戦国時代の戦術・戦略についてカタロウ

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1無名武将@お腹せっぷく
ミリタリーオタのいない三戦で三戦厨房がいい気になって兵法を講釈します。
とにかく人気ナ時代だけに、面白おかしいIFが盛ん過ぎて、シビリアンには実像のつかみにくい
戦国時代の戦術とは、現実問題一体どのようなものだったのか議論しましょう。

とりあえずお題は、
戦国最強の異名をとった武田家の騎馬隊の実像とは?、上杉謙信の必勝戦法車がかりの陣とは!?
織田信長の火器運用と彼がもたらした戦術改革はあったのか?
秀吉の戦略における攻城戦術の現実。島津の釣りのぶせ・捨てがまり。
その他、戦国時代の戦術についてなら何でもOKです。
2無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 06:19:22
戦国で優れた用兵する将ってイメージでもっとも印象強いの秀吉なんだけど
そこのところ実際どうなのか、エロイ人講義ヨロ
3無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 06:20:55
大友宗麟がシナで学ばせた国崩とは、
保有数も含めどの程度の効力を発揮しうるものであったのか?
また、関ヶ原の合戦で三成が導入したと言われている
三門の大砲(葡萄弾)とはどの程度の効果があったのか?
4無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 07:55:24
>上杉謙信の必勝戦法車がかりの陣とは!?

確か弓なり(円月の陣)に陣を構えて次々部隊を投入していき敵の一角を確実に
つぶす15000以上の兵では難しい陣じゃなかったっけ?
5無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 08:06:47
>>4
じゃあきつつきってなんですか?
6無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 08:15:33
兵を2部隊に分けて一方で敵軍の尻をついて出てきたところをはさみ
打ちって奴じゃないかな
7( ・ω・)⊃旦:05/03/05 08:23:06
関係ないけど「円月の陣」って
目ぇ回らねえか?
8無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 08:50:58
きつつきをおしえてくれたおじちゃんありがと
9無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 15:27:19
>>3
国崩は入れ子筒、いわゆる後装式の大砲で、
鉄砲だと前装式より後装式の方が優れているのだけど、
大砲だと前装式より後装式の方が劣っている。
何故ならば、後装式だとどうしても密閉しきれず、ガス圧が抜けてしまうため、
射程距離・威力共に数段落ちる(完全に密閉できる後装方は中世では制作不可能)。
しかし、前装式だとガスが充満してしまい暴発の危険性が高くなる、
対策としてはより強固に作るしかないのだが、それだけの資金・素材・技術ともに難しくなる。
ただし、入れ子筒にも利点はあり、1.連射が可能な点、2.命中精度が高いなどである。
以後入れ子筒は廃れていく事を考えて貰えば、
砲の改良に試行錯誤している最中の一品でしかないと言えるかと。

さて国崩が火を噴いたといえば、丹生島城だが、
柳を打ち抜き、それに巻き込まれて死んだ島津兵多数、くらいしかわかりません。
大玉の他に小玉もまぜて発射したらしい。

野戦(三成)の方では銃との連携もあって
人的被害はともかく、心理的効果は抜群だったみたいです。
10無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:34:33
>>6
本体を囮にした、迂回作戦だね。近代以降の現代までの基本戦術。
そう考えると日本の戦国結構レベル高く、ちゃんと世界レベルだね
11無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:36:20
>>9
>大玉の他に小玉もまぜて発射したらしい。

てことは当時、葡萄弾があったって考えてええの?
12無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:41:31
>4
そうなんだ。
それって図にしたサイトとかAAとかないかな?そうするとわかり易い。
13無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:44:34
>武田騎馬隊
そんなものは存在しない。

>車がかり
14無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:51:19
>武田騎馬隊
そんなものは存在しない。

>車懸
泰平の世の軍学者が考えた机上の空論
15無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:56:46
>>13-14
んなこたあない。
あの時代その絶対数は少ないにしても純騎馬編成の部隊は存在している。
それこそ後世のトンでも学者の迷言。
武田家の部隊が特に有名だったというお話。

まあ釣りだろうが…
16無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:03:17
基本編成時(戦略単位)の騎馬武者に必ず従者(兜持ちとか)が付くのを
徒が従ってるから純騎馬でないと曲解というか勘違いしただけだね。

そんなこといたら騎士(重騎兵)にも徒歩の従者が必ず3、4人つくから
西洋にも騎馬隊が存在しなくなっちゃうよねw
17無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:03:33
>1がききたいのは
18無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:04:45
>>17
一体何があったんだ!?
19無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:09:54
実は甲陽軍鑑ですら、騎馬隊の存在には触れてなかったりする
それどころか騎乗戦闘ですらその旨は無い
実際問題として、騎兵だけを抽出して使うのはよっぽどのレアケース(武士は従属する下級兵士の指揮官でもあったから)
20無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:13:38
>>19
ホントに甲陽軍鑑読んでるのか?何かの著書を写してないよな?w
おまいはどこから出版されてる甲陽軍鑑を読んでるんだ?…まさかわからないわけないよなw
21無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:15:56
>>19
何処国でもそんなもんだろ?騎馬隊=維持費がかかる=裕福な階級のやくめ
騎馬民族(遊牧民)って言われる集団以外は、古代ローマだろうがどこだろうが
22無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:21:59
確かに騎兵勤めるのは、エリート階級だな
だったら現場の指揮官クラスだけで編成されたっておかしくはないな。
俗に言う空軍だって、じっさいもんだい兵卒のいない士官自ら戦闘機飛ばして一線で戦ってんだからな
23無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:22:58
>>15
釣られてくれ。プリーズ

携帯でカキコミスばっかだからまた後でな。
24無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:24:07
追撃戦(関ヶ原の井伊隊)
デモンストレーション(馬揃えの織田騎馬組)
これぐらいか。騎兵のみの集団運用は
25無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:28:18
なるほど騎馬隊はエリート隊。装備・維持費・訓練など諸々金がかかる
こういう考え方でいくと現代で言う
空軍>海軍>陸軍
↑の空軍に当たるわけね。
26無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:33:49
>>24
武田家の。投石:敵陣攪乱→騎馬隊突入:敵陣分断→槍隊で圧殺:敵殲滅
てのの騎馬の用兵は、騎兵のみの運用に入らないのか?
27無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:34:48
末端の足軽も長柄・弓鉄砲などを装備していた戦国時代
騎兵だけで突っ込むのは的にして下さいといっているようなもの
武士も補助兵力を引き連れて援護射撃を受けながら進まないと、下馬戦闘の位置に辿り着くのもなかなか難しかったんじゃないだろうか
28無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:38:29
>>27
足りない発言だな
重要なのは戦場に入れるタイミングだろ。
騎兵は俗に言う攻撃力&機動力に優れる代わりに防御力と言う点で欠陥があるのは常識
その長所を生かして短所を出さないように使えるのが名将となるわけだ。
これが出来たのは史上数少ないく、それだけ難しいんだよ。
29無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:38:34
>>26
それは他部隊との直協では?
30無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:39:43
一部の名将しか使えない戦法じゃ意味は薄いだろうな
凡将でもそこそこやれる戦法であって初めて普遍的に使われ通用するわけで
31無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:41:16
結局は甲陽軍鑑って読んだことある椰子いないんだな…orz
32無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:41:21
>>29
それっじゃ追撃戦もデモンストレーションもほとんど変わんないジャン・・・
33無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:43:51
>>30
一部の名将しか最大限に生かしきれないのであって、使えないのではないな?
騎兵の突入時の衝力から得られる普遍的で騎馬の絶対的な魅力。
34無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:47:56
>>30
武田の得意戦法=一定の効果をえられる。
>投石:敵陣攪乱→騎馬隊突入:敵陣分断→槍隊で圧殺:敵殲滅

まさか武田の軍団は、皆馬に乗ってる蒙古騎兵って勘違いでお話してる人はいないよね?
武田家の軍事編成の中に騎馬部隊が存在したか否かでお話してるよね?
35無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:48:44
>>32
騎馬だけでできることと、騎馬は全体の働きの一部を請け負うことの違いだろ
もっとも敵のいない馬揃えはともかく。井伊隊は主将負傷など薩摩銃兵の「捨てかまり」に酷い目にあってるが
36無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:50:10
>>35
>薩摩銃兵の「捨てかまり」
騎兵の持つもろさをさらけ出した例であるね
37無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:50:25
武田軍ってそんなに各兵科がばらばらだったの?
38無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:54:50
>>37
まともな用兵する軍隊=組織化されてるってことだけど。
集めるときは、領地ごとにクチャクチャでも
いくら封建軍といっても兵種ごとに分けて隊列作るのは布陣のセオリー。
39無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:55:34
射撃→歩騎混成部隊の突撃っていう流れは戦国のスタンダードだったはず
騎馬兵も馬を降りて戦闘したっていうのがフロイスの記録はじめとして残っているけど
騎兵で正面突破するのは効果がありそうだがリスクもでかい。そんなリスクを指揮官層に負わせるのは危険すぎる
当時の封建制から考えてそのほうがしっくりくるかな
40無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:57:03
>>35
>騎馬は全体の働きの一部を請け負うことの違いだろ
そもそも騎兵の基本用法(有機的活用)とはこれだろ?
41無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:57:11
でも武田軍って、自分より数の劣る相手にしか勝ってなくて
加えて数的劣勢の上杉・村上軍に苦戦したりしてるんだよな
本当に戦術的に洗練されてたのか?
42無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:58:25
今年の頭に似たようなスレなかったっけ?
43無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:02:14
>>39
>射撃→歩騎混成部隊の突撃っていう流れは
いやこれは戦国でなくとも。いつ何時・何処でもスタンダード。

>騎兵で正面突破するのは効果がありそうだがリスクもでかい。
効果もあるがリスクもあるこれは騎兵運用以前に戦争の常識。

>そんなリスクを指揮官層に負わせるのは危険すぎる
そんなこと言ったら西洋の騎士はどうなるんだ?彼らはみんな自殺願望の者のキチガイだったのか?
リスク以上(覚悟した上で)に騎兵の威力(効果)は魅力的(現実的活用)。

44無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:04:28
>>41
それは言いすぎな気もするが、確かにどうなんだろうそこは?
織田家のように数万単位で大規模な軍の運用するような相手には通用しないのかな?
45無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:04:41
>>43
西洋の騎士は、思想宗教的背景が違う
加えて、異民族・他宗教との戦いではともかく、普通は殺さず人質にして身代金とるのが目的で打ち倒すなど、ある意味儀式化された戦争してたから
容赦なく飛び道具が扱われるようになった時代では騎士も単独突撃なんかしなくなり、徐々に騎兵も専門軍人のそれに切り替わっている
46無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:09:10
>>45
よく分かった。レスをまともに読んでない上
お前の知識が偏向してるって…ここが三戦だって事がさ…
47無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:12:09
どこがどう間違っているのか指摘できないのは単なる負け惜しみだからだろうか
スレ全般の煽りレスにいえることだが
48無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:12:21
>>45
いいたい事はわからんでもないが?
意味がわからんぞその説明では…
49無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:14:01
上田ヶ原では、見事に伏兵の策に引っかかってたな>武田軍
両職はじめとする幹部クラスが戦死して、信玄自身も負傷したんだっけ?
50無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:18:57
>>47
>普通は殺さず人質にして身代金とるのが目的で打ち倒すなど
莫大な身代金が取られるんだが?払うと没落してしまう可能性もあるんだが?死んでしまう可能性もあるんだが?

>容赦なく飛び道具が扱われるようになった時代では騎士も単独突撃なんかしなくなり、徐々に騎兵も専門軍人のそれに切り替わっている
時代背景がおおまかで抽象的すぎるが?明確に時代を指定しろよ?
騎兵突撃の例が減ったのは、戦争が拠点攻略という城攻め主体に移り、野戦のが数が根本的に減ったからだが?
専門軍人になってもそれを構成するのは貴族子弟であり装備・練兵もといった編成金も莫大だが?
軍人の専門職となろうが騎兵突撃は行われているが?
51無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:19:20
信長公記などの長篠合戦の場面だと
武田軍が射撃戦を挑んだって描写が無いね
隊がそのまま押し出してきて、織田の柵を突破しようとしたって感じだが
これは単に端折られただけか?
52無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:20:56
もし武田軍騎馬軍(?)が織田の鉄砲隊+野戦陣城に正面突撃してきたのなら…
単なるバカじゃん。いくらなんでも少しは頭使っただろう
53無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:23:03
西洋の騎士は、馬上試合が盛んに訓練されていたように
騎兵は騎兵で対処するものだったんじゃないか?
それが暗黙のルール
それを無視した黒太子の長弓部隊・ジャンヌダルクの砲兵部隊に騎兵が大打撃を蒙ったのが百年戦争
54無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:26:59
>>45は、他民族や他宗教同士の戦いでないから日本の戦国戦いがぬるかったとでもいいたいのか?
それとも他民族や他宗教同士の戦いでないと西洋の戦争はぬるかったと言いたいのか?
身代金を取るのがころすりより有効的であるから行うのだがな。
それがムスリムvs.キリストでもなるべく殺さずお互い捕虜を撮って身代金取るのは常識なんだがな〜
55無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:30:08
>>53
んなこたあない。騎兵の側面攻撃や迂回作戦に対抗しうる機動力を持ったのが騎兵だけだったというお話
確かに西洋は一時期重騎兵突撃偏重主義になって戦術が硬直化してる場合もあるが、基本的には上の通り
56無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:39:45
>>40
そりゃあまあ、騎兵が単独で行えることなんて斥候と敗走する敵の追撃ぐらいだろ
57無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:40:22
あ、>>56蒙古騎兵みたいのは除くよ
58無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 13:48:07
>国崩

もののけh
59無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 14:04:34
こういう話って立花城にいらしてた作左衛門氏がとくいだったよね。(まあこの人は戦術だけに限ったことじゃないが
もう一度あの人の話し聞きたいな〜何処行けば会えるか教えてくれ知ってるネ申。
60無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 15:35:05
中入れについて語ろうか
信長が桶狭間で使い、池田恒興が小牧長久手で大失敗したあれ
61無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 15:38:42
賤ヶ岳も
62無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 18:35:36
基本的な疑問
桶狭間は結局迂回奇襲?正面攻撃?
63無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 18:39:18
正面攻撃
64無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 18:43:00
>>62
正面。奇襲効果があったとすれば、今川方に数の誤認をさせたこと
65無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 18:52:15
信長は熱田で兵士の集結を待ってから、丹下砦→善照寺砦まで進んだ
ここから
迂回説…太子ヶ根を経由して大迂回して、奇襲。義元本陣は桶狭間の窪地にあったと想定
正面説…中島砦まで進み、さらに敵軍勢力圏を中央突破して「おけはざま山」に陣を敷いていた義元本陣を攻撃
前者は戦前の軍が想定したもので、奇襲の手本という形にしたいので強引に位置付けたと言われる
後者は信長公記を主に元にしたもの
66無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 18:56:38
既に丸根・鷲津砦が陥落し、鳴海城は今川方に寝返り済み
この状況下で孤立する確率が高い中嶋砦に移動するのは、普通に考えれば異常(信長公記でも重臣が反対をする場面があるが信長は強引に移動させた)
そういう面から見れば迂回説は傍目からみれば決しておかしい説じゃないんだけどね
67無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 20:24:17
つか、鳴海・丸根・鷲津その他に展開してた今川軍諸勢は何してたのよ?
敵2千ほどが堂々と移動してくるのを思い切りスルーしてる
斥候や伝令ぐらい出さなかったのか?
68無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 20:29:59
47age
69無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 20:43:44
>>67
途中で増えていったり、少数だと見せ付けられているからね
それに情報だって一歩遅れてやって来るわけだし
70無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 21:55:32
鈴木眞哉著「鉄砲隊と騎馬軍団」(洋泉社新書)に武田騎馬隊の考察が載ってる。
軍編成はともかく、この時代の馬の体長は平均129.5センチだそうだ。
しかも蹄鉄は幕末開国後の技術。それまでは藁の靴をはかせていたのだそう。
NHKが番組がらみで行った実験によると分速150メートル、しかも10分でばててしまったという。
そのほか、武田騎馬隊と信長鉄砲隊の話題がいっぱいだ。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896917278/qid%3D1110113710/250-7734637-3940227

71無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 22:16:06
>>67
織田家に内応していたという説を聞いたことがある
72無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 22:22:56
>>70
体型はともかく速さや体力は今やっても比較にならんかと・・・
ずっと鍛え上げられた馬ならばまた違った結果になるのではないか?
だって人間でも考えてみろよ・・・現代人は体型ははるかにがっしりしてるが
鎧着て戦うのはかなりしんどいはずだ(でも昔はやってたわけで)
現代で考察した結果などあまり当てにならん
よっぽど長期間訓練してその上での結果ならまぁわかるが
73無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 23:33:09
島津家の兵の鎧は皮革で作られていて、水の中で浮力を得るのに役に立ったそうだ
耳川の戦いで島津軍が大友軍に大勝した理由は包囲戦術の他にこの鎧の兵装が重要な役割を果たしたそうだ
そのため大友軍兵は溺死者多数に対して、敗走する大友軍の兵を川の中まで追撃しても
島津軍の兵は溺れずにすんだらしい
74無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 00:13:29
すいません、
ちょっと通りますよ…
  /⌒ヽ
 /´_ゝ`)
 |   /
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`U U
75無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 00:39:02
>>53
ヒストリーちゃんねるでやってたね。
黒太子が威力のアル長弓を使って騎士を破ったてのは俗説で、
実際には長弓でも鎧を貫通する威力は無かったって。
雑魚で身代金も取れない長弓隊が出てきてやる気をなくした
フランス騎兵に、なんでもアリの雑兵の長弓隊が群がって
打ち据えた上、人質をとる余裕も無くてみんな殺しちゃった
から百年戦争で一時期優位に立てたって。
その番組観ながら、長篠を思い出してたよ。
76無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 02:18:35
立花道雪は戦いとは正攻法と奇策の組み合わせにあるとして
配下の由布雪下と小野和泉に交代で正軍と奇軍に分かれて
戦わせたという話があるけど、毛利との多々良浜合戦で、
一軍を敵の側面から当てておいてその後もう一軍に後背から
衝かせて撃ち破ったとかがこれにあたるのかな?


確か正攻法をもって引き分けとし、奇法をもって勝ちとするとか
とも言ってたような
77無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 03:41:57
世界史板「戦国期日本と欧州列強の戦力比較」スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1109742482/l50

78無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 08:06:28
>>75
まあ結局はそれも極端な一説であって
相当厚いアーマーですら貫通したという極論とついをなす暴論だったよね
79無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 09:06:40
分厚いアーマー(よくファンタジーとかでお馴染みのフルプレートあたり)の登場は銃が普及してからでそれまではそれほど頑強でない(代わりに動きやすい)防具が主流だったって説もあるけどな
この辺り諸説紛々
スレ違いなのでsage
80無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:07:53

  ●
    ●
     ●
      
     ●
    ●
  ●


81無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:09:57
これが円月の陣で、車懸りは
先端の部隊が一通り戦うと後ろに下がり、次の部隊が
戦うっていう交代制の陣。
後ろに下がって英気を養えるから士気が回復してまた戦える。
82無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:11:50
▼→
↑ ▼→
↑   ▼→
↑    ▼
↑    ▼
↑   ▼←
↑ ▼←
▼←

わかりやすくなったかな?
83これどうなの?:05/03/07 17:17:43
725:無名武将@お腹せっぷく 05/03/07 16:05:37 [sage]
流鏑馬は武家伝統の文化と認識している人は多いと思うが
実は戦国時代に廃絶してるんだよね。
これは鉄砲伝来による集団戦術の変化により、
個の武芸誇示を専らとする弓術の実益が完全に失われたことを示しているわけだ。
鶴岡八幡宮の神事に見られるような、
騎乗のまま連続で的を射る現在の流鏑馬が作られたのは江戸に入ってから。
しかも流鏑馬の復古は、幕政統治における学問的武士道の形成によって生じた
形骸化された儀礼的なものを逸せず、しかも江戸期、
武芸稽古の嗜みは最終的に鷹狩がその役割を担い
流鏑馬は完全に一部の神事や儀式の催しに限定された。
(犬追物など元禄期の禁制により衰退)

弓術の衰退は何も流鏑馬だけに限らないが、日本における合戦の歴史上
個の武勇を優先するあまり、集団戦における弓の改良や戦術を激しく軽視していたようだ。
中国から入った弓は日本では大型化(連射性に優れない)装飾化し
弩など機能面で拡充された弓の進化は、これも上記の理由で普及には至っていない。
やがて鉄砲伝来による大規模戦術の変化により、ついに弓はその立場を失い
江戸期に様式化された浅い歴史だけを残しながら現在に至ってるわけよ。
84無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:26:08
車懸かりって…
そんな頻繁な部隊移動は現実的じゃないんじゃないの?移動だけで疲れそう
敵だって都合よく順に一部隊一部隊を相手にしてくれるほど馬鹿じゃないだろうし
だいたい、敵の数が自分たちより多かったら戦術的に各個撃破してくださいって言ってるようなもんじゃ…?
85無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:56:45
うんこ
86無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:06:15
>>80-81
ありがとう分かり易かった。
その方法は一般的というか昔から言われてきたスタンダードなやつで、
もう突撃されてるけど、現実的じゃないって常に一刀に伏されるよね。
87無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:22:45
何の本で読んだかわすれちまったんだが、別の説だと
こうやって互い違いにずらして各陣を配置することで、([.]は関係ないよ)
....▲
▲..@
A......▲
....▲..B
....C
意図的に@がまず戦闘に入って、次にA,B,Cと続けて戦闘に入る形にしたらしい。
こうやって意図的にかつ確実に、各隊の戦闘突入に時間差を設けることで、
敵は自然と時間差攻撃を受けることになり、相手は連続的に波状攻撃を受けている錯覚に陥るらしい
ただ、ここでおれも思ったんだが、
これだと>>80-81で挙げられてるのと同じで各個撃破されねーのか?って思った。
が、ずらす事で戦闘突入への時間差は設けたが、各隊動き出すのは同時なのでそうでもないらしい。
88無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:24:28
まあ実際>>87が当時使われていたかは知らんが…
89無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:02:58
型にはめて考えようとするからわかんなくなる
要は誰もみたことない戦法だった・・・
かなり考えて無理やり結びつけたんだろ<車懸かり
戦術ということに関しては天才と呼ばれた男の采配です
理解するのも困難・・・というか実際家臣ですら理解してなかったんでは^^;
まぁその時代に行って上空からでも見てみない限りわかんね・・・
90無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:05:32
>>87
魚鱗の陣か?それは
なら三方ヶ原で武田軍がやったやつか
その時は二倍の兵力差があったんで、先鋒の寝返り国人衆部隊が敗走してもすぐ後方から別の部隊が出て…という形になって結果徳川軍を大敗させているが
91無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:09:37
どれも戦力差が同等以上じゃないとつらい戦術ってことか?
でもまあ、少数で戦う事はあんまないだろうし、それなら大軍での戦い方を考えた方が効率は良いのかもしれん
92無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:11:07
>>90
わるいよく分からん。車掛りの陣とはこうだったと書かれていただけだったから
まあ半年前に読んだ題名すら覚えていない本なんで。
(言い訳として最低だが・・・許しておくれ
93無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:14:31
上杉謙信戦国最強!ってよく言われるが実際どんなもん強かったの?
パンピーが読むような本には、武田そして織田の戦術紹介で完結してるから
その強さは、肥の戦闘データでぐらいしかお目にかからん。
超お馬鹿な俺に、講義してエロイ人。
94無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:17:12
当時の合戦の基本的な戦闘単位だった家ごとの「備」を作らず
行軍隊形(一列ないし二列縦隊)からいきなり敵に襲い掛かり結果として順番に攻撃する戦い方が車懸かりの正体だって説が一番オレは納得できた
それなら上杉軍の機動性(川中島で挟み撃ち喰らう前に武田本軍に先制しかけたり。退却する織田軍の背後に食いついたり)に通じるものがあるし
95無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:20:16
>>94
それは織田信長の行軍隊形そのものじゃないか?
96無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:21:40
>>94つまりあれだ図示て下さると嬉しいのだが。オネガイできるか
97無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:46:36
>>93
釣り?最強とか言わんほうがいいよ・・・スレ荒れる原因になりやすいから
どうしても知りたいなら戦績でも見てみれば?参考程度に
謙信は自身の指揮による敗北が少なく大敗北ってのがないのが一番の理由かも
・・・まぁそれ以外にもあるんだろうけど
ttp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/uesugi-n/sugi906.htm
これだけで強さわかるとは言えないけどちょっとは参考になると思う
98無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:49:33
>>97
いや釣りじゃない。単にバカ。だってよく言ってんじゃん色んなとこで。
それに対して強力なアンチを今まで見たことがなかった井の中の蛙だったというわけさ
99無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:55:49
俗的な評価をそのまま飲むなら、上杉は野心より、相当に虚栄心の塊のようなお人だ
すまんすれ違いだな
100無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 21:01:00
100
101無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 21:42:06
謙信の戦術のどこがすごいんだろう?
資料見る限り力攻めばっかなんだけど。
本当に凄い戦術家は毛利元就と島津家久だと思う。
102無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 21:43:56
>>100
そう言う意味で戦国さ・い・きょ・うなんだろw
103無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:01:34
普通に考えて島津の釣り野伏せ最強だと思う。
104無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:05:30
詳細きぼん
105無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:08:12
釣り野伏は戦下手な相手だからこそ聞く戦法。
106無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:16:14
釣り野伏せは、少兵力の囮部隊を戦わせ囮部隊を敗走させ、
それを追撃してきた敵をあらかじめ配置していた伏兵で
敵を包囲し、殲滅すると言うです。
107無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:40:51
>それにしても何度も釣り野伏せを使ってよくばれないものだと不思議に感じられる。
>実際敵軍も島津軍の釣り野伏せを先に読んで、
>囮にわざと誘い込まれた振りをする「釣り野伏せ返し」を行い、
>伏兵隊を蹴散らしている。
>だがその伏兵こそが真の囮で、気がつけば第2段目の包囲網で殲滅する
>「釣り野伏せ返し返し」に掛かっている事となる。
>つまり島津軍と戦う敵は釣り野伏せを意識すればするほど、
>目の前の敵に対する強い緊張感と疑心にとらわれ、
>結局、釣り野伏せから逃れる事はできなかったのである。

釣り野伏せって奥が深い

ttp://yoroiou.hp.infoseek.co.jp/simazusenpou.htm
108無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:07:21
70年代だっけか、大学生が反乱超した時、釣り野伏せで撃退したことあったな。
その時の指揮とってた人が島津は凄いって褒めてたよ。
109無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:10:14
釣り野伏せは相手の戦力、位置、自軍の将兵の力量など色々な条件が揃わないと出来ない
高等戦術
110無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:20:43
突っ込むことしかできない謙信だったら簡単に引っかかりそうだね。
111無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:20:45
武田の騎馬隊って言っても馬に乗ったまま突撃やらはなかった。恐るべきは
機動力と輸送力
112無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:22:34
なんか美濃より東の勢力と島津が戦ったら島津勝ちそうだな。
113無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:41:04
釣り野伏せ
兵の一部を率いてAが敵と互角に戦いながら退いていきある所まで退いたら
茂みなどに隠れている部隊Bが鉄砲や矢を連射。Bが撃ち終わったらAが敵に突撃
その間にBが準備を整えAが退いたらそこで連射・・・を繰り返し敵を殲滅する戦術
ちなみに現代戦術にも取り入れられたりしており、島津家の戦術の高さを称えている
114無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 01:02:16
なんか島津スレ化しとるなw
ところでその最強の島津の義弘や家久の生涯戦績ってどうなのよ
いまいちわからん
115無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 01:07:48
>>76
正をもって合し、奇をもって勝つ
孫子じゃん
116無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 01:27:37
話戻してすまん。車懸りなんだけど、
左右どちらかに戦力を集中、縦列で並ばせて突撃、
先頭の部隊@が敵と接触、敵が引いたら@も離脱、
後ろに控えていた部隊Aが前に出て突き崩す…以下繰り返し。
斜線陣戦術の応用って感じかな?こんなのが頭に浮かんだ。


@○○○○
A
B
C

イメージ的には体育の授業でよくやった馬とび。
117島津体罰:05/03/08 01:45:15
長宗我部元親が釣り野伏せとよくにた戦法を使っていたが
羽柴秀長に敗れているし、九州討伐のときも島津義久・義弘・家久
が羽柴秀長に敗れて降伏している。
118無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 01:59:21
秀長すげぇ!
119島津体罰:05/03/08 02:06:31
しかし数が違いすぎる。羽柴秀長15万対島津軍2万。
120無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 02:07:53
>>117
敗れたというのは、戦術レベルだっけ?
121島津体罰:05/03/08 02:15:49
島津軍Aが退いても羽柴連合軍が追いかけていかないため
島津軍Bの役目ができなく、じりじりと羽柴軍が数に物を言わせ
迫っていったため釣り野伏せが戦術にならなかったそうです。
122無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 02:44:42
何回もやったらさすがに釣られなくなるわな
123川中島再現:05/03/08 12:43:52



▼→
↑ ▼→
↑   ▼→
↑    ▼
↑    ▼
↑   ▼←
↑ ▼←
▼←




▲ ▲ ▲ ▲ ▲ 
  ▲   ▲
124無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 12:44:34
うまく出来なかった・・・・・・。スルーしてくれ
125無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 19:09:00
>>122
耳川の合戦で死にそうな目に合った大友義統が九州征伐の時に
豊臣家に助言していたからね
身をもって島津の戦法を経験した者の助言は豊臣軍を大いに助けた
それに黒田官兵衛の九州の大名・豪族たちへの離反工作の成功で
豊臣軍が九州に到着する前に島津家は孤立していた
それに豊臣軍は15万とも20万ともいわれる大軍ですから
もう島津家に勝ち目は無いよなあ
126無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 19:38:12
てか釣り野伏攻略されたらなにも出来ないのか?情けないな島津芋は
127無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 19:40:24
>>126
すてがまり
128無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 19:43:55
島津最強だの釣り野伏せ最強だの言ってる輩の気が知れないな
勝ち戦だけ宣伝してるだけっぽ
129無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 21:11:36
>>113
つまりはゲリラ戦か?
130無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 21:29:05
>>129
自「おっとっと、おっとっと、これはかなわん」
敵「ぬうっ逃げるか!卑怯者!!」
ジャーン、ジャーン、ジャーン
敵「げえっ伏兵だ!!」

131無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 21:29:43
>>128
このスレで釣り野伏せを実践してるんでしょ
132無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 22:43:34
島津家みたいに〇〇戦法とまるでマニュアル化して実践していた大名家って他にないんじゃないか?
釣り野伏せのほかに繰り詰めの法、穿ち抜けの法、ステガマリなど
マニュアル化して武将や兵を普段から戦術に習熟しておき、必要に応じ即座に戦術を繰り出していたのだろう
薩摩は人口が少ないから寡兵で戦うことが多かった島津家は少ない兵を一騎当千のつわものに育てる必要があったのだろう
133無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 23:01:28
覇道と王道という言葉がある
本来の意味の王道なんて実践できた人物は戦国時代にはいないが
王道に近いのが武田信玄と徳川家康だそうだ
領土を広げるのは遅々として遅いがしっかりと人心掌握をしていく

その対極にある覇道、戦はメチャ強いが危うさがあるのが覇道
織田信長、上杉謙信、島津義久、伊達政宗など覇道の面子だろう
134無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 23:06:06
それ領土を広げるのは遅々として遅いことへの言い訳
135無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 23:13:13
武田勝頼なんかも覇道っぽいな・・・ってか覇道までいってないのか
長篠までは連勝街道まっしぐら(18連勝だったか?)
でも危うさがもろ露呈
信玄と違う戦略により最後は家臣からも人心からも見放されてるし・・・
136無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 23:32:21
婿を裏切るのが王道か…
137無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 00:43:03
>>132
原始的で攻略の目処が立ちやすい戦法ばかり
使える地形が限定されがちだし、そもそも敵に手の内が知れたら一巻の終わりの芋ゲリラ。勢いに任せて勝ち進んだが、九州制覇が限界で本州では勝てないだろう。でも天下人秀吉に挑んだ蛮勇さだけは誉めてつかわす
138無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 00:46:54
>>133
何度も何度も反旗を翻され、背いた者は徹底弾圧しまくるのが王道ですか?
139無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 08:05:22
>>137
そんなこと言ったら当時の戦術なんてすべて原始的だ罠
140無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 08:11:42
信玄だけが王道なんて明らかに釣りだろ
家康だって違約権謀を遠慮なくつかってるし
141無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 08:26:02
諏訪侵略の過程なんて覇道そのものだしな。
もっともこういうと信玄厨は
「信玄公は天下のためにあえて涙を呑んで非道な振る舞いをしたんだよ!」
とかいいだすのだが。
1421 ◆Gdyz0zIfvk :05/03/09 14:07:41
戦術についてカタロウ
そりゃあ王道・覇道という政治方針は、戦略ひいては方針の末端にまで影響しますが…
143無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 14:12:08
まあ王道とか覇道とか言う評価は、はっきり言って無意味だな(少なくとも6世紀には本場の中国ですら使い古されてる
王道だろうが覇道だろうが、その評価はそんなの関係なく別のところからされる。
144無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 19:51:25
>それに豊臣軍は15万とも20万ともいわれる大軍ですから
>もう島津家に勝ち目は無いよなあ

秀吉と秀長に分かれた上に各地に展開してたので
大軍が終結したことはないですよ。

http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1071844610/265

265 :無名武将@お腹せっぷく :04/04/17 15:22
【根白坂の戦い】1587年4月17日
島津義弘・家久が日向根白坂で宮部継潤と戦うが敗れる。さらに新納院高城でも島津軍が豊臣秀長軍に大敗。
ぐえええ、つらい記念日だ(つд`)
145無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 21:20:58
「ジパング」の1対40の回は何回観ても気持ちいい
島津も「島津戦記」とかいうタイトルでアニメ化されないかなあ
そうなったら5000対200000の回は何回観ても気持ちいいだろう
島津軍の想像を絶する強さに驚愕する明軍
数の割合も丁度符合しているなんて驚き!
あの時代において島津軍はイージス艦なみの強さだったんだな
146無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:02:42
お伽話ですか?
147無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:13:00
安宅船を大量投入すれば信長天下人になれたのに・・・
148無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:16:09
そおいやあ鉄鋼船ってどんなもんだったんだろうな。
ルイス=フロイスが驚いてんだかしてんだから結構なもんだったのかなヤッパ?
149無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:17:36
ルイス・フロイスはどう書いてあるのだ?
150無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:26:39
決戦3のオープニングに安宅船出てくるケドアレってカナリ形ちがくね?
もっと質素な気がしたが・・・。んまぁ、ゲームだしねぇ、明智光秀の甲冑もどうかしてるしw
151無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:48:14
安宅船って実在したのかな?
実在したのならなぜ朝鮮の役の時に亀甲船と戦わなかったのだろう?
いい勝負したと思うのだが
152無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:50:08
>>151
亀甲船自体の能力は非常に低いから楽勝。(意外と知られてないんだよねこれ
153無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:51:00
確かに、九鬼の言うこと聞く奴らで編成されてたらってとこだな。
154無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:54:01
>>152
亀甲船ってどんな船だったんだ?
155無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:54:23
152だけど
非常に低いは言いすぎたかもしれん。
一般的に言われてるほどのものじゃないってことだ。利点は日本側が圧倒した切り込み戦法に強かったぐらい。
横についてた大砲だのは・・・特に操作性などはそんなに良いものでもなく当時として普通
156無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:55:05
朝鮮征伐に対する軍事分析
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1060085577/
ここに詳しくでてるな
157無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:55:25
158無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:59:39
まあ、あの外観で新兵器!と言われればやる気は出そうだな。単純な思考の持ち主なら。
決定打は、両ハンお得意の言いくるめで、新兵器が如何に今までの兵器と違い優れているか利点を説くかで決まりだ!
まあ実際利点もともなったわけだしナ。
159無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:03:06
ここまで読むと、やっぱ戦国時代の日本は世界の中でもかなり強い国だったってことでいい?
江戸後期になってどっかの国の人が「今の日本はトラの足に大きな鎖がかけられている状態だ」って記したらしいけど、
やっぱり江戸時代の鎖国と戦争の無い時代が日本を弱くしたのかな?
160無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:09:57
東アジアでは明・朝鮮の次ぐらいに強かったんじゃないかな?
161無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:18:08
>>160
実際はこんなもん
明>>日本>>越えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>朝鮮
明に離されるのは、兵の数というか戦闘+戦後処理での場数の違い。
戦術如何ではなく、日本側が戦略しくって+明の場数踏んだ老獪な外交手腕で、
戦闘に勝って戦争に負けそうだ。
162無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:25:55
朝鮮は軍制以前に
奴婢階級が日本軍到着前に首都焼いちゃうような政情不安がつきまとってたから…
単独対決なら日本が勝っていただろうな
でも明は援軍送ってくれたから
163無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:33:03
確かにあのころ辺りからアジアの強国だな。ただ周りのレベルが問題だが・・・
まあ戦国時代(後期)辺りから世界水準にはなってんじゃない?
人口とか生産高、経済水準は産業革命以前なら世界水準だと思われ
164無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:39:32
明のどこが強いんだ?
日本軍にボコボコにされてるじゃん。
朝鮮の方がよっぽど頑張ってる。
ってか中国って外国に勝ったことあるのか?
中国、イタリアほど戦争の弱い国は無いだろ。
165無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:41:09
>>164
釣り?朝鮮軍だけですむならそもそも明軍呼ぶ必要ないじゃん
もっとも明軍は朝鮮人も殺しまくって決して諸手で歓迎されたわけじゃないけどね(特に奴婢階級には)
166無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:42:38
>>164
まあその疑問詞に反対は全くないが、総合的な観点からの意見を述べたまでさ
167無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:44:48
まあ今のご時世バカな反日に扇動されまくった無意味な嫌シナが多いんだよ
168無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:46:07
日本戦国>>>越えられない壁>>>明
とでもやっておけば満足したと思う。
169無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:46:40
>>165
援軍いるかいらないかなんてきいてねーよ。
明のどこが強いんだって聞いてんだよ。
アホかオメーは
釣り?じゃねーんだよボケ!!!
170無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:47:36
イタリアは、中世に入ってカス(兵質)に成り下がったね・・・まあこれは言いすぎだろうけど
ローマ時代と比べるとなんとも情けないやら悲しいやらorz
171無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:48:37
>>167
それは確かだな。
きちんと事実関係を考えた上で反中共を唱えるべきだと思う。
172無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:49:16
第二次大戦のイタリアは凄いよな。
負けて負けて負け続けて終わってみたら戦勝国。
173無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:49:27
皆のものスルーする相手はわかってるこの場合
174無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:50:23
630 :名無し三等兵 :04/07/25 01:16 ID:???
現在「倭城」といわれている城塞遺跡は、
秀吉政権が威信をかけて築造した「仕置きの城」である。

日本軍は開戦当初は朝鮮側の邑城(城塞都市)を一部日本式に改修して使っていたが、
明軍の重火器部隊の前で平壌邑城がもろくも潰え去った経験から、
永久要塞としての「仕置きの城」は純日本式のノウハウを結集した築城となった。
朝鮮の邑城は塁線を一周させただけの単純な構造なので、
巡らせた城壁の一部でも破られると全体が瓦解する脆さがあった。

倭城の大半は、江戸時代初期に多く見られる「平山城」の構造をとっている。
山城部分と平地の居館、港部分を長大な城壁(登り石垣)で連結し、
その城壁内に何万人にも上るであろう将兵を収容できるように、
段々畑のように加工し、たくさんの曲輪(防御された平坦地)をつくった。

防御面での空堀・竪堀の多用も倭城の特徴である。
織豊系城郭では石垣造りが基本であり、
中世城郭の防御施設である空堀・竪堀はあまり見られないが、
倭城では周囲が全て敵という極限の軍事的緊張下にあったため、仕える技術は全て用いた。
日本国内では石垣と竪堀の併用は見られないが、
倭城では石垣の外部に竪堀で二重三重の防御線を構築している。

このほか天守の位置も特徴的である。
日本国内では、城主の権勢の象徴又は司令塔として最後の根拠地となる位置にあるが、
ほとんどの倭城ではその天守が最前線に位置し、いわばトーチカの役割を担わされている。

以上、「秀吉の野望と誤算−文禄・慶長の役と関ヶ原合戦−」(文英堂)より抜粋。
175無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:51:01
つうか鉄鋼船の話に戻してよいか?誰か詳しい香具師はいないのかえ?
176無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:51:26
608 :名無し三等兵 :04/07/11 02:04 ID:???
碧蹄館会戦についていえば、
合戦参加者である天野源右衛門(当時立花家臣)が覚書を残していて、
それには敵の軍勢を「二万余」としている。
江戸時代に書かれた軍記物語の類では明軍の兵力が誇張される傾向があるようだ。

一方、蔚山包囲戦を明の史書はこう記している。
「この戦いはこれを謀ること数年、海内の全力を傾注し、
朝鮮通国の兵を挙げたにもかかわらず、一旦にして委棄してしまった。
後に敗報が明京に至るに及び、朝廷をあげて恨みなげいた」

当時の明朝が必死で戦争をしていたことがよくわかる。
江戸時代の人にとっては、ほとんど世界そのものであった大明帝国の
国の総力を挙げた反撃が、兵力4〜5万だったなんて想像もつかなかっただろうから、
仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけど。。。
177無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:52:15
>>174
乙!そうやって抜粋してくれると、必要なとこだけ見れてあり難い。
178無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:53:34
イタリアは弱いというか士気の問題だろ。
その起源は10世紀にまでさかのぼっちまうが・・・
スレ違いなんだがそれだけは言っとく。
179無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:57:41
>>178別にいいんでない?シナ=弱兵説に考察が及ぶと思うし、あらまし説明してみても
つまり、当時の明軍の弱点を考えるひとつの参考にはなると思うし
180無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 00:01:50
手伝い戦で士気が低いのは万国共通だろうな
それでも明軍の火砲は脅威だっただろう
日本では火縄銃は量産されても、大砲はそれほどじゃなかったから
これは水上戦にも影響するが
181無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 00:03:58
■ちなみに176に対応するレスがこれ■

598 :名無し三等兵 :04/07/02 15:54 ID:???
ttp://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/buhen/buha086.htm

面白いもの見っけ。武辺咄聞書。

>大明の李如松三十万騎にて来る。
>首数三万八千余隆景一組へ討取

首数三万八千余って、泗川での島津隊の首級とほど同数だ。

599 :名無し三等兵 :04/07/02 15:56 ID:???
ちなみに立花家の報告は「40万人」

実際は2万の軍勢だから、どこも15倍から20倍で編纂してたのかな。
182無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 00:06:08
後方部隊・かきあつめた労役夫を加算したとしても多すぎだよな
183無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 00:09:39
まあ当時の日本も報告書みないな事務的な書類以外。
徳川幕府筆頭に家史とかのたぐいは結構眉唾だよね。情けねえ…orz
184無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 00:25:33
格下勢力にあっさり制圧されてるけどな<明
185無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 10:17:23
>>114
878 無名武将@お腹せっぷく sage 05/02/22 23:39:49
釣り野伏は実際にある。方法は>>849の通りの伏兵戦術。島津氏のお家芸の一つ。
羽月の合戦以降家久はこの戦術を会得し、磨きをかけていく。そして数々の戦場で使い
戸次川の戦いなどにおいて使用している。

 〜羽月の合戦 永禄十二年五月 家久弱冠二十三の時〜
忠平(義弘)や肝付兼寛、新納忠元らと相談し伏兵を二ヶ所に隠して菱刈勢をおびきだし
殲滅をする作戦をたてた。家久みずから囮を買って出た。雨の中、家久は三百余りの兵に
蓑笠を背負わせたえうえ、米俵を背負わせ、百姓に変装させた。
そして背負子の中に刀を背負わせた。一行が菱刈の居城大口城を通過しようとすると
案の定、城から城兵が出て来て一行が運ぶ兵糧を奪おうとした。それを見た家久は家来たちを
ゆっくり伏兵のいる方向に走らせ、わざと追走を許した。伏兵の陣の手前にくると
家久は一転して逆襲を命じた。それを合図に忠元や兼寛らが左右から躍り出て敵を包囲しながら
攻め立てた。家久自身も馬上の武者を討ち取ったのをはじめ、百三十六の首級をあげる大勝利だった。

あと家久は白兵戦で無類の強さを誇る。天正元年七月、肝付勢三千に奇襲をかけらた。
搦手口を三百で守っていたが兜を脱いで肩口にかけ、三尺あまりの剛刀を振るい
わずか二、三人の郎党を引き連れ打って出た。敵方の川南刑部左衛門、田辺田清左衛門と
いった、豪の者が家久に立ち向かったが家久の自慢の剛刀で二人の兜の鉢を砕けといわんばかりに
打ち据えた。この乱戦で家久は胸や腹に十三ヶ所もの疵を負ったという。
186無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 10:18:04
879 無名武将@お腹せっぷく sage 05/02/22 23:42:20
そして天正六年三月、永年日向を支配した伊藤氏は豊後逃れた。家久は伊藤氏の有力支城だった
佐土腹城城主となった。家久は日向方面の総指揮官に任じられた。それは豊後の大友との対決も見越した決定だった。
同年十月、四万といわれる大友勢が国境を越えて日向に攻入ってきた。攻防の焦点となったのは新納院高城である。
家久は早速きかの地頭、吉利忠澄、鎌田政近、比志島有国らと共に高城に入り篭城した。総勢三千余り。
大友を小丸川で破ったこの合戦は「釣り野伏せ」の典型として語れる事が多いが、何より大友の大軍に対して
二十日以上持ちこたえていた高城の抗戦が特筆される。十一月十二日の決戦で家久は場外の見方に呼応して
出撃し、大友方の横腹を突いた。これが勝利に貢献したという。

島津氏の九州制覇の原動力は家久の武功といっても過言ではない。
なかでも島原沖田畷合戦ろ豊後戸次川合戦は双璧であり家久の戦術の集大成だった。


亀レスだが島津スレより引用
187大友スレにも:05/03/10 11:05:56
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1106302288/

161 :無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 18:55:06
豊薩戦争の英雄

志賀太郎親次
豊薩戦争の折、肥後口から豊後に侵入してきた島津義弘軍3万7千の軍を恐れ内通しようと
した父を切腹させ岡城の城主となる。島津軍は兵をいくつかに分け岡城他の豊後の各城を
同時に攻略する作戦にでたが、岡城(千の軍と言われているが7万石×300で実際は2千くらい
あったと思われる)に攻め入った軍(新納忠元が指揮したと言われている)は3度に渡り撃破され
しかもその内の1戦においては島津得意の釣り野伏せを模した戦法で破られるという屈辱を受け
ている。岡城攻略をあきらめた島津軍は稲富新介に5千の兵を与え志賀軍に備え主力を北上さ
せるが、功を焦った稲富は独断で岡城を攻め親次に散々に打ち破られた。

佐伯太郎惟定
豊薩戦争の折、日向口から侵入してきた島津家久軍(これも約1万の軍をいくつかに分散し佐伯
栂牟礼城(2万石×300で600+伊東家の残兵等で千くらいか)には家久の子豊久が攻めてきた)
島津からの使者を切り惟定は伊東家からの客将山田匡徳と組み惟定が正将として豊久軍に正面
から当たり注意を引いたところを匡徳が奇将として奇襲をかけるという戦法(立花道雪の正と奇の
軍法を模したと思われる)で島津軍を撃破した。
188無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 15:05:18
志賀親次は半島での活躍がマイナスイメージだな
189無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 15:38:28
2万人の委員を設け令状無しで捜査できる人権擁護委員会

組織というものは必ず腐敗するものであり、腐敗を構造的に抑える
仕組みがなければ、5〜10年後には必ず公的な権力を持った最悪の圧力団体になり
下がっていることになるだろう。

☆「人権擁護法案(言論弾圧法案)」の凄い簡単で分りやすいFLASH

http://nzm-gm.com/zinkenyoug.html

■人権擁護法案廃止作戦総司令部14■
http://ex7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1110356742/l50

サルでも分かる?人権擁護法案
http://blog.livedoor.jp/monster_00/
190無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 19:34:03
>車掛りの陣
肥は、方円の陣を改良したって説とってるよね。
191無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 21:51:09
戦国時代の戦は主に石投げ合戦であり、
槍や弓や鉄砲が使われた戦いは少ないと聞いたことがある。
192高坂:05/03/12 23:48:50
側面攻撃に一言 気づけよ
193無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 00:21:11
>>192気づいた時にはすでに遅し。行われないことが大原則。
194無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 12:58:28
age
195無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 13:48:58
>>188
それには諸説あるらしい。別人が何人も。
196無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 06:32:33
保守上げ
197無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 10:35:16
戦国時代の遊軍?って具体的にはどんな仕事をしていたの?
どんなところにも対応できる機動部隊みたいな奴?
198無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 00:20:38
>24
騎兵のみの集団運用は時代は下るが今年の大河の主役様がよく使ってたかと思われ
199無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 23:43:08
北畠顕家も使ってなかったっけ?
200無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 00:12:18
つかってたようなつかってなかったようなわからん
201無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 00:19:51
動く城。それが最強の戦術
202無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 00:42:28
ハウルかよ
203無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 02:39:38
>>202
ワロタW
204無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 09:40:46
いやママトトかもしれん
205無名武将@お腹せっぷく:天正433/04/01(金) 19:52:27
>>188
なにしたの? 
206無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 23:23:32
age
207無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 01:02:18
>>184
その格下に征服された中国の国を、
日本人は一度も完全征服できてないけどなー。
208無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 08:48:31
>中国の国をって・・・。
三国人乙w
209無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 18:19:21
>>207-208
放置プレーテ辛いよな
210無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 20:36:35
>>208
いみわからん。
211無名武将@お腹せっぷく・某セールスマン:2005/04/24(日) 22:02:27
話は変わるが、初歩的なことを学びに来た。
伊達政宗が使った?
「騎馬鉄砲部隊」はどれほどの威力・効果があったのか、
そもそも騎馬隊の強さの根本はなんなのかを、知りたいのだが。
勝手な自説でもいいので、とりあえずレスお願いします。
212無名武将@お腹せっぷく:2005/04/25(月) 01:26:15
馬上筒を見て貰えれば判るが、
とても短く、当然射程距離も短い、射程は30m、殺傷距離は15mと言われている。
大体二通りの戦法があると言われていて、
一つは集団で発砲し、弾幕を張って相手方を混乱させた後に突撃という方法。
一つは隙を見て突撃、その後の至近距離からの集団で発砲すると言う方法。

前者は戦列を崩し乱戦に持っていく事が目的、
後者は突撃し、乱戦に持っていった後に効率的に打撃を与えることが目的。
213無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 05:49:28
良スレあげ
島津の戦術は今でも使えそうな感じですね
214無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 09:51:36
>211
騎馬鉄砲隊なんて創作。
>212
前者はともかく後者は・・・、
騎馬が隊列組んで突入後一列に並んで発砲なんて無理だし。
突撃後なんかに至近距離から発砲したら敵はおろか味方も大混乱するけどな。
215無名武将@お腹せっぷく:2005/05/22(日) 02:16:45
>>214
>突入後一列に並んで発砲なんて
そら、無理。
乱射に近い形で、あまり狙いをつけずに放つらしい。
目的は敵陣を徹底的にかき回す事にあるからな。
216無名武将@お腹せっぷく
>>213
囮を出して敵を誘い込む釣り野伏せ、一人一人捨てていく捨てがまり。。。
いまやったら、確実に人権侵害だなw