1 :
無名武将@お腹せっぷく:
大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線ドーム前千代崎駅
立てたは良いが、話題があまり見当たらない。
5の発売でちょっとは盛り上がるかと思ったが、前スレの感じからするとそうでもないしね。
どうでも良いが、個人的に陳祗は結構やり手なんじゃないかと思ってる。
黄皓だって、陳祇が生きてる内はその使いっ走りに過ぎなかったわけで。
陳祗は費禕とか姜維より若いだろうから、258年に死んだのは予想外だったと思う。
もうちょい長生きしてりゃ、後任の諸葛瞻らにしっかりしたレールを敷けて、
史実ほど黄皓を台頭させなかったんじゃないかと思ってる。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/21(火) 10:27:06
このスレタイにしてこの
>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・
>>4 陳祗が長生きしたら半独裁政権が生まれそうな気もする…。
確かに黄皓がしゃしゃり出たりはしないだろうけれど、
本人が侍中・尚書として朝廷を牛耳り、
姜維と手を組んで軍部掌握、
黄皓をパシリにして皇帝の私生活まで監視…とか。
ちょっと妄想が過ぎたかもしれない。寝る。
>>6 陳祇のビジョンとか、人格とかってのが、史書からあまり見えてこないから、
彼が長生きした時にどういった行動を採るのかってのが予測しづらいんだよね。
彼が北伐に好意的だったとしても、それが彼の国家戦略の上での事なのか、
単に姜維ら軍部の支持を得たいが為の事なのか判別しづらいし。
陳祗が北伐について譙周と議論したという事は、北伐支持は何らかの考えがあっての事で、
姜維の支持を得る為のみの事だったとは考えにくいけどね。
これに関しても、「譙周は陳祇と北伐の利害について議論した」とあるだけで、
陳祗が北伐を肯定していたのか否定していたのかははっきりしないけど。
でも、陳祇の死の前後での姜維の行動の変化や、陳祇が死ぬや朝廷が姜維降ろしを画策するなど、
反北伐勢力を陳祗が抑えていたんじゃないか、という予測はできるけどね。
ただ、色々とはっきりしないという事は、スレタイにもあるような創作物を作る場合には、
作り手の都合でどんな人物にもできるって利点はあるね。
考察という点では足枷になるけど。
ってか、コーエーもそろそろ三国志に陳祗を出してもいいだろうに。
最近じゃ、陳到やら羅憲やら、演義未登場の人物も出てるんだし。
重要性という点じゃ、陳到より遥かに上だと思うがなぁ。
孫資とか劉放とかと同じタイプ
無能なはずがないけど実体が見えない、みたいな
この手の連中には主義主張は服みたいに着替えるものだろうと思う
政争や派閥抗争といったシステムが軽視された現状じゃ、たとえ登場しても
内政要員の頭数程度にしかならんからね。
国の浮沈や盛衰なんてのは、外的要因よりも内部の諸問題に左右される事の方が
多かったりするけどね。
ゲームじゃこの辺の面白さというか醍醐味を味わえないのは残念。
>>9 劉放や孫資は、曹芳の後見役に司馬懿を捩じ込んだ辺りから、
その思想の一端が垣間見えそうではあるね。
そういや、彼らもゲームに登場してないね。
コーエーはこういうタイプの政治家を出す気はあんまりないのかもしれん。
>>10 現状のシステムだと、確かに内政要員になるだけだろうね。
でもまぁ、出てりゃそれだけで嬉しいもんなんだよね。
>劉放や孫資は、曹芳の後見役に司馬懿を捩じ込んだ辺りから、
>その思想の一端が垣間見えそうではあるね。
そうだね。
自分一人では天下を牛耳れないが、
競争候補同士の膠着状態をクリエイトして、
自らは調整役として幅を利かす手管に長けてそうだ。
劉放らは、最初宗族で固めていた曹芳の後見役を、自分らに不利と言う理由で、
策謀を弄して変えさせたような人たちだから、少なくとも清廉じゃないな。
彼らを支えるものは、帝の寵愛が大部分を占めていただろうから、
自衛の為の、ある意味仕方ない行いではあるとは思うけどね。
ただ、白帝社の「西晋の武帝 司馬炎」にもあるように、
張悌が司馬氏の簒奪を批判してなかったり、
「朝廷の望ではあるが、社稷については分からない」と評された司馬懿が、
結局多数の支持を得て政治の中枢を牛耳るようになる辺り、
劉放らの行動も、朝臣の希望をある程度反映していたのかもしれない。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/23(木) 17:02:00
age
宗預が鎮軍大将軍と兗州刺史を拝命したのは、諸葛瞻が都護となり政治に与った頃、
すなわち261年頃だよね?
すると、兗州刺史の前任者である胡済が死んだのもその頃という事になる。
恐らく260年?
つまり、督漢中である胡済の死とほぼ同時期に、政権は諸葛瞻らに委ねられた事になる。
諸葛瞻らは黄皓に与し、姜維とは良好な関係を築いていなかったから、
胡済の死後、督漢中の人事が行われなかったのは、彼の死のタイミングが、
諸葛瞻らの政権掌握と殆ど時を同じくしてたのが原因かもしれない。
督漢中という重要なポストを、自分らの息のかかった人間に任せられれば、
姜維から兵権を取り上げるのも容易になる。
かと言って姜維としても、そんな事を易々と許すわけが無い。
督漢中が自分と反目するような人間になれば、北伐の続行が難しくなる事はおろか、
野戦軍と漢中防衛軍の連携が難しくなり、敵の侵攻を防ぐと言う点でも難しくなるからね。
そういったせめぎ合いをしている内に、姜維は立場が危うくなった為に北へ逃げ、
成都への帰還を行わなくなり、督漢中人事がうやむやになってしまったんだろう。
蜀の滅亡は、やはりこの辺の、姜維と成都の軋轢が大いに関係しているね。
段谷以降の北伐ってする必要があったのかな?
もう蜀一国でどうにかなる戦力差じゃないだろ。
胡済は何故合流出来なかったのか。
出来たとしてもケ艾との決戦に勝てたかkwsk
>>15 胡済以降の督漢中が不在なことに関しては
胡済が漢寿に下げられた時から、彼の権限がどうなっていたかを
考える必要があるんじゃないかな?
胡済は姜維が北方の防衛を漢・楽二城に変更したときに
漢寿に住まいを移されてるけど
果たして、督漢中の人間が漢中から引き離されて
その権限をまともに扱えたのか疑問に思う
仮定として、もし胡済が漢寿に下げられた時点で、
督漢中が名ばかりの実体のない状態に置かれたのだとしたら
その間、漢中の兵権を自由にできるのは姜維だけになるんじゃないだろうか?
そうしたら、姜維にとっては
わざわざ自分の兵権の足かせになりかねない督漢中を
新たに任命すること自体したがらないんじゃないかな。
>>18 その可能性は低いと思うよ。
姜維は督中外軍事を持っているので、そもそも督漢中に対しても指揮権を持っている。
だから反抗的な人物で無い限りは、姜維を脅かす事も戦略上の足枷になる事も無いと思う。
んで、仮に督漢中を置かずに、漢中の防衛部隊も姜維直轄に組み込んだとすると、
これはかなり厄介な事になる。
姜維が野戦軍を指揮しながら、漢中の防衛部隊を適宜指揮する事はまず不可能。
姜維が遠方にあったなら尚更だしね。
263年に実際にもそうなったように、漢中の部隊の統制がとれず、でたらめに動いてしまうだろう。
いずれにしても、漢中全域の防衛部隊に指揮権を持つ役職を作った方が、
北伐を行うにせよ、蜀を防衛するにせよ有利、と言うかそうしないと非常に困難。
督漢中が漢寿に下がったのは、姜維が漢中の戦力を引き抜いたからだ、とか、
色々言う人もいるけど、個人的には、純粋に防衛体制変更に伴うものだと思う。
この事は、
>>17の質問にも関連してるんだけど、督漢中は、
基本的には漢中防衛部隊の司令官であって、漢中防衛部隊は野戦軍とは全く異なる。
従って、これを引き抜いたって、野戦軍として使えるようになるには相当の期間訓練する必要があり、
一朝一夕にできる事じゃない。
256年に胡済が来れなかったのも、野戦軍とは異なる部隊を無理に遠征させようとした為、
姜維の想定したよりも時間が掛かってしまったからだろう。
防衛体制を変更した時に姜維が想定したのは、秦嶺山脈と漢中を経由する部隊に加え、
隴西から白水方面を経由して剣閣に迫る部隊の、大きく分けて二箇軍。
秦嶺は関城、隴西は橋頭でそれぞれ防御する事になり、姜維率いる機動戦力は適宜攻撃を加える。
敵が主攻をどちらに採るか分からない以上、督漢中の軍は南鄭にあるより、
漢寿にてどちらにも対応できるようしておいた方が良い。
南鄭より漢寿の方が、成都に近い上に桟道も無いので輸送コストもかからないしね。
>>16 中原恢復を行うのであれば、いつかは攻勢に出なければならない。
魏との国力差は既に相当あった上、潜在的な国力という点でも大きく離されている以上、
早期に敵を打撃する必要があるから、北伐する必要自体はあった。
問題は、そのままのペースで続けるのかって事だね。
これに関しては何とも言えない。
段谷で敗れた頃には、魏では反乱が頻発する状況だったから、
何か大きな政情の変化が近い内に起こると想定し、ひたすらチャンスを待つって選択肢も有り得たし。
僥倖ではなく、人間の能力に恃むべきというのなら、ある程度の勝算が得られれば行う方がいい。
>>17 胡済が合流できなかった理由は、さっきも言ったけど、
一つは、もともと遠征用に組織されていない軍隊を遠征に使おうとした事。
もう一つは、恐らくだけど、鍾提に駐屯する姜維の方に無理が来て、
作戦開始を予定より早めたのではないか、という事だね。
胡済が来れば勝てたかどうかってのは、さすがに分からない。
史実より有利だったのは確かだろうけど、祁山を固められた時点でジリ貧だしね。
まぁ、段谷ほど酷い敗戦にはならなかっただろう、とは思う。
大敵にあたるに、
0:要害を盾に持久戦で引分け狙い
1:心理的・物理的な空白を奇襲
2:連携ミスを付いての各個撃破
3:補給線の撹乱や兵站基地の破壊
4:離間による敵戦力の分断なり不全化
5:暗殺などで指揮系統を麻痺
が大体の手段と思われる。一つでも上手くいけば引分けくらいは見込めるだろう。
唯一の必勝策は、名将に敵軍以上の大軍と敵国以上の大兵站を与えて長期的に指揮させるだけだ。
姜維が土地を切り取ることも国内をまとめることも出来ない以上、自滅じみた敗北は必至だ。
ただでさえ苦しいのにこれ以上面倒な仕事をしたくないのは判るが、派閥構成の注意に欠けたのは致命的だった。
まあ費イや陳祗のような、姜維を抑えるなり好き勝手に泳がせることが出来た人間など既にいなかったろうが。
考えれば考えるほど、この時期の蜀に勝ち目は無いな。
四川は入るのも難しいが出るのも難しいし、なんつーか袋小路。
司馬氏の台頭を見るに曹氏の求心力はそんなに高くないのだろうが、
涼州・雍州を切り取るには、寿春軍閥や呉が暴れまくって、魏の国力傾注を東部戦線に集中させてくれない限り無理。
同盟国が腰の定まらない頼りにならない連中で、
そいつらの動向が北伐成功に占めるウェイトにおいて非常に大きいというのが最早悲劇。
>19
その解釈でいくならば、
姜維が防衛システムを変更した時点で
督漢中は北方防衛軍全体を監督する役職に変更されたことになると思うんだけど
そうすると、胡済の後任を置くとしたら、
当然漢寿に赴任させて北方全体を監督させることになるんだよね?
ならば、督漢中という役職名称自体がなくなるんじゃないだろうか?
また、胡済を漢寿に下げた時点で、
その権限を漢中単体から北方全域に変更させないと
おかしくなりはしないかい?
役職上は漢中の防衛軍のみを取り仕切る官でありながら
実質は隴西方面まで監督することになるとなると
督漢中のままというのは変な話だと思う。
あげ
>>22 それを言うならば、目的はどうあれ督漢中を漢寿まで退かせた時点で、
督漢中という名に相応しくなくなるんだよね。
漢寿は梓潼群であって漢中ではないからね。
蜀で言えば、巴東都督がロウ中にいるようなもんだし、
魏で言えば、雍州諸軍事が洛陽にいるようなもんだから。
あと、管轄する範囲の拡大と言っても、従来の関城以北の漢中地域に、
関城から白水までの、梓潼群の一部地域を加えただけだから、
督漢中という数十年続いた名称を変更するほどの理由付けにはならないと思う。
もともと督漢中が防御する範囲になっていたであろう関城も、
どの郡かで言えば梓潼群に所属する地域だしね。
魏のケ艾も、隴右諸軍事という名称でありながら、涼州までの広い地域を管轄していたし。
また、白水での防御は、状況に応じて督漢中の軍が当たっただろうけど、
本来は、蒋琬時代以来重鎮となっていた涪にあった戦力や、成都からの軍が行うものだと思う。
督漢中がそちらに動くのは、援軍が間に合わないだろうと判断した場合だけだろうね。
呉の北伐は全然成功しそうにないのですけど、
合肥新城さえ抜ければあとは無人の野を行くが如しなのでしょうか?
平野で敵の大兵力とぶつかって終わり
初戦で敵主力を殲滅するのが望ましい
>>25 基本的には
>>26の言うように、なんとか敵を破らないと難しいだろうね。
毋丘倹の乱を参考にすれば、魏は揚州以外の部分からでも、防衛に十数万を動員できる。
それも1ヶ月もしない内に項に達しているわけだから、寿春まででも3ヶ月はかからないだろうね。
諸葛誕の乱では、5月に反乱を起こした後、7月には包囲陣地がほぼ完成してたから。
んで、合肥新城を突破しても勝利は覚束ないと思う。
そもそも、すぐに魏軍が来るから、悠長に攻撃している時間もないしね。
合肥寿春間は多くの河川があるものの、地形自体は険阻じゃないので、
魏呉両方とも多くの機動の余地がある。
そうなると、呉側がよほど鮮やかな戦略で当たらない限り、戦力差が効いて負ける。
まず合肥を突破する、そうしないと魏軍が呉軍を撃破するインセンティブが生じないから。
これに関しては、合肥に監視の兵を留めて、主力を前進させる方法が良いと思う。
その後、軍を分散させて淮水や、周辺を流れる多数の河川を利用して防御しつつ、
主力を以って、分進するであろう敵を適宜撃破するのが望ましいかな。
言うほど容易くはないし、負ける公算のが高いけどね。
合肥の指揮官を内応させるとかそういうアプローチで落とすのは無理?
正攻法じゃ誰がやっても無理な気がするんだが。
age
>>28 そこでの問題は、仮に合肥を手に入れたとして、そこを新たな線とする事ができるか、という事と、
そこを線とする事ができたとして、その後、どう展開できるのか、という事だと思う。
合肥新城と寿春はその距離90km程度と近いが、呉にとって最寄の大策源は建業で、距離は200km以上ある。
そうなると、魏軍の到着よりも救援の到着の方が遅れる公算が高いので、
相当規模の軍を駐屯させる必要があると思う。
合肥新城が岸から離れているのも厄介だね。
魏としては、新城を囲みつつ、水際で呉を迎え撃ったり、引き入れて後方を撹乱したりできるから。
少なくとも、魏軍が新城の包囲で手一杯になるくらいの戦力を駐屯させる必要があるだろう。
後は合肥を手に入れてからだけど、五万を以ってしても黎漿水を越えられなかった事を考えると、
寿春の攻略は難しいだろうね。
揚州方面から魏領を蚕食するつもりなら、やはり何処かで一度、
魏の野戦軍を大破する必要があると思う。
個人的には、豪族連合な呉の体制で、強力な野戦軍を組織できるのかって不安がある。
呉としては、揚州、豫州、荊州の三方面への展開が選択肢としてあるから、
どれを主攻とするのかが重要になってくると思う。
自分は、主攻を荊州に定め、蜀と共同しての襄陽方面の攻略が良いんじゃないかと思う。
揚州、豫州で大規模な陽動を行って、漢水を降る蜀と共同して荊州に戦力を集中する。
ただ、国家間の共同作戦は協調するのが難しいから、ちょっと厳しいかもしれない。
>>31 その場合蜀に共同作戦での見返りはあるんでしょうか?
手段としては最も見込みがあるように思えますが、
蜀に助勢を頼むと荊州問題が再燃するのではないかと思います。
勿論、魏の独走はどうにかしなければなりませんが…
蜀の感情論で言えばそんな簡単に行くのかなあ、と。
>>32 呉に対する敵対心というのなら、夷陵から数十年経ってるからそこまで問題にはならないと思う。
示し合わせて魏領に侵攻する、って事自体は実際にやってるし。タイミングは合わなかったけど。
問題は、勝利した後、荊州における両国の境界をどうするかだと思うけど。
蜀が魏興、上庸、新城、南郷の四郡、呉が襄陽、南陽、江夏の三郡って感じで手が打てればいいかな、と。
襄陽、南陽の帰属は揉めそうな感じはあるけどね。
プランとしては蒋琬のものに近いかな。
ただ、二国の軍が同じ戦場で協力するってのは、難しいんだよね。
蜀、呉それぞれの軍が、各々の利害に基づいて別々の戦場で戦いながら、
大きく見ると協力し合っているという形が、成功はしやすい。
この辺の事は、クラウゼヴィッツやマキャベリも言ってたと思う。
両軍が別々であれば、どちらかを破れば全て撤退する、という形にはならないしね。
>>33 呉蜀単体では無理だし、連携しても微妙。
となると、魏に内乱で自傷して貰うしかない訳ですが、
カン丘倹や諸葛誕の乱は何が駄目だったのでしょうか?
>>34 微妙、と言うより、こういったifは、不確定要素が多すぎて、
二千年も後になっては正確に判断できないんだよね。
よく戦術を軽視する人が要るけど、モルトケが、
「作戦計画は第一回会戦までしか立てられない」
と言ったように、会戦の結果というのが戦略状況を激変させる可能性がある。
その時代の人間ですら、これから行う戦争を遠く先まで見通せないのに、
情報の不足している我々では、ちょっと判断が難しい。
だから、単独でも、呉蜀の連携でも、勝算は実はあったかもしれない。
毋丘倹の乱と諸葛誕の乱は、呉との連携と言う点で考えて見ると、
まず毋丘倹に関しては、そもそも呉と連携する姿勢が見えなかった上、
たった1ヶ月で鎮圧されてしまっているので、どうしようもない。
毋丘倹の敗因は、いきなりの反乱で麾下を掌握し切れなかった事と、戦略的判断ミスだろうね。
呉も動きはしたが、合肥を越え寿春に迫った頃には、諸葛誕やケ艾がいたので攻撃が失敗した。
諸葛誕に関しては、呉の方にも落ち度がある。
諸葛誕は独力でも10万近い軍を寿春に集める事ができていた。
寿春城の周囲を300里程度、すなわち12kmとしても、1m辺り7,8人は配置できる計算。
城なんてもともと守りやすく作られているんだから、諸葛誕の集めた兵で十分で、
それ以上に軍を入れた所で、効用は大きくは高まらない。
にもかかわらず、呉は文欽や唐咨を寿春城内に入れ、外から支援する態勢取らせなかった。
後は、後から来た朱異たちも、包囲陣地を崩す事にこだわりすぎて、
迂回して項にあった魏軍の司令部への圧迫などの、間接アプローチを考えなかった事とかね。
毋丘倹にしろ諸葛誕にしろ、敗因は探せば色々出てくると思うよ。
間違えた。300里じゃ120kmになってしまう。
寿春の城壁の周囲の長さは、水経注の淮水とか、通典とかざっと調べたが載ってなかった。
何処かに記述あんのかな?
面白いのは、諸葛誕は反乱を起こすに先立って呉に息子を送り、後ろ盾になってもらおうとしたが、
毋丘倹の方は呉の動向など一切気にもかけず、独力で事に当たろうとし、
その要求も、上奏にあるように、皇帝を廃し、宗室に連なる夏侯玄らを誅殺した、
司馬師一人に限定している。
毋丘倹の行動は、習鑿歯も述べているように、魏室に対する忠義という点で賞賛されるべきものだと思う。
対して諸葛誕は、夏侯玄や毋丘倹の誅殺や反乱に会い、自分も誅されるのでは、
という疑心からの行動である事が、記述から読み取れる。
毋丘倹は忠義の心から、諸葛誕は保身から行動を起こしたにもかかわらず、
部下からの信頼を得ていたのは諸葛誕の方だった。
やはり部下にとってみれば、正義などという食えもしないものよりも、
自分に対する厚遇の方が、忠誠の理由になるのだろうか?
まあ正義不正義なんてものは不満分子が謀反を起こす口実でしかないだろうね。
一般大衆からすれば食わせてくれる大将であるならば、その力をどのように使おうが知ったことではないだろうし。
現実的な政権奪取の勝算を度外視した毋丘倹の行動はただの自殺にしか見えない。
付き合わされる部下はたまったものじゃないな。
まぁ、そうだろうね。
正義を振りかざすだけじゃ人は付いてこないんだろう。
ただ、個人的に、一般に諸葛誕の方こそ忠臣に見られ、評価も高く、
毋丘倹に関しては言及する人すら少ないという現状は、少し疑問に思う。
忠臣は諸葛誕ではなく毋丘倹の方だろう。
毋丘倹は、なんとなく姜維とイメージがだぶるね。
利益とかではなく、自分の信じる正義に殉じようとするが、
結局、それが独善に過ぎず強い支持に到る事は無く、破滅に繋がっていく辺りとかね。
高句驪討伐における得来に対する処置や、征伐した異民族に対してであるにもかかわらず、
わざわざ山を穿って水道を作り、高句驪の地に灌漑を施したり、
少なくとも傍から見る分には、人格者に写るような人物だったと思う。
独善的な人物に待っているのは破滅、という事なのだろうか?
恐らく逃げる時に呉に送ったであろう、子の毋丘宗らが、晋代に出世したのがせめてもの救いか。
両者の甲乙は俺ごときには預かり知らないことだが、
司馬氏の専横に否を突き付けた行動から見れば、両方とも忠臣と言えるでしょうね。
>独善的な人間の末路は破滅
自分と関係が無ければ、この手の人間の人生は面白い。
呉の野戦における競争力ってのは蜀よりも弱かったのだろうか?
何故か対蜀戦では出ても引いても無敵のイメージがあるのだが。
>>40 結果的には司馬氏に反旗を翻す形になったけど、その動機に関して、
毋丘倹と違い諸葛誕は疑問が残るんだよね。
諸葛誕は、反乱を起こす直前までは司馬氏に擦り寄っていたように思う。
娘を司馬懿の子である司馬伷に娶らせてるし、毋丘倹に対しても、
司馬師に従い、積極的に彼を破滅に追い込んでるし。
司馬伷に娘を娶らせたのを、司馬氏の専横が表面化する以前の事と見る事もできるけど、
司馬伷の長子が257年の生まれという事を考えると、司馬氏が完全に実権を握ってからという可能性のが高い。
反乱の動機に、魏室に対する忠義の心があったとしても、あくまでそれは従であり、
一番の動機は、やはり自己の保身だと思う。
>>41 呉は豪族の発言力が魏や蜀に比べても高く、各々の豪族が世襲の私兵を抱え、
戦争においても主たる戦力は、その私兵。
こういった軍勢を統率して戦闘を行うのは、卓越した統率力が必要で、
しかも、明確なバトルドクトリンを定めるのも難しくなる。
拠点を防衛したり、戦略的な機動を行わせたりとかではあまり違いは出ないと思うけど、
大規模な野戦を行うとなると、同程度の能力の指揮官では勝利するのは難しいんじゃないかと思う。
呉が会戦で勝利を得ようとするならば、戦術的機動ではなく戦略的機動によっての方が良いと思う。
戦場に敵野戦軍を引きつけつつ、別働隊を以って大きく敵を迂回させて後方を遮らせ、
狼狽したところを突破したりとかね。
諸葛誕に関して言えば、後で疑心暗鬼になって反乱起こすくらいなら、
毋丘倹に呼応して欲しかったな、と思う。結果論だけどね。
そうなれば、相当面白い展開になっただろう。
揚州に呼応して豫州も反旗を翻せば、魏軍が対応に動かせるのは、中軍と許昌の軍、
青州と徐州と兗州の軍、あとは精々冀州の軍くらいなもんだろう。
大きく見積もっても15万を大きくは超えないと考えられる。
諸葛誕の時に、関中から引っ張って来るほどの大動員で26万だからね。
幽州や并州は異民族に備える為に動かせないだろうし、雍州涼州は蜀に備えて動かせない。
荊州も呉が動くから動かせないだろうしね。
各地で動く反魏或いは反司馬氏勢力は、
・雍州で姜維率いる4,5万
・豫州で諸葛誕率いる3,4万
・揚州で毋丘倹率いる5,6万
・荊州で施績率いる4,5万
・揚州で朱異らが率いる4,5万
程度で、総勢20〜25万になるだろう。
内、魏の鎮圧軍と当たるのは諸葛誕、毋丘倹、朱異の十数万。戦力的にはほぼ互角にまで持ってける。
戦争は西から、雍州、荊州、揚州・豫州の三方面で展開されるが、
この三方面は、それぞれが独立して、各々の利害の下で別々の戦場で戦い、且つ、
何れかの場所での勝利が、他の戦場における戦略状況を好転させる。
戦争の展開次第では、勢力図が一変し、混沌とした状況になっただろう。
信長包囲網みたいな感じだな
洮西戦レベルの大勝を何度繰り返せば魏との勢力差を逆転出来るだろうか?
3世紀の中国は北と南で国力差が圧倒的すぎる。
本来、本命の袁紹がこけて、対抗の曹操がかなりラッキーに北を統一した時点で詰んでる。
魏が南征で常敗状態だから一見互角のように見えるけど。
仮に南軍が北伐の成功で一時的に土地を獲得しても、北軍の反攻を持ちこたえられないのは明らか。
数百年の守成を経て国力差が追いつく段階になって、ようやく南からの統一が見えてくるかというところ。
まあその間に北伐の凱旋司令官が手柄を頼みに、政変を起こして国力を磨耗させるようでは亡国まっしぐらだが…
そういえば、三国志で一番大きい殲滅戦って官渡か
後期は勝利ではなく、相手を全滅させないとその後の反撃が待ってるからなー
>>47 官渡が殲滅戦だってのは、武帝紀の注釈に引く献帝起居注と、
袁紹伝の注釈に引く張璠の漢紀に拠ってるんだろうけど、信憑性はどうなんだろうね。
裴松之が「諸書全てがそう言っている」と言っているから、そう書いてある書は、
もっとあったのかもしれんけど。
7万か8万というと、全戦力の7割から8割が死んだ事になり、捕虜と負傷を合わせたらほぼ全軍だろう。
にもかかわらず、袁紹の方は冀州の反乱を鎮圧する余力を残し、
僅か半年後に倉亭で再び戦っている。
普通に考えたら、遠征軍の大半が死に、敵の本拠地でも反乱が起こっているとなれば、
遮二無二追撃して、一気に鄴城まで迫るはず。
わざわざ追撃を停止して、敵に態勢を立て直す時間を与えるのも変だ。
戦果と、その後の展開が合致しないんだよね。
無理矢理に解釈するのなら、袁紹が冀州の反乱鎮圧と倉亭の戦いに動員できた理由は、
鄴に残しておいた戦略予備を用いる事ができたからであり、
曹操が追撃に踏み切らなかったのは、潰走した袁紹軍の退路を断って敵兵を殺すのに手一杯だったから、
とか言えそうだけど。
ただ地形的な面で言えば、河川が多数走っているあの辺りなら、
機動を上手くやれば効果的に殲滅する事はできそうではある。
>>49 三国志袁紹伝本文では「坑」だから、置いていかれてどうしようもなくなって降伏した兵士を曹操も処置に困って穴埋めしたと考えればいいんじゃないの?
漢紀も「坑」した人数が8万と言ってるんでしょう。
その後は、袁紹が余力を残していたというのもあるだろうけど、曹操が限界ギリギリだったという方が実情だと思うんだよなあ。
>>45 そういった大勝は、回数よりもペースの方が大事。
国土は戦闘力を培い、生産するが、一戦争という短い期間では、
国土の獲得や喪失が、すぐさま戦闘力の増減に繋がるわけではない。
大国と小国の差はここにあって、小国の勝利は、大国が戦闘力を再生産する時間を与えぬ内に、
国土の防衛が不可能になるほどの打撃を与えなければ得られない。
大勝を10回博したとしても、20年に一回、200年間で行ったのでは意味が無い。
>>50 「余衆偽って降り、之を尽く坑す」ってやつか。
降伏した捕虜を穴埋にしたってんなら、多分時間が掛かるだろうね。
また、曹操がギリギリだったってのは、確かにあるかもしれない。
曹操軍の物資が底を尽きかけていたってのは、武帝紀にもあるし。
そもそも、自分自身、これが迎撃戦だったってのを失念してたな。
敵国土まで達する反攻には、十分な準備の時間が必要なもんだから、
そもそも、曹操も自国領を越えてまで追撃はできないね。
そうすると、結果的に敵を殲滅する事になったものの、
これは敵殲滅を企図したものではないという事になる。
多分、戦略レベルでは陸遜の夷陵の方が、戦術レベルでは姜維の洮西の方が、
芸術的な殲滅戦だろうね。
官渡は食料事情もあるでしょ
>>51 魏が大敗と言えるほど戦力を大きく喪失したのは、
赤壁(208)、樊城(219)、石亭(228)、洮西(255)だけかな?
確かにこのペースじゃ無理だわ。
>>54 252年の東興の戦いも、魏はかなりの戦力を喪失してる。
ただ、252年と3年後の255年の二回に亘って大敗を喫しているにもかかわらず、
尚も防衛に10万以上を投入できるほどの戦力を有してたってのがね。
多分この頃には国家の整備がかなり進み、目に見える以上の差になってたんだろう。
雍州方面であれば、短期間に7,8万くらいの損害を与えないと難しいだろうね。
姜維の場合、256年の祁山への前進が成功し、上邽の軍を撃破できていたら、
隴西くらいは取れたかもしれない。
ただ、それでも、3,4年経てば魏は奪回に軍を動かすだろうけど。
184〜207 約四半世紀 北部の統一
207〜263 約半世紀
大体30年以上も経ってしまえば、迎撃システムを機能させる程度の復旧は果たせる。
まあ自国の十分の一程度の小国を滅ぼすには更に半世紀かかるようだが。
結局、曹操が一人で東奔西走してた時期以外、付け込む機会がなかったってことですかね?
分業体制が確立してからはただの総力戦になってしまって、どうにもならない感じがします。
群雄の思惑が一致してるわけじゃないしなー
215年に劉備軍5万、関羽軍3万で呉軍と戦ってたらどうなってましたかね?
夷陵でも結局両者は戦ってる訳ですし、
住人を移住させた漢中では兵站として機能するとは思えません。
魏の侵攻は剣閣だけで十分食い止められると思うのですが。
いきなり漢中戦をしかけるよりは荊州の利権を完全に確保した方が良かったのではないでしょうか?
あげ
>>59 「結局夷陵で戦う事になる」というのは結果論だしねぇ。
この時点では、劉備も呉との全面衝突をしばらくは避けられると思ってたかもしれないし。
あと、曹操の漢中攻略は劉備が公安に入ってから完了し、
劉備としても、曹操がどう動くか分からない以上、徒に呉との対陣を長引かせられないと思う。
漢中から洛陽、鄴への徙民も、この時点では行われて無いだろうしね。
215年末に曹操が帰ってからでしょ、徙民が行われたのは。
曹操が漢中を攻略し、巴西の杜濩らが曹操に帰順し、それに呼応して張郃も侵入している。
公安にいる劉備にとっては、こっちのが速やかに対応すべき事態に映ったと思う。
分割後たった四年で、関羽の隙を突いて荊州を攻撃した事を考えれば、
仮にここで孫権らを破り、荊州の帰属を明らかにしたとしても、
隙を見せれば襲ってくるだろうから、北と東の両方に緊張状態を抱える事になるから、
その後も思うように勢力を伸ばせないように思える。
>>61 成る程。現実的には難しいようですね。
個人的に呉は意外と侵攻可能なルートが少なく、
陸口あたりまで押さえられると上流の勢力には勝てないと思ってましたが…
仰るように結果論を前提にした仮定なのですが、
孫権の勢力を荊州から駆逐し、呉を完全に吸収合併して、
曹魏との南北朝並立が成立した場合の南側の勝算は如何なものでしょう?
呉蜀同盟を前提にした戦略では、魏の大軍に対する外線作戦が成功するはずもなく、
最後には相互支援も旨くいかずに各個撃破されるのがヲチです。
>>46氏の論では南が北にマトモに競り勝つのはこの時代では無理とのことですが、
北の簒奪王朝の統一を揺るがすような政権が南に成立した場合、少しは動揺するかと。
まあ劉備の血筋は眉唾ものですけど、
それでも曹氏政権の不満分子たちには十分すぎるほど内通の口実になるでしょうし。
>>62 さすがにそこまで来ると計り知れないなぁ。
一戦役の推移ですら、自分には或る程度までしか推し量れないから、
ifが壮大になってくると、いったい何処から考えていいやらで。
>>63 調子に乗って無理な話題を振ってしまったようで申し訳ない m()m
↓ 次の方どうぞ
劉備と曹操によって天下が二分されたとして、その後の推移を考えるには、
実際、天下二分の為った時の内外の状況が分からないと非常に困難だろう。
となると、劉備が呉を攻略し長江流域を手中に収めるまでを、
荊州を攻略する所から考えていかなければならないが、自分には、
劉備が荊州から孫権を完全に駆逐するようなシナリオは考え付かないんだよね。
これは俺の能力不足かもしれんが。
話は変わるが、呉平定の戦役の時の司馬伷について。
彼の前進は非常に緩慢で、長江に迫った頃には孫皓が印綬を送ってよこすような状況だった。
にもかかわらず、彼は長史の王恆に諸軍を率いさせて江南に向かわせ、
辺境を守備していた蔡機を破って5,6万を斬ったり降したりしてる。
これは、孫皓降伏のドサクサに辺境で暴れてただけの奴なのか、
或いは呉の降伏をよしとしなかった忠臣なのか、
或いは単に、王恆の派遣が実際は降伏前の事だったのか、判断がつかない。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/03(月) 08:44:12
uo
コンビニに「真説 三国志 最強は誰だ?」とかいうムックが売ってて、
地雷っぽい雰囲気はプンプンしてたんだけど、500円だしと思って買ってみた。
人物にスポットを当てているから、初心者にしてみれば、これで三国志の流れが分かるわけでもなく、
内容も特に目新しい事を書いているわけではないから、コアなファンも楽しめない。
いつも通り、「諸葛亮が死んだら三国志は終わりです」と言わんばかりの内容だしね。
一応正史に拠っているにもかかわらず、厳顔に王平とかと同じページ数を割いたり、
どういう層を対象にして出版したのかよく分からん内容だった。
いつになったら、姜維やケ艾、王基や王昶や毋丘倹や羊祜や王渾や陸抗を
大きく扱ってくれるような本が出るのだろうか?
69 :
ouu:2007/09/04(火) 16:54:15
muu
今まで大きく取り上げられなかったぶん、ひっそりと需要がありそうなんだけどな。
著者が三国末期に興味を持っていないのか、出版社が切り捨てているのやら。
さすがに自費出版をする猛者はいないか…(´・ω・`)
しかし出版社サイドは初心者向けとマニア向け、しっかり絞って出してほしい。
その中途半端さがダメなんだよな…。
俺理論を展開しまくって読み手も考えさせられる、いい意味での「地雷本」が欲すぃ。
三国志末期、諸葛亮の死後を扱った記事については、
読んで満足した本は殆ど無いなぁ。
自分で考えてる事の方が面白かったりするし。自惚れかもしれんがね。
最近は、蜀漢においては南鄭はあまり重要な拠点じゃなかったんじゃないかと思ってる。
劉備が漢中を手に入れて以来、少なくとも三国志上で南鄭が出てくる事は殆ど無く、
基本的に沔陽を重視していたように思える。
多分、理由としては、曹操が漢中の住民をごっそり洛陽や鄴に移しちゃったから、
それまでの行政区分に従うべき理由がなくなったからじゃないかと思う。
漢中の地形などを考えて、防御しやすいように作り変えていったんじゃないかな、と。
スレ違いかも知れませんが、樊城の役での関羽の敗因について御拝聴したいと思います。
一体彼はいかなるビジョンで北上したのでしょうか?連携ミスにしか見えないのですが…
>>72 曹仁に粘られすぎた。これが一番の蹉跌だったと思うよ。
まあ、関羽がどこまで北上する気でいたかわからんけどね。
敗因ねぇ。色々あるといえばあると思う。
関羽は穎川の郟まで展開してるって記述が満寵伝にあるけど、
これは恐らく、梁や陸渾で暴れてた賊だろうね。
或いは、麾下の軍を派遣して、彼らを援助してた可能性もある。
陸渾や梁を遮断できれば、魏軍は許昌経由でしか援軍を送れなくなるから。
曹操がわざわざ摩陂に行ったのは、こいつらを討つ為だろう。
そんな所まで展開したって事は、少なくとも関羽にしてみれば、
長く樊城にかかずらっている気はなかった、という事だろう。
恐らく、桐柏山の辺りを線として魏の援軍を防御し、
梁や陸渾の賊を敵の側面に置く形にしたかったんじゃないかな。
襄陽・樊の二城がさっさと落ちれば、徐晃に軍を集結させる時間を与える事もなかったろうし。
ただまぁ、関羽がどこまで前進しようとも、呉軍が背後を襲うんじゃ意味は無いと思うけど。
連携という点で言えば、恐らく敵の分離に乗じようとしたんだろうね。
于禁伝に拠れば、曹操が長安に入った頃、すなわち5月には関羽は樊まで来ていた。
多分、魏の大軍が完全に漢中に行くまで待ってたんだろう。
長安からなら、2ヶ月強で荊州まで軍が到着してしまうからね。
長安に向かわなかった于禁しかすぐには援軍に来れず、
徐晃も(恐らく)司隷や豫州で集めた新兵しか率いる事ができなかった事を考えると、
ある程度は成功してたと見ていい。
魏の中軍がようやく来れたのは、冬になってからだから、半年ぐらい時間は稼げていた。
もうちょっと待ってから、というのも、関羽にとっては厳しいだろう。
当時は、曹操に対する反乱が頻発し、その殆どは関羽を頼っていた。
漢中の劉備が再度遠征の準備を整えるまで待っていれば、
中原の反曹操勢力は関羽を信用しなくなり、彼らの蜂起に期待できなくなる。
賊の蜂起よりも、劉備を待った方が関羽の助けになった、と言うのであればそれまでだけど。
>>74 なるほど。あと一押し足りなかったようですね。
>>74 > 于禁伝に拠れば、曹操が長安に入った頃、すなわち5月には関羽は樊まで来ていた。
> 多分、魏の大軍が完全に漢中に行くまで待ってたんだろう。
違うよ。5月には既に漢中戦は終わっていて帰還途中。
> 219年夏5月、曹操、軍を漢中より長安に引く。
> 劉備、劉封を漢中より沔水を下らせ孟達と合流させ上庸を陥とさせた。
> 秋、劉備漢中王即位。
> 関羽、仮節・前将軍となり軍勢を率い樊城へ攻め入る。
> 秋七月、于禁を援軍として派遣。
> 八月、長雨のため漢水が氾濫し、于禁降伏。
> 閏10月、呉軍、荊州に侵攻、公安・南郡を陥とす。
> 関羽、徐晃に敗れ荊州に退却するも既に呉が占領してるため麦城に立て篭もる。
> 冬11月、陸遜、新しく帰順した者たちに印綬を授ける。
> 冬12月、章郷にて関羽ら捕らえられ斬首される。
>>76 それは知ってるし、それを含めてのものなんだけどね。
普通、大規模な軍事行動は、やろうと思って即座にできるものじゃなく、
曹操が長安から漢中に入ったという報が関羽に届けられてから、
関羽が実際に北上を開始し、樊まで前進するまでのタイムラグを考えれば、
5月、或いは6月頃の樊城到達でも、そういった目論見があったと考えられる。
そもそも、曹操があんなにも早く軍を還すというのは、関羽にも想定外だろう。
曹操が218年9月に長安に入っておきながら、実際に漢中に向かったのが翌年だった事を考えれば、
荊州の動向に対する曹操の思慮が窺える。
この間、関羽も曹操がいつ軍を反転させるか分からないので、動くに動けなかったんだろう。
関羽の目的が漢中攻略の援護であったなら、曹操が長安にいる間に北上し、
曹操の注意を荊州に引き付けるというのもあったが、そうしてないという事は、
荊州攻略の意図があったという事になる。
あと、もう一つ考えられる点として、218年の段階で関羽の北上が始まっていたかもしれない、という事。
武帝紀に拠れば、曹仁は侯音を斬る前に関羽と戦いを交えている。
曹仁が樊で包囲を受けた時、その軍勢が僅かに数千だった事も、
関羽と沔水の南で干戈を交えている間に宛で反乱が起きた為、
軍を二分する羽目になったと考えれば、説明はつくだろう。
即座に侯音を斬り、樊城に入る事ができたものの、
沔水より南は関羽の手に落ち、関羽を防ぐ際に兵を失って、結果数千にまで兵力が落ちた、と。
>>77 曹操が長安に長逗留してたのは宛で侯音らの反乱があったからじゃないの?
> 武帝紀に拠れば、曹仁は侯音を斬る前に関羽と戦いを交えている。
これはどうかな?
関羽伝の記述とあわせれば武帝紀の当該記述「曹仁討關羽、屯樊城」 は「曹仁は関羽を討たんと、樊城に屯し」と解するべきだと思う。
まあ睨み合いなども戦いと解するなら否定はしないが、純軍事的な活動はしてないと思う。
それに曹操はまだ徐晃が関羽を討ち破る前、十月に洛陽に帰還してる。
もっともこれは魏諷の反乱を受けてのものかもしれないけどね。
関羽の北上が「連携という点で言えば、恐らく敵の分離に乗じようとした」というのはちょっと違うと思う。
>>78 その、「曹操が長安に長逗留してたのは宛で侯音らの反乱があったからじゃないの?」
という指摘に何の意味があるのか分からんのだが?
「侯音の反乱があったからだから、関羽がこの時期に北上しようが曹操は動かない」
という事か?そんな事はないと思うけどね。
あと、10月に曹操が洛陽に帰還してきているからどうのってのも、指摘としてはあまり意味が無い。
「戦役が終結する前に曹操が来てしまっているんだから、分離になってない」
というのは、「その行動が完全に秘匿できなければ奇襲ではない」とか言うのと同じで、
関羽が分離に乗じる意図を持っていた事を否定するには弱い意見。
実際、于禁、徐晃、曹操と援軍の到着に、それぞれ2ヶ月位の期間があるのだから、
各個撃破するには十分な期間だろう。
まぁ、俺の意見も、それほど確固たる根拠のあるものじゃないから、
違うと思うのは自由だと思うけど、少なくとも自分は今のところ取り下げる気はないよ。
>>79 > その、「曹操が長安に長逗留してたのは宛で侯音らの反乱があったからじゃないの?」
> という指摘に何の意味があるのか分からんのだが?
誤読してた。
上の段を受けて「長安に長逗留していたのは出陣の準備に勤しんでいた」と主張してるのかと思ってた。
流し読みゴメン。
で、時系列の話だけど
> 建安二十四年、太祖在長安、使曹仁討關羽於樊、又遣禁助仁。(于禁伝)
とあって、この年曹操が長安にいたのは一〜二月及び五〜九月。
戦闘の経緯から漢中に赴く以前の命令とは思えず五月以降の話であるのは間違いないと思う。
関羽の北上時期は関羽伝から斧節を与えられ前将軍に任じられてからと見るのが一番順当。
ちょっとあちこち話が飛んでわかりづらい文章になってしまっているが、言いたいことは
「関羽は北上を開始する時には曹操が既に長安にいることを知っていた」
可能性が非常に高い。
よって
> 曹操があんなにも早く軍を還すというのは、関羽にも想定外だろう。
とか
> 恐らく敵の分離に乗じようとした
というのはまず考えがたい。
関羽の戦略としては
味方の勢いという曖昧なもの南陽から襄陽にかけての混乱に乗じたもので
曹操本隊の動きと言うものはあまり考慮に入れてないと見るのが妥当と考える。
>>80 関羽伝に関しては、「是歳」という表現が曲者だと思うんだよね。
確かに、劉備の漢中王就任と自身の前将軍就任の後に北上を開始したように読めるが、
例えば、後主伝の229年の記述のように、
「冬、亮徙府営於南山下原上、築漢、楽二城。是歳、孫権称帝、与蜀約盟、共交分天下」
と、春にあった孫権の皇帝即位を、冬にあった漢城と楽城の築城の後に持ってきたりしてる事もある。
この北上を、関羽が前将軍になり、節鉞と印綬を受け取ってからの事とすると、
少しおかしな事になると思う。
劉備が漢中王となったのは秋の事なので、早くとも7月。
劉備のいる漢中から江陵までは、上庸や房陵を経由しても1000km近くあり、
どれだけ馬を飛ばしても10日くらいはかかる。
ましてや険阻な山道を進む事になるし。
四川を経由すれば船が使えるが、距離は1200km以上になってしまう。
結局、10日くらいはかかってしまうと思うんだよね。
そして江陵から襄陽までも200kmくらいあり、数万の軍隊が進むとなると、
こちらも2週間かかるだろう。
すると、関羽の樊城到達が、スムーズに進んでも7月末。
そこから曹操が于禁派遣の決定をしたとし、于禁が7月中に洛陽を出れたとしても、
洛陽から樊城まで400kmくらいあるので、1ヶ月くらいかかってしまう。
8月中には于禁は関羽に捕らえられ、樊城の包囲も完成するのだから、
劉備の漢中王就任後に動き始めたとすると、その後のペースを、
常識的な範囲よりもかなり早めなければ、実際の推移と合致しないように思える。
まぁ、誤差の範囲、とか、緊急事態だから皆強行軍だった、とか
理由をつけようと思えばつけられるけど。
ただ7月に北上を開始したとしても、物資の集積や作戦計画の立案やらで、
遅くとも1,2ヶ月前には遠征を準備しなくちゃならんから、
遠征が決定されたのは、曹操が長安に入った直前か直後くらいだと思うよ。
関係ないが、官渡と言い、スレ違いの話題の方がレスがつきやすいというのが泣けてくるな。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/14(金) 00:10:52
後期にふさわしい話題がいいなら、やっぱ陸遜の迂闊さが目立つ二宮事件だな
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/14(金) 19:23:24
でも陸遜は死に時だったと思うのは私だけ?
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/14(金) 21:27:58
死に時ってのはよくわからんが、呉粲との関係を疑われたり、陸胤に騙されたり、あの時の陸遜に隙があったのは確か
あのまま孫権が死んで陸遜が実権を握ってても、諸葛恪のような末路が待ってたような気がしてならない
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/15(土) 18:46:50
「軍事じゃない+あまり興味の無い呉」って事で、二宮の変はよく知らないんだよなぁ。
実際、色んなところで議論されているけど、あれの主題は何なの?
孫権の落ち度は何処だったとか、そういう事?
戦争を考察する場合、色々考えるけど、メインは勝因と敗因の分析辺りだけど。
それとも、両派の妥当性だとか、各キーパーソンの行動の目的とか、
様々な議題を平行に扱い、特に主たる議題を定めているわけじゃないのかな?
政変の主題は
・どの派閥がどのように存在し如何に対立したか
・期間中あるいは事後、どのように勢力図が変化したか
・その結果によってどのような指向性の政権となったか
の三つだろうな。
戦争と違うのは結果が明確に出るまでかなり時間がかかり、
その変化の過程にしてもよく分からんということ。
大まかな認識としては、孫権政権内における、
太子と魯王を担ぎ上げる形での派閥闘争って事でいいのかね?
そういや、ちょっと前にむじんさんがブログで紹介してたね、ときねって人の主張を。
まだ読んでないんだけどね。
三国志大戦3が製作中らしいが、前回出なかった後期の人物をカード化してくれるかな
どうせなら魏と晋は別勢力にして晋寄りの人物を増やして欲しい
カード化対象の時代範囲は不明だけど、2で南風が出たから張華辺りもアリだろう。
需要があるかはともかく
三国志大戦はやらんけど、それによって色んな人物の人気が出てくれるなら嬉しいね。
個人的には王基と王昶を出して欲しいね。
王基は魏の人物でもケ艾に次ぐぐらいに好きだし。
有り得ないとは思うが、陶璜なんかも出ると嬉しいね。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/18(火) 02:22:12
劉纂きぼんぬ
唐代に維州が置かれた時、その州治として姜維城が選ばれ、
この姜維城ってのが、薛城の辺り、漢代の広柔県の少し西にあるらしいのだが、
現代で姜維城と呼ばれる場所は、汶川県城後方(南東?)の山を利用して築かれたものとの事。
両者が食い違っているが、一体どっちが正しいんだろうねぇ?
薛城の方は、姜維の討伐以前からあり、馬忠も反乱討伐の根拠としたと言うし、
こっちの方は、少なくとも姜維が築いたとは考えにくい。
また、姜維が討伐したのは平康県の賊なので、根拠とするなら薛城より汶川の方が都合は良い。
賊討伐に際して薛城にも入ったが、汶山経営と、その防衛の為に、
汶川の地に塁壁を築き、後の太守である王嗣らがそれを利用し、
その地を姜維城と呼ぶようになった、ってのが自然なのかな?
で、別に薛城の方も、姜維が入った事をもとに姜維城と呼んだ、と、そんな感じか?
後漢書郡国志を参考に14州をランク付けしてみた。
優:益州、冀州、予州、荊州
良:揚州、青州、兗州、司州、徐州
可:幽州、交州
不可:并州、雍州、涼州
涼州はともかく、この時代の雍州って過疎ってたのだろうか?
こんな危険な過疎地帯を北伐するより荊州を東征する方が、
はるかに支出に対する利益が見込めると思った。まあ成功した場合はだけど。
函谷以西の二州と旧都をおさえても、
呉の背信で失った三郡を保有してた頃より実利的な国力が回復するとは思えない。
参考になるかは分からんが、晋書で隴山以西の郡は、
隴西郡:3000戸
南安郡:4300戸
天水郡:8500戸
略陽郡:9320戸
金城郡:2000戸
西平郡:4000戸
武威郡:5900戸
張掖郡:3700戸
西郡:1900戸
酒泉郡:4400戸
敦煌郡:6300戸
西海郡:2500戸
計:55820戸
だから、これを全て戸籍として把握できたとしたら、蜀の全戸数の2割くらいだね。
武陵とか長沙とかは、一群で万単位の戸数だから、当然の事ながら、そっちのが人口は多い。
あと、上庸、新城、房陵の三郡は併せて約4万戸だから、その三郡よりは上だし、
西方との交易のうま味が隴西の方はある。
ブログの方の話をこっちに持ってきて恐縮なのだが
閻宇が成都に呼び戻された時期は魏の進軍が開始された夏じゃなく
トウ艾が陰平に至った冬なんじゃないだろうか
魏が侵攻してきた当初、成都は陽安関に向かわせた張翼たちで当面は大丈夫と判断していたのなら
南方同様、東方の守りも切り崩さずにいたと思う
南方ほどで無いにしろ呉も十分警戒対象であったろうし
ショウ周伝にもトウ艾が陰平に入った辺りで成都はまだ来ないとふんで守備を怠っていたとあるから
このときになって慌てて閻宇を成都に呼び戻しつつ、諸葛瞻を北方守備に向かわせたんじゃないだろうか
>>95 もともとあれを考えようと思ったのは、「閻宇の軍=張翼が率いて陽安に向かった軍なんじゃ?」
って疑問からなんだよね。
そうする事で、霍弋の提案を拒否した事に正当性を持たせようとした。
「霍弋の代わりに閻宇を召還したから大丈夫」って事でね。
距離とか時間とか考えると、どうもうまくいかないんですぐに否定したけど。
「閻宇の軍=諸葛瞻の軍」って考えは、前にどっかで読んで、その時も色々疑問はあった。
改めて考えても疑問が残る考え方だと思う。
間に合わなかったって考えるのが一番楽で、閻宇の出発も到着も自由にできる。
でも、それも、疑問点が残らないわけじゃない。
仮に、ケ艾の侵入を聞いて慌てて呼び出したとすると、成都では、東方から閻宇が向かってきている事や、
姜維が(成都から見て)東方にいる事も当然分かってたはず。
なのに、一旦江州に入るって選択肢が真っ先に切り捨てられ、
遥か遠くの南中への退避と降伏とが残るってのが信じられないんだよね。
結局、「魏の攻撃を受けて閻宇を西に召還した」という記述しかないから、
どう考えるにしても、決定的といえるほどの蓋然性が得られない。
>>96 ブログ読んでて思ったけど
もしかして女?
>>97 いや、男だけど。
ジョミニを信奉するような女はいないでしょ。
>>98 失礼しました。
文体が妙に女っぽいなと思ったので
むむむ。俺は文体が女っぽいのか、気付かなかったorz
一人称の問題なんだろうか?
それはともかくとして、何か話題は無いかねぇ?
知識不足のせいか、最近、考察や議論の話題が考え付かない。
>>100 一人称ではないと思いますが
最近まともに正史を読み始めたばかりなので
話題は振れないのです。申し訳ない
個人的には、読み始めの頃の方が、色々疑問とか出てきて話題の提供には良いように思う。
自分なんかは、自分自身の三国志世界が頭の中にある程度出来上がっちゃってるから、
なかなか疑問とかも出てこないんだよね。
そう言えば、俺は最近は、姜維は諸葛亮の遺志を継ぐとかは考えてなかったと思ってる。
寧ろ、諸葛亮を超えてやろうと考えていたんじゃないかと。
少なくとも軍事、つまり北伐に関してはね。
「諸葛亮にできなくとも、自分にならできる」とかってね。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/10(水) 12:16:17
俺は、諸葛亮にしろ姜維にしろ、北伐に成功したら王朝交替(劉禅から諸葛や姜への)が待っていたとしか思えないのだが、みんなはどう思うだろうか
それはそれで構わないとも思うけどな。
おそらく簒奪でなくて禅譲としてスムーズに交代がなされただろう。
いつの時期に行われるかにもよるが、劉禅の子あたりにもう一代帝位が継がれそうな気もするな
少なくとも北伐成功したぐらいで他国に隙をつかれそうな事はしないんじゃん?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/10(水) 20:58:13
諸葛亮については元々絶大な支持を受けているから、政権をまとめるためにむしろ即位した方が良いかもしれんよ
李厳の九錫発言に見えるようにね
仮に禅譲を考えていたとしても、長安を奪ったくらいで行えはしないだろう。
少なくとも、都である洛陽を奪還して、中原にも一定の勢力を築いてからじゃない?
ただ、諸葛亮も姜維も、あまり帝位に興味がありそうには見えないけど。
簒奪するとしたら本人よりその子供だろうな。
司馬氏も曹爽が余計なことをしなければ台頭しなかったかもしれんし。
そういや、何で宋書は、建興8年に閻宇が益州牧だったなんて与太を書いたんだろうな。
建興8年の益州牧が諸葛亮だった事は、ちょっと調べりゃ分かると思うんだが。
それとも、こういう話を拾ってきた(存在してた)って事は、
時期はともかく、閻宇が益州牧になった事があったって事なのかね?
でもまぁ、無視すべき記述だよな。
費イ以降該当者が見当たらないからな
諸葛亮・蒋エン・費イの順から見て
当時の政権トップが益州牧(刺史)を兼ねるのが順当だろうが
姜維が就いていないとなると
官職自体空位だった可能性もあるけど
諸葛瞻たちが閻宇と姜維を交代させようとしたときに
姜維を益州刺史にさせようとしたことを考慮に入れたら
閻宇の益州牧も全くの与太話とも言えないような気はする
何にしても宋書の建興8年に閻宇の上表で南浦が設置されたという話自体が
華陽国志と食い違うし、扱いにくい記述ではあるね
もし閻宇の上表で設置されたなら時期は彼が白帝に入った後と見るのが自然な気はする
>>111 益州刺史になったって記述が費禕以降いないんで、勝手に空位だと思ってたが、
仮にも益州刺史を10年間も空位にしとくなんて考えにくいよな、確かにさ。
州行政のトップを10年間も空位にしとくってのは、まず有り得なさそうだ。
姜維を閻宇と代わらせ益州刺史にしようとした、っていう漢晋春秋の記述の蓋然性は分からんが、
これが正しいとすると、少なくとも姜維が益州刺史だった可能性は無いね。
とすると、次官だった陳祗が益州刺史になっていた可能性が、最も高いかな?
んで、陳祗死後、巴東に行った閻宇に、黄皓の力で益州刺史が回ってきた、と。
南浦の位置からすると、仰るとおり、上表は巴東都督の頃だろうね。
華陽国志だと、蜀が魏に平定されて、晋になった後、
呉の武陵太守である孫恢を撃退した後だっけ、羊渠が南浦に改められたのは。
まぁ何にせよ、こうだ、って胸を張って言えるほどの蓋然性は得られないだろうね。
姜冏の死が、馬超によって冀城が攻撃された時の事だとすると、
姜維にとって馬超は仇敵とも言える存在になる可能性が在るよね。
前に三国志マガジンで姜維と馬超の話があった気がするが、あれどんなのだっけ?
姜維が馬超を憎んでいたと考えると、お話としては結構面白いんじゃないかと思うんだよね。
姜維と共に降った、功曹の梁緒、主簿の尹賞、主記の梁虔、
こいつらは、214年に馬超に反旗を翻した天水郡の官吏である、
尹奉や梁寛らの関係者かね?やっぱり。
郡の主要な官吏をこいつらが占めてるってのは、馬超撃退の功績が大きかったからだろうか?
馬超の時に最後まで郡を死守しようとし、
太守と刺史が死んでも尚馬超に逆らった人々の同族が同行してたのに、
彼らを信じられずに郭淮についてった馬遵は、やはり小心者なのだろうか?
そいつら単なる土豪だし、馬超の烏合の衆と蜀の精兵では比較にならない。
魏がいかに大国で援軍は必ず来るとはいえ、
目の前の剣難を斥けてくれるような有難い神通力はない。
自身の身の程というものを知っていれば、彼の行動は不明とは言えない。
本当にそうだろうか?
張既伝に引く魏略によれば、降伏しなかった隴西郡の吏民と太守游楚は、
功績によって褒賞や官位を得たが、天水、南安の二郡については、
その吏民には徹底的な懲罰を与えられ、太守もまた厳罰に処されている。
同行していた官吏が冀への帰還と死守を進言したにもかかわらず、
彼らを疑い、郡の維持を放棄したが故に、本来降伏の意思がなかった天水の吏民に害を与え、
また、自分自身も重罰を受けるという苦難に陥っている。
あの時点での彼の判断が、彼にとって妥当であったか否かは分からないが、
結果を見るならば、徒に戦況を悪化させた上、自身も破滅しているのだから、
彼の行動を少なくとも褒める事はできないように思える。
しかし第一次北伐は初動段階でほぼ成功してた。
街亭のあっけない敗北は諸葛亮の人事ミスによるところが大きく、単純に予想しがたい。
もし彼が降伏せずに粘っても街亭がなければスケープゴートになる可能性は大きいと思うが。
游楚も、「蜀が隴山を断ち切って、その攻撃が激しくなってから降っても遅くは無い」
と述べているし、目の前の安全を確保するよりも、
とにかくも魏への忠節を示してから降るなりした方が、後々の事を考えれば良いとは思う。
もちろん冀に籠もれば死ぬ可能性はあるけど、郡を放棄したという罪を被る事は無い。
馬遵と南安太守は、蜀に降るでもなく、郡を保持するでもなく、
ただただ己の安全のみを求め、それでいて郭淮と共に上邽に籠もるという、
中途半端な選択をしている。
これでは魏が勝っても罰せられるし、蜀が勝ったら上邽を落とされて、
結局は何らかの被害を被る事になっただろう。
近視眼的で、やはり賢い選択とは言えないと思う。
ただ、馬遵に関しては郭淮も悪い。同行していながら、彼に適切な指示を出さなかったのだから。
最近、中央と地方の税制に関して気になっているんだよね。
税に関して調べて出てくるのは、「一畝四升」だとか、「一戸に絹二匹と綿二斤」だとか、
国税に関するものだけで、地方行政が何処から税収を得ていたのかよく分からない。
通典を見ると、地方から中央への貢納に関して載ってたりするけど。
中央と地方を合わせた税体系について詳しく載ってる本とか無いかな?
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/27(土) 02:24:56
>>119 つ山田勝芳
ところでその内容が国税とどうして断言できるの?
>>120 調べてみた。thx。
だが、値が張るな。ちょっと買えん。図書館とか当たってみるけど。
国税かどうかは、晋書の「初税田、畝三升」とかは帝紀にあるし、
中国社会風俗史とか見ても国税として扱ってるからそう考えた。
だけど、曹操の「其収田租畝四升」ってのは、その後に、
「郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 」
とあるし、郡が徴税して郡行政に用い、中央政府は州郡からの貢納で予算を組むとかかもしれんね。
まぁ、今の所、自分にはよく分からん。
後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か
中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと
成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったのは初めてで、
221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を建国した理由を解明する上でも
重要な発見として注目される。同大で27日午後に報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221〜210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を置いたとの
記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。その結果、
今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、幅最大1メートルの
レンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの高さがあったと推定され、
日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために
積極的に入っていた可能性がある」と推測している。
(2007年10月27日14時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071027i506.htm?from=main5 だって。これどうよ
>>122 考古学的にどうなのかは知らないが、蜀で鉄が作られていたのは、三国志にも在るし、
特に何かが変わるって事もないように思える。
敢えて考えれば、発掘された炉から当時の製鉄量を見積もれるってのはあるかもしれない。
そもそも、その愛媛大の教授が思っているような、「劉備は追い込まれて蜀に来た」
という認識は変だしな。
諸葛亮と会った時から、蜀を根拠地にせんとする考えは劉備にあっただろうし、
劉璋に招かれての事とは言え、蜀を取るため自発的に入ったのに変わりはないし。
「劉備は追い込まれて蜀に来た」という論はあながち間違ってはいないけど、
「鉄を得る」という一斑の部分が「天府之国を切り取る」という全豹よりも
遥かにプライオリティが高いように書いている教授先生(あるいはそれを記事にしたアホ記者の)日本語はおかしいw
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/01(木) 01:10:46
このスレは後期縛りのために書き込みづらい
まぁ、後期以外の話なら別のスレですりゃ済むしな。
話してる中で少し脱線するくらいなら、誰も文句は言わないと思うけど。
そもそもJominian ◆Henri9gNlM 氏がいないならこの板自体に来ないのだが。
そりゃ光栄だけど、あんまり拘る必要はないんじゃない?
面白そうな話ができそうなスレなら、板に関わらず書き込んだり読んだりすればいいし。
自分はそうしてるけどね。
蜀では、魏や呉と違って中書というものが重視されていないね。
中書令など名前すら出てこないし。
これは、尚書一本で詔勅を管理してたって事かな?
良かれ悪しかれ、尚書の役人を信頼し、劉禅自身が中書を動かして親政するって気は無かったんだろうね。
それに関連してだけど、襄陽記では、諸葛亮の宗廟を立てるに際して、
中書郎の向充が上奏した事が書かれている。
向充は尚書であったはずだけど、この時は何故か左遷され、
実権も伴わなかったであろう中書郎になっている。
これは、向充が姜維に与していた事が理由であるような気がしてならない。
>>130 中書は前漢後半に廃止されている。
劉放、孫資が秘書となり中書と改名されて中書が復活したという経緯が示すように、漢から官制を受け継いだ魏でももともと存在しなかったし、蜀でも少なくとも当初は存在しなかっただろう。
尚書が皇帝の側近ではなくなっていく中で、側近として中書が復活しているから、皇帝が傀儡同然であらたな側近を必要としなかった蜀では中書は存在しなかったのではないのかな?
のちに設置されたにしろ、上記の理由があるから政治的に重要な位置は占めていなかったのかもしれないな。
後漢では中書は無かったんだっけ?
とすると、襄陽記の中書郎向充ってのは、誤記か、蜀も魏の制度を模倣したかだね。
秘書令は特に詔勅に関わってた様子は無いし、中書もあったとしても、やはり重要な職ではないだろうね。
たしか、この諸葛亮の宗廟に関する上奏は、歩兵校尉でありながら、
秘書を司り校閲していた習隆も一緒になってやってるから、
秘書も中書も、明確な線引きなんか無くて、政治の中枢からは外れてたのかもしれん。
でも、この諸葛亮の宗廟建立の上奏は、向充と習隆が中心で、
尚書の連中は深くは関わってなかったんだろうか?
姜維が成都を離れた後での、中書郎の向充による上奏。
何かしら意図がありそうな気はするなぁ。
無双5では姜維リストラか・・・
後期への望みが薄く・・・
無双の話で思い出して確認してみたが、
昔、このスレで後期伝を妄想してた頃作ったシナリオ案の作成日を見たら、2年以上も前だった。
内容も、北伐に関しては姜維北伐スレの頃の解釈で、今とは違ってたりしてる。
まぁ、本当に姜維がリストラされてたとしたら、陶璜やら王渾はおろか、
ケ艾や陳泰すら今後出てきそうも無いね。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/07(水) 06:29:30
132
なんらかの意図があるとすれば、蜀漢の求心力を保つためだろうね。
260年以降、功臣に諡号を追贈したり、滅亡の年に諸葛亮の霊廟造営したりと。
>>136 そういうのもあるだろうけど、自分が気になったのは、上奏の内容じゃなく、
秘書や中書の連中が、それも姜維の側近だった奴が上奏をして、
それが認められた、って事なんだよね。
成都を離れた姜維が、尚且つ国政に影響力を持つ為には、
反姜維に傾いていた当時の尚書上層部を介さずに、
詔勅を出す事が可能である必要がある。
その実験段階として、姜維の意向を受けた向充が、比較的反発がないであろう、
諸葛亮の宗廟建立を上奏した、とか、そんな事を考えていた。
まぁ、考え過ぎだろうし、この推測の蓋然性は高くないと思うけど。
それにしても、最新作で姜維のリストラがほぼ確定的という状態でも、
このスレは変わらんね。
不満を言う奴が多少なりとも来ると思ったが。
郤正の釈譏に目を通してみるといいと思われ
蜀の秘書の立ち居地が掴みやすいと思うよ
>>138 釈譏については、前スレでも少し話したね。
基本的には、秘書としての宮中の職務だけしかしない郤正を批判したものだけど、
あれから分かる秘書の職務は、詔勅の起草と皇帝の諮問への応対であって、
魏の中書や、中書が置かれるまでの秘書とそうは変わらないように思える。
違っているのは、それが秘書令郤正の意思によるものかはともかく、
魏ほど権力を握れる職ではなかったという事かな?
詔勅の起草や、それに対する皇帝の諮問への応対は、当然尚書もやってただろうしね。
歩兵校尉が秘書を扱い、秘書令を介さずに中書郎が上奏を行う。
秘書にも同じ事をする権限がありながら、実際に何か詔勅を上奏したような記述は無い。
釈譏に出てきた、郤正に文句を言った奴は、ひょっとすると秘書省の連中かもね。
郤正が控えめな上、黄皓に擦り寄ろうともしないもんだから、
秘書全体が力を握る位置から離れ、利益に与れないでいる、とかね。
思いつきだけど。
姜維は老母捨てのエピソードや壮絶な最期から呉起を思い出させる。
少なくとも無双のような優等生キャラは絶対に違う。
あと諸葛亮も仕官前はかなりひどい性格。てかニート。
隠者が賞賛を集める対象であったといわれる当時の中国社会において、
諸葛亮の態度は(プラスに成りこそすれ)マイナスなものではないはずでは?
つーかだからこそ龐統に並ぶ名声があり、それ故に劉備も膝を屈して自陣に招いたわけで、
そうじゃないと理屈に合わないと思う。
大方ちょっとしたおふざけで「孔明はニートw」とか言われてるのを見て真に受けたかなにかしちゃたんだろうけど、
ネットの誇大情報に変な影響を受けないようにな。
…2chで言っても説得力無いかw
142 :
141まんせーw:2007/11/08(木) 16:05:40
自分を管仲、楽毅になぞらえていたのに同輩たちに対しては学友たちは刺史、太守程度の器だろう、と嘲弄。
これは無用の確執を作る言葉であり、深謀遠慮があったとしても、
彼が軽蔑しているような馬鹿者たちには掴めない無駄な発言だ。
最初の問で韜晦の微笑で返せば角が立つこともない。
そもそも、その自信の根拠とは何か?
当時の諸葛亮は学問においても大筋を掴むだけで、学友らの得意分野で明らかに凌駕していた訳でもない。
荊州に流れ着いてからやったことと言えば、必死こいて閨閥を築くのみ。
それにしても曹操の南征時に機密を予知することさえ出来ない疎遠な関係である。
出廬以前に死んでたら単なる自信過剰の誇大妄想狂だろう。
仕官後の手堅い活躍や戒子書で伺える人柄からすれば別人格にしか思えん。
後に、かつての学友たちの出世を嘆いていたが、旧知である彼らからすれば、
諸葛亮の腰巾着にはなりたくないという何かがあったとしても不思議ではない。
>>142 別に刺史、太守にはなれるだろうというのは嘲弄でもなんでもないじゃん。
これが「刺史にもなれない」と言ったならともかく、一般的な人物評価の範疇。
貴方にかかれば龐統も「他人を駑馬や鈍牛扱いとは人格破綻者だ!」となりそうな勢いですな。
そもそもが大望を抱き、ひたすら字面を追うのではなくその大略に注目したってエピソードに過ぎないし、
実際問題彼が将来成功を掴んでるわけで、こういったやり方が間違ってなかったという主旨の文と読むのが普通。
まぁあの辺りの文章は成功後から逆算した魏略の後付な気もしないではないが…
『必死こいて閨閥を築くのみ』だの、『機密を予知することさえ出来ない疎遠な関係である』だのは、
その根拠と理論を詳しく聞いてみたいものだね。
派閥論者は陰謀史観と同じですから、相手にするだけ無駄
ニートというよりは生活できるだけの財力やらやろうと思えば働き口やらもある、いわゆる高等ムーミンというやつだろ
必死こいて就活してたら相手が諸葛亮でなくても笑われて当然の時代だよ。
>>143 >別に刺史、太守にはなれるだろうというのは嘲弄でもなんでもないじゃん。
>これが「刺史にもなれない」と言ったならともかく、一般的な人物評価の範疇。
刺史太守というのは相当な地位な訳だ。
諸葛亮の自己評価を含まないならば、勿論そうだろうよ。
>そもそもが大望を抱き〜魏略の後付
後付けかどうかは分からないが結果論だろう。
またそういう人間が瑣末な仕事までやって過労で死んだが、本当に同じ人間なのだろうか。
また、なぜ学問だけにそのような「大望と大略」が発揮されるのか?
その根拠と理論を詳しく聞いてみたいものだね。
>>147 諸葛亮は3人の評価をした時、お前はどうなんだと聞かれて笑って答えなかった。
この時は貴方の言うように自己評価を含んでいないね。
さらに仰るとおり刺史というのは相当な地位だし、
さらに少なくとも三者の内、徐庶は御史中丞で終わるようなこともないと思っていたことも判ってる。
何故学問だけに〜ってのは、単に暗記だけしても理解に繋がっていないと意味がない、
というようなことは古来から現代に至るまで一貫して言われていることじゃないか。
「字を読みて義を解さざる」ようじゃ儒学の根本精神に反すること著しいし、
兵法を単に知っているものと理解してるものの差が背水の陣の差だ。
彼らが若い頃に学んでいたものと、諸葛亮が後年実践していたものがどちらの文脈に位置するものかも判らず、
「自分の読み方だと同じ人物とは思えない」と判っているのに何故か自分の読み方を信じて疑わないような人間には、
十分に学ぶべきところのある考えだと思います。
「字を読みて義を解さざる」輩だろうと一分の名声があればもはや大事な頭数だ。
生きてる人間に対して無意味に揶揄して徒に敵愾心を駆り立てる必要は無い。
彼らが幽霊だとでも仰るつもりだろうか?
改めることが出来ない程度の知ならば、それをひけらかすことも無かろう。
馬鹿は馬鹿のまま使えばよい。
また徐庶の才知がどれほどのものだろうと
功績が譜代の連中に及ばなければ御史中丞どまりだ。
そもそも御史中丞は十分な重任で、それより上は閣僚クラス。
ろくな土産もなしに降った弐臣にしては出世しすぎである。
瘴毒ばかり吐き出してないで、もう少し新鮮で面白いことも言ってもらおうかな。
もっとも私の蒙を啓くほどの発見は貴方の人生の何処にも無いとお見受けする。
あげ
諸葛亮は志望の大きさの割に徳が薄かったので過労死せざるをえなかったでFA。
多分
>>148>>149のような人当たりの最悪な人間だったに違いない。
おまえらどっちもイラネ。
>諸葛亮は志望の大きさの割に徳が薄かったので過労死せざるをえなかったでFA。
「鞠躬尽瘁、死而後巳」の人間だからそれは違う。
>彼らが若い頃に学んでいたものと、諸葛亮が後年実践していたものがどちらの文脈に位置するものかも判らず、
>「自分の読み方だと同じ人物とは思えない」と判っているのに何故か自分の読み方を信じて疑わないような人間には、
>十分に学ぶべきところのある考えだと思います。
孔明は中国人の政治家としては異端に分類される。
「貧しくて道を楽しみ、富みて礼を好む」とあるように儒家にとっては清貧は恥でも誇りでもない。
しみったれたケチな人間がどれほどの大義を述べようが天下の人心を得るものだろうか。
諸葛亮が義を知っていようがそれを実現できなければ何の意味も無い。
個人的には三国志時代の秘書・中書は皇帝個人に属し、
尚書は朝廷内にある組織という住み分けがあるように見えるね
>>139 歩兵校尉が秘書の仕事もやってたと言うのは不思議ではないけどね
諸葛亮時代から蜀の官吏は複数の役職を掛け持ちしてたからその延
長だと思う
歩兵校尉は宿営兵を掌るもので、秘書は皇帝に属する文書管理、ブ
レーンであったことを考えるとこれは寧ろ劉禅親政の傍証に見える
裴注魏略でショウエン没後は劉禅が自ら政治を視ることになったとあるが
劉禅が親政を志向していたのは確かなことなんだろう
ふうむ。
劉禅が陳祗及びその流れを重用することによって姜維などの軍部とのバランスを取っていたということはありえるのかな?
>>154 陳祗と姜維は敵対していた訳じゃないと思う。寧ろ協調関係?
そう考えないと「仇国論」の口撃先が陳祗であることの背景が
分からなくなる
あと陳祗は蜀の人脈中ではどっちかというと毒男、スタンドア
ローンで「その流れ」なんてものはないと思うよ
そうでないと一国の宰領者が権力の中枢の一つである尚書令を
他人に預けたまま帝都を離れ続けられるのは難しい
>>155 そうかあ。
陳祗を重用することによって姜維独裁の流れに楔を打ち皇帝権強化を図ったなんてこともあったのかなあと
>>153の終わり2行を見て思ったもので。
陳祗の流れと言ったのは単に劉禅が肩入れした側と言う意味で使った。
お気に入りの陳祗没後に黄皓が権勢を広げたのは、これも単にお気に入りというだけでなく朝廷に対して皇帝権の拡大を図ろうとした劉禅の意図があったとみるのは的外れなのかねえ?
>>153 歩兵校尉が秘書を扱った事そのものには、それほど疑問は無いんですよ。
上奏のタイミングと、秘書令や中書令の名すら見えない所と、
中心になったのが姜維の側近で、かつて尚書に入っていた人物だってのを合わせると、
諸葛瞻や董厥、樊建に遮られるであろう尚書経由の詔勅に代わって、
中書を経由した上奏を行う事で、国政に口出しする為の布石を、姜維が打ったのだろうか、と考えておるのです。
>>156 陳祗の重用が姜維に対する牽制だった、とは考えにくいと思うよ。
陳祗は実質的な権力が姜維以上だったにもかかわらず、後任と違って、
反姜維の動きを全く見せていない。
また、陳祗存命中は、姜維は成都の事を気に掛ける様子も無く、正月に帰るだけだった。
仇国論の事もあるし、陳祗自身は姜維支持派だったと見る方が自然だと思う。
この事は、自分はブログでも何度も言ってるね。
陳祗が敢えて録尚書事に昇らず、尚書令に留まっていたのも、
尚書台を姜維-陳祗のラインに限定させる事で、反姜維の意見を封殺する為だったとも取れる。
黄皓に関しては分からないね。
少なくとも黄皓は、陳祗と違って反姜維勢力だったのは確かだろうけど。
>>157 ふむふむ。
ただ董允伝に載ってる陳祗の記述なんか見ると姜維以上の実権は握ってたように思えるんだけどね。
もっとも陳祗自身はなんか誰にでも良い顔をして敵を作らない才子って感じはするねw
譙周との論戦も単に軍部と対立することまで考えてなかったことから生じてしまったような気がする。
>>156 皇帝が自己の権力の強化を図ろうとするのは自分が袋小路にいると認識し
それを打開したいと考えて行動することが大前提なんだが劉禅は別に部下
から追い込みを掛けられていた訳じゃないからそういう意識は薄かったと
思うんだよね
黄皓が権勢を広げたのは陳祗没後の朝廷内の権力とその維持管理を姜維が
しくじったためだと思う。なんていうか輿望を集め人心を収攬しつつ上手
く政治を執り行い、国力を回復させて外征に耐えるだけの権力基盤を築き
あげてから外征へもってゆくというのを怠ったというか、途中まで頑張っ
てたのにいきなり投げたというか。
陳祗没後は姜維に何かと手厳しかった楊戯など簡単に失職させられるほど
姜維の権力というか姜維が権力を握ることへの期待感というか姜維を最高
権力者へ押し上げようという周囲の動きが強かったのに、その数年後には
あんな感じになってしまってさ。
肩入れということなら劉禅は姜維にも肩入れしてるんだけどそういうのを
上手く使えてない感じがするね、姜維は
>>159 個人的に、楊戯の免官は陳祗生前の事だと考えてます。
国境の配備に関してあれこれしたのと同様に。
楊戯伝を見る限り、彼が北伐に従軍したのは257年が初めてのように考えられ、
成都への帰還後すぐに免官されたように書かれてます。
また、仇国論が著されたのが258年なので、陳祗、譙周両者の議論があった事を考えると、
陳祗が死んだのは、この年の後半だったのではないかと。
なので、姜維を押し上げようと言う動きは、あったとしても、
陳祗が、死ぬ間際の置き土産のような形で始めたように思えます。
>>158 軍部と対立する事まで考えてなかった、ってのは陳祗がって事?
>>160 > 軍部と対立する事まで考えてなかった、ってのは陳祗がって事?
そう。
劉禅にいい顔をして朝廷で実権を握り、茶々を入れてこられないように姜維にも言い顔をした。
ちょっと悪意のある言い方かもしれないけど、自分の権勢を脅かしかねないものにはいい顔をして実を手に入れる。
こんな処世論の持ち主だったのではないかな?という感想。
>>159 レスが前後してしまったが
> 皇帝が自己の権力の強化を図ろうとするのは自分が袋小路にいると認識し
> それを打開したいと考えて行動することが大前提
これまで董允に頭を押さえられていた分の反動という程度の意味での皇帝権強化ね。
まあ劉禅がそういう意図を持って陳祗や黄皓のバックアップを行っていたということはこれまでのレスを見る限り可能性が低そうなのでどうでもいいけどw
陳祗はいい気になった劉禅を董允のように押さえ込もうとせず、ハイハイってな感じで聞いた振りして流すことによって劉禅を満足させていた。
同時に姜維にも意に沿う事によって無力化した。
一方、黄皓は劉禅に積極的に取り入って己の権勢を強める一方、姜維と積極的に対立した。
仮に陳祗と黄皓は同じある種の佞臣だとしても、色は全く違う感じだねえ。
>>161 そうとも取れるとは思う。
けれども、陳祗の死後、反北伐勢力の台頭と、それに伴う反姜維運動の活発化が起こった事を考えると、
劉禅と姜維と言う、上二人には諂って意に沿ったとしても、
反北伐、反姜維勢力を押さえつける事で、自身の権力に対する潜在的な脅威を高めてしまっていると思う。
陳祗の存命中でさえ、譙周が彼に異を唱えに来ているのだし、
姜維に阿る事で、むしろ敵が増えているように思えるんだよね。
それならばいっそ、自身の強大な権力を背景に、姜維の更迭と、
朝廷の多数派に沿うような人物と姜維との交代を行った方が、
最終的には権力基盤が安定するように思える。
下を押さえつけ、上に阿るというのは、崩壊を先送りしているだけなのでは?
>>161 しかし甘陵王の皇弟劉永に冷や飯を食わせた黒幕は陳祗だぜ?
黄皓って記述されてるけど時系列追うと黄皓が頭の上がらない
陳祗の頃のことだし
こういうのを見て現政権の反対勢力は簡単に潰されないように
太子の下に逃げてゆく。太子舎人とか洗馬とかね
蜀書の学者連中の伝を見るとそんな流れが見えてくるよ
太子の所に行ったって言うと、譙周や李密、羅憲や李譔とかか。
霍弋なんかもそうかな。
>>164 大した事ではないんですが、中途半端に隠さず、堂々と名乗っても良いのではないかと。
皇太子の下に次期主力であったり、逆に現政権下での非主流派であったりする者たちが集まるってのはよくある話
で、現政権担当との確執が生まれて悲惨な結果を招くんだよね
>>165 専ブラの人には丸分かりなのかも知れんけど
話してる内に「ん?」「んん?」となって蘭見て
「ま た お 前 か」となる感じが好きなのさ
>163
>下を押さえつけ、上に阿るというのは、崩壊を先送りしているだけなのでは?
陳祇のやったことってまさにそうなんじゃないか?
>>167 そんなもんでしょうかねぇ。
自分は、今までの自分の主張が簡単に分かってもらった方が話が進めやすいんで、
コテ付けてますけど。
と言っても、このスレ以外では名無しだったりしますが。
>>168 結果的にはそうなんだけども、ただ己の権力の維持のみを考えているのなら、
権力基盤を磐石にする方向に動くんじゃないのかな、と自分は考えるんだよね。
あのタイミングで死んだからこそ、彼の生前に崩壊に到る事はなかったけれども、
あの状態で更に長期間続けば、或いは不満が噴出して、危険な状態になった可能性もあったと思う。
少なくとも、そういった方針では、自分が政治力を発揮できる内はともかく、
息子や一族などに権力に与る道を開かせるのが困難になると思う。
だから、姜維と協力したのは、権力維持以外の考えもあったんじゃないかと思うんだよね。
と言うか、そう考えないと、陳祗が権力欲だけのつまらない人間になってしまうかな、と。
陳祗と姜維を盟友としておいた方が、話としては面白いと思ってるんで。
どっちにしたって、蓋然性が多少違うだけで、どちらかを否定し得るほどの事ではないと思うしね。
陳祗がショウ周に「仇国論」書かせて姜維の北伐を牽制したってのは、
むじんが勝手に言ってるだけなのに、某所とかで通説みたいに語られてて頭抱えた。
ただ「仇国論」の高賢卿ってのが陳祗を指してるのは明らかなんで、
ショウ周ほどの賢者が陳祗を真っ向から侮辱するのはありうるのか、ってのは疑問としてある。
>>171 確かに龐宏の事を考えると、陳祗に真っ向から反対するのは、
賢者のやる事じゃなさそうですね。
それだけ国内が北伐に倦み、それに反対する譙周を無碍に扱えなくなっていた、とかでしょうか?
或いは、仇国論が著された事は記述されていても、それを上奏した事は書かれてませんので、
内々にしておく事で事なきを得た、とか。
それにしても、むじんさんとニセクロさんの両方が来るとは思ってなかったな。
>170
自分は北伐推進は劉禅自身の意思で
陳祗はその意向にそって動いていたと見てるんで
ただの権力欲ともおもわないけどね
もし彼が積極的に姜維に協力していたなら
史書にそう書けばいいわけで
皇帝に従い官がんと繋がったとだけ書く必要ないんじゃないかな、と。
あと、諸葛亮死後の歴代尚書令の中で彼だけ諸葛亮の流れを汲んでないんで
劉禅の親政が一番やりやすかったんじゃないかとも思うしね。
>>172 たぶん前提としてショウ周の人物イメージが違ってるんだと思う。
権力者にも歯に衣着せぬ硬骨漢と見るか、声なき大衆の支持を背景に負う政治家と見るか。
自分は学問一途で政治に全く関心がなく余計な波風を避けたい人だったと思ってるのね。
「仇国論」も政治的であることは避けられないけど、ああいうのは学者の決まり文句ですしね。
ここへの書き込みは以前にも匿名でしてるけど今回は自分自身に言及したかったんで。
北伐イケイケ派=姜維、いまいち真意はつかめないが北伐には特に掣肘を加えない派=陳祗、北伐反対派=譙周。
大雑把な認識だとこんなもんかな?
ただ譙周の弟子である陳寿は、何となくであるけど、
・陳祗には悪感情を持ってる
・姜維にはさほど悪感情は持ってない感じがする。
・反姜維派である諸葛瞻らには諸葛亮のことがあるので遠慮しつつも悪感情がある
って感じがする。
単純に北伐という政策に対する是非だけでは判断できない人間模様が何となく読み取れたら面白そう。
>>173 その辺は、人物の捉え方の違いだろうね。
自分には、劉禅が北伐にそれほど積極的だったようにも思えないので、
陳祗がその意向に沿うにしても、下を押さえつけてまでやらないだろうと思っているので。
姜維と陳祗を盟友とする考えは、話として面白いと言っているだけで、
その解釈が正しいなんて言ってないし、思ってもいないから、
史料を読んでいく中で、自分にしっくり来る解釈が取れればそれで良いと思う。
よほどその蓋然性に違いが無い限りは、どちらが正しいかどうかを争う必要もないと思うからね。
>>174 譙周も分かりませんねぇ。
劉禅の贅沢を度々諌めている辺り、気骨が無いとは言えないと思いますが、
硬骨漢であったと言えるほどのものはありませんしね。
仇国論では、高賢卿の方が伏愚子に質問する形になっているので、
段谷での敗北を受けて、陳祗が知識人である譙周を呼んで、
北伐を成功させる策を聞いてみたら、逆に北伐に反対されてしまった、とか、
そんな感じなのかもしれません。
譙周の方でも、積極的に陳祗に意見する気は無かったけれども、
呼ばれて質問されたので、自分の意見を答えた、と。
>>175 基本的にはそんな感じだね。陳祗のスタンスは、読み手によってどうとでも取れると思う。
陳祗の印象に関しては、宦官と繋がったかどうかってのが大きいのかもしれない。
姜維は空気読まずに北伐しまくった感があるけど、その人格や態度自体は、
郤正に賞賛されているように評価するに値するものだったから、
陳祗もなんとなく姜維に好意的だったとしてもおかしくはないしね。
>>176 軍部の支持があれば政権維持はたやすい。
ただその軍部が国防の用に堪えないような弱体化をするようでは組んでる意味がない。
元々費禕の与党であったことを考えると陳祗は単なる功利主義者のような。
彼が長命を保ったなら黄皓や諸葛瞻以上の豪腕で姜維は排除されてただろうか?
>>177 功利主義者って言うと、所謂、「最大多数の最大幸福」ってのかい?
それとも利己主義のこと?
軍部の支持を得れば政権維持は容易い、と言うが、それが姜維支持とイコールにはならんと思う。
姜維とて、比較的下級の将兵たちから絶大な信頼を得ていたのは、降伏の時の逸話で察する事ができるが、
張翼など、北伐や姜維に反対する勢力もいただろうし、軍は決して一枚岩じゃないと思うんだよね。
そもそも、規模は違えど、漢中以外に、成都や巴東、南中にも軍はあって、
それを指揮する将軍たちもいたわけだし、姜維=軍ではないわけだからね。
姜維の掌握している軍だけで政権が維持できるなら、姜維が身の危険を感じるような状態にはならんだろうし。
それに軍によって政権を維持しようとするならば、朝廷を威圧する為の軍を、
絶えず成都に駐屯させておかなければならないと思う。
外征の為の軍の抽出に苦慮していたであろう姜維が、そういう非効率な事をするかな、と疑問に思う。
姜維自身は、自己の地位を維持する為に軍の圧力を利用するなんて事はしてないしね。
仮に陳祗が政権維持の為に姜維を利用していたとするならば、
姜維を支持する事が自己の政権安定に繋がらなくなった時点で排除するだろうね。
ただ、朝廷における姜維の支持が急落するのは段谷で敗れてからだろうけど、
それでもなお、陳祗は姜維排除に動いていなかったから、
排除する気が無かったか、あの時点ではまだ使えると思っていたかだろうね。
亀だが思い付いちゃったからいっとけ。
>>96 閻宇の軍は成都に入っていない。
閻宇の軍が成都への途上にあるのに、それを頼る案が出ていない。
ならば答えはひとつ!
閻宇の軍は成都へ向かう途上で統制がとれなくなり四散したが、
あまりに情けない話なので黒歴史とされた。
対呉の備えの大半が西へ向かうんじゃ、
兵卒にも蜀滅亡まぎわ?ってバレそうだし。
難は他の軍がしっかりしていることか。
諸葛瞻の軍はちょっとアヤシイが。
うーん。
閻宇の去った後、羅憲が国家の滅亡を知りながらなお抵抗を続け、
姜維の率いていた軍も降伏後でさえ高い戦意を保っていた事を考えると、
ちょっと難しい話だね。
閻宇は統率力が無かった、とすればいいのかもしれないが、
それでは閻宇があまりにもかわいそうだ。
考えるに、江州という場所がいけないのかもしれないね。
江州ならば、成都から水を下り迅速に到達できるけれど、
それは成都に迫るケ艾にしても同じ事だし、万一剣閣が突破された場合、
魏軍が涪より到る事もまた迅速に行う事ができる。
ケ艾にとっての勝利は成都の制圧ではなく、蜀の朝廷の戦意を挫く事。
であるならば、ケ艾の鋭鋒を長期間避け、且つその連絡線に絶えず圧迫を加えられるような位置、
すなわち南中に逃げる事こそが、降伏以外では最良であったのかもしれない。
東方に閻宇がいるという事は、南に逃げた劉禅を追撃するケ艾は、
側面よりその圧力を受ける事になるのだから、撤退が成功する公算も高いし、
ともすれば閻宇がケ艾を撃破する可能性もある。
また、劉禅が戦力を伴って後退したならば、閻宇の動きによっては逆襲によって、
迅速なケ艾の撃破も為しえたかもしれない。
羅憲は凄いですね。
魏の救援を期待しつつ、呉を防ぐのは上策だと思うけど。
魏の厚遇を期待できる利を説き、呉憎しの感情を煽って下をまとめられれば。
力及ばず下の逃散を止められなかったとしたら、自分も姿をくらますが中策。
呉に降るのは下策だろう。
姜維の将領は流石にたいしたものだったというところかな。
当然最精鋭を集めており、前線の緊張があったこともプラスに働いたかもしれない。
閻宇。
仮に軍が崩壊したとしたら、死地にないことが災いしたか。
兵は好きなところへ逃げられる。
せめて以降の事績があれば推察の助けになるけどなんにもないしなぁ…
ケ艾に対して戦略包囲を見るのは面白いですね。
なるほど、そうか…
それが成功しないにしても、
蜀南半をもってゲリラ戦、鐘会・ケ艾の思惑も絡みプチ三国志とか楽しそう。
魏中央、呉はどう動く?
どの道、蜀は敗北したと思うよ。
姜維が剣閣を離れたのは、諸葛瞻敗死の報が入った時、
成都はケ艾の平地への侵入があった時点で対応を協議し、
譙周の強い主張で結局降伏に到ったが、
姜維が何も知らされていなかった事を考えると、
結論が出たのは諸葛瞻が敗れた前後の事だろう。
つまり、どんな決定が下されようと、既に剣閣は抜かれ、
10万以上もの軍勢に姜維が包囲される態勢にある事に変わりはない。
閻宇が姜維を援護するべく動けば、劉禅の撤退は叶わないだろうし、
閻宇がケ艾に対処すべく動けば、如何に姜維を以ってしても、
鍾会や胡烈らを撃ち破る事は不可能に近い。
固守するか、南方に逃げるかするならば、ケ艾侵入を知った直後には決断し、
姜維に対しても成都の意思を示さなければならない。
併せて、諸葛瞻を派遣した事、閻宇が東方より来ている事も、姜維に伝えねばならない。
あの時点でまともな軍事戦略を立案できそうなのは姜維しかいないのだから、
彼が戦略状況の全般を知っている事が、敗北を防ぐ最大の要素になると思う。
このスレって昔「姜維北伐スレ」にいた人が出入りしてる気がする。
ところで無双5は姜維削除・後期丸無視になった訳だけど
住人はどう考えてるのかな?
今更、無双とかやる気もおきないのでどうでもいいが正解
それこそ三国なのか晋なのかという後期武将もっさりでもないと
削除が分かってりゃ買わなかったんだけど、公式予約組だったからね。
削除が判明した時には支払い済ませてたし。
削除があるとしても、まさか姜維はないだろう、と思ってたから。
ただ、今回はシナリオがあまりにも酷いので、でなくて正解だったのかもしれんね。
毎回やってたエディット陸坑も作れないしがっかりです。
でも今回初めて司馬懿がクーデターをやってくれたので
次回に少しでも後期に繋がれば…と思ってる
ありゃあどうなんだろうね。
個人的には、司馬懿が曹操に反旗を翻すとは思えないけどね。
陸遜の電波シナリオよりはマシだけど。
話は変わるが、十万と号する敵軍を、僅か一旅を以って撃退した王渾は、
結果だけ見れば張遼とかにも引けを取らない武勇だと思うんだよね。
王渾は先鋒を奇襲によって撃ち破る事で全軍の撤退を促したので、
未完成の包囲陣地に突撃して戦意を挫いた張遼とは、その内容が違うけどね。
何にせよ、僅か500で、恐らく数千いたであろう先鋒を奇襲・撃破したんだから、
武勇の面でも評価されてしかるべきだと思う。
正直、三國志11の武力76ってのはちょっと低いように思えるね。
コーエーの、この辺の人物の評価が低いのは、今に始まった事じゃないけど。
ただまぁ、コーエーに限らず、一般的にもあまり評価されてなさそうではある。
こういうのは、満寵にも当てはまるね。
満寵の場合、数十人とは言え、内容は火計と射撃、
王渾の場合、詳しい内容は書かれていない。
だから、「数十人を斬った」とか、色々具体的に書かれている張遼には及ばないんだろう。
王渾にしろ満寵にしろ、武勇の士として描くのは良いと思うんだけどね。
陸家の復興を切に願い、一時の栄光を得るものの
たった三代
で処刑断絶する超鬱ストーリーキボンヌ。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/25(日) 17:31:22
劉ショウが鄭度が提案した清野の計を採用してたらどうなったろうか。
>>190 些かスレ違いな気もするが、考えてみると、
多分あれは、実行不可能なものだったと思うよ。
劉備が反転を行ったのは、孫権から曹操が濡須に来た事を告げられ、
更に劉璋からその件で兵と物資を受け取った後だから、早くとも212年の末だろう。
そして、1年間包囲した雒城を落としたのが214年夏なので、この城を包囲し始めたのが、
213年の夏頃という事になる。
とするならば、遅くとも半年もかからずに雒城に到達しているわけで、
その間に梓潼と巴西の民を全て移動させ、更に穀物を焼き払うなどという事ができるとは思えない。
劉備は当初、黄忠と卓膺を先発させつつ、自身は関中?に入ってから合流している。
彼らの合流が涪の近傍であると考えれば、黄忠と卓膺はかなり早い段階で梓潼まで前進している事となる。
まぁ、巴西の方は移動できるかもしれないが、それも、張飛らが早々に益州入りした事を考えれば、難しいだろうね。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/26(月) 19:23:31
まぁ、住民の移動はともかく、蓄積物資の焼却、水源を潰す程度は出来たかもしれんよ。
とは言え、それされてたら兵站に大いに不安がある劉備軍も相当な困難に在ったかもしれないが。
でも上記くらいを実行したとしても、住民に大迷惑をかける訳で、劉備軍を撃退したとしても、劉璋自身の益州統治を放棄するようなもんだな。
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/26(月) 19:31:18
そのまま曹操に降伏して忠臣として称えられるんじゃないか。
ちょっと質問。姜維っていつまで録尚書事だったんですかね?
最後までそうだったのか、それともどこかで取られたのかがいまいちわからなかったので。
交代したとは書いてないからずっと姜維だったってことなのかな。
>>194 最後まで録尚書事と見るのが妥当。
なので諸葛瞻と董厥は平尚書事としてやってた。
>>195 やっぱりそうだよな。ありがとう。後将軍に降格された時とかにも録尚書事だったのかと
ふと気になったんだ。
張松やホウ統の進言に従って宴会で劉ショウを捕らえていたらどうなってたでしょうか?
>>197 劉備の益州支配は早まるが反乱や陰謀が史実よりも頻発しただろうと思う
涪において劉璋を捕縛するってのは、まぁ、賭けだろうね。
劉璋と会見した段階では、劉備の兵は数万とは言え三万に満たず、
劉璋の方は、楊懐ら白水の軍に加え、史実で劉備の迎撃に当たった李厳や冷苞らの軍、
雒に籠もった劉循の軍や、葭萌を攻撃した向存らの軍1万、更に成都にも3万があった。
劉璋を捕縛する事で全軍が瓦解してくれればいいが、そうでないのならば、
張飛らの入蜀準備も整ってないだろうし、敵地で大軍に包囲されるような状況で孤立する事になる。
人心の収攬だってできてないしね。
重大な事だからと劉備がこの策を容れなかったのも、間違った判断ではない、と言うか、
確実に蜀を取るつもりなら容れなくて正解だと思うね。
あげ
劉璋はもともと東州兵を擁して益州豪族を弾圧していたから、
劉備が彼らに解放軍と見なされるかどうかがポイントだよね。
しかし本当に劉璋を拘束していたら豪族連中もかえって不信感を募らせた可能性は高い。
主を裏切るような客は、主に仰ぐのも危険だというわけで。
それはさておき、俺は孔明らが巴東の関所をどうやって突破したのかが疑問だ。
内地の戦いに対応するため守備兵が関所を開放して戦地に赴いていたんだろうか。
>>201 張松と龐統の進言も、当然何らかの根拠があったんだろうけど、
仰るとおり劉璋もよそ者だし、仮に劉璋に統率力が欠如していたとしても、
最悪、劉璋を捕らえても、各地で軍を保持している勢力は、
劉備にもなびかず益州全体が内乱のような状態に陥る可能性もあったと思うんだよね。
趙韙の件もあるし、劉璋は龐羲ともしっくりいってなかったしね。
張松にしてみれば、裏切りの秘密を抱えたまま劉璋に近侍していなければならないわけで、
彼が劉璋を捕らえろと進言したのには、実際、焦りのようなものもあったかもしれんね。
巴東の関所と言うと扞関の事?
実際に抵抗を受けた様子もないし、法正が「魚復も開け放たれている」と述べているし、
多分、ろくな防備は為されてなかったろうね。
これは恐らくだけど、劉璋らは諸葛亮らの入蜀を想定してなかったんじゃないかな?
だから、巴東で防御する用意をしてなかったと。
兵戸とか、屯田兵って、他の戸籍と一緒に数えられてたのかな
蜀の28万戸で、10万の兵士とか無理があるよね
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/10(月) 04:14:18
age
前から疑問だったんですが、
なぜ成都防衛の最終決戦に挑むに当たって出向いたのが、
あのメンバー(諸葛瞻ほか実戦向きとはいえない面々)だったんでしょ?
単純に当時の蜀軍における主力が剣閣周辺に集中していたこともあり、
その時点でまともな指揮官クラスが成都にいなかったという理由だったんですかね?
実戦指揮官はいないし、動揺する兵をまとめるには孔明の息子という虚声が必要なんでしょ
呉の陶濬が王濬艦隊の迎撃に出たとき、戦う前に兵は四散しました
>>203 そもそも、28万戸で94万口って事は、1戸当たり3人強って少なさだから、
戸数や口数、兵数なんかを単純には考えられないだろうね。
こればっかりは、少なくとも自分の読んだ史料には無いから分からんね。
ただ、華陽国志なんかを読むと、益州、特に広漢郡の辺りの収量はものすごいから、
3戸に1人の兵役でも、ある程度何とかなったのかもしれんね。
>>205 諸葛瞻の率いたのは、恐らくは虎の子の近衛兵だと思う。
当時の諸葛瞻は衛将軍・平尚書事だから、最後の決戦を指揮する事になっても、
官職などから言えばおかしくはないし、
>>206の言うように、
諸葛亮の嫡子であるという名声もある。
正直、北伐に従軍した面子以外では、ライ降都督くらいしかまともな実戦を経験して無いだろうから、
候補の内で最も勝利の可能性があったのが諸葛瞻だったのかもしれんよ。
208 :
205:2007/12/11(火) 09:49:13
>>206-207 なるほど。
呉とは同盟関係にある以上、対魏戦線のほかというと、
南方対策か内乱鎮圧くらいしか実戦はないですものね。
閻宇が間に合っていれば閻宇だったかもしれませんが。
諸葛瞻率いる軍が自壊しなかったのは彼の名声に負うところも大きかったのかもしれませんね。
それにしても、御曹司にとって初めて大軍を率いるのが名将・ケ艾相手というのは、
やはり死を覚悟しての出陣だったんでしょうかね。
>>205>>207 成都から綿竹に赴いた面々の中に近衛兵を統轄する羽林右部督の李球がいるね。
それ以前に廖化、張翼、董厥を派遣しているから、おそらくこの時点で成都には
野戦軍としてまともに機能する戦力は無くなってたんじゃないかな。
そのせいで羽林なんていう近衛兵までが動員されたってことだと思うわけで。
瞻が羽林中郎将やってたよね
そのときまで兼任というのはないか
ケ艾が来たときに、実際どう判断したとかはどこにもないんだよね?
ショウ周の対応はあるけど
ショウ周伝読む限りじゃトウ艾が現れたときの対策会議で
議題に上がってるのが南方逃亡か呉亡命しかないあたり
諸葛瞻軍がまともな戦力として把握されていたようには思えないんだよね
劉禅が最終決定を下すまでの時間稼ぎでしかなかったんじゃないかなぁ
ぐだぐだの会議の結果、諸葛瞻が時間稼ぎに選ばれたというのを希望
本人もまじで?という感じで
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/13(木) 06:44:24
>210
衛将軍だからな。形式的には羽林を含む近衛兵を指揮するには適任でしょ。
>211
諸葛瞻軍が破れた結果、対策会議が開かれたんじゃなかったっけ?
対策会議がいつ開かれたか、ってのは難しいね。
譙周伝の該当箇所では、まずケ艾が江油を突破して長駆前進した事が書かれ、
その後に、ケ艾が既に陰平に入ったのを聞き、人々が山野に逃げ始めた事が書かれてる。
劉禅が群臣を招集した記述はその後の事だから、恐らくは江油が抜かれてからの事なんだろうけど、
「陰平に入ったのを聞き」という記述の扱いがよく分からん。
華陽国志だと「平地に入ったのを聞き」だから自然なんだけどね。
黄崇伝によれば、諸葛瞻はケ艾が平地に侵入する前に涪に着いている。
地図で見ると、成都から涪までと、江油から涪までは殆ど距離は変わらない。
直線距離だと江油の方が近いけど。
いずれにせよ、江油陥落の報が成都に届いてから諸葛瞻を派遣したとすると、
史実の状況に間に合うか否かはぎりぎりくらいだと思う。
「諸葛瞻が強行軍で、涪に着いた時は軍勢の集結が十分じゃなかったから前進を躊躇した」
ってのは前に述べたけど、もしかすると、諸葛瞻の派遣が決定された時は、
「諸葛瞻は間に合わない」って成都で認識されていたのかもしれない。
ただ、早期に降伏を決めたにしては姜維への報告が遅れているので、
会議がぐだぐだ続き、結論の出ないまま諸葛瞻をとりあえず派遣し、
最終的に降伏が決まったのはケ艾が雒城に入ってから、って感じかもね。
譙周伝でも、「ケ艾は既に近い位置にいるので降伏を受け入れない」という意見があったと言うし。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 06:23:32
諸葛瞻は行都護も兼ねてるよね。
だから、張翼等が派遣された際に後詰めと言うか、後備のよな感じで涪に派遣されたのではないかな?
姜維、張翼等の後方支援的な立場で。
涪は劉備の入蜀時やショウエン時代も軍事上の要地でしたから。
>>214 > いずれにせよ、江油陥落の報が成都に届いてから諸葛瞻を派遣したとすると、
> 史実の状況に間に合うか否かはぎりぎりくらいだと思う。
ケ艾伝だと「先登至江由、蜀守将馬毣降。蜀衛将軍諸葛瞻自鄜還竹、列陳待艾」。
つまり江由が落ちたので諸葛瞻は鄜から緜竹に軍を下げたわけで、諸葛瞻を派遣したのは江由が落ちたというのを聞いて朝廷がパニックに陥るよりずっと前だと思うよ。
あ、「鄜」じゃなくて「涪」だわ。
「毣」も「邈」だし……
この件はよく分からんのよね。
黄崇の伝だと、涪への到達はケ艾を防ぐ為に前進した後の事となっているし、
譙周伝だと、そもそも成都がケ艾の侵入を知ったのが江油の落ちた後であるかのように書かれている。
諸葛瞻の伝だと、彼の派遣した(であろう)先鋒が敗れた為に緜竹に退いたとあり、
ケ艾伝だとケ艾が江油を抜いた後、涪にいた諸葛瞻が緜竹に退いた事が書かれている。
ただ、ケ艾伝でも、江油を突破する前から諸葛瞻が涪にいたとは必ずしも言えないし、
黄崇伝でも、涪に到ったという記述の直前の、「随衛将軍諸葛瞻拒ケ艾」との関係も、
どこまでなのかは断言できない。
種々の記述を合わせて合理的に解釈するならば、もとより諸葛瞻は成都におらず、
剣閣で防御する姜維らの後詰として雒辺りに入っていたが、
ケ艾の陰平侵入を察知して涪まで前進し、逡巡しつつも先鋒を派遣したが敗れ、
緜竹まで後退すると共にケ艾の平地侵入を成都に報告した、と考えるのが良いのかもしれない。
>>219 > 涪への到達はケ艾を防ぐ為に前進した後の事
「隨衛将軍諸葛瞻拒ケ艾。到涪縣、瞻盤桓未進、崇屢勸瞻宜速行據險、無令敵得入平地。瞻猶與未納、崇至于流涕。
會艾長驅而前、瞻卻戰至綿竹、崇帥詞R士、期於必死、臨陳見殺」(黄崇伝)
この場合の「隨衛将軍諸葛瞻拒ケ艾」は以下の文の目的ではなく、以下の文の要約とは取れないかな?
「六年冬、魏征西将軍ケ艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住竹」(諸葛瞻伝)
これもそうだけどケ艾の軍の動きは単に事実を記述しただけで、その後の諸葛瞻の動きはそれを受けたものだとは必ずしも言えないんじゃないかな?
いずれにしても諸葛瞻がいつ成都を進発したかについては「ケ艾が陰平に侵入してくるよりも以前である」としても、どの記述とも矛盾は生じないと思う。
>>219 正直、これはどうとでも取れると思うよ。
読み方によって、黄崇伝や諸葛瞻伝も、ケ艾が来る前から涪にいたとしていなかったとしても、
そう大きな矛盾は生じない。ケ艾伝にしたって同様だしね。
どう解釈するのが最も蓋然性が高いかを、自分で判断するしかないと思う。
どっちをとっても、相手の意見を覆させるほどの違いは無いだろうしね。
追加の動員とかしてたんだろうか
禁軍を派遣するのは魏も良くやってたけどさ
全然関係ないんですが、三国鼎立時代の宦官のことを知りたいです。
何か良い本などありませんか?
「宦官」三田村泰助/中公新書
「宦官」顧容・葛金芳/徳馬書店
古いか…
225 :
223:2007/12/28(金) 23:01:55
>>224 ありがとうございます。
さっそく図書館で探してみます。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/11(金) 09:57:27
保守あげ
このスレだと晋は対象外なの?
晋だと平呉戦くらいしか話題になってないみたいだけど。
>>227 全然問題ないと思うよ。
むしろネタ振り歓迎。
とは言ってみたが、あんまり思いつかなかったり。
魏晋の武将だとこのスレじゃ滅蜀か平呉がらみでしか話が出てこないけど、
それ以外の戦役で活躍してる武将がいるはずと思うんだよな。
司馬師・司馬昭時代の武将とか活きのいいヤツいないかね。
あと武将ばっかじゃなくて宰相とか学者とかも欲しいよな。
よく知らんけど何曾とか張華とか。武将だと石苞とかその辺。
陳寿を忘れて貰っちゃ困る
王祥とか
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/25(金) 01:43:05
馬隆とか
文鴦とか
王祥のことはあんまり知らなかったので晋書見てきたが、
曹髦が殺されたとき自分を責めて泣いたとかあるけど、
その後も晋に仕えて太保になったり大封もらったりしてんだな。
なんか偽善者っぽく見えて仕方なかった。
王祥は
蜜柑万引きの陸績
筍盗みの孟宗
と並ぶ三国時代の三大窃盗犯
>>234 ま、すぐ辞めてるし。
親孝行で有名な人物だし、根っからの偽善者ってことはないと思うけどねえ。
いつの間にか、スレの寿命三週間切ってるんだな。
次スレとかどうすんだ?
>>229 蜀が滅んだ後じゃなく、司馬師や司馬昭の時代まで考えて、
更に対蜀戦線や呉攻略に関わってない人物で有能な指揮官と言うと、
真っ先に浮かぶのは王基だろうね。
蜀が滅んだ後は、呉と晋の間では数年おきにしか戦争が起こってないから、
(比較的)有名な人物以外では、それほど名は挙げられないように思える。
交州では数年間戦火が絶えなかったし、樹機能らの反乱には手を焼いてたけどね。
話題って程のものじゃないんだけど、ゲーム能力値関係のスレ行くと、
極たまにだが、過小評価されてるとして霍弋の名前が挙がる事がある。
大抵は羅憲とセットとかでだけど。
そういう場合、話の流れから考えると、どうにも指揮官としてもっと評価して欲しいという感じなんだが、
正直、そんなに高く評価できるもんでもないように思えるんだよね。
指揮官として霍弋のやった事と言うと、精々、永昌郡の異民族を討伐したくらい。
成都への救援は終ぞ行われなかったしね。
漢晋春秋には交州を平定した事が書かれているが、これは呂興の蜂起を支援する形で部下を派遣しただけで、
霍弋本人は南中から動いていないから、指揮官としてどうこう言えるものじゃないし。
彼の場合、自国が滅亡するという状況にもかかわらず、
ただでさえ統治の難しい南中を、さしたる混乱も無く統制し続けた事が凄いんじゃないかと思う。
そういうのをゲームでどう評価するのかはよく分からんが。
霍弋に限った話じゃないけど、能力というより、人格とか意志とかで結果を出しちゃうやつがいるね。
特に籠城戦で名を成した武将。
能力的には未知数なのに、最後まで諦めずに戦い続けたことで結果的に勝利してしまう。
ゲーム的には評価のしようがないから、武力が高く設定されて野戦でも活躍しちゃったり。
まあ部下を離反させなかったのは統率能力の高さと言ってもいいかもしらんが。
そういった人格や意志も、一つの才能ではあると思うね。
不撓不屈の精神などは、状況を好転させるような幸運を招く事もあるし。
霍弋は史書を見た感じ、羅憲と違って都に上った様子が無いんだが、
敵国の臣下として一地方を鎮守していた人物を、一度も呼び出す事無く、
死ぬまでその地に留まらせたってのはどうなんだろうか?
呂興の蜂起以降、その呂興の死や、後任の死などが立て続けに起こった上、
最終的に呉の介入が始まったから、呼び出そうにも呼び出せなかったのかもしれないね。
まぁ、自分が見落としてるだけかもしれないけど。
そういや、むじんさんが石苞伝を訳してくれてる。
晋書は原文でも一応読んでるが、よく分からない部分も多いし、
分かった気になっている部分も、あくまで分かった気になってるだけだし、
こういうのは実にありがたいね。
確か陳羣だったか、才能は善行を行うための道具だとか言ってたと思うんだけど、
人格とか意志とかはそういう何かの仕事のツールではないよね。
それ以前の、善行をなさんと決定された段階で、その決定を下から支える別の何かだと思う。
将官に求められる資質ではあるが、能力とは別次元の何かだよ。
という主旨だった。分かりにくくてすまんけど。
羅憲は晋書に伝があるのに霍弋はないんだよな。
結局その程度の存在感しか無かったって事なんじゃないかな。
石苞は伝がそこそこ長い割に具体的な行動がよく伝わらないな。
諸葛誕の所がちょっと詳しいかなって程度。
勇敢さや冷静さ、大胆さや慎重さと言ったものは、人格に属すべきものだと思う。
それが天賦のものであれ、努力によって培ったものであれ、
その人間を構成する要素である以上、それが善行であれ悪行であれ、行動を決断して以降の、
種々の局面における彼の判断を変化させるものだと思うし、
その前段階の、如何なる行動を決断するかという事にも、それらは影響すると思う。
人格が才能・能力と別のものだったとして、何処までが人格で、
何処からが才能かを決める事は非常に困難に思える。
その陳羣の意見というのも、理はあるのだろうけれど、少なくとも自分にはよく分からない。
霍弋の伝は確かに無いね。
数年に亘り、南中と―間接的にとは言え―交州を統括していたのだから、
取るに足らないという事は無いと思うんだけどねぇ。
晋ではある時期まで、北の平州と南の寧州の刺史が3年に1度入朝するのが慣わしだったようだけど、
これはいつ頃からだったんだろうか?
南中を益州より分けて寧州とした事自体が、霍弋が死んでからの事だから、
霍弋の話にはあまり関係なさそうだけどね。
270年頃から始まった、涼州、秦州、雍州における動乱を考えているんだが、よく分からんね。
一方では樹機能に殺された事になっている胡烈は、
他方では白虎文と薬蘭泥に殺された事になっている。
一方では武威で死んだとされている楊欣は、
他方では丹嶺にて死んだ事になっている。
丹嶺だと沓中の少し北辺りになるので、武威という記述とは一致しない。
胡烈の敗死した万斛堆と、牽弘の敗死した青山は位置も近いし、
宋書五行志では二人とも白虎文と薬蘭泥に殺された事になっている。
動乱の烽火となった胡烈の敗死は、
その後の牽弘の敗死と同様の部族によって為されたものと見ていいのかもしれない。
晋書の載記などの禿髪部の記述では、10年近くにわたる動乱を主導したのが
樹機能であるかのように書かれているが、実際に樹機能の名前が現れるのは275年頃から。
単に最後まで戦い続けたというだけで、実際は、
同時多発的に反乱しだした多数の部族の一首領に過ぎないのかもね。
まぁ、まだそれほど多くの史料に当ってるわけじゃないから、
これから色々調べて全貌を把握する必要があるけど。
あまり人気のある話題ではないかもしれないが、
各人に先行してるイメージってのも面白いよね。
例えば陳泰ってやってることだけ追いかけると、相当司馬家にベッタリの腰巾着(言い方悪いが)なのに、
東晋の頃には「魏帝に忠義を尽くす数少ない気骨の士」みたいに書かれ、
世説新語までくると司馬昭に向かって遠まわしに「お前が責任とって死ね」と言わんばかりだったりw
やっぱりあの年に亡くなったというのが世間の想像力を書き立てるのですかね。
確かに陳泰は生真面目そうなタイプだけど…
そもそも陳泰は、司馬師、司馬昭兄弟の親友だしね。
陳泰の後任として司馬望、司馬望の補佐としてケ艾、
そして司馬望の後任には鍾会が配置された事を考えても、
対蜀戦線は司馬氏に信頼されている人物が置かれていたのだろうし、
司馬望にいたっては一族だしね。
東方では王淩、毋丘倹、諸葛誕と立て続けに反乱が起こったけれど、
西方はそれによって動じる事も無かったというのも、そういう事を表しているように思える。
ただ、親友ではあっても、皇帝を殺すという暴挙に対しては何か含む所はあったのかもね。
何の根拠もなしに、そういった逸話や評判は生まれないだろうから。
少し違う話だが陳泰に関連して、以前、と言っても数年前で、ここではなく、
姜維北伐スレでの事だが、ちくまの三国志でケ艾を王経の後任としている事は間違いで、
実際には陳泰の後任だったんだろう、という内容の話をニセクロさんとしたんだが、
やはりあれは王経の後任で良いのかもしれない。
どうも雍州刺史というのは、都督の麾下ではあったけど、
上邽にあって隴西の軍を統括していたように見受けられる。
ケ艾は結局、都督雍涼諸軍事にはならず、隴右諸軍事であったので、
実質的には雍州刺史の権限を拡大したものに過ぎず、陳泰の後任と考えるべきではないのかもしれない。
陳泰の後任としては、既に述べたけど司馬望が送られていたしね。
そういえばその王経の方も高貴郷公殺害にあたって難しい立場に立ってたね。
武力蜂起を思い止まらせようと説得するものの、かといって司馬昭に密告もせず、
結局王経の方は死罪に処せられちゃうわけだけど、ある意味陳泰は幸運だったのかもね。
聞いたタイミングが違うだけで、心情的には似たようなものだろうから。
確かこの時の王経の役職が尚書だから、当時も陳泰の部下に当たるのかな?
司馬孚が司空に移ってからの尚書令がハッキリしないが、
この系統の人士は皇室に対して特別な思い入れができるのだろうか。
何故王経は殺されなければならなかったのだろうか?
世語に拠れば、王業と王沈が王経の意思を司馬昭に伝えなかったからとあるけど、
この王経の意思がどんなものだったのかは分からないし、
王業や王沈が司馬昭に伝えなかった理由もよく分からない。
王経を蹴落とそうと故意に伝えなかったのか、
気付いた時には王経を弁護できないような空気になっていたのか。
向雄が慟哭した話や、皇甫晏が王経の埋葬を行った話も世語だけど、
世語では王経の人格はやたらと評価されてるみたいだね。
太后の命の中に王経を名指しで殺害するようにとの文書があるらしいから、
高貴郷公を唆したとして罪を着せられたのかも。
高貴郷公を殺した大罪は既に成済に擦り付けたわけだけど、
高貴郷公が何故あのような暴挙に至ったのかという理由には殆ど触れてない。
その辺りを王経個人の罪にして、司馬家の専横という本来の原因を表面上隠蔽しようとしたとか…
根拠のない与太話で申し訳ないが。
一個一個は世話のツクリの可能性もあるけど、ここまで重なると王経もやはり一角の人物だったのかなと思っちゃうな。
姜維に負けたというだけで侮られガチなのはなんだか可哀想だ。
この辺は推測するしかないだろうからねぇ。
ただ、王経が唆したとするのならば、皇太后の詔勅でその事に触れても良いように思える。
単に悪逆非道であると王経の人格を非難するだけで済ますものだろうか?
数年後には、武帝が詔勅によってその孫を郎中に取り立ててるし、
王経が曹髦を唆したという構図を作ったわけではないように思える。
曹爽を嫌って、その命令書を開きもせずに江夏太守を辞したり、
蜀の侵攻と羌族の離反によって不安定になっていた雍州の刺史を任されたり、
高貴郷公の事件までは、司馬氏寄りの人間として評価されていたように思えるんだよね。
個人的には、「汝田家子」という王経の母の言葉にあるような気がする。
農民出身の王経を、太原王氏の王沈なんかは内心嫌っていたのかも。
そういや、晋書王沈伝に、「沈既不忠於主、甚為衆論所非」とあるんだが、
これは世間で王沈が非難されていたという事だよね。
そのわりに、反司馬氏の動きは完全に抑えられていたように思える。
>>250 皇后による指示が出た時には「凶逆無状」だから殺せと言ったのに、
武帝の時には「法によって身を陥れられたとはいえ、志操は貫き通したのだ」と真逆の表現になっているから、
この間に王経に対する評価の変化があったと考えるのはどうだろうか?
例えば今までに挙げられたように、事件後も文帝の意向に反して王経の追慕が続いたことや、
高貴郷公殺害の事件直後から、既に世間では事実に近いことが知れまわっていた様子が散見できることなど。
(ご指摘の通り、王沈が世間から非難を受けたこともその証左の一つかと)
この辺りを考慮した結果、晋の武帝は即位に際してケ艾・王経など、
『罪を着せられた人間』の子孫に対する恩赦を出すことで、
司馬家に対する反感を抑えることを狙った…みたいな。
>>251 なるほど。
結局、推し量るしかないってのが辛いところだね。
なんにせよ、王経はもうちょっと注目されても良い人物だと思う。
大半の人は覚えてないだろうし、覚えてても「姜維にボコられた人」くらいの認識しかないだろうし。
晋書の荀勗伝に関係ありそな記事が。
カッコ内の補足は勇み足だと思ってスルーしてくれ。
高貴郷公の変のさい、大将軍掾の孫佑らが門を固く閉じ、司馬幹は司馬昭の元へ着くのが遅れた。
これを聞いた司馬昭ブチギレ。孫佑の親族まとめて誅殺しちゃる!と考える。
荀勗はそれを諌めて、
「いやそりゃあ弟君を通さなかった孫佑にも落ち度はありますけど、
物事には順番ってものがあって、感情によって刑罰に軽重を付けるのはよろしくない。
いま成倅の兄弟だけがお咎めを受けています。もし(これだけのことで)孫佑の親族に
まで刑を及ぼすなら、(この事件に反感を持った)義士たちが私義することが心配です。」
こうして孫佑は庶人に位を落とされた。
254 :
253:2008/02/13(水) 23:17:09
×私義→○私議 ですー。
上手く言えないし関係ないかもしれないんだが、司馬氏って、初めて「名士層から皇帝になった」んだよな
つまり名士の評判とかコミュニティに皇帝家自身が取り込まれている
しかしその一方で皇帝となると名士以外の層の忠誠も勝ち得なければいけないんだよな
諸葛緒、胡烈といった武門との婚姻やケ艾・王経の名誉回復などは、非名士への配慮から生まれたんじゃないかなあ
>>253 荀勖伝は以前読んだので、その話も少し覚えてる。
少し疑問なんだが、「今成倅刑止其身、佑乃族誅、恐義士私議」という文章は、
皇帝を殺した成倅らは刑が一身にとどまり、親族には及んでいないのに、
孫佑については親族ごと誅殺してしまっては、司馬氏に反するような態度をとるだけで
族滅の憂き目に遭うような状態を恐れ、義士が密議を企む事になる、という意味だよね?
つまり、高貴郷公の件に限定してかは分からないけれど、
司馬氏に対する蜂起を促すような行動は慎むべきである、という進言なわけだ。
この進言がいつの事なのかが気になるね。
王経を殺してしまった後だとしたら、それまで親司馬氏だった人物を、
高貴郷公のもとにとどまっていたという理由だけで母と一緒に処刑してしまった事で、
既に、ここで「義士」と呼ばれている人々を刺激してしまっている事になるから、
この荀勖の進言もより重要性が増すように思える。
>>255 名士論が正しいとしても、名士というのは「名士」という一枚岩ではなくて、
幾つものコミュニティの集まりなわけだよね?
名士と非名士の対立と、その両勢力の取り込みという形ではなく、
名士の各々のコミュニティにせよ、非名士の各々の集団にせよ、
政権を構成するより多くの要素から支持を得なければならないという事なのではないだろうか?
あと、胡烈に関しては、晋書胡奮伝に武門の家である事が書かれているから分かるんだけど、
諸葛緒は琅邪の諸葛氏なんだけど、これは武門と考えていいのだろうか?
>>252 卑賤の身ながら名声があり、どうやら市中の人々からの人望もあり、中央官僚としても出世してる。
地方刺史としても純粋な軍才こそないのかもしれないが、
キチンと部下の心を掴んでるという一点だけでも評価に値するはず。
人格的にもそれなりに人気でそうなタイプなんだけど、
一番人目を引くのが殆ど唯一の汚点である敗戦なのが痛いね。
この辺りの人間だと調べようと思って追っかけないと見えてこない人達だから。
>>257 そもそも、五丈原以前と以後で人気に大きな差があるしね。
俺自身、自分で色々と考え出すまでは、王経に対する認識は姜維に大敗を喫した人物という程度だったし、
今でこそ王基や王渾を賞賛してやまないけれど、数年前は殆ど知らなかったし、
王経辺りが注目されないのは仕方の無いことなんだろうね。