各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの) ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、 無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。 関東 上野:49万6千石/12400 甲信・中部 甲斐:22万8千石/5700 信濃:40万8千石/10200 飛騨:3万8千石/950 美濃:54万石/13500 近江:77万5千石/19375 東海 駿河:15万石/3750 遠江:25万5千石/6375 三河:29万石/7275 尾張:57万2千石/14300 伊勢:56万7千石/14175 志摩:1万8千石/450 北陸 越後:39万1千石/9775 越中:38万3千石/9500 越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石) 若狭:8万5千石/2125
畿内 山城:22万5千石/5625 大和:44万9千石/11225 摂津:35万6千石/8900 河内:24万2千石/6050 和泉:14万1千石/3550 伊賀:10万石/2500 四国 讃岐:12万6千石/3150 阿波:18万4千石/4570 淡路:6万2千石/1550
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況 ●武田 ・甲斐…100%(5700) ・信濃…95%(9690) *飯山周辺は残す。 ・上野…36〜43%(4450〜5375) *倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。 面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。 14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。 利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割) ・駿河…100%(3750) ・飛騨…10%(95) *72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。 もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡 して上杉氏を頼る。 ・越中…? *68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年 には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか? ・遠江…7.8%(500) *遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。 武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。 遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850) *足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。 ・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675) *秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか? 18(22?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。 総計25035〜26635 後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。 ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上となり、さらにこの作戦にあたっては さらなる臨時税から借入まで。領国の疲弊はすでに始まっていたと思われる。継戦能力にも疑問。
●織田 ・尾張…100%(14300) ・美濃…90%(12150) *21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。 ・志摩…100%(450) *ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。 ・近江…70%(13563) *浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。 ・伊勢70%(9923) *桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。 ・三河…10%(728) *水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。 総計51114 この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。 若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅 などが味方勢力として存在。 ●徳川 ・三河…78%(5675) ・遠江…92.2%(5875) *両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。 総計11550 三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国 ●長尾上杉 ・越後…100%(9775) *ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。 ・上野…10%(1240) *沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。 ・越中…20〜25%(1900〜2375) *神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。 この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。 ・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる ・信濃…5%?(510) *飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。 総計13425〜13900 ・遠征能力○ 遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実 ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。 関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。 ●後北条 ・遠征能力○ 武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。 数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵 もいる。
その他の勢力 畿内 ●朝倉 ・越前…100%(12500) *寺社領は議論中。慶長検地から、+18万石くらい? ・若狭…? *守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。 朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明) 総計12500+? ・遠征能力○ 遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に 出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣 が必要。 ●浅井 ・近江…9.5〜13%(1850〜2550) *伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。 高島郡はもう少し高いとみる説あり。 総計1850〜2550 ・遠征能力△(朝倉が来れば助力可) 単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。 ●六角 ・近江…? *愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永) ・大和(11225、ただし双方合わせて) *寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。 ・遠征能力×(両派とも) 大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。 元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。 ●長島一向宗+国人 計20000? 遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。 ●石山本願寺+雑賀衆? 計23000? 遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接 軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。 ※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。 ●北畠 ・伊勢…30%(4253) *大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱 するものが出る。 計? ・遠征能力× 織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠 具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、 具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。 ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が 織田の一環として行動するのは74年以降)。 ●伊賀 六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好 三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合) 畿内 ・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する ・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と 抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。 ・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。 ・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。 ・摂津(8900) ・河内(6050) ・和泉(3550) *ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、 その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。 総計18500-敵対勢力 ・遠征能力× 反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。 統一行動は難しいか。
四国 ・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様? ・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。 ・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。 ・阿波(4570) ・讃岐(3150) ・淡路(1550) *安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。 総計9270-安宅氏の勢力 ・遠征能力× お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が 討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。 四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる おまけ ●足利将軍家 ・山城…? *北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通 などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。 総計不明 ・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■この情勢をもとにした推測。 織田は 近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、 江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、 北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、 美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、 (基本的な任務は守備、現状維持) 計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは? 武田は 北信および上野へ対上杉に五千ほど、 美濃岩村の秋山隊が三千ほど、 北条の援軍が二千〜三千で、 合計ニ万〜二万五千ほど?
■三方ヶ原の戦い後の情勢。 1572年 十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い 1573年 一月 三日 武田軍野田城を囲む 北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。 近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。 二月 十五日 武田軍野田城を落とす。 二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。 三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。 二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。 四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。 七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。 八日 信長、京より岐阜へたつ。 十二日 武田信玄死去 柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。 七月 足利義昭京より逃れる。 八月 朝倉・浅井両家滅亡。
・「高坂弾正・土屋直広・穴山梅雪連名の書状」は偽文書の可能性高し。信憑性なし。 ・「太閤検地には寺社領が含まれていない」には根拠がない。よって、寛永検地の差分を 寺社領として武田領に加えようとする意見は、まず先に根拠を提示してから行わないと、 信憑性なしとして相手にされない。
前スレ34 まとめ >1-14テンプレ >16-64経済力と兵力 >65-114近江の支配率 六角の状況 >115-206 72年末の状況 徳川の状況・採るべき行動・どれだけ粘れるか >223-233岩村城は本当に重要か >238-252信長の移動速度 >238信長の移動速度の資料 >253-257 73年3月織田は武田を無視していたか >262 >264伊賀の国人衆 >265-266服部友貞 別スレからのコピペ >265-296服部友貞 下克上が非難されるか >305-329織田毛利武田の鉄砲使用例 >331-440石高の貫高への換算 銭の信用度価値 撰銭令 >350京都の米価推移 >366甲州金 >435小田開城人身売買(別本和光院和漢合運) >436-517経済力と軍事力 傭兵 足軽>467足軽の初見
>527-566小山田・二股かけてる国人衆 >557-572松平家の一族争い >573-600織田-熱田津島-水野の商業利権 信秀の那古屋城奪取 >594氏親晩年から1550年までの東海年表 >606-641兵站 農村への影響 >641試算によると300人役では農村には数%しか影響がでない >642-694信長信玄の戦略 >691-693家督を継いだときの両者の状況 >694信虎の主な業績 >695-966武田信玄の戦略は正しいか否か 別の戦略を採った場合の可能性 >746「高白斎記」による小笠原との講和について >758-759信玄信濃侵攻まとめ >772信長美濃攻め >808武田軍の弱さについて >873信濃諸勢力石高 >877-878信濃郡別石高・信濃諸勢力石高・年代別武田信濃諸勢力石高 >817-827信玄は何故下伊那や木曽を後回しに信長は北伊勢を後回しにしたか >833-971北条氏康と河越夜戦に準じる戦いがあったか否か
最近このスレ知ったのだが、実際上洛について、仮に信玄が十年長く生きてたらどうなった? このスレ住人的にはやはり上洛成功してた事になってるのか? 俺が今まで思ってたのは、例え武田信玄が生きていても上洛は厳しかったんじゃないだろうかと思う。 あの後武田の西進が止まらないとなったら当然信長は上杉謙信に背後を襲うよう薦めるよな? で、さらに三方ヶ原の合戦で負けたとはいえ、なんせその後、誰か忘れたが、 夜襲をかけて武田軍を驚かせた徳川軍が全く動かないとも思えない。 また、足利義昭だって武田幕府が目当てじゃないだろうから、万が一にも上洛成功したとしても、 結局足利義昭が再度動いて今度は武田包囲網を形成する。 その時、北条家とか同盟してるとはいえ、動かないという保証はどこにも無いような? と、俺はずっと思ってたのだが… 武田信玄にしてみりゃ、あの時以外に信長を倒す瞬間は無かったってのはわかるんだけどな…。
19 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/14(金) 22:53:13
大方の意見としてはあの当時の信長包囲網は信玄が兵出した時点でズタボロで 朝倉にやる気ナッシングだったから大勢に大差はないかと。 信玄の健康がどうあれ三河、遠江の足場固めしてそのまま退却っしょ。 ただ家康はやばかったかもね。もっと早くに追いつめられて信長に泣きつくだろうし 信長も放置というわけにはいかんだろうから(現実にゃ長篠までギリギリ放置しまくってた。) 東方面にも信長はある程度気をまわさなあかんくなるんで近畿方面の統一が遅れたかもな。
無理と言う結論が出てるから、今の主題はなぜ無理になったのか? どうすれば可能か? どこで信玄は足踏みしたのか? に変わってるよ。 どの程度の勢力を保持していれば上洛は可能なのかね。それにともなう周辺勢力の動向も考えながらやってる。 やっぱり時代は繋がってるって思い知らされるよ
だけど1572年、あの時以後に上洛するのはいかに信玄でも無理だったろうなぁ 織田包囲網があったからこそ上洛できるチャンスもあったわけで。 1575年、長篠で仮に勝頼が勝ったとしても、恐らく上洛は不可能だったろう。 だから1572年が最後のチャンス。これを生かせなかった段階で武田家は織田家に勝つ事は 事実上不可能になったとさ。
正直信玄ももう少し早く動きたかっただろう。 仮に1561年くらいに上洛していれば、あるいは可能だったかもしれん。 美濃から近江、そして山城。 尾張一国しか支配していない織田信長や近江の浅井六角、さらに美濃の斉藤では武田家を 止めるのは不可能だったと思う。 が、残念ながらその貴重な1561年、信玄が何をやってたかと言えば上杉さんと川中島で決闘だったとさ。 ほとんど益も何も無い上杉家との戦いにより、信玄にとって貴重な時間がどんどん過ぎ去っていったわけだ。
信玄は手近な切り取れそうな領土を切り取るだけの典型的な地方大名だろう。 上洛戦をしたのもポーズだけで遠江・三河への侵略戦だろうし。
甲斐・信濃に三河・遠江を手に入れた程度ではいずれ強大になった織田家によって滅ぼされる、 信玄はそれがわからない程のお馬鹿だろうか?
実は上洛する意思があったか無かったか?は兎に角として、 少なくても信玄の心の中には信長と雌雄を決したいという想いはあったと思う。 晩年の信玄には武田の家を滅ぼすのは恐らく信長である、ということが見えていたと思うよ。
手取川の合戦での見事な負けっぷりを考えると、織田軍は兵力が勝ってるとはいえ 決して最強の軍団ってわけではなかったような気がする。 なんせ手取川に出陣してたのは柴田勝家、織田軍きっての猛将。 そいつがけちょんけちょんに負けて越前まで逃げ帰るぐらいだし… 武田軍は一応、その上杉軍と互角に戦ってたんだしねぇ…
改竄がばれても、一向に改定しないな テンプレ
信長軍は弱兵でもすぐにまた同じ数そろえてボコボコ沸いてくるからなあ。
一度や二度は兵の錬度でカバーできるだろうが度々続くとなると。
結局は国力差の戦いになると思われ。
>>24 個人の優劣以前にそこらへんが従来通りの戦国大名の限界なんじゃないかな?
自領とその周辺の平定だけで精一杯でそこまでのことに気を回す余裕わないというか。
>>26 手取川は長篠のような正面きっての決戦ではなく、撤退中に殿軍が追いつかれて
被害を出したというもの。
それ以外に被害はなく、謙信もそれ以上の進撃はしていない(小説ではそのまま
越前まで追撃したというものもあるがそれはフィクション。手取川以南に兵を進めた
ことはない)。
長篠って武田諸将の自殺みたいなもんだったらしいね。 馬防柵で備えてあるのをみれば、敵が何か備えてるってわかったはずなのに、 我先にと皆が皆突撃を強行している。 よっぽど親父の信玄に比べて勝頼は魅力が無かったらしい・・・
織田軍きっての猛将というと秀吉と光秀のような気がするが 柴田ってそんなに凄まじい武将か? 特筆するような戦いは清洲との決戦と甕割った時ぐらいじゃないか? あと戦績からすると甲斐の兵って弱兵だったのかな やっぱ重税とかかけられて栄養失調気味で体格とかも 豊かな地方の兵と比べると劣っていたのだろうか それとも信濃の兵がやたら強かったのだろうか
>>31 それいったら光秀の特筆するような戦いってなによ?
柴田は織田軍きっての猛将だが織田軍きっての武将じゃないって言うだけだろう。 秀吉・光秀は知将なんじゃないか?
>>30 あの戦いで武田24将のうち、馬場、内藤、山県、真田といった面子が
全員討ち死にしてるからねぇ
みんな武田家に仕えたんじゃなく信玄に仕えていたんでしょ
手取川の戦いから改めて秀吉が優秀だって事がわかるな だって戦う前にすでに先の先を予想してただろ 謙信も撤退まで
>>32 金ヶ崎の撤退戦
比叡山焼き討ち
越前一向一揆討伐
松永謀反の鎮圧
丹波攻め
特筆するとしたらこんなところじゃないか
その中でほぼ光秀単独でやったのは丹波攻めくらいじゃないか? 比叡山焼き討ちは中心なり最も活躍したのは光秀らしいが、 それ以外ではわざわざ特筆する必要があるようなことを光秀が何かした?
>>37 最期が最期だから事績があまり残ってないんじゃ?
特筆する活躍が無ければ、勝家、秀吉と並ぶ家臣筆頭にはならないだろうし。
>>38 俺もそう思うな
天下をとった秀吉が柴田にせよ光秀にせよ、こんな素晴らしい業績を残した武将です、
とは残さないだろう。
そういう意味で
>>31 の言うとおり、特筆すべき業績が残ってないのもしょうがないのかも。
40 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/15(土) 16:54:54
織田厨のクズばかりだな、このスレは…。 おまいら全員氏ね!氏ね!氏ね!
明智光秀の坂本城築城や馬揃えの奉行は特筆すべき功績でしょ 武功のみが功績じゃないよ
光秀は合戦よりも謀略に長けてたと思いますネ
>>38 それだと、柴田だって最期が最期だから事績があまり残っていないとは言えないか?
柴田勝家は、父親の名前もわからない下層から実力でのしあがった人物であり、その
意味では代々の家来というわけでもない。さらに言えば初期には信長と敵対していた
存在でもある。
そんな立場から、それこそ尾張の大族で信長を一度も裏切らなかった佐久間と並んで
重臣にまで抜擢されたのだから実力はおして知るべし。
柴田は尾張統一戦・美濃攻略や上洛戦・近畿統一戦に参加している。 別に天下を取った秀吉と敵対したからって実績が消されるなんて言うことはないだろう。 残ったら残ったで「こんなにすごい相手に勝った秀吉は凄い」とも宣伝できるし。 単に記録に残るような派手な功績が少なかっただけ。
>>45 >残ったら残ったで「こんなにすごい相手に勝った秀吉は凄い」とも宣伝できるし。
残念ながらあまり滅ぼした相手を褒め称えると「こんな良い人を滅ぼした秀吉は酷い」
となってしまう。
だから日本じゃ、官軍(天皇・朝廷)に歯向かった奴や時の権力者に逆らった連中は
史書にはあまり良くは書かれない、残念ながら。
>だから日本じゃ、官軍(天皇・朝廷)に歯向かった奴や時の権力者に逆らった連中は >史書にはあまり良くは書かれない、残念ながら。 それって鎌倉以前の大昔か、明治維新後から戦後の話じゃないか?
いやいつの時代でも一緒じゃないか? 大体、俺達が知ってる歴史なん出典が怪しいものばかりだしな。 例えば瓶割り柴田だって後世の歴史家の検証では嘘扱いだろ? というかスマソ、このスレの住人は史書って何を指してるんだ? 信長公記、甲陽軍監のような真偽がかなり曖昧な物とかじゃないよね?
逆に言えば「瓶割り柴田」と言う勝家を持ち上げる嘘の逸話が残っているくらいだから、 良く書かれないように改ざんされていないといえるんじゃないか?
光秀にせよ、勝家にせよ、人柄については結構残ってるらしいんだよね 出典はわからないけどさ。 例えば光秀と照子の件とか勝家と利家とかね。 けど業績に関してはどうなんだろう? 光秀や勝家がやった事も秀吉がやった事にされたかもしれないし、 逆に本当に秀吉に比べて光秀や勝家にはあまり業績が無かったか (特に後半生) ただ、あの信長が軍団長に抜擢する程の連中が本当に大した業績が ない、とは思えないのだが・・・(特に軍事面で)
光秀は丹羽・滝川・羽柴・柴田と違って方面軍ではなく、 せいぜい丹波一国を攻めているだけだから元々4将と同格じゃない。 柴田は勝ち方が派手な勝ち方ではないから記録に残らないだけで 実際は数多くの戦に参加してそれなりの功績を数多く積み上げたんだろう。
佐久間追放後は、勝家、秀吉、光秀が上で >滝川>丹羽なんだが
というか、柴田は信長のもとで文字通り副将格として働いている。 いい例が最後の長島攻撃で、この時信長は軍を三手に分けているが、その内訳は 信長本体と嫡男信忠の部隊、それに柴田・佐久間の部隊と。この戦いは畿内の光秀、 北近江の秀吉、対武田の川尻・池田以外のほとんどの将が動員された戦いであり、 それらの武将は柴田・佐久間の下につけられたわけだ。
せいぜい丹波一国とは、はて。 近江坂本といい、丹波亀山といい、 京都を挟む両翼のような枢要の地じゃないか。 与力とした連中も丹後や大和、 織田家の支配領域の中で政治的に重要な地域を任されていた点で、 他の軍団長よりむしろひとつ格上に見えるんだが
その「むしろ格上にみえる」光秀が 信長の最晩期において格下秀吉の下に付けられそうになったのか そうかそうか、へえ
だから、勝家、秀吉、光秀が筆頭でしょ 秀吉の下に付けられそうになったワケでもないし。
もともと光秀って各地の戦線に援軍として派遣されている部隊。それは丹波以前も 以後もかわらない。 さらに言えば天正十年の中国派遣は総司令官たる信長の出陣に従ってのもの、この 点で秀吉の下につけられるとは到底いえない。
58 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/16(日) 01:33:54
どうも光秀を貶めたいヤツがいるのかな?
>>38-39 そうかもしれないが、
だとすると、
>>31 が秀吉と光秀だけを「織田軍きっての猛将」として挙げ、
柴田の武勇については疑問を投げかけ、
特筆するような戦いが少ないと言ったことの根拠がなくなってしまうのよ。
もともと、そのことに対しての突っ込みなのだから、
本来なら、柴田には特筆するような活躍は少ないが、
明智には多いということを証明しなければならないと。
まあ、もっとも勢いで言っただけで明白な根拠はないだろうけどね。
60 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/16(日) 01:39:05
その辺の三人は、個性は違えど 相応の勇猛な将帥ってことになると思うのだが。
織田家中で最初の城持ちだしね。 そこまで優遇した光秀に討ち取られるなんて信長テラワロスw
62 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/16(日) 01:40:35
それは信長評なだけじゃん? 周りからみたら光秀なんて新参者じゃん
新参者であることは 何か能力を評価する根拠にでもなるのかい? 仮にその引き立てが ワンマン社長(信長)のえこひいきだろうとも、 その後結果を出し続けたから、その地位を保ったし、 その後の栄達もありえたのではないかと
>>62 勝家、光秀、秀吉は、我等が山県、高坂、馬場、(内藤)に匹敵する将才だろ
滝川、丹羽が次点
>>64 それは内藤の軍才が一段劣るって言う含みかな?
>>65 軍鑑の感じだと
機略はあるけど、将帥よりも部隊長役を任される記述が多いなぁと
武田家 甲斐、信濃、西上野(45/100)、駿河、飛騨(50/100) 越中(10/100)、よくわからないが学研の本を参考に 遠江(40/100)、侵攻2ヶ月で南部五郡の一部以外はほぼ占拠 三河(15/100)、設楽他、加茂八名額田の一部 美濃(5/100)、岩村開城と共に恵那、土岐の大半を支配下へ 織田家 尾張、美濃(95/100)、伊勢(60/100) 近江(45/100)、湖南平野部、高島は朽木街道の約9000石 朝倉家 越前、加賀(25/100)江沼、能美西部 若狭?朝倉方国人衆も多かったが信長が侵攻したこともあり不明 当主は暗愚 徳川家 遠江(50/100)、三河(80/100)、基本死に掛け 浅井家 伊香郡、浅井郡3/4、虎御前山以南を除く 高島郡4/5、朽木領を除く 六角 甲賀郡、神崎、愛知、蒲生郡の半ば、栗田郡の一部 信長と和睦中、信玄死去後即死。アホ 長島一向宗20000人 大阪本願寺、将軍は近江で悪巧み 情勢:織田42000、徳川10000 武田32000、朝倉16500、浅井3500、長島20000、大阪と将軍??、三好系(オマケ)
>>60 多分関東を任された滝川等も含めてね。
まあ、彼の場合はその後の敗戦で評価を下げたかも知れないが。
ところが、その中で秀吉と光秀だけ別格みたいな書き込みがあったから、
なんでそうなるのかと、突っ込まれたわけだ。
柴田は他の二名に比べて、政治力や謀略に一枚劣るイメージがあるからかな? 実際には行政面などはなかなか優れた一面もあったらしいけどね
>>69 それならまだ話は分かるが、
>>31 は猛将って言ってるからなあ。
まあ、多分深く考えずに書き込んでしまっただけだと思うけどね。
31を読み返したが、 柴田を猛将と呼んでるようには見えないぞ むしろ猛将と呼ぶに値しないのでは?という疑問に見える まぁ、あまり同意できない意見なのは確かだが
>>71 そのとおり。
秀吉・光秀は「織田軍きっての猛将」だが、
柴田はそうではないと言っているから。
それに対して、おかしくないか?と言われている。
>>70 の書き込みは、
>>69 のような意味合いで秀吉・光秀と柴田を分けるなら、
少なくともイメージとしてはまだ理解できるが、
>>31 は猛将という言い方で柴田を一段下にみているから、
なおさら理解できないと、そういう主旨です。
>>37 だとしたら柴田は何がある?
清洲との決戦と甕割った時も単独とは言い切れないぞ、
もっとも丹波攻めも単独では無かったが。
取りあえず織田軍きっての猛将と言うのであれば
秀吉や光秀のような特筆すべき戦いを挙げてもらわないと
実際のところ柴田は佐久間と同程度の武将じゃないの
別に佐久間が劣っている武将とは思っていない戦績を見れば十分活躍してる武将だと思っている
少なくとも何をしたのか微妙な武田の武将達よりは上だと思っているが織田家内で言えば1.2を
争う武将では無いと思っている。
>>62 信長評だと佐久間への叱責で光秀がトップで次に秀吉が来てるな。
まあこれは軍功の比較だから政治力とかも加味されてるだろうけど。
>>74 柴田がトップじゃないというなら分るな。柴田は順調に武功を重ねて
いったけど、これはというような戦いやエピソードが秀吉光秀と比べ
ると少ない気がする、残ってないだけかもしれんがw
特筆すべき戦いというのが相手に致命傷を与えたような戦いや少数
で多数を破ったような戦いを言うのであれば秀吉は浅井戦で浅井が
鎌刃攻めたときとか砦の築地を破壊しようとしたときとか越前一向一
揆の先陣を務めたり、金ヶ崎の退き戦とかあるし。
あといちいち武田と比較する必要はないんじゃ、変な連中に噛み付
かれるぞ。というか既に噛み付かれてるか。
テンプレ見ると無理じゃないか上洛は
>>76 18へのレスにも成るが、
対北条戦が無ければ可能性は十分にあった。
それは言い過ぎだとしても、天正元年の上洛戦よりは可能性が高かった。
駿河一国の代償は後継者云々以上に、金よりも貴重な時間を信玄から奪っていった。
信玄が生きていたらと言うならともかく、 過去にさかのぼってこうだったら上洛できていた言っても仕方がないだろう。
確かに結果論だけどね。 しかし可能性、ということならそっちの方が格段に勝る。 しかし信玄が生きていたら・・・というifと、 北条戦が無ければ・・・というif、どっちもどっちだと思うぞ、所詮if。
生きていたら上洛できるかというのは、 死にさえしなかったら信玄の能力があれば上洛できるだろうとifできる。 しかし、過去の事跡を変えると言う事は能力を変えるという事じゃないかな? 信玄の情報収集力・分析力・決断力で北条戦がおこったんだから。 北条戦がなかったらと言うifは「信玄の能力がもっと高かったら」ということになる。 能力がもっと高かったらなんて言うのは、もう別人でしょう。 信玄じゃない。
>>75 秀吉の鎌刃防衛を評価するのなら、野洲川合戦(瓶割りのエピソードのもとになった)も
評価できると思うが。
この合戦は記録と詳細にかけるが甲賀から北上してきた六角軍七、八千ほど(以後兵力は
推定)に対して、柴田と佐久間の両軍三、四千が迎撃。野戦の正面激突で二倍の六角軍を
打ち破って戦死者数七百八十という大勝。
>>74 >>31 が挙げているのに加えて、
越前の一色支配を任され、加賀・能登・越中を制したのは大きな功績じゃあないかい?
無論寄騎の武将等とともに行ったと言うことになるが、
それを言うなら光秀の丹波攻めも同様。
>>74 というか、光秀の特筆すべき戦いってのがまだ満足に上がっていないように思うが?
この柴田論って
>>26 からの流れだろ
で戦績などから考えると
1・2が秀吉光秀でその次が柴田滝川佐久間らといったところだろ
>>82 加賀の半分は秀吉光秀の功績でしょ
>>75 あと秀吉は中国戦線でも結構不利な状況で戦ってないか
盛り上がってるのに、織田厨と武田厨の対立を煽りたがる変な織田厨が居るな‥
>>75 松平記にある長篠直後の信長評だと、勝家、光秀、佐久間、滝川、丹羽の順みたいね
秀吉抜けてるのが意味不明だけど。
>>83 >>36 で既に挙がってないか?
ただ寡で衆を討つといえる戦いはあまりあがってないな
最初の御所防衛はあまり光秀の能力と関係無いしw
丹波攻めと金ヶ崎ぐらいか?
>>86 金ヶ崎で光秀がそれほどの功績を挙げましたかね?
比叡山も越前一向一揆も松永も他の主力級と一緒にやったことで、
特別「光秀の」功績ともいえないと思うし。
>>85 その時期はあまり秀吉があまり武功をあげてない時期だからかもね
74年から75年にかけて
柴田は南近江で六角・伊勢長島・三河長篠
明智は北山城に大和丹波
佐久間は南近江北伊勢大和摂津河内和泉・長篠
滝川は北伊勢に長篠
丹羽も長島と長篠に参加してる
って感じだからではないだろうか、
それに対し秀吉は敦賀を固めたことと長島以外には樋口を殺したぐらい?
>>87 越前一向一揆は『公記』の記述を信じるなら秀吉と光秀はかなりの功績を
あげてるように感じるが、他の武将は掃討戦をやったみたいな感じで。
漏れは松永は知らんが
>>84 加賀には光秀も秀吉も関わっていないぞ。
越前ならわかるが。
松永攻めはあれじゃない 片岡だかどっかの城を攻めたとき光秀が自ら敵の武将を討ち取ったという話、信憑性は無いが
>>91 加賀の半分は正しくは稲葉一鉄父子・明智光秀・羽柴秀吉・細川藤孝・簗田広正らの武将による
加賀攻めで主として働いたのが誰かまでは分らんが・・・
あと信長が越前から帰還するとき西加賀に押し寄せて一揆勢を打ち破ったのは秀吉と光秀だったと思う。
また戦後信長は簗田広正らに加賀半分を治めさせる
後で更迭されたけど
94 :
93 :2005/10/16(日) 14:53:58
>>93 >あと信長が越前から帰還するとき西加賀に押し寄せて一揆勢を打ち破ったのは秀吉と光秀だったと思う。
『押し寄せて』じゃなくて
『押し寄せてきた』だ
あと光秀は加賀攻めた後、そのまま丹後に派遣されてるからこの一揆を破ったのは秀吉だけかも
>>88 柴田と丹羽も75年の河内攻めに参加してるぞ
松永謀反の件がでたので言うが 丹羽って手取り川で上杉に負けたはずなのに数週間後には松永攻めに参加してるんだよな あと羽柴も謹慎食らったはずなのにこの時にはもう許されたのか松永攻めに名前が載ったり してる。
数週間もあれば、人間色々出来るさ
手取り川なんて一部の殿がちょっと被害受けただけのようなものだろ 丹羽勢にはあんま影響なかったんだよ。
>>98 上杉勢に直接討ち取られたのはそうかもしれんが
だいぶ溺れ死んだらしよ
>>89 正しくその通り。
どれも同じような感じなのに、秀吉・光秀を上にして、
柴田を一段下にする理由がわからないということ。
まだしも、秀吉はその後天下を取ったという圧倒的な実績があるから、
感覚的には理解できるのだけど、
「猛将」かどうかという分け方で光秀を柴田より上に見る感覚が全くわからない。
まあ三者の戦績あげていけばある程度分るかな ただ猛将というからには調略や政治力で敵を倒したではなく戦場での活躍で比較すべきか また大部隊を指揮してとか大軍で相手を圧倒したとかでの勝利もあまり猛将といったイメー ジを受けない。 個人的には信長みたいに自分から突撃して勝つような武将とか前線で指揮するような武将 が猛将というイメージに相応しい気もするが 単純に戦績比較すれば光秀は詳しく知らないから何とも言えないが秀吉は勝家を上回りそう。
結局駿河に進攻したあたりが武田信玄の限界だったんじゃないか? 駿河に進攻せず、三国同盟を堅持し、美濃に進出していたら・・・ 歴史は全く変わっていたと思う。
>>102 甲斐・信濃(と上野の一部)だけの国力で織田・徳川に喧嘩を売ると?
信玄の評価は大きく落ちて歴史は大きく変わるか
何とか後北条と話を付けて、駿河併呑(河東は後北条領?)。 その状態で、浅井・朝倉が活発な時期に上洛を強行できれば、或いは・・・。 正直、73年は情勢が悪すぎる。
71年の志賀の陣で身動きがとれなかった時期に美濃に攻め込むことが出来ていたら、 歴史は変わっただろうね。
信玄の生前の事跡は信玄の能力の結果。 信玄の生前の事跡の否定は信玄の能力の否定。 信玄の生前にさかのぼって、こうしていたら上洛できたと言うのは 信玄の能力では上洛できないと言うことに他ならない。
>>103 はっきり言ってその方が勝算ありだろう?
だって1560年代、信長の力はどの程度か知ってるか?
家康の力はどの程度だったか知ってるか?
1560年代に信長が尾張、美濃、近江、伊勢を抑えてたわけじゃないぞ。
龍興が当主やってた斉藤家の守る美濃なら甲斐・信濃(と上野の一部)だけの国力で
充分だったんじゃないでしょうかね?
まして徳川の牽制に今川家も期待できたはずだし、上杉家の牽制に北条家も期待できたと
思うのですが・・・。
>>106 そう言っているのだが。
はっきり言えば、仮に信玄が10年生きていたとしても無理。
信長の地盤がどんどん固まっていく一方なので上洛の可能性はしぼんでいく一方。
73年、いや71年の段階ですら単独で挑むのはきついのに、
対抗勢力(信玄にとっては協力者)は駆逐されていく一方で国力差は加速度的に離れていく。
信玄は確かに優れた戦略家、しかしだからこそ圧倒的な兵力差を覆すのは難しい。
一番可能性があったとしたらの話だ。
仮に生きていたという話自体、所詮妄想にすぎん。結果は覆らない。
それをあえて・・・、と言ってるんだからそこを指摘するのは無粋ってものだ。
>>108 まあ、またこんなこというとあれなんだが
信玄が生きてると仮定したうえで信長の勢力伸張が史実どおりとはこれいかに?
寿命が延びてるなら上洛戦!?は続くわけだし、代替わりのゴタゴタもないので
武田の停滞もないわけで当然その間に行われた浅井朝倉滅亡もなくなる可能性も
出てくるし(単独でのジリ貧は変わらんが)。
だからこそ信玄が生きてれば!!ってIFは盛り上がるんじゃないか。
信玄が十年長く生きていたら天下がとれた、と言うのは、 政宗が十年早く生まれていたら天下がとれた、と言ってるのと 同じくらい眉唾ものだと思うけどなー 信玄が十年長く生きた上に謙信と北条家と毛利家と手を組み、 しかも一斉に軍を動かして、東海道から武田軍、北陸道から上杉軍、 山陰山陽道から毛利軍、と三軍が全力で進軍したとしても、畿内をほぼ全て抑えた 織田徳川軍に勝てるかどうか・・・。
>>108 しかしそうなるともはや
「生きていれば上洛できるか」ではなく
「どれだけ優遇すれば上洛できるか」になるのじゃないか?
進言が生きてれば少なくとも決戦はないな 武田は主力を温存しつつも徐々に勢力を削がれて行く。美濃や浅井でやったように 信長は情報戦に転じ武田の配下を牒略して、じわじわと追い詰め 滅亡が長引くだけだろwww
>>111 寿命を延ばした時点でもの凄い優遇策ではないか?
ま、109の言うとおり史実通り進むとは限らないのは同意だが、
112の言うとおり焼け石に水だと思うが。
114 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 04:26:57
勝頼は愚将か?
115 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 04:42:43
武田家ゎ一番好きだけど愚将だと思う。
結局生前にさかのぼって事跡を変えても問題ないだろうと言っているのは、 余裕綽々の織田厨のみか? 生前にさかのぼる必要は無い、こうやったら上洛できると言う武田厨の剛の者は現れないか?
117 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 08:42:12
>>116 オレもワリと信玄厨だけど仮に上洛しても天下統一も難しいことに
気が付いた。
どうしたら上手くいくもんかね?
>>116 近畿と東海で大規模な地震が起こればあるいは可能
天災頼みですわ
その地震が甲信に影響与えなければの話だがな・・・
どの辺が煽りのか・・・。
>>107 謙信を甘く見すぎ。
というか、60年代って信玄も上野攻めで忙しかったし。
もっともこの時期に武田が織田・斉藤の抗争に絡む目もなかったわけじゃあない。
実際に1565年には東美濃で織田軍と武田軍が対峙しているし。
この時は信長は武田と事を構えたくなく、信玄も上野で忙しかったので、
さっさと同盟を結び兵を引いている。
しかし、この同盟は今川家との関係にひびを入れることになり、
三国同盟の結束をほころばせる事になった。
個人的にはこの時点で織田と事を構えるのを避けるにしても、
何も同盟まで結ぶ必要はなかったのではないかと思う。
恐らくこの頃から信玄は今川攻めを考えていたのではないかと思うが、
それが良かったどうかは、その後の展開を見るに確かに微妙ですね。
122 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 11:44:23
さすがの信玄もあそこまで信長が急激に進捗するとは思わなかったんだろう
>>122 それが信玄さんの限界ってとこだな。
あの時点で将来、あそこまで急激に伸びる事を確信していたのは、
恐らく信長だけかと。家康ですら予想してなかったと思う。
煽りは、討ち取りスレでやってくれ給えよ
煽りじゃなくマジだろう だって歴史は確かに信玄さんがそれを予想できなかった事を証明してるしな。 信長のプレゼント攻勢の前に信長の人となりを見誤ったのは事実。 斉藤道三のように信長の才能を見破っていれば、おそらく対応が全く違ってたと思うのだが・・・。
煽り屋さんは自分のことを3人称表現するみたいですな
127 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 19:00:37
>>125 言われみれば斉藤道三は見破ったんだよな。
凄いよな。
でも仮に見破ったとしても、あのときの情勢ではどうしようも
なかったと思うが。
暗殺か?
朝倉宗滴も信長には注目していたそうですね。
129 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 19:57:21
>>128 聞いた事はあるんだが、宗滴って義元より早く死んでない?
なんで注目したんだろうね。
そういやそうだ。道三は直接会って見抜いた。 しかし朝倉宗滴って信長との接触は直接にも間接にもなく、せいぜい伝聞で 知った程度だろう。よくまあ見抜いたもんだ。
>>129 宗滴は桶狭間の5年前には死んでるね。だから当然それ以前の話なのだろうけど、
宗滴の言行を記した「朝倉宗滴話記」に、
「今すぐ死んでも惜しくはないが、ただ、後3年は生きて、
織田上総介の行末をもう少しだけ見てみたい。」
というような主旨のことが書いてあるそうだ。
朝倉氏は美濃の斉藤と対立していたから、
その敵対者で後に同盟者になった織田信秀には当然注目していただろうし、
その跡取りのことも当然調べていただろう。
その中で、わざわざ特筆するほどの何かを感ずるところがあったのではあるまいか。
まあ、行く末を見てみたいと言っただけで、 別に天下を取るとか大勢力になるとか言ったわけではないので、 場合によっては珍妙な行動が多い変な奴ってことで注目していただけのかも知れないがね。 しかし、普通そんなことをわざわざ書き残したり、 まして長生きしてでも見てみたいなどとも言わないだろうから、 何らかの可能性を見出してはいたのでしょうね。
朝倉家と言ったら釜茹
見抜いた宗滴が凄いのか だまされた信玄がだめなのか 信玄もだました信長がすごかったのか
135 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/17(月) 20:21:33
道三も宗滴も年いってたしね。 信玄はまだまだ若かったし見抜けなくても仕方ない。
自分の次の時代の人物、自分がいなくなった後に本領を発揮するだろう人物としてみるか、 年はそれなりに離れていようとも同世代あるいは同時代の人物と思ってみるかでは、 客観性に違いが出るだろうからね。 嘘か本当か知らないが、 劉備は馬謖は使えねーと見抜いていたそうだが、 孔明は見抜けなかったし。
宗滴は注目はしていたが信長の力量は見抜いてはいなかったと思う。 いち早く見抜いたのは道三。また見抜かれた信長も道三の力量を認めていた。 その信長が恐れていたのだから信玄もまた相当な者だったんだろう。
信玄は信長より家康に注目していた
ワサワサと信玄信者が沸いてきました 黙って聞いていられないようで 信玄スレだし仕方ないんちゃないんだがねえ 粋じゃないねー
信玄が信長の真の実力に気付いたのはいつだろう? やっぱ信長が上洛して初めて、ってとこだろうか? だとするなら、やはり戦国の巨魁にしては少し遅すぎた感が… で、結局武田家は織田家に滅ぼされるわけか…
桶狭間だろう。
最後まで気付いてない
信玄亡き後の謙信と信長の行動を見れば実はどちらが武田家を滅ぼす存在だったか、 結局気付けなかった信玄の迂闊さが武田家滅亡を招いたと言える。
内政力と戦術は信玄>信長なんだろうが、只一つ戦略に関しては、 信長>信玄なんだろう。 その結果信長は天下統一に大手をかけ、信玄は結局甲斐信濃駿河を支配する 地方軍閥で終わってしまったと。
迂闊さは信長の圧勝ですね
是非もなし・・・
>>144 内政力ったって、グランドデザイン的な政治については信長の圧勝だと思うが
信長厨の皆様で談義のところすまんが 信長公記には信玄は信長を評価してる記述あるよ
武田厨の皆様。上洛策はまだですか? 信玄の上洛レスですので武田厨の皆様に上洛策を掲げていただかないと 織田厨としては雑談するしかないのです。 まさか織田厨の方から 「こうやったら上洛できそうですよ。ちょっと考えてみては?」 と上洛策を提示してあげるわけにも行きませんし、こまったものですね。 と煽ってみる。 って言うかマジで上洛スレってもう終了で良いんじゃないか?
>>150 信玄の寿命が、2年延びればいいじゃないかな
って言うか、マジで、上洛スレだからって、ムリクリ煽らんでも、いいよ
(上洛策云々の前にテンプレ治してねw)
さぁみんな151が華麗な上洛策を披露してくれるぞ! 自信満々みたいだから織田厨がぐぅの音も出ない凄い策なんだろうな。 みんな楽しみだね!
153 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/18(火) 11:23:00
>>152 なんつうか・・
自分で書き込んでみてどう思う?
軍鑑にも、桶狭間前の評で、義元も侮れる相手じゃないとかあるね(あるよね?) あと付けかな?とも思うけど。
桶狭間後なら誰でも言えそうだしな。 上洛後だと痛すぎる
同盟結んだ時じゃないの? リップサービスだろうけどw
>>153 スレ違いの話しかせず、スレタイの話をしろと言っても出来ないスレなど不要と思ってるけど?
>>158 じゃあ、まず古臭くなったテンプレを改修したらどうだ?
あのまま放置してテンプレテンプレ連呼されると、アホらしくて口論する気になれんw
>>154 少なくとも信長は清洲に居城とあるので桶狭間の前後のことかな、
時期が書いてないから正確なことは言えないけど。
>>159 あなたはテンプレに対してトラウマでもあるのですか?
テンプレが間違っているならここが間違っていると指摘してみればどうです?
信玄の寿命が2年延びれば上洛できると言いながら、上洛の方法を言わず。
テンプレを修正しろ、修正しないと話せないと言いながら、テンプレの間違っている箇所を指摘しない。
あなたは何がしたいのですか?
ぶっちゃけ、もう無理でFAでてる感じなんだよね 暗殺辛い、謀反辛い、撃破ですらかなり厳しいって感じだからな
>>162 いやifで良いのならいくらでも話ができるぞw
例えば1578年、武田信玄はまだ死んでなかった。
上杉、北条、毛利、三好、本願寺と同盟。
三好が阿波讃岐から堺、さらに京へ。
上杉が北陸道を西進、一路京都へ。
毛利が山陽道を東進、一路京都へ。
本願寺が石山御坊で篭城して織田本軍をひきつけつつ、紀伊から北進、
一路京都へ。
で、武田軍は同盟軍の北条家と共に東海道を西進、一路京都へ。
途中武田軍の猛攻のさなか徳川信康が徳川家を奪取。
武田、北条、徳川連合軍として尾張になだれ込む。
さらにこの動きに呼応して、明智光秀が丹波で独立。
丹波から一路京都へと向かう。
こうして五路、じゃなくて六路から攻めかかればいかに織田軍とはいえ、
さすがに無理だろう。
ともう絶対ありえない展開なら上洛も可能だと思うのだがw
ま、こんな事ならいくらでも書けるかw
>>162 もうスレタイの上洛できるかはどうでも良くて、
スレの存続が目的になってるよね。
役人の仕事みたいだ。
165 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 00:30:53
>>163 三好はもう一つに纏まり得ない上、長曾我部に圧迫され始めるのがこの年。
上杉は謙信が3月に死去、以後御館の乱。雪解け前なので出発出来る頃には死んでる。
後北条は反北条との戦いに明け暮れ、即座の景虎支援すらできない状況なので本格的な西上は無理。
毛利は元就の遺言故、防衛戦以上はしたがらない傾向にある、両川も健在なのでこの傾向が顕著。
天正六年当時は光秀の丹波制圧は未完。
紀伊は統一された指揮系統が無いので遠征はシビア。
徳川に関しては希望的観測が強すぎるので論ずるまでもない。
正直上洛出来そうなのは羽柴勢と播磨で争ってる毛利くらい。
ええと、六路でしたっけ?
167 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 02:29:11
北条は景虎支援が出来なかったのではなく しなかったのだと思う。 だって上杉家に関わって信長とイザコザ起こすと 事が大きくなって面倒だし。 支援したかったんだけどなかなか出来なかったというだけなら 氏邦と氏照がやる気なさ過ぎる。
>>166 >>163 で言っているのはこれくらい馬鹿げたifをしないと上洛できないから、
信玄には上洛は不可能って言うことだろう。
そんな事は無い。 もう少しだけ寿命が延びたする。1〜2年。 その後、徳川を滅ぼすか臣従されるかする。 信長はその間畿内を奔走。浅井・六角・足利を滅ぼす。 (朝倉は除く:理由、信玄が徳川を滅ぼす期間内で越前の奥地まで行って帰ってくる時間はないだろう。 その後、尾張国境・あるいは尾張中部あたりで信玄VS信長の総力戦。 ここで信玄が勝つ。 上洛はマジカ
>その後、徳川を滅ぼすか臣従されるかする。 詳しく。
>>170 徳川を滅ぼすには
武田家
甲斐、信濃、西上野(45/100)、駿河、飛騨(50/100)
越中(8/100)、新川の南東部
遠江(40/100)、侵攻2ヶ月で南部五郡の一部以外はほぼ占拠
三河(15/100)、設楽他、加茂八名額田の一部
美濃(5/100)、岩村開城と共に恵那、土岐の大半を支配下へ
織田家
尾張、美濃(95/100)、伊勢(60/100)
近江(45/100)、湖南平野部、高島は朽木街道の約9000石
朝倉家
越前、加賀(25/100)江沼、能美西部
若狭?朝倉方国人衆も多かったが信長が侵攻したこともあり不明
当主は暗愚
徳川家
遠江(50/100)、三河(80/100)、基本死に掛け
浅井家
伊香郡、浅井郡3/4、虎御前山以南を除く
高島郡4/5、朽木領を除く
六角
甲賀郡、神崎、愛知、蒲生郡の半ば、栗田郡の一部
信長と和睦中、信玄死去後即死。バカ
長島に一向宗徒20000人 大阪本願寺、将軍は近江で悪巧み
情勢:織田42000、徳川10000
武田32000、朝倉16500、浅井3500、長島20000、大阪と将軍??、三好系(オマケ)
172 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 12:29:02
なんか・・・ 微妙に変わってるよなw
173 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 12:54:41
一時的に占領した土地の石高を加算してもよいものだろうか・・ 統治ではなくただの占領だろ?
山家衆他色々寝返ってるから、問題無いでしょ。
175 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 13:30:10
ろくに方法も説明せずに滅ぼす・信玄が勝つって馬鹿か? 家康を滅ぼすにはとかいってるが説明になってないしよ。
176 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 13:32:00
>>175 鼻息荒くスンナやw
概要を書いたまでだろ?
後は皆で考えろや
な?
毛利のVS尼子+大友と、謙信のVS武田、北条等をみると 死去しなければ、信長方の苦戦は明らかだと思うね。
謙信vs武田・北条の場合、
追い詰められてるのは謙信の方ですが。
氏康存命中は堅実な巻き返しにあい、氏政の代になってからは主導権を完全に握られ終始劣勢。
特に関東諸将に不信を抱かれたのと、
一国に値すると言われた関宿救援を完全に失敗したのはでかい。
信長の史実以上の苦戦は明らかだが、
主導権を最期まで握り続けるのも史実通り信長だろう。
>>171 寝返り組の分を加算はともかく、
新規に切り取った分をいきなり動員力に組み込むのは如何な物か。
あと、変えるなら反証してからよろ。
>>178 武田が上野へ進出してから数年で、沼田を残して駆逐されたけど。
あと、イチャモンつけるなら反証よろしく
西上野へ本格侵攻を開始したのが1557年、仇敵長野氏を滅ぼしたのが1566年。 足かけ10年、残念ながらとても数年とは言い難い。 まあ178の書き方にも問題はあるんだが、武田・北条がそれぞれ独力で駆逐した訳ではなし。 177で謙信が居たから武田・北条が苦戦したと言っていたので、 苦戦させるだけではしょうがないだろ、と書きたかったわけだ。 謙信なら関東を、武田なら上洛しなきゃ。 ん?それとも177は織田を苦戦させるのが精一杯という意味だったのかな。 あと171の反証をしろとあらば、過去スレを読めということになる。 それに対しての反証をしてくれ、と言ったのだが。
改修するならするでいいんじゃない。 ただ好き勝手にという訳にはいかないだけで。
>>180 西上野の本格侵攻は川中島の後じゃない?
それに業政が死んだ後、割とすぐ箕輪が落城したから
足かけ10年は大袈裟すぎると思うけど。
>>183 1557年は信玄自らではないが、
義信を総大将に飫富兄弟・内藤昌富・馬場信房ら13000で碓氷峠を越えて箕輪城へ侵攻している。
また1559年に信玄自ら12000で西上野侵攻。
第四次川中島はこの後。
>>181 なぜ自分の言い分が正しいのかを説明していないんだから、反論食らうのは当たり前だろうね。
と言うより説明もせずに意見が受け入れられると考えるほうが基地なのだが。
あのニセテンプレって、その都度反論否定されたものばかりじゃないか。
187 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 20:07:19
最終的に信濃から上杉を駆逐したけど時間かかりすぎだよな。
尾張 天保郡別 愛知郡 :8.98万石 春日井郡:13.17万石 丹羽郡 :6.96万石 葉栗郡 :7.39万石 中島郡 :8.22万石 海東郡 :8.88万石 海西郡 :2.88万石 知多郡 :7.11万石 総計 :63.59万石 戦国推定 愛知郡 :8.1万石 春日井郡:11.9万石 丹羽郡 :6.3万石 葉栗郡 :6.7万石 中島郡 :7.4万石 海東郡 :8.0万石 海西郡 :2.6万石 知多郡 :6.4万石 総計 :57.2万石
上野 甘楽 6.7万石 5.2万石 禄野 3.1万石 2.4万石 多古 1.3万石 1.0万石 片岡 0.4万石 0.3万石 碓氷 4.1万石 3.2万石 吾妻 2.6万石 2.0万石 利根 3.1万石 2.4万石 勢多 7.7万石 6.0万石 群馬 12.1万石 9.3万石 那波 2.6万石 2.0万石 佐位 2.1万石 1.6万石 山田 3.7万石 2.8万石 新田 6.7万石 5.2万石 邑楽 8.1万石 6.3万石端数 計 64.3万石 計49.6万石 0.77
遠江 引佐 7.7万石 4.3万石 浜名 0.12万石 0.07万石 敷智 5.0万石 2.8万石 ?? 0.25万石 0.14万石 長上 3.1万石 1.7万石 豊田 6.4万石 3.6万石 磐田 0.14万石 0.08万石 周智 2.7万石 1.5万石 山名 4.0万石 2.3万石 佐野 2.9万石 1.6万石 城東 6.9万石 3.9万石 榛原 6.0万石 3.4万石 計 45.21万石 25.5万石 0.564 三河 屋美 6.7万石 3.6万石 八名 8.7万石 4.6万石 設楽 3.0万石 1.6万石 宝飯 6.7万石 3.6万石 播豆 7.0万石 3.7万石 碧海 9.7万石 5.1万石 賀茂 6.7万石 3.6万石 額田 6.2万石 3.3万石 計 54.7万石 29万石 0.53
近江 坂田 9.2万石 8.4万石 浅井 7.7万石 7.0万石 伊香 3.6万石 3.3万石 高島 7.4万石 6.7万石 滋賀 4.6万石 4.2万石 栗田 6.8万石 6.2万石 野州 6.7万石 6.1万石 甲賀 7.8万石 7.1万石 蒲生 14万石 12.7万石 神崎 4.8万石 4.4万石 愛知 6.4万石 5.8万石 犬神 6.1万石 5.6万石 計 85.1万石 77.5万石 0.91
伊勢 度会 5.5万石 4.3万石 多気 4.8万石 3.7万石 飯野 2.7万石 2.1万石 飯高 6.1万石 4.8万石 一志 10.9万石 8.5万石 安濃 6.2万石 4.8万石 庵芸 4.8万石 3.7万石 河曲 3.4万石 2.7万石 鈴鹿 6.7万石 5.2万石 三重 6.7万石 5.2万石 朝明 3.3万石 2.6万石 員弁 5.0万石 3.9万石 桑名 6.6万石 5.1万石 計 72.7万石 56.7万石 0.78
美濃 不破 4.03万石 2.9万石 多岐 3.57万石 2.6万石 石津 2.86万石 2.1万石 安八 9.37万石 6.8万石 池田 2.40万石 1.8万石 大野 5.35万石 3.9万石 本巣 4.01万石 2.9万石 席田 0.57万石 0.4万石 方県 3.56万石 2.6万石 厚美 4.16万石 3.0万石 山県 2.63万石 1.9万石 武儀 3.41万石 2.5万石 郡上 3.13万石 2.3万石 加茂 4.57万石 3.3万石 恵那 4.03万石 2.9万石 土岐 2.15万石 1.6万石 可児 3.25万石 2.4万石 各務 2.03万石 1.5万石 羽栗 2.17万石 1.6万石 中島 3.45万石 2.5万石 海西 3.17万石 2.5万石 端数 計 69.97万石 54万石 073 計算上は54を73.87万石で(例のごとくまた数え間違えたようだ)誰か修正してくれ
信濃 佐久 9.67万石 5.1万石 諏訪 4.46万石 2.4万石 伊那 13.4万石 7.1万石 築摩 8.21万石 4.4万石 小県 7.70万石 3.8万石 埴科 2.36万石 1.3万石 更科 5.63万石 3.0万石 安雲 6.01万石 3.2万石 水内 10.9万石 5.8万石 高井 8.50万石 4.8万石 端数 計 76.77万石 40.8万石 0.53 浅井 伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城 伊香郡:3.3万 高島郡:3.4万(6.7万の半分) 浅井郡:3.5万(一応半分で算出) 計10.2万石 13% よって、兵力は2550。 伊香郡:3.3万 高島郡:3.4万(6.7万の半分) 浅井郡:0.7万(10%案) 計7.4万石 9.5% 兵力は1850 がでたが高島郡は織田が73年に攻めた城、浅井滅亡後服属した国人などから 前スレ27?で高島郡:4.5万(離反者を除く) が有力視されている
遠江 遠征前 周智郡:0.8万(1.5万の半分)犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 榛原郡:1.2万(三分の一) 駿河国境沿いの一部のみ 71年に駿河国境沿いにある小山城を落としたこと 計2万石 7.8%で 兵力は500 遠征後 周智郡:1.5万 榛原郡:1.2万(三分の一)駿河国境沿いの一部 豊田郡:1.2万(三分の一) 天竜川沿いの諸城を落としたことから 磐田郡:0.08万石 引佐郡:1.1万(四分の一) 山県が伊平小屋を落としたこと 三方ヶ原後その辺に布陣していることから 佐野郡:0 佐野郡は掛川城周辺だから 計約5.1万石 20% 兵力は1275 三河 遠征前 賀茂郡:1.2万(三分の一)足助城周辺から美濃国境設楽郡側を領有と考えて 額田郡:0万 額田郡は岡崎周辺だから 設楽郡:1.3万(80%)信濃国境から長篠周辺までと考えて 八名郡:0.9万(20%)長篠以北と考えて約20% 八名郡の中心は下流域だから 計3.4万石 12% 兵力は850 遠征後 賀茂郡:1.2万(三分の一)足助城周辺から美濃国境設楽郡側を領有と考えて 額田郡:0万 額田郡は岡崎周辺だから 設楽郡:1.6万(100%) 八名郡:1.5万(30%)野田以北と考えて約30% 八名郡の中心は下流域だから 計4.3万石 15% 兵力1075
また似せテンプレかよ、毎回否定されてるのにあきねーな
>>186 つまりテンプレは反論否定されたものばかりだから
自分の説は説明なしに受けいられるべきだとでも言いたいのか?
マジで基地?
199 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 21:18:11
なんか、偽テンプレウザイ。 だから信玄厨ってバカにされるんだよ
流石の信長厨が多いなw
>>194 高島郡は浅井が滅亡するまで侵攻していないし
信玄死去後の朝倉攻めから見ても、織田の支配地は朽木領のみだから
8割くらいじゃないか?同じく浅井郡も、虎御前山以南を非浅井領として7割〜8割。
上洛戦には飛騨衆(江馬)、越中衆(椎名)がそれぞれ陣参しているし
岩村落城後は土岐、恵那郡の仕置きをしているから、
織田厨御用達てんぷらは間違いだらけ。
伊勢も近江も所領を水増しし過ぎだし、他にも色々と捏造、改竄が多過ぎ
と言っても、高島郡のような小石高のトコが半分だろうが8割だろうがたかがしれてるがw
あ、本当だ‥改定されているのは気付かなかった、スマン
>>200 あの改定案って、何スレのどこらへんで議論されたものなの?
最近あまり来てなかったから、ちょいと調べてみたいので教えてくれるとありがたい。
205 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 22:42:06
あと3スレぐらいいけば、織田と武田の石高差・兵力差が微々たるものに 変わってるに3000ぺりか
↑
レスアンカーミス。
×
>>200 →
>>202 他の人でも構わないです、まあ無いとは思うけどこのスレが初見なんてことは。
>>200 >高島郡は浅井が滅亡するまで侵攻していないし
>信玄死去後の朝倉攻めから見ても、織田の支配地は朽木領のみだから
信長から高島郡の一職支配をまかされた磯野員昌の下には朽木氏のほかに多胡氏や
島氏などの豪族も加わっている。高島郡に対する織田の支配は安堵状その他の資料
で確かめられる。一方、浅井氏に関してはこれ以前も以後の支配の形跡は認められ
ない。仮に織田領でなかったとしても浅井領とは数えられない。
>浅井郡も、虎御前山以南を非浅井領として7割〜8割
まあ伊香郡によって東西に分かれた浅井郡のうち、西浅井郡のぶんもふくめれば
それくらいにはなるか?
結論として浅井領は伊香郡と六角氏は甲賀郡と他少々。残りは織田領。
これで織田領が4割?不思議な計算ですね。
>上洛戦には飛騨衆(江馬)、越中衆(椎名)がそれぞれ陣参しているし
初耳だ、ソースを教えてくれ。ちなみに越中の椎名氏は上洛戦開始の一年
以上前に謙信に城を落されて滅亡している。飛騨の江間氏は、72年8月に
武田軍によって城を落されて城主は上杉氏をたよって亡命しているのだが。
そして上洛戦開始は72年10月。
>岩村落城後は土岐、恵那郡の仕置きをしているから
岩村城がおちたのは72年11月。テンプレはみればわかるが、72年10月の状況。
それともわからないか?
さらに言えば、この時占領したのは岩村城だけで、他の遠山一族の城は健在。
一族も織田方として岩村包囲を行っている。
ちなみに明智城ほか周辺の城をおとして支配を郡域に拡げるのは勝頼の時代。
ちなみにいいたくはないが、これは全部過去の論議の時にでてきたことであり
言い換えれば過去ログをみれば出ている。
208 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 22:50:46
無限ループ 彼ら信玄厨の中では結論はでてなかつたのだよ
>208 って言うか、結論を出したくないんじゃない?
799 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 22:52:47
武田信玄ってストUキャラで考えたら、戦国最強の兵法家で悪名をものともしないけれど
しっかり自分の国の政治をするって感じなんだよね。
800 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 22:54:23
>>799 やっぱストUで考えると分かりやすいな。
ワロス
また石高か
212 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 23:12:12
石高よりも信玄の戦略について語るべきだ。 浜松無視はどうだろ?
213 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 23:25:17
浜松の押さえの兵を残さなければ背後から家康軍に退路を絶たれて負ける。 押さえの兵を残した場合は織田軍と決戦する兵力が足りなくなって負ける。 それはとっくに結論が出ている。
214 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/19(水) 23:28:42
逆、浜松無視したのはまずいだろう? の意 落とすべきだったと
>>214 回りくどい言い方するな。
って言うかお前が落とし(sage)とけ。
しかし万に近い兵が篭っている城を短期間に落すのは困難。 それで時間をかけたら畿内で信長にフリーハンドを与えてしまう。 本来はそうしないために、江北で朝倉軍と対峙していてもらいたかったの だろうが、義景は帰国。他のやつらもアテにならない。むしろ畿内の連中 が武田をアテにしている始末。
期間的に短期とは言わずとも、信長が畿内の敵対勢力を一掃(越前を除外)するのと 同じぐらいか? だとしたら、尾張国境で激突も夢ではないと思うが。 無論兵力敵には織田が圧倒的に有利だが、戦ってのへ兵力で決まるものでは ないしな。
それは武田の言い分 朝倉からすれば一度も織田の主力と交戦しないで盟主気取りかよって感じだろ
そうだな、兵力的には優位な信玄が村上や長野や上杉に勝てなかったり負けたりしているもんな
そりゃを言ったら信長も鈴木やら一色に負けてるだろう
徳川と武田って兵力三倍差あるんだよな。 勝手当然ちゃあ当然
>>207 >信長から高島郡の一職支配をまかされた磯野員昌の下には朽木氏のほかに多胡氏や
>島氏などの豪族も加わっている。高島郡に対する織田の支配は安堵状その他の資料
>で確かめられる。一方、浅井氏に関してはこれ以前も以後の支配の形跡は認められ
>ない。仮に織田領でなかったとしても浅井領とは数えられない。
多胡が信長に本領安堵されるのは浅井滅亡の直前だからテンプレの時期には合致しないし
信長公記にも天正元年7月26日に木戸城・田中城を攻めて落城後、浅井の知行地に
放火したとあるからこれ以前は浅井領。
下二行目の「一方〜」の文は何かの妄想か?
ちなみに木戸城・田中城の位置からして高島郡の琵琶湖沿岸は
ほぼ浅井領と見てもいいと思う。
信長厨は盛んに兵力兵力言うけど、じゃあ桶狭間はどうなんだろう? 一体どれだけの兵力差を信長さんは覆したんだっけ?
兵が少なくても勝つ確立が無いこと事はないしやりようによっては勝てる。 しかし、兵が多い方が勝つ確立が高いのは当然。 まぁ俺としては「信玄は優れた将だからこそ自軍より多数の織田軍との決戦はさける」 と思っているが。
信玄単独ではないし、自軍が織田主力を拘束すれば 本願寺、朝倉、浅井、長島動かして志賀の陣を再来させることもできるしな
どの時点の話をしてるんだ?
浜松健在の時点の話か?
それとも
>>217 のifの話か?
浜松健在なら武田が織田に割り振れる兵力はたかが知れているし、
>>217 のifの話なら近畿を統一している事になっているが。
信玄厨の中では浜松が陥ちてなおかつ信長が畿内の敵対勢力を一掃してない 状態
229 :
:2005/10/20(木) 11:09:44
>>207 1段落目は223。>高島郡に対する織田の支配は安堵状その他の資料で確かめられる。
これは捏造だろ?
2段落目、六角氏は織田と和睦したからそれなりに所領が残ってるみたいヨ。
だから、多めに見ても半分はいかないと思うヨ
3段落目=軍鑑に書かれているから間違いない
4段落目、居城の岩村が落ちているから、土岐、恵那郡も支配されたと思う
実際は分からないが、軍鑑に書かれているから間違いないw
上洛戦には飛騨衆(江馬)、越中衆(椎名)がそれぞれ陣参しているし しらんがな
>>229 >2段落目、六角氏は織田と和睦したからそれなりに所領が残ってるみたいヨ。
>だから、多めに見ても半分はいかないと思うヨ
それにしては、旧六角配下の主な豪族は全て信長に従っているんだが。
甲賀郡以外の豪族で六角に従った豪族って誰がいる?
>>223 その辺も含めて、テンプレでは「高島郡の半分」は浅井領に入れてあると思うが?
>>231 その辺を含めたら高島郡の3/4は堅いでしょ。
>それにしては、旧六角配下の主な豪族は全て信長に従っているんだが。
それにしては、丘陵部の城は天正年間まで残ってるんだが。
>>207 西浅井郡の村の数は浅井郡全体の10%に満たないかもしれん
テンプレでは岩村は落城したことにしている、なぜかここだけ72年11月以降
ただ岩村周辺だけだから0〜5%ということになっている
まあ恵那郡すべて支配したところで5%ぐえあいにしかならないが
>多胡が信長に本領安堵されるのは浅井滅亡の直前だからテンプレの時期には合致しないし
>信長公記にも天正元年7月26日に木戸城・田中城を攻めて落城後、浅井の知行地に
>放火したとあるからこれ以前は浅井領。
これは同意けど他の地域はどうだかわからん、若狭に丹羽明智が九里半越で入ってるし。
また木戸城は高島郡ですらなく滋賀郡だから沿岸部は浅井の勢力は強いのかもしれん
でも木戸田中は72年3月に明智らによって落とされていたんじゃ、いつまた浅井側になったかは
知らんが。
他に織田についた高島郡の新庄俊長は73年に浅井長政に討たれてたりもするが。(←史実かは微妙)
また『信長公記』だと72年7月には高島郡打下のものたちが織田について琵琶湖北岸を攻撃したりしてる
あと信長の本隊の方は伊香郡にまで攻め入ってる。
>>233 鯰江城のことだろ、包囲されてほとんど無力化してるが
石部城も特に何もしてないし
あと六角との和睦って滋賀の陣の時の話だろ
>>235 ああ、鯰江城は愛智郡か。石部城は甲賀郡だが。
>>235 だよね、この頃はまた敵対してるはず。
垣見とか鯰江、百済寺があるから愛知郡は保持してるのかな?
蒲生郡でも下郡を安堵しているし(下郡がどこなのか知らないけど)
甲賀郡だけってことは無さそう。
>>234 3月には動けないだろ・・・それと、恵那だけでなく土岐郡も。
>>237 >だよね、この頃はまた敵対してるはず。
>垣見とか鯰江、百済寺があるから愛知郡は保持してるのかな?
それだけで六角が愛知郡を保持してるは無茶言い過ぎ
>蒲生郡でも下郡を安堵しているし(下郡がどこなのか知らないけど)
蒲生郡の誰が実際に織田に敵対してるの?六角に協力してる?
せいぜい中立じゃないか大勢は
>甲賀郡だけってことは無さそう。
それら全部あわせて近江の15%ってとこだろテンプレ通りじゃん
>3月には動けないだろ
意味不明、史実じゃ動いてる
>それと、恵那だけでなく土岐郡も。
地図で岩村の位置を確認してください
>>238 >蒲生郡の誰が実際に織田に敵対してるの?
一向宗の奴等だってさ
あと、織田方でない地域が、浅井領に、愛知、甲賀、丘陵部の神崎、野州
蒲生郡だとすると、結構なモンでしょう?
>意味不明、史実じゃ動いてる
3月に動いたなんて、聞いた事無いけど‥
>地図で岩村の位置を確認してください
先生。意味がよく分かりません
>>239 >3月に動いたなんて、聞いた事無いけど‥
ひょっとして主語が織田じゃなく浅井とか六角?
岩村城は美濃の一番東の恵那郡の、更に東南部、三河信濃に近いところ
そしてこれ以外の恵那郡の城はまだ織田についている、他の郡も同様。
>>239 愛知郡神崎郡といっても大半は織田だろ、六角は鯰江に押し込められてるし
野州郡は71年か72年を最後にそれ以後何かあったか
蒲生郡は平野部を押さえてる柴田と、日野の蒲生だけでも蒲生郡の大半になるし
甲賀郡も表立って織田に反抗するような勢力が72年の時点であったか、和田や多喜みたいに
織田に協力するような連中だっていたんだし
一向宗や寺社だって織田と敵対してるのはもう百済寺ぐらいじゃないか、
それだって正面から織田と敵対してるわけじゃないし
また南近江の織田に反抗する他の寺院は比叡山の時に焼かれてるし
>>240 美濃はそんな感じだよな、でないと前後の状況がおかしくなる。軍鑑とかそれをもとにした史料
ぐらいだろ、恵那や土岐を制圧してるような感じになっているのは。
>>240 72年3月に明智光秀が湖西を攻略したとは、初耳
>そしてこれ以外の恵那郡の城はまだ織田についている、他の郡も同様。
軍鑑だと恵那土岐郡はこの時期武田方だけど。w
>>241 >愛知郡神崎郡といっても大半は織田だろ
愛知郡の城の多くは天正年間に落とされてるのに
何故大半が織田になるのか分からん。
>>242 愛知郡の城の多くは天正年間に落とされてるのに
詳しく
>>234 伊香郡は72年の3月にも焼き討ちうけてるよ
>>242 明智丹羽中川が3月に木戸田中を攻めてるよ
ちなみに72年3月は信長が京に自分の屋敷を建設するところ
お祝いに顕如が茶碗贈ってきて、細川昭元と岩成友通が初めて信長のもとに来た
それ、3月ではなく7月でしょ。
>>245 7月は信長は江北だろ、信忠の初陣も兼ねて
京に行ったのは3月下旬
>>242 >軍鑑だと恵那土岐郡はこの時期武田方だけど。w
釣りかネタか真性かはっきりしてくれ
>>246 244の、伊香郡は72年の3月にも焼き討ちうけてるよ明智丹羽中川が3月に木戸田中を攻めてるよ
の部分に掛かるんじゃないの?
3月に江北攻めってのは、俺も初めて聞いた
>>247 一応、軍鑑だと恵那郡、土岐郡を支配したことになってる。
まあ、微妙だわな‥
>>249 72年3月の江北出陣ってそんなマイナーか?
単にお前や245?が知らないだけなんじゃ・・・
軍艦はそもそもあてになるのか? 話はそれからではないか?
>>250 軍鑑をソースにしていいなら、この時期東美濃で武田と織田が戦って武田が勝ってないか
それに北畠も織田と敵対してることになるし
>>249 ちょっと調べりゃすぐ見つかると思うぞ。
大きな戦いがあったわけじゃないからあんま有名じゃないかもしれんが
歴史群像レベルで十分載ってる話だ。
公記見るのが一番確実なんだろうけど。
255 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/20(木) 18:22:59
名すれあげ
>>251 >>254 信長公記を確認したけど、記述は無いな
2/29に今堅田を破る記述があって、次は3/25信長上洛
江北出陣なんて何処にも見当たらない。
>>253 んーまあそうだけど‥
城郭大系に岐阜県史参考で恵那郡、土岐郡の城陥落が載ってるから
事実なのかなぁ?とも思う。
>>256 信長公記とか甲陽軍艦とかどこで手に入れるの?
高いの?
>>258 信長公記とか甲陽軍艦などその2冊は文庫本サイズでも出てるから結構安い
全巻そろえるのに数千円レベルで済む。
ちなみに出版社によって内容が若干薄かったりもする。
>>256 >この年3月5日、信長公は江北に出兵して赤坂に陣を取り、翌日横山まで進んだ。
>そして7日に小谷と山本山の間五十町の地に進出し、
>ここに陣を据えて与呉・木本方面を放火した。
ここであるないと言っても本が手元にない第三者には確かめにくいだろうから
某HPより巻五元亀三年の一部をコピペ
ニュートンプレスのは安かったと思う、その分かなり端折ってるけど(甲陽軍艦)
>>256 なんでそんな簡単にばれる嘘つくかな。ちゃんと載ってるぞ
と思ったらお前さんよく人の話を聞かないと言われるだろうw
>>259 この時点では木戸城・田中城を囲んだとはあるが落城はしてないな。
>>261 嘘よいうより>256は72年と73年を勘違いしてるだけしね。
>>259 >>261 >>263 なんか全然違うね
2月29日辰の刻、今堅田へ取り懸け、明智十兵衛囲舟を拵え、海手の方を〜中略〜
3月25日、信長御入洛の御馬を出ださる。
となってて、その間の記録は無い。そのHP本当に、信長公記の原文を訳してるのか?
ニュートンプレスのは一冊1800円 ちなみに軍艦は全3巻公記は全1巻だったと思う。
>>262 俺も確認した72年3月の時点では木戸田中を囲み付け城を築いたまでみたいだな
信長公記だけだと落としたかどうかまでは分からないな、明智と丹羽が次名前出るのは
7月の江北攻めだし。
>>231 それを考慮したら高島郡の半分しか浅井領がないなんて考えられない
高島郡の平野部は琵琶湖沿岸だし、朽木の支配する朽木谷は山間部。
後年になるが朽木は関が原後の加増があっても一万石に届いてないし。
まあ、高島郡の7、8割は浅井だと思う。
>>264 天正元年の記述じゃなくて元亀3年の記述見てみ、全てが解決するから。
>>257 それは当てにならないだろ、その参考文確か東美濃で信玄と信長が73年に戦ったと
書くぐらい信憑性が怪しかったと思うぞ。
>>241 野州郡や栗太郡は以後も不穏な動きを続けて一揆しないように起請文の
提出を求めたりしてるから、とても軍役等負担は出来ないだろう
少なくともこういった地域を浅井・六角領でないから織田領と
決めてしまうのはどうかな?
>194のいう前すれ27とやらを見てきた 織田方なのは朽木氏 磯野氏 永田氏 多胡氏 島氏 新庄氏などらしい。 磯野が高島郡に知行もらったのいつかと言う話もでたがどちらの立場の人間もソースは提示してない
>>273 そいつらは元亀以前から織田に付いてたろ
そいつらじゃなくて一揆に参加してたほうだろ問題としてるのは。
>>270 はいはいw
原文には72年3月の記述はありませんから。
元亀三年壬申 むしやの心路御普請之事 三月五日 信長公 江北表ヘ御馬を出だされ 赤坂に御陣取り 次日 横山に至りて御着陣
>>258 新宿の紀ノ国屋書店や神保町の三省堂とかなら売ってるはず
>>266 元亀3年の時点では落としてないだろう。
天正元年7月に両城の落城記述があるのでこのとき落としたとみられる。
>>272 高島郡の林氏も織田に付いて明智付きらしいソースは歴史群像wだが
>>279 しかしそうすると一年以上も城が落ちなかったのか?ということにもなる
また元亀3年7月に光秀と高島郡打下(多分だけど林氏)はその城無視して
琵琶湖の北岸を攻撃して回ったことになるから、
その2城は織田から見れば無視しても良いレベルだってことか
木戸と田中の城の間に高島城もあるし。
>>281 いや明智と林は水軍もってて琵琶湖の制海権は織田が握っていたから
高島郡の浅井勢力に関係なく北近江を荒らせる。
>>277 「72年3月に明智らによって落とされていた」なんて記述は無いでしょ。
>>282 で、北近江を荒らしたことはあったのか?
>>284 明智は72年7月に海津浦 塩津浦 与呉 竹生島を水軍使って焼き討ちしてる
他に陸では横山から織田軍が伊香郡方面を72年3月と7月に攻撃してる
>>285 いや、元亀3年元亀3年と言ってるから、はぁ?と思って
よく見たら1年まえじゃん‥あらー俺が勘違いしたのか‥と思ったが
>>234 を見たら73年7月と混同してたから、よし、別に問題無いな?と納得することにしたw
という意味。
>>286 信長公記には無いし、何に書かれてるの?
>>287 おお!!ようやく理解できた
つまりこのスレには
>>234 の文章
>木戸田中は72年3月に明智らによって落とされていた
を72年3月は囲んだだけで落としたは間違いと勘違いしてる香具師と
73年7月の間違いと勘違いしてる香具師がいるということだな
どっちが正しいかは
>>234 に聞かなきゃ分からんがw
ただ後者と考えてる香具師は極少数みたいだが。
信長公記には 3月は余呉木本(←漢字は違うかもしれん) 7月は余呉木本越前境、地蔵坊中を放火とか書いてあるぞ 何ですぐに嘘と(ry
>>287 単にあなたが年号つけときゃよかっただけじゃ
ほとんどの人が年号付けて反論してたんだから
>>291 余呉は原文じゃ与語だったような
294 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/20(木) 22:04:41
軍艦って訳本でてる?
295 :
289 :2005/10/20(木) 22:10:41
>>293 確かにあとで読み返すと自分でもアレ?って思う文章だなw
>木戸田中は72年3月に明智らによって落とされていた
この文章の間違いが
明智らに攻められたが落ちたのは間違いで囲んだだけと思ってるやつと
落としたのが72年3月ではなく73年7月という意味で違うと思ってるやつとが
いるという意味。で後者の考えのやつはあまりいない。
正確なところは234に聞かないと分からないという意味。
>>294 さっきもでたがニュートンのでいいと思うぞ
略してるところも多いが
>>296 でも省略してるのは行軍の武将名とか知行を与えた武将の名前とかで本筋とはあまり関係ないんじゃ
それに、ニュートンの本文にも省略する部分は○○だから省略しますと書いてあったと思うし。
ではどこがおすすめかね?
301 :
299 :2005/10/20(木) 22:33:38
>>300 自分はニュートンかな
値段と入手しやすさからいって
>>300 俺もニュートン産をおすすめ
高くていいなら、新人物往来社の軍艦がいいかも、全文載ってるし。
まあ、バーゲンで安く買ったから自慢したいだけなんだけどね
ネット上ではみかけないな。あれば便利なんだが>軍艦
thx
取り合えず軍艦は史料として無効でいかないか? 軍艦はノンフィクションと見せかけているだけの時代小説だろ? ある程度は史実の話もあるが都合のいい虚構が混じっているという。
織田史観
軍鑑は最近見直されてるし武田を知る上で欠かせないから 全てを無効にするというのは乱暴すぎるね
>>305 全てを無効とするのはさすがにやりすぎ。
だが、軍艦の記述は他の資料で裏づけがとれない限り信用できないというのも確か。
三国志演義と同じで、メインストーリーは史実にそっているが細かい内容はフィク
ションだらけってところか。
軍艦は上洛戦に関する部分や長篠は基本的に信用できないと思う
上洛戦や長篠は他にも資料たくさんあるからな。 反証しやすいから取り繕ってもダメだから。
軍鑑のみの記述は論拠にするな、という事でいいんじゃない。 他の史料の補強とかなら構わない、と。
単一史料によるものは控えるって事で、信長公記だって間違いはあるのだから でも信長関連史料は豊富なんで、信長公記の記述の裏付けって取れるのが多いよね
>>312 その結果、信長公記の信頼性が確認されたわけだがね。
軍鑑の場合、もともと少ない武田家資料で矛盾・誤認が指摘されるほどだから。
甲陽軍鑑は自分の考えに都合が良い時は引用して 都合が悪い時は全否定するんです。これが定説。
織田厨の都合のいい史料かw
そのための
>>305 工作というわけですな、なんか納得
甲陽軍鑑の評価を語り妥当性を語り、単一史料での断定はやめようといえば 織田厨が〜と言い出す武田厨 武田厨はどうしたいんだろう? 単一史料による断定を避けたのは両者に公平だと思うのだが
裏づけの取れた史料のみ使用じゃなくて、裏づけの取れた史料の内容のみ使用って感じにすればいいんかね<評価 とりあえず講談と軍鑑の評価は抜いたほうがいいとオモフ 軍鑑に関しては裏づけとれたもののみ使用可能って感じでさ 逆に信長公記等一級史料も裏づけとれてなかったら普通に却下でいいんでないの どちらにも公平に判断しようや それとちょっと頭冷やしてから書き込もうや
>>317 オマエさんは、色々の事柄に関して複数の史料を手に入れられるような
立場なのか?だとしたら羨ましい限りだがw
>>319 歴史上の事象に対して複数の史料で当たるのは当然の事で
立場なぞは関係ないのでは?
つかどーしたいの?
逆に言えば軍鑑否定したい人が頭から軍鑑だからと否定せずに 武田厨が引用した軍鑑記述の事柄一つ一つに対して反証をもって否定したら? 以前、織田厨がこれ見よがしに引用してた武田の借用書も反証で否定されたのだし。
>>321 その借用書の一件も、単に単一史料による断定の反証にしか過ぎず
甲陽軍鑑の肯定と相反する例に過ぎないかと
書状などは確かに複数の史料による検証は難しいかもしれない
しかし、他の史料から書状などの内容の正確性がある程度推し量れるので
無理ではない
軍鑑の記述に対して反証持ってこなければ肯定されるものではない
信長公記も同様としてるのだから、双方にとって公平だと思うが
もともと織田の兵力で五万とか七万とか記述のあるものを信用できないと一蹴したので、 だったら軍鑑の「武田軍二万五千」だって信用性ないじゃねーかとなったんじゃなかったか?
甲陽軍艦ほすぃ
>>323 このスレで信玄最後の遠征で東美濃の恵那土岐を武田が支配してる
ソースは軍鑑と言い出したやつが出たからじゃないの、前スレまでの流れは知らんが
1572年 織田信長:120万石で3万人+常備軍1万人=4万人 武田信玄:100万石2万5千人 信玄は敵国に侵入する前に、敵国の武将(国人衆)に領土の安堵状を認める。 その結果 いざ敵国に進入するだけで勢力図がガラッと変わってしまう。 みかたも徐々に膨れ上がる。
常備軍って何?
兵農分離を信じてるんだろ。
>>326 上田原の前に裏切りってでたっけ?
上野に攻め入って長野氏配下から裏切りってでたっけ?
北条と戦うようになってから関東で武田に寝返った豪族っていたっけ?
徳川と開戦してから裏切りってでたっけ?
信濃の戦いでも小笠原から裏切りってでたっけ?
そちらが挙げている戦法は、諏訪と今川のときくらいしか思い当たらないんだけど?
>>329 いや塩尻前に小笠原から武田に寝返った若しくは小笠原から離反した豪族は結構いた
常備軍も知らないのかw 兵農分離否定厨ウザス 例によって織田領全土に行われてなかったから、ただそれだけで否定してんだろw
>>331 全土で行われなかったって、
行われたかも知れない形跡があるのは越前くらいでしょうが。
そもそも、根本的に間違っている人がいるが、
兵農分離を行うと、動員兵力の総数は減るのだが。
信長がやったのは直轄家臣団を地縁から離れさせることで、兵農分離とはまた別じゃないの? 機動的な兵力の確保という効果面では一部重複するが
334 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/22(土) 14:01:27
その代わりいつでも自由に敵領に攻め込める
335 :
326 :2005/10/22(土) 14:19:59
>>329 裏切りって 極端な事言うけど、小領主って常に強い方に靡くよ
状況に応じてとも。そりゃ忠誠心旺盛な武将もいたと思うけど。
戦国の倣いだし、それは裏切りとは言わない。
特に領土間の狭間にいた小領主は常にそういう状態だったと思うよ。
みんな御家が大事なんだよ。
1572年冬 徳川領土に進入した時の事を書いたんだけど、
その一人に奥平氏もいたよ。
常備軍は兵士になる事を専門にお金だけで雇った人たち。
兵農分離とは違う。
信長の強みはその常備軍がいたからこそ、他の大名が戦が
し難い農繁期に小規模でも戦が出来た。
他の大名も農繁期にも普通に戦をしていますが。 で、信長の兵力動員形式がほかと違うなんて根拠は全くありません。
金で雇った兵は織田に限らず武田にだっていたろ
兵農分離というものを、主に秀吉の刀狩等に象徴されるような、 半農半兵の状況から厳格な身分に分けるというこというなら、 信長も越前等で刀狩をしているので、それと同様の考えは信長にもあったと言える。 しかし、兵力の動員形式を金で雇ったものに変えるというような 意味合いの事をいい、そのように雇われた兵士を常備軍というなら、 信長が大規模にそのようなものを組織した形跡は一切ない。 逆に少数の雇われ兵ならば、どの大名家にもいたもので、 別に信長だけがどうこうと言うことでもない。 確かに信長は家臣に城下に住むように強制させたことはあったが、 それも、兵士とは全く別の話。
339 :
326 :2005/10/22(土) 15:01:04
そうなんだ...でも農繁期に他の大名より多く戦をしているのは 確かだと思うけど。 ところでここではどういうかたちで結論がでているの? 両軍の兵士数とか
340 :
326 :2005/10/22(土) 15:05:59
×ところでここではどういうかたちで結論がでているの? 両軍の兵士数とか(これ無し)
>>339 全然確かじゃあありません。ただの俗説で事実とは異なります。
織田家だけが農繁期に主に戦をしているなんて事実はないし、
他の家が農繁期を特に避けたという事実もありません。
例えば、武田家の場合は秋の出陣が一番多く冬に少ない。
春・夏の出陣の割合はおおよそ平均的。
この傾向は織田家も同じ。
三木の干殺しをやった2年間は兵士を交代させてたのか?
無論交代なんてさせていないでしょう。 しかし、信長以外の大名、 例えば、毛利元就の月山富田城攻め等でもそれは同じこと。
>>339 結論?
武田が上洛できるかはテンプレ読んで各自で判断する
それでいいと思う
上洛戦は元亀騒乱など、国許から完全に離れて戦えるのは凄いと思うけどね
346 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/22(土) 19:46:06
>>341 NHKでライバル日本史ってのやってたけど、
ちゃんと棒グラフ(月毎)で判断できたよ。
>>346 農繁期以外に戦をしていないって一言も言ってないぞ
兵農分離とも一言も言ってないし
>>344 またアンタか‥
>>345 大内、尼子も1年越えて国許から完全に離れて戦ってるから
数ヶ国を領有する大大名ともなれば、余力もでて可能になるのだと思う。
>>348 それではあなたは結論をだせとでも言うのか?
結論は既に出ている気もするが、それでも結論を出すとなると一部の人間が荒れるような
というかまたって何?どのレスした人間だと思っているの?
>>349 結論は出ないだろうけど
テンプレとしては、4-12より
>>67 のがまだマシだと思ってるよ。
351 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/23(日) 05:05:23
>>323 そもそも上洛戦の時には甲陽軍鑑曰く三万余、
二万五千という数字が上洛戦で出るのはそれこそ講談から。
某先生曰く、「江戸時代の軍記でよく出て来る数字だが、妥当に思えるので」
この時の武田軍は二万五千w
甲陽軍鑑の後段に出て来る武田家の総兵力は二万五千が絶対的な話なら、
逆に秋山の別働隊を送り出すと二万五千に届かないし。
もし総力戦と考えていたならもっといても普通に不思議ではない・・・・
秋山の別働隊はどれだけだったのだろうか... ------------------------------------------------------------ 兵の動員率と石高にも各自発想が違うような気もするけど
>>345 普通に一段落すれば国許に帰ってますがね。
一年近くの長期出陣とかも、他の戦国大名も行っているし。
>>352 一般的には、秋山隊3千、信玄、山県隊2万5千じゃなかったっけ?
>>272 71年 7月 5日
織田信長(「信長」)、朽木元綱(「朽木弥五郎」)へ使者を派遣し「内存」を報告してきた忠節を賞し、近江国須戸庄の
「請米」を安堵し、新知行については磯野員昌(「磯野」)に指令した旨を通知。〔「朽木文書」「記録御用所本古文書」〕
とあるから71年に既に高島を任されてたんじゃ?
まあその割に『信長公記』の浅井攻めにまるで名前が出ないのはおかしいが。
>>272 多胡氏に関しては
1573年に
1月 2日 穴山信君(「信君」)、多胡惣右衛門尉(浅井氏被官)へ武田信玄は朝倉義景(「義景」)・浅井長政(「長政」)と申し
合わせて遠江国・三河国へ「出張」し攻略したこと、三方ヶ原に於いて徳川家康軍を撃破したこと、浅井氏被官「備前」にその
模様を検分させたことなどを通知。〔『武家手鑑』〕
8月16日 織田信長、多胡宗右衛門尉(近江国土豪)へ旧領安堵ならび新知給与は磯野員昌(「磯野方」)より通達することを約し、
さらに山々の「破城」を命令す。〔『田胡家由来書』〕
となってるから寝返ったのは1573年
357 :
355 :2005/10/23(日) 17:05:53
ズレタorz
>>354 秋山別働隊は 2千人余りが妥当かな?
残りの本体2万3千+北条からの援軍2000人=二万五千人
>>272 島氏は
『近江坂田郡志』(中巻)によると、島若狭守は田那部氏とともに
京極氏の譜代家臣・今井氏の麾下にあってこれを支えてきたが、
姉川の戦いの際に田那部氏が寝返って信長方に付いた。
となってるがこれだと本領は坂田かどこかでもともと高島郡の勢
力だったわけじゃないな。
磯野に付けられて高島のどこかを支配していたのだろうか?
新庄氏は
近江高嶋郡伊黒城主新庄俊長 比叡山衆徒で僧兵
73年に織田に降伏したが浅井長政に攻められて死亡
正確な時期は見つけられなかった
ただ他に新庄城の新庄氏もある
林氏
林与次左衛門 打下城
これは公記に載ってる
75年に滋賀の陣の時のことを信長に責められて殺される
これも公記
永田城の永田氏はよくわからん
>>359 71年には磯野が高島の統治を任されていたという意味。
高島七頭のうち(越中)高島・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎 高島・平井・横山・山崎はこの時期よく分からん あとこれらの勢力の軍事力は 義輝が将軍職就任時、高島氏は1000人田中氏は600人出してる また52年の義輝入洛時朽木氏は200人兵を出してる
>>361 平井は栗太に移って六角に仕えたんじゃ、元亀には織田に仕えてるけど
山崎は73年に織田に攻められてるから浅井側だと思う
高島氏は清水山城が72年に落とされたことから滅亡か織田に仕えてると思う
363 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/23(日) 20:26:56
ほうほう
だから、テンプレでは浅井領に「高島郡の半分」ってあるのでは
365 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/23(日) 23:24:17
>>359 甲陽軍鑑だと、内藤信成の台詞から信玄本隊が三万余。
三河物語とかだと、三方ヶ原で家康が戦った武田軍が三万余だったような。
いろいろあったが結局テンプレの数値が妥当と言う事か
>>365 テンプレの数値は250人役という軽い軍役だから
多少無理な動員かけてれば3万ぐらいいくだろ。
368 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/23(日) 23:30:10
武田軍25000VS徳川軍15000+織田軍3000
369 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/24(月) 00:33:53
なんのこっちゃ
三方ヶ原の戦いは徳川軍は(織田軍入れて)一万一千人だろ?
武田方は2万だろ。じゃあ勝って当然の戦じゃないか
>>371 何を今更。
信玄は慎重な性格だから相手を遥かに上回る兵力でない限り
合戦におよぶことは無い。
長篠の戦いも信玄が指揮していれば無理に戦おうとはせず
さっさと兵を退いていたはずだろうな。
>>372 まあだから信玄も73年に上洛は無理だろうな、
各地に守備兵力を配備した上で、
信玄の遠征軍とさほど変わらない兵力を用意できそうだから
もしも武田の総大将が勝頼や信虎、あるいは信長だったら
まだ可能性はあるかも(無謀だから)
ただ長篠に匹敵するような負け戦になる可能性の方が高いだろうけど
慎重ではなくビビリなんだよ
信長との決戦は72年の翌年(月は忘れたが田植後)にするって 朝倉氏に書状を送ってるけどそれはどうなの...
>>375 冬で帰国した朝倉に対して「だからお前らも兵をだせ」という督促です。
「お前らが兵を出して織田軍を拘束してくれればこっちは徳川を好き勝手に
できるんだ」というムシのいい要求ともいう。
結局、信長公記にある郡境の打下城と朽木が信長に降っただけで 残りの高島郡を光秀(磯野)が支配していたという根拠は無しか。
>>377 確かなソース付きはその2者ぐらいだろうね、あと磯野の直轄領ぐらいで
とはいえ浅井についていた勢力も確かなソースだと田中氏ぐらいになるが
多胡氏はもともと浅井郡か坂田郡の勢力だし
不確かなソース含めれば最大勢力の越中氏を降してるから織田の勢力は
それなりにあったとも考えられるが永田氏も越中氏も安曇川周辺だから
北高島郡には織田の勢力は及んでいなかったと考えられる。面積で言うなら
北半分は確実に織田ではない。でも高島郡の中心は南部だから経済力を
加味すればまた違うだろうが。それでも南部には田中氏や新庄俊長もいたこと
から、テンプレの時期には高島郡は浅井が優勢だったのでは。
まあ結局
>>194 の石高が妥当だと思う。
木戸、田中の位置からすると194は疑問かな 朽木を除けば、大方浅井方と見る方が妥当だと思う。
>>379 単に敵地に孤立していただけじゃないか?
木戸田中が、若しくは磯野永野が
よくあることだろ
水路があるから孤立はしてないんじゃ
>>380 木戸田中の攻略しか記述が無いのに
何故敵地に孤立しかなんて解釈をするのか
>>380 水路もあるし朽木方面からも接しているから磯野が、浅井領に孤立ということは無いだろ。
まあ突出していたかもしれんが。
木戸城は73年には織田領の中に孤立していたかもしれんが、打下と朽木伊黒なんかによって
琵琶湖の水運もほとんど織田に属してたみたいだし。
でも木戸城は高島郡でなく滋賀郡だけどな。
以前、朝倉は義昭が蜂起したとき湖西から京に侵攻しようとしたが、防御が 堅かったのであきらめたとかあった(朝倉始末記だったか?)が、これだと そう不可能でもなかったような気もするが。
>>384 それは違う
地図見れば分かるかもしれないが志賀郡と高島郡は朽木越ルートと湖沿いのルートの
二つしか陸路は存在しない。
そして湖沿いの西近江路の一番狭くなってる部分が高島城と木戸城の間であり、それらの
城を無力化できなければ交通は難しくなる。
だから高島城永田城打下城木戸城のどれか一つと朽木谷さえ固めておけばそれだけ湖西
を突破するのは困難。
>>375 信玄はこの上洛にあたり方々と連携して文書を交わしてますね。
その中で朝倉とは長島一向宗の蜂起を促すのもや来春5月に共同で陣立てを
申し合わせているし、義昭の御内証始め本願寺、朝倉、浅井、郡上郡遠藤氏、松永には
上洛する旨や岐阜城攻略に言及してるから並々ならぬ決意があったと思いますね。
ちなみに>376は全く時系列が理解できてない奇特な人ですから騙されないように、
あなたが言及した文書は72年11月に発給された義景宛てのもの。
信玄が義景の撤退を非難した文書は翌73年2月のものです。
>>385 高島から和邇にかけて狭いが特に狭いのが高島の南だからなー
現在でもJRそこだけトンネルだし、交通の難所なんだろうな
朝倉がそこを突破できても更に坂本から大津の辺りも狭くなっていて
防御に適してそうだし。朝倉が諦めたのも仕方が無いんじゃないか?
389 :
385 :2005/10/24(月) 21:36:56
>だから高島城永田城打下城木戸城のどれか一つと朽木谷さえ固めておけばそれだけ湖西 それだけって何だよorz ×それだけ 訂正 それだけで
>>386 信玄が昔出した手紙で大熊や北条・本庄なんかに
景虎を破って春日山を攻略するような手紙を出したことがあったが・・・
>>390 意味合いが違うと思うよ。上洛の御内証を受け取って、
わざわざ朝倉、浅井とどっかの寺?や遠藤氏を仲介として同盟してるし。
徳川だけを相手にするなら東美濃に攻め込んで信長と敵対する理由ないしね。
>>387 そりゃあ、可能性はあるってだけならどんな無茶苦茶なことでも、
可能性だけは存在するからねえ。
この場合問題なのはそれが高いか低いかで、
>>385 を見る限り、その可能性は低かった。
言いかえれば、守りが堅くてあきらめたという話は、信憑性があるってことになるのでは。
>>391 朝倉・浅井など他の勢力に対して、上洛は本気だと思わせるためのパフォーマンスだろ?
>>393 その真意は?
>>391 の通り徳川だけを相手にするなら武田から織田を手切るメリットは
ないわけだが
>>394 信玄が上洛しないとなると、朝倉・浅井が織田と積極的に戦わない。
朝倉・浅井が積極的に戦わないと織田が徳川に援軍を送る余裕が出来る。
武田が織田と手切れしないと、織田が徳川を見殺しにするとでもおもってるの?
>>394 393とか390とは別人だが一応織田が岩村城を奪ったからという説もある、
もともと恵那郡は武田の影響下にあったが72年に当主の死亡のどさくさに紛れて
信長が養子を送って乗っ取ったという説。
>>395 武田が軍事行動おこした時期は織田と浅井・朝倉は江北でにらみあってる。
援軍を送る余裕もなにも信長は江北表から岐阜に撤退して朝倉も兵を引いたのに
わずか3千しか援軍を送ってないが?
>>388 >>392 それじゃあ結局朝倉はどうすればよかったんだ?
史実のように小谷と敦賀の守りを固めるのが最善ってことか?
それだと義景は別に暗愚じゃないんじゃないか
>>397 篭城するならそれで十分
それに冬だからあまり兵を動かしたくなかったのでは
>>396 その当主の死亡は秋山信友との合戦が元で死んだのではない?
しかも信長の叔母が嫁いでたし武田の影響力はあったろうけど
それは織田も同じだろうし。
>>397 >武田が軍事行動おこした時期は織田と浅井・朝倉は江北でにらみあってる。
武田が上洛すると見せかけたおかげですね。
武田は喜んでたでしょうね。
>援軍を送る余裕もなにも信長は江北表から岐阜に撤退して朝倉も兵を引いたのに
>わずか3千しか援軍を送ってないが?
武田が上洛すると見せかけたおかげで、撤退したとはいえ朝倉がいつ再出陣するかわからず、
他の勢力も活発だったので、織田は3千しか援軍を送れませんでしたね。
武田は喜んでたでしょうね。
>>399 武田、浅井・朝倉同盟がなくても信玄が徳川を攻めた時期は
信玄が謀らずとも信長は浅井・朝倉と対陣中。
>>400 篭城したならね。それに三方ヶ原の後の徳川がヤバイ時も援軍はないわけだが
>>402 ダウト!
上洛すると見せかける(?)前にすでに対陣中。
>>401 諸説あるので何とも言えない
遠山景任が死んだのも病死・岩村城防衛の際に秋山勢に手傷を負わされて死亡
上村合戦の際の戦傷が原因で死亡がある。
また上村合戦も諸説あり1570年説1572年初期説1572年岩村開城後説などがある。
ただ70年と72年初期説はその時点で武田織田が戦うはずないから合戦そのものに
無理がある。1572年岩村開城後に上村合戦が起きたのだろうけどこの戦いが原因で
遠山景任が死んだとするのは秋山の結婚そのものを否定することになるから、
結局、上村合戦で死亡は無いと思われる。
岩村城防衛の際に死亡もソースが怪しいものばかりで信頼がおけない、説明に光秀が
明智城の後詰に来てたり、信玄と信長が東美濃で直接対決していたりして。
一番信頼が置けそうなのは遠山景任遠山直廉病死後、1572年9月から10月にかけて
信長が織田信広と川尻を東美濃に送って岩村城を攻撃してこれを占拠したという、
10月18日付の上杉謙信書状(河田長親宛 歴代古案)をソースにしてる説
つまり同盟を破ったのは信長が先というわけだ。
信長公記だと篭城ではなく、どこかの城が攻められたからその城の後詰のための援軍となっているが。
>>403 >篭城したならね。それに三方ヶ原の後の徳川がヤバイ時も援軍はないわけだが
ヤバイのか?野田城攻めたぐらいであとは特に何もしてないと思うのだが
>>404 敵対自体は信玄が出陣する前からしてたから当然だね。
ところでなんでそんなに素直に信玄の事を信じるんだ?
信玄の事跡なんて騙しだらけだろ?
ところで徳川を攻めるだけの場合に、武田が織田と手切れないメリットってあるの?
手切れないと織田が徳川を見殺しにするとでも?
>>408 >402のレスと矛盾してるなw
信玄の書状があるからな。将軍や三条つながりの本願寺、朝倉を騙すメリットがない、
と言うか騙した場合デメリットだらけ。
さらに実際の行動でも徳川だけを相手にした領土獲得が目的なら三方ヶ原後に
天竜川以東の支配を目指すのが通常だな。それをしないで三河に入って野田攻め、
体調が悪化しても完全撤退ではなく長篠城での1ヶ月にわたる療養もやはり上洛という
最大の目標があったればこそだな。
つか、上洛否定派は信玄はこうだから上洛ではない、もしくは単に徳川を狙っただけと
多分に主観が入り混じった根拠の希薄な推定をしてるだけだろ?
見殺しにはしないかもしれないし、するかもしれんな。
どちらにしろ徳川を攻めるだけなら織田と手切るメリットは武田にはないな、
同盟しているのに織田が徳川に肩入れすれば非は織田にあるわけだし。
410 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/25(火) 10:03:14
織田と徳川が同盟してないとでもw? 同盟国が攻められて助けたら非があるんですかw?
>>409 信玄の目的が上洛でも徳川領併呑のどちらでも、織田軍の主力が畿内にある事は
歓迎される状況。
特に徳川は織田にとって、同盟よりも格下の保護対象に近く、現実に清洲同盟は
対等な同盟ではなかったとする説も出されている。(日米安保条約だって、軍事的
にはアメリカが日本を守る条約)
信玄が徳川を攻撃することは立派に織田に対する敵対とみなすこともできる。
織田は武田とも徳川とも同盟してる状態で どちらかに肩入れすれば相手方より非難されるのは当たり前だろ
織田は相手の非難なんぞ気にしちゃいねえ 比叡山然り 長島然り
比叡山にしろ長島にしろ、 原因あるいは火を煽ったのは寺社側だからな。 報復行動中に相手の非難を気にする奴はお人好しすぎ。
>>413 武田の非難を気にしてないとすると、見方が原の援軍は少なすぎだろ
ここの住民たちは兵力の集中が出来なければ、大軍も寡兵に敗れるということが 理解できていないのかしら? 1572年当時の織田家と武田家の国力比較をしてもしょうがないのよ。
417 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/25(火) 10:42:02
>416 だからどの程度対武田に向けられるか検証したんだろ。 そもそもの指針がなければそれすらわからん。
三方が原の戦い直後、織田家の同盟国である 徳川家はほぼ無力化されていた。 これには同意するかね?
420 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/25(火) 11:24:12
>>419 ほぼ無力化なのか?
そこで進軍が止まってることから頑強に抵抗したことが伺えるわけだが
>>419 同意しない。
野戦能力は激減したが、それでも壊滅したわけではない。
仮に信長が軍を率いてくれば後方攪乱、挟撃なども十分こなせる。
それを防ぐためには武田は徳川への押さえが欠かせないことになり、
主力決戦の場に引率できる兵力を削られる事になる。
戦略家の信玄としては頭が痛いだろう。
ただ、単独での決戦はもはや無理。
でもそれはまんま信長にも言えるのだよな 浅井・朝倉・長島・その他勢力と後方の不安は武田以上 しかも信玄にとっての家康は戦術的に頭が痛い存在でも信長のそれは戦略的に頭痛の種 信玄は決戦をしなくとも睨みあっているだけで志賀の陣が出来てしまう。
同盟国じゃなかったら、攻めても相手から非難されないのか?
武田も浅井も朝倉も結局は滅ぼさないと天下は統一されないわけで。 彼らとの同盟なんて上洛戦で一時的に必要だっただけでしょ。 なにあまっちょろいこといってるんだ。 天下布武の意味を知らないわけではあるまい。
>>422 信玄の後背にいる北条・上杉は単体で浅井朝倉を合わせた以上の勢力なんだが
北条すら先年まで争っていた相手なんだし、不安定さから言えば織田より優位とはいえんだろ
留守に上杉軍が信濃に流れ込んできても虎御前要塞は無い
>>425 北条は武田に援軍2000をつけている。
更に、信玄は関東に北条をけん制するための同盟者を置いている。
上杉に対しては、妻の妹を通じて一向一揆を煽動している。
>>426 兵を出してても豹変した例なんて吐いて捨てるほどあるぞ
それに越中一揆は天正元年夏までには事実上屈服させられている
第一、拘束され具合でいうのなら羽柴勢以下の寡兵で実際に逼塞させられている織田後背勢のほうが物の数ではない
>>427 織田と交戦中の浅井・朝倉
北条は武田と同盟、上杉との敵対関係は大分前に終りそれ以降敵対していない。
427の言う事は詭弁
>>428 軍事衝突で実際に織田軍の一支隊を突破できなかったのは史実じゃん
上杉と武田は大規模衝突が下火になっただけで、関東北信で睨みあいや小競り合いを続けていて、主力軍が対峙したことも何度もあるんだが
北条については有り得た可能性=詭弁なのかね?
>>428 具体的な例を上げれば、信玄上洛年の春に上杉軍は武田方の石倉城を攻略
さらに利根川を挟んで信玄自身の率いる軍と数ヶ月対峙している
そもそも北条自身が上杉を裏切って武田と組んだわけだからな 利があれば逆に武田を切らないほうがおかしい
そもそも徳川自身が今川を裏切って独立したわけだからな 利があれば逆に武田へ寝返らないほうがおかしい
>>432 普通に考えればそうなんだよなw
でも徳川は全くそういう動きを見せなかった
織田徳川の同盟が戦国史中異例というのはずっと言われていたこと
過去スレでも何度かなぜ徳川は織田から武田へ寝返らなかったのか?が議論になったな
>>429 北条−武田の和睦で、上州の領有が決着してからは
1度も対峙したことが無いんだが。
実際、信長、家康の再三の信濃出兵要請を完全無視しているしね。
友達だったんだよ。信長と家康は。
>>429 朝倉は脅威だろ。信長公記でも2万で後詰をしてるし湖西に出ることも可能。
さらに長島や戦況次第で三好も出てくるしな。
上杉に関しては白井城を奪ったりと上野で小競り合いをしてるが
だからこそ加賀・越中一向宗を動かしたわけだし。
>>431 可能性として触れてるけど全くというか、ほとんどありえない可能性だね
>>434 具体的にいつからよ?
少なくとも元亀三年4月までは、利根川挟んで両軍対峙してるし
石倉城等支城の奪い合いもやってる
>>429 >軍事衝突で実際に織田軍の一支隊を突破できなかったのは史実じゃん
一支隊の規模がどれくらいだったか、湖西には織田軍がいなかったのか?
まあ、下らない言葉遊びだね
>>434 いや、最後に利根川で対陣したよ。
結局、戦闘はせずに双方引き上げたけど。
>実際、信長、家康の再三の信濃出兵要請を完全無視しているしね。
これは確かに完全無視だったな。
越相同盟時でも北条の援軍要請を無視しまくってたし。
朝倉軍は頭数が本当にそれだけ揃ったのかな? 虎御前山に砦を信長が構築した時点で前波衆なんかは白昼堂々と織田方に投降したりしてるし、軍役拒否もはじまったりしている 実際に羽柴勢に浅井軍が防がれた戦いの時にも朝倉の援軍は入ってるけど大して動いてないしね
羽柴勢に浅井朝倉軍が蹴散らされたのは、信長と義景がそれぞれ直率する軍が対峙した後 9月に信長は息子や主だった武将を連れて撤収している 信長公記には浅井朝倉が連合して羽柴軍を攻めて失敗したとあるが、この戦いに朝倉本軍も加わっていたとすると、朝倉軍がちょっと弱すぎる…
>>439 その和睦直後に起こした最後の遠征のとき以降
相越同盟の約定で上杉へ付いた連中も(由良と‥あと忘れた
北条へ戻ったから、謙信も武田、北条と敵対する理由は無くなったんじゃないか。
謙信役に立たない奴だな 中小領主の援軍要請はほいほい聞くのに…
信長公記によれば、朝倉が決戦に応じなかったんで信長が撤収する際に残った武将で名が挙げられているのは秀吉のみ すぐ後の戦闘についても、名が出るのは裏切り直後の富田長繁・毛屋猪介とか、信長の勘気を蒙って居残った滝川彦右衛門ぐらいなもの 具体的兵数の記述は無いが、あんまり大兵力だったとは思えないなぁ…
>>444 高坂、内藤が千騎弱、6千、5千前後持っているから
光秀、秀吉もそのくらいか。
志賀の陣をピークに、朝倉軍は積極性を失い内部崩壊を始めるよな なんでこんなに脆いんだ? 信長本隊はともかく、柴田・丹羽みたいに機動的に近畿の戦域に対応していた連中を拘束できれば信玄病没でも、将軍蜂起があっさり潰れることは無かったかもしれんのに
虎御前山は防壁付軍用道路も備えていた要塞らしかったから 浅井朝倉が力攻めしたとすると、攻城戦に等しいだろう 何分の一かの兵力で十分だったんじゃない?
>>446 その前後に世継ぎが死んで女色と酒に溺れはじめたからだ、って知り合いの朝倉家臣は言ってたよ
>>447 信長が東濃か尾張、三河まで出張して後方が空っぽだと、そうもいかない。
>>409 >さらに実際の行動でも徳川だけを相手にした領土獲得が目的なら三方ヶ原後に
>天竜川以東の支配を目指すのが通常だな。それをしないで三河に入って野田攻め、
野田城落として吉田城を狙う、三河と遠江を分断する、
徳川だけを相手にする場合でも妥当な戦術だと思うが
>>448 あまり手薄だと、賤ケ岳みたくなりかねないしな
秀吉、光秀それぞれに、それなりの手勢は必要だと思う。
>>445 もうちょい少ないと思う
この時期光秀は明智軍記によると志賀郡と北山城合わせて10万石らしい。
兵数は約2500
秀吉は戦後伊香浅井坂田のうち12万石もらているから、72年の時点で8万石ほど支配と
考えると近江での兵力が樋口堀あわせて2000、美濃尾張の最初から持ってた兵力が
1500〜2000程度とするとこの時点では3500〜4000といったところだと思う。
それに加えて浅井朝倉を破ったときは梶原勝兵衛・富田長繁・毛屋猪介・中野又兵衛・
滝川彦右衛門らがいるが元近習じゃあ兵力なんて微々たるものだろうし。
問題は朝倉の寝返り連中だがこれはどの程度の兵力だろ?
地侍じゃあるまーに、寄子もそれなりの手勢を持つor預けられてるでしょ。
三好だってどれほどのことができたか。 義昭が蜂起したときに「二万の兵で駆けつける」なんて言っているが、そんな大軍勢が 当時の畿内にあった記録はない。義昭が二月に蜂起してから京を追放される七月まで、 信長は何度も京に進軍しているが、それに対して三好の軍が対峙したことは一度もない。 岩成友通なんて、山城の青龍寺城にいたのに全く動いていない。
>>409 >見殺しにはしないかもしれないし、するかもしれんな。
つまり、君にはわからないと言う事だね。
見殺しにするわけ無いだろ。
徳川を見殺しにすれば自領の横に200万石の大勢力を作る事になるんだぞ?
織田がどうしてそんな事を許すと思うんだ?
だから徳川を攻めれば織田が徳川に援軍を送るのは必定。
だったら武田から手切れする形にして、精々状況を利用しているだけだろう。
ところで
>将軍や三条つながりの本願寺、朝倉を騙すメリットがない、
>と言うか騙した場合デメリットだらけ。
のデメリットってなに?
まさか、「非難される」じゃないだろうな?
それ以前に405見るなら、先に攻撃を仕掛けたのは織田からのようだが
岩村は元々織田の城で、上洛時に秋山が攻め取って、 織田が再奪取したのは信玄の死後じゃないのか?
>>454 仮定にしてる話が武田の西上作戦は徳川のみを相手にしたものと
武田織田同盟の存続を条件にしてるからわからんといったのだよ。
勝頼と遠山氏、信忠と松姫の婚約など比較的結びつきの強い同盟だし
織田も余裕のある状況ではないからな。
簡単に言えば信用の失墜だろうな。今までの外交が全て無意味になるし。
>>457 >見殺しにはしないかもしれないし、するかもしれんな。
の文章がとても
>仮定にしてる話が武田の西上作戦は徳川のみを相手にしたものと
>武田織田同盟の存続を条件にしてるからわからんといったのだよ。
をあらわしているとは思えんが、まぁいいや。
>勝頼と遠山氏、信忠と松姫の婚約など比較的結びつきの強い同盟だし
それは織田は徳川とも婚姻していて、さらに家康は何度も織田に援軍を送っている事を
覆すほどの強い同盟か?
200万石の勢力を自領に接しても安全と思えるほどの同盟か?
>織田も余裕のある状況ではないからな。
横に200万石の勢力が出来れば余計苦しくなる事ぐらいわかるだろ?
>簡単に言えば信用の失墜だろうな。今までの外交が全て無意味になるし。
結局その程度の理由か?
武田が信用の失墜を気にして行動しているとでも思っているのか?
>>457 徳川領の獲得を目的とした場合それを実現できたなら
それまでの外交が無意味になるとは言えないのではないでしょうか
信玄の外交なんてもともと信用なんてないと思うが。 親父追放して最初にやったことは姉の嫁ぎ先である長年の同盟者を騙し討ち。
>>456 通説はそうだけど新説?では
54年から65年ぐらいまでは武田に半従属
65年から72年夏ぐらいまでは、武田織田に従属 ただ織田より武田との関係がより深い
武田の駿河攻め飛騨攻めに参加していることから
72年秋当主の死亡 信広川尻が恵那郡・岩村を攻めて開城 恵那郡遠山一族を織田側に引き込む
72年11月 秋山が岩村を攻めて開城 武田側に取り戻す 但し岩村以外の恵那郡の城は織田に属する
74年1月 勝頼が恵那郡の諸城を攻めて恵那郡を武田の統治下に
75年長篠後 織田が恵那郡の大半を取り戻し岩村を囲む
75年11月 岩村開城 恵那郡は織田の統治下に
>>460 あんまり長い同盟でもないよ。
10年たってないだろ
>>461 72年秋って、信玄はとっくに義昭や松永・三好本願寺と通じていて織田との
決裂はきまっていた時期では?
まあ、外交上の手切れと軍事的な衝突のどちらに主眼をおくかで変わってくる
と思うが。例えば武田と今川の場合、信玄が駿河に侵攻した68年12月が同盟
終了とされていたが、最近ではそれ以前から外交的には断絶状態(婚姻破棄など)
にあったとされているし。
これに関しても、氏真が上杉と同盟を結んだりしているから先に同盟を破棄
したのは今川とする主張と、いやその前に武田は織田や徳川と同盟を結んで
いるだろう先に破ったのは武田だとする主張がある。
つまり、織田と武田もとうに冷戦状態を超えており、いつ衝突がおこっても
おかしくはなかったと(織田はその事態を避けよう、先延ばしにしようと色々
努力していたようだが)。
なんかこう書いていると太平洋戦争直前の日米関係な気がしてきた。
20世紀では先に手を出した方が悪役とされたが、16世紀にそんな価値観が
あったとも思えないしなあ。
464 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/26(水) 03:03:16
勝頼が織田家から嫁もらった後で氏真は怒って 上杉家と連絡取ってるとです。 でも上杉家は遠すぎて役に立たなかったとです・・・・
>>461 ,463
「顕如上人文案 巻上」1572(元亀三)年9月10日付 、信玄宛の顕如書状です。
文案の中で、信玄に対して信長への態度を明らかにしてますが、
「對信長遺恨深重候」って、、、なかなか血気盛んな坊主ですね。(笑
鳥
就信長當寺和平之儀、爲武家被下置御使者、信玄有入魂趣、被仰出由候、
對信長遺恨深重候、雖然貴邊之儀、不可有贔屓偏頗之御調略候之條、從是旨趣以使者可申展候、
委細頼允法眼可令申候間不能詳候、穴賢、
九月十日 (署名欠落)
法性院殿
>>458 いや、前提がその二つの条件だし。
史実でも援軍は3千のみ三方ヶ原の後も2ヶ月近く武田が徳川領で行動してるのに
信長は援軍よこしてないしな。
前提が武田と同盟存続。しかもそんな危機感あったならもっと徳川助けてやれよ。
重要な事だな。
逆に武田が信用の失墜を気にしないで行動しているとでも思っているのか?
>>467 >史実でも援軍は3千のみ三方ヶ原の後も2ヶ月近く武田が徳川領で行動してるのに
>信長は援軍よこしてないしな。
篭城するには十分だからな。三方ヶ原は家康が無謀だっただけだし。
>前提が武田と同盟存続。しかもそんな危機感あったならもっと徳川助けてやれよ。
篭城するには十分だからな。
>重要な事だな。
>逆に武田が信用の失墜を気にしないで行動しているとでも思っているのか?
思ってるよ。
同盟していた諏訪をいきなり攻めたり、
上杉方の家臣に反乱を起こさせておいて救援に行かずに見捨てて、
その間に他方を攻めたりとても信用を気にしているとは思えんが。
>>462 のように長い同盟じゃないからとか言うなよ?
長い同盟じゃなかったらいきなり破っても信用がなくならないとでも言うわけじゃないぞ?
>>468 その篭城策が家康の過失とはいえ失敗してるのだし
そんな危機感あるなら第二、第三の援軍出すだろ。
まあ、信長は篭城を望んでいたとしても家康の裁量次第だからな
金ヶ崎にしろ姉川にしろ家康自らの援軍を受けてた借りがあって
なおかつそんな危機感の割にはしょぼい援軍だな。
前スレ読んでないだろ?
読んでから言ってくれ
470 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/26(水) 08:54:56
助けるんだったらとことん助けないと本気で助ける気が無いってお子さまですかw
信長公記によれば、信長の下に二股城攻囲の報告が届いたのは11月下旬 三方ヶ原合戦が起こったのは12月下旬 一ヶ月しか時間が無かったんだから3,000という数字の意味も大分変わってくると思うんだが
>>471 11月下旬の注進は二俣落城の報告だろ。
それに、一ヶ月で3千しか準備しないのはしょっぱ過ぎ
>>472 いや攻囲で間違いない
一ヶ月で3,000も動員するのは大変なことだろ、普通は
つけた武将も家老衆に属する高級将校ばかりだし
三方ヶ原後、織田側史料は近畿の対応にばかり目がいくし 武田側も信玄病没が中心になる 徳川関連の史料も、家康が失地奪回に動いたことがメインになり… もしかしたら記録に残ってないだけで何かアクションがあったかもな。不発だから放置されてて…
>>473 攻囲の注進の直後、落城の注進があるじゃん
>>474 4月の義昭恫喝と六角退治まで、目立った動きは無い
武田側は野田城攻囲、落城と城普請がある。
>>475 二股城を武田が囲んでから落とすまでの期間は無視ですかそうですか
>>476 最初の注進があった時は既に落城してるだろw
>>477 当時の通信技術は既にリアルタイムだったのか(藁
二股城落城は12月19日だろ
11月19日までには落ちてるのが定説。
>>480 そんな定説しらんがなw
誰が主張してるのさ?
だいたい11月落城なら、武田軍はその後一ヶ月間何をしてたわけ?
信長公記には、「11月下旬、遠州表より信長公のもとへ甲斐の武田信玄が遠州二俣城を囲んだとの報がもたらされた」とある 情報が遅かったのか、太田の記述間違いか。それともやっぱり12月落城が史実なのか
>>481 城普請と面積にして7割以上ある遠江の処置じゃないの?
>>482 甲斐の武田信玄が遠州二俣城を囲んだとの報がもたらされた」
の直後、落城したとの報がもたらされた」ともある。
味方か原後は武田軍は一応武田領側に引き上げているんだが・・・ 織田が援軍出すとしたら野田城囲んでる1ヶ月の間ぐらいだけど 野田落とした後も武田は長篠城に退いてるし。 わざわざ織田援軍出すほどか?
>>484 勝手に武田領に退いたことにするなよ、半年間徳川領を荒らしまくっているだろうが
>>469 もはやイチャモンでしかないって自覚しているか?
だから、武田から手切れしてない場合は織田は徳川を見捨てるはずとでも言いたいのか?
危機感があっても状況が許さなければ援軍は送れないだろ。
それに史実で援軍を送っていなくても徳川は滅ぼされていない。
あの時点からでも篭城すれば持ちこたえらるとの判断したとも考えられるだろ。
それともそんなに危機感があるなら不要でも援軍送れとか言ってるのか?
>>470 の言うように子供か?
野球板の岡田解任スレにこんなのがあった。 723 名前: 631 [sage] 投稿日: 2005/10/25(火) 23:19:28 ID:6RXqp7bz0 ちょっと凝ったのを作ってみた。 強引な手法を用いながらも甲斐統一を果たし、武田家躍進の基礎を作った信虎。荒療治的なID注入を図ったノム。 最後は人望を失い石もて追われた点も微妙にダブる。 信玄と星野は先代の残した戦力を活用しつつ新たな人材登用も行って黄金期を築いた。 調略に力を注いだ信玄の戦法と、トレードを積極的に活用した星野。試合(合戦)だけがペナント(戦争)ではないという基本思想や、 ともに健康不安で片や上洛、片や日本一の夢道半ばにして戦線を離脱した点は共通するものがあるといえるのではないだろうか。 星野色の払拭に腐心し、優勝時のコーチを一層した岡田 勝頼もまた自前の軍団を構築するべく、馬場信房や飯冨三郎兵衛、高坂弾正といった父の遺臣を遠ざけ、譜代の家臣を重用した。 勝頼は信玄と比較され侮られることへの恐れから強行軍を重ね、国力を疲弊させた挙句に自らの力を過信し長篠で織田徳川連合軍に大敗を喫した。 長篠の戦いで甲州軍を支えてきた有能な武将の大半を、何より人望を失った勝頼は、滅亡への道をひた走ることになる。将兵が我先にと敵前逃亡を図る中で一門の武将に殺されてしまうという悲惨な最期を遂げた。 さて、岡田阪神の今後はどうなるか。 まさに強行軍を重ねてきたJFKは来年も無事に稼動するのか。
>>486 前提条件と織田の状況から始めに送るか送らないかわからないと言わなかったか?
>危機感があっても状況が許さなければ援軍は送れないだろ。
>454
>だから徳川を攻めれば織田が徳川に援軍を送るのは必定。
どっちだよ(笑)
>>488 >前提条件と織田の状況から始めに送るか送らないかわからないと言わなかったか?
あぁ、俺が君にはわからないのか、援軍は必ず送るって言ったことに反論したから、
援軍は送らないに決まっているという意見に変えたのかと思ったら
君の意見は結局「わからない」なんだね。
>>488 >>454 は武田が徳川を攻めた時点(三方ヶ原前)の話で
>>486 は君が
>>469 で言っている第二・第三の援軍について不要・難しいという話。
史実で織田は徳川に援軍送ってて、三方ヶ原後は援軍を送らずしかも徳川は滅んで無いだろ?
何が問題なんだ?
浜松に篭城するのであれば別に信長の援軍が無くても可能だろ、無いよりはあったほうがいいが むしろ援軍が来たから家康はうってでたんじゃね、少しは望みがあると思って。 援軍が来なけりゃそのまま浜松に引きこもっていたろ。
>>481 ちなみに結構前のスレで二俣がいつ落ちたか話題になったこともあったが
その時も10月から〜12月までと様々な説があったぞ
ソースが歴史群像やどこかのHPとかだったけど
どうだろうね。 始めから篭城したら頼りない大将と思われて、家臣に離反される可能性があるし士気にも影響がある。 一戦してから篭城しようかと思ってたら、思っていたより大敗してしまった。 と言う感じと思ってるんだが。
>>489 まあ、仮定の話だからな。推測することはできるけど断定はできないよ。
むしろ分かってる君が凄い。
>見殺しにするわけ無いだろ。
>徳川を見殺しにすれば自領の横に200万石の大勢力を作る事になるんだぞ?
>織田がどうしてそんな事を許すと思うんだ?
>横に200万石の勢力が出来れば余計苦しくなる事ぐらいわかるだろ?
ここまで言っといて三方ヶ原の後は援軍不要ですか…
むしろ家康の状況は厳しくなってるのに。
信長が信玄の健康状態を知ってたなら分かる話だけどね。
一言坂の戦いって史実なの?
>>485 一応
>>484 は正しいぞ。
三方が原後は一応武田の勢力圏に戻って正月を迎え武田領の遠江三河を通って
徳川の野田城を攻め落として、また武田領の長篠にまで戻る。
徳川領で行動していた期間はそれほど長いわけじゃない。
もっとも織田が小谷周辺荒らした後佐和山横山あたりに移動したみたいなレベルの話だがw
亀レスな気もするが武田が徳川併呑しても150万石くらいだよ
>>495 戦いそのものは事実だと思うけど。
ただ本多忠勝が大活躍して信玄が感嘆したとかは後世の創作のような気がする。
感状とか出してないだろ家康。
>>494 >まあ、仮定の話だからな。推測することはできるけど断定はできないよ。
断定は出来ないとして、どっちの確立が高いと思ってる?
>ここまで言っといて三方ヶ原の後は援軍不要ですか…
史実で三方ヶ原後は援軍なしで徳川は滅んでないのになにが不満なのか?
もちろん三方ヶ原直後は大丈夫でも史実どおりに信玄が死ななくて
その後さらに徳川がやばくなり、逆に織田に余裕が出てくれば第二の援軍も
あるだろうけどな。
状況が変わった場合の話なんだから、「どっちだよ」とか言うなよ。
>>496 正直、無駄な移動してんなあとしか思えないんだが。いちいち領国にもどって
また前線に出てって、移動しているだけで時間の無駄。
それとも、武田軍は一度城を落したら一旦領国に戻らなければ次の戦いは出来
ないのか?それじゃあ上洛なんて議論の余地なく不可能になってしまう。
「落した城にとどまって占領地政策を行っていたので次の作戦行動に出られません
でした」ってのならわかるんだが。
>>498 まあ150万石でも十分脅威だろうが、徳川がそう簡単に滅びる若しくは降服するか?
それだったら伊香郡含めて全領土を荒らされて領土が最盛期の3分の1ぐらいにま
で減らされてる浅井のほうがよっぽど先に降服しそう。
>>498 まぁ数字は大体だな。
大勢力が横に出来ること自体が問題だからね。
>>501 一応信玄のため弁護するが
三方が原後、遠江から三河に行こうとするなら武田領を通るか徳川領の真っ只中の東海道を
突っ切るしかないから、一旦武田領に退くのは当然。
野田城落とした後もすぐ長篠まで退いたが、最前線にいるのは危険だし野田にいるよりも長篠
のほうが兵を退きやすいし、美濃への転戦・秋山支援もしやすい、甲斐信濃と連絡取りやすい
し上方や浅井朝倉とも連絡しやすい。
>>504 徳川が三方ヶ原で無力化してるなら東海道通っても問題ないだろうに徳川配下の動揺を
誘うならそっちのほうが効果的だ、徳川領を荒らすこともできるし。
それができないということは徳川がまだそれなりの抗戦力を持ってる証拠じゃないの?
だとしたら徳川を放置して織田と決戦は無理なんじゃない。
武田は領土に戻ってないよ。 刑部は武田が進軍するまでは徳川領だからね。
>>506 刑部はこの時にはもう武田領じゃないか?
>>504 そのペースだと何時ごろ上洛できそうですか?
>>507 いや、刑部城はまだ徳川領、武田が侵攻して即日落城
>>501 >>504 基本的には504の言う通りだけど刑部付近は山県が先に制圧してるし
でも宇利峠(現東名高速の県境)は徳川領だから、
三河への移動時は徳川領(と言っても外れだが)を通過してるぞ。
>>511 どっちも正しくないと思う、というか不明なはず
まともなソースが無いため刑部に滞在したのは確実と考えられてるが
落とした時期というより、徳川が落として菅沼が守備して以降の詳細は
不明だと思ったが・・・
513 :
512 :2005/10/26(水) 22:36:28
訂正 山県が刑部付近というか伊平小屋井伊谷辺りを 三方ヶ原前に通過してるのは正しいか
>>502 ≫まあ150万石でも十分脅威だろうが、徳川がそう簡単に滅びる若しくは降服するか?
うん 150でも十分脅威 。しかし簡単に降伏するとも思えない。
でも家康(自身にも)に大打撃を与えた。あの肖像画は笑える。
織田徳川連合を滅ぼす(完全に)んじゃなくて
封じ込め作戦という見方はできないだろうか??
信玄自身 時間の余裕が無かったのが分かっていたか否か
それは分からないけど
515 :
509 :2005/10/26(水) 22:48:08
>>511 ソースは「菅沼記」
これによれば刑部城主の安方越中守は小身で城を守れず即日城を明渡して
退去したらしい。
その後、井伊谷で遠三の豪族を傘下に入れてから山家三方衆の薦めもあって
野田城攻めを開始したとのこと。
>>515 始めて知ったやそんな本
てっきり山県が伊平小屋攻めた後、井伊谷とついでに刑部を制圧したものだと思っていたよ
ようするにあれか姉川で浅井朝倉を破った後に横山を落としたみたいなものか 三方ヶ原後に刑部城を落として付近の豪族に声をかけたのは
>>519 微妙だな信頼はできないが無視もできないぐらいの位置付けか
個人的にはこの地方の話だし他に有力なソースがないなら信じても良いかな
>>521 そんなところだろうな、それに刑部城がいつ落ちたとか野田城攻めの先鋒が誰とかは
さほど重要ではないし、武田は三方ヶ原後刑部城を攻め越年し、井伊谷付近で北遠江
の仕置きをしてから、徳川領の外れを通って(東海道だと遠回りだから上にあったほど
悲観的になる必要は無いと思うが)三河へ移動し野田城を攻めたと。
兵数の3万5千と野田城の兵数1000は誇張な気はするが・・・
歴代古案には、三方ヶ原後、浜松に逼り、転じて刑部へ陣す とあるらしいから、即日開城か既に武田領だったのか判断難しいな どっちでも大差無いけど。
簡単に1573年時点で、信長が3万、信玄が2万5000の精鋭を率い 尾張か三河で衝突したらどっちが勝つのってことじゃないのか?
信長30000なら(本国尾張も近いし)なんとかなるだろうけど、 信玄25000は、家康への備えも(特に本国への帰還ルートの確保は)必要だから、きついと思う。
>>524 その条件なら信玄が勝てないで決まりだろ
信玄が勝たないでもいいけど
527 :
524 :2005/10/27(木) 04:03:30
>>525 だけど、信長は美濃の岐阜城が本拠地とはいえ
尾張が武田の手中に落ちたら尾張だろ?
自分の出身地と織田家-50万石と武田家+50万石なんだから。
>>525 調略で武田方に付く武将や松永弾上、更には信長包囲網が活性化する
可能性が高くない?(足利義昭、浅井朝倉、一向宗)達。
>>527 まず単純に戦場で信玄と信長が戦うとき兵数その他が互角程度なら
信玄が勝つという可能性は限りなく低い
72年末の段階だと包囲網が活性化するというより武田が織田と敵対
したおかげで滅亡しないで済むやといったような存在ばかり
というかテンプレ見れ
>>528 まず単純に戦場で信玄と信長が戦うとき
兵数その他が互角程度なら信玄が勝つだろ、最強騎馬軍団だからな。
それはともかく、テンプレ(67)の織田勢から浅井、朝倉、本願寺に対する明智、羽柴の軍勢を差っ引いて
六角や畿内の確保、長島の備えを引くと←(後方が手薄だから必然多目になる)↑
信玄と存分に対陣できるのは、2万前後だろうね。
>>527 調略で武田方に付く武将より調略で織田につく武将のほうが多いと思うのだが・・・
史実でこの時期織田方から寝返ったのは三河遠江の国人衆、それも武田に制圧
された結果だし、岩村も攻められた結果の降服
近江の石山、今堅田も織田の家臣というより幕臣、北山城や摂津河内の国衆も
幕臣系の者達が義昭と信長が対立したため織田と敵対したので織田からの寝返
りとは言いにくいし、それらの者達よりも細川(明智)が織田に付いたほうが勢力と
してでかいのでは、それに荒木もこの時期織田に付いてる。
またこの時義昭についた勢力も大半がすぐ織田に付いてるし。
>>529 小説などではなく史実での信玄は
>兵数その他が互角程度なら
という条件なら勝つ負けるという以前に戦わない
故に
>>526 の意見が一番適切だと思う。
>>67 のテンプレって正気か?
それともこれは織田厨の武田厨の評判を落とす謀略か?
>>531 いや多少有利程度でも無理に戦おうとはしないだろ
第四次は偶然決戦のようになっただけだし
>>532 何でも織田厨のせいにするなよ
>>531 ある程度有利だったにも関わらず負けたりしてるけどな
5分の兵力の相手には勝ったこと無いし
今何人いるんだ3人? それとももう一人ぐらいいるのか?
536 :
524 :2005/10/27(木) 04:41:34
東美濃にはちょっかいを掛けられていながら 姉川で浅井朝倉連合軍に徳川家の奮戦でやっと勝てた織田の軍勢が(1570) 徳川軍が崩壊した後、同数の武田家とどう戦えるのか、教えてもらえませんか? 信長は信玄の上落戦を迎え撃つ決戦の地をどこに選ぶんでしょうね。 徳川家が滅亡したり、尾張が武田に併合されたらかなり不利になると思うのですが。 長篠の戦以前は、武田家の兵士一人は織田家の兵士五人に相当するとまで言われていたんだぞ。
正直武田軍2万5千対織田軍2万でも、信玄じゃ勝てないのではと思うのだが・・・
>>536 そんな漫画や小説をソースに持ってこられてもどのようにレスを返せばいいか迷うよ
>>530 三河遠江の国人衆は制圧前に寝返っているけどな、しかもボロボロと沢山、案内役務めたのまで居るし。
>>534 塩尻峠、対上杉憲政色々あるだろ
>>537 思うのは勝手だよ、誰にでも妄想の自由があるからね。
541 :
540 :2005/10/27(木) 04:50:18
あれ?語尾に変なのが付いちゃった
>>530 東美濃の3城主が寝返りを約しているから
実際に東濃へ本格侵攻していれば間違いなく織田から離反しただろ。
>>539 佐久攻めの際の上杉の援軍を倒したときは実際に戦った部隊の兵数はともに3000って話も
あるから分かるが、塩尻は違うだろ。
諏訪に攻めてきた段階での兵数も誇張くさいし、それでも武田以下だが、武田戦う前に仁科
なんかが帰っちゃっているから兵数はもっと少ない、それに戦う前に多くの武将が武田に内
応していて、実際武田と戦ったのは小笠原の本隊のみと言うぐらいだから兵力差は実際には
武田が圧倒する形になっていただろ。
塩尻いれるなら今川攻めだって最初は氏真が誇張だろうが四万とかいう兵力で武田より多い
のだからこれも入るはず。
>>542 思うのは勝手だよ、誰にでも妄想の自由があるからね。
>>542 前にもあったなこの話
で具体的にそいつらは何か行動したのか?
書状での内応の申し合わせにどれだけの価値があるの?
というか過去スレ読めよお前ら
>>539 >塩尻峠、対上杉憲政色々あるだろ
色々あるな挙げてくれ、俺も知りたいから
>>543 >それに戦う前に多くの武将が武田に内応していて
>実際武田と戦ったのは小笠原の本隊のみと言うぐらいだから
遠三制圧でも多くの国人、地侍が調略で寝返ったように
4月に信玄が死なず美濃へ兵を進めた場合、この頃の双方の威勢や
信長の苦境を考えると、3城主や微妙な遠藤の他にも織田方に綻びがでたと思う。
>>536 >徳川家が滅亡したり、尾張が武田に併合されたらかなり不利になると思うのですが。
そりゃ徳川が滅亡したり尾張が併合されたら不利になるだころじゃないと思うが
まずどうやってそこまで辿り着くんだよ、徳川滅亡よりも、織田の本願寺以外の
畿内制圧、浅井六角滅亡の方が早いだろ。
>>549 >で具体的にそいつらは何か行動したのか?
山家三方衆や奥山も、行動したのは武田軍が侵攻してきてからだが…
何故そいつらだけ、いきなり何か行動する必要があるんだ?
>書状での内応の申し合わせにどれだけの価値があるの?
書状ではっきり内応を申し合わせて、寝返らなかった例を挙げてみてくれ。
>>552 吉田城が落ちると東西が完全に断たれるよ
それでなくても、多くの寝返りが出ているのに…
>>551 思う言われてもなー
美濃に転進したら史実のように徳川が三河遠江で反撃に出るだろうし
織田の主力と東美濃で対峙しても畿内諸勢力に何かやれるほどの実力はないし
>>554 落とすのにどれぐらいかかる?
一応徳川の主力が篭ってる城だぞ。
>>553 書状以上に大名の元に参内して寝返りを約束したのに寝返らなかった大内定綱がいるが
そもそも寝返るなら岩村が落ちた時点で寝返るんじゃないか?
>>555 >美濃に転進したら史実のように徳川が三河遠江で反撃に出るだろうし
信玄死後の隙を突いての行動を、この時期も出来ると思っちゃうのは凄いな
それ以前に、吉田を攻囲されたら持ち堪えられないだろうけどね。
その後で、美濃へ進めればいい
東美濃での対峙に織田の主力を向けたら、畿内諸勢力に何かされちゃうよ。
というか国境の国人の動きなんてどっちにでもつけるように行動するだろ 遠山氏だって武田に仕えながら織田とも関係持っていたし、小山田も武田の家臣で ありながら北条の他国衆に名を連ねたり 真田も武田に仕えていながら謙信に太刀か何かを贈ったりしてるし。
>>557 武田軍の主力が遠江に居る頃だなw 岐阜の信長に攻められて終了
>>556 天険にある小谷城は、5月の攻撃が失敗したあと8月に落ちてるな
推測に過ぎないが3ヶ月あれば落ちるんじゃないか?
>>558 71年の後にも行動してるし、信玄が死んだか分からん時期にも反撃してる
むしろ織田と東美濃で対峙してる時のほうが容易に東海に出てこれない分
嘘か本当か分からない信玄の死の時より安心して反撃しやすそうだが・・・
畿内諸勢力に何できるの?本願寺が動くなら別だが、松永とかほっといても
滅ぶんじゃないか?
岩村が落ちたときって織田軍は近江で浅井朝倉の相手してなかったか?
>>560 小谷が落ちたときとは状況が違いすぎるだろ
というか吉田城落としてようやく姉川後の横山開城の浅井と同じぐらいじゃないか?
>>564 >というか吉田城落としてようやく姉川後の横山開城の浅井と同じぐらいじゃないか?
言われてみれば確かに似てるな、地理的状況とかも
ただ浅井にはかなり頻繁に来る朝倉の援軍があったが
あと石高的には徳川のほうが上か?
567 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/27(木) 05:43:40
何で深夜にこんな伸びてるんだよ荒らしか厨でも来たのか誰かが自作自演でもしまくったか
>>566 姉川の前後の鎌刃や横山を奪ったことで浅井領を南北に分断
吉田城を落としていれば徳川領を東西に分断
似てるな
でも分断後浅井はそこから随分粘ったよな、ほとんど全領土焼き討ちされた
72年から更に一年粘ってるし、降服はできなかったのだろうか?
信玄は同数の場合決戦しないと言ってる人いるけどそれは違うと思うな 信玄の場合、戦の前に相手を上回る兵を用意したり調略したりと常道を 行っているだけで必ずしも決戦しないわけではないからな
>戦の前に相手を上回る兵を用意したり調略したりと常道を 行っているだけ 同数じゃないじゃんw 誰もそれは非難していない。 信玄が戦略家として力があることの証左だし、戦術で戦略が覆せる奴のが稀だしね。 ただ信玄は戦術家としては失点が多すぎるし、 慎重なので同数未満の場合は決戦を避ける傾向が強いって話だ。
晩年の信玄に限っていえば戦術の失策はないし、むしろ磨きがかかってる。
>>570 >ただ信玄は戦術家としては失点が多すぎるし
若い頃の話でしょ?信濃併合以降は失点らしい事は無いし
信長も若い頃、義龍に負け浅井に殺されかけ坊主にボコられる等、失態を演じてる。
演じてるだけだ 演技だ
どこまでが戦術でどこからが戦略かはわからんが 晩年の信玄に限っていえば三方ヶ原や三増峠は相手の倍の兵力なんだから戦闘そのものは 勝って当然だろ 信長は斎藤戦では兵数的には5分だし、浅井には勝ってる 長島攻めも砥石崩れ同様負けかどうかは微妙だろ
長島攻めが砥石崩れと一緒なのか?
>>576 同じようなものだろ、主力決戦で負けたわけじゃないし
第1次長島攻めと砥石崩れは戦略的には前者は成果特に無し後者むしろマイナス?
戦術的にはともにしんがりの部隊に大きな被害がでたが本隊は無事撤退に成功。
金ヶ崎も同じか
578 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/27(木) 16:44:51
三方が原も家康の勝ちになるのか? 戦術的には大きな被害はでたが本体は無事撤退。 そののちに信玄はなんらかの理由により撤退。 家康は見事守りとおした。となるが
>>578 レス返すのもどうかと思うがそれは違うだろ
長島攻めと砥石崩れはあくまで撤退してる時に起きた話だぜ
信玄は家康をどうしようと思ってたんだろうね。 どうも、ハナから本気で家康を殺しにかかってたようには見えないんだけど。 むしろ絶対に敵わないことを思い知らせた上で従属させようとしてたんじゃないかという気が。 信長には徳川滅亡よりもそっちのほうがショッキングだろうし、信長包囲網が瓦解寸前だった状況では武田単独で信長に挑むより徳川を引き込むほうが得策に決まってる。
581 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/27(木) 18:27:50
信長には徳川滅亡よりもそっちのほうがショッキングだろうし 信長包囲網が瓦解寸前だった状況では武田単独で信長に挑むより徳川を引き込むほうが得策に決まってる。 できればこの辺の根拠を
>>581 そりゃあ、同盟相手が滅亡するより寝返って敵に回るほうが常識的に考えて心理的にはショックじゃないかと。
徳川が寝返ったとなると、信長に従っていた他の勢力への影響は当然懸念されただろうし。
客観的に見ても、徳川が滅亡まで追い込まれた場合よりも武田徳川双方の戦力が温存されるし、武田が旧徳川領を治めるよりも徳川が引き続き統治を行うほうが領内の統治も安定しやすい気がします。
また織田領内への侵攻を考えた場合、徳川を滅ぼした場合、信長が残党を支援して織田領内への侵攻作戦に支障をきたす可能性もあると思います。
もちろん、どうしても家康が屈服しかった場合は滅ぼしたと思いますが。
>>575 戦全体を見ると三方ヶ原は篭城決め込んでる家康をつり出しての戦闘だし
三増峠は撤退中で軍として一番厳しい状態の時の勝利だから
単純に兵の数が違うから勝って当然とは言えないと思うぞ
>>583 だから
>>575 は戦闘そのものと話を限定してるじゃん
戦略と戦術と戦闘そのものを一緒にして語るなよ判りづらい
別にわかり辛いとは思わんが的外れではあるな
>>583 >>581 根拠なんて必要か滅ぼすより徳川がそのまま味方になったほうが時間的にも
武田徳川の消耗がない分含めて有利に決まってるだろ、まあ武田から見れば
従属よりは完全支配のほうがいいだろうけどさぁ
まあ滅亡か従属が実現できるかどうかは別問題だけど
従属する気ならもっとはやい時期にしてるよな。 散々に負けて威信もなくして領土も縮小した状況で降伏しても軽く扱われるだけ。
>>586 対織田戦が残っていてしかも徳川が武田に味方してという状況でさえ武田側が絶対的に
有利と言えるほどでもないのだから、軽く扱うなんてことはしないのでは
家康にとっては信長と信玄どっちが怖いか、また頼りになるかという選択だろう。 相越同盟を切った時みたいに信長は頼りにならない(援軍来ない)、しかも信玄ツヨスと思わせれば、家康がよほど信長に惚れてるか信玄を恨みに思ってない限り乗り替えもありえるのでは。
恨みに思ってるだろうな
むしろ信長のほうが・・・ 息子と嫁のこと切らされてるし。
信康が武田家と通じてたって話もあるし 降伏も十分にありえるが
順序が逆だろ
まあ信康つーか旧今川家臣を通じて当然武田家との交渉はあったでしょう。 それがリスク管理ってもんだし、家康なら絶対やってると思う。 築山殿なんかはそのまとめ役としてうってつけではあっただろうね。 信康切ったのはむしろクーデター説を支持してるけど。俺は。 ただ国力で言えば信長の方が有利なのは間違いないはずで、 この時期は毛利なんかは敵対もしていないわけだし、 信玄さえ押さえ込んでしまえば信長が圧倒的有利。 つまり信玄が健康を保ちつつ、かつ信長が相当数の軍勢で三河などに 出てきて信玄と合戦をし、それで信長が負けてしまったような場合でなければ、 家康が信玄に寝返るというのは難しいでしょう。 まあ浜松か岡崎を三ヶ月とか半年とか包囲されて、それでも信長が出てきません とかだったらまた違うだろうけどね。
100万石ちょっとの武田が、40万石ちょっとの徳川を併呑できるチャンスを逃すとも思えんしね。 従属させる為にわざとつぶさないなんてありえん。
むしろ従属させたいなら浜松囲まなきゃダメだろ
徳川に関しては、勝頼の代で十分潰せると思って 一撃してから放置したのかも。
カンフーハッスル並にありえね〜
かといって放置したままで西進はできないのでは
そりゃ放置は出来ないだろ。 ある程度まで追い込むのは大前提の話だと思う。 いざ追い込んだ後、信玄は家康を殺したかったのか屈服させたかったのか、家康は死を選ぶのか降伏を選ぶのか。
内通までは行ってなくて、信康は親武田派で
親織田派の家康と意見対立してたのではない
かな?お家大事で泣く泣く切ったのではないかな?
>>594 従属させるも領地を切り取るも同時進行だったと思うよ。
信長が、各地に備えを残したまま吉田あたりまで出てこない限り 時間的に西進はもう無理でしょ
どうして織田の後ろ盾の下に抗戦するという選択肢がないのだろうか
>>602 信玄が家康をとことんまで追い込んだという仮定の上での話だろ。
>>603 だとしたらそこまで追い詰めるのに何年かかるんだろ?
>>603 史実では浜松を囲んですらいないのに
あなたが勝手に追い込まれたらとか決めつけただけでしょ
武田との交戦=敗北としているところに思考の偏りがあるのではないかな
>>451 八月八日ニ、越前ノ前波九郎兵衛父子三人、此ノ御陳ヘ参セラレ候、信長公ノ御祝着斜ナラス、
則チ、御帷、御小袖、御馬皆具トモニ拝領申サレ候、翌日又、富田弥六、戸田與次、毛屋猪介、
参ラレ候、色々下サレ、忝キ次第、大方ナラス、(巻五、奇妙樣御具足初ニ虎後前山御要害ノ事)
前波吉継ら朝倉降将の具体的人数について「信長公記」は伝えていないすね。
しかし「大方ナラス」と言ってることからも、兵数は少なかったんでしょう。
次に天正年間成立とされる朝倉方の史料を見てみますと、、、
翌日(9/11)前波九郎兵衛父子二騎打連れて白昼に敵の城へ相向フ、駒を早めて行程に、
諸人此者ハ義景勘気の身なれハ一忠節して赦免蒙らんと存し向ふかと思所に
(中略)
又四五日有て富田弥六長秀騎馬三人打連て敵の城へ走入る、其三人ハ富田并毛屋猪助、
増井甚内也、(朝倉軍談巻之下、織田信長江州北郡虎御前山城被拵事)
と、単騎投降を記してます。しかし後世に作られたと思われる「一乗録」には、、、
八月八日、吉継与子吉武、姪定全、及戸田与次郎率二百余人、白日走出、
(中略)
(富田)長秀本怨望義景、又有宿憾于景鏡、八月九日、遂与毛屋猪之助、増井甚内助共叛、白日走岐阜営、
投降した時の人数を200人としています。いずれにせよカナーリな少勢だったみたいっす。
朝倉方にとって問題だったのは離反人数よりも、前波という朝倉一門に列する武将が
真っ先に信長方へ降ったという心的動揺を家中にもたらした事実でしょーね。
屈服させるとして家康にどれぐらいの領土を安堵させる気だ
>>604 それは色々な要素が絡みすぎるからなー。
そもそも信玄があの遠征でどこまでの成果を挙げようとしてたかという解釈にも関わってくるだろうし。
でも家康をなんとかしないで織田領深く攻め込むというのは基本的にはありえないだろうから、なるべく早く追い詰めるつもりだったとは思うよ。
>>605 仮定を決め付けと非難されても・・・
そんなこと言ったら仮定の話なんて何も出来ないじゃん。
荒し?
まあどの時点で家康が武田に降るかという問題があるから、まずそれが決まらないと 何年かかるかは分からないだろう。 まだ家康を滅ぼすのに何年かかるかのほうが求めやすくないか
浜松は家康居城であって家臣等の本貫地は依然三河だよ 戦略的価値でいうなら岡崎≧吉田>浜松ではなかろうか
>>606 朝倉からの寝返り組みの兵数もあてにならないんじゃ
やっぱりかなりの少数で秀吉は守っていたんだな
>>609 仮定であるなら、どのように追い込むのか過程を説明しないと
追い込んだの一言で、死を選ぶのか降伏を選ぶのかでは飛躍しすぎでしょう
ちょっとまってくれ、
>>606 の
「大方ナラス」の解釈は兵数に関してでいいのか?
他の資料についてはともかく、まあ戦国期の兵士は大半が土地農民なのだから、
他国に身を寄せるときはある程度の身分の家来までしかついてこないのは当然
だが。
いいんじゃないの そんな疑問に思うなら自分で研究してみれば?
「大方ナラス」の解釈についてですが、兵数ともとれるし その前の「御祝着斜ナラス」を受けていると考えれば、 信長を一人称として「(信長の喜び)大方ナラス」とも取れますね。 これについては早計でした。まあ少勢には変わりないでしょうけどね。 ついでに一つ補足、「朝倉軍談」の解釈で単騎と書きましたが、 「騎」は通常数人〜数十人の「卒」を伴う場合があります。
>>616 >「騎」は通常数人〜数十人の「卒」を伴う場合があります。
そりゃそうだろうな、信長の元馬廻りで秀吉の下に残った武将も単騎ってことはないだろ
まあそれでも少数だろうけど
>>613 説明なしに追い込んだの一言ですむなら。
「たとえ信玄が死なずに西進しても織田が兵を送って信玄を追い込むから上洛は無理」
などと言う言い分が通っちゃうことになるしね。
こんなんで納得する奴は居ないが。
このスレ久しぶりにきたら35まで伸びてるんだ。 途中に抜けはないんでしょ? で、話は纏めに近づきづつあるんですか?
まだまだ纏まらない 信玄が上洛するまで纏まらない
>>613 断定や推測とは異なり、仮定の設定に詳細な過程の説明は必ずしも必要ではないと思われます。
もっとも仮定した状況自体がおよそ実現不可能だというのであれば、その仮定は無意味なものになるでしょう。そういう主張であるなら、あなたがそれを論理的に説明すればいいだけの話です。
622 :
621 :2005/10/28(金) 12:11:37
信玄が家康を自陣営に引っ張り込む意思自体があったのか? 今川攻めでの信玄の違約以来ずっと交戦してきたんだけど、その間家康を取り込む工作って特筆するものはないでしょ 徳川は兎に角潰すつもりだったんじゃない?
死去時点でも三遠の過半を制圧されちゃってるのだし 吉田が落ちれば、後は自然と崩れるね。
625 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/28(金) 14:46:02
謙信ってその時なにしてたんだっけ? 一向衆と戦ってた?
>>623 小笠原や村上みたいにある程度の勢力を持った相手は潰すんじゃないか信玄は
>>515 の「菅沼記」って、もしかして信玄が野田城で笛の音に誘われて鉄砲で撃たれて死んだ説のソースになってる本ですか?
三方ヶ原後の空城策も創作らしいが
篭城は兵糧があり援軍の見込みがある場合は降服しない。 後、敵の補給戦が長かったり別の勢力が敵領内に攻め込む可能性があり、 粘れば敵が撤退する可能性がある場合も降服しない。
徳川家康も、奥平みたいに簡単に武田に下ることは 許されないのよ。
浅井も降伏しなかったしねえ
家康の悲願は徳川家が独立大名として存続すること。 死ぬまでそのためにがんばった。 浅井は降伏したら、配下の国人衆から 総スカン食らうからじゃない?
>>635 つまり、家康は武田に降伏はできないな。
さらに言えば徳川だって、降伏すれば岡崎譜代はともかく遠江や三河の東部・
奥三河の国人衆から総スカンくらいかねない。
浅井・徳川共通なのは 1:敵に遺恨がある(浅井の裏切り(信長は許さないだろうから寝返れ無い)、今川領の協定違反) 2:援軍を期待できる(浅井は朝倉、徳川は織田) 故に追い詰めることは出来ても、降伏させるのは難しい。 援軍が来れば・・・という希望に怨恨があるからな。
降伏に反対するのは家康が降伏することによって所領や権限が減らされる連中だろうけど 徳川家の総領土が減ればしわ寄せは岡崎譜代にもいくだろうから譜代でも反対するんじゃ ない
>>635 とは言っても、信長の晩年はめっちゃ家臣扱いなわけで・・・・
本能寺の変がなきゃ独立なんて。
ハッまさか!!
信長も晩年は奇行が多かったからな 秀吉より性質が悪いものになったかも むしろ本能寺で死ねて良かったんじゃまいか とあんま関係ないこと言ってみる
浅井配下の国人衆は親朝倉反他の戦国大名 故に久政が親六角路線のとき長政を担いで六角と敵対させた。 長政が信長に敵対したのも同様のことだと思われ。
浅井は朝倉が背後に居たからね それに対して、家康は吉田が落ちたらバラバラ殺人事件 しかも織田は、朝倉程簡単に援軍を送れない状況だから 降伏するしかないな
豊川沿いに分断されたらきついだろうね。 武田でいうなら信濃往還が、織田でいうなら濃尾の国境が閉塞されるようなものだから。
きついだろうね それが「降伏するしかない」に繋がるのかは疑問だが
問題は、どうして信玄はそうしなかったか、だが。
死んだからじゃないか?
答えは、そうする前に健康に問題がでたから。 野田城から南へ行けば即、吉田城。作手を経由して西へ行けば岡崎城と 武田側にキャスティングボートがあったからね。
したり顔で語るとキモイ 格好つけてるつもりなのかも知れないけど 「キャスティングボート」の使い方おかしいから 慣れない言葉無理して使うなって
多分主導権と言いたいのだろうが、 キャスティングボードは(議決などの)決定権だからな。 素直に武田側に利があるとか、武田が主導権を握っているとか言えば良かったのに。
しかも、主導権があるかどうかと、 豊川沿いに分断するかしないかも別問題だしね。
つーか、キャスティングボードじゃなくてキャスティングボートな 言葉の使い方間違いは素直にすまん。 だけど、鬼の首とったように語るお前さん方もキモイ。
いや、言葉の使い方だけじゃなくて内容もおかしいよ。
岡崎へ出るのも豊川沿いに分断するかしないかも武田の選択次第だろ つまりこれを主導権と言わないか? 徳川は既に能動的に行動できないわけだし。 おかしいなら具体的に指摘よろしく
>>647 の文章では
健康に問題がなかったら豊川沿いに分断している、
その理由として武田が主導権を握っているから。
ということになるが、
主導権があるかどうかと豊川沿いに分断するかしないかは別問題。
豊川沿いを分断するかどうかの問題は、それを行う必要があるかどうかの問題。
ん?
>>647 でも豊川分断と岡崎進軍の二つの例を上げてどちらを取るかは
武田の選択次第といってるのだけど。
お金があったら買うよ。 お金があるけど買おうか買わないかはどっちでも選べるね。 と言う日本語はおかしいだろ。
前段は仮定、後段は意味的には通じる。
前段後段連続した文なら矛盾してるけど、
それが
>>647 の文とどう関係してるかが、わからないっす。
変な議論になってるねw
>>641 浅井と朝倉の協力関係ではっきり確認できるのは
1570年以降のものだけという話は根強くあるようだよ。
浅井スレとかだと。
六角が嫌いでとりあえずクーデターって感じじゃないかな。
豊川沿いに分断すれば確かに徳川は、織田に 亡命するしかなくなるかもしれないけど、戦後処理にも時間 を使うことになってその間に織田上杉ともに体勢を立て直す だろうから、徳川をつぶすのは、下策でしょ。 そのため信玄も三方原で家康に一撃加えて一時的に 無力化してからから西に向かったわけだし。 その後の動きが遅かったのは病状が悪化したからだろうけど。
>>647 >作手を経由して西へ行けば
岡崎までに街道沿いにいくつか城があるけど
坂田郡で浅井領は南北に分断されても南部は半年ほど単独で粘りましたが 北部の浅井領は3年ほど粘った それに戦前の国力比は織田:浅井は5:1ぐらい織田:浅井朝倉でも2:1ぐらい 武田:徳川も2:1ぐらい(実際にはもう少し比率は大きいだろうが) 徳川も浅井朝倉同様、吉田城が落ちてからも数年は粘れるはずでは
戦前の国力比は、大雑把に織田:浅井朝倉=3:2、武田:徳川は8:3くらいじゃない? しかも分断された場合、東部徳川の周りは全部武田だから粘るのは無理だし 西側にしても、武田の明確な敵は織田だけ、吉田城も岡崎も要害とは程遠いからどうだろ。
>>295 亀レスだが
歴史館の『信長公記』訳だと72年3月に木戸田中城を攻略となってる、ここを参考にしたのでは?
原文だと
『3月11日、志賀郡へ御出陣。和邇に御陣を居させられ、木戸・田中を押し詰め、御取り仰せ
つけらる。明智中川丹羽、両三人前出にをかせられ、』
となっている(人名略)
前出がどこにかかるかということか?
>>662 確かに、東側は粘り様がないな
しかも、家康の居城には小谷城クラスの堅固な城が無い。
>>661 >>662 おまいら戦前って具体的に何年指してやがる
661は織田:浅井朝倉は1570年春っぽいが
織田150万石朝倉50万石浅井35万石(浅井は多めに見積もり杉かもしれん)
武田:徳川は1571年春っぽいが
武田100万石徳川50万石
662は
織田:浅井朝倉は何年だ?これを3:2とすると上洛前の1568年ぐらいにならない
武田:徳川はテンプレの1572年秋っぽいが
武田106万石徳川46万石って感じで
吉田城が落ちてから何年粘れるかだったら織田と浅井朝倉は横山開城後の戦力比で
武田徳川は吉田城が落ちたと仮定しての武田徳川の国力比で比較するべきじゃね。
篭城戦に国力対比する意味があんのか?
>>664 浅井領の南部、磯野の佐和山が援軍が来なかったため付け城作られ
包囲され一年持たなかったから東側はあっさり落ちる可能性があるが、
徳川の場合東だけでもそこそこの勢力だから苦戦するかも、
浅井の南部は最大限に見積もっても
愛知5.8万石犬神5.6万石の11.4万石に対し織田の武田を上回る大軍
石高は
>>191 より
徳川は20万石で武田の110万石+吉田分
参照
>>195 また城も掛川高天神浜松と主要な城は堅城として名高い、また武田が
付け城戦術を取ることはないので包囲が大変?
普通に考えれば浅井領南部よりは粘る可能性が高いと思うが
家康に粘る気があればだが、またそれ以前に吉田が落とせればだが。
>>661 >>662 >>666 >>668 それってどれも織田が徳川へ援軍を出さないと仮定してるぞ
まあ武田には北条の援軍が無いと仮定もしているけど。
あと織田は浅井朝倉以外にも本願寺や六角に畿内諸勢力とも戦っているから
浅井朝倉はあれだけ粘れたということも可能で武田みたいに敵が少なければ
もっとはやく浅井朝倉を滅ぼせたということもできる、武田の敵は織田と違って
上杉だけだし。
>>667 一応数値での比較が一番客観性あるからだろ
数値が正しいかは知らんがw
>>10 細川、畠山、池田、和田、荒木は織田についたみたいだけど伊丹親興は義昭についただろ
「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」には 信長が1573年4月6日に徳川家康の近江国横山周辺への出陣は無用であることを通知しているらしいが この時の信長は家康に援軍を頼みかねないほど危機的状況だったのかw
>>666 浅井が分断された後だと、織田155万石朝倉60万石浅井20万石くらいで
>>661 の通りになるな。
野田が落ちた直後は、武田140万石徳川32万石くらいか
吉田が落ちれば、連絡できない遠江が早期に寝返るだろうから武田155万石徳川15万石
織田が援軍出すにしても、一向坊主や浅井朝倉が片付いてないと厳しいね。
>>668 まあそうやって単純に数値で比較すれば吉田が落ちた後でも数年は粘れそうだな
織田に他にも敵がいたように武田にも上杉いるから同じようなものだろうし。
吉田城落とすのにどれだけかかるか分からないが例え織田の援軍が無くても数年
かかるのなら、結局徳川滅ぼすころには織田は畿内制圧して浅井朝倉も滅ぼして
いるだろ時間的に。そしたら武田が徳川滅ぼしていても織田のほうが圧倒的に有利
だろ。
だったらやはりここは山県か誰かが述べているように徳川を味方するのが一番いい
というか、それしかないだろう。
吉田城落ちたら流石に抵抗しようが無いか… やっぱり、浅井と違って徳川の状況が信玄の健康状態以外万事不利なのが痛いな よくもって半年というところか。
>>675 どうだろ?
家康がそうなった状況より更に不利な掛川のみという状況で朝比奈が半年粘って、
和睦しての開城だから別に粘ろうと思えばまだまだ十分余裕があると思うが。
高天神は勝頼が攻めたときは数ヶ月かかって落としたが、それと吉田城が落ちた
後では状況が違いすぎるからあんま参考にならんな。
>>676 重要なのは城主の粘る気じゃないか
吉田が落ちたとなれば譜代はともかくそれ以外の連中はやる気なくすだろ、
多くの城が勝手に落ちたり城兵から内応でたりして落ちやすくなると思うぞ。
単純に軍事力だけなら遠江でさえも半年どころか数年頑張れると思う、
武田は織田みたいな付け城とかでの城攻めしないからその分余計に時間係るとして
2〜3年は持つんじゃないか?
まあ吉田城落としてもそれを維持できるか分からないってのもあるな、 吉田城は攻められても武田の援軍は遠いから来るのに時間食う。 しかも坂田の鎌刃城付近と異なり吉田城の東海道付近はわりと南北に広いから 分断するにはそれなりの兵力が無いと迂回されてしまう可能性もある、 第一三河湾使われたら分断にならねーから武田水軍を三河湾に派遣する必要があるな 維持するのに結構金と兵力を必要とするだろうな
>>678 別にそれに見合う戦果が得られればいいだけのこと
もし吉田が落ちれば三河は家康は付け城作って武田はそれの破壊に来るの繰り返し
になるかもしれんが
遠江は家康は必死に城守って、武田は掛川落として浜松落として終わりじゃ、
高天神は浜松掛川落とせば他の城同様自然に落ちるだろ。
>>676 高天神は1ヶ月程度の攻防で落ちてたと思うが
>>672 無用であると通知したのなら
家康からの援軍派遣の申し出を信長が断ったのでは?
まだ信玄が死去する以前だというのに
徳川家も随分と余裕があったんですね
浜松に篭城した時点で他の城がある程度落とされるのは覚悟のうえだろう。 しかし、織田の援軍が来るまで粘れば失地は回復できる。 他の城の城主達も最終的に織田&徳川の勝算が高いならそうそう降服できない。 織田&徳川が勝つと失地回復作戦時に討伐されるからね。 無駄な戦闘を避けるために徳川が再降服を許すかもしれないけど、 それは運がよければだし。 三方ヶ原も 織田:最終的に武田が撤退したら失地は取り戻してやるから篭城しろよ。 徳川:篭城は安全だけど、領内が荒らされるのは領主として看過できない、 篭城前に出来るだけやってみる。 っていうところじゃないか。
>>669 反織田連合の合計石高は織田より少ないけど、上杉の石高は単独で武田に匹敵するから、
上杉が参戦したら武田は上洛どころじゃないだろ。
>>683 頭に電波飛んでるなw
>>682 他の城の城主達は、分断される前から寝返り、降服が相次いでるわけだが
>>683 さすがに合計では反織田のほうが多いし、
当時の上杉の石高は武田には全然及ばないよ。
まあ、実績から考えて謙信が容易ならざる相手であることは疑いないが。
同盟国徳川家を目の前で武田家に蹂躙されるのを放置していたら 織田家の信頼とか威信というものが傷つき、あの当時の周辺情勢に不利に働くだろ。 徳川家を生かさず殺さずにしておくのは、織田家主力部隊を引きずり出し 決戦をするための信玄の戦略ということはないか?
>>686 普通にそうでしょ。
信長が岐阜を離れて遠征してくれば、別働隊の秋山も活きるし、
浅井朝倉もプレッシャー少なくなるし、信玄が戦うにも有利だし。
ということは、信長が出てくるまで徳川を追い込みすぎてもいけないので 過大な援助をせず畿内情勢の安定化を優先した信長の判断は正しかったことになるね
でも、後方に敵の拠点を残したまま決戦するというのは 長篠の戦を思い出すのだが・・・・。
浅井を残したまま滅びた朝倉の例もあるし、ケースバイケース
信玄ってなんで浜松放置したんだろうね どう考えても西上するならまずくね?
692 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/30(日) 11:47:15
西上する気がないからだろ
浜松攻め落とす戦力がないから
>>690 浅井の時はお市を助けたいと言う事と浅井への押さえを差し引いても
朝倉を上回る戦力を織田が用意できたからだしねー
徳川への押さえを差し引いたら(差し引かなくてもか?)
織田より戦力が下回る武田の例にはならないね。
例をだすならもっと状況が似ている場合の例をださないと。
695 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/30(日) 14:49:12
>>688 信長が岐阜を出たのは信玄撤退後なので、それはちょっと違うと思うが。
信玄が家康を攻撃中は、信長は「どちらもしなかった」。
>>691 三方ヶ原のちょっと前に、西三河衆を束ねる石川数正と
東三河衆を束ねる酒井忠次が、それぞれ手勢を率いて
浜松に入っている。
三方ヶ原の合戦後、わざわざ敵が兵力を集中している
浜松を攻撃するってのは戦略としてマズイと思うよ。
何しろ三河はその分手薄なんだからね。
浜松落とさなかったのは家康の降伏を待つため。 信玄の常套手段さ。
智将というより池沼な戦略だな
>>695 それって結局徳川の主力が篭る城を落とすだけの戦力が無いということだろ
だったら野田城のあとも吉田城落とすことはできないんじゃない
信玄は当分は徳川の端城を落として徳川の戦力を落とすことに集中してから
主要な城を落とすという手順なんじゃない
>>685 越中をとる前の上杉は石高的には朝倉家とそう変わらないレベルだからな70年頃は
徳川家より石高低かったかも
そう考えると謙信は家康より実力は上と言う事か
>>684 >他の城の城主達は、分断される前から寝返り、降服が相次いでるわけだが
詳しく
>>698 いや、少なくとも吉田城に徳川の主力はいないでしょう。
もっとも兵力を集中させていたのが浜松で次いで岡崎、
吉田はその後くらいでは?
>>699 信玄が三河へ移動した後家康は吉田城に入っているだろ
というか上で660あたりから書かれているように分断される可能性があるなら
浜松岡崎以上に兵力集中させるんじゃ
>>699 家康が吉田城に入っているから主力は吉田でしょ
分断の危機が迫っている情勢で、浜松へ戦力置いても意味無いし。
702 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/30(日) 17:13:42
年明けの家康の所在地に関して明記してある資料はなかったと思う
しかし武田のことを重視しているなら、吉田城の重要性を考えるなら吉田城に いる、または吉田城にすぐいけるような場所にいると考えるのが妥当だけどね
ならば先に浜松が落されてしまうではないか。
>>703 年明けはそりゃ浜松じゃないか?信玄だって刑部あたりにいるんだし
>>704 信玄が三河へ移動してからだろ吉田城に移動してるとしたら
>>705 峠越えより東海道使用の家康のほうが行軍速いだろ
【 三戦板 自治大集会 召集状 】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この度、三戦板住民全員参加の自治大集会を開催することになりました。
つきましては、各スレで代表を選び、自治大集会に必ず出席してください。
明るく楽しい板を目指して住民の英知を結集しましょう。
万が一、欠席の場合はスレ削除を含めた制裁が課されますのでご注意ください。
1.日時 平成17年11月6日(日) 夜9時
2.場所 下記スレ(三戦板の自治スレ) *スレ消化の場合は次スレで
【三戦板】自治新党その58【新秩序】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1130139309/l50 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>>706 吉田城にこだわらず、どこか一箇所でも東海道沿いの拠点を落すか、
或いは陣地でも作ってしまえばどうよ?
無論そんなものでは、東海道の封鎖・徳川領の分断なんて大げさな効果は望めないだろうか、
徳川軍主力の迅速な機動の妨げにはなる、
そこからじっくり、吉田方面なり浜松方面なり手薄な方に侵攻して行けばよい。
まあ、実際には織田の援軍がいつ来るかわからない状況でそうのんびりした手は打てないと思うけど。
>>708 東海道は三河は西から安城・岡崎・長沢があって豊川周辺に牛久保・伊那・吉田・二連木があり
三遠国境に船形山城がある
遠江は浜松・見付端城・匂坂城・向坂城・久能城・各輪城・掛川城・諏訪原城がある
ただ匂坂城・向坂城・久能城・各輪城は東海道から結構離れていて封鎖にはならんが
>>708 時間と余裕があったら天竜川沿いに作ったのではないかと思う。
勝頼は天竜川沿いに作ることが無理だったのか
74年に侵攻拠点と駿河防衛のため諏訪原城を築いてる(修築?)。
家康もこの城は邪魔だったのか長篠後、二俣と並んで最優先で攻め落としてる、
高天神は後回しで。
三方ヶ原後と74年じゃ状況が違うんじゃないか? 三方ヶ原後に城(拠点)を作るなら野田城のさらに南方に作って 浜松と吉田を分断した方がよくない?
712 :
711 :2005/10/30(日) 21:32:57
いや、確実性より短期間に徳川を潰す事を考えるなら、 徳川の主力がいる城はあえて囲まずに行動も制限せず、 武田が徳川方の城を攻めた時に救援に来させて 野戦に持ち込むように仕向けた方がいいのか?
>>712 もともとは、武田が徳川の主力のいる城以外を狙っても、
東海道を動ける家康の方が迅速に主力を動かして守りを固めてしまうよ。って話。
で、だったら、その迅速な行動を妨げる為に、
東海道沿いの小拠点でも占拠するか陣地でも築いてはどうか?
って話になっていると。
まあ、そうすれば徳川領の完全分断とか大げさなことは無理でも、
徳川軍の機動力はかなりそがれるだろうし、
徳川だけを相手にするならかなりいい手段だと思う。
ただし、それのような行動は兵力の分散には違いないし、
相手が徳川だけなら問題なくとも、織田の援軍が来るかもしれないという状況で、
そういったことが可能だったかどうかは少々疑問ではある。
それって結局、信玄は徳川をどうにかしない限りせめてこないということだから、 信長にとっては渡りに船だよな。
>>698 信玄でなくてもそうだが、本城を落とす前に支城をしらみつぶしに
落とすのは常道。「たかが支城」でもそれで土地を失う相手の家臣が
こっちに付くから、ボディーブローの如く効く。
上州の長野は最後まで粘ったが、小笠原長時や村上義清は
本城を攻撃される前に逃げてしまった。
>>705 主力が吉田に移れば、信玄の動き方次第では今度は浜松が危ないかもね。
>>706 >峠越えより東海道使用の家康のほうが行軍速いだろ
信長が出てこない場合、武田軍は3倍近く動かせるわけだから、
吉田を一度囲んでおいてから部隊を分割とかいろいろ手はあるかと。
>>714 無論そういう側面もある。
しかし、徳川を完全屈服か三河遠江を完全制覇しておけば、
仮に西の情勢が浅井・朝倉滅亡、義昭逃亡という史実どおりの展開になっても、
次への展望はあったと思うよ。少なくとも史実よりは。
個人的には信玄は、上洛までは狙っていなかった、
少なくともこの時点で一気に上洛までは狙っていなかったと思うので、
徳川領制圧を優先するのではないかと思う。
>>714 とみせかけて・・・という可能性も有るから
信長も信玄が撤退するまで動けなかったのでは。
>>711 >野田城のさらに南方に
どこだよそれって、吉田城二連木城の更に南方完全に武田領から孤立するような場所しかないぞ
一応71年74年75年にその辺略奪してはいるけど
>>712 それってほとんど長篠
>>715 >信玄でなくてもそうだが、本城を落とす前に支城をしらみつぶしに
それって結局この時一気に徳川領を侵食することはできず
時間がかかるということじゃん
>>716 確かに次への展望というか選択肢は多いだろうな
織田と同盟してという選択だってできるし
>>717 いや史実だと武田の動きとはあまり関係無く信長は動いてる若しくは動いてないようにもみえる
信玄が野田城を落としてからひいた後に即動いたわけでもないし
信長自身が上洛したのは武田本隊が岩村近辺に移動したころだったりもするし、
そしてそのときの上洛も普通の行軍速度。
>>719 >信玄が野田城を落としてからひいた後に即動いたわけでもないし
>信長自身が上洛したのは武田本隊が岩村近辺に移動したころだったりもするし、
>そしてそのときの上洛も普通の行軍速度。
ただの様子見じゃないか?
野田落城後に引いた後は様子を伺ってて、
岩村まで引いた時に武田撤退が確信できたので悠々と上洛したというところだろ。
>>713 いや、ここでの元々の話はどうでも良くて、
信玄の狙いはどうだったのかと。
史実でも信玄は徳川主力を放置しているに等しいので、
信玄は野戦に持ち込みたかったんじゃないか?。
城攻めはどうやったってある程度の時間はかかってしまうからね。
722 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/10/31(月) 09:54:33
>>719 >信長自身が上洛したのは武田本隊が岩村近辺に移動したころだったりもするし
体調不良で引き返し、駒場で死んだ人が岩村まで出張れるはずもなし。
甲陽軍鑑は勘違いしたのではなかろうか。
普通に伊那街道を帰る分には岩村も通らんし。
>>722 織田徳川の軍記だと、野田落城した後兵を引いてるしね。
>>721 野田城後詰の為、家康が吉田へ入ってるから、その徳川主力を狙ったんじゃない?
それに吉田城って欠陥だらけらしいから、篭城されても大した面倒は無さそうだし。
>>723 >吉田城って欠陥だらけらしいから
ソースは?
吉田って欠陥だらけなの? じゃあ、浜松で籠城されたら面倒だから吉田に誘い込んで包囲。 としようと思ってたら病死ってところか?
ウィキペディアからの引用では >現在に至るまで23度にわたって発掘調査が行われている。 >その成果によると、戦国期の吉田城は土盛と素掘りの堀による簡素な構造だったと考えられる らしいから堅城とは言えないな。
それ城か? むしろ砦とか館の部類じゃないか。
中世城郭なんじゃないの? 流れてる川も防衛には適してなかったみたいだし。
徳川時代に天下普請で補強された城ってこと?
だから信玄の狙いは家康の降伏だっての。 信玄が三河を蹂躙しても信長は本気で援軍を出すことができない。 寿命が来なければ遠三の占領と家康の降伏はすみやかに達成されていたことだろう。
池田輝政が改築したそうだね
>>730 寿命がこなければ、といっても
その年齢までの積み重ねがあったからこそ、その体勢が作れたわけで
結局どこかでタイムスケジュールをはやめる必要があったんだよな
織田が本格後詰できる情勢だったら本格的な徳川攻略は困難になるだろうし
>>732 環境が悪かったから、それは無理でしょ。
いつもの、追い詰めたら降服するはずだとか言いながら、追い詰める方法を説明できないアホだから、相手にしても意味無いよ。
>>726 近世城郭でもなければ、土塁・土堀が普通なんだがな。
小田原だって土塁・土堀だし。
中世城郭は地形に手を加える所堅固な城だからな。
それに近世城郭を構えるには技術は元より、莫大な金が必要。
当時の徳川家の財力で複数作れるかどうか疑問。
作れたとして、岡崎と浜松くらいだろ。
>>735 中世城郭近世城郭は別として、守りに難がある城なんだがな。
土塁・土堀が貧弱で、地形も篭城に適してるとは言いかねるヤワな城だからな。
だったらなんで吉田を落とさなかったんだ何度か機会があったのに 当時の武田家の実力じゃ楽に落とせる城じゃなかったってことだろ
>>737 そうだね。
徳川の主力が居れば楽に落とせる城じゃなかった。
まあ様子見の出兵と上洛じゃ違うから、楽には落とせ無いが
3ヶ月もあれば落とせる城、ってことだろうけど。
>>736 土塁・土堀が貧弱とは?
構造上の問題?土質の問題?
地形が篭城に適しているとはいえないとか、それだけでは曖昧過ぎる
>土盛と素掘りの堀 二俣や長篠、高天神・高遠・小諸などこの時代の東日本の城はそれが普通だろ 土塁・土堀だから貧弱なんて理由にならないぞ
>>738 >3ヶ月もあれば落とせる城、ってことだろうけど。
また何の根拠も無く適当なことを・・・
ソースは新田次郎www
>>722 信玄は春に岐阜攻略を予定してると朝倉や本願寺に言っていて
三月下旬四月初めに岩村城の東20キロぐらいにまで移動してるんだから
いよいよ美濃へ攻め入るという形に見えてもおかしくない。
ところが織田はそんな武田の様子を気にせず上洛
かといってこの時点で織田が信玄の状態知っているとは思えないし、
結局明春の岐阜攻略というのは宣伝文書であって
当時の情勢からは実現不可能な案だと思える。
>>740 土塁・土堀だから貧弱、じゃあなくて、土塁・土堀が貧弱。
>>743 細川藤孝宛てか何かで、野田を落としたあと撤退するっぽいよー
というお手紙があったけど。
>>743 直線距離は近くても飯田近辺からどうやってあれだけの大軍が東美濃に出るんだ?
木曽山脈でも踏破するのかw
>>743 信玄が死んだ時点では信長岐阜にいたけどな
>>745 2月23日の細川家文書かな2月17日に野田表を撤収したことを告げている
そこから撤退するかどうかについては書かれてないが
>>746 武田滅亡時織田の大軍はどこを通ったよ
まあ他の道も使ったが
>>746 それじゃ手紙に書いたような岐阜攻略は不可能だねw
上洛する気なかったのかね
>>743 >>745 どっちにしても当時の情勢からは信玄が生きていてもこの時美濃に攻め入る様子は
まず無いと信長は考えていたということじゃないか
>>747 支隊は別ルートも通ったが、信忠の主力は木曽路だよ。
>>748 甲陽軍鑑だと上洛の帰り際に攻略だな。
それにわざわざ木曽山脈を横断せんでも長篠からならもっと楽に東美濃にでれる。
>>751 甲陽軍鑑ってあれか?船で伊勢に渡ってそこから京に行くとかいう?
それって信長にとってはまさに渡りに船なんじゃないかね。どう考えても
伊勢水軍のほうが強いだろう。
>>752 話をそらすなよ、土塁・土堀が貧弱なのかが問題であって
山城か平城かは問題じゃないんだろ
>>744 てきには
小島明氏氏所蔵文書にだって 東美濃へ武田信玄が出撃し加治田城・つぼ城を攻略したこと が載ってるらしいぞ
土塁・土堀だって十分に強いだろ、だいたい72年じゃ石垣とか水掘りのある城なんて 芥川城・多聞山城・信貴山城・二条城・坂本城・浜松城ぐらいじゃないか? 土塁・土堀だから貧弱、じゃあなくて、土塁・土堀が貧弱ってのは論外にしても 重要なのは地形だろ
>>744 じゃあ、長篠、高天神も貧弱な城なのか?
>>747 喪前もう少し地図を見れ
飯田からのみじゃ大軍が抜けるのは相当危険なことが解るはずだ
>>751 >それにわざわざ木曽山脈を横断せんでも長篠からならもっと楽に東美濃にでれる。
そんなルートある?
明智城はまだ落ちてないから74年の勝頼の足助城経由は使えないし岩村に行くなら
遠回りだ、信玄の引き上げの根羽あたりまでの道順は長篠から岩村へのほぼ最短ル
ートだぞ。武節城上矢作のほうが最短ではあるけどね。
ただその街道は信玄勝頼ともに使ってないから実は大軍の移動に適してないのかも
しれないがね。
>>760 設楽から伊那街道を使えば岩村にでるよ。
>>751 信忠本隊と信長本隊は岩村から根羽平谷飯田経由で高遠諏訪と進んでるよ
木曽路は松本の馬場勢牽制と木曽への援軍の兵ぐらいだよ
先鋒の森・団は妻籠あたりから木曽山脈越えで一気に飯田に出ているけお
>>762 それって760と同じこと言ってるよ
そうだね、勘違いしてたよ。 でも駒場は平谷の約20キロ北にあるからこのルートを逆に行って岩村に出るのは ちょっとロスが多いような。 >武節城上矢作のほうが最短ではあるけどね このルートが同じだったね。
>>764 駒場から岩村に出るなら来た道戻らないと
そうじゃなくって4月12日に駒場にいたのは分かってる、
そして平谷を越えれば完全に本国への引き上げのルートだけど
3月25日はどの辺に武田はいたのやら
場所次第では退却ではなく岩村へ移動し東美濃攻略をはじめようとしてる様に見える
というのが
>>719 の言ってることだと思う。
4月11日には信長岐阜に戻っているから美濃信濃国境付近を ノロノロ(信玄が死に掛けだから)と行軍している武田が気になって 2週間ほど岐阜に戻ってきたのでは という説もたてられるなw
軍鑑でも東美濃攻略と、軍を分けて家康押さえ+吉田を無理攻めの
2つ話があるから、侵攻する気があったなら吉田を無理攻めてると思う。
>>758 757も言ってるけど、貧弱な土塁・土堀ってことじゃないの?
768 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/01(火) 02:39:56
>>730 抗生物質も無い時代だから、死ぬ時は死ぬと思うし
まあしゃーねーよ。
早雲とかだって流行病で死んでたら北条家無かったし・・・・
>>762 厳密に言えば、伊那街道は伊那に出るから伊那街道なのであって、
岩村に出るのは違う道。
>>763 >信忠本隊と信長本隊は岩村から根羽平谷飯田経由
たぶん根羽は通ってない。
>先鋒の森・団は妻籠あたりから木曽山脈越えで一気に飯田に出ているけお
信長公記曰く、清内路峠を超えて梨子野峠に布陣だからまあ駒場に
出たというべきでは。
769 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/01(火) 02:50:37
>>768 信長本隊は根羽に陣を敷いていなかったか?
信忠本隊は素通りしたのか通っていないかは信長公記に書いていなかったと思うが
確かに信忠は岩村から「険難節所」を越えて平谷に出たとしか書いてないからねえ。 信長は岩村から根羽で一日、根羽から浪合でまた一日。 信忠は「険難節所」を超えて岩村から平谷で一日、平谷から飯田で一日。 しかし節所=険しい所と言っても人数からしてあんまり細い間道ってのは 可能性が低い。 では「険難節所」とは何処か? 平谷に直接出るならば荒峰山のふもとを平谷川沿いに行軍という事に なりそうだが、根羽経由なら三国山の南側(大桑峠)を行軍か。 険しいが距離の近い前者、前者に比べれば険しくないが遠い後者。
>>767 貧弱な土塁・土堀というと二俣城はかなり貧弱な作りだったららしい
基本構造がかなり前の時代からこの72年の時まで変わっていないということだ
もっとも貧弱な土塁・土堀をものともしない地形のせいで碌に手を入れなくても
十分堅城だったらしいがw
吉田城の土塁・土掘が貧弱かどうかは別として、 吉田城は貧弱じゃないんじゃないか? 堅城かといわれるとそれも分からないが、今川の三河攻略の拠点だったらしいし、 池田が改修したときも縄張りはかなり踏襲したらしいから、 構造的にはおかしくは無かったんだろう。
>>774 拠点となったのは、要衝に建ってたからでしょ。
徳川-今川の戦のとき、わざわざ城を出て裏手の川を守備したらしいから
間違っても堅城では無いし、単独だと守り難い城だったんじゃないの?
確かに攻略したりされたり今川の時代から城主の入れ替えは激しいな
徳川の勢力は東海道に沿う形で拡張していった 基本的に微妙な政治情勢の北の東美濃には手が出せなかったし(逆にそこの在地勢力に攻められる可能性はゼロに等しい)、信長と敵対するのは力的にも論外 どうせ城を作ったり改修したりするのなら、東方面が重点になるだろうな
>>775 搦め手から攻めたら鉄砲の良い的になるね
>>776 でも城が攻められて落ちたことはほとんど無かったような
徳川と今川の戦いのときも三遠国境封鎖によって孤立して援軍が
来なかったから開城したのだし
>>780 ちょっと確認が取れなかったのだがソースは何?
>>780 徳川勢が攻め寄せて、小笠原が川の畔まで打って出たときの事?
>>780 でも清康が吉田攻めた時と義元が戸田から奪い返したときは吉田城落としているんじゃない?
前者はよくわからないけど後者は城主が死んでいるんだし。
65年の時は本とか小説でも開城ってなっているからそうかもしれんが
>>782 何それ?詳しく教えてくれ
>>777 だったら余計に吉田城は重要拠点として改修なりなんなりしておくべきじゃないかな。
>>780 >>781 徳川実記とか三河物語でさえも吉田は開城したとなってたと思うけど・・・
開城の理由は載っていないと思うが
逆に攻め落としたというソースは?
>>777 >>784 吉田船形山城あたりは今川との戦いの最中強化してたと思うが
遠江併合後は浜松城を造ったぐらいで他の城は特に改修とかはしてないと思う
松平長篠の強化は信玄死後だろうし、二俣高天神の改修は武田がやったこと
>>712 織田&徳川と朝倉&浅井の姉川の合戦もそうだけど、
篭城している敵をおびき寄せるのは常套手段だね。
野戦なら上手くいけば大将の首を取れるし敵の戦力も削りやすい。
敗走させても実際討ち取れる兵は数百だろけど、
雑兵の内何割かは敗走したまま城に入らず四散するだろうし。
ベルセルクのドルドレイ攻略みたいに 釣り出しておいて別働隊が城を占拠とか面白そう
>>779 説明されなくても知ってる
レスの意図がわかんない
>>787 でもそういう話って史実だと全くといっていいほど聞かないけどね
武田軍が撤退した後には、巨大な仏像。 とりあえず、城内に運び込む。 するとその夜――
>>787 >>789 ベルセルクのこのエピソードって、まんま韓信の背水の陣のエピソードなんだが。
韓信の話は史実ではなかったのか?
さすが韓信。感心じゃのう。
>>791 日本での話を言ってるんじゃないか?
俺は日本でも有ったかどうかなんて知らないけど。
>>791 背水の陣は確実にまっとうな戦法じゃないからな。
それを成功させる韓信は凄いが、誰がやっても効果を挙げる代物ではない
795 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/02(水) 10:38:27
.__ |風| |林| |火| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |山| | ヤタ!武田騎馬軍団が信濃げっとだ!! _∧ .∧(oノヘ| ̄ < (_・ |/(゚Д゚ )|\ | お前等お館様にひれ伏せ!クソ共が! <━━||\Ю ⊂)_|√ヽ \___________ (  ̄ ~∪ )^)ノ ;;;;⌒);;⌒) //\// \ ≡≡ ;;;;⌒);;⌒) '~ ~'~ '~ (´⌒(´⌒;;  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;; 武田騎馬軍団は神なり!武田騎馬軍団は神なり! 武田騎馬軍団は神なり!武田騎馬軍団は神なり! Takeda horseriding army corps IS GOD! Takeda horseriding army corps IS GOD! Takeda horseriding army corps IS GOD! Takeda horseriding army corps IS GOD! >>義清へ 城取られるなよ、氏ね(ププ >>政頼へ 泣きつくなよ(ププ >>謙信へ 一向衆が騒いでるぞ(ププ >>氏真へ 鞠でも蹴ってろ(ププ >>氏康へ 本拠地まで攻め寄せられてんじゃねーよ(ププ >>氏政へ 麦飯でも食ってろ(ププ >>業正へ 早く氏んでね(はぁと >>家康へ クサイぞ糞もらすな(ププ >>信長へ 家臣に頃されんなよ(ププ
韓信の戦法って城にまともな守備隊が一隊いれば瓦解しそうなもんだが… 固定観念(背水の陣を取る奴は馬鹿)を利用されたとはいえ、ほぼ全部隊を出してきた敵軍の指揮官って…
>>796 敵軍の指揮官のアホさ加減も判った上で、背水の陣を敷いたんでしょ
なんせ韓信だし。
史記だし当てにならないところもあるが。 項羽も背水の陣ひいてるな
背水の陣はわりと聞くが(成功の良し悪しは別として) 韓信のように城をあっさり乗っ取りは東西にあまり例が無い、 まあ史記だから史実かどうか怪しくもあるが あまり例がないからこそ紀元前の話が今に伝わっているのかもしれんが
>>796 要は敵の背後に回りこんで挟撃の態勢を整えればいいのですよ、
それだけで戦術的には有利だし、それ以上に心理的効果が高い。
韓信の場合は史記の記述によると、後方へ回り込んだのは兵2千だが、
全員が漢の旗を持っており、おそらく大軍に後方に回り込まれてしまったと思わせる、
心理的効果を主に狙ったものでしょう。
ちなみに、史記の記述が信用できないというような意味合いの書き込みがあるように思うが、
史記は中国の歴史書の中ではむしろ例外的にかなり信用できるものですよ。
まあ、神話の時代のことまで書いてあるから、あまり大昔の記述は鵜呑みに出来ないし、
数字に関しては割り引いて考えなければならないだろうことは他の歴史書と同様だけど。
韓信の背水の陣は策略だったけど、項羽の背水の陣は文字通りのもの。 実際にどうだったかはおいて、この二人の違いが如実に現れていて好きだな。
>>800 >史記は中国の歴史書の中ではむしろ例外的にかなり信用できるものですよ。
そこまで言うなら言い換えよう、
中世以前の歴史書の戦史の内容部分だから信用できない と
無論戦争そのものと背水の陣についてはあったと思うけどね、細部は怪しいにしても
細部まで史実だとしたらあまりに敵の指揮官がアレだし
話戻すけど、結局吉田城が特別弱い城という訳じゃないってことでいいの?
まあ特別弱い城という訳じゃないな、比較的弱い城というだけで。
>>804 吉田城は普通ぐらいじゃないか一応川の合流点という立地条件だし
三河ではむしろ強いほうかも
野田城のほうが地形からして比較的弱い城だと思う。
二連木も弱いほうか?牛久保は知らない、
長篠城もこの時は強いってほどの城じゃないと思う。
遠江だと 堅い城は 浜松掛川が特に固くて 次に二俣高天神犬居といったところか 二俣高天神は武田による改修前ということで
>>805 むしろその川が弱点らしいよ、渡河に苦労する様な河川じゃないらしい
しかも本丸の川側はぼちぼちの険阻さで、堅固には遠いみたい。
>>805 野田城は小規模で簡素な造りだが、豊川沿いの台地の突端にあり
城の両側はかなり険阻だったらしい、地形的には吉田と同じ程度
二連木も背後が朝倉川の台地上で3方が崖だったらしい。
吉田は豊川朝倉川の合流地点の台地上に築かれている。
>>808 川が無いよりはましだと思うが
それ言ったら船形山城は田原城は牛久保城は刈谷城は安城城はと言う事になる
>むしろその川が弱点らしいよ
ソースは?
池田の吉田城は川側は出丸か何かと石垣とで守られていて二の丸三の丸が川とは反対側に あるから、あまり川から攻められることは考えてない縄張りだけど、一応川から攻撃されること も考えた縄張りだね。 別に背後の川が鉄壁とは言わんがある程度兵を配するだけで弱点にはならないと思う、無論 その分多数の兵で守らないといけないということだろうが
>>800 史記は中国の歴史書の中ではむしろ例外的にかなり信用できるものですよ。
なわけねーだろ
少し前までは史料としてすら厳しかった。
例えば、史記に殷が出てくるわけだが、学者の中では否定されていたし
ようは取るに足らない史料だったってこと。
結局のところ、
殷は発見されたけれど史料価値がかなり上がったわけでもない。 史記では阿房宮が項羽によって焼かれたがでてきたし、夏王朝も未だに否定論が 大きい。(中国側はそれに順ずる遺跡が発掘したとかあるが、プロパガンダ要素が大きい )
史記自体が当時の人がその時代を書いたってわけでもなかったので。 無論当時のことも記されていましたが、それ以前の何百年前のことを 書いたわけでやはり信憑性に限界が出てきますし。
>>811-813 史記には殷王朝の帝王系図が載せられている。
最初は司馬遷の時代から軽く千年以上は前のことであり疑問視されていたが、
二十世紀の甲骨文字の発見とその研究・解読によって、その系図の正確さが
確認された。(たしか、二箇所ほど関係に異があるが)
史記の信憑性はそういった考古学上の発見によっても確認されていますよ。
もちろん、史記の記述が全て正しいなんて言わないが、だからといって元史
や晋書のように疑問視もされていない。
815 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/03(木) 00:29:23
信玄の上洛に関係した話をしろよ。 アラシども。
>>811 >少し前までは史料としてすら厳しかった。
はあ? まあ、漢書や三国志と違って首傾げたくなる記述も多いが
史料としては信長公記と同じ位のもんだべ?
>>809 縄張り図だと、川から本丸の間に少し間隔があるから
しっかりした土塁土堀より心許ないんじゃないかな。
>>810 出丸は川側には無いよ、この時期は石垣じゃないだろうし。
820 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/03(木) 01:40:50
信長記と史記が同じくらいだろうよ 共に文学だしw
>>820 バカ乙
>>819 これは、今出回ってる史記とされるモノが
後世の作が紛れていたり改変されてたりするってだけかと。
822 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/03(木) 02:00:07
>>821 お前もバカだ。
史記の話はもういいよ。
史記厨うざい、史記でオナニーしてろ
それと勉強不足
>>822 俺は今来たから、史記の話なんてほとんどしてねーw
んで、どこが勉強不足?
話を強引に戻すが で結局のとこ、吉田城は固い城でもかといって特に弱い城でもないが 当時の武田が攻め落とそうとしていないことから取りあえず現状では 簡単には落ちない城と言った所か
>>823 は放置でよろ
>>824 落とそうとしない城が多いな
浜松・吉田は無視って急ぎすぎではないか?
何かあるのか
つうか、吉田は開場してるだろ
>>810 本丸背後にあるのは腰曲輪
ところで豊川ってそんな渡河しやすい川なのか?
渡ることはできるだろうけど普通の土掘よりは障害になると思う
>>825 浜松・吉田を無視して上洛とか織田と決戦って意味じゃなくて、
武田は現状の戦力では楽に落とせないだろうってだけ
実際に武田がとる戦略は一旦引き上げて東遠江方面を侵略じゃないか?
>>824 今川攻めの時、小原鎮実がわざわざ川を渡って徳川軍を迎え撃ってるから
篭城には不向きなんだろう。
>>829 別に城外出撃なんてごく当たり前のことだが何でそんなことで篭城は不向きに?
ここにいる奴等は、どうせ信長の鉄砲三段撃ちを信じてるんだろwwwwwwwwwwwwwwwww
たぶん、日本史で一番有名な篭城戦が大坂の陣だからだと思う。 ここでは真田とかが「篭城には不向きだから一か八か出撃して決戦しよう」と 主張したことなんかが講談などで一般に広まっているから。 ただ、篭城中に出撃して一戦してまた引き返して篭る、というのは普通にある。
>>830 二俣や野田で城外出撃したか?
小勢な城兵が渡河してまで行った城外出撃が、ごく当たり前とは凄いね
頭おかしい。
>>833 打って出る事と城外へ出撃する事を混同しているだけじゃないかな?
関が原の岐阜城みたいに失敗する例もあるけどね
籠城側は後詰めや敵の補給線の限界などタイムリミットがあるからこそ有効な手段。 大坂の陣は大坂以外は全て徳川方なので実質時間無制限だから籠城する意味がない。 小田原の陣は補給線の圧迫するはずの支城網が簡単に崩壊することを予見できなかったことと 反豊臣で親密な仲だった伊達・徳川・織田が後詰めしてくれるという希望を計算に入れてしまったこと。 まあ長野業正などは普通に退けてるけど、ああいうのは例外。
業正も姻族の城砦をばらまいてたね
成功した例と言えば真田昌幸の上田城だろ 上流の堰を切ったかは知らんが川を渡って出撃してる 吉田のこの場合も出撃して付入られてるわけじゃないし 結局家康も城を落とせず開城させたわけだから守備兵力も落ちてないんだろうし まあ成功の部類かな。 じっさいのところ戦争の経過はよく分からないけどね。
第一次上田城はあまり詳しく知らないので何とも言えないが、 第二次は徳川方の時間切れ、もちろん善戦したのは否定しないけれど。
今山合戦とかもあるな
>>827 豊川も渡し舟が盛んだったことから、歩いて渡るのに不便だってことでしょ
吉田城の辺りは朝倉川との合流点で川幅も広いしね
ただ舟を使われる場合、本丸の裏手が二連木のような断崖と比べて結構近づき易いことと 廓から豊川まで少し間が空いてることもあって、守る際の弱味だったみたい。
>廓から豊川まで少し間が空いてることもあって ??
今山合戦もかなり疑問のおおい合戦らしいが
>>842 >>843 それだけ聞くと本丸の裏手ってキルゾーンみたいに聞こえるんだが・・・
実際のところそこが弱点となって落城したこととかあるの?
本丸の裏に川をもってくる場合は、それが防壁になるって理由だろうよ。 一般に後ろ堅固と言うな。そういう城は。 相手が強力な川舟水軍でも持ってない限りはそれ以外の場所から攻め込まれるだろうよ。
849 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/03(木) 23:03:40
吉田城の話は飽きまして候
850 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/04(金) 01:29:07
100まで読んだ。 何故か織田軍の話になってるね。 それにしても信長ってすごいよね。 秀吉だ光秀だかつ言えだと言っても信長が切腹命令を出したらそれまで。 で、彼らがいなくなっても信長さえ生きてれば遅れても天下統一事業は進んで行っただろうし。 やはり桶狭間であの当時の今川ヨシモトを討ち取ってしまった信長って戦国の世では最強なのね。 もちろん武田軍も劣らないと思うけど、織田軍というより信長はちょっと一段上かな。 1回くらい織田に勝っても信長天下は揺るがないんじゃないかと思うぐらいに。
851 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/04(金) 01:32:40
>>107 その時代に織田を急いで叩いて置かないといけないとは認識してなかったのでは?
尾張1国の織田時代に足場かためより上洛を急ぐ決断は難しいのでは?
きっと信玄はあんなに織田が美濃攻略後に急成長するとは思ってなかったんだよ
じゃあ伊勢の支配率についてでも話す? 取りあえずテンプレの数値間違ってるだろ 北畠で30%織田70%に長島一向宗+北伊勢国人衆?% 合わせると100を越えちゃうんだがw どこかで写し間違えただろ まあここ5スレぐらいこの間違った数値で続いちゃってるが
北伊勢国人衆は織田側であろう 長島はどうなんだろう?長島だけだと5lもない?
>>852 北伊勢の国人たちは、テンプレの時期(元亀四年・天正元年)にはまだ反乱起こしていないぞ。
>>521 一応、刑部城と信玄が越年した刑部は違うという話もある
>>663 原文がそれなら攻略したのほうが正しいような・・・
>>785 >二俣高天神の改修
徳川だって改修はしたらしいぞ、武田がそこから更に改修したらしいが
>>854 信長公記には平定された時期が書いてあるだけで、
いつ叛旗を翻したかは書いてないな。
いつ?
敵対するなら絶好のタイミングだと思うが。
>>854 でも分けといたほうが無難な気がする
あと北畠も一族の一部と一部の家臣除いてほとんど織田に組み込まれてるんだから
それも二つに分けたほうがいいんじゃ・・・
木造とかを織田の勢力に加えないのはちょっと
>>848 川岸が急峻でないから、欠陥ある後ろ堅固の城かな
>>859 木造が織田分に入ってないなら加えた方がいいかも。↓これは違うけど
>あと北畠も一族の一部と一部の家臣除いてほとんど織田に組み込まれてるんだから
信孝を軽んじていると、言い掛かり付けて処罰できたのは北部の諸将だけだし
具教も領主の仕事してるから。
>>861 でも養子名義で検地とかもしてる
具教は実質隠居のはずだが、その割には信長の命で大湊などとの交渉をしてたりもする
あと信孝の話をしても関係無いだろ
73年で離反しているってことは信玄の上洛の侵攻状況によって 早まる可能性が大なわけだ
仮に信玄に有利な予想通り進行したとしても そこまで早く上洛できるのか? 徳川屈服が上洛の前々段階で、旧徳川領の安定化が前提になるだろ 少なく見積もっても3年ほどは必要なんじゃ? 信長が上洛を短期に成功させたときとは条件が違うし
武田家の滅亡や本能寺の変後の織田家の急速な崩壊を見ても明らかなように 本家を守るために命を掛ける武将、兵はそれほど多くは無い。 武田家の決戦前後に土着の勢力が切り崩されるようだと織田家も駄目だ。
>>862 信雄が出てくるまでは、具教も単独の知行、商業安堵とかしてるんだな
>>864 その理屈だと近江の織田料は安定化してないね
駿河は短期間である程度安定したし、旧徳川領の安定化も短時間の事だろ。
徳川を屈伏させるのを含めて3年って言ってるんだとおもうぞ。
安定ってもな、信玄はじっくり安定させるが信長はその辺はあんまり 気つかってない気がする。 美濃平定してすぐに上洛だろ? これは良いのか悪いのか判断しかねるところだが、信長と信玄の 領地拡大の速さの差はこの辺にあるとおもう
領地拡大の速さの要因は、大部分が相手の優劣、強弱でしょ。
近江は、配下の国人衆が六角に愛想を尽かしていて 織田に乗り換えたから速攻安定化しただけ 三河遠江は未だ徳川が、徳川残党として後方で攪乱する 可能性があるが。 例 六角残党、尼子残党、浅井亮政等
斎藤美濃は織田尾張に匹敵する強大さ。 安定化のスピードは、 討伐か喋略による切崩か攻めたうえでの降服か抵抗なしの降服かなどの状況・方法の差だと思う。 喋略と言えば信玄と言うイメージがあるが、実際効果的に喋略を行なっているのは信長じゃないかな。
三遠の国衆、地侍は結構切り崩されてるから 安定化はかなり早いかもね。
家康の態度次第な気も駿河
徳川、信玄に寝返る ↓ 武田尾張侵攻 ↓ 織田と全面戦争 ↓ 徳川裏切って後ろから攻撃 っていう作戦無理?
>>875 徳川領そのままで信玄に寝返るなら、信玄だって再度寝返られないように何らかの処置を
するだろ、五徳の離縁、信康を人質に、他にも重臣から人質を取るなど
そこまでしないと不安だろ、あとは三河遠江の重要個所を取り上げ武田の譜代一門配置な
どに、目付けというか監視役を徳川家に送るとか。すぐに織田と戦うならここまでするんじゃ
ないか。
服属させるなら、人質をとらないってのはまず無いだろうね
>>869 美濃の場合は稲葉山を落とす段階でそれ以外の地域はみんな織田家についていて
既に安定してるから。
武田の西上野だって箕輪落とした段階でそれ以外が既に武田に服属していて安定し
ていたように。(吾妻郡はまた別だが)
両方とも相手の本拠を落とすまでにだいぶ時間をかけてそれ以外の地域を支配してる
逆に織田の六角攻めはまず六角を追い出してから六角配下を支配下に組み込んで
いるから完全に安定するまで時間かかってる。
武田の小笠原攻めも一気に松本平中枢奪って、それから小笠原配下を支配下に組
み込んでいるから完全に安定するまで時間かかってる。
(無論事前に寝返ったりさっさと服属してたりもするけど)
>>878 微妙な国人ばかりだし、そもそも勢力としてはそれほどたいしたことない。
面積では武田が80%ぐらいになるけど郡の数石高からだとたいしたこと
ないと推定される。
また東海道も徳川が押さえてる。ただ信濃への交通路にあたる部分は遠
征後は武田が全部(だと思う)押さえてる。
>>879 前段には同意
後段については、甲賀の土豪を除いた旧六角の重臣達は全員織田に帰順して、
一人も裏切り離反が出ていないことから南近江は相当安定していたと見ていい。
実際に、元亀の戦いでも旧六角重臣は誰も裏切っていない。旧主六角氏が一応
鯰江で健在にも関わらずに、だ。反乱を起こしたのは本願寺系統の寺院のみ。
それも他地域に拡大・追従者を出さずに限定地域に短期間でしか持続できなかった
点をみると、支配は相当安定していた。
六角は家臣に愛想つかされていたそうだからね。
後藤兵乱という特殊事情があるしな
甲賀の土豪も72年には去就が怪しいが 織田につく国人も出てきてるし、単独で織田に仕えてるのか領地ごと織田に仕えてるかは知らないけど
まぁ徳川領が短期に安定なんて夢物語と言うことで。 それ以前に降服しないし。
西三河は安定するのに手こずるかもね それ以外はおそらく極短期間で安定駿河。
取らぬ狸の皮算用
取らぬ狸の皮算用したくなければ、このスレに来るなよw
>>886 確かに遠江あたりは徳川とはあまり関係無い連中ばかりだから、
譜代などが入ってる城をすべて落として元からいた豪族連中の権利をそのまま認めれば、
敢えて反抗するような連中はいないだろうな。
徳川によって取り立てられたような連中や、
一応今川家に義理立てして反抗する連中がいる可能性もあるが
まあその可能性は低いだろうな
徳川家をどう遇するのかが結局問題だよな。 降伏させその政治体制をバラバラにしてして配下に組み込むのか、 あるいはまとまった支配権の存続を認めて半同盟的関係を築くのか。 後者の方が説得はしやすいが寝返られやすい。 前者のためには信長を釣り出して鎧袖一触撃破するぐらいの インパクトが欲しい。
徳川が浅井並にしぶとく抵抗してくれたら厄介極まりないよな 武田軍は主将の病状・近畿方面協力勢力の弱体化・資金不足と長期化を避けたい要因がいくつかあるからな
>>891 確かにな、
それに織田は後方に十分な兵力を置いた上で武田と戦う兵力を用意できるが
武田の後方の上杉は越中の一向宗をじきに滅ぼして行動の自由を得る。
史実だと73年秋まで、勝頼の兵数が低いのは越中が制圧されたせいでもあるし
74年ぐらいからは武田の軍事行動に制限が出てしまう。
他に北畠も時間がたてばたつほど織田家の力が強まる。
時間は織田家に味方しても武田家には味方しそうに無いと思う。
信玄が徳川の領地を攻め取っても最終的に織田の援軍が来れば領地は取り戻せる可能性がある。 しかし、信玄に攻め取られてから降服すれば、若干の返還はあるかもしれないが領地は大幅に減る。 だから徳川が信玄に降服するとしたら明日にでも城が落ちるが織田の援軍が見込めないと言う状況くらい。 そこまで追い詰めないと徳川が降服しないなら信玄にとってあまり時間の短縮にならないし、 そこまで追い詰めたなら逆に恨みを買っているので信用が出来ない。 信用できないから信長が龍興を落ち延びさせたみたいに、 命だけは助けてやるくらいしか条件に出来ない。 つまり、徳川を降服させる作戦は信玄にとってメリットがない。 力攻めしない分戦力の消耗を防げるが、そんな悠長なことをしていると徳川に織田の援軍に来る。
>>893 いや
徳川が抵抗しても最終的に織田が負ける場合と
徳川が織田について最終的に武田を倒して得られる領土より
武田と組んで織田と戦った場合に武田に奪われた以上に織田から領土を奪えるなら
織田につくだろ
895 :
893 :2005/11/05(土) 13:14:49
追記。
徳川が助命を条件に武田に降服しても武田に寝返ったことにはならないし、
織田の支援を受けて旧領復帰を望める。
>>894 降服した大名にそんな領土を分け与えられる可能性は少ない。
それにどこの領地が貰えると言うんだ?
武田が織田を倒したら元の自領を含めて徳川領の周りの駿河・信濃・美濃・尾張・伊勢が武田領か?
三河は?
万が一徳川に武田に味方して織田に勝っても完全に武田領に周りを囲まれる状況だろう。
いずれ忙殺・討伐してくれといわんばかりじゃないか。
>>894 何を基にして領土を多く得られると判断するの?
三遠の支配権の保持に躍起になってる時に、領土拡張云々ですか。。。バカス
そもそも、家康が信玄の約束(領土の保障など)を信じるかね? しかも未だ武田領にもなっていない別の大名の支配地の将来の給付なんて。
北陸平定に余念がなく、信長家康の要請を全無視してる謙信を 織田方扱いする奴も大概バカだけどなw 吉田が落ちれば風になびく様にして、譜代の西三河以外が離反する可能性は高いし 家康が西三河へ窒息して織田の援軍を希望にする様に 浅井朝倉も武田の美濃侵攻という希望があるから、史実ほど簡単には屈服しないだろうから 何にしても、信長対信玄という事になるんじゃないか?
降服したんならまだしも討ち死にするまで抵抗した奴に向かって、 簡単に屈服はないだろ。 どういう思考をしているんだ?
>>898 織田方、というか織田と同盟結んでいるよ謙信は。たしか72年の12月に。
このとき謙信が攻撃したのは北陸の一向衆でありこれは武田の同盟者。
おかげで顕如から信玄へ「北陸へ援軍を出兵させてくれ」なんて要請がくるほど。
ちなみに信玄はこの要請を全く無視して徳川領攻撃を続けているが、要請を無視
しているから武田の味方ではないなんて言い出すか?
それから浅井も朝倉も屈服なんてしてないよ。軍事力で滅ぼされた。
>>898 浅井・朝倉は信玄の死に絶望して簡単に屈服したのですか?
馬鹿にするのもいい加減にしろ
自らの生き死にの問題だぞ必死に戦ったに決まってるだろ
その結果破れ滅んだとしてもな
朝倉家最期の有様は軍記物にも色々書かれてるけどなw
>>900 確かに織田と同盟結んでいるよ謙信は。以前には北条とも同盟結んでいるよ謙信は。
結局どちらに対しても、一度たりとて要請を受けなかったけども
>>898 >吉田が落ちれば風になびく様にして、譜代の西三河以外が離反する可能性は高いし
実際信玄は吉田を攻めてないのにどうしてこう言う話になるのか、もっと詳しく説明よろしく。
>>898 内容が全部楽観的過ぎるね。
みんなに納得して欲しいなら、もう少し可能性が高いことを説明した方が良いんじゃないか?
「離反する可能性は高い」と「屈服しないだろうから」
じゃあね・・・
>>907 みんなエスパーじゃないんだからさ・・・
どの番号のレスが君のなんてみんな知らないって・・・
それから、みんながみんなおかしい奴と思っているのかな?
みんながみんな君の説明で納得できないのは、
君の説明がみんなに納得できる内容ではないから。
とは考えられないのかな?
まず、一番初めにレスをする時に、
「このレスを書いたらどんな突込みがくるか」
を考えて、あらかじめその説明をつけておけばどうかな?
そうすれ、「説明した方がいいんじゃないか?」とは言われなくなると思うが・・・
>>908 おいおいw 俺が書いたのは873だけだ。
織田厨が言掛かりつけて、また煙に巻こうとしてるw
>>909 908
が言っているのは、
898と973を同じ奴が書いているなんてみんなの知ったことじゃない、
突込みが多いのはお前が説明不足だからだって言ってんだろう。
知識不足露呈するのが怖くて曖昧な表現しか出来ないんでしょ
というか、織田厨がはぐらかしてるだけでしょ 曖昧な表現だと思うなら指摘して反論すればいいだけのことだし。 >譜代の西三河以外が離反する可能性 遠江の諸将、東三河の士、皆武田に属す。ちう記録があって このスレでもその事に言及してるのだから、そうはならない理由と思うを書けばいい。 >内容が全部楽観的過ぎるね。 >「離反する可能性は高い」と「屈服しないだろうから」じゃあね・・・ これを説明とは到底言えないでしょう?
>>907 880と889って君の言う揚げ足取りの連中指してるの?
それとも説明の方を指してるの?
>>913 >遠江の諸将、東三河の士、皆武田に属す。ちう記録があって
信用できねー記録だなヲイ
徳川や武田の動きからも他の記録史料からも否定されるじゃん
だいたい戦国遺文読んでも周智郡や設楽郡の人間ばかりじゃないか、
武田と接触持ってるの
>>916 その戦国遺文って信用できるの
自分は他人の記録を信用できないっていっているのに。
それ以前にそんな史料聞いたこと無いよ。
というか、あなたのレスはまるで説明になってないし
具体的な史料名もあげてない、記録の引用もない、
これでは誰も信用できないでしょ。
ちょっと前にでてきた菅沼記にも遠三両国の士が武田に臣下の礼を とったみたいなのが書いてあるし武田の侵攻が続くならなし崩しに 寝返る連中も出てくるだろうね。
>>918 そりゃ寝返る連中も武田の攻勢が続けば更に出てくるだろうけど、
73年の段階だと三遠の山間部に限られているのが実情なんだが
それに寝返った連中も武田が引き上げて徳川が反撃に出たらま
た寝返る可能性もあるし。
遠方の巨大勢力より近くの弱小勢力の方が国人にとっては厄介
ってこともある。
>>919 >三遠の山間部に限られている
菅沼記にはこんなこと書いてないけど、ソースは?
逆にいえば侵攻継続ならこういう国人は続々武田に寝返るわけだ。
大変だな、家康は。
なんか、 他の人間の意見の時は 史料にそうだと書いていないから駄目だ。 自分の意見の時は 史料に違うと書いていないから間違っていないんだ。 って言う感じだな。 都合よすぎない?
>>920 軍艦には寝返ってるのは奥三河と北遠江の武将ぐらいしか載ってないが
>>920 悪魔の証明にならないか?
この場合は山間部以外からも寝返ってる国人をあなたが出すしかないと思うが・・・
本来なら説明責任は
>>919 側にあるとしても
>>921 あんま参加してないから他の人のことはわからんが
おれは史料から遠三の士が武田に降ったと言ってるのに対して
>>919 はさらに山間部のみと限定していってるのだから、
つっこまれた内容に対しての説明責任は919だろ。
それを都合云々はいかにも的外れだね。
>>922 軍鑑は元から寝返った山家三方衆などのことだろ。
>>923 さっきも書いたけど限定してるのは
>>919 でしょ。
だったら919が説明回答すべきでおれが出すしかないとはおかしな話だな。
それ以前に『菅沼記』の遠三両国の士が両国全土を指していると本気で思っているのか?
全土なんて一言も言ってない。 ただ山間部のみと限定したことについて説明を求めてるだけ。
>>925 『菅沼記』の正確には遠三両国の中で武田家に味方するもの全員が
井伊谷にいる信玄に臣下の礼をとった、であって
遠三両国の武士が皆武田家についたと書いてあるわけじゃないぞ
でその全員の中身かは判らんが軍艦や三河物語あたりだと三遠の山間部の連中しか書いてない
常山記談あたりだと山家三方衆あたりさえも徳川に味方してた気もするけどw
徳川実記だと信玄死後徳川が攻めているのは武節・可久輪・鳳来寺・六笠・一宮等
となっていて武田勢力は奥三河のみと推測できるが遠江は天方攻めたぐらいしか書いてないが。
もっとも
>>916 を信じるなら戦国遺文には武田と接触持ってるの周智郡や設楽郡の人間ばかり
と言ってるから遠江も実質山間部だけって気がするけどね。
「交渉をもっているから裏切った」のなら、謙信の関東管領就任に太刀を送って 祝賀の使者を出した真田や他の信濃の豪族たちは武田を裏切ったんですね?
>>926 安心したや、単に限定したことについて説明を求めてるだけか。
他の地域からも寝返りが出てると主張してるわけじゃないんだ。
だったら甲陽軍鑑など読んでも、歴史群像のような本読んでも、
新田の武田信玄読んでも(←これは違うかもしれんがw)、
信玄が死んだ段階だと武田に付いてるのは駿遠国境、北遠江と奥三河に限られていて
それ以外の地域は違う。
他大名への手紙とかで遠三制圧したとか書かれてたり『菅沼記』に遠三両国の士が
武田に味方したりと他の地域にも武田の力が及んでいったようなことが書かれているが、
それらや他の史料からは具体的な人名地名が挙がってないため信用できない。
だから山間部のみと限定するのが妥当といったところだろ。
>>923 が言ってるように三遠の山間部に限られているという史料は存在しないんだから
他の地域からも寝返りが出てるとするなら、他の地域からも寝返りが出てると言う証拠を
ださないと駄目。それができないなら基本的には寝返りは無かったとするのが普通。
まあ実際には山間部だけでなく山間部からちょうど平野部に出た辺りぐらいまで制圧
してると言って良いと思うけどね。ちなみに自分は919ではないから。
>>927 >徳川実記だと信玄死後徳川が攻めているのは武節・可久輪・鳳来寺・六笠・一宮等
可久輪・六笠は場所わからんが武節・鳳来寺はともかく一宮を攻めたってマジ?
これが本当だとすると八名郡の半分は確実に超えるんじゃないか
もっともそこに本当に城があったのか他の資料には何で何も書かれていないんだとか
疑問も出てくるが
>>898 信玄が野田城を落とした後って家康は吉田に居たよね?
吉田が落ちたら譜代の西三河以外が離反もなにも徳川滅亡じゃないか?
で、上の方でも信玄が吉田を攻めなかったのは、
徳川の主力がいる吉田は簡単に落とせそうじゃなかったからじゃないか?
って言う結論になってたと思う。うやむが気味にだけど。
吉田を落とすって言うならそこら辺の説明をした方がいいんじゃないかな?
攻めなかったのは健康が悪化したからで健康に問題が無かったら攻めているはず。
と言う意見もありそうだけど、やっぱり主力がいる城が簡単に落ちるとは思えないしね。
>>917 戦国遺文は史料じゃなくて資料名に当たると思うが。
まあ纏められたのは菅沼記以上に戦国時代からかけ離れた時代だけどね。
>>934 上のほうでもあったが吉田を落としてようやく姉川後の浅井と同じぐらい
追い詰められた状況
家康が戦う気ならそれからでも数年は抵抗できるって
古くない方の家忠日記や松平記にも
菅沼、あと誰だっけ?を除いて東三河の士は心変え武田に属したとあるが
>>936 姉川は織田徳川にも損害の多い、見方が原だろ
吉田が落ちたら、朝倉と浅井を分断されたなんとかの戦い後と同じ追い詰められた状況
家康が戦う気でも数ヶ月の抵抗が精々だな。
>>931 それ三河物語じゃない?
天方、六笠、一ノ宮、可久輪の小侍は信玄に付いたとあるけど。
>>934 主力が吉田にいるなら、岡崎か浜松に向かうのでは?
一旦吉田方面に向かってから方向転換、とかされたら
先回りも出来ず追撃に出れば三方ヶ原の二の舞w
家康ガクブル決定だな。
>>913 軍事的要衝にある吉田が堕ちる
→分断された遠江および吉田城周辺(東三河)の国人が降伏
これって自然に至る考察ではある
ただ武田方に付いた国人衆の記述がある事によって証明される事象じゃないでしょ
的外れな論拠に思えるのは俺だけかね?
>>940 落せればね。まあ岡崎にナンバー2くらいがいて指導できるのなら、浜松と岡崎に
別れてもしばらくは持ちこたえられるかもしれないが(それでも精々数ヶ月)。
海路で連絡は不可能でなし。
問題は徳川主力が篭った吉田城を短期間で損害を小さくして落せるのかということ。
長期間包囲するのなら、信長家康にとっては渡りに船。戦力を集中して時間稼ぎが
出来る。信玄にとっては、攻略に時間をかけることも損害を出す事もできない。
>>939 それも上でもう語られているから。
過去レスとは言わないけど、このレスくらい全部読もうよ。
主力の篭っている城以外の城を攻めて敵をおびき出して
野戦に引きずり込むのは普通のことだよ。
野田城を攻めたときには徳川はそれに応じなかった。
他の城を攻めても徳川は出てこないだろう。
そうやって攻める側は相手の勢力を削っていって、
篭る側は援軍が来るのを待ったり、敵の補給が限界になって敵が退却するのを待つ。
ごく普通のこと。
素朴な疑問なんだけどこの時期の武田家って別働隊を合わせて3万近い軍勢を 長期間出撃させて置けるほどの財力あるの?
>>942 じゃあ、家康は岡崎が攻められようが浜松が落ちようが
吉田堅守なわけですねw
>>944 岡崎・浜松クラスの城が攻められたら織田に援軍再要請だろうね。
織田にとって徳川は「大切な武田の防波堤」だからね。
ぎりぎりまではほって置くけど、本当にやばそうなら援軍を送る。
長篠と一緒だね。
まあ、さすがに長篠の戦の時よりは援軍送りにくかったと思うけどね。
>>940 913以降突っ込まれてるのは記録に対してなんだから
当然武田方に付いた国人衆の記述がある事によって証明される事象でしょ
本来の話題とはずれてきてるにせよ
>>939 >一旦吉田方面に向かってから方向転換、とかされたら
岡崎方面に向かったら袋のねずみだし、浜松方面に向かうにしても
東海道を使う家康のほうが速い
兵数だって輜重だって少数な分移動速度に関しては徳川のほうが有利
ただ吉田を1万ぐらいで牽制して浜松だと異なるけど、
遠江の諸城攻められたとき家康が碌に動けなかったのは山県のせいでもあるし。
>>940 >→分断された遠江および吉田城周辺(東三河)の国人が降伏
>これって自然に至る考察ではある
遠江は別として吉田に関しては誰も反論してないんだが・・・
>>947 の言うように的外れな反論してるのはむしろあなたの方なんじゃ
また上のほうでも吉田によって分断後でも当分徳川領は持つと話し合われてるが
反論する側は結局具体的な根拠を出せなかったみたいだし。
>>949 >岡崎方面に向かったら袋のねずみだし、
これは同意だが
>浜松方面に向かうにしても 東海道を使う家康のほうが速い
これに関しては信玄が吉田を経由して東海道を使えば
先回りはできないんじゃないかな。
徳川は再度野戦を挑まないだろうし。
まぁ、浜松は本来の居城だけあってそう簡単には落ちないだろから、
織田に援軍を要請して援軍が来るまでくらいは持ちこたえるだろう。
>>950 信玄がそんな行動とるかな〜?
一旦完全に後方を徳川に遮断されることになるんだが、
それに浜名湖をどう渡るかという問題もある、まあ武田水軍があるけど
輜重は長篠野田経由にして行軍速度あげるとして
兵数的には後方の徳川に備えながら東海道の諸城を牽制無視でも十分可能だろうけど
(上手くすれば三方ヶ原をもう一度)
信玄勝頼も一度もそんな行動とってないしその方面は手付かずのままだから、
やはりそれは危険なんじゃないか
>>940 的外れなこと言ってるのはお前さんだろ
一連の流れは
>>873 の>三遠の国衆、地侍は結構切り崩されてるから
というレスからはじまっているのだろうから
具体的に武田方に付いた国人衆の記述についてみんなが述べているんだろ
>>953 武田氏編は平成だった気もする・・・
今日図書館に戦国遺文見に行ったら貸し出し中だった
どうやらそうとうなマニアが漏れの住んでる市にいるようだw
35スレ まとめ >1-16テンプレ >18-187どうすれば上洛可能か 手取り川について 駿河攻めずに美濃を攻めたら >178>180>184武田の上野攻めまとめ >31-101織田家の武将の戦績 >125-160斉藤道三朝倉宗滴武田信玄の信長評 >188-195テンプレ詳細部分 >200-295高島郡恵那郡旧六角領 >241旧六角領まとめ >355-398高島郡の状況 >355朽木磯野 >356多胡氏 >360島氏新庄氏林氏 >362平井山崎高島氏 >378高島郡まとめ >385高島郡の地形 >258-325信長公記とか甲陽軍艦 >326-376常備軍の虚構と農繁期の出兵 上洛時の武田の兵数 >375-415信玄は本気で上洛する気だったか >405>461恵那郡岩村の状況 >418-453織田武田を取り巻く状況 >422-443 72年の武田上杉の戦争 >454-500徳川へ援軍は必要か >444-452秀吉の手勢 >606-617前波吉継ら朝倉降将の具体的人数ソース >465「顕如上人文案 巻上」1572(元亀三)年9月10日付 、信玄宛の顕如書状 >471-491二俣攻囲はいつか >484-523三方ヶ原後の武田の行動 徳川の抗戦力 >515「菅沼記」 >524-585武田織田決戦したら 信玄の戦術戦闘能力 信玄は自軍と互角の軍に勝てるか 国境の国人の動き
>564-568 >642-674姉川後の浅井と吉田城が落とされた場合の徳川の比較 >661-670数値での浅井徳川国力比較 >580-641徳川は従属するか否か >663 72年3月に木戸田中城を攻略のソース >672「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」 >682-718 家康の状況 武田に主要な城を攻め落とす戦力があるか 分断できるか否か >709東海道の諸城 >719-771信長は武田を気にしていたか否か 飯田方面の地理 三河から岩村への進軍 武田滅亡時の織田の行軍路 >723-861吉田城について >769地図へのリンク >809-810>827三河の城の説明 >817吉田城リンク >787-823背水の陣と韓信と史記 >852-866伊勢の支配率 >864>884領地の安定化 >890-897徳川降服の可能性 >873-954徳川配下の国人衆の離反の可能性
>>949 >遠江は別として吉田に関しては誰も反論してないんだが・・・
反論する依然の問題だからじゃないの?
>>904 や
>>934 の人はそういったこと示唆しているんでしょ
>また上のほうでも吉田によって分断後でも当分徳川領は持つと話し合われてるが
自分の都合のいい意見だけ意図的に抜き出してませんか?
即滅亡って意見もあれば、数ヶ月持てば良い方、浅井の様に数年戦えるって意見、
色々とあるように見えるんだけど。
突飛な「吉田が落城」って仮定の下、何故、どのように落ちたかの説明は一切ない。
その後の家康の意向、居場所さえ不明。
情勢がまったく見えないんですが、その後の展開に触れてる方々は、
どんな妄想をベースに話を進めているのか補足して欲しいですね。
>>957 妄想男は吉田の落とし方の説明どころか
反対派に吉田が落ちない説明を求めて、
結局吉田は落ちなさそうって事でもう話が終わっているみたいだよ。
吉田は堅固か、そうではないか、また堅固ではないけど脆弱ではないなどの
説はあったけど
>>958 のような結論はなかったな
吉田城が堅固だろうが脆弱だろうが、 浜松の守り考えたらせいぜい5、6千だろ? 2万が遮二無二攻めたらどちらにしろ落ちるし 力攻めを避けるならどちらにしろ同じだろ。
無いねw 結局吉田は落ちなさそうって事にして話を終わらせようとしてるのは居るが。 あと、三遠の間の移動は東海道使うより山系を通る方が早かったらしい
落とせない説明をする奴はいるけど、落とせる説明してる奴は居ないだろw 力攻めしたらとかいうアホ意見はノーカウントな。 小兵力が籠もった城を力攻めしても落ちなかったりするんだから、落とせる事の説明にならん。 だいたい、織田との戦いを考えたら力攻めなんかで損害を出せないし。 しかし「この結論でいいな!」とでも宣言しないと結論が出たことにならんのか?
>>962 まったく堅固じゃない平城の吉田城なら、力攻めすれば
早期に落ちる可能性は高いな。 962は否定したいらしいが
>>963 掛川城は平城だな。浜松も平城といえるか。小田原城も。で?
>掛川城は平城だな。浜松も平城といえるか。小田原城も。で? なにが言いたいのかよくわかんない
>>965 悪魔の証明をさせたいんだろ
説明不足でそれすら失敗してるがw
967 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/07(月) 12:22:49
いつ吉田が堅城じゃないという結論になったんだかw
軟城だと言い張る奴は何人か居たけど 堅城と主張した奴は誰一人居ないと思ったが。俺の勘違いか?
969 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/07(月) 12:42:01
よく読み返せよw
さて次スレの季節だが 今回はレスまとめ人さん来ないのかな?
力攻めをすれば必ず落ちる! 兵なんてまた徴兵すればいい! まさにゲームの発想ですね
力攻めと言えば西南戦争だな。最新の装備をしていても熊本城陥落ならず
熊本城、松山城、唐沢山城 城が堅固だとやはり心強いね。
>>957 >即滅亡って意見もあれば、数ヶ月持てば良い方、浅井の様に数年戦えるって意見、
>色々とあるように見えるんだけど。
数年以外はほとんど妄想だったけどな、遠江の城は弱い城ばかりと言って反論され
分断されたならすぐ武田の物になるといって浅井の例で反論され、東側の勢力だけ
で抵抗できないといって掛川の例で反論され。
あなたはもし俺が何の根拠もなしに織田の援軍無くても徳川は10年持つよと書いたら
それも意見として取り上げるのか?
>>968 いやいたぞ
>>805 あたりから、まあ正確には普通より固い城程度の意見だが。
読み返して思ったが吉田城の川が弱点だから吉田城は弱いと言ってる連中は、大坂
城の南は川などが無くて弱点だから大坂城は弱いとでも思っているのだろうか?小谷
城の尾根伝いや高天神の搦め手も戦術上の弱点と言われてるがそれを理由に両者
を弱い城と主張するのだろうか?また山城は水の手が欠点となったりする城もある。
城に弱点があっても普通はそこを重点的に守ったり、何らかの配慮を加えているから
構造的に弱点であっても、即それが理由で弱い城にはならないんだが。
>>970 >>955-956
>>961 >あと、三遠の間の移動は東海道使うより山系を通る方が早かったらしい
ソースは?
確かに直線距離はさほど変わらないけどね
>>974 >大坂城の南は川などが無くて弱点だから大坂城は弱いとでも思っているのだろうか
そういやそうだな、それに大坂城も平城だ、力攻めすれば早期に落ちる可能性は高いんだろうか
もっとも半年ほど大坂城は落ちたけどw
>>963 あたりからのアホ意見は、
無理やりに「吉田を落とす方法の意見を出した!」
って言うことにして結論をうやむやにするための作戦か?
さすがにマジで信玄が力攻めするとは思ってないだろうな・・・
>戦国期の吉田城は土盛と素掘りの堀による簡素な構造 >池田輝政による改築以降の吉田城は豊川と朝倉川合流地点に立地し、 >北側に川を背にして本丸があり、それを囲むように二の丸、三の丸、 >武家屋敷が囲むという半円郭式の平城 >池田輝正が十五万二千石で入封し、 >豊川を背にして本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、 >それが掘を同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張した。 HPの抜粋ばかりで悪いのだが改修前と後でかなり違う気がするのだが… 池田輝政が改修するまでHPを見る限りさほど難攻な城とは思えない。
>>977 >土盛と素掘りの堀による簡素な構造
前にもでたが戦国時代だとこれはいたって普通
>>974 >遠江の城は弱い城ばかり
こんなこと言ってるやついたか?
ざっと見、確認できなかったのだがレス番よろ
>浅井の例で反論
分断されてから畿内遠征、志賀の陣、があっても
分断された浅井方の城は数年ももってませんが。
佐和山で8ヶ月。
>掛川の例
氏真が自らが篭って篭城した城と分断されて後詰が期待できない城では
全く状況が違うし。
>>979 71年は上洛前の小手調べ的な攻撃で75年は長篠前にちょこっと窺った程度で
いずれも本格的な城攻めではない
>いずれも本格的な城攻めではない さすが常勝武田ですね。
>>980 >分断された浅井方の城は数年ももってませんが。
>>974 と話がずれてないか?
徳川領全体の話なのか徳川領の東半分についてのみなのか
>>遠江の城は弱い城ばかり
ぱっと見これに当てはまりそうなのはおそらく
>>664 しか無いと思う
>>掛川の例
単純に防御力だけ考えるなら充分妥当じゃないか
それに氏真の時のほうが後詰は更に期待できないと思うが
織田の援軍が前提だろうが吉田城落としていたところで迂回されれば意味無いし
播磨で孤立していた秀吉だって別にそれで軍が瓦解することも無かったし。
>>978 確かに、戦国時代の前の方だと普通ではあるね。
ただ、小原鎮実が篭城せずに渡河して布陣したことから
池田輝政による改築前は、不完全か比較的脆弱な城だったという意見が城郭体系の中であった。
改築後にしても本丸が露出しているから、交通の要衝ではあっても
守備に不向きな土地なのかもしれない。
>>983 >織田の援軍が前提だろうが吉田城落としていたところで迂回されれば意味無いし
小牧長久手の様な状況を自ら招くと?
山中城ほどの凝った城を四千人がかりで守っても、 数万の軍勢が遮二無二攻めかかれば一日で落ちてしまう。 ただ、戦国期の一般的な大名は余計な損害は嫌うから 小さな城でも長く持ち堪えたりもする。 あまりにも状況に拠る部分が大きすぎてしょうがない。
完全にうろ覚えで間違っている可能性もあって間違っていたらすまんが、 鉄砲などの飛び道具の発達で戦国後期はむしろ山城より平城の方が守る側有利なんじゃなかったっけ? 攻めて側が身を隠すものがいっぱいあるが平城は身の隠し場所がないとかなんとかで。 ごめん。理由もうろ覚えだ。
山城の方が防衛上有利だけど不便だから、鉄砲の普及で 平城もある程度守れるようになり、移行が進んだんじゃない? 板戸城(違うかも)は不便すぎて、普段は樺ノ沢(これもうろ覚え‥)に居住していたらしいし。
×攻めて側が身を隠すものがいっぱいあるが平城は身の隠し場所がないとかなんとかで。 ○山城は攻めて側が身を隠すものがいっぱいあるが、平城は攻めて側が身の隠し場所がないとかなんとかで。
>>985 いや吉田に武田の主力がいるならともかくそうでないなら織田の一部の部隊に牽制されて
吉田の武田勢は動けず、織田の主力は普通に遠江までいけるだろ。
そして織田は城の封じ込めが特に得意な軍団だし。
佐和山があっても付け城築いて素通りしてるし、本願寺荒木別所に邪魔されても播磨まで
援軍出したりしてるし。ただそれを行うにはそれなりの兵力が必要なので、この時までにそ
れだけの余力を織田軍が手に入れているかは別問題だな。
>>989 普通山城には攻めて側が身を隠すものなんてほとんどないよ。
一般的には樹木とかは伐採してしまうから。
身を隠したかったら盾に成るようなものを担いで山道を上がらなければならない。
鉄砲は攻撃よりも防御に有利に働いた、とは聞いたことがあるな。
山城は特に労力をかけなくてもある程度強い。 ただ地形の制約を受けてしまう また郭ごとに独立(孤立)してしまうため、一度落ちた部分を取り戻すのが大変 また相互支援しにくい、兵力が分散してしまいそれぞれの郭は少数で守ることになる 地形に制約を受けるため火力を発揮しにくい、また兵力を集中できないため 相手の火力が上だと守備側のほうが不利になったりする。 尾根伝いに攻められやすい、高所を奪われると防御側の動き構造が分かってしまう また逆に上から攻められることになり不利 他に水の手をどうするかと言う問題がある。 それらの欠点のため例えば尾根筋を切って堀作ったり、高所や山の反対側にも砦を 造ったり、水源確保のため、井戸掘って池作ってといろいろする。 また火力を発揮しやすいように武田などは馬出しを築いたりしてる。 で平城だと地形の制約受けずにただ守りやすいように城の構造を決められるが、それ するには金と技術が必要。戦国後期でも平城より平山城のほうが多く作られてるし山城 も普通に使われたりしてる。
>>984 だとしたら何で落とさないんだ?ってことになる
武田が吉田城の重要性に気づいてないはず無いし
埋めがわりに 35スレ まとめ >1-16テンプレ >18-187どうすれば上洛可能か 手取り川について 駿河攻めずに美濃を攻めたら >178>180>184武田の上野攻めまとめ >31-101織田家の武将の戦績 >125-160斉藤道三朝倉宗滴武田信玄の信長評 >188-195テンプレ詳細部分 >200-295高島郡恵那郡旧六角領 >241旧六角領まとめ >355-398高島郡の状況 >355朽木磯野 >356多胡氏 >360島氏新庄氏林氏 >362平井山崎高島氏 >378高島郡まとめ >385高島郡の地形 >258-325信長公記とか甲陽軍艦 >326-376常備軍の虚構と農繁期の出兵 上洛時の武田の兵数 >375-415信玄は本気で上洛する気だったか >405>461恵那郡岩村の状況 >418-453織田武田を取り巻く状況 >422-443 72年の武田上杉の戦争 >454-500徳川へ援軍は必要か >444-452秀吉の手勢 >606-617前波吉継ら朝倉降将の具体的人数ソース >465「顕如上人文案 巻上」1572(元亀三)年9月10日付 、信玄宛の顕如書状 >471-491二俣攻囲はいつか >484-523三方ヶ原後の武田の行動 徳川の抗戦力 >515「菅沼記」 >524-585武田織田決戦したら 信玄の戦術戦闘能力 信玄は自軍と互角の軍に勝てるか 国境の国人の動き
>564-568 >642-674姉川後の浅井と吉田城が落とされた場合の徳川の比較 >661-670数値での浅井徳川国力比較 >580-641徳川は従属するか否か >663 72年3月に木戸田中城を攻略のソース >672「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」 >682-718 家康の状況 武田に主要な城を攻め落とす戦力があるか 分断できるか否か >709東海道の諸城 >719-771信長は武田を気にしていたか否か 飯田方面の地理 三河から岩村への進軍 武田滅亡時の織田の行軍路 >723-861吉田城について >769地図へのリンク >809-810>827三河の城の説明 >817吉田城リンク >787-823背水の陣と韓信と史記 >852-866伊勢の支配率 >864>884領地の安定化 >890-897徳川降服の可能性 >873-994徳川配下の国人衆の離反の可能性 >984-993平城と山城について それぞれの長所短所
埋めぬなら 埋めてしまおう 旧スレは
999 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/08(火) 01:49:39
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ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
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