1 :
無名武将@お腹せっぷく:
MOS信者って?
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 19:40:03
2ゲト!!
>>3 うわっ、キモイ。お前の顔ヤバイからさっさと首つって氏んでね!!
エムオーエス?
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 19:41:51
関羽のアイコラまだぁ?
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:33:03
一騎で敵の陣地に突っ込んで将軍の首獲って来るなんて凄すぎ
君には釣りの才能がある
>>前スレ968
>魏が恐れるどんな戦功があったのか、という疑問が残るんだが。
>関羽は蜀だから史書に残らなかったとして、
>魏が本当に恐れるなら魏や呉の史書に何らかの形で書かれていないとおかしくないか?
まず関羽が戦功をあげたと思われる時期を考えれば呉は関係ないだろう。
魏の史官にしても他の小勢力の動向を記録してなかったとしてもおかしくはないと思う。
インパクトのある武勇があったとしても歴史に与える影響が殆ど無ければ
わざわざ記録する必要は無い。
そもそも彼らの評価がどういったものなのかが良く分からないのだが
筑摩書房には一万人を相手にできると記されているが
これは一人で一万人と同等の力を持つ(大袈裟に言って)という意味なのか
一人でも一万人を相手に向かっていける勇気を持つという事なのか
それとも別の意味があるのか?原文を読める人はどう解釈しているの?
捏造というなら呂蒙の評価のほうがよっぽど怪しい
↑は呂蒙の関羽に対する評価ってことね
>>11 初,飛雄壯威猛,亞於關羽,魏謀臣程c等咸称羽、飛萬人之敵也。
>>11 >これは一人で一万人と同等の力を持つ(大袈裟に言って)という意味なのか
>一人でも一万人を相手に向かっていける勇気を持つという事なのか
だから、(誇張を含んだ)武勇の証明、という事だろ?
いい加減、数字に拘ってるやつは目を覚ましたほうがいいって?
食客三千、一騎当千、この手の数字が必ずしも事実と符合しないのは常識だろ。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 09:17:32
だからMOS信者ってなんだよ?
>>15 >>11は数字云々でなく、「力がある」or「勇気がある」どっち?と言いたいのでは。
でもまぁ、どっちでも同じだがなぁ。
程cは「関羽は強い」と言った。でいいじゃん。
だいたい人物の発言が捏造が否かなんて証明できないよ。
書いてある事をそのまま受けとめればいいじゃん。
関羽が嫌いな人が、認めたくないから、必死になって文句つけてるようにしか見えない。
捏造か否か考察の価値があるのは、地名や時期のような
物理的、時間的な矛盾が客観的に証明できる時だけでしょ。
>>17 悪いけどそれを言うならMOS反対派は関羽擁護のために、
捏造説だけを必死に否定しようとしているとしか思えない。
ここで、重要になるのはなんで無名状態で・直前に敗北して(勝利していないこと)いても、
関羽のあの評価が出てきたのかだと思うのだが?
それについての合理的な答えは、前スレ987の「評価が実質をともなっていない」くらいしか
出てきてないんだけど、関羽に実質のある評価がくだったという意見が聞きたいな。
>>18 『無名状態で・直前に敗北して(勝利していないこと)いても、
関羽のあの評価が出てきた』のだから、
関羽は負け戦にも関わらず、よぽどの力を発揮していたのでは、と考えるのが普通なのでは。
>>関羽に実質のある評価がくだったという意見
すべての戦、すべての勝敗、すべての武功が史書き記されているのワケではないのだし、
負けたからといって、必ずしも、敗将が弱将だとも言えない以上、
関羽に限らず、武功に沿った実質的な評価は難しい。
だからこそ、人物の発言は頼りに値する。
呂布だって負けまくってるけど、「人中の呂布」って言われてるじゃん。
勝敗の数は武将の強弱に比例しない以上、客観的な評価は難しい。
だからオレたちに出来るのは、史書にある人の言葉を頼りに
「人中の呂布」→呂布はすごく強かった、と想像すること。
馬超だって史書に記された武功は少ないけど、
異民族に畏怖されていたことから、強かったことが想像できる。
少なくとも、2ちゃんねら─のウンチクより、
呂布、関羽を生で見た人物の言葉の方が、よっぽど信頼できるがな。
>>18>>19 呂布には黒山族相手の、馬超には夏侯淵相手の武勇があり、事跡による裏付けのある評価である。
関羽の評価も白馬での武勇があり、程cらの評価も関羽個人の絶倫の武勇を
誇張的に評したとするなら名実ともに違和感のある物ではない
>>19 であるからして、君の言い分には賛同できない
武勇の根拠となる事跡が史書にあるのに、
>だからオレたちに出来るのは、史書にある人の言葉を頼りに
>「人中の呂布」→呂布はすごく強かった、と想像すること。
などという、あえて「実」を捨て去るような考察は無意味としか思えない。
また後世の視点から「歴史」の一部として人物を見ることにも意味があり、考察することにも意味がある。
であるため、当時の生の評価というだけで鵜呑みにする君の言い分は、全く評価できない
ついに喪巣信者が正体を表しました。
だからMOSって何?
一部の人間しかわからないこと言って楽しいのか?
>>20 しかし、そこまでいくと何も評価できなくなるよ・・・・。
客観的に考察、と言っても結局は個人の主観でしかない。
>>22 前スレの最後で出てきてだろ。
ちゃんとスレの流れを読まずに
教えてもらえないから
逆ギレというのはカッコ悪いぞ。
>>23 そうじゃない
>>19の考察そのものを否定する言い分に賛同できないだけ
「程cが評価したから関羽は強いだろうと想像できる」
「白馬での武勇があるから程cの関羽に対する評価も納得できる」
この二つを比べて君は、どちらに納得がいく?
>>20 そうだね、貴方のおっしゃることは正しい。
自分の文をもう一度読みなおして、おかしな部分にに気づきました。
>>19で一番言いたかったこと、及び
>>20の指摘で訂正するなれば、
事跡によってを評価裏付けることはできるが
事跡がないからといって、評価を覆す理由にはならない。
今までの流れから、必ず関羽の武功の少なさを挙げる人が出るだろうから、
関羽の武功が少ないからといって、程cの評価を否定する根拠にはならない。
と言いたかった。
ごめんなさい。逝ってきます。
979 :無名武将@お腹せっぷく :04/10/23 01:40:42
もすの論法で逝けばどんな事跡・評価も「虚構虚飾の類」にできると罠
980 :無名武将@お腹せっぷく :04/10/23 01:54:32
>>979 もすって何
これか?
で、もすって何?
自分は関羽の武功の少なさから関羽の評価に疑問を感じる人間の一人だが、
上に出た呂布の黒山族戦・馬超の夏侯淵戦と白馬の関羽ってそんな同列に語ることに疑問を感じる。
その論法を用いるなら夏侯淵を討ち取った黄忠ももっと高い評価を受けていてもおかしくないのでは?
確かに白馬の功績で関羽の名声が高まるのは自然なことだと思うが、
彼が将レベルでの功績を残していない以上その意見に納得がいかない部分が多い。
当時の評価が今評価することより真相に近いと考えるのは自然だが、
当時の情報の精度を考えるとその意見も少し疑問が残る。
>>20>>27 頭悪すぎてビックリ
俺の2ch歴数年で最上級かも
前スレよく読めば解るだろや?
>上に出た呂布の黒山族戦・馬超の夏侯淵戦と白馬の関羽ってそんな同列に語ることに疑問を感じる。
>その論法を用いるなら夏侯淵を討ち取った黄忠ももっと高い評価を受けていてもおかしくないのでは
史書において、同様に武功の少ない関羽・黄忠であるが、異なる点は
関羽=武功+程cの評価
黄忠=武功だけ
だからもし黄忠に
夏侯淵撃破 + 誰かの評価(例えば「黄忠は万人の敵なり」みたいな具体的な言葉)
があれば、黄忠の強さに信憑性が増すってことでしょ?
関羽は武功+他人の評価があるので
黄忠に比べてその強さに信憑性が高い。
いや単に魏が関羽を知っていて黄忠を知らなかっただけでは。
田舎の軍団のことなどそう把握できるものではないし。
劉備の名前は有名でも、配下で知られているのは関羽・張飛ぐらい。
黄忠なんか傘下に入ってまだ十年くらいだし、まったく無名。
魏側も「夏侯淵が劉備に討ち取られた」という認識だっただろう。
>>33 それもあるだろうが、黄忠の場合、漢中以後歴史に登場しないのが痛いのでは…
漢中以後に登場するなら敵将が、黄忠は夏侯淵将軍を破ったほどの勇将、
と語る記事が黄忠伝などにあっても不思議でないと思う。
むしろ黄忠は死後に、関羽らとともに諡号を与えられていることから、
蜀の人間からは、かなり評価されていると思う
他勢力からの評価はともかく、
劉備勢力にとってのNo.2だからこそ
関羽は荊州総督になったんじゃないの。
なんの実績も説得力もなく、
勢力の一翼を担えるものかね。
期待を裏切ったにせよ。
関羽を否定するにせよ、
どこに落としどころを付けるかはちゃんとしないとな。
「勇将だが演義や光栄厨の言うよな無双の将ではない」
これは同意。
「官渡の活躍も評価できない」なら不同意。
>>35 ちょっと誤解しているのでは?
今まで見てきた中で関羽の能力に疑問を持つ意見でも、
部隊長としての関羽の能力を否定する意見は全く出ていない。
関羽否定派と言われれる意見が官渡を軽視しているように見えるのは、
あれが部隊長としての活躍に留まるものだから。
この辺りの認識の違いが擁護派と否定派の意見が食い違う部分だと思うんだけど。
>>35 >他勢力からの評価はともかく、
多勢力からの評価された方が説得力あるんじゃないの?
例えば野球でもサッカーでも、同じチームの人間に誉められるより、
敵のチームの人に恐れられる(誉められる)方が説得力がある。
だから関羽の強さの裏付けは「程cの評価>蜀での地位」とオレは考える。
それにそういう書き方すると、蜀に人材が少なかったからと言い出す人が必ず出るから。
他は同意。
>>37 野球に例えれば
他勢力の評価=すごい選手
自勢力の評価=年俸を一番もらってる
信頼できるのは後者だと思うが?
擁護派と否定派という別け方はちょっとズレてるんじゃ?
否定派も別に関羽が嫌いなワケじゃないんだし(中には本当に嫌いなヤシもいるがw)。
>>38 そうか、昔の落合みたいに高い年俸もらっても、打てない選手いっぱいいるよ。
清原もそうなのかな?
自分、野球詳しくないので、ここまでに留めておきます。
それに三国志の話しだし。
まあ野球の話は止めたほうがよさそうだが、
落合は過去の実績があるし、そもそも年棒は
今までの成績で決められる。
新人で最多勝を取ったとしてもそれだけで
次の年から数億貰うわけじゃない。
地位とか、俸禄とかの場合もまた同様だろう。
>>39 もはや、擁護派と否定派じゃないかな
関羽は強かった(共通認識)
擁護
・曹操や他の士人の評価、顔良を破った実績があるだから関羽は強い
否定
・顔良の実績にしてもあくまで部隊長レベルの強さ、将としては勝ちがない将としての関羽の実力は怪しい
荊州の司令官には関羽があてられるのが当然(共通認識)
擁護
・関羽は実力があったからこそ取り立てられた
・奪われたのは恐れられて、曹仁・呂蒙に組まれたから仕方ない
否定
・劉備が士人を組み入れたのが遅かった、関羽でないと古参との関係からも不満がでる可能性があった
・士人を掌握できていない、兵站の備えが不十分、呉に対する認識が甘い、奪われて当然
全体的にこんな感じで意見が分かれてるから
>>40 実力無くても人気があれば、
チケットが売れるので年俸高いです。
この時代の名士にもそんな感じの人多いから。
結構三国志と関係無くも無い。
糞切れ悪くてスマソ
関羽は間違いなくプライドの高い武将だったろう。
そうでなくては演義で孫権を犬だと言ったなんて書かれないよなあ。
俺は擁護派というか蜀ヲタだが蜀の武将は性格が問題アリってのが多いと思う。
P.S 一騎当千とかいう漫画にはキレそうだ・・・
そうそう。擁護や否定じゃなくて、
単に蜀ヲタか呉ヲタかのどちらかなんだよな。
いや否定派には普通に魏ヲタも入っているだろう
関羽の攻めを守りきったから曹仁は評価された、とか素で言ってくる関羽厨にはかなり激怒してるだろう
っていうか、蜀ヲタじゃないのに関羽を高く評価してるヤツなんているの?
どこの陣営が好き、なんて考えのない俺には、魏オタだの蜀オタだのっていう
区分けがわからん。
主観ばかりが先行して、おかしな補正がかかった様な意見にはウンザリするだけ。
曹仁厨もいい加減ウザイな
MOS信者ウザイ。
よくそこに持っていくな。楽しいのかね。
>>48 正史好きなんで、一般より魏寄りだけど
関羽を高く評価してる、軍の最高指揮官じゃ無ければだけど。
関羽が荊州の司令官ではなく
劉備の懐刀として、主力軍の先鋒を務めれば黄忠以上に
別働隊を勤めれば張飛・趙雲以上に功績を残せたんじゃないかな?
一武将として、特に直接指揮される部将としては当代きっての勇将だった
故に一部将の位置に留まらせるわけに行かず合わない司令官職につかせる
事になり、結果がああだったんではないかと。
確かにあんな重席ではなく前線に出せばもっと活躍したとは思う
顔良を倒すくらいだから一部隊を率いればかなり強かっただろうね
ただ、基本的に物量で魏に劣っているから、知をもって戦った張飛に勝る戦功を立てるかは疑問が残るけど
どちらにせよ、もっと評価しやすかっただろうことには賛成
また出たな‥知をもって戦った張飛、とか言う
奇天烈斎‥奇を衒えばイイってモンじゃ無いぞ?
>>48 関羽程度の攻撃を防ぎ切ったところで曹仁は大したことないってことか。
それもかなり偏ってると思うが。
また呂蒙の評価も落ちると思うが、関羽を捕らえる以外の戦功で十分だと
いうことかな。
>>56 関羽が顔良を倒したことから関羽の戦術の巧みさを推測するのは難しい
気を衒ったようにみえても勝てばそれが正攻法
張飛はそれなりに戦術の巧みさをみてとれる結果を残している
結果が残った場合と、できるかもしれない場合を同一視したくないだけ
>>57 普通に考えて曹仁・呂蒙は関羽以前に十分の勲功を残しているというだけだろ
そこまで深読みする理由がわからない
さらに言えば呂蒙は荊州を奪ったとき、
相手に関係なく「戦わずして勝つ」を評価されていると思うんだが
やっぱり関羽相手じゃないと戦わずして勝っても駄目なのか?
>>58 いやまあ、正史を読んでも演義系諸作品を読んでも駄目な評価しかできない人物
相手だったら、誰がやっても勝ったんじゃないのってな評価を受けるかもしれない。
司令官としては不足ながらも、下々には好かれ評判は高かった関羽統治の地って事で
誰でもできる事ではないってな評価(別に一角の将なら関羽でなくてもいいが)になる
部分はあるんじゃない?
戦術戦闘で比べたら誰がどう考えても
荊州責任者≧漢中太守>>落選した最古参
へぇぇ……
>>59 士人の投降から見ると関羽の統治が好まれているとは
決して言い切れないと思うけど
むしろ士人があっさり投降するような状況じゃないのに戦わずして勝つようなことになれば
それこそ呂蒙の評価はもっと高くなってたんじゃない?
>>62 部下(配下の士人)に厳しく、顧客(民や雑兵)に親切ってのは
順調に行ってる限りいい上司だぞ。
頓挫した途端に裏切られる要素ではあるが。
結局関羽は、合わない仕事で失敗したからこそそこまで悪く言われるだけだろ
もし張飛と役割が逆なら、張飛がもっと酷い叩かれ方してたんじゃないかな?
他人がしっかりと描いた戦略構想・作戦計画の実施面じゃ関羽の方が上だった
かも知れないしな。
>>63 下っ端にいる者にとってはそれはいいだろうけど、関羽が敗れるより早く荊州は落ちていた
頓挫するより早く裏切られている以上、あの時代にふさわしいものではなかったと思うが
さらに士人に対する関羽の態度からは、
他人がしっかりと描いた戦略構想・作戦計画に従うことができない傲慢さを持っているのではないか
という懸念を抱くんだが
>>64 裏切ったという表現はどうかな?
麋芳や士仁にしても積極的に呉軍を引き入れたわけではないし、実際は抵抗するだけの兵力がなかったので無理せず降ったという感じだし。
(麋芳に関しては早くから呉軍と通じていたみたいな記述もあるようだが)
もっともだからといってこの件で司令官としての関羽の評価が上がるわけではないけどね。
麋芳や士仁は劉備(もしくは関羽)に対して大して忠義がなかっただけでは?
そう考えると裏切り者がほとんどいなかった呉の武将は素晴しい。
いや孫権が素晴らしいのか。
>>66 在郷の士人連合だから、領土を切り取られたんで無い限り裏切り難いんじゃねえの?
それ故に曹操が攻めてきた時には和平派が優勢だったみたいし。
在郷の勢力なら頭が孫権か曹操かの違いでしかいないからな。
裏切りは別として大した大義もないのに皇帝になって
ある程度国を存続させたのは素晴らしいかな
呉の地は若者によって開拓されたフロンティアだから、
中原の中年以上世代の儒教の呪縛から解放されてる。
司馬懿の挟撃策は、曹操では発想出来なかったとすら思う。
もしくは発言しにくいな。実行に踏み切ったのは凄い!
荊州失陥は思想や世代の差も、原因として結構ある。
関羽の考え方は古かった。
それに関羽には、有能な副将がいないな。本来だったら慎重で堅実な部下を
付けたら、ちょうど釣り合っていいのだがな。
人材不足もあるけど、関羽自身が同僚武将・将校との仲が良くないからな。
>>70 なんというか‥非難の仕様しか無い文章だな‥
まあまあ。呉ヲタが諸葛亮は卑怯だとか、蜀ヲタが呂蒙を卑怯だとかいうのと
同じでこういうのは流せ〜ジャ〜ゴポゴポ
呉が諸葛亮にやられたことってなんかあったっけ?
諸葛亮を卑怯呼ばわりする呉ヲタっている気がしないんだけど
世代論は正直言って大事
しょうもない‥
超の付く名著「曹操魏の武帝」に
そのうま無し
そのうま?
旨だろとマジレス
呂蒙のバーカ。糞。卑怯すぎんだよ。まさに第二次世界大戦のソ連だよ、てめーはヴォケ。
無理やりだなぁ…
しかし、呂蒙が病気になったからって軍が無くなったわけでもないのに守備をなくすなんて、
関羽は呂蒙を恐れるあまり判断を誤ったのだろうか?
>>83 呂蒙の後任陸遜が弱腰外交をしてみせたから、こいつは逆らわないと思ったんだろ?
陸遜・呂蒙を褒めるべきか、関羽を貶すべきかは個々の判断によるだろうけど。
蜀が勝ってる時はそれを支援して尻馬に乗るのは、呉にとって悪いプランでもないと
思うしなァ。
新たに切り取った分は蜀のもの、今回手伝ったんだから約束の2群は返還してねって
ラインも呉側には可能な外交路線だった思う。
10年20年じゃなく100年先を見るなら、魏の勝利に貢献するよりは蜀の勝利に
貢献した方が呉のためだったと思うけどなぁ。
>>84 いい加減この話も飽きてきたな
過去スレ1回でいいから読んできてくれ
それで納得いかなかったら新しい疑問点を提示してくれ
>>84 さんざん既出の議論。
当時の戦況では、呉が蜀に味方したところで魏に勝利する可能性は殆どなかった。
蜀は、
荊州の兵糧不足
関羽に対する支援なし
人間関係の不和
などの内憂を多く抱え
魏は、当時反乱が起こっていたけど規模は小く戦力でいえば、
于禁の軍
徐晃の軍
曹操の本軍
夏侯惇、張遼の東方の諸軍
など、蜀、呉を併せたより遙かに多大な数を動員でき盛強であった
10年や100年先も大事だけど、一日先や一ヶ月先を見通せなければ100年先など意味はない。
そうだがそれなら蜀を潰してしまえばよかったような気も。
わざわざ関羽の首曹操に送るなんてことしてまで蜀を恐れる意味が
分からん。呉は蜀など恐れるに足らんはず。
先に蜀に攻め込めば甘寧とかハンショウを失わずに勝てたと思うんだがな。
陸遜もいるわけだし。呉が蜀を手に入れれば魏も怖くなかったのにな。
まあそうすれば魏が後ろからせめてくるだろうが、実際それを乗り切ってるわけだし。
>>87 衣糧のあとで蜀を滅ぼす気配を見せただろ。
魏の軍事行動により果たせなかったが。
まあ呉はソ連みたいなもんかもな。
>>87 >蜀を潰してしまえば
ボタンを押せば潰れるかのような物言いですね。
曹操の荊州侵攻は
ボタンを押すように済んでしまったけどな
実際イリョウで呉は大勝したわけだ。それに呉なら蜀と違って人材が豊富だから
陸遜が蜀を倒し、他の誰か、まあ諸葛謹あたりが魏の侵攻に備えてれば蜀を併合
できたのでは?
>>92 蜀にだって後詰めの兵はいたしそんなに簡単でないよ。
防衛戦と侵攻戦は同列に語れん。
>>92 流石に無理でしょ。劉備だって戦場レベルではかなり強かった訳だし。
引き込んで戦略・作戦レベルで無力化したから大勝できたんで、どんなやり方でも
勝てるほど甘くはないはず。
特に蜀に攻め込むなら尚更難しい。
自分たちの補給線は伸び、蜀の補給線は短くなるわけだから。
攻守逆ならイリョウの大敗を呉がした可能性だって否定しきれないだろう。
ま、だからこそ陸遜は守りに徹して隙を伺ったんだろうけど。
呉の孫一門を根絶やしにせよ!!
ヨーロッパの勢力均衡論に似てるね
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 10:03:08
>>85-86 結局、MOS信者が一方的に勝利宣言しただけで有耶無耶になっただけ。
あんな糞議論をもう一回読み直しても何の意味もない。時間の無駄。
もともと両国では人口が違いすぎる。たとえ呉が人手不足に喘いでいたとはいえ
資料によれば蜀90万人に対し呉は230万人(無論、時期や荊州の扱いなどに誤差はある)
完全に戸籍を把握できてたとも思えないが人口比はおおまかにあってるだろう。
とすれば蜀が夷陵で負けたときはもはや風前の灯火と言ってよく
呉が益州へと侵攻すれば蜀などたちまちに瓦解したはずである。
ただ統治するのに時間がかかり、また蜀が滅べば魏と対決せねばならず
とても呉の首脳陣は魏に勝つような自信を持って無かったのだろう。
また魏が軍事行動を示唆させたのであればなおさらのこと
よってこれ以上の呉蜀の国力が損耗されるのを避け、鼎立の維持を考えるのは当然
決して蜀が頑強なために呉が侵攻しなかった訳ではない。
てゆーか呉は魏に降伏何回してるんだ?
呉がさっさと降伏してれば蜀だってあきらめただろうに。
大体荊州を取り返すぐらいのプライドがあるならなぜそれを
中国統一に向けなかったのか。そう、蜀に魏と戦わせておいて
両国の国力がぎりぎりまで落ちるのを待ち攻めれば呉の天下だ。
荊州にこだわらなければできたかもしれない。孫策が生きていれば
その方向だったろう。孫権は名手だが残念なことに中途半端であった。
>>97 mosなんて関係ない。
単純な戦力の比較と、彼我の状況の分析をするだけのこと。
mosとか言う前に、戦力や情勢を分析し関羽の勝利する可能性が高かったと証明したら如何です。
まあ無理でしょうけど…
>>99 魏と蜀が戦えば、蜀が寄り切られて負けるに決まっている。
そもそも国力が圧倒的に違う。
大体、荊州に拘らなければできたかもしれない、という根拠はなんなんだい?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 13:21:40
孫権は領土拡大はあまり戦略なかったんじゃない?
荊州だからね〜
臣下も反対派いただろうしな
統一を考えてなかったと言いたかったのなら同意
ただ、全く拡大しないで生き残れるはず無いのだから機会が来れば領土拡大を狙うのは当然
勝てば500万得られる、勝率は3割
と
勝てば100万得られる、勝率は9割
だったら後者を選ぶけどな、俺は。
まあ前者を選ぶ人がいてもそれはそれでいいと思うが。
呉は後者を選んだわけだけど、別に間違いではないだろう。
>>104 だな
実際は
勝てば1000万得られる、勝率1分
と
勝てば100万得られる、勝率9割9分
だった訳だけど
>>104 >>105 勝率の低いほうは関羽に協力して魏を攻めるって事だよね?
500、1000万というのはどういう利益の事を言ってるの?
関羽が襄陽落としたら南郡はまず返ってこないだろうし
ずれた突っ込みだけど
100マソと1000マソなのところが俺たちの可愛さかもw
一州か天下の可能性かを天秤に掛けるんだから
もうちょっと気前が良くても罰は当たらないよw
>>106 仰るとおりです
軽率でした
確かに、関羽が襄樊を手中にしたら
蜀の荊州での優位が確定する可能性が大いにあります
個人のスケールの方が想像し易いからだろう。
一生遊んで暮せる位 10億が1割の確率
10年遊んで暮せる位 1000万が9割9分の確率(但し10年後に利息付で請求がくる)
みたいな選択で、呉には括弧内があんまり認識されてなかったんじゃないかと
>>109 (但し10年後に利息付で請求がくる)
って、何のこと?
呉が利息を払ったとは思えないんだけど…
それに関羽の可能性なんて1割もあったとは考えられない
>>109 関羽に協力して得られる利益が何かということを聞きたかったわけです
呉蜀の同盟はそれぞれが天下統一する為に利害関係が一致したからでしょ?
蜀の勢力だけが大きくなれば呉は蜀に滅ぼされる可能性が大
呉の得になる事は情勢が不安定になってほんの少しだけ天下統一の
確率が上がるかもしれない位では?
つまり
関羽に協力 勝率1分で50万得られる
関羽を攻める 勝率9割で100万得られる
ではないのかという疑問です
どちらにせよ蜀に協力したところで魏を倒せる可能性は低いから
その議論は意味なし。
そして、万一魏を滅ぼせたとして、
その後の最大勢力は蜀。
魏が蜀ににかわるだけ
それは無いな、主導権を握れるのは、積極性の無い呉の方だから
当然に呉の方が見返りが大きい。
単純に進行路を比較しても
蜀は「漢中、荊州」の2方面から涼州、雍州、荊北に攻めることが可能で、
呉は「合肥」一方に限られている。
また守る魏からしても
呉に対しては合肥一点を堅守だけで足りるが、
蜀に対しては涼州、雍州、荊州という広範囲を守護せねばならない。
蜀と呉の比較なら、どう考えても蜀の方が有利と思うのだが。
正当性の無い呉に主導権を握ることは出来ない
鼎立時の呉の外交方針は非常に正しかった
>>116 コーエーのゲームでもやっとけアホ。
>>115 逆に広範囲から侵攻できるワケですが‥
それに、共同作戦なら切り取り次第じゃないだろうし
呉が本気で魏を攻めてても、合肥落ちなきゃ領土無しねとか言ったら
→やっぱ、やんぴ!と、なるに決まってる。
>>117 半年ROMったほうがいいんじゃないか。
悪いことは言わない。
>>117 いや、広範囲に攻めれるから逆もまた然りとはならないのよ。
呉と魏の場合、互いに合肥と濡須の一点の防衛だが、
蜀と魏の場合は別。
蜀は
>>115でも書いたように荊州(江陵)と漢中の二点より荊北と涼州、雍州に進行可能で、
魏にとって荊北は襄陽という「点」を維持すればよいが、
涼州と雍州は「面」として守備しなければならない。
一方、蜀が防衛する場合、漢中と江陵の二点を「点」として維持するればよい。
姜維の失敗は、この漢中の「点の防衛」を捨て兵力を分散したことにあると思う。
点の防衛と、面の防衛では、その負担が大きく違う。
国力に大きく劣る蜀と呉が、魏を相手に数十年維持できた理由の一つと言えると思う。
>>117 そうなりたくなかったから関羽を攻めたんだろ
すでにその妄想で主導権を蜀に握られてんじゃねーか
魏蜀が膠着したら蜀が呉に攻め込んでくるかもしれんし
そうなったら呉は地理的に圧倒的不利になる
孫権の人生の中でもこの決断はピカイチ
まぁ、あの時期の孫権のピカイチな決断が多数あったからこそ
晩年の最悪な決断があっても呉が維持できたんだからな
関羽を利用できなかったのが孫権の残念な点だな。
劉備はアホだから関羽返してくれるなら荊州放棄するくらいの勢いだろ。
結局、こいつらは魏の手のひらの上でうまく利用されてしまったのだろう。
まあロシュクが死んだ時点で関羽の命運は決まってたろうが。
やばい!!最期の一行の所為で釣りが釣りに見えない・・・掛かってしまいそうだ
>>122 >>劉備はアホだから関羽返してくれるなら荊州放棄するくらいの勢いだろ
んなわけない。というか劉備をアホとか義に厚いとか考えてるなら
それは大きな間違いだろ。
実は話題が止まるたびに釣ってるものですが釣るのは楽しいですね〜
いろんな意見が聞けるし、そういう見方もあったかという発見もあります。
真面目に考えてる方々には失礼ですがこれからも匿名で釣らせていただきます。
では、さっそくネタを。
あっ、もうないや。すいません。
123=125
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 19:41:38
可能性だとか確率だとか言い始めたらキリがないだろう?
それなら劉備の出自から蜀の皇帝になれるまでの可能性や確率、
孫策が呉の基盤を築く確率、曹操が袁紹を破る確率などなど、
後漢〜三国時代だけでも確率的に考えて可能性が低い事変があったわけで。
きりがないと言っても、
あそこまで地盤を築き上げたあとじゃ
冒険的投機に出られない気持ちはわかるな。>孫権
孫権の目的は
(あるいは孫権の意志はともかく、
江南の豪族の希望は)
天下統一政権の樹立じゃなく
独立勢力としての割拠なのだから。
>>127 まったくその通り。世の中確率通りにいかないことは多いよ。
劉備の夷陵での作戦も、諸葛亮の馬謖起用も、
少ないながらも成功する可能性があったことを考えると
まったく間違いではない。
>>127 あなたは何が言いたいんのしょうか
劉備や孫策の立身と、戦争での戦力、情勢の分析による勝算とを同列に語るなんて
それに曹操が袁紹に対する勝算があったことは、荀ケらの発言にも明らかであるし
他には赤壁で周瑜は、孫権に対して状況分析して勝算があることを明確に唱えているし、
孫権は国論を統一し、周瑜は程普と仲違いせぬように努めている。
翻って関羽はどうだろう。
魏と蜀、呉の戦略差は曹操と袁紹の比ではない。
また関羽は周瑜のように人間関係改善に努めただろうか。
状況を分析した上で北上しただろうか。
味方の諸城と連絡を取り合った上で北上しただろうか。
兵站を万全な状態に整えただろうか。
答えは明白ですな。
まして「戦略の議論」ならば分析による有利不利、可能不可能を無視するなんて有り得ない。
>>129 …
確率通りいかないと言いながら、確率通りになった例を出すなんて…
ネタですか…
>>127 それでも当時の人々はその可能性を下に動いていたわけで。
運の要素は否定しないがどんなに確率が低くみえてもそこでは
理由のある決断をしているはず。
>>130 あくまで確率や可能性の話だから実際に起こった事象を例に出しただけ。
しかし、あんたの考え方もおかしいよ。名士が「勝算がある」と言ったから
その通りの歴史になった、だなんて稚拙な結果論だよ。
情勢の分析と言えば聞こえはいいが、荀ケや周瑜の戦略は
必ず成功するとは限らない大きな賭けでもあったワケだし。
実際に曹操の場合も多くの離反者が出たし、呉でも大多数は非戦論者だった。
とにかく、俺の真意としてはそんな事が言いたかったんじゃなくて、
上の方でどうでもいいような確率の話が出てたから揶揄しただけなんだけどw
133 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 20:45:51
しかしよぉ、もともとこのスレはIFスレなんだぜ?
確率とか可能性だとか運命とか細木数子とかの話が出るのは仕方ない。
もとの話って確か、関羽をおだてて後ろから呉が支援するとかいう話だったかな?
>>132 貴方も勝算が「ある」と「ない」の違いが分かる訳ね
それに周瑜や荀ケが勝算あること述べた後、
曹操や周瑜は、その勝算を高めるために自己努力している。
単なる結果論とする方が間違っている。
関羽北上の不利と、曹操、周瑜の不利とは同一ではないのよ。
もし貴方が官渡や赤壁を分析した上で、関羽北上と同じだと仰るなら、
後学のため是非お説拝聴したいものですね。
それに必ず成功するとは限らないなんて言ってしまえば、あらゆる戦略が否定できる。
張良でも、劉基であってもね。
そして、それを関羽北上や劉備の夷陵に適用すれば、
「必ず敗北するとは限らない」という詭弁が成り立つわけですわ…
呉の戦略はともかく、孫権個人としては天下統一は狙っていたらしいぞ
で、現実と理想のギャップに苦しめられて晩年の狂乱ぶりへとつながる...
って、渡辺精一の本に書いてあった
>>130 関羽を比較に出すこと自体間違いだ。
すでに1度曹操に負けてること(下ヒ)を考えれば。
>>135 精一どんは演義厨的人間学なのでアウト
>>136 そんな釣り針じゃ、
じじいになっても釣れないよ
138 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 02:01:27
>>137 俺はきゃつの本を一つばかりしか知らんのだけど、どう演義厨的人間学なの?
>>134 >貴方も勝算が「ある」と「ない」の違いが分かる訳ね
ワロタ。オマエガナーといいたいよ俺は。
むしろ俺の言ってる事は逆だよ。読解力なさすぎ。
関羽北上の件に関しては何も言ってないし。
勝手に俺の発言を改竄するのはやめてほしい。
>それに必ず成功するとは限らないなんて言ってしまえば、あらゆる戦略が否定できる。
これには同意だけど、その後に
>張良でも、劉基であってもね。
とまた稚拙な結果論に拘るワケね。
俺は別に歴史を否定する為につまらん話をしてるワケじゃない。
とにかく読解力がないんじゃこれ以上話にならん。
煽りたいだけなら他の人とやりあってねw
>>139 >劉備の夷陵での作戦も、諸葛亮の馬謖起用も、
>少ないながらも成功する可能性があった
無いよ、100%無い。持つ能力の差を全く認識してない。
>名士が「勝算がある」と言ったからその通りの歴史になった、だなんて稚拙な結果論
‥‥‥
要因から結果を見通して、その通りになっただけの話。
貴方に、そのレベルの話は理解すら出来ないとは思うけどね。
オイオイ
>>139よ、みっともないぞ理屈で適わなくなると人格攻撃かw
それによ「関羽北上の件に関して」
何も言っていないと言ってるわけだが…自分の最初のカキコ
>>127を見てみろよ
>可能性だとか確率だとか言い始めたらキリがないだろう?
>それなら劉備の出自から蜀の皇帝になれるまでの可能性や確率、
>孫策が呉の基盤を築く確率、曹操が袁紹を破る確率などなど、
>後漢〜三国時代だけでも確率的に考えて可能性が低い事変があったわけで。
この文章の一行目の
>可能性だとか確率だとか言い始めたらキリがないだろう?
この「可能性」「確率」などは何に対して言ってるのだろうか?
>>127以前のカキコを見れば解るとおり、
このスレでの確率論は、すべて関羽北上と呂蒙の荊州攻略についてである。
当然、
>>127のカキコは関羽北上を対象にとっているわけだ。
また2行目の「それなら」という接続詞も「関羽北上」を対象にした接続詞である。
なるほど
>>139=127は「関羽北上」という言葉は用いてない。
しかし彼の言い分は、明らかに関羽北上を対象にとっているのは明白である。
>>139よ、他人に読解力などという前に、国語を勉強し直すといい。
それとも日本語は「国語」ではないのか?
関羽厨ってのは、こんな屁理屈ヤローばかりなのか?
脇からスマンが
数字ハンでもいいから、
誰の発言か分かるようにしてくれ
二人で言い争ってるようにも見えるし
数人が入れ替わり話してるようでもある
>>140 完全否定ですか。100%勝てる戦がこの世にあったものか。
そこまで否定する根拠が知りたい。
>>143 歴史を結果で語る人だからでしょう。
今から見たら結果でも当時は未来予測を元に動いているんで
>>143 100%なんてないだろうw意地悪したるなよ
>>140は、
>>139が「必ず成功するとは限らない」なんていうから
あえて100%と言い切ったんでねーの
>>144 あんた、そりゃ可笑しいんでないの
成功か失敗か分からない、だから結果を語ることは結果論とでもいうのかい
当事者のたてた公算や戦略を、あまりに無視した意見じゃないかい
大体、そんなこというなら夷陵での劉備の勝算や
馬謖起用の利点を
>>140に説明してやればいいんでない
>>143 スマン俺が間違ってたヨ!
夷陵でも、孫権が突然刺客に斃れれば勝てた‥
馬謖も、祁山から突然湧水が湧けば有利に戦えた‥
100%では無かった、99.9%に訂正。
>>146 馬謖については、山の上に布陣するなと言われてるのにするような生兵法の
使い手であった事が誤算なんだろ?
馬謖自信の勝算は0に等しくとも、馬謖がああでないまともな布陣を敷いて
戦う勝算が十分にあったから任せた訳だろ。
夷陵にしても、陸遜が上手く罠にかけず正面から戦ってれば劉備が勝ってた
んだろうし、司令官と各将の連携不和の情報からして、同時多面攻撃は無理
と言う判断で相互に支援する体勢を取ってた訳だろ。
かなり人為の差じゃないのかな?
官渡の戦いにしたって、袁紹サイドにまともな勝算が0だったとも思えないけどね。
ただ妥当な判断の上を行く何かを曹操サイドが持っていただけで。
>>147 うへぇ‥
そりゃぁ、夷陵でも街亭でも
相手の兵士全員が急に士気萎え萎えになれば勝てただろうさ。
それに馬謖も、サイコロ振って作戦決めてたワケじゃ無いと思うが‥
>>147 陸遜は三峡の出口に当たる夷陵に防衛ラインを引き、守備を固めて劉備の疲弊を待ったわけ
俗に言う不敗の態勢ってやつです。
また正面から戦っていれば劉備が勝っていたという根拠をお願い
長期間の遠征。伸びた補給線。敵地での戦闘。堅固な防衛戦。
どれ一つとっても敗因として十分ですがな
ついでに言うと、呂蒙の荊州侵攻は当時において戦闘力の大部分を占める兵力そのものを
荊州より遠ざけているので、こちらは必勝の形勢とでも呼ぶべき代物です。
荊州、夷陵を見るに呂蒙と陸遜のレベルの高さがよく分かる
>官渡の戦いにしたって、袁紹サイドにまともな勝算が0だったとも思えないけどね。
そりゃそうでしょ
勝算なんて敵味方にあるもの。それをたぐり寄せる方策が戦略なんでしょ
袁紹サイドと曹操サイド、どちらの戦略が妥当だったかは言わなくてもいいでしょ
間違えた‥
堅固な防衛戦じゃなく堅固な防衛線です
>>141 人格攻撃?それを最初から繰り広げてんのはおまえじゃないか?
あげくの果てには決め付けとレッテル貼りの応酬で勝手に勝利宣言か?
俺は関羽の件について語った憶えもないし、関羽厨でもない。
>>141の全文が無理矢理こじつけの屁理屈だよ。
お前はヴァカだから気付かない様だが、人の事を言う前に
自分がそれに当て嵌まらないかちゃんと確認した方が恥をかかずに済むぞ。
お前の言ってる事はすべてにおいて「オマエガナー」という言葉に終始するw
>>151よ
ちょっとまて
>>141の言い分は文法上正しいわけだが‥
お前はそれに対して何の反論もない訳か?
141がこじつけなら、お前は何に対して
『可能性だとか確率だとか言い始めたらキリがないだろう?』
この一文を書き込んだんだ
そして『それなら』という接続は何に対してなんだ
(通常、それならとは相手の言動に対する接続として用いるわけだ)
(用例・ご飯を食べるといった相手に‥それなら僕もご一緒しよう)
このスレの確率とか可能性云々はスレタイにある『関羽討伐について』なんだぞ
後、141が最初から繰り広げたという人格攻撃とは何のことだ
少なくとも
>>141以前には見あたらないわけだが‥
お前ら意識的に避けてるのかもしれんが
関羽が于禁を降伏させる確率はどれくらい?
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 21:15:26
お前らケンカすんならチャンと番号名乗れよヴォケが!
どっちにしてもクダラネーどうでもいいケンカだけどよ
>>155 それは分かってるけど、関羽と于禁の行動を色々妄想して
それなりの想定をするの?ってこと。
同じ状況なら、もう一度関羽が于禁を降伏させるだけだし。
>>152=>141
もうバカな屁理屈に拘るのはやめたら?
意味のない確率論を議論した所で仕方ないだろ?って話だ。
関羽の北上も糞も関係ない。歴史板で確立の話してる馬鹿が目についたから揶揄しただけ。
上でその件について書いた。ifスレと知らずに言い掛かりつけた件は確かに俺に否があるな。
だがお前も俺に矛盾を指摘されてこじつけの言い掛かりつけてるだけなんだよ。
こんな無意味な事でまだ言い争いたいか?それともお決まりの勝利宣言でもするか?
あとはお前の好きにしな。暇人め。
最後にもう一言。
決め付けで話を進めたりレッテル貼りで相手を言い負かした気分に浸るクセはやめた方がいい。
( )
ノ( * )ヽ
ノωヽ\ プップッ
\●
\\ ベシッ
●(´・ω・`)
(∩ ∩)
.
.
(・ω・` )
● ● (∩ ∩)
.
(・ω・` )
● ●ノ (∩ ∩)
.
(●ω・` )
●ノ (∩ ∩)
.
(●ω● )
(∩ ∩)
♪
♪
ヽ(●ω●)ノ オヒ-ル ヤスミハ
( へ) ウキウキ
く ウォッチン♪
>>157 上のほうで確率を語っている人達がいたので聞いてみたかっただけ。
かなり低い確率だと思ったので。
まあ確率論はこの辺でやめたほうがよさそうだが
もし于禁が水没しなかったらどうなってたかは興味ある。
それなら興味深いね、考える事色々で、難しいor無理な気もする
そうそう簡単には書けない様な。
まとめ。
関羽は頑張りました。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 02:15:52
>>161 于禁の水没は関羽の予測の範囲内だったと思うな
荊州に10年くらい居たんだし、ある程度の天気の予測はついたんでは?
水没してすぐ軍船で攻め寄せたのはタイミングが良すぎる
予想の範囲だったか、水攻めの計略(わざと雨量の多い時期に水溜めて堰を切る)をつかったか知らないが
于禁の不運、関羽の幸運が全部じゃないだろうな。
多分に希望的観測に基づくにせよ、関羽も勝算をもって北へ攻めてたんだろうし。
勝算か。援軍がくるということを考えていたならあっただろうな。
蜀だって呉の動きは分かってたんだから援軍を差し向けるべきだった。
劉封・孟達が見捨てたなんてことになってるが蜀自体が関羽を見捨てた
といってもよいのでは?
>>168 関羽の希望的観測の中では、呉が一緒に魏へ攻撃するという事を想定していた
可能性は無いかな?
それまでのきっちりとした対魏呉への防備に比して、あまりにあっけない展開だし
関羽なりに呉が攻めてこないという、呂蒙の退陣と陸遜の一見弱腰に見える対応以外
の理由もあったんじゃないの?
例えば、陸遜が関羽の性格をよく理解した上でおだて、呉も協力するから先頭に立って
魏へ攻めてくださいとか言って約定を交わしていたとかね。
政治・外交が駄目なのはともかく、ただ自分だけで勝てると思い魏に攻めて、苦戦したから
後になって援軍を求めるって展開は、あまりに関羽が間抜けになりすぎる。
関羽の性格的欠陥や外交的な失点は認めつつ、荊州を任せるにたる人間だと規定するならば
呉の援助と言う密約があったとする方が無理が無いんで無いだろうか?
>>169 魏とイイ勝負出来ると思って、それ以上考えなかったと思う
仕事はできるけど、一段上の視点から〜って発想が無い人っぽいから。
>>169 密約ねぇ・・・
仮にあったとして陸遜の管轄側から支援なんて、
自国の利益にならないような密約をもちかける相手を信じる方がよっぽど間抜けでは?
さらに管轄外である徐州方向から攻めるんだったら陸遜に交渉する権利はないし
ちょっと無理があるかも
>>86にも書かれてるけど
荊州の兵糧不足
関羽に対する支援なし
人間関係の不和
この辺がイタイよね。
自軍の体制が整っているのなら擁護しようもあるんだけど、
そもそも呉の兵糧を略奪するなんて、
「荊州はただ今、兵糧に困窮しております。攻める絶好の機会ですよ」
って、内外に宣伝してるようなものだもの。
>>172 兵糧の不足は七軍の降伏によるものじゃなかったっけ?
前線で一時的に困窮したのだと思うんだけど
>>173 そうです。兵糧が困窮したのは于禁の軍を虜としたためです。
しかし呉主伝に、于禁等歩騎三万を虜とし江陵に送ったとあり、
呂蒙伝に、関羽が于禁等人馬数万を禽したため兵糧に乏しくなった。
そのため湘関の米を奪ったとあります。
江陵に護送したのなら前線の兵糧ではなく、江陵の兵糧が乏しくなったと考えられます。
この後すぐ呉は軍を動かしており、これが閏十月の事で、
(多分、刈り入れ時である)七月からたった四〜五ヶ月で江陵の兵糧が乏しくなったことになり、
元々、荊州の兵糧が少なかったと推測できます。
(樊城のような一城と違い、江陵は物資集積地ですから兵糧が窮乏するには早すぎる)
これは私見ですが、前々年に劉備が漢中攻略の動かしており、
この戦役が一年半の長期戦でしたから、荊州からも兵糧を支援していたのではと考えています。
そのため備蓄兵糧が少なくなったのではないでしょうか。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 22:34:05
降兵を想定しての兵糧備蓄をしていなかっただけだと思う。
官渡の曹操みたいな非情に7・8万生き埋めにすれば解決
したんだろうけど。
>>175 ええ、捕虜を殺せば多少はましになると思います。
ただ于禁降服が八月で呉軍侵攻が閏十月ですので、三〜四ヶ月。
三万増えただけで、たった三〜四ヶ月で困窮するほど兵糧が少なかったわけです。
たとえ降兵がなくとも次の秋まで、八ヶ月以上もあるのです。
少なくとも荊州には、長期的な軍事行動を維持できる兵糧はなかったと思われます。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 23:16:49
呉の兵糧を略奪したのは、犯罪行為だと思う?
>>174 なるほど。たしかに呉蜀の国境近くで兵糧の略奪を行ったんだから
前線ではなく江陵の兵糧と考えるのが普通だね。
てことは動いたのも江陵の兵なんだろうか?
しかしどうしても納得いかないのはなぜ関羽がそんな状態で北上したのか
樊を落としても兵糧は無いんだからもうアホとしか思えない。
>>177 貴方が略奪と答えを書いている。
実際犯罪かどうかなんてのは問題ではなく呉に攻め入る口実を与えた事と
>>172さんが書いているように困窮している内情を自ら暴露した事が重要だと思う。
二国間がうまくいっていれば大した問題にはならないと思うが呉にとっては好機。
関羽は陸遜の計略等によって呉の思惑を考えずに動いていたのではないか。
まあ関羽が略奪をしなくても呉は何らかの理由をつけて攻めたと思う。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 00:46:16
曹操が袁紹軍の兵糧を焼討したことと、関羽が呉の兵糧を略奪したことは
全く意味が違うわけだね?
>>179 戦ってる相手の生命線と少なくとも同盟相手である相手の一食料庫だしな。
そもそも焼討は相手を追い詰めるためにやってるのだが、
略奪はこっちが切羽詰ってるからやってるわけで。
関羽はほんとバカだな〜そして孫権も孫権だし〜そして復讐しようとした劉備
がほんとにバカ。イリョウの戦いは三国志の中で一番最悪な戦いだ。個人的に
馬良、甘寧の戦死が悔やまれる。この3馬鹿をどうにかしてくれや。
すれ違いだけどね〜
184 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 10:48:54
劉備、関羽、張飛、孔明、孫権、呂蒙、陸遜
この7人が戦犯みたいなものだよ
甘寧は武勇・戦略眼揃って良い武将だけど、呉にとって代わりの効かないものではなかったからなぁ
やっぱり馬良が一番痛いだろう、これがその後の諸葛亮の人事の失敗に響いてそうだし
ただ、もし史実どおり劉備が死んでしまうと関羽は蜀にとって内部分裂などのきっかけになりそうだし・・・
諸葛亮自信にとっては荊州失陥で関羽が死んでプラス、夷陵で馬良が死んでマイナス
結局損したのは劉・関・張の三馬鹿だけだな
せっかくあそこまで上り詰めて乱世を見事に生きたのに
関羽の失敗を皮切りに無惨な最期を迎える・・・
演義があれほどの名作になったのは荊州失陥のおかげかもな
>>184 法正も加えよう
そして東征を諌めきれなかった趙雲・秦フクも加えよう
187 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 13:46:35
>>186 >そして東征を諌めきれなかった趙雲・秦フクも加えよう
そこまで加えるなら、荊州侵攻を諌めきれなかった張昭も加えることになるの?
>>186 法正を入れるなら、魯粛も入れないと不公平だよ
>>186 むちゃくちゃ言いますね。んじゃ呉も諸葛謹とかも戦犯だぞ。
きっかけを作ったのは関羽で、それに乗ったのが孫権。仕返ししたのが劉備。
こいつらだけで十分じゃ。陸遜はこいつらのやったことの尻拭いしてるんだぞ。
>>187 あと関羽の処刑を止められなかったってことも入るね。
つまりキリがね〜。
演義
>>187 ゴメン、無知なんで教えてくれるか。
張昭って関羽討伐を諫止したの?
全員戦犯
戦犯じゃないのは虞翻だけ
やはりみなさんも夷陵の戦いは無駄な戦いだと思ってるのか。
>>196 残念でした。自作自演ではありません。
口の聞き方に気をつけるべきですね。
それにあなたも何か意見を言ったらどうですか?
>>197 自作自演じゃないも何も、
あなたの意見に賛成しているものなんて誰もいないようだが、
何で皆さんもなんだ?
だいたい一連の抗争は呉にとっては荊州領有という大きな意味があったし、
夷陵だけを見ても魏にとっては都合の良い戦いで意味はあったぞ。
まぁ、蜀にとっては無駄というより単なる害悪としかならなかったのは確かだろうね
呉は荊州の確保と陸遜の権力強化があって益になったし
魏は都合良かったのかな、あんまり切羽詰まってる訳でないし
あれがなくても国力差は増えていく一方だった気はするけど
蜀の自滅はよかっただろうね
>>199 そりゃあ大抵の戦いは負けたら無駄になるよ。
荊州の領有は蜀にとって当初の計画では必須だから、
その奪還を狙うのは当然。
結果的に負けたから無駄になっただけ。
私は夷陵自体は、無謀と言うか妥当でなかったと思いますよ。
ただ無謀と必要不可欠とは全く意味が違いますから‥
蜀にとって荊州が必要であるという
>>200さんの意見は納得できます。
しかし呉に隙があったわけではなく、しかも蜀の方が国力に劣ってますから、
妥当な戦とは流石に言えないと思います。
関羽と張飛の敵討ちを終えた時点で撤退すればよかったのだ。
まあ演義ではその時点で甘寧は死んでしまったが、白眉は生き残ってたからな。
実際は最後まで敵討ちを果たせずに終わったわけだが。
呂蒙だけは関羽が呪い殺したと考えれてあげればおk
呂蒙は関羽なんかに殺されるほど馬鹿じゃないんだがな
すいません、本気です。
正気ですか?
呂蒙には武勇もあるからね
無意味な仮定だけど野戦で普通に激突しても、関羽に勝ち目はないかもしれん
ここでの問題は「殺す殺されるの基準は馬鹿かどうか」だろう
いや、「人は人を呪い殺せるかどうか」だろう
まあ全てにおいて呂蒙>>>>>カンヌだからな
そんな腐った餌はいりませんって
>>211 それもまた極端ですな。
とにかく中国人は関羽を神とあがめている(日本もか?)。
だから呪い殺したなんてことにしたんだろうけど。
それにしたって孫権や陸遜が呪い殺されなかったことに関して
中国人はどう考えていたんだろうな〜呂蒙だけみじめじゃのう。
196=215か?蛆虫って言うのはやめろよ。
蛆虫め!
蛆を見たことのある香具師、手を挙げぃ! 漏れは無い。
いちいち不等号使うな馬鹿
戦ってのは、そのときどきの背景(政治的・土地・時間)なんかによって状況が違うんだ
一度や二度の戦いで武将の優劣なんてわかるわけないだろ
まぁ関羽の場合は弱点突かれまくっての敗北だから、呂蒙の作戦の見事さは大いに認める
でもだからといって純粋な能力において、どちらが上かなんて俺には判断できん
>>219 純粋な能力って何だ
純粋でない能力と何が違うんだ
そもそも能力とは何かを定義できるのか
お前が神でないとしたら
ゲームのやり過ぎだ
>>219 普通、どっちが上か・勝つかという判断はできないけど
関羽の功績と呂蒙の功績を比較すると
関羽は部隊長としての大活躍がちょっと
呂蒙は部隊長としての多くの活躍、将としての多くの活躍がある
全て呂蒙が勝っているなんてありえないけど、
関羽が呂蒙に勝つことが難しそうなことくらいは推測できる
>>221 その分析からすると関羽に勝機があるとしたら
何らかのお膳立てでお互い少数(精々3000)の兵同士で正面衝突するシチュエーションかな?
20000対20000でも、だだっ広い平原でガチコ〜ンなら関羽が勝つだろ。
そんな状況に、阿蒙たんは絶対しないけどね‥
>>223 >20000対20000でも、だだっ広い平原でガチコ〜ンなら関羽が勝つだろ。
根拠は?
>>224 勝つとは言えない根拠を出したら、勝つ根拠を出すよ。
>>225 勝負事は何が起るか分からないから。
あと関羽が戦に勝ったことがないから。
それこそ少数なら、
白馬の再来で陣を突破し呂蒙を殺すという僅かな可能性があるけど
2万規模の大軍なら部隊長レベルの戦術じゃ厳しいだろ
将レベルで活躍していない関羽はやっぱり不利
そうか呂蒙の方は低地になっていて長雨が降るんだなきっと
呂蒙の戦功は曹仁軍のなかに孤立した甘寧を助け出したことなんかがあり、
関羽は顔良、文醜を倒したなんかが戦功だな。第一横山三国志では関羽は
呂蒙に捕らえられるまで不覚がなかったなんて書かれてる。じゃあ魏に降伏
したのは不覚ではないのか?唯一関羽を斬った武将呂蒙って言い方もおかしい。
曹操に負けてるじゃないか。はっきり言って関羽はそこで死んでても
おかしくなかったわけだし。論点すり替えてすまぬ。
>>228 悪いけどここは正史準拠なんですよ。
多分貴方が知っている三国志は演義かそれに類するものと思われます。
よってスレ違いです。
っていうか
>>223=225ですか?
>>230 なんのソース?
訊ねてばかりいないで自分でも根拠示したら?
>>230 勝負事は何が起るか分からないから。
あと関羽が戦に勝ったことがないとは初耳。
>>232 逆に関羽が勝った戦とはどれなのか聞きたい。
言い方が悪かったが軍を動かして勝ったという意味。
顔良のはあくまで曹操軍の一武将としての勝利で
関羽軍が顔良軍を破った訳ではない(関羽も勝因だと思うが)。
他に何かあったっけ?
納得できないなら上の理由だけでも良いから根拠示してくれ。
要するに関羽は武勇はあるが軍を率いるのは駄目だ、と言いたいんでしょ?
一武将としては活躍してるが総大将として完璧に勝っている戦はないからね。
ところで関羽と呂布って同じような運命をたどってるね。
孫権?三国志の脇役の呉って国の君主だっけ?
てゆーか野心とか、志が無いならさっさと魏に降伏すればよかったんだよ。
中国の平和を乱していた魏も蜀も困ったチャンだが呉は最高のアホだね。
実は呂蒙の20000は全員、女子供だったっていうオチでいいか
>>233 対干禁戦と顔良戦かな
大軍を率いても充分に有能だと思うが
>大軍を率いても充分に有能だと思うが
そんな根拠何処にある
>>238 >そんな根拠何処にある
知るかw
というのは半ば本気だが‥1段目に書いてあるじゃないか、よく読め。
顔良戦での関羽は部隊長です。雑号将軍に惑わされないように
また、干禁戦も非常に評価が難しい
相手の自滅が勝利の一番の要因であるのは確かだし
この後投降した軍によって兵站を切らす辺り大軍を率いる能力がないことの証拠と見られてもおかしくない
対干禁戦と顔良戦
対干禁戦と顔良戦
対干禁戦と顔良戦
対干禁戦と顔良戦
対干禁戦と顔良戦
どうやったらこれで大軍を率いて有能と言えるのでしょうか
>この後投降した軍によって兵站を切らす辺り大軍を率いる能力がないことの証拠と見られてもおかしくない
確かにこれは大きな失点だな。自軍の補給能力を全く把握していないのだから。
>>237 対于禁は関羽の襄陽攻めの一場面でしかない。
あの戦での関羽の勝利とは、襄陽を落とすこと。
しかも内容は于禁の自爆。関羽の能力ではない。
>大軍を率いても充分に有能だと思うが
李通に破られ、曹仁を逃し。
甘寧に阻まれ、荊州三郡を明け渡し。
徐晃に負け、呂蒙に南郡を奪わた。
これで有能というのは無理があると思う。
あえて擁護するなら相手が強かったという事かな。
納得いかなかったら
>勝負事は何が起るか分からないから
この根拠だけで良いからとりあえず2万対2万のそちらの根拠を示してくれ。
>>242 戦闘能力とは別でしょ、干禁を捕らえたのは事実
まあ司令官としては全く有能とは思わないが。
>>241 >対干禁戦と顔良戦
>対干禁戦と顔良戦
>対干禁戦と顔良戦
>対干禁戦と顔良戦
>対干禁戦と顔良戦
大軍を率いたのは、この時以外にあったっけ?
ああ、スマソ
あなたが
>>223でないならスルーしてください
呂蒙も優秀だからなぁ‥
平原で、ガチコ〜ンw でも、ほぼ五分五分だと思うな(少し優位?)
それに、そもそも五分の状況で戦えないと思うし。
「 l.i‐┐
___r‐i_='└┘
. l l _
└―┐ r‐ニ' -‐ , )
,....,.._./'7 l l ヽ_ヽ ,..、,.r' /
_ !__! l `' .ニ ,-i´ヽ ヽ '´_,.........._
┌‐┘ .`ーi ̄ l ̄  ̄ ̄! / i´、ヽ l___lr',iv'ヽ,r、r 、ヽ
.. l_ _」 └┐ r‐ r l ヽ--‐ヽヽ__Y__,.r! ( 。rイ ヽ ヽr'ヽ
/`ヽ! .l r―、 .!__l /__!i.__,. -‐ `ヾ-i' `r r''⌒゚t' ,、'」、
`ー' .l.__」 ヽ-' r ./ヽ l ` T ´ _,.ィ´ヽ! .!ヽ ←呂蒙
r-i__ l l ,! ヽ.(__,..、 t'´l l ,.ノ ノ .ソヽ
. l ̄ ! j、__, ! ! ! ,、.ヽ ヽ=ニ二二-'_,. -' ヽ
`i. ┌ ┐ l < ,.i' ! ! .l ,.-' 7く ! ` ー‐ ' ´ .,r' .i
l l l .! .j、__ '´ ` l l l jrヽ! ,! / !
. └ ┘└┘ -ニ r'´ 、 \.! !. ! l , / / ヽ、 / .!_
レ'ヽl ` ー、 l _ ' ! / ヽ.'´ l. `i
(´ヽ r‐、 ,.r'二_ 関羽`ヽ l__,、/ ./ l、/
、,,_ (´`ヽ ヾ ! l/_ヽ,r`‐-、 Y_ /ー--------r
-`゛ "'' (⌒Y ' j、_. j. /!,! lヾ l、 ヽ r '´ /
. (二__,.、 !rゝ(` ヽ ノ 、! ,! l 7 _,ノ ,..._
、ヽrl,r,_ ⊂= ` ヽ_ヽー'' `´! )ヽ 'i. Y/ .! ィ ´ .`i- 、 ..__/ _. `ヽ、
゛ ゛ ,... , - ( ヽゝ、__,..ニ-t' ´ ヽ l____j、 ! / ヽ ヽ
. '- ´ ,.r ,.r‐‐' `´ _j_,.. -‐r 'ヽ __)‐'´ !--‐ ' ー― '''` く ,!
, (./ `,r ',r , ノ ̄ ヾニー-- ニ '´ 、_、/r,,_
250 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 22:04:26
またMOS信者が暴れてるなw
于禁戦。
関羽が軍船持ってたことから、関羽は天候を読んでいた。
さらには于禁の水没も計算済み、と俺は思うのだが。
関羽は江南平定に大功をたてて、盪寇将軍になったんだろ?
あと、劉曄伝で、魏の臣下たちも関羽のことを名将だと言ってなかったっけ?
将軍級として「無能」も言い過ぎだ罠
極論対極論で面白くねえな
254 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 22:11:27
関羽が万人に認められていた名将なのは今更言うまでもないだろ
>>244 > >対干禁戦と顔良戦
> 大軍を率いたのは、この時以外にあったっけ?
顔良戦については、張遼とともに先鋒(関羽伝)
曹操が顔良と戦い、斬り殺した(袁紹伝)などの記述から
関羽が大軍を率いたとは考えにくいと思います。
確かに関羽は万人にその名を知られた将軍だ。異論はない。
>>255 そだね、なんとなく一緒に書いただけだから忘れて下さい。
名将でも、内実つまるところの能力はまた別。
>20000対20000でも、だだっ広い平原でガチコ〜ンなら関羽が勝つだろ。
ゲームのやりすぎもほどほどにしてほしい意見だ。
机上の論理で戦争ができると思ってるのか痛いにもほどがある。
大軍を率いた場合でないと戦勝記録に残らないんですか?
もしそうならその大戦という基準は何によって決められるんですか?
むしろ少数で顔良を討ち取ったのが凄いところ
261 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 22:19:34
関羽って誰?
>>220 >>お前が神でないとしたら
嫌味な言い方だな
スポーツの試合にしたって、作戦をたてて相手の本当の実力を出させずに勝つ戦い方がある
常に勝者の能力が上回っているとは限らないだろうが
まぁ関羽が呂蒙より優れているとは俺も思わんけどな
あと俺はゲームはやってない
二万同士の仮定はたしかに笑止だけど
>机上の空論
ここは机上の空論で戯れる場所だろう。
それとも戦場経験でもあるヤツでも混じってるのか?
鼻につく言い方するもんだな
>>258 レベルの低い煽りか‥さもなくばアフォ。
>机上の論理で戦争ができると思ってるのか痛いにもほどがある。
これは無いだろw
266 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 22:25:48
その時代に生きた人々が認めている武将を
文字から得られる僅かな情報で違う評価を下してもなんだかなぁて感じ
とりあえず258は除外して話を進めよう。
>>266 納得。
まして周瑜や魯粛と比される呂蒙相手に、
格下の関羽を比較するなんて無謀もいいところだよね
>>251 襄陽があるから関羽が水軍を率いていたのは当然とも思える。
むしろ于禁がなぜ船を持っていなかったのか疑問。
また天候を読むということは、おそらく関羽には不可能。
荊州組の誰かから助言を受けた可能性はあるけど
基本的に人間関係うまくいってないし、
それだけの人材なら名前が残ってもおかしくないと思う。
なによりもそんなに計算高い関羽が漏れの中でイメージできない。
>>259 20000対20000から大軍という話に繋がったので
評価は変わるだろうが戦勝は戦勝だと思う。
>>260 確かに凄い。
関羽がすげえ司令官で無いことは規定事実として
仮に並程度の判断力を持っていたとしよう。
その際に、数万の捕虜を得た瞬間兵糧が不足するような状態で
城攻めをするってのはかなり不自然じゃないかと思うんだが?
並司令官で外交ベタな関羽が、兵糧が不足しそうな状況で攻勢にでた影には
陸遜・呂蒙によって仕組まれた外交上の計略の罠があったんじゃないかと。
呉が後方から支援して兵糧も送るから、先鋒として攻撃してくれと、そう
してくれたらその間に合肥を落とすなり、何なりで呉の方も魏を攻略して
魏が弱まり、呉蜀共に栄えて万々歳とか。
都合のいい話をされて真に受けちまったとかいうのはどうだろう?
これは真実だと仮定した場合、作戦行動としては大きく破綻して無いだろう。
信じる外交センスは致命傷だが。
関羽をあまり無能にするより、上手に嵌めた陸遜・呂蒙を褒める方が建設的な
考えだと思うけどな。
>>270 関羽は目茶目茶、呉を警戒していたんですが
兵を前線に送るのは攻勢に出て陸遜の計略発動した後ね
>>また天候を読むということは、おそらく関羽には不可能
イメージという割りにはほぼ断定口調ですな
雨が降ったとき、何故関羽は無事で于禁は水没したんだ?
于禁が来援する前から既に龐悳と野戦を演じていたんだ
関羽が徐々に魏軍を水の流れやすい場所に引き込んでいった可能性もあるだろうに
とりあえず266も除外して話を進めよう。
>>271 支援の話が出てたけど信用せず警戒はしていたが、その後の対応から信用できると考えた
とかそういう風に考えると自然だと思うけどな。
>>270 養子縁組を叩きつけた相手を頼りにするなんざ、本当の馬鹿のすることだと思うんだが
>>275 馬鹿で有能な人間かもしれんぞ、バカだけど。
MOS信者はどうあっても関羽を貶めたいだけだから
何言ってもしょうがない。
なるほど。
で、MOSって何?
>>272 > >>また天候を読むということは、おそらく関羽には不可能
> イメージという割りにはほぼ断定口調ですな
関羽が襄陽周辺の天候を知るには劉表の下にいた時くらい。
それで天候が読めるとすれば元劉表臣下を多数抱える曹操陣営が
読めない筈がない。つまり誰にも予測できない氾濫だったと考える。
> 雨が降ったとき、何故関羽は無事で于禁は水没したんだ?
これについては
>>269に書いてあるとおり分からない。
ただご存知のように龐悳も水没していない。
> 于禁が来援する前から既に龐悳と野戦を演じていたんだ
> 関羽が徐々に魏軍を水の流れやすい場所に引き込んでいった可能性もあるだろうに
可能性は否定しないが引き込まれた龐悳が
堤に退避できる位置にいるのはおかしくないか?
ちょっと脇に逸れるが
そのホウ徳の正史的評価はどんなもんなんだ
肥厨としては武力90代の猛将でしかない
関中戦での実績なんてあったのか
281 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 23:26:16
関羽をバカにすると中国人が青龍刀もって追っかけてきます。マジで。
だから著名な作家や歴史家は表だって関羽を否定する事ができません。
>>281 ハイハイ
陳寿もそれが怖くて関羽を持ち上げたんだろうよ
283 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 23:29:06
>>282 いやいや、その頃はまだ関羽は神扱いじゃないですから。
ここじゃいくら関羽を擁護しても無理。
関羽の粗探しスレですから。そして関羽以外の武将の粗は一切
探してません。
>>275 そこはそれ、煽てには弱い人だったってのが伝わってるしな。
高飛車に出てくる奴とは喧嘩しても、下手に出てくる奴のいうことは乗るかもしれない。
勿論、完全に信用しないから当初は警戒するわけだが。
関羽がありえない位馬鹿司令官だったって仮定よりは、関羽はそこそこの司令官だったが
穴もあったんで呂蒙・陸遜に上手く載せられて破滅の道を転げ落ちたとした方が。
劉備陣営が関羽に任せたと言う判断、曹操が欲し、程イクらが高く評価し、10年来荊州を
守る事ができたという実績に無理が出ないと思うんだが。
本当に駄目ならそれ以前のどっかで不成立になってると思われる。
と言う事で呂蒙・陸遜バンザーイ!
>>関羽が襄陽周辺の天候を知るには劉表の下にいた時くらい
公安にいた期間も合わせると、20年近く
斥候を出してれば、毎年の天候状況なんてすぐにわかるだろ
それに魏側にとっては危急を告げる防衛戦だぞ
天候を知ってたって曹仁を助けないわけにはいかないだろ
それこそ関羽が入念に天気を研究してたこともあろうに
>>284 関羽について史料から合理的な推測しただけでMOSの考察に触れてなくてもMOS信者呼ばわり
だいたい関羽に肯定的な意見を書いてる人間の多くが演義基準
正史から抜き出すと言えば「一万に敵う」の一点張り
相手に粗探しというなら憶測じゃないプラス評価を指摘してください
ちなみにこのスレは荊州失陥時についてのスレですから
一人負け状態の関羽に厳しい評価が出てるのは当たり前です
あとよく見たら于禁についても
ほぼ否定的な意見しかでていないことくらい気付いてください
あと
>>270の意見おもしろいけど
そんなまどろっこしい計略使うくらいなら、干上がらせて魏に撃たせた方が手っ取り早いんじゃない?
あ、スルー推奨ですよ、という意味。誤解したらスマソ。
>>290 ケコ━━━━(・∀・)人(・∀・)━━━━ン
だっただけだから気にしないで
粗探しと言うが、実際正史に残ってる関羽の記述を拾っていくと
あまり褒められない物の方が多いのだから仕方がない。
別に曹操陣営参謀その他の関羽評価を無視してるわけじゃないし。
俺は当時の人間の評価と関羽の行動、戦争歴などをそれぞれ
見比べた上で、他のメジャーな将に比べたら多少見劣りするな、
と思っているけど、やっぱり
「当時の人間の評価」>>>「関羽の行動、戦争歴など文献資料からわかること」
として「関羽は他の国の人間からも十分評価されている、三国志屈指の名将」と
いう意見を持っている人もいるわけだから、そこらへんで議論が平行線を
たどることになるわけだな。
>>三国志屈指の名将
正史読んで、ここまで関羽を褒めちぎる人間は見たことないけどな
正史を読んでも
都合いいところだけ抜き出す人はいると思うが
当時の評価というのなら
「(関羽は)自らの勇名を恃んで猪突猛進し、しばしば兵を損なった」(『蜀書』寥立伝)
これが一番ピッタシだと思うが。
寥立かよ...
寥立は人格的に問題があるが、劉備にしばしば抜擢され
諸葛亮からはホウ統と比肩する人物と評されているんだから
決して軽視できない評価だな。
奴は劉備すらこきおろしてるんだが
>>219 監督のレベルと選手のレベルを
曖昧に線引きする上手い口実だな
>>298 だから評価できるという側面もあるんじゃないかな。
それだけではないけれど、決して嘘ではない、と。
>>299 お前の理論もよくわからん
きちっと説明せいや
もともとこのスレは関羽の批評をするスレじゃないんだがな。
もし孫権が関羽と共同戦線を張って北上を続けたらどうなっていたか?
っていう話だったと思うんだけど。
なるほどね〜で、いつのまにか関羽の粗探し、呂蒙、徐晃の評価に変わっていったんだ。
徐晃に関してはマイナス面も指摘されてたが呂蒙に関しては完璧な評価しかされてない。
ただ単に関羽<呂蒙を言いたいだけのスレになってしまっているんだよな。
北上を続けたらっていってもいつ共同戦線が破綻するかわからないしね。
ただ呂蒙、もしくは陸遜と関羽が組んだらそれはかなりの強さにはなるだろう。
関羽が呂蒙らの指揮下に入るって条件つきで。
>>303 陸遜が上手く乗せて関羽を動かした挙句に隙を作らせたと解釈するならかなり
上手く関羽をおだててコントロールできたんじゃないかな?
但し、呂蒙が表立って動くと、関羽が警戒するだろうケド。
関羽の評価では、呂蒙は周喩と同じ天下二分派、陸遜は魯粛と同じ三分派みたいな
評価になってるだろうし。
>>287 貴方の意見は、酷く偏った上に偏見で満ちていて
合理的では、全く無いと思うが‥
第二次世界大戦の時の旧ソ連と呉の呂蒙は同じだな〜
呂蒙が好きな人はロシアに帰化しよう!!
>>305 残念だが、前スレ、このスレ、蜀将スレを読んでもらえば
それが偏見からくるものでないことがわかるよ
三戦板でよく関羽が扱き下ろされるのは関羽の能力うんぬんの問題ではなく
関羽厨の関羽擁護意見があまりにもくだらないから厳しい反論が出てくることにある
一例を上げると、「曹仁・呂蒙は関羽を倒したから名将扱いされた」
戦功が数多く残ってる曹仁・呂蒙に対してこんな意見を平然と言えば
戦功が残っていない関羽と比較され厳しい評価が出てくるのは当たり前
>>307 確かに、どう仕様も無いのも在るけどそんな意見は一部でしょ
揚げ足とって喜んでる様にしか見えんね。
最後の1行も、偏見で目が曇ってるとしか思えないコメント。
>>308 人によって何をもって戦功とするかの違いが生じてるんじゃないの。
軍を率いて勝つことか、一武将として手柄を上げるかの違い。
おそらくここでは軍を率いて勝つってことが戦功につながってると考えている。
そう考えると関羽が戦功なしってことになるわけだ。
ま、偏見というより勘違いというべきか。
310 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 13:25:10
このとき、魏呉連合で蜀を制圧できなかったのだろうか?
糞スレに確定しました
おめでとう御座います
蜀は地形が複雑だから攻めるには時間がかかるからな。
それに関羽に勝った程度で蜀が弱くなるとも限らない。
そりゃ間違いなく制圧はできるだろう。
それに魏ははじめっから呉を利用して蜀と戦わせようとしていたわけだ。
後詰をするから先に攻めてくれっていって漁夫の利を狙おうとするのが
普通だろうから魏も呉もうかつに動けなかったってのもあるだろう。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 14:56:15
>>312 国力に余裕がある魏が先に動いても良かったのでは?
>>313 以外に余裕なかったんじゃないの?
漢中でまけた直後で、関羽にも結構やられてたみたいではあるし。
再編するのに1年2年は必要だったんでは?
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 18:57:58
あと何年か曹操が生きていたら、天下を統一できたであろうか?
MOS信者ってすぐに関羽厨とかなんとかレッテル貼りするね。
そういうアフォを見かけたらコッチもレッテル貼りしようw
>>316 ウザがられてるのそろそろ分かってくれないかな
>>315 曹操は漢中制圧の時点で天下統一を諦めてた。
無理でしょ。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 19:57:42
魏の最盛期:208年
呉の最盛期:219年
蜀の最盛期:217年
ミ::::;/  ゙̄`ー-.、 u ;,,; j ヾk'! ' l / 'レ ^ヽヘ\ ,r゙ゞ゙-"、ノ / l! !ヽ 、、 |
ミ/ J ゙`ー、 " ;, ;;; ,;; ゙ u ヾi ,,./ , ,、ヾヾ | '-- 、..,,ヽ j ! | Nヾ|
'" _,,.. -─ゝ.、 ;, " ;; _,,..._ゞイ__//〃 i.! ilヾゞヽ | 、 .r. ヾ-、;;ノ,.:-一'"i
j / ,.- 、 ヾヽ、 ;; ;; _,-< //_,,\' "' !| :l ゙i !_,,ヽ.l `ー─-- エィ' (. 7 /
: ' ・丿  ̄≠Ξイ´,-、 ヽ /イ´ r. `ー-'メ ,.-´、 i u ヾ``ー' イ____
\_ _,,......:: ´゙i、 `¨ / i ヽ.__,,... ' u ゙l´.i・j.冫,イ゙l / ``-、..- ノ :u l ,− ,−\ / ̄ ̄ ̄ ̄\
u  ̄ ̄ 彡" 、ヾ ̄``ミ::.l u j i、`ー' .i / /、._ `'y /, | ・|・ | ヽ_____ヽ
u `ヽ ゙:l ,.::- 、,, ,. ノ ゙ u ! /_  ̄ ー/ u / `−●-' \ヽ , ─ 、 , ─ |
_,,..,,_ ,.ィ、 / | /__ ``- 、_ l l ``ーt、_ / / ── | ──ヽ| ・|・ |
゙ u ,./´ " ``- 、_J r'´ u 丿 .l,... `ー一''/ ノ ト 、,,_____ ゙/ /.. ── | ── .|`─ 'っ - ´|
./__ ー7 /、 l '゙ ヽ/ ,. '" \`ー--- ",.::く、 | ── | ── |.____) /
/;;;''"  ̄ ̄ ───/ ゙ ,::' \ヾニ==='"/ `- 、 ゙ー┬ '´ / \.____|__) / ___/
、 .i:⌒`─-、_,.... l / `ー┬一' ヽ :l / , ' `ソヽ /l \/\| \
ヾヽ l ` `ヽ、 l ./ ヽ l ) ,; / ,' '^i━(t)━━l | | |
>>286 毎年のように漢水が氾濫していたのか?
今の時代ですら河川の氾濫は予測が難しいのに。
魏側にとって危急を告げる防衛戦だから水没することを覚悟で
于禁を援軍にまわしたといいたいのか?
徐晃の動きを見ればあり得ないだろ。
>>それこそ関羽が入念に天気を研究してたこともあろうに
こんな妄想が根拠になるなら何でもアリだな。
>>323 まあまあ、記述から分かることは
于禁は水没して関羽は船を用意していたんで捕まえたって事だけだろ?
その原因が関羽の研究でなかったとは言えないし、そうだとも言えない。
>>324 様々な記述を元に妄想するか、一つの記述から妄想するかの違いだと思う。
どちらが正しいかは分かるはずもないが説得力は変わるんじゃないかな。
>>325 そうでも無い、あまり意味の無い情報を多数上げて
説得力がある様に見せかけるのは詐欺師の常套手段。
_____
/ ̄ ̄ ̄ ̄\,, / \
/ −、 −、__ ヽ / ______ \
| | ・|・ | | | / / ─ 、 ─ 、 ヽ \ ヽ
| `-●−′ |___/ | / | ・|・ |──| |
| 三 | 三 6 l |/ ` - c`─ ′ || |
. ヽ (_|___ ,-′ | (____ | l
ヽ ___ /ヽ ヽ / /
/ |/\/ l ^ヽ \ / /
| | | | l━━(t)━━━━┥
>>326 >>325は真実は分からないと書いてるのだから詐欺師だろうが弁護士だろうが関係ないだろ
少なくとも関羽が氾濫を読んでいたということへの反論は詐欺師の手段では無いんじゃね?
>>324 だよねぇ。
関羽が読んでいたかどうかもわからんからなぁ。
他の人間が「恐れながら・・・」と進言したのかもしれんし。
ただ、舟を用意する必要があると判断したのは関羽自身
だろうから、その点は評価できる・・・という事かなぁ。
>>329 それ言ったら荊州における呂蒙の手柄はすべて陸遜ってことにもなっちゃうよね。
呂蒙持ち上げて関羽批判してる人にとってはそこで矛盾が生じるわけだ。
一方的な批判をするのは難しいと思うよ。
>>330 呂蒙の功績
・荊州攻略の戦略立案、作戦立案
・病を利用した関羽の油断を誘う
・陸遜の抜擢
・敵の見張りを無力化
・句安、江陵の無血開城(虞翻の功績多し)
・陸遜を含め諸将の指揮(司令官としての指揮)
・江陵での軍政
・それによる関羽軍完全無力化
陸遜の功績
・呂蒙に病を利用することを進言
・なおも警戒する関羽にへりくだり完全に油断させる
・別軍を率いて夷道などを奪取
荊州攻略での呂蒙と陸遜の役割には大きな差があり、
陸遜の計略以前に、呂蒙は荊州攻略の緻密な戦略を用意しております。
そもそも戦役である荊州攻略を、一戦闘に過ぎない于禁戦をもって相対化するのは、
無理がありすぎるのではないでしょうか。
関羽研究説を唱えるなら、
何故「兵一万」と恐れられた関羽がその知謀をもって打ち勝ったのに
于禁がフォローしてもらえなかったのかということに十分な説明がいる。
そして水攻めするなら投降を目的としてであるはずなのに、その分の兵糧は用意していなかった。
相手の陣を意図したところまで追いつめる計画性を示しながら、
事後の対応に関してはごく基本である食料を用意していない。
これは計画性がなかった可能性の方が高い証拠なのでは?
>>329 樊城と襄陽を攻めたんだから船を持っていって当然だと思うけど
>>332 >>于禁がフォローしてもらえなかったのかということに十分な説明がいる。
意味不明。なんでフォローせなあかん?
馬超は相手が曹操だったから、負けもしょうがなかったよね。
孟獲は相手が諸葛亮だったから、負けもしょうがなかったよね。
ってか?
>>332 その当たりで浮上するのが、呉の支援申し出案ですよ。
必要な兵糧の援助を約束して信用したのでそれを当てに軍を動かし
約束の履行として兵糧を受け取った。
>>335 それならつじつまが合うし、呉としては関羽の油断を誘える。
泥沼化ってやつですな。
つーか、河川の氾濫を利用した軍事行動って歴史上どの位あるんだ?
韓信VS龍且
>>338 アレは人為的な水攻めで
漏れが聞きたいのは自然発生した水害ということ
>>335 確か典略に、孫権が関羽に援助を申し出た云々というのが記述されているんだっけ。
裴松之はありえないと一蹴していたけど。
前スレでは
于禁を降し関羽の軍が膨れ上がって兵糧が不足する。
↓
呉が、兵糧を供出しますと関羽に申し出る(関羽を油断させる手)
という流れで書かれてたけど、もしこの時系列なら計画性がない可能性大
逆なら支援食料をあてにした計画だと言うことができるね。
ただ、この場合「支援の提案があった」、「その提案は事前にだされていた」って
二重の仮定だからちょっと飲み込みにくいけど
もっと言うなら、こうなると関羽が
(自分は認識できてすらいない)敵に対して虚を虚として見せたことになるから
何というかそこまで関羽は愚かじゃないだろという気もする。
>>341 最後の部分は良く分からんが・・・
提案が于禁降伏後のパターンは陸遜の計略の一部と考えれば
考察する程のものではないと思う。(正史の流れと変わらないから)
提案が于禁降伏前のパターンでは
>>340が引いている裴松之注では否定されている。
呉が関羽に対して予め兵糧援助の約束をしていたとすれば
兵糧の輸送部隊に偽装して江陵に入ればよいのだから、なぜ呉軍が商人に偽装したのか疑問となる。
×提案が于禁降伏前のパターンでは
↓
○提案が于禁降伏前のパターンは
>>339 アレも水位の高くない季節には出来ない行動ですが?
関羽が氾濫を予想してたとすれば、意味としては同じこと。
関羽が強奪した邸閣って、ちょうど呉蜀の国境にあるんだよな……。
これって、あらかじめ呉がそれと見越して撒いた餌かも。
飢えた兵にわざわざ食料をやって油断させたり
兵糧の輸送部隊に偽装すればよいところをわざわざ商人に偽装したり
大がかりで無意味な計略を使う必要が呉にあったのか
まずそんな必要は無いと思う
>>344 水位の高低は季節ごとに大体決まっている。
関羽の場合は城が水没しかけるほどの長雨を予測しなければならない。
現在でも一ヶ月前に河川の氾濫を予測するなど出来ないだろ。
>>347 だとすると史書には明言されてなくても増水時期にあわせて水攻めした
という可能性はないかな?
実行の当事者達が殆ど残って無いから記録されてないって事はありえないかな?
>>347 今は、治水工事が進んで河川氾濫が少なくなっただけかと
ナイルの氾濫なら俺でも予測できる。
350 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 14:51:14
関羽討伐に、魏の功績はあるのか?
>>350 曹仁があっさり落ちなかった事とかは?
もしかしたら呉と密約交わしていたから城を維持できたって可能性もあるかも
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 15:13:15
>>349 そーなのか
では河川の氾濫を利用した軍事行動って歴史上どの位あるんだ?
×利用した
○予測した
>>353 結果的に利用するかたちになったものならあるけど、関羽はどうだろう。
舟の用意くらいはするだろうけど、すべて予測のうえでの行動とか、関羽を
擁護するにも牽強付会にすぎるんじゃないの。
もともと襄陽と樊城に挟まれた流域は漢水の屈曲部で複数の支流が合流する
地点。
城自体が川に守られるような位置にある為、雨量が増大すれば氾濫しやすい
ことは察しがつきそうだけど。
357 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 15:34:29
じゃあ、単に于禁が馬鹿過ぎたってだけの話なんだろうな
>>351 どんな凄い将でも、兵に説得力ある勝算を示せなきゃ士気を維持できないでしょ?
もしかしたらその根拠が、関羽の攻めは魏呉の策に乗せられたもので一時凌げば
必ず費えるって知ってれば、兵だってこらえられるだろうさ。
我慢すれば確実な勝ちにのれると判ってる状態だから。
ま、1つの可能性って事でしかないけどな。
魏の功績なんて考慮すること自体無意味だと思う
関羽討伐で特をしたのは呉であって、
魏が得したと言えるのは外交しやすい呉が荊州に着たことで戦火が避けやすいことくらい
あと曹仁は周瑜と戦ったときもかなり持ち堪えたこともあるし、
そういった戦功が兵士達の士気を高めたと考えた方が自然
「関羽は策に乗せられた」と叫び回っても、追いつめられれば呉は味方じゃないのだから
自分たちが策に乗せられたのではないか疑念を募り士気を落とすだろう
士気の維持が他力本願であそこまで持ち堪えるには無理があると思う
360 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 16:30:25
魏と呉が荊州で争っていたら、関羽が助かる可能性もあった?
>>360 それこそ劉備陣営はそれによって荊州を得(るが孫呉を恐れたのか借用という形をとっ)た
一度自分たちがやったことをさらにエグイ形で返されただけ
362 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 16:42:17
>>361 赤壁の戦いのあと、魏と呉で荊州を争ったけど共倒れで
その間に、劉備が漁夫の利を得たわけ?
>>360 最初からそういう事情だと解ってると後から言うのでは全然別じゃないか?
普通は援軍が大敗したらその時点で士気が挫けるだろ。
周瑜相手のときは結局撤収したわけだし。
>>361 しかしまあ、荊州の占有については劉備側は呉から奪ったわけじゃないしなぁ。
ただ曹操側が放棄した所を抑えただけだし。
呉が歯がゆくても怨む筋合いじゃない。
364 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 16:52:58
>>363 >ただ曹操側が放棄した所を抑えただけだし。
もし呉と連合して抑えていたら、呉に荊州を取られていたと思う?
>>363 やっぱそれは、ちょっと大局的な味方なんじゃない?
大局なんて関係ない一兵卒にとって関羽が後ろからやられることよりも
自分たちが前からやられないことの方が心配だし
ちょっと前は戦ってた敵との共闘より、大軍を擁した本国からの増援の方が確信できる
援軍が大敗したことも、自分たちが主導権を握れていない「呉待ち」の状態でいるときの方が怖いだろ
計画は遠いところで進行してるのに、敵は自分たちの目前にいるわけだから
なぜか呂蒙を
捕らえると斬首にしてしまう
徐晃は登用しちゃうのだけど
個人的なことを書くなや
魏呉蜀全陣営の人物が全員、完璧ではないし欠点はあるとしても賢明だったとして
情勢を組み立て、目に見える結果だけは同じになるように見えない事情を予測すると
どうしても、関羽がただ間抜けだったのではなく、呉の巧妙な(曹仁も組んでたかもしれない)策が
結果的に関羽を追い詰めたって考えるのが良さそうな気がする。
>>368 > 魏呉蜀全陣営の人物が全員、完璧ではないし欠点はあるとしても賢明だったとして
↑
> どうしても、関羽がただ間抜けだったのではなく
↑
前文で賢明と仮定したら間抜けになるわけがない。大丈夫か?
>>369 周囲が賢明であるとき、関羽が間抜けという仮定は矛盾するという証明の流れなんだが
このスレで一部が力説する関羽間抜け説は周囲も間抜けでないと成立しないって話だ。
>>370 間抜けとは無能のことではない
相手の間抜けな(抜かりのある)ところを突いて戦わずして勝つのはまさに賢明なことだろう
だからその理論は成り立たない
大軍を動かす以上外交に気を配れないのは間抜けなんてレベルの問題じゃない
ここで関羽が間抜けなんてことは力説されていないだろう
たぶん関羽が司令官の器ではなかったことを間抜けと言われていると勘違いしているのだと思う
まぁ、もし関羽が増水を計算して水攻めしたにもかかわらず
ほとんど敵である孫呉の食料に頼ることによって自分の弱点を予め露呈させていたなら
まさに間抜けと言えるかもしれんが
372 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 17:25:56
曹仁は荊州防衛の大功があるだろ。ハン城落とされたら、魏は荊州失ってたしね。
徐晃の活躍がクローズアップされてるが、大局的に見たら、曹仁のほうが、かなり
活躍してるのは明らかだよ。奴が関羽足止めして、本拠地の留守兵が少なくなった
から、呉も攻め込めたわけだし。
>>370 あなたの証明の流れというのを具体的に書いてもらえない?
374 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 01:12:24
俺の妹は関羽ってスレをさっきどっかの板で見たけどおもしろかった
>>372 おれも除晃と曹仁の功績は五分に近いと思う
ハン城死守あってこその徐晃の活躍だしな
ただ荊州の留守兵が少なくなったのは
陸遜の謀略が大きいと思うけど
遅すぎ
でも正直な話関羽のような驕りのある武将一人では守り切れまい。
仮に別の武将であったらどうだったか?
しかし、それでも結局同じだろう。作戦が巧妙であり、兵糧も兵力もない。
とすると、親呉派の武将が守っていればよかったのでは?と思う。
379 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 11:28:21
関羽ですら攻め上がらなければ荊州を守りきっていたんだから
他の部将を配置して守りに徹しとけば充分だった。
まぁ、司令官が関羽であるない以前に
普通に劉備陣営と戦争してたら魏が攻めてくるだろうから
守っている間はまず大規模な攻撃をしかけにくい
ただ親呉派の人間が守ろうと魯粛が死んだ以上何も起こらない可能性の方が低い
もしかすると、荊州取りによって早まった蜀の滅亡と呉の延命については
「関羽討伐について…」よりも「魯粛死亡について・・・」を考える方が重要かも知れない
魯粛は親蜀派じゃないよ。
それに魯粛の「天下三分→二分」案が呉の方針となってたから
魯粛の生死は荊州侵攻には影響しない。
でも魯粛・呂蒙あたりが長生きしていたら呉による益州侵攻は十分ありえる。
魯粛の後を厳oが継ぎ
諸葛亮が関羽の補佐につけば
荊州侵攻は防げたんじゃないの
魯粛の跡を厳oが継いだなら、むしろ蜀は呉を攻めるべきだろうな
せっかく軍事に暗い人間が、陸口司令官になったのだから、またとない好機といえる
流石に厳oは、自身の軍事音痴を理解してたらしく司令官の地位を断っているが…
384 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 17:43:00
>>383 当時の蜀に、そんな余裕は無かったはず
無理して呉を攻めても、魏が漁夫の利を得るだけ
>>384 むしろ余裕がなかったのは呉の方
魯粛が没したのは濡須の後で、蜀の漢中攻めの前
もし厳oを司令官などにしていたら、それこそ魏蜀、両者に攻められかねない
>>384 侯音の乱のときに攻めれば魏も動けずに荊州から呉の勢力を排除できたかも?
どの道、先を考えると蜀から呉に喧嘩を売るのは得策では無いだろうけどね。
>>385 漢中を放っておいて呉を攻めることは無いでしょ。
魏には降伏してるし、直に攻められることも無さそう。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 18:43:24
呉の国力は、蜀の3倍に匹敵するのだぞ!
蜀だけで呉を攻め滅ぼすのは不可能だな
魏呉を両方とも敵に回したら、それこそ蜀が攻められかねない
>>386 貴方の仰るとおりと思う
厳oが司令官なったから、そく戦争というのは大袈裟すぎました
しかし厳oが司令官では魏蜀に侮られ、国境を荒らされたりはしたと思います
>>387 国力3倍って…
それは蜀が荊州失陥して、呉が交州支配を確立した後のこと
389 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 19:26:21
侯音て曹仁に殺された奴だよね?
>>390 219年段階で
蜀は、益州全域と荊州三郡(含む南郡)
呉は、九江郡を除く揚州と、荊州三郡、一応交州の士燮を支配下に置いていた
もっとも、揚州より益州の方が開発は進んでおり、交州は超辺境だった
自分が思うに、国力的には若干蜀が上と思うが、大差はなかったと思う
後は自分で判断しておくれ
関羽みたいな攻撃型の人間は州単位の総督は向かないな
郡単位なら何とかなるのかもしれないけど...
俺としては荊州の総司令官には魏延か張嶷が良かったなぁ(その当時では完璧無理だけど)
政治・外交に卓越してて、軍才もある諸葛亮でもいいかな?
でも荊州の問題は、もう一人の武将の力で何とかなる次元ではなかったのかも
>>381 孫権が後に魯粛のやり方は間違っていたと暗に批判がましい事ほざいてたんだが・・・。
基本的に魯粛は蜀と共同歩調をとって魏に対するつもりだった。
魯粛の基本的な考え方はあくまで「長江流域を支配し、帝位について天下を狙う」で
劉備と共同して曹操に当たるというのは一過程にすぎない。
でなくては呂蒙が関羽を撃ち破る具体的な策を魯粛に述べたときに
魯粛がそれに感心し友好を結ぶはずがないし、そもそも荊南に侵攻するはずがないだろう。
自分の上嫁
つーか過去ログ嫁
バーカ
398 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 02:24:23
魯粛には、蜀と共同歩調をとって魏に対抗する戦略があったことは事実だよ
でも、魯粛が親蜀派だったわけではない
「魯粛は親蜀派」と端的に言ってしまうと語弊がある。
「蜀にとって魯粛(の方針)は、他の呉の連中と較べて相対的/暫定的に親蜀派」なわけ。
>>398 そんな戦略あったか?
魯粛が魏と戦おうとしたのは赤壁のみ。
その後の行動も荊州関連ばかりで蜀とともに北を攻める戦略など言っていないと思う。
魯粛の戦略はあくまでも呉が長江流域を占領してから北に対抗するというものでしょ?
南郡はその為の最低条件。
結局魯粛は場合に応じて利用できるものは何でも利用しようとしただけ。
徹底的なリアリスト。
>>400 だったら何で孫権は晩年になって魯粛の批判した?
魯粛は呉の創業に大いにつくしてくれたが、
荊州関連の事だけについては間違っていたと言ってる。
そして魯粛が死んですぐに南郡の奪回作戦が進行し始めた。
そもそも赤壁の時も一番の主戦派は魯粛だった。
魯粛はもちろん心の底から親蜀派だったワケではないが、
赤壁後もなるべく蜀との全面戦争だけは回避しようとしていた。
魯粛にとって長江制覇後の曹操戦により重きを置いて居たってことはないのか?
劉備をもう少し泳がせ、曹家の勢力を削ぐだけ削がせてから、
その後方を食い荒らすと
>>402 批判したのは南郡貸与について。
魯粛の生前にも荊州南部進攻がある。
呂蒙は魯粛の後を継いで、以前よりも友好関係を固めている。
二人の戦略に差は無い。
赤壁は魯粛の戦略で重要な点だから主戦派となって当然。
対曹操ではなく、長江流域を手中にする為の戦。
>>404 それはそうだが、魯粛は蜀とは友好的に外交を勧めようとしていた節がある。
積極的に戦争で奪取しようとは考えていなかったんじゃないか?
孫権が南郡奪回を早急に早めたのはやはり魯粛の死がきっかけだろう。
>積極的に戦争で奪取しようとは考えていなかったんじゃないか?
蜀と正面からぶつかって呉の国力を消耗させたくない、という意味では正しい。
よって関羽が北上して南郡ががら空きとなり兵を損なうことなく手に入る状況ならば
魯粛が生きていようとも呂蒙と同じ判断を下したにちがいない。
魯粛は実際に、曹操が漢中に侵攻してくる時期に合わせて荊州南部へ侵攻しているのだからな。
(荊州南部に兵を進めたことはどう取り繕っても友好的じゃないだろ)
>>406 記述が淡々としてるので詳しい状況は把握しづらいが
侵攻の指揮をとったのは呂蒙で魯粛は関羽との和睦の為に益陽まで軍を進めたんじゃないか?
侵攻といっても大した戦闘もなく、最初から関羽と和睦に持ち込むつもりだったんだろ。
元々は呉の土地だったワケだし、会見での魯粛は関羽にグウの音も言わさなかった。
これだけ劉備側に非があるのに魯粛はいつも穏便に済ませようとしていたよ。
魯粛が積極的に蜀と対峙しようとしていたとはどうしても考えられん。
>>407 あの時の呉の作戦は、
呂蒙が南部三郡の奪取
魯粛が関羽の足止めですよ
魯粛の兵が一万で、関羽の兵が三万ですから、
魯粛が関羽との戦闘を避けるのは当然です。
>>407 > 元々は呉の土地だったワケだし
これは大嘘でしょ。長砂・桂陽・零陵は元々、劉備が自力で抑えた土地。
呉が貸したのは南郡だけなのに関羽は魯粛に言いくるめられた。
>>409 その当時、孫権と劉備の関係はある意味でちょっとした君臣関係にあったので
道義的には孫権の領土を借り受けた状態にあったんだよ。
その点については当の劉備本人も認めていたが、やはり自力で勝ち取った
土地を手放すのは不本意だったんだろう。
しかし、この時期の劉備は絶好調だよな
荊南四郡を借りる形になったけど
公安から南郡まで所有でき益州まで取ってしまう
外交も強気で奪われた零陵まで帰属させることに成功する
今まで苦労ばかりでこんなに上手くいくことなんてなかった
この成功の連続が対呉軽視に拍車をかけた面もあるかもな
つくづく関羽の傲慢さが悔やまれる...
このころの劉備政権ってまだ
トップダウンだったのかな?
>>411 まあ、荊州で政治や外交を上手く取り仕切れる人間が入ったからじゃないかな?
後戦いを発展につないでくれる人間とか。
士人の重さだな
結局この時代は士人がいないと劉備くらい有能でも成果は収められないってこった
乱世だしな、無能だったら成果以前に殺される悪寒‥
オカンの悪寒
419 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 10:44:39
>>418 蜀全体の責任だ。関羽1人で呉と魏の相手をするようなものだからな〜。
だって魏も呉も国で最強の武将を送り込んできてるわけだし。
なんて擁護の仕方だよ
関羽が荊州失陥したときは劉備陣営には荊州士人が入っていた
しかも関羽は士人に対して傲慢な態度を示している
荊州失陥が関羽だけの責任なんてことは言えないが
国の半分を与えられ劉備との血縁もなく
”独立勢力”状態の関羽の士人との関係はもっと慎重であるべきだったのは確か
421 :
419:04/11/16 12:14:41
そういう関羽の行動を読み切れなかった蜀の責任では?
このスレで多く言われている関羽の傲慢さ、読みの浅さ。
これだけ言われていては関羽の責任よりもそんな人物に
荊州を任せたのが間違いだった。そしてそこへ魏も呉も
最高の武将を送り込んだ。ひとたまりもないだろう?
劉備も関羽のそういう性格を知らなかったわけではないだろう。
あの当時の劉備陣営で関羽以外に任せられる人物がいるだろうか
単純に個人の能力で抜擢できるわけではないのだから
この点で劉備の組織能力に問題があるとは思えない
結局、劉備陣営は士人が入ったのが遅すぎて人材面で不利だった
関羽を就けたことを非難するのは益州と荊州、両方を維持できる人材がいないからといって
益州を奪ったことを非難するのと変わらないと思う
当時の社会に自分を合わせればいいだけなのに
流浪集団時代の自分のやり方を変えることさえできなかった関羽に一番の責任がある
423 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 12:45:49
趙雲では荷が重いかな?
でも趙雲ならまず呉に対して傲慢な態度は取らないだろう。
>>422 おおむね同意。
関羽個人の責任が最も重いのは間違いないよ。
現地での責任者であり当事者なんだから。
能力等の問題は別としても、関羽しか適任者がいないのであれば
戦略的にも最重要地を預かる以上、その保持には細心をもってあたって
然るべき。
自身の性格を顧みず、在地の士人らとの紐帯どころか折り合いすら
軽視するというのは要職にある人間としては失格。
それを組織全体もしくは首脳部の責任に転嫁させようとするのは
視野狭窄も甚だしい度の越えた擁護というほかない。
>>424 うぬも、度を超えた甚だしい擁護者への非難は人間としては失格。
関羽個人の責任が最も重いのは間違いないが
劉備も人物眼が曇ったと言える、代わりが居ない気もするけど‥
>>426 論争相手になんつー非難の仕方だ。
相手は話し相手の人格否定はしとらんが。
え、釣られたのかおれ?
428 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 17:14:45
擁護っていってもさ、いずれにせよ関羽を非難してることに変わりないってのが
悲しい。つまり擁護してるけど実は結局非難になってるんだよ。
だから、あんま厳しく反論せんでもいいじゃん。
外交ベタで、大局を誤るところも込みで
勇猛さだけを持って曹操を恐れさせる関羽が好きだ。
そういう事で、関羽が外交ベタや大局が見えないといわれても許せるけど
限定的な条件下の戦闘の強さも認められないと悲しいんだよ。
そりゃ流石にみんな認めてると思うぞ
ほんとうに○○信者なんていわれるようなアンチ関羽が存在するのなら
白馬での戦いだって、たまたまとか記述されてない顔良のなんらかの落ち度があったが
不利な戦での士気を上げるための英雄が必要だったから大々的に賞賛された
とか言い出すヤツがいてもおかしくない
しかし関羽に厳しい評価を出す意見でそんな極端な憶測・妄想をだしたのは見たことがない
・・・逆はしょっちゅだから非難されるんだよなぁ
急に大勢力になったから「構造改革」が出来なかった、と。
戦と人事のバランス取りが悪かったわけだな。
ここをうまくやった奴は大国を築けるけど、
劉備も関羽もそこまでの器ではなかった…
士人大好きな張飛が荊州を任されてたらどうなったか
やはり部下を苛めて破滅するのだろうか
それは思わんでもないけど、そうなると関羽の存在が・・・
張飛は一回失敗してるしね
>>430 過去スレに何人もいたが・・・。
都合のいい部分だけ見て自分勝手な解釈しないようにな。
そういうのを世間では詐欺師っていうんだぞ。
関羽の部隊長としての強さを誰もが認めているのはまぎれもない事実だと思うけど。
どこが自分勝手な解釈なんだろう?
>>434 何人ねぇ・・・
関羽の変な賞賛と比べてもそういう意見がでたと言えるほどでてるのか?
ここの過去スレの量に対してよくでると言える数なのか?
何というか、蜀将スレそして関羽討伐スレに毎回のように出てくる
ものと比べてそんなことが言うほうがよっぽど都合の良い部分だけ見てるんじゃない?
というか「何人も」っていえるんなら、代表的な文章引用くらい出来るだろ?
文章引用できもしないようなのは「何人か」の間違いだぞ
勘違い呼ばわりじゃなくて、詐欺師呼ばわりするんだからそれくらいの証拠は提出して欲しいよな
>>436 何でオマエの為にそんな面倒な事しなきゃならん?
最初からこのスレのシリーズを見れば絶対ある。
あとは自分でさがせば?暇人よ。
何故オマエは>430の最後の文面にワザと煽る様な事書いた?
オマエは結局ただの煽りがしたいだけなんだろ?
汚い根性だすなよアフォ。
残念ながら
>しかし関羽に厳しい評価を出す意見でそんな極端な憶測・妄想をだしたのは見たことがない
という意見に対し
>最初からこのスレのシリーズを見れば絶対ある。
と批判している奴にこそ証明義務がある。絶対あるのだからすぐに出せるだろ。
こんな当たり前のこともわからんのか。
>何故オマエは>430の最後の文面にワザと煽る様な事書いた?
>オマエは結局ただの煽りがしたいだけなんだろ?
>汚い根性だすなよアフォ。
結局最後の一文が気にくわないだけなんだろ?
なら最初からそう書けって。紛らわしい奴。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 09:07:54
くだらねー喧嘩すると話が止まるだろ。まったく。
呉は卑怯な国。さっさと潰れればよかったのに。
てゆーか呉はこのときは魏の臣下だろ?
魏の1部のはずだ。
煽るなら少しぐらい知識つけてからにしろ
というか煽りがループしてるw
関羽=鍵を閉め忘れた人
呉=泥棒
当然鍵閉め忘れた奴が悪い。泥棒に入ってくれ、と言ってるようなもの。
446に対抗して
ロシュク=クリントン
呂蒙=ブッシュ
ということは
関羽=フセインorラディン
髭でラディン
てかこの例え(・∀・)イイ!!
さらに関羽=金日正
>>446 いや、その例えだと明らかに泥棒の方が悪いぞ。
言わんとすることは分かるが。
あんまり悪ノリすると火病おこす輩が出てくるぞ
呉は成り立ち/イデオロギー的にも、
中原のモラルと決別している部分があるのだから、
「泥棒」と言い表すのは一方では正しい。
でも結局、この話題じゃ考察は詰まるね…
まあ成功の理由も失敗の原因も分かりやすいから、仕方なさ。
454get!
すると劉備を喩えるなら
寄生虫ですな
そして蜀は、羽化した成虫てところか
陶謙、袁紹、劉表、孫権と寄生し、最後の宿主である劉璋を食い破って羽化したと
えげつな
所詮は乱世だからねぇ
魏呉蜀いずれも綺麗事だけでは生き残れないし
目糞鼻糞だけど劉備が一番えげつないのは確かだろうね
それ言ったら孫パパも呂布も…
つうか地位の低い限りは皆寄生虫でいるしかない
まぁ共生関係であった時期もあるだろうし、
これは乱世なりの処世術だね
他に生きる道が無いんだからしょうがない
曹操は時代を作った。劉備は時代に反抗した。孫権は双方の邪魔した。
三国志のまとめ。
(・∀・)ノせんせ〜時代って何ですか
辞書をひいてはいかがでせうか?
>>460 姓は時、名は代、字不詳。魏の武将。曹操が育てあげた劉備討伐の為の司令官。
第2次世界大戦にたとえるなら
蜀=日本
魏=アメリカ
呉=ロシア
荊州=北方領土
>>463 一生懸命に考えたんだろうけど、チラシの裏でやってくれ
>>463 せめて、
荊州=満州国くらいには書いておけ。
そのままじゃあいくらなんでも恥ずかしすぎる。
>>463 それにロシアじゃなくてソ連だな。
当時の国の名前ぐらい覚えておけ。
第二次大戦中、日本はソビエトに中国を借用していた、と
じゃあ北方領土は借用していたのか?
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
/": : : : : : : : \
/-─-,,,_: : : : : : : : :\
/ '''-,,,: : : : : : : :i
/、 /: : : : : : : : i ________
r-、 ,,,,,,,,,,、 /: : : : : : : : : :i /
L_, , 、 \: : : : : : : : :i / 荊州取られたら
/●) (●> |: :__,=-、: / < 負けかなと思ってる
l イ '- |:/ tbノノ \
l ,`-=-'\ `l ι';/ \ 関羽(54・男性)
ヽトェ-ェェ-:) -r'  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヾ=-' / /
____ヽ::::... / ::::|
/ ̄ ::::::::::::::l `──'''' :::|
話を三国時代にもどそー。
呉って国は卑怯者の集まりだ。
まあ、流石にネタ切れなワケだが‥
劉備が素直に荊州の全郡を返していたら、状況は大分良いワケだが
それならどうなっただろうか? まあ、範囲広すぎだ罠‥
呉は陸遜の地位確立が遅くなるかもしれないこと以外あまり変化無し
蜀は劉備の後継者の不安、諸葛亮らの台頭もあり関羽・張飛あたりは粛清の危険性有り
って感じかな
結局、荊州を確保できた国が最後まで名前を残すのは変わりないと思う
>>474 >関羽・張飛あたりは粛清の危険性有り
それはないでしょ。
良いように考えれば、その後の呉との関係が良好に保たれるから、
魏のみに国力を注入すればよくなる分面白くなるかも?
関羽以下荊州勢も、北伐に参加できるし。
それだと北伐という阿呆みたいに難しいルートしか残らない。
蜀から関中。関中から中原。
何処から攻めてくるか分かっていれば対処など簡単。
2方面攻撃による戦略的展望の失われた蜀に明日は無い。
そもそも荊州を手放したくらいで呉は満足するかね。
魯粛も周愉も甘寧も、本来長江沿いに南方を抑えて北に対抗することを唱えてきたのだから。
実際呉は、劉備死後は益州南部の豪族達に蜂起させたり諸葛亮死後や劉禅降伏後には兵を動
かして益州をうかがっているし。
魏延の長安強襲案も、魏延だから却下された。
そのときに関・張がいれば、採用されていたかも??
趙雲の曹真足止め作戦も、足止めじゃなくて
両方から攻めることもできたかも??
関・張を過大評価してるわけじゃないけど、魏・呉両国に
名の通っている人がいれば、威圧感はあったと思う。
魏延だけでは、やっぱりつらいからねえ。
もちろん、兵站が滞らなければの話だが・・・
479 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 22:00:56
夷稜で将来有望な中堅・若手を失うこともなかったし、
街亭で馬ショクを抜擢することもなかったはず。
関・張の息子たちも北伐で活躍できたはず。
まぁしいて言うなら、あの時点で荊州を全部返還していたら、
有望な中堅・若手も半分くらいしかいなかったかも・・・
領土はいくらあっても足りないとは言うが荊州が呉にとっては
宝の持ち腐れになってはいなかったかな?
確かに警戒を固めるという意味では大変貴重だが。
どうやったら、そう思えるのかわからん。
呉は蜀とは違って曹魏を打倒することを目標としてはいないから、
荊州方面からの攻めを必ずしも必要としてはいなかったのは確かだが、
守りに関しては荊州を取られている状態では防衛線の確保が出来ず守りきれない。
普通に考えて自分は白兵戦しないから防具を着ても宝の持ち腐れとか言って、
防具を着ない指揮官なんていないだろ?
・・・諸葛亮がいたか
呂蒙は呪い殺したのに孫権は殺さなかった関羽が悪い
蜀は魏を倒すために荊州を欲し
呉は魏から身を守るために荊州を欲したわけで。
性格には呉は益州も欲しがってたがな
呪いってのは死んだ時期が悪かったな。
呂蒙の仕事は関羽を倒すことですべて終わり
天寿をまっとうした、つまり関羽を倒すために
生まれてきた呉随一の将という見方もあるぞ。
変な言い方でスマソ。
>>484 わざとじゃないだろうけど
呂蒙って完全にたたき上げの軍人で
戦績も呉ではダントツに多い
魏の五将軍に対等かそれ以上の功績をあげてるのに
関羽を倒すために生まれてきたっていう存在扱いはないだろ
486 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 23:41:41
益州の劉備にとっても揚州の孫権にとっても、荊州一州の価値はとてつもなく
大きかったに違いない。どちらも一州に逼塞しながら中原に拮抗してゆくのは
困難と考えていたはず。たった一州しか領有していないままで統一された中原
政権と拮抗し続けるのは困難でしょう。
荊州を鎮圧したのは劉備軍だからな。
だいたい劉表の持ってたとこなんだから
結局は劉備がいただくのは本筋。
攻める気無い、中国統一する気ないなら
曹操、劉備どっちかにあげとけばよかったんだ。
そうすれば魏か蜀が早々に潰れ、勝った国が呉を滅ぼす、と。
てめーの平和じゃなくて、中国の平和を考えるべきだろ。
3国あっては平和が来ないのは当然。それとも3国でうまくいくと
思ってたのかな、呉は。あれだけ頭いいヤツラいるのに。
これが一番宝の持ち腐れだな。荊州もってる奴は実力あっても
天下統一目指さないのがふしぎなとこだ。
乱世を生き延びることがまず第一だろ。
特に孫呉は設立からして中華の観念とは違う。
外国を開拓して建国した様なもんだし。
おかげで南北朝時代には文化基盤が江南の地に逃げ込めたから、
現在に続く中国の存在/中華思想の所以には、呉も一役以上は買っている。
釣られてみた
戦争の功績なら呂蒙より上といえるのは曹操くらいしか居ないからな実際
正直
>>487みたいな建前が正当として考えられるなら
劉備は自分はおとなしくお飾りになって実権を全て孫呉に与えれば良かったよな、
そうすれば呉・蜀の国力を一つに出来るから魏の打倒も夢ではなくなる
本当に漢室復興したいならそうするべきだろうし
国の平和を考えるなら正当に譲禅された魏を認めて従うべきだな
結局自分が権力を持ちたかっただけなのは明白
そんな野心家が建前無しで勢力の生存・維持を目指しているところに
”借用”なんて形を取ってたんだから取られても文句は言えんわな
国の平和を目指すのなら、赤壁で戦わずに降参していれば中国は半世紀早く統一された
だろう。
ハイ松之は孫権、周愉、劉備、諸葛亮をこそ責めるべきだよな。そういえば張昭に対しては
「張昭の意見が通っていれば、天下は一つになり戦禍によって国が疲弊することもなかったろう」
と弁護してるな。
孫呉は別に国の平和も明確な漢室復興も目指していないから関係ないという事だろう
自分たちはまともに戦える力もないのに抗戦を唆した劉備陣営側に非があるだろう
結局、赤壁の戦いで一番得をしたのは劉備
あれで孫呉が降伏していれば孫権はそれなりの地位につけられ、劉備は潰れるだけ
国の平和を維持することを義と考えるなら
力も無いのに国を乱した劉備は、正当性の欠片もない勢力を築いていた孫権より悪だな
世話になった恩人は悉く裏切るし、つくづくロクでもないやつだな劉備は。
孫呉のように、江南開発によって後の歴史に重大な影響を与えたわけでもないし。
孫呉には江南の自立という大義がある。
実際、漢末から魏晋南北朝にかけて地域・民族のアイデンティティーが芽生え、自立の運動が激しくなった頃。
呉の建国はこの流れに添って成された。
たとえ魏が統一を果たしても、この流れは止められなかったと思うね。
民族のアイデンティティーなんて芽生えてないし、
地域としてのそれなら、
益州も漢中も涼州あったぞ。
呉は長江沿いに、万里の長城並みの防壁を作って、
長江以北には興味なしみたいな態度をとっていれば、
晋に滅ぼされることもなかったはず。
劉備は乱世の姦雄ですから
499 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 21:29:59
正史厨で三国志を良く知ってる人は
考えが偏ってる。
てゆーか一方的な見方しかできんのか?
それとも演義厨や無双厨を戒めてるのか?
500 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 21:35:06
恩人を裏切るか・・・。
その恩人が何人彼を殺そうとしたことか。
劉備は仕方なく逃げたという見方はできないのか?
どっちもどっちだろ
結局生き残るためのギブアンドテイクで
とはいえ、劉備が目指した国家は
曹魏のそれと比べて何が勝っていたのか?
その萌芽みたいなものが蜀の運営にかいま見れれば、
まぁ天下を取る正当性みたいなものは主張できるような希ガス
504 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 22:30:45
MOSは禁止ですよね。退場しなさい。
実際問題、ホウ統と法正が長生きしてれば
蜀は、こんなことにはならんかったんだよ、たぶん。
そしたら、諸葛亮が荊州に残って、関羽の無理を
うまく回避できただろうになあ
関羽の出兵は劉備の指示もしくは合意の元だろ
>>505 夷陵を回避できなかった諸葛亮にそんな期待できるか?
そりゃそうだ
劉備が死ぬまでの諸葛亮は内政屋
>>499や
>>502の方が考え方が偏ってるよ、
491からの流れを見て劉備の事を悪く言っているとしか思えないのなら歴史を語る資格はない
劉備は悪人だからこそ偉業を成し遂げた
そのほとんどが守成の働きをした孫権と比べて劉備の方が悪人であるのは当然であって
創業の人間にとって乱世に悪人であるとことは誉められるべきこと
呉をソビエトと比べて呉やソビエトを卑怯と言っている人間の方が味方が偏っていて
蜀信者としか言いようがない
>>509 悪人であるから偉いって語調は変だろ?
じゃあ、ついてきた人間も悪人だったからつき従ったのか?
そんなはずはない。
本当に悪い奴だと、当時から思われていたのに次の行き先が見つかったとも思えない。
まあ、結果的に裏切ったように見える情勢が多々あるが
劉備が一方的に悪いとえない状況が多かったんじゃないの?
少なくとも、益州を奪う前の段階では。
というかね、劉備にとっての「漢王朝復興」って、裏切りの免罪符な気がする。
どれだけ世話になろうと、「彼は漢王朝に不忠だから離れたのだ」
盟約裏切って益州乗っ取りも、「漢の復興のために必要なんです」
劉備が漢王朝の復興を掲げたのって、諸葛亮が加わってからなんだけど……
>>510 おっしゃる通り、劉備が一方的に悪いなんてあり得ない
ただ人より一枚上手でないと正当性を掴めないだろ?
人を出し抜くことは悪人のすることか、善人のすることか
って言ったら悪人のすることって答えるだろ?
愚直な人間には誰もついていかないが、董卓・呂布にはついていった人間がいた。
結局、乱世に単純な正義でついていくような人間はいない。
たとえば信長は悪人だろう。
しかし、強かった。能力があった。だから勝った。
>>510 おおむね君の意見は正しいけど、
善か悪かで定義付けない方が良い。
この2分法は相対的なものだから。
ニュース見てれば簡単に解るじゃない?
善悪なんて言葉を皮肉以外で使うのは、
一定年齢以上にはアホしかいないよ。
>>511 世の中全体が劉氏にブランド/神聖感を感じてたから、
その流れに乗った、っていうのが事実だね。
劉備の本心はどうであれ。
それと、人間個人も含めて、ある一つのシステムの本心を見抜く際には、
発言や行動のタイミングを注視しなくてはならない。
固定されたイメージから、人生(歴史)を総括してはならない。
人類の歴史において当然の事を言うけど、
革命を成功させたら大英雄で、
失敗したら大犯罪者なの。
>>515 >世の中全体が劉氏にブランド/神聖感を感じてたから、
>その流れに乗った、っていうのが事実だね。
んなこたーない。
だったら、益州乗っ取りがあんなにすんなりといく筈がない。
劉備が劉氏というブランドを最大限に活用したのは事実だが、神聖感なんて程のものでは無い。
劉氏をたてる流れ(劉虞など)も既に終わってる。
物事を善悪で語るなってのは同意。
必要が生じた時に、お人よしで居ないことは悪人か?
単に善悪というものの観念に、ずれがある気がするんだがな。
自らや自らの支持者たちの立場が脅かされ、維持できないと判断した時に
義理のある人間を見捨てる事や、友軍だった相手を敵に廻す事は
善行だとは思わないが悪行だとも思わないがな。
ちゃんと自分の立場なりの道理を余人にも理解させうる範囲での事だが。
劉備のしたことの中に、自分が明らかに優勢でありながら劣位の物を虐げたり
感情論的に虐殺などを行ったりした事があるんだろうか?
嫌いだから斬ったとか、逆らう能力のない弱者への虐待は間違いなく悪行だが
理由がある状況での手切れや、及ばぬ相手を見捨てるってのは悪ではないな。
演義で描かれる様な善人ではないだろうが、善悪半分に割って悪人側に入るような
悪人ではないと思うが。
情理や道徳を弁え、必要ならばそれを捨てられる人間は別に悪人じゃないだろ。
決断力と行動力に優れた人間ってだけの事で。
>>517 あなたが書いているように善悪の観念にはズレがあるんですよ。
基準が主観的なものでしかないからね。つまり無意味。
>>519 一番偏ってるとかいう問題ではなく、
言いたい事は分かるが、悪人とか書いてる時点で
>>509には歴史を語る資格が無い。
呉が卑怯とだけいってる香具師も同じ。
だんだんバカスレになっていくな・・・・。
結論出たのに惰性で続いてるスレだし・・・・。
>>522 その結論とやらを、反論の余地がないくらいはっきりと他人にわかるように
解説してくれないか。
呉が江陵に攻め込まなくても関羽は徐晃か兵糧不足でアボーン
↓
呉が江陵をとるチャンスが小さくなり、魏にとられる危険性が増す
呉が関羽に兵糧の支援をして奇跡的に襄陽を落とす
↓
江陵を返してもらえなくなる
呉が関羽に兵糧の支援をして奇跡的に襄陽を落とす
さらに呉が奇跡的に合肥を落とす(そんな余裕があるとは思えないが)
↓
魏に対しては大きな利点となるが蜀に南郡をとられたままの方が危険
結論:呉の判断は正しかった
関羽北伐には戦略的妥当性が無く
呂蒙の戦略に対しては
関羽に同調すれば魏に勝てる
夷陵で劉備が勝ったかも
という希望的観測に基づいた批判ばかり
さて、このスレや過去ログで
戦略的に妥当な関羽の北伐擁護や
論理的な批判が呂蒙に加えられたことがあっただろうか
>>515,
>>520 なんというか、この時代には清流派といわれる人物がいたのを忘れてないか?
決して自分が言っているのは絶対悪・絶対善のことではないぞ。
あと、善悪という表現ではなく善人・悪人という表現は
現在の日本語では善を行う人、悪を行う人という単純な表現で用いられることより
バカ正直な人や現実的で賢い人を差す表現としても用いられると思うけど?
なんというか、自分たちが思うほど、「言いたいことはわかって」ないよ
>>526 清流派は全く関係ないと思うのだが、劉備が濁流って事?
儒教によるモラルをいっているのだと仮定して、
確か乱世の時には世の中を安定させる為、多少の非道も仕方ないという考え方だったはず。
実際、劉備の下には名士といわれる人々も集まっている。
当時の劉備に対する評価が悪人だったとは思えない。
「悪人=現実的で賢い人を差す表現」というのは聞いたことがない。
>>527 儒教モラルがあったことは、その当時、善と悪があったことを差している。
劉備の元にたしかに清流の流れをくむ人間が入ってきたとして、
劉備のような覇者が全ての行動で儒教的な名声を上げることはできない(いわいる善人になれない)
つまり非道を行わなければならない事を言いたかった。
何度も言うようにこれが絶対悪であると言いたいのでもなければ
善・悪がはっきりしていたあの当時に劉備が悪人扱いされていたと言いたいのでもないことくらいは、
議論の流れを見てもらえばわかってもらえると思う。
>「悪人=現実的で賢い人を差す表現」というのは聞いたことがない。
悪人なんて単語だから駄目だったのか、「悪いヤツ」だったらわかってもらえるかな。
絶対善・絶対悪なんてのが無くなった現代では”極悪人”はともかく
悪いことは賢いこと、といった表現も少なくないと思うけど。
>>509は
>>502や
>>499の意見を偏ってるというが劉備を悪にしてこそなんて
言ってますがこれが明らかに偏見では?そういう見方もありますが、劉備
だけを悪といってるのではただ単に演義の逆を言ってるだけですね。
つまりここで言うMOS信者とかいう人ですよね?たとえば曹操は天下を統一
するために魏を作り、天下統一を目指したわけですが、その中には残虐な
行動もかなり含まれているのでは?そしてコレを正義か悪と呼ぶかは人それぞれ
です。
>>514の意見も少し賛成しかねるがその理由は他の戦国武将も結構な悪人
であるということと曹操の例からです。ここはすれ違いですので詳しくは避けます。
長々とすいません。
乱世で覇業を成す人間が
根っからの善人では生き残れない
根っからの悪人でもないだろうが。
勝って生き残ることがまず優先されるんだからな。
彼らは敵を倒そうとしたのであり、善人であろうとしたのではない。
人も殺せないような善良な男は戦争や政争では名を上げない。
>>530 同時にこいつの下に居ても碌な事がないと思わせる悪人でも汚名しか残せない。
そうだな。
たとえば曹躁は、長年使えた部下に温情をかけたりする面がある。
自分の利益になるリーダーでなければ支持されないな。
しかし、下につくものの利益と、リーダーの性情の善悪はまた次元の違う話だ
(相関関係はあるだろうが)
動乱期に悪人か善人か、なんてさ……人ひとりを殺した庶民と、大勢の人間を
殺した英雄を同次元で語るほど愚かしくないか?
政治的に語るのは愚かだな。
一個人として語るのは可能だな。
スレ違いというか板違いになるけどな。
>>528 よく分からないのだが
ひょっとして劉備が現実的で賢い人と言いたかっただけ?
だったらわざわざ悪人なんて言葉使わなきゃいいのに。
スレ違いっぽいんで
>>524に同意しとく。
結論:劉備は乱世の姦雄
>>516 そこは自分でも言い過ぎと思った。
クリックした後に後悔する、って奴でした。
>>509 あぁ…己の若かりし頃を思ひ出す…
あと、とりあえず覚えておいて欲しいのは、
儒教には革命を肯定する思想が含まれています(易姓革命とか)。
儒教はかなり政治哲学的な思想なんです。詳しくは自分で調べてね…
スレ違いスマソ
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 21:22:10
結論:呉は目先の利益に走った愚かな行動を取った
>>537 ちょっと違うと思うな、どちらかというと権力に擦り寄る感じで
易姓革命は、なんつーか結構いい加減な希ガス。
>>538 その愚かな呉にしてやられ続けた蜀はどう評価するんだ?
目先厨=卑怯厨もいいかげん議論できるよう努力しろよ
議論厨も邪魔だがな、三戦のは実質口論厨だし
惰性、少し前まではまだマシだったからな
>>539 それは日本に渡って来た後の、見事に
官僚主義に取り込まれてしまった方の儒教じゃない?
本場の儒教は「徳の無い奴は引きずり降ろせ!」って感じ(建前であれ)。
清流派も結構過激な運動家達だったし(建前であれw)、
人々も彼等の頑固一徹さを支持したりした(建前であれww)。
建前であることが政治哲学的だ、とも言えるかもしんない。
それと、易姓革命がいい加減に見えるのは、
『徳』の定義が不十分だからかも…と思った。
ここで詳しく論じても何だし、ここらで。
スレ違いスマソ
関羽が何で負けたかなんて「庶民の味方だったから」の−言で良いような。
確かに漢室と清流派との関係からみる儒教についてかかないのは
スレ違い以外の何ものでもないし、論点のすり替えだな
儒教にも種類はたくさんあったんだから
>>537とか
>>546に聞きたいけど
儒教って、君主に求めたり・是認したりする行動と
儒教上のいわば”善人”のような人の行動とに求められるラインって同一なの?
その書き方だと覇者が儒教上での善人になれるような言い方なんだけど。
結局自分たち聖人のやることと君主のやっていいことは別なんじゃないの?
そうじゃなかったなら、清流派から覇者が現れてもおかしくないと思うんだけど。
別人でスマン
私見だけど、論語読んだ限りじゃ儒教はかなりデタラメな学問だと思う
というか論語は読む価値無い(途中で馬鹿々々しくなる)
で、
>儒教って、君主に求めたり・是認したりする行動と
>儒教上のいわば”善人”のような人の行動とに求められるラインって同一なの?
建前上の目標w としては同一だけど
ただゴチャゴチャ言うだけ、別に君主が何をしても是認してる
それに、どちらかというと、人民に対して権力者への忠節を説く宗教だし。
呉で本当に愚かなのは孫権のお孫さんぐらいでしょ。
人間なんだから少しくらい愚かでも仕方ないが彼の場合は・・・。
俺は個人的に孫権は嫌いだが(蜀信者ですから)天下をとる器は曹操、劉備、孫権
の中では一番だったと思う。駆け引きが一番うまいのも孫権だし。
しかし、孫権は晩年がちょっとね・・・。
完璧な人物はいないさ。もし呂蒙だって陸遜がいなければ、あるいは、と
考えることができる。結果的に戦功の多い武将だが、関羽とずっとにらみあった
ままだったら寿命というか病気で死んでいたかもしれない。多くの戦功の中に
関羽討伐果たせずとなる可能性もあったわけだ。結果的に完璧なままで生涯を
終えたといっていい武将だがね。しかし残念なことに歴史の変わり目ってとこで
活躍してなかったので高校の教科書には載らなかったわけだ。関羽は載ってるのが
あるみたいだな。残念なことだ。
>>524に絡んで質問。
関羽が襄陽を攻めてた時期って、呉はどれ位積極的に軍事行動を
起こしてたんだろう?
横山演義くらいしかまともに読んでないのでアレなんだが、どうも呉って
自発的に動く事が少ないという印象があるもんで・・・
もし積極的に動いていなかったんだとしたら、関羽だけじゃなくて蜀(劉備)
自身が対曹操で頭が一杯になっていて、呉が軍を動かすという可能性を
見落としていたという事はないのかなぁ、とか思ったもんで。
ガイシュツだったらスマソ
>>555 赤壁後、曹操と濡須、皖城、合肥で戦い、関羽討伐の二年前に降服。
劉備とも荊州争奪戦で軍を動かしている。呂蒙が大活躍。
関羽はこの戦いで呉にしてやられているし、
北上するときも呉に対する警戒は陸遜が着任するまではしっかりしていた。
いくらなんでも呉を軽視しすぎです。
まあ演義しか知らないならいいんだけど、呉ヲタの漏れからすると
>自発的に動く事が少ないという印象があるもんで・・・
これはチョット。その後も呉は魏と何度も戦っているので。
むしろ、赤壁後に曹操と戦ったのは主に呉。
劉備はそれを尻目に荊州南部を獲ったり益州を攻めたり。
>>556-557 dクス。
するってぇと、呉が侵攻してくる可能性は充分考えられたって事ですね。
なるほど・・・
現実に呉に近い場所にいた関羽が、俺と同じような印象を呉に持つ事は
ありえないよなぁ。
陸遜が着任するまでは呉に対する警戒を怠らなかったという状況を鑑みると
関羽は「呉という国」ではなく「呂蒙という武将」を警戒していたのかなぁ、とか
思ったんですよ。
呉が動く可能性が低かったとしたなら、呂蒙が陸遜に交代した時点で油断した
のも分かる気がする、とか考えたもので。
決して呉を軽視しての考えじゃないっす。スマソ
侵攻を受ける可能性が高ければ、いくら謙った態度をとっても、あの呂蒙の
代わりなんだから・・・と注意よなぁ、普通。
正史読み始めようかな。
逆に孫権主従からすると、こちらが曹操と戦っていたときには援軍も何も無く無視されていた訳だ。
ようやく講和を結んだ後になってから「共同で曹操を打倒しよう」とか言ってきても
「今さら何言ってやがる」としか思えないだろうなあ。
仮定として、孫氏政権の政治目的が中華統一ではなく江南独立にあったとすると、曹操と
互いの存亡を賭けて戦う必要はなく、中央から自治権(今風に言えば)を認められればそれ
でいい。後は中央と対抗するために自治領の拡大を目指すっと。
>>559 そ れ だ !
というか黄巾の乱で、人民も国土も悲惨な状況だから
統一よりも天下三分くらいが適性規模なのかなぁ、と思ったり。
>>561 「三国鼎立は出来レースだった」という誰かの説を思い出した
チンさんの小説か?
564 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 21:18:42
>>559 その説でいくと、呉の荊州侵攻は既定路線だってことか。
劉備や諸葛亮は、曹操と講和した呉が次にどこに攻めて来るか予想できなかったのかね。
ひょっとして、関羽の娘との縁談も、断られることを見越したしばいだったか?
攻めるかじゃなくてどこも攻めずに行くと考えたのだろう。
てゆーか関羽が蜀の予定をめちゃめちゃにしてしまったわけだし、
呉と和し魏を攻めることなどできなくなった。
誤算に次ぐ誤算ですな。
劉備が悪だと言う奴に一言。
すべての奴の行動は策としてみることはできませんかな?
まあ、できないから悪といってるんだろうけど。
そういったら他の三国志武将も9割方卑怯になるかんね。
>そういったら他の三国志武将も9割方卑怯になるかんね。
まあそういうことよ
>>565 劉備が悪だとは思わないが
> すべての奴の行動は策としてみることはできませんかな?
これは無理だろ。
大体、劉備が悪なんていってんのは2、3人で
その他大勢は善悪論なんて無意味だって書いてるでしょ。
誉め言葉として、劉備は悪党だと思うがね。
あれだけ裏切りと背信を重ねてきて、それでも徳の仮面を被りつづけて世間を最後
まで騙し通した手腕は賞賛に値する。
話し変えてすまんが、他のスレ見てて思ったんだけど
諸葛亮は荊州の防衛をどう考えていたんだろう。
益・荊州双方から出撃と言ってるが、呉に背後を突かれて関羽と同じ結果になりそう。
それは誰が守っても同じって結論が出てたような気がするな。
呉を怒らせない以外道はない。結局荊州の完全返還ですな。
二兎を追うものは一兎を得ずですかな。
一つは呉との和平、もう一つは荊州と。
実力で黙らせてやる、と思ってたんじゃない?たしかに荊・益州を併せ持てば呉より
上に立てる。
劉備、諸葛亮の思惑としては、赤壁の遺恨によって、孫権と曹操が結ぶことはない
→ならば孫権は曹操に対抗するために、こちらとの同盟を必要とするはず→力関係
でこちらが上になれば、孫権は北に向かわざるをえないのだから、荊州問題もなし
崩しに認めさせることも出来る…。
だからこそ孫権が曹操と争っている間に益州を攻めて自勢力の拡大のみに努めた。
荊州は襄陽と南郡に価値が集中しているのだから
益州を攻略したら長沙・桂陽を返還
漢中を攻略したら零陵か公安あたりを譲渡する
肝心の江陵を残すような遠回し的な外交ができればよかった
むしろ入蜀メンバーには荊州出身者が多いから、
益州面子の勢力に対抗するには、
荊州面子の地元である荊州を確保する必要があったんじゃねぇか、と。
もし荊州面子のお膝元が奪われるような事があれば、
以後は益州面子に従わざるを得なくなる。荊州面子の求心力も失う。
孔明がどれだけ賢かろうと、劉備の信任を得ようと、
荊州人の彼の意のままに政治を行うなんて無理になる。
同時に、どっちかの勢力が一方的に強くなれば劉備も采配がふるいにくい訳で。
荊州を手放す選択肢というのは即、荊州人の人材を腐らせる事につ繋がるのでは無いかと。
>>573 諸葛亮が意のままに政治を行うのは荊州失った後なんだけど・・・・。
諸葛亮死後も荊州出身者は政権中枢にいたよ。
確かに荊州出身者にとって、荊州を失ったのは痛かっただろうが。
諸葛亮が夷陵で反対しなかったのも荊州を取り戻そうという思いが強かったからだと思う。
五行の相克に中国地図を当てはめたら、
劉備政権の意味が解った!
結論:名前が羽って奴は自分の武勇、知才におぼれやすい。
>>577 項羽の名は籍だからな。
一応言っとく。
すると、陸羽もか?
陸羽東線
ウイングマンもそうなのか?
>>572 公安は南郡に含まれると思うが。
南郡の内の長江南岸を譲渡するって事?
>>572 >荊州は襄陽と南郡に価値が集中しているのだから
>益州を攻略したら長沙・桂陽を返還
>漢中を攻略したら零陵か公安あたりを譲渡する
>肝心の江陵を残すような遠回し的な外交ができればよかった
公安って長江を挟んで北岸の江陵と共に水上交通を管制できる戦略的にも
重要な拠点だよ?
零陵なんかと同次元で語れないと思うんだけど。
後年、歩闡が叛乱を起こした際にも、陸抗は公安の重要性を即座に認識して
晋軍に攻められた北岸の江陵を支援できるように防備を固めてる。
呉の滅亡時にも、江陵周辺の諸城が陥落した事で孤立してるし。
なんにせよ全ての城が同価値でもなければ、それぞれの城が単なるひとつの点
ではなく相対的な存在意義をもってるんだから。
呉ヲタ孫権信者ウザイ。
公安って孫権が劉備に最初に与えた土地だっけ
呉と蜀の関係に似た例を探すなら、
戦国期の今川と後北条じゃないか
客将が領土拡張、どさくさに紛れて独立。
友好と敵対の微妙な関係を行き来しながら仲違い。
最後に同盟して事を収めたところも共通してる。
魯粛亡き後劉備と孫権の関係を調整するために尽力する人間がいなくなったことが
痛い。諸葛亮はこの時期、この点に関して何か対応策を行っているだろうか。
>>589 何か勘違いしてませんか?
呂蒙も当初は、友好外交を推進していたのですよ。
関羽が隙を見せたため、以前より温めていた戦略を実行に移したのですよ。
魯粛も、劉備の益州攻略直後の隙をついて荊州に侵攻してますし、
基本的な事は、呂蒙も魯粛も変わりませんよ。
戦乱の世では、ただただ友好を貫くなどは有り得ないということでしょう。
単刀赴会で劉備、孫権の武力衝突が回避されたのは孫権陣営においては魯粛が
いたからではないか。
>>591 魯粛は、関羽と対峙して会見を申し込んでますよね。
そして単刀赴会となるわけですが、
その最中にも呂蒙は三郡を攻略しており、呉は得るものは得た訳ですよ。
また関羽も反乱を煽動するなど、やることはやってますよ。
表向きは上手に調整などして、裏では得るものを得る。
相手は騙す。油断したら好機とばかり攻める。
やはり魯粛も呂蒙も、そして劉備も基本的には変わりませんね。
魯粛と呂蒙じゃ基本戦略が全然違うだろ。
何で
>>592はその自説の珍説を繰り返し強調すんの?
いや、どちらも荊州を抑えるべし、という戦略はかわらない。
荊州返還請求を劉備が拒絶すると、魯粛は自ら軍を率いて侵入している。
魯粛はあくまで、劉備を呉の下に置いて曹操に対抗させようとした。
荊・益ニ州の領有を認めてしまったら、呉は劉備の下風に立たされることになってしまう。
劉備入蜀直後の衝突は魯粛主導でしょ。
演義のほうはともかく、魯粛はあくまで長江制覇論者ではなかった?
>>595 だが、劉備を完全に滅ぼして征服するところまで考えてなかったんじゃないの?
呉が主で劉備が従という関係が崩れそうになったから、そうならないように再確認とか
>>597 関羽斬った時点で、劉備軍が引かないなら滅ぼす覚悟はしてたんじゃないの?
そこまでは行かない可能性が高いとは踏んでいても。
実際にどこまでやる気だったのかは分からないけど
魯粛も呂蒙も長江全域を占領しようという考えだったから
当面の目標は荊州、その後で益州を獲ろうとしてたと思われる。
結局、孫権が言っているように魯粛に荊州を落とす程の軍才が無かっただけかと・・・・
南郡を劉備に明け渡したからには、荊州、益州を制圧する気はなかったのでは。
孫権が強気に劉備を圧迫したなら、益陽のあと、既に占拠した零陵を劉備に
返還することはなかったと思う。
呉としては、益州も含めた長江以南を確保するってのが理想だろうけど、劉備が先んじて益州を確保したため、現実的には荊州確保ってことになる。
でも実際のところ、赤壁前後の呉の国力では益州はおろか、荊州確保にしても、劉備の力が必要(赤壁後に呉の想像以上に劉備が荊州で勢力を伸ばした結果だが)な状態。
しかし、劉備が益州に入った(本拠地を移した)結果、荊州の確保がより一層重要性を増し、かつ魅力的になったのだろう。
215年〜219年頃の状況からすると、呉が荊州を確保すれば、自国上流部の安全保障を確実に出きる上、油断この上ない劉備を益州と言う僻地に封じ込めることになる。
呉としては、関羽云々以前に荊州確保は呉の基本戦略ってことでないかね。
読めば読むほど
荊州は落ちるべくして落ちた気がしてきたな。
かといって、天下統一よりも
割拠を優先する劉備なんてみたくねぇなぁ・・・
建業ではなくて交シに都があっても同じことかな〜
いずれにせよ荊州は呉の生命線。
もし関羽が友好的だったら長安まで攻め込むこともできたかな?
当然荊州を呉に返した上で。
蜀漢にとって、結果論的に一番良かったのは、関羽が江陵で睨み効かせて動かずにいる事だったんじゃないかな。
荊州から北上するぞ、って見せかけるだけで。
関羽が江陵を離れなければ、呉も迂闊に動けないだろうし。
>>604 次世代に不安を感じてたらそうも言ってられないんじゃない?
年齢的に無事に行っても劉備や関羽の寿命も後10年くらいだったろうし。
呉の方が若くて良いのが育ってきてるし。
本気で漢朝の復興を考えてたのか、魏を倒して天下統一まで考えてたのか
単に軍閥として大きくなる事だけを考えてたのか解らんが
孫呉の下の一軍団長になるのを良しとせず曹魏を討つ事を考えていたら、
あの時期に動かざるを得なかったんじゃないかな?
劉備にとって、曹操を討つというのは、理由はともかく本当にそれを願っていたのか
単なる人集めのお題目であったのかそれが関羽北上の理由に絡むんじゃないかな?
>>604 同意
>>605 > 次世代に不安を感じてたらそうも言ってられないんじゃない?
> 年齢的に無事に行っても劉備や関羽の寿命も後10年くらいだったろうし。
> 呉の方が若くて良いのが育ってきてるし。
このときの劉備が次世代に不安を感じていたとは思えない。
結果論で言えば劉備死後の蜀と呉の人材の質には差があるが、夷陵での損失が大きいし。
さらに関羽が北上した時の連携の悪さは戦略的なものを感じさせない。
完全な妄想だけど入蜀や漢中戦でまわりが戦功を上げていく中で
関羽が焦りを感じて暴走したんじゃないだろうか?
一応、辻褄があうような気がするんだけど・・・・。
今も昔も
“暴走”
ほど都合の良い理由付けは無い……が…しかし?
>605
劉備があの時期に次世代、あるいは自分の死去後のことについて、深く考えてたとは思えないな。
関羽の敗死後ならともかく、219年前半は漢中を平定したばかりで、彼の人生で最高の時期でもあるし。
自分の意見は、天下三分の計の中で、諸葛亮の進言はあくまで、益州方面からの侵攻が主攻であって、荊州方面はどこまで行っても助攻であるってこと。
つまり、荊州を保持し続ける事だけで、曹魏にとっては無視できない脅威になるんだから、背後を空にしてまで北上する必要は無い、って事。
隙あらば攻めるぞ、って言うポーズだけで、益州方面の主力への援護になる。
基本戦略が「主力・益州」であるなら、益州方面との連携もほとんど取らずに行った関羽の北上について、少々軍を動かす程度(国境を荒らす程度)の認識は劉備以下の蜀漢首脳にあったとしても、荊州軍の大部分を動かす大規模なものになると認識してたとは思えない。
時期的に劉備が漢中王になったばかりで、国家体制を整えるのに忙しく、益州方面から軍を動かせる状況ではない。
その辺りを考えると、
>>606氏のおっしゃるとおり、関羽の暴走と捉えるのが自然だと思う。
>>608 簡単に暴走する奴に任せたなら劉備の采配ミスが根本原因だよな。
呉が関羽を支援するから先鋒で攻めてくれと行って信じさせて結果総力で攻め
呉が裏切って関羽を殺した方が、呉がずるい感じにはなるが
全てその人の持つ情報なりに最善手をうった結果って感じになるんじゃないかな
関羽だって、単なる功名心からの暴走だけで単独攻撃するほどは馬鹿なじゃないと思うな。
そしてそんな馬鹿な関羽に任せるほど劉備も馬鹿じゃないだろ
そんな馬鹿に十年以上のさばらせるほどに呂蒙も無力じゃないだろ。
>>609 関羽以外に適任者がいなかったし。
簡単にというが10年近くはしっかりやっていたわけで。
大体その説で、騙されてる関羽はかなり馬鹿なんじゃないだろうか。
自分が侮辱した国が協力を申し出て、それを信じるってのは関羽らしい気もするけど。
あと呂蒙が陸口に入ったのは魯粛死後(217)。
魯粛は軍事的には無力といっていんじゃない。
呂蒙がいても関羽が北上しないかぎり全面衝突になってしまうので、簡単に落とせるとは思えない。
暴走したか、呂蒙の計略かは分からないが、何で北上があの時なのかは疑問。
>>611 煽てられるとつい乗ってしまう人物像は正史の記載にも反せず憎めない性格だから
嫌いじゃない。
人を信じ過ぎて失敗するってのは、聡明ではないが悪性ではないので嫌われない。
>>610 関羽が北上した理由という大きな穴には突っ込まず
その後の動きの細かい矛盾で呉の計略説を否定するのはどうよ。
じゃ、関羽が北上したのがあのタイミングだった事に対する明確な
理由付けをプリーズ。
実に呉にとって都合よすぎるんじゃないの?
呉に都合が良い動きなら、呉がその動きを計画している方が自然では?
>>612 馬超伝・黄忠伝の記述から暴走説かな
特に黄忠の話はタイミング的に完璧だろ
好き嫌いで語られてもねえ
>>610で指摘した矛盾に対する答えを聞かせてもらえる?
>>612 >>人を信じ過ぎて失敗するってのは、聡明ではないが悪性ではないので嫌われない。
ていうか関羽は嫌われていたんだから計略説はないじゃん
>>614 仮に煽てに弱くて安請け合いする上司を持ったら部下としてどうよ?
他人だから好感が持てても、上司だったら迷惑だろ。
細かい矛盾に対する最も自然な説明は
何らかの判断ミスで関羽出兵
↓
自然災害により偶然に大勝
↓
大勝の結果食糧不足
↓
(援助の申し出か何かで油断して)食糧不足より呉の兵糧を奪う
だと思うんだが
これだけ見ると関羽を無能扱いしているように見えるが
関羽個人の問題に関係なく、実戦経験が乏しく・大局を見る力も特別無い武将なら
これくらいのミスはあってもおかしくないだろう
しかも一国対一国だったら大敗こそするだろうが命を落とすほどの失敗ではないだろう
呉との外交関係を調整できなかったことに関しては、劉備及びその幕僚に責任がある
のでは?一軍の指揮官に過ぎない関羽に孫呉との駆け引きまでやれというのは酷かと。
>>617 だから、その部分での問題が露呈してる状況下で出征してる事に問題があるわけ。
>>618 だから、関羽の主観では問題が露呈していない状況だったから動いたんじゃないの?
単なるボケから、呉の計略まで幅はあるだろうけど、関羽は呉との外交上の問題がない
と判断して北上し、関羽の幕僚たちも少なくとも命がけで止めるほど大きな問題を感じて
いなかったと思う。
関羽北上に反対した上で生き残った人物とかいたら、普通記録残ってるでしょ。
>>619 士人層は関羽の失敗を望んでたのかもな
関羽が更迭されるのを待つか
いっそ呉の支配下のほうがマシだと思ってたとか
>>620 それはありうるな。
もともと土着の士人達にとってみれば劉備はまだしも、関羽に対して心服して
いたとは思えないし。
>関羽の主観では問題が露呈していない状況だったから
これが事実なら状況の認識不足もいいところだろうさ。
あいた口が塞がらないよ。
>>619,621
> 関羽の主観では問題が露呈していない状況
> 関羽は呉との外交上の問題がないと判断して北上し
最初は警戒していたわけだから、関羽はそこまで馬鹿じゃない。
>関羽北上に反対した上で生き残った人物とかいたら、普通記録残ってるでしょ。
陸遜の計略で南郡の守備兵を減らしたときでさえ反対した人物の記録が無い。
反対したものが誰もいなかったのか、記録に残らなかっただけかと考えれば
後者だと思う。この時の蜀の記録は少なすぎるし。
>>622 警戒してながらも攻めたって事は、攻めても大丈夫と踏んだって事でしょ
呉が協力するから魏を攻めてくれといい、一応警戒しながらも攻め始め
呉の協力と攻撃する意志のなさを(嘘だけど)感じ取ってから警戒を緩めた
っていうのと。
呉との関係はしっかりこじれっぱなしで後に問題を抱えている状態で、
一応の警戒はしつつも二正面体制で攻めはじめる。
後者の方が愚かでしょ。
>>623 呉の計略説に基づいた話だったの?
私は呉の計略説は無いと思っているので、正史の事実関係を整理したつもり
だったんだけど。
確かに、関羽は攻めても大丈夫と判断しただろうけれども、それが=呉との
外交上の問題がないと判断、では無いと思う。関羽は守備兵をこれだけ残せ
ば呂蒙、陸遜は攻めてこないと判断して北上したと考えるのが普通ではない
か?どちらがより愚かなのか、という問いは無意味だけど私が比較したかっ
たのは、関羽は呉が攻めてくる可能性を考えて北上したのか、考えずに北上
したのかということ。
>>624 残せば大丈夫なら、引き上げちゃ不味いでしょ。
そうしないと攻めきれない状態で攻めるのもおかしいし。
>>625 判断の正否を問題にしていたのではなく、そういう判断をしていたのでは?
ということ。当然、陸遜の時の判断は間違っていた。毎回万全な状態で出陣
出来るわけではないでしょ?攻めきれるか、攻めきれないかというのは最終
的には、行ってみなければ分からないわけで予測と違っていた、余力ができ
たと判断すれば、臨機応変に対応するべき。
その判断をしくじったのだから、関羽は非難を受けても仕方ないやね。
役立たずの2チャネラーごときに非難される筋合いはない
お前はそれでいいや
>>616=609=612でいいのか?
>>610で指摘した矛盾というのは
なぜ呉が商人に偽装して隠密行動したのかということなんだが?
さらにいえば呉の計略だったとすれば史書に残らないはずはない。
同一判定基準がよく分からんが
自分は612のいう細かな矛盾点とやらは関羽のミスと考えた方が自然ではと言ってるんで
610と同じ考えだよ
ちなみに346も自分何で
大軍を率いる上では実戦経験の不足した将軍がミスを犯したと考えた方が
兵法マニアの呂蒙が二重三重の無駄に複雑で効果の低い計略を用いると考えるより自然だろう
>>631 スマソ
その前に細かい矛盾とかいう話が
>>612で出たし
返答も無かったようなので勘違いしたorz
結論。関羽が動かず公安でじっとしれいればよかった。
関羽の北伐って、彼の独断なの?劉備による命令なの?
後者だとしたら、本国からバックアップが全くないってのが。
>>633 節と鉞を授かったのが北上の直前なので独断だと思う。
劉備の命令だとしたら、おっしゃるとおり不自然な程の連携不足だし。
節と鉞を与えたのと黄忠を同等の官位につけたのが関羽の暴走の遠因と思ってるんだが。
ただ黄忠を後将軍にする時に関羽の性格を読めたのがあの諸葛亮で
間違えたのが劉備という点が微妙かな。
独断だろう。呉からの攻撃は無いものと見て魏にはやられる前にやってしまおう
という考えだったろうね。それよりも第一の関羽の目的はハン城奪回なのか曹操
を倒すことだったのか?いずれにせよ暴走に違いない。
636 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 13:40:34
蜀の記述が少なすぎるから分からんね。兵糧の少なさから襄陽を
占領するところまでだと思うが、もし許まで攻めるつもりだったと
してもハン城で梃子摺っている間に方針転換してるんじゃないかね?
独断、暴走だとすれば、しっかりした戦略はないだろうから、襄陽
を簡単に落とせたら次を狙う位の考えしかなかったかも。
sage忘れスマソ
638 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 13:50:02
一応ハン城囲んでるときに、関羽は劉封、孟達に援軍要求してるん
だけど、手が回らないってことで断られた(演技じゃ麦城への救援
ってことになってる)で兵力足りないから呉の防衛線の兵士を包囲
にまわした(呉の策略でもある)。連携ミスでもあり、関羽の判断
ミスでもあったわけだね。っていうかそれまでの経緯で関羽が
呉との関係にまったく配慮していなかったってのがそもそもの原因。一人で
何でもできると思ってた。
演技じゃ知勇兼備の名将みたいに書かれる関羽だけど、正史じゃ『自分の
勇猛さを頼みにしばしば危機におちいることあり』って書かれてるし。
>>638 多少の配慮をされても隙あらば攻める。
呉にとって南郡の重要性は、そのくらい大きかったと思う。
関羽の判断ミスは大きかったが、あの状況になると天下三分という戦略そのものが破綻してたんじゃない?
640 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 14:16:12
>>639 もともと中原を押さえられた時点で、呉・蜀が逆転するには
無理があったと思う。
あの段階で魏にとってみれば蜀、呉を攻めるリスクを冒さないでも
ほっとけば自沈するってぐらい磐石だったから、それが天下三分を
支えた一番の要因じゃあないかな?
>>639 というか、孔明が言った(とされる)天下三分策って成立した時期もないのでは?
荊・益を抑えてというが、荊州は不完全にしか抑えられなかった(最後は全て失った)。
呉と共同してというが、同盟関係はロクに築けず呉はつねに荊州から益州へと狙っていた。
(関羽・劉備・孔明それぞれの死後に軍を動かしたり、益州南部で反乱煽ったり)
共同して魏にあたったことも正史では一回しかない(それも呉が早期撤退して終わった)。
>>641 言われてみればそうだね。天下三分も魯粛の天下二分にしても
曹操の荊州進軍の時期をもっと遅いと予測してたんだろうね。
> 呉と共同してというが、同盟関係はロクに築けず呉はつねに荊州から益州へと狙っていた。
> 関羽・劉備・孔明それぞれの死後に軍を動かしたり
ここが良く分からないんだけど、そんな事あったっけ。
643 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 14:49:59
>>642 あったねえ。
そもそも蜀・呉の同盟関係にしたって、絶対的な盟友関係
って訳じゃなかったから。トウ芝も孫権に堂々と天下2分がなったら
両国は戦争になるって言い切ってたし。
>>643 あ、その台詞って演義だけじゃないんだ。
>>645 ケ芝の話は正史にもあったと思う。
>>641 劉備死後というのは雍ガイのことかな?
厳密には呉が煽ったとはいえないような。
関羽・孔明死後は分からないので詳しい人プリーズ。
(´_ゝ`)<子明、本日は何を読んでいるのだ?
(・ω・)<ウン キョウハ 「ハクキ オウセン レツデン」ヲ ヨンデルヨ
(´_ゝ`)<おお、『太史公書』か。しかし、白起に王剪とは、足下はよくよく武人が
好きなのだな
(・ω・)<ウン ヤッパリ ボク ノ ホンリョー ダモノ
ソレニ ハクキ ッテ フハイ ノ メイショウ ナンダネ
(´_ゝ`)<うむ。往時、白起は六国を相手に、ついぞ遅れをとる事がなかった。
しかし、常に衆を以って寡にあたっていたわけではない
大国の楚や合従の軍が相手の折は、むしろ劣勢であったのだ
(・ω・)<ジャア ドーシテ フハイ デ アリツヅケラレタノカナ?
(´_ゝ`)<白起は、戦陣に臨むにあたり、将卒の心をよく掴んでいたのだ
”軍中を以って家と為し、将帥を父母と為し、約せずして親しむ”
と言われた如くであった
(・ω・)<ナルホド〜 ソレガ ツヨサ ノ ユエン ナンダネ
(´_ゝ`)<それだけではない。白起は、常に戦場において敵の心理を読み、
その虚を衝いた。これこそ、”利を形勢に計る”というものだ
(・ω・)<ヨクワカッタヨ ボク モ センジョウ デハ ココロシテ タタカウヨ
(´_ゝ`)<うむ。足下も三軍の将帥となれるように励むことだ
(・ω・)<ウン トラエタ テキヘイ ハ ミナゴロシ♪
(´_ゝ`)<(イヤ、ソコハマネセンデモ……)
すいません。誤爆です
呂蒙:三国志に残る卑怯武将と中国人に非難されたかわいそーな武将。
挙げた功績は数知れず。呉の安泰に貢献した呉の名将。
まったくもって中国人は愚かである。
日本人が信長を悪役に使うことが多いのと同じかもしれないが。
関羽:三国志演義の名将。演義で挙げた功績は数知れず。
さらに演義では曹操を追い詰める、曹操を恐れさせるなどの場面も。
しかし正史では演義で挙げた功績なんかちっともなく、顔良、ウ禁を倒した程度。
中国人のみならず韓国人や日本人にも人気がある。
まあ漫画のヒーローに憧れるっていう表現が正しいかもしれない。
>日本人が信長を悪役に使うことが多いのと同じかもしれないが。
三国志の人物だったら、曹操じゃないかな。政治、軍事、詩文の世界で後世に与えた
影響ははかりしれないが、一般的には悪役の代名詞。
聞いた話ですが、京劇の曹操は日本人が一般にイメージする董卓のようにでっぷり太
った極悪人だそうで。
戦乱の中原に秩序と安定をもたらしたのは曹操なのに、何もなさず逃げ回っていた劉備
が正義の味方になっているところなどは司馬遷に同調してしまいますね(「人気なんて
いいかげんなもの」)
>>651 俺は中国で直接数人の中国人に聞いたけど、
みな大人物として評価してたよ>曹操
劉備を揶揄する考えだって数十年前から中国にあるし、
4コマ漫画でもあったな。
曹操の子孫も胸を張っていい時代になったと、
NHKのドキュメントでも観たし…
ある男性が本当に自分が曹操の子孫なのかどうかを
正式な調査官が家系図を調査してもらって、そうだと判明すると、
「君の鋭い目つきは、確かに曹操の様な英雄の風がある!」と調査官に
讃えられたりしてた…やじ馬とか親戚とか大勢でわいわい集まって、マジで微笑ましい。
(よく言われる通り中国人って、親しくなれればホントに良い人達なんだよな〜)
もう「曹操=悪役」ってのは、物語での建前と化してる希ガス。
過去にも言及されてたかもしれないけど何で呉は関羽を斬っちゃったんだろう?
生かしておいた方がいろいろ選択肢が増えて呉にとって良かったような気がする。
蜀との関係修復の材料にもなったろうし、蜀に生きて送り返せば蜀内で関羽の処遇をめぐっていろいろな軋轢が生まれる可能性も高かったと思うのだが?
関羽を捉えたのに斬った判断は微妙だとは思う。
蜀との対決を避けるつもりなら、身柄を大切に扱ったほうがいいはずだし。
呉が蜀より上だから、呉に歯向かった蜀臣なんて幾らでも斬って良いんだと
示すつもりだったならまあありか。
関羽が独自に動くのは怖くないけど、ちゃんとした軍略の先鋒になるのは怖かった
とか位の感情はあったのかも知れないなぁ。
>>650 >顔良、ウ禁を倒した程度。
演義に比べると微々たるモノだが・・
それはそれで結構なお手柄だと思うが。
>>655 于禁はともかく顔良は大手柄だと思うぞ。
顔良に何があったかは知らんけど・・・・
>>654 とりあえず斬るしかなかった。
押さえつけておくこともできなさそうだし、解放すればまたいつか報復を受けることになるから。
呉の側近は目先のことしか見てなかったようにも見えるが実際呉は長く続いたので結果オーライ。
張昭が近くにいたらもしかすると斬られなかったかも。まあ演義の話に近いが。
>>653 >>654 裴松之注だと、捕らえられてからすぐさま殺されたみたいなので、
孫権とか上層部の意見とは関係なく現場の判断で処断された
可能性があるな。
>>658 現場っていうと、呂蒙・陸遜ラインの話?
呂蒙だと病死までの期間からして本気で体調も悪くしていて生きている内に排除
って考えた可能性はあるかな?
荊州奪った状態で関羽返したら、張飛らと共に奪還軍の先鋒で攻めてくる可能性は
高いだろうから、それは怖れてたのかな?
どのみち奪還軍は来るとして、
関羽達を返還して下がる気勢+関羽先鋒の脅威>関羽を殺して上がる気勢+関羽抜き
で左が大きな障害って判断したんだろうな。
一部将として戦場で戦う関羽は怖れられていたのかな?
戦場での関羽の名声はともかく、兵法に明るい現場の呂蒙や陸遜が
一人の武将(しかも実戦経験少ない)をそこまで病的に恐れるとは思えない
やはり劉備の持っていた大義から考えても、
あそこまでの大軍を派遣する暴挙に出るとは思えなかったこと
また、魏は関羽の侵攻を恐れたので、魏と近づくのに丁度良い外交材料となると考えて殺した
って感じで、蜀より魏との関係改善を優先しただけなんじゃない?
>>659 関羽の処断は潘璋と馬忠。
それはそうと、関羽の斬首という処断に疑問を持ってる連中が多いけど、
そんなに不可解?
少なくとも呉は関羽の動向に留意し、わざわざ隙を生じさせてから南郡へ
侵攻したくらいだし、北方での戦果と中原に及ぼした威名から考えれば
生かしておいては後日の災いになるのは明白。
生かして返せば後に雪辱戦をしかけられて後悔し、殺せば劉備が報復に
来たとして後悔する。いずれかしかないと思うんだが?
関羽を殺したあとすぐに蜀に攻め込む準備をしていたのなら理解できるけど
そうじゃないってとこに引っかかるのでは?
魏がいつ攻めてくるかわからない。事実イリョウの後攻めてきたわけだし。
呉は徐々に蜀を弱らせ、魏を警戒してたってことでいいのでは?
たしか周泰伝に孫権は蜀攻略をもくろみ周泰を漢中太守に任命したとあった
どこまで本気かわからんけど、呂蒙が病死したから辞めたのか
襄陽、ハン城占領に趣旨をかえたから辞めた可能性もあるかも
結論:腹が減っては戦はできぬ。
関羽って斬首なの?逃げる途中で刺し殺されたんじゃないの?
捕らえられて斬り殺された
関羽を捕らえたときに、生かしたまま
魏におくっとけばよかったんだよ
>>667 俺もさっき同じこと書こうとしちゃったよ(´・ω・`)
669 :
667:04/12/11 10:32:04
あくまで呉は魏の手伝いをして、漁夫の利を得ただけです。
その副産物として、関羽を捕らえたけど、呉にとっては別にいらない
ものなので、魏に送りますんで、勝手にどうにかしちゃってください。
っていう感じにしておけば、劉備・張飛の怒りは魏に向いていたと思う。
呉はあくまで、荊州を返してもらったというスタンスで・・・
何をやっても同じ。
荊州奪った時点で劉備の矛先は呉に向けられる。
ならば、大きな害となる関羽を殺すのは自然の道理。
>>670 そうでしょうか?
夷陵までの蜀の快進撃は、関羽の弔い合戦で
劉備自身が兵を率いることによって士気が高かったから
だと思うのだが。
関羽の死がなければ、荊州奪還軍を出していたとしても、
劉備自ら兵を率いることはなかったと思う。
そしたら、陸遜(呂蒙)にあっけなく負けていたさ、きっと。
荊州士族の士気は高いとは思うが・・・
関羽を牢屋か何かに放り込んでて、劉備に攻めてきたら髭を殺すっておどしたら?
>関羽の死がなければ、荊州奪還軍を出していたとしても、
>劉備自ら兵を率いることはなかったと思う。
>
これについては、関羽の生死に関係なく劉備自ら指揮をとるのは間違いない。
劉備の戦歴を見ればわかるけど、基本的に自ら兵を率いる。
特に顕著な例が、荊州南部を呉に奇襲されたとき
魏が漢中に侵攻しているのにも関わらず、成都を離れ関羽の援軍に向かったケース。
自身百戦錬磨の軍人であるという劉備の自負の表れなのか
兵を任せるだけの人材がいないと判断したのか
他人が信用できなかっただけなのか、理由は分からないけどね。
>>あくまで呉は魏の手伝いをして、漁夫の利を得ただけです。
その副産物として、関羽を捕らえたけど、呉にとっては別にいらない
ものなので、魏に送りますんで、勝手にどうにかしちゃってください。
天下の関羽がそんな箱男みたいな処遇に甘んじるとは思えないんだが
そんな目に遭わすぐらいなら殺してやるのが情けでは 敗軍の将なんだし
呂布やホウ徳みたいに
孫権も呂蒙も関羽を殺すのが目的ではなく荊州奪還が目的であろう。
魏に送るのが最善であったと思う。まあ魏に送ればそっちで確実に処刑だろうし。
呉としては自分の手を血で染めずに済むのだ。
処遇に甘んじるっていっても捕らわれの身では自由はきかないのでは?
やはりこう見ると潘璋と馬忠の暴走って見方も出てくるな。
>>676 潘璋と馬忠の暴走はないだろ。
孫権にしてみれば
魏に送って降伏されても困るし
魏から蜀に返還されても困る。
蜀に関羽を返すのも困る。
こんなところじゃないの?
関羽を魏に送るのは最善に思えるが、実際はそうはいかないと思うな。
関羽が樊城を包囲を解いて撤退したとき、
趙儼は「関羽はすでに孤立無援だが、ここは追撃せずに孫権の障害として
残しておくのがよい」と進言して、曹仁はそれに従っているし、
曹操自身もそのように命令している。
以降は夷陵の戦いが終わるまで魏は呉蜀の争いに関しては
介入せずに漁夫の利を狙っている。
だからこの時に呉が関羽を殺さずに魏に送ろうとしても、
魏の方で色々と難癖付けて関羽を受け取らないことは十分ありうる。
魏の曹操や司馬懿、将済とかにしても、呉が劉備の怒りを魏に向けさせようと
画策して関羽を押し付けていることくらい、いくらなんでも想像つくだろう。
その上で関羽を受け入れるとは思えないけど。
やはり殺すにしろ捕虜とするにしろ呉側でなんとかするしかない。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/11 20:33:19
そういや、夷陵の戦いでは、劉備は兵法のほぼ定石通りに軍を進め、
コレといった失策はなかったという説を耳にしたが、いかがでしょうか?
ただ陸遜の策が凄すぎたという事だったとか。
益州からの東征は難しいからね。
夷陵を抑えられると平野部への展開に時間がかかって各個撃破される恐れがあるし、
前線に兵力を集中しすぎると長く伸びた兵站線を攻撃される。
呉班を囮にして敵を誘き出そうとしたり、荊南の蛮族らを呼応させたりと色々やったが、
持久戦を選択し劉備の疲弊を待った陸遜にしてやられた感じだ。
荊州に策源地おけないと
狭隘地の出口で殲滅されちゃうってことね
益州はよくよく天下統一の本拠地には向かないんだな
補給線の確保で劉備軍を分散させた陸遜の作戦勝ち
劉備が用兵下手というのは酷な話
何百年も前から、益州→荊州侵攻は長江を下るのが普通だろ‥
負けると酷いけど、劉備はそこまで考えて無いから
夷陵の戦いは劉備の凡ミス。。
>>683 江陵無いのに長江下ると戻れんのですが…端から勝利ONLY攻めすか?
別に遡航出来ないワケじゃ無いよ、勝たないと難儀だろうけど‥
>>684、呉史読め
>>686 劉備が凡ミスしたっていう詳細をもっとちゃんと説明しろ
688 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 10:33:32
>>683 劉備が凡ミスしたっていうよりも、劉備よりも陸遜のほうが
1枚上手だったということだと思います。
さあ、盛り上がってまいりました!
物事には過程があるからな
夷陵の戦いは凡ミスの一言で片付けられても
納得しないでしょ
攻め込んでおいて、長期対陣を余儀なくされてるからなぁ‥
しかも補給、滞陣に便利といっても、縦長ぞろぞろ〜と布陣してれば
そりゃ負ける罠
凡ミスの一言で片付けられるのは
街亭の馬ショクと合肥の孫権ぐらいだな
>>691 でも陸遜以外の呉の部将は持久策に反対で
積極的に迎撃しようとしてたぞ
魏が虎視眈々としてる中で長期戦に持ち込むという
意図は両陣営になかったのかもしれん
まあ劉備が攻め込まなければいいだけなんだけど
>>683じゃないが
劉備の凡?ミスは水路を捨て、陸に長々とした陣営を築いたことかな。
といっても曹丕がいうほど簡単な戦だとは思わんが。
どんな戦だって負ける方にはそれなりのミスはあるし。
結局、進軍を夷陵で止められた時点でかなり苦しい状況になったのは否めない。
>>693 朱然は賛成してたっぽい。
>>684 いやいや 水路はとれんやろ
水軍力に差がありすぎる
赤壁でそれを目の当たりにしているわけだし
呉と敵対している周辺民族と連携して攻め込むというのはそう悪くはないような
>>695 いや、そんな事いわれても陸遜が言ったとされる話だし
恐らく劉備の作戦は、呉班に呉軍を挑発させて引きつけ
手薄になった江陵を長江を下って一気に落とす、というものだったのではないだろうか。
そのため陸遜も当初は慎重にならざるを得なかったのだろう。
しかし夷陵で甘寧が戦死したってのは時期的にアリでも潘璋と馬忠、朱然が戦死
ってのはいいんだろうか?徐晃が孟達に射殺されたってのも時期的にオッケーだが・・・。
演義はやばいな〜
一番ヤバイのは馬良だろう
馬謖が重用されたのが劉備の自業自得ってことが隠されてしまっている
朱然と潘璋は、夷陵の戦勝直後の魏の南征で、諸葛瑾や楊粲じゃ埒が
あかない江陵を内外から救った立役者なんだけどね。
俺、「演義」モノは昔に横山三国志を読んだだけで憶えてないんだけど、
「演義」では誰が江陵で魏軍と対峙したの?やっぱり陸遜?
>>698 関羽の死に関わった連中を強引に殺してるだけだからな
さすがに孫権、陸遜、ハンシュンあたりは死んでないけど
朱然と潘璋は演義ではまったく見せ場がないからなあ
丁奉は張遼を葬るという破格の見せ場があるけど
関羽の呪いとか言っても実際死んでるの呂蒙だけだし。
本当に呪ったのなら孫権、陸遜あたりも死んでるはずじゃん。
関羽を持ち上げようとしてもイメージ悪くしただけでした。
曹操も関羽の呪いで死んだって言うには微妙だのう〜
>>701 ハンシュンは、殺さなかったというより最初から出番自体がなかったような。
内政官僚が軽視(無視)されるのは演技では仕方ないことですが。
むしろ、逆に、正史において劉備ら蜀軍に討たれた人物って誰がいた?
麋芳と士仁ってのも、つくづくかわいそうなあつかいだな
中国人のキチガイぶりが如実に表れてるな
>>703 関羽のイメージは別に悪くなってないだろ。
むしろ悪くなったのは呂蒙。
このスレにも呂蒙が卑怯者とか言ってる香具師がたまに湧くし。
そもそも小説に難癖つけてもなあ。
個人的には羅貫中は大嫌いだが。
劉備は夷陵に攻めなきゃ荊州士人に
クーデター喰らってたと思うよ
>>707 おそらく正史を知ってる人にとってイメージが悪くなるってことじゃないの?
つまりこのスレの人間にね。
呂蒙=卑怯者でいいじゃん。他の武将も卑怯者ってことで。
卑怯だと思う奴は三国志好きになりたてなヤシとか
ライトなオタとかでしょ
だから議論する気もない
卑怯って、ある意味で誉め言葉なんだよな。
まぁ、虚を突くという意味に置いては兵法に通じていた呂蒙にとって誉め言葉だな
でも実際に卑怯なんて言えるのは、お話しに出てくる話しかけようとした顔良を斬った関羽だな
なんで、神格化されている関羽にあんな話が出てくるんだろうか
>>711 正確に言うと、負け犬の遠吠えというか、敗者から勝者への賞賛。
>>711 ニュアンス的には、『君は勝った、だが正々堂々としていなかった。正面からの勝負は怖かったんだろう』
ってな辺りだろう。
まあ、正々堂々に拘って両者の兵を損なうのは当時の人間としては迷惑だし、優れた将の取る事ではない
って部分はある。
後世の第三者の目で見ると、たとえ損害が多くても正面からの勝負で勝ってる方が『格好良い』と思う
のは人の情として仕方ないだろう。
大国魏を脅かしていた関羽を討った奴が変わりに魏を苦しめてれば庶民感情的に許せても、そうならず
自国領の保全に勤めたあたりも、大衆心理として歓迎したくはないだろうし。
基本的に弱者サイドの方に肩入れするのが庶民の人情だからなぁ。
三戦板ってなんか
真剣十代しゃべり場みたいな所だね
みたいというか事実その通りだしな
そんなに年齢層が高いとは思えんが‥
いや〜逆に高いでしょう。
世界史を知ってる人でないと。
漢字も難しいし。
おそらく20代が一番多いでしょう。
>>711に食いついた連中は年齢層が高くないだろうな。
書いた本人としては少々哀しい。
話がオバカすぎて意味わかんねー。
呂蒙が卑怯者なら関羽はただの馬鹿。
やっぱ三国志のイメージが悪くなる。
呂蒙は知略に長けた名武将。
関羽は名高い猪武者。
こんな感じでいかがかな?
絵本としてはそこそこの出来栄えです。
孫権はバカ
そろそろ結論出してもいいころだな
「関羽討伐について…」
結果的に一番得したのは呉、荊州を得たことによってその命脈を延ばすことに成功した
一番損したのは蜀、荊州の失陥という単純な国力だけでなく、
その後の夷陵の戦いで人材を減らしたことも滅亡を早めるものとなった
主な登場人物評
関羽・・・司令官としては論外 ただし、彼の出兵前は大した失点はなく出兵したことが悔やまれる
劉備・・・荊州を任せることの出来る重鎮は関羽だけであり人選を責めることはできない
呂蒙・・・戦わずして勝つ、兵法の実践においては文句なし ただ関羽が動かなかった場合はどうだったか?
魯粛・・・長生きしていれば、呂蒙の得た名声を彼が受けたのか、もしくは荊州を取ることができなかったのか?
>>725 結論はほぼ同意
関羽・・・軍人としての名声は申し分なしだが、統治者としての才能はなし
劉備・・・関羽に批判が集まるが劉備自身も対呉政策を軽視しすぎたのではないか
呂蒙・・・最高の功績をあげるも、自らの死後の成り行きをどこまで把握してたのだろうか
孫権・・・関羽を殺し、蜀魏同時に敵になる状況を招くも自身の外交術で切り抜けたのは見事
>>726 >劉備・・・関羽に批判が集まるが劉備自身も対呉政策を軽視しすぎたのではないか
ここはハゲシク同意だな
関羽の後方を安定させるのは究極的に総司令官の仕事。
呉の戦略上激突は不可避だとしても、
劉備陣営が対呉政策で最善を尽くしたとは思えない
卑怯者の集まりの呉を軽視した劉備は愚かであるな。
>>725 > 魯粛・・・長生きしていれば、呂蒙の得た名声を彼が受けたのか、もしくは荊州を取ることができなかったのか?
後者だと思われる。少なくとも呂蒙のようにはいかないだろうね。
>>726 > 関羽・・・統治者としての才能はなし
関羽の荊州統治自体は問題なかったと思うが。
> 劉備・・・劉備自身も対呉政策を軽視しすぎたのではないか
関羽の北上が劉備の指示だとすればその通りだけど、おそらく関羽の独断と思われる。
北上しなければ江陵が攻められる可能性は低い。
個人的には劉備のミスは黄忠の人事と節と鉞を関羽に与えたことだと思う。
> 呂蒙・・・自らの死後の成り行きをどこまで把握してたのだろうか
生きていれば蜀の攻略を実行していただろうからなんとも言えない。
> 孫権・・・関羽を殺し、蜀魏同時に敵になる状況を招くも自身の外交術で切り抜けたのは見事
関羽討伐前、孫権は魏に降服してる。夷陵の時も厳密にいえば同時に敵対していたとは言えないと思う。
結果的に一番得したのは魏だろうが。
呉ヲタはそこを勘違いしてるなw
と理由もなしにいきなり言われても
何とこたえてやればいいのか困る。
そりゃ魏が一番得したってゆうか呉も蜀も魏に乗せられてしまったわけだ。
漁夫の利だ。
>>731 魏は呉より先に滅びたことを知っていますか?
>>734 それは、呉に司馬氏がいなくて、魏に居たからとも言える。
呉は魏を則った晋によって滅ぼされたんだから、頭の人物を問わず
勢力の固まりとしてみた場合、魏晋系が勝ったわけだし。
論点のすり替えにもなってない罠‥
>>735 関羽討伐で南郡を獲らなかったら呉が魏より先に滅びていたという考えは浮かびませんか?
あの時点で呉蜀が魏を倒せる可能性が高かったなら
>>731のいうことも分かりますけど、そんな訳ないですよね。
そもそも魏が滅びた(?)事と荊州問題はまったく別問題なのだが・・・。
魏の場合は内部崩壊というか
ただの権力交代というか
呉と蜀の滅亡の仕方とは根本的に違う罠
結果的に一番得をしたのは呉じゃねーか。
魏は呉蜀の脅威が若干減った程度で、得をしたとしても微々たるもの。
関羽討伐がなかったら魏は滅亡寸前だったというのなら話はわかるが、
全然そんなことはないし。
>>738,739
呉の滅亡が早まる(というか成立しない)可能性が高まるってのはいいよね?
魏が滅びるということが別問題というのは分かりますが
関羽討伐と魏晋の統一も別問題。荊州戦、夷陵の後で魏が何を得たというのでしょうか?
私は関羽があのまま北上したとしても何も出来なかったと思っているのですが。
一番得したのは魏という意見
理由1:蜀・呉の対決により魏が漁夫の利を得た
回答
漁夫の利というのは双方疲弊してくれなければ成り立たない、
荊州、夷陵と呉が疲弊し見事に魏が蜀や呉の領地を奪えたわけでもなく
逆に呉は国力を強めたので魏が漁夫の利を得た事実は存在しない
理由2:蜀が荊州を失って国力を落とし滅びたことが呉の滅亡に繋がった
回答
呉の滅亡は権力闘争・暴君の登場などで人材面を含む国力の低下が原因である
蜀が263年に滅亡し、呉が280年に滅亡しており20年近くの開きがある
時間的に見ると短いように感じるが、274年に陸抗が死亡していることと
265年に晋が誕生していることを考え合わせると
基盤を既に持っていて新興の勢いを持った国が疲弊しきった老国を倒したと考える方が
蜀が滅びたので呉も滅びたと考えるより自然
また、呉が蜀に同調した場合、魏を討てても正当性を持っている蜀が優位に立つのは当然
よって呉が蜀の国力を強めることに呉の益は見いだせない
理由2の回答が馬鹿すぎて話にならんのだが‥
>基盤を既に持っていて新興の勢いを持った国が疲弊しきった老国を倒したと考える方が
>蜀が滅びたので呉も滅びたと考えるより自然
蜀が滅びたから呉が滅びたというのは間違いではない。ただそれよりも
>>742の回答の要因の方が大きい。荊州を失ったから蜀が滅びたというの
も間違いではないけど、滅亡の要因としては遠すぎる。
さらに呉の視点から考えれば江陵は必須の地。ここを得たおかげで孫権は
皇帝になれたといってもいい。逆に取れなかった場合を考えると統一が早
まった可能性が強い。
魏が一番得をしてると考えてる人たちはどんな利益があったというのだろ
うか?関羽の撃退?夷陵での呉蜀の消耗?
荊州奪取によって一番得をしたのは、呉。
統一を目指してなかったとしても、長江より北に防衛線を引けるのと、
荊州での兵站確保は呉にとってはやはり大きい。
国力で蜀より上になることによって、「先に滅ぼすなら蜀」と、
魏の視線を蜀に向けさせることができ、結果的に呉の存続に繋がる。
魏の利益をしいて挙げるなら、魏討伐に意欲的な蜀(関羽)よりも、
消極的な呉のほうが、隣接するなら防衛しやすくて良いということ。
また、意欲的な蜀の国力が低下することによって、蜀の滅亡が
早くなることくらいかな?
呉が存続する期間が長くなっただけで結果的には焼け石に水であったかもな。
と言うより孫コウみたいな君主じゃなければもっと呉は長く存続していただろう。
民の心が離れたときが滅亡の時。孫に恵まれなかった孫権。
もっとも劉備は息子にすら恵まれなかったわけだが。
孫コウに比べたら劉禅ははるかにマシかと。
呉と違って臣下に見捨てられず皆最後まで戦ってくれたし。
有能な者に国政を任せるという姿勢も間違っちゃいないし。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 10:40:15
孫権が長生きしすぎたことも原因のひとつだと思う(老害)。
その行き着いた先に孫皓の悪政があるわけだし。
孫権の老害・孫皓の悪政に関しては判断が難しい
明らかに失敗だとはわかるけれど、
士族を押さえなかった場合第二の魏→晋になりかねなかったかもしれない
いずれにしても、外戚の台頭など、滅亡の兆候が表れていた呉には、
蜀と命運を共にしたなんてロマン溢れる原因より先に滅亡する準備は整っていた
劉禅に関しては三国時代の君主だったことが不運というしかない
蜀スレでも話題になっていたけど恩赦が多すぎる以外失点らしき失点はなく
統一後の君主だったら名君になれる可能性もあったかもしれない
ただ、乱世のような状態での君主としての資質は全く持ち合わせていなかった言える
国を滅亡させる時点で暗君でしょ
で、結局魏が一番得したとかいってる奴は
なんも回答なしか
いつもの煽り即逃亡のパターン
>>750 それは極論だな。
趙高の排除に成功した子嬰も暗君になっちまう。
劉禅=引きこもり、ニート
孫皓=DQN、借金まみれ
これぐらいの差かな
755 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 18:37:56
劉禅は、治世の能臣、乱世の迷君。
孫皓については同意。
治世の能臣って・・・
泰平の世では名政治家として能力を振るうのか?
有り得んわ
臣・・・?
>>755 > 劉禅は、治世の能臣、乱世の迷君。
何で治世で臣になるのか知らんが、
>>754の方が的確だろ。
親(孔明など)が養ってくれてる間は特に問題もなかったけど
そいつらが死んだら何も出来なかった。
宰相にすべて任したり
宦官にいいようにされるあたり
政治に興味がないだけに見える
野心がないんだろうな劉禅は
凡君であり迷君でもあるって感じ
>>752 いつも煽りで逃亡してるのは呉ヲタの方だろ。
たった数時間返答がなかっただけで逃亡扱いできるなんて
お前は相当なヒキコモリなんだろうなw
だいたい呉は自分の土地を取り返しただけだろ?
それを「得した」などと言えるのは呉ヲタぐらいのモンだろ?
自分の土地というより自分のものになるべき土地ではないか?
まあニュアンスの違いなだけだが。
プラマイゼロであるのは確か。関羽を殺したのが得と思えばいいのかな?
762 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 20:33:45
またその話に戻るのか・・・・正直、誰が得したなんてどうでもいいんだけど
幕末の毛利藩主は「そうせい候」と呼ばれる凡君であったのに、
乱世を生き抜いて長州藩に天下の一角を担う藩に押し上げた
煽る人間も悪いが論理的とはほど遠い意見・・・
で結局
>>760はどこが魏の得になったのか答えてくれるんだろう?
その意見じゃ呉が得していないという発言以上のものにはなってないぞ
もっとも、その意見が成り立つには
劉備に荊州を所有する正当な権利が(借用なんて言いさえしなければ)あった
つまり、もともとは劉備の土地だったことも否定せねばならんがな
さらに、そこから呉が居座っていた責任者である関羽を殺すのは正当なことであると推論でき
よって、荊州奪還が呉の主権維持に欠かせない行動であることになり
これによって魏が最も得をしたという意見は見当違いということになるな
あとスレの前半ではmos信者扱い、後半では呉オタ扱いの発言が出ること自体、
自分たちが反論できないことを証明していないか?
魏が得したに決まってる
もともと蜀と魏が戦っていたのが蜀と呉にすりかわったんだから
しかもそれで荊州北部を一部ちょろまかしたなら言うこと無しだろ
>>765 > 荊州北部を一部ちょろまかしたなら
なんのこと?
かなりの粗悪燃料っぽ
>>764 魏が得した根拠なんて一目瞭然じゃないか。
蜀と呉が小国とはいえ、一度は魏の南征を止められたんだからな。
少なからず魏にとっての驚異を与えていたのは確か。
その小国同士が内ゲバで仲違いしてんだから、得である事は間違いない。
>つまり、もともとは劉備の土地だったことも否定せねばならんがな
意味がわからん。劉備の土地だった事なんてあったか?
呉にとって劉備の権利なんか関係のない話だろ。
で、最後の文が意味不明なんだけど?
勝手に自分の脳内で仮想敵と陰謀論をめぐらすのはいいが、
人前で発言すると妄想癖扱いされるから止めたホウがいい。
>>768 概ね同意。
今までの書き込みを見るに呉が得した派は
魏がエン城まで蜀軍に侵食された事実などを知らない気がする。
・呉は苦難の末になんとか元来の地を取り戻した
・蜀は持ち逃げするハズの土地を取り返された
・魏は呉と蜀が争うのを見てほくそえんでいた
結局、誰も大して得な事はなかった!
つーかテンプレ作ったがいいよ
呉が最も得をしたという意見はおろか、
魏が得してないなんて意見が出るのでは考察としてのレベルが低すぎる。
そんな愚見を定説にされては敵わん。
>>769 > 曹仁が襄陽に入城したからでしょ
勘違いしてるかもしれんが襄陽は関羽討伐後の話だよね?
あれは元々魏の支配下で放棄したところ。
そこに呉が入ってしまったのでもう一度獲り直しただけ。
関羽討伐とは関係ない。
>>771 そんな事実あったっけ?
侯音のことではないよね?
>>773 すまんが魏が何を得したのか未だに分からん。
相対的に見て例えば魏が100→110くらいだとすると、
呉は100→150くらいかな?(蜀は大きくマイナス)
まあ呉の発展には大いに貢献したよな。
魏が得をしたというのは、常に魏の打倒を目指してる
蜀の視点から見ればそう見える。
蜀は単体では国力の勝る魏にはかなわないので、
これに対抗するには呉・蜀で連合するしかなく、
荊州争奪→夷陵の流れでは呉蜀合わせた国力が弱まって
いるから魏が得をしたように感じる。
一方、呉の視点から見れば、呉が荊州争奪を起こす前と後で
比較して国力が大きく増えている。魏打倒を国是とする蜀とでは
そもそも目指す方向が違うし、そもそも荊州を奪わなかったとしたら
呉が魏や蜀より長生きできるかはかなり疑問だろうから、
呉が得したと考える。
魏対呉・蜀連合で考えると魏の一人勝ちだが、
魏対呉対蜀で考えると呉が一番得しているということ。
あとは視点の違い。
>>774 だからさ、呉と蜀が勝手に争って国力すり減らしてるんだぞ?
これが魏にとって得でないなら何なんだ?
今度はそっちから何故に魏にとって得でないのか説明してくれ。
>>775 呉は自分の土地を取り戻しただけだろ?
国力が増えたなんて都合のいい解釈でしかない。
一番得したのは当然に呉でしょ、国土が倍近くになったのだから
魏も得したけども、不確定な外交関係が好転しただけだし。
>>774 侯音のことですよ?あれが蜀とは何の関係もない反乱とでも?
魏が得をしてないという理論の意味が分からん。
100億の赤字が10億の赤字に減れば得をしたことになるでしょ
確かに・・・・劉備に荊州を貸したのがイタかったな・・・・
>>777 失地を回復したのなら当然国力が増えると言えるだろう。
「荊州を奪還した呉」と「荊州を失ったままの呉」で国力が
同じというわけではないでしょ?
ここでの比較は「荊州争奪→夷陵」の前後での国力の比較で
呉が得をしたといってるわけで、
そりゃ209年辺りから220年付近までの長期的な視点で考えたら
「プラマイゼロ」っつー意見もありうるけどさ。
>>776 関羽討伐から数年経っても魏は少しの領土も得ていないと思うのですが。
国力をすり減らしたとしても回復するまでに魏は何をしたのでしょうか?
>>777 関羽討伐前と比べれば国力は増えてる。
取り戻せない可能性を考えないのですか?
>>779 大した得じゃないな
少なくとも荊州を得た呉の得より上とはいえん
>>782 襄陽とって漢水以南の人民を獲得してるだろ
何を言ってるの?
>>779 侯音は曹仁にあっさりと潰されてるし、
あれは他の魏の内部反乱などと比べてもそれほど
危機的なものではないよ。
すくなくとも「魏がエン城まで蜀軍に侵食された」などと言うのは
誇張にも程があろう。
「100億の赤字が10億の赤字に」も言いすぎかと。
>>782 何で質問に対して質問で返すんだ?
まずこっちの質問に答えてからにしろよ。
だいたい土地を得てないと「得」してないという考えは何?
>取り戻せない可能性を考えないのですか?
取り戻せない可能性はかなり低いだろ。
実際に取り戻したんだし。で、この可能性の話に何の意味があんの?
>>779 侯音は関羽北上前に既に鎮圧されてるんだが・・・
100億の赤字というのが何なのかを書いてもらわないと答えようがない。
もし、魏が得をしたと考えている香具師らが言いたいのが
あのまま関羽が北上していたら魏が敗北していたと考えてるなら
思考の違いということで納得はしないが理解は出来る。
>>783 おやおや、曹操が都を移すだのなんだの騒いだともされるのに
たいした事ないですか。
まして夷陵という大戦役まで引き起こし呉蜀の国力を損耗させ
蜀魏の抗争が一時中断された事が得ですか?
>>787 >あのまま関羽が北上していたら魏が敗北していたと考えてるなら
そんな考えは一切ない。他のヤシも同じ意見だと思う。
ただどう考えても呉はプラマイゼロだという考察しかできんのだが。
>>787 100億はただの例え
別に魏が敗北するとは思わんが魏の消耗は大いに避けられてるだろ?
逆に呉蜀合わせても魏に劣る国力の両国がお互い戦争した事が
魏に何の益ももたらさないと?
結局、荊州問題を長期的に考察するか、短期的に考察するかで
話が食い違ってる様だな。
792 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 22:00:06
今日はかなり盛り上がってますなぁwwwwwww
荊州を獲得した時点でのみ得したとは言えるかもしれん。
その後を考えればとてもとても
>>788 大したことないよ
騒いだだけで、結局冷静に対処しましたからね
夷陵の戦役も、呉蜀の優劣が明確になったわけですから
蜀からすれば大損ですが、呉からすれば幾分かの得はあります
少なくとも荊州問題が片づかず、両国が縺れたままでいるよりはずっとましですがな
>>789 おいおい。
もし仮にその意見を認めるなら、
「荊州を攻略しなかったら呉はマイナスだった。
荊州を奪還したからプラマイゼロ」ってことになるぞ」
マイナス→プラマイゼロになったのなら十分お得だろう。
なんか話が噛み合ってないのか?
教えてくれ。
>>794 どうして大したことないと言えるんだよ
冷静に対処できたのは呉が関羽を討つと確約し、実行したからだろ。
その後もお前の勝手な推論でしかない訳で
優劣が明確になったことが得かも分からんし
夷陵で多くの兵を失った両国がもつれた関係を完全に解消できてたかも分からん
加えてその二項が仮に得としても魏が得たコトにははっきり劣る。
>>784 襄陽は元々魏のものだろ。
それを言うなら永安。
>>789 漏れは関羽討伐に限ってどちらが得かを考えてるんだが。
>>790 逆に魏が江陵を落とすチャンスがあったと思うけど?
誰が誰だかワカンネーヨ
>>795 マイナスからゼロになったから得と考えるのか?
ゼロを越えてプラスなってから初めて得したと言えるんじゃないか?
>>797 >逆に魏が江陵を落とすチャンスがあったと思うけど?
意味が分からない。
何が「逆」なのかすら分からん。
あと元々って何だよ、元々といえば荊州そのものが魏のもの。
>>798 >>779 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 04/12/18 21:40:35
>>
>>774 >>侯音のことですよ?あれが蜀とは何の関係もない反乱とでも?
>>魏が得をしてないという理論の意味が分からん。
>>100億の赤字が10億の赤字に減れば得をしたことになるでしょ
>>100億の赤字が10億の赤字に減れば得をしたことになるでしょ
>>802 お前の異常な常識を押し付けられても困るが。
何が異常なんだか、そんな考えしてたら普段の生活に支障をきたさないか?
>>マイナスからゼロになったから得と考えるのか?
>>ゼロを越えてプラスなってから初めて得したと言えるんじゃないか?
>>魏が得をしてないという理論の意味が分からん。
>>100億の赤字が10億の赤字に減れば得をしたことになるでしょ
矛盾すぎ
>>803 赤字が減っただけでまだ赤字が残ってるのに得しただって?
政治的にも経済的にもそれを「得」したなどという表現で言い表す輩がいるか?
魏が得をしたという人は、
呉が荊州を手に入れるのより、呉が荊州を放棄したほうが
呉にとっても得だったと本気で考えてる人たちだから
話が通じないのかもな・・・
>>796 ナニイッテンノ
呉と連絡をとる前に徐晃等を派遣しとるでしょ
大体、当時の関羽の戦力で何が出来るんだよ
支援なし、兵糧なしの人望のない司令官に
ちゃんと史書を読み、状況を分析しろよ。
大したことだというのなら、関羽の戦力等の分析をした上で、根拠を挙げてみろよ
アフォか、荊州失って夷陵で大敗したのに呉蜀の優劣がついてないとでもいう気か
それに夷陵の後、表向きに修交したのを知らんのかよ
その後、呉が裏で西南の反乱に関わったりしていたが、表向きは争うことはなかっただろう
荊州を争っていた頃と比べてどちらがましか明らかだろう
一応言っておくが798と779は別人。
>>807 分かった分かった。なら「赤字が減った」とでも書けばいいのか?
だがどんな表記にしろ呉のプラス幅と魏のプラス幅を比べてる事に異存はないよな?
その総合をもって、どっちがより「得」したかを話してる訳ね
>呉が荊州を手に入れるのより、呉が荊州を放棄したほうが
>呉にとっても得だったと本気で考えてる人たちだから
>話が通じないのかもな・・・
どこの誰がそんな話したのかねぇ?
そういう捏造をしてまで論争に勝った気文に浸りたいのか?
>>811 マイナスからのカウントまで取ってしまうのはいただけないな。
>>810 読解力がなさ過ぎ
別に優劣がついてないと言ってないし
表向きに関係が良好になったことを踏まえた上で
「完全に解消できたかどうか」と書いてるわけ。
あとそこまで言うならば
関羽の戦力をどれくらいに見積もってるか教えて欲しいね
蜀が大損。魏・呉が得をした。
それでいいんじゃないの?
実際、魏が得したって言ってる人も、
呉も荊州をとって得したと思ってるんじゃあ??
結局、両者に得があったんなら、お互い自分が得するために動いたってだけで、
魏・呉のどっちがどれだけ得したかなんて関係ないんじゃないの?
>>815 俺も上の方で同じ様な提案したんだけど
言い争いは続行されましたw
>>815 ようやくまともな意見が出たな。
魏・呉双方もう矛を収めよ。
>>813 それは数学的におかしいのでは?
−200が−100になるのと0が100になるのは同価値でしょ
>>800 襄陽を魏が放棄したのは荊州戦の後って事だろ
>>813 数字の上下という意味では同じだが、
マイナスあくまでマイナス。プラスではない。
そもそも数学的な視野で語る話でもないし。
やっぱりまだ続いていたか・・・・
というかですね呉がプラマイゼロという話になると
荊州貸与時まで遡ってプラマイの計算をしないとおかしいんですけど
そうなると劉備の一人勝ちですよ
>>815 場が落ち着いたようなのに申し訳ないが
魏と呉の双方が得をした、という意見は聞こえはいいが
考察としての価値は下がるよな。
魏と呉がどれくらい得をして、どれくらい蜀が損をしたのか、
それを明確にするのも重要なんじゃないか?
元来、人は正負には敏感だが程度にたいして鈍感だ。
ひょっとすると魏と呉の益に計り知れない差があるかもしれないだろ?
>>823 それならばココでの「得」という言葉そのものの定義を
まず固定しなければならんな。
でないと永遠に意見が食い違ったままだ。
>>814 俺は
>>815に同意するから
関羽の戦力についてのみ語る
関羽の戦力は、正確な数字は無理としても一州の戦力(厳密には南郡を含む三郡)
215年の荊州争奪のとき三万だったから、このときも三万前後だろう
また後方支援なしは、劉備等益州からの支援の記事が蜀書にない上、劉封伝などからも明らか
兵糧不足は
>>172辺りに詳しい
一州でしかも不充分の戦力など、魏にとって大した脅威ではないだろう
>>744 蜀が滅びたから呉が滅びたというのは間違いではない。ただそれよりも
>>742の回答の要因の方が大きい。
これは単純に考えて、蜀が滅亡してターゲットが蜀から呉に移ったと考えるのが普通だと思います。
例え当時の呉の国内が多少安定していても、遅かれ早かれ滅亡は免れなかったとのではと。
荊州が呉に渡り三国のパワーバランスがほぼ決定した時点から、蜀が滅亡するまでに約四十年。
その約二十年後に呉が滅亡している事を考えれば、
呉蜀のどちらかが滅亡した時点で、もう片方の命運も決まった言えるのではと。
大きな流れとしては、国内事情よりも勢力変動の方が大きいと思われます。
国内が不安定になった一因に、蜀滅亡で次は我が身という観念が発生してというのもなきにしもかなと。
次に荊州問題で一番利益があったのはどの国か。
まず蜀でない事は明白だと思います。荊州を無くした事で益州に篭る事となり、
結果延命したという可能性もゼロではないと思いますが、
後の夷陵も含めれば、その時点では損失はあっても利は無いといって良いのではと。
次に魏か呉かという事になりますが。これは非常に難しい問題だと思います。
まず普通に考えれば、呉からの打診を(うろ覚えなので魏からかもしれませんが)
何のメリットもなく引き受ける訳がないというのがまず思い浮かぶ事だと思います。
呉が関羽のいない荊州を襲撃して蜀が保有していた領土が呉のものとなっても、
それほど脅威になると感じていなかったのか、
関羽が北上してきた事へなのか、他の要因があったのか、
その時点での弊害と後の展開とを天秤に掛けたかは分りませんが、
魏が呉の申し出を引き受けたという事は、
後の弊害よりも引き受ける事によっての利が多いと判断した為に、と思うのが自然ではないでしょうか。
魏の曹操を含めた群臣達が、その後の展開をどこまで予測して判断したのかは分りませんが。
>>823 期間を区切ってくれよ。三国共に浮き沈みあるから、
「ここからここまでの区間では云々」ってやってくれないと
>>822の言うように蜀だって赤壁の頃から考えれば
十分にプラスなんだし。
実際のところ、乱世において領地の貸し借りなんて存在しない。
蜀・呉間がその関係だったとしても、それは蜀に騙されているだけで、
蜀は返す気なんてさらさらないわけだし。
また、乱世において領地なんて流動的なものだから、
どの時点をゼロとするかなんて意味がないと思う。
つまり、呉が荊州をとったことはプラスになる。
魏も関羽退治によって荊州北部を確保したんだからプラス。
蜀だけマイナス。
どれだけプラスかなんて議論することではない。
一人だけ長文になってしまった感じがありますが、ご了承ください。
私個人的な考えとしては、魏が一番苦慮していた事は、
呉と蜀とが共同して魏に対抗してくる事では無かったのかと思っています。
呉と蜀が力を合せ死力を尽くしたとしても、果して魏を滅ぼす事ができたかどうかはわかりませんが、
可能性としてはそれぐらいしか無かったのではないかと。
呉が蜀を併合したり、その反対で蜀が呉を併合して魏に立ち向かうというのが理想かもしれませんが。
両国が真正面から衝突してとなると、そう上手く決着するとも思えないのと、
その隙を伺っての魏の動向もあるので、現実には難しいのではと。
そう考えると、この問題によって呉と蜀の間に埋めがたい溝ができるというのは、
魏にとっては、唯一と言っていい苦慮していた問題が解消される事となり、
願ったり適ったりだったのではないでしょうか。
もちろん個別に大なり小なり、問題はあったと思いますが。
当面の問題としても、小うるさい関羽の行動、問題が解決するというのは、
魏にとってメリットがあると考えていた群臣が多かったのは、
劉曄伝を見ると分ると思います。
対魏、後に漢の復興を大体的に掲げる事となる、それが国是の蜀、
劉姓でもある劉備というのは、魏にとってもそれなりに目障りだったのではと。
呉も国力では侮れないですが、呉の基本方針は自国の安定保持だったのではと思うので。
魏にとっては、蜀の矛先を呉へ向ける事ができる可能性があり、
尚且つ目先の関羽も排除でき、曹仁や自領土の保持できる公算が大きく、
その事によって勢力を拡大させていた劉備の腰を、折る事ができるであろうこの作戦を、
断る理由はないのではと。
>>827 期間を細かく区切れば誰が得したなんてキリがなくなってしまうぞ?
また呉の孫権が臣下の礼をとる事(この後藩国になったのだと思いますが)
によっての内外に与える影響というのも少なからずあると思いますし、
例え形だけと分っていたとしても、自国の威信を示すのにはもってこいなのではと。
後年の呉蜀の同盟関係の実情を見ましても、
この時の魏の判断は的確だったのではないかと思っています。
呉もこの事によってメリットがかなりあったと思いますが、
結局は魏の手の平で踊らされていた所も大きいのではないと思っています。
元々確固たる大義名分がない呉にとっては、どう転んでもその行く末は厳しいものだと思うので、
そう考えると、一番現実性があった自国の安定保持に努めようとするのは、至極当然だったのではと。
呉も得をしたけど魏も得をしたと考えるのが妥当なのではと思っています。
当時としては、確立は高くはないけど唯一自国の存亡に関わる可能性がある、
呉と蜀との共同戦線が実質無くなった、その問題が解消されたというのは、
魏にとって荊州の一部が蜀から呉にとって変わる事より、メリットが大きかったのかもしれません。
当時の魏の群臣達がどの程度まで考えていたかは分りませんが。
>>824 「得」という表現は変えても構わんが
本来の予定に比べどれくらい呉の荊州攻撃が
プラス(ひょっとするとマイナス)であったかを調べる訳だろ
つまり
本来の数式が1000−200=800として
それが1000−(−200+100)=900になろうと1000−200+100=900になろうと
「100」プラスになったという事実は一緒で絶対に揺るがない。
>>832 OK、分かりやすかった。
呉が荊州に侵攻しなかった場合を基礎に
呉が荊州に侵攻した為に起こった変化を足し引きする訳ね。
「100」プラスになったという事実があっても
その時点でマイナスならマイナスでしかない。
魏が得した派
・魏と抗争中の関羽が死んだ
・関羽に奪われていた地域を回復できた
・蜀と呉が争い相対的に得をした
・一時的に呉と手を結んだ
呉が得した派
・荊州を獲得できた
・一時的に魏と手を結んだ
>>836 それは得したことしか書いてない
ちゃんと損になったことも書くべき
関羽が魏から奪っていた領土、城って何があったっけ?
魏
・魏と抗争中の関羽が死んだ
・関羽に奪われていた地域を回復できた
・蜀と呉が争い相対的に得をした
・一時的に呉と手を結んだ
呉
・荊州を獲得できた
・一時的に魏と手を結んだ
・夷陵の戦いが起きた
・呉と蜀を合わせた国力が落ちた
魏って特に損してないね、まあ当然と言えば当然だが
ハン城周辺まででしょ
スレが、止まった。
すでに時勢はこのスレに味方していない。
>>837 荊州北部の獲得・奪取とは書いてない。
荊州北部の確保っていうのは、荊州北部を脅かす存在が
なくなって、統治しやすくなったって意味。
領土的には現状維持かもしれんが、一時的であれ魏呉が結んだ以上、
敵(蜀)との隣接地域が減ったことは、魏にとってプラスという意味。
>>843 結局呉と抗争しているから、大した得にはならんかと。
魏の得は、蜀の軍事力大幅低下。
荊州の保有国が変わった事で、多少圧力が緩和したとしても
揚州からの侵攻が強化されればある程度相殺されるし微妙。
多くの人が忘れているかと思うが、実は魏は領土を広げているんだよね。
それはどこかといったら上庸。蜀の漢水侵攻ルートを断ったわけだから
魏にとってはかなりでかい。
まあ、ここも数ヶ月前までは魏の領土だったのだから
呉の荊州獲得はプラマイゼロだという人からみたらこれもプラマイゼロになるのだろうが。
どうも呉を支持したい人たちって獲得した領土の大小で論じすぎてて、
長期的な視野と展望で結論を述べてる人、少なくない?
なにも攻撃的な意見を吐く必要なんてないんだからさ。
それは別の戦争だ馬鹿
蜀の軍事力低下の結果、として起こった副産物。
>まあ、ここも数ヶ月前までは魏の領土だったのだから
>呉の荊州獲得はプラマイゼロだという人からみたらこれもプラマイゼロになるのだろうが。
>
そのくだらない考え方からいい加減離れた方がいいんじゃない?
蜀が一番得をしたことになってしまうから。
※補足しておくと、江陵貸与前からプラスマイナスを考えることが下らないのであって
プラスマイナスを考えることそのものを否定しているのではない。
結局
>>848みたいに印象批判に終始してるのが、呉が得した派。
印象批判なんて言葉使わずに、
荊州貸与前からプラスマイナスを考えることが意味があることを
きちんと説明してやればいいのに。
スンマセン、蜀が得したってどういう事ですか?
>847
孟達が魏に寝返ったのって、関羽の救援にいかなかったことに対し
劉備が恨みに思っていることを恐れたからじゃない?
ずっと後におこった夷陵の戦いが関羽討伐に関連した出来事であるのに
この一件が除外されるのは何でか教えてほしい。
>>850 順序が逆だろ。こっちの方こそ何で意味がないのか聞きたいんだが。
歴史は続いてるんだから原因を辿るのは当然の考察だろ。
蜀にとって、
荊州ゲット +800
益州攻略 +1000
関羽死亡 −100
荊州失陥 −800
−−−−−−−−−−
トータル +900
>>853 何が分からないのか分からないが・・・
荊州貸与前と荊州戦後のプラマイを比較すると
劉備は何も無いところから蜀、漢中を取った。
呉、魏とは比べ物にならないってこと。
>>854 関連しているからといって
関羽討伐から夷陵の戦いまで同一の戦争だ、とは
まともな人間は言わないと思うが?
簡単にいうと、荊州貸与前(赤壁の前)の段階での劉備の領土は江夏のみ。
呉の荊州奪回後、劉備の領土は益州全域。
呉は、荊州を奪回してやっとこさプラマイゼロ。
魏にしても、大した領土の増加はなし。
つまり、劉備が一番領土の拡大率が大きい。
荊州貸与前からのプラマイ計算しても無駄ってことがわかるでしょ。
>>857 でも、劉備の蜀乗っ取りと関羽討伐ってあんまり関係ないんじゃないんですか?
>>854 孟達が魏に寝返ったのは上庸を獲った時ではないよ。
といっても上庸の反乱と荊州戦が無関係だとは思わないが。
>>860 江陵は元々呉のものだからプラマイゼロという人がいたからです。
誰も本気で関連付けようとはしていません。
>>862 >江陵は元々呉のものだから
これが重要なんじゃないか、この問題は。
呉が劉備に荊州を貸した事が発端で関羽討伐という結論に行き着いた。
そこまで遡らないと話にならんだろうが。何の関連もない話ならともかく、
荊州貸与前まで遡るのはおかしいという根拠をより明確してもらいたいな。
煽りや印象批判抜きでね。
>>864 荊州貸与が発端なら
>>822でいいんじゃない?
その間の過程を経て関羽討伐〜夷陵へと至るのだから。
夷陵まで至るのなら劉備の1人負けという事になるがw
こうして考えてみると呉蜀の荊州問題って
三国志の中でもかなり重要なポイントなんだね。
ここまでの経過をまとめると、
関羽討伐に絞って戦績を鑑みるなら
呉の大勝で間違いない
荊州貸与問題という長いスパンで鑑みると
劉備の1人勝ちという事になる
で宜しいか?
>>868 後半の山場?大州だから当然っちゃ当然かもしれないけど。
>>869 宜しいか?厨うざい、邪魔。
宜しいか?厨うざい、邪魔。
で宜しいか?
ってかね、このスレは「関羽討伐」なんだから
それ以前を含む必要はないだろ
関羽討伐以降は含むべきだが
>>872 それはそれでまた話がややこしくなるぞ。
議論の展開上、どうしても関羽討伐以前に戻らざるを得ない場合もある。
今は魏や呉が得したかどうかって流れだろ
関羽討伐の是非ではなく討伐決断後で考えるべき
>>874 「関羽討伐」が直接影響した事項までは含むべきでは
はっきり言えば呉と蜀の関係が修復し一段落するまで
>>876 いや夷陵の戦いは含むべきではない。
荊州貸与まで戻るかどうかの問題と同じで
スレが荒れる火種になる。
>>876 はっきりと言い切ったけど、それは間接的な影響でしょ
関羽の行動とは直接関係が無いから、どちらかというと劉備の問題。
何でよ、孫権が関羽を討つかどうかで「討つ」と決断したからこそ
生まれた事象だろ>夷陵の役
この孫権の決断が正しかったかどうかを考えるべきで
それ以前に戻るのは時期尚早だし、スレタイにも反する
>>879 それじゃオマエも荊州貸与が原因だから・・云々言ってるヤシと一緒じゃねーか。
とにかく夷陵まで範囲を広げるのは却下だな。
それと「時期尚早」の使い方間違ってるんじゃないのか?
そうでもない。劉備には、荊州を諦めるという選択肢もあったのだから
(臣のなかの何人もが出兵には反対している)
>>879 いや違う、劉備が関羽の仇を討つと決断したから生まれた戦役
孫権は間接的に(影響は強烈だけど)影響を与えているだけ。
このスレは関羽討伐にスポットを当ててるんだろ?
そりゃ荊州強奪だけ見れば孫権の大成功に決まってるじゃん
討伐をするかしないかが問題な訳でね
その討伐という行為が引き起こした一連の事件までを含めと言ってる
どっちが得かなんてくだらない事を議論してる間に
>>725の結論を勝手に改編してみた。
間違ってたら直してくれ。
「関羽討伐について…」
呉は荊州を得たことによって国家の礎を築きその命脈を延ばすことに成功した
蜀は荊州の失陥という単純な国力だけでなく、
その後の夷陵の戦いで人材を減らしたことも滅亡を早めるものとなった
魏は呉蜀を争わせて疲弊させ上庸を得、それまでの混乱を収拾した。
主な登場人物評
関羽・・・司令官としては論外。出兵しなければ守り抜けた可能性も高く、悔やまれる。
劉備・・・荊州を任せることの出来る重鎮は関羽だけであり人選を責めることはできないが関羽への配慮が足りなかった。
呂蒙・・・戦わずして勝つ、兵法の実践においては文句なし。ただ関羽が動かなかった場合はどうだったか?
陸遜・・・同上
魯粛・・・荊州貸与の発案者。軍事に関しては大した実績が無く生きていたとしても呂蒙の様にはいかなかっただろう。
曹仁・・・城の浸水、援軍の降伏、兵糧不足に耐えて樊城を守り抜いた。
于禁・・・関羽討伐を複雑なものにした張本人。氾濫が無ければ・・・
徐晃・・・準備万端整えられたとはいえ、その戦いっぷりは見事。
>>883 自分で結論出してるじゃないか、関羽討伐については呉の大成功。
その後の展開は、呉蜀陣営の政治、外交の問題
>>885 そんなバカな認識があるか
911テロを起こして大成功でした、で歴史は終わらないだろ。
その後にアフガン侵攻、イラク戦争、そして今も続く世界情勢の緊迫、
という結果がちゃんとついてまわる。
一つ一つの事象が別個として存在するなら殺人でも強盗でも出来る。
>>886 テロを起しても何も得て無いぞ?
それはともかく、関羽討伐は呉の荊州獲得、対魏従属、蜀との敵対
蜀の荊州失陥、軍事力喪失、呉との敵対、で決着がついたの。
その先は、また別の政治。
歴史として関羽討伐→夷陵があったとしても
別にそれが必然だったワケでもない。
>>886 それなら荊州貸与まで戻ってもいいんだな?
江陵貸与についても、領土を奪った奪われたという目先の考えだけじゃなくて、
長期的な展望とやらを考えないか。
孫権にとって江陵を貸与することは何の意味があり、その結果何を得たのか。
劉備にとって江陵を貸与することは何の意味があり、その結果何を得たのか。
当然ながら、劉備は益州に攻め入る足がかりを得ることができた。
その結果益州を得、曹操、孫権と肩を並べる位置まで上った。
問題は孫権についてだが、
江陵を貸与する前は正直いって先詰まっていたと思われる。
益州に攻め入りたいが、力が足りない。うかうかしていると曹操に蜀を奪われてしまう。
ならば江陵を貸与してでも劉備に攻め入ってもらったほうがはるかにまし。
その結果、長江流域は孫権・劉備が支配することになり、曹操に長江を利用されることは防げた。
また荊州で着々と地盤固めをしていた劉備を益州に追っ払うことができ後に荊州を奪う布石となる。
とりあえずこんなところか。
>>890 ところが荊州を得た失ったという領土の大小だけでなく、
関羽討伐の原因である江陵貸与や、関羽討伐の結果生じたとみられる夷陵の戦いも
考察しなくてはならないという意見が出ているからね。
それならば、江陵貸与についても江陵を貸した、元に戻ったという領土の大小のみで語るのではなく、
それがもたらす意味、もたらした結果という見方をしなくちゃ駄目だろ、と思っただけ。
>>891 劉備への江陵貸与により、劉備が益州を取ることができた。
江陵貸与がなければ呉が益州を取ることができた?
無理でしょ?魏に取られることになったと思う。
魏に取られれば、呉との国力差はますます開くわけで、
夷陵での消耗がなかったとしても、魏に勝てないよ。
>>892 周瑜が生きてれば出来た
御呼びでない、コリャ失礼しました
>江陵貸与がなければ呉が益州を取ることができた?
>無理でしょ?魏に取られることになったと思う。
>
そのとおり。江陵貸与が呉にとって一方的なマイナスではないわけ。
江陵についても領土の大小のみで語ると見落としてしまうよね。
>>892 その通りだが、それは呂蒙が後に荊州を取り返したから成り立つ理屈だよね。
戦線の縮小、という意味もあったのでは。
江陵を抑えたままだと、呉は長江下流から中流域までで曹操と対峙することになる。
益州に攻め込むのなら江陵は必要だが、周瑜の死で中止、体制の建て直しを図られた
呉にとっては難しい土地。
それならいっそ劉備に貸すことで恩にきせ、かつ劉備領を曹操と接することによって
矢面にたたせることで、曹操の重圧も分散させることになる。逆にそのままだと、劉
備は孫権を矢面にたたせて荊州南部でちからを蓄えられることになってしまう。
荊州貸与→関羽討伐は必然の流れじゃないが
関羽討伐→夷陵は必然の流れ
なぜこうなるかと言えば関羽討伐に対しての孫権の責任を考えるスレな訳で
付随である蜀や魏の行動は考慮しなくていい
このスレが「関羽討伐されて蜀が夷陵の役を起こした件について」なら考慮しろ
>>895 貸与といっている限り、呉としてはいつかは返してもらうものと
考えていたと見るべきです。
返してもらえないなら、力ずくでもと。
だから、取り返せる取り返せないの話ではなくて、
あの時点で江陵貸与がなければ、益州は魏のものに
なっていただろうし、それは呉にとって最も避けるべきおことだということ。
>>898 OK
>返してもらえないなら、力ずくでもと。
これを前提としての意見なら、別段反論はないよ
ちょっと話がズレるかもしれんけど
>>410の言う通り、当時の孫権と劉備が君臣関係にあったとしたなら
孫権は土地を貸したというより、臣下に対して土地を与えたという事になるのかな?
それに対して劉備は勝手に孫権陣営を離れて蜀を乗っ取ったって事?
>>900 劉表と劉備の関係に近いんでは
孫権の配下ではないが孫権の影響下にある
呉書では劉備に土地を与えたとあるけど
呉側の認識では貸したことになってる
荊州の貸与について論ずるのであれば、趙翼の『廿二史箚記』に、色々と参考に
なることが書いてありますよ。「荊州を貸したというのは呉の事後の言い訳である」
といったことが。
>>902 それが事実なら、つまり劉備による江陵の所有が正統だとするなら、
1・劉備は赤壁後に周愉に先んじて曹仁から江陵を奪った(これは演義だな)
2・周愉が江陵を獲った後に、どうにかして奪いとった(この場合、劉備と孫権は明確
に敵対していたことになる)
このどちらかになるが、なにか根拠でも?
>>903 呉が江陵の維持が困難または採算が合わないまどから
・呉が江陵を放棄した
・呉が劉備に江陵を与えた
しかしまた欲しくなったから大義名分として貸したと言い出したという可能性も考えられるぞ
>>904 >呉が劉備に江陵を与えた
これは、これまで言われてきた荊州貸与ということでは。
それじゃこのスレの愚か者が言ってる呂蒙が卑怯ってのがまんざらでも無くなるだろ。
蜀が無理やり取って呉はレンタルを黙認したということではないか?
意味不明‥
レンタルを黙認したのなら、返してもらって当然なんだが。。。
そこが蜀サイドの卑怯な手口だろ。だから荊州を強奪しなきゃ奪えない状況に
なったわけだ。返してもらって当然なんて言葉この時代に通用しないんじゃねーの。
自分の影響下にあると両者認識できる状態で、劉備陣営に対して孫権は政治的判断から
南郡を領土として与え、南岸の4群の領有も追認したと。
で、劉備が益州を取って自立したんで、自立したんならうちから与えたものは返せと
南郡返還を要求したが、事実上劉備が自力で獲得した4群も切り離され失う事になる
+劉備陣営の国是である曹操打倒が遠のくから、劉備は拒否し。
4群の一部を変わりに割譲して一旦矛先を収めたって感じでいいのかな?
>>908 ほわっつ?
呉には奪還に向けて策動する理がある、って意味で書いたんだけど。
>>910 意味不明っていうのがいけなかったんじゃないの?
てゆーかあんたもはっきり書かないと勘違いされるぞ。
「俺は関羽〜劉備3兄弟の関羽〜天下の豪傑〜俺は曹操もビビらせる。」って言うじゃない〜
でもあんた、呉に荊州取られちゃってますから〜残念!
青竜円月刀なんてねーよ!斬り!
913 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 14:59:27
うわっ、つまんねー
「俺は陸遜〜呉の丞相の陸遜〜関羽に劉備に曹休〜俺は向かうとこ敵なしだ。」って言うじゃない〜
でもあんた、血圧に勝てませんでしたから〜残念!
後継者なんてしらねーよ!斬り!
江陵は荊州の中にあるんだから、荊州牧の劉備が支配するのが当然、とも言える。
孫権とその仲間達には、当時劉備以上に荊州牧に相応しい経歴の者がいなかったし、
荊州の豪族や名士もどうやら大方は劉備を支持したらしい。
ということで、孫権・周瑜は江陵を落として占領はできても正当な支配権は持てなかった。
だから劉備(最初は劉gか)を呉のヒモ付きながらも荊州の支配者として認めるしかなかったんじゃない?
そんな記述はどこにも無いんだが‥
>>915 劉備は予州牧でなかったか?いつ荊州牧になったのか。
そもそも劉表政権で主だった荊州豪族はほとんど曹操についている。
現実に、荊州の中心地とも言うべき襄陽を含む荊州北部はずっと魏の領土。
江陵を除けば、呉も蜀も残りの辺地を奪い合ったにすぎない。
ちなみに、その理屈で言ったら正統な益州牧ではない劉備がどうして
益州を奪れたのだ?
>だから劉備(最初は劉gか)を呉のヒモ付きながらも荊州の支配者として認めるしかなかったんじゃない?
そういった認めざるを得ない状況になる前に、
また、後から借りたものは返せとごねられるように、
貸しをつくったんだろうな。
>>915 赤壁後に孫権は徐州牧になってるし、江夏には程普がいた。
正当な支配権なんて大した問題じゃない。
単純に周瑜死後の江陵維持の為には劉備の力が必要だと判断したんだろ。
>>917 劉g死後に荊州牧じゃなかったっけ?
先主伝には劉gが病死すると群臣に推したてられて荊州の牧となったとある。
呉主伝にも劉備の上表により孫権が車騎将軍代行・徐州の牧を兼任、劉備は荊州の牧の職務に当たったとある。
劉備がその頃荊州の牧となったというのは周瑜伝にもある。
ただ呉側としては魯粛伝にあるとおり土地を貸し与えたという認識だったのは想像に難くない。
>>920 なるほど知りませんでした。
しかし、「群臣に推したてられて」って、非常に邪推できる記述ですな。
好例が劉備の漢中王。これは曹操が正式な手順と法的根拠を持って魏王となったのと
違って、「群臣に推したてられて」漢中王を名乗ったもの。つまり自称、もっと言えば
僭称にすぎない。上奏文が残っているが、これも事後承諾を迫ったものだしね。
>>922 曹操や孫権だって大して変わらんって。
自薦だろうが他薦だろうが朝廷が認めれば同じ。
同じ時期に劉備の「上表」によって孫権は車騎将軍代行・徐州の牧に就いたのに
劉備が荊州の牧に就いたことについては僭称に過ぎないという主張はまったく説得力がない。
更に言えばこの場合大事なのは呉側が劉備が荊州の牧になることを認めたということだと思うぞ。
>>923 大体同意だが
> 更に言えばこの場合大事なのは呉側が劉備が荊州の牧になることを認めたということだと思うぞ
これは疑問。別に荊州牧になるのに孫権の認可は必要ないし、
その後の経緯を見ると認めていたとは思えない。
>>924 > 別に荊州牧になるのに孫権の認可は必要ないし、
> その後の経緯を見ると認めていたとは思えない。
それは当たり前。
ただ劉備の荊州牧就任を孫権が認めてるということは、
孫権の思惑がどこにあったにせよ、
劉備の荊州保持に孫権自身が大義名分を与えてしまってるということ。
これは荊州の帰属問題に関して外交上それなりに影響があったと思うが?
>>925 大義名分があるなら劉備や関羽はきっぱりと返還を断れたはず。
荊州牧といってもどれほど意味があったのか。孫権の徐州牧よりはマシだが。
大義名分(正統な所有権)なんてものがなかったからこそ、呉は荊州返還をまず交渉
で要求できたし、劉備や関羽はその対応に悩まされたのでは。
そもそも’呉’が、劉備の荊州所有を’認めた’という時点ですでに両者の関係を物
語っている。
>>927 対等な関係でも、○○領有を認めるってのは普通にあるだろ。
2国間である土地の領有問題を揉めている時に第三国が、一方の領有権を認めるってな
当時の中央の官職で言えば、左将軍劉備の方が孫権より上だったんでしょ?
>>928 孫権は劉備の上表により車騎将軍代行になってるから一応劉備の左将軍よりは半ランクくらい上じゃないかな?
>>926,927
劉備が益州を手に入れた時、孫権に涼州を手に入れたら荊州を渡すというやり取りしてるから確かに名目以上の重みはなかったみたいだね。
ただそれは呉と敵対関係にならないための、しかし荊州を返すつもりはない劉備の単なる方便だったととるのが妥当。
「涼州を手に入れたら荊州を渡す」と言う発言は劉備側の外交の失敗だったとも思うけどね。孫権側に付け入る隙を与えてしまったから。
しかし孫権と劉備の間に明確な貸借契約も上下関係もなかった。どちらか一方にだけ理があったということもなかった。
あったのは戦国の世の駆け引き。劉備側は対処し損ねた。そういうことだと思う。
違うかな?
>>929 ここでいう孫権の車騎将軍って、漢代の官制に則ってる以上、位階で
いうなら左将軍の劉備より下位になるんでは?
なにせそれまでの孫権は討虜将軍・会稽太守でしかないわけで。
以下はついで…
劉gを荊州刺史とした劉備は、公安を境に南部の四郡を接収して、
その後、劉gが歿すると劉備は荊州牧、孫権は徐州牧で、南郡太守は
周瑜(江夏太守は程普)。
更に周瑜の歿後、魯粛が陸口に移った後は程普が南郡太守となっており、
これも事態をややこしくしてる。
問題は劉備の江陵接収の時期だけど、210年に孫権は陸口を境に長沙の
北部を漢昌郡としており、この時期に(先の劉備の南部四郡の領有を追認
する形で)”正式な貸与”と孫呉側は認識したんじゃないかと。
事実、程普も南郡太守から江夏太守へうつってるし。
211年から翌年にかけては秣陵への遷移、石頭城と濡須塢の補強などで
曹操の圧力が東部に強くかかっていて、孫権としても荊州の状況を不安定な
ままにはできなくなっていたはずだろうし。 長いのは許して。
呉側の人事の滅茶苦茶さが、蜀が話をつける相手を見誤った事に繋がった。
とも取れるんじゃないかねぇ。外交や当地の責任者の急な変わりよう。
周瑜→魯粛・程普→呂蒙→陸遜。わずか10数年の間にどれだけ代替わりしたのか。
現代の情報化社会ならともかく、あの時代では、どんな相手だか分かったはずもない。
そんな責任者の所在の分からない状態で、どれだけの外交できるというのか。
それを踏まえるなら、荊州でおこった呉と蜀の争奪戦は不可避ではないか。
全ての責任を蜀に押し付けると言うのは早計ではないか。そう考える。
オマエラ瑣末すぎ
>>931 誰も全ての責任を蜀に押し付けてないと思うが・・・
単に荊州争奪で蜀が下手を打ったといってるだけで。
関羽は魯粛→呂蒙→陸遜がどんな相手だか分かっているつもりだったと思う。
それを踏まえても荊州でおこった呉と蜀の争奪戦は不可避だろうけど。
蜀側から見れば呉は卑怯に見えても仕方ない。
呉側から見れば約束破った蜀が卑怯に見える。
益州のみの蜀では魏にやられてしまうのは目に見えていた。
よって呉の失敗だ。魏を討てる力が呉にあれば蜀を徹底的に潰して
力をさらに蓄え、魏にあたれた。そうでないのだから共存の道をたどるべきでは
あったな。
>>934 別に呉は魏を討つことを至上命題にしてないから蜀は滅びない程度で存在してればいい位にしか考えてないんじゃん?
936 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 22:19:49
>>934 だから共存の道をとって呉に何の利益があるのかと
呉の正当性の問題が無視できたとする
荊州を持たない状態の呉が、
史実のように老いた孫権の時代から孫皓に至るまでの経路をたどるとして
蜀と共に魏と戦うとする
蜀と呉の滅亡が入れ替わるくらいではすまないぞ、どう考えても
これでも共闘することが長期的視野なんて言えることが信じられない
938 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 01:00:24
>936
呉としては、劉備なんぞ目障りだろうが、呉の力では荊・益二州を保持出来ないとなりゃ、比較的友好的でいてくれる勢力が呉の上流にあった方が良い。
蜀は国是が反曹魏である以上、魏と結ぶ可能性が少ないから、少々無理を通しても蜀が折れる。
そういう意味で都合の良い相手。
>>938 > 蜀は国是が反曹魏である以上、魏と結ぶ可能性が少ないから、少々無理を通しても蜀が折れる。
こんな簡単な相手なら荊州問題自体が起らないでしょ。
しかも蜀との友好関係がメリットといわれても、実際に夷陵後の呉蜀は友好的だったからなあ。
>>939 友好は求めていても蜀>呉となるのは嫌だったということでしょ。
夷陵さえなければ蜀の戦力ががた落ちになることはなかったんだから
荊州を掠め取られた後はさっさと呉と同盟結べばよかったんだよ
それを蜀が目先の欲に駆られて呉と戦ったから魏がますます有利になっちまった
>>941 欲なんてねぇよ。
あれは感情の問題だろ。
諸葛亮や趙雲が参戦してない時点で感情であることは間違いないな。
まぁ、諸葛亮は諫めきれなかったので論外としても
趙雲が諫めたというのは興味深いな
夷陵の戦いが純粋な戦略的観点からではなく
正当性や国是の面でなんらかの問題を抱えていた可能性が高くなるからね
しかし呉ヲタは必死だな・・・
燃料乙。でももうイラネ(゚听)
趙雲が諌めたって演義じゃなかった?
>>945,946
正当性や国是のについて触れられると
蜀が一方的に悪いと言っているように見えるなんて
なんか、らしいな
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>>944 劉備は逆賊曹氏撲滅を誓って
皇帝について蜀漢を建国したのに
皇帝としてのはじめの行動が
呉討伐だもん、趙雲だって諌めるでしょ
諌めてる内容もそれそのものだし
正当性なんてものはその国の人が決めるのかもな。
我々日本人だって織田信長を悪役に使うことが多い。
羅貫中が余計なことしたせいで蜀は正義として見られることが傾向となり
その他の国は悪だったりするのだな。そしてそれに騙されまいとしている人は
実は日本人のが多かったりして。いくら我々があがいても中国人の正当性は
蜀が正義ってことから揺るがないでしょう。彼らが漢民族である限り。
>>954 ばっちり、自分自身がそれそのものを言ってるじゃないか
荊州の所有権うんぬん関係なく、夷陵の戦いが蜀にとって正しい判断じゃなかったって
>>954 羅貫中がそうしたんではなく、それまでに民間にそういうムードで話が伝わっていたから
それを軸に纏めただけでしょ。
呉が割りを食うのは、結局三国志の序盤から中盤を形成する大戦と無関係だった為
物語の主役にも悪役にも成れなかったことでしょう。
そりゃ、物語の主役になる為に当時の人間が戦ってるわけじゃないが。
人々は歴史よりも、歴史物語の方が好きだからなぁ。
こまかいツッコミをすれば、赤壁の一方の主役は呉陣営だけどな。
劉備陣営は何もしていないが、演技では随所に出てくる。
一番笑えるのが演義のこれ
「赤壁で勝てたのは諸葛亮が東南の風を吹かしたからだ。よって荊州の所有権
はこちらにある」
958 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 21:25:08
>>944 なるほどね。趙雲の言った言葉を読んでいて、前に荊州3郡
を奪われ軍勢を率いて呉と対した時も言っていないと矛盾が
あるなと思っていたもので。
>>957 中盤以降でしょ赤壁は。
呂布や官渡あたりの戦に曹操は中心だし、劉備も関わってるんで
劉備中心にすれば、大きな戦を書きやすい。
馬超が劉備に降ってるおかげで、曹操の関西攻めも劉備サイド(のメンバー)を
置いて描けるし。
呉主役だと反董卓連合の後・赤壁までの間中核となるストーリーが書けない。
荊州の所有権なら元々劉表の親族の劉備が受け継ぐとでも言えばよかったような。
それでも十分いっぱいいっぱい。
劉表からそっくりいただいていればこんなこじれることはなかったのにね。
悪者になりきれなかった劉玄徳でした。
>>960 いくら皇室に連なると名乗れる劉備でも
流氷と親族だからなんて堂々と言えるほど甘くない気もするが・・・
まぁ、所有権に関しては劉備にあると考えるのが自然だったから
悪者になりきれなかったというよりは、力不足だったんだろうな
>>960 仮に劉表の遺言があったとしても単なる外様の劉備が劉jや劉gを差し置いて有力な豪族の支持を得られるとも思えんが?
>>961 いつの時点の話だよ?
何を以って劉備に所有権があったと言える?
>>963 呉に対して”借用”さえなければ、もともと呉の土地ではなく
劉備陣営が制圧した土地なんだから所有権の面で優位に立っている相対的なものは言えると思う
問題は借用という形式の存在だろう
これが無ければ呉が所有権を主張することはまず不可能
ただ、それがあったからこそ夷陵の戦いが明確なものにならなかったと思うのだが
>>963 もし劉備陣営に全く所有権が無かったとしてならば
夷陵の戦いを趙雲以外の人物、特に士人達あたりは諫めるだろう
もし劉備陣営に完全な所有権があったのなら
趙雲ですら諫めなかったかもしれない
その中間なんだから劉備にいくらかの優位性があったと考えるのが自然
>>965 劉備自身が呉の使者に「涼州を取ったら荊州は返す」と言ってるんだから、
所有権に関してはむしろ呉の方に優位性があったと見る方が自然だよ。
そのこととは別に荊州の重要性を考えればその争奪戦が行われても不思議じゃない。
もし蜀に優位性があるとしてもせいぜい南郡・零陵・武陵くらい。
赤壁直後の力関係からみて
劉備が呉から借用しているのは明らかなワケだし
屁理屈捏ねても、大した大儀名分にはならないと思うが。
孫堅がなぜ荊州(劉表)を狙ってたのかを分かってないから劉備より
呉に優先権が無いって思ってるのではないでしょうか?
荊州について所有権を主張できる者がいるとすれば献帝だけだろ。
孫権も劉備も、一応は献帝から荊州刺史(牧)に任命される(ことにする)しか名分の立つ支配はできない。
そうでなければ実力で居座る賊と変わらない。
で、当時荊州刺史に任命されてしかるべき官位や周囲の了解を得られる知名度のある人物は劉備くらいだった、と。
自分には使いこなせないから使えるスキルを持つ奴に貸した。
それが孫権から劉備への荊州貸与の実態。
970 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 23:37:28
>969
>>自分には使いこなせないから使えるスキルを持つ奴に貸した。
それが孫権から劉備への荊州貸与の実態。
同意。
赤壁後、荊州(江陵周辺)を保持出きる実力を孫呉が持ってたら、劉備の出番は無かったろうね。
使いこなせないから劉備に使わせ、その上で「貸与」という
意識を内外にしっかり根付かせることによって、
荊州の所有権は主張する。
荊州の地盤の安定化、および防衛はしばらく劉備に任せることで
呉は他の事を行う余裕ができる。
そして頃合いを見て荊州を返してもらう(もしくは力ずくで奪う)。
取り返せなくても長江上流を魏に取られるよりはまし。
というのが魯粛の戦略かね?
972 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/28 00:34:47
>971
魯粛ってよか、呉の首脳陣の基本的な考えではないかな?
周喩は判らんが。
魯粛の案でしょ
劉備に南群を与えて曹操の圧力を孫権だけに集中させない考え
でも劉備はほとんど防波堤の意味合いをもたずに
呉と荊州問題で揉め事ばかり起きるだけで
孫権が後に魯粛の案で荊州を劉備に貸したことは失策だったと述べてる
でも荊州貸与の最大の目的は
>>971の言うように
曹操に長江流域をとられないことだから、その意味では成功を収めている。
魯粛の策はぶっちゃけた話「(当時の)孫権さまじゃ蜀をとるのは無理だから
劉備に任せましょう」というものだから、孫権としては面白くないだろうね。
>>969-974 曹操の圧力を分散化させるというか、実質、211年頃から曹操の軍事の主眼が
東に向いてるのは事実でしょう。
一方の孫権も、同時期に秣陵への遷移を開始していて、更に曹操の南征に
備えて石頭城と濡須塢の補強を開始してるから、荊州の情勢をいちおうでも
決着させないわけにはいかなかったと思います。
もうひとついえば、210年の時点で孫権は、長沙郡の北部を、陸口を境界にした
かたちで漢昌郡と改めていて、おそらく以前に劉備が獲得した荊州南部の四郡
と南郡の貸与を、四郡は追認するかたちでこの時期に認知したんでしょう。
程普が南郡太守から江夏太守に異動したのもこの時期とみると無理のない
ように思います。
“所有”とか、“貸与”とかいった語を現代の感覚でとらえるからわけわからなくなるんじゃないかなあ
牧として統治はできても、所有はできない。王や皇帝じゃないから。
所有できないんだから、本当は貸与というのも本来はありえない。
うめ
>>976 そういうのを、概して屁理屈と言うんだけどね
益州を領有した時点で、劉備は荊州を所有してない。ワケわからん‥
屁理屈というほどかな?
というか
>益州を領有した時点で、劉備は荊州を所有してない。ワケわからん‥
の意味が俺にはわからん。
結局武力を背景にしての後付論理だからな
戦争に勝てば名目はどうでもこじつけられる
劉備が荊州保有を孫権に認めさせるには、
軍事衝突で一蹴すれば良かったのさ
もちろん、物量が不足していたから妥協外交せざるを得なかったわけだが
>>979 屁理屈というかただの言葉遊びでしょ。
孫権側は返せといってるし、劉備側は将来明け渡すといってる。
単刀赴会での関羽の部下?の言葉も元々は呉の土地であることを認めている。
所有権とか統治権とか出しても無意味。
>益州を領有した時点で、劉備は荊州を所有してない。ワケわからん‥
俺もわからん
>>979 なんとなく解読できた気がするので、
仮説を述べてみる。
「劉備が益州を領有した時点で、
荊州の保有権を失う」
ということか?
>>982 スマソ
>牧として統治はできても、所有はできない。
を、使って言葉遊びしてみたんだけど出来が酷かったw
まあ、軍閥同士が所有権だのどうのとアホかと。
悔しかったら剣で決めろってことだな。
実際そうなったしな。
そうそう。
呉と魏が荊州を攻めようとしたときに蜀がもっと荊州の守備を固めるべきだったんだよ。
それをしなかったから蜀は荊州をすべて失っただけのこと。戦乱の時代に保有権なんての
通用するか?戦乱の世には正義すら存在しないと思うが。逆に言えば悪も存在しないと言えるな。