶ月あまりの期間であったので、
諸葛恪はこの詐術に引っ掛かった後、殆ど攻撃せずに退いている事になる。
これも、新城の陥落を企図していたにせよ、救援軍の破砕を企図していたにせよ、
目標追求の為の徹底さに欠けている感がある。
既に軍がボロボロだったから、少しでも被害を抑えたかったという考えがあったのかもしれないが、
だからこそ確実な新城の陥落をこそ第一義とすべきだったように思う。
ボロボロで且つ城も落とせていないとすれば、それこそ救援軍に対する事はできないからね。
あえて諸葛恪に関する弁護として、淮南に軍を進める、というのが
本土の出征反対者をかろうじて納得させる為のブラフだったとしたらどうか、と空想してみる
あるいは、敵軍に虚偽の情報を掴ませるつもりだったのか
当初打ち出していた目的に対し、投入する軍事力が、大き過ぎるように思える
諸葛恪のプランがいい加減だったのは、戦争の経緯から見ても揺るぎようがないが
436 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/09/24(木) 23:39:16
>>435 確かに魏側は、この諸葛恪の侵攻が朝議にかけられた時、
敵が兵を分けて淮水・泗水一帯を侵す事を危惧し、河川の合流点の砦を守ろうとした。
これは司馬師の判断によって棄却されたが、もしこの案が容れられ、
且つ諸葛恪軍に軍を青州・徐州まで進ませる能力があったなら、
分散配置された敵軍を各個撃破し、淮水・泗水一帯を恐慌状態に陥れる事もできたかもしれない。
20万(号50万)という大軍は、確かに合肥新城を攻撃するためだけのものとしては大きすぎるし、
淮水流域は屯田に拠って得られた糧秣を集積しておく邸閣が設けられていたはずなので、
諸葛恪軍には淮水・泗水流域を席巻するだけの能力があったのかもしれない。
そう考えると、諸葛恪の行き詰まりは司馬師の所為とも考えられる。
>>436 ここで聞くのもなんだけど戦国についての考証はしないの?
戦国系スレで見たことないから気になる、日本では野戦が少ないから意欲が起こらないのかな。
>>437 戦国は地元以外はあまり興味ないのだが、その地元の考察をするのにも、
史料を読む為に地元の図書館とかに行かなきゃならない。
要は面倒でやってないって事だな。
なるほど。
確かに古文書探しは面倒だよな、読みづらいし。
中国の内陸に行くとハゲ山みたいなところがいっぱいあるけど、
昔は緑があったともきくんだけど
そういうのって昔の書物から分かるもんなのかな
日本の古城址というと安土城みたいにうっそうとした山になるイメージがあるんだが
中国の廃墟は沙漠になるイメージがある
実際始皇帝の陵みたいなものとか、どんなところから見つかるんだろう
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/11/08(日) 01:27:22
あげ
443 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/21(月) 22:29:57
しばらく来ない内に姜維スレが落ちたようだが、最後はどんな話題だったんだ?
誰か分かる人はいないかね?
どうってことのない話題で終わったよ
理不尽スレでテンプレを作り直すから来るよろし。
>>444 それは1年ちょっと前に散々荒れた事じゃないか。
俺が理不尽スレに行かないのも、その責任を取っての事だ。
今更おいそれと参加できんだろう。
君に落ち度はないのだから責任も何もないと思うが。
しかし、その潔さは賞賛に値する。マンセー
933 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/13(日) 11:14:26
うーんスレも終わりに近いか。もう少しキョウイが何を考えてたか
の議論があればよかったかな。
最後のショウカイを巻き込んでの反乱とかもキョウイの中で理想的に行けば
どれくらいまで可能性があったのか?とか・
937 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/14(月) 17:23:13
劉禅の長男まで巻き込んじゃったのは良くないね
劉禅は降伏後姜維を恨んでた事だろう
940 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/15(火) 21:31:15
アレって最後ばれて失敗だったけどばれなかったら
漢中で立てこもれたわけでしょ?
941 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/16(水) 00:55:03
>>940 司馬昭も言ってるが、元々無理のある反乱計画だったのかも知れない。
兵権があるとは言え、さっきまで殺し合っていた魏蜀の兵を掌握するだけでも
難しいのに、遠征兵に祖国を裏切って辺境に駐留させるなんて・・・・・・・
姜維含む蜀の将とは、それなりに友好関係築けたみたいだけど。
942 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/16(水) 12:00:17
劉備、諸葛亮が亡き後、強力な指導者がいなかったのが残念。
政治的にもカリスマ的にも。
姜維の軍事的才能が秀でていただけに、それをよく用いられる人物が
いなかったのは惜しい。
945 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/16(水) 15:25:45
話を聞くにつれて、姜維のイメージが孫策みたいな初期の群雄に近付いていくんだが。
上がいなかったのもそうだけど、もし姜維に周瑜がついてたらどうなっただろう。
いや鐘会は能力的にも周瑜に迫るかもしれないけどさ。
954 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/16(水) 22:54:39
>>941 失敗の最大原因は郭太后を御旗に掲げる計画だったのに
反乱前に亡くなっちまったことじゃね?
975 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/19(土) 19:51:03
魏延>郭淮>姜維
994 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/20(日) 08:17:15
部将郭淮と部将魏延
司令官郭淮と司令官姜維
分かるのは魏延と姜維の優劣ではなく、郭淮の成長だけ
997 無名武将@お腹せっぷく 2009/12/20(日) 12:54:00
>>994 それもおまえの勝手な区分けじゃん
陽コクの戦いはそれぞれの司令官の指揮範囲外だ。馬鹿
↑こんな感じ。
>>443 あとは煽りレスと、姜維と関係なさそうな魏延の話題
ところで過去ログ見てたら
「姜維と諸葛亮より姜維と蒋琬の方が信頼が強いと思っている」と発言してたみたいだけど
姜維と諸葛亮は分かるとして姜維と蒋琬の信頼が強いというのは何か理由があっての事なの?
>>446 俺の発言から荒れだしたのだから、やはり落ち度はあるだろう。
俺がいなくなっても尚数日間荒れていたから、愉快犯であったかもしれないがね。
>>449 なるほど。
「魏延は郭淮に勝った。郭淮は姜維に勝った。だから魏延のが姜維より上」って話もあったのか。
久々に見たな、そういう話。
姜維と蒋琬についてはあんまり根拠無いよ。
それまで大将軍司馬・尚書僕射として蒋琬側近中の側近だったであろう李福が死ぬと、
姜維が大司馬司馬としてその軍事面の後釜となった事とか、
蒋琬が漢中に入れば姜維も漢中に、蒋琬が涪に入る事になれば、先に行ってその準備をしたりした事とか、
かなりの側近になっていたように思うんだよね。
費禕らによるクーデターとも言われる東征中止命令に関しては、
姜維もそれに噛んで蒋琬を失脚させようとしたとは思いたくないしね。
だから姜維のその後の出世は、蒋琬の側近としてその幕府の勢力の受け皿になったと思ってる。
まぁ、姜維と蒋琬の仲が良い方が俺の好みというだけだな。
>>450 落ちた姜維スレなんだが、郭淮>姜維を執拗に喚いてた輩もいた
反論には煽り・罵倒でしか返さずスレも残り極僅かで未消化だったみたい
今流行りの曹操信者じゃないのw
変な流れ持ち込もうとしないでください…
>>451 以前ならよくあった事だな。
郭淮>姜維という主張は、数年前はかなり頻繁に聞かれたし。
重要な事は、どちらが上かではなく、どういう戦争、戦場で、
双方がどういう思考を経てどういう行動を取ったかを考える事だと俺は思う。
そうすれば、少なくとも有能か否かの判別はつく。
司令官としての総合力で郭淮には遠く及ばないだろうな
姜維に核弾頭なみの破壊力があるのは認めるが
核弾頭なめすぎ
>>454 俺も同様な意見
安易に優劣を論じる人間のなかには伝の勝ち負けばかりをみて中身を多角的な見地から考察せんと
みえてこない部分を見落としがちになっている者も少なくない様に思える
俺も机上の論者のひとりだが、それでも全く同じ戦争なんてものは存在しない事であるとか、
一方に御都合的な視点や解釈を持ち込んではならんという事くらいは心がけてはいる
それでも難しいんだけども
相手が兵を分けたところを突いて買った実績を持つ廖化を、
別働隊として使うというのは、使い方を間違っている感じもする
というのはご都合主義だろうか
蜀末期に廖化ってなにしでかしたの?
>>457 それだといくらでも捻じ曲げられるから避けてるだけ
国内放り出して勝てない戦争に熱中するやつは馬鹿じゃん
放り出して、じゃなくて
蒋琬、費禕、董允、陳祗らに任せてただけじゃないの?
>>460が何を言いたいのかいまいちわからん俺がいる。
なんか話しの主旨からズレてる気がするのだが。
463 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/23(水) 23:32:28
確かに
>>460は論点がずれてるな。
姜維を宰相として見た場合、結果から考えて亡国の相である事は揺るぎようが無い事実だし、
彼には別の道―国家を延命する為の道―も取り得たはずであるから、
宰相としての姜維に合格点を与える事はできないだろう。
だがしかし、それは誰かとの優劣を論じた上での事ではなく、
姜維その人についてのみ考えて導かれる結論に過ぎない。
「誰々よりも誰々の方が優れている」と安易に語る事とは何の関係もない。
特定の人物や時期・地域にこだわらない、
三国時代の戦争全般を考察するスレを立てる時期かもしれないな。
姜維信者ってネット右翼に似てね?
姜維
蜀を滅ぼした亡国之臣
段谷で負けた敗軍之将
トウ西は凄いが関羽と同レベルの好戦馬鹿だろ
徐晃、曹仁、郭淮、陳泰、ケ艾のような冷静な司令官たちのいる魏では埋没する運命
>>462 そいつは過去に姜維叩きの根拠に個人でやってるサイトのリンクをひたすら貼り続けて
ついに自分の言葉では一つ一つの事象を語れなかった奴だからほっとけ
>>467 誰の話だw
俺じゃねーぞ対人論証しか出来ない馬鹿くんw
其辞曰、因余之国小、而肇建之国大、並争於世而為仇敵。
因余之国有高賢卿者、問於伏愚子曰、
「今国事未定、上下労心、往古之事、能以弱勝強者、其術何如?」
伏愚子曰、
「吾聞之、処大無患者恒多慢、処小有憂者恒思善。
多慢則生乱、思善則生治、理之常也。
故周文養民、以少取多、勾践恤衆、以弱斃強、此其術也」
賢卿曰、
「曩者項強漢弱、相与戦争、無日寧息、然項羽与漢約分鴻溝為界、各欲帰息民。
張良以為民志既定、則難動也、尋帥追羽、終斃項氏、豈必由文王之事乎?
肇建之国方有疾疢、我因其隙、陥其辺陲、覬増其疾而斃之也」
伏愚子曰、
「当殷、周之際、王侯世尊、君臣久固、民習所専。
深根者難抜、拠固者難遷。
当此之時、雖漢祖安能杖剣鞭馬而取天下乎?
当秦罷侯置守之後、民疲秦役、天下土崩、或歳改主、或月易公、鳥驚獣駭、莫知所従、於是豪強並争、虎裂狼分、疾博者獲多、遅後者見呑。
今我与肇建皆伝国易世矣、既非秦末鼎沸之時、実有六国並拠之勢、故可為文王、難為漢祖。
夫民疲労則騷擾之兆生、上慢下暴則瓦解之形起。
諺曰「射幸数跌、不如審発」
是故智者不為小利移目、不為意似改歩、時可而後動、数合而後挙、故湯、武之師不再戦而克、誠重民労而度時審也。
如遂極武黷征、土崩勢生、不幸遇難、雖有智者将不能謀之矣。
若乃奇変縦横、出入無間、沖波截轍、超穀越山、不由舟楫而済盟津者、我愚子也、実所不及」
景耀六年冬、魏大将軍ケ艾克江由、長駆而前。
而蜀本謂敵不便至、不作城守調度、及聞艾已入陰平、百姓擾擾、皆迸山野、不可禁制。
後主使群臣会議、計無所出。
或以為蜀之与呉、本為和国、宜可奔呉。
或以為南中七郡、阻険門絶、易以自守、宜可奔南。
惟周以為
「自古已来、無寄他国為天子者也、今若入呉、固当臣服。
且政理不殊、則大能呑小、此数之自然也。
由此言之、則魏能並呉、呉不能並魏明矣。
等為小称臣、孰与為大、再辱之恥、何与一辱?
且若欲奔南、則当早為之計、然後可果。
今大敵以近、禍敗将及、群小之心、無一可保?
恐発足之日、其変不測、何至南之有乎!」
群臣或難周曰、
「今艾以不遠、恐不受降、如之何?」
周曰、
「方今東呉未賓、事勢不得不受、之受之後、不得不礼。
若陛下降魏、魏不裂土以封陛下者、周請身詣京都、以古義争之」
衆人無以易周之理。
以前はショウ周は臆病で姜維は勇敢だと思ってたが
正史を読んで前者の方も一つの戦略だと思ったな
国内を固めて魏に付け入る隙が生じるのを待つ、というのも一つの手である事は間違いない。
傑出した人材が現れるのを待とうとした費禕とは多少異なるものの、
国内を固めて状況の好転するのを待つという方法という点で同様。
少なくとも、譙周のみが賛同するような考え方ではないし、
場合によっては蜀がそういう戦略を取った公算もあっただろう。
まぁ、待つ、という戦略は偶発的事象に左右されやすく、不確実に思えるので、
俺個人としては北伐政策の方が良いと思う。
結果的には、魏は反乱も頻発したし晋には取って代わられ、
その晋も統一後は内乱からの長い分裂状態に繋がっていくわけだが、
当時の蜀の人々に、魏の朝廷の指導力が大きく低下する事態を予測できたかは分からないしね。
この辺の話は、
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/46091204.html でしてる。一応
あまり詳しくないんだが
蜀は段谷の敗北の後ちろっと北伐してその後はしばらく北伐してなかっただろ、
あれで魏に弱みを見せてしまったんじゃないかなと思うんだがどうだろ
魏は「兵を出さない所を見るとあの大敗の痛手によって蜀にはもう大した兵力は残っていない」と見て、南征の計画を立てたのでは?
474 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/27(日) 00:00:45
>>473 司馬昭は、蜀討伐に際して蜀の兵力をほぼ正確に計算している。
後世に編纂された晋書の記述であるので、これをそのまま受け取るわけにはいかないものの、
蜀の保有する戦力について一定の情報を魏が入手していたというのは大いに考えられる。
北伐にブランクがあった事が、蜀討伐を決めた決定的理由というわけではないと思う。
蜀討伐の詔勅を出した時点でも、姜維に対しては相当警戒しているし。
蜀討伐の詔勅では、段谷だけでなく侯和の勝利も強調されている。
段谷で魏が勝利して以降、ケ艾の隴右経営の成功によって大軍を広正面に展開する事が可能になった上、
侯和で敗北した姜維が漢中にも成都にも帰らずに沓中に留まっている。
これらの状況を見て、蜀討伐で脅威となりうる唯一の存在である姜維を拘束しつつ、
大軍に漢中を突破させる形勢が整った、と司馬昭(と鍾会)は判断したんだと思う。
もしかしたら、姜維が成都の廷臣連中と不和だって事も見抜いていたかもしれない。
ほー。やはり情報戦ってのは大事だねえ
476 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/28(月) 00:13:17
>>475 敵国が国境線上にどのように軍を配置しているかが分かれば、
主導権を握る、という攻撃側の最大の利点を最大限にまで活かす事ができる。
だからこそ鍾会は漢中を突破する事ができた。
姜維の拘束にあれだけ神経を使っても尚、姜維は自軍に倍する敵の包囲を突破し、
あわや鍾会に先んじて関城に入らんとするところまで来ていた。
これで姜維の所在を魏が掴めていなかったなら、漢中の突破は覚束なかっただろう。
魏軍がかなりの精度で情報を得ていたからこそ、本来なら為し得なかったであろう
漢中の突破が可能となったんだと思う。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/28(月) 01:52:50
司馬一族の諜報と情報分析は凄い
教養や陰険さが目立つようになってきたが
初期に比べて単純な肉体性やその場しのぎのハッタリが喪失された印象の時代
ちょっと確認してみたら、今日はblogのアクセス数が異常に多い。
何かあったんだろうか?
>>478 よく分からんのだが、単純な肉体性とか、その場しのぎのハッタリとかって何?
具体的な例を挙げてもらうと非常に助かる。
単純な肉体性=董卓や許チョに見られるような素手で家畜をねじ伏せる腕力
その場しのぎのハッタリ=賈クが身分を偽って窮地を脱したり呂蒙が虚偽で零陵を陥落させたり
こんな感じ?
>>480 ありがと
詐術に関しては探せば出てきそうだけど、あまり思い浮かばない。
世説新語辺りを調べれば、何か出てくるかも。
無双モード
蜀:劉備、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超、魏延、張嶷、姜維
呉:孫堅、孫策、程普、黄蓋、太史悲、董襲、呂蒙、甘寧、凌統、周泰、朱然、潘璋、孫峻、吾彦、丁奉
魏:曹操、典韋、許褚、曹仁、夏侯淵、楽進、張遼、張郃、龐徳、曹彰、ケ艾、曹髦
晋:文俶、成済、羅憲、馬隆
決戦モード
蜀:劉備、諸葛亮、龐統、法正、黄権、姜維
呉:孫堅、周瑜、魯粛、虞翻、陸遜、諸葛恪、陸抗、陶璜、張悌
魏:曹操、郭嘉、夏侯淵、徐晃、満寵、王凌、郭淮、陳泰
晋:司馬師、司馬昭、賈充、杜預
女は王異以外イラネ
484 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 18:28:45
肉体性:反乱が起きたので数十人斬ってなんとかしました
詐術:捕虜になりそうだったので「あいつが曹操です」と嘘をついて逃げました
こんなの
死亡フラグを暴力と嘘でへし折るような展開
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 18:43:03
孔明死後で、後編やるなら
魏:司馬懿(前作の老い版)・司馬師・司馬昭・ケ艾・鍾会・曹髦・諸葛誕・毋丘倹
呉:孫権(老い版)・陸遜(老い版)・丁奉・諸葛挌・張デイ・陸抗・孫皓・周姫(萌え)
蜀:姜維(老い版)・星彩(萌え)・夏候覇・張翼・張ギョク・諸葛瞻・劉禅
晋:司馬炎・羊祜・杜預・賈充・賈南風(萌え)
>485
孫魯班が乱入を企てています
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 21:31:32
魏:司馬懿(前作の老い版)・司馬師・司馬昭・ケ艾・鍾会・曹髦・諸葛誕・毋丘倹
呉:孫権(老い版)・陸遜(老い版)・丁奉・諸葛挌・張デイ・陸抗・孫皓・周姫(萌え)・孫魯班(萌え)
蜀:姜維(老い版)・星彩(萌え)・夏候覇・張翼・張ギョク・諸葛瞻・劉禅
晋:司馬炎・羊祜・杜預・賈充・賈南風(萌え)
魏で萌えキャラいないかな?
姜維が老いてるのにケ艾が若いと違和感があるな。
たしかに
それに萌え萌えうるさい奴だこと
萌えは別に良いんだが、孫登の嫁は別にいらんのじゃないかと思う。
萌え排除でやりたいが商売的に無理だろうな
無双も大戦も萌えさえ無ければ買うんだがな…
>>483も言ってるが女は王異と祝融くらいしかいらねー
賈南風みたいなのはまあアリとしても。でも三国志か?
それを言ったら張角と姜維が無双で対面してる時点で三国志じゃないだろ
まぁ、実際に出るとしたら、今の無双とそうは変わらず、女キャラも一定数は出るだろう。
個人的にそこはあまり気にしないな。
蜀のシナリオに悲壮感が溢れていれば、それだけで満足する。
と言うか、姜維すら削られた現状を考えると、もう出るだけで満足するかもしれない。
姜維とケ艾と王基と王渾と司馬昭がプレイアブルキャラなら文句無いね。
226 曹丕の崩御。曹真、曹休、陳群、司馬懿が託孤を受ける。曹叡の即位。劉曄の評価
228 諸葛亮の第一次北伐。街亭の戦い。石亭の戦い。曹休の憤死
230 曹真の征蜀
231 曹真の病死。諸葛亮の第四次北伐。張郃の戦死
233 孫権が公孫淵を燕王に冊封。公孫淵が孫権を裏切る。曹叡が大司馬、楽浪公を拝命。
234 諸葛亮の第五次北伐。諸葛亮の病死。合肥新城の戦い
235、238 陳群の病死
238 遼隧の戦い
239 曹叡の崩御。劉放、孫資の暗躍で曹爽、司馬懿が託孤を受ける
241 芍陂の役
242 満寵の病死
244 曹爽、夏侯玄の征蜀
247 司馬懿の引退
248 李勝の見舞いで仮痴不癲
249 正始の政変。曹爽一派を粛清
251 曹彪、王凌の乱。司馬懿の病死。司馬師の相続
252 東興の戦い
253 合肥新城の戦い
254 李豊、夏侯玄、張緝の粛清。曹芳廃立
255 洮西の戦い。毌丘倹、文欽の乱。司馬師の病死。傅嘏が曹髦を裏切る。司馬昭の相続
256 段谷の戦い
257 諸葛誕の乱
258 司馬昭が晋公、相国、九錫を辞退
260 曹髦弑逆と王経の粛清。曹奐を傀儡として擁立。陳泰の病死
263 鍾会、ケ艾の征蜀。蜀の滅亡。司馬昭が晋公、相国、九錫の受諾。郭皇太后の病死
264 ケ艾の逮捕。鍾会、姜維の乱。司馬昭が晋王に即位
265 魏晋革命
宛
新野 安城
西城 樊
漢水――――――――――――┐
上庸 襄陽│ 信陽
│
房陵 当陽│
└―――――┐
巫 秭帰 夷陵 江陵 烏林 │上昶
長江――――――――――――┬―――――┴――――――――――――┬――→
夷道 公安│ 陸口 夏口 樊口 柴桑 │
│ │
武陵 ┌―洞庭湖 鄱陽湖
沅水―――――――――┘ │長沙 │
湘水――――――――――――┘ │
零陵 桂陽 贛水
質問ですが
>>496の江夏〜信陽〜安城のルートってどの程度有効性があったのでしょうか?
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 01:49:41
あgw
499 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/17(日) 23:43:21
信陽って何かと思ったら、今の信陽市の事か。
三国時代には、今の信陽市がある所には県や郡治は無いと思う。
少なくとも地理志などには出てこない。
>>497 単純に、江夏から真っ直ぐ北上する道と言う点で考えるなら、
賈逵がそこに街道を整備するよう進言した事がある。
晋の征呉戦役では、王戎が同様の道を通り武昌へと向っている。
また、それ以前、魯淑が十万と号する軍を以って、その道を通って攻勢を掛けている。
王戎の軍勢は大規模なものではないが、魯淑は十万と号する軍であり、
号数と実数との差が、多くの場合2:1である事を考慮しても5万人規模の軍隊を進ませた事になる。
山脈を横切るので、襄陽から当陽を経て江陵へ向う道などに比べれば前進は困難だが、
万単位の軍が進めないという程でもない。
そろそろブログの更新をしたいが、ネタがない。
かと言って、三国志以外の話はあそこには似つかわしくないように思う。
何か面白いネタは転がっていないものだろうか?
>>500 年度ごとの牧、刺史、太守の配置を地図で図形化してくれ
>>501 なんだか、途方もなく大変そうな作業だな。
しかも地味な作業を延々続ける感じで、知恵を働かせる部分が少なそうだ。
まぁ、完成したら有用なものにはなりそうだけど。
考えてはおくけど、期待はしないでくれ。
まずは蜀に限定してもいいかも
蜀だと華陽国志辺りに色々書いてあったような気もするが、どうだったかな?
厄介なのは太守だろうな。
分かっていない者も多いし、時期が不明瞭だったりする者も多い。
>>500 鍾会の乱の時に姜維は何を考えてたか、とかは?
506 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/24(日) 20:13:01
>>505 と言うと、魏の将兵を穴埋めにし、劉禅を迎えた後の展望という事か?
今途中になっている、「ケ艾の奇襲が行われなかったor失敗したらどうなっていたか?」
というのと、多少被る部分もあるな。
>>506 魏の将兵、鍾会を殺した後、劉禅を迎えるって
『華陽国志』の記述自体、どうなんだろう?
これを姜維の方が殺されずにやりとげられる確率が
どのくらいなのかが疑問・・・
ようするに現実味あるようにも思えないけど
考えてもよくわからないので聞いてみたかったw
508 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/24(日) 22:29:18
>>507 確かに、魏兵を全て穴埋めにする、という話は俄かには信じ難い。
鍾会に魏の諸将を殺させ、その後に鍾会を殺す、というところまでは、
姜維次第で可能かもしれないが、魏兵を悉く殺しつくすのは不可能に近いように思える。
この華陽国志の記述で、姜維が劉禅に送った密書として書かれているは、
「願陛下忍数日之辱、臣欲使社稷危而復安、日月幽而復明」という部分だけ。
つまり、それ以外の部分については、益州でそういう話が伝わっていただけとも考えられる。
鍾会を唆して混乱を生じさせ、その間隙を縫って劉禅の復位を狙ったのは確かだろう。
だが、細かい内容については、伝わっている事が正しいとは限らないだろう。
まぁ、密書が伝わっているという事は、姜維の計画を知っていた人の話から、
その計画の内容まで伝わっていたとも考えられる。
ただ、こういう計画はできうる限り内密に運ぶものだし、
その内容が正確に伝わっているとも考えにくいけどね。
>>508 魏兵皆殺しは不可能に近いか・・・
話が伝わっていたということとその内容が事実かはまた別だから
その辺の判断が難しい
益州でそういう話が伝わっていただけ、という場合は
願望が入っているという可能性もあるかな
姜維伝眺めててもこの辺のことは特に
姜維が何考えてるかわからない気がする
ともかく、レスthx
ブログも期待してます
510 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/24(日) 23:30:17
>>510 益州に入った魏兵は十数万。対して成都の蜀兵は4,5万。
姜維が即座に蜀兵全てを掌握できるとも限らないし、
十数万もの魏兵がただ殺されるのを待つわけでもないだろう。
それこそ牙門はおろか曲長くらすまで悉く殺し尽くせれば、
魏兵に組織的な抵抗は不可能だろうし、秩序立てて逃げる事も困難になるだろう。
だが、そういう状況が作り出せるのか否か、作り出せるとすればどういう方法があるのか、
までは、持っている情報からだと判断し難いね。
魏兵を蜀軍、あるいは蜀の民に組み込む事ができるなら、それがベターな方法に思う。
仰るとおり、益州人民の願望が入った言葉というのは、大いに考えられる。
姜維は魏の将兵を撲殺してから死体を穴に埋めて処理しようとしたんだっけ
そんな話が流布していたから姜維は内蔵を抉り出されるような死を迎えたのか
魏兵にしてみればそんな話がなくてもその位するんじゃないか?
姜維も表向きには鍾会の病死や事故死を装い、自然な流れで指揮権と(魏兵を含めた)戦力の
譲渡・継承という筋書の段取りを組むなんて方向では考えなかったんだろうか
魏の諸将を鍾会に殺させた後、鍾会が病死や事故死したと装っても
はたからみればかなり怪しいのでは?
515 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/25(月) 23:30:46
あの時は、胡烈がある事無い事吹聴して、
多くの将兵が鍾会やその一味と見られていた姜維を怨んでただろうからね。
その胡烈の話で、「鍾会は魏の将兵を殺して穴埋めにするつもり」みたいな内容もあるから、
蜀に伝わっていた魏兵穴埋めの話は、案外そこから来てるのかもね。
姜維は本気で後主の復位を企図していたのかもしれないが、
当の後主にそこまでの気概があったようには思えないのだが…。
そもそもそこまで姜維のことを信頼していたのかどうか。
劉禅が降伏した後でそんな計画にのるとは確かに思えないなw
518 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/28(木) 22:59:30
本当に姜維が魏兵を抹殺するか掌握するかし、後は劉禅の意志だけ、
というところまで御膳立てが調うのなら、復位もあったかもしれんよ。
丘建の裏切りが無ければ姜維にそこまでできたか、と問われれば、
恐らくできなかっただろうとは思うけどね。
なるほどね。
完全に魏兵を駆逐してしまえば…か。
ただ、仰るとおり現実味はないよね。
無謀とわかっていても奇跡という一縷の望みにかけたのかな。
そもそも姜維はそれほど忠誠心があったんだろうか?
魏から蜀に来たときの事情もそんな忠臣になる人物とは考えづらい
母親宛の手紙にしろ陳寿の評にしろ、功名心が強いらしいのは判るが
そういう人物が自暴自棄のようなことをするものだろうか?
姜維は俺tsueeができたら後はどうでもいいと思う。
何もしないよりは賭けでもなんでもしたほうが自分が活躍できるので実行したんだろう。
成功したら自分が皇帝になることを夢見ても良さそうなもんだけど、政治に興味は無さそうだしな。
姜維は空回りしてる印象だな
必死なわりには誰が喜ぶんだよそれ、みたいな
母親への手紙を見るに大物になりたかったんだろうけど
自分が活躍できればなんでもいい元臣下に担がれるとか
劉禅にとってはいい迷惑だろうなw
人間、末節を汚すと言われ放題だな……
挽回、返上出来ないまま死ぬとそうなる
うん
今更ながら、MALTI RAID 2で姜維が復活するんだな。
ここ1年くらいゲームの情報なんて全くチェックしてなかったから分からなかったよ。
MALTI RAIDだとストーリーも何も無いのが痛いが、
姜維が出るという一点だけで買ってしまうやもしれん。
Jomiえもんの姜維大好きっぷりに感動した
まぁ、公言する事は殆ど無いが、これでも日本一の姜維好きを自負してるからね。
慎ましく保守
小前亮の「姜維伝」が出たけど、 Jominian氏は読んだんかな?
>>531 いや、読んでないな。
俺は小説はSF以外ほとんど読まないのよ
そうか
まあ俺も読んではいないが、そういうとこは随分と偏りがあるんなぁ
偏っているってのは俺の趣味がって事かい?
それはあるかもしれんね。
俺は演義ですらろくすっぽ読んでないし、SFにしたってハインライン以外はそんなに読んでないしね。
そういう話はともかくとして、鍾会の乱以降、264年の夏頃までの益州の情勢って分からんのかねぇ?
三国志にも晋書にも華陽国志にもろくな記述が無い。
「百城無主」なんて書かれているが、具体的な記述は無いしね。
ケ艾から益州刺史に任じられた師纂は乱に巻き込まれて死んだが、
牽弘ら太守に任命された面子の動向はよく分からん。
何より、陸抗を撤退させる為に出兵した荊州刺史が胡烈ってのもな。
どういう経緯で益州から都に戻り、そして荊州刺史になったのだろうか?
>>534 名目上は荊州刺史で、益州から出征したという推察は無理なんだろうか
536 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/21(水) 22:58:11
>>535 できないことは無いが、それを匂わす記述も無いし、
その話に信憑性を持たせるのは難しいだろうね。
この件について唯一、という程ではないが、華陽国志大同志には、
咸熙元年に東郡の袁邵が益州刺史に、牽弘が蜀郡太守、楊欣が犍為太守となった話がある。
大同志であり、「後主既東遷」という記述も直後にあるので、
これは鍾会の乱が収まってから話だろう。
牽弘と楊欣はケ艾の行った措置をそのまま継続させた事を示している。
また、突然出てきた袁邵だが、俺は袁邵は爰邵ではないかと思う。
爰邵はケ艾に随行した殄虜護軍だから、これも結局は既に益州にいた人物にそのまま統治させた事を示している。
「数日乃定」と書かれていても、新たに人を送り込んでどうこうできるほど治安は回復してなかったのだろう。
一方で劉禅らは洛陽まで到達しえているので、胡烈もやはり戻る事はできただろう。
単純に、益州の情勢を知り得、且つ有能な人物という事で荊州刺史と呉軍撃退を任されただけかもしれない。
今放映されてる三国志のアニメは三国帰晋までやるそうだ
>>537 そのアニメのスレにあったリンク先を見てみたが、
諸葛亮死後は2話しかないんだな。
特に期待は出来ないだろうね。
関係ないが、今や水経注ですら読めるってんだから、Wikisourceは凄いね。
一時期水経注の電子テキスト化を企図してたが、今や必要なくなった。
曹操−曹丕−曹叡−曹爽−司馬懿−司馬師−司馬昭−司馬炎−楊駿−司馬亮−司馬倫−司馬冏−司馬穎−司馬越
孫策−孫権−諸葛恪−孫峻−孫綝−孫休−孫皓
劉備−諸葛亮−蒋琬−費禕−姜維
仮節都督七軍
曹仁(211〜220)
使持節都督荊州諸軍事
王昶(〜259)
王基(259〜261)
鍾毓(261〜263)
陳騫(264〜265)
仮節都督荊揚益三州諸軍事
曹仁(220)
仮節都督南方諸軍事
夏侯尚(220〜225)
使持節都督荊予二州諸軍事
司馬懿(227〜231)
使持節都督雍涼二州諸軍事
曹真(220〜222)
司馬懿(231〜238)
趙儼(238〜243)
夏侯玄(243〜249)
郭淮(249〜255)
陳泰(255)
司馬望(255〜262)
都督関中諸軍事
鍾会(262〜264)
都督隴右諸軍事
ケ艾(256〜264)
都督二十六軍
夏侯惇(217〜220)
使持節都督揚州諸軍事
曹休(220〜228)
満寵(228〜238)
王凌(240〜251)
諸葛誕(251〜253)
毋丘倹(253〜255)
諸葛誕(255〜257)
王基(257〜259)
石苞(259〜268)
使持節都督河北諸軍事
呉質(〜)
陳本(〜)
劉靖(〜)
何曾(〜)
都督南中諸軍事
ケ方(214〜222)
李恢(222〜231)
張翼(231〜233)
馬忠(233〜249)
張表(249〜)
閻宇(〜263)
霍弋(263)
>>538 それは仕方ないんじゃないの?柴錬三国志ですら諸葛誕の乱以降はダイジェストだ
フセンが魏将2人を叩きのめしたり、夏侯覇が矢の雨を浴びて死んだりっていう演義の描写を
省略することなくちゃんと書いてるのは画本三国志ぐらいしか見た事ない
人気あるのは黄巾の乱〜孔明陣没までだから仕方ない。
蜀滅亡、呉滅亡までやればいい方じゃないかな
前に鮮卑の寇掠、党錮の禁、後に八王の乱、永嘉の乱まであるようなのが見たいなあ
545 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/04/26(月) 22:34:10
アニメにしたときケ艾の吃り癖を再現するのは難しいだろうな
「そ、そ、それがしに、お、お、お任せあれ」じゃあ
視聴者に対して優秀な人物だという説得力が薄れるから普通に喋らせるしかない
付け加えて「鳳よ、鳳よと言えども鳳は一羽なり」という彼の機転を表すエピソードも日本人にはイマイチピンと来ない
「閣下、ワシは、ワシは…」
「ワシが一体何羽飛んどるねん?」
「鳳よ、鳳よと言えども鳳は一羽なり」
「…しゃべれるやん」
>>276 遅レスですが傅僉の武器は画本三国志では鉄鞭みたいな武器でした
傅僉の容貌は若者のくせにキザっぽい髭を生やした伊達者って感じでなかなかいかしてます
同輩の少女は裏切ったからか、彼と比べて不細工ですw
ジョミニアン氏も参考くらいに連環画三国志を一度ご覧になってみるのもいいのでは?
>>548 わずか270レス前だが、日付見ると1年半前なんだなw
連環画三国志か。見つけたら見てみるが、自分から求める気力は無いな。
今は三国志について考える事すらほとんどしていないくらいだし。
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 20:17:22
今なに考えてるの?
JOMINIANは他の時代には詳しいんだろうか
>>550 凄い大雑把な質問だなw
何か考えていると言うか、歴史考察には取り組んでないと言うのが正しい。
歴史に関係ない話なら、強いて言えば歌だな。別に歌手じゃないけど。
>>551 詳しくは無いよ。
三国志以外じゃ後漢書と晋書くらいしかまともに参照していない。
三国志以前と以降については殆ど知らないと思ってくれて良い。
じょみにゃんめ
ちゃんと三国志界を盛り上げてくれよorz
あげ
あげ
涼州、并州、幽州
冀州
兗州、青州
司隷、予州、徐州
益州、荊州、揚州
交州
>>553 俺が三国志界を盛り上げた事なんて無いと思うけどな。
俺のような素人の若造一人で盛り上がるほど、
三国志界というのは薄っぺらいものじゃないでしょ。
まぁ、別に俺も飽きたというわけではなくて、ネタが無いから考えないだけなんだけどね。
5年も三国志について考察し続けると、さすがに考えたい事が無くなってくる。
何かの刺激を受けてインスピレーションでも無い限りは厳しいね。
現状では、三国志について考える事より、
歌唱力を磨く方が俺にとって優先順位が高い。
征蜀戦の配置
沓中→陰平→漢寿→剣閣の姜維
漢寿の胡済?、漢城の蒋斌、楽城の王含、黄金囲の柳隠、陽安関の傅僉、蒋舒
成都→陰平→漢寿→剣閣の廖化
成都→漢寿→剣閣の董厥、張翼
成都→綿竹の諸葛瞻、諸葛尚、張遵、黄崇、李球
成都の劉禅、黄皓、樊建、劉璿、劉ェ、張紹、ケ良、張峻、汝超、蒋顕、李虎、裴儁、裴越、鐔承、譙周、郤正、張通、宗預
永安の閻宇、羅憲
南中の霍弋
既に三戦には諸葛亮死後を語るスレが多数ある。
なので、このスレは本来の主旨に立ち返り無双について考える方向に持って行く方が良いと思う。
が、今更人も集まるまい。
如何にすべきか。
Jominianの意見を聞く為のスレだな
スレタイ関係なくなってしまうがな
と言うか、俺の意見を聞きたいような事があるのかいな?
俺の意見なんぞ、blogなり過去ログなり漁ればいくらでも出てくるんじゃないか?
>>276 >>548 亀レスに亀レスだけど
鉄[金間]ってたしか隋唐演義の秦叔宝が使ってる武器じゃなかったかな
画像をざっと検索したかぎりでは四角い形の鉄鞭っていう感じみたい
門神としてコンビ扱いされる尉遅敬徳が標準的な鉄鞭を持ってるので
対比として極端な形に描かれてる可能性はあるけどね
1??〜190 朱儁、波才、皇甫嵩、公孫瓚
190〜200 孫堅、麹義、袁紹、郭、呂布、李カク、張繍、于禁、楽進
200〜208 曹操、鍾繇、袁譚、袁尚、高幹、郭援、龐徳、黄祖
208〜220 周瑜、甘寧、賀斉、劉備、張飛、霍峻、馬超、夏侯淵、張遼、曹仁、徐晃、関羽、呂蒙
220〜234 陸遜、朱然、呂岱、諸葛亮、魏延、曹真、張郃、満寵
234〜252 司馬懿、王凌、王平、郭淮、毌丘倹、司馬師
252〜263 諸葛恪、張特、姜維、陳泰、王基、胡奮
263〜280 ケ艾、鍾会、羅憲、陸抗、羊祜、霍弋、陶璜、禿髪樹機能、文鴦、馬隆、杜預、王渾、王濬
280〜316 司馬越、王浚、劉淵、劉聡、石勒
>>563 結構前だからあんまりよく覚えていないが、
俺も[金間]って字について調べた限りは、
金属製のカードみたいな感じの意味だった気がする。
だから鉄の板を使った武器の事なんだろうね。
四角い鉄鞭という表現は大いに合っていると思う。
話は変わるが、北斗無双も出た事だし、
三国無双にもそろそろ北斗劉家拳、曹家拳、孫家拳を出しても良い頃だと思う。
当然、劉家拳伝承者は双背逆葬を使える姜維だがな。
原哲夫のキャラデザで北斗琉拳を使う姜維とか最高だな。
>>564 そのレスの目的も内容も語らずそういうのを貼ると、荒らしと間違われる。
荒らしでないなら説明を伴った方が良い。
>>566 主要な戦役、会戦で活躍した指揮官を個人的主観で大雑把に並べたもの。
他に入れるべき人間をご存知かな?
>>567 例えば、交州戦役における楊稷などは最終的に陶璜に敗れたものの、呉軍を一度は大破している。
あと、宋書五行志によれば胡烈と牽弘を討ったのは白虎文と薬蘭泥になっている。
活躍、とまでは言えないが、施績あたりは長年に亘って荊州の司令官を務めていたので、
多くの戦役に顔を出している。
入れるとすればこの辺かね。
>>568 流石だな。
無双というか決戦シリーズっぽいネタであれだが
後期だと文鴦ぐらいしか無双しそうなのは知らんわ。
>>569 「無双しそうなの」って武勇の士とかって意味?
>>570 うん。だが典韋とか関羽くらいのレベルかな
>>571 そういうレベルは俺も知らないな。
傅僉は格闘して死んだって言っても特筆すべき武勇を示す話とは言えないし、
姜維も60過ぎた身でありながら鍾会の乱では手ずから4,5人殺しているが、それも武芸を嗜んでいた事を示す程度。
張嶷の県長夫人を守ったエピソードも、やはり武勇の逸話としては弱い。
留賛とかどうよ
>>573 黄巾賊を破った際に、その首領である呉桓を自ら斬った事が評価対象かねぇ。
これだけだとやはりちょっと弱いかと思う。
武勇の士が見られないのは、やはり三国時代も後期に入ると、武勇そのものではなく
指揮官としての将兵を奮い立たせる勇敢さが重要になってくるからだろうか。
百人とか数十人の長だったら、いくらでも武勇に秀でた人がいただろうけど、
そういう地位で終わった人は名前が残らないし、
そういう地位から出世した人の記述はよく知らないしなぁ。
探せばあるのかもしれないけど。
全然関係ないが、ニコニコに黄皓を美化して蜀の滅亡を描いた動画がUPされてた。
まだ伸びてないってのもあるが、黄皓の美化に共感するようなコメントが殆どだった。
俺が姜維オタだからか、あまりに黄皓を持ち上げる事には違和感を覚えるので、
あの動画のコメントの内容にはちょっと驚いたね。
まぁ、黄皓が何を考えて行動していたかなんて、結局は分からない事なんだけどね。
>>574 確かにw
魏延の時もコメントには違和感覚えたなー
ただ、けなすか称賛するか両極端なのはニコのコメの特徴かもしれない
美化された姜維を描いた動画がupされれば、きっと真逆なコメがつくと思うよw
歴戦のスレをみる限りは、作者自身は物語の可能性として作ったんじゃないかとは思う
スレでは11時間で作ったと作者がレスしてるから、Jominianも姜維で作ってみないか?w
かなり興味ある
>>565 原哲夫キャラデザなら、最強武将伝三国演義の姜維がそれっぽいぞ
ニコニコの連中に限らんしあの雰囲気もあるんだろうが、
どうも何かを評価する場合に、神やクソ、ゴミみたいな極端な
二元論でしかモノが言えない奴は多いとは感じるな
それに自分でさほど検証していなかったりする人間だと、ちょっと出来の良く
見える動画等を観てしまうとそれに大きく影響されてしまうんだろう
魏延賛美といえばとげがある言い方かもしれんが、
>>575も言う様に
一方を評価するにももう一方を不必要に貶めなければ意見が言えない様な
人間も随分と見受けられるしな
>>575 いやぁ、俺には上手い台詞回しとか考えられないし、
物語を作るような才能は無いと思うからなぁ。
姜維の北伐を解説するだけの動画だったら作れるかもしれんが、
それにしても俺の望む内容にするには素材が足りない。
>>576 それって日曜朝にやってるやつだよね?
公式サイトとか見た限りは原哲夫っぽさはなかったけど、
アニメを見ると違うのだろうか。
と言うか、姜維のキャラデザなんて発表されてたの?
>>577 多くの人が出来の良い作品に影響されてしまうのは仕方ないだろうね。
史書の記述から自分で検討するなんて面倒くさいだろうし。
魏延はともかく、黄皓なんて演義でだろうが史書でだろうが、
善人にも魅力的人物にも描かれていないと思う。
それでも黄皓を礼賛しようと言うのは、穿った見方をすれば、
通ぶりたい気持ちが強いのではないかとも思える。
他人を賞賛、批判する俺sugeeって傾向は歴史初心者には仕方ないことだな
史料ではあーだこーだと語ると「これだから歴オタは……」と野暮天扱いされる
整合性とか考えずに作品として面白いかどうかだけ見るのがいいのかな。
まぁ、物語が史書の記述に忠実である必要は無いしね。
物語は物語としての面白さや完成度が高ければそれで良いと思う。
今の所、姜維物の動画を作るだけの能力も時間も無いけれど、
プロットとかはこのスレで考えるといいかもしれんね。
それを使って、やる気のある人が作る時間のある時に作る感じで。
それで、youtube板の歴戦スレを読んでいたら、
「姜維が涼州の半分をぶち抜いた」という意見があった。
ネットの、主に2chでたまにこれに類似した意見を見る事がある。
こうした類の意見は、最初に主張したのは俺の知る限りは俺で、
次いで、俺とは違う形のアプローチでむじんさんが主張した。
恐らくはどちらか、或いは両方の意見を参考にした意見なんだろうけど、
姜維の影響力が涼州(魏時代)まで及んでいたとするのは尾ひれが付きすぎているかな。
姜維の進出で確認できるのは、255年頃の枹罕が最北。
西平の郭脩を降伏させている事から、250年頃に西平まで進出した事も推測できるが、
この頃は魏軍も隴西や涼州で自由に活動できていたので、
255年頃ほど蜀軍に優位があったわけではない。
個人的には、洮水及び河水の線が、一時的に魏の支配から切り離せた領域の限界ではないかと思う。
>>581 ふむふむ・・・
こういうレスを見て思うのは、地名を出されても
位置関係がわかりづらいということかなw
ただ、そういう人多いんじゃないかなぁ
動画だと場所をすぐに確認できそうでよさそうだけど
その画像を用意するのが大変か?
物語や台詞まわしはなくて、解説だけでもいいんじゃないかなぁ
参考までに質問したいけれど、地図は何を参考にしてる?
>>582 地図は中国歴史地図集かな。
それを各種史料や水経注等をもとに補足している感じ。
ちなみに、何度かリンクを貼っているが、
ttp://www.zrcx.com/Article/zggd/200610/536.html ここで中国歴史地図集は見れる。
あとは、Google Earthとかも参考になる。
解説だけとは言え、作るならblogの内容以上の分かりやすさが必要になると思う。
そうすると、地図+文章では弱い。
軍の動きなんかをアニメーションで出来たらと思うが、
そこまで作るとなると何処から手をつけていいか分からない。
>>583 thx
リンクの所は便利だけどはっきりはみえないから、そのうち買うかな
アニメーションまでとなると確かに動画制作も本格的だなー
歴戦の企画でもそこまでやってる動画はあまりみかけなかった気がするけど
紙芝居物中心だったからか
>>584 まぁ、そもそもアニメーションどころか動画作りのノウハウすら俺には無いんだけどね。
動画にせよ何にせよ、やろうやろうと言いつつ殆ど動かない俺も大概だな。
とりあえず解説動画を作るという方向で動くとして、内容は如何にすべきか?
三国志の人物に解説させるような手法をとるのか、
或いはJominian名義で解説するのか。
前者は結局台詞回しの軽妙さが重要になってきて、物語調と同じ才能が必要になるだろう。
後者は俺の知名度の問題で視聴者の印象はあまり良くない気がする。
難しいところだ。
枠はともかくとして、中身はやはり240年代からの解説になるのだろう。
最初の戦役は、羌胡の大乱に乗じて郭淮らと争い、
姜維が諸蛮族に対して大きな影響力を獲得した戦争を取り上げる事になるだろうね。
動画作成の前段階として、まずはこの辺の戦役について再考を行うとしよう。
明日以降、姜維の北伐を再考する作業に入る。
まずはかつての考察。ただし248年のやつ。
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/27700635.html って、もう3年以上前の記事かよ。
この記事の内容でおかしな点は、まず郭淮の行動の起点を上邽に置いている事だな。
247年と248年の戦役はほぼ一つの戦役とみなすべきだろうから、
郭淮は狄道辺りにいたとする方が自然な解釈となる。
そうなると、郭淮が兵を分けようとした時に諸将の行った反対の理由も見えてくる。
郭淮の位置が狄道付近だったとすれば、そのまま全軍で西へ向かえば姜維と羌胡の間に出る事ができる。
「姜維と羌胡が接しない内にその間を絶つ」とする諸将の意見と一致する。
敵の目的が明らかである以上、この諸将の意見に理はある。
問題となってくるのがやはり成重山の位置であるが、
これは姜維らが"石営"を経て彊川を通った事に関係しているだろう。
彊川を通って遥か西方から涼州に向うなら、わざわざ石営を通る必要はない。
石営を通ったのは、魏軍が上邽へ護送していた羌胡の人質を奪うためと見るが妥当だ。
そしてあの周辺で険阻な場所という事を考えると、成重山は麹山〜牛頭山の辺りにあったのだろう。
つまり郭淮は狄道より渢中に入り、臨洮辺りで軍を分け夏侯覇を西方に進ませ、
自らは東方へ転じて廖化を囲みに行った、と考えるのが妥当だな。
ここまで考えて疲れてしまったので、今日はここまで。
姜維年表
202年01歳 天水郡冀県に生まれる
2??年??歳 父親の天水郡功曹姜冏が戦死。鄭氏の学を好む
2??年??歳 天水郡の上計掾
2??年??歳 雍州の従事
228年27歳 第一次北伐。当陽亭侯、奉義将軍、倉曹掾
22?年2?歳 中監軍、征西将軍
234年33歳 平襄侯、右監軍、輔漢将軍
238年37歳 大司馬司馬
243年42歳 涼州刺史、鎮西大将軍
244年43歳 魏の南征(曹爽、夏侯玄)
247年46歳 録尚書事、衛将軍。汶山の反乱(平康夷)。洮西の戦い(郭淮、夏侯覇)。胡王治無戴を成都に移民
249年48歳 仮節。西平に出兵。
253年52歳 費禕暗殺。南安の戦い(陳泰)
254年53歳 督中外軍事。李簡の降伏。襄武の戦い(徐質)。河間、狄道、臨洮の人口を移民
255年54歳 洮西の戦い(王経)。狄道の戦い(王経、陳泰)
256年55歳 大将軍。段谷の戦い(ケ艾)。後将軍、行大将軍事
257年56歳 渭水の戦い(司馬望、ケ艾)。大将軍に復帰。漢中の布陣を変更
262年61歳 侯和の戦い(ケ艾)。成都帰還と沓中屯田
263年62歳 蜀滅亡(諸葛緒、ケ艾、鍾会)
264年63歳 鍾会の乱(丘建、胡烈、胡淵)
ライバルになりそうなのは郭淮、陳泰、ケ艾あたりかな
途中から攻めて勝つ戦略から受けて勝つ戦略に切り替えてるのも分かった
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 01:29:12
>Jominian
ブログ重い
文章は面白いのでなんとかしてほしい
姜維は幼少期に馬超や夏侯淵との争いを見て育ったのかな
>>591 そう言われてもなぁ。解決策はブログを移転するくらいしかないが。
>>592 時期を考えると姜維の父が死んだのは馬超が冀県を攻めた時じゃないかと思う。
>>587の続き
この時の郭淮は、郭淮伝だけ読むと全て郭淮の目論見通りに事が運んだかのように思える。
だが実際には、記事でも書いているが、姜維は部落を挙げて降った治無戴らを迎え入れる事に成功しているし、
隴西、南安、金城の辺りまで軍を進めている。
魏軍に大きな被害が出たわけではなく、姜維も早々に帰還したので、
郭淮の採ったものが愚作だったわけではないが、郭淮伝にあるほど完璧だったわけではない。
では逆に、諸将の意見に従っていたらどうだったのか?
魏軍は兵を分けて夏侯覇を派遣したが、作戦線を間違えた為に姜維を捕捉できなかった。
仮に全軍で西へ出て姜維と諸羌胡の間に出たとしても、
広大な隴西で数千の姜維軍を捕捉する事は難しかっただろう。
姜維と羌胡の合体を許した上で、魏軍と蜀軍との戦力差が大きく埋った状態での会戦を余儀なくされたかもしれない。
羌胡の人質を奪い返して保護しているのだから、羌胡も十分戦力となっただろうしね。
結局は廖化を攻めるという郭淮の判断が正しかったのだが、
敵がどんな行動に出ようと最低限の戦果を保証する作戦を採った姜維の手腕も褒めるべきだろう。
594 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/05/18(火) 21:33:48
遡って247年を見てみると、この時の姜維は全く精彩を欠いている。
羌胡の反乱に応じて出兵し為翅の夏侯覇を攻めたものの、
狄道より郭淮が急行した事を受けてあっさりと退いている。
羌胡を本気で支援する気があったのかも疑わしいほど簡単に撤退してしまった。
ここで考えてみるべきは、何故夏侯覇が為翅に駐屯していたのかだろう。
為翅は蜀より雍州へ出る際の要衝で、ここより東へ行けば上邽へ、
西へ行けば洮西へと出る事ができる場所である。
蜀軍を国境付近で抑えようというのなら駐屯してしかるべき場所である。
すなわち、もともと夏侯覇は蜀軍の抑えとして配置されていた公算が高い。
また一方で、郭淮が救援したという事は、夏侯覇単独では蜀軍を抑えきれないという事を示していよう。
では何故、単独では抑止できない程度の軍を蜀軍の抑えとして分割し、
なおかつそれを救援するという事を行ったのか?
恐らく、郭淮としても蜀軍の来寇は予想していたが、
規模や時期を掴めなかったが為、蜀軍の動向を監視しつつ、
仮に来寇を受けても上邽への接近を抑止できるよう夏侯覇を為翅に置いたのだろう。
南安や襄武で反乱し、城邑を攻囲していた餓何や焼戈と郭淮が接触した形跡はこの時点ではない。
つまり、郭淮の進軍は為翅を経由して行われたのだろう。
その途上で夏侯覇を分割し、郭淮自身は羌胡を各個撃破するに足る規模の軍を率いて北へ向った。
そして蜀軍の動向によって、羌胡の討伐と蜀軍の撃退どちらにも応じる事のできる態勢を整えたという事だろう。
蜀軍来寇の規模や時期どころか、その真偽すら不明であったのなら、
何はなくとも羌胡討伐を行う態勢でなければならない為、全軍で蜀軍に備えるという選択肢は郭淮には取れなかったのだろう。
結果的に来た道を引き返さざるを得なくなったが、隴西東部を姜維に荒らされるよりは遥かにマシだ。
郭淮の判断は至極妥当なものであったと言える。
また、この二年に跨る戦役で最も不自然な事は、征西将軍夏侯玄の動向が全くつかめない事だろう。
駱谷の役の失敗で都督としての実質的発言力が低下していたという事だろうか?
或いはそもそも、夏侯覇を蜀の抑えとして為翅に配置し、郭淮を羌胡討伐に狄道に派遣したのが夏侯玄だったのだろうか?
やっぱりこの羌胡の大乱ってよく分からんよね。
昔から分からん。
諸葛亮死後もわりと解説してる本とかでも、この辺はまず取り上げない。
全ての疑問を解決するのは不可能に近いな。
まぁ、いずれにせよ、やはり動画作成のところで面倒くさがっているので、
いつものように企画倒れになりそうではある。
JOMINIANは名無しで書き込むの?
>>596 コテを付けてから、正確に言えばトリを付けてからは、
名無しで書き込んだ事はないよ。
>>597 そんなもんか。
名無しでもかなり凄いのがこの板には結構いるんだな
>>598 そりゃいると思うよ。
俺が名無しだった頃から結構なレベルの論客はいた。
常にそういうのは一定数いると思う。
249年以降の考察に入ろうと思ったが、何も思い浮かばない。
昔の考察との変更点が無いと再考にならないなぁ。
600 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/05/23(日) 00:17:30
この戦役(249-250年)で押さえておくべき事は、
・費禕が漢中で後詰となっていた事
・前年の反乱は鎮圧されたが、この時も羌胡が姜維に呼応していた事
・司馬昭が長安に入り郭淮らの後詰となった事
の三つだろうね。
魏軍の機動は書かれているが、陳泰が麹城を包囲するまでの間に姜維が何をしていたかはよく分からない。
「聚羌胡質任等寇偪諸郡」とはあるが、実態は分からない。
いずれにせよ姜維は退き、句安ら二将が敵に降るという結果に終わった。
その後に行われた郭淮の不在を突いての北上も、廖化の偽騙の拙さによって失敗に終わった。
結局、この北伐の失敗の後に費禕は漢中より退き、
以後二度と北伐に関わる事がなかった。
また、姜維の北伐も費禕の死後まで再開する事は無かった。
蜀の国内から見ても敗戦が明らかだったという事だろう。
>>593 別スレにブログの文章を転載してもいいかな?
>>601 別に良いよ。俺の許可を取る必要も無い。
まぁ、その後のスレの動きまでは責任取らないけどね。
>>602 感謝する。
まあ責任については当然こちらが全部負担するよ。
604 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/05/23(日) 21:40:01
陳泰と郭淮によって撤退を余儀なくされた後、姜維は再度北上するが、
この時の姜維の通った道は白水より(臨)洮城へと向うものだった。
姜維が魏軍の策源とも言える上邽や祁山ではなく洮西へ向かったのは、
姜維は退いたと言っても建威や武都の方まで撤退したわけではなかったという事だろう。
当時姜維がいた位置から上邽へ向うとケ艾らに連絡線を断たれる危険がある上、
羌胡は遠く離れている為支援も見込めない。
姜維がどのような行動に出るとしても、臨洮のケ艾を排除する必要があったという事だと考える。
また、仮に臨洮に船があったとしたらだが、臨洮から郭淮らの赴いたであろう涼州へは河川を使って迅速に出る事ができる。
そうであれば、姜維がこの地を奪えば郭淮を大いに脅かす事ができるし、
魏側からしても、姜維が完全に退いた場合にケ艾が郭淮に合流するのも容易い。
ケ艾の配置された位置と姜維の採った作戦線は、どちらも至極真っ当なものだったという事だろう。
605 :
ナマッタ ◆nOA3ItxPxI :2010/05/23(日) 21:47:54
名無しは全部蛆虫
606 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/05/24(月) 23:19:41
この戦役が終わり、費禕が漢中から成都に帰還するや、
彼は成都を離れ漢寿で幕府を開いている。
この時の望気者という存在が誰の事を指しているかはわからないが、この費禕の漢寿での開府によって、
漢中の姜維、漢寿の費禕、成都の陳祗という形で権力が三分される事になる。
蒋琬より費禕の代まで、その身が成都の外に在っても、
恩賞や刑罰は彼らの所まで諮問に行ったというから、
漢寿に在っても費禕は尊重されていただろう。
だが、黄皓を飼いならし皇帝を押さえ、且つ尚書令も兼務していた陳祗と、
漢中を指揮しその軍を掌握し、また、録尚書事という宰相職を費禕と分け合っていた姜維の二人が比較的自由に行動できるという事は、
次代の権力を掌握する準備が進んでいた事を示唆しているように思う。
仮にこの頃既に姜維と陳祗が繋がっていたとしたら、
彼らが協力して費禕の追い落としを進めていたとしても不思議ではないだろう。
まぁ、だからと言って郭脩を姜維の差し金とするのは論理が飛躍しすぎるがね。
607 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/06/07(月) 23:29:13
費禕が殺された253年と言えば姜維が総指揮を執った初の北伐だが、これはこの年の夏四月の事。
正月に費禕が殺されてからの動き出しが妙に早い。
もとから準備していたのではないかと考えても不思議は無い。
しかし、費禕時代を含めた姜維の北伐の中で、ただこの時のみ食糧不足による早期撤退が行われている。
この時は、呉からの使者が来て諸葛恪と共に動いてくれるよう姜維に頼んでいる。
諸葛恪は二月に東興より帰還し、合肥新城へ向けて軍を動かしたのは三月の事。
姜維の元へ使者が来たのは早くても二月下旬だろう。
漢晋春秋によれば、姜維はこの呉の使者の言葉を受けて出兵を決めたように書かれている。
たった一ヶ月では準備も不足しよう。
やはりこの北伐は急遽行われたものだろうと思う。
608 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/06/10(木) 00:09:58
一つ疑問なのが、何故呉からの使者は劉禅の下ではなく、
漢中にいる姜維のところへ行ったのか、という事だ。
軍を掌握しているのが姜維であると呉が理解していたのだろうか?
何れにせよ、建業から漢中までは約2000kmあるので、
馬を飛ばしても往復だけで1ヶ月以上掛かる。
諸葛恪の出兵のタイミングを考えると、諸葛恪は蜀の動き如何にかかわらず軍を動かすつもりだったのが分かる。
淮南に出るに先立って著した彼の論でも、やはり蜀の協力についての言及は無い。
これより前の事であるが、241年の司馬懿の南下に対して蒋琬が動かなかった事を朱然らが非難している。
252年の東興の戦いにおいても同様に蜀は動いていない。
逆に呉の方でも、姜維が羌族の乱に介入していた時には動いていない。
もとより東西で掎角して魏と相対す、なんて事に対して両国ともまともにできると思っていなかったのだろう。
241年の事に関しては孫権も蜀の動きが間に合うわけがないと思っていたようだしね。
609 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/06/13(日) 02:07:13
なんにせよ、費禕が死んだ253年に姜維による初の大々的な北伐が開始された。
この年の北伐については、数万を率いた姜維が石営と董亭を通って南安を囲み、
その包囲を解きに雍州刺史陳泰が洛門まで進出、その後、糧食の尽きた姜維が撤退した、
という事しか分からない。
斉王紀の注に引く漢晋春秋もこの北伐について記しているが、正史とは内容が異なる。
姜維が包囲したのが狄道になっており、郭淮と陳泰が関中の軍勢悉くを率いて解囲に当たった事になっている。
しかし正史本文では姜維が包囲したのは南安であり、救援に赴いた記述があるのも雍州刺史郭淮のみである。
また、姜維は糧食が尽きて撤退しており、漢晋春秋でもそうなっているが、
姜維が撤退した先が蜀の本国ではなく隴西となっている。
漢晋春秋の記述は、姜維の幾つかの北伐についての記述が混ざっているのではないだろうか?
>>609 重箱の隅を衝く様ですまない、というかたぶん凡ミスにもならん
程度の事なんだけど、郭淮は車騎将軍じゃなかった?
陳泰が雍州刺史だよね?
>>610 何を当たり前の事を、と思ったが、2段目で「雍州刺史陳泰」と書いているのに、
3段目で「雍州刺史郭淮」と書いてしまっているな。
これは俺の誤記だね。
仰るとおり、郭淮は車騎将軍都督雍涼諸軍事。
陳泰が雍州刺史だね。
雍州刺史だけで対応するという事は、関中の軍勢をこぞって姜維に当たったとは考えにくいよね。
612 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/06/18(金) 00:10:41
それにしてもこの北伐、急遽行われたにしても戦略が見えてこない。
なぜ南安を攻囲したのかがはっきりしない。
陥落させるつもりならば糧食の不足であっさり撤退するのは不自然だし、
救援に来た魏軍を叩くにしては、洛門まで来た陳泰に何のアクションも起こしていない。
南安周辺に居住する焼当羌の援助を当てにしたのだろうか?
だが、彼らが大きな援助をした様子は見られないし、
援助が得られるか不確かな状況で、それを当てにした戦略を立てるとは思えない。
ただの示威行為にしては動員した戦力が大き過ぎる。
これについてはよく考える必要があるだろう。
>>612 威力偵察…って事はないか
徒に刺激する必要ないしなぁ
614 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/06/20(日) 22:39:10
>>613 数万もの軍を率いて威力偵察ってのも考え難いかなぁ。
姜維自身、このほんの3年前まで隴西で戦っていたわけだし、
いきなりまた威力偵察ってのはないと思う。
ただ、姜維は旧漢陽郡では南安を割りと目標に定めている。
この時もそうだし、祁山攻撃を読まれた時も南安に向っている。
南安は東方の渭水沿いに開けた場所があるので、
隴西にあって会戦、それも後詰決戦のような戦略に適しているのかもしれない。
姜維は翌年、南安に程近い襄武を攻囲すると、救援に来た徐質に会戦を強いた後にこれを破っている。
やはり、救援に来た陳泰を叩く、というのが彼の思惑だったのかもしれない。
漢晋春秋の都合の良い部分のみを信じるとすれば、魏側は姜維に物資がない事を読んでいた。
陳泰の行動も姜維の撃破ではなく、南安郡将兵の士気が阻喪しないように救援に来る事だったのかもしれない。
つまり、姜維と接近しつつも会戦には応じない、という形で姜維の撤退を待った、というのが自然かな。
案外呉に対してのアリバイ作り以上の意味はなかったりして
616 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/06/24(木) 23:25:28
>>615 そのためだけに険阻な道を越えて数万の軍を動かすってのは、
やはり少々考え難いように思える。
この戦役に関しては、郭淮の動向が不明なのも何かありそうだ。
翌年も郭淮は何もしていない。
まぁ、既に病で動けなかったとかなのかもしれないけど。
>>617 原哲夫ってより、アメコミチックだな。
しかし、色々映像出回ってるんだね。
その動画の映像なんて恐らく最終話辺りのだろうに。
ところでMULTI RAIDの姜維の新デザインはいいな
4までの姜維は「諸葛亮に付き従う 未来ある弟子」って感じで華やかなデザインだったが
今回の姜維は衣装の華やかさが減り、紹介文に蜀末に触れてるからか、悲壮感が感じられる
姜維が従事した雍州刺史ってのは郭淮でいいんだろうか
接点はないだろうけど、そういうの踏まえて郭淮を無双で出すのも面白いよな
後期の魏蜀の関係は魏軍対蜀軍ていうより魏軍対姜維っていう印象が強い
無双で後期を取り上げるなら姜維と関連付けれる人物が中心になるだろうな
蜀軍にもせめて夏侯覇くらいは欲しい
欲を言うなら他にリョウカ、張翼、付箋、張疑らも
しかし現実は星彩…誰だよそれ
621 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/07/20(火) 22:31:37
>>619 郭淮は遅くとも黄初二年には領雍州刺史となっているので、
姜維が従事だった頃の刺史は郭淮で間違いないと思うよ。
姜維はその後、十年以上前の父の功績が取り上げられて中郎になるけど、
これは恐らく、茂才の代わりに姜維を推挙する為の郭淮の措置だと思う。
茂才は年に一人までしか挙げられないからね。
郭淮は姜維を高く買ってたと思うよ。
だから、姜維が蜀軍の司令官として雍州へと軍を進めた時の二人の対峙は、
両者共に思うところが色々あったと思うよ。
父の仇とも呼べる馬超のいた蜀への投降とか、郭淮との絡みとか、
姜維のストーリーは練りさえすれば相当面白く出来るはず。
段灼の語る落門の戦いには浪漫があると思う
623 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2010/07/29(木) 21:59:08
段灼が語っている落門の戦いは、前後の記述の内容からして
段谷の戦いにいたる前に行われた武城山での戦いとほぼ同じだろう。
戦場は武城山だったのか、或いは落門だったのか?
武城山の位置は水経注巻十七にある武城水の記述、また読史方輿紀要にある武城山の記述から、
渭水が東南から東へと方向を変える屈曲点より少し東に行った場所の南にある事が分かる。
落門はと言うと、武城山より更に東にあり、南の落門谷より水が渭水に注ぐ辺りである。
読史方輿紀要によれば伏羌より西に十裏(里)とあるが、これでは少し東により過ぎている。
現在の街道や地名とも照らし合わせれば、やはり武城山より東に15km程の位置として良いだろう。
この落門は董亭より北上して渭水に出る際に通る場所である。
この時の姜維は祁山に備えがあると聞いて董亭より南安に赴いている。
姜維が南安郡治に行ったとすれば、董亭より北上し落門を通って西へ向きを変え、
武城山の北を通過した後に北上してカン道に達したという事になる。
対するケ艾は武城山に拠ったのだから、北面或いは西面して姜維と相対したという事になろう。
この場合、落門は通過点に過ぎず、その後も落門で両者が接触する事がないのだから、
落門の戦いという呼称は少し変である。
ワーテルローやアルベラのように、実際には戦場となっていない場所を冠する事もある。
しかしそれならば、段谷の戦いも上邽の戦いと呼ばれるべきであり、段灼の言葉の使い方に一貫性が無い。
「当時は武城山の戦いを落門の戦い、段谷の戦いを段谷の戦いと呼ぶのが一般的であった」
とすれば片付くが、それでは面白みが無い。
なので、落門でも武城山と同様に戦闘が生じ、落門と武城山一連の戦いを落門の戦いと呼んだと仮定して考えてみようと思う。
いくつか考える事はあるが、落門での戦闘を考慮する上で重要な事は、
落門での戦いが武城山での戦いの後なのか前なのかという事だろう。
そこを考える前に種々の条件を確認する必要がある。
まず経路である。
落門に至るまでの姜維の取った経路は疑いようも無い。
問題はケ艾の取った経路であるが、これはケ艾が上邽にいたのか祁山にいたのかで大きく変わってくるだろう。
ケ艾が上邽にいたのなら、姜維を追う形で進むのは距離や道路の状態から言ってもメリットが無いので、
ケ艾は上邽より冀県に出て、渭水沿いに西進しただろう。
もしケ艾が祁山がいたのなら、少々の悪路であろうと姜維を追った方が早い。
すなわち前者ならケ艾は東から、後者なら南から落門に至った事になる。
次に姜維の意図である。
姜維は南安に赴いたが、実際にこれを陥落せしめるつもりだったのだろうか?
これは否だろう。
王基伝の注に引く司馬彪の戦略に拠れば、この時の姜維に輜重は無く、長期戦には堪えられない。
だからこそ祁山の急襲に勝機を見出したのであり、いたずらに時間の掛かる城攻めは彼の本意ではないだろう。
姜維が南安に向った理由は、ケ艾率いる魏の隴西諸軍本隊との戦闘に及ぶためと見た方が良い。
姜維の目的は魏軍の撃破にあったと考えるべきだろう。
姜維の目的が魏軍の撃破なら、わざわざカン道まで行く必要は無い。
むしろ山間に入っていくと大規模な会戦が行えなくなるので不利となる。
推測し得る姜維の本意からすれば、それこそ落門等の渭水沿いの平地で敵と接触した方が有利である。
Jominian氏へ
前に言っていた動画は止めたの?
ちょっと期待していたのだが。
>>625 動画はネタはともかく動画作りが非常に面倒になってしまって…
それに、今は会社が夏休みなので良いが、来月一杯は忙しくなりそうなので、
少なくとも9月まではろくに動けないしね。
627 :
625:2010/07/29(木) 23:23:06
なるほど。
残念ですが、モチベーションが無くなったならしかたないですね。
また、ROMに戻ります。
ありがとう。
短い紙芝居一つ作るだけでも凄い労力がいりそうだったんで
申し訳ない
さて、続ける。戯れに名前も変えてみる。
姜維がカン道の攻囲に及ばなかったとしたなら落門より西進する事に利は無いだろう。
落門周辺で魏軍を待ち受け、これと接触して会戦を惹起する方が良い。
この考え方に従うならば、順番は落門の戦い→武城山の戦いとなる。
もとよりケ艾伝では、姜維は武城山の戦いの後、真っ直ぐ上邽へ退いたように書かれている。
また、武城山に拠ったのがケ艾という事は、落門の戦いの後で西へと退いたのはケ艾となる。
その場合、ケ艾が西側に退く事ができるような布陣で無ければならず、
ケ艾は東面して南北に、或いは北面して東西に隊列を組んだのであろう。
武城山は渭水南岸にあるので、落門の戦いで渭水北岸に布陣した場合に拠るべき山ではないだろう。
従って、ケ艾は当初祁山にあり、姜維を追う形で董亭→落門へと進んだのであろう。
ここまで考えれば、地形を元に戦術レベルまで妄想する事が可能になる。
戦術レベルの妄想はともかくとして、この落門の戦いは、
少なくとも姜維がケ艾を退かせる形で終結したとなろう。
前に何処かで言ったが、ボロジノの戦いを彷彿とさせるものだったように感じる。
ケ艾が退いたと言っても、形式上はともかく実質的には痛み分けだろう。
姜維はケ艾を撃破し切れなかった為に作戦が頓挫し、
結局武城山でも追い詰めきれず、最終的に段谷で大敗を喫する事になる。
絶頂にあった姜維もこの戦役を境に転落していき、263年の蜀の滅亡に繋がっていく。
ボロジノの勝利の後のロシア戦役での敗北、その後の帝位の剥奪とエルバ島への追放への流れにちょっと似てる気がする。
ナポレオンが、第六次対仏大同盟と対した時にも優れた指揮を見せたように、
姜維も蜀漢平定戦では大いに輝きを放っている。
この辺もちょっとダブる。
まぁ、姜維についてはかなり色眼鏡で見てるけど。
上記の流れには問題がある。
それはケ艾の意思を考慮していない事である。
通常、会戦というのは両軍の指揮官共に戦闘の意思が無いと成立し難い。
行軍隊形から戦闘隊形へと隊列を組み直すだけでも、
大軍であれば優に半日は掛かったりもする為、一方が戦闘を避けようと思えば容易に避ける事ができる。
ケ艾について言えば、彼は姜維との戦闘を必須の条件とはしていない。
彼にしてみれば、隴西の地に大きな被害なく姜維が撤退してくれれば良いのであるから。
ましてや、ケ艾は姜維軍の物資の欠乏を指摘しており、姜維が早晩撤退に転じる事は予見できたであろう。
無理に戦闘に及ぶ理由はますます無い。
また、前年の敗戦によって魏軍将兵の意気は阻喪しており、ともすれば姜維に対する恐怖が蔓延していた可能性もある。
そうした状態で姜維との戦闘を行うという事は非常にリスクが高く、磐石な勝利を得るなら避けるべきである。
では戦闘が起こる公算が全く無かったのか、と言うとそうでもない。
魏軍の意気が阻喪しているという、戦闘を避けるべき理由が、
一方で戦闘を選択する理由にもなり得る。
一切の戦闘なく、姜維をただ撤退させた場合、魏の将兵たちの姜維に対する恐怖を拭い去る事はできないだろう。
どのタイミングでも良いので、可能ならば姜維を撃破した方がケ艾にとっても都合が良い。
そしてケ艾は、姜維軍が疲弊している事も見抜いている。
有利な条件さえ整えば、ケ艾もまた姜維との戦闘を選択する事も大いにありえるだろう。
つまり姜維としては、落門近傍で戦闘隊形に軍を部署しつつ、
更にダメ押しとして戦術上の要地を魏軍に明け渡すという事をすれば良い。
そうする事で、本来ならば戦闘を避けるべきケ艾を会戦へと引きずり出す事ができる。
当然、その状態で勝利を得る為には並々ならぬ戦術手腕が必要ではあるが。
さて、落門の戦いについて考えられる事は粗方考えてしまったので、
更に考えようとすると妄想しかないね。
自分が姜維なら何処にどう布陣してケ艾を迎え撃つか、とか、
その姜維に対して自分がケ艾ならどうするか、とかその辺。
9月半ばには落ち着きそうな気配だが、だからと言って何をやるのかは思いつかないぜ。
質問とかがあれば答えるけどね。このスレに何人居るのかは知らないけど。
落門の戦いの戦術を考えるのは諦めた。全然思いつかない。
地形を見ても上手く整合性の取れる布陣が見当たらない。
ケ艾が誘いに乗るような不利を演出し、且つ勝利しなければならない。
なかなか難しい。
ふと思ったんだが、三戦住人を含めてネット上で三国志の研究なりをしている人たちって、
どういった年齢層と三国志歴なんだろうか?
俺自身はいまだに若手のつもりでいるが、
26歳という年齢と7年以上三国志の考察に取り組んでいる事を考えると、
既に若手とは呼べなくなっているのかもしれない。
7年か。ジョミも長いこと三戦にいるんだな。
ネットでの考察となると、20代半ば〜30代ってとこかね。知ってる限りでは。
三国志歴については一概には言えなさそうだ。
>>635 実際、三戦には真・三國無双2の猛将伝が出た頃から居るから、
三戦歴で言えば8年になる。
まぁ、その頃はちくまの正史三国志を書いたてで、考察なんてしてなかったけどね。
×書いたて
○買いたて
野暮なことだろうけど、他所のスレで20代半ば過ぎって言ってた様な
それはそうと、あの
>>1が今度は諸葛亮孔明スレで暴れてる
>>638 ボケとツッコミじゃないんだからJominianとセットだと考えるなw
6のデザインが一部公開されたみたいだが、青緑カラーの新キャラが後期っぽくて楽しみだ
Jomiさん贔屓の姜維も出るといいな
>>638 20代半ば過ぎって俺のこと?
だったらあってるけど。
>>640 無双6なんて出るんだ。
全然チェックしてないから気付かなかった。
まぁ、酒を飲んでばかりでゲームに使う金なんて無いんだが。
平日のこの時間に書き込んでいる時点で推して知るべしだなw
今さっき帰ってきたところだ。
どうでも良い事だが、俺はもうカタカナと絡むつもりは殆ど無い
Jominianさん、無双の時代が後期にまでずれてくる可能性が大いに出てきたぞ
>>640の青緑カラーは個人的に夏侯覇だと踏んでる
あと一人軍師っぽい人物がいたが、司馬兄弟のどっちかという線もある
曹親子がいる時代にあのデザインのキャラはあわないと思うわ
呂布を前面に出してた分、5までは三国前半散々やったからな
シナリオで変化を付けるには触れることのなかった後期取り扱って欲しい
となると蜀ではずせないのがまず姜維になってくると思うんだ
するとライバルキャラも出てくる
個人的にカクワイがいいんだけど、世間的にはケ艾なんだろうな…
徐質はもちろん、李鵬や王真とかも無双らしくそれなりの腕っ節の
キャラにしてやれば面白いだろうな
蜀側なら傅僉、魏なら文俶は絶対に欠かせないな
呉だと丁奉、それに留賛あたりを個性的なキャラにしてやると
いいかも
ここにいる皆さんはもうご存じだと思うけど、一応貼っとくね
2:名無し曰く、(sage)
サイト解析により出てきた画像
http://livedoor.2.blogimg.jp/od3/imgs/7/e/7eabaa55.jpg ? ? 甄姫? 夏侯惇?
趙雲? ? 陸遜? 周泰?
引用終わり
本スレを要約すると
・新キャラと思わしき左上二人が既存の魏武将と色が違う
・魏だけキャラが多い。新勢力晋が出るなら一勢力二人ずつで辻褄があう
・既存キャラが老けている
・軍師の息子娘が出るとの香港リーク(仮)
というだけでまだ後期確定ではないんだが、このスレ的にはそうであってほしいところだな
>>645 一番目の仮面は病気を隠すためで、司馬師もしくは要素を含む司馬一族の誰か
二番目の青緑、ワイルド系、青を素直に魏とすると夏侯一族っぽい気がするから夏侯覇
多分姜維も新キャラ扱いになると後期の可能性が高まるな
個人的に三国後期の中心人物は姜維・ケ艾あたりなイメージだ
10月の正式発表で姜維(、同じくリストラだった大喬)とライバルキャラ発表か
それか最後まで引っ張るパターンだな
>>643 調べてみたらPS3専用なんだな。
ハードごと買わなきゃならんから、買うかどうかは詳細が判明してからだな。
画像も見たが、夏侯覇ってのはどうなんだろう?
仮に仮面付けてるのが司馬師か司馬昭だとして、新たに晋が出たとしても、
夏侯覇は晋カラーにはならないと思う。
ケ艾とすると吃音キャラになるのだろうが、あの顔に吃音は似合わない。
よく分からんね。
ちなみに、個人的な見解を言えば姜維のライバルはやっぱりケ艾だと思う。
郭淮は姜維の元上司だし、戦力も対等じゃなかったからライバルっぽい感じはしない。
張翼、リョカ
↑
姜維→夏侯覇
↓
ケ艾、鐘会→司馬兄弟
↓
ヨウコ、ドヨ
↓
陸抗、張悌
って後期のメインどころが連想されるんだが
こういう導き方でもっと早く後期にも手を入れて欲しかったなぁ
…まだ後期来るか確定してないけど
このスレまだあったのか
初代スレの頃にロムってたが、まだ続いているとは思わなかった
無双6で末期が来る事を願う
他との絡みが無いから、正直言って1人2人増えても変な感じになると思うね。
どうせなら大胆に10人くらい追加してくれれば良いんだけど。
なんにせよ、続報が来ないとな。
10月26日だったか。
姜維シナリオは、いっそ五丈原ステージすらなく247年の羌胡の乱スタートとかの方が面白い。
ありえないだろうけどね。
リアルはだいぶ落ち着いたが、こっちでする事はやっぱり何も無いぜ。
どうでも良い話だが、コテをAlexandrianにしたいが、Jominianを長く続けてきた上、
色んなところでJominianで登録しているから今更変えられない。
他スレで孫慎についてちょろっと答えてみた。
今まで気にも留めてなかったが、意外と面白いね。
出兵のタイミングが見計らったように晋の隙を突いている。
王渾が豫州諸軍事のままなら軽く蹴散らしただろうに。
>>652 個人的にはコテを変えるのはお勧めしない
孫慎については俺も殆どノーマークだったんで興味深いな
それはそうと、現在の三戦で賑わってるスレって大概が例の
>>1が
立てたスレってのがな…
あれにつきあうと疲労がたまってく感じでいかん
Alexandrianは語感が隙が無く硬質な感じでイメージが変わっちゃうんではないかと。
Jominianだと言いだしの「ジョミ」の部分に親しみを感じる柔らかさがあるような。
>>653 だから保護者じゃないんだからJominianに苦情を持ち込むなってw
俺は実際はジョミニよりもアレクサンドロスを信奉しているので、
Alexandrianの方が合致していると思ったが、そういう事ならこのままで行くか。
skypeとかg-mailもJominianだしな。
孫慎は面白い、が人をさらった事しか記述が無いので如何ともし難い。
個人的には何故江夏と汝南なのかって事が気になる。
弋陽郡や安豊郡は通らず、上昶城をスルーして江夏方面から汝南に侵入したのだろうか?
或いは弋陽を経て汝南を通って住民を拉致し、帰途江夏を荒らしたのだろうか?
姜維が復活、無双6でも登場が期待されるだけに、後期シナリオ導入もいい機会だな
姜維というと北伐厨と揶揄され、国を滅ぼしたっていう評価をよく見る
姜維の進軍は確かに国を疲弊されたけど
原因はこれだけじゃないはずだよな
そもそも劉備の入蜀から派閥政治は続いてきたのに
降将である姜維を後ろ盾ないまま蜀朝廷内に放り込んだのが間違いだったんじゃないかと思う
姜維は内政に気を配らなかった、と言われるけど
内政に関与できなかった、ていうのが正しいんじゃないかな、と思う
姜維自身もあくまで自分の役割は統一のための軍を進めることだと考えてたんじゃないかな
姜維と他の文官の意識の差が姜維と朝廷内の不協和を生み出したと思う
蜀の文官の中には魏と併合すべき、という考えもあったと聞くし
他にも姜維は功名心で北伐をした、というけど
功名心というより、そういった蜀内の魏への流れに反発しようとしたんじゃないかな
「蜀が恃みとするところはただ姜維のみ」だったっけ、魏の評価は
やっぱ敵国から見ても姜維と他の将の間には能力的に大きな差があったんだろうなと思うし
功名への焦りというよりも、後代が続かないための焦りもあったんじゃないかなって
美化しすぎだろうか
姜維にはあまり興味が持てなかったから漠然とこういう印象が姜維にあった
姜維はつくづく運がないというか、惜しい人物だよな
姜維の戦績は魏、しいてはケ艾に敗れたというより、見方の不始末による自滅だよね
特に段谷はひどいだろう 後詰めが来ないって
それと姜維は戦いを指揮する立場になっても殿を自らして立って本当?
だとしたら姜維は一人で戦いにおける複数の役割をこなしてたってことだよな
過去の歴史家や知識人の評価も分かれる人物なだけに考察するのが楽しい人物だな、姜維って
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/07(木) 20:25:00
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/08(金) 07:52:31
なんかホントに後期シナリオ来そうだから困る
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/08(金) 23:23:58
後期シナリオ、結構なことじゃないか。
なんか新情報でも来たの?
スタッフいわく、
魏との決別を現す意味を込めた司馬懿の2Pカラーと同じ色着てるんだよなァ…
うろ覚えだけど
その2Pカラーは検索すれば見れるかな…
さて、
>>658の改訂を行おうとしているところだが、なかなか面倒くさいな。
論旨は変わらないので補足説明を増やす形になるのだが、
結局の所、全面的に文章を変えなければならないように思える。
基本は変わらず、姜維と諸葛亮の戦略思想の違いを述べつつ、姜維の特異性を強調する内容。
付け加えようとするならば、姜維と諸葛亮の戦力の運用方法について言及する事になるのだろうか?
当初はそのつもりだったが、内容がまとまらないのでやめた。
改訂するとしても時間掛かりそうだな
無双6のうわさを聞いて本スレ見に行ったら不穏すぎてワロタ
個人的に後期は絶対必要というわけではないけど、もう後期まで時代を拡大しなきゃいかん時期なんじゃないかとは思う
大戦知ってる分、大戦が後期武将の知名度を上げた功績は評価すべきなのかもしれんし
その役割は無双にやって欲しかったのが正直なところ
無双が人物を考察せず好きにデザインして武将を当てはめるような真似をしなければ
仮面の人は司馬師の可能性は高いんじゃないかな
新しい女キャラも本スレで道教や蝶を裏付けれてた諸葛果が有力だろうし
ただこれは今の本スレじゃ話しにくい状態だな
後期を描いたという無双4をプレイしたとき
これのどこが後期だよwwと鼻で笑った記憶があるので正直恐ろしい
まさかあれば司馬昭とはな。
>>330-331で司馬昭について語ったが、何だか大雑把な性格の人間になっているようだ。
まぁ、俺自身も大雑把だし、表面上は豪放磊落な人間なので、
あれはあれで良いのかも知れないが。
俺が三国無双6を買ったとすれば、恐らく、姜維に次いで贔屓して使うキャラになるだろう。
どうでも良いが、鮑三娘はいらんだろ。
いたって構わんが、司馬兄弟出しておいて、蜀の後半の人物は殆ど追加されません、じゃ納得いかないしな。
史実とは違うが、霍弋と陶璜を出して交州戦役を描いてくれると嬉しい。
後は王渾だな。
仮面の人物が司馬師とは予想が付いたが、
その上でもう1人の青(魏カラー)の男前は陳泰たんだと踏んでたのに…。
まあ、司馬昭ならいいか。
あとは姜維の情報公開とともに鄧艾が来たら、文句はない。
淮南三叛とかどういう描かれ方になるかなー。
劣勢側でプレイしてみたい。
ジャンプフェスタあたりで姜維とケ艾の発表きそうだけど
三国後期って言ったら基本的に姜維、ライバルのケ艾ってイメージだろう
後期やるならこの2人の発表時期は外しちゃならん気がする
個人的に陳泰、羊祜、杜預は晋勢力でくるとおもうんだが
陳泰は晋扱いして欲しくないと思う
どちらかというと、諸葛誕と文欽・文鴦親子との戦いが主軸になる予感
それにしてもこの面子で若い趙雲って謎
陳泰は司馬兄弟の親友だが、晋に仕えてはいないし、
曹髦が死んだ時のやり取りとかを考えると魏だろうと思う。
まぁ、晋に仕えてるかどうかを基準にすると、司馬師も外れてしまうが。
司馬師たちとの繋がりで魏か晋か決まるとすれば、
ケ艾なんかも晋になるだろうね。
むしろ、姜維のシナリオをどうするかが気になる。
延々と北伐した上、最終的には蜀の滅亡に行くシナリオなんだろうか?
>>674 諸葛誕の乱は確実にステージになるだろうね。
なんたって、当時の魏のオールスターに近い面子だから。
司馬昭、陳泰、裴秀、鍾会、王基、陳騫、石苞、州泰、胡質、胡烈、魯芝らが揃ってる。
荊州も一緒にステージに含めれば王昶も出るしね。
しかし新キャラは読みづらいな。
流石に五丈原以降がメインの人物だけで10人はいかないだろうし、
どういった人選で来るのか分からない。
司馬師と司馬昭で枠を二つも使っているので、残りはやはりメジャーどころだけだろうか?
魏と晋ではケ艾と鍾会に加えて呉討伐ステージの為に王濬と王渾と杜預?
王渾は入らなそうだな。あとは羊祜か。
呉は陸抗と張悌くらい?
王基、王昶、施績辺りは欲しいが、難しいだろう。
諸葛誕は間違いなく入るでしょ
となるとさらに枠が限られるね…蜀は本当に姜維一人かも
最初の大きなイベントが姜維と趙雲の一騎打ちで、新旧ダブル主人公とかやりかねない。
少なくともOPムービーはそんな感じになりそう。
とりあえず曹髦挙兵で司馬氏ヌッコロせるIFがあれば嬉しい。
>>679 個人的にその一騎打ちは天水にイベントとして欲しい
製作陣からしたら主人公の趙雲が姜維に引き分けるなんてのはやりたくないだろうけど
あれは一つの世代交代を表してて好きだ
北方みたいに趙雲が姜維の槍の師範みたいにして後期で顔出すのもいいけど多分それは星彩に取られるだろうな
発表会で流れたOPらしき映像ではは趙雲と夏侯惇の戦いらしいよ
後期、呉末までやるなら姜維、司馬昭、ケ艾、杜預、丁奉、陸抗は選ばれていいと思う
晋を増やしたいなら羊祜、羊祜はケ艾の補佐役も出来るだろうから対の姜維に夏侯覇
ここまでが最低限そろえて欲しいライン
>>681 俺もあの一騎打ちは大好きなシーンだしゲームのオープニングに相応しいと思うけど、
趙雲に限らず常連武将の扱いは熟考してほしいわ。
後期武将が常連に全部持っていかれる三国無双Destinyになりそうな予感がある。
>>683 確かにOPは後期で一番知名度ある姜維と趙雲の一騎打ちは相応しいと思う
リストラやマンネリで無双を離れた人や、媒体に飢えてる後期好きにはいいアピールだし
ホントは出来れば後期は今の三國無双の外伝として出して欲しかったけどな
既存武将は司馬イ(諸葛亮もか?)を老けバージョンで出すぐらいで、ほぼ新キャラで固める
確かに常連がでしゃばりそうで今の三國無双本編では後期を出して欲しくなかったのはある
だからキャラ発表も鮑三娘じゃなくて姜維でよかったと思うわ
多分情報に中だるみがあったときに姜維とケ艾あたりを一緒に出して注目を集める算段だろうけど
ドンタコス帽子のケ艾と姜維が出てくるOPでもいいぜ
多分司馬兄弟に持ってかれそうだが
OPらしき映像は既存武将ばっかりらしい
キャラ自体は簡単に差し替えられるから今出てる映像で内容はまだ判断できないな。
でも結局、黄巾からスタートってのは後期のネタを掘り下げる意味では勿体無い。
黄巾からで廖化が出なかったらショックだ
実は演義を読んでも廖化が黄巾の乱に参加してたなんて話は無いんだけどね。
廖化の初登場は関羽の五関突破の時で、その時の要望は「少年」とされている。
黄巾を身に纏い、黄巾の余党だという話はあるけど、184年の黄巾の乱に参加したとは書かれてない。
実際、「少年」という記述を考えれば、廖化の生年は演義でも185年前後だと思うよ。
ま、廖化の実年齢は史料で概ねケリがついてるし、そちらの方が
当然ながら現実味も高い
超高齢説やそこから派生した二人説を叫んでる人間は演義すら
たいして読んでないんじゃないかという気がしてならんわ
しかしコーエーのゲームでの最終シナリオ
廖化 94歳
のインパクトは捨てがたい…
OPはまだみたいだね
PVと3Dデモが流れただけみたいだ
姜維と趙雲の一騎打ちあったらいいな
司馬師と司馬昭が出るという事で、恐らく曹爽誅殺は描かれるだろう。
そこは流石に史書にある通りの設定でやって欲しいね。
司馬懿は司馬師とだけ計画を練り、司馬昭には直前で告げられる。
落ち着いてる司馬師と不安で座ってる事すらできない司馬昭という対比。
見た目的にも性格的にも、上記の流れが兄弟には合ってるだろう。
>>692 無双のゲーム記事によると弟の方が大雑把な性格だって書いてたぞ
逆に
師「父上はああおっしゃってらしたが、大丈夫だろうか…」
昭「ま、なるようになんじゃね?」
みたいな感じになるかも
司馬昭の野心はみんなお見通し=大雑把 っていう単純な解釈もありうる
姜維・諸葛亮・司馬イが発表されるまったく感じがしないな
ついでに同じ軍師扱いの周喩も
次の発表はもしかしたら君主勢とその周辺だろうし
電撃の趙雲の紹介欄の「彼は晋にどう対処するのか」的なこと書いてあったけど
まさか、いくら主人公だからって出張ってくるとかじゃないよな…
ゲーム誌のライターがどこまで把握して書いてるか怪しいもんだけど、
無双スタッフが寿命を物語に反映させるかも怪しいもんだ。
後期に王元姫と諸葛誕追加(両者とも晋所属)
同時発表武将に蔡文姫と大喬がマルチレイド2をほぼ周到したデザイン
マルチレの姜維に後期臭を感じてたけど、まさかフラグだったとは…
晋が麒麟だから姜維の覚醒のモチーフは鷹ですってわざわざ言及したんだろうか
雑誌の文面は一応製作関係者通すと思うから、趙雲延命フラグかも
こりゃ夏侯覇は蜀、文鴦は晋になってもおかしくない
馬遵配下のまま諸葛亮の罠にかかることなくそのまま蜀を倒してしまうifシナリオはまだか
>>698 歴史が変わるな、それ
郭淮に推挙してもらって司馬イの下に付くとかでもよくね
蜀は五丈原からどれくらい持つかなそれだと
いや、演義とはいえ、単独の策で一度は諸葛亮&趙雲コンビを撃退した姜維が
諸葛亮の弟子扱いされてるのは違和感あるのよ。師匠が司馬懿に変わっても同じと思う。
天水の麒麟児のまま突き抜けたifが見たいなあと。
王元姫と諸葛誕追加で、どっちも晋ということは
鍾会、ケ艾あたりも晋で来るか。
姜維と絡ませられるしな。
後期を描くなら、姜維は誰かの弟子設定はやめてほしい所。
あと司馬炎は司馬昭に吸収されそうな雰囲気・・・
今んところ、後期蜀武将は姜維と星彩だけか
4猛将伝、呂蒙の「星彩を止めろー!」を思い出してウヘァ('A`)となった
諸葛誕が晋ってのは違和感があるな。
確かに司馬氏と縁戚だけど。
諸葛誕で晋なら鍾会やケ艾も晋になるって事だろうな。
個人的には白虎文さんの登場が待たれる。
魏に対して反乱→蜀に降り姜維と共に北伐→蜀滅亡後に涼州で再度反乱
という流れになるので、シナリオ的には十分実現可能だし。
どうせ王元姫を出すなら、夏侯徽も出した方が良いんじゃなかろうか?
夏侯徽毒殺をどう描くかで脚本家の力量が見れそう。
どうでも良いが、無双の司馬師は若い頃に何晏らとつるんでやんちゃしてたようには見えないな。
あれは姜維を後継者として強い印象を持たせたかったのか
単に手ごわい敵をさらに上回る策を用いて降したというすごいという印象を増したかったのか
羅貫中としては後者かね
>704
ケ艾は晋でもいいけど、鐘会はそこまで単純じゃない希ガス
>>707 話を作る上では晋が一番収まりがいいでしょ。
袁術ポジションでトリックスターを演じてくれるはず。
ケ艾は変に美化しないで泥臭い所を上手く残してほしい。
今作における魏と晋の住み分けがいまいち分からないね。
五丈原以降って魏対姜維みたいな印象だから
蜀の追加武将はどうしても姜維に関連して考えちゃうんだよな
逆に星彩とか鮑三娘とかどうやってそこにねじ込むんで来るのか正直怖いわ
まぁ鮑三娘は後期枠ではないと信じたい
一番心配なのは蜀滅後だけどな
今回は黄巾から晋成立まで一通りながすとして
次回は後期は別にしてマニア向けにひとつ…
>>710 まぁ、魏で「蜀が恃みとしているのはただ姜維のみである」なんて詔勅が出るくらいだからね。
蜀に関しては姜維を絡めないと成り立たない感はあるね。
無双4で姜維とまったく絡みのなかった星彩がここにきて姜維の北伐に従軍してくるとは思えないし
後期で出ても成都での最終決戦で劉禅と一緒に出てくるぐらいの捏造しないと無理な気がする
>>712 詔勅ネタ出ると面白そう 姜維のラスボス感上がる
ただ張翼と廖化は脱モブなさそうなんだよね
肥は張嶷とか傅僉とか選んできそう
個人的に夏侯覇は確定だな 司馬昭の「不倶戴天ってやつか〜」が夏侯覇としか思えない
成都を囲むトウ艾軍を撃破、返す刀で鍾会を撃退、みたいなシナリオはあるかな?
それよりは鍾会と組んで独立のほうがいいなあ。
とりあえずケ艾鍾会あたりを発表して欲しいな
人選がものすごく不安だから早く安心したい
ストーリーモードは勢力別だからなぁ。
鍾会の反乱が最終ステージになるとは思い難い。
もっと大規模な戦役を最終ステージに持ってくるような気がする。
クロニクルモードの方ではあるかもしれないけど。
無難に成都が蜀シナリオの最終ステージになるのかねえ
反乱ステージ面白そうだけど蜀滅亡後なのが惜しい
>>718 あれも、沓中、漢中、剣閣、成都辺りを包括して一個の戦場にするのか、
或いは剣閣とかにスポットを当てるのかで描き方が変わりそう。
蜀は君主キャラがどうなるんだろう。
脱・情けないキャラの劉禅か、いっそ無視して劉ェか。
>>720 劉禅は一切戦場に立ってないからね
多分総大将はほとんど姜維が勤めるんじゃないかね
個人的に劉禅はどうでもいいけど、前線に立ってないキャラがこれ以上PC枠埋めるなら
多少マイナーでもちゃんとした武将出して欲しい
ステージ毎にプレイキャラが変化するって書いてあるけど、
まともにやろうと思ったら最終ステージ以外劉禅を出せる場所が無い。
北伐とか南中に劉禅が出張っても、一部の劉禅オタ以外はしらける気がするし。
あと何人くらい後期蜀に追加来るのかね
女とモブばかりの北伐はさすがに嫌だw
可能性として鮑三娘と関索と半オリキャラ星彩が姜維と一緒に北伐は
さすがに後期末期を馬鹿にしてるというか、
ただ晋が出したかっただけなんじゃ…で終わるぞ
星彩が都に引っ込んでる劉禅から離れて遠征についてくるとも思えんし
マイナーすぎな武将を出してくるとも思えん
諸葛誕レベルなら夏侯覇、張翼、廖化、張嶷、傅僉、羅憲…いっぱい候補いるだけどな
>>724 多分ジョミニアンも知らない情報
光栄の三国志2についてた武将列伝には諸葛誕が載っていたが
後期蜀メンツのそいつらの中でいたのは夏侯覇だけだった
コーエー的には辛うじて夏侯覇くらいしか評価の対象にならないんじゃないの?
沈瑩や周旨あたりは出ないんだろうな
最後の征呉戦あたりでの腕っ節キャラとしてうってつけなんだが…
諸葛誕の知名度レベルなら張嶷以上は全然可能性あるとは思う
蜀は魏より有名武将が少ない分、能力うんぬん差し引いても
後期の中じゃ知名度はある武将はいるのはいるし
蜀後半は、「〜が居なくてはステージとして成立しない」ってのが姜維くらいだからなぁ。
姜維時代の武将を入れるとしても、ある程度人気ある人物から適当に選ばれる気がする。
さすがに黄巾の乱から居ると萎えるが、廖化なら千里行からずっと出張れるし、
知名度も三国志ファンの間じゃ結構あるから、無難なのは廖化だろうと思う。
>>725 智将・猛将・君主に分けて立伝されてるアレだろ?
あれは吉川版ベースで三国志のあらすじも分るように考えて人選してるから
光栄の人物評価とか全く関係ないよ、王双とか入ってるし。
廖化来るなら張翼も欲しいなあ
でも蜀は関索来るだろうからあと一人くらいしか増えなさそうなんだよな
関索ほんとに来るか謎
肥は美丈夫ってしてるだけで声優が勘違いしただけかもしれん
後呉滅までやるなら個人的に羊祜より杜預優先すべきだと思うがなぁ
それも司馬昭に吸収されるんだろうか…
羊祜は陸抗との絡みもあるし、婚姻関係ネタもおいしいから
優先順位を下げるわけがない
>>722 一部の劉禅オタ
101匹リプレイのことかー!
だよなー。羊コと陸抗は、肥が腐人気を無視するとは思えん。
賈充や衛カンは出ないだろうが、大事で足を引っ張る(ゲーム的な意味で)人物には
モブでもイベントがあればいいな。
羊コとか陸抗とか出んかもよ
司馬昭をプレイヤーキャラとするなら、ラストバトルは蜀攻め(&鍾会の謀反未遂)だし
なんか後期の自軍武将のいいとこだけ司馬昭に吸収させて
司馬昭すごい、これでこそ主人公!みたいな感じで終わる気がしてきた
司馬一族の中華統一を邪魔する蜀の姜維と呉の陸抗(仮)討ち取ってかっこいい、みたいな
司馬師は死を持って司馬昭を目覚めさせる英雄で
ケ艾も鍾会も杜預も羊祜のおいしいトコ全部司馬昭に吸収されてたら泣けるレベルじゃねーよ…
本スレでキャラ数60人以上65人以下が硬い、みたいな流れだから本当怖い
本当に65人以下なら夏侯覇と丁奉陸抗いれてくれ、もう晋はいらない
↑被害妄想乙
司馬昭には、「これは景王の天下である。どうして私が与れようか」という台詞が必須だと思う。
しかし、あの軽い司馬昭には似合わないね。
司馬師亡き後は、兄の志を背負って戦っているという悲壮な意志が司馬昭には必要だね。
今週は新情報なかったからここも静かだね
しかし2年前にネタで立てたスレの企画が本当に実現するとはなぁw
いっそのこと肥は三國無双シリーズのテコ入れとして
ジョミニアンをスーパーバイザーに迎えたほうがいいんじゃないか?w
間違った、5年前でした
年季が並じゃないですね
どれだけ後期にステージ割いてくれるかまだ全然分からないけどな
極力期待しないように努力してる
肥のことだからこのスレをちょっとくらい参考にしててもおかしくない気がする。
ただしストーリーとかでやっぱり、変な方向にいっちゃう可能性も充分あると思うけど。
そう言えば、三国無双4が発売する頃に出来たスレだから、もう5年半になるんだな。
今年の夏で10周年だから、無双の歴史の半分以上の期間をこうして主張していたわけか。
ようやく希望が実り始めたわけだし、歴ゲ本スレからこっちに人を呼び込めれば嬉しいね。
もっと賑わってもらいたいもんだ。
後期つまんねえのブーイングが増えたりしないといいけどなあ…
それはコーエー次第だろうけど、いずれにせよ知名度はアップするので、
これをきっかけに興味を持って自分で色々と調べる人も増えるだろう。
後期枠は蜀が現時点で姜維だけ、魏・呉はなし(かろうじて陸遜、孫権?)って現状がな
先週の曹操ら10人の発表の際、姜維がいなかったことは
姜維と晋以外の新しい後期武将たち一緒に発表するためとは思ってるが…
もしかしたら晋キャラvs姜維+蜀後期武将vs呉の後期武将でどーんと雑誌に見開きでプロモーション…ないな
目玉のステージになるかもしれない諸葛誕の乱の参加者を抽出してみた。
・魏
曹髦、司馬昭、陳泰、賈充、鍾毓、鍾会、裴秀、胡奮、
王基、陳騫、石苞、州泰、胡質、魯芝、胡烈、司馬亮
龐会(路蕃と共に寿春を脱出、討伐軍に加わる)、路蕃、
孫壱(呉将、朱異に攻撃され帰順)、楽綝(開幕で諸葛誕に斬られる)、
・呉及び諸葛誕
諸葛誕、蒋班、焦彝、
文欽、文鴦、文虎、唐咨、王祚、全懌、全端、全禕、全儀、全靜、于詮
孫綝、孫恩、朱異、丁奉、黎斐、陸抗、任度、張震、
こんなもんか。史実の面子だけでも相当数が多いな。
諸葛誕周辺が少ない気がする。漏れがありそう。
続いて姜維の第三次北伐
・蜀
姜維、夏侯覇、廖化、張翼、柳隠、傅僉?、趙広?、来忠、楊戯、蒋斌?、王含?
・魏
陳泰、王経、ケ艾、胡奮、王秘、陳騫、司馬孚、王頎?、牽弘?、楊欣?
当時の涼州刺史とか各郡の太守が分からないから、魏側は不明な点も多い。
蜀の方はもっと分からない。
ゲームのステージにするなら、やっぱり色々水増しするしかないね。
もともと無双ではモブもPCも、寿命延ばしや参戦してない戦いへの強制参加が恒例だしなあ。
逆に特定の戦いにしか参加していない武将の存在消滅とかも結構多いし。
名前を出した人でも、1/3か1/2くらいはカットされるんじゃないだろうか。
しかしそうやってぽんぽん名前を出せるってすごいな…
>>749 少なくとも無双6ではマイナー武将は例え参戦しててもカットされると思う。
俺としては白虎文とか出てくると嬉しいが、モブですら出てこない可能性が高いし。
ちなみに、
>>747-748はちょこっと調べて書いてる。
さすがに全部の名前をあっさり出せたわけじゃないんだわ。
諸葛誕の乱の呉側なんて、有名どころ以外は殆ど出てこなかった。
文虎の存在すら忘れてたし。
調べてるにしても、どうやって調べてるんだか…
しかし諸葛誕の乱って魏(晋)側は鍾会・賈充に、更に無理やりケ艾を入れれば充分そうで、
諸葛誕側は配下がモブだらけでも問題なさそうだが、
呉側は誰をPCにするべきなんだろうな。
文鴦・丁奉・陸抗あたりかな?
>>747 このメンツの中で俺的に評価が高いのは于詮だな
柴錬三国志でもカッコ良かった
>>751 普通に史書の記述を漁ってるだけですよ。
網羅してるわけじゃないから漏れもあると思う。
諸葛誕の乱にケ艾は難しいかな。同時期に司馬望と共に姜維と関中で対峙してるから。
っても、無双ならありなのかね?
同時期に別の場所で発生した戦に同じ人物が登場した事もあった気がするし。
諸葛誕の乱の呉軍では丁奉と陸抗と文鴦くらいしか複数ステージで活躍できるのはいないかな。
後は朱異がいるけど、朱異よりは施績の方が重要な人物だと思う。
施績は荊州が主戦場だったのでメジャーどころとあまり絡んでないのが痛いけどね。
>>752 于詮は死に様が潔いからかねぇ?
諸葛誕と共に胡奮に斬られたりすると胡奮無双っぽい感じがして面白い。
適当に蜀のステージ候補をまとめてみた。見づらいのは勘弁。
1.黄巾の乱、 2.袁術討伐、 3.呂布討伐
4.官渡、 5.千里行 6.博望、 7.長阪、 8.赤壁
9.荊南四郡攻略、 10.益州攻略、 11.荊南争奪(対呉)
12.漢中攻略、 13.樊城、 14.夷陵
15.南中攻略、 16.第一次北伐、 17.第二次北伐(陳倉)
18.第四次北伐(祁山)、 19.第五次北伐(五丈原)
20.汶山羌、南夷平定(230年頃〜240年頃)、 21.興勢の役、 22.羌胡の乱
23.麹山、 24.第一次北伐(南安)、 25.第二次北伐(徐質撃破)
26.第三次北伐(洮西の戦い)、 27.第四次北伐(段谷)、28.第五次北伐(長城)
29.第六次北伐(洮陽・侯和の戦い)、 30.征蜀、 31.白帝城
意外と少ない。
姜維の北伐なんて全部はやらないだろうし、仮に25ステージだとすると結構網羅できそうだな。
演義では蜀っていうか劉備も董卓討伐に参加してるので、虎牢関が追加ですね。場合によっては水関も。
あとは公孫サン時代や曹操への反乱も含めればもうふたつかみっつくらい戦を追加できそう。
しかしこうしてみるとやっぱり後期は小粒な戦ぞろいだなあ…
いったいどこまでカットせずにやってくれるのやら。
>>755 そういや虎牢関とかあったね。
演義は全然頭に無かったので忘れてた。
演義ベースにすると姜維の北伐も内容が変わっちゃうのがちょっと嫌だね。
洮西の戦い〜段谷までの流れは描いて欲しいね。
絶頂からの転落が凄いし。
実は姜維の第三次北伐は魏軍も相当動員してる。
もともと雍州刺史が動かしていた隴西の諸軍に加え、
陳泰率いる関中都督の軍、涼州刺史麾下の軍、ケ艾ら中央からの援軍第一陣に司馬孚の第二陣がいる。
恐らく総数は10万以上になっていたはず。
もともと無双は演義ベースだから、たぶん妄想どおりにはいかないと思うよ。
そもそも正史ベースにするとなるとキャラクターから戦場から、結構な部分を刷新しないといけなくなりそうだし…
文欽出るのかなー
諸葛誕よりは出自とか地味だけど、出てほしいなあ。
カン丘倹はもう諦めてる。
>>757 まぁ、そうなんだろうけど、俺は演義の北伐あんまり好きじゃないんだよね。
ケ艾との陣立て勝負とか何が面白いのか分からない。
長蛇捲地の陣とか言われてもわけわからないしね。
アレクサンドロス大王のような戦術こそ至高。
だからこその洮西の戦い。
無双だから戦術とか関係ないけどね。
>>758 毋丘倹も毋丘倹の乱では主役だけど、文鴦辺りがPC化してればステージ的には問題ないしね。
文欽は文鴦との二者択一と言うか、どっちかがPCならどっちかはモブのような気がする。
今週来るであろう新情報に、何か期待させるものがあると良いが。
後期ステージは晋よりは嫌だな
まずそれが条件 北伐前半もセレクトして、ちゃんと姜維が結果を出してるステージも出して欲しい
異民族の反乱鎮圧は無理そうだけど、荻道と洮西は欲しい
あとは段谷は後詰めがミッションによって来る来ない、にするとか
魏軍は基本援軍でいいかな 物質量の差を感じたいね
後詰めが来る段谷は自分も妄想してた
狙っても滅多に成功しないようなクソ条件だと燃える
史書の記述に沿って言えば、段谷において胡済がこれなかった理由の一つに、
姜維の想定した計画段階での作戦期間と、実際の作戦期間との間に乖離があったことが挙げられる。
したがって、胡済到着を満たす為の条件として考えうる要素としては、
・祁山を奪取する。
・羌胡から更なる支援を取り付ける。
・ケ艾を西方に釘付けにしつつ、大胆な迂回機動を以って
ケ艾に先んじて上邽周辺に到着し、その地の麦を大いに刈り取る。
などが考えられる。
いずれにせよ難しい。
>>763 なんか聞いただけで面白そうなミッションだわw
>>764 こういうのを無双で再現するのは難しそうだけどね。
何せ一騎当千をテーマにしてるゲームだから。
戦国無双ならミッションゲーだから、そういうのの再現はできるだろうけど、
三国はそういう方針じゃないんだよね。
まあミッションゲーになっても、史実どおりにはいかないだろうけど。
>>767 ほー、補給切れてんのにこんだけの機動しまくる姜維もすごいが、これを追尾して補足するトウ艾もすごいな。
トウ艾プレイで姜維を胡済と合流する前に撃破せよ、みたいなシナリオ面白そうだけどね。
>>768 両者の状況を鑑みれば、物資が欠乏している姜維はケ艾を早急に駆逐する必要があり、
ケ艾は姜維が枯れ死するのを待てば良い。
ケ艾が胡済という援軍の存在を把握していたとは思えないしね。
だからこそ姜維はケ艾との接触を絶って迂回や遅滞をするという行動に出ず、武城山での会戦となった。
段灼の言を信じれば落門での戦闘も存在している。
この時の姜維は明らかに決戦を求めているんだよね。
こういった事情や状況を無双で再現するのは難しいよね。
敢えて設定するのなら、姜維が魏軍の物資集積地に侵入する事を防ぐ感じになると思う。
当然、姜維は呂布クラスに強化された状態で。
一定のダメージを与える事で姜維が目標を変えるとかの行動パターンにして。
ケ艾が拠点を守り続ければ姜維が次第に弱体化していく。
でもあまりに時間を掛けすぎると突然胡済が物資と共に登場し、姜維の強化度が回復すると。
そこまでいくと強化姜維とまともに決戦せざるを得なくなる形。
しかし情報が来ないねぇ。
ストーリーモードは操作キャラ1人固定とかその辺くらい?
今週は何かしら新情報が来て欲しいものだ。
今週も情報来なそうだね
せめて既存キャラだけでも小出しにしてくれればいいのに
欲を言えば後期新キャラ発表が欲しいけど年明けとかになるのだろうか
えっ?
今週も情報無いの?
ごめん、電撃になかったそうだからないものだと思ってた
今日ファミ通来るらしいから情報あるといいね
ファミ通のフラゲ情報に拠れば、今週もないっぽいね。
まぁ、発売までまだ時間もあるし仕方ないと言えば仕方ないけど。
どうでも良いが、未だに落門の戦いの合理的解釈が思い浮かばない。
敵に弱点を見せる事で決戦を惹起すると言うパターンはロスバッハの戦いなんかがそうだけど、
地形や条件も違うのでそのまま当てはめる事は出来ないね。
当時のケ艾と姜維の状況から落門周辺で決戦を生じさせるのは難しいね。
こないだの最強武将伝三国演義であったような兵法の理にかなってない陣形をわざと作っておき
敵が来たら即座に組み替えて反撃…なんて本当に出来るんだろうか
そのまま間に合わずに踏み破られる危険も結構ありそうな気がする
普通なら弱点を作るなんて事はしないけれど、
敵にとって決戦に利は無いがこちらにはある、
という時はわざと弱点を作って敵に決戦をさせるという方法も取られる。
ただ、行うとなれば周到に準備する必要がある。
例えば、わざと翼側に軍を配置せず、敵に翼包囲という餌を与える。
開いた翼側は鉤型陣で対応すると共に、なるべく敵が延翼するよう仕向ける。
翼が伸びれば中央に間隙が生じるのが道理なので、そこに予備を一斉投入して敵隊列を突破する。
こういった方法なら戦史にも見られる事だね。
滅茶苦茶な戦術機動は混乱を呼び、かえって隊列を乱す結果になる。
漫画のように自在に陣を組み直す、なんてのはできないと思うよ。
777
フラゲで情報来た
本スレにGo
ちと酒を飲んでてまだ家に帰ってない。
と言うか、これからまた、我が心の主と食事に行くので、
恐らく日付が変わる前には帰れない。
携帯でだが、トウ艾と鍾会、それに郭淮と馬岱の名前は確認した。
郭淮と馬岱はまさか…だね。
郭淮は姜維を推挙した元上司、そして、
馬岱と馬超は姜維の父の仇として扱ってくれると嬉しいが、
そんな事はあるまい。
今帰宅。
フラゲ画像も確認した。
まぁ、あんなもんじゃないかな。
ケ艾と鍾会をきっちり登場させた事は評価したい。
馬岱・郭淮・鍾会・ケ艾の参戦が明らかになりましたね。
正史基準で言えば馬岱が微妙かもしれないけど、だいたい妥当な線みたいですね。
しかしまさか郭淮にスポットが当てられるとは…
郭淮病弱設定ってのも何だな。
まぁ、新キャラの面子的に姜維の北伐を大きく扱うのは間違いなさそうだ。
呉の扱いがどうなることやら…
一部では孫権と陸遜が延命するとか、
諸葛誕の乱くらいでしか出番がないとか散々な予想がされているが…
郭淮さんは姜維に射殺されるという名場面があるからな
先に北伐組でファンのテンションを上げて、後から呉方面を公開にするんじゃ?
羊祜や杜預がまだ出てきていないからね。
きっとそうだと、思いたい…。
羊祜は人気が高いけど厳しそう…
延命とか活躍捏造を駆使しない限り、無双の戦場になるような大きめの戦いは、
西陵の戦い(羊祜・歩闡VS陸抗)くらいしかない。
羊祜は戦場での活躍はあんまり無いからね。
ケ艾も鍾会も郭淮も、見せ場を作ろうと思えば作れる。
羊祜は西陵の戦いになってしまうが、それは負け戦だから。
まぁ、陸抗が出るなら羊祜も出さないとしまらないと思うけどね。
俺個人の意見で言えば、陸抗オタは嫌いなので陸抗が出ようが出まいがどうでも良いけど。
羊祜は割りと好きだけどね。
でも陸抗がいないとマジで陸遜を延命するくらいしかないからな。
それか、呉だけを蚊帳の外にするかだが。
>>788 それは西陵をスルーするか否かって事だよね。
蜀滅亡後に晋と呉で起こったそれなりの規模の戦役は、
交州、豫州、西陵、晋による統一くらいかね。
蜀滅亡後の一発目が魯淑と薛瑩率いる号十万の軍が王渾の五百に撃退された戦いじゃ、
呉があまりにもかわいそうだな。
交州は交州で楊稷対陶璜という地味極まりないステージだし。
かと言っていきなり天下統一ステージってのも何だしな。
陸抗頼むよ陸抗
好きだから出てくれたら死ぬ程嬉しい
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 15:57:58
Jominianが他人を見下す残念な人と聞いてやってきましたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:00:58
\、,,)r゙''"''ー弋辷_,,..ィ
=、..,,,ニ;ヲ_ ヾ彡r''"
``ミミ, i'⌒! ミミ=-
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793 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:01:40
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794 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:02:27
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795 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:03:18
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796 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:04:02
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結局こうなるんだよな
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:04:49
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799 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:05:30
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800 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:06:11
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無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:06:53
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このやり方…
ゲロセンチか?
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:07:34
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804 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:08:15
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805 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:08:57
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806 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:09:40
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807 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:10:21
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808 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:11:02
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809 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:11:15
狂ってるな
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:11:43
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811 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:12:24
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814 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:14:27
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815 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:15:09
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コテ厨の狂気を感じる
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:16:56
考え無しに暴言吐いたJominianが悪い
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:17:10
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819 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:18:04
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820 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:18:13
Jominianは切腹して詫びろ
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:19:24
にわかコテに三戦板の主導権を握ってほしくないんだよね
Jominian?ちょっと知識があるからって調子に乗るなよ
キモい三国志オタクの分際で
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:19:39
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823 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:20:20
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824 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:21:01
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825 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:21:06
教養の無い穀潰しJominian
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無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:21:42
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無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:22:26
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828 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:22:42
Jominian出てこぉ!
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:23:19
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830 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:24:09
三国志オタクきめぇんだよ!
Jominianっていつも本ばっか読んでて人と付き合ったことないんだろうなw
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:24:10
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832 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:24:57
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833 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:25:42
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834 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:26:00
寂しい子供だったJominianwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:26:29
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836 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:27:19
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837 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:27:24
Jominianの母親は売春婦であった。
500円渡せば誰にでも股を開いたので、付いたあだ名はワンコイン女。
しかし醜い容姿のため、その破格の低価格をもってしても抱く男はほとんどおらず、
しかたないので専ら公園や河原で寝起きする浮浪者相手に春を売っていた。
そのような生活を送る中で彼女は妊娠したが、中絶費用が無かったために不本意ながら出産した。
そうして産まれてきたのがJominianである。
つまりJominianの父親は名前も知らない浮浪者であり、Jominianは母親からも望まれない子であった。
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:28:00
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839 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:28:18
Jominian釈明しろ
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:28:40
一体なにがあったの?
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:28:45
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842 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:29:47
知識しか取り柄のないキモい三国志オタクの末路wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 16:29:49
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844 :
無名武将@お腹せっぷく:
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