1 :
無名武将@お腹せっぷく:
関羽厨は読んでね
・蜀以外の記録 特に曹仁・呂蒙の記録くらい調べておきましょう
・関羽は将軍として活躍した記録が演義にしか残ってないことを認めましょう
・白馬の戦いはあくまで部隊長だったことを認めましょう
・戦いは目的が果たされるまでが戦いです
途中で大勝しても勝ったことにはならないことを認めましょう
・当事の情報伝達速度をしっかり考えましょう
本部はなんでもお見通しなわけではありません
4 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/17 17:42:49
3デスラ
正史・演義、史実・創作にこだわらず語っていきませう。
個人的な名将観を基に、士仁を名将として良いでしょうか?
個人的な名将観
1.勝敗に聡いこと
2.そのためならば裏切りも厭わないこと
前スレの
>>984に対する皮肉に、マジレスされても
前スレの
>>991が1〜3スレあたりで出た関羽に関する結論。
これ以上は荒れるので禁止。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:29:48
マジで士仁は趙雲のような堅実な良将だったと思う
>>10 自演乙
そりゃ欠点・失敗を綺麗に無視すりゃ誰でも名将と強弁できるだろうさ
俺は士仁を名将だとか良将とか思ってないから
ホントに
>>7のカキコは皮肉としての意味しかないよ
なんか
>>11のカキコを見て焦ったよ
士仁と一緒にされたら趙雲がかわいそう
>>13 まあそもそも順位にこだわらずなんだからあんま三位とか
強調する方が荒れると思うのだが。
俺はマジ
趙雲に匹敵とはいわないが、劉備に長年仕えて覚えもめでたい将だったろうね。
敢えて言うなら陳到に近いか。
関羽厨が暴れるだけならともかく、荒らすからそれを宥めるため3位にしたんだがな
もしかして根拠を問われて史料をだせんかった恥かしい関羽厨がまた暴れて…おっと、相手にするとまた荒しだすか?
>>17 その関羽厨はどうか知らんが、
前スレの
>>991には史料的な根拠は充分。
関羽3位の理由はおまえの言うようなことで決まったわけではない。
もう荒らしはやめれ。
トウ方のように地味だが失敗らしきものが無い武将のほうが名将と言える
>>18 じゃ、史料提示よろ
ついでに失敗や欠点を無視しくさった前スレ
>>991のアンフェアな態度に対する弁明もな
>>17 悪質な釣りとしか見えない文章だな
荒らすのは姜維厨のヘンな歌がもっともひどかったような・・
むしろこの場を関羽攻撃で荒らしたがってるのは姜維厨とおもわれ。
関羽は結局、呉の謀略に踊らされ、僚友に傲慢で一州をやすやすと喪った
この失敗はでかいな。蜀滅亡の遠因だし
正史の関羽伝でも「性格で身を滅ぼした。自業自得」なんて書かれてるしね…
関羽厨VS姜維厨なのか?
姜維の話題は出てきてないが…?
演義厨が荒らすためにわざと関羽を持ち上げてるんだと思う
関羽3位、姜維5位に決まったことを根に持っているんだろう。
同率3位でいいんじゃない?
魏延には悪いけど。
・・・荒らさなくてもいいと思うんだがなあ。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:53:32
ギエンは軍師だよな
演義厨が「関羽は名将」と言い出してから流れが前スレをまたいでおかしくなったな
話題を変えよう
>>17の文章見るとどうみても姜維厨だよな。
荒らすのはやめれ。
うやむやのまま魏延の評価を下げてやるなよ。
そんな事よりも、自分は趙雲の10位の方が気になる。
「趙雲ファンへの配慮」とかいって討議もされないままの10位だし。
馬超あたりの方が、よっぽど蜀への貢献度は高い気がするよ。
>>17を見りゃ釣りだってわかるだろ?
君たち釣られすぎ
伸びてると思ったらこれかよ。
趙雲は任務に忠実で、失敗が少なく逆境に強い
まず良将といえよう
>>31 それはない。
馬超ファンだがそれはやめとこ。
こんなひどいイントラネッツで馬超を貶めたくない。蜀将範囲外でよろしく。
そもそも順位にこだわらない趣旨なんだから誰が何位とかの話し中心はやめよう。
趙雲別伝をどう見るかにかかってる気がする。
あと、馬超の貢献は劉障の降伏に一役買ったところだけど、どのみち劉障は降伏してた気がする。
荒れそうになったら趙雲話でさわやか回復。
これ蜀スレの常識。
真の名将だw
>>35 馬超ヲタ必死だなw
…じゃなくて、
成都の精鋭3万との交戦が無いままの、短期での無血開城って
蜀漢劉備政権の成立においては、大きいと思うんだがなぁ…。
どっちにしろ劉障は降伏しただろうってのはわかるけど、
篭城で疲弊した成都を得るのと、余力のある成都を得るのじゃ全然違うし。
まぁ、話題にされたくないって気持ちもわかるから、無理にとは言わないけど
荒れるよりは他の話題が欲しい所だ
関羽三位は隔離の意味での三位って、もうテンプレに入れた方がいいかも……
>>38 蜀では余生をすごさせていただきました。
ほとんど何もしていませんし、いるだけで役に立ったといわれても
実際に戦いで命を削られた諸将に失礼です。
蜀では頑張ってませんので勘弁してください。
以後 エンウについての検討に移行します↓
エンウについての議論は案外いいかも
ところで誰か新参者の私に劉備についてこのスレの評価を聞かせてくれませんか?
あれだけの高評価はやはり蜀攻めの功績ですか?
黄巾・荊州・益州・漢中などで勝ちまくったからでは?
センの腰巾着
閻宇と羅憲って個人的なつながりとかはあったのかな?
仲がいいとか・・
>関羽は本軍なきあとの荊州を7年間守った。
まともな侵攻すらないのにわずか七年しかも実質はもっと短い
>顔良・于禁という2人の武将を倒した。
顔良戦はあくまで部隊長としての活躍。于禁戦の最大の勝因は急な悪天候
>中原に気脈を通じた者が多数おり、軍事行動の度に蜂起させて魏を揺るがせた。
遷都を口にしたことと計画したことには天と地ほどの差が存在する
>水軍も率いることができるユーティリティープレーヤー。
水軍指揮と言えるほどの戦いは無い
>以上の点からみて名将として間違いない。
以上の点からみて有能としては間違いないが名将とは言い切れない
>>49 わかったわかったしつこいぞと。気が済んだか?それぐらいにしとこ。
>>48 まあ羅憲は副将となったわけだからなあ。
黄皓との関係についてはすりよってきたのは黄皓の方で、
閻宇自身はきちんと実績積んだような気がする。
>>44 このスレの順位の流れはこうだった筈(叩かれ覚悟)
そもそも蜀に司令官レベル(つまりは万余の兵を率いる将の将奴)なんて何人もいねーよ
ってことで、司令官級が劉備、諸葛亮、関羽、姜維
内、関羽、姜維は欠点が多すぎ、魏スレじゃ曹操が一位なんだし、歴戦の名将劉備がやっぱ蜀でも一位でしょ?
ってことで劉備一位確定
次に幾つか北伐に付いて語って、まぁ、成功はしてないけど、失敗もしてないよね。っていうか、撤退戦の鬼?
魏スレでも司馬っちが二位だし、いや、そもそも諸葛亮の戦術にはかなり見るべきものがあるよ
ってコトで諸葛亮が二位確定
次に話題になったのが、姜維って結局どうよ?って話題で、
いや、確かに滅亡の原因だけど、軍事面だと見るべきものがあるよ、あの軍団の速さは異常だよ、すげぇ大勝だってあげてるよ……etc
等、姜維の隠れた?戦績や考察が起こり、賛否両論、あわや三位か!?というところに
同じ軍団長なら関羽がいるじゃねーか!!と新しい燃料が投下
姜維厨関羽厨アンチ関羽厨が入り乱れ、スレが進む進む……
しまいには「いや、そもそも名将ってなによ?」とスレの根本を根差す問題に発展
取りあえず同率三位にしといて、別の話をしようぜってことで趙雲登場。生暖かいマターリした雰囲気が続く
結局趙雲に関しては手堅い良将ってのは変わらないが、場所に困ることこの上なし。一発屋の霍峻や羅憲は?いや、やっぱ一発だし……
最終的には趙雲ファンの支持も温情に入れての10位固定
張飛、魏延、黄忠、王平のランク順について語られるコトになり、魏延、張飛、王平、黄忠に落ち着く。
そして改めて魏延についての考察ブームが起こり、軍団長じゃなくても魏延は充分見るべきものがあるな、これは姜維より上じゃない?
とめでたく魏延が4位に繰り上げとなる。
が、この頃には「もう順位やめよーぜ……」って気分がスレに充満しておりスレタイ通り、蜀将について語るスレに真の意味でなる
>>51 どのタイミングでかは忘れたが、戦略ランク→戦術ランク→貢献度込みランク
って感じで序列付けの基準が変遷してったはず。
赤壁では劉備に敗れたって曹操が言ってる。
追撃戦をやったのかな?
>>50 おまえスルーしないで諫めたフリってのは
結局、関羽に対する反論が出されるのが嫌なんだろ?
もし本当に別の話題を論じたいだけならスルーできるぞ
結局991で言い逃げした意見をそのまま十分考察することもなく
荒れるからという理由だけで煽りでもない普通の反論すら却下する
これが蜀スレがいつまでたっても低レベル扱いされる理由
折角だから徹底的に話し合うべき
閻宇と羅憲。
語りようがないが語り尽くされてない気もしないでもない。
>>56 別人だが、
散々3スレくらいかけて議論した。
もうループはめんどくさい。
>>991くらいの実績や影響力を残したものは蜀には劉備・孔明以外には見当たらない。
語るほど文献もないしな
蜀スレは低レベルじゃない
世界史板とくらべてどうなんだろうな?
蜀書は記述少なすぎ。
益州入り前は特に少ない。
記録なんて残してなかったんだろう。
>>61 ぶっちゃけ住人がかぶってる。
三国志が好きで、三戦板には来ないで世界史板の三国志スレに行く奴なんて、ほとんどいない。
>>62 まあ敵国のことだしな。
特に流浪してた勢力なんだし、
記録が少ないのも無理も無いと思われ。
>>61 つーか世界史板の三国志のスレってとんでもない蔵書の持ち主いるよな・・
あれはすごい。
蔵書といえば俺はちくまメインだが互換書、火曜あたりは原文ネットで参考程度
訳があるのは参考にしちゃうって感じなんだけどみなさんはどう?
後漢書三国志晋書
中華書局版のみ。検索にはネットを
>>58 それでは納得させられない
何故なら関羽が将だからと言って、その実績・影響力が全て将としての評価につながるわけではないからだ
そのルールでいけば夏候惇もかなりの名将扱いを受けてもいいはず
将軍は戦争するためにいるのに戦争を成功させていない関羽を
功臣として語るのではなく名将として語ることに無理がある
そしていままで議論された時も
>>991の勝ち逃げ発言で終わり続けていることも無視している
最後にひとつだけ言わせてもらうと
大勝したからと言って兵糧を切らす名将とやらを関羽以外知らない
というか勝ったことにならないだろう
70 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 23:12:46
曹操は兵糧が切れる前に、徐州で略奪したり、降兵を皆殺しにしているが
こうすればいいとは思わない。
漢籍電子文献ていいよなー金かけないで原文が読める
武将の順位だけどかなり評価が固まってる武将を基準にして
点数をつけていくっていうのはどう?戦略部門と戦術部門にわけて。
と、流れを読まずにレスしてみる
劉備から評価された、魏延の能力はもっと高く見られるべきだと思う。
蜀のあの状況で漢中を仕切ったってのは相当なものだし。
関羽は部隊長からの脱皮を期待されたが、脱皮できなかったんだと思う。
羅憲は有能だけれど、蜀滅亡と重なるってのがプラスされている感がある。
個人的には霍峻と似た感じの位置ではないかなと思う。
#個人的には張飛が好き。とても優秀な部隊長です。
張飛はやっぱり魏屈指の名称張儁乂を破ってるのが大きいよね
>>74 下弁では陽動を派手にやり過ぎて、失敗してるけどな。
馬超が劉備陣営に入る前の戦績は無視してるんだから
関羽が顔良斬ったのも無視するのが普通じゃないか?
無視って、何を根拠に言ってるんだ
あのヘンな歌おもいだすな・・・
またあれで暴れ出すのだろうか姜維厨
姜維かわいそう
がんばったのに
って奴か?貼ってたのはアンチ姜維か愉快犯だと思うが
まぁ、迷惑
>>73 顔良・于禁・龐徳・・・こんだけ勝てば十分だろ、関羽は。
↑これも釣りとしか思えん
>>81 最初のうちはかなり悪質な荒らし。
ところが途中で白状してたけどな 姜維厨が。
途中からは愉快犯が混じり、あれ改造版の専用のスレがたつほど
楽しまれた(w
関羽って朝鮮半島出身だよ
姜維厨は粘着過ぎな気がするんだが。
もしかして普通に関羽名将論に異を唱えても姜維厨扱いされるのか?
>>87 どうだろうな?
関羽の司令官としての能力に関しては個人的には疑問の残る点も多いが、
武人としての名声などを加味すれば名将の部類に上げても良いと思うけどね。
なにはともあれ糞スレ化するのは間違いない
>>87 もう議論し尽くしたというのが住人の総意。
何を話してもループになる。
>>87 このスレは結構、外野の人間も多いだろうし、
そういう人が時折交通整理っぽいレスしてるから、
すでに話された話題の内容を前提として、異を唱えたレスが厨扱いで
流されるって事は無いんじゃないか?
>>87 うん。そういうことは度々あった
2chだからある程度はしょうがないんだが
>>87 かなりの期間にわたって議論が尽くされ、
もう関羽と姜維の話は置いといて、別の人物について語ろうということに決まった。
でもその議論ももう8ヶ月も前の話しだし、過去ログだって見れないんだから、
ループするのも仕方ない気はするな。
いや、過去ログ読めよ
>>94 当時と違い、今は悪質で粘着なアンチ関羽が常駐している。
こんな状況で議論したくないという気持ちもわかってくれ。
じゃあ劉備の能力でも再検討するか
いいねぇ。
夷陵出兵についてはどうだろう。
かなり大きなマイナスではないかと思うんだけど…
出兵自体の是非と
戦術そのものの是非の両面から、人様の意見を聞いてみたい。
負けたことで国が固まったってことはあるだろうな。
皮肉なことに。
フウシュウとかチョウナンはどれくらいの地位だったんだ?
この戦いにしか出てこないけれど。
>>101 成都の近くでも反乱が起きるようになったし固まっちゃいねえだろ
>>100 出兵自体は是。
益州一州で、大量に抱え込んでる荊州人士とその部曲を食わせて行くのは苦しい。
地勢的に考えても、荊州を確保しなければ、魏への侵攻ルートが雍州・涼州方面に限定されてしまう。
川の上流から下流へ攻めて行くのも、軍事作戦の定石どおり。
戦術としては、深入りした状態で持久戦に持ち込まれて、
勢いを削がれてしまったのが痛い。
夷陵出兵自体は必ずしも最悪の選択ではなかった。
ただ結果が最悪だった。
これに尽きると思う。
個人的な劉備の評。
詰めが甘いところはあるが戦略眼はなかなか。
戦術・指揮能力に関しては不明な点も多いが、劉備個人のみではなく初期劉備軍の戦績を含めて考えれば並より上と見ても差し支えないと思う。
統治能力・根回しなどに関しては特に秀でてるとは思わないが、勢力を何度かリセットされながらも巻き返した実績は賞賛に値する。
純粋に個人の能力を見ればそれなりに有能だが「それなりに」の域を出るものではないといったところか。
諸葛亮は夷陵出兵に反対みたいだったがそこんとこどうなんでしょう。
夷陵は、適度に勝って程よく和睦するのが一番だった。
引き時を間違ったと思う。
結局のところ、一番の敵は呉ではなく魏なんだから。
>>105 表向きは反対していない。
敗戦後に
「法正が生きていたら、陛下を東征させなかっただろう。
東征したとしても、大敗する事は無かっただろう」と言う、
玉虫色のコメントを残しているのみ。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 00:28:05
終戦後にあの戦争には反対でした、という人が異常に多いのと同じかな
この時点で諸葛亮は名実共に蜀のNO2で、政治の最高責任者だったから
荊州を奪って、良いところで呉と同盟を結ぶにしろ、最悪、負けて破れても、その後の対呉外交に支障が出ないように中立発言をしたんじゃないか?
あとは実兄が呉にいるってことも立場を微妙にしたと思われ
>>107 玉虫色じゃなくて、あからさまに東征反対のセリフ。
否定が先でIF文が後の標記の場合、それは「xxxの否定、たとえやむなくxxxしたとしても△△△だろう」
という意味になるので、あくまで「法正なら陛下を東征させなかった=私では陛下をお止めできなかった」が
この文章の主文です。
では、諸葛亮は反対の意思を劉備に対して表明したか否かについては推測するしかありませんが、
第一に主君を諫止すべき丞相の地位にあり、しかも主君が戦死する可能性があるものを何も言わずに
黙っておいたとしたら、諸葛亮は非常に奸悪な人物ということになります。
ましてや、主君が死亡するだけでなく国民(兵)が無駄に死亡し国家が滅びる可能性さえもあるのに、
それを黙って看過するような人物でないことはその後半生が証明していますから、
諸葛亮は反対したと考えるのが妥当でしょう。
おおやけに反対したものとしては秦宓が投獄され(正史秦宓伝)、趙雲が後方勤務に左遷された(正史註)
ということがありましたが、そういう状況を恐れて口を噤むような人物でないことも確かです。
少なくとも正史を見る限りその記述はないのは、できたばっかりの国家でナンバー2である丞相が
皇帝を批判し東征中止を訴えるような状況をみんなの前で行い、国家を分裂・動揺させることを
避けたのか、蜀に史官がおらずかなりの事柄が正史から抜け落ちているうちのひとつであるのかは
判りません。
諸葛亮の人柄と丞相としての責務を考えるなら、劉備に反対し諫止しなかった可能性はかなり低いと
考えていいでしょう。
何よりお留守番してるしな。
馬良とかまで参加してるのにさ。
>>111 劉備が生きているときに諸葛亮は前線に出た?
単にそちらではなにも期待されていなかったのでないかな?
「法正が生きていたら・・・」の台詞から考えても、
謀臣としての能力、もしくは劉備からの信頼は
法正>諸葛亮
であると諸葛亮自身認めているということでいいのか?
そうであるなら、法正が生きてた場合、地位は諸葛亮より上だろう。
法正が丞相になったりするんだろうか。
>>112 蜀入りの際、張飛や趙雲を率いて江州などを制圧してる。
>>112 必ずしも夷陵に従軍すること=兵を率いて戦うってわけじゃない。
馬良だって夷陵に従軍したけど役割は他にあったわけだし。
もし諸葛亮が従軍することになってたら、
兵を率いる以外でも何かしら大切な役目があったんじゃないかな。
>>113 謀臣として優秀なら丞相になれるってわけでもないっしょ。
諸葛亮が丞相になったのだって、国を任せるだけの政治手腕があったからなんだしさ。
劉備から見て、国政に対する手腕や民や重臣からの信頼が、
法正>諸葛亮だったら法正が丞相になっててもおかしくないけど。
>>113 法正生存のことは、軍事面で法正、内政・外交が諸葛亮でしょ。
ただ法正は、内政もできたし蜀科制定にも功があり、人格では諸葛亮に劣ったけど
能力面では諸葛亮以上のものがあった.
でも、人格もまた当時においては能力のうちなので、総合評価(地位)としては
諸葛亮の次でしょ。
劉備が成都に入ったあと、法正は蜀郡太守・揚武将軍として「外は畿内を統治せしめ、
内は策謀をあずからせた」とあるから、蜀郡太守といえば「畿内」という言葉が示すように、
当時の劉備政権における司隷校尉に相当。
諸葛亮は軍師将軍・左将軍府事は左将軍幕府を司る役であり、当時の劉備政権における
丞相役。
見かけ上の順位においても、劉備を漢中王とした表の並び順からわかるように
諸葛亮より下。
劉備が漢中王になったとき、法正は尚書令・護軍将軍となり、諸葛亮にやや並びかけたが
そこで死亡。
結論としては蜀スレでは
一連の戦いの緒戦であっても勝てば将才を認めるというルールがあるわけで
夷陵の戦いでの劉備は評価UPということだな
魏延スレより
> 850 :無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 08:26:45
> 魏延は辛いものが嫌いだったので四川料理は大嫌いだった。
> だから漢中に駐留し、自分たちの軍営で料理を作って暮らせるのがうれしかった。
> 楊儀は丞相長史として漢中へ食料を送る兵站業務を担当したが、わざと辛い料理のための
> 食材を送ったので、魏延と仲が悪かった。
> 諸葛亮の死後、楊儀が実権を握れば蜀軍の食べ物は辛いものばっかりになってしまいかねないため、
> 魏延は西涼料理で育った外様の馬岱を自分の陣営に誘おうとしたが、馬岱は楊儀の
> 「騎兵には西涼料理を支給」という言葉に釣られて楊儀陣営に付き、さらにガチガチの四川料理派の
> 王平が魏延軍を崩壊に導いたため、魏延の蜀の食改革は失敗に終わった。
> もし魏延が政権を取っていれば、甘い麻婆豆腐が食べられたことだろう。
(; 0w0) 歴史の真相は意外にも料理が・・・ってネタはともかく、
蜀に移った荊州人士は四川の文化・風土・料理はどうだったのだろうね?
古くからの劉備政権メンバーは各地を放浪して各地の料理を食ってるから
鍛えられてていいとして、諸葛亮なんかは気候が悪い盆地の成都で辛い四川
料理ばっかり食わされてどうだったんだろう。
だから、北伐に必死になったり、蒸し饅頭作って食っていたのかな〜。
劉備が成都に帰らず永安に留まったのも、成都がいやだったのかも?
乾燥した土地で羌族の遊牧民料理(羊料理)で育った馬超は、蜀の辛い料理と
湿度の高い気候が身体に合わなかったから早死にした?
呉に移った劉璋は、広東料理や上海料理の味付けをどう思ったのだろう?
中国は麦食の北・米食の南みたいな違いもあるし、項羽が関中を捨てたのは
ホームシックの典型だったりするが、三国志世界で文化・気候・風土・料理などの
違いに悩まされた英雄たちもけっこう多いのではないだろうか。
爆笑三国志ネタか
>>110 諸葛亮がはっきりと東征に反対したのなら、なぜ彼は秦フクや趙雲のように左遷
されなかったの?
あなたの否定は「諸葛亮はそんな人物ではない」と繰り返すだけで、まったく
根拠になっていないのだが。
あなたの挙げた事例で考えるのなら、
反対した人物は左遷されている→しかし諸葛亮にはそういった地位の変動は見られない
→少なくとも表向きに反対したとは思えない
こうなるんじゃないか?
諸葛亮は内心反対だったんだろう、ということは解るけど実際に反対したかどうかは微妙。あと何に反対だったのかも。
親征に反対だった?でも他にいないよな・・・
その時は軍事にタッチしてなかったんじゃないか?
入蜀時に援軍の総司令官を勤めたけど、以後は後方勤務か内政畑やってたわけだし
職分外には口出ししない、と決めてたとか
あるいは自分の判断はしたが、それに自信がなかった
だから法正なら…と嘆じたんじゃないか
>>120 >>110じゃないけど突っ込んどく。
「反対したら絶対に左遷」となんで決めつけてんの?
>>110の「左遷」って「降格」じゃなく、「趙雲は、古参であり本来なら先鋒・中軍に起用されてもいいのに後方勤務」って
程度の意味合いでしょ。
それなら諸葛亮だって東征に参加していないのだから、後方勤務と言えなくもないじゃん。
それに表立って批判したのでないのなら、処罰する必要もないわけだし。
そもそも「左遷がないから根拠になっていない」というが、
>>110の推論の根拠は左遷の
有無じゃないだろ。
「反対したのではないか、それは内密なものであったのではないか」と推測する根拠は
「諸葛亮のセリフ、ひととなり、その職務の3点から反対したと考えられる」というのだから、
十分「根拠」にはなっている。
>>118 荊州って四大料理(北京・四川・広東・上海)のうち、どれの影響が一番強いのだろう?
ちなみに俺は広東が一番好きかなー。
ひととなりが根拠に入ってるのは何故?関係あるか?
袁紹のところのソ授とか田豊のように衆目の前で反対しなきゃ、左遷なんてされんだろ。
秦フクと趙雲はそこらへん弁えてなかったから処分を食らった。
そもそも劉備生存中の諸葛亮は後方担当。荊州時代、入蜀時、漢中攻略時、全て。
彼が軍事に関わるようになるのは劉備死後。
東征時に諸葛亮が成都に残ったのって、それまでどおりのポジションでなのだが。
>>123 「表立って批判していない」のに、なんで「諸葛亮は批判している、記録が
残っていないだけだ」なんていえるんだ?その根拠が後の、明らかに演義に
影響されてる孔明像による人格でもって。
それを聞いているんじゃないか?
そもそも>110 は、「批判した趙雲たちは左遷されている、しかし諸葛亮は左遷
されていないけど批判したんだ」なんてわけのわからんことを言うから、つっこ
まれたんじゃないか?君の批判は、>120 でなくて>110 にするべきでは?
それよりも劉備の出兵自体について皆どう思う?このスレだと肯定的意見が多そうだけど。
関羽敗死とともに失陥した地歩を取り戻すため、必要な出兵だったのは確かだろう
魏呉から挟み撃ちにされる二の舞を避けるため、呉のみを主敵として攻撃した戦略判断も悪くない
ただ、呉は防御側の利点があり(緒戦を失った程度では崩れない)、そして名将の陸遜がいたからな…
劉備政権にとっては、荊州の奪還は可能ならば必要なことだった。
そもそも諸葛亮の戦略案自体が、益州と荊州からの同時進行なのだから。
さらにいえば、後の蜀漢とは、劉備についてきた連中と荊州人士が益州に乗り込んで
成立した政権。荊州が失われれば、当然荊州閥は力を失い、それは益州人士の統御に
も難が生じる。(こういう事情をみてくると、諸葛亮が東征自体に反対しなかったと
しても不思議はない。むしろ積極賛成してもおかしくない立場。)
さらに軍事的に言えば、荊州は益州の防衛に必要な土地。周瑜も劉備自身も後に蜀が
滅んだときの呉も長江沿いに遡るというルートをもって蜀に侵入した。
もうちと時期見計らって計画ねって行うべきであったなー
感情論でなく
>>110 諸葛亮のセリフは惨敗した後に言った言葉だから戦前の諸葛亮の立場を証明するものではないのでは?
私では陛下をお止めできなかった
=判断を間違えて東征に賛成してしまった事を悔い、軍事に優れる法正なら反対を唱え止めれただろう
というようにも解釈できる。
諸葛亮のひととなり、職務という根拠も夷陵の惨敗を予見していればという前提が必要。
むしろそこまで予見していれば何としてでも止めようとするのではないか?
秦宓、趙雲にしても具体的に戦略、戦術の不利を説いたわけではないし
孫権が東征前に和睦を請うた事からも事前に劉備絶対不利といえるほどの戦ではなかったと思う。
諸葛亮が外征に積極的な人物だったことはその後の歴史が証明しているし
夷陵時に劉備軍の陣容の殆どを荊州出身者が占めていることや諸葛亮の戦略を考えると賛成した可能性もあり得ると思う。
当時の食事は今の中華料理と違うから
広東料理とか四川料理って考えて比べても意味ないし。
当時は唐辛子とか無いしな。辛味に使えたのは山椒とかか?
一般的じゃないだけで無かったわけでもないかと。
>>135 唐辛子の原産は南米だろ。当時の中国にあったのか?
なんでいきなり食い物の話になっているんだ?????????
どゆ流れ???????????
>>132あたりからどうしてそうなっているのかわからんんん
>>136 日本に唐辛子を伝えたのも中国。
四川料理といえば、「麻(マァ)」「辣(ラァ)」「甜(ティエン)」「鹹(シェン)」「酸(ソワン)」「苦(クゥ)」「香(シャン)」の七味と
「魚香」「麻辣」「酸辣」「干焼」「辣子」「紅油」「怪味」「椒麻」などの味付けだけど、
当時の蜀はどうなんかな。
>>137 >>118からでしょ。
過去スレちゃんと読みなさいよ。
ちなみに
麻(マァ): 山椒のしびれる辛さ
辣(ラァ): 唐辛子のピリピリする辛さ
甜(ティエン): コクを出す甘い味
鹹(シェン): まろやかな塩味
酸(ソワン): すっぱさ
苦(クゥ): 香辛料の苦い味
香(シャン): 食欲を増進させる香り
です
普通に考えれば、大航海時代に欧州に伝わって、それからシルクロード経由で中国、日本と伝わったとみるべきだろ。
中国から日本に来たからって三国時代の蜀に唐辛子があったなんて考えるのは変だろ。
>>140 中華はケチャップが輸入されたらアッという間に広まったように、何でも取り入れるのが特徴だしな。
四川のマーボー豆腐も、昔は山椒のみで味付けされてたんじゃねぇかなぁ。
朝鮮半島も唐辛子が伝わるまで今の様なキムチは無かったが、辛い漬物自体はあったらしい。
それを考えると、大昔の四川も唐辛子は無くても辛い料理だった可能性は大いにあるな。
唐辛子でなくても辛いスパイスは色々あったろうな。
って、ここは何のスレだ?
>>140 姜族とのつながりから蜀は西方の文化が入るのがはやかったと想像してみる
蜀絹輸出して香辛料ゲッツ!
>>138 そゆことだったのねスマソ
四川のマーボー豆腐は今でも山椒なんだが。
もっとも、蜀のころにマーボー豆腐ないし。
今の中華料理が成立するのは宋の時代だったかな。
コークスの利用で高温で炒めるって手法ができてから。
当時の料理は煮る、焼く、蒸すが主で、日本料理に近かったと聞いた。
孔明が五丈原に持っていった種子は粟だっけ?
益州、漢中って米と麦はあまりとれなかったのかな。
>>144 羌人の服は女物は特に絹が多い。
絹輸出して香辛料輸入はありえるな。
雲南からビルマを抜け印度へ出るルートも古いですよ。
西域のルートを拓いたら、シルクが既にあったんで聞いてみたら
印度を経由して手に入れていたとか。
蜀にとっては南蛮は貴重な交易ルートだったのかも。
つうか当時の四川料理は辛かったのか辛くなかったのか日本料理に近いのか
今の四川料理に近いのか結論出してくれ。それによって明日の夕飯何食うか決める。(外食)
辛かったに一票。
どういう辛い食材があったかは別として、辛かったのは辛かったんじゃないかな。
もともと高温多湿の四川盆地の気候でもばてないようにするために生まれたのが
辛い四川料理なんだし。
諸葛亮の肉饅頭は北京料理っぽい。
諸葛一族はもともとあっちだから、そのせいかな?
>>145 中国は北は小麦、南は米が主食というが、蜀南部は米っぽいが、漢中だと小麦っぽいな。
粟が主食ってことはないでしょ。
土地が肥えてないところでも粟や稗などの雑穀は育つので、屯田兵が長期滞在時の食料として
栽培してたんじゃないかなー。
そういえば吉川の小説最終回には、諸葛菜の話が出てたよね。
>>118 > 乾燥した土地で羌族の遊牧民料理(羊料理)で育った馬超は、蜀の辛い料理と
> 湿度の高い気候が身体に合わなかったから早死にした?
たしかに、途中入社組の馬超とか夏侯覇は苦労してそうな気がする。
漢中は盆地内はかなり肥沃 古くから米の産地だった(はず)
シルクの話が出ていたが蜀絹の礎を築いたのは張飛らしい
ロウ中牧を務めた7年間は清廉潔白、公明正大で地場産業の振興に努め
それが功を奏して発展したとのこと
当時の四川料理が辛かったかどうかはわからんなあ
紅虎でもいっとくべし
美味しそうなスレでつね
山椒はあったんだから当時も苦かったんじゃないの?
張飛って目下のものに厳しかったのに、領地は大切にしたんですね。
領民は牧より上って事かぁ。今の政治家にも聞かせてやりたい。
四川は山椒の産地だし、他の地域の料理に比べ山椒を使う比率が圧倒的に高いらしいからな。
昔から辛い料理ではあったろうと思う。
軍属には厳しかったということなんじゃない?
魏:北京料理、山東料理など
呉:広東料理、上海料理など
蜀:四川料理
って感じ?
俺は行くなら呉だなあ
魏はともかく、蜀がどうやって塩を手に入れていたのか激しく知りたいな。
きっと人の汗だ
中華料理食べたくなってしまうな
岩塩とかあったんじゃないの?
>>160 激しく遠慮願いたい。
>>161 岩塩って元になる塩水がないといけない訳でどうなんだろう。
関係ないが蜀はミョウガの産地でもあるらしい
呉書にのってた
>>162 昔はどこもかしこも海の底でんがな。
岩塩を含んだ地層はいくらでもある。
四川省では井戸を掘って、そういった古代の岩塩をふくんだ地層から、塩(かん水)を
汲み上げて、四川井塩、川塩と呼ばれる塩を作る。
四川井塩は、ふつうの塩よりミネラルに富み、旨みがありスパイシーで料理に
味のインパクトやボリューム感を出しやすい塩として中国料理界では有名。
ただし、製法が製法だけに海水塩ほど豊富に取れない。
基本は、蜀錦などを「輸出」する商人が、南方や魏・呉の塩を仕入れて
蜀に持ち帰るわけだ。
ちなみに、関羽も劉備に従う以前は塩の密売に関わっていたと言われている。
うお。専門的知識キター
勉強になりまする。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 13:25:57
ついでに関羽の生まれた河東郡解県は古代から大量の塩水が沸く沼池があって、ここの塩の専売利益が中国歴代王朝の財政に大きく寄与していた。
そこから関羽は劉備と出会う前は塩の密売人だったという伝説が生まれ、後に商売の神様扱いされた。
黄忠順位たかくね?
>>167 確かに趙雲より上ってバカな話は無いな!
夏侯淵斬って定軍山占拠。漢中支配に貢献してるしな。
その前の蜀奪取にも活躍してるし。
趙雲は安定している武将でそつが無いが、これといった名場面が無いから仕方が無いかと。
「黄忠、趙雲の彊摯荘猛もて、並びに爪牙となれるは、それ灌・滕(前漢高祖に仕えた猛将を指す)の徒か」
と陳寿は並べて評してるけど。四方将軍に昇格したりと、当時は黄忠のほうが位も上だったからね
灌・滕(前漢高祖に仕えた猛将を指す)
カンエイと藤公(夏侯嬰)のことかな?
だとしたらそれほど高評価でもなさそ(ry
藤公って高祖が捨てた子供拾った人だっけ?
>>171 思い切り高い評価だと思うんだが…。
灌嬰は武勇だけでなくて、独立して戦える判断力も備えた良将。
劉邦や韓信からしばしば別働隊の指揮を任されている。
文帝の代には丞相にまで昇進し、8万の大軍を率いて匈奴を討伐した。
夏侯嬰は将軍としてはそこそこだが、
御者として長く活躍し、負けてばかりの劉邦の命を守り通した忠臣。
韓信の素質を見抜いたことからも分かるように、見識も高い。
その二人になぞらえられてると言う事は、
忠義と武勇と頭脳を兼ね備え、頭も切れる良将ってことじゃないのか?
まあわかりやすくいうと俺並ってことだな。
まぁわかりやすく反論したいところだけど我慢しとくよ
>>173 趙雲の評の夏侯嬰って例えは、
劉邦が楚軍から逃亡する時に、捨てようとした子供を救ったという
夏侯嬰の逸話とかけてのものだから、
こういう例えに出された人物を引き合いにだして
「忠義と武勇と頭脳を兼ね備え、頭も切れる良将」
と推測するのは無理があると思うぞ。
魏の李典の俸禄が少ないのは、
彼に金銭欲が無かったからとか。
国は違えども部下の性格面も考慮に入れて良いかも?
まあわかりやすく言うと姜維>>>>>>張翼・張嶷・馬忠・廖化>>>>>>>>>>関羽・張飛・趙雲>馬超・黄忠だ
>>177 性格面は、よほど明確なものでも無い限り
主観が多分に混じるものだし、
ドロドロが多い蜀では、見る角度によって答えがかわるものが多いから
評価に入れるのは難しいんじゃなかろうか。
というか順位自体に主観が入らないわけがない。
単純に好みの問題。
いまだに順位気にして語るなんて釣られてるとしか言いようがない。
順位厨も光栄のパラメータ厨と大差ないな。
順位は討議にあたっての「手段」のようなもんだろ。
順位付けなんてナンセンスだとは思うけど、
語るにあたっての指針としてはちょうどいい。
嗚呼、曲解されてる…俺もここでのランキングには興味無いよ。
3行目は劉備(政権)によるランキングに関して。
半分俺の妄想。
>>177 俸禄って、封邑のこと?三十六歳で三百戸も封邑貰ってたら、相当な高給取りだと思うんだけど。
李氏は、私兵がすげーいただろ、大豪族だから
それを保証するとかもして貰ってたんじゃないの?
>>176 頭が良かったかどうかはわからんが、趙雲の忠義と武勇については季漢輔臣賛の「猛将」と
それに関する陳寿の補足の「忠節勇武な人物としてたたえられた」という記述で保証されているな。
また諡号の順平候はその人柄を示す根拠になる。
裴松之註の「趙雲別伝」が正しければ、頭もそこそこ切れるということになるんだが、
これについてはなんともいえんな。
空城の計 モワ〜(キモなま暖かい雰囲気)
しかしこの手の策って結構使われてるんだよな
徐盛だったり陳登なんかも似たような計を使ってたような気がする
そうするとあながち創作とも言い切れない
程c(´∀` )モナー
>>177 李典は早い時期に亡くなってるから、文帝即位あたりまで
生きてた他の将の最終的な俸禄とかに比べたらそりゃ低いわな。
牛金もかなり稼いで勢力大きくなって、司馬懿に警戒されて殺されちゃったけど、
張郃の蜀軍追撃死も司馬懿がからんでるのかねえ。
だれか牛輔と牛金の関係を教えてくれ。
>>194 単に同じ氏族ってだけじゃないの。
>┳牛邯
>┗(略)━牛輔━┳牛蓋(→朱蓋)
> ┃
> ┗牛鈞(→牛金)━○(嫡男ではない)━牛鋳
って説を推測で唱えている人もいるようだけど、検証はムリだな。
やはり記録が無いと難しいか…
197 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 12:47:01
朱霊とか牛金とか、かなり高位になったのに時の権力者に嫌われたためにヒドイ目見た将って多いな
朱霊は嫌われただけで妥当な地位だと思うが
199 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 14:32:17
君はずいぶん朱霊を高く評価するんだな
>>199 >>198じゃないけど朱霊は評価高いだろ。
張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃らと同格で、功績もそれにふさわしいものがあり、
正史にも「徐晃に次ぐ名声を得ていた」とある。
ただ、理由不明で曹操に嫌われ、于禁の下に落とされた(さらに太祖廟に合祀された
功臣の中で、正史に唯一立伝してもらえなかった)。
しかし、曹丕の時代には復権して、張遼が前将軍、張郃が左将軍、徐晃が右将軍に就任
したときには朱霊も後将軍になっている。
つまり、蜀で言えば五虎将級の人物。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 15:54:21
嫌われただけで降格って十分ヒドイ目だよなあ
まあここではスレ違いか
まあ、とりあえず落ち着いて柳隠について語ってくれや
204 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 16:35:21
206 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 20:45:19
>>205 そこで、習珍って名前を見つけた。かっこいい。
それに引き換え、潘濬は…。
劉備は曹操よりは落ちるけど孫権よりは上と思う
>>199 朱霊は曹操の廟に合祀された功臣の中で、唯一立伝されてない人物ですよ。
書かれてたorz…。
>>200 トータルの武功は五虎将より多かったんじゃないかねえ。
相当な古参で、徐晃に名声が次いだと言われるほどだし。
なんで立伝されないほどハブにされたんだよ?
蜀将はひきこもりだらけだな
>>210 呉の初代丞相もハブびされてるし、色々あんだろ
女にはまった
わざわざ張楽于張徐伝に付属させる形で朱霊伝を書いていることからも
蜀の五虎将に対して魏五大将の名が挙げられるけど、実際には魏六大将
だったのだろう。
これに李典・李通・臧霸・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温と
夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・曹真・夏侯尚を加えたものが、
蜀の五虎将+魏延・李厳・陳到に匹敵する三国志前期を支えた一線級の
部将と考えられる。
この人数差を見ても、いかに蜀が人材不足かわかる。
朱霊よりも臧覇の方が…
といいたいところだが、禿しくスレ違い。
質より量か。
別に、魏が質的に劣っているわけじゃないだろ。
ただ、関羽がこの魏の一線級の武将(于禁・龐悳)のうち二人とそれと同レベルの実力と
考えられる顔良を、自ら率いる軍の攻撃で殺すor捕らえていることは特筆に価するね。
魏・呉・蜀三国の武将で、自らの軍勢でそこまでの武功を挙げた例は他にはないはず。
関羽の不幸は、自分の武勇を最大限生かしてくれる上位者がいなかったことだね
劉備の傍にあった時は戦略・政略や人間関係は俺流でやってもよかったけど
一州を領するとなるとそれじゃ駄目だ
でも当時の劉備軍だと、劉備を除いて関羽を統御できそうな立場の人間はいないんだよなぁ
また釣りか・・
221 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 15:29:17
じゃあ、そろそろ次のお題
劉封
・その実力は?
劉封は曹真・孫韶になることができたか
・劉封は処刑する必要があったのか?降格、あるいは身分剥奪で流刑でも良かったのでは?
諸葛亮は何故、劉封を殺さねばならぬと考えたのか
・永遠のライバル孟達と、愉快な仲間申耽・申儀兄弟について
>>221 そんなもん孔明お得意の政敵排除に決まっておろう。
このときは将来ライバルになりそうな劉封を除いといた。
ゆくゆくは劉備を毒殺し阿斗の後見人として蜀を牛耳る算段を整えておいた。
イリョウでは一応劉備を止めたが(アリバイ作りのため)
劉備が負けるとわかっているのに身を挺しては止めなかった。
劉備が死ぬと内心ほくそ笑んだ。
もったいないよねえ。
諸葛亮がわざわざ将来のことを心配するほどなので、凡将や愚将ではなく相当に実力もあったのだろう。
劉備・劉禅を支える一族の武将として、魏の曹真や呉の孫桓・孫韶のようになったかも知れないのに。
正史には、諸葛亮が「劉封が剛勇なため、代がわりのあと結局は制御しがたくなる」と考えて
劉備に劉封を殺すように進言(讒言?)してるけど、あの時点ではまだ『代がわり』を心配する
時期じゃないし、しかも荊州を失って有能な武将が減っている時期に、なぜそんな先のことを考えて、
わざわざ勇猛な武将を減らそうとしたのか(しかも殺す)、諸葛亮のやり方には疑問がないではない。
224 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 16:15:57
「劉封が剛勇なため、代がわりのあと結局は制御しがたくなる」
こういう記述って、いつも不思議におもうんだけど
これは公に言ったことなのかな?内密にいった言葉なら書記官などは
記録に残せるはずないし。。。。劉備と孔明の二人だけの話なら、当人の
どちらかが、誰かに漏らさないと知れる事はないんだし。この記述自体の
信ぴょう性が怪しいかもしれないって予想は反則かな?
>>223に対する煽りじゃないから勘違いしないでね。
おまえら1800年前のことをいつまでウダウダいってんだ
そんな君たちが好きだ
>>224 正史の劉封伝に出ているのだから、内密な話じゃないし陳寿の推測ではないでしょう。
公式な罪状は「孟達に対して圧力をかけ魏に奔らせて、結果として上庸を失った」「関羽を救援しなかった」だけど、
劉封の扱いをどうするのかの会議の場で「劉封を生かしておけば、将来、阿斗様のためにならず」という主旨の発言は
行ったと思われる。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 16:34:22
諸葛亮が、劉備の死んだ後のことまで考えといけなかった劉封の実力って
結構なものがあったんだろうなあ
のちの魏延の辿った末路といい、諸葛亮は勇猛な武人系はお嫌いなんだろうね
実際の実力よりも、先代の皇帝の養子って立場の方が問題だろう、
劉備は曹操や孫権らと違って親族の数が少なすぎる、
そんな中で劉封の立場は非常に危い。
孟達の手紙っていやらしーとこついてくんなー。
俺ならこの手紙の時点で寝返ります。
>>228 先代って、劉封が生きていたときは劉備もまだ生きてますがな。
>>229 寝返らなかったということは、劉封がそんな人物ではないということを示す
証しかもね。
劉封は勇猛で性格も激しい人物だったかもしれないけど、別に叛意や蜀乗っ取りの
野望をもっていたわけじゃない(少なくとも正史・演義の記述のうえでは)。
劉備が漢中王になったとき、すでに劉禅も王太子に立てられており劉永・劉理も
いたので、劉封も自分が劉備の跡継ぎではなく、親族として国家の藩屏となる
という自分のポジションは理解していたはず。
にも関わらず、諸葛亮が将来を心配して殺さなければならなかったのは何でだろう。
劉封は、自分が王太子になれなかった不満を常日頃から見せていたのか?
それとも、関羽と荊州を失ったショックで、劉備がモウロクしはじめており、
劉封をうとましくなったのか?
それとも、劉封と諸葛亮らはうなくいっておらず、ショック状態の劉備に
付込んで、将来有力な姻戚として実権をふるう可能性がある劉封を
先手を打って排除したのか?
推測・妄想のネタはつきないねー。
>>230 アンカーしてなかったので分かりにくいけど、227に言ってるので、
一応劉備死亡後の想定って事で。
曹ヒは理想的な体制を残してるんだよな
重鎮四人の内、二人血族
>>230 劉備と劉禅は大分歳が離れてるからねぇ、
劉備が死去した時が63歳で、劉禅が皇帝になったのが17歳、
劉備はもういつ死んでもおかしくない歳になってるし、
それに比べ劉禅はあまりに若い。
蜀政権内で、劉封が劉禅の後見人に、という動きが出てもおかしくないし、
そうなると劉封本人に変な欲が出てこないとも限らない。
災いの火種を消す、という意味ではそうおかしな判断でも無いと思う。
勇猛で性格も激しい人物なんだったら逆に心配する必要なさそうだが・・
養子と言えども太子の上の兄弟というのは
政権の安定には邪魔になるんだよ。
本人に欲がなくても周りが担ぎ上げたりするし。
>>232 曹真は本姓は秦氏。
そういう意味では、劉封が曹真、あるいは孫韶・孫桓になれてもおかしくない気もするが。
諸葛亮がいて、李厳・魏延・趙雲・劉封がいれば・・・って、託孤の遺臣のうち、諸葛亮と趙雲以外がまともに死を
迎えていないところが蜀の哀しさなんだろーな。
>>235 劉封に限定していえば担ぐ奴なんていないでしょ。
そんなに人望があるタイプじゃないし、李厳・楊儀・魏延にしても自分の実力に自信があり、トップになりたいタイプ
なので、わざわざ劉封を担ぐことはないと思う。
劉封を罰するにしても降格ぐらいにしとくべきで、もし劉禅を凌ごうというという野心が見えた時点で処刑すべき
じゃないかなあ・・・。
諸葛亮は神経質で細かいから、先のことまで気になっちゃったのかもしれないが。
劉封を劉備が生きているうちに片付けたいというのは、諸葛亮の自信のなさの表れじゃないかと思う。
法正が生きていれば、その剛直さゆえに劉封にも遠慮しないだろうし、だからこそ反って劉封を殺さなくてはいけない
とまで劉封におびえることもなく、劉封も処刑されずに済んだだろう。
災いは芽が出てから摘んでも遅いんだよ。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 07:52:11
あれ?
そういえば劉封の字ってなんだっけ?
239 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 08:31:43
そういえば劉表の甥の劉磐はどうなったんだ?
劉磐も若い頃は猛将だったんだろ。
劉封(養子)・劉循(劉璋の長男)・劉闡(劉璋の長男)・劉磐(劉表の甥)に
そこそこの官位を与えて手なずけて、しばらくして使えそうなら一門として高い地位を与えればいい。
ついでに劉琰と劉巴がいれば、それなりのものになるじゃん。
しかし、一族・同族・親族って扱いが難しいよなあ。
中国でも日本でも、こいつらを重用すれば本家を圧迫するし、こいつらがいないと他姓の重臣や外戚に
圧迫されるし。
240 :
239:05/02/26 08:38:20
訂正
劉闡(劉璋の長男)→劉闡(劉璋の次男)
>>239 劉循は危険すぎるでしょ
あくまで前政権の正統後継者なんだから
本人にその気がなくても、周り(魏呉含む)が担ごうとする可能性は十分にある
劉闡にしろ呉にいっちゃってるし
劉磐は…どうなのか知らんけど
この時点でまだ健在なの?
劉封は後継者候補にはならないだろうが、実際に軍を率いて活躍している以上、
曹真のように軍の重鎮となり、一政治勢力になる可能性は大きくある。孔明は
それを嫌ったんじゃない?
孔明って曹操とやってることは変わらないね。皇帝を孤立させることで力を
弱め、権力を自分に集中させる。
蜀末期の羅憲も良将だと思うんだけどな。
ただ、魏・晋に仕えてからの功績を考えないなら軍事では一発屋で政治も優秀な外交官って扱いになってしまうけど。
>>243 羅憲は、蜀出身の晋将と考えた方が良いと思われ。
ところでスレ違いかもしれないが質問。
劉備が劉封を養子にしたのって、当時としてはどうなの?
子が居ないから祭祀を絶やさないために養子をとるというのは古代からあった
だろうけど、劉備にはその時すでに禅がいたんでしょう?(演義だったかこれは?)
あと、優秀な若者と養子関係を結んで忠誠を求める(義兄弟のようなものか?)
というのは唐以降に発達したと何かで読んだ気が。
擬似親子関係と言えば薫卓と呂布の場合とか。これ、呂布に相続権なんてあるの?
>優秀な若者と養子関係を結んで忠誠を求める
これってあんま効果あった例が無いな
朱全忠なんて哀れ
>>245 劉封は劉備が荊州に来たときに養子になっている
劉禅は当然生まれてない
>>236 劉封個人の人徳ではなく、劉封を担ぐ事によって
権力を得ようとする連中が出るかもしれない。
>李厳・楊儀・魏延、この3人に限らずね、
むしろ李厳なんて行動を見る限り、その危険性が高い。
それと劉備の死後では、剛直だとかで解決できる問題ではなくなる、
養子とはいえ先代の皇帝の息子を、野心が見えた時点、なんていう曖昧な事例で
処刑出来ないし、先代の皇帝の息子を、臣下が処刑するという意味の重大さを考えれば、
劉備の死後に劉封を排除するのは不可能に近いだろうね。
劉封が得るかもしれない権力は、曹真なんかの比じゃない、
劉備自身の親族は幼年の劉禅と劉理、劉永、
あとは嫁さん繋がりで呉氏位か、
そうなると劉封は劉備の血縁(養子とはいえ)では唯一年齢的に問題ない存在で、
外戚の中でも筆頭の立場に立つことが出来る、そういう立場にいる。
みんな曹真曹真って、少しは曹休の事を思い出してやれよ!!
>>248 でも処刑することは無いだろ。
官爵を下げるとか養子関係を解消するとか
要は劉備生存中に立場をはっきりさせとけば済む話では?
劉封が問題になるのは、彼が大きな戦功を立てた時と、その為に軍を動かそうとした時だろうな。
>>251 中途半端な処断は禍根を残すだけだしなぁ、
官爵なんて立場が変わればどうにでもなるし、
養子関係を解消した所で、元々は皇帝の養子だった、
という事実は消せず、やはり火種として残る。
劉禅が生まれた時点で、そういう運命になったとしか言い様がない。
ぶっちゃけ孔明が気に入らなかっただけだったり・・
まあ劉封の子劉林は一応取り立てられてはいるがな。
だからなんだといわれても困るが。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 16:59:56
>>249 劉封の話のところで曹真とか孫韶・孫桓の名前を出している意味が
わかってる?
もともと別の姓の人間を一族として養う例だよ。
>>241 正史劉封伝によれば、当時はまだ劉備に跡継ぎがいなかったとある。
ちなみに、当時の劉備軍は任侠的な性格をもった流浪の集団なので、義兄弟・養子という
やり方で有能な者同士(劉備・関羽・張飛)や流浪先の地元豪族(劉封・関平)と結びつく
必要があったんじゃないか。
>>248 >むしろ李厳なんて行動を見る限り、その危険性が高い。
李厳のどの行動のこと?
李厳は自分の地位・権限の向上を求めただけだが、劉備が漢中王になった時点で後継者に
入っていないし、周囲も後継者として認めない劉封を担いで何をするの?
それこそ、劉禅に直接取り入って政敵を蹴落とすか、「劉禅は暗愚だ」と劉永や劉理を
担ぐほうが遥かに早いが、李厳はそんなことはしなかった。
>劉封が得るかもしれない権力は、曹真なんかの比じゃない
後継者に入っているならともかく、王太子(当時)やその弟たちがすでにいて、劉封は
臣下の列に降りている以上、@自力で昇進する、A誰かが担いで押し上げる、B王・皇帝に気に
入られ引き上げられる、などがない限り、諸葛亮や李厳、魏延、趙雲などの上位の人物を
しのぐことはないし、官位を大幅に凌ぐ実権をもつことはありえない。
それは魏の曹一族や夏侯一族みればわかるでしょ。
劉封にはBはないし、臣下の列に降りている以上Aの担ぐ意味もないので、@の自力で
昇進していかない限り、権力はもてない。
>外戚の中でも筆頭の立場に立つことが出来る、そういう立場にいる。
外戚は嫁の一族のことでしょ。
( .゚∀゚)俺を殺せる香具師などいない!
( 劉封)
| | |
(__)_)
∧孔∧
(-@∀@) .| | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >_∧∩
_/し' //. V`Д´)/
(_フ彡 /
260 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 17:26:46
劉封の場合、非常に気の毒とは思うけど、あの段階で処分したのは仕方無い部分がある。
219年前後は劉備が漢中王になり、劉備の勢力が国家的な組織に脱皮していく過程であり、近い将来に混乱をもたらす可能性がある劉封の件を処理する機会が訪れた、って事でしょ。
劉封が孟達と不和にならなかったり、関羽の件に関わらない立場でいられたら、魏の曹真・曹休のような立場になれたかもしれないけどね。
与えられた持ち場が悪かった上(魏蜀国境の上庸)、個人的な事から孟達を魏に走らせちゃったのがねぇ・・・。
>>258 誰も劉封を後継者に据えるなど言ってない、
劉封を劉禅の後見人に推したり、劉禅を補佐する立場に推す事が出来れば、
劉封を通じて自身の権力・地位も向上するし、
場合によっては間接的に劉禅を操れるかもしれない。
李厳の場合は劉禅の周りを諸葛亮がしっかり固めた事と、
「劉禅は暗愚」なんてのは大分後の話で、
劉永や劉理は劉禅に代替わりした時は幼少、つまり火種なんてさっぱり無かった。
王太子である劉禅はまだ幼く、その弟も同じ。
魏の曹一族や夏侯一族は一族の数が多く、一族内で権力の分散や、牽制が起きるが、
劉備は自身に近しい一族は居ない、つまり曹一族や夏侯一族とは状況が違う。
その中で、十分な年齢に達してる唯一の親族が劉封。
官位など立場が変われば付随されるもんだし、
官位を凌ぐ実権なんて多々ある、何進が肉屋から大将軍まで昇進したり、
宦官が絶大な権力を握ったり、状況・立場が変われば権力はついてくる。
外戚はそうだった、スマン。
>魏の曹一族や夏侯一族は一族の数が多く、一族内で権力の分散や、牽制が起きるが、
曹爽のせいで
>>261の主張は台無しだなw
曹一族には実権がないよ
魏の体制の中では準皇族である夏侯氏や、別姓で曹姓を賜った(曹真や曹休)が藩屏として期待され、権力を与えられた
魏は皇族の力を抑え過ぎたために失敗してるしな
>>265 あれを失敗とするのは結果論じゃないかね?
逆をいった東晋はもっと無残な結末を迎えているし。
さらに、以後の歴代の王朝を見ると、東晋のように皇族にある程度の実権を与えると
騒動の種になり(明など)、ほとんどの王朝は皇族にロクに権力を与えない方向、つまり
魏の路線を選択している。唐や宋など、皇族諸王に実権を与えずに何百年と続いた
大王朝の例もある。
魏の失敗を、皇族の力を抑えたからとするのは説得力がない。
久しぶりに、正史原理主義者による揚げ足取りやバッシングじゃない議論が出ているな
この議題で話してるの2、3人ぽ。
それが全員穏やかならレスも穏やか。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 20:39:45
劉封はもっと激しい気性やったらよかったんじゃないの?
普通疑われない為に敢えて大胆な行動をとってみたり失態をかましてみたりするんだがな
諸葛亮にどんな想いがあったにせよ、それに賛成しちゃった劉備というのは
やはり劉封の勇猛さを劉禅の障害になりかねないと、疎ましく思っていたのかねえ。
でなきゃ、養子をそう簡単に殺させやしないだろうし。
諸葛亮らも、その主張に何らかの狙いがあったとかではなく、単純に劉備の気持ちを
察して or 暗黙の意向を受けて、処刑するように主張したのかもね。
>>264 曹真は秦氏だっけ?
曹休も別姓だったの?
274 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 21:22:39
牙門将軍 王平最高
>>272 劉備は情の人だから、劉封を養子として愛していれば処刑はせんだろうな
やっぱり、劉備も劉封をうとましかったんだろう
というか、劉備も関羽ショックで、晩年の秀吉のように妄執がはじまっているのかもしれん
>>273 別姓ではないが、出自が良く分かってない。
曹氏であっても、かなり傍系中の傍系、あるいは意外と夏侯氏かも。
ただ、真と同じように、曹操が自分の子として曹ヒ達と一緒に育て、一軍の将(最後意外に失敗はなく、曹休は過小評価気味)になった
中途半端な同族・親族より、出来がよい異姓の養い子に姓を与えたほうが
恩義に感じてよく働き、本家に忠実という考え方は、古代中国にあるらしい。
日本の武将が自分の姓を家臣に与えるのも、中国のそういう考え方の影響を
受けたから・・・、というのを何かの歴史本で読んだことがある。
ただ、それが顕著になったのは五大十国からだね
朱全忠なんて100人以上の義子がいて、結局乗っ取られちゃう
仮子を作って恩義に頼ってるのは反面、兵自身のモラルの低下があるんだけど(模擬的な血縁を作ることで繋ぎ止めようとした)
劉備は関羽の死で逆上してるし関羽を救援しなかった劉封に腹を立ててもしゃーない
もし上庸が蜀に残っていたら
諸葛亮の北伐に影響与えれたのだろうか?
荊州を失陥したうえでの上庸領有といっても、陸の孤島に近い感じがする。
漢中も荊州を抑えれば
機能しなくなるって言われてたな。
>>283 永安のちょい北だから、経路的にはそこそこ大丈夫っぽい。
永安が落ちない限り、蜀からは孤立しないと思われ。
>>267 劉封ネタは当たりかな?
魏書にも蜀書にも載らないが、一時期勢力を振るい、魏・蜀間の第3勢力と化した
劉封のライバル孟達と申耽・申儀はどうなんでしょ。
曹丕のお気に入りだったらしいが、なんでこんな劉璋を裏切り劉備を裏切り魏をも
裏切ろうとした危ない野郎を、魏は対蜀の最前線に置いといたんでしょうね。
地方軍閥あがりの申耽・申儀もそのままだし。
>>286 まず孟達には蜀に帰れない大きな理由があるべや。
上庸じゃ呉に下るには遠すぎるから、とりあえずどっかに裏切る心配はない。
加えて孟達自身、取り立てて無能ってわけでもなかった。
上庸を魏に持ってきた功績と、曹丕の寵愛もあって
太守の地位を得たわけだけど、それだって
中央に持ってくると反感買うって配慮があるからだろうし、
いざとなれば最前線で盾として使い捨てが出来るからってことで
周りの人を納得させるためでもあるかも知れない。
申耽・申儀は司馬懿が根回ししてたし、十分抜かりはなかったと思うけど。
実際裏切ろうとしたら
速攻で露見して討伐されたしな。
どうせただ同然で手に入った土地。
戦略的妙味も少なかった場所だから、
降将据え置きで矢面に立たせても問題ない。
加えて曹丕存命中は蜀に寝返ることもできず、
寝返る理由もなかった。
孟達を重用したい曹丕と、それを煙たく思う
重臣との間の妥協策としてももってこい。
噛ませ犬にはぴったりジャマイカ。
劉封、孟達、申耽、申儀のうち、誰の喪失が蜀にとって痛かったんだろうな?
>>289 そりゃ孟達でしょ。
外見のきらびやかさとそれなりの才能があり、裏切りでどんどん成り上がっていき、
しまいには荊州の北西部の支配者として都督クラスの扱いを受けるまでになったのだから。
こいつが蜀にいれば、李厳よりは上じゃないかな。
ただ、その性格から蜀志巻十が「劉彭廖李劉魏楊伝」ではなく、「劉孟彭廖李劉魏楊伝」に
なるだけかもしれないけどね。
>>289 ぶっちゃけ、上庸の喪失が一番痛かった。
劉封、孟達、申耽、申儀がいなくても、
代わりの誰かを趙雲・魏延とかをあてがえばよい。
そのほうが、上庸からの進出・魏の防衛地点の分散に
役立つと思う。
劉封、孟達、申耽、申儀の誰が残っても、
上庸が無ければいないのと対して変わらんし、
上庸があっても、防衛以上のことは見込めんと思う。
人の代わりは居ても、土地の代わりがないってことかな?
まあ人の代わりっても劉封、孟達、申耽、申儀クラスで。
さすがに孔明の代わりはそう居ないだろうし。
劉封・孟達または申耽・申儀クラスの人材であれば、人材不足の蜀では十分役に立つぞ
>>291 上庸を落とした二人に防衛以上のことは見込めんとはこれいかに?
劉封も孟達も防衛に失敗してるし、むしろ攻めの方が期待できる
しかし諸葛亮はなんで上庸を狙わなかったのかね
>>295 戦略戦術的理由
・荊州に侵出すると、占領地の防衛ラインが広くなりすぎて守りづらい
・呉が裏切って永安あたりを奪うと蜀に帰れず孤立してしまう
・安定した荊州より、関中のほうが異民族を反乱させることで切りくずしが図れる
経済的理由
・西方貿易(シルクロード)で蜀錦を売りさばきたい
政治的理由
・漢の正当な後継者をイメージ付けるためにも、漢中→関中→・・・という劉邦の進撃ルートをとりたい
などが考えられるな。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 23:00:41
>295
単純に、上庸じゃ連絡線がほぼ漢水に限られて、一時的に奪取出来ても維持が困難。
維持しつつ、さらに勢力を拡大するには、大兵力が必要になる。それには補給線(連絡線)が漢水だけじゃ難しい。
永安が有ろうと無かろうと同様。
逆に、上庸方面を主攻にし、敗北でもしたら帰還も難しい。それこそ亡国の道だろう。
しかも、夷陵の役っていう似たような川下り戦役で大敗北してちゃぁ・・・。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:12:51
一説によると、
夷陵の川下りは合戦ではなくて、ただの舟遊びだったらしい。
ホウトウと法正がすぐに死ななかったら
魏延、法正はホウトウ派になっていたんだろうね
孔明・ホウトウ派と法政・義援派な気ガス
法正がいれば、孟達・劉封もこんなことにはならなかったはず。
上庸など荊州方面で戦えば、連携作戦が曖昧な呉をムリヤリ対魏戦争に引きずり込むことが
できたんじゃないかな。
あるいは、「呉は合肥メインでいきたいので荊州で戦うのは迷惑だ」という呉側の要求が
同盟条件としてあったので関中に進まざるを得なかったのか。
そういえば、蜀−呉同盟では荊州は呉の担当になってたんだっけ。
劉封の出身である寇氏の所領だった羅国ってどこらへんにあるの?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 13:15:19
ありゃ羅侯って地名だ
>>304 え、そうなの?
正史読む限り、そうはとてもおもえない。
侯はxxx侯という諸侯の侯でしょ。
正史劉封伝の註にある、孟達が劉封に送った降伏勧告の手紙にも
「もし足下が心を入れ替えてこちらにおいでになる場合は、単に私の同僚となって三百戸の封土を受け、
羅国のあとを継がれるのみではなく、さらに大きな国を領地としてたまわり、初代の君主となられるに
違いありません」
とある。
「『羅国』という国を領地としてもらえて君主になる」と言うのだから、「羅国の侯」でしょ。
>>303 長沙の上、洞庭湖の東に「羅」があります。
劉封は長沙の劉氏の甥だから、ここでしょう。
>>306 おー、ありがとうございます。
劉封が魏に降っていれば、孟達なみに昇進してうえに羅侯になれたんですねえ。
魏将の劉封も見てみたかった気がする。
いやぁ、孟達並みってのは流石に無理じゃないかな、
実際降ってみて、本当に手紙通りの扱いを受けるかは疑問。
降れば劉備を裏切る事になるし、まず義父を裏切った人間がそこまで厚遇されるとは考え難いし、
魏にとっては怨敵でさえある劉備の元養子をそこまで歓迎してくれるとも思えない。
>>308 逆じゃないの。
降将を元の所属先に「こっちの水は甘いぞ」とアピールするために優遇するやり方は
三国、というか中国では当たり前のこと。
ましてや、「養子にすら見捨てられた劉備は、漢の正当な後継者ではなく、後継者を
僭称する賊に過ぎない」をアピールするために官位や待遇面で劉封を間違いなく
厚遇するだろう。
軍権をもたしてもらえるかどうかは別だけどね。
孟達が優遇されたのは、曹丕の気まぐれと思う
劉封が降伏した日には、親を裏切るのかとかネチネチ虐められるんじゃねーの
>>310 曹丕は孟達がイケメンだったから気に入ったんだろ?
劉封がいい男なら厚遇はあり得る
312 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 12:57:05
>>309 孫皓に睨まれて魏・晋に亡命した孫氏の一族は厚遇されていますね。
だが、呉滅亡後は待遇格下げになっています。
>310
確かに曹丕ならやりかねん
314 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 20:07:13
他の皇帝ならともかく、曹丕じゃ一見好待遇だけど、ネチネチ虐めて潰しそうだな。
他の皇帝ってどういう意味よ?
ソーヒは中華皇帝の中でも優秀な方なんだが
>315
曹丕確かに優秀だけど、反面、必要の無い所で臣下を嘲笑したり、言わなくて良い事言ったりと優秀な人間の悪い部分も強く出てたりする。
普通の皇帝なら、対外宣伝のため、厚遇して飼い殺し程度だろうけど、って事です。
黄権の事も忘れないでやってください。。。
劉備の東征失敗で失われた人材の中では、黄権の損失が最も蜀にとって痛かった。
黄権が蜀に残って諸葛亮より長生きしていれば、諸葛亮の後継者は蔣琬・費禕ではなく
黄権になっていただろうね。
法正の戦略に沿って、具体的な漢中奪取と夏侯淵撃破の戦術プランを作ったことからも
わかるように、軍事能力は高かった。
また、人柄の面においても、劉璋に忠誠を尽くし、劉備に仕えた期間は短かったが
魏に降った後も劉備と黄権は変わらぬお互いの信頼を示し、さわやかなエピソードを遺した。
また、魏において鎮南将軍から車騎将軍へ昇進し、待遇は三公並みにまでなったことも、
単なる降将優遇だけじゃなく、優れた能力と品格を曹丕や司馬懿に認められたから。
蜀は非常にもったいない人材を失ったと思う。
黄権に関しては、
悪い話はほとんど伝わってないっぽいな。
ほとんどどころか、劉璋・劉備・曹丕いずれの君主の下においても
いい話ばっかりじゃん
321 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 07:16:06
黄権キタ━━━━(*゚∀)人(゚∀゚*)人(∀゚*)━━━━
劉備政権のもとでの活躍期間が短いため、蜀厨の人でも黄権の実力を見誤っている
香具師は多い気がする(特に黄権の出番が少ない演義系蜀厨の人)。
蜀書第十三に馬忠・王平・張嶷なんかと同列に伝立てられているけど、蜀に帰還できていたら
>>318が言うように、蜀書第十四で蔣琬・費禕・姜維といっしょに伝が立っただろうね。
>>321 もしくは黄権・法正・ホウ統伝だったかもしれんな。
黄権・馬良などを長く手元に収められなかったから蜀っていうんですよ
魏が呉と比べて人材が圧倒的で、その呉と比べても蜀の人材が薄いってのは
スタート地点の不利さのみに起因することではない
だから蜀が一番ドラマチックなんだろうけど
ああ、黄権。
あいつ大っ嫌い。
主君を変えるなら新しい主君に誠心誠意仕えればいいし
嫌なら隠遁でもすればいい。
新しい国の食禄をむさぼりながら
「旧主に操立ててまーす」ってパフォーマンスする根性が下品だ。
沮授にも陳琳にもなれない単なる変節漢。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 13:42:42
>>324 イヤ実は俺もそう思ってた。偽善ぽくていやらしい。
それに黄権がそんなに優秀ならイリョウもっとがんばれよと。
327 :
于禁:05/03/02 15:59:50
(´;ω;`)
黄権ってむしろ過大評価されてると思うんだがなぁ…。
劉備の東征では「私が先鋒を勤めます」って進言した位で、
魏に降った後も全然事績が残って無いし。
漢中の一連の戦いでも、黄権がもともと立てた計略であった、
とあるけど、法正の功績と思い切り被ってるし、
本当かどうかかなり怪しいと思うんだが。
忠義の人としての評価が実際の事績を上回ってると思う。
陳寿の時代には蜀にはもう黄権の記録がほとんど無くなってしまってたんじゃないだろか。
仕方ないとはいえ、一応敵国に行ってしまったわけだしね。
魏に降った後も、出す発言の中身がアレだから使いづらかったろうし。
それでいてあれだけ出世して、多くの人に評価されてるんだから能力はやっぱあったんでしょう。
世渡り能力はかなり高いと思う。いろんな意味で。
>>321 姜維が蒋[王宛]や費[ネ’韋]と併記されてるのも異常。
ヤツって本業の戦争でまともに勝ったことないだろ?
もう一度、正史見直した方がいいよ
大将軍経験者だからだろ
>331
諸葛亮没後の蜀漢で最高位にあった人物達って事でしょ。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 22:37:01
>>328みたいな香具師が、
>>321の言うところの「演義系蜀厨」なんだろうね。
>魏に降った後も全然事績が残って無いし。
お前は正史など読んだことがないんでしょうねw
>漢中の一連の戦いでも、黄権がもともと立てた計略であった、
>とあるけど、法正の功績と思い切り被ってるし、
>本当かどうかかなり怪しいと思うんだが。
正史に、曹操が張魯を攻撃した際に黄権が漢中を失う危険性を訴えたので、
黄権に諸将を率いさせて張魯を迎えに行かせたこと(張魯が降伏したので
間に合わなかった)ことが出ており、もともと漢中に着目していたのは
黄権であったことが書かれているし、「杜コ・朴胡を撃破し、夏侯淵を殺害し、
漢中を支配することになったのは、すべて黄権がもともと立てた計略に
そったものであった」とも明確に書かれている。
それに、法正が漢中奪取を劉備に進言するのは黄権の出撃の後のこと。
よって、曹操の手に落ちた漢中をどうやって奪還するかを先に出撃した
黄権が調査・偵察・検討して成都に報告し、それを受けて法正が
具体化したと考えるのが妥当。
あるいは、別に作戦は法正一人が立てるわけではないので、黄権が軍議に
加わって一緒に検討したとか、どっちかが戦略基本方針を作り、もう一方が
現場で実際の戦術レベルの立案を行ったと考えてもよい。
漫画や小説のように、天才軍師がイチからヒャクまで全て一人で考え
決定し指揮するなどと考えているんじゃあるまいな?
法正伝の記述は認めておいて黄権伝は怪しいとかおかしいだろ、そんな言い方が
通るなら、その逆だってありえるのだから。
しかしそれはいいとして
>>321は
黄権をみとめない奴は演義厨という暴論にしかみえないのだが。
>>336 事績って言葉の意味知ってるか?
黄権が魏の置いてどのような事を成し遂げたのか、
どのような功績を挙げたのか、そんなのは書いてない。
その書かれてる部分を、本当かどうか怪しいと言ってるんだよ。
法正共に作戦を立案した、とか書かれてるならまだしも、
すべてもともと黄権が立てた作戦だった、という一文だけでは具体性に欠ける、
対して法正は劉備に対する進言まで残っており、先主伝に法正が策謀に預かる相談役、
とまで書かれてる法正とでは、法正の方を信じる。
更に言えば黄権が張魯を迎えにいかせたのは巴中(巴西とも書かれてるが)
先主伝では漢中は迎えに行く前に落ちてるな。
>>338 資料の詳細が無かったから伝聞形で書くしかなかった。
だが、載せたからには信用性のあるものだったのだろう。
それだけの話。蜀志なんて虫食いだらけなんだから。
340 :
魏延:05/03/02 23:25:07
お前ら、落ち着いて俺様のことを語れ!!
>>340 落ち着かせるには趙雲がベストです。
いままでの蜀スレの歴史上これで落ち着かなかったことはありません。
趙雲好きはすぐ引いて諦めるしw
342 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 23:36:49
「すべて黄権がもともと立てた計略にそったものであった」
って言うのは、ただ単に「漢中欲しいな」という程度の意味ですよ。
つまり「もしも漢中を失えば」発言それ自体のことです。
>>342 本気で言ってるのか?
発言をするのとプランをたてるのとでは大違いだぞ。
現代風に言うなら、
1:黄権は企画書を提出した。
2:劉備がそれを採用した。
3;計画を実行、実現したのが法正。
黄権のイマジネーションと、劉備の決断力と、それを実現しうる法正の天才。
全てがそろったから漢中の攻略が成ったと考えてるけどな。俺は。
本気ですよ。
あれは史書にはよくある定型的な言い回し。
別に「企画書」書けるほど綿密な計画が立てられたわけじゃない。
そもそも三巴にとって漢中が喉元にあたるということは、
現地の人間なら子供でも肌で知ってることです。
むじんの文字にはトラウマが有る。あそこの訳で物を言っているというのか。
コテハンじゃなかった方がよかったかも。
たとえば賈ク伝に「卒破遂・超,ク本謀也」とあるけど、
ここの「本謀」ってのは関中諸将を離間したことを指してて、
虎豹騎で挟み撃ちしたのは賈クの考えじゃないと思うんですよ。
あ、あとトラウマスマソ。
>>346 気にしないでくれ。
蜀オタ、それも関羽ファンは一度は通る巻き菱の道よ…。
ほむ。
つまり黄権のそれも、目的語となるのは「漢中を取る事」のみって訳だ。
そういわれると納得は出来るな。
黄権って、夷陵でもそうだが、実行の前段階で妙計を没られているという感が有るので。
348 :
魏延:05/03/03 00:20:13
・・・やっぱり俺じゃスレを沈静化できないか・・・無念。
っつーか、どうも魏延=ライスシャワーってイメージだ。
んん、どっかで関羽の悪口でもしてたっけ?
むしろ結果的に関羽を擁護する場合が多かったような…。
同様の表現に司馬朗伝の「議雖未施行,然州郡領兵,朗本意也」がありますね。
黄権の場合は、彼自身、巴西の名族出身ですし、
諸葛亮の隆中対のようなグランドストラテジーが似合ってると思いますよ。
だからこそ魏の高官になり、諡号が与えられたんでしょうし。
>>348 イキロ
やたら正史の原文を引用して説教しだす厨が現れると
この手のスレは収集がつかなくなるからな
あえて沈静化させず、黙るまで語らせとくが吉
>>349 古い話だ。寝た子を起こすと怖いのでスルーしてくれ。
ふむふむ。
だけど、黄権は華キンなどとは違って古巣との戦いで効果的な策を立てる事が無かったんだよな。
華キンの場合は、孫権には「私が魏と呉の間を取り持って見せます」と言いつつのこの行動。
さすが華キン。俺たちにはできない事を平気でやってのける、そこに(ryって感じなんだが。
取り立てられているにもかかわらず目立った働きが無い。
黄権は、その古巣への忠義がまた才能を評価し難くしてしまっている一因なんだろうな。
>>351 おまいは何が言いたいんだ?
原文を持ち出してきても結構じゃないか
何が不満なんだか
原文持ち出されると困る香具師が、このスレにいるのかなw
>>351 スマンこってす。すぐ終わりまっさ。
>>352 もともと記述が少なくて官位あたりで推測するしかないんで難しいですね。
個人的には、黄権は魏でいうと王朗あたりとおんなじグループって気がする。
>>353 煽らない煽らないwみんな仲良く。
それじゃ消えますんでヨロ。
>>338 >事績って言葉の意味知ってるか?
辞書引け。
事績には、なされた優れた行いのこともあり、黄権の魏におけるエピソードはそれにあたる。
それに、人格そのものが能力であり功績でもある時代において、黄権はその忠義と徳義において
評価されて魏でも信頼され昇進していった人物なのに、あのエピソードが事績じゃないのなら
なんだというのかねえ?
大体、人物伝というものは功績・過ちとひととなりを示すエピソードから構成されているのに、
エピソードが人物評価に無関係なんだとしたら、ほとんどの人物伝は無味乾燥な「何々しました」
という数行で終わりだな。
>すべてもともと黄権が立てた作戦だった、という一文だけでは具体性に欠ける、
>対して法正は劉備に対する進言まで残っており、先主伝に法正が策謀に預かる相談役、
>とまで書かれてる法正とでは、法正の方を信じる。
なにが言いたいのか、全然わからん。
だから、おまえは黄権伝は嘘が書いてあるといいたいのか?
それに法正伝を読んだかい?
法正の献策というのは、裴松之註にもあるように「今こそ漢中を獲るべきだ]という発言のこと
であり、『小説や漫画に出てる軍師』のようになんらかの具体的な戦略・戦術を法正が出した
ような記述は全くない。
実際、漢中争奪戦の描写においては劉備が自ら兵を指揮し、法正は「攻撃すべきです」と発言
しただけだ。
そしてこの「献策」については、黄権伝においても同じ「献策」を黄権が行っている。
ましてや、「法正の方を信じる」とか「信じる・信じない」というレベルの話をされてもね・・・
>先主伝では漢中は迎えに行く前に落ちてるな。
だから正史にも間に合わなかったと書かれているし、
>>336も「(張魯が降伏したので間に合わなかった)」
と書いてるよな。
>>354 >個人的には、黄権は魏でいうと王朗あたりとおんなじグループって気がする。
全然違うだろ。
黄権が蜀書13で共に立伝されたメンバーは「李恢・呂凱・馬忠・王平・張嶷」。
蜀において、政治・軍事両面で活躍した都督あるいは都督級の上級武将たちだ。
そして黄権も、劉備政権下では主に軍事面で活躍した都督級の人物。
魏志13の「鍾繇・華歆・王朗」とは比べると、鍾繇が事績的に近いぐらいで
華歆・王朗とは明らかに違う。
>>356 蜀においての事跡じゃなくて魏においての事跡ってことじゃないのか?
魏においては特に軍事的な功績はないみたいだし。
功績・タイプなどから考えて、対比するなら魏志巻26「満寵・田予・牽招・郭淮」。
>>355 横やりすまんが
黄権の魏においてのエピソードは人格のものしかなくて
その(優れた?)人格において何もなされていない
このスレで論議されてる事績はやはり見当たらないのでは?
やはり具体的な魏における功績がない以上、
その旧主への忠義を忘れない態度が受けが良かったとしても
降将の待遇が良いという魏の方針によるものがやはり大きいのでは?
法正と黄権の漢中での役割の違いは文脈により明らかで、
法正は漢中攻めを進言し従軍して攻撃の機までも進言していることから、
>>355のいう『小説や漫画に出てる軍師』のような役割をしたことが明らかに見て取れる
それに対して黄権の進言は張魯が破れたときに漢中を得ることの重要性を訴えたものであり、
その時の「漢中を失っては・・」の進言が後に劉備と法正が漢中奪取を実行に移す
きっかけになったという意味合いに過ぎない
劉備の漢中攻めの際には従軍もしてないし、進言すらない
要するに黄権は「漢中は重要なんです」と蜀にとって真実で普遍的な助言をしたに過ぎないということ
(企画書云々は想像力膨らませすぎw)
ちなみに黄権の人格については個人的には、計算尽くの変節漢でいやらしいという印象しかない
もしホントに旧主を敬うなら敵国で好待遇に甘んじるなと
敵国で良い待遇を受けるんであれば旧主忘れて一生懸命仕えろよと
言ってること(旧主への忠誠)とやってること(敵国で美味しい待遇)が違うんじゃないのと小一時間問いつめたいところだ
>>359=
>>324=
>>326 >計算尽くの変節漢でいやらしい
自分の好き嫌いが、同時代の人や歴史的評価を上回るわけですな。
劉璋のために尽くした後、劉備に一生懸命仕えたことは無視ですかw
ジサクジエンの黄権バッシングがんばれー!ヽ(´ー`)ノ
みんなも応援しているぞー!
正史黄権伝
杜コ・朴胡を撃破し、夏侯淵を殺害し、漢中を支配することになったのは、すべて黄権がもともと立てた計略にそったものであった
>>360 いやいやいやいや
>>359以外黄権についての発言は
>>326のみです
自分の好き嫌いに関しては
>>359で「個人的に」と先に述べておきましたw
ちょっと冷静に原文の黄権伝の劉備への進言内容を読み直した方がいいのでは?
文脈を都合良く捉えすぎw
>>360 旧主に対する礼儀と慎みを忘れない降将が全て「計算尽くの変節漢」なら、
三国志は
>>359が嫌いな奴ばっかりなんでしょうね
黄権が魏において与えられた限られた権限の範囲で、誠実に魏に
仕えなかったということを、何を持って
>>359は判断しているんでしょう?
淡々と仕えたからこそ官位も上がっているわけだし
>杜コ・朴胡を撃破し、夏侯淵を殺害し、漢中を支配することになったのは、
>すべて黄権がもともと立てた計略にそったものであった
原文でも「然卒破杜濩朴胡、殺夏侯淵、據漢中、皆權本謀也」ですね
>>359は「漢中の重要性を訴えただけ」と言っているが、それを「謀」とは
いいませんよねw
ましてや「然卒破杜濩朴胡、殺夏侯淵」と具体的に挙がっているし、
黄権の事績でも軍事を主に担当した人物であるのに、その献策が単に
「漢中は大切」レベルで終わるものでしょうか
中国において献策する場合は「じゃあ、どうしたらよいか」という
君主からの諮問が必ずあり、そこで具体的な策を述べるのが一般的ですが、
その他の多くの「献策」の例が示すように、そして法正伝そのものが
「漢中は大事」という献策のあとに具体的なその戦略内容は全く
書かれていないことが証明しているように、その具体的な部分は必ずしも
こと細かく史書には書かれていません
きっと
>>359は幼少の頃、光栄ゲームでせっかく捕らえた武将に裏切られた
というトラウマがあるのでしょう
季漢輔臣賛
鎮北将軍(黄権公衡)は鋭敏な頭脳をもち、策略は筋道だっており、軍を指揮して
悪者を追い払い任務を遂行して見事な功績を挙げた(漢中奪取に大功があったこと)
>>362 劉備への進言内容をうけて「本謀也」ということを無視しないでくれw
つまり「漢中を失ってはならない」という進言内容が
後の漢中奪取につながったという文脈とみるのが普通じゃないかな
光栄ゲームw
>>363 黄権の軍事面で最も大きな活躍は、正史に準拠する限り漢中争奪戦のことを指すのだろうし、「敵を倒した」などという書き方ではなく
「悪者を追い払い」という書き方をしているところも、明らかに漢中を奪い曹操を撤退させたことを差しているんだよね?
だとしたら、法正と比べてどうかという話は別にして、漢中争奪戦で黄権に大きな功績があったことは確実なんだろうな。
黄権擁護派は、別に法正の功績を否定しているわけじゃないし、軍事行動における戦略・戦術が漫画や小説のように
特定の誰か一人のスーパー軍師が全部考え出すわけではないのに、なぜ黄権否定派は法正オンリーしか認めず、さらには
正史黄権伝を「怪しい」とかまで、必死に否定までするのだろう?
その断定的で狭い議論の展開の仕方が理解できない(´・ω・`)
>>364 >>362が言うように劉備に献策し、そしてその献策を実現する謀を立てたってことだろ
それにそれを否定するなら、法正伝はどうなる
これも
>>362が指摘している通り、法正伝も話の展開は全く一緒だろ
裴松之の註だって、法正の献策とは「漢中が大切」という発言のことを示している
>>365 >黄権擁護派は、別に法正の功績を否定しているわけじゃないし、軍事行動における戦略・戦術が漫画や小説のように
>特定の誰か一人のスーパー軍師が全部考え出すわけではないのに、なぜ黄権否定派は法正オンリーしか認めず、さらには
>正史黄権伝を「怪しい」とかまで、必死に否定までするのだろう?
>その断定的で狭い議論の展開の仕方が理解できない(´・ω・`)
頭が悪・・・固いからじゃないかな
演義厨のため、諸葛亮とか龐統とか法正は彼の中ではスーパー軍師で、その権威と
功績は神聖冒すべからずという信者なんだよ、きっと
>>366
>演義厨のため
まあ、演義やゲームじゃコウケンは活躍しないから、しょうがないな
>>365>>366>>367 必死なのはどっちなんだ
>>366 いや重要なのは黄権の過去の(張魯が破れたときの)漢中における進言が
後の漢中攻略の元となったという流れで
黄権による劉備が漢中を攻める現在進行形での進言や助言の記載はないということなんだが
これについてはどう?
エビバリ、朝飯喰ったかーい?
朝飯喰わないから短気になるのさ!
朝飯喰ったら、知力も武力も八十未満の地味な奴のことは忘れて、リクエストがあった 魏延の話しようぜ!
そろそろ黄権についてまとめてくれ!
例によって、史料が少なすぎ
ハイ次
まあそれに尽きるな
373 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 12:52:24
黄権は晋の袁宏に「蜀の4名臣」の一人扱いされている。
(3人は孔明・法正・龐統)
374 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 12:57:02
関羽・張飛・馬超・黄忠だろ
劉備政権ではそこそこの人材、魏では凡将でってことでFAだと思うが。
人材の層の厚さが全く違ったってコトで。
魏に降ってからの功績が皆無なのが全てやね。
高い官位を得たことだけをもって名将と言い張る御仁がいるようだが
それは思考停止以外の何物でもない
小泉首相の評価を議論するときに
「優秀な人に決まってるじゃん!だって首相なんだよ」
と言うのと同じ
>>375 ダメな人物に褒められて司馬懿が有頂天になるのかよ。
曹丕が何度も何度も口説くような事をするのかよ。
なんだ。その・・・成功している人間に対して何ぞ嫉妬するような理由でもあるのか?(;´д`)
益州刺史や晩年の車騎将軍・儀同三司はともかく
歴任した職が名誉職ってわけでもないでしょ
>>376 ・演義厨なので黄権をあまり知らない 「黄権なんてちょっとしか出てないじゃん!」
・光栄厨なので黄権に不満がある 「知力も武力も80未満の中途半端な使えねー奴じゃん!」
・蜀厨なので魏への降伏が許せない 「この裏切り者!」
・性格がゆがんでいるので黄権がいやらしい変節漢にしか見えない 「この変節漢!」
・スーパー軍師・法正のファンなので、法正の功績を横取りすることは許さない
「漢中奪取に関する全ての戦略・戦術は法正一人が行っており、軍議もなければ献策もない!
ほかの部将は作戦について全く貢献していないと正史に書かれている!
正史黄権伝と季漢輔臣賛は嘘だ!」
・とにかくなんにでも反論せずにはおれない社民党的精神の持ち主
「黄権が優秀?いや、違うだろ!」
今必要なのは、黄権交代じゃないか?
で、次のお題はなんなの?
黄崇いってみる?
妥当な意見言ったのに親が魏に降ってたから却下
親の因果が子に報い
…違うか
>>376 司馬懿は黄権に褒められてねぇ、
曹丕も別に口説いてねぇ。
黄崇だったりゲキ正だったりホウ宏だったり、蜀は意外に裏切り者の親族を使ってるのな
黄権の場合は
「黄権は私を裏切っていない。私が黄権を裏切ってしまった」
というお墨付きがあるからねえ
ほんとのところ黄権て劉備の漢中攻略に参加したのかね。
正史には具体的にそれについてどこにも記載されてないんだよな。
宇禁の降伏と黄権の降伏の違いについて
退路がなくて降伏つながり
>>387 于禁は対陣中の対戦相手に降伏、黄権は本隊の敗退により退路が絶たれ第三国に降伏。
違うといえば違う、違わないといえば違わない。
曹丕にいびられたかそうでないか
>>386 まぁ記載はなくとも参加ぐらいはしてる可能性はある
>>387 出目の違いと振る舞いが明暗を分けたってとこじゃないか
于禁は他人に厳しかったようだし、なにより長年仕えた将だったしな。
けどまあ仮に黄権が魏に仕えていて、また魏に戻ってきたなら、
曹丕にいびられたかもしれない。
少しばかり曹崇について語ってくれ
何やってた人?
ホウ徳の最後が剛直だったから、ウ禁は損したかも
黄権の場合も討ち死にした他の将軍は何人もいたんだが…
方面が違ったから比べられなかったのかな
けどよくよく考えたら曹丕も結構陰湿な事を黄権にしてるな、
黄権が魏に降った時の質問もちょっと嫌らしいが、
劉備が死んだ時に、黄権に「出頭しろ」って催促の使者を次々に送る事なんか、
流石に曹丕と言いたくなる。
>>395 それもそうなんだが劉備が死んだらそれを祝うってのもすごい・・
しかしそれにしても黄権の魏での昇進ぶりってすごいよな。
魏の降将を厚遇する傾向だけでは説明がつかん。
車騎将軍、儀同三司ってあるが儀同三司ってなんなんだ?
黄権はどんな仕事してたんだろう・・
>>396 儀同三司は簡単に言うと三公同様の格を与えられること。
格式について三公と同じで名誉職なんじゃないのかな
具体的にどのような仕事をしてたかはわからない
>>399 名誉職っていうか儀同三司は加官だからそもそも職名じゃない。
>>400 待遇面の話だからね。
「課長、ただし給料と福利厚生面は部長待遇」とかいうのと同じ。
そして、その「課長」としての権限のほうが問題だが、 黄権は「車騎将軍」として
自ら指揮する多少の兵と車騎府の幕僚はもっていただろうが、いわゆる張郃などの
魏将が「車騎将軍」となった場合と違って、大きな軍権や兵力などは与えらない。
どちらかといえば、老臣として君主の相談役・諮問役・御伽衆などに近い存在としての
「高官」であり、蜀でいうところの劉琰の車騎将軍や呉のかなり高齢になってからの
張昭の立場と同じようなもの。
宮中にあって、曹丕や司馬懿・曹真などの上位の将軍から何かを問われれば答え、
問われないときは自ら発言するようなことは控えて淡々と魏に仕えたのだろう。
なるほど。気に入られて破格の待遇をうけた名誉職だが実質的な
権限はそれほど持っていなかったと捉えていいのかな?
それが正しいだろうね。
第一に黄権が車騎将軍として真っ当な軍権を持っていたと考える方が異常だろう。
魏には他に十分人材が居たわけだし。
メルカッツ・・・
いや、なんでもない。
メルカッツ?
ドイツ???
黄権の蜀での功績についてはどうなんだ?
漢中奪取での功績ってどんなもん?
限りなくゼロに近いと思ふ・・
>>407 正史の記述、それに誰かが挙げてたけど季漢輔臣賛の記述はどう説明するの?
季漢輔臣賛も明らかに、曹操との漢中戦争を差した記述なんだけど。
>>408 あれなー、原文見るとちょっとなー、ビミョ・・カモ・・
>>408 あれなー、原文見るとちょっとなー、ビミョ・・カモ・・
>406,497
曹操が漢中を攻略し張魯が巴に逃走した際「漢中を失えば、巴への影響が大きくなり、蜀全体が不安定になる」と進言し、その結果、黄権が護軍(指揮官)に任命され張魯を迎えさせようとしたが、張魯は帰って曹操に降伏した。
曹操はその後、巴郡(おそらく巴西郡、宕渠付近)の杜コ・フ胡・袁約等、異民族を配下にし、益州中部にまで圧力をくわえようとしたが、派遣されていた黄権が杜コらと交戦し、これを敗走させたため、当面の曹操の進撃を食い止めた。
漢中の重要性は益州の政権の人物なら共通に認識していただろうけど、実際に前線で敵軍を破り、曹操の影響力の増加を抑止した黄権の功績も大きいよ。
なんせ、当時劉備は呉と荊州帰属問題で身軽でなかったからね。
>412は
406,407 の間違えです。失礼。
>>412 劉備が漢中に侵攻して夏侯淵を撃破した戦いについての黄権の功績についてはどう思ってる?
正史にはこの時に従軍したとか献策があった等の記述がないんだが。
黄権の献策はあくまで張魯を迎え入れるときのものなので。
確かにトコ以下の三人衆を破ったのは功績ですねー。@華陽国志
>414
全く記録が残っていないので、なんとも言えないのだけど、曹操が張魯を服属させた頃から漢中に関わっているので、従軍したと考えて良いと思います。
出身(漢中の南隣、巴西出身)も含めて、漢中方面の地理等の情報にも精通していてもおかしくないですし。
正史に記録が全く無いのは、独立した指揮官として参加せず、劉備本体の幕僚として参加したか、部隊指揮官と参加したとしても劉備旗下の指揮官であって、すべて「劉備の軍」と言う事で一括りされたからじゃないでしょうか?
例えば、黄忠も夏侯淵を討ち取るような大殊勲を挙げなければ正史に記載されたか微妙なところです。
また、魏延も後に督漢中に任命されていることから、漢中平定に参加していたと思われますが、漢中戦に関する魏延の記録は全く残っていません。
つづき。
劉備が漢中を奪取した戦役に関する黄権の直接の功績は、はっきり言って分かりません。
が、曹操の漢中平定から劉備の漢中奪取に至る一連の流れの中で地味ですが、曹操に対する劉備の最初の反撃を成功させた、と言う一点でも後の漢中平定に大きな影響を与えたのは間違いないと思います。
杜コ等に黄権が敗れていれば、曹操の益州への圧力が大きくなり、劉備の益州統治をかなり不安定なものにしたでしょう。
そうなれば、漢中奪取どころではないでしょうからね。
その時期は巴に張飛が行ってるし、そんなに大勢が変化するとも思えない。
>>416 まあ従軍した可能性が全くないとは思わないけど
やはり従軍した記録がないのと従軍したとしての献策や功績がないのとを考えると
この時の功については
劉備の漢中攻略には従軍したかもしれないが特に功を上げたわけではない
としか言えないと思うね。
まあ結局、その前の張魯を迎えに行く際、杜コ、朴胡、袁約等を破った功のみなわけだが
もともと張魯の配下であり曹操に降伏してそのまま巴西太守に任命されたようないわば捨て駒の
ような彼等を破ったのが果たしてどれほどのものか疑問。
>418
杜コ等が撃破された結果、巴地域における曹操の影響力が低下したその直後、張コウが張飛に破れると曹操は諦めて北帰してる。
杜コ等の勢力が健在で、曹操が影響力を保持していたら(張コウを杜コ等が支援出来ていたら)、対張飛戦の結果も分からんし、簡単に諦める、って事もなかっただろう。
せっかく服属してきた連中を見捨てる事になるし。
>張コウが張飛に破れると曹操は諦めて北帰してる。
これ、順番が逆じゃなかったかな…
それに諦めたってわけじゃないと思うよ
つーか黄権が劉備の漢中攻略には参加したとかもしれない程度と
>>412が認めてるんであれば
別に論議がぶちあたる所もないような気がする。
べつに杜コ等を撃破した功についてはこちらも否定しないし。
どれくらい重要なのか疑問があるとしても。
>419
418にも書きましたが、杜コ等は異民族ではありますが、巴中地方に影響力を強く持った地元有力者です。
巴中に地盤を持った彼らが健在で曹操を助けたなら、益州中部への圧力は大きくなるでしょう。
確かに、曹操にとっては捨て駒だったかもしれませんが、劉備ら益州政権にとっては死活的な問題な訳です。
その辺りは黄権が巴出兵を進言した時も言及している訳です。
実際、曹操が漢中を落とした時、蜀では人心が動揺して一日で数十件の恐慌が発生し、守将が流言飛語するものを斬っても民心が収まらなかった、と記載されてるのですから。
>>421 曹操が帰還した
トコ等を黄権が破った
張コウを張飛が破った
この流れじゃないの
>421
順序としては、曹操の漢中平定→張魯ら降伏→杜コ等VS黄権→曹操自身宕渠に進駐&張コウ、張飛に破れる
→曹操北帰
と言う順序かと思います(見づらいかも。)
黄権の杜コ等を撃破した功績は、劉備が漢中を奪取を成功に導く一助であると思いますが、全てに通じるとか過大に評価するつもりはありません。
トコvs黄権戦がどこに入るかわからんけど、
張コウvs張飛戦は曹操撤退後だと思う
>426
いえ、張コウが張飛に破れた際、宕渠(巴西郡内)まで曹操自身が進軍してますね。
張コウの敗戦で一連の曹操軍の攻勢が終了した、って感じです。
その後北帰し、翌年(216年)、魏王就任って流れです。
それがよくわからん。どのへんに書いてる?
つーか劉備等が益州平定後、すぐに巴西太守に張飛が任命されてるよな。
すでに張飛は巴にいたんじゃないかな。
正史でなく、宮川尚志氏の本ですね。正史でも曹操伝あたりに記載されてるかもしれません。
正史が手元に無いので、はっきり分からず申し訳ありませんが。
宮川尚志・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
432 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:55:53
周倉は10位には入りそうだな
>429
巴西地方は広いですよ。張飛が太守に任命され管轄したのはロウ中方面。おそらく、漢中方面(東北方面)への備えでしょう。
それに対して、曹操が進駐したのは漢中からまっすぐ南下した宕渠(ロウ中の東南)方面で、巴西と巴郡(江州)と等距離ぐらいの場所です。
同じ「巴(西)」ですし、後に張コウと宕渠で戦ってますから、全く影響が無いとは言えませんが、当初、宕渠方面で争いがあったとしても、漢中方面への備えから軽々と張飛も動けないでしょう。
ちょい見てみた。ちくまの訳文、ちょっと省略しつつ。
武帝紀>十一月、張魯が来降した。劉備が益州を奪い取り、ついに巴中を占領した。張コウを派遣してこれを攻撃させた。
張魯伝>太祖は南鄭に入城した。
夏侯淵伝>張コウ・徐晃らを指揮させ、巴郡を平定させた。太祖はギョウにもどるとき、夏侯淵を漢中の守備に残し。
劉曄伝>張魯は逃走し、漢中はかくて平定された。劉曄の進言。太祖はきかなかった。大軍はかくて帰還した。
張コウ伝>張魯は降伏した。太祖は帰還するとき、張コウと夏侯淵らを留め置き漢中を守備させ、劉備に当たらせた。
徐晃伝>太祖はギョウに帰還したが、徐晃と夏侯淵を留めおき、陽平において劉備を防がせた。
先主伝>曹公は夏侯淵・張コウを漢中に駐屯させ、しばしば巴の境界をあらしまわらせた。張コウは南鄭に還った。
張飛伝>曹公は張魯を破ると、夏侯淵と張コウを駐留させて漢川を守備させた。
法正伝>「曹操は漢中を平定しましたのに、巴・蜀を手に入れようとせず、夏侯淵と張コウを駐屯し守備させて北方へ」
黄権伝>張魯は南鄭に引き返し、北方の曹公に降伏したあとであった。
こんな感じかな。微妙なのもあるけど宕渠までは行ってないぽい。
漏れは三戦板に来るまで法正がこんなに凄い人だとは知らなかった
何故演技で孔明と同格に扱われなかったのだろうか
>434
宮川氏によると「曹操自身、宕渠まで進軍したが、張コウが破れたため、諦め帰還した」ってハッキリ書いてあるんですよ。
434氏の書き込み見ると、張飛VS張コウは曹操帰還後とも読める。
曹操が宕渠まで行ったのは宮川氏の誤解か、時期違いかもしれませんね。
張コウは張魯戦の時から対漢中・巴蜀方面への先鋒を担ってるので、曹操帰還後(漢中駐屯時)に限らず対劉備戦で出てくるのは分かるのですが。
張飛vs張コウの時期がハッキリしてれば良いのですが。
>>435 法正のスーパー軍師ぶりが世に伝わると、孔明様の偉大な御力が霞んでしまうから。
いちお後漢書と華陽国志も見てみた。
後漢書劉焉伝にはとくに記述なし。
華陽国志は、「公が東方に帰還すると、張コウがしばしば巴の郡境を侵し」みたいな。
宮川氏の勘違いのような気がする。
張コウ伝には、
張コウは(漢中の夏候淵とは)別に諸軍を率い、巴東・巴西を平定し住民を漢中に移住させた。
しかし、さらに軍を進めたところで張飛に宕渠で抵抗にあい、南鄭まで軍を撤退させた。とあるな。
ちゃう。
しかし、さらに宕渠へ軍を進めたところで張飛に抵抗にあい、
だな。
曹操は漢中に留まっていたと見て間違い無いかと。
曹操が率いていたなら、張コウが「別に諸軍を率いて」なんて書き方をする必要がなかんべ。
>438
張飛VS張コウは、おそらく216年のようですね。勉強になりました。
流れは、
215年(11月)張魯降伏。
215年(不明だが、張魯降伏と同時期と思われる。張魯降伏と前後する可能性も有り)黄権が杜コ等を破る。
216年(初頭)曹操帰還。
216年(不明)張飛vs張コウ
こんな感じでしょうか?
黄権が杜コ等を破ったのが曹操帰還に影響してるような感じですね。
>439=441
ご自身で「夏侯淵とは別に諸軍を率い」って書いてますよ。
(司令官たる)夏侯淵に対する別軍って事ではないですか?
一番わかりやすいのは華陽国志かな。
>黄権を護軍として張魯を迎えさせた。
>張魯はすでに北方に行って曹操に降伏していた。
>黄権は公が任命した三巴太守トコ・フコ・袁約らを破った。
>公は夏侯淵・趙ギョウ・張コウを残して漢中を守らせた。
>公が東方に帰還すると、張コウがしばしば巴の郡境を侵した。
>先主は張飛らを率いて宕渠の蒙頭に進軍して張コウを防いだ。
>対立すること五十余日、張飛が別の道から張コウを迎撃し、陽石で戦闘になった。
>ついに張コウ軍を大破、張コウは馬を失って山に入り、麾下十余人と間道から南鄭に還った。
>二十一年、先主は成都に還った。
>>442 単に漢中は手に入れたから帰還しただけだな。
目的は果たしたと。
これを黄権が曹操を追い払ったって・・・願望入りすぎ。
読んでいて思ったんだが、黄権の活躍は外交官的な色合いが強いと思う。
んで、法正は実務家。それぞれが能力を発揮して漢中を奪取した。
なんか、異質なモノを同じ基準で比較しようとするからすれ違うんじゃない?
個人的には夷陵で失った人材に関してはひきつづき議論して欲しいな。
彼らがいて、北伐していればってのは、
三國志を始めて読んだときからの最大のifだからね。
夷陵の戦を戦略的に洞察できてたのは黄権くらいか?
孔明もだな。
>>449 孔明はどうかな・・・
「法正なら止められた」発言は「俺じゃ止められなかった」→「俺は止められはしなかったが、分かってた」
という意味にも取れるが・・・
先駆け志願だから、戦略的にはイマイチ評価し難いと思う。
しかし黄権伝ではどっかで魏軍に対して備えてる風な書き方なのに、
先主伝によると夷陵に居たみたいだな。
>>451 その解釈があってるとしたらなんつー無責任な発言なんだ
孔明は劉備を殺して蜀を乗っ取るつもりだったんだよ
そしてそれは成功した
>>454 その解釈があってるとしたらなんつー無用心な発言なんだ
>>452 呉書には名前が出てこないから黄権伝の方が正しいと思うけど
劉備が破られた後二ヶ月も呉と対峙し続けたとは思えないし
>>453 「法正なら止められた」発言は「俺じゃ止められなかった」→「法正なら分かっただろうが、俺は分からなかったので止められなかった」
ということを
>>451は言いたいんでしょ
>>456 黄権北軍、劉備南軍って分かれてた感じだし、
呉に敗れたのは南軍だから、夷陵に居ても不思議は無い。
>劉備が破られた後二ヶ月も呉と対峙し続けたとは思えないし
ここがよく分からんのだが、劉備は負けると永安まで退いてるし、
この時に退路を断たれて、魏へ投降したんじゃないかな。
すまん間違った
>>450への発言だった・・・
俺は「孔明の発言から、夷陵の大敗を見越していたという見方も出来るが、確証は無い」ということで
群臣の多くが劉備を諌めたが全く聞き入れなかった。
とあり、諸葛亮の嘆きが、
法正が健在だった劉備を抑えれて東征せずにすませただろうし、
仮に東征しても危険を避けれただろうに。
と繋がるから、戦略眼の問題ではないと思う。
単に諸葛亮が劉備にそれほど信頼されてなかったということだ。
少なくとも法正よりはね。
>>459 しかし呉と対峙していたとしたら魏に降伏できるかな?
>>461 反対した記録が残ってるのが秦宓、註で趙雲
群臣の多くっていうのも実態がよく分からない
荊州系の人士は賛成しそうなきもする
参軍してるのもほとんどが荊州系だったと思うが・・・
464 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 04:24:03
>>448 >読んでいて思ったんだが、黄権の活躍は外交官的な色合いが強いと思う。んで、法正は実務家。
どこに黄権が外交官なんかやった事績があるの?
黄権は劉備政権下では主に軍事面で活躍した人物。
それに
>>356が既に挙げているが、黄権が蜀志巻13で共に立伝されたメンバーは「李恢・呂凱・馬忠・王平・張嶷」。
それぞれ、南方や漢中など最前線に駐屯し地方行政を行いながら、軍事面でも活躍した都督あるいは都督級の上将。
立伝は毛色の違う人物といっしょに行うと、魏志巻10のように後世の歴史家たちから「おかしいだろ」と突込みが入る。
つまりこれは、黄権もまた同じ事績であったことを示す証拠でもある。
「最前線の地方行政」が何かということだが、劉璋時代の広漢の長であったことや劉備が漢中王・益州牧になった
ときに益州治中従事だったことは、ほかのメンバーの特徴と合わないので、漢中争奪戦か東呉征伐の事績ということになる。
しかし、東呉征伐では江北で地方行政に携わった様子もないので、やはり漢中争奪戦のことになる。
杜濩・朴胡・袁約を撃破後、張飛らと共にそのまま最前線に駐屯して、巴西出身者として実情をよく知る三巴の
地方行政も行い、劉備・法正らが主力軍を率いて漢中に侵出する際には、先鋒あるいは別働隊としてこれに支援したと
考えるのが、正史などの黄権の功績や行動の記述とほぼ合致し、立伝の仕方的にも合致する。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 04:27:53
>>462 それは違うだろ。
法正持ち上げすぎ。
単に軍事面では諸葛亮より法正のほうが優れており、劉備も諸葛亮もそれを認識していただけでしょ。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 04:28:50
>>463 >荊州系の人士は賛成しそうなきもする
益州系の人士はあまり賛成しないかもしれないぞ
>>464 劉備・法正らが主力軍を率いて漢中に侵出する際には、
先鋒あるいは別働隊としてこれに支援した(かもしれない)
>>463 夷崚までいくと退却するには魏の方が近いのでむしろ自然。
三國名臣序賛(晋の袁宏著作)
魏志九人:荀ケ文若、荀攸公達、陳羣長文、夏侯玄泰初、袁渙曜卿、崔琰季珪、徐邈景山、王經承宗、陳泰玄伯
蜀志四人:諸葛亮孔明、龐統士元、蔣琬公琰、黄権公衡
呉志七人:周瑜公瑾、張昭子布、魯肅子敬、諸葛瑾子瑜、陸遜伯言、顧雍元歎、虞翻仲翔
後世の人間とは違うほぼ同時代の人間としての評価や、袁宏自身の思い入れもあるので、
我々とはまた違った評価基準もあるのでしょうが(職業軍人は全然入っておらず士大夫ばっかり等)、
黄権は蜀の名臣の一人として評価されているので、やはり蜀においては特筆すべき人物だったのでしょう。
諸葛亮孔明
堂々たるかな諸葛亮、その気宇は広大なり。姿形は常人と同じくも、先を見通す英知があった。
風流を装い、自らを管仲・楽毅になぞらえ、初めは龍の如く身を潜め、救世の志を益々固めた。
国家の道が失われ、戦乱がおこった。天下の英雄でなくては、誰がこの乱雲を払えよう。
皇室に連なる劉備は平和を願い、諸葛亮はその依頼を受けることとなった。
かくして山林の暮らしを捨て、時代の担い手となったのである。
龐統士元
龐統は思慮深く、穏やかで優雅な性格であり、善を尊び人を愛し、初めを見れば終わりを知った。
争乱を舐め尽くしたが、勝利の見通しが立たないうちから、統は目標を掲げ清風を起こした。
名君に仕えたが、時は正に窮災、彼は日夜怠らず、国家の為に勤めた。
その三策が劉備に進められ、覇業の基が固まった。
蔣琬公琰
蔣琬は物事の根本を守り、公平中庸の道に拠った。それは真似事ではなく、本性によるものである。
やはり劉備に用いられ、国の命運を担った。
賢を推し謙虚に身を処し、いつまでも相手を敬うことを忘れなかった。
黄権公衡
黄権は奥の深い人物であり、心は充実していた。先主のみを慕い、難に遭っても惑わなかった。
かつて戦い利あらず、やむなく魏へ降った。進んではよく先主を諌め、退いては先主の恩を忘れなかった。
>>463 北岸の別働隊は対呉だけでなく、呉に味方して魏が長く伸びた蜀軍の戦線を
横撃・挟撃するのをけん制する役目ももっており、呉軍・魏軍両方と対峙している。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 05:27:49
魏は変なのばっかじゃん
演義メインの人から見れば、マイナーで変な奴ばっかりに見えるんだろうな
それなりに優れた人物たちだし、
>>469が書いているように我々とは違った
価値観・判断基準もある
特に魏を簒奪した晋の時代の人間にとっては、いろいろと事情もあるから
魏の人物の選び方には何か理由もあるのだろう
>>464 なるほど。
立伝仲間でいけば「漢中や南方の最前線に駐屯し、行政・軍事を両方こなした都督級の人物グループ」だなあ。
となると、駐屯地は東呉戦ではなく漢中戦のほうが確率が高いよね。
巴中・巴西などを平定後、駐屯して行政もこなしながら劉備出陣を待ち、劉備が出陣するとどういう形
(地勢などを調査し地元出身として軍議に加わって戦略立案に参加、別働隊を率いて地方平定、三巴で後方支援、等)
かは別として漢中侵攻に貢献したと考えれば、正史や季漢輔臣賛の「黄権の功績」も説明がつくし、
正史の立伝メンバーとの整合性もとれるね。
あくまでも推測ではあるが、法正=唯一絶対軍師主義者の主張よりはムリがないし、実情にあってて様々な歴史書の
記述にも説明が付けられる。
俺的妄想では、張魯のお迎えや三巴平定では主将を務め、その後は駐屯地の行政メインで張飛の軍師役かなw
>>474 法正絶対主義者って、なんで
「全ての戦略・戦術は法正が考えた。黄権などいない」
なんだろうね?
諸葛亮だって軍議を開き、みんなの意見を聞いているし(魏延案のように
採用するかどうかは別だけど)、魏にしてもそう。
でも、いちいち戦争に参加した全部将や軍議で案を出したメンバーの名前を
全員こと細かく正史に書いたりはしない。
なのに、なんで法正だけは「漢中戦における唯一絶対の不可侵の軍師」という
考えに固執するのだろうね?
むしろ、軍議では地元出身者の意見や情報を積極的に採用したはずだ、と考える
ほうが自然なんだが。
ましてや黄権は漢中侵攻の先駆けとして三巴の曹操認定地方軍閥を撃破して
いるのに、その後の「漢中争奪に全く関わらなかった」と考えるほうが『不自然』な
気がするのだが?
>>475 (*´ー`) 「軍師萌え〜」な軍師マニアの人だからw
特に三国時代は、万能な軍師が何から何まで全て指揮していたイメージが強いからしょうがないのかもね。
>>476 何でなっちなんだ?
なっちが軍師萌えだと言いたいのか?
478 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 07:57:35
光栄ファンなんかは、知力も武力もそこそこあるが、ズバ抜けて高いわけでなく
どっちも60以上80未満で中途半端で「いけてねー」という思いがあって
バッシングするんじゃないか?
>>477 (;´ー`) ん? ゴメン、わからないや、そのネタ
480 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 08:02:18
(*´ー`)<軍師萌えだべさ〜
>>478 早速、部将も使用キャラに選べるバージョンの光栄三国志で、黄権による中原制覇目指します
>>478 漏れの黄権も脳内補完完了しますた〜いつでも光栄出撃準備おKです!!
ぬるぽ
軍師きもい
黄権厨暴走してんなーw
黄権についての結論まだ〜?
>黄権が蜀志巻13で共に立伝されたメンバーは「李恢・呂凱・馬忠・王平・張嶷」。
おまいこればっかり言ってるけど、こゆことしてると実質を見誤る。
蜀志巻十一や巻十五をどう説明するつもりなんだよ。
相変わらずレッテル貼りが好きだなぁ…。
誰が法正が唯一絶対軍師主義者なんて言ってるだか、
全てもともと黄権の計略によるものだった、を疑問視すればそうなるのか、
むしろこっちも方が全てを黄権が立案したって形になって、
十分ファンタジーだけどな。
それ過去レス出てなかったっけ?
というか、法正絶対軍師主義の人間なんているのか?どっちかというと、俄かアンチ黄権の暴走に見えたが・・・
法正派を貶める自演か?
>>487 渋みのある良将。
漢中での法正との関係は、ルーデンドルフとホフマンみたいな役どころって感じ。
んー、
>>356=
>>464=
>>474=
>>475って気がする。いや、356は違うかな。
「三巴」とか「立伝」とか「メンバー」とか、ちょっと他の人がやらない言葉の使い方をする。
まあどっちにしても
>法正絶対主義者って、なんで
> 「全ての戦略・戦術は法正が考えた。黄権などいない」
>なんだろうね?
そんなやつ、475の脳内にしかおらんやろw
493 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 12:32:03
黄権はかなり優秀だったんだろ?
494 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 12:38:53
>>374 武官は所詮文官よりも下扱いなのが中国の社会的評価。
>>492 立伝は俺も使うし、「伝を立てる」の省略形で一般用語ですが?
そろそろ、次のお題もほしい頃だな。
496 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 12:45:32
>>495 それを言うなら「メンバー」「三巴」も一緒だよ。
おれは言葉の「使い方」が他の人とは違ってると言ってるんだが。
あー、あと「事績」ってのを功績かなんかと誤解してるとことか。
次のお題は
>>448かな。黄権以外で。
なら馬良かフトウあたりかな?
499 :
劉璋:05/03/04 13:21:49
次は俺の番だぜ!
馮習か傅僉あたりで語れ
馮習いいな
夷陵戦時は大督だったし。
こいつのせいで夷陵は負けたのか?って思ってたんだけど。
以下かんたんな馮習の紹介
先主に従って蜀に入る。
章武元年(二二一)七月、劉備は大軍を催して西進し、呉班・馮習に巫の方面から呉将李異らを撃破させ、
巫峡・建平から夷陵に至るまで数十もの陣営を連ね、馮習を領軍として諸軍を統括させた。
しかし馮習は敵軍を軽んじたため、翌年六月、?亭において陸遜に大敗を喫し、張南とともに討死した《楊戯・陸遜伝》。
潘璋の手の者が馮習の首級を挙げたという《潘璋伝》。
502 :
劉璋:05/03/04 13:46:06
おいおい!
もしかして俺はスレ違いなのか?
しかし劉備の逃げっぷりは凄いな、3回ほど妻子を捕虜にされ、
4回目の長阪で妻子を棄てて逃亡してる。
殆ど身一つで配下を見捨てて逃走した事もあるし、
身一つでの逃走ではないが、夷陵でも蜀に帰れない人が居たのに、
よくこれで見捨てられなかったなぁ…。
>4回目の長阪で妻子を棄てて逃亡してる。
ってそれはぐれて仕方なくって感じじゃねーの?
他の3つだって仕方が無いわけだし。
自分の子供を馬車から投げ捨てた香具師よりマシだろ。
>>503 見てきたような言い方だな!
そんな低脳な文章しか書けないから厨は困るw
>自分の子供を馬車から投げ捨てた香具師よりマシだろ。
ワロタ
そいつは結局天下統一しちゃったしな
>>504 確かに、しかしそれでも見捨てられないあたり、
大徳ってやつなのかね。
劉備も仕方ないとはいえ、普通なら見捨てられる程逃げまくってるし、
それでも人がついてくるあたり、高祖の風あり、ってやつだね。
>>508 人をアホ言うな。
あれが統一でなきゃ何て言うんだ?
だって子供は又つくればいいんだもん
>>509 地方統一=天下統一なら…
お前は逝って良し!
劉邦って天下統一できなかったのか?
天下統一でいいだろ。
>>511の尺度だと、オゴディ=ハーンですら怪しくなる
武帝もアレクサンドロスも地方政権ってわけか。
スケールでかいなw
508は劉備と勘違いしてるんだよな?
そうだよな?
まさか劉邦が中華統一していないなんて言ってるわけじゃないよな?
逃げる時子供を思いっきり放り捨てたのは劉邦
はぐれたわけじゃなく馬車で逃げてて
「子供が乗っていると重くなって逃げられなくなるから」
と自分の子供を突き落とした
従者(夏侯エイ)が子供を助けて戻しても二度ほどさらに落としたそうな
508って505だろ?
でなきゃこんなアホ何人もいたらキモイわw
ごめんなさい
待ち時間であまりにも暇だったので…
次書き込む時はちゃんとレスします
ではお出かけ逝ってきます
>>519 別にいいけど人をアホ呼ばわりするなよな。
まあ確かに正しい意味での”天下”統一はいまだに誰もしていないなw
ちょっと壮大な気分になっちまったよ
というわけで、話は沙摩柯に戻るわけだが…
誘われてホイホイついてきたらトンでもない負け戦に
巻き込まれて災難だったね >沙摩柯
沙摩柯ってたしか武陵蛮なんだよね。
蜀の統治になついてたんだろうか・・?
こいつには馬良とか習珍とか絡んできそうな気がするな。
武陵は夷陵の南方だし、そう遠くもない。
先主伝では、呉班と馮習がシ帰で陸遜を破った後に、向こう側から出兵を請う形になってるから、
蜀軍に圧迫されて出てきたか、蜀が勝つと思い出てきたか、どちらかだと思う。
ああ、ゴメ。
武陵蛮とははっきり書いてなかった。正史も華陽国志も。
可能性はカナーリ濃厚だけどなー。
えーっと、名声が馬良以上ホウ統以下の文官で正史に伝がないマイナーな人いたよね。
誰だっけ。
名前が出てこない。
>>497 > あー、あと「事績」ってのを功績かなんかと誤解してるとことか。
国語教員課程卒なので突っ込んどくけど、事跡は「やったこと」だが、
事績は「成し遂げた業績、功績」なんで功績で正しいよ。
>>524 呉の異民族対策はだいたい武力で制圧して兵役などに取り込む方針だから
それに反発する山越や武陵蛮に蜀や魏が爵位などを与えて扇動して
呉へ攻撃させるのはよくあること
名声が馬良以上ホウ統以下ってどうなんだ?
むしろホウ統以上馬良以下だろ
>>527 あー、そうなんか。それはすまんかった。
おれと356とか464とかが言ってるのは、ちくまが「事跡」と言ってる方。
原文で「事」ってやつなんだが、これは業績という意味じゃないんだよな。
そういうわけでサンクスコ。
愉快なオバカちゃんが多いスレはここですか?
ま、オレモナー
>>530 両方ともローカル限定での名声っぽいが
呉の名族と親交のあった龐統のほうがマシな気がする
>>529 なるほど。そういえば呉の蛮将ってあんまり聞かないな。
だれかいたっけ。沙摩柯っぽいやつ。
そういえば沙摩柯って人種的にはどうなんだろうな
わんこの子孫w
>>535 長沙武陵蛮は現在のミャオ族の元と推測される場合が多いな。
無文字社会で歌描け文化。
兄弟同士の結婚とか独特で恋愛に関する言い伝えなども多いロマンチスト民族w
とすると沙摩柯は別名ロマンティスト沙摩柯なのは想像に難くない。
>527
龐統に次馬良の上の名声があったと言う人物は習禎ですね。
諸葛亮とも交流があったようです。確か、近い姻戚関係でなかったかな。
劉備の益州平定から漢中奪取くらいの間に死去したようですが、早世のわりに子孫が結構昇進してるんで中々の勢族だったようです。
蜀って趙直 周グン 張裕とかの記述を見る限り
占いなどを研究する学問は、かなりはやってたようだ
史学の方にももう少し力を入れてくれればよかったのに
陳寿も史料の少ないのをぼやいてるし
>539
滅亡時の姜維・鍾会の乱が影響してる部分もあるのでは?
劉備が北海で太史慈をゲットしていれば、史官の代わりに使えたかもねえ。
>>542 ええええなぜにタイシジが史官???????????????????
蜀学って占い学問みたいな感じと以前聞いた
>>543 >>542じゃないけど、確か国として認められると周王朝より太史氏の人間が派遣されて、
太史(史官)としてその国の歴史を竹簡に書き、宮中の壁に張り出し、一定期間掲示したあと、
それをはずして紐でつづって、その国の歴史を残す・・・・じゃなかったっけ(ウロ覚え)
言焦周のような優れた学者もいたんだけどね
>>545 そうか 太史には史官という意味が・・
大史家は史官の家系だからということでいいのデスカ?
そういえば太史慈の伝て劉ヨウ 士燮と同じ所で諸侯扱いだよね
孫策配下になってからの記述もほとんどないし
曹操に誘われたり劉備と面会したりこの人おもしろいよなー
太史慈のおうちには竹簡の失敗作とかがそこら中に転がっていたと妄想してみる。
いわゆる「姓(カバネ)」だな
国の中での職務や身分を氏族名として後にそのまま名字になってしまったもの。
しかし、名字に変化してしまったあとは
別に先祖の職務と関係なくそれぞれ生計を立てるわけで
名字の字ヅラだけでレッテル貼るのはいくない
「草刈さん」という名字の人に
「お前草刈だから草ばっか刈ってるんだろー!アヒャヒャヒャヒャ!!」ってのと同レベルだろ
>>549 それはそうなんだけど家業が引き継がれてる家も皆無ではない
だからといって太史慈がそうだという確証はないのだが
でもなんかこの人陳寿に気をつかわれてる気がするんだよなー
まあスレ違いかもね
太史は、自分の仕える国や君主に媚びず、どんなことであれそこに感情を込めず淡々と真実を後世に残す
職業だから、太史慈のような剛直な人物には意外に似合っているのかもね。
太史の職業を示す典型的なエピソード
斉の荘公が宰相の崔杼の妻と密通し、崔杼は荘公を殺した。
翌日、宮中へ来て見ると「崔杼、其の君を弑す(「弑」は臣下が主君を殺すこと)」と書かれた竹簡が
掲示されていた。
崔杼は太史に書き換えを迫ったが聞き入れないため、これを殺した。
翌日、朝廷へ来て見ると太史の後を継いだ弟が「崔杼、其の君を弑す(「弑」は臣下が主君を殺すこと)」と
書いた竹簡を掲示していた。
崔杼はこれを殺したが、さらにその弟も同じことを書いたため、これもまた殺した。
崔杼は、太史の末弟を脅し「命が惜しくないのか。記述を変えろ」と言った。
これに対し、末弟は「事実に基づいたことを残すのが太史の職責だ。私が書かずとも誰かほかの人が書くに
違いない。私が書かなければ私は識者から笑われるし、あなたの罪を消したことにもならない」と答え、
再び「崔杼、其の君を弑す」と書いた竹簡を掲げた。
ついに崔杼は、書き換えさせることをあきらめ、その竹簡を掲示することを黙認した。
太史氏に変わって歴史を書き残す者に南史氏がおり、南史氏は太史の一族が全員殺されたと聞いて、彼らの
意志を引き継いで正しい記録を残そうと朝廷に出掛けたが、四番目の弟が生き残って使命を果たしたことを
聞くと、引き返して行った。
>>551 蜀にもそれぐらい気合の入った史官がいてくれたら、正史蜀書は・・・ (T_T)
蜀に史官がいたとしても陛下がああ言ったこう言ったくらいの記録にしかならないよ。
それが史官の仕事だから。
むしろ上奏文とか詔令とかの欠如が痛いかと。
ただそんな気合の入った史官は稀だと思う。
大体は主君や国家の正当性を示すために、ある程度の捏造・誇張は入ってる。
>>554 史官は正史などの歴史書を書くわけじゃない。
>>551の例にあるように「xxx年xx月 ○○○が△△△する」と箇条書きに
竹簡に記し、それをつないでいくだけ。
だから捏造・誇張はあんまり入れる余地がない。
せいぜい「うちの軍5万が敵の30万の軍勢を破る」とか程度のものでしょ。
それらの歴史書や口伝・伝聞・噂・インタビューなどをまとめて、誰かが歴史書を書く。
陳寿だって、別に史官じゃない。
そういや史記でどっかの王様が別の王様に曲を
演奏させて・・・、っていうのあったな。
そう、それそれ;
いや、だからどうだって言われればそれだけなんだけど、
あれにも史官みたいなの出てきてたなぁって。
弛緩 (*´Д`) ふにゃぁ〜
ていうかその会同の件について述べようよ
>>560 述べるも何も、明らかに悪意をもった秦の嫌がらせだからね。
先年、和氏の璧を横取りし損ねて、趙の西部を蚕食して、そのうえで[ミ黽]池で
会同を秦側が申し入れて、更にその席で趙王へ嫌がらせ、だもの。
国威を背景にしての恐喝に近いんだけど、傍目でみれば子供じみた嫌がらせ
というしかない。
この会同を乗り切って趙王の面目を保った藺相如が帰国後に上卿に昇進した
一事が光ってて、そこがいいといえばいいんだけど。
むう。藺相如はまさに完璧なわけか・・
しかしこれが史官とどのような関係が・・・
ごめん、なんか話し脱線させたっぽい。
単に史官繋がりで言って見たんだけど。
会合の際に秦の昭襄王が恵文王に曲を演奏させた。
その時に史官みたいな奴に「秦の昭襄王、趙の恵文王に曲の
演奏をさせた」って、秦の王が趙の王に言う事を聞かせたぜ!的に
記録させた。
これを見た藺相如が昭襄王に近づいて、「今度は昭襄王に
食器でも叩いて歌って見て下さい」と言う。
昭襄王は断るが、藺相如との距離は無く、その気になれば
藺相如は昭襄王を殺せる距離。
しぶしぶ昭襄王は言う事を聞き、藺相如は史官に
「趙の王は秦の王に演奏させた」と書かせて
今度は趙の王が秦の王に言う事を聞かせたと記録させ、
趙は秦に対して対等であるとした。
説明下手で御免。詳しくはこっち見て。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/gun_yuu/syoujyo2.htm でも、史官って結構君主の身近に普通に居るもんなんだね。
>>563 >でも、史官って結構君主の身近に普通に居るもんなんだね
厳密には、けっこう身近に居るのではなく、常に身辺に侍していなければ
ならないほど、古代においては君主に私語は許されなかったわけ。
たとえば、周王朝を立てた武王の嗣王の成王が幼い折、弟の叔虞と
戯れで諸侯を封建する遊びをしていた事も、史官の尹佚は聞き捨てる
事をせず、「天子に戯言なし」といって、本当に叔虞を封建させている。
古代における史官ってのは、言うなれば生きた録音機みたいなもので
君主に迎合する事もないのが真のあるべき姿だったんだけど、時代が
下るにしたがって形骸化したんだろうね。
>>538 習禎は荊州の習氏だから、習珍・習宏兄弟と同族なんだっけ?
> 習珍は劉備に仕えて零陵北部尉・裨将軍に任じられていた。
> しかし孫権が関羽を殺したとき諸県がこれに呼応、習珍は城に楯籠ろうとしたが、弟習宏が「武装・志気の面で
> 対抗できませんから、しばらく膝を屈し、そののち大功を立てて漢室に報いなさるのがよいでしょう」と
> 勧めたのでそれに従った《襄陽記》。
> のちに密かに樊胄らと手を結んで挙兵したが、孫権軍に敗れる。
> 習珍は七県を占拠して邵陵太守を自称、異民族の土地に駐屯して蜀に味方した《襄陽記》。
> 習珍の挙兵は、章武元年(二二一)秋七月に劉備が征呉軍を催したときのことであろうか。
> 劉備が秭帰に進出すると武陵の諸県や蛮民が彼に呼応したので、孫権は陸遜・潘濬らに鎮圧させたとある《先主・呉主伝》。
> 『襄陽記』に「邵陵」というのは司馬昭の諱を避けたもので本来は「昭陵」であろう。
> 孫権の命を受けて潘濬が習珍を征討し、至るところで城を陥落させた。習珍は麾下数百人を率いて山に登る。
> 潘濬が何度も手紙を送って降服を勧告したが、習珍は答えなかった。
> そこで潘濬は側近だけを連れて山麓まで行き、語り合おうと呼びかけた。
> 習珍は潘濬に弓矢を放ちつつ言った。
> 「わしは漢の鬼となろうとも呉の臣にはならぬ。もう来るでないぞ!」《襄陽記》
> 潘濬は改めて攻撃にかかった。
> 習珍は一ヶ月余りも固守したが、兵粮も矢も尽き果ててしまった。
> 習珍は部下の者たちに向かって「漢の厚恩を受けたからには死んでお報いせぬわけにはいかぬのじゃ。
> 諸君がそこまですることはあるまい」と言い、剣を取って自分の首を刎ねた《襄陽記》。
> 劉備は習珍が敗死したと聞いて喪に服し、邵陵太守の官を追贈した《襄陽記》。
> 習宏は呉に住まいしていたが、(孫権からの)ご下問があっても一切答えなかった。
> そこで張昭(張邵伯)は「もし亡国の大夫が諮問を受けられず、敗軍の将が武勇を語れない
> のだとすれば、商(殷)の箕子は過去のせいで見捨てられ、趙の広武君(李左車)は
> 当世において采配ができないことになってしまうぞ」と批判した《襄陽記》。
>>565 習珍とどういう関係にあたるかは分からんけど襄陽の習氏だよ。
襄陽記に立伝された49人のうち13人が習姓。立伝されてない李衡の妻を入れると14人。
つか、襄陽記の作者習鑿歯も、、。
晋書習鑿歯伝>習鑿歯は襄陽の人。一族は富み栄え、代々地元の豪族であった、、。
むじん
マル写しってどーよw
マイナーな人物だと、なんか話があんまり広がらないなー。
Webか正史・輔臣賛・華陽国志など文章のコピペで終わってしまう。
超メジャーではないがマイナーでもなく、そこそこ話が出来る劉封とか黄権みたいなキャラはいい。
呂凱が蛮族の反乱ごときであっさり殺された件について
蛮族といってもいろいろあるからな。
574 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 01:00:41
そろそろ文盲の名将王平について語ろうぜ!
>>574 なぜ王平厨は王平を「名将」にしたがるのかねえ?
いや名将だろ 曹爽撃退とか
正史読んでんのか?
577 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 01:45:53
>>575 王平は時は書けなかったけど、かなり頭はよかったらしいよ
盛り上がってまいりました
順位にこだわらず語っていきましょうとかいうならテンプレに順位貼るなよ。
テンプレに順位堂々と乗せてるくせに、異論を挟むと「それはもう散々議論し尽くされたからうざい」
だの「いまだに順位気にして語るなんて釣られてるとしか言いようがない」だの「姜維厨」だのよ。
馬鹿じゃねーの?
>>580 能力・功績を数字にしたがるところは光栄厨だし、テンプレの順位は武将に極端に偏っており、
演義厨が作った順位がメインと考えられ、趙雲をわざわざ低くしているところは「正史読んだことが
あります」を誇示したい正史厨。
組織の中での王平ってどんな感じですかね?
武将としてじゃなく。
とくに督漢中になってからのことは気になりますね。
>>583 督漢中に就いてから歿するまでの十年間って、蜀では蒋エンの時代と
ほぼ重なるみたいだね。
ただ王平は、人格的には褒められた人物ではないのはたしか。
「偏狭で疑い深く、軽佻」とくれば、それほど人望があったとも思えないし、
更に文盲に近いという事で知識人階級でもなく、諸葛亮が重用していた
人物群からも外れてる。
諸葛亮の時代はひたすら一手の将としての役割に終始してるし、どうも
派閥というものからは無縁の人物だった気もする。
ただし蒋エンが軍事に携わるようになってからは大将軍府にあって少なからず
軍政にも参与するようになっていたとも伺えるし、諸葛亮の時代に培った事績も
併せて蒋エンの信任は厚かっただろう推測はできる。
もっとも本領は戦争にあるし、戦場では人格がどう影響しているのかかなり
手堅い戦いぶりで、主攻正面での戦功はさほど無いにも関わらず、守勢時に
おける戦術眼は蜀の将領の中でも一級。
魏延・王平・李厳・楊儀・・・・
中間管理級が性格の悪い奴ばっかりで、トップの諸葛亮も苦労が耐えない
>>585 劉備ならこの程度の癖のある人材は使いこなせそうだったけどね
なんか諸葛亮は潔癖すぎるよね
むしろ孔明のせいで性格がひねくれた
王平と言えば馬忠・トウ芝
>>586 劉備の人物眼が優れているのは確かだが使いこなせるかどうかは謎
関羽の失敗とそれに続く劉備の大失態を見てると、とても皇帝の器で管理できる人間ではないと思う
最後まで良い兄貴分の気風が抜けきれなかったんだろう
>>586 意味がわかりません
オンナにウツツを抜かして息子を見殺しにしてまで逃げた曹操は?
負けまくった劉邦は?
皇帝の器とはなんぞや?
>>590 負けても最後には取り返すバイタリティと運じゃない?
項羽みたいに正面戦闘では無敗なのに、最後の一敗で終わったのもいるし
>>590 曹操や劉邦が最後の最後で自勢力に再起不能の大打撃を与えるような戦い方をしたか?
それまで何度負けてもはい上がってきて、強敵から領地を奪う程の活躍をしておきながら
最頂点に達しようかと言うところで夷陵の敗北を引き起こしてしまうような人物が
どんなに歴史が変わろうとも統一を成し遂げられるとは思えない
劉邦にはショウカ・曹参・ハンカイなどの地縁の人材。秦も項羽も墓穴掘って反感買い捲って足し
曹操には夏侯一族・曹一族の血縁とジュンイクの人脈と漢王朝の官僚機構があった。
そういうものをもたない馬商人の用心棒があそこまで登りつめただけでもすげえこった
あまりにも人間くさい大失敗もあるからこそ
演義の主人公って感じだな
劉備が公人に成りきるような人物だったら演義はどうなったんだろう
関羽を殺した呉と手を結び、淡々と北伐する劉備・・・
そもそも演義も成り立たず、俺たちは今頃、水滸伝や岳飛に萌えていたんでしょうな
スレ違いだが、後漢の光武帝の知名度がやけに日本で低い点について
そりゃ演義系読み物のヒット作がないからっしょ。
中国でも割と似たような現状だったと思う。
>>584 なるほどそうかー。
でも一番重要な時期に記録が残されてないのが残念でならんです。
>>590 別に蜀は再起不能になった訳じゃないだろう。
曹操も赤壁や漢中で敗れた事により天下統一を果たせなかったし。
これといってアピールするエピソードも故事もないからねえ。
劉邦、項羽、孟嘗君、信陵君、介子推などは、貴族の一般教養で行う漢文・漢詩などで
平安時代から知られている。
清少納言も孟嘗君の鶏鳴狗盗を和歌に歌っている。
でも、光武帝にはそういのが少ないからなあ。
今はともかく、昔の日本では漢を簒奪した王莽のほうが光武帝より知名度が高い。
>>599 赤壁で何人重鎮が死んだ?
孫呉との勢力争いを制すことができなかったから統一を逃しただけであって
赤壁の戦いによって国力が大幅に落ちたわけではない
領地の半分を失った直後に人材を大幅に殺してる劉備の敗北とは全くスケールが違う
>>602 貴族・豪族で最初からスタートラインの違う曹操と劉備を比べられてもな。
>>601 んなこたない。光武帝はエピソードの宝庫。
一例をあげれば、官渡の戦いの後に袁紹陣営から発見されたて手紙の束を曹操が
中身をみずに焼却したのは、光武帝にならったから(王朗に勝ったあと)。
ほかにも「望蜀」の話や兄や姉など一族との関わり、配下たちとの交流や妻の陰麗華
などいくらでもある。ただ単に日本では知られていないというだけだ。
>>602 重鎮が死ななきゃ良いってもんじゃないだろう、
天下統一の好機を逃し、ズルズルと三国鼎立を許してしまった。
蜀も重鎮が死んだとはいえ、その後数十年は存続した。
それに漢中では重鎮の夏候淵が死んで、せっかく手に入れた漢中を失い、
蜀を手に入れる機会も逃がし、これも三国鼎立を許す事に繋がる失態だね。
それって完全な判官贔屓じゃない?
すでに地位を確立した後に外交問題で私情を優先させるかのような行動を起こし
その結果重要な人材を失うってことにスタートラインは関係ない
関羽もそうだけど国として立っていきその中でしかるべき地位に就いた以上
今までやってきたやり方を変えなきゃならない部分を変えてないから失敗するという印象しか受けないんだが
領土も人望も軍事力も何も無い所から皇帝になったのが凄いんジャマイカ
>>606 別に私情だけじゃないだろ。
荊州人士によって成り立っている政権だけに、荊州奪還はそれなりに意味が
あること。
諸葛亮は、呉と将来の領土分割の約束で荊州を呉に渡しているので北伐しか
できなかっただけ。
荊州に戦略的価値を認めていなかったわけじゃない。
むしろ、人口は少なく土地も痩せており異民族が叛乱ばっかり起こして
領土維持のためにも膨大な兵力が必要な涼州・雍州なんかより、荊州のほうが
メリットは大きい。
俺は劉備は私情じゃ動かんと思うよ
そう気分だよね
ノリでしょ?
馬鹿な、、、カネだよ、キミ。
劉備好きで何も無いトコからのし上がったって
理由なら、孫策も好きだよな?
>>613 孫策も逆境から這い上がったが、劉備に比べたらよほど恵まれていただろう・・・
どちらかといえば孫堅のほうが徒手空拳
蜀オタだけど劉備嫌いな俺が来ましたよ。
他にそんな香具師いる?
>>605 むしろそこは劉備の手腕を誉めるべきでは?
また、夏候淵という重鎮中の重鎮を失っても魏は崩れない体制をすでに整え終わっていた
その後の魏の大勢を揺るがすものともならなかった
蜀は馬良を始めとした人材の死亡が後ほど効いてきたことは
劉備死後の蜀の人材薄で明らか
>>608 あの戦いに勝てば十分なメリットがあるのは当然
ただ戦いを始める以上利益以外のしっかりとした意義がないと負けるってのは兵法でも語られていること
無意味でないにせよ趙雲が異議を唱えなければならない戦いだったことを無視してまで
メリットだけを強調するおかしいのではないだろうか
呉と結ぶ事の方が魏打倒を掲げていた蜀という国の意義にあって重要なのではないだろうか
みんな、田中芳樹大先生が自分の小説をほっといてまでやってきたんだぞ
ちゃんとかまってやんないと駄目じゃないかw
しかしあそこで弔い合戦をしない劉備に人々はついて行ったであろうか?
劉備の配下だけでなく世間の風評なども含めて。
>>616 蜀はその後人材難には泣いたが、その後数十年もった。
劉備の死後もスムーズに劉禅に政権が譲渡されてるし、
夷陵は蜀にとって痛かったが、再起不能の大打撃と言うほどではない。
それに歴史の転換点としては赤壁・漢中の方が上、
荊州での主導権を蜀と呉に取られ、呉との争いは一進一退のまま、
漢中を失った事により、益州獲得のチャンスを逃し、蜀の基盤を固めてしまった、
その後ズルズルと三国体制が続き、そして呉や蜀との戦いで功績を得た
司馬氏に次第に乗っ取られ始める、と。
>>619 夷稜はその後の蜀の発展・拡大の可能性を大いに削いだ。
しかし、それが滅亡に直結したわけではない。
それが蜀の限界と命運を決したとは言えるかも知れないけど。
赤甲軍について語れ
まあ結局、どこの国も中華を統一出来なかったわけだから・・・
その時点でどこかに併合される日が来ることは決まっているわけだから・・・
この分裂が欧州のように続いていたらどうだったろう
歴史厨の妄想をかき立てるわけですが
>>616 夷陵の戦をおこさず呉と結べば荊州人士が離れていくかもしれないだろ?
意義なんて荊州奪還で十分
趙雲の異議は理想論に過ぎない
魏を倒すには荊州が必要
>>616 >無意味でないにせよ趙雲が異議を唱えなければならない戦い
趙雲が異議を唱えた事にずいぶん重きをおいてるんだなw
「以上利益以外のしっかりとした意義がないと負ける」ってのは
ちょいと空論じゃないか?
益州だけでは他勢力に対抗しうる人口を確保or支える事は出来ないだろうし
(涼州方面から展開では、結果的に徴兵率10%前後&恩赦連発状態になっている)
ある種、人民の生活に密着した問題を控えた上での「必要性」が発生してるのだろうと。
あと、劉備の私情ってのは、
政治的な必要性という泥臭さをカモフラージュするための、言い訳な気もする
趙雲の異議って、別に代案の戦略提示してるわけでも無いしな…
言い方悪いけど、重責ある立場じゃないから言える綺麗事って感じだ
>>627 具体案があるわけでも無し
漠然と「関中とってそっから攻めれ」って代案になるのか?
緒戦に勝とうが、利は呉勢に大きく傾いてると思うんだが、やっぱよくわからんな
夷陵はそんなに酷い戦でもないと思うけどな
荊南の異民族を味方につけたり呉の多くの部将が気付かない伏兵を置いたり
呉の多くの部将は早めに戦いたがってたし
陸遜がいなかったら勝てたかもしれん
ついでに朱然もいなかったらなお良し
諸戦の勢いに乗って虎亭まで進行しすぎたな。
水軍と別軍黄権に背後側面を守られての本軍の侵攻という形は隙がなかったが
夷陵を越えてから夷道、虎亭まで誘い込まれ水軍は陸地に上がって機能を果たさなくなったし
本軍も深入りしすぎた。
遠征軍的にま早く勝敗を決める必要性があったのは否めないが。
で、夷陵の劉備肯定派はあれで荊州奪還が可能であり配下の士人も大喜びになるはずだった
と言いたいんだな
長期化すれば魏の脅威もあるし
短期で落とせるほど呉は弱くないと思うんだが
荊州を制圧する目処をどうたててたんだ?
呉にとって、荊州は呉が自立していくには必須な地だから、仮に夷陵で蜀漢が勝ち、荊州を確保したとしても、かならず再奪還を目指すだろうね。
蜀漢側にしても、仮に勝った場合、誰を荊州の責任者にするのか、って問題がある。大幹部の関羽で失敗してるし、当事の人材で一地方を任せられる人間は思い当たらない。
じゃ、劉備自身が荊州を押さえ、益州は諸葛亮に任せる、って感じにすると、益州の治政はともかく荊州の治政、対外交渉等の部分は誰が行うのかが問題になる。
特に荊州は数年に渡って蜀漢・呉が争奪を繰り返した地域だから、より治政は難しいし重要。しかも、魏はともかく呉とも険悪な状況下での事だ。
夷陵で勝ったとしても、敗北を先延ばしにするだけじゃないかな?
逆に先延ばしになる分、蜀漢により大きな損失を与えた可能性もある。
戦略目標ってどの程度まで立ててたんだろ?
ケイ州半分程度の返還ぐらいなら現実的なんだが
呉を滅ぼすのはまず不可能
演義だと蜀軍七十五万とか無茶苦茶な数字になってるが
実際の展開兵力は互角か呉のほうが多いぐらいだったようだし
>>633 それは重要だね
動機があって、支持があったとしても、戦争をするわけなので、
攻めるべき機会に攻めるべきと思う。
呉は当時、政治的に不安定だったわけでなく、
軍事的にも呂蒙は陸遜を抜擢し朱然を推薦しているし、空白ではなかったと思う。
少なくとも荊州進攻の好機だったとは思えない。
劉備は、張魯に悩まされている劉璋に取り入り入蜀し、
曹操が孫権と戦っているうちに漢中に進攻した。
これら二つと比べると残念ながら夷陵は、時期を見た行動とは思えない。
>>633 >>631だけど別に夷陵の劉備を全面的に肯定しているわけではないよ
荊州を奪られた時点で追い込まれてるわけで
選択肢としては悪くないんじゃないかと思うだけ
魏を攻めるよりは勝ち目があったのではないかな
また防御に徹するのも無意味だと思う
やっぱりやるとしたら隙を即いて王濬の様な強襲作戦?
でもあれは多方面作戦だもんな
けど夷道はまだ江陵の手前だし、結構門前払いだよなぁ…。
夷陵ってもっと侵攻してたと思ってたから、初めて地図見たときちょっと驚いた。
荊州を割譲させるのが戦略目的なんだろうが、それだとその後の呉との同盟は絶望的だよなー
けど荊州を獲られて、関羽も殺されて、蜀から呉への離反者が出て、
はいそうですか、と再び呉と同盟を結ぶのはやっぱり外にも、内にも不味いと思う。
勝つにせよ、負けるにせよ、結局起こるべくして起きた戦いだと思う。
よくよく考えたら呉って酷い国だよな・・・
ハァ?
呉だって生きるために必死だったんだよ…
644 :
孫権:05/03/07 00:34:58
欲に目がくらんでやった
魏が援軍出してくれなかったんで今は反省している
645 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 01:01:02
つうか蜀を出てすぐに負けたイメージ
なんか誤解が広がりそうなんで一言だけ言っときたい。
夷陵の戦いはみんなが思ってるよりもずっと長丁場。
出陣から勝敗が決するまで一年くらいかかってる。
>>638 んなこたーない(タモリ)
夷陵は後に呉が西崚として最も力を注いだと言っていい重要な軍事拠点だよ。
門は完全にぶち破ってます。
思うんだが劉備がどこまで行くつもりだったかによってその動機が量れるような。
1夷陵で止めておく 賢い戦略的判断。
2江崚までいく チョット欲張っちゃったかナー
3荊州完全制覇 関羽を完全に意識している。感情論だなーこりゃ
4呉完全服従 老人ボケ
「夷陵の戦いイラネ」とか言っている香具師はどうしろというのかねえ?
関羽を殺し荊州を奪った呉と何事もなかったように結ぶわけにはいかず、
そして魏と呉はかりそめにせよ同盟関係にある。
劉備とすれば、魏か呉のどちらかと戦わざるを得ず、どっちを選ぶかといえば
「地理を知っている」「かつての領土」「政権内部に故郷奪還を願う荊州人士が多い」
「関羽の仇」「攻め込んだ場合、呉に降っている旧臣や豪族・異民族の叛乱が期待できる」
「北方よりはるかに土地が肥え、人口も多い」などなど、『荊州を攻めるべき理由』は
いくらでもあるが、『魏を攻めるべき理由』は「漢を簒奪した」ぐらいしかない。
それに魏と呉に両方を敵に回した状態で両面作戦を強いられるにしても、魏と戦えば
涼・雍州と荊州の二方面に軍を割かなければならないが、呉と戦えば漢中には
入り口を塞ぐ程度の守備隊を置くだけで、荊州一方面に集中できる。
つまりあの当時戦うとしたら、戦略的に見て呉と戦うほうがベター。
魏を攻めるというのはありえない。
ただし、戦いを始めるのがあの時期で良かったのか、南方などを平定して
準備したうえでやればよかったのかという開戦時期については、劉備の判断に
疑問が残るかもしれない。
ただ、それについても帰還した旧関羽軍兵士の関羽の仇をとりたいという要望や
早期に故郷の回復を願う荊州人士の声による圧力があったかもしれない。
そして何よりも、関羽の仇を放置するのは劉備らしくない。
「夷陵の戦い」は起こるべくして起こった。
それに相手が陸遜でなければ勝てたかもしれず、関羽攻撃のさいは指揮官は呂蒙と
考えられていたため、蜀側がその陸遜の力量を完全に見切るなど不可能。
後世の人間が結果論で言うのは簡単だけど、劉備には劉備なりの戦うべき
正当な理由と条件があった。
。
季漢輔臣賛で、馮習は責められ張南はたたえられているね。
(*^_^)張南萌え〜
650 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 08:55:42
んじゃ俺ぁ焦触萌え
652 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 09:46:07
幻の武将、烏丸触萌え
蜀将といえば呂義だな。
>>648 >劉備とすれば、魏か呉のどちらかと戦わざるを得ず、どっちを選ぶかといえば
(中略)
>ただし、戦いを始めるのがあの時期で良かったのか、南方などを平定して
>準備したうえでやればよかったのかという開戦時期については、劉備の判断に
>疑問が残るかもしれない。
要するに魏を攻めるよりベターなだけであって、悪いことには変わりないんだな
>ただ、それについても帰還した旧関羽軍兵士の関羽の仇をとりたいという要望や
>早期に故郷の回復を願う荊州人士の声による圧力があったかもしれない。
>そして何よりも、関羽の仇を放置するのは劉備らしくない。
要するに劉備は大規模侵攻という一大デモンストレーションをしないと
士人も私情も抑えることができなかったんだな
>それに相手が陸遜でなければ勝てたかもしれず、関羽攻撃のさいは指揮官は呂蒙と
>考えられていたため、蜀側がその陸遜の力量を完全に見切るなど不可能。
陸遜が出てきて撃退されただけならともかく大敗している
陸遜じゃなかったら勝てたという根拠が薄すぎる
呉との戦いが起こるべくして起こるのは当然として
「夷陵の戦い」のような形で戦争することの理由と条件はあいまい
「夷陵の戦い」である必要が無かった
そんな計画性であの規模の戦いやってもいいんだな
何もしないのが最悪手なんだけどな。
>>654 相手に具体性を求めるんなら自分が具体的主張をしなきゃダメだ。
趙升
> 字は世正。巴西出身。
> 趙韙の甥(妹の子)であり、劉璋が益州を支配していた頃は、劉璋に害されることを恐れて
> 異民族の中に母と共に身を潜めていた。
> 羊を飼って暮らしつつも、母への孝行と学問を忘れず礼儀正しく天文に通じ、異民族から
> 慕われ敬われた。
> 異民族鎮撫に当たっていた黄権によって見出され、「賢人である」と推挙されて劉備に仕えた。
> 蜀郡の功曹従事を経て長水校尉兼振業将軍となり、王連や劉巴と親しく付き合い、黄権とは
> 最も親しかった。
> 劉備の東征に反対して諫言を行い、なお聞き入れられないと知るや、劉備の身を案じて
> 自ら従軍を願ってこれに加わった。
> 劉備は馮習を大督、張南を督前部として呉を攻めた際に、趙升は別働隊として輔匡・趙融と
> 共に呉軍と対峙していたが、馮習に陸遜に備えがあることを述べて軍を留めて呉軍の様子を見るように
> 使者を送ったが、馮習は呉軍を軽んじ深入りして章武二年六月、猇亭において陸遜に大敗を喫した。
> 趙升は劉備を逃がすためしんがりにあって奮戦し、矢を六筋受けて力尽きて倒れ、捕らえられた。
> 陸遜は彼を見事な人物だと考え後方に送って手当てをさせ、孫権は趙升の噂を聞いてこれを引見し、
> 趙升を揚州別駕従事に抜擢しようとした。
> しかし、趙升は孫権の下問に全く応えようとしなかったため孫権は怒って牢に降した。
> 陸遜・朱桓・顧雍・虞翻らが上表して、趙升を牢から出すよう願ったが、孫権は聞き入れず
> 獄中にあること半年で病を得て没した。
なんでこうも指揮官・幹部クラスがバタバタとやられたんだろう…
658 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 12:17:14
例えば今、K国に九州を占領されたら、
「K国を攻めて九州奪回するより、A国やC国やR国を優先しろ」
なんて言える奴がいるのだろうか
例えになってない
660 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 12:27:22
九州というより西日本全部と言うべきだったか
現有戦力かき集めて攻めこむのが当然だろ
負けたのはまた別の問題
呉と蜀が延々と抗争を続ければ
ただでさえ強大な魏に漁夫の利を占められるのは火を見るより明らか
魏に打撃を与えれば、決して良好ではない魏呉同盟は崩れる公算がある(実際に呉は人質の約束を守っていないし。魏も呉を救うために一兵も動かしていない)
マキャベリズムに徹すれば対魏戦争に邁進するほうが戦略的にベター
曹家が漢室にとって変わった反感が残っているうちに北伐すれば…と考えたかもしれないな。東征反対派は
662 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 12:28:52
663 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 12:36:15
延々と抗争する体力が、あの時点の蜀にあったかどうか・・・
首脳陣の地元で経済的にも軍事的にも重要な荊州を、例えどんな理由からでも簡単に(奪回戦に敗れもせずに)諦められるもんじゃないよ
そういえば夷陵とると魏に対しての侵攻路が一つ増えるな
夷陵ー襄陽ルート
もしくは夷陵ー上庸ルートもないことはない 山越えなきゃだけど
戦略の幅が確実に広がる
そういう条件付きで和睦を狙えばえかったんじゃないの?
演義じゃ孫権の講和要請蹴ったって話になってるが
実際のところどうだったの?
>>665 いやホントそれがベスト
でも関羽の弔い合戦の性質があるのは否めないし
夷陵制圧はしてるんだけど夷陵だけを条件に和睦ってのも
荊州全部失い関羽も失った劉備には酷
戦略的には夷陵だけでも十分だとは思うけど(江陵も手に入れられたらベスト)
668 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 13:15:55
あなた方は歴史の上での戦術を説いているのであって思想をなぞっているに過ぎない。あたかも軍師らしい発言にワロタ
せめて先鋒部隊の指揮官が慎重な将軍だったら…
671 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 13:57:32
楊戯も季漢輔臣賛で言ってるけど、総督(大督)の馮習が軽率だったのが
敗因としては大きい。
陸遜の孫権宛上奏文を見ると
水軍と陸上軍が呼応して攻めてくるのを恐れていたみたいだね
でも陸軍一本に絞り、さらに移動連携が困難な山地に陣を分散して配置したから火攻めしやすくなって、あとは狙いどおりに…
>>673 途中までは水陸連携してたんじゃないかなあ
長丁場になって水軍が陸で屯するようになり夷道は陸からの攻略になったと推測
>>669、
>>671 そもそも、東征は全く勝ち目がない戦いではなく、指揮官と戦略次第では勝てた戦いなんだよねえ。
黄権か趙雲、李厳あたりを指揮官にしていれば勝てたのかもなあ。
大体、フウ習なんてそれまで対して目立った人物じゃないだろうに。
劉備自身が逸っているところがあったにせよ、直接軍を動かす指揮官が冷静に呉の様子を確認して戦えばどうとでもなったのに、
軽率な馮習なんかじゃダメポ。
「彼は敵を軽んじて国家に損失を与え、己の死を招いてしまった」という評価は哀しすぎるな…でも仕方ないかな>馮習
当時領軍なら、少なくとも趙雲よりはずっと高位
入蜀戦あたりでそれなりに活躍していたという推測もできるが…
相手が悪かったでいいじゃん
678 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 14:24:09
確かに勝てない戦いじゃなかったし、実際、呉も劉備を恐れていたぐらいだから、どうにかなったかもしれないね。
>>666 章武元年(221)7月に、孫権は劉備に使者を送って和睦を請うています。
でも劉備が怒って聞き入れなかったのは、正史にも出ている。
和睦の条件がどうだったのかはわかんないけど。
馮習は敗戦責任者として貶められた気がする
劉備の責任だ!って楊戯がストレートに言いたくなかったから現場指揮官が悪く言われた、と
劉備がきかなさそうな和睦の条件っていうと
『関羽斬ってごめん、でも領土問題は約束どおりなんで許せ、今回攻めて来たのは水に流すから帰って』
という感じで金品贈って帰れとか。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 14:37:19
>>679 その二人の伝に「災難は一人(劉備)[の軽率]から生まれ」と先主の間違いをちゃんと
責めているので、馮習は馮習でやはり呉軍軽視の問題があったと考えるべきでは?
682 :
681:05/03/07 14:40:37
加えて、いっしょの文の中で張南は褒めている。
劉備の失敗をあからさまに書けないので、婉曲に主将たちのせいにして表現したのなら、張南も馮習といっしょに
責められていいのに、わざわざ馮習を批判し張南を褒めたのは、馮習に責められるべき
過失があったと考えていいと思う。
>>675 馮習じゃだめぽと仮定して、
そこで「趙雲だったら」ってのが出ると
とたんにキモ生暖かくなるな
>>683 >>675は趙雲に限定してないでしょ。
そんな書き方で趙雲ファンを釣って、また正史厨お得意の「趙雲伝には何も書いてない」バッシングを
やりたいって感じが見え見えだな。
>>681 別に褒めちゃいないのでは>張南
奮闘したってのは戦術級の失態を挽回できるもんじゃないし。
688 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 18:11:45
689 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 18:20:41
大谷高校の龍神生一て知ってる?平野厚志と岩本太郎は障害者
>>675 >そもそも、東征は全く勝ち目がない戦いではなく、指揮官と戦略次第では勝てた戦いなんだよねえ。
指揮官と戦略って戦争の全てだろ
劉備の目標の設定と敵戦力の調査がなんだはっきりしない
実際そうでもなかったら幹部があんなにやられる戦争なんて珍しい
「和睦とそれに伴う拠点の確保」等目標がわけわからん
しかも戦略提案する立場にない趙雲の諫めがあったら
私情混じってたんじゃないかと疑ってもいいと思うんだが
>>686 そうなのか?
マイナーな別の書にしか出ない人物なのかも?
趙升は知らないけど、劉璋に反逆して敗れた巴西の豪族・趙韙っていたよね。
ここまで読んでみて、夷陵の戦いは他に選択肢の無かったってのが大体の共通意見みたいでOK?
ただいくつか質問させてもらいたいのですが、
「政権内部に故郷奪還を願う荊州人士が多い」を示唆するような記述は誰の伝の所にあるんでしょうか?
また政権内において呉との戦いを避けるべきだとの声に比べて深刻な問題と考えられる?
あと
>>648に「攻め込んだ場合、呉に降っている旧臣や豪族・異民族の叛乱が期待できる」とあるけど
魏に攻め込んだ時も天水などで呼応する動きがあり、特別の利点とは言えないのでは?
荊洲を争った結果呉蜀共倒れの危険性は考慮すべきでしょうか?
>>691 >>656みたいに「おいしい」キャラで巴西出身なら、
華陽国志に載ってないわけがないです。
694 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:16:58
>692
対呉戦争を回避して、当面様子を見る、って手もあったと思うけどな。
実際、対関羽戦の頃かららの魏・呉連携は、魏が人質を要求した事で破綻に向かう訳だし。
正史を見るかぎり、対呉戦争回避を主張した人物はおるけど、賛成に回った人物はいない。
夷陵の役に参加した人物もイコール賛成って訳でもないだろう。皇帝の命令だから出征した、って人もいただろうし。
その辺を考えると、対呉戦争を回避しても荊州人士の支持を失う可能性は少ないのでは?
荊州人士としたら、荊州を奪還できれば良いに越した事は無いだろうけど、冷静に成否を考えれば対呉戦争には賛成できない、って感じじゃないかな。
695 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:23:56
賛成に回ったヤツラは軒並み死んだんだろ
賛成者であろう従軍者の士気の高さは尋常じゃねぇ
696 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:28:03
従軍した連中=賛成、ってのはどうかと。
戦死したからと言って、記録に残らないってこともない。
例えば、馬良は賛成・反対かは不明だが、伝を立てられてるし。
先鋒が馮習じゃなかったら勝ってたていうのはかなり疑問
戦いが長引く中、夷陵をとりあえず確保したものの陸孫が奥に引っ込んで
持久戦の構えになると遠征軍的に引き返すか攻めるか選択しなければならない
遅かれ早かれ攻め手は守り手の術中にはまらざるを得ない
むしろ夷崚はとりあえず空っぽぐらいにして黄権も前に出し駐屯地が川沿いに間延びして
ばらけるのを避けてなるべく大軍で駐屯し攻めるときは一気に総兵力をぶつける形に持ってくべきだった
(馮習が攻めると細かく分かれて間延びした背後の駐屯地を突かれ、物資や船などを焼かれ
それが兵の動揺を誘って総崩れと推測)
まあ夷崚だけで満足するのが一番だけど
夷道や虎亭を諸戦と同じレベルで考えてたのが肝ですな
戦術的な敗北と言うよりやはり駐屯の仕方から兵の分散の仕方等の
全体的な戦略の失敗だと思う
劉備と作戦に関わった人間のミスじゃないかな
>>697 流石にそれは不味いだろう、下手すれば退路を断たれてしまう。
>>692 寥立。しかもそのキャリアにとどめを刺した例のやけっぱち発言だ。
彼は東半分を割譲したことにもご立腹だよ。
これを根拠に東征が荊州人士の総意だとするのは苦しい。
しかし賛成派がある程度いたとは推測できるんじゃないか。
>>699 まあ結果論だけど敗因が川沿いに間延びした補給線、屯地を突かれたわけだから
それを避けるには一点集中的な戦略ぐらいしかないでしょ
とられたら取り返せばいいぐらいの気構えで常に兵力が優位な状態(総兵力)で戦うべき
だったんじゃないかなー
702 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 21:07:15
>701
地形的に、ある程度の兵力を点在させつつ布陣した、ってのが現実かも。
大兵力を集中しようにも、大軍が集結できる地形でなかったんじゃないかな。
白帝から夷陵の辺りは山がちな地形(夷陵辺りで、やっと平野部になるかどうか)で、長江の南北を狭い平野部が東西に走り、その周辺が山。
兵力を集中させると兵站をどするか、と言う問題も出てくるしねぇ。
大軍を食わせていくだけでも、かなりの問題。
>>702 それはある
集中しての駐屯が出来にくい地形であったのは確か
だったらなおさら夷陵だけで満足すべきだったと思う 泥沼は目に見えてるし
緒戦で勝ってるわけだからそこで江崚我慢ってのはよほど苦戦の確信がないと
気持ち的に難しいとは思うけど
それか例外的な戦略としては孫策のように常に全兵力の総力戦で短期決着を狙うとかね
江崚ぐらいまでならこれで何とかなるかも
長期化すると大軍の屯地と補給に困るわけだから
結論
劉備はクソ、呉が最強
まあ全体として言うと俺の中での結論は
攻めるべくして攻め負けるべくして負けた
というところかな
こうすればよかったということは現代人だから結果を見て判断してるわけで
当時の劉備の立場に立つとこれはやはりやってみないとわからないレベルだと思う
>>705 まあそうなんだけどな。
戦術・戦略次第でどうのこうの・・・って言っても
呉の主力を撃破して荊州を奪還するような
戦術・戦略の持ち主は当時の蜀にはいないと思う。
指揮官によっては大敗ぐらいは防げたかも知れないがね。
だから起こるべくして起きた戦争なら、適当に戦って長期戦になり、
適当な時期に魏が行動を起こし、それで双方和睦って結末が
理想でしょ、やっぱり。
日中、日露戦争みたいなもんかね
勝ち逃げ作戦
708 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:53:48
>>706 諸葛亮か法正どっちか従軍していれば、序盤戦を優位に進め、そこでそれなりに
有利な条件で和睦できていたかもしれない。
あるいは、荊州奪還ぐらいまではできていたかもしれない。
だが、諸葛亮は留守の国を任される丞相として残らざるをえず、法正はすでに
死んでいた。
この状況で蜀の敗北は見えていた・・・・後世の人間からは。
陸遜が水陸両面から攻められることを恐れていたように、将の資質を除けば
どっちかが勝つかは五分五分だったんだろう。
そして相手の軍の将の資質なんて、当事者には終わってみなければ判らない。
後世の人間が結果論で「当時の蜀にはいない」なんて言ってみてもしょうがない
と思われ。
諸葛亮は撤退の首尾と管理野力は抜群だから、
居たらちょっとは変わりそうな気もするが、
黄権と一緒に魏に降伏、もしくは呉に降伏、
とか笑えない状況になったりして。
>>709 その後の展開が興味あるな
南北志になってたか
諸葛瑾・諸葛亮・諸葛恪の一族が呉の中枢で絶大な権力を握って
孫権死後の孫家を乗っ取る。蜀も併合。
北の司馬氏と南の諸葛氏の対決。
とかになったら面白いな。無理だけど。
>>711 なにその無茶苦茶に燃える展開。
ただまぁ、キンは粛清だな。これだけはガチだろう。
魏に降伏>陰険な曹丕にいびられる。
呉に降伏>酒乱の孫権に絡まれる。
714 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 12:57:44
劉備の入蜀に同行し流れ矢で戦死したのが、龐統ではなく諸葛亮だったら、
その後の蜀の歴史はどう変わっていったのだろう?
地球統一に一票!
ホウ統は軍事能力はともかく政治能力がどの程度かが分からないなぁ。
蜀・漢中平定までは史実と大差ないとすると、問題は関羽の荊州問題。
またはその後の呉征伐のとこだよね。
諸葛亮が入蜀時の功績を受けることによて、ホウ統の軍事的素質を見せる機会が先延ばしになる。
漢中の戦なんかで法正と共に劉備や周囲からの全幅の信頼を受けられるといいね
>>714 陳宮しかいなかった呂布と同じ末路をたどる。に一票。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 15:42:04
そしたら荊州に関羽でなくホウトウだと思う。実際、荊州は孔明が守ってたのを
ホウトウが死んだから関羽に預けたわけだし。
ホウトウが荊州を関羽と守って、誰も手出しできないだろう。
そうはいってもさ
ホウトーの実力がどんなもんかわからんし・・
他の人で言うとどんな感じの人なのかね?
明らかに孔明や法正とは違いそう
流石に関羽ほどの立場だから不満が起きないだけで
ホウトウだったら関羽が怒りだしそう
国の秩序を保つためにも劉備には関羽という選択肢しかなかったのではないだろうか
721 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 16:15:31
まあ兵法にはかなり通じてるだろうよ。ただ忠誠心は孔明より下だろうな。
自分の才能が生かせれば良いと思ってるだろ。人間性がしばしば劣りそうだから
下手すると関羽と喧嘩して魏に降るとかあり得なくもない。
>>719 わかりやすく説明するとちょうど魏でいう戯志才みたいな感じだよ。
>>721 んなこたーない
人の才を伸ばすのが好きってあるよな
ホウ統は荀イクの兄弟、と評されてるな、
人物の評価や才能を育てるのを得意とし、政治・軍事ともにこなせる
ところを荀イクに似てるとされたのかな?
でも荀イクに似てるとすると軍事よりも政治、特に人事に才がありそうな気がするんだが。
なんで関羽が怒るんだよw
関羽が一緒に残ってるのなら関羽が上の立場だろうし。
あと、関羽は雑魚は見下すけども、認めた人間とは親しくなるよ。
魏に短期間居ただけで結構親しい人間作ってるし。
荊州っていったら国の半分みたいなもん
No.2である自分が司令官になるのが当然と
あの傲慢な性格なら考えそう
だから、ホウ統がいたって司令官は関羽だろうし、
留守居なんかより、益州・漢中攻めに同行のほうが喜ぶに決まってる。
そもそも、役職決定以前に劉備が直に説明をすれば、関羽が反発するなんて考えられない。
どうも関羽が誰とも諍いを起こす問題児みたいに勘違いしている人がいるが、それに対して。
関羽が仲が悪かったとされるのは、縻芳だの傅士仁だの三流の人物ばかり。
劉備・張飛・孔明は言うに及ばず、張遼や徐晃のような一流の人物とは親しくなっている。
また、兵卒には優しかった。
要は、立場に甘んじてのうのうとしている奴が嫌いだったのだろう。
また、他の人物が荊州総督になると不満を漏らすのではないかというのもどうか。
荊州総督就任以前の関羽の人格については、欠点どころか長所しか書かれていない。
黄忠と同列に並べられて不満を漏らしたのは、
遠方にあって劉備のために何もすることが出来ない自分に対する苛立ちがあったからであろう。
蜀入りして苦戦する劉備に助けにきてくれと言われれば、荊州総督が誰かなんて考える間もなく駆け付けただろう。
730 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 18:38:00
糜芳や士仁が三流ねぇ
釣りか
演義なら確かに三流だが…
今までの話の流れは正史系列準拠だろう
正史のどのあたりに縻芳や士仁の活躍が書かれているか教えてくれ。
今見てみるから。
何ページ?
正史のどのあたりに麋芳や士仁が三流と書かれているか教えてくれ。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 18:48:14
だがホウトウのような(失礼)酒好きのひょひょうと関羽が
馬が合うか?その「認めた人」になれない予感。
正確的に三流?
関羽に不満があるからと仕事の手を抜いたり、
敵が来たらさっさと降伏したり、
公私混同もいいとこだろ。
二人とも劉備の直臣なんだから。
これを三流と言わずに何と?
長年劉備の下にいながら、伝も立てられず、何の活躍の記述もなく、
これは三流だと思うが。
問題児かどうかは別として
陸遜の手紙、死因となった敗戦、晩年の評を考えると
関羽は高慢な人物であったとしか言えない
あとその時代の士人の立場を考えると
友人になるかならないかとかのレベルの問題では無い気もする
>>737 それには触れるな
関羽伝は立派に立ってるものの…
自分で関羽を否定してるようなもんだぞ
>>738 長所に目を瞑り欠点だけを洗い出せばそうなるだろうね。
ただ、ホウ統とうまくいかないだの、他の人物が総督になると怒るだの、
ちょっと極端に言いすぎ。
虞翻伝を見ると麋芳は限りなく小物っぽい、
呂蒙伝では城の失火で武器が焼け、それを関羽に責められ恨みに思った、とあるな。
士仁の方も自分が軽んじられてると思い、
関羽に対して全力で支援をしようとしなかった、とあり、
自分の過失が原因で呉に降るあたり、やっぱり三流なんじゃないの。
>>742 いや、蜀の人物は一流扱いしてる関羽でさえあの程度の功績しか残ってないんだから
記述で評価するのは駄目だろうと
>>740 関羽には黄忠の前例もある
国として成立して日も浅い
関羽が少しでもいつもの調子で発言したらと考えると…
極端なことではないと思う
なんかさーホウ統の話から無理矢理、関羽に話持ってってるあたり
またいつものあれなんじゃないのー
>>743 呉に投降したから三流、三流だから関羽と仲が悪いって、因果関係ぐちゃぐちゃ。
それに関羽の「還當治之」発言を軽視しすぎ。
総督の話が出た以上関羽の話になるのは仕方ないと思われ
むしろ関羽を無視してホウトウを荊州にとかってのがおかしいし
>>744 縻芳・士仁は活躍の記述がないうえに欠点しか記述がない。
まあ、縻芳・士仁の話はどうでもいいや。
趣旨はわかってもらえたろう。
関羽は三流武将に背中を預けて戦争に熱中してたってことか
…やっぱり荒れる流れだな
>>747 俺は別に呉の降伏したこと自体を三流とはしてない。
降伏に至るまでの過程が、自身の身から出た錆であり、
呉においての振る舞いも小者、だから三流と評した訳だけど。
>>745 ここでの話はホウ統が荊州総督になったとしたらの話だろう。
それは関羽が劉備の側にいれば何も起こらないだろう。
>>751 あのな、そもそも人間の値打ちに一流も二流もないんだよ。
それをアプリオリに決定できると思い込んでるからおかしなことになるわけ。
関羽が麋芳らを軽蔑したのは彼らが失敗を犯したからであって三流だからではない。
麋芳が呉にあってどういう小者ぶりを発揮したというのだ?
徐晃や張遼が一流だとどうして言い切れるのだ?
めちゃくちゃだよ。
>>753 縻芳の小者っぷりは虞翻伝にはっきりとくわしく書かれているよ。
>>751 あー、それとな、
>降伏に至るまでの過程が、自身の身から出た錆であり、
ってんなら関羽の死も自業自得、三流ということになるんでヨロスコ。
人間に値札を付けるやつは最悪だ、これだけは覚えとけ。
>>754 書いてねえよ。もう一度読み返してみろ。
>>755 関羽の長所・功績の一切に目を瞑ればそうなるね。
お二人必死だな
ホウトウの話はどこへ行ったのやら・・
>>759 それじゃ麋芳・士仁の長所・功績の一切に目を瞑ってるおまいは間違ってんだよ。
>>755 釣りか?蜀将のランキングまでしてるここで言う事じゃないな。
>>763 まあ、さっきも言ったとおり縻芳・士仁の話はどうでもいいや。
俺の言いたかった趣旨とずれすぎた。
>>765 いや、その趣旨が間違ってると言ってるんですが?
関羽の長所・功績を取りあげるなら麋芳らの長所・功績も取りあげなよ。
関羽の欠点に目を瞑って一流と言う、麋芳らの長所に目を瞑って三流と言う。
おかしいだろ?
>>766 じゃあ麋芳・士仁の功績・長所を挙げてみればいいじゃん。
既に失態は挙げられてるんだから、それを覆すような功績を。
>>765 まあ結局の所ホウ統の話からいきなり関羽話に持ってくいつもの人
の釣りに引っかかったんだよ
さらっと流せばいいものを
俺の言いたかったのは、
ホウ統とうまくいかないだの、他の人物が総督になると怒るだの、
極論すぎだってこと。
>>770 「ホウ統とうまくいかないだの、他の人物が総督になると怒るだの」
ってのと
「関羽が仲が悪かったとされるのは、縻芳だの傅士仁だの三流の人物ばかり」
ってのと、どう違うんだよ。
極論でなきゃ暴論だろ。
>>772 それじゃ徐晃・張遼が一流だという根拠でもあげろ。
>>770 もう黙っといた方がいいと思うよー
それで充分伝わるし
釣られすぎ
関羽は劉備か諸葛亮でしかコントロールできなさそうだな
張遼は徐州時代の同僚、徐晃は河東出身の同郷。
別に人物のほどが一流だからって付き合ったわけじゃないよ。
そもそも戦争屋の関羽に一州に跨る組織を支配させたのが…
むしろ何年ももったのだけでも上等
>>777 ホウトウもいい感じじゃないかな
褒めて育てるのが上手いとあるから関羽も褒められて
気分いいんじゃないかな
話を戻そう
諸葛亮が蜀入り戦で死亡
ホウ統に蜀の命運が託された
さあ、どうなる?
>>でも荀イクに似てるとすると軍事よりも政治、特に人事に才がありそうな気がするんだが。
この点についてはどうよ
そろそろ傅僉について語ろうぜ
晋の武帝がわざわざ義士として詔の中で称えた蜀末期の武人
諸葛亮とホウトウの決定的な差は荊州人士との信頼度。
諸葛亮はよそ者に過ぎないけど、ホウトウは地元の有力豪族だからね。
そのあたりが荊州を治めるにしても出てくると思うよ。
ホウヨウ伝などの記述では、
ホウ統は人材発掘の眼に非常に長けていた(清濁併せ呑むと言う意味でも)ので、
後の人材難からは、ある程度開放されたかもしれない。
しかし、諫言の士(ここはなぞらえられた荀ケと共通か)の風が強く、
入蜀までは兎も角として、蜀成立後は荀ケや張昭と同じく憂悶の日々を送る事になるかもしれない。
有り様も、某臣としての有り方に徹し、判断はあくまでも劉備に委ねている為、
ホウ統がどれ程すぐれた計略を立てたとしても、田豊や祖授のようにならないとも限らない。
総合的に、孔明と比べると自己主張が弱く、独自の戦略的展望があるわけでも、
それを主張するでも無いので「調整役にはなれても先導役にはなれない」という所では無いだろうか。
>>785 思うにホウトウの特徴は軍事じゃなくて人事だと思うんだよな
荊州の人間関係の潤滑油として期待
結構上手くいくと思うんだよなー
>>786 たぶん孔明ほど政争も強くないからあの地位まではいけないと思う
そうすると蜀まとめきれないかもな
荊州は巧くいきそうだが自身が蜀をしょっては立てない
劉ホウが劉禅の後見人になってという気がしないでもない
>>788 荊州と益州は保てるが漢中は取れず、漢中王にも蜀皇帝にもなれない。
(政略の弱いホウ統では法正を抑えられない事を危惧した劉備が法正に手柄を立てさせる事を躊躇)
劉備死後は後継者争いが起こり、劉禅を擁する益州派と劉封を擁する荊州派に分かれる。
(益州人士は劉エン→ショウの代替わりの時に前科がある)
間もなく北の漢中から魏、南の交州から呉が工作をしかけ、内部分裂を起こして崩壊。
そんなところではないかなぁ…。
結局、益州・荊州の2大派閥というものがあり、
その二大派閥の長が健在であってこその調整役だと思うんだよなぁ。
>>790 荊州には関羽がいるぞ
関羽は間違いなく劉禅につくだろう
>>789 張飛はとりあえず蜀錦の振興にでも務めていただきましょうw
>>790 いやいやそこは法正にも漢中とってもらわんと困るw
しかし後継者争いはおこりそうだな
てか絶対おこるだろうな
>>792 すまん。逆だった。
荊州=劉禅、益州=劉封だな。
嫡子であり関羽や張飛という後ろ盾のいる劉禅より、
益州派にとっては何の後ろ盾も無い劉封のほうが御しやすいはず。
しかし、孔明死亡って燃える展開だなぁ。
三国志\でシナリオ作りてぇえええw
かなり燃えるね
でもこうやって改めて考えると欠点も目立つが
孔明がいないと蜀が成り立たないのが良くわかるなあ
政争でぼこぼこ政敵駆逐したのも国の成立には必要だったとも見れる
いざ内乱となったらあっさりと荊州派が勝ちそうな予感
ホウ統の戦略もとに関羽・張飛・黄忠・魏延がいるわけだし。
>>797 でも荊州派は劉禅の後見人、つまりボスは誰になるのよ
>>799 張飛なら弟分だし後見人の後見人として関羽が引く可能性もなくもないかもなあ
え?張飛国?wwwwwwwwwwwwwwっっっ
特産物の錦の生産は飛躍的に延びそうだ
張飛って結構内政うまいって話ホントかな
蜀絹は張飛が盛んにさせたそうだし
>>800 商売が上手いのと政治が得意なのは別だけど、
経済力が発展したら国も発展するんじゃねぇかなぁ…とは思えてしまう。
>>786 臥龍・鳳雛と並び称され、諸葛亮より後から劉備に従ったにもかかわらず
同じ軍師中郎将の地位を与えられ、荊州の留守守備と同等以上に軍事・外交に
関する能力を必要とされる益州奪取の軍師を任された龐統なのに、なぜ
龐統の能力を極端に下に見積もるんだ?
>>802 では貴方は実際ホウ統がどのような人物だったと仰るのか。
別にホウ統の“能力”を過小評価などしていない。
使う人間が劉備である事。派閥などを作るような人物では無かった事。
人間性、評判、功績。
そこから辿るだろう道を、あくまで“推測”したに過ぎない。
優れた能力が有れば、その能力の許す限りの事が出来る訳ではない。
さすがに孔明が偉大すぎるからな
国家の采配という面で張れるのは曹操くらいになってしまうんじゃないだろうか
比べる相手が悪いね
805 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 22:47:12
>803
802じゃないが、劉備が荊州を領有していた場合、征服政権と言う性質上、荊州士大夫が上位に来る。
荊州人士・益州人士と色分けされる事は統治上仕方ない事で、劉備の勢力が荊・益二州に及んでる場合、龐統も荊州派の領袖と言う立場になるだろう。
その辺りは諸葛亮だろうが龐統だろうが違いは無いと思うけど。
で、独自の戦略的展望ってヤツだが、当事の状況を冷静に判断できる人物であれば、劉備が勢力を伸ばせる地域は荊・益両州しかなく、諸葛亮だろうが龐統だろうが基本的な構想は同様にならざる得ない。
実際、益州入りを説得したのも龐統だしね。(まぁ、劉備集団首脳の既定路線だろうけど)
龐統伝を読む限り、劉備に具体的な進言を数多くしてるし、益州平定に関しては法正と共に先導的な役割を果たしてる。
自己主張も諸葛亮と比べて弱いとは言えないと思うけど。
>>805 概ね納得。理論的。
ただ、長となって立った後の展望、自己主張については異論が。
ホウ統は、政争の一方の雄になるにしては、派閥を形成するという考えが抜けているように思う。
人材を推挙する逸話でも見返りを求めたりコネクションを形成するという姿勢が見られない。
様々なエピソードで伺われるように人には慕われているが、ホウ統は彼等を下に押さえてはいない。
また、儒教的な考えでは上に立つ人間は立派に見える格好をしていなければならないが、
ホウ統がそっち方面について気にしていない事も「自己主張が弱い」と談じた理由。
上に立とうという気概が欠けているようにも、裏方に徹しているようにも見えてしまう。
あくまで某臣、軍師であって、権臣、丞相にはなれないのではないか、と。
>>806 派閥を作らなきゃ丞相になれないって、なんじゃそれ?
諸葛亮は荊州豪族と姻戚関係はあっても、別に徒党を組むどころか孤立していたし、
公平無視な存在だとみんなが等しく認めている人物。
諸葛亮政権に荊州人士または荊州系益州人士の採用が多かったのも、単に人材が
中華の中心だった荊州に比べ、辺境の益州には少なかったからに過ぎない。
実際、益州出身の人物は中堅以降にはたくさんいたが、トップクラスに引き上げるほどの
人物はいなかったでしょ。
なんで「諸葛亮は派閥を作るタイプだから丞相になれるが、龐統はダメ」みたいな
話になるのかわからん。
巷の研究書の「諸葛亮は荊州閥のトップ」とかに影響されすぎてないか?
諸葛亮政権下で「能力に比べ不遇だった諸葛亮派閥外の人物」とかが存在した
とでもいうのかい?
でもあんま政争に一生懸命にならなそうじゃない?
ホウトウって
そのかわり士大夫だろうと出目の悪い将だろうと才を愛する雰囲気があるんだよなー
なんとなくだけど
809 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 23:42:16
>803=806
一面で、貴方の言うとおりだと思うけど、反面、人を下に押さえつけない、人に慕われると言う点で諸葛亮以上に円滑に国政運営を行えた可能性もあるよ。
史実の政争自体が起きなかった可能性がある(どんな政権であれ、多少の政争は起きるのだけど)。
龐統が存命し、法正も健在ってなった場合の蜀漢人事に関しては想像がつかない。
史実の諸葛亮1人状態でなければ、丞相位は設置されなかったかもしれないね。
>>809 中華の権力の構図ってそんな甘いもんじゃないと思うな
ブサメンは賈クみたい立場がいんじゃない
>諸葛亮政権に荊州人士または荊州系益州人士の採用が多かったのも、単に人材が
>中華の中心だった荊州に比べ、辺境の益州には少なかったからに過ぎない。
何を根拠にそんなこと言ってるのか知らないけど、
当時の益州は中国全土でも有数の人材の宝庫だよ。
つか、歴代公卿を調べたら巴蜀出身者の方が多いんじゃないかな。
蜀漢でも王連、張裔、楊洪、秦ビツ、程畿…錚々たる面々を輩出してるよね。
814 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 23:52:42
>807
>実際、益州出身の人物は中堅以降にはたくさんいたが、トップクラスに引き上げるほどの
人物はいなかったでしょ。
↑の部分、地方行政・軍事は地元の益州人士、中央政府首脳・重要地域責任者は征服側の荊州人士。これは荊州人士上位と言う色分けがキッチリできてる証左でないかな?
特に荊州領有中は荊州色が強くなるのは仕方ない。
後に色合いがかなり薄まるのは荊州失陥の結果、益州のみで纏まっていく必要からかと思う。
あるいは、荊州人士優遇の必要性が無くなった、と言うべきかも。人材を益州から確保するしか無い、と言う事も含めて。
>>807 >派閥を作らなきゃ丞相になれないって、なんじゃそれ?
言ったままのことですが何か?
姻戚関係があるのに派閥ではない、と?矛盾してないかな。それ。
どこかとどこかが対立した時に孔明以外を推すの?推さないでしょう。
公正無私である事と、自身の支持母体を持たないのとはまったく別の問題だよ。
貴方のレスの内容は、
喧嘩をうっている、荒らしの様にも見えるので以後のレスには応えません。
816 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 00:04:40
>>815 俺は
>>807の言っていることは、当たり前の疑問・反論に思えるのだが。
少なくとも荒らしとは全く思えない。
自分の答えられない反論は荒らし認定というのはおかしいんじゃないの?
>>816 知識の内容ではなく、口調が相手を怒らせようとしているようにしか読めません。
北伐とか夷陵とか部分的に諸葛亮と置き換えるならいいんだが、全体でいくとなぁ。
>>818 エキサイトしかけた沸点の低い自分も悪い。申し訳ない。
でもさ正史のどこ読んだらホウトウが諸葛亮のような政略の強さを持ってると感じられるだろうか
容貌が醜くて誰からも相手にされなかった人間的に、重用してくれる人がいて
はじめて力を発揮できるタイプと見るべきじゃないかね
あとは正史に特質されてる点を見ると人を育てるのが好きって
人物像をまとめるとどちらかというと控えめな人間に見えるんだが
822 :
816:05/03/09 00:14:18
>>815 じゃあ、俺も質問。
姻戚=派閥と主張するなら、龐統は諸葛亮以上に荊州での地盤・姻戚関係は強いのに、龐統は派閥を作らないと
断定している理由は?
諸葛亮が荊州人を重用したのは、益州人にこれといった人物がいないというのに賛成。
諸葛亮派閥のために「能力に比べ不遇だった諸葛亮派閥外の人物」を挙げてください。
>諸葛亮派閥のために「能力に比べ不遇だった諸葛亮派閥外の人物」を挙げてください。
これはアンフェアな質問。
職責を与えられなければ能力があったかどうかすら分からない。
「能力もないのに諸葛亮派だったから重職につけられた人物がいる」
と主張するのと裏表の関係。
824 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 00:22:41
>>821 >重用してくれる人がいてはじめて力を発揮できるタイプ
それは諸葛亮も一緒でしょ。
自分は管仲・楽毅に比して他人を見下して孤立していたので知人も少なく、ましてや諸葛亮が大言壮語に見合う人物
であると認識していたのは、ほんの数人なんだけど?
誰かが才能を認めて、それを発揮できる地位につけない限り、力を発揮できないのは一緒。
諸葛亮だって、数少ない諸葛亮の能力を認める徐庶が劉備に影響力を与える立場にあって、その推薦を受けたという
偶然がなければ、劉備は重用どころか採用すらしなかったかもしれない。
諸葛亮登用は、徐庶の劉備政権参加という偶然のうえで成り立っているのであって、劉備が諸葛亮の「政略の強さ」に
よって見出したわけじゃないんだけど?
ちょっと話題を変えるけど、
ホウ統の入蜀時の献策って結構微妙だと思うんだよ、
特に劉璋と会談した際に、劉璋を引っ捕らえる、ってのは
流石に乱暴すぎると思うんだが。
そして劉備に示した3つの献策だけど、先主伝と結構内容が違うんだよね。
ホウ統伝
ホウ統の進言を劉備が取り、荊州に帰還するふりをする。
そして劉備を危険視していた楊懐・高沛は、
それを喜んで軽装で劉備の元を訪ね、斬られる。
先主伝
計画が露見、劉璋が劉備に関わるなと楊懐・高沛に命令を送り、
それを聞いた劉備が二人を呼びつけ、無礼のかどを糾弾し、斬る。
これどうなってるんだろうねぇ、ここまで違うと判断に困る。
諸葛亮とホウトウ比べて諸葛亮にできてホウトウに出来ないわけないという人は、
人物の性質ってものを全く無視してるんじゃないかね。
これは能力の問題と言うより性質の問題だと思うんだけどなー。
別にホウトウが劣ってるとかじゃなく。
>>824 その一つの言葉だけをピックアップして反論する姿勢がまず問題だな
だれも政略の強さで見いだしたなどとは言ってないし。
いかにも過ぎるって
>>822 能力に比べ不遇だった諸葛亮派閥外の人物
荊州人だが廖立は?
829 :
816:05/03/09 00:31:05
>>823 俺は
>>815に質問しているわけですが。
そもそも、「諸葛亮は派閥をもっていた、派閥主義者でなければ丞相になれない」というのが
>>815の主張。
だとしたら、諸葛亮が派閥をもっていたという証拠を示して欲しいので
「能力があるのに諸葛亮派閥外だったから不遇だった」
(「能力もないのに諸葛亮派だったから重職につけられた人物がいる」でもいいけど)
という例があるのかないのか、ないのなら何をもって諸葛亮を派閥主義者と断じているのかを聞いているだけです。
なぜ、アンフェアだとか言い出すのか理解できません。
何がどうアンフェアなんでしょう?
ちなみにあなたは
>>815?それとも「
>>815と同意見の別人」ですか?
>>825 後者の方だと何故危険人物と判明した劉備のもとに直接顔を出しにいったのかよく分からんないんだけど。
劉璋の命令文を送りにきた使者を劉備が先に捕らえて劉璋の考えを知り、ホウ統の策で何気なく2人を呼びつけたとか?
でも情報全てを遮断させられるかは怪しいよなぁ
>>816 あ〜もう、いちいちうるさいですね。
ここのスレでは
>>815と
>>813の諸葛亮は荊州派閥の首領!、龐統は派閥に入れてもらえない!
で結論出ているの。
そういう質問は荒らし認定されてもしょうがない。
どうせ演義厨かなんかだろ、キミ?
おとなしく、三国志に通じている大人の会話を聞いていなさい。
諸葛亮ってかなり血筋良いらしいから、ホウ統より基盤強いんじゃないの。
諸葛豊の子孫で(これは本当かどうかは分らんけど)
父親は太山郡の丞、叔父の玄は豫章の太守を務め、劉表と旧知の仲。
兄の謹(これは最近色々言われてるけど、近しい関係なのは間違いないだろう)
は呉の重鎮で、友人の崔州平は父親が大尉。
>>822 まず、ホウ統は荊州の名士だったけど、
あくまで荊州の名士だったという事を話してみようかと。
「襄陽記」によると、ホウ統の血族であるホウ徳公は、襄陽郡の人。
ホウ徳公は荊州の人々からホウ公と呼ばれるほどの大変な名声があり、
諸葛亮、ホウ統、司馬徽の3人は、それぞれ彼が評価したことで名声を得たようだ。
特にホウ統は、風采が上がらず誰も評価していなかった所を、
おじのホウ徳公だけが眼を掛けていたとある。
またホウ徳公の息子は曹操が荊州をとった後、黄門吏部朗となり、孫は晋代に太守となっている。
ホウ統の荊州での人脈はホウ徳公の親戚である所によるものが大きかった。
そして、ホウ徳公の息子が魏に仕えた事で、その大本のコネクションは失われた。
その様に仮定を立てることが出来るのではないだろうか。
実際、彼を知る呉側では大変名声のあったホウ統を、劉備も初めは閑職に追いやっている。
これは南郡でのホウ統の名声と影響力が大した物ではなかった事を示すのではないか。
親族が纏めて魏に下った為後ろ盾の無いホウ統を恐れはばかる必要は無く、そのため、
ホウ統と面識のある魯粛を初めとする呉将、旧知の諸葛亮だけが彼を推したのではないか。と。
また、ホウ統を評価する伝においても、彼を評する人間は直接の面識のある者に限られている。
>>828 諸葛亮も才能は認めてるけど閑職に移してるところをみるとあてはまるね
>>833 荊州では龐統のほうがずっと毛並みがいい
ましてや諸葛亮は他州からの流れ者に過ぎない
司馬徽は「龐統は南州(荊州)の士人中第一人者になるだろう」と称えている
(この発言は諸葛亮をふくんでいるのかどうかは不明)
どちらにせよ、龐統が高く評価されているのは劉備政権下でも諸葛亮と同等の
待遇を与えられていることからも判る
「諸葛亮>龐統」かどうかは龐統が早死にしたから正史では不明であり、
演義が後世に「諸葛亮>龐統」にイメージを作らせたに過ぎないよ
運や長生きも能力のうちだと言ってしまえばそれまでだがw
>>836 同等とは思えないんだが。
劉備の最初の対応みなって。
>>829 >なぜ、アンフェアだとか言い出すのか理解できません。
ほんとに分からんのか…。
>>807にしても
>>729にしてもそうなんだが、
小者ぶりを示すエピソードしか残ってないから三流とか、
重役に就いたのは荊州出身者ばかりだから益州は人材が少ないとか、
結果だけをみて全体像を語ろうとする失敗を犯してるわけ。
>ちなみにあなたは
>>815?それとも「
>>815と同意見の別人」ですか?
両方はずれだよ。815とは別意見の別人。もちっと落ち着け。
>実際、彼を知る呉側では大変名声のあったホウ統を、劉備も初めは閑職に追いやっている。
>これは南郡でのホウ統の名声と影響力が大した物ではなかった事を示すのではないか。
んー、なにか誤解があるんじゃないかと思うけど、
郡功曹から県令は左遷でも閑職でもなんでもない、ごく順当な職歴だよ。
840 :
816:05/03/09 01:01:14
>>834=
>>815 >実際、彼を知る呉側では大変名声のあったホウ統を、劉備も初めは閑職に追いやっている。
>これは南郡でのホウ統の名声と影響力が大した物ではなかった事を示すのではないか。
呉にまで鳴り響いているのに地元で無名なわけはないでしょう?
>>824にも書いたけど、諸葛亮が才能を認められておらず知名度が低かったのは、龐統以上であり、あくまでも
数少ない諸葛亮の能力を認めている徐庶が劉備に影響力を与える立場にあって、その推薦を強く受けたという
偶然がなければ、劉備は重用どころか採用すらしなかったかもしれない。
「襄陽記」によれば司馬徽も劉備に諸葛亮を語ったことになっているけど、これも『数少ない諸葛亮の理解者』。
司馬徽ってジジイじゃないよな・・・?
>>834 劉備が龐統を最初重用しなかったのは見た目が悪いからでしょ。
見た目や風采も当時では才能のうちだったから。
ましてや劉備は着飾るのがすきなタイプなので、醜い龐統にはその選別眼も
多少曇るところがあったと考えられる。
>>839 県令の代行でしかも罷免だろ
孔明と同じ評価にしては扱いが悪すぎる
これは人に対して決してプラス印象をあたえない事が起因なんじゃないのかな
正史には容姿に関する記述はなかったと思うよ。
>>815 急用が入ったので落ちます。
明日の夜またお返事させていただきます。
オヤスミ。
>>842 荊州従事で県令を兼任するってのはかなりの厚遇だよ。
罷免されたのは治績が上がらなかったから。これは当然のことでしょ。
>>822 次に、性格面。
蒼天ノートじゃないけど、マキャベリズムというか実利主義というかそういう面が多々見られる。
まず、人材評のエピソードからしてがそのような匂いがしてきます。
「世の中が混濁としているから、実像とは違ってもやる気を出してもらう事が必要なんだ」
とホウ統は答えていますが、これはペテンで儒教的観念からしてもイケナイ事です。
次に、入蜀時における献策についてです。
これは
>>825にも書いてあるとおり簡単に記述で判断して良いものかどうかは分からないけど、
益州の乗っ取りは仁義に叛くと劉備が逡巡すると、大業の為の悪は仕方が無いと説得している。
しかし一方で、
劉備が戦に勝利をすると、衆前で「侵略を喜ぶのは仁者の行いではない」と諌めているので、
チグハグにも思われる人も多いかもしれませんが、ホウ統の前の献策を考えれば、
「仁者は衆目の前ではそれを装い、裏でほくそ笑むものです」との穿った読み方も出来ます。
このような策謀に長けたいわゆる軍師と呼べる人物は、高位に上る事は出来ますが、
得てして失敗で名声を失い、身を慎まず粛清され、命をまっとう出来ない事がまま有ります。
陳寿がホウ統を「荀ケの兄弟」と評したのは正にその通りだと思います。
ホウ統が劉備の荀ケとなり、益州入りを成功させ蜀を建国したとしても、
荀ケや張良のようにやがて中央とは距離を取る事になるだろうと考えるからです。
「自己主張が弱い」というのは、ホウ統の積極性はあくまで主君の為であって、汚れ役であって、
献策もそれに沿い、自分が得をする為の主張は無いのでそのように記述しました。
個人的には、魯粛と仲が良かったという時点で大変に実利主義者の臭いを感じるのですが。
>>846 諸葛亮はいきなり水魚しちゃってるでしょ。
ホウ統は県令から。
どこをどうよんだら扱いが同じか全くわからないなあ。
>>848 そうかな。少なくとも俺はそういう用例は知らない。
普通に考えると老子の引用だと思うんだがどうなんだろ。
>>849 俺は諸葛亮と扱いが同じだとは言ってないっす。
功曹から荊州従事守耒陽令というのが順当な出世だと言ってるだけだよ。
諸葛亮の派閥の事だけど、
例えば蔣琬なんかは丞相府の役職についており、
諸葛亮が死ぬまでずっと長史の職についてた、
しかしその間に北伐に参加はせず諸葛亮の代わりに政務を取り仕切って、
そして諸葛亮が死ぬと、尚書令・行都護・仮節・益州刺史を兼任、
大将軍・録尚書事に昇進、安陽亭候に封じられる、
と普通では有り得ないほどの破格の出世を遂げてる。
費イなんかも諸葛亮に特別待遇を受け、侍中を務めた後に丞相府の役職に就き、
諸葛亮の死後は後軍師になった後、尚書令になってる、当然後の政務を取り仕切る。
他にも向朗・馬忠・王平といった丞相府出の人間や、
ケ芝・董允なんかが重職を占めてる。
そして諸葛亮が厚遇した姜維が、費イの死後軍権を握る。
こういう流れを見てると、派閥が無いほうが不思議。
>>850 少時僕鈍は子供の時から風采があがらなかったってな意味であってるよ。
君ならどう訳すわけ?
>>統が高く評価されているのは劉備政権下でも諸葛亮と同等の
待遇を与えられていることからも判る
>>836 これは君の言ではないのかな?
>>839と同じ人と勘違いしたかも
>>839 文脈から読む限り、
郡功曹は劉表勢力下の襄陽で、劉備に仕えた時は無職だったのではないでしょうか。
無職から県令というと聞こえは良いですが、この時点で呉の名声が有った事を考えると、
抜擢人事ではない訳で…どうなんでしょう。
>>840 呉に名声が鳴り響いたのは周瑜や魯粛と親交があったからで、それ以上の記述は無いですね。
資料から見るかぎり、ホウ統の一族は弟も含めて纏めて魏に下っていますから、
ホウ統には血族による強力なコネクションはなく、あくまで親交による物と考えた方が合理的かと。
ホウ統に名声が無かった事は、「襄陽記」の
ホウ徳公は、風采が上がらず誰も評価していなかったホウ統を、ただ一人眼を掛けていた。
という記述を信じていただくしかないですね。
もしコネクションも名声も有ったとするなら、それを用いなかった劉備の行いは狂気の沙汰では。
風采の上がらないなりだったという事だけで嫌ったというのはどうも…。
蜀書は資料が少ないのが惜しまれます。では、自分も寝ます。皆さんお疲れ様です。
>>838 上の方で縻芳と傅士仁は三流と書いた、
>>829とは別人だが、
都合よく一緒くたに語るなよ、縻芳と傅士仁が降伏した経緯や、
呉での振る舞いを含めてのの評価で、
さらに蜀に居た頃も、呉でも功績が無いからだ(縻芳は従軍はあるが)
都合の悪い部分だけ残ってて、良い部分は残ってない、
そういう風な都合の良い事を言うなよ。
>>855 ドンマイ
正直誰が誰だかサッパリ解らなくなってるしw
>>853 俺も、ホウトウは恐らくは無職だったと思う。
従事のまま、令を代行させた、だから、
完全に左遷されてる、しかも後に免官されてるし。
>>858 いや、そういわれても、俺は、縻芳と傅士仁は三流と主張し、
だけど諸葛亮は派閥を持ってた、と主張する人間だからなんとも言えんが。
ただ既に過ぎた議論を現在の議論と一緒くたに語るのや、
すぐに荒らし認定するのは感心しないけど。
>>859 全く同意
(これも自演扱いされちゃうんだろうか)
>>852 「樸鈍」ってのは舌鋒鋭く美辞麗句を立て板に水の如く並べ、
筆を取っては流るるが如く流麗華美に尽きる、魏においては何晏、呉に張温といった輩…の反対。
容姿は関係ないと思うよ。そういう用例は見たことがない。
>これは君の言ではないのかな?
違うよ。
>>854 >都合の悪い部分だけ残ってて、良い部分は残ってない、
>そういう風な都合の良い事を言うなよ。
んー、あんまりそっちに深入りしたくないんだけど。
最低限の史書の読み方くらい知ってるでしょ。
>>858 別意見だっての。
敵味方としか色分けしないからそういう過ちを犯すんだよ。
なんかどっかから一人香ばしいシトが紛れ込んでるな。
房は荒らし認定は馬鹿だったと言ってんのに蒸し返してるしよ。
香ばしいレスはスルー汁!
>>861 撲鈍の訳についてだけど
そら自分に都合良く訳しすぎだよ
逆にそんな意味で使われてる用例を俺は知らないなあ
他の用例が見つかるわけでもないんだが
日本語訳でホウ統の伝のその箇所の訳でそういう訳し方をしてるのがあるだろうかね
>>854 例を挙げれば分かるかな。
句扶や陳到、トウ方、馬岱、高翔らが優秀だったというエピソードは伝わってるかい?
伝わってないとしたら彼らは無能なのか?三流なのか?
無能で三流だとしたらなぜあれだけの高位に就いてるんだい?
史書に残されたエピソードなんて断片に過ぎないんだよ。
史書に書かれてないものが存在してないわけじゃない。
同様に、高位に昇ってないから能力がないとも言えない。
そう難しいことではないと思うんだけど。
ホウ統のアレは、要するに「見るからに田舎者」だったって事だろう。
先主はファッションに気を使ったとあるから、そこら辺気にしないホウ統はそら…
ニュアンス的にはもっと広い意味じゃないの。所作や言動が冴えなくててぱっとしない人物。
見た目を具体的には示さなくても、意味としては全体の雰囲気を表現してると思う。
ホウ統の容姿=ホリエモンで考えてみる。
うわ…
>>863 普通に字面見ただけでも老子の引用だと分かります。
漢語大詞典を引いたら「朴質で聡敏でない」とあり、
用例としてホウトウ伝、漢書周勃伝注、次答黄介夫七十韵が引かれてますね。
朴鈍を引くと「鋒利でないこと」「質朴、敏捷でない」とあります。
諸葛亮って不細工嫁もらってんじゃん
名士のオッサンの娘だからってさ
含んでないな
>>871 まあ普通に考えると含んでないと思うよ。
>>871 質朴は訳した後の言葉だ…ちくまじゃなくて原文読め
要するに、飾り気がないという意味なので、
容姿を朴鈍であると評することはできるかもしれないけれど、
朴鈍といえば容姿に対する評価だ、とは言えない。
>>868 質朴=飾り気が無く律儀
ホウ統の伝ではそれによって人から評価されなかったとあるので、
律儀さを表現したと言うより評価されない理由としての地味さを
表現したと取るのが適当だな
質朴ってのは世間に擦れてない様って意味もある
飾り気がなくおおらかな感じかね
>>878 容姿「込み」で樸鈍と評することはできるけど、
それがただちに容姿が悪かった証拠にはならないということです。
容姿じゃなくて雰囲気を示す言葉だな
容姿を表してないとは言えないと言うことだよ
言える
容姿じゃなくて様子をあらわす言葉だからだ
>>882 だからその様子ってのが容姿込みだっつーの
自分でも認めてるじゃないのw
>>882 んー、いや。それがちと微妙なような…。
そもそも「様子」って語自体が「容子」の転なわけで。
>>883 容姿「込み」であると単純に判断することはできないです。
むしろ容姿を言い表したいなら「容貌短小」「姿貌卑陋」といった誤解を招きにくい言葉を使うべきですから、
そうでないということは、この場合は容姿「抜き」と考えるのが妥当かと思いますよ。
885 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 03:00:03
結論
諸葛亮はイケメン(しかもお気に入りの徐庶のお墨付き)
龐統はファッションがだらしなくてダサい、汗っかきのデブのキモオタ風のブサメン(紹介なし)
見た目で出世した例は、孟達をはじめいくらでもある。
人間なら、初対面の場合にどちらに好意・尊敬を、どちらに嫌悪感・軽蔑を持つか?
ましてや、美意識の高い劉備の場合は?
好意・尊敬 → 諸葛亮
嫌悪感・軽蔑 → 龐統
「孔明には派閥があった」とかそんな話は関係ない。
言葉の語呂のよさに酔いしれて様子と容姿で掛けたのが失敗だったな
その前に言ってる雰囲気ってことで考えてくれや
>>885 このスレの住人なら龐統に親近感を、諸葛亮に羨望と憎悪を抱くかもねw
>>885 張松が魏で受けた待遇の例もあるからねえ。
にもかかわらず、認識を改めて以降の劉備に諸葛亮と同等に待遇されたことから考えても
能力的にはすごいんだろうな。
蜀入りに龐統が同行していることからも、軍事・外交的な策略については諸葛亮より
龐統のほうが優れていたのかもしれない。
杓子定規な諸葛亮より清濁併せ呑むホウ統の方がウマが合ったのやも知れぬ
あと全体的長期的な所謂マクロ視点の戦略は諸葛亮は上手いのかも知れないけど
北伐でも顔を出す臆病さを劉備に見切られたのかも
それから劉備没時はなんだかんだで諸葛亮は丞相だし蜀取るまでは荊州が本拠地なんだから諸葛亮はそっちにいなきゃ不味いんじゃないかね
最後の行ミスったまま送信しちまった
正しくはこう
それから劉備没時にはなんだかんだで諸葛亮は丞相になってるわけだし内政面で評価されていたんでしょ
蜀取るまでは荊州が本拠地なんだし政治上手い奴本拠地にいてもらわないとだめじゃないかね
>>889 でもそこなんだが軍事に極めて優れてた事跡がないから(早死にしてるのが大きいが)
それを早急に決めてしまうのはちとあれじゃないかな?
もちろん高い能力は持っていたんだと思うが、どちらかというと
ジュンイクあたりに評されたり、人倫を好むとこ見ると人事に一番優れてたんじゃないかと推測。
孔明はそこらでちと偏ってたがホウ統はそんなことはないんじゃないかと。
「呉録」で顧劭に龐統が語ったエピソードがいいね。
「世俗を教化し、人物の優劣を判断する点では、私はあなたに及びませんが、
帝王のとるべき秘策を考え、人間の変転する運命の要を把握している点では
私のほうに一日の長があるようです」と龐統がいい、顧劭はそれをもっともだ
と考え、親しく付き合った、か・・・
このエピソードからして、龐統はそれなりの自分の軍師としての才能に自信を
持っており、それは自分だけじゃなく自他共に認めるものだったようだなあ。
書き忘れた。
>>892 ジュンイクは軍師であり、政治にも軍事にも通じていた。
なんで、品行や思想だけの人物とジュンイクと決め付けているの?
「呉録」のエピソードを見ても龐統の才能の一端を示しているし、蜀を奪い取る
ような大仕事に、その才能がない人物を軍師として連れて行く意味がない。
人倫の論議をやりに行っているわけではない。
それに益州奪取は龐統の意見でもあり、同族の領地を奪うということを企画している
点でも、単なる人倫を説くだけの儒者などではないことは明らか。
895 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 03:44:02
龐統の出身の龐氏も豪族だし、龐統の弟・龐林も妻は豪族・習氏出身だよね。
しかも、「龐統に次ぎ、馬良の上の名声があったと言う習禎」の妹。
黄権の部隊に参加し、魏に降った龐林も荊州治中従事の官職だったので、
荊州奪還後の行政関係の文官のトップが予定されていたわけだし、魏に降伏後も
キョ鹿のような重要で大きな郡の太守となり列侯となっているので、それなりの
才能があったんだろう。
少なくとも同じ弟対決では、諸葛均より龐林のほうが能力は上っぽい。
>>894 いやいや全然決めつけてないよ。
高い能力はあったんだろうとした上で人事に最も優れてたんじゃないか
と推測してるだけです。ホウ統の(人倫)の意味はその後に続く、(才を育てる)
ってところにあって人物批評とは違う次元の才だと思いますよ。
これが有能な官吏や指揮官を育てそれを扱うことに優れた面になるんじゃないかなという事。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 03:55:48
>>894 楊懐・高ハイだまし討ちも龐統の策だし、劉璋から益州奪取を進めたのも
正史龐統伝の裴松之註で言っているように龐統。
蜀入りの軍師に選ばれたことからも、龐統のほうが軍事が諸葛亮より
優れており(特に臨機応変な奇道の面)、益州奪取について諸葛亮以上に
積極的な自論だったのだろうな。
謀略は得意そうだが、軍事作戦能力はどうかな
まあでも諸葛亮よりは軍事も優れてたんじゃないかな。
人選的にみても。
それプラス指揮官育てるのも上手いともなるとなんか鬼かも。
益州での統治面も期待されていた、かも
こんな朝まで生討論してしまったらホウ統さえいれば魏も呉もウンコ並だと断じたくなる気分だもうねむいねるおやすみ
902 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 04:11:18
つか軍事抜きにして諸葛亮って謀才あったの?「正道によりながら謀才云々」ってあるけど、
要するに政治家なのに軍事の才能も多少あるでよ、みたいな程度の評価でしょ?
劉備は諸葛亮に謀略なんて期待してたんかね?
政治家としてのビジョンと手腕に期待してただけのような。
>>902 荊州と益州奪れって言っといて
具体策がないってことはないんじゃないかな
>>899 諸葛亮は政治も軍事も人事も優れているが、全て正道で臨機応変がきかない感じ。
龐統は間口が広く、ある程度、清濁・正道奇道あわせもつタイプ。
世間の評価をみても劉備の扱いをみても能力的には同等と考えるべきであり、
どっちが優秀ってものじゃないだろう。
ただ、益州奪取のようなことには、諸葛亮のように諸事に細かいことにこだわり
慎重なタイプより、龐統のほうが適しているのだろう。
つまり適・不適の問題であり、諸葛亮=龐統だ。
905 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 04:17:24
>>904 たしかに諸葛亮は荒事には不向きなタイプだよね
劉備の下、諸葛亮、法正、ホウ統の3人が長期健在だったなら…
曹操の下、荀ケ、郭嘉、カクがいても・・・
908 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 04:50:38
戦略対決
ジュンイク vs 孔明
戦術対決
カク vs ホウトウ
法正とジュンイクは
>>908 正史は「龐統が荀ケ・荀攸相当」「法正が賈詡相当」としており、諸葛亮は
魏にも比較する人物がいない別格としているよ。
こうしてみると、丞相級の人物や軍師、上級の策士が蜀は圧倒的に不足してるよなあ。
しかも、そのうち二人はすぐに死んじゃってるし。
魏志巻十 荀ケ・荀攸・賈詡
魏志巻十四 程c・郭嘉・董昭・劉曄・蔣済・劉放
(+司馬懿)
蜀志巻五 諸葛亮
蜀志巻七 龐統・法正
呉志巻七 張昭・顧雍・諸葛瑾・歩騭
呉志巻九 周瑜・魯粛・呂蒙
呉志巻十三 陸遜
それに加えて、人格はともかく、そういった才能だけの比較なら曹操>孫権>劉備。
君主も能力的にその部分が劣っているので、蜀が統一できなかったのは当然。
911 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 05:07:55
>>910 曹操>孫権>>>>>劉焉>劉虞>劉備=劉表>劉繇>劉璋
諸葛亮≒管仲蕭何
龐統≒荀ケ荀攸≒張良陳平
法正≒程昱郭嘉
>>903 具体策、あったのかねえ?
諸葛亮がしたのはビジョンの展開であって、具体的な作戦はほとんど出していない。
赤壁後だって、周瑜の死と劉ショウから誘いがこなければどうやって益州を獲る
つもりだったのか。(張松が内応を決意したのは、劉備陣営からの働きかけによる
ものではない)
914 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 09:14:42
魯粛と同じで、具体的なビジョンはあの時点では必要ないだろう
具体化するのは劉備の仕事
>>864 陳到は趙雲に次ぐ名声・官位であり、忠誠心や、
忠節勇武・猛将としてたたえられてるな。
それに他の人物は良いエピソードも無いが、悪いエピソードも無い。
つーかエピソード自体無い訳だから、当然人物評価は困難だ。
俺が言ってる、悪いエピソードや、呉に降伏した経緯が記されている
縻芳と傅士仁とは全く状況が違う、
俺はエピソードが無い、だから三流だ、などとは言ってない。
悪い話だけ掲載され、良い話は省かれた、本当は良い部分があるんだ、
と主張をするなら、それなりの根拠がいる、そして証明責任はそちらにある。
>>897 諸葛亮を置いていったのは荊州の抑えとしてであって、
能力云々で選んだ訳じゃないだろう。
918 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 13:49:34
早い段階で劉備の下で働き、あの時まで付き従っていた(北方出身の士仁も比較的早い段階で仕えたのだろう)
南郡や公安のような要地を抑える役目を担っていた
これで十分説明できるだろ
>>918 その要地を押さえる役目を担っておきながら、
南郡の城での失火で多数の兵器が焼け、それを関羽に叱責され
恨みに思い、孫権と通じる事になり、
自分が軽んじられてると思い、全力で関羽を支援せず、
それによる処罰を恐れたために、その要地と共に降伏。
全然説明できて無いと思うけど。
>>919 >南郡の城での失火で多数の兵器が焼け、それを関羽に叱責され
こんな話あった?
>>920 呂蒙伝に載ってる。
呉での話も虞翻伝にエピソードあり。
そんな基本的な職務も果たせないんだから
縻芳と傅士仁は
要地を押さえておきながら
後背地を空にして出ていく司令官
大勝しながら兵站を切らす将軍
と同じで無能としか言いようがないな
まさに三流の人物だ
>>919 ただ、それを見ると関羽が一流の人物とは言い難い気がする…
部下の心を掴めないのはちょっとな
一流といわれる人物はなかなか部下の裏切りにあったりしないし
あったとしても決定的な場面ってのは少ない
関羽が一流、二人が三流 だからうまくいかないと決めつけるよりも
関羽の欠点と二人の欠点が問題を大きくしたと考える方が自然
>>925 関羽は関羽で1.5流くらいだとは思うよ、
俺は確かに縻芳と傅士仁は三流であると主張したが、
関羽が縻芳と傅士仁と上手くいかなかったのは、
それとは別問題だと思ってるし。
人格面はなぁ・・・
>>926 なる
上でそんなこと書いてるヤツがいたから
ただ、その記述だけをみると三流だけど
狭量な人間でも活躍してるのって呉にも蜀にもいる以上
少ない記述で上司との関係について書かれているところ(しかないからといって)
それのみで判断するのは難しいかなと思って
勝たなきゃダメなんだ・・。魏の許チョ、蜀の関羽、孔明。
彼らが脚光を浴び、誰もが賞賛を惜しまないのは、言うまでもなく、ただ
彼らが勝ったからなのだ・・!
勘違いするな。よく闘ったからじゃない。彼らは勝った。ゆえに今その全
人格まで肯定されている。もし彼らが負けていたらどうか?負け続けの人生
だったらどうか?これも言うまでもない。
おそらく許チョはウスノロ。関羽は根暗。孔明はいけすかないマイペース
野郎。誰も相手にさえしない。
>>929 面白いけど許褚より夏侯惇のほうがいいんじゃね?
931 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 18:45:39
もっと語れ
うう・・先生・・!!
水鏡先生・・!!
ざわ・・ざわ
スレ違いだか刑道って珍しい複姓だよな
現在中国に五人しかいないらしい
そのロクに仕事も出来ない三流に留守を任せたのは、どの程度に
評価すればよいのでしょう?
935 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 19:20:06
ホウトウが一度辞めさせられたのは元は周喩のとこにいたため劉備が警戒したからっていう説があったな
936 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 20:25:45
顔良も文醜も然りだな。あいつら徐コウと同じ強さなのに運悪く
関羽に会ったが為に「弱い」イメージだもんな。
もし例えば曹操に降ってたら確実に5将軍。特に顔良は。
937 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 20:35:36
張飛は肉屋。繁盛してたのかな?
士人におべっか使えるんだから
接客うまいと想像してみたり
しかしなぜ関羽だけ悪い点しか見ようとしない人がいるのか。
人格がどうとか言うが、義理堅く公私混同をせず苦難を厭わない等、正史には良い点のほうが多く書かれている。
曹操な元に居たときのエピソードはその最たるもので、恩を返したうえに貰った物には封をしている。
演義のようにちゃっかり赤兎を持っていったり、関所の大将を斬ったりもしていない。
曹操は関羽の立派な人柄を評価したとはっきり書いてある。
確執のエピソードは関羽以外にもいくらでもある。
孫権と陸遜のように最悪の結末を迎えた例もあるが、
大体は両人とも私怨があっても職務上は協力をしあって美談になっていたりする。
巡り合わせの不運を感じざるをえない。
>>939 何で関羽だけだと思うの?
他のスレでは陸遜だって政治力が欠けてたと言われてるよ
このスレの話
関羽が責められるのは、その確執が致命的なことになったからでしょう。
天の邪鬼ってのはどこにでもいるもんだよ。
一生懸命長文書いてたら『その時歴史が動いた』が始まってた・・・
945 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 21:46:13
>>944 その長文はそのまま封印しときなさい
なんか嫌な予感がします
946 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 21:50:20
その時歴史が動いたっていつの何時カラやってるのぉ?
>>942にもあるけど
「士大夫には傲慢」「剛情で自信を持ちすぎ」
という評価を下された人物が、自分の死、そして領土の失陥の際に
敵将のへつらい、部下との確執が一因となっている以上評価が厳しいのは当然かと
孫権と陸遜とは領土の失陥もなく政争も関係しており
君主として非難されるのは当然としても、それまでの孫権の手腕全てを無駄にするまでは至らなかった
また、このエピソードは陸遜の政争の弱さも示しているが非難されるのは孫権の側
関羽も上に立つものとしてその資質を非難されるのであり
関羽個人としての人格を非難するものではない
まぁ国政なんてものは、人間にはどうしようもできない大きな力に左右されるものだからな。
いろんな幸運が重なって皇帝に上り詰めていった玄徳や孟徳より、
単純に一騎討ちが強くて子供には優しい関羽センセーの方が親しみも持てるよ。
軽んじられて恨みを持つなんてアホみたいじゃん。
大人なら働きで見返せばいいのに、逆に手を抜くなんてガキだろ。
大人だからガキっぽい事をやっても怒られないんだろぉオオオオオオ!!
「剛情で自信を持ちすぎ」 はともかく、「士大夫には傲慢」
はちょっとは割り引いて考えた方が良いかもしれない。
身分による差別が激しい時代で、劉巴の張飛に対する扱いを見るとね、
関羽も張飛と同じくそういう身分から外れた存在だから、
そういう士大夫との衝突は避けられないものだったと思う。
縻芳は、名家出身の自分が関羽より下の位だったのが気に入らなかったんだろ。
関羽・張飛は叩き上げの実力者で敵方からの評価はすこぶる高い。
しかしそれを良く思わない士大夫たち。
人間って嫌な生き物だね。
つまり長年孔明からの政敵排除工作をかわし続けてきた魏延の政治力最強ということで
魏延は戦闘の達人…達人は孔明によって守られてき(ry
>>951 現在の世界を考えたらたぶん割り引いて考えるべきだと思う
でもあの当時の社会では関羽の態度は傲慢以外の何ものでもなかったんだろう
それを考えると関羽は不運な人物だとも言えるし、時代の中にあって適応能力が欠けているとも言える
士大夫に敬意を払わない職業軍人は「傲慢」「偏狭」と言われるのさ。
関羽、魏延、王平・・・
>>957 王平や姜維や夏候覇は降将だから宦官との間に溝があったっぽいね
ブレーキ役の費イの死は痛かった
>>958 費禕はどうかねえ。
うまく立ち回っては適当にやってる感じで、蔣琬・董允のような生真面目さ、真摯さを感じない。
なんか狡猾なイメージが・・・
それに陳祗を贔屓し、董允亡き後、陳祗と結託した黄皓が勢力を伸ばすのも放置し、おまけに
郭循ごときに気を許して暗殺されるという無様な最後。
この程度の人間を諸葛亮が後継者として指名しないといけないのだから、蜀の人材不足も決定的だよなあ。
お前に言われるようじゃおしまいだな。
>>959 あー確かにそんなイメージかもしれん
黄皓にもあんまり疎まれてないし、実際うまく立ち回っててたんだろうね
でも孫権に才能を絶賛されてるし、内政官として彼なりに真面目にやってたと思うよ
ボケをかます劉禅にツッコミを入れれて、
熱血漫画の主人公よろしく暴走する姜維に正論で待ったをかけれる人材を失ったのは痛かったと思う
まあ、1、5〜2流だとは思うけど
962 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:41:52
実際最強なのはトウ芝伯苗。
険悪状態からの同盟復帰は神に等しい。
蜀における名声順だと五位以下はどうなるんだっけ?
1.諸葛亮
2.龐統
3.習禎
4.馬良
5.
6.
7.
8.
9.
10.
964 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:59:56
いや普通に劉備だろ
何の名声だ?
>>963 当時の名声(虚名含む)ということなら許靖かな?
順当なら射兄弟(射援、射堅)かも。
あるいは定番の法正または四相/四英の残り面子(蔣琬・費禕・董允)あたりか。
姚伷、陳祗、董和、劉巴も捨てがたい。
967 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 04:05:15
>>964 >>963は、正史や註、註に引かれる各史書における記述から断定・推測される蜀漢政権下の人士の
当時における名声(後世ではなく、ほぼ同時代)のことを指していると思われる。
君主の劉備は入らないでしょ。
1は当然だし、2〜4は季漢輔臣賛の註に書かれている。
「四相・四英」の呼び方からして、残りの三人は当確だと思う。
残り三議席を争うのが射援、射堅、法正、姚伷、陳祗、董和、劉巴・・・
に秦宓ぐらいか?
1.諸葛亮
2.龐統
3.習禎
4.馬良
5.蔣琬
6.費禕
7.董允
8.
9.
10.
969 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 04:13:53
射援は漢中王任命の上表からもいれていいんじゃないか?
頼恭も残り三議席候補。
でも法正、劉巴かなあ・・・
虚名を含む当時の蜀漢人士名声順
1.諸葛亮
2.龐統
3.習禎
4.馬良
5.蔣琬
6.費禕
7.董允
8.射援
9.劉巴
10.法正
次点:射堅、秦宓、姚伷、陳祗、董和、頼恭
じゃあこんな感じで、夜の暇つぶし終了。
法正は劉備政権において能力で認められた(劉璋時代は不遇)のだし、能力は示しても
品行は褒められたものではない、それに前政権に対する積極的裏切りの問題もあるので
「名声」では10位はムリだと思う。
10位には殷観、秦宓、陳祗のいずれかを推薦する。
許靖忘れてた
虚名を含む当時の蜀漢人士名声順
1.諸葛亮(臥龍、四相・四英)
2.龐統(鳳雛)
3.習禎(龐統に次ぎ馬良より上)
4.馬良(白眉)
5.蔣琬(四相・四英)
6.費禕(四相・四英)
7.董允(四相・四英)
8.許靖(虚名No.1有名人)
9.射援(皇甫崇の娘婿)
10.劉巴(名士劉君)
次点:射堅、秦宓、姚伷、陳祗、董和、頼恭
落選:法正
死体夫の名声ってうざいよな
士人の名声なんて現在に置き換えると
資本主義の広告みたいなもんだろ
弱小企業が宣伝さえなければ自分たちの商品の方が優れてるなんて言っても
全く意味がないのと一緒
うまく利用した人間だけが成功できる以上利用せねばなるまい
975 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 13:57:00
習禎はもっと下。
ホウトウに次ぐってのは襄陽ローカルの話だから。
>>975 「龐統〜馬良の間」という相対的な評価なのだから、ロケーションは関係ないでしょ。
どこへいようと、龐統が2位で馬良が4位なら習禎は3位ってことになる。
習禎を下げるなら、龐統と馬良も、あるいは馬良だけでも一緒に下げないといけないぞ
977 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 22:38:16
だからつまりホウトウと習禎のあいだ、習禎と馬良のあいだに
襄陽以外の人間が入ってくるってこと。
当時って何時?
馬謖の兄弟って五人いたようだけど
馬良の他に誰がいるんですか
馬超 馬休 馬鉄 馬玩
おいおい
982 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 22:59:09
983 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 23:22:30
次スレは?
985 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 03:12:51
向龍について詳しく教えてください
>>977 わかってないな。
>>976はオマエと全く同じこと言ってるよ。
「(龐統)(誰か)習禎下げる(誰か)馬良下げる」の例が間に名士が入った例だろ。
相対位置は変わらないし、間に入る人がいないのが問題なんだよ。
>>985 向朗の族弟。劉備が荊州を治めると私兵を率いて帰服し、中郎将となる。
益州入りに従って功有り、偏将軍に任命される。
張飛に従って宕渠で戦い、劉備か漢中王となると征虜将軍・漢嘉太守に昇進した。
東征に従い、諸軍が壊滅する中で唯一軍を全うする。
劉備が永安に帰ると護軍に抜擢され、永安を守備した。
諸葛亮が北伐すると、仮節・中領軍となって、成都防衛の任にあたった。
諸葛亮が没すると、衛将軍に昇進。引き続き近衛の諸軍を統率した。
越雋郡回復の命を受け、進軍途中に漢嘉で蛮族の軍と遭遇。
流れ矢に当たり、戦死した。
989 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 05:14:57
向龍といえば馬忠との酒飲み比べのエピソードが忘れられない。
馬忠っていい奴だよなあ。
991 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:08:40
ツギスレまだ?
992 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:10:31
ツギスレまだ?
993 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:31:44
1
994 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:32:24
0
995 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:33:31
0
996 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:34:07
0
997 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:35:12
ゲ
998 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:35:47
ト
999 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:37:02
ゲッツ!
1000 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:37:09
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1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
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の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
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人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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