946 :
世界@名無史さん:2005/04/10(日) 01:51:15 0
傭兵中心であったヨーロッパの論功システムを論じる必要性がない。
948 :
世界@名無史さん:2005/04/10(日) 15:38:27 0
>>946 傭兵中心からくる論功行賞システムと日本のシステムを比較する必要があるんじゃ?
ヨーロッパの傭兵は傭兵隊長と領主が契約する仕組みだ。
働きがいい傭兵団は値段も上がる。
これは論功行賞のシステムだろう。
隊長は作戦立案にも関与するし、実際、戦場では広範な指揮権を持ってる。
まぁ、日本にも傭兵集団みたいな存在はいたが。
949 :
世界@名無史さん:2005/04/10(日) 18:33:11 0
要するに、何一つ良い材料が無い欧厨が、世界一周だとか事実捏造の人格攻撃に出て事実上の終了、と。
・・・インドの手首塚(ボソ
インディアンとかマヤとかインカとか、モンゴロイドが南北アメリカ大陸にいたんだから
みんなみんな、すごい昔にあめりかまで行ってたんだよ。
がんばればみんないけるんだよ。
952 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 04:01:47 0
このスレッドではよく朝鮮出兵の時の事が引き合いに出されるが、
徳川、上杉、伊達、佐竹などの東国大名が参戦していない事を、
考慮に入れなければならないのではなかろうか。
ま、もっとも、大局に影響がなかったのかも知れないが・・・・
>>950 世界一周これ事実
まぁ、頑張って教科書書き換えや
お前一人だけな
世界一周は事実だろうね。マゼランは偉いなあ……って途中で死んでるけど。
では、そういうことで、戦力比較の話に戻ろうか。
当時のヨーロッパってオスマン朝に圧迫されてしかたなく海に活路を求めたんだよな。
しかも、やってる事といえば空き巣みたいにまともな軍隊のいない地域をピンポイントで
占領しただけ。
ようするに弱かったんだよ。
未開人を征服できる程度の力はあったけどユーラシアの文明国と事を構える力はなかったみたいね
18世紀後半ぐらいになるまでは
>当時のヨーロッパってオスマン朝に圧迫されてしかたなく海に活路を求めたんだよな。
圧迫ではないね。
インドとの香辛料貿易で途中にあるオスマン・トルコがマージンとってたから、
直貿をしようとアフリカ大陸南回り航路を開拓したのがポルトガル。
同じくインドとの直貿目的で西回りで行こうとしてアメリカに行き着いてしまったのがスペイン。
トルコとの軋轢で最たるものは、第二次ウィーン攻囲であるが、
攻囲していたトルコ軍に対して、当時ヨーロッパ最強の陸軍国であったポーランドがなだれ込んで蹴散らしてからは、
トルコはしばらくヨーロッパ内部には進出していない。
>>957 実は当時のヨーロッパは未開人に対しても大して強いわけではなかった。
1569年にポルトガルはアフリカのジンバブエ高原を征服しようとして
1000名の部隊を送り込んだが、現地のアフリカ人との戦闘やマラリアで
消耗して結局は失敗した。
その後、交易やキリスト教の布教などで、1629年には何とか現地の王国に
ポルトガルの臣下になることを認めさせたが、アフリカ人が槍や弓に加えて
新たに盾を使うこと覚えると、1684年と1693年の戦闘でボロ負けし、
撤退に追い込まれている。
産業革命以前のヨーロッパ人の戦闘力なんて所詮はこんな感じ。
960 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 20:09:36 0
>>958 だから、オスマン。トルコを打ち破って最短インド航路を確保できてないってことやん。
961 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 20:24:54 0
>>958 「撤退」ではなく「転進」
みたいな事を言ってるぞ、おまい
962 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 20:56:58 0
大航海時代の開始(1492年)と第二次ウィーン包囲(1683年)では、
200年近いタイムラグがある。
武力で圧倒できる実力があるならそんなに待つのか?
963 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 21:07:08 0
>>960 結果的にはそれが欧州の発展につながったわけだが。
964 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 21:57:58 O
このスレは十六世紀のお話でしょ?
誰も十八世紀の話はいらないんじゃない?
せめて十七世紀までで止めよう。
じゃないと二十世紀までいきそうだから
オスマン‐トルコ云々よりも
イタリア商人の独占に対して海へ出る欧州諸国
なんでないの?
966 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 22:16:58 0
戦国期日本と欧州列強の戦力比較については
戦国期日本>>>超えられない壁>>>欧州(×列強)という結論が出ている
あとは1000まで埋めるだけだからな。
約一名必死なのがいるから生暖かい目でいぢっているという流れだ
967 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 22:19:33 0
>>966 それ以上じぶんの白痴ぶりを晒さない方がいいよ。
ご苦労様。
>>962 ロシアはわからんけど、ハンガリーやポーランドといった、
トルコに近い国は、トルコ攻略なんて興味なかったからね。
じゃなぜ第二次ウィーン攻囲のときはポーランドが出てきたかというと、
それはトルコが攻めてきたからであって、
トルコがバルカンへ撤退したあとはそれ以上深追いする気もない。
いや、ポーランドは対トルコ十字軍でヤン3世が頑張っただろw
どっちみち兵站が続かなかったし、政治的には王権が強い国じゃなかったからどうにもならなかったけど。
(選挙王制の国だったからな。)
財政的にもどうにか出来るようなものでも無かったけど。
喜望峰なんて大航海時代から2000年前にフェニキア人が到達してるな
971 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 22:47:40 0
最初はコテが沢山集まって良スレになるかと思いきや・・・
とんだゴミスレに・・・やっぱ歴史オタごときじゃあ結論でないわけね。
戦術系はミリタリー板じゃないとダメなわけだという結論が再確認できたスレだった
軍板に似たようなスレがあったけどどうなったのかね
議論というか最初から相手を貶めることが目的の奴がいるからなぁ
975 :
世界@名無史さん:2005/04/11(月) 23:40:23 0
976 :
世界@名無史さん:2005/04/12(火) 00:26:40 0
歴史的に日本では、戦時下での敵兵の虐殺や捕虜の処刑くらいならともかく
わざわざ虐殺のためだけに兵を送り敵を根絶やしにしようとしたり、捕虜から民衆まで片っ端から皆殺しにした指導者は織田信長くらいだ。
それは中世以降、日本が異民族との対決に迫られたことが無かったからだろう。
民族間の対立というのは非常に根深いもので、ヒトラーがユダヤ人を抹殺することをユダヤ民族問題の最終解決だと信じたのも無理がないくらいこの問題は長くそして根深く尾を引く。
朝鮮半島と日本の対立が、いまの日本が経験している最大の民族問題と言えるだろうが、その感覚をもっている日本人は非常に少ないな。
>>976 豊臣秀吉も朝鮮の役で一般民衆まで皆殺しにしているよね。
俺としては信長の比叡山焼き討ちや一向宗に対する根切りについては、
彼個人の性格の問題というよりも、戦国時代に非正規軍との戦闘では
相手を皆殺しにするみたいなセオリーがあったのではないかと思う。
徳川家康だって三河の一向一揆や島原の乱に対しては虐殺を行なっているし。
朝鮮の役でも朝鮮正規軍よりも義兵のゲリラ活動の方が問題だった。
もっとも、一般民衆の武装闘争に対して虐殺で対抗するというのは、
古今東西ほとんどの戦史に共通している戦い方だけど。
978 :
朱由檢:2005/04/12(火) 01:30:48 0
戦国時代において、通常は話し合いで開城するケースが多い中、
織田氏の勢力拡張スピードが速過ぎて仲介役が不在だったことが
屠城に至った大きな要因みたい。
朝鮮侵略時の一般民衆への虐殺は理解できないよ。
戦国時代は女性や子供の首をとることは厳罰対象だったのに
そんな基本的なルール違反を率先してやらないはずなのに
…不思議
まずゲリラってのが大きいよ
ゲリラ戦は敵味方問わずモラルをがんがん下げるから。
というか、一般民衆が積極的に敵対するなら
数が多かろうと何だろうと死んで頂くしかないでしょ。
たとえ女子供でも、徒党を組んで鍬を持って立ち向かってきたら殺すしかないわな。
古めかしい戦を好む西国大名にとっては地獄のような戦場だったろう。
>>977 家康は三河の一向一揆で根切りはやっとらんし、島原の乱は家光の時代だ。
983 :
世界@名無史さん:2005/04/13(水) 06:46:22 0
>>980 一般民衆が徒党を組んで抵抗して来たら、それなりの配慮や譲歩があるのが当然。
軍事は政治の一部であって、民生より優先順位は低い。
そら国内平定戦でやたらと根切りしてまわったら新たな戦力確保できないからなあ。
配慮や譲歩の折り合いがつかなきゃ軍事行動にでるわな。
で、配慮や譲歩で折り合いつくほど痛めつける、もしくは痛めつけられた時点で手打ち。
折り合いつく事なけりゃ根切りにされるってだけ。
>>983 軍事⊂政治、民生⊂政治、軍事≠民生←これは場合によって優先順位が変わるし
一般民衆が徒党を組んで抵抗するのは、軍事であって民生じゃあない。
986 :
世界@名無史さん:2005/04/13(水) 16:42:17 0
民衆の積極的政治関与を検討すれば 必ず出て来る問題だね。
不当だと民衆に判断された政権を打倒、もしくは統治能力を無力化するための民衆の行動を 平和的に実現させるための制度が 直接/間接民主制における投票制度といえるだろう。
987 :
世界@名無史さん:2005/04/13(水) 19:22:11 0
国民国家の概念もない時代に、李氏のゲリラ抗争があったかは怪しい
988 :
世界@名無史さん:2005/04/13(水) 19:38:35 0
国民国家の概念は儒教の影響で欧州にもたらされた。
中韓越は儒教による中央集権/華夷思想で国家を形成していたから、欧州より早く国民国家の概念に近い政体を形成していたといえる。
日本は徳川政権下で儒教思想による国家思想が形成されるが、分権型連邦国家の途を進み、幕末になって国民国家という概念を欧州経由で受容したため、中韓越とは異なる政体となった。
んなもん一揆だろ。
990 :
世界@名無史さん:2005/04/14(木) 05:44:26 0
>>987 支配者に対する反感
異民族支配に対する反感 は有ったでしょう。
それが、農民反乱となって、日本軍を襲撃したのでは、
991 :
世界@名無史さん:2005/04/14(木) 11:34:53 0
>>977 島原の乱では、あの地方の民衆の大部分が参加した反乱だったからな。
他の地域にまで波及しなかったのは、島原の大名のキリスト教徒弾圧を体面とした圧政への反逆だったからだ。
何しろ、藩の規模を無視して幕府に対して過大な分担金を約束していたものだから、領民への負担は激しく他の地域より何割も増しの年貢を納めることを強いていたのだ。
そうして生き地獄があの反乱に繋がったのだ。
それでも結局のところ、向かって死ぬか座して死ぬか、彼らに待っていたのはそういう状況だから、向かって死んでいっただけだよ
992 :
世界@名無史さん:2005/04/14(木) 11:37:41 0
>>988 朝鮮半島の場合は中華思想の影響をモロ受けていたからな
中国の一地方との認識はあっただろうが、民族や独立国としての認識については自ら否定していただろう
前近代的な民族国家の概念が定着したのは、日本の場合は明治維新からだろうが、韓国の場合は戦後の独立からだろ
993 :
世界@名無史さん:2005/04/14(木) 16:58:20 0
島原の乱は、武士としての特権を剥奪されることを恐れた土候(国人)の反乱。
土候が支配する領域の民衆を無理矢理動員したにすぎず、圧政に対する反乱ではない。
明治時代の西南戦争に近い形だ。
994 :
世界@名無史さん:2005/04/14(木) 18:38:04 0
それがたまたまキリスト教の皮をかぶってたって事?
しかしキリスト教なんかを旗頭にしたら幕府としては絶対に放っては置けなり、
土人もろとも士候も殲滅される以外道がなくなると思うが。
そういや、「17世紀危機論争」ってのもあったな。
すっかり忘れてたけどw