小西は主力を本国へ残してきたから。
おかげで八代や矢部は加藤を撃退した。
>>947 そうなんだ・・・
それほどまで加藤には負けたくなかったのか、小西は。
しかし首謀者のひとりである行長が主力を中央に割かないのはどうかと思う。
それとも毛利が西軍についた時点で油断したのかな?いやまさか。
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 23:04:15
小西は商人
まあ奉行派の一人だな
戦で期待をしては酷
長束みたいに隠れなかっただけ、マシ
だが毛利家がつくと決まった時点で、かなりの安堵感もあったろうよ。
なんて言ったって、毛利本家、吉川家、小早川家で、それぞれがかなりの兵数率いて大阪まで来たんだから。
小西としては、主力がいるなら、俺は自分の領土守るほうに力を注ぎたいと思ったんだろう。
大局が見えずに小利に囚われた小物だな・・・
>>948 小西は上杉討伐へ出陣するために兵を率いてきた。遠方なので
少なめの兵力で出陣した。
関ヶ原における弥九郎の活躍といったら寺沢を敗退させて
方向を八郎攻めに変えさせたことぐらいか?
>>951 重ね重ね解答ありがとうございます。
主力をほとんど連れていった黒田長政とは対照的ですねぇ。
>>952 ほんと印象うすいよねぇ小西・・・
そういえば恵瓊も積極的じゃなかったねぇ。
でもあの布陣位置、あの小勢で積極的に攻めたら、瞬殺されちゃうかW
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 00:58:03
>>954 エケイは毛利だから
本体が動かない以上動けない
>>955 それは承知してますが、この戦で西軍が負けたら自分がどんな目に会うか・・・
先を見通す力に優れた彼ならわかったわけで、もう死にもの狂いで戦うしかないわけで・・・
・・・でもあれかぁ、交渉決裂した広家が南宮山の高所に陣取った時点で恵瓊は戦自体にさじを投げたか?
>>953 小西の領土は全て九州にあるが、黒田の領土は三割程度は近畿にあり、
完全な九州大名とは言い難い。それに黒田も主力を率いてきたわけで
はない。家老三人中二人も本国に残留している。
958 :
ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/10/15(土) 01:21:45
>>957 つくづく勉強になります。家老二人も本国にいましたか。
となると黒田如水が銀で集めた民兵三千人は単なる講談話ですか。
九州をたいらげたのは実際は黒田家主力部隊ですか?
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 01:33:01
>>956 うーん
負けても捕まらなければどうにかなると思ったのかも
そうでなければ、さっさと退却に移るとかね
あと、恵瓊は家臣である以上、本体の意向に逆らえないし、逆らうべきではない
逆らうのなら謀反になってしまう
安国寺も長曽我部も戦線はるか後方に位置していた上に、山がじゃまで
ほとんど戦局を掴めないでいました。
この方面で戦局を知り得るのは山上に陣取った毛利と吉川だけだったのです。
さらに軍法から言えばこの方面の指揮は最大戦力の毛利(吉川)が差配するもの
なのですが、これがなしのつぶて。
吉川に至っては、いまにも裏切って自軍に襲いかかってくるやも…みたいな気迫が
戦場を支配していたのやもしれません。
これでは他の部隊が動けないのはあたりまえなのかもですが…
安国寺は軍こそ率いていましたが、ただの外交官。政略は得意ですが軍略においては
他家より遅れをとってしまうのも仕方のないことなのかも。
長曽我部なんかは、いくら吉川がいるからと言っても、傍観を決め込まずに
とりあえず押し出して山之内あたりと一戦くらいの気迫があっても良かったんじゃないでしょうか
黒田の場合、関ヶ原へ行っていた主な武将は黒田一成と後藤又兵衛。
母里太兵衛と栗山善介は大坂に残り、西軍挙兵後は帰国。井上之房が
豊前にのこり、黒田如水の弟二人は豊前に残った。今、名前をあげた
豊前残留と大坂残留の黒田重臣の石高を足すと、既にこれだけで、
黒田長政の総石高の実に二割にも達してしまう。黒田がどの程度の
兵力配分をしていたかは判らないが、兵力だけあっても実力を発揮
出来ないことは宇喜多で証明済みなように、黒田も主力を欠いていた
といって間違いないでしょう。
細川も後の筆頭重臣(家臣というより同盟者に近い)松井康之(後の八代藩)
を九州に残しており、やはり九州に領土を持つ武将はあまり会津攻めに
力を入れていないように思われる。
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 07:08:35
小西摂津は関ヶ原でこそ目立った活躍は無かったが、加藤清正と並んで朝鮮役の
日本軍の一方の大将。尚且つ清正に先んじて漢城・平壌を陥落させた軍略の手腕は
一定以上の評価をするべき。また清正と異なり配下の内藤如安らを北京に派遣し、
明とも協議をするなど政略面でもその手腕の一端を伺える。
>>962 しかし弟の小西行影が八代で加藤清正の軍を撃退したことを考えると、
朝鮮征伐での活躍は、小西行長の力でないのかもしれない。
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 08:12:27
>>963 局部的にクローズアップして、それを根拠とされても…。
「大名家」とは一つの組織・集合体であって組織の持つ固有の強さや結束力などが
個々の大名家の強弱である。一部将が戦上手としてもその大名家そのものが強いか
どうかは別の次元。小西摂津守が有能かどうか、というのは個人としての能力もさる事
ながら小西家として総合力を言っていると思って良いのでは。
あなたもまさか、「可児才蔵がいたから福島家は戦が強かった」とは思わないでしょう。
それと同じ事。
小西行影の八代での活躍は小西行影に帰するが、そうした人員・兵力配置をした大名の
功績というものもある。
もう少し言うと戦の能力だけが武将の能力の多寡を測るモノサシではないと思う。
>>964 可児才蔵は一武将にに過ぎず、一軍の大将ではない。しかし行影の
立場はそうではない。強さを言えば石田三成も弱いのだ。もしも
石田が遠国の大名で島、蒲生を残してきていたら、関ヶ原でのあの
活躍は無かった。
主君が有能な補佐役の言い分を全て聞き入れていた場合、名君といわれるだろう。
しかし、もし補佐役が無能だったら暗君と言われるだろう。補佐役がたまたま
有能だったのか、それとも無能な人を廃して有能な人物を見いだすことが出来た
のか、判断するのは極めて困難だと思われる。
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 09:10:32
可児の話しは例として挙げただけ。一部将、一手の大将の戦の能力では総合的な
意味での大名家の強さは判断出来ないという事を申し上げたいという主旨を
御理解願いたいものだ。
石田弱しの発言あったが、如何なものかと。
良き家臣を高禄で召抱える事は良き大名の所作であろう。大名個人の個人としての
力量に拘る必要はあるまい。数千数万の軍がぶつかり合う戦で個人としての
強い弱いなどは何の決定要因にもならない。優れた家臣を多く養うことこそが
大名家という組織の強さだろう。なるほど島左近・蒲生備中在陣による士気の向上
は当然はあったかと思います。がしかし、彼等の存在だけで数倍する敵勢相手に
あれほど粘り強く闘い続けるのはかなり困難。ましてや島左近は開戦劈頭で負傷、
その後行方不明。
家臣一同が三成を尊崇していたからこそ、あれほどの健闘が可能であった、
という事ではないでしょうか。
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 12:06:48
969 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 12:08:40
>>966 戦国期に無能な人物を使い続けたのなら、主君の責任
部下が無能なので負けましたでは通らない
>>968 しかし一度、西軍に身を投じたら覚悟を決めて奮闘してもらいたかったですね。
どっち着かずで正解だった例は郵政法案を「棄権」した自民党議員ぐらいW
>>969 もしも朝倉宗滴が生き続けていたら朝倉義景は名君と言われたかもしれない。
>>971 もしも太原雪斎が生きていたら今川義元は名君といわれていたかも知れない
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 12:51:53
>>970 そのあたり全員が死ぬ覚悟かというと違う
上杉だって降伏しているわけだし
2元論では割り切れないよ
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 12:52:38
もしも幸村が家臣なら三成は名君と言われたに違いない
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 12:53:44
>>967 三成の家臣一同と言うより蒲生遺臣でしょうな。実際全滅だったらしいし
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 13:09:40
基本的に池沼はスル━コテハンは伊良ね
では関ケ原をどうぞ
丁児君!名将木村貴光を知ってるかい?巨大企業日★総★工★産に歯向かう男だ!会ったら挨拶ぐらいしなさい。
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 13:16:00
魔玉VSο丁児
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 13:20:28
西軍35000が勝つための最終条件
大砲の強化増設のみ
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 13:37:37
もし吉継が100万石の大名だったら?
982 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 13:44:54
徳川家康ビックリする!江戸城の守り固めてとりあえず寝る
983 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 13:49:39
そんで75才くらいに関ケ原起こすも石田三成2世に破れて島流し
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 17:33:18
幸村なら、勝っていた!!!
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:52:02
>>977 そうでもない。蒲生家出身の家臣団は関ヶ原以降他家召抱えもある。
蒲生郷舎…蒲生家帰参。三千石から一時は万石以上。後に訴訟事で蒲生家放逐。
蒲生備中…郷舎とは別人。織田有楽手勢に囲まれ討死。
蒲生大膳…備中の子。関ヶ原後に蒲生家帰参。二千石。
蒲生将監…安藤守就実弟。関ヶ原にて討死。
北川平左衛門…関ヶ原後に五千五百石で蒲生家に帰参。
中島宗左衛門…関ヶ原にて討死。
浅香左馬助…関ヶ原後に加賀前田家にニ千石で仕官。
ちなみに関白秀次系家臣は皆、逃亡というのもデマ。舞兵庫父子はじめ討死多い。
司馬遼「関ヶ原」の家康のセリフに977の内容があるが、あまり根拠はないと思われ。
いずれにしても数倍の敵勢、それも歴戦の黒田・細川らと激闘をあれだけの長時間継続
出来たのは並の忠誠心では不可能。石田家の統制・忠誠心の凄さは評価すべきでしょう。
>>985 ありゃりゃそうだったのか・・
俺も司馬しか読んでなかったから鵜呑みにしてたよw
ついでに「関が原」の中では蒲生郷舎と蒲生備中を混同しているっぽいね
987 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 20:10:10
>>986 司馬遼「関ヶ原」でも諸説あるっぽく書いてたと思われ。
蒲生氏郷は蒲生姓下賜し過ぎw 探せばまだまだ出てくる予感。
>>985 舞兵庫の一族で福島正則の家臣になっていたのがいたな。
確か石田三成が福島正則に紹介して召し抱えさせたとか。
なぜ自分で召し抱えなかったのだろうか。もしかして禄高不足。
990 :
真田幸村:2005/10/15(土) 22:25:57
毛利のヘタレがーーーーーー
991 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:33:00
>>988 前野直高だな。どうして自分で召抱えなかったかは調べる術がないが、三成は秀次旧臣
を相当召抱えたから前野一族だけ全部って訳にいかなかったんじゃないかと。
前野家の出自の地は福島家所領となっていた事と前野一族は秀吉草創期の功臣でもある
ので一族の福島にも前野一族を預ける事で後の取り成しの円滑化を考えたのかもね。
前野か・・・いまいちパッっとしない大名だが、彼らがいなかったら歴史小説家の飯のタネが多いに減ったことも事実W
1000ゲトなら関ケ原は丁児の壮大なる妄想
994 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:14:30
関ケ原より
東軍魔玉VS西軍丁児キボン
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:50:47
ο丁児=高次元荒らし=善良
魔玉=低次元荒らし=悪徳
しか━━━━し
両方とも荒ら━━━し
996 :
無名武将@お腹せっぷく:
だいたい平塚為広が出ない時点で糞スレ決定