1 :
周瑜公謹:
長江の海は俺の海 俺の果てしない憧れさ
孫呉旗は俺の旗 俺の捨てきれぬ故郷さ
友・孫策よ、明日のない命と知っても 君は孫呉を愛していた
俺も孫呉を守って戦うのだ 命を捨てて俺は生きる 命を捨てて俺は生きる
ハーロックかよww
神はただ広夢一人のみ
佐倉広夢の偉大さを称えよ
どうして頭の悪い子は「軍師」って単語が好きなんかね
>>4 ボーイズラブゲーム【好きなものは好きなのだからしょうがない】を買えば
広夢の偉大さわかる。今は中古でだいぶ安いと思う。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 13:02:53
でもさ周瑜って格好イイよねやっぱり。
船の舳先に立って長江の風を受けてマントを翻す・・・俺三国志ドラマやるなら周瑜の役がイイ
俺は虞翻役がいい
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 13:24:15
軍師じゃなく提督とか将軍って感じだよな全員
1の歌は提督が歌ってこそ
呉で軍師と言えば張昭とか諸葛格だな
>>6 今さら好きしょを薦めるとは時代錯誤も甚だしいわ
昔は需要に対して供給が少なかったからあんなのでも売れただけ
せめて咎犬とか楽園行あたりを薦めろよ
孫策はトチロー扱いかよ
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 14:14:03
実際文武両道が多かった呉の中枢
なぜだろうか?周瑜、呂蒙、陸遜なんかは立派な将軍としても記録がある
大局を見れる力があったよな
魏も呉も局地戦は強いけど大局的には如何なものかという将軍が多かった。
カンヌとか筆頭。地方一軍預かる身で、面子や誇りに命を賭けるとは…
関羽は魏でも呉でもないとないと思う
呉公の最終決断だから仕方ないが
呉の国益考えたら魏と共闘して蜀と戦ったのは駄目だった
あのときの状況で蜀が滅ぼされたら呉も滅ぼされるだけだからね
…って事を語っていいのか、大キョウをエメラルダスだということ語ればいいのか
17 :
14:2006/09/13(水) 14:42:31
>>16 まぁ、神様になっちゃったしねw
でも夏候淵とか、局地戦には強いけど大きい戦局では弱い印象がある。結局漢中取られたし。
張コウとか、張遼も、良将だけど、対極的に云々した事ないし
許猪に至っては単なる警護役だし。
スレタイは提督にすればいいと思うよ
軍師という意味合いでは張昭を忘れて欲しくないですよね
>>16みたいなのっていろんなスレに湧くよね。
隔離スレいくつもあるんだからそこに引きこもってればいいのに。
まぁ四人とも呉の戦略に大いに影響を与えてリードしてきた人達だから軍師と言って言えなくはないんでないか?
魏が謀臣と将軍に役割分担されてるところを各々1人で担ったみたいなイメージ。
>>19 「周瑜の二分論か魯粛の三分論(便宜上)か?」で揉めるようなものだから、
そういう意見を持ってる人が居ること自体はしょうがないべ。
呉は豪族の部曲体質が強かった影響で、中枢に出仕している人間は文官が本業でも
みんな兵を率いる軍務をこなしたって言うじゃない 張昭とか諸葛瑾とか魯粛とか
だから文武両道タイプに見える将軍が多いのは割と自然な流れなんじゃないかね
とりあえず魯粛が他の三人より扱い悪いのはガチ。
ゲームだと大体
周瑜、呂蒙、陸遜→エース、もしくは準エース
魯粛→控え、サブ
こんな感じ。
ゲームだと呂蒙が一番扱い悪いと思うけど。
こればかりは演義ベースなのと、今までの光栄が植えつけてきたイメージもあるから容易に変えられないのかも。
演義ベースなら魯粛が一番下だろう
呂蒙はけっこうよく描かれてるよ。呪い殺されるけど
大都督って知事じゃないのか???
呉の軍師って張昭じゃないのか???
>>28 呉の都督連中はあえて現代風にいえば地方の知事兼防衛庁長官みたいな感じで、
張昭は派閥の政調会長みたいな感じかなぁ…
少なくとも孫策の軍師は張昭だと思うぞ
孫策時代限定なら張昭より張紘だと思う。初めて孫家の長期戦略を説いた人。
軍師に拘るのがおかしいと思うんだが
孫権の状況に応じての基本戦略が見える人事。
孫権初期:揚州維持→…→中原進出→後漢朝中興
魯粛a:江夏攻略→江陵制圧→荊州制圧→益州制圧→天下二分→南帝即位(dでもすぎて却下)
周瑜:江陵奪取→先主拘禁→呉軍の益州制圧→天下二分→後漢朝中興
魯粛b:江陵貸与→先主入蜀→荊州分割→荊州返還→天下三分→呉帝即位
呂蒙・陸遜:関羽討伐→荊州領有→夷陵戦→早期講和→天下三分→呉帝即位
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 11:13:43
>>24 光栄ゲームの能力値的には
周瑜、陸遜→スーパーエース
魯粛→エース
呂蒙→イベントで覚醒しない限り糞
だね
俺は三国志やる時にはいつも劉備、カンヌ、町費は処刑してる。
周瑜の哲学を貫くためにも、奴らと共に天は抱かず!ザシュッ
周瑜を思うなら関羽張飛を手足として
劉備を傀儡にして本国安置
諸葛亮は斬首だと思うぞ
36 :
237:2006/09/15(金) 22:58:18
風は叫ぶ 人の世の哀しみを 星に抱かれた静寂の中で
胸を聞けば 燃ゆる血潮の赫は 共に混ざりて 大いなる流れに
人は夢見る ゆえに儚く 人は夢見る ゆえに生きるもの
嗚々 嗚々 誰も知らない
嗚々 嗚々 明日散る花さえも
固い契り 爛漫の花の下 月を飲み干す 宴の盃
君は帰らず 残されて佇めば 肩にあの日の 誓いの花吹雪
人は信じて そして破れて 人は信じて そして生きるもの
嗚々 嗚々 誰も知らない
嗚々 嗚々 明日散る花さえも
国は破れて 城も破れて 草は枯れても 風は鳴きわたる
嗚々 嗚々 誰も知らない
嗚々 嗚々 風のその姿を
嗚々 嗚々 誰も知らない
嗚々 嗚々 風のその姿を
37 :
満太:2006/09/17(日) 22:20:33
あげ
>>35 諸葛亮は駄目なんかw
しかし周瑜は本人の資質もそうだけど、良い意味で周りに強い影響力も持ってたよな。
魯粛連れて来て推薦したのは周瑜だし、甘寧を重く用いるように呂蒙と共に進言したりしてるんだが
この2人、両方とも破天荒なタイプでそれぞれご意見番張昭から説教食らってたりする。
それでも二人が力発揮できたのは孫権の器だけじゃなく周瑜の擁護があったからじゃないかと。
「弁亡論」の引用だけど、孫策に招かれた人物の内、名高き名士の中では張昭が、才気溢れる傑物の中では周瑜が、
それぞれ中心人物であり、この二人が優れて聡明だったため性質や志を同じくする者が集まったため江東は多士済々となったとある。
特に北から流れて来たような名士たちは地盤もない呉で張昭からの口利きを頼りにしただろうし、
名士層から敬遠されがちな無頼の徒や保守層に合わない急進派にとって周瑜の発言力は有難かったはず。
つーかこの二人、下手したら初期の孫権よりよっぽど影響力あった気がしないでもないw
昔、魯粛が陸戦に長けていたという知識を三戦で仕入れたんだけど、どういう逸話があるの?
横山三国志
>>39 出典は確か三国志演義。
周瑜が諸葛亮を亡き者にしようと謀り曹操の兵糧庫を超少人数で落として来てと依頼(曹操軍に殺させようとした)。
それをあっさり承諾した諸葛亮を心配に思った魯粛が夜に尋ねると
諸葛亮は「自分は四つの戦(水上戦、陸上戦、後二つは忘れた)全てこなせるので楽勝」と言い、
さらに「周瑜殿と言えば水上戦、魯粛殿と言えば陸上戦が有名だがそれ以外はとんと聞かない、例えば今回の戦い(陸上戦)は
周瑜殿にはとてもこなせないでしょうね」と漏らし、それを魯粛から聞いた周瑜は「俺の陸戦の腕を見せちゃるけー!!」
と自ら作戦の指揮を取り諸葛亮は危機を逃れたって話だったと思う。
孔明:水上戦S、陸上戦S、空中戦S、宇宙戦S
周瑜:水上戦S、陸上戦A
魯粛:水上戦A、陸上戦S
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 10:04:10
水中戦は?
>>43 甘寧と
董襲(ウソ)
話元に戻してマジレスすると
実際「水の周瑜、陸の魯粛」なんて言われてたらしいね
演義で呉の童歌になっていたという奴か
後の二つは攻城戦と防衛戦だったような?
はっきり覚えてないけど
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 12:51:52
>>41実際は周喩も行ってない。孔明に諭されたから。何人の兵で攻めようが、全滅するだけだから、止めておきなさいと。周喩の策はお見通しだった訳だ。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 06:37:45
ま、蜀はカンヌが死んだ時点で終わったけどね。ほかに方面軍任せらる人材がいなかったし
>>49 おまいらは歴史の表層しか見えんアホだから真の偉人の名も知らんだろうが
李厳だったらあの陸遜にも引けを取らんだろう
>>50 49は結果論をしてるんじゃないの
諸葛亮が誰を配置すればよかった、じゃなく、歴史を未来から見てさ
で、自分は結果論でなくお前と同じような視点から追い打ちをかけるが、
それこそ諸葛亮の人の見る目のなさは歴史が証明してる
劉備にすら重用するなと言われた馬謖といいそいつといい
表面的なプライドのために大局を誤る奴ばっか
頭脳だけで「だろう」「だったはず」が通用するほど歴史は甘くない
個人的には諸葛亮は人を見る目がないというよりは、
安定した組織を志向して人を見てると思う。
逆に劉備の人材観はヤマ師型なイメージ。
無理な戦をする必要のない、安定した国家の運営だったら
諸葛亮の人事の方が活きたんじゃないだろうか。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 11:41:25
>>51 だね。呉だってそんなに人材に溢れる国じゃないが黄概、徐盛、程普あたりの堅実な将軍を周瑜らが上手に使いこなしてた
例えば蜀ならばビホウやフシジンあたりだってそこそこの将になりえたかも知れないのに
カンヌチョウヒだけが二大巨頭で次席にちょううん、あとは知らん、じゃあやる気無くすよな
俺が公明なら、チョウウンをケイシュウに置いたな。プライドはあるが国の施策を無視してまでプライド貫く馬鹿な真似はしないだろうし。
>>50 言ってるわりに自身は講談をもとに語ろうとしてはいやしないかい?李厳が陸遜に並ぶ器と評されたのは演義の話し。
そうじゃないとしたら、とても並ぶようには思えないが…
まぁ呉の軍師スレで李厳を槍玉にあげる必要もないか。
>>53 >俺が公明なら
徐晃になっちゃってますよ
わかってないな
>>50はスレ違いな蜀の話題に呉を絡めた皮肉だろ
大した意味はない
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 15:29:38
俺が周瑜なら…悩むな…
赤壁に勝ったとはいえ、ガチで蜀叩く訳には行かないだろうし。
その間隙をついた劉備は汚ねえ!さすが寄生虫の親方は違うよな
>>58 火事場泥棒は呉が先
赤壁の勢いでちゃっかり江夏に居座って全然返却しようともしない
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 15:48:52
>>59 フッ笑止な・・・貴様ら流浪の賤軍が呉の戦力をあてにして赤壁に挑んだ分際でよく言うわ!!!!おっといかん、美周郎が乗り移ってしまったw
>>60 実際のところ、呉の戦力が無くても劉備一党が勝利してた可能性は結構高い。
呉の戦力があったから戦後一気に劉備が伸びたってのは確かなんだけどもね。
歴史を彩る大決戦や大殺戮
この類にはデマが憑き物である
南京大虐殺然り、徐州大虐殺然り、ジャンヌダルクの美貌然り
クルド人虐殺はホントらしいが
話を戻すとだな
他の官渡、夷陵、五丈原などの大決戦となると数々の武将が死んだり
または投降したりしたわけだ
そこんとこいくと赤壁で死んだ奴いなくね!?
ってわけだな
蔡兄弟や張允は除く
てかいずれも荊州劉氏の中で力を持った奴だしな
単に政治的な理由で殺られたんじゃなかろうか
徐州大虐殺?
三国時代なんてなかったんだよチミ達
ホラ吹きの羅漢中に騙されたのさ
全部コーエー商法さ
>>61 全然高くないと思う…というかそういう説初めて聞いたからよく考えたこともなかったけど、多分ないだろう。
当時の戦力を分析してみるとまず江陵を目指した劉備本隊は五千の追撃を受け数十騎で逃走とあり、張飛が二十騎で
趙雲は殆ど単騎に近く、やはり劉備と共に逃げ切ったのは百人に満たなかったと考えられる。
一方水路で江陵を目指した関羽は船数百と中々の装備で出発し、漢津で無事合流を果たしたとあるが、
実は徐晃らの追撃を受けており、被害が予想される。劉備と共に無事河を渡り脱出を果たしたが、
追撃を受けた後の船で、さらに分乗した住民も差っぴいた時に何人の兵士がいたかは微妙。
諸葛亮は孫権に向かって「帰還兵と関羽の手勢合わせて精兵一万」とか嘯いてたが、元々の手勢が二万も三万もあったわけでもなく、
追撃を受け数十まで減った軍に一体はぐれた内何人がそもそも合流しようと思い、実際に自力で船を用意するなりなんだりして
追撃の手を逃れ河を渡って合流できたのか疑わしい。劉jの側近の寝返り組みもどこまで付いてこれるものやら…
ここでは仮に敗残兵かつ装備物資も十分ではない(江陵は相手に押さえられた)兵でも、一応一万人あったとする。
そうすると江夏太守として劉gの集めた一万と合わせて2万、物資は主に江夏郡にあるもののみ。
…俺には勝機が見えない。曹操が軍を別ければ長江沿いの渡し場をカバーし切れず渡河されて江夏を狙われ
野戦に引きずり込まれて大軍に呑まれて終了、とでもなりそうなんだがどうか?
雷じゃ!
神算と天文持ちの孔明に鬼謀持ちのホウ統が加われば雷が落とせるじゃ!
おぉなんと言うことだ!味方に落ちてしまった!
関羽が落雷で重傷を負いました
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 21:22:02
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 21:36:21
>>67 呉末期の参謀だって良かろう。丁奉は長生きだねえ。
ただしあんまり頭使ってる印象がないんだが…最長老ゆえに重用されただけでは?
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 21:51:06
朱然朱桓孫桓は無視かこいつら
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 21:53:49
そんな奴ら無視に決まってるだろwww
てか誰だよwwwww
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 22:58:51
>>71 すげえ長生きだろう!?だって堅い親父の代から呉の末期までいたんだぜ?ほかに居ないよそんな武将。
丁奉の出仕の時期って記録が無いんだけどなあ。
しかも252年まで具体的な記録がほとんど無い。
>>72 >堅い親父の代から
いや、いないって
・甘寧、陸遜、潘璋の属将
・孫権の時代は偏将軍どまり
・孫亮即位で漸く冠軍将軍
・257年に漸く四方(左)将軍
・264年、朱然の子・施績と同格の大司馬
呉主(孫権)伝や併伝された黄蓋や周泰、徐盛らの伝にも一切登場せず、
陸機の「弁亡論」での扱いや、位階・爵位の昇進過程やほぼ同格の将官連中と
比較してみても、一世代ほど後の人間と見た方が自然
おそらく孫権の時代になって出仕した人物
呉で確認できる限り最も長寿な人物は256年に96歳で歿した呂岱
演義とごっちゃになってんだろ。
徐盛とワンセットのアレだ。
演義にしろいないよ
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 18:43:12
ま、俺は光栄のゲームやる時にゃあ孫堅よ。
やはり孫堅、孫策の二代でしかやる気になれん。劉備でなんて絶対やりたくない。
個人的な好みの話しなんだが、周瑜>呂蒙>陸遜>魯粛の順に好きだ。
魯粛も嫌いじゃないんだが、前3人が知勇兼備なのに比べて不完全感があるな俺は。
俺は魯粛>呂蒙>周瑜>陸遜の順だな。
いまいち目立たないショボサがなんとも言えず好きだ。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 09:43:25
俺は俺は周瑜>陸遜>魯粛>呂蒙の順だな。
ああ!顔で選んでますが何か!?ww
ってか呂蒙は、呉のためには良いことをしたよね状態なんだが、カンヌの破り方、殺し方がなぁ・・・
横山光輝版では嫌いになるよなぁ。
横光版でその4人の顔の区別をつけられる
>>80が凄いと思った
てかごめん傷とか髭意外は登場人物全員同じに見える
82 :
80:2006/09/25(月) 10:50:52
>>81 ごめん言葉が足り無すぎる俺ww
光栄ゲームの顔や、厨獄三国志画本での印象から、周瑜>陸遜>魯粛>呂蒙の順だな。
んで、呂蒙に関しては、呉に対して功労がすごくあるんだけど、印象はいまいちと。
武将なら孫策、孫堅、甘寧、周泰、太史慈の順に好き
>>81 えっ…その四人だったら横光でも解るだろ
ナマズヒゲの周瑜・田舎のぼっちゃん風の呂蒙・おにぎりの陸遜・目の下にクマの魯粛
他キャラまでまぜればわからなくなるかもしれないが
周瑜は「美」が正当な評価の障害になってると思うんだが。
まあ横光には関係ない。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 10:51:46
>>84 どっちの意味?美しさゆえに能力の評価が無くてかわいそうだということ?
それとも、本当は無能なのに美しさだけで祭り上げられてるということ?
後者ならぶっ飛ばす!w
おにぎりの陸遜はガチ!
玉のような書生でガチ
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 11:04:09
>>87 孫権時代以降は姻戚関係のおかげでなあなあで済んだという
悪意にまみれた解釈もできるかもしれないが
孫策時代に二張を発掘し的確に戦略を出してきたことをどう説明する
…ってふうに食い付かれるから煽って遊ぶのもほどほどにな
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 11:30:48
周瑜が二張を推挙したの?
>>90 美周朗ということは演義の話題だろうから、それなら周瑜が推挙してたはず。確か揚州制圧時に兵を率いて合流した周瑜が
「君は江東の二張を知っているか?」みたいな切り出しで推薦してた。軍師周瑜の初仕事だね。
余談だが正史だと二張は侵攻開始以前にスカウトされてるので確か周瑜の合流よりちょっぴり早かった。
魯粛も甘寧(呂蒙に推挙された)も取り立てたのは周瑜。
演義は呉の軍師に酷い事をしたよね
軍師だってさ
横光三国志だと
魯粛は「あわわ」「むむむ」「むぎゅー」なイメージしかない
蒼天の魯粛になら抱かれてもいい
孫権の評価である
周瑜(=陸遜?)>呂蒙>魯粛
は妥当なのか?
「どれだけ孫権の望みを叶えたか?」という観点では実際そうだったんだろう。
あとは評価する奴の基準(好み)しだいで順位も変わるだろう、っていうぐらい僅差。
魯粛の評価は、評価する奴のパワーバランス観が
「劉備>周瑜」か「劉備<周瑜」か
(つまり劉備を利用しなくても呉が勢力拡大できるかどうか)
で変わる希ガス
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 05:22:27
>>100 でも大体の評価は周瑜>魯粛で定まってんのに
劉備>周瑜は激しく異論がありそうだよな
個人的には劉備を利用しなくても蜀を攻略できたと思う
ただそれだけの遠征をして赤壁敗戦後とはいえ魏が大人しく見ているとは思えないが・・・
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 05:27:18
二張はいないのか
>>101 最終的には関羽を除く主力まで総動員した劉備を見て魏が突っかけたかといえばそうでもないわけで。
赤壁の影響は思いのほか大きかったんだろう。次も仕掛けて負けたりした日にゃ求心力が…という心配。
赤壁では魏軍の損害は結構大きかっただろ。
伝染病も流行ってたはずだが
魯粛は頑固ジジイというイメージが強くてw
中国のどっかにある周瑜の肖像画にはヒゲがないらしいぞ
しかし赤壁戦の規模そのものに疑問があるともいわれてるしなあ。
呉のファンとしては夢を見たいが。
かといって曹操が嫌いな訳ではない。ただ劉備はいけすかん。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 23:28:02
>>105まさに同じく。
曹操は頑張ったし、自力でやってきた部分が多い。呉も然り
しかし劉関張らは他力本願のみ。ま、俺も桃園の誓いとカンヌの死では泣くんだがww
やっぱり呉が好き、シュウユガス気
孫権は駄目だ。
やぱし孫策に天下を取って欲しかった。
周ユは孫権からだったら、呉に仕えたかね?
>>107 意気に応えて粋に生きたのが周瑜だから、親交がなければ無理だと思う。
でも三顧の礼を尽くして孫権と意気投合したかもしれんし、それはわからんよ。
でも自分の部曲作って自衛活動とか治安取締りをあの性格だとやりそうだから(上品で優しくなった曹操みたいなもんだ)
結局孫権に仕える事になったんじゃないかね?
周瑜の場合孫策が孫権が〜というより孫家と家族ぐるみの付き合いだったことがデカイと思うね。
「自分を良く知る主君に出会い、表面的には君臣の間柄であっても実際には肉親と変わらぬ恩義を結び、
自分の意見が皆受け入れられ実行され、幸も不幸も主君と一体であれば、例え古代の遊説家が蘇ったとしても私の心は動かせない」
この関係にさえあれば例え孫皓だろうと身命を賭して使えたはず。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 15:26:56
なんか孫親子ってO型のイメージがない?
現実的、血縁や身内に熱い、自分に絶大なる自信がある、かと思うと大ポカで死ぬ
なんか曹操ってB型のイメージがない?
天才肌、感情の起伏が激しい、結構根に持つかと思いきや、チョウシュウは許したり
なんか劉備ってA型のイメージがない?
他人の優越感をくすぐり自分の生きる道を探す、建前の塊で本当は利己的
誤爆かい?
>>110 A型O型は人口でかいぶん意外と幅があっていろんな性格がいるから
うかつなこと言うと「俺は違う」が大量に返ってきて危険だぞ
それに性格は体細胞遺伝らしいから
安易に赤血球だけの4パターンで決めつけるのは危険だ
血液型占いなんて所詮日本人を集計したものだから
どうがんばっても外国人には合わないしな
心理学者に言わせると、学術的裏づけの無い血液型占いは心理学への冒涜だそうだ。
血液型占いは、それを知っているものにしか
意味がないそうだ。
陸遜の話題がさっぱりですな
蒼天航路の作者に孫三代が主人公の漫画を描いてもらいたい!!
いや、孫皓まで描いてもらってもいいけど。
漫画に影響うけ過ぎの厨が増殖するんで勘弁
「曹操劉備孫堅司馬懿がいないなら天下撮るの誰?」ってスレがあるんだけどさ
仮に孫家が無かった場合、魯粛は周瑜と一緒な気がするし、呂蒙 陸遜は誰かしらに仕えたんじゃないかと想像するんだけど、周瑜はどうだろう?
誰かに仕えたのかな?それとも自分が群雄の一人になったのか
>>118 周瑜は当時丹楊にいたので独立してなければ劉繇に仕えて袁術と対決。
あるいは袁術配下の部将、場合によっては劉備配下の部将。
>>118 それは孫策やら孫権やらはいるって設定?
>>118 朝廷出仕
↓
曹操に目つけられる
↓
参謀の一人として仕える
というコースはどうだろ
緻密な思考の人は、余程非情な性格でないと
君主としてやってくのは難しいと思う。
>>115 陸遜は長年呉に仕えてやるべきことは大方全部こなした呉の脊柱だけど、
逆に全力を尽くしきっての結果だから特に語るべき要素があんま無いんだよね。
「あそこで病死してなければ…」とかもないし、趨勢はほぼ固まった状況でバトン渡されてるから。
最後が憤死ではやりきれませんがな
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 14:44:20
でも医療の闘いでは、陸遜が劉糞を追い返さなかったら呉もかなりの痛手を受けて、国の寿命がすごい縮んだと思うよ。
それ考えると功労は大なり
>>124 そりゃそうさ、凄いし偉いよ。でもそれで終わっちゃって話膨らまないのが悩みの種という意味。
陸遜を卑下する気持ちはない。
陸遜は好きな人物だが語りにくい
どちらかというと周瑜呂蒙のようなこれからという時に死んでしまった人物の方が
語る隙があるというか妄想の幅が広いというか話題にしやすいというか
ところでここは周瑜魯粛呂蒙陸遜以外も語っていいんだよな?
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 20:27:48
↑勿論。基本は呉スレだから。
じゃあいまいち理解者に恵まれていない感じの魯粛について語ろうぜw
周瑜>陸遜≧呂蒙≧魯粛
うーん・・・
正直むずいね。
ホウ統の分周瑜がトップ
魯粛は金持ちのイメージがつおい
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 21:06:36
>>127 陸遜だってこれから孫和を推し立てて呉を壟断しようというところで死んじゃったじゃないか。
たまには単刀赴会で毅然と対応する魯粛が見てみたいもんだ
演義における名将ぶりは
陸孫≧孔明と関わってない周瑜>>呂蒙>>孔明と関わっちゃった周瑜>>>>>魯粛さん
って感じだな
あ、陸遜の名前間違えた
魯粛さんはどの作品でもピエロ扱いだな
振り回されるより振り回す側というイメージなんだが
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 02:16:25
呉の人間は諸葛亮と関羽のイメージアップ作戦の一番の被害者。カワイソです。
朱子学の被害者だろ
カンヌなんて大局の見えて無いただの武力馬鹿じゃん。
そりゃ、一回ごとの小競り合いでは知力もそこそこ使うし、つおいんだろうけど
呉の武将達って、武力馬鹿が少ないから光栄的には見劣りさせられちゃうんだろうな
>>138 演義を一足飛びにしてなんで史実からいきなり光栄なんだw
言いたいことはわかるけどさ
肥の能力値が、しみついちゃってるんだよな…
しかし最近の周ユの武力低すぎね?
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甘寧 約 268,000 件
周泰 約 216,000 件
程普 約 111,000 件
徐盛 約 103,000 件
凌統 約 84,800 件
丁奉 約 75,500 件
虞翻 約 79,900 件
丁奉や虞翻にすら負けてる魯粛さん泣けるOTL
大喬 の検索結果のうち 日本語のページ 約 99,000 件
孫尚香 の検索結果のうち 日本語のページ 約 89,400 件
已んぬる哉、架空の姓名にまで敗れるとは…
でも孫権は快事を語るのに、わざわざ魯粛絡みの形で説明してるんだよな
「魯粛は周瑜を呼び寄せて曹操と対決しろと進言してくれた これが第二の快事」
ってそこは周瑜だけ褒めてりゃOKじゃん
孫権は魯粛のこと買ってたもんなあ
周瑜が出す戦略出す戦略微妙に孫策時代の積極性をひきずってたのに対し
魯粛は孫権の性格を把握しつくしてノせたりヒイたりするのがうまかった印象がある
>>142 小喬に至っては1,310,000 件ヒットという事実。
まあ検索結果の上の方は無双と大戦関連ばっかりなんで、こんな人気ならも無くても別に…と強がってみる。
魯粛を馬鹿にすんなあ!
魯粛はなあ!魯粛はなあ…
えーと何を言おうとしてたんだっけ…
みんな魯粛好きだなw俺も好きだけど
主将 副将
周瑜 程普
魯粛 呂蒙
呂蒙 孫咬
陸遜 朱然
>>145 検索ワードに
-三國無双 -三国無双 -三国志大戦
を追加してみたらどうだ?
猛将の場合「天下無双」って書かれてることがあるから「-無双」じゃダメだ
魯粛の良さはわかる奴だけがわかってればいい。
夢想なんかで妙なキャラ化して、メジャーになるなど言語道断。
そういや三国志マガジンの魯粛の話、かっこよかったなあ…
周郎が。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 03:17:34
蒼天の魯粛は見た目かっこいいだけでキャラ的には失敗作だったよね
あれなら横山魯粛のほうがキャラ立ってた
蒼天の魯粛見た目かっこよかったか?
自分も魯粛好きなので、
無双なんかで変なキャラにされるのはゴメンだな。
蒼天の魯粛は言うほど悪いキャラじゃなかったよ。
ただ周瑜がかっこよすぎただけで………
>>153 かっこよかったよ、もみあげとか
…もみあげとか
719 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/06(金) 08:53:42
江陵の辺に住血吸虫がいる水系がいくつかあるんだよね
曹操も軍勢がそこで疫病に遭うし、周瑜は病死
魯粛、呂蒙も病死
どう見ても寄生虫にやられてます
死亡直前の周瑜は顔とかやばい事になってたんじゃない?
>>156 呂蒙が肺結核と判明しているのはスルーかそいつ
そういえば昔光栄の投稿本(ダガマとかそのへん)に
演義での「全身の穴から血を出して死ぬ」を大まじめにとりあげて
エボラ出血熱ではという論を展開したおちゃめさんもいたなw
>>154 眉毛があれでなければ、カッコ
よかったがな。
俺的には、顔だけならば陸遜の方
が良かった。
しかし呂蒙はなぜ陸遜をああもべた
褒めだったのか。
>>157 お、そんな話があるのか>結核
正史からじゃわからなかったんだがどこにそんな話があったんだ?
結核かどうか以前に
病死=寄生虫は短絡的すぎる
そういえば周瑜はどこでも(キャラデザに好き嫌いはあっても)長髪美形なようだが、
それって正史にも描かれているの?
容姿が立派だったと正史にはある
正史読んだ感じでは、もう少し薄倖の美男子と言うよりは
マッチョな感じなのかなと思っていた。
でもそれより無双も含め大体のベースは演義なんでないの?
蒼天は正史ベースっぽいが、蒼天周瑜は
美形だけど、あの中では取り立てて長髪でもないな。
長髪は、この時代の人ならみんなそうだろ。結ってるかおろしてるか
の違いだけで。
周瑜のキャラデザに結ってない型が多いのは、ヴィジュアル的に
その方が華やかに見えるからで、実際にはきっちりと結い上げて
纏めてたと思う。
人前で冠をつけてないのは、ものすごく失礼なこととかって話が
なかったっけか。
それがし無双もそれはそれとして楽しめるが、周瑜の設定だけは
ファンとして何とか改善して欲しい。見た目はいいけど、性格が
変なんだもん…
あ、でもとりあえず馬超の次でいいや。バチョーサンヒドスギマスカラネ…
>>163 薄倖の美男子つうのがどこ準拠なんだ。演義ってそんなイメージ?
世間一般的には何故かそのようだが、やはりお口から血吐いたのが決定的
だったのかね。沖田みたく。
早死にってことだろ?<薄倖の美青年
小橋とやりまくって憤死。
それは腹上死と言わないか
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 02:56:57
それは反三国志だ
っつっても30半ばだろ?
青年って歳でもないだろ
夭折が40でも適応される言葉なんだぞ
30半ばでも充分若い
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 06:08:28
へ?
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 06:09:43
夭折って別に若いって意味ないだろ
夭逝は早死にすること
夭一字で早死にって意味がある
余計な書き込みで掲示板のソース使ってる暇があったらちょっと辞書見ろ
最近は言葉が乱れていて、60過ぎのキャラに夭折を使う小説家とかいるからなあ。
多分、やりのこした仕事があるのに早死んだ、っていうニュアンスを
持たせてるんだろうが。
六十の場合は正だな。女生徒だ魅だが
まー夭折かどうかは別として、周湯はすごく志半ばの死、で本人も無念だったろう。
蒼天の最期は綺麗ではあったけど、そんなすっきりした思いで死ねるかなぁとも思ったよ。病気を自覚していたとはいえ。
それでも、演義の米うらみ節よりはましだが。
>>178 音借にもなってないその適当な当て字を止めろ
光栄が肥なんだから、孔明が※でもいいような気がするが、
敢えて当て字にする理由はないなw
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/13(金) 00:09:04
あげ
文学スレに周瑜の遺書あるけどさ…
あれ読むと夭折の美青年っつーイメージ湧くわな。
しかしあそこの1氏に洗脳されて、
俺の中で悟った如く穏やかな周瑜像がデフォに。
逆に諸葛亮が、キレやすいエネルギッシュなイメージになった。
演義の周瑜と諸葛亮の丁度逆、みたいな。
あのスレは余計なバイアスが掛かっていない
肉筆の文章を扱ってるからな。
諸葛亮や馬超、孫策との人物的比較は面白い。
そして、同じくバイアスの小さい情報である
実際の戦略戦術を平行して考えた上で
互いの中心に立って見ると、
かなりリアルな提督周瑜像が浮かび上がって来ると思われ。
>>184 謙虚で穏やかな孫呉の臣、才気溢れる若き水軍提督。
寛容で音曲に秀で、愛妻家で見栄えも立派。
あっちの1氏でなくても周瑜贔屓になるわなw
>>185 なんだかそこまでいくと逆に腹立たしくなってきたw家は名家で嫁さんは美人ともうやってらんない俺狭量。
187 :
184:2006/10/13(金) 19:09:38
文学スレの1氏に周瑜の人物像解説依頼完了。
周瑜の戦略戦術は、どういう傾向にあるんだろうか?
平行して考えてみたいのだが。
>>187 新鮮味のない解説でスマンが、周瑜の戦略戦術としては
まず先手を打って要所を押さえる→敵を地勢的に切り崩し勝機を待つ→頃合を見て一気に決める
こんな感じじゃないかな?先に青写真を描いてから淡々と実行するタイプと予想。
赤壁ではまず夏口を落として曹操の上陸阻止、
→夏口で守りを固めて曹操の先鋒隊撃破、曹操に水郷地帯での持久戦を強いる
→会戦以前の予想通り疫病の大発生、弱みに付け込み火計で船を焼いて崩壊した敵軍を怒涛の追撃戦
江陵攻略ではまず少数の別働隊を夷陵に急行させて占領、
→当然(千ちょいの呉軍に対し)多数の数千の部隊を派遣して奪還を狙う敵軍をほぼ全軍を挙げて一気に殲滅
→周辺を平定し江陵を孤立困窮させた後、曹仁を野戦に誘い出し決戦、終に撤退させる
>>186 美人の妻は鋏を投げて来ますがね。
文学スレは皆さんとても礼儀正しいですな。1氏のお人柄故か。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 14:46:31
あげ
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 14:56:24
どうでもいいことなんだけど昨日スーパーで買い物してレシート見たら
レジ担当者の名前が「孫 ケン」だったw
で?
>>191 どう見てもスレ違いです本当に。
と言いつつ、それを見たらほくそ笑んでしまうのが三国ヲタ。
すまんが周瑜もう魯粛はおwったのですか?
なんでだよ、何が日本語でおkだよ。どっからどうみても日本語じゃねえか
コレが理解できないなんて信じられん。と>195の振りして見た。
はおwったてなんだ?
「すまんが周喩、もう魯粛はおwったのか?」
「何をおおせになりますか殿、魯粛殿はおwってなどおりませぬ」
「俺のいないところでおwったの何のと、勝手なことを…
金返せやゴルァ」
おワットるってのを思い出したがマカなので打てない
見るだけなら専ブラが見せてくれるんだけど
これからは「おwっとる」でいいじゃないですかw
で、おwっとるのは魯粛ってことでおk?
劉備くんの魯粛はたしかにおwっとるな
話を戻すと、周瑜も過労による病死だね。
魯粛は後頼まれて大変だっただろう。
だから魯粛も過労死
呂蒙も過労死
陸遜は加老死
誰がうまいこといえtw
見事な四コマ落ち
孫権はどう考えても長生きだけど、
曹操とか劉備も結構生きているイメージがあるが、
当時の平均寿命ってどのぐらいだ?
呂蒙も早死にしたほうか?
子供の死亡率を含めれば30年
そうでなければ50年とどこかで聞いた
d。平安時代が30歳だと聞いたことがあったからそんなものかなと思っていたが、
やっぱりそれぐらいなんだな。
成長した中では、やっぱり周瑜や魯粛、呂蒙は若死になんだな。ありがとう。
魏スレだと、70過ぎる長生きも多いみたいだね
三国志の時代にしても、戦国の時代にしても、死ぬ機会が多かったから平均寿命が低かっただけなんじゃないのかなァ?
戦とか病とか飢餓とか
死なないまでも栄養失調で老化が早いとか
孫権や曹操じゃなくても金持ちの家に生まれて、いい物食って、戦も疫病もまぬがれれば70くらいは普通なんだろう と思う
無事に育つ子供が少ないので、統計上の平均寿命は下がってしまう。
たとえば、半分の人が100歳まで生き、
残り半分は生まれてすぐに亡くなるならば
その人たちの平均寿命は50歳。
でも、生きてる人はみんな百歳の長寿。
当たり前のこと書いてスマンが、一応。
>>215 そういうことやね
医療技術も未熟で飢餓と疫病に抵抗力ないんで、出産から幼年期のあいだの
死亡率が半端ないんよ
ていうか三国時代の平均寿命ってどうやって調べたの?
帝国リサーチじゃね?
>>219 早世までは行かずとも十分若死にの部類じゃね?
論語にも30にして立つ、40にして惑わず、50にして……なんだっけ?とあるようにさあ。
そんなになるまで働いて、ご苦労様だな。チーン
駅伝のような提督リレー形式だね
没したら次の提督。
周循は病気で早世したんだよね。他の子供の伝って、何か残ってるんかな
>>223 陸抗は知ってるでしょ?
魯淑は晋を攻めたけど王渾に敗れている
呂蒙の子は大した記述は残ってないけど早死が多いみたい
周循の後を継いだ奴は確か罪を犯して流罪となったなあ。
都督じゃないけど甘寧の子とか潘璋の子なんかも流されてたし、韓当の子は魏に降ってたな。
流された奴とは別系統だけど甘寧の子孫は活躍してる
陸遜の子だか孫だかに、熱烈な曹操ファンがいたそうだね
陸機たんのこと?
魏武を送る賦だったか何だかを残してるよね。
文学フレンド。
フレンドw
ほす
しかしこの4人が長生きしてたらどうなってたんだろうな。
周瑜・魯粛は意見の相違さえクリアすれば
お互いうまく負担が減ってただろうし
呂蒙が長生きしてたら
虞翻や陸遜の最期はもうちと変わってたかもしれない
孫権が変わりなくボケて総あぼん
この4人の寿命より先に
まず孫権の呆けをテコ入れしなければならなかったわけだw
やっぱ酒がよくなかったんだよ…
当時の人にしては長生きしちゃったから、
ボケるのも仕方ないんじゃない?
金属製の食器で飯食うと金属イオンが脳味噌に悪影響を及ぼしてアツルハイマーになるというのは有名な話し
じゃあ大陸の人たちはなりやすいわけですね。
孫権。゚(゚´Д`゚)゚。
孫権が呂壱事件前にとっとと死んで孫登が長生きすれば
陸遜もあんな死に方しなくてもすんだだろうに……
どっちも叶えなきゃいけないのはやっぱ無理。片方でも無理だけど。
孫権も、義兄である周瑜の言うことなら聞いたかもしれない。
周瑜が長生きしてくれれば良かった。
ついでに乗っ取ってしまえ。
と思ったが、周瑜んとこも子供がダメダメちゃんなんだっけ…
周瑜は乗っ取らないと思うが、周瑜がもう少し長生きしていたらとは思う。
周瑜が長生きしていたら、魯粛呂蒙の寿命も少し延びたかもしれない。負担が減って。
まぁ全部タラレバだけどさ。夢ぐらい見たい。
つーか周瑜が長生きしたら普通に天下二分してしまうな
それでいいじゃないか。
じゃあ陸遜が乗っ取れ。あそこは子供も優秀だ
いいんじゃないか?周瑜が長生きすれば。
孫家も安泰。呂蒙も魯粛も安泰。陸遜も安泰。
たぶんな。
張昭と周瑜だけは孫権にとってちょっと特殊な関係だよね。張昭は父代わり、周瑜は兄代わりというべきか…
しかしトップにとって、頭の上がらない人物は後々うざい存在になる可能性も。
張昭くらいの年の差があればいいが、実兄と同じ年齢で、名家で色男で頭良くて、下手すりゃ自分より人望のある男を
後年の孫権が変わらず重用できるかどうか。
それくらいの分別は残っていたと思いたいけどね。
でも周ユなら、ボケがひどくなる前に何とかしてくれたかな。
張昭はともかく、周瑜と孫権の軋轢ってあった?
早世しているからだけなのかもしれないけど、二人の関係はよかったように見える。
周瑜が生きていた場合の後年の孫権がどこまで図に乗るか判らないけど、
孫権のブレーキとしては陸遜より役に立ちそう。
>>249 軋轢ってほどじゃないが、周瑜の出す策(特に劉備を確保しる以降)を
ことごとく孫権が却下していたことを考えると
周瑜のノリって孫策時代のままだったのかな、というフシはある
魯粛のほうが戦略上では孫権と気が合ってた気がする
それでも周瑜が孫権に公私に渡って与える影響は、大きいから
後年周瑜が病をおして奔走するくらいなら
なんとか魯粛と意見(天下は二分か三分か)をすりあわせて一時的に任せ、
体調が良くなるまで休んじゃった方がよかったのかもしれないな
あれだけの才能の持ち主に孫権のおもりに徹しろってのも酷だけどさ
呂蒙をもっとじっくり育てられれば彼も関羽を倒す時もっと楽だったかもしれないし
陸遜に関しても似たようなことが言えると思う
周瑜の遺言を見るに彼から孫家への忠節は違うことないんだけど
孫権が周瑜存命時に彼をどう思っていたかは甚だ微妙だな
亭主元気で留守がいい
今日出かけたら、街中にクリスマスのディスプレイがぽつぽつ出始めていた。
あーもうすぐ周ユの命日が来るんだなと思った。
いやクリスマスが命日ではないけど。
お願いです呂粛もかわいがってください
魯粛かわいいよ魯粛
魯家の狂児かこいいよ狂児
狂児も影が薄くなる呉の狂犬たち
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/15(水) 17:44:12
魯粛は指揮官として平凡なところが地味な印象の原因なんだろうな…
つーか周瑜にあったのは将才に基づいた権力だろ。
天下二分なんて草莽の凡夫でも思いつく発想。
それを計算できる数として自分を入れてるところが如何にも手前味噌。
あれ以上長生きしていたら関羽を倒すどころじゃなかったように思うが。
呂蒙も魯粛も孫権抜きに数にならないけど、周瑜と二張は違う。
孫権初期はその三人が安物の神輿を担いだだけの三頭政治だよ。
よく張昭と周瑜の二頭体制というのは言われるが、周瑜と二張の三頭体制は初耳だな。
張紘は一度北方に使いに出されたせいか、あまり権力中枢の上層部には食い込めなかったイメージあるけど…
まだ顧雍とかの方が職責的には重役っぽい。
周瑜の計画に穴らしい穴がない上
益州攻めるのにも時期は悪くない
この話題が出るたびにおもうのですが、
周瑜なら短期間でたいした損害も受けず土地民衆に被害もださず簡単に益州を
征服できるという根拠はどこにあるんですかね?
>>262 >土地民衆に被害もださず
そもそもこれを断言できる根拠がどの武将のどの例にあったのか教えて下さい
もちろん後世から見た結果じゃなく事前にね
>>262 そもそもその「短期間でたいした損害も受けず土地民衆に被害もださず簡単に益州を征服できる」ってのがどこから来てるんだ?
このスレで誰かそんなこと言ったのか?もしくは他のスレの話か?
張昭が長生きすれば
孫権はぼけなかった!
説
なんか呉では都合よく人が死ぬなあ。
周瑜が死んで劉備と結べたし、魯粛が死んで荊州を取りにいけたし、
呂蒙が死んで蜀と結べたし。
実際は人が死んだから外交政策を変えたんだろうけど、
そのときどきの孫権の気まぐれでみんな用済みとばかり殺されてたりして。
陸遜みたいに。
妄想ですから本気にしないでください。
張昭と周瑜の仲ってどうだったの?
意見の対立はあっても、基本的には悪くなかったんでないの?
孫策に登用を勧めたくらいだし。
>>265 80ぐらいまで生きてたんじゃなかったか?
保守がてらくだらない事を考えてみる
周喩が男前なうえに奥さん美人でうらやましいヤッテランネ、の克服法
二喬は美女は美女でも叶姉妹タイプである
↓
しかもハサミとか投げてくるから、小喬は必然姉の恭子さんタイプ
↓
叶恭子が妻で、同じ屋根の下で一緒に暮らす事を考えてみろ。
しかも毎晩、いや毎朝晩かもしれない。エネルギッシュに求められ続ける日々。
仕事は多忙。帰れば完全奉仕。
↓
そりゃ早死にするっちゅうねん。
↓
大変だったんだな周喩…
↓
かわいそうになってきましたか?
それでもヤッテランネな奴は知らん。
しかも孫権のお守(も)りもあるしなw
ところで、
>>1の周瑜がハーロックだと
孫策がトチローなのが気になるw
エメラルダスは?
エメラルダス 大喬
メーテル 小喬
むしろ逆であって欲しいと
どっちにしろ小喬はどちらにも相手にされてないじゃないかw
保守
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/01(金) 10:17:02
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/01(金) 13:47:56
この四人がどういった傾向の思想の持ち主か?って意外と議論されてないよね?
例えば周瑜についてなんだけど、魯粛を引き止めた時の言葉に内密な話しとして、
「劉氏に取って代わるものは孫呉に違いない」というような聞く人が聞けばひっくり返るようなこと言っているけど、
これは周瑜の本心なのか、過激思想の持ち主w魯粛に合わせた方便なのかどっちだと思う?
周瑜は過激派だとおもう
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/01(金) 14:55:06
本心だろ
ジュンイクだって曹操を漢の高祖になぞらえてるんだよ
当時、漢の時代が終わって次の王朝が立つだろうというのは多くの人が認識していたこと
285 :
282:2006/12/01(金) 15:02:58
>>283-284 やっぱそうかね。以前周瑜を「漢室重視」思想の持ち主との考察を読んだことがあって、同意できなかったから聞いてみたくて。
なんで周瑜は策死のあと、乗っ取ろうとしないで権を担いだの?
>>286 純粋に考えると、周瑜と孫策が親友だったのと同時に孫一族全体との親交が篤かったからじゃないかと。
周家は孫一族と一緒に住んで物を融通しあった所謂家族ぐるみの付き合いで、孫堅夫人は「(周瑜も)息子の1人と考えてる」と言ってるし。
孫策が死んだらハイさようならという付き合いじゃなかったハズ。
それに現実問題乗っ取りに動いたとして既に孫権擁立に動いてる張昭が居るわけで成功確率が低い。
>>287 低くはないと思う。孫権から離れる人間も多かったし。
まぁ離れる人間を周瑜が吸収できたと言いきれないけど、
当時、孫権よりも力があったらしいじゃん>周瑜
例え下剋上を起こせる力を保有していても
しないで忠義を貫くから人気がある人もいる
孔明とか
>>288 仮に周瑜>孫権だとしても、周囲への影響力は多分張昭≧周瑜>孫権だから張昭が孫権を立ててる以上難しいでしょう。
程普・黄蓋・韓当みたいな軍部主軸は孫堅からの譜代だし、名士層は張昭が一先ず落ち着けてる。
…もし張昭と周瑜が組んでたら乗っ取りも容易だったかもしれないが、実際は2人が揃って孫権を盛り立てたから孫家は以前の求心力を取り戻してるし、
そんな2人が好きだからあまり考えたくないなw
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/01(金) 16:41:50
松本先生のインスパイヤしてると、訴えられますぞ < 周瑜
まず孫策と周瑜が知り合う
↓
意気投合
↓
孫家、戦が激しくなってきたので疎開しよう(女、子供←孫権含む)
↓
周瑜:俺ん家の横使えば?俺ん家の領地だし(民間伝承ではこの時父死亡、姉、母、周瑜の3人+使用人らしい)
↓
周瑜の家の横に孫策やその母、子供が来る
↓
家族ぐるみのつきあい開始。
これを考えると、周瑜と孫家って子供時代からかなりのつながりあるよな・・・
孫堅夫人も孫権に周瑜は我が子供と思って接してきました〜なんて言ってるしな。
周家はこの時、すでに没落しかけているけど祖父の代までで司空だっけ?大臣格の役人をぼんぼん輩出している家系っていうのを考えると、
周瑜は孫策と出合ってなかったら、適当に独立して劉備とかと対抗してそうだw
孫策が死んだ時に、周瑜が呉を乗っ取る、みたいな噂も流れてたらしい。
それなのに孫権に仕える周瑜・・・泣けてくる。゚(ノд`)゚。
王佐の才 と言ってみる。
>>288 当時血統が何よりもモノを言った時代で孫より周瑜のほうがはるかに血筋がいい。
それに、義兄弟の契りを策と結んでいる周瑜の方が建前では何と言えてもやっぱ権より強く出れる気ガス
(策生存時は周瑜も権にとっては義理兄)
ほとんどの戦は周瑜が指揮してきたから軍の掌握度、将兵の支持とかも張昭、権よりある.
赤壁の時も裏を返せば周瑜の発言力がものすごいことのあらわれ。
>>294 そうしたら何故そもそも周瑜は孫策の下に入ったの?
当時は乱世、一発かけてみようという気になったのだろう。
つまり孫策に惚れた。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 08:43:01
周瑜には堅い父がいなかったからだろうな
敵に回ったら真っ先にターゲットにされるじゃないか。孫策に。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 10:38:42
孫策の死後の話でしょ
何でこのスレがこんなに伸びてんだ?w
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 11:17:06
みんな周瑜が好きだからさ
呉は周瑜が色んな面で突き抜けてるからな。
アンチ呉でも周瑜は好きって人間は非常に多い。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 12:29:49
呉は周瑜死後つまんね
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 12:37:18
>アンチ呉でも周瑜は好きって人間
アンチ蜀魏ファンとアンチ魏蜀ファンはよく聞くが
アンチ呉ってあまり聞かない気がする
それ正確には「諸葛亮におちょくられた周瑜は好きだけど関羽を殺した呂蒙は嫌い」と
全部とはいわないが相当数かぶってないか?
>>306 いや、呉が嫌いな人間って普通にゴロゴロいるぞ
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 14:11:59
>>306 ごめん
俺バカだから何を言ってるのか全然わかんない
わかりやすく説明して
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 14:54:16
陸遜の性格分からん。一長一短ある
俺には三国のいずれが好きとか嫌いといった感情が理解できない
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 21:21:07
サイト周りするとアンチ呉なんてよく見るぞ
孫権呂蒙陸遜を死ね死ね言ってるやつとか
そういうのに限ってなぜか「孫策と周瑜がいれば呉は安泰だった」と断言している
>>312 策はわからんが、周瑜が生きていたら関羽は荊州にいなかったかもな。
>>309 そんなに複雑な性格してるかな?政策的には仁徳を重んじて厳しい法令による統治を嫌う古典的な儒学者タイプ。
闘鴨に耽る皇族に「こんなことする暇あったら経典の勉強して徳を研いてください」と厳しく注意し、
謝景に「礼が刑罰に優先するのは古い昔からずっと変わらない」と主張することからもわかる。
かなり保守的な儒学の信望者だから忠義者ではあるけど、それは儒教が忠を重んじるからであって、
その道理に反することには主君であろうと強く反発する。
張昭なんかも基本は同じく強硬な儒学思想の持ち主なんだけど、学問的思想を外れた人間的な付き合い(特に呉夫人に息子を託されたという責任感?)があるから、
ちょっと考えられないことする時もある。正直このじーさんの方がよっぽど屈折してるかとw
>>310 知識が増えるとどこもいい面、悪い面がわかって好き嫌いはなくなるね。
「呉や孫権は叩いてもいい」という空気があるような気がする。この板も含めて
三国全て好きな立場からすると複雑な気分だ
むしろ不当評価だ不当評価だって声をよく聞くが
>>312 「孫策と周瑜がいれば呉は安泰だった」
実際そうだろうな。
戦数が少ないのもあるが孫策と周瑜の組み合わせでの戦は全て無敗。
30年ぐらいたったら大喧嘩して国を二分しそうだがw
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 23:33:33
諸葛格元遜と丁奉承淵と歩騭子山も入れてよ
>320
わざわざ姓名の後に字まで付けたことは置いとくにしても、人選が意味不明だな。
322 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/03(日) 00:20:25
>>321 呉の軍事責任者にはなってるね。その面子
ちょっと噴いたw
325 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/03(日) 00:57:24
>>324 丁奉は大将軍になったけど軍事責任者になったっけ?
ただ孫チンを殺して兵権は取っていただろうから持っていたはず。
歩シツは西稜督に任命され丞相にはなったが軍事責任者
ではないよな。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 01:31:27
Fucckk
というより『軍師』ではないだろw
ぐんし 1 【軍師】
(1)大将につき従い、軍事に関する計画を立て、作戦を考える人。参謀。
(2)巧みにはかりごとをめぐらす人。また、人に策を与える人。
周瑜って軍師か?
軍師ってなんか広い意味あるからね
自ら総指揮を執っていても軍師って呼ぶことあるし
軍師とか、レベル低
厨房しかいないのか?
そうだよ。お前もね。
今時文官しか軍師になれないと思ってる奴って何の漫画の影響だよ
無双はガチガチの鎧着せた呂蒙も軍師に分類してるし
ド昔に三國志IIIやってた奴はとっくに周辺知識も勉強してるか
三国志自体忘れてるかのどっちかだろうに
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 10:01:05
流れが変な方向に・・・
呂蒙とかは周瑜に対して凌統を守りに残して
攻められてる甘寧を助けろとか進言してるし
魯粛に五つの策略立ててるし軍師と言っても十分だと思うけどな。
まぁ、軍師としての活躍より将軍としての活躍の方が遥かに目立つけど
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 11:21:46
軍師将軍とかいう将軍号もあるから余計ややこしい
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 11:25:12
右大司馬左軍師とかいう役職の人もいるからややこしい
今日は周瑜の命日と言うことになってるけどどうだろう。
とりあえず合掌
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 12:52:04
スレチだが、孫策は4月1日に死んだとかなんとか。だとしたららしいよなw
もう命日か…
今日うちんとこ初雪だった。なんかしみじみした。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 17:06:30
今日がこうきんの命日・・。
呉の地に向かって黙祷
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 18:20:53
命日・・・なんかせつないよママン。やっぱ無念だったんだろうな。
文学スレで周瑜の遺言読んだときに、ちょっと周瑜の見方変わったなぁ
最後から二行がすごく好きだ
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/04(月) 01:56:31
志は永久に不滅って部分?
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/04(月) 12:10:08
色男だと人気あるな
実を伴った色男だからな
1有能なイケメン貴族
2無能なイケメン貴族
3有能なブサメン貴族
4無能なブサメン貴族
5有能なイケメン役人
6無能なイケメン役人
7有能なブサメン役人
8無能なブサメン役人
9有能なイケメン平民
10無能なイケメン平民
11有能なブサメン平民
12無能なブサメン平民
諸葛は赤壁で風吹かせた、一番すごいのは諸葛だっていう孔明厨。
周瑜が呉の地理を把握して季節風の吹く時期を知ってたに決まってんだろ ヽ(`Д´)ノウワァァン!!
一番すごいのって周りがどんどん降伏派に傾いていくなかで志を貫いて戦いを決意して、それまでほぼ無敵だった曹操に初めて勝ったとこだよな|д`*)
>>350 たしかに周瑜は孔明が来なくても呉単独ででも曹操と戦おうとしそうだよな
>>350 確かに演義孔明は封神されかねん勢いだからなあ。リアルに天候操るのってまだ研究してんだっけ?
後半も同意です。そこでミスったらこの板も無かったんだろうな。
>諸葛は赤壁で風吹かせた、一番すごいのは諸葛だ
なんていう諸葛厨本当にいるの?知らんかったww
まあ演義系しか知らなきゃ無理もないから(議論スレで暴れてるとかじゃなければ)あんま責めてやるな。
>>352 雨を降らすのはできるな
風は難しそうだ
>周瑜が呉の地理を把握して季節風の吹く時期を知ってたに決まってんだろ
これはこれでどうかと思うが…
でも昔の人って天候に命左右されるし、
実際理由は全然わかっていなくても、
規則性があることなら知っていたりするんじゃないか。
宇宙のことなんて何も分かっていなくても、星の動きを知ってたみたいに。
だから周瑜がって言うんじゃなくて、周瑜の耳にも入ったかもしれないっていうぐらいのことだけど。
>>357 だよなあ。ただ、曹操も知り得た可能性はあるわけで。
大したことではないと判断したのだろうか。
地の利が一番大きいんじゃないの。
甘寧も入れたことだし。
海賊には海賊の情報網があってしかるべきでは。
>>359 情報量が同じじゃ官軍にやられてるかも知れんしね。
名も無き江賊の類はみな孫権側だったのかな
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/05(火) 11:53:38
周瑜が長生きしてたら、蜀は呉の物になってかな?
劉備とかどうなってたかな?
権の義弟として、呉でがんがった?
>>361 呂袋なみに生きてるわけか。
蜀を誰に治めさせるか難しいな…。大帝は正史通り生きるだろうし。
手勢が余り居なくて益州に詳しそうな人って誰だろう
蜀は孫瑜にが周瑜の構想だったはず
どっちにしろ、周瑜が生きてたら蜀は無かったでFA?
>>364 どうだろう?
劉備が孫権の益州方面への領土拡大を望んでいなかったという事実があるから、劉璋と結ばないという保証もない。
まあそうなれば周瑜は益州からは引き返し夷陵で蓋をして孫権本隊と劉備を挟み撃ちにした可能性は高いだろうけどね。
ただ周瑜の征蜀もうまく行ったかどうかは疑問。当然魏の南下にも対応しなきゃいけないしね。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/05(火) 16:41:41
>>365 呂蒙は周瑜や魯粛が死なないとパワーアップしないのかな?
>>366 周瑜指揮下でもバリバリ献策してたし、魯粛生前は途中から圧倒されてたぐらいなんで…
ゲームヲタと漫画厨の夢の共演だな・・・
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/05(火) 21:00:42
このスレ、周瑜が孫権軍No.1が確定してる感じだけど、呂蒙や陸遜は下確定?
>>371 「ゲームや漫画からの三国志好きを馬鹿にされているようですが先生はさぞ中国史にお詳しいのでしょうな」
かと思われます。
1周瑜>曹操
2呂蒙>関羽
3陸遜>劉備
4曹操>関羽≧劉備
1〜4より周瑜>呂蒙≧陸遜と見た。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/05(火) 21:11:15
4だけは曹操≧劉備>関羽が正しいと思うが
でも劉備と関羽を比べるのはちょっと難しいな。
>>372 その辺は周瑜が生きてる時には皆周瑜より格下だったからそのイメージ定着しちゃってるのかもね。
私的には四人とも甲乙付け難いと思うけど。
私的には、リクソンはどうかわからないけどリョモウやロシュクはいろんな点でシュウユに負けている気ガス。シュウユは巴丘とかの赴任で民政の手腕も発揮してるわけだし。
敢えて格付けするなら
周瑜=魯粛≧陸遜>呂蒙
俺はこうなる
偽黒の指揮官考察があったなあ。
あれ最高。
軍人としての能力を加味すれば
頭脳は魯粛≧周瑜でも、総合でやっぱ周瑜>魯粛>呂蒙≧陸遜
>>380 あれ呉のやつやるって言ってたのにやってなくない?
>>382 頭脳は魯粛そこまでいいか?(←元金持ち)
発想は周瑜と互角だとは思うが・・・
ただその魯粛をスカウトしたのが周瑜なわけで(ry
やっぱ周瑜>陸遜>呂蒙=魯粛
陸遜は夷陵でよくやったと思う。
蜀との戦いであった以上に陸遜を臆病者よばわりする味方や自分の内面との戦いだったしな。
そうか。周瑜はスカウトマンとしての素質も高かったわけだな。
>>292 遅レスになるが、周家はその時点でも没落どころか三公トップの大尉になる周忠さんが生きてるから現役バリバリの名家ですな。
家柄を考えると逆に呂蒙が一番頑張ったなと思う。
>>386 禿同。しかも阿蒙よばわりされたら私的には絶対頑張れない。
>>385 周瑜が生きていれば、ホウ統も呉の武将として征蜀に
加わっていただろうに惜しいよね
呉はみんなが輝いているとおもいますた。
219年が魏の勢力を大きく減衰させる最大のチャンスだったことは言うまでもない。
だが呂蒙は敢えて長江を西に上った。
215年に一応の妥協を果たして折り合いが付いたのに、漁夫の利を魏に与えることは決して得策ではない。
その三人と比較する時、呂蒙の関羽討伐に於ける長期的視野の欠如を問題にすることがある。
だが当時の彼は明日死ぬかも分からぬ身であった。
それなのに明後日のことを考えて行動しろというのは余りにも無理な話ではなかろうか?
最後の力で宿敵を捕殺し、領土を倍増する。正に大丈夫の仕事である。
>>391 >だが当時の彼は明日死ぬかも分からぬ身であった。
それなのに明後日のことを考えて行動しろというのは余りにも無理な話ではなかろうか?
征蜀時の周(ry
>>391 最期の仕事に荊州攻略を選んだのは何故かと・・・
>>385 つか、当時の名士の仕事って大部分が人材紹介でしょ。
>>386 魯粛は超金持ちとはいえ家柄そのものは呂蒙と大差ないよ。
>>394 そこまで悪くはねーだろ
孫権に「曹操に降伏したら家柄のいい私の方が優遇される」
みたいなこと言ってるんだぞ
>>391 >その三人と比較する時、呂蒙の関羽討伐に於ける長期的視野の欠如
その3人って周瑜魯粛陸遜のことだよね?
陸遜って戦略レベルで何かしたっけ?
何やるにも諫言に留まって自分から案を出すことはほとんど無いと思うのだけど。
>>395 ありゃただの脅迫だろう。
第一、自分の事を言ったものじゃないかもしれない。
>>394 その「超金持ちだった」というのがある意味恵まれた家柄だけどね。下手な没落貴族よりはブルジョアの方が未来が開けてたりする。
魯粛は蜀でいうと糜竺に近い家柄だと思う。代々商人として金を蓄えてたタイプ。
豪族がなんで代々官僚を輩出し得るかといえば、コネもあるだろうけど教養を独占してたからって言われてる(当時識字率とかめっちゃ低い)。
貧乏人は本も買えない教師も雇えない→何時まで経っても貧乏。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/06(水) 11:53:37
孫権より金持ちは呉にはいない
魯粛って孫呉ファンの中ではどうなの。
劉備連れてきたり、荊州貸し出しちゃったり
彼の外交って赤壁で負ける可能性大な事考えると評価できるんだろうか?
周瑜が長生きして、魯粛が先走らなかったら天下二分って考えると悔しいんで。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/06(水) 12:31:07
赤壁で負けるようならそもそも荊州進出なんて不可能
天下二分なんて夢でしかない
また劉備と結んだお陰で赤壁戦後の荊州進出がスムーズにいった
天下二分を惜しむならなおのこと魯粛の独断をたかく評価するはずだが
そもそも常識的に考えて、1州を貸し出すなんてことがあり得るだろうか?
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/06(水) 13:28:11
大体孫権は荊州にとっては侵略者
よく荊州南部を取った劉備が火事場泥棒みたいに言われるが、荊州側からすれば火事場泥棒は孫権たち
劉キから荊州刺史を受け継いだならまた別だろうが、牧位は劉備が名乗った
孫権は荊州においては名目的には劉備が支配者になってしまい、所有権を主張できないのだ
劉備は孫権を追い出そうとすることも出来たわけで、事を荒だてて曹操の介入を招いたり全てを失ったりするよりは、
「益州を取ったら返してもらう」
と一応は手形を取り、「貸してあげる」と(本来ならないはずの)自分の所有権をさりげなく主張して劉備に恩を売った
言い方を変えると、貸さなかったら荊州側(劉備)とその段階で軍事衝突していた可能性が高い
魯粛としては荊州において軍事的に完全に優位に立てる状態での再征服を狙い、同時に漸進的な返還交渉も進める、というところだったんだろう
>>403 それを踏まえて荊州に親呉勢力を作ったようにもみえるね。
劉備も反曹操のアピールしてるし手を組むのもありだろう、と。
ただこれをもとに北上したのかっていうと微妙だよなあ。
長文書く奴ウザイ
偉く見えるとでも思ってんのか?
思ってないだろうw考察したいだけだろw
この程度の分量で長文とか言ってるやつって文盲じゃね?
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/06(水) 19:47:30
本人激怒小さいね
409 :
◆PPS.TEm3VU :2006/12/06(水) 20:52:41
しゅうゆちゃんはばかですよね
哀れ無双厨には3行以上は長文なんだろ
ほっとけ
==============糸冬 了 ==========================
終了スレを乗っ取りましゅ。
魏 呉 蜀 他
曹操 真田弘幸 孫堅 反町隆史 劉備 竹野内豊 董卓 西田敏行
夏候惇 渡辺謙 孫策 もこみち 関羽 織田祐二 呂布 江口洋介
夏候淵 佐藤浩市 孫権 ウェンツ 張飛 香取慎吾 張角 柳葉敏郎
荀ケ 中居正広 周瑜 玉木宏 諸葛亮 木村拓哉 袁紹 中井貴一
郭嘉 オダギリジョー 魯粛 吉岡秀隆 趙雲 長瀬智也 公孫サン 時任三郎
曹仁 田辺誠一 呂蒙 堂本剛 魏延 阿部寛 王允 稲垣吾郎
曹丕 藤原竜也 陸遜 山下智久 関平 二宮和也
曹稙 松本潤 諸葛謹 草薙剛 馬超 岡田准一
甄姫 沢尻エリカ 甘寧 坂口憲二 姜維 妻夫木聡
司馬懿 ユースケ 凌統 小池徹平
ドラマ化希望
そういや呂蒙だけが他の三者と面識があり言葉も交わしてるんだよな。
>>413 周瑜と陸遜て話してそうでも残ってないよね
周瑜が中央に居た頃は陸遜は南方に居たし、陸遜が中央に復帰した頃には周瑜は荊州方面の最前線に居るみたいな感じかな多分。
北方とかじゃリクソンはシュウユに可愛がられている副官で、シュウユの死後、その遺志をリョウトウと継ぐ、みたいな描かれ方をされていたけどやっぱフィクションなのかな。
フィクションだよ
>>400 劉備連れて来た事も荊州貸与も当時取り得る孫呉が独立独歩の道を行く為の最善手
陸家は呉越地方きっての豪族の一つで孫家よりも家柄がよく
孫権はかなり早い段階で陸遜を抱き込むために孫策の娘を使って姻戚にした
よって周瑜も陸遜と挨拶する機会くらいはその時にあったんじゃないか
その後、呉のためを思った実になる会話ができたかはわからんけど
つか、孫策が袁術の命令で陸氏一族をぶっ殺しまくって
最悪に悪化した関係を周瑜が修復した。
>陸氏一族をぶっ殺しまくって
?
いや、孫策が当時の陸氏を弾圧したのはわかるが、周瑜が修復したなんて初耳だぞ。
>>421 420じゃないが、孫策が袁術を頼ってた時、袁術が廬江太守・陸康(当時の陸家の当主)の討伐を
命じて、それを遂行した。
このせいで陸康含む一族の半分以上が死んで陸家は空中分解状態になったんだよ。
その上生き残りの一人である陸議(字:伯言)は
のちに孫権に仕えてから(詳細な時期は不明だが)「遜」と改名している
漢字の中に「孫」の文字が入っているとはいえ意味的にはそんなにいいもんじゃない
「忠」とか「謙」という名前もあるから悪いってわけでもないだろうけど…
ぶっちゃけ謀反の可能性を疑われないようにするために
彼は若い頃から相当苦労してたと思う
地方の賊討伐から経歴重ねた理由の一つもそれかもしれない
>>420 周瑜が修復、というよりは孫策との間にたって陸家と孫策の亀裂を戻そうととりなした、ぐらいじゃね?
つーか何故に周瑜が、孫家と陸家の仲を修復とかとりなしたとかになるんだか
張昭のほうがまだ分かる気がする
陸家潰しは、時系列でいえば張昭は孫策のところにもういた頃?
周瑜は丹陽のおじさんのところか居巣殿の頃?どの辺?
>>423 孫策が陸氏一族をぶっ殺しまくったわけじゃなくね?
>>429 孫策によって攻城戦を仕掛けられ城内では餓死者が続出
陸氏も例外ではなく一族郎党の大半が死亡
>>430 ソースは陸康伝じゃないのかな?
陸康伝だと陸康が死んだのが落城後でその後、離散し飢餓や災厄にあって半数が死亡だと思うんだけど…
432 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/09(土) 00:14:52
程普は最長老だし、赤壁時にはシュウユと並んで
責任者だったし、面子に入っていないのはなぜ?
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/09(土) 00:18:15
陸抗って孫策の孫にもあたるんだよね
程普は大好きだけどこの4人に程普入れると流石に浮くので勘弁して下さい
浮くっつーか、沈む…
>>435 ワラタwwwwwwwwwww
『周瑜 程普 魯粛 呂蒙 陸遜 呉の軍師を語るスレ』
ちょっと無理があるなw
てか、周瑜が生きてても益州は呉のものにはなってないんじゃね?
解決しなきゃならない問題が結構あるし、何より曹仁に時間が
かかったせいで魏にも余裕が生まれたし。むしろ、周瑜が
生きてても劉備が入蜀した可能性の方が高いきがする。
孫権が合肥にいかないでちゃんと周瑜を救援しに行ったらどうなったか?
皆演義で酷く描かれてるなw
>>434 気合入れて飲み会セッテイングしたのに4人にドタキャンされてそうだ・・・
演義
周瑜 : 諸葛亮出てこなければ名将。諸葛亮出てきたら二流。性格も小物。舐めんな羅貫中
魯粛 : OTL
呂蒙 : それなりに名将。でも何あの死に様。酷くね?
陸遜 : ガチで名将
正史
周瑜 : 頭良し、顔良し、性格良し、義理堅い、生き様かっこよすぎ。完璧すぎます。
魯粛 : 天下三分の計の真の立役者。演義のお人好しと比べると別人すぎます。誰てめぇw
呂蒙 : 三国志最大の努力家。彼の死の際の美談は泣かされます。全然呪いじゃないじゃん!
陸遜 : やっぱり名将。演義との差が一番少ないけど最後が切な過ぎ……
ただ、呂粛の演義と正史の共通点は天下二分をまんまと
三分に利用されたってことかな。案外、蜀からみた呂粛って
演義のあれで間違ってないんじゃない?周瑜も同じ感じじゃないのだろか
演義の周瑜は、諸葛亮に翻弄されて最後は憤死するような激情家に描かれているけど
それは諸葛亮の引き立て役にするためにそういう風に描かれているだけであって
実際は穏やかかつ冷静な人間だったらしい。
正直、正史の周瑜と演義の諸葛亮に対してヒスを起こす周瑜が結びつかない。
演義の陸遜は迷路で迷った以外は名将になってるね。
>>442 呂粛って誰?魯粛のこと?呂蒙と魯粛のこと?どっちにしろ分かりにくい。
演義は創作物なんだから間違ってるも間違ってないもないだろ
問題は、演義を創作物だと気付いていない厨の側にある
魯粛と周瑜がやろうとしたことが当時の劉備達にとって都合が
よかったって解釈は間違ってないと思うぞ。
そういう観点から見れば蜀主観の演義での魯粛と周瑜の扱いは
当然と言えば当然なんじゃね?あくまでも蜀からみればの話だけど
演義でも演義の中にちゃんと書いてあることなら、
それについて正否を語り合ってもいいんじゃないか。
ただ広げるのは難しいかもしれないけど。
451 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/09(土) 23:47:35
丁奉の不当評価のほうがひどい
呉の伊達男なんだから陳武よりは上にしてほしい。
大将軍、大司馬クラスなんだから周ユと比較されるべき。
演義では呉武将は当て馬扱いだからな
一切不当評価されてない武将の方が少ない
病死なのに蜀や魏の武将に殺されたことにされている武将も多いしな
丁奉って演義じゃ活躍してるほうだろ
そもそも陳武生存時に陳武より下なのは当たり前だ
>>451 …本当に演義読んだことあんの?張遼を射殺したとこから始まり後半の呉は殆どこいつの1人舞台だぞ…
むしろ正史では出世してからは大した結果残してないのに。
>大将軍、大司馬クラスなんだから周ユと比較されるべき
位階と能力は必ずしも一致するわけじゃないって何度言われれば…
そりゃあ周瑜が生きていた頃は、大将軍大司馬なんて孫権には命じられないしね。
解かるだろう、阿童
それは名ではあるまい
ば、 馬………
まーさん
461 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/10(日) 22:11:59
最近コーエーも呉の人物の能力高くしすぎ。
正史でみると
甘寧、トウシュウ、陳武、周泰が武功が多い。
それ以外の武将も不当に80台にしやがって。
韓当とかタイシジとか下げてほしい。
>>461 ちょwwwwwwおまwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>461 まあ普通にスレ違いなんでしかるべき場所でやってください。
文学スレで宋代の同士ハケーン
蘇東坡先生と気が合いそうだ。
周瑜は昔から大人気なのか…
寿命以外に何か欠点はないものかチクソウw
息子の嫁さんが悪女。
嫁さんが恐妻。
じゃあ、息子が不出来
>>468 確か三国志平話にそれらしいのがある、と聞いた気がする(伝聞情報)
不出来とかいう以前に早世。
こんなところだけ親父そっくり。
民間伝承では、小喬は開戦を決意せず
自分を曹操に渡そうとする周瑜に怒ってハサミを投げるんじゃなかった?
そして周瑜は開戦を決意と。
そしたら「開戦を決意せず〜」のとこが既に演義の元?だから
小喬恐妻説も講談の類というか、民間伝承なのでは?
記憶だから違ったらゴメン
長男は父に似て外見も頭も良し、将来有望だったが(嘘かどうか知らないけど双頭の蛇エピソードまで存在)早世なところまで父に似てすぐ逝った。
次男はひねくれたエロリアンで最後は流刑オチ。娘はどこへ嫁いだんだっけ?
孫登
周瑜の弱点は息子だな!
・・・・本人じゃないじゃまいか('A`)
お前らホント周瑜好きだなwたまには呂蒙でも語ってやろうぜ。
とりあえず知勇兼備を絵に描いたような男だ。
でも絵に描くなら周瑜の方が映えるよね
.|::::::::::::::::
.6⌒|⌒| | 曹操はニ喬を狙っています。 |::::::::::::::::
ハァハァ [二二] | とても危機です。 .|::::::::::::::::
(#´Д`) < |::::::::::::::::
/´》 (》  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |::::::::::::::::
.( ) ゚ ゚)ヽ ドウ見テモ危険ナノハ貴様ノ方ダロガ… .|::::::::::::::::
.| \__.■□_ ∧ ∧ |::::::::::::::::
.| ||つ■O》 / ヽ / ヽ .|::::::::::::::::
./\_||■□||/ / `、___/ :::`、 ( ̄):::::::::::
/ | □■~\ / :::::\.( ̄):::::::::::
`ヽ_| |__\ ヽ .l ノ( 周瑜 :::: ( ̄):::::::::::
.| ) | ) | ⌒ -=・=- -=・=-:::::.( ̄)::::::::::
/ / / / .| \___/ ::::::::::::| ̄:::::::::::
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(___) \  ̄ ::::::::::::/|::::::::::::::::
呂蒙は単家の出なんだっけ?
周瑜単発スレじゃあんまり盛り上がらないのに
ここや1年か半年ぐらい前にたった周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜議論スレとかじゃ周瑜大人気だよなw
なんでだろテラフシギス
>>480 「貧しく賤しい家」出身らしいけど、お姉さんがちょっとした軍人に嫁いだ縁を頼って孫策軍入りを果たしてる。
>>481 単独スレだとネタが続かず落ちるが
四人もいると、適当に他の人物を語りつつ
「そういえばこの場面の周瑜はすごい」的な話が出来るから?と推測
しかし甘寧って呂蒙に何から何までお世話になりまくってるよな。
甘寧伝見てると呂蒙より年上とはとてもじゃないけど思えないってw
年上どころか1世代上だしな。20歳くらい離れてる。
料理人事件とか見るともう目から涙が(ry
甘寧が呂蒙にかけた迷惑とか呂蒙がしてあげたお世話とかはこんなもんか
・呂蒙、周瑜と一緒に甘寧を推薦
・呂蒙の進言により夷陵で窮地にたった甘寧を救出
・無闇な殺戮を好む甘寧に腹を立ててた孫権に対し呂蒙は甘寧を乱世に得難き名将と言ってフォロー
・淩統と甘寧の殺し合いに刀を持って間に入って殺し合いを止める
・料理人事件で料理人殺さないという約束を破った甘寧に腹を立てて
軍隊つれてぶっ殺そうとするも呂蒙母が止めたため呂蒙が折れて仲直り
甘寧ってつくづく面白い奴だなw
そこが甘寧のいいところじゃん。
でも結局料理人殺しちゃったんだよな。
呂蒙も苦労が絶えないな。
たまにキレる事あるけど呂蒙って良い人だよな
甘い寧日・・・名前負けにも程があるw
カンネイってそんなに酷い奴だったのか・・・・・
所詮中国人 所詮海賊か
そんな(ry
でも武勇抜群。
100人で曹軍50万に殴りこんで生還してきたりする。
にぃめんはお
海賊じゃないぉ。川賊だぉ。
甘寧の料理人頃しでヒドイのは、
その場で怒りに任せて殴り頃したとか斬り頃したならともかく
一度料理人が逃げ込んだ呂蒙の家で頃すんじゃねーぞと
釘さされたにもかかわらず、自分ちに連れ帰ったら
庭の木に縛り付けて弓矢で射頃したところだな
ひょっとしたら連れ帰ってから射頃すまでの間に
また料理人が何かしでかしたとか
もともと料理人のほうに、浅学で底辺出身の甘寧を見下すふいんき(何故かry
があったのかもしれんが
人に説得されて冷静さを取り戻したはずの人間が使用人を冷静に頃すってのは
命が軽い昔の倫理観の中でも、かなり人道にもとることだと思う
しかし賊時代はもうざっくざっくと男を頃し女を犯してたはずだから
周瑜も魯粛も呂蒙もそのへんの気性はわかってて重用したんだよな…
現代だとまるっきりヤクザ気質が残ってるままの奴を社の重役にしたというか
重役ではないような。
呂蒙の母も呂蒙に対して、「お前が甘寧を殺しても君主は何も言わないだろうけど」
みたいなこといってるし。
でも最後のころはカンネー呉の主力じゃん。合肥とか江陵とか。
次からは周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 甘寧 呉の人々を語るスレ にしようなw
不良親父の甘寧と友人だった呂蒙は偉いなあ。
孫権に壁に穴空けるほど心配されてるし。
>>500 そうでもないと思うけど…合肥も江陵も凌統とかと殆ど変わらぬ活躍だし。
>>502 孫権に一番寵愛された武将かもね。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/12(火) 15:48:40
凌統の方が完璧超人かも
江陵戦とき何歳よあいつ
夭折したからかもしれんが伝に批判的な話まるで見えないし
父凌操が203年の黄祖討伐で死に、この時15だった凌統が後を継いで軍人デビュー。
江陵戦が208〜209年にかけてだからちょうど20前後じゃないか?
ただ本人の伝に批判記事が載っちゃうのは相当な問題があった奴だけだと思うぞ。
甘寧・潘璋とかw
陳寿は魏はもちろん蜀も呉も穏当に書いてるからな
まあでも呉は、他二つに比べちょっと辛口めなのかな
唯一陳寿に関係なかった国でもあるしな。
わけわかんねい
>>508 ゲキワロタwww
徐晃 ではありませんか?じゃねーよ。バヤ。
>>502 呂蒙も不良っていうか悪ガキだったから甘寧
お互い理解しあい、魅かれるところがあったのかも
孫策に側近に抜擢されなかったらヤクザ街道まっしぐら?
呂蒙は孫策・周瑜の戦いぶりを間近で見てきたのを最大限に
生かしていると思う。個人的には三国志の人物の中での成長率No1
2位3位は孫権・張飛あたりかな
呂蒙はもうちょっと評価されてもいいよね。
というか呉全員な。
周瑜は赤壁とか天下二分の壮大な戦略とかスケールのでかさが凄いと思わせるのに対し
呂蒙は調略とか関羽攻略で兵士の闘争心を奪うとか戦い方が巧いと思わせるよな。
>>508 これはウケタww
なんで徐晃なんて微妙にマイナーな名前がw
スクロールしてったら下でも 徐晃 ではありませんか? って聞かれてまたワロタw
揚州廬江郡の人。周氏はその人士の中から三公の一つである太尉を二名も出した実績を誇る江東屈指の名家。周郎の異名を持ち
(孫策は孫郎と呼ばれた)、若くして立派な風采を整えていた。またとても鋭い音感をもっており、
演奏を聴いていると、たとえ酔っ払っていても僅かな間違いを聞き取った。これより「音を間違えると周郎が振り向く」といわれた。
孫堅が兵を挙げると息子の孫策やその家族を周瑜の家の近くに住まわせた(揚州に居た孫策に周瑜が出会い、そこで仲良くなり周瑜が
家を用意し自分の家の隣に住まわせたという説もある)。そのとき周瑜は同じ年で有ったこともあり仲良くなり、「断金の交(金属を
断つほどの強い契り)」を結んだ。孫堅亡き後、袁術の元にいた孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添い、功績を挙げた。
孫策が亡くなった後、呉の家臣たちが後を継いだ孫権を仲間気分で扱うことに国家の危機を感じ、一番初めに孫権に臣下の礼をとり、他の者もそれに
ならったとされる。孫策は「内事は張昭に、外事は周瑜に任せよ」と遺言し、これより呉の大都督となり呉の軍隊をよく整備した。
『三国志』(正史)においては、周瑜は穏やかな性格の持ち主で度量も大きかったと記されている。また、人の心を掴むことが得意だったらしい。
その証拠として、赤壁の戦い時の周瑜と程普の関係がある。
程普は孫堅以来呉に使えてきた武勇と知略に優れた宿将であり、また呉の臣の中でも最年長で周りの者から「程公」と慕われていた呉きっての武将である。
しかし、この程普は自分よりかなり若輩でありながら高い位にいる周瑜のことを嫌っており、また周瑜の方も程普のことを好いてはおらず、
二人の犬猿の仲は呉の中で知らぬ者が居ないほど有名だった。孫権の信頼篤き重臣諸葛瑾はこの二人を赤壁の戦いの司令官とすることを孫権に図ったのである。
果たして周瑜は(諸葛瑾の案も借りて)上半身裸となり、鞭を背負って程普の元へ行き、跪いた(「刎頚の交わり」を模したもの)。驚いた程普は周瑜に上着を着せ
手を取って労わり、以後二人は親友の仲となった。後に孫権はこの周瑜が自らが遜って講和をした策を高く評価したという。
また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。
つまり、周瑜はそれほど彼らから危険人物と見なされていたのだ。これらを見てもわかるように、演義における周瑜は諸葛亮を引き立てるための虚像で、
実際の周瑜は知略・武略に優れ、誰からも慕われた人物だったのである。実際に、諸葛亮よりも早く天下を分けることを孫権に提案しているのである。
そして、それを実行に移す直前に死亡してしまうのだ。もしも周瑜があと一年長く生きていたら、後の中国の歴史は大きく変わっていただろうといわれている
『三国志演義』の周瑜は、赤壁の戦いの諸葛亮の功労を誇張しようという著者の創作で、激しやすい性格のために諸葛亮に翻弄される、損な役回りを負わされている。
赤壁の戦いでは曹操に降りるように孫権に進言しようとしていたが、交渉に来た諸葛亮の話で「曹操が自分と孫策の妻を欲しがっている」ということを聞かされると
怒り狂って曹操に戦うようにと孫権に進言し呉が曹操と対抗するきっかけを作った。その後諸葛亮と共に赤壁の戦いの策を練るが、諸葛亮に自分が立てた策を全て見透かされたうえ
諸葛亮の暗殺を考えている狭量な人物として描かれている。また、臨終の際に「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と嘆いており、
かませ犬的な扱いがはっきりしている。
なお京劇では周瑜は「美周郎」のあだ名の通り、二枚目が演じる役とされており、
眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。
まあ蜀偏重&史実より物語重視の演義にしてみれば
諸葛亮にとっては司馬懿が宿命のライバルで周瑜は前座だからね…
むしろ民間伝承の中にはもっと悪質に周瑜をおとしめたものもあったそうで
あのレベルに抑えた羅漢中はマシかもしれない
超どうでもいいが、今『羅漢中』が一発変換できて
単語登録もしてないのに!とぶったまげたが
よく考えたら仏教かなにかの用語で『羅漢』て熟語があったっけな
羅貫中?羅漢中?
>>520 でも実際諸葛亮の方がすごかったんでしょ?
周瑜は戦いには強かったけど諸葛亮は軍師としても活躍したんだし。
>>522 諸葛亮→劉禅
かもしれないが、
周瑜 →孫権
でもある
孫権>>劉禅
だから諸葛亮のほうがすごいって意味か?
羅漢仁王拳
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 20:57:19
周瑜「明日の件、夜九時までに電話して」
呂蒙「うん、夜九時までに電話する」
陸遜「お願いね」
呂蒙「魯粛にも電話するね」
魯粛「俺はいいよ・・・俺にかけると電話代かかっちゃうし」
周瑜「あ、そっか。魯粛はソフトバンクじゃないもんね」
魯粛「ごめん」
呂蒙「気にしなくていいよ」
陸遜「魯粛が悪いんじゃないし」
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/17(日) 03:05:54
ヨソウガイデス
陸遜に魯粛呼ばわりかw
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 15:07:46
なにげに周瑜イニシアティブ握ってるなw
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 16:34:31
北斗残悔拳
>>520 でも同じく講談の類によって周朗=色男のイメージが固まったとも言えるな。嫁さんと合わせてラブストーリーが映えるらしい。
>>520 あれ、正史に〔美周朗〕のニックネーム記載されてなかったっけ?
異様に過疎ってきたage
周瑜以下陸遜まで呉は軍師っていうより軍総司令官な位置だけど
孔明って劉備がいる時って後方担当で軍師として出ていたっけ?
方正の方が軍師っぽい。孔明って北伐でもほとんど勝ってないし。
むしろ内政の孔明がすばらしいんで軍師として周瑜以下の呉より上って納得いかない。
孔明こそ演義と正史の評価の違う奴だと思う。でも肉まんは好きだよ。
>>534 「周朗と呼ばれ親しまれてた」とか「優れた容貌だった」とかはあるけど、そのままズバリ「美周朗」はないと思う。
>>535 522も伝聞みたいだし良く知らないんでしょうからさらっと流せばいいよ。下手に絡んで変なのに居座られても嫌だし。
重箱の隅だが、郎だと思う。
>>535 劉備が益州を乗っ取った時の諸葛亮の官位は
「軍師将軍」
軍師してるよ
>>538 なら
「捕虜将軍」
の李典は捕虜でもしてたのですか?
「軍師」が軍参謀を指して使われるようになるのは三国志よりずっと後らしいよ。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 19:08:52
じゃあ当時の軍師の意味は?
役職名の一つで、「新字源」によれば軍内部行政・司法を担当の高官。
と書くといかにも博識な感じだが、某ブログより勝手に拝借してるだけという…
俺漢字読めない><
備以諸葛亮為軍師中郎將,〔軍師,亦古將軍號。曹操初置軍師祭酒,
而備置軍師中郎將,皆以一時軍事創置官名也。然軍師祭酒止決軍謀,
中郎將則有兵柄。亮後又進軍師將軍。〕
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 21:37:46
軍師といえば周喩
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 21:42:39
>>542 どこの文か知らんが、軍師は軍謀を決めると書かれてるな
今の軍師と同じじゃないの?
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 22:09:56
>>539 「虜」には敵という意味もある。
多分捕虜将軍の「捕虜」は敵を捕らえるって意味だと思う。
「敵を捕う」の意だな
討虜、破虜などの将軍号もあるしな
捕虜将軍wwwwwwww
今年一番笑ったかもしれないw
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 00:35:24
どこらへんが面白かったんだ?
>>544 グーグル先生に聞いたところどうも資治通鑑に胡三省が付けた注釈の一部っぽい。俺は原本持ってないんで確認は出来ないが。
俺も漢文の教養はないけど、「軍師祭酒止決軍謀」は曹操が198年に初めて置いた「軍師祭酒(軍祭酒)」の説明で、
劉備が設置した軍師中郎將の説明は「中郎將則有兵柄」の方じゃないかと。
>>545 ようは現代日本とは違う用法で使われてるのだから、そんな修飾語句をもって「(現代の我々が言う)軍師だった」するのは無理があると。
・軍師,亦古將軍號。
→軍師、また古の将軍の号。
・曹操初置軍師祭酒,而備置軍師中郎將,皆以一時軍事創置官名也。
→曹操、初めて軍師祭酒を置き、而して備、軍師中郎将を置き、皆一時の軍事を以って官名を創置するなり。
・然軍師祭酒止決軍謀,中郎將則有兵柄。
→然れども軍師祭酒は軍謀を決っするに止まり、中郎将は則ち兵柄有り。
・亮後又進軍師將軍。
→亮、後に又軍師将軍に進む。
※「軍師祭酒は軍略だけで、軍師中郎将は兵を動かす権力もあるよ」ってことだね。
読み下しの間違い部分には目をつぶれ。
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 03:45:31
むむむ
何が 言わないぞ。 だ
はははこやつめ
板違いだ。
続きは中国英雄板でやれ。
周瑜の天下二分て劉備擁立なんですか?
>>557 「呉書見聞」という有名サイトでその説をぶち上げてるから有名だけど、他の考えも十分できると思うよ。
献帝に対抗して劉備皇帝ってことか
関張を左右として使い北に対抗するにはそれしかないだろうね。
ただそれをやると孫権の立場が浮く。
まあ所詮周瑜は後漢朝の家来に過ぎなかったということだろう。
その意味で孫権が信用できる絶対的な家来は魯粛、呂蒙の二人だけ。陸遜は微妙。
孫権の評価は周瑜が一番
魯粛は最下位
孫権の評価が高く一番頼りにしてたのは間違いなく周瑜だと思うが
孫権が最も配下として信用していたのは呂蒙だろうな。
周ユは孫権が子供の頃からの知り合いだし(義理の兄?)、孫策死亡時にもし周ユいなかったら最悪の場合あそこで呉は滅びてたから孫権はかなり周ユの事信頼してたと思うんだけどな。
演義じゃいろいろ違うけど史実じゃ孫権の母も周ユよりだったみたいだし。
そりゃ孫権個人としては人間関係含めて周瑜に勝る頼れる人はいないだろう
ただ、孫氏政権の主としては特別な背景を持たない呂蒙はとても気易いだろうな
問題はそのどちらも早死になんだよなあ…
孫家はブラック企業なのか…
つ[長江の貝の中の寄生虫]
つ[孫権腹黒]
(´・ω・`)?
>>568 上は伴野朗 の『呉・三国志4』
下は桐野作人の『三国志蒼竜伝―周瑜・中原制覇の軍略』か
孫権にとって呂蒙はあれだ、初めて部活で出来たなついてくる後輩みたいなもんか
>>562 まず関張を使うにはそれしかないと言うけど、実際にわざわざ皇帝に担ぎ上げずとも既に周瑜は張飛を借りて使っているし、
関羽も考えようによっては同様(劉備が南部4群を攻めてた説をとるなら)。これを目的に劉備を担ぎたかったするには動機が弱いかと。
しかも周瑜の主張の根幹は「関羽・張飛を部下にしたい」という人材獲得の希望ではなく
「劉備に基盤を与え、股肱の2人と一緒に行動させればいつか絶対に脅威となりうる」という危機の警鐘の方だろうし。
次に現に都に本物の皇帝が居て、漢王室の体裁が曲がりなりにも整えられたままにも関わらず、
何処の馬の骨ともわからない劉備を「これ皇帝だから」と担ぎ上げて本当にメリットあるのか疑問。
形骸化したとはいえ朝廷の権威は遠く呉の地ですら未だ厳然と作用していたし、
こんな文字通りの反逆行為を行えば、大義名分を失い人心は離れ曹操勢力を勢いづけることにしかならないだろう。
「曹操こそ漢室の逆賊なのだから孫家が取り除かなければならない」という周瑜の主張がオジャン。
近い過去に袁紹の劉虞奉戴もあっさり頓挫してるし、周瑜がこんな自爆まがいの策を取るとも俺には思えない。
人心を失えば袁術張りの末路を辿るのがオチ。
そもそもこの説って「劉備を奉戴しよう」という明確な意思表示は一切本文になく深読みの類なわけで、
面白い説だけど、どうしても根拠に乏しい。主張の立脚点からして周瑜の言葉の裏の、言ってしまえばただの憶測。
最後に「周瑜は後漢朝の家来に過ぎなかった」というのが一番違和感ある。何故そう思ったのか聞かせて欲しい。
この説が仮に事実だったとしても勝手に皇帝を担ぎ上げようという不逞のやから以外のなにものでもないし、
そうじゃなくても魯粛に「正直言って漢室そろそろ終わる。次は孫家が来るね」と語っているのをどう捉えているの?
まあ、劉関張は天下に名が轟いていたから、手に入れたかったというのはあるだろうな。
周瑜→天下取りしてぇ。益州取って涼州と手を組んで曹操と大戦争じゃ。
魯粛・孫権→堅実にいこう。とりあえず三国鼎立。
劉備一家→根拠地欲しいなー。具体的に言うと蜀。
ありゃ、周瑜だけ仲間はずれなのね。
周瑜・孫策→天下取りしてぇ。益州取って涼州と手を組んで曹操と大戦争じゃ。
魯粛・孫権→堅実にいこう。とりあえず三国鼎立。
劉備一家→根拠地欲しいなー。具体的に言うと蜀。
>>570 呂蒙は孫権が勉強しろと言って本当に猛勉強して
学者顔負けの頭の良さにになったり死んだ後に
もらった褒美とかほとんど返還するくらいの超忠臣だしな
後輩にこんなのがいたらまじ可愛がりそうww
577 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/26(火) 00:06:22
秀吉に仕えた武将と比較すると
蜂須賀正勝=程普
竹中半兵衛=周ユ
黒田官兵衛=呂蒙
小早川隆景=魯シュク
蒲生氏郷 =陸遜
まあこんなとこだろう
>>574 まともな意味で周瑜は孫策が大好きだったんだろうな。
最後の頃の言動とか行動は、周瑜は孫策の夢を実現したかったように見える。
だから孫権と癒着は出来なかったわけで、それが結局いい方向に呉を導いた気ガス
周瑜と孫策、両方長生きしていたら面白かっただろうなと思うもんな。
夢に生き、夢に死ぬ。だよ周瑜は。゚(ノд`)゚。
孫策時代の呉はみんなして
「イケイケェーー!!ノーブレーキだァ!1か0だ!それ男だぁぜー!」
みたいな一種アホなノリだからなw張昭や周瑜もなんかぶっ壊れてるw
それが孫策が死んで、その弟の孫権の為に今度は自分の身を律して行動し始める
せつない
孫策の時は中原はまだ曹操と袁紹が争ってた
孫権の時は赤壁で降伏しても仕方がない情勢
赤壁でもイケイケな周瑜&魯粛。
赤壁でもヌケヌケな大喬&小喬。
そして赤壁でもアゲアゲな黄蓋
いつになったら百叩きくらった黄蓋を甘寧が見舞って見破るイベが
無双に採用されるんだろう
剣山頭の甘寧クビにして横光甘寧でも採用しなきゃ無理か
それ以前に周瑜が黄蓋を百叩きするシーンが無双に採用されるのはいつなんだろうか
あの周瑜にいくら叩かれても、あの黄蓋ならきっと痛くない。
>>587 3猛将のあれでは不満?
甘寧の見舞いイベは確かにほしい
話豚切って申し訳無いのですが、疑問があります。
何故周瑜は偏将軍止まりだったのでしょう?
周瑜くらいならもっと高い官職でも良いと思うのですが。
当時の孫権ではそれ以上の官職を与えるのは不可能だったとか、取り敢えず
偏将軍にしといて後から別の官職与えようとしたら周瑜が死んでしまったとか
何か考えられる理由があったら教えて頂きたいです。
それとも、偏将軍って実は凄いんでしょうか?
>>590 下から数えりゃ、それなりにはすごいと思うよ
将軍将軍って、現代の我々は単に一軍の指揮者という意味でほいほい使ってるけど
当時は官職としての「将軍号」を持たない武将だって沢山いたはずだしね
周瑜の家柄や名声、実力なら孫権以上の階級にいけたかもしれないけど
孫家を立ててる周瑜の性格からして孫権より高い階級は望まなかったんじゃないか?
>>593 オイオイ、孫権以上の階級を貰うって=孫権勢力を離れるってことだろ。孫権から官位を任じられるから勢力の一員となるわけで。
性格の問題じゃない。
孫権以上の階級を貰う
=孫権より上の地位( ・`ω・´)ノ
=呉は本日をもちましてこの周瑜が率いさせて頂きます(^ω^)
or曹操に孫権以上の位貰っちゃったよwww今日から魏に逝くぉwww
でも実質的には周瑜の方が孫権より権力あったかもね
水軍の総帥だし
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/27(水) 20:22:08
呉は北からやってきた無頼や名士と地元豪族の連合政権だから皇帝権があまり強くない。
そういう点で東晋とよく似てる。
亀レスだけど
>>562 >その意味で孫権が信用できる絶対的な家来は魯粛、呂蒙の二人だけ。陸遜は微妙。
かなり主観入ってないか?
親族でも微妙、豪族は必要悪。
はっきり言って子飼い以外は全部信用出来ないお。
600 :
590:2006/12/28(木) 01:20:06
レス有難う御座いました。参考になりました。
>>599 だよな、ゲームとかじゃ呉って和気藹々な雰囲気で書かれてるけど実際ってものすごく腹黒さんだったんじゃ・・・
>>597 東晋は北の貴族と土着の豪族の間には越えられない壁がある
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/28(木) 01:37:56
なんだかんだで二宮ではかなり豪族叩きして
孫皓時代の皇帝権はなかなかのものよ
皇帝や外戚が好き勝手できてるからなあ
>>604 彼の暴走も皇帝権の強化為と見るとまた面白い
どのみち最後の軍師はああなるんだろうけどさ…
なに軍師って
りっくんのまつろ?
609 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/28(木) 23:20:26
スペシャルハリケーンミキサー
諸葛亮を『知 100』としたら、この4人はそれぞれどのくらいだろう?
ついでに呂布を『武 100』としたらそれぞれどのくらいだろう?
>>610 『知』が何を指すかにもよるんじゃね?
ついでに正史準拠か演義準拠かもな
正史準拠で。
難しいかもしれないけど、外交とか内政とか戦略とか全部含めて、っていうのはあれだから、戦略のみがいいかな・・・。
614 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/30(土) 00:53:57
俺はロビンマスクと男の勝負がしたいんだ
byマンモスマン
子供時代に孫策と剣の腕が対等だったという民間伝承から、周瑜は武も結構高いと踏んでる俺がいるわけだが。
能力値とかなんだかは専用スレがあるわけでそっち行け
めよきうく
読気空
emoyikuk
←←←←←
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/30(土) 23:18:01
どうだろう。ロシュクとかは知はあまり高くなくてその分政治が高い気ガス
620 :
孔明廚 :2006/12/30(土) 23:49:04
>>618 はぁぁ?!なんだと!お前なんか『知』が−15の癖に!
男性諸君、結婚すると不幸になる。幸せにして当たり前で感謝無し。都合の良い奴隷としてだけ感謝され、搾り取って用済みになればゴミ箱へポイ♪
女の外面は綺麗で清潔で良い人、内面はずるくて汚いため、口も悪い+薄情+嘘+女同士も上辺仲良し裏では悪口三昧
女の成分はA(性悪陰湿残忍+損得自己中感情)+B(良い女演技+体形+整形化粧+ファッション)
↑良い女演技は好きな男>>異次元>>男集団>他人の順に良くなる。年齢とともにBのメッキがはがれ内外ともに醜くなる(Aの良い女は極少数)
女は「人生の不良債権、北朝鮮、金メッキを施したゴキブリ」
男女は対等で平等。男が女を養ったり守る必要はない「見切れ!見切り千両!私不幸なの?嘘!泣いてます?演技!情けは不要!つけこまれるぞ」
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★捨てた女は優しい真面目男が結婚(残飯処理)してくれるさw★
それでも結婚する君へ究極護身法→[夫婦財産契約登記]
夫婦財産契約により、自分の稼いだ財産はすべて自分の物
弱い者いじめは最低と言いつつ、赤ちゃんを殺す母親(そして無罪判決(笑
狙撃は女子のほうが強い。男はノイローゼになってやめてしまうが
女は何人殺してもノイローゼにならない。骨盤が安定しているため
ナチスの拷問で、女の拷問の残虐非道さを見て、拷問をしていた男達もひいたという
拷問しながら楽しそうに笑みをうかべていたそうだ。罪悪感や引け目が無い
・有史以前が女尊男卑の時代だったことを指摘したのは、スイスの学者バッハオーフィン
アマゾン女族の女王は、法律を定め、男達には卑しい奴隷の仕事を課した
男児が生まれたら、生き埋めにするか、脚と腕を不自由にして、戦えなくし奴隷とした
・王位継承権が女性にだけあった古代エジプトでは女性権力が非常に大きかった
・日本でも卑弥呼が女王
http://kr.img.dc.yahoo.com/b1/data/dci_etc/76.wmv ←女集団が女一人をリンチしている動画(執拗に蹴り続けながら皆楽しんでる 一部エロ有
女は虐げられてきた?父系社会など人類の歴史から見ればほんのわずかな期間に過ぎない。むしろ
>>620 「テストでマイナス点を取る方法」とかなんとかいうのを思い出した
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 14:14:23
げえっカンヌ!
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/04(木) 06:36:15
諸葛謹
の驢馬
あの子は家を滅ぼすだろう…
諸葛珍
ってなんかいそうだな
なんか変な流れだな…こういう時は呂蒙の話題でも話そうじゃあないか。
呂蒙はいい子だよ。
孫策軍の将校だったケ当の嫁の弟で、若い頃から孫策軍に入り浸っていた。
大人にバカにされて怒り殺傷沙汰になったのが孫策の耳に入って孫策の側近の一人になり、
ケ当が死んでその軍を継ぎ、孫策の死後も孫権に忠実に付き従います。
魯粛とは肩を抱き合う親友で本を読めと言われては従い、
獰猛すぎる甘寧の言動を諫めるくだりは穏和な性格が見てとれます。
陸遜と共に関羽を倒した時に呂蒙が施した「徳と免税による荊州の住民懐柔策」は、
呂蒙が常々考えていた呂蒙なりの「平和」を実戦したのではないかと思うわけです。
終わり。
周瑜も呂蒙も陸遜も軍師じゃねぇ!
んじゃ張悌
>>631 軍師は文官だけだと思ってるアフォですか?
というか魯粛も文官ではないのですが
上の方で「軍師将軍の称号」について云々があったけど
一般的な単語としては戦術参謀ができれば軍師ですよ
軍師は文官にしかなれないというなら
侍社会の日本には軍師が一人もいなかったことになるが…
戦術参謀の時点で周瑜はアウト
>>633 一般的な用語で言えば周瑜も呂蒙も陸遜も『軍師』じゃなく『司令官』だということでしょ。
周瑜の代表的事業である赤壁と江陵攻略(と征蜀未遂)について、戦略決定段階における孫権の参謀的役割もあったが、
メインは司令官として両作戦の総指揮をとり勝利に導いたことであり、そのことで『名将』として歴史に名を残してる。
呂蒙や陸遜も、それぞれ周瑜・魯粛や呂蒙の元で献策をしたこともあるけど、
呂蒙とはどういう人物か?と聞かれれば、それこそ『一般的』には「関羽から荊州を奪った呉の『名将』」であり、
陸遜は「夷陵で劉備を破った呉の若き(本当は大して若くないけど)『名将』」ということになる。
この他にも呂蒙の濡須や陸遜の石亭など、2人共指揮官として多くの成果を残しているわけで、
軍師と称するのには違和感を覚える人も居るんだろう。
その点魯粛は逆に、司令官としての経験が無いではないけど、魯粛の大一番は赤壁開戦に持ち込んだことや単刀附会みたいな
呉蜀同盟と天下三文策の推進にこそあるので、参謀的な役割での「軍師」にマッチするのかと。
…というか今まで誰も文官のぶの字も出してないのにいきなりどうしたんだ?と思わないでもない。
勝手に「軍師は文官のみだと相手は思ってる!」と決め付けてアホ呼ばわりとかするのは荒れそうなんで止めて欲しい。
周瑜は孫策下では軍師でも良くないか。
残念ながら孫策時代にどんな献策したのかとかが残ってないんだよな…
確認できることは後方都市の慰撫や物資の供給みたいな後方支援的働きと、
副将として従軍したり指揮官として別働隊を指揮したりするような上級将校的役割を任されてたことぐらい。
イメージ的には孫策総指揮の下周瑜が軍師というのが凄いシックリくるんだけど。
>>633がどうしてそこまで話しを飛躍させたのかわからない
孫策がいた時はでかい戦いはなかったもんな。
挙兵した頃は朱治や孫静あたりが参謀っぽかったりしたのかな
呉景はいまいち頼りない感じだが
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/05(金) 23:40:43
周瑜は参謀とか軍師というよりも、全てをふくめた右腕とか懐刀っていうイメージが強いんだが・・・
史実を無視しまくってる無双だけど呉の描写は意外にも史実に忠実だと思った。
呂蒙は置いておいて、よく周瑜や陸遜に扇持たせなかったと思う。
644 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/01/05(金) 23:48:17
稲葉山城を17人で乗っ取った竹中半兵衛は神
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/06(土) 00:00:29
>>644 え?前からすごい事は聞いてたがそんなに凄いのか?
このスレいつもリョモウに始まりシュウユに終わるなw
>>647 無双で諸葛亮や司馬懿が武器として使ってる羽扇のことじゃないかね
さすがに羽扇キャラには無理があるだろう。
つうか呉にはでかい扇持ちが二人もいるしな。
まあそんなことはどうでもいい。
650 :
647:2007/01/08(月) 01:28:01
>>648-649 Thxです! 三国無双のサイト見てきたwwwあれは武器になるのか?www
でも、蘇軾が赤壁懐古で 「遥想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間……」と
言ってるから、周瑜も羽扇を持ってたのかも……まあほんとにどうでもいいことなので失礼しますた。
羽扇は三国時代よりもっと後の発明
根拠は?
三国時代の遺跡から出土してないから
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 12:46:16
>>650 羽扇綸巾はいわゆる儒将の姿を表すときに使う表現だが、
後世ではまんま孔明の衣装様式となった。
あと蘇軾の時代に赤壁が二つがあって、
彼がこの詩を作ったときに訪れた場所は
三国の赤壁じゃないってのも結構有名な話。
陸遜が良く若年設定で描かれるのはどう思う?
1.都督リレーの最後、夷陵での抜擢などの若いイメージに合ってるので良い。
2.夷陵時の年齢(既に40近いおっさん)や60過ぎまで活躍し続けたイメージに合わないのでダメ。
>>655 夷陵では上手く活かしてると思う
ただ、爺さん好きなので晩年の苦労も描いて欲しいなあ
横光では別に陸遜青年っぽいわけではないよな。
肥三国志の影響とかって、どっかで聞いたけど。
>>654 なるほど、小喬も嫁いでからもう何年もたってるし、
赤壁懐古にうたわれているのは、東坡先生の想像した詩景のなかにある
「俺の思うところのかっこいい周瑜像(補正あり)」ですねw。
陸遜は、演義だとずーっと仕官したての書生風イメージが……京劇でも陸遜の役には髭がない
(京劇では、成人の男の役で髭がない=髭なしでも鑑賞に堪えうる若いイケメンの役らしい)。
でもそのせいで、今でも中国南部では陸遜は伝承とかでやたらと人気があるらしい。
俺の頭では横光陸遜がデフォ
これくらい威厳がないと呉の武闘派をおさえられるかってんだ
オッサンくさいだけのような気もするが同意
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 07:19:33
はぐれ刑事みたいな感じだったのかもしれない
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 07:35:42
映像技術がハリウッド並の三国志は見てみたいけど、
呂蒙って感じのムサそうな俳優はたくさん居てもうつくしー周喩は難しいね。
諸葛亮は病弱な身長180センチイケメン・・これはいけそうかな?
横光陸遜は服装鎧姿が異様にかわいい
アゴ紐が特に
>>662 考えてみると呂蒙の結核はあまり話に出てこないね
結核=吐血=美形は定番だと思うが。
先輩との差別化かな?
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 10:17:30
呂蒙好きの俺としては年を追うごとに姿を変化させたい
でかいガキ→筆が似合わない筋肉兄さん→やせ細った秀才
ってな感じで
>>665 じゃあ、貴乃花だな。知性的なイメージはないが。
>>666 親方なった時のやつれ具合は印象的だったね
リストラ対策にやたら部隊派手にしたこともあったし
結構派手好きなのかな?
思いついても中々出来ないと思う
ほっとくんだ
泣けるな…
呉はこの四人に焦点を当てて四部構成の作品にでも仕立てた方がウケルと思うのだが。
孫策生存時からの孫権視点の方が感動できるんだが
んでこのスレタイの4人を一人づつ孫権視点でピックアップして5部構成のがよくないか?
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:23:48
あげ
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:42:46
呉に限らず、映像関係ではトンデモ妄想三国志の方が受けるからって、
真面目な視点の三国志なんて作ってくんないんだろな…
人形劇でも見とくか
昔あった中国制作の三国志ドラマでも やっぱり呉って軽い扱いだったりする?
施績に関しての情報が調べにくい。 wikiにも載ってないし
>>675 施績について、本人の伝以外の記述(三国志内)
陳留王紀にて「施績は賊国の名臣ではあるが、(孫休死後の混乱から)猜疑心を抱いて主君から嫌悪されている」と評される。
胡質伝にて「施績・ショウ済らと共に長江・ワイ水一帯で名を知られた」と評される。
王昶伝にて、250年に王昶に打ち破られ、諸葛誕の反乱の際に王昶に足止めされたとされる。
孫休伝にて、263年に魏の蜀侵攻に関して軍をどのように動かすか検討するよう求められたされる。
孫皓伝にて、264年に丁奉と左右の大司馬に任じられ、269年の四月に死去したとある。
また弁亡論の中で「施績と范慎は威信の重さで人々に知られる」と評される
孫奐伝にて、孫壱らと共に諸葛融を攻めたとされる。
諸葛融伝では、孫壱・施績らを率いたのは施寛とされる。
孫和伝の註にて、太子派の一人として大都督施績の名が上がる。
鍾離牧伝の註にて、鍾離シュンが宜城・信陵に城を築いて防備を固めるべきと唐盛に進言するも、
施績・留平ら知略を備えた名将たちが、宜城・信陵を通過したのに城を作ろうと言ってないから(鍾離シュンの意見を)取り上げなかったとされる。
参考になれば。
三国志の時代、低い身分の出身者が出世するとなにかと足ひっぱる奴が多い。名士だの豪族だのの影響力は最近頻繁に耳にする。
そんな中で呂蒙を考えてみると、「元の儒学者でも及ばない」程書物を読み解くことで出自の不利を挽回したともとれることに気付いた。
司令官として磐石の人望も、呂蒙の努力の賜物の考えると感慨深い。
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:43:35
陸抗は孫策の孫
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 02:00:44
とりあえず軍師としての才能なら魯粛が一番上じゃないか?
周瑜の天下二分論ははっきし言って成功確立の極めて低いギャンブルだし、
呂蒙・陸遜が引っ掻き回したせいで魯粛の足を引っ張ってるような希ガス。
孫権も魯粛を一段下の評価をしてるけど、むしろこの評価が孫権の大局の
見えなさを表してると思うよ。
魯粛は荊州取り戻しに何度も失敗してる時点で
あまり高い評価は与えられん気がするんだが
最初の交渉で折半を勝ち取ったじゃないか。
>周瑜の天下二分論ははっきし言って成功確立の極めて低いギャンブル
これ、よくそう言われるけどさ、完全な成功は無理にしても
ある程度の戦果さへあげれば、その後の交渉を有利に進められたり
するんじゃないかな?
>>679 魯粛の天下三分がどういうものだか未だに良く分からんのだけど
wiki先生の言うとおり荊州とかを併合して天下二分を目指すものなら
呂蒙・陸遜の荊州取り戻しは魯粛戦略を引っ掻き回した行為じゃないと思うし
そもそも魯粛自身も劉備入蜀以後は荊州を思いっきり狙ってるんじゃないか?
今更周瑜の征蜀の成功率の高さを語っても新しい発見なんざないだろうからマンネリ気味の話題かな…
一応指摘しとけば当時の蜀は張魯との長期抗争状態にあって、国内では扈瑁の乱、続いて趙イの乱がおき、
ホウ義・李異ら手柄のある諸将は皆外部と結ぶ気配ありと言われる混乱状態。
さらに軍勢・防備の大部分は(高沛らの居る白水を初め)北方の張魯対策に割り振られてる中、
史実でも快進撃を続けた荊州方面から平素の備えを怠る劉璋目指して曹操を打ち破って意気揚がる精鋭軍団が一路成都を目指す。
これが「成功確立の極めて低いギャンブル」なら呉がとった他の作戦、
例えば「軍師としての才能なら一番上」の魯粛にはいったいどれだけ高い勝算をもつ作戦があったの?
「呂蒙・陸遜が引っ掻き回さない」状態での魯粛の公算ってどんな形?
魯粛の構想というのは曹操を破るのは難しいから江東の地盤を固めて荊州に
兵を進めて長江流域を制圧して自立するという奴
周瑜の二分論も呂蒙の荊州奪取もこの魯粛の構想に沿ってるわけだ
魯粛以前に孫策時代から張紘が提唱してる、呉の基本戦略ですな。
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 00:40:23
>684
劉備が入蜀する時点では呉は越の平定に明け暮れている状態、その状態で
荊州の平定に乗り出すほどの荊州人士に対するコネも少なく 統治の名目も
無く 越と同様に荊蛮に悩まされるのは明らか。旧劉表勢力は曹操の横槍で
常に不安定な状態が続くと思う。
そこから更に蜀を攻めるとなると時間的に曹操に先を越される確立が高くな
り長江上流を抑えられると圧倒的に不利。三国時代は早めに終わったろうね。
だから周瑜の天下二分論は当時の状況では極めて困難な状況だったと思う。
赤壁後から曹操が攻勢に動き出すまで結構間なかったっけ?
確かに荊州の守りは固めてはいたけど
曹操の関中侵攻が211年。
赤壁が208年なのでそこまで遅れているとはいえない。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 01:15:23
687の続き
呉にとっての天下三分とは後の呉の崩壊につながった蜀の地域を、
友好的な勢力に支配させるってのが前提なのよね。(それにぴったし
当てはまるのが劉備だったわけで、魯粛の理解と呉の後押しが無け
れば諸葛亮の天下三分論もただの書生の戯言に過ぎないと思う。)
つまり>685 の言うような呂蒙の荊州奪取は蜀との友好関係を損
なう呉(と言うより魯粛か)の戦略としての天下三分論の真逆の行動で、
呉の存在そのものを危険にする行為だった思う。
これ以降、対魏の呉蜀の共同作戦が常にちぐはぐで、その不協和音
の状態のまま蜀は滅び、やがて呉も滅ぶ。
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 01:17:10
赤壁の後、曹操は明らかに兵力と勢いを失っていた
関中諸将から人質を取り彼等を抑えてから漢中を攻めようとしたが関中諸将の乱を招き、平定はしたものの兵力を損耗した
つまり赤壁後は曹操が荊州にも益州にもろくに動けない状態で、益州攻めの大チャンス
だから周瑜(孫権)も劉備も益州を攻めようと躍起だった
周瑜のプランも充分現実性はあった
最大の問題は劉備が邪魔すること
>>687 まず入ショクの段階で山越討伐に明け暮れてたの根拠は?
呉主伝をみても黄祖討伐以前に山越討伐関連の話題は集中してるし、入ショク前後はむしろ出てこない。
普通に考えれば山越問題が落ち着いたからこそ本格的に黄祖討伐に乗りだせたはず。
荊州にコネがないはずの呉が既に名士ホウ統などを配下に納めていたことは?
曹操が荊州情勢をそこまで不安定にさせるほどの扇動を行えるという根拠は?
そんなことできるなら当然史実においても実行してるよね?
>>687 >そこから更に蜀を攻めるとなると時間的に曹操に先を越される確立が高くなり
さすがは曹操。張魯を飛び越え蜀を制圧するなんて朝飯前ですね。
漢中を落とすこともできず多大な犠牲を払って結局引き上げた誰かとは比べ物にならないや!!
あのまま荊州方面からの侵攻を塞がれてた状態で
呉はどっから魏に侵攻できたの?
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 01:26:27
>>690 魯粛は元々長江流域全てを抑えることを目標としてた
それには上流の益州も含まれたはずで、魯粛もまた天下二分の考えだった
それが三分になるのは、劉備が荊州を抑えてしまったことと対曹操の駒としては有効だったためと思われる
魯粛も孫権も本質的には荊州は勿論益州も支配しようと考えており、呂蒙による荊州取りは魯粛のプランに反するものではなく、実際に魯粛は呂蒙の関羽攻めの策を聞き喜んでいる
>>690 そもそも魯粛自身が主導した荊州奪取はなんなんだ?
「これ以降、対魏の呉蜀の共同作戦が常にちぐはぐで」って、それまでは息のあった共同作戦を続けてたと思ってるのか?
219年の荊州奪取から、蜀が滅びたのは44年後の263年、呉が滅んだのは61年後の280年。「その状態のまま」随分長く続いたようで。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 02:20:15
>692
手元にソースが無いが張温伝で出てくるはず。ずーっと山越に悩まされてる
けどこれから頑張るからって。これよりも10年以上後の話だと思うよ。
>>692 ホウ統が周瑜に仕えていたのは周瑜が南郡太守だったからだよ
別に呉に仕えていたわけじゃない
その証拠に南郡が劉備の支配下に入ったら劉備軍内に組み込まれているだろ
ということは別に南郡太守であればが誰でも良かったと
>>699 ホウ統伝をちゃんと読み返せばわかるだろうけど
ホウ統は周瑜が南郡太守になる前に郡の任命によって功曹になっている
時期は劉表政権か曹操南下後か定かにされてないが
当然曹仁が南郡にいた時も彼は南郡の役人を務めていただろう
上が曹操軍→孫権軍→劉備軍と変わっていっただけで
彼が南郡の功曹として南郡太守に仕えていたことに変わりは無い
>>690 長江ラインを固めて守るのに不利な徐州を捨て、
今以上に防御を硬くするというのが呂蒙の考えなわけだけど
その
>呉の存在そのものを危険にする行為だった思う。
というのは聞けば聞くほど意味不明だ。
分かりやすく説明してくれ。
>>697 張温伝で「山越の討伐さえ済めば曹丕と正面からことを構えるつもりだ(と諸葛亮に伝えてくれ」という言葉が出てくるし、
諸葛格など後年においても山越討伐は出てくるが、それは「入蜀段階で平定に明け暮れている状態」を意味しないだろ。
前にも述べたが国力をそちらに回さなければならないほど悩まされていたのは呉主伝にも残る200〜206年で、
この間は実際黄祖討伐に赴くも国内の山越が蠢動したため撤退を余儀なくされてる。
しかし賀斉らの活躍もあり、国内の不安勢力掃討の意味ではこの時点で一段落ついており、
それが黄祖討伐の成功や赤壁の開戦を可能にした。
これ以後の山越討伐の話題は呉主伝に登場しなくなり、国力を注いだ治安事業から地方官による人員補充的なものになってくる。
その史跡は地方管理を任される部下の伝に「〜〜人を降伏させ、〜〜人を兵士として軍に編入した」という形でのみ残されるようになる。
国内を悩ます賊というより開発の余地あるフロンティアとして受け止められるようになっていく。
>>698 そもそも以前に官職に任命されていようと新しい支配者が気に入らないなら著名な名士は去る。他に幾らでも士官先があるのだから。
龐統は周瑜の死後その遺骸を届けに赴き、後に「貴方は以前周瑜の功曹であって〜、主君が変われば現在の主君に云々〜」
とあり、「呉に仕えていたわけで南郡に仕えていたわけじゃない」なんてどうして言える?単に周瑜死後に鞍替えしただけだろう。
現に劉備軍に行った時は従事兼県令として既に「彼は南郡の功曹として南郡太守に仕えて」居ない。
第一仮に龐統が南郡に仕えてるだけでその支配者に服従しているだけだとしても、呉の占領に対して
荊南で随一とも言える龐統ほどの名士が(全くコネ等に関係なく)黙って職務に励んでくれるなら、どっちにしろ荊州士人に対するコネなんてなくても支配は安定することになるだろ。
>>702の中段、
「呉に仕えていたわけで南郡に仕えていたわけじゃない」じゃなくて
「南郡に仕えていたわけで呉に仕えていたわけじゃない」の間違いだ。
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 14:17:03
いきなりですが、陸遜の正室ってダレ?孫策の娘は側室だった・・・よね?
腐女子が同人誌を書くにあたり情報が見つからないので教えてくれと申しております。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 14:40:33
そもそも正式に正室と側室を立てて区別するなんて皇族の人間ぐらいなんじゃないの?
袁紹が庶子というくらいだから有力家は本流と区別してたのかもしれんが、嫡子の陸抗が孫策の外孫扱いなんだから当然孫策の娘が正妻扱いなんでしょ。
そもそも「孫策の娘は側室」って一体どこから?
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 15:04:08
>>708 嫡長子は伯、庶長子は孟とされるように、少なくともまともな知識人階級では嫡庶、正妻と妾の別ははっきりしていた
曹操の正妻丁氏が子が無くても正妻だったように
正妻の実家は大抵親戚付き合い近所付き合いもある同等の家だから、子が無くてもむげに扱うわけにもいかないのだ
むしろ「長子を生んだら正妻になる」ことがままある皇帝家の方が流動的
>>702 >そもそも以前に官職に任命されていようと新しい支配者が気に入らないなら著名な名士は去る。他に幾らでも士官先があるのだから
去らない人間もいる。それだけの話なんだけどな
>龐統は周瑜の死後その遺骸を届けに赴き、後に「貴方は以前周瑜の功曹であって〜、主君が変われば現在の主君に云々〜」
とあり、「呉に仕えていたわけで南郡に仕えていたわけじゃない」なんてどうして言える?単に周瑜死後に鞍替えしただけだろう
だから、上が勝手に変わっただけだろ
>現に劉備軍に行った時は従事兼県令として既に「彼は南郡の功曹として南郡太守に仕えて」居ない。
劉備は荊州牧なんだからホウ統を南郡の功曹から従事兼県令へすることは可能だろ
>第一仮に龐統が南郡に仕えてるだけでその支配者に服従しているだけだとしても、呉の占領に対して
荊南で随一とも言える龐統ほどの名士が(全くコネ等に関係なく)黙って職務に励んでくれるなら、どっちにしろ荊州士人に対するコネなんてなくても支配は安定することになるだろ
何をもってホウ統を荊南で随一の名士としているか知らんが
コネがあろうがなかろうが呉に荊州を抑えるだけの軍事力と権威(官位)があれば
荊州人士を従えさせることは不可能なことじゃない
実際蜀から荊州を奪った後、呉はうまく荊州を切り盛りしたじゃないか
潘シュン伝の注でも荊州の人士たちがたいした抵抗も無く下についたことが書かれている
実力で荊州を取って、さらに荊州牧の官位を持ったこの時の呉にはそれが可能だったと言うことだ
問題は周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか持っていなかったかってことだ
>>710 だからその「龐統が能動的に主君を(それ以前の誰か)→周瑜→劉備と変えたのではなく、支配者が変わったのに合わせて役所に勤め続けただけ」の根拠は?
周瑜が南郡を落とし、再編を行わずに役所をそのまま引き継いだという資料でもあったっけ?特に明言されてない部分をあえて
「いや、龐統は呉に仕えていたわけじゃないんだ」と断言できるのは何故?
特に「南郡に出仕し続けること≠呉に仕えること」を分けなければいけない理由と根拠は?
「龐統が荊南で随一ともいえる」としたのは司馬キから受けた度々の高評、
博巽の「半英雄」(文脈上褒め言葉なんだろう)、揚州の名門・大学者である陸績、虞翻らと並んで称され親交を結んでいることからも、
州を越えた付き合いのある名士の証左だろう(他にも諸葛亮など居るので随一は言いすぎだったかも知れないが、トップクラスと言って良いはず)
「荊州人士を従えさせることは不可能なことじゃない」っていうか既に従えてるじゃん。
その「荊州を抑えるには軍事力と権威が必要で」、「周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか疑わしい」とするならその根拠は?
そもそも
>>687から「荊州南部全域の平定を目指してる」みたいな書き方に思えるが、当時の呉の支配地域は南郡・江夏とその周辺地域。
蛮族が多く住む武陵(武陵蛮・五渓蛮)を中心とした地域は劉備側の領内だし、
そもそも荊州人士に対する影響力と蛮族問題は別物だろうになんで
>>687は「越と同様に荊蛮に悩まされるのは明らか」なんて言ってるの?
それとも
>>698以後の人物は別人?
>>711 自分は687じゃないので687の主張の立証なんてできないよ
それは687自身にしてもらってくれ
>「龐統が能動的に主君を(それ以前の誰か)→周瑜→劉備と変えたのではなく、支配者が変わったのに合わせて役所に勤め続けただけ」の根拠は?
700で既に根拠は書いているんだがね…
どうも君が、周瑜が南郡に来る前からホウ統が郡の功曹であったとする明確な根拠がないといっているのか
周瑜が再編を行わずに役所をそのまま引き継いだという根拠がないといっているのかよくわからんのだけど?
前者ならホウ統伝に先に功曹就任が書かれてその後に周瑜の太守就任の話が来ているんだから
普通に読めば周瑜が太守になる前からホウ統は郡のだったとなるだろ
逆に周瑜が太守になってから功曹になったのにそこが史書の順番が違うってのはかなりおかしな話だ
後者なら周瑜着任前に功曹であったホウ統が、周瑜着任後も功曹を務めているんだから
ホウ統に関しては再編を行わなかった証明になるだろう
さらに「周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか」について
>当時の呉の支配地域は南郡・江夏とその周辺地域
だとわかっているなら、荊州の火種があることの否定はできないと思うぞ
劉備が龐統を免官しようとした時、魯粛がとりなしてるから劉備の版図となった地域の役人・人士は孫呉との話し合いでそのままスライドさせたんじゃねえか?そのまま
>>712 端的に言えば龐統が以前の職責を続投したことが、どうして「別に呉に仕えていたわけじゃない」のかわからない。
征服者が征服地の人士を元の職責で迎え入れたら「頭が変わっただけでその征服者に仕えているわけじゃない」となるのか?
俺は「龐統は(劉表→魏?)→呉→劉備と仕えた」と考えていて、その根拠が
>>702の「貴方は以前周瑜の功曹であって〜」とかだったりするわけだが、
何が「上が勝手に変わっただけだろ」なのが意味不明。
上が変わったっていっただけで劉表にも曹操にも孫権にも劉備にも仕えてないってことか?証明しろってのはその部分。
最後の三行は悪いがそれだけじゃ何を言いたいかわからない。どうもさっきから部分的な引用で話が逸れて行ってる気がするから、
貴方の
>>710の
>コネがあろうがなかろうが呉に荊州を抑えるだけの軍事力と権威(官位)があれば
>荊州人士を従えさせることは不可能なことじゃない
>実際蜀から荊州を奪った後、呉はうまく荊州を切り盛りしたじゃないか
>潘シュン伝の注でも荊州の人士たちがたいした抵抗も無く下についたことが書かれている
>実力で荊州を取って、さらに荊州牧の官位を持ったこの時の呉にはそれが可能だったと言うことだ
>問題は周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか持っていなかったかってことだ
というのを
>>711で俺なりに要約した以下の解釈が正しいというなら
『「荊州を抑えるには軍事力と権威が必要で」、「周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか疑わしい」とするならその根拠は?』
までまとめて答えてくれ。前の条件はそっちが主張してるもので、後ろのはそれを受けてのものだ。後ろだけ答えられても困る。
その「荊州の火種があることの否定はできない」も含めてね。
>>714 君は702において
>そもそも以前に官職に任命されていようと新しい支配者が気に入らないなら著名な名士は去る
と言っている。
それはホウ統がどの勢力に組するか選んでいると言っているように自分は読んだんだけどね
自分はホウ統は勢力ではなく南郡を治める資格のある人物に南郡の役人として仕えていると言うものだ
当然その資格があれば劉表にも曹操にも周瑜にも劉備にも仕えるだろう
ただし、その資格が無くなった人物についていくことは無い
そういう点で狭義的なつながりを結んでいないのはわかるだろ
少なくとも南郡の功曹を務めていたときのホウ統の行動はそうとしか取れない
だから710で>呉に荊州を抑えるだけの軍事力と権威(官位)があれば荊州人士を従えさせることは不可能なことじゃない
とも言ってるんだ
で、君が聞きたいって言う
>問題は周瑜生前時にそれだけのものを呉が持っていたか持っていなかったかってことだ
について君自身が>当時の呉の支配地域は南郡・江夏とその周辺地域
と言ってるだろう
呉は郡太守までしか荊州に対する支配権を持っていない
一方で劉備は荊州牧として(荊州南方に限定されるが)荊州の諸郡の支配権を持つ立場にある
呉が荊州で何らかのアクションを起こそうと思ったときに
劉備にとって不利益な行為であれば荊州牧の権限を持って邪魔をしてくる可能性が無いわけじゃないだろ
だから「荊州の火種があることの否定はできない」と言ってるんだ
そして、荊州人士を見た場合、ホウ統にしても呉だからと選んで仕えていると言うより
その権限があるから仕えていると言ったほうがいい状態である以上
荊州牧の劉備の意向と南郡太守の周瑜の意向がぶつかった時、どちらを尊重する人士が多いかを考えたら
より権限が広い劉備に動く数の方が多いんじゃないか?
だから南郡太守に仕える行為と呉に使える行為はイコールでは結べないんだよ
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 21:53:39
>>715 あんたキメエよ。
御託を並べて話すのは結構だが、
知識をひけらかすのは嫌われる元だぞ。
>>716 んなこといっちゃ何もできないぜw
でも、4都督スレなのにずれてるな。
>>715 >それはホウ統がどの勢力に組するか選んでいると言っているように自分は読んだんだけどね
別にそれで間違ってないけど。
>>698の「ホウ統が周瑜に仕えていたのは周瑜が南郡太守だったからだよ。別に呉に仕えていたわけじゃない」
に対して「呉に仕えて、後に劉備に仕えただけだろ」って言ってる。これが絶対だとは言わないが、
孫権が南郡を支配した後に能動的に孫権に着くことを選び、さらに後に劉備に鞍替えすることを自ら選んだと考えても不都合はないはず。
>少なくとも南郡の功曹を務めていたときのホウ統の行動はそうとしか取れない。
この「そうとしか取れない」がわからない。別に適当に龐統が赤壁で勝利した孫権勢力を見込んだが、周瑜の死と共に見限って劉備に仕えたとか、
理由は幾らでも考えられるだろ。龐統が南郡の帰趨にのみ従ったと限定できるような記述はないじゃない。
しかもその龐統の動きの理由が「あくまで南郡を実力で押さえた人間に着く」だったと仮定し
また荊州人士全体に言えることだとさらに仮定したとして、荊州牧の資格は本来劉jに、後に李立が任じられたと言われるが、
こちらに従っては居ない(カイ越らはこちらに従ったが)。圧倒的な軍事力・官位・権威などを誇る曹操陣営に。
ということは(前項の仮定を信じるなら)龐統は刺史の称号でもなく、情勢的な見通しでも軍事力でもなく、「南郡を実行支配している」ことを重視してるとなる。
貴方の仮定通りならむしろ必要なのは実効支配しているという事実になり、荊州牧の劉備の意向と南郡太守の周瑜の意向がぶつかった時、
南郡その他の人士は周瑜に従い、南部四郡その他は劉備に従うという至極穏当な結果に落ち着くね。
あとの問題は突然出てきた「劉備が呉に敵対的な行動をとるのか?」についてだけど、これは今までの流れと外れるのでよしておこう。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 22:38:29
なんかキモイ奴らが討論するスレになったの?ここ。
>>716 俺は714だけど、議論してんだから御託を並べるしかないし、知識に頼らず妄想で語られた方が困るだろ。
世界史板で議論するとボロクソに論破されるから、こっちでやってんだよ、文句あっか
>>676 いやどうも。 朱然が好きだから施績についても知りたかったんですよ。
小男なのに強い武将ってどんな感じだったのかな〜
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 02:45:37
本当にキモイ書き込みだな
自分で読み返して恥ずかしくならないのか?
荒れてきたな
>>ホウ統フリーク
周瑜とからめて語ってる以上俺は別にとめないが
一文を改行なしで書ききらないで、適当に改行入れて区切ってくれ
ここは掲示板なんだから
考察用に作られたサイトと同じ方法で記述してもただ読みにくいだけだ
他の奴が読みやすいかどうかより自分が書きなぐって一人で満足できるか
どうかの方が大事だというのならこのまま鬱陶しがられてろ
>>725 でもお前改行位置変だよ
下二行部分は書きなぐってのところで改行だろ
「できるかどうか」はこれで1つの慣用表現に近いから切ったらダメ
これはいい粗探しスッドレ
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 11:09:48
なんか書き込みしづらくなってきたな
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 16:21:06
軍師として一番スケールがでかく逝ってるのは魯粛君
孫権に
「漢王朝?どうでもいいって!そんな事よりあんたが皇帝になりなよ」
「曹操と戦えって、俺は曹操に使えても大守になれるけどあんたはやばいよ」
など吹き込んだのは魯粛
>>729 >「曹操と戦えって、俺は曹操に使えても大守になれるけどあんたはやばいよ」
でも、呉書見聞によると、これは大法螺らしいね。
劉曄つーコネがあるからホラでもなんでもない
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 19:42:39
魯粛は嘘つきまくり。
人間時にはハッタリもいるわな
ハッタリだけで一国の主になったような奴もいるしなw
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 20:49:16
魯粛って戦国時代の縦横家みたいな奴だよね
>>730 魯粛は家柄こそ確かに良くないが(恐らく商人出身)、先祖が金を唸るほど蓄えてたので、魯粛はそれを盛大にばら撒いて(おかげでキチガイ息子扱いだが)、
ちゃっかり名士層と親交を結んでる。蜀でいうと糜竺とかに近い。
勉学にもそれなりに励んでいたし、劉曄・周瑜など揚州名士との繋がりもあるから魯粛の言は大方間違いじゃないはず。
呉書見聞は魯粛についてちょっと過剰表現なとこがあると思うぞw(あそこが魯粛の再評価に大きく寄与してるのは確かだけど)
改行しようぜ。
改行を随分気にする人がいるけど、どこからが読みにくいのかわからんのだが…
俺の環境だと
>>735とかは折り返しもなく表示されるし。どのくらいの長さから読みにくいわけ?
大体IEで書き込む時の窓よりちょっと長いくらいまでが限界
でないと環境次第で改行とかおかしくなる
>>737 俺ならこうだな↓
魯粛は家柄こそ確かに良くないが(恐らく商人出身)、先祖が金を唸るほど蓄えてたので、
魯粛はそれを盛大にばら撒いて(おかげでキチガイ息子扱いだが)、
ちゃっかり名士層と親交を結んでる。蜀でいうと糜竺とかに近い。
勉学にもそれなりに励んでいたし、
劉曄・周瑜など揚州名士との繋がりもあるから魯粛の言は大方間違いじゃないはず。
呉書見聞は魯粛についてちょっと過剰表現なとこがあると思うぞw
(あそこが魯粛の再評価に大きく寄与してるのは確かだけど)
WEBで文章晒す時は、できれば改行が適度にあるといい。
全角30文字とかどこかで見たが、その通りにしなくても
句読点を目安に、あまり長くなりすぎないように改行したらいいんじゃないの?
漢朝や曹操からすれば、魯粛の家柄なんて問題じゃないでしょう。
問題なのは魯粛の思想。
反曹操で漢朝不要論を唱えていた魯粛は、劉曄等でもかばいきれないと思う。
反曹操は、漢初のカイ通にならって犬は飼い主以外に吠えるものとできるが、
漢朝不要論は建前上、曹操も孫権も漢の臣である以上、明確な叛意でありかばいきれない。
>>740 同意。
ただ、掲示板だからよけいに改行がほしい感じなので、
個人の歴史考察サイトとかで論文を書く分には
左右にマージンとれば別に改行によけいな気を使わんでもいいと思う
ブログとかだとびっちり書いても幅が10cmぐらいしかないところもあるしな
もってまわった言い方をされると見る方はきつい
なるべく短いレスで書くようにしてくだちい
そう言いつつ曹操は漢を蔑ろにする発言をした夏侯惇とか許してるね
>>741 魯粛がおおっぴらに孫権の皇帝即位に触れたのは赤壁の後の会見の場が最初のはず。
魯粛の突然の宣言(多少は表現を濁してあったが)に一同唖然とし、孫権は手を打って喜んだ。
それまでは魯粛と孫権の2人だけの直接会談の時のみ。赤壁がなければ曹操が魯粛個人の思想など知る由もない。
ちなみに周瑜も「江南に帝王の気があり…」なんて言ってるが、これも魯粛以外には漏らしてないのだろう。
事実周瑜には曹操陣営の引き抜きがかかってる。
あんまり触れたくはないが、「2chのおやくそく」
頭のおかしな人には気をつけましょう
利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって来ています。
頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。
頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
・自分の感情だけ書く人
「あんたキメエよ。 御託を並べて話すのは結構だが、知識をひけらかすのは嫌われる元だぞ。」
「他の奴が読みやすいかどうかより自分が書きなぐって一人で満足できるか
どうかの方が大事だというのならこのまま鬱陶しがられてろ」
>>745 周瑜のは変節させて敵性勢力である孫権との間を裂き、味方に引き込むという計略の一環なわけだから
降服後に孫権に付随する形での魯粛の登用とは訳が違いますよ。
勿論、曹操が魯粛の思想を見抜く、又は魯粛の思想がばれること無ければ、
魯粛が登用されることはあるでしょうが、それでも孫権陣営の中で、
もっとも反曹操で、実際に工作を行っていた魯粛は、幕僚の中でも処罰の対象と成りやすい人物でしょう。
反曹については袁紹勢力の中でも激しく曹操を非難した陳琳が許され、
曹操を裏切って走った陳宮、畢ェ、魏チュウを再び受け入れ…と受け入れた例も多く、
逆に侵略される以前に反曹の態度を取ったから降伏後処罰された例を俺は知らない。
近い例でいけば徐州虐殺くらいだろうか…
成公英なんかの例だと、「元の主への忠節から」と判断され好まれることも多い。
本心からだけじゃなく、度量の広さを示すためのアピールになるし。
漢室云々については曹操だってむしろ内心は「取ってかわろう」と思ってると思われるわけで、
隠した思想を見抜かれたところで気に入られこそすれマイナス要因になるとは思えん。
>>741も「建前上」とあるし、「公の場でこういう態度とられたら庇いきれない」が741の主張じゃなかったの?
だから「当時は孫権以外は知らないから問題ない」と書いたんだが。
ちなみに「曹操も孫権も漢の臣である以上〜」とあるけど、実際には少なくとも孫権には処罰されてないね。
>>748 陳琳、陳宮、畢ェ、魏チュウは降服じゃないよ。
成公英は韓遂を失ったから降服した。
魯粛の状況で、歴史上においての類似例は、
劉そう、張繍など、全て君臣共に許されている。
…
…
ごめん、確かに魯粛も許されるかも…
魯粛の発言の疑問点は、魯粛はOKで孫権はNGってとこだね。
魯粛の発言は「俺は許されるけど、アンタ殺されるよ」じゃなくて、
「俺は田舎帰ればツテもあるし、そこそこ出世して好きに生きられるけど、アンタは飼い殺しだよ」程度のものだと思う。
ところで周瑜がちょっと失敗した演奏者を睨むのって嫌がらせ?
>>751 振り返っただけで睨んだかどうかまでは定かではないけど、どっちにしろ演奏者にゃ嫌がらせ以外のなにものでもないなw
余談だけど、周瑜の一瞥が欲しい女官がワザと間違えたという民間伝承があるそうな。
>>741 孫ぽこもそうだが、当時の曹操一党に対する認識が間違ってる
曹操も殆どの家臣たちも、一応の公式見解はともかく通常には漢帝への忠誠なんて皆無に等しい
曹操を聖人と呼んだ董昭、公然と曹操が帝位に即くことを前提に話をした夏侯惇など、魯粛が孫権を皇帝にしようと考えたように彼等は曹操を皇帝にしようと考えていたし、半ば公然とその意見を表明している
魯粛が皇帝にする対象を曹操に鞍替えさえしたら、曹操の側でも何も問題はない
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 00:59:09
>692
>まず入ショクの段階で山越討伐に明け暮れてたの根拠は?
明け暮れてるかどうか知らんが張温伝等に出てくるように大軍動かせる
状態じゃないよね。しかも益州まで。
>曹操が荊州情勢をそこまで不安定にさせるほどの扇動を行えるという根拠は?
>そんなことできるなら当然史実においても実行してるよね?
呂蒙伝に出てこない?益州に攻め込んでたらもっと大々的にやってたと思うよ。
馬鹿じゃないんだし。だまってみてると思うほうが無理があると思う。
>694
>呉はどっから魏に侵攻できたの?
別に急いで攻めなくてもいいじゃん。
>695
>呂蒙による荊州取りは魯粛のプランに反するものではなく、実際に魯粛は
>呂蒙の関羽攻めの策を聞き喜んでいる。
呂蒙伝に今までの(魯粛の)方針を変更するって出てくるはず。魯粛が喜んだ
のは呂蒙が呉下の阿蒙じゃなかったから。「おおっ勉強してるじゃん」ってだ
けでしょ。
>696
>そもそも魯粛自身が主導した荊州奪取はなんなんだ?
単刀会の事かな?約束守れよって兵力を背景に圧力を加えたんじゃないのかな。
むしろ劉備・関羽との衝突を回避しようとする努力が涙ぐましくないか?
>701
>>呉の存在そのものを危険にする行為だった思う。
>というのは聞けば聞くほど意味不明だ。
なんで?この後蜀と戦争になるじゃん。上流から攻めてくる蜀相手に楽勝だった?
敵を限定するために魏と屈辱的な和睦を結ぶんだよ。劉曄の進言が容れられてたら
魏も同時に攻め込んだかも。数十年後の滅亡の時と同じ複数ルートで攻め込まれる。
魯粛と呂蒙の違いって蜀との友好関係と荊州どっちを優先するかって違いでしょ。
魯粛と同派の諸葛謹の伝で「荊州に固執すると、もっと大きな物を失う」みたいな感じ
で出てくるはず。この場合立場が逆だけど。
あの時、こうなったかもって仮定はさ、あんま意味無いと思うよ
魯粛が荊州を取り返す手段を提示できなかった事実と比べれば大した問題じゃないでしょ。
魯粛の劉備と組んで曹操と対抗し、蜀を有効勢力にするというのは解る。
で、その次に呉自身が魏や荊州に対してどのような手段を執るか?
魯粛は何一つ提示できてないよね?
魯粛の策じゃ、揚州一州+αというじり貧的状況を脱出できないわけだしね。
建業の北という弱点に対処法を提示したのも呂蒙だし、
皖城まで突出した魏に対処したのも呂蒙。
厳しく言えば赤壁の時だって、曹操に具体的に対抗する策を提示したのは周瑜で、
魯粛は劉備と同盟して曹操と敵対しろと唱えただけ…
>>754 西では漢中を取って、東では曹仁を追い詰め曹操は遷都を考えたほど。
これに便乗して呉が魏を攻めるとなると徐州に攻め込むことになるわけだけど、
居巣には夏侯惇二十六軍が待機してるよね。
これは呂蒙の言うとおり、徐州を落としてもすぐに取り戻されるのは明らか。
となると関羽の北伐を指くわえて見てるの?
西部の戦線は拡大したまま関羽の兵も吸収できず。
>>754 「張温伝に出てくるように…」ってあれは224年、10年以上も後の話しで、しかも蜀に対して魏と結んだ言い訳の類なのに、
「大軍動かせる状態じゃないよね」なんてなるの?その間何回軍を起こして動員兵力はいくつか調べた?
それとも別の部分が根拠?張温伝のどの部分からどうやって「大軍動かせない」を導いたわけ?
呂蒙伝のどの記述から、具体的にどんな危険性が想定できるのかまでを書いてよ。
国境侵犯くらいは何時の時代も頻繁にあるものだが、「旧劉表勢力を常に不安定な状態」にするようなものは何?
そして実際劉備が入蜀した時もやったんだよね?「馬鹿じゃないんだし」
まさか楽進が国境付近をちょろっと荒らしたような例が「もっと大々的にやってた」なわけ?
これがために「旧劉表勢力を常に不安定な状態」になり作戦に影響をきたすほどのダメージがあったと?
それと「そこから更に蜀を攻めるとなると時間的に曹操に先を越される確立が高くなり」はどうしたの?
貴方
>>687でしょ?
>>754 単刀附会に至るまでに軍事手段を持って南部の内3郡を占領してるんだが…
これが兵力を背景に加えた圧力で通るなら江陵占拠はどうなるんだ?
その後に諸葛瑾を送ったから「むしろ劉備・関羽との衝突を回避しようとする涙ぐましい努力」となるのかな?
魏と屈辱的な和睦を結んだおかげで結局攻めてこず、王の位まで貰い、全ては読みどおりいったわけだ。
武将達は屈辱をバネに意気あがり、孫権は後に
「ここまで身を屈しているのに中原が攻めてくるのでしょうがなく」魏軍を撃退すると。
>>757 呉主伝にも魏が攻めてきたときに
異民族の多くが反抗的で呉内部はゴタゴタが続いていたから
魏に対してそれまでの態度を謝罪する書を送っていることが書かれているし
全くの言い訳じゃないと思うよ
まあ、異民族対策のために全く軍が派遣できないなんてことはないだろうが
大規模な軍事を極力避けたがっていたのが実情だろ
>>759 どうかな、その記述が書かれるまでに213年正月の曹操の濡須侵攻を皮切りに、
翌214年に孫権が軍を進めて皖城を攻略し、215年に入り呂蒙二万、魯粛一万、
それとは別に孫権本隊が後方指揮を取りつつ荊州で劉備と争い、
同年合肥に号して10万の軍で攻め寄せ、さらに翌年曹操の儒須侵攻を受けてようやく講和。
南方の交州だのの支配を除いても連年軍事衝突を繰り返してる。
この辺りまではむしろ三国共に軍事に積極的だった気配がある。
それが三国鼎立あたりから国境線が確定してきたというか、閉塞感を感じる。
魯粛の失点は完遂までにあまりに時間がかかる戦略を立ててしまったことじゃないのかな。
どう考えても魯粛が生きているうちに蜀を傘下において魏と対抗するのは不可能だろうし。
劉備入蜀後魯粛が死んでしまったことにより戦略面で後を継げるものがいなくなってしまった。
>>761 劉備と同盟、入蜀後における戦略の展望を魯粛が提示していない上に、
孫権が後年、魯粛が関羽に対する手段を持たなかったとも語っているわけで、
魯粛は劉備入蜀後の明確な展望を持ち得なかったやもしれないのだから、
後を継ぐとかいう以前の問題と思う。
陸遜なんか途中から魯粛時代よりはるかに強固な呉蜀同盟関係を締結してるし、
本人も指揮官として戦勝を納めているけど、結局魏を打倒できてない。
所詮国の違う二国は各々の局地的な戦闘を連動させて成果をおさめることはできないのが良く判る。
魯粛こそ「絵に描いた餅」と非難されて已む無しなんじゃないのか?
>>760 いや、そういう1〜3万単位の軍事行動ができないほど
ひどい状況は赤壁前に解消してるだろうけど
それらの軍事行動と曹丕に攻められたときの軍事行動じゃ
規模が違いすぎるから
小規模な軍事行動を頻繁に起こせたから
呉主伝や張温伝に書かれている異民族の記述が
言い訳と言ってしまうのはちょっと強引じゃないか?
赤壁の時でも呉は即座に3万は集められたんだから
その辺までは当時の呉の国力の許容範囲なんだと思うよ
>>763 呉に自力で長江流域を抑えられる力があったら
魯粛も劉備との同盟を持ち出さなかったわけで・・・
そもそも初期の魯粛は他軍勢との同盟ではなく
呉による長江流域の確保を進言してたんだし
>>764 いや、一応明確な兵数が残ってたから215年の戦役で呂蒙二万、魯粛一万と書いたが、
これは一連の作戦だから後方の孫権と合わせたら五万程度は居るだろうし、
合肥は公称10万(実数とも思えんが)、皖城を攻略した時や二度の儒須防衛の人数は不明。
別に1〜3万程度じゃないよ。
劉備に攻められた時に荊州に出した兵数が五万、その後の曹丕侵攻時の防衛戦で、
呂範・朱桓・諸葛瑾がそれぞれ数万を指揮してたとしても(あくまで予想)、
陸遜が持っていた荊州軍(朱然とか)と合わせて10〜15万ぐらいが限界だろう。
荊州込みでこれだから、上記の合肥の時とか比べて動員できる規模が違いすぎとも思わんけど。
曹丕の時は全戦線に渡る総力戦だからね。
767 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 11:52:18
>>757 あっ!ばれた。微妙に意見を後退させて他人に成りすましたのに。
あれから呉誌を読み返してるが、確かに俺の妄想と誇大な表現が多かった。
もうちょっと謙虚な気持ちで読み返すから前回の
>>687あたりを見なかった事に
して欲しい。
>>767 呉誌ってなんだよ
もういいから2年くらいROMってろ
769 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 12:29:02
赤壁なかった説の電波を飛ばしてた呉史くんは元気かなあ
770 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 12:30:21
名無しが変わったの?
771 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 12:38:11
赤壁は韋昭の妄想
772 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 19:06:11
仮面の忍者・赤壁
773 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 00:33:06
って言うか周瑜の天下二分論は、生存中に破綻してるよ。無理です!
774 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 00:54:16
>>774 ナツカシスw 自分の三国志の原点だ・・・って、もう20年も前なのか。
776 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/02(金) 00:05:44
age
777 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/02(金) 00:09:31
>>760 それと益州攻略は次元が違うんじゃないかな。
それを根拠に周瑜が益州攻略できたって言ってるわけじゃないよね?
>>774 いいなぁ…
ゲームは複雑化すればいいってもんじゃないんだね
>>779 周瑜DEKEEEEEEEEEEEEEEEEEEE!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ハリコの虎見てちんちんおっきおっき
こ の 書 き 込 み を 見 た 人 は 三 年 後 に イ ン ポ に な り ま す 。
イ ン ポ に な っ て オ ナ ニ ー が 出 来 な く な る の が 嫌 な 人 は
こ の 書 き 込 み と 同 じ 文 章 を 三 時 間 以 内 に
違 う ス レ に 五 回 以 上 コ ピ ペ し て く だ さ い 。
五 回 書 き 込 ま な か っ た 男 子 学 生 が
書 き 込み を 見 た 後 三 年 後 に イ ン ポに な り ま し た 。
>>777 なにがどう次元が違っているのか詳しく。
「周瑜の益州攻略できる」が出征可能のことなのか、戦役の成否の可能性のことなのかもわからない。
…話しを続けたいなら後で「そういう流れとは知らなかった」とか言われても困るからレスのアンカー先ぐらいは全部チェックしといてね。
783 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 19:30:56
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:12:08
我等が周瑜様が名将百選スレで落選の危機です><
>>784 俺は明らかに周瑜贔屓の評価になっちゃいそうだから自重しとくわw
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 19:20:16
中英板には三国志軽視の風潮が漂ってるな
そうか?
逆の人は見かけるが
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 23:52:02
周瑜はもっと長生きしてればね
曹操とケ艾だけになりそうだからなぁ。
バランス考えれば定員4名だろうから、軽視なんじゃね?
まあ、これ以上は該当スレでやってくれ。
別に軽視とは思わんし周瑜推してる人も多数いるからトントンだろう
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 23:17:55
いつになったら無双に魯粛登場するんだろう
ロシュクは・・・
ここは無事だったか
>>795 スレ立てから日が経ってるんで24時間レスがないと落ちる…
周瑜様の為に毎日保守に来る…は無理かw
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 00:41:41
どうしようね
じゃあ俺は呂蒙様のために来るぜ
なら俺は陸s(ry
じゃあ週に五日は周瑜様のために来て、残り二日はほかの三人のために(ry
とりあえず、三戦の様子をみて今後を決める感じ?
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 02:10:04
俺は晋宗と劉阿のために来るぜ
>>802 なんでそーなるのw
まあ、だったら俺は週2日ほすればいいから楽だ
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 20:06:47
(´・_・)ん?
次スレは、中国英雄板でやろう。
来るな
周瑜様のために保守にきてみるテスト。
っつっても、なんか話題ないかなあ……もっと後の呉の将軍の話でもいいんだろうか?
陸凱とか陸抗とか(゚Д゚)
なんでもあり。
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 05:56:29
魏やショク、あるいはその他(君主含む)で一番うまく立ち回れるのは誰かな?
それも誰が一番優れてるかの指標にならんか?
さすがに魏や蜀の人たちの話をここでするのはスレチじゃないのか
三国とも優秀な人材に常時餓えてるんだから、これだけの才能の四人なら全員魏蜀では安泰かと。
曹操・劉備の目は確かだ。
それ以外の国だと、まあ周瑜>>陸遜>魯粛>>>呂蒙ぐらいの出世しやすさだと思うけど、
これは能力じゃなくて家柄の問題だから結局当人の才能の指針にはならないだろう。
曹操と周瑜って組み合わせは面白いな
呂蒙も曹操の下ならきっと出世できるよ。
魯粛も魏に引き抜き受けたしなぁ
魯粛タン保守
汝南周氏周瑜家族っていう周瑜の家系図を見つけたけど、これってとんでもなのかな。
不良息子の胤から周濂溪の系図と繋がってるんだけど。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 20:51:10
その手の系図は十中八九とんでもです
新唐書の宰相世系表だってかなり怪しいのに
そういや呉スレ落ちたんだよな・・・・
いっとき二世たちの話題が出てたが
復活書き込みしとく
よく落ちるよな
4人のうちで優秀な子供に恵まれたのは、陸遜くらい?
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 23:22:12
呂蒙の子は短命だったが優秀。
魯淑もまあまあなんじゃね?
周循も・・・ないな
周瑜の子も短命な方は…むむむ
だめだこりゃby美周郎
なべやかん みたいなもんだな。
いくら何でもなべよりはましだろう……とも言い切れんか……
むしろ周瑜=なべおさみ を否定しろよw
周瑜もてすぎワロスw
横でムスッとしている孫権想像してわろた
もてたのも程普に嫌われた原因か?
ほす
程普ったらいい年してやきもち焼きなんだから。
孫策は二喬を娶るとき、
「俺らみたいないい男らと結婚できるなんてあいつら幸せだよなプゲラ」
みたいなこと言ってたけど、そんなに自信あったんかな。
_, ._
(;゚ Д゚)
>>838 うひー
>>833のもとをうpした者ですが、孫策は民謡になるぐらいモテた周瑜と
おなじぐらい人気があったらしいから、自信もってもおkかとw
周瑜と孫権はどっちもイケメン君だったんでしょ?
で、実際一番イケメン君だったのって誰だろう?
いや、厨房は……
843 :
孫権:2007/02/20(火) 04:48:37
男は顔じゃない!多分・・・・
飛ぶ鳥を落とす勢いの小覇王とその軍師、しかも若い!
↑こんなスペックならイケメンじゃなくても、フツメンだったら充分過ぎるくらいにモテるだろ。
それなりにイケメンだったなら、入れ食いだろうし。孫策が自信満々だったのも当然なんじゃね?
>>843 碧眼乙
俺はあんたも好きだよ、前半生は…
847 :
呂壱:2007/02/20(火) 10:50:29
>>843 私は後半生が好きです
だから安心してください
848 :
潘濬:2007/02/20(火) 14:15:50
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 14:50:53
孫策は格好良かったらしいが、同じ兄弟で孫権は…?
母が実は外国人なのか?
策と権はおかーちゃん一緒(呉氏だっけか)
つうか話題がスレチになってきたな
過疎るよりはいいか?
関係ないが、俺の孫堅のパブリックイメージは蒼天のハリウッド男優
>>852 それだと孫策がラーメンマンになっちゃうぞwww
俺の魯粛のイメージは蒼天のセニョール
……ではないことは確かだ
陸遜が格好よかったよなあ。髪型がやつれたオフクロみたいだったけど
>>850 孫権はガッチリしていて、とても脚が短い。
母は策と同じ。
脚が短かったのは、孫堅と呉夫人どっちだろう。
孫権は突然変異だからほっとけ
だから一族の中でも目立って長生きなのかー
孫権の血を濃く受け継いだのは誰だろうな?
上げておく
ウンコでカス。
>>861 上のほうで触れんなってことになってんだから、もう一回持ってくんなよ('A`)
昔から疑問なんだけど、周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜って軍師なの?
軍師って言うと荀文若みたいな戦略家だったり、
荀攸・賈文和・法正みたいな戦術家を連想するけど、
呉のこの皆さんって前線の軍司令官でしょ。
司馬懿とか姜維もそのタイプだと思う。
そもそも軍師の定義からして曖昧ですがな
字義からしたら軍の統帥者とか、将軍の師匠とか、そんな意味合いかねぇ?軍師は。
秘書。
自分の中で純粋な軍師のイメージっつったら、まず郭嘉が浮かぶ
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 07:56:32
個別の人材を揃えていられるほど余裕が無かったんじゃ?
マルチな能力を備えた人材が続いたお陰で国が保てたとも言えるけど
>>866 戦略家だって戦術家だって前線に出ることもあるし、
前線の司令官だって戦略家だったり戦術家だったりすることもあるわけだ。
言葉尻というよりも物の見方の問題だな。
君主はほとんどが、政治家であり軍人でもある。
軍略を語る際に、政略を考慮しないってことはないから、境界線ってのは特にないかと。