1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 23:49:07
姦羽の政治・知力は南蛮未満
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 23:54:10
みんなこのスレの事を4get
>>1乙
オレはROMっているだけだったが前スレの関羽(の周辺)考察は素晴らしかったよ
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 19:35:04
あげ
捕手
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 16:45:39
バッター
代打俺(古田)!
盛り下げ(^Д^)
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 12:34:52
盛り上げ(^Д^)
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 14:56:33
もっこりモコモコ
ヒキモコモコ。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 19:12:22
_, ,_
( ゚∀゚ )
/ `ヽ.
___/ ┃)) __i | キュッキュッ
/ ヽ,,⌒)__(,,ノ\
. _, ,_
( ´д` )
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| トン
_(,,) 盛り上げろ (,,)
/ |______|\
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 20:45:14
>>15 _, ,_
( ゚∀゚ )
/ `ヽ.
___/ ┃)) __i | キュッキュッ
/ ヽ,,⌒)__(,,ノ\
. _, ,_
( ´д` )
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| トン
_(,,) まかせたぞ (,,)
/ |______|\
おれがもりあげる
ぐぉぉりゃーーーーーーーーーーーーーーー
_, ,_
( ゚∀゚ )
/ `ヽ.
___/ ┃)) __i | キュッキュッ
/ ヽ,,⌒)__(,,ノ\
. _, ,_
( ´д` )
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| トン
_(,,) たのもしい (,,)
/ |______|\
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′ おいたしちゃダメよ。
ノr┴-<]]: :j|
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕)
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
>>18 | l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._]]]]__ノ
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 21:27:41
バロスw
「目が、目がぁぁ〜」
蜀って言うな!漢と言いたまえ!!
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 21:03:57
完
終わらせるなw
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 12:54:35
完
そして伝説へ・・・・・・・
チャラチャラ〜
終了
やっと終わったか
案外な良スレに成長したな
南無阿弥陀仏
マンセーについて語るか?
どっちのマンセーも蜀じゃねぇ
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 12:42:41
しかし
時は流れ・・・・・
>>32 誘導されてきたら
今度は来たところに戻されてるん…
>>33 >>32は向こうの503より前のレスみたいだし、そういう意図は無いと思うよ。
単に蜀将スレが過疎ってるから、こっちにも来て盛り上げて欲しいって事だと思う。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 10:49:41
盛り上がれ〜
盛り上がれ〜
ガンダム〜
燃料投下
795 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/25(火) 15:20:26
>>793-794 (´・∀・)アホはおまえだwwwwwwwwwww
「日和見」の一亜種に「日和る」言葉があるのをしらんのかチンカスWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
主に全共闘時代に使われた言葉だボケWWWWWWWWWW
意味は「困難から逃げ出すこと」
まさに賎ヶ岳での退却行為は「困難から逃げ出した」わけだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
勝家につくか秀吉につくか悩んだ挙げ句、どちらに付くわけでもなく、ついに逃げ出したんだろ?違うかWWWWおらWWWWなんとかいえボケWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
秀吉死後も、家康と一戦を構えるわけでもなく、豊臣派を落胆させ、あの世まで逃げ出したんだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
「日和る」の意味ぐらいわかれよ無知&糞マヌケがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
燃料にならんな。
うわぁん
>>32から来たんでほっしゅ
もりあがれー
さぁ俺に何かを投げ掛けろぅ!!
もーりーあーがーれー
とうとう呉スレも逝ってしまったか・・・。
>>40 気付かなかった…保守しておくべきだったか。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 00:12:14
asgeるな〜
ごらんってどんなやつ?
自分で調べて呉蘭
ちゃんと自分で調べれ馬、岱ていの事は調べられるからね。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 01:25:51
高翊次第じゃ教えてやらんことも無いが
董和へたな洒落が多い日じゃのう
姜維的に伸びてると思ったら…
駄洒落を鍾会するスレでしたか
司馬師、この流れで続けてみませんか?
その李由は?
52の簡雍な態度に惚れました。
盛り上がってる蔡中悪いが魏の将でも伊で賞か?
どこ所属でもいいと思う賀、斉確にはなんとも言えないな。
呉はやはりい甘寧
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 16:12:38
曹熊ことを言うなよ、荒れるだろ
こんな流れだと初めてこのスレ見た人に呉景されないか?
曹操、
>>58の言う通りだ
みんなでがん武帝、このスレを盛り上げて行き太祖思う
祖茂祖茂なんでこんな流れになったんだ?
みんな良く考えつくな
漏れなんか、か伊黙見当もつかん。
祖茂そも言い出した
>>43が悪い
こんな流れ、でぇっ紀霊だ
まあ、曹丕丁氏ないで仲良くや琅邪
余りツンケンするのは甘氏んできないぞ
偶にはこんな流れもい尹礼ないかい?
しかし、意外に駄洒落好きな奴も王允だな
というかさ、何のスレだよ。
いい加減に蜀将の事を夏侯、惇でもない流れだよ、まったく。
確かにこの元譲は俺の李恢を越えてる…
ン?蓆この調子で100まで行け馬良スレか
ホントに蜀将のコトを書き込まないとスレが董恢してしまうぞ。
孟獲ことないのかよ?
俺は孟優ことねーよ
ネタ切れかな?age楊壊?
age嫌いの奴から馬騰されなければいいけどな
創業未だ半ばにして中道に崩徂す…
鍾士季このへんが限界かな。
脱線気味だったけど面白い流れで不黄忠の幸いだったよ、
まあ終わるのは仕方ない
曹だな、終わりにす劉岱
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 21:58:33
挙げ
他スレが麋竺で盛り上がっていたので。
傅丹彡は傅士仁の親族なんじゃないかと想像することがある。
麋竺が麋芳の罪滅ぼしに罰を請う話と対になっている印象がある。
傅士仁の投降の恥を雪ぐために、初めから死ぬつもりで出陣したかも知れない。
また陳寿が、肩身の狭い傅一族のために傅丹彡戦死を華々しく演出したかも知れない。
徐庶・黄権なども、劉備が許可を与えるエピソードがあり、蜀の人間関係には魏呉にはない温かみがある。
と言うより、これは陳寿の人柄かも知れない。
典拠があるわけでもないので単なる想像だけど。
傅士仁じゃなくて士仁とする説が有力でな
悪いんだが想像の域を出ないよ
妄想にちかくない?
蜀にいる時は傅士仁で、呉に降ってからは士仁に改名(改姓)。
これで解決。
傳ってのは職位の名前じゃないかって説があるね
というか傅士仁の表記が所見できるのは「関羽伝」のみ
「傅」は単なる衍字に過ぎない気もするが
謎の男か
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 16:53:06
84以外は現状では無知、妄想、電波のいずれかでしかない。説と言えるほどの根拠自体がないだろ。
経歴は謎だが姓名は別に謎じゃないな。
確かに妄想だけどおもしろくていいんじゃないかな
>蜀の人間関係には魏呉にはない温かみがある。
劉備存命中は組織的には劉備親分に従う武侠集団や地方軍閥と大差ないからね
呉の人間関係も面白い。そのDQNっぷりが。
特に孫権時代初期から中期にかけてだが、その後は・・・。
曹操陣営も建安年間あたりは群臣みな生き生きとしてる。
三国共に建国してからはどうも組織の嫌な面が
多く見えてきて駄目だ。ある意味しょうがないんだけど。
謎か
>>87 劉備在世中でも蜀科を作り漢中王即位からはちゃんと組織化されてるよ
と言うかそれまでは組織作りをする前提としての地盤、官位が皆無もしくは紛争地帯だったりで
とてもまともに組織作りできる状況ではなかったと思うがね
>90
ってか、組織化の途上と言う感じだと思うけど。
謎だな
>蜀の人間関係には魏呉にはない温かみがある。
これがあるとするなばら、組織の基盤の違いも大きいと思う。
曹操・孫権は共に独自の基盤を持っていて、それを元に勢力を大きくしたけど、
劉備は土地も親族も皆無で、転々と流浪してきたという非常に脆弱な基盤であり、
劉備が勢力を保てたのはその人間的魅力に他ならないから、
組織自体も人間関係重視の組織になるんだと思う。
まぁ、曹操・孫権(堅・策)供にいわゆる武官とは人間的魅力で繋がれてるけどね
曹操陣営にだって、一族の温かみがあるだろう。
そして、そういった人間関係が通用するのは小規模で仲間内のみだった時期。
拡大すればそうはいっていられなくなるのは蜀も同じ。
特に、劉備とその世代が死んで、荊州閥と益州閥による政権運営が行われる
ようになって以後は対して他とかわらん。
むしろ孫権と張昭とか諸葛謹とかの話の方が温かみがあるとおもう
江南特有の気風だろうけど
その“江南特有の気風”なる
気分だけの曖昧な概念を
分 析 し て み な い か ?
いつしか総合スレ
大らかで酒飲みで感情の振れ幅が激しい>江南気風
荊州の辺りだと革命家思考の激情家で雄弁家が気風
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 10:00:13
>>100 ゲルググを動かす燃料さえあればいけたね。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 12:57:52
もう一度お願いいたします
ごらんの話を
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/06(土) 00:08:15
馬しょくは処刑するべきじゃなかった・・・・あの失敗のおかげで、まだまだ伸びていたはずだ・・・
処刑しないと軍の綱紀粛正ができない
第一敗北だけなら兎も角逃亡までしてるとなると死刑は免れ得まい
お前は何を言っているんだ
敗北<<<<<命令違反
だからな
三国志孔明伝だと、戦場で活躍して罪を償え、という事で助命できる
>>109 逃亡して敗戦の罪を有耶無耶にしようとしたのが命取りだったんだろうな
しかし今ひとつ分からんな
逃げられると思ったのか?
逃げたとしてどうするつもりだったのか?
特に展望もなく逃げようとしたのだろうか
向朗と諸葛亮の関係はどうだったのだろう?
ホモだち
>>111 謀議に関わってた馬謖だから魏に機密売れば一生安泰
郷里の荊州に帰って呉で豪族やっててもok
向朗宅に逃げ込んでたのが事実ならテンパってたんじゃないの?
鵯越えに失敗した義経みたいな奴なのかもな
義経も頼朝と不仲になってから京都でぐだぐだ無駄な時間を使ってる
精神的にモロい天才タイプなんじゃないか?
似たイメージでも叩き上げの姜維と一番違うところだな
姜維のどこが叩き上げなんだ。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 20:45:09
叩上げの代表格といえば王平
王平も姜維も特定の場所の地理に明るいというのがあるな
しかし、孔明が王平を便利に使うようになったのはいつからなんだろな
街亭で馬謖に付けたのは、たまたまだったのかな
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 23:26:24
姜維のスレ終わったけど次スレは立てないの?
>>119 本スレが寂れてるのはいただけない
ここでいいだろう
叩き上げと言えば魏延も。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 00:31:53
まぁ,姜維も降将とはいえ身分が高かったわけでもないから,叩き上げと謂えなくはないのでは?
前からちょくちょく見せてもらっていたんだけど
このスレのまとめサイトみたいなの無いの?
>>124 まとめサイトの存在なんて聞いた事もないし、まとめサイトが必要なスレでもないと思うが。
以前の議論が読みたければ、にくちゃんねるかなんかで過去ログ読めば良いんだし
三戦のこの手のスレはリアルタイムでやり取りするのが面白いだけで、
まとめてみるようなものじゃねーと思うよ
基本的にループだしな
なんか全然伸びてないな。
やっぱ姜維スレもう一回立てた方がいいかな。
後期無双スレがまた姜維の話題で微妙に伸びてるよ
>>127 姜維スレは「孔明死後の姜維の北伐は無駄だったのか?」で
蜀スレにてという話で終わってる
天水の姜家ってめっちゃ格が高かったような。
そりゃ四姓の一だから地元じゃそうだね
地元の有力者をみすみす蜀に投降させてしまうなんて魏もどうかなってところだな。
姜氏自体は天水の四姓の一つであっても、姜維はその内の一男児に過ぎないし、
姜維一人によって天水郡全体に大きな影響を与えるという事は考えがたいが。
姜維が魏に残ってたら孔明も馬謖を切らずに後継者として育ててたんだろうな。
馬謖対姜維なんてのが実現してたかも。
>>135 なんで?馬謖を殺したのは姜維という有望な武将を手に入れられたからでしょ。
事実はもはや1800年の昔のことだから断言はできんけど
一人手に入れたから一人切り捨てるなんて効率悪いことする人間が一国を宰領できるかな?
>>140 だから?
列柳城の守将高翔はやはり郭淮に打ち破られているが、こちらは処断されてない。
馬謖の処断は敗戦+軍律違反+逃亡のトリプルコンボだろうな。
ちなみに街亭の責を取らされたのは他に処刑された張休・李盛、兵を取り上げられた黄襲がいる。
このうち張休・李盛が処刑されたのは姜維とともに梁緒、尹賞、梁虔が降ってきたからとでも?w
もともと馬謖は嫌いだけど赤壁スレのぐだぐだ展開に嫌気がさしてさらに嫌いになった
こっちもあんな感じにならないか心配
スレのぐだぐだと馬謖は関係ないがなw
>>140 燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志をしらんや とはまさにお前のためにあるような言だ
むしろ144の方が意味分からん俺
姜維の救援もかなわず孤立無援になりやむなく降った句安って鍾会の配下として征蜀軍の一将となってるのね。
やっぱスレが伸びない。
そりゃ「正史にはこう書いてあるから」で思考停止させてたら話は進まないか。
もっと自由に考えてもいいと思うけどね。
◆xLNKCe9W7I が某スレの76-77に思える件について
76-77実は1◆xLNKCe9W7I
というか間違いなく本人だ
>>149 思えるも何も、トリップが同じだから同一人物だろう
でも何かあるたびに、批判というかツッコミだけしてる人が粘着してると、嫌気がさしてそこでスレストするでしょ
詳しいのかも知れないけど、自分の手の内というか考えを詳述するでもなくアホとか半可通とか、見てて嫌になる
>148
自分の思い込みを否定されたら、それは思考停止だ、ってんじゃ議論にならんよ。
まぁ、君のは、釣りなんだろうけど。
思い込みなんかでレスした事は一度もないけどね。
俺のはこういう可能性もある、ってレスなんだけどね。
大体正史は会話とかその人物の性格とかまで書いてるらしいけど分かんないでしょ
そんな事まで。
会話についてはかの司馬光大先生がそれっぽいことを言ってたらしいな。
だから会話の文言をこねくり回してその人物を推し量るのは本来邪道(らしい)。
性格は「そう伝わってる」ってだけだろう。突っ込む意味がわからん。
◆xLNKCe9W7I についてずっと疑問に思ってる事なんだけど、奴は、
・自分が馬鹿だと分かっていない
・馬鹿を装ってるつもりなのに、デフォで馬鹿
のどっちなんだ?
論拠が「救おうと思えば救えた」だけじゃ何ともなあ
自由に考えるのはいいけどもっと筋道立てて説明してくれにゃ話にならん
>思い込みなんかでレスした事は一度もないけどね
>大体正史は会話とかその人物の性格とかまで書いてる【らしい】けど
正史読まずに電波で考察してるのか?
可能性(possibility)ではなく、公算(probability)で語ってくれなきゃな。
ちなみに◆xLNKCe9W7Iさんの贔屓な蜀将って誰?
やっぱり姜維?
>>162 いや関羽。姜維は蒼天航路に出てないからね。
あのさ、確かに76−77はおかしなことしか言わないけど
よくいる関羽厨みたいに「これはこうなんだ!」とかじゃなく
「こうだったらおもしろいな」って言い張らないからいいじゃん
ていうかおまえらこそ論破するなら史書から持って来いよ
穴だらけの説なんだから・・・
論破もなにも基礎を抑えてない奴となにを
議論するわけ?
議論しないなら討議スレ来んなよ
こてはん批評はもうええっちゅうの。
姜維が258年以降、政治的にハブられてたかどうか意見を聞かせてくれ。
俺は黄皓と諸葛瞻らが実権握って姜維は孤立してたと思ってるんだが。
姜維が漢中や沓中にいて国政を指示してたって見方もありだよな。
>>168 姜維は258年に成都に帰還し、大将軍に復帰している。
それ以降、262年まで出征記事なし。
だから最後の一行は意味がない。
また姜維は録尚書事から外れた形跡はないようだが、261年に諸葛瞻と前尚書令の董厥が平尚書事となっている。
一応、羅憲の左遷などをみるに黄皓は258年くらいからそれなりに力を持っていたようだ。
結論としては、
258年から261年まで基本的に成都にあった。
政治的にはともかく宮中にあっては非主流派になりつつあった。
しかし、劉禅から排斥されるということもなかった。
こんなところじゃないかな。
ああ、そっか。姜維は成都にいたのか。
そうするとますます孤立が窺われるな。重要政策に関与した記録がないわけだから。
軍事面でも特筆するほどの行動はないし、姜維にとっちゃ冬の時代だったのかね。
レス敦楠。
>170
ただ、258年に成都に帰還した際、陳祇の後任人事は確実に姜維が進めたものだろうね。
積極・消極は別として。ただ単に彼以外に人事を決める責任者がおらんから、と言う感じだろうけど。
前尚書僕射の董蕨と、将来のエース諸葛贍を僕射とする異論の出ようが無い人事を行ったに過ぎないけども。
とは言え、尚書系の高官人事を進める立場である以上、重要施策に関与せず、と言う事では無いかも。
まぁ、冬の気配をかなり感じてはいただろうけどね。
姜維と孔明ってどっちがおおく北伐したの?
話しが全く変わっちゃうんだけどさ、孫盛の批評で「江表伝」に書かれた赤壁時の劉備の対応についてのものをどう思う?
孫盛は「滅亡必死の状態で救援をもらったんだから、形成を窺って先々の計算をするはずない」と言ってるけど、
俺としては劉備ってむしろ、それまで一般には滅亡間違いないような状況を機転と根性で上手く切り抜けてきた
かなり計算高い(悪い意味ではなく)人物なんじゃないかと思うんだがどうだろう?
公算も立たないのに玉砕するような奴なら既に滅ぼされてたと思うんだよね。
計算高ければなおさら傍観はできないと思う。
それと攻撃失敗=全滅ではないからね。
>>176 え〜〜そうかなぁ?例えば「魏書」によれば劉備は200年の曹操の東征に対し根拠地を捨ていち早く戦場を離脱しているが、
尚関羽や妻子は捕まったし、実際に戦闘に入って四つに構えてから逃げるのはかなり困難じゃないかな?
確かに長板では張飛・趙雲らの活躍もあり振り切ったけど、「劉備の計算高さならばければなおさら傍観はできない」というのは
ちょっとわからないなあ。計算高いとなぜ傍観できないの?
計算高いやつなら傍観した場合の結果も計算してると思ってさ。
それ以上に深い考えがあるわけじゃないよ。
っつうか傍観できるほど余裕はないだろ?
劉備はおそらく孔明以上に頭良かっただろうからな。
そりゃ圧倒的不利なんだから戦に勝つためにゃ余裕ぶるなんてことはないだろうけど、
劉備は常に勝利することだけしか考えない猪武者じゃないでしょ。
状況の変化に応じて逃げるなり逆に攻勢に出るなりをうかがうのが劉備の持ち味じゃないか?
実際に勝勢になってからの追撃戦で活躍してるし、手勢の量や質(船に関する)を考えても的確な判断。
>>181 必要とあれば必死になるだろう?
以前ほど逃げ場は多くはないし、かくまってくれる勢力も孫権以外ではもう劉璋くらいしかない。
もう傍観して状況を窺っていられる段階ではなく、必死こいて戦って状況を好転させるしかないと思うぞ?
元々交州の幼なじみを頼る予定じゃなかった?
今までだってあてもなく縁もない人間を頼ることもあったのに、なんであの場面だけ一念発起したと皆は思うんだろう?
皮肉じゃなくて、純粋に多いよね…なんか見逃しているエピソードとかあるんだろうか?
>>183 > 元々交州の幼なじみを頼る予定じゃなかった?
ソースは何?
>>184 先主伝注江表伝の「蒼梧太守の呉巨と昔なじみなので、彼に身を寄せるつもりです」という言葉です。
蒼梧は交州の中の一郡だよね?
>>185 幼なじみじゃなくて昔なじみじゃねえかよっつー糞レスが来るぜぇ!警戒せよ!!w
曹操の弱点に気付いてる劉備が必死に戦うことはあっても
交州くんだりまで逃げようとする事はないと思うがなぁ
>>185 幼なじみじゃなくて昔なじみじゃねえかよっ(棒読み
は置いといてw
そうだそうだ、そういえばあったね。魯粛との対話のやつ。
どこまで本気の言葉かわからんが、注の内容を信じると仮定して、その後の魯粛の説得で得策でないと悟ってるからどうだろう?
姜維の時代は蜀の内情が腐りまくっていた事も考慮して姜維を評価しないとダメだね。
孔明の頃はまだ内部は腐っていなかったから簡単に戦争できたけど
姜維は内部も意識しながら戦わなければならなかったから
孔明以上に頭使っていたと思う。
>>191 曹操は正面決戦があんま上手くない
だから奇襲、奇策をメインに戦うんだが
囮に敵が引っ掛からない時や、奇襲作戦が通用しにくい大規模な戦闘になると手詰まりになる
会戦以外の選択肢がない時、曹操は負けるか逃げるかの二択になる事が多い
>>193 いやそれは違うでしょ。曹操は正面決戦もうまいよ。
曹操はそこそこ万能。
根拠は?
ニセクロのあれか
実際、赤壁以後はなんか冴えないよな
確かに曹操の戦績見ると正面から殴りあうとよく負けてるね
そもそも互いに一切小細工抜きの正面決戦なんて例があんまりなくない?
赤壁だって曹操側に迂回部隊がいなかった?
小細工が通じない局面は少なくないが小細工一切抜きってのはないな
いかに相手の前線の裏に回るか/回らせないか、というのが会戦の重要なポイントで、戦国時代の姉川とか天王山もそうだし、日露戦争の時代もこれは変わらない。
役に立たないことはあっても、迂回部隊のない会戦はむしろ少ないんじゃないかな。
つまり、勝つための準備が足りなかったから
負けるべくして負けたと。
>>200 お前の挙げてるのこそ側面攻撃が成功した数少ない例だろ。
古今東西、会戦のたびにヒョロヒョロ回り込み合いばっかしてると思ってるのかw
お前は戦いをなんだと思っているんだw
どういうレベルで話をしてるのか知らないが、左右の小隊が迂回して〜とかいうレベルならそれこそ頻繁にあっただろうし、
一軍が戦場を大きく迂回して〜というレベルなら作戦(選択肢)の一つ。お互い相手が何を指して語ってるか理解しあってる?
>>202 それにあいても迂回作戦としても別に数少なくはないんじゃないか?
劉備は正史では結構負けてるといわれてるけど
実際はどんなもんなの?
劉備の戦いの記録。
(初期・部隊長時代)
劉備は大金持ち数人に見込まれ、その支援を受けて兵を集める。この私兵がこの時期の劉備の主力と思われる。
・鄒靖の黄巾討伐軍に参加、手柄があり安喜県の尉になる(が後に出奔)
・カン丘毅の義勇兵募集に応じて従軍、下ヒの賊との戦いで手柄を立て官職を得た(が後にまた出奔)
・高唐の令として賊軍と戦うが、あえなく敗北・逃亡。
・公孫サンを頼り、田楷の補佐として袁紹にあたり、手柄を挙げ平原の相の代行に任命される。
・袁術の要請を受け高唐に赴き袁紹を圧迫するが、袁紹(もしくは袁紹に協力した曹操)に敗れる。
※「典略」にある、張純討伐の任を受けた討伐軍に参加し、賊軍との戦いで負傷し死んだ振りで賊軍の過ぎるのを待った逸話は、
「後に中山郡安喜県の尉に任命」されるとあるので鄒靖の討伐以前のことであり、
「武勇に優れた」ことから推薦され珍しく負傷しているなど、部隊長の中でも特に兵の少ない最前線の兵士に近かったと思われる。
(中期・徐州以降)
劉備は陶謙が曹操に攻められ田楷に救援を求めた際に一緒に救援に訪れ、手厚く遇されたので田楷から別れて陶謙を頼った。
この時、私兵千と幽州の烏丸騎兵部隊を従え、餓えた民衆数千人を強制徴用していたが、
この民衆は雑務などの軍団維持のための労働力であり、戦闘用ではないと推察される。
その後陶謙の遺言により徐州を受け継ぎ、袁紹に使者を送って和睦。一勢力を得て以後は基本的には一軍の長として戦う。
・袁術が攻めて来たため石亭で争うが互いに一進一退、戦闘が一ヶ月に及んだ時本拠地が呂布の急襲を受け徐州を乗っ取られる。
・この時、楊奉と韓暹を迎え撃って斬ったと先主伝にあるが、後漢書・三国志の董卓・呂布伝等を見るに、もう少し後のことで
さらに招いた席上でのだまし討ちで戦闘の結果ではないと思う。
・広陵を奪い軍勢を一度立て直すが飢餓のため困窮、袁術と戦うが破れたため呂布を頼る。
・小沛を返還され麋竺らの支援を受け兵一万余りを再び集めるが、不快に思った呂布に攻撃され敗走する。
・曹操を頼り、兵糧・兵員の支援を受けて呂布軍と対したが、高順・張遼らに大敗する。
(中盤続き)
曹操が呂布を破り都に共に帰還。曹操暗殺の一員に加わるが事を起こす前に袁術討伐に赴き脱出。
袁術が死亡し、どさくさ紛れに徐州を乗っ取る。
・曹操が劉岱、王忠に軍を預けて劉備を攻めてくるが、見事撃退。
・曹操本人が軍を率いて攻めてきたため、ついには敗走する。
・袁紹を頼りそこで再び軍を整え、汝南の劉辟のゲリラ戦に協力するため合流して一帯を荒らしまわる。
・曹仁に敗れて袁紹のもとに帰還し部下を纏めなおし、再び汝南に赴き賊軍と合流。曹操軍の蔡陽を破る。
・袁紹を破った曹操に攻められ劉表を頼る。新野を任され兵を増員してもらう。
・夏侯惇・于禁らを博望にて偽退却→伏兵で大破する。
・劉表が死亡し江陵を目指して逃げる中で曹操の追撃を受けるが、部下の奮戦でなんとか逃れる。
・劉gの軍一万余りと合流し、さらに孫権と結んで周瑜らと協力して俗に言う「赤壁の戦い」で曹操軍に大勝利を納める。
・さらに南郡の攻略に協力し、また荊南の諸郡を攻め降伏させる。
(後期・荊南入手以後)
・色々あって劉璋の要請で入蜀、張魯にあたる振りをして人心掌握に努める。
・さらに色々あって劉璋討伐に乗り出し、白水軍総督の楊懐を酒宴の場で暗殺してここを突破する。
・関中に入り敵将や兵士の妻子を人質に取り、フにて張任ら諸将を全て破る。
・李厳が諸軍の総指揮を任されるが、劉備に降伏してくる。
・ラク城の劉循に激しい抵抗にあいホウ統を失い、荊州からの援軍と合流してようやく落とす。包囲は一年以上に及んだ。
・成都を包囲し劉璋を降伏させ益州を手に入れる。
・漢中の夏侯淵・張コウを攻め勝利し占領。漢中王を自称。
・荊州奪還を目指し呉を攻めるが陸遜に大敗する。
>>204 転載だが、大体はこれで合ってるんじゃないか?
色々あって
さらに色々あって
ワロタ
>>202 他は知らんが天王山は迂回目的の別働隊同士が遭遇戦を始め、前線が伸張するうちにこっちか主戦場になってしまい、成功例とは言い難い。
劉備は夷陵以外は意外と無難に勝ってる気がする。
勝ったり負けたりってとこだな
>>210 無難に勝ってしょうがなく負けてるって感じ。不可能を可能にとまではいかないが、逆もしかり。
劉備が負けた相手は名将と称えられてるようなヤツらばっかだな。
高順しかり、曹操しかり、曹仁しかり、陸遜しかり。
名もない相手に負けたのは公孫瓚配下時代くらいか?
あとは袁術との一進一退の時くらいか?
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/28(日) 23:37:38
逆に考えるんだ
劉備に勝ったから名将と称えられるようになったんだ
名将でも何でもいいけど、夷陵の負け方はねーよなぁ
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 00:00:58
結局 負けが上手という事でFA?
>>215 曹操といい劉備といい50代過ぎてから一気に弱くなってないか?
当時は仕方ない。
今は投薬でEDも治るけどな。
おそらく夷陵ではすでに劉備は倒れてたんじゃないかな?
最初好調だった時はまだ健在で途中で病か歳で倒れたんだと思う。
だから簡単に陸遜にやられた。百戦錬磨の劉備が負ける理由なんてほかにないだろうし。
それに退却の仕方も劉備らしくない。劉備ならあんな死者ださない。
夷陵後すぐ死んだし
この考えは間違ってないと思う。
夷陵直後に魏が南下してきた時には陸遜に
「魏を私がやっつけてあげるから道貸して頂戴」って言ったりしてるのにか?
それから白帝城で1年過ごしている訳で劉備自身の指揮で敗戦だろ
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 07:11:26
劉備は諸葛亮みたいに撤退戦がうまいわけじゃなくてただ逃走しているだけ。
対高順、下邳、長坂といった戦いで兵を捨てて殆ど身ひとつで逃走している。
四方から攻撃を受けても逃走に成功しているところをみると劉備の直感は絶好調だったと思う。
「蜀討伐スレッド」に見えた
>219
その可能性は皆無ではないが、少ないと思う。
夷陵の敗戦は、劉備自身命からがら逃げたくらい。この時に病身じゃぁ、逃げ切れんだろうし、その後もっと早く死去したのでは?
正史によれば、8月に軍を収めて帰還。で、成都に還らず12月頃発病。
で、翌年2月には再起不能を悟り、諸葛亮を呼び寄せてる。
そんで、4月に死去。
6月の夷陵の敗戦から、死去まで10ヶ月ほどあるから、すぐに死んだとは言えないね。
>>219 俺も詳しくは知らないっていうか、某スレで出てた意見だけど
蜀から呉へ侵入する時の地形の条件とかを考えると、
誰が指揮しようと呉に勝つのは難しかったらしいぞ。
どうしても侵入経路が単調になるそうな
…
>>219ってまともに論評するようなレスなのか?
根拠が根拠になってないし(ただの妄想)、どう見ても釣りだろう。
>>219は
「正史は読んでないけど思い込みで発言したことはない」
とか言い切るヤシだぜ?
妄想か
趙雲の果たした役割について再評価をしてみないか?
まず趙雲が劉備の下に加わったのは本文によれば193年、例の別伝によれば一度別れて200年に再会。
いずれにしても付き合いは古く武官としては関張に次ぐ最古参の一人。
先主伝によれば長板において劉備の逃亡に付き従ったのは諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎のみと言われ(関羽は水路の用意)、
他に判っているのは麋兄弟・孫乾・簡雍・伊籍・劉封らであり、趙雲はその中でも主力と考えられていたと考えられる。
その後劉備が力をつけ荊州の多くを支配するようになると、それに従って多くの人材が加わる。
その中での趙雲の位置づけは牙門将(雑号)、別伝によれば桂陽太守。
この上には長沙・零陵・桂陽の統治を任された軍師中朗将の諸葛亮が居て、長沙太守の廖立と同格(将軍位はないが)。
関張が長江沿いの北部で(恐らく劉備と共にあり)正式な将軍号と太守職を得ているのと合わせて考えると、
関羽・張飛が武官のトップ、諸葛亮が行政面と合わせて前両者とほぼ同格、
趙雲は関張らに及ばず、他の有力将の中では恐らく筆頭株ぐらいの位置づけかな。
ちなみに行政面では他に孫乾・簡雍・麋竺などが劉備直属の治中従事、新しくきた陳震も同様。
向朗は夷陵近辺の4県の統治を任され、ホウ統は昇進を重ねて瞬くまに亮と同じ軍師中朗将にまでなってる。
出かける時間なのでここまでで一旦休憩。
牙門将ってのは大抵劉備直属で動くからただの雑号じゃねーんだがな
そうなんだ。俺ってその辺り全然勉強不足なんでドンドン突っ込んでくれると有り難い。
あと付け加えで黄忠には曹操からもらった官位があるんで位置は上になるのかな?
牙門将
牙門とは軍隊が駐屯する陣営の門を意味し、その守備隊が独立したのが始まりと言われてる
100〜2000人程度の一般的な将軍が指揮する兵より少数だが、独立行動する集団
他の将軍の指揮下に入ったり、国境守備をしたりもしてる
また牙門は複数あり、三国どこにでもあった
趙雲はリーマンの鏡
劉備直属ってのは何調べれば載ってる?
>>233 世界史の漢魏官職スレでも行くといいんでない?
前から思っていたんだけど正史なんてどれくらい信用できるの?
晋のプロパガンダでしょ。魏が優位に書かれてるに決まってるじゃん。
それより講談から始まった演義の方が真実かかれてそう。
少なくとも歴代の史書の中では上位に入る程優れてる
逆に信用性が薄いのが元史と晋書で、資料的価値は高いが観点が偏ってるのが通史
が、流石に講談や演義の方が真実なんてありえん
講談の流行は宋代だが、その頃の講談のヒーローといえば飛龍伝だぞ?
若かりし頃の趙匡胤の活躍と同レベルで張飛が語られてる時点で単なる庶民の偶像だよ
羅漢中の書いた演義はまんま朱元璋の天下取りだし
史書を信用しないとか、お前どうやって歴史学を成り立たせるんだよw
隣の捏造妄言国家みたいなことすんのか?
まあ自分の脳内でお好みの三国志ストーリー組み立てるときはいいだろうが
他人と真っ当に歴史について論じたいと思うなら眉唾だろうが何だろうが史料を読み込むしかない
例えで言っているのがわからない子がいますね
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 00:39:06
2chって何かを貶すにも何かを褒めるにも、別の何かを貶すパターンが多いな
>>237 史書を読みつつも、その疑うべきところはキチンと疑うことも含めての歴史学と違う?
>>239 チョンとか言う君も同レベルじゃわい
実生活でもチョンって言葉使ってるか?
もし実生活とネットでの姿勢が違ってるなら、それを続けるのはツライと思うよ
史書を疑うのと、講談の方が真実というのは全然別物
後者は脳みそ湧いてる
>>235 神話や民間伝承が史実をいくばくか反映していると予測するのはアリだと思う。
でもそれは史書の不足を補う程度に用いられるべきで、史書を捨てて物語を取るってのはナシだよ。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 06:56:50
>>243の視点でいいんじゃないか?正史に権力側の嘘が混じってるかも、って目で見れれば…
そういうことを誰もがいってるのに揚げ足とってない?
>それより講談から始まった演義の方が真実かかれてそう。
こんな痛い事を言い出す輩がいるのに、誰もが?
時代小説は半SFです。
関連本を複数読んで自分なりの
考えをつくり、討論しましょう。
晋の皇帝に差し出す歴史書で魏を否定的に書けるものなの?
今の中国の教科書だって中国のいいように書かれてるのに。
うん
>>248 成功した反乱、謀反は正当化されます。
このスレIDないのか。不便だ。
晋の皇帝に見せる歴史書なら一番贔屓されて書かれてるのは司馬懿だろうな。
司馬懿の子孫に司馬懿を批判した文章は絶対みせられないだろうし。
司馬懿があんまり関わってない時代はそこそこ信用できるだろうけど。司馬懿が活躍し始めた
あたりからはいろいろ捻って見なきゃいけないんじゃないの?
正史見たことないから分からんけど。
こて間違えた。718はカットしてくれ
関羽のせいでケイシュウを失った。
傲慢で、やなやつなのに。
なぜ人気があるのかわからん。
それと、セキトバって何匹もいたのかな?
読める所まで過去ログ読んで半年ROMってから書き込め
関
慢
人
セ
>>251 陳寿が出来うる限り司馬氏はスルーしてる
スルーできない部分でも工夫して司馬氏の意志を挟まないようにしている
たとえば曹芳・曹髦のでっちあげた悪事は決して本文に書かず唐突に皇太后の勅を記載している
客観的視点を持ってる奴は「これ怪しくね?」と思える構成なわけだ
むしろ心配すんなら曹操関連だ
少なくとも陶謙はかなり悪し様に書いてるし官渡は明らかにおかしいとわかる兵力差を堂々と書いてる
257 :
241:2006/06/03(土) 14:23:40
>>247 違うけどね 妄想乙
知り合いに血の入った人が何人かいる程度(人の多い地域に住んでれば普通だ)
傷つく人もいるし品が無いから、ホントやめときなさい
以上
>>248 晋の習鑿歯の『漢晋春秋』は蜀を正統としている。
司馬懿の失態もいくつか書いてるよ。捏造臭いのも含めてね。
259 :
228:2006/06/03(土) 15:11:03
趙雲の続き
劉備が益州に赴くと、趙雲は留守を任される。他にも関羽・張飛・諸葛亮など古くからの主力は軒並み留守番で、
黄忠・魏延・ホウ統など荊州入手以降の面々を随行させている。
別伝によればこの時、留営司馬を兼務させて奥むきを取り締まらせたとあるが、恐らく劉備と共に新たな州都である
公安に居たであろう奥方の取締りを、桂陽太守である趙雲が勤められるのか?というと疑問。
ただ、別伝以外にも漢晋春秋においても太子を取り戻させる逸話が残されており、
劉禅を連れ戻したこと自体はあったかもしれない。漢晋春秋では「諸葛亮の指示で」趙雲が救い出したとあり、
この時諸葛亮は趙雲の上官に位置していたことを考えても漢晋春秋の説の方が正しそう(両方間違ってる可能性もある)
本格的な益州攻略が始まると荊州からも関羽を除いた主力組が合流することになるが、
先主伝によれば張飛・諸葛亮・趙雲がそれぞれ軍を率いて江州一帯を攻略したとあり、
諸葛亮伝には張飛・諸葛亮・趙雲が手分けしてやはり郡県を攻略したとされ、
この三者が援軍のなかで中核を成したのは間違いない。ただ、劉封伝や張飛伝には趙雲の名前がないことから
やはり張飛・諸葛亮>趙雲という図式が感じられる。また、諸葛亮がこの時実質初陣であり、
上にもあるように平時において趙雲の上官であったことから諸葛亮の補佐にあたっていた可能性もあると思う。
このあたりの協力関係が後の諸葛亮政権時に影響してると考えるとちょっと面白い。(想像の域は出ないが)
益州平定後の人事についてはまた長くなりそうなので一旦終了。
>>259 乙
だが、議論をする気があるのか?
これ以上の長文はチラ裏だぞ
>>260 なんかこう「ここおかしくない?」とか「ここってこう読んだ方が良くない?」みたいな指摘とかあると嬉しいな〜と思ってたんだけど、
空気読めてなかったかな?議論する気はバリバリあるよ。
でも長文が迷惑だったら、うざがられる前にやめておくよ…
陳寿の司馬氏関連のスルーの上手さは特筆に価すると思う。
一歩間違えればホントに首が飛びかねない仕事だからなあ。
筆を故意に曲げるのではなく、スルーして何とか事実をニュアンス
だけでも伝えようと苦労してるよ。
>>259 > 公安に居たであろう奥方の取締りを、桂陽太守である趙雲が勤められるのか?というと疑問。
桂陽太守から左将軍府の留営司馬の転任じゃないの?
原文だと桂陽太守も留営司馬も「領」となってるから桂陽太守と留営司馬を兼務したんじゃなく、偏将軍の身分でそれより上の役職を兼務したと解釈するべきなんじゃないのかな?
漢文に詳しい人の添削を仰ぎたい。
>>259 > やはり張飛・諸葛亮>趙雲という図式が感じられる。
法正伝を見る限り対外的には張飛>諸葛亮・趙雲って感じだな。
益州入り直前の状況はこんな感じ。
関羽が長江の北の江陵に駐屯、張飛が宜都郡から長江の南の南郡(公安)に転任。
諸葛亮と趙雲はそれぞれ臨蒸(長沙・零陵・桂陽の接点当たり)、桂陽から、左将軍府のある公安に移ったんじゃないかな?
>>265 上の補足。
先主伝だと諸葛亮・関羽を荊州の抑えにとあり、諸葛亮伝だと関羽とともに荊州を抑えたとある。
関羽伝・張飛伝には特になし。
内部的には諸葛亮・関羽>張飛>趙雲かな?
ただこの辺は後世の、つまり陳寿の視点もあるだろうから一概には言えないかもしれない。
>>266 兵を率いての対外行動においては関羽・張飛を頂点に諸葛亮、趙雲…と続き、
内部の統治上は諸葛亮・関羽を軸に将軍府の孫乾・簡雍・麋竺ら官僚と、要所を守る張飛・趙雲・廖立・向朗ら武将。
こんな感じになるのかな?
>>267 関羽:自衛隊方面軍司令
張飛:都知事
諸葛亮:内閣官房長官
趙雲:国会警備兵、SP
現代日本とイコールではないが、職掌的には大体こんな感じになるんじゃないかな。
くだらない
ココは三国関連スレだ。
半島関連は別のスレでやってくれ。
失礼。三国「志」関連スレでした。
当時の劉備の人気ってどんなものだったのだろう?
長坂で逃げていく劉備に民が従ったのだから相当な人気だったのだろうな。
劉備陣営が宣伝工作や情報操作を行った可能性も十分ありうる
たいしたメディアも無い時代であれだけやったというなら、ゲッペルスもびっくりだね
>>274 普通なことじゃね?
何せ評判だけで取り立てられる時代だし。
実像20万を号して100万という時代だからなァ
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 02:19:12
20万もいるわけがない
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 08:31:33
14〜5万だったらしい
>>279 史書によれば15万の遠征軍で6〜7万前後の荊州軍と合わせて
>>277の20万なんだから、
278は「史書の上での数字自体が誇張」と言いたいんじゃないか?根拠は知らないが。
劉備の人気は、曹操の悪名と反比例してるようなところがあるからな。
だからこそ反曹魏の拠り所として劉備が祭り上げられる状況になったわけで。
そのためにそりゃ色んな情報工作してるんだろうけどね。
名士サロンのある荊州に8年もいたんだから色々やってるでしょ。
でも名士層を取り込めたのは荊州陥落前の一、二年程度
そこでどれだけ工作が浸透したかは憶測にしかならんなぁ
劉備は司馬徽とも交流がある
劉表からは特待されてる
侮れんな
荊州での陳登をめぐるエピソードに見えるように、劉備は単なる武人ではなく、知識人間でも相応の敬意を払われて受け入れられていたようだな。
傭兵隊長だとしても、グリフィスみたいなかなり特殊な感じ。
かなり見た目が良かったんだろうな
安部心臓が人気あるようなもんだ
>>284 自分が思うに、劉備は盧植を師とし、鄭玄、孔融、陳紀とも付き合いがあった。
徐州の頃には名士としても通用する名声があったと思う。
>>286 鄭玄と盧植は同門
劉備と孫乾の繋がりからして付き合いがないわけない
>>287 鄭玄の推薦で孫乾が招聘されたんだったよね?
>>288 そう
どの程度の繋がりだったのかはわからないけどね
後主伝註の華陽国志に
劉備の言としての陳紀、鄭玄の関係がちびっとあるよね。
劉備からすれば師友の交わり
というのが、自分の解釈だけど…
ごめん、脱字があったよ
陳紀、鄭玄との関係
です。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/07(水) 03:51:42
>>284 >荊州での陳登をめぐるエピソード
これ何ですか?
スマソ
>>294 おそらく許汜の陳登評に対して噛み付いたことと思われる。
以下に大まかなやり取りを記す。(出典「陳登伝」)
許汜 「陳登は傲慢なヤツだ!」
劉備 「あんたはどう思うか?」
劉表 「……どっち?」
劉備 「ソース出せ、許汜」
許汜 「以前、軽く扱われたんだよ」
劉備 「お前は名前のわりに発言に価値がない。陳登はそんなヤツの事が大嫌い。オレならもっと軽く扱うぞ」
劉備 「陳登は智勇を兼備し、勇気と大志を持っている。こんな立派なヤツはなかなかいねえぞ?」
こんな感じ。
劉備カコイイな
督郵ぶちのめしたり趙雲疑った部下に斬りつけたり、
言いたいことはハッキリ言って思ったことは即実行する性格だったんだろうな
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/07(水) 14:37:02
だから
合う合わないがハッキリしてるのかな?劉備は
劉備の元から去った人材って陳登の他には徐庶、黄権、陳グン、田豫くらいか?
もっとも、いずれの人物も劉備との人間関係が災いして袂を分かったわけじゃないが
人材と言うほどのことではないかもわからんが、曹豹とかも一応。
明確に人間関係が災いして袂を分かった主従って誰がいる?
曹操と陳宮
曹操と荀ケ
董卓と呂布
孫権と張紹みたいなアホな喧嘩する主従がいいよ
昭のほうか
>>299 陳羣は献策が受け入れずに敗北した劉備に対して失望して去っているけどな
>>306 でも陳羣の策もデメリットがあったと思うけどな。
つうか呂布に下邳を取られる可能性は減ったかもしれないが、対袁術戦はかなり不利になるんじゃないか?
どちらにせよ意見分かれて離れていった人もいるってだけの話だ
とはいえ去られても茂才に推挙するあたりはさすが
>>309 順序が逆。
劉備、下邳を呂布に取られ降参。
劉備、小沛(豫州)に駐屯。陳羣を茂才に推挙。
陳羣、推挙を受けず、父陳紀とともに呂布の支配する徐州へ避難。
陳羣を茂才に推挙できるのは潁川太守だけじゃないのか。
>>311 袁譚だって劉備に茂才に推挙されてるし問題ないと思うが?
>>311 楊州牧の呂範が陸遜を茂才に推挙に推挙、といった例もある。
314 :
311:2006/06/08(木) 14:50:39
百官志みてみた。孝廉は太守、茂才は刺史ってことらしいわ。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 20:34:00
age
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 21:38:13
陳登は劉備の部下じゃないだろぉ?
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/11(日) 08:58:58
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 12:33:47
保守
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 21:29:37
閻宇について語れ
蜀の次世代を担う
閻宇は鍾会の乱の時に死んだのか?
不明のはず
まあ死んだんじゃね?
>>323 成都に召還されたけど洛陽に移動したという記述がないから鍾会の乱で死んだ可能性が高いと個人的には思うんだけどね。
残っていても屑だから、どうでもいんじゃね?
見所のありそうなのは、羅憲が推薦してるし
屑って言う程無能でも無かったのでは
いや根拠はないが
>>325 なんでクズよ?
基本的に生き残り組の高官は鍾会の乱後に洛陽に移らされているから閻宇も生きていたら一緒に移されたと思うけどな。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 21:14:37
ちなみに蜀軍の生き残りは濟南郡の方に強制移住
鍾会の乱後、益州を統治したのは誰?
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 16:55:48
蜀が滅亡した翌年の咸煕元年、東郡の袁邵が益州刺史、
隴西太守の牽弘が蜀郡太守、金城太守の楊欣が犍為太守に任命されてる。
>>331 劉林とか諸葛顕(諸葛喬の孫)がそうらしいな。
ほっしゅ(゚∀゚)
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 18:41:57
あわっじしま
……もしかして他所のスレに話題持って行かれてる?
ここは単独スレがムリな人達用として存在してればいいと思うよ。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/29(木) 21:29:08
つまり輔匡とか士仁とか黄元とかだな
図らずも姜維スレが考察系最後の巨星となった気がする…
そういえばもう落ちてしまったスレも多々あるな……
>>338 見てた。
住人になるきっかけになったスレなんで
いつの間にか落ちてて大変焦った
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 13:25:25
姜維最大の謎
蜀内に地盤やコネがあるわけでも、特に多数の兵や土地を持参で降ったわけでもないのに事実上最高権力者まで登った理由
ろくな実力者がいなかったから。
姜維は向こうの地理に詳しかったからだろう。
夏侯覇のケースと同じで。
あとは劉禅も北伐やって欲しかったのかな?
それだけで蜀全軍の最高権力者にするかね?
荊州閥も益州人もみんな根無し草で降将の彼の命に従うということだよ?
夏侯覇には官位は与えたがそんな権力は与えてないでしょ。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 02:11:32
魏・晋での蜀将の待遇ってどうだったんですかね?
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 02:33:51
一部重臣は取り立てられて蜀の慰撫に
それ以外は強制移住
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 02:43:41
>>349 有難うございます。
一部重臣は降伏を推進したショウ周あたりですか。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 12:12:34
董厥とか
羅憲も
>>346 根無し草で、どっちの派閥にも属していなかったから
都合が良かったんじゃない?
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 01:59:09
結果を見たら全然都合良くない気がするんですけど
どうしてそうしたのか、を語っているのに、結果を見てどうする。
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 02:23:39
どの派閥にも入らないってことは、誰も望まない結果になるのは明らかだったと思うのだが、なぜやったんだ?
何かクーデター的な事があったんじゃないのか?
根無し草ではあったが、派閥の論理で上手い具合に上に登れただけなんじゃないか?
あと無派閥ではない筈だが、と言うかバリバリ諸葛亮の派閥じゃないか
あぼーん
あぼーん
あぼーん
柳陰の存在の信憑性ってどれくらい?
出てくるのは演義のみ?
華陽国志にも記述があるんだっけ?
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/08(土) 06:02:09
、 ヽ
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. { トヽ;;;;;! '´ ̄ ` { '=ッ{;< ! . , , .
. ヽ.ゞさ;;} ,.r'_ ,..)、 !;,.! ヽ、_,人_,ノ、_,从,人.ィj、ノv1
ヽニY ,.r' _`;^´! ,';/ )
ヾ:、 ヾ= 三;〉 /'′ ‐=、´ かあさん,スレが止まってます
ノ,;:::\ ` ー" , ' )
,.、-',;;;{ ヾ:ヽ、 __ ,∠、 , '⌒r‐v'ヽィ'⌒Yソ、ト、!yヘ!
',,;;;{ {;;;;;;ヽ }::〈;;;;;;;;l iヽ、 ´ i ' ´ `
,;;;;;ヽ、ヽ;;;;\ ,r'::::ノ;;;;;;j j;;;;,.`ヽ、
よし、黄権について語ろうか。
魏でも評価高いんだよね。
何故か毎回孟達と同じとこにいくなぁこの人。
,, - ―- 、
,. '" _,,. -…; ヽ
(i'"((´ __ 〈 }
|__ r=_ニニ`ヽfハ } 孔明 そうとうたまってたみたいだな
ヾ|! ┴’ }|トi } 腹ン中が
|! ,,_ {' } パンパンだぜ
「´r__ァ ./ 彡ハ、
ヽ ‐' / "'ヽ
ヽ__,.. ' / ヽ
/⌒`  ̄ ` ヽ\_
/ i ヽ \
,' } i ヽ
{ j l }
i ヽ j ノ | } l
ト、 } / / l | .|
! ヽ | ノ j ' |
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ヽ | i | \ l /|
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l ! | l / |
あぼーん
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/13(木) 01:46:15
保守
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 17:55:35
仏
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 20:49:29
黄権の家族の扱いとか見ると劉備って仁君って感じがするね。
有能な息子とかいなかったのかな?
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 20:55:29
黄崇とかいうのがいなかったか?
あの人複雑だよね・・
降伏してもよかったろうに
ちゃんと真面目なスレに戻ってくる辺りが
好きだぜこの板
今劉備スレ行ったら魏延の話題出した奴がこっちに誘導されてたんだが……
始まってねーのな魏延の話
……また来るわ
魏延は軍師として適任だったのか?
軍師といってもゲームの助言者みたいなもんじゃないから
>>378 夏侯覇だって亡命後、姜維の軍師やってたし
魏延は蜀随一の名将だろ。
「随一」とか軽々しくつけるな
なんつーか劉備が死んで変わっていく蜀陣営で一人生き方を変えられない
っつー感じなのが哀しさを背負ってるっぽくて好きだな魏延
隆慶原作原漫画みたいな方向性で作ったらすげーカッコ良くなりそうだ
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/22(土) 14:06:41
_, ,_
( ゚∀゚ )
/ `ヽ.
___/ ┃)) __i | キュッキュッ
/ ヽ,,⌒)__(,,ノ\
. _, ,_
( ´д` )
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| トン
_(,,) 盛り上げろ (,,)
/ |______|\
/^l
,―-y'"'~"゙´ | もさもさ
ヽ ´ ∀ ` ゙':
ミ .,/) 、/) もさもさ
゙, "' ´''ミ ハ,_,ハ
(( ミ ;:' ,:' ´∀`'; ,,,,,.,.,,,
'; 彡 :: っ ,っ ミ ・д・ミノ
(/~"゙''´~"U ι''"゙''u "'''''''"
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/25(火) 18:44:04
さげておく
さがってねーし
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/29(土) 01:23:19
俺も下げておく
あぼーん
保守
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/07(月) 12:34:37
ヤハウェ
U2かよw
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 13:43:15
おっぱい
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 16:11:17
皆の者
出陣を
創価学会
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 10:56:07
ジャーンジャーン
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/14(月) 00:07:42
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/15(火) 19:39:06
>>307 だが、呂布に牽制されて袁術が北上するのを困難にしたのでは?
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 23:33:55
?
馬氏の五常の順位をつけると、
馬良(季常)>馬安仁(叔常)>馬順(伯常)≧馬謖(幼常)>馬統(仲常)
かな?ちなみに、知名度の低い三人の活躍↓
馬順
字は伯常。
特に際立った事跡は伝わっていないが、蜀に仕え馬良をよく補佐して過ちがなかったという。
武陵郡五渓の異民族と連絡を取り、これを常々蜀に味方するように慰撫してきたのは
本来は馬順の功績であったが 劉備の呉への復讐戦を前に死亡したため、馬良に引き継がれた。
馬統
字は仲常。
狩猟や楽曲を好み学問を嫌ったため、才子の多い馬氏の中では評価は高くなかったが、
軍務を司っては剛毅にして果断。魏に仕えて江夏太守となり、呉への侵攻の機会を常に狙い
また魏領へ侵入してきた甘寧や徐盛などの軍を追い返して武功を挙げた。
曹仁の家人が略奪を働いたためこれを厳しく罰したが、その結果、曹仁との中が険悪になったため、
軍務を離れて若くして農耕と詩作の隠遁生活に入り余生を送った。
馬安仁
字は叔常。
陽気で開放的な性格で、周囲の人々に愛された。
詩や議論、剣術を好み、荊州の文化人の間でも馬良に次いで盛名が高かった。
仕官を望まず曹操や劉備の召し出しを断っていたが、馬順を失った馬良の頼みでその補佐官の地位につき、
馬良が倒れたのちもその亡骸の傍らに立って、呉の兵を斬りまくったのち、自らの首を切って自決した。
創価思想
というか、順位って何を指して言いたいのかよくわからん
>>408 創価思想を基準にしたんじゃね?
つまり、なんの価値もないと言うことだな。
釣りにしても字まで間違えているとは思えんから
年齢順は
馬順(伯常)、馬統(仲常)、馬安仁(叔常)、馬良(季常)、馬謖(幼常)
でいいのかな
名と経歴はガセ
字、年齢順はあってるだろうね
>>405の書いた経歴は、荊南諸雄記とかいう書物にあるらしい。
「荊南諸雄記」は、隋の時代に書かれた楚や荊の地方出身の殷〜隋の人物伝。
私家本であり、地方ナショナリズムで地元びいきの記述を多いため、全部を
鵜呑みにすることはできないが、馬氏の五常が全員出ている貴重な史料。
順番は、おそらく、当時の知識人の間での評価だろう。白眉最良ときて、
だんだん評価が下がってくる。
ガセコピペうぜーし飽きたし。なにを面白がってるんだか。
前にも見かけたし
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/27(日) 21:10:30
馬良の兄弟の名前。
ど〜でもい〜ですよ〜。
>>416 同レベルというより、ここと同じ流れになっているということを指しただけ
まあ向こうの方が先なんだがなw
じゃあ馬謖に関連して、街亭の総大将は誰にすべきだったと思う?
普通に魏延か呉壱だろ
あえて、趙雲とか。かなり釘付けになるだろうし
正史の趙雲はあまり司令官向きではなかったのでは、
誰も趙雲を推薦したとは書かれてないし
寡勢で健闘するのが得意なタイプかと。
趙雲は別軍率いて曹真にあたってたから街亭の大将は無理、推薦されるわけもない
趙雲は寡兵戦闘が得意だったからというより
豪族としての階級が低いから爪牙だったんでしょ
>>423 趙雲が大将ならその役は誰か他の人がやるんじゃねえの?
趙雲じゃなけりゃ無理ってんなら別だけど
呉壱ってそんなにすごいのか?
あんま印象に無いが
街亭戦の場合、戦闘だけじゃなく調略とか占領政策もやらんといかんからな。
馬謖以外の適材が思いつかん。蜀もうだめぽ・・・
なんか問題でも?
>街亭戦の場合、戦闘だけじゃなく調略とか占領政策もやらんといかん
なんで?
街亭はあくまでも押さえの地。守るだけだから、あえて積極的に戦う必要もないから、
命令に忠実なやつを使うべきだった。ましてや、机上の空論で兵法をひけらかす馬謖
なんかは、論外。
>>420-424 当時趙雲は鎮東将軍で魏延の鎮北将軍と並んで北伐軍中最高位。(李厳は後方にあり劉エンらは形式的)
呉懿はその後230年に魏延と共に昇進し左将軍となり、李厳弾劾文あたりから判断するに
呉班、高翔あたりと同格(ちょい上?)の趙雲・魏延に次ぐ位置の軍高官。
趙雲が既に一軍を任され陽動に動いているのだから、趙雲と並ぶ魏延(もしくは両者に次ぐ呉懿)が推薦されるのは
ある種当然で、実力云々ではないでしょう。丞相府参軍に過ぎない馬謖じゃ分不相応だと。
現在与えられている官位とは別に、名声や血統なんかでの政治家的なランクがあるじゃん
その兼ね合いの中で、趙雲は大将役から漏れたんで無いかい?
>>434 街亭以前に陽動作戦についてるだろう?趙雲は。
王平でいいじゃん。
当時の王平は、裨将軍としてたかだか千人を指揮してただけだしな。
能力的にはどうあれ、いきなり万単位の兵を預けて街亭に派遣するなんて無理だろう。
馬謖は万単位の兵を率いていたのか?
街亭での防御は、魏軍の隴西侵入を阻止すると言う重大な任務を帯び、
更に魏軍も数万を派遣する事が予測された状況で、
数千の分遣で済ませるとは思えないが。
まぁ、兵力の詳細な記述は俺も知らないから、数千であった可能性も否定はできないけど。
大将が馬謖、その下に張休、李盛、黄襲らがいた。
馬謖、張休、李盛らは処刑され、黄襲は兵を取り上げられた。
王平がこれらの部将たちのどの位置にいたかは定かではないが、彼が率いていたのは1000人。
王平は道案内だから一人でも十分
>>434 そういう名声・血統的なものが高いのがある意味馬謖みたいな奴で、あるいは楊儀・劉エンなんかもそうかもしれんが、
彼らを事務や参謀としてならともかく実際に兵を預かっての大任につけるのは逆に反発が大きいかったわけで。
それに呉懿はともかく魏延と趙雲はその種のランクでは似たり寄ったりかと。
魏延は長安奇襲を却下されてるから、総大将としてはどうかと。
やはり、呉壱(呉懿)。副将に、関興と王平でもつければ安心だろう。
間違っても、馬謖は総大将にできない。
関興って…
何か問題でも?
>>446 ルーキー外して何故またルーキーってことでは?
呉懿と王平がいれば関興の発言を抑えることくらいできると思うが
呉懿なら立場上仕切っても問題ないだろうけど…。
関羽シンパがどれくらいいたのか分からん。
やっぱり暴走とかもありそうな。
実戦経験がないどころか二十数歳で歿している関興が北伐に従軍したところで、
重きなんてなしようがないでしょ
無理やり馬忠もってくりゃ完璧
でも二十歳そこそこで侍中になったって本当はありえんことなのよね。
王平に並ぶかどうかは知らんが。
馬謖が王平の言を入れ、防衛成功させ、
人間としても将軍としても成長するのが蜀にとっては幸せだった
馬謖≒QBK
馬謖は李典みたいに内政型の武将にしたほうが良かったんじゃないかと思う。
内政型の武将ってなに?
後方支援か?
人民統治とかじゃね?曹操は李典が書物好きなのを気に入って、人民統治をやらせたらしいし
兵糧輸送と言う手もあるな
そうなると李厳の立場が…
内政型の武将とか兵糧輸送とか、ゲーム脳に思えるんですが
李典がやってるからだろ
楊儀伝にあるような部隊編成や兵糧の管理、物資の調達なんかが適役だったんじゃないかねぇ。
>>462 ところが最近のゲームじゃ兵糧輸送なんて概念殆どないんですよ。やること無いやつに運ばせるだけ。
最近に限らんがな(´・ω・`)
昔から裏切りそうな奴にやらしていたなぁ。
輸送ってかなり重要なのに。
馬謖は人民統治でもやらせるとうまいのでは?諸葛亮の南征前に
「戦いとは心を攻めるものです」とか語ってたし
というか、街亭の総大将を誰にすべきかと言うことを話してたのでは?
危なっかしい子ほど可愛いかったり
と言う心情を戦場に持ち込んではいけない
街亭の総大将は無難に魏延か呉懿じゃね?
もし、万が一、馬謖を総大将にするとしたら、副将には誰をつけるべき?
孔明?まずは目の届く範囲で。
馬謖をとめられるのは、馬謖より博学か、官爵がずっと上の人じゃないと。
前線にいるやつ以外では諸葛亮と李厳ぐらいかなぁ〜
関興・張苞なら抑えられるかも。父親の威厳ってやつ
>>474 官爵が上ならそっちが上官とならなきゃ筋が通らないわけで、馬謖を大将にした時点である程度出世してる連中は使えない。
実際ミスとしか言いようのない人事だ。
諸葛亮と李厳は立場上動けないし、関興と張苞じゃ「この若造が、引っ込んでろ!」と言われるのがオチ
要するに、馬謖は大将にできない
ところで、魏延が街亭の総大将ならどうなったのだろうか
そもそも諸葛亮が何を求めて(自ら出向かず)馬謖を街亭に派遣したのかが良くわからんのでなんとも言いがたいんだが、
陽動を駆使して大軍を釘付けし、急進して三郡を呼応させた上にその中央部に拠って二分された敵を迎え討とうって腹だよね?
長安奇襲を却下された時点で魏延が第一で街亭の防御に回される事は無い
>>481 街亭に諸葛亮が馬謖を派遣した時期、南安郡の上ケイには郭淮が健在で、
隴西郡では太守・游楚が抵抗を続けており、更に涼州刺史・徐バクが蜀軍への
抗戦に備えて兵を送っている状況。
隴西一帯を平定できない以上は容易には東進できない。
諸葛亮はといえば、隴西郡と郭淮の篭もる上ケイを結ぶ連絡線を断つ意味でも
祁山と西県を軸に動く事ができない。
上ケイの郭淮に対して監視に列柳城へ高翔を派遣し、その間に隴西一帯を
制圧しておかなければ長安から西進してくるであろう張コウを先鋒とした魏軍とは
まともに戦えない。
そのためにも街亭を堅守して魏軍の西進を防がなければならない。
端的にいえば時間との勝負。
つまり孔明は、
>>483の考えを間違いなく理解して実行してくれる人物として、馬謖を選んだということか
街亭と上ケイを押さえておけば魏軍を東西に分断できるので、
曹真・張コウの援軍を阻止しつつ、ゆうゆうと隴西以西を占領するつもりだったんだろう。
だから東の魏軍とは積極的に戦う必要がなく、時間稼ぎをするのが差し当たっての目的。
逆に、西の隴西はできるだけ早期に解決したかったと思う。
魏延や呉懿を温存したのは隴西攻略に当てるためだったんじゃないか。
しかし、玉砕覚悟の突撃より困難な仕事だよね。
固く守るって。
馬謖がどれだけの期間、街亭を守っていたら
諸葛亮の戦略構想は成っていたんだろうか
成功していたとしても長安までは抜けん気がするが…
せいぜい一週間じゃないか?
一週間以上守るのは歴戦の将軍でも厳しいと思う。
さすがに兵力差あるし、精神面と肉体面でも持たない。
>>488 兵力差が一番あるのは趙雲のとこで、曹真が大軍持って行った以上
張コウと馬謖の所に大した差はなさそうに思えるのだが。
実際のとこ、隴西以西を確保できたとしてもどうなんだろうな
結局、長安までは長い道のりになるので、補給線の問題は解決しない
桟道通るよりは多少マシになるのかもしれんが
>>489 街亭で馬謖と対峙した張コウの率いる魏軍は歩騎五万。
この部隊だけで蜀軍の主力に匹敵する大兵力。
>>491 歩騎五万というのは明帝紀註の魏書にあるものだと思うが、これは明帝自ら諸葛亮討伐のために遠征した軍の総数ではなかろうか?
いくら魏が巨大とはいえ立場上明帝の先駆けである張コウにさらに五万も動員できたかな。
しかも明帝の長安巡幸はかなり急いだもんで5万ってのはいきなり動員できるギリギリだったんじゃねーかな
この時って司馬懿は既に帰還していたっけ?
司馬懿は荊北の防備担当で宛辺りにいたような
そうか、元々荊・豫州の督なんだから中央から孟達討伐に赴いたわけじゃないよな。
ちょっと勘違いしてた。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/31(木) 19:47:45
>487
魏の隴西太守・遊楚の言葉を借りれば、あと一ヶ月くらい魏の援軍が隴西に進出出来なければ、隴西諸郡は蜀漢側が押さえた、と言ってるね。
長安取らなきゃ意味無くね
戦役で大勝しないと魏の大反抗あるよ
羌や関中の連中がどう動くかってのもありそうだが。
>>493 おそらく中央の常備軍をほぼそっくり動員したとみていいと思う。
それに荊州や河内・河南からも抽出して揃えた戦力じゃないかと。
229年にも陳倉城への増援に張コウが派遣されているけど、この時の戦力は
南・北軍の三万に近軍を加えたもの。
また、234年にも司馬懿の元へ征蜀護軍の秦朗が増援として派遣されていて、
この時の戦力は二万。
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/31(木) 23:06:11
馬謖の配置ミスと言うよりは李厳の配置ミスじゃない?
>>501 李厳は単なる軍人ではなく国家のナンバー2(劉禅をカウントすれば3)なのであのポジションで間違いはなかったんでは。
孫策・孫権における二張や周瑜みたいなもので、自分が留守にするなら誰かは残さないとバランス悪い。
んで、当時諸葛亮が抜けた中央を埋める実力者は李厳だったと。
馬謖って太守じゃなかったっけ?
>>503 越スイ太守をやってた時もあったが、街亭の時は丞相府の参軍だろ。
越スイ太守の時に不穏な動きをしていた蛮族に対し無為無策だったのか?
馬謖だから何もしてなかったって事はなかっただろう
>>507 馬謖が越雋郡太守であった時期と李厳が越雋郡の叛乱を鎮定した時期が
時系列を考えると微妙に重なるからじゃない?
>>508 その馬謖が太守やってた時期は明確にされてないけど?
臭わす事は書いてあるけど憶測でしかねーよ
でなきゃ「理論先行実力皆無」とか言われないでしょ。
結局、馬謖は能力有るの?
あるんだろうが、使い方を間違えてる。文官として使えば、結構使えそうだ。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 20:30:57
アホォな質問かもしれんが蜀は海に面しているのか?
最近のゲーム脳は語義が広くなったのかね
ところで、コーエーのゲームで蜀が海に面しているのなんかあったか?
俺の記憶ではそんなことはないと思うが、ゲームもやらずに書き込んでいるとすれば恥ずかしい話だ
>>512の発言だけでゲーム脳というのは無理があるかと。
文官・武官と言う言葉は単純明快だから結構使うし。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 21:35:09
>>515 いやゲームとかやってんだが蜀は明らか海に面してないから魚介類は湖か呉から買い取るかぐらいでしか入手できないか聞きたかった
長江でも取れるだろうな
長江って広いらしいね
瀬戸内海くらいはあるって聞いた
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 23:27:52
李厳ってそんなに偉かったんだ
横山三国志だと「綿竹関の勇将」とか言われてたけど、なんとなく劣化版張遼みたいなイメージがあったw
陸孫に匹敵する人材なんだぞw
三国志の実際って、ほとんど士大夫層の派閥争いですよ
劉備陣営内でも大まかに言って、譜代武闘派・荊州派・益州派があって、益州派の筆頭が李厳ざます
史実考察系の本も相当おもろいから読んでみ
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 23:41:48
諸葛亮って人材選びがうまいんだか下手なんだか…
悪い例
馬ショク
楊義
ある意味で魏延
補給失敗李厳
筍安
良い例
董允
蒋苑
費イ
諸葛亮の人物眼ネタになると、おおよそ
・全くの賞賛
・問題点・良点ともに言及
・真っ向否定、ただし問題点に細かく言及
・上に同じ、ただし理由は馬謖の一事のみ
の4つに分かれるよね
でも、句安って姜維の時代の人間なんじゃ?
>>526 そうだよ。
しかも姜維が救援に行けなくなってしまい孤立してしまった為、降伏。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 01:29:04
ゴメソ。筍安は李厳の配下で補給を怠ったから亮に刑罰受けされて逆恨みして成都で流言飛語して亮を成都に呼び戻す原因作った人(´・ω・`)
正史にでてくるかはしらんが
「筍安」という人物は正史では出てこないみたいね。
人名索引に載ってなかった。
あと筍は代用でほんとは句の草冠があるバージョン
中央研究院漢籍電子文献の小説戯曲の所で検索掛けてみたが、
荀安も筍安もヒットしなかったぞ。
なんかの小説にだけ出てくるとかじゃないのか?
笱 竹冠ならあるがこれか?
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 02:26:01
吉川三国志だからね(´・ω・`)かなり演義が含まれてる
紹介
李厳配下で李厳がかなり重用している
李厳が永安から前線に補給を送るときの奉行で都尉。しかし途中で遊興をして期日を怠り、亮に万一兵糧が奪われては大変だから山中に隠れながら進んでいたと嘘をつくが
汝の皮膚は決して山野で雨風を凌いでいたものでなく酒の油で弛んでると看破され、処刑されそうになるがなぜか楊儀の諫めで杖80で許された
しかしこれを根に持ち魏に投降するが司馬懿は信じない。そこで成都にもどり亮が漢中で独立するとか流言飛語して しまいには劉禅も動かされ亮を成都に還らせた。 このとき亮は孫ピンの竃を減らす策の逆手を取り退却するごとに竃を増やす策をやったという。
成都に還らせた亮は劉禅に理由を聞くと 相父を見たかった。別に理由はないと言う始末。 亮は宮中を調べ、やっとコウ安が犯人だと解るが既にコウ安は魏国に逃げていた
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 02:42:03
>>534 ゴメソ横山三国志読んだことない(´・ω・`)
だけどあれは吉川三国志が元だから多分いると思うよ
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 02:56:53
>>535 確か出てたよ!処刑をする所を側近が「そしたら重用している李厳がすねる」
とか進言して仕方なく杖80になったのを覚えてる。
>>536 あれ不思議だよね。あんだけ軍律厳しい亮が馬ショクは斬ったのにコウ安は斬らないなんて…(´・ω・`)
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 03:15:30
李厳にはコウメイも気を使っていたと
何処かに書いてあったな
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 07:31:39
李厳が1番クズだったと言う事じゃん。あんなカス重用してたんだから。
お前らグダグダ言ってないで早く気付けよ。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 07:56:16
全然公正じゃないじゃん諸葛亮
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 09:46:08
苟安だね。中研院だと635ページ。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/05(火) 18:55:19
>524
李厳の出身地は荊州。赤壁後〜劉備が益州入りするまでの間の数年、前益州政権に仕えていただけ。
益州閥って訳じゃぁないよ。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/05(火) 19:31:51
結局、馬謖には何をやらせるべきだった?
普通に丞相府の属官
理論先行型の人間は軍人畑は歩かせない方がいいよ
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 00:41:49
役割分担
劉備→民の心を惹きつける
諸葛亮→堅実な政治で蜀を他のに国に勝るよう従事
関羽→荊州で都督。しかし部下にホウトウ有り
張飛→北伐
趙雲→北伐
黄忠→北伐
馬超→北伐+北方異民族対策
法政→北伐の軍師
>>551 南郡の守りが糜芳じゃやっぱ心もとないな
あと北伐は劉備が監督しな始まらんでしょ
劉備入蜀後、荊州は誰に任せるべきだったと思う?
関羽
>>554 実際は関羽に任せるべきじゃなかったかも。関羽は劉備だから扱える人物。
入蜀後、一人残された関羽はやたらと自尊心が高くなってるような気がするし、
それが原因で結局は裏切りが起きて荊州とられちゃってるわけだし。
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 19:12:34
関羽でもいいと思う。後方に、糜芳・士仁じゃ無く
趙雲・霍峻がいれば。
誰が後方にいても無理だと思う。特に呉が動き出した後じゃ駄目だね。
降伏が討ち死にに変わる程度の違いだろう。
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 19:50:44
呉が動けば、陥落間違いなしは無いんじゃないかな。
霍峻は数百人で、1万の大軍の包囲から城を1年間
守ったし、趙雲も別伝だが、曹操の大軍を撃退しているし。
結局、呉を動かしたのも糜芳・士仁・孟達などの裏切りを出したのも
関羽だからなぁ。かといって、他に適当な人物もいないしなぁ。
>>560 あれは裏切りってよりはどうしようもなくなっての降伏じゃないのか?
563 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 20:21:45
あっ、つい裏切りって考えちゃうけど、自ら裏切りを
したわけじゃなかった。
南郡には、呂蒙に降伏するのが嫌で、呂蒙を討とうと
し、処罰されたであろう名も無い人物達もいたわけだし。
こんな人物達が、城内の主流だったらどうだったんだろう。
裏切りの定義を考えれば裏切りと言えるだろう
苛烈な言い方であるが
っていうかそんなことはどうでもいい
>>558 腹心が変われば準備工作の段階であの結果になったかはかなり疑問
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 21:02:05
麋芳が鄭成功だったら…
>>557 糜芳は徐州からの古参で劉備の外戚でもある。
士仁も麋芳より早く劉備に使えてた可能性があるから信頼は高かったと思うよ。
どう考えても単なるヘタレだったから裏切りましたって連中じゃないよな
本当にどうしようもなくなった時お前らならどうする?
俺は素直に降伏しちまった士仁とか麋芳を責められないと思う。
現代日本人なら、ほとんどが降伏するだろうけどさ、
あの時代は物の考え方が違うから、何とも。
そんなに将兵ともども枕並べて討ち死に当然な時代だっけ?
できないからこそ夢を見るのさ。
そうでもないはず
この時代に限らないけど、よほど節度なく帰順・投降したわけでもない限り
降将を遇するのは普通にあること
肉担牽羊の故事もある様に降伏した相手の苦衷を汲んで礼を尽くすのが中国
徹底抗戦・玉砕当然、降伏は末代までの恥、卑怯卑劣なんて見方は
歪んだ武士道精神に囚われた日本人の感覚じゃないの?
武士道つっても江戸武士道だわな
鎌倉武士道とか室町武士道はもっと柔軟
つーか「武士道」って概念の成立自体が江戸時代でしょ
>>576 武士道って名称になったのは江戸時代だが、概念その物は鎌倉時代とかからある
んで、武士道でどうしろと?
武士道って日本人的な小児的ナルシズムの所産って気がする
ようわからんが
武士道とか関係なしに、戦争が日常という時点で、
平和な現代日本とは物の考え方が根本的に変わってくるぞ
そもそも糜芳はなんでいきなりそこまで追い詰められたんだ?
呉がいくら電光石火っても結構な距離さかのぼってくんだから、なにかしら対応できなかったんか??
糜芳の器量がその程度だった?
それとも怠慢?
呂蒙はうまくつけこんだもんだな
関羽が呉の計略にあっさり引っかかって兵力の大半を樊城攻めに回しちゃったから
別のスレでは兵数もそうだが兵糧の問題にも言及されてたな。
先に降伏してた士仁に説得されたからってのもあるな
士仁も涙ながらに降伏したわけで、関羽と不仲だったとはいえやっぱ本意ではなかったんだろうな
誰があんな配置にしたんだろうな。糜竺を残すことはできなかったのか?
それ以前に、どうして関羽を荊州に残したのだろう
方面軍司令官ってのは本人の能力と同時に格が求められるから
劉備配下でその格を持っていたのは関羽だけだったし実力も関羽は人後に落ちなかったから
当然の配置
糜竺はおそらく建国準備で入蜀してたんだと思う
>>586-587 糜竺は孫乾、簡雍とともに、荊州時代以降は左将軍府の従事中郎。
長史や司馬と同格で、謀議に与る以上は劉備に随行するのは自然な流れ。
関羽って荊州任せられてからおかしくなった気がするんだが。
やたらとプライドが高くなったと言うか…
ストレスがたまってたんだろうな。魏呉にはさまれてるうえに、
参謀となるはずだったであろうホウ統はいない、おまけに同僚は雑魚ばかりで
ホウ統は本当に、荊州に戻すつもりだったのか?
諸葛亮が荊州にいる予定ではなかったっけ
>>592 そんな予定はない
建国の為に諸葛亮の入蜀は規定路線だ
>同僚は雑魚ばかり
何を言ってる?
>>590の意図はわからんが、実際関羽はそう思ってたんじゃないか
少なくとも立場・身分は少しも雑魚じゃない
能力の事で雑魚だと同僚を見なすような奴なら、ますます関羽も救えない男だということになる
実際、樊城攻略の頃の関羽はマジで救えないと思う
戦術眼はかつてないほど冴え渡ってたみたいだが全体的な視野は明らかに狭窄になってるし
関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、
これらの短所が仇となって、あえなく最期を遂げる事となった。
他人が自分より劣っているのが許せなかったんじゃ?
俺ならもっとうまくできるって思ってたんだろ
>関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、
>これらの短所が仇となって、あえなく最期を遂げる事となった。
張飛は別に乱暴じゃないんだが…
失敗したから内紛沙汰が大げさになって、
関羽の否定・過小評価が行われているのだろう。
集中すると直接視野以外の間接視野は見えなくなるものだよ。
またそうでなければあそこまでの成功はありえなかったと思う。
>>599 >関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、
>これらの短所が仇となって、あえなく最期を遂げる事となった。
陳寿が関羽伝に書いた張飛の人物評
>>600 一武将としてはともかくかりにも州全体を預かる司令官としてそれはまずかろう
>>601 それはちくま三国志の訳者が訳した張飛評
陳寿が書いた張飛評は「飛暴而無恩」
これは前出の張飛伝「飛愛敬君子而不恤小人」に対応してるんだから
文脈しっかり押さえてれば高校生程度の漢文の知識でもこれを乱暴なんて翻訳しねーよ
ちくま文庫の拙訳は鵜呑みできないしね
>>605 キリなんかないよ
ちくまは
>>603も言ってるけど前後の文脈を考慮しないニュアンスのおかしい
訳も多いし、史料特有・独特の語句なんかもわざわざ現代的に直してみたり、
史料に触れてる人は粗だらけって気づくはず。
2ちゃんに限らないけど、ちくまの訳文を丸写しで載せたりするのは考えもの。
漢文の知識がない俺は判断しようがないんだけど、
そんなやつは議論するなってこと?
>>607 そう思うならそうすればいい。
そもそも前提となるべきものに対して知識がないならまともな議論になるわけがない。
ただ訳文がすべて間違ってるわけではないし、自分がわかる範囲内での議論は問題なし。
べつにそんな足踏みや遠慮する必要ないんじゃ?
ミスは指摘してくれる人もいるし、自力でも少しずつ学んでいけるんだし、
初めから完璧超人な奴なんていないと思うお
ヘイヘイ!じゃあ教えて欲しいんだが「暴」って手持ちの辞書だと
1.荒々しい、粗暴である、凶悪だ、残酷な
2.膨らむ、もりあがる
3.(造語成分として)にわかで激しい
ぐらいしか無く、「張飛は乱暴で〜」というのが真っ当な訳に思える。
こいつは現代中国語用なので(しかも薄いし)、古文では他に用法があるのだろうか?
>>603や
>>606はどう訳した?
なんかどこかで見た流れだなぁ。
>>610 陳寿の書き方だとこう対応してるから
「不恤小人」(小人を恤まず)=「暴而無恩」(暴而して恩無し)
つまりは君の辞典の
1.荒々しい、粗暴である、凶悪だ、残酷な
の「残酷」に相当するわけだな
日本語の「乱暴」と漢文、中国語の「暴」は意味が微妙に違ってる
暴君って乱暴な君主の事じゃねーでしょ?
>>610 たとえば「暴骨」といえば骨を野にさらす事をいい、これは「春秋左氏伝」にみえる。
また、「暴戻」といえば甚だ非道で道理に反する事を意味し、これは「史記」に。
ここで肝心なのは史料から読み取れる張飛の人となりなんだから、
「「不恤小人(小人を恤まず)」とある一方で、「飛愛敬君子(君子を敬愛す)」と
ある様に、張飛は貴族・士大夫層の倫理観や価値観の人間であったという事。
また日頃から卒吏を殺していたのは刑罰によるもので、これは法に峻厳であると
いう事。
加えて、「鞭で打つ」というのを単なる気分屋の暴力と勘違いされやすいが、
これは古代から刑罰では最も初歩的なもので、張飛の場合はこれがあまりに
厳しかったという事。
「乱暴」というのは無法なふるまいで、ルールに外れた行いを指すわけだから、
張飛の場合は当時の支配層の倫理観に極度に偏っていたという事で、なにも
現代的な乱暴者のニュアンスで訳していいということにはならない。
まったくその側面がなかったとは絶対に言い切れないにせよ。
そもそも「春秋」を学んで一字一句のもつ広い解釈を十二分に理解しているだろう
陳寿が史書を著すうえで注意をはらわないわけがない。
「暴」の一字から単純に「乱暴」と訳したちくまがどうかしてるんでしょ。
>>612 まず文構成上の対応関係で言ったら「飛暴而無恩」は直前の「羽剛而自矜」の方だと思うから、つまり意味として対応してるということ?
「驕於士大夫」に対しての「剛而自矜」みたいな?
乱暴と残酷は確かに微妙にニュアンスの異なる言葉だが、この場面で絶対に後者を選ぶ理由としてイマイチピンとこないんだよなぁ。
どちらでも当てはまる気が…
関羽の「剛而自矜」だと「剛」一字だと柔らかいに対しての堅いの意味しかないから「頑固だ、剛毅だ」みたいな意味しかなく、
「自らを矜(たの)む」と合わせて初めて驕と対比する「傲慢だ」となるわけじゃない?
「暴而無恩」を「乱暴で恩(いつくし)みない」で「憐れみがない」でも十分通るんじゃないかな?
なんか筑摩を庇ってるようでアレだがw
>>614 士大夫の倫理観の持ち主は過酷な法を嫌い温情を持って接することを尊ぶのだから
法に過酷なことはむしろ君子の道に則らないことになるんでは?
道義の道に反した行いだから「暴」にピッタリだと言ってみたり。
要するに暴君や暴政の類の暴と解釈しておけばいい気がする
とりあえず現代人が連想する乱暴ではないよね
>>617 現代語でも「粗雑で配慮が足りないこと(例:乱暴な意見)」みたいな意味があるぜよ。
>>618 その粗雑で配慮が足りない場合の乱暴と、暴君、暴政の暴はニュアンスが違うって事さ
儒教の慈悲と寛容の精神に欠けていれば「暴」と扱われるのでは?
関羽を傲慢と訳すのもひどい誤訳
誇り高く自信過剰になるのが驕り
相手を侮り自信過剰になるのが傲り
関羽の場合はプライドが高いから陳寿は「驕於士大夫」「剛而自矜」と書いた筈なんだがね
長い翻訳作業で疲れてたんだか何だかは知らんが言葉の吟味という面では手抜きが過ぎる
関羽は長い間分不相応な総司令官やらされて
躁状態になってたと思う
>>621 同じことじゃないそれ?自分を高く見て相手を低く見る。
驕だと自分は過剰評価するが相手を見下さなかったり、傲だと相手を見下すが自分を過剰評価はしないなんて
意味が含まれてるとは聞いたことないが、そうなの?
おごり高ぶって礼儀に欠けることを指す「傲慢」でどうしてひどい誤訳となるかわからない…
ピッタリだと思うのだが。
>>623 驕は気位が高く人を寄せ付けない馬の事を指すのが元
そこから気位が高く思い上がった様を指すようなった字
自分が高い結果として周囲が低い
傲は字義に人を侮るというニュアンスを含んでいる
人を自分の下に置く事で自己を高くする
一見すると似ているけど全然違う
いや、語源の高説はありがたい(嫌味じゃなく本当に勉強になった)が実際に
「驕だと自分は過剰評価するが相手を見下さなかったり、傲だと相手を見下すが自分を過剰評価はしない」
みたいな使われ方はしなくない?どちらも「自信過剰で周囲を侮る」といった同義語かと。
そんでどちらにせよ「おごり高ぶって礼儀に欠けること」に十分当てはまるのでは?
>>626 そうじゃないなら両方とも自分を高く見てるし周りを見下してるのに変わりないじゃない?
たとえば傲の方は自分が高く見ているという意味は含まないから別の語・使い方をしろって主張なのではないかと思ったわけですが。
「驕慢」と訳しておけばよかったろうに…
>>627 結果が同じものを指すとしても驕と倣では発生元が違う場合として別カテゴライズされてるわけ
だから結果が同じだから文字もどっちだっていいってのはちょっと勘弁してくれ
>>628 その通り
キョウマンって読むんだな
ゴウマンだと勘違いしてた
どっちでもいいよ。
自分なりにこだわるのは構わんけど、他人のをひどい誤訳ってのは言い過ぎだな。
議論系だと、「それ違うと思うよ?」位の表現に止めた方がスムーズかも知れないね
何も言わないけどお高くとまっていて不快>驕
常に自分の恣意を主張して不快>傲
全然違う。
>>633 それが正しいなら関羽は下になっちゃうだろ。自分を誇示して失敗したんだから。
219年の漢中王即位で前将軍を孫権に出来なかったものかね?
左将軍が関羽、右将軍が馬超、後将軍が張飛で。
孫権を繋ぎとめる配慮がほとんど欠けているような。
いくらなんでも劉備政権からの将軍位(しかも前将軍)授与なんて孫権を逆に挑発してんのかってことになっちゃうでしょ。
孫権は当時漢王朝の行車騎将軍じゃなかった?
初期中期の呉は孫権の官位の低さに苦しんでいるから
>>635みたいに官爵で高位の将軍に就けるのは危険過ぎる
>>638 いやだから漢朝の車騎将軍代行だって…前将軍よりよっぽど高いよ。
王を自称した同盟国からただの将軍位を受け取るなんて事実上の降伏ではなかろうか?
降伏も何も、建前上、劉備の漢中王は漢から封国されたもの
孫権の官爵も漢から叙任されてるもの
そのあたりを
>>635が理解してるうえで言ってるのか謎
関羽の前将軍ってのは漢中王国の私設の将軍号で、帝国から見たら雑号将軍クラスだよ。
曹操ですら漢の伏波将軍夏侯惇を魏王国の前将軍にするのをためらったエピソードがあるくらい。
王国の前将軍<<帝国の雑号将軍
お前の言葉は理解に苦しむ
たとえ劉備が自称でない正真正銘の王であったとしても、皇帝から貰った車騎将軍の位を塗り替えてまで前将軍の位を受け取ろうとはとうてい思わんよ
>>641 それ意味違うし
曹操が夏侯惇を魏国の将軍にすることは夏侯惇を配下、部下として扱うことであり
漢の将軍と漢の丞相として同僚であり友人として扱うという最高の礼を以って処したというエピソード
曹操配下で後漢の将軍位を持ってるのは夏侯惇だけだったか?
>>644 読めるか?
魏書曰:時諸將皆受魏官號,惇獨漢官,乃上疏自陳不當不臣之禮.
太祖曰:「吾聞太上師臣,其次友臣.夫臣者,貴コ之人也,區區之魏,而臣足以屈君乎?」
惇固請,乃拜為前將軍.
読めぬ
>>643 曹操本人が言ってることを「意味違う」と言われても。
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 21:52:04
曹操の発言自体が捏造とかっていうのは無しで
魏書に曰う、時に諸将皆魏の官號を受く。惇独り漢官なり。乃ち上疏して自ら不臣の礼に当たらざるを陳ぶ。
太祖曰く、「吾聞く、臣を師とするを太上となし、臣を友とするは其れに次ぐ。それ臣は貴徳の人なり。区々の魏、而して臣として以って君に屈せるに足るか」と。
惇固く請う、乃ち拝して前将軍となす。
読み下しは間違ってるところもあろうが、要するに区々たる魏、つまり魏程度が君(惇の事。君子という意味かも知れん。が結局は同じことだな)を臣下になど畏れ多いと曹操は言ったとある。
643で合ってるんじゃねえの?
650 :
649:2006/09/11(月) 22:06:29
ああ、ちょっと訂正。
前半で惇の徳を、後半で官号は漢>魏であることを言ってるわけだね。
曹操は。
「区々たる魏」は君を屈するに足らざりと言っているのだから、
区々たらざる魏ならば君を屈するに足るということだよ。
要するに曹操が夏侯惇に魏の官号を与えなかったのは、
彼を師友として待遇したい気持ちがあるのと同時に、
魏が小国であるため彼の官位が軽くなってしまうことにも理由がある。
652 :
649:2006/09/11(月) 22:16:07
>>651 > 君を屈するに足らざり
ああ、そう読み下すのか。
とにかく惇は曹操にとって特別な知遇を受けていたのは間違いないね。
関羽が張飛はともかく馬超や黄忠などの新参者と将軍号において易々と同列に置かれてしまったのとは対照的だね。
荊州牧を関羽に譲っていたらまた多少は違った展開になったのかな?
あ、ごめ。読み下しじゃなくて意訳。
読み下すと、「而るに臣、以て君を屈せしむるに足るか」になると思う。
臣が漢の藩国である魏、君が漢の一部をなす夏侯惇を指してる。
655 :
649:2006/09/11(月) 22:28:50
>>653 劉備が漢中王になった時は漢室は存在してたし、別におかしいとは思わんが?
>>654 そこだけ臣が魏(曹操)を指すというのはちょっと妙な気がするなあ。
だが構文的には必然的にそうなるのかな?
高校レベルの漢文知識しかない身にはなんとも言えん。
曹操が語っているのは臣に関する一般論なので(夫臣者…で始まってる)
漢に対する魏を指すとも、曹操に対する夏侯惇を指すとも解せられるね。
ダブルミーニングだ。
657 :
653:2006/09/11(月) 22:45:33
>>655 そうか、そこだけの視点で見てるんならそうだろうな
┐(´ー`)┌
てゆか、653は説明不足過ぎだろ。
匙を投げるのは説明してからにしろ。
>>658 やなこった
第一三国の政治情勢を一から説明する時間があるほど暇なわけじゃない
誰か気が向いたらやってくれるだろ
自分の主張を説明する気もないなら最初から黙っててくれ。邪魔だから。
ならアホなこと言わなきゃいいだけさ
それなら突っ込みも入らん
煽りめいたもの言いをしなきゃいいだけだろうに
自分の主張を説明できないのがアホなことで、実際こうして突っ込みが入るわけだ。
はは、それはお前も言われてることなんだがな
てかググって調べりゃわかるだろうに、そんなマイナーな話でもないぞ
お前がなにを問題視しているかも明らかでないのに、
どうやって検索キーワードを設定しろというのか。
自説を説明できないアホは黙ってなよ。存在価値が無いから。
666 :
649:2006/09/12(火) 00:27:27
魏は実質的に漢帝を擁してるが、蜀はそうではないという程度?
そろそろ「スレ違いだ」という声が聞こえてきそうだが
とりあえず、煽りは放っておけってこった
個人的には脱線マジ議論、好きよ
まあそろそろ本題に戻るか
何の話だったっけかな
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/12(火) 02:18:18
>>659みたいな奴が2ちゃんにはなんと多いことか!
しかし、「蜀将討議スレ」なのに蜀の五虎将軍がどういう基準で選出されたのかを知らん人間がいるとは驚きだな
おまけに「何を問題視しているかも明らかでない」と言い出すのは読解力がないだけなのか、調べる気がないのかのどちらかだろうな
五虎将軍?w
武将の序列の例として挙げただけだよw
ま、所謂五虎将にもランクがあって、同列と言うわけではないんだがな
いつの時点の話をしてるんだ?
五(虎)将の選出とか言ってるところ見ると陳寿が三国志を編纂してる頃の話か?
ああ、最も早い時期だと趙雲が一年遅れで諡号を贈られた時期(261年だっけ?)のことか?
いいや、漢中とった時の武将の序列は演義の五虎将とは別物って言いたかっただけ
五虎将とか言いだしたヤツが653と同一人物だとしても結局何が言いたかったのかわからん。
そもそも652は関羽が四方将軍に任じられた時、黄忠と同列にされたことに憤慨したことを下敷にしてるんだろう?
なんで五虎将なんてのが出てくるんだ?
1:一万石
2:二千石
3:一千石
4:六百石
5:四百石
6:一百石
※中○○石>○○石>比○○石の順に給料が多い。
1=三公、大将軍
2=閣僚、太守、雑号将軍、中郎将
3=閣僚補佐官、校尉
4=県長、郎中、舎人
5=長吏
6=小吏
まあ歴史の幹となるのは1〜3くらいまでの人間。
それ以下は枝のようなもの。幹との関わりで名を残すのみだ。
尚書も六百石。尚書僕射も六百石。
太尉聞人襲や司空張済がどんな歴史を作ったのかご高説を賜りたいものだね。
>>680 聞人襲:実力の無さから日食を起こし人心を動揺させる。
張済:張温の先任。
尚書は最も幹に近い枝と捉えた。
ワロタ スゲー実績だわw
至位三公ともなると天体さえも干渉できるのだ!
…悪い意味で。
前後左右将軍の正しい順位が分からん
前が最高位で、左より右が上だと聞いたが、後がどこに入るのか…
前>後>右>左?
前>右>左>後?
前>右>後>左?
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 08:25:26
上尊号碑だと魏は左右前後だね。
日本だと右>左だっけ
日本も左>右じゃない?
時代によって違う。
当時は左のほうが↑
≪評価項目≫
戦略=Strategy 政権運営全般の知見、士大夫の推挙と登用を評価
戦術=Tactics 前線での判断と行動、部隊の指揮と統御を評価
兵站=Logistics 後背地の拠点経営、軍需品の輸送と徴発を評価
政争=Politics 自勢力での権力掌握、他勢力との対外折衝を評価
思想=Ideology 儒家or法家or兵家or縦横家or道家or名家or任侠
≪≫
8.0:傑出
7.5:
7.0:優秀
6.5:
6.0:良好
5.5:
5.0:可
4.5:
4.0:不可
3.5:
3.0:論外
前>後>左>右と思う俺三国志大戦プレイヤー
前将軍 関羽
左将軍 張飛
右将軍 馬超
後将軍 黄忠
だっけ?こう並べるとイメージ的に前>左>右>後って思えてしまうw
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 01:22:18
>>692 馬超と張飛が逆だ。
魏だと左将軍=張郃、右将軍=徐晃、前将軍=張遼、後将軍=朱霊だな。
もう前左右後でいいような気がする。
「左遷」とか「右に並ぶ者のない」とか、
この場合当て嵌まらないのか。
馬岱の「平北将軍」ってどれくらいの身分なんですか?そんなに偉いの?
まあ、牛金を攻めた時の大将だったりするからそれなりの身分なんだろうが・・・・
>>694 つねづね思うのだが、
なぜか朱霊ってマイナーだよ。
曹丕に嫌われてる奴はいっぱいいるが、曹操に嫌われてるのはいないからな
息子を殺した張繍でさえ嫌われてないのに
>>685 書物によって違ってるな。
前>後>左>右 とか
左>右>前>後 とか
魏の都督制に当てはめてみると
東=左 南=前 西=右 北=後
なんだがこれ関係ないか。
>>695 豪族を指して「右族」つーのもあるな。
>>698 自分大好きな朱霊たんにはついついイジメたくなるだけ。
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 22:10:31
魏の左将軍張静ってだれ 聞いたことがないぞ 張こうではないか?! 教えて
>>701 携帯でみると文字化けしてそうなるらしいよ。
>>702 携帯で2ch見て負荷掛けてるアホは去ね
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 03:58:07
今どき携帯で見たって大した負荷にはならんよ。
ひろゆき自身、普通のブラウザで見てるくらいだし。
鯖が貧弱だった4〜5年前の古い認識のまま時代に取り残されてないか?
むしろ一度に読み込む部分が少ないからなぁ
はさておき、前述されている通り張静は張コウね
車騎将軍からさらに死後大将軍が追贈された郭淮や、
司空まで昇進した孫礼は、地味に
>>694の面々より格上?
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 23:19:00
曹操生前と曹丕の帝即位後では官位の重さが違う
丞相であった曹操がちょっとほぼ同格の大将軍を設置できるかな?
魏王って事で権威は全然違うにしたって漢内部の序列では丞相と大将軍はかなり近いぞ
皇帝である曹丕が大将軍を任命するのとはわけが違う
個人的に
高官順
前→後→左→右の順かと思ってたよ
前将軍=夏侯惇 左将軍=于禁 右将軍=楽進 後将軍=朱霊
前将軍=張遼 左将軍=張郃 右将軍=徐晃 後将軍=朱霊
前将軍=関羽 左将軍=馬超 右将軍=張飛 後将軍=黄忠
前将軍>>左将軍、右将軍>>後将軍が確定。
馬超を関羽が気にするくらいだから優遇されていると考えるべきで、
やはり左の方が上ではないだろうか?
古代中国は右より左を重んじたんじゃなかったっけ?
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 14:24:46
時代的には前>左>右>後だな。
712 :
.:2006/09/20(水) 14:49:45
前後左右だろ?
713 :
.:2006/09/20(水) 14:58:20
>>707は、なんかいくつかの論点がごちゃまぜになってるな。
>>694の任命は魏の王国時代の人事だよ。
曹丕が任命しているから、魏王が大将軍を設置できないというのは間違い。
王国の将軍と帝国の将軍の格の違いはまた別の話。
軍人上がりとキャリア官僚の格の違いもまた別の話。
>>716 >>706のような魏帝国成立以前と以後の官位を比べてるのがおかしいって指摘のどこが的外れだ
魏王が大将軍を任命できないというのが事実に照らし合わせて端的に間違ってるよ。
「
>>694の面々より格上?」という問いには、"yes"と答える。
そしてその理由を問われれば、キャリアと軍人の違いだと答えることになる。
決して、魏王が大将軍を任命できないからではない。
つか、707は703だろ。