家督を継いだら俺オワタ(^o^)/

このエントリーをはてなブックマークに追加
8日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:21:19
名門あるいは
かなり恵まれてた
家督相続をしながら
意外と大した事ない石高で
終了したアホ大名達を暴く。

伊達政宗・北条氏政・今川氏真・大内義隆・大友宗麟
9日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:29:29
優秀な弟や子がいるヤツは強いな。
10日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:36:49
死去した最上義定の正室が伊達稙宗の妹なのを口実に山形城にやってきて
わずか2歳の最上義守に家督継承させて傀儡にしてるくらいだった。
義守と義光が家督を巡る親子の対立時には義守支援のために輝宗が山形城のすぐ下の上山城主上山満兼を
率いて家督問題に介入されまくるなど伊達の属領扱い。なんとか義光が家督継承した頃の最上家の周囲は敵だらけ。
近郊に巣くう天童・東根・谷地白鳥・寒河江大江ら強敵と戦っても勝てない為にさらにその北の尾花沢・新庄方面へ
謀略調略を駆使して勢力拡大後に彼らを激破。
スタート時は山形城のみ・・・おそらく5万石もない→太閤検地24万石まで拡大→関が原57万石
まさに一代の英雄です。

11Y ◆VqSh5C7CR6 :2007/12/16(日) 17:24:44
>>8
実質225万石の領地を築いた北条氏政がアホですかそうですか・・・

>>9
信長の弟って存在感ないけど地味に活躍してるよな、信包とか。

12日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:48:52
宇喜多直家

先代の下で赤松家が再興され播磨・備前・美作守護の赤松義村(養子)のもとで守護代を努めた浦上村宗。
応仁の大乱での活躍を通じてその勢力は巨大化をはじめた。そのことに危機感を持った赤松義村は唯一対抗できる
小寺城主小寺則職に討伐を命じたが浦上村宗配下で知勇兼備の宇喜多能家の大活躍で圧倒し赤松義村を捕らえる事に成功。
細川晴元からも宇喜多能家は名将との誉れをうける。
だが浦上村宗は細川高国の援軍で細川晴元・三好元長と戦い天王寺の戦いで討死した。
その責任を取り宇喜多能家は砥石城に隠居した。その3年後に浦上配下で仲が悪かった島村盛実に奇襲され自害。

宇喜多当主だった宇喜多興家は父が自害すると抵抗もせずに子の直家を連れ備後国鞆津へ逃走しアホのフリをしていたとか。

さて赤松義村の子赤松晴政を擁立した浦上村宗の子の政宗と弟の宗景の兄弟は備前に侵攻してきた尼子氏との対応をめぐり対立。
尼子寄りの兄政宗は赤松晴政の子赤松義祐を擁立して戦うも、結局毛利に敗退した尼子義久は撤退し
前年死去した晴政を保護していた赤松政秀(従兄弟で晴政の娘を妻にしていた)の奇襲に合い政宗は敗死。
(小寺政職家臣の黒田職隆の娘と政宗の子の婚姻の宴席の時を狙ったという)
その後の播磨はさらに混沌としていく。別所安治&赤松政秀VS守護赤松義祐&守護代浦上宗景VS小寺政職の中で毛利・織田が近づいてくる。
そんな状況下で頭角を現してきたのが浦上宗景である・・・いやその陰には6歳で浦上家から逃避行したあの宇喜多直家がその配下として大勢力を築こうとしていた。
13日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:50:01
祖父の復讐を果たすために浦上氏への謀反の罪で島村盛実を暗殺したのを手始めに数々の謀略、婚姻関係無視の裏切りを駆使し拡大する直家。
毛利の支援の元で尼子勢力を駆逐し備中を統一した勇将三村家親が備前・美作へ進出してくると鉄炮で暗殺し、
翌年に父の弔い合戦にきた三村元親を明善寺合戦で大破(三村2万VS宇喜多5000)さらに浦上氏から独立すべく毛利と同盟し、
怒った三村が織田と組むと毛利の三村攻めに加勢し三村を滅亡に追い込む。そして浦上宗景の兄・政宗の孫・久松丸を擁立し宗景を播磨へ逃走したことによって
備前・備中と美作・播磨の一部を領有する巨大勢力を築きあげ織田氏と結んで毛利攻めを開始する。
その子宇喜多秀家は秀吉の元で育てられ岡山城57万石・五大老・備前宰相となった。

斎藤道三・松永久秀・宇喜多直家の3人を天下の三悪人と呼んだり、尼子経久・毛利元就・宇喜多直家を中国地方三大謀将と呼称したりする。

14日本@名無史さん:2007/12/16(日) 18:33:53
謙信は父や兄の失敗のおかげで満足に越後一国すら統一できてない状況で
(父は3割以上の赤字を出し財政破綻状況だった・守護上杉派に敗北し隠居に追い込まれ翌年死去)
甲斐・信濃85%支配の武田や伊豆・相模・武蔵・上野・下総・70%支配の北条との反撃線を開始してます。
普通の大名なら両勢力の北上政策の前に国内は北条派と武田派に分裂して崩壊するところです。

謙信7歳の時なんて父の葬儀の最中にも襲撃を受けてて謙信も甲胄をつけて霊柩を護衛してたんだもんな…さらに出家させられちゃうし。
謙信って兄の命で14歳で初陣なんだね。
この劣勢下の初陣での激しく戦闘で敵を撃破した幼い謙信は「ほんの少しだけど長尾家が再興できたかな」って思ったとか。
だけどこれが重要で敵軍の揚北衆のひとつ中条家が謙信の戦いぶりに「小ワッパめ長尾の小倅のクビはねてくれん」から「これは大者になる!」と熱烈なファンになっちまった。生まれついてのカリスマ性がさっそく敵将を惚れさせた。
中越で戦う謙信の評判が高まり知れ渡ると謙信擁立を掲げる領主も増え、兄からは討伐軍を派遣されちゃうし。
後年には家臣の内輪もめから高野山に出家するとか言い出して家出するし。あと謙信はよく泣いていたっていうね。

景虎って栃尾城スタートなんでそ?1〜2万石あったかなかったくらいじゃないか?
そんな程度で初陣14、5才で無理やり還俗させられて引っ張り出されていきなり最前線に派遣だろ?
母の実家が後援してくれたって言ったって背後は柏崎市周辺を中心に越後守護上杉派が不敵な行動をしてるし、
主敵は百戦錬磨で精強を誇る下越の揚北衆に後援された中越の領主連中だろ…父の為景でさえ影響力が及ばせる事ができなかったほどの敵。
兄貴のヤツほんとヒドい扱いしてるよな。確実に討ち死にするっての!
さらに側面には上田長尾が虎視眈々とヨダレをたらして狙ってる。 こいつは景虎が当主になったあとも叩き潰せる力はなくやむなく景虎の姉を出して和睦してるくらい凶悪。

15日本@名無史さん:2007/12/16(日) 18:35:50
当時は父からの府内長尾氏の領地たる上越市(下の箕冠城は敵対する上杉方の大熊で出家騒動の時に反乱する)と
魚沼市(南魚沼は敵対する上田長尾氏)と小千谷市・十日町東部
謙信の母の実家の栖吉長尾氏(長岡市)と協力的な三条長尾氏(三条市)のエリア以外はほぼ敵対勢力なのな。
上越と中越の半分が出発点か。
柏崎市あたりはもろ守護上杉氏派で下越は揚北衆か(出羽の砂越氏や大宝寺氏に会津の葦名も支援)
そして父の為景は揚北衆+上杉派に上越府中近くで北条方(上条上杉家派)に敗退して隠居。
上杉に擁立された兄も攻められ三条城へ謙信を派遣したあとに攻城されている栃尾城に入り敵を撃退。
結局は守護上杉氏の傀儡だった病弱な兄が長尾家の支持を失ったのを受けて(上杉家が伊達から養子を迎える話で紛糾した時に兄が無策で蚊帳の外に置かれたためか?)
上杉氏の調停斡旋でさらに介入され幼い謙信が当主に据えられたわけだ。
ものすごいキツイ状況からのスタートだな。
1548年に長尾当主になる。
1550年12月に上田長尾政景と謙信が武力抗争するも潰す力がなく姉との婚姻和睦。
1552年正月に北条に追われ上杉憲政が越後に逃げてきて1553年7月に第一次川中島。
こりゃあ厳しい!よく武田と北条相手に戦えたな・・・
だいたい相手は老獪にして巨大勢力で父祖の代からの地盤と家臣を受け継いだ15歳年上の北条氏康や9歳年上の信玄だろ。
謙信は信長と4歳しか差がないからね。なんせ謙信は父が死ぬと出家させられてしまい春日山から追い出され当主としての帝王学も学んでいないし守役すらいない・・・。
16日本@名無史さん:2007/12/16(日) 18:41:55
経済再生の鍵は日本海貿易。謙信は商業流通を整え父の代の破産状況から全国有数の富める国に改革した輸出主導型国家を作った。
ちなみに青芋の船運での港からの年の税収は現在に換算すると20億円くらいあったらしい。
父の為景は戦争ばかりやって日本海貿易の重要性を理解してなかったから失敗したと言われてるね。
だいたい越後はまだ灌漑農業がなかったから用水路という概念はなく田畑があまり広がらない都合上集落の人々はそんなに多くなかった。こういった集落が各地に点在してた。
農家集落とは別に海に面した砂丘地帯が越後には広くあった。
これを才浜と呼び塩を作っていたがこれが儲かり平地の農家集落に比べて砂丘地帯の人口の方が多かった。

関東管領としてのたびたび越山しての救援活動の手伝い戦で長駆遠征で常陸・下総に敵地深々と侵攻してます。
基本的には野戦最強の能力を持ち北条・武田・織田とも合戦を避け続ける。
例外は第4次川中島での不測の遭遇戦により武田軍は交戦状態に陥り弟の信繁や諸角を討ち取られるほどの破壊力を見せつけられる。
その間謙信は背後に越中一向衆と下越の揚北衆という不安を抱えながら戦い続け越後を天正3年にほぼ統一すると国内動員力がピークを迎え
最強部隊となり越中・能登・加賀をまとめあげる事に成功。
ちなみに天正3年越後統一当時の軍役帳からは兵五千余人程度しか記載ありません。
上杉主力は基本五千、最も多く徴兵された時でも八千というくらい。
手取川で織田軍のフルメンバーを追撃捕捉撃破し翌年、佐竹・宇都宮・結城ら救援の為に関東再出兵準備中に死去。
最終結果
越後・越中・能登の全土・飛騨の一部(江馬氏は1572年以来、上杉家に服属)、加賀の一部(加賀一向宗の下間氏などが服属)、
出羽の一部(大宝寺氏が服属)、上野の3分の1(沼田・厩橋・那波・膳・白井)


17日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:15:35
謙信最強伝説
18日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:30:50
>>11 織田信包と毛利秀包はすばらしい武将だね
19日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:33:59
包茎
20日本@名無史さん:2007/12/17(月) 07:56:53
武田勝頼は信玄の時代よりも領土を広げたのに何であっけなく滅ぼされちゃったの?
21日本@名無史さん:2007/12/17(月) 12:38:19
信玄時代に金山を堀り尽くした為に財政基盤が悪化したらしいね。
まぁ何よりも長篠の合戦で武田を支えてきた諸将が大量に死んでの大敗の影響が強いね。
そして巨大化した織田家と対立状態のままだったから甲斐にいる勝頼は鈍感だったかも知れないけど織田への最前線の木曽氏や徳川・北条への最前線に位置する穴山氏は相当な軍事的圧力と調略をかけられていた。
22日本@名無史さん:2007/12/17(月) 12:42:34
長曽我部盛親
23日本@名無史さん:2007/12/17(月) 15:43:59
>>21 じゃあ勝頼も家督を継いだら焦らず地盤を固めればよかったんだね。
高天神城とか箕輪城とか無視してれば
\(^O^)/オワタにならなかったのに
24日本@名無史さん:2007/12/17(月) 17:34:54
見捨てたら見捨てたで離反が出るんじゃないの?
25日本@名無史さん:2007/12/17(月) 20:45:04
信玄が織田と敵対したのって半年くらいなんだよな。
半年早く死ぬか、美濃の織田方の城を攻めずに家康だけを狙いうちして浜松城を落し遠江国を完全両国化してさっさと帰る。
本格的に織田と敵対したと思ったら半年したら勝手に死ぬ信玄は無責任すぎ。
26日本@名無史さん:2007/12/17(月) 21:36:36
体調悪いのに無理矢理上洛するから武田家オワタんだよ
27日本@名無史さん:2007/12/18(火) 21:18:44
上杉>最上>毛利>宇喜多>織田>長曾我部>龍造寺
28日本@名無史さん:2007/12/19(水) 03:04:28
117 名前:人間七七四年 :2007/12/18(火) 22:43:28 ID:urjDRWa4
>>114
謙信は海の大名でもあり、
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り
北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った

確かに戦国後期、秀吉や南蛮の影響を受け、活躍した政宗ほど世界は広くないかもしれない
しかし天文〜天正初期に生きた謙信
彼の行動力、卓越した経済感覚、交流の広さは、まさに名将と呼ぶに相応しい
29日本@名無史さん:2007/12/19(水) 07:54:37
一番は今川氏真じゃね?\(^O^)/
30日本@名無史さん:2007/12/19(水) 17:15:45
加藤忠広、福島正勝も仲間に入れてやってください
31日本@名無史さん:2007/12/19(水) 18:44:37
福島家は2000石の旗本として存続できたからよしとしよう。
加藤家は最近まで酒田に子孫がいたらしいが商人じゃあね…
32日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:02:45
会津の加藤嘉明の子孫はいるのか?

高野山に逃げた一族反逆者を処刑したいがために知行地を手放したとは、もったいない。
33日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:17:02
>>32
近江水口2万石
34日本@名無史さん:2007/12/22(土) 15:47:39
織田秀信
改易された後、家来のために仕官先を探してあげて紹介状書いたんだって?
いい奴じゃん
35日本@名無史さん:2007/12/22(土) 17:05:44
秀頼みたいにオワタ大名(・_*)\ペチ
だが家督継承時期の運が悪いだけで成長したら優秀だったってのもけっこういるのかな?
36日本@名無史さん:2007/12/25(火) 12:10:48
確か津軽藩にバカ殿と言われた藩主がいたな
よく改易されなかったものだ
37日本@名無史さん:2007/12/25(火) 12:22:07
>>20
無理な戦を重ねたからじゃね。
38日本@名無史さん:2007/12/27(木) 22:09:51
でも武田家は次男龍宝の曾孫が高家旗本、五男信盛の息子が旗本、末子信清は上杉家家臣として生き残ったからよしとしなきゃ
39日本@名無史さん:2007/12/31(月) 23:08:37
家督相続したくないくらい衰えた名門に生まれるのも苦行だよな。毛利元就なんて前半生は辛かったろう。
40日本@名無史さん:2008/01/05(土) 22:56:17
国王丸
41日本@名無史さん:2008/01/09(水) 02:55:12
羽柴秀行
42日本@名無史さん:2008/03/19(水) 12:48:11
越智氏(高取城主)
43ひみつの検閲さん:2024/06/17(月) 04:04:56 ID:MarkedRes
このレスは権利侵害の申し立てや違法もしくはその疑いにて不可視または削除されました。
削除日時:2012-08-28 11:39:22
https://mimizun.com/delete.html
44日本@名無史さん:2008/03/21(金) 12:35:49
相馬三胤
45日本@名無史さん:2008/04/02(水) 13:00:27
長尾景虎
46日本@名無史さん:2008/04/19(土) 04:15:19
アゲ
47日本@名無史さん:2008/04/19(土) 04:18:09
運がいい大名
1位政宗(この強運で畿内に生まれてれば)
2位家康(信長のおかげw)
3位信長(濃尾平野100万石w)
4位元就(家康と同じ75歳wただ長生きしただけw)
5位秀吉(光秀さまありがたやw)
48日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:12:55
織田三法師信秀です。
\(^O^)/オワタ
49日本@名無史さん:2008/05/13(火) 15:48:06
千葉直重\(^O^)/オワタ

北条と武田の血が入ってるのにwww
50日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:07:14
松平喜徳
まぁ首刎ねられなかっただけよしとするか
51日本@名無史さん:2008/05/14(水) 03:33:18
喜徳は一応会津藩を継いだの?
52日本@名無史さん:2008/05/14(水) 21:56:54
>>51 継いだよ。鳥羽・伏見の後容保は隠居した。
53日本@名無史さん:2008/05/15(木) 04:02:11
>>52
サンクス
54日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:26:50
平清盛嫡流のプリンス高清です。^^;
55日本@名無史さん:2008/05/19(月) 20:00:02
>>54 高清は家督継いでない。
維盛も継いでないんじゃなかった?
56日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:22:24
なんで長岡護美はせっかく喜連川家の養子になれたのに脱走したの?
57日本@名無史さん
>>56 確かにもともと喜連川家に養子に入る家は水戸徳川家と決まっていたのに、なぜ熊本藩から?