2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 22:55:11
誘導失敗してるぞ
5 :
1:2006/09/23(土) 23:01:39
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:03:29
むじんの釣り堀スレ乙
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:07:29
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:14:47
>>7 コメント削除してやんの
なんてテンプレ通りなんだw
>>7 いやそれでいい。ついでにトピックも消してしまえ。
自ら恥を晒し続けることはない。
だれか突撃したのかよw
11 :
720:2006/09/23(土) 23:27:07
いや、突撃は来てないよ。
>>8が言ってるのは、エントリ本文のことでしょ。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:32:11
むじん氏には名無しではなく、ちゃんと名を名乗って
もう一度自分の言いたかったことをちゃんと説明してほしい
釣りはスルーが鉄則だろ?
まだ釣られたりないのかよ
>>12 このスレじゃなくてむじんのサイトに書いて来なさいな
ただまあ今回半分やられたって気持ちにさせられたわ
残り半分の半分は呆れでもう半分が怒りだ
何て言うかこんなむかつく行動を許すのも俺らに力と知識が無いせいだ
と言う訳で俺はむじんを見返すべく(大学の講義とかをすっぽかして)三国志の勉強する
臥薪嘗胆、その日が来るまでアディオス・アミーゴ
マテw
無駄だからやめといたほうがいいと思うよ。
彼は前提として「魏延が有能を否定」というのがあるから
何をいってもそれでは証明したことにならないと言って終わり。
彼にとって重要なのは魏延に対する評価を改めさせることじゃなくて
「魏延が有能を否定」というスタンスを崩されないことだったんだよ。
18 :
720:2006/09/24(日) 02:03:54
> 彼は前提として「魏延が有能を否定」というのがあるから
いい加減なこと言うなよ…。
結局の所、史書に書かれていない事は証明しようがないのに、
記録の無い魏延がどうして有能だって言えるんだ?って事だろ。
そんなむじんには関帝廟の前で「関羽は算盤なんて作ってねぇ!」って
叫んでみて欲しいものだ。
どうなるか知らんけどね。
むじんのブログでいう二通りの反応というのは恐らく、
・魏延の検証を続ける
・他の将の議論に移る
という所か。
嫌になって住人が去り、一層過疎化するという事は考えていないんだろうな、きっと。
新スレ立っちゃったし。
20 :
720:2006/09/24(日) 04:04:16
> 関帝廟の前で「関羽は算盤なんて作ってねぇ!」って叫んでみて欲しいものだ。
そんなことしても何にも起こらんですよ。何を期待してるか知りませんけど。
> むじんのブログでいう二通りの反応
一度書いてもう消しちゃったけど、
1.釣り師認定→祭り発生→ブログ炎上
2.住人が意気消沈してそのままフェードアウト
ですよ。2はそのあと再びスレ過疎化まで考えてたけど次スレ立っちゃいましたね。
むじん氏は無視するのが一番ではないでしょうか?
この期に及んで釣りにしか見えん書き込みするし
池沼認定して今後NGということにした方がいいな
むじんは堕ちた。
構うと付け上がるから以後触らないのが吉。
世界史板でやればいんじゃねーの
わざわざ三戦で啓蒙でもするつもりなんか?
残した功績から考えて魏延は優秀
まぐれでそうそう成功できないからな
ただし「どのように優秀であるか」という優秀さの質は不明
勇猛さが評価されていたであろうことは書かれているので勇猛だったとは考えていいだろう
あと受け答えが上手いので機転も利いたりするのかもしれない
これで充分じゃないの?
うわああああ。
別スレで話題を聞いて飛んで来たけど、
凄い香ばしい事になってたんだな。
むじんさん…ありゃ贔屓目に見てもムズ痒いよ…(;´Д`)
ていうか、魏延はうんこしないよ!
>>23 堕ちたっていうか初めて知ったけど。
有名人なの?
>>28 うんこしたという記述が無いからむじん流に言えば否定はできないな
少しでも三国志サイト回ってりゃ、何度か目にする機会はあるサイトの
管理人さんだから、名前は知ってる人多いかと。
有名人っていうのとはまた違う認知度。
個人的にも、史料まとめ系の三国志サイトでは、良質&両親的な方で
好きだったんだけど、今回の事は、なんともなぁ。
前スレの流れだけなら、「言い方が悪かったね」とか「熱くなり過ぎたね」とか
「まぁ、最近魏延過大評価され過ぎってのはあるよね」とか
なにかしらのフォローする気にもなれたけど、ブログの方は正直無理ぽだ。
>>30 ○○出身ってのはあっても、人間とは書いてないんだっけ?
普段の言動から「俺様知識人」みたいな優越感が滲み出てると思ったけど、やっぱり問題になったか…。
>>32 実は魏延は女の子だったんだよ!!
つーか魏延は人格面で過大評価されてるのは見るが
能力面でそこまで過大評価されてるか?
相対的に見ると他の蜀将と大して変わらない気が
>>32 三国志が今から2000年近く前の話であっても
なお2000年の歴史がある中国だからな
なにがいても不思議じゃない
考察系や史料系サイトの中では融通きく人だと思ってたんだけどなぁ。
…と、故人を偲ぶかのように語ってみる。
「固定概念やイメージでは無く史料を考察して実像に迫りたい」って気持ちには
賛同する所大だけど、
問題提起の仕方が悪過ぎるし、2chに居る様々な人を「2ch」と一括りにして
問題ふっかける態度はよろしく無い。
過大評価に疑問を感じるなら、過大評価してるその当人に聞くべきで、
「2chやネット全体ででそういう傾向にある」という事に関する疑問を
特定スレの個人個人のレスにぶつけても(゚Д゚ )ハァ?って言われるのは当然だ。
あ、魏延のうんこに関しては「するけどラベンダーの香りがするよ」派です
今も居るこの720は本人?騙り?
多分騙り
>>36 時間跳躍で三国時代に跳んだ720はそのにおいを嗅いで現代に戻ってくるんだな
>「固定概念やイメージでは無く史料を考察して実像に迫りたい」
この場合、数少ない記述から情報を拾い上げてくしか無いわけで、
推察を却下したら意味無い気がするんだけどなぁ。
てか、彼は三国志集解とか華陽国志とか含めて、
現在日本の民間人が入手出来る史料は、大抵読んでるだろうし
他人に正史三国志の文面以上の「魏延が優秀な証拠」を求めても
新しい情報ソースなんて出て来ないって事ぐらい解り切ってるだろうに
ネチネチと質問続けちゃうのは最悪だべ。
しかも、当人は下手に出たつもりなんだろうけど、
ログまとめて読んでると、無知を装った嫌がらせにしか見えん。
過疎とはいえ、色んな人がROMしてる場所なんだからもっと気をつけれ…
41 :
.:2006/09/24(日) 12:55:21
むじん光臨してたのか
生で見たかったなぁ
生で見て面白いもんでも無いでしょう
ログ見るだけでうんざりする。
呂布鉄アレイなみのループトークだったからな。
魏延か。
最近は見ないが、確かに以前は、
「長安奇襲は諸葛亮の採った戦略より遥かに優れてる」だとか、
「諸葛亮死後、魏延が北伐の指揮を執っても、最低でも姜維くらいの戦果は挙げられた」
だとかって言う人もいたのはいたな。
それは流石に言い過ぎだろう、って思った。
魏延は最高司令官になった事が無いまま舞台から降りたので、
期待値を含めて高く評価してしまう、という話はかつて聞いたな。
俺自身は、魏延に関してろくに考察してないんで特にどうこう評価するつもりも無いがね。
ただ、魏延に関する記述をかき集めても、むじん氏が納得するような考察は難しいだろうね。
少なくとも俺には出来そうも無い。
魏延も司令官としてなんかやってくれてたら、それなりに出来ただろうけどね。
やや
いつの間にかむじん討議スレになっとる
>>44 むじゅんの基準を順守して有能な人物を定義すると蜀どころか三国全体でもほぼ皆無に等しくなるね
戦略、戦術の詳細に渡っての記述なんてマジで無いに等しいし。
ただむじゅんの基準には黄忠特別枠があるようだけど。
結局自サイトに逃げて好き勝手吠えて、都合の悪いコメントは消すという厨管理人のテンプレだったと
消したコメントどんなだった?
見た人いる
コメントは消してないんじゃない?というか突撃報告も無いし。
>>7見たけど
ばっさり削除って書いてあるし
何書いたんだろうと思って
>>50 釣られたな
今からでも何か書いてきたら?
52 :
720:2006/09/24(日) 15:56:45
「名無し」とか「通りすがり」はやめてね。
答えにくいから。
(´・ω・)?
(・ω・´)シッ サワッチャイケマセン
行くな行くな、ほっとけ
自分のブログ炎上を予想してたらしいから
突撃されなくてむしろさびしくなってるだけなんだろ
まぁなんだ、こっちに書くのもあれかなと思ってブログに突っ込んできた。そこまで変な文章じゃないよな?
>>56 いちいちここで突撃報告するな
いつまでむじんの話続ける気なんだ?
蜀将じゃなく地理についての質問。
費詩伝に諸葛亮が南征を終え、その帰途、漢陽県で云々という記述がありますが、この漢陽県ってどこでしょうか?
ちくまの巻末の地図だと天水郡に漢陽という地名がありますがそこではないように思えます。
また馬超が劉備に下ると臨沮を治めさせたとありますがこれは荊州の臨沮でしょうか?
それとも陽平の近くに沮という地名がありますがこの周辺に臨沮という地名があったのでしょうか?
スレ違い
地理を軽視する三戦らしいレスだ
他のスレだと答えられそうな人がいるよ
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 17:41:01
59をスレ違いの一言で済ますとは流石三戦
>>59 漢陽県は後漢書郡国志に見える。
犍為属国にある県で、ちくま巻末の地図だと、朱提の南東、南広の辺り。
臨沮は荊州のものしか知らない。
当時の臨沮は、劉備の勢力範囲であったと言えるので、
封地として与えたという理解でいいんじゃないかな?
ぐぐってみたが、漢陽県は朱提郡に属すと言うことらしい
南征の帰りなら、その通りなんだろう
臨沮はわからん
>>63 漢陽県の件、やっぱりそちらの方にあるんですね。
ありがとうです。
臨沮に関しては
> 当時の臨沮は、劉備の勢力範囲であった
それは当然承知しております。
ただ馬超の経歴や関羽との関係を考えると果たしてどうなのかな?と疑問に思うわけです。
> 封地として与えたという理解でいいんじゃないかな?
原文には「以超為平西將軍、督臨沮、因為前都亭侯」とありますので、
実際に臨沮に駐屯していたのではないかと思うのですが、どうなんでしょう?
ちょっとスレ違い気味かもしれない質問で荒れさせかけてしまってゴメン。
つーか>>60-
>>62がアレな奴連鎖だったか自演
蜀に関係ある話題だしなー
>>65 馬超は漢中へと侵攻する時に、張飛と共に下弁へ向かってるし、
臨沮なんかに駐屯させるのも変だけどな。
まぁ、3年空いてるし、一時的に臨沮に行っていたと言えなくも無いが。
>>67 > 一時的に臨沮に行っていた
やっぱこれかなあ?
あと65の関羽との関係は削除。
同列に並べられて腹を立てたのは馬超に対してじゃなく黄忠に対してでしたね。
>>68 別に関羽との関係云々も無くはないんじゃないか。
関羽は諸葛亮に「馬超は誰に匹敵するか」って聞いたらしいし。
馬超が来降後すぐに臨沮に行ったなら、直接会うことも出来ただろうから、
わざわざ諸葛亮に手紙を出す必要は無い。
臨沮に行った時期が、益州制圧後しばらく経ってからだったのかもしれないが。
>>69 あ、そっちだったか。
ちょっとごっちゃになってたわ。
臨沮は関羽の駐屯する江陵と隣接、は言いすぎとしても近くには違いないし、荊州の軍事総督である関羽と面会してた方が自然な気がするね。
>>70 今思いついたんだが、益州制圧後、孫権との間に武力衝突が生じて、
劉備自ら公安に入った事があった。
その時馬超も劉備に随行し、魏への備えとして臨沮に駐屯したんでないか?
なるほど、自然な推論だな。
でも馬超のは214年の話じゃなかった?
まだ呉と争う前では?
>陽平の近くの沮
自分も馬超が仮に赴任するとしたら
こっちの方が最適だよなと思った。
沮の周辺一帯を指して臨沮としてるのかなと。…まぁ妄想なんですが。
>>73 馬超の平西将軍就任が214年の事だってのは、華陽国志から分かるけど、
「督臨沮」と言うのがいつ頃の事なのかってのは分かってたっけ?
素朴な疑問なんだけど、
降ったばかりの外様の人間を即座に外部に駐屯させるって危険では?
実際の馬超がどうであったかは別として
当時の「馬超の見られ方」って、安易に信用しにくい人物であっただろうし。
目の届きにくい位置に駐屯させるというのは不自然な気がしてしまいます
彭羕もそこらへんに付け込もうとした感じだよな。
あれ下手したら馬超も道連れで処刑だし。
彭ヨウのアレは、文面だけ見ると彭ヨウの言い訳も筋が通ってるように見えてカワイソス
諸葛亮と馬超が結託してハメてるようにすら見える。
馬超「やだなー、謀叛なんてするわけないだろwwww
その証拠にホラ、謀叛の誘い持ちかけて来た奴告発しとくおwww」
諸葛亮「うはwwwこれで彭ヨウ排除出来るwwwwww」
だからこそ馬超は即座に密告したのでは?
沮水って漢中方面からそこまで流れてるのか?
どうでもいいが江陵陥落時に無理して本拠を取り返そうとするより、
黄権みたいにさっさと魏に降伏するのはどうだろうか?
どっちにしても打ち首?
え、何の話ですか
いや関羽が死んだのも臨沮じゃん。
武都郡から宜都郡の辺りまで沮水が流れているのか?と思っただけ。
バショクが生きていてあのミスがなければ諸葛亮の後を継げた?
それともキョウイがやっぱり継いだのかねえ
釣り乙
釣りかこれ? 釣りっつーより……。
まぁとりあえず言っておくと姜維は諸葛亮の跡を継いだとは言いがたい。と思う。
87 :
.:2006/09/27(水) 12:04:08
姜維より上の立場だった可能性はあると思う
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 03:23:32
馬謖は、どれほどの実力の持ち主だったんだろう?
実際に指揮したことあるのかな?
北伐以外で、孔明に南征には助言したとか聞いたのだけど
指揮したのは北伐以外聞いたことはないのよね
入蜀の際に随行し、綿竹や成都の県令などを任された。
馬氏の五常として有名だったし、実績が伴えば諸葛亮の後継として
国の最重要職を任される可能性は十分にあったと思う。
ただ、北伐までに軍を率いたことは史書にはない。
劉備も「あいつは口ばっかりで実が伴わないから重用すんな」
って言ってるから、軍を率いた経験はないんじゃないかな。
諸葛亮自身も従軍経験なくいきなり益州平定で一軍を任され、南征で総指揮官をこなしているので馬謖も同じような期待をしてたんかね。
趙雲伝によれば諸葛亮は益州平定時に「趙雲と張飛らを率い」とあり、実戦の経験不足を歴戦の将に支えられるところからスタートしてる。
馬謖は既に南征などで軍略に明るいところを見せているので、王平・張休・李盛らを宛がった(王平以外ここしか見えないので詳しくはわからんが)
知識型のトップと現場上がりの部下が協力して結果を出してくれることに期待してたのかもしれない。
それが経験少ない馬謖の成長に繋がり、実力ある現場の人間が活躍して高官に抜擢できれば完璧だった。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 12:15:40
まあ実際には踊る大捜査線のサルくん=王平
ギバちゃん=バショク
みたいな立場だからな、いいとこ
実際にはバショクは映画版の天海だったわけだが
馬謖のミスってどの程度の評価だったんだろ。
死罪(馬謖以外にあと二人くらいだっけ?)ってことは
やっぱり馬謖の責任が大きいってことなのか。
王平「戦争は机上で起きてるんじゃねえ、戦場で起きてるんだ!」
>>90 もう少しちゃんと読め
諸葛亮は趙雲、張飛を率いて益州に入り、郡県を平定しつつ江州に至り
「それぞれに分かれて」各地を平定し成都で落ち合ったんだぞ
>実戦の経験不足を歴戦の将に支えられるところからスタートしてる
さすがにこれは恣意的過ぎる書き方だと思う
>>94 最初の内は合同して郡険を平定しつつ、江州まで来てから分かれて攻略したように読めるし、
全体で見るとより雄弁なはずの諸葛亮の記述が簡略で、分派した張飛らの記述の方が詳細なのを考えれば(趙雲とは殆どドッコイだが)
別れた後はやはり張飛らの方が活躍した可能性が高い。以上から諸葛亮は趙雲らを率いて江州まで来て、後に指示を出して各地を分担したとするのは駄目か?
江水上って江陽へ南下、(その後多分落水を上って北上して)成都目指して攻めあがった趙雲、
先陣を切って巴郡で厳顔らを降しその後通過する場所全てで勝利した張飛に比べ、諸葛亮は殆どわからず
後ろで両者の補給線の維持や整備をしつつ張飛ルートをなぞった可能性だってある。
どちらにしろ「亮率雲與張飛等」とある以上増援軍の最高責任者は諸葛亮だと思われるので、
そこから部隊を派遣しようと「歴戦の将に支えられる」が恣意的とは特に思わないけど。
というか「もう少しちゃんと読め」とかヤメテ。俺傷ついてちょっぴり泣いた。
ま、実際に兵を率いて戦う前線指揮官は別にいるんだし、
従軍経験の無い諸葛亮が趙雲、張飛と別行動しても問題ないわな。
大規模な兵力抱えた郡県や要害を落とす訳ではなく、
半ば孤立している地方に圧力かけて屈服させるだけだし。
>全体で見るとより雄弁なはずの諸葛亮の記述が簡略で、分派した張飛らの記述の方が詳細なのを考えれば
>>95志村ー、紀伝体紀伝体
この場合諸葛亮の方が趙雲、張飛を率いてる立場だから記述が簡略になり、
率いられている趙雲、張飛の方の記述が詳しくなる
一般論だがな
馬雲緑って実在の人物なの?
おもっくそ後世の創作。反三国志。
作者曰く
これぞ真の三国志
私は北京に遊んだおり、反古紙の束の中から、『三国旧志』と題する古い一冊の書物を発見して買った。
読んでみると、まさしく三国時代の戦争について記してあり、諸葛孔明と徐庶に関するすべての記述が『三国演義』と異なっている。
そればかりではない。
魏・蜀・呉の三つの国の成り行きも「正史」と全く違うのである。
『三国旧志』には跋文があって、その跋文によると、三国時代に関する史籍は、西暦304年から439年にわたる百三十五年の間、五胡十六国が中国に乱立した時代にすべて失われた。
だから、世に「正史」として伝わっているものは、すべて偽作、ニセモノである。
(中略)
『三国旧志』の作者は何人とも知れないが、その内容は信用できる。
ここに私は、回数表示を改めるなどして収録し、書名を『反三国志』と改め、『三国志演義』とははっきり区別を付けることにした。
なので実在人物です。誰が何と言おうが実在してます。
ネタにマジレス(ry
>>100 反三国志は趙雲馬超萌え腐女子が書いた まで読んだ
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 17:46:40
馬謖なんかより馬良が生きててくれれば・・・
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 01:56:05
>>100 1,500年もあれば偽書はいくらでも出来る
劉禅が理不尽にぬっ殺されて劉甚が後継ぎになるのがご都合主義で一番笑った所だったな
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 01:05:26
なんかつまらないスレやね
>>106 いい加減劉禅も一緒に祭ってやってほしい。
そう思うなら君が祭ればいいんじゃない
確か建てても建ててもぶっこわされるんだよね(´・ω・`)
もし張飛が漢中の主将だったとしたら。
ハンキョウチョウタツはどうやって逃げたんだろう。
やはり魏に向かい秦嶺の山々を張飛の首を携えて逃避行したんだろうか。
逃げ場がないからということであきらめて暗殺されなかったとかないかな。
もうたつんとこじゃね?
前の方で漢陽についてちょっと語られてるがそれに関連して。
法正の子、法邈が最終的に奉車都尉・漢陽太守にまで昇ってる。
ということは漢陽は郡になった時期があったということなのかな?
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 14:38:14
廖化とかの刺史と同じで遥任だろ
>>113 それは天水郡の旧名の漢陽郡ではないかな。
天水郡は魏が漢陽郡を分けて設置したみたいだから、あえて天水の名前を就けなかったとか。
蜀・呉でよくある領土ではない土地の王やら刺史やら太守やらに任じる例と同じだと思われ。
>>114 県だったものが郡になってる(法邈が漢陽太守になった時期が明確でないので逆の可能性もあるかも知れんが)という話なんだが?
遙任と何の関係があるんだ?
>>115 ああそっちの漢陽か。
奉車都尉でもあるし外には出ず漢陽太守は名目だけと解した方が自然かもしれないね。
>>114 というわけでごめん。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 21:50:58
う
ん
こ
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 01:37:00
孟達が蜀に残ってたら結構良い線行ってたんじゃないかなあ?
もし関羽の死に関していらぬ嫌疑をかけられなかったら…
どうだろな、その後も益州閥は伸び悩んでるから
そこそこ上には行くだろうけど最上位は難しそう…
そういう意味じゃないと思うが
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 23:19:47
孟達が残ってたら二面攻撃もできましたな〜
意味がないかもしれませんがね
孟達は実際のところかなり優秀だったと思うんだよね。
宜都・秭帰から北上して房陵を陥とし、さらに軍を進めて劉封と合流し上庸を平定。
これで劉封と仲違いせず魏に降らなければ有力な戦力となったろうに。
ところで劉備が孟達に上庸を攻めさせるのに躊躇して劉封を送ったのは何故?
孟達の能力を疑ったのか?それとも大功を立てさせたくなかったのか?
どっち?
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 03:37:41
>>126 裏切らないように監視の目的だったりして
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 14:05:20
本陣:孟達 先鋒:劉封 というのはそれなりに強力な布陣だったのでは?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 14:09:15
第一軍団:劉備
第二軍団:関羽
第三軍団:魏延
第四軍団:孟達、劉封
>>129 南中方面の李厳やケ方、李恢も忘れないであげてください。
>>128 上庸侵攻は主将劉封、副将孟達だったからそれは違うかと。
あと李厳も加わってるはずだが、李厳伝にまったく記述がない。
上庸侵攻に関しては添え物でしかなかったのかな?
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 08:37:47
>>131 後方支援だったのじゃないか?
しかし主将が劉封だったとはしらなかった
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/30(月) 04:39:17
王林ってリンゴの名前だよなー。
>>134 2ちゃんねるのガイドラインにそんなもの無いから
お前の脳内の削除ガイドラインはチラシの裏にでも書いとけ
>>135 5が見事に並んだな。
っうことで呉蘭でも語ってくれないか。
呉蘭は英雄とは言いがたいから、
先方の板では板違いになるしここで語れるな。
英雄だったとしても
三国時代前後は全部こっちの板の管轄だと思うけどな……
いや、単なる荒らしだから
ところでさあ、特に差し迫った状況でもなかったのに部下に寝首を掻かれた大将って張飛以外にもいるか?
夷陵前は差し迫った時期だろ、常識的に考えて…
>>141 そうかなあ?
例えば落城間近の篭城中、早く降伏しないと皆殺しにされちゃうという状況で大将が降伏してくれないのでやむなくという場合。
例えば圧倒的な不利な状況の中で玉砕覚悟で突撃をかまそうという大将を諌めたが聞かず、逆に殺されそうになったのでやむなくいという場合。
こういった状況と比べると夷陵前の準備中は差し迫った状況とは思えないけどなあ。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/05(日) 19:07:38
そんかん
差し迫ってたのは張達と范彊だけどな
140の人は、
差し迫った状況でもないのに大将の寝首を掻いた部下はいるか?
って聞きたいんでしょ。だったら費禕殺しの郭循が該当するんじゃないかな。
蜀以外なら楊醜とか笮融とか。張繡は曹操に逃げられた。
もうむじんは病気の域に達してるな……
完全にファビョったな。むじんって在日か何かなのか?
いや、別に知りたいわけじゃないけど
150 :
むじん:2006/11/10(金) 00:17:32
なんか問題でも?
ああ、むじんだったのか
すっかり忘れてたよw
東亜かN速にでも貼ってくればいいんじゃねーのw
153 :
むじん:2006/11/10(金) 10:10:16
154 :
むじん:2006/11/10(金) 10:19:38
ちゅーかやね、三戦板に私怨を持ち込んで三国志と関係ない話するなよ。
南京問題に異論があるなら当該エントリにコメント入れなさい。
自分じゃ反駁できないからって他人に突撃させようとするヘタレぶりが馬鹿にされてんだよ。
つーわけで、ここでの南京話は終わり。続きはあっちでやってくらはい。
まぁむじんがメンヘラだってことはわかった
>>154 気持ちはわからんでもないけど、カッカせん方がいいよ
話は終わりも何も、自分で貼ったんだろ?三流釣師よ
孟達って、その風貌体裁があまりにも立派だったんで、
曹操が驚いたって記述を見た記憶があるんだが、
演技だったっけ?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 15:22:40
曹操じゃなくて曹丕だね。
羅憲
蜀滅亡のとき、火事場泥棒的に侵入してきた孫呉の軍勢を返り討ちにした。
その手腕を買われ後に晋に帰服。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 17:34:33
そのとうり!
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 18:32:54
羅憲は名将だ
人を見る目も優れており、後に、三国志正史をを書き上げる陳寿を
晋を推挙したのも羅憲である。
うんわかるけど、いきなり褒め称えられても困る
羅憲が晋に帰服したのは、白帝城で篭城中の事だったはずだが。
参軍の楊宗を陳騫の元に派遣して、来援を要請すると共に、人質やら印綬やらを差し出していたはず。
この戦いは、ちょっと陸抗がだらしないね。
3万以上の戦力を有し、4月か5月くらいから7月までの、3,4ヶ月間は包囲してたのに、
白帝を陥落させる事ができなかったからね。
楊宗に率いさせた戦力が既に城を脱出していたので、羅憲の戦力は千数百だろう。
20〜30倍の戦力で囲んでたのに、一向に落とせなかった事になる。
白帝がよほど堅かったのか、夏という事が影響してたのか、或いは羅憲が凄かったのか。
何にしても、この白帝を前に何もできなかった人物は、
8年後に難攻不落の西陵城を鮮やかに落とした人物とは似ても似つかない。
その後の8年間に何があったんだろうね?
あの諸葛亮だって、1000名程度しか篭ってない陳倉城を数万人で攻めて落せないという大ポカやらかしてるんだし、あり得る事じゃないかな。
>>169 べつに陸抗ひとりで出張ってたわけでもないからね
>>170 諸葛亮は3週間程度という期間しかなかったから、数ヶ月あった陸抗とは少し違う。
ただ、白帝城周辺の地形が、今とそう変わっていないとすれば、攻城兵器を設ける場所も無いので、
戦力が多数あっても、力攻めという選択ができなかった可能性もある。
>>171 知ってるよ。建平太守盛曼や、撫軍将軍歩協、征西将軍留平なんかも包囲に加わっていた。
留平は江陵から派遣されたものだが、盛曼や歩協は、建平から西陵までの軍事を統括していた陸抗の麾下にあったはず。
施績自ら出張ってない以上、現場の指揮権は陸抗にあったと思う。
歩協に関しては、将軍位だけ見ると陸抗とどっちが上か判断つかないので困るが。
陳倉城って攻城兵器なかったか?
それを言うなら守城兵器じゃないのか
……実際にあったかどうかは大変気になる
弩ぐらいはありそうだが
雲悌、衝車、井闌とあるんじゃね?
そのどれもが攻城兵器では
ウンコ爆弾と熱湯ぐらいはあったろ。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/16(木) 19:24:00
蜀だと羅憲・魏延・孟達が好きです
ウンコ爆弾と、熱湯、御酒ぶっ掛け→火矢
これで撃退したんじゃなかったっけ?郭ショウは。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/16(木) 20:17:12
糞はマジ話
県門と言う、門扉の内側に置く縄で上げ下げできる鉄板や、
柄の長さが8尺にもなる斧や鎌なんかを城壁や城門防御に用いたみたいだな。
後は投下兵器を安全に用いる為の、城壁の外に突き出す移動式テラス(藉車)とかか。
陳倉に関してはよく分からんが、各種投下兵器と、土木工事用の道具と人員、
床弩くらいは備えてたと思う。
郝昭も実際に使ってたしね。
陳倉は火砲をぶっぱなしてたぞ。
無双では・・・
魏軍 陳倉城/郝昭三千
蜀軍 諸葛亮十万