1 :
無名武将@お腹せっぷく:
孔明は天下の奇才なり
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 18:33:56
乙
蜀漢って日本の戦国時代に例えると
真田昌幸が、伊達及び奥州の諸侯を糾合し手を組んで秀吉を退けた後に
秀吉を牽制しつつ伊達を出し抜いて北条家を乗っ取るという荒技って感じだよな。
>>1 乙
俺はずっと立てようか立てまいか迷ってたヘタレです
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 19:38:05
乙
立つの待ってたよ
>>4
乙
スレが立ったは良いが、なかなかスレが進まないな。
前スレから時間が経ち過ぎたか?
前スレは、蜀で軍事能力に長けてた人物って誰よ?
とかそんな流れだったっけ?
1位 劉備
2位 諸葛亮
3位 関羽
4位 魏延
5位 姜維
6位 張飛
7位 王平
8位 黄忠
9位 張ギョク
10位 趙雲
順位は気にせず蜀の人物について語りましょう
語り尽くした感もありますが
スレの存在に意義があるという方向で
ネタ投下
関羽 事績
・本籍からタク郡に出奔した。
・劉備が兵を集めると張飛とともに護衛官となった
・劉備が平原国の相となると別部司馬となった
・劉備が高順に撃破されると劉備らとともに曹操の下へ逃げ込んだ
・下ヒの包囲に加わった
・劉備が車冑を殺害して除州を手にすると、下ヒに駐留して太守の事務を代行(統率+政治+)
・曹操が劉備を征伐、劉備逃走、沛県に取り残した妻子は捕縛され、下ヒに駐屯していた関羽も孤立し降伏
・曹操は関羽を捕虜としたが、偏将軍の位を授けるなど厚遇
・天下統一を目前にした袁紹軍の先鋒を任された顔良を斬る(武力+)
・劉j降伏を受け逃走、友軍を待っていたが、漢水にて楽進、文聘に撃破された
・続けて漢津にて徐晃、満寵に撃破され、荊城の水軍の一部を焼かれた
・劉備から荊州を任され統治、運営(統率+政治+)
・呉の縁談の使者を罵倒する(政治−)
・孫権の挑発行動に手紙で行き過ぎた恫喝をする(知力−)
・孫権により派遣された荊南の三郡の太守を追い返した(政治−)
・諸将の前で肘を切開しながら酒を酌み交わす(武力+)
・陸遜のへりくだった手紙に慢心する(知力−)
・魏の救援軍(于禁・[ホウ]徳)を撃破(武力+統率+)
・曹操は許からの遷都を考慮したが、司馬懿・蒋済に諌められる(武力+)
・樊城攻めの援軍、補給を要求するが全て断られる(統率−政治−)
・船を使い樊城を包囲、襄陽には別将を派遣
・呉との国境線にある倉から無断で兵糧を持ち出す(政治−)
・敗走の最中、 朱然と潘璋を派遣して関羽の退路を断たせ、関羽とその子の関平を臨沮で斬り殺させた
・春秋左氏伝を諳んじていた(知力+)
・程イクに兵一万に匹敵すると称される(統率+武力+)
・周瑜に勇猛無比の将と高く評価される(統率+武力+)
・廖立に思い込みのみで突進するから何度も負けると酷評(統率−武力−)
関羽は良くも悪くも人間くさいよなぁ
ま、劉備や諸葛亮・姜維やら、トップの人間臭さが本当の蜀の魅力なのかもしれんが
人間くさいというより
個性が強すぎる印象
劉備じゃないと、まとまらない
劉備はむしろ神懸っている
劉備が直卒した時(ほとんどそうだが)は
けっこう強いしね
赤壁以降は結果残してる
蜀将って言うより劉備軍団
劉備死亡後の諸葛亮の苦労がしのばれる
劉備 左将軍、豫州牧、漢中王、蜀漢昭烈帝
・鄒靖に従って黄巾討伐に手柄を立てる。「武力>統率」
・安喜の尉の時、督郵を縛り上げ杖で二百回打ち据える。「武力」
・毋丘毅に同行し、下ヒで遭遇した賊相手に奮戦、軍功を立てた。「武力>統率」
・高唐の令の時、賊軍に撃ち破られて公孫サンの元に逃亡。「統率マイナス」
・英雄記にいう。曹操と沛国に戻り兵を募集して軍勢を糾合したとある。「統率」
・公孫サンの元、田楷と共に袁紹にあたり戦功を立てた。「武力>統率」
・魏書にいう。外には暴徒を防ぎ内に対しては恩恵を与えた、とある。「統率>武力と政治」
・徐州に袁術が来襲すると、淮陰でこれを阻んだ。「統率>武力」
・楊奉、韓暹を迎え撃って、これを斬った。「統率>武力」
・小沛に入り、兵を一万余人集めた。「統率」
・小沛で呂布(高順、張遼)に敗れ、曹操の元に身を寄せる。「統率マイナス」
・高順に敗れる。「統率マイナス」
・下ヒに戻った後、朱霊が帰還すると刺史の車胄を殺害した。「武力」
・曹操は劉岱、王忠を派遣したが劉備に勝てなかった。「統率>武力」
・曹操が自ら来襲し、これに敗れる。「統率マイナスでよいのだろうか?」
・袁譚を茂才に推挙した。「政治」
・袁紹の命で、劉辟らと汝南を荒らす。「武力>統率」
・その後、曹仁に敗れる。「統率マイナス」
・再び袁紹の命で「キョウ都」らと合流、曹操の派遣した蔡陽を破る。「統率>武力」
・その後、曹操に敗れる。「統率マイナス」
・博望で、夏侯惇らを逃走と見せかけ陽動、伏兵で撃ち破った。「統率=武力と知力」
・曹操の烏丸征伐に乗じて、許を襲撃するよう劉表に説いた。「知力」
・当陽で曹操に追いつかれ民衆や輜重を捕獲された。「これは仕方ないだろう」
・周瑜、程普らと力を合わせ、曹操を赤壁で破る。「統率>武力」
・上表して劉キを荊州刺史にした。「政治」
・荊州南部四郡を降伏させる。「統率>武力」
・京城に赴き、孫権との誼を深める。「政治」
・殷観の策に従い孫権の蜀進出を妨害、中止させた。「知力」
・法正の策に従い益州に入り、劉璋と会見した後、葭萌に入り、恩徳を施し人心を収攬した。「政治」
・劉璋と不和になると楊懐を呼びつけ、これを斬った。「武力」
・黄忠、卓膺らと共に「フ」に至り、城を占拠した。「統率>武力」
・冷苞、張任らを破り緜竹まで退かせた。「統率>武力」
・諸将を派遣し、属県を平定。「統率>武力」
・軍を進めて「ラク」を包囲し、これを落とす。「統率>武力」
・李恢を派遣し馬超を帰順させた。「知力」
・成都を包囲し、劉璋を降伏させた
・定軍山に陣を築き、黄忠に命令して夏侯淵を討たせた。「統率>武力」
・漢中に攻め寄せた曹操相手に要害に立てこもり、これを防いだ。「統率>武力」
・成都に役所を置き、魏延を抜擢し漢中太守とする。「政治」
・諸葛亮を丞相に、許靖を司徒とし百官を置き宗廟を建立した。「政治」
・馬良を派遣して五溪蛮を味方に付ける。「政治」
・陸遜に敗れ諸将を失う。「統率マイナス」
・孫権と和睦する。「政治」
・陳羣の諫めを聴かず袁術と戦い、呂布に下ヒを奪われた。「政治マイナス」
・陳羣を茂才に推挙。「政治」
>・安喜の尉の時、督郵を縛り上げ杖で二百回打ち据える。「武力」
ここでまず笑った
エキセントリック
エキセントリック
エキセントリック蔣琬と費禕
今日も蜀が平和なのは
エキセントリック蔣琬と費禕がいるからさ
>>11 その流れで姜維を推す声が高まりつつ、多少の議論が行われたが、最後はケ艾の話に移った。
個人的に姜維は孔明に心酔する爽やか系青年将校なんかじゃなく、
餓狼のように血と争いを求める、呂布から純朴さを抜いたような人間であって欲しい。
たぶん姜維は前者でも後者でもない
そもそも活躍しだしたのは50前後であるからして・・・
姜維は、軍人としての栄光をただひたすらに追い求めていただけのように感じるがな。
ぶっちゃけ、ちょっと依怙地になってただけだと思う
あんまり伸びないね。
「蜀で一番の戦上手(劉備除く)」という前スレ最後の話題は忘れるという方向か?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 00:26:55
蜀ファン求む
期待あげ
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 00:30:27
姜維が「左大将軍」などという実在しない職にあったとする過った説を訂正する件について
ちょっと懐かしい話題だな。
そういや、最近むじん氏を見かけないな。サイトも更新されてないし。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 00:35:20
むじん氏は尊敬しているが、左大将軍の件ではがっかりした
ぶっちゃけ、姜維は故郷に帰りたかっただけだって。
故郷を蜀に併合できていたら、
その後は無茶をすることもなかったような気がする。
>>34 鍾会と反乱起こす時に劉禅に送った密書の事か?
>>36 「ひたすら将来の希望を追う者は、故郷に帰る気持ちは持たないものです」
ってやつか、すっかり忘れてた。
素敵レターって言うから、蜀への忠誠を表すような手紙かと思った。
しっかし、善悪はともかく個性的な手紙だよなぁ…
もう少し資料残っておいてほしかったもんだが
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/16(月) 01:17:20
姜維って、心境としては劉備に似てるんじゃないかと思う時がある
>>37 まさに魏に投降した後の劉禅の心情そのものだな
むじん氏は尊敬しているが凌統の年齢の事ではがっかりした。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/17(火) 07:26:55
大望のためにいろいろなものを捨てている点
いや。全然違うし
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/18(水) 11:14:32
(Д)゜゜
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/18(水) 12:33:08
両刀の享年はむじんというか、29歳が正しいだろ
関羽の部下呂布や李儒の経歴は怪しいし、姜維の左大将軍は間違いだが
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/18(水) 21:03:41
李恢って「なにがむむむだ」だけではなく、なにげに名将だったんだね。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 12:46:09
やっと理解したか
ところで陳式って伝はともかく季漢輔臣賛にも名前が出てないんだろう?
諸葛亮に派遣されて陰平・武都の2郡を平定するという大功をたてたのに。
魏延や並み居る諸将を差し置いて抜擢されたんだからなにかしら記録が残っててもしかるべきだと思うんだが。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 20:25:55
実は違う名前で出ている説
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 20:53:11
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/30(月) 14:27:10
保守
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 05:13:32
●:・∵;(ノД`)ノ
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 05:33:55
|:::::::::::::::
∧_∧::::::::::::
(´・ω・`) ::::::::
◎ー) / \:::::::::
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~~~ /⌒ヽ( ̄、 ヽ___
/ Lヽ \ノ___
゙ー―――(__)---
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 16:32:02
最盛期には横綱はじめ関取が数えあまたであった某部屋も
関取の中で一番の雑魚であった五剣山がいまや筆頭という惨状。
三国志でいうと、関羽や趙飛や黄忠や馬超らが次々と死んでいって
しまいには魏延や馬岱や夏侯覇もいなくなっていよいよ人材が枯渇し、
パシリであった張翼や王平や馬忠ら雑魚しかいなくなったような状況だ。
弱小部屋への転落の道はまさに坂がころげおちるが如し。
もうモンゴル人でもスカウトしてきて綱とらせた方がまだ望みがありそうw
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 16:38:31
>>17 芳樹にいわすと劉備の強さの源は謀臣であった法正とホウトウの
2人が参謀として活躍したからで2人がなくなると劉備は戦争に
勝てなくなったといっているね。
BY中国武将列伝上巻
>>17は16を受けて劉備の人を纏め上げる能力を賞賛してるのかと思ってた。
芳樹は別板でやってくれ
>>56 >しまいには魏延や馬岱や夏侯覇もいなくなっていよいよ人材が枯渇し、
>パシリであった張翼や王平や馬忠ら雑魚しかいなくなったような状況だ。
死んだ順番 魏延→王平→夏侯覇→馬忠→張翼
馬岱・記述なし
61 :
60:2005/06/03(金) 17:21:15
と、ミスった 夏侯覇も没年書かれてなかったな
馬忠→張翼の間であったことはたぶん確かだ
>>56 張翼や王平、馬忠が雑魚ですかそうですか………
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 19:45:40
芳樹が好きな向朗は芳樹曰く趙雲は万を指揮する権限がない近衛の長に
過ぎず、演戯での評は過大評価だ、向朗こそは蜀の4将軍に告ぐ
第五の名将だと持ち上げているね。
しかし、具体的な戦功が蜀伝に記されておらず忘れ去られたと
芳樹はいっているが、このへんどお
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 19:49:00
べつにええやん
あれこれ想像して楽しむのも歴史の楽しみ方
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 19:54:10
いや戦功が記されていないのなら何を根拠に名将と持ち上げたのかなと
思ってさ。
将来芳樹も三国志やりたいみたいな事をどこかで書いていたから
それまで持ちネタは明かさないのかも知れんけど。
何処をどう考えたら向朗になるのか分からんなあ
そら個人的な楽しみ方で
批評には値しない
ところで四将軍ってなんだ。関張馬黄か
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 19:57:28
芳樹曰くそういう意味らしいけど。
趙雲を入れるのはまちがっているといっていた。
>>63 尚朗じゃなくて尚寵じゃねえの?
だとしても
> 向朗こそは蜀の4将軍に告ぐ
> 第五の名将だと持ち上げているね。
ってバカじゃねえの?芳樹?
ガイエが書いた夏候覇の小説の中で触れているな<尚寵
ショウチョウは名将っぽ
カクシュンは惜しかったな
ミニ張遼霍峻
自分の創作の内にそーいうの取り入れるのは別に自由だが、批評でやられるとちょっとな
ソースを明示してくれればどれだけトンデモっぽい説でもいいんだけどな
で、ショウチョウの戦歴ってマジな話ぜんぜん残ってないの?
>>75 夷陵の時に向寵の陣営だけ無傷だった事くらいかと。
ほかは全然ないの?
>>77 228年、北伐の際、中領軍に任じられ首都を任された。
240年、漢嘉郡の蛮族討伐で戦死。
これくらい。
以前のスレでソース・真偽のほどは知らんが(華陽国史?)もうちょっと詳しい記述があった。
>>78 前々スレのコピペ
988 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 05/03/11 04:48:09
>>985 向朗の族弟。劉備が荊州を治めると私兵を率いて帰服し、中郎将となる。
益州入りに従って功有り、偏将軍に任命される。
張飛に従って宕渠で戦い、劉備か漢中王となると征虜将軍・漢嘉太守に昇進した。
東征に従い、諸軍が壊滅する中で唯一軍を全うする。
劉備が永安に帰ると護軍に抜擢され、永安を守備した。
諸葛亮が北伐すると、仮節・中領軍となって、成都防衛の任にあたった。
諸葛亮が没すると、衛将軍に昇進。引き続き近衛の諸軍を統率した。
越雋郡回復の命を受け、進軍途中に漢嘉で蛮族の軍と遭遇。
流れ矢に当たり、戦死した。
こうやって列挙されると、確かになんか凄そうな感じはする
正直、まだ趙雲のほうがマシに見える
>>79 経歴みていると守将という感じで地味だなあ。
全滅を避けているから統率力は高いと思うけど。
ちなみに征虜将軍って蜀の序列でいえば他の将軍らと
比較とするとどのぐらいえらいの。
>>62 王平って横山版の三国で孔明の北伐時に街亭の敗戦の追撃戦で
わざと冠を置いたほうを追撃して取り逃がし、王平から報告を受けた
孔明は労をねぎらったが、彼を探させた後、「これが関羽だったら、
計略にかからず分かれ道であえて冠とちがう道を選んで捕縛したろう」
といった意味の事を回想させて蜀の人材払底のエピソードにされちゃった
かわいそうな奴だな。
魏延がたびたび反抗するから、彼を切るか降格すべきだが、蜀には
人材がいないマズーという話と同じぐらいしょぼん太な話だよな。
>>83 待ってくれ、それは王平ではなく廖化だ
ちなみに王平と違って廖化は立派な凡将だよ
>>56 寥化という武将がずっとおって、しまいに将軍になったんだが、
蜀建国時の第一線の将軍らが次々とあぼんしてしまいに寥化
ぐらいしか(あるいは寥化でも)将軍になるぐらい人材がなくなる
事を揶揄した格言がなんかあったと思う。
詳細忘れた。
思い出したら書く。
王平だったように思うが、勘違いだったかな?横山版10年以上見ていないので詳細忘れているかも。
>>83 ちなみにたしか冠をおいてのがれたのは仲達で、指揮下にいた奴でほら、カンプクやエンショウから
主君変えて曹操に使えた奴いたろ、あれを死なせたときの話だ。
>>87 いや、
>>85の話はまた別。横山版とは関係なく、演戯の話が後世できた時に寥化が将軍になった事を揶揄してなにか格言ができていたと思う。
詳細はまだ思い出せんけど。
ちなみに諸葛亮の時代で良質な人材が枯渇することはなかった。
人材が途絶えたのは費禕の時代あたりからね。
>>82 乱暴な言い方をすれば関・張・馬・黄に次ぐ2番手グループ。
あくまで征虜将軍・漢嘉太守と言うのが本当ならね。
ただ実際には将軍号なんて飾りみたいなもので他の要素の方が大きい。
黄忠って演戯では夏候淵を定軍山で切ったり、関羽と一騎打ちしたり夷陵でハッスルしたりしてるけど、正史ではどういう活躍したの。老黄忠の起源になるのが相応しいぐらいの猛将だったのは事実?
うん
ネットで黄忠伝みられるところある?
うん
久々に投入。
劉敏
泉陵の人。字は不明。
蔣琬の外弟にあたり、若い頃から名を知られていた。(蔣琬伝)
231年、李厳罷免の上表に行右護軍・偏将軍の署名あり。(諸葛亮伝注)
同じ行○護軍には費禕などもおり軍官僚として順調に出世していたと思われる。
後に左護軍・揚威将軍に任じられ王平と共に漢中の押さえとして赴任。(蔣琬伝)
244年、駱谷の役の際、王平の意見を支持し魏の大軍を防ぐ。(王平伝、蔣琬伝)
雲亭侯に封じられる。
野戦タイプではなさそうだが、中堅の将としてはなかなか?
>>98 Koei的に表すと武60前後、統60後半、知70前後、政60前後くらい?
王平は蜀では魏延の次ぐらいの良将なんだけどなあ
知名度はともかく功績では趙雲・黄忠よりも上だと思うんだけど
つーか五虎将以外の評価が不当に低すぎるんだよ
ところで、向寵って馬謖の脱走見逃して降格させられたってエピソードなかったっけ?
あれは向朗?
っていうか関・張・馬・黄を評価したのは劉備だからなー
その次に評価したのが張飛をさしおいて太守に任命した魏延。
黄忠に関していえば、
>>97を見ると黄忠を馬・関と同格において諸葛亮の意見を退けて
関羽には朕自ら説明するとまで評価している。
劉備の人物鑑定眼は結構正しいのでまずは実力どおりの評価で
ないかと。
後、王平はたしか劉備が亡くなってから魏から蜀に鞍替えしたから
劉備の時にはよくあった抜擢人事が無くなった事も関係するんかも。
>>101 王平が劉備に降ったのは曹操と漢中を争った時。
生前ですがな。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 11:47:09
遅レスだが
>>79のコピペはガセっぽいんで注意
ま、分かってると思うけど念のため
じゃ真実はいかに。
>>103 華陽国志の先主志にも後主志にも載ってなかったからな。
益州人士では無いので、先賢志や後賢志にも載ってない。
少なくとも華陽国志がソースというのは嘘だろう。
三国志の向朗伝に書いてるのが向寵のほとんど全てだよ
荊州人なんで、もしかしたら襄陽記になんか書いてるかもしれんが期待薄
・劉備の時代に牙門将になる
・シ帰の敗北の際に軍を全うする
・223年に都亭候に封じられ、のちに中部督となり近衛隊を指揮
・出師の表で軍事において有能と持ち上げられ、中領軍に昇進
・240年に漢嘉郡の蛮族を討伐に向かい、戦死
三国志にある、向寵についての記述はこんなもん。
爵位の序列としては県侯>都郷侯>郷侯>都亭侯>亭侯>関内侯みたい。
で劉禅が即位した時に、
都郷侯:李厳、劉エン
都亭侯:魏延、尚寵
各亭侯:趙雲、陳到
関内侯:楊洪
それぞれ叙されてる。
勿論単純には言えないがこれから見ると呉懿や輔匡、劉ヨウ、李恢などと比べても尚寵はよく遇されてるようだ。
また劉エンは飾りだから東方の李厳、北方の魏延に次いで中央の尚寵というくらいの重みがあったっぽい。
それに次ぐのが南方の李恢って感じ。
趙雲との比較で言えば爵位では尚寵の方がやや上。
中部督と中護軍はどちらが上かは判然としない。
ただ北伐時には尚寵は中領軍に就いており中領軍は中護軍より格上。
とはいえ趙雲は鎮東将軍に上がってもおり北伐にも従軍していることからそれに絡んだ人事でもありそう。
トータルで言えばやはり尚寵の方が地位的にはやや上か?
趙雲、陳到って魏延、尚寵よりも下なんだ・・・・。
ちなみに蜀の場合食い扶持はどういう風にもらうの
爵位に応じた棒給が定められていて現金でもらうわけ?
それとも領土あるいは徴税権をもらって自分で領内を経営して
いくわけ?
魏延は普通に名将なのでは
向寵は上のレス見てもよくわからんが
そういえば、どっかで趙雲は劉備(劉禅)の親衛隊長みたいな感じで
劉備の傍近くいる人間が位階が高すぎるのを忌避したのではないかって意見を見たなー
108の訂正。
都郷(亭)侯>郷(亭)侯じゃなく郷(亭)侯>=都郷(亭)侯みたい。
要は具体的な地はないが郷(亭)侯として遇する場合、都郷(亭)侯としたのかな?
ということは微妙ながら趙雲の方が尚寵より地位的に上だったようだ。
趙雲は諡号もらっているからいいじゃん。
更に訂正。
つまり中央の諸葛亮、東方の李厳、北方の魏延という感じの序列で趙雲は諸葛亮の下についていた。
そして北伐の敢行によって北方の諸葛亮、その指揮下に魏延と趙雲、東方の李厳という形になり、留守の中央の軍は尚寵に任された。
そういう形なのではあるまいか?
ただあくまで諸葛亮は中央の責任者でもあるので尚寵も諸葛亮の指揮下にあり微妙ながら権限としては魏延、趙雲らと同等くらいだったのではなかろうか?
そう考えると李厳の失脚というのは大きな政変だよな。
いきなり庶民におとされるんだから、兵糧の遅滞という
重大過失があったとはいえ、権力抗争の二次産物と
いう穿った見方もしようと思えばできるのかな。
庶民に落とすってのも微妙な処置なんだよな
首切っても文句言えないことしてんのになんで、みたいな
そこら辺が妄想のネタになってしまうんじゃないかと
実際は李厳の影響力を諸葛亮が慮ったせいだとは思うんだけど
というか馬謖は街亭の敗戦の責任を問われて切ったが、
李厳は助命された。共にこれ以上の進軍が出来なくなった
点では変わりないのに処置の差は荊州閥と益州閥の暗闘が
背後にあるのかなと電波飛ばしてみる。
更に電波飛ばしてみる。楊義と魏延の対立というのは度々の詰り、荊州人と
益州人の対立軸のひとつでなかったのかと。
>>114を見ると魏延とは政府の要人で重職についている。何より抜擢したのは
先帝だった。 そんな魏延とと楊義の対立は更に穿ってみると当時の蜀内でも
いろいろあったのでないかと思われる。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 22:21:58
>>85 蜀中無大将、廖化当先鋒
蜀の人に喩えられたら、阿斗と言われたら無論侮辱だが、
廖化も一応褒め言葉にはならない。
鬼も十八、番茶も出花って感じだから。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 23:01:45
四将軍に並んで伝が立てられている趙雲。
しかしそれに次ぐ名声があったとされる陳到には伝さえ立っていない。
本当に蜀将は謎だな。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 23:09:20
>>118 楊儀も魏延も荊州出身なんだけどね。関係ないけどついでに
李厳も。
荊州閥と益州閥というか、
劉璋時代から益州で権力を握ってる集団とその他との対立って感じ?
何れにしても、楊儀と魏延の対立はこの派閥には含まれない極々私的なものだと思う。
李厳についてはわからんけど。
楊儀と魏延はそもそもなんで仲が悪くなったんだ?
オキニの女の取り合いでもあったんか?
んなもん追求してどうすんだ
人が人を嫌うのに理由なんかないさ
特に理由なんかないのになぜか険悪な空気になってしまうことはよくある
俺も今、チーム組んでる相方と特に理由もないのに妙にギスギスした空気に(ry
李厳ってもともと出身は荊州でしょう?
先に益州入りして劉璋政権で重んじられていたようだけど。
そういえば、李厳は益州豪族でもなく諸葛亮による荊州閥にも入っていなかった
模様なのに、よく政権の重鎮になれたな。
諸葛亮による荊州閥にも入っていなかった
>
裏読みすると敗戦の責任を全部おしつけて
政権から排除したと読み取れなくも無い。
>>126 劉璋政権で重んじられてたってことは、当時の益州に権力基盤が存在してたってことでは?
実際どうだったかは不明だが、出身よりもそっちのほうが重要だったんでないかね
劉璋政権の人材を見てると思うんだが、
劉璋は益州豪族を甘やかしてはいたが
身内や益州外の人材を中心に置く事で
ある程度の抑止はしてたんじゃなと思ったりする。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 09:23:10
それくらいはしないと、完全に豪族たちの傀儡になってしまうからな。
南北朝で皇帝が門閥貴族への対抗に寒門出身を登用したようなもんだ。
ふと思ったが、劉表が劉備を厚遇したのって、一族の強化につかって豪族への
牽制にするためってのもあるだろう。
つーか、徐州を譲渡したこと自体、劉備に豪族たちの力を弱らせておいて
統治が簡単になった徐州を息子たちに継がせるためだったんじゃないかとすら勘繰ってる俺
劉表は劉備を厚遇してはいない。
むしろ豪族が劉備へ人望をよせる事に対して警戒してる。
>>129 劉璋自体、半分外様みたいなもんだからね。
劉備政権は益州に入った当時、劉璋時の身内と益州豪族では
劉璋時の身内の方を重用して、彼等に劉璋時代と同じく
益州豪族を抑えさせていたんじゃないかと思うんだがどうだろう?
まぁ張任が死んだくらいだからな
名将・劉循
いわゆる武将ではないが。
楊洪
ケン為郡武陽県の人。字は季休。
劉璋の時代、諸郡の官吏を歴任。
214年、劉備が蜀を平定すると李厳の功曹となるが意見が合わず、李厳の推薦で蜀部従事となる。
219年、漢中をめぐり曹操との対峙が長引くと劉備は増兵の要請をしてきた。
この件に関して諸葛亮にたずねられると漢中の重要性を述べ躊躇うべきではないと意見した。
この意見を良しとした諸葛亮は留守の法正に代わり蜀郡太守代行に推薦。(後に本任となる)
222年12月、劉備が夷陵の戦役で敗れると漢嘉太守黄元が叛乱。
諸葛亮の留守を預かる楊洪は的確に情勢を読みすぐさま劉禅に言上、将軍を派遣し翌年春にはこれを鎮圧。
223年、劉禅が即位すると関内侯となり、再び蜀郡太守・忠節将軍となる。
のちに越騎校尉に昇進。太守の職は兼務。
227年、北伐の際、留府長史に張裔を任用したいと言う諸葛亮にやんわりと反対した。
当時やっかみから反対したのかと疑われたが、後に張裔が岑述と不和になると楊洪に私心がなかったことが理解されることとなった。
228年、在任中に死去。
上の者に対しても直言するなど筋の通った性格。
状況を的確に読み今一番重要なことは何か判断する能力。
張裔の一件、何祗を推挙するなど人を見る目の確かさ。
地味ではあるが蜀にとっては貴重な得がたい人材の一人であったことは間違いないであろう。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/06(月) 16:14:38
この楊洪の話を見ると孔明も文官の見る目はあるなと思う
>>137 俺が蜀で好きな人物といえば、董和と楊洪の二人。
三戦じゃほとんど語られないんだろうけど。
董允みたいな感じな人か
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 08:01:18
age鱒
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 14:04:56
徐庶に比べ董和は地味だな・・・。
両人とも諸葛亮の尊敬する人物なのに。
143 :
893:2005/06/10(金) 20:50:47
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 18:35:30
age鱒
さすがに12スレ目にもなると伸びなくなるなあ
飽きた
普通に考えれば入蜀に功績が大きく、劉備の信任も厚かった法正が益州閥の首領に収まるべきところだが、昔の恨みにきちんと報復したりする奴だから、益州閥を強固に組織できそうにもない。
次いで資格がありそうな黄権もああいうことになった。
んで結局有力豪族である費詩が、益州閥筆頭になる。蜀内部での益州閥はあまり強くないのかもしれないな。
>>147 法正は益州閥に受けが悪いだろう。
それに雍州の涪風郡の出身だし益州閥とは言えないんじゃない?
>>148 涪風郡って何だよ……
扶風郡だね。ごめん。
益州閥とか荊州閥とか、誰かが言い出すとさも既成語であるかのように
使いだされるのだな…
いいんじゃない?
ここまで想像力を働かせて架空の政争ゲームをこしらえられるんなら
それはそれで三国志の一つの楽しみ方だろ
俺は全くお付き合いする気にならんがなw
法正や孟達なんて益州のあぶれ者じゃん
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 14:09:11
黄忠の字は漢叔だって説があるらしいっすよ。
叔と升の混用はよくあることらしいっす。
へー
でも升を否定して叔を取る根拠はあるの?
ない。
単に「意外三国志」してみたいだけ。
根拠はないw
太平御覧っていう本が三国志を引用してて、そっちが漢叔になってるらしっすよ。
太平御覧が引用んとき間違えたのか、本家の方がコピー段階で間違えられたのか・・・?
どっちかが写し間違えてるんだろうけど、どっちが正しいのか分からないよと。
後漢書のだれとかも両説あるみたいよ?
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/18(土) 06:04:53
揚げ鱒
蜀No.1は黄忠、No.2は魏延でしょ。
李厳と諸葛亮がもう少し仲良くやってればなあ。
法正が長生きしてれば、益州代表は法正だったかも?
>160
法正が益州代表は無理だよ。
元々、外来者で前政権では品行の悪さが理由で干されてるし、劉備時代も劉備の股肱ってのを笠にして嫌いな連中を獄死させたりと好き勝手にしてる。
劉備あっての法正であって、法正個人で益州グループを纏められる人望は無いと思う。
諸葛亮とうまくやってけそうな、益州代表人って誰がいるんだろ?
蒋エン、費イとか後の世代でしょう。
伝が立てられてるなかでは、内に張裔、楊洪、外に李恢、馬忠といった連中かな。
王平も一応は巴西出身だから益州閥と言えないこともないか?
あと季漢輔臣賛あたりをみてけば該当者はいるだろうけど益州閥の代表者といえるような人物はいない感じ。
益州の代表者ということならやっぱり名臣タイプになるんじゃないかな。
魏なら華歆、王朗、呉なら張昭、顧雍みたいな。
王謀と何宗は身分が高かったけど劉備時代には干されてた感じだから、
蜀でも重用されたというと黄権、張裔、楊洪あたりに絞られるんじゃない?
黄権が一番いい感じなんだけど夷陵であれだから・・・。
あと気になるところとしては王氏(王甫、王士)とか李氏(三竜)とか。
益州の代表者というか影響力を持った人物は名臣というより譙周などの学者系かもしれん。
しかし譙周は孔明の北伐に早くから反対してたしな
劉備が生きてた頃は上手くやってたのかしらん
ということで、劉備入蜀前の武将まで広げると、誰あたりが適任か?
やっぱ張任なんか惜しい人材だったよな
劉璋時代だったらやっぱ王商じゃないかな。
呉壱じゃない?
>168
譙周が諸葛亮の北伐に反対してたなんてはじめて聞いた
どこにのってる?
俺の脳内
>>172 三国志Wikiに「諸葛亮に北伐の中止を求めたことがある」と載ってるから、
>>168のネタ元は多分これ
Wikiのソースがなんなのかは俺は知らない
随分はっきり書いてあるから妄想の類ではないと思うが、少なくとも正史にはなかったと思う
>>156 亀だが。それは避字じゃないのか?
太平御覧とかいうのが何時の頃のもんだかわからんとなんとも言えんが。
と思ったら宋の太宗の頃か。避字でもないのかな……。
避字ってなんだよ、俺。避諱だな。
>174
ありがとう
検索して見てみたよ。読んだ感じ演義での話ぽいね。
蜀に仕えたのも劉備の時代と書かれていたし。
演義で譙周が諸葛亮の北伐反対するシーンなんてあったっけなあ・・・
少なくとも、横山にはあったね
渡り鳥が漢水に落ちたり、天文みるとよくなかったりって。
演義は読んでないので知らんが・・・
譙周が北伐に反対する話は演義にあるよ。第九十一ね。
「北方の気が盛んだからおやめください、丞相も天文にはお詳しいはずなのに」
「天文は変化するものだから、とりあえず漢中に行ってからよくなるのを待とう」
みたいなやりとりがある。
やっと結論出たか。
>>168は演義厨なのが確定したので退場のこと。
譙周は諸葛亮が没した時、誰よりも早く現地に駆けつけたような男だからな。
諸葛亮を尊敬してたことは間違いない。
ただ蜀末期には度重なる出兵で国力が疲弊してたので、それに対しては『仇国論』などをもって批判してる。
だから諸葛亮の北伐についてもそれが国力を疲弊させるようなものだったら公に批判はしたかもしれない。
ああ、上は譙周が諸葛亮の北伐に反対してたという事実は、少なくとも記録の上ではない、ということを踏まえた上でのもの。
別に記録にはないけれど事実としては反対してたかもしれない、などと主張するようなものではないので。
>>175 いあ、たぶん字が似てるからだと思う。叔は崩し字にすると結構アレ。
>182
諸葛亮の北伐が蜀にマイナスにしかならないなら批判していてもおかしくないだろうね。
まあ、諸葛亮時代にショウ周にそこまでの発言権が存在するかは怪しいけども。
ところで、三国志Wikiでショウ周が蜀に仕えたのは劉備の時代となっていたんだが、
ショウ周伝だと諸葛亮が益州牧になった時に仕えた事になってるので
劉備死後に出仕したんだと思ってたんだが、先主伝の劉備の皇帝につく際のやり取りだと
すでに勤学従事としてショウ周の名前が上がっているんだな。
どちらが正しいんだろう?
>>185 劉備の時代なのか劉璋以前の時代なのかはわからないが、出仕はしなかったが師友従事の官を与えられたとある。
あと劉禅即位後、諸葛亮が任命したのが「勧」学従事。
劉備が帝位に就く時の上奏の時は「勤」学従事。
両職は違うし、「勧」学従事も「初めて」任官したとあるわけではないので、普通に劉備の時代から仕えていたと思うよ。
>>186 さっき漢籍電子文献で確認したけど、譙周伝、先主伝共に勧学従事だったぞ。
譙周の『仇国論』を全部読めたりする本やサイトってある?
今、電子文献の方も確認してみた。
確かに電子文献ではどちらも勧学従事だね。
電子文献の方が正しいとしたら、諸葛亮が譙周を勧学従事に再度任命したということになるのかな?
志村!校記、校記!
どっちも中華書局本をベースにしてるんだから
まず中華書局本の校勘記を見るのが一番早い。
あと百ノウ本も確認してみ。
辞めた記述無しに再任命てのはあるのかな?
むしろ陳寿のミスとかだったりしないだろうか?
もう少し調べてみた。
劉備即位の時の上奏文については勧学従事は張爽までかかって尹黙や譙周にはかかっていないとか。
と思ったら尹黙伝には先主は尹黙を勧学従事に任命したとあるから、当然譙周も勧学従事であり先主伝の勤学従事は誤字でFAみたいだね。
てか、ネットで豆知識なんかあさってないで、
集解くらいチェックしてくれよ…
「何シャクいわく、譙周が晋の泰始6年72歳で死んだことから考えると、
昭烈帝即位の歳にはわずか23歳であった。学問を奨励する役職に加われるはずがない。」
>>194 それなら劉禅即位の時は25歳になるわけだけど、25歳なら良くて23歳ならありえないなんて言えるものなの?
と思ったが建興年間であって建興初年とはないわな。
>194
そうなのか、すまんな。集解は持ってないからそんな意見があること知らなかったよ。
でもそうなると、当時はショウ周は観学従事以外の官職だったのかな。
全く無官の人間が皇帝の即位に関わる文章を上奏するとも思えんし。
なにげに譙周も謎の多い人物だな
198 :
むじん:2005/06/21(火) 22:52:01
先主伝の「譙周」というのは書き間違いだという説が有力ですね。
上奏文中にも「臣父羣」とあります。
199 :
むじん:2005/06/21(火) 22:57:43
ところで、いつの間に集解読んでないことを責められなきゃなんなくなったの?
もしかして集解厨がトレンド?
集解は和訳されてないし、輸入図書しかないようだから、読んでる人は少ないと思うが。
自分も読んだ事ないしな。ネット上に電子テキストでも転がってりゃ別だけど。
むじんですか
>>198 譙周と周羣の子周巨の取り違え?
でも周羣は劉璋に師友従事に取り立てられており、譙周も劉璋の時かどうかは定かではないがやはり師友従事の官を与えられている。
周羣の子が劉備即位の上奏文に係われるなら譙周も係われて不思議ではないような気もする。
譙周に関しては陳寿の師匠マンセーフィルターがあるのかな?
ようわからん。
陳寿自身は蜀に深い拘りがあったみたいだけど、
蜀の滅亡に最も直接的に関わったのは師である譙周なんだよな。
その辺、陳寿はどう思ってたんだろう。
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:16:32
>>198 本物なら一つお願いが
姜維んとこの「左大将軍」ってのは訂正してよ
三国志中に書かれていない将軍位つくっちゃいかんでしょ
>198,202
おお、そんな説もあるんだね。ありがとう。
ところで、師友従事に関してはショウ周の父親が与えられたんじゃないかな?
206 :
むじん:2005/06/22(水) 00:31:38
>>202 集解に引かれたものだけでも諸説紛々ですよ。
だから全部を紹介することはできないけど、
「臣父羣」を「周巨の父周羣」と読む説もあります。
沈家本説がもっとも説得力を感じます。たぶん盧弼が押してるのもこれ。
譙周は周羣の間違いで、「臣父羣」は本来「臣羣父」だったというもの。
師友従事になったのは譙周の父ですね。
>>204 右大将軍が存在する以上、単に大将軍とあれば自動的に左大将軍なんですよ。
閻宇が右大将軍でなかったと証明できれば、話は別ですね。
とりあえず閻宇以前については左を削りました。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:42:27
>>206 返答ありがとう。
でも悪いがその理屈全然わからんね。
一度たりとも「左」付きの大将軍が史料上に出て来てないのに、よく断言できるなー
「左大将軍」という表記が見つからない限り、姜維は左の付かない大将軍と考えるしかないでしょ。
>>207 やめとけ。噛み付くな。
むじんの方は間違いなくお前のことを
「史料を網羅した俺様が2chで煽ってくる奴ごときの相手してられるか」
と思ってるぞ。
209 :
むじん:2005/06/22(水) 01:22:43
>>207 あなたの企図によってこちらの対応は変化します。
もしご自身の見解を他人に押し付けたいだけなのであれば、
geocitiesあたりでむじんの間違いを「啓蒙」してください。
もしあなたがお互いを高めあうような議論を希望されるなら、
こちらも喜んでお付き合いいたします。「私を納得させてください」
とりあえず、
テキストそのものと、それに基づく解釈を一般向けに説明するのとでは、
おのずとその扱いに差が出てくるのは当然のことと思います。
電子テキスト化の際は、中華書局が勝手に削った字句を戻したりもしてますよ。
たとえば朱霊の息子とか、沛国公武周とか、あの摩陂の呂布とかですね。
それをどう解釈するかについては解釈する側の裁量次第でしょう。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 01:23:43
忠告ありがたいが、
問題は史料の読み方や種類じゃないからな。
肝心の論理に穴があるんだから。
「大将軍」姜維
「右大将軍」閻宇
「左大将軍」誰か
の三人がいた可能性だって否定できないわけで、そこを見逃してるのは彼だから。
まして、敢えて見ない振りしてるなら、不誠実な態度は改めてほしい。
>>210 それ同意。俺もその部分は??と思って見てた。
まあ、むじん氏に限らず
正史厨は断片的でしかない史料の記述を
憶測で脳内補完して「新説」をこしらえるが好きだからな。
基本的に議論の場ならともかく個人のサイトで
何をどう記述しようが個人の自由だと思うぞ。
間違ったこと書いてるサイトなんていくらでもあるわけだし。
210も振るなら、「左大将軍」がありえるかありえないかを論じればいいんじゃないか?
個人のサイトの内容を2ch内で訂正しろって言っておいて不誠実な態度も何もないだろう。
>正史厨は断片的でしかない史料の記述を
>憶測で脳内補完して「新説」をこしらえるが好きだからな。
こういったレスをするアホはなんでこのスレに涌いてくるんだろうな
無双や演義スレでオナってればいいだろうに
いちいち「正史厨」なんて書かなきゃ意見も吐けないのが哀れ
左大将軍云々は、訳編の中での「個人の解釈」じゃないのか?
>>206の、「自動的に左大将軍」には少し強引にも感じるものの、
個人サイトに載せる、今の時点での解釈としては別にあってもおかしくはないと思うが。
要は、
「閻宇が右大将軍。左大将軍と明記されている者は(現時点で)見当たらないが、
他に大将軍として姜維が記載されている」事に対して、
閻宇・姜維のツートップ大将軍位として解釈→むじん
もっと多い複数の将軍位として成立していたかもしれないとの解釈→
>>204 可能性としては、どちらも考えうる―――というより、
片方を完全に論破・是正できるだけの材料が無い、てなところまでなのでは。
もう一歩踏み込んで、最終的な結論を出すとしたら、
むじんは「姜維が左大将軍であった」と確実に記された資料を提示しなきゃならんし、
>>204は、別にいたとする「左大将軍が誰か」という部分を捜し当てにゃならん。
それが出来ない以上、お互いひとつの考え方・論説としての可能性を尊重しなければいかんかと。
ましてや、そういう個人の解釈まで自分の言う通りに訂正しろ、のは無理がある。
例えば今後、別の資料が出てきて「○○が左大将軍」と確たる論述が出てきたなら、
改めてそちらを優先させりゃいい。
215 :
214:2005/06/22(水) 12:06:34
スマン、1つ訂正。
>例えば今後、別の資料が出てきて「○○が左大将軍」と確たる論述が出てきたなら、
↓
例えば今後、別の資料が出てきて
「○○が左大将軍」(これには姜維が入るかもしれんし、別の将かもしれん)、
もしくは「右大将軍だけで左大将軍位は存在しなかった」
との確たる論述が出てきたなら〜
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 13:14:41
ちんこ
むじん氏も見ていることだし、右大将軍についての議論を再開するか。
さんざん過去スレでやったろ。
あの時出るべき考察は全て出た。
むしろ、むじん氏が分かってないようだから
過去スレ読んでから来てもらおう。
議論も何も、決定する程の材料なんてあったっけ?
むじんの掲示板で右大将軍についての議論があったはず。
議論してあれだから仕方が無い。
左大将軍は永久欠番。
どちらも確証はない
以上
蜀って強い武将がたくさんいましたよね
どちらも確証なく断言できんのに、
>>220の様な奴の程度がいちばん低そう
214氏の言うように新しい記述でも出てこない限りは
お互いに個人の解釈として尊重するべきだろうね。
まして、議論する気が無いのならば、安易に否定するべきじゃないだろう。
どうしても自分の意見に従わせたいなら、ちゃんと議論すべきだと思うよ。
自分にはそこまで拘る理由が分からないな。
むじん氏が左大将軍だと思ってるならそれで良いと思う。
明らかに間違っていると言えるような史料は出てないわけだしね。
俺自身は、姜維は左大将軍ではないと思ってるけど、
万人を納得させられるような論は持ってないから、その事で食って掛かろうとは思わない。
まあ、認めさせたければ議論するしかないと思うよ。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 00:20:02
間を取って、王平は異民族か否かを議論しようか
あいつ異民族じゃん?
ロシア人です
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 15:57:29
>>227 異民族だったかもしれないが、
貧乏な家の生まれだから、人脈も影響力も何も無かったんじゃ。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 16:31:10
つまり王平は蜀の人間から見ると
オレサマ オマエ マルカジリ
みたいに片言でしゃべる奴だったわけだ
バショクと合わなくて当然だな
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 03:23:52
>>230 何を受けて「つまり」なのか知らないが、
曹操の漢中遠征軍に同行していた理由は、
道案内のため。
つまり、漢中一体の地理に詳しい→出身地が漢中であるという推測が成り立つ。
何を以って異民族と定義するかは難しいところではあるが、
漢中に住んでいる人種は漢民族だったのではないのか?
>>231 嘘書くな。
王平は巴西郡の人。
もともとは張魯に従っていた巴夷の王杜獲・朴胡の(どちらかの)部下。
杜獲・朴胡が曹操に下った時に魏の校尉に取り立てられ、
漢中戦の最中に劉備に下った。
漢人か巴夷かは不明だが、少なくとも漢中生まれなどではない。
釣られてやんの
必死だなw
といってみるテスト
うん・・・
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 15:18:50
「王平=飛頭蛮」説
237 :
劉備さん@お腹いっぱい。打倒!蜀:2005/06/24(金) 16:49:26
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 23:24:16
右大将軍も右将軍の諸大将軍だと結論出てるから、議論にならないな。
ホウトウは田舎に左遷されて酒びたりになったけど、短期間で
すごいことして張飛を驚かせたんですよね?
ホウトウは三国無双みたいに杖で戦ったわけないですよね?
自ら戦うんじゃなくて、指揮官として優秀だったってことですか?
なんか大物降臨の予感
>>240 そうだよ。ホウトウは軍の指揮官として優秀だったんだ。すごいね!
ホウトウのようになるためには
好き嫌いせずに何でも食べなきゃいけないぞ!
この口調、明らかに釣りだろ
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/02(土) 02:48:22
ホウトウですか、
他の人材もお願いします
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 19:27:38
揚鱒。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 13:57:13
あ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/10(日) 00:58:29
黄忠についてでも語ろうぜ
250 :
むじん:2005/07/12(火) 19:03:40
んじゃ古今刀剣録@トンデモ本からage。
黄忠,漢先主定南郡得一刀,赤如血,於漢中撃夏侯軍,一日之中,手刃百數。
黄忠は、漢の先主が南郡を平定したとき一ふりの刀を手に入れた。
血のようにまっ赤だった。
漢中で夏侯淵軍を攻撃したとき、一日のあいだに手ずから百人以上を斬った。
配下の兵士じゃなくて、黄忠自身で百人斬ったというのがすごいage。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 10:57:33
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 11:06:52
五虎将の中で黄忠が白眉なんで一番強いと聞きましたが、本当なんですか?
関羽も黄忠も将としての能力は良く分からんが
敵将を斬るなんて運と武勇は並みじゃないな
あの頃の名のある猛将なんて人並みぬきんでたマッチョな大男だからな。
たまに疑問に思うんだがこのスレの人はやっぱり蜀書以外にも色んな資料を読んでるの?
殆ど記憶に残ってないような人物の話題で盛り上がってるのを見てスゲ〜と思って眺めることが結構あった。
というよりも、「蜀書」のみではなくて「魏書」や「呉書」を無視して考察なんて
できないよ。
たとえ「蜀書」にしか所見できない人物でも、情勢や時代背景を度外視して
語れるわけないんだし。
『華陽国志』は代表的としても、『後漢書』と『晋書』は読んでおいても損はない。
俺は好みで『左伝』やら『礼記』やら、二次的なものは好きで読むけど、逆に
風俗や観念といった『三国志』だけではあまり伝わってこない部分を知るうえの
手がかりにはなってる。
>>256 なるほど。自分も魏書や呉書は幸いにも手元にあるのでそのへんは勿論読んでるが、華陽国志・後漢書・晋書は読んだことないな。
後漢書だと劉璋伝とかがあるのかな?晋書なら蜀末期の名将・功臣がいるかもしれん…
ちょっくら大学の図書館でそれらの勉強してきます。
>後漢書だと劉璋伝とかがあるのかな?
ねえよ
晋書、訳本が存在しないよ
まぁ、漢文読むのガンバレや
てか、ちくまの日本語訳だけで「魏書や呉書は読んでるよ」ってのもどうよ
>>260 別に良いんじゃないの?完訳はちくまのしかないんだし。
まさか、中華書局版とか集解まで読まなきゃ読んだ事にならない、とでも言うつもりか?
譙周の話の時も、「集解くらいチェックしろ」とか言ってた奴もいたし、
最近はちくましか持ってない奴は見下されるのか?
ちくまだけで完全に分かったような顔するのはおかしいいが、
ちくまだけの奴を馬鹿にするのもまたおかしいだろう。
俺はちくま版の訳文の稚拙さに呆れたタチなんで、たいていは漢文も参照する。
ちくま版のみでは馬鹿にされる、という風潮もおかしいけど、訳文なんかを
ろくすっぽ咀嚼もせずに丸写ししてる人はどうかと思う。
漢文について相当な知識を持っているならともかく
大抵はちくま版の訳文の稚拙さなんて原文読んでも分からないんじゃないか?
漏れは興味で原文読むことはあってもたまに誤字っぽいのをを見つけるくらい
丸写しについては原文でも訳文でもどうかと思う
気になるところは原文参照したりはするけど基本はちくまだな
皆漢文も結構いけるんだ。
意外と読めるモンだよ
どうしてもわからないところはちくま参考にしてニュアンスを掴み
自分なりに訳を考えたりするのも面白い
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 04:31:42
>>250それ何の資料?
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 09:32:20
ここは自慢話するとこかい
ようやく気づいたのかい
270 :
むじん:2005/07/16(土) 10:55:35
なんだ、トンデモ本と言いながら四庫全書に入ってるじゃん。
総目提要見ればいいのに。
272 :
むじん:2005/07/16(土) 12:28:01
おっしゃってる意味がよく分からんのですが。。
273 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 14:20:22
274 :
変質社:2005/07/18(月) 18:38:04
周倉
・鄒靖に従って黄巾討伐に手柄を立てる。「武力>統率」
・定軍山に陣を築き、黄忠に命令して夏侯淵を討たせた。「統率>武力」
・漢中に攻め寄せた曹操相手に要害に立てこもり、これを防いだ。「統率>武力
・漢中王を名乗る 「+知力」
・得意の泳ぎでホウトクを撲殺 「+武力 +水力」
・陳寿曰く、「北島にもひけをとらないだろう」
それはなんの周倉ですか?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 20:33:21
シュウソウと言うよりモウソウ
277 :
変質社:2005/07/18(月) 20:34:34
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 17:02:56
張飛 アホかと。馬鹿かと。
関羽 なんか親子連れとかもいるし。
趙雲 おめでてーな。
魏延 もう見てらんない。
馬超 150円やるからその席空けろと。
黄忠 もっと殺伐としてるべきなんだよ。
周倉 いつ喧嘩が始まってもおかしくない。
劉封 刺すか刺されるか。
関平 女子供は、すっこんでろ。
徐庶 そこでまたぶち切れですよ。
孔明 きょうび流行んねーんだよ。ボケが。
李厳 小1時間問い詰めたい。
孟達 諸刃の剣。
黄権 素人にはお薦め出来ない。
馮習 通の間での最新流行。
呉懿 これ最凶。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 19:04:37
漢文読める人スゲー!
…とか思っちゃう漢文苦手のオイラ。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 16:38:44
文法(語順)は英語に似てるよね
漢字の意味はだいたい日本語と一緒
原文とちくまの訳文と見比べてたら
なんとなく分かるようになってくるよ
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 18:24:25
確かにそうなんだけど、
日本語と意味がまるで違う字も少なくないので注意
安能務や田中芳樹じゃないんだから
テキトーな憶測で「翻訳できた」と思い込むのはやめよう
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 19:03:47
またお前かw
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 04:59:19
ほしゅ
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 22:39:19
樊玉鳳
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 05:23:00
蒼天趙雲は大門正明に似てる。めちゃ似てる。やばいくらい似てる。
本人かと思った…。
本人だよ
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 17:34:19
先日、大東文化大で開かれた三国志シンポに行ってきたんだが、
その中で、石井仁が「諸葛亮は軍事的にも名将だと思う」と言ってたな。
なんか、ここの三国志オタたちの見解とはえらい違いだな・・・。
いや名将だよ。何がひかっかったの?
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 18:49:13
諸葛亮の軍事的能力を疑うのはかじりたてのかかるハシカか半可通のタワゴト。
292 :
金正日 ◆VykG4Xiupo :2005/08/04(木) 18:50:31
あ
293 :
金正日 ◆VykG4Xiupo :2005/08/04(木) 18:52:42
い
294 :
金正日 ◆VykG4Xiupo :2005/08/04(木) 19:14:26
た
295 :
レイホウ:2005/08/04(木) 19:37:28
なぁ〜に…番兵をきってきたのよ!!
普通に軍才あるよね
単に諸葛亮の軍才って言うと神懸り的なもの想像しちゃう人とか
劉備の生前と死後を区別しないで語っちゃう人がいるから変なことになるだけで
魏の五将軍と同等かそれ以上には有能
全てをひっくり返すことができなかっただけで
結果的に負けはしたけど、それでも神レベルではないってだけだな。
戦術的には負け無しだし、軍才その物はかなりの物だと思う。
国力差と、周りにあまり人がいなかったのもあるし。
とかいうと信者認定されるんだろうな…。
いや。夏厨認定。
そっか(´・ω・)
どっちがいいかな。
軍事的に無能だったとは思わないけど、突出して優れていたとも思えないかな。
国力差があったんだから仕方ないよとはよく言われるが、曹操やその他、時代を
代表するような軍将はみなその不利な状況を覆して名を成したのだから。
少なくとも、諸葛亮を軍事面で彼らに匹敵するとは評価できない。
まあよく言って「優秀な司令官だった」くらいか。
うむ。応変の将略は長ずるところでなかったのかもしれない
結局陳寿評以上でも以下でもないってことか
>>300 そこは時代や勢力を覆す超一流と
そこまでは及ばない普通の一流の違いだよ。
こと軍事になると兄弟ってそっくりだと感じるよな
驢馬兄も民を減らすことなく守ったことは評価されても
プラン通り進めようとする余り状況の打開ができないことを疎ましく思われたからな
>>304 兄貴は負け戦ばっかりなきガス。酷い負け方しない(らしい)けど。
>>305 なんか1度大物に勝ってなかったっけ?
誰かは失念したけど。
>>306 ノゲイラに1度勝ってる。ヒョードルとは分けた。
そうか、強いな兄貴。
むしろミルコには一度勝ってるけど桜庭や中村には負けたっていうほうが近いかな。
凄く初心者な質問していいですか? 殺さないでくれますか?
ノゲイラとヒョードルって……誰ですか?
二人とも一騎当千の猛将だよ
中世の皇帝の名前だよ
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 23:25:08
ほしゅ
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/11(木) 16:27:17
∩(・ω・∩)age
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 00:13:22
ほしゅ
なんだかんだ言って結局みんな趙雲が好きぃー
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 02:36:59
あがってないし・・・
俺は別に好きでも何でも無いが
俺も別に
蜀で一番好きなのは魏延、次いで劉備、劉禅、譙周だな
俺は董和、楊洪。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 17:31:38
わかった、みんな趙雲が嫌いなのだ!
こいつがいなければ蜀が滅亡することもなかったのにぃー
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 18:30:57
(ω・)ゝなんだって?
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはいわろすわろす
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 20:44:14
(ω・)ゝなんだって?
魏延は何時将軍としてのスキルを得たのかな。南郡にいたころ?
>>330 蜀入りで功績を立てたらしいので、その頃かと。
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 22:36:19
五虎将軍が全員死んだ後の新生五虎将軍でも考えようか(五虎将軍が実際しないとかいうのは無しね)
演義込みだったらできるだろうけど、
無しだったら無理ぽ
演義だと
魏延、関興(関索)、張包、馬岱、姜維
あたりになるんだろうか。
>>334 その面子だと、姜維以外は孔明の死の前後までまとめていなくなるんじゃないか?
そういう想像はガキの頃からやったなあ。
第一世代は、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠
第二世代は、魏延、馬岱、関興、張苞、李厳
第三世代は、姜維、夏侯覇、張翼、張嶷、王平
正史限定なら
第一世代は、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠
第二世代は、魏延、陳到、尚寵、李厳、(楊ギ?)
第三世代は、姜維、王平、張嶷、馬忠、(カクヨク?張翼?寥化?夏侯覇?柳陰?閻宇?羅憲?)
>>338 楊儀は入らんのじゃないか?
そこに入れるとすれば呉懿とか高翔だと思う。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 23:51:29
扱いが難しいのは王平と馬忠だと思う。
>>338の様に分けた場合、この二人は第二世代と第三世代の中間に当たると思う。
五虎将軍ってのは役職でほぼ判断されてるから、ほぼ同時期に昇進した当時の
鎮西将軍姜維・鎮北将軍王平・鎮南将軍馬忠の名前は並べても全くおかしくない。(東が誰だったかは分からん
あとは記録、活躍の多さから張嶷。ちょっと別格だが筆頭候補でケ芝。
姜維と並べるとすればこの時期のこの五人だと個人的には思う。
第一世代は、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠
第二世代は、魏延、陳到、尚寵、李厳、呉壱
第三世代は、姜維、王平、馬忠、張嶷、ケ芝
なんだ。結構人材居るじゃないか。
それぞれが方面軍の司令官で、
一同に会した事が無かったりするけどな… orz
第二世代が微妙
>>343 第一世代だって一堂に会した事なんてないんだからいいんだよ。
し 小 将
ま つ が
っ ぶ み
た に ん
な な
っ
て
>342
たぶん、鎮東は趙雲の降格あるいは、死去した229年以降廃官になったかと。
孫権が帝位に昇り、呉と新たな同盟を結んでるから、名目的に蜀漢の東担当の将軍は不用と言うことで。
李恢の交州刺史と同様。
陳到は年齢、閲歴が趙雲とほぼ同格なんで第一世代に属すかと。
魏延、李厳に次ぐとなると呉懿、呉班、高翔ってトコじゃないかな。
>>347 地位としてはそうなるかもしれんが、軍功が圧倒的に欠けてないか?
第二世代じゃ魏延が圧倒的すぎて他の将と並列するのに無理があるな
陳到か尚寵のかわりに費イを入れてバランスを取るか。
それでも迫力がない世代だ
費禕は将軍じゃねえよ
じゃあ、魏延と趙雲を入れ替えよう
>>346 横山三国志で孔明がそうつぶやいていた頃はまだ人材がキラ星のごとくいたんだけどな…
よく見たら第二世代は諸葛亮が存命中の武将だね。
小粒と云うより、諸葛亮が自分の地位を脅かさない様に武官を取り上げない様にしていたと思えてきた。
唯一魏延が劉備に評価されて、それなりの地位に昇ったくらいか。まあ極端な見方だけど。
第二世代は、魏延、李厳、呉懿、高翔、呉班 (建興年間)
第三世代は、王平、馬忠、張嶷、向寵、ケ芝 (延煕年間〜費イ暗殺)
第四世代は、姜維、胡済、張翼、廖化、夏侯覇 (姜維北伐〜蜀滅亡)
位階・昇進の過程で統一すると重複ないし過不足が生じるので、位階を
優先しつつ活躍した年代で調整しました。
句扶を第三世代に加えてもいと思うのですが、確かな活躍の度合いで
外しました。
向寵はどちらかといえば建興年間に活躍した人物で、延煕初頭で戦死して
いて第二世代に属するのですが、高翔・呉班のふたりの昇進や位階が
ほぼ同程度であり、二人との位階の差もあり、第三世代にしました。
失礼しました。異論あるでしょうし、叩き台でもかまいません。
そこまで分けると、もはや全然並ぶ価値のないやつとか出てくるんだが。
もう前半・後半でいいんじゃない?
建国前・関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠
建国後・魏延、王平、馬忠、姜維、あと一人
第四世代ってやりすぎだろう。
第五世代まであれば、蜀将のほとんど網羅してるんんじゃないか。
第1世代 劉備死去まで
第2世代 諸葛亮死去まで
第3世代 蜀滅亡まで
第4世代 DNA操作による新種誕生
もう五虎将軍に魏延を加えて六虎将軍でいいよ
黄忠か趙雲の代わりに魏延が入っててもおかしくはないんだよな
カプンコの天地を喰らう2は魏延だったな。
ハゲ魏延。
天地を喰らうの趙雲だったらいくらでも信者になってやる
魏延はあえない最期を遂げなければ、関張馬黄趙魏伝になってたろうに、おしい。
陳寿の意図からして、そこで6人を併伝はしないと思うけど
五虎将の方じゃなくて、王平らと並んで、黄李呂魏馬王張伝になったと思う。
FC版2では妙に美形だったな…
于禁は5将軍にはいれたけど魏延は無理だったね
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 22:40:53
ほしゅ
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 00:47:02
諸葛亮先生に政治を任せて軍事を
仕切れる人材はみんな早死にしちまってんのかい?
372 :
萌やし素麺:2005/08/31(水) 02:40:09
てかよ………蜀が滅んだ原因って糜芳のせいだよな……関羽に兵糧送らないから仕方なしに呉の兵糧を勝手に取らなければなら無くなったしな………ソレから蜀は大打撃を受ける事に………
あちこちで痛いこと書いてるアホコテにマジレスするのもアレだが、
その糜芳に尊大に振る舞って仲違いし、
挙げ句の果てに城を落としたら次はお前の首を落とす番だと言って
糜芳を呉に下らせた原因を作ったカンヌの性格その物が元凶だと思うがね。
性格は関係ないと思うよ。
つか、私情ごときで国益をどぶに捨てる方がよっぽどバカっぽい。
いくらなんでもそこまでアフォじゃないだろ。
国益をドブに捨てたのは結果的にの話であって、
当の本人はこんなことになってしまうとはその当時は思わなかっただろ。
分かってやってたらアフォでいいけど。
糜芳は南郡の城の失火で関羽に責められてたって話も残ってる位だし、
糜芳が軽んじられたのが関羽のせいとは限らないだろ。
軽んじられた結果を職務怠慢なんて形で現しているあたり、
糜芳・士仁の性格も分るってもんだし、関羽の処分云々の話も総司令としては
まっとうな話だよ。
ただ個人的には呉から兵糧をぱくったって話はどうにも胡散臭いと思う、
関羽は当時ハン城・襄陽をがっちり固めたてたのに、
湘水(恐らく湘西の付近か?)付近で食糧調達って話がどうにも…、
呉が荊州奪取の大義名分をでっち上げたんではないかと思ってる、
米の一件がなくても孫権が荊州奪取を目論んでるのは明らかだし。
于禁の率いていた軍の投降で辻褄が合う
詳細不明な南郡での失火を麋芳の職務怠慢と一言で片付けてしまうのはどうかと思うよ
関羽に軽んじられたこととこの事件が関連しているような表記も特にない
関羽の、士大夫層に尊大に振る舞いがちって記述から
関羽の側に全く問題がなかったとは考えにくいと思うけどね
勿論麋芳や士仁に一切の非がないなんてこともないだろうし
関羽が二人を処分すると憤ったのが至極もっともな話というのは同意だが
呉に降った以降の記述を見ると麋芳も低劣な人間ってわけじゃないっぽいよね
結局関羽と麋芳たちとの相性が悪すぎたってのが問題だったんだと思うよ
ま、関羽は普通に問題あるだろう
兵糧奪取といい、関羽は司令官としての思慮が浅いよな
陸遜のへたれ文章をまるっきり信用してんのも−
けど一度戦った呂蒙に正面からじゃ無理無駄無謀と恐れられてるあたりは将としての資質は十分あったんだろうよ
たまに「関羽に諸葛亮がついてれば」とかいう意見を見るけど
近くにいたら諸葛亮と決定的な亀裂作って自滅しちゃったかもな
麋芳は兄貴といっしょに、全財産と妹を劉備に注ぎ込んで
徐州で暮らしていればいい暮らしできたのに、劉備にくっ付いて放浪して
それだけの人物が裏切るのって、カンヌがどうしようもなく高慢だったとしか思えん
>>380 諸葛亮には心服してなかったけか。
諸葛亮と仲違いするようなら、劉備の鶴の一声もあるだろうし。
荊州失陥は劉備と諸葛亮の戦略ミスだろ…
魯粛や呂蒙に踊らされて、カク普が下らなければ荊南は無くならなかったし、
この時には公安には劉備が、南郡には関羽が居たが、荊南失陥を免れなかった。
南郡しか無い状態で襄陽をうかがわせたのは、劉備や諸葛亮だし、戦力補強をしなかったのも二人。
糜芳も士仁も関羽も、結局、TOPからの命令で無理を通させられた。
関羽は、撤退戦では襄陽からの追撃ルートを遮断してるし、よくやったと思うよ。
士仁は、呂蒙の離間策で呉に下ったのだし、糜芳は士仁が裏切った事で進退の見極める材料を失った。
関羽と糜芳と士仁が無能だと言ってる人間には、逆に江陵しか無い状態でどうやって襄陽を落とすのか聞きたい。
>>376 失火の話は麋芳のミスといえるんだろうけど
関羽北上時は何が職務怠慢なのかがはっきりとしない。
兵糧をパクッた話は確かに分からない事が多すぎると思う。
ただ呉の侵攻時に于禁が解放されたのが江陵である為、
食糧不足に陥ったのは前線ではなく江陵だったと考えるべきじゃないかな?
湘関の兵糧強奪が関羽指示のもとで行われたかは分からないが
関羽に責任がいくのは仕方ないと思う。
関羽の北上が劉備・諸葛亮の主導で行われた確証はなく断言できない。
戦力補強といっても入蜀から漢中まで八年を戦い続けた蜀にどれほど余裕が
あるのかも大きな疑問。
でありながら、隆中対も示す様に、魏を陥れるには東西で綿密に呼応しての
実行がもとめられるものであり、それを劉備や諸葛亮が放念している筈がない。
それに誰も無能とは言ってはいないのに……。
386 :
萌やし素麺:2005/08/31(水) 15:11:07
関羽が呉の兵糧を取ったんは魏軍三万人の捕虜とかの為である(・∀・)諸葛亮は自軍の分は兵糧が有るが魏軍捕虜の事は考えなかったハズ………だから捕虜の為に呉の兵糧を取ったんだ(良い人過ぎる)
劉備が、関羽に援軍を出さなかったことで劉封を責めている。
このことから樊城攻めは、漢中攻めから一連の北上作戦であったと思われる。
実際、劉封が軍を出していれば讓陽と樊城は落ちていた可能性は高いし、
少なくとも徐晃の判断には大きく影響を与えただろう。
でもその前に自発的に援軍出したら
余計なことをするなボケ!って言われてたよね。
また出てきたか
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 16:16:30
孟達だったっけ?
カンヌに、よけいなせわだーって言われたの。
真面目に議論してるのかと思ってたのに、
ここはアンチスレだったのか・・・
劉封だって軽々しく兵は出せないよ
大体関羽の指揮下ではないんだし、上庸は元は魏の領土で安定してないんだから
>>393 その通り。
劉封は関羽の指揮下に無い。
それなのに軍を出さなかったことを劉備に責められた。
やはり、本国主導で漢中〜上庸〜樊城と連動して魏を圧迫していく作戦だったのだろう。
>>394 それなら劉備の作戦ミスじゃないかな。
領土に組み入れたばかりの上庸から樊城へ軍を出すならおっしゃるとおり漢中の連動は不可欠。
劉備の対応が遅れたのか上庸の状況を楽観しすぎたのかな。
結局、劉封は孟達へのいじめと合わせて死罪になるわけだが
そこには諸葛亮の思惑が深く関わってるだけに本来はどれだけの罪だったのか分かりにくい。
作戦ミスとは言い切れないんじゃないか?
劉封が軍を出して讓陽・樊城を落とせば上庸に動揺はあまり無いだろうし、
そもそも上庸が危うくなるとは限らない。
劉封伝を読む限り、諸葛亮が手心を加えるのは、劉備が劉封を責めた後。
>>397 いくらなんでも即座に襄・樊を落せる事を前提に軍は出せない
申儀の動向を考えれば長期化すればかなり危険
>>397 上庸が危うくならないとは限らないじゃない?
>>400 どっちとも言えない以上、ミスかどうかはわからない。
麋芳についてどうこうとあるが、個人的には、本拠の留守居役という重要な役を
「失態に対する懲罰」としてあてがった時点で関羽の人事には問題があったと思う。
さらに言えば「遠征から戻ったら罰するぞ」なんて捨て台詞かましちゃえば、逃れる
ためには裏切るしかなくなるわけで。
>>402 遠地にいる人物がどうすべきかを神視点で語るなよ
>>404 遠地にいたって情報は入ってくるよ。
魏の援軍が全滅して于禁が捕えられた情報は呉にも伝わっている。
関羽からの使者は何回も来ているし、劉封だって物見くらいは出していただろう。
つーかしばらく落ちそうになかったから劉封に援軍を頼んだんじゃないの?
最初はそうだったかもしれないが、
于禁の援軍が壊滅して樊城が水没した時点で、援軍を出して一気に落とすという選択肢も、劉封にはあったわけだ。
>>405 于禁が全滅したという情報があったとしても
それで樊城を落せるとは判断できんだろ
実際それから数ヶ月しても落せなかったんだから
劉封・孟達の援軍をたのみにしていたとすれば
包囲した後ではなく北上前に相談すべきだったと思う。
そこで断られたら北上を諦めるかもしれないし
劉備から援軍を出すようにという命令が下ったかもしれない。
でも劉封には援軍を出す以外の選択肢は無かったわけなんだから、出すべきだったんだろ。
劉封伝には、関羽が敗れたために劉備は劉封を恨んだとある。
要するに、援軍を出すのが当たり前だったわけだ。
なぜそうだったのかはわからない。
劉備一派の決まり事とかそういうものなのか。
それは関羽が死んだからじゃないかな。
仮に関羽が自力で樊城を落していたり、徐晃に敗れて江陵に戻っただけなら
劉封・孟達の断った理由自体はおかしなことではないから
麋芳・士仁と違って大した問題にはならなかったように思う。
だが、直後に孟達は裏切っている訳だから、
その前から魏との離間工作が進んでたと見るべきだと思うがな。
でもいくら関羽が死んだとはいえ、
関羽が独断で北上したとしたら、それを助けなかったからといって劉封を責めるのは、かなり理不尽な話。
非があるのは劉封じゃなくて、劉封を唆した孟達。
劉封だけの問題を取り上げればそうだが、孟達に対しては一切、弁護出来る余地が無い。
実際劉封が援軍に行くとしたら、その兵数は幾ら位よ?
不安定な上庸の抑えに兵はかなり裂かなきゃならないんだし
それに、只でさえ兵糧に困ってる関羽に、食い扶持増やすのか?
食い扶増やすのか?と言われてもな。援軍を望んでいたのは関羽自身だし。
兵糧不足の話は呉書にしか出てこないから信憑性も怪しい。
>>415 援軍を持っていくのに兵糧は持っていかない。なんて、矛盾してると自分でも思わないのか?w
魏あるいは呉の計略云々で関羽の責任を軽くしようとする意見が多いが
呂蒙が戦わずして領土を切り取ったという事実がある以上
重箱の隅を突いて関羽以外の人物の失敗を責めたところで関羽の責任の重さは変わらないだろ
関羽の北伐は夷陵の劉備と同じく戦略目標が明確に見えない
諸葛亮の北伐のまさに逆をいっている戦いであり両者共に善く戦ってはいても
負けて当然の戦いだったのではないだろうか
>>418 話には流れというものがある。
君は人の話を聞かないとよく言われるだろ?
関羽の出兵が本当に蜀の国家プランだったとして、あの趙雲が劉備の報復を諫めるのか?
>>419 話を脇に逸らせ関羽の責任を軽くしようとしているかに見える人間も中にはいることくらい
文脈から読み取ることもできないのか?
話の流れを読めていないのは果たしてどちらだろうか?
,、‐ ''"  ̄ ``'' ‐- 、
/イハ/レ:::/V\∧ド\
/::^'´::::::::::::i、::::::::::::::::::::::::::::\
‐'7::::::::::::::::::::::::ハ:ハ::|ヽ:::;、::::::::::::丶
/::::::::::::::/!i::/|/ ! ヾ リハ:|;!、:::::::l
/´7::::::::::〃|!/_,,、 ''"゛_^`''`‐ly:::ト
/|;ィ:::::N,、‐'゛_,,.\ ´''""'ヽ !;K
! |ハト〈 ,r''"゛ , リイ)| 氏ねばいいと思うよ
`y't ヽ' //
! ぃ、 、;:==ヲ 〃 どっちも
`'' へ、 ` ‐ '゜ .イ
`i;、 / l
〉 ` ‐ ´ l`ヽ
/ ! レ' ヽ_
_,、‐7 i| i´ l `' ‐ 、_
,、-‐''"´ ノ,、-、 / 、,_ ,.、- {,ヘ '、_ `ヽ、_
/ i ,、イ ∨ l.j__,,、..-‐::-:;」,ハ、 '、` ‐、_ ,`ヽ
>>422 それは違うよ。
話の流れを読めていないのは君。
荒らしじゃないのなら消えるか、流れに沿った話をしたまえ。
ここまでの議論が切られて非常に迷惑だ。
>>422 まあ、普通に君が悪いよ
ここまでの話が台無しだ
夏だな
はっきり言って「だれ」の責任かだなんかどぉでもいいよ…。
明確な戦略目標がみえてこないのは俺も同意。
関羽が北上して襄・樊を攻囲し許へ衝撃をあたえていながら、成都の劉備が
それに対していかなるアプローチを行った形跡もなく、劉備の戦略にもとづいた
発動とはとても思えない。
つまり時宜を得ていない。
このあたりが関羽の北上が見切り発車的なものだったと思える所以。
劉封がどうとか、そういった次元の話じゃないでしょ。
だいたい劉備が漢中王に即位して体制を整えてる時期に先走り過ぎだよ。
>>428 じゃあなぜ劉備は劉封を責めたのだろうか?
>>429 劉備と関羽の関係、上庸を落した時期、劉封が断った理由
これらを考えて導き出される結論は…関羽の死で正常な判断が出来なかった
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 23:07:11
劉備が呉を攻めたこと、劉封を消したこと、
いずれも正常な判断が出来ているよ。
まさか魏との戦いを優先しろ、なんて言わないよな?
演義の話かよ
>>417 持っていける兵糧にも限度があるだろ
もし長期滞在になった場合はどうするんだ?上庸から延々運び続けるのか?その人員は?
そゆこと
>>429 なにも戦略を破綻させたから、なんて理由ではないでしょ。
もともとそういった戦略に基づいた作戦だった確証はないのだし。
劉備と関羽の繋がりからみても、危急にあっても救わなかったからという
私的な理由の方が大きいと思われ。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 23:15:26
劉備のいわば支持基盤であり、魏を攻めるためにも必須ともいえる(諸葛亮の天下三分参照)荊州を失ったままにはしておけない。
蜀漢の安全のためにも覇業のためにも。
敵討ちの方はいいとこオマケ。
>>431 呉を攻めたのは良かったと思うが
攻め込んだ後は正常な判断は出来てないだろ
>>435 つまり劉備にとって関羽は特別な存在ではなかったという事ね
劉備が劉封を責めたってことは、
やはり北上は蜀の戦略に基づいたものだったんだろうな。
しかも、樊城落城が目の前だったんだから劉備が怒るのも無理の無い話。
>>433 将来的に支え続ける事が無理だからといって、撤退を勧めるでもなく、援軍も補給も行わない?
そりゃ、とんだ日和見主義だな。孟達と劉封の評価がまた1ランク下がる訳だが。
どう考えても荊州を取り戻して和睦の方が国家主導者としては正常な判断だわな。
>>440 433はそれを長期的視野と云いたいのかも知れないぞ。
どう考えても贔屓目の擁護にしか見えないがね。
>>440 撤退を勧めるような権限はないし
上庸が安定していないからという理由で
援軍、補給はきっぱり拒否してる
何が問題なんだ?
日和見主義というが上庸は降してから1年も経っていないんだぞ
日和見というのは違うような気がするが、
劉備に責められたってことは、やはり援軍を出さなきゃならなかったんだろうな。
どうも現実的な見方をできないで擁護してる人がいるなあ……
ほとんど戦禍をこうむらず無傷に近かった荊州と、長い戦争で消耗も混乱も
あった蜀とで、噛み合った戦略も作戦も展開できるとハナっから決めてかかり
すぎなんじゃないの? 関羽擁護の人は。
占領行政が生易しいものじゃない事とか、漢中併呑や漢中王即位などで
急速に劉備の版図や組織が肥大した事からくる余裕のなさとか、そういった
一見史料の字面だけを見てるだけでは伝わってこない内部の事情を殆ど斟酌
してないとしか思えないよ?
状況的に無理なのに……中間管理職は辛いな>劉封
劉備の叱責って、純粋な責任問題だけではないだろうと思うが
個人的感情と、跡継ぎ問題と、体よく処罰される要素が強すぎるんだよ>劉封
>>445 占領地を固めるというのも一つの方策だが、勢いがある時に一気呵成に攻めるのもまた常道。
事実、魏は大変な危機となった。
>>446 劉封伝を読み返してみるといい。
劉備は、劉封が援軍を送らずに関羽が敗れた時点で、劉封に対して恨みに思い、
劉封が成都に来た時点でそのことを責めている。
諸葛亮が手心を加えたのはその後。
やっぱ関羽が出てくると、このスレは無駄に活性化するわ
>>445 とりあえず擁護するしないの話はやめないか?
関羽は人気あるからな
三戦での食いつき度なら100だな。
>>448 「恨んだ」ってのがポイントじゃないか?
もしその時点で罪があったとすれば「恨」とはならないと思う。
あれか?
劉封への扱いは、夏侯淵を助けられなかった朱霊を曹操が恨んだのと一緒?
>>453 確かに恨は個人感情を多く含む字だね
恨が掛かるのが會羽覆敗なのも重要かと
>>453 原文を知らないから何とも言えんが、
あまりポイントじゃない気がする。
成都に来たときは責めているし。
>>456には史料を読む上での最低限の基礎を学ぶ事をお勧めする
たった一字、ではなく、その一字、で全く意味も何も変わってくるというのに…
>>456 自關羽圍樊城、襄陽,連呼封、達,令發兵自助.封、達辭以山郡初附,未可動搖,不承羽命.會羽覆敗,先主恨之.
特に漢文の場合はな
恨みに思ったという表現になっているのは、上庸という重要地を守らせているから、その時点で罰すると言うのを避けたということ。
罰するなんて言って魏に走られたら堪らないからね。
だから成都に来た時点で罰したわけで、
罰に値しない行為であったから恨んだという表現が使われているわけではない。
なるほど。納得。
関羽の北上は蜀の国家戦略の一環みたいだな。
そうでなきゃ劉封が責められた理由が見当たらない。
おまえって幸せな頭してるよなw
関羽話を再燃させたついでに趙雲の考察も再燃させますか?
趙雲の考察など列伝を信じるか信じないかくらいしか出ないのでいい
列伝じゃなくて別伝だ
>>460 なんで恨が會羽覆敗に掛かるのかについて説明は?
やっぱ関羽を擁護しようとすると無理が生じるな
>>460 無理矢理解釈すればあり得なくはないが
普通に読めばそんな解釈しないだろ
お前の普通はみんなの普通じゃねーよ
というレスがつくに100ペリカ
>>460 劉備の意図としてはともかく、陳寿がそんな記述をする必要性が全くない
劉封処罰の原因は将来の継嗣問題が大きい。
で、口実と言うか直接的な原因は孟達を圧迫した事で上庸を失った事。
関羽の件は、おまけに近い。
既出だが、当事の蜀は劉備が漢中王になったばかりで国内の諸制度の整備で対外戦争を興す余裕はない。
漢中奪取と言う大規模な軍事行動を行ったばかりだし。
関羽の北上は劉備が漢中王になった直後の頃で、漢中での戦いの側面からの援護とも言えない。
その辺りを考えると、魏が漢中から撤退に追い込まれたのを見た(聞いた)関羽が勢いに乗って侵攻したモノではないかな。
関羽は荊州での軍事において独断で処理出きる権限を持っていたのが裏目に出たのかと。
その権限も本来明確な限界があるハズだが、劉備と関羽の極めて親密な関係が権限の範囲をあやふやにしてしまったのかも。
>>472 >既出だが、当事の蜀は劉備が漢中王になったばかりで国内の諸制度の整備で
>対外戦争を興す余裕はない。
>漢中奪取と言う大規模な軍事行動を行ったばかりだし。
このあたり、俺も何度となくレスしてるんだが、たいていは勢いがモノをいったって
意見で片付けられてて、ほとんど顧みられないんだよね。
こういった事って、単に記述をなぞるだけの読み方してるとみえてこないけど。
ついでにいうと、
>関羽の北上は劉備が漢中王になった直後の頃で、漢中での戦いの側面からの
>援護とも言えない。
これも関羽が北上してから斬首されるまでに半年ほどあるけど、劉備はその間、
本国で全くといっていいほど何も手を打っていない。
隆中対の基本路線に則ったものだとしても時宜を失っている。
にも関わらず基本戦略に沿った侵攻だと初めから断定的な意見がみうけられて
ちょっと理解に苦しむところも。
要するに、北上自体は関羽の暴走に過ぎず、
それが予想外に巧くいきそうだったから劉備も諸葛亮も事態を静観してたってことなのかな。
現代の組織でも大失敗があれば責任の所在追及(悪く言えば責任の押し付け合い)
が行われるわけで、そう考えると劉備は失敗の責任が関羽の行動を黙認してた
自分たち上層部にはなく、関羽に協力しなかった劉封にあるとして
処分しようと考えたのかもしれないね。
スケープゴートっぽいよね、劉封の扱いって…
218年10月 南陽で叛乱
関羽が具体的に動いたのは何時か分からないが、219年の春あたり?
219年3月−5月 陽平関で劉備と曹操が対峙
7月 于禁派遣
8月 于禁敗北
9月 魏諷叛乱未遂
10月 徐晃が関羽を撃破
220年1月 呂蒙が関羽を捕らえる
益州の兵力は漢中戦のために根こそぎ動員したと思うので、
関羽を助けるための予備兵力とかなかったんでしょ?
1年以上の動員を続けてるしな
漢中への大規模な軍事行動後だから時宜を失しているとか、片一方しか見ていない意見があるが、
漢中戦で疲弊したのは魏も同じどころか、曹操自ら出向きながら漢中を奪われて撤退したわけで、痛手は魏の方が大きい。
さらに、侯音の乱を鎮圧したために曹仁率いる樊城の兵も疲弊していた。
そこに無傷の関羽の軍が攻め掛かるというのは、戦略として極めて妥当と言える。
んじゃ、引き際を間違えたんだろ関羽は
>>478 そうだな。
実際、樊城の曹仁は何も出来なかったしな。
>>478 その理屈は、魏と蜀の国力が拮抗している場合なら納得だが、
同じように連戦続きなら国力に余力のある魏の方が有利。
事実、于禁、徐晃を派遣し、尚かつ曹操本人が動き、夏侯惇、張遼まで呼び寄せる。
蜀とは比較にならない動員力である。
数が多くても運用をミスったら意味ないからね
当時、曹操軍はあちこちに兵力が分散していて樊城落ちたらやばい状況だった
南陽から許、洛陽までほとんど無人状態だったからなあ
だから東方の守りを犠牲にしてまで夏侯惇や張遼を呼び戻した
関羽一人に対して集まった魏呉の将を見ると
えらい豪華なのがすごいよな。
>478
極めて妥当な戦略、と言うけど、関羽の北上の目標はどういうものだったのだろう。
それが見えて来ない以上、戦略目標のハッキリしない軍事行動だったんじゃないかな。
つまり、漢中からの撤退で魏は疲弊してる(はず)。今がチャンス程度?
だとしたらやっぱり無謀な暴走でないかな。
樊城を落とすのが目的だとしたら、落城寸前まで行ったにしろ、徐晃の到着で頓挫してる。
荊州から中原に侵攻する、って言う大規模な目標だとしたら、関羽軍だけでは何せ勢力が少なすぎるし、本国からの援助も期待できない時期で成算は極小。
>482
魏は東方の守りを捨てて、と言うけど呉とは当面同盟している訳で東方の守りはそんなに心配は無い。
兵力の少ない呉は荊州に戦力を集中していて、荊州と同時に准南に進行する余裕はない。
でもそれらの意見は
後世になってそれぞれの事情が分かった上で出せた物だしさ。
勢力差だって相当なものだし、
許都を突いて献帝を奉戴する千載一遇のチャンスとあらば
そりゃ賭けにも出るんじゃないかと。
うへ、まずった
>>484 呉と同盟したのは東方の兵を引き払うことを決定したあとだよ
許都周辺に兵がいなかったから、呉と同盟を結んでから張遼や夏侯惇、
温恢などを荊州に向かわせたわけ
時系列でみると、やっぱ漢中の側面援護で北上したという感じだがなー
遅いよ
諸葛亮は結局のところ最終的な目的を果たすことはできなかったけど、
国を危機的状況に晒すようなことはなかった。
関羽の場合は目的を果たせなかったばかりか、荊州を失う結果となった。
今が千載一遇のチャンスだと考え、出兵した関羽の判断にはさほど
異論はないんだけど、戦争を仕掛けることで自分の領内を
危うくするくらいなら出兵しないほうがまし。責任者なら。
せめて万全の対策をしてから望むべきだと思う。
これは姜維にもいえることだけど。
>>487 張遼伝に孫権が臣下の礼をとった為に曹仁の救援に向かわせたというような記述があったと思います。
孫権との同盟も孫権側からの提案じゃありませんでした?
経緯はともかくあれだけ多くの軍を呼び寄せた関羽の勢いというのは伊達じゃないと思います。
>>488 時系列的には漢中戦からの勢いに乗ったという考え方はできますが
関羽が北上する前に曹操は撤退し劉備は漢中を確保しているので側面援護という意味合いはかなり薄いと感じます。
通信手段の未発達によるラグとかもあるだろうし、どうなんだろうね
>>492 タイムラグは十分に考慮すべきですが
関羽の北上が劉備の漢中王即位後であり前将軍に任命され仮節鉞を授かってることから
漢中を確保したことは知っていたと思われます。
侯音の反乱も関羽北上の一つの動機じゃないかな?
余りにも早く鎮圧されてしまったのが誤算だったかもしれないが…
鉞貰って舞い上がっちゃったんだよ
権力を手に入れたら使ってみたくなるのが人情
>>495 英傑を自己の矮小な価値観で推し測ろうとするな。
北上は関羽の焦りではないか。
入蜀・漢中戦と劉備陣営の重要な戦いに参加できず、自分は留守番やってるうちに
魏延・黄忠ら新参が輝かしい武勲を立てて陣営の重要ポストに大抜擢されてるのに
自分は荊州の半分を呉に奪われてるってのはプライドの高い関羽にとっては
つらいもんがあったんじゃないか
プギャー
個人の価値観と断定しておいて、その反論が印象論の曖昧・安直な一行レス、
……咎めてそれに倣うは罪甚だし、ってやつですか?
関羽は心が狭くて単純なフツーのおっさんだったと思うけどね
諸葛亮や黄忠に嫉妬むき出しにしてるし、その一方でおだてられるとあっさり騙される
英傑=深遠な心の持ち主ってことはないんじゃないか
むしろ英傑と呼ばれた人間の殆どって物凄く俗っぽい人たちだと思う
なんか一人で暴れてるのがいる
声高に、英傑、英傑、って騒ぐんなら、自身の小物っぷりを顧みてほしいな
>>503 一応正史に記述あるよ
ついでに貶めたわけじゃない
超越しているわけじゃない普通の人間だからこそ英傑たりえるわけで
>>506の言ってることは成る程と思うけど、
>>498は有り得ないよ。
そんな奴ならもっと以前に暴走してるし、あんな大物になんてなれないよ。
なんで英雄論語ってんだよ
関羽厨はつくづく癌だな
そりゃあ北上の意図を推察したら英雄云々言い出す人が現れたから
>>508 史料って正史のことなら全巻持ってるよ。
>>498は単なる憶測だろ。
そんな理由で暴走するような奴があんな地位まで行けるかよ。
関羽も劉備政権の大幹部であるから、隆中対の内容は知っていたろうから、劉備の漢中奪取の経緯、結果から、今ががその時、と思った部分もあるだろうね。
曹操における、劉備の関羽・張飛的存在である夏侯淵を討ち取り、漢中王へ。政治感覚が乏しい人物なら誤解してしまうかも。
漢中戦役後の劉備政権の動きはそういうものでは無かったんだけど。
その辺りの協議や連絡等が不足してたんだろうなぁ。
>>512 いや、時宜は間違っていないよ。
漢中を奪われたことで魏は動揺していた。
侯音の乱があったし、関羽が動いた後も賊の蜂起が相次いだ。
そして実際に襄・樊は落ちる寸前だった。
誤算は並外れた曹仁の粘りだろう。
曹仁でなければ樊城は落ちていてもおかしくなかった。
>>512 漢中戦後も劉封と孟達に上庸を攻撃させてるよ。
漢中戦後も軍事行動は続いている。
天下の趨勢を占う大勝負なのだからこの程度の博奕に出るのは当然だと思う
ただ、関羽はその博奕に負けたってだけのこと
>513
いや、隆中対の中身は「益州」の本軍が主力であって、荊州は援軍・助攻。
それなのに実際、益州本国は漢中戦役後、国内整備が急務で外征どころじゃない。
つまり、隆中対と一見似通った行動に見えるけど、逆の行動に近い。
それに樊城が落ちた所で関羽軍の兵站は伸びきるし、その後も展開出きるかどうか。
確かに関羽の北上は魏の意表を突いていたろうし、荊北・河南の動揺は大きかったとは思う。
しかし、それを実のある成果に出来たかは微妙でしょう。
>512
上庸攻略は漢中戦役の戦果拡大を目指したものであって、その後も含めた大規模な軍事行動の一貫ではないでしょう。
実際、劉封・孟達はそれ以上の軍事行動は止めている訳だし。
>515
その大博打を打つ時期が間違っていたのではないでしょうか。
本国との連携も無く、単独で大博打を打つのは一地方を任されている指揮官としてはどうかと。
>>516 いや、あの北上は魏を滅ぼすことが目的ではなくて、
樊・襄を落とすことが目的だろう。
樊城にいた曹仁の軍は南下を目的としていたため、防衛の効果もあるし、
魏の喉元に刃を突き付けた状態となる。
そうなれば益々魏の動揺は激しくなり、第二第三の侯音や魏諷も出てきただろうし、賊の蜂起もさらに拡大するだろう。
そうすれば魏は鎮圧のために各地に兵を裂かなくてはならなくなり、大変なことになる。
そもそもその目的、戦略目標がはっきりしていないのに全てを都合のいい
方向に解釈するから反論が挙がってるんじゃないの?
>>519 襄・樊を落とすことが目的じゃないかというのは極めて妥当、というか当然な解釈だと思うんだが、
どのあたりが都合のいい解釈だろうか?
>518
樊・襄ってのは蜀の荊州における根拠地である江陵からみると飛び地に近いんだよ。
仮に奪取できたとしても維持がものすごく難しい。
実際、後の呉が襄陽を奪った事があるけど、やっぱり維持が難しいから放棄してる。
樊城はその襄陽の漢水を挟んで北。もっと維持は難しい。
魏からすると、襄陽はともかく樊城は、すぐ北に後の荊北の根拠地となる新野があり、その北は宛。江陵側からよりは連絡線の確保は容易。
関羽の頃より、蜀漢としっかりした同盟を結んで後方の不安が少なかった頃の呉でさえ襄・樊の確保を諦めたのに荊州単独の関羽軍のみで維持・確保を試みるってのは無謀でないかな。
曹仁の南下を防ぐのが目的であれば、樊城が水没寸前となった段階で、戦力は無力化出来たはずで、南下はそれだけで防げる。
>>521 維持できないと判断したら放棄したかもね。
仮にそうでも、曹仁を討って部隊を壊滅させたとなれば効果はあるし、
先程書いた通り、魏の動揺は大きいだろう。
夏候淵を討たれ、その上曹仁も討たれるとなったら、
その後はあらゆる征伐に対して、曹操が一々総大将として出向いて行かなければならなかっただろうな。
二人に匹敵する権限を持った人間は当時居らんかったし。
>522
いや、だからさ、襄・樊を落とすのが戦略目標ってのがそもそも間違いじゃないか、と。
維持出来ない地域を奪取し、魏の動揺を狙っても、奪取した地域を放棄しなきゃならなかったら、魏の動揺を有効に利用できないでしょ。
それじゃあ曹仁軍を壊滅させても、水没寸前まで追い込み戦力を無力化するのと大差は無い。
結局は魏の南下を防ぐ(防げた)って事だけで終わる。
魏が南下した場合、関羽と逆の立場で江陵の奪取・維持は難しい訳で、実際南下がどの程度現実味を帯びていたかどうかも問題になる。
なんせ、漢中が落ちたばかりで、大幹部の夏侯淵を失ってる。
この状況で成算の少ない南下を行うとも思えない。南下の動きを見せて牽制する、ってのはあると思うけど。
>>524 曹仁の居ない状態で長安への北伐が行われるのと、
曹仁が健在である状態で長安への北伐が行われる場合。
どちらが魏にとって脅威だろうか。
俺には、樊城の曹仁に関羽があそこまで固執した理由が、曹仁こそが目的だったと思えてならんのよな…。
それはさすがにちょっと無理があるんじゃないかな・・・
「梁 キョウ 陸渾群盗或遥受羽印号 為之支党」とあるから、
関羽の意識が魏領にも向いていたのは確実だと思うんだけど
>525
曹仁は曹一族の名将と言って良いし、魏にとって大事な人材なのは確かだけれど、当事、三国共に国家体制が整備されてきており、個々人の能力よか組織的な力の方が大きくなって行く途上だからねぇ。
曹操を例に取れば、旗揚げから官渡の頃までは個々の能力(曹操の能力)が決定的な意味を持っていたけど、官渡以降は曹操個人の能力より曹操勢力の強大さが決定的意味を持っていったような。極端な例だけどね。
この翌年には漢に替わって魏になっているし。国家の時代と言うのかな。
219年頃に英雄の時代が終わった、って個人的には思うよ。
その頃に曹操・劉備・夏侯淳・夏侯淵・関羽・張飛・法正etcが逝去・・。(呉も入れたいけど多くなるのでパス)
ただ、関羽の心情として、漢中で夏侯淵を討ち取ったから俺は曹仁、ってのがあってもおかしくは無いと思う。
>>525 関羽が樊城で対陣を重ねた理由は、「蒋済伝」にあるように、呉の動向と
戦況の推移に対して適切な判断が下せなかったため。
時を浪費するってのは「孫子」に限らず、軍事において特に忌むところ。
拙速はあっても巧遅はない。
襄陽・樊城と江陵の距離、呉の躍動を考えればなおさら。
わずか数万の野戦軍で後背地の守備軍も抽出し、本国の支援が得られない
となれば、自ずから限界もはっきりしてくる。
魏中枢へ大きな脅威を与えた結果は明らかな一方で、、長期的な展望と視野に
欠けた、見切り発車な侵攻であった評価はかわらない。
関羽の名声(虚名かもしれないけど)は中原には広がってたのは事実だから、当事の蜀としては関羽が江陵で睨みを利かしていた方が良かったんだろうね。
結果論的だけど、翌年には曹操が死去してるから、隆中対における変事が起きる可能性もあったろうし。
>>528 全体において異論はないんだけど「拙速はあっても巧遅はない。」ってのは違うんじゃないかな?陸抗の西陵攻略の時のような例もある。
>>531 それ、一見似ている様で中身は別物なんですが…
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 15:20:47
>351
少し前なので申し訳ないんですが、費イの在命中の官位は、蜀大将軍・録尚書事・仮節・益州刺史・成郷敬侯
で大将軍の時に曹爽を破ってますね、一応大将軍でもあったわけで・・・
陸抗のアレはもう神としかいいようがないから
比較対照にはなりづらいなあ…
>>534 神がどうとか、そういった抽象的なものじゃないぞ。
双方ともに、攻囲しつつ外部からの救援軍を迎える、という同じ様な状況に
みえるがその中身はかなり違うよ。
どう違うのかはっきり言ってくれないとおらたちにはわかんねー。
>>532 >>531がいいたいのは西陵の陸抗は巧遅だったんじゃないのって事じゃない?
戦の中身が似てるとかいう話じゃないと思う
>>531は軍事全般において拙速はあっても巧遅はないと書いてあるように読めるけど…
538 :
537:2005/09/03(土) 16:52:45
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 17:28:34
ぼくは、関羽の件に巻き添えに義父にヤラレちまった
劉封君
が長生きしてればなぁー。そぉ思ってしかたないです
ま〜
淵死亡曹操敗走だから
好機では、あるでしょ
俺達は結果知ってるから、あ〜だこ〜だ言ってるけど
弱者が強者に攻撃するのは、こんな時しかできないし
関羽(劉備や曹操)はもう歳だからチャンスを物にしたかったんでしょう
その点孫権は若いから柔軟に対応したんじゃない?
魏と同盟したり(刑州攻撃するため?)
>>521 別に飛び地というほど離れてないだろ、
江陵の北で、西を見れば上庸がある場所だし、
呉の遠征は当時の蜀&関羽程の勢いは持ちえなかったので、
呉とはまた状況が違うと思われ。
仮に関羽が樊城を落せば魏に与える衝撃は計り知れなかった。
>>541 仮に樊城を落とせば、魏と呉は利害の一致からも益々関羽を南北から挟撃する
だろう。
そうなればどうやって江陵と襄・樊を維持するんだろう。
仮に落とせていても江陵が陥落していないと断言もできない。
樊・襄が陥落して江陵も健在、という最も都合のいい展開だとしても、直線距離でも
200qを隔てた中で容易に相互支援が叶うなど断言できない。
200qといえば500里。通常行軍で半月。三日で踏破する夏侯淵は例外に
過ぎない。それほど戦争において距離と時間は恐ろしい。
衝撃けっこうだが、それで倒壊するほど魏は手を拱いてなどいない。
呉が荊州に強い執着をもつ事も絶対に忘れてはいけない。
蜀の肥大化を魏も呉も看過するわけない。むしろ手を組む公算が大きく、事実
そうしてる。
にも関わらず関羽の視点に立ったものの見方しかしないから、都合のいい見解
しかでてこない。
抽象論に終始しないで、三者三様の立場と情勢も考慮した現実的な意見を聞き
たいよ。
当時の魏はまだ国として固まっていない。
>>541の言う通り、呉が襄を放棄した時とは状況が違うのは確か。
襄・樊が落ちれば中原の賊はさらに勢いを増し、侯音や魏諷のような不満分子の蜂起もあるだろう。
むしろ魏が荊北を放棄せざるを得ない状況に陥ったと思われる。
襄・樊がまだ落ちていない時点で曹操が遷都を考えたのが、魏の不安定さを如実に表している。
200km程度の距離を半月ならまあ普通の範囲内だと思うけど、
行軍に時間が掛かるのは相手にも同じ条件な訳で、
よっぽど弱小の城に、強大な軍勢が襲い掛かったり、
城主が寝返ったりしないと、城なんて15日では落ちんよ。
当時でもハン城⇔江陵なんて距離はざらにある、
呉が守ってた揚州⇔荊州なんてもっと遠いぞ。
不満分子の蜂起が云々とあるが、逆に言うと蜂起に続く者がロクに出てこないで
地方の散発した反乱に終わった(魏諷の乱は少し異なるが、それでも蜂起前に鎮圧
されたというのは魏の統治がそれだけ行き届いていたからとも言える)点をみると、
たいした力もなかったんじゃないかとも思えるが。
現実に、関羽にたいしては当時の名だたる将領が多く動員されたが、それで手薄に
なった地方に反乱が続発したとの記録もないし。
やはり、関羽の北上に呼応して長安を伺ってこそ…だったのだろうか。
なんかずっと読んでると一方通行な人多いよね。
関羽オタっていうの? そっちの人たちは特に。
レスアンカーつけていながら実は相手の意見にほとんど答えないうちに唐突に
自論を展開しはじめる人もいるし、明らかに過去ログ読んでない人もいるから
話が堂々巡りになってる。
否定派は慎重論が多いし、関羽派は御都合論が多いね。
慎重すぎる意見もいけないけど、抽象的で希望的観測を決め手にしてる様な
意見も肯けるもんじゃないね。
「桓階伝」みてると、極一部にしても有識者は安易に危機感に躍らせれて動揺
なんてしていなかったんじゃないかなって思うよ。
司馬懿や蒋済、董昭といった一流どころがそれを示してくれてるしね。
>>547 司馬懿や蒋済だけが、あわてておらず、有効な対策を打てた。
彼等は、策を持っていたからこそ、慌てなかったのであり、有効策を持たない人間達は慌てふためいていた。
司馬懿と蒋済がいなかったら、魏呉の共同戦線なんて貼れてなかったんだって。
>>547 君も一方通行だよ。
動揺してなかった人物だけを挙げて、有識者は動揺していなかったとか。
アンチってやつだね。
魏が動揺していたことは曹操が遷都を言い出したこととか、賊が蜂起して中原が震動したとかの記述で読み取ることができるよ。
襄・樊が落ちていない段階でそれだから、もし落ちていたらその動揺は計り知れないものになったろうね。
>>547 唐突に自論を展開ってのは、
>>547の上半分の文章みたいなのを言うんだよ。
まあ、堂々巡りには確かに飽きたな。この話題で何時議論したことか覚えていないくらいだ。
そろそろ違う話題にしよう。
>541
上庸の地理的な部分を考えると、襄・樊への連絡線にするには頼りないと思うが。
上庸自体が、益州本国(漢中)への連絡線が漢水沿いのみと言う脆弱なもので、その上庸から襄・樊への連絡線も漢水沿いのみ。
荊州から上庸への連絡線もある事は確かだが、荊州・関羽軍の規模で、しかも関羽軍が北方で魏と対峙する、と言う状況下ではどれほど援助できたか・・・。
計り知れない衝撃と言うけど、そういった想定不能の部分を期待して軍事行動を起こす事自体に問題があるのでは?
>想定不能の部分を期待して軍事行動を起こす事自体に問題があるのでは?
たしかに。
そういった不確定要素が全て都合よくまわるっていう前提でものを言う人ばかりで
ついていけん、正直。
後背地には火種ばっかり残してるし、浅慮と配慮の足りない部分って史料でも
随所でみうけられるけど、そういったところは一顧だにしないもんなあ……
戦争語る奴に限って地図見てないからなぁ
まさに机上の論理なわけで
いえてる。数字や時系列もたいして見てないし
>544
一般的に樊城〜江陵程度は確かにざらにあるだろうけど、魏が樊城を攻める場合、江陵より近距離にあたる新野、その後方に宛があって、荊州・関羽軍よりはるかに有利であることをお忘れなく。
>>呉が守ってた揚州⇔荊州なんてもっと遠いぞ。
こりゃ話にならんでしょ。ある地点(郡都等)から広範囲な州単位に話をずらしちゃ。
楊州と言っても荊州に近いトコもあれば、長江河口まであるんだから。
>>548 > 司馬懿や蒋済だけが、あわてておらず
これは違うと思う。
そういう状況であれば正史には皆恐(懼)とかそれに類する記述があるのが一般的。
魏呉の共同作戦も呉からの申出が先。
>>549 > もし襄・樊が落ちていたらその動揺は計り知れないものになったろうね。
問題はどうやって落すのか。
呉の侵攻が無くても徐晃に破られてる。
これは一応董昭の策略があったからともみれるが
さらに曹操、夏侯惇、張遼が来るわけだから…
>>551 上庸への道が漢水沿いのみだから脆弱というのはどうだろうか?
後にエン将が漢水を使っての北伐ルートを考案しているのを見ると、
漢水ルートは大軍の運用が可能なのだろう、
退き難いという欠点も上庸を占拠していれば問題は軽減される。
劉封が断った理由も占領してから時間がたってないから、
というのもで、経路の厳しさを理由としたものではない。
軍事目的は襄陽の占拠&北荊州からの魏勢力の駆逐だろう、
敵に問題が起きればなおOK、起きなくても目的が完遂すればまあOK、
ひとまずはそういう話、とはいえ漢中の敗戦から魏では内乱が起きて、
それが関羽の勢力と呼応したりしてるので、荊州で再び敗北すれば
魏の屋台骨がぐらつく可能性が大きいのも否定できない、
曹操が遷都を考えたりしているようにね、
そういう部分を計算するのも戦争に必要な事だろ。
>>558 関羽の北上に呼応した勢力は他伝では全く触れられてないのであまり評価するのはどうかと。
>>555 関羽の北伐の時、魏は東方から兵を引っ張ってきたり、
徐晃を先行させて兵の収集に務めさせるなど、
北荊州の兵力は殆ど空と言って良い状況。
征南将軍の曹仁がハン城に追い込まれ、于禁と七軍が捕縛されたのと、
直前の漢中での敗北で魏も追い詰められている。
ハン城を落せば関羽の軍にも余裕が出来るので、勝負は分らない。
そういう州単位でさえ相互援助出来てると言いたい訳だが、
同じ荊州の中でも江陵〜西陵なんかは江陵〜ハン城よりも遠い。
ハッキリ言って江陵〜ハン城の距離は君が言ってる様な
問題のある距離じゃない。
>>558 徐晃に破られた後も襄陽はしっかり遮断していた、
その後の呉の襲撃で敗走した訳だから、
問題は呉をいかに防ぐかだろう、いかに素早くハン城を落すか、
これは士仁、麋芳、劉封の態度次第のところが大きいので、
IFを語っても虚しい部分だけどな。
董昭の策略がそこまで作用したかはどうにも…、
元々落ちかけの城の包囲だし、敵の文書でさっと退く奴も居ないだろう。
士仁・麋芳の寝返りが大きいのと、呉の手腕が素晴らしすぎたというしかないな。
>551
これは行路の険阻さ云々の事ではないですよ。
漢水沿いのルートが楽な行路だとしても、益州からの連絡線がそれ一本と言うだけで脆弱と言えるのでは?
これは上庸から襄陽方面でも言える事だけど。
実際、上庸付近は地形が険阻だったようですが。これは後に孟達が言ってますね。
その辺りは
>>521 >>524を参照してください。
で、関羽が襄陽付近を維持出来なければ、魏の動揺を有効利用出来ないのです。これも書き込み済みですが。
>>560 江陵西陵間の距離は直線で約100km、江陵樊城間の半分じゃないか?
564 :
562:2005/09/04(日) 00:13:12
>>560 筑摩の地図だと江陵〜西陵のほうが近く見えるけどこれって出鱈目?
>>560 >同じ荊州の中でも江陵〜西陵なんかは江陵〜ハン城よりも遠い。
>ハッキリ言って江陵〜ハン城の距離は君が言ってる様な
>問題のある距離じゃない。
出鱈目もいいとこ。
何を根拠に言ってるのか不思議。
さすがにこれはやばいよ。
西陵であれば水運を利用できる事も度外視の様だし。
これで地図をろくに見てないってのはあながち間違いでもなさそう。
>>562 一本だけなら脆弱というのはどうだろうか、
問題はその一本がどういう質なのか?と言う事だと思うが、
数の多い少ないでなく、使えるか使えないかの方が大きい。
だから劉封が援軍を断ったのは険阻さが理由ではないと言ってるのだが、
関羽がハン城を落せば関羽の兵力にも余裕が出来るので、
維持出来る可能性も当然出てくると思われる。
>>563、565
筑摩の地図でも江陵〜西陵の方が遠いけど?
>>560 距離については
>>563氏の通りでは?
樊城を落として、そんな余裕が生まれるでしょうか?
元々兵站が不足している上、実際には樊城が落ちる以前に徐晃が到着しており、その後も魏側は続々と援軍が見込まれる訳です。
本拠地(江陵)の兵力は空で、江陵から襄・樊間に中継根拠地となりうる地点も無い(兵站が伸びきってる)関羽側が、現在は兵力に不足はあっても、今後の大規模増兵が見込め、兵站にも不安が少ない(新野・宛・さらに広大な後背地)魏に対してね。?
>>563、565
書き終わった後で気付いた、そっちの西陵じゃあない、
江夏郡の方の西陵だ。
>>567 連絡線の意味が分かってるのかなぁ・・・。
一本だけでは遮断された場合、代替が利かないので脆弱だと言う意味なんだけど。
その上、険阻であればもっとリスクが高いって事なんだけど。
ちくまの地図見たけど、やっぱ江陵〜西陵の方が半分くらい短いな。
何をみたのかな。
>>567 >関羽がハン城を落せば関羽の兵力にも余裕が出来るので、
>維持出来る可能性も当然出てくると思われる。
荊州が堕ちる可能性は全く度外視で楽観的な推論では?
そうなれば魏も呉も反攻、荊州の奪取を試みるのは明白に思えるんだが。
だいいち、関羽の戦力で樊城や襄陽を守って、更に江陵や公安を守るわけ?
糜芳や士仁とは険悪で、積極的支援を得られなかったというのに?
>>568 関羽は包囲網に兵を割き、徐晃との戦いで動かせた兵力は5000だけだった、
兵站の不足は呉書にのみ書かれていること、しかも開戦の口実として書かれている事、
軍需物資の輸送しているのは蜀書には書かれており、
関羽の軍が兵力不足だったという話は魏書にも無く、信憑性が薄い。
ハン城については
>>561に書いた。
通常行軍で半月でいける距離に中継地点なんかいらんさ、
それでも当陽とかがあるけど。
関羽にハン城が落された場合、魏にそれほどの余裕があるかね。
>>561 落ちる寸前だったのは樊城で襄陽については定かではなかったよね?
襄陽を包囲していたとはいえ徐晃の軍は健在であり樊城の包囲は解けている。
この状況下では例え後方が安定していても襄陽を落とすのは厳しいのではないかな。
>>570 蜀が上庸を抑えてるのに、どうやって連絡線を断つんだよ。
だから援軍を断った理由に険阻さは理由になっていない、
つまり険阻さは援軍にはさほど問題ではなかったという事だろ。
地図のついては
>>569
漢水を使うにしても準備が必要でしょう
黄河の津みたく大量の船が用意されてるわけでもなさそうだし
>>571 ハン城を落せば兵力に余裕が出来るのは事実、
まあハン城を落した時点で魏が反攻に転じれるかは不明、
呉に関しては
>>561へ
>>551>>552 ぜんぜん不確定要素じゃないよ。
侯音の乱にしろ、中原の賊の蜂起にしろ、関羽と気脈を通じてのもの。
つまり全く不確定要素じゃないばかりか、関羽の計算内の出来事。
>>573 襄陽を遮断してた、ってのは関羽の軍は徐晃に破れて江陵に逃げ帰っただけじゃない、
と言いたいだけで、勝負は徐晃が来るまでにハン城を落せるかだろうと思ってる。
>572
関羽の指揮下の荊州軍の総数が多くて5万前後ってトコだから、襄・樊を奪ってさらに維持し魏と対峙するには明らかに不足では?
実際に上庸に援軍を要請している訳だし。
>>572 >通常行軍で半月でいける距離に中継地点なんかいらんさ、
>それでも当陽とかがあるけど。
補給の重要性も他の戦例も全く理解していない発言に呆れた。
物資の必要量や要される輸送力、一日単位の消費量、全く考えた事もない
のでは?
>>576 >ハン城を落せば兵力に余裕が出来るのは事実、
何故断言できるわけ?
たとえ勝利しても戦域が拡大する以上、余裕が生まれる保障なんてないんだが?
戦果の維持がどれだけ難しいかを理解してない。
>まあハン城を落した時点で魏が反攻に転じれるかは不明
徐晃にその増援、更に豫州やエン州、揚州の戦力も動員されてるけど?
で、いつまでも呉は無視すると。
ところで、陸抗がしたように河を堰き止めたのち決壊させ水浸しにして、
徐晃の進軍を阻むとか出来なかったものか
>574
ゲームじゃないから、上庸さえ押さえてれば遮断されない、ってものではない。
地形が険阻であれば、不確定要素が大きくなり、連絡線としてはやっぱり脆弱。
劉封らの件とは別の話です。これは。
>>577 >侯音の乱にしろ、中原の賊の蜂起にしろ、関羽と気脈を通じてのもの。
は? それは漫画か何かの話か?
侯音と関羽との繋がりは不明。叛乱の時期もわかっていないのでは?
蜂起した賊は関羽の戦果に応じたもので、それを関羽が追認したもの。
>つまり全く不確定要素じゃないばかりか、関羽の計算内の出来事。
計算内?
根拠もなしに断言は困る。妄想もほどほどに。
>>579 むしろ魏のほうが荊北の維持が難しくなる。
曹操は内乱の対応に追われながら遷都を実行するかどうかで悩むことになる。
>584
実際には遷都は行われてないし、内乱と言うほどのものじゃないでしょう。
所詮は野盗上がりの横行に過ぎない。
>>583 事前か事後かは不明だが侯音が関羽と手を組んだって話は武帝紀の裴注にあるよ
>>583 マジ呆れました。
魏書と蜀書を読んでから来て下さい。
あなたの無知を根拠に罵倒三昧とはもはや脱力する以外にありません。
>>581 徐晃との戦いは漢水が決壊して水が引いた後の話だから…
>>584 ふうん……で、呉は?
そうやって都合のいい推測に終始して、呉の動向は最期まで無視するの?
関羽の印綬を受けて私党として蜂起
これのどこが追認なんだ?
>586
曹マン伝じゃん。これこそ信憑性が・・・・。
つまり、史料を都合よく解釈していたのは
>>583だったわけだ
>>591 元々野盗で河南地域を荒らしてた連中が、関羽と結んだだけでしょ。
どっちもかわらん様に思えるけどね……
関羽を持ち上げてる方も不確定要素をアテにしすぎてるんだし
597 :
586:2005/09/04(日) 01:21:07
>>595 だから追認だってか。
都合のいい解釈ってヤツだな。
しかも、以前から荒らし回ってたのならますます確定要素、つまり計算内だな。
>>598 そりゃ盗賊だからな
関羽の命令で盗賊になったと思ってたのか?
だが
>>587の意見だと、「呉書」はどうでもいいんだろうか?
まさか、「呉書」は信用ならんとか、呉は卑怯、とかの一言で片付ける気じゃ・・・
関羽擁護派は都合の悪い部分にはレスしてないな。
例えば
>>557に対してとか、呉に関する事とか。
ちょいと、都合の良い解釈に流れすぎかと。
否定(?)派は、悲観主義的な部分が強いかとも思うけど、軍事って期待で計画立てちゃいかんからなぁ。
>>599 素晴らしい論理のすり替えだな。
関羽の計算の内かどうか、確定要素か不確定要素かどうかの話をしてるんだが。
>>601 俺も気になってた。
前々から一箇所にレスして後は知らんぷり、ってレスが多くて参った。
いちいち答えても、安直な一行レスとか、呆然とさせられる。
臭いものにはフタって姿勢だとしたら、初めから話し合いの余地なんてないよ
>>600 >>583に関わる記述があるのは魏書と蜀書だからそう書いただけ。
まあ、君もわかってて言ってるんだろうけどさ。
>598,602
元々曹操領内で盗賊家業やってた連中が反曹陣営になびくのは自然なこと。
ただこれを計画とか確定要素以前の事で、これを戦略の選択肢に入れるのは無理かと。
つまり、味方になってくれたとしても、連携が取れるかどうかが不明だし、期待通り動いてくれるかどうかも分からない。
いつ裏切るかも分からない。
こんなのを過大に評価することはできないでしょ。
>>602 それは関羽の計算の内といってもいいだろ。
否定してるのは漏れじゃないし。
既出かもしれんが彼らは大した存在ではないぞ。
>>606 じゃ、関羽は大した存在では無い連中に期待して出兵したってことだね。
>>605 実際に思い通りに動いているし、敵地の協力する勢力と手を組むというのは普通によく用いられる戦略。
それを不確定要素として切り捨てるのは無理があるよ。
>>607 いや関羽が盗賊に期待して兵を出したなんて事はないだろ。
基本的には漢中を抑えて魏を圧迫していたし曹操は帰路にあった。
侯音の乱は鎮圧されたとはいえ荊北は不安定。
こういった諸々の要素があっての出兵。
>>609 もし盗賊に印綬を与えたことで中原が震動したのなら
それを討伐したものの名は残る可能性が高く、他の伝でも触れられるだろう。
蒋済伝を見ても曹操の遷都を諌める時に彼らの話は出てこない。
中原が震動したのは関羽の全ての行動に掛かってると見るべき。
分かってるようだけど紀伝体においては一つの記述ばかりみても全体像は見えてこない。
盗賊たちの活動自体に震動したのではなく
盗賊たちの背後に関羽がいるという事実に震動したわけだな
そして盗賊たちの話が他に特に出てこないところを見ると
さっくり鎮圧されたか関羽の撤退と同時に逃げ散ったか
いずれにしても大した損害を与えることはできなかったんだろう
>>611 徐晃にしろ、殷署や朱蓋、徐商や呂建にしろ、摩陂まで進駐した曹操にしろ、
その進軍を阻まれたって形跡が全くないし、たしかに大きな影響はなかった感じ
関羽の北上にあやかって良い目を見たい連中が、オイタをし始めた為に治安が悪くなった。
というだけの事なんだよな>盗賊
で、中原が振動したのはそんなこそ泥連中の事でじゃなくて、関羽が北上したって事だと。
ついこの前に夏候淵がやられて、曹仁が包囲されてしまったら「「またか」」とか思うだろう。
曹操の狼狽っぷりは両腕を失う事の恐怖で、他の連中が意外にクールなのは、
夏候淵の代わりは張コウがちゃんと勤めてるし、曹仁だってヤバくても持ちこたえてた訳で。
曹仁が死んでたら、曹家政権が倒れるのが、1世代位、早くなってたかな。
まぁ、その位の変化じゃないかね。魏と蜀の国力が、戦争一発でひっくり返るでも無し。
曹操が許から都を遷すという暴挙をやってたら、やらせてたら、関羽の勝利は確定だったろう。
内地に遷都するからには、前線の兵を引き上げて、戦線を後退させる必要があるから。
曹操は、名臣が側に居たから、遷都するなんて事をやらずに済んだ。
魏国万歳。
なんか盗賊って語に誤解があるようで…
王朝に反抗するのが盗賊、王朝に帰伏するのが将軍と
その場に応じて呼び名が変わってるだけだよ
呼び名は違えど実態は同じ
当時は後漢王朝の領民支配が形骸化して領民のほとんどが豪族に流れている
その豪族が武装したのが件の盗賊だの将軍だのと呼ばれてる連中
太守所属の正規兵なんかより、はるか多数の軍事力を有していたから
一介の刺史や太守の反乱よりも盗賊の反乱の方が影響力が大きかった
>>580 関羽が実際にハン城に攻撃を仕掛けてる以上、
補給路については問題ない。
それに君は当陽を挙げてるのが見えない?他にも宣城・中慮とかある。
とはいえ君はハン城〜江陵の距離を絶対視しすぎだな、
そんなに重要性を知っているなら、関羽の軍にどれだけの兵糧が必要で、
一日にどれだけの兵糧・輸送力が必須で、今挙げた中継地点ではどれだけ足りないのか、
どう足りないのか、そういうのを書いて見せてくれ。
ハン城の包囲陣で関羽は大分兵力を拘束されてる訳だが、
ハン城が落ちてしまえばその兵力を回収出来る、
支配域の拡大もそれほど拡大する訳じゃない、
上庸との連携が見込めるなら戦線の維持も期待できる。
ハン城を落した後、と書いてるし、
呉についても士仁、麋芳の態度がものをいうと書いている。
>>582 ゲームじゃないんだから、兵を出せば遮断出来る、ってものではない。
蜀〜上庸への漢水を使って辿るルートを、どうやって遮断するのかな?
魏からすればそんな奥地に、強行軍を出して遮断するのか、
地形が険阻であれば敵の侵攻が困難でもあるという事なんだけど、
それに、、>だから援軍を断った理由に険阻さは理由になっていない、
と散々言ってる訳だが、劉封の件を別にするのはいかがなものだろう。
ケチな群盗にすぎなかったのか見方を変えれば将軍と呼ばれるような連中だったのかは不明だが
関羽北上のとき暴れ回ったのが大勢に影響を与えられるような勢力でなかったことは確か
>616
当陽とか宣城は軍事的な中継点として機能していたかどうか不明。
と言うより、ただ単に、劉備が新野から逃走する際、曹操軍に追いつかれた場所、って事でちくまが地図に乗っけた程度の場所。
地図に載ってれば、中継地になる、ってもんではない。
数字的なものは挙げようが無い。なんせ関羽軍の兵力が不明なんだから。
ただ、劉備がかつて江陵を孫権から借りたいと望んだ理由は、湖南四郡のみの生産力では配下将兵を養えない、と言う理由が大きかった。
その当事の劉備の兵力と関羽の兵力は若干関羽の方が少ない程度だろうが、関羽の頃は湖南諸郡は半減している点、生産力は劉備の頃より厳しかったはず。
その上、降伏した魏兵も養わなければならん。
そういった状況下では補給量そのものに問題が生じた可能性が高く、しかも江陵からの距離がそれなりにある以上、兵站全体として厳しいかったんじゃないか、と言う方が自然でしょう。
>616
何度も言ってるんだけど、益州から上庸間のルートの問題点はその険阻云々だけではなく、漢水沿い一本に委ねるしかない、と言う点。
その道がどう言った理由にしろ、不都合になった場合のリスクが高すぎると言う事。特に河沿いってのはね。
そういう意味。
>>617 大勢に影響がない程度の勢力だとどうして分かります?確かに?
まあ影響力不明ってのが妥当だと思いますけどね
満寵発言の解釈によって揺れる部分はあるかも知れないけどね
>>613 曹操の場合、身内に対する感情が強いからね。
夏侯淵に続いて今度は曹仁が!?という意味の動揺は大きかったと思う。
このへんも劉備と対照的なんだよな。劉備は身内というか妻子に対する情が薄い。
625 :
624:2005/09/04(日) 11:55:36
魏将との交戦記録は十分条件にはなりえても必要条件ではないって意味ね
626 :
624:2005/09/04(日) 11:56:49
いや、実際には十分条件にさえならない場合もあるんだけど
イミワカンネ
628 :
624:2005/09/04(日) 12:23:00
魏将と交戦するかどうかは兵力や武装、戦場の地形などが関わってくる(戦術的要素)
交戦記録があれば十分な戦力があったことが推定できるが(十分条件)
戦力があっても必ずしも交戦するとは限らない(not必要条件)
荊州全域への影響はそれ以外の要素の方が大きくなってくるので(戦略的要素)
魏将と交戦しなかったからといって影響力がないとはいえない
実際には勝ち馬に乗るつもりで状況を見守ってる連中もいるから
樊城の状勢によっては後に続く者も出るかもしれない(出ないかもしれない)
戦術的要素と戦略的要素とを区別した方がいいよ、と
>>628 蜂起した群盗からみれば、たしかにそうなる。
しかし曹操側からすれば、たとえ蜂起した側に交戦の意志がなかったとしても、
蜂起勢力が近在する、というだけで進軍その他に影響がでる。状況によっては、
荊州に急行する前にこれらの群盗を片付けてからでないと危なくて先に進めない、
ということだってあるだろう。
しかし、
>>612 で挙げられた諸軍にはそういった影響が全くみられない。徐晃に
しろウ禁にしろ、後方を気にかけた形跡が全くない。
630 :
624:2005/09/04(日) 12:49:26
んー、それは戦術的問題ですよね
もともとは関羽の北上戦略の是非を問うていたんじゃないかな
北上戦略の一環として群盗と呼応した記述が見られるから話題がそっちに流れてるわけでしょ
632 :
624:2005/09/04(日) 13:15:27
よく戦略の失敗を戦術でカバーすることはできないと言いますが
これを応用すれば、
戦術的状況から戦略の妥当性を推し量ることはできないと言えると思います
633 :
624:2005/09/04(日) 13:17:18
群盗の存在が戦略にどう影響するのかということと
戦術面でどういう事実があったかということは別問題だということです
別問題ではないと思うが
実際に戦術レベルでの影響を与えられなかったのなら
群盗を用いるという関羽の戦略自体に破綻があったというしかない
635 :
624:2005/09/04(日) 13:32:13
実際に交戦が不可避であるほど戦力を抱えていたなら
戦略的にも影響が出ると推定されます(十分条件)
しかし兵力があっても100%交戦するとは限らない(not十分条件)
しかも兵力がない場合でも戦略的に影響力がないとは言えない(not必要条件)
戦略的重要性は戦力だけでは語れませんから
636 :
624:2005/09/04(日) 13:33:46
戦力の大きさは戦略的な影響力に比例しないと言えば分かりますか
>>624 記述が無ければ期待値は高まるけど…
仮に関羽が樊城の状勢によっては後に続く者も出るかもしれないと考えていたとしても
関羽の北上戦略の評価においては何の意味も無いんじゃないかな。
或いは他にも関羽の支党になると約束していた勢力があったとしても
実際に活動してない以上はやはり無意味と考える。
問題は史書に戦略的にも戦術的にもその重要性が残されてない事。
というか、群盗の存在は魏側の戦略にまったく影響を与えていないんだが。
639 :
624:2005/09/04(日) 13:58:16
>>637 盗賊が蜂起するのには彼らなりの計算があってするわけですよ
孤立するのが分かっていてわざわざ死に急ぐことはない
おそらく行動を起こすには至らないまでも彼らの決起に快哉を叫び、
暗に協力する者も多数あったでしょう
史書に記録されたのは氷山の一角に過ぎず、
水面下ではより大きな動き、連なりがあったとみるべきです
ただ、どれだけの影響力をもたらしたのかは不明ですよ
>>638 証明してください
>史書に記録されたのは氷山の一角に過ぎず、
>水面下ではより大きな動き、連なりがあったとみるべきです
証明してください
641 :
624:2005/09/04(日) 14:09:05
>>640 そういう言葉遊びは感心できないですね
河南・潁川から荊州にかけて民情不安になっていたことは数多くの記載があります
わざわざ例を挙げなくても蜀将ファンなら分かるはずなので省略しているのです
>>639=624
関羽がやった事は賊に印綬を渡したのであって蜂起させたわけではないよね?
それによって暗に協力する者がいたと考えるのは当然だけど
魏側の賊に対応する動きが残ってないし関羽とどれ程の連携をとったのかさえ記されていない以上
それらの動き、連なりは限定的だったと考えるべきでしょう。
もちろん可能性をいえばどんな考え方も不可能ではないですが…
>>639 魏は普通に荊州に援軍を送り込んでいる。そして逆に、群盗に対して軍を派遣した記述もない。
つまり、群盗の蜂起は魏軍を拘束していない。
644 :
624:2005/09/04(日) 14:22:43
えっと、私は盗賊集団と魏将との交戦記録が残っていない事実でもって
彼らの戦略的影響力を無視することができないと言ってるだけで
関羽の戦略を評価したいわけではないので……すまそん
そっから先は別の人におまかせです
645 :
624:2005/09/04(日) 14:27:47
>>643 記録がないというのは、事実がないことを意味しません
それどころか盗賊の蜂起を危惧する魏臣の発言が数多く残されています
戦略上影響がなければわざわざ言及することもなかったでしょう
また交戦しなかったことと、戦略上の影響力がないことは同じ意味ではありません
戦術面と戦略面とを分けて考えるべきことはすでに指摘した通りです
しかも曹操本軍が摩陂で関羽の別働隊を鎮圧したという記録もあります
群盗が蜂起した結果、魏はそれらへの鎮圧に軍を派遣するためにハンへの増援が遅れた、とか
出来なくなったとか言うのなら意味があったといえるが。そんな動きは魏には全く無い。
ハンへの援軍も、荊北各地で無視しえない勢力の群盗が跋扈していたというのなら到底すんなり
とはいかないはずだが、そんなこともない。(蜂起側に交戦する意志がなかった、と主張するが、
魏からすればそんなことは不明で、存在するだけで邪魔になる)
これらから判ることは、蜂起した勢力は実際には微々たるもので、魏の首脳陣からすればわざわざ
何か対処を施す必要も認められなかった程度のものとなる。
そして、現実に魏の政策・戦略になんの影響も与えられなかった勢力をアテにしたというのなら、
関羽の軍略には問題があったということ。
>>645 戦略的に影響がなかったから交戦しなかった(放置した-放置しても問題は生じない)。
>曹操本軍が摩陂で関羽の別働隊を鎮圧したという記録
この別働隊とやらは、関羽から分派した正規軍なんですか?それとも魏領内で蜂起した
勢力(本来の関羽本軍とは別もの)なんですか?
>>645 危惧する発言はあった、しかし魏の首脳陣は最終的には何かの対処はしないと決めた(そうしても問題はないと判断した)。
そして実際に問題は生じていない、荊州への援軍派遣に何かの齟齬が生じたこともない。
649 :
624:2005/09/04(日) 14:40:54
>群盗が蜂起した結果、魏はそれらへの鎮圧に軍を派遣するためにハンへの増援が遅れた、とか
>出来なくなったとか言うのなら意味があったといえるが。そんな動きは魏には全く無い。
記録がないというのは、事実がないということを意味しません
>>645 また優先順位からいって魏が樊城を真っ先に救おうとするのは当然ですから
放置されたからといって盗賊集団の影響力をなかったということはできません
>これらから判ることは、蜂起した勢力は実際には微々たるもので、魏の首脳陣からすればわざわざ
>何か対処を施す必要も認められなかった程度のものとなる。
戦力の小ささは戦略的影響力を否定するものではありません
>>635 >そして、現実に魏の政策・戦略になんの影響も与えられなかった勢力をアテにしたというのなら、
>関羽の軍略には問題があったということ。
アテにしたかどうか知りませんが、私は関羽の戦略を評価するわけではないので他の人とどうぞ
>戦略的に影響がなかったから交戦しなかった
とは限りません
>>635 >この別働隊とやらは、関羽から分派した正規軍なんですか?
不明です
おそらく現地勢力を節度するため関羽本隊からも別将が派遣されたのでは
>>649 逆じゃないか?たとえ少数でも戦略的に影響が大きいのなら、討伐軍を派遣するだろう。
どうして魏は鎮圧軍を送らなかったんだ?それは、蜂起の戦略的影響が小さかったから
の証明ではないのか?
651 :
624:2005/09/04(日) 14:45:31
同じことのくり返しになってきたようなのでしばらくromに戻ります
>>624 > 河南・潁川から荊州にかけて民情不安になっていたことは数多くの記載
> 盗賊の蜂起を危惧する魏臣の発言が数多く残されています
> 曹操本軍が摩陂で関羽の別働隊を鎮圧したという記録
無知を晒すようですがこれらの記述ってどこにあるか教えてもらえますか?
653 :
624:2005/09/04(日) 14:49:29
>>650 影響が大きいとは言っていません
実際に交戦するほど戦力が大きければ戦略にも影響力が出ると推定できますが(十分条件)
>>635 戦力が小さいからといって影響力がないとは言えないということです(not必要条件)
>>635 では失礼します
>>653 言ってるいることは理論上はそのとおりなんだが、今議題にあがっている関羽北上時の
群盗の蜂起に関していうのなら、その影響力が小さかったであろうことがこれまで挙げ
られたことでそうみなすことは出来るだろう。
「影響が大きいとはいっていない」といいつつ、影響が小さかったであろうことを当時の
状況を挙げて説明したら「影響力がないとはいえない」
結局、そちらの持論は蜂起勢力の影響は大きかったのか小さかったのか、それだけでも
はっきりしてからにしてくれ。
>>652 一番下のを探そうと摩陂で検索してみたけどそれらしいのは見当たらなかった。
657 :
652:2005/09/04(日) 17:08:24
>>656 それですね。ありがとうございます。
筑摩にも注がついてたけど気づきませんでした。
関羽が敗れたために群盗の蜂起が自然分解したんじゃないかね、
勢力を統合する指標(関羽)が無くなり、蜀の勢いが挫かれた状態では、
群盗は勢力を維持する事さえ大変かと。
>>656 ああ、よく分かった。
>>624はむじん信者か。あるいはむじん本人かなw
ほとんどの学者が衍字だとしている記述を根拠に
偉そうに情勢語っていたわけか。
語るに落ちるなw
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 18:39:05
総括
関 羽 の 事 は よ く 分 か ら な い
wはやめとけ
正しくても途端にお馬鹿にみえるから
662 :
624:2005/09/05(月) 05:39:04
批判と人格攻撃をごちゃまぜにしてませんか
>>654 >>620も私の発言です
>>659 >あるいはむじん本人かなw
正解です
>ほとんどの学者が衍字だとしている記述を根拠に 偉そうに情勢語っていたわけか。
それが衍字であるかどうかまでは知りませんよ
当初、
>>643さんより「群盗に対して軍を派遣した記述もない」という発言があったので
「記述はあるよ」と答えています
>>645 衍字だから記述がないのも同然だと主張するならば
それが確かに衍字であることを証明しなければなりません
立証責任は
>>643さんにあるわけですね
私自身は衍字である可能性は、まあ五分五分と見てますね
あなたは「ほとんどの学者が衍字だとしている」とおっしゃいますが
なぜ彼らが衍字だと主張しているのか、その根拠をごぞんじですか?
私は集解に引用された範囲(と廿二史箚記)でしか分からないのですが
盧弼説以外に説得力のあるものはありませんでした
663 :
624:2005/09/05(月) 05:54:12
>偉そうに情勢語っていたわけか。
あー、それに私は情勢そのものには踏み込んでないですよね
こういう事実を無視した中傷はやめてもらえませんかね
私の主張は
>>628と
>>636でほぼ尽くされてます
その点に対して異論がないようでしたらふたたびromに戻ります
それでは
>>662 あなたは「大きいとはいえない」「小さいとはいえない」ばかりではっきりしないんですよね。
>620ですら「影響力不明」。
こちらは当時の状況などから「小さかっただろう」といっているのです。それを否定するのなら
きちんと反論してください。戦略的にどうこういった挙句に「大きいか小さいかも不明」では議論
のもてあそびにしかなっていませんよ。
こちらはその「戦略的に」影響があったとは言えないと主張しているのですから。そちらも否定
するのなら「戦略的に」魏にどのような影響を多大に与えたのかを状況などから挙げてください。
ちなみに「動揺した」とか「魏臣の進言が」というのでは立証できませんよ。
動揺した結果どうなったか、を挙げないと結果にならないし、魏臣の進言とやらは結局上層部は
その意見を間違っているとして退けているのだから。
餅ついてマターリ汁!!!
662じゃないけど、
魏の人間が動揺していたという記述でもって、
一つの影響力の証明になるんじゃないのか?
実害状況が明確に記されて無くても
戦略上では揺動という効果が発生していることになる。
むじんが出てくると必ず変な流れになるんだよなあ。
ディベートごっこってか
相手を言い負かすことばっかりにやたら熱心になる奴だから。
で、精神的優位に立ったような捨て台詞を残して去っていくのも定番。
後にはギスギスしたスレだけが残されるとw
>>667 そういったレスも十分に空気を悪くしてると思うが
こーゆー時は餅ついて、
高翔が大将軍になったかどうか
をマターリ語るべし
読めないス
ではショウエンがなぜ大司馬になったかについて議論だ
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:52:49
エライ人は持論の証明よりも、真実の希求の方に、より力を割いて欲しいな。
一番権威の有る人が、周りの人のミスばっかり指摘してると、場がギスギスして誰も喋らなくなる。
誰も喋らなくなると、話が進まなくなる。
学会とかでならそれでも良いんだけど、ここは三国オタの吹き溜まりだからなぁ。
空気読んで欲しいかも。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:22:59
>>672 何がどう素晴らしくて大司馬になれたのか。
そもそも大司馬になってショウエン的には何か得したのか、権威や権限など違いがあったのか。
どうもわからん。
ただ間違いないのは、大司馬になると大将軍が空くんだよな。
蒋エンの後に大将軍に収まったのは王平だっけ?費イだっけ?
>>675 蜀書に記述があるのは費禕。
華陽国志にあるとおり高翔が大将軍になってたのなら、おそらく費禕の前。
後の可能性もあるけどこっちは少ないと思う。
王平は大将軍についてない。
>>666 その「動揺」が、関羽の北上(ハン城の危機)に対するものなのか、蜂起した群盗に対するものなのかでまた変わると思うけど。
動揺した魏が対処したのは関羽に対してであって、群盗に対してはロクに対策をとっていないのだから。
>>677 記録がないというのは、事実がないということを意味しません。
ロクに対策をとってないというならそれを証明してください。
よしんば群盗鎮圧のための目だった戦術行動がなかったとしても
それは群盗蜂起に戦略的な価値がなかったことを意味しません。
何度同じことを繰り返せば分かるんですか?
>>678 誰も討伐軍を送ろうという進言もしていなければ、討伐軍も送られていない。
そんな存在に戦略的価値?それこそ、そちらが証明してくださいよ。
>>678 群盗に対する目立った戦略行動もないでしょ?
王平は漢中都督か。
しかし、高翔はたいした功績の記述も無いばかりか負けが目立つのに、
何で大将軍になれたんだか。高家の評判なんてのも聞いたこと無い。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 22:11:02
俺たちが聞いたことないだけで、蜀ではかなりハイクラスだったのかもしれん。
胡済や閻宇なんかも似たことが言えるよな。
>>678 は、はやく放棄勢力の影響が大きかったことを証明してくれ。
まさか、「私は蜂起勢力の影響が大きかったなんて言っていない。理論上小さかったとは言えない、といっただけだ」
なんて言うつもりはないよな。
>>673じゃないけどなんか嫌な空気だね
どうせ結論でないし、どちらも折れるとは思えんし、いい加減冗長になってる
だけの様に思えてならないな
686 :
678:2005/09/06(火) 00:04:03
>ないことの証明を迫るのは〇〇だぞ。
全くその通りですね。だからこそ「ロクに対策をとってない」などと
軽々しく断言すべきでないと思いますよ
>>679 >そんな存在に戦略的価値?それこそ、そちらが証明してくださいよ。
>はやく放棄勢力の影響が大きかったことを証明してくれ。
証明するまでもありませんよ。
史書のあちこちに脅威を語る言葉が残っています。
戦略的次元で威圧効果があったことはあまりに明白です
>>680>>684 >群盗に対する目立った戦略行動もないでしょ?
何度説明したら「戦術レベルの行動」と「戦略レベルの行動」を
区別してもらえるのでしょうか
>>681 皆さん私のサイトでも読んでもう少し勉強してほしいですね
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 00:09:19
劉把です。
>>686 どの敵に向かうか、というのは立派に戦略だと思いますが。
魏は戦略としてハン城への援軍を送り、蜂起勢力への鎮圧軍を出さなかった。
あなたこそ戦術を拡大しすぎていませんか?
それから、
>史書のあちこちに脅威を語る言葉が残っています
その脅威が関羽に対するものなのか、蜂起勢力に対するものなのかとの指摘も
なされていますが。読んでませんか?
そして、脅威だったのなら、どうして魏は鎮圧軍を送らなかったのですか?誰も
対案の進言しなかったのですか?
妄想ってし始めたらキリ無いよな
史書に残ってることは確かな事実(稀に虚実)
あったかもしれないことは、仮にあったとしても史実より小さいことだったから残ってない
いままでROMってた素人の私はこう思うわけですよ
何で皆して蜂起という言葉を使うんだろう?
むじん氏まで多用してるし…
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:30:12
結論
ショウエンは大司馬就任により事実上権力を失った。
群盗に対する最も効果的な戦略は関羽を討つ事だろうから、
魏が群盗に対して戦略行為を行っていないと断ずるのもどうだろう。
群盗は蜀の勢いに乗った連中で、関羽が印綬を授ける等して手なずけてる存在、
そこで関羽が敗れれば蜀の勢いは一気に落ちるし、指導者的存在も見当たらない彼等は
旗を失えば所詮烏合の衆に過ぎず、勢力を維持できずに自壊してもおかしくない、
つまり魏は群盗に対して最高の戦略と採ってる言えるんじゃないだろうか。
つまり、全ての勢力の標的が関羽に向いていたわけだな。
>>692 それは群盗の影響力の小ささを物語っているのでは?
もし関羽が樊城を落とせれば影響力は飛躍的に上がったかもしれないけど…
ただ群盗の蜂起と蜀の勢いの因果関係は不明だし
孫狼らの勢力は烏合の衆と呼ぶには統率が取れていると思う。
蜀の大将軍はどのくらい権力があったのかねぇ?
諸葛亮が北征していないときは軍を支配できたのかな。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:48:55
蜀や後漢末では、丞相と大将軍は同時にはいない。
つまり丞相諸葛亮や曹操は大将軍を兼ねているようなものだったと考えられる。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:58:29
>>696 結構あると思うぞ。
北征してないとかそういうの関係なく軍事権は当然のようにあっただろうな。
劉禅は無能だったから、諸葛亮の進言にYESかNOしか言うぐらいで…
君主の劉禅より権限はあったと思う。
大将軍位が左右に分かれてからは
また位置づけが変わっただろうな。
大将軍は左右になんて分かれてないよ。
少なくとも、
蜀で大将軍を左右に分けたことを証する記述は史書に見えない。
「右大将軍」閻宇のことを言っているのなら、姜維には左が付いていないし、左右分置を示唆する記録もないので、あくまでも本質は右将軍であり、「鎮西大将軍」のような「諸大将軍」の一つだと見るべきだろう。
>>689 >史書に残ってることは確かな事実(稀に虚実)
>あったかもしれないことは、仮にあったとしても史実より小さいことだったから残ってない
↑
正史厨ってこんなレベルなの?
「史実」の意味すら分かってないの?
素人のロムっていってるじゃん
むじん氏ってレスも読まずに脊髄反射するほどの厨なの?
自称「素人のロム」は、
なんで相手をオートで特定して厨呼ばわりする程必死なんだ?
むじんは厨だろ
まぁ。正直、氏が来るまでは極めて平穏に、馬鹿話が盛り上がっていた訳だが。
自分が勝てない議論はスルーして
確実に勝てそうな素人を相手に攻撃する
戦略的には正しいのかも知んない関羽擁護厨(含むじん
個人叩きイラネ
問題は、なぜショウエンが大司馬に祭り上げられたか、だ。
病気で軍務ができなくなっていたのか(そう簡単に降格はできないので名誉職に祭り上げた)、
ヒイらとの権力闘争に負けて軍務から遠ざけられたのか。
また、ショウエン大司馬就任からヒイ大将軍就任までにはタイムラグがあるが、これはどういうことだろうか。
>>710 > ショウエン大司馬就任からヒイ大将軍就任までにはタイムラグがあるが、これはどういうことだろうか。
高翔の出番だ!
>>711 なるほど。
だとすると、ショウエンは大司馬になってからは、軍の指揮権は大将軍の高翔、ヒイに譲っていた(奪われていた?)ことになるのかな。
実際、魏の侵攻に対処していたのは大将軍ヒイだし。
>>712 違う違う。
なんか誤解してないか?
蔣琬が大司馬になったのは幕府を開いた翌年(239)。
「戦いの準備を整え機を見て攻め入よ」との詔を受けて幕府を開いたわけだから、
普通により権限を強化したと取るべき。
で、病を得るなど色々あって244年、蔣琬が漢中から涪に下がり、
費禕が大将軍に就任→曹爽の来寇という時系列。
>>713 権限強化とヒイの大将軍就任は完全に矛盾するけど、どう思う?
軍は一つしかないんだから、大司馬がいるのに大将軍を置くのは片方あるいは双方の軍権が制限されたということだ。
それとも、こう?
ショウエン大司馬(この時点では権威付けのため)→病気で(?)軍務不可→ヒイ大将軍(ここでショウエン軍権を失う)
高翔を入れると、また変わってくるな。
>>714 だから時期のズレを考えなさいよ。
あと高翔が大将軍となったと言うのは確定事項じゃないから。
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 11:50:28
さてと久しぶりにキッチリ中央集権化を果たしてる俺様が来ましたよ
蜀は諸葛亮を頂点として中央集権体制がキッチリ構築されていた。
そこにちょっかい出したのは劉禅であり、そこから蜀の権力構造が迷走を始めている。
つまり劉禅が蜀を滅ぼした元凶。
憶測乙
>>716 序列で言えば大司馬>大将軍で問題ないでしょ?
大将軍が大司馬に昇進してその下にいた者が大将軍に昇進したら大司馬の権限が削られるって考えはどうよ?
それに239年から244年の間は大将軍は空位だった可能性だって十分にあるんだよ?
何か問題あるの?
>714
蔣琬政権は費禕との連立政権的性格が強いし、蔣琬の次は費禕ってのは諸葛亮の遺言から確定路線だよね。
だから、蔣琬・費禕政権の中で蔣琬が病気になったので、費禕を大将軍にして事実上、政権トップにしたってだけじゃない?
一面では権限が削られたって取れるけど、蔣琬の職務遂行が困難になったんで費禕が替わったと言う方がいいと思う。
高翔については○○大将軍の可能性もあると思うけど。239年〜243年の間に高翔が(費禕のような)大将軍になった可能性もあるけど。
722 :
むじん:2005/09/14(水) 02:34:57
あげるよー
いらん
光栄三国志の理不尽な能力について語れ16
が荒れてる時にageんな。
本人じゃないとは思うが。要らんことするな。
お前も落ち着け
いるね。こういう文句つける奴
727 :
722:2005/09/14(水) 11:09:15
そりゃすまんかった
後主伝「蒋エンが亡くなったので劉禅は自ら国事をみることとなった」という記述があるから
費イに蒋エンほどの権力があったとは思えないけど
まぁ、費イじゃ不安だったんだろうな。
何か姜維も含めて、従わない奴が多いし。
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 11:41:21
皇帝が国事をみない状態が続いていた方が異常。
それまでは若かったとはいえ。
諸葛亮死亡後も続いていた、劉禅傀儡状態から、やっと抜け出したということでは。
やはりショウエンの大司馬就任はクサい。劉禅による逆クーデターの布石だろうか。
ヒイヒイ言わしてやりますよ
ヒィー!
>>730 ところが、現実には中国では前漢の後期から間に例外(王蒙や光武帝)を挟んで後漢の末期まで、
ずっと皇帝は飾りで外戚やらが実権を握って政治を執っていました。
献帝と曹操や、劉禅と諸葛亮・蒋エンの関係は、実は漢王朝における伝統的な君臣関係なのでした。
なにせ、二百年以上もそうやって続けてきたわけだからな。
実権を行使できる強い皇帝でも、
取り巻きや派閥の声を無視できなかったしな。
南郡の高軌って高翔の子供か親戚なんだろうな
陳裕の親父が陳祗で、呂雅の親父が呂乂か・・・
>>735 高翔が南郡出身だし、たぶん同族だろうね。
高軌って羅憲に推挙された人物だけど、同じく推挙された中に蜀郡の杜軫が
いるんだけど、これもやはり同じ蜀郡出身の杜瓊と同族なのかな。
面子をみると、諸葛亮や費イの孫やら、呂乂や陳祇の子やら、毛並みの良さ
そうな人物が揃ってる…
杜軫はたしか晋書に立伝されてたような気が・・・
どんな内容だったか全然覚えてないけど
>>737 すみません、仰るとおりでした。
父は杜雄で、杜軫って、潔癖な能吏だったんですかね。
いや謝ってくれても困るけどw
さっき中研院で検索してみたら結構いい感じの好漢だった
蜀が滅亡したとき太守をあらかじめどこかに逃がしといて、
魏の太守が来て、蜀の太守の行方を質問したら
「前任者は去就を弁えてるので、すぐ自分から出ていきました」と黙秘を貫いた
魏の太守が感心して杜軫を功曹にしようとしたのを辞退
あとで県令になって異民族にも慕われたみたいで
任期が切れて帰るとき、異民族が莫大な餞別をくれたのを、断ってる
各地の県令とか太守をつとめて抜群の成果をあげたらしい
>>739 そうみたいですね。
おおよそは読めましたが、けっこう腹の据わったところもある感じで、末期の蜀の
新たな発見をさせて貰いました。
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 03:07:13
南蛮貿易について語ろう
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 08:54:59
毒男が恋愛シミュレーションにはまったらおしまいだな。
アキバ行き決定だ( ^∀^)ゲラゲラ
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 19:23:58
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 03:24:58
ほしゅ
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/28(水) 21:45:56
淡路島
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 12:29:09
ほしゅ
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 17:12:40
淡路島
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/29(木) 21:48:12
ほしゅ
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/30(金) 00:00:10
淡路島
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/30(金) 00:04:31
ほしゅ
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/30(金) 05:27:01
淡路島
746は、どういう気持ちで淡路島と書き込んだんだろう…
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 12:28:44
ほしゅ
淡路島
淡路島
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 23:06:13
淡路島
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 23:24:23
淡路島
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:48:56
佐渡島
淡路島
隠岐島
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 05:11:28
オワフ島
ロードス島
エロマンガ島
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 17:20:45
淡路島
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 17:53:31
劉備は偽善者
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 18:16:26
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 18:54:20
馬謖が生きてたら、姜維と対立?協力?
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 20:47:18
グランエスタード島
ランゲルハンス島
>768
協力してギエンを排除(ショカツリョウの遺言だから)
その後、丞相バショク、大将軍キョウイで北伐に当たる
いや、そんな遺言ないから
あれ?五丈原から撤退する時、詳しく撤退の方法書いた中に
「あ、あとギエン殺しとけ」みたいなの無かったっけ?(汗
それともギエンが撤退を邪魔して討伐された方が正しいんだっけ?
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 04:08:53
2人とも生きてたら…でも阿斗が皇帝じゃ一緒か。
自害した5男が生きてれば。
>773
遺言は「殿軍は魏延。その次は姜維。撤退軍の総指揮は楊儀。魏延が言う事を聞けばそれで良し、聞かなきゃ放っておけ。」
姜維?
>>774 たぶん劉禅以外じゃ諸葛亮死後20年以上も国続かなかったよ
そして魏延が生きてたら蜀滅亡はもっと早くなってたとも思う
しかし俺はそれでも魏延が一番好きで劉禅が一番嫌いだ
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 14:08:20
姜維だけじゃどうにもならんか。
トップがバカだと下は辛いよな。
>775
あ、そーなんだ。ありがと
>777 ラッキーストライク!
お前は何を言っているんだ
やっぱりギエンは良いよね、って話かなっw
>>778 つか、トップが劉禅だったから姜維や諸葛亮が好き放題できたんだろ
劉ェみたいに強硬なタイプが皇帝だったら速攻で衝突して蜀はガタガタだよ
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/04(火) 02:01:33
好きに出来ても、モチベーションが…。
行く末は解っていたって事か。
諸葛亮とか姜維だけはモチベーション高かったみたいだけどね。
他の群臣はかなり投げやりだったっぽ。
蜀っていう国の体制そのものが問題だらけだったから、芯がなくなれば分解するしかねー罠。
劉禅も酷い悪政の記録はないし、度々善政も行ってたみたいではあるけど、
英傑の器じゃないってのは臣下の目から見ても明らかだったみたいだしねえ。
785 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 02:23:48
皆が劉備の為に戦い、国の為にはちょっと…って事かな。
劉備のためにっつーか、劉備政権という体制に勢いがあっただけだろ。
三国無双じゃあるまいし、「劉備様万歳!」で戦ってる奴なんてそうそういないって
てか、そんなに死にたいなら最前線で魏の兵士を一人でも刺し違えて死ねばいいじゃんよ>劉ェ
やれやれ
>>787 俺もちょっとだけ思った
枕を並べて討ち死にしようと主張するなら自分ひとりだけでも実行すればいいのに
廟堂で妻子を殺して自害したってことは拘束されてたわけでもないだろうし
自分の国が降伏することには反対だけど、
自分だけが勝手に突撃したら
これから降伏する自分の同胞達の立場が悪くなるだろう。
だから自殺して先祖に詫びることを選んだのではないかね。
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 02:27:07
その考えは2代目には無かったと
【ゴールデンレス】
∩ ・∀・)∩∩ ´∀`)∩ このレスを見た人はコピペでもいいので
〉 _ノ 〉 _ノ10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
ノ ノ ノ ノ ノ ノそうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
し´(_) し´(_) 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 21:18:31
よしよし、どーも水鏡が来ましたよ!
帰ってください
そんな寂しい事言うなよ
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 10:58:14
劉禅「おい、おまいら!!綿竹が落城しますた。宮中に集合しる!」
焦周「詳細キボーヌ」
劉禅「艾が成都に迫っていますが、何か?」
劉「魏軍キターーーーーーーーー」
黄晧「キターーーーーーーーーー」
郤正「魏軍ごときで騒ぐ奴は逝ってヨシ」
劉禅「オマエモナー」
焦周 --------終了-------
劉 --------再開-------
黄晧「再開すなDQNが!それより降伏文うpキボンヌ」
劉禅「出師の表うp」
郤正「↑誤爆?」
劉「決戦age」
焦周「ほらよ艾の降伏承諾の書>all」
黄晧「神降臨!!」
劉「決戦age」
劉禅「糞決戦ageんな!sageろ」
劉「決戦age」
郤正「決戦age厨uzeeeeeeeeeeee!!」
劉禅「決戦ageって言ってれば決戦できると思ってるヤシはDQN」
霍弋「イタイ皇帝がいるのはこの宮廷ですか?」
劉禅「氏ね」
焦周「むしろゐ`」
劉「決戦age」
黄晧「劉 、 必 死 だ な ( 藁 」
>>797 例の夷稜のコピペのアレンジか?結構上手いとは思ったが、なんつ〜かメンバーが地味なのがイタイな。
なんも面白くないんだが
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 03:14:56
ひげ殿―――!!!
劉関張三兄弟「俺達はゲイじゃない!!」
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 13:20:47
槍族はゲイでしょ。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 02:26:04
黄忠じゃけど。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 03:19:09
劉シ炎 楊儀 孫権
魏延を馬鹿にする奴は晩年ロクな目にあわんな。
お前らも今のうちに褒めとけよ
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 03:26:21
孔明「魏延のバーカバーカw」
魏延様は勇猛で右に並ぶ者なしでござる
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 15:56:37
右に並ぶものなしの意味を勉強してこい
前に出る者はいるのだな?
学問で俺の後ろに並ぶものなし!
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 00:52:03
俺の後ろに立つな!
・・・俺の野獣魂が、理性を失わせるぜ
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 00:56:41
孫乾の功績は語れないのか!?
>811
君はゴルゴか?
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 01:31:04
淡路島
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 01:52:40
あわび姫
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 02:13:39
どーも!馬良です!
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 00:22:09
ふうむ・・
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 01:49:55
魏延っていいよね。もったいない死に方をなさった…
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 03:04:45
馬超ですけども、無視ですか?
魏延に比べると馬超は信者も多くて恵まれてる感じなので殊更取り上げるに値しないな
魏延も信者多いぞ。
俺俺。
俺も俺も!
でもアンチもものすげー多いと思う
アンチ多いか?
魏延は最近では同情票を集めるポジションにあると思う。
正史が普及しつつあるからな
代わりに諸葛亮肚黒説が・・・
>821-822
俺も入れて!!w
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 02:20:04
厳顔じゃ
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 03:10:47
誰か魏延スレ作って!いろいろ教えてほしい
魏延スレいっぱいあるだろ。
まあ魏延についてちゃんと語ってたスレは過去ログにしかないけど。
それに自分で本読め、その方が絶対に面白いから。
人に聞くと、その人の主観や妄想が混ざるから、
それを鵜呑みにするのはあまり良くないよ。
判断がつくならいいけど、教えて厨みたいな人には危険。
特に魏延は解釈割れるからなぁ。
好きなら自分で調べるが上策。
でも、ちゃんと語れる魏延スレ欲しいよね。
まともに続いてたスレはアンチっぽいのが沸いた後
「アレルギー性魏延」なんて名前にかえられてるし
むじんさんはHP閉鎖しちゃったんですか?
移転したみたいよ
まぁ、魏延のように独自の戦略展開を構想出来る優秀な副将がいた事は孔明にとっては幸福だったろうな。
蜀においてこのような関係が成立するのは、孔明&魏延の後には…姜維&張翼くらい?(苦笑
姜維にこそ諸葛亮が必要だったと思うが
諸葛亮と魏延は、作戦行動においては蜀中最高のコンビです。
意見が対立しても魏延は任された仕事は忠実に遂行しました。
魏延…健気な子…( ;_;)ウッウッ
>>833 必要だったかもしれんが、魏の防衛体制が整いきった姜維の時代では、
諸葛亮でも有効な戦略が立てられたかは微妙に思える。
長安から天水郡辺りまでの地域への直接的な侵攻は、かなり難しくなってるしな。
一番良いのは、第一次北伐の時に、諸葛亮の元に最盛期の姜維がいる事だろう。
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:49:55
蜀の中で
姜維だけは嫌いになれないなあ
最もアンチの多いのが諸葛亮と姜維だと思ってたけど、
最近冷静な人が増えておじさん嬉しいよ。
諸葛亮や姜維は好きになれね
別に貶める気は無いけれど。人物の傾向的に苦手。
冷静になれとか言われるのかな。
確かに諸葛亮とか姜維とかは、昔に比べて極端なアンチはかなり減ったように思えるな。
>>840 アンチってのは、嫌いってだけでその能力や功績まで不当に貶めようとする人じゃないか?
嫌いってだけならアンチ呼ばわりはされないと思う。
>>840 チミぐらいなら全く問題は無い。むしろ善良な部類。
嫌いなら嫌いでいいんだよ。
問題なのは841の言うように、貶めることだけにやたら熱心な人。
ああいう人の原動力はなんなんだろうと良く思うよ。
大抵一人で粘着してるだけだし。
アンチってのは、人物そのものより
信者に対して沸くもんだ。
根拠の無い部分についての過剰マンセーとか
「姜維>>>>>越えられない壁>>>○○」
みたいな主旨の主張に対する嫌悪感から、
アンチになる率が高い印象。
あとやっぱ、演義で正史以上に引き立てられてたりすると
嫌悪感もたれやすいよね。
他の人物が踏み台みたいな扱いになってる事も多いし。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:50:38
姜維好き
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:55:03
>>842 一番該当するのが髭の人になりそうだな。どうりで最近アンチが多いわけだ。
846 :
845:2005/10/16(日) 02:56:07
まあアンチってのは他に楽しみのない可哀相な人達なんだから、生暖かく見守ってやろうよ。
>>834 日頃から諸葛亮への不満を方々へ言い触らしたり、臆病だと言ったり、
最高のコンビとは言えないな。
不満はあるけど命令は守る。
信用しきれないけどこいつしかいない。
そんな印象の2人でした。
ワロス
そう考えると少年漫画の世界だな。
>>848 個人的な感情を職務に持ち込まない
これぞプロフェッショナルということだ
調停役の費イあたりの存在も大きいかもしれんが
これぞプロフェッショナルと言うのはどうかな。
日常孔明への不満を方々に話すというのはまずい。
例えば野球でもサッカーでも、チームの中心選手が首脳陣やチームメイトを批判すると雰囲気が悪くなりチームは瓦解する。
孔明死後に魏延に味方する奴がいなかったのも、そのあたりに原因があったのであろう。
孔明への不満っていうのもあるけど、
要するに軍事についての考え方が違ってたという側面もあるし
批判の声をあげるのも、一理あると思うけどなぁ。
あと、諸葛亮死後に関しても、
成都に向かう途中まで、魏延側が軍隊を維持出来ていた事を考えれば
前線の指揮官らの中には魏延側についていた者も多かったはず。
>>854 孔明へ直接意見や批判を述べるのであれば、勿論問題は無い。
それを臆病だのと周りに言い触らすのは良くない。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 04:25:28
趙雲の話題がでませんが?
趙雲は な ん と な く 凄い人です
趙雲は な ん と な く いい人です
趙雲は な ん と な く 強い人です
趙雲ねえ……
趙雲と言えば諸葛亮の南征に同行したのかな?
将軍号などの変遷から同行したようにも取れるけど、そうでないと取ることも可能なんだよな。
どっちだろう?
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 04:08:53
子龍
姜維の凄かった所を挙げてください。
北伐への意欲
政治能力の無さ
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 11:31:31
姜維って、外様から短期間で最高位に登り詰めてるのが凄いぞ。
馬超
関羽>馬超>∞>>姜維
関羽>馬超=町費>∞>劉備>姜維
関羽>馬超=町費=義援>∞>劉備>姜維>あほ様
関羽?
関羽>馬超=町費=義援>趙雲>劉備>姜維>あほ様
>>867 漫画ではそうだね
でも降伏から約25年は別に短期間でもないぞ。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 20:33:00
姜維のことなら十分短いと思うよ
年齢やキャリアからみれば、宗預や張翼、廖化あたりをぶっちぎった出世じゃないか。
張翼や廖化あたりが競争相手となるならば、十分「人がいない」で成立しちゃうけどね
一応姜維は当事では軍事・政治・人脈(攻勢系派閥)の能力全部を備えた人物に見えていたんだろう
寥化・張翼が人物じゃない……どういう認識だ?
廖化は・・・
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 22:57:45
イメージだけだが
姜維は超イケメンって感じがする
姜維の官職の変遷
魏(〜27歳)
天水郡上計掾→雍州従事→中郎
蜀
228年(27歳)倉曹掾・奉義将軍・東陽亭侯
230年(29歳)中監軍・征西将軍・東陽亭侯
234年(33歳)右監軍・輔漢将軍・平襄侯
238年(37歳)大司馬司馬・輔漢将軍・平襄侯
243年(42歳)大司馬司馬・鎮西大将軍・領涼州刺史・平襄侯
248年(47歳)録尚書事・衛将軍・領涼州刺史・平襄侯
254年(53歳)督中外軍事・録尚書事・衛将軍・領涼州刺史・平襄侯
256年春(55歳)督中外軍事・録尚書事・大将軍・領涼州刺史・平襄侯
256年冬(55歳)督中外軍事・録尚書事・前将軍行大将軍事・領涼州刺史・平襄侯
258年(57歳)督中外軍事・録尚書事・大将軍・領涼州刺史・平襄侯
他の人物が、どのような早さで出世していったかはよく把握してないから、どうだとはっきりは言えないな。
ただ、
>>874が言ってる様に、宗預とか廖化とか、あとは董厥とか樊建とかもぶっちぎってると思うよ。
まあ、
>>880は、姜維の出世で議論してるから、あったら多少役に立つかなと思って投下しただけで、
俺自身は議論に参加してたわけじゃないけどね。
姜維の早い出世は涼州とのコネクションじゃねーの?
馬超がすぐに関羽あたりと列んだみたく。
あと、外様優遇の慣習とか。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:39:32
外様を優遇するのと、外様に軍事権をゆだねるのとは意味が違いすぎるよ
んじゃあ、孔明得意のエキセントリックな人事か?
蜀に従って、最初の仕事が虎歩(歩兵の精鋭部隊)の訓練
姜維はあんまり活躍が見られないからなー
初めは軍政家だったしなあ。
えらい勢いで出世はしてたけど。
蜀
228年(27歳)倉曹掾・奉義将軍・東陽亭侯
230年(29歳)中監軍・征西将軍・東陽亭侯
234年(33歳)右監軍・輔漢将軍・平襄侯
238年(37歳)大司馬司馬・輔漢将軍・平襄侯
243年(42歳)大司馬司馬・鎮西大将軍・領涼州刺史・平襄侯
248年(47歳)録尚書事・衛将軍・領涼州刺史・平襄侯
254年(53歳)督中外軍事・録尚書事・衛将軍・領涼州刺史・平襄侯
256年春(55歳)督中外軍事・録尚書事・大将軍・領涼州刺史・平襄侯
256年冬(55歳)督中外軍事・録尚書事・前将軍行大将軍事・領涼州刺史・平襄侯
258年(57歳)督中外軍事・録尚書事・大将軍・領涼州刺史・平襄侯
出世に関してどんな功績をたてたかおせーて。
256年冬→北伐失敗
234年→孔明先生脂肪
238年→蒋琬の大司馬就任に伴う人事
247年→蒋琬死去に伴う人事
衛将軍への昇進と録尚書事就任は、248年じゃなくて247年だな。
>889
>256年冬(55歳)督中外軍事・録尚書事・前将軍行大将軍事〜、←後将軍行大将軍事だな。同じようなもんだが。
>889
昇進の理由については、結構単純。最高位の人物の死去に伴う繰り上がりって感じ。
234年人事は>893氏の言うとおり、最高位の諸葛亮が死去し、事実上の将官トップ・魏延も死去したため。
243年のは蔣琬の北伐計画の頓挫により、再び西北方面への指向に政策変更がなされたため。
これは、涼州出身で軍事に明るい姜維起用した、って事でしょう。
ついでに言うと、姜維とほぼ同格であった馬忠・王平もこの頃に鎮南北の大将軍になっており、三者とも昇進の時期だったのもあったかも。
248年は蔣琬の事実上の引退を受けてのもの。
ここで同格だった馬忠・王平から頭一つ抜け出すが、費禕政権(つまり諸葛亮系統の政権)の一角を占める人物としては費禕と同世代と言うことで選ばれたのでは?
まぁ、王平は叩き上げと言うことで、政権中枢に入る位置には居なかったとは思うが。馬忠の場合、世代が一つ上なので後進に道を譲ったと言う感じかな。すでに平尚書事を経験済みで南中の要でもあるし。
253年以降は費禕の死去後と言う事もあり、語ることはないでしょう。
色々と不備もあったようで、ちょっと訂正したものを張ってみる
魏(〜27歳)
天水郡上計掾→雍州従事→中郎
蜀
228年(27歳)倉曹掾・奉義将軍・東陽亭侯
230年(29歳)中監軍(華陽国志では護軍)・征西将軍・東陽亭侯
231年(30歳)護軍・征南将軍・東陽亭侯
234年(33歳)右監軍・輔漢将軍・平襄侯
→孔明死去
238年(37歳)大司馬司馬・輔漢将軍・平襄侯
→蒋琬が大司馬に就任
243年(42歳)大司馬司馬・鎮西大将軍・領涼州刺史・平襄侯
→北伐戦略を涼州侵攻に変更
247年(46歳)録尚書事・衛将軍・領涼州刺史・平襄侯
→蒋琬死去
254年(53歳)督中外軍事・録尚書事・衛将軍・領涼州刺史・平襄侯
→初の北伐敢行
256年春(55歳)督中外軍事・録尚書事・大将軍・領涼州刺史・平襄侯
→徐質撃破(254年)、王経撃破(255年)
256年冬(55歳)督中外軍事・録尚書事・後将軍行大将軍事・領涼州刺史・平襄侯
→段谷での敗北
258年(57歳)督中外軍事・録尚書事・大将軍・領涼州刺史・平襄侯
→秦川への出兵、陳祗死去
エリートコースだよな
そう言えば、李厳の弾劾状を読んでたら、劉巴と姜維が共に征南将軍なんだが、
同じ将軍位に複数人が就くというのは有り得るのか?
それとも、これはやはり記述の方に誤りがあるのか?
>>898 集解くらい読んでくれよ…
姜維のところで「銭大キンイワク『征南ハマサニ征西トナスベシ』ト」と注してあるだろ。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 02:07:48
それでも姜維は頑張ったと思います。
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 03:34:43
それでも姜維は脅威だったと思います!
征南を征西にしても、魏延が征西大将軍なんだよなぁ。
「大」となら複数でもありなのかな。
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 03:14:16
驚異だ!
行大将軍事とはどんな仕事ですか?
>>905 大将軍の仕事の代行。
行は役職的に下の者が上の仕事を兼任することを表す。
守なんとかとか領なんとかも兼任を表す。上下は忘れた。
>>906 詳しく教えてくださりありがとうございます。
王嗣、字は承宗。犍為郡資中県の人。
延煕年間(237-257)に孝廉に推挙され、後に西安囲督・汶山太守・安遠将軍に昇進した。
羌族を懐かせ北方の国境地帯の安定に功があった。
太守は兼務したまま鎮軍(鎮軍将軍?)に昇進。
後に姜維の北征に随行、流れ矢に当たり負傷、数ヵ月後に死去。
郝普、字は氏太。義陽軍の人。
劉備が蜀を得た際に零陵太守に任じられた。
214年、呉の荊州侵攻に際して長沙・桂陽の太守が降伏する中、一人抵抗するが呂蒙の偽情報に欺かれ降伏、呉に降る。
劉備と孫権が和を再び結ぶと蜀に返された。
その後、219年の荊州失陥の際に再び呉に降ったか?呉において廷尉まで昇る。
結構高官。
230年に魏より降った隠蕃と親しく交わり賞賛するが、後に隠蕃が謀反を図ったことから孫権に問責を受け自殺。
まあ要約しただけどね。
二人とも結構有能だな。
カク普、何気に魏延と同郷か…
そういえば初代庲降都督のケ方が安遠将軍だったな。
他に誰がいるかな?
>>910 蜀で確認できるのは王嗣とケ方のみかと。
ただ二人の軍歴を鑑みても、異民族との折衝と慰撫を職掌とする意味合いが
あったとみてよさそう。
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 03:27:21
南蛮
今、張嶷伝読んでたんだけどちくまだと誤訳(?)があるね。
武都の氐族の王符健が降伏を願いでた年を「[延煕]14年(二五一)」としてるけど、
後主伝だと建興14年(二三六)に同じ記事がある。
同じような事件が2度あったという解釈も可能だが、
張嶷伝には大将軍蔣琬云々という記述があるのでその可能性はない。
筑摩書房に言ってやれ
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 08:22:29
孔明は姜維なんか好きじゃない。
あんな戦争の仕方許さない。
許さないとか言われても困るな…
人を見る目がないのは孔明のオハコだろ。
>人を見る目がないのは孔明のオハコだろ
一面しかみていない人はきまってそう言う
諸葛亮ヲタはこれを言われると必ず反論するねw
>>918 もうちょい具体的に言おうや。
1) 劉備(というより法正?)が生きている間は荊州系の士人を積極的に推薦
2) 諸葛亮が実権を握ってからは益州系の士人を積極的に登用
3) しかし、諸葛亮が後継に指定した蔣琬や費禕は結局荊州系の士人であった
諸葛亮の「人を見る目が無い」というのは、自身が認めているように馬謖の失態を中心に語られてると思う。
劉備から「あいつは口だけだ」と言われているのもある。
しかし、最期の最期で荊州系の士人を後継に指定しているあたりから、
劉備の忠告を無視してでも、馬謖も荊州系後継グループの一人として考えていたものだろう。
個人的感想ですが、諸葛亮は自分に足りない軍事能力を馬謖の中に見たのかもしれないと思う。
諸葛亮伝には、劉備が外征するときは成都を守り、食料・兵士を補給 とあるので。
諸葛亮=蕭何(軍事的に後方支援ができる、そして内政全般に能力を発揮)
というのを自覚の上、
馬謖=韓信(奇計を用い蜀から中国へ出るための才能)
という幻影を重ねたのかもしれない。
結局失敗してるじゃん→人を見る目が無い
というのは確かに一面しか見てないと言えるかもしれないけど、逆に一面的には真実とも思う。
要するに
>>917や
>>919みたいに殆ど馬謖の一事で語ってる様なのが多いんだよな
>>920の様に意見を述べたうえで否定するんなら批判もされんだろうに
>>922 (おそらく)諸葛亮が抜擢して南方の統治を任せた人物は全員失敗してなかった?
誰?
馬忠は成功してるが
>>923 確かに、張翼、呂凱、その他の連中で失敗したのはいるが、
李カイ、馬忠、王コウで成功してるから、トントンじゃないか?
むしろ、南征を成功した物として切り上げたのが早すぎたという指摘ならその通りだと思うんだけどな。
李カイ、馬忠、王コウを孔明が抜擢したってのは無理があるんじゃないか
こいつらは順当に統治を任されたといった感じでは?
呂凱も一応順当に出世か?殺されたけど。
あと馬忠が任されるまでは南方の諸郡、5郡〜6郡ぐらいあったけど李カイ
王コウが任された郡以外は統治が不明瞭じゃないか?
>>926 張ギが全て取り戻しているような。つっても孔明死後だけどさ。
南征はいずれにしても失敗だよなぁ。計略立てたのが馬謖な時点でどうかとも思うんだが。
南征がなければ北伐など夢のまた夢なんじゃないか?
>>928 いや、徹底してやってからでも良かったんじゃないかなって話。
事実、魏は劉備死後の蜀に対して全く興味がなかったみたいだし、
諸葛亮が北伐しかけてきた時はすごい驚きだった事が記されてる。
諸葛亮が任命した太守のうち襲禄 王士 焦曠 呂凱は殺されてるみたいだな
南蛮制圧の切り上げが早すぎるんだよな。
馬忠と張ギが根性で取り戻したから良かった物の、一歩間違えたら呉の物になってたんじゃないのか。
あんな瘴癘の地に長く駐屯できますかっての。
駐屯してるだけでも、それこそ北伐なみに物資輸送がかさむぞ。
南蛮制圧よりもその後の統治が駄目駄目だったってことじゃ一部のもの除いて
南蛮なんて元々反復常ならむ異民族が多いわけで、そういった異民族統治に苦労したのは魏も呉も一緒。
南蛮に限らず反乱は起こってるけど、別に国が傾くほどのものではなかったし、ほどなく鎮圧されてる。
大体、何を以ってダメダメと言ってるんだ?
馬忠と張ギが凄過ぎただけってことでは
もっとも劉備の時代やそれ以前はある程度統治できていて諸葛亮死後も統治できてるのだから
諸葛亮の統治がダメダメなのかもしれないが
>>935 劉備時代から異民族はよく反乱を起こしてるよ。
南方に限っても雍闓は太守の正昂を殺害してるし後任の太守の張裔は呉に身柄を送られてる。
これらは諸葛亮の南征によってある程度解決してる。
その後、諸葛亮在世中・没後にかかわらずたびたび反乱が起こってる。
異民族統治には時間がかかるもので、諸葛亮時代だけが南方を統治できてなかった訳ではない。
>>934 いちおうつっこんでおくと南蛮ではなくて南中。
どうやら否定派は諸葛亮の南征後も叛乱を起こされてるので駄目だと言いたい
らしい。
しかしこれは羌や匈奴に対する漢の政策と歴史を全く知らない人間の意見に思え
てならない。
異民族や辺境の統治が一朝一夕に一度の征伐で片付く方がおかしい。
諸葛亮自ら中央軍での一度の遠征でおおむね平定し、以降はほぼライ降都督の
裁量のみで済んでいた事をみても、また現地の民情を弁えた諸葛亮の政策を
みても、即効性はないが中長期的にみれば及第点以上のはずなんだが。
南中からの物資供給、精鋭兵(これは強制移住だろうが)、
高級官僚排出までしてるんだから、普通に成功してるだろ
単純に統治できていた範囲で考えると
馬忠と張ギの時代>劉備の時代>諸葛亮の時代かも知れないが
(もっとも劉備と諸葛亮はほぼイコールかも)
諸葛亮の時は呉と組んで反乱したのを鎮圧する羽目になったが、それは当時の
蜀を取り巻く国際情勢のせいで諸葛亮の統治が駄目だったわけじゃなく、誰であ
っても反乱は起きただろうから仕方ないし。
というか馬忠達と比較するから劣って見えるだけで諸葛亮自身が劣ってるわけじゃないだろ
だいたい南方統治そのものは人事は別として諸葛亮の責任にするのはおかしい。
及第点以上というか普通以上だろ、ただ
>>930のいう連中は駄目なのかもしれないが
>>940 いやもともとは
人を見る目がないのは孔明のオハコだろ。から
南方統治の人事も悪いということからこの論争が始まっているのだが
ところでこいつらって何者→襲禄 王士 焦曠
>>941 王士は劉備の入蜀の際に臣従し宕渠・犍為などの太守を歴任し、
南征時に益州(後の建寧郡)の太守に任命されるが赴任する前に蛮族に殺害された。
龔禄は劉備が益州を平定すると召され郡の従事・牙門将に任じられた。
225年、越巂太守となり南征に随行、蛮族に殺害された。
焦璜はわからんが龔禄の後任として越巂太守となった模様。
これらを諸葛亮の南蛮統治が悪かったからというのは強引だろ。
あと呂凱もたしかに南征後に反乱した蛮族に殺害されたけど、雍闓らの反乱中は太守不在の中、王伉らと力を併せて城を固守してる。
これを受けて諸葛亮の人事が悪かったというのも、まず結論ありきの人じゃないとでない結論だよ。
統治が悪かったら北伐なんて出来ないって
孔明の人を見る目云々言うが街亭での馬ショクの抜擢以外に致命的な人事ミスってあるか?
致命的な人事ミスではないと思うけど
(というか街亭ほどのミスはなかなか無いと思う)
重用していた李厳の心を見誤って要職に就かせ続けて北伐失敗
期待していた廖立を閑職に就かせて不満爆発
権力争いかもしれないけど曹操や孫権、劉備ならもっとうまくやっていたんじゃないかな
>>946 > 権力争いかもしれないけど曹操や孫権、劉備ならもっとうまくやっていたんじゃないかな
最後のは何の根拠も無い妄想。
例えば彭羕なんか龐統が評価し、法正も良く知っていた人物であり、劉備自らも高く評価したが、
一時は優遇したが結局は左遷され不穏な言を吐いて最終的に処刑されてる。
諸葛亮の廖立に対する処遇がダメで劉備の彭羕に対する処遇は良いなんて理屈は通らんよ。
彭ヨウの処遇にはもろに諸葛亮の意向が絡んでるでしょ
まあ最後のところは妄想というのは一理あるので無視してもらっていいです
「不穏な言」って言っても、彭ヨウの弁解の方にも
一理あると思える程度のもの。
また、馬超の問いかけ自体も、誘導尋問的な印象が強い上に、
左遷が確定された後に、成都に居る馬超相手に
「自分が中を受け持ち、馬超が外を受け持てば…〜」なんていう形で
謀反の提案をする点も不自然。
彭ヨウの件は、諸葛亮の政敵排除の要素が強く
ホウ統、法正、劉備らの人物評価が誤りであったとは言えないと思う。
>>949 別に人物を見る眼がどうのこうのという話ではなく、諸葛亮なら不満を持たせたような人材でも、
劉備なら不満を持たせるようなことはしなかっただろうなんていうのは幻想に過ぎないって話。
そういう政争絡みを要因として劉備の処遇に問題がないとするなら
諸葛亮の人材ミスも政争を理由に仕方なかった事にできてしまうぞ。
仮に彭ヨウの処遇に諸葛亮が絡んでいたとしても
君主の劉備と諸葛亮の立場は同等ではないのだから
最終的には劉備が配下をうまく使いこなし切れなかったという評価になっても仕方ない。
諸葛亮の廖立の扱いなどを問題にするならね。
自分は、彭ヨウの件にしろ廖立の件にしろ
そこまでトップの責任にしてしまうこと事態どうかと思うが。
彭ヨウが不満を抱いたた切っ掛けである左遷は、
諸葛亮の言上に起因してる。
有能な人材を人格面で疎んじて
わざわざ不満を抱かせて失脚させてるんだから、低レベルな人事だよね
劉備や曹操という、組織のトップとは立場が違うから、比較するのはおかしいけど
人格面での好き嫌いが人事に影響し過ぎている点を考えると、
周瑜あたりと比較して「人事下手」「人を見る目が無い」といった印象を受ける。
それは人事の問題じゃなく諸葛亮の狭量さの問題。
周瑜と比較するなら気の合わない人間と折り合える器量があるかどうか。
その狭量さを諸葛亮がトップに立った時代も正せずに人事に反映させてしまった場合は
諸葛亮が人事下手と言われても仕方ないだろうけどね。
彭ヨウの件を指して諸葛亮の人事下手を指摘するのはちょっと違うんじゃないか。
人間関係下手糞だったのは間違いなさそうだけどな
創業カリスマ社長と吸収合併された中小企業出身の部長って感じか。
社長が死んで孔明部長がいきなり取締役になっても、他の奴らは良い顔しないし、
諸葛亮は諸葛亮で自派閥を固めるためにいろいろするだろうさ。
二人を同列には語れないと思うよ。
劉備とは比較出来ないから周瑜と比較されてんじゃないか?
>気の合わない人間と折り合える器量があるかどうか
この点について、諸葛亮のやり方は片寄ってると思うな。
意気投合する相手と、そうで無い相手が極端だよね。
典型的なインテリ君とは意気投合するけど
叩き上げや破天荒なタイプを嫌悪しちゃうタイプ。
何でも自分でやりたがりで、同僚や後輩を育てられない。
諸葛亮が生きてたら姜維は北伐馬鹿じゃなかったよね
>>958 つまり孔明は今でいう学歴厨ってことでおkですか?
何?そのバカにしか出せないような結論は?
>>953 彭羕の場合、たしかに諸葛亮の言上がきっかけでも
劉備自身が見直してみたら諸葛亮に同意して、左遷させようとしたらその通りの言を吐く。
これじゃあ諸葛亮に見る眼があったとしか言いようがない。
ただ法家思想なのか知らんが、いろんなタイプの人材をある程度放置しながらコントロールしていくという能力には欠けるわな。
諸葛亮は劉備の股肱の臣だから尊重していた
関羽張飛は最初不満はあっても劉備に諭されていたし必要な人材でもあったから納得していた
そんな感じだったんじゃないかな
>>963 その通りの言と言うにしては、
>>949で言われてるように
不自然な発言じゃないか?
彭ヨウの説明通りの意味の方がしっくり来る
>>967 彭羕の言は一時的な気晴らし程度のものであったとしても主君を罵ったわけだし、処罰されても仕方の無いものであるでしょ。
それに諸葛亮の言上があったとはいえ、最終的に彭羕を観察し決断を下したのは劉備。
この件が諸葛亮と彭羕の政争なら、それを止められなかった主君である劉備の器量も問われなければならない。
諸葛亮の器量が責められるのならばね。
もともと劉備はプライド高い人だからねぇ
970 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 17:51:14
魏呉スレに押され気味なのでage
魏スレなんて落ちたままだし、呉スレに比べて勢いが無いわけでもないと思うが。
今の呉スレは総合スレじゃなくて、四功臣スレが本スレジャマイカ?
魏スレw
魏武将ってあんまり語られないね
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 11:18:24
語るほどの将が少ないんだろ
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 11:24:37
じゃあ、袁家は?
>>975 そんなこともない。
ただ曹仁と例の五将の比較はヒートするが、マイナー武将ヲタは少ない気がする。
魏将はもう語り尽くした帰来があるからな。個人スレのが盛り上がってる。
演義ではただのやられ役だったりで興味持つ人も少なそうだし、
正史読んでる連中だけで語ってても、相手の持論の粗捜し大会にしかならないのもある。
蜀将は演義や小説から入った人、呉将は無双から入った人が興味持ちやすいから、
そういう人達に説明したり、新規参入が多くて話題がループしやすいのもあり、
いい意味でも悪い意味でも話題が尽きない。
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 11:42:33
袁家は?
それは言えるな。
武将がいないわけじゃないが語りたい人間は決して多くない。
そう言われるとそうかも
臧覇ぐらいかな、俺は
「魏将」なんてスレタイにせず「魏の人物」くらいにしてくれれば、まだ語りたい
人物がいるんだけどな
なんで軍事畑の人間しか顧みられないんだろう……
光栄板だから仕方ないよ
そういう見方もあるな。
魏は語る人間は多いな当然だけど、あまり話題にならないのが悲しいかな
俺は魏呉蜀好きだからなんでも首つっこみたいけどね
同じく。
つか戦国でもそうだが、
基本的に嫌いな勢力はないな。
>>986 そうなんだ?
おれは戦国にはわりとあるな、嫌いな勢力。
従属っていうか臣従っていう概念があるじゃん?戦国って。
三国志って猛達みたいにころころ主を変えるやつはいても、城主でいながら時節に応じて殿様をころころ変えるやついないから好感持てる。
モウ達のモウ間違っちゃったけどさ。
リュウホウが生きてたら三国志は1.07倍くらい面白くなってた
俺も三国時代にしても古代にしても、どこが好きで嫌いとか、そんな観念ないな。
俺は人間の進退というか身の処し様とか、切所で関心させられる故人の言葉の
方が興味大きくて、国の興亡なんかはその所産に過ぎないから二の次って感じ。
武人よりもある意味で勇気もってる諌臣なんかの方が好きだし。
俺なんかブッ殺しまくりの五胡十六国や五代十国大好き人間ですが。
次スレどうしますか?
>>991 ああわかる。
俺は南北朝時代とか好き。
暴君やら愚昧な君主やら、私利私欲にはしるステレオタイプの小物がいたり、
歴史ってずっとこうなんだなあって思い知らされる。
>>993 蜀における人物を総合的に語り合うスレ の方がしっくりくると思います
996 :
993:2005/11/07(月) 02:06:00
スレ立てできず。他の方宜しくお願いします。
>蜀における人物を総合的に語り合うスレ。
>とりあえずただの煽り合いは抜きの方向で。
>正史準拠、演義準拠での発言は極力避ける事。
うめ
999なら蜀漢が全土統一。
蜀万歳!
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
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の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
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⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
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