三国志ファンには蜀のファンが多くいらっしゃると思います。漢朝最高の志半ばにして倒れた劉備玄徳や諸葛孔明、関羽や張飛、その他多くの将兵たちや文武百官…。そんな彼らに哀悼の念を禁じえない方々はおおくらしゃっるのでは?
そこでこのスレではどうすれば蜀が天下を取れたかを考えていきたいと思います。荊州を失わなければ、あるいは孔明が皇位についていればなど、みなさんの中にあるたくさんのifや方法論を、自由に述べいってください。
前スレ:蜀に天下を取らせるには?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1144144284/
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 22:04:27
反論できん・・・。
上杉の敗北を認める・・・。
テンプレ適当でごめんな
それはともかく、素晴らしい議論を!
乙。
力学的に蜀が天下を取るのは不可能ではない。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 23:09:08
5 5 SEX
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 23:24:34
劉禅に酒ではなく
アクティブダイエットを飲ます!
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 23:27:33
アブソニックで武力を90台に
ゴメン、余り短く出来なかった。
それと、前スレ
>>895等は俺ではない。その時間はバッチリ仕事中だった。
きっと信じては貰えないだろうけど。
>「建業を首都にするのは狂気の沙汰」
守る為に「敵国に近い田舎へ」新たに城を築いて首都を移すのがおかしいと言っている。
六朝全否定などと(他人が)言っているが、その六朝の間に、
守る為にどっかの田舎に新たに城を築いて首都を移し、発展させた事があったのか?
また、何故秣陵なのか、という疑問がある。貿易、文化交流、守備なら柴桑やハ陽湖と長江の間の方が良いのでは?
>夷陵戦勝時
荊州の経営が安定してしまったら、魏にとっても厄介なんじゃないのか?
だから魏は夷陵戦直後に南下した。対蜀漢同盟の有無など関係ない。
まだ同盟していたのなら魏の方から破るだろう。
>「それ以前に魏が攻めてこれないくらいに叩き潰すべきだった」
そこまでの力が無いから少ない力で取れる時に江陵を奪って国力増強を図ったのでは?
仮に、蜀が涼州を獲るまで荊州攻めを待っていたら、「魏>>>蜀>呉」という構図になるだろう。
蜀を弱めすぎるのも強くさせすぎるのもマズイが、自分達が最弱になるのが一番マズイ。
>江陵の保持
魏に奪われなければならない等とは言ってない。自分の領土とし、収入を得る事が目的なのだ。
以前、孫権は劉備を信じていないと言っていたと記憶しているが、
どちらが抑えていてもマズイのでは無かったのか?それとも別の人の言だったのだろうか。
>合肥攻め
剣閣と合肥では抑える意味が違う。呉なら剣閣に当たるのは濡須口だろう。
蜀ならば合肥に当たるのは漢中・陰平辺りだろう。
つまり、魏侵攻の橋頭堡となる地だと言う事。
>江陵
江陵を魏に押さえられるのが最悪。だが219年時にそんな余力は無い。
魏がその力を養うのは呉が蜀漢と争っている夷陵戦の後。
つまり「同盟破棄」「関羽討伐」「江陵接収」「夷陵戦」「魏の南下」の一連の流れが非効率的。
>勢力比、荊州返還
蜀漢が返すと言ってるうちはまだいい。利用する価値が呉にあるからだ。
それが全く必要なくなる時が孫権にとっての恐怖の瞬間だろう。
事実関羽は縁を切ろうとしていたくらいだった。それが勢力比の錯覚を生む。
つまり北上の前に先主直々に荊州返還の確約の使者を派遣するのが最善策。
勿論返すかどうかはまったく別。
呉のすることは蜀漢が「倒魏の同盟維持のために荊州返還をせざるをえない」状況を作ること。
>呉⇒建業への遷都
風水では「王業の地」とされる。
揚州経営がそれなりに安定した証拠じゃないのか?
詳しくは張紘に聞いてくれ。
>むじん書院の地図より
山東
ttp://mujin.parfait.ne.jp/mujins/img/map-e.png 江南
ttp://mujin.parfait.ne.jp/mujins/img/map-se.png 地図を見れば明らかだが、
巴西=濡須口 剣閣=居巣、合肥 漢中=寿春 だと思う。
北岸でも長江に近すぎるのは脅威だろ。
>>8 >仮に、蜀が涼州を獲るまで荊州攻めを待っていたら、「魏>>>蜀>呉」という構図になるだろう。
>蜀を弱めすぎるのも強くさせすぎるのもマズイが、自分達が最弱になるのが一番マズイ。
ここはどうなんだろうな。涼州を制圧するには擁州を制圧する必要がある。
となれば、蜀の戦力は必然的に魏を向いたままということになる。
土地の制圧=戦力の充実と言うわけではないのだから、制圧段階で国力が蜀>呉とはならないだろう。
また、一番マズイのは「魏>>(蜀+呉)」となることなのではないだろうか
収入を得るのが目的なのに租税免除してるのは何故?
>>9 >江陵を魏に押さえられるのが最悪。だが219年時にそんな余力は無い。
これを言い切る理由は?
魏からすれば無理をしてでも取りに来るだろ江陵さえ奪えば天下統一だし。
>つまり北上の前に先主直々に荊州返還の確約の使者を派遣するのが最善策。
>勿論返すかどうかはまったく別。
>呉のすることは蜀漢が「倒魏の同盟維持のために荊州返還をせざるをえない」状況を作ること。
これは蜀のほうがやることではないか?
呉からすれば益州取り、関羽の娘、荊州返還で何回も裏切られてるわけだから
蜀に信用無しと思われてんじゃないの。
>>12 横だが、仮に江陵を魏軍が狙うとしよう
その場合、どうやって江陵へ進軍するんだ?
荊北へは関羽が進軍してるんだが、進軍ルートはあるのか?
>>12 >関羽の娘
・孫権側の非礼もあるので問題なし。
>荊州返還
・そもそも魯粛のインチキ
・215年に一応半分はくれてやった。
>入蜀
・魏が取ったら最悪。
・周瑜がいないのにどうやって呉軍が攻めるのか?
・共同軍を出すとして、龐統のかわりに呂蒙が死んだらどうするのか?
>江陵
赤壁で負ける前に江陵は誰の手にあった?
魏にとっては江陵だけ持っててもしょうがない。
無理に急行を重ねたのは先主の割拠を恐れたからこそ。
南陽〜襄樊のエリアを押さえる以上の兵力はなかったのだ。
その破綻が赤壁。
周瑜存命時に何故5年もかけて江夏一つ落とせなかったのか謎。
孫策死後数年は指揮系統を掌握できなかったのか?
ぐぐってたら発見。目から鱗が落ちる意見だ。
周瑜が江夏を落とせなかったのも
「対上流戦のドクトリンを洗練させる過程にあったから」
と解釈するのが正しいかもしれん。
35 名前: 大澤 投稿日: 2002/05/12(日) 01:37
名将を才能だの経験だのの能力で比べないで、その彼らのドクトリンで比較すると面白い。
というのは、ドクトリンというのはその軍が置かれた地理的、政治的要因などによって作られるものであり、単純に能力だけで作られるようなものではないからだ。
曹操をはじめとする魏陣営のドクトリンは、間違いなく[亠兌]州、豫州の平地という地理条件から生まれたものだし、
諸葛亮や姜維たちの歩兵運用が益州や雍州の地理的状況を背景にして形成されていったというのも然り。
呉なんかは特に顕著で、周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜→諸葛恪→陸抗と受け継がれているわけですな。
そう考えると、諸葛亮のドクトリンでは長安までが限界で、中原に出るのは不可能であった事が理解できる。
仮に奇跡的に長安を奪回したとしても、魏の圧倒的な兵力と機動力を背景にした反撃には耐えられなかったろう。
最近、三国志を語る人たちが戦略や戦術について騙るのに将の個々の資質に依存しすぎているのに苛立ちを感じている。
>>17 この意見破綻してないか?
ドクトリンでは将の資質に依存するとしておきながら、最後ではそれを否定する
長安奪回をどの時点で考えているかが解らんが、長安で反撃に耐えれんということもないだろう
ついでに君の意見も脈絡がないな
周瑜が江夏を落とせなかったのは、孫策の死が主な要因だろうな
>>18 別に破綻してるとは思わんな
ドクトリンという陣営毎の経験値やら背景やらを無視して軍事を語るべからずって言ってるだけだろ
将個々の資質+陣営毎の背景で考えるべきだって主張だし
つまり対魏征服用のドクトリンをあの短い期間で作るのは不可能ではないか?ということ。
曹仁は負けたかもしれないが、于禁は実質不参加の負けだし、徐晃は背景が不透明ながら勝った。
関羽のような強力な野戦指揮官と野戦でのドクトリンで劣る呉軍に二十六軍排撃と山東進出は成算が薄い、という判断が出てくる。
ずっと同じ軍でやっていく必要もない
人間は経験し、研究していくものである
中原に進出するなら、それ相応の準備も必要で軍の編成も変わっていくだろう
従来のドクトリンで荊州侵攻
新規のドクトリンを開発して山東進出
ただでさえ兵力が劣るのに戦術でも敵わなければ中原進出なんてありえない。
呂蒙も相手は3通りに分かれる。
1北上して背中を向けてる関羽⇒荊州(呂蒙なら可能)
2いつ東に来るか判らない関羽⇒江陵(呂蒙でも取るのが難しい)
3夏侯惇二十六軍⇒淮南、山東(取っても維持が困難)
スレタイの主題からすれば
219年論争の回答は「関羽は荊州で専守防衛」が最善に尽きるように思う。
>>22 それは混乱した魏にみすみす回復の時を与えるだけではないのか?
未だに国力は魏>>>>呉>蜀であるのだから、呉蜀両者の最大の脅威は魏であることは、現代の我々からすれば明白だろう
呉と共同して攻める以外に最善手はないよ
>>22 前スレにあった4番目の選択がないぞ
4.江陵譲渡を交渉材料として関羽への援軍を派遣する⇒江陵無血開城、対魏戦力維持(゚д゚)ウマー
25 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:11:18
663 名前: 大澤 投稿日: 2005/05/08(日) 22:06:25
ニセクロが以前書いていた、董卓の五銖銭改鋳によるインフレと銅の産地について。
調べてみたら、ちょうどいい鉱山がありましたよ。
その名も『銅緑山』。
http://www.china.org.cn/Beijing-Review/Beijing/BeijingReview/Japanese/99Oct/bjr99-40j-23.htm 殷代より漢代まで千年以上も採掘され続け、今でも現役の鉱山地帯となっている地域だ。
採掘から加工まで後世の冶金学の学者も感心するような設備の整った銅山で、
銅以外にも金や銀なども産出したそうだ。
この鉱山を中心として江夏郡は銅を始めとする鉱物資源の一大生産地であったのは間違いない。
この鉱山があるのが、今で言う湖北省黄石市、
後漢時代では鄂と呼ばれ、さらに三国時代に孫権によって武昌と改められた地。
つか江夏から独立させて武昌郡を作っているね。
この地は文聘が駐屯する江夏と国境を接する為か、
城壁を築いたり、一時期は孫権が根拠地にしたり、
帝位について建業に戻ってからも太子孫登を置いたりと、
ただの防衛拠点とは思えないほど、ほぼ副都のような扱いを受けている。
しかし、こんな大規模な銅鉱山があると考えれば非常に納得のいく措置だ。
どうも当時の銅の産出地域を調べてみると、長江流域に極端に偏っており、
『楚銅』なんて呼び方すらもあったぐらいだ。
董卓が長安に引き篭もった時期は、益州は劉焉が半独立して、漢中は五斗米道が独立している。
山東から徐州に抜けるルートは山東諸侯が蜂起しているし、南方は袁術・孫堅らが絶っている。
こうなるともはや銅の供給ルートはほぼ絶たれたと言ってもよい状況で、
董卓の改鋳はごく自然に銅が手に入らなくなったか、
あるいはその懸念が大きかったかによるものだと考えると自然だろう。
26 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:12:09
さて、董卓が滅びていろいろあって北方と中原を制した曹操は、荊州に南下し、劉jの降伏によって荊州を手中にする。
次期政権を担う曹操としては、基幹通貨の原料である銅の産地を手に入れてホクホク気分だった。
この直前に孫権が江夏の黄祖を討って、どうやら江夏までは陥落させられなかったものの、
鄂を中心とする銅緑山の一大銅生産地は奪うことができた模様だ。
これには曹操も焦ったろう、ただちに文聘を江夏に派遣するとともに進撃を開始する。
一方の孫権も奪ったばかりのこの地を曹操に渡すわけにもいかない。
というよりこの地の銅を経済の基盤にしようと普通考えるわな。
そんなわけで孫権、周瑜、魯粛たちは陸口、赤壁、夏口の渡河点を最終防衛ラインに決める。
一方、曹操も荊州がまだ鎮定していないし、
行軍の限界点にきているのは重々承知しながらも決戦を挑もうとしたのは、
孫権を滅ぼすまではいかなくても、絶対鄂近辺の銅の生産地を押さえたかった。
疫病が流行し始めたり、それにともなって士気も下がっているというのに、
曹操がどうしてもこの戦いを放棄できなかったのも当然だ。
経済の基盤となる貨幣の原料を抑えるのと抑えていないのとでは大きく違うし、
ここを抑えた孫権を放置しとけば経済力も膨らむ一方。
赤壁の位置を見ると、笑ってしまうぐらいに「目の前」に鄂があって、曹操はどうしてもここを確保したかったのがわかる。
27 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:13:00
赤壁の戦いで曹操の将兵に被害はほとんどない。
大敗ではないという見方もできるが、
この敗北の結果は魏という国は国家百年の大計に齟齬を来たしてしまったのだ。
だから、そういう意味では大敗北と言ってもいい。そして、その後の魏は貨幣政策に散々苦労させられる。
董卓が鋳造した悪銭を元に戻そうとしたはいいが、やはり銅が不足して十分な銭を生産できなくなる。
苦し紛れに徴税を穀物や布帛による物納に切り替え、あげくの果てには五銖銭を廃止したりしている。
廃止したはいいけど、やっぱり不便でまた復活させたり、とにかく迷走と言ってもよいぐらいの状態。
魏という国は建国からその滅亡にいたるまで、とうとう貨幣を安定させる事のできなかった国家となった。
そういう意味でも赤壁の戦いの敗戦の影響は、凄まじく大きかったのがわかる。
ちなみに逆に蜀や呉は、魏に対する当てつけでもあるかのように、
盛んに貨幣の鋳造を行なっており、今も残っている呉蜀の銭は明らかに魏の銭よりも質がいい。
もしかすると、銭や銅は蜀錦などのように重要な魏への輸出品だったかもしれん。
人口や農業生産力等で想定する国力では魏が余りにも圧倒的だが、それでもあれだけ拮抗していたのは、
貨幣だけでなく様々に使われる青銅の原料でもある経済の基幹となる銅を
呉蜀に抑えられてしまった為に、かなりアドバンテージを縮められてしまったのだろう。
28 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:13:56
そして、もう一つの銅の産地である四川方面。
この地を蜀が制したのは当然として、問題は劉備と曹操が争奪する漢中。
あの戦い、鶏肋なんて故事が残っているから、
曹操は無用の地や面子にこだわって夏侯淵をはじめとする多数の流血をしたと見られている。
だが、実際は鶏肋なんてものではない。
どうも漢中も銅の生産地であったらしく、他ならぬ張魯が「太平百銭」なる銭を鋳造している。
一地方に盤踞する宗教教団が貨幣の鋳造を行なったりしているわけだから、やはり漢中は豊富に銅を産出したのだろう。
そう考えると、ここを自ら出兵してまで張魯を降し、さらに夏侯淵・張郃といった名だたる武将を残し、
夏侯淵が敗れたなら自ら乗り出して悪戦苦闘するまで流血を続けた理由も理解できる。
荊州の銅を失った曹操はこの地の銅だけは絶対に確保しておきたかったに違いない。
というより、もしかするとこの時点ですでに銅の不足が起こっていたのかもしれない。
曹操にとっては鶏肋どころか、国家の血液の生産地とも言える地だったわけだ。
そして劉備にとっては対曹操の前進基地にできるだけでなく、魏を銅によって干しあげる戦略を取ることができるようになると言う事だ。
少なくとも、諸葛亮はその辺の経済戦略は頭にあっただろう。
そういう事を考えに入れると、「蜀呉同盟が戦略の基本」という諸葛亮の戦略の基本も厚みを帯びて伝わってくる。
劉備の孫権討伐で呉との仲が決裂してしまえば、武昌の鉱物資源が魏に流れ込む事を恐れただろう。
まだ荒々しく辿っただけだが、ヴィクトリアばりに鉱物資源の争奪という視点で三国志を見てみると、非常に面白いと思う。
29 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:15:57
671 名前: 売れ無しさん 投稿日: 2005/05/09(月) 13:25:02
普段はROMってる者です。
三国志の戦争や行動のいくつかがこの銅の話で繋がった感動を少しだけ書かせてください。
確か江夏と言えば劉表の息子劉gが太守だったのも銅の重要性から考えれば長子を置くのは当然なんですね。
銅に関わる話を読む前は劉gが自衛のために荊州の中心から遠い場所に逃げ込んだと思っていたのですが、
劉表死後の家督を本気で狙うための一手に見えてきました。
またこれが諸葛亮の進言だと言うのが実にニクイ話です。劉gも意外と傑物に見えてきました。
そして赤壁前夜の呉との同盟にも諸葛亮が出てきますが、
この江夏の銅の話を外交カードに持ち出して同盟を組んだと考えたら、
兵力としては全然話にならない劉備と同盟を組んだのも納得がいきます。
次に赤壁以後の劉備の南群割拠の話なりますが、最初は劉備の図太さだと思っていたんですけど、
それだと荊州問題におけるその後の呉の度重なる譲歩が不自然になっちゃうので不思議に思ってました。
ここで銅の話を元に憶測すると劉備と孫権の間で江夏を譲り渡す事を条件に、
同盟と荊南割譲か貸与を約束させたのではないでしょうか。
劉備が蜀取りしている間、呉が背後を襲わないのも銅で結んだ同盟と考えると全然変ではないですよね。
もちろん劉備では江夏の銅は守れませんし、孫権も銅を守るため魏と正面から向き合わないといけませんから、
同盟のみでそうなったとは言えないとは思いますが、そこまで読んでの交渉とすると劉備陣営の慧眼には驚かされます。
これだけの戦略を打ち立てたのが諸葛亮とその一派だったら、劉備が最期に後事を託す時に「君の才、曹丕に十倍す」とか言いたくもなりますね。
また曹操の薄葬遺言、曹丕の厚葬する奴は親不孝認定遺詔は
銅不足で台所事情が厳しかったと考えると当然なのかも知れませんが、この親子のリアリスト振りには驚かされます。
他にも銅銭作成に関しては商売人の糜竺も一枚噛んでたりするかもとか、
色々な妄想が止まりませんが長くなったのでいい加減終わりにしておきます。
ちょうど古代の戦争と経済の関係に興味持始めたところだったので非常に参考になりました。
30 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:16:40
672 名前: 大澤 投稿日: 2005/05/09(月) 14:03:49
黄祖が討たれたあとの江夏太守と江夏の支配圏は、ごちゃごちゃ入り組んでるんだよな。
私は、南北に分けて北が劉g→文聘、南が孫権と解釈していたけど、
黄祖は討たれても江夏までは孫権はゲッツできなかった、そのあと劉gを通して劉備が領有し、
それをカードとして孫権との外交材料にした…と。
それも確かに面白いな。この辺のごちゃごちゃを整理したいわなー。
その考証材料として銅緑山とその周辺の鉱山を入れて、あのあたりの価値の大きさを評価額高くすると、
かなり孫権、劉備の荊州の領有問題がすっきりしてくるかもしれんわ。
贋金作りの劉備、塩の密輸の関羽、馬泥棒の張飛、
犯罪結社劉備組wwwww これってステキやん?(笑)
673 名前: 売れ無しさん 投稿日: 2005/05/09(月) 19:24:27
赤壁前に劉備が夏口まで逃げてきた時、孫権は柴桑で事態の帰趨を眺めていたとの事です。
もし江夏南側の支配権を孫権が握っていたのであれば、
その地の銅の重要性から考えても武昌にもっと近い場所に陣取るのではないでしょうか?
そう考えて黄祖は討ち取ったものの、全然支配下に組み込めてないと判断し、劉備陣営が外交カードに使ったんじゃないかと妄想しました。
また孫策伝、孫権伝両方とも結構頻繁に行政区画を割り振る様子が描かれているのに江夏に関してはそれがありません。
黄祖を討った討ったと散々書いてあるので荊州と黄祖に関わる話は孫呉では重要な話のはずです。
と言う事は戦争で勝利するものの、領土を獲得出来ていないんじゃないかと判断してもいいんじゃないでしょうか。
多分に素人考えですのでこの辺ダメダメと指摘してくださると嬉しいです
犯罪結社劉備組は面白い方向性ですね
31 :
燃料投下:2006/09/03(日) 11:17:16
820 名前: 大澤 投稿日: 2005/08/10(水) 00:31:21
>>800の続き。
漢末期に森林がボロボロになっていた理由には、『鍛造』が漢代に始まったのもあるだろう。
ただの鋳造だけでなく鍛造するようになると、さらに炭の使用量は倍化する。
漢末期の災害って
異民族の侵入や反乱→武器の需要激化→製鉄需要倍化→森林伐採→保水力の低下→洪水→疫病の流行
の全部繋がったコンボだったのかもしれん。
…今の中国まさにそれやん(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
大澤史観乙。
>>20 局地的な戦に勝利することのみが戦の目的ではない
ドクトリンで言えば、荊州の軍で荊北へ侵攻することが不可能だとは思わない
それに、関羽の北上の戦略的な目的は荊北へ進出し、魏の曹操本隊を長安方面へ向かわせないことだろう
蜀としては、2面作戦を展開させて雍州・涼州を押さえ、長安を橋頭堡とすれば北伐は一応の区切りとなる
諸葛亮は天下三分を目的としていた
一気に魏を討伐するなどは、ドクトリンもあるが、国力的にも流石に無理だろう
>>25-32を参考にすると
北伐において、部隊単位の打撃力で
蜀漢が常に魏に勝っていたのは無理も無いことだな。
となると問題は兵站となる。隆中対すげー。
ドクトリンって(現在では主にアメリカの)対外政策の基本方針のことだよな?
それを三国時代の諸国に当てはめるなら、幾つかの事例を挙げて
「魏or呉or蜀の基本方針はこんなんだと思われる」みたいな例示が無いと、
「ドクトリンによれば○○は無理」なんて言われても「なんで?」ってならないか普通?
なんか使われ方が違うのだろうか?
>>36 対外政策に限らず政治的な基本方針を広く指し示す言葉なはずだが?
だから軍事方面の事は軍事ドクトリンと態々頭に意味を狭める言葉を付けてる
ガリクソンに見えた俺は勿論ドクトリンの意味など知らぬ
>>37 字義的な意味だと宗教的な「信念体系」、現在の政治的な意味合いとしては
>>36と理解していたが。
内部的な政策にドクトリンなんて使わなくね?
ここで言われているドクトリンというものは
>>17のコピペだろう
即ち、その軍が置かれた地理的、政治的要因などによって作られるドクトリン
他の意味はないから混乱することはないと思うが
>>40 そりゃ対外政策は地理的・政治的要因を踏まえて決められてるだろうけど、「だから何?」つー感じしない?
>>17は2行目までは言うまでもない当たり前のことを言ってて、
途中からいきなり飛躍して「諸葛亮のドクトリンでは〜」とか言い出すのが理解できない。
転載らしいからこれ以前になんらかの説明があったのかな多分。
>>41 飛躍していると感じているのは下3行のことだと理解する
それなら
>>21で述べられているようにその時に適した軍を編成するだろうから、明らかにおかしい
思うに、長安制圧後もそのまま進軍すると考えているのだろうが、ありえないことだから放置が無難
>ドクトリン
『僕たちの好きな三国志2』だっけか?でそんなこと書いてあったね。
>>42 長安制圧後はどうしようとしたのか良く分からんね。
関中以西を固めないと先はないかな?
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 20:54:00
んで、結局蜀が天下を取るためにはどうするのよ。
反対の言い方をすれば蜀が天下を取れなかったには
劉備のせいか
関羽のせいか
呉が悪いのか
魏がうまかったのか
魏と呉が上手かった
>>44 「天下を取れなかった責任」を求めるなら、
超重要事項である両国関係を放置して勢力伸張に限界が来たところでしっぺ返しくらった劉備も悪いし、
荊州を任され実際に国境を接する立場にも関わらず眼前の情勢に動かされ隙を作った関羽も悪いし、
魏も呉も糞ったれだったよ。
各々の立場に立てば、皆できる範囲で最善を尽くしたんだけどね。
いや、魏は糞じゃないだろw
江南はセリエ
中原はプレミア
関西はリーガ
土地が違うのに指揮官の資質だけで、
兵隊が簡単に適応するなんて有り得ないと言っているのだろう。
戦法とは形がない事を極意とする。
>>48 魏は4-4-2じゃなくて10-10-10くらいだろ。
蜀漢は2-1-5くらい。
875出て来い。お前がいないとつまらん。
54 :
前スレ875:2006/09/04(月) 22:12:44
亀レスで済まない。
>>9 貴方が前スレの882〜885だとして話を進める。違ったらゴメン。
>江陵を魏に押さえられるのが最悪。
これには同意するが、魏が奪うのが219年だとする必要は無いんじゃないか?
後年だろうと、魏に奪われては不味い。関羽北上から夷陵戦後の魏の南下までは約3年。
この僅かな期間で立直してしまう程、魏の国力は盛んである。奪った土地を固めるだけなら数ヶ月で出来るだろう。
また、蜀漢が抑えているのも危うい。
これまでノラリクラリと交渉をかわしてきた蜀漢が、素直に荊州をくれるとも思えない。
つまり、交渉によって荊州を抑えるのは無理と感じたから、兵力によって奪ったのではないだろうか。
関羽の侵攻は曹操に遷都を考えさせる程の勢いがあった。
下手すると魏と蜀のパワーバランスがひっくり返る恐れだってあった。
だから、関羽に攻められて魏の侵攻の力が弱まり、関羽の侵攻と呉の策によって江陵の防備が
手薄になったその時が呉が抑えるのに最も適した時期だったのだ、と見ている。
>建業への遷都
前スレ882では「建業以外に無い」とまで言い切っているのに、
>>9にて「詳しくは張紘に聞いてくれ。」と投げているのは何故?
>合肥攻め
首都に近い守りの要だから奪おうとしていた、という事で良いのかな。
ではなぜ、後年では江夏(237)やワイ南(241)を攻めていたのだろうか。
江夏はともかく、ワイ南よりも防衛の要所となる合肥攻略を優先すべきじゃないのか?
ゴメン…sage忘れた…
>>10 ただ制圧しただけなら蜀>呉とはならないが、そこで政治を機能させ、
なおかつ安定した経営を続けたならどうだろう?
土地を手に入れるという事はその可能性が発生すると言う事だ。
その可能性を見過ごすのはいかがなものか。
>また、一番マズイのは「魏>>(蜀+呉)」となることなのではないだろうか
それは双方の国力が魏を上回らないのに、どちらかを併呑してしまった場合、だろうか?
確かにマズイが、俺はその選択は取らないだろうと考えていたので例に上げていない。
>>52 んむ、出てきたぞ。
さあ笑え。
>>54 呉の荊州侵攻は適切って言ってるけど
この場合蜀と連動しての北進のほうが適切だったのでは?
関羽が北進しているわけだから蜀との国境付近の兵も
対魏戦に当てられるので徐州ぐらいは奪えたはず
その後に荊州返還を迫り、受け入れるなら良し、受け入れないのなら
その時こそ魏と同盟して蜀を攻めれば良かったと思うんだが
>>56 魏・呉の合意がなければ張遼らは動くことはないだろうし、
荊州を手に入れた後(揚州が荊州方面に守備兵を置かなくともよくなった後)もやはり徐州は奪えなかったことを考えれば
徐州ぐらいは奪えたはずというのは若干楽観的。
さらに仮に徐州を奪えたとしても、呉にとっては守るのが難しく魏は兵を進めやすい地域なので
維持するのが難しく大軍が要り、その結果大敗でもしようものなら損害は計り知れない。
その上さらに関羽北上成功後に返還を迫った上で魏と結び攻めるなんて時期を逃しすぎでしょう。
向こうが体制を整えるまでまってから侵攻しようという意味がわからん。
そっちの方が良いって何が良いの?呉は徐州をあっさり奪って楽勝で維持しつつ、体制を整えた蜀から荊州も簡単に奪えたと本気で考えてる?
>>57 >荊州を手に入れた後(揚州が荊州方面に守備兵を置かなくともよくなった後)
荊州を手に入れてもすぐに完全な呉の領土になるわけではないし、
魏蜀両軍にさらされるのだからさらに兵力が必要
>さらに仮に徐州を奪えたとしても
これはその通りかも
>その上さらに関羽北上成功後
そうなれば魏と蜀との勢力が拮抗して第三の勢力、つまり呉が重要になってくるんだが
蜀が魏に専念出来たのも呉との同盟があったから
>そっちの方が良いって何が良いの
少なくとも関羽北進後までは蜀軍と同盟できたし、
弱小国同士領土の取り合いをするよりはマシだと思うんだが
最悪の場合魏とにらみ合ったまま蜀と戦うことになるかもしれなかった
まさか同盟相手を裏切り、土地を奪い、信頼していた部下を殺しておいて
何事も無くすむなんて思ってないよね?
>>58 一番上の段落について
なんで関羽が北上する時は攻めた後の防衛とか考えず国境兵を導入して、
荊州がある時はそれも含めて揚州の荊州方面の兵は導入できんのか?
関羽北上時でも徐州攻めた後も国境兵を置かないままなんてことなく再編する予定なんだろうから同様。
それにこの仮定だと国境は荊州と徐州になるはずでは?
中段は上手くいってれば蜀の態度が軟化するんじゃないかみたいな予測だが、
むしろ一弱となり地勢的にも蜀に喉元押さえられた蜀に併合の憂き目のが高そう。
>何事も無くすむなんて思ってないよね?
つーか歴史の通りなんだから勘違いのしようがないでしょ。思ってないよ。
結局江陵から夷陵一帯を手に入れた呉の防衛ラインは強固となり蜀の侵攻にも揺るがなかった。
俺があの一件で憂慮すべきと思ったのは
貴方の言う「魏とにらみ合ったまま蜀と戦うことになるかもしれなかった」の一点だな。
厳密には「蜀とにらみ合ったまま魏と戦うことになるかもしれなかった」だけど。
そうはならないと読みきった孫権(呂蒙)が凄いとしかいえない。
書き忘れたけど上の併合云々は拮抗した〜を受けてそこまでいっていたらの話しだから。
少なくとも蜀が魏と争ってる間はそれほど国境兵は必要ないでしょう。
荊州を手に入れた場合、荊州が魏蜀、揚州が魏と接することになり、
徐州を手に入れた場合、揚州が魏蜀(蜀は同盟中)、徐州は魏と接することになります。
前者は歴史の通りですが、
後者は蜀との同盟を維持したまま大国・魏の勢力を削ることができるし、
蜀に併合されそうになったらその時こそ魏と組めばいいでしょう。
仮に蜀が荊北を制圧し、許都を落としたとしても曹操には河北四州や擁・涼州が残っています。
魏と組めば一気に蜀に対して優位に立てますし、逆もまたしかり。
曹操と劉備が組む可能性も無くはないですが。
ただやっぱり欠点は、徐州が取れなかったらどうしようもないことですね。
>結局江陵から夷陵一帯を手に入れた呉の防衛ラインは強固となり蜀の侵攻にも揺るがなかった。
孫権がそれを予測していたでしょうか?
「蜀とにらみ合ったまま魏と戦うことになるかもしれなかった」と言うのもありますが、
「蜀と呉が争っている間に呉、または蜀に魏が攻め込む」と言う可能性も十分にあったと思います。
荊州を失った蜀が夷陵で敗れ、魏にも敗れるようなことがあれば滅亡してしまうかもしれません。
そうなれば魏と単独で向き合わなければならず、呉に勝ち目があるとは思えません。
すべて妄想ですから「実際はそうならなかった」と言われればそれまでですが
問題は、徐州を奪われた魏が無条件で呉と同盟を組むのか、という事。
蜀が荊州を返さなかったとして、魏と同盟するとの事だが、
魏が条件として、奪われた徐州の返還を求めてくる事が考えられる。
これを拒否すれば、荊州の時と同様の泥沼に嵌る恐れもあるだろう。
おまけに、これは結果論だが、呉は他国に比べれば陸戦が不得手だ。
維持出来るかどうかも怪しいのに、さらに北上するとかは無理だろう。
結局の所、呉に益は無く、蜀を助けるだけになってしまう。
呉としては、現状ではそこまでして欲しい土地でも無いと思うが。
荊州の場合は蜀との同盟が必要不可欠だったので譲歩したのでは?
徐州を要求されたときに「じゃあ劉備につきます」
などといろいろ駆け引きできそうですが。
陸戦に関しては仕方ないです。曹操の騎馬隊に勝てるなんて思ってません。
ただ陸戦が不得意=北上は無理となるとどうしても蜀と領地を食い合うしかないので、
なんとか呉に北進できる道はないかと考えてみました。
やはり荊州が一番手堅いですね
>>54 前スレ875よ、自分で調べるという発想は無いのか?
「何で?何で?」と聞くばかりで、キミが何を主張したいのかサッパリ判らん。
・「建業が首都」
・「濡須口や合肥への遠征」
これらが「北進の意思表明」になる論拠を今はっきり示してくれ。
征呉戦(219年11月〜280年3月)で落ちていった重要拠点は
西陵⇒江陵⇒武昌⇒建業の順だったろうが。
第一、長江防衛の機能には建業に首都を置くのが最適のように思うが?
それに後背に山越を抱えているのに、呉を本拠のままにするのは非効率。
呉において、制水権の破綻(A)⇒即滅亡(B)で魏に比べてA-B間のタイムラグが極めて短いのだ。
それに居巣の魏軍が合肥に後退し、それを破棄して合肥新城に移ったのは
「呉に兵力的に押されたから」とでも言うつもりか?
合肥は建業にとって喉に刺さる魚の骨。北進の如何に関わらず除くべきなのだ。
これを取れないのは攻めれば、「中原から援軍を大量に増派されて」、ほぼ必ず勝てないから。
219年時の魏にそれが出来たか?出来ない。
肝心の中原が襄樊落城が目前に迫って動揺していたからだ。
「荊州侵攻」があの機会しかないと言うなら、「中原進出」もあの機会しかないだろう。
また
>>55でも訳の判らんことを言っている。
「魏>>(蜀+呉)」はどちらかを併呑した状態?
そんな突飛な発想に飛躍出来るのに、どうして当たり前のポイントを見落とすのか。
同盟が決裂して両国が争えば一方がどちらかを併呑しなくても同じこと。
221年以後はそのような勢力比になってしまっているのだから。
夷陵戦後の北伐に成功の可能性など殆ど無いのだ。夷陵で先主が勝とうが大勢は覆しがたい。
つまり事実上の時間切れである。
魏に江陵を奪われるのはヤバイと思いつつ、
魏が奪えなくなるまで弱体化させるという発想を持たないその思惟の偏りは理解しがたい。
荊州侵攻も同盟破棄も構わないがあの時点でやるのは早過ぎる。
≪魏≫
後背:河北、遼東
本拠:中原、山東
前線:西涼、関中、荊北、淮南
≪蜀漢、呉≫
前線:漢中、荊南、江南
本拠:四川、荊南、江南
後背:南中、交州
の二重、三重の戦域構造。一部重複有り。
>>65 呉の荊州攻めの否定仕方が違うんでねーの?
理解できないのは歴史を知ってるからで当時の人達は
その時のベストをしてて早いか遅いかは関係ないだろ。
魯粛は同盟意地に拘ったのに呂蒙はあっさり棄てた。
その差は何だろう?
漢中戦の時点でも荊州は攻め取れたはず。
初動の遅れで関羽は常に後手に回らざるを得なかった。
呂蒙の行動はベストではなくベターだろう。
>>66 ≪魏≫
後背:遼東
本拠:河北、中原
前線:西涼、関中、荊北、淮南、山東
≪蜀漢、呉≫
前線:漢中、江陵、合肥
本拠:四川、荊南、江南
後背:南中、交州
かと。蜀漢は漢中を押さえたから「漢中⇒西涼or漢中」の北伐が出来た。
呉は合肥すら手に入れることが出来なかったので、
「合肥⇒淮南or山東」の北進が出来なかった。
そういうことかな。
>>69修正
≪魏≫
後背:遼東
本拠:河北
本拠:中原
前線:西涼、関中、荊北、淮南、山東
≪蜀漢、呉≫
前線:漢中、江陵、合肥
本拠:四川、荊南、江南
後背:南中、交州
これをみると呉の「江陵貸与」は「荊南」という本拠を得た蜀漢勢力に
周瑜死後の対魏戦を押し付けただけのトリックに過ぎない。
あえて退いて実を譲ることで「所有権」を得る。
それが名分だけとしても外交カードとしては大きな威力を発揮した。
それを橋頭堡に「荊州分割」に発展させる。
「関羽討伐」で実質を確保し「夷陵戦」での死闘で決着が付ける。
親蜀派(藁)の魯粛でも全部やっただろう。
だが、その仕掛けるタイミングが呂蒙と同じものだったとは到底思えないのだ。
まあ、そのトリックに乗るしか当時の蜀漢には選択がなく
外交も呉に後れを取り、実力で荊州を取られ
呉は三国で一番最後まで残ったわけだ。
あと、魯粛が生きていても変わんないよ。
変わる可能性があれば魯粛を恐れて兵をあまり出せなくなるぐらいか。
どうだろうな
軍人でしかない呂蒙と政治家としての顔ももつ魯粛とでは、行動には大きく差があると見るが
魯粛ならば江陵の外交獲得に拘った可能性は否定できない
天下三分を得るには蜀は益・擁・涼3州、呉は揚・荊・交3州の獲得が必要だが、
これは互いにこれだけの地を得ることが条件のもので、どちらか一方が得ていれば成り立つ話ではない
領土的には益州と荊州の境で区切りを付けるのが同盟維持には必須。
>>68 魯粛生前にもう既に外交方針の転換は起きてる
>>62 「呉は他国に比べて水上戦が得意」とは言えると思うが「結果論として陸戦が下手」とはどの結果からきてるの?
普通に勝ったり負けたりだが。
>>77 相対的に下手。
どっちにしても呉の統一なんてありえん。
孫権には他の二国の長に比べて不利な点が多すぎる。
そして戦争指揮が弱いのは致命的。
だが守勢に異常に強い劉表と老獪な外交で勢力を保った士燮。
この二人の長所を兼ねた男として評価すべきだろう。
いや、だからその「相対的に下手」の根拠はなによ?って話し。
勝ったり負けたりする陸戦=計算できない。
ほぼ確実に勝てる水戦=計算できる。
どうせ戦わなければならないなら、
得意な手段、戦場で戦うのが常識的。
>>80 ああごめん、相対的にって「魏・呉・蜀で相対的に」じゃなくて「水陸比べて相対的に」ね。勘違いした。
馬が少ないのだから弱いだろ。
物資を運んだり、機動戦ができなかったり。
水路がある地域なら陸戦でも強いと思うが。
>>83 馬は商品として全国的に広まっているので物資を運ぶ馬がないなんて事態は聞いたことがないし、
実際の勝敗を見ても違いは見えない。塩が取れる地域以外は塩に乏しいかと言えばそうでもないわけで。
大体軍全体における騎馬の量はどこも圧倒的に少数で、北方に位置し豊富な資本を持つ袁紹の陣営でも一割程度。
基本的には歩兵を主とした混成部隊だから行軍の足並みはそれほど変わらない。
船が使える地域=強い
船が使えない地域=弱い
つ 合肥新城の攻略
水路から切り離されると手も足も出せなくなった。
装甲率って魏が一番高そうに見えるんだが、蜀の方が高いんかな?
>>87 元々攻城戦ってのは難しいもので、魏も呉の江陵を大軍で包囲するも結局落とせなかった。
水路が近ければ物資輸送などの面で大いに利があるのは呉に限らない(魏も運河の開通など)。
>>88 装備の優秀さは諸葛亮時代なら蜀>>>魏っぽい
そういや三国の国力比についてなんだけどさ。俺は魏と呉・蜀合わせてなら一般に言われる程差がないんじゃないかって
気がするんだがどうかな?
人口でいくと魏の約400万超に対し呉の200・蜀100合わせて約300万人で比率4:3。
農業面においては広大な平原を抱える華北の魏が有利にも思われるが、
長江一帯は後の歴史的に農業生産力の増大の時期にあり、
蜀も諸葛亮の言葉を借りれば「肥沃な平野が千里に広がる」地帯(誇張表現だろうが)、
ここもそこまでの差は付かないだろう。
なにより前スレでも指摘されてるが魏は銅不足による経済的混乱に常に悩まされており、
鉱山地帯を抱える呉蜀の締め付けは想像以上に効いていたんでないかと。
荊州を通る東西南北の交易路のアガリもあるし、
有名な「三都賦」からも呉・蜀の国の豊かさは窺える(らしい)。
この辺詳しい人、どうなの?
>>91 俺は詳しいって訳じゃないけど、同意
やっぱり三国時代成立の理由は面積からじゃわからない国力の均衡だと思うよ
河北には破壊されたインフラがあるからな
元の器が400万ならそんな差が無いだろうけど、
やっぱ時間の経過と共に差が出るという事なんじゃないの?
>>93 伸びしろでいえば戦乱の影響をもろに受けた地域の復興で相当稼げる魏晋がトップ、
国内の未開地域の開墾と南方進出を狙える呉が続き、手詰まり感が否めない蜀が苦しい立場って感じかな?
こうしてみると国力比は拡大傾向にあると。
呉はともかく蜀は慢性的な兵糧不足に悩まされてたんじゃないか?
孔明が悩んだのは、輸送の問題だよ
>>95 蜀が兵糧不足に陥ったのは滅亡寸前くらいなもんだ
>>95 北伐時に兵糧問題で常に悩んでたのは確かだけど、備蓄米の不足というよりは桟道の険しさによる輸送の難の方が大きかったように思う。
>>96-
>>98 その通りでした
もし輸送の問題が解決していたら北伐は成功してたんですかね?
平野部ですら侵攻軍が補給切れで撤退するのはよくある事なので無理だろう
魏が主力決戦に応じてくれないしね
1次は完全な奇襲で涼州獲得の可能性は高かったけどねー
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/05(火) 22:04:16
>>99 後になるほど北伐成功の可能性は低くなるけれども、少なくとも後にはつなげられる。
蜀の問題は人材の枯渇。最後になると本当に数名の名前しか出なくなってくる。
しかも、質も大分落ちているし。(もちろん、そこそこは有能なのだろうけど、
劉備の最盛期の関張・趙などと比べてしまうと、という意味)
普段の文調から変えて打つのも面倒になってきたので、今回から少々変えます。
ぶっきらぼうな調子で書くのも、肌に合わないし、苦手なので。
長文については少々目を瞑って頂きたいと思います。
長文になりがちなのは、一日に一回程度のレスしかしない為です。
鳥つけたって名無しで自演も出来るし、証明のしようもありませんが。
>>64 恐らく前スレの794は貴方が貼ったのだと思うのですが、
そこにある「彼らは曹魏の排除も天下統一も最初から諦めているのである。」という一文。
これに納得しているのでしょうから、その理由を聞いていたのです。
秣陵遷都が張紘の遺言である事は知っているし、理由として「王業の気運がある」と言ったのも知っています。
しかし、遷都というのは一家臣の意見で行える程、軽い事ではないでしょう。
遷都をする事での利が無ければ、政情を揺るがすかもしれない大事を行わないはずです。
そこで、地勢や当時の情勢に私よりも詳しいと思える「貴方の意見」を聞きたかったのですが。
呉の方針にしろ、遷都にしろ、私が求めているのは「貴方の意見」であり、どこかの引用ではありません。
貴方の意見というのは、調べれば出てくる物なのでしょうか?
出てくるのであれば、もはや貴方と論ずる事も無くなります。
では、大分スレ違いになってきたと思いますが、私の見解を述べます。
「建業が首都」
>>9の地図を見る限りでは、その周辺の標高が高くなっており、外地からの進軍には適していない事が窺えます。
かつ、北と西には長江が流れているので、呉にとっては守り易く、軍を発するに適した地形と見ています。
首都となれば人が利益を求めて自然と集まり、兵の徴用もただの拠点よりは容易になるでしょう。
長江という天然のエスカレーターを利用する事で、陸よりも兵を疲れさせずに集める事も容易になるし、
情報の早期入手も可能となります。
よって、山越の驚異に晒され、かつ、水運の利点を生かしきれない呉よりも、
首都として機能させるのに適しており、攻守ともに柔軟に対応出来る地である、と私は考えています。
しかしこれだけでは、統一を目指していたか否かの根拠にはなりません。
が、後にも出しますが、後年のワイ陰・寿春への侵攻は首都が建業である事が重要になります。
連絡や補給を早くするには、物資を集中させやすく戦地に近い首都・建業の存在が不可欠でしょう。
これをもって、秣陵へ遷都したのは魏への侵攻の為である、と見ており、
それが統一を目指していたのでは、と繋がっています。
「濡須口や合肥への遠征」
これは呉が統一を目指していても諦めていても取るべきだ、というのがお互いの見解だと捉えていますが、
その利用目的が異なっているのだと思います。
私は、合肥を得たらそこを足がかりに寿春、さらに豫州、または汝南、ワイ水を利用して広陵へ、
と、攻めていくルートを幾重にも開拓していく事が出来るようになる、と考えます。
つまり、東部の侵攻を確実にする為に必要な拠点であると見ています。
国を保全する為だけなら、合肥までへの侵攻はしなかったのではないか、と考えます。
とりあえず、ここまで。
周瑜は謀士を求める孫権にその才知を高く評価していた魯粛を推挙した。
孫権は魯粛を大いに気に入り、天下の大計を諮った。
「いま漢室は崩壊寸前で、各地に群雄が割拠しているが、
私は父兄の漢室復興の遺業を継ぎ、斉桓公や晋文公のような覇業を成したい。
幸運にも私は管鮑や趙狐の如き腹心を得た。
さて、今後どうするべきだろうか?」
魯粛は答えた。
「むかし高祖が楚の臣下だった時、義帝に忠義を尽くそうとして叶わなかったのは、
項羽が覇者として害をなしたからです。
今の曹操は項羽にも比肩する姦雄。
彼と争っても貴方が覇者に成ることは有り得ません。
私が思うに、今にも崩れ落ちそうな漢室を復興することも、
中原に根を張る曹操の勢力を粛清することも、どちらも不可能です。
貴方の利益を考えれば、ただ江東に割拠して、中原の隙を窺う以外に選択肢は有りません。
現在、中原の情勢は混乱しています。
それに乗じて黄祖を誅して江夏を占め、劉表を討って荊州を収める。
最終的に長江を北限として割拠し、帝を称して天下を統一する。
これこそが高祖の事業なのです」
孫権は言った。
「今は江東の経営だけで手一杯。
そもそも漢室に忠義を示すことが出来れば十分で、そのような大それたことは考えもしなかった」
その後、張昭は魯粛の人柄を酷評し、孫権に任用が時期尚早であることを述べた。
しかし、孫権はますます彼を尊重し、調度品を賜って厚遇するほどだったと言う。
>>102-103 無礼には無礼、礼には礼を返そう。
>天下三分
孫策死後の呉の基本戦略は魯粛の天下三分が基本。
1:現時点での「中原進出」「北進」は放棄
2:江東割拠
3:荊州攻略の橋頭堡である江夏を攻略
4:荊州征服
5:長江防衛システムの完成
6:南朝の帝として中原の北朝と対峙
U
U
?:最終的に天下統一
>>104でもあるように少なくとも魯粛は統一を目指していた。
ただ207年時でも3が達成されないから修正を強いられただけ。
対魏戦における戦力比が呉軍単独では隔絶していたからだ。
「江陵貸与」とか「荊州分割」「関羽討伐」「夷陵」というのはその時点から続く妥協的解決案の連続。
219年の時点では対魏包囲を解除するのも対蜀漢同盟を破棄するのも早すぎる。
「魯粛ならやらなかったのでは?」という仮説を長々と述べている。
問題は孫権。彼が魯粛と全く同じ意見である必要はない。
こいつの視点が6で止まってるならあの時点が最高のタイミング。
呉の天下統一において夷陵戦は時期が最悪。
>建業、合肥の云々
・政治的ポイント 「黄巾の乱、董曹の禍による後漢朝の権威失墜」
・宗教的ポイント 「讖諱説」「天運を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興る」「秣陵には王気が有り」
・地勢的ポイント 「水利」「水軍」「長江下流」
国防、政治、宗教、経済の複合的な観点からいって本拠地は建業以外有り得ない。
呉が武昌方面に本拠を移転するのは江陵が危険になった時だけ。
それ以外は全て対魏戦に主眼を置いている。魏の方が基本的に強敵なんだからそれが当然だ。
建業を指して「攻守に優れた」と言うには合肥がある以上無理がある。
蜀漢が漢中を落として四川を確保し、西涼と関中の戦域に於ける主導権を握ったように、
呉が江東を確保して、淮南と山東の戦域を視野に入れるには合肥攻略は不可欠。
ただその戦役に於いて「合肥新城の新設」という魏の反則的な解決法を許してしまったのは
呉が魏に国力回復の時間を与えすぎてしまったから。
これは以前の外交戦略に於いて重大なミスをしたと見るべき。
合肥と江陵、どっちが優先的かと言えばもちろん江陵。
だが外交による譲歩の余地があったのは魏と蜀漢のどちらだろうか?
江陵があれば単独で防衛できたのだから
譲歩の余地があるなら魏だね。
それはどうだろうな
江陵があっても夷陵が敵の手に落ちていれば安全とは言いがたい
陸抗が何故江陵よりも夷陵を重視していたのかを考えれば理解できるだろう
もっとも、江陵は(呉の手にあるときね)夷陵、荊北の両面から攻められなければ簡単には落ちないので、
夷陵、又は荊北を押さえている勢力との外交は重要
>>108 ?
合肥と江陵の話をしててなんで西陵もちだすの?
江陵と西陵はセットだろ。
219年の人は呂蒙を否定したり、呉の江陵攻めを早いとか言ってるけど
実際の問題は217年でそれに対応できなかったのは蜀なんだけどね。
蜀と呉、どっちが悪いとかではなくて、どっちも悪いって話だと思うがなぁ
>>109 江陵だけで守れるとか言っていたから反論、というか揚げ足とっただけだが
>>112 過去レス読んでる?
今までの流れで防衛線の話とか出てるのに揚げ足取りにもならんのだが。
さあ盛り上がってまいりました。
話は逸れるが江陵って殆ど孤立した状態で曹仁の敗走を1年に伸ばし、
救援を完全に立たれた朱然に半年間魏の大軍を防がせて防衛を成功させた三国でも屈指の堅城だよな。
物資もかなり豊かに貯蔵されてるのが常態みたいなんだが、糜芳があれだけあっさり降伏したのは
関羽の北上に相当物資を持って行かれていたんだろうか?それとも耐え抜く余力はあったが関羽が嫌いだっただけ?
予備兵力もなくてどうやって城を守れると?
制圧後から推測すると、城内には内応していたものも既にいたようだし
「物資を供給するだけであまり熱心に援助はしなかった」=物資は送るが手持ちの兵はあまり送らず?
と推察してるのだがどうだろうか?しかしそんなあっさり内応者が出るようじゃ糜芳軍全体的に士気の低下が著しそうだ。
三万の捕虜が江陵にいるわけで関羽軍への兵糧供給+捕虜への食事で
江陵の生産能力と備蓄はパンク寸前じゃねーのか?
>>112 単独と言う言葉を荊州を守るという意味で無理やりとってるけど
今までの防衛線の話とかの無視ですか?
それに呂蒙伝読むと呂蒙は白帝までとるつもりで
蜀とも事を構えるつもりなんだけど。
>>119 だから何が言いたいのかさっぱり解らんと言ったろうに
俺が突っ込んだのは
>江陵があれば単独で防衛できた
この部分だよ
防衛線の話を絡めて夷陵こそ呉の要の地だろ、とただそれだけの話をしている
>>108にそう書いてあるだろ?
もっとも、「長江防衛システムを 完 備 する」という話なら益州も制圧しなきゃダメだろうな
>>118 なるほどね…于禁降伏という幸運を逆手に取られたというわけか。関羽も悲劇だな。
>>117 蜀書と呉書双方の記述を取り入れると
出陣した当初は非協力的かつ呉の脅威で兵は送らず
その後関羽への恐怖と呂蒙→陸遜となった為に兵を送ったという可能性も考えられる
>>120 だから、まず話の流れで合肥と江陵があるだろ。
呉単独で魏と向かうだから江陵。
第一、江陵と西陵どちらが欠けても負けんだよ。
陸抗のときは江陵はすでに防御体制になって簡単に落ちないから
江陵より西陵って言ってるの。
あと、長江防衛システムは呂蒙伝読むと益州ではなく白帝だけどな。
>>123 だから、お前は話をさっぱり理解してないんだよ
俺が突っ込んだのは
>江陵があれば単独で防衛できた
この部分だと何回言わせる気だ?
これを俺は「江陵さえあれば呉は魏・蜀に対して防衛できる」と解釈したから突っ込んだんだよ
>>123>>125 長江防衛システムは建業-武昌-陸口-江陵-西陵-秭帰-巫城-白帝城-…-江州城を制圧しないと完全とはいえない。
どこで妥協するかがポイント。白帝城を出ると今度は益州防衛を視野に入れなければならない。
江州城-成都-雒城-涪城or閬中-剣門関-葭萌関-白水関-漢中…
周瑜:漢中 魯粛:漢中(蜀漢) 呂蒙:白帝城 陸遜:西陵
呉は情勢に応じて目標最前線が年々後退しているのが判る。
荊州経営の安全を維持できるのは白帝城-西陵間だけであるのは確かだ。
蜀郡(成都)-巴西郡(閬中)-巴郡(江州城)の三角形が益州経営の基本。
それを覆う大三角が国防の基点となる。
214〜218:巴西郡-南郡-南中
219:漢中-南郡-南中
223〜225:漢中-巴東郡(白帝城)-犍為郡
蜀漢の国防大三角が最大だったのは219年の一瞬だけ。
孔明たち蜀漢首脳部の意図としては
長安-江陵-南中まで拡大してから荊州を譲渡して対呉外交を磐石にし、
長安-巫城-南中の大三角で対魏戦⇒中原進出に望むつもりだったと思われる。
関羽の部隊は襄樊以北の南陽盆地に移転し、
関中盆地に進出した本隊と連携を取る、というのが対魏戦、対呉外交を考えると理想的か。
まあ蜀漢にとって都合が良すぎるのは否定出来ない。
安全保障どころか外交の主導権さえも
江陵を押さえている限り呉から奪っているのだ。
だから江陵譲渡を条件に援軍要請しろという結論になったはずでは
取ったら取ったで渡すのが惜しくなるんじゃね?
江陵割譲を約束して〜みたいな作戦使うには、
益州取ったから返せよ→まだ無理。涼州取るまで待てや→返す気ねーだろ!→第一次荊州戦
の流れが余計だったんじゃない?
どうせ渡すんだから南部はさっさと譲りゃよかったのに。
無理
対魏戦には江陵だけが重要で公安以南は全部くれてやればよかったんだ。
なにやら「呉に天下を取らせるには」のような話にしてしまっていますが、もう少し続けさせて下さい。
これが解決しない事には、私としては前スレ792まで戻れないんです。
>>104を読んでの見解
魯粛の述べている天下三分ですが、貴方の言う通り、天下(中華)統一を目標としています。
そして貴方が言うには、孫権が同じ目標を持っていたとは限らない、との事ですが、
私は、最終目的は違えども、孫権も同じような目標を持っていた、と考えています。
孫権の言には、「漢朝に敵対する気は無かったから、皇帝になるなんて考えてなかった」とあり、
統一は目指していなかったようにも見えます。にも関わらず、魯粛を厚遇したのは何故でしょう?
一つには魯粛の戦略眼を見込んでの事でしょうが、孫権も統一を目指していたからではないか、と考えます。
孫権の言をそのまま捉えれば、魯粛会見時の孫権の目指していた統一は孫家の帝国を建てる事ではなく、
周公旦のような、漢室の再興を目指しての事だったと考えれば辻褄が合うでしょう。
もちろん、これはポーズだけという事も考えられます。
しかし後の行動を見ると、魯粛との会見によって帝号を名乗る事も考え始めたのではないでしょうか。
当時、漢朝が形骸化していたとはいえ、帝業を成せと進言した魯粛を張昭が危険視したり、
張紘が秣陵を首都にするよう進言した際、帝業では無く、王業と言っているのも、
その当時に皇帝を名乗る事によるデメリットを把握していたからでしょう。袁術の例もありますし。
孫権としても、ポーズとしては帝業を目指すという事を当分は否定しなければなりません。
しかし、何よりも解決すべき問題は国力不足です。
そこで先ず目指すのが天下三分の形成であり、獲るべきは水運の要衝・荊州です。
これによって国力を充実させてからが、天下統一に向けての経営となるでしょう。
問題の219年
以前にも挙げましたが、「これ以上は待てなかった」というのが私の考えです。
外交交渉では、関羽の娘を息子と結ばせようとしたり、諸葛瑾をダシに譲歩を強請ったりもしましたが、
得られたのは「荊州は呉が貸している土地です」という証言だけ。
結局は兵を出して奪い、曹操が蜀へと攻めようとしていたから蜀から折れて、
それによって得た土地であり、話し合いだけで得られた物ではありませんでした。
そういった過去から考えれば、もはや話し合いだけで荊州を手に入れるのは不可能です。
本来なら魏が反抗できないまでに弱める方が良いでしょうが、呉にはその力がありません。
それは215年に合肥攻略に失敗し、臣下の礼をとって和睦を申し入れた事からも明らかでしょう。
つまり、北への道は閉ざされた訳です。そして西は同盟の蜀であり、
国力を増す為の土地を手に入れる事は出来なくなります。
それでもなお、蜀と同盟を結び続けて魏へ無理に侵攻するのは得策とは思えません。
そして219年。劉備が漢中を抑え、魏内部で起こる反乱に乗じて関羽が北進し、
その勢いは曹操に遷都を考えさせたと言わしめる程だったのは前述した通り。
この戦勝ムードに乗ってしまったら、蜀が西半分を抑える可能性だって有ったでしょう。
そうなれば、もはや呉にとっては蜀も逆らい難い驚異の勢力となります。ただでさえアレだったんですし。
この時以降でも江陵を取れるような保証も最初から無いのですから、
獲れる時に獲ろうと考えるのは普通ではないでしょうか。
1、このままでは勢力比が「魏、蜀>>>呉」となる可能性くらいしか残っていない。
2、蜀との同盟を破棄するのが後になろうと今であろうと、交戦する事には変わりが無い。
3、この手薄になった時期を逃したら、荊州を手に入れる可能性が上がる事はまず無い。
この為に、呉は蜀との同盟を破って江陵を奪ったのではないか、と考えています。
よって、219年の荊州攻めによって呉が天下統一を諦めていたとするには材料不足と捉えています。
今日はここまで。
>>134-135 「帝」「王」のニュアンスの違いは瑣末なことでしょう。
疑念を持つのは大切ですが、深読みしすぎです。
張紘の遺言で使われている意味に大した違いは無いかと。
また魯粛との会見で初めて帝への志望を持ったと言うのはその通りだと思います。
魯粛の重用がその表れだと言うことも。
ですが魯粛の視点に於いて対魏戦というのは全く考慮されていません。
また合肥の重要性も呉の天下統一における時間的制限もです。
何より武帝の河北平定が余りにも早すぎたのに対し、
呉が江夏すら落とせていない状況は大誤算ですらありました。
対蜀漢同盟はその誤算による国力の不足を補う為の魯粛の応急処置の一つ。
「蜀漢>呉」であっても「魏>蜀漢+呉」である限り同盟は必要です。
そして関羽討伐〜夷陵戦で「呉>蜀漢」は確定しましたが、
「魏>>蜀漢+呉」に状況を後退させるだけです。
合肥を押さえないことには江南の安全すら満足に確保できない。
勿論割拠するだけなら取らなくてもいいですが、
対魏東部戦線(江南、淮南、山東)の主導権を握られるのは必須です。
そして219年以後に取ろうとしても手遅れなのは何度も言いましたよね?
後年に諸葛誕の反乱は有りましたけど、圧倒的な増援の前に徒に損害を出しただけです。
魏が中原と河北の二つの策源地を磐石に抱えている限り、
永遠に呉から対魏戦を仕掛けるのは不利なのです。
呉は219年以後その袋小路に自ら入ってしまいました。
1:荊州を獲得する。
2:合肥を獲得する。
3:魏>蜀漢+呉の状況を同盟破棄までに覆す。
219年時の呉が天下統一するにはその三つが必要です。
1のみしか達成してないので戦略的にはほとんど不可能なのです。
武帝が死んだ時は夷陵戦に駆られ(1の機会を既に喪失し、3に反する)、
先主が死んだ時は同盟を結ぶ(結局3を達成していない)。
これらは孫権の長所を全く生かせていないのです。
また呂蒙の進言は孫権に天下統一を諦めさせるものと見た方が良いでしょう。
2の放棄が後世からの結果論だとしても、
彼の進める手段が3の目標達成の後退を勧めているのは明らかですから。
なお、219年に北上を選んでも成功の見込みは薄かったと私は思います。
そもそも、そのような選択を迫られる原因は魯粛の基幹戦略の見積もりの甘さ、
万事出遅れる合議制、指揮系統の統一が困難な世兵制、想像以上に強かった黄祖・劉表・武帝・先主、
そして周瑜の天下二分という冒険主義を実行することも出来ない孫権自身にあるのですから。
さて貴方はこのことに対して、どのような解釈をしているのですか?
1:孫権は天下統一を望んでいなかったし、出来なかった。
2:孫権は天下統一を望んでいたが、途中で諦め、出来なかった。
3:孫権は天下統一を望んでいたが、正気であったが、出来なかった。
4:孫権は天下統一を望んでいたが、発狂・耄碌して、出来なかった。
5:孫権は天下統一をしていて、脳内では目的が達成されていた。
孫権が魏の混乱を待っていたとする説は何処へ行った?
魏・呉・蜀の政治体系を考えるに、およそ無謀だと思うが、これを抜いてはダメだろう
212年:秣陵遷都、建業に改名
215年:合肥の戦いで張遼に大敗
216年:濡須口の戦い
219年:関羽討伐。荊州制圧
220年:武帝死去
221年:武昌遷都。魏に臣下の礼を取り、呉王に冊封
222年:夷陵の戦いで蜀漢に大勝
223年:先主病死
226年:文帝病死。黄武の元号を立て呉を建国
228年:第一次北伐。第二次北伐。
229年:第三次北伐。呉帝として即位
230年:第四次北伐。夷州探索で兵を失う
234年:第五次北伐。合肥新城で大敗。孔明病死
239年:明帝病死
241年:孫登病死
245年:二宮の変。陸遜憤死
250年:二宮の変終結
252年:孫権死去
とりあえず、219年の時点でやる気があるようには思えん。
魏の混乱(220、226、239)を狙うようにも見えん。
「2:孫権は天下統一を望んでいたが、途中で諦め、出来なかった。」
俺としては↑が真相だと思う。
234年に合肥を抜けない時点で完全に諦めてるだろ。
>>138 呉は政治体制の結果崩れたわけでなく、跡目争いから続いた混乱で相当国としての寿命を削った末の自滅と見るが。
>>139 何故呉(孫権)のやる気を見るのに蜀の動き(北伐)をそれだけ追いかけて呉の動きが歯抜け状態なのかがわからないが、
呉からの侵攻だけで正しく魏の混乱を狙った226年の侵攻や228年石亭大勝、貴方が諦めたと言った234年以降にも
237年の祖中侵攻、241年のそれまでで最大規模の各路侵攻があり、
同時に魏は呉に対して蜀以上に積極攻勢をかけてきている中で孫権存命中にこれだけ活発な動きがあった。
とても諦めてるようには見えない。
>>140 226年:石陽の戦い。孫権は陸遜の諫止を無視し進軍。
228年:皖城の戦い。陸遜最後の大功。遠征に非ず。
237年:江夏侵攻。朱然が包囲を指揮するも、胡質に撃退。
241年:曰く「呉の命運を賭けた素晴らしい決戦」
243年:六安侵攻。
246年:粗中侵攻。
石陽、江夏は武昌の安全保障のためだろう。魏滅とは関係なし。
六安、粗中にいたっては瑣末過ぎて記すに値しない。
そもそも決戦って言うのは成功と亡国を賭けるものだよ。
淮南の攻略についても、
233年の合肥新城の新設と241年の広漕渠の開通後は手も足も出なくなってる。
241年は動員しただけ。
そして呉が天下統一をするには必ず決戦をやらねばならない。
どうせやるなら少しでも有利なほうが良いのは幾らなんでも判るな?
自分の代は捨てて二宮の変で国力を大いに削り、
孫亮を後継者に据えることで、天下統一を期待してたのか?
孫権八大失策
一、204〜208年:黄祖討伐の停滞
二、210〜222年:荊州問題
三、215年:合肥攻略失敗
四、230年:夷州探索
五、231〜238年:呂壱の重用
六、233年:遼東遣使
七、234年:合肥新城攻略失敗
八、245〜250年:二宮の変
一〜八だけでなく山越討伐や諸氏族の調整もしなければならない。
どっちにしても統御が緩んで粛清を起こすような耄碌した老人に天下統一は無理。
まあ起こさなくても無理だったろう。となると機会はそれ以前に絞られる。
いい加減、実現の見込みが無いのに諦めていないと言い張るのを止めるべきでは?
>>140 226年の「石陽の戦い」については
呉を代表する名将である陸遜自らが邑民を虐殺し、
捕虜となった流民を厚遇することで孫権の威信示し、
呉の恩徳を魏の朝野に施しているねw
当時の道義的な観点から言って、
孫権統一派はそれを伏せといた方が良かったんじゃない?
「不義が威信」で「死が恩徳」の勢力に靡く民なんて北朝鮮くらいにしかいないよ。
>>142 「石陽の戦い」ってなんじゃそりゃw
一応孫権も北上してるし陸遜諸葛瑾の目的も魏領攻略だろーが。
手紙を盗まれると言う山頂布陣並みの不手際はあったが、
一応やる気があったことくらいは認めてやれよ。
住民虐殺を安全保障と言い切る
>>141にワロタw。
1:210年:周瑜の病死、江陵貸与
2:215年:荊州分割
3:219年:関羽北上、同盟決裂
4:220年:武帝死亡、魏呉同盟
5:223年:先主死亡、同盟修復
6:226年:陸遜北上
7:228年:第一次北伐、石亭誘引
8:234年:第五次北伐、合肥新城出兵
まあ考えられる分岐ポイントはこれぐらいか。241年は実際見込み薄い。
合肥の攻略がほぼ不可能なのもあるが、
魏の対蜀漢戦線は234年以後は成国渠と臨晋陂の二大兵站施設が整備されてるので、どん詰まり。
「魏>呉+蜀漢」の勢力比が15年で「魏>>呉+蜀漢」に開いた証左であろう。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/07(木) 15:37:24
ここって呉スレ?
>>141 成功と亡国を賭けた一戦をやらなきゃ天下統一を目指したと言えないなら魏晋も建国後はそういった一戦はないし、
蜀の北伐も亡国を賭けた危険な橋は渡ってないので結局三国とも目指していなかったというおかしな結論になる。
大体そういった一戦なんて普通は避けて当たり前。やらなければ勢力滅亡の憂き目に合うような場合のみ。
孫呉であれば赤壁がこれにあたる。魏の官渡も退いては滅亡するしかないから退かなかった。
先のことはどうなるかわからないのだからチャンスを待てる間は待つのが当たり前で、
危険な橋を渡る博打打しか天下を狙ったとは認めないというなら、もう言うことはない。
二宮の変や、後ろだての弱い太子を立て(というか有力な後見人を排除して)
国力を削ったのは俺も間違いないと思うよ。孫権の失策の一つだろう。
それと(234年時点での)統一の意思との関係はないが。
>>142 わからないのだが「孫権は後半耄碌したこと」と「統一の意思」にどんな関係が?
自分が後に国力を損なう粛清を引き起こすことを予知した上でそれ以前に失敗したら国を滅ぼす大動員をかけろって?
そんなの予知できるなら粛清を起こさぬ方に力注ぐだろ。
国の混乱を招いた統治上の力不足と、個人の意思や戦略構想自体を混同してないか?
>>145 同盟決裂は仕方ないとして、最大の分岐は4の魏呉同盟か?
この時点で同盟修復へと動けば少しは楽になったというのに。
>>141 今気付いたけど、「それまでで最大規模の各路侵攻」というのを「呉の命運を賭けた素晴らしい決戦」と言い換えてるのは何故?
貴方の中でこれらは同義なの?
>>147 淝水の戦いがある。それともキミの脳内では東晋は魏晋に入らないのか?
また当時の呉や蜀漢が天下統一を目指すのに常識を語るのは馬鹿げている。
第一候補は魏晋で圧倒的なのが魏晋。
経済封鎖は受けていたが、人材層が圧倒的、
国力の回復を待てば、兵力と兵站の力押しで何時かは勝てる勝算があった。
勝手に殺し合い、拱手して戦いを避け、奸臣を重用して自滅したのは蜀漢や呉ではないか。
座っていれば天下が転がり込むと言う発想がそもそも馬鹿げているし間違っている。
予知がどうとか怪力乱神については語る気がしない。火病を起こすな。
老境に入ってからは内も固められず、遠征自体が困難と言ってるだけ。
戦略構想自体は魯粛の欠陥品の処女作を継ぎ接ぎしたようなもの。
個人の意思というのは根拠のある実力に基づいているからこそ価値があるものだ。
そこを全く判っていないな。
王冠を被って玉座に座ってるだけで、
野望や戦略の基盤が勝手に固まるとでも思っているようだね。
魏を放って置くだけで孫権や後主の基盤が相対的に弱体化するということに気づかないのか?
民にとって帝は天下に一人だけが原則なのだ。勿論孫呉はその原則意識から大分大きく外れている。
だが、この時代の基本ルールを完全無視するのも如何なものか?
>>147 >>141の言うことはともかくとして、国力が劣る国が天下を狙うのに博打は避けて通れない、これは事実では?
例外として自国の経営基盤が安定し、政治情勢が良好かつ天険に守られている場合があるが、
呉蜀ともにこの3つの条件を満たしていたとは思えない
そういうわけで俺は徹底して対魏を貫かなかった孫権は天下を統一できる器ではなかったと思う
しかし、孫権が天下統一を諦めていたとは到底思えないのも事実
受身でいたら判定負けをくらう状況で
ガード固めてカウンター狙いは戦略的におかしい。
天下統一なんて面倒な仕事は諦めて
南朝の帝として北朝に対峙するのも孫権としては悪くない妥協点じゃないの?
蜀漢と言う危険なオマケはついてたけど。
対魏を貫かなかったことが問題ではなく、
魏の弱体化に失敗したのが致命的。
>決戦
魏晋はやらなくても見込みが有るけど、呉蜀はやらなきゃ不可能。
それを勝つのが不可能になるまで避けて「やる気があった」は得心がいかない。
どんな計略があるというのだろう。
「北上してたし、やる気が有った派」「決戦しなきゃ、やる気が無いよ派」に分かれてるな…
全く不毛な争い。三国ともに天下統一をしていないのは事実だし、
司馬炎以外する気があったのはいない、ということで手打ちにしては?
劉備にしても夷陵で戦うのが天下統一の大きな迂回につながることを理解していたはず。
それでも不利を押して将兵を死に追いやった。
計画通りに行かないのが現実なんだよ。
もし孫権が劉備に忠誠を誓い、
韓信の如き働きで魏の勢力を殺いで、劉備が統一を果たした場合、
孫権は粛清されるかな?
>>150 百年以上先のヒ水の戦いを持って三国時代の魏晋の姿勢を語ろうだなんて奴が居るとは俺も思わなかったよ。本気でビックリだ。
呉が自滅したというのは同感だが、それが避けられぬものだみたいな考えに同調できないね。
魏晋が相手を力押しで潰せるだけの状況を待ったことを知っているのに「待つ」という行為自体を受け入れないような言い草は矛盾してる。
呉が待つことで天下統一の機会が現れる可能性は魏晋より低いが、打って出て全く状況が開けない以上それが(元々可能性の少ない呉で)
最も高いと当時の孫権に思われたというだけ。
国を乱したことが統治上の失敗であり、それによって最終的に戦略は破綻したがそれはチャレンジして失敗だったということ。
貴方自身でレスした(はずの)
>>139>>141を読み返してみれば、
>234年に合肥を抜けない時点で完全に諦めてるだろ。
>どうせやるなら少しでも有利なほうが良いのは幾らなんでも判るな?
>自分の代は捨てて二宮の変で国力を大いに削り、
>孫亮を後継者に据えることで、天下統一を期待してたのか?
と書いてあるのが確かめられるでしょう?予知云々は
「後の混乱が予知できたのでなければ(234年の段階で後の混乱を理由に)もう無理だろうなんて結論にならないだろ」という意味。
「民にとって帝は天下に一人だけが原則なのだ」というのは厳密には嘘。一般民衆は自分の生活水準が一番重要で正統性なんて一々考えない。
考慮すべき(と思って貴方が想定してるであろう層)は儒教の考えを尊ぶ士大夫層だね。
こいつらも実際は利己的な面々が多く、地方政権である呉独自のメリット(揚州士大夫層の優遇)があるので大きな心配は要らないと思う。
実際南北朝はあれだけ長く続いてしまったわけで。
さらにいえば、本来呉蜀の割拠を許し放置したままの魏の基盤相対的弱化の方が深刻だったはず。
晋が鮮やかに取って代わったから目立たないけど。
>>158 >「民にとって帝は天下に一人だけが原則なのだ」というのは厳密には嘘。〜
そりゃ今の考えだろ
当時の教育水準が低い民衆の考えがそうであると何故断言できるのかが不思議だ
今でさえ天皇陛下万歳という人間がいるというのに
>>159 何故そう考えたのかと言えば、国家の正統性を根拠に行動した一般民衆の話よりも
生活状況等々を巡って行動した一般民衆の事例の方が遥かに多いと思うから。
当時の教育水準が低い〜〜は、むしろそうだからこそ上記の行動を取っておかしくないという結論の方に結び付けられそうだ。
>>160 生活状況等々を巡って行動した一般民衆の事例の詳細をどうぞ
>>158 >淝水の戦い
三国時代は魏晋南北朝時代の「一乱」に於ける最初の100年。
それ以前以後が秦漢時代の400年と隋唐時代の300年の「一治」の時代。
通してみるのは驚くようなこととは思えない。
後漢朝復興とか江東の海賊崩れの天下統一のような夢物語には例として合っていると思うが。
>儒教原理
「生活水準を保つ=戦争がなくなる=天下統一」だろ。
民の利害にも十分沿っていると思うが。
南北朝が続いたのは西晋の南遷と南部の漢化が進んだからだろう。
呉に当てはめるのは危険で早急。
>魏の地盤の方が危険
全くその通り。だから魏⇒晋になった。
ただ同一勢力と見るしかないから纏めているだけ。
同じ戦略を取ったら強国の方が有利ではある。
よくこんな説を聞く。
「遊牧民が脅威になったから農耕民の勢力圏内で天下統一が行われた」と。
始皇帝の統一の方が冒頓単于の匈奴帝国形成より僅かに早い。
一体何が根拠で↑のようなことを言うのだろうか?
元々五胡十六国の開始は曹操の異民族移住政策だ。
生来武力に優れた人種に文明と知恵を授けた為、
漢族がそれを斥けることも出来ずに南北分裂が数百年単位で続いたことの原因。
↑の説は本当なのか?
>>159 一般人にとっては「蒼天已死」でしょ。
ただ黄巾の乱がきっかけで名士の禁錮が解け、
その彼らが乱世をリードして、民の多くは従ったことを考えると完全に反儒教的とも思えない。
>>161 例えばちょうど呂蒙が急襲した際、呂蒙が軍法を厳しく取り締まり、民衆が平素より手厚い待遇をしたので一般兵士の大半はやる気失った。
劉備が蜀を強引に奪っても(しばらくは混乱したらしいが)自然と収まった。漢室を押さえた曹操の支配を恐れて民衆が逃げ出す等々…
正統性があっても身に危険が及ぶなら嫌がるし、正統性がなくても身を安泰にしてくれれば従うといった面は多々見受けられると思うがどうか?
逆は中々ないぞ。
>>162 政権の連続性でいえば殆ど途切れた別形態だし、ヒ水の戦いで当時の魏の方針を語るのは孫権晩年の行動をもって
孫堅の戦略を語る以上に関連性がないだろうよ。これはお互い末梢の部分の言い合いに近いのでもう省いてもいいかもしれんが…
儒教倫理〜
天下統一を実現して戦争が無くなるところまでいけば民衆の利害に沿ったことになるが、
三国の鼎立状態で十年二十年先の魏(晋)の統一を期待して協力したり靡いたりする展望を持った民衆は多分殆ど居ないだろう。
南北朝長期化の要因については民族問題があるだろうから完全に同一視はできないというのもわかるけどね。
魏の地盤〜〜
こちらも「魏は呉より早く途絶えたから呉の勝ちだ」とかそういうことを言ってるわけではなくて、
晋が恐ろしくスムーズにクーデターを成功させてしまったが、それ以前の展望としてはもっと大きな事変を期待できたってこと。
魏晋を一つの勢力とみれば、史実上は上手いこと回避したが魏が爆弾を抱えていた=待つことのチャンスはあったってこと。
>>158>>165 魏晋が「待つ」のは国力だけでなく、南に避難していた人間が帰ってくる。
呉が「待つ」のは開発は進めど、人口が減る一方。
魏⇒晋の政変で敵が弱体化しても、
自軍が国境(合肥新城)を突破できないくらい弱ってたら計画倒れ。
「待つ」と言う行動一つとっても状況が違えば、結果は別になる。
勿論、私は呉の「待ち」には反対だ。
貴方は私の
>>139>>141のレスをこう解釈しているのだよね?
貴方の場合
>234年に合肥を抜けない時点で完全に諦めてるだろ。
>どうせやるなら少しでも有利なほうが良いのは幾らなんでも判るな?
⇒よって「待つ」
私は
>>142で「二宮の変に関係なく、魏の体制が磐石なので無理」と言ったはず。
混乱を予知しているかは考慮していないし、既に手遅れだと言っている。
私の場合
>234年に合肥を抜けない時点で完全に諦めてるだろ。
>どうせやるなら少しでも有利なほうが良いのは幾らなんでも判るな?
⇒そのような状況になったのは過去のミスの積み重ね。
よって「それ以前が好機ではなかったか?」と検討している。
私は「現代」の視点で過去を見て、
キミは「当時の孫権」の視点で未来を向いているのだから、
お互いの主張が食い違うのは当然だ。
つまり
>>145のいずれかのタイミングで魏と決戦して
脅威の弱体化を図るというのが一連の私の主張なんだよ。
その場合、呉の滅亡は既定路線だ。
政変に期待すると言うのは悪い発想ではないが、
だったら何故確実に機会が迫っていた「漢⇒魏」の瞬間を狙わなかったのかという話になる。
その瞬間と老人二人の死を伺う感性が当時の孫権には養われていなかったと言うことか?
テポドンが蜀に完備されていたら…
>>166 まぁ結果論で語られてしまえば失敗に終わったんだが…結論を知ってしまえばそうなるのかな。
そういった観点に立てば、確かに145も理解できなくない。
>>167 蜀の侵攻と前後してるせいではなかろうか?あれを終えるか(考えずらいが)終える前に蜀との関係修繕がないと動くに動けない。
>>156に同意だな
とりあえず、ifを考えるのに結果論で語ると勝者の晋だけが正しいわけだし。
>>156の劉備が夷陵に出たのが統一への遠回りとか訳わからん
あれは必要な戦いだっつうの
>>172 呉で散々書かれてる「魏>蜀漢+呉」
天下統一には魏の弱体化が先
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/07(木) 22:53:49
つうか普通は、西晋と東晋を一緒くたに扱わないだろwww
状況が全然違うし、文脈で西晋と解るのを
150は147に鋭い突込みをされたので、苦しい言い訳に見えるww
少しは間違えを認めた方が人生楽になるよ。
>>173 しかしその結果蜀が強くなると、呉は結局蜀の下になって自力で統一するにしても
単に独立したいだけでも不可能になる。
呉の天下三分は、あくまで蜀を呉より下におくことが前提。
>>175 現代でそんな田舎思想もっててどうすんだよ
ここで考察するのは、結局自分がその時代の○○だったらこうできたのではないか?
ということではないのか
>>136-137 前スレの794では「最初から」とあったので、それは無いでしょう、と異を唱えていましたが、
>>139のレスが貴方の物であるなら、私との違いはその諦めた時期のみとなります。
つまり、私の答えも「2:孫権は天下統一を望んでいたが、途中で諦め、出来なかった。」です。
孫権が統一を完全に諦めた時期は、
>>145では否定されていますが、241年だと私は考えています。
原因は、淮南・樊城への侵攻失敗と孫登の病死だと考えます。
確かに、侵攻の結果ははかばかしくはありません。撃退されて、また長江の南に戻されています。
しかし、結果だけを見て「兵を動員しただけ」というのも如何かと思います。
その侵攻距離は、過去のどれよりも魏都に近づいた戦いだったのでは無いでしょうか。
要衝・合肥が落せない以上、他の地点からの北伐を敢行したのであり、
同時に、淮南を占領するという事は、合肥への援軍を絶ち、落しやすくする為の布石とも考えられます。
勿論、突出した地を得ようというのですから、呉側にも危険はあります。
しかし外交でも、正面から攻める事でも敵わないのであれば、違う手を打つ必要があるでしょう。
それが、合肥を抑えずに攻めるという、賭けにも似た241年の侵攻だと推察しています。
その最中で太子・孫登が死亡。もし自分がダメなら、と将来を嘱望する才を有し、
太子指名時には要衝である武昌へ置く程に期待していただけに、その気落ちは察するに余りあります。
そして追い討ちをかけるように、乾坤一擲の侵攻作戦であった淮南攻略が失敗。
ここで、孫権の統一の野望は完全に潰えたと言えるでしょう。
何故219年ではないのか。それについては後日述べたいと思います。
ちょっと纏めきれていませんので。
>>138-139 220年、蜀との関係が崩れ、緊張状態に陥っている為、守りを固めるのが優先で北伐どころではなかった。
結果論ではありますが、この為に蜀は関羽の仇討ちと称した軍を出すのが遅れたと考えます。
239年、異民族の反乱が起きるのはいつもの事でしょうが、これに加えて廖式が呉に反旗を翻す。
国内安定を最優先とする為、北方への派兵はやはり無理だった。
226年については
>>140も述べているので割愛します。
これが、それぞれの年に魏の混乱に乗ずる事が出来なかった要因ではないでしょうか。
しかし、魏の力を弱め、隙あらば攻めようという姿勢は変わっていないようです。
233年の公孫淵に使者が切られるという事態になったのも、
魏への混乱を招く事を期待する余り、公孫淵の謀略に乗ってしまったというのが窺えます。
さらに237年、公孫淵の独立に呼応するかのように江夏へと侵攻したのも、
常に隙を狙っていたからだと考えられます。
これらを顧みるに、少なくとも対魏路線は変わっておらず、
その先に見るのは、やはり統一だったのではないかと考えます。
今日はここまで。
>>474 魏晋(184、216、220〜311)が
秦漢(前206〜220、263)か南北朝(439〜589)かのどっちに属するか考えろ。
魏晋が「正」なんだから南北朝側だろうが。
呉を主体、六朝(222、229〜589)を主軸に考える手段もあるが、
魏晋二代では時間不足。それに31年そこそこの統一を「一治」に数えるのか?
お前の脳味噌は御目出度すぎる。中学校に入り直せ。
世間の常識では他人事に首を突っ込んで恥を晒すヤツを馬鹿と言うのだ。
上策:不戦屈敵、中策:百戦百勝、下策:決戦としよう。
383年は符堅が上策、中策を出来たにも関わらず、下策を選んで部下の反乱を起こし亡国したのが問題。
241年は上策も中策も見込みが無くなり、下策だけしか残されていなかった。
それでも無策で亡国を待つのを策とは言えない。
国を破ろうとして、己を滅ぼした符堅。
国は確かに全うしたが、所詮弱小国であり衰運の国しか残せなかった孫権。
どっちがマシかはどうでもいい。両方とも混乱しか残さなかったからだ。
とにかく、孫権が不戦屈敵を期待するのはそれこそ状況が違う。決戦をやるべきは彼だ。
「淝水の戦いを持ち出すのが苦しい言い訳」と思いたいのはお前がそう思いたいだけ。
俺はお前の意見を認めない。
>>177-178 「江陵に関羽が居座ってったから、仕方なく合肥を攻めていた」
とみれば最初から諦めていたと取れなくも無い。
その後の腰の据わらなさもその論の裏付け。
まあ貴方のまとめを待ってからにしよう。
>>179修正。
魏晋(184、216、220〜420)が
秦漢(前206〜220、263)か南北朝(439〜589)かのどっちに属するか考えろ。
魏晋が「正」なんだから南北朝側だろうが。
呉を主体、六朝(222、229〜589)を主軸に考える手段もあるが、
魏晋二代では時間不足。それに31年そこそこの統一を「一治」に数えるのか?
お前の脳味噌は御目出度すぎる。中学校に入り直せ。
世間の常識では他人事に首を突っ込んで恥を晒すヤツを馬鹿と言うのだ。
>>181 「合肥に張遼が居座っていたから何もできなかった」
じゃあ何も出来ないじゃんw
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/08(金) 08:09:48
何もしないからよかったんじゃないか?
関羽は呉と同盟していたから隙を見せたんだし、張遼が死んだから石亭で勝つことが出来た
関羽や張遼にまともに挑んでも勝ち目は薄いから孫権の粘り勝ちだろ
短期的にはそうだね、でも長期的にはどうだろうな
と何度も何度も言われていることだと思うが
先ず魏が何故統一できなかったのかを考える。
すると分岐点は二つしかない。
1劉j降伏⇒(判断ミス)⇒江陵失陥⇒江南勢力の跳梁
2張魯降伏⇒(判断ミス)⇒漢中失陥⇒四川勢力の跋扈
このどっちかが無ければ魏の統一は疑いない。
まあ武帝が途中で諦めたのは確かだろう。
そんな状況で禅譲するから三帝鼎立という馬鹿げた事態になる。
>>187 短期戦略を達成するのが、長期戦略の成功につながるという主張は全く理解出来ない。
当時の情勢は「短期戦略の達成=長期戦略の困難化」を意味していた。
長期的に見て、それが気が遠くなるほど厳しいから、
確実な短期戦略に切り替えた。というなら納得できる。
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シンジ「ここからが本当の地獄だ・・・」
>>180 その「決戦をやるべき云々〜」は実際の歴史を踏まえると、ってことでいいんだよね?
一応の確認。
>>136についてほとんど触れていなかったので、こちらで。
>「帝」「王」の違い
言い方は違えども、その指すものは「最高権力者」である事に違いはありません。
しかし、帝では言い訳は出来ませんが、王なら言い訳が出来る、という事もあります。
「天に二日無し」の元則で言えば、表立って帝を名乗る事は危険だったでしょう。
私の言う「周公旦のような」というのは、その実、「曹操のような」と言い換える事も出来ます。
つまり、「君側の奸を除き、漢帝国最高の実権を握る」という事が、
その当時の孫権が目指していた統一だったのではないか、と考えたのです。
>呉の誤算
最大の誤算は赤壁戦後、荊州を呉が抑えるよりも早く、劉備勢が抑えてしまった事でしょう。
流れ流れてきた劉備が、ここまで早く荊州を抑える力を持っていたなど、思いもしなかったでしょう
>合肥
むしろそれなら、215年の敗戦の時点で「もう無理」という主張になるのではないでしょうか?
そして現代ほど情報技術が発達していなかった古代に、国力差がそこまで開くと想像出来たでしょうか。
指を咥えて待つのではなく、混乱を招いたり、反乱に乗じたり、獲りやすい所へ出兵する等の手を打てば、
その差が広がるのは遅らせる事が出来る。
自国を富まして機会を作れればまだまだやれる。そう考えていたのではないかと思います。
それが後年の数々の出兵に繋がっている、と私は考えています。
それらの結果については否定しませんし出来ません。
ですが、その意思と力不足からくる結果とは、直接は結び付けられないと思います。
成功しようとしたのに失敗した。勝とうとしたのに負けた。これらは結び付けられない物でしょう。
>>181 ちょっと変な例え話を作ってみます。いや、昨日のは纏めてますから。
孫権は石で作られた牢屋に閉じ込められていて、常々この部屋から脱出したいと考えていました。
そこで、あらかじめ盗んでおいたスプーンを使って脱出しよう、と思いました。
部屋の西と北が石壁になっており、東と南は嵌め殺しの鉄格子になっていて、床に溶接されている為、
この部屋から出るには、その壁を破壊しなければなりません。
しかし、西の壁にはおっかない魔人が描かれており、これを崩すと祟られると言われていました。
そこで、北の壁を崩しにかかりますが、いくら掘っても向こうへ抜ける気配がありません。
疲れて休んでいると、西の壁からネズミが出て行くのが見えました。
よく見てみると、西の壁には小さな穴が開いていたのです。
その穴を覗いてみると、すぐ向こうには緑の平原が見えたのです。
それによって、西の壁がそれほど厚くない事を知り、その部分を基点にスプーンで穴を広げ、
ついに壁を破って外へ出る事が出来ました。
219年の荊州侵攻というのは、こんな所では無いでしょうか。
>219年に荊州攻めは早い?
219年当時、孫権はどこまで予測出来ていたでしょうか。
恐らく分かっていたのは、このままではジリ貧になり、国を保つ事も危うくなるという事。
蜀が強くなりすぎれば、魏、蜀の両面から攻められてもおかしくなくなる、という事。
さらに、今なら荊州を奪っても、蜀となら再び同盟が結べる、という事。
理由は、貴方の論が蜀にも当てはまると言う事です。
つまり、魏を超えていない蜀が、方針を対魏とする限り、呉とは同盟を結ぶ必要が必ずあるという事です。
荊州を兵力によって奪われても、蜀は歯ぎしりしながらも呉と同盟を結ぶ必要があります。
そうしなければ、魏に対抗し続ける事は不可能だからです。
それでも蜀と対峙するような事になっても、当時同盟を組んでいた魏に援護を求められる、
という事も考えたのではないでしょうか。
この時点では関羽を殺す事まで考えていたかどうか分かりません。
しかし、義兄弟の敵を討つという小事よりも、蜀の統一という大事を取るだろう、
という目算もあったかも知れません。魏を弱めたら呉とも戦う事は必然だったのですから。
それに夷陵戦は、あの趙雲ですら反対した戦いです。
目算が甘い為に勝ち戦がなかなか拾えなかった孫権とはいえ、
これが甘い考えだとは思わなかったのではないでしょうか。
そして以下は結果からも踏まえますが、
蜀との関係は、時間によって解決する事も出来る、という事。
何年後かは分かりませんが、老いた劉備が孫権より先に死ぬ事は予測出来るでしょう。
関係改善はその後、蜀の運営者が変わってからです。まぁ、ここまでは考えていたとは思いませんが。
張飛の件にいたっては、孫権には全く予測出来ないでしょう。
仮に范彊・張達が魏へ逃げていたら、蜀が兵を出したのはどちらになるでしょうか。
群臣も賛成する魏攻めか、張飛殺しの犯人が呉に行っても反対する呉攻めか。
私は魏攻めだと考えます。
以上の見解をもって、私は219年での統一破棄論を否定したいと思います。
>>194-196 >覇業
当時は劉氏以外の氏族が、王はおろか公になることも異例。
梁冀、董卓、李傕、郭のような奸臣でさえなっていない。
その数少ない例外が簒奪者の王莽、武帝なのだ。
つまりどっちも変らない。言い訳など利かないだろう。
また孫権が王になったのは221年に魏に封じられたからであって自称したわけではない。
それにしたって219年の関羽討伐をやったという手柄があればこそだ。
>易姓革命
後漢が崩れてもっとも得したのは誰か?
魏は魏王⇒魏帝、蜀漢は漢中王⇒蜀漢帝とあまり二項対立の構図は変らない。
それに対し、呉は荊州牧⇒呉王と明確に第三勢力化した。
夷陵の戦勝後の222年には黄武(これは明確に魏からの独立)の元号を使う始末。
これは孫権を藩屏として扱おうとした文帝の政治的な失策だろう。
確かに魏も蜀漢も両方振り回しているが、それで天下統一が出来るのか考えれば、
結論は不可能だ。孫権は天下三分の形成を固めただけ。そしてそれは天下統一への後退。
>呉の誤算
「劉氏」で「反曹の旗頭」で動き回っていた先主が、
荊州で地盤を固めるのがそんなに不思議か?
彼の実力を考えれば、今まで流浪であったことが不自然なくらいだ。
魯粛の応急処置云々の議論は頭の中に残っているのか?
>例え話
西の壁が坂道になっていて、登ること自体が困難なのも含んでいない。
そして問題は西の壁を崩すと、西の壁だけでなく北の壁も崩れて、
孫権を殺すかもしれないと言うことが全く考慮されていない。
不備が多すぎて不適当な例えだ。
そんなことを考える暇があれば事実関係をもう少し吟味してくれ。
>>194-196 >蜀とは同盟が結べる
その手前で起こった夷陵戦は自国が滅亡しかねない決戦。
滅びなかったのは文帝が無能で側面攻撃が遅れたから。
最低でも「蜀+呉>魏」の状況にして一対一で戦える状況にしてからだろう。
天下三分による割拠だけでも伸るか反るかの危険な会戦をやらねばならない。
ならば219年時に合肥を攻めた方が良い。
>時間によって解決
それが「やる気が無い」証拠だと言っている。
207年の袁家滅亡から中原と河北の二大拠点は戦禍から回復を始めている。
219年の関羽北上の時点でも10年近い「天の時」を与えてしまっているのだ。
219年以後、228年まで魏が震撼したことは一度も無い。
それは蜀漢が立ち直るまでかかった時間だ。
別に荊州奪還も夷陵もやっても構わない。
だが関羽殺害と蜀漢への大勝は対魏戦を考えれば明らかに蛇足。
そして合肥新城や広漕渠を整備されたことが逼塞の原因なのではなく、
それを可能にするまで国力を回復させてしまったのが問題なのだ。
同盟していようが「魏>>>呉+蜀漢」になったら不可能。
>合肥
さて、呉としてはどこを狙うべきかな?
215年:合肥で張遼と兵七千に大敗
219年:密約の結果、張遼が荊北方面に移動
228年:石亭で魏に大勝。曹休憤死。
233年:満寵が合肥新城の新築
241年:仲達が広漕渠の整備
>>194-196では、「統一破棄論の否定」にはならない。
219年の判断は「天下統一をする」つもりなら、敵と機会を間違えている。
手段を自ら捨ててどうやって目的を果たすのか?
その手段は守りではない。攻めだ。
>>198 >そして現代ほど情報技術が発達していなかった古代に、国力差がそこまで開くと想像出来たでしょうか。
これは考慮しないのか
>>199 当時の中原と河北、江南を比してどっちが本拠としての地力があると思う?
184年以来の20数年の大混乱は後漢朝に問題があったのであって魏ではない。
武帝と孫権の民政面での手腕が互角だとしても、
時間を掛ければ有利になるのは前者だというのは自明の理。
五胡の乱による漢人南遷を期待するのは無理がありすぎる。
>>199 またそこまで開くもなにも
「元々圧倒的に開いていた」ということを忘れてはならない。
>>200 >>201 それは理解できる
しかし、孫権がそのことを我々と近いレベルで認識できていただろうか、ということを問うている
夷陵の戦がおきたのは結果論だろ
当時の状況としては同盟を結ぶのが当然だと劉備以外思ってたんじゃないか?
それと孫権は外征を兄や周喩に任せて自分は内政をやるつもりだったんだから
「攻めて天下統一」と言う考えは周喩が死んだとき捨てたと思う
襄陽学派とでも言うべき連中が中原の実態と急所を把握していたのだから
機密を掌握する立場の孫権が知らない訳が無い。
また補佐の周瑜が何の根拠もなく天下二分を献策するとは思えない。
彼らが天下統一をやるつもりなら、当然現代の我々に匹敵するかそれ以上に、
その保持している情報は精密で詳細なものだったと思うが。
>>203 府中の首脳陣の本籍地は?
入蜀に従った軍部の兵の出身は?
それに孔明の北伐には荊州と益州が必須。
単純な結果論で済ませられないと思う。
>>205 隆中対の北伐案では荊州と益州が必須。に修正。
>>205 荊州を奪還するには呉を叩きのめす必要があるし関係がさらに悪化する
仮に荊州を奪った後に呉と再び同盟を結んだとしても、
同盟国が以前と比べて弱くなり関係も悪化し、しかも関羽がいない、
とゆう状況で北伐が成功すると思いますか?
>>207 夷陵で勝った場合、荊州確保はほぼ確定。
同盟は呉の対応次第。その場合は孫登を人質に送ることになるだろう。
講和がならず、揚州方面が魏に降伏しても、陸口さえ抜けば楽に落ちる。ここが焦点。
漸次東進して夷陵-江陵-陸口-卾-秣陵のラインを確保して、天下二分に以降かな。
北伐は荊州と漢中が主体になるだろう。関羽がいないのは厳しいが。
元々蜀漢の戦略に合肥攻略はいらないし。東部戦線は膠着させておけば十分。
併呑に何年掛かるか知らないが夷陵で負けて一から立て直すより、
呉がその逆をやって蜀漢を併せるよりは実現性が高い。
ただその場合、魏の打倒なんて確実に不可能だろうがね。
漢中は平定しているのだから、武昌の前、江陵を占領した時点で講和するだろうな
先主がどれほど上手くやっても呉を破綻させるのが限界で
孫権を殺すまでには至らないだろうね。
>>200 三国時代より過去の事例を見れば中原を押さえた大勢力に江南一帯だけでは敵し得ないという判断は当然とでも言うべきで、
当時の識者ならば当然そう考える、と言えそうな気も確かにするが、どうもそう簡単に斬っては捨てられないんじゃないかと。
まず江南一帯の開発時期だったということ。それまで漢人にとって江南は未開の地域だった。
しかし、後漢末の動乱と寒冷化の影響で北部の農業が後退し、天候不順と慢性的な飢餓を避けるために
温暖で降雨量も多い江南地域への漢人入植が進み、それに伴い江南の国力は相対的に増大してる最中にあるのが三国時代。
それを実際に呉で政権を運営し肌で感じて「これもしかしたらイケルんじゃね?」と思ったのが孫権、
そんなことは露知らず「中原と河北を制した俺に勝てるわけねー戦わずして降伏すんだろ」と思ったのが曹操、
そして両者が赤壁で対峙、結果「対抗しえる」という認識が(実際には偶々であっても)天下に証明されてしまい、
劉備(蜀)と孫権(呉)が南で我が物顔することを巨大な曹操(魏)が許すハメになった。
呉にとって人口は北からの流入と南の開拓によって増大が見込めたし、地図の広さだけ比べれば南部と北部は拮抗する(実際は山ばっかだが)。
経済的は銅も塩も鉄も採れる、紡績もあれば特産物は象牙・犀角・翡翠・大貝・真珠と珍品揃いで交易路は長江の水運があり、
荊州・交州をおさえれば南北交易路も加わりもはや中華を圧倒する!…なんてことはないが豊かなのは確か。
時間をかければどうなったかについて、孫権にそれなりの希望を抱かせる条件は揃ってた気がする。
それが必ずしも正確な分析だったわけではないが。
>>211 呉の江南はその後の繁栄の序盤も序盤。
確かに相対的に江南の国力が上がったがそれはあくまで一過性のもの。
それがある程度固定的になったのは東晋以後だろう。
西晋があそこまでアホじゃなければ中原が崩壊することもなかった。
経済の繁栄は政治の安定の上に立脚する。
当時は山越問題があるのに展望も何もない。
また呉の運営が簡単なら孫策は胡散臭い暗殺で死ななかったと思われる。
孫権は相当豪族間の利害調整に注意して運営したことだろう。
どっちにしても江南を本拠に置く時点で不利で、
1000年後に期待するなんてのは笑える話ではないか?
魯粛の策は孫権を帝にすることだったので、その一面だけなら十分に達成されたと言える。
孫策死後の孫家は地元名士集合体の代表に過ぎない。
つまり孫家をトップに置いた小天下と言える。
その小天下の安全が脅かされる限りは軍部を動員できるが、それ以上のことは出来ない。
関羽討伐と夷陵の後は腰の据わらない進軍の連続なのもそういうことだろう。
何の大義名分も求心力も無い孫権が無理して中原を取りに行くには最初から困難。
>>205 結果論だろ。
呂蒙は蜀の侵攻に備えて夷陵を抑えてあるし
と言うか、呂蒙の荊州よりも劉備の夷陵の戦いのほうが
呉の天下統一の邪魔なんだけど。
>>213 魏、蜀で関羽討伐と夷陵の後の腰の据った進軍ってなに?
>>214 同盟破棄も関羽処刑も夷陵完勝も天下統一戦略において無益。
>>215 魏の征蜀戦、西晋の征呉戦かな。
多方面からの芸術的な分進合撃による敵対勢力の覆滅。
これ以上のものは無い。
孔明と裏ルートで手を組んで耳長を暗殺すればよかったんじゃね?
>>216 防衛線の夷陵完勝も天下統一戦略において無益って
蜀漢を打ち破っても魏が弱くなるわけじゃない。
荊州占領の既成事実化が重要であって完勝の必要はない。
>>212 その後の繁栄の序盤に異論はないけど、三国時代の江南発展も一過性の繁栄ではなく歴史的な発展途上の一部だと思うな。
確か晋の統一時点で全中華に対する中原の人口割合は既に結構減退してて、
戸数でいうと約240万戸中呉の支配地域が約70万、蜀の約35万に対して晋の支配地域は約135万ぐらいとなっていた。
西晋の混乱からさらに差は縮まったのは事実にせよ、この時点でも確実に発展が窺えると言えるのではなかろうか。
経済の発展と政治の安定についてもそれ自体は同意なんだが、
山越問題は課題であると同時に開拓対象でもあり、実は発展の可能性の一つでしょう。
実際これを解決していく過程で呉の国力は増大していったわけであり、また軍事的にそれ程脅威となったこともなかった。
安定の面だと初めの内は中原の方の混乱が酷かったためにむしろ江南は安定していたほう。
それに加えて前途の赤壁で勝利しちゃったものだから「軍事的にも安泰だろう」という認識は広がったっぽい。
赤壁前はあれだけ動揺し降伏論が頻発したのに、その後は魏からの侵攻があっても臣下も皆強気だ。
話は逸れるが赤壁の戦い時代はよくよく調べると大した勝利というわけでもなさそうなのに、
あれだけ度々持ち上げられるのはこの辺りの影響力の大きさからなのかなと思ってみたり。
呉の運営の難しさは当然あるだろうね。北部からの流入組みと地元豪族との勢力バランスとか、
孫家の本来のステータスの低さとか…
江南に本拠を置くのが一概に不利とも思えないのは前途の通りなんだけど、
それ以外の全てと押さえた勢力とどっちが総合的に有利か?なんて聞かれたら俺でも後者ですよ。
ただ一点将来への展望において圧倒的に不利とは思わないだけで。
1000年後は気が長すぎるけどねwせめて100年で。
蛇足だが、「魯粛の策は孫権を帝にすること」が魯粛の最終目標=孫権の呉皇帝即位だとする説だとするなら興味あるな。
余談かもわからないが余裕があれば是非聞かせて欲しい。
>>216 それは、「蜀の天下統一戦略にとって」だろ。
呉は蜀の部下でも従属でもない、呉には呉の立場と戦略と判断があるってことを
蜀厨はいいかげんに認識したら。
呉の戦略は天下二分であり、北の中原を獲るよりも長江流域と南方を押えること
が優先。まず南を制覇する。その国力をもって北を征服する。北を攻めるヒマが
あったら荊・益を獲れというのが呉(孫権)の原則。
実際に呉は関羽が隙をつくれば荊州をとり、劉備や諸葛亮が死ねば、南部で反乱
を扇動したり兵を動かして侵略を狙ってみたり。蜀が動揺を抑えて侵攻の隙を見せ
なかったので呉も無理はしなかっただけ。
>>221 天下二分時点で北>>>>南ならアウト。
新参は過去スレを全部熟読しろ。
俺を蜀厨と呼ぶのがその証拠だ。まったくスレの流れを掴んでいない。
南のほうが北よりも発展したのは三国志時代以降の話だからな
>>221 北=南になってから荊州を取り返そうって議論だよ。
その前に出来れば合肥と淮河以南、山東も出来れば全部取れればいいなくらいで。
まあ文帝死去の226年時に交州政策に没頭しているような有様だし孫権の中原志向が低いのも確か。
魏:9州2891万
呉:3州1170万
蜀漢:1州724万
後漢書だかのデータ。呉の実数は重複部分があるのでもっと少ない。
184〜207年の戦禍がペスト級だったとしても2000万は残っているだろう。
そっから江南、四川、遼東に一割は流れていたとしても、やはり魏が圧倒的。
>>222 夷陵の完勝も蜀に犠牲出さないで相手を引かせられたら(そしてそのまま協力できたら)最も良かっただろうけどそりゃ無理だし、
呉蜀の実力が拮抗してるといつまでも荊州巡って争い続けなきゃいかんので国境線を決定付けたあの大勝は大いに意味あったと思うけどね。
>>224 北=南になってからなんて何世紀か立たないと無理だよ。
地形生かして退いて守って隙があれば進出して地道に領土拡大。呉の基本はコレ。
国力差あっても乾坤一擲の戦でどうこうしようなんて考えたの周瑜ぐらいじゃ?
北=南なんて無意味。
北>>>>南でも、蜀呉が国が乱れて防衛線が維持できなくて
初めて攻めることができたのに。
逆に言えば国力差があっても異民族の台頭みたいに防衛線が崩壊すれば
天下統一できるし。
>>228 北=南じゃなくて魏=呉+蜀漢だろ。それは全然無意味じゃない。
魏晋が統一できたのは勝つべくして勝ったというより、敵失によるところがほとんど。
国力増強と民力休養、屯田設置、運河開削による兵站整備など、
当たり前のことを当たり前にやっていたら勝手に呉蜀が自滅したので滅ぼしただけ。
>>226 孔明とは和解できるのだから先主を暗殺すれば?という案が出る。
ぶっちゃけ夷陵で亡国級の敗戦をする先主なんてこの先も要らない訳だし。
>>197 >覇業
簒奪者となるか否かは手段にもよるでしょう。
帝をないがしろにして権勢を振るえば、王や公じゃ無くても非難の対象になるのは
董卓を見れば分かる通りです。
ましてや、自称などしてしまえば言い訳のしようもありません。
孫権の王号は賜ったものであり、曹丕が御機嫌取りの為に封じたのだという事も、
関羽を攻めたのが王号を欲しての事ではないという事も分かっていると思います。
>呉の誤算
荊州を得るまでに、劉備が勝ち戦で名を挙げた事があったでしょうか?
残念ながら、私の知識では該当する戦が見当たりません。
ましてや、当時の情報の出所といえば、文字にならないなら口伝や見聞、噂の類です。
徐州では呂布に乗っ取られて取り返す事も出来ず、曹操に反旗を翻すも破れて袁紹を頼り、
新野から曹操に押されて夏口へ落ち延びてきた。
そんな劉備を、「荊州南部を攻め落とされないよう警戒しろ」という人がいたとしても、
説得力は無いのではないでしょうか。
>>198 >蜀とは同盟が結べる
ここで後の「あの」夷陵の戦いを考慮に入れる必要は余り無いと思っています。
理由は先に述べた通りですが、孫権には実際に起きる夷陵戦が、
(孔明も趙雲もいないけど)国を挙げての規模になるとは予測できなかったでしょう。
>時間によって解決
>>196にも書いてありますが、そこまで考えていたとは思えません。
そんな甘い奴が天下を取れる訳が無い、としても、それは意思とは無関係です。
しかし、実際には最悪の状況になり、時間が解決する結果となりました。
ですので、その結果については否定もしないし、出来ないと書いたはずです。
>合肥
本来なら215年時に取り返せれば良かったのだろうけど、勢いに押されて結局出来なかった。
この時点で、「先ずは国力増強」と方針変更をし、219年の荊州攻めはその一環だと考えています。
攻める為の力を蓄える事が諦めと同義とする事は出来ません。
取れるとしたら、江陵と合肥、どちらを取るか。
>>106が貴方の言であるなら、私も同意見です。
そして、蜀に対してどう考えていたかの推察は
>>196で述べる通りです。
とりあえず両方の主張を纏めてみましたが、こうでしょうか?
貴方の主張:
今は魏を弱める事が重要であり、それまでは「蜀>呉」となっていてもやむをえない。
魏を弱められれば、呉が天下を狙う目が出てくる可能性もあったはず。
その為にも、蜀と同盟している間は合肥を狙うべきだったのに、目先の利益に捕われて計州を襲った。
荊州を襲えば関羽は死んだし、蜀との関係は断絶するし、「あの」夷陵の戦いは間違いなく起こったはず。
だから荊州を攻めた時点で統一を諦めたと判断する。
私の主張:
魏を弱める事は重要だが、合肥が落せず、荊州が無い以上、北上するルートは抑えられている為、
国力を上げられず、その後に「呉>蜀」とする機会は無くなり、呉が統一する機会も訪れなくなる。
荊州を襲っても関羽が死ぬとは限らないし、蜀との国交は回復出来る理由があった。
しかし、「あの」夷陵の戦いが起きるなど、劉備を見誤っていた孫権に想像出来ようもない。
だから荊州を襲ったが、その時点で統一を諦めたとは言えず、まだ狙っていたと判断する。
とりあえず、その二つの主張がスレの内容に相応しいかどうかだな。
蜀漢の天下統一の成否は呉の動向次第なんだから当然相応しい。
呉が割拠で十分なら呂蒙の荊州侵攻は魏呉にとって最善。蜀漢にとっては最悪。
そしてそれが呉の天下統一の最善である、というのが賛成派の意見。
それに対し、
「その最善の荊州侵攻も呉の天下統一という観点ではどうか?」
「最終的には魏も蜀漢も出し抜く必要があるのに」
「魏に対しては只でさえ手も足も出ないのに年々ますます敵わなくなってるぞ」
「呉は荊州を併せて天下統一を確実に狙えるくらいに強くなったんじゃないのか?」
「どうなってるんだよ?おい〜〜〜!」てのが反対派の意見。
あんまり結果論書くのは好きじゃないけど
蜀は魏だけではなく呉も出し抜かなきゃいけないのに
先に呉に攻め込まれてジリ貧になってるかなあ。
>>231 >覇業
魯粛の言ったことが当時の孫権にとってどれ程分不相応なことか考えれば判る。
>蜀とは同盟が結べる
同盟を結ばなくても魏を倒せる方策を提示してくれ。
>合肥
貴方の頭の中で「自分が強くなる以上に相手が強くなる」
という発想の種は何時芽を出すのでしょうか?
>時間によって解決
淮南維持が困難になる位の大飢饉、大疫病を魏に起こしてくれ。
>呉算
公孫康:左将軍、遼東太守
先主:左将軍、予州牧
劉表:鎮南将軍、荊州牧
孫権:討虜将軍、会稽太守
士燮:安遠将軍、交趾太守
劉璋:振威将軍、益州牧
張魯:鎮夷中郎将、漢寧太守
馬騰:征南将軍
韓遂:征西将軍
↑は208年、武帝の南征当時に残っていた群雄の一覧。
何故武帝が西部でなく荊州に行ったのか考えることが大事。
>>232 当方の主張:
219年時は同盟維持が必須なほど魏を弱める事が重要であり、
それまでは荊州問題が未解決でも止むを得ない。
魏を弱められれば、呉が天下を狙う目が出てくる可能性もあったはず。
その為にも、蜀と同盟している間は合肥を狙うべきだったのに、
目先の利益に捕われて荊州を襲った。
臨沮での待ち伏せは明確に関羽捕殺を狙っていた。蜀との関係は絶縁覚悟。
夷陵で魏の為に戦うのは不本意だが、荊州確保の為には詐欺師と一戦交えるのも已む無し。
魏に側面攻撃はされないという前提で、二正面作戦では滅亡必至。
だから同盟破棄で、魏の前線を空前絶後の勝算で突破する機会が無くなったので、
呉も蜀漢も天下統一はほぼ不可能になった。
875氏の主張:
自国強化が最重要で合肥が落せず、北上するルートは抑えられている。
国力を上げられず、その後に「呉>蜀」とする機会は無くなり、
呉が統一する機会も訪れなくなる。
荊州を襲っても関羽が死ぬとは限らないし、蜀との国交は回復出来る理由があった。
しかし、夷陵の戦いが起きるなど、劉備を見誤っていた孫権に想像出来ようもない。
だから荊州を襲ったが、その時点で統一を諦めたとは言えず、まだ狙っていたと判断する。
237ってアンチ呂蒙スレにいた、痛い奴そっくりだな。
やはり文帝の夷陵の後で呉を攻めるセンスが理解不能。
ボロきれみたいになった蜀漢を攻める方が遥かに容易いだろうに。
その上で長江上流(主攻)、荊州(助攻)、合肥(陽動)の三方面から呉を攻めて滅ぼすべき。
その場合、夷陵を抜くのは遥かに容易い状況だろう。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/09(土) 21:01:01
>>238 論破されると煽りしか出来ない恥晒しが出てくるのは議論系スレの宿命だよね。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/09(土) 21:02:34
>>238 いるよなーこういうの
m9(^Д^)プギャーーーッ
>>234 諸葛亮の天下三分
「荊・益を合わせて、’機’を見て北へ同時侵攻」
魯粛の天下二分
「長江流域(楊・荊・益)を獲り、’北の乱れ’をまって侵攻」
どちらも、南方の国力のみで北を超えることはできないと認識している。
よって下二行は無意味。
>>238 笑うな!このスレの中では
m9(^Д^)プギャーーーッ
245 :
238:2006/09/09(土) 21:15:01
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>>239 魏は確か蜀に二回しか攻め込んだことないんだよね。曹真が雨で引き上げたやつと曹爽のやつ。
後は晋の征蜀のみ。蜀攻めの侵攻路は呉攻めに比べても相当身動きが取り難い地域なんでなかろうか。
>>243 魯粛の案は208年時に破綻している。その誤差分の修正はしてるだろう。
まあ漢中王即位〜関羽北上の一連の流れ以上に
「北の乱れ」とやらを起こすカードがある訳ないし、その意見は無意味。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/09(土) 21:23:54
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そもそもアンチ呂蒙スレなんて初耳だ
だな。もし続けるならそのあと蜀はどうするべきかを書かないと。
まあ875氏と
>>237の対立って
前スレの900以降から何にも変ってないしな。
875氏:孫権はやるとおもってた
>>237:出来ねーのにどうやってやるんだよ?
これの一点張りだし。ジャマだから両方とも消えて欲しい。
変なのも沸かしてしまったし、終わりにします。
結局の所、「出来るのか否か」と「意思があったか否か」での平行線だと分かりましたので。
皆様、失礼しました。
うっかり忘れてた…
>>237氏等
長文にお付き合い頂き、また、一つ一つの質問に対してお答え頂き、
ありがとうございました。
ほんじゃ呉はおいといて、蜀の話をしようかwww
>>257-258 議論が全くの平行線になったのは
お互いのスタンスの差異からすれば当然です。
だが、終わりに臨んでの貴方の節度には甚く感銘を受けます。
私は貴方に大いなる敬意を示すべきでしょう。
こちらこそありがとうございました。
やれやれようやく終わったか…
これについての詳細を知りたい。過去スレにないぞ。
35 名前: 大澤 投稿日: 2002/05/12(日) 01:37
名将を才能だの経験だのの能力で比べないで、その彼らのドクトリンで比較すると面白い。
というのは、ドクトリンというのはその軍が置かれた地理的、政治的要因などによって作られるものであり、単純に能力だけで作られるようなものではないからだ。
曹操をはじめとする魏陣営のドクトリンは、間違いなく[亠兌]州、豫州の平地という地理条件から生まれたものだし、
諸葛亮や姜維たちの歩兵運用が益州や雍州の地理的状況を背景にして形成されていったというのも然り。
呉なんかは特に顕著で、周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜→諸葛恪→陸抗と受け継がれているわけですな。
そう考えると、諸葛亮のドクトリンでは長安までが限界で、中原に出るのは不可能であった事が理解できる。
仮に奇跡的に長安を奪回したとしても、魏の圧倒的な兵力と機動力を背景にした反撃には耐えられなかったろう。
最近、三国志を語る人たちが戦略や戦術について騙るのに将の個々の資質に依存しすぎているのに苛立ちを感じている。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/09(土) 23:03:03
siruka
>>262 そのレスは、ニセクロ氏が振った話題に答えたものだな。
ただ、そのドクトリンという言葉が、バトルドクトリンという意味で使われているのか、
もっと広い範囲の事を指しているのかが、いまいち分からん。
孔明が魏延の長安強襲案を認めていれば
天下も見えたんじゃないの
前スレから嫁
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 08:18:26
曹丞相が劉備玄徳に国を譲れば良かったんだよ
そうすれば天下取れた
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 08:47:06
廃帝しなかったのは曹操の評価対象だね。
まぁ帝の権力なんて皆無になってたし結局は息子が廃帝したけど
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 08:55:05
そのせいで中学校の教科書に載らなくなってしまったけどな
中学の漢文の教科書に載るぞ
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 10:11:18
『魏(曹丕)蜀(劉備)呉(孫権)の三国が分立する三国時代となった。』
こう教科書に書かれてしまった時点で、曹操は劉備に負けてしまったんだよ。
三国志に興味の無い一般中学生
「劉備?あぁ、世界史のテスト勉強で名前は知ってる。 曹操?誰それw」
呉と完全同盟
同時攻撃
必須
反魏の反乱があれば、倒せたかもという自力天下統一は不可能。
話題にも上がらん孫権ってw
説明
曹ヒ-曹操の息子で父が死去したあと帝を廃帝させ、自ら皇帝となる
劉備 巴蜀、漢中方面を支配下におき、曹ヒ が皇帝になると自らも皇帝となった
孫権 他二国が争ってるうちにちゃっかり皇帝になったアホ
277 :
.:2006/09/10(日) 12:54:33
孫権の皇帝宣言が一番興味深いけどな
当初からの予定通りなのか、孫権の暴走か、曹丕が信用できなかったのか
>>277 魯粛と話した時から孫権の帝業は始まったのだよ
>>271 曹操は廃帝しなかったのではなく、できなかったと見るべきでは?
曹丕への禅定の素早さからみると、曹操が皇帝になる予定だったが、
死んでしまったので曹丕にスライドした、と考えるべき。
>>271 呉が藩国の礼を取り荊南はその藩国である呉が押さえた
ここまでしてやっと益州以外が漢の支配下に戻り天下が平定されたわけだ
それ以前の状態で禅定を受けるのは受命の君としての易姓革命ではなくてただの簒奪
>>279 文王発言は無視ですか?
曹丕の代で禅譲することがもともと決まってたからこそ禅譲がすばやく行われたんだろ
>>276 蜀スレだけど孫権に対して煽りしか出来ない恥晒しは
m9(^Д^)プギャーーーッ
>>276 議論スレで煽りしかできない奴
m9(^Д^)プギャーーーッ
285 :
276:2006/09/10(日) 19:42:22
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だが、阿呆かもしれない
>>276 あらあら
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289 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 19:55:46
>>276 だっせーーーwwwww
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291 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 19:59:35
孫権は筋目から言えば皇帝になる資格がない。
現実はともかく、魏→禅譲 蜀→魏が漢を簒奪したため同族の劉備が漢の
後継国家として即位
呉→漢とは全く関係ない上に、禅譲されたわけでもない。
しかし、呉は(僭称にしても)皇帝を名乗らなければならない。
なぜなら、魏とは当初は名前だけにしても臣従関係になっていたのに
蜀とは反魏の同盟関係という複雑な立場にあった。
皇帝に即位して魏からは名実とも独立しなければならないし、
かといって蜀の風下に立つわけにはいかない。とすれば二国と同じ
立場になるしかないから皇帝になった。
多分、勢力図が変わって呉が有利になれば実もついてくるのではないか
と考えたのでは。
>>276 お気の毒に…
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この粘着が呉オタの極みか…痛いな
呉オタって半端もんが多そう。
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>>291 かと言って低い地位のまま独立したのではただの叛乱でしかない
しっかりとした名分で皇帝として即位し独立するためには
「魏国の皇帝が無道であるため、高位にある自分が代わって帝位に就きその無道を正す」
というシナリオを選ぶしかないため孫権は帝位に付くまで魏に媚び呉王の位を受けるや否や反旗を翻した
名があって始めて人はついてくるんだよ
荒らしは氏ね。
戦国時代に七国の公が王を名乗ったのと同じだろ
秦・斉が王を名乗ったために王の称号の価値が暴落したのと同じで
皇帝の称号も魏・蜀と並立したせいで暴落した
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 21:05:48
>>296 こうやってみると、呉は政略の国だね。
飛びぬけて著名な武将は少ないけれど、ここぞ、というときに
政治力を発揮してくる。
自分は呉オタではないけれど、三国志における呉の存在感を
感じるよ。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 21:40:07
>>298 名乗りやすい、名乗りにくいはあるにしても、称号には意味がある。
公=王国の有力者で王以外の第一人者。大抵は同族で傍系の貴族に与えられる。
王=一国の主権者。その国での最高権力者。
皇帝=複数の国の中の王。kings of king。
秦の始皇帝が皇帝を名乗ったのは七国の王を統一してkings of kingとなったから。
ローマ帝国の最高権力者が皇帝(=シーザー)と訳されるのは、ローマ市民および植民地
の最高権力者だから。
ちなみに総統は大統領と首相を兼ねている最高権力者という意味。
>>299 話題の蒸し返しだが、関羽北上の時の荊州侵攻はどう判断すべきだろうか。
呉としては一気に勢力を拡大できたが、呉が蜀を攻めても 魏>呉+蜀 である。
孫権は荊州奪回後の政略をどう考えていたのだろう?
蒸し返しだね。スレ違いだから別に作ってそこでやって。
king of kingsだろ?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 23:18:38
魏延 趙雲 馬岱
黄忠
法正
張飛 馬超
諸葛亮
関平 周倉
関羽
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 23:31:08
1 李厳 GK
2 ショウエン CB
3 費イ CB
4 董允 CB
5 魏延 OH
6 馬岱 OH
7 諸葛亮 CH
8 関興 SH
9 趙雲 CF
10 姜維 CF
11 張苞 SH
趙雲
姜維
魏延 馬岱
関興 張苞
諸葛亮
費イ ショウエン 董允
李厳
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/12(火) 21:05:32
すっかり過疎ってるけど
>>307に行ったんじゃないのか
元々過疎ってたのが、呉を絡めた話になってから急激に伸びただけだし
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/12(火) 21:29:56
あっち行ってきたけど、蜀以前にもう結果が出てるみたいな結論に
なってきている。
てことは蜀に天下を取らせるのは無理ってこと?
このスレの結論
最後まであきらめるな!(希望はないが)
長安取るのは可能だろ
その先は?
時代と人材を書いてくれ
>>314 いつ頃にどうしたら天下が取れるのかを語るもんだろ
それを「時代と人材を書いてくれ」ってお前は無能かw
>>315 長安取ったときの時代と人材だよwww
スレの流れも読めない池沼は死んでねwwwww
どの辺りをポイントとして長安取りを可能と言ってるのか、って事でしょ。
1、関羽が生きてた頃
2、関羽が死んだ頃
3、孔明の北伐で魏延が長安取りを進言した頃
かなり大まかだが、こんな所か?
2の根拠を知りたいな
馬超が生きてた頃にしよう
歴史の結果が示す通り、孔明の北伐は時間と人と金の無駄
魏延の長安強襲案が一番可能性のある策
長安攻略がもし上手く行ったら、函谷関で十分魏の軍勢は防げる
成都から長安への遷都を行えば、劉邦のように中華統一も夢ではなかったんではないか
かなりいい加減に出しただけだから
そんなに気にするな
漢中取り返しに来た曹操に流れ矢が当たれば長安もいけるお
>函谷関で十分魏の軍勢は防げる
ゲームならな
漢中攻防戦の直後ぐらいは?
長安奇襲案はまったくもって糞
明帝の命で曹真が素早く派遣されてるし、涼州の郭淮をまるまる残す事になり、
挟撃され関中に骸を晒すことになるだろう
長安が落ちれば涼州も動揺するっしょ
連動して呉も徐州を攻めるし
涼州にいるのが夏侯楙みたいのならいいが、郭淮だからな
洛陽からやってくる前面の主力が10万くらい
これを防ぎつつ、涼州に如何ほどの兵が回せるというのか
補給の効かない長安でどうやって耐えるのか教えてくれ
洛陽から10万も急にはこないよ
せいぜい半分だよ
涼州は異民族に反乱を起こさせる
一ヶ月ぐらい持たせれば呉がいくつかのルートで攻め上がるよ
なんて楽観論
徐バクや游楚も地下で泣いてるね
一ヶ月を敵地で耐え抜くのがどれほど難しいことか
>>330 来てるだろうがw
実際の第一次北伐を見ろよ
お前は明帝なめすぎ
そんな悲観的だからいつまで経っても蜀が天下盗れねえんだよ!
お前らは気合いが足りん気合いが!
>>332 あんなもん5割り増しの記述だよ
あいつらは5万5千でも10万って書く連中なの
つかお前はウチの劉禅を舐めすぎ
じゃあ、蜀も5割増しということにならないのか
長安を長期的に抑えたいのであれば、
ルートが漢中のみってのは流石に厳しい。
漢中から長安を睨みつつ、涼州を勢力下にしてからじゃないと。
おまけに、孟達が反乱した後の時期であれば、
上庸からの軍も警戒しなければならない。
魏延の案みたく、いきなり長安落したって保持出来ないでしょ。
蜀のほうは何人でも構わないから
何つっても長安落として籠城してるって前提だから
魏延が長安取り進言した頃の蜀の手駒ってどんな感じだったの?
>>337 だから、補給の効かない長安でどうやって耐えるのか教えてくれ
魏延の案だと接収した邸閣と逃亡した住民の食料で事足りることになってる
>>339 補給が効かないってひと月分も運べないのか?
>>340 うんうん長安にも蓄えがあるだろうしな
あそこにトウタクがこさえたでっかい倉があるんだ
>>341 諸葛亮の本隊は1ヶ月で涼州を抑え、平定して、長安まで進軍できるのか?
>>338 第一次北伐の手駒だよ
年食った趙雲、魏延、馬岱、王平、馬謖など
>>340 魏延の兵は5000だったっけ?
>>342 それってまだあったのか…?
>>344 おお、でかした我が軍師よ
馬謖とか生きてんだな
リゲンなんかも使えるべ
キョウイはまだいないのか
中身は知らないけど大きな倉は残ってるよ
>>343 涼州はほったらかしておいたら駄目かい?
大規模な反乱が起こってるってことにしてさ
>>346 ふざけてるんじゃいやい!
楽観的なだけだい!
勘違いするな馬鹿!
>>347 それだと長安で魏の本隊に短期決戦を挑まなくてはいけない
まぁ野戦になるだろうから、勝ち目が全くないとは言わないが厳しくないか
長安奇襲案では、孔明本体は涼州方面を無視して、長安にむかうことになる
まずこれが非現実的
董卓がビに築いた万歳塢はこのときも残ってるが、糧食はそれほど無いと想われる
もっとも、第一次北伐の後は、前線基地として以前より備蓄量も増えただろう
>>346 煽るだけなら帰れば?
>>347 どうやって反乱を起こさせるのかが問題でしょ
それがうまくいかない内は、涼州を放っておく方が危険
普通に涼州を占領して、その後に長安へ向かい、そこで決戦でいいだろ
>>349 それだよそれ
短期決戦を望むんだよ
長安から一気に洛陽までそして帝都を目指す
呉にも頑張ってもらってさ
シバイってこの時どこにいるんだっけ?
>>350 だから涼州はお馬に乗った蒼き狼たちが暴れ回ってるから大丈夫なんだっての
それから董卓の倉に結構備蓄があったと過程したら?
>>351 どうやって反乱を起こさせるか・・・
実際あいつらは華人には懐かないからな
反乱の目は必ずあるだろう
>>352 それだと時間が掛かり過ぎるんだそうだ
長安が持たない
長安に少しでも知恵が回る奴がいたら、邸閣に火を放つけどな
>>355 ふっふっふ
ウチの魏延を舐めるなよ
そんな暇もないうちに長安は落とされるのだよ
なんだ蜀って天下取れそうじゃん
>>352 それで果たせなかったのが孔明の北伐でしたよね
そうなると「たら」「れば」がいっぱい付くような話になる訳です。
孔明が孟達謀反を司馬懿に知らせて、孟達に駄目押ししなかっ「たら」とか、
馬謖が街亭で山頂に布陣しなけ「れば」とか。
となると、この時期よりも前の方が可能性高くありませんかね?
>>353 司馬懿は洛陽の辺りにでもいたんじゃないかな?
それか宛の辺りとか、呉にも蜀にも対応出来る場所。
それと、涼州を蛮族に荒らさせるなら、その方法を書いてみてよ。
短期決戦を望むなら、敵を城外へ出さないといけない。
魏延は先ず、敵が城外へ出てくる事を前提に作戦を立ててるけど、
それが失敗したら長期戦必須。
さて、どう解決します?
ビ塢に食料があったとしても、先ず敵軍が使うでしょ。
それに奪われるって分かったら、下手すると焼いちゃうかもしれませんね。
>>358 短期決戦は既に長安が落ちた後、蜀が魏に挑むことなんだが
もう既に長安は落ちたという前提になってるんだが、ついてきてるか?
if系に慣れてないなら参加しない方がいいぞ
ビに食料があるって、そりゃ董卓は他に行き場がないから、あそこに集めただけで、
魏にとっては長安と涼州をつなぐ一拠点に過ぎない
仮に食料があったとしても30年くらい経ってるのか?w
ところで、塢ってどういう意味があんの?
他の塢というと濡須塢くらいだが
>>358 反乱を起こさせる方法ね
そうだな
もし成功したら朝貢100年免除とか
涼州一州丸ごとあげるとか言っとけばいいんじゃないか?
まあ郭淮を釘付けにしてくれればそれでいいんだし
反乱を起こさないって前提のほうが無理があるようにも思えるな
だってあいつらのやんちゃぶりはその後の歴史が証明してるでしょ?
馬鹿は地図見て、地形と都市などの位置関係見たほうがいいお( ^ω^)
>>360 涼州に反乱の気配アリって情報が流れてだな
じゃあいつでも支援出来るように念のため長安に兵糧積んどくかってなるんだよ
>>359 それは失礼しました。
先にどうやって長安を落すかが飛んでいるとは…
>>360 出城とか、砦とかの類で良かったと思いましたよ
詳しくは辞書を引いて下さいな。
>>361 朝貢なんてしてましたっけ?
涼州上げるだなんて、彼らは欲しければ自分で取りに行く人たちですよ?
むしろ、自分達の好き勝手に動くから、彼らを交渉で統御するのが難しいのです。
馬超が生きてれば、「てめぇら殺すぞ」で通せるんでしょうけど。
夏侯楙は蜀軍を見ただけで逃げ出すことになってますから・・・^^;
奴は三国一の糞野郎となってますが、その幕僚達も主人と同レベルということになってます
魏も存外人がいないもんです
>>363 普通に姻戚縁故人事で高位についてた楙の幕僚が実力と実績で抜擢されてた連中だったとは考えにくい
得てして無能者は周りを追従者で固めるもの。幕僚連中も楙の縁故関係で固められてそうだ
有能な側近が一人でもいたら、立伝されてる人の中に長安での楙の乱交生活を諌める人間が
一人くらいは出てくるとか、一行記述であっても出て来そうなものだが
そしてトップが阿呆だと幕僚がどんだけ優秀でも氏ぬというのは三国志でしこたま出てる
何より長安にやって来た明帝が曹真、張コウを使いながら楙を捨て置いた
俺から見ると魏延が無能と言ってたが、どんだけ無能だったんだYO!と突っ込みたいところだ
若く、臆病で無策の夏侯楙
そんな夏侯楙が、逃げる事すら忘れて城内に閉じこもったらどうなるのか
魏延に、そうなった時の備えはあったのか
だから危険だとして却下したんじゃないかな
>>368 そういう可能性は無いでも無いが
ダメ人間は先ず自分だけは助かろうとして真っ先に少数で逃げようとする
そしてほぼ例外なく逃げる途中で殺害される
三国志にはそんな連中がてんこ盛り
>323
をいをいww
函谷関といえば、戦国の昔から難攻不落の代名詞じゃんwww
優秀だが官位の低い者が、屑が逃げ出したあとをうまく取りまとめ、
出世の糸口とするという話もいくつかあるわけで
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 01:30:28
>>370 相手が必ずしも都合よく函谷関の道を採ってくれるか?
馬岱って演義でしか活躍しない武将筆頭だよね。
演義見てると馬一族って馬岱が一番活躍してるけど
どーでもいいけど、長安を策源にして防衛線を展開するなら潼関じゃろ
函谷関だと洛陽の勢力範囲だ
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 07:53:16
>>376 『三国志』に伝は立てられておらず、「馬超伝」などに登場する。
前歴はほとんど不明。222年に馬超が死去した際に「私の一族200人あまりはほとんど孟徳(曹操)に殺されてしまいましたが、
馬岱のみが生き残っています。馬氏の祭祀を守らせる者として陛下にお預けします。」と言い残して死に、馬岱は平北将軍・
陳倉侯にまで至った(『三国志』「馬超伝」)。
諸葛亮による北伐が失敗し、諸葛亮が病死したあとの234年に退却途中で魏延と楊儀が反目しあって互いに相手が反乱を起こした
と皇帝劉禅に訴え、魏延が敗れて逃亡したが、途中で馬岱に追いつかれて殺された(『三国志』「魏延伝」)。
と『三国志』にはこれだけで、『晋書』にもわずかに登場する。
235年に馬岱は兵を率いて魏に攻め込んだが、牛金の軍に敗れて千余りの損害を出して退却した(『晋書』「高祖宣帝懿本紀」(宣帝は司馬懿のこと)。
馬良や馬ショクとは別の一族ですから念のため。
関羽ってさ
劉備にとってマイナスなことしかしてないよな?
>>379 wwwwwwwwwwwwwwwYESwwwwwwwwwwwwww
んなこたぁない
曹操を見逃すなんて山登りしたお茶目な馬禝より罪重いと思う
>>382 あの時点で曹操が死ぬと今度劉備が危機になるんだけどな
>>370 通るしかないから難攻不落の代名詞になってんだろが!
という反論はないのでしょうか。
>>386 377 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/09/13(水) 04:13:02
どーでもいいけど、長安を策源にして防衛線を展開するなら潼関じゃろ
函谷関だと洛陽の勢力範囲だ
武将の事跡云々より、地図が載ってる本を入手した方がいいと思うよ
地図ぐれえうpしろよド馬鹿
ネット上でもあったりするから自分で探せと
そんなくだらねえレスしてる暇があるならURLの一つでも貼れドド馬鹿
てか、函谷関の場所くらい常識だろ
>>393 お前みたいな奴を世の中では賢い子と評価するんだよ
ありがとう
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 23:02:26
>>393 GJ!!
こうやってみると長安は蜀にとっては欲しい場所だな。
蜀の桟道を越えて連絡が取れれば北西中国は蜀のものになるしな。
>>393GJ!
確かに長安は中原に出るにも涼州を治めるにも必須の土地なんだけど、
いきなり長安だけ取っても、天水や安定からの救援が川に乗って素早くこれてしまうな。
ビって、五丈原の近くだったんだな…
この地域でも河を使って移動するのか
というかこういった地図も位置関係の確認もしないで語ってた人ばっかりだったの?
だとしたら唖然とするんだが
こーやってみると、もう街の数からして魏が圧倒的なんだな・・
なんか、国力の差が見た目で解る。
255年、狄道包囲のあとケ艾が、雍州方面に展開する蜀軍の利点として、
船による移動のために魏軍より疲労が少ないのを指摘してる
が、イ水を使っての大量輸送があったかどうかは知らん
まぁ、郭淮を放置して長安に進むと補給線が脅かされるのはある
だいたいの位置関係は頭に入ってたけど
この地図はマニアックな地名がいっぱい載ってるww
長安に10万の大軍を数年賄うような糧秣があればいいが、
そうでなければやっぱり追加の輸送が必要だし、
そうでなくても本国との連絡線を切られれば前線は不安になるし、
後方の安全を確実にするだけの兵を送れば、前線の長安が薄くなる
なんの地図を参照にしてるのか分からないが、三国時代に作られたものは殆どなく、
戸籍数だとかも前漢時代のもので代用してたりするのがザラ
大きな街とかはどの時代でも変わらないだろうが、小さいとこは戦乱とかで消えてたりするかもしれん
特に関中は開発のしすぎで土地が枯れるのが早かったからな
まぁ、大まかに知るって事なら
>>393の地図で十分じゃない?
黄河の流れだって今と比べたら大分変わってるはずだし
>>398 常に資料が手に届く環境に身を置いてるとは限らないしね
三国志の史蹟を訪ねるツアーとかもあるだろうしな
「この辺りはダムの底です」とか言うのに使ってるのかもしれん
リンク先削れ
ぐーぐるあーすでいんじゃね?
とりあえず、長安だけ取りに行くってのは危険なわけだ。
仮に取れたとして、維持出来るのかは非常に怪しい。
そこに、今や蜀の武の柱と成ってる奴を博打の駒に出来るのかと。
魏延は平気と言ってるが、無理だろう。
僕は魏延将軍の“平気”について行くもん!!!
絶対無理。
誰もがそう思った瞬間に実はそこに理が生まれているのだよ。
孔明の意気地なしが止めてなきゃな
今頃“魏に天下を取らせるには?”なんてスレに
「あそこで長安を取られたのが痛かったよなあ」とかレスしてたのにな。
孔明さんよお
石橋叩いて渡ってる場合じゃねえんだよ。
初めから泥で出来た橋だと思って駆け抜けりゃいいんだ。
じゃあ、ちょっとこういうのを想定してみようか。
魏延が5000で長安を取り、孔明は当初の予定通り、天水・陳倉へと向かう。
その間に曹叡率いる5万が長安に到着し、包囲を始める。主な配下は張コウと曹真。
逃亡兵の報告によって、魏延の兵力が約5000である事は分かっているだろう。
打って出てくるなら兵力で押し、出てこないなら、
漢中近辺に詳しい張コウに兵1〜2万を率いさせて漢中を襲わせ、
蜀軍本隊への補給を断つという動きに出るだろう。
孔明の方は郭淮・カク昭・姜維らの働きの為、引く事もなかなか難しく、行動は遅滞するだろう。
退却先にしても、奪われては不味い漢中へ引くだろうから、
長安の魏延隊は孤立する事になる。
さて、どうやって長安を守り抜く?
>>414 趙雲率いる蜀別働隊に魏軍漢中攻撃部隊が迎撃されるんじゃね?
魏延の計画では、孔明本隊も長安に向かうことになってる
涼州は無視でな
おかしいよ
カクショウはともかく姜維がいるのはおかしいな
郭淮はこの時点で仮の期間も含め、雍州刺史として8年程勤めているはずなんだが。
その郭淮の存在を無視して「長安を取ればそれより西は取ったも同然」など、
魏延の言葉は敵を舐めてるとしか思えない。
まぁ、この頃の郭淮の戦功と言えば、対羌政策くらいだから、
分かりづらいというのはあっただろう。
しかし、従わせ難い異民族相手に領土を保っていられた事を考えれば、
西を押さえずに長安を取りに行く事がどれだけ危険か、
分からない事でもなかっただろうに。
ちなみに姜維だが、この時既に20代後半で魏へは出仕している。
既に雍州刺史の従事にはなっていて、
中郎として天水郡の軍事に関わっていたかどうか、というくらいだろう。
>>423 諸葛亮の漢中駐屯は227年だから、魏延が作戦を提案したのもその頃だろう。
実際の第一次北伐は、それから半年しか経ってないし、既に姜維は天水郡に戻ってたと思う。
郭淮や馬遵と一緒に巡察してたタイミングでなければ、馬遵を諌めて郡を防衛するとか、
仮に馬遵が逃げたとしても、その後の天水郡防衛の指揮を採った可能性もあるかもしれんね。
別に忘れていなかっただろうし軽視もしてないと思う
長安を取ることによって以西を魏領から切り放し連携と連絡を断った上でじっくりと制圧してもいいわけだ
長安を守りつつ、漢中からの補給を確保し、さらに西進なんて、
一体どれだけの兵力と費用がかかるんだか。
さらに、西方の敵が第一次北伐のルートを逆行していって、
漢中やそれより南を襲いにくる可能性もある。
それが無いとすれば、それらも長安を目指してくると考えた方がいい。
そして当然だが、東からも中原から増員して、長安を取りにくるだろう。
じっくり制圧なんて悠長な事も出来ないんじゃないか?
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 05:45:01
本気で北伐を成功させようとしたら、補給を確保して長安を守り、
かつ魏からの反攻も防ぐだけの兵力と戦略はもってないとだめだろう。
地図の話に戻るけれど、蜀の桟道を抜ければ前面は平野で背後は山脈
という地形でどちらにしても補給が困難な飛び地になる。
それを考えれば、補給の面・援軍の面など折込済みで計画をたててないと
本気で魏に侵攻する気があるのかということになってしまう。
後漢末期は外戚と宦官の争いや党錮の禁から行政機構の支配力は著しく落ち、
黄巾党や偽帝僭主の類、董李郭呂の輩が天下を騒がせた。
それらの跳梁跋扈がある程度おさまり、天下は回復への収束に向かう。
その中で発生した思想が袁氏の重名主義と曹操の重才主義である。
両者の抗争は白馬官渡の一連の激戦で曹操に軍配が上がり、
袁氏一党は北伐によって滅ぼされ、中原と河北は曹操の手元に収まる。
しかし、その中で自らの名前の利用価値を高めてきたのが劉備である。
劉氏の彼が高らかに反曹主義を謳う限り、天下統一は果たされない。
赤壁で劉備に負けた、と史書にはある。
これは孫権を侮っての負け惜しみではない。事実なのだ。
その後、漢中でも股肱の臣である夏侯淵を殺され、鶏肋を投げ捨てる羽目になる。
九仞の功を一簣に欠いた曹操の無念は如何ほどだったろうか。
その劉備にしても反曹主義を主張しているものの、内実はシビアな重才主義者だ。
その腹心の孔明も小孟徳と言っていいほどの曹操のマイナーコピー。
孔明が忠臣で曹操が悪党というのは世間の風説に過ぎない。
精神的に一杯一杯の孔明が人間観察の面で少々脇が甘い程度で、
彼らの政治家としての資質は殆ど変らないのだ。
劉備は臨終の際に孔明に言った。
「君の才、曹丕に十倍す」と。それは孔明だけでなく曹操にも言えることである。
何故孔明を使うのは良くて、曹操に従うのが悪いのかは明らかだろう。
劉備には我欲があるのだ。自らが皇帝になるという。
それゆえ曹操には従えない。
これでは一体誰が劉氏の忠臣で誰が後漢の救世主なのかさっぱり判らないではないか。
ところが十年足らずで膨張した劉備の反曹勢力も内部分裂を起こして二つに割れる。
その契機が魏王任命に対抗しての漢中王自称である。
両者の対立が明確になった結果、そこからはみ出した形になったのが孫権の一党である。
彼らによる関羽敗死、荊州失陥。これらの原因は漢中王自称にある。
天下を窺うのは曹操だけではない。劉備もまたそうなのだ。
だが劉備は反曹主義の遂行に気を取られて足元を疎かにした。
この大局レベルでのミスが戦略を破綻させ、
その修復の為の夷陵戦という自殺行為に繋がって行く。
これにより孔明の才は後年の北伐にほぼ全てを費やされ、
ついに管仲如き王佐の事業は果たされることがなかった。
かくして担い手を失った重才主義は反曹主義というアンチテーゼとの対立により力を失い、
司馬氏によって勢力を回復した重名主義によって歴史の闇に葬られるのである。
その破綻の原因が劉備という男の我欲によるところ大であるのが面白い!
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 13:09:52
いや長安さえ落ちればショクには馬超がいる。
西側はすべてショクのものだろう。
そして呉が北上してくれば事実上、もはや互角。
>>432 だから馬超はいないっての
222年に死んでるんだってば
馬超は病死だっけ
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 14:53:18
しかし馬超の遺風は残っており、自然とショクになびいていた
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 15:44:16
長安より
呉と連合して新野を攻めるのだ。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 15:47:14
長安より
呉と連合して新横浜を攻めるのだ。
中原を荒らしている間に魏延が長安を開催。
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 15:55:19
補給は宛城あたりだな。
>>431 結構面白く読めたんだけど・・・(´・ω・`)駄目?
袁家と司馬家の重名主義って説は初めて見た
そこが電波
それに重名主義という言葉を使うならば曹操も重名主義の一派
当時は重名と重才のダブルスタンダードが普通
例えば袁紹軍部にあって張コウなんかはただの庶民出身なのに重用されているし
劉備の蜀漢建国時司徒の地位にあったのは名士として名高い(だけで無能な)許靖
どこでも才能も名分も欲していたっつうの
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 17:33:50
許靖様を馬鹿にするたあ許せぬ!
そうか
>>440 陳群の救貧官人法はどっち寄りの発想?
その後の重名主義との連結を考えると、とても曹操の発案とは思えないのだけど。
ぶっちゃけ曹丕の帝位禅譲との政治取引に見える。
444 :
ハゲネズミ:2006/09/15(金) 17:50:59
阿斗は救えんでしょ
↑誰だお前
>>443 九品官人法の本質はそれまで「豪族の推挙によってしか」人材を獲得できていなかったものを
「中央から派遣された官僚によって人材を見極めさせる」という人事権を豪族から奪う代物だった
それが重名主義と連結する形になってしまったのは司馬懿による法律改変
豪族層の支持を取り込み簒奪の為の下準備の一つだと考えられる
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 18:31:58
むむむ
>>443 追記しておくと、曹操と曹丕で比べた場合、曹操よりも曹丕の方が名より実を取っている
これは帝を上に置き権威と権力を切り離した曹操と自らが帝になり権威と権力を兼ね備えた曹丕の差だと俺は思う
つまりは権威が別にあるが故に名も重視せねばならなかった曹操に対して
自らが権威となり名分を定められる立場になった曹丕は曹操に比べて名分を重視する必要がなくなったからだろう
ただこの
>>448はあくまでも俺の持論であって一般的な論説ではない事を書いておく
鵜呑みにすると恥かくぜ
乱世:重才主義 治世:重名主義
これが基本。
漢末 劉協:権威 曹操:権力
魏初 曹丕:権威+権力
魏末 小帝:権威 司馬氏:権力
実力的に曹操>曹丕は明らか。
天下再統一がならない時点で禅譲は曹氏の保全の為には規定路線。
だが分岐点はどこだろうね。曹丕が短命すぎた点か?
治世ならば曹芳のような淫君でも軽々しく廃立されなかっただろう。
そこが全てだったような気がする。その後は既に手遅れ。
>>435 蜀になびいていたのなら、何故北伐の際に呼応しなかったのか説明してくれ
>>452 北伐の時呼応した郡は多かったんだが?
何言ってるんだ?
呼応した郡なんてねーよ
郭淮等が逃げ出したから、どうしようもなくなって降伏しただけ
それも3郡のみ
他のとこでは、涼州刺史等が徹底抗戦の構えを取っていた
馬超の威風とか全然残ってないですから
とにかく、第一次北伐は、偶然も重なって完璧なタイミングだったんだがなぁ
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 23:31:42
>>454 偶然必然大歓迎。
要は、蜀が天下をとるためにはどういう状況でどうすべきかだ。
そういう意味でも第一次北伐で街亭が馬ショクが作戦ミスをおかさない、
あるいは他の武将が仕事をすると言った場合、長安が陥落してかつ守りきれる
かが重要かと存ずる。!!
孔明もまさか、漢中から魏領に侵入した目と鼻の先に郭淮が巡察に来てるとは思わなかっただろうな
劉表が劉備に国を譲ろうとしたのって演義だけの話?
郭淮が巡察中だったってのは、姜維伝注魏略のみの記述だよな。
洛門から上邽まで割と距離あるし、諸葛亮が祁山に到達したって報告を聞いてからで、
上邽まで間に合うもんなんだろうか?
まぁ、軍隊の前進速度に比べれば、身一つで駆け戻る方が遥かに速いから、
そんなところまで疑問に思う必要も無いのかもしれないが。
魏の反撃に際に雍州刺史である郭淮が何もしてないのはおかしいし、
普通に巡察でいんじゃないの?
雍州刺史の政庁って長安?
当時は上邽だったと思う。
第一次北伐って、228年2月には終息してるのに、巡察中だったとすると、
郭淮は洛門から上邽に馳せ帰り、そのまま列柳城の高翔を攻撃して撃ち破ってるんだよな。
随分と行動が機敏だよな。
高翔がちょっと突かれて逃げただけも「撃破」と賞されるだろう。
準備が疎かで力を発揮できるような指揮官ではない。
>>462 馬謖敗北で混乱してる所を攻撃したって考えりゃいいのか。
街亭に進出するのに、その途上の上邽を放置するわけないから、
郭淮が上邽に入ったのは当然諸葛亮到達前で、更にその後は、
包囲か監視を受けてたと思うんだよね。
また、前線に展開中の高翔が後退するまで、その包囲を解くとは思えない。
とすると、自然な流れとしては、
郭淮が上邽に入る→蜀軍に包囲される→馬謖敗れる→諸葛亮が撤退開始し上邽の包囲が緩む
→郭淮が包囲陣を撃ち破る→撤退中の高翔を攻撃・撃破する
って所か。
街亭の敗戦が伝わってたんじゃないの?
郭淮の手元にそんな戦力もないだろうし、お互い無理しないで、
高翔が引き上げるに任せたという辺りじゃ
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 01:37:23
まったく力学の足りない考察ばかりだ。
国力が足りない?国の規模?
その大きな国は始めから大きかったのか??
ある日突然大国が出現したのか??
大きな国に成るには必ず小さな国や小さな規模から出発している。
つまり
大きな国に成るには小さな規模から常に大きな規模を
破ってきた歴史が存在するのである。
という事は、大きな国には勝てないと言う事は無いのである。
「勝てる方法を見つけなかったor勝てる方法を実績しなかった」
と言うことに成るのである。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 01:40:06
呉のどっちつかずが蜀の敗因である。
どっちつかずのわが身可愛さの非協力によって
多くの国が滅ぶのである。
またお前か
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 01:54:34
長安を取れればそれだけで隴西諸郡を手中に出来る、ってのはやはり楽観視し過ぎだよな。
幾つかは降伏するにしても、游楚みたいな太守は降らないだろうし、
降伏した諸郡は、諸葛亮も長安に向かうので支援を得られず、
涼州刺史徐邈らの尽力によって、結構早く鎮圧されてしまいそうだ。
普通に西域を制圧で十分
少なくとも街亭まではうまくいってたんだから
その後は、西に出てくる魏軍と主力決戦し勝利を収め、
そのうえで長安包囲すればよろしい
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 10:24:26
>>469は
>>468を受けての発言だと思うが、
468は長安をすでに陥落させている前提だが。
それとも長安より先に西域制圧を優先させる案か?
長安→隴西、隴西→長安を比べれば後者の方が確実性高いだろ
前者は派手だけど実が伴わない
長安よりは隴西の方が抵抗は少ないだろうしね。
隴西をとれば長安の将兵にも圧力をかけられるし。
目的は長安を落とすことではなく、魏の征服なんだし、
長安を落とせないにしても、隴西を確保出来る方がいいに決まってる
長安落としたはいいが、守りきれずに撤退しましたーでは何の意味も無い
第一目標は長安までの制圧だろう
蜀からしたら長安取れなきゃ勝ちにならないってのは絶対条件だよ
長安取って現地兵を傘下に収めないと侵攻の意味なし
あの辺りで長期間大軍を駐留できるのは長安と漢中だけなんだから朧西奪取したからって撤退してたら朧西は長安からの方がよっぽど近いんだから魏はいつでも機を見て取り返せるんだよ
長安さえ奪取できれば朧西のあとさきなんてどっちでもいいんだが、収穫期の兼ね合いもあるから時間との勝負でもある
長安と朧西はだいぶ離れてないか
後先がどっちでもいいというのは言いすぎかと
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 12:15:52
マジレスすると、関羽に全兵権をあずけて強兵戦略
天水への直線距離なら漢中からの方が近い
桟道を通る必要もないので、補給線もそれなりに確保できる
だから、まずは地図を読めと
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 12:39:28
蜀が逆転を狙うなら長安遷都で絶対引かない決意が必要
隴西だけでどれだけの戦力を養えたかってのは結構重要だな。
ケ艾は、祁山には1000頃(約5000ha)の麦畑があると言っていたが、
この辺から多少分からないもんかな?
>>479 だな。総大将:後主、先鋒:魏延で長安奇襲遷都でFAだ。
263年で滅びるのも228年で滅びるのも一緒だ。
>>481 そんなゲームみたいな一か八かの賭けなんて保身にはしってた蜀の人間はできないだろうなぁ
後世に汚名を残したくなくてみんな必死だ
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 13:59:40
関羽を埋伏の毒として敵国に侵入させて出世させる。
そして関羽が曹操にいっぱい兵を与えられたら、戦争を仕掛けて寝返らせる。
これで蜀は長安陥落(姜維をパーティに加える)→洛陽陥落(曹操討たれる)
を果たし献帝を擁し、帝位を簒奪し
劉備が戴冠する!
劉玄徳無敵説の出来上がり
ログを見てきたけど、結局は無理ってことでFA?
>>482 なるほど
なまじ王位を名乗っちゃってるのも足枷になるな
・・・なんて身内の決断力まで推し量っていたら積極策なんかなんにも採用されないけどな
すでに黎明期と違って3つの大国の争いだから誰かのスタンドプレーでどうにかできる時代じゃないしな
関羽は義理堅いから曹操の恩を返すまで裏切らずにそのまま魏の将軍として活躍して
裏切る機会を失してそのまま魏の大将軍として一生を終えるかもナw
>>485 蜀が大国なら劉璋は黎明期のころから大国を持っていたころになるがな
>>487 漢中の有無でより圧迫されてるのと、実効支配が及んでない地域の多さとかに結構差があると思う。
同じ揚州単体を切り取って比べても黄祖討伐以前と三国鼎立時じゃ戦力違うのと一緒で。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 21:32:11
>>489 大国とは何か。それについては異論があってしかるべきだが、
諸葛亮の説明だと、巴蜀の地は将来を約束された場所なそうな。
荊州だって戦乱が続いたからこそ人材の宝庫となったわけで、
いろんな要素があってその土地に可能性ができたのではないか。
その蜀も滅亡時には人口が激減していたそうだから、国力を
消耗しきっていたわけだが。
やはり、西から抑えて行くべきだと思う。
長安を抑え、保全し、遷都を行うにしても、後方が落ち着いていないと無理だし、
中原からの援軍が到着するのに時間がかかるというのもある。
それに、漢中・長安を抑えて西進するよりは、漢中に守備隊を置き、
武都を前線基地として天水を押さえに行く方が、兵を分散させなくて済むし、危険は少ない。
さらに、隴西・南安へ兵を進め、狄道と金城を抑えれば、中原と涼州との連絡は
完全に途絶えさせる事が出来るし、異民族と交渉する事も可能になる。
馬超の威風というものはほぼ無いだろうが、従族の馬岱が羌族を破る事が出来れば、
一朝にして蜀への従属を誓う事も考えられる。
涼州と羌族の協力を得られれば、西方との交易によって富や軍馬を得る事も出来る。
また、安定・扶風郡を抑え、糧秣等の補給や輸送も楽に出来るし、
攻城戦兵器等を作る基地を作る事も出来るだろう。それらの輸送も、山を越えるよりは格段に楽だ。
この為に時間がかかり、長安に兵を集められて抜くのが難しくなったとしても、
今度は呉がその機会を逃さずに北上するだろう。
蜀はその機会を待てば良いし、待てないのであれば、呉が動くように仕向ければよい。
その為には、馬謖に山頂布陣をさせてはならない…
山頂布陣自体は悪い策ではない、と昔テレビでどっかの教授が言ってたな
492 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 21:51:30
>>491 問題は水源を確保していなかったということだよ。
駄目だったから破れたんだろ
張コウに倍する兵でもあれば、惨状から逆襲も出来たんだろうがな
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 22:30:16
>>490は説得力あるな。
これならば急ぎに長安を取る必要もないか。
>>494 なぜ過去に世界的な大帝国ができないかわかってないな
それ以前に日本の本州を完全な支配下に置き続けるのも難しい時代があったというのに
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 08:58:58
地図を見直したのだが、西域制圧→長安侵攻の場合、
防衛側が盾にできるのは黄河しかない。
しかも五丈原・子午谷まででてくれば地形的に防ぐものは
ない。
ここまで進出を許してしまうと、長安手前で一大決戦をする
か長安を放棄して洛陽まで撤収、函谷関・ドウ関で防御する
しか魏は選択がなくなるのでは。
そして、諸葛亮率いる蜀軍との決戦を避けるという消極策に
徹していた魏には決戦する意思は薄いと思われるので、意外と
長安は無血開城するかもしれないぞ。
反対に東から長安を攻める場合は先の2関所のため大軍を展開
させるのが難しく、関を抜けたところで待ち伏せすれば防衛
するのはたやすいのではないだろうか。
(但し北方から迂回してくる軍勢には注意が必要だが)
陳倉で止めればいいじゃなーい
イ水の線で食い止めるために決戦を避けたからって、長安近辺まで攻め込まれても
決戦を避けるなんてどうして言えるんだ?
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 10:18:40
魏が勝てば蜀を再び寒中に押し込めることができる。
一方負けて、防衛軍が壊滅でもすれば洛陽も危なくなる。
まして相手が諸葛亮では士気も落ちるというものでは
山を越えてきて長安を狙った場合、補給が困難である事は分かるはず。
遠征による兵士の疲労も加味すれば、魏にすれば無理に撃退しようとせず、
守りを固めて長期戦を狙うのは至極普通の構えだろう。
夷陵でも陸遜も同様の手段を使ったといえる。
蜀が退却した際に勢いに任せて漢中まで雪崩れ込まなかったのも、
その逆を行くからだろう。
長安等から山を越えて漢中を目指しても、補給が続かないのだから。
どちらの立場にしても、攻めは短期戦、守りは長期戦とする方が都合が良いのだ。
蜀でなくて劉備が天下取るには
徐庶が魏に行かずにホウ統が生き残らないとダメ
かつ相方が呉ってのもダメ
劉表のとこで加護受けながら呉を牽制しつつ
劉璋と協力して魏を攻めてたら勝ってた
呉が天下取るには孫堅と孫策が生き残らないとダメ
超三国志って馬騰と一緒に曹操を洛陽から追い出すって展開じゃなかったっけ
つまり荊州に行く前の話では
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 15:20:38
諸葛亮、ホウ統、徐庶、法正、馬ショク、馬良、キョウイ、李厳、ヒイ、 ショウエン、。
濁にもこんなに沢山の優秀な文官がいたんだな。
早く死んだり取られたりしなければまだ良かったんだろうけど
文官って、おまえ…
劉備が劉表からあの段階で荊州丸ごともらってたら十分狙えたんじゃね?
>>507 それは難しい
ただでさえ降伏派が多い中で劉備が完璧に劉表軍を掌握できるとは思えない
ましてや相手は曹操の精鋭十数万不安定な勢力しかも単独で当たるのは危うい
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 18:07:56
>>508 人材と兵隊だけ確保してすっぱか逃げるとか
結局史実と変わりないような気もするが
510 :
.:2006/09/17(日) 18:09:55
ずっと曹操の下にいて、死亡後クーデターするのが一番近い希ガス・・・蜀でもなんでもないな(w
>>508 呉に荊州をいくらかやると餌をちらつかせつつ、
同盟して攻めさせ戦力を分断させたらどうだろう?
荊州を手に入れれば諸葛亮なんかは当然に提案しそうなもんだけど
そうなれば荊州は全て呉のものだとか約定がどうのと
呉に因縁つけられる筋合いもなくなってくる
呉は長江主体の防御を考えているから、全部譲渡以外は呑めないだろう。
史実も割りと妥当な分割だったが・・結果はあれだし。
514 :
.:2006/09/17(日) 18:25:45
対曹操の防衛ラインが襄樊で孫権に江夏,江陵を割譲したら何も残らんな
つーかそんな時間はないわけだが・・・・袁家の勢力がまだ残ってる時に荊州を手に入れてもきびしいな
寧ろ208年以前に益州と荊州の連携が無かったというのが驚きだ。
益州〜荊州間で同盟を結び、劉備を漢中に派遣して張魯を撃破。
さらに兵を駆って関中に進出させて涼州一帯を支配し第三の劉氏勢力とする。
三劉同盟を以って魏呉に当たるのが次善策としては如何だろうか?
勿論、最善は劉備の三州同時支配だが時間的余裕が208年の時点では無い。
古代春秋の時代には「置相」というシステムがあった。これを応用して「置将」とでもして、
関羽を新野に張飛を江夏に残したまま魏呉両方に当たらせて戦線の維持に努めることが出来ればベター。
劉表にその意思がなかったからじゃネ−ノ
当時は劉障も張魯にそれほど危機感を抱いてなかったのかモナー
>>515 劉表も孫策と一緒で長江ラインの確保を狙っていたんじゃないか?
後の孫呉と同様の勢力圏を確保してから他を狙うといった風に
劉表も劉璋も、土地を守る気はあったが広げる気は無かった。
劉表はその気があっても、孫一族と戦い続けてたのでその余力は無い。
劉璋にいたっては、劉備に兵を与えて代理戦争させようとしたり、
曹操が荊州を抑えた時には兵を贈って刺激しないように努めている。
益州の番犬の異名は伊達ではない。
つまり、お互いに協力しあう必要もないし、そのメリットも無かったのだ。
また、その頃だとまだ涼州には馬騰がいる。
反曹操を旗印とするなら、馬騰と争うのは危険だし、その為にも涼州は諦めなければならない。
となると、劉備が手に入れられるのは漢中と雍州西部。
場合によっては、雍州西部は馬騰の支配下で取れないかもしれない。
それからようやく長安を狙う事になるが、それだけの国力で、長安を攻められるものだろうか。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 23:06:01
そのあたりは漢王朝が続いている、臣下の意識が強いかどうかで組める相手かどうか判断付くだろ?
>>518 > 劉表はその気があっても、孫一族と戦い続けてたのでその余力は無い。
会戦自体は優勢に進めたものの精々一郡の太守でしかない黄祖守る江夏を抜けず、
逆にその族子劉磐の攻めを太史慈がどうにか防いでいた程度。
孫家との戦いで劉表に余力が無いなんてことはない。
江夏は江南の最重要拠点の一つ。少なくとも只の一太守ではないぞ。
>>520 劉備に同調して反曹操になるって事は、曹操と孫一族の二面作戦になるって事だろ
そんな余力があるのか?
>>522 劉表にとって孫一族とやらはその時点ではそこまで脅威になってないよ。
それと実際問題として劉表は203年頃に劉備を葉に侵攻させてる。
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 10:02:19
諸葛亮が軍師になるまで劉備は流れの傭兵部隊と変わらない。
劉備に「天下三分の計」以前に戦略的な作戦絵図はかけない。
諸葛亮は劉備に劉表の跡を継ぐように進言しているが、劉備
は断っている。
劉備の能力や性格を考えると208年以前に策動するのは
難しいんじゃないか。
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 10:35:12
龐統を落鳳坡に行かせなければよかった。
それ演義…
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 10:43:05
落鳳破自体演義
>>525 それ演義
劉備が諸葛亮を得てそれ以前と変わったところは
「固定的に支持してくれる名士層」の存在
>>529 徐州の名士達は無視ですか?
今ひとつ意味が分からんのだが。
徐州の名士たちもなにも、劉備陣営にまっとうな徐州名士なんているか?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 19:25:01
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 19:58:12
>>529 固定的に指示してくれる名士層というより、曹操が
荊州へ侵攻するかもしれないとの風評のある中、
身内争いに終始している劉表陣営に見切りをつけた
名士たちが劉備をかつぎあげただけじゃないか。
その筆頭格が諸葛亮で、「天下三分の計」は諸葛亮の
策とはいわないが、諸葛亮が劉備陣営に加わってから
策定されたものだろう。
天下三分自体はそれほど目新しい戦略じゃないからな
それをどうやって達成するかが腕の見せ所なわけだがことごとく外しちゃったからな
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 20:21:55
>>536 それを「固定的に支持してくれる名士層ができた」というんだが?
頭大丈夫か?
で?
それによって何がどう劉備に有利になったのか、
説明してくれんか?
>>538 「固定的に支持してくる」も
「名士層」も
ほとんど意味不明だよね
徐州名士:より強い保護者(武帝)が現れると簡単にそれに乗り換える。
荊州名士:反魏が明らかで、常に先主の覇者にするために忠誠を誓う。
こういうことだろ。
三兄弟+私兵のチンピラが野党勢力になった瞬間。
ただ荊州名士が「土着の名士」とは限らない。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 21:26:26
>>541 俺はその見解がいまいち納得できん。
先主を覇者にするために忠誠を誓うというが、曹操の侵攻に対抗するため
に、たまたま劉性で皇帝の血縁らしい劉備を担いだというのが本当だと思う。
たまたま会ってみたら、意外と器が大きい人物とわかったのでこいつにかけて
見ようと思ったって所だろう。
徐州名士だって同じ考え方だったと思うぞ。
諸葛亮だって反魏なのは幼い頃の徐州虐殺がトラウマになっていたからだろう。
>>524 スマンが、それは何の書の誰の伝に出てるんだ?
それと、結果は?
一日調べて分かったのが「葉」の位置が宛の北東、南陽郡内って程度だった…
>>541 それって
>>529の言うように
諸葛亮が劉備の参謀になったという事実がそうさせたの?
それとも魏からあぶれた連中には劉備以外に選択肢が無かったってそういうことなの?
李典のとこでも読んでろ
諸葛亮が反魏なのは魏には自分の居場所がないからだろう
管仲、楽毅になれんからだろ
>>543 そのものずばりは書かれてない。
しかし李典伝と武帝紀、先主伝注を照らし合わせればわかる。
劉備が葉まで出てくると曹操は夏侯惇を迎撃向かわせる一方自らは西平へ軍を進めた。
おそらく劉備はそれを受け軍を博望近くまで戻し曹操に対応する。
その過程で夏侯惇の軍に一撃を加えた。
曹操は劉備が軍を戻したのを見て再び軍を北に向けた。
流れ的にはこうだと思う。
曹操が西平から軍を引き返したのは袁尚が袁譚を攻撃し北方の情勢が動いたことも大きいっぽいね。
今たまたま辛毗伝を読んでたらそんなことが書いてあった。
>>549、
>>551ありがとう。ようやく理解した。
武帝紀には203年8月に「劉表を征討し、西平に布陣した。」と書いてあり、
その後一度帰還し、10月には袁譚を救援する為に黎陽に着陣したというので8〜9月の間の事だろう。
しかし、葉進出は劉表の案だったのだろうか?
官渡でも手を出さず、207年に劉備が許都を攻めようと言っても却下し、
曹操からは「劉表討伐は後回しでいい」とまで言われるくらい、外に兵を出す気配が無い。
>>548を見る限りでは、荊州赴任時からの行動を見ても先ず外交交渉をしてから、
というのが劉表勢の手段だし、突然兵を出して侵攻するというのも考えにくい。
そうとう劉備からプッシュされてやむなく許可したか、
劉備が単独で動いてしまったか、釘を刺す為に曹操側から侵攻してきたか、どれかだろう。
前二つは後で曹操に難癖を付けられても、「劉備が勝手に動いた」と言い訳も出来るだろうし、
それをもって和睦して中立を保ち続ける事も考えたかもしれない。
曹操が侵攻してきたのなら、兵が少なくても出陣はするだろう。
また、非常に猜疑心の強い人物で、劉備の事もこっそり邪魔をしていたと言う。
それは劉備に大軍を率いられないように、と言う事ではないだろうか。
徐州のように、突然劉備に大軍を持ったまま独立されては堪らないだろう。だから新野のような小城を任せた。
ここなら独立されたとしても被害は他の地域程ではないし、曹操への障壁にもなる。
仮に、このように考えていたのだとしたら、他を攻める余力があったにしても、
劉表が劉備に兵を持たせて漢中へ派遣するというのは考えにくい。
>>553 その頃劉表は南海貿易のための交州目指して南下政策に邁進中
南陽という地がある。
三国志の中ではその南陽郡の中に含まれる都市、襄陽・樊城が非常に重要な拠点であるという結論だけ語られてきた。
(この漢水を挟んで向かい合う二都市は後に『双子都市』襄樊として元の侵攻を退け続ける南宋屈指の防御コンプレックスとなる)
そしてそれだけで打捨てられてきた地だ。なぜ襄陽・樊城は重要なのか?
これは本当に基本的な問いだと思うのだが、この問いをきちんと検証してみた人は恐らくいまい。
ネット内をあらかた漁りまわったが、見当たらなかった。
「襄陽・樊城が重要なのは、そこは『北が制すれば南を攻略でき、南が保持すれば北に対抗できる』拠点だからさ」と言う人はいるだろう。
しかしそれは何故か?と問われたら、口を噤むしかないのではないだろうか?
三国志時代から始まる襄陽・樊城の重要性は、それらが属していた南陽の地勢が地政学的に偏った在り方をしていたためであったことを示したい。
まず図をみて頂きたい。(図:南陽の地勢と三国志各将の侵攻経路)
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.503.gif 南陽郡は南陽盆地をまるまるその治政下に収めている郡である。
ここは元々は戦国七雄『楚国』の本拠地だった。そのため図に描かれているように旧楚国の長城が遺構として存在している。
楚の長城は南陽盆地の縁に沿うような形で桐柏山系が途切れる東端から南陽盆地の北半分までを囲い、そのまま南に南下して穣城付近で途切れる。
これは防御コンプレックスとして南方からの侵攻を想定していないため今の我々から見て中途半端な形状に見えるが、
春秋戦国期にあって楚はまさに中原から外れた南端にあり、楚の南は楚を脅かすようなまとまった勢力などない未開の地で長城をつくる意味がなかった。
また南陽盆地の西半分にも長城が伸ばされて居なかったが、
それはやはり後に武関を経由する道が成り立つまで、盆地の西はケ林と称される森林地帯で垣根が作られており、西からの防御を考える必要がなかった。
楚が西よりも東への膨張政策を念頭においていたことも理由としてあったのだろう。この旧楚の長城は三国志時代にも残っていた。
現在でも(この楚国長城だけでなく他の六国の長城も)遺構が残っていることから、
六国を束ねて全土を統一した秦の始皇帝はこれら六国が築いた長城を積極的に破壊するようなことはしなかったらしい。
(始皇帝にとっては先に匈奴対策として北辺の長城を万理に亘って築き上げることの方が急務だったのだろう)
どの程度残っていたか定かでないが、現在でも残っているなら三国志時代であれば、まだ使用に耐える部分があったとしても不思議はない。
黄巾賊の南陽戦略
後漢末、中平元年(184年)正月、黄巾賊が蜂起する。張角を首領とする黄巾賊首脳部はかなり練り込んだ叛乱計画を企図してしていたようだ。
彼らはまず冀州西南部、豫州西北部、荊州北部で一斉に蜂起した。
戦略としては洛陽を包囲する形を取って蜂起し、中央と関東の連絡を断ちきった上で、
中央が対策を施す前に連絡を断ちきられた関東以東、河南以南の地を順次黄巾賊のものに塗り替えていくというものである。
戦術として彼らは蜂起にあたって軍事力が弱体なところを狙った。
冀州安平国や甘陵国など劉氏が王に封じられている所が真っ先に狙われ、黄巾賊の手に陥ちた。豫州では陳国が狙われた。
軍事オタクで強弩マニアの陳王劉寵は趣味で集めていた強弩数千張を駆使して、
辛うじて自身が囚われる最悪の事態は回避したが、陳国自体は黄巾賊の首魁波才のいいようにされた。
このように、黄巾賊の所期戦略は先ず中央と地方の連携を断ちきるように蜂起する。その蜂起の拠点として軍事力の弱体な王国を狙い撃ちする、
次いでそこを核に戦力を整え、中央との連絡を断ちきられて動揺する郡守たちを順次潰してゆくというものであった。
しかし、その黄巾賊の所期戦略で唯一、南陽郡だけが『軍事力の弱体な王国を先ず狙う』という主旨に沿わないのに、狙われて攻め落とされた。
南陽郡は光武中興以来優遇されてきた郡で、後漢書郡国志に拠れば城の数(県の数)三十八は洛陽を擁する河南と見紛うばかり、
戸数は五十三万に迫り、口数(人口)は二百四十三万を越える堂々たる大郡であり、その郡城である宛は周囲三十六里を数える大城であった。
その堂々たる大郡の郡城を、貧弱な装備しか持てないはずの蜂起初期に黄巾賊は真っ先に狙ったのである。
何故か。それは、南陽の地勢を見れば明かだ。
宛を押さえた上で、旧楚の長城遺構に拠れば、長城によって囲い込まれ南陽郡の治める他の三十を越える諸都市が中央と切り離されてそれぞれに孤立する形勢となる。
宛を押さえただけで三十余りもの都市を吾がものと出来るのだ。これほど美味しいことはないだろう。
その上、進んでは楚国長城から勢力を浸透させて河南・豫州を脅かすことが出来るし、退いては楚国長城に拠って朝廷から荊州を防御しその資を食むことが出来る。
一方、ここを押さえることに失敗すれば非常に不味いことになる。南陽郡はそれ一郡だけで中原の三郡にも匹敵する城数、人口を誇る。
郡守が楚国長城を利用して豫州で蜂起した黄巾賊から郡を護りつつ(荊州)刺史を助けて郡内で盛んに兵を募れば三郡分の軍事力が宛に集まることになる。
楚国長城のような巨大な防御コンプレックスを持たない中原の黄巾賊は一旦守勢にまわればとても南陽から出征する(荊州からの)政府軍を防ぎきれない。
南陽(とその郡城である宛)は黄巾賊が蜂起する時、その最初にどのような無理をしても陥として置かなければならない場所であった。
その南陽の戦略的重要性は南陽の地勢と光武帝によって始まった後漢王朝の南陽優遇政策によって生みだされた地政学的要件によるものであった。
なお、旧楚の長城遺構には穴があった。葉-堵陽-博望を結ぶラインからの侵攻が容易であったようなのだ。
豫州黄巾賊を撃破した政府軍の将官朱儁は豫州西平を陥落させた後、そのまま西へ進むこのルートで豫州から宛へ侵攻したと見られる。
また曹操も劉表との間で荊州北部を争った際、ほぼ毎回このルートで侵攻している。
旧楚長城遺構(南陽盆地北辺防御コンプレックス)の有効性
前段、南陽盆地北辺防御コンプレックスである旧楚長城遺構に囲い込まれた長城以南にある南陽郡の諸都市は中心拠点を押さえられた勢力に帰するしかないと言った。
それは本当なのか?どの程度本当であるか?
それを最も雄弁に語るのが、建安初めから冀州が曹操に帰すまでの間に曹操と劉表の間で行われた荊州北部を巡る軍事衝突である。
建安元年仲秋、許への遷都に成功して献帝を奉戴することが出来た曹操は翌建安二年から盛んに荊州北部への出征を繰返す。
建安元年に曹操が拠点を移した許の地は潁川郡に属する。
この豫州潁川は拠るべき広域防御コンプレックスを持たない『四戦の地』であり、常に周辺の勢力から脅かされる定めにあった。
旧楚の長城を擁する南陽はこの潁川と接していた。南陽は長城に拠って潁川の勢力を容易に防ぎうるのに、潁川は南陽からの勢力浸透を防ぎえない。
曹操が南陽への侵攻を繰返したのは、南陽を擁する勢力(劉表)の影響力を常に排除しつづけなければ潁川を保持できなかったと言う点で至極当然のことだった。
建安二年(197年)、曹操は張繍征伐の軍を起こし、宛へ攻め込む。別動隊として曹洪が舞陽、(舞陰)、葉、堵陽、博望に攻め込みそれらを手に入れる。
しかし、曹操の本隊が舞陰から撤退すると、これらの都市はたちまち反旗を翻し、曹操側は確保出来ずに撤退してしまう。
南陽盆地丘陵部(楚の長城)の為に後方連絡線を確保するのが難しく、そのため劉表の勢力が浸透すると曹操勢力は退けられてしまったのだ。
曹洪は長城の外にある葉に駐屯しそこを盾に劉表が長城外へ勢力を浸透させるのを防ごうとするが、
なかなかに難しく、殆ど自分が孤立したような状況になっていることが曹操の伝である三国志「武帝紀」に記されている。
仕方なく曹操はこの年(197年)冬に再度南陽に攻め込み、宛、湖陽、舞陰を攻め落とし、劉表の勢力を削ぎ落とす。
恐らくこの時、宛の城壁をかなり破壊したようだ。劉表と連合している張繍はその後、宛に戻らず穣を拠点としているし、後に劉表の下へ寄宿する劉備は新野に駐屯しているからだ。
しかし、官渡の戦い以後、長沙太守張羨の叛乱を鎮圧し荊州南部への勢力拡張に成功した劉表が力を蓄えてくると、やはり長城に囲われた領域は曹操の手を離れる。
三国志「杜襲伝」に裴松之が注する「九州春秋」に記されているが、建安六年(201年)、
曹操によって西鄂の県長に任じられていた杜襲は劉表軍の攻撃を受け、防戦虚しく西鄂を失陥し、曹操の下へ逃げ帰っている。
この頃、汝南から逐われて劉表の下に居た劉備は南陽を押さえるべき新たな拠点として新野を選んでそこに拠ると、
そこを拠点として機動防御を行うことで旧楚長城内の諸都市を劉表勢力に塗り替えることを試みた。
建安六年に行われた劉表勢力の積極的な拡張政策は劉備らを擁することで、また新たな戦略拠点として劉備が新野を選択しそこに拠ったことで成されたものと考えられる。
(このような視点で見ると、劉備の戦略眼や軍事能力は『演義』の劉備観に基づかれた巷間の劉備評のような無能なものでは決してなく、
曹操が本気でかからなければ足元を引っ繰り返されかねない油断ならないものであったことが窺われる。
つーかいい加減劉備の軍事能力をちゃんと評価してやれんもんなのかね、みんな、さ)
そのようにして南陽盆地一帯を劉表勢力に塗り替えると、劉備は建安七年(202年)、長城を越えて拡大策に出た。
197年以来失われた葉の奪還に向かったのである。
そのように潁川を脅かされた曹操は袁譚袁尚兄弟と対峙する中、夏侯惇を総司令官にし于禁を吶喊戦力にした軍に、彼らの輔佐役として李典を派遣して対処させた。
劉備はその大軍を組織的な撤退によりうまく長城内に引込むと、博望陂にて火計で散々に打ち破る。
劉備が長城内へ彼らを引込んだのは、夏侯惇らの後方連絡線を断って全滅させる積もりであったようなのだが、
これは李典が途中で気づいて自らを後方予備として劉備に対処したため失敗に終わった。
このように曹操と劉表の争いを見るだけで、南陽という地は中原から南陽盆地へ乗り込んできた勢力にとって後方連絡線を断たれ易く、
また長期に渡って維持することも難しい地であり、南陽郡の南にある勢力によって容易く追い払われてしまうものであることが分かる。
董卓の乱がおこった頃、袁術は麾下の孫堅に襄陽を拠点とした劉表を攻めさせたが、
それはその地政学的要件が南方に他の勢力を残して置けば必ず南陽盆地に囲われた地域(即ち南陽郡の殆ど)を失ってしまうというものであったからで、それを危惧したからと分かる。
また孫堅を喪った袁術が劉表に構わず北に向かうと、たちまち南陽を失ってしまったのも、まったく同じ理由によると分かるだろう。
また、建安二十三年(218年)冬十月、宛で侯音が叛乱したがこれも同じことである。
この叛乱はまるで黄巾賊が立った時のことを彷彿とさせるが、だが残念なことに黄巾賊がやりのけたようには上手くいかなかった。
樊城に駐屯していた曹仁の北上によって翌年初頭に宛を陥とされ、彼らの叛乱は失敗したのである。
曹仁の迅速果敢な行動がなければ恐らく南陽は曹操の手から滑り落ち、樊城に居た曹仁らも劉備勢力に囚われただろうに。
しかし侯音の叛乱は時期が、時代が悪かった。
南方からの勢力浸透に対し無防備な南陽は、この時、樊城を押さえられていたために当の南方の勢力と繋がり得ず、
北方の勢力が楔として遺した樊城の軍事力によって防御コンプレックスが備えられていない南方から強襲されたため、拠点を陥とされ失敗したのである。
しかしこれは(樊城を抜かれてしまえば)南陽は南からの侵攻にはまったく無力であることを逆説的な形で示している。
南陽は中原と南方の勢力が接した時、南方の勢力に帰すべき運命の地勢にあった。
北方の中原勢力が中原を脅かされないようにするには襄陽・樊城の確保が必須なのである。
(北にとっては漢水の南側にある襄陽よりも北側にあって南方からの勢力浸透を漢水を盾にして防ぐことができる樊城の方がより重要であるのはここまでで分かって貰えると思う)
襄陽・樊城の重要性はこの三国志の時代に確立される。
最後に:中原逐鹿の夢遥か
北から見た南陽の(そして襄陽・樊城の)重要性はこれまでの議論で明らかになっただろう。
そして此処では最後に、この南陽の地政学的な要件を正しく認識していた二人の人物について触れたいと思う。
諸葛亮は、荊州を用武の地であると言った。
彼は、四方に拓けたこの地は武力を用いて周辺を切り取ってゆくほかに安定させることは難しい、
ここは守業の地ではなく創業の地、天下に覇を争うための地なのだと見た。
諸葛亮は主君と見込んだ劉備にここはそのような用武の地であるのだから、
ここに拠って西方は益州に侵攻してその地を我がものとし、南方は蛮族を懐け、
東方は孫権と結んだ上で、上将に荊州を任せて北の方、宛、洛(陽)へ攻め込ませる、
そして劉備自らは益州の兵を率いて秦川を窺う、そのように(この地を利用)すれば覇権は成ると説いた。
周瑜もまた彼の主に荊州から中原を窺うよう説いた。
彼は天下を二つに割ってその南方を尽く自ら兵を将いて孫家のものとし、
漢中に孫権の弟を置いて守りを固めさせた上で、自らを一人の上将として荊州から北を窺い曹操と雌雄を決し、
なんとしても孫家に天下の全てを闊歩させる所存であった。
二人とも、襄陽から宛を抜け、中原へ攻め込むことが必要なことだと認識していた。
南陽の地政学的要件からすれば、それこそが、中原の勢力を脅かし、
雌雄を決さざるを得なくする只一つの道程<ロイヤル・ロード>であったからだ。
しかし。二人の夢が叶うことは無かった。
周瑜は志半ばにして病で斃れた。
周瑜の図ったものを正しく量ることが出来なかったか行う自信を持てなかったか、孫権は曹操が死に、劉備が逝ったあとも、周瑜の壮図を実行することはなかった。
鮮やかに描かれた筈の夢は、時の流れに洗われて、やがて孫家の中で虚しく頽れていった。
諸葛亮は主に捧げた夢を託した上将関羽が荊州と共に滅ぶのを見た。
長安の曹操と寿春の夏侯惇、曹操が持っていた軍事力の殆ど全てを、
互いに連絡を取りあえようもなく合流しようもない隔たった二つの場所に集めさせることに劉備勢力は成功し、
関羽はその機を過たず捉え、南陽確保へ向かった。曹操勢力は真っ二つにされる筈だった。
曹操がその生涯で冒すことなどおよそ有りえないような状況がそこにあったのだから。
只一度の機会。二度と来ないだろう、その機会。
それが目の前にあったが故に、その機会が去りつつあったこと、去ったことを関羽は認められず、引き際を誤った。
そして、夢は滅んだ。三国志の時代は古代中国終焉の晩鐘が鳴り響いていた時代であった。
古代から中世への緩やかな流れの中に三国志の時代はあり、その三国志の時代にあったからこそ、南陽の地勢の特殊さはドラマを生んだ。
古代中国の戦国七雄華やかなりし頃に南陽盆地の北縁に沿って築かれた旧楚の長城は漢が興って中国が大きく南へ広がると、南陽の地政学的要件の特殊さを一層際立たせることになった。
その南陽をめぐる三国志時代の英雄・俊傑たちの動きはやがてこの地を押さえるべき重要な拠点としての襄陽・樊城の確立に繋がっていった。
南北朝が終わり隋興り唐が立って時代が中世に変わってしまってからまことしやかに
「襄樊(襄陽・樊城)は中華のへそである。北が制すれば南を攻略でき、南が保持すれば北に対抗できる」との言辞が語られるようになる。
しかし、その言辞はそれだけを鵜呑みにすべきものではない。
それは古代から中世への流れの中で果たした南陽の特殊な地政学的要件とそれをカバーするためにその確保に心を砕き、
その整備に務めた中原の勢力の積み重ねあって出来上がった見解なのである。
P.S.:長い中国の歴史の中、南方が北方を併呑することは殆ど起こらなかった。
だから三国志の時代も、魏以外の勢力が中原へ攻め込み、天下を統一することはありえなかろう、との議論を見ることがある。
しかし、この南陽の地勢を見ると、南から北へ、そして全土統一へ、のルートは確かに存在していることが分かると思う。
(結果として)魏が樊城・襄陽を頑なに確保しつづけていたからそう見えないだけで、可能性はあったのである。
>>565 バカかテメーは
コピペしねーでURLだけ張ってろボケナス
何だと!このクズが!
実の有る論を述べやがれ低脳。
ハッ!
他人様のコピペ貼り付けて実の有る論だなんて言い張れるのか?
幸せなお頭の持ち主だな
人を低脳呼ばわりする前にまず自分の頭で考えた実の有る論とやらを述べるんだな
ま、そんなことも出来ないから無断でコピペしてるんだろうがな
ははは。馬鹿がいきがりやがってw
今までロクに考えもせずに下らんことばかり抜かしてた輩はお前だろうが。
無断コピペだろうがお前が不法に垂れ流した文害に比べれば全く大したことではない。
それにこれで少しは読む価値の有るスレになったろうが?
つまり俺の行為は利。お前の存在は害ということだ。
正史もそれ以外の一般常識ももう少し勉強してから出直せばぁ?
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 04:50:49
馬鹿同士の見苦しい争いage
>>569 一般常識っつうと勝手にコピペで転載したら著作権法違反だよね
劉表にしてみれば劉備は第二の張繍
「3・このHPは引用リンク推奨です。申し出て下さったら該当部分にアンカーを付けて再アップします。」とある。
>>566>>568>>571は何も読んでないな。
何のために「4・もしやの引用の際は引用元(ココの中の該当部分)へのリンクも忘れずにネ♪」って書かれてると思ってんだ?
つまり逆言えば「該当箇所へのリンク無しにただコピペすんのはご法度」って事だぞ
何も読んでないのはどっちだか?
575 :
553:2006/09/19(火) 13:59:57
何か知らんけど、俺が煽った事になってるのかな…?
>>569見るとそう読めるんだが…
超・三国志ってひどいの?
>>576 判り辛いからってのはお前の独断と偏見だろ
最初から日記のどこそこ読めって書けばいいのに何やってんの?
著作権無視するような順法精神のない奴はせっかちで困る
著作権法を理解してないアホは黙ってろ。
いきなり罵倒が口から飛び出るチンピラ精神の持ち主こそ人中の底辺。
>>580 著作物の無断転載は違法。
法律に認められた引用だとするならばその前後どちらかに引用者の論説、批評、考察などが述べられていなければならない。
著作者に引用リンクが許可されていると主張するならば該当個所のURLのみを張れ。
文章を無断で転載した挙句トップページのURLだけ張るのはニセクロ氏は認めていない。
ネチケットにも著作権法にも違反してる。
勝手に「判り辛いから」と自分でサイトトップにあるルールを無視した挙句に「サイトの隅々まで読めばいいから」とかお前何様だ。
ニセクロ氏に悪いと思わんのか?
まあ思わない程に鈍感だからこんな破廉恥な真似が出来るんだろうな。
第三十二条
公表された著作物は、引用して利用することができる。
この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、
その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。
ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。
第三十九条
新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く)は、
他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる。
ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。
前項の規定により放送され、又は有線放送される論説は、受信装置を用いて公に伝達することができる。
無礼な馬鹿が無知な馬鹿と争っているようにしか見えない。
どちらも破廉恥で馬鹿なチンピラ。
前者は知がありながら礼を知らず、後者は両方ない。
今後、スレの利益にならない論争は禁じる。
やるなら法律相談板で何時までも気が済むまでやれ。
つ
ttp://www2.2ch.net/2ch.html
>>582 第三十二条に関して「報道、批評、研究その他の引用」とする根拠に乏しい。
引用した文章に対するコメントもここまでのレスの流れの中に引用を行う必然性もない。
認められている引用の範囲内に収まっているとは到底考えられない。
第三十九条に関して言うとニセクロ氏の文章は学術的な性質を強く有している為、
条文の通り転載、放送、有線放送を認められていない。
と言うかニセクロ氏の文章は「新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説」ですらない。
つまりこれらはただの無断転載で著作権法違反。
>>583 いくら著作権者を明示しても文章の無断転載は大問題。
他人の文章を貼り付けただけで議論した気分に浸ってるのも困る。
ましてやサイトトップに引用するならリンクを該当箇所へって書いてあるにも関わらず、
そのサイトトップのリンク張って該当箇所を放置、その上文章はコピペ。
違法行為する奴にはしっかりと自己の行いを違法と教えてやる事が必要だ。
いくら著作権者を明示しても文章の無断転載は大問題。
他人の文章を貼り付けただけで議論した気分に浸ってるのも困る。
ましてやサイトトップに引用するならリンクを該当箇所へって書いてあるにも関わらず、
そのサイトトップのリンク張って該当箇所を放置、その上文章はコピペ。
違法行為する奴にはしっかりと自己の行いを違法と教えてやる事が必要だ。
すげえ荒れ方。
566 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/19(火) 03:01:20
>>565 バカかテメーは
コピペしねーでURLだけ張ってろボケナス
587 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/19(火) 18:16:58
いくら著作権者を明示しても文章の無断転載は大問題。
他人の文章を貼り付けただけで議論した気分に浸ってるのも困る。
ましてやサイトトップに引用するならリンクを該当箇所へって書いてあるにも関わらず、
そのサイトトップのリンク張って該当箇所を放置、その上文章はコピペ。
違法行為する奴にはしっかりと自己の行いを違法と教えてやる事が必要だ。
同一人物?
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 18:39:14
いいから本題で語れよ喪前ら
>>576 この日記、そもそも該当箇所が出ないじゃん。
>>555-564を弁護するわけではないが、ホントに判り辛かったぞ。
素晴らしいサイトだ。紹介してくれてありがとう。
>>587 君は正しい。だから去れ。
>>593 三戦板の議論系スレにいてニセクロも知らんのか?
ニセクロ、むじん、呉書見聞は議論系スレに出入りするなら絶対押さえといた方がいいぞ
蜀厨死ねw
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:13:39
馬鹿同士の争いは見てて面白いなあage
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:15:47
sageてるのが地味にセコいというか性格が出てると言うか
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:16:41
裏取引に八百長やろうと連合して壤陽をよろしくお願いします。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:19:16
他人の不注意をいきなり罵倒するやつがネットマナーを語るのに失笑。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:22:32
(議論もできない)転載馬鹿と破廉恥馬鹿の天下分け目の決戦が始まってるお☆
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:26:19
実に40スレも無益な論争で荒らした
>>566の罪は重い。
正義感と自尊心が必ずしも他人の役に立つという訳ではないようだな。
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:27:33
>>604 まあ微妙。正史覚えたてだと反蜀厨になりやすいからね。
それに異論を唱えているだけでそれほど蜀厨という訳でもない。
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:37:18
587 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/19(火) 18:16:58
いくら著作権者を明示しても文章の無断転載は大問題。
他人の文章を貼り付けただけで議論した気分に浸ってるのも困る。
ましてやサイトトップに引用するならリンクを該当箇所へって書いてあるにも関わらず、
そのサイトトップのリンク張って該当箇所を放置、その上文章はコピペ。
違法行為する奴にはしっかりと自己の行いを違法と教えてやる事が必要だ。
自分の都合のいいように法解釈してんなあw
著作権は侵害していないし、そもそも何の営利にもならない行動がそこまで気になるのか?
取りあえず喪前もネットマナーを学んで来いw
伸びてると思ってwktkしてみればこれか…
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 19:44:22
くだらないよね
ひでえ荒れ方どっちも馬鹿だな。
0幽州時代
1徐州時代
2荊州時代
3赤壁戦〜荊南割拠
4江陵貸与〜入蜀
5漢中戦〜関羽北上
6夷陵戦
7第一次北伐〜孔明死亡
8それ以後
スレタイはどこまでが範囲なのか聞きたい。
俺としては袁術、呂布との抗争をもう少し上手くやって徐州を確保していれば、
山東の雄として上手く立ち回ったのではないかと思う。
兎に角、地盤を持つのが遅すぎる。
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 20:11:09
空手から自分の領地を手に入れるのに
どれほどの労力が要ると思ってんだ。
遅すぎるなんてよく言えるな
>>613 元々地盤を持った連中の中でよくやったと言うべきかと
>611
蜀と言ってはいるけど、その実「劉備軍団時代」も含んでるし、
黄巾〜蜀滅亡で良いんじゃないかな。
>>611 0 都尉 義勇兵
1 州牧 州牧
2 司空 左将軍
3 丞相 左将軍
4 魏公 左将軍
5 魏王 漢中王
6 死亡 蜀帝
やはりその定義だと1と5がチャンス。
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 20:47:33
黄巾からだと範囲広すぎないか。
ぶっちゃけ、帝が脱出したときに帝を確保した豪族であれば
誰でも天下を取る機会があったことになってしまう。
一度は霊帝の跡をついだばかりの劉弁が十常侍虐殺時に脱出したとき
保護したのが董卓でなければ・・・、また、董卓死後の混乱時に献帝が
都を脱出したときに保護したのが曹操でなければ・・・
など、話が広がりすぎてしまう。
せめて、劉備が都を脱出したあたりからのほうがいいのでは。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 20:57:59
スレタイが蜀なんだから蜀からで良いんじゃないの?
流浪時代:184〜208 群雄時代208〜222
蜀:221〜263
234年以後は魏の体制が磐石で事実上攻略不可能。
1:219年、関羽が死亡せず、荊州は諦めてたらどうなるか?
2:221年、関羽は死んだが、夷陵戦をやるか?
3:228年、長安奇襲に成功
4:228年、馬謖が山頂布陣をせず、街亭攻略を諦めた張郃が帰還中に孔明の伏兵で戦死。
5:234年、五丈原に屯田が成功
1 ありえない
2 ありえない
3 ありえない
4 微妙
5 微妙
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 21:02:57
じゃあスレタイ改めた方が良いね
「劉備に天下を取らせるには?」
つ 曹操を三顧の礼で迎える。
それじゃぁ劉備死亡までにならね?
基盤が無い状態から統一までやらかしたのなんて、
過去だと高祖くらいなもんだろうし
五丈原では輜重問題は比較的改善されてたんじゃないの?
それでも何年も陣地でにらみ合いは出来ないと思うが
お互い野戦陣地に籠もって数年に渡り対陣を続けた例ってある?
高祖vs項羽
先主vs魏武
洪武帝vs張士誠
相手が悪すぎ。
また韓信と孫権は別だったものな。孫策当たりならまだ判らんかったが。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 21:34:25
関羽が北上以前に病死して張飛と交代してたらどうかな?
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 21:42:37
五虎大将がいたのに全員生きていれば………楽勝だったなm(_ _)m
>>629 張飛は一部将としては優秀だが司令官としては未知数
というか無能の類じゃないかと俺は思う
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 21:45:25
なら諸葛はなぜ三分したんだかな
>>625 そういう例は知らないけど、篭城戦なら春秋戦国期にあった気がした。
戦中は生産力が落ち、消費量が否応無く上回るはず。(戦闘部隊だけでなく、補給部隊にも人が取られるから)
それでいて侵攻側が年単位ひたすら待つというのも、野戦場ではありえなかっただろう。
まぁ、流石にどちらかの国のトップが「動けよ」って催促するだろうし。
だからこそ輸送距離を短くし、(無駄に兵を遊ばせず)供給量を上げる為に、
第五次北伐の頃から諸葛亮や姜維は軍屯を取り入れたのだろう。
これによって食糧問題は幾らか解決出来たはずだが、
すぐに諸葛亮が逝っちゃったからねぇ。
生き続けたらどれだけもったのかは良く分からない。
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 22:37:19
>>630 せめて馬超がもう少し長生きしていればな。
ホウトウもそうだが36歳は若すぎる。
あと、張胞・関興も早く逝きすぎ。存在の不確かな関索あたりも
欲しいな。
>あと、張胞・関興も早く逝きすぎ。存在の不確かな関索あたりも欲しいな。
kaere
張関の息子を長生きさせるくらいなら法正を長生きさせた方が断然戦力になる
普通関張とは言うけど張関ってのははじめて見た
どこの文献にそんな順序で載ってたの?
関興はなかなか才があったらしいよ
>>637 「緊」「張関」「係」で変換⇒張関
「関」「係緊」「張」で変換⇒関張
というかそんなことにまで文献を求めるのはもはや病気の域では?
たしかに五虎の筆頭などなら並び順を重要視するがこれはいいのでは?
関羽と張飛のことでなくその息子をさしているんだし
234年:臨晋陂、成国渠の整備完了
これ以後は姜維の北伐でどうこうなる国力差じゃない。
呉の場合はもっとゆっくりしてるな。
231年:合肥新城の新造
241年:広漕渠の整備
>>640 文献学ってのはそんなもんだ
自分の知らない語句が出たら自分の読んでない物を他の人間は読んでると考えて
その書物を読もうと考える事を病気と言われるとすげぇ不愉快
>>643 >>635では張ホウ・関興の順で出ている。病気は言いすぎだが、
「瑣末なことを尋ねるが」「宜しかったら」くらいの前置きは必要だろう。
何でもかんでも「ソース出せ」と言ってるようにも取られかねない。
ここには素人もいるのだからな。
>>644 まあ息子の年齢順だと確かに演義ではその通りだね
ただ「張関の息子」って表現だったからとても気になる
「俺がその順序で書きたかった」とかって理由でもいいんで何でそうなったのか書いて欲しかった
素人だって何か言うには言うだけの理由があるんだし何を考えて何を言っているのかを知りたいってのは悪いものなのかな?
>>645 あまり意識してなかったが思慮不足だスマソ。
張関ってなったのは携帯から書いているんだが他のところに張飛が関羽に…って書いて張飛と書けば履歴で自動的に関羽もでてくるから張飛が関羽にって出てきたら飛とがと羽とにを消せば張関(関張)がでてくるからやっていた
文盲でスマソ
漢文は一文字の意味の違いが大きいから、歴オタは一文字違うだけでも激しく噛み付いてくるよ。
>>637みたいな奴はどこにでもいるしあんまり気にしなくていいんじゃない?
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:24:31
前レスみれば
文意は伝わるのにそんなに神経質になることなのか。
探究心旺盛なのは結構だが俺は揚げ足取りにしか見えない
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:32:30
>>637の尋ね方も
挑戦的で不愉快にみえるよ。
もうすこし言葉遣い気にした方が良いのでは
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:34:32
だな
聞きたい事と聞きたくなった動機を端的に書いて聞いてるだけなんだがなぁ…
これを挑戦的とか病的とか言われるとお前らどんだけ偉いんだって思うよ
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:43:02
主観的と客観的的の違い
話題を戻そう
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:46:31
>>651 そう受け取らない人もいるから書き方に気をつけろって事。
尋ねてるはお前さんなんだから。
>>651 スレタイに全く関係ないことをいきなり「文献出せ」なんて言われたら素人はビビルって。
また、端的に書くのも率直さとは受け止められず、傲岸不遜と取られる場合もあります。
貴方のスタンダードとここの住人全てが同じ訳じゃないってことですよ。
やっぱ荊州を取られたのが一番の不覚だろ。
関羽の所にもうちょいマシな武将を配置しとけばな。
ショウエンとか王平とか
これからも揚げ足取っていこうぜ
よそのサイトの無断転載もバンバンしていこう
そうだね雲長くんッ☆
…そうとも益徳くぅん…♪
飛飛飛ッ!飛飛飛ッ!…
羽羽羽〜ッ!羽羽羽〜ッ…
>>651 どう見てもお前が一番偉そうだ
協調性という言葉を辞書で調べてからその後文献に当たりなされ
>>661 煽るな煽るな。
基本的に史料第一主義な事は、歴史関係について語る上では悪い事じゃない。
ただ、ここは学問板じゃなくて趣味の三国戦国板なんだから、
>>651も一々ソース確認しようとすんな。
並びとか神経質になりたければ世界史板行った方がきっと有意義だぞ。
今来た三秒
とりあえず良スレでごたごたはやめれ。いい流れなのに。
651もケンカ売るためにここに来たわけじゃないだろ。
挑戦的とか捉えないで今日のわんこでも見てまったりしる。
>>663 刺激すんなっての。
第一世界史板のそのスレは三戦よりも荒れてて話しにならない。
あらら
しかしVipには勝てまい
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 22:35:26
いずれにしても、蜀にはもう少し人材が必要だった。
戦術面では諸葛亮がほとんど立てていたようなものだったので、
後はそれを忠実に実行する手ごまの武将が少なすぎた。
関羽・張飛・趙雲など五虎将クラスであればおおまかな指示でも
自分で考えて成果を挙げていたが、それらが期待できない以上、
作戦遂行を確実にできる武将がいればよかったのだが。
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 22:45:36
燃えよ!青龍!
演義ならそうだな
燃えよ!青龍!
>>669 演義じゃなくて無双4関羽の真無双乱舞時の台詞だな
関羽はこれを使った無限ループによって素敵になった
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 03:30:09
法正とほうとうが早死にしたのがいたかったなー
あとちんぐん?だっけあいつも曹操についちゃったし
>>673 環境が劣悪なのか誉められた人は死んじゃうこと多いね。
しかも魏のもと劉備組ってそこそこいるしなあ…。
ちょっと気になるのは蜀の武将の心理面。
気負い過ぎたり、妙に自信無かったり。
まさか演義みたいに目立つつ人だけで回ってる訳じゃ無いだろうに。
とにかく“武”ではなく、“知”の部分だな。徐庶が魏に行かず、ホウ統が流れ矢で死なず、法正が早死にしない。諸葛亮を含めた4人が揃っていたら…
それなんて反三国志?
揚洪とかをもっと引き上げて頑張らせるとか出来なかったんかな
局地戦では勝てても最終的には地力の差で負けてしまう希ガス
だが局地戦を勝ち抜いて地道に勢力を広げていくしかないだろう
天下分け目の決戦をやろうとしても乗ってこないだろうし
つまり勝てないってことか
>678
楊洪等は官僚として優秀なのであって、彼らを引き上げても、あんま影響はないかと。
その分、孔明が楽になるだろ
有能な行政官だが、中央で政策を練るようなタイプではなさそうだけど
>>683 トップが過労死しちゃうぐらいだからやはり仕事を幾らか回さないかんね。
そうだな…ホウ統や費[示韋]に若手集めてセミナーやらせるとか。
我槍にこたえよう!
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 22:38:49
俺は思うのだが、人の感情や考え方はそうそう変えられない。
IFの話をする際でも、やはりその人の考え方は重視すべきだと思う。
だから、夷陵の戦いでも先主が戦いをやめれば、という考え方はできない。
だから、法正が生きていれば・・という考え方はできるが、徐庶がいれば
というIFは容認できるだろうか。徐庶は母親が人質に取られていたため
曹操に寝返ったわけで、なるべくしてなった結果だと思う。
これって考えすぎだろうか。
俺は寿命も考慮すべきだと思うがね
勿論戦死とか過労死は除外するとして
徐庶の母親が人質に取られたって正史でもそうなの?
人質ではなく、単なる捕虜だな
>>688 人質にとるほど徐庶の母が特別待遇を受けていたはずはなく
正史における徐庶の知名度は曹操陣営においては皆無に等しく
母親が逃げ遅れた民の中にいたことを知った徐庶が
「ごめん、ブロークンハートなんでもう無理っす劉備さん」
って断って自ら志願しにいった。
司馬徽人脈は結構あったんじゃね?
でも人質とか無かったとすると徐庶が劉備から離れた理由がよく分かんないな。
>>690の言うとおりママンが恋しかったのだろうか。
でもそれだと何もあのタイミングで抜けることないのに。
劉備と馬が合わなかったのだろうか。
ああ、捕虜と人質は意味合いが違うよってことか。
ふーむ。
でもなんか人質のほうが納得し易いかなあ。
>>692=694?が何をそこまで疑問に感じているのかいまいちわからないんだけど
徐庶が劉備から離れた理由でごぜえますだ。
>>692 徐庶は荀郁など当時曹操配下の主流派を占めていた穎川出身者と同郷
母親が捕虜になったんだし妥当な行動に思えるんだけど
たかが母親とか考えてるんだろうか
徐庶の伝を見てると父親に関する記述はなく、
またチンピラ時代にも母親が一声かけるとケンカ放り出してさっさと帰るくらい母親より。
いつから母子家庭になったのかは知らないが、徐庶にとって母親はかけがえのないものだったはず
極端な言い方だと、母親をすててまで仕える相手では無かった、って事かな。
そんなに大事な母親なら捕虜にされる前に手を打っとけばいいのにね。
徐庶ってやっぱどっか抜けてるのかもしんない。
劉備の子でさえ行方不明になりかけてるのに、どう手を打てばいいのか
常に一緒に行動するようにしましょう
儒教的な倫理観ってものを踏まえて考えないと母親の存在を軽視してしまうよ
親が捕虜になりながらのこのこ劉備に付いて行けば名声だって地に堕ちるし
親不幸者、ろくでなしのレッテルも死ぬまでついてまわるだろうし
最初からおっかさんをほったらかしにしなければよい
つか徐庶の離脱って演技通りでいいんだな
ちがう
江陵への逃避行のさなかの離脱なんで、演義の様に諸葛亮と入れ替わりじゃない
蒼天通りか
>>704 >親不孝者
緊急時における家族の離散は当然、赴任や異動によって家族と遠くはなれることはあるし
そのまま田舎が敵勢力に抑えられることなどありうるわけで、行かない=親不孝は考えすぎ。
後漢時代の名士と呼ばれる条件の中でも、孝子ってのは絶対条件といっても
いいくらい重視されてる要素ではあるけどな。
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 16:17:36
>>711 あまり長文を読むのは苦手だが、ざっと目を通してみた。
要するにシバイは孔明の手の内から対応策を学んだというわけか。
とすると、孔明としては常に先をいく手を打たねばならず、
しんどい戦をすることになるな。
しかもその一手で勝負決めなきゃ次には対応されるからしんどいな
ニセクロ先生は、漢中戦やってください
有坂氏のでいいと思うけど、ニセクロ流で見たい
714 :
710:2006/09/23(土) 21:38:36
>>713 先生とかこそばい。只のサイト持ちなだけだし。呼び捨てでおk
漢中戦はトライして見たいけど、有坂さんのが普通に神レベルだからなー
あの漢中戦のテキストを引き継いで関羽の滅亡までを描こうと思ってはいるけど
その準備稿の一つが(ry)gkbd.700.501.htmlの中に置いてる「武神伝説ちょー関羽」
何気に孟達って結構すごくね?な事も触れてる
同じurl中にある「魏王vs.漢中王」は前に別冊宝島に載せて貰ったのの元原稿
実はこれ、むじん書院のむじんさんが指摘してた事実誤認があってあちゃーな
もの何だけど、その辺りを華麗にスルーして貰えると嬉しい
>>711 んー。と言うか、この辺も議論の余地があって、諸葛亮の仕掛けたことを
やり返す形になったのは、どうも明帝の意思決定、姿勢によるものなんだよね
司馬懿自身は、前任者の曹真のように蜀への逆侵攻を企図して後方支援
システムの整備に手を付けた所があるなんだけど
この辺は飽く迄も部下、方面軍司令官と言うポジションでしか景色が見えてない司馬懿と
国主として全景を俯瞰して見ている明帝との立場による見解の違いがあっておもすろいよ
今、諸葛亮最後の北伐のところを再考して少しずつやっつけてんだけど、
何気に明帝すごいかも
法正伝にある定軍、興勢に囮の陣を築いてというのが本当なら、
この時点で劉備軍は漢中盆地全域を支配下においてるでいいのかな
夏侯淵は、山麓にへばりついてるだけで
漢水をはさんで対峙してるんではあるまいか?
>>715 有坂さんが世界戦史の中で描いたように、漢中を完全封鎖して夏侯淵軍を孤立させた、かな?
漢中そのものを掌握したわけではないと思う
わざわざ子午道まで封鎖すんの?
興勢が東過ぎるのが気になったんです
途中に南鄭もあるわけだし
>>717 漢水から北は制圧できてない感じ。
西は陽平関、東は上庸や魏興を押さえてるのでその間の隘路は南北に交通できたんじゃない?
あ、まだこの時期は上庸や魏興は制圧できてねえや。
>>718 斜口方面からの曹操と夏侯淵の間の連絡線を遮断しようとしたのだと思ったんだけど
あれ? 俺興勢に関して地理の把握間違えてる?
>>722 法正伝の興勢が間違いなんじゃね?
先主伝では陣を敷いたのは定軍山勢で「勢」は桁字として処理されてるから山の字が興に誤写されたとかw
斜口って斜谷道だよね?
南鄭からそのまま北上で斜谷道だけど、その東に駱谷道
駱谷道の漢中側の出口にある都市が成固で、その北側に興勢じゃないの?
興勢山は成固と赤阪の北方にあり、駱谷と子午谷の間にある山だな。
定軍山と興勢山に陣営を作ったと言う事は、兵力を分散してるんだよね。
無理矢理考えれば、夏侯淵が分離に乗じてどちらかを攻撃したところで包囲に転じ、
南鄭と夏侯淵とを繋ぐ交通線を遮断すると共に、包囲環を圧縮して撃破するって感じか?
単純に、南鄭に存在する夏侯淵を戦略的に包囲するって事なのかもしれんが。
だが、例えば定軍山の敵に対しては、一部を分遣して漢水の線で防御させ、
大部分を以って興勢山を攻撃し陣地を破砕して、各個撃破するってのも魏としては採れる。
うーん。その後の展開に興勢山が出てきてない事を考えると、
>>723の言うように、
記述が間違ってたとかって考えた方が良いのかも知れないな。
定軍山−南鄭で50km、南鄭−興勢で50kmくらいあるし、ちょいと戦線が長いな
劉備が定軍山に陣取った時に南鄭との連絡線を切られてると思ってたよ
それより西側の陽平関にいた訳だし
実際、どこで指揮取ってたのかな
>>727 夏侯淵って陽平に本陣を置いてたんだっけ?
張郃伝の陽平に退却した、って記述からの判断?
ちょっと「陽平に退却した」って記述を含めて考えると、
興勢山への分遣は、戦略的迂回だった可能性もありそうだ。
>>725で言った事とあまり変わらんかもしれんが。
まず、定軍山に主力を振り向けつつ、一部を、できるだけ行軍を秘匿させたまま、興勢に送る。
当然夏侯淵は定軍山の劉備軍を駆逐しようと向かってくる。
劉備側は、それを迎え撃って撃破し、南鄭まで追撃すると同時に、
興勢まで前進した軍団が西へと前進し、斜谷以東を遮断して退路を断つ。
これによって、敗走した軍団が北方長安へ撤退するのを防ぐ事が出来る。
上手くいけば、魏軍と南鄭との間に割って入る事もできるしね。
魏軍は孤立するのを恐れ、郭淮の提案した後退配備による河川の間接防御を行い、
劉備の前進を防ぎつつ、漢水沿いに西進して辛くも陽平関に逃げ延びた、
という感じではないだろうか?
>>728 > 夏侯淵って陽平に本陣を置いてたんだっけ?
はっきりとはわからないが劉備が陽平関に陣を敷いたため、夏侯淵は諸将を統率してこれを防ぎ、にらみ合いは数年続いた【夏侯淵伝】とある。
張郃は廣石に駐屯【張郃伝】してるが、夏侯淵自身がどこに駐屯していたかは書かれてない。
でも夏侯淵の本隊も陽平に駐屯させてたんじゃないかな?
劉備の定軍山への迂回にまったく気付かなかった訳じゃないだろうし、
その頃には本陣移動してるというのもあるんじゃない?
張コウに東の陣を守らせ、自分は南を守ったとあるし
で、その東南の陣がどこを指してるのかはわからんが
>>729 あぁ、陽平で数年対峙したんだっけか。
あと、馬鳴閣道に陳式を派遣したりもしてたな。
どうやら、また修正する必要がありそうだな。
>>730 劉備が南進したのでそれに付いていったんじゃないかな?
劉備が追撃をさせなかったのか、夏侯淵が追撃できるような位置にいなかったのか。
>>731 実際には劉備が漢中に出てきたのは218年で定軍山のが219年正月だから数年ということは無いんだけどな。
あと夏侯淵は基本的には南鄭に駐屯だから自身は陽平まで出ず南鄭で指揮してたかも。
ただ定軍山のあと、張郃たちは陽平の方に戻ってる。
南鄭に戻れなくなったのか本陣を陽平に移してたのか。
もうちょっと整理する必要あり。
いい感じに議論が進んでるみたいだね。
チラ裏だが今は大分酒入ってて参加できそうにないが、頑張ってくれ。後で参考にさせてもらう。
劉備側は、金午道を通って陽平関に南に出て、そのまま北上し陽平関に向かう。
その動きを察知した夏侯淵が、張郃・徐晃を率いて陽平関を守る。
劉備軍は事態を打開する為、陳式を馬鳴閣道に入らせ、陽平関の後方に進出させようとしたが、
徐晃がこれを撃破した為失敗する。
劉備は諦めず、広石の張郃を攻撃するも失敗する。その後、成都からの増援を得て兵力を増強する。
劉備側は後退し、それを好期と魏軍は追撃するが、劉備は要害定軍山に篭った為、
定軍山にて対峙する事になる。
この際、劉備は密かに軍を大巴山脈に沿って迂回させ、興勢山まで送る。
定軍山にて対峙中に、迂回した軍団は今度は秦嶺に沿って西進し、南鄭と陽平とを遮断する。
劉備は夏侯淵を定軍山に撃破する。南鄭への道は遮断されている為、張郃らは北へと撤退。
劉備もそれを追撃するが、郭淮の案による魏の布陣が渡河を躊躇させた為、
魏軍の長安への撤退を許す。
駄目だな。興勢への前進はそれほど意味無いし、難しい。当時病気だった郭淮の位置もよく分からんし。
何か上手い解釈は無いものか?
劉備が後退して定軍山というのも変じゃない?
前進してなら分かるけど
>>735 剣閣→関城(陽安関口)→沔陽というルートなら、
陽平関を経由せずに漢中に入れるんじゃないかなと思ったんで。
魏軍が陽平関に入り、劉備が沔水を南に渡って定軍に行った以上、
陽平関を落としていないのであれば、南から陽平関に向かったと考えた方が良い。
米倉道でも良いんだけど、あれは山越えなんで険阻だし、南鄭の南に出るんで、
そこから陽平に向かうのは、戦略的側面を敵に晒してしまう恐れがある。
もうやらんのかな
能力がどうこうより、地図からあれこれ考える方が楽しいわな
色々と分からない事が多いからね。
なかなか合理的な解釈が得られないんだわ。
常識的に考えれば、郭淮は南鄭に居たんだろうけど、夏侯淵が負けるやいなや張郃に合流してるんだよな。
何故劉備は陽平に兵を進め、何故魏は南鄭を放棄し陽平から撤退したのかとか、とかも分からんし。
劉備側の行動を整理すると、
・陽平への進出に先立ち、呉蘭らを下弁へ送ったが、曹休に撃破される。
・上記の際、張飛・馬超を固山に送る。
・陽平で夏侯淵・張郃と対峙する。
・陳式を馬鳴閣道に送るが、徐晃に撃破される。
・広石の張郃を攻撃するも失敗する。
・定軍山に陣を移しつつ、興勢にも陣を張る。
・定軍山で夏侯淵を破る。
・魏軍を陽平関に押し返す。
という内容だな。
740 :
.:2006/09/25(月) 10:17:54
陽平と南鄭を抑えてるだけじゃ駄目なのかねぇ?
それとも南鄭は曹操が来る前に落ちたのかな
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 22:00:03
ちょっと意見。
自分なりに資料などを見るようにして入るけれど
最近内容が非常に細かくなってきてわかりづらくなってるんだよね。
自分がバカなのかもしれないけれど、ちょっとまとめてくれないかな。
蜀に天下を取らせるには、という趣旨からいくと、今どういう展開に
なってるの。
レスを読めば馬鹿にも分かる
ここ数十レスは、単に漢中戦での地図確認で職の天下取りとは何ら関係無い
蜀の勝利なんか、9割方妄想で語るしかないしな
定軍山の夏侯淵敗死さえ無ければ、漢中戦は全く違っただろうな。
興勢に陣を張ろうが本軍が敗れたのであれば元も子もないし。
法正や黄忠がすごいということなのかな。
始めは呉蘭ら、次いで陳式を下弁方面へ前進させ、どちらも失敗しており、
曹真と合流して撤退するまで曹休らは武都にいたようなので、
下弁周辺は最後まで確保できなかったと見るのが妥当だろう。
従って、劉備側は陽平関を手に入れてはいない。
武都を確保するか漢中を確保しないと、陽平関を手に入れても孤立するだけだからね。
陽平関は漢中から西北に武都方面に抜ける際の拠点であるから、
前述の通り、武都か漢中のどちらかを確保して初めて機能する拠点だろう。
漢中戦の推移を考えるに、劉備はまず前進して、恐らく漢中から西南に抜ける際の拠点である関城に入り、
そこから呉蘭らを北上させ下弁に向かわせたのだろう。
これは初めから陽動の意図が大きかったのではないだろうか?
この呉蘭らの北上で、劉備の意図が武都・陰平の確保にあると見誤った夏侯淵が、
主力を陽平関に向かわせ、曹休らと協力して劉備の武都進出を防ごうとするも、
そこをすかさず劉備が漢中方面へ前進した為、陽平と南鄭との連絡を断たれたのだろう。
その後はにらみ合いになるが、時間を掛けて敵の増援が到達してしまってはまずいので、
事態を打開する為、定軍山まで後退する事で夏侯淵を誘き出し、会戦によって決着をつけようとしたのだろう。
それが図に当たり、見事夏侯淵を敗死させたものの、郭淮の策によって陽平の奪取には至らなかった。
そうこうしてる内に曹操が到着してしまった為、定軍山を中心とした漢中西部の山地を厳重に固めた。
というところではないだろうか?
みんなで漢中の地図描いてみようぜ
>>745 言ってることは正論だが、そうすると夏侯淵が愚かということになるな。
あっけなく死んだこともそうだが、
援軍を待てば勝ちは確定なのに急いて事を仕損じている。
そんなほいほい援軍が到着するなら誰も死なんわ。
劉備が定軍山に移って攻勢に出てからは早いよね
張コウに夜襲かけて、これを有利に進めて、出てきた夏侯淵を討ち取る
定軍山に陣取ったのが、219年になってからだとすれば1ヶ月以内の事だし
張コウを助けに行かなかった時はどうなってたんだろうな
>>749 夜襲の件は218年中の陽平関で睨みあっていた時の事だと思う。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 20:53:06
夏候淵は作戦負けか
○:夏侯淵
×:夏候淵
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 00:15:43
夏侯淵だぜ
いひひ
>>745で述べた形は、一応流れ時代に不自然は無いようにしてあるが、
それでも興勢への前進の意図が不明なんだよね。
また、夏侯淵だけならまだしも、張郃や徐晃、郭淮などが麾下にいながら、
戦略的側面を敵に晒す事の危険に気付かなかったとするのは、やはり不自然かもしれない。
興勢への前進を、無理矢理「興勢方面への前進」にする事によって、後退するにあたって、
漢水北岸への戦力の派遣する事で、南鄭と陽平との間の連絡線を完全に遮断する
意図があったと考える事も、出来なくはないかもしれないが。
755 :
754:2006/09/27(水) 00:18:07
×流れ時代→○流れ自体
さすがに漢中の話題も尽きたか?
まだだ
まだ終わらんよ
しかし、劉備はよくもま〜長いこと戦するよね
これは劉備戦が上手いからなのか?下手だから
よくわからんな
上手い下手は関係ない
根性があるから
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 21:29:34
当時の装備や制度などの他に、劉備の場合は地形的な要因が戦役の長期化をもたらした気がする。
漢中でも夷陵でも、防御側が構築した防衛線の強度が大きい為、
攻者が容易に突破できない状況に陥った。
防者にとって時間をかけるのは有利だが、攻者にとっては不利。
漢中では途中から劉備が防者であった為に有利に作用したが、夷陵では攻者であった為に不利に作用した。
漢中の前半は、会戦に便な地形への迂回が成功したのが功を奏したな。
益州を制圧する際、ラク城攻略に1年もかかったのはよく分からんけど。
最早スレタイとは関係ないスレになってるな。
このまま劉備の戦争を考察するスレにでもしちまうか?
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 00:15:52
う〜ん
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 00:46:56
よく考えてみたら
これは二千年前の話だと気付いた。
>>761 ラクの陥落に時間かけたのはわざとだろうね
ラクで益州の軍を釘付けにしておいてその間に荊州から出た諸葛亮率いる別軍が各地を平定してるんだし
>>766 確かに、ラク城は前面に洛水が流れてる上、東側は峻険ではないが山がそびえているから迂回も困難。
そもそも、多数の降伏者を抱えている状況で、本隊を分けるのは得策じゃないしな。
無理に攻めず、援軍を成都に迫らせる事で敵に後退を促す方が良い。
>>767 いや、雒城を包囲してる間に諸将を分遣して諸県を平定させてる。
「点と線」の決戦ではなく「面」の包囲という訳か。
関羽が曹操をたたっ斬っちまえばよかったんだよ!
赤壁?だがそれだと漢中を奪えるかどうかが不明な件について
>>770 そうなると孫権側は劉備に魅力を感じなくならないかな?
旧曹操勢力が分裂なんかしたら更にややこしくなるだはろうし。
774 :
.:2006/09/29(金) 09:54:34
ラク城はそれなりに激戦だったんだろ
軍師も死んでるんだし相手が城にこもりっぱなしで、余裕の包囲ってわけじゃないべ
>>772 >>772 分裂するにせよしないにせよ、孫権は江陵を攻めるだろう
まず、ここが分岐のポイント
簡単に落とせれば天下二分の計に従って行動するだろ。蜀の目はない
守将が曹仁なら史実に従って劉備が蜀入りする。以下はこの流れで
次に曹家分裂
分裂しても漢中と劉障の衝突はあるので劉備は蜀をとれるだろう
一方、呉は合肥を守るのが張遼でなければ徐州を制圧できるだろうから、これも守将の問題
あとは西方の馬騰がどう動くかじゃないかな
>>768 先主伝の「分遣諸将平下属県」ってやつか?
あれは単に兵力が増えたんで、正面を広く取って前進しただけだと思うけど。
文章の位置も、ラク包囲前だし。
>>774 ちょっと攻めてみたら結構被害が出たから、それ以降強攻をやめて、
既に行動に移している諸葛亮たちが成都に迫るのを待ったんだと思う。
>>776 もっとちゃんと読め
江州で諸葛亮達は別れて成都で落ち合ってる
>>777 そんな事は分かってるよ。
江州で軍団を分割し、外線作戦を採り途上の郡県を平定しつつ成都に迫ったって事だろう。
別に郡県を平定した事を否定しちゃいない。
あと、「自分と違う解釈をしてる奴はよく読んでない」なんて決め付けはやめた方がいいよ。
>>778 「正面を広くとって前進しただけ」って書くと軍団を分割したと受け取れない人もいるんじゃないの?
>>780 「正面を広く取って前進しただけ」ってのは諸葛亮たちの事じゃないよ。
「分遣諸将平下属県」ってのは、李厳らの降伏の記述直後にあるんで、
諸葛亮らの事じゃなく、降伏の受け入れによって肥大化した劉備本隊を指してると思ったんで。
だから、葭萌からラクに至る間に、軍をいくつもの軍団に分けて途上の県を
平定したんじゃないかと。
数万の戦力で1年以上も戦うって単純に食料の消費量を概算しても
とんでもない継戦能力なんだが、劉備軍の策源地って白水?
葭萌が劉璋軍に包囲されてるんでここから供給うけるのは無理だろうし、
かといって白水って葭萌よりも北にあるんで兵站線を切断されかねないし、
フやら綿竹やら、順次降していった拠点から物資の供給うけて賄ってたって
あたり?
張魯討伐に際して糧秣貰ってるんじゃない?
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 12:46:13
本当に伸びなくなったな。
蜀に天下をとらせるのは無理ということか・・・
785 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 18:17:22
陸上自衛隊北部方面隊投入
敵失待ち
>>783 劉備が成都を攻めんとした時、兵力は3万5千弱、劉璋から支援された穀物は、米20万斛に加え、
追加で受けた幾らかの物資。
仮に25万斛とし、ケ艾の言葉通りに兵士が穀物を消費したとすると、
劉備が軍隊を維持できる期間は、輸送のロスを無視したとして1ヵ月半だな。
兵士一人の一日の消費を約1リットルとした場合は、5ヶ月弱になる。
いずれにしても、支援物資だけでは年単位の行動は不可能だな。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 00:21:08
>>787 って事はどこから調達してくたのだろうか?
ここら辺が謎なのか?
>>788 現地の人心を収攬してたらしいし、益州内での徴発や売買に加え、
>>782の言うように、陥落させた拠点に集積されていた物資もあったろう。
更に言えば、劉備が成都へ向かうと同時に益州に進発した諸葛亮らは、
江州で軍団を分割して、正面を広く取りながら成都へ前進し、
途上で益州の各地を平定していったが、これによって、
荊州から劉備本隊へ物資を供給する連絡線が打通された可能性が高い。
益州に張り巡らされた河川を用いれば、輸送は比較的容易だしね。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 01:08:10
んん〜色々と策がでてきているようだが
その策に
力学はちゃんと入っているんだろうね?
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 01:22:01
孔明と徐庶とホウトウ三人揃ってたらどうなっただろう…三人の知恵が重なれば…
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 04:06:15
屁が出ました。
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 05:32:01
>>791 孔明→内政・外交担当
ホウトウ→対魏侵攻司令官
徐庶→補給・後方支援総責任者
仲達:天下三一萬能侠壱
伯言:天下三一萬能侠弐
孔明:天下三一萬能侠参
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 08:29:25
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 09:12:38
>>795 外交総責任者が孔明、
現地渉外がトウシ
法正は?(´・ω・`)ショボーン
対魏・漢中→法正
対魏・荊州→ホウ統
対呉・荊州→黄権
微妙か
徐庶ってぶっちゃけ何もやってないよな
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 16:47:10
徐庶って演義的に《いかに孔明が凄いか》を説明する為に活躍させられたキャラなんじゃないの?
>>799 劉備の元にいたのはおそらく1年ちょっとくらいだろうからな。
演義の通り博望の戦いの時に既にいたとしたら5年くらいだろうけど。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 17:11:39
?
演義どおりなら博望時点に徐庶はいない。博望は無理ヤリ孔明デビュー戦。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 17:15:48
ぶっちゃけ演義の蜀軍の強さなら天下とれないほうが不思議
ジョショとか孔明の引き立て役にすぎねー
龐統 宝刀
諸葛亮 所轄寮
徐庶 ジョジョ
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 18:36:02
引き立て役でもそこそこ使えるだろう。
収集してきた情報を整理して孔明に提示するCIAみたいな
役とか。
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 21:46:46
赤壁以前に劉備が荊州の軍事権握った(諸葛亮在中)として西涼軍閥の馬騰と手をむすんだら?あまり詳しくないけどそれでいけないでしょうか?
>>806 劉j殺して劉gが襄陽に入るのかな?
蔡瑁、蒯越の支持は得られないだろうから荊州の維持は不可能
内憂を抱えたまま曹操とぶつかり劉gの軍勢も激減するだろう
正直悪い方向にしか進まないかと…
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 23:31:58
徐庶と馬ショクではどっちが有能だったか?
無難に文官仕事こなしてる徐庶
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 00:49:06
関羽が水攻めで于禁が投降した時に于禁の軍を捕虜にするんじゃなく全滅させていたらと仮定したら?そしたら関羽も呉の食糧庫襲わなくて呉も背後襲う口実なくならない?で魏延に子午道から長安襲ってもらい、巴から張飛を公安へ。ダメ?
捕虜に取るから兵糧が足りなくなる、という意見は度々聞くけど、それはどうかと思うんだ。
逃げ道が無くなって孤立した軍を潰そうとすれば、必死の抵抗は目に見えている。
その為、攻める側の被害も大きくなるだろう。
投降させる道を作ったのは、そういった被害を出さない為じゃないだろうか。
仮に于禁が拒みつづけたとしても、于禁の兵が従っていられるかどうか疑問だし。
手元に資料が無いので蒼天航路を元にしてしまうが、于禁3万に対し、関羽は2万。
于禁軍が水没して数が減り、散り散りになっていたとしても、
必死になった兵を全滅させるのは、いかな関羽といえども至難の業だろう。
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 02:00:05
第一次北伐の時本隊はキ山、別動隊は斜谷。その時に魏延が子午道から奇襲してたら?何かの本で「魏延は長年間者を放ち長安に詳しかった可能性大」と書いてた。3方面作戦。そすると司馬懿も上傭より長安優先する?うまくいけば4方面。既出だったらスイマセン
各個撃破であぼーん、だろ?
孟達も趙雲も馬謖も魏延も蜀にとっては重要な指揮官。
結果的に四人のうち二人が撃破された時点で既に致命的な敗北と言える。
そんなに仲達は甘くないぞ。
捕虜を殺せばいいじゃん
官渡での曹操のように
あと、捕虜をとって失敗した例だと張梯がいるな
815 :
くわぁまん:2006/10/02(月) 03:57:51
徐州にいるときに陳グン、陳登、太史慈を手放さなければ良かった。
そもそも関羽が捕虜を取ったから兵糧が足りなくなったって話自体が胡散臭い、
呂蒙伝にしかない話で、他に関羽軍が食糧不足という記述なし、
湘関というのが湘山の国境付近だとしたら樊城に居る関羽が
わざわざあんな南方まで戻って兵糧を奪い取る事自体が不自然。
またその前にある、呂蒙の病気を関羽が信じて兵を引き上げたって話もおかしい話、
蜀書によれば麋芳・士仁は全力で関羽の支援を行わなかったのに全兵力を北方に割ける訳がなく、
当時実際に関羽と対峙してた魏書でも関羽の後方にある公安と江陵の二城は堅固だとしている。
そういう流れからいって計略話や兵糧強奪話は非常にうそ臭い、元々戦果を過大気味記述してる呂蒙伝であるし、
大体呉が同盟を破って侵攻しようって時に都合よく大義名分を手に入れるっていうのが出来すぎてる、
推測すれば単なる呉の捏造か、もっと勘ぐって見れば呉と内通しようとした麋芳・士仁辺りが
呉側に名分を与えるために兵糧を盗んでみたのかもね、江陵or公安だったならば
湘へ兵糧を盗みに行くことも位置的に不自然は無い。
そりゃ勘ぐりすぎじゃないのか
寝返るために寝返る相手から盗みに行くってのは流石に飛躍しすぎ
もちょっと餅ついて考え直せ
てすて
>>816 つーか、ダブルスタンダードすぎるよ
呂蒙伝の記述を否定するのに、関羽伝の記述を信用する態度
(しかも関羽伝であることを隠蔽してるし)
自伝では称揚し、他伝で批判する紀伝体の姿勢を無視した論理展開
脈絡もなく呂蒙伝は
「元々戦果を過大気味記述してる呂蒙伝」
という偏見もお持ちのようだし(多少の誇張はどの伝にもある。というか中国の史書ってそれが普通)
なにが「元々」なんか説明して欲しいところ
まあ、ようは否定のための論理に過ぎないね。
>>816 士仁と麋芳が支援を行わなかったのは軍資であって兵卒じゃない。
これは捕虜が江陵に送られたことからも、むしろ兵糧不足を補強する記述といえる。
さらに兵を北方に向けたことの否定にもならない。
また関羽と麋芳、士仁の兵権の差異も解らない。
少なくとも、蜀書の記述では太守であるが将軍ですらない麋芳は
上将軍である関羽の兵権に及びもつかない。
>>817 >寝返るために寝返る相手から盗みに行くってのは流石に飛躍しすぎ
呉が侵攻の口実を欲しがっているなら、作ってやるのは寝返る側としてはいい手土産でしょう。
無論事前に両者の間に合意があるという前提だけど。
>>819 >呂蒙伝の記述を否定するのに、関羽伝の記述を信用する態度
なぜ呂蒙伝を否定するかの理由は書いているが?
関羽軍の兵糧不足という記述が蜀書・魏書に一切無く、ただ呂蒙伝にだけある事、
また手紙による兵士引き上げの話も蜀書・魏書の記述に反する事。
>脈絡もなく呂蒙伝は「元々戦果を過大気味記述してる呂蒙伝」という偏見もお持ちのようだし
呂蒙伝の過大報告は他伝と比べてもその傾向が強い、
例えば濡須では呂蒙が活躍して勝利、みたいな記述になっているが実態はそうでもなく、
特に217年の濡須では孫権側の降伏(形だけも)という風に終わっており、
呂蒙伝の記述が実態よりもかなり大きく書かれている事が分かる。
また呉書は蜀・魏書と違い韋昭が書いた呉書を大きく参考にされているという成立経緯がある。
>>816の話を元に、小話を作ってみる。
麋芳・士仁の役割は最前線への補給である。
しかし、兄・麋竺と妹のおかげで太守になった麋芳にその手腕は無く、
前線へと送る兵糧の徴用すらままならなかった。
当然、前線の兵糧は不足し、関羽からは矢の催促が届く。だが、無い袖は振れない。
さらには于禁などの捕虜まで送られてくる。どうやってもやりくり出来ない。
「じゃあ、呉から借りちゃうか。同盟なんだからいいべ?」
こうして、豪族育ちらしい俺様思考によって、勝手に兵糧を失敬してきた。
これを知った関羽は大激怒。呉との関係はこじれる一方なのに、より悪化させてしまった。
この責任を取らせる為、戦が終わったら沙汰を下す、と関羽は言う。
勝手に取られれば同盟国だろうと怒って当然。しかし…
「責任者は関羽だし、ヤツの命令だったって言えばいいさ。
そもそも、関係を悪化させるきっかけ作ったのもヤツだし」
そして呉が進撃し、突然現れた呂蒙らに敵わず、士仁はあえなく降る。
呂蒙は士仁と共に軍を率いて、投降を勧める為に麋芳の守る江陵までやってきた。
「あ〜、士仁も降ったかぁ…。頑張って守っても、後で関羽に何されるか分かったもんじゃないし。
死にたくないから俺も降っとくわ。ゴメン、兄貴。機を見て帰るから、ね」
こんな話でも、正史の簡単な記述からすれば、それほどズレてない気もする。
>>820 >士仁と麋芳が支援を行わなかったのは軍資であって兵卒じゃない。
本文では「芳、仁供給軍資,不悉相救」なのでそういうニュアンスではない、
軍資の供給にあたったが、全力を尽くさなかったという意味、
そして関羽側も江陵も互いに兵糧が不足していたという記述は無く、
これは士仁・麋芳の関羽を支援する態度の問題なので、兵糧不足を補強する記述とはいえない、
捕虜が送られた時期との前後関係も不明。
>さらに兵を北方に向けたことの否定にもならない。
士仁・麋芳の任務が軍資の支給である事であり、兵を出すことでないこと、
また仮に兵を出しても軍資の供給さえ素直に行わないのに、兵を素直に出すのかという疑問、
そして魏書には江陵・公安の備えは堅固であるとされており、兵を北方に移したから
江陵・公安が手薄になったという話は胡散臭い。
>また関羽と麋芳、士仁の兵権の差異も解らない。
兵権は基本関羽にあるでしょう、それゆえの「処罰してやる」宣言だろうし。
ただし兵権があるのと、士仁・麋芳は従わなかったのは別問題であり、
兵士を素直に動員できたという訳では無いね。
>>821 >蜀書・魏書に一切無く
この理屈がそもそも理由にならない。そんな記述は他にもたくさんある。
そもそも、その理屈なら麋芳と士仁の職務怠慢の関羽伝にしかない。
>>823 君の言い分を逆に使うと、
呂蒙伝に兵糧不足が、呉主伝に捕虜が江陵に送られたことが書かれているため、
麋芳と士仁は軍資を送る余裕がなくなった。
関羽伝のニュアンスは関羽伝であるため麋芳と士仁が悪く書かれた。
なんて主張も可能な訳よ。
まあ、2chだしこれも有りかな
>>823 >魏書には江陵・公安の備えは堅固であるとされており
これは董昭の推測だ。
というか董昭の言い分は、あくまで北方にいる董昭の推測であり
北方の董昭は、呂蒙や関羽、江陵や陸口の情報をどれだけ得ていたか不明。
また正確に情報を得られたとしてもタイムラグが発生する。
逆に呂蒙伝と陸遜伝の記述は、当事者の計略の実行と結果という形の記述である。
何故、董昭の推測が根拠になりうるのか?
また、その推測をもって呂蒙と陸遜の計略の否定は可笑しいんじゃないか?
というか董昭伝を一方的に信用して、呂蒙伝と陸遜伝は信用ならないですか?
>>824 蜀側の内部事情の状況、実際に関羽と対峙していた魏側の史料に残らないのが不自然。
麋芳と士仁は職務怠慢は蜀内部の問題であり、蜀にしか史料が残らないのはむしろ当たり前。
>>825 >呂蒙伝に兵糧不足が、呉主伝に捕虜が江陵に送られたことが書かれているため、
同じ呉書内でさえも兵糧不足による強奪事件が呉主伝に書かれていないのか?
という疑問や。
>麋芳と士仁は軍資を送る余裕がなくなった。
ならばそれを何故劉備に申し開きしないのか?
という疑問点がある、逆に言うのもありだけど論拠が無いと意味無いよ。
>>825 推測でなく状況検分、推測の部分は関羽が引かないであろうというところ、
そして救援の徐晃に命じてすぐに密書をハン城内部に矢で打ち込んでる事から、
時期は徐晃と関羽が対峙しいる時期であり、兵力の引き上げがあればとっくに終わってる時期。
また北方と言っても洛陽は荊州からそう遠くはなく、救援の徐晃に直に指令を出せる事から
連絡を密に取っていたであろう事は間違い無く、情報の正確さに問題は無いでしょう。
>逆に呂蒙伝と陸遜伝の記述は、当事者の計略の実行と結果という形の記述である。
>何故、董昭の推測が根拠になりうるのか?
董昭の状況検分と、関羽伝にある麋芳と士仁の職務怠慢による援助不足の2つを理由に述べており、
魏書・蜀書に反するのは呉書の記述のみで、兵糧不足も呉書にだけあるもの。
また、呉書の成立過程や呂蒙伝が戦果を過大に報告しがちなこと、兵糧云々は呉にタイミングの良すぎる大義名分、
以上の理由を挙げている、故に呂蒙伝と陸遜伝が疑わしい点があると書いている。
頭いいヤツが多すぎてよく分からん。
>ならばそれを何故劉備に申し開きしないのか?
孟達、劉封がどうなったかしらんのか?
>>827 呂蒙伝が過大なら
関羽伝は過大の最たる物だな。
白馬の戦いの記述は、誇張にも程がある。
濡須の戦いは、むしろ武帝紀のほうが汚点を隠している。
濡須を攻めて孫権を退却させたことになっている。
呉が濡須を退くことはあり得ないのにね。しかも何故か居巣に退いている。
呂蒙伝の記述は、曹操を濡須から退けたことはあり得ることで、
(むしろ濡須を守りきれなかったら呉は降服どころか滅亡の危機である。)
その後、依然として強大である曹操と講和するため孫権が降服したと考える方が自然。
>>830を
しかも何故か居巣に退いている。 →しかも何故か曹操は居巣に退いている。
に訂正します
>>829 それは関羽が結果的に敗走したから、
また劉封の処罰が処刑にまで発展したのは御家騒動を未然に防ぐため。
>>930 誇張の疑いがあるのならば何処がどう誇張なのか他伝と合わせて証明してみてくれ、
また濡須の戦いで居巣に引いたのは孫権との講和を済んだ後、
勝利し切れなかったのは事実だが、結果として孫権の降伏を引き出してる。
呉主伝に記載のある事についても、軍事的に曹操を追い返したと呂蒙伝はそれについて反した記載をしている。
>>832 反しません濡須の記述は
武帝紀
濡須を攻め、孫権が退却したため居巣に夏侯惇等を残し退いた
呉主伝
216年冬曹操は居巣に本営をおき、濡須を攻撃。
217年春、徐詳に命じ降服を申し入れた。
呂蒙伝
曹操が大軍で濡須に攻め寄せると、督に任じられ堡塁によって防いだ。
曹操の先発部隊を陣を築く前に打破。そのため曹操は軍をまとめて引き返した。
甘寧伝
前部督となり先方の軍営に攻撃をかけた。敵は驚き撤退した。
問題は武帝紀に降服の下りがないこと。降服がいつ行われたか不明。
濡須からの撤兵は武帝紀と呂蒙伝のみ、呉主伝にはない。
武帝紀は孫権が退却。呂蒙伝は曹操が退却。
その後の状況からも呉は濡須を退いていないのは明らかなので、
武帝紀の濡須の記述は捏造と思われる。
呉主伝の降服は、濡須から曹操を追い返してからでも成立する内容。
依然として居巣に大兵力を抱えていたため落としどころとしても妥当。
呂蒙伝、甘寧伝を否定する記述は他伝にない。
むしろ手柄である降服が武帝紀になく、汚点あるはずなのに呉主伝にある。
何故でしょうね?
>>832 >また濡須の戦いで居巣に引いたのは孫権との講和を済んだ後
こんな記事は、どこにもないよ。何伝の記事ですか
>>821 魏書だって魏人の書いた「魏略」その他を元にしてるし「蜀書」に至っては蜀臣である陳寿自ら記しているのに
韋昭が書いた呉書を大きく参考にされているという成立経緯にどんな問題があるんだ?
詳しい人が多そうなので、私の質問に答えて頂きたい。訳文は怪しいが勘弁して。
これは213年の、曹操の濡須侵攻についての呂蒙伝の記述。
[原文]
後從權拒曹公於濡須、數進奇計、又勸權夾水口立塢、所以備御甚精、曹公不能下而退。
[訳]
のちに(孫権に)従軍して濡須に於いて曹公を川(濡須水)で防いだ際、しばしば奇計を献じたり、
又、河口を挟んで塢を築くなどをし、これを以って備えは甚だ堅くなり、
曹公は(濡須を)下す事が不可能なので撤退した。
そして、以下は今回(216年)の争点の部分。
[原文]
曹公前鋒屯未就、蒙攻破之、曹公引退。
[訳]
曹公の先鋒が未だ就かぬ内に、呂蒙がこれを攻めて破り、曹公引き退く。
「〜が原因で」なら「因」、「この為に」なら「為」、「それ故」なら「故」、〜を以って」なら「以」、「〜なので」なら「而」と、前の文が後ろの文の理由であるとするならばこれらが付くのでしょうけど、
問題の文にはそれが見られません。
>>832はこの部分で、呂蒙が曹操を撃退したのが曹操撤退の理由としていて、
それを誇張だと言っているのだと思いますが、
呂蒙が勝ったのが原因だとするなら、「蒙攻破之、因曹公引退」となるだろうし、
そこで曹操が負けたから、とするなら「蒙攻破之、故曹公引退」となるでしょう。
213年も216年も、曹操が呂蒙の為に撤退したのであれば、何故今回はこのような字が無いのでしょうか?
ちくまも某サイトも「打ち破ったので、曹公は退却した。」としていますが、
平凡社の訳文では、「攻めてこれを破った。曹公は退却した。」としています。
実は「蒙攻破之。曹公引退。」なのかもしれません。印刷だって、魯魚の誤りはありますしね。
長文な上に日本語すら怪しいが、簡単に言うと、
「軍事的に曹操を追い返した」としているのは、216年のこの部分の事ですか?
孫権の降服とかあるので216年だとは思いますが。
それと、原文を読んでみましたか?
その上でなお、「曹操は呂蒙にやられたから撤退した」としか読めませんか?
>>836 833だけど
「曹公前鋒屯未就、蒙攻破之、曹公引退。」
この一文。あんま、深く考えてなかったよ。
白文に句読点をうつ段階で間違いがあったかもしれませんしね。
なるほどね。その解釈もありですね。
しかし白文レベルでの考察は、自分はお手上げ
>>836 太祖撃詳,術救之,與戰,大破之.
術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城.
布復從東緡與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵撃,大破之.
布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣.
と、こんな例があるから呂蒙のは句読点の間違いじゃない?
と思ったらこんなのもあるし陳寿さん戦争関係についてあまり因、為、故だけでなく接続詞を使わないんじゃないのか?
八年春三月,攻其郭,乃出戰,撃,大破之,譚、尚夜遁.
韓遂徙金城,入テイ王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,撃,大破之,遂走西平.
淵與諸將攻興國,屠之.
王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解.
王軍摩陂.
一応全部武帝紀からな
古中国語の接続詞などはあまり神経質になってもバカ見るよ
841 :
村雲様と書いてあわびちゃんっ!:2006/10/04(水) 03:53:29
【鮑三娘のガイドライン】
--- 鮑三娘とは? ---
花関索伝説に登場する女性。
鮑員外の三番目の娘でエロ可愛く武芸に優れていたので、
多くの良家の貴公子から求婚されていた。
しかし「自分より弱い者とは結婚しない」と言い放ち、
腕に自信のある者でも鮑三娘に勝つことは出来なかった。
それに挑戦し始めて勝利したのが関羽の三男の関索である。
鮑三娘は関索に心を奪われ結婚し、共に蜀の成都に向った。
二人は常に戦場で馬を並べ戦い続けるのだが、
後に関索は南蛮討伐戦に参加し、戦死してしまう。
そして鮑三娘は一人、葭萌関を守り続けたそうだ。
関索がいつか生きて帰ってくる事を信じて…
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 11:12:34
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>>839 なるほど、確かに余り接続詞を使わないようですね。
「王軍至摩陂」となってもおかしくないでしょうに、端折ったんですかね?
>>840の言う通り、余り接続詞ばかりに気を取られてもいけないかもしれません。
文字通り、>840-841のような馬鹿も見ましたし、
余り漢文ばかり出して重箱の隅を突付いててもスレ違いですし、
私もそれほど原文を読んだ訳でもありませんしね。
845 :
843:2006/10/04(水) 23:17:54
どこを見間違えてたんだ
>>840氏、本当に申し訳ありません…
>>844の言う通り、思いっきり普通に間違ってる…
漢文のお勉強は終わったか。
で、肝心要の
>>832は何処へ行ったんだ?
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 02:20:01
曹操?
ああ。
あいつはよえーよ。
タイシジの持ってる棍棒で3回殴ったら
しまいだろう。
なのになんで蜀は勝てねーのかな。
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 04:51:07
__
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>>847 あのサイズの鞭で殴ったら普通死ぬわw
つまり、
…皇叔、青州を黄巾から救うあたりからやり直して如何?
ってことか?
いや、徐州辺りからじゃないと、流石に厳しくない?
かりそめとはいえ、一応自分の領土「らしきもの」を初めて手に入れる事ができた。
それまでは何もかもが借り物みたいなもので、ろくな部曲も持てなかったんだし。
徐州も期間を考えれば借り物みたいな物だけど、とりあえずは支配下だったんだしね。
>>833 >問題は武帝紀に降服の下りがないこと。降服がいつ行われたか不明。
降伏の時期は>217年春、徐詳に命じ降服を申し入れた。の時期と、
開戦が2月、曹操が軍を引いたのが217年3月である事から2〜3月の間で間違い無い。
開戦から僅か一ヶ月の間に交渉された降伏であり、交渉が早々に決着してる事から
曹操が帰還する前の交渉であると思われる。
>その後の状況からも呉は濡須を退いていないのは明らかなので、
その後の状況は孫権は一旦降伏するんですが、それのどこが濡須を引いてない事が明らかなのか?
むしろ降伏後も濡須口の直近くである居巣に夏侯惇等の駐留を許している事から濡須を維持してる可能性は低くく、
維持していてもかなり分が悪いのだろう、孫権側にとって居巣に大軍を配置されているのは本来ならとても飲める内容ではない。
>呂蒙伝、甘寧伝を否定する記述は他伝にない
武帝紀自体が否定する他伝ですけど?
武帝紀や呉主伝では呂蒙伝や甘寧伝にあるような軍事行動をもっての曹操の撤退ではないね、上に書いたように
降伏の時期は早くて2月、遅くて3月であり降伏後に夏侯惇等が移動した様子は無い事、
呉主伝には呂蒙等の活躍の記述が無い事を考えると、呂蒙らの活躍は戦争の一部を抜粋して過大報告してる可能性が強い、
曹操軍の一部隊を破った、それで一時戦術的な後退をした、というのはあったかもしれないが、
それで曹操本隊が濡須撤退したというのは無いでしょうね。
>むしろ手柄である降服が武帝紀になく、汚点あるはずなのに呉主伝にある。 何故でしょうね?
結局は孫権の降伏が擬態だったからじゃないかね、しかしながらその後の呉は降伏した扱いなので、
降伏した時期はこの濡須の戦いの時期しか有り得ない。
それよりも手柄であるはずの呂蒙・甘寧の活躍による曹操の撤退が記述されてないのは何故でしょう?
>>834 おっとスマン、曹操自身は居巣に引いてないわ。
呉主伝には春に降伏を申し伝えたとあり、曹操が軍を引いたのが3月、時期的にはピタリと合うね。
>>835 晋で陳寿が各資料から検討を重ねて編纂したのが魏書・蜀書、
呉人である韋昭が孫皓の命を受けて書いた呉書をほぼ丸写し(だとさ)で書いた呉書。
まあそういう事で呉書は呉贔屓が強い。
>>851 先ず、呉主伝の濡須は216年冬に開戦である。
何故。呉主伝で降服の記述だけつまみ食いするの?
降服は呉主伝の記述なのだから、この記述に関する濡須の時期も呉主伝に従うべきでしょう。
同じ呉主伝の記述である降服は217年春。一ヶ月と限定できない。
>むしろ降伏後も濡須口の直近くである居巣に夏侯惇等の駐留を許している事から濡須を維持してる可能性は低く、
>維持していてもかなり分が悪いのだろう
濡須の位置を確認しまたか?
あの位置から退いたら、建業は目と鼻の先。
濡須以外のどこで建業を守るのか?濡須のような要害を捨てて夏侯惇の26軍と対峙できるというの?
そもそも濡須から退いたのならいつ孫権は奪還したのか?
いつの間にか呉が再び領有したとでも?なら何故このような大事の記述がないのか?
>武帝紀自体が否定する他伝ですけど?
先ず、その後唐突に孫権が濡須を領有することを説明してください。
出来ればそれについての史料も添えてください。
あと貴方は
>>832で
>呉主伝に記載のある事についても、軍事的に曹操を追い返したと呂蒙伝はそれについて反した記載をしている
このように呉主伝を根拠になさってたじゃないんですか?
呉主伝には呂蒙伝に反する記述はなく、降服後撤退を明言する記述も三国志にはない。
あくまで降服後撤退は貴方の推論ですよね?
>呉主伝には呂蒙等の活躍の記述が無い事
呉主伝には戦そのものの記述がない。
曹操が攻めてきて唐突に降服の記述があるだけ。
降服したから曹操が退いたとの記述もないけどね。
>それよりも手柄であるはずの呂蒙・甘寧の活躍による曹操の撤退が記述されてないのは何故でしょう?
前述の通り、呉主伝には戦の内容そのものが省かれてるからですよ。
呂蒙伝甘寧伝にはありますがね。
>>852 それはフェアな見方じゃないな
陳寿は魏の後継の晋の官吏で、蜀の人。
韋昭が呉贔屓なのはその通りだが、三国志の編者である陳寿は、
呉より魏や蜀を優遇している。
また魏略などの魏書の元となった史料も魏贔屓だし、
陳寿が蜀書にねじ込んだ諸葛氏集目録や季漢輔臣賛などは
三国志呉書とは比較にならない優遇である。
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 14:04:02
呉贔屓の韋昭呉書を丸写ししたということは、陳寿は呉贔屓だったということだよな
曹ヒをヘッドハンティング
>>855 丸写しというが、陳寿によって削られてる部分もあるわけで、
基本的に陳寿の手が加えられている。
蜀に天下をとらせるなんて簡単だろ
関羽がスーパーヒゲ人になればいい。
ビッグヒゲ・アタック一発で魏軍壊滅まちがいなし。
かえす刀でカメヒゲ波→呉軍滅亡。
呉贔屓と言われているみたいだけど、孫権伝は全然贔屓されてない気がする
>>854 >陳寿が蜀書にねじ込んだ諸葛氏集目録や季漢輔臣賛などは
>三国志呉書とは比較にならない優遇である。
俺も最近までそう思ってたんだが、単純に呉書と比べて
蜀を優遇しただけとは言えない処置に見えてきたんだよな
特に諸葛氏集目録を諸葛亮伝の中に残してあることについては
陳寿の一癖も二癖もある史書編纂者としての深み故に見える
なんとかして呂布を上手く使ってたらどうだろうか
・・・無理かねやっぱ
>>853 武帝紀を見ると、孫権討伐に出発して礁に到着したのが11月、曹操が本格的に居巣に着陣したのが正月、
本格的に侵攻したのが2月、なので呉主伝の冬に攻撃を仕掛けたというのはせいぜい小競り合い程度の話だろう。
>降服は呉主伝の記述なのだから、この記述に関する濡須の時期も呉主伝に従うべきでしょう。
なんじゃそら、他伝と読み合わせて推察するのは当たり前だろう、
呉主伝の記述を引っ張るとその後は時期さえも呉主伝の記述に従うべきってどういう理屈だ?
武帝紀は曹操側の軍事行動の詳細時期が詳しく書かれているしな。
>濡須の位置を確認しまたか〜
居巣の位置を確認しましたか?濡須の目と鼻の先だぞ、あんな所に軍勢の駐留を許している事自体が
呉にとって降伏を飲める状況でない、また守り難いからの一旦の降伏だろう。
また濡須の確保についてだが、呉が再び濡須での優位を確立したのは223年だろうね、
223年の曹仁の侵攻ではかつては呂蒙・朱然らが守備したであろう濡須塢・三関が守備の拠点では無く、
濡須城という場所が主戦場で上に挙げた拠点が登場していない事から、濡須塢・三関は219年の侵攻の際に破棄されたんだろう、
それに曹仁に中州への侵入を許すなど以前よりも侵入された場所で交戦しており、やはり呉の戦線はやや後退している。
ただし217年では曹操側も濡須を占拠する気はなかったとも思われる、孫権の降伏を受けての手打ちであると共に、
居巣に留めていた二十六軍もいつのまにか後退させているから、東の劉備を見据えて呉方面は戦線を縮小させたって事でしょう、
濡須は確保するには領土が飛び出ており、一気に呉を攻める気が無ければ確保には難しい土地だろうかなね。
>このように呉主伝を根拠になさってたじゃないんですか
そうだね、呂蒙伝にあるような軍事的勝利は呉主伝に記載されておらず、曹操が軍を引いた3月までに
降伏を申し入れてることから呂蒙の軍事行動で曹操が兵を引いたんじゃないのは明らかだね、あって戦術的な一時後退でしょう。
それに>呉主伝の濡須は216年冬に開戦である。 って自分で書いてるの忘れてるのか。
また呉主伝は戦の内容はわりかし書いている方であり、濡須のような大戦ならあってしかるべきなんけどねぇ...。
省かれてる理由を考えないのかね?
つーか降服後に曹操が退いたという解釈がおかしい。
武帝紀
濡須を攻撃→孫権退却→曹操撤兵
呂蒙伝
曹操襲来→濡須で防衛→曹操退却
どちらも軍事行動の後、撤兵または退却であるのに降服後に撤兵と強弁している。
三国志中のどの記事にも濡須を攻撃→孫権降服→曹操撤兵
これを指す記事はない。
>>865 それじゃ何のために孫権は曹操に形の上でとは言え降伏したのか?
っつー話になるんじゃね?
呉主伝で216年春に降伏を申し入れ、修好したあと婚姻関係を固めてる
武帝紀で216年3月に曹操自身は撤兵したとある
普通に降伏後に曹操が退いたって解釈でいいんじゃね?
>>865 記事は無いけど他伝との読み合わせの推察は出来るよね、
武帝紀>217年2月に濡須を攻撃、孫権退却。
217年3月に居巣に夏侯惇等を残し軍を引く。
呉主伝>217年春に曹操に降伏
孫権の降伏は直に締結されており、春中の出来事なので1〜3月までに行われる、
そうすると降伏の時期は2月・3月しかなく、
曹操が帰還するタイミングを考えれば孫権の降伏は撤兵前と見るほうが自然、
また交渉もあっさり締結されており、交渉する距離を考えれば
曹操本人が濡須かその付近に居た時期である可能性が高い。
>>866 いや、それは可笑しいよ。というか普通じゃない。
三国志中の記事では、
武帝紀呂蒙伝の両者は立場は違えど軍事行動の後に退却という記述だ。
曹操を撤兵させる為の降服なら呉主伝には曹操の撤兵について書かれるはず。
また武帝紀にも孫権が降服したため兵を退いたと書けばいい。
もちろん呉主伝でも降服後に撤兵とはない。
そもそも武帝紀と呂蒙伝の軍事行動の後に撤兵という記事が、
記事にない降服後に撤兵という仮定で覆されるのはへんだよ。
普通に曹操が濡須より退いてから降服でしょ。
降服の理由は、記事がないから推測になるけど一時的な休戦条約でしょ。
劉備にも対処しなくてはならない曹操からしても意味あるし。
>>863 横レス失礼
臧覇伝:長雨で大軍は先に引き返した(注:太平御覧)
呂蒙が先鋒を破ったのと撤退のタイミングが偶然一致したのか
敗戦の理由を誤魔化したのかは分からないけど大軍が一時撤退した記述は魏書にもある
武帝紀:孫権は築城して堅守した
朱桓伝:朱桓は曹仁を誘い出し曹仁は濡須城と中州を攻撃した
普通に考えれば二つの城は同一のもの
濡須城と中州への攻撃は朱桓が意図したもの
ついでに213年にも中州への侵入があったという記述が呉歴にある
戦線の後退を裏付けるものは無い
最後の段落はほぼ同意
呂蒙の軍事行動+長雨で曹操は一時後退
孫権の降伏によって曹操は居巣に兵を残して撤退
これが一番自然な気がする
武帝紀の孫権退却の記述については傍証がない為なんともいえん
攻撃して退却させたなら他伝に記述が残るとは思うが…
>>867 そもそも武帝紀と呉主伝の時系列からして食い違いがあるのに、
武帝紀の時系列に唐突に呉主伝の降服のくだりだけを付け加えるのは如何か?
武帝紀
216年10月呉征討に赴く。11月ショウに到着。217年正月居巣に到着。
2月カク谿に陣し、濡須を攻撃。孫権退却。3月曹操撤兵。居巣に夏侯惇らを残す。
呉主伝
216年冬、曹操は居巣に行き、濡須を攻撃。
217年春、徐詳を降服の使者として派遣、曹操から返礼。
上記のように武帝紀と呉主伝にはズレがあるのに降服だけズレがないとするのは可笑しいし、
そのズレのある時系列を都合良く並べて根拠とするのも可笑しい。
>870
>216年冬、曹操は居巣に行き、濡須を攻撃。
これは先鋒の軍も引っくるめて曹操軍(曹公)て上で誰か言ってなかったか?
そう考えるとズレとか無いんじゃね?
>武帝紀の時系列に唐突に呉主伝の降服のくだりだけを付け加えるのは如何か?
867は両者の擦りあわせを図ってるだけだと思うが?
そもそも
>>865の
>降服後に曹操が退いたという解釈がおかしい。
に対して
>>866の
>それじゃ何のために孫権は曹操に形の上でとは言え降伏したのか?
があるわけで。
それに対する妥当な解釈として
>>867が提案されてるんじゃないの?
>>870が可笑しいというなら
>>866の疑問にどう答えるんだ?
873 :
870:2006/10/07(土) 04:32:13
>>869 自分も同意です。
臧覇伝でも曹操が大軍を濡須から退いて、
その後、孫権が降服してから曹操は帰還したとあります。
つまり濡須から撤兵は軍事行動のため
夏侯惇らを残して帰還したのが降服後とするのが自然と思います。
>>870 >これは先鋒の軍も引っくるめて曹操軍(曹公)て上で誰か言ってなかったか?
それなら武帝紀で216年冬に攻めさせたとの記事があるでしょう。
>>871-872 理由は868で書いている。
「降服の理由は、記事がないから推測になるけど一時的な休戦条約でしょ。
劉備にも対処しなくてはならない曹操からしても意味あるし。」
217年に魯粛が死んだようだがそれとの関連は?
その時点で魏呉の間に密約があったということか?
結局、どうやったら蜀が天下を取れたのですか?
>武帝紀
>216年10月呉征討に赴く。11月ショウに到着。217年正月居巣に到着。
>2月カク谿に陣し、濡須を攻撃。孫権退却。3月曹操撤兵。居巣に夏侯惇らを残す。
>呉主伝
>216年冬、曹操は居巣に行き、濡須を攻撃。
>217年春、徐詳を降服の使者として派遣、曹操から返礼。
これのどこにズレがあるわけ?
春ってことは3月までがそうなんだから、それほどズレてるとも思えんのだが?
そもそも対陣中の降伏なら春じゃなく正月と記しそうなもんだが
結局のところ”元々戦果を過大気味記述してる呂蒙伝”てのは嘘なの?
紀伝体だからそれは嘘ではないと思うが、それは呂蒙伝に限らないというだけでは
880 :
.:2006/10/07(土) 16:50:48
216年の濡須は甘く見積もっても、魏7割 呉3割って所だろうな
どう考えても呂蒙・甘寧の活躍で一方的に追い払ったすげーとはならない
216年の濡須は甘く見積もっても、呉7割 魏3割って所だろうな
どう考えても曹操が孫権をに退却させたすげーとはならない
呂蒙らは曹操の先鋒の一部隊を挫いただけだろうな。実際のところは。
全体への影響は大したことなさそう。
曹操本隊は濡須の孫権に圧力を掛け、それに耐えかねた孫権は降伏を申し入れる。
曹操も攻めきる決め手がなかったのでそれを受け入れた。
こんなところじゃないの?
>>882 いや、だから臧覇伝に、
曹操の大軍が長雨で濡須より退却してから
孫権は降服して、その後に曹操は帰路についたんだって
圧力は居巣からでもかけられるから否定しないけど、
濡須での戦闘は曹操が退却してるの
そもそも長江下流域から呉方面へ進軍できるのか?
>>883 その記事、張遼の陳蘭討伐のすぐ後だから213年の濡須攻めの可能性はないの?
>>885 流石にそれはないかと、
孫権が降服していて、なおかつ臧覇が夏侯惇と共に居巣に残ったわけだから、
夏侯惇伝などからも217年の事だと思う。
>>886 いや、今はちくまの訳だけを見てるんだけど、大雨記事と孫権降伏記事の間には「のちに」と言う言葉が入ってるんだよね。
時制が違う可能性があるんじゃないか?
>>887 霸従討孫権於濡須口。 與張遼為前鋒、
〜中略〜
拝揚威將軍、仮節。
後権乞降、太祖還、留霸與夏侯惇等屯居巣。
だね。
あくまでも私見を述べると、
降服を乞うた後、曹操が帰還となってるわけで、
拝揚威將軍、仮節。で区切るなら太祖還は必要ないと思う。
これは前文の「霸從討孫權於濡須口。〜略〜」
に掛かってるためじゃないかな、と思う。
残念ながら胸はって自身持っての意見じゃないので、
だれか、一緒に検証してくれるとありがたいです。
孫権が曹操を結果的に押し返せたからこそ、臣従したというのもありだな。
890 :
.:2006/10/07(土) 21:33:31
増水してる長江を背にして対峙するってのは相手も攻めずらいけど守る方も大変なんだろうな
213年は董襲、222年では呂範の軍が風やら水にやられてるし
曹操は居巣まで下がって疫病だけを気にしてのんびり見てられても守る方は場所選べんからなぁ
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 23:03:59
だから
曹操はタイシジの棍棒で殴ったら何発で死ぬのかって事。
その程度だろ?魏って。
ダイシジの棍棒って何?
呂布鉄アレイ理論はもういいから
横から失礼。
濡須戦の流れを妄想込みで纏めてみる。
216年10月 曹操、閲兵を行い、孫権討伐の軍を興す。(武帝紀)
216年11月 [言焦]に到着。(武帝紀)
216年12月 曹操、合肥へ到着。215年に張遼が戦った場所を巡察。(張遼伝)
曹操、居巣に陣を布き、濡須へ侵攻する。※1(呉主伝)
217年01月 曹操、居巣に陣を布く。(武帝紀)
217年02月 濡須に向けて侵攻開始。曹操は江西のカクケイに駐屯。孫権らは出城にて迎え撃つ。
曹操は攻め続け、孫権は退却する。※2(武帝紀)
呂蒙が曹操軍の先鋒が整っていない内に攻めて打ち破る。(呂蒙伝)
暴風の為に董襲の船が転覆して崩壊。董襲死亡。(董襲伝)
曹操軍の先鋒である張遼・臧覇が命令によって軍を引く。※3(臧覇伝)
217年03月 孫権が曹操の元に徐詳を送り、降服交渉開始。※4(呉主伝)
曹操は軍を引き上げさせる。夏侯惇、曹仁、張遼、臧覇は居巣に駐屯。(武帝紀・臧覇伝)
孫権の降服が締結。曹操は返礼の使者を送って誼を修し、婚姻関係を結ぶ。※4(呉主伝)
曹操、帰路につく。(臧覇伝)
217年04月 献帝が曹操に警[足畢]の特典を許す。(武帝紀)
※1 曹操の率いてきた軍が12月中に居巣へ到着していれば、呉主伝の冬だというのはおかしくない。
それに、曹操自ら南下して合肥まで来ていれば、呉としては既に侵攻してきたとみなす事も出来る。
また、張遼が戦った場所を巡察していた為に曹操自身の到着が遅れ、
それから曹操流の布陣を整える為に年を越していたなら、武帝紀の1月もあてはまる。
そして作戦等を決定し、実際に軍を展開させて戦闘したのが2月、という所だろう。
なお、曹操の進行ルートとして考えれるのは、[言焦]→寿春→合肥→逍遥津→居巣と思われる。
※2 カクケイの位置が不明。誰か知っていたら教えて下さい。
また、孫権が迎え撃ったという出城の位置も不明。濡須塢から引いたとは書かれていないし、
濡須塢を奪い返したという記述も無いので、恐らく東興や東関の辺りに築き、濡須塢に引いたのだろう。
※3 悪天候の影響か呂蒙の所作か、張遼も撤退しようと考える程、兵の士気は落ちていた。
董襲の船が崩壊する程の豪雨、暴風も相まって、曹操軍はこれ以上の侵攻は無理だと考えただろう。
(ただし、董襲伝には年月の記述が無いので、213年の事かも知れない)
また呂蒙伝には、この時呂蒙は以前に濡須に築いた保塁によって防いだ、とある。
先鋒の出鼻を挫いて良く防いでいただけでも十分な戦功であるし、
曹操からの命令とはいえ、敵が攻めて寄せている時点での退陣なのだから、
この出来事を呂蒙が曹操を「打ち破った」と見えてもおかしくは無いだろう。
※4 呉主伝では「春」、武帝紀では3月としか書かれていない。
その為前後関係が不明であるが、多分こんな流れ。
恐らく、曹操が軍を引いたというのは居巣、及び合肥までの事で、
退却とか敗走というニュアンスではなく、撤収といったところだろう。
孫権の交渉開始までの最前線が居巣から濡巣口を繋ぐ川(名前分かりません)の辺りならば、
特に双方の記述に矛盾は出ないと思われる。それにしても曹操、帰る足が妙に速い。
>>894-895 おおわかりやすい
混乱してたのがすっきりした。
でも検証する能力はない。。
>>895 郝谿の位置は分からないが、羨谿の間違いという可能性もあると思う。
羨谿も江西にあり、後年、曹丕が南征を企図した時に揚州方面で作戦した曹仁は、
蒋済を羨谿に向かわせて陽動としている。
この曹仁の用兵が、曹操による濡須攻撃を参考にしたものならば、
郝谿は羨谿であった可能性も出てくるだろう。
羨谿へ前進したとすれば、横江津より牛渚へ渡り、建業を狙う態勢を敵に示す目的があったと考えられる。
これで敵を城(濡須塢)から誘き出し、平地での会戦で一挙に勝利を得ようと図ったのだろう。
記述と合致させるなら、孫権自体は動かず、濡須塢の東方に野戦築城によって簡易要塞を築き、
そこに将兵を置く事で曹操に備えたと考えるのが自然。
これで、魏軍が長江を渡ろうとしたならばその連絡線を襲おうとしたのだろう。
この城を放っておくわけにもいかず、当時駐屯していたであろう牛渚の全jを抜くのも困難だった為、
方向を変え、出城を突破して濡須塢の正面攻撃に踏み切ったのではないだろうか?
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 04:01:40
まあ年齢を加味したら劉備や関羽、張飛が生きてる間は無理じゃないか?
もう三国になった時点でかなりのオッサンだから。
もっと早くから三国とかならわからんが。でもそれだと孔明に出会わないしな〜。寝返りさせまくるしかないな。魏に。
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 07:02:29
>>898待てや。
チヤンスはかなりあるどえ。あきらめなさい。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 07:33:04
意味わからん
>カク谿は羨谿の間違いだったのでは?
ttp://www.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-nh50-3.jpg ↑の現代の地図を参照しつつ、この意見を考えてみましたが、その可能性もありますね。
なお、羨谿は地図上では裕渓鎮と名を変えているようです。(清谿も清渓鎮となっている)
直線距離にして約40km。現在の鉄道と同じルートを取れば、約4日の日程で到着出来るでしょう。
しかし、そこから濡須口(地図では「無為」)を見やると、野戦に向いているとは思えない川の量です。
形からして用水路だと思いますが、これが当時からあった場合、カク谿はもう少し西側だった、
という事も考えられなくはありません。
が、どちらにせよ、東関から羨谿までの地域に布陣した事は間違いないでしょう。
>そこに将兵を置く事で曹操に備えたと考えるのが自然。
私は逆に、濡須塢を呂蒙に任せて、孫権自身が築いた出城から出撃したのではないか、と思います。
もし他の将を派遣していたのなら、その将の名が誰かの伝に載っていても不思議ではありません。
また、名前が残らない程の将を、あの曹操に当てるとも思えません。
仮にこれが呂蒙だとすると、「拜蒙左護軍,虎威將軍.」の記述が、何の手柄の物なのか謎になります。
ですので、孫権自身が敗れて濡須塢に退却→呂蒙が先鋒を破って出鼻を挫く→膠着
という流れになり、そこで初めて降服交渉が行えるようになったのでは、と考えています。
で、曹操軍を引いたのは、孫権の降服前か降服後か。私は降服前だと思います。
上に書いた通り、交渉開始は呂蒙が曹操軍の先鋒を破った後だと考えています。
221年に曹丕に臣従を申し入れる時でも、趙咨が「ウチの殿はスゲェから。臣従は一時的なもんだ」と、
遠まわしに言ってたり、沈[王行]にしても「攻めて来ても、守る方法はあるから」と言ってみたり。
となると、この時の降服にしても「兵を引き上げたら降服してやる」くらい言ってのけたかもしれません。
事実、魏は濡須塢を抜けなかったのですから。
そうであるなら、交渉開始→軍を居巣へ引き上げ→降服→曹操、北へ帰る。
という流れになったのではないか、と推測しています。
反論が出ないようであれば、そろそろ蜀の事を思い出してあげようと思います。
>>901 「権在濡須口」という記述から、孫権は動いてないと考えたが、
その後の「築城拒守」という記述を考えると、孫権自身が城で守ったと考えても良いかもしれん。
その場合、この城は濡須口からさほど離れていない場所にあったと見ていい。
そもそも、羨谿に主力を移動させるのは博打に過ぎるので、
これは曹操自身が率いた数千から1万程度の精鋭だったのかもしれん。
主力を居巣に留め、自身は精鋭を以って迂回し、濡須塢の後方に進出する。
敵が動かなければそのまま連絡線を遮断し、対処の為に軍を分散させれば、
残した主力を南下させて濡須塢を突破する、という作戦だったのだろう。
こちらの方が「曹操の作戦」という感じもするし、後の曹仁のものにも酷似している。
孫権は濡須塢を呂蒙に任せ、自身は濡須口まで退いて曹操に備えた為、
これを見た曹操が城を攻撃しつつ、主力を南下させた。
曹操率いる別働隊は孫権を破り濡須口まで圧迫したものの、
主力は濡須塢を攻撃したが、先鋒が攻撃に失敗した上、大雨で前進が困難になった為、
戦線が膠着し、降伏交渉に至ったのだろう。
ちょっと違う提案をしてみる。
武帝紀の「築城拒守」ってのは濡須塢の事なんじゃないかな、
曹操側では濡須塢の事を城と捉え、呉では「據前所立塢」になると、
そうすると曹操側の先鋒である張遼・臧覇が大雨による準備不足と敵が接近した来た為に撤退したという記述と、、
呂蒙伝の「敵が布陣を終える前に攻撃して勝利した」という記述に一致する。
ただこの撤退は一時的なものでそのまま続行して攻撃を仕掛けたor対峙し続け、
その間に呉側から降伏という形をとった停戦が持ちかけられ、孫権側は濡須塢を退去、
(この戦い以降名前も出てこないから退去と同時に呉か魏によって破棄でもされたんじゃなかろうか)
曹操側も居巣まで下がり停戦、それが武帝紀では孫権の退却として書かれた、みたいな流れを予想。
また呉が降伏という形を取ったのはやはり戦争自体は魏が有利だったからではないかと、
濡須塢まで迫れてる時点で東関は抜かれてるだろうしね。
>>903 一方的に優勢だったらそのまま行ってたと思うなあ。
孫権は曹操の出鼻をくじいて、守勢に回りながらも意気が上がっており、
曹操は依然として全体的には優勢なものの決め手を欠いてた。
こんな感じじゃないかな?
>>904 うん、俺も一方的に優勢だったとは思って無いよ。
むしろ貴方の意見に近い、曹操側も決め手に欠いていたと思う。
また蜀では劉備が躍進していたから呉と手打ちしたかったという理由もあるだろうね。
>>903 濡須塢は211年に築かれてるから築城って表現はおかしくない?
東関に関しては後年まで呉の支配下にあったのは確かで魏が奪った記述も呉が奪い返した記述も無いと思う
魏軍は濡須口まで迫ったという記述が武帝紀にあるけど濡須塢と東関を抜いたという記述もないし
朱然伝の記述では213年か217年かは分からないけど濡須塢と三関屯(東興?)は守っている
213年にも濡須口まで進んだという記述があるので濡須塢をスルーして濡須口までいけるものなのかな?
> ただこの撤退は一時的なものでそのまま続行して攻撃を仕掛けたor対峙し続け、
> その間に呉側から降伏という形をとった停戦が持ちかけられ、孫権側は濡須塢を退去、
> (この戦い以降名前も出てこないから退去と同時に呉か魏によって破棄でもされたんじゃなかろうか)
> 曹操側も居巣まで下がり停戦、それが武帝紀では孫権の退却として書かれた、みたいな流れを予想。
ここら辺はほぼ同意
濡須の戦いの問題点は魏書に殆ど記述が無い事と213年か217年か分からない記述が多い事だね
>>906 自己レススマソ
郝谿の事忘れてた
郝谿→濡須口っていう経路なら濡須塢と東関は関係ない可能性が高いのね
そもそも東関は、堤防が築かれたのが229年なので、この頃は堤も城もない。
濡須水の両岸が狭くなっている場所ではあっても、そのまま船は通せる。
ただ、退路は遮断されやすかっただろうから、濡須水が増水している状態で、
主力を通すのは危険だろうね。
>>906 >濡須塢は211年に築かれてるから築城って表現はおかしくない?
これは確かにおかしいと自分でも思いながら書いた、ただまあ過去に築城したのを表してる
んじゃないかと、結構強引に解釈してみた。
>郝谿→濡須口っていう経路なら濡須塢と東関は関係ない可能性が高いのね
ここは「郝谿は羨谿ではないか?」という流れを受けて書いた、
ただ長江西って事は居巣から東側なんで、居巣の直ぐ横にある東関は避けては通れない場所、
ここを大軍でスルーしたってのは考えられない、朱然伝では大塢及三関に駐屯していたとあるので、
三関を実際に守ったのかは不明、多分大塢に収容されたんじゃなかろうか?
後の223年でも東関はスルーされて羨谿へ攻撃されてるから、ここも放棄されてると思う。
で、213年の記述だけど武帝紀では濡須口と書いてるものの、実際には濡須口まで進軍してないん
じゃないだろうか、臧霸伝の記述でも213年の戦いの記述は居巣らへんでの戦いが中心、
張遼等も合肥に駐屯させてるし、とても濡須口まで進軍したとは思えない。
217年でも武帝紀は濡須口って書いてるし、濡須口=濡須って認識っぽい気がする。
ここで、東関=孫権の出城という珍説を立ち上げてみる。
曹操侵攻の報を受けてから実際に戦闘に入るまでに一、ニヶ月の期間がある。
簡単な砦のような物なら、作るだけの時間はあったと思う。
若しくは、東関=カク谿。
これはまだ調べていないので、間違いである可能性が非常に高い。
217年以前に、魏書の中に東関という記述が出てくれば間違いと言える。
呉書や蜀書の中に出てきても、魏が改名したという可能性もあるので、
こちらは説得力に少々欠ける。
墨俣一夜城じゃねーんだからさ…
徐盛が成功させて曹ヒを追い返してなかったっけ?
対魏・漢中→法正
対魏・荊州→鳳統
対呉・荊州→馬謖
が妥当だと思うが。・・・・・・
馬謖がきらいか?
馬謖はきらいじゃないが…
諸葛亮や馬良を差し置いて、何故馬謖なのかを聞きたい。
諸葛亮は国政の中心になるから動かしにくいんじゃない?
なら北伐を指揮しないよなw
> 対魏・漢中→法正
> 対魏・荊州→鳳統
> 対呉・荊州→馬謖
ていうか彼らは何をやるの?
てか、どの時代の話なのかはっきりさせてくれ
それが可能な時期っていうと、
劉璋を張魯から守る為に駐屯してて、劉璋から援軍及び補給が受けられた時期。
つまり、211年、劉備が葭萌にいる頃になる。
この時なら、関羽も張飛もホウ統も法正も生きていた。
ここで本当に張魯を討伐し、曹操よりも先に漢中を手に入れていたら、どうなっただろうか?
その前に、漢中が取れるかって話になるだろうが。
ほぼ24時間反応が無いから続きを書いてしまおう。
先主伝によれば、劉璋が劉備を招いたのは、曹操が張魯を討伐し、
その物資を用いて蜀に侵攻してくる事を恐れての事だったという。
ならば、劉備が張魯を討ち、漢中を基盤として曹操の障壁となってくれるならば、
援助を惜しまないであろう事は、その歓迎ぶりからも想像できる。
また同じ211年は曹操は馬超を討伐したばかりであり、涼州はまだ安定しておらず、
漢中を攻めるにしても全力を向けるという訳にもいかないだろう。
(実際、降服に至るまでには数回の戦闘が行われているはず)
となれば劉備としては、張魯にはその命や地位等を保証する事で降服を迫り、
馬超には父・馬騰とは盟友であった事をタネに帰順するよう申し入れる。
馬超にしてみれば、父や兄弟を殺した曹操、余り頼りにならない張魯と比べれば、
劉備につく事を選ぶだろう。
上手くいけば、漢中を手に入れて、要害と張魯の手勢を頼みに曹操軍を撃退し、
張魯が降服を良しとしなければ、馬超の手で始末させる事も出来るかもしれない。
そうして漢中を手に入れられたら、後は色々やる。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/13(金) 08:09:21
過疎ってるな
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/13(金) 08:27:54
三戦ではよくあること
無駄なレスがつかないんだからいいことじゃないか。少なくとも良スレなんだし。
しかし最近は地図や気候など当時の現地の情報をもとに考える人が増えてなによりだ。
三国検索?だったかな?の人も地図にはまって歴史考察どっかいっちゃうくらい、地図見るのは楽しい
では再開
なんのツッコミもないから、漢中を取ったとして、さらに妄想してしまおう。
先ず、荊州との連絡。関羽に上傭を攻めさせ、南郡との連絡線を確保する。
これで劉備勢力の地盤を強固にしよう。
強いて言うなら襄陽が欲しい。そして漢水を使っての連絡線を確保したい。
次に漢中の人事。
張魯がまだ健在ならば、曹操の仕業として始末する。残りは適宜に扱う。
それと馬超・ホウ悳らが居るはずだが、よほど偏屈で無ければ劉備に従うだろう。
参謀としてホウ統を付け、馬超・ホウ悳・馬岱らを涼州に派遣し、取り戻させる。
漢中から劉備が長安を睨んでいる為、涼州の曹操軍が長安から増援を受けられる可能性は低くなるし、
馬超らには土地勘もあるし、涼州を奪い返すのはそこまで困難でもないだろう。
長安奪取はその後の話になる。
次は外交問題。対益州から。
法正・孟達・張松らが「早く益州取れよ」と言うだろうが、暫くは我慢。
曹操の脅威が去ったとして、こちらの要求を突っぱねる事があったら、
それをタネに攻め込む予定だと納得させる。なので、さらに援助を要請する。
また、彼らにはもっと同志を集めるように依頼しておく。
孫権勢力には「益州取れてないから荊州返さない」と突っぱねる。涼州を取れても同様。
しかし史実のように、痺れを切らした孫権が荊州を奪いに来るかもしれない。
その為、張飛・趙雲・諸葛亮は荊州に残しておく。
特に、諸葛亮は呉とは同盟を組み続ける必要がある事を承知しているはずなので、
交渉も上手く事を運んでくれるだろう。
>>923 壮大なifと言うのは、不確定要素が多すぎてどう突っ込んだら良いか分からんのだが、少し疑問点を。
降ったばかり馬超勢力に涼州を任せるのは不安だし、後年、姜維ががら空きの関中に兵を進ませた時、
秦嶺の出口をがっちり固められ、それいじょう進めなかった事を考えれば、
長安には或る程度の戦力を残しつつ馬超らを掃討する事は可能だろう。
そもそも遠征を行うには相応の準備が必要なので、漢中取ったからすぐに涼州を、とはいかない。
諸葛亮とて、231年の遠征の後、3年もの準備期間を要したし。
益州を領有化しておらず、あくまで同盟勢力の領域を通過しているだけと言うのも不安要素だろう。
漢中だけでは大軍を支える事はできないだろうから、当然益州からの援助や、
荊州からの長い連絡線の維持が必要になる。
ともすれば、張松らの企みが露見し、劉璋に剣閣付近を押さえられて漢中に孤立する羽目になりかねない。
劉備にとって都合の良い仮定を幾つも設けなければ、例え張魯を討伐し漢中を領有したとしても、
史実より情勢が好転するとは考えにくい。
> 対魏・漢中→法正
> 対魏・荊州→鳳統
> 対呉・荊州→馬謖
内容をどうこう言う以前に、上の配置図を実現させる為だけに
そこまでifを重ねる必要性を感じない(まあ意味不明な配置図だけど)
単にラク城でホウ統が戦死しないで、その後に荊州に配置されるっていうifだけで済む。
また先に漢中を攻めるっていう行為は背後・根拠地が不安定な上に、飛び地の領土を維持する困難さに加えると
先に益州を確保して後背と根拠地を固めた史実の展開より遥かに安定度で劣る。
>張飛・趙雲・諸葛亮は荊州に残しておく
これでどうやってスムーズに戦闘を行う?
妄想は自分のblogにでも綴れ
>>924 「漢中を曹操よりも先に取れるか」。先ずここから考えてみるべきかと。
正直、
>>918の時点でツッコミ来ると思ってたんだけどなぁ…。
>>918の時点でIFが始まっているのだから、それ以降も当然IFになる。
なので、基点である漢中取り以降、余りツッコミ入れられても返す言葉はほとんど無いですよ。
ただ、漢中を取った後に先ずやる事は、荊州との連絡線を確保する事でしょう。
「涼州はそんなすぐに取りにいけない」「なら荊州との連絡線確保に尽力すれば良いじゃない」
「人ん家の道借りるだけじゃ危なくね?」「なら荊州との連絡線(ry」
「企みが露見して劉璋に(ry」「なら荊州との(ry」
それ以外でも、こんな感じになりそうですし。
>>925 >そこまでifを重ねる必要性を感じない
むしろ、その配置図を生かすだけなら、葭萌に行く際にホウ統と諸葛亮を入れ替えるだけで良く、
益州を取ったり漢中を取ったりした後で荊州に移動よりは、
最初から荊州に配置して、魏・呉に当たらせるとした方が自然でしょう。
ただ、葭萌に赴く際、何故諸葛亮ではなく、ホウ統を連れて行ったのか。
ホウ統じゃなければいけない理由があれば、
>>925同様、「戦死しなければ」というIFになろうだろうけど。
>>926 >これでどうやってスムーズに戦闘を行う?
誰との戦闘をスムーズに行う気で?
漢中入りを果たし、劉璋が援助を惜しまないままで長安を攻めようということになれば、
その三名も漢中に呼ぶor荊州から襄陽・洛陽へ北上させるとか、やりようはあるでしょう。
それとも、その三名が居なければ漢中は取れないという事?
そうであるなら、劉備と張魯の戦力・地勢・人物等を比較して検証してみて欲しい。
>>927 >>918はお前なんだろ
自分で漢中がとれるかどうかと言っているのに、人に検証しろとは大した態度だな
戦力・地勢・人物を検証したんなら、それを記すのが道理だろうに
926みたいな奴にそんなこと言われたくないな
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 22:27:06
そもそも人材の面から見ても蜀の統一は無理じゃなかろうか
>>930 昔、この手のスレで人材に重点をおいたやつがあったけど、実在した人物では
不可能って結論にはなってる
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 22:55:04
劉備なんて空想の人物なんだぜw
劉備とバトウが盟友って・・・
しかもそれで帰順しろって・・・
しかもどうやって張魯の始末を曹操の仕業にするんだw
先に漢中に入ってる限りどう考えても劉備の仕業ジャン。
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 02:00:40
雄飛するまでが長すぎたよね それゆえドラマになるんだけれども
いかんせん人いなさすぎ 人は城ってやつだね
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 02:04:23
>>935 >人は城ってやつだね
確かに。
劉備よ。天下を獲りたかったら、信玄公に学べい!
信玄は天下取ってないじゃん
そんなのに学ぶ必要もなく
周[王愈]が健康だった場合の妄想。
益州を占領に成功し、馬超・張魯と同盟して曹操包囲網結成。
史実とは違うメンバーで益(周[王愈]軍)・荊(劉備軍)同時侵攻+馬超+呉軍
この圧力に魏は滅亡の瀬戸際、劉備はどさくさにまぎれて中原一帯を押さえる。孫権は徐州奪取。
孫権は同盟破棄して荊州を奪取、劉備はこれを受けて魏と講和、天子を確保。徐州侵攻。これを奪う。
馬超は日和見を決め込む。周[王愈]は益州経営を磐石とするため漢中討伐。
敗北のストレスにより曹操憤死。魏国分裂。劉備は魏領を取って急速に力をつける。
周[王愈]の北伐開始。領土の近い馬超がこれを受けて劉備と共同作戦を発動、
益州軍壊滅、周[王愈]戦死。劉備馬超連合軍益州奪取。
領土問題から劉備と馬超が激突、戦闘の末、馬超軍壊滅。劉備軍勢いで涼州も制圧。
益州を押さえていたホウトウが常に劉備のそばにはべる諸葛亮への嫉妬から
独立を宣言。呉と同盟を組む。
だめだ、三国鼎立してしまった。
940 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 02:32:22
周瑜が一気に蜀取りまで成功してれば魏は存在してないだろうよ
曹操は朝廷や冀州方面を抑えるのに苦労するはず
君主が劉備ってのがもうダメ
考証というより妄想すぎる。
ドサクサ紛れに中原ダッシュとか敗北のストレスで曹操憤死とか・・・
もしかしてここって考察じゃなくて妄想スレ?
そうだったらスレ違いなので消えますが・・・
943 :
918:2006/10/15(日) 03:16:33
自分にツッコミ入れつつ、まずは漢中が取れるかどうかを書いてみる。
まず、張魯が降服するか否か。
張魯自身は曹操に対して降服しようとしていたそうだが、
弟の張衛が頑なに反対した為に合戦になったという。
つまり、張衛隊が無傷でいる限り、交渉の余地は無い。
それと張魯の元にいる馬超を取り込む件だが、
劉備が益州平定に乗り出したのは212年頃で、馬超が張魯の元に来たのは213年頃。
つまり、211年〜212年までだと馬超は漢中にはいない。
その頃はまだ曹操と戦っている最中である。
以上二つの点から見ても、漢中を取るなら劉備は戦を行わなければならない。
少なくとも、張衛は劉備勢で撃退しなければならない。
決戦場は陽平関か、迂回して定軍山かが考えられるが、補給線を考えれば陽平関だろう。
劉備側の兵は約3万、張魯は曹操との戦では数万だったというが、適当に5万だとしておく。
土地に明るい法正もいるし、軍略は孔明を超えているとされたホウ統もいるし、勝てない数ではないだろう。
が、張衛の防衛手腕は、正攻法なら曹操でも抜けなかった程である。(落せたのは運が良かっただけ)
陽平関を張衛が守っていたなら、定軍山方面から漢中に侵攻する風を装っておびき出して撃破するか、
「張衛は兄に取って代わろうとしている」等の流言を広めて退けさせるなどして、
陽平関を奪う事が出来れば漢中入りは果たせそうだが、どうだろうか。
>>942 考察とネタが混ざってるスレ
>>939も自ら妄想って書いてる時点でネタでしょ
しっかりオチも書いてるし
945 :
華康敦:2006/10/15(日) 07:21:32
蜀はもともと関羽が呉からのケイ州折半の要求をつっぱねっちゃったから夷陵の戦いが起こってしまったので関羽も悪い。
夷陵の戦いの時黄権の進言を入れなかった劉備も悪い。
第1次北伐で魏延の策を入れなかった孔明も悪い。
民や国の事を考えないで北伐を繰り返す姜維も悪い。
劉禅や黄皓、馬ショクは全く悪くない
kuma-
>>943 白水から北上するんだから、陽平関ではなく金午道経由で西南から漢中侵入でしょ。
そうなると、途上突破しなければいけないのは関城になる。
陽平関を突破するにしても、関城を手に入れてから嘉陵江沿いに北上して武都経由で南下、
という方法で陽平関に出なくてはならないし。
関城を突破した後は、漢中南西部で漢水を挟んで対峙、という事になるだろう。
張魯陣営も後の夏侯淵や張郃、徐晃に郭淮などを擁していた魏の漢中駐屯軍に比べれば、
そこまで難敵とは言えないだろう。
会戦によって撃破し、一挙に漢中を手に入れる事も可能かもしれない。
だから最大の問題は、いかにして関城を突破するか、という事になる。
948 :
.:2006/10/15(日) 11:26:34
当時の劉備じゃ兵力がたんねーんじゃねーの?
ラク城ですら落とせない程度なんだから
まぁ劉璋が全力で援護すれば可能かも知れんが
>>948 兵力の問題や、後方の不安があったな。
劉備の兵力は開戦時で3万強、関城を楽に突破したとしても、
種々の摩擦を考慮すると、漢水沿岸での会戦に投入できるのは2万強だろう。
張魯の方は4万程度は確保できるとして、倍程度の戦力差の会戦に勝利すれば良いが、
少々厳しいかもしれないな。
兵力差を考えると、漢中で行うのは会戦ではなく、迂回や正面変更などの機動を駆使した、
陣地戦のようなものでなければいけないかもしれない。
ただ、そうなると時間を掛けすぎて曹操が南下してしまう恐れもある。
勝利できる公算はかなり低いかもしれない。
>>947 >途上突破しなければいけないのは関城になる。
もちろんそうです。そして陽平関は関城から北東、さらに東に行った所に漢中があります。
陽平郡は白水より西にありますが、陽平関は北東です。
わざわざ武都まで行って南下する必要はありません。
>だから最大の問題は、いかにして関城を突破するか、という事になる。
関城突破も大事ですが、関城を落したとしても、張魯が降服するとは思えません。
最重要拠点である陽平関は張衛が守り、関城は派遣された諸将による防衛と思われます。
なので、やはり陽平関を落す事が最大の問題だと考えます。
>>948、
>>949 劉璋が劉備を招いた経緯を考えれば、援助の方で心配はないでしょう。
成都を襲うなどという事は考えておらず、「傭兵」劉備を信用していると思われます。
最初の歓迎ぶりや、兵・金などの援助、法正まで付けてくれている事からもそれらが窺えます。
だけど、自国の兵力をそこまで大量に貸してくれるとは思えないな。
>>952 ttp://2ch-news.net/up/up23795.jpg 関城は漢中の南西(8:B左上隅)にあり、陽平関はそこから北東へ行った所(8:A中央下)。
漢中はそこからさらにほぼ真東へ行った辺り(9:A左下隅)。
漢中から見れば陽平関は西北というほど北でもない。
ttp://2ch-news.net/up/up23796.jpg また現代の物だが、こちらの地図を見てみると、(137:111)にあるのが定軍山で、
そこからさらに西へ行った所に陽平関だったであろう場所があるはず。(見つけられなかったが)
等高線を見れば分かる通り、北側は険しい山岳地帯になっているので、そこからでは軍を進められない。
その為、曹操軍は陽平関まで南下せざるをえなかったのだろう。
>陽平関を経由せずに漢中に侵入したであろう事、
陽平関を落し、そこから定軍山へ向かって陣を布いた、と先主伝にあります。
漢中を平定したのがその後である事はご承知の通りでしょう。
>陽平郡
陰平を見間違ってた。申し訳ない。
>>953 あなたの認識では、漢中から西へ抜ける唯一の道は陽平関を越えるものであると?
漢中戦の推移はこのスレでも幾度か述べたが、魏軍が最後まで陽平関を守っているのは、
張郃伝などから分かるが、もし陽平関が魏の手にあり、且つ蜀軍が漢中の中にいたならば、
あなたの認識では蜀軍は漢中で完全に孤立している事になる。
これでよく諸葛亮から兵員の増援を受けられたものだ。
更に言えば、一度落とした陽平関を、それも漢中西部と蜀を結ぶ唯一の道路を、
ろくに備えもせず簡単に魏に奪い返されたと言うのなら、劉備とその幕僚はよほどの無能ということになる。
米倉道がある、と考えるかもしれないが、大巴山脈を突っ切る険しい一条の道を、
全軍の補給と退却に使うなど愚策もいいところだし、それほど離れた所にいながら
適宜陳式を馬鳴閣に向かわせた、といった事の説明が困難になる。
関城から漢中へは、陽平関や沔陽の南に出る道があったと考えた方が辻褄が合うと思うがね。
>あなたの認識では、漢中から西へ抜ける唯一の道は陽平関を越えるものであると?
そんな事を言った覚えはありませんが…。
>関城から漢中へは、陽平関やベン陽の南に出る道があったと考えた方が辻褄が合うと思うがね
道の名前までは知りませんが、定軍山の南東へ抜けられそうな、
むしろ、漢中まで抜けられそうな、比較的緩やかな地形があります。
そこを通って行く事も可能でしょう。
張衛が陽平関を守らずに別の街道で守っているなら、そこへ向かわせる方が良いですし、
それで陽平関まで行かなくて済むなら、それに越した事はないでしょう。
私が陽平関にこだわっているのは、そこを反投降派である張衛が固めるであろうと言う事。
そして、張魯を降服させるには、張衛を軸とする防戦派を降さなければならない、と言う事です。
これを前提として話を進めています。
にも関わらず、陽平関を無視して直接漢中に迫っても、後年の徐晃の如く、
背後から回られて馬鳴閣を襲われ、連絡線を切られてしまう恐れがあります。
漢中を襲われても張衛が動かないならば、無視して漢中に迫るのもありでしょうけど、
そんな事はありえないでしょう。
ましてや、今回の劉備は巴中も抑えておらず、そちらからの苦労する援助も期待出来ません。
仮に、張衛が関城を守っていたとして、これを破ったとしても、
本国まで逃げられてしまったら、やはり陽平関を固める事になると思われます。
捕虜に出来れば言う事はありませんが、城攻めになる時点で余り期待は出来ないでしょう。
その為「陽平関へ向かう」と言っている訳です。
>>955 別に陽平関を無視するなんて一言も言ってないが。
陽平関は側面陣地にはなるものの、南鄭へ前進する際の直接的障害にはならないだろう、という事。
それに張衛がわざわざ陽平関に籠もるなら、劉備としては好都合だろう。
関城から陽平南方に進出し、南鄭と陽平関との連絡を断てば、
夏侯淵に対して行ったのと同様の作戦が用いられる。
連絡線に関しては、関城の北、嘉陵江沿いに陣地を構築して守らせれば良い。
あと、沔水は沮県を通って南下し、沔陽を通って東へと流れている。
沔陽から沔水に沿って沮県に入り、そこから西方武興を経由して散関方面へ出るのが故道であり、
陽平関はその途上にあって、武都方面へ抜ける要衝であると考えているが、
あなたは故道も金午道も漢中西方で合一若しくは近接し、極近い数条の道路が東方へ伸び、
その一つを遮る形で陽平があると考えているのか?
陽平を放置して前進したら、即連絡線が脅威にさらされる程、両者が接近していると。
しかしそう考えると、陽平、南鄭、下弁を押さえていた魏が、
何故劉備の連絡線を遮断できなかったのかが気になるところだ。
先ずは、己の無知を一つ晒しておきます。
>>955 >背後から回られて馬鳴閣を襲われ、連絡線を切られてしまう
>>953で出した地図では、馬鳴閣は現在の広元市のやや北に位置しています。
これは郡國志などにもそのような記述があるので、合っているとは思います。
が、これでは徐晃の行動に対する曹操の言がおかしな事になってしまいます。
なので、三國志集解の解説にある潘眉の論に基づき、
陳式が派遣されたのは南の馬鳴閣ではなく褒斜道であり、
徐晃は褒斜道で陳式らを撃破した、という認識に改めます。
馬鳴閣という名と地図の記述を鵜呑みにして、
「徐晃、あんな所まで行けたんだ?しかしまぁ、可能性は無くもないなぁ」
と思ってました。
>>956 さて、貴方の話によれば、南鄭へ兵を進め、
陽平関に駐屯しているであろう張衛の連絡線を断つ、との事ですが、
どの辺りに布陣し、その後どうするのでしょうか。
夏侯淵と同様の作戦と言うと、定軍山へ陣を布くのでしょうか?
それとも、そのまま南鄭を落すので?
>>957 陳式が進んだのは馬鳴閣道だよ。
これは、一般的には、嘉陵江(西漢水)に沿って武都へ伸びる道路となっていると思う。
漢中を経由せずに武都へ出る事ができるし、そこから故道に入れば、
陽平関経由で漢中に入る事ができる。
既に述べたが、陳式の前進は、陽平関と武都ととの連絡を断つ為のものと見るべきだろう。
陽平関の漢中側は劉備が押さえているのだから、馬鳴閣道経由で後方に出れば、
陽平関を完全に孤立させる事ができるし、それにつられて魏軍が陽平関の守りを薄くすれば、
陽平関を落とす事もできるかもしれない、という目論見だろう。
褒斜道に出た、なんて事にしてしまうと、意味が分からなくなるしね。
褒斜経由で散関に出て、そこから武都へ出る、というのも考えられなくも無いが、
嘉陵江をさかのぼった方が、連絡線も短くなるし合理的だろう。
で、本題だが、はっきり言えば、相手の行動如何で変わる。
とりあえず、南鄭から陽平関への輸送は断てるので、それで張衛が陽平関を出れば、
最初に述べたように、漢水沿岸での会戦になるだろう。
>>949でも述べたが、兵力の関係から勝利は難しいと思うがね。
張衛が動かないのであれば、南鄭に進んで張魯を降伏させるとかかな。
ただ、その際は結構広い正面に軍を分散配置して敵に備えなければならないので、
結局兵力が足りなくなる。
まぁ、陽平関に集積されてる物資の量や詳細な敵兵力など、敵の状況の多くが不明どころか、
予測すら立てられない状況なので、細かい作戦のそれもifの妥当性を検証するのは非常に困難だが。
と言うか、もうこの話題には疲れた。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 17:22:24
あげとく
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 20:25:15
とりあえずソウソウとソンケンがいなければ
ショクが天下統一。
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 20:32:07
>>960 いや、それだと袁紹が天下統一してしまう
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 20:53:53
>>961 遠紹が荊州取る前に死んだらわからんよ
お家騒動で分離するはずだから
袁紹は乱世を統一出来るタマじゃないよ
>>962 長男がアホ杉なので多分外敵がいない状況なら分離というところまで
行かないと思われ。普通に袁尚があとを継ぎそう。
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 21:14:48
>>964 幕僚がそそのかすでしょ
遠紹配下の幕僚は仲が悪いからな〜
×:遠紹
○:袁紹
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 23:18:21
浅野
968 :
2chカキコ初めてさん:2006/10/19(木) 23:32:55
>>962さんへ袁紹が死んだ後に、お家騒動起こったけ?
起こってなかったら袁紹(又は跡を継いだやつ)
まずはそのコテを外してsageも覚えよう
>>968 >>958同様、疲れたので釣られておきましょう。
後継者を決める際、曹操の相談を受けた賈クが、
年長者を後継としなかった為に滅びた勢力の例として出すほど有名。
>>970 その返答は不適当
賈クの返答は「長幼の序を守るべき」とも
「長幼の序を無視して後継者を決めるならしっかり取り巻きを粛清すべき」とも受け取れる
どうして史書にそのエピソードを載せたのか
それが納得できる説明を求める。
賈クは同時に劉表の事も取り上げて言ってるんだが、
「長幼の序を無視して後継者を決めるならしっかり取り巻きを粛清すべき」
なんていうのはどうしたらそう読み取れるんだか教えてくれ。
側近を粛清し実子を長幼関係なく皆殺しにして退位しろと言ってるようにも聞こえる。
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 22:06:15
>>972 長男劉キを後継者にしなかったら、取り巻き劉備や諸葛亮が彼を担ぎ出し、荊州が割れた
袁譚の事例と同じ
カクは少子を立てるなら年長の子やその取り巻きはちゃんと消せ、と示唆したようにも取れるわけ
ま実際にはドッチにも取れるようにし、曹操の本心をあぶり出したわけだな
つーか普通にわかることだと思うんだが
お家争いを避ける方法はどちらかしかないだろ
上に継がせても下に問題児がいればお家騒動になる。
つまり、方法は一つ、邪魔者は全て殺す
>>971 ならば「御家騒動の末に衰退した家の例」という風に改めましょう。
しかし、長男に家督を継がせれば乱が起きなかった、とも言い切れませんよね。
曹操、袁紹、劉表の共通点は、後継ぎ候補を取り巻く派閥が出来上がっていたという事。
そして、曹操に当てはまらないのは、後継ぎをどちらにするかを死の直前まで決めなかった事。
劉焉に当てはまらないのは、長男が遥か遠くにいた為、四男に継がせても問題なかったという事。
派閥が出来上がっているのに後継ぎを早く決めず、存命中に対抗派閥を除けなかったから
袁紹・劉表は乱を招いて衰退した、と言う事も出来るでしょう。
となると、「さっさと決めろよ」と言っただけとも取れますね。
伝にその言葉が残ったというのも、返答がウィットに富んでいたから、
という事も出来そうです。
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 22:59:49
おそろしや
後継者争い
劉邦の息子たちは殆ど呂后に殺されちゃったな
十八史略なんか読んでるとえげつない後継者争いが多くて、
三国時代のそれなんてぬるく感じてくる
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 23:11:55
漢の景帝は長男を廃した上に死においやって後の武帝を太子に立てた
長男以外を後継にして成功した例もあるから、必ず長男を立てろとばかり言われるとは限らないんだよ
話の流れを全く無視している人がいる
徹坊やはペニスはデカイけどセックスは下手な感がある。
しかし曹操ヒドス。賈クさんにそれを聞くかね。
曹ヒは張繍にイヤミを言って死なせたそうだが、親子だな。
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 08:35:17
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立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
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