1 :
新田俊純 :
04/09/28 09:09:43
2 :
新田俊純 :04/09/28 09:13:25
乙です!!
7 :足利スレより転載 :04/02/09 22:34 889 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:04/02/09 04:29 スレ違いなのでsageだが・・・ 徳川家は「新田義重の子、義季が得川姓を称したのが始まり」ということにして いるな。 だが、義季の子は頼有(得川)と頼氏(世良田)の2系統に分かれ、「徳川家譜」 では義季−頼氏と繋げている。 得川氏は得川郷、横瀬郷を領有していたようだが、世良田氏が新田家の惣領権 を継承し、鎌倉に出仕するほどの実力を有していた点からすると、得川頼有は長 庶子と見るのが適当で、父である義季が庶流の得川姓を称するとは考えにくく、 新田姓ないしは世良田姓を称していたと思われる。 また、系図を義季−頼有ではなく義季−頼氏とすると、世良田頼氏以降の系譜 に「得川」「徳河」「徳川」を称した者がいない点から、徳川家の系図誤認?の可 能性が出てくる。
44 :足利スレよりコピペ :04/02/13 04:01
909 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/10 21:00
>>889 徳川幕府公式見解では、世良田氏は親季の時代に頼有系の得川氏の旧領を合わせて継いだとされ、
その際に親季が一時期だけ得川(徳川)姓を名乗っていたというのが、家康の徳川改姓の根拠らしい。
ちなみに、松平家が家康の祖父・清康の段階ですでに世良田氏末裔を名乗っているのは事実。
義重(新田)−義季(得川)−頼氏(世良田)−教氏−家時−満義−政義−親季(得川)−有親−親氏(松平)
47 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 23:27 「越後岩松家私史」によれば、岩松時兼の孫・政経(下野太郎)は「文永五年に祖父・頼有が 賜った新田荘内得川、横瀬、下江田、但馬國内三沼庄、相模國永用郷を譲り受けた」とある。 また政経の生母は「江田下野守源頼有女(=得川頼有)」ともあるし、政経は外祖父である頼 有の養嗣子になったとされている。(資料の信憑性は?が付くけど) 後に岩松に復姓しているから、その際に所領を得川(江田?)頼泰の系譜に返還し、それを世 良田親季が引き継いだというのか?
111 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/18 23:51 本物の世良田氏の末裔は、戦国期に武田家や佐竹家に仕えていたらしいね。 世良田氏は会津真船郷に住して真船姓を称していたが、14代当主の祐元は葦名 家臣・伊藤時綱に仕え、葦名義広が常陸に逃れたときに共に逃れている。 祐元は仏門に入って宥元と名乗り、世良田長楽寺において法伝授を受けると共に、 世良田氏の系図を与えられたという。 なお、祐元の子・祐綱(宥円)以降、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けたとか。
162 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/24 02:37
>>44 『吾妻鏡』には、世良田頼氏が「新田三河前司」「三河前司頼氏」として登場するし、
『長楽寺文書』にも「前三河守源朝臣頼氏」として登場してくる。
新田氏の惣領権を持っていた新田政義が、寛元2年(1244)に所領を没収されると
世良田頼氏が惣領権を得て鎌倉に出仕するなどしていたが、その頼氏も文永9年
(1272)に二月騒動に連座して佐渡に配流となり、惣領権は政義の孫である新田
基氏(基氏の孫が新田義貞)に帰している。
しかし、新田惣領家になったこともある世良田姓を称した親季(親氏の祖父)が、わ
ざわざ庶流の得川(徳川)姓を名乗る必要があるのだろうか?
9 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 12:03:59
そう言えば、前スレでは「額戸氏」ネタはまるで無かったですね
10 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 12:09:29
同じ新田支族といっても散らばっているものね。
>>11 それだけに語りどころ満載...と肯定的に解釈してみる
13 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 12:27:55
そうそう、スレも2に至りて更なる隆盛を、ってね。
14 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 13:21:36
>>14 経義が新田荘東北部の長岡、強戸周辺を受け継いだことに拠るんでしょうね。
16 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 14:04:37
長岡氏経の子・政氏の系譜として「額田氏」が、同じく経氏の系譜として「長岡氏」が、 時経の系譜として「鶴生田氏」「生田氏」「庄田氏」「勝田氏」「松田氏」がそれぞれ分派 しているね。 それと氏綱(氏経弟)の系譜として「庄田氏」「松田氏」などが分派している。
しっかし地味だなぁ・・・額戸氏
18 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 16:38:47
19 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 22:17:09
「長岡」と言われるとついつい「長岡藤孝」と反応してしまう・・
20 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 23:22:38
なかなか地味な滑り出しですねw
>>16 >「鶴生田氏」
群馬県太田市に鶴生田という地名がありますね。
おそらくそこに由来があるのでしょう。
今、群馬県太田市と言えば…
【少女買春で住職を逮捕、15歳高校生と愛人契約】
警視庁新宿署は27日までに、女子高校生に金を払い、わいせつな行為をしたとして、
児童買春禁止法違反(児童買春)の疑いで 群馬県太田市の霊雲寺住職、丹呉通孝
容疑者(55)を逮捕した。
調べでは、丹呉容疑者は昨年5月19日、埼玉県朝霞市の女子高校生(当時15)を東
京都豊島区のホテルに連れ込み、現金3万円 を渡すことを条件に、わいせつな行為
をした疑い。その後もこの少女と月10万円の愛人契約を結び、何度か会ったという。
丹呉容疑者は少女について「16、17歳ぐらいの危ない年齢だと思った」と供述してい
る。
出会い系サイトを通じて知り合った男が少女を丹呉容疑者に紹介したといい、同署は
男が経営する売春あっせん組織が存在する とみて調べている。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040927AT3K2703J27092004.html
>1 おお立ておったか!乙!!
24 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 00:49:22
>>21 周辺の所領を分知されながら、ついに浮き上がることなく没落したんだろうな...
25 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 00:57:27
26 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 01:42:22
>>7 >本物の世良田氏の末裔は〜
マジっすか?。
>世良田長楽寺において法伝授を受けると共に、世良田氏の系図を与えられたという。
>なお、祐元の子・祐綱(宥円)以降、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けたとか。
よく何事もなく・・・って感じだよね、時代背景を考えれば。
28 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 11:21:29
29 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 11:36:36
世良田氏も得川も北条の傘下に入ったんじゃなかったっけ?
30 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 17:49:35
>>29 7 :前スレより転載 :04/09/28 11:14:05
111 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/18 23:51
本物の世良田氏の末裔は、戦国期に武田家や佐竹家に仕えていたらしいね。
世良田氏は会津真船郷に住して真船姓を称していたが、14代当主の祐元は葦名
家臣・伊藤時綱に仕え、葦名義広が常陸に逃れたときに共に逃れている。
祐元は仏門に入って宥元と名乗り、世良田長楽寺において法伝授を受けると共に、
世良田氏の系図を与えられたという。
なお、祐元の子・祐綱(宥円)以降、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けたとか。
長楽寺って天海僧正が住持を務めたんだっけ?
32 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 23:00:54
33 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 00:32:16
世良田東照宮・・・ご存知?
34 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 06:07:44
35 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 14:58:36
>>34 まあ、こじつけの辻褄合わせってやつなんだろうな。
>>35 将軍家だからね。
そのくらいのことはしないと格好付かないでしょ。
37 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 16:27:45
>>36 山名と違って、徳川の場合は眉唾を通り越して完全なる捏造だしな
「完全なる捏造」とまでは言い切れまい。
39 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 11:36:54
40 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 11:47:55
悪魔の証明になりそうな悪寒
>>40 また弁証法だの何だの出てきそうだな(w
100%本当であることを証明するより、100%嘘であることを証明する法が
難しいだの何だの・・・
42 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 12:22:21
43 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 12:24:07
は? 里見が捏造だって? お前馬鹿だろwwwwwwwwwwww
45 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 13:00:06
木曾は捏造がバレてから冷遇されるようになった・・・
46 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 13:17:59
つーか調べればばれる捏造しないだろ 里見みたいな小大名なんか特によお そんな微々たる考えもできないのかおまえら?
48 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 17:27:02
戦国大名・近世大名の○×氏の子孫、なんて ほとんど仮冒なんだから細かいことは気にすんな。 ちゅーか、すでに平安後期の坂東八平氏あたりでも 本当に桓武平氏の子孫なのかどうか、かなり怪しいんだし。
>>49 まーそれを言い出すとだな、そもそも清和源氏自体が怪しさ特盛状態なわけだが。
経基より満仲のほうが2年早く生まれてるなど矛盾だらけ。
婿養子として満仲が迎えられたとでも考えないと話が合わない。
大体「未だ兵の道に練れず」と評された経基と、
「我が心に違う者あれば、虫を殺すように殺した」と言われた満仲じゃ違いすぎるわけだし。
>>50 は?
経基と満仲の系図はちゃんと証明されているよ?
ばかじゃねーの?
52 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 19:20:10
>>51 _n
( l _、_
\ \ ( <_,` )
ヽ___ ̄ ̄ ) グッジョブ!!
/ /
新田以前なんてどうでもいいよ
また史板の糞共が乱入してきたか
>>54 は?なに決め付けてんだよ?
お前こそ史板の連中だろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
56 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/02 03:52:16
足利スレ滅亡の因子が・・・
58 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/02 04:11:32
>>57 お公家さんやんけ・・・(w
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052.htm >【村上源氏】
>村上天皇より出た源氏で、具平親王の後裔が最も栄え、久我家、中院家、六条家、
>岩倉家、千種家、東久世家、久世家、梅渓家、愛宕家、植松家の10家の堂上家が
>成立する。
>堂上家源氏の中で久我家は清華家、中院家は大臣家に格付けされて、源氏系公
>卿としては村上源氏が筆頭である。
>武家は、伊勢国一志郡多気城を本拠とする北畠氏族、播磨国佐用郡赤松村を本拠
>とする赤松氏族、伯耆国名和荘を本拠とする名和氏族が特に栄える。
>>59 足利義満に横取り?されるまで、「源氏長者」「淳和・奨学両院別当」
は久我家の当主が代々兼務していたわけですよね?
61 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/02 04:53:55
その頃、新田氏は・・・
>>59 なに一過程に過ぎないソース引っ張ってきて
公家とかいってんの?
あなたおばかさんですか?
>>63 ひょっとして自案が却下されると切れるタイプ?
なに妄想してんの( ´,_ゝ`)
自分の先祖でもない人間の系図並べてああでもない、こうでもないって言い合うのってなんか楽しいのか? 世間に流布している系図なんてほとんど偽系図なのに馬鹿みてー。 100万年も遡ればどうせ同じ祖先に行き着くのに。
66 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/02 12:55:16
足利スレ滅亡の因子が・・・
何かすっかり変なのが居つくようになったね
マターリいこうぜ
結局、山名なんですよ、問題は・・・
>>72 あ?
いま里見と偽源氏の話題だろ?勝手に趣旨変えんな池沼
>>37-38 天保4年に成島司直が改撰した『改正三河後風土記』には
「近頃享和二年壬戌二月、武州多摩府中時宗称名寺竹林の中より、
掘出したる碑に、世良田氏徳阿弥親氏、応永一四月廿日と有、官より
令し、其地に籬を結廻し、樵采を禁ず。其子細は詳ならずといへども、
附して参考に備ふ」
とあるらしいんだが、松平親氏の墓が何で多摩にあるわけ?
怪しくね?これ。
ちなみに称名寺(時宗)とは・・・
http://hon.web.infoseek.co.jp/tama/tam/t028/t028t.htm >称名寺は府中大国魂神社の参道になる欅並木通りの途中から、
>西側の路地を入った処にある時宗の寺である。
>
>□ 大国魂神社の東側は武蔵国衙があった場所といわれ、国衙に
>近いこの称名寺の場所は武蔵介経基王の屋敷跡地と伝える。経基
>王は後に臣籍降下して源朝臣となった清和源氏、実は陽成源氏の
>始祖である。国司として武蔵国へ赴任して早々、上司の武蔵権守興
>世王と組んで足立郡司の武蔵武芝との間で紛争をおこし、仲裁に入
>った平将門を謀叛の企て有りと訴えて臆病者と呼ばれて拘禁された。
>ところが翌年、将門が常陸国衙を襲って本当に謀叛をおこしてくれた
>ため、経基王は先見の明ありとして清和源氏は武門の家ということに
>なった。
(
>>77 の続き)
>
>□ 江戸時代の亨和二年(1802)境内の竹林から墓碑が発見され、碑
>銘に「世良田徳阿弥親氏、応永十四年四月廿日」と刻まれてあった。
>時宗遊行徒の世良田徳阿弥親氏は、徳川家の先祖が新田源氏につ
>ながるとされる要の人物である。
>
>□ 徳川家の正史『徳川実紀』は時宗僧となった有親・親氏父子は三
>河国大浜の称名寺に寄遇し、有親はここに葬られたという。その後の
>徳阿弥親氏は同国加茂郡松平郷の松平家の婿養子となり、徳川家
>の初代とされる。
>□ 府中称名寺で発見された墓碑は幕府の寺社奉行へ「徳川御当家
>の御先祖様の墓なるべし」と届け出たが、浮妄の言と叱責したという。
>親氏が武蔵国府中で葬られたのなら、徳川将軍家は新田源氏の末と
>いう系譜は宙吊りになる。明治三十五年、これを根拠の一つとして村
>岡素一郎は『史疑』一巻を著わした。
>
>□ しかし、碑銘は現代の専門家も否定している。墓碑は称名寺に現
>存するはずだが、公開されていない。
>>76 それって前スレでも若干話題になっていたように思うな・・・結論は忘れたけど。
ちなみにこのスレ、sage推奨なのかな?
普通、「世良田氏徳阿弥親氏」なんて彫り方するか?
少なくとも法号と俗名は分けて彫ると思うぞ。
>>78 にあるように専門家さんたちも否定してるわけだろ?
>>80 もし「ヤバい」シロモノだったら、そんなモン、幕閣のお偉いさんたちが放置しておくかねぇ?
「これは偽物である!」として掘り出した僧侶あたりは罰せられちゃうような気もするが・・・
親氏と所縁の寺じゃなかったかな?、称名寺って。 親氏(徳阿弥)が三河で最初に草鞋を脱いだのが称名寺だったという 言い伝えがあったはず。
>>82 碧海郡大浜にあった(とされる)称名寺な。
府中の称名寺と関係があるのかは知らんけど。
称名寺って名の寺はあちこちにあるよ。 藤沢だか金沢(神奈川の)にもあるらしいし。
>78 その碑は八王子だか世田ヶ谷だか忘れたが、近年公開されたよ。 鑑定もされて、なんでも碑そのものは確かに中世のものらしいが、 掘ってある文字は近世だって話だったような。
>>83-84 徳阿弥(ホントにいたんか?)は時宗の僧って設定でしょ?
府中の称名寺も時宗。
それ以外の称名寺は他宗だよね。
>>85 近世ってのは……どの程度まで遡れるのかな?
あ? いっておくけど日本の家系システムは世界有数なんだぞ? そんなすぐに調べれば分かる家系を偽造してどうすんだよ ばっかじゃねーの?
>>86 ちゃんと調べたの?
憶測で決め付けたらダメよ
90 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/04 11:40:34
ダメ、ダメじゃ何も進まない。 が、世良田関係は放置汁。
都合の悪い話題は放置ですか そうですか
>>88 まともな歴史学者は世の中の系図の8割は偽物だと言ってるが・・・
まあ、三戦板で野暮なこと言うなって言うのならそれまでだけど。
あとね、調べればすぐ分るから捏造しない、っていうけど、
没落した貴族や旧名家が系図を売るってのは中世以来普通のことだったんだよ。
まして近世大名なんか、出自が怪しいのはみんな知ってるけど、
そこはそれ、お互い無理矢理名家の系図にくっつけたりしてるんで、
言いっこなしね、っていう暗黙の了解があったわけで。
>>92 言いたくても言えないだけだったんじゃないかと思うが。
将軍家からして偽源氏だし。
あ?徳川が偽源氏だって? なわけねーだろ ちゃんと朝廷から源氏長者に任命されてるだろーが 無知ばっか
>>85 確かに公開されたことがあるけど、現在は非公開だよね。
まあ、これ以上調べられて「偽者」呼ばわりされて価値を失うよりはいいんじゃない?
それはさておき、竿石に彫られている「応永元年4月20日」は実際には存在しないよね。
明徳から応永に改元されたのは7月のことだし。
称名寺から届けが出て、幕閣のお偉い人たちによって実地検分なされるまでの間に、 悪戯に見せるために故意に刻印し直したとしたら・・・ という憶測も成り立つかも。
>>96 ばか?
旧暦忘れてないWWWWWWWWWw
>>76-77 「応永一四月廿日」なのか「応永十四年四月廿日」なのか?
>>97 しかし、幕府側も何でそんな証拠物件を残したのかねぇ?
>>101 は?一々捏造するほうがばれるだろ
お前さん知恵遅れの方?
別にいいじゃん。 捏造してたのは事実なんだし。 朝廷にとっては徳川氏が本当に清和源氏かどうかなんて どうでもいいことだったんだよ。 取りあえず自分たちを保護して貰えればそれでOKだったんだろ。 なんで周知の事実をそこまでムキになって否定するんだか。
>>92 >まともな歴史学者は世の中の系図の8割は偽物だと言ってるが・・・
そいつらが本当に「まとも」かどうかなんてのは系図以上に不確かな話だよ。
一例を挙げれば、戦後の学者たちは出雲大社の巨大神殿は記紀の捏造で実在しなかった、なんてことを
頑強に主張していた連中が大半。
最近の発掘で柱の遺蹟が発見され、記紀の伝承の正しさが証明されたのは記憶に新しい。
何が言いたいかというと、とにかく戦後の学者はサヨクイデオロギーに汚染されて、
自分の気にくわない伝説とか名門とか血筋というやつを軒並み否定したいという
歪んだ願望を持っている手合いが実に多いってこと。
いいかえれば、そういう手合いの唱える「学説」には、なまじ権威があるだけに注意が必要だってことね。
>103
>なんで周知の事実をそこまでムキになって否定するんだか。
その「周知の事実」ってやつに疑問があるからだろ。
まあ、戦後60年、アカデミズムの世界はそいつらサヨク学者の天下だったので
あんたみたいな連中の大半が最初に知った知識(系図=全部偽物、名門=全部詐称)を、まるですり込みのように信じ込んでいるのも無理ないけどな。
105 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/04 18:42:24
>>94 徳川が源氏かどうか以前に、金と力で選ばれたという客観的事実は無視ですか?
たかが、清和源氏が…。
馬鹿じゃねーの? 系図を売るといっても嫁がついてくるはず
朝廷は金で家柄を出さんぞ
>106 おまえ、彼女に他の男でもできたのか? もう少しマターリしる。
徳川に唯一系図を差し出さなかった?とされるのが岩松家。 おかげで御目見え以上なのに石高は20石(後に120石)と冷遇されましたけど。
>>109 あほか。
系図を売る=娘を嫁がせる
ってのは常識だぞ
>>110 居眠りこいて、聞こえないふりしてたんだっけ?
>>108 任官したときの任料でせこく稼いでただろ。朝廷は。
もちろん、官位を貰うには藤原氏なり源氏なり平氏なりを
名乗る必要があったわけで、
戦国大名の場合は単なる詐称というよりは、
任官するための方便だった、という側面もある。
清和源氏は新羅系の渡来人の末裔なわけだが。
>>115 ?
なんでも史板と決め付けるのか?
三戦って本当にひどい板だな
>>116 満次郎の娘(武子)ってホントに井上馨に嫁いでたんだな。
満次郎俊純の嫡子・三郎忠純が貴族院議員(男爵)、嫡孫・義美が新田神社の宮司(男爵) になっている。 なお、忠純の三女・幸子が井上馨・武子夫妻の養女となり、松平春嶽の子・慶民(宮内大臣 /子爵) に嫁している。
話それてんじゃねえ 削除依頼出してくるわ
粘着馬鹿は無視して進行しましょう。
>>122 分倍河原古戦場(東京都府中市)の碑は、新田義美男爵の筆だとか。
h**p://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.rekitan-2.html
話がそれてきてんな 明治は日本史板の華族スレでやれ
>>119 の「新田神社」ってとりあえずこれのことか?
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/11_ota/11057.html >新田義興公は新田義貞公の第2子で、足利尊氏が謀反を起こしてより、父亡き後、
>新田一族を率いて武蔵野合戦等を始め各地に奮戦され、吉野町(南朝)の恢復に
>尽力をされました。
>そして、終始一貫その忠義を尽くされましたが、正平13年(1358年)10月10日、謀
>略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げられました。
>その後、義興公の怨霊が現れたり、夜々「光り物」が矢口付近に現れて往来の人々
>をも悩ますようになり、そこで義興公の御霊(みたま)を鎮める為に、義興公の墳墓
>の前に社殿が建てられ『新田大明神』として広く崇め奉られました。
>>127 越前藤島で戦死した後、義貞の遺骸は福井県丸岡町の称念寺に、
御霊は太田・金山城跡の新田神社に祭られたんじゃなかったか?
ついでに称念寺については・・・
ttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-03-11.htm >称念寺は境内に新田義貞の墓があることで著名であるが、南北朝の抗争のな
>かで、南朝は時宗との関係を深めていったらしい。後醍醐天皇の血統をもつ尊
>観が遊行十二代を継承しているのも、これによるものと思われる。したがって南
>朝方の新田義貞が陣僧として時衆をともなったのは当然のことで、遊行七代託
>何(宿阿)の初賦算地を「暦応元年四月十九日、越前河井(河合)往生院」とし
>ているのは(「遊行藤沢歴代系譜」)、年次から推しておそらく新田義貞の陣僧
>中の一人であったからと思われる。
>そして暦応元年の閏七月二日に藤島の灯明寺畷で戦死した新田義貞の遺骸
>は、「輿ニ乗セ時衆八人ニカゝセテ、葬礼ノ為ニ往生院ヘ送ラレ」とあり(『太平
>記』巻二〇)、その往生院こそ、義貞の本営石丸城の近辺にあったと思われる
>吉田郡河合荘の往生院のことであろう。従来この往生院は長崎称念寺と同一
>視されていたが、称念寺の歴代が「薗阿弥陀仏」であったのに対し、往生院の
>住持名は「時阿弥陀仏」と記載されているから(「時衆過去帳」)、別寺であるこ
>とは明らかである。
>義貞の戦死後に義貞の近習であった斎藤五郎兵衛尉季基・同七郎入道道献
>の二人が「出家シテ、往生院、長崎ノ道場ニ入リ」と述べられているのは(『太
>平記』巻二〇)、往生院が長崎(称念寺)の下道場であったからと思われ、中世
>末期に往生院が衰退して称念寺に併合されると同時に義貞の墓も称念寺に移
>転し、以降は往生院称念寺と称するようになったものであろう。
>>122 新田義美(よしみ?)氏は歴代当主の通字「純」が名前に入っていないんだね。
やはり新田義貞を意識して名乗ったんだろうか?
でも、どうせなら「義実(よしざね)」にした方がカコイイのにな。
鹿児島・川内の新田神社は違うの?
転載スレかよ マジで削除依頼出してくるわ
>>130 称念寺も時宗なら、徳阿弥さんも時宗の遊行僧。
んでもって府中の称名寺も時宗とは・・・
>>110 岩松氏純・守純は「信長の野望・嵐世記」にもちゃっかり登場してるね。
能力的には・・・・だが(w
>>138 守純の娘は、千葉邦胤に嫁して嫡男・重胤を産んでいる。
彼女は千葉氏滅亡後、家康に召し出されて於江与の方に仕え、「東の局」と名乗った。
於江与の方の死後、暇を出されてからは江戸長川町の屋敷に重胤を呼び寄せて暮らし
たと言われている。
既に徳川と新田源氏詐称についてのスレじゃね〜か 早く南北朝とか戦国時代の話題に戻せボケ
>>140 だったらご自分でネタ振りされたらどうですか?
戦国時代の新田源氏について検証するか。 里見って足軽出身だろ
>132 なるほど。維新の元勲・三条実美(さねとみ)にでもあやかったかな?
一回の貧乏があやかれるわけねーべ
>145 ‥‥ハァ?
>>146 ちょっと先祖がいいだけの貧乏人が太政大臣様の名前を
あやかれないってことだよ
>>138 岩松氏純(1507〜1548)
【列伝】
新田岩松家13代当主。新田岩松家は清和源氏足利家の支族で、足利時兼を始祖とする。
南北朝期には、新田宗家が南朝方に属したのに対し、北朝方で戦った。
【能力値/特技】
政治39 統率18 知略15 野望41 義理50
「連射」
【出自】
国人衆
岩松守純(1532〜1616)
【列伝】
新田岩松家14代当主。氏純の子。戦国期の新田岩松家は、家老・横瀬家により居城を奪わ
れ、衰退の一途をたどっていた。のちに徳川家に旗本として仕えた。
【能力値/特技】
政治45 統率4 知略40 野望9 義理69
「回復」
【出自】
国人衆
>>147 名前にあやかるくらいしかできないだろ、貧乏人なんだから。
>>139 新ドラマ『大奥』には出て来ないようですねw
>>151 そう言えば、足利頼純の娘も秀忠の姫付きになってますね。
>>152 育ちの良さと教養、そして何より血筋が買われたってことでしょう。
>>152 確か島姫(古河姫君)は「東国一の美女」とも「絶世の美女」とも
言われていたらしいな。
>>139 ということは、千葉家累代には岩松家の血が?
今度は千葉かよ〜 いい加減に姫ネタうぜえーよ 日本史板の鎌倉公方スレでやればぁ?
>>158 由良などよりも素性としては確かなわけですね。
>>159 まあ、どうせ適当に捏造されてるんでしょうけど(w
>>159 岩松家が新田氏の嫡流と見なされたのも、系図の正当性で一歩リードしていたからでしょ?
じゃあ、それまでの二百ウン十年は何だったの?ってことになるけどさw
>>161 ?家系上、普通に時間は関係ないが?
むしろ二百年立っていたほうが一族末裔ってことで信憑性あるよ?
何いってんのあんた?
>>162 由良側のこと言ってんじゃねえの?
由良・横瀬も新田系の高家だったしな。
>>163 早々に系図もプライドも捨てなけりゃ生き残れませんよ(w
前出の長楽寺蔵の系図は差し出されずに残ってたわけでしょ? だから世良田の末裔に与えられたと。
与えるも何も、縁が無ければ詐称したりなどしない。 なんか勘違いしてる人多いね
>>166 まあ、正真正銘の本物ってのは得てして没落してるんだろw
詐称だろ
>>170 世良田家が詐称と思われる可能性を指摘してみてちょ。
大した大家でもないのに先祖を必死に宣伝してるから。
>>172 ちなみに
>>166 以降の文脈はちゃんと追ってるよね?
世良田、世良田と呼んでいるのは、世良田長楽寺にて系図を与えられた
真船(世良田)祐元のことなのであしからず。
7 :前スレより転載 :04/09/28 11:14:05
111 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/18 23:51
本物の世良田氏の末裔は、戦国期に武田家や佐竹家に仕えていたらしいね。
世良田氏は会津真船郷に住して真船姓を称していたが、14代当主の祐元は葦名
家臣・伊藤時綱に仕え、葦名義広が常陸に逃れたときに共に逃れている。
祐元は仏門に入って宥元と名乗り、世良田長楽寺において法伝授を受けると共に、
世良田氏の系図を与えられたという。
なお、祐元の子・祐綱(宥円)以降、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けたとか。
祐綱は怪し杉 必死になる人ほど末裔は嘘
>172 おまえ馬鹿だろ
>>175 何ともまあ、具体性に乏しい回答ですね。
じゃあ、系図を授けた世良田長楽寺も怪し杉と言いたいわけですね?
ま た 、 世 良 田 祭 り か
>>178 いいんじゃないの?
1000到達まであと821も残ってるんだから(w
やっぱ徳川家は専用スレ(あるのか?)に任せようよ。 なんか家系偽装スレも立ってるからそれでもいいだけど。
>>181 まったくだ。
そもそも新田一門に徳川を入れること自体納得できんのに。
そうは言うが徳川ネタでもないと とんでもない過疎スレ化するのは間違いない。
別に過疎化しても構わないと思うが? 下手に延命させると、荒らしが沸いてくるよ
>>182 しょうがないよ、本人たちがそう言うんだもの(w
>>186 家系図で、というよりはスレタイの「新田一門」じゃないの?
>>186 まー朝廷の官位叙爵も基本的には家系は自己申告制だからな。
新田一門の場合、徳川の話題は避けられんだろう。
避けたところで勝手に絡んでくる厨が次から次に湧いてくるし。
個人的にはもっと山名あたりを話題にしてほしいんだけどな。
意外と知られてない赤松を語ろうぜ!
赤松って新田?
>>190 一応本人たちが言うには村上源氏らしい。
一番信用できる系図って何なんだろうね。 尊卑分脉?
>>189 それは名門スレで畠山の後釜に据えなさいっての。
いつになるか分からないけどw
>>181 世良田の話を徳川で結ぶなっての。
長楽寺から系図を授けられた真船(世良田)家の話をしてるのに。
>>193 当時から「嘘だろ」って思われてみたいだし。
多分「村上源氏だよ!」って言ってる当の本人も
半笑いで言ってたと思われる。
俺も今日から清和源氏を名乗ろうかな。
>>196 木曽氏の例が顕著です。
つい最近まで俺も騙されてた(w
>>195 真船も怪しいでしょ。
世良田政親(頼氏の玄孫・政義の子)の娘婿の系譜でしょ、確か。
政義は宗良親王に仕え、南朝方の勢力として信濃で戦死。遺児・政親は南朝方残党と
共に三河に逃れ、そこで没したとも言われている。
>>199 家伝では、政親の女婿は新田義宗の子・義則(母は政親の姉)だったと言うよね。
>>201 「新田義宗の子孫」これが信憑性に「?」を与える要素のようにも思えますが……
じゃあ秦氏の前に新田源氏を自称していた、長宗我部那親について語ろうか?
徳川話よりはまだマシだ罠
>>201 新田義則は脇屋義治の子って説もあるが。
>>205 是非ともソースのご提供をお願いします。
利用されやすいですね、新田氏族。
http://www.mediaac.co.jp/gohoku/p-kon02wc.htm >花の木の湧き水
>-はなのきのわきみず- [小川成川]
>
>脇屋(新田)義治を祭る新田神社のすぐ下に湧いています。
>1354年(正平9・文和3)、南朝の武士脇屋義治は、北朝足利氏の追っ手を
>逃れて樵(きこり)に変装し、清水の湧くこの地に仮住まいしたと伝えられて
>います。
>今では神祭などの時に水を汲むだけで、猪の「ぬた湯(遊び場)」になって
>いるそうです。
>近くには義治の亡霊が出たという「幽霊が窪」もあります。
長宗我部那親って誰だっけ? 応仁の乱の時に東軍についたやつ?
>>206 新田氏関係の本には大抵書いてある。
最近の本だと久保田順一氏の「新田一族の盛衰」とか。
俺はむしろ義則=義治の子説の方が普通だと思っていた。
大抵書いてあるって…… ひょっとして頭のおかしな人?
>>209 確かにそう解釈する方が主流かも知れないね。
>>211 では一応、新田系というわけですね?>新田義則
新田義宗もいろんなところに火種撒いてるなw
>>207 武蔵野合戦後の脇屋義治の消息は諸説あるけど高知ってのは初耳だな。
出羽に逃れたって話なら聞いたことはあるが。
>>209 浅田晃彦氏の『児島高徳と新田一族』なども。
なお、『系図纂要』や『長楽寺系図』では、新田義宗の子は「貞方」ですね。
義則はやはり脇屋義治の子とするのが一般的なようです。
ぐぐってみたけど、虚実混合・玉石混合って感じだね。
>>218 だからいろいろ「継ぎ接ぎ」が可能なんじゃないのか?
>>214 でも四国ってところは新田神社がよそに較べても格段に多いそうだよ。
義治本人かどうかはともかくとして、新田の一族が逃げ込んだ可能性はあると思う。
そういえば愛媛に新田高校ってあるね。何か関係あるのかな?
>>220 庶流、傍系まで広げれば・・・・ということか。
222 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/17 08:52:52
四国に逃げるくらいなら征西府がある九州までいかないですかね? 四国に鎌倉期に領地があったりして土地鑑みたいなのがあったのかな。 (一応、征西府配下で戦った新田一族もいたみたいですが)
223 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/17 10:25:59
四国って名門意識に弱いし。 平島足利家のお札が流行ったのも、そういった素地からのものっぽいと思うし。 三好ですら、自称小笠原一族なんだから。 誰かが新田一門と名乗ったら、あいつが名乗れるなら俺も俺もって感じに、 新田と名乗る人が増えていって、新田神社が多数できたなんてことだったんじゃないか?
み、三好ですか?
十河に至っちゃ過激にも、景行天皇の子孫を名乗っているからな。 新田を名乗る程度、軽い軽い。
四国が名門意識低いとは思わないが 古い名門の名を継ぐにあたりおかしなことをしているね。 義助に従った河野一族得能氏はたしか能勢氏と某氏(名前忘れた)を継ぐために両氏の名前をブレンド 時代は下って戦国時代にはその得能氏と土居を継ぐために得居という氏を創成してる。 なんか変わった風習だな。
>>223 阿波の足利家に対する土着的な民間信仰は、裏を返せば蜂須賀家への反発の
裏返しでもあるんだけどね。
>>228 所詮、蜂須賀なんて地縁もクソもない豊臣大名だしな。
>>230 もともと、sage保守やっている一味だ。
>>231 あちらはsage保守にも巧いこと大義名分を持たせてます(w
>>228 偉い香具師って何か知らんけどみ〜んな「神」にされてるな。
別に悪いことだとは思わんけど。
>>233 それこそ日本人の宗教性というか宗教観なんだろうな。
>>234 それが、他国には極めて遅れた野蛮な風習と見えてしまうために、靖国問題が発生しているわけだが。
>>235 危ない危ない、そっちの話には乗らないようにしておこう(w
>>228 3,000貫の所領を100石にする蜂須賀家よりも、零落していた香具師に20石与える方が
慈悲深く思うのは俺だけ?
>>237 ・・・・・・・・・・・・・・・・どっちとも言えんけど。
しかし、後にもう100石上積みしてやった方が慈悲深いかもしれないな。
>>228 今の足利家の当主ってのは阿波足利家の血筋なんでしょ?
>>239 確か足利義弘さんだっけ?
九州で大学の先生か何かやってるって聞いたが。
阿州足利家の末裔ってことは、やっぱり漢詩文とかの権威なのか?
>>239 喜連川系じゃないの?
少なくとも、華族になったのは、秀吉に当主の姉が股開いて、大名になった喜連川足利家のはず。
>>241 大名?
幕藩体制の中では「無高」扱いだったのでは?
勿論、5千石(実高は1万石弱とも)の所領があったけど、参勤交代なども免除に
なっていたはず。
243 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/24 03:59:23
>>242 無高ではなく10万石格
蝦夷の松前と同じ
>>243 公議所の資料では「野州喜連川 足利左馬頭 無高」と記載されてたんだけどな。
10万石の格式&大名「扱い」は分かるんだけど。
確か徳川家が直接の家臣と見なしていない証しとしての措置だったように思う。
>>241 喜連川足利家の方は足利淳氏(印度哲学者)を最後に子孫は絶えているはず。
それに名前を見てみなよ。
まあ喜連川っつっても実際は水戸権中の血だけどな。
もう、足利家は地上にいないんだね…… 地方の名字として残っているうちはあるんだろうけど、 丸に二つ引き両、源氏嫡流、足利家の家はないのか_| ̄|○
>>247 その前に畑違いの加藤家からも養子が入ってる。
女婿ではなく完全な養子ね。
241 足利頼純の娘・島姫が秀吉の側室になり、かつての夫・塩谷氏(小田原攻めの軍役 を負担せず改易)の喜連川領3,500石を化粧料として与えられたことが始まり。これ を弟・国朝が相続したことで、小弓御所は喜連川足利家として再興する。 一方、足利義氏の娘・氏姫もまた秀吉の側室に所望されたが、これを拒絶したため 古河領10万石余を没収されて鴻巣御所に退去。所領も300石程度に減封されてい るが、この僅かな所領も後に氏姫が喜連川国朝・頼氏を婚姻した際、併呑されてし まう。
阿波足利家は士族になったから、はっきりとした現当主はいないんだろうな。 かわいそうに。
いや、足利将軍家の嫡流はいる! 肥後熊本細川家。
足利先生は社会福祉がご専門のようで。 やはり御当主様は心が広い(w
やっぱり、名門は幕府の旗本になるのが一番だね! 改易の恐れがない上、徳川からの養子抜きで全て匿ってくれる! 最上や一色や吉良や今川は勝ち組
>>253 ということは、足利将軍家が10年ほど前に天下を取ったということ?
>>258 そんなところが足利!
ちょっと違うんだけど、本当に上級旗本ってかなりの名門ばかり揃ってるんだね。
田沼意次のガキを斬り殺した佐野なんとかは、下野佐野家当主だし……
他にも既存大名家の庶流とか、
>>256 の守護大名の子孫とかかなりの数が揃っている。
そういえばこいつらはみんな明治に士族になったんだよね?
なんであんまり聞かないんだろ?
>>259 根本的に違ってくるからな。
足利義康の孫・義氏の3人の子・泰氏、義継、長氏から分派してるわけだが、
・泰氏の系譜……足利嫡流、斯波氏、大崎氏、最上氏ほか庶流。
・義継の系譜……奥州探題・吉良氏、蒔田姓から吉良姓に復姓。
・長氏の系譜……西条、東条吉良氏、今川氏、荒川氏など。
となるわけか。
263 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/26 17:17:57
>>60 誰も突っ込んでいないようだが、後醍醐天皇の時に村上源氏傍流の北畠親房が慣例を無視して源氏長者に抜擢されている。
いまこそ!足利将軍家スレッドの再興の時だ!
むしろ斯波スレw
>>263 源氏長者はあるのに平氏長者っていうのは無いの?
>>271 知らない。まずは気づいた人が率先して行動しよう。
273 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/29 12:38:08
>>271 確か長者は源氏と藤原と橘あたりにしかなかったのでは?
日本史板的なテーマだと思うよ。
>>273 平家も氏長者はあったようだよ。
ちなみに鎌倉時代は、北条得宗家がそのまま、平家の氏長者を兼ねていたようだ。
>>274 例の「宗家」は平家の氏長者を演じてたわけですね。
>>223 >誰かが新田一門と名乗ったら、あいつが名乗れるなら俺も俺もって感じに、
新田と名乗る人が増えていって、新田神社が多数できたなんてことだったんじゃないか?
これワロタ。ありえねーよ、そんなのw
277 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/30 11:30:15
>>273 >>274 講談社現代新書の「源氏と日本国王」って本に結構詳しく氏長者について書いて有りました。
以下抜粋
氏長者とは古代の氏上の系譜を引く氏の統率者であり、氏寺や氏社の祭祀、大学別曹や氏院の管理、
氏爵の推挙などを行うのを常とした。 中でも氏爵は、その氏の正六位上の者の中から毎年一人、氏長者が
推挙した者を従五位下に叙すという制度であり、その意味で氏長者は、氏人たちの出世のカギを握る
重要な地位であった。大伴氏・高階氏・中臣氏・忌部氏・卜部氏・越智氏・菅原氏・和気氏などに氏長者がいた。
中でも氏爵を行えるのは藤原氏長者・橘氏長者・王氏長者・源氏長者だけだった。
源氏長者とは基本的に”公卿のうち、嵯峨天皇の子孫のもの”が本来なるものだったそうです。
淳和・奨学両院別当という役職もありますが、こちらは基本的に源氏の公卿の中で最高位にいるものがなるもので
この両者(長者・別当)を嵯峨源氏が没落して村上源氏の久我家が兼ねるようになっていって同一視されるように
なっていったと。
この本の中には平氏長者というのは出てきませんでしたが、最後の堂上平氏(池大納言頼盛子孫)の家領を久我家が
相続していると書いてあるので、平氏長者というものがあったとしても平氏(高棟王系)-平氏(清盛系)-平氏(頼盛系)
と移って最終的に久我家に吸収されたのでは?
北条氏(得宗家)が氏長者になったって何かソースありますか?
279 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/30 22:43:44
>>278 HP見ましたが、うーん、この中で使っている氏長者ってのは良文の場合は高望王子孫の桓武平氏の
関東での代表者、北条得宗家の場合は北条一門の代表者という意味で使っている気がしますね。
(関東に居るし、公卿でもない立場で氏寺や氏社の管理をしていたとは思えない)
氏長者というより一門の総領という言葉のほうが適当な気がします。
っ、てよく考えたらこの話題はスレ違いだけど続けていいのかな?
>279 最終的に徳川氏が源氏長者になった経緯までからませればスレ違いにはならん気もするが。
>>279 原則sage、ほんのりと新田氏が絡んでくれば問題ないと思います。
それにレスもまだ200番台ですし。
282 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/01 12:49:59
>>277 最初の源氏長者は左大臣源信。
藤原氏の氏長者は氏爵の推挙を4家持ち回りにやる義務があって実質には4年に一度しか回って来なかった。
>282 277で紹介した講談社現代新書の「源氏と日本国王」って本の巻末に明治までの源氏の氏長者のリストが載ってますよ。 (ちなみに徳川慶喜が最後の源氏長者じゃないのね、意外) 比較的最近でた本だから本屋にいけば結構あると思います。
>>283 >ちなみに徳川慶喜が最後の源氏長者じゃないのね、意外
最後の氏長者って誰なの?
>>284 細川護貞
近衛文麿の秘書だった人・・・・・・・元首相の父親といったほうがわかりやすいか?
最後の源氏長者は 徳川慶喜 慶応2年12月5日(1866年)−慶応3年10月14日(1867) 久我建通 慶応4年(1868) − 明治4年(1871) となっていました。 ちなみに江戸時代は慶喜以前の将軍(秀忠以外)が代々源氏長者を勤めています。 後、足利義満が源氏長者を公家(久我家)から取り上げた後も、 室町時代は足利家と久我家が混在していました。 足利家で源氏長者になっているのは義満、義持、義教、義政、義尚、義植だけです。
>>286 久我氏に一旦戻されたってわけか‥‥。
で、その後は氏長者という制度(というか名称?)そのものを廃止したって理解で宜しいのかな?
288 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/04 17:08:34
>>285 護貞氏って最近まで健在(今も?)じゃなかったっけ?
>>288 健在。
今の細川本家の当主。
息子の護煕氏は、この年齢になっても、家督をまだ譲られていない。
ある意味、細川家の長い歴史の中で唯一、家督継承前に天下を取った人となった。
290 :
277 :04/11/04 22:39:30
>287 >久我氏に一旦戻されたってわけか‥‥。 >で、その後は氏長者という制度(というか名称?)そのものを廃止したって理解で宜しいのかな? 一覧表がここで終わっているから、明治4年で源氏長者という制度は終わりになったと思います。
292 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/05 17:49:41
>>289 90超えているのに…凄いなある意味。昭和史最後の生き証人って感じだ。
>293 死後の追贈の位階なら「無位無官」じゃなくて、ただの「無位」というべきでは? 尊氏は生前官位あったし(正二位だっけ?)
なんで菊池とか北畠に追贈されているのに、 足利一門は誰一人追贈されてないの? 戦前右翼の南朝奉戴主義に沿ったのかな?
>>296 戦前の歴史の教科書で足利がどう書かれてるか知らない?
うちの祖母など大河の太平記を見て
足利が良く描かれているのに首を傾げておりましたが。
ちなみに戦争の直前が特別おかしかったんじゃなくて
明治に南朝が正統と決まってからずっとそうだから。
なんで足利って悪者扱いなの?
>>293 宇都宮徳馬のような売国奴まで正三位に叙位されているくらいだから、足利尊氏だって資格はあるぞ。
>>298 逆臣足利は畏れ多くも正統の後醍醐天皇を京から追い立て奉り
光明天皇を即位させて朝廷を分裂させたからです。
喜連川の子孫は足利に復姓して子爵を貰っているが
そんなことだから風当たり強かったんじゃなかろうか。
菊地や北畠や名和の末裔や岩松(新田に復姓)が
江戸時代にはほとんど領地もなかったのに男爵を貰ったりしてるし。
>逆臣足利は畏れ多くも正統の後醍醐天皇を京から追い立て奉り >光明天皇を即位させて朝廷を分裂させたからです。 ここ不思議 だって明治の皇室は北朝系だろ
302 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/07 23:43:45
>>301 まるで、趙氏の宋王朝の太祖系(兄・趙匡胤)
と太宗系(弟・趙匡義)のバランスと瓜二つだな
マジで、そっくり!
>>301 その話題は荒れるからやめた方がいいな。
304 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/08 14:21:00
>>299 そういう主張をする奴に限って実際は口だけの愛国・勤皇の徒
>>301 マジレスすると、
南朝正統が公式見解だったのは、1911〜45年の間だけ。
室町幕府は勿論、新田系の筈の江戸幕府も幕府政治の正当性を否認する南朝を正統とはしなかった。
この幕府のご都合主義的史観に反対した水戸学や国学者系統が政治的迫害に屈せず南朝正統論を唱え続けた。
明治政府は当初は両朝認める立場だったが、大逆事件の裁判で幸徳秋水が「明治天皇は南朝を絶やして皇位を確保した簒奪者の子孫」と発言したと言う話が広まり帝国議会でも問題視された。
そこで、1911年国学者系の国家主義者の政治家や学者の主張を受け入れる形で南朝を正統とし、教科書の改訂を行うとともに、両朝並立の記載をしてきた歴史学者を免職にする学術的な粛清を行った。
>>304 >南朝正統が公式見解だったのは、1911〜45年の間だけ。
公式見解って‥‥それは時の日本政府の見解、って解釈でよい?
だとしたら、それが公式に訂正されない限り、以前からの見解が継続されていると見るべきだろ。
それとも1945年(またはそれ以後)に日本政府が「実は皇室の正統は南朝ではありません」という声明でも出した?
出していないのなら、形の上では見解は何も変わっていないんだから、
正統は相変わらず南朝のままってことになるよ。
明治以降に南朝が正統とか言ってるのは、戦前右翼のゴネだろ。 政府も馬鹿相手にやってられないと思って、口裏合わせてたんじゃないの? 南朝が正統だと政府ぐるみで認めていたら、憲法はどうなるの?って話しだし
307 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/09 16:36:16
308 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/09 16:39:01
>>307 勿論、戦後の天皇主権の廃止と軍国主義的思想の追放によって、1911年の直裁自体が実質無効となった。
ぞの残滓として歴代天皇を数えるのに、南朝のみを数えているが政治的にも学問的にも何ら拘束されるものではない。
要するに足利義満の時代の南朝系天皇の勅命により、 北朝系の皇室に帝位を譲って、以後北朝が正統になったってことなの? だからそれまで(尊氏、義栓の代)の北朝は正統ではなくて、本物の天皇は吉野におわしていたってこと?
↑は明治政府の皇国史観ね。
>307>308
>1911年の直裁自体が実質無効となった
直裁じゃなくて「勅裁」だろ。一瞬意味がわからなかったぞ。
手前勝手な解釈してるし。
>>309 義栓じゃなくて義詮な。
‥‥何だかレベルが禿しく下がってきたな、このスレ。
だから「どっちが正統?」論はいやなんだよ。
そもそもがスレ違いなんだし、やりたけりゃ史板か思想板逝け
こ こ は い つ か ら 日 本 史 板 に 成 り 下 が っ た の で す か ?
313 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/10 12:42:51
そもそも新田一族の話のスレだろう
316 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/10 18:18:18
徳川・松平以外の新田系の諸家で大名として幕末まで残ったところってある?
酒井…は、松平系に入るか。 強いてあげて大名ではないが明治の初めに藩主ではあった山名だけではないかな。
318 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/10 21:26:28
後閑氏って新田一門らしいけど戦国以降どこいったの?
319 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/10 21:32:28
ネタが無いから、後南朝を語るスレにしようぜ!
321 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/12 00:49:37
>>317 山名ってドサクサに紛れて藩主になってますね(w
後南朝の子孫はその後、尾張に定着したらしいね。 それにしても、南北朝時代の終焉が1514年だったことにびっくり
323 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/12 20:32:11
>>317 交代寄合だから一応諸侯扱いだし、屋形号も持っていたから下手な大名より
格上だよ。
新田岩松も110石ながら交代寄合で塗傘の使用が認められるほど格は
高かった、維新後に男爵になったから一応入れてもいいと思う。
324 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/13 12:03:54
>>321 高級旗本はみんな必死こいて諸侯に列しようとしてたよね。
高家・大沢家なんか嘘の石高申請がバレて、バンザ〜イ無しよ、だもんね。
>>322 応仁の乱で、南朝を担いだ勢力のうちで
新田家の子孫がいたらしいんだけど、知ってる?
つーか、後南朝の皇胤を担ごうとしたと言われる西軍総大将の山名宗全自身が新田氏流ですが・・・
>>329 Yes。10石単位の誤差が云々されるとは悲しいが‥‥
まぁ、どうせ家臣もそんなにはいなかったろうからこれでいいのかな?
>>331 100石の旗本の軍役が侍、足軽、その他(中間など)各1名ですからね。
といって、普段から足軽を養ってるということはないでしょうし、軍役を課されてから
雇い入れるのでしょうから・・・
それじゃ高家の人たちがサイドビジネスに力を入れるのも無理も無いな。 ケチなのは吉良よりむしろ浅野のような気がしてきた。
334 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/20 08:22:16
サイドビジネスと言うても、実際は幕府の事実上の公認だから。 (幕府としては何ら功績のない単なる負け犬の高家を大名にするわけには行かないが、高家の職掌は金の掛るものばかりそのギャップを埋めるのが教授料だったわけで…)
>>334 そこに鰹節と若干の金子じゃあ、吉良様も怒っちゃうでしょう。
336 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/20 23:30:18
浅野内匠頭は、たしか以前にああいう接待の仕事は経験済みだったはずなので 教授料が必要なことくらい知っていたはず。 ひょっとしたらその辺の事は江戸留守居役みたいな人が裏で仕切っていた 殿様はまったく知らないという可能性もあるかもしれませんが。 単なる浅野の精神疾患か、ものすごく吉良との相性があわなかっただけ (それで刃傷されたら家臣はたまったものではないけど)のような気が。 取り調べでもはっきり遺恨の内容を話してないわけだし。
>>336 基本的にそういったネタはsageでお願いしたいんですが・・・分かりますよね?
>浅野内匠頭は、たしか以前にああいう接待の仕事は経験済みだったはずなので 馬鹿を言え。 彼は初任の仕事に耐えられず、ヒステリーを起こして刃傷に及んだのが真相
>>338 当時も今も刃傷に及んだ真の理由は不明。
賄賂だの意地悪だのヒステリーだのと全て憶測。
>>338 えっ?
若い頃に一度、接待饗応役やってるぞ?>内匠頭
>>341 儀式の様式なんて大して変わるものじゃないからな。
よほど本人がダメ殿様だったか、江戸詰めの家臣がダメ揃いだったか・・・・
>>342 大体、梶川だって「何言ってたか分からんかった」と証言してるわけだろ?
って、もはや引き返せないくらいのスレ違いなわけだが。
岩松氏120石からまさか忠臣蔵スレと化そうとはw
346 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/24 23:25:32
浅野氏が新田一門だったらうまく話しがつながったんですがw 頼光流(土岐氏)の末裔と称していたらしいですね。 うーん残念。
>>346 ということは土岐源氏に戦線拡大ですか?
>>347 まあ、それも新田一門スレの宿命か・・・・?
349 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/01 21:42:54
常陸土岐氏と里見って関係あったっけ?
>>349 とりあえず最新50くらいは目を通そうよ。
351 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/06 12:59:47
里見
352 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/07 19:02:25
>>343 「武士の情けを知らぬやつ!!!」と脇坂淡路守に怒鳴られちゃう人ね?
そろそろ、討ち入りの季節だねえ
>>352 村上弘明と榎木孝明ならどっちが良いものか・・・・
355 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/10 12:52:22
なぜ甲斐源氏…。
里見って不憫 新田家出身じゃなかったら徳川に断絶させられないものを 徳川が嫌いって、なに里見を残絶させたのが一番嫌い 馬琴も不憫に思って八犬伝描いたんだろな 角川の里見八犬伝 大河の太平記で根津甚八の新田義貞 を見てから里見シンパな私
>>357 江戸の対岸に外様大名など置いてはおけまい。
>>358 ならばせめて国替えにしてくれ。
何も取り潰すこたぁ無いだろう。
徳川が三河にいた頃だったか、里見宛てに手紙まで出していたのにね。 「我々は同門同流、清和源氏新田の末裔同士だから仲良くしようね」みたいなやつ。
そしたら里見は「てめーは新田でも源氏でもねーだろ、ハゲ」と返したために後年の憂き目に会った・・・・・・「三河物語」
>361 最後の「ハゲ」が致命的だな。その一言さえ無けりゃなぁ。
里見だってもとは室町中期に安房に流れてきた浪人でしょ?
徳川ほどじゃないとはいえ、出自のうさんくささには大差ないと思うんだけど。
>>360 五か国(駿府)時代だったかと。北条と同盟してたくせに。
365 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/19 16:47:09
>>365 その「表向き」を何より重視するような時代背景でもあったわけですが。
369 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/21 12:58:35
>>363 水谷あたりもその頃から徳川と通じていたな、一応北条への牽制の意味らしいが。
>368 そりゃそうだ。同盟は何も永遠の友情を意味するわけではないし、 同門意識にかこつけた誼を通じておくあたり、 常に打てる手を打っておく家康はやっぱりしたたかだ罠。
371 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/22 12:32:58
日本の為政者にはそれが分かっていない連中が多いからな…日本外交が貧困なわけだ。
>371 戦国時代の日本人の方がよっぽど真の「国際感覚」が豊かだったってことだな。 幕末〜現代の日本人はとかく道徳とか善悪みたいな基準で判断し過ぎる。 特に大東亜戦後はひどい。
373 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/23 20:14:46
いや、儒教を真面目に信じている連中は春秋や史記みたいに道徳的善悪を絶対的な判断基準として書かれた歴史書を「正史」として崇め奉っていたわけだからな。
374 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/23 21:08:35
>>372 儒教的道徳が希薄だった乱世だからこそ、柔軟な外交が出来たわけだな。
375 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/23 23:20:13
尊皇攘夷を唱えてた連中が明治になると富国強兵を唱えて成功しますが? 江戸時代ってのは日本内で外交やっているようなものだったから、 そこでの現実に鍛えられてた連中だから成功したのでは。 世代が変わるとその辺忘れて外交オンチになって、国が滅ぶと。
376 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/25 09:56:30
>>375 真面目に尊皇攘夷を唱えていた連中は幕府と新政府に悉く潰されましたから
実際、明治政府の主力は、尊皇攘夷思想とは縁が薄い連中が占めているものな。 榎本武明のように、函館で、日本から独立すらしようとしていた奴まで、政府中枢に入ったんだし。
尊王攘夷のエネルギーを倒幕に向けてうまく利用したって面があるよね。 結局倒幕に成功し、熱狂したエネルギーが放出されてしまえば、 みんな憑き物でも落ちたように、今度は積極的な西洋化を進めるわけで。
・・・・・・・・・・スレタイ無視かいな。
>>359 新田系の家柄から系図を献上させて、意図的に徳川の血統を書き込むことをやっていたからね。
それでも相手には「徳川さんって偽物ですから!!!!残念!!!!」と思われてたわけでしょ。
何かあったら消しちゃえ、という気持ちが無かったわけじゃないんじゃない?
381 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/02 12:02:54
もっとも安房里見氏と新田系里見氏の関係は疑問だらけだし、近年には美濃里見氏説もあるからな。
382 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/02 12:03:44
383 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/02 16:17:15
386 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/06 08:03:59
>>383 >里見義実は関東里見氏の系譜に連なるものではなく幕臣である美濃里見氏
>(関東里見氏とは同族)であるとする考え方の呈示されているし、その子成義
>に至っては存在が疑問視されている。
なるほど。
成義を繋ぎ目にして系図を繋げたってことかな?
>>386 軍記物にしか登場しないキャラなんだろ?
>>385 毎日新聞の毎年恒例の初夢企画。
新聞では、本体とは別に、嘘記事であるとでかでかと書いて載っている。
ネットでは、当初、ウソ記事とわかるようになっていなかったため、
千葉県庁に問い合わせが殺到したとか。
>384 毎日新聞の馬鹿さ加減に呆れますた
392 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/10 06:25:39
>>386 確かに成義で年代を繋がないと厳しかったりするしな。
393 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/10 09:30:29
>>388 4/1ならまだみんなも笑って済ませられたのだが…。
395 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/10 13:43:46
>>394 米英あたりじゃ4/1に嘘ニュースを流すのはお約束だからな…。
>>395 日本じゃそういうわけにもいかないだろう。
397 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/10 20:42:53
>>396 去年だか、どこかやった日本の新聞社がなかったっけ?
>>397 ご注進に精を出してる新聞社もあるけどなwww
400 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/11 08:05:17
スレ違い
401 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/15 17:12:10
>>383 >里見義実は関東里見氏の系譜に連なるものではなく幕臣である美濃里見氏(関東里見氏とは同族)
>であるとする考え方の呈示されているし、その子成義に至っては存在が疑問視されている。
一応、関東と美濃の両家は遠縁の位置関係になるということかな?
402 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/17 15:20:26
403 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/18 23:47:38
家基と義実の関係というのは立証されてるのかな?
404 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/20 12:08:41
>>403 前者が関東里見氏、後者が美濃里見氏ということかい?
405 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/20 17:34:15
里見義堯による捏造の可能性が指摘されてるよね
406 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/23 14:53:51
407 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/23 17:09:01
系図の捏造などは大抵の大名家がやっている。
>407 ソースは?
409 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/24 01:53:32
410 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/24 01:54:51
島津 徳川 鍋島 etc
411 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/24 01:56:54
>>410 より具体的に「このあたりはかなり怪しい」という点を指摘してもらえません?
そうしないと話が盛り上がらないし。
412 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/24 02:01:03
島津:公式系図では源頼朝の落胤、源氏を名乗る 徳川:新田氏傍流の得川、源氏を名乗る 鍋島:何故か知らんが少弐氏
このスレ的に可なのは徳川だけじゃん・・・・
>412 だからー、それらは一体何を根拠にしているのかって言ってんの。 受け売りでもいいから、せめて誰の受け売りかでも書いてくれないとさ。 具体性のない話を幾らしてもループするだけだよ。
少なくとも、新田一門総合スレだということは忘れるなよ
416 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/25 16:06:59
>>407 四国の十河家なんて、継体天皇の子孫を名乗っているものな。
418 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/25 21:44:05
ここはスレタイ無視の雑談スレですか?
>>414 具体性も何もしっかりした証拠が残ってるじゃん
島津は藤原名乗ってた時期あったし、徳川に至っては系図買収
鍋島はどーみても少弐との繋がりナッシング
つか徳川なんて、このスレで何度も(ry
>>419 徳川が系図を買収したって話、もっと詳しく説明よろ。
421 :
確認 :05/01/26 14:31:41
422 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/26 20:18:53
ネタ切れだから
423 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/29 00:31:15
>423 所詮、司馬遼太郎みたいな香具師のデマをまに受けて、 垂れ流すだけが能だったんだよ
425 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/30 08:37:58
歴史と物語の区別が付かずに「デマ」とか言ってる文化とほど遠い田舎者晒し上げ
>425 司馬厨は消えろよ
427 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/04 12:49:30
日本人は五島勉の出任せ半分の本を信じて1999年に世界が滅ぶと信じてしまった民族ですから…。
428 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/04 18:48:47
何か司馬厨がウロついてるんだな。
429 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/05 12:39:35
>>420 もっとっていうか、伊勢氏(平氏)被官の松平家は元々藤氏を名乗ってたんだが。
その一分家の安祥松平氏が松平宗家となったわけで。
世良田姓を名乗ったのは家康の祖父の代から。っていうか、家康自身三河統一までは籐氏を名乗ってる。
三河の地は南朝朝臣後裔を名乗る連中が多いから、世良田氏=新田氏を名乗るのは都合がいいよね。
んで、1566年頃には家康が朝廷から得川後裔の勅許を貰ってるんだけど、このときは藤原氏得川になってる。
関東に移った時に、源氏としての勅許が朝廷から出てる。その関係で岩松氏が召し出されて新田流の系譜の調査が行われてるんだよね。
そもそも、今の調査でも三河の足利将軍家御料地に居着いた松平信光と松平親氏の関係がはっきりしてないわけで。
徳川氏・松平氏の新田流って系図はかなりうさんくさい。
430 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/07 13:00:34
里見義康が安房一国に減らされたのは?
>>430 鶴ヶ岡八幡宮で「どーか足利将軍が復活しますように」なんて請願していて
来るのが遅れたとかじゃなかったっけ?
432 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/08 04:46:32
>>429 >その関係で岩松氏が召し出されて新田流の系譜の調査が行われてるんだよね。
その時に聞こえないふりをしたために、貧乏旗本にしかなれなかった御仁が・・・
433 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/09 00:52:52
>>432 武士は食わねど高楊枝
それでプライドを守ったんだから、それはそれでいいんじゃないの?
435 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 21:37:35
>>435 だから何?
足利一門スレ滅亡の原因は、史板厨がむやみにリンクを貼りまくり、元々の住人が
離れたことにある。
新田一門スレではそれは避けたいもの。
>>436 それで新田一門が立ち上がった・・・そんな流れ?
438 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/17 17:59:40
では、里見義頼が本当は義弘の弟なのか庶長子なのかについて語る?
439 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 00:34:22
440 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 14:12:07
>>439 義弘の庶長子で義堯が養子にでもしたんだろう、以上!
441 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 16:09:02
/ / / な く .い き l l あ れ っ が | 。 l る て る | \ ____ に ,.>‐'::::::::::, - ,;::::::,ニ、'‐-::、 ./ ,.;'"::::::::::::::::/‐- 、l/ ';:::::::::\ / /::::::::::::,;::::::/ .( ・)| |--- .|:::::::::::::\_/ /:::::::::::::::/:|-'へ、/⌒,.!、`ヽ ./ ̄\:::::::::l :::::::::::/ し' ' ‐-イ::::::::)‐'" \:::| :::::::::/  ̄  ̄ ' - '‐r''" ' ̄ ̄ ̄ ',:! :::::::/ ∧ー――- .| ――∧- l| :::::::| し' _ | ー- し'_ l| :::::::l ―― '´ ,r ┬个┬-、 ./ ::::::::l -‐='"┴┴┴┴ ┴=:、 / ::::::::' 、  ̄ / , \::::::\___________/ / | >------------r―-:、------ゝ、 し' /::::::::::::::::::;;-‐'"´ ̄ト‐┬‐l ̄\:::::::::::\ ::::::::::::::::::::/ ヽ -‐' `:,:::::::::::l
442 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 23:49:05
>>441 なくいきあれっが。るてるに
なんじゃそりゃ
443 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 00:32:00
きがるにいってくれるなあ。 だろが。
444 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 01:31:33
445 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 15:49:29
仕方がない……越後里見氏について語るか。
446 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/22 00:12:49
447 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 00:50:16
>>446 義豊が討たれた時に越後に逃れたんだっけ?
その後どうなったのかは知らんけど。
448 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 03:47:01
里見成義┬義通─義豊─義員(家宗)┬義宗─宗基─宗基┬宗助(里見刑部左衛門) . ..│ .... .│.... ..└義虎(中澤十右衛門)―義孝 . ..│ .... . │ ※中川家臣500石 . ..│ .... . ├忠宗(中澤十右衛門) . ..│ .... . └義仲(里見山左衛門) . ..└実尭―義尭┬義弘─梅王丸 . .. . ...├尭元―義次(子孫津軽家家老) . .. . ...├尭次―尭家―尭則―尭本―尭重―数馬 . .. . ...├義頼┬義康┬忠義―利輝―義安―義旭(間部家臣)―義孝―義徳―義豪 . .. . ...│. . ...│ ...└忠尭(時茂養子) . .. . ...│. . ...├時茂┬時次(備前池田家臣)―時治―義武 . .. . ...│. . ...│ ...└時俊(大久保家臣)―時盛 . .. . ...│. . ...├康俊┬時次※時茂養子 . .. . ...│. . ...│ ...└時俊※時茂養子 . .. . ...│. . ...└義高(子孫酒井家食客) . .. . ...├義政―義滋―(略)―義定―義氏―義冬―義全 . .. . ...│※佐竹家臣・井関氏 ※水戸徳川家臣 . .. . ...└義樹(子孫水戸徳川家臣)
449 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 05:01:11
乙
450 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 11:59:30
>>448 参考
(
>>438 にあるように、)
・義頼を義弘の庶長子と見る説が最近では有力。
・義頼の子・義高は上野板鼻藩主・里見忠高(1613年改易)と同一人物
451 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 19:17:41
里見成義┬義通─義豊─義員(家宗)┬義宗─宗基─宗基┬宗助(里見刑部左衛門) . ..│ .... .│.... ..└義虎(中澤十右衛門)―義孝 . ..│ .... . │ ※中川家臣500石 . ..│ .... . ├忠宗(中澤十右衛門) . ..│ .... . └義仲(里見山左衛門) . ..└実尭―義尭┬義弘┬義頼―┬義康┬忠義―利輝―義安―義旭―義孝―義徳―義豪 . .. . ...| ....└梅王丸│. ......└忠尭(時茂養子) ※間部家臣 . .. . ...│ ... .. ....├時茂┬時次(備前池田家臣)―時治―義武 . .. . ...│ .. . .. ....│ ...└時俊(大久保家臣)―時盛 . .. . ...│ .. . .. ....├康俊┬時次※時茂養子 . .. . ...│ .. . .. ....│ ...└時俊※時茂養子 . .. . ...│ .. . .. ....└義高(子孫酒井家食客) . .. . ...├尭元―義次(子孫津軽家家老) . .. . ...├尭次―尭家―尭則―尭本―尭重―数馬 . .. . ...├義政―義滋―(略)―義定―義氏―義冬―義全 . .. . ...│※佐竹家臣・井関氏 ※水戸徳川家臣 . .. . ...└義樹(子孫水戸徳川家臣)
452 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 22:15:16
n n
(ヨ ) ( E)
/ | _、_ _、_ | ヽ
\ \/( ,_ノ` )/( <_,` )ヽ/ / good job!!
>>451 \(uu / uu)/
| ∧ /
453 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/24 08:13:25
455 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 04:13:09
456 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/25 08:09:40
>>455 アダムとイブあたりからでどうぞ。
458 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 16:46:35
459 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 15:36:23
新田義重┬―義範─義節―┬重国┬朝家 . ..├義俊(里見氏).....└重家├重村┬義長―義俊┬政氏―時氏 . ..├義兼(新田氏)... .. .├国長└義政 .└政杜 . ..├義季(得川氏)... .. .├義房 . ..└経義(額戸氏)... .. .└義行
460 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 15:37:06
山名時氏┬師義(丹後守護)┬義幸(侍所頭人/丹後守護) . ..│ ....├氏幸(伯耆守護)─熈之(同)─教之(同)―豊之(同)―政之(同) . ..│ ....├義熈 . ..│ ....└満幸(侍所頭人/丹後・出雲・隠岐・伯耆守護)―熈貴 . ..├実理(引付頭人/美作・紀伊守護)┬義清―教清(美作守護)─政清(同)―豊氏 . ..│.... ├氏規 ..┌豊時 . ..│.... └時理―理康 .├豊重―豊治 . ..├氏冬(因幡守護)―氏家(同)=熈貴(同)=勝豊(同)┴豊頼―誠通(因幡守護)┌満時 . ..├時正... .┌時清 .. .......├満熈 . ..├時理... .├満氏(安芸守護) .. ..........├宗興 . ..├氏清(山城・丹波・但馬・和泉守護)┴熈氏 .........├崇寿 . ..├時義(備後但馬守護)┬時熈(侍所頭人/但馬・石見・備後・伊賀・安芸守護)―┼持豊 . ..├義数 .├時長 .. ├宗雄 . ..├義継 .└氏之 .. ├宗将 . ..├氏重 ... .├宗理 . ..├高義―熈高※時熈養子 .. .. .. ...├宗音 . ..├義治 ... .└熈高 . ..├氏頼 . ..└義寛
461 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 15:38:23
山名持豊(侍所頭人/山城・但馬・石見・備後・安芸・播磨守護) .. ..│ .. ..├教豊(但馬・播磨守護)=政豊┬常豊 ...┌安豊 (鳥取城主) .. ..├是豊(備後・山城守護)―頼忠├俊豊(但馬・備後守護)├祐豊(但馬出石城主)┌豊数 .. ..├勝豊※熈貴養子(因幡守護)..├致豊(但馬・因幡守護)┼豊定(因幡守護)――┴豊国(同) .. ..├政豊 .. ..├誠豊=祐豊┬棟豊 ....└豊範(三上)―豊弘(因幡守護代) .. ..├時豊 .. ..├女 ......├義親 .. ..├師豊 .. ..└女 ......└尭熈―――尭政―――恒豊 .. ..├某※宗岷侍者 ※仕豊臣秀頼 ※子孫幕臣 .. ..├女(細川勝元室) .. ..├女(六角高頼室) .. ..├女(斯波義廉室) .. ..└豊久(細川勝元養子)
462 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 22:51:11
,.-ー,,、 /@'ノ_.ヾ) グッジョブ! /C’" _ゞ)) ノ_(( `ー, (;( n ;/ )) ., ヽ:) /ミ) / (( ヽ_ ))// / -、.)⌒' ソ./ ~~~~~~~`jii〉 ~ 〈 ~~~~~~~~~~
山名氏清って、明徳の乱の時家臣に向かって 「自分は足利氏と並ぶ家柄の新田一族だから、 将軍になり替わる資格は十分にある」とか言っていたらしい。 「俺様はその他大勢の足利庶流の奴らとは違うんだよ」という意識があったようだ。
465 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 21:10:57
山名だってはその他大勢の新田庶流じゃないのか?
466 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 21:16:52
>>465 確かに「その他大勢」だね。
但し、その時々の力関係ってのはあるんじゃない?
467 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 22:07:44
468 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/28 01:31:07
469 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/28 08:40:31
鎌倉初期、山名義範は「門葉」という頼朝の一族待遇を受け、伊豆守に任じられてる(ちなみに足利 義兼も門葉待遇だった)。 だから山名氏にしてみれば「うちこそが嫡流だ」という思いはあったはず。
470 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/28 22:12:58
>>468 何か足利系スレって多いな。みんな権威好きなのか?
471 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 02:30:53
>>467 でも、その家臣からさえ「とんでもない。尊氏公から受けた御恩をお忘れになれば、
世間は何というでしょうか?」と諌められる始末‥‥。
474 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 16:19:14
しかしまあ、子だくさん家族だこと。
475 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 00:27:58
同族による分国支配ってのも難しいものだね。
476 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 07:49:23
>>461 豊国って勝ち組なのかな、それとも負け組なのかな?
477 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 12:53:39
負け組じゃないの? 大名にもなれなかったのだから。
478 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 19:01:19
>476 誰と勝負していたかにもよるが、 家を伝えることが大事とされていた時代なんだから、その意味では勝ち組と言えなくもない。
>477 >大名にもなれなかったのだから。 大名になれる奴なんて全体からいえばごく一部だろ。 能力があっても滅びてしまった武将が多くいる中で、 さしたる力も無いのに生き延びたんだから、見方によっては大したもの。
481 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/04 16:31:21
482 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/04 17:03:01
483 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 02:52:09
>483 しかし、なまじ名を残さなかった方がいいような語られ方しかされていないよな。
485 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 07:14:50
因幡守護だったことから考えると、幕臣で6,700石というのは没落と移るわな。 とはいえ、幕臣で6,700石と言えばなかなかの大身ではある。 きっちり最後にリカバリー・ショットは打ったと。それだけでも評価に値する。 誠豊────―┬─棟豊(1549〜1566) (????〜1528)......│ ※但馬守護 ...├─氏熈(????〜????) ....│ ....└─堯熈(????〜????)─―堯政(????〜1615)――恒豊(家臣・清水正親養子) ※豊臣家臣 ちなみに恒豊の子孫が幕臣になり、380石を給されてるな。
486 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 15:17:47
487 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 00:13:56
持豊┬教豊=政豊┬致豊(但馬因幡守護)┬祐豊 ... │ ... ..│ └豊定(因幡守護)―豊国(鳥取城主) ... └政豊 .....└誠豊=祐豊(但馬出石城主)┬棟豊 . ├氏熈 . └堯熈─堯政―恒豊(家臣・清水正親養子)
488 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 01:32:34
大名としては豊国が鳥取城を追い出された時点で滅んでるわけだから、 豊国一人の実力で6700石も稼いだのだ!と思えばすごいと思わない? 思わないかそうですか
>>488 このスレにはそう思ってる香具師が少なからずいるだろうに。
権力(家康)に取り入るのも、出自を生かすのも実力のうち。
490 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/07 02:16:50
奥さんが夜襲を仕掛けてきた賊を返り討ちにしたって聞いたことあるな。
491 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/07 18:29:12
492 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 00:10:16
493 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 05:20:00
>>492 その程度の人物が城主にこそなれなかったが、高級旗本として駿府城に足繁く
出入りしてしまうあたりが・・・萌える(w
494 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 10:48:55
城主の館に押し入ってくる賊もすごいが 夫妻で戦わにゃならん手薄さもすごいな
495 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 12:39:54
496 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 01:51:57
>>494 しかも囚われた嫁さんを助けるために城を捨てる豊国・・・
497 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 12:13:15
こりゃもう再来年の大河は決まりじゃね?w
499 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 23:40:45
500 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/12 00:37:59
六分の一殿と言われたのに、下克上で落ちぶれて家族のために城を追われ て大名から転落したけれど維新で華族として復活するという仕事よりも 家族という新境地が開ける
501 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/12 01:16:50
502 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/12 16:29:26
左翼運動に没頭した華族・山名義鶴男爵について。
新田の地元、徳川にすんでいる者です。 こんなスレがあるとは、懐かしい。。。 小学生の頃は、よく、金山にハイキングに行った
504 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 09:31:17
そうです。金山城。いまどんどん復元工事がされてますだ(`・ω・´) でも新田郡尾島、新田、藪塚が、太田市に合併となり、笠懸も合併してみどり市となり、 栄光ある「新田郡」の名が無くなるんだよね。 もっとも、合併して新・太田市となった後は、隣の足利市を抜くんだけどさ。
506 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 23:53:16
、__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__, _) (_ _) な なんだって〜〜〜〜!! (_ ) ( ⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒ l´ r'´ ̄` '''ー-‐、く , -─‐- 、.__ r''"´ ̄ ̄``≦_ _| ./ ─- 、 u uV , ,ィ 、 ≦l ,.ィィjノノl i 、 ミ. ,. -─- 、__ . |rヾノ i ̄r;`ヽァj,∠7 ,∠ノノハトNヘ「l / ̄ニゞノ_ハlゝ〃 , ⌒ミ、 l〈r_ ij  ̄ " '{.ゞ'ィスi/ <´n`ー'rf;Yi、ソij ゙ー゚=゙ {セ7′ ,.ィィァ'ハトAlヾ _r/^`ーl , - 、._‐ノ v}r_ ij "" _ -フ''〈;ァl. u , - 、_-フ 〉r_、∠f テcj:Hr。ァ! lヽ ::\. 〈ニ=;‐-/ ./!ー.l /ー`ニ7vノ、ヽ. l_ ̄`/./ l lヘ! ヽ.ニノ└Lノ | \ :: ヽ`ー‐'// | : \ヾ三//l \: ヽニ´ィ、 _,r゙7‐i ij /二ニ7 .〉 | _\ ::  ̄∧\. \:  ̄/| \ヽ /ヽ. ∠ .lヽ l ヽ、\ヾ二ソ/
507 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/14 01:30:32
>>505 自治体の運営問題もあるんだろうけど、歴史的な地名や文化遺産を大切にして欲しいよな。
508 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/14 02:29:39
509 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/15 15:39:59
せめて新田市を作ってくれよ、喜連川のさくら市も酷いが…。
投票の結果、太田市になりますた。 もともと、太田と桐生が合併して「東毛市」になる予定だったけど、桐生競艇の存続を巡って、太田が離脱。 この三町との合併になったのですた。 ちなみに新田は合併後、頭に新田○○とつける決まりになるので、 新田町大字市(いち)→太田市新田市 新田町大字多村新田→太田市新田多村新田 新田町大字権右衛門→太田市新田権右衛門 とかいうヘンテコリンな地名が出来ます。 でも、岩松とか由良とか由緒ある地名が残っているのはいいもんだよね。
>>507 運営なんか別に関係無いだろうに。
元の地名のまま、今度からどこそこは○○の管轄、とすればよいだけの話だ。
木っ端役人は昔からろくなことを考えない。セントレアとかな。全く馬鹿としか言いようが無い。
512 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/15 21:20:06
>>510 地名の由来などを調べながら郷土の歴史、文化に触れることは大変いいこと。
>>511 結局、それに伴う利権ってものがあるでしょう。
目先のことばかりを追いかけて、本当に大事なものが毀損されていくのは残念なこと。
513 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/15 23:58:31
岩松で思い出したが岩松八弥って新田系? 単なる同姓の三河の人?
鎌倉市なんかも、消えようとしているしな。 こっちは、湘南の名前をめぐって、横須賀系と泥沼の合戦やっているが。 もっとも、神奈川の学校教育の位置づけは、鎌倉幕府なんて、 教科書に載っているから、テストに出る程度だけどな。 漏れの知り合いはみんな、鎌倉時代なんて授業じゃ習ってないし。 明治から終戦までに時間を割くために、ほかの時代は、教えてくれない教師がかなり多い。 しかも、教えてくれる時代はすべて自虐一辺倒だし・・・・
>明治から終戦までに時間を割くために、ほかの時代は、教えてくれない教師がかなり多い。 へ?普通逆じゃないのか。
516 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/16 03:28:59
>>514 だってそれが目的だもの、歴史教育なんて。
>>514 ネタだろ?
古代から歴史勉強していって、時間切れで大正・昭和初期あたりで
教育が終わってしまうってのは良く聞く話だけど。
>>517 横浜市立の中学出身だが、漏れの学校では、明治から終戦までだったな。
横浜市の教職員に左系がかなり大勢いる影響だとは思うが。
都内の学校出身者とかに聞くと、確かに、
>>517 みたいなのが普通みたいだね。
519 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/17 01:42:21
太田市と足利市の合併論議、最熱きぼんぬage 桐生・佐野・館林他も加わって、政令指定都市誕生sage
>>519 横浜みたいなサヨ教師が多い地域は、学校で勉強せずに塾で勉強するのがデフォルトだろ?
だからこそ、学校教師はいい加減な教育でOKになる。
ア・テスト(神奈川方式に合った中2が受ける試験)の高校入試への影響排除後は、ますます学校での勉強が軽視される傾向にあるそうな。
522 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/17 10:34:28
>>521 そんなクソの役にも立たない教師は追放すべきだな。
>>518 明治から歴史習うってスタートはどこなんだ?
黒船来航から?アメリカが最初に来たわけじゃなし。
寛政の改革あたりか?
西洋・東洋史とも連動してないと理解できないでしょ?
まだネタと疑ってしまう。
524 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/18 01:04:57
どうでもいいよ
義貞の子(義顕、義興、義宗の誰かは忘れた)の子孫って、 「喜多」氏になってるんだよな?
>524はチョン
527 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/18 17:50:43
>>523 幕末から入っていくんじゃないの?
江戸幕府の成り立ちや機構を無視して、いきなり桜田門外の変とか起こっちゃうような
そんな話じゃないか?
>>527 台湾出兵から入ったという馬鹿教師はうわさには聞いたことある。
本当かどうかは知らんけど。
漏れの学校はちゃんと飛鳥時代からやったな。もっとも、江戸までを四月のうちに終わらせるという超ハイペースだったが。
529 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/19 02:21:03
>>528 満州事変あたりからは授業1回につき1年くらいのペースになったりして(w
530 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/19 10:36:03
うちは、古代から始まって戦国時代ぐらいで終わったような。。。
戦国時代を、大名と名乗る暴力団の抗争があったの一言で済ませた教師はいたな。 で、江戸・明治時代は暴力団による民衆支配と決め付けていたし。 暴力団が日本を支配していたから侵略できたと。 ふざけた内容ではあったが、新田一族も新田組という暴力団という見方もできなくはないよな。 そういう趣旨の講演をした学者もいた記憶はあるし。 もちろん、それが正しい見方というわけではなく、そういった一面もあったという意味で。
532 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/19 13:45:16
>>531 帝国議会は暴力団の会合だったわけね、なるほど。
533 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/19 19:04:21
戦国時代限定なら間違ってもいなくない。 ちょっとしたいざこざで隣村に武力行使するのは日常茶飯事だったらしいからな。 実は刀狩は一揆防止よりもそっちの方を防止するために行われたと言う説もある。
>533 いや、間違いでしょ。 「一般市民」という階層がいる時代と一緒くたにしては駄目。 歴史の教師としては失格。
535 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 07:47:05
>>534 人の歴史は価値観の変化を追いかけることなのに、現在の基準を他の時代に当てはめるって
時点で歴史教師なんてやらせたらヤバイ人種だな。
>>535 >人の歴史は価値観の変化を追いかけること
いいことを仰るね。
ついでに言えば、その教師は、後世の人間から後世の価値観を以て 裁かれることを自ら肯定した、ということになりますね。 今の時点でそれを考えたら「おいおい、ちょっと理不尽じゃないの?」 と思うはず。
538 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 13:12:49
>>537 振り返ってみれば、何であんなアイドルが人気あったんだ?と思うことありますけど、当時は確かに
人気あったわけですよね。
それと同じことで、「ブサイクを崇め奉ってた愚かな若者たち」と切って捨てるようなもの。
100年とか200年後には 「2000年前後の人類は直接接触して生殖行為を行といった、不潔で野蛮な文化を持っていた」 とか 「胎児の遺伝子病の治療を事前に施すことはおろか、その診断すら許さない子供の命を軽視した〜」 とか非難されてもその教師は受け入れるって事だよな。
>>534 まあ、人間的に失格な香具師でも教師にはなれるからね。
俺が高校の頃にも、安保闘争の負け犬みたいな香具師は何人かいたよ。
反権力を標榜して、話を必ず「権力と民衆の抗争」に持ち込もうとするような香具師がね。
大学なら講義の取捨選択の権利がある程度学生にあるからいいけど、選びようがない高校など
ではせめて中立性を保って欲しいし、分野、分野への興味を擽るような指導法とか、そういう方針
の方が国を支える人材作りでは重要なこと。
もっとも国を支えないようなクズを養成したいのかも知れんけど。
541 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/21(月) 13:35:58
で、いつになったら本題に戻るのでしょうか?
542 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/21(月) 14:24:02
o 。 ______o O 。 。 ° 。 ○ o ○ / ィ ○ o ○ o /ニニニ)⌒ヽ o o (・∀・ )__ ) ○ 。 ○ /○ ○) /|,. o O o 。 o o ∠∠______∠_/ / ○ o .|/ |_/ ○ 。 o O 。 o O / ̄ ̄ ̄/ ̄ o 。 。 ノ / o O o o y y_ノ) y y__ノ) 。 o ○ o (゚Д゚ ) (゚Д゚ ) つ o ° o 。 。 o ∪-∪'"~ ∪-∪'"~ 。 。 o °o 。 __ _ 。 __ _ o o__ _ ° __ .|ロロ|/ \ ____..|ロロ|/ \ __ |ロロ| __. / \ _|田|_|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_|田|._| ロロ|_
あ、こういうスレあるんだ〜。 一応、うちの実家は新田一門らしいです。里見姓ですが。 新田一門誌にも、母の名前は載ってます。ちょっと嬉しいので書き込んでみました。
544 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 17:54:06
>544 自家製の一門史のことでしょ。たぶん。
546 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/24(木) 00:07:07
547 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/25(金) 17:20:14
ホリエモンって新田一族の堀江かな?
548 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/26(土) 10:48:39
549 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/26(土) 12:17:56
551 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/26(土) 22:28:40
堀江由衣って誰?
ほあぁー!
553 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/27(日) 07:48:26
554 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/27(日) 08:19:39
復元された金山城、 うそくせええええええええええええええ!!!!!! 俺が昔見に行ったときはもっと汚かったのに。
555 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/27(日) 10:35:14
>>553 まあ、今「堀江」で2ch検索したら7割がホリエモンで3割が由衣で堀江謙二のスレなんて一つもないからな(笑)。
>>555 その堀右衛門もCXを包囲しようと思ったら逆包囲されちゃいましたな(w
557 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/30(水) 01:13:30
発行済みでも過半数=ニッポン放送株、子会社化見送り−ライブドア
ライブドアが先週末の時点で、ニッポン放送の発行済み株式の過半数を取得していたこと
が29日、分かった。ライブドアは、6月末に開かれる同放送の株主総会で取締役の過半
数を送り込む見通しだが、3月末に予定していた同放送の子会社化は先送りする。
関係者によると、子会社化を見送るのは、フジテレビと進めている友好的な提携に向けた
協議の支障になるのを避けるため。ニッポン放送が企業価値を減らす不測の行動を取る
場合に備え、ライブドアの連結決算に同放送の業績が反映しないようにする狙いもあると
みられる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050329-00000838-jij-bus_all
>>555 おいおい、堀江といえばミッチだろ?
美声の持ち主堀江美都子は間違いなく名門新田氏の末裔だよ。
559 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/30(水) 21:51:34
>>557 デブ武将?時代が時代なら闇討ちだろ(w
560 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/31(木) 09:13:21
>>559 あそこに下克上を狙うような家臣はいないでしょw
その前にみんな離反するし。
561 :
無名武将@お腹せっぷく :皇紀2665/04/01(金) 00:28:07
>>560 ユダが逐一情報流してるからね。裸の王様ですよ、今や。
群馬県には、世良田駅はあるが、新田駅は無い。
563 :
無名武将@お腹せっぷく :黄天当立184年,2005/04/04(月) 02:09:40
564 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/05(火) 12:46:29
>>560 友人は取締役の熊谷(元?球団社長)は松永弾正っぽい怪しさがあると言っていたな。
565 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/05(火) 15:12:49
>>564 その器ではないだろう。弾正様と比較すること自体ナンセンス。
566 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/06(水) 02:13:35
567 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/08(金) 13:52:32
そろそろポニーの切り離しが始まるな。 けっこう楽しみではある。
568 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/09(土) 16:10:52
>>567 ついにLF株はTOB価格を割り込んだね。
LD側は50〜60億円の含み損になってるはず。
スレ違いっすね
570 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/09(土) 16:33:46
>>565 弾正様だって長慶殿が元気な頃は普通に側近していただろうw
572 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/09(土) 22:33:06
古河公方スレで里見義頼の挙兵問題議論発生age
>>571 弟が死ぬまでは結構まともだったようだよ。
丹波の覇権を握っていた弟の戦死後急速に謀略を繰り返しているし。
そういや、丹波内藤氏も新田を名乗っていた時期があるようだね。
本気で自称に過ぎず嘲笑われてすぐに自称すらやめたようだけど。
574 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/11(月) 23:58:23
弾正様のスレが閑散としてるので、たまには行ってあげてくださいな
576 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/13(水) 00:14:54
577 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/16(土) 02:40:18
578 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/17(日) 15:13:13
弾正様は一門じゃないでしょ?
弾正様は、一門を名乗っていた家に養子に入った弟がいるって言うレベルだな。
家に勢いがあれば一門、落ちぶれれば他人 って感じ?
582 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/20(水) 17:39:17
>>581 戦国自衛隊・・・・何とも語呂がいいよな。
>>582 戦国自衛隊……かわぐちかいじのジパングみたいな話か?
自衛隊はタイムマシンでも持っているんかな。
>>583 1971年に半村良によってっ書かれた、自衛隊が、パラレルワールドの戦国時代に
とばされて活躍する話。
一昨年、20年ぶりに2巻が発行された。
>>583 あの名作・・・いやいや、”銘”作の映画を知らないのか
小説と漫画は取るに足らない駄作
映画は笑える。旧国宝丸岡城にヘリを横付け。
587 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/22(金) 14:16:11
588 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/23(土) 03:00:00
>>586 千葉ちゃんがヘリから吊るされながら哨戒艇を銃撃してたね。
589 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/24(日) 03:50:06
>>588 哨戒艇のみ海自ですわな
指揮系統違うのに・・・
590 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/25(月) 01:40:42
591 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/29(金) 03:54:12
>>589 伊庭三尉の小銃よりも哨戒艇の13ミリ機銃の方が威力あるんだけどね。
592 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/03(火) 15:15:10
播磨・美作など山名氏領国で山名一党は狩猟を好んで田畑を踏み荒らし、 犬を捕らえ終日犬追い物を射、あるいは犬を殺してその肉を食す 万里小路時房「建内記」(1443)
山陰のみならず、山陽までも韓国領だったというソースに使われそうな事績だな。
まぁ、饑饉の時とか困窮したときの表現の一つだよねぇ 犬食った 人食った
日本人も戦国時代の初期くらいまでは犬を食っていたのかね?
>>596 常食じゃなかった。
あくまで、饑饉の時なんかに仕方なく食う程度。
>>597 じゃあ普通の犬追物は、犬を射殺すだけで食うことはしないんだね。
すると>592の山名は「折角だから、これ食っちまおう。勿体ないから」とでも考えたのかな?
或いは半島系の大内氏あたりから
「犬って結構いけますぜ」なんて薦められたこともあり得る?
>>598 1441年に播磨では嘉吉の乱が起こって幕府の討伐を受けている。
1443年に成立した書物だと、その戦乱によって荒れた様を言ってる可能性もあるわけだが。
建内記全文読んだわけじゃないから前後のニュアンスにもよるかな。
だいたいそのあたりの時代は、永享の乱だの結城合戦 だの南北争乱を引きずった戦乱があった頃だし。
もうちょっと前の正長2年には、播磨で大規模一揆が起こってるわけで。
自分で書いておいて申し訳ないけど、嘉吉の乱で播磨赤松氏が討伐受けた後って山名氏が領したんだっけ? 明徳の乱で虫の息だったと記憶してたんだけど。
おまえらは犬食以外興味はないのかと
602 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/14(土) 12:59:58
犬スレage
603 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/15(日) 14:32:26
>>600 イエス、ただ没落といっても11カ国守護から3カ国に転落しただけで死に体じゃない筈
604 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/16(月) 07:25:52
>>603 それってかなりのランクダウンだと思うが?
しかも、減らされた国を考えると、収入的には大打撃もいいところじゃないか? 横領していた荘園も守護じゃなくなったから、放棄せざるを得なかったところも多いし。
606 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/17(火) 23:39:14
607 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/21(土) 00:16:22
>>605 >横領していた荘園も守護じゃなくなったから、放棄せざるを得なかったところも多いし。
なるほど軍事・警察権を失うってのは打撃デカいものな。
608 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/21(土) 01:16:25
六分一殿からの転落だしね
609 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/23(月) 16:05:00
>>608 外交上でも不利な立場になるよね。
周囲から「あそこは落ち目だからね」と後ろ指を差されるわけだし。
610 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/24(火) 12:19:19
>>608 それをお尻の力で何とかしようとした、と。
611 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/27(金) 12:00:42
>>599 >永享の乱だの結城合戦 だの南北争乱を引きずった戦乱
そうなの?
612 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/27(金) 20:25:42
>>611 室町時代は、前半は南北朝の対立で戦乱が起こって、後半は応仁の乱から戦国に至る戦乱の時代。
東山文化とかある割に戦乱の絶えない時代だったのよ。
江戸幕府の将軍権力からすると想像できないほど脆弱な権力基盤だったし。
613 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/29(日) 01:37:17
>>612 だから、南北騒乱と関東騒乱の関連性だっての。
結城は、当初は、南朝方だったような? 基本的に関東では、北朝方がもともと優勢だったが。
結城は下総と白河で敵味方に分かれた。 白河結城が当初は南朝方。 結城に限らず、当時の国人・豪族のほとんどがそうだった。
616 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/31(火) 01:30:39
さあ、ゴチャゴチャした話になってまいりましたw
617 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/02(木) 23:42:45
で、新田は?
>>617 新田の本領付近は、鎌倉公方に占拠されていたんじゃなかったか?
その際に抑え付けられた連中が、上杉禅秀の乱とかでも、活躍したわけで。
619 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/06(月) 12:05:45
新田官軍
620 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/08(水) 00:42:10
621 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/12(日) 06:34:51
飛びすぎて着地をミスったのか、その後さっぱりレスがつかないわけだが。
622 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/16(木) 02:52:13
623 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/23(木) 03:14:37
age
新田氏流で検索した結果 ページ:65件
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/gokan_k.html 後閑氏
後閑氏は新田義貞の弟義重に起こるという。義重は新田四郎と号し、義貞が挙兵したとき
新田郷にとどまった。建武の新政がなたのちに起こった「中先代の乱」に際して北条時行が
率いる信濃軍が上野を経て鎌倉へ攻め込もうとしたとき、新田四郎はこれを利根川に防戦
しようとしたが衆寡敵せず一敗地にまみれた。その後、中先代の乱は足利尊氏によって制
圧され、新田四郎は功績を認められて甘楽郡に土地を与えられた。
(以後略)
天正十年三月、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡し、信長の部将滝川一益が関東管領
として厩橋に入城した。一益は家臣津田小平次を松井田城将とし、津田は後閑城を攻めて
真純を滅ぼしたという。一方、「日本城郭体系」の後閑城の記述によれば、武田氏滅亡後、
後閑下野守信重は北条高広に従い、重政・信久の兄弟は小田原北条氏に属した。そして、
重政と上条から五閑に改めた信久は両後閑と呼ばれるようになったとある。ちなみに、天正
十一年の「後閑文書」に北条氏から両後閑氏に宛てたものがある。それは、出陣の際にお
ける両後閑の配下の員数を定めたもので、両後閑が北条氏の幕下にあったことを示す史料
である。
天正十二年、北条高広が小田原北条氏に降り大胡に移ったとき、北条氏政は両後閑に厩
橋在番を命じた。天正十八年(1590)、小田原の陣に際して両後閑は小田原城に籠城し、
北条氏没落とともに両後閑も没落、後閑城は廃城となった。弘治元年(1555)に新田景純
が後閑城を攻略して居を移したからわずか三十五年のことであった。
>624 新田四郎=岩松四郎経家 じゃないの? 岩松経家は中先代で戦死しているし。 だいたい義貞の弟って‥‥かなり眉唾だなぁ。
626 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/29(水) 19:04:38
629 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/30(木) 03:31:23
_、_ ( ,_ノ` )y━┛~~~ .ノ^ yヽ、 ヽ,,ノ==l ノ 知らんがな・・・ / l | """~""""""~"""~"""~"
632 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/07/05(火) 22:35:53
_、_ ( ,_ノ` )y━┛~~~ .ノ^ yヽ、 ヽ,,ノ==l ノ 知らんがな・・・ / l | """~""""""~"""~"""~"
>>597 飢饉のときに「田畑を踏み荒らし、
犬を捕らえ終日犬追い物を射、あるいは犬を殺してその肉を食」してたんですか?
アフォにいうだけ無駄だが。
薩摩なんかず〜〜〜〜〜〜〜〜っと飢饉だったんだろうなw
634 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/07/08(金) 03:05:45
635 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/07/11(月) 19:40:14
痴れ狗食い
637 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/07/20(水) 05:05:01
age
638 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/07/23(土) 00:01:22
さて、原点に回帰するか。
640 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/08/02(火) 22:33:48
>>639 愚か者!!!
原点と言えば清和天皇に決まっておろうが!!!!
641 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/08/06(土) 14:40:32
ていうか今、山名の子孫はどうなった?
>>640 清和源氏の原点はいろいろ疑問が多いわけだが
643 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/08/17(水) 09:03:54
644 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/08/21(日) 16:11:28
>>680 そもそも新田義貞の挙兵時点で一部は足利義詮の軍に加わっていた新田一族がいたらしいし…。
>644 誰にレスしているんだ?
保守
647 :
無名武将@お腹せっぷく :
2005/09/04(日) 21:54:58 >>644 そりゃいるだろう。一門だから一枚岩なんてことがあるわけない。