1 :
上杉実元 :
2007/12/22(土) 01:17:36
2 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/12/22(土) 01:52:46
なかったよ
クソスレ立てんな! 削除依頼出して来い!
5 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/12/22(土) 21:12:29
上杉>>>>>>>>>伊達
上杉輝虎>>>>>伊達輝宗 上杉景勝>>>>>伊達政宗
7 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/12/23(日) 22:50:20
伊達が惨敗した事実www
結局、伊達が負けたんでしょ?
またクソスレ立ってるクマ‥ |:::::::::::::: |i___∩:::::: | ,ノ ヽ、ヽ::::::: | ● ● |:::::::: | (_●_) ミ::::::: | |∪| ノ::::::: | ヽノ i::::::: ミヽ_ /::::::: |ヾ /::::::::::
10get!
これが本当の糞スレだ!!!!!!!
12 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/12/30(日) 11:35:30
えええええ!?
13 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/02(水) 22:04:44
伊達の負けですwwwww
14 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/04(金) 18:45:42
>すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。 これをみてとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに 伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。一方、福島勢は追い討 ちをかけ、一齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたが、 馬上の政宗は辛うじて難を逃れたといわれる。 苦笑
15 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/05(土) 09:22:54
政宗は臆病だからな 兼続がバカにするのもわかるw
>>15 しょうがないよ。小田原までの政宗は田村愛姫だから。本物の政宗は戦下手のヘタレ。
17 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/08(火) 09:23:47
伊達軍弱杉www
18 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/09(水) 11:52:40
マザコンだから仕方ない。
糞スレ上げんな!
ここは本当に糞スレですね
21 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/11(金) 23:57:55
22 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/16(水) 09:47:49
伊達の負けなんだろ、実際
伊達は上杉に完敗www ざまあwww
24 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/23(水) 10:40:52
伊達軍は戦略性ゼロ
お互いに資料を出して論ずればいいだろうが・・・あっ、ここは雑談スレか
26 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/24(木) 09:23:55
伊達の工作員が、松川の敗戦を、無かったことにしようと しているらしい
27 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/01/29(火) 15:28:19
どう見ても伊達の勝ち
28 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/02(土) 11:27:11
上杉VS伊達
30 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/07(木) 21:00:59
伊達とかザコすぎるだろ・・・・・常考 前哨戦で翻弄された挙句、兵糧奪われて敗走だもんなwww
31 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/10(日) 15:47:36
伊達信者は、伊達が勝ったとかほざいてるけど
32 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/11(月) 00:38:22
伊達信者が嫌われる理由 上杉&佐竹に勝った勝ったと捏造歪曲するキチガイぶり 片目で鬱の逆ギレ糞厨二政宗の撫で斬りDQNなのを信長のような天才とマンセーする低脳ぶり
33get!
34 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/11(月) 11:53:26
伊達大敗→伊達信者の脳内は勝ったと脳内変換w
35 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/11(月) 21:55:24
36 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/11(月) 23:20:27
結局【政宗最強は捏造】を認めざるをえない
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1197266689/l50 伊達厨必死過ぎてワロタwww
事実は
戦は負けまくりなのに片倉小十郎は軍師としてすごいとマジになって口から泡を吐きながらマンセー。
外交は失策だらけで敵作りまくり果ては日本を売り渡そうとしてシカトされて成果ゼロなのに海外に目を向けた織田信長並みの天才とか身の程知らずのマンセーは無礼にも程がある。
内政はいい加減で軽視し戦ばかりで田畑は荒れ果て女子供から家畜まで逆ギレ撫斬り皆殺し。
命欲しさに権力者におもねり影で裏切りまくりの卑怯な行為の数々。
勝ち戦がまるでないため言い訳と歪曲と屁理屈でついには佐竹・上杉に勝ったと情報操作の捏造。
田村氏が諸将と境を接してフルボッコされる中で必死に耐えてきてる中で伊達は安全圏にいて圧力を感じず政宗本人は乱暴狼藉の限りでやりたい放題→
秀吉やってきてやっと現状認識が出てくると見せ物小屋の芸人みたいな卑屈で武士にあるまじき命乞いで他の奥州諸将は見殺し。
江戸幕府が伊達なぞ加増約束でダマしてメンツを潰し褒め殺しで飼い殺ししまくってナメくさってたのになぜか幕府や家康が政宗を恐れてたとか意味不明。
長男に恨み事を言われて御家の危機を招いたと思った政宗は必死だったが伊達なんて幕府にとってはどうでもよかったので存続を許された。
単なるヘタレDQNなのに過大評価と厨二病とマンセーだけを燃料にしてる伊達厨w
37 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/11(月) 23:21:23
伊達厨から徹底的に嫌われ必死に無能だと捏造される直江兼続と上杉家だが、それは以下のように政宗が小バカにされまくってきたからであるw 景勝の代理として大坂城に上った際、伊達政宗が同席の諸大名に「めずらしいものを」と天正大判を回覧した際、素手ではなく扇子で受け、 撥ねるようにして表裏を見たという。政宗は、兼続が陪臣であるために遠慮していると思い「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」といったところ、兼続は 「冗談召さるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては先代・上杉謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」と、政宗の膝元へ投げて返したという。 後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、兼続は知らぬ顔で会釈をしなかった。政宗が「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると 「これはご無礼いたしました。これまで兼続は中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる間柄だったゆえ、(戦に負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、 お顔を存じ上げませんでした」と慇懃に答えたという。
38 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/12(火) 09:35:07
直江は性格悪いな。伊達より家柄低いクセに。 だいたい、戦に負けたのは上杉のほうだろ
>>38 負け戦を勝ち戦に捏造してんじゃねーよw
家柄でも直江は伊達より上
40 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/15(金) 15:23:28
伊達のキモいところ 佐竹に勝った 上杉に勝った と捏造してキチガイのように連呼すること。 勝ち戦自体が皆無の大名なのに伊達者の伊達メガネぶりは哀れぶりは失笑もんだw
41 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/15(金) 15:49:10
来年の大河でブザマに敗退する伊達の真実の姿が放送され 伊達の捏造が見事にバレてしまうのは間違いないから伊達厨は今のうちに素直に謝っとけ。
42 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/15(金) 15:59:08
まぁ孤立無援になった福島城を落とせず撤退してるあたり 伊達が敗北したのは間違いない。なんせ相手は上杉の歴戦の猛将本庄だから負けるわけがない。 実績抜群の本庄と必敗大将政宗じゃ勝負にならねぇ。 同じ孤立無援だった庄内地方全域を最上はすべて奪い取ることができたのに なぜ伊達は福島城ごときすらも取れないで撤退するってんだよw なんせ戦場は伊達の発祥地で住民は伊達への帰属意識が非常に高い地域 つまり上杉の方が不利でアウェーな場所なんだぜ。 もし伊達が圧勝してんなら家康だってかなりの加増をしてくれたはずだぜw 伊達の言い分は矛盾だらけwむしろ伊達大敗で家康が上杉武力討伐の方針を撤回したんじゃねーのか?
伊達歴史的大敗→無かった事にする
44get!
45 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/16(土) 05:48:42
本庄繁長は創作では野戦で大勝したことになっているが、 実は福島の桑折付近(瀬上町、宮代)でサンドバック状態にされてたんだってな。 徳川家康が上杉を福島城下まで押し込んで、上杉勢を多数討ち取った政宗を讃え、 来春雪解けを待って、第二次上杉征伐をしようと文書を残している。 上杉はこれに怯え、翌慶長6年3月頃までに徳川に頭を下げ、講和がなり、7月に 上洛して実に「90万石」を減封されることになる。 尚、不思議なのは本庄繁長だけは何故か延々と伊達と「戦い」をつづけており、 「慶長6年4月26日」に「須田長義」と伊達軍を「挟撃」して伊達に「大勝」した と宣伝しているが、これは「東国太平記」の記述であり、無論創作のお話。 風野マッチーの「奇策」等の小説のネタになっている。 前スレでは、最上と伊達に負けた上杉の集団ヒステリーと幻覚、「上杉河童」説まで 出たが、案外核心をついている。 残念ながら、上杉の戦果は「小荷駄隊」確保のみなのだから、情けない。
46 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/16(土) 10:16:50
>>45 伊達信者の長々とした捏造乙。
大敗した上に捏造って恥の上塗りだな
47 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/17(日) 02:37:50
48 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/17(日) 02:57:34
初陣の相馬戦では相馬が偽って兵を引くと低能政宗は血気に逸り家臣の諫めも聞かず追撃し包囲され 家臣が我が政宗なり〜と身代わりになってる隙に敗走。 家督を継ぐなり友好的だった葦名を奇襲し関柴の戦いで葦名に大敗。 大内攻めに大苦戦し逆切れして民衆撫で切りの愚行。 父親を謀殺したあげく二本松城を真冬に攻めて大失敗。 さらに狭い隘路の要害に野戦陣地を築き鉄砲隊を揃えておきながら わずか半日の戦いで伊達軍半壊したので佐竹は撤退。もちろん追撃なんてできるわけがない。 崩壊した伊達軍も二本松攻めせずに退却し佐竹の二本松救援成功。 大崎に超大敗。窪田の戦いでもビビッて要害に立てこもり同盟してる北条の動きに一縷の望みをかけ撤退するのを待つばかり。 政治外交でも佐竹義重に敗退し葦名の養子が佐竹次男に決まる。続いて岩城への養子縁組まで佐竹の三男に決まるセンスの無さ。 惣無事令が発令され中央政治外交の情勢分析ができてる諸将は武装を緩め秀吉との外交に集中してるのにDQN政宗は御家改易への想像力が欠如し これ幸いと火事場泥棒をし三代続けて早世し弱体化した葦名に大苦戦。結果、空中分解し葦名自爆。 葦名亀王丸2歳・二本松畠山国王丸11歳・葦名義広14歳を滅亡に追い込む姑息な弱いものイジメでガキハンター。 北条に都合がよい情報のタレ流しを盲信し続けギリギリになって事の重大性に気づくマヌケぶり。 自分が奥州の代表とか言いながら自分の命乞いに終始し他の田村ら奥州諸将の弁護をせずに秀吉に改易されるのを見て見ぬフリの卑怯者。 浅はかな謀略で大崎・葛西の乱や南部領で謀反を起こし見事にバレる低能。 スペイン・神聖ローマ帝国に日本を売り渡そうとした売国奴・・・だがローマ側コメントは「だが断る!」と言われたがw 政宗が役に立たない趣味放蕩に走り、政宗の死の翌年にさっそく幕府に頭を下げて借金の申し込み飛ぶ鳥後を濁しまり死後も迷惑。 もうあまりのDQNすぎてあきれるな。
コピペとしてはよく詰め込んであるけど感情をもう少し控えるとよさそう。
50get!
51 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/21(木) 09:32:40
主力を山形に割いて寡兵だった上杉に惨敗www
52 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/23(土) 08:54:49
伊達の負け戦に決まってるよ 奴は、旧領をいいことに庭坂の領民に一揆を起こさせたり、 梁川城でも、横田大学を謀反させたりしたが、 すべて失敗に終わってるじゃないか 梁川城の守りの弱い曲輪を攻めたが、須田大炊介が大改修を 行っていて、奴はビビッて撃退されたんだからな それで、よせばいいのに福島城攻略に強行して、大惨敗をするんだから 攻略も出来ないくせに、勝ったとほざくのは政宗らしい さすが、芦名や二本松畠山の子供領主を滅ぼした武将だよ
53 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/23(土) 10:21:36
野戦では一気に蹂躙された本庄繁長は為す術もなく、福島城に 立て籠もったまま自決すら考えていた。 二度目の攻撃をされていたらひとたまりもなかった。 政宗の惻隠の情で、命を救われることになった繁長は、景勝の支援も得られず、甘粕同様内心忸怩たるものがあっただろう。
伊達厨の戦果の捏造なんて誰も信じないわなw
55 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/23(土) 11:07:11
自決なんて、考えるわけないじゃん 援軍だって、米沢から水原常陸介が庭坂の一揆を蹴散らして やって来てるし、須田大炊介も梁川から伊達の背後に廻ってるんだから 本庄勢の士気は高かったのだ
56 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/23(土) 11:23:41
哀れ伊達厨w
松川合戦で大敗した上杉厨どもが、悔し涙にくれながら 傷をなめあってるスレは、ここですか? w 福島では小荷駄隊を襲っただけのしょぼい戦果のみ。 上杉は最上以下の実力だから無理もないかw
58 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/23(土) 18:02:10
小荷駄隊奪われて、右往左往して 福島城攻略を諦めたんだろ? 小荷駄隊ぐらい、ちゃんと確保しとかないかんぞ 戦にもならない 伊達政宗は、オコチャマ領主としか勝ったことがないからなー 最強の上杉軍に叩きのめされて、自分の非力をいやとう程認識しただろう!!
60get!
>>58 ニダニダするニダ隊のAAお願いします
政宗ごときザコが本庄に勝てるワケがないわ!
63 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/24(日) 12:00:47
64 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/26(火) 09:51:56
伊達の敗北は明らかだよな
伊達弱っ
66get!
厨二病アホ宗の行動はいかにも厨房や腐女子が好きになりそうだw 好きな人の低脳ぶりが窺えるなw
68 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/28(木) 20:46:07
仙台20万石(笑)
松川合戦で大敗した上杉厨どもが、悔し涙にくれながら 傷をなめあってるスレは、ここですか? w 福島では小・荷・駄・隊・を襲っただけのしょぼい戦果のみ。 上杉は最上以下の実力だから無理もないかw
70 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/29(金) 09:33:20
伊達厨の中では「伊達が勝った」ってことになってるのね・・・・ アタマカワイソス
71 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/29(金) 09:53:56
伊達厨真実を知り涙目w
72 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/02/29(金) 19:43:11
伊達殿、哀れじゃのー
date buzama!
74 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/01(土) 22:32:56
75 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/04(火) 17:44:32
本庄は計算高いね
家康も伊達のアホさと弱さにワロタだろうwww
ロクに勝った事すらない伊達が捏造してるだけだろw
よりによって、死ぬほど嫌いな伊達に桑折付近の野戦で大敗w 信夫山に逃げ込んだ敗兵も殺戮された上、福島城下を蹂躙されま くった上杉はどんなに悔しかっただろうか。w その怨念は「東国太平記」などの軍記本で憂さをはらすしか手が なかったのも無理はない。有名な直江の小判の逸話が代表的だが。w 結論、上杉は最上以下だから仕方ない。w
79 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/07(金) 22:06:54
>>78 架空戦記乙w
いくらほえても、伊達じゃ上杉には勝てんw
哀れ立て厨w 妄想戦記で現実逃避www
あぁ間違えたイダテ厨だったwww
伊達大敗w
83 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/10(月) 20:44:16
あったとしても、伊達が本庄にやられて逃げた戦だな
ID表示してスレが立ってたときは伊達の勝ちで決着したのに スレのID表示がなくなると、上杉オタが沸いてくるのは何故なんだろう?
85 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/10(月) 23:56:17
86 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/11(火) 21:43:06
上杉軍>>>>>伊達軍
何だこのすれ( ^∀^)ゲラゲラ
89 :
売国まる韓 :2008/03/15(土) 08:16:16
90 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/15(土) 23:01:56
( ^∀^)ゲラゲラ 戦国板がageてるから 本当はこっちで議論すればいいと思う
91 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/16(日) 06:52:29
「関ヶ原の翌年になっても、1月、2月、3月と伊達軍は何度となく上杉に侵攻してきたが、その たびに上杉軍は巧みな攻撃で撃退した。中でも、慶長6年4月26日には、大規模な松川合戦が行わ れた。政宗は岡左内に二太刀を浴びせられ、青木新兵衛には鎗まで入れられた。 伊達軍は1300近い損害を出し、政宗は命からがら白石城に逃げ帰った」 (上杉の奇書「東国太平記」の有名なあらすじ) 何故か本庄繁長は慶長6年4月なっても「伊達軍」と孤軍戦い続けていた(苦笑)
92 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/16(日) 21:18:28
伊達軍は脆弱すぎる 屈強な上杉軍に勝てるわけが無い
93 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/16(日) 21:51:11
伊達の弱さは見事過ぎ。 政宗の命乞いだけはトップレベルだがw
280:人間七七四年 03/16(日) 15:51 pHv/xSB9 つか結城秀康との交渉開始と嘆願=伊達が完全ストップになると思ってんのかw w w そもそも政宗は関ヶ原の翌年の慶長6年1月にも伊達軍だけじゃかなわないから相馬氏も誘って一緒に上杉領の二本松の月夜畑を夜襲して大敗してるじゃねーかアホw 281:人間七七四年 03/16(日) 16:01 pHv/xSB9 これってさ〜伊達がうまいとこ相馬氏を改易させて相馬領を恩賞に欲してたんだけど、 月夜畑で相馬側戦死者の記録をちゃんと作成してたから江戸で必死に嘆願運動して相馬の改易が免れたんだよな。 そんでもって相馬側死者名簿が伊達大敗の証拠として後世に残っちまったから伊達側の隠蔽捏造がムリなんだよなwww 福島城で大敗したからメインルートの仙道筋が使用できずワザワザ迂回してクソ田舎の山中で夜間に補足され撃滅されるアホ宗w アハハハ上杉に大敗してる事実は隠せませんが何か? 282:人間七七四年 03/16(日) 16:20 pHv/xSB9 5月8日にはアホ宗家臣の石川義宗が上杉領の置賜郡長井荘に火をかけましたって必死に作った軍功を家康に報告してるしwww 家康も「そんなダセェ報告しかできねーのかクソ宗め!クダラネェ報告で誤魔化してないで和賀忠親をとっとと江戸に連行しろや!」とか思ってたぞw その頃の南部家では花巻城で北信愛がパニクったアホ宗を嘲笑してただろうなw アホ宗は「伊達家も終りだ〜上杉に大敗するは、長井荘に放火しただけがやっとじゃ家康の機嫌は良くなるわけねー。またまた裏切り行為だがもう和賀殺すしかねーよ」みたいなw 大崎・葛西の乱でも一揆軍を裏切り謀殺したのにまた裏切り手のひら返しで殺害する悪徳大名クソ宗w
95 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 18:49:34
>>95 いえ
まだ終わってません。
>>94 をみればわかりますが伊達は必死になって家康のご機嫌をよくしようと必死です。
なんせ和賀を上洛させろと家康に恫喝されて困りきってる政宗が家康の心証をよくしようと媚びを売ってる状況です。
もっとも上杉と家康の間では停戦になってますから上杉の伊達戦線は余裕であしらってますがねw
97 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 19:24:54
ちなみに石川義宗とは 伊達一門のへたれ石川昭光の子ですな。
98 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 19:40:58
家康の書状を見ると、福島表の戦いで上杉に殲滅的な打撃を 与えた政宗に満足しているな。 「至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、 福島虎口迄被押詰之由、無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、 被入精之段、難申謝候、来春者早速、景勝成敗可申付候 十月廿四日 大崎少将殿 家康」 (十月二十四日政宗宛徳川家康書状) 上杉征伐は、肝心の上杉が臆してしまい、土下座したため慶長年2月の時点で沙汰やみになっていまったが。
だから政宗が出した実際の感状の証拠出せよ。 家康相手に捏造報告出してるだけだろw だからたった2万石しか加増されねーんだろがw
100 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 19:58:45
伊達に惨敗した上杉涙目だな。 反論しようにも、火坂だの風野真知雄の『奇策北の関ヶ原福島城松川合戦』がソースだから仕方ないかw
2月の家康の上杉征伐が中止になった理由は伊達が大敗した為。 徳川の上杉征伐は2月には中止になったが伊達自体は空気を読む余裕すらなく5月になっても上杉相手に必死コイてるマヌケぶりw
102 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 20:04:58
>>98 どれだけ討たれたかすらわからん書状じゃねーか。
いいかげんな誇張報告だったんだろうな。
苦笑いの家康の表情が浮かぶな・・・完全なリップサービスだなw
本庄の偽計で福島城まで釣られた伊達本体が大敗してるころだなw
だってさ、伊達軍は10月5日に2万で北目城から南下開始だぜ。本庄は6000程度で援軍が望めず孤立してる。 だが6日夜には早くも石川昭光が政宗に撤退進言。 翌7日には北目城に逃亡してる伊達軍だぜ。 伊達が大勝してるなら撤退なんて絶対にしないだろwww
104 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 20:24:40
つーか、第三者的に見ると伊達に勝ち逃げされた上杉が 無性に悔しがってるとしか見えないが…
>>104 ついに根拠なく印象操作かよw
反論できないからって第三者とか装うなよ伊達厨クンw
106 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 21:14:41
そのころ最上軍は上杉の庄内地方を奪い取り余勢を駆って由利地方へなだれ込むだけでなく小野寺領まで奪い取り小野寺滅亡へ。 しかし伊達は上杉に大敗しわずか2日で逃げ帰りましたwww
107 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/17(月) 21:33:23
108 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 01:49:29
109 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 04:03:33
http://www.nihonjiten.com/data/35312.html 松川の戦い
まつかわのたたかい
[松川の戦い]
1600年、現在の福島盆地において徳川方(東軍)の伊達政宗と石田方(西軍)
の上杉景勝配下の本庄繁長・須田長義が戦った合戦。政宗は関ヶ原合戦で東軍
勝利の知らせを聞くと、東北の覇権を狙い、伊達家の旧領であった福島城の奪
回を目指し2万で出陣。上杉軍は福島城の本庄繁長、梁川城の須田長義中心に6千。
福島盆地で激突した結果、伊達軍は本庄軍を圧倒。上杉勢は福島城へ敗走した。
その翌日、横田大学の内通が発覚、伊達軍は攻撃を中止、北目城へ戻った。
>>109 伊達捏造史観丸出しw
すべての伊達エピソードは捏造マンセーだからなwww
そんなもん信じてたらすべての戦いで伊達が勝ってるサイキョー大名になっちまうw
実際の伊達は負けまくりだから北朝鮮並みの捏造ばっかしてるんだがな。
111 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 11:14:50
横田大学の話って会津陣物語に出てくるだけでしょ。 延宝8年(1680)成立で会津を旅して伝聞話を集めただけ。 日本辞典オワタwww弱伊達もオワタwww
編集してるやつが伊達厨だったんだろw だいたい横田大学は家康に厚遇され暇乞いした際には家康が鎧や火縄銃などを餞別してくれたほどの人物で のちに上杉の客将になって伊達と戦ってる。 その横田大学が内通してくれたら伊達にとって戦況が有利になる事はあっても退却しなければならない理由にはならん。 敗走を隠蔽するマンセー伊達史観の得意技の言い訳捏造なのは明らかw
113 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 12:57:42
福島城へ見事に釣りこまれたあげくに背後は遮断されるは、前方では水原が米沢から急行してきて福島城との挟撃を狙ってくるは 退却の安全をはかるにも伊達のヘボイ策略だった横田の内通がバレたんじゃなかったっけ。 つか殺されてないから横田が伊達を騙したっぽいが。 それで餓死寸前で必死に伊達領に敗走したんだろ。
慶長5年10月、関ヶ原の合戦が東軍の勝利で終わったことを知った伊達軍2万が北目城から伊達郡・信夫郡へ出陣、本庄率いる上杉軍6千がこれを迎え撃つも多くの被害を出し敗走、福島城に篭城する。 伊達軍はこれをさらに攻めるも福島城の守りも堅く伊達軍の被害も増えたため、国見山に帰陣。 その途中、本庄を救援に来た須田と車に小荷駄隊を急襲されたりもした。 その後、伊達軍は福島城を再攻撃しようと画策するが、結局諦めて北目城に帰還。 つまるところ、野戦では数に勝る伊達軍が順当に勝利を収めたが、城攻めに決定打がなく撤退。 伊達は戦術面では勝利するも戦略面では目標を達成することが出来なかった。 上杉は戦術面では軍勢の差で順当に敗れたものの、戦略面ではなんとか守れた。 こんなところか。 こんな戦いで「こっちが勝った」「いやこっちが勝った」なんて両厨はよくやってられるなw
戦術で勝利?アホか。 ホイホイ釣られてきて後方を遮断されて速攻で逃げた伊達のドコに勝ちがあんだ? 数で劣る軍勢がとるオーソドックスな戦術に完璧にハマったアホじゃないか。
梁川城を放置して盲進してるのは明らかに誘い込まれている証拠。 2万の軍勢の一部を梁川城に配置することすらしないで 調子コイて全軍で猪突突進www 一部は福島城と米沢を分断すべくさらに南下www もうね用兵を知らない基地外軍団だよな。
>>116 福島城にこもる前の合戦で上杉軍に結構被害でてるじゃない?
それでも策略どおりなの?
>>117 梁川城放置がそんなに失策かねえ?
福島城攻めがうまく行かなかったんでさっさと伊達軍にさっさと帰られてるわけで、福島城と何らかの連絡を行って挟撃して被害与えたの?
はっきり言って両軍とも些細な戦果を過大評価してるだけw
では政宗が戦功をあげた諸将にだした感状があんのかよ? 被害なんて伊達の捏造だろがw
伊達は梁川城側から背後を絶たれ食い物を奪われて餓軍と化して軍組織が瓦解のあげく福島城からも追撃にさらされ敗走だろw 横田大学の寝返りに期待して梁川城放置したのが致命傷。
>>120 別に組織は瓦解してないだろ。
が、福島城攻めに関して政宗の見通しが甘かったことは誰も否定できんだろうな。
ちなみにオレとしては、
・それまで静観してたくせに東軍勝利の報に接するや上杉領に攻め入る鉄面皮。
・軍勢の差で野戦で勝利したものの、城攻めに失敗して得るもの少なく帰陣。
・政宗、m9(^Д^)プギャーーーッ
という立場なんだがw
122 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 16:21:00
初陣の相馬戦では相馬が偽って兵を引くと低能政宗は血気に逸り家臣の諫めも聞かず追撃し包囲され 家臣が我が政宗なり〜と身代わりになってる隙に敗走。 家督を継ぐなり友好的だった葦名を奇襲し関柴の戦いで葦名に大敗。 大内攻めに大苦戦し逆切れして民衆撫で切りの愚行。 父親を謀殺したあげく二本松城を真冬に攻めて大失敗。 さらに狭い隘路の要害に野戦陣地を築き鉄砲隊を揃えておきながら わずか半日の戦いで伊達軍半壊したので佐竹は撤退。もちろん追撃なんてできるわけがない。 崩壊した伊達軍も二本松攻めせずに退却し佐竹の二本松救援成功。 大崎に超大敗。窪田の戦いでもビビッて要害に立てこもり同盟してる北条の動きに一縷の望みをかけ撤退するのを待つばかり。 政治外交でも佐竹義重に敗退し葦名の養子が佐竹次男に決まる。続いて岩城への養子縁組まで佐竹の三男に決まるセンスの無さ。 惣無事令が発令され中央政治外交の情勢分析ができてる諸将は武装を緩め秀吉との外交に集中してるのにDQN政宗は御家改易への想像力が欠如し これ幸いと火事場泥棒をし三代続けて早世し弱体化した葦名に大苦戦。結果、空中分解し葦名自爆。 葦名亀王丸2歳・二本松畠山国王丸11歳・葦名義広14歳を滅亡に追い込む姑息な弱いものイジメでガキハンター。 北条に都合がよい情報のタレ流しを盲信し続けギリギリになって事の重大性に気づくマヌケぶり。 自分が奥州の代表とか言いながら自分の命乞いに終始し他の田村ら奥州諸将の弁護をせずに秀吉に改易されるのを見て見ぬフリの卑怯者。 浅はかな謀略で大崎・葛西の乱や南部領で謀反を起こし見事にバレる低能。 スペイン・神聖ローマ帝国に日本を売り渡そうとした売国奴・・・だがローマ側コメントは「だが断る!」と言われたがw 政宗が役に立たない趣味放蕩に走り、政宗の死の翌年にさっそく幕府に頭を下げて借金の申し込み飛ぶ鳥後を濁しまり死後も迷惑。 もうあまりのDQNすぎてあきれるな。
123 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 16:25:25
>>122 それでも大藩を明治維新まで残してる辺りは運がムチャクチャ良いのか、擦り寄る能力が高いのか……
125 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 18:49:43
本庄が、尖兵の状況ながらあみだした策略
126 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 18:57:51
何か、上杉が蜂の巣をつついたような騒ぎだが、真実を暴かれたことが逆上の
理由だろう。(前スレでは上杉が完敗のうえ、最後は嵐に走っていたし)
上杉にとっては、瀬上・宮代の戦いで主力を粉砕されたことがよほど屈辱だったらしい。
対最上戦では、上山、長谷堂と大敗が続いた上、更に野戦で伊達に負けたことは、
上杉のプライドをずたずたにしている。軍記物以外の肝心のソース(1次史料)を
何一つ出せないことがそれを語っている。
http://www.nihonjiten.com/data/35312.html 松川の戦い
まつかわのたたかい
杉軍は福島城の本庄繁長、梁川城の須田長義中心に6千。
福島盆地で激突した結果、伊達軍は本庄軍を圧倒。上杉勢は福島城へ敗走した。
上杉の大敗だねw
いくら捏造大好き伊達が緒戦で曖昧に数百人討取ったと主張しようが 史実で認定を受ける為には政宗が部下に送った感状の証拠や上杉側でそれだけの被害を受けたと裏付ける記録がなければ認定されないがな。 伊達は改易になってない以上は少なくとも前者の感状くらいは出さないと捏造と言われるのは当たり前。 数百人規模で犠牲者が出たなら上杉側が隠蔽する事は不可能な規模だがそれを窺われる記録がまったくなしだが上杉側が戦勝に対する論功報奨の記録は存在している。
128 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 21:13:58
>>126 捏造して楽しいか?創価伊達信者さんはラクでいいね
129 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/18(火) 21:31:33
【慶長5年10月6日伊達軍が福島で上杉軍に大勝。福島城へ潰走させた史実】 「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他二三人討捕、験越候、満足ニ候、 今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、 國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、 其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、 以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状) で、上杉の史料はまだ?(明暦年間とかではなくw)
だから 捏造報告ではなくて 政宗が部下の戦功を賞した感状を出せよ。 史実認定するには最低でも恩賞を与える基礎になる感状がなければ話にならないな。
>>129 2万の兵で6千の兵に圧勝できないようじゃ話にならん。
で、福島城まで攻め込んだその後は?
大勝したのになんで2日目には疾風の速さで大退却なの? 大勝したのになんで2万石しか加増されないの? それはいつものようにまた伊達が大敗したからじゃないの?
>>132 城攻めで被害出したから。
あと調略も上手くいかず打つ手がなくなったというのも。
要は力押しで何とかなるのは何とかできたが、力押しではムリなことはなんとも出来なかった政宗くん。
兵力差14000でおまけに要害もない福島平野での戦いの不利を悟っている歴戦の勇者本庄の誘引の策に気付かず 伊達は梁川城を放置し調子コイて福島城へ全軍猪突盲進w 梁川城で横田大学の調略が見事な美人局だったので失敗し退路を遮断され食料補給不可能に陥る。 さらに山形から退却してきた水原が米沢より一揆軍を蹴散らし猛進し挟撃態勢へ。 前も後も側面も上杉に囲まれる危機に餓軍となった伊達軍は必死に敗走したから。
>>134 つっても上杉軍の追撃での戦果って小荷駄隊を蹴散らしただけだろ?
しかし、調べれば調べるほど見るべきところの無い戦だな。
福島城で大被害を出してさらに飯も喰えない時点で伊達は軍としての組織が瓦解してますが何か? だから伊達は圧倒的大軍なのに組織的反撃すらできずに瓦解敗走w
>>136 1日で兵糧が尽きるのか?
小荷駄隊以外の被害は?
伊達厨もひどいが上杉厨も相当なもんだなw
2万の大軍の食料だよ? 楽勝で尽きるよ。 しかも補給部隊を後方に残したまま釣り上げられて猪突猛進し早期に敵地深く侵入しちまったくらいだから軽装備だろうねw 縄に巻き付けた味噌でもナメて空腹を満たすしかないねショボーン。
まぁ歴戦の猛者本庄繁長は謙信の1年に及ぶ包囲にも耐えた籠城戦にも定評がある男だからな。 その頑強さで福島城では片倉景綱の家臣の国分外記と須田弥平左右衛門が返り討ちにあってるしな。 だいたい戦国の常識で言えば福島城の支城である梁川城を落城させ兵站を確保の上に丸裸の福島城へ進軍するのが常道。 万が一、梁川城で頑強な抵抗を受け短期間に落城させられない場合は付け城や街道に砦を築くなど梁川城を包囲し無効化させて進軍だろう。 補給路に兵力の拘置もせず・・・どう考えても伊達の無謀な侵攻は本庄らに謀られて吊りこまれたとしか思えない。 土地勘のある旧伊達領でのこのブザマで徒労に終わった用兵は同じ関が原を舞台にした東軍各方面での黒田如水や最上義光などの鮮やかな用兵と比べても劣悪としか言いようがない。
>>122 清正に邪魔だから後ろにすっこんでろと言われた晋州の戦いも一人負けと言える。
で、松川で負け、道明寺でも真田に負け・・・・・圧倒的に負けの方が多いな。
どんなに勝ち続けても一度の負けで全てを失うことの方が一般的なのにむしろこれだけ負け続けて身上が残った、って言うこと
の方が奇跡的だ。異常とさえ言える。
仙台人は、捏造で強さを誇るよりもむしろこのことを誇るべきなんじゃね?w
141 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/19(水) 02:10:46
最上義光による黒川・大崎共同包囲と 佐竹・葦名の包囲の前に滅亡寸前になり 母親に泣きついて助けてもらった政宗。 弟を殺害し母を追放したキチガイ。 父の支倉常成切腹 支倉常長は汚名を雪ぐべく決死の覚悟でローマへ。 43歳だった常長が仙台に帰り着いた頃は50歳になっていた。 1年間に死去…つか極道の政宗が切腹させたんだろ。 支倉の旅を支えた宣教師ソテロは火あぶりの刑…ここでも政宗は救う手立てもせず見殺し。 支倉の嫡男常頼も切腹。 その弟の常道は斬首。 ほんと誰1人として救う為の努力をせずに死にやがったな悪宗は! 伊達三傑 伊達成実は出奔した途端に屋代景頼に命じて家族皆殺し→戻ってきたら家臣に罪をなすりつける。屋代景頼も後に追放されるw 鬼庭綱元は秀吉から愛妾をもらったが政宗が怒りだして出奔。その愛妾の香の前を献上したらガキを作って押し付け奉行職に帰参できた。 残る片倉の姉貴も「オレが目をつけてた女を先に秀吉にやらせやがって」とキチガイとしか思えない言い訳で追い出すw 片倉景綱本人はホモ大名小早川秀秋の男色の相手をしろと政宗に強要されるは息子の重長はホモ教育を受ける。 伊達盛重は政宗に無能と罵られ明らかにイビられ、イジメられまくられた末に出奔し佐竹の元で横手城代に出世。 猛将後藤信康は黄後藤と呼ばれた武勇の持ち主だが政宗に怒られて青葉城から投身自殺した。 只野作十郎は政宗に浮気を疑われ嫉妬に狂ったあまり諸将の前で激怒される。
>>137 北目城(仙台市)からの兵站線だからすでに伸びきってますよ。
本庄の狙ってた状況に陥ってましたね。
144 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/19(水) 04:39:43
本庄繁長は福島の野戦で予想外の思わぬ大敗をしてしている。 籠城戦でかろうじて命拾い。 上杉涙目ww
>>143 十月五日、伊達軍、北目城より出陣。
十月六日朝、伊達軍、国見山に本陣を置く。
上杉軍と激突。伊達軍二万、本庄・須田六千。
本庄は福島城に篭城、伊達軍は羽黒山に本陣を移動。
伊達軍、福島城に攻め入るも被害多く、国見山に撤退。
梁川城に戻っていた須田勢が伊達軍を急襲、伊達軍に小荷駄隊に被害。
十月六日夜、福島城再攻撃を図るも梁川城の調略が上手くいかず利あらずと判断。
十月七日、伊達軍、さらに北目城へ撤退。
この日程で兵糧不足によって軍が瓦解するのか?ということだよ。
兵站が不安になったのは事実だろうが、即瓦解ということにはならんだろ。
そもそも本庄が伊達軍を福島城まで引きずりこんだと言うが、撤退する伊達軍を須田と連動して追撃→戦果の拡大がはかれてない時点で意味があると思えん。
成功しても大して意味なく、しかも伊達が梁川城に抑えを置いた時点で破綻するようなあやう過ぎる策。
数に勝る伊達軍にかなわん本庄・須田勢が篭城を選択し、政宗が下手な戦いをしたというだけの合戦。
先週の絶望先生言うところの「勝者なき戦い」だろ、松川の戦いは。
勝者なきと言うのは言いすぎかな。
攻め込まれたが負けなかったということで上杉の勝ちと言って良いかもしれん。
訂正しとく。
>>144 三分の一の軍勢に勝って喜んでんなよw
喜ぶのは福島城や梁川城を陥として戦略的目標を少しでも達してから喜んでくれ。
それとも家康に対してのエクスキューズ(=「上杉を攻めて被害を与えたよ!」)を作るのが目標だったの?w
実際、最上の大活躍や実質何もしなかった蒲生・結城らが大加増される評価を受けてんのに 伊達は2日目には敗走して再侵攻すらできない軍の崩壊ぶりをみれば本庄の武威は明らかなんだがw そりゃあ補給部隊を無視して勢いつけて敵地に突出したあげくに食を断たれちゃ軍隊として瓦解し神速の速さで北目城まで敗走するわなw どうせ浅はかにも敵地で食料調達しようと思ってたら本庄焦土作戦ばりに食い物すべて福島城に運びこんで一粒の米もなかったんだろうねw
対佐竹戦では太田・梶原・真壁・多賀谷ら対北条戦用の佐竹一軍ではなく奥州方面佐竹二軍に大苦戦w もともと最上は伊達に従属してた弱大名で義守は伊達の傀儡。 小さい山形居館3万石→小田原参陣のとき義光は直前に没した父・義守の葬儀のため政宗より遅参したのに24万石安堵 関が原後→最上五十七万石 政宗ショック涙目w 蒲生秀行 宇都宮12万石→関が原戦後に会津へ帰還して60万石 政宗ショック涙目w 下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石に政宗ショック涙目w 葦名家は世継ぎが3代続けて早世し求心力がなくなっており内部では伊達出身の正室を中心とした伊達派・佐竹派に分裂して抗争中し弱体化してた。 伊達は1万以上の兵力差で圧勝が予想されたが実際に戦い始めたら 摺上原では芦名の先方たる富田隆実軍に押されまくられた片倉・原田・猪苗代の伊達隊は敗走し早くも陣形が崩壊し始めた。 この好機を逃さず若干14歳の芦名義広と旗本700騎が突撃。 なぜ当主自ら突撃したのかと言えば芦名軍はすでに戦う前から瓦解してて富田美作も佐瀬河内らも両翼は戦わず傍観。 それでも富田隆美は政宗本陣に切り込む活躍を見せて義広も突撃を敢行。 この時に風向きが変わらなければ政宗は討ち死にし芦名勝利確実だった。 政宗生涯のうち唯一の勝利となったこの戦いも風向きの変化によって芦名軍兵の目に砂ぼこりが入って目が開けられなかったから辛勝しただけ。 よって東北最弱が伊達と決定。
餌に引っ掛かり福島城まで釣り上げられた伊達厨が勝ったと捏造してるが 2万相手にまともに6000で野戦築城もせずに平地で野戦なんかするかアホwww
150 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/19(水) 18:58:40
慶長5年10月6日 宮代の野戦で上杉軍完敗w 福島城へ総員退去するほどの惨敗を喫している。 その怨念は捏造軍記書「東国太平記」へと結実する。 同書は、直江の政宗への深いコンプレックスが見て取れる。 一読後、上杉ファンでも穴へ入りたくなる怪書である。w
両家ともに捏造し合ってる松川の戦い……
素人集団必敗伊達軍が捏造してるだけだろw
154 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/19(水) 21:10:59
>>135 結果退却したわけだが
少なくとも長期戦はできなくなった
戦略的な敗北そのものだろう
155 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/19(水) 21:26:41
本当に数百人も犠牲者が出てれば上杉側はさすがに隠匿しようがないがそれを裏付ける記録はない。 逆に数百人規模で犠牲者がでたという…そんだけ武功があれば政宗から部下への褒賞を約束する感状が多数出されているはずであり、 先祖の功績を誇るために子孫が保持しているはずなのにまるっきり出せない伊達側。 しかも両家は改易してないから記録は残っているはず。 徳川・最上・蒲生・佐竹らの記録にも伊達の主張を裏付けるものはない。 福島城で最低でも片倉重臣2人は討ち死にし 背後で食料を奪われ2日で北目城へ敗走した伊達は同じ東軍陣営ではあまりに冷遇されており、たった刈田郡2万石加増だけ。 しかも刈田郡は上杉側が自分達に伊達が内通してると信じており家康にバレないように引き渡したもの。 伊達の裏切りを知って激怒した上杉が刈田郡奪回に軍を発しようとしたらビビった政宗が白石城返還和睦交渉をはじめたので 最上侵攻に変更し伯父の最上義光が動揺しまくり甥の政宗に援軍要請すると漁夫の利を狙い山形城奪取を考える基地害DQN。 さらに最上救援にきた東軍の南部軍を撤退させるべく花巻城で和賀の反乱を支援する政宗。 もうやってる事が行き当たりばったりのアホ
信義のかけらもない大ウソつきの卑屈で貪欲で悪辣で浅はかな実力も伴わないヘタレ野郎がアホ宗w
ところで伊達方の野戦での勝利に対して感状がないということだが、上杉方にはその後の戦いでの勝利に対しての感状はあるの? あとこれには直接関係ないが手取川での織田軍に対する勝利に対しての感状はあるの? 謙信が誰だったかに報告した書状はあるみたいだが。
そもそも手取川はスレ違いなのに持ち出す基地害にワロタwww ちゃんと戦国板に手取川のスレあるからね。 わかったかなお坊ちゃま?
>>158 手取川の件はついでだよ。
ただ同じ構図なんで聞いてみただけ。
で、上杉方の感状はあるの?
バカだな〜伊達の負けをあくまで隠蔽したいんだなw
福島城で片倉景綱の家臣の国分外記と須田弥平左右衛門が討ち死にまでしてんのに負けじゃねーの?
数百人も犠牲が出たのに上杉側で名のある人間が誰も死んでないのはおかしくないか?
>>114 ここにも黒印状を出して論功したと書いてあるだろ。
どっちみち上杉がわずか2日で伊達を叩きだした事実はかわらんな。 九州での黒田如水や最上義光が関が原後にもさんざん占領地を増やしていく中で 伊達だけが軍が崩壊したから再侵攻すらできなかったしな。 あきらかに伊達の敗退と上杉勝利で幕を閉じた戦いだわな。
【初めて読むかたの為に。松川スレ入門〜松川合戦って何?】 このスレでは、@本庄繁長軍がわざと負けたふりをして福島城へ撤退。 駆け付けた須田長義と政宗軍を挟撃し、小荷駄隊の陣幕と食料を奪うなど して大勝したとする「慶長6年4月26日の“松川の戦い”」は「なかった」 こと。後世の軍記書(東国太平記)が創作した真っ赤な嘘だったw ことが残酷に証明されている(興味がある型は過去ログ1を参照の事) またA「慶長5年10月6日の瀬上・宮代で上杉が大敗し福島城へ遁走」 したこと。昨今、何故か上杉贔屓の小説家などが図々しく「慶長6年4 月26日の“松川の戦い」と巧妙に咄をすり替えていることも指摘された (過去ログ2を参照のこと))
163 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 18:49:23
上杉のお膝元「梁川町史」も認めた福島・宮代での上杉軍の大敗と遁走】 須田の部隊に所属していたという明暦年間の回顧咄「佐藤次兵衛巧妙覚」 (当時岩出山城主だった政宗勢を「仙台衆」などと致命的なミスが頻出) を収録したした梁川町史も、伊達家文書とそれに対する家康の感想「無比 類仕合候」を受け、宮代での上杉の大敗北を認めている。 ↓ 「今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、 無残所手際ニ而、國見江打返陣取候」(伊達家文書717号) →上杉軍が瀬上・宮代で殲滅的な大敗を喫し福島城へ追い込まれた史実。 →「慶長5年10月6日に政宗軍の福島城攻撃があったことは確実である」 (「第5編 幕藩制成立期の梁川」(梁川町史p32) 上杉また捏造だったねw
慶長6年4月26日の“松川の戦いの話なんてしてねーしw 東国太平記の話もまったくしてねーじゃんw なんでもかんでも上記2つに結び付けて強引に論破しようとコジツケまくりのアホ伊達厨w 論破されると必ずその2つを今の論説と同一視して=にする脳内基地害。
政宗の過大誇張報告→無比類仕合候→たった2万石の加増(家康にバレてるw)
166 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 20:07:48
家督を継いだら俺オワタ(^o^)/
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1197645723/l50 絶対的劣勢不利な状況下で家督を継ぎ激烈な闘争に勝ち抜き見事に一国(東北は一定地域)を統一した最強勇将を選出したい。
東北代表 最上義光
父との抗争中に伊達輝宗に介入される。山形城のみでスタート
関東甲信越代表 上杉謙信
父は越後を破産させ兄は越後守護の操り人形で家督相続にも介入される。スタートは兄の命で中越へ派遣される。
中部東海代表 織田信長
父はある程度成功し経済的自立もすでに果たしていたし家督相続も問題なかった。
中国東部地方 宇喜多直家
祖父の自害。父はバカのフリ?チョイ悪のカリスマで復讐完了。
中国西部地方 毛利元就
父兄は酒害死亡。大内・尼子の抗争でどちらかに庇護してもらう作戦と養子作戦で安芸国衆の盟主として拡大。
四国代表 長曾我部元親
祖父は自害。父がある程度の成功を残し死去。
九州代表 龍造寺隆信
祖父・父は殺されたが曾祖父が復讐し願いは曾孫に託される。大内・大友・毛利と傘下を代えつつ養子作戦で耳川の戦いを機に自立。
除外
徳川家康→今川から岡崎城に代官が派遣され当主は人質。これはすでに松平氏は滅亡したも同然。
ん?須田勢が伊達の小荷駄隊を襲った云々は慶長五年十月六日のことなのか?慶長六年四月二十六日のことなのか? 記録上はどっちなんだ?
168 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 20:36:58
>>167 ややこしいんだが、上杉の記録上ではハッキリ慶長6年とある。
この同年9月に上杉が米沢30万石に移ったと。この資料を
どう解釈するかだが。
慶長六年伊達政宗出軍於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、
遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品、武誉
尤抜等倫」 (『梁川城代須田系譜』)
やっぱり政宗は何度となく侵攻しては敗走してんじゃねーの? 1月に入ってからは相馬と一緒に上杉領を攻めて敗退してんだろ。 6月にも上杉領で火をかけたって家康に報告してんだろ。
>>169 上杉の立場としては松川の戦いで伊達軍をちんちんにして大被害を与えたんじゃないのか?
そんなに被害が出たのに何度も攻めてくるのか???
171 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 20:53:57
上の須田系譜の記述はどうやら、単なる記載ミスらしい。 (別の箇所では慶長5年の夏頃の出兵としている) また政宗は「あくまでも家康と共同で軍を動かすこと」を前提に 考えていた。家康の了解もとりつけずに単独で上杉攻めなど 利に薄い行動で、難の意味もない。 慶長6年に入ると、政宗は仙台城の整備で5月頃まで地元に貼り付いていた。
結局、崩壊した伊達軍は家康の目を気にして自爆的侵攻を何度も繰り返して毎回叩き出されてるんだろアッハハハwww さすが腹グロ家康ナイフ様。
>>171 10月だと冬に入ってるから夏ごろというのもおかしい気がするが……
一概には否定できないけどどうも良質の史料とは言えそうにないね。
もっともそれは伊達方も一緒だがw
174 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 21:04:33
まあ、政宗は福島侵攻後、もう1度上杉領へ侵攻したかったんだが、 宗薫を通してそれを家康は自制しろ、と返書を出してるんだな。 「慶長6年の春雪解けを待ってから、上杉征伐やるから、一端 岩出山城へ帰っていてくれと」と。しかし、上杉が水面下で講和 工作をしいたものだから、それは沙汰やみになった。 「伊達治家記録」を見ると、慶長6年2月に大規模な動員が計画 されていたことがわかるが、結局中止となったわけだ。
いくら伊達側が敗退を隠蔽しようとしても相馬側資料に敗退した伊達に声をかけられて年明け一月に一緒に上杉を攻めて敗退したって書いてあるわけだがwww この敗戦の記録のおかげで東軍認定され相馬は改易を免れたので政宗の相馬領への野望はついえたのだったw 相馬を誘ったのは伊達軍が崩壊して相馬の力を借りるしかなかったからw
176 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 21:10:32
>相馬側資料 そのソース出してくれる?
10月〜1月で伊達が大敗を繰り返しを受けて2月の家康出陣せずに和睦決定。 つまり上杉が改易を免れたのは上杉が伊達に勝ち続けたために西国の不穏もあり武力制圧を諦めざる負えなくなったから。
178 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 21:23:23
つーか、伊達軍が上杉兵を大量に討ち取って、残党を福島の 「虎口」まで追い込んだことに気をよくした家康が、政宗に 来年一緒に上杉征伐やろうや、といってるわけだし。 伊達の被害って「小荷駄隊」と片倉の家臣2名程度だしw 翌7日には、無事に北目城へ帰還。佐沼城主の津田景康などは、追いすがってきた上杉軍の残党をまったく相手にしないで悠々と引き揚げている。小説とは違ってね。
1月の月夜畑の戦いで上杉側に敗れて相馬150人と伊達250人の被害を出して敗走しているわけだがw これは相馬側資料なんで上杉の誇張はない。
180 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 21:54:26
>>175 ,179
月夜畑の戦いは相馬側から誘ったんじゃないの?
伊達勢が敗北したことは間違いないみたいだけど。
伊達が誘引され福島城まで釣り上げられたのは間違ないな。 誘引されただけなのに家康に誇張過大捏造報告しちゃってカッコ悪いw→家康ダマされ俺も2月出陣するよ! しかし政宗の陪臣ほどの地位にいる2人が福島城で討ち死にってスゲェなw 片倉をかばってアボンなんて本庄の思う壺www そして滞在時間48時間で北目城へ高速の速さで敗走→家康唖然www
>>182 > 伊達が誘引され福島城まで釣り上げられたのは間違ないな。
これの根拠って何?
184 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:05:09
>伊達が誘引され福島城まで釣り上げられたのは間違ないな。 それ「東国太平記」の完全な引き写しだよw 実際は宮代で支えきれなかったため、上杉の前線は崩壊。信夫山に本 陣まで置かれる始末。結局、明確なソースは出せないわけだ? 火坂などの小説家もある意味上杉の軍記書の被害者といえるね。 「天地人」を読んでみると、齋道二なるものが逃げる政宗めがけて 「二太刀を浴びせた」などと与太話へ咄が脱線していく。 まあ、上杉の精神安定上「大勝」したと騒いでいるのも一興だが。
>>183 堅固な城があるのにワザワザ2万の大軍相手に平野でしかも野戦築城なしに真正面から6000で戦いを挑むわけねーだろ!伊達が策にハマったんだよ。
そんなん子供でもわかるわアホか。餓鬼のころにケンカした事もなく実社会にも出た事ないんか?
論破されたから 苦しくなりまたまた東国太平記とか小説にムリヤリ結びつけて同一視パターンかwww レッテル貼るしか能がないなんてほんと伊達厨は低脳だわwww
187 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:14:10
伊達軍は当初、片倉の策により梁川城へ攻撃を定めていた。 ところが、途中で政宗が福島城へ方向を変えたため、福島城の本庄の 主力が宮代へつり出される形になって、野戦で粉砕された。 (伊達家ではこれを瀬上崩れとして揶揄している。俗に言えば松川の 戦い) 伊達につり出されて野戦で敗走したのは、皮肉な話だ。
>>185 いや、誘引する意味がないっての。
その前の合戦の真実はともかく本庄・須田は普通に堅城によって篭城しただけだろ。
伊達軍がしょぼかったら助かっただけ。
189 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:19:14
伊達にとっては半日の野戦でケリのついた戦い。 福島城は帰りがけの駄賃のような物だろう。 「掃討戦」という意味では、家康にも良いアピールになった ことが、その後の文書からもわかる。
梁川城では横田大学の寝返りを期待して放置してただけだろw 横田大学は上杉の手で殺されてないから政宗は見事にダマされたんだよw
誘引する意味はすごくあるし現に政宗陪臣が2人も死んだし簗川城側に食料も断たれたw そして高速の速さで必死になって死地から脱出したアホ宗w
192 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:27:03
この戦いは、上杉にとっては何とも後味の悪い戦いだったな。 一方的にぶちのめされた挙げ句、福島城下と信夫山を徹底的に 荒らされまくった。反撃は唯一小荷駄隊を撃破しただけ。 いわば「勝ち逃げ」されたから、相当悔しいわけだ。 「松川PTSD」みたいな心理状態なのが、国枝らの上杉関係者だった。 ある意味、気の毒だがw
米沢から水原が一揆軍を撃破して福島城との挟撃と梁川城の背後遮断という本庄の大戦略が発動しちまったから必死に死地から命からがら逃げたんだよw だいたい一年前に代々伊達領だった地にやってきて地元民がいまだ伊達住民意識なんだから策なく野戦なんて挑まないわな。
194 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:33:09
まあ上杉が何と吠えようが、ソースも出せない以上 理解度は、風野真知尾の『奇策〜北の関ヶ原福島城松川合戦』 レベルってことで。図書館で1次史料をあたれとはいわんが、 たまには「伊達治家記録」も読んでご覧。 ちなみに「上杉御年譜」には、この戦いの記載は一切無いw
信玄が背後を襲う協同作戦で謙信の包囲を一年に渡り耐えたプロフェッショナルの本庄のことだから アホ宗の大軍を福島城に引き入れて背後を襲ってやろうと最初から狙ってたんだろ。
>>189 > 福島城は帰りがけの駄賃のような物だろう。
その割りには痛い目にあいすぎだわな。
>>191 > 誘引する意味はすごくあるし現に政宗陪臣が2人も死んだし簗川城側に食料も断たれたw
誘引されず福島城と梁川城に兵を分けたらどうなったか?
福島城……史実より被害出たんじゃね?
梁川城……抑えに兵を置いたからって兵站を確保できたのか?
結局、誘引されようがされまいが、結果は変わらないと思うんだが……
197 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:37:38
>>193 「願望」はいいからw いつまでたっても軍記と馬鹿にされるだけ。
この戦いについて「上杉家の資料(ソース)」を探して出してご覧。
宿題なw
伊達の捏造三昧の一次資料を信じるバァカは誰もいませんが何か? ちなみに1月の月夜畑の戦いも伊達は隠蔽。 相馬が伊達が狙ったように改易されていたらこの資料は焚書されていた。
199 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:42:13
>>194 政宗の陪臣ほどの高位の者が2人も死んだのになかった事にするつもりかw
2万で襲われながら福島城も梁川城も健在なのは本庄の軍略の功績なのは明らか。
201 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:45:55
しかし上杉のトーンもスケールダウンしてきたなwww 大規模な松川の戦い→月夜畑の戦い、って(苦笑) ところで慶長6年1月は政宗は北目城でご祝儀だしたり、のんびり した正月を送っている。1月3日は後佳例御野初め。 臨戦態勢をしいていた上杉とは違って。
>>200 伊達軍の稚拙さに助けられたというだけのような気がするが。
本庄の篭城の手腕は褒められるが。
>>201 月夜畑で伊達相馬合わせて400も犠牲が出てノンビリ気分が粉砕されましたねw
しかも前年に福島〜松川の仙道メインストリートで大敗したから大道を使えず1月の大雪残る山奥へ大迂回して夜襲したあげくにド田舎の山間を敗走するブザマさw
204 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:52:28
福島の戦いで、本庄は籠城したまま、福島城から一歩も出てないよ(これ重要)。城を開けて追撃するのは、伊達のワナだと恐れてず っと城に籠もっていた。 「奇策」「天地人」「東国太平記」などの創作本では城門を開けて 威勢良く伊達軍に突っ込んでいくが、これはお話だ。
205 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:52:58
2万も動員して一寸の地も奪えず徒労に終わる弱軍w
206 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 22:57:20
伊達の目的は「掃討戦」だから。 家康に「ちょっとボコボコにしておきましたからww」と報告するだけでよい。当時の政宗文書からは、「満足」という言葉が見栄、上杉を 徹底的に叩いたことで、喜色満面な表情すら浮かんでくる。
えっ?なんで2万も動員して欲深い政宗が掃討戦で満足なの?戦費を考えたら大損じゃん。 つか掃討戦なんて当時の資料には書かれてませんよ。 あなたの脳内だけの妄想ですよね? やっぱり敗退したんじゃないの?なんせたった2万石しか加増してないんだよ。 同じ東軍の最上や蒲生や結城の加増はすごい事になってるのに。
208 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 23:10:15
>>207 馬鹿だね。すでに戦後であり、最上と伊達政景がしっぽを巻いて
直江を長谷堂から叩き出してる行動とほぼ同時期のことであり、
戦後の「追撃戦」「掃討戦」の一環となるわけだ。その過程で
上杉が崩壊すれば、会津に進駐するだけだし。
あと、政宗の微増はあくまで「和賀一件」が原因。
「東国太平記」は我々の手柄を家康が評価したと、これまた嘘を
書いているが。w
長谷堂で叩きだした件は最上の独力で伊達はただの足手纏いで何ら功績ねーじゃんw 和賀の件があったっていくらなんでも100万石の約束がたった2万石はないだろw 苦しい言い訳すんなwww
戦後ってのは和睦がなってからのことだw 1月になっても上杉と伊達は戦ってるだろw
掃討戦で満足ならなんで1月になってまた上杉領へ侵攻したの?しかも家康に攻めるなって言われて止められたって言ってなかった? 明らかに矛盾してるよ。
212 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 23:22:01
実態は、家康が勝手に100万石の約束したというより、 政宗の方から山岡志摩を通して旧領回復を働きかけた、 というのが実態だからね。政治的な駆け引きのこと。 尤も家康はこれを気にして、後に「冬の陣に参加した だけ」(上杉は鴫野で大苦戦中)の政宗に宇和島10 万石を加増している。これは関ヶ原の手打ちとも言える。 ま、おまえらもがんばれよw ゲームと学研のムック本 以外に読書もしろってことだ。まずは上杉の資料を探すこと。 宿題なw
213 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 23:27:32
>>212 ほんと伊達って言い訳やコジツケ、屁理屈、後付けが多いね。
脳内で勝手に駆け引きにしたり手打ちにしたり便利だね。
百万石の御墨付きまであるのにwww
214 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 23:29:01
その相馬戦とやら政宗自身は仙台にいるし、やるきのない小競り合いだったんじぇね。w しかし当初は、関ヶ原後の慶長6年1、2,3,4月になっても 伊達軍は上杉領に侵攻したという威勢の良い話だったが?w 何せ4月26日が怪しい「松川合戦」だし、さすがに恥ずかしいから 「1月の戦い」にのみこだわってるのかw
人取橋では佐竹が勝手に退却したから伊達が勝ったと捏造 今回は伊達が勝手に退却したから伊達の勝ち? もうデタラメな脳内だよね伊達捏造史観ってw 両方とも伊達の実質的敗北なのにねw もっとも負けてばっかりだから捏造しまくらないとダメなんだろうねw
やる気がない戦いなんだ〜プププw もう言い訳不能で開き直りだねw
217 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 23:39:07
>>216 まあいいから上杉の史料を出したら?
それともないの? 多分無いんだろう。
だから、上杉のソースは捏造軍記小説のみといわれるw
伊達家のはとりあえず伊達家文書があり、それは福島側の学者も
認めているから w。
>>122 これを読んだら上杉に勝てる可能性ゼロって事がよく理解できるよw
伊達くらいだよ捏造ばかりの怪しい戦いだらけなのはw
どう考えても北目城に敗走したのは間違ないなw
220 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/20(木) 23:45:30
ただの厨房の文章だろw とにかく小説じゃなく、上杉の史料を調べてご覧。 俺も探しているのだが、さっぱり出てこないのでね。 じゃとりあえず落ちるわw
論破されまくって何一つ満足な反論もできず レッテル貼って逃げた伊達厨でしたw
280:人間七七四年 03/16(日) 15:51 pHv/xSB9 つか結城秀康との交渉開始と嘆願=伊達が完全ストップになると思ってんのかw w w そもそも政宗は関ヶ原の翌年の慶長6年1月にも伊達軍だけじゃかなわないから相馬氏も誘って一緒に上杉領の二本松の月夜畑を夜襲して大敗してるじゃねーかアホw 281:人間七七四年 03/16(日) 16:01 pHv/xSB9 これってさ〜伊達がうまいとこ相馬氏を改易させて相馬領を恩賞に欲してたんだけど、 月夜畑で相馬側戦死者の記録をちゃんと作成してたから江戸で必死に嘆願運動して相馬の改易が免れたんだよな。 そんでもって相馬側死者名簿が伊達大敗の証拠として後世に残っちまったから伊達側の隠蔽捏造がムリなんだよなwww 福島城で大敗したからメインルートの仙道筋が使用できずワザワザ迂回してクソ田舎の山中で夜間に補足され撃滅されるアホ宗w アハハハ上杉に大敗してる事実は隠せませんが何か? 282:人間七七四年 03/16(日) 16:20 pHv/xSB9 5月8日にはアホ宗家臣の石川義宗が上杉領の置賜郡長井荘に火をかけましたって必死に作った軍功を家康に報告してるしwww 家康も「そんなダセェ報告しかできねーのかクソ宗め!クダラネェ報告で誤魔化してないで和賀忠親をとっとと江戸に連行しろや!」とか思ってたぞw その頃の南部家では花巻城で北信愛がパニクったアホ宗を嘲笑してただろうなw アホ宗は「伊達家も終りだ〜上杉に大敗するは、長井荘に放火しただけがやっとじゃ家康の機嫌は良くなるわけねー。またまた裏切り行為だがもう和賀殺すしかねーよ」みたいなw 大崎・葛西の乱でも一揆軍を裏切り謀殺したのにまた裏切り手のひら返しで殺害する悪徳大名クソ宗w
224 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/21(金) 09:42:45
>>192 相手の3倍の軍勢を持ってるのに、策にハマって兵糧取られて
惨めに退却するのが『勝ち逃げ』なのか?
伊達厨のアタマは理解不能だw
>>222 5月になっても上杉領で火をかけてるあたり1月以降も伊達軍は何度も上杉領へ侵攻してはその都度叩き出されてるような気がするな。
月夜畑の戦いなども伊達があまりに弱いので苦労なく撃破してて上杉側もワザワザ記録に残してねーし。
226 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/21(金) 14:26:23
伊達資料→松川で勝ったがあくまで掃討戦なので福島城まで行って城を見て帰った。12月には家康が伊達に和睦するから戦うなと命令した。 上杉側→誘引の策にハマり背後の梁川城を放置して敵地深く侵攻し片倉家臣2人討ち死にし米沢から水原が爆進してくるは、梁川城に補給を絶たれて高速の速さでわずか2日で北目城に逃げ帰る。 本庄側資料→1月以降も伊達がたびたびやってきては敗走させてやったわ。 相馬側資料→1月に伊達と一緒に月夜畑で大敗。 家康側資料→緒戦で数百人討ったとか実数すらわからん詳細不明だが恐らく過大捏造戦果報告を聞き「満足じゃ頑張れ!2月にはワシも上杉討つ」→5月伊達が上杉領で放火しました報告→7月に上杉首脳が江戸で和睦。関ヶ原の戦功で伊達はたった2万石しか加増なし。 なんか明らかに伊達が隠蔽しまくってるようにしか見えんのだが…むしろ東国太平記の内容もまったくウソと言えない気が。
いずれにしても戦略的勝利は上杉で100%間違いない。 伊達は無駄に軍費を使いまくったあげくに福島城で政宗陪臣が2人討ち死にして必死に短時間のうちに北目城へ逃げたように見える。 家康に100万石のお墨付きまでシカトされ完璧な1人負け。
よし、伊達を擁護してやろう。 家康は外様にあまり封土をくれてやりたくなかった。 伊達がこれ以上大きくなるのが怖かったので二万石しか加増しなかったんだよ!!!!! な、なんだって!!
230 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/21(金) 19:04:59
上杉にとって、関ヶ原は深い心の傷(トラウマ)を残した。 最上には上山、長谷堂で大敗を喫し、直江兼続は自決まで考えた。 伊達には、白石城を陥落させられ、宮代の戦いでも惨敗している。 悲劇なのは、格下に見ていた伊達と最上に最後まで翻弄されたことだ。
↑層化必死乙
なぁ、伊達の主張する戦場って現在の祓川=松川だって話なんだろ? それって本当に当時、松川と呼ばれてたん? 本当はそもそも川じゃなくて現在の松川駅近郊を誤認して記録してあとで苦し紛れに祓川が松川だって捏造してんじゃねーの?しかも祓川の川筋も戦国期と現在はまったく違うらしいじゃねーか。
ふむ。大軍の伊達が会津と福島城を寸断し孤立させる為に福島城の背後の松川駅近辺に伊達軍の一隊を派遣したあげくに逆挟撃を受けて大敗し北目城へ敗走と言うシナリオも有り得るかもな。
235 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/23(日) 14:59:16
伊達涙目
236 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/23(日) 21:38:33
良スレage
やっぱり伊達厨はかっこええ。
【歪曲】北の伊達将軍マンセーw【捏造】
239 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/26(水) 22:18:34
北の将軍w どっかの国とかぶるわw
240 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/28(金) 22:09:36
伊達工作員がwiki荒らす
wikiは酷い捏造ばっか。 政宗の項目もアホみたいに注釈がたくさんあり言い訳や弁護をしまくってる。 各サイトでも相馬に負けた戦いを「相馬を攻めた」で誤魔化していたりして笑える。
242 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/03/31(月) 22:10:08
まぁ世間の認識では上杉>>>>>伊達
wikiの伊達関連はマジで捏造だらけで糞ワロタwww つかいくら何でもありえねぇ…オマエらチョンかよ。
244 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/01(火) 21:03:21
仙台藩200万石にはワロタ
245 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/05(土) 22:55:11
伊達政宗 陸奥仙台12万石w
伊達藩は飢饉になったらすぐ大借金w
247 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/10(木) 08:26:34
上杉・佐竹・最上・島津・細川・毛利>>>>>伊達
テスト (´ω`)
249 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/13(日) 22:48:20
まぁ、兵力にまかせるしか伊達は能がないからな あ、あと捏造か
福島表 上杉>伊達 長谷堂 最上>上杉 ∴最上>上杉>伊達 しかし 江戸時代の石高などは 伊達>上杉>>>>>>>>>>>>(最上) 伊達は何が凄いんだろうな? マジでよくわからん。 戦争以外の外交力などなのか?権力者への取り入り方なのか?それとも運なのか?
251 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/13(日) 23:00:56
運と祖先の積み重ね、そして子孫ががんばった 最上は弱小大名がいきなりデカくなったから、素性のわからん家臣でも 雇わねばならなくなって、家中空中分解しちゃったかんじ 上杉は逆に家臣をリストラしなきゃいけなくなったけどできずに極貧に
252 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/15(火) 18:54:26
最上>上杉>>>>伊達
254 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/23(水) 08:21:33
>>251 何わけのわからんことを言ってるんだ?
27万石は弱小じゃねぇし、もともと最上は名門だぞ。
重臣や一族の後継争いが元だ
255 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/23(水) 21:03:14
>>254 24から57だったら倍以上、冷静に考えて今までの倍雇わねばならんつーことだ
そうなれば妙な奴ら、三男をそそのかした元大崎家臣の一栗とか、
長男を撃ち殺した元上杉家臣とか、そういう純粋じゃない輩が入り込んでくる
そこを義光の器量ならもたせられたが、もともと家臣と接触する機会のなかった家親、
ましてや孫ではかなりキツかったはず
名門はむしろ逆左様
徳川にとっちゃ、堂々たる清和源氏の大大名なんかウザイだけ
いちゃもんつけて潰そうと考えても無理もない
256 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/23(水) 23:27:50
>>255 直臣が増えるのではなく、いわゆる陪臣が増えるのでは?
一栗放牛は陪臣じゃないと思うけどね
>>256 どっちにしろ人数増えるってのは変わらないじゃん
何をそんなにつっかかってくるわけ?
最上の場合は、悪いのは運であって義光の処置じゃない
義康にしたって、嫡男亡くしても続いた家はあるわけだし(それこそ徳川さんちとか)、
家親の急死も最近の史料じゃ病死と確定しているし、
そもそも家親を家康に預けた頃にはまさか家康が天下とるとは思っていなかっただろう
ましてや駒姫の件とかとりあげて二股膏薬とか因果とか言うのはおかしい
要するに幕府の取りつぶしにひっかかった、というのがFAな気がする
もし伊達のほうがもっと早く伊達騒動みたいなのを起こしていれば、
潰れたのは最上じゃなくて伊達だったかもしれん…
その点、政宗は生まれた時期が実によかった
ただ義光はそのへんおひとよしというか、政宗みたいに
「長男は分家にしてもいいだろ」とねじこんでいればなあとは
素直にあんな非道な話に頷かなくてもいいのになあ
もっと我が儘だったらよかったんだよ、あの人は
258 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/24(木) 13:30:07
>>257 レスしただけで、つっかかるとか言われても困るお・・・・
スマヌ… つか最上スレいいこうぜ、な?
260 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/25(金) 23:35:55
最上>>上杉>>>>>伊達
261 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/28(月) 14:51:57
伊達厨発狂まだぁ?
263 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/04/29(火) 14:54:00
伊達は卑怯な上に弱い
265 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/04(日) 22:11:23
上杉信者一人が自演してるスレはココですか?
267 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/08(木) 11:15:01
大軍を動員したにも関わらず、松川での大敗 伊達は歴史を捏造することで隠そうとした
268 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/08(木) 14:59:53
だって政宗は負け戦の連続なんだもん。藩祖を神格化するには捏造するしかないんだもん。でもさ輝宗をバカの無能にする事で政宗が引き立つストーリーを考えたの凄くね? あと伊達の石高を30万石だってアピール作戦も凄くね?本当は仙台あたりまで伊達領なんだけど…それだと激弱大名になっちゃうからね。 苦しい胸の内を理解してよもう!
269 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/08(木) 20:21:19
伊達に大軍を動員された、本庄繁長軍は松川で大敗。上杉は、国枝清軒らが中心となって 歴史を捏造することで隠そうとした。 「東国太平記」及びそれに影響された「常山紀談」が好例だが、いずれも慶長6年4月26 日と日付を誤ったため、このスレの趣旨「松川の戦いはなかった」ことが前スレでも暴露され、 上杉ファンは赤っ恥をかくことになったわけだ。w
で、実際にあった方の松川の戦いは伊達が醜態を晒した、と。 両者みっともねえなw
271 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/08(木) 21:23:10
>>269 伊達厨、見苦しいぞ
小勢の本庄軍に、最終的には負けた事実を
無かったことにするなよw
政宗陪臣が2人も討ち死にして高速の速さで仙台まで逃げ帰った伊達w
273 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/09(金) 07:12:09
岳圭一郎『群雲関ヶ原へ』では、上杉軍は慶長6年4月26日、「松川合戦」を戦っているぞ。 (内容) 本庄繁長がわざと負けたふりをして福島城へ撤退。須田長義が伊達の小荷駄隊を襲い、陣幕と食料 を奪ったという。政宗は福島城に接近したところを青木新兵衛に鎗をつけられ、岡左内には二太刀 を浴びせられて(岡左内談)、命からがら北目城へ逃げ帰ったという。w 読んでご覧w
>>273 オマエ毎回、バカの一つ覚えで東国太平記を持ち出して必死だなw
他に引き出しがないんだろwww
ミジメな伊達厨はずっとそれにすがって生きていけよw
275 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/09(金) 20:03:49
六年(1601) 二月、政宗(まさむね) また来り侵す。 繁長(しげなが) また撃ちて、之を卻く。政宗(まさむね) 、 転じて逢隈河を渡って梁川を攻む。城将(だ) 須(す) 田大炊(おおい) 、 四伏を設け、与に戦いて之を破る。 四月、政宗(まさむね) 、兵を留めて(だ) 須(す) 田に備へ、還りて 本荘(ほんじょう) を攻む。本荘(ほんじょう) 出でて松川に拒ぐ。 敵を侮りて備えず。政宗(まさむね) 、暁に乗じて済り、撃ちてこ れを敗る。本荘(ほんじょう) 走りて福島に入る。(だ) 須(す) 田 之を聞き、逢隈河を済りて其の兵を破る。遂に政宗(まさむね) の 軍後を襲い、本荘(ほんじょう) と夾み撃ちて、之を走らす。 景勝(かげかつ) 、乃ち自ら将として出づ。 政宗(まさむね) 驚き其の軍を舎てて、独り十余騎と間道より白石に走る。 上杉の軍記書に騙されていた頼山陽(「日本外史」の松川合戦の経緯)w
276 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/09(金) 23:53:31
伊達の敗北は明らかなわけだが・・・・
>>275 またまた粘着妄想クンは東国太平記を持ち出してますw
偏執強度精神病患者伊達厨w
279 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/10(土) 11:05:59
伊達信者涙目
280 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/12(月) 18:48:46
統失キチガイ妄想伊達厨は犬作様の本でも読んでろよ
282 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/16(金) 23:47:10
(ω・ミэ )Э 三
283 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/17(土) 03:06:32
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg ・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【戦国板荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
284 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/17(土) 20:52:29
wktk
285 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/17(土) 22:00:40
伊達厨そのまんまじゃん! キモwwwww
伊達厨って偏執的と言うか執拗でやっぱり基地害だなw
287 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/20(火) 22:25:30
上杉信者が嘘ふりまいてる事故満足スレはこおこですかwww
↑さて捏造史観を撒き散らす伊達厨からの有り難い御言葉ですwww
289 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/21(水) 04:46:51
伊達側の資料→「伊達家文書」「徳川家康書状」 上杉側の唯一の資料→『東国太平記』(苦笑) ちなみに、新潟県人の郷土作家火坂雅志の「天地人」は、上杉の唯一の 資料『東国太平記』を下敷きに書かれていることがばればれw 尤も、「齋道二なるものが政宗に二太刀を浴びせた」などと与太話を書いていること からも、作家としての資質すらに疑問符がつく「原作」だがw
またバカの一つ覚えで東国太平記ですかw 低脳伊達厨の引き出しの狭さにワロタwつかもう強迫観念から来る精神病だなw
291 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/25(日) 21:44:07
家紋を商売にする家は違うのぉ
292 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/05/29(木) 21:28:02
293 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/05(木) 14:38:17
伊達儲必死www
294 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/10(火) 22:06:33
上杉儲必死www
295 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/16(月) 14:02:40
伊達信者がなんといおうと、この戦いは 大勢を誇って無闇に攻め入ったバカな伊達軍が 背後をつかれて敗走した惨めな戦いなんだがな
296 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/17(火) 03:03:32
と負け惜しみを言う上杉厨でしたとさ。 反論があれば、具体的に1次資料を出して 「上杉大勝利」説を主張すればいいだけの話。 (皆、それを期待している) 尤も、伊達に背後を見せて信夫山へ敗走したのは 実際のところ上杉軍。 後世の上杉による勝手な軍談話で、尾ひれをつけて 吹聴してるだけにすぎない。
伊達が福島表で大敗してなかったら おそらく家康も戦況有利と感じて妥協せずに上杉改易もしくは 米沢15万石安堵くらいにはされていたろうね。 上杉が伊達に対して奮闘し撃破したから 伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵なわけだろう。 伊達が言ってる事がおかしいとしか思えないだろw 家康が戦果をチェックできない状況下で出した書状なんて何の証明にもならんわ。家康の実際の政宗評価は政宗陪臣2人も福島で犠牲になったのにたった2万石プっw 実態を検視したら福島と宮城の県境の伊達の聖地を燃やされ福島の地を一寸たりとも手に入らなかったくせに伊達厨ほんと必死だなw
298 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/17(火) 19:43:45
慶長5年10月6日の福島表(宮代合戦)では、迎撃に出ていた上杉軍が 伊達軍に大多数が討ち取られ、ほうほうの体で福島城と信夫山へ逃散している。 一 真山主計、鹿又図書、実山惣右衛門覚書 慶長五年十月六日御社(宮代)合戦之次第 …敵引退ヲ追討にうつ也、 一道西お山の方へ落行敵ハ大かたうたれ候、あらい屋敷をひとめ也 これを「瀬上崩れ」といい、上杉にとっては不名誉な戦いであった。
300get!
301 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/23(月) 12:37:32
伊達の妄言は某半島並みだなw
罵り合いだけじゃ話すすまんね。
303 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/25(水) 00:27:36
まだこのスレに一度も書かれていないようなので参考として書いておきます。 慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち 3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152) 慶長5年、上泉主水が7/25〜26両日に伊達郡小手村内大館古城で政宗勢を撃破し首106の頸注文を作成(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1) 12/22本庄繁長が福島表の圧勝状況と上杉の立場を主張すべく上洛 慶長6年、3月政宗が再び福島表に出陣し敗退(覚上公御書集)
>慶長6年、3月政宗が再び福島表に出陣し敗退(覚上公御書集) 恐らく上杉軍の集団ヒステリーによる幻覚だろうことは前スレで論じられている。 2月には完全に講和がなっている。政宗も3月には伊達政景に、上杉軍は引き籠もりの 状態で、その状況を温かく見守るしかないとの書状を残している。ガセネタだな。
>>304 プッ自分に都合がよいようにしか考えられない超絶バカ伊達厨w
1月に月夜畑で大敗
3月に小手村で大敗
5月に家康に政宗が書状で置賜郡でなんとか放火程度はできました報告w
7月に徳川・上杉和睦。
あっ間違えたw 7月に小手村で大敗 10月に福島城で大敗 1月に月夜畑で大敗 3月に福島表で大敗 5月に家康に政宗が書状で置賜郡でなんとか放火程度はできました報告w 7月に徳川・上杉和睦。
>>306 あれ4月の「松川合戦」が抜けてるぞw
7月に小手村で大敗
10月に福島城で大敗
1月に月夜畑で大敗
3月に福島表で大敗
4月に福島表で大敗(松川合戦)
5月に家康に政宗が書状で置賜郡でなんとか放火程度はできました報告w
7月に徳川・上杉和睦。
w
松川なんて国境から福島城へ誘引する策じゃん。戦略的撤退に見事に引っかかった伊達が周辺城を放置して妄進しただけw 主力のいない留守部隊の寡兵が大軍と正面きって戦うワケねーじゃん伊達基地外はバカだな。 その結果、政宗陪臣が2人も血祭りにされ必死に北目城へ逃走したワケだ。 この間たった2日程度の出来事w
☆7月に小手村で大敗 2万石の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗 (家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう) 白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ 小山にいる家康の目を誤魔化す為に甘粕は軍議や妻の葬式で会津へ向かったと誤報を流し 白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。 政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして 突如、福島表に侵攻するも撃破され伊達軍106が犠牲に。結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。 ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり 上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。 その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」 この後は福島へ一切侵攻せずひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ 上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。 ☆10月に福島城で大敗 関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。 しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。 調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
310 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/25(水) 16:31:24
伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ以来戦ってないと主張w 実際は福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えたもの。 これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。 ☆1月に月夜畑で大敗(相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い) 相馬と一緒に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。 ☆3月に福島表で瞬殺大敗 家康に南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は 軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。 ちなみに南部の知将である花巻城代の北信愛の前に伊達の和賀支援軍は大敗。 ☆5月に心証が悪化の一途を辿る家康を機嫌をよくするべく必死に軍事行動を起こすが 失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。政宗が書状で置賜郡でなんとか放火程度はできましたと 必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図る。 ☆7月に徳川・上杉和睦。 上杉が伊達に対して奮闘し撃破したから伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も 自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。 会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える。 政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし2万石しかやらん。
>>310 実際の白石はたった1万3000石しかないからさらに悲しいw
もう同じ奴しかレスしとらんじゃないか… 皆白けて帰ったか… あと君改行必要だよ…携帯からか…
313 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/25(水) 23:23:57
|┃三 / ̄\ |┃ | | |┃ \_/ ガラッ. |┃ | |┃ ノ// ./ ̄ ̄ ̄ \ |┃三 /  ̄  ̄ \ |┃ / <●> <●> \ ? |┃ | (__人__) | |┃三 \ / |┃三 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
>>308 > 松川なんて国境から福島城へ誘引する策じゃん。戦略的撤退に見事に引っかかった伊達が周辺城を放置して妄進しただけw
政宗が周辺の城から攻略していったらどうなんだ?
戦略的撤退というより政宗のポカに助けられただけとしか思えないんだが……
つか挟撃出来るもんならしてみろってな恫喝的進軍だろ 普通に各個撃破可能じゃね
罠にはまったヤベェと気づいて梁川城を内通で落城させようと必死に謀略かけたが大失敗し逆に背後を襲われ 政宗陪臣が相次いで討ち死にし、飢えながら休む暇もなく必死に追撃されながら逃亡したんだろ伊達が亡軍過ぎてワロタw 軍事教練の基本中の基本に引っかかった最高の見本ですね。
317 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/26(木) 18:56:47
>>316 それ上杉の自作自演の『東国太平記』の咄だからw
実際は、伊達の大軍に瞬殺され、福島城へ命からがら遁走している。
318 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/26(木) 19:03:13
やっぱIDあったほうがいいのかね
319 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/26(木) 19:49:05
320 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/26(木) 20:15:05
>>316 うむ。背中を見せて白石城へ逃げ帰る政宗の背中に、齋道二なる牢人が「二太刀」を
浴びせた(本人談)というあの与太話だね w
伊達厨必死すぎw 東国太平記を持ち出したら何でも否定できると思ったら大きな間違いw つかそもそも東国太平記なんて読んでるヤツ自体がいないだろが。
322 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/26(木) 20:31:53
>つかそもそも東国太平記なんて読んでるヤツ自体がいないだろが。
http://tikugo.cool.ne.jp/ >1601年4月26日 上杉家の家臣・本庄繁長、伊達政宗軍を破る
意外に多いよ。『群雲関ヶ原』の岳圭一郎をはじめ、大坂の陣の大きな
サイトを運営しているこの管理人等も、大まじめに記している。
上杉のネタに釣られた被害者か w
まっ実際、伊達は負けた歴史を隠蔽しまくってるからな。 仙台藩の公式記録を見たら捏造の勝った宣言ばっかwww
こうやって罵り合いにまで質を低下させることで上杉の体面を保つんだろうな 健気なもんだ
客観的に見ても 戦略レベルの常識に照らして 伊達が釣り込まれたようにしか 見えんけどな。 本庄が策もなく寡兵の全軍を国境に 薄く張り出す戦術的必然性の理由が見つからない。 もし伊達が国境で圧勝してるなら 士気が下がった寡兵の本庄に抵抗力はなく 楽勝で福島城を落城させられるはず。 しかもものすごい速さで伊達が撤退するのは追い討ちの危機だと 認識してるから。 どう贔屓目に見ても伊達は負け。
326 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/27(金) 06:00:31
↑ 上杉好きの親父が涙目で、酒場で愚痴ってる図だね。w 「上杉が負けるはずがないのに…」(しかし反論すべき史料もないし) 野戦で伊達に大敗したのは、徳川にもばれている。直江が講和を焦ったの も伊達戦に破れたのが最大の原因だろう。
まぁ伊達治家記録にも梁川勢による荷駄隊殲滅は書かれてるし この伊達軍の被害を考える上で佐藤次兵衛巧妙覚も参考になる さらに 片倉が城下での戦で重臣二人を討ち取られた直後 すぐ政宗に撤退を強く奨めてるのもな〜 城側、つまり本庄繁長による反撃が成功してる あろう事か政宗が本陣を置いた信夫山(青葉山)まで焼き払われてるし 伊達家にとっては不名誉極まりない負け戦
松川の戦い 1.慶長五年十月に行われた戦い。 伊達軍が軍勢差もあり本庄・須田軍を野戦で撃破するも、本庄が籠もった福島城攻めで大きな被害を出し、さらに梁川城に下がった須田に挟撃される怖れが出たので翌日撤退。 2.慶長六年四月に行われた戦い。 本庄繁長が進入してきた伊達軍を須田長義とともに打ち破った戦い。『東国太平記』に記述あり。 まったくの創作である可能性が大。 1.の合戦について内容を上杉寄りに脚色しただけで、年号は単に誤った可能性もある。 いずれにしろ良質の資料に基づいたものと言い難い。 というわけで以下1.と2.を峻別して語れ。 1.の話をしてるのに2.の話を持ち出したり、2.の話をしてるのに1.の話を持ち出したりするようなことは厳に慎むこと。
年月日の不正確さは信長公記も指摘されてるよね 特に天正3年以前は誤りが見受けられると だからといって内容が全て否定される訳じゃない 甲陽軍鑑も年代を糺しながら読む物だそうで 明らかに変な記載が有る物の、他の史料と符合する箇所が幾つもあると 一次史料の『写し』ですら年月日が杜撰な物は多い 他の史料と照らし合わせつつ、その年月日を訂正していく作業 これは歴史家と呼ばれる方達は殆ど行ってる事 年月日が違う!>別の出来事だ! なんて即決を、彼らは誰一人しない 「年月日が違う」と思っても >「でも他の史料と内容が符合する箇所が有る」 >「年月日は「覚束なし」って事はよくある」 >「同じ出来事だと思われる」 こんな感じで行われてる考察は多いし、上に挙げた例にも止まらない 「松川合戦」も同様で、2.と1.さらに信達に残された史料もここに加え、 勘案する作業は当然のように行われてる
331 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/27(金) 19:03:05
>>328 松川の戦い
1.は上杉の願望だなw 実際「慶長五年十月に行われた戦い」で上杉軍は大敗北している。
「大きな被害」を出し大量の旗差し物と死傷者を累々と残して、福島城へ遁走。残念ながら
福島城攻の攻防は「小競り合い」にすぎない。本庄は悲嘆に暮れ、短刀で伊達に突入する覚悟を
決めるなど、利自決まで考えていた。
この戦いでの本庄の唯一の手柄は「籠城」したこと。これにより伊達の侵攻を防ぎ、白石城並みの
玉砕に近い敗北を逃れている。伊達軍が引き揚げたことで九死に一生を得たわけだ。
いずれにせよ、慶長5年の戦いでは上杉は良いところなく大敗を喫している。
なお、慶長6年の戦いは、上杉の有名な捏造「松川合戦」であることも、前スレで
暴かれ、上杉ファンは二重の赤っ恥をかいている。
よく分からないが、慶長五年10月6日の「宮代合戦」は、上杉の地元に 深い傷跡と屈辱とトラウマを、今に至るまで残したことは確実だな。 だからこそ、伊達に大敗した事実を正確に指摘されると、悔しくて悔しくて 泣きたくもなるのだろう。その辺の地元の福島県民(梁川、桑折、川俣、福島市)の 心理は韓国的なのかもしれない。
でたよ また 伊達厨の 妄想がw しかも前スレでも 負けていなくなったくせに 捏造勝った宣言w 大敗を隠蔽し歪曲する 政宗の生き方 そのままですねワロタw
334 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/27(金) 22:56:58
謙信>>>>>>>景勝>>>政宗
>>327 で、伊達治家記録と佐藤次兵衛巧妙覚を参考にした結果の伊達軍被害状況は?
その荷駄隊襲撃での死者数とか載ってたんか?
城下での戦ってつまり攻城戦か?
だったら一番槍とかの功を争って、名のある将が討ち取られることだって多くなるんじゃねーか?
梁川城を背後に放置したまま先に福島城を落とすっていう作戦だったって可能性はないの?
野戦に勝利し、追撃した結果、福島城に取り付いたんだが、攻めあぐねたから撤退って可能性は?
反撃が成功って・・・あくまで撤退で敗走じゃないんだろ?
信夫山が焼き払われたのってどのタイミング?
どういう意図と効果があったの?
>>335 この戦いは、日中の野戦でケリがつき、政宗は信夫山で進出して本陣まで置いている。
第二段階の福島攻城戦は、主に城側東口から砂小実常が主体となっての小競り合い。
この時片倉の家臣が2名討ち死にしているが、この出典は慶長5年10月の1次史料の
「伊達家文書」(伊達政宗最上陣覚書)に記されている。このほかの被害は軽微とあるから、
上杉の軍談のような「大きな被害」も出ていない。
>梁川城に下がった須田に挟撃される怖れが出たので翌日撤退。
夕暮れになり、福島城が1日では落ちそうになかったため、伊達軍は最初に本陣を置いた
国見山へ一端撤退をする。須田の部隊が地元の「小手63騎」等の武者を引き連れて、伊達の
後尾の「小荷駄隊」を襲撃したのはこの時点になる。明暦年間の佐藤某は、この戦闘に参加して
いたことになる。「伊達治家記録」には小荷駄隊長や、足軽人足が討たれ、四散したとある。
が、非戦闘員なので、部隊全体には全く影響が出ていない。
伊達軍は、福島城から撤退→途中信夫山で小荷隊を襲われる→伊達軍摺上川で休憩(この時、
政宗は日中に活躍した屋代景頼を褒め、酒杯を与えている)→伊達軍国見山へ着陣する→地元の
内通者4000人ばかりが大挙して伊達への同陣を申し出る→謀略工作をしていた梁川城の失敗
情報が入る。福島城への再攻撃も中止→翌7日、国見山から北目城へ撤退。佐沼城主の津田景安が、
追ってきた上杉勢を軽くあしらう。政宗8日に家康に戦況報告、の流れになる。
信夫山が焼き払われたのは、時系列からみて、6日の夜か7日以降、伊達軍が全員引き払った後、
もぬけの殻の状態で、上杉軍がやけくそになってやったものだろう。
>>335 >伊達治家記録と佐藤次兵衛巧妙覚を参考にした結果の伊達軍被害状況は?
>その荷駄隊襲撃での死者数とか載ってたんか?
『伊達治家記録』
国見山の本陣を取り仕切った宮崎旨元は政宗公の後に従って、
福島表にやって来た
これを見た梁川城主の須田大炊は「追い駆けて討ち取れ」と下知して
車丹波などの武者を繰り出した
この梁川勢は大隈川を渡って斬りかかり、宮崎旨元らは討ち死に
他の者達も或いは討ち取られ、前後へと逃げ去った
『佐藤次兵衛巧妙覚』
梁川城は岩井行衛を大将にして赤貝へ進撃。
西根砦からも新右衛門井次兵衛と次郎右衛門が出撃し、伊達勢を多数討ち取った。
このとき、山田堪解由が政宗の陣幕を奪った。
伊達勢の林十郎左衛門という者が名乗りをあげて突撃してきたが、
(西根の)次郎右衛門がこれを討ち取った。次郎右衛門は18歳。
総大将の須田大炊頭が梁川城に引き上げ、
二の丸で首実検をしたところ、数は800あまりでした。
338 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/28(土) 08:43:44
>>335 >だったら一番槍とかの功を争って、名のある将が討ち取られることだって多くなるんじゃねーか?
福島城下の町内で片倉備中の武者頭、国分外記が討ち取られてる
武者頭が討ち取られるまでには
当然、一番槍を争った武者達も多数討ち取られてるだろうね
『「隊長以下戦死スル者頗ル多シ」
前後の関係をよく見ると、戦死する者頗る多しとあるのは、実は伊達勢の戦死者のことなのである』
渡邊三省「正伝 直江兼続」
>反撃が成功って・・・あくまで撤退で敗走じゃないんだろ?
福島城の反撃によって、多くの家士を殺された片倉は本陣に呼び出された
政宗に「城の様子によっては、兵を引き揚げるべきか」
と意見を求められた片倉は
「城を落としても、多くの兵を失います
ここは先ず、引き揚げるしかありません」と答えるしかなかった
さらにこの相談の直前、
攻城用に準備してきた荷駄隊が、梁川勢によって殲滅させられという報告を
既に政宗は受けている
この悲報がそのまま、政宗が片倉へ開口一番「城中様子二依テ、人数ヲ引キ揚ラルヘキ哉」
という弱気な発言に繋がっている、という流れ
これほどの惨状は撤退というより、明らかに敗走と呼ぶに相応しい
>>335 >信夫山が焼き払われたのってどのタイミング?
「寂光寺羽黒山因縁記」「富田文書」「第一次寂光寺事件文書」などを研究した
梅宮茂
(梅宮氏は政宗が本陣を置いた黒沼神社、その神主の末裔)は
信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ、
山上の 宮人、六供坊らすべての山伏が政宗に付き従い、北目へ向かった
と明らかにしている
上杉側の記録にも「政宗陣所(黒沼神社)を襲い、悉く焼き払」ったいう記述もあるので、
政宗が敗走を開始する混乱の最中に、上杉による焼き討ちが行われてる
>どういう意図と効果があったの?
松川合戦において、伊達軍と共に、北目へ遁走した信夫山(別名・青葉山)の山伏達
彼らは11代持宗以前から代々伊達家に尽くし、血の繋がりが深い者達も多かった
伊達氏も米沢、三春、伊達の総鎮守として、代々厚い信仰を捧げてきた関係
これら伊達氏が築き上げた影響力が松川合戦で焼き払われ、
北目へ叩き出された事実
上杉家が梁川〜伊達〜桑折〜信夫そして福島まで跨る信達地方への支配を浸透させる上で
絶好の機会を政宗が与えてくれた
340 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/28(土) 09:28:40
>>338 の挙げている渡邊三省「正伝 直江兼続」(別編関ヶ原縦横)は確か米沢商工会議所から「推薦文」
をもらっている怪しすぎる書物だね。
同書の中で、渡邊氏は陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の価値を高らかに謳っているが、皮肉なことに
『日本戦史』における福島の役の記述には、上杉軍が伊達に圧倒されて宮代で大敗、福島城へ追い込まれた
顛末と、本庄繁長が籠城に追い込まれ、「短鎗」をもって伊達軍へ自決覚悟で突入する事態になっていたが、
伊達軍が釣瓶打ちに銃撃を加えて撤退したため難を逃れたことが、詳細に記載されている(渡邊氏はこの部分
を何故かスルー)。
この戦いでの結果に対して家康が政宗を賞賛し、来春をもって上杉を征伐するために、政宗に本拠地へ帰らせたとある。
つまり慶長5年10月6日の戦闘に関しては、参謀本部では伊達の勝ちと判定している。一方『日本戦史』では慶長10月22日
に伊達軍が来襲、これを撃退したとの「上杉御年譜」の記載も付記している。
渡邊氏の『直江続伝(対伊達戦)』は突っ込みどころ満載だが、一番の笑いどころは福島城を攻撃した伊達軍が城下に溢れ、
「電車のラッシュアワー状態」になっており、そこを背後から須田長義が襲い、城門から本庄が突撃したため、伊達軍は総崩れに
なってその日のうちに命からがら仙台へ逃げ帰った、…等と妄想たくましく描いているところだ。
渡邊氏の同書については詳しく批判していくが、まずはそのさわりだけにする。
局地戦では寡兵の上杉の前線が敗れたが戦略的に伊達が大敗した もうこれでいいんじゃね。 結局は被害を出しながら一寸の土地も奪えなかった伊達が負け判定。 伊達治家記録自体が自己正当化による捏造だらけだから信用できないし。
信長も大軍が襲って来ても 逃げずに一度は戦え 士気に関わるから負けてもいいからとにかく打って出ろとね。 本庄も圧倒的兵力差でも 武人として出撃したんだろ ただ本庄が最上相手に庄内制圧で見せた力量からすれば 冷静に事態を見れる才覚があり 無策で戦う事はないわけで。 福島城に引き付けて決戦すると思案してたでしょ当然。
まっ12/22に福島表防衛責任者の本庄は状況説明の為に 上洛させることに決めてるあたりが重要なポイントだな。 伊達が捏造勝利宣言してるから ちゃんと家康に事実を報告しに行ってるよな。 それで福島表で伊達が惨敗してる事実を知り 上杉征伐を家康はやめて状況の推移を観察してると。 12月に家康から伊達に戦闘をやめろと言われたと伊達側は主張してるが 実際にその後も上杉領へ進出しては叩き出されてる事実と大きく矛盾するし伊達の主張はまったく信用できない。
344 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/28(土) 22:33:08
捏造大名伊達w
>>335 なんだが、ますますどっちの言い分が正しいのかわかんなくなってきた。
ググってみると伊達の言い分はなんとなく把握したんだが、上杉がなぁ。
伊達側の資料によると、
10月5日に伊達出陣
翌6日に国見山に本陣を置く
宮代で勝利→福島城まで攻め寄せる
福島城から国見山へ撤退開始
後方の荷駄隊が梁川勢に襲われる→被害軽微
国見山へ撤退
翌7日に北目城へ帰城
となる、
じゃあ上杉側の資料に基づいた推移ってのは?
>>337-
>>339 を読んでも時系列がよくわからん。
特に
>>339 は政宗敗走後に信夫山を焼き払ったと書いているが、
信夫山って政宗が宮代で勝利した後、首実検した本陣だろ?
主力が福島城攻撃中、政宗は信夫山にいたってこと?
そもそも 首実検した これ大ウソだから。
いや、
>>346 はそれがウソってわかってても、俺にはなんでウソだって言うのかがわからんのだが。
すまんがそこまで話してくれんか。
天正12年 4月上旬景勝が家康の調略を牽制すべく信濃出馬。8/2にまた景勝が信濃へ。 8/18上杉軍が葦名の赤谷城の小田切三河守の援助を受ける新発田側を撃破し八幡砦&浦村城を落城させる。 10月18歳で政宗家督を相続し大内定綱が政宗に就任祝いで正月まで米沢に(政宗正室田村氏ハンター大内をどう手懐けるか当主の力量の見せ所) 10/6蘆名盛隆が家臣の謀反で死去→葦名家督は蘆名亀王丸に。 政宗は葦名・岩城と田村の講和を仲介していたが盛隆の死を知り援軍が出せないチャンスを狙い、 葦名騎下の桧原地方の土豪であった穴澤一族が芝居酒宴をする日を狙い卑怯な奇襲で非武装だった無抵抗な穴沢一族皆殺し。 10/26景勝が越中で佐々の宮崎城を攻略。 天正13年 1月政宗の当主としての行動を見て力量を量っていた大内定綱が帰り離反。 1〜2月佐々が越中の上杉諸城を攻撃。4/13上杉軍が真田氏の上田尼ヶ淵城を攻撃。 5/10政宗は葦名へ奇襲するも騙し討ちされた葦名の怒りを買い関柴の戦いで大敗。 7月景勝が秀吉の佐々討伐で越中出馬。8/27政宗、小手森城の小城で苦戦の腹いせに女子供どころか犬まで撫で切り大虐殺。 8/28上杉の援軍を得て真田昌幸が徳川軍を上田城にて撃破。 8/29佐々成政降伏し上杉主従が秀吉と会談(織田&柴田&佐々と続いてきた新発田援助新潟湊ルート崩壊) 10/8政宗が輝宗を暗殺し二本松攻めを強行。 11/17輝宗の憂慮が当たり人取橋で佐竹・葦名の猛攻。鬼庭良直を討ち取られ追い詰められ二本松城攻め失敗し撤退。 天正14年 5/20上杉主従が上洛し6/14大坂城で秀吉と会見。7/6に越後着。 11/20上杉軍により新発田側の新潟城・沼垂落城(新発田側の阿賀野川・信濃川の巨大湿原地帯の要害制圧と水利通商権を奪い取る) 11/21日蘆名亀王丸没。
天正15年 佐竹客将の太田三楽斎の説得により金上盛備が盛隆正室・平田・富田ら伊達派を排除し蘆名義広13歳を擁立(政宗の弟の小次郎擁立に再度失敗) 4月秀吉の20万の軍勢を率いた九州征伐が終了。 5/13景勝が新発田側の水原城を落城させ6下旬に春日山へ帰る。 7/23上杉軍が新発田城下へ侵攻。8月景勝が再度新発田討伐に。 芦名氏は新発田へ援軍と兵糧を送ったが8/29山内村近郊で上杉軍に大破され崩壊し生きて帰れたのが半数もいなかった。 葦名軍の金上盛備が後詰を出して上杉軍と一ノ渡戸で闘ったが敗れ9/7加治城落城。 9/14葦名の小田切三河守の赤谷城も孤立落城し10/24五十公野城落城10/25新発田滅亡。 12月関東・奥羽に惣無事令(奥羽・関東の諸将は軍備を緩めて上洛準備し秀吉との外交戦略へ移行) 天正16年 2/2政宗は惣無事令を無視し大崎家内紛の鎮圧という名目で侵攻し伯父の義光の激怒を買い大崎合戦で大敗(政宗の母義姫が和睦斡旋) 4/20上杉主従上洛し5/8聚楽第で秀吉と会談5/26に天皇より従三位・参議・中将に昇叙され越後中納言と呼ばれる。 7/4政宗が惣無事令を無視し再び南下し郡山合戦で再び佐竹&葦名連合軍に伊東肥前守重信を討ち取られ大敗。
天正17年(1589)2月に葦名の豊臣大名化により秀吉の命で景勝と芦名義広の和議が成立することになる。和議成立により三成が義広の上洛を促している。 それで弱体化しまくった葦名支援で上杉軍が派遣されると伊達軍はビックリして退却し相馬方面へ。 会津から伊達軍がいなくなったので上杉は退却し、去年末からの惣無事令違反の本庄の最上の庄内を奪った件の協議に移る。 大宝寺千勝丸が景勝と面会してから上洛する一方で直江の卓越した外交戦略が成功し、 秀吉が最上の訴えを却下し千勝丸は豊臣姓と従5位下・出羽守に任じられた。 6/12に上杉軍は佐渡征伐で景勝自ら渡海。6/24に秀吉へ佐渡平定報告書が書かれ 7/16には秀吉から佐渡の仕置の書が送られた。7月中は佐渡各地に朱印状が出され8/1の直江に佐渡支配が任された。 この上杉という強敵がいない時期を狙い伊達は葦名をコソドロしている。 9/28に秀吉が上杉に佐竹と一緒に伊達攻略の準備する書を出す。9/29佐渡攻略を祝いの漢倭連句の会を開いた。 10月には秀吉の命により景勝は木戸元斎を目付けとして八十里越から南会津へ爆進し 水窪に砦を建設し横田城を修築すると伊達軍は遁走し 景勝本隊も会津侵略の為に三条までやってきていたが10/10に秀吉が小田原征伐の準備として 100石6人の軍役を命じてきたので会津から撤収することになった。 こんな年表を某スレで見つけましたので貼っておきますね。
この上記年表の後に
慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
>>309 >>310 につながればほぼ完成ですかね?
>>345 福島城から国見山へ撤退開始
後方の荷駄隊が梁川勢に襲われる→被害軽微
ここが逆だろ
後方の荷駄隊が梁川勢に襲われる→荷駄隊全滅
福島城から国見山へ撤退開始
荷駄全滅と撤退開始の間に
片倉隊が城下で死者多数
政宗が本陣を置いた信夫山全社寺が炎上
焼け出された山伏を伴って政宗は北目へ帰ったと
後方の荷駄隊が梁川勢に襲われる→荷駄全滅で攻囲不可
片倉隊が福島城下で夥しい死者を出す
政宗が本陣を置いた信夫山全社寺が炎上
焼け出された山伏を伴って信夫山から国見山へ撤退開始
上杉や伊達側に付いた山伏達の記録を加えるとこうなる
義姫が政宗に毒をもった毒殺未遂の根本史料は伝わっておらず、 話が詳細に伝わるのは江戸時代の記録『治家記録』によるもので、 この『治家記録』では食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、 政宗はそのまま帰宅したとされている。政宗の小次郎斬殺後も、義姫は伊達家にとどまった。 彼女は文禄2年(1593年)には、朝鮮で従軍中の政宗へ、 現金三両と和歌(あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空)を添付した手紙を届ける。 政宗はこの書状に感激、母への進物を探し回り、ようやく朝鮮木綿を入手すると 「ひとたび拝み申したく念望にて候」としたためた書状を送っている。毒殺事件があれば、こう親しく手紙のやり取りはしないだろう。 母子で手紙のやりとりのあった翌年の文禄3年(1594年)、 政宗の師である虎哉宗乙から京都にいる政宗の大叔父にあてた手紙によると、 11月4日に義姫が岩出山から出奔して山形に戻ったとある。出奔の理由や経緯は不明だが、 政宗の留守中に不快な出来事があったのかもしれない。 義姫の政宗毒殺は捏造です。『治家記録』←こんなもんまったく信用できません。
つまり歪曲捏造し被害を過小に書いてある『伊達治家記録』 国見山の本陣を取り仕切った宮崎旨元は政宗公の後に従って、 福島表にやって来た これを見た梁川城主の須田大炊は「追い駆けて討ち取れ」と下知して 車丹波などの武者を繰り出した この梁川勢は大隈川を渡って斬りかかり、宮崎旨元らは討ち死に 他の者達も或いは討ち取られ、前後へと逃げ去った 事実は『佐藤次兵衛巧妙覚』 こっち。 梁川城は岩井行衛を大将にして赤貝へ進撃。 西根砦からも新右衛門井次兵衛と次郎右衛門が出撃し、伊達勢を多数討ち取った。 このとき、山田堪解由が政宗の陣幕を奪った。 伊達勢の林十郎左衛門という者が名乗りをあげて突撃してきたが、 (西根の)次郎右衛門がこれを討ち取った。次郎右衛門は18歳。 総大将の須田大炊頭が梁川城に引き上げ、 二の丸で首実検をしたところ、数は800あまりでした。
356 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/29(日) 04:44:55
まあ、慶長5年10月6日の福島の戦闘を示す史料は、基本的に侵略した側の伊達家に残されている。 10月初旬から中旬にかけて、家臣や今井宗薫、家康宛の書状や、家康や直政からの返書まで(つまり1次史料)。 更にその書状を編纂した『伊達治家記録』。 一方、上杉側には、慶長5年10月6日の戦いを示す1次史料は1通も存在しない。唯一福島県の「梁川町史」に 載っている『佐藤次兵衛巧妙覚』のみで、しかも明暦年間に書かれたものに過ぎない。あとは地元の古老咄と憶測 バイアスをかけてるだけだから、説得力がない。 よって、伊達に勝利宣言されても、有効な反論を上杉側は示すことができないで、悔しがる図が続いている。 伊達
はぁ? 伊達が自分で残した捏造マンセー書や 政宗の自己申告で実態を把握できない状況にいる家康が出した書状なんて まったく役に立たないだろ。 その証拠に政宗の自己申告を読んだ家康「来年春に上杉征伐やるよ」と 12月に状況が把握できた家康「上杉征伐やんねーよ」と発言が180度違う。 さらに伊達は福島の地を一寸も奪えてないし、百万石の約束を反故され、たかが2万石の評価だった(最上はおろか、実質なにもやってない蒲生・結城らの加増とは天地の開き) 結果から判断したって、これで伊達が勝ったなんて有り得ないだろ。 政宗の戦の今までの戦歴を考えてみても勝つ確率は0%に等しい。
358 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/29(日) 05:53:57
>>357 >政宗の自己申告で実態を把握できない状況にいる家康が出した書状なんて
まったく役に立たないだろ。
じゃなんで、この政宗の「自己申告」を信じてるの?
「
>>338 福島城下の町内で片倉備中の武者頭、国分外記が討ち取られてる」
これ伊達家文書の一節なわけだが。この直前には宮代で景勝衆300余名討ち取った
とある。松川で対戦して蹴散らされた、上杉側の青木親兵衛、岡左内、齋道二らのリスト
も載っている。首級実検(その数100余)はその場に立ち会っていた「成実記」にもある。
佐沼や宮崎城の凄惨な修羅場を記している成実のこと。ほぼ実態通りだろう。
結論、上杉は、何から何まで伊達の史料だよりってことだね。
>>340 >同書の中で、渡邊氏は陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の価値を高らかに謳っているが
すぐばれるような無茶苦茶なデタラメを書くなっつーの
渡邊氏は
『(日本戦史を)再三引用してきたが(中略)が、その全部が信頼できるというわけにはいかない。』
『参謀本部の同書編纂当時(明治二十六年)は、まだ史料の発掘が不充分で、
この戦いなどは殆ど「伊達氏四代治家記録」によったもので、このような一方的な記録になった。』
これのどこをどう読めば
>渡邊氏は〜『日本戦史』の価値を高らかに謳っている
こんな馬鹿げた話が出てくる??
ここで渡邊氏が書いてる通り、明治二十六年時点では
慶長5〜6年に活躍した小手六十三騎(梁川勢)の働きと
梁川城主・須田長義からの感状をまとめた高橋家文書も発掘されてない
梅宮氏による信夫山の惨状も明らかになってない
高橋家文書を精査した鈴木俊夫氏による懸田、行人担、鶴田小、城野倉の戦すら
治家記録には書かれてない
だから渡邊氏に限らず、福島市史はじめ梁川町史も治家記録だけでなく
上杉側の記録を採用してるんだろうが
>>340 >つまり慶長5年10月6日の戦闘に関しては、参謀本部では伊達の勝ちと判定している。
おまえ頭おかしいだろ?
参謀本部は自分勝手に勝敗の判定なんかしてないから
二十四日に家康は政宗に福島の働きを賞し、岩手山に帰らせた
とあるだけで
参謀本部が主観で「伊達の勝ちと判定してる」なんて何処にも書いてない
まして二十二日には桑折で伊達軍が再び卿民を侵略するも
上杉の士、貝原解由らに撃退され、直江兼続が彼らを賞している内容も併記して
高橋家文書同様、度々信達地方を攻略しようとしては
その都度、撃退される伊達軍が書かれてる
>一番の笑いどころ
一番の笑いどころはお前自身だろ?
「隊長以下戦死スル者頗ル多シ」という伊達軍の被害は何処でどのように起こったのか考察してるだけ
その文章の直前には、攻城側が限定される福島城の縄張りにまで言及してる
福島城から、その町内で片倉軍が「隊長以下戦死スル者頗ル多シ」となったのは
城側が突出したからではないか〜とする同氏による推測は、当然あって然るべきだし
城から町内へ撃って出た結果
福島城の構造上、戦力を集中せざろう得ない伊達軍が
「隊長以下戦死スル者頗ル多シ」という状況に陥った〜とする考察は自然な内容
確認しておくけど
『「隊長以下戦死スル者頗ル多シ」
前後の関係をよく見ると、戦死する者頗る多しとあるのは、実は伊達勢の戦死者のことなのである』
この指摘は渡邊氏のみならず、誰が「日本戦史」を読んだところで同じ解釈しか出てこない
>確か米沢商工会議所から「推薦文」
確かと強弁するやつほど「確か」じゃないし、まったく関係のない下らない話を始める
挙句の果ては「詳しく批判していくが、まずはそのさわりだけにする。」???
この馬鹿!
まずはその読解力の拙さをどうにかしろ
お前はそんな資格を毛ほども持ち合わせてない
>>356 家臣や今井宗薫、家康宛の書状や、家康や直政からの返書
更にその書状を編纂した『伊達治家記録』。
その書状を編纂した所で治家記録内の松川合戦のような描写にはならんだろ
明らかに編纂時、加筆されてる部分も多いし
あとは成実記だが
同書内の一体どの部分が治家記録内の松川合戦に相当するのか?
まずそれを具体的に挙げなければ何の意味もない
>じゃなんで、この政宗の「自己申告」を信じてるの?
昔から社交辞令、付き合いってのが有るだろうに
政宗が都合のいい部分だけ書き送り、無様な戦況を覆い隠したとしても
それを家康が根掘り葉掘り問い質す事なんて、普通するだろうかと
これくらい誰でも思うよ
>>348-350 その製作者が伊達嫌いなのがよく分かるな
卑怯とかコソドロとか・・・主観が入り混じってる
>>359-360 なんかワロタ
ほのぼのしててよい
>>361 昔から社交辞令、付き合いってのが有るだろうに
政宗が都合のいい部分だけ書き送り、無様な戦況を覆い隠したとしても
それを家康が根掘り葉掘り問い質す事なんて、普通するだろうかと
これくらい誰でも思うよ
この部分は弱いな
説得力ないぞ
364 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/29(日) 15:52:44
>>361 >あとは成実記だが同書内の一体どの部分が治家記録内の松川合戦に相当するのか?
『成実記』には、確かに関ヶ原戦での松川合戦を示唆する箇所があるな。あげとく。
一 慶長五年七月、白石城御責取北目へ御入馬候処。
(中略)
十月朔日の一戦以後、越後勢福島表出張の由、政宗公聞召十月三日御出馬に候、
先手片倉備中被仰付候処、道遠不参會、茂庭了庵先陳に候。屋代は笹屋より直に被参候。
敵勢瀬上の町を横川端へ備出候処。石見勘解由切崩候。
敵復川向に備を直し待懸候。勘解由手黒澤豊前先を懸敗北仕候て。
福島町へ進入候。備中此処にかけ付け鉄砲を放懸首十三取申候。勘解由石見討取候。
首百余、政宗公御覧成候。
其夜は窪田相場、翌日梁川へ御働候。
結局は
>>356 の
>伊達に勝利宣言されても、有効な反論を上杉側は示すことができないで、悔しがる図が続いている。
この一文が全てだな
確かに伊達勝利は怪しいんだが、一次資料を欠いていてはな
>>364 なんだ越後勢って?堀の軍が空間ワープでもしたのか。
成実記もあからさまにスポーツ新聞捏造ゴシップ記事レベルだな。
成実の残したものはまったく役に立たないね。 あんなもん信じたら最上なんて悪意が込められ過ぎてひどい歴史評価になっちまう おっと政宗と伊達の記録でも最上は常に悪役。 今世紀になってだいぶ義光が評価されてきたが 一昔前なら伊達の何でも最上が悪い主張がまかり通って極悪人扱いだったな義光。 伊達資料なんて一次資料でも何でもない。政宗生前からして負けてるのにアホみたいに勝利宣言しまくって捏造しまくってんだからw 政宗が他人に出す手紙なんてみんな過度に誇張しまくってる。 こんなに他家と主張が食い違い、一説にはとか、実はとか、〜だと言われてるとか言い訳しまくってるのは伊達ばっかり。 輝宗の日記あたりの資料はまぁまぁだが政宗なんて信用ゼロの資料ばっか。
>>363 家康からの返書をもって、勝利宣言する方が説得力ない
せっかく政宗が、都合の悪い部分を隠して報告してるのに
家康が「でも伊達家累代の尊信を受けた信夫山を焼き払われたよね?」
「しかも城攻めに用意した兵糧、弾薬、陣幕を奪われるとかアホですか?」
「福島の町内で死人の山を築いたと聞いてますが、何か?」
なんて書き送る訳がない
心の中では思ったとしても、それは書かない
それ以前に、松川合戦における伊達の無様な実態を知らされてない可能性も高い
>>364 成実記の松川合戦ってこれだけなの?
『其夜は窪田相場、翌日梁川へ御働候』?
治家記録だと
政宗は福島城を攻めた六日の内に、桑折の街道から梁川城を遠く見つつ国見山へ帰陣
その夜は軍議を開いただけ
翌日は梁川城は攻めてない
誰に対して「御働」なんて敬語を使ってるのか意味不明
もっとも六日朝、国見山を出発する時には
張り巡らされていた伊達の陣幕、積み上げられた兵糧、弾薬などなど
政宗が再び国見山へ帰陣した時には敵の城(梁川城)に移ってる訳だ
代わりに寺社仏閣&住居を焼き払われ、呆然自失した山伏達が政宗に付き従ってる
治家記録内の松川合戦物語は一ページ40字前後
それが13ページも有る
成実記がこの程度の記載しかなく、しかも治家記録と違う記述が多い
そうなると、やはり治家記録内における松川合戦物語は、何を元にして書かれたのか不明
誰が、いつ、書いた物かすら分からない史料というのが一番怪しい
>>365 後陣を襲われ、重要な荷駄隊を壊滅させられただけでなく、
荷駄隊の隊長含む護衛、800もの首を討ち取られ、
福島城下では多大な犠牲者を出し、それが敗退開始の判断に直結し、
あろうことか伊達家代々によって築き上げられた、寺社仏閣をも焼き払われたと、
その後も諦めきれず、度々侵攻するも、全て撃退された伊達軍
これら一連の防衛戦の後、
梁川勢は須田や直江が発給した黒印状、感状によって其々100石前後あてがわれてる
このザマで勝利宣言する方がどうかしてるよな
伊達が国を挙げて攻めてきた大軍と、須田・本庄の兵力差を考えれば上杉側の完勝と言っていい
「一次資料を欠いていてはな」
もういい加減、この手の発言は「一次史料厨乙」で良いんじゃないか?
一次史料が絶対なら、北条氏規、氏邦らも三増峠で討ち取られた事になるし
だいたい自軍にとって都合の良い事しか、同盟者に書き送ってない一次史料は幾らでも有る
よって大抵の史学家達は、一次二次で判断するより、双方の言い分を公平に採り上げたり、
傍証出来る史料があれば、むしろ二次史料の方を信用する場合だってある
信長公記も年月を経た後に成立し、これも二次史料扱いだが
史学者達は採用している
『佐藤次兵衛巧妙覚』にしても松川合戦から、それほど年月日が経ってない
年月日が違うだの、一次史料が絶対だの・・・
どうも伊達を信仰してる連中は、他の史学関係の本は一切読んでないんじゃないかと思う
371 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/06/30(月) 19:17:24
ケンカ両成敗で、それぞれが主張しているように、 慶長5年10月6日の宮代の戦いでは伊達が圧勝、 慶長6年4月26日の松川合戦では上杉が圧勝、 でいいんじゃねw
『佐藤次兵衛功名覚 慶長三年(1598)上杉景勝就封以来の軍功について、 随従した甥の佐藤次兵衛が明暦三年(1657)に書き上げたものである。』 関ヶ原から間もない1657年成立なら、十分史料的価値は高いよ 伊達治家記録だって政宗あたりの記述は元禄16年、1703年の物だし 治家記録の場合、元は誰が書いたのか、どう編纂されたのかも不明だけど 家康の事を「大神君」と表現してるし(関ヶ原当時は「大神君」な訳ない) しかも上杉の記録にも言及してるから、 1703年なりの視点が編纂時に、かなり混入されてる それを考えれば佐藤次兵衛が1657年の表現「仙台」を使うのは 別に変な事じゃない
伊達大敗確定ワロタw
376 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/03(木) 19:10:20
『佐藤次兵衛功名覚』は『東国太平記』とドングリの背比べだろ。 古老の与太話。 肝心の上杉の『上杉御年譜』でも、10月22日に攻めてきた(?) 伊達軍の「小荷駄隊」相手に苦戦している脆弱ぶりだから無理もない。
377 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/03(木) 20:09:39
伊達治家記録はデタラメ妄想ばっかり書かれてるけどな。
伊達厨の特徴 論破されて苦しくなると なぜか?必ず『東国太平記』を持ち出して 勝手に勝った気になるキチガイ (なぜかずっと論破されてきた事実を忘れて、 黙殺スルーする事が可能になる脳内リセット魔法の呪文らしいw)
成実記と治家記録が見事に食い違い、しかも 伊達治家記録だって政宗あたりの記述は元禄16年、1703年の物・・・すでに江戸中期かよwww 治家記録の場合、松川合戦物語は、何を元にして書かれたのか不明 元は誰が書いたのか、どう編纂されたのかも不明って・・・ そんでもって成実の書いた日記に越後勢って書かれてるって・・・捏造日記デスカwww ダメじゃんか・・・もう伊達を100%弁護できないじゃんwww
このスレの結論は
>>370 ってことでいいんじゃね。
381 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/04(金) 13:45:45
>>369 『其夜は窪田相場、翌日梁川へ御働候』?
誰に対して「御働」なんて敬語を使ってるのか意味不明
政宗が逃げ帰ってくる間に、国見山から食料・弾薬さまが上杉に奪われ梁川城へ御働候したんだろw
とりあえず素人の俺がちょっと読ませてもらった。
なるほど、双方が誇張してるわけだが、
政宗側の自称一次資料「成実記」と「治家記録」は信憑性が低そうだ。
ただ実際に政宗陪臣の死は隠蔽しようがないと言える。
上杉側の史料はこのサイトがわかるね
ttp://www7.plala.or.jp/oygd/atagoyama.html また上杉側との食い違いは双方史料と一連の結果主義に基づいて考察だな。
つまりは、最終的な信夫郡や伊達郡の帰属や2万石のみの加増評価だ。
その間の最上軍は上杉の庄内地方を奪い取り余勢を駆って由利地方へなだれ込むだけでなく小野寺領まで奪い取り小野寺滅亡へ。
「2万相手にまともに6000で野戦築城もせずに平地で野戦なんかするかアホwww 」
ここは納得。たしかに策もなく、まともに相手するとは考えられないな。
ここで疑問なんだが信夫山で本庄が布陣した場合は松川に背後を遮断され退路を
封じられるので防衛に向いてない。
また眼前の信夫山の高きに伊達が布陣し、松川を掘りに対戦するのも、いかにも丸見えで
本庄の動きが把握され大軍が渡河ポイントから渡河し背後に回られたら終了で、防衛にはまったく向いてないので
本庄が本気にこのラインで防衛するとは考えられない。やはりワザと負けたと思える。
そうでなければ本庄は究極のバカ。でもバカで方面軍指揮官には就任できんだろう。
本庄は謙信への謀反でも得意の本庄城籠城戦をやったというらしい。また庄内平定も彼の手腕だという。
家康への外交もやったという。無能ではあるまい。
383 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/04(金) 15:49:04
この間の流れは 十月五日、伊達軍、北目城より出陣。十月六日朝、伊達軍、国見山に本陣を置く。 上杉軍と激突。伊達軍二万、本庄・須田六千。 本庄は福島城に篭城、伊達軍は羽黒山に本陣を移動。 伊達軍、福島城に攻め入るも被害多く陪臣2人討ち死にし 梁川城に戻っていた須田勢が伊達軍を急襲、伊達軍に小荷駄隊に大被害。 政宗に諮問された片倉も弱気な発言をし、石川昭光も先行き暗いことに同調。 十月六日夜、福島城再攻撃を図るも梁川城の調略が失敗し2万もの兵の食料弾薬が断たれる危機。 十月七日、伊達軍、伊達の聖地も燃やされる中、追撃や挟撃を恐れ羽黒山の山伏や宮人と一緒に北目城へ急敗走。 ふむふむ、日付問題があるようだが、信長公記すら日付の誤認はよくあるらしい。 大規模な10月と小規模な国境紛争の4月の戦いを混同してるのだろう。 ただ須田系譜の記述はどうやら、単なる記載ミスらしい。 (別の箇所では慶長5年の夏頃の出兵としている)と指摘されてるな。 政宗は福島城に接近したところを青木新兵衛に鎗をつけられ、岡左内には二太刀 を浴びせられて←この辺はおそらく誇張なのであろう。だが、葦名へ攻めた時に暗殺されそうになったり 人取橋でも銃撃されたり、郡山合戦の時に捻挫したりと、政宗はよく怪我をしてるし、 苦戦すると前線に出てくることもあるし、あながちウソでもないかもしれない。
梁川城では横田大学の寝返りが失敗に終わったので、完全にこの戦線で敗北確定になったということかな。
そこで横田大学が出てくる会津陣物語の作者を調べてみた。
杉原親清は江戸幕府の老中・酒井讃岐守忠勝が、部下に命じて会津合戦の古い伝承を集めさせた
上杉の家臣筋だった親憲の一族らしいが幕府の命なら忠実だな。
そしてこれらが「東国太平記」「常山紀談」に影響を与えたと。
常山紀談著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山
原形(自序)は元文4年(1739年)成立。完成は明和7年(1770年)とされる。戦国武将の逸話470条を収録。
いわゆる「勧善懲悪」ではなく、史実を集めて評論を加えず淡々としるしていることで、事実を重視する徂徠学派の特徴を示している。
草稿(自序)の完成は比較的早期に行われたが師匠である太宰春台の意見を入れて徹底的な再改稿を行い30年かけて満足のいく形に完成させたといわれる。
なるほど、史実を曲げるような人間ではないわけだ。
東国太平記は誇張や日付での混同があるようだが完全否定できないのではないだろうか。
>>351 の記述もウソかと思ったら、上記リンクサイトにも裏づけるように書かれてるのな。
伊達軍は慶長三年の就封直後から侵攻の手を伸ばし、掛田城に籠ったが佐藤一族はこれを
攻め落とし、同五年の正宗自らの出陣に対しての梁川・大枝城を中心に数々の軍功を挙げた。
また徳川から和平を結ぶから戦うなと政宗は言われたとのことだが
>>309 >>310 によると
矛盾するように戦い続けているね。まぁ元々は上杉征伐が目的で始めた戦いで石田征伐はイレギュラーなので当初目的の執行だから自然なこと。
それに「伊達治家記録」を見ると、慶長6年2月に大規模な動員が計画が書かれてるとか。
4月に国境紛争があってもあながちウソとも言えないな。しかしだんだんと伊達の攻撃がションボリと残念な結果になってるのは
伊達軍の士気と戦意がだいぶ低下してきてると見える。そこで家康は和睦に応じたと言える。
どうでしょうか、私の意見は。
追加してやると 会津や米沢から援軍が一揆勢を蹴散らして驀進していたので 福島城で大規模な大包囲をされる危機に伊達は完全にビビり始めていた。 地図で言えば13号線で米沢から直江に派遣され伊達に呼応した一揆勢を粉砕した水原が突出してきた。 115号線からも会津の増援が急派されていた。 まぁ、本庄は最初から増援をアテにして籠城するつもりだったんだろうね。 作戦計画プラン自体も伊達を仮想敵として前々から既に出来上がっていたものを実行したにすぎないだろう。 白石城でこの作戦は伊達本拠が近すぎて行なえない事からも 最初から白石城は放棄もしくは譲渡する計画だったのだろう。 なんせ実石高が西の湯原城&東の白石城を合わせた刈田郡全体でも、たった1万3000石しかねーから惜しくもない。
まぁ伊達は家康に評価してもらいたいから、過剰に戦果を捏造報告するのは仕方がないよ 上杉は別に誇張する必要もなければ、評価してもらう相手も存在してないからね。 あくまで上杉征伐と称して侵略してくるウザいヤツらを追い払うだけで。
387 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/04(金) 19:29:02
上杉ファン涙目w
388 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/04(金) 20:04:20
上杉の史料は全て軍談と小説からの引用だからね。 代表的なのが渡邊三省の『正伝直江兼続』だし。
反論不能なんで、明後日の方向にレスを返すカワイソウな伊達厨房…哀れ。
390 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/04(金) 23:36:14
会津陣物語は信憑性が高そうだね!
まぁ、マジに上杉が前哨戦で負けたなら 出鼻をくじかれ士気が低下し、兵少なしで福島城も落城してたろうね。 だが伊達は大軍でありながら捕捉殲滅できなかったので ほぼ無傷で・・・と言うか計画的撤退で伊達弱しと見た福島城兵の激烈な反攻をうけたんだろう。 6000の籠もる兵糧も充分にあった点から見て、最初から福島城へ釣り込む予定だったんだろう。 逆に伊達は全軍を挙げて福島城まで盲進し見事に釣られて、背後に兵を拘置してなかったとしか思えないな。
↑ それ、新潟県の三流郷土作家・火坂雅志の『天地人』の粗筋を、そのまま書いてるだけだろ。
394 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/06(日) 10:47:00
伊達厨涙w
てか
>>392 は風野真知男『奇策 北の関ヶ原福島城松川の合戦尾』そのまんまじゃんwwww
そりゃ上杉の大勝利だろwwwww
腹いてぇw
軍事常識に当てはめて思考したら当然の結果として 導きだされる客観的事実だから、 多くの作家も十中八九は異口同音に似てくる図上模擬演習で周知の思考だと証明してるだろ。 むしろ伊達厨の考えが不自然なんだって。。。
397 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/07(月) 00:39:17
どうにもプライド捨てまくってる正宗が鼻についてかなわん その癖記録は捏造しまくり そこまでして生き延びて威張ってるのも悲しいよな。 別に上杉厨じゃないしこのスレでの罵りあいも醜いが、伊達 男なんて言い方はあまりにも実像と離れすぎて、むしろ庶民 から囃し立てられて出てきた言葉かと思ってしまう。 筋を通して後々までも苦しんだ上杉家の方が男らしいのは確か。
398 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/12(土) 23:17:27
上杉厨必死w
399 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/17(木) 22:14:54
400get!
>>397 その政宗の叩き方からして・・・釣りか?
いずれにせよ必死杉
上杉ってろくな史料がないからな。 荷駄をどうにか攻撃したのを、伊達軍に大勝したとかほざく捏造軍記がソースだし。 しかも、年月日の食い違いも甚だしい。
403 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/27(日) 13:22:48
だよな、上杉厨は伊達憎しだけで行動してる気がする
論破されて逃げた癖に 久々に伊達虫が発生したな。 あぁ夏だなぁ。。
層化大名伊達w
406 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/07/30(水) 21:01:16
そうかそうかwww
407 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/05(火) 21:19:29
上杉厨が大敗を隠そうと必死だなぁ 来年の大河でも捏造がおきるんだろうな
409 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/07(木) 16:18:34
伊達家 伊達成宗:奥州探題就任 伊達尚宗:上杉氏から正室を迎える 伊達稙宗:再び奥州探題就任 伊達実元:上杉氏の養子となるが長尾家の妨害により失敗 長尾家 長尾景春:関東を争乱状態にして、管領上杉家の勢力を衰退させる 長尾邦景:上杉家をないがしろにし、専横を振舞う 長尾実景:越後守護家に謀反を起こす 長尾為景:上杉房能、八条定宗、上杉顕定らを殺害して上杉家を傀儡化 長尾晴景:上杉実元の家督継承を妨害 長尾顕景:上杉憲政、上杉憲重らを殺害して上杉を僭称 さらに上条上杉政繁を追放 どちらが上杉を継ぐに相応しいかは、バカでもわかるわな
410 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/07(木) 22:10:26
長尾って上杉継ぐ資格ないくらい、上杉家の人を殺してるのね・・・・
伊達成宗:奥州探題就任←駿河伊達文書の妄想w 伊達尚宗:上杉氏から正室を迎える←史実では誰の娘かもはっきりしないw 伊達稙宗:再び奥州探題就任←そんな史実はない。完全な白昼夢w 伊達実元:上杉氏の養子となるが長尾家の妨害により失敗←伊達親子の痴話ケンカのせいw 長尾家 長尾景春:関東を争乱状態にして、管領上杉家の勢力を衰退させる ←祖父・父と続いた上野守護代を与えなかったら謀反するからと、道灌が諫めたのに無視したアホ顕定が原因。 長尾邦景:上杉家をないがしろにし、専横を振舞う ←関東管領上杉から褒められ将軍義教から直臣扱いを受けた事に嫉妬して自殺させた房定が悪い。 長尾実景:越後守護家に謀反を起こす ←父を自殺させたら謀反するだろ・・・ 長尾為景:上杉房能、八条定宗、上杉顕定らを殺害して上杉家を傀儡化 ←忠臣だった父の能景を越中で房能に見殺しにされたら謀反するだろ・・・ 長尾晴景:上杉実元の家督継承を妨害 ←伊達からの養子の件に協力しないと守護を辞任すると定実に脅迫され、一生懸命に養子の件を進めてる。 長尾顕景:上杉憲政、上杉憲重らを殺害して上杉を僭称 ←政敵の景虎に味方した挙句に、追い詰められ和睦斡旋と称して無闇に騒然としてる中を通って勝手に切り殺されただけ さらに上条上杉政繁を追放←直江を部下にくれと頼んで景勝に有能な家臣だからダメと断られた挙句に、豊臣秀吉の直臣になるために無礼にも何の挨拶もなく勝手に出奔しただけ
412 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/09(土) 10:01:58
>>411 また長尾狂信者のコピペかw
長尾による上杉殺しを無理やり正当かして
伊達家の奥州探題就任を妬みまくってるだけじゃんw
越後上杉を滅亡させた伊達がアホなこと言ってるなぁ。 長尾上杉は米沢へ移った後も、山内上杉をちゃんと大切に保護してますがね。 上杉憲政→憲藤・憲重→憲重の子憲武・憲国→憲国の子憲益・憲儀・憲方→憲方の子→憲秀
414 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 10:39:56
>>413 憲政の子孫たちは景勝に追い出されて、南部家に保護されたんだろw
大嘘つくなよハゲwww
憲政自身景勝に殺されてるしな
416 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 11:58:35
417 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:41:00
19 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:36:04
この板に立ったスレはぜんぶ自動的に新党の下部組織だったよな
すべての雑談スレはありなのか
20 名前:加賀守ロコクマッタ@新党党首 ◆Q7XRiS2nOo :2008/08/10(日) 14:36:44
バーカ^^
GRとLR読んで出直せ^^
21 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:36:56
>>17 ということは自治新党は荒らし推奨党でおk
22 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:37:15
クマッタは本当に追い詰められてるんだな
23 名前:加賀守ロコクマッタ@新党党首 ◆Q7XRiS2nOo :2008/08/10(日) 14:37:54
ほらほら^^
その程度では俺様は討ち取れないぜ^
418 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:42:20
この板に立ったスレは全て雑談スレとなることが決まった。
419 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:43:46
24 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:38:40
コテは新党以外に出るべきじゃないんじゃなかったか?
25 名前:加賀守ロコクマッタ@新党党首 ◆Q7XRiS2nOo :2008/08/10(日) 14:39:07
天政会では俺様を叩けないのか
やっぱなりきり厨はクズの集まり
26 名前:J( 'ー`)し カーチャン ◆6NdUrSh7FY :2008/08/10(日) 14:39:35
J( 'ー`)しクマッタ ごめんね いっしょに入院しましょうよ
27 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:39:49
討ち取るとか討ち取らないとか・・・
25歳過ぎて何言ってんの?
28 名前:加賀守ロコクマッタ@新党党首 ◆Q7XRiS2nOo :2008/08/10(日) 14:40:46
ん?^^
手詰まりか?
29 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/08/10(日) 14:41:10
>>26 カーチャン、早く病院へ連れてってよ
>>414 俺は部外者だが
南部に保護されたって
誰のことを指してるんですか?
くわしく説明よろしく。
>>420 そいつ絶対に説明できんよw
盛岡藩の苫米地氏のこと指してるんだからwww
アホ乙w
バカ伊達厨がまた墓穴を掘りましたw
423 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/11(月) 09:14:42
また長尾厨が、「憲政の孫は米澤で保護された」とか 大嘘ついてるのかwww
上杉憲政 上杉憲重 (上記の親子は殺された説があるだけで、助命された説もあって実際ははっきりしない) ※越後の郷土研究史家には根拠なく景勝や兼続らを異常に悪く書く人間がいるので注意が必要。 憲政の孫→倉本氏の元で養育されたので倉本憲国 (元服後に米沢藩一門衆扱いを受けた・色部光長が藩政担当) その子の 倉本憲益(倉本氏を継いだ?) 天津憲儀 古幡憲方(倉本憲方とも)米沢藩士 天津憲秀(憲儀の子で憲方の養子か?)米沢藩士
425 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/11(月) 20:18:30
もしかしてwikiの受け売り?
>>425 wikiに
倉本憲益
天津憲儀
古幡憲方
とか検索をかけても出てこないジャン。
>>423 >>425 お前らいまWiKiの編集履歴見てきたぞ。
8/10付けで憲政の子孫が米沢藩一門衆として仕えたって場所を削除編集して必死に隠滅してやがんのなw
なんかWiKiとか唐突に言い出すからなんだぁ?と思ったら…あまりに必死過ぎてクソワロタwwwwww
南部の話までWiKiに載ってるやんwww
お前がWiKiの受け売りじゃん超バァカ自爆www
428 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/12(火) 11:05:31
根拠の無い嘘が、WIKIから消されるのは当然じゃないの?
ノートで議論すらやらずに誰も知らない中で突然削除しといてよく言うわ基地外がw
11時過ぎに、わずか8分の間に戦国板の上杉氏スレで自演ぶっこいて、ここでの
>>427 でのWiKi工作の指摘の牽制してて、必死すぎて激しく笑えたよプププ(笑)
お前がWiKi見て受け売り南部説唱えてんだろアホがプププwww
なるほど。伊達厨房の盛大な自爆か。 そんで破綻した理不尽な書き込み粘着で執拗に食い下がってきたわけか…夏休みだなぁ。 負けを負けと素直に認めないのは見苦しいよボクちゃん。
431 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/12(火) 21:07:05
長尾厨が根拠の無い説を振りかざしててワロタw キチガイって何を言っても自覚が無いんだなぁ
>>431 これは誤魔化しようがないなw
伊達厨浅はか低脳乙w
おやおや、気持ちの悪い上杉厨がアホな伊達厨の揚げ足取りですか。 捏造軍記がソースの上杉厨には、織田・武田・北条・伊達・最上ファンが迷惑しているんだよな。
上杉の捏造軍記だけはガチ
ま〜たガイキチの伊達厨が暴れてんのか。 戦国板でも日本史板でも伊達が関わると荒れるからホント迷惑。 特にここ最近は夏休みの影響で荒すぎ。 早く学校でも始まってもらって伊達厨いなくならねーかな。
>>248 の続き
その子の
倉本憲益(倉本氏を継いだ?)
天津憲儀
古幡憲方(倉本憲方とも)米沢藩士
天津憲秀(憲儀の子で憲方の養子か?)米沢藩士
425:08/11(月) 20:18
もしかしてwikiの受け売り?
426:08/12(火) 02:50 [sage]
>>425 wikiに
倉本憲益
天津憲儀
古幡憲方
とか検索をかけても出てこないジャン。
427:08/12(火) 05:05 [sage]
>>423 >>425 お前らいまWiKiの編集履歴見てきたぞ。
8/10付けで憲政の子孫が米沢藩一門衆として仕えたって場所を削除編集して必死に隠滅してやがんのなw
なんかWiKiとか唐突に言い出すからなんだぁ?と思ったら…あまりに必死過ぎてクソワロタwwwwww
南部の話までWiKiに載ってるやんwww
お前がWiKiの受け売りじゃん超バァカ自爆www
428:08/12(火) 11:05
根拠の無い嘘が、WIKIから消されるのは当然じゃないの?
429:08/12(火) 12:11 [sage]
ノートで議論すらやらずに誰も知らない中で突然削除しといてよく言うわ基地外がw
11時過ぎに、わずか8分の間に戦国板の上杉氏スレで自演ぶっこいて、ここでの
>>427 でのWiKi工作の指摘の牽制してて、必死すぎて激しく笑えたよプププ(笑)
お前がWiKi見て受け売り南部説唱えてんだろアホがプププwww
>>436 ワロタw伊達信者相変わらず無知を晒すw
層化大名伊達w
捏造軍記どころか公式史書そのものが捏造だらけの伊達www
伊達に史実なし。ただ妄想厨二病あるのみ。
441 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/13(水) 21:26:48
>>436 wiki以外にソース無いのがバレたなwww
さすが捏造しかない長尾厨wwwww
グーグル自慢スレに堕してないか。
>>441 はやく憲政→盛岡南部へつながる家系図出せよwついでに葦名が伊達と同時期に白傘袋許可されたって言う証拠もなw
上杉憲政
上杉憲重
(上記の親子は殺された説があるだけで、助命された説もあって実際ははっきりしない)
※越後の郷土研究史家には根拠なく景勝や兼続らを異常に悪く書く人間がいるので注意が必要。
憲政の孫→倉本氏の元で養育されたので倉本憲国
(元服後に米沢藩一門衆扱い)
その子の
倉本憲益
天津憲儀
古幡憲方
天津憲秀(憲儀の子で憲方の養子か?)
史実に忠実であろうとするなら憲政親子が殺されたかどうかも不明なら越後から逃げたとする事すら書かれてないからね。
山内上杉は長尾が相続してるから、憲政の孫は上条上杉一族の養子に入り養育されたと言われてるから、
普通に上条上杉と一緒に米沢にいたとするのが自然な流れだし。
ムリヤリ米沢にいないと主張する方が頭がおかしい。
例え、景虎贔屓目の景勝&兼続貶しの郷土研究家が悪意の決めつけで広めてる殺された説をとったとしても
まだ幼くて助命され→越後守護家に連なる上条上杉氏の庶流が養子にして後見する事は普通にあり得るから、
他国になんのツテもないのに単身で幼い子が長距離を歩いて越後から監視の目を潜り抜けて逃げたってのはおかしい。
鎌倉公方足利持氏の子の成氏(のちの古河公方)が助命されたのも幼かったからだし。
越後上杉の上条一門である倉本・天津・古幡の養子になってないのに
憲政の孫は勝手にその名跡を越後や米沢以外の日本のどっかで自称してるって言うんですか?
へ〜相変わらずムチャクチャな妄想基地外ぶりを発揮してますね…
伊達との密約により白石城はほぼ空き家になっており兵と共に甘粕氏も白河へ向かった。 ちょうど上杉の主力は徳川主力を迎撃するため白河の南の革籠原に集結し終わってて 景勝軍・兼続米沢軍・盟友の佐竹軍の三方向から徳川軍を挟撃殲滅する戦略だった。 三成らが暴発して家康は引き返していったのは痛いことだった。 家康は佐竹に側面を襲われることに怯え、秀忠や結城秀康らに小山や宇都宮の大土木工事をさせて 簡単には追撃されないように守りを固めてから撤退したので、上杉による追撃は無理だったろう。 越後一揆軍も堀氏に対して優勢に戦いもすすめており、各侵入口も安泰だった。 しかし大谷義継からの堀氏は西軍に付いたとする誤報により、一揆軍の戦闘行為を景勝が止めた為に 堀氏に各個撃破されてしまう。まったく三成らは何をやってんだか・・・ 戦後、上杉氏は会津から米沢に転封したわけだけど甘粕氏の所領は2万石→6千6百石で、 上杉の所領が4分の1になったわけなので、甘粕氏の所領が減るのは当然にしても 「不遇」を囲ったのならこんなに貰えない。
米沢藩 寛永分限帳に載ってる。 ちなみに一族のその後は下記のようになってる。 加賀爪上杉政尚 旗本(3000石〜1万2000石) 千坂上杉長朝 米沢藩士 倉本上杉憲国 米沢藩士 深谷上杉憲俊 平福藩士 深谷上杉吉次 旗本 宅間上杉規富 旗本(350石〜750石) 上条上杉長員 旗本(1490石)
>>443 > ※越後の郷土研究史家には根拠なく景勝や兼続らを異常に悪く書く人間がいるので注意が必要。
具体的には誰?
また郷土研究史家以外には景勝・兼継を悪く書く人間はいないの?
むりやり北条からの養子の三郎景虎を持ち上げ、景勝らを貶めるのに必死なやつがいる。
古くは新井白石が「藩翰譜」上杉譜内、大田錦城が随筆「梧窓漫筆」内において、
また昭和に入り南方熊楠が岩田準一との往復書簡内において
景勝と兼続は衆道関係にあったと断言しているが、
それを裏付ける一次史料等は皆無であり、信憑性は全く無い。
最近でも菊姫の死因は自殺だと根拠なく主張してる人もいる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E5%A7%AB_ (%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D%E6%AD%A3%E5%AE%A4)
448 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/14(木) 10:24:52
>>443 出典が一切無いwww
キチガイ長尾厨哀れwwww
>>445 載ってないぞ、捏造すんな
それは2chのコピペだろうがwww
>>448 ちゃんと載ってる。
つかお前また読んでもいないくせにいい加減なこと言ってるだろバァカが。
クソレスはいらないから早くシッタカした葦名と伊達が白傘袋の使用を許可されたって言う「米澤市史」や「石母田家文書」の内容を書けよw
そこまで否定するからには自信があるんだろ?南部へつながる憲政の系統の系譜も勿論立証できるんだろうから早く書けよなw
>>448 ちなみに寛政五年分限帳じゃないからな。
同時に葦名と伊達が白傘袋 南部へつながる憲政の系統の系譜 はやく立証しろ。
>>444 なるほど。ほんと三成たちはアホバカだな!
上杉が徳川と戦い始めてから決起すりゃあいいのに。
453 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/14(木) 18:44:23
>>449 =
>>451 無知な長尾厨が自演で必死www
上杉藤景が平姓長尾の養子とか捏造して
憲政の孫を、自分の妄想で米澤藩士とか
証拠も無しに主張してて痛すぎるだろw
>>453 論破されてんのに往生際の悪い基地外粘着w
伊達の捏造もこうやって執拗にやってきて今日があるんだろうねw
越後上杉を滅亡に追い込んで、家紋をパクった強欲伊達w
家系図も捏造だらけ伊達w
455 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/14(木) 19:20:49
>>454 長尾家は盗賊か野武士の末裔なのに、平氏の末裔を僭称して
上杉家の人間を殺害しまくった挙句、上杉家を乗っ取った野蛮族w
長尾こそ捏造だらけだwww
オマエは名家伊達を妬んで発狂して、妄想で
相手を論破した気になってるだけだろwww
実際、2chのカキコミしか主張のソースが無いwww
456 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/14(木) 21:16:29
>>450 米澤市史に収録されてんのは寛政五年分限帳だな。。
史料について触れるような、そういう発言とかも一切ないところを見ると
そもそもガイキチ伊達厨は米澤市史さえも読んだことがないと見えるw
秀郷流藤原姓田村氏(守山城時代)応永3年、小山若大丸を守って挙兵し足利氏満に討伐され、
その後平姓田村氏が台頭して初代田村直顕ののち三代義顕の時に守り易い三春城へ移ったと言われる。
四代隆顕の時が葦名盛氏と同時代。
433:人間七七四年 04/04(金) 14:29 ZZ2l0lV4 [sage]
7代伊達行朝→伊達家乗っ取りの奸臣が伊達を僭称し8代伊達宗遠と捏造。
伊達家の嫡流筋は北畠顕家に従い上洛し最後は常陸伊佐郡の伊佐城で高師冬に降服。
434:人間七七四年 04/04(金) 16:20 XcY3SGc5 [sage]
>>433 盛岡南部並みの嘘藤原っぷりだな。名もない奸臣が源平藤橘の名家であるわけもなし。
435:人間七七四年 04/04(金) 20:04 ZZ2l0lV4 [sage]
7代をムリヤリ父として捏造し6代から以前の当主の記録なんて正室も含めてほとんど抹消してるから8代以降と違い業績もほとんどわからんだろw
南朝として北畠氏に尽くしていたから記録が残り過ぎて7代を消す事できないから必死の捏造乙。
27:人間七七四年 07/18(金) 03:42 SqMBGsD7 [sage]
行朝は常陸伊佐郡の伊佐城に拠ったが、高師冬に攻められ降伏。
この南北朝の動乱で敗北または降伏側は大幅な入れ替えを起こしているケースが多い。
秀郷流藤原姓田村→平姓田村など。つまりまったく血のつながりがなくても
足利側から伊達郡に派遣された人物が伊達を名乗ることは可能である。
行朝(行宗)の息子は万寿丸である。幼いので補佐は宗政が頼まれている。しかも南朝側で敗北した側である。
宗政と同時代人の宗遠は飛騨前司であり、万寿丸より年上で明らかに行朝の子でなく別人である。
宗遠の嫡子は伊達の本貫地である伊佐城の行資であり、この人物が万寿丸であるのが有力である。
はっきり言って宗遠が何者なのかまったく分かっておらず、唐突に登場しており
血族かどうかもまったく不明であり、家系図上のつながりすら不明。
宗政は留守家と一揆契約をしたりしてるので宮城方面で、宗遠を牽制してる可能性がある。
むしろ、足利氏が派遣した伊達郡の惣領が、伊達氏を名乗って、本来の伊達本家を圧迫したと見るのが妥当である。
伊達贔屓の人間だけが伊達の血族であると根拠なく主張して捏造をしているだけです。
28:人間七七四年 07/19(土) 02:53 vtTQ0K2y [sage]
南朝の伊達氏の有力家臣だった地元の有力国人や名士を足利が対抗上、新たに伊達郡の当主として任命した可能性は充分になるな。
その証拠に宗遠の子である政宗の妻に足利将軍家に連なる者を貰ってる。このために伊達を乗っ取ることは公式な形でできるわけだ。
484:人間七七四年 07/25(金) 17:46 CIHc0RG8 [sage]
そもそも、源頼朝による奥州合戦の戦功で
常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられたのは事実だが
常陸入道念西=伊達朝宗というのさえまったく証明されていないのだから仙台藩の捏造史は実に笑える。
485:人間七七四年 07/26(土) 00:01 qmwpH/cx [sage]
>>484 そもそも、伊達朝宗・宗村父子の実在そのものが怪しい。頼朝の落胤である島津や大友の由緒正しさに比べると実に卑しい存在である。
まぁ葦名の守護扱いとかトンデモ話を持ち出す時点で米澤市史を読んだ事すらないのが明白だしなw
反論の論拠になってる憲政→盛岡南部家臣ってのも、単にwikiから持ってきただけだから1文字たりとも、その内容について無知伊達厨は説明できないし…哀れ過ぎてワロタw
464 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/15(金) 20:15:46
蘆名は実際、守護になったことあるしな どんだけ、無知なんだよこの荒らし
なってねぇよバカ 葦名が、何年に誰によって任命されたんだよ言って見ろよ。
そもそも言ってる事がむちゃくちゃ過ぎて筋が通らない。 陸奥守護が2人も並立してるってのがすでに意味不明。
467 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/15(金) 22:59:48
「陸奥守護」と「守護扱い」なんだから 並立しても問題無い。バカかてめぇは。 蘆名は鎌倉時代、守護に任命されたほどの 名門だったから、室町期にも守護待遇された。
会津守護という言葉は聴いたことがある。ただ正式な職位でないのも知ってる。 守護待遇というのは格式的なもんかね?
>>467 何言ってんのキチガイ。
鎌倉時代の葦名なんてほとんど不明に近いのに守護?
アホじゃねーの。どんな文献を見たんだwww
「陸奥守護」と「守護扱い」なんだから
並立しても問題無い。←なんじゃそれ意味わかんねーお前が決めることじゃないだろwwww
そもそもいつから伊達と葦名で守護と守護扱いなんて都合よく分け始めたんだwww
伊達家・蘆名家は東北では幕府から守護並みの待遇で、裏書免許・毛氈鞍覆・白傘袋の許可は出ていたって書いてたじゃねーかwwwそれでいつ、誰に許可してもらったの?はやくその部分を書き出してねwww
葦名が室町期にも守護待遇←その根拠出せよwww
葦名が自らを「会津守護」と称して、国人らにそう呼ばせていたのは知ってるが幕府がそんな待遇してたなんて聞いた事ないぞ。
どうせ
>>467 は知識もなく下記の話の「奥羽大名が伊達晴宗・葦名盛氏が出てる」って部分だけ知ってて、これをオナニーマンセーで拡大解釈してんだろうよwwwwwww
1563年5月の幕府の諸役人附の事?
義輝の家臣団についての一覧みたいなやつ。
将軍の御供衆、申次、奉行衆、外様衆、大名在国衆と書いてる中で北条氏康・氏政・今川氏真・上杉輝虎・武田晴信とか書かれてるやつ。このあたりは上の段落に書かれてるけど、織田信長は二段目で低い扱い。
関東衆の中に古河公方足利義氏・梁田晴助・里見安房守・相馬盛胤・岩城重隆と出てる。
奥羽大名が伊達晴宗・葦名盛氏が出てる。ただ関東衆扱いで岩城や相馬が出てるのを伊達マンセー本は隠蔽して絶対に紹介しないがなw
そもそも奥羽は北畠顕家が郡検断職→北畠顕信が郡守護職を任命してる(相馬に海道四郡守護とか)ように、
奥羽での守護職は陸奥鎮守府の任命職であり、それに対して幕府は管領や探題を任命してるから、幕府が奥羽で守護なんて任命しないと思うが。
自称ならいくらでもできるがな(笑)
471 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 11:01:10
この長尾厨は自分に都合の悪いことは無視? 言ってることも意味不明だし。 鎌倉時代の蘆名が不明ってギャグかよ 北条時輔が戦死したあと、蘆名経光は伯耆守護に任命された。 経光が失脚した後は、その従兄弟の末裔が会津の領地経営に専念し 室町時代には守護格待遇を得た。 長尾厨は知識も理解力も無いくせにでしゃばるなよ
>>471 > 室町時代には守護格待遇を得た。
何を見ればわかるの?
>>471 伯耆守護←それは相模蘆名氏であって、会津葦名じゃねーよバァカ!無知乙w
室町時代に守護格の待遇←はい捏造乙
474 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 14:09:14
>>473 相模蘆名も会津葦名も同族だ。守護に任命されるような血筋ということだ
無知はおまえだバカがwww
>>473 実際には相模葦名は近江に住んでおり、ほとんど不明。
よって伊達厨は何一つ説明できないはず。
476 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 14:31:07
>>475 >実際には相模葦名は近江に住んでおり、ほとんど不明。
不明じゃねーよバカw
千坂や長尾が上杉男系とかいうよりはよっぽど正確なことだよw
マジ無知もいいかげんにしろよ
平安末期に分かれた三浦氏の中でも 会津葦名は佐原氏系統であって、相模葦名氏とはまったく別系統で接点すらない。 佐原氏が葦名を称する時期からして不明。
吾妻鏡のいい加減な話を無視すると 佐原氏は会津の北条得宗領の地頭代として被官化したのでは?と言われているに過ぎない。
>>476 君は14日を境にして、
ここでも戦国板でも論破され、
戦国板ではその日の夜を境に
千坂氏の血統に問題をすり換えて話題をそらし
必死にキチガイ自演をして話題が元に戻らないように
誤魔化していたようだねクソワロタw
480 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 18:39:29
>>477 =
>>478 =
>>479 自演してるのはおまえだけだろうがw
論破したとかおまえの妄想かよ?w
>>477 蘆名・三浦・佐原家みな親戚なので、その間で養子をやりとりしたにすぎない
別系統とか関係ない。非御家人の長尾と違って、守護を許された家柄。
今度は蘆名に嫉妬しているようだが長尾では到底かなわんよwww
ほう。そこまで言うなら 相模葦名氏の家系図を書いて説明してくれ。
はぁ? 姉妹が嫁ぐ=養子ってw いつからそんな話に変化してんだ。 思いっきり血が薄く縁遠くなってるじゃん。 近江に行った相模葦名氏の家系図書けないくせに誤魔化すなよw そもそも佐原蘆名=戦国葦名なんて証明されてないんだがw 三浦氏の家臣が長尾だから佐原蘆名とどう関係して何だって言うの?三浦氏と敵対して北条に付いてたじゃん佐原は。 そんな事言い出したら、沼田氏だって三浦一門だから長尾が下とかバァカみたいな事を言ってんのと同じじゃんw
つかクダグタ話をそらして誤魔化してばっかりいないで、早く葦名と伊達が守護扱いになった証拠をあげろや。 あと憲政→南部家臣の家系図もな。 いきなり葦名に嫉妬してるとか意味不明な事を言い出して、あんたかなり頭が腐ってるだろ。
485 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 19:42:09
自分は論拠すら挙げられないくせに、他人の説にはイチャモンつけるのか マトモに議論できる相手じゃないなw
>>483 姉妹が嫁ぐ=養子 なんて誰も言っていない。日本語読めないの?
従兄弟であり、嫁ぎ先の家が事実上の葦名惣領家になったまでだ
ところで憲政子孫が米沢藩士っていうソースがまだ一回も出てないけど?
はやくだせよwまぁ嘘なんだから出ないだろうけどねw
戦国葦名と近江に行った相模葦名の末裔と言われる石田氏と、 早雲と戦った三浦氏(父は扇谷上杉氏・母は大森氏)や、その三浦氏の版図があった上総三浦氏やその支流たる正木氏とは、まったく厚誼がないよね?親戚付き合いとか形跡ないよね。 実際、南北朝期のいつに会津へ入部したかも不明だよね? 480で養子と書いたから家系図書けと言ったら482で姉妹が嫁ぐって返してきただろw お前の頭の中は支離滅裂過ぎてワロタw
・惣領の姉妹が嫁ぐ→子供は先代惣領の孫→系図では先代惣領の庶子扱い
・惣領の姉妹が未亡人→再嫁して婿を取る→系図では死んだ惣領の義弟扱い
こういう例ならあることはあるけど、
>>480 が言いたいのはこういう感じなんだろうか?
誤:再嫁して婿を取る 正:再婚して婿を惣領継嗣に迎える
>>487 経光に男子が無く、姉妹が嫁いだ従兄弟の末裔が
続いてんだから、系図見ればわかるだろバカ
まともに議論できないくせに難癖だけは付けるんだなおまえは。
>>488 そういう例も多いね。戦国末期の葦名でもこのような婚姻があった
213 人間七七四年 age 2008/08/10(日) 10:48:32 ID:wX57hSJu
系図だけだと何とも言えん
幕府に仕えたとかも考えられるし
米沢藩士になったというなら
米沢藩の資料に名前が載っているはずだけど
216 人間七七四年 sage New! 2008/08/10(日) 20:36:54 ID:BVzHEhC3
>>213 >米沢藩の資料に名前が載っているはずだけど
米沢藩のなんていう資料に名前が載ってなかったか言ってみ?
調べもせずに言ってるとしか思えんが。
「米沢藩のなんていう資料に名前が載ってなかったか言ってみ?」
これ名言なw 「憲政の子孫は米沢藩士」という根拠を、米沢藩の資料から
持ってこれなかったにも関わらず、相手には悪魔の証明を強要。
もはや論理の通じる相手ではないwww
藤景から輝虎まではどういった世系なの?
証明できんでしょ。 上杉から養子に入った子の跡をその弟が襲うってのが不自然。
495 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 21:53:57
たしかに。やはり上杉男系説はかなり怪しいな 系図によっては藤景・藤明兄弟は存在しないし
上杉から長尾に改姓した藤景の跡を、「藤明」が継ぐ。 オノレらの祖父は頼重、父親は頼成ちゃうんかと。 藤明は「藤」を、またその名をどこから持ってきたんだ、と。 この不自然さは血統で繋がってないパターンっぽいんだよね。
兄の藤成からか?しかし長尾に入嗣したならなぜ長尾の通字を使わないのか なぜ「藤」にこだわるのだろう、という疑問はあるな
藤景―景雄―景広でとまってるな これに関してアンチ伊達君に聞いても、何も答えてくれないだろうね 答えてくれればむしろ感心するぐらいだが。
ただこの流れは藩翰譜を編纂する際なら心情は分らなくもないんだよな。
藩翰譜って各藩の意図を汲み取りながら編纂されてる?
そりゃもう江戸時代の官製品だもの。
503 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/16(土) 23:17:04
なんだ、また伸びてるから荒れてんのかなぁと思ったら 多少はマトモな流れになってるじゃない
まっ自演でスレ違い続けてる基地害だけどな。
お前のボキャブラリーのなさにはガッカリだよ
キチガイ長尾厨はどっかいけよ ここに居ても、議論もできずに自演して 相手を貶し続けるだけだろう
508 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/18(月) 01:50:03
なんかひでぇな。葦名なんて系譜がむちゃくちゃいかがわしいし 守護なんかに任命されてねーし。 そもそも陸奥守護と違い、会津なんてそもそも分郡なんだから歴史上で該当するのは南朝の北畠陸奥鎮守府の分郡守護しか該当しねーじゃねーかアホか。 経光だって実際はよくわからないし、三浦遠江次郎左衛門尉として拝命されてるから葦名じゃねーし。しかも本給人が北条時輔じゃんw 佐原宗連や葦名朝貞が自称してる可能性あるが、そもそもこいつらは葦名の家系図に出てこない、何者だかもわからないやつら。 中先代でも北条側で討ち死にしたりで系図が混乱してるし、 葦名家系図なんて信憑性ない。たぶんこいつだろみたいなアテハメ方してる。 到底、戦国葦名とつながってるとは思えない。 そもそも葦名も長尾も平高望からの系図で同族。 本家三浦氏に長尾は仕えて一緒に滅亡したが のちに京から下向した上杉氏に仕えたのであって 偽三浦の佐原氏に仕えてないんだから、 佐原葦名と上下の差なんてねーだろ。
>>479 間違いないwww
話をそらしてないで葦名が毛氈鞍覆 白傘袋なんて大ウソをそろそろ認めろよ。
「石母田家文書」や「米澤市史」に載ってねーぞw
あと憲政→盛岡南部と相模葦名氏の家系図も早く書けよな。
どうせwikiの知識だけで書いてるから無理だろうけどw
>>458 のレスの意味がちょっとわからなかったけど、やっと理解した。
米沢市史に載ってる寛政五年分限帳の家臣団はすでに後年になりすぎ世代が違うから載ってないし
米沢市史収録分の寛永分限帳の方には家臣団のこと書いてるのは収録されてないんだな。
「応仁武鑑」「萩原家譜案」「藩翰譜」 この中で成立が一番古いのは「藩翰譜」
513 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/18(月) 12:18:27
出典が無いから、2chでしか 暴れられないような奴にかまうなよ
そうだよな。石母田家文書や米沢市史に葦名が白傘袋許可なんて、どこを読んでも出てこない大ウソで出典なしなんだからw
鎌倉から16歳の時に左遷され、 22年も廃絶されていた六波羅南方探題を無理やり再興させ鎌倉から追放され(北方探題の方が地位が上) のちに二月騒動の謀反人として北方探題に攻められ25歳で死んだ時輔と関係ある幕府非公認の会津(佐原)経光は廃絶され乞食坊主に転落w 幕府は弟の泰盛の血統に継がせてるしw しかも三浦遠江次郎左衛門尉=経光かどうかも実際ははっきりしないんじゃなかったっけ?たぶんそうだろみたいなw 1290年には時輔の次男も謀反をたくらみ三浦頼盛と謀反して2人とも斬首されてるし。 南北朝の混乱以前に、すでに系図もボロボロで血がつながってるかどうかも危ういんだがw
またキチガイが暴れてるのかよ・・・・
>>516 反論不能だからって葦名スレにコピペ貼って発狂してる基地害さんこんにちはwww
>>517 おまえが発狂しているようにしか見えんが・・・・。
何ぞこの糞スレwwwwww こいつはどうしようもない スレ荒らそうが悪びれないんだからな
>>518 >>519 君達まともな反論できないけど
悔しいから悪口しか書けませんって素直に書いてくれば、まだかわいいんだがな。
まぁ直訳すると、そういう意味になるのは理解できるけどな。
521 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/19(火) 02:17:27
まともな反論できない?千坂が上杉一門とか、
憲政子孫が米沢藩士とか2chの書き込みを
ソースにして大嘘ついてた
>>520 自身のことかね
こいつがマトモな出典だしてるトコみたことないわw
>>521 14日からのレス
>>449 >>450 >>458 >>510 これらすべて黙殺し続ける。このことは
>>479 でも指摘されている。
>>471 でさらに基地害ぶりがアップwww
北条時輔が戦死したあと、蘆名経光は伯耆守護に任命された←捏造歪曲・・・本給人が北条時輔なのに、死者が任命したんかw
経光が失脚した後は、その従兄弟の末裔が会津の領地経営に専念し←捏造歪曲・・・経光は敵対した従兄弟らに訴えられた。
室町時代には守護格待遇を得た←捏造歪曲・・・実際に石母田家文書や米沢市史に葦名が白傘袋許可なんて事は書かれていない。
長尾厨は知識も理解力も無いくせにでしゃばるなよ←大ウソばかり吐き散らす基地害。
363:人間七七四年 08/17(日) 17:37 M9ND+zjR
長尾が上杉系男子じゃないに対しての否定や反論なんて、そもそも見た事ないんだが。
勝手に基地害が「長尾は上杉じゃないと言うと伊達厨と言われる」とか言って悪意の誘導してるだけで。
376:人間七七四年 08/18(月) 03:56 hl6JcJYm [sage]
そう。元々、長尾家が上杉男系なんて主張してないし,
千坂が上杉男系だなんて主張すらしてない。
勝手に上記の件を捏造して相手をバカだ、キチガイだと主張してる。
さらに葦名が毛氈鞍覆 白傘袋なんて大ウソに触れたがらないし
捏造歪曲を垂れ流してるのを冷静に指摘されると再び、上記レスも見事に黙殺する基地害www
327:人間七七四年 08/16(土) 01:53 s/S3ALXC [sage] まっ狂ってるやつがいるよな。 千坂氏が米沢藩士として当時いたと言う事であって(別に千坂氏が確実に上杉の血だと主張してないはず) 別に血筋がつながってるかどうかなんて争点でもないのに(伊達も含めて純潔な血筋としての系図は怪しい) いきなり千坂氏が犬縣上杉の血かどうか怪しいから全てがおかしい→正論が通じない相手→バカと、争点をすり替えてやたら粘着してんだから。
実際、2代目佐原盛連・3代目葦名光盛・4代目葦名泰盛・5代目葦名盛宗までの墓すら不明だし、 3代と4代の間に当たる経光は存在を無視されてる系図もある。 6代も盛員(足利方として息子の高盛と一緒に辻堂で討ち死・太平記では北条方で参戦)にしており、6代は盛宗の子である時盛や盛貞としてるものもありどうも怪しい。盛員と尊氏に負けた直盛も果たして血がつながってるのやら・・・ 初代の墓は横須賀、6代盛員の墓は鎌倉。つまり6代はそれ以前の歴代の墓を抹消している可能性すらある。 家系図の信憑性や血のつながりまで実に怪しい。
松川スレで伊達厨が常敗記録を更新中w
伊達厨涙目w
527 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/19(火) 14:04:34
長尾厨が大発狂中www
↑論破されて悪口しか書けなくなった可哀想な伊達厨…哀れw
アタマおかしいやつが連続カキコしてる・・・・・
530 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/20(水) 13:52:57
伊達アンチの発狂がすごいな
論理的反論できないから中傷に走る…伊達厨ってあまりにも情けないにも程がある。
明らかに決着が着いたみたいだな。 良かった良かった。
論理的反論できないから中傷に走るって、まさに長尾厨の所業だろw
松川の大敗も隠しようがないしwww
>>531 =
>>532 長尾厨の自演乙w
↑基地害w
535 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/21(木) 03:19:20
長谷堂で負け、松川で負け、フルボッコの上杉憤死www
ついに罵詈雑言の中傷しか書けなくなりやがった… 伊達厨あまりにも情けなさ過ぎ…
発狂する他なくなった長尾厨哀れw
議論に大敗した伊達厨が明らかに火病を発病した件についてw
長尾厨はアタマおかしいな
541 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/27(水) 02:14:07
age
伊達に大敗北を喫して発狂しているバカが居るスレはここですかwww
成実が伊達家で片倉に次ぐ地位で猛将というのもウソ。 立花宗茂や本多忠勝のように、一軍を率いて活躍した実績なし。 だいたい、成実のことを世間は知らない。 東藩史稿は、作並清亮により編集され、大正四年に刊行されました 伊達成実を英傑と紹介するある史書は、こいつ歴史書ではない。 伊達治家記録が、一般公開されたのは、明治以降です。 成実記なども、幕末の昌平坂学問所所蔵のようで、一般に流布していたものではない。 仙台藩人物一覧表でも、成実は下のほう。支倉、片倉、茂庭、鈴木、留守などのほうが上に書いてある。 おそらく、猛将不在の伊達家で、猛将と捏造されたんだろ。 出奔したさいに、上杉景勝や徳川家康が招こうとしたが断るとか逸話を捏造。 常山紀談、名将言行録に、成実名前なし。 伊達の出典が、ぜんぶ仙台藩で。一般の著名な史書に、ほとんど出てこない太閤記で政宗が悪態ついたくらい。 政宗を全国の人が、20年前に知らないのもムリない。 奥羽の覇王とか、独眼竜とかいう本も、明治以降の話し江戸時代にそんなこと書いてある史書なし。 仙台藩が、日記と称しているものも、江戸時代中期〜末期・明治初頭に作成・加筆したもの。
545 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/29(金) 09:45:50
>常山紀談、名将言行録に、成実名前なし。 ここ笑うとこね
確かに
所構わずあちこちにコピペ投下して発狂してるアホだろ? 少なくとも戦国板では今年最大の夏厨だったけど
他板他スレまで荒らした奴は籠もってろ。マジ迷惑。 それに便乗する奴も。
「伊達アンチ
>>544 」がキチガイだということだけはよくわかったわw
成実はどこまで行っても副将格であってほしいな。
551 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/30(土) 00:50:32
ん?
>>409 のことは棚にあげててワロタwwwwwww
つーか反論できないと議論を避けて
火病を発病するのそろそろ止めろよ伊達チョンくん。
>>409 のマルチポストは他板の各スレに無差別投下って言う…すげー広範囲渡り基地害みたいに落としまくってみんな怒ってたな。
しかも内容が長文大嘘捏造だしな。簡単に論破されてんのw
論破(したつもりの)コピペも無茶苦茶だったけどな
>>554 反論すらまともにできなかったのにw?
負け惜しみ乙
そんな夏休みももうすぐ終わりか また来世!
>>555 日本史板で論争相手のレスをソースに持ってきた馬鹿は君?
558 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/30(土) 21:43:56
>>555 論理的な反論も一切無しで勝利宣言するバカは死ね
>>555 アチコチで必死だね
たった一人の君は何のために誰と戦ってるの?
論破された伊達厨が焦ってる心理がよくわかるレスですねw
562 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/31(日) 10:11:00
松川の戦いは、 @伊達軍は当初の目的の福島城を落とせなかった(戦後加増のため福島城支配事実を作っておきたかった筈)。 A本庄軍がワザと負けたフリをして伊達に追撃させ、反転攻勢し伊達が損害を受けた。 Bその結果伊達軍は2日で退却した。 C政宗自身が岡野左内に2度も斬り付けられた。 関ヶ原の敗報で、士気が下がっていた、且つ伊達の大軍に対し少数側である、本庄軍側の戦略として「誘い込み作戦」は当然。伊達軍はまんまと嵌ったのでしょう。 以上により、少なくとも、伊達が「勝った」という戦ではないと思います。 A ワザと負けて誘い込むというのは兵法です(上杉は革籠原や最上撤退戦でもその戦略)。
563 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/08/31(日) 10:17:54
軍記物を語られてもねw
多大な財政負担をしての大軍で進攻して一寸の土地も奪えず北目城へ逃走して「勝ち」ですかw 伊達は大赤字で財政圧迫しただけですねwww伊達の詭弁ワロタw
『伊達治家記録』 国見山の本陣を取り仕切った宮崎旨元は政宗公の後に従って、 福島表にやって来た これを見た梁川城主の須田大炊は「追い駆けて討ち取れ」と下知して 車丹波などの武者を繰り出した この梁川勢は大隈川を渡って斬りかかり、宮崎旨元らは討ち死に 他の者達も或いは討ち取られ、前後へと逃げ去った 『佐藤次兵衛巧妙覚』 梁川城は岩井行衛を大将にして赤貝へ進撃。 西根砦からも新右衛門井次兵衛と次郎右衛門が出撃し、伊達勢を多数討ち取った。 このとき、山田堪解由が政宗の陣幕を奪った。 伊達勢の林十郎左衛門という者が名乗りをあげて突撃してきたが、 (西根の)次郎右衛門がこれを討ち取った。次郎右衛門は18歳。 総大将の須田大炊頭が梁川城に引き上げ、 二の丸で首実検をしたところ、数は800あまりでした。
どうでもいいけどキチガイはしっかりここで管理してくれ 外に出すなよ
伊達アンチの発狂はおもしろいなあ 発狂しても論破されるかイジられるかのどっちかなのにw
反論不能になった伊達厨のコメントが哀れ過ぎる(笑)
571 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/01(月) 05:08:56
http://tikugo.cool.ne.jp/ >1601年4月26日 上杉家の家臣・本庄繁長、伊達政宗軍を破る
松川スレってのは、そもそも上杉の家臣が言い張っていた上記のような与太話の
論破から始まってるんだが、これに関しては実際上杉ファンも固く口をつぐみ、
反論しようとしないんだな。何故か、戦いの時期だけは伊達家の主張に(慶長5年
10月6日説)に便乗してるし。
なお明暦年間の『佐藤次兵衛巧妙覚』と『東国太平記』は成立時期がほぼ同じ。
これが意味するところは意味深だ。
戦国板で基地害が言い負かされてたなw 生半可な知識で矛盾しまくりwww 煽っておきながら伊達厨なんかに負けるとか情けねぇww
伊達アンチ涙目www
>>574 直江スレに飽きた基地害上杉直江厨が
今度は伊達厨スレを荒らしてやろうと
基地害コピペよりは多少マシなレスで
知識が貧弱そうな伊達厨をターゲットに攻撃したら
自レスの矛盾点を散々突かれてしまい
余裕をなくして煽り連投気味になって逃げ出してしまった
逃げ出してしまったというのは正しくない。きっとまた突っ込みは無視して 「伊達厨発狂ワロタwwww」とか書き込んでくれるだろうから。
m9(^Д^)プギャー
本当に逃げちゃったみたいね
はっ?バカ?勝手に勝利宣言www ミジメだなぁオイwww さすが史実同様に負けを勝ちと脳内変換できる伊達www
580 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 00:48:40
「関ヶ原の翌年になっても、1月、2月、3月と伊達軍は何度となく上杉に侵攻してきたが、その
たびに上杉軍は巧みな攻撃で撃退した。中でも、慶長6年4月26日には、大規模な松川合戦が行わ
れた。政宗は岡左内に二太刀を浴びせられ、青木新兵衛には鎗まで入れられた。
伊達軍は1300近い損害を出し、政宗は命からがら白石城に逃げ帰った」
(上杉の奇書「東国太平記」の有名なあらすじ)
何故か本庄繁長は
>>571 の管理人が信じ込んでいるように、慶長6年4月になっても「伊達軍」と
孤軍戦い続けていたのである(苦笑)
>>580 論破された件を黙殺してまたリセットですかw
バカみたいにコピペ貼って永遠にループさせてねーでいい加減に諦めろ壊れたカセットテープがwww
よく分からんが、戦国板のクズをこっちで引き取ってくれよ
585 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 05:26:23
【松川合戦での上杉の大敗に満足する徳川家康】 「至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄被押詰之由、 無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、被入精之段、難申謝候、来春者早速、景勝成敗可申付候 十月廿四日 大崎少将殿 家康」 (十月二十四日政宗宛徳川家康書状) 上杉弱しとみた家康が、第2次上杉征伐を計画していたことがわかる文書。
586 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 08:03:16
政宗の負け惜しみの書状を真に受けた家康が書いたんだ 信用できん 家康は三方が原の合戦で負けてるくせに、謙信に「勝った」と 書状を送っている
まーだ言ってるよwww証拠も出せねぇのにwwwww 論拠が家康の三方ヶ原とかwwww今は松川の話だろオイww また懲りずに伊達スレに突撃して 返り討ちにあった馬鹿がいるなww 最後はファビョってんのwwwつーかむしろ余裕あるの最初だけwwwww 脳内妄想に取り付かれてなりふりかまわず自演と決めつけwwwwwww 明らかに自演じゃないのは見れば分かるのにwwww つーかむしろ自分の自演がばれてさらにファビョって連レスとか必死すぐるwwwwwwwwwwww おーい見てっかー? どーせこっちも見てんだろー? 今度は俺と遊ぼーぜwwwwwwwwフルボッコにしてやんよwww
自演バレて必死に自演を続けて相手が寝るまで自演してただけじゃん。 相手が寝たら勝利宣言を開始するキモブタ。 しかも文盲低脳なのか、不利なんで理解できないフリをしてるんだか、「わからないから答えろ」「答えになってない」を連呼して明白な自演指摘に必死に抵抗www さらにバカ伊達厨は毎晩早朝5時過ぎまで自演して会話を成立させてるキチガイw しょーじきキモい。
>>585 家康が戦果を確認した上で書いたんじゃねーしw
恩賞欲しさに捏造報告したが12月に本庄が家康と会談した際に伊達敗北が見事にバレて家康の上杉征伐は再考され始めるw
その後も汚名返上の為に、何度となく必死に上杉領へ侵攻しては叩き出される可哀想な伊達w
どうやら伊達厨にとっては『相手が寝るまで延々と粘ってクソレス自演を続ける事』が勝つ事らしいですw 伊達の捏造史観も延々とウソを垂れ流して洗脳する事だしソックリだなw ウソも100回繰り返したら本当のように錯覚するってヤツかwww
ホントだ、基地害がボコられてファビョーンってなってる
>>588 涙ふけよ
>>589 再考されたのは景勝と直江が土下座のコンタクトしてきたからだろw
592 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 14:04:22
発狂精神病上杉厨さらしage
>>590 どれがお前のレスなのか分かりやすくていいぞ
ID出ない三戦板で負け惜しみのレス書き込むあたり
悔しくて顔真っ赤にして、何か言わずにはいられないんだな
戦国板じゃ日付変わるまで同じIDだから、
書き込みたくても書き込めないんだろう?
また言い負かされていじめられちゃうもんな
>>590 早くモデムの電源を入れなおす作業に戻るんだ
>>590 を見た各将の反応
津軽為信「あぁ、りんごやるよ」
南部信直「鉄器よりも固い頭じゃのう」
北信愛「愛は地球を救う」
安東愛季「オイィ?愛と言えば俺だろぉ!!」
最上義光「犯人は狐目の男と聞いておる」
伊達政宗「正宗じゃねぇっつーの…orz」
直江兼続「ああいう女のまんこは臭いもんじゃ」
上杉景勝「…………プッ」
>>594 あぁなるほど、伊達厨って未だにダイヤルアップ接続だから
電源入れなおして再接続するとIDが変更するんだw
すげー15年以上前のシステムかよwwwローカルだなwww
つか自演単発IDの手口を自ら公表www
君はまったく知らないだろうけど、今のネットユーザーの大半が電源入れ替えてもIDは変わらないからwww
597 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 17:24:10
>>596 ダイヤルアップなら「回線」切断でIDが変わる件
常時接続ならモデムの電源落としてしばらくすればID変わる件
馬鹿さらしage
ノ ‐─┬ / ,イ 囗. | / _ 丿丿 | __| ―ナ′ / ‐' ̄ ,‐ / ナ' ̄ / 、___ / ノ`‐、_ / _ 丿丿 _メ | _/ ―ナ′ 〈__ X / ̄\ / ‐' ̄ / V / / \ l レ ' `‐ ノ / 、___ Χ ̄ ̄〉 \ 丿 / \ / _ ―ナ′__ | _/  ̄ ̄〉 / , X / ̄\ ノ / _| / V / / く_/`ヽ レ ' `‐ ノ ―――'フ / ̄ ┼┐┬┐ | 〈 / V `− 乂 人 ┼‐ | ―┼‐ ┼‐ | | {__) | _| | く_/`ヽ
常時接続ならモデムの電源落としてしばらくすればID変わる件←やけに詳しいな。さすが自演王伊達厨はレベルが違うなwww
やっぱり伊達厨自演やってんじゃねーかwww
>>599 それ使ったら単発IDの件
複数のIDからボコられてる場合は違う件
馬鹿さらしage
やけに言い訳がましいレスを繰り返す伊達厨 心の中のやましさが見事露呈www どう考えても自演の確信犯な件w 上杉関連WIKIではPC2つをつかって恣意的編集を繰り返し さらに今朝は4時〜5時という明け方という特殊な時間帯に会話を成立させていた最中に、 自演での役割分担に失敗して自演してるのが露呈。 さらにいま詳しい単発ID変えの手口まで解説してるしw つーかお前無職の常駐してるだろwww
もう伊達厨の隠蔽工作もさすがに無理だなw
いま見て来たけどすっげえ自演のバレ方だな。 もはや自爆そのものでワロタ。
606 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 18:54:29
うむ。上杉が伊達に白石城のみならず野戦でも大敗。 その意趣返しに、上杉が捏造軍記をしたことでFAというわけだな。 上杉涙目。
>>581 論破されたキチガイ長尾厨、大発狂www
608 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/03(水) 19:47:28
あー、コイツはアレか 上杉スレで「上杉憲政の子孫は米沢藩で保護された」とか 「伊達家は奥州探題に就任していない」 とか大嘘こいて叩かれてた奴かw ホントきもちわるいね、伊達憎しでこんな連投してんの?
とりあえず自分以外のIDは全部自演に見えちゃう頭がおかしい子だよね 夏はあちこちで喚いててマジうざかった 自分の自演はばれちゃったくせにな
>>608 憲政の件もソース出せずにフルボッコにされちゃったから
もうwikiしか頼るものが無いんだよね。
「wikiで情報操作!!卑怯!!!」とか言ってて空しくないのかねえ。
そもそもwikiなんて眉に唾付けて読むもんだろうに、わざわざ
「ソースはwikiしかありません、僕はwikiを鵜呑みにして書き込みました」
って告白してるようなもんだし。
知識がないなら踏み入らなきゃいいのに、無駄に戦線拡大するから
憎い憎い伊達厨にフルボッコにされ味方の筈の上杉直江厨すら引いていく…
哀れ
>>611 そういやここは隔離スレだったな。
千坂と長尾の件を書きこんだ人間だが、
スレの流れでは千坂・長尾が上杉の血筋かというのは
話題になってたし、主張してる人間もいたぞ?
実際長尾の件を書き込んだらしつこくソースとか求められたしな。
この件で
>>607 みたいな基地害を呼び寄せたのは申し訳なかったが、
その前後であんたが相手にしてた愉快犯伊達厨と勝手に同一人物視して
そんなこと主張してないとか言われても知るかとしか言えんわ。
返事がないから連投するが… 千坂の話も振ったのは私だが、その後のってきたレスが数個あったから続けたわけで。 そもそもスレ違いで延々続く伊達だの葦名だのの論争にうんざりだったんだよ。 直江スレも見てなかったから上杉スレまで来る伊達厨うざいと思うくらいで 君みたいな粘着アンチ伊達の存在は知らなかったし。 >千坂氏が米沢藩士として当時いたと言う事であって(別に千坂氏が確実に上杉の血だと主張してないはず) >別に血筋がつながってるかどうかなんて争点でもないのに(伊達も含めて純潔な血筋としての系図は怪しい) ここで唐突に伊達がどうとか言い出した時点で気付くべきだった。 まあスレの流れとか言っても自分以外全部自演に見える奴には無駄か。
強烈なアンチ伊達基地害を引き受けてる猛者がどこぞのスレにいるようだ 相手してあげてくれて感謝したいぐらいだww
>>611 自演自演て1日に何回ぐらい言ってるの?
論理破綻した伊達厨w
617 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/04(木) 03:07:10
r ⌒ヽ r ⌒ヽ (´ ⌒`) ムカッ!! l l ||ファビョ〜ン! _____ /::::::::::::::::\〜プーン. /::::::::: 妄想癖:::::嘘\〜プーン 伊達厨ッ!ゆるせぇ〜〜〜〜〜〜ん! |捏造 ;;;|_|_|_|_|〜プーン.. 自演乙! 自演乙!! 自演乙!!! |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ヽ〜 |::( 6∪ (゜\iii'/゜ノ ヽ〜 |ノ/∵∴ ( o o)∴\〜 カタカタ | \∵∵ 3 ∵/ カタカタカタカタ \ ⌒ ノ______ \_____/ | | ̄ ̄\ \ ___/ 上杉厨\... | 低機能 | ̄ ̄| |:::::::/ \___ \| 工作専用 |__| |:::::::| \____|⊃⊂|__|__/ / |:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
618 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/04(木) 04:22:24
【上杉家が関わり(影響を与え)伝播された松川合戦の時期】 『武辺聞咄』→慶長6年4月26日 『東国太平記』(=会津陣物語)』→慶長6年4月26日(※上杉家中最大の松川合戦の記録) 『常山紀談』(後三河風土記へも転載)→慶長6年4月26日(※松川合戦の抄録) 『日本外史』→慶長6年4月下旬 『上杉御年譜』→慶長5年10月22日 『佐藤某覚』→慶長5年10月6日 『歴代公案』→慶長6年3月中旬 『梁川城代須田長義系譜』→慶長6年3月中旬(※伊達の後陣を襲い、陣幕を奪う) 【伊達家の主張する松川合戦(宮代合戦)の時期】 『伊達家文書』→慶長5年10月6日(対外的には家康、今井宗薫、最上家宛。他家臣宛) 『伊達治家記録』→慶長5年10月6日 松川スレの興味深いところは、熱狂的な上杉ファンが「伊達家の史料は捏造」と言い張りは するものの最大の核心である開戦の時期を「伊達家の主張である、慶長5年10月6日説」 に“同調”(つまり認めている)している部分である。このため、伊達側の論理に簡単に粉砕 されてしまった(過去スレ1〜3)。 上杉が決して認めたくないのは、上杉家の史料がほとんど「軍談」の域を出ないことに尽きる。
>>618 『東国太平記』(=会津陣物語)』←なに=とか捏造してんだよ。
会津陣物語が年数の誤記をした事から、のちに東国太平記などに影響を与えたんだろうが
>>384 にも書いてあろうが。
>>583 に書かれているように慶長6年に入ってからも戦っている為に記憶の混同や思い違いも生じる。
つか伊達の記録には慶長6年の不名誉な戦いは抹消されてるがなwww
伊達が隠蔽した月夜畑の戦いは相馬のおかげで記録が残ったし(上杉側は記録にルーズだからね)
そもそも信長記なども年数の記憶違いは大量にあるから問題にはならない。
620 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/04(木) 05:48:21
>>619 >「記憶の混同や思い違い」「記憶違いは大量にある」から問題にはならない。
あらら、苦し紛れに、上杉の大量捏造をついに白状したようだw
>『東国太平記』『会津陣物語』
>>619 は、他のサイトを閲覧しただけで、実際にこの本を読んだこともないことがばれてる。
実は同書には慶長5年10月6日、伊達軍が攻めてきたという記述がある。
その時両者は両陣営から勇者を出し合って、一騎打ちをしてやんやの喝采を送ったとか。
鎌倉時代のような牧歌的な戦闘だったらしい。
尤も、この戦いは単なる「前哨戦」で、肝心の「松川合戦」は慶長6年4月26日に行われたと主張する。
(須田の部隊が伊達の後陣を襲って小荷駄隊に勝利した咄や、青木や岡左内の一騎打ち咄が出てくる。)
図書館でも行って読んで御覧。さすがに赤面するほかない。
____ / \ /\ キリッ . / (ー) (ー)\ / ⌒(__人__)⌒ \ 上杉側は記録にルーズだからね | |r┬-| | \ `ー'´ / ノ \ /´ ヽ | l \ ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) ____ /_ノ ヽ、_\ ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ だっておwwwwwwwwwww /⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒) | / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // | :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/ | ノ | | | \ / ) / ヽ / `ー'´ ヽ / / | | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
>>522 蘆名経光は伯耆守護になった←事実
経光が失脚した後は、その従兄弟の末裔が会津の領地経営に専念←これも
事実。経光は一族と仲が悪かったが男子が居なかったので甥が継いだ。
室町時代には守護待遇を得た←事実。将軍家から大崎・最上以外で
大名としての格式を受けた家は奥州では伊達と蘆名だけ。
石母田家文書や米沢市史をソースしにたのは伊達の件。
都合が悪くなると人の意見まで捏造ですか?
伊達・蘆名憎しでしか発言してないから嘘ばっかり。
そのくせ他人をキチガイ呼ばわりって・・・・・この長尾厨とやらは相当アタマが
おかしいみたいだな。
信長公記に関しては天正3年以降の日付はかなり正確になってきたが (太田が本格的に歴史書を記す意識になった現われ) それ以前の日付などは間違いもかなり多いし、間違った記述も多い。 陽明文庫・尊経閣文庫蔵安土日記・木田梧楼家蔵信長記・尊経閣文庫蔵織田記・天理本など 信長記は複数存在し、年月日もズレまくる一方で太田が最初に書いた種本の年月日も誤って引きずっているのもある。 甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。 読む場合に注意すべき点は 軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし このように年月日を問題にしたらほとんどの資料がゴミ屑になってしまうから 歴史家は年月日を問題にはしない。歴史家は年月日の誤記を修正し、類似した事件の混同やごちゃ混ぜを整理することが仕事である。 (湊騒動や国府台の戦いや川越野戦など前後の戦いを一緒に纏めて混同させている)
北条時輔が戦死したあと、蘆名経光は伯耆守護に任命された←捏造歪曲・・・本給人が北条時輔なのに、死者が任命したんかw
経光が失脚した後は、その従兄弟の末裔が会津の領地経営に専念し←捏造歪曲・・・経光は敵対した従兄弟らに訴えられた。
よって経光が失脚したから代わりに従兄弟が親切に継承して経光を養ったんではなく、
従兄弟に訴えられて失脚して、子息の宮鶴丸と一緒に乞食になった。
室町時代には守護格待遇を得た←捏造歪曲・・・実際に石母田家文書や米沢市史に葦名が白傘袋許可なんて事は書かれていない。
220:人間七七四年 08/11(月) 05:09 5TOZsEjU [sage]
能書きはいらないからオマエはさっさと下記のソースを出すべき。
伊達家・蘆名家は東北では幕府から守護並みの待遇で、裏書免許・毛氈鞍覆・
白傘袋の許可は出ていた
221:人間七七四年 08/11(月) 09:30 SIUC5DBn
>>220 「石母田家文書」や「米澤市史(83年版)」には
毛氈鞍覆・白傘袋など守護待遇を許されたとある。
230:人間七七四年 08/11(月) 16:28 5TOZsEjU [sage]
とにかく「石母田家文書」や「米澤市史(83年版)」の該当場所を書き出してくれ。
その葦名と伊達が何年に毛氈鞍覆・白傘袋を許可されたかっていうのを。
この後、ウソがばれて黙殺シカトを決め込んだアホ伊達厨www
将軍家から大崎・最上以外で大名としての格式を受けた家は奥州では伊達と蘆名だけ←捏造歪曲・・・1563年5月の幕府の諸役人附の事では、
関東衆の中に古河公方足利義氏・梁田晴助・里見安房守・相馬盛胤・岩城重隆と出てる。
岩城や相馬が大名格式を受けてるんだがwww伊達マンセー本はこの事実を隠蔽して絶対に紹介しないがなw
そもそも奥羽は北畠顕家が郡検断職→北畠顕信が郡守護職を任命してる(相馬に海道四郡守護とか)ように、
奥羽での守護職は陸奥鎮守府の任命職であり、それに対して幕府は管領や探題を任命してるから、幕府が奥羽で守護なんて任命しないと思うが。
自称で南朝会津分郡守護とかならいくらでもできるが幕府の敵だなそりゃ(笑) つか会津自立して一国になり自称会津守護でも謀反だなw
さらに
>>524 のレスで完全沈黙撃沈される伊達厨www
まぁ現存してる大半の書状からして年が書かれてないからな。 そりゃあそうだ、当事者達からしてみれば自分達が書いた書状が、のちに貴重な史料になるなんて思って年まで書いてるわけじゃないからな。 書状の内容を解読しながら、年を割り出すのが史家の仕事だし。
>上杉側は記録にルーズだからね カルピス吹いたわwww じゃあ他家に比べて上杉家の方が記録にルーズであるというソース出してくれ
伊達厨反論不能で626のようなクソレスしかできませぇんw
頼朝の落胤である島津や大友の由緒正しさに比べると実に卑しい存在である 上杉家は記録にルーズだから 惣無事令レベル5・レベル4・レベル3 これはさすがに釣りだろ 真剣に言ってるとは思えないんだが
さて まったく反論できない伊達厨が ミジメに見えて仕方がないわけだが。
反論できない長尾厨の妄想がまた始まった 伊達を貶すことが生きがいなの?
アホの子なんだからほっときいや
可哀相な伊達厨。ミジメすぎてワロタw
633 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/04(木) 19:38:09
●政宗軍を撃破する >このころ、須田長義を将とする梁川城兵は政宗が梁川城をまっ先に襲うであろうと信じ、油断なく 備えを整えていた。、ところが、伊達の大部隊は桑折方面から福島に向かったという情報を得た。 長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢の跡を追った。そして、前田・桑折で伊達軍 の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散らし、摺上川を渡って急追し、松川北岸に至って渡河 を終えていない伊達軍を捕捉し伊達軍に襲い掛かった。渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢 はたちまち大損害を受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。長義はこれより先、早打ちで来 援を福島城に告げていたこの報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。 一方、すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。これをみてとった 繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺 して退去した。一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀 まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて難を逃れたといわれる。こうして、繁長は二十倍もの戦力 の開きを克服して、伊達軍に完勝したのであった。この戦いにおける両軍の戦死者の数は詳らかではな いが、それは莫大なもので、とくに伊達勢の死傷者は甚大であったことは間違いないだろう。 武家家伝より 上杉の史料はこんなもんばかりだし(苦笑)
伊達アンチキチガイwww
論破された伊達厨が泣いて悔しがる姿が想像できるな。
>>628 真ん中はここのスレにもあったけど
上と下はどこのスレ?
639 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/05(金) 01:16:05
>>637 秀吉に脅迫されるとレベル4なのは読み取れたけど
何度読んでも3と5の意味が全然わからねぇw
誰か解説よろ
640 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/05(金) 01:22:33
ヤフれカス
頭狂っとる
642 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/05(金) 06:19:20
【上杉の史料に基づき「日本外史」に記載された“松川合戦”(作者は頼山陽)】 六年(1601) 二月、政宗また来り侵す。繁長また撃ちて、之を卻く。 政宗、転じて逢隈河を渡って梁川を攻む。城将 須田大炊 、四伏を 設け、与に戦いて之を破る。 四月、政宗、兵をめて須田に備へ、還りて本荘を攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。 敵を侮りて備えず。政宗、暁に乗じて済り、撃ちてこれを敗る。本荘走りて福島に入る。 須田之を聞き、逢隈河を済りて其の兵を破る。遂に政宗の軍後を襲い、本荘と夾み撃ちて、 之を走らす。景勝、乃ち自ら将として出づ。政宗驚き其の軍を舎てて、独り十余騎と間道 より白石に走る。
>>637 頼朝の落胤だと信じてる彼の夢を壊さないでww
さて、論破された伊達厨が自演して話をそらそうと必死です(笑) ミジメかつ可哀想な状況になってます(笑)(笑)(笑)
>>640 次の条件に一致する情報は見つかりませんでした。
検索キーワード:惣無事令レベル5
646 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/05(金) 10:03:26
ググれカス
あ〜ぁ可哀想な伊達坊w 内容の議論を避けて、ひたすら中傷だけ。 毎回毎回論破されると火病が発病して同じ症状を出すな。 そして不利なレスを中傷レスの繰り返しで過去レス化した後に、 また論破された話を無かった事に脳内リセットして捏造歪曲伊達勝利宣言の永久ループw まともな会話が成り立たない低い知性の伊達坊w
>>646 惣無事令レベル5の検索結果 3 件中 1 - 3 件目 (0.35 秒)
649 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/05(金) 15:43:38
>>647 で、惣無事令のレベル1と2にはどのようなものがあるんすか?
上杉厨が迷言を吐いていると聞いて戦国板から飛んできますた
いや、上杉厨があんなキチガイみたいなのばかりだと思わないでくれ…orz
無職ひきこもり伊達バカの糞自演をお送りさせて頂いております。
653 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/05(金) 19:56:16
実は、新潟県の郷土作家・火坂雅志が描いている『天地人』には、 上杉が流布してきた「松川合戦」のエッセンスが凝縮されている。 その内容は、抱腹絶倒。政宗軍を撃破した上杉軍は、政宗を追撃。齋道二なる牢人ものが、 逃げる政宗の背中に「二太刀を浴びせた」のだという。 出典は『東国太平記』。その証拠に伊達が攻めてきた日を何故か省略。慶長6年4月26日と 書くわけにもいかなかったのだろう(上杉ファン自身、伊達家文書の日付けを信じているため)。 w
_____ /::::::::::::::::::::::::::\〜プーン /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜プーン |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜プーン |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ〜 |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |ノ (∵∴ ( o o)∴)〜 < 伊達厨の自演乙…っと | ∪< ∵∵ 3 ∵> ムッキー! \_____________________ \ ⌒ ノ_____ \_____/ | | ̄ ̄\ \ ___/ \ | | | ̄ ̄| |:::::::/ \___ | \| | |__| |:::::::| \____|つ⊂|__|__/ / |:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
上杉の公式の史書ですらない東国太平記を あたかも公式だと言い出してくる時はコリア伊達厨が論破された時の常套手段。
656 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/06(土) 01:59:11
>>384 >杉原親清は江戸幕府の老中・酒井讃岐守忠勝が、部下に命じて会津合戦の古い伝承を集めさせた
上杉の家臣筋だった親憲の一族らしいが幕府の命なら忠実だな。
なるほど、史実を曲げるような人間ではないわけだ
酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語)我古主杉原常陸介親憲は上杉謙信より景勝迄代々の功臣也。
夫故上杉家の事を詳に伝聞に、上杉家の竹に雀の紋は、元来上杉家の紋也。
然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、伊達の幕を分捕せし故、
上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、
上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、
関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。上杉持分は福嶋城簗川城也。福嶋城には本庄越前守重長、其子出羽、
甘糟備後、岩井備中、杉原常陸介楯籠る。簗川城には須田大炊介長義、車野丹波(是は佐竹家臣也。此時佐竹よりの加勢)、
筑地修理、横田大学籠る。是政宗境目也。福嶋城より三里に瀬上と云所有。其近所に松川と云川有。大隈川の枝川也。
其川政宗領の一の虎口なれは、本庄出羽・甘糟備後・岩井備中・杉原常陸・栗生美濃・岡野左内、五千余にて固之。
>>384 が補説したように、上杉家の主張は上記につきるだろう。
657 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/06(土) 03:13:19
コリア長尾厨発狂スレはここですか
658 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/06(土) 11:04:06
局地戦としては福島城を落とせなかった時点で、伊達の勝ちではないが(本庄・須田軍に嵌り、命を落としかけた)、東軍として大局的に勝利したのは伊達であって、上杉ではない。 ただ、この伊達軍の情けない戦いで、加増が白石だけとなったのも間違いない。
659 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/06(土) 12:53:36
福島勢を半殺し状態に追い込んだ時点で、政宗は兵を退いているが、それだけでも、家康の書状が示すように 徳川への政治的、戦略的な訴求力は十分あった。伊達が掃討した福島へ、徳川軍の進駐すら勧めている(「お手前 の衆を置くこと」)ことからも明らか。 伊達に睨まれた上杉は、庄内方面では最上に更なる侵攻を許し、翌年の5頃まで軍事的にも全く動けなくなってしまった。
福島の地を一寸も奪えず速攻で叩き出されておいて何をw 自分の力じゃどうする事もできずに結城に侵攻してくれと哀願する政宗w しかし結城秀康は義をもって敢然と寡兵で大軍の家康に啖呵を切り、 会津5路侵攻を完全に封じ込めた上杉の心意気と伊達を撃破し武門の意地を通した直江に感服し、 すでに上杉への執り成しをし始めていたので円滑に本庄の江戸行きと伊達大敗が家康に報告され 家康も上杉侮るべからずと感じ、来春の上杉征伐を中止し直江との和睦の道を探った。 一方、伊達は必死に家康に上杉征伐を嘆願するもなぜかシカトされた挙げ句に上杉に侵攻しては撃退される繰り返しでブザマな姿を晒し続けた最後にたった2万石加増(実高たった13000石)で一連の軍事費すら補えず大赤字になっただけだった。
家康の書状←DQN政宗が自分に都合がいい歪曲大ウソ書状を読んだ家康のあたり障りのない返書のこと。 家康が政宗の書いた内容を具体的にチェックした上での返書ではない。 当然、ちゃんと具体的な政宗の功績をチェックしたら100名万石の加増約束をしていたにも関わらずたった2万石の加増に止まるwww
>>661 ソースは出せません
だって全部妄想ですから
664 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/06(土) 16:42:55
関ヶ原で負けて士気下がりまくりの上杉一師団に大将が叩き出されるなんて...。 伊達弱っ。
玉造郡岩手沢城58万石伊達軍VS信夫郡&伊達郡15万石の本庄軍 勝利は本庄軍で伊達は1mmの土地も奪えず敗走w
何かレベルの低い上杉厨が一人で頑張ってるな。
前からそういう趣旨のスレだったように思うが
伊達厨涙目w
伊達好きの皆様の発言をみていると第三者の私まで恥ずかし くなってくるんですが
しかし、ためになるスレだ。
____ / \ /\ キリッ . / (ー) (ー)\ / ⌒(__人__)⌒ \ しかしためになるスレだ | |r┬-| | \ `ー'´ / ノ \ /´ ヽ | l \ ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) ____ /_ノ ヽ、_\ ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ だっておwwwwwwwwwww /⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒) | / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // | :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/ | ノ | | | \ / ) / ヽ / `ー'´ ヽ / / | | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
ソースなしで粘るねぇ
上のレベル4とか5に藁他w 三戦板に相応しい釣りフレーズだとおもww
何が主題でどれが突っ込みどころなのかわからなくなってきた。
ソースも何も2万以上の大軍を動員するなど 多額な軍事費用を浪費した末に リアルな現実で福島の地を一寸も奪えないで涙目じゃんか政宗www
まぁ上杉厨や直江厨にさえ迷惑だと言われるぐらいだからな
ただのカオスなスレになってますな…
このスレのテーマ曲は「レベル4」に決定だな
2ちゃんのレスの転載をしてどうしたいのか…
682 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/07(日) 03:15:33
>>679 【LEVEL4】
惣無事令も レベル上がれば ちょっとやそっとじゃ 許されないけれど
家康にお願いしたい 君が伊達のカギになるから
右目もナイ 味方もナイ ナイナイばっかでキリがない 現状はそんなで
どうせなら会津くらい 子分の田村と切り取りたい 気が付いただけだ
まるで相手にされてない 痛みもまた刺激だよ(離反した大内定綱ゆるさん的な意味で)
惣無事令も レベル上がれば ちょっとやそっとじゃ 許されないけれど
利家にお願いしたい 君が伊達のカギになるから
石高が高ければいい 会津をくれる芦名を 摺上原で滅ぼして
義重はピヨってる やりたいようにやっていた 君に会うまでは
会津にこだわり持つことで 討伐されかけている
秀吉もキレてしまえば ちょっとやそっとじゃ 許さなくなるよ
仙道を統一したいとか そーいや昔 思ってたっけな
命がけで切り取った会津を 力技 君に奪われて
ともすれば野望は肥大 身の程知る明日はいらない
是が非でもお願いしたい 夢に遜色 劣らない土地を
100万石のレベル振り切れ 伊達がカギを握ってるから
∧ ∧
ヽ\´⌒丶/ノ
/\`二´ノ
/人●∀・人
松川の戦い 慶長5年10月5日、去る9月15日の関ヶ原の合戦における東軍勝利の報を受け上杉領に侵攻。 10月6日、国見山に本陣を置き、伊達方は数に劣る本庄軍・須田軍を野戦で大いに打ち破る。 さらに本庄の籠もる福島城を攻めるも逆に被害を蒙る。 長期化を懸念した伊達方は国見山へ撤退をはじめるも、その撤退中に梁川城に籠もっていた須田軍の追撃を受け小荷駄隊に被害が出る。 10月6日夜、再攻撃を検討した伊達方であったが、調略工作が不調に終わる、挟撃の懸念があるなどの理由から断念。 翌10月7日、北目城へ帰還。 要するに伊達方としては一定の武威は示せたものの、当初の目的を達成できていないこと、攻城戦以降はぱっとしないことには変わりは無い。 上杉方としては苦戦を強いられたもののなんとか防衛を果たす。 しかし、その反動か戦果に誇張あるいは捏造ではないかと思われるものも散見される。 伊達厨の特徴は「(伊達方は)当初の目的を達成できていないこと、攻城戦以降はぱっとしないことには変わりは無い」ことは無視し、「(上杉方は)戦果に誇張あるいは捏造ではないかと思われるものも散見される」ことを執拗に言い立てる。 上杉厨の特徴は「伊達方は数に劣る本庄軍・須田軍を野戦で大いに打ち破」った件を伊達軍を誘い込むためにわざと負けたと主張する。ただし、これは解釈をめぐるものなので厨とまで言ってしまうのは間違いかもしれない。 実際の伊達方と上杉方の優劣に関してはともかく、このスレにおいては上杉厨よりも伊達厨の方が酷い有様であると判断せざるを得ない。
上杉の首級を300程討ち取り、福島を混乱に陥れ、長期的に上杉を弱体化させた ことが、当時の家康の評価であり、貢献は高い。
>>685 伊達2万に対して本庄は4000以下と言われる隔絶した兵力差であり、
まともに国境防衛戦をするとは思えない。
自分の有利な状況にもっていくのは当然の戦術。
伊達の戦略目標→伊達郡・信夫郡の占領
本庄の戦略目標→伊達からの伊達郡・信夫郡の防衛である以上は、本庄の戦略的勝利と判断するのは当然であろう。
>>686 戦果自体が捏造。家康のチェックが入った数字じゃない以上は信憑性は皆無。
長期的に上杉は弱体化してないどころか、
年が明けた後も何度となく福島から叩き出されてる伊達。
むしろその後の推移を見ると伊達が弱体化していってるし。
本庄の戦果は粗末な旗だけw
伊達厨涙目
>>690 本庄・須田の戦果は伊達軍の侵攻から領土を守ったこと。
伊達の戦果は野戦で本庄・須田を打ち破ったこと。
それ以上でもそれ以下でもない。それ以外は枝葉。枝葉で争ってどうする?みっともない。
伸びてんな〜と思って久しぶりに覗いてみたが、
>>637 のことかww
泣きながら全てを放棄して狂った速さで北目城まで逃げ帰る伊達軍2万w 後方で伊達の聖地を燃やしまくり戦勝の勝ち鬨をあげる上杉軍4000。
来ました聖地厨 空になった寺院を苦し紛れに焼き討ちする上杉軍w
二万?
697 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/09/13(土) 02:28:38
伊達アンチの長尾厨を 観察するスレはここですか
伊達アンチのゴミを引き取りに来ました
おお、まだ騒いでるのか…。 保護者の方も来てくれたようだし帰りや
700ならSOHOはこっちで引き取ってくれる
701 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/10/05(日) 22:49:17
家康は上杉に伊達・信夫郡を安堵した。 それが松川の戦いの結果です。故に、松川の戦いは伊達軍の敗退です(上杉の勝利ではありません)。 伊達政宗は1601年の岡野左内に鎧のしころを削がれ、刀を折られ、自身危い状態となっています。伊達敗北は残念ながら認めざるを得ません。 でもいいじゃない。伊達・信夫なんてなくたって、伊達の業績は凄いものがあるんだから(サンファンバウチスタ号とか)。
702 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/10/06(月) 00:57:51
岡左内、斎道二はなぜ伊達政宗を仕留められなかったの 隻眼相手の一騎打ちなんて今川義元を討つより楽勝でしょ
703 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/10/08(水) 00:37:56
岡野左内が、馬上の武者が伊達政宗だと分かったのは、戦いの後だったそうです。 政宗と知っていれば何処までも追いすがったものを―と悔しがったそうです。 後日、景勝が米沢減封となり蒲生秀行の家臣として1万石の猪苗代城主となった岡野左内と、伊達政宗は後日見える機会があった時、 政宗は左内の名乗りを聞くと「梁川の戦いを覚えているか、おことを2度に渡り切り付けたのは、この政宗である」と 左内はこれに対し、にっこりとして答えたそうです。 「どうして忘れておりましょうか。左内にとって、一生涯の光栄にござる。あの時の戦着は家宝として代々子孫に伝えましょう」 政宗は上機嫌となった。 しかし、左内は、なおも言葉と続けた。 「政宗公には、次のこと、ご記憶あられるか。わが一刀も、公の冑から前鞍としころの一部をけずり取っているはず。よもや、お忘れではあるまいか。」と 政宗の眉にちらと不興がわいたが、さすが政宗。 「忘れはせぬ」と笑い「おことこそ大丈夫(ますらお)」と言ったそうです。
隻眼であの前立てで政宗とわからんもんなの?
705 :
無名武将@お腹せっぷく :2008/10/08(水) 00:55:13
まさか、あの有名な三日月前立で戦ってないでしょう。兜ぐらいいくらでも持ってるんじゃないですか?
ない
その口調に常時あげ、 小説の引用しかしないきみかw
hahaha
「しころ」は兜の側面から後頭部を覆う多層の鉄板です 鎧には付いてません
>>701 サンファンバウチスタ号は伊達に大金出させて
家康によって作らされたもんです。
建造技術は幕府の提供。
そして政宗は売国奴です。
必死だね