小ネタ。
だいぶ前のスレで胡済の死亡時期がいつか?というのが少し話題になっていた。
で、今さら調べてて気付いたんだけど260年か261年なんじゃないかな?
なぜかって言うと胡済の最終官位が右驃騎将軍・兗州刺史なんだけど、
261年に諸葛瞻が行都護になった頃に宗預が兗州刺史になってる。
胡済死亡→宗預、兗州刺史に任命という流れだったんじゃないかな?
>>4 恐らくそんな感じだと思う。
前スレよく読んで無いけど胡済って二人居るって事でいいのかな?
>>5 いや、多分一人だと思う。断定はできないけどね。
しかし履歴見ると凄いよ、胡済は。
義陽郡出身なんでおそらく劉備の新野時代から仕えてる。
丞相諸葛亮を費禕らと共に支え、その死後は蜀滅亡寸前まで軍の中枢に居続けてる。
でも目立たないw
>>6 地味じゃない胡済なんて袁姓じゃない袁術みたいなもんだ。
蜀の末期って、そんなのばかりだね
勤続年数が長いので、とりあえず将軍
>6
胡済の仕官は諸葛亮の主簿がスタートみたいだし、董和伝の記述もあわせると
益州時代からじゃないかな?
董允・費イともつるんでいたみたいだし世代的にもうちょっと後だと思う。
胡済は恐らく、190年代半ば〜200年前後の生まれと推測されるから、20歳前後で仕官したとすると、劉備の益州入り前後だね。
ほんとに微妙な時期だ。(200年以降なら確実に益州入り後だけど)
ただ、「諸葛亮の主簿」ってのは丞相主簿なのか、軍師将軍主簿(軍師将軍クラスで主簿はありなのか不明だが)なのかだね。
丞相主簿なら、けっして低い職務では無いので、それ以前にも記録に残ってないだけでなんらかの職務についていたかと思う。
>>9 ありゃ、魏延と同じく義陽郡の出身なんで単純に新野時代あるいは荊州時代から臣従と思ったけどちょっと早計だったね。
董和伝では諸葛亮の言として「初めは崔州平と、先に董和と、後に胡済と」と言うのが載ってるから、
胡済の履歴が諸葛亮の主簿からスタートしたのであれば胡済が臣従したのは劉備の益州入り後と見るべきだね。
>>11 >魏延と同じく義陽郡の出身なんで
魏延ではなく樊建や董厥と比較するべきかもしれんね。
陳到は、実は高順の娘婿
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 21:04:27
どこの情報だよ
荊州ショックが・・・そんな俺は周倉、王甫ファン
周倉・・・
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 22:00:36
保守
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 22:15:18
淡路島
張皇后伝や劉璿伝によると向朗はおそらく名誉のみだったとはいえ行丞相事の位に就いてたらしいことがわかる。
でも、これってどうなんかな?
例えば劉永や劉理を王に封じる際に使者として赴いた許靖は司徒だった。
ということは皇后や王、太子などの任命の際の使者にはそういった肩書きが必要だったということか?
ただいくら名誉号とはいえ(行がつくものの)丞相でなくともと司徒あたりで手を打っても良かったんじゃないかと思うんだが……
その行丞相事は名誉とかじゃなく、臨時代理。
当時蜀には正式には丞相も司徒もいなかったので代理を立てたんだろ
>>21 まあ「行」だからね。
ただ同じ臨時でも司徒くらいで穏便に済ませられなかったのかねえ?ということ。
やっぱ蜀では「丞相」にこだわりがあったのかなあ?w
司徒はキョセイの時すでに名誉職で実態が無いに等しかったんじゃないかな?
>22
劉禅、呉氏の時に丞相が使者になってる前例があるから、慣行になってたんじゃないかな。
皇后、皇太子は丞相格で、みたいな。
皇后・皇太子等の任命は宮中儀礼では重要な儀式であるし、漢朝の後継を自認する蜀漢としては古式に詳しい人物を任命したい。
その上、重要な儀式だから、格式の高い職務が必要だ、と。
そうすると、劉璿、張氏の頃は学識があって、年功があってって言うと向朗くらいしかおらなかった、って事かね。
劉備の在命中は劉禅は何の仕事(役職)をしてたんですか?
>>25 223年に即位した時、17歳。
立太子がその4年前で13歳。
つまるところ、お勉強だろ。
>>26 そうなんですか。ありがとうございます。
皇太子なんで特別な名前だけの役職かなんかについていたのかと思いました。
劉備が危篤の頃、成都で形式上、黄元の乱鎮圧の指揮を執ったくらいかな、皇太子時代にやった仕事は。
まぁ、あくまでも形式的なものだけど。
さすが阿斗様
丞相と司徒が並立してた国ってあったっけ?三国時代以外も
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 04:21:29
ほしゅ
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 05:52:51
淡路島
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 14:35:21
ほしゅ
黄忠が漢中攻略後に就いた征西将軍って当時の劉備の将軍位より高くない?
殺された夏侯淵の将軍位と間違えたのかな?
劉備漢中王じゃね?
>34
漢朝では左将軍>征西将軍
左将軍は常職(っていうと変だが)だけど、征西将軍は臨時の雑号将軍。
魏では後に征○将軍>前後左右将軍になったけどね。
ちなみに、ほとんど意味は無いかもしれないが、入蜀に際して、劉ショウから行大司馬・領司隷校尉に推薦されてるから、それも名乗ってたかもね。
>35
劉備が漢中王になった時、黄忠は征西将軍から後将軍になってるでしょ。
あくまで、征西将軍になったのは、夏侯淵を討ちと取った功績。
>37
おお、そうなのか。ありがとう
最近何故か中国のサイトに繋がらんので調べられん(いいわけ)
>>36 >入蜀に際して、劉ショウから行大司馬・領司隷校尉に推薦されてるから、それも
>名乗ってたかもね。
劉備の即位に伴い張飛に遷っている事からみて、おそらくそうだろうと思う。
劉備の最終的な官爵は、大司馬・領司隷校尉・領豫・荊・益州牧・漢中王。
即位後は張飛が領しその死後は諸葛亮が領しており、張飛の時代は劉備とかぶる
ものの、諸葛亮が司隷校尉と益州牧を兼務しているのがほぼ同時期で、もともと
司隷校尉が首都圏(司隷校尉部)の警察権と監察権を有しているため、蜀では
司隷校尉を領する劉備、張飛、諸葛亮は益州牧の職務も取り仕切ってたんじゃ
ないかと思う。
といっても張飛の任期は三ヶ月そこそこしかないけど。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 00:50:23
益州牧が別にいるから、司隷校尉は益州と関係ないよ。
なぜかみな気付かないのか知らないけど、司隷校尉は首都近辺における牧というだけでなく、官僚に対する監察官の側面もあったから。
首都にいなくても司隷校尉は実態があったんだよ。
あんなに狭いのに、兼任が多いのが悲しい。
本当に人材がいなかったんだなぁ。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 01:07:10
大将が司隷合わせると四牧兼任だからねぇ
蜀での司隷校尉って益州を司隸に擬した形式で機能してた感じがするけど?
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 01:21:16
益州牧があるのにかい?
>41
逆に言えば、小国だから兼任にしないと無駄も多くなっちゃうんじゃないかな?
>43
劉備時代には司隷校尉は存在していたけど、劉禅時代には不明なんだよね。
劉禅即位に伴い、諸葛亮が益州牧を領し、幕府を開いてるんで、ほとんど名目的な官位ってことで司隷校尉の権能は益州牧に吸収されたんじゃないかな?
諸葛亮の人事に関してネタを振ってみる。
基本的に北伐の時の馬謖を先鋒にした件以外は特に問題ないと思うが、一点、張裔を重用した件はどうだろう?疑問が残る。
それほど有用の士とは思えんのだが……
張裔といえば、帰国する際の孫権との対話で楚の共王と晋の荀罃の問答が
思いうかぶ。
孝廉に挙がっている事と中原にきこえた名士である許靖の声がかりが影響
していそう。
劉備政権では孝廉・茂才に挙がった人物がえらく少ないし、その中でも実務
能力がそこそこあれば用いるに足りるんじゃないかなと。
捕われて呉へ送られ、それから帰国しても重用された理由には、益州太守に
任命した劉備の不明を糊塗する意味合いがあったといのは勘繰りすぎ?
>>46 性格的に難ありなのは確かだけど、張裔伝を読む限り、機知に富んでるし、実務の才があった、ってはっきりした記述があるのは相当なもの。
しかも、年齢が15歳も上なのに、諸葛亮信者みたいな人物だったし。
留守長史としては適任でないかな。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 16:17:03
ほしゅ
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 20:55:59
淡路島
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 01:54:23
法正は名軍師だと思うか?俺はそう思う
いまどき名軍師って…
>>51の目的は分からんが法正は名軍師で何も問題ないと思うが…
最近は名軍師って言葉使わないの?
つか、蜀に軍師らしき男と言えば、
法正しか居ないと思うんだな。
龐統は季漢輔臣賛で軍師と書かれてるしイメージ的にも合ってると思う。
たしか官職だと魏延、楊儀、費褘、その他(思い出せない)が軍師に就いてたと思う。
>>53 他スレでもたまに見かけるが軍師なんて存在しないと思ってる香具師がいるみたい
>>55 ケ芝も
まぁ、ゲームに親しんじゃうと軍師でひと括りにするのは便利だろうから
そんなところじゃない?
軍師の役割は影のプランナーだから表立って「名軍師です」とか言うのはアホ
って事
>>58 > 軍師の役割は影のプランナー
これは何の影響?
ぐんし 1 【軍師】
(1)大将につき従い、軍事に関する計画を立て、作戦を考える人。参謀。
(2)巧みにはかりごとをめぐらす人。また、人に策を与える人。
名軍師って言葉は昔からあります
句扶とか陳式なんかのもうちょっと詳しい記録が残っていてほしかったなあ。
陳式は、武都と陰平を落とした大功を立てながら、謎な理由で失脚したドラマがある将だもんなぁ。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 21:29:35
>65
失脚はしてないよ。経歴がほとんど不明なだけ。
費禕は黄門侍郎になぅてますが、黄門は宦官のことですよね?
費禕は宦官だったんでしょうか?
>>67 黄門は侍中の役職に一つであって、=宦官というわけではないでしょ。
>68
宦官が黄門に任官する例が多かったので、黄門=宦官、みたいになったんだっけ?
黄門=肛門だから。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 00:50:27
ヒー!!
肛門痔瘻ってことか!?
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 04:27:22
フォー!!
>>69 黄門ってのは宦官の別称。元々、黄門侍郎とか中黄門ってのは宦官の官位だったからな。
後漢に宦官大虐殺があった後から士大夫も黄門職に就いている。(はず
荀攸とか
保守。。
劉封
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:26:42
保守
陳寿伝には陳寿の父は出てくるが陳式の名は出てこない
陳寿の父が陳式であると記述している史書もない
そもそも陳寿伝自体の信憑性が…
晋書って史料性低い?
>>80 「搜神記」や「世説新語」の様な伝承や説話に類する様な記事を選別せずに
無差別に取り込んでいるため、信憑性を疑う声も多くあまり高い評価はされてない。
といっても低いの一言で丸々切り捨てる人の神経は疑う。
多分そういう人は史料を読む事にむいてない。
お前、歴ゲー板でみたぞw
>>81 言いたい事は分からんでもないが
wikiに載ってることそのまま書いただけでその偉そうな態度はないだろ
>>84 Wikipediaの事だと思うけど、転載した様な言いようはちょっと心外なんすけど。
偉そうに思えたのなら謝る。
『三国志』なら誰しも普通に論評してるのに、『晋書』だとなぜこうなるんだろう…
全くだな
眉唾だろうと何だろうとあの時代を知るには晋書に頼るしかない
それなのに晋書の記述ってだけで頭から否定してかかって排除しようとするなんて愚の骨頂
もちろん晋書の記述を全て鵜呑みにしろと言っているわけでもないが
>>86 少なくとも陳寿伝に関しては晋書による評と実際にものされてる三国志自体の記述姿勢が噛み合わないということは言えるね。
>>86 どこまで知りたいかにもよるけど普通の人なら資治通鑑でいいと思う
袁琳って何者?
相当高い地位についてらっしゃるけど
あんなスレに誘導するなよ…
呉スレも落ちたか・・・。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 11:12:49
この手のスレはもうおしまいだね
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 11:37:58
呉が人気ないだけ。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 12:10:12
ちなみに魏はもっと前に落ちてる
立て直す奴もいないあたり、今のこの板の状況がわかるというものだ
まあここは議論板というかネタ板だからねぇ
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 19:52:12
このスレもかろうじて生きてるという状態だな
ここもこのまま落ちてしまうなら、その前にちょっと関羽の荊州失陥について議論してみたい。
なんか関羽のことになると必ずと言っていいほど荒れるので普段は口にしずらいが、
他所でも思ったが関羽について批評する前に当時の関羽の置かれた状況を検証するべきじゃないだろうか?
呉は荊州を虎視眈々
魏は荊州が攻めてくるのを恐れるとともに、混乱を望んでいた
蜀(関羽)は攻めあがる気満々
まず呉との関係で、
それ以前にも多数の小競り合いがあったわけだけど、これを蜀首脳部や関羽はどう捕らえてたんだろう?
以前に行った領土割譲でもはや決着はついたと思ってたのか?
それとも呉が納得いってないのは知っていたが、あえて無視してた?
それと関羽に当時与えられた責任と役割と権限はどうなってたのだろう?
主に軍事面・人事面・統治面・呉との外交面について。
劉備に荊州を任された時点で襄陽郡は関羽の支配下にあり、
荊州南部を分割統治したと言う事はかなり南北に長い領土になる
ただ、襄陽郡(襄陽)、南郡(江陵)を押さえているので、
呉の荊州基盤と比べ、かなり生産能力は高かったのではないだろうか
襄陽城のすぐ真上に樊城があるので、樊城を攻めるのは
遠征とは言えないのではないか
もうちょっと細かく?
初級で申し訳ないが、関羽の襄陽太守だが関羽は実際に襄陽に駐屯していたのか?
樊城を攻めている事、関羽伝に襄陽攻めに関する記述がない事
劉備に襄陽太守に任命されている事、江陵と襄陽はかなり離れており
相互援助が不可能な事(これは理由にならんかも)などから、そうである可能性が高い
と、俺は考えていますw(保険かよ!みたいなw)
関羽が襄樊を攻囲した時、樊城を曹仁が、襄陽を呂常がそれぞれ守っていた事は、
徐晃伝にはっきりと記述されているはずだが。
見てくるからちょっと待っててw
多分あなた正しいから
見てきた、一緒に包囲してたらしい
どうしよう国境がわからなくなったw
・・・
黙るなよぉ、何か恥ずかしいじゃないか
蜀書しか読んだ事ないからさー(他のも読めよwみたいな)
まあ良いやw続ける
取りあえず関羽の領土を江陵まで下げる
2城を囲めるだけの兵力を供給した時、一体南郡にどれほどの兵力が残っていたのか
まさか0ではあるまい
>>104が正解。
「蒋済伝」「温恢伝」「趙儼伝」「満寵伝」、「蜀書」でも「先主伝」のほか「関羽伝」
「楊儀伝」などから確認できる。
「関羽伝」「楊儀伝」などを見る限り、たしかに関羽が襄陽に駐屯していたらしき
時期はあった様だけど、いつ劉備領の北限が後退したのかはっきりわからない。
「先主伝」を信用するなら入蜀頃に襄陽を失陥した様にもとれる。
いずれにしろ関羽が北上した時には襄陽が魏領で呂常が篭もっていたのは
ほぼ疑いない。
建安年間に魏の荊州刺史傅羣の主簿となったが彼に背いて関羽のもとに走った。
これか!!
関羽は初め長江の北に置かれたとあるから、おそらく江陵。
劉備の益州入り後は公安に移ったんじゃないかな?
楽進伝で曹操が荊州に残ったあとも楽進が襄陽に残って
関羽と蘇非逃走させて劉備の任命した県長も撃破したとあるから
襄陽が曹操の支配下に入ったとしたらその時なんじゃないの?
まだ襄陽取り戻してないのに関羽を襄陽太守に任命したという説もあったな
訂正。曹操が荊州から残った、じゃなくて、ひきあげた、の間違い
楽進の件は時期的に見て赤壁直前、
多分それからずっと襄陽は曹操の支配下なんじゃないの。
名前だけの任命なんてよくある話だし、荊州牧を有してた劉備からすれば
正当性を強調する為の一手段だろう。
襄陽郡の南部は領有してたかもね。
ただ北方の襄陽城や樊城までは領有していなかったということではないかな。
当時の領土は大体OKとして、関羽の持ってる権限ってのはどの程度のものだったのかな?
関羽・糜芳・士仁・潘濬はそれぞれどういった関係にあったの?
>116
軍事面は督荊州事を任されてる。地方官としては襄陽太守のみ。
荊州の最高責任者は荊州牧として劉備が握ってるカタチ。
軍事面では荊州方面での責任者ではあるが、太守としては、糜芳以下の諸郡の太守と同格。
潘濬について言えば、関羽との指揮系統・上下関係は微妙。荊州治中従事(だっけ?)の上司はあくまで荊州牧だから。
荊州に駐留している各郡の軍以外の野戦軍の司令官で、荊州全域の安全保障の責任者、って感じかなぁ。
ただ、軍事面に限っては糜芳等の太守達に対しての指揮権はあったかもしれない。
少なくとも、関羽−糜芳・士仁・潘濬と言った明確な上下関係では無かった模様。
ただ、関羽はそう思ってたかもしれないが。
その辺りの不明確さも、蜀漢が荊州を失った要因でもあると思う。
>>117 軍事に関しては直前に節も与えられてるし荊州に関しては専断権があったとみてもいいのでは?
士仁は明確に関羽配下の将とみていいと思う。
>>119 あれ?斧鉞も与えられてなかったっけ?
斧鉞も部下の処断権だけだったっけ?
潘濬は劉備が不在であることを考えると、事実上荊州牧代行のような立場と考えるべきなのかな。
だとすると、関羽は襄陽太守としては潘濬の監督、指揮を受ける立場だったのかもしれない。
軍事だけなら、関羽が荊州の最高責任者であったのは間違いないが。
>117
士仁は関羽の指揮下だろうね。
ただ、軍事面における専断権が、どこまでなのかが微妙なんだよね。
南郡(江陵)太守等の各郡まで指揮権が及ぶのか。軍事面だけにしても。
>121
荊州牧代行の様な立場では無いと思う。あくまで荊州全域の行政面での責任者であって。
特に関羽の襄陽太守は「名」のみで、仮に関羽に対する監督権があったとしても、実質的には何も無いし。
ただ、荊州牧が存在しているが荊州牧が荊州を留守にしている以上、治中従事が州政のNo1的地位である事は間違いない。
荊州牧代行で無くてもね。
軍事の関羽、行政の潘濬と言う感じじゃないかな。劉備をトップに頂く形で。
両者の関係が円滑なら、上手く回るけど、一度破綻するとトップが不在であるから、どうにも成らなかったのかも。
蜀漢の荊州統治における指揮系統の不透明さがかなり問題になると思う。
>>122 ほぼ同意。
士仁は季漢輔臣賛で関羽に統属とある上、将軍であったことから、
まず間違いなく関羽の指揮下と思う。
問題は麋芳なんですよね。。
後漢書を見るに、ただの郡太守の兵権は将軍から独立した物と考えられるけど、
郡太守の兵権は、あまりに小さく将軍より遙かに弱い。
だから黄巾の乱以後、太守は将軍位を併せ持つ場合が多いんだけど…
麋芳は将軍位に関する記述がないんだよね…
もし麋芳が将軍位を兼任していたなら、
軍事的には前将軍、督荊州事の関羽の指揮下と考えられる。
ただの太守なら、指揮下ではないが軍事的には大した権限がないってところと思う。
>123
ただ麋芳の場合、関・張に次ぐ閲歴の長さで、妹は死去したにせよ、劉備と縁戚関係にあったからねぇ。
その上、関羽とは督荊州事と言う軍事面で指揮下にあるだけで、平時においては名目だけの襄陽太守である関羽より、荊州の要衝・南郡太守である麋芳の方が実質的な権限は大きいかもしれんない。
また、後漢書等の太守の職務や、後の太守の将軍号保持もきちんとした組織整備があっての事で、赤壁後、急速に勢力を伸ばした劉備政権では組織的な人事序列では無く、劉備との個人的な距離(当然、能力・実績も重視されるが)が影響されてるような・・・。
もし、そう言った部分があるとしたら、麋芳は太守でもあるが、軍事面でもある程度の権限を保持していた可能性もある。
組織的な部分が整備されてれば、本来は与えられないような、権限も与えているとか。
鍾繇
それらのことを踏まえた上で、関羽・糜芳・士仁・潘濬がとった行動についてどう思う?
あくまで個々人の解釈として、煽りを抜きにみんなの考察が聞いてみたい。
>126
関羽については、勘違いが甚だしいと思う。荊州における専断権があったにせよ、主家に伺いも立てず婚姻を蹴るとか、遠征し出すとか。
当事の劉備政権の内情では、外征どころではない、って状況だし。
麋芳以下の幹部連(士大夫階級)に対する高圧的な部分はそれ以前の問題でもある。
麋芳の場合、関羽・張飛に次ぐ閲歴を考えると、関羽のもとに置かれたのは不幸だったとしか言えない。
劉備を裏切る、と言うよか関羽について行けない、と言う感じでの離反と感じる。
虞翻伝あたり読むと、後悔してる感じも見て取れるし。
潘濬は、出自は違うが王平と同じ価値観の様な・・・。
誰それに仕える、と言うより自分の出身地域を支配した者に仕える、と言う感じ。
積極的に離反した訳でもなく、関羽が自滅して、呉が荊州を支配したから呉に仕えたと言うだけで。
関羽と不和であった様だけど、関羽の足を引っ張った様もなく、ただほっておいた、と言う感じ。
士仁は詳細が不明なんで何とも・・・。
ただ、関羽の幹部連に対する対処が拙かった部分の補強にはなるね。
関羽に対してキツイ表現になったが、関羽は好きですけどね。
関羽についてその心境は良くわかるんだよね。
婚姻なんか露骨な離間工作とも取れるし、軍人なら絶好の機会があれば無理して出兵したくもなる。
幹部連中に対しても自分に絶対の自信があるから意見されると「俺の方が正しいんだから黙って俺についてこいよ!」と思っちゃう。
だから自分に従順なものに対して示せた愛情が同僚には示せない。反対=自分に対する敵意と思っちゃう。
でも、そこを劉備が任せた劉備の信頼に応えるためにも身を慎み考えを周到に巡らすことが求められてたはず。
>>126 良い考察をどうも。
麋芳って士大夫か?
130 :
127:2006/01/23(月) 21:37:03
>129
士大夫ってはっきり書いたのは拙かった。
幹部ってだけでよかったかな。
関羽勝手に北上したって言ってるけど、それはなくないか?
勝手にされたら途中で手紙送るなりなんなりして止めようとすると思うんだが
>131
劉備が漢中を落としたのが219年5月。で同年7月に漢中王。この後は劉備の王国の整備に忙しい。
この辺を考えると、新たな外征を劉備政権中枢が考慮するとは思えない。少なくとも大規模な攻勢は。
で、関羽が曹仁を囲んだのが同年の8月。11月には麦城に篭っており、10月中にはかなり不利な状況に陥ってたと思われる。
そんで12月に敗死。
止めるとか以前に詳細な情報が、劉備周辺に集まってなかった可能性が高いね。
恐らく、8月末以降から9月中に関羽から北上の連絡はあったと思うが、次ぎの情報がいきなり関羽敗死の報だった可能性もある。
その間に状況報告があったとしても、曹仁を囲んで、ウキンを捕虜にした、段階くらいじゃないかな。
何にせよ、出征→有利→破局のスピードが速すぎるので対処し切れなかったと思う。
もし呉の裏切りが無ければ、北進は成功していたのだろうか
確かに曹操が遷都しようとした程、勢いは凄かったが……ねぇ
徐晃到着以降持久戦になればかなり苦しいんじゃないか
漢中と荊州ほど距離が離れている場合は難しいが、軍事戦略レベルでは、
部下指揮官が司令官の指示を敢えて守らず独断で行動し、司令官がそれを受容するという事もある。
司令官は戦略正面全ての情報を的確に把握しているわけではないので、どれだけ優れた司令官でも判断ミスは起こす。
そのような時は、より情報を把握している部下指揮官が、司令官の命令を拒絶し独自の判断で動く事もある。
戦略包囲を敢行する時などは寧ろ、そういった自主裁量を奨励している節もある。
しかしその場合、作戦計画を第一線部隊指揮官にまで徹底して理解させなければならないが。
>>134 将が一度軍中に赴けば君命をもうけつけないこともある、という奴ですな。
>>135 根本を無視してる。
「君命を拝して出征した後」って事。
138 :
137:2006/01/23(月) 23:34:13
…わかると思うけど、136へのレスね。
こんなくだらないことにレスを浪費して重ね重ね申し訳ない。
気にしない気にしない
一休み一休み
141 :
140:2006/01/23(月) 23:59:01
俺もこんなくだらないことにわざとレスを消費して申し訳ない。
>>132 同意というか、同意見のレスに会えた気がする。
前にどこのスレだったかで、当時の蜀の状況と時系列を挙げて関羽の北上が
時宜に適ったものと断定はできないし、劉備が連動して軍事行動を起こせるとも
言い切れないとレスしたんだが、誰も聞く耳もつ人間がいなかったばかりか
時期的に十分にいけるとか言われて唖然とした。
しかも
>>132の時系列に、更に入蜀から殆ど8年ほど戦争続きだという事も付加
したにも関わらず…。
俺は関羽の北上に関してはそう間違った判断でもないと思う。
まず第一に、関羽北上の前年に関羽を征討しに曹仁が派遣されており、
劉備が漢中王になる以前から関羽と曹仁は対峙している訳で、
関羽北上もその曹仁を討つという普通の流れで、
そもそも関羽は唐突に北上を始めた訳では無いという点。
そして時期的にも侯音に反乱させたり、川の水が増えているのに曹仁が警戒していない、
と関羽の状況はかなり優位な状況に推移している時期で、
ここで荊州南部を脅かす曹仁を討つ行動に出るのは理に適っている。
だから漢中王に即位した劉備が直に関羽に仮節鉞を与えて、
その直後に関羽が北上を始めるという流れは、
その状況を知った劉備の関羽の北上に対するOKじゃないかと思う。
関羽北上に関して蜀の首脳陣は前も後も否定的な反応は見せてないしね。
>>142 曹操なんて8年どころか反董卓連合結成の時から毎年の様に戦争してる、
止まったのは赤壁の敗戦の後1〜2年程度で、それからまた戦争。
余程の大敗でも喫しない限り>入蜀から殆ど8年ほど戦争続きだという事
というのは大した問題じゃない。
だとすると本国の支援を得られない状況で徒に戦域を拡大して荊州を失陥させた
関羽の手腕に問題があったという事になるのでは?
時期を誤りでないとするなら尚更。
>>134に照らしてみてもそうだし、
>>132にある状況に対する認識もやや欠けていた
様にもとれる。
関羽の荊州北部への工作等が上庸侵攻に対する援護と曹仁への牽制とするなら
十分に効果的だが、関羽独力で曹操の本拠を刺激する規模の戦役を起こすなら
過信と認識の甘さが垣間見える。
魏側の過剰反応といえなくはないか?
徐晃どころか合肥の守りを裂いて張遼まで派遣しようとしてたし
>>144のAが可能だからBもできるっていう論理って凄いね
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 01:47:49
>>146 考えてみると、魏が荊州に力を注いで漢中奪回を完全に放棄したからあの流れになった、と言えるのかな?
だとすると魏の判断は正しかった…のだろうか。
漢中放棄により蜀の独立と抵抗が数十年長引いたわけだが、一方関羽を破ったことで荊州北部と予州方面を防衛し、南郡以南は呉に明け渡し、呉が江東に割拠するのを許した。
この時の魏の対応って、三国鼎立を確定させた重大な決断だな。
>>145 関羽の荊州失陥は戦線拡大が原因じゃない、
徐晃に敗れた後も襄陽を包囲したまま魏と対峙しており、
荊州失陥は呉の裏切りが決定打。
これの原因は呉の荊州への拘りを甘く見ていた関羽及び劉備等、
蜀首脳陣の甘さと、関羽の部下操縦の誤りだろうね。
それに確かに魏の過剰反応を引き起こした一面もあるけど、
曹操が遷都を考えたように、当時の魏の戦力はかなり乏しくなっている状況、
荊州北部を任せた曹仁の兵力は数千程度、七軍を持たせた派遣させた于禁は壊滅、
徐晃の軍は新兵が多くて急場の兵力増強を行い、張遼を呉から引き離す程、
漢中で夏侯淵が敗れた事が相当響いたのか、魏としてもかなり危ない時期だったのも
間違い無い状況、実際呉と同盟を結べていなきゃ張遼を呉から引き離せなかったろうし、
荊州にあそこまで兵力を集結出来きたかは疑問。
そういう意味では上にも書いたように、呉の荊州への執着を甘く見ていたのが原因、
関羽の手腕の無さと言えばその通りだけども、荊州問題の根本は
関羽がどうこう出来る問題じゃないし、関羽個人の責任とも言い難いので難しい。
ぶっちゃけた話荊州問題の解決は不可能だから、
荊州失陥はいつか必ず起きる事態だったと思う。
魏と呉に共同で攻められれば蜀単独では荊州失陥は不可避。
呉で例えれば夷陵の戦いの真っ最中に魏が攻めてくるようなもの。
ただ、関羽があの段階で北上せず、江陵で睨みを効かせてたら、どうかなぁ。
孫権も関羽を恐れていた部分もあるし。
翌年には曹操が死去する訳で、関羽が動かない、曹操死去なら孫権も魏と結んだのか。
微妙ながら蜀と呉の同盟関係が続いていれば、魏が簒奪した頃、蜀(益州)からの関中侵攻もあったかも。
まぁ、ifでしか無いんだが。
荊州攻略前に呉は魏に既に降服していたのだから手は結んでた。
関羽が北上しなかった場合は江陵が簡単に落ちる目処が立たない上に
漢中が落ち着き始めていたので呉が攻めてくることは無いと思う。
呉にとってみれば江陵が魏に落ちることは最悪の展開だから
呉が魏と組んで江陵を攻めるというのも考えにくい。
魏が漢中を呉が荊州を攻めるという共同作戦
もしくは劉備が北上した隙を呉が突くことはあり得るかも…
>149
大した問題じゃない、と言い切っているが。
>>150 劉備ら首脳陣に問題があったという点については同意だが、だからと言って
関羽にまったく失敗がなかったかというとそうは思えない。
例えば、関羽が北上しなかったらまず呉は裏切り奇襲を決断しただろうか?
特に関羽は本来呉に対する備えの兵すら引き抜いて包囲に当てている。
もしこの兵をそのまま残しておいたらどうだったろうか?
一緒に寝返ったんじゃないか
呂蒙が陸遜に変わった事で関羽が油断した事と、
糜芳と士仁が裏切った事は別要因だし
>156
呉が荊州奪取に動いた場合、一緒に寝返った可能性もかなりあるね。
でも荊州(南郡)の守備が十分であったら、呉があの段階で荊州奪取に動いたかどうか、って部分も出てくる。
わざわざ関羽が油断する様に仕向けてるくらいだから。
>>156 士仁が裏切ったという表現はどうかな?
関羽に対しての不満は持っていたが、最終的に降ったものの攻めてきた呉軍に対しては抗戦の構えはしていたし。
>>155 関羽の失敗点も普通に書いたけど。
関羽が北上しなかったから〜、というのは微妙な所ではあるが、
俺は決断したであろうと思う、事実呉は215年にも荊州を襲撃しているし、
魯粛が生きていた段階でこれだからね。
しかし関羽が備えの兵を引き抜いた、って話は胡散臭い。
関羽伝に公安と南郡は関羽に対する支援が不十分だったという記述に矛盾するし、
魏書にも関羽の後方の守りの堅さは書かれているから、
本当に兵を引き上げたのかは疑問だね、ただ士仁と糜芳が寝返えりにさほど影響は無いだろうけど。
>>159 既に援軍を何回も送ったのでこれ以上は送れないよって話なんじゃないの?
>158
いや、関羽の暴言が元で降ってるわけだが、
抗戦できるほどの兵力も無かっただろうし、
呉の備蓄を強奪する程兵站が滞ってるって事は、
篭城する兵糧も底を尽いていた可能性が高い
だから"裏切った"というより"降った"と言った方が適切だった
すまん
お前ら!三戦板らしくないぞ!
でも、それが良い。
ありがたくROMってます。
そもそも魯粛からして荊州を呉が支配する事に関しては一番の急進派ですから。
そんな呉の意図を知りつつなお関羽が北上したとすると、対呉を含めてなんらかの勝算はあったのかねえ。
>>160 麋芳・士仁は全力をあげて支援しなかった、
とあるんで、そういう話ではないかと。
関羽の発言は政治的配慮に欠けたけど、別に暴言ではないでしょ、
士仁や麋芳が無実ならともかく、二人とも職務怠慢してた訳だし。
士仁は呉書を参考にすれば投降、蜀書で見るなら裏切り、
同情する余地も有るが、自業自得の面もある、
食糧の備蓄に関しては士仁の降伏の原因にはなっていないし、
呂蒙が荊州制圧後の様子を見ても食糧に困ってる様子はあんまり無いので、
そこまで困ってなかったんじゃないのかな。
つか呉の食糧強奪も結構疑問の残る事件なんだけどね、
記述通りに数万人規模の食糧確保の為の強奪だとかなりの規模の事件のはずだから
何らかの人物の名前があってもよさそうなのに無いし、
湘関は名前から推測するに長沙と武陵の国境付近だと思われるけど、
大雨洪水中のハン城を包囲している関羽がそんな南部まで兵を割くか?
という疑問が出る、流石に距離が離れすぎているじゃないかと。
さらに言えば関羽の食糧強奪事件は呂蒙伝にあるだけで(間違ってたらスマン)
蜀にも魏の史料にも載っていない事件、特に魏の謀臣達からの、
対峙している関羽が食糧不足、という様な指摘が無い。
実際この事件が無くても呉は侵攻する準備を整えていたし、
その大義名分を手に入れる為に、国境付近での事件を拡大解釈したり、
適当に作ったりした事件なんじゃないかと疑ってしまう。
>>165 呉主伝に于禁等捕虜は江陵に護送されたと有り、
呂蒙伝に于禁等を捕虜としたため兵糧が困窮したとある。
困窮したのは江陵であって関羽の軍じゃないよ。
この二つから考えると、兵糧強奪は、江陵太守または南郡太守の独断の可能性もある。
江陵から湘関なら距離的に無茶と言うほどでもない。
呉からすれば麋芳であろうがその他の人物であろうが関羽や劉備に対する口実に代わりはないし
ただこの兵糧強奪の事件はあったと思う。
ぶっちゃけ呂蒙伝を読むと、司馬懿等の謀略よりも早く、
関羽が北上すると直ぐ呂蒙は荊州攻略の準備を始めていることが書かれている。
呂蒙伝だけでなく陸遜伝からも、呉が荊州進攻の意志が読み取れる。
当の呉書が、この有様なのだから、
この事件は、単に、表向きの荊州侵攻の口実と、その好機としての情報という価値しかない。
正直、他伝にまで書く必要もない程度の事件。
この事件が無くとも攻め込んだだろうし、
敢えてでっち上げて、強奪されたから攻めましたと装っても無意味としか思えないよ。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 10:22:22
細かいことだが江陵太守なんてないよ
江陵あるのは南郡
そして太守は糜芳
>>167 ごめん
江陵県令ですな
(江陵は、県長じゃなく県令ですよね)
>>168 そうだね。
でも一県令の持つ兵力で、独力でそんなことができるかどうか…
南郡の郡府が江陵なんですが
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:19:32
>>170 そんなわかりきったことがどうかしたか?
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:57:59
俺は関羽の戦略が意味不明
「三国官職表」なるものによれば、蜀では官位持ちも含めて部下処断の権限を認められた証明でもある黄鉞を持つ
「大都督」という制度はなかったらしいけど、関羽に渡された鉞とはこの黄鉞と同様のものとみてOK?
>>166 なるほど、しかし関羽の食糧は南郡及び江陵から供給を受けているんだから、
その後背地が食糧に欠乏すれば関羽軍にも影響がある筈。
おまけに南郡太守の麋芳は呉と通じていたという話もある人物だし、、
関羽に対して不満タラタラで職務怠慢までしていた麋芳が
呉の食糧強奪を行ったとも思えないけど。
他伝に書くほども無い事件と言うが、数万人分の食糧強奪事件ならば
相当な規模の事件であり、当事者の名前や他伝に出ても様さそうなものだけど、
オマケに当の関羽及び江陵の食糧問題は呂蒙伝にしか出てこないしね...。
あと準備と実際の侵攻はまた意味合いが違うと思うよ、
この食糧強奪事件があるから蜀側から盟を破った、非は蜀側にある、
と呉は大義名分を主張できる訳で、あると無しでは体面が随分違う、
>呉からすれば麋芳であろうがその他の人物であろうが関羽や劉備に対する口実に代わりはないし
とあなた自身がこう認識しているんだから、無意味とは言えない。
>>175 食糧が無いから捕虜を皆殺しって言う話もある位だから
捕虜の為に前線の食糧供給を滞らせる事はまず無いと思う。
麋芳が軍資を供給していたのは蜀書も認めているのでその点においては職務怠慢とはいえない。
食糧がどれ程不足していたのかは不明。
数万人というのは捕虜の総数であって強奪した食糧の数ではない。
強奪事件というのが実際にあったとしても
蜀にとっては不名誉な事なので蜀書に記述が載らない可能性は十分あると思う。
まあこの事件があろうとなかろうと大勢に影響はないと思うけど…
只ひとつ疑問なのは強奪があった時期かな。
于禁が捕虜になったのは8月で孫権が軍を動かしたのが閏十月
呂蒙伝では強奪があってすぐに軍を動かしたとあるので強奪があったのは十月か閏十月と思われる。
8月に強奪があったのなら分かるけど収穫期直後と思われるこの時期に兵糧が
不足するほど無計画な出征とも思えない。(旧暦は詳しくないので収穫期が違うかも知れないが)
>>176 建安二十四年秋に劉備が漢中王に即位し、その後に関羽が北上しており(先主伝)
秋七月に于禁が派遣され、八月に于禁が虜囚となり(武帝紀)
閏十月に呉が荊州に侵攻。(呉主伝)
これらから、関羽の出征はもろに農繁期に被るから、
荊州の生産力に十分影響を与えたと考えられないでしょうか?
また武帝紀で建安二十二年。先主伝で:建安二十三年に劉備の漢中攻略が始まり、
先主伝で二十四年夏に漢中から曹操が撤兵。武帝紀では二十四年五月に撤兵長安に帰還。
とあり劉備は1年半近くの総力戦を行っているので、
これも荊州の備蓄に影響を与えたかもしれない。
この上に、数万の捕虜ですから、江陵の兵糧がやばくなった可能性もありうるのでは?
劉封は「関羽を見殺しにしたアホ」という見方があるけど、
三国志孔明伝を遊んでると、劉封の気持ちも分からんでもない・・・かも
劉封「・・・それで、魏に下った孟達を追ったのですが・・・魏の軍勢が現れて、逃げられてしまいました」
劉備「それで上庸まで奪われてのこのこ帰ってきたのか!」
劉封「・・・・・!い、いえ、ただ一言詫びようと・・・」
劉備「それに、劉封!そなたには関羽にも援軍を出さなかったではないか」
劉封「あれは、孟達に止められて・・・」
劉備「それで引き下がったのか。裏切り者の言葉を真に受けて、しかも逃げられ、
おめおめと帰ってくるとはこの恥知らずめ!」
劉封「義父上・・・」
劉備「確かに、親子の付き合いではあった。しかし、この罪は子と言えど無視できぬ。
劉封・・・、死罪を申し渡す、覚悟はよいな」
劉封「・・・はい、その覚悟で参りました。義父上・・・今までありがとうございました」
劉備「早く、この者を連れて行かぬか」
孔明「殿、お待ちください!」
劉備「何も申すな。親子だからと言って許しては軍規が保てなくなろう」
孔明「ですが、関羽殿の援軍に関しては、あの時の状況では間違った判断とは言えませぬ!
また、孟達の謀叛に関しても、劉封様は討伐に向かわれて敗れたのです。『勝敗は兵家の常』と
申すではありませんか。一度の敗戦で有能な将を処刑するのですか?」
関羽「兄者・・・いや、漢中王。軍師の申される通りです。わしも援軍が来ぬときは
正直恨みもしました。ですが・・・あの時、上庸が手薄になり、そこに曹操が攻め込んでいたら
蜀はどうなっていたか・・・」
劉備「うむ・・・その通りだ。私も親子であるがゆえに厳しすぎたかも知れぬ。
劉封・・・死一等を減じ、庶民におとすこととする」
劉封「関羽殿・・・軍師・・・劉封、このご恩は終生忘れませぬ・・・・・・」
劉封か…
関羽の時はまだ上庸を手に入れたばかりで仕方ないかと思える部分もあるが
孟達とのいざこざをみると人の上にたつ者としては至らない部分があったのかなと思う
兵を率いればそれなりに有能だっただけに立場の問題で死罪にされてしまったのは
その後人材不足で苦労しただけに少し惜しい気がする
>>179 肥のゲームだと思う
ただ演義でも孔明は怒る劉備を宥めていて正史とは逆の立場をとっていたはず
劉備の養子で無くても、魏延みたく出世したかもしれんのにね。
まぁ、劉備の養子って事で出発点で有利だったから、名が残ったって部分が大きいだろうけど。
182 :
61:2006/01/30(月) 04:56:49
人を見る目が確かな劉備が養子にしたっていうだけでも
期待出来る人材だったのにな。
ちなみに自分の好きな三国武将・・・魏延・劉封・李厳
劉備の目に適って名を馳せた後にo rz
この三人が揃って記されている蜀書巻十という場所について知って更にorz
魏延・劉封はまぁ同情できるけど、
李厳は完璧自業自得だな
任務が達成できなかったからって、虚偽報告なんぞするから…
それに孔明に送った九錫の手紙も何だかへつらいが感じられて小物臭がする
李厳なぁ・・。
任務失敗ったって、天候不順が原因だから諸葛亮帰還後「なんで帰って来た」とか、劉禅に誘き出しです、なんぞ言わにゃ、罪にもならんだろうに。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 23:39:14
剣閣防衛戦の時の蜀軍の兵力を教えてくれませんか??全く資料がなくて・・
>>186 五万を越える事はない様に思われ。
『三国志』には明記されていないが、『晋書』の「文帝紀」などから類推してもおおよそ
そのあたりの数字におちつく。
>>186 蜀側の兵力で明確な記述があるのが、
・降伏時の蜀の全兵力10万2千(晋書文帝紀、蜀征討の詔勅では9万)
・漢城、楽城にそれぞれ5千ずつ
・剣閣に籠もっていた兵力が4,5万(鍾会の上奏)
これ以外に、関城、黄金や興勢などの防御施設、隴西方面の防御陣地、
永安および南中に駐屯した戦力などを考慮する必要がある。
189 :
182:2006/01/31(火) 04:42:03
李厳についての解説はこのサイトのがお気に入り。
ttp://www23.tok2.com/home/rainy/zuiso-sangokushi-shykatsuryo-rigen.htm で、一般的に伝えられている事から考えると確かに自業自得なんだけれど
個人的にはまだ釈然としないモノが有るんだよな・・・
あの劉備が荊州人・益州人の問題等、色々な思惑の上とはいえ
直に遺言を託す後見人を見誤るか?(有力益州人なら他にも居た筈)という事と、
最後の大ウソ吐きの余りにも幼稚過ぎるやり方に
いくら李厳がダメ人間でもあそこまで間抜けな事をするか?という疑念が晴れない。
荊州派が評判芳しくなかった李厳に止めを刺す為に仕組んだ?とか。
完全に自分個人の憶測では有るけれど、そんな事を考えている内に
気が付いたら好きになっていたw
>189
そのサイトのは読んだけど、李厳が益州派になってんな。
蜀志の李厳等の伝の連中は、自身の罪状と言うより、政治力学的部分で破滅していった、ってのは同意だが、荊州派、益州閥の抗争って部分はどうかと。
李厳自身、荊州出身者だしね。
個人的には、あなたと似ているんだけど、荊州派と言うより、諸葛亮を中心とする政権中枢から見て、李厳の我がままの度だけでなく、出征軍の行動にまで影響しちゃった事で排除する事になったんだと思うよ。
李厳の我がままだけなら、なんとか誤魔かし誤魔かしながらやってもよかったんだろうけど。
というか劉備の人物眼を過大評価し過ぎでは?
確かに劉備は優秀な人物眼を持っていたけど100%では勿論無く、
才能を見落した人事や誤った任用なんかも行っている。
李厳の諸葛亮に王位を勧める発言を見たりしていると、
李厳は野心が強く、遺児の後見人の人事としては普通に失敗だったと思う。
>>190 荊州派、益州閥ってのは出身地の問題じゃないぞ
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 10:23:04
出身だけが問題なら諸葛亮は徐州派なんて少数派になってしまう
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 15:53:26
ためになる
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 19:44:56
李厳は後事を託されたわけではなく、たまたまそこにいただけ、って説を本で読んだことがある。
俺もそう思う。
↑
それは無い。
漢中王になった時だっけ、
漢の皇帝への上奏文の席次で、李厳はかなり高いんだよね。
ちなみに馬超が一位。
李厳は一流の名士だったんだろうよ。
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 21:39:04
そこに居ただけって事は無いな。
なんせ、当時の李厳の職務は尚書令。
行政系統の職務としては録尚書事の諸葛亮の次。
中都護も兼ねてるから、夷陵で敗れたばっかりの蜀漢では、臨時代理的な立場ではあるが軍の最高司令官みたいなものだし。
一流の名士だから劉備の死に立ち会えた。
それで劉備もついでに言葉をかけた。
それを李厳は自分も後事を託されたと勘違いした。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 21:57:24
>199
一流(蜀漢内で、だが)の名士ってだけで臨終に立ち会えた訳ではないよ。
諸葛亮より先に劉備に呼ばれて(222年中)、尚書令を任されてる。
おそらく、夷陵の敗戦後、永安に帰還した段階で呼ばれ、永安宮での事務を取り仕切ってたんだろ。
死去直前に重職をもって呼ばれてるんだから、政権政策の継続と言う意味で諸葛亮ととも後事を任されてたと考えた方が自然。
でも、諸葛亮の「白帝城には李厳を込めておきましたから安心です。
彼ならば呉の陸遜の智謀も防ぐことができるでしょう」というのは、
李厳は他人から誉められた方が働く性格、というのを諸葛亮が知っていた部分もあるんじゃないかな。
おだてが入っているからこそ、李厳は北伐でも後方補給係だった。
マジで陸遜に匹敵する人物だったら普通に北伐に参加させてもらえたはず。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 22:37:03
>202
そんな事は言ってないな。
諸葛亮が孟達に与えた手紙で「事務が流れるように進むのは、李厳の性格のたまもの」みたいな事は言ってるが。
演義やね
演義の李厳は黄忠と互角の武勇で、
孔明に陸遜に匹敵と言われたわりにはまったく活躍しないまま孔明の足引っ張って終わった中途半端な奴だった
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 23:43:47
>>202 >マジで陸遜に匹敵する人物だったら普通に北伐に参加させてもらえたはず。
匹敵するから、後方(永安とか兵糧補給とか)を任せられたのだと思う。
凡庸にそんな大事な役は勤まらないよ。
実際、劉備は益州攻める時、荊州に関羽・趙雲・張飛・諸葛亮などに留守を任せている。
>>190 李厳の処罰は責任を取らさざるを得ないものだっただけで、
諸葛亮が意図して重くしたとも思えないな。
>>192 どういった区分してるのかにもよるのかも知れんが、
荊州派というのを諸葛亮を中心とした名士勢力と見るなら
劉巴を盛んに推挙し費イを衆目に認めさせるなど、
荊州出身の元劉璋配下も荊州派の一員じゃないかな。
荊州派と益州派の対立というのがあったとしたら、
法正・黄権・彭ヨウなどが居た頃ぐらいに思える。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 23:57:56
まぁ、陸孫並と言うとどうかと思うけど、
蜀漢では相当な人材だよ。
北伐の時は江州(巴郡治)に居た訳だけど、永安も指揮下に置いてる。
江州なら、仮に呉との間に何かしらの事件が起きても、対応が可能な位置(夷陵の直後、直ちに趙雲が永安に降ってるように)であり、
225年に平定したばかりの南中方面にも比較的近くて対応できる。
で、テン江を遡れば、漢中への後方支援も可能と。
李厳は↑の様な任務を担ってた訳で、失脚するまでは少々の我がままはあったにせよ、江州に居る間はこれらの任務を大過なく済ませてた。
それだけ能力もあったと言うことだろうね。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 00:04:30
>206
諸葛亮が意図して、処罰を重くしたとは思わないよ。
州刺史にしてくれとか、開府の権限をくれ、ってだけなら、まぁまぁ、って感じでお茶を濁して済ませたんだろうけど、
失脚の件は、遠征軍帰還に関する嘘とか(なんで帰って来たと言ったり)劉禅への偽上奏とかもあったから、処罰しなきゃならなかったんだろうと。
漢中から後方支援については、天候不順が原因であって、これを理由にしての処罰じゃ無いんじゃないか、と言う意味です。
やはり「天候不順で兵糧を送れません」じゃすまん世界なんだろうなぁ
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 00:13:36
>209
いや、天候不順なら責任は問われんと思うよ。
実際、李厳が「天候不順で輸送は不可能なんで帰還してく」と諸葛亮に連絡し、諸葛亮もそれに同意して帰還してる。
もし、天候不順なんて関係なく、任務を果たさなきゃならんのなら「何言ってる、任務果たせ!!」って事になるはず。
問題にされたのは、天候の関係で帰還せよ、と連絡したのに「何故帰ってきた?」と虚言した事、劉禅に偽上奏をした事、さらにその辺の責任を部下に負わせようとした事とかだろう。
仮にも黄忠と互角に渡り合った実力者が後方支援で良かったのか?という疑念はある。
兵糧係を当てられブツクサ言っていた公路さんのこともあるし、
三国志の世界では食料係は偉いんだか、そうでないんだか・・・
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 00:18:08
>211
黄忠の話とか陸孫の話は演義の話だから。
三国時代だけでなく、後方支援は軍事においては重要ですよ。
諸葛格が呉で後方支援の職務に就いた時、甥っ子の性格じゃ勤まらないと思った諸葛亮が陸孫に手紙送って忠告したほど。
そもそも、四川盆地から隴西までは、大半の地域が自国領内にもかかわらず、
連絡線が非常に脆弱であるから、長雨によって桟道が壊れでもしたら仕方が無い。
替わりに使えるような道路もないし。
その事で処罰されるとしても、大きなものではないでしょ。
やはり問題は、偽の上奏とかで責任をなすりつけようとした事でしょう。
旧日本軍で兵站参謀が軽んじられたように、三国時代でも、
兵站管理がその重要度に比して軽く見られていたという事はあるんだろうか?
軽く見ていた、どころか認識していなかったヤツもいるがね。どっかの成の皇帝とか。
これが時代の風潮なのか個人のものかは不明だが、兵糧は略奪で賄えばいい、なんて
考えていたヤツらはいる。そういったヤツらはたいてい大成せずに潰れているが。
初期の劉備軍も兵站を重視していたとは思えないな。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 06:40:16
>214
魏の屯田政策は、兵站と言うより農業政策&安全保障政策になるかもしれんけど、兵站管理の部分も含まれるんで重視してたと言えるかもね。
前線が後方事務を軽んじるのは、何時の時代だってある
軍事にかかわらず、現代の仕事に置き換えてもいい
218 :
182:2006/02/01(水) 07:54:31
李厳がこんなにも語られているの初めて見た・・・震えが来る。
これは劉備その他存命時なので
同じ後方でも後年とは状況が違うんだろうけれど
「漢中争奪戦の最中の218年に
馬秦・高勝が数万の兵を率いて反乱を起こした際に
当時、興業将軍に就いていた李厳が僅か5千の兵で鎮圧した」
この戦績を見ても後方に置かれたのはスレ内で語られている多忙な内務に加えて
呉との間で事が起きた際に対してもそれなりに期待されていたんだと思う→
演義での黄忠と互角、陸遜に匹敵に繋がった?
プレッシャーからストレスが溜まりそうというか、溜まった結果の末路?
これじゃあ最後の「過労」「暴走」の違い以外は諸葛亮と同じだ・・・
>>218 諸葛亮に王位に就くよう勧めたり、巴郡や巴東郡など5郡を以って、
新たに巴州刺史としての任命を要求したり、開府を要求したりと、
重圧から来るストレス以前に、李厳の性質には何か問題があったように思える。
そもそも、漢中に来ず江州の留まると言うのは、彼の意思であったようだし。
李厳の排除が諸葛亮の意思によるものだったとしても、その原因はやはり彼にあったのだろう。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 12:20:22
やはり李厳
優秀ではあるわけだな
性格は誉めれないけど
器は小さそうだ
222 :
182:2006/02/01(水) 18:14:26
能力面では弁護出来ても、人格面ではやっぱ弁護出来ないか。
誰かその人格を矯正してあげられる親友とか居なかったのかな。
・・・一人、居ることには居た。某親友orz
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 18:36:11
>>222 孟達!!!
なんか俺的に、孟達・李厳・黄権って中堅イメージが強い
好きですよこういう武将
劉備だから曲者でも上手く使えた
劉備が死んだらどうなるか
それでもちゃんとできる人ならば、劉備の下に来ることはなかったんだろうなぁ
でもそんな将達が一国を作り上げた
それが劉備の作った蜀漢の魅力だったりする
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 19:07:01
>
>>224 かもね
それより息子は後継いだけど活躍したの?
華陽国志によれば、責任逃れの為に督運領の岑述を殺そうとしたらしいし、
その人格面まで弁護するのはやはり難しいだろうな。
>>225 跡を継いだと言っても、江州都督ではなく、兵を取り上げられ従事中郎として
幕府の仕事をしてたようだな。
何にせよ活躍したという話は聞かないな。
>>226 注によると李厳が流された時は従事中郎だね。
ただ最終的には朱提太守に昇ってるようで、南方に回されたみたいだね。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 20:13:24
>222
費観は20歳も李厳より年下だったけど、タメ口な感じで付き合えた、とあるね。
でも、李厳は李厳の次席くらいの立場の連中に対しても厳しい態度で、心を開かなかった、ってな感じだったらしい。
あと、忠良篤実の見本みたいな陳震が李厳について「腹の中にトゲがあって、郷里の人も近づけない云々」って言ってる。
気難しいと言うか、妙に気位の高い人物だった模様。
しかし蜀漢って、華々しい能力がある人物は、ほとんど性格に難有り、だね。
李厳に憎まれ、罰せられるのを恐れて魏に亡命した王沖という人物もいたな。
能力はあるが性格に難がある、と言うと、関羽に張飛、法正や魏延、楊儀、李厳などか?
蜀で能力がある人物=性格に難がある、という印象は確かにあるが、そこまで多くも無いのでは?
230年辺りになって李平と改名したらしいけど、なんでそんな弱そうな名前に・・・
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 21:24:23
>230
その他にも張裔とか廖立とか李パクとか。学者だと、孟光・来敏。
王平にしても疑り深く軽率と評されてる。楊戯も大雑把でサボりがち・・・。
関羽・張飛・法正・魏延・楊儀は↑の連中より蜀漢を代表するような人材だが、そろって性格に難あり。
あと、能力は?だが、劉淡と言う大物もいるな。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 21:26:09
>231
陳震の言葉の様な周囲の評価を気にして、まんま厳しいイメージの「厳」から、とっつきやすそうな「平」にしたとかw
>>232 そういや、来敏や孟光も周囲から嫌われてたな。確かに意外と多いのかも。
あと、思い出したがケ芝なんかも性格が悪かったな。
来敏の子の来忠は父の面影があったらしいが、彼も少し変人だったのかな?
だとしたら、ケ芝といい来忠といい鍾会といい、姜維は性格の悪い奴に好かれやすいのかね。
つ郤正
性格に難ありな人物が多いっていうのは、環境のせいも大きいんじゃ…
言うのはなんだけど、蜀漢のギスギスした内情を考えると、
自然と歪んできてしまうのではないかと思えてくる。
あと、蜀漢成立の流れについてきて支持する層は
やっぱりそれなりに、心の内に思う所があるんじゃないかと
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 21:45:37
郤正は蜀漢滅亡の際、姜維の責任多大であったため、必要以上に非難されてるのはどうか?と述べたのであって、姜維贔屓と言う訳でないでしょ。
客観的に姜維と言う人物像を述べただけ。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 21:51:14
>236
環境と言うよか、流浪の私兵集団から成り上がった劉備政権は、やっと根拠地を得たにせよ、曹魏・孫呉に大きく遅れをとっていて、少々の性格の悪さに目をつぶっても登用しなきゃならんかった、と言う事情が大きいと思われ。
正確悪いヤツの方が仕事とかでは優秀ってのは珍しくない話だしな
用いられるって喜びを感じやすいって面もあると思うよあぶれ者には
本来ならこんな役職に就けなかった、劉備に感謝しようってね
魏の郭嘉も品行に難があったていうのを本で読んだことあるな。
性格に難が無いのは黄忠・趙雲?
でもこの二人は同じ巻の他の三人に比べると、少々見劣りするな
馬超は実際のところ性格にそれ程難は無さそうだが、
(歴城の事件は相手が先にやったことだし)
その血にまみれた自身の過去が人付き合いを悪くさせてしまった気がする
諸葛亮が能力もあり、性格もいいが
なんか堅苦しくて、息苦しい国だな
劉備は偉大だね…
趙雲も別伝の記述が真実なら、
かなり難ありな性格な気がする。
趙雲が評価される事を前提とした、予定調和な後の脚色と考えれば、
ある種の美談ともとれるけど
普通に考えれば傲慢な発言がチラホラ。
孔明死後だが、蒋琬、費禕、董允、姜維、馬忠らは、重鎮で能力もあったが、性格に難は無いな。
費イや姜維も問題の影は見隠れしてるだろ
費イも、魏延関連の政争の重要参考人だし
姜維も不振な点は多い
劉備死んで
孔明もいなかったら
ヒドイな
>>246 そこまで指摘してしまうと、品行方正で真面目な人間以外は性格に難があるって事にならんか?
費禕は誰にでも博愛心を示すような人物だし、姜維も郤正の論文見る限り、性格自体は悪くないでしょ。
その性格によって問題が生じたり、周囲から嫌われてたりしてなければいいんでないの。
まあ、費禕の場合は、その博愛心が死の原因になってるから、問題ありと言えばありなのかもしれないが。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:51:15
>248
費禕は、行政処理能力等の能力が非常に高くて、一見堅実な統治ぶりなんだが、劉備や諸葛亮が忌避した大赦をかなり行ってて、孟光に面と向かって非難されてたりしてて、
統治者としての基本的な見識に「おや?」っと思わせる部分がある。
それに、魏延の件や楊儀の件にしても、裏表がある感じもあり、優秀で博愛心溢れる人物、ってだけでは計れない部分もある。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:58:44
性格に難:関羽・張飛・法正・李厳・魏延・楊儀・ケ芝・王平・廖立
性格無難:趙雲・蔣琬・董允・費禕・馬忠・姜維
微妙 :馬超・張翼
不明 :黄忠・張疑・廖化
う〜ん、蜀漢の代表的な人物の過半は難あり、だなぁ。
才能があって個性的って言えば聞こえは良いけど。
>>250 張嶷も礼を軽んじる人物であったから、難ありと言えば難ありじゃないかな
政争でのあざとさを人格面の一部と考えると
姜維、費イはアウトなんじゃないかって気がする。
馬超も一見派閥争いとは関係無いイメージがあるものの、
彭ヨウを誘導尋問でハメてる。
そんな蜀漢が大好きだ
信用できそうな人間がいやしねえw
ある意味劉禅が一番善良だったのかもな
あざとさの無い政争なんて聞いたこともないし、
政争自体は人格に関係なく起こるから、政争で人格を問うのはあんまりね・・・。
まあ余程えげつない事でもすれば話は別だけども、
姜維は手法としては穏やかな方、費イと馬超はそもそも政争と言えるのかさえ微妙、
共に公私混同しなかったと言う方が正しいと思う、ただ両者とも身辺調査みたいな命令でも出てた気はするが。
姜維と楊戯の件は、楊戯にも問題があっただろうしな。
怠惰な上、自国の宰相を嘲笑し続けるなんて、処罰してくれと言ってるようなもんだ。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 10:31:27
曹爽が蜀に侵攻して来た際、王平は漢中を拠点によく守り、
やがて費イ(当時:大将軍)が率いる本隊がやってきて、
曹爽は「費イの軍が来た」と聞いただけで軍の撤退を決意したくらいだから、
費イは政治家のみならず軍人としても優れていた、という解釈をどっかで見たけど、
これは正直、補給が続かなくなってきたのと、王平の軍すら突破出来ないのにさらなる大軍など
相手に出来るはずがない、と曹爽が考えて、やむなく軍を退いたと見るべきじゃないかな。
「費イは大将軍にもなれるくらいだから、軍人としても優れていた」という見方はちょっと・・・
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 15:51:34
その理屈だと大将軍何進はかなりの軍才の持ち主になるんだよな
黄巾の乱も平定してるし
跋扈将軍も優れた軍才の持ち主、と。
ん?そもそも曹爽も大将軍だったのでは?
>>257 俺も何処かで見たが、大将軍になれたから云々、という事ではなく、
費禕が来ただけで撤退した事そのものと、諸葛亮幕下で参軍をしていた事を以って
軍事的才能があったとしていたと思う。
「費禕の武名が内外に知れ渡ってた」とかそんな感じで。
まあ、それでも無理があるけどな。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 16:16:51
才能があるとまではいえないが兵が多く無難に指揮できたからだろう。
蔣琬の方が軍才はあるような?
当時の士人は文武両道(を目指す)が基本だったと記憶している
と言うことは特にヘタレの噂を聞かなければそれなりに戦えると考えられてもおかしくないんじゃなかろうか
軍才の如何に係らず基本が出来た相手が大軍を率いてやって来ると聞けば
特に軍事に暗いか逆に突き抜けて優れた軍才の持ち主以外は引いてもおかしくない
イメージではボンクラ扱いされることが曹爽だが実際はどうもそうでもないようだしな
内外にへたれが鳴り響いていた楙は凄いんだなw
曹爽は政治力はあるよ。軍事力は兎も角
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 17:51:11
司馬懿をなめていたというべきか。知力は低いのかな。
司馬懿のボケた振りが余りにも上手かったんだろ
歳も歳だからな
>>261 蒋琬の方が軍事的才能があった、とも言えないと思うよ。
諸葛亮が出征した時も、蒋琬は従軍はせず後方での兵站管理だけだったし、
将軍として評価できる事績は、漢水下りの作戦を立案した事くらいだから。
糧秣を含めた軍需品の輸送を管理すると言うのも戦争には欠かせない事なので、
それも軍事的才能であるとは言えるけどね。
漢水下りやってたら歴史が変わっていたな
漢水下りを実行するとしたら、正始年間の初めになるだろう。
すると、当時の荊州を守っていたのは夏侯儒で、駐屯地は宛か。
夏侯儒は名将と言うわけでもないが、愚かな判断をする人間でもないので、
良くて魏興、上庸地域の奪取と言う所だろうな。
その後、本格的に奪い返しに動く魏軍をどう抑えられるかにかかってる。
なんとか保持できれば、その後の戦略は変わってくるかもしれない。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 21:28:05
>>269 上庸取れたらかなりいいと思う。
漢中・荊州からの2方面作戦が実行可能。
諸葛亮の夢であった2方面作戦
上庸を策源としてどれだけの戦力を支えきれるのか、という点や、
いざ荊州方面へ軍を進めるとしても、平野部への入り口を押さえられてはどうなのかという点、
また、連絡線を漢水一つに限定されてしまうという点など、不安は残る。
蜀呉双方の圧力を同時に受ける事になる荊州北部が、更に緊張状態になるのは確かだな。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 22:04:23
上庸は維持するだけで大変そうだね
漢水下りは論者の多くが反対したらしいが、反対論者の中核はやはり
聖旨を届けた費禕と姜維なんだろうか?
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 23:31:04
いや、聖旨を出した劉禅が反対者の中核に決まってる
漢水下って上庸取って終了、で本隊は漢中に戻る、というのなら
普通に援護のない上庸を再度落とされて終わるだけだと思うが。
江陵があるならまだしも、上庸だけで二面作戦は無理。
やるなら本隊でそのまま荊州北を攻撃していたほうがまだまし。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 07:33:28
誘導作戦くらいしかないでしょ
上庸からは
蔣琬の漢水下りは魏延の長安急襲と似たようなレベルだな。
侵攻それ自体はあるいは成功するかもしれないが維持は厳しそう。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 10:05:39
上庸って守りやすいのかな?
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 10:36:26
劉備も簡単に奪ったし、
その後の劉封も簡単に奪われたし守るには適さないのかな?
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 10:37:56
要害ではないって事か上庸は(ρ_-)o
では、上庸だけとるのは不安だね〜
みんな上庸とは言うけど、漢中郡の東隣は常に魏興郡ですよ?
その後に錫郡、上庸郡、新城郡の分割と併合を幾度か行っているし、蒋エンが
遠征計画を立てていた時期は新城郡に併合されてるっぽいし。
光栄ゲームの影響力の大きさを物語るな
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 16:59:27
よくわからん
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 17:33:02
じゃあ新城郡というかいわゆる上庸一帯だけど
ここから洛陽に急襲するのはどうなんだろ?
諸葛亮の北伐では孟達を寝返らせて進行させたけど。
ハンと襄陽に敵戦力がある状態で上庸から北進するのは無理じゃねーかなぁ…
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 18:01:51
呉が襄陽と合肥に攻めれば北進は可能かも
>>286 いや無理だろ
というか攻めてるけど無理だったし
そもそも、上庸からでは洛陽に直通するような行軍道路は無いと思うが。
漢水を下ってから丹水を遡って武関を通り、長安を経て東に向かうか、
東進して宛まで出てから北進するしかないんじゃないか?
前者には雍州諸軍事が、後者には荊州諸軍事が鎮守してるんだから、
洛陽を突くというのは不可能だろう。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 19:10:04
蔣琬の上庸奪取は、呉が襄陽を攻め取り、蜀漢と呉が漢水以南を確保する、ってのが前提だね。
だと、呉の北上が成功しない限り、上庸付近を攻め取っても維持は不可能だね。
晋書の記録によれば、魏興郡1万2千戸、上庸郡1万1448戸だな。
無理して維持する程豊かな土地でも無いな。
この作戦における、蔣琬の構想というものがよく見えてこない。
常識的に考えれば、
>>289氏の言うように、呉と共同で作戦を為し、
漢水流域を確保するという事なのだろうが。
蒋エンには悪いが、実行されなくてよかった鴨
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 22:48:01
だから逆に
「北伐を食い止めるための狂言(サボタージュ)」説
が出て来るんだよ
で、「病気」になって軍の指揮はヒイが…
>>292 むじん氏が言ってたんだっけ?
まあ、それは考えすぎだと思うけどね。
蔣琬は作戦に携わった記録も無いので、こういう事には慣れてないが為、
甘い見積もりで作戦を立案した可能性だってあるし。
>281
後漢時代は三国時代でいう魏興・上庸・新城・漢中の四郡併せて
漢中郡だった事を忘れないでください。
>>285 魏の都督荊州諸軍事が駐屯している拠点は宛(もしくは移転して新野)。
というのも蒋エンの立案時期と荊州軍の駐屯地が新野へ移転した時期がおおよそ
重なってたりする。
どちらにしろ、魏にとっては相手が呉にせよ蜀にせよ都合のいい移転にかわりないが。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 23:42:06
姜維だったらどのような進路を取るでしょう?
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 23:49:42
隴西方面で決まり
>>296 姜維の場合、実際に何度も隴西へ出兵してるんだから、考えるまでもないような。
>>295 蔣琬の作戦が正式に中止されたのが242年、夏侯儒は少なくとも241年までは都督荊州諸軍事だったので、
荊州鎮守府を新野へ移転させた王昶の都督荊州諸軍事就任は早くともそれ以降。
自分はもうちょっと後、正始年間中頃に移転させたと思ってたが、重なってた可能性も確かにあるね。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 02:41:28
>292
蔣琬の病状がどんなもんだったかは不明だけど、241年には費禕が蔣琬と会談して、おおよそこの北伐(上庸方面)は断念と言う方向になってる。
おそらく、費禕が行った時に突然決まった訳でも無いだろうから、241年半ばには検討はされてたんだろう。
呉との共同ってのが前提だけど、呉の侵攻がこの頃、司馬懿に防がれてるんで、それが要因かもしれない。
で、なぜ涪に留まったかについては、まず涪が交通の要衝だった点。特に漢中方面に関しては。
劉備も入蜀当初、劉ショウと会談した場所でもあるし。
それと、244年に曹爽が侵攻して来た事。この侵攻は241年に司馬懿が呉を防いで功を挙げた事への対抗心と言う話もある。
この侵攻は244年の2月に詔勅が下されてるんで、243年中には計画されてただろう。
この曹爽の南征が蜀漢側に伝わってたのかもしれない。この侵攻は241年に司馬懿が呉を防いで功を挙げた事への対抗心と言う話もあるし。
もしそうなら、結構早い段階で計画されてた可能性もある。
蜀漢側としては魏の侵攻の確証が持てない状況下で成都まで兵を引くのは危険だし、かと言って、来るかどうか不明の敵を待って、大軍を漢中に駐留させとくのも負担が大きい。
そんな事で、涪駐留が決定したんだと推測してます。
北伐派・反戦派の駆け引きで涪駐留なったとかでは無いと思うんだよね。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 08:38:49
蜀漢歴代丞相 諸葛亮→蔣琬→費禕→?? 費禕の後の丞相は誰なのか教えてくれませんか?
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 08:44:09
丞相は諸葛亮だけですよ
ショウエン、ヒイ、キョウイは大将軍
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 08:45:57
>>302 諸葛亮の死後 蔣琬が 蔣琬の死後 費禕が継いでます。
>>303 跡を継いだと言っても、政権を主宰したというだけで丞相は不在だよ。
諸葛亮の死後、何故か向朗が行丞相事であったが、これも丞相というわけではない。
宰相という点で言えば、録尚書時を拝命した蔣琬、費禕、姜維の三者。
しかしながら姜維時代は、姜維の次官であった陳祗が実質的な宰相であった期間が長い。
>>304 向朗のは前にも出てたかと思うけど臨時っぽいね。
立皇后や立太子の勅を届ける使者としての体裁を整える為の。
許靖が在世中は彼が司徒として同じ任をおっていたようだから、臣下としての最高レベルが必要とされていたんじゃないかな。
許靖って、司徒といってもやってる事は太常っぽい気がするんですが
>>306 そもそも許靖の司徒就任自体がお飾りみたいなもんだったからね。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:14:59
だいたい丞相と司徒が両方置かれてるのが普通じゃない
何で御史大夫をおかずに司徒にしたんだろう
僕は成り上がり者だけど名前のある人は大事にしますよ〜
と言った劉備の広報戦略
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 17:42:27
成り上がり
>>300 蔣琬の作戦が中止された要因として、自分は姜維の反対が大きなものだったと見てる。
以前姜維スレでも話したと思うけど、その後の上奏で言われた隴西方面への作戦は、
姜維が中核となって推進したと考えてるので、姜維のスタンスは漢水下りには反対であったと考えてる。
司馬として軍事面で蔣琬を補佐していた姜維の反対は、蔣琬に作戦を躊躇わせた大きな要因であったと。
蔣琬と共に漢水下り作戦を具体的に練り上げるという事もやっていたとは思うが、
同時に、隴西方面への作戦に切り替える事も姜維は蔣琬に主張していたと思う。
240年に行われた隴西への威力偵察は、隴西方面へ作戦する事の有効性を確かめる為の行動であったのではないだろうか?
蔣琬の心情はともかくとして、大司馬府内では、240年の段階で隴西方面への切り替えに傾いていたと思う。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 20:41:57
:*:・( ̄∀ ̄)・:*:わからん
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 18:44:30
>312
当事の状況考えれば、呉の戦況が最大の転換要因だと思うけど。
蜀漢の位置からすれば、上庸方面への侵攻を諦めれば、隴西方面へ進出するしかないから。
関中盆地へ侵攻するのは魏の圧力を考えると成算は皆無だろうし。
隴西は姜維の故郷であるから、同方面への作戦構想の方が姜維自身としてはより良かったろうし、もしかしたら主張もしてたかもしれない。
でも、姜維の反対が大きかったから、と言うのは当時の姜維の影響力を過大評価しすぎてると思う。
大きな要因としては、呉の戦況、蔣琬の病状、成都の世論等でしょう。
>>314 姜維に関しては、影響力に限らず何でも過大視しがちな傾向が自分にはあるので、
御指摘の通りかもしれない。
この事も、「威力偵察を行ったという事は、その時点で隴西への作戦計画があったのではないか?」
という疑問から膨らませた話に過ぎないから、間違いは多々あると思う。
話は変わるが、董厥や諸葛瞻の行おうとした、姜維からの兵権の取り上げについて、
孫盛の異同記の記述ではあるが、姜維を益州刺史に、というものがある。
益州刺史・牧は、劉備、諸葛亮、蔣琬、費禕のみしか就任してないし、
蜀の行政での重要なポストだと思うのだが、何故そんな職に姜維を就けようとしたのだろうか?
祭り上げるにしても、太傅とか、もっと適した職に就けるべきと思う。
それとも、自分の考えているほど、益州刺史は重要な職ではないのだろうか?
もし高位の将軍位、録尚書事や都督中外諸軍事を外した上での益州刺史であれば、せいぜいが都知事とかみたいなもんで、国政や外征に対しては影響力なくなるから。
姜維については、むしろショウエンに聖旨を伝えにいくあたりから国政中枢に絡むようになったという事が重要じゃないかな?
益州刺史になれば漢中から成都へ戻らざるを得ないからな
前線の軍権はなくなるし
>>316>>317 益州刺史それ自体では権力を有し得ない、という事か。
外征に関する発言力が激減するという事が重要だしね。
刺史だからな
益州牧だとまた話は違ってくるが刺史に軍権はない
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:15:20
それはあまり関係ない実際は刺史=必ず軍権なし、というわけではないから
ただ刺史は牧より官位の位置付けが低いから
蜀では牧位はかなりウ゛ェルタースオリジナル並みに特別な存在だったようだなぁ
刺史=軍権無し、牧軍権有りだと思ってたんだが間違ってたのか
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:18:07
費禕の死去後、益州刺史は置いてないね。
事実上、益州一州のみの国家だから冗官を省いたと言う感じだったのかな。
現在の台湾で言う台湾省長みたいな感じかな?
だとすると、大将軍から益州刺史への異動はあからさまな左遷人事だね。
異同記のみの記述なんで、ほんとにそういう構想があったか微妙かも。
事実だったら、姜維でなくても穏やかではいられないだろうな。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:19:48
漢王朝と蜀漢王朝では違うようだな、知らなかった。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:21:43
いや漢でも魏でも同じ
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:23:47
>320
蜀漢の場合、諸葛亮しか牧になって無い所をみると、特別だったのかもね。
もしかしたら、丞相職も諸葛亮だけだから、諸葛亮が就いていた職務には諸葛亮に敬意を払い、後任者は就かない、みたいな暗黙の了承があったのかも。
姜維は降伏まで、大将軍位と督中外諸軍事だけでなく、録尚書事と涼州刺史も帯びていたが、
董厥らは具体的にどういう人事を行うつもりだったんだろうか?
大将軍と督中外諸軍事は解任として、録尚書事と涼州刺史も取っ払って、
益州刺史のみにって事なら、そりゃ逃げたくもなるかもしれないな。
涼州刺史は名目だけだから、あまり関係ないけど。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:28:25
向朗が仮とはいえ丞相級の官位にいたのは例外中の例外か。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:30:08
>326
もし、異同記の記述がほんとなら、録尚書事は加えたままで益州刺史だろな。
ただ、この左遷人事を提示することで、暗に引退を迫った、って事かもしれない。
行都護・衛将軍・平尚書事になってる諸葛贍が後継政権ってのは既定路線だし。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:31:35
>>326 閻宇→大将軍、録尚書事、都督中外諸軍事
姜維→大司馬、益州刺史(のみ)
こんな感じじゃないかと
一応官位は揚げつつ実態の伴う職務や地位から遠ざけるんだろう
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:32:40
>327
向朗は諸葛亮より15歳ほど年齢が上で、仕官以前から諸葛亮と親交もあったようだし、蜀漢では一番の古株と言ってもよい。
だから臨時代理とはいえ、丞相を加えたのかもね。
涼州方面の責任者を誰にするんだろうな
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:37:41
>331
多分、閻宇が大将軍他の官位を帯びて漢中に駐留するんでないかな。
国政全般は諸葛贍、董蕨等が行うんだろうから。
東の備えは誰がやるんだ?
……誰がやるんだろうなぁ
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:41:24
羅ケンあたりではないだろうか?
羅憲か…能力がイマイチ不明なんだよな。
時期的に考えると、
どうも丁奉の援軍を侵略と勘違い(とも言い切れないが)してやっつけたんじゃないのかという気がヒシヒシとするし。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:48:03
閻宇がもし召還されたとしたら、実質的な対呉交渉の責任者で副将だった羅憲が後任になったかも。
永安都督は、対呉交渉の責任者が任命されてるようだし。宗預とか江州都督だったけどケ芝とかね。
>>337 諸葛センについてある廖化の話(宋預伝)を考えると、宋預は既に引退組だろう。
ケ芝ももう高齢じゃね?
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:53:19
ケ芝が名目上の永安都督、実質は羅憲ということになるかも。
ただ羅憲がそういう働きができるかわからんな。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:53:41
>338
いや、だから258年以前の話。
代々、江州・永安都督が対呉交渉の責任者だったんじゃないか、と。
宗預に替わって閻宇が永安都督になったけど、対呉交渉の経験が(おそらく)無いんで、経験者の羅憲を副将として補佐させたんじゃないかな。
で、閻宇が抜ければ、羅憲が後任でもおかしくは無いのでは、と。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:55:54
>339
ケ芝は251年に死去してますよ。
258年以前の例を出しただけです。
>>340 ふむ。一本筋は通ってるね。
しかし、蜀滅亡直後の羅憲の過剰(とも言い切れないが)反応を考えると、
対呉外交は上手く行ってなかったんだろうな。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:59:47
>341
そうだったのか。正確な知識があまりないもので。
とすると対呉責任者が羅憲以外にはいるのだろうか?
閻宇の副将が羅憲ということは対呉能力は一番あるということかな?
いや呉は機会に貪欲だって事を理解してたとも考えられるぞ
いくら外交が上手く行っても機会さえあれば攻め込んでくる、と
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:02:02
>342
過剰反応かな。
羅憲の伝記を読むと、呉に二度ほど派遣されてて「呉の人々も賞賛した」とあるし、通常交渉は上手くやってたんでないかな。
逆に対呉交渉を行ってた経験から、呉の動きとか読めたのかも。
そんで寡兵ながら持ちこたえたとか。これは妄想だけど。
>>345 丁奉は名目上は援軍を派遣した訳だから、先発隊はあまり数が居なかったのかもな。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:07:12
>343
羅憲の永安派遣は黄皓がらみで語られるんで、左遷のイメージしかないけど、対呉関係とか考えると左遷とは言えないね。
もし、対呉交渉の実質責任者と言う事も含めた派遣であれば、彼が対呉関係では当時一番だったのかも。
あと記録に出てくるのは尚書令になったハン建くらいだけど、彼は全くの行政官僚みたいなポジションだし、尚書令くらいになる位置から、あの時点での永安派遣は無いと思う。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:12:55
>347
でも羅憲指揮下の兵力は2千人しかおらんからねぇ。
呉も益州に侵攻すれ益州に進出した魏軍と衝突することも視野に入れてれば、先発隊でも2千人以下って事は無いんじゃないかな。
>>349 兵法の常道を紐解けば、基本を守ってれば攻め手が数倍でもなければ早々落ちないわけで。
城を落とすには数倍どころか十倍はいると孫子にある
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:23:59
>350
同意ですけど、なら余計、呉軍の兵力は先発隊にせよ多かったかも。
まぁ、援軍の当ても無い孤城を数ヶ月守った羅憲が偉いのか、呉軍が拙かったのかは不明だけど。
先発が一万以上なら、後続隊の規模を考えれば、たとえ援軍だとしても居座られるだけで蜀が滅びる
→蜀側の反抗が予想される
先発が永安の保有兵力と同じか、それより少ないなら、とりあえず蜀の内部に入れても当面の心配は無し
→蜀側は段階的に受け入れる余地がある
前者の場合、羅憲が呉の野心を考えるのは平均レベルの判断力は有ったと考えられる。
しかし、一方の呉側の行動は、丁奉や陸抗が関わっていたとは思えないほど稚拙。
羅憲が1万の兵士を食い止めるのは至難の業。
後者の場合、羅憲が呉の野心にまで思いを馳せるのは通常以上の判断力が必要。
呉側の行動も、ある程度は理に適った物だと言える。
優れた判断力を持った羅憲が永安を守りぬくのも、平均レベルの軍事能力が有れば十分に可能。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:27:04
呉の方は、劉禅が降伏したか不明だけど、綿竹で蜀漢が大敗したのを知って、進出したのかな?
なら、蜀は滅びるから取れるトコ取っとけ、ってんで援軍を侵攻軍に変えたって事だよね。
そうだとすると、永安は援軍の当ても無いから攻めればすぐに降伏する、って読みだったのかな。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:30:19
>353
後者の場合、優れた判断力を持ってて、平均的な軍事能力と言うのは・・・・。
優れた判断力があれば、一概には言えないにせよ、軍事能力も高いのでは?
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:30:32
呉の蜀への野心は周瑜、魯粛の時代からの宿願だよ
どんな規模でも単なる救援で終らないのは間違いない
>>354 鍾会&ケ艾の行動はまさに電撃作戦。
姜維が綿竹で敗れてからのタイムロスはほとんど無い。
呉側は、漢中が落ちたか落ちないか位の、滅亡半年くらい前の段階で、軍事行動を開始してたと思われる
>>355 後者なら、特段優れた能力でもなくとも可能。
羅憲の軍事的な功績は、良く分からない。
であるので、後者でも優れた軍事能力が有ったと判断するのは厳しい。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:37:39
>357
救援軍としては、それくらで行動を開始してたとは思うけど、白帝を攻める、って事にしたのはどうだろ。
羅憲伝でも、後主降伏の報が届いたのはだいぶ混乱した後であるし。
侵攻軍に衣替えしたのは、蜀漢が滅亡寸前になってからじゃないかな。
救援軍→侵攻軍にするにも準備等もあるだろうし。
でも、呉側も救援ながら、最初からある程度益州進出も視野に入れてたのかもね。
>>359 その場合、呉の侵攻軍と、本隊である丁奉との間でどのような連絡が取られたのか謎。
現場の判断で侵攻に切り替えたとするなら、命令違反だから、戦後に呉側の将校数人の首が飛んで無いとおかしい。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:43:04
>>360 はじめから
「可能なら蜀を征服することも視野に入れつつ救援する」
という命令だったと思うが
>>361 陸抗伝か。そうなると、現場の指揮官が羅憲を甘く見たという事になる…かな。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:44:34
>358
羅憲伝では、歩協の軍勢を城外で大破し、その後10倍以上の兵力で包囲されてるけど、撤退まで追い込んでろのを読むと、優れてる様に思えるのだけど。
晋になってからは国力の違いはあるにせよ、フ県を奪ったりしてるし。
>>363 先発隊を野戦で破った後に篭城。というのは戦術の基本だし、成功率が高いからなぁ。
対関羽戦で曹仁が窮地に陥ったのは、野戦でまさかの敗北を喫したからで。
歩協の率いていた兵士がどれほどの物なのか分からないのでなんとも。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:51:22
>364
ただ、その前に「長江を挟んで防ごうとしたが防ぎきれず、城を囲まれ・・」とあるんで、呉軍の方が多かった可能性もあるね。
それに守城戦術の基本だとしたら、攻める側もそれを想定しててしかるべきだしねぇ。
歩協が拙かったような気がしてきたなぁ・・。
ちょっと遅れたが閻宇が姜維に変わって大将軍となったら東方の責任者は閻宇の副将であった羅憲がそのまま上がるんじゃね?
庲降都督の方は閻宇が巴東に移った後、副弐都督の霍弋がそのまま上がってるみたいだし。
ただ羅憲は黄皓の覚えが良くなかったからすんなりいくかはわからんけど。
漢中が落ちる。姜維・張翼らは剣閣まで撤退する。
↓
(この頃、可能なら蜀を征服することも視野に入れつつ救援する “丁奉伝、陸抗伝”という事で呉軍編成か。
廖化は山の中でまごまご)
↓
綿竹が落ちる。ほどなく成都で劉禅降伏。
↓
呉軍永安に到着。羅憲、呉軍を通す事を拒否。
歩協が羅憲を攻め始める。
(この時点で、羅憲と歩協、どちらの兵が多かったかは不明)
↓
羅憲、野戦で歩協と戦うが破れ、永安に2千で篭城する
(しかし、永安にはじめから2千しか兵が居なかった事などありえるのだろうか?
ありうるとするなら、諸葛センがケ艾との決戦の為に兵をかき集めた可能性。
そうだとするなら、諸葛センは大馬鹿者である。
羅憲が野戦で大敗したとすると、その後立て直せた事に疑問符が付く。
勇戦したと考えるのが道理ではないだろうか)
↓
呉軍の後続隊が到着するが落ちなかった
(この時点ではどう考えても羅憲の方が少数)
↓
晋軍の援軍到着
こんな感じかな。
それから、
丁奉伝に「援軍(遠征?)を果たせず撤退した」とあるが、これはどの時点での話だったのやら。
呉軍が最初に派遣したのは、晋書によると建平太守盛曼だな。
次いで歩協、陸抗と順に増援として派遣したようだ。
>>367 > しかし、永安にはじめから2千しか兵が居なかった事などありえるのだろうか?
259年に呉の要請を受けて増兵してる。確か5000くらい。
ので263年時でも兵2000のみということはないと思う。
それが間に合ったか否かはともかく、閻宇が永安の兵を率いて成都の救援に向かったはず。
だから、永安に駐屯していた兵が2000だったとしても不思議ではないと思うが。
太守である盛曼が万単位の兵士を率いるとは思えない=先鋒 だとしても、戦力の逐次投入かよ。
たかが太守に、対蜀戦線の開戦に踏み切る権限は無いはずだよねぇ。
呉の上層部が何考えてたんだか、よく分からん作戦だなぁ。
羅憲が盛曼とやらかして派手に大敗したなら、後の篭城に繋がらない。
かといって、はじめから2千だったという事もまた、根拠が薄弱。
羅憲の兵士が2千だったのは、成都が落ちた事で兵士に同様が走って脱走しちゃったからかな。
>>370 守備に2000しか残さなかったとしたなら今度は閻宇の軍事センスが大いに疑われる所だが、その記述はあるね。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 23:26:40
廖化「あのー仕官したいんですけど」劉備「あー黄巾族ね。はい処刑頼むよ魏延君」魏延「お任せください。ウッヒッヒッヒッヒ・・・・・」廖化「ヒエエエエエエエエ」
>>371 最初、救援という名目で派兵。
羅憲が守りを固めてたので動けず。
その後、鍾会の乱がおこり南方を除き蜀は空白状態に。
この隙に併呑したれで歩協を派兵、しかし永安を抜けず。
くそーっということで陸抗に3万の兵を預けて増援、永安を包囲するも魏の援軍がやってきて断念。
だから成曼の時点では様子見程度でしょ。
>>374 歩協の段階で「援軍しますよ」をやっても、羅憲が
>>353の理由で拒否するのはほぼ間違い無いと思う。
しかし、かりに盛曼が「ちょっと通りますよ」をやって、後続でやってきた歩協が突然攻め始めたなら。
今度は歩協が勝てなかった理由がよく分からなくなる。
盛曼の段階で羅憲と揉めてたとするのが自然じゃないかな?
376 :
375:2006/02/06(月) 23:33:08
ちょっと自分で何を書いてるのか分からなくなってるな。
>>374に同意。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 23:38:55
漢中が落ちる。姜維・張翼らは剣閣まで撤退する
↓
(この頃、可能なら蜀を征服することも視野に入れつつ救援する “丁奉伝、陸抗伝”という事で呉軍編成か。
廖化は山の中でまごまご)
↓
綿竹陥落
前後して閻宇が成都の救援に向かう(永安からどの程度もって行ったのかは不明)
↓
ほどなく成都で劉禅降伏。
↓
盛曼、永安に到着
羅憲、呉軍の援軍を拒否
↓
蜀を併呑するつもりで歩協がやってくる
↓
羅憲、野戦で歩協と戦うが敗れ、永安に2千で篭城する
↓
永安落ちず
↓
陸抗が呉軍の後続隊が到着するも、ほどなく晋の援軍到着
↓
呉軍撤退する
という流れかな。
まだ晋じゃなくて魏だな。
それにしても、永安に2千しか居なかったってのが分からん。
永安に元々2千しかいなかったなら、羅憲はすばらしい軍事能力を持っている事になるが、
野戦に打って出た判断には疑問は残り、閻宇は大馬鹿者になる。
永安に多くの数が居り、歩協との戦いで敗れて激減したとするならば、羅憲の能力に問題が浮かぶ。
その後、羅憲が持ちこたえたのもよく分からない。曹仁と同じ状況だろうか?
2千だとすると、何ともつじつまが合わないんだよなぁ。
元々2000
野戦してみようかと思ったけど途中で思い直して引き返す
篭城
ってな流れではどうだろう
>>380 仮に2000だとすると、城を半分空にしたとしても、何とかなるモンでは無いかと。
空にしたとするなら、
それはそれで麦城にほとんど兵力を残さず、窮地に陥った同様に曹仁マイナス材料な訳で。
やっぱり、不可解…
そもそも、野戦と言えるほどの事はしてないと思うよ。
呉軍の抑留と兵力漸減を目的として、城を出て(と言っても門を出た程度)
長江沿いに展開し、射撃を行ったんだと思う。
その後、包囲の弛緩した隙を突き歩協を攻撃、これを破った、って事だろう。
歩協を破ったと言う記述はあっても、敗れたという記述はないし。
2000の兵だとするなら、半分を割いて1000で野戦に出ても、
敵が同程度かそれ以下の数で無い限りには、撤退に至らしめる確率は低い。
野戦で勝敗が決したなら、晋書がその手の派手な記録を記述漏れする筈が無いわけで。
また、野戦で決戦をするつもりが無いなら。
後に篭城する事が分かりきっているのに、そこで矢を浪費するのは不可解。
事実、野戦では敵を撃滅する事は出来ず、包囲されてしまっているわけで。
孫休伝には、この作戦に関わったのは陸抗、留平、盛曼、歩協とある。
よりによって、この作戦の指揮権を持ってるのが陸抗なのが混乱に拍車をかけるわけで。
羅憲の兵は、晋書にある2000じゃなかった。とするのが一番自然な気がする。
む。2千の兵って何処の記述なんだ。晋書には無かった。
>>383-384 2千ってのは襄陽記の記述。
長江沿いで射撃したってのは、敵が上陸するタイミングで襲い、その戦力を削るのが目的だろう。
包囲陣地を作られてからでは、まともに攻撃できないからね。
撃退するのには失敗、その後野戦は無く、永安にこもる。しかも寡兵。援軍の見込み無し。
よく士気が持ったなぁ。また分からなくなってきたぜ。
蜀は滅んだが、呉の裏切り者には寸土たりとも蜀の地は渡さん
死してこの城を守り、先帝陛下と武侯に地下で見えん
とか言えば燃えないか?
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 01:04:19
でも宿敵魏には蜀を明け渡しちゃうんですよね?
とか言われる罠
羅憲によるアレは晋書の記述だからねぇ。
確かに、王シュン伝を読んでみると、蜀の人が晋に降った早々から苦労した事はうかがわれる。
蜀の人が、晋の政治に不満を持ち、劉備の統治を懐かしんだとしてもおかしくは無いが。
晋書の記述だからねぇ。
士気が落ちなかったのは、羅憲が名文家だった事に起因するのかもね。
うまくアジったのかもしれないw
>>388 魏は敵と雖も正道で攻め込み漢を滅ぼした
遺憾ながら簒奪と雖も漢を継いだ国である
これに降伏する事は武運尽きた今では致し方なし
然しながら呉は壮繆侯、桓侯、昭烈帝の仇である
以下略とかなら突っ込みも回避だ
>>383 別に撤退に追い込まなくても、篭城の前に敵の鋭鋒を砕いて、
自軍の士気を上げて、敵の士気を挫くというのは別に不可解な作戦でもないでしょ、
野戦で歩協を打ち破った事は記述があるし、これを怒った孫休の命令で陸抗が派遣されてる事から、
かなりの戦果だったんじゃないかな。
歩協の派遣は、巴東の守りが堅くて兵を通過させる事が出来なかったから、
とあるので、野戦で決着を付けるつもりは無く、救援が来るまでの時間稼ぎとして
長江沿いに防戦していたら歩協の援軍が来て、劣勢になり城に撤退、という流れと思われる。
つまり即篭城ではなく、地の利を生かして敵を削ぐと共に、
野戦である程度の戦果を上げ、士気を高揚させてから篭城したかったんではないかな、
兵力差を考えればそう不可解な作戦でもないと思われ。
だから羅憲の兵数に関してはやはり2000前後が妥当と思われる。
閻宇が兵を率いて成都へ向った事、成都降伏により長江付近の県の高官が逃げた事から、
相当混乱していた様なのでそれ以上の兵が居るってのは無理っぽい。
あと、上のほうで永安の守備の少なさを理由に閻宇の軍事センスを疑われてるので擁護すると、
事態は亡国の危機であり、呉の警戒<成都救援、はごく自然な選択、
また成都の降伏により長江付近の県の高官の逃亡により永安の兵しか動かせない状況が出来たり、
鍾会の反乱により蜀が空白地帯になるなど、羅憲の苦戦は閻宇の責任でないところが大きい。
鍾会を撃退、あるいは鍾会の反乱が起きないなど、蜀を統治する政権が普通に機能していれば
もっと速やかに援軍を派遣できただろうしね。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 07:05:52
正史の注釈・漢晋春秋の羅憲の伝記では「魏軍が攻めてきたので閻宇を召還し、閻宇の配下2千人を留めて永安の守備を命じた」とある。
漢晋春秋を読む限り、閻宇を召還したのは、漢中が落ちて危機い陥った成都の命令によるもの。
最低限の守備兵力だけ残して、成都に来い、って命令でしょう。
成都としては呉の豹変も有り得るが、それは蜀漢が滅亡したらだろう、と言う読みでしょうね。
2千程度で一度城外で敵を大破し、10倍以上の兵力で半年くらい包囲に耐えたんだから、羅憲は褒めるべきでしょう。
呉は、かなり拙い戦をしたな、と言う感想。それもあって羅憲も持ったんだろうけど。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 11:58:49
漢中が落ちたら普通はそっちに兵渡すからな。
呉は同盟結んでるしこの隙に合肥でも攻めると思ったんじゃないか?
羅憲は対呉の責任者だから呉の意図がわかって撃退したと。
実は魏の内応策が羅憲にも行われてて呉に対しては絶対防衛を果たさなければならなかった
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 12:11:46
お母さん閻宇は蜀降伏後どうなってしまったんでしょうね
>>395 鍾会の反乱に巻き込まれて死んだんじゃないかな
>>395 益州刺史に任命され、富亭侯の爵位を受けた。
建興8年10月に閻宇が益州牧であった、という記述なら宋書州郡志にあったが、
信憑性に欠ける上、降伏後の話では無いので、いずれにしても
>>397の記述にはならないな。
建興8年って言ったら、諸葛亮存命中だから、益州牧は諸葛亮だしな。
>>397が何を根拠にした発言なのか、気になるところだ。
なんだ捏造か
違うよ夢だよドリームだよ
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 01:31:20
うるさい捏造野郎が
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 11:02:24
1
呉は荊州南部というか南郡=江陵だけは必ず確保する
これは益州をもらえるかどうかに関係ない
2
南郡より南は栄えているとも言えず、また南郡を通らないと魏側に攻め込むこともできない
つまり力を蓄えるのも北上するのも困難
3
つまりは無理
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 11:08:03
補足
呉は「益州やるから南郡くれ」と言っても多分まともには応じない
一時期認めても史実どおりじきに「ころしてでもうばいとる」が発動するはず
なぜなら呉は長江流域の支配を最優先するのが基本的戦略だから
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 11:17:55
3レスにわけちまったが、
結論は「自殺行為」
>404-406
逆に孫呉の援護を得て北進すれば、関羽の北進を見ても成功するんじゃないか?
劉備が荊州北部を得た後、荊州南部を返還し、劉備は孫権の協力を得て淮南へ進出
孫権は長江から南の全域を制するべく益州へ進出
関羽死後の行動を見る限り、孫権は対外的に打って出るの下手くそwだし
孫呉が益州を取る頃には(北進が成功しているなら)徐州、豫州から、
魏興郡(荊州)まで平定できてる(そこまでの事態になれば魏は業Bへ遷都してる)だろうから、
孫権を抑えるのは容易だと見るけど、どうだろう
北進に関しては馬超とも連携できるんじゃないかな、この場合
自分で書いてて、相当電波が飛んでるなぁーと思うけど、あんまり気にしないでね
ああ、あと曹操をナメ過ぎって言うのはおっしゃる通りです
すまん
>>407 孫権が率いてる合肥の戦果は最悪だが、江陵からの攻めは中々秀逸だからなぁ。
孫権以外が率いている時の呉軍は、軽んじる事が出来るほど甘くは無いと思うよ。
とりあえず元のスレに行こう
ちょっとスレ違いっぽいし
うん、そうして頂けると有り難い
>逆に孫呉の援護を得て北進すれば、関羽の北進を見ても成功するんじゃないか?
散々これまで返還をごまかし続けた劉備をこの期に及んで安易に信用して協力すると
思うか?
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 22:56:07
>>409 陸遜率いる北伐軍はいつもいいとこまで逝ってた希ガスる。
しかし、孫権の本軍がいつも足引っ張って連携とれず・・・・
>412
益州攻略も漢中平定までいけたし(途中実力行使により南荊州の半分が孫呉領に)、
魯粛が生きている間は協力してくれるのではないか?と考える
甘いかな……
甘過ぎる
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 01:57:37
甘いな。
魯粛は戦略の便宜上蜀に譲歩してただけ。
まさか魯粛が死んで呂蒙に代わったから関羽がハメられて死んだと思ってない?
魯粛も関羽の北上見たら多分荊州奪いにくるよ。彼の悲願だもの。
此処で語るより正史を読もう、認識が変わるよ。
何故それを薦めるかというと、
キミは以前のオレと同じことを言ってるからだwww
正史を読めと言う奴に限って、読んでいるとは思えないようなレスをつけてくる件について。
同感
蜀に何も関係ない事をレスしてくるよりは数倍マシ
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 14:19:39
魯粛は蜀を取りたかっただろうがあのタイミングで取るかどうかはわからない。
蜀が荊州北部、呉が徐州・豫州を取ってからという手もあるし。
正史=ネットで知った知識
演義=横山三国志で知った知識
これが三戦板クオリティ
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 14:36:18
正史=蒼天と三国志武将ファイル
>>421 益州、荊州獲得前に長江から北を狙わないのが魯粛クオリティ
魯粛の当面の方針としては対曹操には劉備(関羽)だからね。
ただあくまで孫呉の利益優先だから国土を譲ってでもそれを維持するという気まではないわけで。
要するに魯粛の構想は虫が良すぎと言える。
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:38:48
虫がよすぎるのは諸葛亮の三分。
あれは最初から呉が揚州から西に進出したがっていることを入れてない(考えてない?)し、
曹操とともに戦うたむずっと味方でいてくれるという前提になっている。
魏とでも蜀とでも組むし、どちらも敵に回してでも荊州だけは取るという魯粛以下呉の基本戦略に甘さはない。
実現が楽ではないのはもちろんだが。
>>426 > 魏とでも蜀とでも組むし、どちらも敵に回してでも荊州だけは取る
少なくとも魯粛は、あるいは構想・願望としてはあったにせよ、具体的な戦略を練ってはいない。
そこまでの覚悟は持っていない。もっとも当時さらに追い込まれる様なことがあればその限りではないけどね。
> 虫がよすぎるのは諸葛亮の三分。
まあこれは同意w
結局のところ劉備側も孫権側も互いの都合があるからな。
利害がぶつかる以上、いつまでも盟約関係は続かなかったろう。実際続かなかったし。
ただ夷陵の戦役後、直ちに呉と同盟関係を復活させ、以後矛を交えようという戦略をとらなかったのは評価できると思うよ。
まあ荊州を取り返すことが容易であるなら、これもやはりその限りではなかったろうがな。
諸葛亮の天下三分は虫がいいと言うけども
あれって無理してでも呉と結ぶしかない状況だったから出た案じゃないかな
赤壁直前はもうそれしかなかった感じだし
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 17:07:31
具体的な戦略がない、は魯粛を責める理由にならんと思うんだがな。
どう出ても対応可能であると正しく分析するところまでが彼の責任。
司令官としての魯粛が致命的ミスをしたのでない以上、戦略面では魯粛の責任うんぬんはありえん。
それを考えるのは孫権であるべきだからね。
>>428 ただ隆中対(だったか?)は最初から躓いてるんだよね。
天下三分で呉と手を結ぶのはいいとして、
じゃあどうやって同盟関係を維持していくかという
プランというか戦略がないから破綻したんだよ
それは劉備が悪いな
呉をずっと当て馬扱いして自分の権益ばっかり図ってるから
>>431 まあ元々は劉表の後をついで荊州を根拠地とするというのが諸葛亮の天下三分の計の出発点。
劉jがいる段階で平和裏に後を継ぐのは不可能な上、簒奪する為の謀略を練る暇もなく曹操の南下。
出だしで躓いてるんでやむをえまいw
人間の欲深さを想定できなかった諸葛亮が悪い
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 17:30:27
>>437 それは魯粛や孫権も一緒だな。
さらに言えば劉備は梟雄の呼び声も高いわけでその分魯粛の方が甘いか?
がここは蜀将スレなんでどうでもいいか。
梟雄の名前が上がったのは蜀取り以降じゃないか?
>>439 呂布配下の諸将 「劉備はしばしば態度を変えるしてなづけるのは不可能。始末するべき」(先主伝注)
程c・郭嘉 「ずば抜けた才能を持ち人心もつかんでる。最後まで人の下にいる人物ではない。始末するにしくはない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
呂布 「この男が一番信用できんぞ」(呂布伝)
程c・郭嘉 「劉備を自由にしてはいけない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
董昭 「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち関張がその羽翼となっているので信頼してはいけない」(董昭伝)
程c 「劉備は英名があり関張の武は万人に相当する。孫権は彼らと協力し我らに抵抗するだろう。それはやがて分裂するだろうが、その時にはもう劉備を殺すことは出来ないであろう」(程c伝)
劉巴 「(劉璋を諌めて)劉備は英雄で受け入れれば必ず害をなすので断るべき」(劉巴伝)
黄権 「劉備は勇名を馳せており、部下として遇することは出来ず、賓客として扱えば二君を認める形になる。国境を閉鎖して入国させてはならない」(黄権伝)
劉巴 「劉備に張魯を討たせることは虎を野に放つのと同じことだ」(劉巴伝)
曹操・郭嘉 「劉備は人傑であり今攻撃しないと後の災いとなろう。袁紹は機を見るに敏でなく行動を起こさないだろう」(武帝紀、郭嘉伝注)
これじゃあダメか?
乱世に覇を唱えようとする一方の群雄としては極普通だろ
>>441 これだけ警戒されてる人物を呉にとって都合のいい勢力として扱おうと言うのは甘い考えではないかな?
じゃあ魯粛はどういう手を取るべきだったかというのは別問題として。
むしろ人を信じすぎたのは関羽かも知れんなぁ。
陸遜についてもだし、
麋芳については、軍機を明らかにする為に失火の時点で切っておくべきだっただろう。
梟勇と英雄はまたちょっと違う
それを言ったら周瑜も劉備に「最後まで人の下にいる人物ではない」と言われちゃったりしてる
要するに凄い人は最後まで人の下にはつかないってのが当事の認識だったって事だ
梟勇ってのは梟のように、ずる賢くて残酷で抜け目無くしかも優れた人物
入蜀前の劉備は抜け目無くて優れた人物という評判ではあっても残酷だとか言われてない筈だが
麋竺が泣いちゃうよ
>>442 実際に周瑜が死んで他に手もない以上は別問題には出来ないと思うが…
>>442 それは周瑜案もそうだろう
関張と切り離せば余裕余裕ってな感じで
孫権は制御無理って言ってその案退けてるけど
>>443 関羽にそこまでの権限があったのかな?
>>442 劉備を手駒として使おうとした魯粛、呉をパトロンとして使おうとした諸葛亮。
まあどっちも甘いと言えば甘いな。
まあ両者ともその甘さを自覚した上でのものではあろうけど。
他に手もないことだし。
>>448 仮節もらってるから、行政での云々はともかく軍備を失火で失った麋芳は斬首できるよ
二人はそれなりに長い付き合いだし斬るに斬れなかったのかもなぁ
>>443 それよりはあからさまに呉の裏切り工作に嵌ってる士仁を何とかできぬものか
>>451 救援も期待できない、防備も薄い状態で気が付いたら敵が目前に迫ってたんだ。
カク普の時の事もある、あまり言うてやるな。
>>451 帰ったら処罰してやるとまで言ってしまった人物に留守を任せた関羽が悪いとも言える。
士仁は説得され降ったとはいえ呉軍に対しては一応抵抗の構えを見せてるし。
権限としての斬れる斬れないは問題ではなく、
劉備の外戚であり、譜代とも言える麋芳を斬ったら
さすがに揉めるだろう。むしろ逆効果かも。
斬られるくらいなら、と内応する輩が出るかもしれんし、
さらに呉がそれを協力にバックアップするだろうし。
人物にも因るね
張翼みたいに解任されてもそこで腐らずに任務を全うし続ける様な人もいるし
>>449 できない。
仮節は戦時に軍令違反者を処断できる権限。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 13:04:10
活性化age
>>456 じゃあ関羽は権限も無いのに、
「帰ったら麋芳・士仁を始末せねばならない」
とか言ったのか
あぁ、でもそんときは戦時中か
ていうかあの二人は、本当に関羽が嫌いってだけで兵糧送んなかったのかね?
>>458 関羽は外交でもグレーゾーン踏んでるしとにかく信用できない
信頼と信用がこれほど反比例してる部下も珍しいよ
>>458 > じゃあ関羽は権限も無いのに、
> 「帰ったら麋芳・士仁を始末せねばならない」
> とか言ったのか
援助しなかったことに関しては処罰権があるんじゃないかな?
ただそもそもの始まりの443では失火の時点でと言ってるので、それを軍律違反で処断すると言うことは出来ないんじゃないの?という話なのでは?
>>459 グレーゾーン踏みまくってるのは呉だけどな。
劉備が孫夫人を送り返した後に、関羽と姻戚関係を結ぶってのは常識的に考えてありえんだろ。
>>461 そうか?
劉備と事実上喧嘩別れした上で、関羽を切り崩す。
いかにもありそうな話じゃないか?
関羽が乗ってこなくても劉備たちへの疑念を植えるとともに、断った事を呉が関羽を攻める口実の1つにもできる。
>>461 一応和議のなった後だし、「表面上」は友好の強化を狙ってというのは十分ありだと思うよ。
>>462 関羽は劉備に諮って穏当に断るだけでよかったのにな。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 18:41:07
>464
ってかさ、劉備に諮らなかった、ってのが問題になるね。
>>465 そうなんだよね。関羽、ちょっと逸りすぎ。
英雄肌の武人ではあるけど、有能な家臣・軍人ではないわいな。
劉備を通さないで関羽に直接話を持ってくる自体が蜀を舐めてるし無礼。
それをわざわざ劉備に窺いを立てるなんて余計に舐められるだけ。
>>467 それは違う。
劉備は関羽の親族ではないのだし、孫権も劉備も関羽も建前では漢に仕える将・官僚と言う意味では同等。
劉備を通す必要はない。姻戚となるのはあくまで関氏と孫氏だけなんだから。
もちろん別伝の趙雲のような態度がふさわしいのは確かだが、婚姻話について孫権を無礼、非常識とは言えない。むしろそう非難するほうが非常識。
469 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 19:00:42
断った事自体は間違いじゃないでしょう。
>>468 建前を持ち出してどうする。
関羽が劉備の家臣である以上、劉備に話を通すのが当たり前。
>姻戚となるのはあくまで関氏と孫氏だけなんだから。
そこが問題なんだろ。
へたに長引かせると関羽に疑念を持つ奴も出てくるだろう。
即答で断ったのは最善の判断だな。
劉備と関羽の仲を裂くための離間の策だろうな
473 :
468:2006/02/12(日) 19:11:47
>>471 断ったこと自体は正解だろうね。関羽にとって。
初めからあんたの言うように劉備から関羽を切り離す意図があったはずだから。
おれが言ったのはあくまで建前だからね。
ただ、建前上問題ない行動なんだから、関羽に直接縁組を持ちかけるのも関羽が断るのも劉備を通す必要はないんだよ、本来。
問題があったとしたら、穏当な断り方をしなかったという関羽の態度。
穏当な断り方をしたら呉はそこに付け込んでくるでしょう。
交渉を長引かせて荊州に不穏な動きありとの噂を流されるかもしれない。
ガツンと言って終わらたのは正しい。
>>473 返す返すも、失点は「態度」だよなぁ…まさにクマー
>>474 いや関羽は「罵辱」したんだが。
それはガツンと言って終わらせた、とはならんだろう。
使者=孫権をわざわざ侮辱するしかまともな断り方がないとは、交渉能力0やないですか。
詳しい時系列はわからんがただでさえ呉と魏の間が多少良好になっていたのに、
罵倒して断ったあげくに北進する辺りなんだかな
断ればどういう断り方をしても攻められてただろうが、脇が甘いどころの話じゃないな
>>473 建前がなんであれ、実態として関羽が劉備の家来であることは孫権も周知の事実。
それがわかっていながら劉備を通さなかったのでは無礼と言わてれも仕方ない。
主人を通さずに臣下に話を持って行けば主人が不快なのは言うまでもない。
>>476 そのくらいしないと呉はしつこく使者を送ってくるよ。
それが離間の策。
>>476 ひっかかった関羽はおばかで、やった呉は底意地が悪いって所だなw
全然ひっかかってないやん
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 19:31:12
なんかすごいゲーム脳の奴が紛れ込んでるな。
ぶっちゃけ劉備が不快に思っても呉は気にしないって。
呉が気にするのは、呉や荊州の人々から見て問題ある行動かどうか。
建前ってもの自体ここではそういった第三者の目を気にしたもんだろう。
それに対し関羽はこのとき劉備に対してはそれで良いし孫権もどうせもともと敵同然だから侮辱しても問題ないとしても、第三者から見たら「なんだあの無礼な髭猿」みたいに思われる。これはいくない。
>>482 お前はまずゲーム脳という言葉の意味を理解したほうがいいな。
あと、
>ぶっちゃけ劉備が不快に思っても呉は気にしないって。
建前の話をしてるのにこの一文は矛盾している。
主人に話を通すのは建前として当然。
「なんだあの無礼な呉のやり方」みたいに思われる。これはいくない。
>>483 横からですまないんだが「主人に話を通すのは建前として当然」とは何を基にした発言?
486 :
:2006/02/12(日) 19:41:06
>>483 なんでいちいち話を持ち込む方が主人に伺いたてなきゃいけないんだよ
OKするにしても断るにしても波風を立てないように主人に相談するのはともかく
つーか立場を考えれば断る必要なんかないだろ
>>484 何を基にって?
主人に先に話を通すのは古今東西当たり前。現在だってそうだよ。
これから社会人になるのなら覚えておこうね。
>>486 ちょっと前のほう読め
断る必要が無いなんて言ってるのはお前だけ
489 :
:2006/02/12(日) 19:47:54
>>488 劉備に許可をもらってうまくいけば関係強化で万々歳だろ
その状況で孫権が後ろから攻めたら非難ごうごうだ・・・・最も呉が動かなくても維持できなかっただろうけど
487は明らかに社会人じゃないな。
・普通
ライバル会社の社長「ワシの娘とあんたの息子の縁組どうだ?もちろんあんたもワシの会社で優遇するぞ」
A社の専務「いえお断りします」
・非常識
ライバル会社の社長「A社社長よ、あんたの専務の息子とワシの娘を縁組させたいんだが、専務に話していいかね?」
A社社長「(引き抜きかよ・・・まあ専務がOKするとも思えんが、なんでこいつは部下のプライベートな事を俺に断り入れてくるんだ?)はぁ・・・どうぞ」
・バカ専務
ライバル会社の社長「ワシの娘とあんたの息子の縁組どうだ?もちろんあんたもワシの会社で優遇するぞ」
A社専務「詩ね禿げ」
A社内の評価「あの専務、ものすごい無礼なんだってー」
>>489 なんつーか浅はかだなぁ・・・
これがいわゆるゲーム脳ってやつか
>>490 君が書いてる通り、その例じゃプライベートな話。
しかし呉と関羽の話は外交問題。
全く違う。
少なくとも形式でも同盟関係なら
その長に話を通さなければ長の面目が潰れる
面目ってのは大事だよな?
従って、孫権は劉備か関羽の面目を潰す気満々
受ければ劉備の面目丸潰れ、断れば関羽の面目が潰れる
蜀に離間策を掛けて来たとしか思えないな
>>490 何であんたは当時の中国の様相を、現代人のしかも日本人の尺度に当てはめようとする?
495 :
:2006/02/12(日) 19:57:31
>>491 浅はかなのは命令されたわけでもなく維持できる見込みもないのに、後ろをおろそかにして北進した馬鹿だろ
婚姻してても隙を見せれば攻められた可能性はあるが、少なくても罵倒した挙句に断ったときよりかはましだな
>>495 アホか
罵倒しようが丁寧に断ろうがどっちにしろ同じことだ
結局荊州を失ったことに関しては弁護の余地が無いが、お前の言っていることは的外れっぷりも甚だしいわ
>>494 俺に当時似た状況では縁談も上司の許可を得ないといけないという例を教えてくれ。
当時の中国の様相に詳しそうな君を見込んで真面目にお願いする。
>>495 わかったわかった
君は正しい
さあゲームをやっておいで
>>487 俺の知ってる例が同じ三国志の趙雲と趙範の例しか無かったもので、
話を持ちかけたこと事態が当時の礼節の建前も通らぬ話なように描かれてないから
どこからそのような理論を読み取ったのかと思って。
古今東西当たり前という例(主人に婚姻話を通さぬことがまずいとされた例)が当たり前のように出てくるらしいので
是非ご教授願いたいのですが。
502 :
:2006/02/12(日) 20:04:44
劉備に話して判断を仰げばいいってのに、離間だ、断って正解だとか、もうあほかと
劉備に承諾するにしても断るにしても劉備に話を通せばいいんだよ
もしOKならば関係強化だし、断っても態度として問題ないし
>>499 オレとてそんなに詳しくはない
だが現代でも一つ国境を越えれば風習も文化もまるで違う
ましてや1800年も時代が違うのに、
軽はずみに今の日本の常識(?)で歴史を語ろうとする
>>490の態度には失笑してしまう
>>503 しらないけどまるで違うって・・・
ただの知ったかぶりですやん
君の言ってることは一見もっともらしいが中身がないな。
>>501 勢力のNo2と、敵のNo1との間に姻戚関係が結ばれる事が、前者の勢力にとって巨大な利害が発生せぬとな。
ハイハイ ワロスワロス
507 :
:2006/02/12(日) 20:09:45
,劉備、孔明と関羽の関係はそんな話を相談するだけでまずくなるほど険悪だったって事だな
それなら納得できるわ(w
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:10:37
織田信長と、武田信玄とが争った時、徳川家康の奥さんがどうなったか。
…その程度の故事を紐解けば、関羽と孫権の姻戚の事なんて容易に分かりそうなもんだがな。
>>506 レス番合ってる?なんて返していいかわからないのだけど。
>>507 そうかそうか
よかったよかった
さあお帰り
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:13:06
オレとてそんなに詳しくはない
だが現代でも一つ国境を越えれば風習も文化もまるで違う
ましてや1300年も時代が違うのに、
軽はずみに戦国時代の日本の常識(?)で歴史を語ろうとする
>>509の態度には失笑してしまう
513 :
:2006/02/12(日) 20:14:54
それが問題だったかどうかはともかく呉の荊州進行関係あったと思ったから、
正史に注釈じゃなく書かれてるんだろうが
王リョウが司馬氏の専横に怒って謀反を起こしたとき、郭淮の奥さんがどうなったか。
…その程度の故事を紐解けば、関羽と孫権の姻戚の事なんて容易に分かりそうなもんだがな。
>>505 詳しくないと言ったのは、三国志の時代についてだ
ちくま全巻持ってるくらいだ
これでも大学の専攻は地域紛争論をやってるし、海外にも行って色んな人と接した
少なくとも国の文化の違いについては少しは知ってるつもり
まぁどうでもいいな
というわけで、
>>490みたいな知ったかぶった人間は許せんのだよ
内実はどうあれ、当時は劉備と孫権は盟友状態な訳で。
そうした状況で相手に大義名分を与えるような断り方はまずいと言うのは変わらないと思うがな。
たとえ相手の申し出が見え透いたものであったとしてもね
ショウエンの漢水下りが成功していれば歴史が変わっていた
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:22:40
>>514 それと関羽と孫権の縁談の関係がよくわかりません。
>>516 盟友関係にあるのに主人に話を通さない時点で、断り方に関係なく攻める口実にするのはミエミエ
520 :
:2006/02/12(日) 20:23:55
>>519 ミエミエなのに隙を見せて攻められたのか(w
漢水下りなんて失敗確実だろ
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:25:58
>>515 君のことはどうでもいいよ。
国の文化の違いについて知ってるなら、詳しくない時代について自分の憶測を基に判断してしまうことが問題なのは分かりそうなものだが。
少なくとも、三国志の時代については知ったかぶった人間は君だな。
自分で自分を許せないだろうから自裁してくれ。
関羽の荊州失陥について、彼の責任を問うなら、
「陸遜を見誤った」
これで充分なんじゃないか?
デカすぎる失態ではあるが
少なくとも呂蒙がまだ表に立ってたときは、警戒も一応万全だったんだしな
>>519 孫権が劉備に話を通さない時点でと言う意味?
ただミエミエの挑発であったとして、あえてそれに乗るメリットが劉備側にはあったのか?
>>520 隙を見せたのは陸遜の手紙が大きいかもな。
>>524 あえて乗るデメリットのほうがデカイしな
526 :
525:2006/02/12(日) 20:32:43
訂正
>>523 断らないデメリットのほうがデカイしな
>>522 しつこいな
お前が何を見てそう思ってんのか知らないけど、
オレはこの縁談問題について憶測で物事を語った覚えは無い
そもそもこの話題になってから、突っ込んだ発言してないんだからな(494が初めて)
痛いところ突かれて逆上してんのはわかるが、もうちょっと冷静になってくれないか?
528 :
525:2006/02/12(日) 20:34:39
再訂正
>>524 断らないデメリットのほうがデカイしな
529 :
:2006/02/12(日) 20:35:19
陸遜じゃなくても援軍は期待できないんだし、江陵が無事でも攻められればいずれ落とされてただろうがな
もちろん陸遜が油断させてなければ時間はかかるだろうし、そもそも本格的な北進自体無かったかも知れんが
孫権の方針を見誤ったってのが正解だと思う
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:36:56
関羽の荊州問題関係
夏侯淵の漢中失陥
二宮の変関係
このへんはいつもいい具合に話が面白くなる。
>>529 援軍っつーか、関羽の本軍が戻ってくるだろ
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:39:52
守備に多くの兵を割いていたうえに、狼煙台も完備してた
北進していても、変事があればすぐとって返すことができたんじゃないか?
無論、ガチで関羽と呂蒙が交戦して関羽が勝てるか?ってのはあるが
最悪入城が間に合わなくて、関羽本隊は野戦での交戦になるかもしれんし
>>532 徐晃の動きが鍵だな
曹仁本隊は一度は気力を取り戻したとはいえ、追撃に出るほどの元気はなさそうだしな
長江以南は関羽の勢力範囲だから追撃は無理
538 :
490:2006/02/12(日) 20:47:12
>>490は外交とプライベートの区別がついていないだけw
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:50:38
レベルの低い叩き合いのスレはここですか?
>>537 いや
>>487は口ぶりから見て、
当時の様相を知っているうえで現代云々を語っていたようだったから言及しなかった
だが指摘されてみて、軽はずみなのはオレの方だったようだ
当分はロムるだけにしよう
はいはい
じゃきりがいいところでこの話題は終わりね
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:56:32
なにこのgdgdっぷり
どいつもこいつもすぐ相手を挑発するから喧嘩が長引くんだよ
>>546 そこでわざわざ呉を挑発するような返事をした関羽に話がつながるんだな。
その前に縁談自体が蜀を挑発してるんだけどな
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:02:25
聞かれてもないのにROMるとか言い出したら負けですよ
もう全員ROMれよ
つーか、オリンピックでも見てろよ
はらだーーーー!!
何やってんだよーーーー!!
メダル取れそうなのはフィギュアスケートくらいか?
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:08:23
泰造?
>>528 なんか誤解してない?
喧嘩を売るような断り方をしたことに対してメリットがあるかないかということなんだよ。
断るか断らないかの比較じゃなくて。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:17:51
婚姻とは違うが、諸葛亮が兄貴から次男坊を養子にもらう時、兄貴は孫権に伺いを立ててるな。
これは、あくまで諸葛家の私事で、政略絡みでは無いが、主家の了承をもらってる。
関羽の場合、政略絡みを嫌ったのか、政略なんぞ理解できず、ただ単に孫家との通婚を嫌ったのか、どっちかわからんが。
正史の記述からは、単に孫呉を侮蔑してただけの様に感じる。
婚姻話が何時の事かは不明だが、呉との荊南紛争後なら、関羽が呉を敵視してたのは理解出来るが。
まぁ、なんにせよ、関羽の場合、主家と相談せにゃならんとは思うが。
>>556 だから劉備を通さなかった呉が無礼だという話だろ
こんな短時間にループとかお前ら馬鹿だろw
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:34:06
呉蜀とも皇帝を名乗っている時代の話とでは一緒にできんよ
過去ログどころか数レス前すら読まない奴ばかり
これが三戦クオリティ
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:39:51
>557
呉が無礼だと言うのと、関羽が主筋に相談しなかった、ってのは別の話になるよ。
>558
意味がよく分からない。離間策なら、なおさら主筋との相談は必要かと。
>560
時期的に、劉氏は帝号を称してたが、呉は帝位について無いな。
まぁ、蜀漢と呉の関係が安定していた時期ではあるので、同一視しきれない、ってのは同意。
>>562 劉備が帝位に付いたのは関羽死後。
当時は漢中王。
>>562 お前一人で必死すぎで見苦しいんだよ
もう寝ろ
age厨なんて無視すればいいのにみんな優しいな
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:46:03
>563
諸葛家の例の時は、帝位に、って言うか劉禅の時代と言う意味。
>564
いや、556から参加したんだが。
>>566 ああ、そういうことか。
罵るしか出来ないやつはスルーしとけ。
もうグダグダだな
age厨は馬鹿ばかり
そろそろ劉禅の再評価をしようぜ。
まあ関羽は蜀スレにおいて一番の仇花だなw
>>566 数レス前くらい読めばいいのに
全部答えは出てるよ
劉禅は献帝みたいにしてユニット扱いすべきでないな。光栄三国志の話だが。
>>574 なんで同じ日にループする必要がある?
そんなの面倒臭いだろ
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:58:02
>572
この件についてのレスは大体読んだが、半ばからぐだぐだになってて(煽りあい?)、俺としては答えが出てるとは思えなかったんだが。
まぁ、ご自分の考えが答えだ、とおっしゃるなら、あなた的にはそうなのかもね。
関羽の場合は劉備が孫権の妹との婚姻関係が破綻してる上での縁談で、
しかも娘をよこせときた話、人質をよこせと言ってるのと変わらない。
まあどちらにせよこの時の関羽の対応で呉蜀の関係が改善する訳ではないけどな、
呉は離間策の縁談を罵倒されて逆切れしてるだけで、元々の荊州制圧の目標は変わらないだろう。
>>523 陸遜というか、麋芳の裏切りと孫権の意向なんじゃないの。
>>576 答えっていうか、君の疑問に対する反論やそれに対する反論も複数出ている
>>576 ループとかマジ勘弁。
同じこと何回も書くのは苦痛なんだよ。
580 :
556:2006/02/12(日) 22:03:49
ループは仕方ない
でも同じ日にってのはダメだろ
>>580 こういうのをループって言うの
君の質問ってのは今日散々議論したことなの
>>562に対する反論を読みたきゃ数レス前でも読んでくれ
別の話しようぜ
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 22:10:58
では士仁について
なぜ旧蜀の連中は張魯なんかを恐れたのかわからない。
普通に勝てるだろ。
>>585 漢中の異民族が張魯に手を貸してたからだよ
>585
宗教勢力だったんで、漢中のみならず、巴蜀地方にも与党がおったんでないかな?
それと、当時の張魯は漢中郡のみでなく、巴西地方にも勢力を延ばしてるから、旧蜀側としても簡単ではなかったかと。
異民族を入れても漢中の兵力なんて蜀ほどじゃないだろ
>>588 簡単ではないにしろ、わざわざ他国の兵を入れて戦ってもらう必要はあったのかなと。
>591
守るだけなら、劉備を招く必要は無かっただろうし、劉ショウの重臣連中も結構反対してる。
劉ショウが張魯を恐れたと言うよか、張魯が先代の時のように言う事を聞かなくなったので、張魯の親類を殺した事が抗争の発端だからねぇ。
で、劉ショウ側が攻撃を仕掛けたけど、敗戦続きだった、と。
劉備を招いたのは守るためでなく、漢中を併呑するためだったみたいだね。
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 22:34:39
>>590 正確な時期は不明だがおそらく早い段階で劉備に付いてずっと付き従っていたわけだからな。
ビホウ並に劉備の懐刀、重臣だったはずだよな
馬場の懐刀の渕みたいなものか
595 :
591:2006/02/12(日) 22:38:01
そんで、なぜ負け続けたか、なんだが。
まず、劉ショウが後を継いだ時に地元豪族の大物に叛乱を起こされて、結構やばかったこと。
先代の時も豪族粛清を行っていて、益州豪族との協調体制が取れなかったのかもしれない。
その上、自分の代替わりの時に奮戦した東州兵が、地元豪族に狼藉を働いていたと言うし、本来、外征どころじゃ無いだろうね。
そんな状況で、張魯と争ったので、負け続けたんじゃないかな。
>>593 故郷から考えれば挙兵時からつき随っていた可能性もあるし。
自己主張の少ない人で縁の下の力持ち、目立たないところで劉備を支えてた
劉備陣営創成期の柱石だったのかも…と思うと涙でる。
劉備の荊州における本拠の一つ公安の守将だからな、士仁は。
関羽ともおそらくほぼ同格。
関羽の方が上とはいえ、軽んじるべき存在ではないのは間違いない。
>関羽ともおそらくほぼ同格。
ちょwwwwwwwおまwwwwwww
士仁や糜芳を初期からずーっと丹念に描写続ければ
関羽を裏切るところで今までにない展開ができると思うんだけど・・・
これから三国志モノ書かれるクリエイターの方々には是非そういった視点を求めたいところ
それなら関羽をびびりまくっていた士仁は情けないな
関羽が恐いから寝返ったなんて言い分けにしかならない
>>599 今までと変わらないよ。
縻芳は失火したり虞翻に馬鹿にされたり、大した人物ではない。
そっちはどうでもいいが士仁がただのアホ扱いされてるのがな…
士仁って何の記述も無いからな。
縻芳以上に描きようがない。
>596
確かに、めずらしく劉備の出身地に近いね。
旗上げ頃からの随従なら、荊州の件は気の毒だね。
>>601 虞翻にバカにされたのは降将だから。
虞翻の評を元に麋芳を評価するのはいくらなんでも麋芳に気の毒。
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 22:55:24
士仁は燕人だから、劉備が公孫さんの下にいたあたりで劉備の下に入ったんじゃないかと思う。
ビホウやチョウウンより古参だということになる。
>>601,602
徐州から劉備の逃避行に付き従った男を大した人物ではないなんていうな!
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 22:58:23
グホンとビホウの件で確実にわかるのはグホンが嫌な奴というだけで、能力や人物評価の参考にするのはどうだろう
>605
虞翻に馬鹿にされた理由を自覚してる、って事自体、それなりの人物だったようにも見えるね。
>607
ヒホウも本貫地を捨ててまで劉備に従ってるんだしね。
そのまま徐州に留まってても、太守格で居られたのに。
>>607 ただ単に古参というだけで有能とでも言いたいのか?
降将でもひとかどの人物なら馬鹿になんかされないよ
兄貴が劉備に全財産投資しちゃって徐州に何も無かったんじゃない?
>>613 于禁を馬鹿にしたのは主の曹丕だろ
蜀でも呉でも馬鹿にはされてない
>>615 どうみても虞翻です
本当にありがとうございました
>>612 糜竺・糜芳の糜氏の去就というのはちょっと興味深いよね。
ふつう地元の資産家というのは土着性の強いものだろうし、それぞれ曹操から
贏郡太守、彭城相に任命されたとなれば地元で根を張れて万々歳にも思える
んだけど、全部投げ打って劉備について行っちゃうあたり、劉備に言い様のない
掛け値無しの魅力でもあったのかな…と想像したくなる。
虞翻の毒舌ってかなりキツイよね。
糜芳に浴びせた舌鋒なんて可哀相と思いつつ、つい笑いそうになってしまった…。
陳群とか徐庶が劉備を見限ったんじゃなく、
すべてを捨ててでもひたすら劉備に付いていった糜兄弟とか孫乾とかのほうが普通じゃないんだよな
一度寝返ったのに戻ってきた関羽はもっとありえない
>>615 魏將于禁為羽所獲,繁在城中,權至釋之,請與相見.
他日,權乘馬出,引禁併行,翻呵禁曰:「爾降虜,何敢與吾君齊馬首乎!」
欲抗鞭撃禁,權呵止之.
後權于樓船會群臣飲,禁聞樂流涕,翻又曰:「汝欲以偽求免邪?」
權悵然不平.
劉備のウホッな魅力
ちょwww劉備が糜兄弟コマしたのかwww
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 23:18:21
だいたい中国北東辺あたりに生まれて南西辺まで来てるのがありえん
しかも交州まで逃げる計画もあったらしいし
スレ違い気味だがもし黄権が呉に落ちてたらなんて言われたんだろw
みんなも呉に落ちるときはくれぐれも虞翻に近寄らないようにな
そう考えると劉備ってやっぱり異常なんだよなあ
もう理屈とかじゃ説明できない吸引力みたいなのがあったんだろうとしか思えない
>>626 漢は赤徳なのに黄とは不忠者が!
みたいな理不尽を言いそう
于禁と麋芳とでは馬鹿にされる理由も、馬鹿にされた後の対応にも器の差が見えるけどな、
その行動を見る限り麋芳はかなり小者。
于禁は一見してマゾかと思う程に器でかいな
>>629 それは器の差というより、糜芳自身は背信行為を恥と捉えていたためと思うんだが。
そこで尊大に振舞って得するものなんてないのだし。
>>631 糜芳は虞翻に対して尊大に振舞った結果、虞翻に不忠を指摘されて恥じをかいた、
その後虞翻にくだらない仕返しして、また馬鹿にされて再び恥じかいた、
単に虞翻に反論出来なかっただけ。
別に尊大に振る舞ったわけじゃないし仕返ししたわけでもないだろう
>>632 一方的に虞翻の船を避けさそうと、「将軍の船を避けよ」と通告する。
→馬鹿にされる
後日虞翻が虞翻の軍営の門を通ろうとすると、門を閉ざす。
→馬鹿にされる
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 00:29:39
門を閉ざすでなく閉じていた、だから。
ビホウが閉じたとは読めんな。
曲解にもほどがある。
虞翻並に性格悪いなあんた。
それに糜芳の意思で通行を優先させようとしたとも限らないな
船の先駆が糜芳によかれと言っている様に読めるし、糜芳自身の意思が
どこにあったかは明確でもない
ほんと性格悪いわ
>>636 閉じていたじゃなくて、門を閉ざしてしまったので虞翻は通れなかった。
>>637 船の先駆の独断なら、船に同乗している糜芳は先駆を罰するなり、虞翻に陳謝するなり出来たはずだが、
糜芳がやったのは船の戸を閉めてこそこそ船を避けただけ。
まあ糜芳の小者っぷりを、虞翻の性格悪い、で片付けるのは楽だよな。
南郡の失火という、明らかに自分の過失を責められると恨みに思ったり、
職務怠慢して、罰せられるとなると内通したりする糜芳の内面に目を向けなくて良いんだから。
多分虞翻てこんな奴だったんだろうな
と思うと糜芳や于禁がかわいそうになってくる
>>638 恨み始めたのはその前からだろ
しかしながら皆糜芳や士仁寄りの意見ばっかだな
そんなに関羽が嫌いか?
関羽をけなせば正史に詳しい人ですから
糜芳や士仁寄り=関羽嫌い
って画一的な理解はどうかと思うよ?
もうすこし視野を広く持てよ。
糜芳や士仁寄り=関羽嫌い=視野が狭い
そんなストレート過ぎるお前もよっぽど(ry
>糜芳や士仁寄り=関羽嫌い
別に間違っちゃいやいないさ、関羽と糜芳・士仁の確執は具体的な話が無く、
どちらに非があるのかは分らない(糜芳には南郡の件もあるが)
それなのに糜芳や士仁寄り同情出来るって事は、やはり関羽が嫌いなんだろう。
同時に糜芳・士仁を一方的に非難できるって事は、関羽依りで糜芳・士仁が嫌いなのだろうな。
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 01:20:19
非難とか同情とか、なんだお前
>>639 反論出来なかったら人格攻撃しかしないお前も、
虞翻の忠義を賞賛した于禁と違い、糜芳の様な小者だな。
>>640 >恨み始めた
失火の件はそれでそれで恨みに思ったという事。
糜芳と関羽の仲違いの原因としては関連付けてはいない、
しかも失火の件と恨みに思い始めた時期の前後関係は不明だよ、
具体的な根拠があるならぷりーず。
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 01:25:39
荒れるわけだ
では虞翻ファンは呉スレに行ってもらい、
姜維が左大将軍だったかどうかを議論するか
廖化こそ忠臣
虞翻に馬鹿にされる様なのは所詮小者
651 :
関羽:2006/02/13(月) 04:10:44
そんなことよりちょっと聞いてくださいよ
こないだね、江陵いったんですよ、江陵。南郡の。
そしたらね、呉の旗がかかげてあるの!
もうね、阿呆かと馬鹿かと。
お前らね、同盟してんのに何それ。
やばいから、俺死んじゃうから。
なんか兵糧パクッたとか言ってるけど 、あれは借りたんだ、パクッたんじゃない。
挙句の果てには、そもそも荊州は呉の領土、とか言っちゃってんの。もう見てらんない。
お前らね、頼むからもう俺の江陵から出て行けと。
俺の人格に問題があったみたいな雰囲気になるじゃねーか。
後世の歴史家ってのはな、少しでも落ち度があると躊躇なくけなすんだよ。
だいたい益州と荊州のバランスおかしいだろ 、どう考えても。
漢中攻めは張飛、趙雲、馬超、黄忠、厳顔、魏延、法正、孔明・・・
ハン城攻めは俺と平とリョウ化と趙忠と王甫に胡班
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、荊州は魏と呉と接してる最激戦区なんだよ、ボケが。
髭殿とか言ってご機嫌とらなくていいからもう少し人材をこっちにさいてくれよ。
俺は魏呉蜀に問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。
おまえら俺に無理させすぎちゃうんかと。
あまたの戦闘を乗り越えてきた俺に言わせれば、
今戦闘スタイルの間での最新流行はやっぱり、籠城、これだね。
籠城何てただ我慢すればいいだけ。これが通のポジショニング。
籠城てのは、何よりも安全。で、時々奇襲。これ最強。
とか思ってたら兵糧がなかった。 腹が減っては戦はできず。
だから籠城は素人にはおすすめできない
まあ上の人間からしたら扱いにくい俺のような人間は、大人しく死んでなさいってことですね・・・。
>>638>>647 なにこいつ。
立派な事言ってる様で自分も人格攻撃してるんじゃ語るに落ちてるな。
なんの事はない小物が他人を小物扱いしてレッテル貼りしてた様なものだな。
無論俺も小物で結構だが。
別に糜芳は大人物でもなければそこまで矮小な人間とも判断つかないけどなぁ
強いていうならうっかりものかな、注意深さが非常に不足してるんだろう
それでも、手紙一通で国土の半分を喪失する判断ミスを犯す誰かさんよりはましだが
まぁ、あれだ。糜芳の人物像はどうでもいい。
ただ、糜芳が降った事を気に病んで兄貴は死んだんだから、やはりその行為自体は
誉められたものじゃないな。
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 09:44:20
荊州の民にとっては徹底抗戦と無血開城どっちがマシだったかね
656 :
:2006/02/13(月) 10:02:09
それは戦争ものには禁断のタラレバだろ
無血開城のほうがいいとは思うけどね
劉王章が徹底抗戦せず無血開城したことは民を思った英断。
劉禅が徹底抗戦せず無血開城したことは先代からの業績をドブに捨てた愚行。
無血開城は民の事を考えれば良いとしても、それを決断した人間の
責任を全く考慮しないのはなぁ。
劉璋も劉禅も糜芳も、降伏の際に自分の首を差し出せばよかったのに。
劉禅の場合は曲りなりにも魏に滅ぼされた漢を名乗ってる事をお忘れなく
それだと漢の社稷が途切れるので無理だろ
>>653 前文は非常に冷静に縻芳の人物を評価していながら、
後文で関羽の功績を全く無視した上で、
縻芳は関羽よりマシとの無茶苦茶な結論を出す。
彼が何故ここまで関羽を嫌うのかが知りたい。
虐められっ子だから
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 11:55:55
い、言ってはならんことを…
>>657 劉禅降伏はすでに成都の継戦能力が無くなってたからってどっかで見た気がする。
確か糧食の貯蔵してた場所占領されたとかで。
成都には10万の兵がいたんだろ?
なんか必死な関羽&虞翻マニアがいて楽しいな
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 12:30:29
図星をさされた
>>653が満を持して登場。
荒れる予感。
>>663 蜀人気質ってサイトの考察だっけか
大分昔に読んできりだから違ってたらすまん
>>660 劉備陣営における関羽の功績は(実質的には)ほんの数年大過なく荊州を治めたことと
その後戦わずしてそれを全て失ったことだけ
それだけしか記録に残ってないから功績を評価しようにもできない
もちろん関羽擁護がよく言う記録に残っていない入蜀前の基盤が〜の功績があることは否定できないが
それに関しては縻芳も同様の記録に残っていない働きはしているわけで
嫌っているのではなく単純に負っている責任の分評価がキツくなっているだけ
嘘つくなよ
それ以前に色々あるぜ?
671 :
:2006/02/13(月) 12:41:33
関羽はあそこまで北進した理由がはっきりしないと評価はしにくい罠
独断+漢中で功をあげられてあせった挙句に裏切りを出して失地、あぽーんとかだと手が付けれん
呉の背後からの一撃がない場合、あの北進は絶妙のタイミングなんだがな
>>670 一触即発の危機に領土返還してまるく収めるとかなw
なんかすぐ好き嫌いとか擁護とか言い出す子がいるのな。
責任だの何だのを分析、考察するのと好き嫌いは別だと思うが。
関羽が好き→裏切り者糜芳は嫌い→荊州失陥は糜芳に責任→糜芳は小物→それを指弾した虞翻は偉い
始まりから間違ってる。
好きなら好きでいいが責任だのとはわけて考えようよ。
675 :
:2006/02/13(月) 12:47:49
>>672 タイミングはよくても呉が全面的に協力してくれない限り維持できる見込みはないべ?
つーか張遼があっさり合肥からはなれてるんだから明らかに出来レースで嵌められたんじゃないの
>>669 劉備旗揚げ後、早くから別軍司馬として一軍を率い、各地を転戦して張飛と並んで天下に勇名を馳せた。
関羽張飛の名は劉備軍の代名詞となっていた。
先主の為に奔走し、苦難を厭わなかった。
呂布に徐州を乗っとられた後に和睦した後は劉備の先乗りとしてカヒに入る。
カヒ太守を代行。
曹操に攻められて荊州から落ちたときには水軍を率いて無事に夏口まで行き、劉備を収容する。
関羽伝だけでなく、その他の伝も読んだほうがいいよ。
魏書や呉書だと劉備には関張しかいないかのような感じ。少なくとも縻芳のほうがマシとは言えない。
そもそも平時に失火するような人物を残して、どう戦うんだ?
陸遜をそれ以下の人材と考えでもしなければ出兵なんてできないだろ
戦争=前線という部隊長思考が抜け切れていない
>>675 いや、魏呉の協力は結構タイムラグあるよ
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 12:57:08
>>653は関羽の好き嫌いについては言ってないよ
好き嫌いから思考が始まってるから、何でも表面だけ見ての好きか嫌いかでしか判断できなくなるんだよ
そろそろフウ習さんの話題に切り替えようぜ
>>681 関羽の功績を一切無視しての評価がまともとは思えんがな
縻芳が関羽より有能なら程イクや周瑜は無視しません
687 :
653:2006/02/13(月) 13:11:49
嫌味な書き方であるのは認めるけど
麋芳のうっかりは関羽のうっかりより立場的にましと言っただけなんだけどな
あと関羽の功績を無視という人もいるが、そういう評価方法が一般的に通るなら
夏侯淵は完全無欠の名将として誰からも評価されると思うよ
夏侯淵は普通に名将と言われているし関羽のミスを無視しろってわけでもないと思うが。
惇より淵が好き。
ゲームでいつも惇の方が能力上だったのが悔しかった
690 :
:2006/02/13(月) 13:19:21
夏侯淵は曹操からの評価と戸数と将軍位が曹仁やdと比べると低いな
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 13:19:36
夏侯淵は最後は司令官として最悪だったがそれまでの功績は功績
関羽も同じ
好きか嫌いかだけのデジタル思考人間には納得いかないのだろうか
うむ。共に最後はイカンね
>>690 スレ違いだが仕方ない。
功績の華々しさに目が行きがちだが、能力や適性面の曹操による評価は必ずしもそんなに高くなかった。
漢中を守るのも韓浩の方を推す声があったが、曹操が韓浩は手放したくないからと彼になっているくらいだから。
>>691 夏侯淵はかなりのスピードで領土をもぎったけど失陥して戦死までしたため
国に少なくない損害を与えてしまった
関羽は自分で占領したわけでもない領土を落としたんだから失敗は背任ともいえる
背任では
>>677程度の功績が無視されてもしかたないと思う
>>694 いくらなんでも功績と失策は分けて考えようよ。
ヒゲさん晩年は孫権みたいにボケて頭おかしくなってたんだよ
孫権はボケてないよ。失策は失策だったかも知れないがちゃんと孫権なりの判断に基づいて行なわれた政策。
しかしこれはスレ違いだ。
相変わらず、関羽の話になると盛り上げるなぁ。
関羽の失態も縻芳の裏切りも、結局どっちも誉められたもんじゃねー、て事はダメなのか?
>>694 益州平定の成功の一因に、関羽が後方をしっかり固めていたという要素は考慮しないのかね?
お前さんこそ、戦争=前線という部隊長思考が抜け切れていないんじゃないか?
つ後継ぎ問題
>>651 良く出来てるな…ちなみに関羽の荊州から楊儀が召し上げられてしまった事も、
関羽にとっては痛手だっただろうな。
>>651 ケイシュウも馬良・伊籍・ハンシュン・ビ芳・劉封・孟達と
当時の評価ではさほど劣る人材ばかりではないような気がするけどな。
寧ろ関羽が人材を使いこなせなかったのが問題のような。
荊州失陥も同時期に曹仁背後の南陽で関羽と通じて反乱が起こってた訳だし
動きたくもなるわな。
>馬良・伊籍・劉封・孟達
この4人は違うだろ
>>702 関羽の所の人材は、
ハンシュン、麋芳、士仁、楊儀、廖化、胡班、趙累があげられるが、
楊儀は召されちゃった訳で…廖化もまだ若輩、胡班、趙累は…
>>694 蜀入りするまでは関羽張飛あっての劉備だったことをお忘れなく
関羽張飛がいたからこそ劉備は生き残れたし名を上げれたんだよ
雑魚がそんなに名前を知られるはずがない。
妙才のおっちょこちょいな失敗が、
ヒゲの場合は遠征で手柄を立てる前に起き、
その失敗が蜀に凶悪なダメージを与え、
後発の蜀にはそれが致命傷だった、それだけだろう。
勿論どうとでも採点できるし、最後にそれを決めるのは好みなので、
結果、議論は感情論のぶつけ合いになる。
>>704 その中で蜀に居る人材と比して見劣りしないのは潘濬だけだろうね。
>>699 外交状況は無視ですか
それで人に戦争を語るとはねぇ
>>708 外交は本来、関羽の仕事じゃないんだけどな。
関羽の場合は、姻戚の話を持ってこられたから外交問題に発展した。
見事に関羽を外交へ引き釣り込んだ挙句にクマーさせた孫呉のやり口が巧妙なのであって、
一軍人に外交能力まで求めるのは酷だろ。
呉の表面上の友好があったってことだろ
外交は関係ないだろ
むしろ入蜀してる間って魏も呉もとても動ける状態じゃないよなぁ・・・
それこそ関羽のような司令官でもない限りは動かないと思う
呉と表面上の友好があったから留守を守った功績が無しとは、これいかに?
中原と江南からすれば奥座敷の出来事だもんね⇒入蜀
>>712 司令官に相応しい功績ではないといわれただけで
功績無し発言認定ですか
楽進が荊州に攻め込んで関羽と睨み合いをしたことは先主伝の記述にあるし、
曹仁が関羽討伐の為に樊城に入った記述が武帝紀にある。
魏は常に荊州を狙って動いている。
動ける状態になかったなんてとんでもない。
それって本気で荊州を取れるような規模だったの?
無知ですまんが、牽制としか見えないんだけど
>>717 曹仁が、攻め寄せた関羽を侮って野戦を挑んだばかりに痛い目にあったのは事実だな。
温カイ伝などに、曹仁の地理への無理解は明らかにされている。
それをさっぴいても、曹仁は名将だが。
>>717 曹仁が樊城に閉じ込められてからがんがん援軍を送ってるところを見ると
直ちに荊州遠征が出来るほどの規模ではなかったとは思われる。
直接的には反乱の鎮圧が目的であり、南荊州制圧は将来的な課題といったところではないかな。
関羽征討ってくらいだから本気でしょう
>>719 勘弁してくれ。
その理論だと、魏は襄陽とハン城に大した駐留兵力をおいてなかった事になる。
寡兵で持った曹仁は神になるが、魏の首脳部は雁首揃えて大馬鹿者だ。
すごい
・顔良を討ち取った
・名声がとにかくすごい
・留守守った
・曹操ビビらせた
わるい
・部下の用い方がおいしくない
・士人との折り合いがよくない
・敵を見下し手紙だけで油断してしまう態度
・ちょっと納得できないタイミングでの出兵
・領土大幅↓
・挙句に戦死
わるい点に比べすごい点の具体性が欠けているから納得できない人間が少なくない
個人的には演義がなくても本当に名将扱いされたのかと疑問に思うくらい
ただ実際に名声は残っているし、蜀書自体に良い資料が残っていないため
どこかに認められる理由があり、それが歴史の闇に消え去っているんだろうね
部隊長としての実力は相当なものだろうし、能力を生かす機会に恵まれていなかったんだろうな
武帝紀に曹仁が関羽を征討して樊城に入った、とあり、
陸遜伝に関羽は最近手柄を立てたばかりとある。
曹仁の兵が少なかったのは関羽に敗れたからじゃないのか?
>>723 いくら曹仁でもそんなに減らしたら更迭されはしまいか?
>>722 その名声ってのは、劉備軍が数十年に渡って各地で転戦を続けて得たもの。
充分に具体性はあるんじゃないかな?
その手紙は救援に来た七軍を打ち破った事だろ
他の人物の伝にはそんな風に書いてある
>>724 戦時中の更迭は現場を混乱させるばかりで無理。
(敗北後、曹仁はまもなく包囲されてる訳で)
そして、初戦の敗退はあっても、最終的には勝利したのだからトントンだろう。
曹仁死後、曹家が荊州の督を勤める事は無かったから、
荊州問題での曹家勢力の発言力は、曹仁の次の代以降は失われていったのかもね。
すごい(補完)
・忠義一徹
・義理固い
・苦難を厭わない
・兵卒に寛容
・曹操が人格を評価
・降ってすぐにみんなと仲良し
魏将が優秀だというのは明らかだ。
その魏将が認めるのだから、やはり関羽もそれなりの実力はあるのだ。
具体性が無いので、関羽が魏将以上とは言うのは不可能だが。
それでも名声は魏将以上というアンバランスさが揉めて楽しいよな
>>732 かえすがえすも顔良戦だろうな。
大将が本陣に切り込まれたあげくに首を取られるなんて戦国の世でも究めて稀だ。
>>721 時系列から言って曹仁の樊城赴任=直ちに南下という意図があったとは思えない。
将来的な意図としてはともかくね。
ただし、樊城に駐屯してうた兵が少なかったとかそういうことは無いと思う。
>>734 樊城に兵を割きすぎたなら割きすぎたで、やっぱり襄陽とハンの地勢を理解して無かったって事になるんだよな。
襄陽とハン城のそれぞれに千単位でしか兵士が居なかった包囲持の状況は、
どうやって出来上がったのかがマジで理解に苦しむ。
>>733 ところが、郭嘉が張飛関羽は万人を相手にできる英雄と言ったのは、劉備が袁術討伐に向かった時。
つまり白馬の戦いの前。
その時点で既に二人は高い名声を得ていたようだ。
対呉戦線と対蜀戦線に主力を結集してたってことじゃないの?
>>736 公孫?の時代には既に名声が有ったって事か
ところで襄・樊二城が落ちたら、
関羽に降伏した部隊は丸々配下に収められるだろうか?
そうなった場合兵力的に手が付けられなくなる気がするのだが。
兵站線が耐えられればな
>>739 曹仁の軍勢の減り方、于禁の捕虜について言明があるのに、曹仁の兵については無い事を考えると
曹 仁 の 兵 を も の す ご い 勢 い で 殺 し て い た
と考えるのが自然じゃないかなw
それなら曹操もビビルわなwww
>>738 黄巾戦、賊討伐戦、公孫サン下での袁紹戦、曹操戦、呂布戦で積み重ねたものだろう
樊城を包囲した後も、
「包囲された後の降伏は受け付けぬ」とかいって、皆殺しの勢いだったりして、
そりゃ曹仁の兵も死にたくない為にがんばるぜw
>>743 なんだかんだで歴戦の勇者だしな。
…しかし、傭兵同然の劉備、その手下の関・張が名を上げる機会なんて有ったのだろうか。
孔融の救出で、飛躍的に高まったのかな?
関羽がずっと曹操配下だったら、張飛vs関羽とか見れたかな。
>>735 侯音の氾濫が218年10月。
侯音の乱を鎮圧して樊城に戻ってきたのが219年正月。
曹操が曹仁に「樊」にいる関羽討伐を命じたのはその年の5月から7月。
漢水が氾濫したのが8月。
で曹仁の樊城赴任は侯音の反乱以前のことで「曹仁伝」だと荊州鎮撫のためとある。
やはり曹仁の樊城赴任は対南方、対関羽の意図があったとしても直ちに南郡侵攻ということで大軍を率いてきたとは思えない。
ただ寡兵だというのも不自然な話でおそらく通常兵力数は十分にあったと思われる。
関羽の北上と漢水の氾濫の間に数ヶ月あることを考えれば1戦あるいは数戦して関羽に敗北して結構な被害が出たと見るのが自然じゃないかな?
長坂の戦いでなら実現したかもな
橋を挟んで向かい合う両者って感じで
>>747 武帝紀にきっちり侯音の乱が起こった時、曹仁は関羽を討伐する目的で樊にいたと書かれてる
>>749 それは赴任の目的であって作戦行動としてではない。
その根拠は?
>>750 よっぽど急いだりしてなければ、赴任先についてから兵集めるなんてしないでしょ?
また、兵士集めた様子もないのに即座に侯音の反乱に対応して宛囲んでる
どう考えても兵士連れてきてないかね?
違うとするなら、理由も添えてよろしく
26軍から引き抜いてきたんじゃないの?
>>747 「まさか」の敗北だったから対応が遅れた…か。
紀伝体である以上、「武帝紀」や「曹仁伝」で敗戦や斬獲数をぼかす事はあっても
関羽が曹仁の野戦軍を撃破しているならなにがしかの記述が「関羽伝」か「先主伝」
あたりに記されるもの。
それがすっぽり抜け落ちて曹仁の篭城に至っている以上、初めから野戦軍としての
戦力は整っていなかったと見たほうが自然。
侯音の氾濫が218年10月にあり、更に劉封・孟達が上庸方面へ進出している以上、
魏の南限ともいうべき襄・樊の二箇所に戦力を集中させられなかったと思うが。
>>755 その割りには龐悳を樊城の北方に出したりしてるんだがな。
まだ漢水の氾濫前だし、それなりに兵力がなければムリなんじゃねえの?
>>755 馬超の夏侯淵撃破も馬超伝には記されていない。
蜀書の初期の人物の記述は伝聞に頼ったものだろうから穴だらけなのは仕方ない。
他人の伝の記述から補完していくしかない。
>>755 蜀書はかなり欠落が多い
近い時期で言えば劉備の南郡制圧プロセスが全然わからない
劉備の南郡制圧なんて蜀にしてみりゃ建国の具体的な第一歩なのに全然わからない
759 :
:2006/02/13(月) 21:03:53
>>757 韋康の時か?
あれを撃破というのはどうよ
>>739 于禁は江陵に送ったみたいだし、多分捕虜も江陵に送ったんじゃないかな、
さっきまで敵だった奴等に武器もたせて戦わせるってかなり怖いし。
関羽伝ででさえ、于禁は水に溺れて降伏、だからね。
蜀書の杜撰さは本当に酷い時がある。
襄陽の呂常を包囲した軍を率いていたのは誰だったんだろうなあ……?
>>759 夏侯淵との直接の戦闘でも、全体として見ても馬超の戦略的完勝。
この戦いが魏書の記述に頼らなければならないのは酷いもんでしょう。
つーか
>>715は間違ってると思うんだけど
武帝紀の記述は"初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛."
日本語に訳すと"それ以前に曹仁は関羽を討ち樊城にいたがこの月に曹仁に宛を包囲させた。"でしょ?
>>760 大軍を護送するのにどれ程の人手がいるだろう。
私は手元に置いていた、置かざるを得なかった、と思うのだが。
766 :
:2006/02/13(月) 21:19:54
>>763 戦略的に完勝なのは馬超伝にも書いてあるやん
淵は間にあわなかったってあるんだし、淵との戦闘自体は小競り合いで撤退しただけじゃないか?
正史では「北上し、樊にいる曹仁を攻撃した」とあるんで、襄陽も管轄下に置いていたであろう、曹仁軍を攻撃した、と言う事かな。
これを破った関羽はそのまま包囲に入った、って感じなら、その段階で曹仁軍にも被害が出ている可能性があるね。
>>766 落城に間に合わなかった夏侯淵を馬超が出向いて迎え撃ち、夏侯淵は負け戦となったとある。
小競り合いかどうかは何とも言えないが、当然記述されてしかるべきだとは思う。
>>764 それじゃあ、と思って曹仁伝をひいて見ると勝った記述がない
なんでだ?
樊城攻め以前から何回かは戦闘があったのは間違いなさそうだな
>>765 だから糜芳・士仁の職務怠慢に切れたり、劉封・孟達に援軍を要請したりして、
徐晃戦では5000の兵しか自由に動かせなくなったんじゃないのかな。
さっきまで敵だった大軍が、再び敵になる可能性を考慮すれば
人手を割いてでも後方に送ったほうが安全だと思うし。
>>764 それは他の三国志の記述と見比べてのこと?
俺の記憶だと討一文字だと、討伐する、討伐したってような意味で使ってたりする事が結構多い
打ち破った時は討破または破と書かれる事が多かったと記憶している
だから
「初め曹仁は関羽を討つべく、樊城に屯していたが、是の月仁を宛の圍に使わせた」
と読む方が正しいと思われる
関羽北上→曹仁、関羽征討に赴き大幅に兵力を損ねながらも何とか追い払って樊城に入る
って感じか?
曹仁の樊城入りは関羽北上の数ヶ月前だぞ
>>769 赤壁時の武帝紀の記述で時系列が誤ってるところがあるでしょ?
個人的にはあれと同じ間違いを犯してるんじゃないかと思ってる。
>>774 >>764を基に考えると、ってこと。
樊城攻め以前にも関羽が北上してたのかなって。
曹仁の兵が少なくなってるつじつまも合わせてみた。
>>771 関羽は襄・樊を包囲を維持してるから5000しか動かせなかっただけ
何でも不利に不利に考えようとするなって
>776
いきなり関羽を攻めるほどので無いにしろ、ある程度は居たんでないかな。
関羽北上→襄陽付近で迎撃→敗戦&包囲って流れじゃないかな。
敗戦に際して、兵力を減少させたと。
人馬数千って言うけど馬何匹いたんだろう
4000:4000で全部騎兵とかだとまたちょっと違ったストーリーが描けるのだが
>777
包囲しつつ、救援軍の迎撃に5000から動かせた、ってのは、全体的には結構居た事になるしね。
満寵伝で曹仁に城を捨てて逃げようって進言する者がいたそうだが
一戦も交えてないとしたら随分とヘタレな配下だな
囲まれただけで「逃げましょう」とか普通言わない
それだけ関羽にビビッてたとか。今までの小競り合いで、
曹仁配下をそれこそ一方的に皆殺しにしまくっていて。
>>777 >>780 大量の捕虜を江陵へ移送させれば人手が少なくなるので、
襄・樊を包囲を維持してるだけ、とだけは言えないだろう、
大きな原因ではあるだろうけど。
>>783 徐晃が最初関羽の軍を見て新兵ばかりだったので勝てそうになかったから増員を待ったと言う
増員を待った期間があれば捕虜の移動をさせた人力の何分の一かが戻ってきてたりはしないか?
>>783 孤立した前線で戦力を分割して、
更に孤立を深めるのはあまり得策には思えないのだが…
襄・樊〜江陵間の距離って結構あるぞ。
護送なんかの為に右往左往させて配下を消耗させるくらいなら、
樊をさっさと落とした方がマシでは?
>>784 戻ってくるだろうけど、徐晃の到来まで2ヶ月位しかないからね、
3万もの兵を問題なく護送しようとすれば結構な期間を割くんじゃないかな。
>>785 とはいえ3万もの捕虜を側において置くのも問題ありかと、
下手に反乱でも起こせば大問題になりかねんし、仕方ない措置だと思う。
于禁の陣水没がどれほどだったかが問題だな
ただ陣地を失ったのか、将兵が多数流されて于禁だけに近い状態で捕縛されたのか
前者なら大量に人を要するが、後者だとそんなに要らない
記述見てる限りだと、軍勢が水でどっか行っちゃったように見受けられるので
兵数を割いての輸送の必要はなかったのではなかろうか
>>786 捕虜を大量にゲッツしたから撤退。
本拠でオルグしてそいつらを先手にして仕切りなおし、
という選択肢はなかったのかな?
>>787は俺のミス
孫権伝にキッチリ3万人ってあったな
関羽伝と于禁伝だけ読むと皆没としかなかったもんで兵士が流されたと思ってたわ
>>788 そうしとけばよかったのに、「気がはやってる」(陸遜伝)ために突っ込んでしまった訳だ。
1.曹仁、荊州鎮撫・関羽征討のために樊城に入り。
2.宛にて侯音が反乱。
3.曹仁、侯音の反乱を鎮圧して樊城に帰還。
4.曹操、曹仁に「樊」にいる関羽を撃つことを命じるとともに于禁を派遣。
5.漢水氾濫し于禁降伏、龐悳戦死、曹仁篭城。
とりあえずこういう流れ。
a.まず1と2の間に関羽との戦闘があったのかという疑問。
3と4の間に関羽北上開始があったのなら、戦闘はなかったような気がする。
b.ついで4と5の間に関羽との戦闘があったのかという疑問。
篭城時の樊城の兵が少ないなら戦闘があり少なからず犠牲を出したのではないか?
どう思う?
于禁と兵士三万投降
↓
ちょっと邪魔かも
↓
じゃ、坑掘るかな
で万事解決
そんなことしたら二度と降伏されないぞww
>>788 その選択肢はないな
蜀視点だとこう見えるじゃない
魏は徐州方面と関中方面に兵を集中しており、荊州方面に割ける兵数はそれ程多くなかった
張遼他寿春の軍勢は対呉のため合シ肥からは動けない
関中の兵を急いで回さなければならないが、そんな強行軍をすれば軍が機能しないので増援は少ない
長安から魏がいなくなれば劉備の本体が漢中からこんにちは、も出来る
このタイミングしかない
>>795 長平の後も秦に降伏する軍はあったし
その後に関羽が死ねば何も問題ないんじゃないか?
>>796 凄い神様視点ですね
ミスターポポは元気ですか?
>>796 張遼他寿春の軍勢も援軍に差し向けてなかった?
>>799 呉との密約が出来たので張遼も差し向けようとしていた。
が、準備中に徐晃が関羽を撃ち破ったので中止、だったと思う。
>>796 于禁はどうした
于禁なら勝手に水没してくれる…とか?
そこで曹操が繰り出した虎の子の七軍と于禁が水害もあって粉砕されたから曹操は焦ったんじゃないか
>>802 蜀視点で于禁を無視してたらマズイだろって書いたつもりなんだけど?
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 00:00:03
穴埋めなら曹操だってやってるジャン
曹操が漢中に出向いてたのが、219年3〜5月
あわよくば洛陽まで落として、曹操を長安に閉じこめるつもりだったのか
関羽の勇名が鳴り響いていたのは良いとして、そんなに兵が強かったというのが不思議なんだよな。
鬚の芽を受け付けられた兵士は皆精鋭になる
え〜〜鬚? きんも〜〜〜
>>809 まあ、単純に関羽が指揮官として優れてたって事でいいんでない?
ちょっとぶり返すが曹仁の田銀討伐が213年。
なので関羽討伐のために樊城に駐屯したのはこのすぐ後の214年頃なんじゃないかな?
ちょうど劉備も益州侵攻中なので武帝紀の「関羽を征討し」という文言とも矛盾しない。
つまり関羽の北上開始と曹仁の樊城駐屯はだいぶ時間差があるんじゃないかな?
ただ一方、217年の曹操の濡須攻め後、夏侯惇・張遼らととも居巣に駐屯させられたともある。
で、樊城に移ったのがこの直後だったとしたら、逆に曹仁の樊城駐屯と関羽の北上開始との時間差はあまりないのかもしれない。
曹仁伝の記述だと前者により近いと思うんだが、実際のところどうなんだろう?
>>813 曹仁の駐屯と関羽の北上にブランクがあるってのは上でも出てたぞ
麋芳・士仁は蜀との和議のためのダシに使われていたことからしても
「大したこと無い奴」と見られていたんだろう。
本当に使えそうな奴ならもう少し身辺近くに置いておくはず。
あの時はただでさえ呉も蜀も戦っていい時ではなかったのに
戦争の規模がでか過ぎたから、なにがなんでも停戦にもっていきたかったろう
能力関係なく背景からいって麋芳・士仁が使われるのは当然
>>814 いや、どれくらいブランクがあるかってこと。
曹仁が樊城に赴任してすぐ侯音の反乱・関羽の北上と数年を経て侯音の反乱・関羽の北上じゃかなり違わないかな?
後者であれば途中濡須攻めに加わったりしてるものの、関羽征討の任を受けて数年間なにやってんの?ってことにならないか?
さらに挙句の果てに宛で侯音の反乱が起こり、その後に関羽の北上を受けて手も足も出ず樊城に閉じ込められ……この件に関しては曹仁ダメポな感じ。
ただ、215年には劉備と孫権は戦闘があったのに介入している様子がなかったり、217年には濡須攻めに参加してるので、仮に樊城駐屯が田銀討伐直後の214年だったとしても関羽征討に集中していたわけではないようだけど。
うーん、まだちょっと我ながら取り留めない感じだなあ……
関羽征討の任を受けて樊城に駐屯したのは濡須後の218年中のことなのかなあ?
>>815 > 麋芳・士仁は蜀との和議のためのダシに使われていた
それって演義じゃね?
麋芳は223年には賀斉に従って晋宗討伐で功を上げたりしてるし、虞翻の件でもわかるように結構家来も多かったようだ。
それと潘濬は言うに及ばず2度に渡って呉に降ってる郝普は廷尉まで上がってたし、麋芳もそれなりに厚遇されていたと思ってもいいんじゃないのかな?
士仁は……、士仁はわかんね。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 10:23:36
演義と史実ごたまぜいくない
しかし自分で書いててなんだが傅士仁じゃなく士仁って書くのって通ぶってて痛いと思われないかな?
ちょっと心配。
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 10:28:59
なんで一ヶ所にしかでてこず、衍字の可能性大な名前でよばなあかんねん
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 10:29:36
面倒なだけ。
士仁と書いておいて話の中身は演義、なら痛いが
>>821 いや、演義だと傅士仁だし知名度ではこちらの方が圧倒的じゃない?
だから嫌みったらしいとか、覚えたての言葉を使って偉いと勘違いしてる厨とか思われんかな?
自意識過剰?
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 10:36:17
過剰だろ
まあ好きに呼べばいいが
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 11:09:46
\おにーにワッチョイ!/
/■\ /■\
( *・Д・)( ・Д・ )
`〜(__) (__丿
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 09:42:36
陰化あげ
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 10:00:11
最近はリョウカを「侠客で関羽の子飼いの部下」なんてトンチンカンなこと言い出す奴も減って来たかな
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 22:24:20
リョウカは元ひょうきん族
シュウソウは水泳得意な山賊だな
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 22:41:37
そうですね(棒読み)
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 00:37:07
魏が蜀を平定した時、蜀の豪族、将軍を済南郡あたりに強制移住させたという。
晋書地理志
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 00:49:34
そうですね(棒読み)
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 01:04:39
魏(司馬昭)が蜀を平定する際、司馬昭が長安に駐屯する間、ギョウに軟禁されている曹氏皇族を見張ったのは竹林の七賢のひとり山涛
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 13:02:01
そ
う
で
す
ね
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 13:17:56
\おにーにワッチョイ!/
/■\ /■\
( *・Д・)( ・Д・ )
`〜(__) (__丿
糞スレ化したな
>麋芳は223年には賀斉に従って晋宗討伐で功を上げたりしてるし
伝だけ見てると特に目だった功績は無いようだが
>>838 従軍して平定に貢献してるんだから「功を上げてる」と評してもおかしくないと思うが?ダメか?
あと呉主伝には「賀斉に命じ、麋芳・劉邵らを率いて」、賀斉伝には「麋芳や鮮于丹らを率いて」と副将格としてはトップにあったとみていいのかな?
だとするとやはりそれなりに厚遇されてるよね?
840 :
:2006/02/18(土) 19:21:35
その時期は魏に3方面から攻められて、人不足ってのもあったんだろうな
>>840 賀斉伝によると「曹休が軍を引き一段落したので出兵した」とあるし、鮮于丹は第一次荊州攻めの時にもその名が見える古株。
一概に人手不足とは言えないんじゃないかな?
主力ではなかっただろうし、晋宗を生け捕りにしたのは記述からは劉邵っぽいけどw
鮮于丹は劉備の征呉戦にも従軍してるし、立伝されず記述も少ないがそれなりの
場数に能力を備えた将官なのかも。
ケ方・費観・陳到・輔匡・劉邕・張南といった将たちについて語りたいが、
資料が少なすぎて何も言えん…
>>843 資料が少ないのを良いことに
朝鮮式で妄想を語れ。
>>843 部分部分では過去にも語られてきたけどな。
例えばどんなことについて語ってみたい?
当時の序列とかはどうだい?
例えばケ方
季漢輔臣賛での席次だと、
皇帝劉備・丞相諸葛亮・司徒許靖・前後左右将軍&法方龐統
間に董和を挟んでいるけど、↑の別格の連中に続く順番
いったいどんな功績をたてたんだろうね?
張南なんかは夷陵しか語るところ無いしなあ。
その夷陵ですら内容はよく分からんが。
夷陵では前部として先鋒を戦ったくらいだから、
それまでにも武功は重ねてたんだろうけどな。
>>846 劉巴や麋竺よりも前だからな。すごいよね。
簡単な経歴。
209年、臣従。
→南郡の人なのでおそらくこの時期。
212年、劉備の入蜀には従事として随行。
→当時他の従事には潘濬や殷観などがいる。
214年、犍為郡属国都尉。
→当時の犍為郡太守は多分李厳。
で、朱提太守となり初代庲降都督に任じられ221年(あるいは222年)に死去。
以上から初めからそれなりに名の通った人物で武官として業績を上げたわけではないと推測される。
また李厳が永安に移ったのが222年だから李厳が犍為郡太守であったときから南方の責任者に抜擢されてる。
その後の庲降都督の立場を考えると、下手すると当時は李厳以上の評価だったかもしれない。
吏として有能、また賛の記述から戦闘指揮にも長けてたと見ても良い。
こんな感じかな?
さすがに具体的な功績はムリだったわw
>>849 サンクス
高定元たちは劉備存命時代から不遜な態度を示していたようだし、
奴らや異民族との折衝・鎮撫が主な任務だったのかもね
>>850 そうだね。
入蜀に随行したと言うことは潘濬とは違い統治より軍事を期待されたってこともあるのかな?
もしかしたら武官として既に武功があり曹操にもそのまま留め置かれた黄忠のような武功ある武官だったのかもしれない。
ただ益州平定後は属国都尉だったので純然たる武官よりは官吏よりっぽいかな?
曹操が荊州に侵攻してくる前の南郡には誰がいたんだろう?
江夏は黄祖→劉g、長沙は劉磐なんだが……
今蜀書を読んでたんだけど同時期の荊州従事はケ方の他に龐統、馬良・馬謖の馬兄弟、陳震が劉備の入蜀に随行してた。
かつて荊州従事であった廖立は益州平定時は長沙太守に転任。
ケ方、やるなあ。
あ、馬良は随行してなかったな。訂正。
陳震は荊州従事→入蜀随行→蜀郡北部都尉→汶山太守とほぼケ方と一緒。
李厳が永安に呼ばれると犍為太守となってるから、一概には言えないが庲降都督のケ方の方が上?
陳震はその後、中央入りし尚書→尚書令と昇進してることを考えるとケ方は死ぬのが早すぎたなと感じるな。
>>851 侵攻するにしても、
占領地を治めるのに官吏は必要。
>>854 まあそうなんだけどね。
ただ同じ時期やはり治安の悪い汶山の太守を務めていた似たような経歴を持つ陳震をみるとこちらには軍事関係の記述がまるでない。
それと比較してケ方の賛を見た場合、官吏ではあってもやや武官よりの功績も上げてたんじゃないかなと思ったわけ。
まあその程度です。
入蜀に随行したということからも軍才はあるようだね。
北伐にも随行していたらそこそこの成果を出すかも。
侯に封じられるくらいの出世はするかな。
>>856 2代目庲降都督李恢の例を参考にすれば北伐に同行しなくても治績を上げればその可能性は十分にあるんじゃないか?
つうか李恢は庲降都督に任命されると同時に使持節まで与えられてるんだな。
>>857 文字化けするんで無理にライは漢字で表記せんでもいいんじゃ?
マイナーな人物で盛り上がっている所悪いが、ちょっと気になった事があるので。
姜維は父の功績を取り上げられた影響とは言え、若くして出世コースの中郎の官に就いたが、
中央に出仕せず郡に戻っていた。
以前姜維スレで話を聞いた時に、父の縁と言う事と、姜維のようなケースで郎官にした人物を、
いちいち中央に上げていたらキリが無いから中郎待遇で郡に出仕させた、という答えが得られ、
自分もそれに納得していたんだが、中国社会風俗史という本を読むと、
漢代の郎官は俸給だけでは生活が苦しい上、役所での諸経費も本人が払っていたので、
富裕な家でなければ務まらなかった、とある。
姜姓は天水の四姓とは言え、姜維は幼い頃に父を亡くしているので、
郎官を務めるほどの経済的余裕が無かった、というのも郡に戻った理由の一つではなかろうか?
劉備もそうだが、父親を早くに亡くすとそんなに経済的に苦しくなるもんなのかな?
今みたいに相続税でごっそりと持っていかれる訳でもないし、
余財は人々に分けていたんだろうか。
まず官位につけるのは男だけ
そうでなきゃ女の内職程度しかやれることねぇ
>>859 そもそも中郎=中央の官職なのか?
中郎そのものではないが将軍の配下に従事中郎とかあるし、これと同じようなものだったんじゃないの?
>父親を早くに亡くすとそんなに経済的に苦しくなるもんなのかな?
君の家は先祖代々の裕福な資産家ですか?
>>860 劉備に限らない話なら、儒教的な倫理観に則れば親の葬儀は篤ければ篤いほどいい。
親の葬儀で破産した例もある。
父親が存命の折に私財をケチるのはいいとしても、親の葬儀をケチって社会的に
非難をうける例もある。
一般的なもので絶対ではないが。
劉備の家系は郡に仕えていたといっても官も不明なくらいだから、さほど多くの禄を
うけてたとは思えんけど。
>>962 一般には中郎と言ったら光禄勲府中郎将幕下の中郎を指すと思うが。
従事中郎だとしたらそう記述されてるだろうし、誰の属官かも記述されてると思う。
866 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 14:37:21
地方の官吏といえど、官にあるということは俸給+いろんな余禄(賄賂とかな)があってウハウハということですよ
豪族であっても、大黒柱を失ったらその土地を管理する人がいないということだし。
逆に真面目だと重職歴任しても死後に余財無しってのもいるけどな。
>859
姜維の場合、地方勤務、つまり故郷の州・郡に仕える、ってのが前提になってるから、俸禄面は州郡の職務に応じた待遇だったのでは?
姜維伝にも、まず郡の上計エンから州の従事になってるし。
あなたが以前に納得した意見と同様になるけど、中郎って言う中央官僚の身分で地方勤務(俸禄面も含む)みたいな感じでないかな。
>>868 いや、朝廷が姜維を中央に出仕させず郡に帰した理由に経済的理由があったのでは、
という事だから故郷に帰った後の俸禄面の待遇に言及したつもりは無かった。
漢代の郎官は経済的負担が大きく、任官する側も富裕な人物を選ぶ傾向があったらしく、
姜維の家では任に堪えないという判断も、故郷に帰した理由の一つなのではないか、という事。
貲郎という言葉もあったようだから。
漢代と魏代で郎官の経済的負担が同様であったかは書かれてなかったので明言はできないけど。
>869
故郷に帰した、と言うか、そもそも中央に召したと言う事実もなかったんでは?
戻すとか帰したとか言う話でなく、実情は地方官と言う事で。ただ郎官の身分を持っていれば、その後の頑張り次第では中央への昇進の可能性もあるよ、と。
経済的事情もあるいは考慮したかもしれなけど、理由の一部であって、大きな理由では無いんじゃないかな。
姜維って子供作らなかったの?
え?その子供ってなんかの要職についたりとかする?
どこ探してもそーいう記述見つからなかったんだが…
>>873 本伝の最後の方に鍾会の乱後、処刑されたということだけが記述されてる。
名前等の記述はない。
あと注によると魏時代にも妻子がいたという記述がある。
>874
親切にありがと。姜維の子供って言うくらいだから
何かしら活躍を期待してたんだけど残念だなぁ。
諸葛亮や李厳や劉封でさえ二世武将に関しては多少でも
記述あるのに名前すらわからないとは…。
>875
親が現役の場合、子は親の私設秘書みたいな感じが多いみたいだから、親が現役の時は正式な官職に就いてる方が少ないかもね。
李豊が、(江州都督)督軍になったのも、李厳を優遇するための異例な人事だった模様だし。
ライバルは現役バリバリで息子も大活躍してるのねぇ・・・・・・
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 20:06:43
ライバルって?
登β親子のことだろ。
トウガイの場合、微賎の出のためにトウチュウが中正に無視されるんで同じ軍にしか就職先がないんでない?
親が現役で子も現役ってのが普通だもん。
司馬親子とか。
>>870 大きな理由にはならないかあ。
俺は当時の政治に関する見識はかなり浅く、これも色々傍証を採ったわけでもなく、
単なる思い付きの部類なので、肯定的意見も見られない所を見ると、貴方の言う通りなんだろう。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 14:32:48
age
883 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 15:32:34
\おにーにワッチョイ!/
/■\ /■\
( *・Д・)( ・Д・ )
`〜(__) (__丿
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 16:07:20
淡路島
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 17:05:57
保守
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 21:02:26
関羽が江陵にいた時、呉は陸口に司令官魯粛・呂蒙1万、江夏に司令官程普
って別れていたのかな。蜀と同盟関係の時は、呉にとって江夏の方が重要だ
ったように思うし、程普最後の反乱鎮圧は、魏に内通した者達だったかもし
れない。
魏にとってみると、2方向から攻められる可能性があるのだから、曹仁には
それなりの兵が配下にいたと思うので、関羽に囲まれてしまっているのが不
思議だ。
曹仁が関羽に囲まれた段階で人馬数千
それ以前に七軍(一軍=3200?それとも第七軍団?)を率いた事もある筈の将軍にしては随分少ないな
侯音の乱や上庸の降伏で兵を割かなければならなかったという事はあるだろうけど
数千というのは確かに少ない気がする。
官渡の様にわざと少なく書いてるのかも。
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 15:28:37
そうに違いない
少なく書いてる場合は曹仁が思われてる程に有能ではないって事になるな
防衛こそしたものの、結局事態を打破したのは曹仁ではなく、徐晃と呂蒙なわけで
人馬数千より多かったのに関羽に囲まれて手も足も出ないって何やってんだ、と
だから関羽が
曹 仁 の 兵 を も の す ご い 勢 い で 殺 し て い た
ってわけさw
892 :
張遼・徐庶・ホウ徳・張コウ:2006/03/05(日) 17:46:20
張遼は関羽に助けられたわけだから劉備軍に入るべきだった。曹繰ウザ。
徐庶は本来劉備軍なのに母親を人質に取られたせいで劉備軍に残れなかった。曹繰ウザ。
ホウ徳は馬超と共に蜀に入るべきだったのに病気と疑いのスキを取られて劉備軍に入れなかった。曹繰ウザ
張コウは曹洪が呼び戻しの命令を出してれば蜀に降っていたのに呼び戻さなかったから劉備軍に入れなかった。曹繰ウザ。
どうせ顔良と文醜だったら顔良を取るんだろうな。ヤツはエキゾチックな物好きだからな。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 17:49:13
894 :
:2006/03/05(日) 18:50:17
襄陽も落ちてないっぽいし、そっちにも結構いたんじゃないか?
普通なら位置的にも主戦場は襄陽の方だろうからなぁ・・・なんで樊城攻めてんだろ
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 19:09:56
>>894 兵が少ないのわかってたからじゃないかな?
>>894 襄陽も同時に攻めて包囲してたはずだが?
897 :
:2006/03/05(日) 19:20:36
>>895 それでも落とした後維持できる可能性を考えると河のこっち側の襄陽の方がまだ良かったと思うんだがねぇ
襄陽から兵をおびき出すために樊城を奇襲+包囲した感じなのかな
>>896 襄陽の方は包囲してるほうもされてる方も大物がいないんだよねぇ、曹仁も満寵も関羽も樊城
単に樊城に曹仁・満寵・ホウトクと兵力を集中させているからじゃないの、
そもそも曹仁も当初から樊城に駐屯してる訳で、
魏が選択した荊州での拠点は襄陽ではなく樊城だったという事。
だから襄陽を占拠しても樊城と曹仁を叩かないと意味が無い。
確か位置関係が
\ \樊
\漢水 \
襄\ \
\ \
とかでなかったかな
魏からすれば襄陽は落ちても問題ないが
南側からは樊も同時に落とさないと意味の無い理不尽な地形だった筈
僅かに川一本挟んで対岸に存在するんだから、両方に圧力をかけて連携を断つ
くらいはやるのが当たり前。
樊城を特に攻めたのは荊州軍の指揮系統の所在を踏まえたうえでしょ。
先に襄陽を落として樊城の曹仁が下る可能性は低いだろうし、襄陽だけ落として
対岸は後なんて軍事を少しかじってればありえないのもわかるはず。
ここでの戦争は後の時代でも二つ併せて攻略してなんぼなわけだし。
>>899 そう。
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 21:40:45
>>897 そうだろうね。ただ何らかの結果、流れから樊城も包囲できる
可能性が出来ちゃった。だったりして。
初めから許都目指す気はないよなぁ〜。
902 :
:2006/03/05(日) 21:40:46
へぇ、あそこは両方落とさんと意味がないんか
それはともかく襄陽の方にも曹仁の方と同等かそれ以上の落とせないだけの兵力がいたなら、
曹仁の方の兵が数千でも多少納得できるかなぁと
>>902 それはない
と言うのも
>>897の言うように曹仁以外にも何人かいる司令官格の名前が
襄陽の方には全く見えない
本体が襄陽にいるのに副将格でさえも襄陽にいないのはおかしい
襄陽は寡兵だったと考える方が自然
呂常
905 :
:2006/03/05(日) 22:32:32
>>903 >>904の言うように呂常ってのがいるな
結構長期間攻めてたんだしあの位置にあるんだから寡兵なら先に落としてると思うんだがなぁ
数千も篭もれば城の防衛は十分に機能する。
関羽の掌握してる野戦軍って、せいぜい3万くらい。
その数で数千の兵が篭もってる城を一朝一夕にふたつも落とすのは無理。
僅か数千とみるか、十分に妥当な数字とみるかでだいぶかわってくるんだよ。
城ひとつ落とすのに半年や一年を費やす戦例はザラにあるし、襄陽と樊城の備えは
比較的、相互に支援や連絡が容易な状況。
ここでの大規模な攻城戦は他の時代にもあるけど、ちょっと見込みが甘かったんじゃ
ないかな……
呂常は三国志中に1回出てくる程度の小物だが
何を以って司令官格とか副将格と言ってるんだ?
誰も言ってないんじゃ?
なんか流れをみてると、
>>904は「○○の事も思い出してあげてください」のノリで
書いてるのかも
>>903がせめて呂常の名を挙げておけばよかっただけにも思えるけど
一応の守将って感じでしかなさそうなんだが…
襄陽って難攻不落の城って言われてなかった?
そりゃ演義だけか?
>>906 曹仁程の将が率いてる兵数が、数千ではおかしいって話だから、
城に数千も篭れば機能するしないの問題ではないんじゃないの。
もっとも2ヶ月位で重要拠点が落城寸前になってる訳だから、
機能していたとは言い難い気もするけど。
後年、モンゴルが攻めたときは、すげー攻防戦になってる
有坂純の世界戦史おぬぬめ
>913
数千って少ないのか?無知ですまん
>>915 最前線だぜ
ただでさえ、曹仁は関羽討伐目的で樊城に駐屯してるはずなのに(武帝紀)
…って、これ上でも話されてたような
>>915 荊州北部を任された曹仁に、満寵・ホウトクといった将を含めて総勢数千は少ないと思う、
既に書かれているように曹仁は関羽討伐目的で樊城に駐屯してのにも関わらず。
援軍で来た于禁が七軍、約三万を引き連れてる事から考えると余計に。
7軍だから3200*7の2万そこそこじゃないか?
ごめん、呉書の方に3万ってあったな
じゃあ本当は関羽討伐目的じゃなかったんだよ
>>918 10万に攻められた張遼・楽進・李典らの合肥で七千人
関羽討伐のための曹仁・満寵・ホウトクや援軍の于禁合わせて3万と数千
やっぱ守るのと攻めるのはここまで差が出るものなのか
さすがにそれはない。
武帝紀に書かれてるって事は魏で書かれた先行史料にもそう書かれていると考えられるし。
常駐の兵なんて、1万もあれば十分なんじゃないの
他は兵戸なんだろうけど、動員が間に合わなかったとか?
動員が間に合わず将官だけ駐屯地に入るか?
しかも曹仁は関羽討伐の為にとまで書かれているのに徒手空拳で来る訳がない
じゃあ本当は関羽討伐目的じゃなかったんだよ
バロスwwwwwwwwww
ただでさえ荊州は三国のせめぎ合いの地になってるのに、
その重要な拠点にたったそんだけの兵しか置かないもんか?
前にもあったが曹仁討関羽を討つ為にと訳したのは誰?
討つ為にと訳す場合は曹仁将討関羽とかになる筈
ならねーよ
陳寿の文章の癖で、討一字では大抵「討伐をする」「討伐をした」の意味で
結果はその後に書かれる
初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛.
初め、曹仁は関羽を討つべく、 樊城に屯していたが、この月仁を使わし宛を圍ませた
と読むのが適切ではないか?
もし曹仁がそれ以前に関羽と戦って「討ち」樊城にいたならば、曹仁伝にその旨記載される筈だしな
前の方のレスでも出てきているが、曹仁はかなり以前から樊城駐留してんじゃないの?
途中、濡須攻めに借り出されたりしてるが。
そして武帝紀の関羽を討つ為に駐屯させたというのは、言うなれば言葉の綾以上の意味はないと思う。
なぜならその直後に関羽が樊城に攻めてきたので関羽を討てと勅がくだってるから。
曹仁の樊城駐屯はもちろん対関羽の思惑があろうが直ちに攻め入れという類のものではなく、そのくらいの心構えでもって事に当たれ程度のだろ?
史学や兵学には疎いのですが
曹仁にはもともとそれなりの兵数があったんだけど、遊軍として城外に出して
関羽に備えたけど漢水の増水で合流できなくなって結果兵力数千になってしまった
と妄想しました どうでしょうか
>>933 > なぜならその直後に関羽が樊城に攻めてきたので関羽を討てと勅がくだってるから。
武帝紀にはないぞ?
于禁伝からの推測じゃないのか?
>>934 関羽が樊に攻め込んだのがいつごろからかは正確にはわからないけれど前将軍に任じられ斧鉞を与えられた後なら219年秋。
関羽が攻めて来てすぐ漢水の氾濫。
だから一戦して閉じ込められたという可能性は低いから、初めから樊城にはそんなに兵数はなかったのかも。
だとすればその可能性もあるんじゃないかな?
濡須攻めは建安二十二年春正月、曹操引上げが三月で曹仁はそこから居巣に駐屯
どの時期まで駐屯してたかは不明
侯音の乱が一年後の建安二十三年冬十月なので曹仁が樊城に駐屯したのはそれよりも前だが、
この段階では既に関羽討伐の命令を受けている
乱の鎮圧に数ヶ月掛かって二十四年春正月
曹操が劉備との漢中争奪に破れてから長安に辿り着いたのが夏五月
于禁伝の記述によれば、長安から曹操が曹仁に「関羽を討て」と命令を出しつつ于禁を援軍として送っている
曹仁に討てと命令を出すのは、普通囲まれてからではないと考えられるので
七月以前に曹仁に命令は出ており、于禁も準備を済ませていたが到着したのが七月だったと考えていい
五月から七月までの曹仁の行動は不明
次に満寵伝によれば、初め関羽は襄陽を包囲していたが樊城は無事だったようだ
秋八月、大雨で漢水が溢れ于禁と七軍の陣が沈み、関羽の捕虜となる
もう一度満寵伝より引くと、そこから「羽急攻樊城」とあり、「樊城得水,往往崩壊,衆皆失色.」と続く
ここで漸く曹仁が「人馬数千」で樊城に包囲される形になったと考えられる
さてそこに至って初めて曹仁は何故たった数千で(しかも馬込み)囲まれたのか、と言う疑問が出る
とここまで考察してみた
仕事中なので残りはまた後で
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 22:09:35
続き
孫権伝を読めば、捕虜の数は三万
ここに疑問の解があると俺は考えた
于禁の七軍の人数を推測すると二万二千四百人と八万七千五百人の二つの候補が思い浮かぶのだが
珍しく劉備や孫権を同時に相手にする状況になった曹操に十万近い軍を遊ばせていられる余裕はないと考えられるため
于禁の軍を二万数千と仮定する
その場合、どう考えても捕虜の数が于禁の七軍全部が健在だったとしても多過ぎる
次に樊の北十里に駐屯していたホウ徳の陣も水没している事から、洪水の範囲はかなり広範囲に及んだと考えられる
襄陽救出の為に準備していた曹仁配下の一部も河川氾濫前にはある程度、城外に展開していたと推測できる
その場合、曹仁の軍の一部も水害で孤立し関羽に捕縛され、捕虜として江陵に送られたと考えられる
捕虜の内訳は于禁の軍で二万、曹仁の軍で一万とすると、城内に取り残されたのが「人馬数千」であるとしても自然な形で収まる
また、関羽伝に曹仁に対する勝利の記述が存在しない事の説明にもなる
山崎邦正が生きていてくれたら・・・。
940 :
939:2006/03/06(月) 23:14:04
誤爆スマソ
ホウトクが曹仁の命令でかなりの兵を率いてカンウにあたるつもりだった可能性は?
ソノ兵が洪水で流されて残りわずかになってしまったと。
>>941 龐悳は樊城の北10里だからなあ。
長江は流れが東西方向だけに限定されるわけじゃないからありうるかもしれんが。
>>941 ホウ徳伝によれば
ホウ徳は城内の誰からも信用されておらず、それ故に曹仁はホウ徳を北十里に駐屯させた
したがって、信任されていない男に大軍を預けるはずはない
イロイロ妄想するに、やはり曹仁の兵も于禁の兵とともに流されて
樊城に命からがら撤退したというあたりで落ち着くのか。
>>945 ニセクロさんお心遣い感謝
ただ、残念ながら通鑑にも何で曹仁の兵数が数千しかなかったのかが書いてありません
三国志の記述を並べ直して整理した形以外の物が見えて来ないのが惜しいです
結局関羽の北伐について三国志ではわからなかった事は通鑑でもワカリマセン
>>945 ニセクロさんだ!初めまして!
漢帝国統治白書読ませてもらいました。
次回が気になってしょうがないです。
何時か必ず続きを読ませてください!
関羽を討つ!ってのが単なるポーズだったんじゃないの?
あの国ならそれが一番ありえる線だと思うんだが?
せっかく通鑑和訳していただいたんだし、三国志、晋書と食い違う部分でも探してみるか
パっと見たところ幾つかどちらにも記述されてない事が通鑑にあった
資料批判をしないと安心できぬ
>948
将来、荊北の軍事力が整備されたら、と言う意味の「討つ」って表現かもね。
あるいは、当面は出征は無理だし、防衛が主だけども、対関羽と言う事で関羽討伐を建前に掲げたとか。
関羽の北上時、襄陽という要衝がいくら何でも簡単に包囲され過ぎだと思う
普通防衛拠点の周りには、防衛用の支城を作る筈なのに
対南方の最前線にある筈の襄陽の無防備さは有り得ない
そこから考えるにそれ以前に関羽がチマチマとそれらを潰して
曹仁に関羽討伐の命令が出たんじゃなかろうか
>951
劉表政権時の州都であり、漢水中流域の主要都市と言う意味で襄陽の重要性は高いけど、荊州が南北に分かれてる状況では最前線、って程度では?
しかも、魏側からすると漢水を防衛線とするほうが有利だし、現実的だから、219年頃の襄陽は劉備側が確保しなかった(北方に突出しちゃう)から、魏側が押さえた程度だったんでは?
漢中を奪取し、上庸を取った段階で、関羽が劉備の勢力圏を漢水全域に拡大しようとしたんで北上したんだろうけど。
そうなら、なおさら漢水北岸に引いた方が防衛上賢明だと思し、襄陽の軍事的重要性は低くなるから、防衛体制が整っていなくても仕方が無い面もあると思うのだけど。
襄陽を抑えておくと周辺の制河権を取られるから
魏としては即座に危機となるわけではないにしても樊城が敵の攻撃に晒される事になり
かなり嫌なもんだと思うが
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 18:08:55
保守的
>953
夏侯淵が戦死して、漢中から総退却と言う状況で無ければ、劉備勢力に襄陽を押さえられても、北方に突出した形なんで、それほど勢力を延ばせんし、脅威にならんのでは?
ただ、漢中放棄〜蜀の上庸攻略〜関羽の北上と言う流れの中で、一気に樊を囲まれるまでになってしまったけど。
漢水を挟んで、新野・樊の曹魏と、江陵の蜀漢との中間地の空白地域(と言うと変だが)みたいな感じを想定してたんでないかな。
で、より根拠地(江陵)から遠い劉備側が襄陽を放棄してたんで、魏軍が進駐してた、と。
>>955 襄陽は関羽北上までの間、常に魏側が保持しつづけていた筈で
>江陵の蜀漢との中間地の空白地域(と言うと変だが)みたいな感じを想定してたんでないかな。
この認識は有り得ないだろう
しかも一度曹仁が破棄した時は司馬懿がもの凄い反対をしてる
やはり魏からすれば重要な戦略拠点と見なした方がよいのでは?
957 :
945:2006/03/15(水) 22:36:25
残り少ないスレに殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry
チラ裏・私見になりますが。
曹仁の軍が少なかった理由ですが
元々与えられていた兵力が少なめだったとか侯音の乱で兵力をすり潰したor
宛への守備に兵力を割かざるを得なくなったとか、漢中戦役に対処するため
曹操が行った戦力再編で引き抜かれたとか考えられる要因や可能性はあるの
ですが、オレ的には劉備側の宜都太守孟達による房陵の攻略とそれに続く
劉封・孟達の上庸攻略に対処するため軍を分けて差向けたところものの見事
関羽に突かれて囲まれたんじゃないでしょうか。
>>955氏よりも少し踏み込んだ感じですか。
この傍証として晋書宣帝紀にある荊州刺史胡修と南郷太守傅方の降伏状況
などが、于禁やホウ徳の降伏と別になっていることがあります。
当時の曹操勢力の軍事体制を分析すると、前線は節を与えられて諸軍を統括
する漢朝の将軍とそれを主に兵站面でバックアップする州刺史及び兵站面では
刺史の監察下にあり、兵力の供出等に関しては(多分)節を持った将軍の
統括下にあって実際に兵站を充実させたり兵力を拠出したりした郡太守が
セットになっていることが判ります。
(更にいうと、こうした節を持つ「漢朝の」将軍がどうにもできなくなると、
漢の丞相にして魏王たる曹操の率いる「魏王の」軍が救援にやってくる手筈
になっています。)
こういうシステムを見た上で、荊州方面を統括していた征南将軍曹仁の周囲を
見ると、曹仁についてるのが汝南太守の満寵で、荊州刺史の姿が見えない訳。
それは何故かと考えると、荊州刺史は襄陽・樊城周辺から離れていたのだろう
とくる訳です。(で、実際、南郷太守なんかと一緒になってるからこの襄樊
からは離れていたことが判る訳です。)
で、曹仁にくっついているべき荊州刺史がなぜこの時期、曹仁から離れて
南郷太守と一緒になってたか? 考えると、先に述べたように、房陵・上庸の
危機に対処するために曹仁からの指令などがあって、上庸方面へ向かっていた
のだろう、と、なるわけです。
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 23:33:37
荊州刺史が関羽に下っていたというのは重要だな、多分
陳寿の三国志は以外と大事なことが抜けがち
載っている記事の信頼性は高いかもしれんが、「載っていないが大事な部分」が多いのが難だな。
959 :
945:2006/03/15(水) 23:57:47
>>958 >「載っていないが大事な部分」
そですね。通鑑とかを合わせ読むのは時系列を合わせるのと、
三国志で触れてない記述が無いか検めるのと、二つの重要な確認作業が
できるのが大きいですね。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 00:09:27
蜀の話じゃないけど、三国志は鮮于輔や閻柔、トウ展や徐キュウといった漢臣の重要人物の記載上の扱いが悪く、まるでなんでも曹操直属だけでやってたかのような書かれ方になってるんだよな
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 11:03:56
ほい
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 09:56:35
>>957 南郷を守る為か、上庸等を取り戻す為に大軍を率いて向かった
荊州刺史を攻めて?降参させた蜀の将軍は(郭睦かな?)すごい。
長く気になってたんだけど、南郷太守の郭睦は、前太守の傅方が関羽に降伏して
から、改めて関羽が送り込んだ人物という解釈でいいんだろうか?
傅方は一緒に降った荊州刺史の胡修ともども徐晃との一戦で戦死してるんで、
降伏した時点で関羽の軍勢に編入されたんだろうけど。
965 :
945:2006/03/18(土) 21:40:16
停滞するスレに再び殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry
>>964 自分は南郷太守の郭睦は劉備が任命した太守だと解釈しています。
南郷太守の郭睦は房陵太守のトウ輔と共に陸遜の派遣した謝旌に破られてますが
それは 呉書陸遜伝で陸遜が江陵を押さえ宣都入りした後のこととされています
南郷郡、房陵郡の地理関係から見て、郭睦やトウ輔は関羽が送り込んだのではなく
劉備の任命によって成都(または益州・荊州間のどこか)から派遣されて任地に
赴く途中で陸遜らの攻撃を受けてとっつかまったと推察されます。
傍証として、蜀書劉封伝中に注としてあげられている孟達が劉備の下を辞去して
魏に寝返ったときの手紙をあげておきます
「(略)ここに臣は事の原因を求め、自ら房陵・上庸をお返しし云々」とあり、
孟達の中で、劉備の下を辞去する時点で房陵と上庸が孟達の治下にあったことが
窺われます。
既に関羽が敗れる時に房陵太守としてトウ輔の名が陸遜伝に載せられているので
もっとも整合的な説明は、トウ輔は孟達と交替で房陵太守になる予定であった。
しかし、任地に到着する前に陸遜らの攻撃を受けた。と推察されます。
これらのことから更に推論の足を延ばすと、劉備側は、トウ輔や 郭睦を房陵や
南郷に派遣すると共に、彼らが任地へ就き次第、劉封や孟達らを関羽の助力として
荊州北部へ派遣する予定だったのだろうと考えることが出来ます。
名前しか出てこない 郭睦やトウ輔と違い、劉封は武力が売りである旨描かれてますし
孟達も、シ帰から山麓を越えて房陵を強襲して陥落させ、更に上庸へも攻撃をかけた
ことから判るように、その軍事能力は相当なものです。
(孟達の軍事能力はもう少し評価されてもいいかもしれません)
966 :
945:2006/03/18(土) 21:41:23
>>963 と言う訳で、上記考えから自分は 郭睦を南郷を攻略した将軍だとは考えません。
荊州刺史胡修と南郷太守傅方は、房陵・上庸の危機に赴いたものの、
状況を覆せなかったか、救援に間に合わず撤退した、又は、劉封や孟達と対峙している
最中に、曹仁から、今度は襄樊を囲まれたので急ぎ襄樊方面へ戻り、節度を受けるよう
連絡あって、撤退したと考えられます。
ホウ徳が樊の外にいたのも、単純に寝返る可能性を疑われたばかりでなく曹仁から何か
指示を受けていて、それを 胡修・傅方らに伝え、合流するという役目を負っていたの
かも知れません。
まぁ想像に過ぎませんけど。
>>965 ああ、劉備の任命になるんすね。
職掌の点から考えて関羽では不当とは思っても、論拠をそこ(
>>965)まで導き
だせなかったんで、納得いかないまま曖昧になってたよ…嗚呼未熟……。
ともかくも、ありがと。
968 :
945:2006/03/18(土) 21:50:50
ということで、こうした所から呉の荊州侵攻が、劉備側の人事異動と体制整備の途中、
劉備陣営が力の再配分を行っている途中のドタバタした時期にドンピシャで行われた
ことが分かります。
呉からすれば最高のタイミング、蜀からすれば考えられる中で最悪のタイミングだった
と見なせるわけです。
あと一カ月呉の判断が遅れていたら、劉備陣営の勢力内パワーバランスの再編は終了
していた可能性が高く、呉の襲撃に対し、あれほど脆い醜態を晒さずに済んだ可能性が
大きいと考えてます。
まあ魯粛ん時からの悲願だからね。
曹操・劉備と違い、唯一長期計画でやってたのが呉だから。それにあらゆる焦点を合わせた準備がなされてたんだべ。
徐州への野心さえ大規模な偽装だったのではと。
>>966 通鑑だと于禁が何故かホウ徳と一緒に北十里に駐屯してた事になってますが
編者が何を以って于禁の位置をそこに設定したのかわかりません
三国志の中では于禁がどこにいたのかが不明確です
971 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 23:25:41
>>965 そうすると、荊州刺史と南郷太守は撤退。それから樊の外で、
于禁同じ頃降伏。そして、徐晃との戦いの中で戦死したってこと?
961 名前:無名武将@お腹せっぷく :2006/03/17(金) 06:18:37
とりあえず
>>970で次スレたてようぜ
なんか目から鱗な推察だなぁ
ニセクロ三国志とか本出せないの?
同人誌出してくれるそうだから通販に期待だな
>>968 そんな時期に関羽は軍を引き抜いて北上していたのか。
このあたりの関羽論はおかしな関羽愛好者の頑迷な意見よりよほど傾聴に値する。
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 12:19:31
>>976 逆じゃないか?
軍を率いて北上し、成果があったからこそ起きた人事異動、再編成なんだから。
孟達の房陵攻撃って何月なんだろ?
関羽が動く前?後?
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 18:48:37
わかりません
上庸取って漢中との連絡をつけるのを戦略目標として、その側面援護で関羽出陣というのはどうだい?
そしたら、殊の外うまく進んでしまった関羽が暴走
でも劉封は処刑されてるし、ないか・・・
上庸の突出を避けたんでね?
蜀としては、漢中、上庸、襄陽のなだらかな前線が欲しかったとか
>>982 おまいさんもそうだが、どうも漢中・上庸が一本で繋がると思ってる人が多いな。
詳密な地形と再編される郡県の変遷を念頭におかないといかんよ。
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 09:42:32
漢中上庸は一通だからなぁ
関羽の北上は上庸の孤立を防ぎたかったんじゃないの?
>984
>983は上庸と漢中の間に魏興(西城)、
上庸と襄陽の間に新城(房陵)があると言いたいんだと思う
自分としては、関羽が襄陽を取った場合、その二郡(特に西城)が
蜀軍によって陥落させられる可能性は低くないと思ってる
問題は漢中奪取後の本軍が動けるか動けないかが俺にはわからん事だね
a
地図を見てみると、魏興(西城)は漢水沿いに位置しているが、
上庸、房陵は漢水支流を遡った場所にあり、大巴山脈の山麓に位置している。
孟達が秭帰より北へ出て房陵を攻撃した事などを考えれば、
上庸・房陵間の陸路による連携も不可能であったとは言わないが、
漢水が主要な交通線を為していたとすれば、やはり一旦漢水に出てからの機動が一般的だろう。
孟達も上庸、房陵を山中の郡であると話しているし。
そういう事を考えれば、
>>983の言うように、各拠点が一本の交通線で繋がったものとは言えないと思う。
しかしながら、上庸や房陵を領有する事で、漢水の線による交通を掣肘する事は可能であろう。
私は前園顕子、32歳独身
総合病院内肛門科勤務、毎日(*)を拝見しております。
私は自称AM女です。仕事も午前中しかしませんし
名前のイニシャルもAMなのです。そして、さらにアヌスマニアなのです。
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私はいままでに沢山のアヌスを拝見させていただいてきましたが、
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それで、無礼なこととは思いますが貴方にメールを差し上げました。
一度お逢いして拝見させていただけないでしょうか?
もちろん、拝見料はお支払いします。
それと、もし貴方が私の求めているプレシャスアナルの場合は
舌でテイストさせていただきたいのです。
もちろん、テイスト料もお支払いいたします。
良い御返事を期待しています。
990 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:19:45
腹減った
う
ん
うめ
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 09:12:27
うめ〜な
おい
996 :
無名武将@お腹せっぷく:
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'''---,,i.|/ ''--,, .'--, ヽ
_,--'',.イ .\ .--,, .ヽ
./,,ィ / .i , \ ` -,,_ `ヽ_
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./ノ|.|(.ノ ,---,,,_ \i .|).`./ ./
.ノ .!| | .,- '~~~ _ .| |`./ /ヽ
.! \ .' ,ノ ( .ヽ| V /,,-''~ ̄_)
.>.\) ヽ ` , < ~
,,--┴ ┳.ニ二フハ ヽ _ .` - .、
// y- ,ヽ)).ノ イ .i.>、 ノ .~ ''''''''
/.「 ' --((./.( .i ヽ`-- '\\
/ |\ '~'.、 ハ ! .` --- , _.).)
./ ,,/|, .` -、 //( .! ヽ ./
./ r'' .! \ ~ ./ ヽ ヽ, _ ノ
././ \ ,, - .ヽ - >~
ノ/ /ノ .ノ ,,--''
( ./ノノ .ノ
.\__ _ ノ .ノノ イヽ
` 7 ヽ // / ノ ノ 人
) >> ./ !
/ \ .i | .ノ i
./ (.( .i
【佐倉広夢】
「えっ!?
>>128さん僕とエッチしたいの?」