2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 19:43:56
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(22?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上となり、さらにこの作戦にあたっては
さらなる臨時税から借入まで。領国の疲弊はすでに始まっていたと思われる。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
などが味方勢力として存在。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領は議論中。慶長検地から、+18万石くらい?
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜13%(1850〜2550)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。
総計1850〜2550
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
前スレより
・「高坂弾正・土屋直広・穴山梅雪連名の書状」は偽文書の可能性高し。信憑性なし。
・「太閤検地には寺社領が含まれていない」には根拠がない。よって、寛永検地の差分を
寺社領として武田領に加えようとする意見は、まず先に根拠を提示してから行わないと、
信憑性なしとして相手にされない。
織田領国 尾張、美濃、伊勢北中部、近江中部
徳川領国 三河、遠江中南部
武田領国 甲斐、信濃、上野西部、駿河、飛騨東部
朝倉領国 越前 浅井、近江北部 六角、近江南部
軍勢 織田4万〜4万8千、徳川9千〜1万2千、武田3万〜3万6千
朝倉1万2千〜1万7千、浅井3千〜4千、六角2千〜5千?
長島一向一揆2万前後
将軍、石山本願寺活動地域 畿内、近江西端 鬱陶しい
遠江諸城開城、諸将寝返り。見方が原後、野田陥落
こんなもんでいいんじゃねぇの?
郡別石高が無いのは?
ところで今気づいたが伊勢の%おかしくないか?
北伊勢一揆衆の分が存在してないぞ
でも実際、動員能力は財力も関係するはずだから
石高だけの兵力換算じゃ織田に不利なんだけどね。
本当だったらもっと差が作って言うことだな〜
動員能力は財力も関係するとは、どういうことなんだろ
町人や商人を動員する気だろうかw
兵隊は農民だけとでも思ってるのがいるぞ
この時代、
豪商や運送業者は、私兵を雇って武装しているので、そうゆうのが動員されたんではないだろうか。
関ヶ原合戦の時は、吉岡道場の門弟(大部分は町人)も動員されたらしい。
信長の領国は商工業者が他地域よりも多そうだから、その点でも動員数は多いはず。
あと、岐阜、安土、京都のような大都市には、失業者、浪人、浮浪者の類が多いはずだが、そうゆうのにとっては戦争は出世のチャンス。
経済が栄えていれば、それだけ多くの軍役代わりの矢銭がかけられます。
金があればそれだけ兵も兵糧も集めやすく長く維持もできます。
1万石あたり250人と言うのは、
1万石のうち一部を兵糧にし、
一部を金に買えて武具を整えるなどに使用し、
それでまかなえる人数が250人と言うことです。
米以外の経済力があれば米を金に変える必要がなく、
当然米自体も買うことが出来ます。
普通に考えれば武具は自国生産じゃないかな。
あと、金と違って銭は戦乱で信用が落ちていたという話を聞いた事がある
自国生産だからってまったくの無料ではないし、
ある程度の品や鉄砲などは産地から求めないとしょうがない。
>>26 >金と違って銭は戦乱で信用が落ちていたという話を聞いた事がある
地方だとそうかもね。
てことは、
信長は石高以上の動員力を持っていたってことだな
でも織田は石高から大きくはずれた動員はしてない気がするが・・・
どうなんだろう?
信憑性を無視すれば、伊勢遠征で十万とか槙島攻撃で七万とか。
まあ常に最大動員をかけなければならないというわけでもないだろうし。
>>25 取引は米、金主体で、銭は位置づけが今と違うから
銭を米に替える事はあっても、逆は少ないと思うがどうだろ。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 21:42:09
織田
信
澄
な ぜ 信 澄 ?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 23:35:58
スレをたてたヤツが織田厨が信玄厨かによって、織田領域のパーセンテージが
大きく違う。
上の石高からの換算で
武田が総計25035〜26635
織田が総計51114
となっているのに
>>15 で唐突に
織田4万〜4万8千
武田3万〜3万6千
になっているのは
どういうことだ?
石高換算はシカト?
武田厨換算ですので
>織田領国 尾張、美濃、伊勢北中部、近江中部
>朝倉領国 越前 浅井、近江北部 六角、近江南部
>織田4万〜4万8千、徳川9千〜1万2千、武田3万〜3万6千
>朝倉1万2千〜1万7千、浅井3千〜4千、六角2千〜5千? 、長島一向一揆2万前後
>将軍、石山本願寺活動地域 畿内、近江西端 鬱陶しい
こんな捏造してますからw
テンプレの残りとか過去スレのまとめとか、リンク集とか作って連貼りしたら迷惑かな?
垢とって、そこで纏めサイト作って、それをここに貼り付ければ済む話。
44 :
40:2005/09/02(金) 00:57:40
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 01:23:53
石高だけじゃなくて、人口とか、GDPで比較できないのかなー?
まあ、なんとなく、信長の領国が信玄のそれを圧倒しているような気がするが、
当時の徴兵ってどんな感じ?農家一軒あたり一人とか?
>>45 GDPで比較は不可能だろう。
商業とか他の要素加味すると武田はますます不利になるからなー、武田厨の俺としては
それでもいいんだが他の厨が黙ってないだろうし。
石高以外だと織田以外だと足利とか本願寺は動員力増えるだろうが包囲網側で増えそう
なのはそれくらいかな。朝倉の敦賀支配がどの程度かによって朝倉も増えるかな?
>>46 年貢の徴収も村に対してなんだから、各領主が村一つごとに何人とかじゃないか?
武田は領主が与えられた所領の軍役衆から何人という形かもしれないが。
>>48 それって出す家出さない家で不満でそう。
一回の戦でいくらぐらい貰ってたんだろう。日給五千円くらい?
>>49 食事の支給だけだろ基本給みたいなのは。
あとは略奪と手柄次第で褒美出世。
>>50 まじっすかΣ(´Д`; )
自国内じゃ略奪できないし、農民じゃ出世のしようも無い
どんな手柄上げれば褒美貰えますか?
雑兵じゃ大将首とっても手柄にならないよ
多少の銭か物をあてがわれる程度
だからここぞとばかり略奪暴行をする
命懸けでもたいした見返りないからね
武田なんかは特に酷かった
その辺りを見ても天下とれなかったろうと思う
まあ結局信長も下からの反発で寝首かかれて天下とれなかったしな。
>>52 手柄には成る、雑兵でも。
ただし、個人の手柄にはならない。
要するに、組織として動いた結果大将首なりを一番乗りなりを挙げられた訳で、
その属する組全体の手柄となる。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 09:32:27
えっ!
>>52そうなんですか…武田信玄さんは戦場ではつねに金をいれた袋を持ち、手柄のあった者にはその場で褒美として与えるなんて事きいてましたが…
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 09:39:41
利家とまつ だと戦いがあった日は小銭がもらえてましたね。
これが基本給であとは討った首の数や質でプラス何文とかじゃないの?
前にもこんな流れがあったな
基本給は年貢軽減、役務免除で、戦の時は食い物支給だったような
あとは手柄に応じて賞与?
信長の野望では確か 大名→宿老→家老→武将→侍大将→足軽組頭
ってなってたけど、実際はこの下に足軽→徴兵農兵、その他に用兵集団。って感じ?
役割とか人数構成とか詳しい人教えて。
用兵集団は無いだろw
武田家は、有徳、武勇以外の百姓、職人は参陣させるなとあるから、徴兵農兵も微妙。
いないの?雑賀衆みたいのとか、金で動く山賊みたいのとか。
農民徴兵しないでどっから何万人も連れて来るの?
雑賀衆だって金で雇われて本願寺に参戦したわけじゃないしなあ
雑賀衆とか根来衆とかは土豪で坊さんだが、節操無く
織田に付いたり本願寺に付いたりしてるし、利益しだいで
どっちにでも付く、いわゆる傭兵って言っていいんじゃない?
傭兵だね。三好にも付いてたし
いまさらだけど、近江の領国は4割程度だろ?
浅井、六角とも健在で京への街道沿い+αじゃ7割はありえん。
>>65 六角の支配地域はどれくらい?
浅井は?論拠提示しながらでヨロ
それで、
>>59での質問だけど
総兵数1万規模の国で(数字はだいたい)
大 名 1 一番えらい。形態様々
宿 老 1 代々受継ぐ?
家 老 2 家臣の最高職、家の方針まで口を出す
武 将 5 御前会議で口を出せる、作戦隊長を任せられる
侍 大 将 10 戦で自分の意思で部隊を動かせる
足軽組頭 100 受けた命令によって兵を率いる
モレのイメージはこんな感じ。御意見求む
>>66 愛知、神崎、蒲生、甲賀郡は、この時期でも六角支配に間違いないと思う。
高島、伊香、浅井郡は浅井家だから、織田領国は半分いくかいかないかていど
>>71 愛知は織田で高島は微妙だろ。
蒲生郡には蒲生家もいるし。
>>71 浅井郡もほとんど失っているわけだが。
小谷城の位置を知ってる?当時はその目の前に砦を築かれて押し込められていたほどなのだが。
>>68 それじゃ何の説明にもなってないだろ、違うというのは同意だが。
でも説明するのも難しいよな、それに自分もそんな詳しいわけじゃないし。
>>71 六角なんてこの時期城を包囲されて手も足もでないような状況なんだが、
そして信長本人には既に相手にされないような勢力だぞ。
>>74 浅井郡は半分前後は残っているし
砦からはそれなりの距離があって、わざわざ小谷城の近くまで兵を出してるのだが。
>>72 はいはいw
>>73 鯰江が落ちていないのに何故完全な織田領になったんだ?
>蒲生郡には蒲生家もいるし。
別に蒲生家が支配者じゃねーしw 上郡は織田支配だろうけど。
>>77 >砦からはそれなりの距離があって、わざわざ小谷城の近くまで兵を出してるのだが。
2キロを近いととるか遠いととるか人それぞれではあるが・・・
で具体的に六角は鯰江以外どの程度なんだ?
確かに六角で無い=織田領というのは単純過ぎろ物の考え方だとは思うが・・・
>>78 蒲生下郡に所領安堵出している事と、信長が上洛するとき使われたルートからして
甲賀郡と蒲生、神崎、愛知、犬上郡を部分的にという感じかと。
上洛戦時だろ
三年も前の話をされてもなあ
信玄公の上洛戦時だろw
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 07:28:31
信玄厨得意のループさっぽう
この時点で六角に協力するのがどの程度いたっていうんだ?
70年の時とは状況異なるだろう
>>77 お前さんは2キロをそれなりの距離ととるわけか
>>85 兵糧攻めとかをするための完全包囲のための付け城とかと比べると、
距離がそれなりにあるな。
ただ2キロだとすると本当に近いよな、関ヶ原の三成の陣から2キロというと
大谷の陣ぐらいか?秀吉と浅井はわずかな距離でにらみ合ってるという感じだな。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 12:59:07
この時期六角は城に閉じ込められているんだから、
今までの蓄えで篭城できているだけで、
城外の村から税を徴収する能力は無いだろう。
城だけを死守してても支配にはならないよ。
浅井にも言えるけどね。
もちろん地域的には織田にも。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 16:40:07
六角を入れること自体間違え
2キロか、100m歩くのに1分かけても20分でつく距離だよな、
当然肉眼で丸見えだし。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 21:41:20
浅井領は11、12だけだね。
六角は3の一部のみだろうし、甲賀郡見た目は大きいが、石高はどうだろうか
>>93 浅井郡の飛び地は浅井郡全体の10%程度でしかない
それと東の浅井郡も、まだ山本山・月ヶ瀬城が浅井のものみたいだから、
ほぼ失陥は言いすぎ。
>>94 甲賀郡は予想される数値では近江の中では高いほうだったhず。
信長が動かなかったことがなんとなくわかる
>>96 信長が平気で京と岐阜を行ったりきたりしてたんだから、
六角の支配力なんて無いも同然なんだろうけどね。
平気で行ったり来たり出来たのは残存敵勢力を
余りある味方勢力で拘束していたからだよね 多分
甲賀郡の六角勢力は70年か71年に柴田にぼこぼこにされて以来
何もしてないと思うのだが・・・
実際のところ72年以降の活動の記録はどうなの?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 22:54:47
浅井も小谷に付け城つくられたら
対抗して岐阜に付け城作ればよかったのに
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 22:55:23
信玄も六角みたいな浮浪者を当てにしてなかったと思われ
>>101 姉川で負けて余力が無かったんでねーの?
それと金ヶ崎からの信長の動きも早かったんでは?
>>100 何かやっていたようだが、一言でいって全戦全敗。
それでも最終的に鯰江城・石部城が落されて近江より退去するのが74年四月。
それまで織田は落せなかった(抵抗していた)のか、他が忙しくて放置して
いただけなのか。
六角から積極的に攻勢にでたのは70年六月の長光寺攻撃(瓶割り柴田の逸話)
以外に知らない。ネットでざっと検索かけてもみつからなかった。
>>104 >70年六月の長光寺攻撃
多分それだと思う、そのとき甲賀にまで攻め入ったという話しがある
六角は潜在的な反織田ではあっても顕在的なそれではなかった
要はゲリラ
放置して自国が侵攻されることはないが、蜂起されて割と痛い被害を被る
ことは十分考えられる
だから信長は徳川の後詰に出なかったんだよ
>>104-105 野洲川合戦のことかな。
70年五月下旬に六角氏が甲賀の土豪草津方面に進出(瓶割り柴田の逸話はこの時のもの)。
これに対して長光寺城の柴田勝家と永原城の佐久間信盛が迎撃。六月四日、野洲川の乙窪で
両軍激突。結果は六角軍が三雲・高野瀬ら大将を含む七百八十の兵を討たれて敗走。
六角軍の兵数が不明だが、死傷者数でなく戦死者数が七百八十というのは相当な大敗だった
んでしょう。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 02:37:16
>>106 六角ごときのために信長の行動が縛れるわけがあるまい
徳川への援軍は、佐久間・平手の3000で充分だし
>>107 >戦死者数が七百八十
これが真実なら以後役立たずも仕方ないな
>>104 ほっといていいような勢力だからじゃないか?
急いで攻めて無駄に兵を失いたくないだろうし。
>>108 言葉が足りなかったが、この場合六角を含め、近江を中心とした
畿内の反織田勢力全てが対象、それらが足枷となるからってことね
そうだとしても畿内織田勢への完全な拘束能力はなかっただろう
ただ、それをいいことに多くの織田勢が離れれば、それをきっかけに蜂起して厄介な
事態になることも可能性が十分考えられるということ
あと、近江の親織田の連中なんかも数万の織田本軍いう重しがあってこそ織田よりに
なびいたって側面があるだろうし
そういった可能性を憂慮して、信長は徳川という盾を守ることより自分の身の防備維持を
選んでいたんだろうってこと
>>109 仮に、六角の軍が八千の兵力(こんなにあるとは思わないけど)だとしても、
戦死者数一割。どうにもならんわなそりゃ。
>>111 >この場合六角を含め、近江を中心とした
>畿内の反織田勢力全てが対象
それでも信長の戦力1万もあればなんとかなるんじゃない
そもそも、もともと近江にいた旧浅井や六角の主力をなした土豪たちはそのまま織田の
傘下に入っているわけで、別に織田の援助がなければ戦えないわけでもないでしょう。
はっきりいって、甲賀にこもった旧主である六角氏よりも、かつて部下だった進藤や後藤
その他の土豪たちを集めたほうが勢力は大きいでしょう(まとめるための旗頭は織田から
出す必要があるだろうが)。
>>111 > そういった可能性を憂慮して、信長は徳川という盾を守ることより自分の身の防備維持を
> 選んでいたんだろうってこと
なんで二択なのよ
畿内の戦線も破綻してないし、徳川にも援軍おくってるじゃん
だな。
前にも言っていた人がいたけど、徳川への援兵2000は籠城するには十分な援軍。
それを血気はやって会戦に訴えたのは家康で、信長にとっては寝耳に水だろうさ。
信長はちゃんと徳川のことも視野に入れているだろ。
>>116 徳川自身も篭城策を取るつもりだけど、
信玄に一戦も挑まずに篭城したら
武士の面目にかかわるから
一戦した後篭城しようとしただけだろうね。
その一戦が予想外の大敗ではあったが。
いざという時に頼りにならない大将と思われると、
大名としては終わりだからね。
敗れたとしても、戦いを挑み、生き延びたというのは、
侵攻を続ける信玄にしてみれば、
背後の浜松はそこそこの脅威になりうる。
25000から別働軍を裂けば信長との決戦において不利だし、
全軍をもってしても短期間では家康を徹底的につぶしきれるとは思えない。
信玄も「上洛と言う名目」で出陣しただけで、
実際は、織田が中央で手間取っている間に
徳川をつぶせたら上出来くらいと思ってたんじゃないかな。
一気に徳川をつぶして信長と決戦なんて、
信玄らしい作戦じゃないだろう。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 15:16:02
徳川潰すのと信長が畿内を制するのどっちが早いと思う?
信長は送ろうと思えば援軍をどしどし送れるから、信玄の徳川潰しは
よっぽどじゃないとむりだと思うのだが
そのために畿内の反織田勢力と結んだんでしょう。
ところが結んでみた畿内の勢力はどいつもこいつも青息吐息で信玄の援軍待ち。
おかげで畿内にいた信長は信玄の出陣にあわせて岐阜に帰還(畿内はひとまず
おいておいても問題はない)。おかげで下手をすれば信長とガチに戦わなければ
ならなくなる可能性もでてきた信玄は、朝倉義景の帰国にブチ切れる、と。
>>119 >実際は、織田が中央で手間取っている間に
>徳川をつぶせたら上出来くらいと思ってたんじゃないかな。
大熊や北条が長尾に反乱したときと同じだな
>>121 単純に徳川潰すことしか考えてないなら
わざわざ織田と手ぎる必要はないという矛盾
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 17:41:04
>>120 3千しか援軍を遅れなかった信長さんがねえ
徳川と織田の関係を考えれば織田と手を切るのは必然。
>>123 名目だけでも上洛を掲げるんだったら、
織田と手切らないわけにはいかないだろう。
矛盾でもなんでもない。
>>125 でもないな。あからさまに敵対行動をとってるならともかく
秋山の美濃攻めが始まるまで(すでにこの時点で武田は徳川侵攻中)
同盟関係にあって信長は必死で武田徳川の講和工作してるし
徳川だけなら美濃に侵攻しなくてもいいし
>>128 しかし、信玄としてはその講和工作に乗るつもりはないんだから、
いずれ敵になるのは分かりきっていると思うが。
いや、織田が徳川を切り捨て武田と結ぶって目があったなら話は別だが。
>信玄としてはその講和工作に乗るつもりはないんだから
どういうつもりでこういうこと言えるの?
>>130 今の話は、信玄の目的は徳川を潰すことだったのではないか?
という仮定に対してのものだから。
徳川潰しが目的じゃなくても、
上洛を(名目だけかもしれないが)宣言している時点で
織田の「武田徳川の講和工作」もなにも無いけどね。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 20:49:13
美濃の侵入してる時点で徳川潰しだけではない事ぐらい分かるだろう。
ただ、信玄が思ったより畿内が荒れてくれなかった。
駿河狙いで牽制のために小田原攻めたりもしているけどね。
>>133 美濃に侵入した事は、浅井朝倉に対して
「上洛は本気ですよ。頑張って織田を引き付けておいてね」
と言うパフォーマンスとも考えられるから、
そんなに単純じゃない。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 21:02:58
つか、あの頃って朝倉って越前の何郡を押さえていたんだ?
越前丸々全てじゃなかっただろ?
>>136 敦賀取り返してるし加越国境も一向宗に返してもらってるから、一応越前全て。
>>138 入らないだろ、宗滴が生きてた頃や、60年代に加賀を占領していたこともあったけど。
>>133 畿内の情勢も把握してないのに上洛なんて無理だろうな
>>113 なんとかなるんじゃないってのがどの程度を意味するかわからないけど、
織田の主力が東へ抜ければ当初なんとかなる数だったのがそうでなくなる
可能性もある
とりあえずその兵力で完全に安心なら、武田を圧倒する兵力を捻出出来たわけで
、実際に動いていただろう
畿内の制圧が進んでから勝頼が徳川を攻めた時はそうしてる
>>115 それこそ篭城しかできない援軍で何か戦況が変わったの?
武田を撃退することも足止めすることも出来てない
徳川からしたら守ってもらったという意識はなかっただろう
長篠の時と、このときは状況が違うが、基本は一緒
信長にとっては畿内情勢が最優先事項
信玄や勝頼はその次だ
信玄が死去した後、武田に関して放置してたしね
家康に任せっきり
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 22:59:24
>>141 篭城を前提の援軍が、
篭城しか出来なくて問題があるの?
篭城してたら足止めになると思うけど。
>>142 ただこの時徳川は長篠よりもよっぽど危機的状況
畿内優先は同意だよ
この時は畿内の支配を確保したまま武田を相手にすることは
出来なかったってだけ
濃尾により現実的な危機が迫れば信長も多少の博打はうったろう
>>143 篭城前提の援軍しか送らない事が徳川にとって問題なんだろう
身ぐるみ剥がされレイプされても篭っとけば殺されることはないから、いいだろうって
理屈は当事者からしたらたまったもんじゃない
まあその辺も武田の出方次第ではあるが
つーか、浜松に篭城した軍勢が武田をどう足止めしたというのか
>>141 > それこそ篭城しかできない援軍で何か戦況が変わったの?
> 武田を撃退することも足止めすることも出来てない
> 徳川からしたら守ってもらったという意識はなかっただろう
武田こそ三方ヶ原の後何をしていたんだ
野田城あたりで手こずった挙句に撤退しただけだろ
それなのに追加支援する必要あったの?
>>144 >ただこの時徳川は長篠よりもよっぽど危機的状況
長篠城野田城と高天神城など天竜川以東の大半が釣り合うのかどうか
家康が篭城したら信玄はお手上げと言う話は、
前レスでさんざんしたのにまたループして話すのか。。。。
>>145 野田が落ちたら、次は吉田とかどんどん致命的な拠点がさらされることになるんだが
そもそも最初の援軍要求でもっと出せよw
野田包囲の際もそうだけど、15000で長篠囲まれるよりよっぽど危機的状況だろう
>>144 >つーか、浜松に篭城した軍勢が武田をどう足止めしたというのか
徳川の主力を無視して進軍するとでも言うのか?
>>148 前々年1571年に野田落とした上で吉田を囲んだがさほど影響は無かったが・・・
浜松に家康が健在だから野田城包囲攻略して、兵站の確保しなきゃならなくなったのですよ
>>148 城の一つや二つを取られても、
家康が粘っていれば信玄は信長とは決戦できず、
信長が近畿をある程度平定してから
大軍で援軍に来れば取った城を放棄して
甲斐・信濃に撤退するしかない。
>>146 もう少し詳しく書いてくれないと、意味がイマイチよくわからん
とりあえず侵略してくる兵力の多寡は明白だろう
>>149 実際三方ヶ原の後は進軍してる
>>145 動きも鈍いしな、三方が原後も、徳川領から長篠方面に帰っていってるし
援軍を送る必要あるのかどうか
>>154 戦術的には三方が原の後のほうが危機的でも、政治的戦略的には長篠前のほうが危険
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 23:37:14
信長は3千しか兵を送らなかったのではなく送れなかったんだろ
>>150 兵力が違うでしょ
>>151 それで足止めかどうか自分的には微妙なんだが、
どの道織田の援軍がいたから出来たということにはならんでしょ
>>152 徳川が粘れるかというのと、それに対して武田がどう出るかによるのでは?
その間に朝倉も再度出てくるだろうし
>>153 撤退したのは信玄の健康状態による影響が大きいでしょ
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 23:43:24
そもそも信長って家康に「いったん遠江を捨てて三河に撤退しろ」とか
暴言吐いた奴
>>159 >どの道織田の援軍がいたから出来たということにはならんでしょ
援軍すら要らなかったという事かな?
>徳川が粘れるかというのと、それに対して武田がどう出るかによるのでは?
武田がどう出るとどうなるの?
>その間に朝倉も再度出てくるだろうし
どういう理由で、再度出てくると思うの?
>>151 いなかったら出来なかったとも言えない
何故なら、送ってるのが佐久間信盛という東尾張・西三河一帯を管轄する当時の織田家No.1だから
>>158 進軍かどうか微妙だぞ、三方ヶ原の後の行動は。
先に山県が通ったルートまで戻って越年。
山県が制圧したのか通っただけかは分からないが、
その道を使って三河長篠方面へ移動して野田城を攻撃。
三方が原後から三河長篠への移動は一応武田の勢力圏での行動じゃないか。
勢力圏じゃないならまたテンプレの武田の数値下げないといけなくなるし。
>>159 > 撤退したのは信玄の健康状態による影響が大きいでしょ
それは武田の事情ですね
史実で撤退してるのにそれ以上の対応を求めるのは無理でしょう
それを援軍を送る余裕がなかったとか曲解するのは屁理屈じゃないかな
>>165 確かにそうだな。
別に援軍を送らなきゃ徳川が致命的な状況になるといった感じじゃないからな、史実じゃ。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 23:54:41
あともう少しで首を取られそうになったのに危機的じゃないんでしょうか
誰か168の意味教えて
誰が首とられそうになったの?
足軽
信長包囲網ってまともなのは信玄と顕如くらいで
あとはオマケみたいなもん。
だが、この2人は手強い。
命の危険を感じないのに脱糞するものなのか人間は
敗退した
脱糞した
ところで、首とられそうだったとは?
>>167 野田城囲んでるときは冬だから、信長が兵を出すのを渋ったのかもよ
>>167 岩村城を見捨てて
三方ヶ原にも大した援軍送らず
「送らなくても大丈夫だったから」送らなかったと考えるのかい?
>>172 俺の友人は酔って風呂場で脱糞したが(実話)
糞と一緒にお湯に浸かって寝ていた
脱糞の原因は敗退じゃなくて命の危険では?
勝頼が長篠から逃れる途中に脱糞した?
>>175 だから、三方ヶ原で戦うための援軍じゃないんだって。
篭城の為の援軍なのに勝手に戦って、
「援軍が役に立たなかった」って言ってもしょうがないんじゃないか?
>>175 岩村城は優先順位低いんじゃない。それにもともと武田側ともいえる城だし、
取り戻したの75年だよ、しかもほとんど息子任せ。
>>171 信玄より朝倉の方が信長を追い込んだんじゃないかな
>>175 あと三方ヶ原後は野田城囲むまでは、武田の勢力圏で行動してるし、
野田落とした後も進軍することなく、長篠に帰ってるし。
息子任せは長篠後だろ
>>179 後詰の無い籠城は成立しないよ?
信長はいつ動く予定だったんだい?
>>156 ちなみにその根拠は?
戦略には兵力の多寡も当然含まれるだろうし、それを覆すだけの材料とは
>>161 要らなかった?逆です
単に織田が送った援軍は特別役にたったわけではないということ
武田がどう出るかなんて色々可能性はある
だから、こんだけスレが伸びるんだろ
朝倉は実際冬になるまでは出馬していたし、再出兵を約束してるんじゃなかった?
>>165 信玄が健在な状態で、野田城包囲中から撤退を見込めたのか?ってこと
そうでないなら、包囲中に後詰してもいい戦況だろう
つーか、>で引用してる人、レスを統合してくれると有り難い
それぞれ全部違う人だというなら、何もいう事はないが
あと、反論してくる人としては、
織田は畿内のゲリラ的な反対勢力の反発を抑えきる兵力と武田を圧倒する兵力と
両立出来たってことだろうけど、それはどれだけの兵力はどう分配した結果辿りつく
のかな?煽りじゃなく、聞いてみたいんだが
歯牙の陣のときに信玄が動き出してたら
さすがに信長は戦士だったろうな
>>185 後詰が来ると思わせるだけで随分違いますよ
後詰が無い籠城が不可能なのは
後詰が存在しない籠城であり、この場合は織田勢の後詰は、いつくるかはわからないが存在している以上、
籠城は可能です
ていうか信長は3千と一緒に佐久間を葬り去るのが目的だったんじゃないのか
後の酷い追放を見てるとそれも邪推に思えないんだが
>>185 近畿を平定したら。
>>186 >武田がどう出るかなんて色々可能性はある
どう出るかを説明せずに「色々可能性はある」ですませるんだったら。
織田にしても「色々可能性」ありますが?
他の人はしらないが、
武田と決戦するほどには両立できないから
徳川に篭城させて時間稼ぎをさせていると思っている。
両立できるなら信長だって戦っている。
戦前の
武田と徳川の国力比2:1
織田と浅井朝倉の国力比2:1
浅井朝倉が3年ほど粘れたのだから、家康だって援軍無くてもあと一年ぐらい粘れるはず。
>>186 >ちなみにその根拠は?
レス見なおせよ
>>191 おぉーい
浅井は朝倉の援助があってだろー
朝倉は金ヶ崎以降は、国外でしか合戦してないぞ
>>192 高天神の後詰に向かったが間に合わずに引き返したのはフェイクってことか。
>>186 >それはどれだけの兵力はどう分配した結果辿りつく
>のかな?煽りじゃなく、聞いてみたいんだが
テンプレぐらい読めよ、それに織田が武田を凌駕する兵力をそろえると思ってる人は
多分ほとんどいないと思う、ほとんどが守備兵力を配備した上で、武田に近い兵力を
揃えられると考えていると思う。
>>195 岩村の話しだろ?
お前さんレス番間違えてるな
>>194 浅井朝倉を一つの勢力と考えてるんだろ、
別にしたら戦力比がでかすぎて武田徳川の比較には使えないからだろうな。
>>191 現実には浅井朝倉は別勢力だから徳川より弱い。
しかし織田には浅井朝倉以外に敵も多々いたから、
浅井朝倉はあれだけ粘れたとも考えられる。
織田には徳川が援軍出したこともあった、武田も北条からの援軍があった。
まあプラスマイナスゼロとして徳川も援軍無しで3年ほど、1571年2月から戦っているから
あと1年ぐらい粘れるんじゃない?
>>190 織田の色々可能性あるだろうね
だから、これだけ盛り上がる
>武田と決戦するほどには両立できないから〜
これも同意見だよw
徳川の時間稼ぎがどこまでもつか、武田はどこまで付き合うのか、もしくは追い詰める
のか、それに対して織田がどの時点で畿内優先でやっていけるのか
この辺が面白い
>>196 テンプレ読んでるよ
その上で
>織田が武田を凌駕する兵力をそろえる
これはないと書いたら、やたら噛みつかれたのが不思議だったから、聞きたかっただけ
織田が主語の文章を否定的な語尾で終わるとそれだけで誤読されるのかな・・・
まあ、同意見に辿りつくまでの過程も違うだろうしな
>>200 >>織田が武田を凌駕する兵力をそろえる
>これはないと書いたら
何処で?
>>200 だったら、武田の可能性のある行動を書けよ。
織田に対してはあれこれ質問して、
武田に対しては色々可能性があるで終わらしてたら
話にならないよ?
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 00:44:41
って言うか、こいつが何を言ってきても、全員「色々可能性はある」で返せばいいんじゃないの?バカを相手にしてもしかたねーよ。
>>201 141じゃないかなぁ、一応それに当てはまりそうなのは、
もっとも噛み付かれてるのは
>織田が武田を凌駕する兵力をそろえる
の否定に対してでは無いんだけどね
というか>織田が武田を凌駕する兵力をそろえるって
>>186が突然言い出しただけだろ
それまで誰もそんなこと言ってないぞ、その後も凌駕することは無いだろうって流れ出し
>>200が脳内で勝手に敵作って被害妄想になってるだけじゃないか
>>205 取り合えずお前も落ち着けあまり熱くなるな
>>201 もう他の人が書いてるね
>>202 スマソ
特別終わらせる気はないんだけど、さっきは自分に対するレスも多くて余裕無かった
で、今夜はちとこれ以上夜更かし出来ないというか、明朝からオンナと旅行なんで、
2,3日後にでも
まー、それまでのレスでやっぱレスいらねとかになってたり、あんまり煽られてる
ようなら、自嘲するかもしれないが
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 01:35:03
確かに笑えるレスだ
岩村城の一つも助けないで、徳川の支援も真面目にしないとしたら、
岐阜に引き篭もって何やってんだよw
別に織田家は徳川の保護者じゃないんだけど
積極的に守ってはあげないけど
寝返られても困るんだろうにw
徳川が主張するように対等の同盟関係だとしたら、たしかに保護責任なんてないな。
武田に寝返った大名なんていたっけ?
大名では寝返るも何も、初めから敵だらけじゃんか信長。
そりゃ、美濃尾張の段階で天下布武なんて宣言してりゃな
ただ、信長と敵対することがすなわち武田につくことではないし。
天下統一か?スレから変なののが流れてきたぽ
あそこは隔離スレだったからなぁ
心情的に武田を支持したいって北条スキーですら武田厨が変なこと言い出して反論しなきゃいけなくなってる状況だったし
早く隔離スレできないかね
武田厨と関ヶ原スレの西軍厨は似ている、そっくり。
何が何でも武田(西軍)を優位に導かないと気が済まない傾向にある。
武田(西軍)を少しでも不利にするレス、否定するレスは執拗に攻撃(しかし筋違いな反論多し)。
>>220 確かに似ている。
>(しかし筋違いな反論多し)
これのせいで同じ武田派西軍派にまで指摘され、それを織田厨東軍厨と思いこんで、
ここは織田厨東軍厨ばかりだとか言ったり、自分だけが叩かれてると勘違いするあたり
もな。
>>219 でも三増峠合戦では珍説語ってた織田厨もいたよな。
最後のほうでは捏造がどうの言ってたが逆に書状出されて逃げちゃったし。
厨では武田は多いが織田厨も濃いのが少数いるしな
信長はなんだかんだ言って
たかだか数千程度の秋山信友を相手に
岩村城の救援にも行かなかったわけで。
実際にはかなり余裕無いな。
>>222 >でも三増峠合戦では珍説語ってた織田厨もいたよな
これこそ
>>221のいう
>それを織田厨東軍厨と思いこんで、
じゃないのか、自分と合わない意見をすべて織田厨東軍厨
と思うのは立派な厨の証拠だと思うぞ、確かに珍説はあったけど。
>厨では武田は多いが織田厨も濃いのが少数いるしな
ま、これはだいたい同意だな、絶対数では武田厨のほうが多いかもしれんが、
それぞれの派閥に占める厨の%はどうせ一緒ぐらいだろ。
>>223 岩村取り返すより畿内で所領を広げるほうが効率的とでも思っているんじゃね。
だいたい岩村なんて美濃の端っこだし。
そもそも遠山氏は武田織田に両属していたのだから、織田に奪われていたのを
武田が取り返しただけという見方もできるし。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 17:23:33
>>223 そんな余裕のない織田を放って徳川攻め入った挙句、
朝倉に帰国されて機を逃したバカ殿様がいたって話ですか?
>>226 だが信長自身が畿内に向かったのは三月末、信玄撤退後。
岩村から信濃の飯田まで道があり厳冬以外は通れる。
織田信忠も武田攻めでここを通った。
岩村から岐阜まで二日。犬山までは一日。
戦略拠点として重要な場所。
だからこそ信長も岩村遠山氏に自分の叔母を嫁がせていた。
でもその割にはたかが数千の秋山勢を追い返しもせず
むざむざ降伏させ、自分が助けにいかなかったくせに
3年後自分の叔母を磔にしたw
「w」の使いどころがおかしいお前を「岩村城さん」と呼んでみる
>>230 そんなに重要ならもっとはやくに取り戻すだろ、
更に74年に恵那郡の過半が奪われても取り戻そうとはしてない、
信長にとっては畿内近江伊勢より優先順位が低いと言うことは確実。
>>229 そういう事なら西田敏行さんにも、もう一度やってもらおうw
長篠の戦いの時も岩村はスルーして、決着が付いた後信忠が攻めてる
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:31:13
再来年大河「風林火山」ケテーイ(・∀・)!!
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:42:23
ジャニーズが主役だろう
メモ
岐阜から京へ
1569年正月2日間で京へ 軍は別
1570年志賀の陣後 瀬田発12月14日? 岐阜着17日
1573年岐阜出発11月4日京着10日
1575年岐阜発2月27日 京着3月3日 但し雨で一日垂井で過ごす
1575年京発4月27日岐阜着28日 但し途中船 軍勢は別?
1575年岐阜発6月26日京着27日 但し途中船 軍勢は別 急用のための上洛
1575年京発11月14日戌刻 15日岐阜着 但し夜間も行軍
岐阜から横山まで
1572年赤坂3月5日 横山着6日
1572年岐阜発7月19日 横山着21日
明智城救援
1月27日知らせ 先陣発2月1日 信長発5日 高野着6日
高天神のとき
知らせが6月5日 出発14日吉田に17日 浜名胡の渡しに19日
長篠
岐阜発5月13日 岡崎着14日 但し15日も岡崎に滞在してる 牛窪城16日 設楽18日
不倫火山か
仮に実在だとしても素性が謎の男が主役ってのはどうなんだ
もしも勘助がイケメンだったら幻滅だな・・・
勘助が主役なら、第4次川中島合戦で最終回だな。
まあ、捏造軍師を笑って楽しむことにするかー
信玄役が稲垣吾郎とかになったら俺は信玄厨やめる
ていうかダブりすぎだろ
二回も信玄やるなんて
顕如でもやればいいじゃん
武田ネタは視聴率取れそうだしね
顕如って誰が見るんだw
三戦板けっこう長い間いるけど顕如厨って俺だけなのか?
名乗り出てないだけか?
信玄=サンバ男
だけは勘弁な
本願寺のスレはあるが
顕如はダメだろ
歴史上の人物とはいえ特定宗教は
.__
|風|
|林|
|火|
|山|
_∧ .∧(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚Д゚ )|\
|\Ю ⊂)_|√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
>>238 岐阜から
京までは通常の行軍だと4日前後
横山までは2日ほど
吉田までは3日ほど
織田は軍の召集に10日近くかかるということか
73年の3月に信長が武田を警戒してゆっくり行軍して上洛したと言うのは俗説だな。
ちなみに73年3月の上洛行軍は
3月25日 岐阜出陣
29日 逢坂で細川・荒木の出迎え
正午に京都に入る
むしろ、通常より早めな気がするが
>73年の3月に信長が武田を警戒してゆっくり行軍して上洛した
むしろ初めて聞いたな・・・・
3月19日に信玄がやっと撤退して25日の出発、
既に近江では信長の配下武将たちがドンパチやっており
少しでも早く西に行きたいところだろうて。
この時期の信玄は三河信濃美濃の境目あたりにいると思われる。
71年の3月の武田は一旦遠江から信濃に入って、その月の内に信濃から三河へ入って
吉田城周辺まで侵攻。この73年3月も三河から信濃を経由して東美濃に侵攻するという
行軍のように見ることもこの時点では可能。現にこの時点では長篠城よりも美濃に近い
地点にいるはず。
にも関わらず信長は上洛してることから信長は、
1 兵站・兵の疲労など信玄は確実に兵を引く
2 東美濃は奪われてもいたくない
3 東美濃に十分な備えがある
4 (今の我々には分からないが)当時の情勢だと織田と戦うより徳川と戦うはず
5 信玄の健康状態を知っていた
6 3と似てるが織田軍の機動力なら武田に攻められても京からすぐに戻れる自信がある
といったような武田を無視して上洛してもいい何らかの根拠があったのでは
そうか、見方を変えると、73年3月の武田軍は以前よりも織田本国の近くにいるといえるんだよな。
3月19日に長篠から帰って4月12日に駒場にいるんだから、信長が京都にいる3月末4月初め
ころに、岩村城のすぐ近く美濃信濃の境目あたりにいたことになるな。
>>253 3は74年正月に勝頼の主力に攻められて恵那郡の大半が落ちてるから、正月で油断していたとか
信玄が死んで油断してたことを考慮しても、73年の防衛体制で武田の主力に攻められて耐えられ
るとは思えないから無いな。
5はちょっとありえないと思う、また仮に本当に知っていたら、3月に上洛したのと武田の動向は関係
無いと言うことになるな。信玄が死にかけてるなら武田なんか気にせず上洛すればいいんだし。
野田城を落としてから一月以上も、信玄は長篠で静養に務めている。
信玄が病気であると知らなくても、あまりの行動の遅さに
何らかの異常は感じ取るだろう。
上杉家でも武田軍の退却直後、信玄は重病か死んだらしいなんて
話になっている。
全然関係ないけど、1568の信長上洛時に
氏真が総力を挙げて背後を突くってことは
できなかったのか
信長って結構、東への防衛に無防備なところがあるよな
家康は?
当時は信玄とも同盟を結んでいるんですが
氏真は三河一向一揆の混乱に乗じて三河を攻める事も
しなかった義理堅く慈悲深い人物だからな。
間違ってもそんなタイミングで三河を攻めたりはしないよ。
96 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:04/09/26(日) 06:35:33
「新津秀三郎氏所蔵文書」によれば、1569年7月28日、信長は滝川一益を通じて
伊賀国の仁木長政を味方につけ、長政に国内の状況報告を命令したという。
なお、仁木義視なる人物が信長の支援によって伊賀に入国し、守護に迎えられた
のは1571年のこと。そして1578年には近江・信楽に追放されている。
となると、長政は義視より少なくとも2年ほど前に伊賀に在住していたことになる。
>>257 一月で行動遅いと言うなら以前から行動遅いよ
山中氏、伴氏、美濃部氏(柏木三家)
黒川氏、頓宮氏、大野氏、岩室氏、芥川氏、隠岐氏、佐治氏、神保氏、大河原氏(北山九家)
大原氏、和田氏、上野氏、高峰氏、池田氏、多喜氏(南山六家)
鵜飼氏、内貴氏、服部氏(荘内三家)
小泉氏、倉治氏、夏見氏、杉谷氏、針氏、小川氏、大久保氏、上田氏、野田氏、
岩根氏、新城氏、青木氏、宮島氏、杉山氏、葛城氏、三雲氏、望月氏、牧村氏、
八田氏、高野氏、上山氏、高山氏、守田氏、嶬峨氏、鳥居氏、平子氏、多羅尾氏、
土山氏、山上氏、饗庭氏、長野氏、中山氏
674 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/07/21(木) 00:19:03
服部友貞 左京進。
天文17年(1548)本願寺において長島願證寺と交歓(長島風土記)。
一、上総介信長、尾張国半国は御進退なすべき事に侯へども、河内一郡は、二の江の坊主服部左京進
押領(信長公記)
弘治2(1556)年、守山城主織田孫十郎信次に命じて河内一郡を押領した鯏浦の服部左京進友貞を攻め
るが敗退する
(永祿3)1560年 5.19 熱田市民、服部左京助を撃退。
(織田信長年表。
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~h.ishi/history/nobunen1.txt)
675 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/07/21(木) 00:32:20
永禄3年1560 5月、桶狭間の戦いが起こる。このとき、二の江(荷之上)一帯(現:弥富町)を支配してい
た土豪の服部左京助(友貞)が今川方として参加するが、義元の討ち死により自領へ引き返している
永禄4年1561 服部友貞、長島城代になる。戸田庄(現:名古屋市)の石橋義忠、信長への叛逆が発覚し、
服部友貞を頼って長島へ落ち延びる。
永禄11年1568 服部友貞、信長の謀略にかかり、悲運の最期を遂げる。
友貞の留守中、信長は弟の信興を大将として、滝川一益の軍に服部党を攻撃させる。
信興、鰍浦城(現:弥富町)、小木江城(現:立田村森川)を築き、服部党、長島願証寺に対する牙城とする。
(長島一向一揆 略年表
ttp://hp1.cyberstation.ne.jp/histry/nagashimanenpyou.html)
友貞は自害の地、員弁郡藤原町米野山蔭涼庵に葬られた。
676 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/07/21(木) 00:40:18
服部友貞は伊勢長島城代。
伊勢服部氏は南朝方の伊賀平内左衛門の後裔服部伊賀守宗純を祖する。
後醍醐天皇の孫・尹良親王、曾孫・良王君を奉した吉野十一党のうち、七苗字の武将の一人であった。
永亨七年(1435)十二月、四家七名字の武将は良王君に従い、尾張国津島に移り住み、服部は津島の
南方市江島に居を定めた(浪合記)。
その後服部氏は斯波氏に属したが、おりしも織田家が増長して斯波氏を討ったため、服部氏はこれに
反目、長島におこった一揆に加担、長島城代として迎えられた。結局長島一揆は織田軍のため殲滅し
たが、浪人となった服部氏らは荒地となった旧領を再開発した。
伊賀流の家康への貢献もあり、江戸時代には荷之江の服部家は帯刀御免の大庄屋格に復帰して現
在に至る。 上坂手村(長島町)の名主服部家は津島の地主服部采女正を祖とする(長島細布)。
>>265-266 服部左京進は、尾張統一期の信長の敵対者として活躍しているよね。
今川義元の尾張侵略に協力、斯波・吉良と陰謀を行ったりして、信長に追放されている。
最後、信長にどうなふうに殺されたのか興味があります。
>永禄11年1568 服部友貞、信長の謀略にかかり、悲運の最期を遂げる
↑、この部分を詳しく、キボンヌ
>斯波氏に属したが、おりしも織田家が増長して斯波氏を討ったため
ここに興味がある。斯波氏を討ったのは織田氏でも信長ではないし、むしろ信長は遺児を保護している。
もともと長島の一揆は、津島を根拠に勢力を伸ばした織田弾正忠家とは信秀のころから敵対していた。
斯波氏がどうこうとは関係ないと思うんだが。
その遺児を、一旦は守護として推戴したけど結局は難癖つけて追放したんじゃなかったっけ
>>270 清洲守護代織田信友に殺されたのが斯波義統。その嫡男義銀は信長の保護化に入るが、
弘治二年(1556年)頃に今川と内通したとかなんとかで追放。
ちなみに義統の次男は毛利長秀、三男は津川義冬でそのまま信長に仕えている。
服部氏自体は伊勢尾張国境の有力国人ではあるが、斯波氏の被官になったというのは
聞いたことないな。それ以前からも敵対関係があったことは河内横領の記事から推測
できる。結局戦闘の口実あたりじゃないかな。
リンク先の年表をそのまま写したみたいだな。
元スレは伊賀・甲賀衆を語ろうスレだね
>>265 >弘治2(1556)年、守山城主織田孫十郎信次に命じて河内一郡を押領した鯏浦の服部左京進友貞を攻め
>るが敗退する
この年は道三死ぬは兄弟は謀反するはで悲惨だな信長。
>>271 >>その嫡男義銀は信長の保護化に入るが、
>>弘治二年(1556年)頃に今川と内通したとかなんとかで追放
この斯波と吉良が、今川に内通した陰謀に服部左京進も関わっていて、信長に追放されてる
>>274 それはつまり、今川に内通云々というのは実際にあったことというわけですか?
信長による追放のためのでっちあげというわけではなく。
だったら、服部左京進が「織田家が増長して〜」というのは筋違いのような。
>>275 一応、義銀は信長にとって主筋にあたるのだから、それを追放というのは増長にあたると思うぞ。
>>276 いや、主筋というのはたしかにそうなんだが、この場合は義銀が先に信長の排除にかかった(今川との内通)ということでしょう?
それに対する信長の対応が追放なわけで。
さらに>274 によれば服部左京進もその陰謀に加わっていたようで、だったら追放は言うなれば政争に負けた結果なわけで。
それを「増長云々」とかいうと、いかにも信長が無実の義銀を冤罪で処罰したようにイメージされてしまう。
追加。
家来は主君に絶対危害を加えてはならない。主君が家来を害しようとしたら家来は逆らってはならない。
なんて言うのならまあ織田の増長になるだろうけど。そんな江戸時代以降の価値観を持ち出してもねえ。
というより何の意味があってそんな議論をこのスレで?
>>280 関係無いんじゃないか?253と262-266は
話しに全く関連性が見られないんだが・・・
内容には興味があるが262が唐突過ぎてわけわkらんどう言う流れだ?
253の流れだと武田に都合悪いから強引に話題を変えた可能性もあるが
武田厨が長島服部の話しをしてくるとは思えンし
>>278 だったら義昭のことで信長が非難されるいわれは無いということだな
松永とかも非難されるいわれはないと
もともと信長は義昭を担いで松永久秀や三好三人衆を
非難する立場で武力行使を正当化していたはずではあるが。
だから、信長は義昭と対決するにあたっては相当気をつかっているよ。
上洛した当初から朝廷と結びついたのもそうだし、異見五箇条など義昭の権力を
掣肘する根拠を作り出している。
また義昭と最終的に決裂したあとも、和解を求めたり人質を出すと言い出したり、
世間に対して将軍と和睦しようというポーズをとっている。「それでも義昭は
こちらを討伐しようとするから、わが身を守るために戦った」と将軍と戦う根拠
を丁寧につくりだしている。
相手が将軍だと何言ってもダメな気もするが・・・・
自分で関白か太政大臣にでもならない事には。
>>286 実際に、信長は非難されていないが。
というか、これまでも将軍が京を追放というか追い出されるような事態はたびたび
あったが、追い出した方は別段非難もされていないような。例えば三好は関白にも
太政大臣にもなっていないが。
むしろ京にとどまれなかった将軍とこちらが非難されている。
だから信長は、官位や官職を義昭と同等以上にしたんでしょ?
それまでは義尋担いでるし
白昼に御所を襲撃だもんなあ。信長や長慶みたいに名分を整えたわけでもないし。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 01:28:45
勝てば官軍負ければ賊軍です!
タケダ ゾクグン バンジャーイ
義昭が毛利に行った後も、信長は義昭に戻って来てくれと言ってなかったけ?
というよりスレの本筋と何の関係も無いよな・・・・
まあ信長は義昭が逃げた後も帰還交渉を秀吉にやらせたりしてるな。
まあ義昭も京都に帰って何ができるわけでもないからもちろん帰らないけど、
あの信長ですら形ばかりはそういう態度を取らざるを得ない状況というか空気みたいなのが
あったのかもしれんね。
不倫浮気は犯罪行為ではないから、直接法的制裁を加えられることは無いが、
道義的にはどうかというようなものか・・・
周りから変な目で見られて、いろいろ制約受けたり、離婚の原因になったり、
その時金をふんだくられる根拠になったりはするが。
>>293 毛利が仲介にたった帰還交渉がたしかにおこなわれている。ただし、この交渉を望んだのが
織田側であったのか、それとも義昭をもてあました毛利側が信長に引き取りを要請したかで
別れてもいる。
交渉の経過事態は、義昭が「信長側から人質を出せ」と言い出して、秀吉が「そんな条件が
のめるか」と決裂。
これについても、秀吉が処罰を受けていないことから信長は義昭の受け入れを最初から考慮
していなかったという説と、>294 の言うように京に戻る(現状では、信長の世話になる)気
がなかった義昭が無茶な条件を出して交渉を潰して、自分の身柄を毛利に引き取らせようと
したとの説がある。
どちらにせよこの件ではっきりしていることは、この交渉が毛利の提案で始まったこと、当時
の毛利には義昭を担いで畿内に関わる意志がなかったということ。
昭ちゃん。戻って来てくれ〜!
そういやもともと毛利は織田と同盟関係だったっけ。
信玄と織田も縁戚関係だっけか。
長政、北畠と信長、家康と氏真も。
織田と北畠は信長が強引にねじ込んだだけというか・・・・
それいったら、武田と諏訪や、毛利と吉川小早川も
武田と諏訪、今川も縁戚関係だったなー
血が濃いよな
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:22:44
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1125907315/39/ 39 名前: 名無しさん@そうだ選挙に行こう [sage] 投稿日: 2005/09/11(日) 15:31:08
武田↓
弘治元年(1555)に「武田軍鉄砲300、旭山要害に」とある(妙法寺記)
※第二次川中島合戦(200日対陣)で、旭山に2000、
本隊は犀川以南に約10000なので、数百単位の鉄砲?
毛利↓
軍記物(半分は作り話)などには一五六五(永禄八)年の尼子氏攻撃の際、二百挺
年代・数量ともに武田>毛利>織田でよろしこ?
武田厨曰く、鉄砲は年代・数量共に武田>毛利>織田でよろしこ? らしい
この武田厨に聞くが、そういうからには、織田や毛利の鉄砲使用の初見は1555年以後って事でいいのか?
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:25:36
あぁ、それとこれが種子島に伝来した鉄砲かどうかとか
明から伝わった青銅製の「てつはう」かどうかも、勿論分かってるんだよな?
信長は若い頃から橋本一巴より鉄砲をならったとか、1553年の聖徳寺での道三との会見で
鉄砲を大量に所持していたとの記述もある。百挺単位で所持していて戦場に未投入という
のも考え難いが。
種子島なのかてつはうなのかは知らない。あと私は織田派なんで。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:35:10
まだ来ないな、あの屑は
武田厨逃げたか?
>>308 本スレから逃げんなよ、ボケ!
戻って来い、無学者! 他スレに迷惑だろうがぁ(爆笑
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:39:36
本スレこっちなんだがw
反論出来なくて屑が喚いてるなw
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:47:56
そっちのスレに迷惑かからないように
検証してやろうって言ってるのが理解できない武田厨のはしょうがないかw
信長公記には鉄砲に関して2度記述ある
天文22年の正徳寺の会見、しかしこれは微妙
翌年の村木砦攻略、でも武田厨に言わせると、全否定らしいw
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:51:29
国友鉄砲記では天文18年に信長から500挺の注文の記述あるなw
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 01:00:48
武田厨の浅はかさを更に露見したなw
>軍記物などには一五六五(永禄八)年の尼子氏攻撃の際、二百挺
ttp://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97040401.html しかし、武田厨がパクったサイトを見てみれば
>毛利氏の軍事力で注目されるのが、鉄砲である。防長進攻の弘治三年、
>小早川隆景や家臣らが武器調達を依頼する書状の中に「鉄放(砲)」「煙硝(火薬製造原料)」などの文字がみられ、
>既に鉄砲が使用されていた事実を示している。種子島への鉄砲伝来から十四年が経過。
>織田信長が鉄砲を組織的に使用して有名になった長篠の戦いより十八年も前のことである。
>鉄砲衆の人数は、正確にはわかっていないが、軍記物などには一五六五(永禄八)年の尼子氏攻撃の際、
>二百挺(ちょう)の使用を伝えている。このように「強い毛利」を誇示する軍事力の強化は、
>領国支配を円滑に進めるうえで、欠かせない条件だった。
このように、引治三年、1557年には鉄砲の使用をはっきりと窺い知ることが出来ると書いてあるのに
なぜか、永禄八年の方しか抜粋しない、この露骨なまでの意図的な手段w
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 01:08:28
あのゲーヲタのすくつ(なぜか変換できない)で戯れていれば
哀れな武田厨君も無知を曝け出さずに済んだのにw
どうせ深夜にまたファビョりだしたりするんだろうけど
史料を基にした拙論頼むよ(プゲラ
武田厨と織田厨のレベルの低い争いは他でやってくれ・・・・
>314
この展開が何の意味なのかわからんのだが…、
信長がまだ16歳で、尾張半国も平定してない時期に、
近江の鉄砲職人に500挺の注文は無理だな。どうやって近江まで逝けたのか
国友衆への鉄砲注文なら、足利義晴のほうが信憑性があると思うよ。
信長公記の正徳寺の会見も、太田牛一は初期の信長を美化しすぎの傾向あるしなぁ…
というより、首巻はそもそも誰の筆か?
軍役で武士に鉄砲も課しているのだから、鉄砲も流通商品であったと分かる。
故に、ある程度普及して以降の年代なら相当数を信長が買い集めても
不思議は無い。
しかし国友に直接注文できるような時期ではないだろうな。
>>318 尾張半国のころ、織田信秀の家老平手政秀は京まで上って四千貫を献上してきましたが。
そもそもなんでそこで足利義晴が出てくるのか。
>>320 1544年2月に、義晴が細川晴元を通じて国友村の鍛冶善兵衛に製造を命じて
半年後に2挺献上と、国友村の記録があるな。種子島伝来から半年後のことだが。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 03:28:55
>318
家督相続の前なら、誰か別の織田家中の人物が委託したとか
そういう話が「信長の注文」になった可能性はあるんじゃないか?
よくわからんが。。。。
>321
義晴が鉄砲を使ったのは、もっと後年だと思う。義輝が少年剣士になった時代の
はずだが、中尾城とか如意岳の鉄砲除けの城壁のことなのかな???
義輝配下の武将たちは、たしかに三好勢を鉄砲で撃退してるが。。。
慶長期の鉄砲の値段が9石だからなー
天文18年に500挺まとめ買いとなると
1万石ぐらいするんじゃないか?w
尾張半国の織田信秀が4千貫を献上(くれてやった)したけど、
4千貫を石高に換算すると2万石ですが。
三河物語だとちょくちょく鉄砲出てくるのに
信長公記にはほとんど出てこない気がするんだがどうだろう。
>>324 それは土地の貫高を石高に計算する時の目安みたいなものだな。
多門院日記などにときおり書かれる米価は1石で500〜800文から高くて1貫ぐらいだ。
>というより、首巻はそもそも誰の筆か?
首巻は太田牛一で間違いないですが?
執筆時期が違うってだけで、たしかに太田牛一だわな。
>>318 >>どうやって近江まで逝けたのか
おまい、まさか、信長が自分で近江まで行って鉄砲を注文したとか、思ってないだろうな?
家来に命令して行かせたに決まってるだろ。
>家来に命令して行かせたに決まってるだろ。
おいおいw
>>326 多門院日記に書かれている1石で500〜800文っていうのは、
商人から米を買う時の値段。
大名が米を商人に売る時は5石1貫で、
仲介・人件費・利益とかで
商人が米を売るときには1石500〜800文って言うだけ。
大名が自力で米を販売して金かえれないいじょう、
大名の石高の貫高への換算は5石1貫でいいんじゃないか?
さて問題です。
戦国時代の大名は、特産品の専売をしたり、
遠方の大名でも畿内での外交活動を怠りませんでした。
どうやって、離れた地域の商人と取引したり、書状のやり取りしたりしたのでしょう?
JR?
>>322 アホ!!!
大名は金持ちだから高速乗ってタクシーに決まってんだろ!!!
タクシーチケットいっぱいあるからな
新幹線のグリーン車だよ。
クロネコヤマトだろうな。
>>333 336
戦国時代にそんなものあるわけ無いだろ!
大名なんだから大名行列に決まってるだろ!
>>332 なにが
>さて問題です。
だ。。。
くそサムイ。。。。
>>332 つまりおまいが言いたいのはこういう事だな、郵政民営化反対と
なんと!この期に及んで郵政民営化反対論者がいるのか
>>331 >大名の石高の貫高への換算は5石1貫でいいんじゃないか?
米≠金>>銭、だからダメかな。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 09:53:38
私28歳主婦です。今、夫は私の為に会社でセコセコ仕事してるんでいません。
夫が好きで好きでたまらないのに、最近夫はセックスもしてくれません。
なんで夜までゆっくり遊べるんですが・・・・
さっき、Hな事かんがえてたら乳首が大きくなっちゃいました。
誰か私のちくびをコリコリしてください。
アソコもグチョグチョになっちゃってます。
今日逢いたいんです。お願いワタシを抱いて!
今夜は抱いて欲しいの! 抱いて!抱いて!抱いて! どうなってもいいのぉ〜
お願い・・・・・・・・
>>341 五月蝿いよ。
米≠金>>銭なんだから兎に角、5石1貫じゃないんだよ。
多分、
1:米と金のレートは時代・季節・場所によって変わるので簡単にイコールとは言えない。
2:この時代銭の信用ががた落ちしているので、金の方が信用おける。
って事を言いたいんだと思われ。
銭の信用がガタ落ちしたのは信長による分国内の関所撤廃によって
だからって、織田家の財力の巨大さが否定されるもんでもない。
>>341 分かったか。
>>344 の言うとおり、銭の信用が落ちている事を踏まえて
5石1貫かもとか、
5石1貫は年間の平均をとっているとか
関係なしに兎に角5石1貫じゃないんだよ。
尾張半国っても、尾張は石高自体が高いから半国でも約28万石ほどある、
これを4公6民で税金をとっていたとして、11.2万石。
当然全てが信長の取り分ではないので、4分の1と見積もって2.8万石。
この年収から毎年5%貯蓄でも約7年で1万石が貯まる計算になる。
織田には+して商業なんかもあるから、信秀の代からの貯蓄も思案に入れれば
普通に支払える金額なんじゃないの。
銭の価値が急激に低くなったのは、天正三年の分国諸関廃止令から
天文十八年の頃は、そこまで下落してない
むしろ率分関の増加によって銭の価値が上がっていたと考えられる
しかし率分関の激減に伴い、畿内の物価が3分の1に暴落
関を通過する為に、大量の銭が必要だったが、必要ではなくなり
結果、銭の価値が下落した
これが与えた影響では、周辺諸大名の専売品の暴落による収入減
蓄財していた永楽銭の暴落にともなう、資産の減少
この煽りをもっとも受けたのが越前の朝倉氏
京都の米価推移
天文 5年・・・1176文
天文 9年・・・1000文
天文16年・・・1235文
永禄 3年・・・1250文
永禄 7年・・・1000文
永禄10年・・・1667文
永禄12年・・・1053文
元亀元年・・・米7斗7升6合5勺=326文(1石=420文)
天正3年・・・米2石5斗=1貫250文(1石=500文)
天正7年・・・米21石9斗=金6両
(金1両=銭3貫で米1石=821文、金1両=銭4貫で米1石=1095文)
天正8年・・・米1升=28文5分7厘(1石=2857文)
信長上洛前と上洛後では米価に顕著な差は無し。
元亀元年、天正三年はかなり下落しているが天正七年には元に戻り、
八年には高騰している。
信長が関所を廃止したとか、あんまり関係なさそうだが・・・・
まあ信長は京都七口の関は廃止してないけどさ。
そういや、ときどき「銭の価値は下がっていた」って意見が出るけど、これは何か根拠がおありで?
銭の価値が下がったらインフレになるんじゃないの?
まぁ話題になっている信長が尾張半国の時点で
鉄砲を買えたかについては、
尾張半国時代には銭は暴落してなかったって言うことだね。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 07:36:10
>>354 根拠もないのに米≠金>>銭だってw
2チャンネル素人ですか?
電車男を見てから知りましたか?
半年ロムってみては?
>>351 ヒントを二つばかり。
・選銭令
・悪貨は良貨を駆逐する
>>351 銭の価値は下がっていた、ってのは見た事ないけど
取引に米金銀が使われるようになった、つーのはよく見かける。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 14:08:05
自虐織田厨乙
マンセー信玄厨乙
しかし、だとしたら、織田と比べて米が獲れない(収穫高が低い)武田は経済的にもさらに困窮していたような。
この時代、金はまだ流通には使われていないし。
金銀は国内流通で通貨として使用されるのは17世紀以降
それまでは大型取引や贈答用、対外貿易で使用されてました
>>350 米価と銭との関係で見るからそう思えるんだよ
室町幕府衰退後に、銭自体の価値が下がりつつも保たれていたのは
幕府衰退によって中国から輸入されてた銅銭の減少と、
畿内での関の爆発的増加(畿内には最低でも3000箇所以上あったと推定されてる、淀川だけで650以上確認されてる)
により、全国的に流通量が激減した為
しかし米・布による交換、織田領分国内での関撤廃により、物価の下落、そして銭の必要性の低下
これによって天正三年以前と以後では、物価平均が三分の一に下落してます
米価が落ちなかったのは、結局は貨幣、代価としての米の重要度が増したから
銭の価値はさがったが、銭の重要差は変わってないようだね。
ただのデフレ
だね、貨幣経済が消滅したわけでもないし。
>>363 甲州金は1両=4分=16朱=32朱中=64糸目=128小糸目=256小糸目中
明らかに小額取引を想定しているが・・・・
>室町幕府衰退後に、銭自体の価値が下がりつつも保たれていたのは
>幕府衰退によって中国から輸入されてた銅銭の減少と、
>畿内での関の爆発的増加(畿内には最低でも3000箇所以上あったと推定されてる、淀川だけで650以上確認されてる)
>により、全国的に流通量が激減した為
幕府の衰退が原因ではなく、明において貨幣制度が崩壊しているため。
崩壊させたのは日本からの銀の輸出だけどw
ところで、畿内の関所で徴収してた連中はそれを消費に回さないのかい?
関所があるから流通が減るとはおかしな話だと思うが。
>>366 糸目とか小糸目中とかいう単位の貨幣があったんですか?
また、その貨幣は甲斐国外でも流通していたんですか?
>>367 武田厨は視野が狭いから武田以外の事なんて考えてないんだろう
>>367 貨幣無しで単位だけ創ってどうすんだよw
あと、金は誰が統治者だろうと流通に使える罠
この流れって、5石=1貫とかいう無理な説が原因だよね?
>>369 もうちょっとよく考えてから発言した方がいい。
>>369 貨幣としての金貨と金の塊は別ものだぞ。
貨幣として成立していない貴金属による取引は、やってることは物々交換にちかい。
貨幣として成立してるっつーのw
偉大なる甲陽軍鑑くらい読めよ
>>371 もしかして、甲州金=金塊と勘違いしてる?
碁石金っていいたいのか?
>>374 日本の10万円金貨は他国では10万円の価値はないと言いたいんじゃないか?
日本の10万円金貨が純金かどうか分からないけど
甲州金は純金だから、他国でもほぼ10万円の価値でしょ
10万円金貨に10万円分の金が使われているかが問題だね。
甲州金は武田領内では計数貨幣として通用し、
領外においても金として通用する。
>>371 金銀のレートが存在し取引に使われていたわけですが・・・・
>>379 >甲州金は武田領内では計数貨幣として通用し、
>領外においても金として通用する。
これって371が言っていることそのままなんじゃないか?
甲州金が武田滅亡後も貨幣として流通してるから(信用有り)
甲州金は武田領内では計数貨幣として通用し
領外においても金貨として通用する。ジャマイカ?
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 10:43:49
んで、実際の所当時の金の信用度はどうなのよ
金は貨幣であれ金塊であれ、一定の価値として通用する
から一応万国共通、って話ではなかったっけ?
まぁガラス玉でマンハッタン島買える事もあったりするが
後の徳川幕府の通貨制度にも大きな影響を与えたからな
>>382 北条も武田も上杉も、年貢以外の納税が金銀か米穀だから
金>>>銭、じゃないかな
他国でも金貨として流通してる
>>386 ひとつことわっておくが、他国でも貨幣として流通していることと、他国にプレゼントとして送ることは別だぞ。
どうやったら、他国でも貨幣として流通していることと
他国にプレゼントとして送ることを混同するんだよw
浦長瀬隆氏が土地取引の記録を調べたら、
古くは銭で取引していたのだが、
1570年頃には西国で米、東国で金か使われていた。
しかしその後、鐚銭での取引が増えてくる。
戦国後期になると、都市経済の重要性が高まるから「領国貨幣」といってその土地を支配する大名が保証を与えた金貨銀貨が流通するようになる
基本的には金・銀というだけで価値はあっただろうが、正確にいくらいくらという保証がなければ使いづらかっただろうな
繁栄していた北条のお膝元でも
棟別銭を納めるのに米穀か金を指定しているしね。
それは、つまり、それまで取引に使われていた銭の代替貨幣として米穀や金が用いられたということで、
社会の機軸通貨は変わらずに銭ということになるのでは。
後北条氏は貨幣経済の混乱を避けるために、永楽銭以外は領内で使わせなかった
他の大名も今で言うインフレデフレ対策には気を使ったんだろうな
都市部のウェイトが上がったといっても、全体からすれば農村部の比率は圧倒的だったわけで
明治維新まで結局税の主流は穀物だったわけだからな
戦国時代だと、必要時には即食料に変わる米穀の重要性はやっぱり抜きん出ていたんじゃないか?
>>392 統治者が銭を嫌っているのに(他に理由があるのかもしれんが)
社会の機軸通貨ってのも変だな
>>394 農村においても貨幣経済は浸透している。さらに、納税に関しても中世までは穀物、銭以外にも
さまざまな生産品、加工製品が納められており、むしろ比率でいうと米穀による納税は低かった。
>>396 地方から中央へ税が集められる律令下の租庸調と、地方の自治(と、いうか独立化)が進んだ中世や戦国じゃ大分システムが変わってるからな…
徳川氏体制下で米が税の中心であることは勿論、物価の軸となった点からみても以前に回帰したとはちょっと思えんな
>>397 分離独立したのは政治的な地図であって、経済交流的にはまったく関係ない。
戦国大名の勢力地図にかかわりなく、商人や工人、芸人たちは全国各地を回って
生業にはげんでいる。そして農村においても、生産物を活発に取引に用いて
流通に関わっている。
農村を、一つの独立・完結した閉鎖システム(自給自足)とみるのは大間違い。
とうに否定されている。
>>398 話が逸れてる、いくら経済交流があっても
流通段階での銭の信用が落ちてる事にはなんの変わりも無い。
>>395 嫌っているわけじゃなく、むしろ本当は銭で税を取りたいぐらいで。
北条なんかはかなり遅くまで銭で取っていた。
しかしながら、農民が秋の収穫時に納税のために大量に米を売る結果、
米の相場は下落して農民はより大量の米を売らねば納税できなくなる。
すなわち、余計な負担が発生する。
また明からの銭の輸入が既に止まっているので、擦り切れもなく
割れもなく欠けもない精銭の量はどんどん減る。
私鋳銭やら鐚銭やらばかりになってくる。
すなわち、精銭を確保して納税する事が困難になってくる。
伊勢より東の東国では比較的新しい永楽銭が精銭と見なされていたから、
まあまだ状況はマシだったんだが、伊勢より西の西国では永楽銭は
アジア圏で価値の暴落したクズで、古い洪武銭やさらに古い宋銭が精銭と
見なされていたもんだから、精銭の確保は遥かに難しく状況は深刻。
従って銭納が物理的に難しくなったといったところか。
最後の最後にゃ、どうしょうもなくなって鐚銭でも何でもいいから
その代わり3倍の枚数納めろとかなるけど。
>>399 落ちているのは銭の価値であって、流通の場における信用ではないぞ。
良質の精銭の圧倒的不足によって、小額の取引はなんとかなっても
高額の取引をするには精銭がとてもじゃないが全然足りないとなってくる。
そこで
>>389のような、西国で米、東国で金という代替物が出て来る。
(西国では銀は輸出する方が多かったという事だろうか)
しかしまあ、金はともかく、米は多分、重すぎたんだろうな。
銭一貫は3.75キロで済むが、これと同等の量の米となるとw
そこでまた、しょうがないから鐚銭でも使おうという流れになってきたのではないかな。
>>401 銭の価値とはすなわち信用そのものでしょ・・・
だからこそ撰銭(精銭を選りすぐって取引しようとする)が
行われていたし、でもそれじゃ銭が足りないから精銭でない
ものも使えという話になって、悪銭と見なしていたものまで
使おうとした結果、銭の価値=信用が低下するのでは。
関所撤廃による物価の下落=銭の信用性の低下
という理論がよく分からない?
関所により物価が上昇していたのなら、
むしろそれこそがインフレによる貨幣価値の低下であって、
そして関所撤廃により物価が下落したのならば、
それはデフレによる貨幣価値の上昇が起きたんじゃないの。
>>404 そこらへんは単純に通貨流通量が増加したのに対して銭の質・量がともに不足したままだったから、という構図じゃないか
>>404 貨幣価値が上昇したのなら、例えば朝倉家で三倍納税しろとはならないはずだが。
やはり貨幣価値は低下しているだろう。
精銭・鐚銭の区別を付けなくなったなら、確かに見かけの流通量が増える。
だから額面上の物価は上昇するだろう。
関所で通行料を取らなくなったら(もっとも信長の関所撤廃令の時点で
五畿内は将軍の管轄なので、伊勢以外で関所が撤廃されたかは不明らしいが)
確かに消費者に届く時点での物価は下がるだろう。
この二つが相殺されて、例えば京都での米価(米は大量に西国から運ばれてきているから、
例えば淀川の川関が廃止されていたら確実に値下がりするはずである)が
見かけ上あまり変化が無い(
>>350)という話になるのでは?
しかし一方で、納税額は増やさねばならんだろう。(朝倉氏)
>>405 通貨流通量が増えたら質はともかく量は増えないとおかしい、
で、そういう質の面での貨幣価値が下がるのはインフレという、
悪貨だから銭の価値が下がり、信用が無いから銭が沢山必要、
そして物価の上昇、という構図になるのだから。
>>406 俺が分らない理屈は、>関所撤廃による物価の下落=銭の信用性の低下
貨幣価値が下がって、銭を三倍納税しろって事ならば、
それはつまり物価の上昇=貨幣が沢山必要だから銭が三倍必要
という構図であり、そういうのはインフレ。
物価の下落が貨幣価値を下げるというのはどうにも腑に落ちない。
まあ朝倉は織田に圧迫されてるという側面があるので一概に言えない部分もあると思うけど。
実は結構人数いるのか?
>>407 信長は精銭・鐚銭の区別を付けているよ、永禄十二年には選銭令を出しているし。
室町幕府の出した撰銭令(撰銭禁止令)から、京では永楽銭は
悪銭と見なされていたとわかる。
織田信長の地元尾張は東国に属し、永楽銭が良銭と見なされていた。
信長の場合、京に乗り込んで地元の感覚で永楽銭を第一とする撰銭令を
新たに出したもんだから、京では大変な混乱になっただろうなw
>>410 出してはいるが、京なんかでは役に立たなかっただろう。
だって尾張ルールだから。
民間での商取引にどれほど実効があったのかは大いに疑問。
現に、浦長瀬隆氏の調査などでその信長の撰銭令より後に
高額取引で米の通貨使用が主流となりつつあることが確認されるし、
さらに後には鐚銭の使用が行われるようになった事も確認される。
>>410 信長がいくら区別していても、一般大衆や朝倉家が区別していかどうかでは?
朝倉家朝倉家って、武田家や北条家でその時期に棟別銭を値上げしたとか
聞かないけど?
>>414 良銭の確保という面では東国は恵まれていたから、また事情も違うのでは?
当時の貨幣の価値ってのは、別に国家権力や大名権力が保証していたものじゃなくて、
あくまでも民間で「商品と交換できるモノ」という共通理解として存在したものだから、
大友氏も室町幕府も撰銭禁止令は何度も出しているけど、実際の効果は
疑わしいものだよ。
江戸幕府が銅銭を作るようになるまでは、基本的にどうしょうもない。
417 :
416:2005/09/17(土) 03:14:41
撰銭といえば、大内だ。ゴメンゴメン。
訂正
大友→大内
>>416 甲州金なんかはその大名権力が価値を保証したんじゃないの?
>>418 甲州金は二段階の手順を踏んで計数貨幣として機能したけど、
価値までは保証されていないかと。
当時の金銀は秤量貨幣と言って、通貨として使う場合には
いちいち重さを計って、その時その時の換算レートに照らし合わせて
価値を決めて取引をしていたわけだ。
それでまあ、金一枚は十両とか銀一枚は四十三匁とかだいたいの重さの
約束事はあったんだけど、困った事に重さを計るにしても各地方地方で秤そのものが違うわけ。
信玄はこの秤をまず統一した。
で、甲州金は言うなればこの統一された秤で計って作った事が
保証されているんだね。
だから、武田の領内ではいちいち重さを計らなくても使える利便性があるわけで、
書かれた額面と枚数だけで通用する、計数貨幣と言えるわけ。
でもまあ、その甲州金でどれぐらいの買い物が出来るかは、
やはりその時その時の金と銭との換算レートを使ったと思うよ。
そういう意味では、甲州金一両は常に一両ではあるけれども、
それでいくら分の買い物ができるかどうかはまた違うんじゃないかな。
>>418 領国貨幣(大名が独自に保証流通させようとした金貨銀貨など)と一般に使われていた銭とはまた話が別だよ
>>414 棟別銭は、米穀か金で納めることになっとる
>>419 むしろ、甲州金一両は常に一両でいくら分の買い物ができるかどうかほぼ固定
銭は諸般の事情で上下したっー感じだな。
武田が滅んだ遠因は信繁の死にある・・
もし信繁が川中島で死ななかったら、天下とってたかもしれん
>>423 信繁が天才的軍略家だとかでもない限り、変わらんでしょ。
信玄と信長が階段落ちた拍子に中身が入れ替わったら天下取ったかも。
>>423 それは秀長が生きていたら〜とかと同じような希望的観測じゃん
信長が覇権を握ったのは経久の長寿が原因
とも言えるのである?
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 04:45:11
は?
どうも
>>423以降スレのレベルが一気に下落したな
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 05:02:00
援軍無用!好策すべし……てんきゅう。。.。゜(pロ`)
>>419さんのレスで、いちおう貨幣論争は決着だと思うが、
大名が独自の鋳造金貨の価値を「保証してた」という人たちは
何か史料があるんだろうか? 「保証」なんてしたら、取り付け騒ぎ
が起きても不思議じゃないよね。「保証」はそもそも紙幣に対してであって、
ナショナルバンクの存在が不可欠。幕末の藩札とかみたいに。
>>431 >大名が独自の鋳造金貨の価値を「保証してた」という人たちは
>何か史料があるんだろうか? 「保証」なんてしたら、取り付け騒ぎ
>が起きても不思議じゃないよね。
だとすると、当然その他渡来銭も「保証」なんてしてない以上
それ自体で価値を持つ金銀貨の方が、銭より価値が安定してるから
>>419の説とは矛盾するよね。
甲州金でいくら分の買い物ができるかは安定しているが
銭の方は価値が上下し易いかと。
>>432 正しい見地だ
上杉謙信が死んだとき、春日山城の金蔵に2000枚の金
があったが、大半は「かい金」だった。つまり、銭で買った金
金のほうが安定した価値をもっていたからだと考えられる。
同じく謙信が関東で人身売買を許可したとき、べらぼうに安い価格
だったと、藤木の「雑兵たちの戦場」にあった。当時、甲斐では
1人2貫文だったが、激しい価格の変動を経済情勢によるものか、
政治的な情勢にみるかはともかく、貨幣価値が不安定だった傍証になる。
>>433 後半の、人買いの話はそれでどうして貨幣価値の不安定になるんだ?
>>434 「小田開城、カゲトラヨリ、御意ヲモツテ、春中、人ヲ売買事、
廿銭・三弐程致シ候」(別本和光院和漢合運)
――小田氏治は城を開城し、このとき春限定で人身売買を行なったが、
20銭〜32銭だった――という意味。この時期、一般に奴隷売買は2貫文が
相場とされているが、同じ時期のフロイスの記録によれば、島津軍から戦争奴隷を
買った肥後の奴隷商人が幼い奴隷を養いきれず(飢饉か?)、二束三文で売却した。
ともある。つまり、奴隷の価格が変動は物価の変動だから、貨幣価値も連動する。
急激なインフレやデフレがあったとしてもおかしくはない。
足利義政の時代(上にあげた史料からは100年ほど前)に中国に銭の輸入を求めている
おそらく徳政一揆に連動した経済混乱があったと思われるわけだが、
当時の日本(江戸期まで)は独自の貨幣鋳造能力がなかったから、金融政策が取れなかった。
謙信(天正越座小判)や信玄(碁石金)が独自の金貨を鋳造したのは、家臣や同盟軍への
恩賞・贈答を価値の安定した金にもとめたと考えられる。
>>19があげたとおり、
金は重さで価値を計測できるから、金1匁=銭(金の価格が変動)。
ある意味、政策によらない金本位制が自然に生じることになる。
話の腰を折るようですまんが
結局当時のシステムだと、兵力動員は領国内の人口に依存するわけでしょ
家臣に軍役を課して、その家臣が部下や領民をつれてくる形
経済力があったとしても、傭兵みたいにカネで人が集まったもんなの?
>>436 以下、経済力がないと、どうなるか。
城の蔵に兵糧米がない場合、奉行や商人に命じて買い付けておかなければ
ならない。買えなければ出陣は不可能で、出陣できてもまず勝てない。
なぜならば、合戦が始まる前に他国からの浪人や被官志望の農兵たちが
集まってくる。見物人もふくめて、膨大な人数になったという記録がある。
戦場で対峙するまえに、両軍ともにその膨大な浪人衆を味方に引き入れようとする。
浪人や農兵は取りあえず兵糧米が目当てだが、カネや仕官の約束でどちらに
付くか選ぶ。当然、金持ちの軍勢に付く。大概の合戦は数で勝ったほうが有利で、
数で負けるなぁ〜と思った武将は、適当なところで撤退して勝負を避ける。
よってもって、経済力があるほうが勝ち。鉄砲が戦場の帰趨を左右するように
なると、軍備はカネが掛かるようになる。つまり、経済力の勝負だ。
鉄砲のことだけを考えても、弾薬火薬の継続的な補給と管理が必要だからね
カネはあるに越した事は無いよ
とりあえず軍役帳とかに牢人衆って記載されてる連中は傭兵みたいなものと考えていいんじゃないか?
>>437 武士も足軽もほぼ固定だけどね・・・
あと、軍備は自前、経済力も主体は農業、鉱業だし。
>>438 牢人衆は他国出身で仕官した将
>>433 1両=3貫文ぐらいだとすると、
金15グラム=銅銭11.25キログラム。
金1万両150キログラム=銅銭112.5トン
床が抜けるぞw
景勝が銭10000貫送ったのはどうしたんだろうw
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 01:42:06
>>439 仕官してたら牢人衆じゃないよ。たとえば、上杉氏の河田長親を
牢人衆と言うか?? 武田氏の大熊朝秀(越後出身)は山県三郎の
被官であって、牢人ではないわな。その大熊が参戦した川中島で、
信繁の首を取り戻した三河牢人某は、明らかに被官に身ではない。
言われるとおり軍備は自前だが、鉄砲が戦略兵器になった段階で
自前ではなくなってる。信長が長篠設楽原の合戦の時に、細川氏ら
参戦しなかった諸将から大量の鉄砲を集めたのは通説。
>経済力も主体は農業、鉱業
ってのは、甲斐だけ。越後はアオソ座の冥加金だったし、尾張も
交易の冥加金だった。農産物・鉱物も商品なんだから、商業を否定する
材料にはならん。それとも、縄文時代の自給自足経済を想定してるのかな?
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 03:21:14
金で集まる衆はけっこういたよ。 油問屋なんかはお抱えの無頼の衆もってたし。
蜂須賀党なんかは資料によっては二千人(話半分としても千人)くらい、特定の耕地をもたずに
あぶれてた例もあるから。
縄文時代ですら完全自給なんてなく、各地で交易を行っていたそうだしな。
>>442 >信長が長篠設楽原の合戦の時に、細川氏ら
>参戦しなかった諸将から大量の鉄砲を集めたのは通説。
銃兵ごと借りたのだから例になっとらんw
>>経済力も主体は農業、鉱業
>ってのは、甲斐だけ。
馬や漆や和紙の一大産地に産業が無いわけなかろーが・・・・
>>444 蜂須賀家って、蜂須賀郷の土豪だぞ。ホントは。
長篠の時の鉄砲足軽動員は、普通の軍役の範囲だろう
本来は動員が終わった地域からは暫く時間を置いて兵を出させるものだが、このときは勝負ってことで連れて行った、というだけで
当時の浮動人口がどれだけいて、またそのうちどれだけがどんな理由で大名の兵士になったのか、か…
>>437 傭兵はあてにならん。クラウゼヴィッツも指摘してる。
火薬の原料である硝石は輸入品が多く、自家製法もあるの
だけど効率が悪く純度も低い。堺のような輸入港を持って
なければカネがあっても買えないと思うよ。
>>446 一郷で二千人ないし千人を養うのは厳しくないか?
川並衆みたいに半農半武ならぬ半商半武の武士のような連中もいたことだし
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 08:41:54
傭兵なんてのは今でいうところの
フリーターがやる仕事だろうな。
基本的に家業を継げず、プラプラしてた次男・三男が
割と時給のいい短期のバイト感覚でやってたと思う。
敗戦でも仕事している間は、食わせてもらえるし
勝てば略奪もできるし、死んだ敵兵の刀・具足なども手に入れられる。
おまいら、全然違うぞ。情けなくなってくる。
牢人というのは、大半が滅ぼされた大名の家臣。
立身出世を希望する元足軽の息子(秀吉が典型)とか
農民の次男・三男。
ついでに
>>446 おまいは無茶苦茶噛みあってない(w
「牢人」(ろうにん)は浪人の誤りではないか?
「牢人」とは、主家を去って俸禄を失った武士という意味。江戸時代中期以後はほとんど「浪人」という字を用いるようになったが、「浪人」の字義は、本来は本籍の地を離れて流浪する浮浪の者の意で別儀である。
よって、今回は舞台が江戸時代中期以前であるため、「牢人」の字を用いました。 ちなみに牢人とは、領地や地位・俸禄などを失って落魄(らくはく)することを牢籠(ろうろう)といい、牢籠としている人すなわち牢籠人が縮まって牢人の語となった。
(『国史大事典』より)
ttp://www.nhk.or.jp/sonotoki/2002_08.html
『牢人衆』という名称は、いろんな大名の史料に出てくる
例えば信長は朝倉攻めの時、先陣に(恐らく道案内をかねて)越前牢人衆は配置している(信長公記)
要するに禄を継続的に貰う被官じゃなくて、一時雇いと見て間違いじゃないだろう
ただ、この手の兵力は常に手元におけるわけじゃないからなぁ。それに裏切りやスパイ侵入の恐れは常にあるわけで
牢人衆が一時雇いのワケないだろw
一時雇いなら衆なんて呼称付けない。
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 14:16:44
>>454 一時雇いだとおもいます。 複数の人間を指すのが「衆」だから。
金銭でやとわれても「一時雇い」でないのは 足軽 。
>>449 問題は何の史料に何時何人いたと書いてあったかだと思うぞ。
>>455 足軽は身分、金銭で雇ったりはしない
牢人衆は扶持で雇われた武士
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 14:39:58
>>457 足軽とは大名が農村から合戦のために
駆り出した農民を総称した呼び方です。
牢人衆ってのは、扶持もなく農民でもなく
先立つものがなく合戦で一旗上げようとしている連中です。
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 14:58:00
>>457 足軽は身分 ・・・・O 専業武士では一番低い身分
金銭で雇ったりはしない・・・X 織田家は金銭払い(一部)
>>458 足軽とは大名が農村から合戦のために
駆り出した農民を総称した呼び方です。
・・・これは雑兵というのでは
ちなみにじぶんは455と同一です。457さんはじめ皆様誤解を与える表現ですい
ません。
>>458 一旗上げる?
要するに雇用されるってことか。
>>459 >足軽は身分 ・・・・O 専業武士では一番低い身分
は江戸時代の話でこの時代は、いいとこ半農じゃないか?
足軽・浪人衆の呼び名なんて大名によってや
時と場合で適当に使われているだけっぽい。
いくら農民だからって自国兵を「雑兵」とは呼ばんだろう。
敵の兵に対して蔑称で「雑兵」と言ったりするだろうが。
>>458 戦国期の「足軽」という用語の用法は
必ずしもそうとは限らない。
一騎掛けの武者も足軽だったりもするし、
単なる歩兵だったりもする。つまりいろいろ。
>>459 足軽が武士の身分として確率したのは江戸時代では?
戦国期はいろいろな用例がある。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:29:16
>>462 足軽が武士の身分として確率したのは江戸時代では?
・・少なくとも織田では確立されてました。徳川家で定着したのは
確かに江戸時代ですが。
>>461足軽・浪人衆の呼び名なんて大名によってや
時と場合で適当に使われているだけっぽい。
・・確かに。いろいろ呼び方、使い方ありました。
でも自国の兵を「雑兵」とひょうげんしてましたよ。兵站帳とか。
何人が兵扱いしてるが、浪人衆は兵じゃないだろ
>・・少なくとも織田では確立されてました。徳川家で定着したのは
>確かに江戸時代ですが。
おいおいw
足軽っていうのは当時は農民から集められた軽装の兵士のことだろ
『足軽衆』『諸足軽衆』『足軽大将』なんていう編制職制は頻繁にどこの大名の軍役帳にも出てくるが…
はじめて足軽という名称が出てくる史料は『保元日記』らしい
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:04:08
>>460 いくら下克上の時代であったとはいえ
氏素性の知れない人間(牢人衆)を
雇用するような大名家は殆んどないでしょう。
例えば武田家の高坂弾正や馬場信房は武功を挙げて
昇進した実力主義の典型のように言われてますが、
彼らは土豪や国人衆の息子であったように、氏素性がはっきりしてます。
ですから、略奪や恩賞で金を稼ぎ事業を興すなり
なんなりするのが関の山でしょう。
多田満頼は美濃出身
原虎胤は下総出身
横田高松は近江出身
全くの他国出身者でも武田二十四将になれる。
>>469 そりゃ武田家自体が元々は他国出身ですがな
>>470 何代前の話かとw
二十四将の横田・多田・原といった連中は
自分一代で他所からやってきて出世したわけだから。
当時は〜氏の流れ、とか〜の縁者っていうのが大きかったから
別に不思議じゃない
有能な「だけ」だったら出世できたかどうか…
そんなんみんな好き勝手言ってるんだしw
本当の意味で身分を気にせず人材を用いたのは信長だけ
その信長も近臣団は自分に忠誠を尽くした家の子弟で固めてた。有名な森家とか
その身分を気にせず登用した秀吉に乗っ取られたわけだが…
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:52:16
氏素性とか縁も重要だけど、
教養とかも必要だったんじゃないかな。
極端な話、いくら武勇に優れていても
読み書きもできないんじゃ話しにならないし。
秀吉が頭角を現したきっかけは、清洲城の薪奉行やって節約してみせたから
「近代以前の日本で本当に兵站を理解できたのは(ボケる前の)秀吉と三成だけ」だそうだ
それはさすがに秀吉を持ち上げすぎ
そういや、日本ではなんだかんだで識字率高いよな。
けっこう下級な武士でも、字を書いて読んで書類をつくって行政訴訟などを
執り行っている。
それなりの家の子弟であれば、子供のうちに寺で読み書きぐらいは習うものだ。
>>477 武道が基本で、教養とかはオマケみたいなもんだろ
武辺一辺倒では大将にはなれません。
結局、銭で傭兵を雇うのは空想談義だったということか。
堺の町衆は雇っていたぞ。
まあ信長に脅されたら何にもできないけどw
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 05:23:06
>>484 短期のバイト感覚でなら、銭で傭兵を雇っていたみたいだけど
さすがに正社員のように雇用はしなかったってことだろう。
ただ特殊な技能を持っている人間や集団には、
扶持を与えて雇用していたらしいけど。
例:徳川家と服部家、織田家と九鬼水軍など
傭兵(牢人)への感状が残ってる以上、史実だろ
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 08:29:42
銭で兵雇ってだろ。
宮本武蔵なんかは西軍に雇われていただろう。
九鬼水軍は最初から地元の土豪兼海賊兼海運業者兼漁業者のようなもんだが。
服部保長・正成も槍働きで正式に武将として仕えてるわけだし。
>>489 フリーターが正社員になる事があるからと言って、
フリーターが存在しないわけじゃない。
>>490 フリーター乙
フリーターは低技能労働を低コストで処理する為にあるから
一応命懸けの戦に、フリーターなぞ連れて行けるわきゃねーよ
>>491 もうちょっとよく考えてから発言した方がよい。
フリーター乙
よく考えてから発言するのはいい事だが、空想に塗れるのはよくない。
>>491 じゃあ、浪人が他国の戦に参加して出世することはないってか?w
>>494 >じゃあ、浪人が他国の戦に参加して出世することはないってか?w
いや、491が言っているのは
「浪人が他国の戦に参加することが無い」
だよ。
違「浪人が他国の戦に参加することが無い」
正「浪人が戦に参加することが無い」
>>495 >浪人が他国の戦に参加することが無い
いや、491が言っているのは
「一時金しか貰えない浪人が他国の戦に参加することは無い」
だろ。
雑兵の何分の1しか俸給が無い、しかも恩義も無い浪人が戦で役に立つとしたら奇跡だよ。
>>497 491の内容からよくそんな事が読み取れますね。
490に対する491の内容ではとてもそうとは思えませんけどね。
軍役でムリヤリ連れてこられている雑兵と
出世する為に自主的に参加する浪人とを比べて
浪人が役に立つのが奇跡的とは思えませんけどね。
まぁ俸給だけを目的で適当に戦う浪人も大勢いたでしょうけどね。
>>498 言葉を490、491、494に合わせただけで
フリーター=浪人ではないし
雑兵に対するのも、浪人ではなく浮浪民か商工業者だけどね。
>>499 490は489の
>九鬼水軍は最初から地元の土豪兼海賊兼海運業者兼漁業者のようなもんだが。
>服部保長・正成も槍働きで正式に武将として仕えてるわけだし。
に対しての発言なんだから
フリーター=浪人
で話を進めているんじゃないんですか?
大坂の陣に数万単位で牢人(傭兵)が集まったこと
考えてみれ。
>いくら下克上の時代であったとはいえ
>氏素性の知れない人間(牢人衆)を
>雇用するような大名家は殆んどないでしょう。
↑こういうのは、江戸時代の感覚だなw
氏素性は勝手にでっち上げてたわけだし。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:50:32
>>501 ここで言ってる雇用ってのは
扶持を与え、召抱えるって意味だろ。
大阪の陣に集まった牢人は、短期のバイト感覚で集まった連中で
正社員として雇用してもらおうとしていたわけじゃない。
雇用された段階で被官であって、もう牢人ではないわな
大坂方が勝ってれば、牢人も秀頼被官どころか大名なわけだ
大坂入城の牢人の例→大谷刑部の息子、長曾我部盛親、真田信繁(幸村)ほか多数。
>>502 大阪の陣に集まった浪人は最後の戦で最後の出世のチャンス
と思って参加したんだろう。
豊臣に味方してもし豊臣が勝ったら大名になれるとか。
短期バイトで命はかけられん。
じっさい、大坂方に味方した牢人(関ヶ原敗北で牢人化)は
幕府軍に負けて皆殺しに遭ってるしな。
活躍すれば雇ってもらえると考えて働くんでしょ。
単なる客分なのか正式に臣従したのか難しいが、各地を渡って戦い続けたやつらは
戦国時代にはたしかにいる。
そのほとんどはなんらかの理由でもとの地から追放されたもの。
上杉に仕えるようになった村上などの旧信濃豪族や、三好やら本願寺やら朝倉やら
に流れて戦い続けた斉藤龍興。そういえばその家臣だった日野根弘就なんてのは、
美濃退去後に今川→北条→浅井→伊勢長嶋→織田と流れまくってる。信長の勘気を
受けて追放されて徳川家康の元に寄寓して三方ヶ原で戦死した元近習なんてのもいた。
武士は戦ってナンボの時代か…
追放された結果出世、というのもあるけどな。
甲賀を追放された滝川一益、出自は不明だが流れて朝倉に仕えそのまま織田に移った明智光秀。
六角親子は近江退去後は武田に仕えてさらに逃げ。大内氏に仕えて一国の政務を執るまでに出世
して陶のクーデターの原因になってしまった相良なんとか(名前忘れた)。牢人から仕えてある
程度の地位まで出世というのはこの時代普通にあったことだろう。そういや斉藤道三(の父)だって
他国の流れからだしなあ。北条早雲とか、義昭が将軍に就くまでの流浪につきあった細川とか和田
とかだって。
伊勢宗瑞の実力は言うまでもないが、
外戚というのもでかいからな。
というか宗瑞は基本的に幕臣、姉(妹)に頼み込まれて駿河に二度下向だから、
追放とか流浪とかとは違う気がする、無官の時も寺で修行だし。
駿河に一度しか下向してない
>>490 例えとしては間違ってるという意味で書いただけ。
武田家には150騎の牢人衆がいた。
しかも臨時雇いというようでもなかったようで、
名和無理介などトップクラスの面子はほぼ固定。
「他国から来て士官したが、まだ土地持ちになれない連中」か
「武勇自慢だが土地持ちになるよりフリーランスが好きな連中」だな。
まぁそんなにむきになるな
>>506 なんかその元近習は利家の弟のような人生だな
大河でみた利家の弟の佐脇藤八漏良行だと
信長の近習→
(信長に嫌われる)市に憑いて浅井家に→
姉川で利家たすけるべく浅井裏切る→
利家が良行を預かる→
比叡山攻めに参加するが堂内にいた赤ちゃん(後のまあ姫)を拉致って勝手に山降りる。→
赤ちゃんを松にプレゼントして徳川に行く→
兄の前田安勝と当時、元前田家の奥村家福を家来にしる→三方ヶ原で犯られて死ぬ
似てるね
信長の馬廻から、追放されて加賀一向一揆に合流→壊滅後は上杉に仕官、なんてヤツもいたな。
>>513 史実の佐脇も織田家を出た後、三方ヶ原で討ち死にだよ。大河のほうが元にしたんだろう
他国出身で取り立てられるのは比率は少なくても普通にあったこと、だったんでしょ
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 15:36:07
>>516 ある程度の教養とコネがあった場合じゃないか。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 18:11:08
もう一つの信玄系スレは賑わっているのに、このスレは廃れたな・・
あそこ妄想オンリーだし
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 18:58:17
まあ、戦の方が楽しいから
ぐちぐち石高や支配体制の話するのは、つまらん
じゃあたまには違う話するか。北条の事とか
関東平野って広いよね?
524 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 19:08:00
>>522 北条は結構地味だからな。
北条家を語るスレもあるけど、
武田家や織田家を語るスレに比べると
チョット寂しいよ。
信玄も2万5千で関東制覇目指せば
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 20:26:50
>>525 親父の信虎は結構関東に出陣していたぞ。
それでも大した結果を出せなかったので、
息子の信玄は信濃進攻に重点を置いたわけだから。
小山田が北条の外国衆に名を連ねている軍役帳だかなんだかがあると聞いたことがあるんですがどうなんでしょう?
本当です。
そのことで武田滅亡時に織田とちょっと揉めたりもしました。
向こうは討ち取ったところから、話始まるのな
討ち取りって信玄から一番想像しがたいのに
信長を信玄が討ち取るシーンが想像できない…
結局北条はなんで里見すら倒せなかったの?
>>527 二股かけてたはず、国人も生き延びるためには
大変なんよ。
しかし、二股かけてた大名どうしが争うことになった場合はどうしたんだろう。
信虎から信玄、勝頼の三代、武田と北条はけっこう争っているよねえ。
真田が上杉に関東管領就任おめでとうと祝ったこともあったな
>>533 小山田は
信玄勝頼時代は武田についてる。信虎時代は和睦婚姻後は基本的に武田についている、
また信虎時代は北条よりむしろ今川に付いた例が多いと思った。
まあ信虎時代だと今川北条の区別が曖昧な時期もあるが。
>>533 北条も黙認してたんでないかな?盟主の下で
自分に向かって刃向けたぐらいで、いちいち目
くじら立てたら国人たち誘えないし気長に待って
たんでない?情報提供してもらったり。
信玄の関東出兵に伴い、別働隊して出動した小山田信茂。
廿里合戦で北条氏照の軍勢が小山田信茂にケチョンケチョンに
やられてる。
>>537 それが本当なら後のフォローが大変そうだな。
二股でも武田にいたのは北条が信用できないんだろうね
すぐ籠城しか思いつかないから
本当ならつーか本当だよ・・・・
北条にとっては幽霊部員みたいなもんだろ。
柴辻俊六氏あたりの主張だと、半独立どころか
完全に武田配下。
というか、小山田が北条の軍役に応じて(北条の)戦争に参加したことってあるのか?
>>540 ないと思う
東美濃の遠山は織田武田両方に従軍してるらしいけど
「半独立」と「完全配下」の明確な違いについて
法度に従うことを求められたか免除されたかじゃないの
外交(戦も含む)をあるていど自分の裁量で行えるかどうか、じゃないかなあ。
例えば越後の本庄氏とか。
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/22(木) 21:00:56
>>542 難しい質問ですね。
関東の国人衆なんかは、
謙信が関東に進出すると謙信につくが、
越後に帰ってしまうと、すぐに氏康につくし。
そのあたりは「半独立」でいいと思う。
一方で遠山氏や、大道寺と諸氏は「配下」だろうけど。
何故大道寺?大道寺はバリバリの古参じゃん
小山田氏の領内の領民は小山田家ではなく武田家に棟別銭を払ってる。
明確に武田氏配下だと思う。
>>548 へ〜へ〜へ〜
本当なら、同盟関係どころか武田氏配下と考えても問題なさそう。
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 07:34:39
>>549 配下ってよりも盟主と従属大名の関係じゃないかな。
例えるなら織田家と徳川家みたいな関係だと思うな。
徳川家康の領地の人間は織田信長に税金を払わんし、
それに徳川家康は信長相手でなければ自由に軍事行動を起こせる。
しかし小山田信茂の軍事行動にそのような余地は無い。
外交では今川と独自の交流を持ってはいたが・・・
信虎の頃から時間をかけて、ちょっとだけ自治権の大きい
ただの家臣へと変質していったってとこだろうな。
>>551 >信虎の頃から時間をかけて、ちょっとだけ自治権の大きい
>ただの家臣へと変質していったってとこだろうな。
まあだいたいそんなところだろうな、ただ税を払っているから家臣、
払っていないから配下じゃないというのはどうかと思う。
寺社や都市に税をかけてる大名などもいるが寺社から動員できたりするわけじゃないし。
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 10:20:00
あと宗家と分家っていう問題もあるよな。
織田家とか松平家とか。
上司が甲斐一国なんとか治めましたよーという時期なら
郡内の覇者の発言力たるや大きくて当然。
オイラがいなきゃアンタ君主でいられないよ( ´,_ゝ`)プッってなもんだ。
しかしまあ、上司が勢力を拡大しちゃうと発言力は
相対的に低下しちゃうのよね。
そりゃそうだ、あと本人達の実力、性格もあるのかなと思う
真田は後々になっても発言力あったし。
真田は信玄の敵わなかった、強敵村上軍を追い出したからな。
目の上のたんこぶ的存在だな。
>>553 松平家は分家多いよね
その割にお家騒動が少ないのは大したものだと思う。
>>548 勝頼を裏切ったのは棟別銭が原因・・・?
>>557 騒動をやる余裕もなかった、というのが正しい。
特に広忠以降は、宗家にはむかうのは今川にはむかうことになるから。
それ以前はかなりやり合っていたとも聞く。
>>560 広忠追放以外、騒動ってほどの事は無いと思ったが。
少なくとも、織田家みたく頻発、深刻じゃない
>>561 松平清康は、各地の松平一族と戦って三河の盟主にまでのしあがったのですが?
>>561 だから、その追放された広忠が今川の後援で復帰して後は、広忠に逆らう=今川に逆らう
となったので表向き平穏になったのであって、松平一族が他(例えば織田氏)と比べて特別
仲がよかったとは言えない。
これは広忠が殺されてまだ未成年の家康が当主となって以降も変わらない。
よく三河武士の忠誠なんていわれるけど、別にやつらは忠誠心で逆らわなかったわけではない。
ただ単に、広忠・家康(=今川)には逆らう力がなかっただけ。
>>562 そうだけど、お家騒動とは違うんじゃないかな。
>>555 真田昌幸は武藤喜兵衛として側に仕えてた時期もあるし、
むしろ信玄・勝頼がその才覚を見込んで取り立てたのでは。
>>556 戸石城を乗っ取ったりしてそれで小県郡は任されたけど、
さらに上州吾妻郡まで任されるんだから、まあ真田幸綱の
才覚だろうよ。いくら功績を上げても嫌われてたら
出世出来ずに家を去るってとこじゃねーか?
でも出世しても先方衆が精々じゃあな
在地領主からすれば、大名に取り込まれきるよりそっちのほうがいいかもしれんが
松平一族にも尾張にいて松平と織田に
二股かけてた香具師いたよね。
名前は思い出せんが。
名前思い出した松平信定だ。
でも二股とは違うみたいですな。
内膳は、そもそも信秀と関係無いでしょ
松平は清康時代かなり争ってるし、今川に付いた広忠・元康時代にも今川に対し織田と組んだり
不服従だったりで今川に鎮圧されてたりしてる、だからこそ義元は信長が弟と争ったりで苦戦して
る時期にあまり尾張に出兵できなかったのでは。あと家康の一向一揆時代にも松平庶家が家康
に滅ぼされたりしてる。
清康時代は主家ともいえないし
その後、分家が織田へ付いたのは主に信秀の時期でしょ。
よく知らないけど、信長へ代がわりした後に裏切りったの居る?
まして、義元の尾張出兵への影響があったとは思えないな。
しかし、そんな中水野氏はずっと織田家についていったんだよな。よく考えるとすげえ。
>>573 水野氏の権力基盤は伊勢湾や矢作川の商業利権であって、後世農業に向かない土地を
支配していながら10万石と称される勢力を持っていたという説もある。
そして織田-熱田津島-水野の商業利権のグループと
伊勢長島-三河寺社勢力-今川のグループで利権が対立してるため
水野は織田に付くしかなかったということらしい。
ちょい前の時代はまた違ったけど。
へーへー
織田に付いたのは信秀の頃だっけ?
でも、水野氏って尾張にも城を持ってたような。
>>575 そりゃ信秀のころだろ、信定時代じゃまだ津島の領主でしかないし。
また信秀が那古屋奪うまでは那古屋は今川が支配していたはずじゃ。
水野が織田に付くのは最初の小豆坂の後では無かったか。
ちょっと教えて欲しいのですが、なんで那古屋に今川氏がいたんでしょうか。
信秀のころは三河もまだ完全制覇していないし、尾張の守護は斯波氏だし。
俺も今川in名古屋はご教授願いたいけど、
>尾張の守護は斯波氏だし。
は形式だけも良いところ。
大体その論理で言ったら三河守護も遠江守護も今川ではないけれど?
>>578 尾張の守護斯波氏は形式上の存在だけど、それでも清洲にいた。
また実質支配した甲斐武田や駿河今川、豊後大友などは国内に一族が多数土着していた。
尾張に今川氏は縁がないはずなのに、なんでいるの?ってことです。三河や遠江はその前
から今川氏による征服戦争が行われていたからいてもおかしくないけど。
今川は今川氏親の病気で倒れた晩年と氏輝の幼年時代、花蔵の乱で勢力圏狭めてるからな
氏親時代は尾張から武蔵にまで兵を出していたのに。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 08:15:53
今川は九州にもいましたから尾張にいてもおかしくないと思う。
いつの話だw
了俊なんて百年〜二百年まえじゃないかw
>>584 おいおい、信秀が今川氏豊から謀略で那古屋城を奪ったのは有名な話だろ、
何を今更言っているのか?
>>581 武蔵まで兵を出したの事実だが、これは関東の騒乱に援軍を派遣したというもので
侵略戦争で領土を得たわけでもない。
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 20:36:56
三河領も今川の勢力圏で、自由に行き来できたってことだろう?
(氏豊と本国の連絡、氏豊の本国への逃亡)
まあ、西三河の岡崎松平氏が完全に属国だったからな。
だとしたらなぜ今川は奪回に乗り出さなかったのだろう。スルーした結果尾張は
信秀のもとに一応結束し、逆に三河に進出するまでに成長してしまった。
当時の松平はまだ属国じゃあない。
つまり那古屋城はなかば飛び地のようなもの、
だからこそ、信秀もかなり強引なやり方で奪取できたんだろう。
>>589 それじゃあ、氏豊はどうやって本国へ逃げ帰ったの?
>>590 別に属国でなければ通行すら許可しないってこともあるまいよ。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 23:15:05
広忠・元康と、二代続けて駿府で人質生活を強いられていた松平のどこを見て独立勢力と見るんだ?
清康死んでから松平は万年今川の属国じゃねーかw
>>590 本国に帰ったか?
信秀に一命助けられて京に行ったと思ったが。
>>588 581も言ってるがいろいろ問題があってそれどころじゃなかった
1526年は今川氏親の死亡、もっとも晩年は病気で寝たきりだったらしいが 氏輝は1513年生まれだからまだ幼い
1530年代前半では西三河で松平清康が急成長して尾張に進出する勢い
今川は三河尾張より甲斐攻めを優先しているのか北条と協力して1535年に甲斐に攻めこむ
1532年または1538年に織田信秀那古屋城を奪う
1535年守山崩れ 清康死亡 松平家の分裂
1536年氏輝の死亡 花蔵の乱
1537年今川武田の婚姻同盟成立 河東一乱により北条と敵対 河東を北条領に
1545年 河東の返還
1547年今川吉田城攻略 家康が織田の人質に 9月信秀美濃で大敗
1548年第二次小豆坂の戦い
1549年松平広忠の死亡 三河安祥城攻略
40年代になるまで今川は西に主力を向けることができないような状況だった
三河より駿河の安全を優先させていたのだと思う
今川氏豊って、義元の兄弟と言われているけどかなり怪しくて、駿河守護家とは
別系統なんじゃって説もあるよね。
だからこそ、助命されたあと駿河に向かわずに京に向かったとか。あと、駿河今川
家関連の資料には氏豊の名前はロクに出てこないとか。
今川は、鎌倉時代には九州にいた。
大友や島津もたしか、本州でなかったか?鎌倉か室町のときに豊後や薩摩の地頭になったんでは?
九州探題の方はそもそも別系統じゃなかったっけ?
一応、駿河守護家の兄弟だったと思うが。何代目かは忘れた。
>>596 大友って、南北朝期には豊後に住み着いてなかった?
なんか、大内とがちゃがちゃやってた覚えが有るような無いような‥
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 13:43:40
ここは信玄スレッドよそでやれ
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 15:17:39
信玄はもう語りつくされて、結論出てるし・・・(w
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 17:08:34
信玄が勝つには…やっぱり、第一次駿河侵攻をさくっと成功させてもちろん北条は敵にまわさず。
ついでに遠江にも控えて徳川を敵に回さず。
その上で元亀元年の志賀の陣で信長が比叡山に釘付けのうちに一気に岩村を突破して岐阜を攻略。
これくらいやればさすがに。
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 20:28:26 0
>>606 信長は家康に財政援助とか食料援助してたらしいから
そう簡単にはいかないだろう。
まず三方が原後すみやかに家康討ち取りo徳川家降伏(従属化)が必須<信玄上洛
それをする前に病状が悪化したのか、信濃に戻っちゃったけどね
それができない以上先に侵攻できんのじゃないか?武田は
兵站的な問題で
以下過去レスのループ↓
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/28(水) 18:03:47
また兵站厨か
兵站厨も懲りないねぇ
では戦国時代の食料はどうしていたのですか?
特に国境の小競り合いではなく、領地から完全に離れた遠征などは。
荷駄がついていった
現地調達という名の略奪は恒常化してたけど、大名は食料を供給する事で兵士達を繋ぎ止めてたんだから補給隊随伴は欠かせなかった
武田兵は土を食べて生きているので食料なぞ必要ありません
2〜3日分の兵糧は自己負担、それ以上は大名領主負担だっけ?雑兵物語によると
他武器弾薬、戦地での賦役や陣地陣城構築も大名領主負担。
織田家が年中戦えたのは兵農分離ではなく大名負担分を支えつづけるだけの経済
基盤を有していたからで、武田や他の大名にそれができなかったのは兵農分離でき
ていないからではなく、大名自身の経済力が無かったせいじゃないか。
現に300人役でも村から2〜3%人手が減るだけだし。
2〜3%しか減らないのか?
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 01:13:15
消費税は2−3%しかないのか?
300人いるなかで、若手男児は何人かね?
もっと考えろ
織田信長の軍勢が武田領に攻め込んだ時、4月には兵糧は尽きていて
深志城に武田家が備蓄していた兵糧を分配している。
多分兵站とかあんまり考えてない。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 02:24:28
武田兵は馬を食べているので、
小荷駄隊は必要ありませんでした。
織田軍の武田攻めのための軍役状には
遠い国への遠征になるから食料に注意して人数少なく、でも大丈夫な限りは多く人を出せっていう結構いい加減な指示が出てた
>>623 配下一人一人の食料の蓄積状況なんて把握してないから、
指示が抽象的にならざるえなかったんだろう。
>>619 意味が分からん。
兵に連れて行くのは大半が若手から壮年の男児だろ。
村の中の若手男児の比率とその2〜3%を比較しろと言うならまだしも
大内、尼子も1年近く遠征してるからなぁ
大大名ともなれば、負担は大きいが難事ではないんだろ。
>>618 確か日本史板のどこかのスレでそんな計算してたのを自分も見た
江戸時代の武士と農民の人口の比率を利用して求めていた、
それによると確かに軍役につく農民の割合は数%だったが求めた本人が
あまりあてにならないだろうけどとか言っていたな。
>>625 村の人口100人として、15〜50歳ぐらいが30人老人が20人子供が60人と考えるなら
男女比同じとして、働き盛りの男児の割合は15%
そこから3%だと働き手の5人に1人が出兵するということになる。
これが多いか少ないかは個人の主観だろうけど
個人的にはこの程度なら農作業に支障をきたす事は無いだろと思う。
>村の人口100人として、15〜50歳ぐらいが30人老人が20人子供が60人と考えるなら
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>男女比同じとして、働き盛りの男児の割合は15%
余りにも酷いなw
>>628 正しくは、こうかな
村の人口100人、13〜50歳ぐらいが65人老人が15人子供が20人と考えて
男女比同じとして働き手の割合は65%。
そこから3%だと、働き手の20人に1人が出兵するということになる。
どちらにしても農村に影響は無さそうだな
一人減っただけでも大変だろう
戦死や後遺症が残る戦傷負ったら働き手が永続的に失われるだけだし
単純な数量で計れるものでもない
惣領も色々配慮して選ぶだろうし
働き手が一人減る分年貢や諸役も減るから、大変じゃないだろう。
一年中戦闘が続くわけでも無し
そう頻繁に、戦死や後遺症が残る戦傷をするわけでも無し。
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 12:13:37
年貢や諸役は減るだろうけど、
例えば市での働き手や、惣内の警備などが減るのは
結構、大きいんじゃないか?
結構、大きくないよ。
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 13:01:56
領民って田植えや稲刈りの繁忙期以外は
意外とヒマを持て余してるんじゃないか?
市で商売してたと言っても、村人全員が行くわけないし
警備といっても夜くらいだし。
それだったら合戦に行って、乱取りやってた方がいいと考えてたと思うけどな。
前近代の農村で暇があるなんて考えている時点で間違っている
当時は野盗などに対する備えも自前だし
どっちにしても史実じゃ武田は稲刈り時に一番戦争してるから、
領主農民にとっては農作業が遅れることよりも、
戦争での兵糧の支給や敵地での略奪のほうがプラスなんじゃ
>>627 305 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/07/17(日) 13:47:52
慶長三年の日本の総石高は約1850万石で人口は約1250万なので
これをもとに
甲斐の人口を仮に15万として
江戸時代の農民の割合90%をかけて、甲斐の農民13.5万人
兵を6000とするなら
徴兵率は4.4%
人口100人の村なら4〜5人分労働力が不足ということになる
まあ農業以外の人口とか甲斐一国で6000という軽い軍役とか数値がいい加減とかいろいろ問題があって
参考にならないだろうがw
306 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/07/17(日) 15:09:17
>江戸時代の農民の割合90%をかけて
これだと武士の分も除外しちゃうから、その上農民から兵を6000とするなら
軽い軍役ではなく、重い軍役にならないか?
だから、その理論によって軽い軍役なら、農村に対する徴兵率はもっと低くなるはず。
これか
>>606 その状況だと志賀の陣のような状況にならないのでは、
武田が北条上杉とやりあっていて西に目を向ける余裕が無かったから
信長は東を気にせず近江畿内で戦い続けることができたのだし。
つーか、あの状況に信玄まで加わったら、あっという間に蹂躙される罠。
急激な膨張による反作用は信長に限ったことじゃなく、信玄も直面してたからな
>>643 そうだな、主力は遠征中で本国は空ではないにしてもかなり手薄だろ
だいたい東美濃の森とかまで宇佐山に来てんだから、武田が美濃を
攻撃すればかなりの戦果が得られるはず。もっともそれで一気に岐阜
まで占領できるとは思えないが。大内上洛中に少弐や尼子が大内領
を攻撃しても大内が崩壊したりはしなかったから武田も一気に美濃尾
張占領とまではいかないかと。
1570年は信長の数少ない戦略ミスの連発だな。このとき以外に信長は大きな戦略ミスはしてないだろ。
やっぱそれが信玄との差か。
>>646 何度も家臣に謀反された挙句、家臣に殺されたような大名が菜に言ってんだか
>>645 大内上洛の時は陶がお留守番していたから状況違うかと、少弐雑魚だし
>>646 信玄は滅亡しかけるまで、追い詰められたこと無いけどな。
同時に複数方向の強敵を作らないようにして
それが無理なら付け城や朝廷工作などで敵の動きをできるだけ抑えておき、局地的には大兵力を叩きつけて各個撃破
後年大勢力になったらあちこちに同時に手をだしてるけどね
信玄はツケを息子に押し付けて死ねた幸運な武将
>>649 駿河侵攻から北条を敵に回したのは?あれは想定済みだったと?その結果せっかく
占領した駿河を放棄して撤退したのも計画?その後氏康の死まで三年にわたって延々
と戦い続け、余計なちょっかい出して徳川も敵に回して周囲を全て敵に囲まれて信長
に調停を頼み込んでいるのも追い詰められていないと?
>>652 不味い状況ではあっても、謙信も氏康も家康も武田の領国へは攻め入ろうとしない状況で
どこが追い詰められてるのやら。
しかも、武田勢はその間も好き勝手に進軍してるし駿河も占領。
では信長も問題ないな。
朝倉も浅井も六角も三好も織田の領国には攻め込まない状況。
精々長嶋が小木江を落したくらいだが、それ以上攻め込むこともなく長嶋に篭りっきり。
一方織田の軍勢は近江や畿内を好き勝手に進軍している。畿内各地も占領。
>>654 武田の場合、北条は駿河のみで上杉、徳川は交戦せず。
それに対して、信長の時は朝倉も浅井も長島、本願寺も交戦中
あまつさえ信玄までが進軍してくるのに同じ扱いとは、流石織田厨w
>一方織田の軍勢は近江や畿内を好き勝手に進軍している。畿内各地も占領。
そもそも近江は自領だろうにw
最後に負けたんならともかく、最終的に浅井も朝倉も本願寺も織田に負けているだろう。
なに意味不明なイチャモンをつけているんだ?
途中経過が大事で結果は関係ないってか?
>>656 はいはいw
>>652の言う、実際には北条としか交戦していない危機と
>>655の言う、実際に浅井も朝倉も本願寺も長島も交戦し
武田も進軍している危機では、深刻さは比較にならないってこと。
信玄が病死しなければ、滅亡していたかもね
>>657 結果勝っているなら、途中の深刻さを比較しても意味は無いってこと。
信玄が病死しなければってまた言い出したのかw
なら後継者の勝頼にとって最悪のタイミングで病死するようなロスを生前かますなと
北条としか交戦してないっていうけどさ、北条一つで武田の手に余る勢力じゃん
?徳川だって戦っているぞ。上杉だってそう。そもそも越相同盟ってなによ。
でも信長は信玄と違い滅亡しかけたこと何度かあるよな、
このスレの信玄上洛時は滅亡には遠いけど、
家督相続時、信勝謀反時、桶狭間時は滅亡しかねない危機だったな。
それをことごとく跳ね返したのが信長の実力だろ?
最初から甲斐1国を手中にしてた信玄と違うからな
最初の頃は弟ですら信長より兵数が多かったし…
>>621 『信長公記』にも兵糧分配の話は書かれているが、
『当代記』も読むとなお良い。
>>633 信長は小さいところから周囲をどんどん屈服させていったからこそ
信長個人の権力が大きくなった。
信玄は家臣に担がれて当主信虎を追い出して後釜に座ったから
常に家臣の権力との戦いがあり、飯富虎昌らの処刑を経てやっと
その地位が確たるものになった。そのために嫡男をも犠牲にした。
どちらが有利という問題でもないだろう・・・・
信玄の戦略ミスは駿河攻めだけでなく信濃攻めの段階でもいくつかあるからな
小笠原と開戦したあとに村上とも開戦するって何考えてるんだか
>>665 村上は当時別の豪族と勢力争いしてたから
片手間で抑えられると思ったんだろ
>>667 でも抑えられなかった。上田原から第一次川中島まででも五年。信玄のミスだね。
駿河攻撃でも北条は敵にならないとタカをくくって三年以上戦い続けることになったし。
ああ、約束違反して遠江に兵だして同盟者を敵に回したりもしたな。
>>665 わしらは結果論でしか語っとらんので
結果的に成功なら「素晴らしい戦略だ!」
結果的に失敗なら「馬鹿じゃねーの( ´,_ゝ`)プッ」
となっているだけでw
村上はもともと佐久進出を目指していたから、
ぶつかるのは必然としか言いようがない。
>>670 村上は当時は高梨と争っていたけどな、いずれ争うにしても何で信玄のほうから小県に出向くんだ、
先に小笠原をやるのが普通だろ、そうでないなら何で藤沢降伏させたあと筑磨に攻撃しかけてるんだか
若年期の信玄の戦い方って、直接動員兵力の少ない相手ばっか狙ってるね
戦術的有利を追及したんだろうが、戦略的にチグハグな面がある
徐々に改善されていったんだけど、やっぱりロスした時間は大きかったのかな
>>669 結果論で語るなら信玄は100万石程度の一地方大名
信長は日本の過半を制したが家臣の謀反で死んだ大名
でしかないが
結果ではなく重要なのは過程だろ。
結果だけ見れば信玄は村上倒してるし駿河も手に入れている。
>>672 >直接動員兵力の少ない相手ばっか
その割には木曽や伊那小笠原より先に村上と戦っているが
でも戦略的にチグハグな面があるというのには同意、いきあたりばったりで
2正面作戦になったりと戦略的には駄目駄目な希ガスる
相手が武田家よりも弱い相手ばかりだからそれでも勝つことができたけど。
>>674 他の相手と争っていて兵力を多く振り向けられないだろう、と想定したから武田は先に村上を攻めたんじゃないか?
全力動員かけたら侮れない相手を掣肘を受けてるうちに叩いておこう、という発想は決して間違ったものじゃないよ
担がれて当主になったわけだから、実績づくりのための目先の勝利を
狙ってただけで、その積み重ねで信州とれるとこまでいったのが
実情だったりして
つうか、いつも「信玄は甲斐一国持ってたから信長の出だしより有利」とか言うけど、
尾張一国と甲斐一国じゃそもそも規模が違うし、
自発的にしろ、担がれただけなら余計にいきなりトップで国をまとめるのが大変だと思うんだが。
>>676 上手くいけば大成功かもしれないが普通はそんな戦略採らないんじゃないか
70年に浅井朝倉と争ってる織田が、武田が北条と争っていて全力を出せないから
先に武田を攻めようというぐらいちぐはぐな戦略だと思うぞ。
また先に村上を叩く積もりだったなら藤沢を降伏させた後、
何でわざわざ信濃守護小笠原家と戦ったのかということになる、
小笠原とは和睦を結んどくべきっだのでは。
>>678 それだと信長や信虎のように大名の権限を強化しろということになるのでは。
だったら信虎を追放しなければいいだけじゃないか
>>678 信長は尾張の4分の1ぐらいだからなー
武田が有利なのは国の規模よりも敵が雑魚なのと今川と同盟してる点だろ
信長のほうは継いだ時点で強敵に囲まれてる
>>676 小笠原と敵対してるのに村上まで敵に回す、それだと本末転倒な戦略じゃないか。
戦術的にも村上に比べ小笠原はかなり弱いのだから弱敵にこそ戦力を集中すべ
き。
>>681 >信長は尾張の4分の1ぐらいだからなー
そこまで少なくは無いだろ、3分の1ぐらいだろ
>>668 自分としては上田原までの5年で、諏訪上伊那佐久しか手に入れてないというのもどうかと思う
諏訪家を一撃で滅ぼしてから、高遠藤沢、佐久の諸勢力といった兵力的には雑魚みたいな存在に
なんであんな時間かかったのだか。
>>680 信虎を追放しなきゃいいっていうのは、信玄が家中をまとめて自分でやったと見ないといけないし、
だったら、担ぎ上げられただけっていうのと矛盾してくるし、そっちの判断からかと。
というか、むしろ言いたいのは、現在の愛知県と山梨県の面積だけ比較して、
山梨県+長野県で愛知県より広いから、武田の方が強かったみたいな面積だけで国力だなんだっていってるのが多い気がする。
>>685 いくらなんでも武田厨を馬鹿にしすぎ
別スレにはそんな人間も多いかもしれんが
>>685 >信虎を追放しなきゃいいっていうのは、
担ぎ上げられるのを拒否すりゃいいってことだろ、若しくは信虎を何とかして呼び戻すとか
信虎の追放だって軍事的に武田家を倒したわけではなく、信虎が甲斐を出た隙に晴信に
家督を継がせて信虎を強引に隠居させたわけだから、晴信にその気があればあっさり信
虎を国主の座に戻すこともクーデターを未然に防ぐことも可能だろう。
まあその場合はまた粛清の嵐が吹き荒れて信濃攻めが遅れるかも試練がw
信虎の評判って酷いんだけど
中国の暴君の史書での評判そのまんまのあたり、割引いて考える必要があるな
家臣や国人層に反発くらうほど軍事行動が多かったからか
>>681 武田の敵は北条、諏訪、小笠原、村上で
織田の敵は今川、斉藤、無秩序な北勢か。
確かに、義元を討ち取る幸運に恵まれず、義竜も病死しなければ辛いな
>>691 信長の場合、継いだ時点で言えば国内の勢力からになる。
清洲の守護代家、岩倉に犬山、鳴海の山口氏はそうそうに離脱したし、弟信勝や
叔父信光も半独立に近い。筆頭家老林氏はかなりはやい時期に二心を抱いている
し、次席の平手氏もいざこざがあったもよう。
こうして並べると、よく生きていられたものだと不思議。若い頃には佐々成政に
何故か暗殺されそうになるし、本当に周囲には敵しかいなかったんだとわかる。
>>690 軍事行動の多さは信玄も一緒、妙法寺記か何かに信虎の代のころと軍事行動の多さは変わ
らないと書かれている。
>>691 いや信玄が継いだ時点では北条とは敵対関係にあるが当時の北条は甲斐に兵を出せるような
状況ではない、特に氏綱が死んだ後から河越夜戦(史実かは分からんが)までは非常に危険
な状況にあった。
>>692 >弟信勝や叔父信光も半独立に近い
こいつらまで別勢力と考えると信長は尾張の4分の1どころじゃなくなる、8分の1ぐらいじゃない
か7万石と考えると初期に信長が率いていたと推定される兵力に割と一致するな。
まあ清洲家との野戦時に柴田が参加してるから、信勝の離反が決定的となったのは道三死後
だろうけど。
>>690 妊婦うんぬんは明らかにネタだろうし
家臣の妻子を奪って側室にしたという話も、
実際の信虎の側室にそれに該当するような人物はいない。
もっとも甲斐国内の有力な一族国人などを躑躅が崎に住まわせたり
妻子を人質として取ったりして城下に住まわせたことは史実らしいが。
棟別銭の徴収を始めたのは信虎だが信玄も行ってるし。
花蔵の乱の残党と残党を匿ったものたちの始末、
義元との婚姻後、北条と今川が争ったときに家臣の反対を無視して今川への援軍、
今川の信用を得るためにはどちらも必要な行為だったし、信濃に攻め入るためにも必要なことだ。
ここで今川との同盟を堅持する姿勢を見せておかなければまた今川が攻めてくるかもしれんから
何せ半世紀に渡って武田と今川は争ってきたのだから。
>>665 武田信玄
諏訪を奪ったはいいが諏訪が安定する前に上伊那の高遠や藤沢と敵対してる中、佐久に手を出す
その結果高遠が蜂起して諏訪の危機、佐久の支配も中途半端に
上伊那の諸勢力を屈服させた帰りに、まだ佐久を平定しきってないのに何故か小笠原領に侵攻して小笠原家と敵対
小笠原と敵対していたのに上杉が支援する佐久諸勢力を攻撃上杉とも戦う
小笠原と敵対してるのに小県に侵攻して村上と上田原の戦い
林城攻略によって一気に小笠原家を崩壊させたが兵を返すことなくそのまま軍を小県に進めて戸石城を攻撃して戸石崩れ
その結果小笠原は息を吹き返すしせっかく支配した筑磨も不安定に
義元死後駿河に侵攻してついでに徳川領にも手を出して徳川とも敵対
戦略ミスが多すぎ
7分勝ちどころかなんか欲をかいて失敗してる例が多い
戦略がいきあたりばったりな感じがする
駿河も失敗だな。なんでこれが負け戦にカウントされていないんだか
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 02:24:55
>>696 結果的に駿河の併合に成功したからでしょう。
信玄って歴史に詳しくなればなるほど無能に思えてくる、
昔は凄い武将だと思っていたんだけどな
>>697 それいったら信長は負け戦ってある?
みたいなことになるぞ
>>698 誰でも一度は通る道、はしかみたいなもんだ
俺だって昔は光栄の能力値を信じていた。
>>695 昔見たようなレスだな
確かあの時は一人の厨がそれは史実に基づいていないとかいって必死に反論していたなぁ
信玄が大名になったあとすぐに村上小笠原諏訪が甲斐に攻めこんできてたから
最初から敵対していたんだと、史実じゃない可能性の高い事項を持ち出して。
>>696 >>697 >>699 結局既存の勝率というのは適当に作られたものだということだろ
だいたい箕輪攻めや駿河攻め川中島負け戦に数えてないんだから村上攻めも最終的に勝ったから
上田原も砥石崩れもカウントしなけりゃいいのに
>700
ゲームでは信玄もそうだがそれ以上に24将の能力値が高すぎ。
>>702 ノブヤボに関しては
信長家臣団の質と量に対するバランスを取る為にそうしている面がある。
と言いつつ・・・
COMに任せると織田家も武田家も大して勢力拡大できなかったり酷いと織田滅亡とかすることがあるよね。
何作目かにもよるがバランス取り出来てねーじゃんw
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 07:41:08
織田厨工作員必死ですね。
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 08:13:16
所詮ゲーム
>>695 佐久は信虎の代に既に侵攻していて、
代替わりのドサクサで歯向かってきたのだから早期に討たざるを得ない、
その背後にいる上杉との対立も不可避。
伊那と小笠原は密接に関係していて、一方を攻めれば他方とも敵対関係になる。
小笠原と村上も同様。
何より、上田原と戸石城で戦術的に失敗した以外はそれらの地域の制圧に成功しているので、
失敗とは言えない。
最終的には制圧してるのはいいんだが
問題はそれによる時間のロスか。もっとも信玄が天下を望むというか、信長陣営と戦ってでも京方向へ勢力伸張を考えなければ別に武田家にとって致命的にならなかったんだが…
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 10:57:34
>>706 君の言ってるレベルは信長包囲網を布かれた信長の外交は失敗ではない。
最終的に信長包囲網に組した地域は制圧に成功しているので。
>>704 とても同意w
>>708 信玄の成功は必然、信長の場合は信玄が死去する幸運に恵まれた。
信長が信玄の病状を知っていたのでない限り、信長包囲網を布かれた信長の外交は失敗だね
君のは、単なる苦し紛れの逃げ口上。
事を成すためには能力の他に幸運という要素が重要だけど
信長は幸運に恵まれすぎたよな
最後は言うに及ばずマヌケな死にかただったけど(笑)
>>709 まだ五十六歳、病気らしい病気もしたことがない北条氏康が死んでくれてよかったよな信玄は。
おかげで武田と北条の争いが集結して同盟も復活して西に向かうことが可能になった。
もし氏康が死なずにいたら信玄は延々と東で戦い続けて、三方が原で後の天下人を打ち破るなんて
最後の華はさかせずに終わっただろうね。
なんて幸運なんだ信玄は。
「今は健康な氏康が三年後には病気で死ぬ」という確信を抱いていたのでない限り、信玄の駿河
侵攻に関する外交は大失敗。
ちなみに、信玄が若い頃から病弱で当時も病気の身というのは有名。
君のは、単なる苦し紛れの逃げ口上。
709、711って、絶対信玄厨の評価を下げるための信長厨の書き込みだよな?
>>713 シーッ!こういうアホはヲチして楽しむのが礼儀だよ
本気で書いてるわけないだろ?同じ論法を信玄に使われたらどうなるか、普通の知能があればわかるし
>>712 死去する一年半前くらいから
あまり政務も取らなくなり、体調を崩していたんだが。
>>715 だね。
それに、駿河はきっちり切り取ったシナ
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 13:49:30
なぁ、織田厨にしろ信玄厨にしろ、ダブスタで贔屓の大名を持ち上げ、相手を貶すことに疑問は感じないのか?
同じ理屈で返されたら過剰反応するか黙るかするしかなくなるのがいつものパターンなのに…
低学歴・厨房が多いしそれも仕方ない。
紳士的な態度でいこうや。
信長が謀反で死ぬとは誰も予想していなかったと思うが、
そうなると「このまま行ったら滅亡確実」だった毛利、上杉、長宗我部と
いった連中はどうすりゃいいんだ。
>>720 戦うか、服従するかしかないだろう
生半可な服従は許されないだろうが…
毛利は、秀吉のやっていた五カ国譲渡が通るかどうかだな。
問題は、この交渉が秀吉の独断なのか、信長も承知の上だったのかだが。
長宗我部はまずい。あの段階ではっきりと敵対を意思表示しているのだから。
信長も事前の計画じゃあ生かす気はなかったようだし。
上杉もまずい、完全に敵対関係なうえ、交渉の下地もない。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 14:39:29
>>723 つまり武田は運が悪かったということですか。
信長が一番苦しい時に盟約に違背した武田を、信長が許す確率は低かっただろうからな
おまいら飽きないな
それだけ、戦国時代の流れを変えかねなかったんだろうな
統一したら徳川は安泰?
論破されると
>>718の様なすり替えで話題を変えるからね
>>726 信長が滅亡ないし相当勢力減退していたら
その後の日本史は変わったかもしれんからな
信玄が勝ってたら室町幕府体制復古か、信長の後釜狙っての乱戦勃発かどちらかだったろう
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 19:01:37
あのまま尾張に侵攻して行ったら、信玄は戦場で討ち死に意外はなかっただろう。
それが予想できたから、信玄は撤退したんだよ(その途中で病死)。
>>731 静かだからって、むりに挑発的な事を書かなくていいよ。
>>732 ( ´,_ゝ`)プッ
釣られたうえに反論もできねーインポ小僧かよ。
735 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 22:18:49
>>707 確かに村上相手の二度の敗戦によるロスは大きかった。これは戦術面での失敗。
しかし、少なくとも信濃侵攻時点では、戦略的にはやむを得ない、
或いはやるのが当然な行動をしていたのであって、戦略面のミスでは特になかった。
ただし、駿河侵攻時に北条を敵に回してしまったのは、
結果的には失敗と言えなくとも、少なくとも大きな誤算だったとは思う。
>>708 ちなみに織田家については順当に勢力を拡大しているし、
包囲網についても勢力を急成長させれば敵対勢力の増加を招くのはある意味当然で、
失敗とは言えないと思う。
>>718 ダブスタののは信玄厨だけじゃねーか
信長のほうは1570年は大きな戦略ミスと認めた上で信玄ほうの信濃攻めの戦略ミスを指摘してるだし
もっとも武田擁護は織田厨の工作かもしれんが
>>736 正直駿河攻めそのものは戦略ミスとは思えない、北条を敵に回してしまうなど配慮が足りていなかっ
たこともあるが、北条と上杉が同盟するというのは事前に予測するのは不可能だと思う。
徳川を敵に回したのは愚かだった認めるが。
織田家のほうはそれでも浅井朝倉と三好本願寺を同時期に敵にまわしたのは失策だったと思う。
>>706 >伊那と小笠原は密接に関係していて、一方を攻めれば他方とも敵対関係になる。
>小笠原と村上も同様。
密接ってどんなふうに密接なのか詳しく
>>736 >或いはやるのが当然な行動をしていたのであって
>>695見るととてもやることが当然とは思えないが
川中島から駿河攻めまでの15年間は信玄に戦略ミスは無いけどな。
序盤の戦略ミス若いからとか、実績のため取りあえず戦術勝利を重ねてたとか
家中への統制力が低かったからじゃないの?
勝頼が後を継いだときみたいにさ
>>723 長宗我部は一度は「四国切り取り次第」を信長から貰ってるのに、
信長が三好家を軸にした四国支配に方針変えたわけだから、
そりゃ敵対するしかないような。
>>725 1572〜3年は信玄が敵対したから苦しくなったというべきで、
信玄帰ったら速攻みんなあぼーんされてましたw
信長が本当に苦しかったのは70年だと思う。
>>730 まあ武田が勝てば次の天下人レースが勢力図を変えて続くだけだろうな。
参考になるかどうか微妙だが、『甲陽軍鑑末書』に信玄の「天下」構想などが
書いてあったりする。
>>738 伊那郡福与城主で武田家に反旗を翻した藤沢頼親は、
小笠原長時の妹婿で武田が福与城を攻めたときに、長時は援軍を出している。
これによって小笠原とも敵対するようになった。
小笠原と村上が密接な関係というのは、私の勘違いだったと思う。
村上氏と対立したのは先の佐久方面の支配権を巡ってのことのようだ。
ただし、上田原の戦いの時点では小笠原とは講和が出来ており、
二正面作戦を行ったわけではない。
実際、そのときには村上軍を上回る動員が出来ている。
兵力で敵を上回るのは戦略的な成功である、しかし最後の戦術レベルで敗れたため、
元の木阿弥となってしまった。
それは失策と言わざるを得ないが戦略が失敗だったわけではない。
>>739 >>695はあたかも信濃の諸勢力が全くかかわりあっていなかったかのように書いているが、
実際はそういうわけでもないのでね。
>>737 まず、三好は京都を押える為に敵に回さざるを得なかった。
そして、三好の息の根を止めるには長躯四国まで遠征しなければならない、
その前に本国美濃と境を接し敵対的な朝倉を打つのは妥当な作戦、
もちろん、そこで浅井が裏切ったのは大きな誤算だっただろうが。
本願寺についても仇敵である三好や朝倉と手を組んで、
あのタイミングで蜂起するというのを事前に予測するのは至難の業で、
失策と言ってしまうのは酷だと思う。
ちなみに信玄の信濃侵攻に戦略ミスがあったとは思えない、
劣勢の敵軍に敗れるという戦術的な失態があったので、
あまり芳しくない印象を受けるが、
戦略目標自体は理にかなった、あるいは当然の戦略であった。
>>742 >ただし、上田原の戦いの時点では小笠原とは講和が出来ており、
別に738、739でも695でもないがそれって本当?
上田原の敗戦後一方的に小笠原が講和を破ったってこと?
>>706 だったら諏訪より先に佐久を攻めればいいのに、
それに諏訪を占領した後佐久を攻めてる間高遠に上原城を焼かれるまでの事態になった
のだから佐久より先に伊那を攻めるべきだったのでは、攻めて諏訪の守りを固めておけば
いいのに。
>>744 「高白斎記」によると、上記の伊那での小笠原家との対立の後の、
1547年の武田軍の佐久攻めの際に、小笠原家からも援軍が来ているので、
講和が成っていたのはほぼ間違いない。
双方ともに本気ではなかったとは思うけど建前的にはそういう時期もあったと。
実際、上田原の戦いの時点では武田軍が小笠原のために兵を割かれて、
劣勢だったという事実はないわけだから。
>>737 >>743 本願寺の決起は将軍も仰天したとかいうぐらいだから予想外だろうし
阿波三好を討ちにいくのも困難なのは同意だし、朝倉攻めの前の段階では
一応畿内に敵はいないのだから朝倉を当面の敵とするのは妥当だが、
もう少し近江や伊勢の支配が貫徹してから手を出すべきだったとは思う。
>>695 同意だな、信玄はようするに諏訪伊那筑磨方面と佐久小県方面を平行して攻めてる
のが一番まずいと思う。信濃は山で区切られてる分、各地域個々の勢力が孤立してるのだから、
一つの相手一つの地域に戦力を集中させるべきだったと思う。
>>746 敵対勢力を内包して攻めるというのもどうなのかと思うな、
どうせ敵対していたのだから確実に滅ぼしておけばいいものを
後に降伏した藤沢も敵対するが、藤沢と違い小笠原はそれなりの勢力なのだから
もっとも朝倉攻めに松永や三好義継も同行してるが
>>745 佐久を攻めている間に高遠が蜂起したなんて事実はないよ。
高遠が降伏してから、佐久に手を出している。
ところが、高遠はその後再度兵を起こした、
このときは佐久の件は既にいったん片がついていたのだけれど、
されより先にやはり反旗を翻していた藤沢家の福与城を攻めあぐねて、
結局撤退した隙をつかれて、諏訪に放火されている、
恐らく藤沢と高遠は最初から申し合わせていたのだろうと推測されるから、
これを予期できてなかったのはやはりミスと言わざるを得ないだろう。
しかし、この時も兵力の集中には成功し、蜂起の半年後には高遠を占領している。
決して二正面作戦のような戦略的なミスを犯しているわけではない。
先に諏訪攻めた件については、
いともたやすく諏訪全域が制圧されてしまったことから見ても、
極めて侵攻に有利な状況だったからだと思いますよ。
>>748 小笠原がそれなりの勢力だからこそ、
佐久方面が不安定な状況で一気に責め潰すとこまで行くのは、
危険だったのだと思いますよ。
>>746 >>748 それ言うなら武田は高遠藤沢とも何度か和睦し、その間佐久を攻めたりしてる。
結局徹底的に相手を滅ぼさないから、適当な戦果で形式的に相手が従属する
ことで満足するから
>>695のような事態になってるんじゃないか?
>>695の言ってる敵対は小笠原だけでなく最初の
>上伊那の高遠や藤沢と敵対してる中
も形式的には敵対していなかったし、
林城攻略も駿河侵攻も、その時点では敵対勢力は一応他にはいないのだし。
まああくまで形式的にではあり、実質は
>>695の言うように敵対してるわけだが。
>>746 >>695の>上伊那の諸勢力を屈服させた帰りに、まだ佐久を平定しきってないのに何故か小笠原領に侵攻して小笠原家と敵対
これが和睦への布石というなら理解できる行動だな。
>>750 いや佐久を伊那と小笠原方面が安定してるのであれば佐久を攻めるのは納得できるが
その後なんで小県に攻めこむんだ。
村上>小笠原なのだから、まず小笠原が先だろう、佐久攻めも村上を刺激しないように
攻めておけば、高梨と敵対してる村上もあえて武田とは戦わないだろうし。その上で小笠
原を滅ぼし、その後村上と戦うのほうが安全だったはず、実際に信玄は上田原後にそう
したわけだし。
>>752 >これが和睦への布石というなら理解できる行動だな。
後に三増せ峠でみせた政略というわけか。
しかしこのような話も面白いな、要するに
『信玄が信濃攻めで別の戦略を採っていたら』
というIFってことだろ
2万5千は話題が尽きてる上ループにしかならないからな
>>751 高遠藤沢との時は、諏訪侵攻の際にドサクサに紛れて、
佐久の大野氏が諏訪領に侵攻しており、
武田家としては代替わりの時のドサクサで独立されたのとあわせて、
二度目のことで最早看過できなかった。
そこで、高遠らをそれなりに叩いた後で、佐久に侵攻しこれを降伏させている。
この間高遠らは諏訪に手を出せてはいなかった。
>>752 結果からいうとそうなってしまうけど、
小笠原と一時的にでも講和して、兵力を村上に集中することが出来れば、
兵力的には村上家を上回ることが出来る。
ところが肝心の合戦で不覚を取ってしまった為に失敗ということになったが、
衆を持って寡を打つってことで戦略的には間違ってはいないよ。
>>755 そりゃ当時の武田は村上小笠原合わせたよりも下手すりゃ兵力多いのだから
兵力で上回るの当然だろ。問題になっているのは小笠原より村上のほうが上
なのに何故、先に強いほうと戦うのかということだろ。衆を持って寡を打つって
ことなら、ますます小笠原を先に叩くべきということになる。
この状況で戦略的に正しく、村上に負けた後小笠原を先に破ったことが次善の
策というのであれば、武田には村上を相手にするという何らかの要因があると思う。
例えば小笠原は既に屈服してると信玄が勘違いしていたか
佐久小県を押さえることで関東からの通商路をすべて押さえることが魅力的だった
信濃でもっとも重要な善光寺を押さえることが戦略的戦術的不利を被っても
構わないほど魅力的だったとか
>>756 無論、それらのこともあったでしょう。
それに、既に講和しているのだから、村上を撃って圧倒的有利になれば、
小笠原も戦わずして下るかも知れないし、リターンは大きい。
この点、確かにこの段階で信玄は慎重さを欠いてはいたのかも知れない。
しかし、これが二正面作戦を敢行し兵力を分散してのことなら明らかな戦略ミスだが、
そういうわけではなく、戦力を集中し数的有利を確保した上でのことなのだから、
戦略ミスというのはいかがなものかと思う。
逆にいつ敵に回るかわからない、それも結構手ごわい相手を放っておいて、
仮にも和睦中の相手を攻めるのが良い戦略とは思えないし。
信玄の信濃侵攻は1542年の諏訪侵攻からと見てよいと思うが、
これは、6月24日に兵を発して7月5日には降伏した諏訪頼重を甲府に護送するという手際のよさで、
成功としか言いようがない。
ところが、9月10日に高遠が諏訪に攻め込む、これに対し武田は即座に対応し、
逆に伊那に攻め込み、25日の戦で高遠らに大打撃を与え、28日には藤沢頼親が降伏。
しかし、これらの間に佐久の大野貞隆が当時諏訪領だった長窪城を占領。
当然、信玄としては諏訪領は自分のものと考えているわけで、
代替わりのどさくさに紛れて謀反したこととあわせて最早見過ごせず、
諏訪の情勢が固まった1543年9月9日に出陣。大井貞隆を捕らえて、9月20日には甲府へ帰陣。
翌1544年10月伊那で藤沢氏が決起、武田軍は城を攻めあぐねて一時撤退、
それに乗じた高遠による諏訪侵攻、小笠原の参戦等があったものの、
1545年4月には高遠城を占領、6月には藤沢氏も降伏し上伊那の大部分を制圧。
帰途に松本平に侵攻し、小笠原家と戦いその後和睦。
この後、武田家は今川と北条の争いに今川の援軍として参加、
この争いが三者の和睦で一応終結し、北条家との対立が緩和され、
むしろ良好な方向に動き三国同盟への道筋が示され始め、
関東の上杉氏との対決の準備が整うと、上杉氏の影響が強い佐久に本格的に侵攻。
1547年8月には上杉氏の援軍も撃破し、志賀城を落とし佐久をほぼ制圧下にいれる。
そして翌1548年2月にはついに信濃で最大の勢力を誇る、村上義清と対決すべく出陣。
このときの上田原の戦いで武田軍は劣勢な村上軍に敗戦。
これをきっかけに小笠原は明確に反武田として行動するようになるし、
各地の反乱が相次ぎ、武田家の信濃侵攻は足踏みしてしまうことになる。
上洛後の信長の勢力拡大等に比べると、一見ゆっくりした歩みだが、
もし、上田原で勝っていれば、信濃支配は一気に加速したはずで、
信長が美濃侵攻に7年かけていたことを思えば、あまりにも遅すぎるとはいえないと思う。
無論この上田原の戦いは信玄の戦術面での失敗と言わざるを得ず、
結果重大な被害をもたらしたわけだが、ここまでで戦略的な失敗は特になかった。
あえて言えば、村上義清を甘く見すぎてしまったくらい。
それだって数的有利は確保していたのだから、戦略ミスというより、
やはり戦術上の失敗と見るのが妥当だと思う。
>>745 上原城を焼いたのは高遠か、そんな事実は無いだろ。
佐久にかまけている間に蜂起したというのはだいたい同意だが。
>>754 >そこで、高遠らをそれなりに叩いた後で、佐久に侵攻しこれを降伏させている。
>この間高遠らは諏訪に手を出せてはいなかった。
佐久には確か3回出兵してるし高遠も3年に渡って3回ぐらい攻めることになっている
どちらかにだけ集中したほうが早いと思うが
信長だって東美濃取られても、畿内が落ち着くまで本格的な対処はしていないのだから
大野貞隆って誰って思ったけど大井貞隆のことか?
むしろ兵を動かしまくりなのが気になるな
普通は調略が第一だろう
信長の美濃攻略だって実戦では負けっぱなしだったが離反させて着々と斎藤氏を追い詰めた
でも信玄ってこの頃は志賀城での虐殺・奴隷売り払いみたいに武断的な面がやたら強い気がする
長窪城は捨てて諏訪伊那に戦力を集中させ、高遠藤沢を完全に滅ぼしてから佐久を
攻めたほうが結果としては早かったんじゃないか?
長窪城は諏訪領っていても山の向こうの佐久だし(小県だったかも)わざわざ足を伸ば
すよりも当面は諏訪を安定させるためにも高遠藤沢だけ相手してたほうが良かったん
じゃ。佐久小県はしばらくの間は完全に諦めて。
問題はそれを家臣が許すかだが。
>>757 ようするに信玄にしては珍しく賭けに出たわけだな、
それなりに勝算はあったが(というか戦力的には十分勝てる相手か)
毛利も1569年に博多狙って出兵したが、失敗して四面楚歌状態になった例もあるし。
>>760 佐久への侵攻はそれぞれ目的が違い、その度戦略目標の攻略には成功している。
佐久には上杉や村上の影響もあり準備不足のままうかつに深入りは出来ない。
かといって、どさくさ紛れに動くことが最早二回目の大井を放置して、
侵攻が小笠原との対立につながりそこそこ手間取る可能性がもある、
伊那攻めを敢行するのも、いささか無用心でしょう。
最低限の攻勢で佐久方面を安定化させたあと伊那に本格的に侵攻し、
予想通り参戦してきた小笠原を恫喝して和睦、
さらに北条との関係を改善してから佐久へ向かうというのは、
決して悪い戦略ではなかったと思うよ。
>>762 大井です。途中で直ってるんだけど、見落とした。
まあ自分は両方の意見を見てたわけだがどっちもどっちだな
両方とも納得できる根拠がそれなりにある
それに信玄の戦略には自分らの知らない情報による何らかの根拠があるだろうし
信玄とは違う戦略のほうも信玄が知り得なかった現代人だから分かる根拠があるし。
>>763 長窪城は小県だろ
>>765 大井を討ったところで兵力の増強には貢献してないんだから
対小笠原戦には影響無いんじゃないか?
却って城を守るために兵を分散させることにならないか、70年の信長みたいに
それにこの後に大井の息子及び一族達と武田は戦いつづけるのだから、
最初の佐久遠征はあまり役に立ってないのでは?その分の戦力を伊那に向けてたら・・・
ただ国人領主の勝手な行動を許しすぎては政略的にまずいという可能性も有る。
>>762 無論調略は盛んに併用していますよ。
ただ、上田原の時にはあまりそういう動きが見られなかったようなので、
やはり、油断あるいは慢心していたのかも知れない。
>>763>>767 まあ確かに良く考えてみると、大井貞隆が信用できないと言うようなことをいったが、
彼にしてみればいずれの場合も旧領を回復しただけなので、
武田が伊那に行っていたからといって隙をついて武田領に侵攻するとは、
ちょっと思えないような気はする。
やはり裏切り者に面子を潰されたってことにこだわってしまったのか、
或いは旧支配地回復にこだわる家臣の意思を押えられなかったか、
あるいは、逆に今回は慎重すぎたのか、
いずれにしろ時間のロスだったとは言えるかも知れませんね。
しかし、最善手ではなかったとしても、ミスとまでは言えないと思う。
最善でなければそべてミスって考え方も出来るかも知れないが、
個人的にはそこまできびしく見る必要もないと思うので。
>>767 いったん降伏したのに、その後独立した国人領主を放置しては、
他への示しがつかないしね。
信濃侵攻時は、家臣団の力が強かったんかな
何しろオレ達が当主にしてやったんだ!みたいな構図だからな
両職辺りが実権握ってそうだ
>>762 >信長の美濃攻略だって実戦では負けっぱなしだったが
どうもそういうイメージが一般にあるけど、ソースは?
「なんの戦果もあげることが出来ずに逃げた」というと、河野島の合戦くらいしか
思い浮かばないんだが。もちろん負け戦がこれだけなんて言う気はないけど、だから
といって戦に勝ったことの無い大名にたいして、いくら調略しかけても寝返る勢力は
いないでしょう。
普通は「今の主君は頼りにならない」と思うから寝返るわけで、それが何度も侵入
してきは撃退されている勢力から寝返りの誘いが来ても応じる国人がそんなにいる
とはとても思えない。国人だって、「他国の侵攻を何度も跳ね返している」のなら
頼りになる主君と認めるだろう。
>>771 1561年二度に渡って斉藤軍を撃破、しかし西美濃からの侵攻は思うように進まず、
1563年には小牧山城に移り東美濃からの攻撃に切り替える。
その後1564年には織田信清の犬山城を落とし、その年から翌年にかけて東美濃の諸城降す。
1565年には信長方についた城の攻撃に来た斉藤軍を破る。
多少ごたつきながらも、まあまあ順当に勝ち進んでいるといったところですね。
>>695 もう一度詳しく言うと、
諏訪侵攻時に佐久の大井貞隆が当時諏訪領だった長窪城を占領、
さらに高遠が反旗を翻して諏訪に攻め寄せる。これに対応する為に信玄も出兵。
つまり、このとき伊那勢と佐久勢を相手にしているのは、諏訪領の安定支配の為といえる。
実際佐久への出兵は限定的なもので半月ほどの戦闘で手際よく貞隆を降しているし、
それ以前に高遠も撃破して二正面作戦という戦略的な愚を犯したわけでもない。
佐久に深入りすると上杉や村上とも対立することになりかねず、
この時限定的な侵攻で手を引いたのは戦略的には正しい。
諏訪領といっても地理的には小県郡の長窪はあえて放置しても良かったのではないか、
という意見もありそれも理にかなってはいると思うが、戦略的なミスとまでは言えないだろう。
続いて再び背いた高遠・藤沢らを打つために上伊那に侵攻、
藤沢は小笠原長時の妹婿で、伊那鈴岡城主は長時の弟である為、
本格的な伊那侵攻は小笠原の介入が予想され、案の定それが起こったため多少手間どったが、
それでも9ヶ月ほどの期間で上伊那をほぼ制圧。
その帰途に、上記のように既に敵対していた小笠原領に攻め込み威圧した上でその後和睦に成功。
この時小笠原と一気にことを決せず和睦したのは、
北条家との関係が今川も絡めてギクシャクしたまま、
筑摩・安曇郡まで侵攻するのは危険だと判断したからだと思われ、
これは戦略的に正解だったといえる。
その後北条氏と和睦し、上杉と戦う準備も整ったところで改めて佐久に攻め込み、
これをほぼ制圧、続いて村上と対決する。
この時先に小笠原を討てば良かったのではという意見もあり、
上田原の敗戦という結果からみれば妥当とも思えるが、
やはり、いつ敵に回るかわからない相手を放置し、仮にも和睦中の相手を攻めるのは、
良い手だったとは思えない。
で、結果1548年の上田原で敗戦し信濃支配は大きく後退するが、
1年余ほどで勢いを盛り返し、1550年には小笠原家の居城林城を陥落させている。
その帰途に村上家の戸石城を攻め落せずいわゆる戸石崩れを起こしているが、
一見拙速に見えるが、この時村上義清は高科と交戦中で、戸石攻めには絶好のチャンスだった。
さらにこの時には村上家への調略も進んでいて、村上方の国人が幾人か武田家に降っている。
ところが、肝心の城攻めに失敗してしまったと。
結局信玄のここまでの信濃侵攻で大きな戦略的な失敗はないといえると思う。
必ずしも全てが最善手ではなかったとしても、
少なくとも、自ら進んで二正面作戦に臨んでしまったことも、
数的不利のまま戦になったことも基本的にはなかった。
問題は、にもかかわらず、二度の敗戦をくらい侵攻が停滞してしまったこと。
つまり、この時期の信玄に関しては、戦略面では優れていたが、戦術について今一なところもあった、
と評するべきだと思う。
もっと頑張れw
うむ、ちょっと頑張りすぎたかw
既出の話ばかりだしね。うざくて申し訳ない。
まあ要するに、信濃侵攻時の信玄は別に戦わなくてよい相手に、
こっちからから無闇にけんかを仕掛けたり、
ましてこちらから二正面作戦を敢行したりというような、
明らかな戦略ミスはしていないということ。
むしろ問題なのは、二度にわたる戦術面での敗北であると。
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 18:48:01
>>776 いや、君のような論理的な意見の方が好ましい。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 18:57:13
武田二十四将を詳しく知りたいです。
あと異名とか
不死身の鬼美濃
二十四将って何人か異同があるが
勝頼は武田の猛牛と徳川から恐れられていた
久々にみたら、凄いしっかりしたスレになってるな。
感心
二十四将って無理矢理人数合わせしただけだろう
徳川二十四将みたいに
…そういえば織田二十四将って聞かないな
>>745 もともと佐久は武田・諏訪・村上が共同で攻めた土地。
しかし武田家が代替わりでゴタゴタしているうちに上杉が佐久に侵攻。
諏訪は単独で上杉と講和して佐久を分け合う。
この時点で武田家からは「裏切り」と考えられていたようで、
信玄の軍事行動はその落とし前から始まったわけだ。
先に佐久から攻めれば諏訪と上杉を敵に回す事になるが
上杉は諏訪まで援兵を出す事は出来ないのだから
諏訪から攻めるのが実に正しい。
785 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 14:10:32
猛牛って勝頼だっけ?
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 16:15:04
志賀城の戦後処置が悪かった
首3000は仕方ないとして
女は遊女 男は金山
子供は奴隷
あんなことしたから上杉 小笠原 村上が本気で怒って
敗れた後謙信が怒って川中島 箕輪城攻め
松山攻めとか最悪だよな武田が追い詰めたが北条の降伏勧告に応じた
文の勢いが切羽詰ってるのは何なんだ?どうでもいいけど‥
>>786 よくある処置だったらしいよ
親族が買い戻せないほどの高値をつけたらしいな>志賀城
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 19:33:48
信濃衆が短気だったてこと?
ふと思ったが、日本に奴隷商人っていたのかね
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 22:22:47
>>790 あちこちにいたよ。人買いが恒常化していたからな
鉄砲等と引き換えに外国に売られた人間も多かった
不識庵が人身売買してなかったっけ?
>>788 200貫なんて払えるわけがない。怨みを増大させてどうするんだか・・・・
>>787 よくある事だから自分もするって言うのはちょっと考えが足らないんじゃないか?
よくある事だからって実際そんな目にあった奴らが怨みに思わないわけじゃないだろう。
恨みを買うのを承知で、見せしめ効果を期待したのか
それとも単純にそこまで過酷な真似をしないと家臣達に与える褒賞が用意できなかったのか
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/04(火) 01:52:13
悲しいかな、武田神社・舞鶴城共に同性愛のメッカ。
見せしめとなれば信長が上京での放火略奪だからな。
城の一つ二つは日常茶飯事としか言えないのでは。
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/04(火) 04:57:06
800ゲトー
>>784 >先に佐久から攻めれば諏訪と上杉を敵に回す事になるが
この時の諏訪にそこまで力があったか?
高遠や下諏訪が離反対立している諏訪宗家が、
更に言うなら武田の妹婿なのだから、後に和睦した小笠原よりは信用できる、
諏訪を無視して佐久小県を攻める、
または信虎同様に諏訪と協力して佐久小県を攻めるという選択肢もあったはず。
その上で諏訪を従属化させて後の木曽みたいに扱うような手段もあったはず。
ただ上田原や砥石崩れのようにハイリスクハイリターンであり、家督相続直後の
失敗を冒せない信玄には難しいかもしれんが。
ここ最近のレスを読んでの感想だが、
三方ヶ原とかで大勝しているが、全般的に信玄ってそんなに戦強くないんじゃないか?
>>801 上杉氏は勢力的には村上をも凌ぐ大敵、
甲斐一国を押えただけで、しかも北条との関係が定まらない状況で、
安易に敵に回してよい相手ではない。
上杉と事を構えるなら、敵の敵は味方の論法で、
北条との関係を改善してからの方が良策、
後方の安全と上杉への牽制を同時に行えるから。
そして、実際に信玄はそのようにしている。
で、諏訪家に力がないからこそ諏訪を攻めやすかった、
なにせ信虎が足掛け7年間も戦って寸土も得ることが出来なかった諏訪を、
僅か10日あまりの戦闘で制圧できるような状況だったのだから。
結局この時点で佐久を後回しにして諏訪を攻めたのは、
戦略的には全く妥当で優れたものだったといえる。
まあ、道義的には問題あったかとも思うけど。
>>803 同意、諏訪を簡単に接収できたのだから同盟者を持つより全然いい。
それに諏訪家が従属する保証もないうえ、傘下へ入ったとしても
一時期までの毛利家の様な状態なら扱いに苦労するだろうし。
>>802 戦術的な敗北がかなり強調されているからね。
しかし、戦に決して負けないというわけにはいかない以上、
一度や二度敗北したからといって強くないとは言えないと思いますよ。
確実に領土を拡大させてはいたのだから、
総合的にはやはり強かったと言ってよいでしょう。
上田原についてはむしろ義清を褒めるべきだとも思うし。
信玄の場合、強い弱いというより上手い下手という表現のほうがしっくりくる。
一度の大敗を許容できる国力を最初から持っていたのが信玄の幸運だった?
もっとも大国でも負け一回で没落することもあるから…
他スレからのコピペだが↓
弘治三年四月、義信を大将とし、飯富虎昌、飯富昌景、内藤昌豊、馬場信房、諸角昌清ら一万三千を碓氷の
瓶尻に派兵峠を越え上州に攻め込む。これを迎え撃った業政は、先陣を叩き箕輪城に籠城。
武田軍の矛先をかわす。
別の書では西毛軍2万を率いた長野業政軍は統制が利かずに逃げ帰った記録もあり。どちらかと言えばこちらが
正しい。この辺はかなりあやふや。
その後は示威行動の為の進軍で二の丸まで攻めた???記録は見た事ありませんが、鉄砲による甚大な被害を出し
撤退しています。
まあ痛みわけかな。略奪して帰りましたが。
翌年永禄元年(1558年)、信玄自ら武田軍団を率いて上州に侵攻してきました。
業政が吾妻に出陣している留守を狙ったものですが、業政は間道を使って信玄軍に夜討ちを掛け散々に荒らし、
翌日には強風を利用して、武田勢の風上にまわると火を放ち、武田軍の食糧を焼き、弾薬を爆発させ、
武田は命からがら甲斐に逃げ帰りました。
これは完全な負け戦なので、武田厨は略奪だけをして帰ったと言い張るw
しっかり記録に残っているのですが。
示威行動の為の進軍ですか。すごい珍走ですねw
永禄2年(1559年)はまさに子供扱いで、雨宿り中に奇襲をうけるは、雉郷城を取り囲み攻めれば空城。
長野業政はその間に鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。 部下相手に鷹留城で反撃を受け信玄たまらず撤退。
箕輪城に被害を与えるこさえできず甚大な被害を出す。一説には死者1000人以上だったとか。
永禄3年(1560年)再度箕輪城を取り囲んだが、安中忠政に糧道を断たれたまらず撤退。
兵糧を奪われ断たれた説もあり。その後は撤退中に追撃を受け敗北。
二度の大敗程度じゃないじゃん。戦下手なんだなー
つーか野戦で長野に勝った義信のが上じゃないか??
問題はなんという史料に書かれているか、なのだが。
>>774 戸石崩れを起こして小県への転戦を戦略的に正しいとするのはいくらなんでも贔屓の引き倒しじゃないか?
政略的には松本平の支配が安定してないし、戦略的には小笠原は勢力は完全に滅んだわけでもないし
そもそもの遠征目的が小笠原家の打倒だったのに、更に別の目標を掲げるということは戦への準備兵の士気疲労
など戦術的にも拙い。
ただ信長上洛戦時、六角を山間部に追いやった後は無視して京へ入って三好と戦った例もあるから、
一概に小笠原を殲滅させるのが良いとは言えないが。
>>803 >>804 それ言うなら、上田原の時の小笠原の扱いについてもそのまま当てはまるよ
>なにせ信虎が足掛け7年間も戦って寸土も得ることが出来なかった諏訪を
信虎のときとは武田を取り巻く環境と諏訪家の内部事情が違いすぎるから信玄が
諏訪を攻めたのは正しいと思うが、信虎が無能というわけではないと思う。
まあ何を言っても所詮は結果論or憶測
>>810 そのままは当てはまらない、
1542年当時武田家は甲斐を押えただけで、対して上杉家は北条に押されつつあったとはいえ、
関東管領として未だ純然たる勢力を持っており、少なくとも当時の武田家よりは勢力は大きかった。
それに比べて上田原の戦いの1548年は、
武田家は甲斐に加えて諏訪・上伊那・佐久を領有し勢力を拡大、
勢力として村上を圧倒しており、北条家とも関係を改善していたので、
後顧の憂いはあまりなかった。
つまり、1548年の段階で村上と事を構えるのは戦略的には妥当だが、
1544年の段階で上杉と敵対するのは全くナンセンスと言わざるを得ない。
あと、信虎の場合の問題は諏訪の内部状況が違うのはもちろんだけど、
それ以上に北条家と敵対し、繰り返し関東に出兵しながら、
その合間に諏訪とも戦うという二正面作戦がまずかったと見るべきでしょう。
それから、戸石崩れの時には、村上家からの離反者がでているし、
まんざら準備が全くなかったと言うわけでもないと思いますよ。
ハードディスクが逝ってしまった…
このスレの最後までにパソコンが元に戻るか微妙、過去ログもみな消えちゃったし
今回まとめ書けないかも。
>>812 横レスだが程度の問題だろうけど
>>810の言うように当てはまると思うぞ。
村上は当時の武田と比べれば半分程度ではあるが、それ以上に小笠原は
弱体、攻めれば村上より容易に筑摩郡を接収できた可能性が高い。
同盟者を持つより全然いい。 それに小笠原が従属する保証もないうえ、
傘下へ入ったとしても、信濃守護職の家柄や上伊那や安曇郡の姻戚者、
下伊那の一族の関係もあって扱いに苦労するだろうし。
といった感じに。それに和睦した相手を攻めることが道義的に拙いと
か信玄の一生を考えると信玄がそんなものに縛られるとも思えん。
>>811 まあその通りだな。
>>810 >ただ信長上洛戦時、六角を山間部に追いやった後は無視して京へ入って三好と戦った例もあるから、
>一概に小笠原を殲滅させるのが良いとは言えないが。
信長の場合は上洛が目的であって六角を滅ぼすことは目的じゃないから違うような。
それに京の重要性を考えると近江なんて…って気もする。敵対勢力を放置し、統治
体制が不安定なままであっても、それ以上に上洛の政治的効果は高いだろうし。
信玄の場合は砥石城攻め小県郡の支配が、筑摩郡の統治よりも重要であるなら、政
治的に正しいということになるだろうが、松本平は信濃でも重要な経済地域である、
しかし砥石城を押さえることも、佐久郡の安定や筑摩郡から小県郡佐久郡への交通
路を押さえることになるし、砥石城を押さえれば村上勢力を佐久郡小県郡から一掃
することも可能で重要性は高い。
ただ武田は筑摩郡を完全支配した上で小県郡の諸勢力に調略かけるほうが確実だっ
たろうけど。戦略的にも高梨と誼を通じた上で攻めるとか。結果論だけどw
砥石崩れは村上が北方に出兵して手薄だから攻撃するという、戦術的(短期的な戦略)
好機を根拠にしての軍事行動だから失敗する可能性は高かったのかも。また勝てて
も、その間に小笠原が勢力を取り戻す可能性もあるし。焦って砥石城を攻めなくて
も結果は砥石城を攻めて勝った場合とあまり変わらないのでは?その間に高梨が滅
ぶ可能性を考慮しないなら。
>>812 >それ以上に北条家と敵対し、繰り返し関東に出兵しながら、
>その合間に諏訪とも戦うという二正面作戦がまずかったと見るべきでしょう。
これは武田が独立を保つためにはある意味仕方がないのでは?
>>813 物理的に?それともデータが飛んだだけ?後者なら復元ソフトを
確かに松本平や仁科などの北安曇を支配したなら村上との差はますます開くから無理に攻めないでも砥石城は手に入りそうだね、後に真田が調略で手に入れてるし。
村上は武田以上に豪族の寄せ集めだから調略で内応させられるんじゃない、それなら無理に攻めることもないな
弱いところを攻めるというなら下伊那や木曽もあるんだが・・・
それだけ佐久や小県のほうが信濃じゃ重要なんじゃないか?
信長が近江の山間部より京を選んだように。
>>768 上田原って軍艦だと勝ったと思った板垣が首実検してるところ村上に襲われて
討ち死にしたことになってなかった?
思いっきり油断しまくりだな
>>スレのまとめ人
気を落とさないで頑張ってくれ。
>>817 下伊那や木曽は攻め難く益少ないしね
>>813 小笠原は小身ではあっても、竜興時代の斉藤や六角みたいな
軟弱野郎には程遠いから、下策っぽいね。
あと、武田厨を全て同一人物扱いするのは、ちょっと痛いよ
>>819 >武田厨を全て同一人物扱いするのは、ちょっと痛いよ
どこを読んでこんな発言を?
ひょっとして前スレでの発言か?
過去ログ無いから今となっては自分がどんな発言したかよく分からないけど。
>>817 >>819 だったら何で信長は桶狭間後、より弱い北伊勢を攻めなかったのかということに
なるかも知れんな。
>>821 俺もそう思う
斉藤と敵対している事と美濃の重要性から、北伊勢は後回しにしたんだと。
>>821 地図見れば分かるかもしれないけど尾張から伊勢を攻めるには
海路か陸路で美濃を通ってと言うことになる。
地理的にも美濃を取る前に伊勢を攻めるのは難しい。
現代の日本地図やのぶやぼのイメージで語ってる奴がなんて多いことか・・・
信玄が継いだころの佐久の状況だけど
海野平合戦で上杉と村上が争ったことから両者は敵対状態?
また最初の佐久攻めでは海ノ口前山城に入っているから南佐久は最初から
ある程度支配していたということか
あと1543年に小諸城を築いたともあるが、最初の遠征は長窪城だけの限定
戦ではなかったのか?また何で大井貞隆だけで他の大井一族をこの時攻め
なかったのか?
上杉が援軍に来たのは笠原の時だけだから上杉の佐久の勢力はその程度?
まったく伊勢に手を出さなかったわけでもないけどな
手を出したのは67年、美濃攻めがほぼ終了したころ
美濃三人衆が寝返り稲葉山を包囲したあと
>>813 その程度が重要でしょう。
1542年の段階で諏訪氏は史実においては多くの離反者・内応者を出し、
武田軍が甲府を出陣してから僅か11日間で降伏して、
当主が甲府に護送されてしまうほど脆弱な状態だった。
そして佐久に本格的に侵攻した場合に敵対することが予想される上杉は、
当時の武田の勢力を凌駕する存在。
対して1548年の段階では、
小笠原家は武田家に比べれば貧弱ではあっても、相対的に見ても、
幾らなんでも1542年当時の諏訪家ほど拙い状況ではなかったはず。
そして、村上家は小笠原よりは強勢であってもやはり武田家よりは貧弱だった。
これだけ状況が違っては、同じ戦略は取れません。
もし仮に1548年当時の小笠原と村上の勢力差が、
1542年当時の諏訪と上杉と同じほど開いていたなら、
信玄は小笠原から攻めたと思いますが。
>>815 今川・北条と敵対していたのは甲斐統一の頃からの関係があって致し方ない面があるが、
諏訪については、その状況でさらにこっちから攻め込んでなかったか?
>>825 小諸城の築城は1554年ではなかったけ。
虚名に惑わされずに純粋に信玄の実績を見てみると、
自分よりはるかに巨大な勢力と戦い続けて領土を広げていった氏康や元就に比べて、
信玄が優れているとはどうしても思えない。
もちろん甲斐一国からあれだけ領土を広げたんだから優れた武将だったと思うが、
安全策を取り過ぎる。
もちろん戦力的に優位な状況を作って戦うのが戦略の基本なのだが。
>>831 それが妥当な評価でしょうね。
その戦略の基本を忠実に守りながら、
それでも負けてしまうこともあるのだから、
少なくとも戦術面で格段に強いとは言えないと思いますよ。
>>831 それでも謙信と戦い、結果川中島を手に入れてるし
対北条でも駿河を奪取したり三増峠で勝ってたりするけどね
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 23:50:27
川中島、三増峠・・・・
天下取りの戦略上、あんまり意味ねえな。
三増峠も川中島も、二倍近い大軍を持ってして苦戦してるんだが・・・
それは違う。
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 09:20:13
>>833 >自分よりはるかに巨大な勢力と戦い続けて領土を広げていった氏康
なんて書いてるから、多分釣りかネタでしょ
両上杉は大きい勢力だったんじゃないか?
石高でいうと、相模伊豆ってさほど大きくないし。あわせて甲斐一国を
やや上回るくらいで。
そもそも信玄は天下取りのために戦をしてたわけじゃない
周辺の比較的攻めやすい勢力を相手に扶植していった典型的地方戦国大名
途中から恐らく信長に刺激を受けて京都方面を目指すように戦略転換したんだろうが、駿河攻めで勇み足したこともあって結局時間が足らず次の代に負担を残してしまった
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 12:35:43
そもそも信玄は天下取りのために戦をしてたわけじゃない
>>825 1546年に武田が佐久に侵攻した時は、
上杉家は佐久に援軍を送れるような状況ではなかったんですよ。
1546年4月に河越城の戦いで北条に大敗し勢力を激減させていて、
信玄が佐久に攻め込んだのは1546年の5月。
さすがにその翌年の志賀城への侵攻に対しては援軍を出しているが、
その当時も北条家の攻勢は続いており、相当無理をした上でのことでしょう。
>>842 河越夜戦の頃の話では?
この当時は上杉のほうが大勢力ではあったと思うよ。
山内上杉家のことね。
河越夜戦は実在を疑われているという話だが(比較的軍忠状等が多数発行され確認できる北条氏の戦の中で唯一関連史料が不足、など)
それと、その頃は江戸周辺まで進出しているから
はるかに巨大な勢力とは到底言えないと思う。
>>848 元就が圧倒的なのは周知の事実!
元就>>信玄信長家康≧秀吉氏康謙信とか色々
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 16:21:33
>>847 上杉単体で見ると、はるかに巨大な勢力とはいえないけど
この頃の氏康は今川・武田も敵に廻し、足利公方にも上杉に寝返られて
殆んど味方が居なかった状態だった。
それを考えると、はるかに巨大な勢力を撃退したと言えると思うけど。
ぐはっ…野戦じゃなくて夜戦
>>847 江戸まで侵攻した事自体が氏康の功績だったりしないのか?
爺ちゃんと父ちゃんの功績か?
>>853 江戸まで侵攻したのは父ちゃんだし、上杉直接の所領でもないじゃん
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 16:53:22
>>851 両上杉家&足利公方&関東の国人衆 VS 北条家
という圧倒的に不利な状況で、氏康は関東の旧勢力を撃破したということでしょ。
>>853 江戸まで進攻したのは、父ちゃんの功績だろう。
父ちゃんが死んじゃったから、両上杉が氏康を潰そうとしたわけだし。
そもそも小笠原と和睦しないで戦い続けてりゃ良かったんじゃないか?
佐久小県に手出して上杉村上と関りあうより
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 17:38:39
信玄
「里美ちゃんのためにがんばるぞーー」
なんでやねんw
>>854 しかし扇谷上杉の領国であることは間違いない
ちなみに父ちゃんは河越まで北上してる
多分そのほうが安全だし早いだろうな。
佐久に手を出したのは関東で上杉が大敗したからじゃないのか?
そのことが無ければ、先に小笠原を攻めていただろう。
武田家も当初は小笠原を攻めるつもりだったのかも試練が上杉が負けて佐久が
手薄になったから方針を変更して佐久を攻めたんじゃないか?
短期的には佐久のほうがより楽に攻め取れる地域なんだから。
>>859 戦国大名じゃないわけで、上杉の領国とは言えない気もするけど
扇谷は武蔵守護だから扇谷上杉の領国でいいんじゃないか
関東管領の上杉だと領国とは言えない気もするけど。
>>856 小笠原の領国筑摩・安曇郡はかなり奥行きが深いからね、
まともに侵攻すると結構な遠征になる。
最初に小笠原と敵対した時はまだ北条家と敵対していたから、そういう長期遠征は多少危険。
で、1545年に北条家と今川も含めて三氏で和睦が成立、
そして上記のように1546年4月には上杉が大敗したので佐久方面へ侵攻ということでしょう。
一つ疑問なのだが史実の武田家の戦略が正しいと主張してる人間たちは
史実の戦略がベストだと思っているのか?それとも、
・信虎のように最初に佐久小県を攻める戦略
・初期に佐久を放棄して諏訪に一本化する戦略や
・小笠原より前に木曽下伊那を攻める戦略
・佐久を攻めずに小笠原に専念する戦略
・上田原前に小笠原を攻める戦略
・筑摩を占領した後砥石を攻めずに小笠原領の統治に専念する戦略
今までに挙げられたこれらの方が正しいけど、武田家の戦略にもそれなりに妥当性はあった
それとも武田家の戦略は一部に関しては間違っていたと考えているの?
個人的には上に上げた戦略のうち
・最初に佐久を攻めるというやつと木曽とかを攻める以外は史実より優れた
戦略で、史実の砥石攻めは間違っていた戦略だと思うのだが。
>>864 いろいろ意見を聞くに、さすがに戸石攻めはまずかったというのは、
認めざるを得ないと思うが、他はどうかと思う。
・信虎のように最初に佐久小県を攻める戦略
甲斐しか支配していない状況で、上杉や村上と対立する可能性がある佐久へ攻め込むのは無謀。
・初期に佐久を放棄して諏訪に一本化する戦略
一本化も何も信玄が佐久を攻めた段階で諏訪は既に全域支配済み。
・小笠原より前に木曽下伊那を攻める戦略
木曾・下伊那はそこそこの長期遠征になるし、それぞれ小笠原と関係が深いので、
そこを攻めればどの道小笠原と敵対することになり小笠原をスルーするのは不可能。
その上見入りも少ない。
・佐久を攻めずに小笠原に専念する戦略
>>863 ・上田原前に小笠原を攻める戦略
>>828の状況で小笠原とは比較的良好、村上とは佐久を巡って微妙な状況だから、
先に小笠原を攻めるのはどうかと思う。
ちなみに、私の立場は必ずしも全てが最善手ではなくとも、
明らかな戦略ミスは(戸石城を除いて)なかったってもの。
(正確にはそう変わったというか。)
最善ではなかったかも知れない可能性としては、
御指摘のように長窪あたりは当面放棄しても良かったのではないかってものと、
小笠原との開戦時期についてでしょうが。
これにしても、最善ではなかったかも知れないという議論の余地はあっても、
明白なミスとは到底言えないだろうと。
>>856 確かにそれは正しいだろう、後の上杉が佐久へ送った援軍でさえも
小笠原の兵力と似たようなものだろうし。小笠原を攻めるのに佐久方面から
邪魔できるほどの勢力もいないし。村上上杉とも当面戦わずにすむ。
ただこの時は上杉が関東で大敗して軍事力を喪失しているから容易に
佐久を取れる。
上杉村上を刺激しない程度に佐久を攻め取って、それから小笠原と戦うか
村上を刺激しないように注意して佐久を攻め取り北条に恩を売るため
上杉と戦う程度にしておいて小笠原を攻めるなら佐久攻めでも良かったと思う。
>>864 ・信虎のように最初に佐久小県を攻める戦略
村上上杉と協調・非敵対ならできるなら考慮の対象にもなる、両者とも佐久小県を支配してるというわけでもないし
協調・非敵対できないなら問題外
・初期に佐久を放棄して諏訪に一本化する戦略や
戦略的には史実より正しいと思う、しかし佐久小県の放棄の政治的影響が大きいなら放棄は止めるべき
・小笠原より前に木曽下伊那を攻める戦略
あまり攻める価値がないような気もする、遠いし別に敵対してないし
・佐久を攻めずに小笠原に専念する戦略
上記
・上田原前に小笠原を攻める戦略
史実より妥当だと思う、武田は村上の倍程度の国力だがそれでも楽勝と言うほどの戦力差じゃないし
・筑摩を占領した後砥石を攻めずに小笠原領の統治に専念する戦略
史実より妥当だと思う。
>>865 ・初期に佐久を放棄して諏訪に一本化する戦略や
これは長窪城を放棄して高遠藤沢などに専念すると言う意味です、スイマセン
今の所2名答えてくれているが争点となりそうなのは上田原の前の状況か…
>>849 日本三大奇襲戦のうち本当に知略を尽くした勝利は厳島だけで
ほか二つは実在が疑われてたり、幸運に恵まれたりな勝利だからね。
・信虎のように最初に佐久小県を攻める戦略
無謀
・初期に佐久を放棄して諏訪に一本化する戦略
866の言うように政治的影響次第
ただこの時点でも武田に付いていた一族(伴野だっけ?)は半世紀に渡り大井と争ってるから
ここで見放しても離反はされないと思うが
・小笠原より前に木曽下伊那を攻める戦略
攻めても益が少ないし遠い、遠征中に小笠原に諏訪を攻められたら退路が無くなる
・佐久を攻めずに小笠原に専念する戦略
どっちもどっちだと思う。上杉と戦って佐久を手に入れるのも小笠原を倒して筑摩
を手に入れるのも、小笠原のほうが本拠に攻める分困難だが、佐久攻めは村上との
関係が悪化する可能性が大
・上田原前に小笠原を攻める戦略
佐久を攻め取った以上は村上との敵対は必然、小笠原が敵対して無いなら村上と戦
うべきだと思う、戦力的には十分勝てる相手だし、ただ小笠原も村上倒した後には
いずれ何らかの処置が必要だろうけど、小笠原を武田家臣とするにはやや勢力が大
きいから。
村上との同盟や何らかの調整が可能なら小笠原を先に攻めるべきだが。そしてその
方が安全だし信濃統一の近道だろう。
・筑摩を占領した後砥石を攻めずに小笠原領の統治に専念する戦略
これはまあ戸石を攻めないほうがいいだろうけど、後の徳川領でやったみたいに、
小県を縦断して甲斐に帰還するがベストかもしれないな、結果を知っているから言
えることだが。
>>868 厳島に関しても、今では異説がいろいろと出されて主力は毛利ではなくて村上水軍だった
というものまである。
少なくとも、厳島の勝利が100%毛利によるものというのは否定されているが。
ぷらぷら海賊の村上水軍はナントカ湾(忘れた‥)の封鎖だけだろ
どっちつかずの海賊が主力になる筈は無いし。
参考までに信濃諸勢力
甲斐を22万石信濃10郡40万石で一郡約4万石と考えると
諏訪頼重 諏訪郡4万石
高遠&藤沢 伊那半分2万石
小笠原長時 筑磨郡安曇郡半分6万石
木曽義康 安曇郡半分2万石
村上義清 埴科更科水内高井小県20万石マイナス高梨等
そこまで、均質に考えるのはいかがなものか、
前に出ていた、郡別石高の信濃版があれば、
時代はかなり違うとはいえ参考になるのだろうけど。
>>863 この時期の北条は
>>850の言うように四面楚歌、気にする必要は無いと思う。
筑摩郡はともかく安曇郡まで攻め入るというのが遠いというのは同意だが。
>>873 前テンプレにあった信濃の推定郡別石高だと、伊那佐久水内は他よりもかなり
石高が大きかったからそのようにはならないのでは?
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 19:00:59
>>872大阪湾ね
>>868桶狭間はもう運だろうな
川越は俺は良く知らないが
全軍を何隊かに分けて奇襲したらしいから運とは言い切れないと思う
北条綱成のおかげかな
>>874 >>875 信濃
佐久 9.67万石 5.1万石
諏訪 4.46万石 2.4万石
伊那 13.4万石 7.1万石
築摩 8.21万石 4.4万石
小県 7.70万石 3.8万石
埴科 2.36万石 1.3万石
更科 5.63万石 3.0万石
安雲 6.01万石 3.2万石
水内 10.9万石 5.8万石
高井 8.50万石 4.8万石 端数
計 76.77万石 40.8万石 0.53
過去ログが消えてしまったからにくちゃんねるから拾ってきた
IEで見ないといけないからすげー見辛い。
だいたいだが
諏訪頼重 諏訪郡2.4万石
高遠&藤沢 伊那半分3.5万石
小笠原長時 筑磨郡安曇郡半分6.0万石
木曽義康 安曇郡半分1.6万石
村上義清 埴科更科水内高井小県18.7万石マイナス高梨等
家督相続対諏訪戦時(1542)
甲斐 22.8万石
対高遠&藤沢時(1542)
甲斐・諏訪 25.2万石
高遠藤沢降伏後(1545)
甲斐・諏訪・伊奈郡半分 28.7万石
上田原前・佐久併合後(1548)
甲斐・諏訪・伊奈郡半分・佐久 33.8万石
砥石崩れ直前(1550)
甲斐・諏訪・伊奈半分・佐久・築摩 38.2万石
砥石城落城後(1551)
甲斐・諏訪・伊奈半分・佐久・築摩・小県 42.0万石
葛尾城落城後川中島前(1553)
甲斐・諏訪・伊奈半分・佐久・築摩・小県・埴科・更科・安曇半分 46.9万石
川中島後(1564)
甲斐・諏訪・伊奈・佐久・築摩・小県・埴科・更科・安曇・高井・水内半分60.8万石+飛騨西上野の一部
>>876 河越夜戦は戦法云々の前に存在自体が疑わしい。
>>878 家督ついでから12年で1.5倍ぐらいにしたということか
他の大名の例だと
信長は家督ついで12年で尾張統一3〜4倍ぐらい
政宗は家督ついで7年で芦名滅ぼし南陸奥統一3〜4倍ぐらい
謙信は家督ついで12年で北信濃の一部と関東管領になって?倍
氏康は家督ついで12年で武蔵上野を奪って2倍ぐらい
義元は家督ついで12年で三河をほぼ制圧1.2倍ぐらい
>>875 その北条家の状況は1545年のものだけど、より詳しく言うと、
1545年の7月に北条家と今川家の紛争が勃発、武田家も今川への援軍として参戦。
そして、武田氏の上伊那への侵攻が一応集結したのは、この年の6月だから、
端的に言えば、この時点で小笠原攻めへ深入りできなかったのは、
この今川家と北条家のゴタゴタに巻き込まれたせいでしょう。
確かに北条氏そのものは、甲斐への脅威にはなりにくいだろうし、
他家のことと放置することも出来るかもしれないが、
大事な同盟者である今川の抗争を無視し、万一信頼できない相手だと思われてしまっては、
それはそれで後方の不安定化になり、なかなかそういうわけにも行かない。
多かれ少なかれそちらに兵を割くことになり、他へ集中することが出来なくなると。
信長、氏康、義元に関しては間違ってるしな
信濃の3分の2は10年で取れたのだから
余裕で2倍にはなってるよな。
だな。
内的・外的環境が違いすぎるからなあ。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 16:09:25
ようするに他の大名と比較しても信玄はがんばったと言いたいんじゃないか?
>>878 木曽は筑摩郡だと思うよ。
ただ、筑摩郡の石高の半分が木曽になるとは到底思えない、
やはり中心は松本平で、
木曽は石高的には1/3かあるいは1/4程度ではないかと思います。
>>878 >>888 調べてみたら木曽は筑摩郡だった。
松本盆地の梓川から西岸〜野麦峠のあたりは安曇郡
ちなみに村の数をぱっと見たところ、松本平は木曽の10倍ぐらいありそうだ。
>>881 それはその時点で信濃攻めができない理由にはなっても、
小笠原と上杉のどちらを攻めるかの選択には直接は関係ないジャン
ちなみにこの時の今川と北条の和睦で北条は河東を返還することに。
>>890 そのこと自体はね。
しかし、その和睦の結果軍を返した北条によって、上杉氏は1546年4月に大敗。
そして武田は同年5月に佐久へ侵攻、おそらくこの結果を受けてのことでしょう。
>>890 北条は今川と武田が同盟したため家督を継いだばかりの義元相手に戦争
河東を今川から譲られる。関東で上杉相手に戦ってるのに今川とも戦争するなんて
正気の沙汰とは思えない。武田と今川の同盟が余程ショックだったのか・・・
>>891 そのことは皆分ってると思う、問題となってるのはそれを踏まえた上で
佐久と築摩のどっちを攻めるかと言うことでは?
>>877 佐久って石高高いな、それに対し諏訪は・・・何でこんな石高低いのに信虎は勝てなかったんだ?
やはり商業の分が無いから石高だけじゃあんま参考にならないのか
佐久と築摩上杉と小笠原の比較
石高は佐久>築摩だがこの時点で佐久はある程度支配に入っているからほぼ同じ
対武田に回せる兵力
上杉は敗戦直後の一年は兵を動かせなかったが46年に兵3000
塩尻峠での小笠原兵力諏訪や伊奈も合わせて5000、この時点ではもっと少ないはず
ほぼ一緒か?
佐久は上杉にとっては影響力があるといった程度、一度負けたら諦めた
築摩は小笠原の本領、史実では松本平を追い出せれてからも細々と抵抗
築摩のほうが抵抗が激しい分時間がかかりそう
佐久は支配すると村上小笠原上杉と接することに
築摩は支配すると村上と弱体化した小笠原と接することに
当時の状況と史実を考えると武田が佐久を支配する前の段階で
村上上杉が佐久方面から諏訪甲斐へ攻めこむ可能性はまず無い
状況を整理するとこんな感じ?
>>894 そんな感じじゃね
>佐久を支配すると村上小笠原上杉と接することに
これが一番の問題点だと思う、状況によっては3者とも敵にまわる可能性あるし
もっとも上杉は関東でそれどころじゃないからあまり手は出さないだろうけど
短期的には佐久攻めのほうが簡単で利益も大きいがややリスクがある
長期的には小笠原を攻めたほうが安全で確実だと思う。
>>869 >これはまあ戸石を攻めないほうがいいだろうけど、後の徳川領でやったみたいに、
>小県を縦断して甲斐に帰還するがベストかもしれないな、結果を知っているから言
>えることだが。
後年の信玄ならそうしただろうな。
軍を帰還させるついでに政治的効果も得られて一石二鳥、しかも安全。
>>895 村上が小笠原を支援したら、なかなか小笠原を滅ぼせずに時間を無駄にしないか?
佐久を支配してないぶん、史実の塩尻峠後の小笠原戦より苦戦しそうだが
>>879 夜討ちの奇襲だったかどうか?という点と、8万と言う大軍で記されている点が疑わしいとされてるけど、
氏康、綱成の河越取りと、かなりの劣勢だった北条軍が上杉を倒し、その後も優勢に導いたというのは史実だろう。
それだけでも十分評価としては大きい。
個人的にも8万は絶対嘘だと思う。
いやだから、
1:一次史料が全くと言っていいほど無い(後北条は比較的に一次史料に恵まれているのにも関わらず)
2:記述は軍記物中心、しかも比較的信憑性のある著作には記述がほぼ無し。
故に夜討ちだとか奇襲だとか、数とか、それ以前の段階で疑わしい。
大体勘違いしているけど、河越奪取は氏綱の時代ですよ。
>>897 いや、川越夜戦は例えば桶狭間のように戦術や兵数に関して否定されているのでなくて、
存在自体が疑問視されている。
>>898 氏綱が河越を取った時点では安定はしてなく、その後に河越城を中心に
激戦はあったのだろうと言うようなんじゃなかったっけ?
夜戦自体は軍記物のしか知らんが。
>>985 高白斎記によると、佐久を制圧した直後の1547年8月に信玄は、
小笠原長時と諏訪で会談しているのでこの時点での両家の関係は、
比較的良好なものであったと思われる。
>>896 加えて、村上も触手を伸ばしていた佐久で上杉の影響力が著しく低下し、
かつ武田家も介入しないとなると、村上氏がその分勢力を伸ばす可能性が高い。
もしそうなれば首尾よく筑摩を取れても、村上との勢力差は変わらないか、
下手をすると縮む可能性もある。
そして史実でもそうだったように、小笠原はほぼ確実に安曇郡で抵抗を続けるだろうし、
かといって、村上との関係をはっきりさせずに安曇郡まで兵を進めるのは少々危険。
つまり、抵抗勢力が残ってしまう可能性が極めて高い。
結局先に小笠原を攻め、それが一応成功し東筑摩を制圧できたとしても、
そのときの状況が上田原で村上と戦った時より良くなっているとはちょっと思えない。
>>900 河越−松山間で激しい抗争があったのは間違いないだろう。
が信頼の置ける記述がない以上、河越夜戦前後の状況は推測の域を出ない、それだけ。
>>899 しかし、北条が駿河で今川と対立している内に、
山内上杉、扇谷上杉、古河公方等の軍勢が北条家の河越城を攻め、
それに対して、今川と和睦した北条は河越城の救援に向かったという経緯。
そして、結局河越城は落ちず、扇谷上杉家は滅亡し、山内上杉家の勢力も激減、
翌年から北条の攻勢が始まり、見る間に山内上杉の領土が削られていったといいう結果は、
歴史的事実でしょう。
であるなら、そこで大規模な北条家の勝利があったというのは、
ほとんど確実と言っても間違いないでしょう。存在を疑う余地はほとんどないと思うが。
まず、上杉らが北条家の河越城を攻めたが落せなかった以上、
いかなる状況であったにしろ北条家が勝ったのは間違いない。
そして、その後、氏康の家督相続以後小康状態を保っていた関東の情勢が、
大きく北条側に傾き始めたのだから、
その勝利がかなり決定的なものだったのもほぼ間違いない。
結局わからないのは具体的な状況のみ。
>>903 その「大規模な北条家の勝利」が、一日の合戦でもたらされた(これまでの川越夜戦説)のではなく、
ある程度の期間の戦いの末にもたらされたものという可能性だってある。
それに、意図的か無意識か混同しているよ。
疑う余地がないのは川越をめぐる上杉との戦いで北条が勝利したということだけであって、それ以外の
細かいことは不明。そして問題になっているのはその細かいことだ。
例えばの話。実際の戦闘の経過は「数万の軍勢を率いた氏康が真昼間に正面から上杉と戦って勝った」
という内容だったとして、それでも「北条が勝ったことには違いないんだから、川越夜戦を否定する
必要はないよ、疑う余地はないよ」なんて言える?
>>905 誰がそんな細かいことも問題にしているのですか?
とりあえず「夜戦」という単語さえ使わなければ、
何の問題もなくなってしまうと思いますが?
とりあえず、大規模な北条家の勝利があったことは間違いない。
しかし「夜戦」かどうかはわからない。ってことでよろしいか?
>>905 というか、混同はしていません。
私が「存在を疑う余地はほとんどない」と言ったのは、
「北条家の大規模な勝利があった」ということについて、
個人的には夜戦あったか、何日間の戦いであったかなんてことは、
ほとんど気にしていなかったので、わざわざ言及しなかっただけです。
まあ、ようするに
>>898-899あたりを読むと、
あたかも「北条家の大規模な勝利」そのものを疑問視しているような印象を受けたので、
状況的にそんなことはないだろうと言っただけ。
うーん、大勝利自体が無かった可能性も否定できないと思う。
小競り合いを繰り返している内に、扇谷陣営(例えば大石・藤田・三田など)を丸め込んで情勢が一変、
というのは実に後北条らしい戦い方であるし。
何度も言うけれど、あの時期大規模な合戦があった証拠は何一つ無い。
大規模合戦(夜戦というと弊害があるから書かない)肯定派が書くのは、きつい言い方だけど願望に過ぎない。
そうで無いというのなら、ソース。
>>911 それはさすがに無理が・・・扇谷上杉朝定というれっきとした大将が死んでるのに。
この時点ではまだまだ大きい勢力だった扇谷上杉の大将が小競り合いでのこのこ出てきて
討ち取られたと言うならマヌケとしかいいようがないし、そりゃ情勢も変わるだろうが。
またその情勢の一変の仕方が尋常ではない、この当時の情勢を見ると、
抗争していた両上杉も手を組んでたし、公方、今川、武田、と随分大きな連合を組めてるのに、
あっという間に崩壊し、平井城まで攻められる事になってしまっている、
余程の事がなければここまでいかんぞ。
河越の部分ばかり見ててそれ以外との繋がりを欠いてないか?あなたの意見は。
死んだことは事実であっても、討死というソースがない。
病死・事故死の可能性もある。
それと、必ずしも大戦で勝たなくとも情勢は進行する。
後北条で例えるなら、対上杉戦や沼尻対陣なんかがそう。
また今川・武田とは天文14年の段階で一応の和議は結んでるので
仮に河越夜戦があったとしてもその時点では中立。
大体河越から平井侵攻及び攻略まで何年かかってると思ってるんだ。
一年・二年で逐った、というのなら情勢が激変したといって過言ではないが、
五年がかりで扇谷家の領土を併呑しつつ山内家の孤立を計った、と言う方が妥当ではないか?
まあ、もうスレ違いも甚だしいのでもっとやるというのならスレでも立ててくれ。
>>913 確かに攻略したのは7年後だが河越合戦の2年後には平井城に攻めかかっている。
それに、河越合戦の翌年には武蔵のほとんど全域が北条家の支配下に入っている。
何をどう考えても河越城を巡る合戦で勢力図を激減させる変化が起こったことは間違いない。
>>913 1・2年で滅ぼさなければ激変したと言えないというのも極端な意見だと思うが。
いずれにしろ、一連の河越城を巡る合戦の結果、
扇谷上杉は滅亡、翌年には武蔵のほとんどが北条家の手に、
2年後には山内上杉の本城が攻めれれる、という事態になったのは間違いない。
>>914 武蔵の国衆を姻戚へ組み込んだのってもう少し先じゃなかったっけ?
まあ、勢力図を激減させる変化とは行かないまでも
憲政に結構な打撃を与えたとは思うけど。憲政無能すぎ
>>913 お前にかかっちゃどんな客観的状況もソースがなければ意味の無いものにされそうだな。
実際にソースがないからな。
ここで言うソースとは、一つでなく複数もとめられる。
例えば桶狭間合戦に関しては、信長公記だけでなくそのほかの一次・二次資料にも
記述がある。織田・今川家関連資料だけでなく、他の資料からも確認ができる。
ところが川越夜戦に関してはまず一番重要な一次資料からしてない。勝った側にも
負けた側にも資料が残されていないのでは、講談の内容を鵜呑みにすることは出来
ない。
みんなが言っているのは
「川越夜戦は無かったが、それに類する勝利はあったんじゃないか」
って言うことなんだがな・・・
だれも講談を鵜呑みにしていないって・・・・
両上杉家が北条家の河越城を攻めたが落せなかった。
そして、その直後に扇谷上杉家は滅亡し、山内上杉家も大きく勢力を減退した。
普通に考えれば戦で大負けしたと考えるのが自然だと思うけどね。
ソースも大事だが状況証拠から推測できることもある、
別に裁判をしているわけではないのだから、ちょっと潔癖症過ぎる。
しかし、そうかと思うと「講談の内容を鵜呑みにする」など、
少なくとも今このスレでは誰も主張していないことを、
わざわざ持ち出してきたりして、少々バランスに欠けるのでは?
扇谷は元々滅亡寸前だから河越野戦と関係無いと思うが
>>919 河越で大勝したのは事実らしいけど、山内上杉の衰退は
それが原因とは言い切れない気がする。
当主が死んで若年の息子が当主になるも、
しかも後見である叔父は捕らえられて、本城を奪われ這々の体で松山城に逃げ込む始末だからな河越夜戦前の扇谷は。
ある意味、氏綱の河越奪取の時点でカウントダウンは始まってた。
確かに扇谷・山内が盤石ならば大勝が必要だけど、
扇谷は風前の灯火、山内はガタガタ、この状況ならあえて大勝は必要ない。
記述がない以上、無いともあるとも断言しない。
視点を河越から置けばあると考えるのが妥当、
しかし視点を河越以前から置けば、どちらでも差し支えない。
>>895 短期的な利益を確実にものにするほうが安全だとも思うが、小笠原攻めてる間に
周囲の状況が変化する可能性だってあるんだし、小笠原攻めてる間に佐久に手を
出せなくなるような状況になってしまう可能性もある。
無論逆に、佐久に手を出しても上杉が援軍を遅れなくなるような状況になることも
ありえる、史実ではあと数年たてば信濃へ援軍すら送れないような状況になったが
それを当時の人間たちに予測しろというのは無理。
それに松本平を攻める段階では村上と敵対する可能性は無いかもしれないけれど
松本平を支配した時点で村上と勢力圏が接する、安曇の南部も小笠原の勢力圏で
あるから、小笠原を松本平から追い出した時点で両者と敵対する可能性がある。
>>901 >高白斎記によると
それはこの場合関係無いだろう、地理的に3者が敵にまわる可能性があるというだけで。
実際史実でも上田原の敗戦後あっさり敵対してるし。
小笠原攻めて負けた場合は上杉村上が敵に回る可能性が低いから安全と言う意味だろ。
村上が佐久に手を出すというと上杉村上で戦ってくれる可能性が出てきて武田的には
喜ばしいことだと思うが。ただ村上は上杉と争うよりは北信濃を優先するだろうけど。
村上と本格的に接する前に交渉をもっておけばよかったのでは。
小笠原か佐久を攻める前に、そうすれば武田が小笠原や佐久攻めている間、村上も
北信濃の戦いを優先するだろうし、信濃の最重要地域の善光寺のことを考えれば、
武田から手を出さない限り村上から手を出してくるとも思えない。史実で佐久をとった後も
武田から小県に遠征したのだし。
もっとも軍鑑じゃあそれ以前から村上が武田を攻めてるが。
また北信濃が鎮圧され全戦力を武田に投入できるようになる前に村上を攻めたいというなら
高梨達と通じておくべきだった。
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 12:25:42
takeda
>>922 扇谷は風前の灯だが、山内ががたがたなんてことは、
まだあの状況ではあるまいよ。何を根拠にそんな事を?
>>924 1546年には援軍も送れていなかったし、
どうにか援軍を出した1547年でも北条の攻勢はかなり激しくなっていた。
上杉はすでにまともに佐久に介入している場合ではなかったと思う。
>>924 あと地理的に三社が敵に回る可能性があるというなら、
1546年の武田の佐久侵攻前の段階でもその可能性はある。
個人的には、上田原の敗北よりも、その結果これまで占領してきた各地が
離反していったことに問題点があったと思う。
比較になるが、例えば信長には敗戦も何度かあったが、その結果これまで
の成果が無になりかねないような状況においこまれていない。
美濃攻略時、河野島の敗戦はそうとうひどかったようだが、それでこれまで
信長に降った美濃の豪族が離反したとかいう話はない。
金ヶ崎で浅井に裏切られたときも、各勢力の軍もあわせていたにもかかわら
ず離反者もださず、その後に近江で離反者を出していない。
徳川家康も、三方ヶ原で負けてその後も武田に押されっぱなしなのに、どう
してか離反者は少ない。失った領土は攻められて奪われたものばかり。
>>926 だなぁ、憲政が継いだ時点でガタガタだというならともかく。
更に相手の北条家は伸び初めの怖さはあっても、まだまだ相模と武蔵の一部に過ぎず、
しかもそれを成しえた名将氏綱が死んだばかり、
山内上杉がこれに比べても不利だというなら、古河の足利も上杉の味方になどならんだろう、
足利家は一応北条と姻戚関係にあるんだし、
余計な事しなければ後に隠居を強いられるような羽目にもならずに済んだ。
とりあえず氏綱が死んだ時点で既に河越は北条領に入ってた、
にもかかわらず河越をめぐって戦いはほぼ間違いなくあった。(大小はともかく)
という事はその時点で上杉連合軍は北条側に攻め込んでる立場だと言う事は間違いないだろう。
にもかかわらず、数年後に立場が一変している。何も無いまま衰退していったと言うのも考えにくい。
扇谷朝定に関してもいくら傾いてたとは言え大名が病死、事故死ならば大なり小なり記録に残るだろう、
合戦中の混乱でと言うなら記録に残せなかったのも判る。
以上の事から俺は合戦はあったんじゃないかと思う。
>>930 合戦で討ち死にしたほうがよっぽどはっきりと記録に残ると思うが。
少なくとも、討ち取った側にとってはは自分の功績なのだから。
混乱で誰が討ち取ったのか判らない、のだとしても、勝った側はその事実を
掴んだ時点で大いに宣伝するだろうし。「あの合戦で我々は敵大将を討ち取った
のだ!」と。
>>931 いや、俺は川越のは全然知らんけど
合戦中の大将首の取る取らないってのは実際当てにならんよ。
周辺諸国への対外的なアピールのために宣伝的に色々言うのは良くある事。
参考までに民間の伝承って、なにか伝わってないのかな?
大規模な戦なら、なんらかの話しが伝わっていても不思議じゃないんだけど。
漏れの地方は戦国時代の移民なんだが、信長に負けて国を追われた話しが今も伝わっている。
>>932 政略で「討ち取っていないけど討ち取ったと主張する」というのは判るんだが、
「討ち取ったのだけどそれを隠す理由」というと?
>>934 別に隠したんじゃなくてよくわかんないんだろ。
合戦の撤退中なんて誰が誰やらなんて後になってみないとわからんなんて珍しくないよ。
逆に大将首取ったと思って後で確認したら味方の首だったなんて悲惨なケースも・・・。
別に大将を討ち取ってないからといって、
大勝してないって言うわけじゃないだろう。
>>935 それでも、合戦で死んだのなら「戦死」と記録されるもんじゃないのか?
北条側の記録でも上杉側の記録でも戦死とされていないのに戦死とする記録は
「講談にそう書かれている」くらいしかないのに戦死とする根拠は?
>>937 じゃあ病死や事故死の記録も無いのに、戦死じゃないとする根拠は?
死んでるのは間違い無さそうだぞ。
>>933 扇谷上杉最後の末裔が平時に亡くなったりしたなら、
さすがにそれなりの墓地を立てて埋葬するんじゃないか?
本当に戦争中の混乱で死んだんならどうしようもないが。
俺は皆さんほど上杉に詳しくないんで、誰か上杉朝定の墓の所在知ってたら
その辺にヒントがありそう。太田道灌なら知ってるがw
>>938 知りませんよそんなの、私は病死や事故死だとは主張してませんから。
戦死であると主張する方がその根拠をあげてください。どうして討ち取った側にも
討ち取られた側にもその記録がないのか?の理由と一緒に。
病死でも事故死でも戦死でもないなら死んで無いって事か?
それこそその後の記録に無いのがおかしいと思うんだが。
存在してないのに討ち死にして墓まである大友親貞もいるしなw
有名どころだと武田信玄とか明智光秀とかも戦場で死んでるだけに
具体的な事はよくわからんし、首でも取ってきてないのなら、
記録がよくわからん奴って結構いるな。
>>941 940は死因の特定は無理と言っているだけかと。
河越夜戦の記録が曖昧という時点で最初から推測の話なのに誰が特定してると言うのか・・・。
>>944 記録がない理由に戦死ならば戦争の混乱でと言う理由があるのでわかるが、
別の死因の場合記録が残らないのは戦死以上に無理があると思うわけですよ。
暗殺されるほど最早意味のある存在でもないし。
だけど断定は出来ないのは勿論、情報がないのはこの話の大前提。
世間的には河越夜戦が存在する事で有耶無耶になっている部分なだけに、
前後の状況から考えてみると何度かの戦いがあって、敗走中に死んで、
混乱の中でろくに記録もされなかったと言う方が話の筋として合点がいく。
戦いがあって生きて帰らなければ、普通は戦死で記録が残るだろう。
信長も首が見つかってないよな
>>928 それは地理的に難しいだろ。
村上はまだ可能性あるかもしれないけど、まあ程度の問題か。
まともな本で、砂ナントカに陣取っていたら上杉方押し寄せ〜
〜両口にてナントカカントカ〜3千余人討ち取り。朝定討死
って書状を見たことある。 気がする
>>948 そんな事はないですよ。
現に諏訪氏は佐久に進出してきた上杉と陣を構え、単独で講和したことがある。
その諏訪氏の領土を丸々制圧したのだから、武田もその時点で既に、
上杉と事をかまえることになる可能性はあった。少なくとも地理的には。
もちろん、諸々の事情で実際にはそうはならなかったわけですが、
地理的に言えばその可能性はあった。
無論村上とは既に佐久・小県で境を接していますしね。
>>949 それで、誰かを説得・納得させられると思いますか?
ところで妙法寺記ってどこで読めるの?
日本史板に小笠原との同盟の件書いたら一行レスで否定されたので
文章張って反論したいんだけど。
取りあえず神保町のとある本屋には『甲陽軍鑑』と『信長公記』はあったけど
『妙法寺記』は無かったw
あと『朝倉始末記』と『甲越軍記』もあった・・・と思う。
>>953 そういう形じゃ無いだろ『妙法寺記』は
国会図書館にでも行くしかないんじゃね
日本史板の連中に聞くのもいいと思うが、日本史板の上洛スレはある意味
ここよりレベル低いからな。
>>952 そうだな、それに佐久はある意味緩衝地帯だったし。
上で誰かが言っていたがあえて佐久の武田勢力圏や諏訪まで上杉が出てくる可能性は低い。