陳寿が本当に書きたかった正史

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43名無しさん@お腹いっぱい。
武陔の陳泰評を前提にして
「泰弘済簡至,允克堂構矣」を読むと、陳寿のトリックに見事に引っ掛かるんだよね。

「弘済」は書経・顧命篇、「堂構」 は書経・大誥篇の言葉なんだけど、それぞれ
 「幼帝を艱難より救う」――高貴郷公は司馬昭への反抗の結果、命を落とした。
 「父の業を継ぐ」――――当時の人々は「公は卿に愧じ、卿は長に愧ず」と言っていた(張華「博物志」)

…と、あまり妥当な評と言えなかったりする。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 21:37:24 ID:XY1LbD4w0
書経・大誥(の一部)

王は、またことばを改めて、おおせられた。
「過ぐる日、予は、『予は国家統治の困難なことを日々思っている』と誓ったことがあった。
 譬えば、父が家を作ろうとして、設計を定めておいたのに、その子が土台を築こうともせず、
まして柱組みもしようとしないならば、その父は、『わしにはよいあとつぎがある。わしの基業
を棄てない』といいはしないであろう。また、その父が耕地を拓いておいたのに、その子が種
を播こうとせず、まして刈り取ろうとしないならば、その父は、『わしにはよいあとつぎがある。
わしの基業を棄てない』といいはしないであろう。
 されば、予はなんで、この予が文王の大命を完遂しないでよかろうぞ。もしもれっきとした
叔父でありながら、その友人を助けて、その子に当たる者を伐つというのでは、下々の人民
の場合でも進んでその子の方を救わずにいられようか」

※叔父の原文「兄考」は父の世代にあるものの美称。
(平凡社・中国古典文学大系1 書経から転載)
45名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 22:50:51 ID:XY1LbD4w0
陳泰が司馬兄弟と親しい友人だったことは、武陔の言葉の直前に出てくる。

この若き王(実際は周の成王のことね)を曹髦と見立てて、
太后からの詔で下された「不孝」という汚名の正体は何だったのか。

陳泰を称え、暗に「友を助けてその子を伐った」人々(彼らの父の多くは創業の臣)を
厳しく非難して、不忠不孝はどこの誰かと問いを発しているような。

縁もゆかりも無い蜀の人が亡国の臣をこれだけよく彼を評したのは、
ただの自己満足ではできないことだと思うんだよ。
陳泰が単に空気の読めない子で、あの評が必ずしも正しく事実を表していなかったとしても
それはそれで、陳寿は一家の言をもって「三国志」を完成させたのだと思った。