1 :
sage:
いいかげん、広家は有罪ということでFAにしたいんですが。
懸命に戦った東軍諸将にしてみれば、南宮山の吉川毛利は不戦だろうが何だろうが敵は敵である。
戦後、たとえ家康が「いや、あれは味方だったのです。毛利家は咎めません。」と東軍諸将に言ったところで、満身創痍で戦いぬいた彼らが納得しないのは自明なわけです。
福島あたりが「こたびの大戦、不戦を決め込んだ輩が功ありと内府は申されるか!!」
と息巻く姿が目に浮かびます。
それに家康は恩賞手形を各大名に乱発してるわけで
大毛利家を潰す以外に彼らに与える領土があるますかってんだ。
以上のことを広家は頭の片隅にでも想定したんでしょうか?「不戦で功あり」という彼の考えは甘すぎると思う。
広家は「家康が勝つ!」と恵瓊に言い放ち、東軍勝利を確信したなら、なぜ開戦早々、大谷陣でも長曽我部陣でも攻め入らなかったのか?
不戦で家康や東軍諸将が認めてくれるとでも思ったのだろうか?
>>5 福島は吉川の取り次ぎをしていたし、毛利や島津の弁護をしたのだが。
旅「に」でます・・・(T_T )ブア
9 :
戦国霊媒師:2005/10/17(月) 01:58:21
ステルス戦闘機に乗りたいな。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 04:41:57
心配するな
丁児帰って来い
みんな待っている
父より
お前の好きな
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) チャーハン作るよ!!
/ o━ヽニニフ))
しー-J
これの前スレだったかな
三成が自らってそんなこといってなかったとおもうあの番組
もういいか
天才ο丁児早く語れ!
まだかー?
フー ∧_∧
~~・-⊂(・ω・`)つ-、
/// /_/::|
|:|/⊂ヽノ|:|/」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/'||
|| ||
http://m.z-z.jp/?oumu
ο丁児
統率7
武力2
知力24
政治6
人徳14
魅力5
荒し97
関ケ原東軍勝利は捏造だった!
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 06:03:43
(´・ω・`)眠い罠
>>14 ちんこさんは荒らしじゃないお(;^ω^)
まわりのアンチが荒らしてるだけだお。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 11:15:36
>>5 功アリというか、本領安堵だから、無罪放免
東軍諸将だって、あの状況で毛利に攻められたら
面倒になったことぐらいわかったはず
憎いのは三成らで、広家は仲間みたいなもの
>>18 いやチン●さんが言ってるのは 吉川は毛利家にとって有罪かどうかって事じゃないか?
毛利家を安堵してもらいたかったら、最初から徳川につくか、関ヶ原で東軍として寝返るか
しないと、有力大名を取りつぶしたがってる家康には通用しないのは、戦前より解ってる
話だろ!と言いたいんじゃ…間違ってたらスマソ>チ●コさん
チンコ
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 17:01:39
>>19 吉川は最初から東軍につこうとしたんだが・・・・
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 17:09:36
一応家康と輝元は義兄弟のちぎりも交わしていたし、
家康か輝元どちらかは必ず在坂を義務づけられていたし、
それまでは家康は律儀者で通っていたし、
その家康が輝元が積極関与してないなら・・・と保証してくれたなら大丈夫って思ったんじゃない。
甘かったのは同意だけど、それは後世の我々だからわかる話だよ。
私見だが、
長州人がどう思うと、吉川広家は毛利家の恩人。
戦う以上、勝ち組に回らなきゃ、家を残さなきゃ。
そこら辺をわかってくれないロマンチストが多すぎる。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 17:17:20
>長州人がどう思うと、吉川広家は毛利家の恩人。
>戦う以上、勝ち組に回らなきゃ、家を残さなきゃ。
>そこら辺をわかってくれないロマンチストが多すぎる。
それこそ後世の我々だからわかることなんじゃないか?
つまり毛利が参戦していれば西軍が勝って
一躍輝元が天下を狙う可能性もあったわけで
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 17:29:18
>>23 恵瓊はそう思ったんだろう
吉川はそれを小一時間つか一晩中つか何ヶ月でも
>>22 吉川が毛利にとって戦犯かどうかってのは、後世の人が決める事。
だから、このスレの誰の意見が間違っているとかは無いんじゃないかと思います。
同じく私見ですが、
毛利が負け組だとして、一番の戦犯は煮え切らない態度をとり続けた輝元だと思うのですが、
毛利家中の人としては、さすがに主君を戦犯扱いは出来ないでしょう。
一方の吉川ですが、主君が打倒家康と宣言した以上、自分が腹の中でどう思っていようと
主君の指示を実現出来るよう最善をつくすべきです。
いらぬ行動と助言で主君を混乱させ、煮え切らない態度を導いた一因を作ったのならば
戦犯扱いされても仕方がないのかもしれません。
逆に毛利は生き残ったのだから勝ち組だとすると、吉川の働きは取りつぶされるべき主家
をひっしに守り通した功労者となります。
まぁ人は「こうすればよりbestだった。敗因は××」と考えてしまう(そして他人になすりつける)
ものなので、吉川が陰口たたかれて肩身の狭い思いをするってのも解るところですね。
勝てば官軍。
小早川が裏切らずそのまま戦って西軍勝ってたらヒーロー
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 19:56:56
>>26 輝元がどうしても自分の意志を通したかったのなら
吉川を謹慎処分にでもすれば良かった
また自らが出陣して積極的に東軍に攻撃をしかけるべきだった
本領安堵は傍観が条件だから、この場合本領安堵はなくなる
そうなると吉川も腹を括るしかなくなる
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:13:26
序盤から西軍が積極的に攻撃を仕掛けたら、どうなっていたであろうか?
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:20:49
秀吉がチョン&支那を滅ぼせてれば、家康アボーンで御家安泰
秀頼は前田・福島・加藤・石田・小西らに守られて万歳三唱
>29
両軍の布陣を見れば分かると思うが、東軍は大阪方面へ進軍する構え。
西軍はそれを阻止するために関ヶ原に転進。
つまり、東軍が攻勢、西軍がそれを迎撃、と言う感じ。
松尾山の陣後も築城の形跡が残ってるようなので、西軍は持久戦も視野に入れていたかもしれない。
なら、西軍に積極的攻勢の必要はないね。
ただ、どこまできちんとした計画があったかは微妙だけど。
ο丁児は来ないし眠いし、疲れたよ。ダルいな。ところで関ケ原は紅葉の季節です。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 08:48:38
毛利家はどちらかと言えば有力家臣団の合議制的な性質がこの頃でもまだ残ってた、
という事では。隆元逝去後は輝元を叔父である小早川隆景・吉川元春がリードしたが
秀吉の小早川離間策で小早川の所領が毛利と切り離され、秀吉系の養子を入れさせられ、
元春死去後はもともと凡庸な輝元を補佐するのは政略の安国寺と両川後裔の広家が
メインにしても秀元・元康・福原・宍戸などの一門・譜代に加え、元就の息子を養子に
入れている国人系も多く120万石の舵取りはだったろう。
故に西軍につくか東軍につくかは広家・安国寺等有力家臣(というか独立した大名だがw)
が我意を通そうと暗躍をしてたが、肝心要の御本家が明確な戦略が無かったのが最大の
敗因だろう。ひょっとして東軍勝ったら安国寺が責任を負って、西軍勝利なら広家切腹とか
で本家安泰って考えてた訳じゃないと思うが、このどっちつかずさは拙いわな。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 12:26:28
西軍勝利→総大将として勝利
東軍勝利→本領安堵
事実、この通りの約束であった
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 14:05:26
ま、確かにそうだが…。輝元自身が
>>34の言う二つのカードを睨んで身を処したとも
思えんな。結局家臣でもない親戚と謀略和尚に訳わからんまま振りまわされたって事か。
キャスティングボートを握る立場で日和見という御都合主義にしか見えんわな。
家康でなくとも言い掛かりでもつけていびったろうとは思うだろ。
そもそも広家が本国にいれば輝元が恵けいの書状で大坂にのこのこ引っ張り出されることも無かったんだがな。
輝元と勝頼の中身が入れ替わってれば歴史変わったかもな。
父の遺言通り3年喪に服す勝頼、今がチャンスと大将自ら出陣する輝元。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 18:21:04
幸村なら勝っていた!!!
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 18:56:59
ο丁児なら勝っていなかった!!!!!
丁児!!!いるならコテハンで出て来ーーーーーーい!!!!!!
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 19:16:14
丁児だけ見てな!
アマーーーーーーーーーーーーイ
>>23楽して勝ち組にはなれんがなー
ということで吉川さんは甘ーーーーーい
42 :
判決:2005/10/20(木) 21:06:15
確実に勝てた戦いをサボった以上吉川が関ケ原の戦犯である。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 21:26:07
ハンケツ
西軍で勝てると思った安国寺が戦犯である
アマーーーイ
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 06:05:29
いいかげん、広家は有罪ということでFAにしたいんですが。
懸命に戦った東軍諸将にしてみれば、南宮山の吉川毛利は不戦だろうが何だろうが敵は敵である。
戦後、たとえ家康が「いや、あれは味方だったのです。毛利家は咎めません。」と東軍諸将に言ったところで…
と丁児は言うが、だからこそ毛利は計算してあえて険しい南宮山に陣を構えたのであーるR
ハロウィンだかエドウィンだか知らねーけど眠い罠
なあ丁児さん
>>42 西軍から見りゃ戦犯だが、東軍から見りゃ真のMVPだけどな。
広家が秀頼&輝元が関ヶ原に参戦しないよう勤めたおかげで家康に勝利の可能性がうまれたわけで。
表のMVP秀秋の裏切りなんて秀頼&輝元不参戦の前提があってのもの。
南宮山に陣取りいつでも背後から家康を討てる(戦局次第で西軍に荷担することが見え見えな)状況で
日和見を決め込み結果的に戦闘に参加しなかった広家に対し、防長二国の恩賞はあまりに大きい。
皮肉を言うと徳川幕府成立のMVPは三成。
関ヶ原があったおかげで諸大名も豊臣家臣も邪魔者一掃できた。
それを言っちゃあおしまいよ
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 11:47:01
皮肉を言うと徳川幕府成立のMVPは直政。
彼が関ヶ原決戦を主張した
>>48 それは皮肉でもなんでもないかと・・・
「西軍側」の人物を挙げないと皮肉にならないよねぇ・・・
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 13:30:50
東軍MVP…黒田甲斐守長政
福島・加藤ら豊臣恩顧の七将を煽り、豊臣恩顧大名の離間の端緒を作る。
福島正則に徳川馳走の先鞭をつけさせ小山軍議を成功ならしめた。
また吉川をたらし込み毛利不戦に貢献。軍功よりも戦の前までの政略による
功は第一等である。
西軍敢闘賞・・大谷刑部少輔吉継
病身に加え、わずか5万石の所領ながら越前の諸将や与力大名を良く
指揮し、加賀前田の大軍を関ヶ原に参戦させなかった功は大きい。
関ヶ原本戦においても与力衆と共に奮戦し藤堂・京極勢を寄せつけ
なかった上に金吾中納言寝返り後もその大軍の攻勢を暫し支えた。
またその最期は西軍の奮戦振りと名誉を後世に語り継がれ、戦に敗れた
ものの、戦後に刑死・戦没・落魄した西軍諸将に好印象をもたらした。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 20:31:18
>>49おっーーと
丁児に華麗なるスルーーーーだあ
引っ越ーし引っ越ーしサッサと引っ越ーし
フンギャーーーー
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 22:10:49
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 07:21:11
楽天の三木谷社長曰く
「人生最大のリスクは、達成感を味わうことなく死ぬこと」
なんだそうだ。徳川家康も石田光成もそういう意味では大勝利!
敗者は小早川秀秋ひとり。
こやつめ!はははっ。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 12:54:18
小早川も大勝利かもよw
オレが西軍を破ったとオモタかもw
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 13:57:22
>>53 それは三気谷の価値観だろ。
達成感なんて人間の欲は無限だし
その己の欲の為に他人を傷つけることも多いわけで。
己の達成感なんて基本的には
自己本意なものから、他人を無用にまきこむなといいたい。
たとえば達成感を味合うため
争いを引き起こした家康だ。
三成達を煽った感はいなめないから。
結果戦乱により戦死した未来ある下級武士達の
ことを忘れてはならない。。。
56 :
□丁児:2005/10/23(日) 15:25:46
家康軍に消された西軍将兵もいれば三成軍に消された東軍将兵もいるわけだ…
だから?
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 23:16:31
なんか新スレになってからツマランな…
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 23:41:52
新しいお客さんが来ないと盛り上がらないのでは
★自説★石田三成軍は鬼神兵だった!
6000の兵は東軍約60000に値する。小早川15000の裏切りに対して百人力の島隊500を派兵し軽く撃ち破る。そして石田本隊は徳川旗本まで迫りこれを撃ち破る。関ケ原は実は西軍が勝ったのだ!
しかし、前田や秀忠軍の来襲及び毛利軍の裏切りに耐えきれずついに米原付近にて壊滅したわけである。
分かったか!丁児!
いまは秋休みもあるのか?
>>59 ここは真面目に語るスレなので、そういうネタはやめたほうがよいですよ。
ここの住人の方達は真面目に語りさえすれば、怒らない大人の人々が多いので
あなたも今後そのようなレスはしないほうがいいですよ。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 22:07:35
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 22:56:15
盛り上がらんな。
ヒマだから、三成の肛門でも蛇責めするか。
まじめに語らないネタスレはないのか?
アホみたいなif話が結構好きだったのに
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 10:44:44
もともとここは結構真面目なスレだったからなぁ
前スレの半ばで、コテハンが何人か来て、アホな事言い始めた辺りで
かなりの奴が嫌気さして去ったっぽい
68 :
ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/10/26(水) 12:24:17
>>67 面白いですね。便乗裏切りの子孫、しかも裏切ったのに結局取り潰されてしまう小川家。
供養祭当日は本多や石田子孫グループたちに
子孫A「ほら、あそこのテーブルに座っているのが、例の小川さんだよ」
子孫B「ほうWWあれが例のWWWWWW」
と遠くから後ろ指を刺されて、居場所なく、一人ウロウロしていたところを
マスコミがインタビューしたと思われWWWWWWW
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 13:39:31
しかし、俺らもここで必死だが
リアルで必死な椰子らもいるんだなあ
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 13:48:37
家康の論功行賞はかなり恣意的
まあきちんと理由があったのかもしれないがよく見えないものもある
小早川も本戦で参戦しなければ取り潰されたものと思われ
ふむ分かったよ丁児君。ところで君は関ケ原の唯一の博物館に行ったことあるのかい?行ったら家紋付きの硝子文鎮買うんだよ。以上
関ヶ原通り過ぎるときは緊張するってテレビでだれかが言ってた
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 14:30:21
そいつはなかなかのサムライだな
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 23:22:01
丁児わけわからん。
関ケ原に来ないで!
混乱する。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 23:34:19
大河の葵で家康が黒田長政か秀忠に「○○から目を離すな」
と言っていたんだけど誰か思い出せない。
福島正則だったような気もするけど・・・
誰か教えてください。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 11:46:17
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) 揚げ豆腐を作るよ!!
/ o━ヽニニフ))
しー-J
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 18:41:40
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 21:13:21
【 三戦板 自治大集会 召集状 】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この度、三戦板住民全員参加の自治大集会を開催することになりました。
つきましては、各スレで代表を選び、自治大集会に必ず出席してください。
明るく楽しい板を目指して住民の英知を結集しましょう。
万が一、欠席の場合はスレ削除を含めた制裁が課されますのでご注意ください。
1.日時 平成17年11月6日(日) 夜9時
2.場所 下記スレ(三戦板の自治スレ) *スレ消化の場合は次スレで
【三戦板】自治新党その58【新秩序】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1130139309/l50 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
こないだ読んだ「戦国時代の終焉」って本によると…
天正14年正月に秀吉は東国出陣の命令を出していたらしい。
上杉には2月中に信濃出馬願いを出してるので、かなり本気だったみたいだけど、
織田ノブヲが徳川と秀吉の和議を取り進めたので延期になったんだと。
いらん事するなよな>ノブヲ。
80 :
sage:2005/11/03(木) 22:57:05
>>79 そうなんだ。初めて聞いた。
豊臣政権が続くためには内乱自体が起きないことが重要だとおもう。
豊臣家自体は君主の絶対化が相当な度合いで進んでいる癖に、
豊臣政権はモロ一揆構造だからなあ。
強い国力をもつ外様が権力まで握ってしまうから、どうしても内乱が起きやすい。
輪をかけて最悪なのは秀吉の大盤振る舞い癖。
徳川をどうにかしても第二第三の徳川が現れそうな予感。
五奉行制度ってのは、結局他国同士の連合でしかないわけで、
わかりやすい例で言うと国連。
五個の常任理事国が連合っていうシステムを運営するわけだけど、
ソ連時代のアフガンやこないだのイラク戦争みてもわかるよに、常任理事国、
特に大きな軍事と経済力を誇る国の独走を止めることが出来ないのです。
そう言った意味では秀吉個人は日本を統一したのかもですが、政治的には
統一しきれていなかったのかもしれません。
なにより支配って意味を彼は理解していたのか疑問ですね。
理解していたら基盤固めもせずに外征はしないよ。
同盟重視型の覇権国家は力を誇示してるだけでは不十分で、
麾下の同盟国や属国に運命共同体だと思わせる必要がある。
時間をかける、融和させる、目標の共有などいろいろな方法はあるだろう、
それがないと英雄への服属にはなっても、制度への服属にはならない。
朝鮮遠征をはじめ、数々の御乱行は豊臣政権に不信感を抱かせたかもね。
粛正の嵐を吹かせて絶対化を図るか、豊臣政権に従い続けた方が得策だと刷り込まないと
内輪もめは絶えないだろうさ。
或いは大規模な内乱に勝って制度を一新するとか。
そう言った意味では家康は徹底して徳川の権力強化とじゃまな大名の取りつぶし
で、政権安定にはがんばってるよね。
2代秀忠でさえ、たくさん大名廃絶してるしな。
関ヶ原と大阪の陣でえらく評判落としたけど、国の安定=平和政権って意味では
見直す価値ありかも…
オレには無理だけど。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 17:47:20
政治機構としては徳川幕府は豊臣家よりもはるかに優れていると言わざるを
得まい。200年以上の平和をもたらした事実は事実。またそれを安定化させる
政治的努力は惜しまなかった。
豊臣政権は政権の態をなしてすらいない。権力者の思惑を実行していく為の
権力装置に過ぎず、全国の統治も大名にまかせっきりでお構いなし。
せいぜいが刀狩・太閤検地くらいだろう。
そういう点は大いに見直して欲しいものだ。
オレには無理だけど。
冷静なお前らは好きだw
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 22:54:59
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 22:56:23
>>85 そのとおりなんだが、それは徳川の歴代の為政者が心を砕いた結果であって、
家康の時代の幕府機構を比べれば豊臣と比較して格段に優れていたってシロモノ
ではないよ。
両者の異なる点は、徳川が文字通り国内最強の勢力であったということ。
それを可能にしたのが関が原の勝利。
秀吉は、国内統一を目指す余りに毛利や徳川といった外部の大勢力をそのまま
温存させてしまったことが問題になった。もともと秀吉の勢力基盤が織田と信長
に依存するものであったことが原因だな。おかげで、味方に対して強い態度が
とりにくい。一族や譜代家臣に大封土を与えて政権強化もできなかったし。
>>89 確かに家康のころは制度的に未発達な部分もあるが、
秀吉存命の頃は秀吉のワンマン、
死後は有力大名、特に家康に丸投げで、
制度も機構もほとんど申し訳程度にしか存在しなかった豊臣政権よりは、
遥かにましだったと思うけどね。
>>89 徳川が文字通り最大の勢力…
そこが大事だと思うのだが。
秀吉も飛び抜けた一番な羽柴領をもてる方法は有ったと思うのだが、
九州征伐や小田原で一人がめしちゃえば…少なくとも外様を甘やかすのはどうかと
思うし、島津・徳川・伊達なんかちゃっちゃと滅ぼしちゃえばよかった
ってのは言い過ぎでしょうか?
信長があまりにも我儘して失敗してるのを見てるからトラウマになってたのでしょうか?
>>91 する力がなかった、というのは正解。
島津や伊達は問題じゃない。問題なのは毛利と徳川。
徳川は滅ぼしきることができなかった。毛利は味方で、本能寺直後の秀吉に
とってはある意味後援者のようなものだった。
後に搦め手で毛利を押さえ込もうとしたが、小早川隆景に止められたし。
逆の見方をすると、北条だって氏政自らがちゃっちゃと上洛して恭順を示せば
滅びる事はなかったと思う。 そりゃ領地は一部削られたかもだけど…
彼らは要領悪すぎかも。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 04:37:23
最大の問題は外様の強すぎじゃなく
身内の少なさもしくはあっても能無しが多い点だろ。
あんだけ女好きで側室も多いんだから徳川家斉なみに子供がいたら
また秀頼の姉妹になるような実の娘がたくさんいて諸侯へ姻戚を丹念にやってたら
あれだけあっさりした徳川への権力の委譲が起きたかどうか。
よく効かれる秀次や秀長が生きてたら関が原はなかったといわれる点からしても。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 04:45:50
で
>>83 >>同盟重視型の覇権国家は力を誇示してるだけでは不十分で、
>>麾下の同盟国や属国に運命共同体だと思わせる必要がある。
>>時間をかける、融和させる、目標の共有などいろいろな方法はあるだろう
だからこその対外進出だろ。
国家としての大イベントで・・
>>95 内政をおろそかにして対外拡張策で諸侯をまとめ上げるような方式は、
うまく行っている間はよいが、つまづいたとたんに瓦解する。
そしてこれまでの歴史をかんがみて、対外拡張策がつまづかなかった例はない。
豊臣政権の場合、その対外拡張策もずさんだったわけで……。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 13:57:16
30歳下の息子がいれば全然違っていたね
>>95 武家にかぎって言えば、
ようやく大国のパワーゲームから開放されると喜んでいた中小大名達、
遠征割り当て分を確保するために狂奔するはめになった大名(島津・宗など)達。
彼らの意向とはかけ離れたものなんだが、対外進出は。
唐入りは所詮、秀吉個人の夢に過ぎない。
秀吉の子飼いを除けば、同じ夢を見ている奴は少ない。
目的の押し売りは、
反感を買うまではいかないまでも白けるには十分。
十分反感買ってただろうな。表立っては言えないだけで。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 23:51:03
社長には言えないので、三成が一身に恨みを受けた
関ヶ原の遠因に
自業自得か
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 00:09:38
>>91 豊臣も、身内や腹心でかなりの領土を固めていたが。
内部分裂さえなければ、豊臣政権はまったく揺るがなかったと思うがね。
島津や長宗香部なども、秀吉にこてんぱんにやられながら
命を助けられたどころか家の存続まで許されたってことで、
豊臣政権への忠誠心はかなり高かった。
徳川に関八州を与えたのは、その地の農業生産力を過小評価していたの
かもしれん。
もっとも、もともと関八州はすべてじゃないだろうが3カ国100万石くらいを
堀秀政に与える予定だったとも。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 00:17:23
>>102 外様は基本的には忠誠心がない
あったとしても、正規軍対反乱軍の戦いと見れば、東軍につく
豊臣政権は秀吉のパワーでもって形成・維持されたものなんだけど、
秀吉死後は外様の大大名のパワーに頼らなければならなかった。
外部の勢力に頼らざるを得ないっていうのは、十分不安定な要素だよ。
徳川だけじゃなく、上杉だって毛利だって野心がなかったとは言えんわな。
家康も秀吉が死ぬまでは律義者で通っていたんだからさ。
>>102 仮に豊臣政権への忠誠心が厚かったとして、
問題はさ、政権内部での頼れて話せる上司が徳川家康だって事。
秀次事件の時をはじめ、家康が仲介していることが実に多い。
それに対抗しうる存在は秀長、辛うじて利家くらい。
もちろん、家康も打算があってしたことだろうが、それでもちゃんと助けてくれるからな。
最上義光をはじめ、入れ込んでいる大名はかなり多い。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 00:56:50
家康は助けもしたし(秀秋も助けた、宇喜多のも一応裁定)
結婚で強力な地盤を作った
結婚以外にも色々やっただろ
一方西軍は結婚してないし(当たり前だが)助けてもいない(権限がない)
家康は、違法に加増もした
じゃあ、はじめから家康を粛正していれば・・・・
と考えた場合、豊臣政権がまともな運営がされない予感。
粛正とお家騒動、島津みたいに吏僚派の活躍で内部分裂などがエスカレートしそう。
家康は豊臣政権に必要な男だと思う。
理想的な人材は、演技ではない三河の律儀者だな。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 01:18:08
>>105 豊臣政権の不幸は、秀吉の後継者が育っていなかったことに尽きる。
秀吉に子が生まれなかったという特殊な事情があるが。
秀次もそれなりの人物だったと言うが、三成ら文治派に肩入れ
しすぎたため福島正則ら武断派武将の心を掴むことができず、
結局彼らによって追い落とされてしまう。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 01:35:39
>>107 後でどう化けるかなんて予想はできない
三成は忠義者のはずだが、独裁になった場合どうなるかの保証は誰もできない
全員怪しいと言うことであれば全員殺すしかない
結局、秀長の早死にが悔やまれるな。
>>105 隆景を忘れてますよw
秀長同様秀吉より早死にしてるけど
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 08:38:01
>>110 朝鮮出兵や、後継問題などをめぐって、
頼朝・義家兄弟のように対立する可能性も否定できない。
>>112 そもそも秀長が生きてたら朝鮮出兵があったか疑問だけどなw
前後の秀吉を考えると秀長と息子の死が朝鮮出兵に踏み切る引き金になった可能性も否定できない。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 10:45:36
小早川や吉川には期待できないから、立花らの援軍が早く到着するべきだった
彼らが大津城に固執しすぎたのが西軍の痛手になったと思う
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 10:46:26
豊臣政権はせいぜいが太閤検地・刀狩で統治と収入の基盤を確立した事と堺・博多
など貿易の利権、佐渡金山・石見銀山など鉱物資源独占による莫大な収入源を確保
するなどの歳入面での政策はあったが、それ以外の民政は各大名任せで、その
大名を厳しく律していく「制度」が無かった。
すべてが「太閤殿下」という威令に服している事が唯一のルールで、とても
の事、すべてが制度化されていった徳川幕府とは比較にならない。
このような状況で太閤自身が老齢化し、後継者がおらず、有力な一門衆が
存在しなければ、政権の危機は既に目の前にある。
国政の低迷による不満と突き上げが、結果として外征に変化することは歴史上
珍しい事ではあるまい。WWUのドイツ、アルゼンチンのフォークランド紛争
などは記憶に新しいところである。
朝鮮出兵は太閤の老耄のもたらした人災なのか、政権への求心力維持の為の
窮余の策であったか、今となっては徳川期を経た資料から判断するほかない。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 10:53:50
>>114 秀長と息子の死は関係ない。
朝鮮出兵・明の支配は秀吉が長年温めていた構想。
むしろ秀長がそれに反対することで、兄弟の対立が起こる可能性が
高かった。
じっさい秀吉は、内政重視を掲げ朝鮮出兵に公然と異を唱える秀次を
次第に疎ましく思うようになっていた。
秀頼誕生は、秀次失脚のきっかけに過ぎない。
>>117 秀長は既に反対してましたけど・・・。
実行しなかったのは秀長が始め多くが反対してたから、踏み切るきっかけにはなってるよ。
>>116 そうした秀吉の失敗をみて、徳川が改めたとは思わないのかな?
実際、家康だって諸大名を統制する制度をはじめたのは豊臣を滅ぼしてから。
よく信長・秀吉・家康の三人を比べてどうこうって説はあるけど、たいていは
時代の流れとその時期の違いを考慮していない。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 14:34:16
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 14:39:09
>>119 >そうした秀吉の失敗をみて、徳川が改めたとは思わないのかな?
ってそれ完全なあなたの推論でしょ。
百歩譲って徳川幕府の制度で固められた行政システムが豊臣政権の失敗から
学んだとして、少なくとも前者の失敗から最善を引き出そうとする「改善」を
求めるまともな政治機構だと思う。
翻って豊臣政権は、その前身ともいうべき織田政権や室町幕府と比して似たり
よったりで、まぁせいぜいが織田政権を継承したというもので改善された何かを
見出せない。
それどころか自身が貴族化するのは古くは平家一門の如くであり、大大名の外様が
多数あり、その政治組織として機能不全に陥っている辺りは室町幕府そのもの
ではないか。
いずれにしても二つの政治形態を比較するのには客観的事実から判断するほか
ないでしょ。
例えば、ラーメン。もとは中国だが今中国にあるのは原型としての極めて簡単な
麺類に過ぎない。現代になり満州占領などの頃から日本に流入して今日のラーメン
ブームをみれば分かるが百花繚乱な状態。香港・台湾の観光客も日本のラーメンを
わざわざ食べにくる様相だ。ここで、
・中国のラーメン原型の麺類
・日本の行列が出来るラーメン屋のラーメン
とを比較した時に、日本のラーメンは中国の麺類を改良したもので時代の流れを
考慮すれば中国の原型麺類が優れている、という評価に果たしてなるだろうか?
>>121 その場合、比べるのならラーメンの原型と、日本にもちこまれてつくられた当時のものをすべき。
改良に改良を重ねたものならそっちのほうが優れているにきまっている。
秀吉と家康を比べて優劣を出すのなら、両者が生存中の状態で比較しろ。
秀吉が死んでこれ以上どう工夫もできなくなった状態と、家康はまだ生きていてプラスもマイナス
も知った上で改良した結果を比較してどうするよ。
お前が言っているのは、「シャカも孔子も相対性理論を知らないが、俺は知っている。だから俺の
方が優れている」なんてほざく馬鹿と同じだ。
>>122 何を比べるかによるだろ。
知識を比べるなら、現代人のが圧倒的に優れているだろうが、
知性や教養、哲学でシャカや孔子に現代人が勝るわけではない。
物差しはひとつではない。
二人の作った政権の違いを比べるなら、時を完全に一致して語れるはずもない。
秀吉の政権は、結局は既存のシステムの枠から出る事はほとんど無い。
検地や度量衡の統一を全国規模で行ったことは評価できるが、自領内だけで統一したものは既にいる。
対して、家康・秀忠は権力を拡張ではなく、
既存のシステムを改良・強化し長期的な安定統治のシステムを築いた。
二者の明確な違いは、
手にした権力で、夢を優先した秀吉と、現実を優先した徳川。
124 :
121:2005/11/06(日) 18:35:54
>>123 御見事。
理路整然、簡潔且つ無駄なし。脱帽です。
こんな風に綺麗にまとめて書けるようになりたいものです。
>>124 書いた本人が言うのも何だが、割と穴だらけだぞ?
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 18:49:43
まぁなんだ秀吉だって織田やら足利の有様を見てるんだし、工夫する時間も力もあった
んでねーの。
>>123は「両者が生存中の状態で比較しろ」というのはちょっとなぁ。
後から出てた権力が前の権力者より失敗から改良できるなら、世の中どんどん
よくなるよw
127 :
124:2005/11/06(日) 18:52:30
>>125 いや、私が書いたら同じ内容が書けたとしても無駄に長くなってしまい
ますよ。そういう意味で御見事と思った次第です。スレ汚しで失礼しました。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 18:54:10
>>125 結構、暴論気味にまとめちゃった方が端から見るとスッkリ見えるよね
>>121 秀吉も信長の失敗から学んでるんじゃない?
部下をあまり締め付けすぎると、ぶち切れて爆発するから、甘く接しようとか。
逆効果になったけどw
まあ、配下に強力すぎる勢力を残すと、碌なことにならないという先例なら、
秀吉にも参考に出来るものはあったのは確かだわな。
鎌倉幕府といい室町幕府といい。
130 :
121:2005/11/06(日) 20:03:32
>>129 無論まったく学ばなかったとは思ってないです。
信長からは主に戦や外交の駆け引き、組織編制なんかは学んだと思います。
織田政権は政権としての態を為す以前に崩壊した言わば軍事政権というか
軍政としての政治権力ですから秀吉が天下統一後に活かせるような内容が
少なかったかもしれません。
豊臣政権と徳川政権を比べる以前に、豊臣の政権なのに他国の大名が政権参加してる
事がおかしいんだよ。
日本の官房長官を韓国の首相が務めてるとこ創造してみたら一目瞭然。
だから豊臣政権なんて無かったんだよ。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 16:03:14
>>131 なんで日本の時の権力者が将軍や
関白などという役職を必要としたのか
考えてみてください。
韓国とか持ち出すのは
次元が違う話だと分かるはずです。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 17:24:09
>>131 他国の大名?
徳川も毛利も上杉も皆、太閤に臣従してるよ。
元亀・天正のバリバリの戦国時代と豊織時代とは違う。既に日本統一はなって
いる。事実、日本国60余州の大小名すべてが伺候してる訳だから秀吉の家臣では
無い大名は一つもない。
小牧・長久手合戦の後に秀吉が家康にみなの前であなたを家臣として扱うが
良いか?と要請したのは、あの家康ですら秀吉に屈したと見せ、未だ同僚気分の
抜けない旧織田系大名たちに天下様とは誰かを分からせる為だ。
もしも織田信長が京に上洛した頃に松永久秀が織田家筆頭家老だったら131の
言うとおりだけどねw
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 19:17:11
豊臣秀吉は結果的に外征・建築道楽・女道楽と良いとこなしみたいに見えるが
信長時代ではあり得なかった融和政策を採った為に迅速な統一を成し遂げて
徒に民草を疲弊させる事が無かった事と結果はともかく長きに渡った戦国の
世を終わらせた事は事実だ。
もしも秀吉で明智を討てずに終わったら、徳川家康はどのように天下を統一
したんだろうね。ま、徳川じゃない可能性も相当高いけど、秀吉のように
天下を一気呵成にまとめられなかったような気がするなぁ。
>>131 要するに、江戸幕府の要職になれるのが徳川家譜代や旗本に限定されていたのに対して、
豊臣時代は外様の有力大名がそのような立場になれたのが問題と。
そういうこと?
でもそれは散々言われている政治体制の性質の問題であって、
豊臣政権がなかったとはちょっと言えないわな。
>>134 融和政策をとったがゆえに、外様の大大名を多く作ってしまい、
結局それが豊臣家滅亡の原因になってしまったわけだがな。
もっと時間をかけてじっくりと天下を取ればよかったものを、
結局焦ってしまったんだろうな。
それまで足軽からとんとん拍子に出世してきて、早く頂点に登りつめたくてたまらなかったんだろう。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 19:49:39
>>136 そうですね。
秀吉の成功の根本的要因がその政権の致命的な要因と同根とは皮肉な
限りです。
もっとも信長とて古いものに囚われない実力主義の人事抜擢、合理的
だが利己的な外交政策、苛烈なまでの信賞必罰主義など織田氏の勢力
伸長を加速度的に早めた成功要因だが、これが信長の寿命を縮めたと
いえなくもない。
長所と短所は紙一重だね、まったく。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 20:51:47
利家存命の豊臣政権で徳川とガチンコやってほしかった
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 21:35:49
豊臣が外様を弾圧して、その結果反動で滅んだ場合
融和的に外様を取り込むべきであったと言われるよね
徳川も、薩長を潰しておけば・・・・
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 21:47:40
もし織田信長が生きていれば、豊臣秀吉より早く天下を統一したと思う?
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 21:49:23
>>140 思う
毛利が潰れればある程度雪崩現象も期待できる
四国も制圧寸前だし、北陸もまあまあ
武田は潰した
後は北条か
>>140 島津・大友から北条・伊達まで信長とよしみを通じようとしていたそうだから、
そいつらをそのまま傘下におさめるならかなり早く統一できたかも知れない。
しかし、そういう連中の勢力を温存しては、
豊臣政権と似たか寄ったかの大規模外様勢力を残してしまうことになるし、
信長はそういうのを好まないのではないかと思う。
もしも、そういう勢力の力を削いでいくつもりなら、それなりに抵抗もあるだろうから、
秀吉による統一よりもむしろ時間がかかってしまうかもしれない。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 22:04:11
>>142 >しかし、そういう連中の勢力を温存しては、
>豊臣政権と似たか寄ったかの大規模外様勢力を残してしまうことになるし、
>信長はそういうのを好まないのではないかと思う。
>もしも、そういう勢力の力を削いでいくつもりなら、それなりに抵抗もあるだろうから、
>秀吉による統一よりもむしろ時間がかかってしまうかもしれない。
私も、そう思いますね。
その代わり、磐石な織田政権が完成していたのではないかと思う。
それに、織田信長が天寿を全うしていれば豊臣秀吉より長生きできたのではないかと思う。
そうなれば、徳川家康といえど天下を統一することは不可能だったと思う。
信長死んでも跡取りは決まっているからなあ。
統一前に信長が死んでしまえばどう転ぶかわからないけど、
統一後なら大きな波乱はないような気がする。
秀吉にも家康にも付け入る隙はほとんどないでしょう。絶対とは言わないが。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 22:28:55
秀吉は1590年に天下を統一しているけど、信長なら何年頃に天下を統一したと思う?
>144
統一前に信長が死んでも、本能寺のような突発&衝撃的な死に方で無い限り、信忠で安泰では?
実際の信忠も家督相続後、軍事的にはほとんど親父の代理を務めて上げてるし。
>>146 不安要素は残ると思いますよ。
征服すべき相手が残ればそれを制圧しなければならないし、
そうなればそこで活躍した家臣に俸禄も与えなければならない。
しかし、あまり多く与えてはそれらの勢力が強くなりすぎるし、
そこら辺の手綱の引き締め方が難しい。
信長配下の有力武将と言えば、
信長に実力を見込まれその下で鍛え上げられた海千山千のつわものぞろい、
それらを二代目が制御するのは浪並大抵のことではないと思う。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 22:58:04
もし本能寺の変で信長だけ死んで信忠が生きていた場合、
織田政権が内部崩壊で自滅して、天下を統一できなかった可能性もあると思う。
そのときは、毛利や島津や徳川や北条や伊達が漁夫の利を得る結果になっていたかもしれないね。
ぶっちゃけ信長本人だって、
結果的には有力家臣の操縦に失敗して死亡したわけだし。
まあ、信長なら隙さえ見せなければ討たれなかったかも知れないが、
信忠ではどうなるかわかったものではない。
信長存命中に有力家臣を掌握して歯向かえない体制を作ってくれないと、
下手すれば室町幕府の二の舞。
家康の存在が奇跡のように思えてきたよ。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 23:51:02
>>150 織田信長が天下統一前に死ななければならず、かつ豊臣秀吉が天下統一前に死んではいけない
この2つが、徳川家康が天下統一するための必須条件だったわけだね?
秀吉がいなかった、もしくは天下の器じゃなかった場合、柴田vs徳川になったのかな。
信長、信忠亡き後、結局織田家家中をまとめられる人物は出て来なかったわけだし
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 00:05:14
>>143 しかし、家康の処遇が問題になってくるな
そのままだと最大の外様になることは間違いない
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 00:06:10
信忠はまあ難しいわな。
実力は今ではそれなりに認められているが、信長の威光なしに単独でやっていける
だけの実力があるのかといわれれば、そんな状況がなかったから不明としかいえない。
ただ、尾張出身の織田恩顧な勢力はそれなりにあるし、秀吉だって信長の正当な後継
である信忠に逆らうなんて、よほど信忠が秀吉に酷いことをしない限りそうそう周囲
も認めないだろうし、無難に勤められるんじゃないの?
ただ、信長ほどの絶対専制権は確立できなかったかもな。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 00:31:43
信長は勝つ家と合戦したり、実力で専制体制を構築したからね
信忠は、多少弱いだろうね
でも、それほど有能でもない秀忠が生き延びたところを見るとどうにかなるかもね
ただ信長は、政権の世襲なんかどうでもいいと思っていたかもね
それほど優秀ではない?
幕府を作ったのは家康だが、それを育てたのは秀忠なんだがな。
地味だし、軍事的な才能は欠けてるだろうが、二代目としては抜群の政治的センスを持ってるぞ。
家光と綱吉があれだけむちゃを出来たのも、
それでも幕府が倒れなかったのも、秀忠が家康の遺志を継いで体制をきっちり固めていたからだよ。
家康は乱世の姦雄だったが、秀忠は治世の能臣だった訳だ。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 05:28:37
秀忠はダメだろ
秀忠が優秀というなら、信忠は優秀
>>157 >ちゃんと遺志を継いで
↑
ここが秀忠のえらい部分。
自分が最高権力者になってしまったら、先代の言い付けを守るのは案外、むずかしいことです。その部分は偉いと思う。
だけど、取り柄はそこだけ。あとは並みじゃないかなと思う。
と、ここまで言うと「大名家の跡取りが“並み”であることが、いかに難しいことか!」と批判を浴びそうだけど、とにかく「優秀」という程ではない。
月並みの意見になって申し訳ないが、“並み”の人間でも手綱をさばけるように「幕府」を仕立てたのは家康ということです。
以上の関係を、現代社会を例にとれば、
医者の息子は、とりあえず並みであれば医者になれる。
だが、サラリーマンの息子は、よほど優秀でなければ医者になれない。
すなわち階層によって合格ラインが違うのである。
将軍家の跡取りなら“並み”であれば当然合格。一般家庭の“優秀”に匹敵する。
最後に。
家光公は、確かにひどすぎると思う・・・いかに「“並み”であることが大切」かがわかる。
>147
信長が統一前でも平穏なうちに無くなった場合、代替わりで本能寺の時のような大混乱は起こらない。
少々の停滞はあるかと思うし、信長のように敵対勢力殲滅的な政策も修正するかもしれない。
でも、信忠自身にも親父の威光が多分にあったにせよ、実績&能力も確かにある。
清洲会議で秀吉側に回った連中も信忠を見くびる事は無いと思うし、勝家にしても織田「家」絶対、って感じだ。
家督に名乗りを上げた信孝も、1582年時は方面軍司令官格になってたけど、長らく信忠旗下にあったので、信忠健在なら頼りになる連枝になるんじゃないかな。
逆に、見識の低い信雄は足を引っ張る可能性もあるが。
信忠の政治的な部分が不明なため(特に政治的な部分)、不確定要素も多いけど、生前の実績を考えればなんとかなったんじゃないかな。
地味だけど、濃・尾は堅実に統治していたし、新領土で信忠が管轄していた(と思われる)信・甲も獲得直後に係わらず、そんなに問題は起こってない。
信忠は本能寺時点ですでに家督継いで国主を務めているわけで。
本能寺以前に複数の国を本拠にして統括していたのは柴田勝家と信忠くらい。
秀吉の立場を高く見すぎなんじゃないかと。
>>160の信孝連枝はいいね。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 08:55:19
信忠は家督を継いで公式的には権力の継承は具体的な形をとっており、体制的
にも方向性は決まっていた。故に本能寺の変のような突発的事変・クーデター
が起こったとしても信忠が生きてある限り、織田政権は揺らぐまい。
史実の本能寺の変では、その公式な後継者も同時に死去してしまい、織田政権
の権力装置の所有者が誰の手に帰するかが瞬間的にブランクになった事が
大きなポイント。信孝・信雄は年も近い(同い年?)で同じくらいにボンクラ
で、所領としても大きくはないどころか有力家臣と比較すれば政治的には下位に
ランクされてたろう。直系の三法師は幼児に過ぎない。
こうした真空地帯ともいうべき状況下に明智を討った最大の功労者という立場
を最大限に活用し、瞬間的にイニシアティヴを握った秀吉の大博打だったと
思う。
重複するがこうした様々な偶発的な要因とそれを活用出来る人物がいなければ
信忠が政権を継承したはず。誰かが書いているがその際に織田家の戦略は一旦
停滞するだろうし、変更される可能性もある。信長のやり方は彼個人でしか
できないカリスマ性あっての仕事だが、二代目にはそれに見合った穏便なやり方
になるので秀吉風な融和政策に方向転換したかもね。
そういう意味じゃ徳川的な権力委譲の変遷みたいなもんかな。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 09:07:07
考えてみれば徳川家が関八州の主になっても、天下を取っても有力家臣や
一門衆に過大な所領を与えなかったのは織田家の衰微の経緯を身近に見た
ことも大きな要因かもな。
譜代や寵臣が大きな力を持てば、一朝事あればいとも簡単に主家をほっぽり
だして跡目争いだからなぁ。
@大所領を与えられた一門衆が幅を利かせ、主家をほったらかして跡目争いに明け暮れる。
↓
Aその政権が滅ぶ
↓
B新政権が前政権と同じ轍を踏むまいとし、功臣に大所領を与えて、一門衆を冷遇
↓
C時が経ち、かつて大所領を与えられた功臣の孫たちが幅を利かせ、中央の指示をまったく無視して、近隣の敵と戦いに明け暮れる。
↓
Dその政権が滅ぶ
↓
E新政権が前政権と同じ轍を踏むまいとし、一門衆に大所領を与えて、功臣を冷遇
↓
@に戻る
日本史、中国史、西洋史問わず、だいたいこのサイクルが多いですね。
魏は一族を政権から遠ざけ、中央に権力を集中させすぎたため滅んだ。
そう考えた司馬炎は一族に王や領土を気前良く与えた。
これで一族が護ってくれると思ったら一族同志が皇帝の座を狙って争いましたとさ。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 13:44:13
肥えのゲームにもそういう要素があればねえ。
ただすうちあげるだけの今から
エンディング次第で二部があるってのも斬新かもな。
派閥争い(関ヶ原)、力を持った一族・功臣の叛乱、当主急死で功臣・一族達の内乱とかな。
>163
徳川家の場合、一門(家康子息ね)に大きな所領を与えなかったのは、大きな所領を任せられるほど成長している一門が居なかった、と言うのも大きいと思うよ。特に関東移封直後じゃ。
信康死去後、一番の年長者の秀康も当事10歳〜15歳程度だろうし、しかも彼は家康から後継者と見なされてもいなかったようなのは周知のこと。
家康の弟、といっても異父弟ばっかで一門と言ってもねぇ・・・。
>>160 しかし、秀吉・勝家ら俗に方面軍司令官と称される連中の勢力は、
それぞれ戦国時代の大大名と互角に戦えるほど、
統一してしまえばこういう連中の勢力を抑え制御する体勢も作れたかもしれないが、
統一前と言うことになると、彼らをただ抑えるだけではなく、
縦横に扱って行かなければならない。
そこそこ以上に優秀な、安定的に物事を運営出来る才能より、他人より抜きん出た才能が必要と思う。
その上これらの勢力を温存しては、仮に統一を果たし今はよくとも、
いずれ室町幕府の二の舞になってしまうか可能性が高いから、
将来的にはその勢力を削がなければならない。
当然彼らは反発してくるだろうし、有力家臣がいっせいに反対すれば政権の弱体化は免れないし、
下手をすれば崩壊の危機ですらある。これらの舵取りを二代目で行うのはかなり難しいと思う。
信忠の能力には未知数のものが多いが、信長並とまでは行かなくとも、
それに迫るほどの能力が必要だろうと。
そうでなければ、仮に勢いで統一は出来ても政権内部に巨大勢力が幾つもうごめく、
室町幕府同様の脆弱な政権になってしまうのではないでしょうか。
>>169 細かい突っ込みですまないが、山陽軍の秀吉は独立したら本貫地を失う。
北陸軍の勝家にしても与力らが信忠在命なのに柴田に従う名分はないんだぞ。
171 :
160:2005/11/08(火) 21:46:29
>169
勝家・秀吉等方面軍司令官達は確かに抜きん出た才覚の持ち主だけど、彼らと生死を共にする、と言った配下が居たかは微妙。
つまりね、方面軍としては、各地の諸大名に匹敵、あるいは凌駕する勢力だったとしても、これは彼らに「与力」が付けられていたから。
秀吉を例にすれば、西国切り取り次第の許可を貰っていた模様だけど、播磨・因幡(この二国だって新しい領土かもしれない)以外は新領土と言ってよく、「織田家」の威勢で降った連中が秀吉に従ってただけで、秀吉の家臣にすらなってない。
つまり「与力」と同様。あくまでも主君・主家は「織田」であって、秀吉では無い。
織田家の命令で秀吉に従ってるけど、秀吉と命運を共にする関係ではない、と言うことです。
統一後、方面軍が組織として必要が無くなれば「与力」達を織田家直属に戻せばそれで旧方面軍司令官達の勢力はあっさりとそがれる。
1582年当事、秀吉の中国方面軍は2,3万の兵力を擁していたけど、与力を省いた秀吉直属の兵力(つまり、秀吉の家臣)は6千人程度。
つまり、方面軍司令官と言っても「織田家」の威光あっての勢力であり、逆に言えば自由に使える部分はかなり少ないと言う事です。
本能寺の時、方面軍旗下の「与力」達が秀吉等の司令官に従属したのは、統領・信長、嫡子・信忠と、その忠誠心の方向性を失った為であって、確たる相続人たる信忠が健在であれば信忠に従う、ってほうが自然な訳です。
信忠の能力については生前の実績から計るしかなく、おっしゃっている部分はマイナス的な推測であって、どうにも判断できません。
ただ、その生前の統治実績も親父の威光があったにせよ、破綻はなく、二代目としては十分に勤まるのではないか、と推測した次第です。
長々申し訳ありません。
>>171 しかし、それらの方面司令官の下につけられている者たちも、
必ずしも織田家累代の家臣というわけでもなく、
信長死後も織田家に忠誠を誓うとか限らないでしょう。
で、統一前に信長が死んだという条件なら、統一まではしばらくその体制を保つことになる、
当然その間に各方面司令官は自分の下にいる武将との結びつきを強めようとすると思う。
誰だって自分の勢力があさっりそがれるような状況は好ましくないでしょうから、
現在の勢力をしっかりと確保できるようにしようとするでしょう。
その動きをはたして信忠でとめられるだろうか?と。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 22:32:09
>>173 仮定が大杉。
本貫も名分もない根無し草がどうやって戦うのかね?
>172
すまんね、ホント。自分でも長すぎ、と思った。申し訳ない。
>173
与力ってのは方面司令官の「目付け」もかねてる。
前田にしろ、蜂須賀にしろ同様。
結びつきを強める事が対外政策に向けての部分であれば問題無いだろうけど、対織田家と言う事になれば、多数いる与力のうち、誰かが織田側になる。もしかしたらほとんどかもしれない。
結局は与力の動向次第だろうけど、与力も個人的親交・相性より自家が大事な訳で、信忠がよっぽど拙い政権運営をしない限り、消極的ではあるが現状維持に向かう訳で(野心家は別だろうが)織田家の方が求心力が強い。
176 :
175:2005/11/08(火) 22:39:10
書き忘れ。
与力は目付けを兼ねているから、方面司令官と同様、織田家との結びつきも当然強いのですよ。
また与力達の領土は方面軍の管轄地だけにあるわけでなく、あったとしても本領が管轄地以外であれば、方面司令官と共に織田家に叛した場合、相当なリスクを負うわけです。
>>175 野心家は信忠に近づく努力をするだろうしね。
織田家を瓦解するなら信忠がよほど無能に振舞う必要があるわな。
>177
その野心にしても、織田家に取って代わる、と言うより織田家の家臣筆頭と言う立場で政権を運営する、って方向になるんじゃないかな。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 23:01:16
同感
原則、勝家は信忠支持だろう
そうなると大勢は決まるんじゃないか
秀吉も負ける戦はしないだろうし
秀吉も形式的には織田を立てての政権奪取だしね
>>178さんの意見がずばりですね。
>>174さんが指摘するように「大義名分」がなければ、独立などありえず、
やはり「織田家筆頭としての主導権争い」という構図になるでしょうね。
そう考えるとすでに筆頭である勝家に分がありますね。
問題は彼の寿命ですかねぇ。賎ヶ岳ぐらいは彼はもう老人もいいとこでしょ。
彼の死後、秀吉その他どのような動きをみせるか。
そこまでいくと、ただの空想物語になってしまうから、考えませんが・・・。
>179
>180
そこも、結局信忠がかなりの無能、ってのが前提なのがねぇ。
信忠が普通に政権運営してれば、功臣連中の「主導権争い」ってヤツも結局は信忠の手のひらの上で踊ってるだけ、って事になる。
信忠は信忠で、信長生前からの自身の家臣団や、主導権争いに興味が無い功臣連中もいる訳で、そいつらと一緒に政権運営してれば良く、功臣連中の主導権争いも、扱い辛い功臣達の権限縮小に利用されるだけかもね。
>>177氏にしても、信忠が無能だった場合、野心家は叛乱起こすより、信忠に近づく事で実質的な権限を得ようと言う事でしょう。
つまり、信雄(または幼児で権力の無い秀信)を利用した秀吉と同じ。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 00:08:42
>>181 いや無能が前提というわけではない
勝家は自分で天下と言うよりはまずは織田家を中心にした体制と考えるだろ
御輿も有能であるに越したことはない
無能の場合、じっ権力は自分が握る
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 00:27:21
追記
しかし無能の場合、史実のように御輿が勝手に転けておじゃんという可能性もあるので
それなりの能力はないと厳しいことになる
>>181 ああ、なるほど。たしかに私の頭が固かった。
そういわれて見ればそうですね。
ついつい信忠無能が前堤で考えてしまった。
いや僕のイメージだと秀吉がかなり上手な感じがしてしまって・・・
ほら、とりあえず有能で知られる織田信孝を計略にかけて、あっさり腹を切らせた印象が強すぎまして・・
でも、それはあくまで印象で、
実際は信忠が家中を普通に掌握するでしょうね。
ぶっちゃけると
>>174と
>>177はオレなんだけどね。
本能寺の変ってのは信忠を討ったから成立する事件だったと思えば
見方も変わるという、三戦のいい事象サンプルになったんじゃないの?
明智の与力だった細川・筒井は織田に謀反を起こしたことに明確に絶縁しているしな。
それから、大義名分でいうと山崎の合戦は実は信長の息子信考による弔い合戦、秀吉
はそれに助力したという体裁をとっている。各地の与力たちが秀吉についたのは、信
考による弔い合戦を正当とみなしたから。その後の秀吉は、織田家当主三法子の執権
として、つまり織田政権の執政者として織田に逆らう柴田たちを討伐するという形を
とった。その仮定で織田家を少しずつ弱め、旧与力たちを自分に従属させることで政権
をのっとった。
まあいろいろと書きましたが、史実の秀吉だって織田に逆らって天下人になったのでは
ないということ。
最期まで織田の家臣でいればそういえるが、
実際は実権を奪った時点で、誰がなんと言おうが簒奪。
家康の時も同様のことが言えるが、
簒奪事態は別にわるかない、実力のない為政者よりは実力のある為政者のが良いからな。
倫理的問題は混乱か安定かで悩む必要のない後世の人間の戯言。
なに言ってんだ?
柴田勝家がお市の方と結婚しているのは 婿養子的な存在と見ていいのかな?
織田家の一員にかなりなっていると思って言いわけ?
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 10:05:38
>>185 その通り。本能寺の変は公式な後嗣である信忠も信長と時を同じくして
生害された事が最大の要因。信忠生存であれば宿老達は当然これを立てつつ
明智打倒で結束しこれを完遂。史実のような擾乱は発生しまい。
このスレ何だったっけ?と思ったら、関ヶ原スレだったんだな。
横道にずれ過ぎ、本能寺スレかと思ったよw
秀吉つながりで信長にまでさかのぼってしまってるのが面白いが、ここは関ケ原スレ。
みんな帰ってこいよー
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 14:00:28
>>190 光秀も信忠の殺害は計画に入れていたが、他は眼中にない
ここのスレは今までも脱線気味だったけど、荒れないし内容も面白かったんで良いかな?
と思ってたのですが…
とりあえず脱線前に戻すとして、豊臣政権が抱える問題について。
@ 譜代家臣では無く外様に政治決定権を与えた。
A 譜代家臣を取り立てすぎたため、豊臣に頼らずとも自立出来てしまう→自家優先。
ならば人材乏しき譜代(であろう)家臣で政権を維持するには…
とりあえず譜代の所領は10万前後までとし、史実で与えられていた所領の残りは豊臣直轄
とする。
この場合外様の大名and豊臣家臣間の軋轢は?
実行者は秀吉なので少々のごり押しは効くと思うが、彼の死後はどうなるのだろう??
ex)清正を8万石とし、史実との差17万石は豊臣直轄。 福島・石田を3万石とし以下同文。
加藤・石田を家老職に入れ、清正・福島と差をつける事で武断派の結託を阻止するとか…
ちなみにコレはあくまで個人の妄想なんでどーかなぁ?って事で。
195 :
190:2005/11/09(水) 18:28:57
>>193 明智が信忠をターゲットにしたのは「公的な織田家の後継者」で信長と信忠
さえ生害せしめれば十分目的は達せられたといえる。
また在京の目ぼしいターゲットは他になく、あとはせいぜいが堺漫遊中の家康程度。
信孝・信雄・丹羽五郎左らはそれぞれ兵を率いており、手兵1万3千余の明智には
物理的にも時間的にも信長・信忠父子しか狙いようがあるまい。
196 :
190:2005/11/09(水) 18:36:17
訂正
>明智が信忠をターゲットにしたのは「公的な織田家の後継者」で信長と信忠
さえ生害せしめれば十分目的は達せられたといえる。
…>明智が信忠をターゲットにしたのは織田信長その人と「公的な織田家後継者」
・・・。
乱文スマソ。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 21:09:53
同意
仮に秀吉が反旗を翻した場合、謀反人対織田全軍になって
勝ち目はない
親子が近くにいたのも悲劇だったな
もし信忠が安土なら光秀はやらなかったであろう
信長・信忠在命で北条と戦ったとしたら徳川は伊勢ぐらいもらえますかね
それとも滝川軍団が全部もらって徳川は進出路を失って以後頭打ちかな
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 23:18:26
>>198 そろそろ本能寺総合スレでも立てたほうがいいんじゃないか。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 23:45:51
んーどうでしょうーねー
立ててみようか?
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 23:55:45
どぞ
結論としては、大谷は金吾に撃ちまくれば良かったということでFA?
当たって死ねばOK出し、味方になれば西軍の勝ち
大谷が優柔不断だったために西軍は敗北した・・・
恫喝ってのはその根拠になるものがないと成り立たない。
未だに戦闘未参加の3万を率いた家康がやるから、
ビビって西軍を攻めるということになるのであって、
僅か1,500程度、しかも正面の敵と戦闘中で、
予備がいたとしても数百人の大谷隊が鉄砲撃っても効果なし。
逆にそれをきっかけに西軍に攻め込む可能性のほうが高いね。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 19:04:53
!!
無効でFA?
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 21:40:44
つかそもそも小早川は稜線の向こう側に布陣してたから
大谷隊から撃っても何の脅威も与えないだろ。
歴史群像の決戦関ヶ原?
読んだことあるが記憶にないなあ。何ページかね?
誰が敗走したとかいてあるんだい?
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 21:43:37
>>208 稜線まで行ってから、撃てばいいのでは?
自分の持ち場はどうすんだ。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 21:58:28
だから、ただ鉄砲撃てばその反対側に攻めかかるってものではないのだけど。
全くだ。
>>206を読めってかんじだよな。
補足するなら、後方に控えていた家康が自ら前線に出張ってきた(決戦の覚悟をしめした)上での、威嚇だからな。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 15:45:41
一般論として戦術的に予備隊が重要なのは確かだが、西軍が丘陵地帯に防御陣地を設営
して戦意の高い東軍を迎え撃つ態勢であったのも確か。
三成が南宮山の毛利・吉川・長曾我部の諸隊の積極参戦をどの程度信じていたかは
今となっては知る術は無いが、常識的に考えれば石田・小西・大谷は金床として東軍
攻勢を一定時間支え、南宮山諸隊はハンマーとして後方から打撃を加えるという看方に
なるであろう。石田らにも予備隊が当然あったと思うが戦力的要素は薄い。柵に寄って
戦意高く経験豊富な東軍諸隊を支えるのがその戦術的役割であり、俯瞰的にみれば所謂
予備隊的働きとして南宮山諸隊が存在する。歴史的背景を知らぬプロイセンのメッケル
少佐の判断通りの典型的な包囲殲滅の戦術布陣。
金吾中納言は関ヶ原以前からその動向は十分不審であり、家康の鉄砲催促にしても
豊臣一族の貶めと「金吾卑怯な裏切り」を前面にだ出すことで家康の謀略イメージ
軟化を狙った後世の捏造とも言われる説もあり何のとも言えない。
だが金吾中納言の西軍攻撃は善戦する笹尾山―藤川の台ラインに布陣する西軍の体力的
限界点を考えれば西軍のピークアウト直前での攻撃であり絶妙なタイミングであった
のは事実でありギリギリまで日和見を決めこんだのは事実だろう。純粋な戦術論としては
西軍につくべきであり、政治的背景から東軍に組する事を決めていたならより早く
東軍として旗幟鮮明にしなくては例え勝利したとしても戦後疑惑の目で見られるだけ。
同様に金吾中納言が東軍の予備隊の有無を勘案して東軍につくなら、もっと早く
東軍側として参戦する方が自然ではないだろうか。
216 :
215:2005/11/13(日) 16:30:27
すげぇ誤爆やっちまった!
スマソ
石田の使者が予め狼煙の合図で東軍を包囲殲滅するということが実際に
行われれば西軍の勝利の可能性が高い
金吾はその狼煙の合図で毛利に動く様子がないことを見て取り、毛利が
どう動くかを見ていたのではないかな?
前面に展開する脇坂ら4将が西軍として金吾らに牙を向いて来た場合、
小早川軍の戦力次第では結局は戦線が暫らく拮抗したままとなる可能性さえある
(位置的に脇坂ら4将は不利ではあるが)
そうすると日和見状態の毛利の動きにまた注目が集まるということになる
各将の旗色が鮮明になっていない状況ではまだ、どちらに付けば必勝という
状態になっていなかったのではないか
また大谷勢が奮闘して押し返していた時にワッキーら4将が藤堂・京極へ横槍を
入れていればその戦線は崩れ去り、そのまま福島勢へなだれ込めた可能性も
ある
4将や毛利の動向を探りながら動く気配を感じなかったため、ようやく東軍への
参加を決意したのではないか
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 23:40:47
>>194 徳川幕府型の統治を秀吉がしていたら
どうだったかということですか。
基本的には徳川ですら関が原の戦い前後で有力大名を
改易、減封して初めて王朝を築けたわけだから
豊臣家が家康みたいな独裁国家を築けはしなかったでしょうね
またその気もないだろうし。
秀吉が作った連邦制のような比較的緩やかな統治体制も
悪くはなかった。
吉川が基本的に不戦だったのは前提としても、毛利軍も西軍が相当有利だったら動いた可能性はあるよね?
小早川は毛利の動きを注視し、毛利(吉川)は小早川の動き次第で西軍側として参加も可、って感じで小早川を注視。
で、お互い動かないんで、狼煙が上がってもすぐに動かなかったのかな。
そもそも両者とも、日和見な訳だし。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 00:11:45
家康本体の戦闘力は非常に強固。
開戦早々に家康は最前線の陣場野に駒を進め自ら石田攻略を担った。
家康本陣にも石田の砲弾が降り注いだ事は有名。
この家康の奮戦振りに壊滅状態だった黒田や細川も息を吹き返し
石田本陣に攻め掛かった。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 01:24:33
直政・忠勝を一端下げるのが難しい場合(必要ない場合)
史実のように家康が直率する
1万ぐらいは充分動かせるはずだ
この場合は打撃力はそれほど重視されない(もちろんあるに越したことはないが)
おいおい、黒田や細川が壊滅状態ってどこの異世界の話だ。
大砲くらって混乱状態だったことはあるだろうがな
石田隊の兵力じゃ追い払うのが手一杯で、壊滅なんかありえん
後方にいた七手組とか使い物にならんし
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 21:04:12
◆中山道・徳川家被官 三万四千
榊原康政 (上野館林10万石)
大久保忠隣(相模小田原6万5千石)
酒井家次 (下総臼井3万石)
牧野康成 (上野大胡2万石)
本多正信 (上野八幡1万石)
小笠原信之(武蔵本庄1万石)
菅沼定乃 (上野阿保1万石)
本多忠政 (忠勝配下の内2,000余の兵を指揮)
高力忠房 (岩槻2万石)
本多康重 (白井2万石)
奥平家昌 (????)
内藤政長 (佐貫2万石)
◆関ヶ原前線・徳川家被官 七千百
井伊直政 (上野高崎12万石)
松平忠吉 (武蔵忍10万石)
本多忠勝 (配下の内500余の兵を直率)
◆関ヶ原本陣・徳川家被官 約三万
本陣
酒井重忠 (武蔵川越1万石)
南宮山
奥平信昌 (上野小幡2万石)
大須賀忠政(久留里3万石)
奥平(信昌)は上総宮崎三万石だな
家昌は関ヶ原の後に親父とは別に宇都宮十万石
関ヶ原の直後で混乱する京都所司代に就き、治安を回復
その過程で安国寺を捕縛したりするなど結構な活躍を見せてる
小まめに日本史板のレスを貼り付けている人は、
一体何がやりたいんだ?
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 22:14:55
先手 松平忠吉 武蔵忍 10.0万石、 井伊直政 上野箕輪 12.0万石
軍監 本多忠勝 上総大多喜10.0万石
大番頭 松平重勝 不明、 水野重央 武蔵 0.7万石、 水野分長 −
百人組頭 成瀬正成 下総栗原 0.4万石
鉄砲頭 安藤直次 武蔵穴師 0.1万石
持筒頭 渡辺守綱 武蔵松山 0.3万石
御馬前 本多正純 −、西郷忠員 下総生実 0.2万石、 牧野信成 武蔵石戸 0.5万石
旗本備 永井直勝 上総市原 0.5万石、 阿部正次 武蔵鳩谷 0.5万石、 奥平忠明 上野小幡 0.7万石
本多康俊 下総小篠 0.5万石、 西尾吉次 武蔵原市 0.5万石、 本多正重 −
後備 奥平信昌 上野小幡 3.0万石、 大須賀忠政 上総久留里 3.0万石、 本多成重 下総井野 0.3万石
戸田尊次 伊豆下田 0.5万石
南宮山 本多忠朝 (なし)
大垣城 水野勝成 三河刈谷 3.0万石、 戸田康長 武蔵深谷 1.0万石
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 13:24:38
関ヶ原への移動理由が書かれており、しかも家康が意図した結果ではないと判断できるのだが?
決戦するなら大垣から出てくる時叩けば良いし、朝まで待って対峙する必要性もない。
これは残された史料による状況証拠で十分判断可能ですが?
それで、決戦意図があったという根拠は?
西軍が当初は関ヶ原での布陣を考えてなかったのは、遺構によって明らかと書いた。
14日の緊急移動によって街道封鎖したに過ぎない。
関ヶ原で決戦する、迎撃するという根拠出してね。
わ、ほんとに日本史板のレスがペタペタはっつけてあるわw
っていうか、誤爆か?
違うでしょ。
せめて脈絡がわかるように貼り付けてあれば、
まだ意味はあるんだけどね。
前後の文脈がわからなければ荒らしと変わらない。
日本史板の荒らしが貼り付けてるようだよ
断片化された史料から、間を類推するのが歴史研究かと
卜斎記に西軍移動理由が書いてある、普通に知っていればそれが家康が意図した結果ではない事なのがわかる。
状況証拠も同じ。
もしかして卜斎記の内容を知らないとか?軍役の件も全く知らないようだったしね。
その割には基準々々繰り返していたけど(笑。
西軍が陣を敷いた位置を調べれば一目瞭然。
西軍が東軍が攻めてくるかどうか考えたかはわからない。
移動すると西軍に対して、攻撃する意思がなかったかもわからない。
しかし事実として、14日夜半に西軍は強行軍で移動し、東軍は攻撃せずに西軍の後を追った。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 19:03:20
家康本隊弱体説の椰子に(あるいはそれ以外でも良いが)計算してもらいたい
上記または晒されているHPで、両隊の万石以上の武将の総石高数を
これを計算すれば、弱体説の根拠がないことが明確になる
伊達政宗の面白い小説紹介してくれ
238 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/11/17(木) 23:58:32
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 01:20:37
自分は決戦する意図がなかったのを、卜斎記、足りなければ細川家記で説明できます。
一応史料名まで提示しました、君が史料名付きで説明してくれれば、内容も紹介します。
頓珍漢な新説を言い出して
突っ込まれると逆切れして
おまえが証明しろというのは基地外
9月14日、赤坂にて家康は高虎から東軍諸将の士気が高いこと、
大津城が開城したことなどの報告を聞いてる。
その後、直政・忠勝の両軍監を呼んで今後の方針について話し合ってるわけだ。
近日中に敵の戦力が増強される局面、更にはこちらの士気が高い状況で決戦をためらうのか?
遅刻してきている秀忠の本隊を悠長に待つほど家康がボケてるとは思えんが。
>>241 自己訂正
大津城が開城寸前だな。
何かいてんだ俺orz
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 03:34:24
orz
別に東軍が勝ったのはいいんだけどさ。
家康に一言。
御前上杉削りすぎ、なんだよ30万石って、
せめて上杉には80万石くらい残せよ。
潰されなかっただけでもありがたいと思えよ。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 10:59:48
上杉も抵抗すれば良かったと思うが、家康の力が圧倒的だったんだろうな
毛利よりマシか
私は前後の流れはまったくみてないが
>>240のレスは単体でみても、おもしろい^^
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 11:52:38
禿道
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 20:28:18
>>167 エンドレスであってほしいね。
エンディングを迎えた時の状況に応じて数種類のなかから自動抽選
それで数十年後、数百年後の戦乱期で段階で画面が変わって、
「プレイヤーを選んでください」
なんて出て着たらね^^
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 20:37:52
>>170-184くらい
問題は家康でしょう。
彼は方面軍の連中とは違い、大名なので、織田がどうなろうと、
所領や動かせる軍隊に何の変わりもない。
どうでしょうか?
>>250 それが家康の強みではある。
しかし、信忠がいきている状態で甲斐だの信濃だのに侵攻したら敵対行為と
みなされるぞ。
史実では、川尻の死亡や森の逃走などで「無主の地」扱いで占領したが。
そしていったん織田の敵となったら遠慮なく滅ぼすでしょう。信忠にしてみれば、
織田の盟友だった徳川が代替わりしたとたんに敵対したというのは現当主で
ある自分を舐めきっているからと受け取るだろうし(世間も)。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 17:35:26
>>251 家康は我慢の人です。
しかし機を逃す人ではありません。
義元が死んだ後、正当な後継者の氏真がいるにもかかわらず何をしたでしょうか?
もちろん初めは恭順の姿勢をとっていましたが・・・・
信忠次第ですが、家康は臨機応変に一番徳川の益になることをするでしょうね。
恭順しても織田家にとってかなり大きな存在で、家康存命中にはけしてつぶせないでしょう。
その家康に対抗させるために信忠が直轄地を増大させるか、方面軍司令官に大領地を与えるか。
家康がいるといないとでずいぶん話が違いますね。
徳川家が大きくなりすぎないように考慮しながら、しかし律義者として立ててやらないといけないでしょう。
徳川の軍事力だけなら、秀吉にでも当たらせれば負けることはないでしょう。
しかし家康ということになると、どうかはわかりません。
史実では大半を恭順させた秀吉が本腰をあげて、五分の戦をしたわけですから。
そこらへんでやはり「問題は家康」だと思うのです。
なんか利家とまつを思い出した。
あれの家康はハマリ役だったなぁ。
1回も欠かさず見たよ。まああれは秀吉も又座も信長も全てハマリ役だったからなぁ。
DVDとか出てるのかな
253 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 19:07:35
>>252 今川氏真継承の頃はまだまだ群雄割拠の真っ盛りだ。離合集散は世の常で済むし、
今川家に徳川を征伐する余裕も気運も無いのを十分見極めた上での離反である。
この頃の織田は織田政権といっても良いほどの規模を持ち、京・大和辺りの朝廷・
寺社勢力も押さえており、織田の方面司令官クラスや徳川・毛利のような天下の枢要
に関わるような大身の者達は、その言動は即政治的な風評ともなり自身の戦略・行動
に少なからぬ影響があるので皆、それを留意している。
その背景の中で、の信忠存命で織田政権の継承に公的に何の問題もないのに甲信2州へ
乱入とは、世評は家康に相当厳しくなる上に、混乱を収めた織田政権に格好の開戦の
口実と大義を熨斗をつけて送るようなもの。
信忠存命ならば徳川家康は、すぐにも信忠の前に馳せ参ずると思う。
甲信が擾乱していれば治安維持を名目に出兵しても、すぐに織田へ返還するだろう。
家康の場合、
>>253の言う通り、甲・信が騒乱状態になった時のみ、治安回復のため出兵するだろうね。
で、治安回復後は織田家に返還するだろう。
信忠側は信長死去後の政権整備のため、旧領の整備に忙殺されて、騒乱直後で統治が厄介な甲斐は徳川に譲渡するかもしれない。
治安回復のお礼としてね。さすがに信州までは譲渡せんだろうけど。
家康もそれ(甲斐譲渡)を狙って信忠に徹底的に恭順するんじゃないかな。
信忠が生存してても、川尻は死んじゃったろうからね。
信忠スレでした話をもう一度繰り返してら
256 :
252:2005/11/20(日) 03:54:53
>>253 >家康は臨機応変に一番徳川の益になることをするでしょうね。
この一文に尽きます。
私はそもそも甲信に攻め入るかどうかを考えていません。
257 :
253:2005/11/20(日) 13:26:01
>>256 亀レススマソ。いやゴメン、ゴメン。
なんか251に甲信侵攻っぽい記述あったんで流れで書いちゃった。
あなたは書いてないね。私の早とちりでした。
本来裏切りがなければ本当冗談なしに負けようがないんだよなぁ
前後左右四方攻撃確定だからね
作戦は良かったんだ作戦は
吉川が動くことはありえないとしても小早川が小早川が裏切らなかったら勝てたんだ・・・
小早川は松尾山布陣の時点で西軍の思惑を越えて動いていたから。
それを含めて裏切らなければ勝ってた
っていうか元の布陣のがむしろ磐石
だって小早川という強力な盾がいることになるからそのぶん食い止めてくれるし
秀秋もそう思われてないけどなんだかんだで名将だからね〜
朝鮮の戦いとか岡山嬢登城した当初の手腕を見てても
元の布陣とは?
小早川勢は、西軍で松尾城に詰めていた伊藤盛正を追い払って松尾山に布陣している。
これは三成の思惑とは全く別で、つまりこの時点で東軍側と見ることもできる訳だ。
まあ、その活躍した朝鮮では三成の報告で秀吉は激怒して転封を喰らうし、
バリバリの尾張閥だし、家康には恩義(秀吉死後領地を元に戻して貰った)もあるからな。
西軍に引き込めると思う方がどうかしてる。
うん・・だから追い払う前の布陣
あと小早川はやはり経緯(恨みの有無)はどうあれ豊臣方の人間だからねぇ
一時は秀吉の後継者にすらなろうとしてた存在だったし
それでまさか裏切ることはないだろうと思ったんだろうね三成は
それに宇喜多とかとも交流もあったし
宇喜多は直前までまさか裏切るとは思ってもいなかった
そもそも、関が原の戦い自体が、その関が原”での”戦いがメインじゃなくて、
そこに行き着くまでの戦略が戦いのメインだったからな(少なくとも家康にとっては)
その戦略面で家康に完敗している以上、三成には勝ち目は無いわけで、
もう布陣とかも意味無いよな。
幾ら秀吉の一族だったとは言え、派閥も違えば、恩どころか恨みを買っているであろう、
金吾をしっかりと抱き込もうとしないとは、三成も駄目すぎるだろ。
逆にあそこまで離反者が出るという確信がなければ、
家康もほぼ包囲陣形となった関が原で雌雄を決しようとはしないと思う。
それをいったらこのスレの存在意義がなくなるんだけどw
あくまでこのスレは関ヶ原の戦いなんだからさw
265 :
263:2005/11/21(月) 20:05:40
すまん、別にこのスレの存在を否定するつもりじゃなかったんだw
>>262 追い払う前の布陣って?
関ヶ原前日伊藤を追い払う以前の小早川は、後方の近江高宮にいて、
盾になるどころか関ヶ原に出てきてはいないのですが?
というか、同じ西軍を追い出して無理やり松尾山に陣取った小早川は、
三成らの意図とは全く別に行動しており、
それを疑っていなかったとすればそれは無能もいいところで、
まして今現在勝手に動いている者を当てにして陣形を考えるなんていうのは、
戦略的に全くお話にならない。
いやだから・・・
何度いえば解るかな・・・
じゃあ極端な話小早川がいなくてもまだ互角の戦いができる布陣だったわけ
証拠に裏切りが発生するまで拮抗してたでしょ?
で小早川の前にいた伊藤が横からついたらどうなる?
形勢はなだれこむよ。そうなると当然
背後を取ってる毛利や彫塑壁も流石に動きだす
布陣だけを見たら家康は勝ちようがない完璧の布陣だよ
あの布陣になぜケチをつけるのかよく解らん・・・
四方攻撃が可能なんだぞ?
戦術的に完璧と思われることが常に最上の手ではないと思うが…
開戦当初、徳川本隊が動く前は兵力では若干西軍が有利だったのに一角の突破も出来てないし
むしろ連携に欠け、バラバラに攻勢をしかけてくる東軍諸隊を追い払うので手一杯な感じだが
まぁ、後方に予備兵力のない自分たちに対し、東軍には徳川本隊が控えていたか上に
頼みの毛利にだって南宮山から主戦場までは降りてくるのに時間がかかる位置にいたしな
心理的に強気に出れなかった可能性も十分にあると思うけど
>>268 日本語がおかしい箇所が2箇所もあるじゃないか
何やってんだ俺…
>>267 何度も謝罪の書状を送り、前日には西軍を攻撃して、
味方であることを示した小早川があの地点にいたから関ヶ原に進んだのですが?
まあ、そのような状況でこの期に及んで小早川が躊躇するとは思っていなかった点で、
家康も不覚だったけどね。
要するに小早川を味方だと思って、
四方から攻撃とか言っている段階で大間違いってこと。
だからいってるんだよ
小早川が裏切らなければ勝てた と
>>271 だから、既に前日に裏切っているものを当てにする段階で勝ち目なんてなかったし。
そういう者を味方としてみて、完璧な布陣なんて言っているのが大間違いだってこと。
そりゃあ勝てる可能性は高くなるわな。
ただ、あの当時、まだ徳川本隊が動いていないわけで、それが出てきたら、どうなったかわからん
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 22:06:41
結果論で歴史をアツく語るなよ
布陣については問題なかったといってるんだよ
しつこいなぁ
だいたい裏切り云々いってるが合戦で裏切るつもりだったのに結局裏切らずに勝ったとかそんなの日常茶飯事じゃないか
例えば
前の晩 裏切ります という書状を出すとした
大将はそれを知らずこう動いてくれと指示する
結局やっぱりその指示されたとおりに動いて勝った という戦がなかったといいたいんでしょ?
その言い方だと
いっておくけど戦国時代そういう裏工作なんて全ての武将があったろうね
>>267 関ヶ原の戦いの状況について根本的に間違っているようですが。
関ヶ原の戦いにおいて東軍は家康本隊3万が予備として残っていました。
これについては3万という数ほどには強力でなかったという説もありますが、
幾らなんでも伊藤盛正の兵1千程度が攻め込んでもどうにもなりません。
>>275 そうだね口約束だけならね、
でも小早川は前日に実際に西軍を攻めているんだよ。
そういう者を味方だとして、布陣は完璧なんていうのは間違いだってこと。
>>258>>260>>267などを読むに、基本的に知識が足りない。
当日の布陣図だけでなく、
もうちょっと前後の動きとかを勉強しておいた方がいいよ。
毛利だって評定衆の吉川と福原通じて家康と通じてた
秀元は知らなかったが、秀元もやる気満々という訳ではなかった
だから東軍は南宮山敵前横断という事が出来たんだよ
結果論で話しているというより、額面上の数値や布陣だけが全てじゃないってことだろ
それを動かしているのは俺たちと同じ人間なんだし、怨恨や打算や情動だってある
特に三成は秀頼の地位を磐石のものにするため、他の後継者候補を片っ端から叩いてたからな
>>280 それ、三成がって言うより秀吉がじゃないのか?
秀吉の意を汲んで実行したのは三成だからなぁ
三成だって、近江に縁のある人間が後継者になることに対して色々打算があったろうし
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 10:53:37
仮にあの布陣図通りだったとしても、四方からは攻撃できない
四方という意味わかっているの?
小早川の裏切りが無く、戦場に参加してくれたとしても、徳川本体2万5千が動けばやはり東軍
有利だろう。
関ヶ原史実布陣で、小早川・吉川・毛利すべてが戦ってくれたら西軍は勝てたと思う。
後方の安国寺&長曽我部も加わってくれれば完璧かな?
たしかに戦場は流動的なものだし、裏切り寝返りはよくあるけど、これほど重要な闘いで
ここまで裏切られると、さすがに西軍首脳陣は無能評価をされても仕方がないと思う。
生前の秀吉は毛利両川体制弱体化を画策してきたけど、これが裏目に出たんじゃないかな。
直江状が偽書だと判明している現在、上杉家が三成とどれだけ連携してたかも微妙だしな
トップがひとりに集約できた東軍と、大将格や統帥者が何人もいた西軍じゃまとまりが違うしな
第一毛利や上杉には豊臣のために戦おうって気はなかったんじゃないか?
上杉なんて一度も南下せずにひたすら東進していたし、毛利はあの体たらくだし
同床異夢と言うか、呉越同舟と言うか…
曲がりなりにも眼前の目的だけでも統一できた東軍とはそこから違う気がする
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 16:15:37
>>263 そりゃ伏見城を落とした功労者なんだから
一応信用もするでしょ。
決戦直前には相当疑っていたみたいだけど。w
三成は大将でも何でもないんだし
むしろあそこまでお膳立て出来たのが上出来。
家康の予想外に早い出陣とかいろいろな要素が
なければ勝負はどうなったか分かったものじゃないし。
ただ、その三成のお膳立てが豊臣の滅亡に
つながったのは皮肉ではあります。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 16:45:19
>>284 そいつらが全部せいぐんでも勝利は難しい
戦意も低いし戦力も弱い
しかも分断されており総大将も不在のような状態だ
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 17:04:24
>>244 本来は上杉景勝公流罪、直江兼続公斬首だったわけだから御家が残っただけでも凄い事だと思うよ。
でも、確かに平等性に欠けてるよな。
毛利は36万石とはいえ2カ国を擁し、島津に至ってはお咎めなし。
30万石とはいえ当時の米沢は実質的に10万石を超える程度で面積的にも1カ国分もない。
>>287 小早川はともかく、吉川・毛利はいざ闘うとなったら、ちゃんと戦力として使えると思うゾ。
毛利はもともとやる気あったわけだし、広家も結構な戦達者だろう。
まぁやる気があったら、あんな山奥には布陣しないだろうがナ。
徳川と毛利(吉川、小早川含む)どっちが強いの?
往時の司令官が健在の徳川と、二世議員ばっかの毛利勢じゃ歴然とした差はあるだろうね。
ただそれを言い出したら切が無いし、小早川も毛利本隊も優れた軍団ではある。
朝鮮出兵とかでの前歴がそれを証明しているな。
兵力、国力が同レベルぐらいなら、やはりトップの威信が利いたのかな。
織田信長と同盟し、武田と戦った事のある徳川は恐れられていたのだろうな。
毛利側は二世どころか三世だしね。前田家も徳川家康にびびりまくっていたし。
>>290 間違いなく徳川。
将の量・質、国力差、トップの資質どれも徳川の方が上、もちろん毛利が弱体というわけではないけどな。
あと前線にでれる家康とでれない輝元、この将兵からの信頼感の差も無視できないだろうな。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 23:43:27
>>289 まあ戦えないことはないと思う
しかし比較の問題として、戦力としては弱い
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 23:46:05
戦国の軍団として、輝元時代の毛利軍はそれほど強くない
吉川はそれなりに優れた武将であっただろうが・・・・
東軍は、毛利より強い武断派が主体だし、徳川は武断派よりも強い
こう考えれば、なぜ吉川が動こうとしなかったのがわかる
小早川にしても同じ
吉川が動かない状態で、一人で家康と戦うのは無理
小早川秀秋を毛利一門と捉えてよいものかどうかちと疑問。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 23:55:21
>>296 形式的にはそうだが、もう別の家と考えた方がいいだろ
行動や布陣位置を見ても、別行動だろ
>>295 >こう考えれば、なぜ吉川が動こうとしなかったのがわかる
全然判りません
「毛利より強い武断派」って、何と何を比較してどういう根拠に強いとか言ってるの?
>>298 オレは >295 ではないが、毛利軍より豊臣武断派(福島や黒田)の方が軍として平均的に強力
だと言いたかったんだと思う。
毛利vs豊臣武断派 の優劣はびみょうだと思うのだが、
徳川家康と麾下の武将が率いる軍と毛利軍なると話は別。
かの武田信玄と真っ向から勝負をいどみ(まけたけど)、織田の天下統一戦でも
姉川・金ヶ崎・長篠…と最前線で戦い続け、太閤殿下でさえ恐れた(と思われる)家康
が自ら歴戦の部隊を率いているってだけでも(しかも2万5千)徳川軍は二世武将軍とは
一線を越えた存在であるのは確かです。
これだけでも西軍に勝ち目無しと思わせる威圧感があり、広家が日よった原因の一つだと…
過去の実績にはそれだけの重みがあるのですよ。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 01:14:39
印象で語られても困る罠
広家には秀吉の指名で吉川本家を継いだ経緯があるし、秀吉に対して恩義は感じていたと思う
朝鮮出兵では大いに活躍し、特に碧蹄館の戦いでは自ら明の将軍・茅国器を討ち取ったりしてる
だが、この後に問題が起きる
蔚山城に籠った清正を助けるため、広家は恵瓊が「軍旗違反だぞ」と脅すのも無視して真っ先に明軍に突っ込んだ
戦後清正は感謝して自らの婆々羅の馬標を送ったほどであったが、恵瓊がこれを許さなかった
軍旗違反として三成と共に秀吉に報告し、叱責されることになるわけだ
関ヶ原にいたって感情論で毛利家を西軍総大将に押したてようとした恵瓊に対し
広家は冷静な現状分析でそれを論破し、最終的には当日のあの状況を作り出す
ただ、その前にはこういう流れがあったってことはあまり知られてない気がするぜ
やっぱり歴戦の総大将と上位幹部2、3人は必要だね。
徳川の場合幹部はほとんど生きているし、豊臣武断派の7将も徳川方。
印象で語るなと言われるだろうけど、あの時代でも印象で決めた大名多いだろ。
山内一豊なんか福島、黒田、加藤、細川が徳川に付くのを見て 決めたんじゃないかと
思えるよ。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 09:07:42
299
お前ゲームのやりすぎか妄想が激しすぎるぞ
もう少しまともな話をしろよ
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 10:57:24
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 11:01:35
謙信が戦国最強といっても印象でしかないわけだが
普通に考えて、武官派の方が毛利より強いだろ
武官は、結局勝家を下している
秀吉がうまかったのかもしれないけどね
徳川には負けたけどそれなりの戦いを示している
秀吉の毛利攻めである程度は判断できる
大規模戦闘はなかったかもしれないが、結局戦いにはなっていないだろ
他に、毛利が強かったという話しある?
元就の時代にあるくらいじゃない?
謙信も十分強い気が…
なぜか江戸時代にできた歴史物語だと北条氏康に本当は勝った野戦をまけたことにされてるが
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 12:39:11
数と志気と訓練度
これ重要。中味について武将以上に話をしなければ
監督だけじゃあかんぜよ
吉川元春
関白に頭を下げなかった男
謙信は強いだろ。
戦略の劣勢を戦術で、しかも野戦でも覆し続けられる希有な部将だからな。
ただ、ハンニバルが結局ローマを崩せなかったのと同様、強いだけでは勝ち残れない。
政治力や組織力、或いは外交・謀略方面で武田や北条に対して劣勢に追い込まれたのも事実。
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 14:54:02
>>307 そうそう厨房は福島正則とかが一人で何百人の敵を
バッサバッサと切り伏せる絵を想像しがちなんだよね。
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 16:16:58
島津、伊達にも統一の力があったとでてるけど 位置が悪いよ
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 16:23:42
>>310 そういう意味じゃ徳川勢はあんまり強くないかもよ。
・歴戦の勇将は多くが秀忠隊に。
・兵としては三河の頃とちがい、主従の関係は昔ほどではない。
・中堅以下は大きな戦の経験が殆どない。
流れを変えて申し訳ないが
東軍についた大名で家康の裏を読めていた豊臣方はいたのかな?
家康はそのまた裏を読んでいたように思える。
>>313 黒田長政あたりかな。彼は家康に福島正則への調略を任されている。
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 17:01:40
家康の裏とは?
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 17:02:41
>>316 豊臣方の離間と天下統一の野望。この時はまだ律儀者で通ってたよね。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 18:02:37
まあ家康が凄いといっても、彼が周りにくらべ極端に能力が高かったわけではないんだけどね。
単に風が吹いただけ。
だからその風が向こうにいけば家康は凄いという幻想は崩れる。
なんてな
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 18:55:14
>>318 黒田とか藤堂は、薄々はわかっていたんじゃないか
福島なんかも少しは勘づいていたかも知れないが、そうはさせないとでも
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 18:56:15
反三成派は徳川の世になることは薄々勘付いていたってことか
まさか豊臣家断絶とまでは考えてなかったんだろうね
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 19:23:50
事実上、既に徳川が牛耳っていた
しかし豊臣が大名として存続すると考えたのであろう
最初から潰すのであれば、可愛い孫をやる必要もない
まあそれも騙しのテクニックだったのかもしれないが・・・
ってか、歴戦の家康に歴戦の戦闘指揮官がいても
歴戦の兵士が居ないのが関ヶ原時点での徳川軍団な訳だが
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:49:03
よく言われている、徳川は朝鮮いってなかったから老練な兵士と戦を知らない若い兵士しか居ないってか
まるで諸葛亮時代の蜀だな
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 22:24:17
まあ関が原について一番勝負を左右したのは
光成を勝たせるか家康を勝たせるかというそれぞれの武将の気持ちだな。
なんだかんだいってもどの大名がどちらにつくかで勝負は決まる。
家康がどんなにすごいといっても彼が必死で工作活動に励んだように、徳川単体で
他の大名をつぶせるわけではない。
関が原についてはある意味選挙みたいなものだな。
どちらに支援するか。立場的に家康を支援できなくても、本気で光成を支援するまでには至らない
大名も多かったろうな。
何より光成を勝たせてもメリットがないというかな。
またいわゆる武将が冷遇される政治体制などのぞまんわな。
秀頼対家康であったならまるで違ったろうけど。
これは本能寺の変の後の織田家にも通じるところがあるね。
俺としては戦争経験がなく、豊臣のために嫌われ者を買って出てきた光成が
戦乱の世を生き抜いてきた家康とあれだけ大きな戦ができただけでも光成は評価に値するな。
もし買ってたら逆に家康を疑うよ。
というかあそこで家康が負けてたら前田利家より低い評価になってたろうね。
しかしまあ利家が後10年生きてたら豊臣はつぶれなかったんだろうなぁ。
まあそれを言ったら家康がもっと早く死んでたらとかになるか。
本当権力争いって今も昔も自家の軍事力より自家の当主の人気と世間の流れ次第だな。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 22:46:05
なんか利家を思い出してたら思った。
昔は当主が変わると突然一大名に落ちぶれることが頻繁にあったんだな。
利家が死んですぐ加賀征伐がもちあがり、今までは権力者であった前田家が一点
人質を出すハメになったり。
あくまで利家が権力を持っていたのであって前田家が持っていたのではなかった。
軍事力なんてあんまアテにならんわな。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 00:20:10
秀吉だって同じようなもんだ
家康だって、秀頼が生きていたらやばかったかも
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 00:52:31
前田家が徳川家を上回る軍事力を持っていれば代替わりしたってビクともしなかったはずだぞ。
要するに一番アテになるのが軍事力、ってことだ。
>>330 前田家一国で徳川に対抗する軍事力を持つのは難しいんじゃないか?
逆に徳川といえど、自国だけで加賀を攻めきれるもんでもない。
ようは徳川が前田と戦うって宣言したときにどれだけ前田をかばってくれるor
徳川に付いてくれる大名がいるかが問題。
利家だと下手すれば逆に揚げ足とられるかもだが、利長じゃそんな心配はない
だろう。
これはもう親父と息子のキャリアと人格の差としか言いようがないのでは。
あの、前田と徳川の国力差は石高で3倍ほどもありますので。
単純に前田家と徳川家だけで比べれば、徳川は余裕で前田を潰せます。
利家の時代にそれが出来なかったのは、利家が秀吉の盟友とか何とかで人望があり、
前田につく大名も多数いたから。
で、その利家がいなくなったら誰も前田につかず史実のとおり、
もし、人望だけでなく、国力でも徳川に対抗できるものがあれば、
代が変わってもあそこまで一方的な関係にはならなかったはず。
要するに、一番アテになるのが軍事力
>>324 三成のところも歴戦の兵士なんていなかったが大奮闘したよ。
確かに国力も軍事力も大事だが、根性もプライドも大事だぞ。
利長は腰抜けなんだよ。大名、ましてや五大老の子息なら一戦交える覚悟がなくちゃな。
家康に勝つことはできなくても負けなければいいんだ。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 16:40:25
>>322 当時の大阪や京都では一般の人達ですら徳川の時代になるのがわかっていた。
ほとんどの大名が家康の御機嫌伺いに出向いてたので秀吉贔屓の大阪や京都の一般領民はうんざりしていた様だ。
そこへ上杉家が楯突いたもんだから大阪や京都の人達はやんやの大喝采。
”男を見たけりゃ会津にいきな”(だったかな?正確な謳い文句はわすれた)と言われたくらい。
>>301 広家と三成の仲が悪かったというのも加わると思う
実現こそしなかったが、その秀吉から安堵して貰った土地を追い出され、毛利秀元に譲れという案が出された過去があるそうだ
三成個人というより豊臣政権自体こういった内政干渉はしていたので、その意味で三成は憎まれ役になったかもしれないな
亀レスだけど
>>301 吉川家は毛利でも半独立の立場で、毛利本家からの直裁は受けなかったんだよ
当初は毛利輝元・吉川広家⇔黒田考高・長政⇔豊臣秀吉という繋がりだったけど
文禄役で黒田父子が失脚し、替わりに石田三成が取次役となった
すると三成との繋がり深い恵瓊が、吉川家の半独立状態に対して毛利本家の影響力を強めようと
広家の家督相続を問題にし、吉川家の独立性を弱めようと毛利秀元との国替えを三成通じて
秀吉と輝元の命で行おうとしたんだよ
結局、慶長役の勃発と秀吉の死によって有耶無耶になったが
毛利家において恵瓊と広家の対立、それに関連し黒田父子と石田三成の対立が激しくなった訳で
これが関ヶ原にどう影響したかは言うまでもない
そして毛利家に従いつつも半独立という吉川家の立場が、岩国藩を生むようになるんだよ
岩国が独立志向の土地柄を持つ下地は400年モノなのかな・・・
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 19:15:37
利家と違って利長の場合
人望というより利家という創業者が急死して間もなく豊臣家にかかずらわる必要もあって
家中の統一ができていなかったってのが大きいだろ。
そういった点でいえば毛利も島津も宇喜多もそうだが
例えば
加賀征伐が利家没後からもう1〜2年後であったらとか
宇喜多や上杉にお家騒動(転封)以来家中と領国体制の整備、
朝鮮出兵でゴタゴタしていた毛利や島津とかに内政優先の時間が
家康における関東移動から秀吉薨去の間程度の時間が与えられてたりしてたら
徳川の突出も牽制できたと思える。
利長が称えられるべきは、関ヶ原以降の対処方法だな
北陸での山口や丹羽との戦いも評価できるが、その後御家を守り通したことが第一だと思う
小説等だとママンに諭される坊ちゃんと描かれてる場合が多いが、あれは誇張しすぎな気が…
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 22:05:56
関ヶ原直前に島津勢が東軍に夜襲を仕掛けていたらどうなっていた?
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 23:07:36
>>330 そんなことはないと思います。
戦国時代の隣国であればそうですが。
あの頃は世間の風が吹くのはどちらかが重要だったと思います。
全国的に影響力を持つこと。
人望や権力を持つことは軍事力を上回ります。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 23:09:39
>>332 いや、家康が利家より先に死んだら徳川は天下を取れなかったでしょう。
軍事力があっても大義がなく、又、秀忠が秀頼をつぶそうとしたら官軍にはなれません。
家康のように権力を持っていて、さらに軍事力やしたたかさをもってやっと徳川の天下が
実現できたのでは?
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 23:11:29
東軍のうち、徳川譜代の兵力はどれくらいあったの?
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 23:14:50
>>334 そうですかね?
徳川政権下で一番巨大な藩。それが加賀百万石だったと思いましたが。
御三家と同格に近い扱いだったとも。
知識の足りない私がこういうこというのはあまりよくありませんが。
としながは勇将ではなかったでしょうけど、前田家の当主として
愚劣であったとは思いません。
>>345 利長が愚劣であったとは思わないが、まあ凡庸な大名ってところだろう。
家を維持する手腕はある。
だが、あの一歩間違えば、また戦国時代に逆戻りしかねない時勢にあって、
前田家ともあろう、大大名の当主が務まる器だったかと言えば、無理だと思うね。
秀吉譜代の筆頭なのに、あっさり生母を人質に取られたり、
結果戦争はしなかったが、徳川の天下は前田が屈服した時に決まったと見てもいいくらいだ。
本来であれば、豊臣家を守る為に、先頭に立って家康を牽制すべき立場だったのに、
幾ら家康の謀略が段違いだったとはいえ、あっさり負けたのは利長が駄目だったせいと言われても仕方あるまい。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 00:21:04
>>346 そもそも負けてはないんだけどね。
家康は秀吉に負けたの?
違うよね?
秀吉を天下人だと認めただけでしょ?
それと同じようなことだと思うよ。
としながは自分の力量をわきまえてたんじゃないかな?
大大名家の当主であったとしても力量をわきまえず天下を乱すのはそれこそどうなのかな。
初めの2行は同意する。
その後の2行は間違ってる。
家臣を死なせずに100万石を守ったのに無理だったというのは言葉が間違ってる。
って前田好きなんでごめんなさい。
豊臣家の未来を思って円満な政権移譲を図るのも忠義のうち。
豊臣政権を堅持することに比べたらあくまで次善の策に過ぎないとは言え。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 08:11:12
>>346 利長は凡庸どころかあの時代の他の諸侯と比較した場合でもとしては上出来の部類と思うが?
関ヶ原で両軍痛みわけとなると九州での如水の動きなどおもしろくなったと思うのですけど
その場合西軍はどの程度の裏切りを阻止できればよかったと思いますか
長期戦になっていたとしても徳川政権になっていたのかな?
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 09:45:32
>>350 >関ヶ原で両軍痛みわけとなると九州での如水の動きなどおもしろくなった
「痛み分け」の具体的内容が必要条件となる。
・睨み合い程度。
・小競り合いのみ。
・激戦となり、双方に大名クラスの討死発生。
上記についても結果的に双方が撤退したのか、戦線が膠着してるのかなども重要な条件。
西軍諸将の裏切り阻止の可不可も戦況如何ゆえに上記の条件付けは必須かと。
>>351 そーですね中途半端な質問でした スマソ
あの布陣から睨み合いのみは考えにくいし、激戦となって双方に大打撃があれば日和見の大名が優勢につくと思いますので
小競り合いが続き、双方撤退でどうでしょうか?
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 17:24:32
ところで、関ヶ原って、天下を狙う家康とそれに対抗し豊臣家を守ろうとする
三成との戦いって構図で語られるんだけど、それには疑問を感じる。
そもそも三成に、豊臣家(秀頼・淀君母子)への忠誠心なんてのが
あったのか?
奉行をすっぽかして佐和山に引きこもってしまう、
また北の政所に娘を養女として差し出したり、さらに菊姫にも接触し
援助までしていたというのだから驚きだ。
「反淀君」としかとれない行動である。
彼の心は、秀次一族惨殺事件や朝鮮出兵で、次第に秀吉からはなれていった
のではないか? もちろん秀頼を秀吉の本当の子であるとは思っていなかった
だろう。
関ヶ原は豊臣にとってまったく必要のない戦だった。
確かに家康の力は強大になってはいたが、あくまでも秀頼の「代理」として
政治を取り仕切っていただけで、豊臣の家臣であると言う事実には
いささかの変更もない。
上杉討伐にしても例外でなく、豊臣政権に反抗する上杉を、
主君秀頼の命令で討つと言うことでしかない。
これにより豊臣家の天下が脅かされると言うことは
まったくなかった。
だから三成の挙兵には「豊臣家を守る」という大儀は成り立たない。
まったく別の意図があったとしか思えない。
じつは三成も相当野心家で、彼自身権力奪取を狙っていたのではないか。
家康を討ち、家康の傀儡となった秀頼・淀君母子をも追放し、
宇喜多秀家、もしくは小早川秀秋を擁立して、新政権を
樹立することが三成の真の狙いではなかったのか?
ガイシュツ
>>353 大谷吉継は関が原の前は親家康派であったけど、最後は方針を変えた。
石田三成だって宇喜多や武断派とのいきさつの結果。
三成が佐和山に蟄居させられたのも家康によるもの。
福島正成は親淀殿、秀頼だったが 結果は東軍だった。
家康が豊臣に変わるとはあの時点では未確定だったんだよ。
>確かに家康の力は強大になってはいたが、あくまでも秀頼の「代理」として
>政治を取り仕切っていただけで、豊臣の家臣であると言う事実には
>いささかの変更もない。
>上杉討伐にしても例外でなく、豊臣政権に反抗する上杉を、
>主君秀頼の命令で討つと言うことでしかない。
>これにより豊臣家の天下が脅かされると言うことは
>まったくなかった。
後世から見るとこれらの行為は家康の天下取りの一歩一歩なので
豊臣に関係ないではすまないと思う。
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 18:50:36
>>352 小競り合いで双方撤退とすれば、朝廷の仲介による和睦をどちらかが行わないのが
前提だろうか。それと裏切りは無かったと仮定するのかな?
先ず双方のフロント・ラインを考察すべきか。
大垣の西軍が敵中で孤立してるので、これの解囲・救援作戦に転じるか、見殺しに
するかだ。
西軍は同時に北陸道防衛策も考慮必要。とりあえず加賀に引っ込んだ前田利長への
押さえが必要だろう。関ヶ原本戦が小競合い程度なら、能登の前田利政は動くまい。
丹羽長重の加賀・小松城に大谷刑部・青木紀伊守らの越前・若狭衆を再配置の必要も
あると思う。
東国の上杉VS伊達・最上も本戦が双方撤退ならば当面膠着か。佐竹・岩城・多賀谷等は
ダンマリ継続の予感。したがって結城秀康らも戦線で待機状態継続と思われ。
本戦が双方撤退程度であれば、基本的には東軍優位。西軍は本戦で裏切った諸将だけで
なく鍋島などの消極的東軍派みたいなのが何だかんだと理由つけて命令に従わない可能性
が高い。相対的に東軍は調略の時間的余裕が生じ有利。
東海道・中山道方面は西軍は毛利元康・立花・筑紫の15000が来着するが東軍は秀忠隊の
参着により東軍圧倒的優位に。
足並みの揃わない西軍が大垣城をどうするか揉めてる間は東軍に戦略面・戦術面で
イニシアティブを握る可能性大きい。大垣周辺に秀忠3万に尾三遠駿の諸将を預け、
自身は秀康と合流して伊達・最上を督戦しつつ上杉戦に備えることも可能か。
>>355 353の擁護をするわけではないけど、
結果論で見れば天下取りの布石だけど、
当時の人々からすればそんなのは青天の霹靂だろう。
ただ、関ヶ原の構図が豊臣vs徳川ではないだろう。
吏僚(近江閥)派vs武断(尾張閥)派の戦いを家康が利用した、と。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 18:58:08
なんかスレ立ってるぞ
西軍勝利の場合の人事や恩賞・小早川秀秋裏切ず
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1132997777/ 小早川秀秋が裏切らなかった場合のその後の人事や恩賞についてのスレッド。
小早川秀秋が裏切らずに東軍を攻めた。
東軍大名はみなばらばらに逃走。
捕まるのも時間の問題とします。
その他の東軍大名も順次、大阪に謝罪に来るとします。
石田三成がどのような人事を考えていたか?
誰が 領地安堵で移封で 没収か?
五大老は五奉行は誰になったか?
武断派の処分は?秀忠は?伊達の処分は?
吉川広家の毛利家での立場の変化は?
東軍に内通していた者達の追求はどこまで?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:04:53
>>355 大谷刑部は別に親徳川と言うほどの良好な関係が徳川家とあった訳ではない。
豊臣家の認可のある上杉征討令に従ったのは、他の豊臣恩顧大名と全く同じで
家康派とか三成派としての動きは、関係が無い。
当時の豊臣家のスタンスからすれば、関ヶ原は豊臣配下大名同士の勢力争いとして
一歩引いた姿勢で傍観していたというのが大方の見方だ。秀頼も幼少に過ぎ、淀君
とて大阪の役当時のような権勢は未だ確立していない。(一応豊臣『政権』としての
システムはまだ生きているので)
言ってみれば室町幕府末期の将軍家のような位置から状況を見ていたとも言える。
歴史を知る現代人から見れば、徳川の天下取りの一手と容易に見て取れるが、当時の
当事者からは見えないものある。
貴方の「豊臣家に関係ないではすまない」事態であった、という意見は間違ってないが
353氏が言いたいのは、豊臣家自身は政務を司る筆頭大老が上申してきた政務上の事でも
あり、それを権力機構として認可したとのみ考えていたという事ではあるまいか。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:08:46
>能登の前田利政は動くまい。
前田利政は出陣を拒否っただけで西軍に加担したのではないぞ
戦後の所領没収は出陣しなかったから
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:11:00
>>360 だから動かなかった、で間違ってないんじゃねーの?
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:12:51
小早川ら松尾山勢が寝返ったあと、吉川ら南宮山勢が家康を背後から襲撃してきて
さらに、池田ら南宮山方面の東軍が寝返って家康襲撃に加担していたら・・・?
三成は史実通り敗走するが、そのあと家康も敗走したと思う。
しかし、両軍とも総大将が敗走すれば無勝負になるのだろうか?
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:15:20
>>362 それだ!考えてみるとあの布陣、とくに毛利裏切らなければは撤退できないと思われ。
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:19:52
西軍敗走したと同時に南宮山の毛利勢が動き出したら、真っ先に池田や浅野が襲われるんだがw
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:27:25
>>364 三成が敗走して、敗走する西軍の正面戦力を東軍の正面戦力が追撃している段階になって
南宮山の西軍が動いて、さらに南宮山方面の東軍が寝返って、両軍勢が連帯して家康本隊を背後から襲撃してきたら・・・
こんな仮説ですよ。
家康も敗走して、両軍とも総大将が敗走して無勝負ということになるのかな?
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 19:34:01
仮説じゃなくて妄想だ
そんな電波な武将だらけの世界でどーなるかなんて知るか
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 22:18:10
>電波な武将だらけの世界
それは面白そうだなw
そもそも毛利はともかく、なんで南宮山の抑えの連中が寝返るんだ?
まさに妄想だなw
そのうち架空戦記で出るかもよ?
「毛利が裏切った!!血に染まる関が原で家康の背後に脅威が迫る!
奇才が描く、スーパー関が原!!」
こんな感じの帯でw
>>353 三成に豊臣を排除するほどの野望はないと思うよ。
彼を一言で言うなら 校則に五月蠅い眼鏡っ娘委員長なのです。
彼は、仕事大好き官僚(加えて自他ともに認める有能人だと思っている)なので、
家康がしゃしゃり出て来て、自分の仕事を奪われるのでいやなのです。
現に佐和山に蟄居させられたのは徳川のせい。
しかも徳川政権になれば官僚は徳川一派が行うので自分はお払い箱じゃん。
秀吉からの大領を断ってまで天下を差配する官僚職をえらんだ彼にはそんな仕打ちは
耐えられないのですよ。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 09:07:21
左様、石田治部は豊臣政権を切り回していく事こそが彼の目指すところ。
もしも己が利益のみを勘案するような凡愚な人物なら、時の実力者である内府公に対し
目立つほど対立するような行動には出ないだろう。
佐和山蟄居後はただひたすらに家康におもねり、石田家存続だけを考えたはず。
近江・佐和山19万石で乾坤一擲の大博打に出たのは野望ではあるまい。今この時に
家康を打たねば、家康が秀頼の手から天下を阻止出来ないと思えばこそだ。
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 12:17:55
>>370 豊臣を排除っつーか、豊臣を乗っ取った淀を排除し、
昔の豊臣家を復活させようってことじゃねぇ?
板分割の話が出てるけど最低の案だな
>>370 高台院を頂く尾張閥に対抗するため、三成や長盛ら近江閥が頂いていたのが淀なんだが
>>374 今話してるのは関ヶ原に勝った場合の三成の目論見、だろ。
どちらかといえば淀に近い立場だったとしてもそれは一時の方便という。
>>343 だから、一番アテになるのが軍事力と言っているのだけど。
人望だの何だのの影響もあるくらいのことは同じレスに書いてあるので。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 00:47:09
>>376 だから軍事力があっても家康でなければ徳川の天下などなかったのだから、
一家の軍事力よりも当主の権力や人望やその他の方がアテになるといってるのだけど。
軍事力なんて全員を見方につければどうにでもなるが、人望や権力やその他は難しい。
農民の秀吉が天下を取れたのは軍事力ではなく、彼の器量と天下の流れ。
で、仮に軍事力0でも他が異常に優れてれば天下は取れるでしょう。
現に天皇は軍事力などなくしていまだに天皇であり続けてるのだから。
他人に認められるか、他人に心服してもらうか。
軍事力はそのひとつの手段にすぎない。
やっぱり軍事力が一番アテになるなどとは考えられん。
ただアメリカは軍事力で世界を。1国の話とは違って、ここでは軍事力が一番アテになるのかもなぁ。
まあ、事、日本においては天皇制があり、侍がいた国であり、
軍事力が一番アテになるとはならない難しい国なんだよね。
軍事力だけでは日本人はついてこない。
が、軍事力が足りなくても日本人が付いていく時もある。
>>377 クラウゼヴィッツの「軍事は政治の延長」
ってのは近代国家じゃなくても当てはまるねぇ・・・・
天皇、朝廷が衰えたとはいえずっと残り続けたのはうまーく立ち回ったお陰なんだなとも思ったり。
家康然り、アメリカ(w然り、強力な軍事力を獲得できたのもまた政治が上手くいったお陰でしょう。
>>377 天皇は天皇であり続けているが、
普通戦国時代に天皇が天下を取っていたとは言わないでしょう。
実際に天下をとったと言われるのは、秀吉であり家康であり、或いは信長、
いずれも強大な軍事力ゆえであり、
軍事力ゼロで天下を取ったなんて事例は全く存在しませんよ。
そりゃそうだ。
>>377 そもそも人徳の意味が違う。
「人格にすぐれ戦に弱い僧侶」なら尊敬もされるが、
「人格にすぐれ戦に弱い武士」では侮蔑されるだけ。
武士にとっての徳や器量はまず第一に強いこと。弱い大名に従う武士なんて
江戸以前にはほとんどいないよ。
秀吉や石田の墓を掘り起こし滅茶苦茶にした家康は糞
死者に鞭打つようなことしやがって
こいつには天下人としての器量を感じない
だた謀略と運がよかっただけの糞爺
家康が掘り起こしたとは初めて知った。
家光が秀吉の墓を掘り起こしたのは知っていたが。
三成の墓もかぁ・・・。
三成の子供は助けてるけどな。
>>382 お前の好き嫌いの話を器量に結びつけるなよw
秀吉の墓を暴いたのは家光
三成は墓すら許されず
無い墓を暴ける家康は酷い奴ですねww
確かに家康は狡い奴だけど、
あれくらいでないと250年に渡る太平の世を築くことは無理だったと思うよ。
清廉潔白なフリをするのは重要だけど、いざとなったら狡いことも出来るのが君主の条件。
家康は感情より実利を優先し続ける男だからな
時代に先駆けて儒学をはじめとした学問を奨励し始めてるのもその一端だろ
あくまでも、自分たちの統治を正当化する上での大義名分としてだけど
それが国の人材を豊かにする方法であるということにも気づいていたと思う
まぁ人間としての家康はともかく、250年の(とりあえずだけど)平和ってのは、
結構世界史を探しても例がない政権なのはたしかですね。
徳川幕府が始まった1600年といえば、ヨーロッパじゃぁ…
ドイツ人口の1/6にまで減ってしまったとまで言われている三十年戦争の先駆け時代。
その後も、各種継承戦争→七年戦争→フランス革命戦争→ナポ戦争とざっくばらんに
並べても戦乱続き。
産業革命を謳歌したロンドンは60〜70万都市とされているが、江戸はそれを遙かに上回る
100万人都市だし、衛生面や市民の貧富の差をみても江戸の方がよほど豊かです。
その始まりを創った人物として家康を見るならまた違った意味が見えてくると思います。
それでも家康個人は好きになれないけどね。
儒教なんて結局何一つ役立たなかったし
結局、日本人の心に溶け込んでないのは幕末の幕府兵・旗本みれば明らか
民間から始まり拡がった陽明学だけは違ったがな
儒教が役に立たなかったと切り捨てるのはどうかと思うが
陽明学のことを評価するんなら
朱子学から出てきた徂徠らのことも評価せねば
読み書きそろばんという習慣が確立されたのが何故、江戸時代だったのかってのは重要だと思う
結論 武士イラネ
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 09:23:20
平和な時代の武士は今の世の自衛隊みたいなもの?
徳川幕府二百五十年の楚として家康を評価するのはどうかとおもうが。
はっきりいって、幕府の組織も社会のありようも、家康の時代、家光の、綱吉の、
吉宗の…と変化・進展はある。
つまり幕府が長命を保ち平和を維持できたのは、家康個人に帰することではなく
その時代その時代の為政者たちが心を砕いて政治に取り組んだ結果だろう。
例えば鎖国令にしても、現在では平和を保つ有効な手段だったと評価されている
が、鎖国令を行ったのは家康ではなく家光。家康はむしろ外国貿易に積極的だった。
もし歴代幕閣が家康の政策を改めることなくそのまま海外進出を続けていたら、
さて二百五十年の平和とやらはどうなっていたことか?
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 11:12:39
>>384 三成の子は親友の直江兼続を頼って米沢に移り住んだんじゃなかったっけ?
幕府への配慮から家臣としてではなく町人として受け入れたとか
>>395 家康が徳川家のみが他家を圧倒する巨大な一門として残したからこその歴代支配者史が
あるわけで、徳川幕府が家臣に気を遣わなければいけないような脆弱基盤な足利や、外様大名
の合議制からなる豊臣政権と同じであれば、ここまでの安定政権は維持出来なかったんじゃないか?
まぁすべてを家康のおかげとするのは問題だが、生みの親の貢献はずばぬけて重いのじゃないか
と思うわけです。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 14:00:55
古くは源頼朝・北条政権、足利幕府、豊臣政権、明治政府などその生立ちが後の政権の
形態に大きな影響をもたらしてる事からいっても初代の影響力というか、政権の在り方
までに多大な影響はあるでしょうね。
>>395 まあ250年の平和のツケも大きかったわけだが。
>396
出家してたのもいて、師匠が除名を嘆願したとき、本多正信の助言で助けた、ってのも聞いたよ。
後に結構高名な僧侶になったらしいけど。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 19:18:14
>>400 たしかそれが春日局に結びつくんだよね。
そのおかげで三成の曾孫が尾張徳川家に・・
あと津軽藩藩主の嫁>三成Jr
豊臣の合議制はうまく機能すれば後々民主制の発展にもつながる気がするんだけどな
やっぱ、この時代は絶対的なのがないと無理があるか
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 22:04:06
>>379 秀吉は軍事力0からスタートでしょ。
彼は0だった軍事力を何よりもアテにして天下を取ったのか?
違うだろ。
軍事力は必要不可欠だが、一番アテになるわけではない。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 22:11:52
>>403 軍事力を大名が持っていたのが悪かったね。
軍事力を取り上げてしまえば公家みたいになるがね。
「人はみな全て平等である」
のような概念がないと民主制というのはなかなか難しいでしょう。
最強と言われた上杉謙信だが、実際には島津とそこまで大差はなかったと思う。
あんまり知識ないからあれだけど。
で、島津では関が原をひっくり返せないということになると、やはり上杉謙信では
関が原をひっくり返せないだろうか?
>>404 いや、普通に信長に軍事的な才能を見込まれて、
大軍を動かす身分になっていたから天下が取れたわけだが?
>>404 軍事力を当てにしたからこそ、
武士へ、そして武将・大名へという道を選んだのだと思うが。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 23:28:37
>>406 つまり能力が一番アテになると
>>407 自分の能力の高さをアテにしてね
ここまで来ると完全に俺が個室してるだけだな^^;
一番という部分がどうにも納得できないんだよなぁ
じゃあ軍事力以上に当てになる要素は何だと思うのかね?
>>403 この時代お人たちは日本と言う国家意識が無かったのです…と言う
と誤解を招きそうですが、すくなくとも前田家が島津家の土地や内政に関して
口出し出来ない、税金も入って来ないでは、お互いは別の国同士みたいなものです。
違う国同士が固まって合議制を取った場合、意見が食い違うのはあたりまえ。
いうなれば秀吉の五大老制は今の国連みたいなもの。
アメリカのイラク侵攻を国連が止められなかったがごとく、家康の前田征伐や
上杉征伐も止められる訳が無いのです。
しかも家康は天下人になる気まんまんですからね。
>>409 家康に限って言えば、実績と冒険心のなさからくる安定性、そして政権に関する明確なビジョン
軍事力と対になって初めて効果を為すものではあるけどな
結論を出すと 軍事力絶対不可欠+人望、名声があれば天下統一
そして、冒険心を抑制し、安定性を重要視できればなお良し。250年はもつ
で、跡継ぎに恵まれることだな (跡継ぎは並で良い)
まぁ李氏朝鮮(属国だけど)は弱体化しながらも500年続いたけどな
でここは関ヶ原スレですのでそろそろ軌道修正しましょうか
413 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/11/30(水) 18:05:43
関ヶ原当日の武将の心変わりで戦況が変化する話は結構出たね。
異常気象。中部地方に激しい雷雨が発生し、この日の決戦は不可能と思われた。
というのはどうだろうか。ちょっと突飛かな。
1日や2日決戦がずれても大勢に影響はないと思うが。
野営出来ない状況ならば、岐阜と大垣で睨み合いになる。
1日あれば大津城が陥落するんじゃね?最悪でも立花を呼べるな。
15日には大垣にいないけどな
大垣引いたのは秀秋謀反という風聞と家康出陣してきたからで
三成君は佐和山に引く気だったようだけどね
関ヶ原の決戦はなくなり、取り残された毛利や四国勢はどうするか?
秀秋は東軍に付くし、勝ち目はますますなくなるね
あの時勢で三成が佐和山城篭城の構えを見せたら、西軍ちりじりになる予感。
秀秋は迷う事無く東軍につくだろうし、東軍と内通している小大名を城内に迎え入れたら、
反乱であっという間に落城。
かと言って、他の大名を信用ならん、という姿勢を見せたら、それはそれで付いて来る大名は減るという八方塞。
挙句時間をかけすぎると北陸から前田利長がやってくるという罠
時間をかければかける程、東軍の家康へのへつらい合戦は激化し、西軍はジリ貧に・・・
唯一の勝機は、
大津攻めの連中が到着して、
秀忠・前田が到着していない時に戦を仕掛けることだろう。
これが戦力的には最も有利なはず。
と言ってもそれほど圧倒しているわけでもないし、
守りを固められては短期間に勝てそうもない。
結局秀忠・前田が到着して万事休すといったところが一番ありそうな展開か。
秀忠はともかく、前田は本気で関ヶ原に参戦する気はないだろ
>>420 少なくとも東軍として行動するつもりだったのは明らか。
確かにそれほど戦意が高いとは思えないから、
単独で積極的な行動を取る可能性は低いかもしれないが、
西軍の背後をつける絶好の機会に二の足を踏むことはないだろう。
大津攻めの連中が到着・・・って、どこに到着する気なんだよ
大垣の西軍の14日から15日にかけての移動は、自分は佐和山へ引くってだけで
毛利や大谷にはどこで集結するかと全く連絡いってないのだけど
連中には陣を引き払えぐらいしか言われてないぞ
>>422 いや、関ヶ原への移動の翌日に直ぐに合戦にならなかったらって仮定の話だろう?
だったら普通大津城が既に落ちている以上、その部隊は関ヶ原方面へ呼び寄せるだろうよ。
その情勢で1万5千からの軍を遊軍とするのはあまりにも無駄。
もちろん、事実出ない仮定の話である以上、必ずとは言えないが、
その情勢で大津攻めの軍が関ヶ原方面へ来ないとするのは、
いくらなんでも西軍に不利に設定しすぎというものかと。
>>423 だから15日に合戦なかったら、三成は佐和山まで帰るっっちゅーに
捕捉されたから関ヶ原に留まって15日に決戦になったんだから
425 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/12/01(木) 21:18:31
勝ち戦だからこそ、東軍は戦意旺盛だったと各大名家は伝承するしかない訳だよね。
西軍が意外なほどの大軍を集めたが故に、決戦が伸びれば逡巡する諸将も多いと思う。
>>424 関ヶ原でとどまって笹尾山に陣まで築いたのに?
仮に佐和山までまっすぐ帰るつもりなら、
捕捉されること自体なかったわけだが、
何を根拠にそんな事言ってるの?
>>426 笹尾山に陣跡ないじゃん
14日の移動で小荷駄隊が福島隊に捕捉されてるが?
治少大垣南宮をすて候てさほ山え引取り候
で、そっちは何を根拠にそんな事言ってるの?
>>425 戦意旺盛だったのは事実だぞ?
まぁ、家康が焚き付けたからなわけだが
んじゃなきゃあんな力攻めで岐阜城落として、舞兵庫の部隊を追撃などせんよ
>>428 うんうん、福島や池田の先陣争いに牽引されて戦意旺盛だったのは確かだよね。
決戦がないまま大坂に近づくにつれて、自分達が何をしているのか冷静になってくると思う。
何してるかとは?
豊臣政権の転覆を目論む石田三成らのクーデターの鎮圧でしょ?
>>427 福島と石田の後衛が接触したのは確かだが、福島隊はそれを東軍後衛だと勘違い
してたはず、それはお互いの想定範囲外だったわけです。
なんにせよ、そのことでお互い戦闘には突入していませんし、それであれば、石田は
笹尾山まで移動仕切った後に布陣出来ようはずもありません。
石田が自城に逃げ込むつもりだったのに、無理矢理合戦に持ち込まれたのかは
良くわかりませんが、それであれば、小西・宇喜多・島津・石田と長大な陣をうまく
はれたものだとも思うのですが…
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 00:06:14
前田家の軍勢はどのくらいの数という話なの?
7000くらい?
>>430 うーん。さすがに家康の天下取りに加担させられている事には気づくでしょう。
この間に奥州や九州の情勢も変化するだろうし。
>>427 なぜ文を引用しているのに、その出典を明らかにしない?
>>433 確かにそれ見るとよく分かるね。
まず、三成が笹尾山についてから東軍と西軍が接触するまで、
3時間以上もその場に待機している。
到底佐和山を目指していたとは見えない。
宇喜多隊と福島隊が接触したのは、宇喜多隊が西軍の最後尾だったから、
それ以前に三成は笹尾山で待機しているのだから、
その時点で初めて追いつかれた為に決戦を覚悟したという解釈はありえない。
もし、最初から佐和山を目指していたなら、
最後尾の宇喜多隊が福島隊と接触した時点では、三成はもっと佐和山の方に進んでいたはずで、
佐和山へはやや遠回りになる笹尾山にいたというのはあまりにも不自然。
>>437 あらら、地図紹介したのは東西両軍のコースなどがわかるからなんだけど
全くこの通りの時間経過だと思ってらっしゃる
西軍の大垣退去は午後7時で、東軍の追撃行動が15日午前2時からだと思ったの?
水野などが大垣襲った時には、東軍は行動起してるし、西軍が大垣を出たのは午後8時以降だよ
三成も当然東軍が追撃してくるから、佐和山まで引くのを断念して陣を張ったと考えるべきだね
実際に宇喜多が遅れていたのだし、南宮山の毛利にだって撤退の意思伝えたにも関わらず動かなかったのだから
佐和山には遠回りというが、秀秋の関係上そうせざるを得ないんだけどね
それに
>>426の根拠まだかな?
根拠答えてくれなければ、
>>427の史料名答えられないんだけど
433の
10:00からの山内一豊の参戦は大河ドラマの見所にして欲しいな(笑)
あと、山内一豊役は内山君でお願い。
>>438 >>438 家康が着陣した時点で三成は大垣撤退して佐和山籠城を考えたけど、
三成が動くより速く東軍の移動があったので、撤退をあきらめて関ヶ原で迎え撃とう
って思った…でいいのかな?
西軍撤退中に急遽決戦に予定変更、全軍に連絡して布陣終えるんじゃああまりに
時間がなさすぎじゃあと思ってたんだけど、大垣から移動時点で決戦を決めていた
のならなっとく出来ますね。
>>441 ごめん、意味がわからない
西軍の方が動くのは早かったけど、移動速度が思いの他遅く、小早川秀秋の造反や毛利や四国勢の不動、
それが佐和山行きを断念して要所に陣を構えた、そういう結果かと
この時の三成に決戦志向はなかったと考えた方がいいよ
12日の増田長盛宛の書状にもあるけど、家康が来なければ輝元が出陣しなくていいしながら、
輝元が出陣しない事で不審に思ってると相反するな事書いたり、秀秋が内通してる、
挙句に西軍が疑心暗鬼で崩壊するのは時間の問題としてる
大垣退去する時にも、東軍迎撃するつもりだったが家康の出陣を見て佐和山まで引く事を一方的に通知して
取り残される形の毛利勢は激怒して、佐和山襲ってやるとまで書かれてる
要するに三成は家康が出てきた以上、最低でも輝元の出陣が必要と考えてた
西軍は反家康集団で、命令系統もはっきりせず、全て指示や命令でなく要請なんだよね
秀秋の伊勢平定の要請拒否のように、動きバラバラ
伊勢から戻った毛利勢などからすれば、大垣の三成などは岐阜防衛に失敗した挙句、
南宮山の毛利勢などに何の相談もなく大垣放棄して撤退する連中にしか見えず
逆に三成からすれば、伊勢平定が遅れ(秀秋が来なかった所為もある)、岐阜城防衛に間に合わず、
大垣の後詰にもならず、総大将の輝元が出てこずに不便な南宮山の中腹に居座るだけの毛利勢が当てにならず、
重要な拠点であった松尾山城は秀秋が占拠し、後方の安全もままならない
なのに予想外に家康まで出陣してる、それで大垣籠城を取りやめ、佐和山まで引くとなる
それが相互不信を招き、三成が決戦を選択できない要因でもある
>>438 「慶長記」には、
秀秋謀反の風聞が立ったので、それに対処する為に関ヶ原に移動したとあるが。
というか、あなた思い込み激しすぎ。
それから
>>427の出典はなに?
>>443 >秀秋謀反の風聞が立ったので、それに対処する為に関ヶ原に移動したとあるが。
仕置きする為という東軍側が聞いた“風聞”、その前にも理由があるよね
これだけでなく続きあるのだけど、西軍が大垣を出たのはいつと書いてある?
勿論、慶長記だしてくるぐらいだから、活字化本に目を通したんだよね?
思い込みねぇ
>>427の出典答えようにも慶長記すら目を通さずにググってる人に教えてもね
訳すと出典なしの妄想ですってことね。
はいはいよく分かりました。
訳すと?本にも目を通してないのがバレバレなんですが
「秀秋謀反の風聞が立ったので、それに対処する為に関ヶ原に移動した」
原文書いてよ
新加別記第七十 慶長年中卜斎記中之巻の59Pに書いてあるから
目の前にあるんだよね
相手のあらを探さなくとも、
自分のソースをあげればそれですむ話だろうに。
何をそんなに必死になっているのか。
相手の粗でなく、相手が墓穴掘ってるから
自分の今までの主張と食い違う事になってても、気付きもしない
慶長記そのまま使うと、
>>433の東軍の動きと食い違うのだけどそれは如何するのかな?
都合のいい一文だけ用いて解説してるサイトをまんま信用すると、その前後の内容に何とあるのか
気にもならないのだろうけどね・・・
史料名教えてあげるよ、検索してあるかな?
「吉川広家書案 益田家證文」だよ、頑張れ
史料を持っててもこうはなりたくないものだ。
なるほど、吉川家の文書ね。
それなら三成のことをそのように書くのも当然だ。
出典を出すのを渋った意味もよくわかる。
吉川家の文書になるのかぁ、そうかそうか
内容から、てっきり益田家文書かと思ったけどなぁ
しかも三成からの通達の件なんだけど
いやいやごめんごめん
そんなもんよ、2ちゃんねるで史料持ってただ暴れるバカは。
自分が知識がないなら知らない、わからないと言うべきだが
ここでは、俺は知ってるとグーグル知識でさも事実のように語る輩にはこれぐらいが丁度いい
普通の人には普通に対応するけどな
知らないのは恥ずかしいことではない、知らないのを無理して知ってるように語る輩が恥ずかしい
特に
>>452みたいなの
>>450のように一部分しか見せてないのに、全て悟ったような見方しか出来ないから
史料名教えたくはなかったんだよね
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 19:48:16
議論が白熱することと、相手の粗を探すことを勘違いしてはいかんぞ
自分の知識と相手の知識を共有することが大事なのです
>>453 それでは無知な私に教えていただきたいが。
その史料で「治少大垣南宮をすて候てさほ山え引取り候」
と認識したのはどういう立場のなんという人で、
その理由はなぜだったのですか。
よろしくお願いします。
457 :
452:2005/12/02(金) 20:00:20
見ていて痛々しいんだよ。
>>452を良く考えてくれ。
458 :
452:2005/12/02(金) 20:04:50
吉川家文書ならたまたま俺が持っている。
何かわからないんなら俺が書こうか?
やっぱり、どういう立場に人間が、どういう理由でそう判断したのかは知りたいですね。
そうすればその記述の信憑性もある程度判断できる。
史料に記述があってもそれが人の主観である以上、
丸ごと信じるわけにもいかないですから。
>>458もしよければお願いします。
460 :
452:2005/12/02(金) 20:13:48
本は手元にあるが、今飯食ってて探すのが面倒だから、
453が一、二、三の何ページか教えてくれるとありがたい。
それが無理なら飯を食った後で探すわ。
>>456 意味がわからん
これは関ヶ原で安国寺恵瓊の軍にいた益田元祥の記録
石治、大刑兼々相談相済され候様子は、大垣、関ヶ原人数南宮山に相まろみ、一戦仕るべきに相極められ候処、
九月十三日内府赤坂御着候刻、治少大垣南宮をすて候てさほ山え引取り候時は、は前日の議定相違う候て、
さほ山え打入るべき調儀露顕仕り候
はい関係ある部分抜粋
>>453 いや、どう考えても最初から史料名出して説明した方が、
話は簡単だったと思うぞ。
吉川家文書じゃないから、450が勝手に吉川家文書とか決め付けてるだけ
>>448に書いてあるのに、読もうともしないのな
双方落ち着けよ。
なぜそこで揉める前に史料の擦り合わせを試みないのか。
>>465 片方には史料なんてありません
慶長記で「秀秋謀反の風聞が立ったので、それに対処する為に関ヶ原に移動した」
と持ち出すので、その前後の文は?と聞いても無視
自分の都合のいい答えにあった史料をググって貼り付けるだけ
467 :
450:2005/12/02(金) 20:34:37
まあ、確かに私の書き込みはあてずっぽう、
というかぶっちゃけ適当なものだったがね。
しかし、益田元祥ってそれこそググッて調べただけだが、
吉川元春の娘婿で広家と縁続きのある人間のようだが。
吉川よりの人間が、三成のことをそのように書くのはやはり当然というべきもので、
それを客観的事実とするのはやはり無茶ってものじゃあないか。
とまぁこんなもんです、史料批判も糞もない
こんなんで突っかかってくる、これれは縁続きあるから事実とするには無茶とかね
もうねアホかと、バカかと
他の史料との擦り合わせもないよ、ひたすら自身の思い込み断定
その癖、他人には根拠やソース求める基地外
史料の記述といえども、
その内容にそれを記したものの主観や立場が影響するのは当然。
吉川広家の縁者のものとなれば、
そのことがその記述に影響したと考えるのはごく当たり前のことと思うが。
史料批判もしない
主観や立場でどのように影響したのか、内容の信憑性はなど
調べもしないうちにこれ
反証すら持ってこない
この辺りに関係す記述がある慶長記の事は相変わらず無視
他人の知識に依存するだけ、気に入らなければ煽り倒し
やってられんね、こういう他力本願バカ
471 :
452:2005/12/02(金) 20:48:17
…吉川家文書二の82ページにありました。
461の後は長政との和睦の事を書いています。
461は慶長六年の吉川広家自筆覚書案の一部ですね。
472 :
465:2005/12/02(金) 20:49:32
なるほど、あなたは検証もできる人のようだ。
しかしまあそんなに殺伐としなくてもいいだろ。
無知を叩いてばかりでは話題が尽きてしまう。
ほどほどで諭してやる余裕を持とうよ。
無知は叩かないよ、知らないなら知らないで済むから
こーいうのは諭す価値もないしさ
は前日の議定の内容書こうかと思ったが止めとこ
何か居ても広家の縁で云々で切り捨てだよ
474 :
452:2005/12/02(金) 20:56:44
僕は448を見てすぐこれは吉川家文書にあると気付いてました。
だから吉川家文書なら持っていると書きました。
一応戦国期毛利史料撰にもあたりましたが、こちらは461のみの記述で以下は下略です。
然ば拵の儀連々申上げ候も此時に候
和議申込はこの後とあるから省いたら問題?
476 :
452:2005/12/02(金) 21:06:44
問題ないが、見ていて痛々しい。
477 :
465:2005/12/02(金) 21:11:44
史料なくしては語れないスレになってしまったのがか?
つか今の論点なんだっけ?
>>477 三成は当初関ヶ原で戦うつもりはなく、
佐和山まで引くつもりだったが、
東軍に捕捉されたので関ヶ原で合戦になった。
という説の是非について。
479 :
456:2005/12/02(金) 21:26:37
ちょっと遅くなってしまったですが。
>>461>>452サンクス。
参考になりましたが、そういう立場の人の記述だということへの、
個人的感想を述べることは、この場では差し控えさせていただきます・・・・。
480 :
452:2005/12/02(金) 21:31:08
たかが478を語る位で何故史料片手に興奮するのか理解出来ない。
そりゃあ史料なしで興奮するよりはましでしょう。
自論と違えばそれだけで興奮する物なんて幾らでもいるのだし。
482 :
465:2005/12/02(金) 21:41:27
>>461によれば、石田大谷らは9月13日に開戦を決意しているわけね?
483 :
452:2005/12/02(金) 21:51:10
確かに史料なしで興奮するよりはマシですね。
479そういう立場の人ってこれは吉川広家が書いた物ですよ。
どこから益田が出て来たのかはわかりません。
448にも吉川広家書案と書いてあるのに。
452とオチをつけて消えます。
484 :
456:2005/12/02(金) 22:06:06
>>483 いや、吉川の文書ではないと言っていた人がいたので、
まあそういう立場の人というのは、吉川に近い人という意味なので、
本人であるなら同様な感想は変わらず、むしろなおさら強くなるところです。
毛利家の特に吉川の立場に立てば、三成が南宮山を捨てて勝手に佐和山に向かってしまったということにすれば、
先に裏切り的な行為をしたのは三成ということにできて都合がいい。
吉川に近いものの記述であるなら、
そういう政治的な思惑が含まれたのではないか推測するのは、まあ自然なことだ。
無論それを証明することは出来なくとも、そういう印象を受けるのは無理もない。
そういう印象をもたれたくなかったから、散々ソースを出ししぶったんだろうな。
>>442に佐和山を「襲ってやる」とまで書かれていると書いてあるが、
これが
>>461のさほ山え「打入る」べきの事の打入るなら襲うとは意味違うぞ。
>>483 あらら、結局そうなんだ。
何か必死に広家のものではないことにしようとしていた人がいたが、
なんだったのやら。
>>487 悪いが、自前の知識なしで語るのも大分見苦しいぞ。
今回はたまたま
>>452が史料を持っていたから、
相手の史料が客観性に乏しいものだとわかったが、
本来なら自分の力で相手の言っていることがおかしいことに気がついてから、
その根拠をもって反論するのが筋ってものだろう。
>>415>>419 大津を攻めていた立花たちが到着しても、
数の上ではそれほど西軍有利にはならないよ。
一般的に関ヶ原の戦いでは、西軍約8万5千、東軍約7万5千と言われる、
ここに大垣城を攻めていた1万5千が西軍に加われば、
10万対7万5千になってだいぶ西軍有利になると思える。
しかし、この兵力の内、西軍には南宮山に陣取る毛利隊他2万8千弱が含まれているが、
どういうわけか東軍にはその南宮山の押さえとして置かれた、池田輝政他約1万4千が含まれていない。
加えて西軍は大垣城に5千ほどを残しているが、東軍は赤坂に1万1千ほどの兵を残している。
これらを合計して、
関ヶ原から大垣城までの地域全体で兵力を大雑把に計算すると。
西軍約 9万
東軍約10万
ここに大津城を攻めていた1万5千を加えても、10万5千対10万。
僅かに西軍有利だか到底大勢を決するほどのものではない。
まとめると、
大垣城周辺まで含めた広域では
西軍約9万 東軍約10万
大垣周辺を除き南宮山周辺まで含めると、
西軍約8万5千 東軍約8万9千
南宮山周辺を除いて実際の関ヶ原での兵力を計算すると、
西軍約5万7千 東軍約7万5千。
さらに小早川他と家康本隊を除いて当初から実際に戦闘した数にすると、
西軍約3万7千 東軍約4万5千。
つまり、家康が到着して以降は、一括して西軍のほうが数字の上では不利だったと。
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 20:56:09
すっげ新着58件^^
なんか御褒美みたい!
492 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 21:04:59
・・・・orz
なんか言い争いばかりだったよ・・・
しかも資料見せろ、見せないの応酬だけ・・・・・
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 23:25:25
前田利家のスレがあったらなぁ・・・
495 :
465:2005/12/04(日) 23:45:44
496 :
452:2005/12/05(月) 00:48:06
>>482 吉川広家自筆覚書案(吉川家文書)
石治、大刑兼々相談被相澄(済)様子、
大垣関ヶ原人数、南宮山へ相まろみ(集結する)一戦可仕に被相極候処、
九月十三日、内府様赤坂御着候刻、治少、大刑少大垣南宮を捨候て、山中へ引取(退く)候時は、
前日之儀(議)定相違候而、佐和山へ可被打入(退却)催露顕候、
吉川広家書案(益田家證文)
石治、大刑兼々相談相澄(済)され候様子は、
大垣、関ヶ原人数南宮山に相まろみ(集結する)、一戦仕るべきに相極められ候処、
九月十三日内府様赤坂御着候刻、治部大垣南宮をすて候て、山中え引取り(退く)候時は、
は前日の儀(議)定相違候て、さほ(佐保)山え打入る(退却)べき調儀露顕仕り候、
>>489 たしかに立花隊が到着しても西軍有利にはならない。
でも・立花隊はやる気と実戦能力だけは高い。
あと西軍じゃめずらしく裏切る可能性も無いところは、めちゃお買い得。
少なくとも、奮戦はしてくれると思われる。
あと戦役が長期化したとしての西軍勝利の可能性としては、輝元を戦闘に
参加させると言う可能性はどうでしょう?
これならいくら広家が徳川に内通していようと、西軍として戦ってくれると思うのですが、
問題はどうやって引っ張りだすかですが…
千成瓢箪の馬印が一番効果的なんですけどね。
498 :
452:2005/12/05(月) 01:46:17
>>496の広家書状は慶長六年の書状ですが、西軍が大垣から退却した事情や、
山中から佐和山まで引く事について考えるには、
慶長五年九月十七日の吉川広家自筆書状案の方がいいかもね。
これはもう書きません。
>>461は一部間違えているので
>>496で訂正しました。
>>497 家康が赤坂に来ても動けなかった輝元は、大阪にでも東軍が来ない限り戦闘に参加しないだろ
彼をそこまで束縛していた西軍の屋台骨の骨粗鬆症ぶりってのは見落とされがちだが
重鎮の増田や前田が逐一行動を家康に報告しているような勢力が、目に見えてガタガタじゃないはずがない
鍋島勝茂なんて適当な理由つけてあっさり途中で戦線離脱してるし
ひょっとしたら輝元当人は天下分け目の戦いに参戦したかったかもしれない
というか、輝元支持者の俺としてはそう信じたい
でも輝元が大阪にいなかったら、それこそ脱落者が続発していたであろう状況にあったんだよ
秀吉無き後、秀頼の代理としての家康である以上、彼を倒すためには、
秀頼自身の旗が必要じゃないか?
一番いいのは秀頼の出馬だけど、それ以外なら、秀頼自身が徳川は
反逆者って言った証拠みたいなもの…
それを手に入れないで放棄した時点で三成は負け組?
当の豊臣家は、関ヶ原を室町時代の諸侯の争いみたいなものと捉えていた素振りがあるからな
一応七手組などが西軍で参戦こそしているが…
淀殿からの特使として京極に派遣された朽木も藤堂に通じていたわけだし
その内情は推して知るべしって感じだよなぁ
しかし豊臣家自身がそこまで乗り気あったようには思えないんだな。悲しいことに
片桐且元なんか息子を人質として家康に送ったとも聞くし
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 19:41:05
大阪の豊臣家にやる気なしと見れば・・
関が原の時点で吉川広家と小早川秀秋が西軍として行動していれば
家康を討ち果たせた可能性もあったわけで・・
戦後西軍の勝利で全てが収集した後
豊臣家の処遇が気になるわな。三成がどういおうと
西軍主力は毛利一族軍だし、小早川秀秋を豊臣家代表(関白)にすることで
高台院の抱きこみと東軍残党への慰撫の効果も期待できるとすれば
西軍参加諸侯の大勢で大阪頭越しの新体制が成立して、
豊臣政権は秀秋擁する西軍勢力に占拠されてしまい・・。
秀頼と淀殿いか大阪城は徳川の天下と大差ない扱いうけ
結局大阪の陣なんて結果もありえそうだ。
家康率いる東軍を西軍が倒せたとして、
その後のビジョンは無いんだよな、実際。
家康のように突出した第一人者が不在だからしかたないけど。
まあ、権力闘争が起こることは間違いないだろう。
或いは秀頼は三法師の道を歩むことになるやもな。
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 22:39:09
>>409 結果的には、
西軍約3万7千 東軍約10万9千
で戦ったことになるね?
まあ、あの時代、信長、秀吉、家康と、英傑が三代続いたのは、ある意味凄い事だよな
英傑だから切磋琢磨の中に生き残ってたんだろう
でも凄さの比重でいったら信長そのものの出現が大きいけど
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/06(火) 21:41:10
>>503 関ヶ原で西軍勝利なら御説の通り、毛利・吉川・小早川は西軍として参戦したって
ことだね。また僥倖中の僥倖だろうが家康を討ち取ったとしたらどうなるかねぇ。
毛利一族の政治的立場はジャンプアップするのは間違いないが、肝心の輝元はへタレ
だからなァ。
上杉もそういう意味ではキャスティングボートを握るかもしれんが、毛利を上手く
御する事が出来れば諸侯の台頭を押さえられるかもしれん。宇喜多も大領を得るだろうが
これも政治的には野心は薄そう。
東軍についた恩顧大名達は家康ですら討死してる状況だと、相当な確立で討死しとそうだ。
生き延びても懐柔の対象というより改易の対象。参戦してない清正や蜂須賀なんかは
減封程度で済むかもね。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/06(火) 22:01:43
もし輝元が参戦していたら、そのときは西軍が圧倒的に有利だったということか?
西軍が勝ったら、だれが中心というよりも、五奉行という割と曖昧な形だった官僚機構が確固たるものになる。
んで、豊臣の名のもと実力のある官僚が全国を収める、中央集権体制ができあがったんじゃないか?
少なくとも筑前への大増封を断った三成には、その統治構想は見えてたのではなかろうか?
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/06(火) 22:10:14
西軍は三成が総大将だったというわけではなくて、総大将はいなかったというのは本当では?
西軍敗北のA級戦犯は吉川広家だろ
こいつが余計なことしなきゃ西軍勝ってたよ
輝元が東軍を攻めれば秀秋だって裏切れないはず
途中まで西軍有利でなお輝元出陣、ここまできたら小早川は家康攻めるよ
輝元が出馬しないから。
別に輝元は出陣できたがしなかったというよりも、
家中で吉川と安国寺が対立、片桐且元は家康に人質を送り、豊臣家の西軍への積極参加もない。
その上西軍決起の発起人の1人であり、本来中心人物のはずの、
増田長盛について雑兵すら東軍へ通じていると噂する(そして実際に通じていた)
という無茶苦茶まとまりのない西軍の状況を見て、
やる気を失った、というか自身が大坂を動いたらどうなるかわからない、
という状況で動くに動けなかったというのが実情だからね。
合戦場所に輝元が来なかったのは、
これないような状況を作ってしまっていたからという意味で、
その時点ですでに東軍圧倒的有利だったと言える。
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 01:36:01
吉川広家はよく生きていられたよね
家康に騙されたとはいえ、自分のしたことで毛利120万石が29万石になったんだぜ
普通なら腹を切って詫びるよな
それならまだ許せるし、ここまで叩かれなかったと思うぜ
516 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 13:38:27
>>515 恵瓊の口車に乗ってあそこまで行った毛利家を止めたのは誰だ?
天下を裁量する気も無い毛利家の連中にとって広家の取った行動は、誰もが非難できないことだったんだろ
後、あの時点で広家が腹を切ったら、そこを家康に付け込まれて毛利は潰されてたろうな
大した罪状も無いのに家内紛争のせいで取り潰しの口実を与えちまった長宗我部が良い例だ
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 22:16:27
立花らが大津城を素通りしていれば、早く関が原に到着できたわけで
少なくとも、史実よりは西軍が有利に戦えたのではないか?
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 05:25:18
>>517 んなことしたら、後方を気にして部隊を裂いたりせにゃならなくなるじゃないか。
京極にそんな度胸があったかは別の問題として、
要衝である大津で後方撹乱なんてされたらうざいことこの上ない。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 09:28:25
家康は諸将を参集して、何事も全員の前で相談し、表向きには味方の温度差をほとんど無くして決戦に臨んだ。
一方、西軍は…はっきりと全員が参加した軍議ってあったっけ?
だからリーダーが誰か、報酬がどれくらいか、戦争の目的が何なのか、諸説あるけど、はっきりしない。
こんな奴ら、どう動いたって最終的に勝てるはずがない。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 11:14:15
戦犯は福島だろ 東軍諸将の前で豊臣家に弓引くことはできん!っていえばよかったんだよ
戦犯が誰彼って言ってる連中、一体何がしたいんだ?
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 12:07:19
関ヶ原の戦いは明治政府の潤色で島津、毛利に同情する輩が多い。
まともな軍隊なら、総大将が真に戦う気なら、参謀がどんなに強硬に反対しても一当てぐらいする。
逆に、総大将が戦う気がなくても、部下が強硬に反対すれば、一当てぐらいは試してみる。
武士が戦場にあるのは戦うためで、守りに入るためではないからだ。
軍議は常に、主戦>反戦で主戦派が圧倒的に有利だ。
なぜ、吉川広家一人の暗躍で毛利二万が戦えなかったりしたのか?
全員やる気がなかったとしか思えない。
やる気というか、事情が完全に理解できてなかったんだろ。
じゃないと島津の行動とか普通ではあり得ない。
もっと長期戦にわたると思ってたのかもしれないし。
島津って元々東軍に属するつもりで、伏見城入城を断られたからヤケクソで西軍付いたって聞いた事あるけど。
だから兄貴は一切援軍を送らなかったとも聞いてる。
実際どうなの?教えて博識な人。
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 20:35:00
>>522 吉川広家の影響力が強すぎて、主戦派さえも圧倒されてしまったのでは?
>>524 俺自身は確認してないが島津家の捏造って言われているやつか?
鳥居は「死人に口無し」で責任を被せられたという
>>524 西軍に付くつもりだったにせよ、東軍に付くつもりだったにせよ
一部の強硬派に義弘が担ぎ上げられたってのが近いんじゃないかなぁ
兄弟でなんか密約があったのかもしれんが
>>522 軍議では積極的なほうが有利に論を進めやすいというのは良く聞くが、
家中きっての武闘派で本来なら最も結局的な意見を吐くはずの広家が消極論では、
積極論も盛り上がらないだろう。
むしろ、あの広家がこう言うようではマジでダメなのかも・・・
って空気になりかねない。
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 23:38:02
西軍の大将が前田利家だったらどうなった?
そもそも関が原の遠因が利家の死去からきているのだが
彼が生きていたら徳川もさすがに強気にはなれないだろう
同意だ。
なにより関が原のような大戦が起こらないかも知れない。
四大老&五奉行が利家を筆頭にがっちり手を組んでんだもん
利家が生きてたら家康もうかつに動けないだろうね
家康が天下を狙って戦を起こしても
四大老&五奉行vs家康福島伊達細川etc
あげく秀頼を担がれたひにゃ福島加藤などは戦いに加わるまい
どう見ても家康不利だ
でも、家康は気合で利家より長生きしそう。
利家が1650年まで生きてたとしても、家康は1660年までいきる。
まぁそのころになったら秀頼の子孫が増えてるだろうけど。
利家は晩年、義を重んじる気骨の人を装っているが、ただの日和見主義はだと思う。
まあ、吏僚派、武官派双方から信望があるのはわかるが、肝心な『実力』がないような気がしてならない。
実力がなければ長生きしても狸にいつかしてやられる予感。
三成がせっついても、鈍重な動きしかしてないでしょ。
『おう!佐吉!内府を追い落とす方策を考えろ!ワシは全面的に協力するぞ!』
という姿勢があれば、利家存命中に関ケ原が現出していたかも…
まあ、病躯で気が萎えていたか…
利家の政治姿勢は一貫して強い方につくこと。
その上その人生において自身が総司令官として単独で戦ったことが一回もない。
そういう状況では自分が先頭になって家康と積極的に戦うことはないだろう、
むしろ懐柔されてしまう可能性のほうが高い。
利家夜話何かで描かれている利家はかなりの勢いでクズだよな
色々恩を受けた成政に対して感謝するどころか、嫉妬ばかりしている
彼が秀吉に降伏した後は、真っ先に処刑すべきだと書状を秀吉に送ってもいるし
義理人情に厚い人物ではなく、賤ヶ岳での裏切りを帳消しにするために義人の仮面を被る必要性感あったんだろう
まあ、利家が大した人物でなかった可能性は結構高いわな。
ただ、ポジション的に家康に対抗しうる人物は他に無かったわけで、
利家が家康と同じくらい生きられれば、補佐に三成らを従えて、
対抗勢力の頭にはなったかもしれん。
三成ら西軍首脳も、ブレインは務まっても、総大将としての貫禄、求心力に欠けていたから、
利家本人の能力というより、利家という存在自体が西軍の焦点として機能したかもね。
利家に自身に実力がなくても、亡き信長の家臣で太閤とは戦友っていう格が
あれば自然に実力となるべき人間が付いてくるだろう。利家が生きてて家康を糾弾すれば。
糾弾すればそうかもしれないが、
利家のそれまでの半生から考えるに家康に擦り寄る可能性が高いのでは。
少なくとも家康の方は懐柔しようとするだろうし、
それにのってしまう可能性も高いと思う。
利家は反家康勢力の旗頭にはなれたろうね
ただ、利家がトップである限り、決して戦端は開かれなかったんじゃなかろうか?
利家はそんな勝負に出る男とは思えないし、家康もそんなリスクは侵さないだろう
西軍というか反家康側が勝つには、もっと器の大きな人物が必要だったと思う
三成、輝元、広家、長盛、秀家、行長たちは皆ひとかどの人物だったけれど…
天下人ではなかったのがなぁ
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 09:09:57
加賀大納言は公的な秀頼の後見人だから政治的な位置付けは高い上に、何よりも
大義名分がある。540氏が言うように他の五大老・奉行衆では各々の能力はそれなり
にあったとは思うが内府に対抗でき得るだけの器のある人物がいなかったのが痛い。
そういう意味では、長老格で公式な後見人の加賀大納言が徳川氏に対抗する方向で
動けば、史実では東軍についたり、日和見だった連中も西軍についた可能性は
低くはあるまい。
問題は動かない(だろう)ってことだな。
同じ大納言でも大和大納言(秀長)さえ存命だったら…
三成が専横しての軋轢も生まなかったろうし、高虎も豊臣方だったろうしなぁ
結局、豊臣家の譜代衆が皆同輩で、長老格が全員死んでたってことも重要だと思う
唯一残っていた黒田は豊臣を支える気自体がなかったし
利家が長生きしててもたぶん家康は工作始めるから
そういうものが長年鬱積していれば福島や加藤も家康に反感持つんじゃないか
>>544 そういうのをより味方に引き入れる方向で工作を行うだろうと思うが?
秀長がいれば、たしかに。
しかし少し懸念が・・・
晩年の秀吉の我が子に対する溺愛ぶりをみると、有能な秀長を、ボケて前後不覚になったの秀吉はどうみるだろう。
秀次と同じような運命をたどるんじゃないか?
中国の漢代の例をみても、同じ日に産声をあげた兄弟同然のはずの盧綰を高祖・劉邦は疑い、処罰しようとした。従兄、兄弟だからそれはないとは言いきれない。
と思ったが邪推かな。秀長存命なら秀吉のボケの進行も遅そうだし。
中国の例で言えば、光武帝の息子で、異腹の兄とその子に仕え、重鎮としてあり続けた劉蒼なんて例もあるが
548 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 21:53:48
本当に、序盤は西軍が優勢だったのか?
周公旦って例もあるね。
弟が後継ぎ候補となるなら、息子の邪魔って考える線もあるけど、
補佐役に徹すれば、少なくとも後継ぎ争いでいさかいになることはない。
まあ、仲の悪い兄弟なんていくらでもいるから、
なんともいえないが、秀吉兄弟はそういうことにはならないのではないかな?
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 22:59:38
>>534 己を知る
利家はこれができていたのかなと思う。
どう贔屓目にみても家康を上回る人物ではなかった。
しかし彼自身それをわかっていたのではと思う。
それこそが彼の優れた点であり、家康が利家財命中には天下取りに動けなかった故である思う。
蒲生氏郷が生きていればどうなっただろうか?
「家康は天下を治める器じゃない」なんて言ってるぐらいだから家康とは手を組まないハズ。
秀吉が織田を乗っ取った感じで、秀頼を傀儡化しそうな気がする。
蒲生氏郷は地理的条件が悪すぎるな。
持って生まれた器量ほどの影響力は保てない気がする。
伏見に秀頼の代官として、家康に代わって常駐するならともかく、
大阪城周辺に大軍を擁して軍事力による裏づけを確保しないと無いと苦しいだろう。
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 12:20:10
もし秀忠が関が原に到着していたら、どのあたりに布陣していたの?
>>551 それの出典って「利家夜話」だっけ?
利家なら天下取れるとか言ってる前田マンセーの逸話じゃん
>>554 それらしい事は言ったんじゃない?
家康の行動を見てると、才能はあるが器量の悪いところがある。
利家は保身的であまり目立つ才はないが、反面して保守的な人間だし。
>>555 そう認識していて、もし本当にそんな事を言ったなら、
利家の方が後で取って代わりやすいから、という意思があったとしか思えんねw
まあ、普通に前田側の利家マンセー逸話に過ぎないでしょう。
蒲生氏郷が「秀吉の次は前田の天下だ、いざというときには東の家康にはこの蒲生が、西の毛利には宇喜多が備える」
と言ったって本当ですか?さらに「この俺がいる限り家康は箱根を越えられない」とも言ったらしいですが
それがその逸話だよ
ちなみに551の逸話は「老人雑話」ってやつが出典らしい
557の方が「利家夜話」で
氏郷が前田利長・細川忠興・上田主水正・戸田武蔵守の面々を屋敷に招いて雑談してる時に語り、後日それを聞いた利家が苦笑いしたそうな
スマソ
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 21:37:42
>>546 さすがに秀次と秀長では扱いが違うだろう。貧しい頃より苦楽を共にし、長じては
名補佐役を大過無くこなした大納言秀長を軽々と切って捨てることは出来ない。
秀次は太閤秀吉の後継者と一時目されていたのが秀頼誕生により災いした。
ただ秀次は秀吉の一族としては珍しく子沢山だったが、秀長には後事を托せる
遺児がいないのが痛い。純粋なIFとしてみても大和大納言家が続かねば、秀頼の良き
藩屏とは成り得ない。
秀長には秀保という養子がいて家督を継いだはず
秀次失脚と同じ1595年に死亡していることから秀吉サイドの暗殺ともいわれてる
そして大納言家は改易
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/12(月) 01:42:38
↑何ヶ月か前にNHKでやってた気がする
>>562 「その時歴史は動いた」の藤堂高虎の章じゃないか?
秀保自身も凡庸だったから屋台骨として機能したかは微妙だけどな
個人的には、丹羽長秀から秀長の養子になり、
秀保がやってくると高虎にお下がりとなった、藤堂高吉が大和大納言家を継いでたらな、とは思う
かなりの傑物だったみたいだし
秀次が生きてたらどうだろうな
秀吉の甥の
>>564 賛否はあろうが、私はひそかに常真、有楽よりは骨のある奴だと思っている。
本当に『殺生関白』と云われる男であったかどうか…
残虐エピソードはお決まりのパターンが多い。
やれ妊婦の腹を割いただの、辻斬りだの、畑の農夫を弓で射ただの、死人に口なしでいろんな悪業をおっかぶされた可能性は否定できない。
悪業をおっかぶせれば、おっかぶせるほど秀頼を世継にしたことが正当化されるわけで…
そして徳川の世になっても、彼の評価は見なおされることはなかった。やはり豊臣家の人間であるからね。
彼がそこそこできることを表すエピソードが小牧の挟撃戦の抜擢ではないだろうか?
乾坤一擲、勝てば天下統一が急速に早まるこの挟撃戦であえて『凡将』を池田隊のサブにつけるだろうか?
そこそこやれると踏んだ故に秀次を抜擢したんじゃないか!?
いや、やっぱそれはないか…
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/12(月) 20:49:30
>>565 御説の通り、『殺生関白』辺りの話しは徳川信康同様、真偽の程は全く謎。
十中八九は濡れ衣だろう。こんな典型的流言を用いたくらいだから結構まともな
人物だったんだろう。ただこの程度の流言で世評が決まるとは、ある意味凡庸だった
可能性も否めまい。
ただ有能だったかどうかも「謎」だ。小牧の戦は秀次のほかは池田勝入斎と堀久太郎
と、まずまずの戦上手を付けてやって手柄を立てさせてやろうという事かもね。
基本的に大規模な別働隊を組織する時に、
たとえ名目だけでも自身の身内をそれにつけるのはごく当然。
むしろ、例えば、豊臣一門内の誰かを付けずに、池田・森らだけで作戦が成功してしまっては、
手柄は全て彼らの者となってしまい、彼らの上に立つつもりの秀吉としてははなはだ拙い。
よって、池田と並んで大将格になれるような一門をつけざるを得ないとも言える。
だとすれば、小牧長久手の時には確か秀長はその場にいなかったはずだから、
秀次を回すしかなかったと。
まあ、いずれにしても身内がそういうときの大将に選ばれるのは比較的普通のことで、
必ずしも能力を見込まれたとは言えない。
逆に身内ではない者が選ればれたなら、能力を見込んで抜擢されたと類推することは出来ても。
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 00:00:13
英次に人望がなかったのは確実だろうね。
擁護する人間が少なすぎる。いまだに見直される気配もない。
人望の重要性もわからなかった・・・もしくはその程度のことすら考えて生きなかった人物というと
あまりに酷いか・・・
ところで英次の人格でなくて能力面での逸話なりを知ってる方はいませんかね?
能力とかじゃないか辞世の句はどうだ?
月花を心のままに見つくしぬ なにか浮き世に思ひ残さむ
秀次の検死役だった福島正則は秀次と対面して感動したそうだ
秀次は秀吉の意を汲んだ三成に嵌められただけ
>>568 彼は学問が好きだった
上で挙げられてる句からも分かるように、教養人としては十分なものを持っていた
自らに箔をつけようとしたから、とも見れるけどね
また、細川をはじめとして資金繰りに困っていた大名たちに惜しげもなく金を貸してやったりもしている
それが災いして、それらの大名が秀次処刑の際に、連座させられそうになったりするのは喜劇だが
蛇足になるが、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」に収められた「殺生関白」はガチ
秀次は、どっかの領主だった頃はかなり細やかな内治を行っていた模様。
三成関与について言うと、秀次の老職の前野(連座して自害)が三成と親密で、彼の身の事もあり、秀吉、秀次間の調停に奔走していた、と言う話も聞く。
秀吉没後に秀次が反家康の立場取ったら、福島とかは秀次に付くのかな
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 11:10:01
>>573 反家康ではなくて家康が反秀次という形式になるような
家康は反だろ最初から、それで秀次が逆らわないで家康に懐柔されたら対立しなくなる。
家康は秀次が死んだ時点で、天下取りの自信を深めたんじゃないかな?
幼少秀頼に天下を仕切ることはできないことは明らか。
秀吉さえ逝けば、自分が政を仕切るしかなくなる。
あとは自分と秀吉どちらが先に逝くかの勝負。
だがもし秀次が生きていれば話はまったくの白紙。
天下取りの野望もあきらめていたかもしれない。
かりに天下をねらうとしたら、史実のように『豊臣家御為』をお題目にして天下はとれない。
完全に『豊臣家』を否定し、敵として挑むしかない。
これからは空想話だが、たぶん豊臣家と対峙する家康は、岐阜中納言あたりを担ぎだしそうな気がする。
スローガンは『織田家の覇業を簒奪した豊臣家を誅す!』かな?
ただ問題は秀信が豊臣に弓を引くとは思えないところか…。
だからといって有楽や常真じゃ人はなびかないだろーし。
その場合は、鎌倉幕府における北条氏の様に、内部から権力奪取を図るんじゃないかな?
家康ほど策謀に長けた人間が、勝ち目が薄い全面対決に持っていくとは思えないな。
>>577 成功するかどうかはともかく、そっちを目指すだろうね。
>>577 たしかにそうだね。
書いてて無理があると自分でもわかってる。
ただ家康には残された時間がない。内部崩壊などまってるうちにポックリとも。まあ実際は1615年まで生きたがね。
ただ自分がそこまで生きる確証がないから、秀次があとを継いだら、天下取りそのものをあきらめてしまうかも。
それでも寿命があるうちに無理やりにでも天下を取ろうとするなら?ってのが
>>576の案です。
とにかく秀次が存命なら1600年時点で家康が天下を決めることは困難とおもいます。
結城秀康を忘れるな!
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 23:10:55
徳川秀忠の例を見ても、地盤さえしっかりしてれば2代目は大人しい人物が穏当なの
かも。秀次英邁也との風聞は聞かないが、要は豊臣政権のしくみさえしっかりしてれば
OKなんだろうね。太閤の威光のもと、関白秀次が首班となり石田治部・名束大蔵・前田
玄以らの奉行が手綱をしっかり握り時を稼げば、それだけ家康の天下取りの可能性は
小さくなっていく訳だ。
確かに大納言秀長・関白秀次と櫛の歯を引くように、ただでさえ少ない豊臣一族が
死んでいくのを見てれば家康としては野望をより現実的なものと認識するだろうな。
さらに秀次を殺してしまったことで秀吉は大老職を作ってしまったからな
秀頼に拘泥するあまり、他の全てが見えなくなったのは秀吉の最大の失敗だよなぁ…
結局自分の権力基盤を骨抜きにしちまってるし
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 07:50:52
>>583 まさにその通りだね。孫ほどの年齢の嫡子に庶民の爺みたく惑溺してる感じだわなw
これじゃ大名達もたまったモンじゃないわな。
家康の野望はむしろ世論に後押しされたものだったかもね。同様に三成の苦労も
おして知るべしだね。
しかも家康は驚異的な子沢山
石田ちゃんも側室の数は少ないものの8人子供いたお
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 13:20:47
ほぅ。佐吉も隅に置けないなw
三成を養子にすればよかったのか
秀長も秀次も秀秋も秀康も秀頼もいなければいいんだが
秀忠を養子にして、豊臣秀忠を名乗らせれば良かったんじゃ…無理有るな。
三成なんて官僚上がりで嫌われ者を養子にして継がせたら、
関が原起こすまでも無く豊臣政権瓦解しそうだが・・・・・・・
血筋で身分が決まる社会にあって、
幾ら下賤の出の豊臣家とは言え、一門でもないのに平民上がりの男は入れられまいよw
秀吉もその辺は結構気にしてたみたいだしな
>>585 しかし、父親より長生きしたのは男子では5人だけ。
うち一人は勘当されているし3人は幼少。
けっして次代に恵まれていたとは言えないような。
>>590 まあ本当は秀吉も征夷大将軍に
なりたかったみたいだしな
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 20:16:27
>>592 朝廷や足利義昭に賄賂を献上して、征夷大将軍を譲位してもらう取引は無かったのですか?
征夷大将軍は、ただの官位と違って、「源氏の長者」に与えられるもの。
武家政権の権威としての征夷大将軍は、言うまでも無く源頼朝から始まるわけだが、
源氏の流れを汲んでいない、まして出自が武士ですらない秀吉は征夷大将軍の候補にすらなれない。
家康が家系図を捏造してまで源氏に拘ったのは、源氏の長者じゃないと征夷大将軍がもらえないから。
>>594 その理屈なら、
秀吉だって家系図捏造してなればいいでしょうが。
実際のところ、征夷大将軍は源氏でないと云々は、
貰う側の矜持であって、与える側の朝廷にはそんな意思はありません。
朝廷は一応平氏の信長にだって関白・太政大臣・征夷大将軍、
どれでもなりたいものにすると言っているしね。
鎌倉時代には藤原氏が征夷大将軍になっていますが。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 21:57:28
源氏の氏の長者がなるというのは意外と俗説なのかもな。
頼朝から室町幕府までが長かったからなぁ。北条氏の執権政治時代は都から将軍職を
継ぐ公家に下向してもらってたんだよね。この公家さん達も一応は源姓の貴族だった
のかな。
苅田麻呂や文室秋津は違ったっけか。
>>598 俗説以外の何物でもありません。
鎌倉時代の4代目以降の将軍は藤原氏と皇族です。
というか、源氏の氏の長者って、
義満が村上源氏から奪ったのはなかったか?
たぶん尊氏ですら氏の長者ではなかったはずだが。
征夷大将軍は源氏しか・・・
ってのは日本史でもっとも有名な俗説の一つ。
位を与える朝廷の側には、征夷大将軍は源氏にしか与えないなどというこだわりはない、
このことは信長へのいわゆる三職推任で明らか。
しかし、貰う側の武士、特にせっかく頼朝が征夷大将軍になり幕府を開いたのに、
実権を北条氏に奪われ、将軍職も源氏の手から離れてしまったのを目の当たりにした、
足利氏等の源氏の名門にあたる者には、征夷大将軍は源氏のみがなるべきだ、
という一方的だが強い思い入れがあっただろうことは容易に想像がつく。
そしてそういう足利氏が念願かなって将軍になり、
以来200年以上その位を独占していれば、
まわりも何となくそういうものだと思ってもおかしくはない。
このあたりが征夷大将軍は源氏しかなれないという俗説のもとだろう。
605 :
598:2005/12/14(水) 23:16:33
>>601 おおっ早速の御教授、痛み入ります。
4代目以降は藤原氏だったとは…。
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 23:20:51
氏の長者の定義って血筋じゃなくて、そのタイミングで一番力量のある一族の者って
なんかの本で読んだような。これってガセなの?
>>605 ちなみに鎌倉時代の将軍で一番多かったのは、
皇族出身の将軍、いわゆる宮将軍で、全部で四人ほどいたと思う。
源氏は最初の3代まで、藤原氏は確か4代・5代将軍の二回だったはず。
で、それ以降が皇族将軍。
源氏しかなれないってのはいわゆる、断り文句みたいなものだろ
先例主義の中でなれないとかなると、その理由を後から源氏だなんだと言う
現職将軍の足利義昭が将軍職を手離さなかった…と言うのを聞いた事があるのですが、
真偽はとうなのでしょう?
まぁ秀吉の場合、平家である信長の後継者って事や源平政権交代のジンクスやらで、
源氏家系を捏造しなかったんじゃないか?と思うのですが…
あと 源氏一門から選ばれるとされる、征夷大将軍に対し、藤原五摂家から選ばれる関白職
とじゃ格がちがうじゃんってのもあると思う。
正一位・関白になれれば、将軍職なんてバカらしくてなれっか!って感じ?
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/15(木) 18:25:54
というかいくらなんでも秀吉は無理だろってことで終わりでどう?
秀秋は本当は物凄いやつって話ですが、彼は朝鮮で活躍したのは何歳だったのですかね?
>>609 征夷大将軍はもともと令外官。さらに頼朝以降、武家の棟梁のステータスシンボルのように
なったため、武家政権を開こうという場合の必須地位。位階の高低は関係ない。そもそも位階
でいえば、頼朝は1189年に権大納言兼右近衛大将に任官しているこれは征夷大将軍よりも上。
頼朝は位階で言えば高い地位を辞任して、低い職についた。
征夷大将軍には特権として
1・占領地に幕府(GHQのような軍事行政府)を開いて統治を行うことができる。
2・三関(愛宕、不破、鈴鹿)の外にあるときは天皇の命令にも従わなくてもよい。
の二つが認められていた。
これが、頼朝が朝廷から独立した政権を樹立する名分というか基盤となった。
>>609 繰り返しになるけど、
源氏の一門から選ばれるなんてことはない。
しつこくて申し訳ないが、それが単純な事実だから。
>>611 朝廷の影響力がまだまだ大きく、
そこから距離を置いたほうがよかった鎌倉時代はそうだけど、
秀吉の時代は関白として政治を行っても特に支障はないでしょう。
頼朝の場合、平家の失敗を繰り返さないためにも、自分が創る国は
武家主体の国というアピールが必要だったから、朝廷のとは距離を置いた
位置に政権を移して、摂関職とは別の新たな役職として武家の筆頭と言う意味も
込めて将軍職に就いた。
秀吉はその辺を理解した上での関白なのか?
単により偉い位でもって自己満足したかったのか?
そこのところはどうなんだろう…
公武合体した日本政権を考えての関白ならすごいんだけど。
秀吉の本音トーク
「正一位だぞ!偉いんだぞ!! 家康でも(生前は)二位止まりだったんだぞ!!!」
「関白も偉いんだゾ!将軍だって(本当は)言うこと聞かなきゃいけないんだゾ!!」
この辺が真実。
平和を大義名分にする為に関白は必要だったのだろう。
at光成も平家みたいに秀頼を擁して西国で再起を計ればあるいは。
征夷大将軍って源家は三代までしか続いてないし
足利家はボロボロな幕府だったし……で、かなり株が下落してる官位だと思うんだけど
>で、かなり株が下落してる官位だと思うんだけど
そのボロボロだった旧幕府の礼法を諸大名はこぞって学びたがったんだよ
朽木なんてそのためだけに旗本にされたようなもんだろうし
結局皆成り上がりだったから、そういった権威や格式ってのを欲しがったんだと思う
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 18:14:14
まあ朝廷や公家が礼法やらなんやらにこだわるのも自分たちの神格化と
正当性のためだからな。
>>616 江戸幕府のイメージが強いから、幕府は強固な政権って感じがするけど、
実際問題として鎌倉も室町もその創始者から見たら決して成功した政権とはいえないからね。
確かに鎌倉幕府は武家政権の創設に成功したが、創始者の一族は3代で断絶。
室町も初期は南北朝、後期は戦国時代で、義満の頃のわずかな絶頂期も、
守護大名との合戦が相次ぐというほとんど全時代通じで戦乱ばかり。
秀吉の時代には幕府=磐石な武家政権というイメージは全くなかったはず、
だからあえて幕府という方式に固執する要素もない。
関白になれそうだとわかった段階で、将軍になる気が失せても別におかしくはない。
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 21:28:50
>>613 多分織田信長の失敗をかんがみて武家独自の権威というのに期待をしていなかった
からだろう。
信長は自分を新しい権威として一から新しい秩序を考えていたのかも試練が
アノとおり下克上の本能寺の変で死んだわけで
征夷大将軍とか幕府についても秀吉の場合足利幕府という典型的な失敗しか見ていない
のだから、これまた選択肢から除外
というとのこるは下克上の枠外にある超越的な祭司王権(天皇ね)を仰いで、その序列
たる王朝律令官位を使い武家を統率するという方式しか
とりあえずのこっていないだろ・
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 22:11:47
織田信長は強硬戦略を貫いて、豊臣秀吉は懐柔策に徹して、徳川家康は臨機応変に対応したということ?
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 22:12:46
秀吉は将軍にはなれなかったろ。
武家の長者という意識は誰も盛ってなかったはず。
まあこれは信長でも武家の長者という感じではなかったが。
家康は何故かそういうイメージがあるな。
やはり征夷大将軍という後世のイメージかもな。
なんにせよ、金で買える関白とは違って将軍は金では買えないってことで。
権力は大差ないだろうね。
秀吉そのものに権力があるんであって、官位なんて肩書きでしかない。
俺としてはそういう意味では右府を辞めた信長の方が木になるな。
もし後10年生きてたらどういう日本にしていたのかね。
信長だけは他のやつとは違う日本にしてそうてなんかもったいない。
ある意味秀吉も農民出だから特別な感じだけど。
家康は昔のままの日本の延長って感じかな。
>>622 関白だって金じゃ買えないよ。ちなみに金銭をどうこう言うのなら、家康が
徳川の姓の許可を得るときにだって金をばらまいているが。
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 04:18:42
>>623 いくらなんでも農民にはかえないということ。
公家は金さえつめばてきなところもある。
まあ秀吉が家臣の養子になる屈辱に我慢するなら別だけど。
堅実派が勝つ
最後に正義が勝った
627 :
452:2005/12/17(土) 07:08:39
>>496の吉川広家自筆覚書案の
「大垣関ヶ原人数、南宮山へ相まろみ」
の「まろみ」はまるみ(丸み)でした。
益田家證文は「まろみ」
所詮
>>452だわ。
>>624 そんな事実はございません。
農民がなりにくいというなら将軍も関白も同じ、
結局位を与えるのはどちらも朝廷なのだから、両者に特に違いはない。
相手に強力な実力があり、その上それなりの見返りもあるなら、
朝廷はどちらの官位でも普通に与えるだろう。
実際朝廷が、関白にはしてもいいが将軍にはしないなどと、
「将軍職」にこだわる理由こそ何もない。普通に考えればむしろ逆。
単純に実際に秀吉が関白になったという事実から、そういうイメージ持ってしまっただけでしょう。
で、秀吉が将軍ではなく関白を望んだのは、既出の通り別に不思議なことではない。
実際歴史的にいうと、征夷大将軍はともかく摂政関白以下公家の官位は基本的に家に
付属していたから。朝廷からすれば、藤原でない秀吉に関白を授けるほうが余程先例
のない、破格な行為だったろうさ。
実権と名誉職の議論かいな。
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 02:05:40
>>628 その理屈だと秀吉が公家の養子になったのは何のため?
あなたは秀吉はそのままで好きな官位をもらえたみたいだけどなぜに養子になったの?
関白になるためだよね?関白になれる家柄のところに養子に行った。
もちろん体裁を整えてるだけだけどね。
そんで将軍になるときの体裁を整えることが秀吉にできるのかねってことを言ってる。
公家の養子になれても、家臣や従属大名の所に養子にいけるのかねってこと。
そんな将軍が将軍として認めてもらえるかね他の大名から。
家康にわざわざ、明日みんなのでえらそうにしますのでお願いしますなんて下からの
目を気にする秀吉が部下の養子になれるのかね?
それとも歴史上幕府を開いた将軍はみんな武士だけど、先例がなくてもゴリ押しできるだろっていうことを言ってるの?
まあいいけど。
で、秀吉が将軍<関白と思ってたというのはどこから推測したのですか?
>>631 秀吉は関白就任に際して、たとえ周囲にはバレバレでも自分の血筋を捏造して
体裁をつくろった。
本気で将軍になりたかったのなら、そして将軍就任に源氏という家名が必須なら
それこそすでにある源氏の家にこだわらずに、関白就任時と同じように「自分は
源氏の血をひいている」と捏造して新たな源氏の家を興せばいい。新たに豊臣の
家を創設したようにね。
関白就任に家も血筋も捏造して新しく姓を作り出した秀吉が、なんで将軍位に対
してはそれが出来ないなんてなるのか?
秀吉が将軍になりたいって言えば、養子とか持ち出さなくても朝廷は
将軍位を認めると思うよ。
周りの大名もそれを認めるだろう。なんだかんだ言っても当時の秀吉は天下人
にふさわしい威厳と貫禄と実力を持っていたのだから。
でも彼は将軍を望まずに関白を選んだってだけの事でしょう。
秀吉が 関白>将軍だと思っていたのではなく、社長>専務が世のあたりまえなのと
同じで関白が政治的位の最上位なのは誰でも知っている事実なのです。
ただ、いままで公家関白より武家将軍を実力者が指示していただけ。
んじゃ武家関白たる自分は過去の将軍連中より名実ともに一番じゃんってのは
いかにも、はでで一番好きの秀吉らしいんじゃないかと思います。
>>631 まず第一に藤原氏でも将軍になれるのだから、部下の養子になる必要なし。
藤原氏の養子になれた段階で将軍にもなれる。
根本的に、源氏でなければ将軍になれないというただの俗説を採用しようとするから、
そういう思い違いに行き着くのですよ。
それから、関白と将軍を比べれば関白の方が位が上なのは当然だし、
秀吉の時代においては過去の征夷大将軍が開いた政権は
>>619のとおり、
ろくなことになっていない。
そういう以上から将軍よりも関白を望んでも全くおかしくない。
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 14:00:49
>>634 幕府を開いた将軍はみな源氏じゃなかった?
>>635 だからなに?
>>611 で言われているけど、「征夷大将軍には幕府を開く権利がある」という
だけのことで、源氏でもない坂上田村麻呂だって奥州征服のあとには統治を行っている(つまり
幕府を開いた)のだが。
征夷大将軍には幕府を開く特権がある、そして征夷大将軍には源氏でなくても就任できる。
源氏でなければ幕府を開けないなんてどこにもありませんよ。
この流れにデジャブを感じるんだが……
征夷大将軍には源氏しかなれないってのは、かなり広く浸透した俗説だかね。
いろいろなスレで真実だと思い込んでいる書き込みがあって、
訂正されるってのが頻発している。
他のスレでもそうだし、歴史とは関係ない板ですら同じことがおきることもある。
実際には源氏以外でも将軍になれるなんていうのは、
鎌倉時代以降に限ってですら実例のある、
きわめて明白なことなんだから、いい加減納得しろよと思うが。
日本史板の関ヶ原スレもこんな感じだったな
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 00:41:46
>>636 なんかムキになってないか?
>>635に対してそこまで熱くなれるお前がわからんよ。
俺には「そうだね」が関の山だ。
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 00:51:09
>>638 誰か納得してない人がいるのか?
というか君は636だよね?というか一緒であってほしいわ。
将軍には源氏しかなれませんていう俗説にそこまで熱くなる人間が二人も・・・っていうか
この短い間に二人なら実際もっといそうで怖い。
ところで征夷大将軍って位はいくつ?
昔関白より上って表記してる書物をみかけた。
確か関白が一番上だったはずだけど。
ついでにそもそも将軍の簡易ってどういう経緯で創設?されたのかね?
武家のまとめやくに任せるためにかね?公家>武家時代に。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 01:19:51
関白と征夷大将軍はベツバラ。経緯なんぞ中学の教科書でも嫁や
>>941 私は>936だが、>938は自分ではありません。
>誰か納得してない人がいるのか?
>>931とか
>>935あたりは納得していないんじゃないのかね。というか、君は931 and 935かね。
征夷大将軍には源氏しかなれませんなんて俗説をこの短い間に二人以上もいるなんて怖い。
ちなみに位についてだがだが、摂政と関白では同じようで違う。
関白が諸大臣のTOP、人臣の一番であるのに対して、摂政は天皇の代理という立場にたつ。
そのため、かつては摂政の地位には皇族しか就けなかった。
おいおい、関白と摂政の違いなんて中学生レヴェルのことを鼻高々と語られちゃ困るよW
>>641 将軍・関白・官位・官職・位階をごちゃまぜにしちゃいけません。
官位:官職と位階の事。
官職:律令制のもとで、実際の政治を司る役職。二官八省を中心とする。
大納言(二官の大政官に属す)とか治部少輔(八省の治部省に属す)とかがそれ。
位階:本来は貴族社会での能力に応じ上下関係を表すもの→後に能力に関係なく形骸化
ちなみに秀吉は(皇族除く)最上位の正一位。家康は正二位→死後一位
関白:官職の一つだけど、本来の令制には無い役職。リョウゲノカンという奴。
必要にかられて後付したもの→ほぼ正式採用みたいなもの最高位の官職を表す。
内大臣・摂政もおなじリョウゲノカン。
将軍:関白と同じでリョウゲノカン。一定の軍隊を束ねる立場として臨時的に与えたのが
はじまり。 昔はいろんな種類があったけど、征夷・征東・征西の三つに集約。
頼朝が征夷大将軍職をもらいたがったのは、夷(奥州藤原氏)を滅ぼす名義が
欲しかったからだとか…
だいたいこんな感じ。
こういっては何だが豊臣家の子飼いの家臣というのはすごく官僚的ですよね。しかも小物の。
三成はもちろんだけど、加藤清正や福島正則にもそう感じる。何らかの権力やシステムの
元でのみ、能力を発揮できるタイプ。
これは秀吉がもともと、なんら地盤を持たない純粋な意味で、織田家の軍務官僚であり、彼らはさらに
秀吉の下という、織田家から見れば孫請けみたいな所のスタッフの出身だからかなあ、と思っていますが
(今で言えば本省ではなく外局の職員、ってかんじか?)
豊臣家には多種多様な家臣群が存在していましたが、秀吉末期に主流となったのは彼らでした。
彼らの、(豊臣家のシステムであれ徳川家であれ)何か大きなものに依存する、と言う性格が
関が原を生んだのでは、とも考えてみたり。
豊臣子飼いの連中ってのは有名どころ以外も結構、ひとかどの人物は多いと思うが…
朝鮮出兵とかで豊臣政権がグラつき始めたころから、黒田以外の年長者が不在なのが気になる
石高こそ違えど皆同輩なわけで、そういった感覚は抜けきらないだろうし…
健在だった前野長康や木村隼人なども秀次に連座して粛正させてしまったからな
649 :
638:2005/12/19(月) 20:41:33
>>641 >>631あたりは納得しているように見えなかったからね。
まあ、こんな当たり前の話長々と続けたのは確かに悪かったけど。
ちなみに、将軍職の最初は、遠方の敵対勢力である蝦夷を討つための、
文字通りの将軍、つまり軍司令官。
そして遠方へ攻め込んでいく必要から、いくつかの特に認められた権利ががあった。
それを源頼朝が拡大解釈して武家政権を築くために準用したというところ。
>>647 確かに秀吉一代でのし上がった故の層の薄さが目立ちますね。
子飼の武将はいても、譜代の家臣団は存在し得ないというか。
>>646 そういったら、徳川家の家臣だって似たようなものだと思うが。
でも確かに豊臣家よりも安定しているような気はする。
やはり何代か前から使えているような「譜代家臣」だからなのか。
それとも結果的に徳川政権が安定したからそう思うだけのイメージで、
例えば家康が幼子を唯一の跡取りと残して死亡したら、
もちろんそれなりに揺れるのは当然としても、
豊臣のときと同じほどにガタガタになっただろうか?
徳川家中でも、正信などの吏僚派と忠勝あたりの武断派はかなり仲が悪かったそうだけど、
しかし、たとえどんな形で家康が死んでも、
忠勝らが正信を襲撃なんてことはしなかったような気はするなぁ。
まあ、個人的にそう思うだけだが。
家康のおやじさんは幼いたけちよくんを残して逝ってしまったんじゃなかったっけ?
その後の幼い君主をもり立てるのが徳川家臣団の美談として残ってるから、
家系が浅いとは言え、数代続いた松平家と即席羽柴家はだいぶ違うんじゃないか?
もっとも家臣の離反で滅んだ武田やお家を穏便に乗っ取った鍋島なんかの例も
あるので、時と場合によりけりだって気もしますが。
家康の祖父ちゃんやその上は、一族や家臣を束ねるのに苦労したそうだけど、
今川家に支配されて酷い境遇におかれた時に、元の松平家を望む声が高まって、
この時期に後の徳川家を支えた忠誠無比の家臣団が形成されたなんて話も聞くね。
主家を盛り立てる忠義の三河武士、なんて江戸以降に自分達の先祖を顕彰するために
でっち上げられたシロモノですよ。
例えば清康が死んだあとは一族家臣の内訌で幼君である広忠は城を追われて流浪、後
に今川の後援で岡崎に帰還して、今川の威光でなんとか岡崎衆を取りまとめる。
広忠の死後は今川が乗り込んで直接統治になったため、家康というか主家松平家に逆らえ
なくなっただけ。
桶狭間以降にもまず今川と手を切って織田と結ぶときに反対した酒井氏などの家臣達が
松平から離れて今川へ走ったり、一向一揆時にも大量の家臣たちが離反したり。
こうした経緯を経て、家康に逆らわない、逆らえない連中が残ったというだけのこと。
まぁあれだ、天下人の座と一地方小大名の座の違いはあるが、
松平は当主である家康自身が、松平の生き残りをかけてがんばった結果、それに
賛同してくれる、家臣や同盟者があらわれ、なんとかがんばれた。
豊臣のばあい、当主秀頼とその取り巻きは、ぼ〜っとしていただけ。
一部の利害からむ奴らとまじな忠臣だけが空回り。
この辺が生き残れる可能性の分かれ道かと…人間とりあえずがんばらなきゃ
だめなのです。
なんてここの住人らしからぬ結論をだしてみる。
家康の器がでかいところは、三河一向一揆で歯向かった連中も結構許しているんだよな
長篠の立役者のひとりで後に重鎮になった奥平親子なんかも裏切り組だし
まぁ、一度裏切って許された人間は裏切りにくいというところを突いてるのかも知れんけど
関ヶ原の後の豊臣恩顧武将に対する処し方は人気が無いが…
秀吉が織田信雄や丹羽長重、佐々成政に対してやったことよりはマシと言えるか
>織田信雄や丹羽長重、佐々成政
もともと秀吉と同格の人間じゃん
秀吉の場合は神子田あたりの人間だろ。秀次に連座させられた連中とか、秀吉の糟糠の頃からの臣じゃん
>>647 秀吉子飼いにひとかどの人物が多い事はその通りだと思います。ただ
行動原理がどうしても小物官僚っぽいと言うか…
秀吉がいないとコンセンサスを作りあげることが出来ないのですよね、彼らは。
意見対立が素のまま政治闘争の段階を飛び越えて、武力闘争になっちゃう。
武人や官僚、知識人はたくさんいるけど独立した政治家がほとんどいないと言う感じで…
徳川家の家臣って、例えば酒井忠次、本田親子、大久保忠世、井伊直政なんてのは、官僚と言うより
政治家ですよね。ある程度まで家康からすら独立していて、目的のために独自に環境整備し、
徳川家内のコンセンサスを作り上げる事が出来る。
家康に独裁者のイメージが、信長秀吉に比べて小さいのは、こういう存在を許していたからだと
思うのですよ。
豊臣家でそういうことをやっていたのは、秀長や、実質的な家老といわれた
蜂須賀小六だったのでしょうが、何故かそういう人たちの系統は、排斥されていく。
これは豊臣権力と言うものが、織田家の官僚機構から出てきたもののため、コンセンサスを
作り上げる必要のない組織だったから。だとも思うのですが。
逆だろ
>酒井忠次、本田親子、大久保忠世、井伊直政
この辺りは「徳川の看板背負ってなんぼ」の政治家というよか、政治秘書
官僚と政治家の間くらい
信長は独裁者のワンマンだったけど、時代的にそれが最良だったし
っていうか、戦国の大名が独裁者じゃないってマイナスな気がする
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/20(火) 14:01:26
戦時はどうしたって即断即決が求められるのに合議制ではお話しにならない。
ただ状況が「統治」に移行していけば、ワンマン型行政ではあちこちに齟齬も
生じる上に不満分子も増えやすい。
戦時の何をおいても「生存と発展」という意識から各々の意識も利害関係やら
利益が優先度の高い課題と変化していくだろう。
そういう意味ではカリスマ性や苛烈なまでの指導力よりは最大公約数の利益を
守り且つ調整してくれる人物と方法論が好ましいものとなるということか。
豊臣家臣が小物官僚っぽいっか?てのは、我々が後世のデータを総合した目で見てしまうため
なかなかに難しい問題です。
ただ、松平は典型的な持ち上げられ地方豪族です。
三河の豪族連中の中でで一番力があり、頼りになりそうだったおかげで代々リーダ役をこなしてきた
みたいな。
徳川の時代で名をはせた家臣も多くは、松平を担ぎ上げていた豪族連中でした。
彼らは松平とは関係なく土地を持ち、収益を上げ、部下を維持しています。
つまりお互いがギブ&テイクな関係だったのです。
そんな中で家康は石川の出奔を理由に軍政改革を行い、関東移封で領地改革を行い、徳川家を
立ち上げ、自己の集権化をうまくこなしてきたのです。
それに対し 豊臣の加藤・福島・石田といった連中は典型的な秀吉抜擢型で、いわば秀吉がいなければ
彼らの大名としての将来は無かったのです
本来独立性の強かった豪族出の徳川家臣が羽柴家臣とくらべ、政治家っぽく見えるのはこういった背景
が有るからではないでしょうか?
もっともそれと個人の能力、国をまとめ上げる上でのメリット・デメリットとは別の話だと思いますけどネ。
信長は統一が近くなってきたら、ワンマンから機構型にシフトしてようとしたよ
で、それが纏めて本能寺と二条城でアボンしたから
後の織田家の混乱があるわけで
>>657 器云々いうよりそういった連中を切り捨てる力がなかっただけの話
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/20(火) 20:54:07
秀吉の家臣団は若年時は常に上昇気流に乗っていたから、イケイケが癖になって短慮なところがある人が多いんだよ。
その反動に極度に慎重な三成あたりがいたりするんじゃないかな。
両極がはっきりしてるから薄い印象があるんじゃないかと。
まぁ敗軍の将は良く書かれませんよ。今川の静岡県人だから特に思う。
666 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/12/20(火) 22:21:14
静岡の駅前には今川義元公の銅像が有るんでしょ?甲府の信玄公みたいに。
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/20(火) 23:49:07
で、このスレとしては農民でも征夷大将軍になれるっていう結論でおk?
>>664 その後完全に従わせているのは器量でしょう。
>>667 そんなこと当たり前のこと。
もし、これ以上続けたいなら、
日本史板あたりで相応しいスレでも探した方がいいよ。
今日の勇魚は悪質だと思う。
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 02:01:40
>>668 関白には農民ではなれなかったようですが、それはどうしてなのでしょうか?
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 02:25:09
秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、家康を武力で屈服させられなかったからじゃないのか?
政治力でなんとか屈服させたけど、本来東国の夷狄を武力制圧するものに与えられるのが征夷大将軍だからな。
それができなかったから朝廷から許可されなかったんジャマイカ?
>>672 所詮関白を与えざるをえなかった当時の朝廷にそんな権威は無かったとは思うけど、
その意見はちょっと面白い。
征夷大将軍くれって言われたときの口実にはなるかな〜と幕府を開かせずにすむし、
そんで次ぎに関白くれって言われちゃうと断る口実がなかったんジャマイカ?と思ってたんだが。
>>672 家康を政治的にもで屈服させたあとは、朝廷にとってはマジ東国で蝦夷な関東と
東北を軍事的に完全屈服させてますが。
はっきり言って、「秀吉が将軍になれなかったのは家康を〜」というのは家康を
顕彰して秀吉を貶める徳川史観でしかない。
とにかく、一度でも家康の上位にたった人物はいろいろと歪められるので注意。
例えば信長に関しても清洲同盟は対等な関係だったとか金ヶ崎退陣では家康がいな
ければ信長も秀吉も死んでいただとか姉川は徳川のおかげで勝てたとか。
今川義元は惰弱な公家大名にされるし、信玄はまったく瑕疵のない文武兼備の名将
になって、代わりに勝頼に泥をおっかぶせたり。
ちなみに、藤原氏の養子になったからとか、同じ話の繰り返しは勘弁してよ。
そんなことは征夷大将軍でも同じことなんだから。
>家康を政治的にもで屈服させたあとは、朝廷にとってはマジ東国で蝦夷な関東と
>東北を軍事的に完全屈服させてますが。
これは理由にならないでしょ?
軍事力の行使による征伐を目的にした征夷大将軍を家康より東国の国を軍事的に征伐したってことは関係無いし、
軍事力で押さえられない例外があったことのほうが問題だと思うけど。
まぁ、別に秀吉を辱めるつもりで言ったわけじゃないよ。
隆景好きな漏れは、家康より秀吉の方に親近感感じるしね。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 08:06:03
>>676 養子になったから農民がなったわけではないってことでは?
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 09:39:00
だいたいそんなこといっていたら、足利尊氏以下歴代足利将軍はどうなる?
かつては南朝勢力として、三代以降は鎌倉公方が敵対者として東国の勢力は
足利将軍に逆らい続けていた。それを押さえ込めた将軍の方が少ない。軍事
的に屈服させた将軍なんてそれこそ義教くらいなもの。
でも彼らは征夷大将軍に任官している。
>>675 頼朝依頼、征夷大将軍が有名に成ってるけど、夷と言うのは東国の事で、平安期でも
三河は東国とはされていません。
家康討伐に伴い将軍職をもらう場合平安期でも、征西大将軍になるかと思います。
もっとも三大将軍職とはいえ、この時代征夷大将軍以外あまり魅力もないでしょうし、征夷の意味
すら形骸化していると思われますが…
ただ徳川討伐云々が理由で将軍にならなかった意見は根拠こそ無いものの、面白い考え方じゃないか
と思います。
秀吉自身が徳川を滅ぼせなかった事に関して、トラウマを抱いており結果将軍職にならなかったとか。
「いくさ下手のくせに将軍かよ!」って諸大名の陰の声を気にしていたりとか。
秀吉が征夷大将軍になれなかった理由は端的に家康の存在でいいと思いますよ。
ただ、それは家康を小牧長久手で屈服させる事が出来ず、東国に手を出せなかった間に
豊臣政権の大まかな形を作らざるを得なかったからでしょうけど。実際関白になったのは
家康の上坂の前ですし。関白になってから将軍になる、というのは形としては降格ですから
さすがにそんなことをするわけにはいけませんしね。
ですが、織田家の行政組織の上にのっかって作られた秀吉政権ですから、幕府を作る事に
最初からこだわってはいなかったかもしれません。信長も、信忠を朝廷の高位につけて
自らは先の右大臣として大御所的統治をしようとした節がありますし…(秀吉が太閤に
成ったのとに同じ手ですね)
まあ、時代的に前の室町幕府の大失敗を見ていますから、世間に幕府と言うものへの
拒絶感が会ったのでは、とも考えたりしていますが。
>>681 >だいたいそんなこといっていたら、足利尊氏以下歴代足利将軍はどうなる?
世襲ジャンw
>>682 東国の東は「あづま」とよむ
都のある近畿地方からみて東の方向にある国々を東国とよぶ。ただ東国の範囲は歴史的に
変遷する。七世紀末頃では三重の伊勢より東が東国であった
「東方の12国」は次田真幸氏によれば
伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥の12カ国であろという
当時の家康は三河ではなく駿河
で、関ケ原にはいつ戻られますか?
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 18:53:34
>>683 信長は右府を辞任してなかったでしったけ?
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 18:54:21
あぁすいません。
関が原にどうぞもどってください
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 23:32:59
長文厨は日本史板の丸写しだな、こりゃ。要約する能力すらないとは呆れ果てる。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 23:34:17
西軍が優位だった時期など全く無いのでは?
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 23:41:43
>>690 そんなにあきらかな情勢ならもっと大名たちは東に堂々といったさ。
何もみんな義理だけで西にいたわけではなくて、東が勝つという確証がないから。
優位である時期があったかまではっきりとしなくても逆に東が優位だとハッキリといえる状態もあったのかどうか。
私たちはあくまで結果を知ってから経緯を見てるのです。
結果を知らない時との心象などはずいぶん違うものです。
>>690 最初から家康が天下を取ると確信していたのは藤堂高虎くらいなもんだろ
そうじゃなきゃあいつの家康に対する献身ぶりは説明がつかない
殆どの大名や諸侯は、おっかなびっくり東西どちらに付くか決めたんだろうな
ただ、脇坂安治は西軍に属して真っ先に家康に通じているし
相良頼房とか高橋元種、秋月種長も早い時期から東軍に通じていた
さらには鍋島みたいな例もある
そういうところから推察するに、やっぱ西軍って当初からガタガタだったんじゃね?
という印象は強く持っている
当時の状況にもよりますよね。
東軍(家康軍)
当初から存在していた大勢力で、西軍参加武将のほとんどは、
秀吉生前から徳川とはなんらかのパイプラインがあった。
西軍
対家康軍として蜂起するまでは、極秘で進行。だれと連絡をとればいいのか
今一わからない。
東軍参加武将の多くは、西軍の誰と連絡をとれば良いのかわからない状態。
西軍内通者の多くは東軍と二股をかけた訳だけど、東軍側の多くははだれと内通すれば
よいのか解らないんじゃないかな?
秀吉死後の力関係は利家>家康
島津に勝手に恩賞与えたり、秀頼を伏見から大阪に戻したり
家康や淀でさえ利家を抑えられていない
利家が長生きしてたら徳川の天下は100%なかった
利家と家康が合体して一人の人間に戻ったら強いだろうなぁ
あと利家も三成とか清正を吸収すればいいのに。人格は元のままなんだし。
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/22(木) 18:49:58
難しくてよくわからないので簡潔に説明して下さい。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 01:00:00
>>694 というか利家は豊臣家のおじさん的な感じだったんじゃないかな?
利家は天下を取ろうとするような動きではなくて、豊臣家の為の動きだと認識されてんじゃないかな。
まあ権力だけを言えば家康と五分以上かもしれないけど。
利家に家康は抑えれたけど、利家が天下を取ることはいくら長生きしても不可能だと思う
698 :
ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/12/23(金) 02:17:28
戦国時代は分取り品は自由。強ければどんどん版図を拡大しても文句は誰からも言われない。言わさない。
しかし秀吉が統一してからは、大名たちは元和偃武ということで私戦を禁じられ、行ったこともない土地の普請を何故かポケットマネーで手伝わされたりした。
大名はいわゆる「サラリーマン化」したわけだ。
そんななか秀吉が逝く。
ここでサラリーマン大名たちは2種類に別れる。
@やった!これでまた分取り品自由だ!(上杉、伊達等)
A秀吉が、くたばるのはどうでもいいが、次に我が家の所領を安堵してくれる指導者が欲しい。(中小大名等。案外、毛利家も?)
はっきりいってAのような大名がほとんどであると思う。どっぷりサラリーマン化してるというか…。
そして彼らは考える。
依るべきは利家か?家康か?
と思ってるうちに利家が逝く。
サラリー大名「じゃあ家康に決まりか」という流れで東軍につく。
そう考えればサラリーマン大名である清正や正則らが東軍(家康)につくことは至極、当たり前のことで責めるべきところはない。
ようは食わせてくれる人なら親戚のじいさんだろーが、他人のじいさんだろーが関係ないのだ。
ちなみに西軍に付いて奮戦した大名は、ようは豊臣政権下の利権をむさぼっていた奴らでしょ?
>>679 だから、養子になればなれるよ、
別に源氏じゃあなくとも藤原氏とかでもね。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 13:59:10
>>699 だから農民のままではなれないだろっていってんだけどさ。
なんかまるで軍事力さえあれば朝廷が誰にでもどんな官位でもホイホイやるような勘違いしてないか?
それなりの体裁を整えないと朝廷の存在意義自体が危うくなるわけで。
極端な話、御所に押し入って包丁つきつければ盗賊でも関白や征夷大将軍になれるかって言ったら
そりゃなれんわな。
そこらへん勘違いしてるやつ多すぎ。
初めのうちは
源氏以外は将軍になれないっていう勘違いしてるひと 対 まともな人
だと思ってみてたけど、
源氏以外は将軍になれないっていう勘違いしてるひと 対 誰でも三職でもなんでももらえると勘違いしてるひと
だったんだな。極端すぎだろ。
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 14:36:34
>>701 勘違いか?
701はまともだとしてもどうも誰でもなれると勘違いしてるやつがいなかったとは思えないが
農民でも将軍になれるのか、ときかれたら、
今現在、正に「農民」である者でもなれるのか、という意味にでも、
農民出身の者でもなれるのかという意味にでもとれる。
普通前者の可能性を問う人がいるとは思えないから、後者の意味で考えれば、当然なれるということになる。
体裁を整える必要があるなんてことは、当然の前提ということでわざわざ言及しなかっただけなのだけど?
体裁を整えなくとも将軍なり関白なりになれると考えているのか確認したかったなら、
最初からそう書けばいいだろう。
そうすれば、最初から体裁を整える必要はあったが、秀吉ほどの実力があれば、
体裁を整えることは十分可能だと答えている。
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 14:56:58
首相―実質空席
副総理―利家
防衛庁長官(国防長官)―家康
幹事長―三成
首相です・・・・。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 16:16:19
>>703,704
いや、俺の勘違いならそれでいいんだ。
ごめん。
>>698 元和偃武って大坂の陣が終わった後の話だよ。
まあ、サラリーマン化云々はその通りかもと思うけど。
その傾向は程度の差こそあれ信長死後でもあったように思う。
少なくとも織田家中では信長の変わりに、
安定して統一事業を継続してくれる人物を求めていたというか。
三成は関ヶ原を起こすタイミングを間違えた
上杉のときではなく前田のときにやるべきだった
徳川が6万で前田を攻めても、前田3万が守りを固め篭城すれば徳川でも短期間に破るのは不可能
その間に三成たちが東上で家康は打つ手なしで関東に逃げ帰るしかない
万が一家康が三成討伐に動いたら、前田は関東急襲すればいいし
どうやっても家康あぼんだw
家康が攻める前に前田が降伏しましたが。
つーか上杉攻めでも軽く15・6万はいたのに、
前田攻めで6万って一体何を根拠に?
713 :
711:2005/12/23(金) 17:29:15
>>712 うるせえ!
俺の願望が根拠だ!
文句あんのか、あぁ!?
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 17:35:00
400年も前の事で今更言い合う必要ないだろ
三成が関が原起こすタイミングも前田が降伏するタイミングも
あれで良かったんだよ。もし違ってたら今のおまえらどうなってたよ
>>713 どうせ願望なら、相手が20万でも粉砕できる。
くらい書いてみてはいかがか。
まあ、前田家が徹底抗戦していれば、実際の関ヶ原の場合よりも、
家康側にとって不利になったような気はしないでもないけど。
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 18:50:15
>>714 どうもなってませんが?
そもそも史実は事実であるとは限らない。
>>712 恩ある前田様の御子息相手に積極的に協力しないんじゃない。
関が原の時も西軍の大将が秀頼なら東軍につきづらいのと一緒で。
ただ、どうあがいても徳川の勝ちだろうね。
仮に関が原の大将が秀吉でも徳川はかんたんには負けないし、
家康存命なら滅びはしないだろうね。
やはり関東八宗を与えたのが元凶だ。
>>716 >恩ある前田様の御子息相手に積極的に協力しないんじゃない。
もしそれが事実なら、前田家は速攻で降伏したりしないよ。
>>700 信長は三職推任に際してなにか体裁をつくろったかね?
信長は少なくとも秀吉よりは家柄もあるから大丈夫だろう。
つまり、その程度でも問題ないっていうことだわな。
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 22:47:56
前田肥後守討伐時に挙兵すれば内府の影響力が浸透する前に、秀頼後見の加賀
前田家に対するあからさまな暴挙に不審と不満を持つ勢力を糾合するには
二回目のなって徳川の走狗になる大名が増える前ゆえに効果はあるが、糾合しきれ
ない可能性もあれば、後の西軍主力の宇喜多・毛利などもこの時点で兵を挙げ、
徳川の後備を突く覚悟が如何程あったか。
また史実の関ヶ原は上杉討伐という名目で兵を畿内に呼び寄せる事が出来たが
前田攻めにおいて西軍主力となる勢力が迂闊に兵を集める事は徳川内府に
口実を与える元となりリスクとなる。
少数だが宇喜多の手兵、近江に領地を持つ石田治部・名束大蔵。越前の大谷一族や
青木・丹羽侍従兄弟ら少数でも家康と交戦し得る大名のみで短兵急に加賀を
目指しつつ加賀前田80万石と連携すれば、或いはと思う。
畿内で烏合の衆を糾合しているようでは史実どおりに西軍の惨敗だろう。
結局さ、家康と他の連中がどうだった、っていうよりも、
秀吉が先に死ぬか、家康が先に死ぬか
この時点で勝負が付いていた気がするな。
秀吉が長生きすれば、徳川家は絶対的な指導者を失って、
天下を取れる可能性は低くなる。
家康が長生きしたが為に、求心力を失った豊臣政権は、
天下を手放さざる得なくなった。
ここが一番でかいターニング・ポイントだったよ。
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 23:00:45
まあ、秀吉が長生きといっても、
秀頼が何歳の時まで生きるかによって大分違うと思うけどね。
例えば家康が1597年頃死亡した場合…
豊臣50%、徳川40%、その他の勢力10%、くらい?
秀忠は、政権運営では手腕を発揮したけど、
乱世の中での力量は未知数、というか不安が残るからなぁ。
関が原前後の時点では、秀忠もまだ20代なわけで、
幼君と言うほどでは無いけど、若輩者には違いないからね。
優秀な家臣団もいるし、10%未満って事はないだろうよ。
豊臣65%(ただし、三成ら官僚によって豊臣家の主権が骨抜きにされる可能性はありそうだが。)
徳川20%
その他15%
くらいじゃない?
家康が死んだって徳川家は最大勢力だし、
秀吉が史実通り死んだら徳川の天下になる可能性は低くない。
90年代前半とかに死んだら、勢力削ぎ落とされそうだけど。
家康に友とまで呼ばれた本多正信は、
武闘派から猛烈に憎まれてたわけだし、
あれだけの大大名が代替わりとなったら、
家臣団の統一も一筋縄じゃいかなさそうだな。
豊臣の方も朝鮮で手一杯だから、徳川家に隙が生じても、すかさずそれに乗じるのは難しい。
混乱を最小限に収めれば、
いや、むしろ最大限にさえならなければ切り抜けられるんじゃないかと。
>>730 秀吉の偏諱を享けた秀忠が出兵を断りきれるものですかねえ・・・
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 00:18:01
家康がどういう形で後継ぎを決めて遺言を書くのかがかなり左右される。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 00:19:19
秀忠の後見人は、徳川家の中でも武断派のリーダー格である大久保忠隣だから、
本多正信ら文治派が不満を言い出さなければ特に問題は起こらないと思うが。
>>731 徳川家が朝鮮に行かずに済んだのは、家康が断ったからじゃなくて、
関東移封から間もないということで秀吉が遠慮したからなんだが。
家康が遺言でどう後継者を決めるか?じゃないか
と言っても秀吉の偏諱を貰った時点で秀忠が一番家督相続に有利なのは否めない
>>734 それは相手が家康だからだろ?
移封したてで伊達や加藤が断れたのか?
だから徳川家が断ったんじゃなくて、そういうオファー自体なかったんだと。
まずはそのときの徳川家当主が秀忠だった場合に、徳川に対して朝鮮へ出陣せよという
命令が出るかどうかを議論しないと。
いきなり断れたかどうかなんて言われてもねえ……。
それに、伊達はともかく秀吉にとって譜代中の譜代の加藤が断るわけないでしょ。
徳川と同列に語ること自体おかしい。
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 00:51:14
>>716 秀吉は、関八州をもともと石田三成と堀秀政に与えるつもりだった。
三成の異例の大将抜擢は、彼の見せ場をつくるため。
もっとも三成は忍城攻略に失敗するわ、秀政は死んでしまうわで、
その話はたち切れとなってしまった。
結局関東を治める適任者が家康しかいなくなってしまったわけだ。
加藤の肥後半国の大名に一躍抜擢は来るべき朝鮮出兵に備えたものだと聞いたのは俺だけなの
そういう意味合いもあっただろうな
ただ、佐々成正が統治に失敗した(失敗させた)場所を、秀吉子飼いの将が巧く治める
という政治的なパフォーマンスの面も大きかったんじゃないか?
それに当時、九州の豪族たちは完全に豊臣に従っていたわけじゃないしな
伊達に対する蒲生と同じ意味合いもあったと思うぞ
朝鮮出兵は秀吉子飼いの武将に手柄を立てさせ加増するためと毛利にも手柄を立てさせ加増というかたちで
九州に転封し畿内から遠ざけるのが目的、それに感づいた隆景は大きな戦果をあげず、かといって手柄を全く
あげず減封されるようなじたいにならないよう消極的に戦ったとか戦わないとかw
忍城攻略の失敗の原因は秀吉自身だろーにw
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 15:49:14
>>718 信長は農民や盗賊やえと・ひにんだったの?
信長の場合は右大臣を辞して朝廷の外部にいられることの方が朝廷にとっては何かと困る。
権力者でありながら帝のシモベの立場にいないのではね。
たしか三色の話はもともとは信長の希望だったようだが、朝廷が渋ったので流れていた。
その後ノブナガはさらに力をつけて官位など必要でなくなってきたので、右大臣も辞した。
朝廷が逆に危機感を覚えて推任にいたった。
まあ死んだけど。
>>717 すっごい納得した。
やはり前田と徳川は格がひとつ違うね。
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 15:53:32
>>729 そうだね
家康が生存中から秀忠に家督を譲ってたから史実ではうまくいったけど、
急死したら豊臣に近い状態も考えられないことはない。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 15:59:30
徳川が朝鮮にいかなかったのは国内の統治のためではなかったの?
もしも秀忠なら彼を朝鮮に行かせても国内の統治に影響はないから要請したんじゃないかな?
それで秀忠は断れるかってことの順序でいいかな?
タイコーが長生きしてりゃ、次は家康と景勝も渡海してたよ
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 18:54:12
景勝は一度渡海してたと思うのだが
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 18:58:01
>>745 徳川が朝鮮に行かなかったのは、徳川が関東に移って間もないため、
秀吉が遠慮したから。
秀吉が名護屋にいる間の国内統治は関白秀次の担当。
というかさ、唯でさえ兵站が滞りがちだったのに、
あれ以上半島に兵力送っても飢えて死ぬだけ。
普通に考えてそのまま増援を送るのはありえないよ。
>>743 逆だよ、今では信長の意思ではなく、村井貞勝が信長と朝廷の融和を願って提案した
という説になっている。
さらにいってしまえば、五月に安土へ朝廷の使者が推任のことを伝えたとき信長は
断っている。
それから
>信長は農民や盗賊やえと・ひにんだったの?
これだと、まるで秀吉がえた・ひにんだったことになってしまうが?
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 21:51:58
まあこれは日本国内での戦でもいえることだけど、
統治ができなきゃ、攻め込んでもしょうがない。
海を隔てた先の国を統治するにはせめて海域を完全に確保しておかないとなぁ。
ここらへんで信長に劣る秀吉って感じだな。
というか年齢的に劣ってきた秀吉って感じか。
大義のない戦はあかんね。
大義は別に必要ないが補給路は必要だな。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 21:59:45
>>751 それから
>信長は農民や盗賊やえと・ひにんだったの?
これだと、まるで秀吉がえた・ひにんだったことになってしまうが?
別にならないよ。それにその話は結構どうでもいい。
三食推認の方が聞きたい。
信長燃ゆだったかな?
近衛前久が主役級で出てきたのは。
あれ小説としてかなり面白かった。
信長が三食推認を断ったのはなんでだと思いますでしょうか?
ここのスレの人たちの見識が聞きたい。
帝という存在を義昭程度に近い考え方してたのかな?
副将軍を断ったのって信長の人を表してると思うんだが、その信長が次は帝を
疎ましく思ってもおかしくはないような。
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 22:01:44
>>753 えぇ!?
大義がなければ統治なんてできなくない?
軍事力で戦には勝ててもその後、民をずっと力で抑えても長続きしないでしょ。
それとも国ごと従属させる程度ってことかな?
それならまあまだマシかな?
>>755 大義なんて被支配民には関係ありません。
「民」なんて自国内ですら力で押さえつけているのが近代以前の社会です。
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 22:32:15
大義の扱いに関しては現代なんかもっとひどい。
イラク戦争の本音は誰もが石油とわかっているのに兵器隠しを常に口実にし続けた。
そして俺達はその石油の恩恵に預かり安定した生活が守られているわけだ。端末の庶民なんてそんなもんだ。
先進国の豊かさってのは不義の上に成り立っている。
時に大義なんてものは単なる「言葉遊び」だ。正義のありかなんて怪しいものはない。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 22:56:48
>>757 いや、だからイラク戦争は完全に失敗してるじゃない。
もしもあれに大義があれば。
例えばイラクが国内で原爆を実験して国民を殺してはしゃいでるなんてことだったら
アメリカは正義の味方として登場し、石油の利権ももちろん得たうえで早期解決だったろう。
大義っていったってなんでもいいわけではい。
他の人間を心理的に納得させることができ、さらには味方にできないといけない。
>>756 そうかも。
でもそれではあなたはどうして朝鮮の統治がうまくいかなったのですかね?
というか世界史何千年と続いていまだに世界がひとつの国にまとまらないのでしょうか?
日本の国内でいうと戦乱は一時期的なもので、必ず誰かの手によってまとめられてきた真下。
それは日本は日本人が統治するという大義というか筋というか。
もしも元が戦に勝っていたとしても当地はできなかったと思いますが。
まあ本当は宇宙人という存在ができて、宇宙との戦争になれば地球人というくくりで、
必ずひとつにまとまるというのはわかってますが。
いまは単に世界がまとまりうる理由がないってだけか。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 23:34:31
>>758 スレ違いだが、答えるよ。イラク侵攻は大が付かない成功だ。アメリカの表向きの失敗は内戦状態の事だろうが、イスラム社会に強引に割って入ったのだから執行部にとっては想定内だ。ただ、人命を供出している手前ふんぞり返れないだけ。
失敗らしい失敗は内部の事が漏れすぎて威信失墜している事だな。
結局石油を手に入れて俺達はその恩恵に預かっているんだよ。
>>758 秀吉軍の力が足りなかったからだよ。それだけ。
それから、国民国家ってものが成立してからは様相は全く変わる。
一般民衆がただ支配させるだけのものから、国家の担い手に変わるから。
前者の状態では誰が支配者になろうが、自分らは支配させるだけだからあまり関係ない。
もちろん、耐えられないほど悲惨な統治なら抵抗もするが、
それは大義があろうが筋が通っていようが関係ない。
逆にそこまで悲惨でなければ、大義がなかろうが筋が通っていなかろうが関係ない。
しかし、近代になり「国民」という意識が成立してくるとそうは行かない、
一般庶民ですら、ある程度納得できないと統治を受け入れないので、その為の理由付けが必要になる。
だから、最初に近代以前の社会と言っておいたのよ。
目的である敵政権打倒を見事に成し遂げているのだから、
「完全に失敗」はないわな。
実際秀吉の朝鮮攻めだって、当時の朝鮮は結構な悪政が続いていたので、
最初は朝鮮では解放者扱いだったとか。
しかし、戦況が苦しくなって、そのとばっちりが民衆にまで行くようになってから、
その抵抗が始まった。
つまり、秀吉軍の力が圧倒的で戦況が苦しくもならず、とばっちりが民衆にも行かず、
民衆にとって耐えられないほど悲惨な状態にならなければ、
抵抗もさほどなくすんなりその統治も受け入れられただろう。
兵站もままならず、言葉も文化も違う国の民衆を掌握し続けるのは、生半可な事じゃ無かろうて
秀吉としても、朝鮮行く前にやる事があったと思うんだがな・・・・・
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 00:40:34
>>759 原油高騰しまくってるのにどこらへんが恩恵なのだろうか?
商売として考えてみてどう考えてもイラク侵攻が現時点で成功とは考えられないな。
マイナス面ばかりみえてるせいかもしれないけれど、大義があれば
見えるほどのマイナス面などなかっただろうに。
いったいアメリカはいくらお金を使ったのか。
さらにどれだけ悪印象をもたれてるのか。
>>761 近代以前と近代ではそんなに人間の意識は違ったの?
まあ確かに国が成熟して歴史や文化を積み重ねていけば、他を撥ね付けようとする力は大きくなるので、
近代以前の方が多少は統治者が何者かということへのこだわりは少ないのかもしれないが、
そんな極端なものでもないと思う。
>>761 そんなもの表向きの目的であって、本来の目的ではないでしょう。
イラクに石油がなかったらアメリカはあんな行動はとらなかったでしょう。
これから数年を見てればわかると思うが、アメリカが北朝鮮にイラクのような形で
国連を半ば無視の状態で侵攻することはない。それは北朝鮮にそれだけの価値がないから。
>>762 そうですか。
私の見識違いということですね。
ありがとうございます。
>>764 石油問題で言えば、本来アメリカ(メジャー)が影響力を全く持っていなかった中東石油界に、
一本楔を打ち込んだという意味で大成功なんだよ。
原油高騰なんていうのは、些細な副作用に過ぎない。
>>764 知らないなら黙ってろよ。知ったかぶりが。
お前の偏狭ぶりはよくわかった。もう少し一般的なアンテナを張ってバランス感覚を磨け。
スレ乱しまくりで申し訳ないが、石油急騰はアメリカのハリケーン災害である事はガキでも知っている事だ。
まぁ枯渇が見えている資源だからこの先の上昇は当たり前だが。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 00:50:32
追加で少し
軍事力が圧倒的であれば大義などいらない。
これは確かにそうなのかもしれません。
ただ、問題なのは軍事力が圧倒的という前提を満たすのが難しいから、
みな大義を掲げて協力者を増やし、敵を増加させないようにする必要があるのです。
大義などいらない=軍事力は無限だ
こんな感じに見受けられます。
やはり軍事力不足という片付けかただけではもったいないかと思います。
手に入れることのできない軍事力を、さも手に入れることができるような前提で、
話をしてしまうのは。
関が原で言えば、「石田光成は軍事力が足りなかっただけだ。」という一言で片付けてしまうようなもの。
そんな浅い論議ではせっかくの脳みそがもったいない。
と、単に「大義」好きな浅学者の私見でした。
ぐだぐだと申し訳ない。
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 00:53:13
>>765 あれだけのお金と人名を使ってもアメリカはこの事業は黒字なのでしょうか?
>>766 なんの話ですか?
知ったかぶりとは?
>>767 766じゃないけど、もう少しお勉強した方がよろしいよ。
まあ、色々と間違いを正されて成長するのも必要だけどさ。
大義は大切だけど、そこに政治力や軍事力による裏づけが無ければ何にもならないのよ。
例えば、関が原では天下簒奪を狙う家康よりは、
豊臣家に殉じた三成の方が大義では勝ってるよ。
だけど、三成には大義を実現出来るだけの裏づけが無かった。
家康は、明らかに天下簒奪を狙ってたけど、積極的な政略と圧倒的な軍事力の評判(実力じゃないぞ)
によって、大義以外の部分を徹底して補強して臨んだ。
口で言うだけなら、「戦争反対!」とか、「自衛隊は違憲だ!」って言えるのさ。
だけど、言ってる事は正しくても、それが今の日本の政治家やアメリカに通るか?
世の中奇麗事じゃ治まらんのよ。
それと君、読みが浅すぎるよ。アメリカは短期の利益を狙ってイラクを攻略したわけじゃない。
10年、20年の単位で先を読んでるんだよ。
俺もそこまで読めるとは言わないし、そんな奴まずいないが、そういう現実があるって事は踏まえないから、”知ったかぶり”って言われる事になるんだよ。
>>764 >近代以前と近代ではそんなに人間の意識は違ったの?
まるっきり違う。全く根本的に。
まあ、古代ギリシャのポリスだの古代ローマだの近代以後と似たような時代や場所はあったが、
基本的には全然違う。世界史の基本ですよ。
>>767 大義なんてものは軍事力を補強する為のものに過ぎない、
ということさえ理解できているならまあいいけど、その重要さが増すのは近代以後。
その前までで重要なのは、まず食料の確保に装備の充実、
利益誘導による多数派工作に、策略謀略。
さらに地縁血縁のと続いて、大義なんてものはその下だ。
大儀なんて勝った人間に後から突いてくるもんだ
歴史を学んだ人間なら至極当たり前の事を今更何をこだわってるんだ?
近代以後だって本当に重要なのは、
実際の大義なんかではなく、情報操作によるそういう雰囲気作りだからなあ。
さらにいえば、「実際の大義」だって主義主張の数だけ、あるいは国の数だけ存在するわけで。
こっちが大義があるなんて言っても、相手も似たようなものを持っているのだから、
別に有利になどならない。
結局大義があるほうが有利なんてのは、幻想の中でしか存在しないわな。
一応断っておくけど、俺はこのスレでアメリカのイラク侵攻の意義を散々語った奴だが、決してそれを称賛しているわけじゃないし正しいと思ったこともない。
ただ現実を正しく理解するように柔軟であるべきであると思う。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 01:45:02
>>769 >例えば、関が原では天下簒奪を狙う家康よりは、
豊臣家に殉じた三成の方が大義では勝ってるよ。
それは違うと思います。天下取りの家康対、ではなかったと思います。
それに大義といっても大小ありますし。
天下取りだってある意味ではそうですし、新しい日本をつくるとかいいだすのもそうですし、
小泉の優勢民営化だって一種の大義です。
またアメリカの民主化だって大義です。
イスパニアのキリスト教の布教だってそうです。
私は過去に自分が大義をもたずして事を起こしました。
結果として敵対者ばかりが増えていき、最後は誰も付いてきませんでした。
私のレスは大義ばかりを主張してるようなレスになってると思いますので批判が相次ぐんだと思います。
実際大義が一番とはさすがに思ってませんが、大義なくして人間の上には立てないし、ついてこない。利用はされてもね。
実際権力争いや、誰かの協力を仰ぐ時などは利益誘導と五部で大義も必要であると思っています。
必ずしも人間が金や力でどうにかなるわけではないですし。
逆に大義があれば他はいらないわけでもないですが、軍事力などと同列とまではいかなくても、
準じるくらいの重要事として大義についても話がしたいなと。
>10年、20年の単位で先を読んでるんだよ。
果たしてブッシュはそこまで先の為に悪役になってでもやるつもりだったのですかね。
彼は内心もう少しうまくやれればよかったのになと思ってるのでは。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 01:57:46
要はより多くの人心を得ることも重要視したいわけです。
みなさんもそこは重要視してると思います。
このスレを読んでいても前田ならもしくはなど、求心力云々などの話もありましたし。
私は人心を得るのに大義が。
人心を得られるだけの大義はとても力になる・・・
なので軍事力や戦法・戦術・軍備・国力などと同様に大義も・・・・・
なんか何より私がここで人心を得られてないのでもう説得力もへったくれもないですね
>>775 何をしたか知らないが、
あなたに実力も魅力もなかった(と周りが思った)から誰もついてこなかっただけ。
大義とやらのせいじゃあないよ。
趣味板とはいえ仮にも歴史のことを扱うスレで、基本的な歴史の知識もなしにレスを貼る。
それも読む人間のことを考えない無駄な長文、自分の意見を伝える能力も低い。
そして引き際の見極めもまるで出来ていない。
あなたのレスを読むだけでもおおよその察しはつく。
まあ、私も人のことをいえた義理ではないけどね。
とりあえず、
勘違いして大義とやらの為に何かしたら同じ失敗を繰り返すだけだから気をつけなさい。
>>775 実際命をまな板の上に置いての無法の戦いと法に守られた現代社会の論理とは根本的に違うんだが。
別に傷付けるつもりはないが。
関ケ原自体の大義は取りようだよな。
ただアメリカの事に関して重大な事を勘違いしている。あの国は何年かに1度は戦争しないと経済が回らない体質の国なんだよ。
そんな不条理を倫理上デカい声で言えないだけ。
>>776 利家の求心力とかは彼の軍事的実績も踏まえてのものなんだよ。
総司令官の実績はなくとも歴戦の武将ではあるからね。
もし、大義というものが大きな要素だったなら、
利家が死んでも劇的な変化はおきない。
>>767 というか戦争をすることによって軍の経験を蓄積し、
兵器メーカーと提携して軍事技術をさらに進歩させる。
アメリカの目的の一つにはこれも入ってる。
彼らは常に精強な戦える軍というのを欲している。
もちろんそれによって得られる利益もある。
これがすっぽり抜けてると思うんだが。
スレ違いだなー・・・。
近代前は人はほんの一部で、後はいわゆる奴隷でしょ。
人心を得るには大義が必要と信じる、
リアル三成くんが降臨したのはこのスレですか?
三成だって「豊臣家で辣腕ふるう奉行・石田三成」になりたかったから関ヶ原起こしたわけで
別に大儀云々なんて……なぁ?
朱子学とか水戸学ってのはその時代の当人を無視して、ヒイロティックなモノに(特に犠牲的な)「大儀」っていう訳のわからんモノを貼り付けるからな
それが、民衆の判官贔屓ではなく、インテリのソレだからタチ悪いし
楠正成が大儀の為に戦ったって言われたら、鼻で笑っちゃうし
楠は何のために戦ったのか?
>>768 >あれだけのお金と人名を使ってもアメリカはこの事業は黒字なのでしょうか?
人命に関してはたいしたことないよ。まだ2000人程度でしょ。
当初の見込みでは戦死者3万人を想定して、その程度の戦死者で納まるならと戦争にGOサインを出したんだから。
このペースならあと20年以上いけるw
あの戦い、フセイン政権を打倒するトコまではアメリカの読みどおりだった。
新たな電撃戦と位置づけられた無限の自由作戦は
開戦と同時に相手の首脳部を混乱に陥れることで大成功に終わった。
問題はゲリラやテロを軽視し、その後のイラク統治にも万単位の兵を投入せず
少数の陸軍で当たらせようとしたことによって、民衆の暴動などを許したことだろ。
朝鮮出兵もそうだが、ゲリラやテロってのは兵站を軽視した戦法で襲ってくるわけだから。
朝鮮出兵で日本の海上輸送網がズタズタにされたのは、李瞬臣や元均が優秀だったのは事実だろうが
日本側に海上でのゲリラ的な襲撃に対する備えやノウハウがなかったのも大きいんじゃないか?
第一、あれを任されていたのは藤堂高虎や加藤嘉明、脇坂安治といったやや小ぶりの大名ばかり。
日本海という長大な平坦線を支えるには物量が無さすぎたと思うんだが。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 11:05:34
久しぶりに来たら大儀とかイラク戦争とかエライ事になってるなw
三成の大義も家康の大義もブッシュの大義も皆同じだろ。政治と戦争の『建前』だ。
ある程度以上の民度と社会性がある国家・民族なら皆が取りあえず納得できそう
なコンセンサスが必要ってだけ。
このスレ的には三成の大義なんぞよりも、その戦略性や政治的措置を論議
する場だと思うんだが…。
大義は石田にあり
しかし戦国だからな
すまん、現代を持ち出した俺が悪い。
このスレは何でもアリだろ
史料厨は勘弁
出す分には問題ない
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 17:49:15
>>789 そうだな、別に現代と比較するのは問題ないと思うよ。
むしろ多面的な再評価できて良い事だと思うね。
大義とはそんなちっぽけなものではない
三成にもいくばくかの理はたしかにあっただろうがそれは大義ではなく小理といった程度のことだ
三成が守ろうとしたのは所詮豊臣家という一つの家の権益にすぎない
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 20:36:28
>>792 では、大義とは、日本史的に言えば、誰にあった?
勝者全員に
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 21:24:33
>>794 とも限らないかと。
大阪の陣において、当時としては徳川が強引な「大義」をかざしていたが。
後世においては、秀頼が同情を買い、それに殉じた信繁等に大義が
あったように言われている感があるのだが・・
それは大義ではなく判官贔屓
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 21:54:25
すると騙し討ちでも何でも勝てば大義ということか
>>797 理屈はいくらでも付けられる
大化の改新なんか良い例じゃないか
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 21:59:04
真田信繁の場合は武士であるわけだから
天皇から任命された征夷大将軍である徳川秀忠に逆らうという形は大義とは逆をいってるだろう
少なくとも形の上では
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:02:02
信長死亡→秀吉が仇討ち天下人
織田家から見れば泥棒。大義なし。
他から見れば已む無し。
秀吉死亡→家康が謀略の限りを尽くし天下人
豊臣家からみれば最悪。謀反人。
他から見れば已む無し。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:04:59
>>798 負けた方でもいくらでも理屈はつけられぞ
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:21:55
>>796 大阪の陣で徳川幕府に大儀がないのは明らかだろ。たしかに判官びいきもあると思うが
>>799 秀頼も朝廷の官位を持った廷臣であり、秀忠が一方的な恫喝でこれを攻めて
朝廷の和睦交渉を強引に拒絶している点からも天皇の与えられた官位の将軍職を根拠に
大義とは逆をいってるというのは手前勝手な論理と思うが。
負けた人に大義を付けるなんて、その勝者が作った時代には頭おかしい人だろ
その次の時代の人は、前の時代を否定するために持ち上げるが
大義とか人物評価ってのは、その時代によって都合がかわるもんだよ
じゃあ逆に大坂側に大義があったのかと聞きたいが?
805 :
名無し募集中。。。:2005/12/25(日) 22:26:46
>>802 それは君が豊臣贔屓だからだよ
豊臣贔屓にとっちゃ徳川なんて悪の権化に決まってるじゃないの
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:30:16
大義なんぞ各々作り出せるもんだ。
例えば「戦乱の火種を根絶する」とかな。
俺は豊臣贔屓だが。
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:43:42
>>805 宣戦布告の名文に徳川から寄贈を命じた寺の鐘の碑文をこじつけした
事実をみても、当時の徳川に儀があったとは思えんけどな。
まあ豊臣家も参勤交代や妻子の江戸行きとか拒否した点で滅ぼされる理由は
あるにしてもだな・・
どんな人物でも、それなりに有能なら、時代のその人物とよく似た人物がその者を評価してくれる
とは誰だかの格言
秦檜と岳飛みたいな
大義も似たようなもんだ
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:45:35
>>804 大儀も何も幕府から【強引に仕掛けてきた戦】だぞ。
あれはアノ段階でどのような条件を飲もうと最終的に
豊臣は滅ぼされるだろう。
だから戦った純然たる自衛戦争でしょ。義以前の問題。
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:48:04
大義ってのは個人々々の価値観で時の都合によりバラバラなもんで、価値観があってのものだ。
それぞれの言い分(大義)に賛同するかどうかは100%で振り分けられる訳でもなく断定で考えたいものだが、そうはいかないもの。
大義ばかりにこだわっていても何にも進まないぞ。
>>810 >あれはアノ段階でどのような条件を飲もうと最終的に豊臣は滅ぼされるだろう。
それは君の思い込み。
そうなる以前に外交努力をしていれば、豊家存続の目はいくらでもあったんだが。
いつまでも太閤様の権威が通じると思ってふんぞり返っていた淀殿とその取巻きの責任は大きいよ。
徳川にも豊臣にも大義はある。どちらが正しくて、どちらが正しくないだなんて、
よくそんな恥かしいこと真面目な顔して語ってられるね。
まあ、大義云々はキリが無いから、この辺でやめようや。
あの勘違い坊やも少しは学んだろうて。
話題を変えて、真田昌幸は何で西軍についたんだろうな?
幾ら徳川家に対して恨みを抱くような出来事があったとしても、
あれだけ世故長けた男が簡単に西軍になびくとも思えないんだが・・・
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 00:32:59
昌幸が何を考えているのかわからないな
まさか西軍が勝つと考えた訳じゃないだろうし
遺恨か
博奕してみたかったんだろ
血縁関係もあるんじゃないか
本多忠勝の娘婿の信幸は東軍に付いてるし
昌幸と三成は共に妻が宇田頼忠の娘で相婿という説がある。次男の幸村こと信繁は大谷刑部の娘
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 01:17:55
大博打だな。だから長男は東軍だよw
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 01:59:40
大義を持ち出したものです。
どうやら大義という意味をみなさんそれぞれ微妙に違う解釈をしてるように思えました。
私のいう意味での大義も少し違うかもしれません。
まあ何でもいいですが。
ところでみなさんが光成になったらどうすれば関が原に勝てたと考えますでしょうか?
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 02:17:04
信長死亡→秀吉が仇討ち天下人
織田家から見れば泥棒。大義なし。
他から見れば已む無し。
秀吉死亡→家康が謀略の限りを尽くし天下人
豊臣家からみれば最悪。謀反人。
他から見れば已む無し。
ということは、もし・・・
家康死亡→政宗が謀略の限りを尽くし天下人
徳川家からみれば最悪。謀反人。
他から見れば已む無し。
こうなっていたら、こんな理屈も成り立ったわけだね?
真田家が東軍に付いても徳川政権内で地位が確立できないと考えたのでは?
そこで徳川に縁のある信之、豊臣方に縁のある信繁に分けて家の存続を考えた。
自分が豊臣方につくことで西軍が負けたとしても信之の株があがり、真田家は一応安泰。
西軍が勝てば信之の助命懇願。ある程度の地位は確保できる、といった具合じゃないだろうか。
秀吉が天下を取ったことに対して現代の人間が卑怯だと思わないのは、信長の仇討ちをしたからだろう。
未だに戦国乱世で、それを全国を平定していったという実力。
家康の場合、秀吉は病死であり、豊家を蔑ろにして天下を横取りした卑怯者という印象がある。
泰平の世で、緻密な策略によって一回の大戦で政権樹立。
明治政府の徳川叩きも相当非道かったんだが
>>821 パンピーは信長に遺児がいたこと知らんだけじゃね?
知ってる漏れは卑怯というか家康と変らんと感じるがね。
それに引き換え淀や秀頼は有名だからね。
大阪の陣に関しては、豊臣方の阿呆どもの自爆っていう印象が俺は強い
関ヶ原合戦終了直後から、片桐且元の主導による公権力の徳川幕府への移譲作業は進んでいた
しかし、淀殿たちはその現実を直視しようとせず、自分たちの妄想の中に生き続けた
家康からすれば、各地に眠っている野望の徒を起こすような戦は起こしたくなかっただろうに
だが、自分が死ぬ前にあの勘違いしたお花畑連中を殺しておかないと禍根を残すと考えたんじゃ?
良く知られて無い気がするんだが、豊臣から徳川への政権移譲は非常にスムーズに行ってる
まぁ、それを主導していた片桐に愛想尽かされちゃ豊臣もおしまいだわな
>>823 それ言えてるかもw最近スケートで子孫が有名になってるが、
織田家って滅亡したのに何で子孫いるの?って言う奴結構いるからな。
>>823 秀吉は織田の孫の後見人と言う大儀をふりかざした。
とにもかくにも、滅ぼさず織田は存続。
それに対して(内心はともかく)織田は抗議をしなかった。
この辺が徳川・豊臣政権樹立のキーポイントかと。
三成が関ヶ原起こしたときの心境って、野心と忠義半々だったと思うな。
あの時点で家康に全て持っていかれたら三成は追放確定で自分の権威も保てないし
それに他の武将が家康にしたがって豊臣の権威も落ちる直前のタイミングだから
ただの義挙ではないな。でも、三成個人の性質を考えると秀吉の時の簒奪的天下取りではない
だろうし。大阪の陣以前に関ヶ原で豊臣は終わったと考えるけど、それだけに
家康の天下取りに一番貢献したのは三成なんだよなとも思う。大儀はあるけど義挙とも言いがたい。
>>826 光秀討つ大儀はあっても、実権握る大義名分はなかったということだな。
強いて言えばだけど、かといって秀信が元服したからといって実権譲るなり
また秀吉が家臣になることは現実的な選択肢じゃなかったんだろうなぁ。
秀次を関白にしたあたりではもう秀吉が織田の天下を横取りするのは目に見えてる
から後から見れば非はあるんだろうけど、それに挙兵する人間がいない。
有楽斎あたりも駄目だし。秀信が本人が秀吉を倒そうにも、なにより命の恩人だし。
織田家って滅亡したの以前に徳川豊臣と違って織田がいっぱいあるの知らないんだろうな。
>>826 逆だろう。
織田は秀吉に、政権移譲について抗議しなかったから、存続を許された。
裏を返せば、信孝は政権移譲に反発したから滅ぼされたわけだし、
同様に大坂も政権移譲に反発したから滅ぼされた。
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 13:24:56
今日午後2時からフジで関ヶ原くる
教育でも江戸幕府くる
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 13:59:46
光秀討ったにしても、私利私欲のためだから、大義はあまりない
というか天下取れるなら、誰でも敵討ちくらいする
仇討ちは絶好の好機だったにすぎない
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 14:00:46
>>831 何かとおもったらクサナギの番組かよ・・
見てないけど前もやってなかった?
再放送か
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 15:05:41
>>832それを人は
「チャンスですぞ!」
と言う
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 18:52:02
>>814 そういや
昌幸が西軍の情報とかどうなってる?と三成に苦情の手紙を出したところ
三成から漏れも西軍決起の時期を直前まで聞かされてなかったんだよー。
と自分も慌てた様子で書状を送っている。
このへんからみても三成が西軍首謀者ってのは??なのだが
こういっただれが中心人物かわからないような時点で意思統一どころか
結束もできてないことが歴然としてるな・・
やはり西軍は負けるべくして負けたのか・・
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 21:30:30
>>837 負けたからこそ・・・というか負けた場合は三成君に責任とらせようなんて話があった・・・
なんてこたあないか。
しかしあれだな大義云々という意味ではどうして誰も朝廷を滅ぼせなかったのかというのも気になるな。
秀吉全盛時なら大名たちは表立って反対はしなかっただろう。
それだけの権勢を誇っていた。
まあ無茶して朝廷までつぶす必要性がなかったのかな。
どうせ実験は握ってるわけだしな。
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 21:49:59
日本人の場合、一度確率した権威に対して弱い
またマッカーサーではないが、天皇を利用した方が統治しやすい
権威を無視しようとしたのは、信長ぐらいじゃないか
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 23:54:15
朝廷に対する知識や理解ってのは、今の俺達が知っている事とこの時代の考証とズレていたり知らない事の方が多かったり無知であったり無頓着だったりするんじゃないかと思う。
だから宗教の信仰との差別化すらできない人もいたりするんじゃないかな。
自分が出世して朝廷に深く理解を深めたところで、一度敬うべきと思ったものに手を付けるのは恐いものだと思う。
だから俺が思うに利害じゃない。
天皇ねぇ……南北朝時代を見てると、ホント天皇って何なんだろうなって思うが
陰謀家後白河
武闘派後醍醐
この二人なんて、そんじょそこらの大名や軍師なんて相手になら無いくらい凄い人物だった気が・・・・・
まあ、同時代に平清盛や源頼朝、足利尊氏みたいな傑物がいたお陰で
押さえつけられてはしまったがな。
まあ、今の天皇は日本国の奴隷だよ。
生まれた時から自由を奪われている公認奴隷みたいなもんだ。
男系女系論争の前に、皇族が18歳を迎えた時にでも
皇族辞めるかどうか選べる権利ぐらいあげるべきだと思うんだな。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 00:50:08
天皇は、南北朝のときと戦国期では違うな
戦国時代では、軍勢をひきいて戦うことはなくなった
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 01:27:43
>>842 賛成。生まれた時点で人生のシナリオが確定通り越して決定しているのは悲しすぎ
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 01:34:38
少し例えを持ってくるとあっけらかんと脱線させるバカいて困るな
後醍醐天皇なんて手放しで褒められるほど見るべき所が無い訳だが……
アレだ、騒音ババァ並。なにかっしら引っかき回して、騒動起こすのはいいが、その後の事とか周りの事とかまるで考えてない
むしろ大塔宮とか後村上天皇とかの息子達が優秀な天皇。後醍醐はとっととくたばればよかったのに
そうすりゃ北畠顕家だって……
後白河は親父が予言したとおりの男だったな
>>837 金吾や秀家が立ちあがってるのに、三成の名で号令はできんわな
毛利島津もいたことだし、秀頼の名を借りつつも総大将は毛利にやらせて
金吾や秀家がいることで納得させるしかない。
当時の三成なんて名前だけで、実際の領地も権力もないわけだしその名が
効果出るのは大阪方と知り合いだけで、他の家にまで号令できない。
>まあ、今の天皇は日本国の奴隷だよ。
という議論は当然明治の元勲達はし尽くしてるわけで。
それと気づかず「バンザイ」とか言ってる馬鹿が大杉
クズに池沼と言われる筋合いはないが
まあ大阪夏の陣、冬の陣で大阪城にたてこもった牢人衆なんて、東大安田講堂に
立てこもった連中みたいなもんだ。あまつさえ周辺に放火はするわ略奪はするわ。
そりゃあ中央政権としては治安維持のためにも討ち取るしかないだろうに。
60年代のクズどもと一緒にしちゃあまりにも可哀想だと思うんだが。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 20:51:03
>>842 >この二人なんて、そんじょそこらの大名や軍師なんて相手になら無いくらい凄い人物だった気が・・・・・
まあ、同時代に平清盛や源頼朝、足利尊氏みたいな傑物がいたお陰で
押さえつけられてはしまったがな。
どうなんだろ。
「歴代の天皇の中では」くらいなんじゃない?
854 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 20:54:15
輝元が関が原に出陣していれば、毛利にも天下統一の可能性があったと思う?
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 21:09:13
>>839-840 織田家って信長の何代か前の時、余裕があるわけでもないのに
朝廷に寄進のようなことをしてたはずだから他の大名家より朝廷への尊崇の念は
強かったんじゃないかな。
まあ信長は合理主義者だからなんだろうけどな。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 21:14:09
>>847 三成に権力が無かったって事はなかろうよ。
軍事力=権力じゃあないだろ。
>当時の三成なんて名前だけで、実際の領地も権力もないわけだしその名が
>効果出るのは大阪方と知り合いだけで、他の家にまで号令できない。
見てきたようなw
何を参考にしてここまで言い切ってるの?
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 21:16:08
>>854 ない。そもそも輝元に焦点をあててもね。
輝元の兵数が武器であって、輝元自体は武器ではなくて、錆のようなものだ。
それこそ輝元の兵数を大谷刑部に貸したらどうなるのかっていうほうが面白いなぁ。
もしくは明智光秀が秀忠の兵隊を使って家康の後方から突っ込んだら面白いなぁ。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 21:21:12
>>857 >もしくは明智光秀が秀忠の兵隊を使って家康の後方から突っ込んだら
随分突飛な発想ですな。
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 21:26:29
ところでこのスレって関が原の何を話すスレなん?
1にはなにも書いてないし。
どうすれば西軍が勝てるかってこと?
それとも関が原についての感想を寄せ合うスレ?
前スレとかは知らないから流れがよくわからんな。
>>855 父親の信秀が朝廷に四千貫進呈のことかな。
これが余裕があってのことかなくてのことかは不明だが、その後信秀の軍事活動が
鈍ったということもないしなあ。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 21:40:37
>>860 つまり織田家に朝廷尊崇の念は別段ってこと?
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 22:17:39
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 22:19:52
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 22:23:22
関が原の戦いの時点で徳川家康の動員可能兵力は75000だったらしい。
しかし、なぜ家康は30000だけで桃配山に布陣したのだろう?
866 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 22:50:54
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 23:54:29
もし家康本隊の兵力が七万五千もあったら、豊臣恩顧の大名に頼らずとも自力で勝利できたのでは?
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 23:59:34
たしかに単純に考えれば250万石なら7万5千は動員できるだろうけど
対上杉・佐竹に備えてるだろうし、秀忠が3万8千を連れてるからねぇ
>855,860
信秀の織田家は津島港を押さえていて、しかも熱田神宮も支配(と言うと変だが)しておって、尾張守護家の陪臣の陪臣ながら財力は相当なもの。
その財力を背景に朝廷等に寄進して尾張の中で勢力を拡大して行った、と言う部分もかなりある。
単純化すると、応仁の乱以降、守護&守護代家の支配力低下→諸勢力(豪族等)乱立。
その中で、信秀家は朝廷にも寄進できるほどの財力がある・・・。そんじゃ信秀の庇護下に入るか、と考える諸勢力。
もちろん、信秀の個人的力量も大したもんだけど。
>864
7万5千、計算上動員出来るとしても、東奔西走しなきゃならん家康の立場からすると、そんだけの人数を動員した場合、喰わせて行くだけでも困難。
一つ間違えば、戦争する以前に軍としての機能が崩壊する可能性もある。
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 00:09:20
>>857 西軍勝利の場合、勝ち方や戦後処理次第で一発逆転を狙う大名が多く大乱世に逆戻りの可能性はかなり残されている。
東軍勝利のような磐石のレールは存在しないので綱渡りになる。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 00:25:24
つか、もともとなるべく自分で戦わずに勝つという作戦
7.5万いたら、他の部隊がもっと頑張ったかもな
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 00:27:39
>>870 それぐらいは動員しましたが?
兵糧は福島がたくさん出しましたが?
上杉攻め用にも準備していただろうし
>873
ん?
家康率いる3万余りは小大名連合だと思ったけど。本来の「徳川軍」は秀忠が率いておって。
福島が兵糧提供したとしても、当初動員をかける時には福島が提供してくれるとは限らんでしょ。提供してくれたからラッキーみたいなもんで。
そもそも上杉討伐のための出兵であれば、豊臣傘下諸大名連合軍と言うのが名目である以上、徳川だけが最大限に動員する理由も必要も無いんじゃないかな?
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 00:44:37
>>869 >その財力を背景に朝廷等に寄進して尾張の中で勢力を拡大して行った
朝廷に寄進すると勢力拡大できるって論理?
勢力拡大のために朝廷に寄進ってのはありえんわな。
財力があるなら別に朝廷に寄進などせずとも勢力拡大はできるだろう。
というか金の使い道間違ってるって。
もしかして大義名分とか?
朝廷から認められることで、支配や拡大する大義を得ようっていうちょっとまえの話の流れを
組んだレスかな?まさかな。
信秀は4000貫って確か他と比べて高額だったんじゃないかな。
他の信秀以上に財力のあるやつらに比べて。
それでそこから朝廷万歳だと推理する小説の話だろ。
なんか俺も読んだこと歩きがする。
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 00:49:11
>>871 そんな可能性は多くて20%ってとこだろな。
西軍はそもそもやる気満々な大名ってそこまで多くないでしょ。
つまり戦争を求めてない。
戦争嫌な気持ち>成り上がりたい気持ち
でしょ。
1560年代あたりなら戦争してでも成り上がりたいってやつがいっぱいいたんじゃないかな。
>875
朝廷への寄進=勢力拡大って訳ではないよ。
陪臣の陪臣でありながら、朝廷へ寄進出来る、その実力の誇示でしょう。
当然、当事の諸豪族等は実力のある(と思われる)家になびく訳で、結果として勢力拡大にも繋がると。
大義名分なんぞは、おまけみたいなもんで。
当然、財力を背景とした軍事力もあったろうし、信秀個人の力量もある。
朝廷への寄進も、それら含めた中での一部分でしょう。
織田家が朝廷を尊崇する気持ちが強かった、とかは全く思いません。
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 00:56:07
>>875 言っている事は正論だと思うが、果たして各大名や土豪平民に至るまでそのもっともらしい知識と認識を持っていたかどうか・・・
意味はよくわからんが、とにかく凄い自信
そんな所かと
そもそも厳密に言えば天皇から土地を借りているという建前も成り立つ訳で・・・うんぬん・・・
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 01:38:54
確かに織田信秀の寄進額が当時の三好とかちょっと前の大内とかと比べても
数倍の金額だったと思う。
朝廷寄進は尊王の志は建前で本音じゃあなかろう。当時の織田家としては
織田家の知名度を挙げ、それだけの寄進を出来る経済基盤を持つ大名である事を
尾張内外に知らしめる事が狙いかと。
誰かが書いていたように津島の運上金と熱田神宮という大きな経済基盤が
他の織田系統や土豪を圧倒した一つの要素であり、引いてはこの後の信長の
経済基盤支配の重要性を理解せしめた大きな要素であった事は間違いない。
岐阜城下町・琵琶湖の水運・大阪・堺・京と信長の支配を紐解けば端緒は津島
・熱田にあったという事は言えるだろう。
880 :
879:2005/12/28(水) 01:52:19
続き>
朝廷への寄進が増加していったのは室町末期には恒常化していた。
この背景には室町幕府が武家・大名の利害調停機関としての権威も実力も
喪失しており、武家階級の調停役として象徴的権威として朝廷の
利用価値が大きくなったという背景もあろう。
>>877氏が書いているように、室町体制では守護の陪臣の陪臣に過ぎない
織田信秀だが朝廷機構からみれば桁外れの寄進を行った事である意味、
大内・細川という室町体制上の名家に連なる功績を挙げた事になり、
尾張の地元でも大小の土豪の畏敬を集め、同格・格上の競争相手にも大きな
影響を与えたはずである。
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 02:03:12
>>877 豪族たちに直接金やったほうが遥かに効果的なんだが?
そもそも朝廷に寄進したことなんて豪族達がどうやって知る?
CMでも流すってか?
まあそれはギャグとしても、信秀の立場で4000寄進したところで、それが
勢力拡大の一因になったなんて筋は無理がある。
それにそもそも大義名分なんて得られないし。
朝廷が信秀に公的に何かを認めたなんて史料読んだことあるの?
例えば二条城の建設とかなら諸大名に知れ渡るがね。
豪族レベルが誰が朝廷にいくら寄進したかなんて情報はそうそうはいってこないだろうし、
豪族はそんな情報仕入れてもしょうがない。
尊崇の念からと考える筋の方がまともだと思うけどね。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 02:18:46
>>879-880 多少は寄進することのプラスはそりゃあると思う。
しかし4000もつぎ込むほどのことではないと俺は思ってるのだが。
朝廷からねだられたとしても数百もやれば織田家としては十分だろうに。
三好や大内と比べると・・・というか比べ物にならない国力差があるんだよな。
で、織田に財力があった云々というが、それならどうして十数年後の桶狭間の時に
3000人程度の兵数しかあつめられなかったのか。
小さい大名の中では財力のあるほうであったのは確かだけどさ。
まあもちろん信秀が朝廷の利用価値を4000つぎ込むだけのものがあると、
踏んだからというなら、それ以上はなにも言いようがないけどなぁ。
聞くけどあなたが信秀の立場だとして、4000も寄進しますか?
調停機関として朝廷を活用すること、また朝廷から与えられる官位を利用して周辺に示威行為を行なうことは
信秀に限らすほかもやってることなんだが。変なのが紛れ込んできたな。
>3000人程度の兵数しかあつめられなかったのか。
各地に守備兵力を分散させてたからだよ。全体ではその3倍近く動員してるよ。
厳島で全軍総動員の元就とは違う。
>881
>>879=880氏の書き込みをよく読んでくれ。
また宣伝については織田家が当然吹聴するし、寄進に携わった公家等もいる。
公家等は没落はしていたが多様な情報網(連絡網)をもっており、当然、織田家以外の諸侯等との交際もある。
逆を言えば、織田家以外の勢力も寄進はともかく、朝廷方面への情報にはそれなりに敏感であるし、4000貫が多額であるとすれば、そういった情報も入ってくる。
情報を入れても意味が無い?当時の諸勢力が情報に無頓着では生き残れませんよ。
それがどんな情報だったとしてもね。
大義名分なんて、ほとんどあったとは思わないよ。
ただ、朝廷と繋がりが深い(と周辺に思わせる)事で外交上有利な部分もあるだろう。
まぁ無いよりはましな程度かもしれないが。
>883
冬休みだからねぇ・・・。
朝廷寄進の狙いは土豪じゃないの?そんなに書物が氾濫している時代じゃないんだから、遠くのどこかに天皇とかいう偉い人がいるらしい、くらいの感覚の時代だよ
だから土豪やもしかしたら小大名を味方に付ける時に、朝廷にいくら寄進したから朝廷からお墨付きがあるとか信頼されているとか雲をつかむような話もアリになっちゃうんじゃないかと思う
大体応仁の乱以降、各大名が朝廷寄進に対してそれなりに等しく価値を認めていたなら、有力所はもう少し出していても良かったんじゃないかと。
末期になって頻繁に寄進が行なわれるようになって初めてその価値が定着し始めたんじゃないの。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 13:30:56
官位に価値はあったが絶対ではないということでは
ほとんどの戦国大名は官位を得ていたかと
正式に任官されたわけじゃないけど自称してた奴もいたと思う(斎藤道三の「山城守」とか)
わざわざ自称するくらいだから威厳を高めることには多少なったんじゃないか
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 20:47:13
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 21:26:09
>>889 そうだよ
もとはそのつもりだったんだが
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 21:47:46
>>883 >官位を利用して周辺に示威行為を行なうことは
官位や寄進による示威行為が成立していたというソースは?
4000でいったい何の官位を得たのか知ってるの?
>情報を入れても意味が無い?当時の諸勢力が情報に無頓着では生き残れませんよ。
それがどんな情報だったとしてもね。
誰が朝廷にいくら寄進したのかなんて情報を得ることに意味があるのかっていう意味ね。
なんというかね。4000は高額過ぎるんだよ。
三好や大内よりずっと多い寄進だよ?
自家の利益の為の寄進なら最小で抑えなければ利益にならない。
朝廷に寄進するのが無意味といってるのじゃない。
4000も寄進することが本当に自家の為のみだったのかってこと。
寄進する以上は自家の為にって部分がないなんてのはさすがにおかしいけどさ。
問題にしてるのは金額。
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 21:56:52
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 21:59:06
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 22:10:00
秀忠に3万8千を預けないで、家康が7万5千を全て率いて布陣していれば良かったのかな?
>891
883ではないが、
>>誰が朝廷にいくら寄進したのかなんて情報を得ることに意味があるのかっていう意味ね。
これは、織田弾正忠家が4千貫も朝廷に寄付したぞ、ってなれば、尾張の国衆は弾正忠家の財力の豊かさを知る事になり、分裂状態の尾張国内でどの勢力と連携して行こうか、と言う部分で大きな判断材料になると思うが。
守護家の陪臣の陪臣の立場であるからこそ、三好や細川等の名門以上の寄進が必要かと。
一般的には無名の陪臣が全国的に有名な名流より多い寄進、ってなればインパクトはより大きい。特に地元尾張ではね。
逆に最小限の寄進では全く目立たないし、それこそ意味が無い。
そう言った意味で、官位はともかく、示威行為としては十分に成り立つと思うよ。
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 22:18:47
たしかに被官だった織田家には名門斯波家より優位に立つための大義らしき物は欲しかったんだと思うな。
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 22:46:47
>>895 >逆に最小限の寄進では全く目立たないし、それこそ意味が無い。
最小限の支出で最大限の効果っていう意味なんだけど・・・・;
つまり4000あればもっと有益なことできたろってこと。
事実織田家は尾張の統一は軍事力で成功させたのよ。
朝廷に寄進したからといって誰が味方になったのよ?
普通なら誰でもわかると思うんだが。朝廷にいくら金やっても国内統一などできんし、
あくまでお墨付きをもらう程度以上の期待はしようがない。
そんでお墨付きだけならそんな高額である必要はないのよ。
インパクトを与える必要もないしな。
残った金を諸勢力に直接ばら撒くなり、利益誘導をはかるなり、もっと効果の大きい使い方があるでしょ。
>そう言った意味で、官位はともかく、示威行為としては十分に成り立つと思うよ。
その金で軍拡したほうがよほど示威行為になるとは思わない?
>>896 そのためだけだったら4000もいらないでしょ。
というかなんでだろ。普通に織田家には他より多少朝廷尊崇の念が強かったというのを
そんなに認めたくないわけ?どう考えてもその説の方が筋が通るんだけど。
もちろん尊崇の念だけではないのは承知してる。
手に入れた信秀の受領履歴は散位三河守だけ。
信秀の4000貫の目的が官位受領を伴わないものなら謎だよな。
前々年に外宮造営費700貫も出しているしよくわからん。
真意はもっと先にあったのかも知れないが、彼が死ぬまでの軌跡をみると
時代錯誤の狂信的な尊皇大名にしかみえないw
ちなみに生涯献金額は大内義隆がダントツでトップで一万貫を軽く越えるけど
わずか2・3年の間に5000貫あまりも出せる信秀の財力は驚愕に値する
津島の経済力ね。
ここ関ヶ原スレじゃないんかい。
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 22:57:15
>>898 俺はその辺りよくわからないんだけど、織田家って継続的かつ頻繁に寄進を続けていたのか?
斯波家を無力化してもなお続けていたなら天皇家尊崇の念が強い理由になると思う。
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 23:08:43
>>901 そもそも下克上の中で一番頼りになるのは軍事力。
斯波家が邪魔なら適当な事件をでっちあげて軍事力でもってつぶせばよい。
そういう時代だから、多少の批判があったとしても批判するやつらも軍事力でもって
従わせればいい。
なんどもいうが事実織田家は軍事力でもって尾張統一を成し遂げてる。
私は素直に信秀は尊皇意識が多少強いやつなんだなぁという印象を受けた。
あなたは受けなかった。もうそれでいいような気がしてきた・・・
いろんな人がいるわな。ごめんよ。しつこくして。
しかし朝廷の調停という意味では関が原の時に朝廷・公家はどのような動きをしていたかご存知の方はいますかね?
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 23:11:10
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 23:13:16
>>901 おかしな理屈だね。斯波家がいなくなったからといって他にも敵はわんさかいるのに、
斯波家がいなくなってからの寄進は尊皇行為だなんて。なんか変なの。
>>901 奥野高廣氏の研究だと継続的に行なわれたわけではないようだよ
>>902 田辺の幽斎を救った誠仁親王とか?
>898、899
軍事力の強さで尾張を纏めていったのは確かだけど、それだけで尾張国内をまとめきれるものでも無いよ。
逆に軍事力のみで強圧的に国内をまとめようとしたら反発が出るだろう。
織田家は財力を元に軍事力も強かったが、所詮守護家の陪臣の陪臣。
尾張国衆としては成り上がり者でしかない。
将来的に守護家を名目的にも凌駕し、尾張を完全に掌握するのが目的だとしても、軍事力のみでは達成は困難だと言う事でしょう。
権威が失墜していても守護家は守護家。それに対抗(と言うと変だが)して行くには別の権威を利用しよう、と言う事では?
それが、高位の官位受領で無くても、朝廷と繋がりがある(と見せる)事で、外交的な面で尾張国内を掌握する手段にはなるでしょう。
朝廷への寄進も、それを行った者が有力な大名しか当事行っておらず、尾張国内では皆無。
その上、金額が多額であるとすれば陪臣の身でありながら実質、戦国大名並の勢力と言う事を誇示出来る。
また寄進を行うことで生じる、公家等と交渉から外交的な選択肢も広がる。
寄進を行う事でこれくらいの効果はあるのでは?
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 23:27:01
>>906 堂々巡りだし相手ももういいっていってるようだからそろそろ関が原に戻ってはくれまいか?
908 :
906:2005/12/28(水) 23:28:59
続き。
それに、多額な寄進を行う事で、尾張以外にも弾正忠家の名と実力が知れ渡れば、当時、尾張のみならず、美濃・三河まで手を出していた信秀とすれば、美濃等の国衆を味方に出来る可能性も出てくる。
尾張以外に出張っても、戦上手でも勢力としの実力は不明な者に味方出来ないだろうし。
軍事力のみ有れば国内をまとめられるとか、高官してもらって無いのに寄進を続けるのは尊王思想だから、って言うのはあまりにも一面的かと思いますよ。
寄進できる財力、またその財力から生じる軍事力、それらを効果的に使う事が出来る信秀の力量など、色々な部分が作用しての弾正家の繁栄ではないでしょうか。
909 :
906:2005/12/28(水) 23:30:31
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 23:33:00
>>906 >逆に軍事力のみで強圧的に国内をまとめようとしたら反発が出るだろう。
だから反発は出たんだけど・・・・
尾張統一に何年かかってると思ってるのよ。
異常に高額な寄進が額に見合う程役に立ってないことがどうしてわからないかね。
寄進の目的が尊皇のみだなんて誰も思ってないだけどな。
その額からして単純に自家益だけでなく尊皇家でもあったんじゃないかという、ごく普通の推測。
逆にあなたは絶対に尊皇の意識などもって居なかったと少し極端な推測。
脱線に乗っかるか。
信定・信秀は切り取れない領土よりも経済力に重心を置いていたと。
信秀が最初に出した700貫の根拠というか持論はある。
信秀の前に、ライバル朝倉孝景が500貫出してたからその対抗の意味で700貫
美濃を巡って宗滴に大敗北だったしw
当時は家柄や累進、朝廷への貢献頻度が官位獲得のためには必要な時代。
従四〜五位相当の相場が100貫として単に相場の銭を捻出するだけでは受領は難しい。
しかし三河守は何が何でも獲得しなければならなかったわけで
その穴埋めと朝廷に対するインパクトのための700貫
そしてまったく説明できないのが4000貫・・・
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 23:47:12
700貫の時はビンゴの紙になったんじゃない?
そのあと将軍様に拝謁して三河の紙って流れでは?
しかし脱線してる時のほうが伸びるってのは何だろな
>910
多かれ少なかれ、統一事業は反発が出る。それを(寄進等の)外交的に和らげようと言う努力は必要でしょ。
じゃ、4千貫、軍事に投資すれば尾張統一がもっと短期間に終わるとでも?
寄進の効果がどう出たかと言う部分は国衆への水面下での影響であって、見合った効果かどうかなど、はっきりとは見え辛いもの。
それが表面化しないから、見合う程役に立たないとなぜ言えるのかな?
尊王の意識を全く持って無いとは言ってないよ。強く持って無いとは言ったけど。
優先順序の話。
政治的・外交的な部分が大半を占めてるだろう、と。その上で朝廷の役に立てばさらに良し、と言うかおまけ。と言う意味。
金額の多寡については信秀が必要とした、としか言い様が無いが、4千と言う数字はともかく、高額の方が効果が大きいでしょうね、一般的には。
あなたの方こそ、寄進の政治的な部分を認めず、軍事と尊王しか語って無いように思うけど。
>>914 だって、5スレ目だもんよ。
関が原当日なんて限られた状況でそんなに話がもつものか。
備後は詐称臭いですが、三河守はガチで欲しかったんだと思うw
>917
三河にちょっかい出す為かな。
>>918 もちろん。三河守の魔力は信秀にかぎらずですが。
脱線ついでに公記で信秀を備後と呼ぶのは、のちに三河守を拝領した家康をはばかったからかと。
>919
三河に影響力が強まる事への期待、って事かね。
少なくとも、この寄進は対三河工作と言う事か。
>>920 前年の大規模な出陣で安祥城を攻略、三河に初めて橋頭堡といえる城を得てるからね
>>920 それだけじゃないでしょ。尾張にだって、この殿様は三河にも影響力を持っているのか?みたいなハッタリにもなる。とんちんかんな所の神よりはいい。
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 00:10:13
>>915 >あなたの方こそ、寄進の政治的な部分を認めず、軍事と尊王しか語って無いように思うけど。
あなたのいうような妄想的な部分は認めようもない。
しかし誰でも多少は行っていたように、無価値などとは思ってない。
何度も言うが問題は金額。
寄進の額が多ければ多いほど政治的・外交的な価値も正比例してあるだなんて妄想にすぎない。
官位をもらえる額までは有効なお金の使い方ではあるが、それを超えると軍拡に費やしたほうが
有効である。
まああなたが信秀は馬鹿だったっていうなら別だけどね。
官位受領まではありきとして、例えば近隣諸国に「さらに織田家は4000貫寄進できるだけの財力がある」って触れ回るよりも
数万の軍隊で馬揃え的なことを行ったほうがずっと有効。
日本が国連に何億だそうとも、中国が核ミサイルの演習を行うことに勝るなんてことは無理。
みんな強いものになびく。自分とその家族と家臣、etc...のためにね。
財力のアピールが必ずしも強さのアピールになるとは限らない。
強さのアピールならもっと他の方法がいい。
やっぱり信秀は馬鹿だったっていう結論になりそうだな、あなたの筋だと。
ちなみにあなたは信秀は他の大名と比べて尊皇意識に特に差がなくて、強くも弱くもなかったっていう持論ですよね?
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 00:13:19
>>922といい、この間の大義云々といい、最近はどうも小説や漫画・ゲーム影響の
子供?が多いような。
あの・・・信秀スレか官位について語るスレでも立てましょうか?
ところで
PART2が2年以上前に陥落し需要のなかった関ヶ原スレのPART3を立てたのは実は僕ですw
927 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 00:33:25
>>923 言っていることは正論だとは思うが、決め付けはどうかと思うよ。そりゃ人間だから最適解を間違えたり敢えて変わった事してみたくなったりするだろうし。
いわゆる室町期からどっぷり戦国期に染まるご時世だけど、まだ守護大名家らしい大名も数多く残っていて、その過渡期の中、地域差や大名差があっただろうし、守護職や官位の有効性もまちまちだったと思う。
>>925 うるせーボケ
糞コテの自己宣伝なんていらねえんだよ
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 01:23:06
足利の血筋の今川氏の三河浸透と尾張での確執をにらんで信秀は朝廷への接近を図った
可能性はないだろうか。4千貫寄進のタイミングを具体的にしらないので知ってる方は
是非、披瀝してほしい。家柄・威信からみれば今川が圧倒的に格上になり、三河・尾張
の土豪も今川氏の血筋による威風に影響されていた可能性はあるだろう。これに対抗する
為の行動ならば、突然の大寄進もより筋が通ろう。
権威・威信よりも金を土豪にばら撒けという目先優先の意見もあるが、現代感覚としか
言い様がない。
当時は貴顕の尿を飲めば万病に効くとか言って、実際にやってたくらいの時代。
幕府・朝廷というものに対して地方になればなるほど大きくなったはず。
畿内大名(細川・三好など)の寄進が往々にして少額なのは、そのせいという説も
あったように記憶する。
土豪に4千貫もばらまいても一時的な効果しかなく、威信を高め尊崇を受ける方が
費用対効果も大きい。
ここで信秀を評価するべきは4千貫もの大金を献じた事ではなく、4千貫もの大金を
献じても、自らの軍事・政治行動になんら大きな遅滞ももたらさない経済力に注目
すべきであろう。
4千貫寄進が無駄という御意見については「室町時代の権威」というものについて
2,3文献を読んで見ることをお薦めする、としか言い様がない。
>>929 天文九年(1540)六月 信秀、安祥城攻略
天文九年(1540)?月 信秀、外宮造営費として700貫献上
天文十年(1541)八年 信秀、小豆坂にて今川義元を破る
天文十年(1541)九年 信秀、三河守拝領
天文十二年(1543)二月 信秀、朝廷に4000貫献上
糞コテは書き込むなボケ
>>931 おまえさんが仰せの「糞コテ」の方がお前さんより興味深いカキコをしてるんだから消えるのはお前さんだよ。
>>874 亀レスだけど、
家康指揮下の3万は徳川家の家臣の比較的身代が小さな武将たちによるもの。
普通に徳川家の軍隊です。
関ヶ原のときに徳川家が関ヶ原方面に動かした兵力は、
東海道方面は家康本隊3万と井伊と忠吉の約6千合わせて3万6千。
中仙道方面は総兵力3万8千の内徳川家の部隊は約3万で、
あわせて約6万6千、残りの1万弱は関東の守りに残すといったところでしょう。
もっとも、100石あたり3人というのは兵を外征に動員する時の話で、
本領の守りに使うなら普通もっと動員できるので関東の守りの兵は、
もっと手厚かったと思われる。
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 12:04:31
>>927 >>929 論点をはっきりさせませんか?
1.信秀が何の為に4000貫も寄進したのかが論点
2.4000貫寄進の効果自体が論点
どちらですか?論点がごちゃまぜだとお互いのコミュニケーショんがイマイチになる。
事実今なってる気がするが。
1を論点としての今までの話なら、最終的に信秀は馬鹿だったのかどうかにつながる。
2であるなら実際に寄進によって味方についたのではなかろうかと思われる諸勢力がいたのか知っているならあげてほしい。
>ここで信秀を評価するべきは4千貫もの大金を献じた事ではなく、4千貫もの大金を
献じても、自らの軍事・政治行動になんら大きな遅滞ももたらさない経済力に注目
すべきであろう。
遅滞してないという推測は少しおかしい。
その推測だと逆にお金がいくらあっても軍事・政治行動を促進できないということになる。
>土豪に4千貫もばらまいても一時的な効果しかなく、威信を高め尊崇を受ける方が
費用対効果も大きい。
ばらまき方次第だ。それと利益誘導は一時的でない。
大義云々の時にすっぱくみんなに言われたのはもうお忘れか?
蜂須賀などが織田家に従ったのは尊崇の念ではなく、信長が彼らに利益をもたらしたから。
他にも利益云々でしたがったり、反乱したりするのであって、官位があるなしでではない。
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 12:09:55
例えば一向宗と織田家の泥沼の戦争だが、信長が官位を得たりしたところで
いったい何が改善したんだ?
そもそも一向宗は織田家が天下を取ると自分たちにとって利益にならないから猛烈に反抗したんだよ。
信長の官位だとか、朝廷との関係云々で反抗したわけではないんだよ。
他にも一揆は基本的に政策への不満の爆発であって、大名自身が気に入る気に入らないではない。
大名が官位を得ることで収まった一揆などない。
寄進したことで収まった一揆などない。
単純に小説の読みすぎなんじゃないか?
寄進にそんな絶大な効果があるわけないだろ。
逆に民にしろ土豪にしろ寺社宗にしろ、自分たちの権益をおかさない大名に反発することはない。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 12:16:03
現実主義と精神主義のやりあいか?
家康と三成みたいだな。
豊臣恩顧の大名は西軍で当たり前だとか勘違いして、利益誘導を軽視した三成。
精神主義が勝った試しはないんじゃないか?
謙信の親父も下克上も辞さない戦国武将らしい人物だったが、
朝廷の権威を利用しようとしているし、
戦国初期において朝廷に取り入るなんて極普通のことなのでは?
まあ、それがどの程度効果があったかは知らないが。
肩書きがあるのと無いのとでは、外交上相手に対して与える印象が全然違うだろうね。
現代ですら肩書きの効力は絶大だし。
それが「天子さま」からいただいたものなわけで。
近隣に金品を配った方がマシって言う人もいるけど、それは下策だと思うよ。
一回じゃ済まず定期的に、何か要請するたびに金品を強請られたんじゃやってられない。
一つの勢力にそういう対応をするとほかにもしなきゃいけなくなる。
今でも有効な「権威」を否定するのがわからんなぁ
あの時代の有力者がこぞって諸侯に列せられることを望んでいる事そのものが「意味があった」事の
証明じゃないかな。
4000貫の効果が顕れた成果と見られるかどうかわからないが
広忠の親族である水野信元が織田方についてるね。
まあ、豪族に金ばらまくのは完全にナンセンスではあると思う。
何か手柄を立てた時に恩賞として、というならまあ普通のことだろうけど、
利益誘導として金をばらまくってことになると、
それを続けなければならなくなるから、ちょっとやっていられないわな。
それ以前にそれなりの実力をつけてきたなら、
それに見合った位が欲しいってのは普通の発想ではないかね。
実力なしで権威のみでは話にならないが、
実力もあり権威もありならそれなりに実効的な効果も狙えるし、虚栄心も満たされる。
朝廷に近づくことに何の不思議はないだろう。
地方国守(親皇任国ならば介)の官位羨望は、いわゆる実利官位と呼ばれるもので
例えば織田信秀・今川義元の三河守争奪、大内義隆が苦心の末に獲得した太宰大弐
時代が下って秀吉の筑前守、明智日向守
金品労力を惜しんでさえも敵地官位を拝領することが、該当地域支配のために
獲得する必要性があったんだろうな。これに当てはめると信秀の4000貫は
三河守に対する高額すぎる返礼贈答に見えなくもないかな?
>>942 あとは、金の使い方を知っていたって事かな?
誰かも言ってたけど、小身の成り上がりが小身なりの寄進をしたんじゃ当たり前。
誰の印象にも残らない無駄金だけど、その金に複数の意味を持たせるなら妥当になるんじゃないかな。
朝廷では「あの、尾張の織田」って印象が残るし、巷には名前が売れる。
官位だけではなくて「名声も買った」と考えれば、4000貫は「対価」ではなく「投資」になる。
投資の意味を持った時点で「寄進額が高いか安いか」って話は無意味で、「4000貫をいかに回収するか」
を信秀自身が考え実行する必要がある。
寄進の時点で信秀は朝廷には4000貫を投資する意味があるって考えてたわけで、「ほかに使い道」とか言う
より、その後その4000貫をどう活用したかを論じる必要があるんじゃないかと思ったり。
力なんて軍事力だけじゃねえし経済力や権威・権力も立派な力の一部
この場合経済力で権威を買ってその代金が4000貫だったというだけのこったろ
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 13:58:52
ここは見事に脱線してるな
946 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:02:35
俺は車なんてとりあえずエアコンだけ付いてりゃ動くだけで十分なんだが世の中は結局そうじゃない人もいるわけで
カバンなんか物が入りゃ何でもいいんだが世の中は結局そうじゃない人もいるわけで
>>943 投資と考える部分は大いに同意。単に尊皇大名なら折に触れて
朝廷への儀礼出資を率先して行っていただろうが信秀はそうではない
短期間の巨額献上を挟んで三河守拝領の事実だけを見ると
信秀の4000貫献上は朝廷からそれ以上の実利を求めた投資である見方ができるでしょう
しかし信秀がそれを回収する半ばで死んでるので
その先の彼の展望は見えずただ4000貫もの巨額を出費した滑稽さのみが残ったとw
そんな大金を官位をもらうために注ぎ込むと本気で思ってる三戦って
低レベルだよな…
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:25:57
利益誘導と金を直接渡すことの違いもわかってないのかね。
短なる賄賂ってのは戦争の前や一事の時に味方しろって意味であって、
ずっと従えって意味で金を渡すやつはいない。
利益誘導ってのは通行料を取らなかったり、商売をやりやすくしたり
港での権益を認めてやったり、今までの行いをそのまま保護してやったり
まあ色々とあるけどそういう全般的に実質相手の利益になるようなことをしてやることや
誰かへの仲介や援助をしてやったりすること。
現代でも利益誘導はとても重要なことだ。
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:26:51
>>941 だから官位のための献金なら誰も問題にしてない。
4000が官位のための献金だと言う説はどこから出てきたのよ。
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:28:34
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:29:38
>>944 なんだその妄想は・・・・
じゃあ聞くがどんな権威を買ったのよ4000で。
実際払った後に何の権威も得てないからな。
別に朝廷に献金するくらい普通のことだろうに、
何でこんなに気にする人がいるんだ?
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:32:18
俺は守護大名の統治から戦国大名への移行の肝は領地争いの大義名分の有効性だと思っている。
軍事力が全てで片付けてしまうと、幕府と朝廷の併存の中での各勢力の争いの説明がつかない。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:33:15
>>951 ごめん。利益誘導の意味すらわかってない
>>940あたりへのレス。
700については誰も批判してないし、それが尊皇行為であったとも誰も言ってない。
その後の4000についての話なのにまるで頭の中を整理できない人がしつこくおかしなことを言い続けてる
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:34:12
>>953 4000が普通ですか・・・
レベルが低すぎてあほくさくなってきたわ
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:38:01
>>954 説明をつけてどうするかわからんが、官位を得て大義名分ではないが、
国を支配するお墨付きをもらうということに批判はしてないんだが、
論点わかってる?
4000という金額は官位とは無関係。
三河の守のお礼とか言ってる人もいるけど、なんで後からのお礼が
官位をもらうための金額の数倍なのよ。
他の大名と比べてる人いるけど、金額を比べてみろって。
他の大名がやってるのと同じ行為であると言えるような金額ではないんだから。
いい加減スレ違いなんだが
4000が8000だろうが200だろうが関が原と何の関係があるんだ?
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:43:39
小身だから4000でないと意味がないとか言ってるけど、お墨付きさえもらえば後は
大軍でもって実質的な強さと勢いを見せなければお墨付きの価値が半減する。
官位だけあってもそこから先は朝廷の力でなく、自分の力で国内統一をしていく必要が
あるんだから、いつまでも金持ちっぷりだけ見せててもムダ。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:44:14
>>957 論点はわかっているよ
筋肉軍事力バカに柔軟なサプリをいかに処方できるかだよ
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:46:18
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:48:06
本来幕府の一地方役人である事を忘れている奴が多い
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:48:16
関ヶ原について話したいことがないなら、
このスレに書き込むべきではないな。
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:48:54
966 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:49:58
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 14:51:36
969 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 17:15:39
仮に秀吉が西軍を率いたらどんな戦術、戦略をたてただろうか。
彼ならまず伏見城を速攻で落とすな否や東海道沿線の諸城を抜いていく
だろう。上杉、佐竹には関東まで出陣させ圧力をかけることで
徳川本体は動けなくなったところで福島等の先鋒軍を撃破。
あとは伊勢については蝶略で落とす。野心家の伊達氏には関東を切り取り次第などという
飴を与えたら眼の色変えて関東侵入するんじゃないかな。
この時点で相当数の東軍大名の戦意はおちているので
さらに蝶略して骨抜きに。
家康は隠居するとかして降参するだろう。
>923
亀レスだが。
高額な方が政治的・外交的には「一般的には」効果的と言ってます。
個々の事例で状況が違うだろうが、妄想と断言するのはいかがなものかと。
また、金を注ぎ込めば軍事力増大と言うのも短絡的ですね。
財力から一時的に兵数は多くなるかもしれない。でもね、増大すれば喰わせて行くのも大きな負担です。
弾正家は財力はあっても、農業生産の基盤となる領土面では、所詮守護の陪臣の陪臣。
西尾張をまとめ、少々自家領を増やしたにしても、独立した国衆の連合体みたいなもので、農業生産力はそんなに増えない。
当事の状況を現在の国際情勢と比較するのは適当ではないと思うが、国際社会に対して影響力が増大するであろう運動は無駄では無いですよ。
演習に勝つとかと言う問題では無いでしょう。
信秀が馬鹿だなんて一言も言ってないですよ。
財力・軍事力等を駆使して自家を繁栄させた力量は大したもんだと思ってるし、書いてもいます。
信秀の尊王意識に関しては、他家と比べようが無いと思うけど。
財力も実力も無くて寄進も出来ないが、尊王思想は強かったと言う者を居たかもしれない。
4千貫寄進=官位獲得のためのみ、とは誰も言っていません。
4千貫の中には官位獲得や、朝廷(公家も含む)に対する影響力の増大への期待、尾張内外への自家実力の誇示等色々あったのでは、と言ってるのです。
クラウゼヴィッツの言葉ですけど、軍事は政治の延長(と言うか政治の一部分)と言うのを汎用すれば、朝廷等への寄進などの行為の政治性が軍事的な部分にも影響する、と言う事になるでしょう?
実際に尾張国内にどのような影響を与えたかは不明ですし、もしかしたら不発だったかもしれない。
でも、4千貫を寄進する、と信秀が決め、実行した事自体に政治性がある事には変わりありません。
972 :
971:2005/12/29(木) 17:59:26
スレ違いな事を長々申し訳ありませんでした。
>>970 定義付けが難しいifだけど、第一勘では物凄い勢いで寝返りが起こる
秀吉がいたら福島が尾張で抵抗するので徳川は関ヶ原まで来れないね
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 18:48:47
そもそも利家が健在時にでさえ慎重を期して本格的に動かなかった家康が
秀吉がいたら動くはずもない・・・・
そのifは成り立ち得ないでしょ。
戦争の部分だけ話すとすればまあいいが、そうなると福島なんかも東軍のままだよ。
例えば秀吉全盛頃の脳みそが三成の頭の中に入ったとして。
果たして勝てるかどうか。
これなら面白い線かもなぁ。
人たらしという面では秀吉の方が遥かに上手だったわけだから。
時間が立つにつれ石田秀吉三成が味方を増やしそう。
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 19:04:43
家康が上杉の領内で本格的に戦を始めるまで三成が挙兵を控えていれば西軍が勝ったと思う。
977 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 19:07:54
>>976 家康を暗殺すれば良かっただけだと思うんだが違うんだろうか。
徳川が問題であったのではなくて、家康が問題であったわけで。
ころそうと思えば何とかして殺せたと思うんだけど、そこらへんはなんでやめたんだろ
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 19:11:05
>>977 暗殺ありならその通りです。
てか西軍が勝てる可能性はいくらでもあったと思う。
>>976で勝てたかどうか検討してくれると嬉しい。
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 19:17:08
976で勝てるかねえ。
逆にどうなんだろうな。果たして西国の武将は東国まで遠征するのか?
毛利とか渋るんじゃないかな。
それに関東まですら行けないだろうね。
途中の東軍大名にてこずって家康がやってくるよ。
結局あぼーん
980 :
929:2005/12/29(木) 19:28:43
>>930 これは九条殿、亀レスですいませんが早速の御教授、痛み入ります。
このタイミングを見ても対今川を意識した己が権威向上の一手と言えましょう。
土豪に金をばら撒いた方がマシ、というガンコな方がいらあしゃるようだが、
所詮金は一時のもの。所領というならともかく金では毎度毎度出さねばならぬ。
朝廷による権威付けは現代人ならぬ、高貴なものへの憧憬・敬意の強い室町の頃だ。
これが畿内ならまだしも尾張・三河ならばこの手の権威の有効性は十分であろう。
無論、権威だけで戦に勝てるとは思ってないが、ただ力攻めで群雄割拠する戦国時代の
渡世は渡れまい。
朝廷権威・幕府の威信、縁戚・謀略・脅迫など勝つためには何を使っても良い。特に
戦をせずに勝てるならば。
4千貫寄進否定の方は戦には莫大な金が掛かることが分かっているのだろうか?
湯水の如く資金を投入しても、勝てばまだ良い。負ければ大名家の収支バランスは
損なわれ、次ぎの動員に影響を及ぼせば如何なる事になるか…。
戦は水物で勝負は兵家もこれを期せず、と古来言う。故に戦をせずに多くの味方を得、
士気を上げられるならば、そういう手段は大いに活用すべきでしょう。
繰り返しになるが、この方は一度、室町時代の本を熟読される事をお薦めする。
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 19:28:45
西軍が勝てたであろう軍略
・家康を暗殺する。
・家康が上杉の領内で本格的に戦を始めるまで三成が挙兵を控える。
・東海道を引き返してきた東軍に対して、佐和山城・大坂城を最大限活用して戦う。
豊臣恩顧の大名を多く抱えていた東軍を相手に戦うには、とにかく持久戦に持ち込んで離反を狙うしかない。
戦が長引くほど家康の軍事的信用は落ち、諸侯は次第に西軍になびく。
また、「秀頼様の御為」という家康の大義名分を考えれば、大坂城に篭って秀頼を擁してしまえば家康は手を出せない。
982 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 19:36:55
>>979 いや東国まで遠征せずとも畿内から美濃・尾張あたりまでを掌握するだけで十分。
それよりも、上杉との合戦中に挙兵することにより、このまま上杉と戦うか西上するかで意見が割れる可能性がある。
撤退戦もしなければならず、東軍の諸侯は大きな損害を受けて士気も格段に下がるだろう。
983 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:12:17
>>980 お前4000で何ができるかわかってるの?
具体的に言ってみろ。
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:20:29
>>980 史実を見れば織田家が4000貫寄進したあと戦局が好転したというわけではないです。
それはご存知でしょうか。
そしてその後他の大名などが一度に4000貫クラスの異常な寄進を行ったことはほとんどない。
つまり結果を知ってる私たちが出せる結論は信秀は金の使い道を間違えたということ。
何を期待して金をどこにつぎ込もうとかまわないが、4000の全部が自家の利益の為だけで
あったというなら、確実に失策だったとしかいえない。
しかし尊皇の意識を持ちあわせて、「自家の為だけでない」のであれば、それは思想信条なのだから
愚かとは言わない。出したお金は朝廷側で役に立つわけで尊皇行為としては成功であるから。
尊皇行為の側面を完全に否定することは、信秀がマヌケだってことを言ってることと同じこと。
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:25:21
>>980 とりあえずこれ以上しつこくするなら、4000貫寄進によって得た織田家の益や、
好転したという事実や、その他何でもいいですから「事実」を持ってきてください。
それが出せないならあなたの自論は愚将信秀論になりますから。
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:30:40
>>980 >朝廷による権威付けは現代人ならぬ、高貴なものへの憧憬・敬意の強い室町の頃だ。
これが畿内ならまだしも尾張・三河ならばこの手の権威の有効性は十分であろう。
信秀以外の尾張・三河の人間は朝廷に対する尊崇があると根拠もなく言ってるのは
いいけど、なんで信秀だけ完全利己人間になってるのよ?
信秀以外には利己主義的な人は皆無だったと思ってるんでしょ?
>負ければ大名家の収支バランスは 損なわれ、
外征で負けても収入減らないんだが何と勘違いしてるの?
987 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:40:07
もうやめてほしい 普通に考えて利己的な側面も尊皇的な側面も適当にあるよ
信長は別としても、他の人は大抵帝を多少なりとも尊崇してた時代なんだから
せっかく関が原の話に戻ってきたんだからいい加減にして厨は他所にいってくれよ
988 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:42:44
誰か次スレよろ
それと残りのレスを脱線で使ってもいいけど新スレになったらもうこないでね
自分たちでスレ立てするか、メールでどうぞ
989 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:50:42
>>987 ごめんなさい。
しつこくされてうっとおしかったからやりこめたくなっちゃった。
>983
980でないけど、調べてざっと計算してみた。
足軽2500人前後の年俸に相当する程度かと。
>985
少なくとも、織田家の尾張における地位が揺らいだとかでも無いでしょう。
水面下で離反しかけてた国衆等を繋ぎとめたのかもしれないし、傍観していた連中を引き寄せたのかもしれない。
>>939氏がおっしゃてるけど、水野の件も、その効果かもしれない。
戦局と言う曖昧な言葉で片付けられるような事ではないのでは?
あなたの言う戦局ってのは、戦に勝った負けたって部分に偏っているように思うけど。
兵力=軍事力とかね。
あらゆる事柄には多様な面があると言う事をお忘れなく。
尊王行為の側面を完全に否定してなんていませんよ。
寄進行為の中に若干なりとも(オマケ程度だと思いますが)、あったでしょうね。何度も書き込んでますが。
事実ねぇ・・。それを言ったら4千貫が尊王行為だったと言う事実も教えてもらいたいですね。
>>何を期待して金をどこにつぎ込もうとかまわないが、4000の全部が自家の利益の為だけで
あったというなら、確実に失策だったとしかいえない。
それは結果論。何かを期待して行った行為であれば、それが成功だろうが失敗だろうが政治的な行為と言う事にはかわりありませんよ。
寄進という行動の成否のみをとりあげて、成否は分からないが、失策だったから信秀は愚将と言う結論に導くのは暴論でしょう。
仮にこの寄進行為が失敗だったとしても、陪臣の陪臣に過ぎない弾正忠家を尾張随一の勢力にした能力実績まで否定出来ない。
しつこい、って・・・w。
あなたのレスがしつこいと書き込まれた事はあっても、私に大しては無かったと思うよ。
991 :
990:2005/12/29(木) 20:53:16
申し訳ないです。
この件については書き込みを止めますね。もう水掛け論だしw
993 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:59:14
>>990 いいから事実を述べろって。
4000の結果を妄想するんじゃなくて事実を述べろって言ってるのよ。
>それは結果論。何かを期待して行った行為であれば、それが成功だろうが失敗だろうが政治的な行為と言う事にはかわりありませんよ。
あれ?お前失策だったという意見だったけ?
やけに4000寄進を評価してたのに、なんでいきなり「結果を見れば失策だった」に変わってるのよ?
994 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 21:03:38
>>990 >それは結果論。何かを期待して行った行為であれば、それが成功だろうが失敗だろうが政治的な行為と言う事にはかわりありませんよ。
信秀が何を思って寄進したのかは誰にもわからん。
しかしもしも利己的な行為であったとしたら、たいしていい結果は出てないのだから
信秀の読み間違えということになる。
しかし信秀ってそんなアホな人間か?ってこと。
尊皇行為も含むんであれば信秀って朝廷が好きなのね。で済む事。
あなたは遠まわしに信秀を侮辱してるようにしか思えない。
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 21:16:29
あと5レスで終わりだね
996 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 21:24:41
後4レス
998 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 21:31:24
1000
999 :
990:2005/12/29(木) 21:33:06
>993
あのねぇ、よく読んでよ、冷静に。
史料に残る事実はないよ。尊王行為だった、って言う史料も無いのと同じでね。
4千貫の寄進行為に関して、織田家の財力や当事の状況から推測したって事。
比較的客観的だと思うけどね。レスを読み返したけど、100くらいの書き込み数でも私と意見の近いレスも多かったし。
多分、あなたと同意見の方はあなたとあと数人くらいかな。もしかたしたら、全部あなたかな?
同じ意見の人が多ければ良いとも思わないが、客観性の指標にはなる。
寄進行為に政治的側面が強いとして、失敗したとしても、その行為自体の政治的側面は否定出来ないよ、と言ってるの。
失策に変わったとかではないよ。文章を良く読んでくださいね。
寄進行為が効果的だったかは分からないが、あなたが言う利己的な(意味が分からんが)寄進行為が無駄と考えているとしても、
当事の信秀がそう考えたかは分からない。
しかし、あなたの考えと違う行動を信秀が取ったとしたら、それはアホな人間と言い切るのも暴論ですよ。
>>しかし信秀ってそんなアホな人間か?ってこと。
尊皇行為も含むんであれば信秀って朝廷が好きなのね。で済む事。
意味不明。逆に済むから何?
あなたがどう取ったかは分からないが、私は信秀の力量は大したものだと思ってますし、侮辱する気もありません。
4千貫の寄進に関して、私は政治的側面が強かったと思い、あなたは、寄進行為から尊王思想を推測した、って事でしょう。
同じ事実からでも違った見かたがあるんだな、と言う部分では勉強になりました。
以上。
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1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
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