ここは「光栄三国志の理不尽な能力値について」からの派生スレであくまで正史の記述に基づいて武将能力値を決めるスレです。
能力値の種類(武力・魅力は不要?)能力値の基準(どの記述がどの能力にあたるのか)、などを含めて議論していきましょう。
◎現在は戦争能力に関して司令官的能力と部隊長的能力に分けて評価中。
現在事績が上がってるのは
于禁、朱然、周瑜、劉備、孫権、馬超、曹仁、諸葛亮、ケ艾
曹操は途中まで。
各事績や関連スレなどは2以降、参照。
前スレ
正史の記述で三国武将の能力値を決めるスレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1116828749/
前スレ半分使っての成果
【個人的な強さ】
S:許楮、典偉、関羽、孫策、太史慈、ホウ徳、呂布
A:曹仁、張遼、張飛、孫堅、周泰、董襲、甘寧、凌統、丁奉
B:曹操、呂蒙、公孫賛、董卓、曹彰
C:程普、黄蓋、韓当、魏延、黄忠、楽進、凌操 趙雲
D:曹丕、夏侯惇、韓浩、史渙、曹真、ビ竺、孫権、魯粛、劉曄、劉備、徐庶、周瑜、徐盛、蔵覇、馬超、虞翻、郭、陳武、楽進、李通 于禁 蒋欽
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
G:杜預先生、厳駿
追加有力候補:夏侯淵 夏侯覇 丁原 高順 成廉 赫萌 曹性 鮑信 カク峻 張ギ 姜維 孫河
追加候補:曹純 曹洪 張コウ 徐晃 顔良 文醜 劉封 馬タイ 馬忠 王平 孫権 孫ヨク 潘璋 朱然 賀斎
>前スレ半分使っての成果
勘弁してくれw
武勇はイラネ
2部隊以上の行動判断や、特定の方面司令官としての功績は「司令部としての能力」【司】
司令官の下に入っての功績、一部隊での判断による功績は「部隊長としての能力」【部】
また、事蹟によってはその両方【司+部】として評価する場合もある。
※細かい事蹟や、【司】【部】の判断があやふやな事蹟については
後程事蹟ごとに討議する方向で検討。
<<劉備>>
スウ靖に従い黄巾討伐。
毋丘毅と共に黄巾討伐。
高唐の令の時、賊軍(黄巾?)に敗れる。
公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功。
袁術の徐州侵攻を防ぐ為対峙、細かい勝ち負けを繰り返すと、呂布の侵攻を受け下ヒが失陥。
そのため撤退。敗軍の兵をかき集めて広陵で袁術と戦い敗れる。
その後徐州・揚州を荒らす楊奉・韓センを撃破。
呂布と和睦するが兵を集めだすと再び呂布の攻撃を受け敗走。
曹操の庇護下、呂布を攻めるが呂布の将高順に撃ち破られる。
袁術討伐に徐州へ向かうが対戦する前に袁術病死。
曹操の任命した徐州刺史車冑を討ち徐州を支配下に。
曹操の派遣した劉岱・王忠を破る。
曹操が自ら出陣してくると逃走し袁紹の庇護下に。
袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走。
袁紹のもとを離脱し汝南入り。曹操の派遣した蔡陽を撃破。
201. 袁紹を撃破した曹操の侵攻を受け劉表を頼り荊州入り。
博望にて夏侯惇・于禁の侵攻を伏兵を用い撃破。
208. 曹操の荊州侵攻を受け逃走するも呉と結び赤壁にて周瑜らと力をあわせてこれを撃破。
さらに南郡まで進撃、曹操は曹仁を残し撤退。
周瑜らと共に曹仁を攻めつつ荊州の南の四郡を制圧。(詳細は不明)
211. 劉璋の要請を受け益州入りし張魯攻め。しかし実際には張魯を攻めず人心を収攬することに務めた。
212. 劉璋が援軍の要請を受けなかったことを口実に葭萌から引き返し成都へ向けて進軍。
劉璋の白水軍総督の楊懐をだまし討ち。
フへ侵攻、劉璋の派遣した劉カイらを撃破、更に進軍しラクを包囲。
214. ついにラクを抜き成都を包囲し劉璋の降伏を受ける。
215. 孫権が荊州に攻めてくると関羽を益陽に入らせると同時に自らは公安まで戻り孫権とにらみ合い。
曹操が漢中に侵攻してきた為、孫権と和睦し軍を引く。
218. 黄権や法正らの進言を取り上げ漢中侵攻。
219. 陽平で張郃を急襲するが防がれた為、定軍山へ軍を転進し夏侯淵と対峙。
定軍山へ集結した張郃軍が今度は劉備軍に敗れた為に援軍を派遣し手薄になったところを黄忠に攻められ夏侯淵、戦死。
<<劉備>>
>>8の続き
曹操が自ら侵攻してくると要害に篭り抵抗、ついに曹操は撤退し漢中支配を確かなものに。
221. 夷陵の戦役。以下省略。
「蜀書」先主伝から。
前スレより
于禁(部)
・曹操の命により徐州の広威を攻め、陥落させた
・曹操に従って濮陽の呂布攻撃に参加。別軍を率いて城外南の二陣営を破った
・別軍を率い、須昌で高雅を破った
・寿張・定陶・離狐の攻撃に従軍し、雍丘では張超を包囲し、これらを全て陥落させた
・黄巾賊劉辟・黄邵らの征伐に従軍。黄邵らが曹操の軍営に夜襲をかけてきたので、
・于禁は直属の兵を率いて撃破し、劉辟・黄邵らを斬って、その軍勢をことごとく降服させた
・苦における橋ズイ包囲に従軍し、橋ズイら四人の将を斬った
・張繍に敗れた時、軍中は乱れて各人密かに曹操の元へ行こうとしていたが、
于禁一人部下数百名を率いて戦っては引き、戦っては引いて、
追撃がやや緩やかになったところでゆっくりと隊列を整え、鼓を鳴らしながら撤退した。この時部下に死傷者が出たが、離脱者は出なかった
また混乱の中略奪を働く青洲兵を討伐して責めた。逆に謀反だと言い立てられたが、先に陣を整え敵に備えてから曹操に報告した
・穣の張繍攻めに従軍した
・下ヒでの呂布包囲に従軍し、呂布を捕らえた
・延津で志願して歩兵二千人で袁紹軍と対峙。曹操が劉備を攻め延津が手薄になると袁紹が攻めてきたが、堅守した
・別軍を率いて杜氏津で袁紹の別軍陣営を攻撃し、打ち破った
・曹操が陣営を重ね土山を築いて袁紹と対峙した際、袁紹軍に矢を射込まれて多数の士卒が死亡し、曹操軍中は恐怖したが、
土山の守兵を督促して奮戦したので、士気は次第に奮起するようになった
・陳蘭と対峙して軍糧が少なくなっていた張遼らに前後相継いで食糧を運送した
・張遼・楽進・張コウ・徐晃とともに名将とされ、曹操が征伐に出るたび、みな代わるがわる、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となった
・数十騎を率いて朱霊の兵を取り上げに行くと、朱霊およびその部下は震え上がって服従し、そのまま于禁の部下とされた
<<曹仁>>
・豪傑がいっせいに蜂起したとき、千人余りを集め淮水あたりで暴れ回った。(部)
・曹操が袁術を破った際、曹仁が斬り殺したり生け捕りにした者はかなりの数にのぼった。(部)
・別軍を率い陶謙の大将、呂由を破る。(部+司?)
・曹操と合流して陶謙軍を撃破。 (部)
・曹操のもとで費県、華県など四県を攻めた。陶謙が救援を派遣すると騎兵を率い撃破した。 (部)
・呂布討伐の際、別軍を率い句陽を攻撃、大将の劉何を生け捕る。 (部+司?)
・曹操が黄巾を討伐し天子を迎える際、たびたび手柄を立てる。 (部)
・張繍討伐の際、別軍を率い近接の県を襲って住民三千を捕虜にする。 (部+司?)
・曹操が張繍に敗れた際、将兵を叱咤激励し獅子奮迅の働きをした、かくて張繍を打ち破る。 (部)
・官渡の際、袁紹が派遣した劉備攻撃を進言、劉備を騎兵で攻撃し撃破した。 (部+司)
・袁紹の将で別働隊の韓荀を撃破。袁紹はこれにこりて二度と別軍を出撃しなくなった。 (部)
・史渙らと袁紹の輸送車を奪い、食料を焼く。 (部)
・曹操が壷関を包囲した際、降服につながる策を献策。 (司)
・江陵で包囲された牛金を数十騎で救出、とって返し残された兵達も救い出した。 (部)
・周瑜軍と正面からぶつかり周瑜に重症を負わせた。 (部)
・千人を率いる甘寧の包囲のため五・六千を派遣するが落とせず、周瑜に撃退される。 (司)
・一年以上、周瑜の包囲から江陵を守るが江陵城から撤退する。 (司)
・曹操の馬超討伐の際、諸将の総司令として潼関を守備、曹操が渭水の南で馬超を破る。 (司)
・楚伯、田銀が叛乱したとき七軍の総司令官として討伐、これをうち破る。 (司)
・宛で侯音が叛乱を起こしたとき諸軍を率いて、これを破り、首を斬る。(司+部)
・関羽に包囲され、食料がつきかけるが将兵を激励しこれを守りきる。 (司?)
・援軍に来た于禁軍が水没するし、窮地に陥ったが徐晃が外側から関羽を攻撃したので、包囲を破った。(司+部)
・濡須で朱桓を誘い込むのに成功するが裏をかかれ撃退される。 (司 +部)
・孫権の大将、陳邵が襄陽に籠もったとき徐晃とこれを討伐した。 (司+部)
于禁(司
・史渙・曹仁とともに射犬でスイ固を攻めて打ち破り、これを斬った(+部)
・袁紹の別働隊の陣営を攻撃するため楽進らとともに歩騎五千人を率い、延津から汲・獲嘉両県まで黄河沿いに進軍
三十余りの保塁を焼き払い、数千人を斬首、捕虜にし、袁紹の将何茂・王摩ら二十人余りを降伏させた(+部)
・夏侯惇と共に樊城に向けて進軍するが、劉備の逃げたフリに引っかかって追撃、伏兵に遭って敗北した(+部)
・夏侯淵と共に昌キを討伐に出るが、于禁が来たと聞いただけで昌キは降伏した
・臧霸らとともに梅成を討伐に出るが、于禁が着陣すると梅成は降伏した
・七軍を率いて曹仁を救出に向かったが、大長雨で陣は水没してしまった
・厳整に軍を統括した。しかし法によってのみ下の者を制御しようとしたため、兵には嫌がられた
<<馬超【部】>>
・馬騰と韓遂の対立時期にますらおと評判されていた
・鍾ヨウの元に合流し、郭援.高幹.単于を打ち破る
(馬騰軍の精鋭一万余と韓遂の兵(兵数不明)を率いる。郭援.高幹側は兵数数万)
・劉備の元に走り、兵を与えられ成都の包囲に参加
・武都(下弁)に進軍するが、呉蘭が打ち破られ、張飛、馬超は漢中に撤退
<<馬超【司】>>
・鍾ヨウ+夏侯淵の漢中遠征に対し挙兵、(関西軍閥をまとめ、韓遂を説き伏せる)
・劉雄鳴を打ち破る
・長安〜潼関までを制圧、潼関に布陣(軍勢10万)
・「渭水の北で曹操軍を防ぎ、河東の穀物が尽きるのを待つ」と提案。
(韓遂の提案により実行されず)
・渡河しようとしている曹操軍を弓騎兵で襲撃。曹操側の部隊は敗走。
・黄河以西の割譲を要求し、講和を求める書簡を送るが曹操は拒否
・賈クの計により馬超は韓遂に疑心を抱いた事により、組織だった動きが出来ず、
曹操側の軽鋭と騎兵隊の挟撃で連合軍潰走
・馬超は漢陽にて、羌族を利用して反乱(テイ族の王、千万も呼応させる)
・正月/隴右の軍と張魯の派遣した将楊昂の軍(合計1万余)を引き連れ冀城を包囲、
楊阜は1000余人にて防衛。
・8月/救援要請に出た閻温を捕らえ処刑。冀城降伏
・冀城の救援に来た夏侯淵を、冀から200里の地点で迎え、撃ち破る。
・楊阜らの計略により馬超敗走。
(漢陽の尹奉が挙兵。馬超が直接出陣している間に梁寛.趙衢.が城門を閉じる)
・再挙兵して祁山を包囲。
・張コウが兵5000で追撃(夏侯淵は後方補給支援)
馬超はテイ&羌の兵数千を率いて迎えるも、交戦前に逃走。
・張魯の元で度々兵を借り、涼州の奪取に挑むが勝利を得られず。
<<馬超補足>>
>>13の続き
・長安〜潼関までを制圧、潼関に布陣
…についての補足。
一、196年あたりから、鍾ヨウが長安に赴任して関西の諸軍の総指揮をとる
二、漢中遠征は、鍾ヨウの軍勢に夏侯淵の軍を合流して行う予定だった
三、馬氏の駐屯地は196年あたり以降は槐里(長安は管轄下では無い)
四、当時、関西で数万世帯という規模の流民が発生している。
派生元でも言われていたけど、
馬超に関しては、潼関布陣後よりこの部分の流れが評価のキーになりそうなんだけど
子細な記述が一切無いぽ。探しに探してこの4点。
これだけでも、かなり大規模な戦闘があった事は推測されるが…
<<呂蒙伝から抜粋 >>
・孫権に従い丹楊討伐に参加、いたる所で戦功を上げる(部)
・孫権に従い先鋒として黄祖配下の陳就の首級をとる (部)
・周瑜・程普らと共に赤壁で曹操を破る (部)
・さらに曹仁を南郡に包囲し窮地の甘寧救援を献策し成功させる (司)
・盧江の謝奇を襲撃し略奪を止める (部+司)
・濡須で曹操を防ぐ作戦で優れた計略を献言、また堡塁を作るよう献策し曹操を撤退させる (司)
・孫権に皖城攻めを上陳し、甘寧とともに皖城を落とす (部+司)
・盧陵で反乱が起きると軍を進めて首謀者を誅殺 (部+司)
・長砂・桂陽を帰順させ郝普をペテンにかけて零陵を奪取 (司)
・合肥で張遼から孫権を命懸けで守る (部?、立場的には司-?)
・濡須で曹操の先鋒を破り、退却させる (部)
・荊州攻略を計画し先鋒として南郡を降服させる (司)
<< ケ艾 >>
249. 対姜維
郭淮とともに姜維の侵攻を防ぐ。
姜維の動きを読んだ献策、行軍に功あり。(ケ艾伝)【司&やや部】
255. 毋丘倹の叛乱。
・即座に軍を動かし楽嘉城を占め官軍の拠点を確保した。
通常の倍以上の行軍速度であったと言う。(ケ艾伝)
これは司馬師の指図であったようだ。(毋丘倹伝)【部】
・(司馬師の)近衛騎兵隊とともに文欽を追撃。(ケ艾伝、毋丘倹伝)【やや部】
・この乱に呼応する動きを見せる呉軍を抑える為、諸葛誕に肥陽に派遣される。
しかし肥陽は賊軍から遠く要害でないと判断し駐屯地を移す。
また諸葛諸らを派遣し抵抗させる(ケ艾伝)【司】
255. 対姜維
姜維に撃ち破られた王経を陳泰のもと救助に向かう。
ケ艾は方針について献策するが取り入れられなかった。
ただしこの場合は陳泰の方が正解だったようだ。(陳泰伝)【司ややマイナスか?特に評価なしか?】
256. 対姜維
・姜維の再度の出兵はないという周囲の意見に対し再度の侵攻を予測する。(ケ艾伝)【司】
・姜維、祁山へ向かうが既にケ艾が備えをとっていたため南安へ向かう。
ケ艾は武城山に立てこもり対峙、要害の地を巡り姜維と争う。
姜維は軍を上ケイへ向け動かすが胡斉が来なかったため軍を引き返す。
段谷にて両者激突、ケ艾は姜維を大いに撃ち破る。(ケ艾伝、姜維伝)【武】
<< ケ艾続き >>
>>16の続き
257. 対姜維
・諸葛誕の叛乱に乗じて姜維が再度侵攻。
守備に当たる司馬望のもとへ駆けつけ長城にて対峙。
姜維は何度も戦いを挑むがこれに応じなかった。
やがて諸葛誕の乱が収まったことを知った姜維は軍を引き上げた。(ケ艾伝、姜維伝)【司】
262. 対姜維
侯和に出てきた姜維を撃ち破る。(ケ艾伝、姜維伝)【詳細は分からないけれど司&部】263. 蜀侵攻
・司馬昭の命を受け姜維をひきつける動きを見せる。
鐘会の軍が漢中を抜いたことを知った姜維は軍を返す。(ケ艾伝)【司】
・姜維が剣閣にて鐘会を防いでいることを知り別ルートから攻め入ることを上奏。
難路を何とか抜け緜竹にて諸葛瞻と対戦。
一度は派遣した将が敗れるもこれに叱咤を加え再び戦闘を交えさせ諸葛瞻の軍を撃破。
更に進軍し成都を包囲、劉禅の降伏を受け入れる。【司。難路を越えたことも評価すれば部もか?】
大体こんなもんかな。
呉攻めを念頭に置いた「済河論」・匈奴対策などはここでは評価外か?
<<諸葛亮 >>
212. 劉備の別働隊として張飛らと共に長江をさかのぼり蜀に侵攻。
手分けして郡県を平定。(諸葛亮伝)【司&部】
225. 春、軍勢を率い南征、秋には平定。(諸葛亮伝)【司】(部も?)
228. 春、北伐。
・趙雲・ケ芝を囮の軍として箕谷に布陣させ魏の大将曹真をひきつけさせる。(諸葛亮伝)【司】
・前線の街亭の押さえとして先鋒として馬謖を派遣するが馬謖は敗北。
戦線を維持することは不可能と悟った諸葛亮は軍を撤退させる。(諸葛亮伝)【司−?】
228. 冬、北伐。
・陳倉を包囲するが魏将カク昭が堅守。
二十日間以上攻防を繰り返すが、敵の救援が来たこと・食料が尽きたことなどの理由により撤退。【司プラマイ0かやや−?】
・追撃してき魏軍の将王双を斬る。【部】
(諸葛亮伝、曹真伝など)
229. 北伐(?)
・陳式を武都・陰平二郡へ派遣、これに応じる動きをみせた魏将郭淮への牽制に自らは建威まで出撃。
かくて二群を平定する。(諸葛亮伝)【司】
231. 北伐
・祁山を包囲すると鮮卑族を呼応させる。(諸葛亮伝注)【司?】
・上ケイにて郭淮・費曜を撃破。(諸葛亮伝注)【部】
・戦闘に応じようとしない司馬懿を祁山まで引き込み会戦、これを撃ち破り3千以上の首級を上げる。(諸葛亮伝注)【部&司】
・食料切れのため撤退、追撃してきた張郃を射殺。(諸葛亮伝)【部】
234. 春、北伐
・渭南にて司馬懿と対峙するが司馬懿が会戦に応じず百日あまり経過。
諸葛亮は病を発して陣没。(諸葛亮伝)【司プラマイ0?】
とりあえず諸葛亮伝から。
<<周瑜 >>
孫策の楊州統一の戦い(孫策に従軍している状態で別働隊では無さそう)
・孫策のために軍勢・船・食料を調達する。
・孫策の横江と当利の町陥落、秣陵でサク融・薛礼の撃破、曲阿で劉ヨウを撃破に参加。(周瑜伝)
後にこの戦いの功績を踏まえ建威中郎将の任と様々な賜りものを受け、その厚さは並ぶものがなかった。(周瑜伝)
(ただ、周瑜の優れた才能や孫策との関係の厚さも同時に述べられており、必ずしもこの戦いの功績のみの話しではない)
孫策の荊州奪還戦[中護軍(軍の長官の一人)として参加]
・孫策と共に皖を落とし、尋陽で劉勲を破り、江夏・豫章・盧陵を平定。(周瑜伝)
孫瑜の山越討伐(目付け役として参加)
・麻屯と保屯の討伐に参加、一万余人を捕虜にする。(周瑜伝)
・周瑜と協同して麻と保の砦を落とす(孫瑜伝)
黄祖の部下のトウ龍が柴桑に侵入するのを追撃して撃破、生け捕りにする。(周瑜伝)
孫権の江夏征伐【前部大督(先鋒部隊の司令官)として参加】
・呂蒙、凌統、董襲等の活躍で黄祖を撃破(孫権伝)
・先鋒を指揮して自ら敵の首を取る(呂蒙伝)
・先鋒を命じられ活躍(凌統伝)
・凌統と共に先鋒として活躍(董襲伝)
<<周瑜 >>
赤壁の戦い(司令官として参加)
・魯粛・程普と共に三万の兵で赤壁に布陣、劉備軍と当時疫病の発生していた曹操軍を最初の交戦で破り長江の北に引かせた。(周瑜伝)
・黄蓋の策をとり火計を成功させ、曹操を撤退させる。(周瑜伝)
・赤壁に布陣したが劉備軍に負けた。(武帝紀)
・劉gの一万と合流後、周瑜・程普等の数万と力を合わせて打ち破った。(先主伝)
・周瑜と共に左右の督となり、曹操を破る。(程普伝)
・周瑜と程普にそれぞれ一万の兵を預けて、左右の督とし劉備と共同で曹操を破った。(孫権伝)
・左右に督を置いたため、最終的な決定は周瑜がなしたのだが、程普が不満いだき大事になりかけた(孫皎伝)
・周瑜を総指揮、魯粛を総参謀にして赤壁に臨んだ(魯粛伝)
江陵の戦い(司令官として参加)
・程普と共に南郡にて曹仁と対峙、甘寧に前もって夷陵を占領させる、後に包囲されるが呂蒙の策を用い、甘寧を救出する(周瑜伝)
・曹仁と正面からぶつかり合い流れ矢で重傷を負うが、曹仁が迫るのを知ると軍を奮い立たせて曹仁を撤退させる。(周瑜伝)
・呂蒙の策によって意気が高まり、しばらく交戦したが、やがて曹仁が撤退した(呂蒙伝)
・周瑜軍数万の先鋒数千人に三百人を募り牛金に迎え撃たせるが包囲されたが、自ら救い出した。(曹仁伝)
孫権(多少訂正)その1
199. 孫策に従い劉勲討伐、さらに黄祖討伐。(呉主伝)【部?】
203. 黄祖討伐。水軍は撃ち破った【部?】が山岳地帯の不服住民に不穏な動きが見えたため撤退。
呂範や程普を各地に派遣し鎮圧。(呉主伝)【司?】
206. 黄祖攻め。呂蒙らの活躍もありついに城を落とす。(呉主伝)【司】
208. 曹操を呂蒙らに赤壁で防がせると共に自らは合肥に向かうもはかばかしい戦果を上げられず帰還。九江に派遣した張昭も成果を上げられず。(呉主伝)
(全部をひっくるめて判断すべき?)【司?】
213. 曹操を濡須で防ぐ。
夜陰に乗じて中洲に渡った魏軍を水軍を動かし包囲、三千人を捕虜とする。(呉主伝注)【司】
214. 廬江の皖城を攻め陥とす。(呉主伝)【司、部も?】
その後、荊州の領有をめぐって劉備と対立、呂蒙魯粛らを派遣し自らも陸口まで出陣。(呉主伝)【司】
曹操が漢中に侵攻してきた為、劉備から和解を申し込まれ和睦、荊州を東西に分割することに。
今度はそのまま合肥攻め。張遼らの急襲にあい惨敗、撤退。(呉主伝)【司、部ともにマイナス?】
<<曹操(対袁紹戦前) >>
・黄巾の乱。騎都尉として潁川の賊を撃破
・反董卓連合軍に参加した際、動かぬ仲間に痺れをきたして張バクの部下と出陣、徐栄と交戦したが負け戦に。
多数の死傷者を出したが、徐栄も曹操が少数ながらも奮戦したのをみて軍を引いた。
・途中揚州まで赴き兵を募集して太守から四千人余りを与えられるが、帰路の途中士卒の多数に反乱を起こされる。
・黒山の賊十万が魏郡を占拠したので、曹操がまず濮陽で賊を打ち破り陣を敷いた。その隙に賊が別の場所を攻撃し始めたので
逆に本拠を襲撃、引き返してきた賊を伏兵で打ち破り大勝。
・匈奴の於夫羅を内黄で撃破。
・青州の黄巾賊100万を鮑信等と共に攻撃、鮑信は戦死したがなんとか敵を降服させ降兵三十万と男女百万を手に入れる。
伏兵を設け、昼も夜も戦いを交え、戦闘のたびに敵を捕えた。
・陶謙を攻めて城十余を落とすが陶謙は城を固守して出てこず。
・再び陶謙を攻めて城五つ落とす。帰還の途中劉備と曹豹と戦い撃破。
・張バクが陳宮と共に反乱して呂布を向かい入れる。曹操は要害を利用しようとしなかった呂布を無能と呼んだが
緒戦にて呂布の騎兵に敗れる。その後再び攻撃をしかけて呂布と百日余り対峙、呂布も食料が尽きて両者とも引き上げた。
・定陶を襲撃し、援軍の呂布を打ち破る。
・夏呂布の将薛蘭と李封を攻撃、援軍の呂布を合わせて打ち破り薛蘭を斬った。
・陳宮と共に一万余人で呂布が攻めてくると、兵が少数ながらも伏兵や奇襲を用いて大勝利を収める。
・再び定陶を襲撃し、兵を別けて諸県を平定。
孫権(多少訂正)その2
227. 孫権自ら石陽攻めするも成果なく撤退。
殿軍の藩璋は魏の追撃を防ぐことが出来なかったが、朱然の活躍で無事撤退。(朱然伝)(明帝紀、文聘伝によると226年の事らしい。)【司、部ともにマイナス?】
孫権は五万の軍を以って城を20日ほど包囲したが、文聘の守備は堅く成果なく撤退。
文聘は追撃しこれを撃ち破った。(文聘伝)
228. 石亭の戦いの際も皖まで出陣してる模様。(全j伝)【評価対象外?】
229. 孫権、出陣の体勢をとるが満寵の備えを知り取りやめ。(満寵伝)【評価対象外?】
230. 孫権、合肥攻め喧伝、満寵が兵を集めたので一旦撤退するも油断させて再び侵攻しようとする。
しかし満寵はこれを読みきり備えを怠らなかったので孫権は結局引き上げた。(満寵伝)【司】
233. 自ら合肥新城攻め。同時に全綜を六安討伐に派遣。どちらも成果上げられず。(呉主伝)
威勢を示す為上陸したところ、満寵の伏兵にあい数百人の被害。(満寵伝)【司マイナス?or部マイナス?】
234. 蜀の北伐に合わせて再び合肥新城攻め。同時に陸遜らを江夏に、孫韶らを淮陰にそれぞれ派遣。
しかし諸葛亮の死に伴う状況の変化により撤退。(呉主伝)【評価対象外?】
満寵の火計にあい城攻めの道具を失ったり、弟の子孫泰を射殺されるという目にあう。(満寵伝)【司マイナス?or部マイナス?】
236. 合肥攻め。(成果なく撤退?)(陸遜伝)【評価対象外?】
<<曹操(対袁紹戦前) >>
>>22の続き
・張バクの弟張超が守る雍丘を包囲、四ヵ月後陥落させる。
・陳の地を攻略。
・袁術の武平を攻めて太守を降服させる
・黄巾の何儀・劉辟・黄劭・何曼がそれぞれ数万を率いていたがこれを撃破。
・楊奉・韓暹から天子を奪還する。
・楊奉は敗れて袁術のもとにはしったがそのまま攻めつづけて砦を陥落させた。
・張シュウが反逆してこれと戦ったが負け戦に。
・袁術が陳に攻めてきたので迎撃に、袁術は曹操が来たことを聞くと部下4名に任せて逃走、それを全員撃破し切り殺した。
・劉表の将ケ済を攻め生け捕りに。
・張シュウを包囲するが劉表が兵を派遣して退路を断たれる。挟み撃ちの危機に遭うが夜中の内に陣営から地下道を掘り脱出、
奇襲の兵を伏せて朝になり追って来た敵を逆に挟み撃ちして撃破。
・呂布を再び攻め、彭城を落とし下ヒまで進撃し、呂布自ら進撃してきたのを打ち破り、配下の勇将成廉を捕虜にした。
・呂布が陳宮の策に従いもう一度出撃したが敗れ、城を堅守したため撤退しようと思ったが、荀攸・郭嘉の策に従い水攻め、ついに滅ぼした。
・曹仁等の活躍もあり袁紹の射犬を落とした。
劉備(多少訂正)その1
スウ靖に従い黄巾討伐。(先主伝)【部】
毋丘毅と共に黄巾討伐。(先主伝)【部】
高唐の令の時、賊軍(黄巾?)に敗れる。(先主伝)【部】
公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功。(先主伝)【部】
袁術の徐州侵攻を防ぐ為対峙、細かい勝ち負けを繰り返すうちに、本拠地である下ヒが呂布の侵攻を受け失陥したため撤退。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
下ヒに至る頃には軍は散り散り。そこで軍を返して敗軍の兵をかき集めて広陵で袁術と戦い敗れる。(先主伝注)【部マイナス?】
その後徐州・揚州を荒らす楊奉・韓センを撃破。(先主伝)【部】
呂布と和睦するが兵を集めだすと再び呂布の攻撃を受け敗走。(先主伝)【部か司のどちらかがマイナス評価?それとも評価対象外?】
曹操の庇護下、呂布を攻めるが呂布の将高順に撃ち破られる。(先主伝)【部マイナス評価】
袁術討伐に徐州へ向かうが対戦する前に袁術病死。(先主伝)【評価対象外】
曹操の任命した徐州刺史車冑を討ち徐州を支配下に。(先主伝)【評価対象外?】
曹操の派遣した劉岱・王忠を破る。(先主伝)【部】
曹操が自ら出陣してくると逃走し袁紹の庇護下に。(先主伝)【部マイナス評価】
袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走。(先主伝)【部マイナス評価】
袁紹のもとを離脱し汝南入り。曹操の派遣した蔡陽を撃破。(先主伝)【部】
201. 袁紹を撃破した曹操の侵攻を受け劉表を頼り荊州入り。
博望にて夏侯惇・于禁の侵攻を伏兵を用い撃破。(先主伝)【司、部も?】
劉備(多少訂正)その2
208. 曹操の荊州侵攻を受け逃走するも呉と結び赤壁にて周瑜らと力をあわせてこれを撃破。
さらに南郡まで進撃、曹操は曹仁を残し撤退。(先主伝)【部、やや司も】
周瑜らと共に曹仁を攻めつつ荊州の南の四郡を制圧。(先主伝)【詳細は不明。司?部?】
211. 劉璋の要請を受け益州入りし張魯攻め。しかし実際には張魯を攻めず人心を収攬することに務めた。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
212. 劉璋が援軍の要請を受けなかったことを口実に葭萌から引き返し成都へ向けて進軍。
劉璋の白水軍総督の楊懐をだまし討ち。(先主伝)【司?】
フへ侵攻、劉璋の派遣した劉カイらを撃破、更に進軍しラクを包囲。
214. ついにラクを抜き成都を包囲し劉璋の降伏を受ける。(先主伝)【司、部も?】
215. 孫権が荊州に攻めてくると関羽を益陽に入らせると同時に自らは公安まで戻り孫権とにらみ合い。
曹操が漢中に侵攻してきた為、孫権と和睦し軍を引く。(先主伝)【司?】
218. 黄権や法正らの進言を取り上げ漢中侵攻。
219. 陽平で張郃を急襲するが防がれた為、定軍山へ軍を転進し夏侯淵と対峙。
定軍山へ集結した張郃軍が今度は劉備軍に敗れた為に援軍を派遣し手薄になったところを黄忠に攻められ夏侯淵、戦死。(先主伝)【司&部】
曹操が自ら侵攻してくると要害に篭り抵抗、ついに曹操は撤退し漢中支配を確かなものに。(先主伝)【司】
221. 夷陵の戦役。
(省略。呉書に詳しいのでまたの機会に記述を抜き出してみます。)
あのさー、王渾と呂蒙をやってんだけど要約するべきなの?
あと献策等の参謀的な事績は、どっちで評価するの?
>>27 場面によると思うよ。
詳しくは前スレの提案者に聞いてくれ。
王渾は晋書なので時間かかるから
取り敢えず、以後のスレの内容を見てから判断するよ
>>27 そこらへんは、
>>7にあるように
>※細かい事蹟や、【司】【部】の判断があやふやな事蹟については
>後程事蹟ごとに討議する方向で検討。
って事でいいんじゃないかな。
【司?】とか書いといて、決定するのは実際に評価する時でいいと思う
↑ならべてみた。
新しく事蹟抜き出し増えた場合は、追加変更してってください
>>30 OK
夕方から仕事なので深夜に、どちらかを投下するよ
とりあえず郭淮関連抜粋中。
一応被らないよう報告しときます。
皆乙!盛り上がってきそうだな。それと朱然もあったよ。
朱然
・臨川郡の太守として兵2000人を授かり赴任、そのころ盛んに反乱を起こしていた山越を一ヶ月ほどで平定。
・濡須の戦いで大塢と三関屯の防備を勤める。周泰伝によればこの時は周泰の指揮下。
・呂蒙が危篤の時に後任に推挙され、江陵の守備を任される。
・関羽討伐に参加、別働隊として潘璋と共に関羽を捕虜にした。
・夷陵の戦いで五千人を率い、別働隊として劉備の先鋒を破り、さらに退路を断った。
・曹丕が曹真・夏侯尚・張コウを派遣し、曹丕本人も宛まで軍を進めて江陵を包囲。孫権は孫盛率いる1万を長江の中洲に
派遣して、四方に防御壁を備えた砦を作り、外側から朱然を援護させたが、張コウに攻められ瞬く間に砦を落とされ孤立した。
孫権はさらに潘璋・楊粲等を派遣したが包囲は崩れず。この頃江陵の兵は浮腫を患うものが多く戦闘にたえるのはわずか五千人だった。
曹真等は土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると城壁近くから大量に矢を射掛けたので武将や士卒は顔色を失ったが、朱然は恐れる
様子も見せず、武将や士卒を励まし、隙を突いて陣地を二つ攻め取った。包囲することが六ヶ月に及び、攻め手が大軍で
城兵は少なく、食料も尽きかけていたので、北門を任されていた姚泰が内応を謀ったが、直前に発覚しこれを斬った。
夏侯尚達はどうしても城を落とす事ができぬまま軍を引いたので、朱然の名は敵国にまだ鳴り響いた。
・孫権が石陽を攻めたが軍を返すことになり、潘璋が殿を勤めたが防ぎきれなかった。朱然はすぐさま取って返して敵を食い止め、
先発した船が遠くまで引いたのを待って、それからおもむろに自身も退却した。
・合肥新城の戦いに全jと共に右督・左督を任されたが、疫病が流行り攻撃前に軍を引いた。
・柤中に軍を進めた時、魏の蒲忠と胡質とがそれぞれ数千を率いて来襲して来た。この時配下の武将や兵士は四方に
散らばった状態だったので呼び戻す時間が無かったが、旗本の八百人で敵を迎え撃ち逆襲して敵を撤退させた。
・再び柤中に軍を進めた際、魏の李興等は歩兵・騎兵合わせて六千で退路を断ったが、逆に夜襲をかけて勝利した。
朱然続き
234. 諸葛亮の北伐に応じ、荊州に侵攻し威勢を示すが途中召されて孫権に従い合肥包囲するも間もなく撤退。
この一連の動きは魏には喝破されていたようでまともに取り合おうとはしなかったようだ(衛臻伝)
236. 2万を率いて江夏郡を包囲するも荊州刺史胡質ら救援に駆けつけると撤退。(明帝紀。胡質伝)
241. 5万を率いて襄陽郡樊城県を包囲するも司馬懿が出馬してくると撤退、追撃を受け被害を出す。(三少帝紀及び注。張既伝注)
246. 祖中に侵入し数千人を斬殺あるいは捕虜とした。(三少帝紀注)
ちなみに「魏書」「江表伝」共に朱然が二度に渡り祖中に侵攻、蒲忠と胡質とを一度目の戦いで破ったとしているらしく、
「魏志」が「魏書」に拠りながらこの記述を省略してることが「異同評」で指摘されてる。
それと追加で陸遜伝によると夷陵の直後曹丕が呉に協力して劉備討伐のためと言いつつ軍勢を動員しているが、内心呉を狙っていると進言、
事実それからほどなくして攻めてきた。
朱然は演義と正史で別人の代表みたいな人だね。
仲達には負けてるけど。
<< 曹操 >>
<184年>
・潁川の黄巾賊討伐に、騎都尉として朱儁・皇甫嵩らの後続として出征。
・長社で攻囲された皇甫嵩が波才を撃破したところへ合流し、追撃戦に参加。【部】
<188年>
・8月、西園八校尉が設けられ、典軍校尉に。
<189年>
・12月、陳留で挙兵(兵五千。衛茲、夏侯惇、夏侯淵、史渙、曹洪ら)。【司】
<190年>
・夏侯惇を白馬へ派遣。
・袁紹を盟主とした連合軍が酸棗に集結し、これに参加。行奮武将軍。
・諸侯へ速戦即決を主張するも容れられず、鮑信、鮑韜、衛茲の兵を併せて単独で
洛陽東方の要害・成皐を扼すべく西進するも、既に滎陽まで進出していた董卓
麾下の徐栄に汴水で敗れる。曹操、鮑信が負傷し、鮑韜、衛茲は戦死。【司】【部】
(兵力は徐栄が上。曹軍の奮戦により、徐栄は酸棗攻略は困難とみて撤兵)
・酸棗に退き、諸侯へ、孟津、成皐、敖倉、轘轅・太谷の要害・街道を扼し、
別働隊を三輔へ侵攻させる積極的持久策を提案するものの却下される。【司】
・曹洪、夏侯惇らと揚州において廬江・丹楊の兵を募り、四千余を得るものの、
龍亢で過半の兵が叛乱。鎮圧し、銍、建平で千余人を得、河内に駐屯。【司】
<191年>
・魏郡を攻撃した十万余の黒山賊を東郡の濮陽で撃破し、東郡太守に。【司】【部】
<192年>
・春、東武陽を発して頓丘に駐屯し、黒山賊を東武陽へ誘引。
間隙を衝いて黒山賊の本拠を攻撃し、帰路をとった黒山賊を伏兵で大破。
匈奴の於夫羅を内黄で撃破。【司】【部】
・夏、青州の黄巾軍百万が兗州へ侵入し、東平に達する(兗州刺史・劉岱、戦死)。
東郡の済北国相・鮑信、陳宮の推輓により、領兗州牧に。
・寿張で黄巾軍と会戦(鮑信、李典ら)。
兵力で劣勢のなか、軍規(信賞必罰)を徹底させ、伏兵を用いて撃破。
鮑信が戦死。【司】【部】
追撃して済北に達し、降兵三十余万を得、精兵を選抜して青州兵を編成。【司】
<193年>
・春、鄄城に駐屯。袁術が陳留郡に侵入し、黒山賊と於夫羅の兵を併せて封丘に駐屯。
匡亭へ派遣していた袁術麾下の将軍・劉詳を攻撃し、来援した袁術の軍を大破。
襄邑に撤退した袁術を追撃し、太寿に達してこれを水攻めにし、更に寧陵へ追撃し、
袁術は九江へ敗走。【司】【部】
・夏、兵を返して定陶に駐屯。
・秋、下邳の闕宣と徐州の陶謙が兵を併せ、兗州泰山郡へ侵入して華、費、任城を攻略。
徐州の陶謙を攻撃し、十余城を攻略(曹仁を分遣し、陶謙麾下の呂由を撃破)。
彭城に達し、陶謙の軍を会戦で大破。【司】【部】
陶謙は郯に退く。曹軍、糧秣が不足して撤退。
<194年>
・徐州より帰還。
・夏、陶謙を討伐し、即墨、開陽ら五城を攻略し、東海に達す。帰途に郯の東部に駐屯
する劉備、曹豹を撃破。
(劉備の戦力は、私兵千人、民兵数千、烏桓騎兵、丹楊兵四千を併せたもの)
郯より西進し、襄賁を攻略。【司】【部】
・夏、呂布が兗州を席捲し、曹操は甄・范・東阿の三県のみを保持。
(張邈、張超、陳宮、許、王楷、氾嶷、高雅、劉何、趙庶、李鄒らが加わり、後に
豫州刺史・郭貢が加わり、薛蘭と李封が曹操から離反)
・徐・青州征伐から反転し、濮陽へ進撃。
(呂布は東平を根拠として亢父・泰山の街道を遮断して曹軍を邀撃する手段を採らず、
そのために曹操の兗州侵入を許す)【司】
・濮陽で会戦に至る。呂布、騎兵を展開させて青州兵を圧迫。
(先陣・楽進。于禁、程c)
劣勢の末に曹軍撤退し、以後、膠着。【司】【部】
(この間、濮陽西方の屯営を攻撃(典韋が従軍)し、呂布直率の援軍と戦闘。【部】
更に于禁を濮陽南方に分遣し、呂軍の二陣営を撃破)
百余日のあいだ対峙し、蝗害と糧秣の欠乏で両軍ともに撤退。
・九月、甄城に帰還。呂布は乗氏に進駐するものの李進に撃破され、東進して山陽
(昌邑)に駐屯。曹仁は句陽を攻略。
・十月、東阿へ進駐。
<195年>
・春、成員太守・呉市が守る定陶を襲撃し、救援に来た呂布を撃退。【司】【部】
・夏、乗氏に進駐し、鉅野に駐屯する薛蘭と李封を攻撃して撃破。【司】【部】
援軍である呂布は撤退。
・ここで再度の徐州遠征を企図するものの、荀ケの提言で翻意し、糧秣を確保。
・呂布が一万の兵力で東湣から進撃し、曹操は奇襲と伏兵を用いてこれを大破。
(兵力では、曹軍が劣勢)【司】【部】
・定陶を攻撃し、これを攻略。軍勢を分遣し、諸県を平定。呂布は徐州に遁走。【司】
(曹洪、東阿を拠点に済陰(定陶)・山陽・中牟・陽武・京・密ら、十余県を奪回)
・秋(八月)、雍丘に篭もった張超を攻囲(于禁は離狐を攻略)。【司】【部】
・冬(十二月)、雍丘が陥落し、張超は自刃。袁術へ援軍要請に赴いた張邈、横死。
・東方へ進軍し、陳を攻略。【司】【部】
<196年>
・春、武平を攻略し、陳国相・袁嗣(袁術陣営)を降す。【司】【部】
・荀ケ、程cの提言を容れ、漢帝を奉戴するべく曹洪を派兵するものの、董承と袁術
麾下の萇奴に阻まれる。【司】
・二月、汝南・潁川の黄巾軍数万を撃破。建徳将軍に。【司】【部】
・洛陽へ兵を進めて漢帝を奉戴。
・九月、許に遷都。仮節鉞・行車騎将軍・録尚書事、司空に。
・十月、董昭の策に遵い、楊奉、韓暹らを放逐してその拠点・梁を攻略。【司】【部】
・棗祗、韓浩の提言を容れ、屯田を開始(任峻、袁渙、国淵)。
・呂布が劉備を駆逐し、徐州を領有。
<197年>
・春、宛を攻撃し、張繍を降すが後に反逆。淯水で張繍に敗れ、舞陰へ撤退。追撃する
張繍を撃退し、張繍は穣へ撤退し、曹操は許へ帰還。
(于禁、楽進、曹仁、荀攸、典韋)。【司】【部】
・秋、陳に侵入した袁術を攻撃し、麾下の将を全て捕斬。袁術は逃亡。【司】【部】
・曹洪を派遣し、再度、張繍を攻撃するものの破れず。【司】
・冬(十一月)、宛を討伐し、胡陽に屯する劉表麾下のケ済を攻撃してこれを攻略。
舞陰を攻略。【司】【部】
<198年>
・三月、穣の張繍を攻囲。【司】【部】
・夏(五月)、劉表の軍が来援し退路を断たれるが、偽兵と伏兵を用いて撃破。
(李通、許褚)【司】【部】
・呂布と袁術が結び、劉備を攻撃。夏侯惇を派遣するものの、高順に撃破される。【司】
・九月、呂布討伐に出征(楽進、于禁、徐晃、郭嘉、荀攸)。
・十月、彭城を攻略し、侯諧を捕らえる。下邳へ進撃し、呂布の騎兵を撃破。
追撃して下邳へ達し、出撃した呂布を再び撃破。
荀攸、郭嘉の提言を容れ、下邳を水攻めに。【司】【部】
・十二月、下邳が陥落。
<199年>
・二月、昌邑に移る。張楊を楊醜が、眭固が楊醜を殺して袁紹麾下に加わる。
・四月、黄河北岸の射犬に駐屯する眭固を討伐し、犬城で眭固を撃破。【司】
降伏した兵を編入し、河内郡を平定(曹仁、史渙、楽進、于禁、徐晃)。
敖倉に駐屯。
・秋(八月)、黎陽に進駐し、臧覇を青州に派遣し、斉、北海、東安を降し、于禁に
二千の兵を預けて延津に駐屯させる。【司】
・九月、兵を官渡へ送る。
・冬(十一月)、張繍が帰順。
・十二月、官渡へ進駐。
・徐州で劉備が叛乱。王忠、劉岱を派兵するも勝利を得られず。【司】
・廬江太守・劉勳が帰順。
<200年>
・春、時宜を捉えて徐州の劉備を討伐(郭嘉)。
劉備を撃破し、夏侯博を捕らえる(楽進、徐晃)。【司】【部】
下邳を攻撃して関羽を降す。叛いて劉備についた昌豨を撃破。【司】【部】
兵を官渡へ戻す。
鍾繇を関中に派遣。【司】
・三月、袁紹が大軍を率いて南下し、黎陽(黄河北岸)に進駐(歩兵十万、騎兵一万)。
郭図、淳于瓊、顔良、白馬津を渡り黄河南岸の白馬(城将・劉延)を攻囲。
・四月、官渡を発して北上。延津に至って兵の一部を北岸へ渡河させ、袁軍を誘引。
軍を白馬へ急行させ、白馬を攻囲中の顔良を撃破(荀攸、張遼、関羽)。【司】
白馬より兵を退き、黄河沿いに西進。【部】
袁紹、白馬津から黄河を渡り延津へ進軍し、両軍は対峙(于禁、楽進)。【司】
輜重を囮にし、文醜、劉備を撃破(袁軍・騎兵五千強。曹軍・騎兵六百。徐晃)。【部】
兵を官渡へ戻し、袁紹は陽武へ進駐。関羽、袁紹陣営へ。
・八月、袁紹は陽武で野戦陣地を構築し、漸進策を展開。
一万の兵力で攻撃するものの敗北(損耗率二〜三割)。【部】
官渡において陣地戦を展開。【部】
・九〜十二月、戦況が膠着し、双方ともに兵站への攻撃を展開(荀攸、郭嘉、賈詡)。【司】
汝南郡で黄巾軍の劉辟、袁紹が派遣した劉備が蜂起。李通と曹仁が鎮定(騎兵六千)。【司】
陰彊の賊・祝臂を撃破(曹洪、徐晃)。【司】
袁紹、韓荀を派遣して兵站の切断を試みるものの、曹仁が撃破。【司】
故市の袁軍輜重を攻撃し、韓猛を撃破(荀攸、徐晃、史渙)。【司】
袁紹が再び劉備を汝南郡へ派遣し、黄巾軍の龔都とともに兵站を攪乱(数千)。【司】
蔡陽を派遣するものの、劉備に撃破される。【司】
任峻、重厚な車列を組み、輜重を防御。
・十二月、許攸の投降を機に、烏巣を奇襲(荀攸、賈詡)。【司】【部】
淳于瓊、眭元進、韓莒子、呂威璜、趙叡らを斬り、輜重を破壊(歩騎五千。楽進)。
袁紹、曹軍本営を攻撃するものの陥とせず、撤退(袁軍・張郃、高覧。曹軍・曹洪)。
<201年>
・糧秣が不足し、南下して劉表討伐を想起するが、荀ケの諌言を容れて袁紹討伐
を続行。【司】
・魯国へ分遣した張遼が諸県を平定。東海で叛いた昌豨を攻囲(夏侯淵、張遼)。【司】
攻囲数ヶ月に至って糧秣が欠乏するものの、張遼が昌豨の誘降に成功。【司】
・夏(四月)、黄河沿岸へ進撃し、倉亭に駐屯する袁紹軍を撃破。袁紹は撤退。【司】【部】
・九月、許に帰還。
汝南郡の劉備を討伐。劉備、荊州へ遁走。【司】【部】
<202年>
・五月、袁紹が歿する。
・九月〜翌年二月、袁譚の駐屯する黎陽へ進撃(郭嘉、荀攸、張遼、楽進)。【司】
軍を分遣し、兵站と水路を確保(程c、李典)。【司】
救援の要請をうけた袁尚、鄴へ審配を派遣し、自身は黎陽へ進軍して曹軍と対峙。
<203年>
・春(三月)、黎陽城外で会戦に至り、袁譚、袁尚の両軍を撃破し、黎陽を攻略。【部】
・四月、追撃して鄴に至り、食料を収奪し、陰安を攻略(張遼、楽進)。許へ帰還。【司】
・高幹、郭援らによって河東が動揺するものの、鍾繇、張既らがこれを鎮定。【司】
再び河内、河東で叛乱した高幹らを、張既らが平定。【司】
・八月、袁氏の内紛を助長させるべく南下し、西平に至ると、袁尚が袁譚を撃破。
袁譚は平原に敗走し、曹操へ救援を要請(郭嘉、荀攸)。
・荊州へ派遣した夏侯惇、于禁、李典、夏侯蘭、博望で劉備の伏兵に敗れる。【司】
・十月、黎陽に進駐すると、袁尚が平原の包囲を解き、鄴へ帰還。【司】
<204年>
・春、黄河を渡河し、水路を構築して兵站を確保。【司】
・二月、袁尚は鄴に審配、蘇由を配して再び平原を攻撃。
蘇由が降伏し、鄴を攻撃すると、審配は塹壕戦を展開。【司】
(郭嘉、董昭、張遼、楽進、張郃、徐晃、許褚)
・夏(四月)、曹洪を残して鄴を攻囲しつつ、毛城を攻略して上党からの補給を遮断。
袁尚麾下の将・沮鵠の邯鄲を攻略。易陽、渉が降伏。【司】【部】
・五〜七月、陣地を構築しつつ水攻めを講じて鄴を封鎖。城兵の過半が餓死。【司】
・七月、鄴の救援に来援した袁尚、攻囲中の曹軍を攻撃するものの大敗。【司】【部】
袁尚は中山へ遁走し、袁尚軍の輜重を鹵獲。
張遼を分遣し、趙国、常山を攻略。【司】
袁譚、冀州東部の袁尚領を攻略し、中山に逃れた袁尚を攻撃。
・八月、鄴の城将・審栄が内応し、鄴が陥落。翌月、領冀州牧に。【司】
平原へ侵攻し、袁譚は南皮へ逃亡。【司】
・十二月、平原へ入城し、諸県を平定。【司】
<205年>
・春、袁譚の篭もる南皮を攻略し、冀州を平定(郭嘉、張遼、楽進、徐晃、曹純)。
【司】【部】
楽進、張郃を分遣し、雍奴を攻略。【司】
・秋(八月)、幽州で叛乱を起こした趙犢、霍奴を討ち、侵入した烏桓を撃退。【司】
・十月、鄴へ帰還。
并州刺史・高幹が叛いて壺関に進駐し、楽進、李典を派遣するも陥とせず。【司】
<206年>
・春、壺関を攻囲し、三ヶ月の末に陥落(曹仁)。【司】
・秋(八月)、東海の管承を討伐し、淳于に達す(楽進、李典、張郃)。【司】
・再び昌豨が叛き、これを討伐(于禁、夏侯淵、臧覇)。【司】
・済南の黄巾軍・徐和、司馬倶が蜂起し、これを討伐(夏侯淵、臧覇、呂虔)。【司】
<207年>
・春(二月)、鄴へ帰還。
・夏(五月)、遼西の袁尚・烏桓討伐に出征し、無終に達す。【司】
(郭嘉、張遼、張郃、徐晃、曹純、牽招)
海路を開通させて兵站を確保(董昭)。【司】
・秋(七月)、洪水で進軍が困難ななか、郷導を得て五百里を急行し、柳城へ進軍。
・白狼山で袁尚、烏桓の騎兵数万と遭遇。軽装で輜重を欠くものの、敵陣の不備を
看破し、これを大破。袁尚ら、遼東へ逃走。【司】【部】
・九月、柳城より兵を返す。遼東の公孫康、袁尚らを捕斬。
・十一月、易水に達す。
<208年>
・春、鄴に帰還し、玄武池で水軍を訓練。【司】
・夏(六月)、丞相に。
・秋(七月)、南征し、荊州へ。
・九月、新野に達し、劉jが降伏。
樊に駐屯していた劉備、抗戦の不利を悟り、襄陽を経て江陵を目指し、関羽に
水軍を率いさせて先行させる。
襄陽に達し、劉備の江陵入城を阻止すべく、騎兵を選抜して急行(曹純、文聘)。
当陽で劉備を捕捉し、大破。張飛に追撃を阻止され、殲滅にいたらず。【司】【部】
劉備は漢津で関羽と合流し夏口へ(楽進、徐晃、満寵、文聘)。江陵を接収。
長江を東進し、赤壁で、樊口で劉備と合流した呉軍との緒戦に敗れる。【司】
・十一〜十二月、長江北岸の烏林へ後退し、対岸の陸口に布陣する呉軍との間で
戦況は膠着。この間、陣中に疫病が蔓延。【司】
・十二月、敗北し、雲夢沢、華容を経由して江陵へ撤退。【司】
曹仁、徐晃を江陵に、楽進を襄陽に配し、劉巴を長沙、桂陽、零陵へ派遣。【司】
孫権が合肥に、周瑜が江陵に、張昭が当塗へ侵攻。
<209年>
・春(三月)、譙に帰還。
・秋(七月)、合肥に張喜を派遣し、攻囲百余日を過ぎた孫権は撤退。【司】
張遼、楽進、李典を合肥に配する。【司】
・張昭、戦利なく、当塗より撤退。
・一年余の江陵攻囲戦の末、江陵を放棄(曹仁、陳矯、李通、牛金)。
・陳蘭、梅成らが叛乱し、諸将を派遣してこれを討伐。【司】
(于禁、臧覇、張遼、張郃、牛蓋)
・雷緒が廬江郡で叛き、夏侯淵を派遣して鎮定。【司】
<210年>
・商曜が太原郡で叛き、夏侯淵、徐晃を派遣して鎮定。【司】
<211年>
・三月、夏侯淵を関中へ派遣し、鍾繇と合流させる。【司】
・馬超、韓遂ら関西軍閥が挙兵し、曹仁を派遣。【司】
馬超ら、潼関に進駐。
・秋(七月)、関中征伐に出征(賈詡、曹仁、夏侯淵、徐晃、朱霊、張郃、許褚)。
徐晃、朱霊の分隊を蒲阪津から黄河西岸へ派遣し、本隊を渭水北岸へ渡渉させ
潼関の背後へ迫ろうと試みるものの、馬超らに察知され、危機に陥る。【司】【部】
偽兵、甬道、浮橋を利用して渭水南岸への渡渉に成功し、陣営を築く。【部】
馬超らの夜襲を伏兵を用いて撃退。【部】
・九月、賈詡の離間策が利し、会戦に及んで馬超らを大破。【司】【部】
・十月、安定の楊秋を降し、諸将を派遣して一帯を制圧。【司】
河間で蘇伯、田銀が叛乱を起こすが、曹仁、賈信がこれを討伐。【司】
・十二月、夏侯淵、朱霊、路招を長安に配す。【司】
<212年>
・春、鄴へ帰還。
・冬(十月)、呉征討に出征し、濡須へ。
<213年>
・春、一月余、濡須を攻撃するものの戦利乏しく撤退。【司】【部】
・夏(四月)、鄴へ帰還。
・九月、再起した馬超が敗れる。【司】
<214年>
・春、夏侯淵が略陽で韓遂らを撃破し、韓遂を西平に、馬超を漢中へ駆逐。
・五月、益州の劉璋が劉備に降伏。
皖城が孫権の攻撃をうけ陥落。【司】
・秋(七月)、呉を征討。
・冬(十月)、夏侯淵が抱罕を攻略し、涼州を平定。
利なく、合肥より撤退。【司】【部】
<215年>
・三月、漢中の張魯を討伐。
(劉曄、辛比、司馬懿、夏侯惇、徐晃、張郃、朱霊、許褚、牽招)
・夏(四〜五月)、軍路を遮る氐族を撃破。【司】
・秋(七月)、陽平関に達す。緒戦で陥とせず、撤退を装いつつ、分隊を派遣して迂回
させ、奇襲して大破。漢中に達す。【司】【部】
・八月、合肥へ侵攻した孫権に対し、張遼、楽進、李典が諸戦で痛撃。【司】
・十一月、張魯が降伏。
張郃を巴西へ派遣。【司】
・十二月、夏侯淵を漢中にとどめ、帰還(張郃、徐晃、杜襲、郭淮)。
<216年>
・一月、鄴に帰還。
・冬(十月)、呉征討に出征。
<217年>
・一月、居巣を本営とする。
・二月、濡須を攻撃。【司】【部】
・三月、孫権が臣従し、居巣に夏侯惇、曹仁、張遼、臧覇らを駐屯させ、帰還。【司】
・劉備、漢中征伐の軍を催す。張飛、馬超、呉蘭、雷銅が武都・下弁へ侵入。
曹洪、曹休を派遣。【司】
<218年>
・一月、許の叛乱を鎮定。【司】
・三月、曹洪、曹休が張飛らを撃退。【司】
・四月、代郡、上谷で烏桓が叛乱。曹彰、田豫が征伐。【司】
・秋(七月)、漢中へ出征。
・九月、長安へ達す。
・冬(十月)、宛将・侯音、衛開らが叛乱。
<219年>
・春、曹仁、龐悳ら宛の叛乱を鎮定。【司】
・夏侯淵が劉備に敗れる。
・三月、長安を発して斜谷を経て陽平に達するが、劉備が要害に拠り戦況は膠着。
・夏(五月)、長安へ帰還。【司】【部】
・劉備が上庸、房陵を攻略。【司】
・七月、関羽が北上して樊、襄陽を攻囲(曹仁、満寵、龐悳、呂常、董衡)。
于禁を派遣するものの、長大雨で水没し、壊滅(于禁、東里袞)。【司】
潁川一帯が動揺。荊州刺史・胡脩、南郷太守・傅方らが離反し、関羽に帰順。【司】
呉と提携し、関羽の挟撃を企図(司馬懿、蒋済、董昭)。【司】
・九月、魏諷が叛乱をおこすが、これを鎮定。【司】
徐晃を宛に派遣。【司】
張遼、兗州刺史・裴潜、豫州刺史・呂貢らを、樊城救援に召喚。【司】
・冬(十月)、徐晃が関羽を撃破し、樊、襄陽を解囲(徐商、呂建、殷署、朱蓋)。【司】
前スレ
>>912で引き継ぎを宣言した者です。
君主として麾下に幕僚・部将を従えての戦いが大半であるため、自身が参戦した
戦いに至っては【司】と【部】の両方を添付。
それぞれ、【司】と【部】のいずれに重きをおいて評価するかは個々の事績毎に
検証すべき。
また戦略的思考に基づいた処置や、幕僚らの献言に対する採取決定に関わって
いる局面では【司】を添付。
兵力に関しては記述のあるものは可能な限り記載。
史料上で確認できる参戦・従軍・建策に関わっていた人物はカッコ内にその都度
記載(不足、誤記がある場合は、その都度で要修正)。
政治的背景を無視した単純な事跡の羅列では十分な検証が不可能とみた部分では、
政治的事象も記載。
あらためて曹操の足跡を辿ってみましたが、実に『孫子』を理解しています。
この時代を通じても最高の体現者といっても過言ではないでしょう。
また故事・戦史にも詳しく、それを実に戦訓として活かしてもいます。
曹操自身で語ってもいますが、兵力で劣勢な局面が多く、時に絶望的な戦力差を
覆してもいますし、河北平定までは文句のつけようが無いほどです。
と、かなり長くなりましたが、曹操の事績はこんなところで。
補足、修正等、随時希います。
>>51 ありがとうございます。
いささか駆け足でまとめましたんで、いずれ粗はでてくるでしょうけど。
>>40-50 曹操乙!
だけど、所々方面司令官が独自権限&独自判断で動いた事蹟が
曹操の評価になってるのが少々疑問。
・九月、再起した馬超が敗れる。
・合肥へ侵攻した孫権に対し、張遼、楽進、李典が諸戦で痛撃。
ここらへんは、前者は楊阜達と夏侯淵の独自判断だし
後者は完全に張遼達の采配じゃなかろうか。
>>54 仰るとおり、その点でツッコミをうけるだろうとは思い、自分でも悩みました。
各方面の戦術レベルの戦争に関しては、曹操の功績に帰するのはいささか
牽強付会であったかもしれないですね。
関西の夏侯淵・合肥の張遼に関しては、個々の事績としてみた方が自然で
しょうね。
>>55 委任した人間って意味では、評価にかかわると思うけど
そうなると今度は、委任した前線司令官の敗北による
マイナス評価も加わって収拾着かなくなるし削った方がいいかもね。
気付いた人が少しっつ指摘しながら、削ってけばいいべ。
とりあえず乙。
>>54 後者に関しては曹操の命令書どおりに張遼達が動いたわけだから【司】で問題ないでしょ
∧∧
(゜∀゜)ズレータ!!
誤爆…orzスマン
>>57 合肥の件についてはあるいは思い切って評価対象外でもいい気がする。
>>40-50 つらつらと見てみると部隊を派遣で【司】+できそうなのは西方の馬超関連、合肥の張遼関連、関羽関連あたりかな?
まぁこの辺は軽く流して戦場での采配関連に絞って話しても問題無さそうな記述量だけどね。
現状は11人で郭淮の人と王渾の人が帰ってきてくれたら13人になる。それまでにあと四五人用意できれば十分だよね?
いや、合肥は司に加えていいだろう。
実際のキャンペーンには携わらない形での
派兵や委任に関して、どの程度「司」評価とするかどうかは
難しい問題な気がする。
派遣された人間が持節かどうかで判断すればいいのかな?
>>61 いいと思う。
魏の人間が多いんで、蜀あたりや董卓or呂布あたりが欲しい所かも。
郭淮
211. 曹操の漢中征伐に随行し、夏侯淵の司馬となり漢中に留まる。(郭淮伝)【評価対象外?】
219. 対劉備
・病気の為、従軍せず。
夏侯淵が劉備に破れ戦死すると敗兵を集め張郃を立てることで取りまとめた。(郭淮伝、張郃伝)【司?】
・勝勢にのる劉備軍に対し的確な備えを施したので劉備はあえて攻めなかった。(郭淮伝)【司】
220. 対蛮族
・左将軍張郃、冠軍将軍楊秋を率いて蛮族を討ち関中を平定。(郭淮伝)【司、部も?】
228. 対諸葛亮
蜀の先陣を務める張郃とともに馬謖、高翔を攻撃。張郃は街亭の馬謖を郭淮は列柳城の高翔をそれぞれ撃ち破った。(郭淮伝)【部】
228?.対蛮族
・朧西の羌族を討つ。(郭淮伝)【部、司も?】
229. 対諸葛亮
・諸葛亮が陰平・武都の2郡攻略の為陳式を派遣。
郭淮はこれを討たんとしたが諸葛亮が建為まで出陣してきた為退却した。(諸葛亮伝)【司ややマイナス評価?】
230. 対魏延
・陽谿で費曜と共に蜀将魏延と会戦するが撃ち破られる。(後主伝、魏延伝)【部マイナス、司も?】
231. 対諸葛亮
・この時、朧右は不作で兵糧が不足していたが、郭淮の働きで兵站を充実させる。(郭淮伝)【司?】
・上ケイで費曜と共に諸葛亮を迎え撃つが撃ち破られた。(諸葛亮伝注)【部マイナス】
234. 対諸葛亮
・諸葛亮の狙いを読み司馬懿に献策、取り入れらる。
果たして諸葛亮はその通り北原に軍を進めてきたので何とか迎撃することが出来た。(郭淮伝)【司&部】
・その後、諸葛亮は軍を西方に動かすがこれを陽動と読み万全な備えを施した為、諸葛亮はあえて攻撃を加えることはしなった。(郭淮伝)【司】
郭淮その2
238. 対廖化
・守善羌侯宕蕈の陣営を攻撃してきた廖化に対し2将を派遣したがいずれも撃ち破られた。
明帝は軍を分けた郭淮の策を批判。(明帝紀注)【司マイナス】
240. 対姜維
・朧西に姜維が出陣してきたがこれを防ぐ。(郭淮伝)【司、部も?】
・そのまま羌族討伐。(郭淮伝)【部、司も?】
244. 駱谷(興勢)の役
・諸軍を率い先鋒を務めたが形勢不利と判断し撤退したため大敗せずにすんだ。(郭淮伝)【司ややマイナス?ややプラス?】
郭淮その3(分け方間違えた……)
247. 対姜維&羌族
・朧西などの羌族らが叛乱し蜀軍を引き込んだ。
先に羌族を平らげるべしという意見に対して先に姜維を討つべきだと主張。
姜維は為翅を守る夏侯覇を攻撃したが、郭淮が軍勢を率いて現れたので撤退した。(郭淮伝)
姜維はトウ水の西で郭淮・夏侯覇と合戦した。(姜維伝)
両伝ともに勝ち負けに関しては書かれてないので【司】のみでいいかと。
・返す刀で羌族の餓何・焼戈らを討伐し斬った。(郭淮伝)【司】
248. 対姜維・羌族
・河を根拠として抵抗する残る羌族の頭目蛾遮塞らに対して上流地域で行動すると見せかけひそかに下流から侵攻し大いに撃ち破る。(郭淮伝)【司、部も?】
・また武威を包囲する蛮族の治無戴に対しては本拠地を襲撃しようと軍を動かす。
たまたま治無戴が敗れて帰途についていたので龍夷の北でこれと戦い敗走させた。(郭淮伝)【司、部も?】
・ついでに石頭山の西に居を構える蛮人も討伐し打ち破る。(郭淮伝)【司、部も?】
・姜維は石営に出陣し治無戴を迎え廖化には要害である成重山に留めた。
これに対するに兵を分けることを反対する諸将に対し、夏侯覇に姜維を追わせ自らは廖化を攻撃することを主張。
果たして姜維は廖化の救援の為、軍を引き返し廖化を救うと撤退した。(郭淮伝)【司】
249. 対姜維
・陳泰と策を練り、蜀将句安を降伏させた。(郭淮伝)
姜維は麹山を利用して城を二つ築き句安・李キンらを置き自らは諸郡に侵入した。
郭淮は陳泰の策を採り徐質・ケ艾を派遣し句安らを包囲し兵糧攻め。
姜維は救援のために軍を引き返すと牛頭山から出て陳泰と対峙。
郭淮は陳泰の進言を受け軍を牛頭山へ軍を進め姜維の退路を断ち切ろうとした。
姜維はそれを察知し撤退、残された蜀将句安らは降伏した。(陳泰伝)【司】
・姜維退却後、羌族討伐に向かうがケ艾の進言を受け姜維への備えとしてケ艾を留め置いた。
果たして姜維は廖化と共に再び出撃してきたが備えがあったため事なきを得た。(ケ艾伝)【司?】
253. 対姜維
呉の諸葛恪の動きに呼応して姜維も軍を動かし狄道を包囲した。
司馬師は郭淮・陳泰を派遣しこれを防がせた。姜維はこの動きを察知すると撤退した。(三少帝紀注)【特に評価無しか?】
255. 死去。
郭淮の抜き出しご苦労様
王渾を投下します。
軍事に関係ない事績は、華麗にスルーしてください。
また漢文は久しぶりなので間違いは訂正してください。
王渾の事績
字は玄沖
太原郡晋陽の人、父・王昶は魏の司空である。
武帝即位以前は省きます
・司馬炎が禅譲を受けると、揚烈将軍となる
・徐州刺史となる
・徐州刺史の時、飢餓があり王渾は倉を開き助ける、百姓はこれに頼った
・秦始の初め、封邑千八百戸となる
・東中朗将、監淮北諸軍事となる
・転じて征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節・領豫州刺史
・王渾、呉との国境を預かり、威信を宣布した。前後に晋に降り附く者、甚だ多かった。
・ 泰始九年秋(273)七月、呉将の薛瑩、魯淑が十万を号し、魯淑は弋陽、薛瑩は新息に向かった
王渾、淮水を密かに渡り不意を付き、薛瑩らは予期できず、王渾はこれを撃破した。【司、部】
・安東将軍、都督揚州諸軍事となり、寿春を鎮守する
・呉人は皖城を大いに耕していた。そのため辺境を害することを計り
王渾は、揚州刺史応綽を派遣、淮南諸軍を統べさせ、これを撃破した
諸処の軍営を破り、穀物百八十余万斛などを焼いた。【司】
王渾2
呉伐での記述
・咸寧五年(279)大挙、呉伐、王渾は横江に出陣、参軍陳慎、都尉の張喬を派遣、尋陽を攻め
呉の牙門将孔忠を攻撃、これを破る。呉将周興ら五人を獲らえる。【司】
・再び派遣して、呉の護軍李純の立て籠もる城を滅ぼす。【司】
・呉将愈恭を討伐、これを破る。【司】
・多くの所で、(敵を)擒にし斬った。【司】
・呉のレイ武将軍陳代、平虜将軍朱明が降る。
・呉丞相張悌、大将軍孫震らが率いる数万に、王渾は周浚らを派遣、これを破った。
二将を斬り、首級捕虜七千八百級を得る、呉は大いに震撼した。【司】
・孫晧は司徒何禎、建威将軍孫晏と印綬を送って王渾に降伏
・王濬が石頭城に入り、孫晧降伏。その後、王渾と王濬に確執が生じる。
・転じて、征東大将軍
・尚書左僕射を拝し、散騎常侍を加官される
・斉王攸の帰藩について、司馬炎に諫言する…が、受け入れられず
・太煕の初め、司徒となる
・恵帝即位、侍中を加官される
・楚王司馬イが汝南王司馬亮らを殺すと、家門を閉じ司馬イを拒んだ
・楚王司馬イが誅されると、兵を率いて役所に赴く
・録尚書事を加官される
・元康七年に薨ずる。享年七十五。
乙。
だけど、余計な記述は抜いて書かないか?
討議材料として、確認しやすくするために、わざわざ抜き出してるのに
余計な記事まで入れる必要は無いと思う。
余計と断言するのはいかがなものかと思うのだけど。
内外の情勢や政治的背景を度外視して軍事を語るなんて不可能。
記述されている勝敗の数だけで優劣を論じてるような住民が、過去に
他のスレでもわんさかいたわけで。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 09:32:22
>字は玄沖
>太原郡晋陽の人、父・王昶は魏の司空である。
>
>武帝即位以前は省きます
>
>・司馬炎が禅譲を受けると、揚烈将軍となる
>・徐州刺史となる
>・徐州刺史の時、飢餓があり王渾は倉を開き助ける、百姓はこれに頼った
>・秦始の初め、封邑千八百戸となる
>・東中朗将、監淮北諸軍事となる
>・転じて征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節・領豫州刺史
ここ余計
軍事的に何をしたのか抜き出して検証は後でしようってのがこの抜粋作業の意味なのに
それを無意味な事にして作業だけした気になってるのは労力の無駄だ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 09:36:47
>・孫晧は司徒何禎、建威将軍孫晏と印綬を送って王渾に降伏
>・王濬が石頭城に入り、孫晧降伏。その後、王渾と王濬に確執が生じる。
>・転じて、征東大将軍
>・尚書左僕射を拝し、散騎常侍を加官される
>・斉王攸の帰藩について、司馬炎に諫言する…が、受け入れられず
>・太煕の初め、司徒となる
>・恵帝即位、侍中を加官される
>・楚王司馬イが汝南王司馬亮らを殺すと、家門を閉じ司馬イを拒んだ
>・楚王司馬イが誅されると、兵を率いて役所に赴く
>・録尚書事を加官される
>・元康七年に薨ずる。享年七十五。
こっちも蛇足
内外の情勢や政治的背景は評価をする時に考えればいいのであって今はそれをするための下準備
軍事的な事のみを抜粋すべきだ
くどくどしくageてまで何を言ってるんだろうな……
さぞかし御立派な意見と考察をしてくれるんだろうけど
>・転じて征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節・領豫州刺史
こういう情報は有り難いな
誰でも読める記述じゃないから、備考は大事だけど
多少絞った方がいいかもね。
略歴書くんじゃなくて戦争関係の事抜き出せっての
政治とかの話になったときコピペしやすいのでやれる時にまとめて抜き出しちゃうほうがいいと思う
他の事跡だって何かのときに役に立つかもしれないし
てことで
>>68-69GJ(今度暇があったら武帝即位以前もうpして下さると・・・)
で、
>>72-73を参考に軍事だけ抜き出してみる
>・王渾、呉との国境を預かり、威信を宣布した。前後に晋に降り附く者、甚だ多かった。
>
>・ 泰始九年秋(273)七月、呉将の薛瑩、魯淑が十万を号し、魯淑は弋陽、薛瑩は新息に向かった
>王渾、淮水を密かに渡り不意を付き、薛瑩らは予期できず、王渾はこれを撃破した。【司、部】
>
>・安東将軍、都督揚州諸軍事となり、寿春を鎮守する
>
>・呉人は皖城を大いに耕していた。そのため辺境を害することを計り
>王渾は、揚州刺史応綽を派遣、淮南諸軍を統べさせ、これを撃破した
>諸処の軍営を破り、穀物百八十余万斛などを焼いた。【司】
呉伐での記述
>・咸寧五年(279)大挙、呉伐、王渾は横江に出陣、参軍陳慎、都尉の張喬を派遣、尋陽を攻め
>呉の牙門将孔忠を攻撃、これを破る。呉将周興ら五人を獲らえる。【司】
>・再び派遣して、呉の護軍李純の立て籠もる城を滅ぼす。【司】
>・呉将愈恭を討伐、これを破る。【司】
>・多くの所で、(敵を)擒にし斬った。【司】
>・呉のレイ武将軍陳代、平虜将軍朱明が降る。
>・呉丞相張悌、大将軍孫震らが率いる数万に、王渾は周浚らを派遣、これを破った。
>二将を斬り、首級捕虜七千八百級を得る、呉は大いに震撼した。【司】
こんな感じで、事跡うpしてくれる人は全部抜き出してもらって
気づいた人がその中から現在の議論に沿った内容だけ抜き出せばいいのでは
厚意で抜き出してくれてる人に何もかもやらせるってのは申し訳ないし
劉備(さらに訂正)その1
スウ靖に従い黄巾討伐。(先主伝)【部】
毋丘毅と共に黄巾討伐。(先主伝)【部】
192. 対袁紹?
・高唐の令の時、賊軍に敗れる。(先主伝)
袁術と袁紹が仲違いをし、袁術は公孫瓚に救援を要請、公孫瓚は劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させたが、袁紹は曹操と協力しこれらを全て撃ち破った。(武帝紀)
上の記事はこれの事と思われる。【武マイナス】
・公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功。(先主伝)【部】
194. 対曹操
・劉備は陶謙の将曹豹と共にタンの東に駐屯し曹操を迎え撃つが撃ち破られた。(武帝紀)【部マイナス】
196. 対袁術
・袁術の徐州侵攻を防ぐ為対峙、細かい勝ち負けを繰り返すうちに、本拠地である下ヒが呂布の侵攻を受け失陥したため撤退。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
・下ヒに至る頃には軍は散り散り。そこで軍を返して敗軍の兵をかき集めて広陵で袁術と戦い敗れる。(先主伝注)【部マイナス?】
・その後徐州・揚州を荒らす楊奉・韓センを撃破。(先主伝)
劉備は楊奉を誘って会見しそこで捕らえた。韓センは孤立しヘイ州に逃げ帰ろうとしたところ守備隊長に迎え撃たれ死んだ。(董卓伝注)【謀略っぽいのでここでは評価対象外?】
呂布と和睦するが兵を集めだすと再び呂布の攻撃を受け敗走。(先主伝)【部か司のどちらかがマイナス評価?それとも評価対象外?】
198. 対呂布
曹操の庇護下、呂布を攻めるが呂布の将高順に撃ち破られる。(先主伝)【部マイナス評価】
199. 対袁術?
袁術討伐に徐州へ向かうが対戦する前に袁術病死。(先主伝)【評価対象外】
曹操の任命した徐州刺史車冑を討ち徐州を支配下に。(先主伝)【軍事と言うより謀略くさいので評価対象外?】
200. 対曹操
・曹操の派遣した劉岱・王忠を破る。(先主伝)【部】
・曹操が自ら出陣してくると逃走し袁紹の庇護下に。(先主伝)【部マイナス評価】
・袁紹の将文醜と共に5、6千の騎兵でやってきたが、曹操の輜重隊を囮に使った陽動作戦に引っ掛かり兵を分けたところ曹操の六百に見たいない騎兵の強襲を受け敗北。(武帝紀)【部、司共にマイナス?】
・袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走。(先主伝)【部マイナス評価、司はあるいはプラス評価?】
劉備(さらに訂正)その2
201. 対曹操
・袁紹のもとを離脱し汝南入り。曹操の派遣した蔡陽を撃破。(先主伝)
劉備に呼応した共都を討つために蔡陽を派遣するが共都に撃ち破られた。(武帝紀)
【劉備の司?評価対象外?】
袁紹を撃破した曹操の侵攻を受け劉表を頼り荊州入り。(先主伝)
207. 対曹操
・曹操の北方征伐の隙を突き許を襲撃するべきだと劉表に説くが採り入れられなかった。(先主伝)【司?別項目?】
・博望にて夏侯惇・于禁の侵攻を伏兵を用い撃破。(先主伝)
劉表が劉備を北方の葉まで侵入させると曹操は李典を夏侯惇につけこれを防がせようとした。
劉備はある朝屯営を焼き撤退、追撃してくる夏侯惇を伏兵を持って破った。(李典伝)
前項で劉表は劉備の案を却下したが申し訳程度に軍を動かさせたのであろうか?【司&部】
208. 曹操の荊州侵攻を受け逃走するも呉と結び赤壁にて周瑜らと力をあわせてこれを撃破。
さらに南郡まで進撃、曹操は曹仁を残し撤退。(先主伝)【部、やや司も】
曹操は撤退する時に劉備は自分と同等だが計略を実行するのが遅いと評した。
実際に劉備は曹操が懸念した計略を実行したが時すでに遅かった。(武帝紀注)【司?別項目?】
・周瑜らと共に曹仁を攻めつつ荊州の南の四郡を制圧。(先主伝)【詳細は不明。司?部?】
劉備(さらに訂正)その3
211. 劉璋の要請を受け益州入りし張魯攻め。しかし実際には張魯を攻めず人心を収攬することに務めた。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
212. 劉璋が援軍の要請を受けなかったことを口実に葭萌から引き返し成都へ向けて進軍。
劉璋の白水軍総督の楊懐をだまし討ち。(先主伝)【司?】
フへ侵攻、劉璋の派遣した劉カイらを撃破、更に進軍しラクを包囲。
214. ついにラクを抜き成都を包囲し劉璋の降伏を受ける。(先主伝)【司、部も?】
215. 孫権が荊州に攻めてくると関羽を益陽に入らせると同時に自らは公安まで戻り孫権とにらみ合い。
曹操が漢中に侵攻してきた為、孫権と和睦し軍を引く。(先主伝)【司?】
218. 黄権や法正らの進言を取り上げ漢中侵攻。
219. 陽平で張郃を急襲するが防がれた為、定軍山へ軍を転進し夏侯淵と対峙。
定軍山へ集結した張郃軍が今度は劉備軍に敗れた為に援軍を派遣し手薄になったところを黄忠に攻められ夏侯淵、戦死。(先主伝)【司&部】
曹操が自ら侵攻してくると要害に篭り抵抗、ついに曹操は撤退し漢中支配を確かなものに。(先主伝)【司】
221. 夷陵の戦役。
(省略。呉書に詳しいのでまたの機会に記述を抜き出して見ます。)
劉備負けすぎw
>>82 確かに負けも多いけど劉備の恐ろしいところは、
・負けても生き延び
・降っては丁重に扱われ
・野にあっては非常に警戒され
という点だな。
ちょっと気は早いが各能力を仮に特優、優、良、可、不可で分けたら戦術準良、戦略準優くらい?
部隊長、司令官で評価するという今の趣旨とは違うけど。
出勤前に呂蒙を投下。
上にある呂蒙のは、かなり簡略化されているので…
(というか、呂蒙のを纏めている最中、呉スレのがコピペされたため悔しいだけだったり)
一応、戦力がわかるものは補足として付け加えておいた。
次は誰のをしようかな〜
呂蒙
参謀的な事績は【司?】としました。
・ケ当が死去し、張昭の推薦にて跡を継ぎ別部司馬となる。
・孫権が継いだ頃、用いることの薄い部隊を併せようと欲した。
その際、呂蒙は影で兵士の赤い服装を用立て、その服を着た兵士達は陳列すると、
よく目立ち、よく練習されていた。孫権は大いに悦び、呂蒙の部隊を増兵した。
【訓練は部で宜しいか?】
・孫権に従って丹楊討伐。向かう所で全てで功績が有った。【部】
・208年。(大将、孫権。先鋒の司令、周瑜に)従って黄祖を征伐。
黄祖は都督の陳就に命じて水戦に出た。
呂蒙は先鋒を指揮し、手ずから陳就の首を斬り、将士は勝ちに乗じ城に進攻した。
黄祖は陳就の死を聞き、城を捨てて逃亡したが、兵士が追ってこれを擒にした。【部】
・この歳に、周瑜や程普と共に烏林にて曹操を破った。(正しくは周瑜と程普の麾下)【部】
赤壁の戦力比は周瑜か曹操の考察に譲る
・(江陵包囲戦にて)周瑜が甘寧を使い、夷陵を占拠したが、
曹仁が兵を分けて夷陵を攻めると、甘寧は困窮し周瑜に救いを求めた。
諸将は兵が少なく、分けるには不足していると言ったが、呂蒙は周瑜と程普に
リョウ統を留め、甘寧を救うことを提言、また周瑜に説いて、三百人を分遣し
険阻な道を断てば、敵が逃走すれば其の馬を得ることが可能と進言。【司?】
・周瑜は之に従い、軍が夷陵に到達すると即日に交戦、敵の過半数を殺した。
敵は夜中に遁走したが、道が塞がれており騎手は皆、馬を捨て歩いて逃走した。
兵士達は追撃し馬三百匹を獲て船に載せて帰還した。【部】
これによって将士の形勢は自ずから倍した。渡江して屯営を立て、交戦し曹仁は退却した。【部】
呂蒙2
・魯粛が周瑜に代わって陸口に赴任した際、呂蒙の屯営にてのお話。
呂蒙を軽く見ていた魯粛の為に関羽に対する五つの策を立てた。【司?】
・魏は謝奇をキ春典農と為して皖の郷に駐屯させ、謝奇はたびたび辺境で荒らしていた。
呂蒙は人を使って謝奇を誘ったが、従わなかったので隙を伺い襲撃した。
謝奇は縮み上がり、その部下(部曲?)の孫子才、宋豪らは呂蒙の元に降った。【司】【部】
・孫権に従い濡須にて曹操をふせいだ。たびたび奇計を進言。【司?】【部】
又、河口を夾んで塢を築くよう孫権に勧めて、それにより備えが堅くなり、
曹操は江を下ることが出来なくなり退却した。【司?】
『呉録に曰わく』孫権が塢を作ろうと欲すると、諸将は皆、必要ないと言った。
呂蒙は、諸将らに理路整然と反論して孫権を後押しした。
・曹操は朱光を遣わして廬江太守とし皖に駐屯させ大いに田を開かせた。
又、ハ陽の賊のお頭に誘い招き、内応させようとした。
呂蒙は「皖の田は肥沃、もし一度、収穫すれば奴らの勢力は必ず増え、
これが数年続けば、曹操はその本性を見せましょう。宜しく早急にこれを除くべきです」
そしてつぶさに情況を上陳した。これにより孫権は皖に親征した。【司?】
・孫権は諸将と引見し計策を問うた。呂蒙は甘寧を推薦し升城督と為し、
前線の攻撃を率いさせ、呂蒙は精鋭を以て之に続く…という作戦を立てた。【司?】
早朝、進攻し呂蒙は枹と鼓を手に採り、士卒は皆、威勢良く城壁を昇り、食事時には敵を破った。
この時、既に張遼は夾石に至っていたが城が抜かれたと聞くと退去した。【司】【部】
・『リョウ統伝』この後、呂蒙らと西に進み三郡を取った。【司】【部】
・この後、廬陵で反乱があった。諸将はこれを討つことが出来なかった。
呂蒙に命令が下り、呂蒙は首領を誅し、他の者は釈放した。【司】【部】
呂蒙3
建安十九年(214)の荊州攻略
・孫権の命により長沙、桂陽の二郡を書によって降伏させる。
また劉備が公安に到着するとカク普を降伏させて、孫皎を後に残し益陽に向かった【司】
戦力は魯粛一万、呂蒙二万、関羽三万、劉備五万。
合肥の戦い 建安二十年(215)
・合肥から撤兵の際、孫権の軍が張遼に襲撃されたが呂蒙とリョウ統は孫権と命懸けで護った。【部】
『張遼伝』によると孫権十万、合肥七千。
濡須の戦い 建安二十二年(217)
・曹操が大軍で濡須に攻め寄せた。
この時、呂蒙は督となって前に築いた濡須塢に弩一万を置いて防がせた。
曹操の先鋒が屯営を築く前に攻めこれを破る。【司】【部】
『甘寧伝の江表伝』によると曹操は歩騎四十万、孫権七万。
『夏侯惇伝』では戦役後、夏侯惇が二十六軍で居巣に駐屯。
孫権に荊州攻略の戦略と作戦を提示。また長江流域割拠を提言。【司?】
内容は長いので省きます。
建安二十四年(219)の荊州攻略
・関羽が北上すると、呂蒙は病気を利用して関羽を油断させる計略を立てる。
『陸遜伝』また陸遜の計略と陸伯言を代理の司令官として用いる。【司?】
・関羽が兵を北上させ兵糧を奪取すると、先鋒として尋陽にいたり、
精兵船中に隠し商人になりすまして、長江の屯所を襲った。
このため関羽は、呉のことを知ることが出来なかった。【司】【部】
・南郡に至り、士仁と麋芳が降服。『呉書』では虞翻に命じて士仁を降服させた。
この年、死去。『朱然伝』で朱然を江陵太守に推挙。
評とかは、取り敢えず必要ないかな。
乙!
あと何人分か集まったら、評価開始していいんじゃないか?
>>89 具体的にどう評価していく?
絶対値は出せないから挙げられた中で事績を比較して何らかの上下の基準をもって相対化していくの?
>>90 俺みたいな馬鹿のためにもうちょと易しい表現で言い直してくれ!
武勇に似た形でいいんじゃない?
甲乙丙丁みたいな感じでさ
>>90 それしか無いような気がする。
前の方で誰かが言ってたけど、まずは代表的な事蹟でもって、
おおまかに上下を決めてって、その後細かい事蹟で補正してく形かな。
>>91 いきなり数値は出せないから、まずは人物同士を比べてランキングしてって
Aクラス=100〜98 Bクラス97〜95みたいな感じで割り振ってくって事
…だと思う。
一番わかり単純な例から考えていくと、できるだけ詳しく見ていった時に、
従軍して・・・ ↓
大活躍・勝利に大きく貢献≧負けたけど活躍した>勝った≧負けた>勝ったけど足引っ張った≧敗因を作った・足を引っ張った。
従軍の場合勝った・負けたはあんまり関係ない気もするけど似たような内容なら勝った方をより評価してもいいかな?
部隊長としての任務を・・・ ↓
不利を覆して成功>成功>不利な状態で善戦したが失敗=有利な状態で成功>失敗>有利な状態で失敗
一応部隊を率いる責任者なので結果重視。あとは個別内容で+したり-したり。
司令官として・・・
勝った>負けた
これを大前提に合戦全体を検証する。
ケースバイケースではあるけど目安ぐらいにはならないかな?矢印の所あたりが+-の分かれ目のイメージ。
勝敗だけで見てくと、二分の一で評価が下がるからなぁ。
勝率悪い人物は、何もしてない人物より低評価になりそうだ…
指揮官or部隊長経験の多い(長い)人物や、
規模の大きい戦(5〜10万人規模?)を管轄した人物は、
それだけで多少+に考えても良いぐらいなんじゃなかろうか。
>>95 経験が長い人は同意。戦乱の世を前線で生き残ったんだからそれだけで評価に値する。でも規模の大きい戦で+はどうだろうな・・・
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 19:36:12
ハン城の曹仁は司令官扱いだろう。徐晃の援軍用いてほぼ独断で関羽撃退したんだし。
>>97 徐晃が関羽を撃破してくれたおかげで突破できただけだよ。
司令官としては援軍が来てくれるまで持ちこたえたということに関してはあるいは評価できるかもしれない。
しかしそれ以外は無策だしそんなに評価は出来ないだろ。無能からは程遠いのは確かだけどな。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 22:18:28
確かにそうかも知れないけど、荊州一帯を任せられて、守り抜いたのは凄いと思うが。
しかも無策と言うけど、漢中で負けた直後で、関羽に比べて戦力的には大きく劣って
いたんだから、それを無策で片付けるのは適切だろうか?しかも徐晃伝じゃ徐晃単独
で撃破してる感じだけど、趙ゲン伝とか見ると、関羽撃破に曹仁も大きく絡んでるよう
だし、むしろウ禁全滅という非常事態にも関わらず、兵卒を激励して、徐晃の援軍と
一緒に関羽撃破してるんだから、評価できないというのは俺は納得いかんな。
でもあんたの意見も一理あるとは思うけどね。
>>99 > 荊州一帯を任せられて、守り抜いたのは凄いと思うが。
それは否定しない。
否定しないがその中で曹仁の功として挙げられるのは絶望的な状況で持ちこたえたことのみ。
(まあそれでも十分凄いが)
それ以外では関羽に樊城に押し込められて具体的な打開策は何も取れてない。
漢水の氾濫という災害を考慮したとしてもにそれに対し準備もとってない。
この漢水の氾濫は突発的とも取れるが揚州刺史の温恢が漢水の水かさが増してるのに曹仁がなんら対策を取ってないことを懸念してる。
つまり氾濫の兆候があり時間がありながらそれに対する備えを曹仁が怠っていたことが分かる。
厳しい言い方だけどね。
結局曹仁は荊州の司令官であったが、荊州を守りきったのは司令官としての能力より部隊長としての能力のおかげだと思うよ。
もちろん満寵の献策を取り上げたことを曹仁の司令官としての能力として重視するという意見もあるかとは思うけどね。
関羽討伐のために七軍を率いて樊城に居た曹仁の戦力が小さいわけない。
無抵抗に篭城ってのも不自然だし。
野戦で負けて押し込まれたんじゃないねか?
>>99 あと「徐晃の援軍と一緒に関羽撃破してる」といのはちょっと違うと思うよ。
徐晃が関羽を撃破し、そのあと浮き足立つ関羽軍の包囲網を破るのは一緒にとは言えない気がする。
まああくまでニュアンス以上の違和感はないけど。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 23:36:54
温恢伝見たけどその通りだね。あと俺は関羽がハン城を急襲したという記事を読んだ
覚えがあるな。あと七軍ってどこ行ったんだろう?城兵は数千人だったらしいけど。
少し論議になっている曹仁の件ですが……
この時代、単位として用いられる一軍の兵力は数千というところです。
「曹仁伝」では曹仁は七軍を統轄していたとあり、樊城の戦力は数千とありますが、
対岸の襄陽の戦力、さらに城外のホウ悳の戦力、また篭城戦以前の宛の侯音・
衛開の叛乱鎮定にと割かれ、曹仁時直の余剰戦力がさほどあったとは思えません。
また、漢中失陥後に、劉封や孟達が上庸、房陵へ攻撃をかけて攻略している事も
あり、戦力を一箇所に集中させておけるほど情勢が安定してはいなかったのだ
ろうと思えます。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 00:27:41
とするとやはり曹仁は戦術的に篭城を選択せざるを得なかったようだね。
ん・・・?
援軍待ちで死守なのは無策なの?
素人考えだけど、妥当な選択だと思うな
他の「こうすれば良かった」なんていう戦術は見えてこないし
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 11:07:54
どうみても無策ではないだろ。援軍来るあてもないなら、無策もいい所だが、大きな
戦力がない状況なら仕方ないだろ。援軍のウ禁全滅という非常事態を己の鼓舞で凌いだのは
十分評価できるね。夏侯淵は曹洪の五万の援軍にも関わらず、負けて、漢中取られた
が曹仁は淵とは違い、撃退に成功してるわけだし。
曹洪の戦力は五万もなかったけど
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 12:38:41
下弁で五万いたはずだが。
演義の数字をもちだしてどうなるんだか
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 13:09:32
じゃあいくらだよ?
演義って、いつから史料として認知されたの?
正史のように史料批判に晒されたことがあるのだろうか?
>>114 勘違いしてる気がするけど、『演義』は資料になることはあって史料にはならない。
>>115 しりょう ―れう 1 【史料】
歴史を認識する素材。文献・遺物・遺跡・図像・口頭伝承など。
史書だけが史料じゃないよ。
演義が『史学の資料』=『史料』となるの?
そして史料批判されたのか?を聞いているの
スレタイを読むか、演義が「正史」の一つに数えられてるという証拠を出してくれ。
つうかスレ違いの話だというに……
レスがつかなくなったな。
いや、なんかレスしづらい雰囲気だったから・・・
まだ司馬懿・陸遜等の大物が来てないが後のお楽しみと言う事で始めちゃう?
>>120 まとめてる奴がいなければ、いくら待っても来ないと思う
じゃあとりあえず樊城をめぐる関羽と曹仁の攻防戦に限定してそれに関連した武将の能力について討論してみようか。
・曹仁、荊州の鎮圧に樊へ。
・218冬10月、侯温が宛を根城に叛乱。
・219春正月、曹仁、侯温の乱を鎮圧し樊へ戻る。
・219秋7月、関羽が樊城に軍を進めてくると、曹操、曹仁の援軍に于禁を派遣。
・219秋8月、漢水氾濫し、于禁、関羽に降伏。曹仁の別働隊として動いていた龐徳、関羽に斬られる。
・関羽、樊城を包囲。また襄陽も別軍を用い包囲。
・関羽、周辺の賊をてなづける。
・関羽、呉の計略に乗り公安や南郡の守備兵を樊城に向ける。
・曹操、曹仁の援軍に徐晃を派遣。
・孫権が関羽の背後を突こうとしてることを関羽の陣と曹仁の陣に知らせる。
・219冬10月?、徐晃、関羽を撃破。曹仁、包囲網を破る。
・関羽、退却。
・220春正月、関羽、呉軍に捕らえられ斬られる。
大体の流れはこんな感じかな?
順序が逆とか抜けてるものもあるかもしれない。
問題は曹仁が関羽の北上を受けて樊城に包囲されるまで何をしてたか?だな。
>>122 樊城の攻囲戦は、漢中の情勢を度外視して検証する事はできないと思います。
218年の七月に曹操自身が大軍を率いて漢中へ赴いており、219年の春から
少なくとも三月以前には夏侯淵が討たれ、更に曹操は五月まで戦況を膠着させた
まま劉備と対峙しています。
またこの直後(関羽北上の少し前)に、劉備は劉封や孟達らを荊州西北部の
上庸、房陵に進出させ、これの制圧に成功しています。
このあたりの情勢の推移を念頭に置かなければ、関羽北上が時宜に適ったもの
であったかどうか、や、曹仁の掌握していた戦力の程度、などを分析するにも
不都合が生じてくると思います。
また、曹操は徐晃を直掩として派遣する一方で、張遼やエン州刺史の裴潜、
豫州刺史の呂貢らを樊城救援に召喚するなどしていて、戦力の不足と、この時期
対呉情勢が比較的穏やかであった点などもあります。
また徐晃の進撃が当初は兵力の不足などで思う様にいかなかっと事、関羽が
陣営を列ねて徐晃の南下に備えていながら、迂回と陽動を駆使した徐晃の
巧妙な用兵に翻弄されて大破されてる点も検証の対象でしょう。
つまり諸軍を指揮して侯温を斬った後、城内に数千の兵しか居なかったのは出撃して負けたんじゃないか?って説のことかい?
124は122へのレスね。
>>123 呉が魏に降服したのが217年の春だから、対呉の戦線は小康状態と言えるかもね。
徐晃の軍が少なかったことについては、直前に大軍を送ったにも関わらず全滅したため余剰戦力が少なかったのかな?
>>125 そうですね。
219年の九月に魏諷が叛乱を起こしています。
これを踏まえても、曹操がこれ以上は中央軍を割く事に懸念があったという
可能性もありますし、関羽が于禁を降伏させ、荊州一帯で関羽に帰順する者も
生まれ、その中には荊州刺史の胡脩や、南郷太守の傅方らまでもがいたという
事で、おそらく荊州一帯でも組織的な防衛対策を施せないほどに指揮系統や
戦力に不都合が生じていたとも推測できますね。
また、曹操が増援として徐晃に合流させた将の中で、殷署は平難将軍として
主に関西で関中護軍の趙儼麾下で戦っていた人物ですし、趙儼ともども撤兵
させた漢中の兵力を転用して投入したんじゃないでしょうか。
>>123 > 関羽北上が時宜に適ったものであったかどうか
時宜に適ったものかどうかはにわかに判断するのは難しい。
個人的には関羽は例の廬中策の通りに実行したのだと思う。節も与えられてることだし。
北上は呉に対する備えを解かなかったら致命的なものにはならなかったとも思う。
徐晃には敗れたが曹仁を追い詰め于禁を虜にした。実質的にはともかくある意味大戦果だったと思うよ。
> 曹仁の掌握していた戦力の程度
曹仁の直接率いる軍勢が思いの外少なかったのは兵を分散させる「愚」(断定は出来ないけど)を犯してしまったという見方も出来る。
まあ検証は必要だね。
そのための判断材料となるような記述を具体的に挙げてくれると助かります。
>>124 > つまり諸軍を指揮して侯温を斬った後、城内に数千の兵しか居なかったのは出撃して負けたんじゃないか?
いや必ずしもそうだと思うわけじゃなくて……
漢水が氾濫する前から兵力差があったので援軍を恃んで篭城を選んだのか否か。
その辺の事情がよくわからないということ。
> 徐晃の軍が少なかったことについては、直前に大軍を送ったにも関わらず全滅したため余剰戦力が少なかったのかな?
それもあろうが関羽が公安や南郡の守備兵まで動員してきたことも関係あるんじゃないかな?
>>127 >関羽は例の廬中策の通りに実行したのだと思う
この点に関していえば、論外に思えます。
劉備は211年の入蜀から219年の漢中攻略戦までの8年間を戦い続けた
といってもよく、「楊洪伝」あたりをみてもそうとうに軍資を費やしていたと
推測できます。
また漢中王に即いて間もない時期で内治に多忙であろう事は容易に推測
できます。
とてもではありませんが、荊州での関羽の軍事行動に呼応できるほど余裕が
あったとは思えないですね。
>節も与えられてることだし
これに関して、215年の分割協定に先立って呉の軍勢が荊州南部に侵入して
軍事的な緊張が生じている件から、荊州が益州から遠く半ば独立した軍事裁量
をもとめられる局面が想定されるであろう事、また馬超や黄忠の昇進に伴う
位階の調整、といった面の方が大きいと思います。
これを関羽の北上と直結させられるかは微妙に感じます。
漢中平定直後に上庸を狙うなどの動きもあったので余力が無かったわけではないだろうけど、劉備本人が成都に戻り、張飛では無く
魏延を漢中太守にするなど当時に長安を狙う気は薄そうに思えるね。
>>128 > この点に関していえば、論外に思えます。
いや蜀全体がその方針で動いたということではなく、
関羽の(おそらく)独断の理由の一つがそれではないか?ということ。
それ以上でもそれ以下でもないです。
関羽の北上は直接的には荊州を鎮撫に来た曹仁に対抗する動きだったと思う。
が、それが大きくなりすぎた理由の一つに廬中策の件があったんじゃないかな?
劉備側としては連動させてるわけではないが、黙認してるっていう感じ。
後に劉封が関羽に援軍を送らなかったことを責められてるけどこれは口実くさい。
どうせならついでに関羽や徐晃の記述も抜き出して
同時検討キボンヌ。
せっかくの討論を有効に反映させるためにもぜひ。
とりあえず徐晃。
前段
・曹仁の援軍として曹操に派遣され宛に駐屯。
・漢水が氾濫し、関羽により于禁は捕らえられ曹仁は樊城に押し込められる。
・徐晃、陽陵陂まで前進し、後発の徐商らと合流。
偃城攻め
・徐晃、敵の背後を断ち切ろうとすると偃城の賊(関羽の軍か関羽に呼応した賊の一つか不明)は退却。
対関羽
・徐晃の元にさらに殷署ら合計12の屯営が合流。
・徐晃、関羽軍から三丈ばかり離れたところまで前進。
(三丈ってどれくらいの距離?一丈=3mくらいとは明らかに違う)
・徐晃、関羽軍の屯営の一つ囲頭を攻撃するフリをしてもう一つの屯営四冢を攻撃。
・関羽、包囲軍から約5,000の歩兵騎兵を率い徐晃軍に攻撃を仕掛けるが退却、追撃を受け撃ち破られた。
とりあえず論評は後回し。
結論の無い議論はオタクの知識疲労でしかないな
いきなり結論から。(関羽北上戦限定)
【曹仁】
・司令官的能力
撤退しないという判断は正解。
だが篭城以外の選択肢を削られるような状況に追い込まれたのは大きくマイナス。
・部隊長的能力
部隊長としての見せ場はなかった。強いて言えば兵の士気をなんとか維持し続けたことか。
∴部=評価外、司=±0orややマイナス。
【徐晃】
・司令官的能力
彼我の戦力差を見極め戦力が整うまで戦いを控えた点はプラス。
偃城攻め、体関羽戦などは陽動を使った用兵は評価。
・部隊長的能力
関羽を会戦で撃ち破る。
∴部=加点、司=加点。
【関羽】
・司令官的能力
状況を巧みに利用した点(漢中の長期戦、魏の政情不安定、漢水の氾濫)は大きく加点。
だが状況の変化(呉が背後をつく動きを起こした)にもかかわらず目前の戦場に固執してしまった点は大きくマイナス。
・部隊長的能力
徐晃に撃ち破られる。
∴部=やや減点、司=功罪半ばといった感じだが、結果を考慮してやや大きめに減点か?
ただ曹仁、徐晃、関羽に求められたものはそれぞれ質やレベルにおいて異なるものなのに司令官的能力と一括りにして良いものかやや疑問。
他の項目で補完すべきか?
結論の内容には賛同する所大だけど
減点方式で採点していったら、戦闘ごとに誰かしらマイナスされていく事になり
"何もしてない奴"の方が評価されるような結果にならないかい?
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 21:27:43
長い篭城で消耗した兵を率いて関羽の包囲網を撃破した曹仁に部隊長の見せ場なしは
酷評だろ。
やったこと・挙げた功績は素直に+してあげたいが、減点は難しいな。
例えば今回の関羽の場合、時期を見て北上したこと、北方の盗賊を使って錯乱、水害で孤立した(と思われる)ホウ徳をすかさず叩く
など功績があり、対徐晃も最初は兵が少ないため関羽に対抗できず、曹操が幾度も増援を送ってきた結果敗れた。
多分呉に対する守備兵を減らしたのも、援軍を受ける徐晃に対応するために必要だったのでは?とも思う。
この判断は結果として大失敗を招いたが、これは呂蒙・陸遜等が細心の注意を払って行った行動だったし、配下の糜芳や士仁、
劉封と孟達など支援もままならない中での行動で、もはや個人では対応できないレベルだったのでは?と援護したい。
開戦前に政治的失敗があったのは確かだけど、純軍事的に考えれば部・司ともに評価できる戦いだったのでは・・・
曹仁の司には満寵の、部には徐晃の活躍も無視できないが、曹仁自身の奮戦も重要な要素だと思う。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 22:19:57
激しく同意。司令官はまず負けずに拠点守るのが絶対だし。評価が難しいのがハン城の
初期の曹仁の行動だな。
>>136 どうだろうねえ?
曹仁が関羽の包囲網を撃ち破った時には、
既に関羽は徐晃に撃ち破られてるわけだし、
呉が南郡を占拠した(しつつある?)という情報も入ってる。
浮き足立つ包囲網を突破してもあまり評価できない気がする。
>>139 しかし曹仁は荊州を鎮撫を目的として来てる訳だから、
いろいろ理由があるにせよ、
「篭城しか出来ませんでした。でも樊城は死守しました」
じゃああまり高い評価はやれん気はする。
ただまあいずれにしろ、どちらも無能な武将では到底なしえないことはたしかだろう。
140の補足。
つまり曹仁のレベルが高いからこそつけられるケチであって、並みの武将なら素直にいい評価を与えてもいいかなとも思う。
考え方変かな?
満寵伝を見るに、関羽の攻撃は苛烈で、城壁は水害のため度々崩れ、かなりの劣勢だったのは間違いない。またもし樊城が落ちれば
関羽の憂いを断たれ、もう取り返すことはできないだろうとも言われているので、あそこでの曹仁の奮戦は関羽の敗因の一つではあったと思う。
>>142 > あそこでの曹仁の奮戦は関羽の敗因の一つではあったと思う。
それはその通りだな。するとその場合は司令官と部隊長、どちらの能力にカウントされるべきかな?
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 23:12:50
ハン城は魏の南方の要地で、魏の荊州領の最重要拠点だから、司令官でいいだろ。
まああそこで曹仁が引いた場合、万全の状態でまだ兵の集結してない徐晃と軍を構えるわけで、徐晃を破るとこまではいけたかも。
でも結局呉に後ろを取られるから進軍はそこまでだな。捕まることもなかったろうが。
>>143 満寵の進言を容れた判断は司、実際に守りきった能力は部じゃないかな?
735 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:17:44
三戦は新時代に突入したんだよ
昔を懐かしむような馬鹿はもう三戦に必要ないといえよう
737 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:20:12
日和見よ何調子に乗ってんだ?
三戦の新時代にお前のようなヘタレな厨房が必要なのか?
739 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:21:28
むしろ俺が率先して新時代に導くwwwwwww
741 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:23:02
俺は日和見様だwwwwwwww
742 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:24:13
お前に誰がついて行く?
魔玉に煽られ厨房ぶりを発揮して無様な姿を披露した貴様に!
743 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:24:40
だれも着いて来ないでいいwwwwwwwwww
747 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:26:58
新時代きづくと豪語しておいて誰もついてこなくて良いとは何だ?
さっきと言ってる事が違うと思うが…
749 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:28:26
厨房が支離滅裂になってる
お前は三戦板には必要ない存在のようだ
日和見宰相とは芸も知識も無く住人に煽られ池沼・厨房・基地外・馬鹿・口先大王・知的障害すべてを
出すもなす術なしで叩かれた大馬鹿の糞コテです
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1118594252/545
出てきた人を強引にまとめて議論を活性化策
名前の後ろの(+)はその中でも優秀という評価
段階を減らす為
意見があればどうぞ
【司令部的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾+、馬超、郭淮、
C:劉備+、ケ艾+、曹仁+、孫権、于禁、朱然
D:戦場に出た事のある人物(武官系
E:戦場に出た事の無い人物(文官系
F:
【部隊長的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操+、曹仁、ケ艾
B:于禁、馬超、呂蒙、周瑜、朱然、郭淮
C:劉備+、諸葛亮、孫権、王渾
D:戦場に出た事のある人物(武官系
E:戦場に出た事の無い人物(文官系
F:
【個人的な強さ】
S:許楮+、典偉+、関羽、孫策、太史慈、ホウ徳、呂布
A:張遼、張飛、孫堅、周泰、董襲、甘寧、凌統、丁奉
B:曹操+、曹仁+、公孫賛、呂蒙、董卓、曹彰、程普、黄蓋、韓当、魏延、黄忠、楽進、凌操 趙雲
C:曹丕、夏侯惇、韓浩、史渙、曹真、ビ竺、孫権、魯粛、劉曄、劉備、徐庶、周瑜、徐盛、蔵覇、馬超、虞翻、郭、陳武、楽進、李通 于禁 蒋欽
D:戦場に出た事のある人物(武官系
E:戦場に出た事の無い人物(文官系
F:杜預先生、厳駿
・・・・・・
>>148 でもよ停滞するよりよくねーか?
議論と言っても上でしてるのは結論の出さない雑談で終わってるし
誰かが評価しないとおわらんよ?
能力値決めのスレじゃなく正史を雑談するスレならわかるんだが
とりあえず呂布がSってのが気にいらない
いや、【個人的な強さ】はもういいよ・・・
なんでわざわざ引っ張り出してきたのかも意味不明
しかも楽進ふたりいるし
>>151 個人的な強さは分けるときの目安の為に出した。
>>152 気付かなかったわい、3で既に二人居るのな。
>>149 「終わらない」というよりも「始まらない」が正解
>D:戦場に出た事のある人物(武官系
>E:戦場に出た事の無い人物(文官系
「不明」だろ。
無理やり入れる必要はない。
議論を広げるための間口として、かなり有り難い
こっからどう云々してくかだな…。
とりあえず、
【司令部的な強さ】
>A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
ここらへんの比較からか?+や-付くのか、SやBへの移動があるか。
>>156 まずは大まかに分けていくべきかと思う
細かな査定は置いて置いて、気になる評価に異を唱えるなり
人物を追加したり等をするべきかと。
人物追加をする場合は、事績と供に、断定評価を入れる方がよろしいでしょう。
評価を入れれば、それは高い、低いと議論ができますので。
入れないとせっかくの議論が雑談になりますゆえ。
>>155 武官系・文官系のくくりはあれだが全く記述がない奴よりちょっとでもある奴の方が評価できるように思う。具体的には張昭とか。
それと147のは条件厳しすぎて殆どの武将がDクラスになっちゃう気がするよ。
とりあえずちゃんと人数入れてやらないと諸葛亮や劉備とかが不憫すぎる気もするが、大雑把でもいいからちゃんと現状を整理するところ
から始めた方がいいんじゃない?現状の奴をA・B・C(上中下)に別けたらどんな感じか。+-はまだ早いよ。
じゃあとりあえず司令官馬超(B?)とケ艾(C?)に異議を唱えてみる。
数回に渡り姜維の考えを読み翻弄し、まさかの山越えで蜀を滅ぼしたケ艾と、十万をもって挑むも曹操に翻弄された馬超だと、
せいぜい互角かケ艾の方が上に思える。
>>160 たしかにそうだね。
でもケ艾の山越えは司令部というよりも、不可能を可能にした
プロジェクトXに出てきそうな部隊長としての統率力かと思う。
孫権が同位置にいるから混乱するんだろ
まあ、ケ艾がCとなると、大半の人物がD以下になるのは確定的だしな。
【司令部的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾、ケ艾、郭淮、
C:劉備、馬超、曹仁
D:孫権、于禁、朱然
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
G:
【部隊長的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、曹仁、ケ艾
B:于禁、馬超、呂蒙、朱然
C:周瑜、郭淮、劉備、諸葛亮
D:孫権、王渾
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
G:
これでどう?まだ名将ぞろいで別けづらいね。
朱然は江陵の城を五千で曹真等名将から防衛した戦いもそうだが、李興等との戦いで夜襲かけて撃退、曹丕の動きを読むなど中々の
知恵も見せてるしCに昇格できそうに思うけどな。
>>164 諸葛亮の【部隊長的な強さ】は少なくともBはあると思う。
張郃、王双を討ち取ってるし。
一方で【司令部的な強さ】では若干ミスが目立つ気がするが…
トウ艾の司令Bは賛成。(部隊長も今のままAでいいと思う。)
んでも、馬超がCってのはちと違和感
連合の瓦解による敗北は大きなマイナスではあるけど
連合まとめて長安越えて(落として?)潼関に布陣したあたりの司令能力は評価出来るし、
「曹操の渡河を阻止して、河東での穀物切れを待つ」っていう作戦立案自体は
理にかなってると思われる。
勢力としての基幹そのものが堅いとは言えない状況で(その後の再起も含めて)
随分と実績残せてる方だと思うよ。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 03:18:47
Cでも充分高評価だと思う
だってこれ普通のレベルがEでしょ
D>まあ優秀 C>優秀 B>非常に優秀 A>・・・
というふうに解釈してるんだが
孫権の司令官的強さがDっていうのは納得いかん。
軍を率いて、ほとんど勝ったためしがないのに。
>>168 Eを普通と設定したら、
D>ちょっと出来る C>まあ優秀 B>優秀 A>非常に優秀 S>トップ
じゃないか?
三国時代の司令官級人物ってそんなにいないだろうけど、その中でもかなり下だろうなぁ孫権。あと、
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
この行まぎらわしいだけ。ランク付けできそうになけりゃ外した方がいいとオモ
武勇付けの、終始ぱっとしなかったような感もこのへんが原因だったんじゃないかな。
前線指揮官の任命にも
変にツートップに仕立て上げて、混乱おこしたり(周瑜と程普)
後に呂蒙にゴルァされたりだしな。
敗戦って結果のみでガンガンマイナスにしてくのは良くないと思うけど
孫権に関しては軍事関連の司令官能力が高いとは思えない
史書の記述を元に能力決めれるテンプレが某所にあったんで、
それを作り直してみたんだが、投下していい?
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:21:51
武勇 猛将タイプの将が部隊を率いた時の戦闘能力
【E】病弱。弓は札を穿たず。馬に乗れず。
【D】合戦に参加した。武官の経験有り。
【C】壮烈な戦死を遂げた。先鋒として敵を打ち破った。
殿・後詰めとして敵を防いだ。騎射に巧みである。
【B】力戦して功有り。武器を奮って多くの敵兵を殺す。
城・敵陣に一番乗りすることが多かった。
力戦して陣を陥れ敵を退ける。
【A】殿・後詰めすると敵は恐れて近づかない。虎を斬り殺す。
槍術・剣術・武術・馬術の天下の達人。
味方を護衛して敵中を突破。名前を聞き、旗を見ただけで敵は恐れる。
【S】勇三軍に冠たり。当時きっての猛将とされた。
一般民衆に武勇を謳われる。敵中に突入し、将を斬り旗を倒し、傍若無人に暴れる。
神の如き武勇と恐れられる。敵中に単騎突入し、敵将の首を獲る。
采配 知将タイプの将が部隊を率いた時の強さ、大軍を率いた時の用兵の巧みさ。
【E】一軍を率いた経験無し。
【D】一軍を率いた経験有り。都督の経験有り。
【C】一軍を率いて敵軍をしばしば破った。一軍を率いて敵城をしばしば攻め落とした。
総大将として采配EやDの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
采配EやDの将が篭る堅城を落とした。
兵士・勇士をよく養う。兵士に厚く恩賞を与えた。
食事を兵士と同じにし、陣営を立てるまで休む事なく辛苦を共にした。
【B】軍陣が整い、号令が行き届いている。
総大将として采配Cの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
采配Cの将が篭る堅城を落とした。
遠くまで斥候を放ち敵を防ぐ。独特の得意の戦法を持つ。
軍法を順守し、軽挙妄動をしない。善く兵を用いる。
【A】総大将として采配Bの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
采配Bの将が篭る堅城を落とした。
軍規が厳正で全く略奪をしない。兵士の心をよくつかみ、心から信頼されている。
【S】総大将として采配Aの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
采配Aの将が篭る堅城を落とした。
智略 敵の行動を読む能力、計略にかける能力。
【E】計略を用いたことや情勢分析を行った記述が無い。
【D】謀士や腹心を務めた。弁舌に巧み。
【C】智略EやDの敵の計略を見破った。
智略EやDの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
敵に計略を仕掛けて成功させたことがある。
【B】智略Cの敵の計略を見破った。
智略Cの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
【A】智略Bの敵の計略を見破った。
智略Bの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
複数にわたり、策略を立てて成功させた。
【S】智略Aの敵の計略を見破った。
智略Aの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
ほぼ計略に誤りや失敗はない。
計略を次々と立てすべて完璧に成功させた。
内政 政策能力、統治能力
【E】文官職の経験無し。
【D】文官職の経験有り。
【C】文官職を務めて有能と称された。
内政面での献策を行い、政治を改善したことがある。
建国の際の制度作りに関与した。
【B】文官職を務めて、内政面で際立った業績があった。
内政面で数多くの献策を行い、政治を改善した。
地方を治めて、民衆に讃えられるほどの善政を敷いた。
賊が跋扈する地方を統治し、賊を根絶した。
土地を切り開き、治水を行い、儒学を振興し、民衆の生活を安定させた。
建国の際の制度作りに関与し、優れた制度を作るのに貢献した。
【A】文官職を務めて、内政面でその時代の手本になるほどの業績があった。
地方を治めて、後世まで語り継がれるほどの善政を敷いた。
政策面で画期的な献策を行い、絶大な業績をあげた。
優れた法律を制定するのに尽力した。
建国の際の制度作りを主導し、優れた制度を作るのに貢献した。
【S】文官職を務めて、内政面で後世の手本になるほどの業績があった。
政策面で画期的な献策を行い、歴史に残るほどの絶大な業績をあげた。
建国の際の制度作りを主導し、後世の手本となるほどの制度を作るのに貢献した。
>【S】勇三軍に冠たり。当時きっての猛将とされた。
>一般民衆に武勇を謳われる。敵中に突入し、将を斬り旗を倒し、傍若無人に
>暴れる。
>神の如き武勇と恐れられる。敵中に単騎突入し、敵将の首を獲る。
なんかあからさますぎてる。
負けたりする事を過小評価し過ぎるのは良く無い
孫権の敗北も壊滅に至っていないので、物凄い下手と言うわけでは無いでしょう。
あと段階を分け過ぎるのも良く無い徴候かと
後日微調整で分けて行くのであれば問題ないが当初からそれだけわけるのは難しいでしょう。
分かりやすく分け、その後に段階を増やすなり調整されるのがよろしいでしょう。
学校でお馴染みの5段階評価程度が評価するによろしいでしょう。
A:突出している
B:優秀である
C:能力が認められる
D:記述が無い
E:欠陥がある
>173
テンプレ乙。目安には手頃でないの。
「だって○○にも〜の記述がある」
の能力インフレに制限はかけられると思う。
武勇 猛将タイプとか、采配 知将タイプってのは
前者を部隊長能力、後者を司令部能力って考えていいの?
なんか、猛将とか、 知将って括りは全部評価し終わった後から出てくるもんで
先に設定されると激しい違和感がある。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/18(土) 03:03:23
ageてみよう
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 20:41:22
age
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 20:54:56
スレ内容読んでないけど、陳登の能力が抜群なのは間違いない
>>180の基準を元に陳登を…
部隊 C
司令 B
内政 C
外交 B
なんかインフレ気味。
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 21:13:46
>>186 ええ?!
部隊 B+
司令 A
内政 B+
外交 Bだよ
孫策に攻められても軽く撃退した作戦能力、終いにはその途中で孫策暗殺されて死亡
その後孫権が弔い合戦にやってきたが、これも軽く撃退で司令A
孫策戦では自ら部隊を率いて孫策軍の首級5桁上げるほどの快勝で部隊B〜A
内政は抜群の手腕を上げ民にも慕われる
広陵太守から東城太守に移った時も、広陵の沢山の民が慕って東城に移ったほどの仁徳
早死にしたからそれほど名前残せなかったけど、抜群の人物だと思う
話しを戻してみると、
>>164のEに孫権を入れると解りやすいとオモ。こいつ以下の活躍ならEってことで。
S:とりあえず空欄
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾、ケ艾、郭淮、
C:劉備、馬超、曹仁
D:于禁、朱然
E:戦場に出た事のある人物 孫権
F:戦場に出た事の無い人物
G:
【部隊長的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、曹仁、ケ艾
B:于禁、馬超、呂蒙、朱然
C:周瑜、郭淮、劉備、諸葛亮
D:王渾
E:戦場に出た事のある人物 孫権
F:戦場に出た事の無い人物
G:
馬超の司令官については曹仁・劉備と比較しての問題になるかと。
BとCの差そのものがイマイチピンと来ない。
光栄的統率値で例えるなら、95〜90の間の差みたいなレベルの話?
>>188 孫権は+評価できそうなところで黄祖、皖城、荊州×2、濡須×2、石亭
で司令官として動いているがここら辺の評価はどうなってるの?
ここで孫権を酷評してるやつらは、「合肥がダメ」ってだけで論じてる感じ。
暫定的にであれ、下があれば納得すんだろ?
S:
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾、ケ艾、郭淮、
C:劉備、馬超、曹仁
D:于禁、朱然
E:孫権、(董卓)
F:(袁術、曹爽)
G:
>>189 たとえば馬超は10万を率いて長安まで進出、その後敗退、ぐらいしかないし、劉備は曹丕に「兵法を知らない」とまで言われる
大失態をやらかしてるのに比べて、例えば郭淮は諸葛亮の作戦を見抜いたり、姜維を押さえ込む働きなど結構な差があると思うが・・・
>>190 そこらへんは部下の働きも大きかったのと、合肥だけでなく黄祖攻め等失敗が多かったりとかも関係あるんじゃないか?
本来なら曹操だって劉備だって部下の貢献あってのはずなんだがね。ガチ評価は皖城ぐらいな感じだ。
それと二度目の濡須に孫権は出陣してないのでは?してたらゴメン。
>>193 甘寧奇襲の江表伝の記述だと濡須で指揮してるっぽい
>>194 濡須は呂蒙と蒋欽。
孫権は多くの戦で総司令または総大将と言うべきポジションで参加してる
が、当人が積極的に指揮を執ると何故かポカが多かったり…
あと甘寧の奇襲だけど、呂蒙伝によれば呂蒙も曹操軍の先鋒に攻撃している事から、
甘寧伝のはあくまで甘寧個人だけの事績を取り出したと考えられます
>>193 その曹丕自身は軍事能力かなり妖しいんだが。
そのへんは笑える話ではあるな
>>193 そうなると、BとCの差ってほとんど戦闘の記述量の差に拠るものに
なりそうな気がするんだわ。
郭淮が優秀だってのはわかるけど、劉備、馬超、曹仁あたりと
実績面での差がピンと来ない。
>>196 多分、曹丕が劉備のこと笑ったとき、部下はみんな「お前が言うなよ」って内心笑ってたと思う・・・
正直、曹丕=劉備=孫権
だと思うのだが、甲乙つけがたい
能力だけで見れば明らかに劉備>他2人
( ゚Д゚)y−~~
>>204 頼む、どこらへんが圧倒的に違うのか教えてくれぃ
領土の増やし方
ハングリーさ加減とかも
劉備はなんつーかバケモノ
曹操はかくれなき英雄だが、祖父の後ろ盾と人脈と莫大な遺産など恵まれた環境があった。
曹丕は才に恵まれてはいたが、以下同上
孫権も才に恵まれてはいたが、同じく父兄の(ry
劉備は曹操には劣るものの、卑賤の身から皇帝にまでなったのはまさに(ry
>>201 劉備は曹操・曹仁・陸遜・高順といった一流どころ以外には負けてない。
結構ザコクラスの将を食い物にしてる。
まぁ正直舐めてかかって賊軍にけちょんけちょんにされるような奴と一緒にしてくれるなってとこですよ。
>>206-208 用兵の議論じゃないの?
>>209 高順あたりまで一流にするなら孫権、曹丕も
有名どころに負けてる気がするけど違うの?
ザコになら勝ってるしね!
というか曹丕に指摘されるほどあからさまな失策をする
劉備が、この二人を圧倒しているとは思えないんだがなぁ
三人ともCでよいように思うが
>曹丕に指摘されるほどあからさまな失策をする劉備
この論理が笑われてることにまだ気づいてなかったのか…
>>211 劉備は戦歴のおそろしいまでの長さからいって、有名であろうが無名であろうが負けの印がついてしまうのは仕方がない。
そもそも劉備降格の話かと思えばともかく曹丕孫権がCって。上で出てた孫権擁護の人かい?
>>212 戦下手な曹丕の予想通りに敗れてるのだから論理としてはおかしくない
>>213 擁護というよりも、同じ程度の司令部の力かなと
優秀な部下が入ればちゃんと作戦立てられますよみたいな感じ
劉備は部隊長としては長いけど、一から戦略立てる部署は苦手そうというか苦手だよね
曹丕、劉備、孫権、于禁が司令部Cで
劉備、于禁が部隊長B
曹丕、孫権が部隊長Cな感じかなと思うのだけど
210は
まぁ正直(孫権みたいな)舐めてかかって賊軍にけちょんけちょんにされるような奴と(劉備を)一緒にしてくれるなってとこですよ。
でオケ?
>>215 曹丕の司令的役割でプラスになるようなことってなんだろ
劉備の敗北を予言とか?
劉備は戦術指揮は普通
ただ戦闘に入ると異様な粘り強さを発揮する不思議男
曹丕は戦術指揮は不明
軍学に優れた親がいるお陰で知識は豊富な頭でっかちな気がする
孫権は戦術指揮は同じく普通
でも粘り強さが足りない
劉備って軍略にはどれくらい明るかったんだろう
個人的には軍略無視の完全現場主義で生き残ってきたような印象があるんだけど
曹丕が劉備の布陣を笑ったというのも夷陵で大敗したから逸話として残ってるだけで
実際はそれまでの戦いも全部軍略無視したモンだったんじゃないだろうか
現場のセオリー=軍略の基本だぞ
>>220 劉備が負けた戦ってのは、夷陵以外は「こりゃ曹操じゃねーと勝てねーわ」ってぐらい、
相手か戦力か状況が悪い戦い。
まっとうな戦力で戦えた戦では、ほとんど負けてない。
夏侯惇との戦いでは伏兵も使ってるので、軍略に暗い事は無いと思う。
あと、劉備は「勝てない」と判断した時の逃げっぷりでは一流。
ヤバイと判断したら、家族も部下も置き去りにして、一目散に遁走する。
勝敗分岐点を見切るのも軍略のうちだろう。
逃げ足の速さでいえば思い出してしまうのは姜維
姜維の場合は文字通りの「速さ」だが
ごめん、軍略じゃなくて軍学だな
曹丕なんかは父親がアレだからかなり孫氏なんかにも堪能だったんじゃないかと思うが
劉備はそういうのをどの程度修めてたんだろうって疑問に思ったのよ
盧植門下の時は勉強苦手で遊び回ってたって言うし
勉強よりも遊びを好んだとしか書かれていないよ
また学費だしてくれた叔父の劉備の評価はかなりのものだよ
でも、諸葛亮を実戦に関わらせなかったところ見ると、机上論より現場の経験重視してたのかもね。
なんで龐統のことは普通に軍師として用いてたのかは謎だけど。
劉備的に龐統と諸葛亮の扱いを分けたものってなんだったんだろう。
法正も実戦経験無かったんじゃない?
現場経験ももちろん考慮したろうけど諸葛亮の人格がデスクワーク向きだったと感じたんじゃないかな。
ホウ統は人を持ち上げる性格だったから前線で武将と諍いを起こさないと踏んだんだと思う。
記述こそないが荊州益州の人間は実戦経験は異民族戦にて積んでいる人間もいると思う
諸葛亮に関してはどう見ても理論先行型+いざって時に足を止めて最善手考えるタイプだから
実戦だととても危なっかしくてつかえなかったんじゃないかと
No.1が戦争に出た場合、No.2が国を固めるのは当然かと。
魏で言えばジュンイクも戦争が下手だから留守をさせられていた分けではなく
いざという時に曹操の全権代理人たりえるから留守を守っていたわけだ。
国を固めてたのは関羽でしょ
龐統の死後は諸葛亮も呼び寄せられてるんだから
劉備の中で諸葛亮をNo2として認識してたとは思えない
劉備が諸葛亮の進言を聞き入れたこともほとんどないし
夷陵敗戦後の孔明の言葉からも当時劉備の信任が諸葛亮第一でなかったことは明らかかと
関羽が樊城攻撃を開始したとき、孔明も何らかの手を打つべきだったのにそうしなかったのは、
当時まだ孔明がそうしたことを決定、進言できる地位にいなかったからではないかって見解もあったな。
>>231 漢中王になってるし、三分の計のままに行動してる。
蜀討伐は新しい人材ばかりを連れて行って能力を見聞している為
劉備が諸葛亮以上にホウ統を評価しているからでは無い。
荊南は劉備の本拠地であったが、得た蜀が本拠地に変わる
つまり、中央が変わるので、No2の諸葛亮を呼び寄せたとも言える。
No2とかにこだわる必要ないんじゃない?
単に諸葛亮に関しては、戦術面より内政やら外交面を評価した配置だったってだけのことじゃないか
>>233 漢中王になったのは曹操の魏王就任に対抗するための政治的措置だから
単純に諸葛亮の進言に従ったためって考えるのはどーなのよ
あと、草盧対の下りは記述に矛盾があるから迂闊に史料として拘えるのはどうかと思うぞ
諸葛亮の住居で語り合ったのは確かだろうが本当に天下三分計が語られたかどうかは疑問
そもそも益州奪るべしと強硬に進言したのは龐統でしょ
>>234 劉備に足りない視点を持っていたというのが正解かもね
>>235 結論として諸葛亮に有利な事が書かれている正史は捏造で
諸葛亮に不利な事が書かれていなくても想像できそうな事は正しい正史なのか?
対抗措置の為の進言は進言じゃないのなら、どんな進言なら進言なんだ?
というか、ホウ統の蜀取り進言は蜀取りに行く途上での話(獲る方法の話)だろうに
いつの間に発案者になってるんだ?
>>236 龐統が発案者と言ったわけじゃないよ
天下三分計が捏造だなんてことも言ってない
ただ、天下三分が草盧対の時点で打ち合わせされていて益州奪るのが予定通りだったなら
どうして劉備が今さら迷ってそこに龐統なんかが出しゃばってくるのかってこと
発案者である諸葛亮が何も進言しようとしないのはなんで?って疑問に思うのはそんなおかしいか?
だから、天下三分計が実際に戦略として提示されたのは劉備が益州に招かれたのがきっかけだったんじゃないかってこと
諸葛亮と龐統、劉備といったみんなで話し合って決定したつて考えるほうが現実的だと思うけど
草盧対だって「二人だけで話し合った」みたいなこと書いてあるのに
じゃあ誰がその二人の会話を記録したの?つてツッコミ入るのは当然のことでしょうに
劉gと諸葛亮の密談とおんなじだよ
漢中王は、諸葛亮一人の進言ではなく蜀の首脳陣全体で話し合って決定されたことを
形式上諸葛亮が進言してそれを採るって形で進められたんじゃないかってことね
もちろん諸葛亮が大きく関与してたのは確かだろうが諸葛亮個人の業績に帰するのはどうなのよって話
別に諸葛亮が無能とかそんなこと言ってないからいちいち絡んでこなくていいよ
Shiftキーの調子がおかしいのか「って」が「つて」になってるとこがあるけど気にしないでくれ
>>237 進言と呼ばれるものはみんなで協議した中での中心人物が行うものだと思うのだが
なんで諸葛亮の時だけは、諸葛亮の功績にならないんだ?
というか天下三分計は諸葛亮の自己申告なので、信じないのならそこで話が終わる
ホウ統は周瑜の元で蜀攻略を協議していたはずだから、蜀攻略のスペシャリストだろうと思う。
孫家より劉備を選んだのは蜀攻略をする予定があったからじゃなかろうかと想像している。
まあ確かに、天下三分の構想聞かされた時点で、
益州奪る=同族の劉璋攻めることになるって気づけや劉備、とは思うな。
今まで触れたことのない戦略構想に触れたせいで浮かれまくって、
そんなことまで気が回らなかったってのも劉備ならありそーだなー、とは思うがw
>>239 そういう捉え方なら別に俺にも異存はないよ
>>233からの流れで諸葛亮が個人的に行った進言に限定した話なのかなと思ってたので
どこからが議論の結果でどこまでが諸葛亮個人の意見か一個一個見定める流れなのかと思ってた
んー、つまり、龐統は蜀を攻略するためなら仕える陣営はどこでもよかったってことなのかな
ちょっと興味深いんで詳しく聞かせてほしい
>>241 これは漏れの想像に過ぎないと断っておくので注意
ホウ統は周瑜のシンクタンクとして蜀攻略の作戦を考えていたと思う。
理由は周瑜の部下であり、魯粛が知るほどの優秀なスタッフである。
故に周瑜が行おうとしていた作戦に参画していた可能性が高い為。
蜀攻略でも三策用意している周到さからも想像できる。
しかしながら、心血を注いだ蜀攻略作戦は周瑜が死ぬことで頓挫する。
後任の魯粛は評価はしてもらえるが今すぐの蜀攻略に積極的ではない。
そこでホウ統が蜀攻略を企図していた事を知る諸葛亮がスカウトをしたのではないだろうか?
コネの無い突然のホウ統士官、いきなりの抜擢は同門の諸葛亮がコネになり推薦したと考えた方が自然。
ホウ統も考案した作戦を試せるので誘いに乗ったんじゃなかろうかと思う。
呉に居たらお蔵入りになりそうだったわけだし。
現代でもお蔵入りなりそうな企画ごと転職するのはママある事だしね。
>>242 なるほどね
俺個人は龐統が蜀に降ったこと自体はあくまで偶然みたいなもんだと思うけど
一度干されかけてからの再抜擢にはそういう意図が働いてたと考えられるかもしれない
魯粛も龐統を重用するよう劉備にわざわざ書状を送ったって話だけど
魯粛は劉備が益州を奪ることに肯定的だったわけで龐統を活かせというのはそういうことだったとも考えられる
俺も天下三分という明確な構想を当初から諸葛亮と劉備が共有していたとは考えてないけど
諸葛亮が益州攻略を視野に入れていたということまで否定するつもりもないので
廃れたな……
必死になってスレ立てた奴が飽きたんだろ、元から分かってたことじゃん
ゲームと無関係になっちゃったから興味失った人も多いだろうし
だろうな。あそこまでゲーム関係なくなると当初の意味が失われる…。
>>191 孫権って、兵を率いて活躍した場面が全く思い浮かばん。
>>248 >>191じゃないがこのスレでいうところの部隊長としての能力であればD,Eクラスだと思う。
ただし司令部としての能力だと
>>190の様に+評価できる部分も多いのでCクラスには入ると思う。
黄祖とかは+にしたって時間かかり過ぎじゃないか?
最初の侵攻も、地固め不足で撤退してるし。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 17:32:00
あっちでは趙雲が紛糾しているのでこちらで
趙雲
【個人的な強さ】B
【部隊長的な強さ】C
【司令部的な強さ】E
【政治家的な凄さ】F
【事務官的な凄さ】F
【魅力的なカリスマ】C
ぐらいかな?
いや、こっちじゃもう無理だろ。一番最初に武勇とかやりだした時点でメチャクチャだった。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 19:19:33
それには同意する。
前スレから見てたけど抜き出したりリスト作ったりしてたやつは全部一人でやってたのかね。
もともと光栄三国志の能力値スレから分割したのにゲーム関係ねえとなりだしたあたりからおかしくなった希ガス。
>>240 リスト作りとかは自分も協力してたけど
混じってた時の感じでは何人かいたと思う
というか、抜き出しは1人やるだけで結構疲れるんで、それなりの人数居ないと無理。
武勇を別個で抜き出しておくってのは、
個人武勇記述と、軍勢統率を、混同しないためには良かったと思う
>>252 そんなとこだろうな
【魅力的なカリスマ】とかの基準はわからないけど
おおむね納得。
>>252 まだ過大評価、オールEでおおぬね納得。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 20:42:15
そうですね
寝そうです。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 21:35:42
趙雲は劉備の親衛隊長だから過大評価という言葉をよくきくので
武力はBぐらいないと親衛隊長として伝は立たないだろうに
俺趙雲嫌いだからオールF。
あっち見てると、
趙雲の事蹟を何もかも高評価に結び付けてて恐れ入るな…
知力80じゃ違和感あるけど、70ぐらいはあるとか、
無根拠に何言ってるんだという感じになる…
演義だとそれぐらいありそうだがな
理知的にふるまってるし、参謀としては不足でも理解力はあるし
諌言もしている。策に嵌る事も無いし、諸葛亮に信頼されている。
なんか低い要素とかあったけ?
というか徐晃や張[合β]は知力とかそういうのは80ぐらいくれてやれば
バランスはとれる気がするがな
策に嵌る事も無いというか、
優秀な敵参謀に計略を弄された事が無くないか?
諌言に関しては、入蜀時の発言を政治の数値に多少考慮する以外は
評価に入れるのは微妙な気がする。
あと、諸葛亮に信頼で知力ウプってのが分らん。
賢い奴に信頼された奴は賢いに決まってるって考え?
戦術の要にされるのは判断力を評価されている事だと思うのだが
策は付け入る隙が少ない人物という扱いだと思うのだけど
演義だけど、例えば劉備が呉に抑留して骨抜きの時も見抜いたり
縁談をもってこられても裏を見抜いたりと低いよりは高いエピソードが多いな
諌言は政治とか言いはじめたら、武官の癖に政治高杉とか言いながら低くされるしな
あれはこれ、これはあれとか言いはじめたらいちゃもんなんぼでも付けられる
それにあれは戦略性の問題だしなぁ。
正直、呉ではなく魏を征つのが正道という諫言がそれほど賢いものには思えんのだけど
劉備に正面から諫言した胆力は賞賛に値すると思うけど
>>268 では、呉遠征時の賢い諫言とやらを教えてください。
>268
同意
荊州奪還しないと、戦略的にも生産力的にも、先が苦しくなる。
国家の在り方を考えればこそ呉遠征は避けられないだろう
>269
賢い諌言っつーと、呉遠征中に初戦の優勢な時期に
呉と再度同盟締結(蜀側に有利な)を提案したりとかかな
>>269 >>270が言ってくれちゃってるけど、まあその通りだね
逆上していた劉備よりは全体を冷静に見ていたことは確かだが
具体的な方策を提示したわけでも現状を的確に分析したわけでもない
別に趙雲無能とかそんな話じゃなくて特にプラス要素とするようなエピソードではないと思う
つーか、最近ちょっとしたことでつっかかってくる人がいてめんどくさいんだけど
一人だけなのか複数いるのかは知らんけどさ
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/03(日) 14:03:18
>>271 >正直、呉ではなく魏を征つのが正道という諫言がそれほど賢いものには思えんのだけど
お前はお前で理由が全然ついてないよ。これだけじゃ
>最近ちょっとしたことでつっかかってくる人がいてめんどくさい
と完全なる同レベル。
三国志の評価は基本的に結果論で判断されてるからなぁ。
いくらなんでも「あの諫言はプラス評価になるようなものではない」という発想は意味不明かつ極端すぎる。
つか、もうこのスレまともに機能するのは無理だろ・・・
出発点から間違っていたスレだったと総括してみるテスト
「あの諫言はプラス評価になるようなものではない」
という発想は理もあるし、そう極端なものではないんじゃないか?
まず呉遠征そのものが演義で言われる程の愚行では無いし
かわりに、具体的なプランを提示したわけでもないから
結局は、蜀政権内部で二分された賛否のうちの一端に過ぎない。
よって、あの諌言をもって、極端な知力アップの根拠にするのは難しい。
一つの事蹟として考慮に入れる事は出来るだろうけど
そこまでの賢さに繋がる発言にはならないよ
まして、あっちの流れだと、
趙雲は、TOPクラスの軍人であるか(知力70以上)、
それとも一般的知識を備えた良将であるか(知力50代)
なんて話題だから、諫言を知力の高さの根拠にするのは厳し過ぎる。
否定派は否定派で必死だな
もういいじゃん、同じ話題なんだからあっちのスレでやれや
まぁ趙雲伝を読むと節度ある常識人の像が浮かぶけど
それが知力に直結するかというと微妙だね。
春秋左伝を暗誦できる傲慢で自信家の関羽とどっちが上なんだか
>>276 独断で話題強制終了させずとも、
このまま正史趙雲の能力値の話題にでもなれば
それが呼び水になってスレ活性化するかもよ。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/03(日) 23:27:49
関羽の左氏伝暗唱って、
「脳みそ筋肉の割にはたいしたものだねニヤニヤ」
みたいなもんだよな
当時の高級官僚たちは経書の暗唱が子供の頃からの科目だったわけで
関羽には確かに教養はあったんだろうね。
庶人だと思ってたらそんな事はなかった。まあびっくり!てなことか?
このエピソード関羽の知力補正に使用するんなら、
どの程度の数値で作用するか。だよね、問題は。
左氏伝暗証だけを大きくとりあげたら、上にある鄭玄、
又は曹丕・曹植・曹沖なんてはねあがってしまうし、
武官のみに有効とするなら、書記あがりの楽進は知将タイプなのかとか、
10文字しか知らなかった人物は知力低いのかって考えもありえてしまうと思う。
教養あると無いとじゃ、ある方が+だとは思うけど、
そうなると、出自によって能力評価がかわってくるね。
>>279の言う、
>当時の高級官僚たちは経書の暗唱が子供の頃からの科目だったわけで
これを知らないで高評価って持ち上げてる人も多そうだね。
士大夫層に限らず、幼少時から勉学を始めれば15歳までで四書五経を修める
ってのがわりと普通。
士大夫層と違い、晩年に習得したのが肝なんじゃね?
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/04(月) 01:19:50
つまり知識量や知能を示す数値ではなく、「頑張り」とか「40の手習い」みたいな特殊能力だと?
習得能力は知力的な資質を物語るだろうに。
幼い頃からの詰め込み教育と対比すれば知力は高そうに思えるが?
いや晩年に習得したか分からんし、関羽その人の出自も分からんから何とも。
それに「春秋を好み諳んじれた」とあるのは
春秋だけの知識に限ったことではないかもしれない。
その他の書物にも詳しいけれど特に春秋を好んだ―と。
なんで晩年になってるのかわけわからん
多分晩年の意味を勘違いしてるんじゃないかと
横光だと荊州時代あたりから勉強始めてるからじゃないの?
横光だと一巻から先生だよ
不良が子犬を助けるような意外性で優しさUP理論
正史を斜め読みして楽しむスレッドに成り下がったな
もともと隔離スレだし
このスレでの正史ってどこまでを指すの?
注釈は含まれるの?
麹義や高順なんて注釈無しじゃほとんど評価できないし。
もう漫画や小説で云々の輩もいて、なにがなにやら………
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 00:00:02
ところで、
恥ずかしながら関羽が左氏伝読むっていうの、何に書いてるかわからないんだが・・・
出典どこ?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 00:13:10
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 00:19:12
300(・∀・)イイ!
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 00:38:52
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 00:48:17
結局正史じゃ盛り上がらないな
正史と演義の相剋が我々を駆り立てるのさ
あっちは適当な事言ってイイケド、こっちは一々引用が居るからめんどい
こっちは元々二人くらいで回してたからな
そいつらが飽きたようだ
>>306 そりゃ、お前のような文句しか言わない奴が粘着してるから、
知識のある人は寄りつかないだろうな
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 13:19:30
三戦板に知識のある人なんて存在しません
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 13:22:02
キミが知識ないだけ。
三戦板に知識のある人が存在するという知識もない時点でキミは無知
キミはソクラテスかい?
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 13:23:38
ソクラテスの弁明
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 13:25:14
wなんて使ってる奴の方がよほど必死にみえるのは俺だけですか?
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 14:41:57
>>312 君だけです
用事がないならお帰り下さい
311と313同一人物の匂いが
光栄スレは相変わらず1月1スレペースなのにな。
>それに、今まで通りで次スレを作っても過疎なままだと思う。
こんな事言ってた正史厨はどこへ行ったんだろう。
光栄スレへと帰っていきました
光栄スレのレベルの低さを見る限り、戻ったようには見えない。
こっちのレベルも大して変わらんじゃん
趙雲がお題の時点で、自分はどちらのスレに書き込んだのか
わかんなくなってたよ。
そいう人他にもいなかった?
このスレは、ゲームからかけ離れていった事や、部隊長+司令部という基準に決定した事、
事績のまとめを要求した事などがあいまって、どんどん住人の数を減らしていったように思える。
とりあえず、ゲーム的なものに戻しませんか?武力はアレだが、統・知・政・魅の四つくらいに。
知力や政治なんて分け方の方がアレだと思うが?
武力の方がまだしも数値になる
>>322 >武力の方がまだしも数値になる
え?握力ってことですか?
>>323 武力は格闘技等と同じで勝率等でランキング表記できるが
例えば経営者手腕ランキングは評価が難しい
客観評価が難しいのに、さらにカテゴリー分けが不分明
知力が何を指すのか、政治が何を指すのかもワカラン状態で
どうやって評価するのか?
まだしも武力がランキングしやすい証拠に、このスレでも
個人的な武勇の時は議論になっていたがその後はグダグダになった所からも
判るだろうに。
知力って言葉自体広すぎてどうしようも無いしな…
>>324 つか、正史のどのへんに「勝率」のような確かなものが載ってたんだよ。
「弓術に巧み」だの「武勇を持つ」という言葉がどうやれば数値になるの?
そもそも俺の記憶が間違ってなければ、武勇の話してた時点からグダグダだったはずなんだが。
いや、武勇は比較的まともに議論が進んで、
いちおう結論も出た。
あんなのがまともだと思える香具師が二、三人でやってたから
他の人がいなくなっちゃったんじゃないのか。俺には見ててそう思えたよ。
>>327 いや、めちゃめちゃ反対者出てなかった?アレ
個人としての武勇伝を統率と混同しないためにも
(混同した人がこのスレに来た際に、個人武勇と統率を分けてある事を示すためにも)
ああやって分けた事に意味はあるだろ。
このスレに人が居なくなったのは、
出る意見に片っ端から文句ばかり言う奴がいたからだろ。
ブチブチ文句つけるなら、同時に代案出すぐらいしろよ。
いや、単にゲームとかけ離れすぎたからだと思うよ
まぁゲームというか、光栄ベースの方がキャッチーで人集まるからな。
基準もわかりやすいだろうし。
記述抜き出しとかテンプレ作りとか、ある程度協力してた身としては
意見や提案もせずに、文句ばっか言う奴が一番ウザい。
意見言う価値もなかっただけだろうに…お前そりゃ逆切れに近いぞ
確かに
>>333の様な文句はウザイな
意見言う価値がないのに、文句言うためにスレに粘着すんなよ
じゃあ、どうすればいいのか案を出してくれるか?誰かが何か言えば文句ばっかで、話が一向に進まん。
知力がアレだとか言って新しい能力値の定義(名称)決めても結局反対者は出るんだから、
既存の能力値に正史の記述をどう割り振るかを議論したほうが建設的では?
うーむ、なんか未だに可哀想な粘着がいるな。
あなた一人が頑張ったところでもう無理だよ。
必死でやったことに文句がついたとか理由つけたいみたいだけど、結局立った当初から必要なかったスレだったんでしょ。
お前みたいに粘着して文句だけ言ってるヤシがいるから駄目なんじゃねーの?
なんでそんなに人の責任にしたいの?
なんつーか寂れるべくして寂れたって感じだな
>>336 なんか、「文句つけた奴に怒ってる人」を一人に特定したいみたいだけど、
332(俺)と335は別人だし、334さんも多分335とは別人じゃないか?
記述抜き出しとかやってたのも、それなりの人数いただろうし
「提案無しの文句ウゼー」と感じた人は多いと思うよ。
このスレ必要無いと考えるなら、いちいち来て文句だけ言わんでいいだろ。
必要と感じる人だけ集まれば、話題が産まれる余地もあろうが
粘着してブツブツ文句言う奴がいりゃ、語れるもんも語れない。
光栄知力派のみなさん、何か勘違いしているかもしれませんか?
話が進んで無いのは、マイナーな人の資料を起こすのが面倒なだけですな
その証拠にメジャーな人はほとんど結論出てませんか?
光栄スレの方でもメジャーな人の能力値をアンチと信者で争っているだけだと思うのですが?
ほとんど趙雲の話ですな、君たちがやろうとしてるのはあっちでもできると思うのですが?
むしろあっちでしなきゃいかんと思うのですが?
ごめん。なんか日本語が不明瞭で分かりにくい
どうせ、メジャーな武将の能力を1とか2とかを議論したいんでしょ?
ならあっちで話すべきだ。
ちゃんと伝ごとに評価していこう
まず武帝紀第一から、曹操は武力を除いて110〜120。武力は90くらいか。
何これ?
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 01:55:00
こんなスレがたっていたとは!!!
てか
>>336の文章とか
>>340なんかは
三國志系の掲示板でよく見かける文の書き方だなw
まぁ、仲良くやれや
人の揚げ足だけはとらないようにね〜
妥協と外連が議論の集結には大事な要素です。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 03:47:34
魏の郝昭も過小評価を受けている
10代の頃から曹操に仕え、勇猛果敢で、各地に転戦して武功を立て、雑号将軍となる。
曹丕の代には河西一帯の守備を任された(この時20代前半だった)西平の麹英が反乱を起こしたとき、同僚の鹿磐と協力してこれを鎮圧
228年、諸葛亮が攻めてきたとき、陳倉城でわずかな兵で撃退し、その功績を曹叡から褒め称えられ、列侯の爵位を与えられた。
演義では郝昭が重病に倒れた隙を突いた諸葛亮が陳倉城を急襲して落としたことになっているが、実際は郝昭が病死したため、魏軍は陳倉の防備を放棄したのである
諸葛亮の力で陳倉城を落としたわけではない
カク昭は光栄でも十二分に強い能力を持っているし
その程度のエピソードなら他にもたくさん要るよ
丁奉とか、そこらへんもハイパー化させる気か?
あと過小評価とかはあっちで話せ
こっちじゃカク昭は評価はまだ始まっていない
過小とかいきなり何言ってるの?
]の郝昭 88 77 78 63 68
正史準拠にしたら統率、知力は下がると思う。
陳倉はもともと固い上、曹真がさらに備えを厚くするように指示している。
寡兵でよく防いだのは確かだけど
援軍がすぐに来たおかげで篭城期間は一月足らず、敵も万全ではなく恵まれてる部分が多い。
あと諸葛亮は撃退されたわけではなく援軍の到着と兵糧不足による撤退。
>実際は郝昭が病死したため、魏軍は陳倉の防備を放棄したのである
>諸葛亮の力で陳倉城を落としたわけではない
これは正史じゃないよね?
羅憲のほうが上だな
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 18:54:35
【正史にて】
韓遂の武将閻行は馬超と一騎打ちをして勝った
個人の武勇では馬超より閻行が上
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 18:56:47
正史『三国志』には、『三国志演義』では見られない意外な事実が記載されている。魏書『李通伝』には、曹操が並み居る諸将の中で、だれが最強であるかを発言する個所がある。
曹操はこのなかで、李通こそ最強であると述べているのだ。
李通という武将は『三国志演義』でも出てくる。
演義での李通は、馬超と戦い、一瞬にして馬上から突き落とされるというかませ犬にしかすぎないのだから。
無論、本物の李通はそんな人物ではない。ちゃんと、ひとつの独立した伝をたてられるのは大変なことなのだ。
羅憲 90 73 75 72 78
閻行 58 91 42 31 47
李通 82 96 48 37 65
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 19:40:49
李通は個人の武勇で最強と称えられただけで軍を率いたら、そこまで強くなかったのでは?
>>352 あれはあの戦の時の働きにおいてのみ、の話だろう…。
吾彦のがすごい
名前が格好悪いから論外
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 17:51:30
お風呂に入ってたら、曹豹が同じ湯船に裸で入ってきた!!
微妙な武将なので何を話したらいいか迷った!
こういうときどうする!?!?
って夢をみた
そろそろ曹豹の評価…始める?
しなくてもいい気するけど。
正史での評価が地味な趙雲だが、ウルフチームの天舞〜三国志正史だと評価が良すぎる件について。
君が思ってる程地味じゃ無いからだろ?
正史以外に注も入れてるとは思うが
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 17:45:24
コーエー=人間のカス集団w
落ちこぼれのオタクばかり集まった会社w
>>362=人間の屑の集合体
落ちこぼれたゴミばかりが寄せ集められた人間w
馬超の実力については以前から意見が分かれるところだが、皆はどう思う?
ちなみに俺はそこまで高い評価してない側。
長安戦でも詳細が解らない上に10万を超える大軍を率いた上での行動だし、
後の蜀軍程遠く困難な道を遠征してるわけではない。
夏侯淵を撃ち破った実績は特に評価できる点だが、後は失敗や敗北も少なくない。
勇名高く凡将とは思えないが、最近やや過大評価ぎみでは?と感じる時がある。
まぁ長安を落とした(長安スルーで撞関はありえんよなぁ)のは事実だし、そこそこの能力はあったと思うんだが。
アジテーターというかカリスマとしての能力は兎も角、戦略目標の立て方も微妙だし。
せいぜいがゲリラ戦の天才って感じだのぅ。
やっぱりあれだけの兵を集めてこれたのが馬超の一番凄いところだと思うのよ。
曹操も苦戦してるし戦争もまずまずなんだろうけど。
でもそれだけだと袁紹や袁術でもできたわけで
やっぱり「錦馬超」と言われるだけの実力はあったのではなかろうか
むしろ袁紹・袁術もそれなりの傑物なんじゃないか?
長安戦がどういったものかにもよるわけで、
そっから先は推測になっちゃうからなぁ…。
10万を超える大軍も、最終的に潼関に集まった数で、
初戦の段階では、そこまでの大軍じゃないはず。
曹操側を、漢中遠征準備をした軍勢と考えれば、
それを相手に勝った馬超は優秀な方だと思う。
…と思うのだけどどうだろう。
乱暴な言い方すると、夏侯淵を撃ち破った事蹟そのものより、
潼関に展開する事が出来た点の方が、司令官として評価出来る事蹟だと思う。
でもって、
一度でも長安を落としたという事をどの程度評価するかと
曹操側の軍隊の状況をどう見るかと、
長安で対峙したであろう鍾ヨウの、司令官としての能力をどう評価するかによって
評価がガラリと変わるんだろうね。
自分は、相手側である鍾ヨウは優秀な人物であると思うし、
長安には当初の予定である漢中遠征のための、物資や兵が集められていたと考えるので
そこを圧しての勝利なら大したもんだと思う。
>>370 単純に馬超伝の注を見ると最初から韓遂・楊秋・李堪・成宜等を中心とした十万を超す大軍だったように読める。
武帝紀でもそれ等の人物が纏まって蜂起してるし最初から大軍だったんでね?
>>371 漢中遠征は夏候淵合流後の話しだからむしろ機先を制した形になるんじゃないかな。
「長安を落した」って言うけど、当時の長安にはどの程度の軍がいたんだ?
特に長安自体、前漢滅亡後の動乱で破壊されてから後漢では放置されていて、
後に董卓が遷都したがその死と李確郭刺の乱でさらに荒廃。
後に曹操が鍾ヨウを派遣したが、それだって大軍をつけてのものではなく、
鍾ヨウ自身はそれこそ馬超たちの軍を誘って他の軍と戦っていたのだし。
>>372 武帝紀では「最初、族軍が一部隊づつ到着するたびに」と記されている。
楊秋・李堪・成宜等はすでに結託しているのだろうが、
槐里周辺だけでは10万の兵を集めるのは難しいだろうし、
当然涼州方面からも人員を動員したと考えられる。
司隷〜涼州の距離や地形を考えると、行軍にはそれなりに時間はかかるだろうから、
全軍が集まるまでのタイムラグは大きくて当然だよね。
で、3月に馬超が挙兵して、曹操が潼関まで遠征してきたのは7月。
この四ヶ月間に少しづつ涼州方面の兵が集結して、
10万という数になったと考える方が無難だと思う。
馬超の挙兵自体が、漢中遠征に疑心を抱いてのものなのだから、
長安には、関西の軍閥が危機感を覚える程度の、人員や物資が集まっていたはず
機先を制した形にしても、遠征準備にかかる時間を考えれば、
馬超の挙兵時には、すでに長安は遠征のための軍事拠点としての配備はなされているよ思われる。
>>374 3月に鍾ヨウが張魯討伐のために派遣された(長安から漢中への遠征?)のだから
遠征準備どころか、もう軍事行動が開始されてるんじゃないか?
>>373 長安は196年から曹操の版図となっているし
201年には、袁紹と対峙する曹操に軍馬を送れる程度には復興がなされている
202年の郭援討伐についても、馬氏と韓遂の強力はあおいでいるものの、
鍾ヨウ自身も軍勢は統括しているよ。
で、211年の段階では、
374でも説明した通り"曹操が漢中遠征を命じるための軍"は存在したと考えられる。
これの実数が不明だから何とも言えないけど、夏侯淵は後からの合流ともとれるし
鍾ヨウ主体の遠征と考えれば、それなりの兵力かと。
>>374 馬超軍の人数について10万という数が出てくるのは馬超伝注の典略。
それによると十部隊と共に反乱を起こし総勢十万とのこと。そして黄河・潼水を盾に(恐らく夏候淵と)対陣。
賊軍が段々と集結して〜というのは曹操が到着後の話しなので別に初期十万動員を否定するものではないかと。
あとこれは知識不足からの質問なんだが関中とは長安より東の地域は含むのかな?
>377
374じゃないけど、関中は潼関以西って事だから
長安より東も含むよ
>>378 関中は、函谷関、隴関、散関、武関などに囲まれた地域を指すんじゃなかったか?
潼関ではなく、函谷関以西の隴関までだと思う。
じゃあ関中の諸将等と共に反乱を起こした、とあるのだから長安は始めから馬超の手中に落ちていたのでは…
まぁ函谷関で区別するのが一般的だろうね。
>>377 文脈からすれば、その10万っていう数は潼関展開時の数のように読み取れるし。
それ以前の場合で考えれば、各地の挙兵の総数として考える事は出来るものの
槐里周辺での、対長安での一斉軍事行動とは考え難い。
(楊秋ら豪族の割拠している地域は正確には不明だが、
各個撃破の場合平定に1.2年かかるとの曹操の言を見れば、
長安以西から涼州において、広く分布していると思われる)
豪族らと意見が一致した後、軍が集結するのを待っていたら、
鍾ヨウに先手を取られてしまう可能性もあるのだから
初戦段階から10万を長安に向けて総動員というのは
時系列的に見ても難しいと考えます。
10万をどの時点での兵力と取るかは
お互い憶測に拠るものになってしまうから、
これ以上語っても平行線な気はしないでも無いです。
>>378 それは関西って表現の場合かと
>>380 長安には鍾ヨウが駐屯。(>376の通り)
馬超はそれよりちょい西の槐里に駐屯。
ええ、関西だと潼関で区別するの?初めて聞いたが。
関右や関西って表現の場合、一般的に長安以西って意味ではあるけど
その場合の"関"って言葉自体は潼関の事を指すものだと記憶しているよ。
記憶違いで間違った事を言ってたら申し訳無い。
いや、函谷関だって……
曹操側は寡兵じゃあるまいし、
馬超らの軍勢の十万という数がどの時期だったにしても、
長安陥落には、一定の評価は出来るっしょ。
馬超の功績が長安陥落での潼関布陣だけだったら、
戦略戦術が不明なこともあって、そこまでの高評価は出来ないが、
馬超は郭援や匈奴相手に結果を出し、
潼関の敗戦後も再起して冀城を落とし、夏侯淵を野戦で撃退している。
軍事の面ではそれなりの評価を受けても”過大”では無いだろうよ。
馬超はむしろ、今までが低評価過ぎだった感がある。
当時、関西の豪族たちも涼州の馬超も表向き曹操に帰順していた。
さらに蜀に劉[王章]政権も曹操の覇権を認めていた。
それでどうして長安に大軍勢を駐屯させておく必要があるのよ?
漢中遠征のために集められていたとするなら、その指揮は誰がとっていたの?
>>389 仮にそうだとしたら曹操が甘いとしかいいようがない
曹操ほどの人物が不安定な関西地方の要、長安の備えを怠っているとは思えない
素直に馬超を評価してもいいのでは
>>390
曹操は、キ城に兵を置くべしという楊阜の要請を蹴ってるからな。
赤壁後は既にかなり耄碌てたんじゃないかと。
>>389 > 漢中遠征のために集められていたとするなら、その指揮は誰がとっていたの?
鍾ヨウだろ。
>>391 軍の帰還準備の方に手を焼いていただけの話だろ。
楊阜の意見を良しとしながら、実行出来なかったのは曹操のミスではあるけど
耄碌扱いする理由がわからん。
無根拠な憶測で曹操を耄碌扱いしてまで、
「当時の長安の守りが薄い」ってことにしたいのか?
妄想すると
あえて長安の守りを薄くし馬超達に取らせ
潼関で防ぎ、大軍で逆襲
一気に関西軍閥を打倒その勢いで漢中も取る
という壮大な曹操の計画ですよ
閻行伝での馬超の
「鍾ヨウは私に韓遂の首を取れと言ってきた」発言からすると、
涼州方面に割拠した軍閥達の駆逐は、
馬超に委任するつもりだったのだろう。
孫堅、孫策、孫権を語ってくれ
正史評価はみんな高いよね
殺人狂、猿山の大将、耄碌
そうでもない
孫堅=殺人狂はねーだろ
戦闘狂
>401
なんとなくOK
誰か真面目に語ってくれ・゚・(つД`)・゚・
まずはお前の論を示せ
孫権は前・中・後でわけたいな。
呉ファンいねーのか
この三人じゃ盛り上がらんのか
呉オタの俺が来ましたよ
>>397 光栄の三国志だと孫堅と孫策の頭が良すぎるのが変だ。
史実だとどうなの?
力で解決
堅と策の魅力はわかるが、権の魅力はさっぱりわからん俺に
権の魅力や有名なエピソードをご教授願いたい
ユーモアのセンスに溢れるお方
ちょっと常人ではついていけないかもだけど
>>408 孫堅は董卓の危険性を予見したり、策をもって王叡、張咨を殺したり
袁術を説得したりしている。
孫策は自分の怪我を利用してサク融を打ち破ったり
多くの名士を配下にしたり
寛大な布令を出して多くの兵馬を獲得したりしている。
袁術と手を切ったタイミングも良かった。
一方で高岱の件なんかはマイナス。
ここは理不尽な能力について語れスレとどう違うの?
自分でよく考えてください
自分の納得する範囲でスレを使い分けてください
その前に夏休みの宿題は早めに終わらせた方がよろしいかと思います
>>414 このスレの
>>1を読んでみてください。
あと貴方が誤爆したほうのスレの
>>1も読んでみてください。
それで分からなければ声に出して十回ほど読んでみてください。
それで分からなければ具体的にどの部分が分からないのかを質問してください。
ただし今後貴方が日本で生活するようであれば自力で解決した方がよろしいかと思います。
テラカワイソス
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 20:04:43
おもしろage
馬超
統率:87
武力:90
知力:61
政治:67
魅力:82
omoshiroage
いきなりそれだけポンと置かれても困るな。多分ゲームスレの方に投下した方が盛り上がるし有意義だよ。
>>420 バランス良すぎw
つうか、その値だと使えすぎる。
実際こんなものだろ
マスクで義理低目、寿命短い、6形式なら早熟
とか、能力よりもヘタれさせる方法はいくらでもあるしな
正史で、関羽と張飛が義兄弟なのはわかったんだが
劉備とも義兄弟なってるのかな?
ってスレ違いかな(´・ω・`)
兄弟のような付き合いだったとは書いてある
兄弟のような付き合いだったのは関張だけ
>>420 実父の馬トウの能力を整えて少し優秀にした感じだな。
太守〜覇王まで、何でもござれだな。
>>420 正史ベースと考えればワリと納得。
武力は特筆出来る記述も少ないし、もう少し低くてもいいかも。
統率は90台のせてもいいと思う。
>>430 先主(劉備)は二人(関張)と同じ寝台にやすみ、兄弟のような恩愛をかけた。
と、ある。
>>431 ならば統率と武力を逆にして
馬超
統率:90
武力:87
知力:61
政治:67
魅力:82
…いい感じ。シングルランカーとまではいかないが、その次くらいだな。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 21:17:19
ここの人なら知ってそうだから聞きますが、
間違えてブックマークから消してしまった正史サイトがあるので
もしご存じなら教えてくれませんかね?
構成は背景色が黒で本文はオレンジ。
[武将名](日本語読みと中国語の発音記号)生没年
列伝
って感じのシンプルで渋いサイトでした。
どなたかご存じの御方が見ていましたら誘導のほうをお願いいたします。
検索しましょう
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 22:52:15
申し訳ないが検索しても未だ見つからないので
みなさんの知恵を借りたいと思ったんですが…
むじん書院じゃね?
>>433 統率90台の武将が何人いるか知らないけど、統率、武力共にやや高いと思うけどな。
確か]の登場人物の総勢が650人。この中で馬超より確実に上に来そうな武将というと、
曹操・司馬懿・ケ艾・曹仁・孫策・周瑜・呂蒙・陸遜・諸葛亮・皇甫嵩の十人。
さらに夏侯淵・張コウ・曹真・陳泰・郭淮・杜預・羊コ・陸抗・孫堅・姜維・劉備・呂布あたりにも多分劣る。
于禁・張遼・楽進・徐晃・鍾会・王昶・王基・朱然・朱桓・関羽・張飛・魏延・羅憲あたりとの勝負じゃないかな。
まあ二段目と三段目は人によって大分入れ替わるかもしれないけど馬超の上に20人くらいはいるかと。
>>438 馬超は夏侯淵にも勝利してるし、
不安定な集合体の軍勢で、一時的にでも長安含めた関西地域を占拠してる。
再挙兵後も急造と思われる寄せ集めの兵で長期の攻城戦も行えるあたりから考えて
お前さんの言う所の、二段目内の中間ぐらいだと思うぞ。
>>438 陸遜の評価ってそんなトップクラスになる程か?
>一時的にでも長安含めた関西地域を占拠してる
馬超が挙兵した当時の関西の備えは諸葛亮の北伐と比べても微弱。
支配力が関西全域に浸透していたどころかその逆で不安定な情勢下。
更に一旦は制圧したといっても曹操本隊が到着してからの戦いぶりは
あまり褒められたものじゃない。
90には僅かに一歩とどかない程度じゃない?
>>438 馬超に関しては
>>387あたりでまとまってる。
シミュで言う所の90前半はあっていいと思う
比較対象で言えば、438で言う二段目。
>>439 上で何度も言われてるが一軍一軍はそれぞれちゃんとまとまった軍閥で、それが連合して10万を超える大軍になった状態だぞ?
全然+要素の方が多いし、しかも結局まとめきれずに野戦で負けてあっさり奪還されてる。これは相手が悪かったのも多分にあるが。
急造と思われる寄せ集めの兵で長期の攻城戦も行えるというか寄せ集めなので長い時間かけても城を落とせなかったんじゃなかったけ?
あと一回の戦いの勝ち負けで語るなら一応朱桓が曹仁に勝ったりしてますから。
>>440 どのくらいだと思う?
>>441 関西全体の備えが微弱かどうかは分らんが
少なくとも三輔は曹操の管轄下として、十分な備えはあったろうし、
馬超の制圧目標である三輔周辺と、諸葛亮の北伐時の涼州を比べて
微弱っていう事は無いだろう。
まして、関所を越えて侵入して来た漢中遠征のための軍勢を退けた上での
長安制圧なのだから、戦績としては大きい。
曹操本体が到着した後も、渡河中を狙った奇襲や
兵糧切れを狙った提案など、戦術、戦略自体はそう悪いものでは無い。
>>443 >上で何度も言われてるが一軍一軍はそれぞれちゃんとまとまった軍閥で
一軍一軍はまとまった軍閥でも、国家としての枠組みが無い同盟関係なので
中央の軍勢などと比較して、統率が困難であるのは変わらない。
>長い時間かけても城を落とせなかったんじゃなかったけ?
冀城は最終的には落としてる(降伏させて)
>あと一回の戦いの勝ち負けで語るなら
夏侯淵を撃退した1戦でもって、馬超>夏侯淵なんて言う気は無いが、
高評価の一要素として加味出来る事蹟である。
というか、私も含め馬超をそれなりに高評価してる奴は、
443が言ってるような事(一戦の勝敗では語れない、大局的には潼関で敗戦)も
認識した上で、それでも統率は90程度はあるだろうと言ってると思うので、
443がその上で「馬超はもっと低評価でいい」と言うのなら
こっから先は価値観の相違による平行線トークになると思う
>>440 史書読んでも呉スレ見てもトップクラスだと思うが
対劉備の夷陵マジック評価入ってないか?
>>444 その引用文を信じるなら、馬超の作戦は結局通らず韓遂の意見が通ったことになる。
思うにこの連合軍は馬超を頂点としてその下に集まったわけではなく、馬超の呼びかけに応じる形で連合を組んでいるだけで、
馬超に全軍に対する明確な指揮権は無かったのではないかな?ちょうど反董卓連合の時の曹操のような感じで。
ただ曹操の時と違い、他にに袁紹のような明確な盟主が居たわけではなく、他の伝にも「馬超ら」と言われているように
馬超が中心人物だったことは間違いないとも思う。
だからあの一連の戦いの結果(敗戦)の責任を、馬超に帰することができないのと同様に、
一連の戦果の功績を馬超にのみ求めることもできないと思う。
別に一連の戦いがまったく評価できないって言ってるわけじゃなくて、諸将の中でも馬超や韓遂が一番影響力が強かった
=勝利の要因としては馬超らの働きが大きかったのではないかと容易に想像できるし、
記述にある部分(渡河中の馬超の猛攻や兵糧切れを狙った提案など)はそのまま馬超の功績と言えるけど。
>>447 横槍を入れるようですまんが陸遜を語るのに夷陵を考慮に入れない人なんているのか?
西陵抜きで陸抗語るとかなw
潼関までの流れってこんな感じ?具体的な月日がわかる人教えて!
451 :
450:2005/08/05(金) 19:53:04
ミスったw
しばしお待ちを
452 :
450:2005/08/05(金) 20:18:06
三月、鍾繇が三千の兵を率いて漢中に向けて進撃
夏侯淵が河東から出撃して鍾繇に合流
馬超が韓遂らに向けて連合の檄を飛ばす
馬超、自分に従わなかった劉雄鳴を撃破する
弘農・馮翊の県邑の多くが馬超に同調
長安(?)、潼関を陥落させる
馬超の進言「渭水の北に云々」
徐晃・朱霊が蒲阪津を渡り、黄河西岸に布陣
連合軍の梁興が歩騎五千を率いて徐晃らを攻撃するが、逆に撃破される
曹操が渡河。馬超、そこを急襲し、曹操は危うく死にかける
曹操、南進。馬超、渭口に布陣
連合軍(武帝紀には賊軍としか書かれておらず、誰なのか不明)、陣を設営中の曹操軍に夜襲かけるも、伏兵によって撃破される
馬超、曹操軍に土地割譲を条件に和議を申し込む(曹操は拒否)
馬超がたびたび攻撃を仕掛けるが、曹操はこれを無視
馬超・韓遂と曹操の会談。馬超、韓遂を疑う
決戦。連合軍、連携が取れずに大敗北。成宜・李堪戦死。
馬超、蛮族を急襲しつつ、涼州へ逃走
間違いがあったら指摘して
453 :
450:2005/08/05(金) 20:24:26
書いてて思った謎は、
馬超が檄を飛ばした当時、まだ張猛と戦っていた韓遂はどの時期に馬超に合流できたか?
正史に「馬超」とか「賊軍」とか書き分けられているのは何故?
こんなところです
詔勅が出るまでは賊認定されないからじゃね?
鍾ヨウの兵3千てどこらへんに記述あった?
武帝紀とか
武帝紀にはそんな記述なくない?
>>448 それで、何が言いたいのかいまいちピンと来ないのだが…
結局プラマイゼロで、今まで言われて来た事と大差無い評価じゃないか?
それと、少なくとも、当時の関西方面の最有力軍閥は馬氏だろうし
反董卓連合の時の曹操とは大きく違うだろう。
付け加えると、戦闘中の部隊ごとの指揮権の在り処は想像の話題になるわけで、
「全体的な戦略を統括し責任を持っている人間=司令官=馬超(&韓遂)」以上の事は
言えないのでは?
これは馬超関連に限った話では無く、全ての戦に言える事だと思うよ。
前線部隊の独自采配はあったとしても、全体的な責任や功は司令官の評価に繋がる。
459 :
450:2005/08/05(金) 22:53:18
>>457 ああ、やべホントだ
俺どこから三千って数字持って来ちゃったんだろ?
北方三国志
461 :
450:2005/08/05(金) 22:57:19
>>460 持ってないよ
杜畿伝では河東の兵糧の余剰は二十万斛余りもあったってあるな
史書の数字をそのまま鵜呑みには出来ないけど、
馬超の「河東の食料云々」っていう進言はあまり的を射てない気がする
>>458 1、潼関までの流れでプラマイゼロなら評価は大きく違ってきてしまうのでは?さすがに+の面の方が多いと思う。
2、曹操と違うことも書いてあったと思うけど…
・ ・ ・ ・
3、馬超が「全体的な戦略を統括し責任を持っている人間=司令官」じゃないんじゃないか?と一番最初に書いたつもりだった。
前線の采配うんぬんは全く同意見。司令官が責任を持って管轄してる範囲は司令官を評価すべきだと俺も主張したい。
だから「馬超の独断で戦略を統括し戦闘を指揮してるわけではないことが読み取れる」描写を挙げたわけで、
確かに意図するところが最初の段階で見事に伝わってないね。
ここは馬超の話題になると急に伸びるな何故か。
>>461 仮に河東の兵糧が25万斛として、
曹操側が動員したのが馬超側と同等の10万人だったら、
15日間程度しか持たない量だぞ。
曹操側の正確な動員数がわからないから何とも言えないけど
馬超の読みはかなり適確だと思う。
468 :
450:2005/08/06(土) 00:04:34
にゃるほど
ほんとうだ、衛覬伝に鍾ヨウの請願として
「三千の兵で関中に入りたい」と書いてある。
武帝記だと、張魯討伐のための遠征
衛覬伝の注だと、関西軍閥の脅迫のための軍事行動とあるけど、
このへんは、どう取ればいいんだろうな…。
あと、夏侯淵合流の流れもわからん。
>462
相手側の総司令官に対して、停戦協定や土地の割譲を打診したり、
人質の差し出しを提案したりする立場でも
「戦全体に対する責任を持っている人間では無い」の?
しかし間違いを疑いたくなるような数字だな。
>>470 馬超ら、と俺のちくまには書いてあるんだが原文だと馬超の名前しか書いてなかったりするもしかして?
曹操との会見を要請したのは韓遂と書いてあったりするけど。
いや、”馬超ら”でオーケー。
でもって、張既伝の記述からすると、
諸軍閥と馬超は結託していて、
韓遂は馬超に口説き落とされて都督に据えられている形だよね。
でも、韓遂の軍勢が合流した時期もわからず、
実質的な軍事行動の記述は「超等」というものが大半。
馬超の権限がどこまでのものかは定かじゃないけど、
中心人物である事には相違無いかと
(っていうか、それは448も認める所であるので、
俺も言いたい事は変わらないんだけど。)
同盟の中心人物は各軍閥の意見を統合するのが仕事なわけで、
責任者的な位地(司令官的な位地)である事には変わり無いんじゃ無いか?
「中心人物だけど責任者では無い」って言われても首を捻っちゃうよ
会議の議長は中心人物だが必ずしも会議に対する責任を一身に負うわけではない。
最終的な決断が議長に一任されてるような場合は別だろうけど。
ちうか、
結局、潼関に関しては、馬超と韓遂のツートップってこったろ。
挙兵の流れから見てもそうだけど、
「馬超を筆頭とした関西軍閥」+「韓遂」という構成で
成り立ってるから、馬超側は"馬超ら"で、韓遂側は"韓遂"となってるだけ。
だから、実質的に都督とされているのは韓遂だけど
武帝記には「馬 超 はついに韓遂・楊秋・李堪・成宜と共に叛乱を…」とあるし、
実質的な軍事行動の記述の大半は馬超らと記されているが、
策戦の提案では、韓遂の意見が優先される事もある。
>474
筆頭勢力の主が、NOと言えばそれまでなのだから
普通に考えて、最終的な決断は馬超及び韓遂に一任されるんじゃないか?
国家という枠組み内のような明確な階級差が無いからこそ
勢力の大小によって、発言権や決定権の差異が生じるのは当たり前。
ちなみに韓遂は戦が弱い。
どうしようもないほど戦が弱い。
なにせ潼関の前も後もそうだが、韓遂自身が率いている時は戦に勝った事が無い。
人を集める事は得意だが、手ひどいやられ方をする。
潼関の勝利の軍事的差配は、韓遂のものではなかったのだろう。
そして、韓遂と馬超が分断されると、韓遂の大軍があまりに弱かったために、
僚軍として役立つどころか、かえって馬超は足を引っ張られた。
そう、推測する。
>>463 メジャーな人物だけど、あまり語られた事が無く
情報量が少ないと見せ掛けて、状況判断材料になる記述はちらほらと点在してるから
アレコレ言い合うには持って来いなんじゃないかと。
どうでもいいけど、鍾ヨウの3千て、実行時も本当にこの数だったのか?
脅迫どころか自殺行為じゃないか…。
鍾ヨウの直轄軍が3000で、主力は馬超ら関中軍数万ということでしょ。
いくらなんでも3000じゃ、脅迫も張魯討伐も出来るわけ無いよ
鍾ヨウの提案が3000であっても、実行時に3000って事は無いっしょ
現に武帝記では、脅迫のためではなく張魯討伐のための派兵と明言されてるし、
夏侯淵の軍勢も合流させてる。
夏侯淵の指揮下には徐晃、朱霊がいたな
合流した後、鍾繇や夏侯淵たちは何処に駐屯してたのか?
長安以西にいたら、潼関の役に参加できないな
普通に考えれば潼関より東に撤退(撤収?)か。
それとも先に鍾ヨウが攻撃されて、合流中止か。
長安は放棄したんだろうか?
知るかよ
>>476 >>明確な階級差が無いからこそ 勢力の大小によって、発言権や決定権の差異が生じるのは当たり前。
ここには普通に同意なんだが、
>>筆頭勢力の主が、NOと言えばそれまでなのだから普通に考えて、最終的な決断は馬超及び韓遂に一任されるんじゃないか?
ここは違うんじゃない?他の軍閥の意向を無視できないだろう。それとも韓遂以外は皆馬超の意向に全て必ず賛成すると
いうくらい馬超の影響力が強いっていうこと?
>>477 いくらなんでも想像部分が多すぎる主張じゃないか?推測であって主張する気はないのかもしれないが。
>>474では会議の議長が云々と語ってるけど、
馬超の場合は同盟の筆頭勢力なんだから
意見が割れた際、最終的な決定を左右するぐらいの発言権は持ってるだろ。
他軍閥の意向を汲むのは当然の事だが、それをどの程度汲むかは、
中心人物の考えによるものになるし、その責任は当然出てくる。
複数の副官が違う戦略プランを提示した際、
それを採用した側も責任を負うのと同じ事だろ。
>>485 関西軍閥側を「明確な責任の在り処(司令官としての権限)は誰にも無い烏合の衆」
だとでも思ってるのか?
韓遂は、馬超が直接口説き落として、都督に据えた人間。
その上、馬超にとっては義叔父(あるいは義父)であり、
彼の意見を聞き入れるのと、他の軍閥とは別問題だろ。
その上で、「馬超ら」という括りの中で、明らかに中心となっている人物を
「全体的な戦略を統括し責任を持っている人間=司令官」ではないと語る
根拠はどこから来るんだ?
またーりいこうぜ
>>486-487 >>448 馬超「渭水の北で防ぐべきである。20日を待たずして河東の穀物は尽き、必ず退却するだろう。」
韓遂「自由に渡らせておけ。河の中で苦しませるのもいい気味じゃないか」
結局馬超の策は実行されず。
486-487はこの部分を韓遂(副官・参謀格)が馬超(司令官)に進言して馬超が考えを改めたと読んでいるんだろうか?
俺には馬超の提案を韓遂が退けたように思える。
逆に聞きたいぐらいなんだが他の軍閥(韓遂・揚秋・李堪・成宜等)に対する明確な責任(司令官としての権限)を
馬超が握ってると思う根拠は何処なんだ?
馬超が韓遂を説得したときは敬語だったのに、
計略を進言したときはタメ口なんだなw
>>489 渭水での戦略に関しては、
『"馬超ら"と"韓遂"の意見が割れて、結果的に韓遂側の意見が優先された』
以上の事は言えないだろう。
どっちが副官だの、どっちが司令官だのは「感じ方」で決めつけられるものでは無い。
>>>司令官の権限の根拠
お前さん自身、476氏のレスの
> 明確な階級差が無いからこそ 勢力の大小によって、
>発言権や決定権の差異が生じるのは当たり前。
に同意してるなら、後は馬超という人物に対する認識の違いでは無く
「司令官」の定義の問題になるわけだが。
まず、組織だった軍事行動である限り、当然司令部的なものは存在する事になる
その中での中心人物(一番の権限を持つ者)が、実質的には司令官という事になる。
関西軍閥の場合、司令部は、馬超、楊秋、李堪ら、軍閥の代表者達の集合体、
その中での中心人物が馬超である事は、馬氏が関西の筆頭勢力であり、
武帝記にも「馬超はかくて、韓遂、楊秋、李堪、成宜らと共に叛乱を起こした」
と記されており、また、韓遂を口説き落とす際も、馬超が動いているなど
から疑いようが無いだろう。
よって、潼関の役においての馬超は、
韓遂以外の関西軍閥の連合組織の中で司令官的位地にあったと主張している。
>489
「逆に聞きたい」も何も
お前が一番根拠らしい根拠を語らず、イメージで相手に問いかけてばかりじゃん。
>思うにこの連合軍は馬超を頂点としてその下に集まったわけではなく、
>馬超の呼びかけに応じる形で連合を組んでいるだけで、
>馬超に全軍に対する明確な指揮権は無かったのではないかな?
>ちょうど反董卓連合の時の曹操のような感じで。
こんな思い付きの意見を押し付けて、相手にだけ根拠求めんなよ
なー、なんで喧嘩腰なん?
つーか、489の思い描く司令官像って、
「全ての権限を持ち、独断で軍事行動を押し進める立場にある人間」だったりする?
だから、全てを独断で進められない立場な馬超は司令官では無いって主張を
しているように読めるんだけど。
魏や呉の司令官、それどころかあらゆる前線司令官が
協力者や、内政管轄者の意見、国内(勢力)の情勢を汲み、
副官の意見や、本国の要求に折り合いをつけながら、軍事行動を進めてる。
馬超も国家という枠組みで無いだけで、それと同じだよ。
>>493 489が自分の妄想を押し付けた挙げ句、
他者にだけ根拠を求めるという不躾なレスをしてるから
馬超、楊秋、李堪、成宜あたりの権限が同等だったと仮定しても、
結局馬超は、それらをひっくるめた「司令部」に居るんだから、
このスレ的には、潼関にまつわる軍事は彼の【司】評価として加味されることには、変わらないじゃん。
その上、実際は連合内では一番の有力者で、中心人物なんだから、実質的に司令官という評価で大差無いじゃん。
448から一連のレスをしている人は、
どうしてそんなに一生懸命になってまで、馬超は司令官じゃないと主張してるんだか、ワケワカラナス
どっちも一生懸命に見えるです。
とりあえず馬超韓遂は後回しにしたらどうかのー。
489は、まず「馬超の能力評価を低く見積もりたい」って思惑ありきで
根拠の提示もせず、他人のレスを片っ端から思い付きで突いてるだけじゃん。
しかも、一つ一つの疑問や問題提起に対して、結構丁寧に答えてる人も居るのに
突っ込めないレスはスルーで、言葉遊びで言葉尻を捕らえられそうなレスだけ
「そういうなら〜〜は〜〜だと思うのだが?」と、思い付き問いかけ。
この調子じゃ、何度レスの応酬してもキリ無い。
ぶっちゃけ馬超はどうでもいいな。
張魯はもう語ったっけな?張脩とからめて語ってくれ。
馬超話おもしろい
馬超と韓遂らへんの話の保留には同意だけど、
別の話題求めるならまずお前が語れよ。
統帥権の話ばかりで平行線
俺としては曹軍が渭水の渡渉に成功してからの戦況の推移や、敗戦後の
西方に逃れてからの検証なんかもするべきと思うんだが
一万の軍勢で一千余りの守る城を落とすのに八ヶ月もかかった点について
本来城ってのはそんなもんだ
しかも味方は吸収したばっかりの兵だしな
城壁周辺に配備された実戦に携わる兵が千としても、
そのバックアップをする住民も城内にいるしな。
1000人の兵士ってことはそれを支える住民がその50倍とかいるから(少なくても10倍)
寡兵でも城を守れるのは兵士以外がいるからなんだよな
中国は寡兵で城守る話いあっぱいあるよね
中国の城の内部は外界から完全に隔絶された一個の閉鎖した空間だからな
1800年も経った異国の地でその能力について論じられてることを馬超はあの世で何を思うぞ・・・
正史ブーム以来、何かと能力を非難されっぱだから少しでも名誉回復したい
少なくとも喜んでくれているに違いない...と思いたい
三戦板にいると馬超は愛されてるなあと思いますよ
というか、そういう話題は馬超スレでしろよ…
あっちにURL貼られてたから流れてきてるのかもしれないが、
討議以外の雑談は、しかるべき場所で頼む。
貼った奴?
515 :
513:2005/08/07(日) 12:03:33
俺?俺は違うよ
なんか滅茶苦茶喧嘩ごしになってきたな。
>>491 うーん、だから馬超が中心的だったことはなにも否定してないんだよな。代表、という意味ならもちろん馬超が代表だったでしょう。
能力とか、実績の話しをする上で、持っている権限と担った責任に応じて結果を評価しよう、って思いはそっちもこっちも共通認識だったはず。
だから、馬超の権限がどのくらいのものであったか、が争点だったはずだよね?
決定権が馬超に全て委ねられているのか、馬超と韓遂が握っていたのか、単純に馬超の影響力が一番大きかったのか…
どれも
>>491の言う司令官の定義に当てはまっているから、それを否定していると取られているとしたら誤解。
もっと言っておくと俺は3番の意見を主張していて、これを一番と区別して考えている。俺にはそちらが一番のようなものを指している
と感じたので反論していたが、それが勘違いなら失礼だった。
>>492 495
まず相手にだけ根拠を〜っていうのは心外だ。487で中心人物=全体的な戦略を統括し責任を持っている人間、と主張していて、
「お前の根拠はどこだ」と言われたから、489で馬超伝の注にある文章を引っ張ってきて、自説の根拠とした上で、
じゃあそっちの根拠はなんなんだ?と言ってる。
>>494 前線司令官が抱える外的要因はあるよね。まぎらわしい所なんで誤解が無いようにこちらの思う所を細かく語っていくと、
協力者、というと例えば赤壁において呉軍と劉備軍の関係のようなものだと思うが、例えばこの両軍は当然戦場にあって行動を
共にするわけだから協議をするなどして意見を集約した共同軍。これについて語るなら例えば周瑜の場合、
両軍間において国家としての規模の違いなど劉備軍指揮官の劉備に比べて恐らく強い立場にあっただろうと思われる。
ただ資料の関係上詳しくは解らないがその後の流れを見る限り完全に周瑜指揮下にあったわけではなさそう。
また自軍内においては程普と周瑜の両指揮官がいたが、最終決定権は周瑜にあった。なので赤壁の勝利は
黄蓋の意見を取り入れ、主力である呉軍を指揮した周瑜の功績が極めて大きいが、共同した劉備軍の功績も無視はできない。
内政管轄者の意見や国内(勢力)の情勢を汲み、というのは他の要素も含めて指揮官の置かれた状況、と一くくりにできると思うが、
例えば長雨の影響を受けた于禁を、「司令官は誰しも戦場の情勢に左右されているから」と単純に于禁の非を責められない。
財政状況や戦場、兵力や士気などは勿論あらゆる前線司令官が折り合いをつけてる問題だけど、誰しもが抱える問題だから
一切を切り捨てるわけではなく、むしろ個別の状況を詳しく考えるでしょ?
馬超だって色々な要因が絡んでいるのだから他と同じだ、じゃなくて馬超も色々な要因が絡んでいるのだからその要因を
色々考えるべき。
>>496 その通りだよ。馬超の(方針決定に対する)影響力が一番強かった=一番評価できるとは
>>448で既に書いてあるし、
その後も一度だって馬超の評価を-しろだなんて言ってない。楊秋、李堪、成宜あたりも評価の対象になる、という仮定は
俺の思う所のそのままだよ。
その最後の、中心人物=実質的に司令官という評価(定義)にのみ、俺は区別するべきだ、と主張してるのであって、
じゃあ中心人物は評価できないのか、と逆方向の極端へいってしまう考えの方に困惑してる。
>>498 俺がスルーしたというレスはどれを指してるの?基本的に全部に丁寧にレスしていたと思っていただけに特に納得がいかない。
そろそろ次の話題行こうよ
正史と演義のギャップの激しい人を挙げてくなら夏侯惇かな
武力はわからんが、統率と政治は激しく変動しそう
>>511 >カレーにチクワ入れるのは邪道だよな
まで読んだ
また定義付けの話題かよw
一司令官の定義だとか、【司】【部】の違いだとかは、すでにさんざん語られてるよ。
言葉の定義付けに対する不満があるからといって、
評価の基準や定義がある程度まとまった所で、独自理論を主張するのは止めれ
さて、次の話題は夏侯惇?
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 08:30:57
惇兄か…この人、物事を自分で判断している時はことごとく失敗しているイメージがあるんだが…
曹操が魏というチームの監督なら、惇は主将みたいな人?
盲の話しなんか語り尽くされてるだろ
戦下手
でも、大将軍だしとか何とか言って、やたらと高能力つけたがる奴がいる
夏侯惇の本領は軍事ではなく人望だと思う
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 11:13:40
戦下手ということは、
曹操は唯才どころかその程度の奴を親族だからってだけで重用したということか
そういや蒼天航路だと、最初は曹操軍随一の武将って感じで
一番目立って活躍してたのに、作者が正史を勉強したからなのか
突然「図抜けた武威も無く、煌くような用兵術もない」なんて
酷評されてたな。かなり違和感があった。
>>525 兵や諸将には慕われてたみたいだからその人心把握術を評価してのことじゃないか
曹操自信も夏侯惇のこと大好きだったっぽいし
親族とかじゃなくて夏侯惇自身の人格の問題かも
dは俸給は全て配下親族にばら撒き蓄財は一切しなかった
もし不足した場合は役所から給付を受けて生活は質素で慎ましやかだった
とある
古代中国の偉い将軍にはよく見られる描写だがこれってばら撒き人身掌握術なのかね
その息子は質素な生活が嫌だったのか守銭奴になっちまってあとでひどい事になるけどな
そういうのが規範とされてて夏侯惇はその規範に忠実な真面目な人物だったってことだろう
確かに能力関係なく2番手か3番手あたりに置いときたい人材ではある
惇兄は他の伝を読んでると妙なところで登場する。
兵や諸将はもちろんのこと在野の士人なんかも夏侯惇には一目置いてた感じ。
その人柄が夏侯惇最大の才能だったってことか
幕舎にまで先生を招いて常に勉学に励んだと言うし
儒教的には全然ダメダメな曹操を儒教的に模範生のdが相補してたって思うと面白い
曹操死後すぐにdも亡くなってるしな
夏侯惇は田疇伝に出てくるな。
いいヤツっぷりを遺憾なく発揮してて笑えるw
軍組織のまとめ役みたいな感じだし、統率高くてもいいじゃなーいとか言うと、
戦上手なd兄誕生
戦も下手ってわけじゃないしな。
上手いか下手かの判断材料になるような戦をしてないだけ。
当時の部将って顔合わせるだけで殺し合い始めるような連中だしな
部将26人の取りまとめ役って、それだけですごいと思うんだがなー
それを「統率」と呼んでいいのかどうか分からんが
537 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 16:35:05
同じ夏侯氏の淵と比べると、惇がいかに高位に就いているかわかる。
無論曹操の後ろ盾、コネもあるだろうが、
実績や才能、人望も相当なものだったと考えてしかるべきだろ。
淵が総大将としては不適格との烙印を押されたのとは対照的だよな。
武勇 ちょっと胆力がある
軍略 豚丼並くらい
政略 土木工事もするよ
謀略 馬鹿っぽい
外交 なんかやった?
魅力 みんな惇兄大好き
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 19:51:38
dは河南尹だったわけだが、
洛陽近辺の復興に果たした役割は軽視できないと思うのだがな。
猪武者の代えはきくが、dの代えはきかないわけよ。
トンは、前線司令官としてはイロイロあるが、国軍の統帥者としては問題ないってことだろ。
この二つに求められる能力はそれぞれに異なる。ハルゼーとハイゼンハワーみたいなもんか。
現状のゲームだと能力化しづらいのは仕方ないやね
洋ゲーでもいいけど、組織運営ゲーとかそういうのってあるんかな
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 21:41:55
淵とは逆だな
奴は前線指揮官にとどまっていれば最後まで問題なかったのだが
ないよ。洋ゲーなんて
お決まりのポリゴンと戦車とバズーカ砲が出てくるやつばっかだろ
アメ公に創造力を期待しちゃいかん
はぁ・・・
CivとかVICとかあるわけですが
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 22:51:40
dは何気なく韓浩を登用したり反乱を抑えまくったりして内部の固めに凄い功績があるよな
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 23:09:06
典韋も元夏侯惇の配下。
忠誠度を一律に引き上げるとかかな
人材を登用しやすいとか
劉備とかぶるがw
曹操がそれこそキチガイのように遠征、遠征また遠征とできたのはdの功績じゃないかな
夏侯惇や臧覇といった地味だが有能な連中をちゃんと活かせたのはやはりすごいな
惇は政争にも巻き込まれてないし、曹操からずっと信頼されてるし
おまけに息子の曹丕からも信用されてるからな。
夏侯楙は三国で一二を争うアフォでもオヤジは凄い奴だと思う。
>>549 曹操みたく自身で前線に行きたがる人間には夏侯惇(荀ケもか)みたいなのは不可欠だろうね。
確かに夏侯惇は全戦全勝の超名将ではないが、(上の下か中の上レベル?)
それを補って余るくらいの人格って事か。
最大の欠点は息子の教育か…。
野戦将軍としては、中の中かその下だな
信頼できる留守番役ってのは、後漢末みたいな状況では何よりも得がたい人材。
張遼百人より夏侯惇一人の方が重要だろう。
それは違うだろ
張遼100人より夏侯惇1人のほうが重要かもしれんが、それで夏侯惇の能力値が上がるわけでもない。
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 09:39:15
ゲームなんだしそれでいいんじゃない?
韓遂の評価が低いのお
夏侯惇の能力評価と韓遂の能力評価はリンクしてるような気がするな。個人的に。
そうか?
人望有り、でも戦歴微妙って事か?
でも、韓遂のがアコギな事色々やってるから、能力という面では違ったものな気がする。
563 :
560:2005/08/09(火) 18:27:52
うーん。光栄的な能力値では表現できないけど意見調整役というかさ、
まとまりのない議論百出状態の集団の空気をうまーくまるーく収める能力ですわ。
それを人望ということにしていいのかわかんないけど。
関連スレの方が次スレないまま落ちちゃったみたいだけど、誰か立てません?
正史の記述で光栄三国志の能力値を決めるスレにして統合したら?
一気に過疎化
いつの話の事?
ビキニ貸そか
このスレに限らず、議論系のスレの大半は、ここ2,3日全く動いてない気がする。
お盆休みで帰省してるとかか?
何故か世界史板の正史スレが活発化してるが
あとどっかのスレで諸葛亮厨が暴れてた希ガス
諸葛亮厨っていうか、アンチ諸葛亮が煽ってら。
いやどう見てもあれは普通に諸葛亮厨が暴れてるんだと思うが
どこのスレ?
統率 武勇 知力 政治 魅力
72 78 68 80 94
惇兄ってこれぐらいじゃねーか?大体・・・
政治力の高さ=諸将をとりまとめたって感じ・・・
ちょっと過大評価になるが、愛情補正ってヤツで。
だってさ、お前らだって惇兄の事大好きだろ?
曹操大好きなんで惇も好きだよ
統率と武勇をひっくり返して知力政治魅力を10づつ下げて欲しいなぁ。
でもそうすっとえらく地味ーな感じになってしまうが。
いや、こんなもんじゃないか?
魅力は90ぐらいでいいかもとは思うが
夏侯惇て自身の知略の裏付けになるような事蹟あったっけ?
>>578 劉備の伏兵にひっかかって、李典に助けられる。
すばらしい知略だ。
>>574 その数字でも合計値392とかなり強いんだよな・・・。
統率70 武勇70 知力60 政治70 魅力90
そこそこ使えるな
都督として曹操が重用したくらいなんだし政治と統率がそれなりに高くてもいいと思う
反乱も先手先手で抑えてるし裏切らないってだけなら他にもいた筈
でも夏侯惇だから重用したって考えるとこれくらいの能力は欲しい
統率75 武勇60 知力 70 政治75 魅力90
夏侯惇 70 80 55 65 80 350
盲夏侯 80 60 70 75 90 375
\の呂蒙と阿蒙みたいだ。
>>578 武帝紀読んでるとそこかしこで夏侯惇が反乱を防いだだの留守居役になっただのって出てくる
知略じゃないけど頭悪い奴には留守番はできねーと思うよ
586 :
名無し募集中。。。:2005/08/13(土) 13:53:42
惇兄の数値を低くする奴は俺が許さない
>>585 留守番任されたら知力ありってのもどうかと思うが。
少なくとも戦略、戦術はよほど才能なかったと見える。
張魯戦なんてもはやギャグの領域だし・・・
重役につけておくだけでいい
実際に何かさせてはいけない
漬け物石みたいもんだ
劉禅の将軍化みたいなもんか。
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 14:50:49
夏侯惇
統率52武力51知力28政治68魅力73
くらいでも過小にはならん。
惇兄 90 95 82 87 9
このくらいでも過大にはならん。
なんぼなんでも無茶苦茶だ
>>587 知略がある訳ではないが知略にかからないってのも立派に知力を評価できる部分じゃね?
反乱阻止も含めてその辺どうよ
人材を見る眼があれだけ優れていた曹操が身内贔屓があったとは言っても夏侯惇を選んだ訳だしさ
dがいる都市は叛乱率を5%、また全ての都市の叛乱率を1%抑える効果があります
各人に特殊能力みたいのつけていくしかないんじゃねーの
夏侯惇が守った地域は旧敵国領ばかりだったことを踏まえておく必要がある。
>>593 騙されて虜囚になったり、伏兵にやられたり。
むしろ知略にかかりやすい人って感じじゃないです?
留守番役が夏侯惇だけだった訳でもないし、
ジュンイクといった優れた行政官達も居たしな。
前線に出すと弱くなり、留守番役だと強くなる特殊能力を。
夏侯楙ってパパの血もらいすぎたんだねぇ。
カワイソス(´・ω・)
>>599 父の悪いところしか継がなかった、の間違いでしょ。父には多くの美点があったのに…
>>585 >>武帝紀読んでるとそこかしこで夏侯惇が反乱を防いだだの留守居役になっただのって出てくる
言いすぎでない?
夏侯楙は・・・・うんこだからなあ
>>601 夏侯楙って名前は好きだけどね
夏侯坊にしたら笑がとれたものを惜しいな
……それはギャグのつもりか?
惇兄にはアニキ補正をつけるべき
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 21:39:53
まあ所詮はゲームの話だしな
ユニットとしては惇は弱い。そういうことだ。
惇=ジェイガン
てとこかな
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 21:53:03
正史からいったら、武官と文官の知力は
同次元てかたられないんじゃないんかい?
関羽の文官軽視なんかは、あまりお利口とは言えないし。
正史からさらに中華回路を割り引くと、
関羽も張飛も劉備も孔明も猪武者
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 21:54:19
意味不明
ここまで支離滅裂な文章は初めてみたよw
今日はやけにユニークな書き込みが多いな。
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 23:20:07
ジェガンと間違えてるなおまい
しかもリックドムなら強いだろが
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 23:27:28
いやいややっぱ最強は漏れの100分の1スケールザクVだろ!
お年玉でorz
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 23:41:08
サイコロガンダムやアポリーを倒したバイアランの強さを知らない奴は素人
では正史におけるバイアランの能力を考察しよう
ガンオタって場所を弁えないでどうのこうのとキモいね
うーん、まあ、それはTPOだ
_
/,.ァ、\
( ノo o ) ) 空
)ヽ ◎/(. 気
(/.(・)(・)\ . 嫁
(/| x |\)
//\\
. (/ \)
そーいや昔ガンダム戦国伝なんてのがあったなぁ
武将名
玩蛇夢(がんだむ)
怒夢(どむ)
みたいな感じだったぞ
ガノタウザス
>618
ナツカシス(´・ω・)
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 03:25:10
敵を討つ武将はエンや曹仁・徐晃などいくらでもいるけど
一箇所に留まることの少ない曹操にとって留守や占領地を任せられる臣下は
代えの利かない価値があったと思う
トントン最大の功績といえば、曹丕が後継者争いの最中に嫁さんを
臣下の前に呼びだして、問題になった時、トントンも同じことをしただろう
これは荀ケ亡き後、曹操のもっとも信頼する助言者であるトントンが
曹家の二代目は曹丕だろという意思表示であったと勝手に妄想している
儒者にごちゃごちゃ言われてもお前(曹操)には非難できないだろうが
ぐらいのこと言ってそうだなぁと
変な愛称で呼ぶな
うざい
キモス
マジキモス
テラキモス
ピコキモス
オマエラヒドスw
(´・ω・)
>>621たんカワイソス…… でもキモっ
>>621 マジレスするが、宴席に婦人を出そうとしたのは夏侯惇のほうが先ではないのか?
真似したとすれば曹丕の方。
廃れたな
そういうスレさ。気にするな。
折角だから諸合戦の状況を解る限り検証・まとめてみないか?官渡の兵力差とか。
でも戦争ネタばかりでいいかげん飽きない?
俺は政治や官職、経済の面から能力を語ってみたいのに、
軍事ばっかりだもんなあ……
>>632 いや、それでもかまわんよ俺は。話についていけるかどうかはわからんが。
宰相になったけど特に目に見える業績はない人物と、
地方行政官だけど目覚しい業績を挙げた人物だと
どっちが能力高くなるのか
>>634 一概にいえるものではないが
孫邵と張既を比べれば張既が上だと思う
賈クは業績のない宰相だったのかw
>>637 宰相(中央内政官)としては微妙じゃね?
>>636 張既上じゃね?
孫邵と賈詡で孫邵上だと思うのは漏れだけ?
賈詡は軍事面の功績が特化してるしなぁ
陸遜も丞相になってからはそれほど政治に携わってないし
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 14:27:30
賈詡は長安時代は、
尚書として結構カ頑張ってるぞ。
賈クは当初は官僚コースであったのが、混乱の渦中にあったせいや
自身の才幹も相まって武官コースに移行していったあたり、興味深い。
本来なら中央で出世して官吏になるなり、地方へ赴任するなりの道を
歩んだんだろうけど、政情の混乱で一気に辿る道が変わったって印象がある。
曹操に降ってからもそうだけど、どうも董卓の頃から段階を経ない一足飛びの
昇進が多くて特異な感じ。
いちばん目をひくのは曹操が領するまでの期間を(袁氏健在とはいえ)冀州牧で
あった事かも。
執金吾にもなってたよな
>>642 >董卓の頃から段階を経ない一足飛びの昇進が多くて特異な感じ。
( ´ω`)つ 【(第二回)党錮の禁】
董卓はこのすぐ後にトップになった人ですが、
この乱れから人材が払底し、朝の再建、
ないしは董卓自身の基盤確保のための
改革・抜擢があったのではないかと。
>>640 それを言えば荀攸・鐘ヨウあたりもだろう。
何事もなければ地方官歴任かか中央出世のできる家格と才覚だろうけど、
荀攸は軍師専任、鐘ヨウは関中専門に。
晩年には中央官にはなってるけど。
適材適所が上手く行ってたということで
軍事方面に関しては多少評価のつけようもあるけど
政治って難しいよな。地位だけじゃ判断難しいし。
>>647 軍事だって地位だけじゃ判断難しいぜ兄貴!
確かに政治評価は難しい。
「孫邵=歴史から抹殺された名宰相説」
がやたら根強い件について
マイナー=名将説
>>649 根強い説がでるほど孫邵って知名度あるのかな?
残ってる記述を見ても非凡な人物とはいえると思う。
名宰相とまではいえないと思うけどね。
>>649 自己主張の強い文官を嫌う孫権の性格からして、
あまり自己主張しない無難な人物を丞相に据えたと言う線も捨てがたい。
いや、そのとおりだと思われ。
孫権自身で、なぜ張昭を丞相としなかったか名言してるし。
もうひとつ考えれば、孫邵は江東ではなく北海郡出身者。
専制君主ではない孫氏への影響力が大きい江南の名士層へ楔を打てるという
目的もあったのかも。
江南名族への楔という意味はないだろ
それなら張昭でいいし次が顧雍ってのも…
>>653 江南名族に楔を打ち込みたいなら、
張昭のような自己主張の強い外来名士を
丞相に立てるんじゃないかな?
それをしなかったってことは、
単に大人しくて据わりの良い人物を
宰相に立てておきたかったんだろう。
呉書はイ昭の著のほぼ丸写しというから、ワザワザ呉の臣を貶める理由が無いんだよな。
記述が無いってのは「孫邵は何もしなかった」っていう意味が含まれるんじゃないか?
孫邵を貶める理由は裴注にあるよ
誰の伝の裴注?
>>658 呉主伝の孫邵が死んで顧雍が後を継ぐくだり
660 :
658:2005/08/24(水) 17:05:29
正史準拠による夏侯惇
統率A 知力B 政治A 魅力S
もう無理やりネタ投下しなくていいよ
甘く見て
統率E 知力D 政治C 魅力B
A〜E評価な
うーん、661はネタとして許せるけど663だと許せないのはなんでだろ…
夏侯惇を愛してるからさ。
坊やだからさ。
俺が評価しても663と同じになるがな。
わかった。釣ろうとしてるのが見え透いてるからだな。
つか、いい加減現実見ろよ...
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:51:00
そういう釣りでは乗れない。だから普通にage
671 :
 ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2005/09/06(火) 22:14:19
_,,;;:::-──-;;;、_
_;;-'''":::::;;;;;;;;:::::::::;;;;;;;;;;`ヽ,
/_;;::ー--::_::::::;;;;;;;;:::::::::;;;;;;;;;;;\
/" ゛''ー-、;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;ヽ
/ rー'::::::;;;;;;;;;;;:::::::::::l
/, |::::::;;;;;;;:::::::;;;;;;;;;:::::|
|"'' ''''ー::;;、 l,;;;;::::::;;;;;;;::::::::;;;;;;;l
l;-:、 _,,..,,_ ヽ,;;;;::::::::::::;;;;;;;;:;l
/ ̄/ 'ー─` l::::;;;;;__;;::─、::/
| / ..,,_ |;;:/ |:l
l '-:::;;;,,__)、 ~'" ノ;r'"/'
l _,,.._ ヽ, 、,,__/:''′
ヽヽ二二=- :i /:'´
i. `ーー''''" ..:::'' /
___,,,,,,,,ヾ、 .:::''" l
_,,;;:-ー'''''" | `tー-::;;;;,,,,.. |
"´ l l |
ヾ ヽ、 :::iー-::;,,,_
\_ `ー---:::::--ー''''''""_ノ\,
"'''ー----:::;;;;--ー'''" '\,
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 22:21:35
正史や他の読んでも周瑜が指揮したり、従軍した戦いって全部勝利してるけど、
これってマジ?たんに『周瑜伝』だからいいとこだけとってんの?
でもマジだったらすごい・・・
周瑜が戦争では神なのは誰もが認めることだよ
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 22:27:53
マジで!?
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 22:28:47
マジで!?
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:12:00
周瑜
統率 A
武勇 E
政治 G
魅力 S
孫策
統率 A
武勇 B
政治 G
魅力 B
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:12:44
関羽
統率 C
武勇 S
政治 F
魅力 C
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:13:53
張飛
統率 C
武勇 A
政治 G
魅力 G
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:14:33
曹操
統率 S
武勇 F
政治 A
魅力 A
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:15:30
項羽
統率 A
武勇 A
政治 H
魅力 D
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:16:18
韓信
統率 S
武勇 G
政治 F
魅力 H
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:17:52
張遼
統率 A
武勇 B
政治 H
魅力 F
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:18:41
呂布
統率 D
武勇 S
政治 H
魅力 G
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:19:30
賈詡
統率 C
武勇 G
政治 C
魅力 F
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:22:18
郭嘉
統率 F
武勇 H
戦略 B
知略 S
政治 D
魅力 C
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:22:58
夏侯惇
統率 H
武勇 F
政治 E
魅力 D
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:23:35
法正
統率 D
武勇 G
戦略 C
知略 S
政治 C
魅力 G
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:26:01
劉備
統率 D
武勇 F
戦略 H
知略 G
政治 C
魅力 B
韓信は治粟都尉だったっかなんか、
大将に抜擢される前に内政官もこなしてなかったっけ?
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:27:18
夏侯淵
統率 A
武勇 B
戦略 G
知略 F
政治 H
魅力 G
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:30:21
諸葛亮
統率 C
武勇 H
戦略 F
知略 C
政治 A
魅力 F
統率Cに警戒しまくる魏
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:31:59
龐統
統率 C
武勇 H
戦略 B
知略 B
政治 B
魅力 H
魅力Fで従う魏延、期待する李厳、祭る民衆、嘆く群臣、称える敵将、絶賛する陳寿
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:38:43
姜維
統率 D(度重なる北伐の失敗)
武勇
戦略 H(北伐の意義が疑われたため)
知略 C
政治 D(蜀の丞相だったことから甘く評価)
魅力 G(蜀の民に嫌われていたから)
つまんねーからやめてくれ。
お前は魔玉か。帰れ。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:57:01
荀ケ
統率 ー
武勇 ー
戦略 A(曹操への数々の献策から)
知略 A(曹操の兗州平定から華北の大部分を勢力圏に置くまでの献策の多くが荀ケによるものだったことから)
政治 B(曹操の魏公即位に大きな影響を及ぼしかねない人物であったことから政治にも係わり合いが深かった)
魅力 A(容姿端麗偉丈夫と伝えられ、多くの歴史家が同時代に荀ケと並べて評される人物を選抜してたことから)
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 00:59:24
諸葛亮
統率 B
武勇 H
戦略 B
知略 A
政治 A
魅力 B
>>698 なかなかの逸材だな
知略と魅力を逆にしないか?
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:00:23
龐統
統率 C
武勇 H
戦略 B
知略 A
政治 D
魅力 H
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:01:45
郭図
統率 −
武勇 −
戦略 D(官度の戦いの敗北より)
知略 C(自己弁論、官度の戦い以前の功績から)
政治 D
魅力 H(袁家滅亡の諸悪の根源とされているから)
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:02:17
劉備
統率 C
武勇 D
戦略 D
知略 D
政治 C
魅力 A
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:03:01
>>699 魅力はいまいちだろ。
劉備亡き後に多数造反が出てるし
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:04:40
>>702 政治Cと魅力Aは良しとして
私怨で呉に攻め込み、そして大敗して多くの将兵を死なせた劉備にその戦略・知略・統率は高すぎじゃないか?
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:10:32
劉備
統率 D
武勇 ー
戦略 H(勝利のほとんどが法正と龐統の献策&夷陵での大敗から)
知略 F
政治 C(蜀建国を甘受)
魅力 B(現代で言うところの任侠・ヤクザの親分のような人物であると伝えられていることから万人に受け入れられる人物とは考えにくいから&派手好きだったというから)
>>703 一代で築いた国(しかも乗っ取り)で
初代王が大敗して逝ったら造反出ない方が不思議でないか?
>>705 その理屈で言うと劉邦の魅力はCかDだな。
なるほど、義侠任侠は魅力としては認められないのか
劉備が死んだら反乱が起きる→×諸葛亮の魅力減 ○劉禅の魅力減
「運」の項目を入れませんか
ごめんなさいごめんなさい
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 01:57:44
統率A…趙雲、張遼
武勇A…呂布、関羽
戦略A…カク、陸孫
知略A…荀イク、諸葛亮
魅力A…劉備、孫権、張角のみ
インフレ防止のためAを特化してあまり増やさない方がゲームとしては楽しい
曹操…BCCBB
劉備…CDEFA
孫権…CEEEA
孫策…BBDEA
孫堅…BBEEC
董卓…CCEEC
エン紹…CBFGB
公孫讚CEGGG
呂布…BAHHF
馬騰…CBHHC
馬超…CBHHC
エン術…EDFDC
軍人君主は統率は普通以上にしたい
武勇は評判も込めて
戦略知略はそのままの意味
魅力は長く続いた勢力をA
曹操は大勢力で有能者引き抜きに優位ゆえにB
エン家は名家の名で割高
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 02:01:21
曹仁
統率 B
武勇 S(張繡との戦いでは圧倒的不利であったが、彼がはなはだ勇猛であったためこれを破った。牛金らが賊軍に殺されそうになっているのを見て、曹仁は自ら勇者数十騎を従え、数千の敵兵を蹴散らし牛金を助け出した。数人の将兵を失ったのみだったという)
戦略 ー
知略 D
政治 G(曹一族であるにも関わらず政治に関与した記述が少ないため)
魅力 B(三軍に武勇を称えられ、向かうところ敵無しの名将であり曹一族最強の名将であったことから)
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 02:22:26
夏侯惇
統率 H(正史に記された数少ない戦が負け戦で捕らえられた記述であることから)
武勇 ー
戦略 ー
知略 G
政治 H
頭脳 H(幼少の頃人を殺して逃げた)
魅力 H
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 02:23:45
>>711は横山三国志を読んで感動した小学校低学年って感じだね
劉邦
統率 E
武勇 D
戦略 F
知略 C
政治 C
魅力 B
統率は百敗将軍と呼ばれたほどの戦下手でいくら楚軍相手とはいえ負けまくっていること。
特にスイ水の戦いの惨敗はあまりに酷い。
武勇は田舎の山賊頭になる程度の力はあるため。
戦略は張良達の指導に従って決めていたため劉邦本人にはこれという戦略能力は見出せない
知略は秦攻略時に感陽までの拠点を謀略を用いて落としている事を評価。
この頃は陳平もいないし張良やレキイキも途中参加。
また功臣粛清も漢にとっては良い方向に出たと評価。
政治は臣の言をよく採り入れ、またよく選別して
領国を治めていた事は君主の政治能力としては評価に値する。
魅力は集まった人材を考えれば個人的にはSだと思うが
犯罪者集団の親玉であり、猜疑心が強く怒りやすく執念深く恨みを忘れず
豪放磊落に見えて繊細な感情の持ち主でしばしば暴走しては周囲に諌められ
また儒者を激しく嫌い礼儀に欠けるところがあった。
とても万人に好かれる人物とは言えないのでBに
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 03:13:48
荀攸
統率 ー
武勇 −
戦略 B(荀ケ・郭嘉の実力の陰に隠れてしまったが、官渡の戦いでの烏巣焼き討ち進言を考慮)
知略 B(白馬の戦いで顔良を計略で破った)
政治 D
魅力 G(ルックスは貧弱で、表面は愚鈍に見えたと云われる)
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 03:35:29
英布
統率 D(秦代には庶民→盗賊という生い立ち。兵法を知らなかったという。しかし秦の軍を少数で破った)
武勇 A(盗賊を仕切り、無一文から武で勢力を持ったため)
戦略 H
知略 H
政治 H
頭脳 H(先見の明無く、思慮に欠けた行動が多い)
魅力 C(盗賊をまとめあげた)
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 03:55:06
司馬懿
統率 A(蜀の北伐をよく防いだ。公孫淵を討ち遼東・楽浪などの4郡を魏の領土とした)
武勇 −
戦略 ー
知略 B(クーデターを成功させた)
政治 B(晋建国の土台を築き上げた)
頭脳 A(粛清を免れ、クーデターを成功させたことから)
魅力 C
司馬懿の活躍した時代は中央に平和が戻り、国は栄え、国は富んでいた
蜀や呉の人々は平和になった中原に戻っていった
魏の人口は増え、さらに強大になっていったのだ
ゆえに長期的戦略を立てる必要性が群雄割拠の時代よりも薄れた
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 04:47:03
于禁
統率 B
武勇 D
戦略 −
知略 D
政治 H
頭脳 F
魅力 H(厳格で真面目、清廉潔白であったが、法律で人を従えようとしてかえって兵や民に人気がなかった。関羽に命乞いしたことから)
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 05:09:40
曹操
統率 S
武勇 −
戦略 ー(郭嘉・荀ケ・荀攸・程c・戯志才等の献策によるところが大きいために評価は難しい)
知略 A
政治 A(魏の基盤をつくりあげ、中原に平和を取り戻した手腕から)
頭脳 A(宦官の祖父・金で大尉の地位を買った父・自身のルックス等コンプレックスを弾き返すような身のふりかたから)
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 05:22:34
曹真の詳細と評価をお願いします
教えてエロイ人
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 06:08:17
そうそうは知略もちっとさげるべきだよ。
頭脳(本能)でわかってても、ギャンブル性を信じて時々ものすごい負け方してるから。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 07:14:16
呂蒙
統率 B(関羽を討ち、刑州平定により)
武勇 C
戦略 C
知略 B(刑州平定の際、関羽を欺いた計略)
政治 G
頭脳 C(魯粛の論評より)
魅力 C(兵卒に優しく、士大夫とも折り合いをつけていたことから)
我々は歴史的な自演に直面している。
趙雲
統率 D(大軍を指揮してない為、あまり総大将としての器はなかったかも?)
武勇 B
戦略 D
知略 D
政治 D
魅力 C
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 08:05:31
>>727趙雲の戦略と知略が高過ぎ
趙雲は劉備に長期的戦略を献策したこともないし
計略で大軍を破ったこともないぞ
政治にも介入してないし
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 08:17:25
趙雲
統率 ー(大軍を指揮してないため計測不可)
武勇 B(阿斗を救う&将軍張著が敵大群に囲まれている所を救い出す等)
戦略 G
知略 D(空城の計を用いて敵を撤退させた)
政治 H
人気 S
魅力 C(偉丈夫にして濃眉大眼&劉備が私怨で呉を攻めた時、これに反対した)
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 08:28:42
お前らの考える三国志のゲームだと、ろくなのができないだろうな。
能力低すぎだろ。
重箱の隅をつつくように悪いところだけを見て考えるんじゃなくて、
Aに該当する(つまり三国志で活躍する英雄と言われる人物)から考えていって
上から順位付けしたほうがいい。
俺は
>>711好きだけどな。
君主優位論は賛成するよ。紛いなりにも一応歴史上じゃ太守だ。
自演乙
711は好きも嫌いもギャグでしかないだろ
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 09:14:08
あの統率Aは寡兵戦で強いのを重視したのか?
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 09:19:49
今度から解説がないもの、コテがないのはスルーしようぜ。
ただ趣味で書きたいだけのはご自由に。
論議したいのは責任もって、自演しないように書いてね
コテは荒れる元だからイラネー
というか、そもそもA〜Hはそれぞれどの程度の実績や経歴を元につけるかの基準が無いと
理由書いても滅茶苦茶になるんじゃないか?
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 10:45:25
荒れるかオナニーか
いずれにせよ、空しいな
正史なら呂布の武勇Sも怪しいな。
りょふ>ちょうひ>かんう
張飛>関羽>趙雲>馬超>黄忠
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 13:43:27
正史なら
劉備>>孫権>曹操だろ。
家臣の力だけじゃ1兵卒から太守、皇帝になれないよ。
俺も太守、君主の統率C以上は同意
太守でC以上って、統率は随分と安いんだな。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 13:57:16
軍の統率だろ?
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:01:47
自ら軍を率いなくてもC?
なんか不思議だが、将軍に命令出して動かしてもそれも一応統率だよなあ・・・。
呂布
統率D 一度は曹操倒したし。
武勇A 弓で仲裁したし、騎馬も得意だし。
知略H 策によくひっかかるし。
戦略G 一応群雄まで登りつめたし。
政治− 記述ないし。
魅力H 裏切りるし、義父殺すし、部下に冷たいし。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:25:03
曹操倒した呂布がDなら長州あたりはCか?
ありゃカクのおかげか?
でもカクを統率したのは長州だろ?
むずかしいわ
曹操倒したつっても後が負けまくりだからな〜。
なんで上げる人がこんなにも多いんだ?
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:31:32
正史で熱く語ってる奴はキモオタばかりだな( ^∀^)ゲラゲラ
演義で熱く語るのもどうかと思うが( ^∀^)ゲラゲラ
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:36:58
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:38:38
何でもすぐ熱くなるのはどうかと思う( ^∀^)ゲラゲラ
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:41:29
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:49:02
age
正史は夢がないからツマラン。両方読んだが演義のほうが大衆に受け入れやすい。正史を熱く語るとキモがられる
そうか?
まぁ、演義だと一つの物語になってるからな
大衆に受けやすいのは当たり前。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 15:31:47
劉備や曹操の、わりとたたき上げ将軍の武名が低いのはなぜだ?
757 :
おお:2005/09/07(水) 15:45:32
正史で熱く語ってる奴はキモオタばかりだな( ^∀^)ゲラゲラ
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 18:54:35
曹操
統率 S(名立たる名将・士大夫・賊に至るまで手なずけた)
武勇 −
戦略 ー(郭嘉・荀ケ・荀攸・程c・戯志才等の献策によるところが大きいために評価は難しい)
知略 B
政治 A(魏の基盤をつくりあげ、中原に平和を取り戻した手腕から)
頭脳 A(宦官の祖父・金で大尉の地位を買った父・自身のルックス等コンプレックスを弾き返すような身のふりかたから)
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:11:19
賈詡
統率 ー(自身が軍を率いて戦い目立った功績を挙げてないため)
武勇 −
戦略 A(李傕に長安奪取を献策し、見事に奪還した&李傕は賈詡の戦術に敬意を払ったという)
知略 S(曹操を奇襲を用いて大破した)
政治 A(曹操が後継者問題について賈詡に助言を求めた際、賈詡の助言が曹丕を後継者にしたというから)
頭脳 S(質素な生活・謙虚な態度で人と接し、降将ながら魏の大尉まで出世した)
魅力 E
>>758 はいダウト
統率が高いなら同じ人間に複数回に渡って裏切られるって事を繰り返さないと思うよ
武勇は武術の達人だってのを無視ですか
戦略で献策があったからと言ってるのに政治で部下の献策無視してる
知略のコメントがなく無根拠
頭脳の評価でコンプレックスの裏返しって評価も打倒じゃない
正史で考えようよ
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 20:26:17
司馬懿
統率 A(蜀の北伐をよく防いだ。公孫淵を討ち遼東・楽浪などの4郡を魏の領土とした)
武勇 −
戦略 ー
知略 B(クーデターを成功させた)
政治 B(晋建国の土台を築き上げた)
頭脳 A(粛清を免れ、クーデターを成功させたことから)
魅力 C
司馬懿の活躍した時代は中央に平和が戻り、国は栄え、国は富んでいた
蜀や呉の人々は平和になった中原に戻っていった
魏の人口は増え、さらに強大になっていったのだ
ゆえに長期的戦略を立てる必要性が群雄割拠の時代よりも薄れた
>>760 こーゆームカつかせる話し方するのが嫌われる正史厨なんだよな。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 20:36:24
戦略・知略・頭脳って何が違うんだよ
コメントの内容一緒じゃねーかよ
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 20:50:29
戦略(戦争に勝つための総合的・長期的な計略)
知略(計略で敵を打ち負かした実績から)
頭脳(教養・立ち振る舞い方)
なにがダウトだよ。
正史厨ってすげー厨房っぷりだな。
お前がダウトだって感じだな
ってかなんで正史のスレにいるの
一般的イメージをぶち壊すのが楽しいから
?
>>768 そのように考えてるとしたら、
そういう人って釈迦に説法って言葉知ってるんだろうか?
皆が知ってる事をつらつら並べられても嬉しくとも何とも無いし、
自分の無知を曝け出してるだけなのにね。
>>760の
>はいダウト
これと同じモノの言い方をする人間を世界史板の三国志スレでもみた。
それにしても偉そうに言っているわりに、統率Sにケチつける理由が演義の
曹操しか知らない人間と変わらないのには参った。
それとも俺も釣られた奴のひとりか?
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 21:54:18
諸葛亮
統率 C(北伐の失敗・しかし南蛮の平定を考慮)
武勇 −
戦略 D(魏延が献策した行路で北伐を行わなかった&馬謖を重要な位置に配置し敗北を誘引)
知略 ー(計略で敵を欺いたり破ったりしてない)
政治 A(許靖の後、蜀の丞相を10年以上勤めたことから)
頭脳 B(刑州で名を挙げることが出来ず、中央に仕える能力がなかったにも関わらず、自己を高く評価させるために使った手段が優れていたから)
魅力 C(身長も高く公正で真面目な人物であったことから)
この流れって、ずっとひとりでやってんの?
もうグダグダっていうか、目もあてられないんですが
ほとんど一人が回してるんだろ。
能力評価の傾向と、スレのあがり具合でわかる
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:22:36
魏は中原を平和にし、優秀な人材を集めたエリート集団
蜀は平和を乱す反乱勢力
こういう評価になるのもしょうがない
織田は近畿を平和にし、優秀な人材を集めたエリート集団
武田上杉毛利島津は平和を乱す反乱勢力
自民公明は日本を借金づくめにし、族議員を集めた腐敗政治家集団
民主社民共産は日本を中国に売り渡す売国勢力
俺760なんだけどさ
正史で考えると益々曹操の統率力は評価Sにできないんだよね
勿論色々な面で粛清から正当な手法まで色々採ってちゃんと組織を作ったってのは評価できる
ただ曹操が一世を風靡出来たのは勝利していたからじゃないかね
組織を統率力で作り上げたってよりは勝利や個人的なカリスマが求心力になっていたからと
そう考える理由はいくつかあるけど曹操って何度も反乱を起こされたり企画されている
全部未然に防いだりしてるならともかくひどい時は莫逆の友と思われていた張バクにまで裏切られている
その裏切りの時荀ケがいなければ州丸ごと裏切りって事になってた訳でやっぱり統率力ってのはSではないよね
もしかして統率ってのは光栄ゲームで部隊のぶつかり合いの時のみに発揮される数字なのかな?
でもそうだとすると統率の短評がわけわからない事になるしやっぱり組織を統率する力って事でいいのかな?
先にそれ聞くのを忘れてたよ
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:35:35
反乱起こされたら統率Sじゃないの?
じゃあ誰が統率Sに相応しいか言ってみて
同じ時代に曹操と比較して統率Sに相応しい人物なんて該当無しでしょ
780 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:38:48
劉邦だって光武帝だって反乱起こされてるし
組織を強固に保ったって点じゃ劉備の方が上だよね
流浪してても部下に反逆された事も無い訳で
劉備が裏切られた珍しい例として呂布と孟達がいるけど
あいつらの場合は時勢を見て自分に都合のいいように動く連中だってのは判るでしょ?
どっちも劉備の統率のせいとは言えないよね
曹操が張バクに裏切られたってのは関羽や張飛に劉備が裏切られるようなものだよ
部隊の強さって言うんだとしてもやっぱり曹操は統率Sとは言い難い
青州兵の強弱を抜きにしても曹操の強さは基本的に奇襲と釣り出しによって支えられているから
統率でなくて知略や頭脳の類に分類されるんだよね
正攻法でやりあうと途端に勝率落ちるのはそれを端的に示しているよね
それでも充分高確率で勝利するけどさ
まあどっちの観点からも曹操はやっぱりSではないと思うよ
ただ「反乱」されているから統率が低いのではない
組織の中核とも言えるような人間に州丸ごとひっくり返されかねないような反乱をされているのが失点だってのよ
反乱起こした人間が起こすべくして起こした人間ではなくて
それまで曹操が自分が死んだら家族に頼れと言っていた張バクの裏切りだから意味がある
中国では家族の事を頼むってのは最大の賛辞なのは知ってるでしょ?
曹操も橋玄に家族の事を頼まれたりしているしな
そんな間柄の人間に裏切られるのはそりゃあ統率Sってのは難しいよね
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:28:50
後漢から三国時代の武将で統率Sの武将は該当無しってことですか?
統率力は多くの人をまとめて率いる力という定義のもと、曹操の統率力を考える
且、同時代の武将達と比較した上で判断してみよう
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:33:49
張邈に謀叛されたから、曹操の統率力が疑われるのが謎だ
張邈の反乱は、張邈が地位と名誉に目がくらんだか、呂布や陳宮に唆されただけ
>>784 張バクの動機がそうだったと言う根拠を示そうよ
根拠が全くない状態で話をするのはスレタイと
>>1に反するよ
逆に曹操と張バクが無二の親友だったって事は正史と註のあちこちに書かれている
親友に裏切られるような男は統率力がないと考えるのが普通
どこにも謎はない
袁紹に疎まれた呂布は陳留を通過し、曹操の旧友であり、信頼の厚い太守張邈にもてなされた。
まもなく張邈は時の権力者袁紹がお尋ね者とする呂布を歓待したことで、袁紹の命令の下曹操(当時袁紹の部将だった曹操)に攻撃されることを恐れた。
さらに曹操の部下でありながら彼に不満を持つ陳宮に説得され、呂布を盟主として兗州刺史とし、曹操に反旗を翻した。
張邈が反乱を起こした背景にはこういったことがあった。曹操の責任とは言い難いな
統率力じゃなくて魅力の問題じゃねーかなーという気はするが
統率って戦場での指揮能力じゃねえの?
誰か定義をキボン
>>785 張邈は人が良くて侠客連中に人気があったらしいけど、
反面人に流されやすい性格でもあったらしい。
石井仁の「曹操」にも載ってるけど、
「袁紹に殺されかけた経験の持つ張邈
以前は曹操に助けられて事なきを得たけれど、今度袁紹に睨まれたら
もう助からない、かといって前回助けてくれた曹操は、その段階では
完全に袁紹の子分状態になってしまっている=もうだめぽ」
って気持ちになって陳宮の口車に乗ったんじゃないかと。
そうゆう説もあるわけよ。
だからあんたみたいに一概に「親友に裏切られた曹操だめじゃん」って
簡単に言えるものではない。
>>786 部将じゃなくて格下の同盟者だよ
だからこそエン州反乱時に袁紹は曹操に手紙を送って従属に近い形を要求するわけで
曹操に攻撃される事を恐れた、とする説はやや根拠に乏しいんじゃないかな
>>788 親友に裏切られるような組織作りだめじゃん
さらに言えば臨時とは言えども州の長官である筈なのに張バクや陳宮の口車でひっくり返されるような組織作りはダメじゃん
組織を作るって意味の統率ではやっぱり曹操は時代最高の人物じゃないよ
>>786と
>>788は、ほぼ同意見ってことだね
しかし張邈を正史で引くと、袁紹の権威の凄まじさがわかる
この袁紹を破った曹操はやはり凄い
つーか、統率は
>>787が指摘してるとおり、
戦場での司令官としての指揮能力じゃないのか?
違うとしたら政治との差異を明確にしてくれ。
個人的にゃ「親友に裏切られなんたらかんたら〜」なんてのは
魅力か、政治の面での問題だろうと思うし、
そのへんしっかり提示せずに、評価だけ押し出してもしかたないだろ
>>791 それは最初に曹操のステータスを付けた奴にいってくれ
俺はそいつのフォーマットでの能力値格付けを批判してる
だからこそ割と前の方でその統率はどっちだ?と聞いているのだがね
>>789誰がこの時代で最高の統率者か言ってみて
議論はそれから
ここ20くらいのレス読んでから書き込もうぜ
張邈に裏切られた=統率力がないっておかしくねーか?
この反乱には利害関係も大きく働いてるみたいだし
曹操が張邈と陳宮の謀叛を予知なんてできるわけがない
曹操が徐州に遠征してる間に呂布が張邈のもとにやってきたわけだし
曹操が徐州に出陣する前に呂布が張邈のもとへと落ち延びてきてたら、きっと曹操は呂布を警戒してただろう
張バクに裏切られて州丸ごと持ってかれそうになるのは統率力不足じゃないかな
曹操が徐州に遠征してる時に呂布が張邈のもとに落ち延び、陳宮に反乱を唆された
つまり曹操が兗州にいればこの反乱は何らかの形で防がれてた
>>796 兗州は『張バクに持っていかれそうになった』というよりも、『呂布に持っていかれそうになった』って言うべき
統率に関してこのスレでの定義がない以上、日本語の「統率」って単語の意味に沿って考えるべき
と主張するならば統率は広義の組織作りから狭義の部隊を率いる能力まで多岐に渡り評価が難しい
組織を作る能力を統率とするならば部隊率いる能力は別の名前で評価しなければ組織作りが上手い=戦場で強いってアホな式が成り立つ
統率はどんな能力として考えるべきであろうかね
>>797 そんな短期間で一州をひっくり返されるのはやはり組織作りが甘かったと言うべきじゃね?
>>798 そこは拘るところではないんでそう訂正しておく
呂布に張バクや陳宮が靡きエン州を奪われかけたってのでいいかな?
曹操の組織作りが甘かったのか、当時精強な軍隊をもっていた呂布が強過ぎたのかって議論にもなりかねないな
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 02:40:33
しかし曹操は徐州から帰還して呂布を討ち、兗州を平定したわけだが
兗州が奪われたのは、
張邈のもとに呂布が落ち延びたっていうことと、徐州遠征の妙なタイミングが合い起きた予知できない出来事だったんじゃないかな
呂布の軍勢はそんなに強かったと仮定した場合の話
個人的武勇だけでなく組織的統率力がかなり高かったのかな?
曹操の軍勢は名高い青州兵だったのに最初の会戦では曹操は呂布に敗れた
まあこれは反乱のショックもあったのかもしれない
その後曹操は「戦略拠点抑えない呂布pgr」と言ったらしいんで呂布は戦闘行為以外がダメダメなのはわかった
予知できなくても呂布に数人が靡いて一州が引っくり返りかけた時点で組織作りの能力に満点をやる事はできないだろ
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 02:53:12
正史の呂布伝を書き込みます
『燕精兵萬餘,騎數千匹.布常御良馬,號曰赤菟,能馳城飛塹,
與其健將成廉、魏越等數十騎馳突燕陣,一日或至三四,皆斬首而出.連戰十餘日,遂破燕軍.〔後漢書・呂布伝〕』
「張燕には一万余の精鋭兵と数千の騎兵があった。呂布は常に赤兎という名の名馬に乗っていた。
赤兎は、よく城を駆け塹壕を飛び越えた。呂布はその健将の成廉・魏越ら数十騎を率い、張燕の陣に駆突した。日に3度4度と突撃し、皆は首取って出てきた。連戦十余日で、ついに張燕軍を撃ち破った。」
>>803 飛将軍とか言われてたぐらいだから強いとも思われてたんだろうけど、
呂布は当時、董卓殺したってことでかなり名を上げてたんじゃないかな。
それを御輿として利用できると考えたのが陳宮や張超だったってことでは。
御輿として州を引っ繰り返すような荒業が出来るって事は呂布の名声がもの凄く高かったのかね
それとも曹操が周囲の信用を失っていたのか
信用を失っていたとしたら何が切っ掛けで信用を失っていたんだろうか
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 03:07:50
呂布の軍も精強で、
曹操が呂布を討った後、旧呂布軍は張遼が率いた
それでも呂布の戦績が悪いのは、
兵が強ければ戦争に勝てるわけじゃないってことなんだろうな。
>>807 曹操の信用云々ではなく、陳宮や張超の影響力で考えたほうがいいんでないかな
陳宮も張超も名士としてはかなり有名な部類だったらしいし
そいつらが董卓を誅した呂布を迎え入れたってのはかなり期待も高かったんではないだろうか
まだこの頃の世間一般的な見方は呂布は董卓を倒した英雄というものだから
担ぐにはもってこいだろうな。
まあ本性が分かった後は袁紹も陳宮も扱いに苦慮してたようだが
親友同士だった張バクが何故曹操に殺されると思ったんだろう
上でも言ったけど曹操は格下とは言え一応独立した一個の軍閥として存在していた訳で
格上の同盟者の袁紹に張バクが逆らったとは言えども殺される訳ではないよね
また陳宮も曹操の何を見て曹操じゃだめだって思ったのだろう
地位や名誉に目が眩むような事は張バクはない訳でそこの動機を考えなければ組織作りが甘かったのかそうではないのかがわからないよね
陳宮が一体何を目指していたのかはよくわからん。
漢朝の復興とかではないと思うが。
>>809 そもそも呂布は、兵数で相手の兵力に上回った状態で戦った事が、虎牢関くらいしか無いぜ…
比較として劉備が挙げられていたけど、そんなに強固か?曹操は結局エン州を取り戻した、これは
州内にそれなりの地盤と、土地豪族に頼らない自分の軍隊というか組織が確固としてあったからこそ
土地を失っても逆襲が出来た。
一方劉備は徐州をあっさり失っている。奪回も出来なかった。徐州の豪族たちもさっさと乗り換えた
ようで。
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 04:44:01
張邈が謀叛した理由なんて一生わかるわけがない
袁紹の権威が怖いならはじめから呂布をかくまうことなんてしないだろうし
考えられるのは、張邈って人は思慮に欠けた、気の優しい男だったってことだ
俺は、張バクの裏切りは、野心家の弟張超に巻き込まれた説を採る
優柔不断っぽい感じもするしな
その場合、陳宮たちの策略がうまかったということで
時系列考えれ。張超はとっくにやられてるはず。
(;^ω^)???
>>812 張邈は韓馥の最後とか見てなりふり構わない袁紹に本気で怯えてたっぽい
曹操がいくら格下の同盟者ったって、袁紹側から見たら都合の良い部下レベル
(袁紹の命令でいろいろ動いてるし)
気の弱い張邈が疑心暗鬼に陥るのも仕方ない
だから、袁紹のすさまじい権勢&影響力と、
そこをついて張邈を寝返らせた陳宮の策の見事さを
誉めるべきじゃないかと思う。
821 :
818:2005/09/08(木) 08:06:13
ゾウ洪伝と袁紹伝と太祖伝を読み直し、ちくまの年表は信用ならんという事を理解した
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 08:12:51
張邈の謀叛と曹操の統率力は無関係とは言わないまでも、深く影響を及ぼしたわけではないということでFA?
それにしても最近のKoei三國志の武将は能力インフレし過ぎ
統率力80台多過ぎ
90〜:15人
85〜89:20人
80〜84:30人
にして、正史補正かけたら、蜀将が20%に満たなくなってしまってブルーな俺がここに orz
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 08:34:50
90以上が15人もいるの?
85以上が20人というのも不思議だ
その35人の統率力を書き込んでくれぃ!
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 08:45:21
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 09:31:08
正史オタキモ過ぎてワロス
827 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:34:02
演義オタキモ過ぎてワロス
829 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:39:09
名無しキモ過ぎてワロス
831 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:40:44
名無しキモ過ぎてワロス
>>830 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
833 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:45:49
名無しキモ過ぎてワロス
>>830 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
835 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:48:28
名無しキモ過ぎてワロス
836 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:51:09
名無しキモ過ぎてワロス
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 09:51:25
>>830 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
838 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:51:44
名無しキモ過ぎてワロス
839 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:52:19
名無しキモ過ぎてワロス
>>839 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
>>839 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
>>839 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
>>839 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
844 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:54:38
名無しキモ過ぎてワロス
>>839 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
>>839 三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
魔玉は氏んでいいぞ
>>魔玉
三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
849 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:57:04
名無しキモ過ぎてワロス
魔玉は氏んでいいぞ
851 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:57:42
名無しキモ過ぎてワロス
>>魔玉
三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 09:58:43
魔玉は氏んでいいぞ
854 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 09:58:55
名無しキモ過ぎてワロス
>>魔玉
三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 10:00:00
魔玉ははたらいたほうがいいぞ
>>魔玉
三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
魔玉も所詮カスだったな( ^∀^)ゲラゲラ
讃岐潜伏乙!!!
860 :
魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/09/08(木) 10:04:22
名無しキモ過ぎてワロス
魔玉も所詮カスだったな( ^∀^)ゲラゲラ
魔玉は暇人なだけ!!!
今日も暇人だ( ^∀^)ゲラゲラ
日本人ならせめて選挙には行けよ。
選挙のお誘い来てない( ^∀^)ゲラゲラ
ニートか、それとも税金滞納か、住所不定なのか、そもそも日本国籍で無いのか。
いずれにしてもロクなモンじゃないな。
誘いが無いってのは嘘だけど
自分は転々と移住してるからたぶん実家に来てるはず( ^∀^)ゲラゲラ
借金取りに追われて夜逃げか。転職か。左遷で転任か。いずれにしても大変だな。
何でも悪い方に言うな!
いろいろ訳有りなんだ( ^∀^)ゲラゲラ
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:12:06
せっかく楽しいスレだったのに荒れたな
訳ありか…親の遺産をめぐって親戚の間を転々と…(´;ω;`)ウッウッ
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:13:09
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:13:52
魔玉の親に遺産なんてないと思われ
魔玉の人生にハゲワロスw
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:16:08
魔玉なんてどうでもいいから
三国志の話しよーぜー
877 :
874:2005/09/08(木) 11:16:44
879 :
875:2005/09/08(木) 11:17:30
880 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:17:40
昔の光栄三國志では
なぜか馬騰の武力が高かった
883 :
蕎序:2005/09/08(木) 11:19:11
うん、蕎序だよw
wwwwぅえwwwwwwwwwwwwwwwwwwぅぇっwwぅえっwww
>>880 今もそれなりに高いと思う( ^∀^)ゲラゲラ
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:20:13
ひっかる雲をつきぬけ ばーsmfkj(ry
体中にひろがるパノラマ〜♪
顔をけられた地球が怒って〜(怒って〜♪)
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:23:36
つまらんれす
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:25:03
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:33:13
正史オタキモ過ぎてワロス
演義オタキモ過ぎてワロス
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:38:53
>>魔玉
三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
名無しキモ過ぎてワロス
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:48:07
>>魔玉
三国志知らない奴が来るなよな。カワイソウだね。
おまえら暇なんだな
讃岐潜伏乙!!!
もう止めます…ピューε=ε=ε=ε=ε=┗(><)┓
>>896 放置しないでわざわざ絡んで来る貴様も暇だな( ^∀^)ゲラゲラ
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:55:51
正史オタキモ過ぎてワロス
900越
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:59:29
魔玉税金マダーーー?
>>818 流れを戻すためにマジレスしてみるけど、
陳宮と張超が反乱を起こし張毣を唆して呂布を迎え入れたのが興平元年(一九四)、
張超が雍丘で曹操に攻められ自害したのが興平二年(一九五)十二月、
どう考えても張超死亡のほうが後では?
おっと、×張毣 ○張邈
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 14:37:33
S:いればスタメン A:Sがいないとスタメンかつ効果的交替選手
B:Sがいないとスタメンだが、基本はベンチ入りのみ
C:練習要員 D:今後復活期待 E:30人枠 F:もうないだろ
S:高原、柳沢
中村、中田、福西、加地、サントス
中澤、宮本、田中誠
川口
A:大黒、玉田、中田浩
小笠原
B:三浦、稲本、遠藤
茂庭
楢崎
C:駒野
坪井
土肥
D:久保
小野
E:大久保、松井、鈴木
村井、巻、田中達、茶野、阿部、今野
F:藤田、西、本山、山田、都築、曽ヶ畠
どういう誤爆だ
907 :
818:2005/09/08(木) 16:51:05
>>903 ちくまの文庫の年表だと、195年にゾウ洪が死んでるのだ。
…「袁紹は年を越してもゾウ洪の城を攻め落とせなかった」と書いているにも拘らず。
そこで盛大な勘違い
>>821をした。
ちくまの年表は資治通鑑ベースで作ってあるからな
909 :
818:2005/09/08(木) 17:12:11
資料を信用する前にまず自分であさってみる事が大事だと痛感した。
濮陽城の戦いで曹操は捕らえられた
しかし兵士は曹操と知らず逃がす契機を与えてしまった
曹操の風貌は英雄像とかけ離れていたために助かった
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 18:54:00
正史オタキモ過ぎてワロス
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 19:08:34
正史三国志なんてしょっぱいもん本国でも相手にされてないのにな
なんか正史オタってツェッペリンとかストーンズ聞いて
こんなの聞いてる僕かっこいいってうっとりしてる
痛い中学生みたい
913 :
903:2005/09/08(木) 19:32:48
>>907 そうだったのか・・・
ちくま文庫は読んだことないんだがそんな罠があったとは
今度全巻買う予定なので気をつけて読むことにするよ
>>912 ツェッペリン・ストーンズと喩えるお前の頭脳を疑う
お前は音楽知らないのにクラブ通いするぶちゃいくなダサメンって感じだな
で、親友に裏切られる曹操の統率へたれじゃんプギャーって主張してたヤツはどこいった?
けっこう面白かったからまた来て欲しい
多分曹操の統率プギャー野郎は昔からこの類の板にいた奴でしょ
全く同じような書き込みが過去ログにあった
『致命的な裏切りを何度も起こされています。
特に子飼いの陳宮と親友の張バクに離反されたのは、マイナスポイントです。
親族以外の将軍では、張遼にしか戦線を任せることが出来なかったのも、
天下人としてはどうかと思います。
また、魏書を紐解くと、やたらと反乱を起こされており、
曹操は国家の運営には向いていなかったのではないかと思われます』
↑これ書いたの昨晩いた曹操の統率プギャー野郎でしょ
張遼にしか戦線任せることが出来なかったって・・・
張遼、徐晃、于禁、楽進、張郃の5人でローテーション組ませて
先陣と後詰務めさせたって記述は完全無視なのかな
>>918 それは曹操軍本隊での話でしょ。
プギャーが言いたいこととちょっとずれてる希ガス
ああ、そういうことか
読み違えスマソ
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:13:14
ゲーム内では三国時代に生きた武将を比較し合って値を決定してるのだから
曹操の統率がSでない為には
曹操と比較できる武将が「後漢〜三国時代」にいなきゃおかしい
統率Sに相応しい武将の名前をプギャーは挙げなければならない
統率Sは諸葛亮だと思うのだが。
弱小国家の癖して大きな反乱もなくまとめあげるってのは
弱小だったから反乱起こす派閥すら存在する余地がなかったとも考えられるが
統率を組織運営レベルにまで引き上げるなら諸葛亮のSはまあ同意
でも曹操に比べて諸葛亮が水際立ってるかといわれるとそれも疑問だが
大きな叛乱(10万人規模?)を起こす程の人がいないだけだべ。
叛乱そのものはたびたびおこってる
確認採るけどどんな能力を評価する基準なの?
諸葛亮も凄いと思うが、いくらなんでも中原まとめあげた曹操よりは下だろうよ
大企業の社長と中小企業の専務の経営能力を簡単に比較できるわけがない
ゲームの都合上比較して少ないパラメータにまとめざる得ないんだけどな
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 23:14:25
コーエーのゲーム内では統率は部隊の指揮能力を指しますね
国家運営・人材配置・人心掌握まで統率力の枠組みに入れるのはどうかと
魏と蜀じゃ人口を対比させても雲泥の差だし
蜀ではこれといった人物が孔明くらいしかいなかったわけでしょ
>>929 んな事はない
諸葛亮死後も人材はそれなりにいた
それでも他二国の方がもっと人材はいたし物はあった
単純に国力の差
孔明が20代後半になっても中央に仕官できなかったところを見ると
孔明の能力を疑ってしまう
それどころか劉表も孔明を登用しようとした形跡がないことから
それまでの男だったと判断するしかない
そして当時劉表の客将だった劉備に拾われ・・・・
実際孔明の力で刑州をとったわけでもなければ
もちろん益州をとったのも孔明の力じゃない
孔明は確かに南蛮平定を行ったが、後南蛮は反旗を翻している
南蛮を真に心服させたのは張嶷
統治者が変ったと思ったら代替わりしてるしその代替わりした統治者は前年の敗戦でボロボロ
そりゃ反旗を翻さない方がおかしいって
>>931 諸葛亮は隠者タイプだから、出仕が遅いのは無能だからってわけじゃないよ
隠者タイプってなんだ????
諸葛亮がそんなタイプだったとは初耳だぞ!!
故意で出仕しなかったってこと?
諸葛亮は隠者タイプってほど無欲じゃないぞ
単に今さら曹操に出仕したところで得られる地位は高が知れてるから時節を待ってただけ
劉表には最初っから出仕する気もなかったんだろう
名士は、暗君に仕える事を何より恥としているしな。
じゃなくて、劉表の元じゃ自分の才覚を活かせないと思ったんじゃないかな
自分を楽毅になぞらえていたことからも諸葛亮に軍事志向があったことは間違いないと思う
でも、劉表は内政ばかり重視して軍事に関しては全く関心払おうとしなかったからね
内政にも軍事にも自信があった諸葛亮にはそれが不満だったんじゃないかと
だから流浪の将軍である劉備だったら自分にとって最良の主人であると判断したんじゃないかな
まあ、結局劉備存命中は軍事の指揮を任されることはなかったわけだけど
ちなみに俺は魏略と九州春秋の孔明から劉備に会いに行った説を主張します
三顧の礼自体はそのあとにちゃんとあったとも考えてるけど
938 :
933:2005/09/09(金) 00:17:04
>>934 まあ、そんな感じ
出仕を渋れば渋るほど自分を高く売れるわけ
君主に仕えるときも吏僚じゃなくって客分として侍ることになる
出し渋るも何も、当時の諸葛亮に
渋る程の価値は無いぞ。
出仕を出し渋るも何も、仕官の誘いが諸葛亮にはなかった
おまけに諸葛亮に軍事志向があるなんてどこの誰が言った?
諸葛亮は軍事に関しては明るくなかったと云われている
劉表は暗君じゃない。
劉表が最初荊州に赴任したとき地元の豪族たちが抵抗を試みたが、劉表は蔡瑁・蒯越らの助力を得てこれを鎮圧した。
また袁術の意を受けた孫堅の侵入を防ぎ、これを戦死させた。
その後劉表は張繍と協力して曹操と戦うこともあったが、中原で曹操と袁紹が激しく抗争する中で、劉表は荊州を安全な地としていった。
また劉表は政治に長けており、戦続きの土地から逃れてきた民衆などが安全な荊州に逃れてきたおかげで荊州の発展はうなぎのぼりであった。
その民衆の中には名士もいたため荊州は同時に優れた人材も手に入れることが出来た。
劉表は学問を奨励し、宋忠や司馬徽などといった学者が育った。
政治家としては非常に優秀で、荊州の保持という点では神がかってたのに、
後継者選びに失敗してしまった。
長男に後ろ盾が無いなら無いで、どうしてさっさと兄貴を殺しておかなかったのやら。
要約すると
劉表は皇帝の一族で、刑州豪族をまとめあげ統治し
そして孫堅を討った
曹操と袁紹が中原で戦い、中央から逃げてきた民を拾い
刑州大発展の契機を活かした
学問を奨励し、文化を向上させた
劉表存命中は曹操も刑州に立ち入れなかった
まさしく英雄
なんで諸葛亮オタって、当然のように他人物を貶めて
アホみたいに都合の良い理屈で諸葛亮マンセー出来るかねー
結果が残ってるからだろ?
諸葛亮は結果残してないけど
伝の記述量と他人の伝への名前の登場回数だけ見れば諸葛亮は結果を残したといえる
結果の内容は諸子の判断の分かるる所ではあろうがね
北伐失敗して
たくさんの将兵失ってるけど?
戦争に勝ってないし、蜀を疲弊させただけでしょ
そうそう、蜀は確かにあの時期に北伐しなきゃもう魏に勝てる見込みはなかったとかって言い訳はやめてね
結果だけみてみて
戦争に勝ってない、一州の地方政権の政治を無難にこなしたってところだけ見てね
諸葛亮
統率 D(北伐失敗・惨敗はしなかったが食料輸送の失敗)
武勇 F(弓馬を好んだという記述がどこにもないことから)
戦略 E(蜀が魏に対抗できる最後のチャンスに私情を挟み致命的なミスを犯した)
知略 C(北伐で大損害を防いだ)
政治 A(蜀を上手くまとめた)
魅力 B(背が高く、公正で真面目な人物だった)
私情とは魏延の献策無視と馬謖の配置
諸葛亮
統率 E(北伐失敗・惨敗はしなかったが食料輸送の失敗)
武勇 G(弓馬を好んだという記述がどこにもないことから)
戦略 E(蜀が魏に対抗できる最後のチャンスに私情を挟み致命的なミスを犯した)
知略 C(北伐で大損害を防いだ)
政治 A(蜀を上手くまとめた)
魅力 B(背が高く、公正で真面目な人物だった)
私情とは魏延の献策無視と馬謖の配置
>>948 ハイハイ。正史も演義も読んだことが無いのに知識をひけらかしちゃダメだよ。
>>945 だったらなおさら、
他の人物を貶めたり、妄想でまでマンセーする必要も無いだろ。
出てる結果にもとづくマンセーならともかく、
イランところまで美化して、諸葛亮様は素晴しいと賛美するノリは気持ち悪い。
孔明貶しが学校で流行ってるのか?
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 06:26:39
諸葛亮は自分を楽毅にたとえたって云うけど妄想にもほどがある
しかし演義のおかげで孔明は楽毅を上回る名声を得てしまった
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 06:27:26
そう言われるとたしかに劉表はすごい人物だね。目から鱗だよ。跡継ぎ問題くらいしか失点ないし,結果だけみたら 孔明〈劉表 だね
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 06:30:34
諸葛亮がコーエーの三国志で全能力ALL80くらいなら
こんなに多くのアンチ孔明を生まなかったな
演義はまだ数値化されてないだけいいけど
諸葛亮
統率 80
武力 37
知力 89
政治 93
魅力 90
妥当だぉ^^
夏侯惇
統率 51
武力 60
知力 44
政治 39
魅力 17
妥当だぉ^^
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 06:38:34
俺
統率 G
武勇 B
戦略 F
知略 F
政治 G
魅力 Z
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 06:59:15
諸葛亮と周瑜って結局どっちがすごいんだよ
周瑜に決まってるじゃん
>>959 魅力Z?プゲラゲーニョすぺワロぅ(r
963 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/09/09(金) 09:14:44
アンチ諸葛亮は頭悪いな。
蜀であれだけできたのだからすごいに決まってるだろ?
おまえらいない人物を妬むのはいい加減にしろよ!!!!
特に
>>961諸葛亮>>>>>>>>>>周瑜なのがわからないならもう一度小説
読みなおしてこいよ!!!!!まさか無双オタじゃないだろうな?
あからさますぎてそれじゃ乗れないよ・・・
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 09:26:34
統率A+またはS-
第三次、第四次北伐等に代表されるように何度も魏軍を打ち破っている
また撤退戦においても追撃してくる将を何人も打ち破る
相手も二流、三流ではなく一流、超一流の張合βや司馬懿だった
第二次北伐の城攻め失敗は準備不足が原因であり統率の失点ではない
武勇D
身長は高かった
戦略A
天下三分、北伐の戦略は素晴らしい
しかし天下三分では呉が長江流域を地勢学上必ず確保に来る事を読みきれていなかった
北伐では何時も運に見放されており目を見張る程の結果は残せなかった
知略A-
劉王奇の相談に乗り難を逃れされる入れ知恵をする
後継問題を避けるべく劉封の処刑を進言
様々な発明をする(元戎、諸葛菜、
諸葛亮の八陣を考案、後代の将軍に参考にされる
派閥力学のせいか第一次北伐時馬謖を先鋒の大将として派遣し失敗
政治S
劉備の荊州南部割拠以後から夷陵までのほぼ連年と言っていい出兵の間、常に補給を充実させた
質素倹約し蜀の国力を絞り尽くしたかのような北伐を連年繰り返しても国が傾く事はなかった
斬新な事は特にしていなかったがそれまでの政治手法のいい所取りをして国を支えた
蜀科を制定し人心を収斂した
殖産興業に成功した
魅力S
人民から士大夫まで幅広く慕われた
立派な容貌だった
雰囲気としては背が高く戦闘力が神懸ってない曹操
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 11:40:56
孔明の魅力は民衆に色んな逸話が残ってるくらいだから
慕われてたのは分かるんだけど、一体どんな所が魅力的だったのかな?
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 11:43:42
a
量刑が胸先三寸で決められてた時代に法律を遵守したってだけでも民衆からは好印象じゃない?
当時としては法家は嫌われてたんじゃないかな
寛治が主流の時代だし
>>970 そりゃ、思想を云々出来るごく限られた上流階級でのはなしだろ。
972 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 12:24:39
武勇D
身長は高かった
わろす
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:16:33
身長が高くても弓馬に長けてないと役にたたないだろ
>>975 弓馬に長けているというのは、名士の「趣味」であって、実戦では馬を御せる程度でよかった。
だからといって、背が高い事が武勇をあらわすとは到底思えないが。
北伐惨敗なんだ。
知らなかったよ。
その事実はどの本を読めば乗ってますか?
赤壁は、船焼かれて撤収しただけ、将兵も別に死んでないしねw
でも、北伐は惨敗、超無駄w
戦略目標の失敗という事に関しては、両方同じなのに、嫌孔明厨のnounai理論はよくわからん
諸葛亮
統率 G(北伐失敗・惨敗)
武勇 H(生まれついての文人)
戦略 G(考案した戦力は全て失敗)
知略 G(北伐失敗・惨敗)
政治 F(相次ぐ出兵で国力疲弊)
魅力 F(特筆すべきものなし)
まあ、北伐は相手が悪すぎたってのもある
特に第一次の司馬懿は神がかってた
あそこで孟達やられてなけりゃもっと違った結果になっただろうに・・・
>>979 正史は持っているので読んでいますが
兵を多数損失しているような惨敗には見えませんでした。
惨敗と言うと有名なものに赤壁、官途があると思いますが
その大戦以上の損害はあったんでしょうか?
あったとすれば第何次の北伐でしょうか?
教えていただければ幸いです。
北伐を惨敗だと本気で思ってるのか?
正史読んでないんじゃないの?
>>978 その説見る度に思うのだが、将兵の内兵の部分、つまり遠征してきた15万や降った荊州軍7、8万を
失わずに船だけ失ったのなら、その後荊州の殆どを手放すようなはめにはならんでしょ。
>>982 第一次では街亭での馬謖の失策で「大為郃所破」と記されてるから紛れもない惨敗
第三次ではきっちり戦果を挙げてるが
第二次と第四次とでは戦略目標を何ら達することなく無為に撤退せざるを得ない状況に追い込まれてるのだから
戦術的にはどうあれ戦略的には惨敗、ただし兵・物的損害を最小限に止めてるのは流石諸葛亮といったところ
第五次は惜敗……と言いたいところだが司馬懿にはどのみち勝てなかっただろう
国力挙げて出兵しといて魏の牙城に瑕疵ひとつつけられなかったのは惨敗といっても過言ではないんでないかな
この後「惨敗」という言葉一つをめぐって罵りあいに発展したりされなきゃいいが…
>>986 大丈夫。
次のスレになったらみんな忘れてるよ。
>>985の価値観だと、城を落としても勝利とは言ってもらえそうに無いけど。
>>987 戦術規模でなら勝利と言うよ
ただ、北伐の戦略目標を考えると・・・という意味
それでも俺は諸葛亮の才覚を褒め称えるけどね
>>985 兵士の損害が惨敗の基準になってるのがなんだかなあという感じ>第一次
>>982に答える形で書き始めたからね
初手で司馬懿に孟達斬られてる段階でまず一敗
街亭の馬謖の敗戦で二敗
西県の民衆を漢中に移住させて一勝かな
三郡の反乱でも一勝だけど馬謖の敗戦で帳消しになってるのが切ないところ
それでも将来を見越して人口を確保した諸葛亮の手腕はすごい
第一次で張コウに打ち破られたのは馬謖の率いた先鋒部隊だけなんだけど…
本体は無事
大為コウ所破」はその前の「魏明帝西鎮長安,命張コウ拒亮,亮使馬謖督諸軍在前,與コウ戰于街亭.謖違亮節度,舉動失宜」 からちゃんと続いてる
意訳だが
魏明帝は西に長安を鎮め張コウに諸葛亮を防ぐように命じた
諸葛亮は馬謖に先鋒を命じて街亭で張コウと戦った
馬謖は諸葛亮の命令を違え不適当な行動をとったので張コウに大いに破られる所となった
その後の退却も惨敗が確定して退却というより戦略的に勝利を収められないとわかった瞬間の退却であって
躓きから全軍の敗北に繋がらないようにした引き際を見極めた諸葛亮の英断が垣間見られる場面
>>993 しかし街亭を守っていた将も列柳城を守っていた高翔も生き残ってる。
赤壁での曹爽が将兵も別に死んでないという理由で惨敗でないなら、
諸葛亮の第一次北伐も惨敗ではないわな。
>>994って、初めから論点がずれてて話しになってないのでは?
>>993は赤壁と北伐を比較してもいないし、将の生存の是非が惨敗か否かを
判断する材料になるとも言っていない。
戦略的な敗北が決定した時点で損失を最小限に抑えて撤退した、という点を
説明しているのであって、加えて戦略的な敗北を招いた事由も、馬謖が戦術で
過失を犯した為であるとわざわざ言っている。
何で
>>994が将の生存の是非を理由に挙げているのかわからない。
将兵が死んでないからって理由で惨敗ではないって言ってる訳じゃない
戦略目標は果たせなかったものの先に拠点占拠に向かった部隊以外はほぼ無傷で引き返せたって事を惨敗というのはおかしくないか?
第一次の敗戦は口惜しい負け方ではあるが惨めなものじゃないだろう?
>>995 確かに晋書には諸葛亮の敗戦の記述がいくつかあるな
ただ敗戦と言っても小競り合いでの勝利みたいな物が殆どだし第四次の盛大な司馬宣王の敗戦は書かれていない
贔屓目に見ても惨敗とは言えないものばかりだ
ハイハイワロスワロス
1001 :
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