三国志末期と晋 再評価スレPartII

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69Jominian ◆Henri9gNlM
江南諸軍事というのも興味深い存在だと思う。
これが初めて設置された時、荊州諸軍事王基が新野に、江南諸軍事州泰が襄陽に鎮するという形であった。
その後、陳騫が州泰に代わって江南諸軍事となり、次いで荊州諸軍事となった。
陳騫が荊州諸軍事となると、今度は王沈が江北諸軍事となる。
それから数年の後、羊祜が荊州に赴任して荊州諸軍事となると、江北諸軍事が廃され、代わりに南中郎将が置かれた。
しかしながらその七年後、再び江北諸軍事が置かれて胡奮がその任に就き、
翌年羊祜が死ぬと代わって杜預が荊州諸軍事となった。

この辺りの流れを俯瞰すると、甘露四年に荊州に二人の都督が置かれるようになると、
新野に駐屯する都督を江北諸軍事、襄陽に駐屯する都督を江南諸軍事と呼ぶようになった。
そして両者の内で重きをなす方が荊州諸軍事と呼ばれたのだろう。
都督が二人と言う状況は羊祜の赴任と共に一旦廃止されるが、その晩年になって再び配置される事になる。
これは羊祜と何攀の考える征呉戦略によるものだろう。
羊祜らは、「荊楚の軍」と「平南の軍」という表現を用いているが、
ここで出てくる「平南の軍」というのが江北諸軍事の軍勢を指しているのだろう。
彼らの計画では、江陵と夏口とを同時に攻撃する必要があるので、都督の再配置が必要だったという事だと考えられる。

では何故、羊祜の赴任する十年も前に荊州の都督を分割したのか?
俺は王基の発案に拠るものと見る。
王基は251年頃、呉を討伐せんと欲する朝廷の議論に対して、地勢を鑑みつつ、
「軍備を充実させ大軍によって江陵(+夷陵)と夏口を同時に攻撃する事ができなければ、呉を攻撃するべきではない」と述べている。
王基はその直前、王昶指揮のもと、州泰らと共に、この王基の提案に似た作戦で呉を攻めているが成功しなかった。
この失敗から、荊州の戦力増強と、大きな権限を有する二人の司令官の必要性を感じ取ったのではないだろうか?

250-251年の戦役に参加した王基と州泰はこの後荊州を離れるが、
259年に再び荊州に戻ってくると、王基は荊州諸軍事、州泰は江南諸軍事となっている。
分かたれた時の都督がこの二人だった事は、決して偶然ではあるまい。