前スレよりコピペ
14 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 17:14
上忍家とされる服部、百地、藤林氏も結局のところは土豪(地侍)だしね。
上忍と下忍たちの関係は地主と小作人のようなもので、この下忍たちが能力
を買われて各地の大名家に雇われる構造になっていわけでしょ。
15 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 17:17
百地三大夫って本当にいたの?
>>14 雇われてたっけ?
16 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 17:28
>>15 史実上には「三太夫」の名前は見られないらしいね
ttp://www.igabito.jp/ninja_map/nabari/nabari_45.html
25 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/03 04:13
>>23 応仁の乱の段階での伊賀国守護は仁木氏。
しかし、その支配力はごく限られたものに過ぎず、応仁の乱以降は国人衆が仁木派、
六角派、北畠派、独立派に分かれて割拠する状態が続いていた。
26 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/03 05:51
そもそも平安〜鎌倉期には、伊賀はその大半が東大寺などの荘園によって占めら
れており、守護・地頭などの支配が及ぶ地域はごく僅かだった。
したがって伊賀の地侍たちは中央政権の支配を受けず、鎌倉期以後は「悪党」とし
てこれらの荘園を侵略していったため、国内には多数の独立勢力が割拠する状態
となっていた。
戦国期には守護・仁木氏を追ったものの、伊賀1国を支配する勢力が現れることは
なく、それぞれの一族が一党を形成し、党同士による自治組織「伊賀惣国一揆」が
構成され、惣国一揆衆の中から「伊賀十二人衆」と呼ばれる評定衆が選ばれ、国
政を担うことになった。
70 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 02:51
伊賀の国人の大半は普通に単なる地侍。
修験の盛んな土地柄故にそういった連中とつながりのあるのも一部いた。
そこで全国を行脚する修験者たちが持ち帰る情報を流してもらったり
また彼らの知識を習い覚えたりしている者もいた。
ま、その程度なんだな。
別に忍術を使ったとか忍者だったというわけじゃあない。
「忍術」なんてのはほとんどが江戸時代にもっともらしく創作されたものだよ。
72 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:26
雑賀衆みたいに傭兵活動してたんじゃないの?
雑賀衆というと鉄砲みたいに思われがちだけど、それ以前から「槍働き」
を以って各地で活躍したらしい。
伊賀や甲賀も方々出向いて金を稼いでいたんじゃない?
戦国時代に自治を守ろうとすれば、そうやって自分たちの力を
広めておくのはかなりいい方法だと思うんだけど。
ただ雑賀みたいに船でどこでも行くというわけにはいかないから、
少人数で情報収集とか放火をやったんでしょう。
伊賀甲賀の連中は放火や夜襲が得意だったようだから。
もっとも、こういう連中は北条の風魔党(風間党)みたいに
あちこちの野武士連中がやっていたようだけど。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 17:08:28
/llllllr''";;:::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;`::.、
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,'"~`ヽllllllllll!' ==、:;;;/;;;;;;;;;;;;;::.:. j すいませんね。
!.l"`,, |llllll!' :.:.:::;,,,___`ヾ、;;;;;;;;::;、rィ゙ ここで朽木元綱を説得しなきゃならないので
', ',>、|lll'' .:.::`'''゙メ`';;;:::::;;イェュ┤ ちょっと説得させてもらいますよ・・・
,゙、゙'- .!l' :..:..:.:.::;r'"´;;;:::..:.: :.l; :.:.:. |
r'゙|::ゝ-┐ .:./:.:.:.::::::::;;..:.:.:. l;. ,'
;;l l::::. :.'. .:' :.:.:.:.:,;;∠;;;ゝ=‐'゙;.:.. /
;;゙、゙、:::. .:.;. ..:.:.:.'''''''''ニ,,,,,,,,__ヾツ
;;;;ヽヽ:. :.:\:.:.:.::::.:.:...、,,,,,,,,,, .. /
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;;;;;;;;;;ヽヽ:.:::.:.:.:.:::` :、,:.:.;;;;;;;;;/;;;`;-,、
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73 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:38
>>70 藤林長門の子孫、藤林保武が編纂した『萬川集海』に収録されている楯岡道順の
話なんかも創作でいいのか?
74 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:48
万川集海は自称1676年の執筆だけど、現存するのは
1789年に幕府に献上されたものだからなあ・・・
いずれにしろ一次史料と呼ぶには新しすぎるんだよな・・・
80 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 04:30
>>73 正しくは伊賀崎孫兵太兵衛といい、号を道順。出生の地・阿山郡楯岡に因んで「楯岡の
道順」と呼ばれていたようだが、彼の名は菊岡如幻の『伊乱記』、さらには『伊賀国司系
図並侍附帳』(天正10年成立、延宝4年写本)にもその名が登場している。
道順は六角承禎の要請により、伊賀出身の忍び44名、甲賀出身の忍び4名を率いて佐
和山城に潜入し、火を放って六角軍の攻撃を容易ならしめたと言われている。
まあ、このスレ的には創作ということになるんだろうが。
8 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 17:16:39
まずは朽木ネタから……
9 :
どこまでも名無しさん:04/09/11 17:39:42
伊賀忍茶
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 18:15:23
結 論 : 忍 者 な ど い な か っ た
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 22:17:27
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 23:04:44
>>10 彼らも自分たちの事を忍者だと思っていなかっただろう。
ここで不思議なのが、上忍・中忍・下忍という家柄分け。
忍者・忍術は江戸時代のことなのに?
便宜上の分類?わかる人教えて
そもそも万川集海より以前に用いられた分類かどうかというのが
問題なんじゃないかな。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 00:42:53
何かスレタイが全てを語ってますよねw
鈎の陣だって夜陰に紛れての奇襲攻撃だし、信長の伊勢侵攻の際にゲリラ戦で
翻弄したのも弓矢での攻撃だしな…
忍術なんて使ってない…
16 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 00:50:42
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 00:56:42
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 01:11:27
>>8 そもそも朽木ネタってどこから出てきたんだ???
足利総合じゃないの?
にしても、
>>1偉そうだな。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 02:56:57
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 03:14:18
>>18-20 実は前スレの1000レスのうち200強は朽木関連だったと。
しかし、朽木スレが立つには至らなかったけど。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 17:41:32
やっぱ朽木谷だべさ。
甲賀は・・・・
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:40:18
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:46:48
三河松平家に何故か居た伊賀の名族の当主服部半蔵の父親だか祖父だかは
足利将軍に付き添って諸国を流れてたってホントなの。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:55:37
あのころの将軍家はみんな各地を放浪していたようなものだし…。
将軍の事は知ってるけどさ(流れ公方なんてのもいましたね)
オレが知りたいのはハットリくんの方だからそちらを教えて。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 22:26:43
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 02:47:33
>>29 半三って服部党を率いて足利義晴に仕官しようとしたよな?
ところが一党を養うだけの所領など足利家にはなく、結局、破談になったはず。
それをスカウトしたのが松平清康・・・とかそんな流れじゃなかったか?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 05:30:55
>>30 そして、義晴は朽木谷の避難シェルターへ...
サンクス
何で伊賀の服部家が三河の松平家に仕えてたのか知らなかったが
そういう事だったのか。
あの時代の人間ってもっと視野や世界観が狭いと思ってたけど
清康が上方の服部党をスカウトしたり半三が東国の三河に臣従したりして
意外と列島規模の移動って多かったのかな。
東国の三河に臣従したりして は
東国の三河に移って臣従したりして に訂正します。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 14:25:47
もともと保長が将軍家に仕えたというのも箔をつけるための創作だよ。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 00:39:14
>>34 なるほど。まあ、あの当時の将軍家ならど〜にでも脚色できそう。
ちなみに「あれは創作ですよw」としている学者さん、研究者さんってどんな人?
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 05:45:49
>>35 それ以前に「保長が義晴に仕えた」という説はどの資料に登場するんだ?
と考えた方が良いと思うが?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 15:48:03
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 16:44:30
>>32 清康が何の理由で保長たちを臣下に加えたかだよな
当時の松平家に伊賀衆を100人単位で召抱えるなんて余裕があったとは思えんし…
かなり高価な買い物だったはず
忍者としてというより武芸に優れた兵法者として雇われた面が大きいんじゃない。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 22:06:25
>>39 そんなことを言い出したら当時の日本にどれだけ「武芸に優れた兵法者」が
いたことやら・・・
>>40 例えば武田家だと武芸自慢の流れ者を牢人衆として雇って一部隊を
編成し、牢人の中から特に優れた者を選りすぐって指揮させていた。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 03:25:12
>>41 それが伊賀・甲賀衆とどのような関連が・・・?
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 08:32:40
>>42 武田と同じような方法で伊賀衆、甲賀衆が召し抱えられたってことだろ
ただそれだと、伊賀とか甲賀とか関係ないような・・・?
服部のオヤジは本当に手下引き連れて従ったんかい?
どこの家でも武勇自慢で仕えて出世して武将になった奴ってのは
いるもんだが・・・・
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 14:42:52
伊賀に三つしかない上忍の家の当主なんてのは嘘っぱちで、単なる土豪。
伊賀にいつまでいたってうだつ上がらないだけだから
単身伊賀を出て士官を探し、最終的に松平家に落ち着いた。
そこで優れた武勇を発揮して勲功を重ねて出世し、一軍を
まかされるほどに至った――という程度なら、戦国時代には
結構いるかもね。
実際のところはどうなんだろう?
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 21:39:12
>>47 一応、子分たちがいたんだろ?浄閑入道には
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:31:41
服部保長のことでしょ。
武田家の今福浄閑という可能性もあるが。
そもそも伊賀でそれなりの支配地を持って部下もそれなりに
いたようなのが、なんで伊賀を離れて一族郎党で流浪せにゃ
ならんかったんやろね。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 12:57:32
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 19:38:00
でも長年に亘って故郷をお留守にしてたワリには
伊賀越えでは土豪達に対して結構な影響力を持ってた様な(倅が)。
マルっきりの雑魚の家柄ではああいう芸当は不可能では。
少なくとも武田信玄の北信侵攻時に
現地土豪の間で真田幸隆が持たれてた程度の信頼と同胞意識がなくては無理。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 20:45:00
>>53 実際に活躍したのは柘植党だったという説もある。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 00:42:27
>>54 この後で伊賀に居づらくなって三河に逃れるんだよね?
>>53 信長にボロボロにされた後の伊賀なら、ちょっとでもコネのある奴が
有名大名に恩売れるチャンスを手引きしてくれる状況なら
まず動くかと。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 03:39:00
あれかぁ
伊賀者ってホッペタにナル(ry
ニンニン
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 03:44:38
その通りだが、みんな知ってることを何を今さら・・・?
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 14:36:43
>>56 信長の死後にも第三次天正伊賀の乱を起こしてるし、多少の戦闘力は残っていた
ようだな。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 14:50:12
。。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 22:08:34
63 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 01:43:36
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 03:25:56
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 05:10:28
家康の伊賀越えでは、服部半蔵が活躍したことになっているが、実際、一行に協力した
のは福地宗隆の孫・與次郎忠安や三之丞(清広)などで、三之丞は一党を率いて一行
を信楽から伊勢白子まで誘導したとか。
しかし、柘植一族は鹿伏兎一族とそれほど関係が良くなかったため、最大の難所・加太
越えでは米地九左衛門が代役を務めたらしい。
>>65 柘植三之丞って天正伊賀の乱で討ち死にした柘植某とはどういう関係に
あるのかな?
>>66 柘植三郎左衛門尉のことか?
ちなみに前スレには
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1075671167/464 464 :無名武将@お腹せっぷく :04/04/05 13:37
天正伊賀の乱(第一次)で織田信雄軍に内通した名張郡の土豪、下山甲斐守の最期
はかなり悲惨だな。
信雄は天正7年9月に甲斐守の進言を受けて南部の名張口、北部の馬野口から伊賀
に侵攻したが、地の利を知り尽くした伊賀国人衆に撃破されてしまう。
激怒した信雄は甲斐守が罠に嵌めたと判断し、甲斐守を捕縛して退却するよう指示を
出し、長野左京亮が甲斐守を捕縛して退いた。
このため名張口では甲斐守を奪回しようとする国人衆の追撃を受け、殿の澤源但馬、
秋山右近将監がこれを撃退した。
また、馬野口の殿も追撃を受けながら、日置大膳亮、柘植三郎左衛門尉が防戦にあ
たったが、三郎左衛門尉は酒気のため思うように動けず?鬼瘤の難所で討死してし
まう。
信雄は捕縛した甲斐守を監禁すると共に、秋山右近将監は家臣上津江新坊を「甲斐
守の女婿である」という理由で殺害している。
甲斐守は獄中で一切食を取らず、監禁から28日を経過してなお死なずにいたが、つ
いに自ら舌を噛み切って死んだという。
とある。ちょっと情けない死に方だね。
http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/tuge_k.html 柘植氏
左三つ巴/丸に二つ引両
(桓武平氏高棟流/貞盛流?)
伊賀国阿拝郡柘植郷より起こった。『江戸系図』また『柘植系図』には、平高棟
の後裔宗清が伊賀国に赴き、柘植の地名をもって名字となしたとある。
『尊卑分脈』をみれば、宗清は平信実の子で右京大夫に任じられ、その子に宗
俊の名はみえない。また年代的にも少し無理があるようである。また、『尊卑分
脈』の貞盛流の裔に宗清の名がみえる。右兵衛尉に任じられ、平家の家人で
あった。こちらの方が、柘植氏の祖として年代的、状況的にうなずけるところが
多いのではないか。
『古代氏族系譜集成』に収められた服部連系図のところに、柘植氏の系図があ
る。これには、平貞盛の後裔で右兵衛季宗の子で、平頼盛の家人であった宗
清が、祖にあたるとみえる。そして、宗清には宗俊・清春・俊忠の三子があり、
宗俊が宗家となり、清春は福地を、俊忠は北村を名乗り、それぞれその祖とな
ったとある。しかし、前記『尊卑分脈』にみえる宗清の子は家清だけである。こ
れは、宗清が世を隠れてからもうけた子がさきの三人ということなのだろうか。
いずれにしても、平家落人の一人として伊賀の山中に潜んだものが、柘植氏
の先祖になるものであろう。宗清にからんで、以下のような言い伝えが『寛政
重修諸家譜』に記されている。
伊賀に隠れ住む宗清のもとへ、源頼朝から誘いの手がのびて、養老の地とし
てそこも与えようという。そこで「宗清戯れに柘植の一枝を新地にさし、もしこの
枝葉繁茂せば草庵をこの地にかまうべしといえり。翌年、柘植の一枝大いに
繁茂して花開けり。宗清奇なりとし、これより柘植をもって家号とす」と。
●戦乱の時代を生きる
大永年間、将軍義稙は、仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。このとき、柘
植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび宗家は兵部少輔を射て、
仁木軍を敗走させている。その後、兵部少輔の子某が更めて柘植と戦ったが、
宗家と子の宗能はふたたび仁木軍を討ち破っている。宗家と宗能を兄するも
のもあるが、年代的にみて父子とする方が妥当と思われる。その後、宗家は
遠江国に至って死んだと伝えられる。
天正七年九月、織田信長による第一次伊賀征伐のとき、信長の三男信雄の
軍勢が阿波口・鬼瘤口・伊勢地口の三道から伊賀に攻め込んだ。この戦いは
織田軍の敗北で終わるのだが、鬼瘤口の大将として柘植三郎左衛門の名が
みえている。三郎左衛門は伊賀出身ながら北畠氏に仕えていたもので、北畠
没落後信雄に仕えて伊賀征伐には信雄に属して出陣したようだ。しかし鬼瘤
口も敗北し、三郎左衛門も討死した。この敗戦に怒った信長は、天正九年九
月四万四千の大軍をもって再び伊賀に攻め込んだ。このとき、上柘植の福地
伊予をはじめ、柘植近在の郷士が案内人となっている。この征伐によって、伊
賀国はまったく独立性を失い、また多くの郷士が討死した。この合戦における
柘植氏の動向はさきの案内人をつとめたこと以外に、どのように行動したのか
は詳らかではない。
天正十年(1582)六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって京都の本能寺
で世を去った。このとき、信長に招かれて上方にあった徳川家康は、身をもっ
て三河へ逃れることになる。その逃避行の道にあたったのが伊賀の山中であ
った。その案内役を柘植清広がつとめた。これが機縁となって徳川氏に仕え、
のち関ヶ原の戦いにも参加。柘植氏は徳川氏旗本として世にでることになった。
庶流として数家の柘植氏があった。家紋はいずれも、「左三つ巴」「丸に二つ
引両」を用いた。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 16:11:03
福地伊予の弟だっけ?>柘植三郎左衛門
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 03:11:51
>>67 酔っ払って討たれるってかなり「ぷっ!」って感じの最期ですね
>>72 伊賀衆の息の掛かった百升に「御戦勝おめでとうございます!!!」なんて飲まされたのかなあ?
でも、この時点では敵地だよね?
74 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 06:04:28
>>73 おいおい、「百姓」だっての・・・
「百升」も飲んだら、そりゃ討ち取られる以前の問題だわなw
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 07:39:19
>>73 郷士連中にはそれぞれ周辺勢力との関係があるからね。
本気で戦勝祝いを贈る香具師もいれば、逆にスパイを使う香具師もいただろう。
まあ、判断しにくいところだよね。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 18:30:49
>>70 柘植三郎左衛門には北畠具教暗殺の指揮を執ったという説もあるな
77 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 23:14:59
>>65 福地伊予守、柘植三之丞あたりは信長の存命中から家康とのパイプを持っていたね。
かつて柘植は家康に「家臣にしてくれ」と頼んだけど、家康は「一党を率いて三河に来る
なら」という条件を出したために叶わなかったと言われている。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 01:32:29
福地は後に伊賀を追われて三河に遁走したよね?
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 03:55:57
>>80 仁木兵部少輔で検索した結果 ページ:9件
それほどメジャーな人じゃないようです...
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 04:22:39
http://hobby5.2ch.net/warhis/ >丹波ささやま五十三次
>桂峯山如来寺(浄土宗)と仁木城跡(福住み)
>
>福住バス停から徒歩約8分
>
>如来寺は、もとは真言宗の寺院で上ノ坊と称し、永保2年(1082)に創建された
>という。ここは山陰道(京街道)と摂津への道の分岐点で、周囲の数坊とともに集
>落が栄えていた。
>その後、この寺は籾井城主の祈願所となっていた。境内には永正年間(1504〜
>21)に籾井城を築いたという籾井河内守照綱の石塔がある。明智光秀の丹波攻
>めの際に焼失し、寛永2年(1625)、閑誉上人が如来寺として再建した。
>ご本尊は、阿弥陀如来(五智如来)坐像である。
>南の山を仁入道山(546メートル)と呼んでおり、室町時代から丹波仁木氏の居
>城があった。確かな記録に、永享年間(1429)に「丹波仁木兵部少輔・五番仁
>木少輔入道」とあり、また、永禄6年(1563)ごろには「仁木左京大夫長政」が
>いたことが記されている。しかし間もなく、仁木氏は四国吉野川の上流へ移った
>とされる。
>工法の桂山は、福住の住吉神社が最初に祭られた場所と言われ、古歌にも詠
>まれている。
>
> 照る月に桂の山に家居して
> くもりなき世に逢いにけるかな
>
> 大江 匡房
>
>「丹波篠山五十三次ガイド」より
なお、「仁木長政」については・・・
天正2年に「伊賀守護 仁木長政」が上野市西高倉の高倉神社の本殿、八幡社、春日社
を建立した旨が春日社の棟札(重要文化財)に記されている。
>>83の「仁木左京大夫長政」と同一人物であるかは定かではないが、永禄6年と天正2年
というとこの間わずか9年ほど。
この間に「仁木左京大夫長政」と「伊賀守護 仁木長政(官途名不明)」という2人の長政が
いたと・・・???
>>85 足利義昭に同行した近習の中に仁木某がいるよね?
87 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 23:56:13
>>86 永日も覚す暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜かな
仁木義政
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 01:52:33
>>86-87 義昭が越前に下った際に、義昭と共に朝倉義景から饗応を受けたんだろ?
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 06:23:32
>85
確かに細川真之の子・畠山之照を養育した仁木右衛門(之照の大叔父)という人物が
いるけど、この人物が丹波仁木氏の流れを汲んでるってことはないのか?
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 22:11:00
仁木義政=仁木長政?
>>90 丹波にいた香具師が将軍近臣?どうだろうねぇ・・・
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 22:36:51
>>91 仁木氏が丹波から四万十川流域に移る時に、長政だけが伊賀入りしたとしたら……
土豪、郷士たちが認めるところの「伊賀守護」として迎えられ、高倉神社などの建立も
「伊賀守護」として長政が行ったとすれば……
「仁木友梅=仁木義政」に100j
>>92 長政は信長による伊勢侵攻の際に滝川一益を通じてこれに
協力しているよね?
それ故、後に織田信雄の軍団に組み入れられているね。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 06:35:33
「新津秀三郎氏所蔵文書」によれば、1569年7月28日、信長は滝川一益を通じて
伊賀国の仁木長政を味方につけ、長政に国内の状況報告を命令したという。
なお、仁木義視なる人物が信長の支援によって伊賀に入国し、守護に迎えられた
のは1571年のこと。そして1578年には近江・信楽に追放されている。
となると、長政は義視より少なくとも2年ほど前に伊賀に在住していたことになる。
>>96 確かに、元亀2年に伊賀に入国した香具師が、永禄12年に伊賀の国情を
報告するのはそりゃ、無理ってもの。
しかも、高倉神社の棟札自体が重文に指定されるようなシロモノで、そこ
に「伊賀守護」「仁木長政」とあるのだから、裏も取れてるしな。
>>97 その棟札には官途名は記載されてるのかな?
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 21:57:21
しぶとさを発揮してますね・・・仁木氏
http://www.club-ec.com/kintoki/i/jodan14.html >いつも私を大相撲の砂かぶりに招待して下さる大切なご贔気の仁木さん。
>この方は巣鴨で印刷業を営んでおいでになりますがこの方の御先祖は徳川の
>お旗本なのです。しかも二千石という大身旗本で、何でも関ヶ原の合戦で大変
>な戦功を上げたのだそうで御仏壇の御位牌なども長く大きく三、四十cmはあろ
>うという位牌なのです。
>戦前までは武具、刀、槍、兜、みんな残っていたそうですが、みんな空襲で焼
>けてしまったとのこと、実に残念です。ただ、そのお顔はやはりチョンマゲの似
>合いそうな風格のある旗本顔で、血というのはすごいもんです。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 22:54:58
>>100 確か榊原家家臣から起こってるんじゃないかな?>旗本・仁木家
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 23:09:24
>>99 天正伊賀の乱の時などは「信長に恭順の意を示すように」と国人たちの説得に
あたっていたらしいな
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 00:42:09
なぜ忍者に謎が多いか。
それは忍者組織が徹底した秘密主義を貫いたからだ。
現代でも謎が多いということは、この平成の世にも生き残ってうわ何をするやめあwせdrftgyh
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 05:58:50
>>104 上野市の役所に行ったら、職員が忍者ルックで仕事してました・・・
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 14:53:27
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 18:04:35
>>97 ここで仮説を立てると…
丹波にいた仁木左京大夫長政は、永禄6年(1563年)以降に一部の伊賀国人衆の支援を
受けて伊賀国に入国したが、国人衆の全てがこれに同意していたわけではなく、非公認の
伊賀守護に過ぎなかったと。
伊賀国内は当時、北畠派、六角派、仁木派、独立派の4つに分かれていたから、仁木派
に担がれた長政の立場は極めて脆弱なものであったのだろう。
そのため、長政は信長の軍事力によって北畠派、六角派に対抗するため、滝川一益を通
じて永禄12年(1569年)7月に信長に内応、国内の情報を逐一信長に報告し続けた。
しかし、信長の軍事力は伊賀には及ばず、また、北畠派、六角派の反対もあったのだろう。
長政を正式な守護に立てることができず、やむを得ず、妥協の産物として仁木義視(=足
利義昭の近臣・仁木義政?あるいは義政の縁者?)を守護に送り込むことにした。
そしてこの間、長政は天正2年(1574年)に「伊賀守護として」高倉神社を建立したと。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 18:06:18
なお、仁木義視(=友梅)を追放した際、国人衆の誓紙の中に仁木姓を名乗る者がいたこ
とからも、自称・伊賀守護、実際には国人衆の1人という仁木氏(=長政?)が在国してい
たことは間違いない。
>>109 幕臣仁木氏の話って前スレに無かった???
111 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 11:57:31
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 14:00:57
>>104-106 「伊賀・甲賀衆」の冠をつけると必ず忍者ネタ書き込んでくる香具師がいるのには笑える(w
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 16:44:07
>>110 仁木「甚五兵衛」家のことね。
館林藩士から幕臣となり、下野国内に1500石を領していた。
なお、家紋は「丸に二つ引」「五三桐」。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 22:03:59
>>113 旗本になったのは時代的にはいつ頃なのかな?
>>112 それだけ「刷り込み」されてるということでは?
116 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 23:38:31
榊原家にいた仁木甚五兵衛が名族コレクションに引っ掛かり、幕命で名跡を継いだってこと
なんだろな。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 00:51:22
118 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 00:58:13
ケムマキ
120 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 01:44:57
結 論 : 忍 者 な ど 存 在 し な か っ た
121 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 03:39:51
122 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 11:16:21
>>120 傭兵部隊だからね。確かに忍者じゃないよな。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 17:50:50
>>123 一説には甲賀衆が足利義尚を討ち取ったって話あるけど、あれってどうなの?
http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/kaminogou.html 服部半蔵はその初陣とされる宇土城攻めにおいて、『寛政重修諸家譜』に「正成十六
歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを
賞せられて御持鎗(長七寸八分両鎬)を拝賜す」とあるのだが、正成十六歳といえば弘
治三(1557)年のことで、このとき家康(当時は松平元康)はまだ今川義元の元に人質と
して存在し、しかも当時の宇土城主鵜殿長持は今川方に属していたことから、話が何
かかみ合わない。
半蔵は一体誰から槍を「拝賜した」のであろうか?
ちなみに宇土城落城は永禄五(1562)年のこととされている(永禄六年説もある)ので、
仮にこの戦いが実際に行われて半蔵が活躍したとしても、落城には至っておらず、ま
た家康の命で働いてはいないことになる。
さらに記すと、家康(当時は松平元康)は永禄三年二月、戸田三郎四郎と牧野伝蔵を
近江に派遣、多羅尾光俊等甲賀二十一家の衆二百名を集めたという。ただし、これは
今川方に属していた家康の戦闘要員としてである。そしてこれら甲賀衆は、桶狭間の
戦いで今川義元が討たれた後も鳴海城の岡部美濃守長教の手に属し、水野藤十郎
(藤九郎とも)信近を刈谷城に攻め、門に放火するなどして奮戦、遂に信近の首を挙げ
ている。
さて今川家から独立した永禄五年三月、家康は松井左近忠次(松平康親)を大将に命
じて今川方鵜殿長持の拠る上郷城を攻撃させた。忠次は城の北西名取山に陣を敷い
て攻めようとするが、守りは堅くなかなか攻めきれない。そこで、忠次もまた家臣の勧
めで甲賀から伴与七郎資定ら八十余名を招き、これら忍びの者を使って放火攪乱させ
るという夜襲をかけ、ついに城を落としたとされている。しかし、服部半蔵の名はこの記
録にも見られない。
城主長持は城の北にある護摩堂を目指して敗走中に、伴資定に追い付かれて突き伏
せられ、首を取られたという。また、子の藤太郎長照・藤三郎長忠兄弟は伴伯耆守資
継に生け捕られ(鵜飼孫六説もある)、駿府に人質となっていた家康の妻子との交換が
行われることはよく知られている。しかし、落城日時にも異説があり、城主を長照とする
ものもあって、現時点でははっきりと断定することはできない。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 05:56:53
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 14:57:49
>>124 義尚の死因は肝炎とされている。
甲賀衆の襲撃により負傷したのは確かなようだが。
>>127 別に甲賀衆だけで幕府軍を叩いたわけじゃないよね?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 16:25:55
>>128 六角軍の先鋒として夜襲仕掛けたんだろ?
その時に足利義尚を負傷させ、近江から幕府軍を撤退させたわけだが、
その後、甲賀の連中がその武勇伝を喧伝しまくったことで話がデカく
なっていったと。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 11:33:33
>>129 六角氏に軍事力を提供することで、自治を認められていたから、
従軍したのは約定通りってことだからね。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 11:47:34
義尚って手淫に浸って早死にしたんじゃなかったか?
132 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 12:23:17
133 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 13:23:38
http://okhome.fc2web.com/inves/siga/magari/magari.html >坂本に義尚が着陣すると、六角高頼は対決を避け逃亡。このため義尚は、
>翌十月に陣を鈎(まがり)の安養寺に移し、甲賀郡に攻め込む。
>もはや、「この一帯には将軍の敵は全くいない状況」とまで記録されている
>が、青年将軍は今度は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長
>期戦に備える体制をとる。
>本当は京に戻りたくなかったのでは。父親の大御所義政やうるさい母親日
>野富子のいない新天地で幕府の運営と権力の一元化に取り組みたかった
>のが真意ではないか。事実上の鈎幕府である。
>しかし、その義尚も小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ、不規則な生
>活がもとで体調を崩し、その志は挫折、短い生涯をここで終える。推測だが、
>「夜幕府」は、将軍権力のこれ以上の強化を望まず、妻帯もしないで奇行の
>多い細川政元が仕掛けた「罠」であったのかもしれない。
>長享三年(1489年)三月晦日、将軍義尚の遺体は管領細川政元や母日野
>冨子に護られ京に帰還、さながら凱旋将軍のような隊列であったと記録され
>ている。泣き崩れる富子が側に寄り添っていなければの話だが。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 17:26:16
>>133 >小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ
凄い表現ですね(w
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 19:22:52
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 03:53:42
>>135 女どもに囲まれてると「そっち」に行っちゃうんじゃないの?
>>133 といっても近江・六角氏攻めは義稙も継承したよね。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 13:00:00
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 02:17:11
信長が六角を攻める段階になったら早々に屈服したのにな。
まあ、中には水面下で反抗してた香具師もいるわけだが。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 07:36:39
141 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 11:25:50
>>139 六角承禎は、近江を追われた後も甲賀衆を使ってチマチマと信長に抵抗してたよね。
善住坊もその1人でしょ。
>>141 狙撃の名人?のくせにかなりの至近距離から外したって香具師だろ?
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 11:53:40
144 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 12:52:00
すいません、仁木氏の話はどうなったんでしょ?
あの頃の火縄銃って狙撃できるほどの精度があったのか?
146 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 14:01:42
>>145 伝えられているところで考えるしかないわなw
まあ、鉄砲で撃ったのは事実じゃないの?
148 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 17:57:05
>>147 信長の伊勢侵攻の際には、伊賀衆が敗走する織田軍を弓矢攻撃で苦しめたよね
149 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 07:38:47
>>148 といってそれが世の伊賀忍者を彷彿とさせるものかと言えば
そうではない。
弓矢を武器にしたゲリラ戦なら他の国人衆でもやってる。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 09:24:36
忍者なんて都市伝説ですよ
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 14:09:15
いきなりマジレスですか、そうですか。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/05 00:27:10
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ヽ::::::::::. ___ ,/
\::/`ー---‐^ヽ /
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156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/05 02:13:01
>>116 旗本・仁木(甚五兵衛)家の本国は伊勢なんだよね、伊賀じゃなくて。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/05 09:52:30
>>156 榊原家から「起こした」んでしょ?経緯的に。
ホント、謎が多いって言うか・・・
まあ、それだけ没落状態にあったわけで、これが普通なのかな
159 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/05 14:37:35
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 01:03:06
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 05:42:29
>>160 その「道案内」であぼーんした香具師もいるわけですが?
地獄への道案内です
164 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 07:22:34
165 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 09:41:06
伊賀ではみょ〜に竹槍戦法が炸裂しますよね。
山が深いから歩兵の接近戦が一番使えたんだろうな
167 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/08 11:17:46
168 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/08 12:13:03
F4ファントムでさえ落としたらしいしな>竹槍
171 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/08 14:28:04
172 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/08 17:23:40
173 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 00:56:06
>>172 忍びじゃねえっての。ただのお百姓さんだっての。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 06:34:08
ネタねぇなぁ
177 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 16:45:53
178 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 19:19:39
>>200くらいまではジ〜ッと我慢。
いつか春は来るだろう。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 05:29:11
>>160 惣国一揆と言っても、織田があまりにも強大になりすぎたよね。
そもそも国内的に一枚岩ではなかったのかも知れないけど……
しかし、早々に織田に屈服した甲賀の郡中惣との決定的な差は何だったんだろ?
180 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 07:15:43
>>145 雑賀の佐武伊賀守は狙撃のために敵を10間まで引き付けたのだよ。
20間で外した杉谷はまあしょうがないな。
>>180 技量に自信があったのか?、それともそれ以上は近づけなかったのか?
182 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 14:08:14
>>181 待ち伏せしてたわけでしょ?
ってことは、狙ったけど外しちゃった・・・_| ̄|○
ということでは?
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 14:15:03
. . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
あんな至近距離から狙ったのに何故・・・
184 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 20:16:45
185 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 22:51:51
天正伊賀の乱の時に行われた、筒井順慶の首揃えは悲惨だったらしい。
あと伊賀攻めの織田軍は4万といわれてるが、1万弱だったという説も。
概して弱かったのかも知れない
187 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/11 12:32:51
>>185 六角承禎様がビンちゃんっぽく感じるのは俺だけ?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/11 16:49:02
189 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/11 16:56:23
>>186 既に組織力は弱まってたでしょ?内部から切り崩していたし。
ニンニン
>>189 道案内を買って出たり、あるいは信長軍に与したり、対応は決して一枚岩じゃなかったからな。
第一次天正伊賀の乱の時とは状況があまりにも異なっていたのは事実。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/11 22:03:06
>>191 信長軍の伊勢侵攻の段階から実は始まっていたんじゃない?
193 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/11 22:45:25
その頃は北畠派、仁木派国人衆の取り込みでは?
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 10:16:11
>>193 外的に備えての挙国一致ではあるけど、内部も4派以上に分かれていたからね。
そのうち1派でも取り込めれば、切り崩しはそれ程困難なことでもなかったんじゃない?
北畠派、六角派は表向きアンチだったしな。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 10:49:53
>>195 だから滝川一益は最初に仁木派を取り込んだんでしょ?
もっと忍者の話しようぜ。
国人がどうとか、つまんねーよ。
198 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 14:27:24
>>197 何度も言う。それは自分から率先してやるべきこと。
他人様に頼っちゃいけない。
さて...仁木長政はど〜なったんだ?
201 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 15:13:15
202 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 15:41:26
>>197 忍者だ〜ぁ?
戦国期の伊賀のどこに忍者がいたと言うんだ?
>>202 とりあえず相手の土俵に乗ってあげたわけですね(w
204 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 16:20:28
>>202 ひょっとして上忍、中忍、下忍とか……(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
205 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 17:49:10
206 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 18:14:40
>>207 伊賀衆も徳川幕府成立後、一般的に言われてるほど厚遇されてるとは言えんがな。
奉行職に抜擢された人間なんていないし。
汚れ仕事を押し付けられた感すらある。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 20:56:01
>>208 身分的に幕臣ってだけで厚遇ではないけどね。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 21:08:03
211 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 21:56:49
212 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/13 22:58:38
>>211 甲賀衆なんて郷士程度の身分でしょ?
それで何度も幕府に泣きついて、カネの無心をしてたと。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/13 23:20:35
まあ戦国時代の国人レベルの豪族は、
江戸時代になるとみんな結構苦労しとるよ。
正規の藩士じゃなくて郷士扱いってのも多いし。
幕臣になれた人達はまだ恵まれてたほうじゃないの。
214 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 01:48:02
御庭番の給料は3石。
大工の方が金貰えるちゅうねんな・・・・
土地持ってる郷士の方がマシかもしれん。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 08:51:30
>>214 それでも「幕臣にしろ!」「金よこせ!」とやってわけで、凶作だろうが何だろうが
給金貰える香具師の方が強い。
郷士は半武士扱いだからなぁ。
藩の公式行事でも露骨に藩士とは差別されてたし。
217 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 11:40:52
『萬川集海』献上もそういった経緯あってのこと。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 12:08:11
>>214 3石って。。。
どうやって生活してたんだろうね。
一生独身ならともかく、結婚して子供ができたりしたら生活できねーだろ、普通。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 12:10:42
ハットリ対ケムマキ
220 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 15:32:04
最低でも30俵3人扶持とかじゃないの?
221 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 19:19:29
>>218 副業すりゃええのでは?
下級武士の勤務時間なんてめちゃめちゃ少ないで。
人数過剰である意味ワークシェアリングの時代やからw
あと1〜2石分稼げりゃ、並みの町人ぐらいの暮らしにゃなる。
>>220 最下級武士をなめちゃいかん。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 00:29:54
>>220 確か『御家人斬九郎』のナレーションではそう言ってたな
224 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 02:01:19
御庭番って武士なの?
なんか警備員兼工作員って感じがするんだけど・・・・
そういえば武士の付き人クラスの中間の給料は2両ちょっと(=2石ちょい?)
だとかなんとか。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 12:41:38
226 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 10:38:44
>>221 伊賀同心の得意技は「組紐」の内職だったとか。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 11:53:51
>>226 その組紐を武器に、世の人々の晴らせぬ恨みを晴らす裏稼業に精を出していた
なんてこともあったらしい。
228 :
誘導:04/10/16 15:04:34
229 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 19:27:01
>>226 伊賀の主要産業のひとつになったのは明治以降じゃなかったか?
230 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 19:48:49
このスレ的には邪道かも知れないが・・・
「信長の野望」で登場するS級忍者には、ついつい「葛籠重蔵」と名前をつけてしまう。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 22:36:30
233 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 00:39:35
234 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 03:41:22
甲賀の場合は?
235 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 03:50:46
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 12:17:10
237 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 16:05:41
>>236 葉月が一体何のために出てきたんだ?って感じの役割でしたね。
上川隆也も・・・・忍びって感じじゃない。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 21:40:32
やはり服部半蔵はサニ千葉でなければダメですね。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 03:42:19
>>237 むしろ中井と配役入れ替えた方が良かった予感
242 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 17:13:56
服部康成(津軽家家老・元伊賀上忍)はどうなんだ?
244 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 23:57:26
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 00:54:32
太閤Xではカード有り武将が多かった
>>243 大垣城攻めのときの寝返り工作や、川中島転封中止工作をしたらしい。
でも上忍だったかは知らん。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 21:47:04
248 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 23:10:28
249 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 01:43:53
>>247 服部康成(1566〜1635)
【列伝】
津軽家臣。伊賀国の出身。関ヶ原合戦の際に召し抱えられ、大垣城攻撃戦に活躍した。
のちに筆頭家老となって藩政を取り仕切り「無類の良臣」と評された。
【能力】
政治63 采配72 知略50
【策戦/特技】
「虚報」「収拾」「放火」/「威圧」
>>249 康成が津軽家に仕えたのは沼田祐光にスカウトされたからでしょ?
す、凄いぞ!服部康成!
http://www.jomon.ne.jp/~hoshita/neputa%20no%20yurai.html >津軽のねぷたの起源については、さまざまな説がある。その一般的なものは、
>坂上田村麻呂が、蝦夷征伐の際に敵を誘き出す手段>として、大灯籠を作り、
>鉦や大鼓ではやしたて、蝦夷か物珍らしげに見物しているうちに、四方から攻
>略して平定したと、伝えられている。
>しかし、これは伝説であって、最近では文禄二年(一二九三年)津軽初代の藩
>主大浦為信公が、京都に逗留中に、各大名が「お国自慢」に重臣、服部長門
>守に命じて大灯籠をつくらせ、うら盆に京都の市街をねぷたばやしで練り歩き、
>京の人達を大いに驚かせたと、伝えられている。
>その当時のねぶたはどんな形の灯範であったかは不明であるが、現在のよう
>なものではなかったと推測する。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 16:07:54
253 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 01:04:10
>>249 その特技から人格を推測すると、
他人様の家に火をつけて(放火)、第一発見者を装って消防署に通報(虚報)し、
そのうえ現場で消防隊員に協力して「ご近所の皆さん、落ち着いてください!」
(収拾)と触れて回る、狼少年みたいな香具師ってことになりますね。
しかも、語気が強い(威圧)なので、周りは何も言えないと。
とりあえず、とんでもない香具師ですね。通報しましょう。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 04:06:20
>>253 そのくらいの香具師でなければ、家老にまで出世できんだろw
津軽太平記を読んでみたが、独立戦争前に沼田が『上忍』服部と意気投合という話があった。
上忍やら生年やら、もの凄く怪しいのだが。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 05:52:17
>>256 沼田祐光とはどういう接点があったのかねぇ...?
258 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 11:13:38
>>257 諸国浪々中に伊賀で康成の一族と接点を持ったのか、それとも康成が津軽家に
売り込みに行ったのか……
259 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 17:06:32
沼田祐光としては、やはり畿内に近いところに情報網を持ちたかったんじゃない?
そのために康成をスカウトしたと。
そんな気もするけどね。詳しい人がいたら教えて欲しいな。
康成は知名度はともかく伊賀者の中では相当に出世した奴じゃないか?
徳川の服部は半蔵の代で終わったようなものだし。
しかし、そうなると康成が大垣攻めで使った忍びも元半蔵配下だったりするのでは?と言ってみる。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 22:25:44
>>260 つーか服部一族における康成の位置関係がよく分からんのですが。。。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 01:51:04
>>259 家康が柳生宗厳・宗矩父子と接触したのと同じような理由・・・?
そもそも忍を使ったって話は・・・・
264 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 22:31:40
265 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 22:40:45
266 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/25 15:58:16
268 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/25 21:37:15
>>266 百々百右衛門 って凄い名前だな(w
◆百々 百右衛門 と゛ど ひゃくえもん ?〜1622
天正10(1582)年、徳川家康の伊賀越えで警護に集まった伊賀者200人のひとり。
同年、その功により尾張鳴海に召し出され、御切米16俵3人扶持を与えられ服部半蔵
配下に置かれた。新堀、高館、関ヶ原、大坂両陣などに従軍した。天正19(1591)年、
家康の喰違(赤坂)での鷹狩に随行し、永楽500文の地(半蔵山と呼ばれていたらしい)
を拝領した。元和8(1622)年2月、近江水口の御殿番を勤めたが同年病死した。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/26 16:23:44
>>269 「どど ひゃくえもん」と書いてあるだろが!!!
ほりえもん?
>>269 何か藤子マンガにありそうな名前ですね(w
百右衛門ではないが、百々はのぶやぼでも既に登場しているだろう。綱家が。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 01:08:06
275 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 04:45:57
>>268 伊賀崎道順たちの活躍であぼーんしちゃった百々氏の関係者?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 10:27:45
万川集海読んだら忍者になれますか?
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 13:50:11
278 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 16:22:55
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/28 02:12:06
>>276 出自だけは忍者になります。そこから先は本人の努力次第です。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/28 15:34:18
>>279 そもそも俺たちの出自って何だ?
俺は家が浄土真宗の門徒だから「一向宗」とかそんな括りか?
>>280 私たちは出自のアイコンは一つも付いてない状態です。
仏教書・忍術書・茶道具などを買い求めると良いでしょう。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/29 18:00:29
>>280 宗教系の出自となると俺もそういうことになるな、曹洞宗だけど。
>>281 俺、茶道やってるから茶器持ってるよ。
でも、それって特技に「茶湯」が追加されるだけだよな。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 02:50:37
>>282 んな安物で商人が「茶会やらない?」って声掛けてくるかぁーーーーーっ!!!
284 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 09:33:26
三重県桑名に服部半蔵が居たって知ってた?
幕末まで藩政仕切ってたらしいよ。軍事総監の役職にも就いていたそうな。
服部氏っ保長の乱心で取り潰しになったんじゃなかったっけ?
286 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 14:53:33
287 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 22:21:08
>>286 正成の子・正重だね。
正重は兄・正就が改易になった後、3000石を分与され、「半蔵」を名乗った。
しかし、正重も大久保長安事件に連坐し、村上家、堀家にお預けの身となってしまう。
その後、堀家臣になったが間もなく諸国を放浪することになり、桑名藩主松平定綱に
召し出され、桑名藩士となる。以後、半蔵家は藩で年寄の重職を務めるなど厚遇され
ている。
なお、正就の子・源右衛門正辰も桑名藩に召し抱えられ、厚遇されている。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 22:24:54
なお、半蔵家の格式は藩内でも家老級であり、禄高は正重2000石、正重の子・正吉が
1000石を与えられ、親子で侍組(藩士)と足軽100人を預かっていたという。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 23:26:21
半蔵正成は徳川十六将の一人だったんでしょ?せがれ共は結構あわれだな。
しかし服部家も他家に就職の身となろうとは・・・
しかし伊賀者はその後どうなったのかなぁ?
291 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 02:29:04
>>290 なんかあんまり厚遇されてないなぁ・・・
所詮は土豪だからか?
292 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 03:12:31
>>291 伊賀の連中は「預け置かれる」ような田舎の郷士だからね。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 00:50:55
_
/ /|)
| ̄| に、忍者がいなかったなんて...
/ /
295 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 19:06:13
忍者部隊出陣!!!!!!
/⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ/⌒ヽ /⌒ヽ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ/⌒ヽ
____ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ/⌒ヽ /⌒ヽ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ⌒ヽ /⌒ヽ/⌒ヽ /
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____ ( ヽノ ヽノ ( ヽノ ヽノ( ヽノ ヽノ ( ヽノ( ヽノ ヽノ ( ヽノ ヽノ( ヽノ ヽノ ( ヽノ
_ -- ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ ノ>ノ
─ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/ (/
ずさずさずさ・・・・ちょっと疾走しますよ・・・
296 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 20:42:15
で、影の軍団となった訳か・・・
297 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 14:55:52
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 19:34:22
>>289 柘植のように幕臣として召し抱えられた香具師もいるけどね。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 01:01:06
>>298-299 加太(鹿伏兎)越えについては……
『改正三河後風土記』では、柘植三之丞(清広)と柘植村の者たち2〜300人ほど、
これに甲賀から武島某、美濃部某など100人ほどが集まったと言われている。
『伊賀町史』では福地伊予の一族が家康一行を護衛して加太越えを果たしたことに
なっているが、その後の福地氏に対する処遇などを見る限りでは……
301 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 05:08:26
>>300 一番役に立ったのは茶屋四郎次郎がばら撒いた銀子だって話だが?
302 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 21:24:10
>>301 まあ、相手は鍛え上げられた侍だしね。
襲って犠牲を出すことを思えば、目の前の金に釣られておいた方が得ではある。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 16:18:31
304 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 19:25:19
忍術使えば家康ごとき楽勝だろ。
ニンニン
305 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 20:56:11
>>304 忍術って何ですか?より具体的にお聞きしたいんですが。
こ こ は 忍 者 ス レ で は あ り ま せ ん
307 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 23:57:31
忍者スレでも立ててやってくれ
309 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 00:37:36
>>308 まあ、それだけ『萬川集海』の威力は絶大だったということだ。
>>309 これだけたくさんの人間を惑わすとは正に忍術
311 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 04:55:31
312 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 19:31:13
忍者ってガマになったり大蛇を呼び出したり口から火を噴いたりと・・・
っていうかいつからこんな忍者像が出来上がってしまったのだろうか。忍者っていう言葉自体が造語らしいが。
昔の伊賀衆や甲賀衆がみたらさぞびっくりするだろう。第一伊賀・甲賀ってある種同属に近いんでしょ?地域にしても山一つ越えただけだし。
しかしフーマは盗賊・夜盗になったりしたというが時代劇にでてくる忍び装束で荒らしまわったのかね?テロより怖い・・・
最近忍者に興味持ったんだが
霧隠才蔵って実在の人物?
>>313 ググってね。
スレのレベル下がるからもう書き込まないでね。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/10 12:22:37
スレのレベルも何も忍者を語るスレだろ?ここは。
伊賀・甲賀で忍者の話しないで何を話すんだよ。
>>315 スレタイも満足に読めんような馬鹿は氏ね
今すぐ氏ね
317 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 00:29:22
>>314 まあ、モデルになるような人物はいたんだろうけど、それだって普通のオッサンだったと思うよ。
318 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 02:21:35
>>317 >普通のオッサン
それはないだろう、いくら何でも。
>>315 忍者と呼ばれてる人たち=土豪・地侍
という見解ですが何か?
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 04:32:09
>>313 それは「服部半蔵って忍術駆使してたんですよね?」というのと同じレベルでしょうね。
煽れば煽るだけ泥沼にはまるというヲチですね
323 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 15:36:02
324 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 18:44:19
>323 これがあずみ、たけし版座頭市より息抜きに楽しめたんだわ。w
325 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 22:31:47
新影の軍団、展開が結構むごい。姫様生首にされるし・・・
忍びの非常さを感じる物語ではある。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 00:25:41
朝鮮義民「て、提督!」
李舜臣「わ、我が朝鮮に栄光、あれ!!!」
朝鮮義民「うおぉぉぉ、許さん、許さんぞ、倭賊ども!!」
義弘「この勇猛果敢! このままでは薩摩隼人が全滅するたい!」
如水「我が智謀、李舜臣に及ばず。」
清正「日本には、これほどの漢はいなかった。」
氏郷「日本が敗れることは分かっていた。猿め、死に所を失うて気が狂うたか。」
世界三大提督の一人、李舜臣。
偉大なる像は、今もソウルで悠然と聳えている。
〜〜 朝鮮のみなさん、謝罪します 〜〜
〜〜〜〜〜〜 完 〜〜〜〜〜〜
328 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 00:52:31
329 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 03:22:02
>>325 けっこうTVシリーズの時も救いのない作風だったしね。
俺は幕末編が好きだったけど。
330 :
329:04/11/12 03:24:41
ついでに、桜田門外の変では、水戸浪士を助けて忍者軍団が井伊直弼を襲撃したよね?
でも、空駕籠を突いてしまい、爆死する香具師がいたと。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 18:54:52
柳生十兵衛と服部半蔵は千葉真一しかできない。
ちなみにテレビでは伊賀者は黒、甲賀者は茶、根来衆はねずみ色っぽい服分けであったが実際の忍び装束は茶色濃色や深緑色だったそうです。
しかし影の軍団V?では迷彩服の半蔵が登場した記憶がある。昔、太秦映画村でみた千葉・半蔵はカッコよかったなぁ〜
332 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 15:33:02
>>331 >柳生十兵衛と服部半蔵は千葉真一しかできない。
全く以て同意。
『魔界転生』のリニューアル版での佐藤浩一の・・・・はかなりいただけない。
333 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 02:26:24
>>331 色分けしないと分からんしね、見てるこっちは。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 17:14:56
335 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 23:15:50
336 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 05:41:54
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 21:26:50
ギャバンの親父も忘れないで・・・
338 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 12:27:10
いよいよ千葉真一とジャパン・アクション・クラブを語るスレになってまいりましたw
339 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 15:07:40
340 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 17:58:22
341 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 23:47:39
>>340 それ以外には無いんだけど・・・といって伊賀系統なんだよね・・・不思議。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 01:15:22
さながら現代の『萬川集海』ですな・・・『影の軍団』
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/19 20:43:06
>>342 確かにあのドラマで自分の中の忍者像が確立された香具師も多いはず。
344 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 15:15:31
こんどリメイクする戦国自衛隊・・・千葉真一でるのかな?
346 :
若 ◆88NDKnKnUU :04/11/20 16:42:12
忍者が足に巻いてるのはゲートルかな? ミュータントゲートルズ
347 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 14:00:34
>>331 >柳生十兵衛と服部半蔵は千葉真一しかできない。
但馬守宗矩は若山富三郎しかできない。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 23:09:08
>>347 そうだね。
藤田まことはちょっと違うんでねぇの?とは思うな。
>>347 失敬!藤田まことは石舟斎の方だった・・・スマソ。
350 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 02:03:02
>>348 中井貴一の宗矩はけっこう好き……って『武蔵』ネタだけど。
といっても若山先生のそれとは演じている年代が違うんだけどね。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 18:13:08
おいおい・・・何のスレだよ・・・
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 20:51:57
戦国自衛隊、自衛隊が全面協力。思えば自衛隊も良く協力するようになったもんだ。
>>352 織田裕二主演の『ベスト・ガイ』でも航空自衛隊が渋〜く協力してました。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 03:40:41
355 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 00:39:30
>>354 伊賀上野に行く電車なんてもろに忍者のPRじゃん
357 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/25 02:42:03
359 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 03:44:15
360 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 04:31:07
>>359 『影の軍団』では風呂屋の女将さんの役とかやってたね。
必ず半蔵に絡んでくる役どころ。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 21:52:31
すっかりジャパン・アクション・クラブに乗っ取られますた。。。。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 22:21:56
手裏剣の話おしえて。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 22:33:31
今展示されてる手裏剣で
「名忍者御用達」とか書いてあるやつの大半はヘボ忍者御用達or創作
と当たり前のことを言ってみる
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/03 15:47:30
北斗白影
366 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/03 17:30:33
>>366 「甲賀流忍者軍団 瀧組所属 白龍隊 忍頭 瀧十二神将軍一党」って・・・・
368 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/03 18:19:46
>>367 甲賀衆ってただの土豪集団ですから〜っ!!!!残念!!!!
369 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 16:48:59
>>368 そうだよね。
佐々木六角氏から自治を認められる代わりに、軍役を負担していた地侍集団だからな。
いつから忍者になったんだ?
372 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/07 19:07:02
ここに羽黒流について知っている人いる?
なんか、うちの地元の石碑に羽黒とか書いてあるんだが
ちなみに秋田の県南です
ここは忍者スレではありませんと何度言えば(ry
375 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 03:14:47
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 04:03:33
>>375 柳原戸兵衛
能力:政治51 統率55 知略42 野望54 義理80
特技:「引抜」「混乱」
列伝:羽黒流の忍者。戸兵衛は実際は伊達家に仕えた忍者「黒脛巾組」の1人。
安部重定に仕えて頭領を務め、世瀬蔵人とともに黒脛巾組50名を率いた。
実際にはどんな香具師がいたんだろうね?>羽黒流
377 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 07:15:30
378 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/11 05:36:47
379 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 23:24:36
>>375 ですね。
秋葉流とかって・・・実際にはあまり聞いたこと無いんだけど・・・ホントにあったの?
380 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 00:21:21
>>375 そのはずなんですが
年末に帰った時に確認してみます
まあ、羽黒流とは無関係だとは思いますが
382 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 14:07:08
383 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 18:55:17
>>380 確かに序盤は伊賀、甲賀共に忍者貸してくれないし。。。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 03:49:09
>>369 「・・・になった」のではなく、「・・・ということになってしまった」が正しいのでは?
386 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 14:25:42
>>385 諜報活動くらいはしてたんじゃないの?各大名も。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 21:19:46
388 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 23:15:37
389 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 01:11:36
>>386 武田信玄が好んで使っていた「歩き巫女」なんてのもあるしね。
真偽の程は知らないけど。
390 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 09:05:54
>>373 羽黒流は秋田に伝わる修験系の忍術とされているよね、確か。
このスレは忍者スレになりますた
392 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 19:04:03
>>390 秋田氏の傘下にあったわけでしょ?>羽黒流
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 00:56:25
服部半蔵死後の伊賀者はどうなったんだ?
あのヘタレ息子に付いていったとは思えんが、やっぱり盗賊団かな?
396 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 14:56:07
>>394 一全流って技芸の幅が広いよね。鉄砲術とかもあるし。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 00:41:41
398 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 00:53:59
>>395 過去ログ嫁。まずはそれからということで。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 00:15:13
400 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 05:09:37
>>395 何か基本的なことを知らない香具師が紛れ込んできたようですね。
秋田氏は水軍や忍者とかいて強かったんだなあ・・・
後、羽黒流と関わりがあるかわからんが
忍者迷路とかあるあまさぎ(漢字忘れた)って忍者がいたの?
402 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 18:01:53
ずいぶんスレのレベルも下がったんだなあ…と思う。
前はちゃんと伊賀の郷士について語れたんだが。
気が付けば忍者スレに成り下がってるし…
>>403 まだ、レス数400ちょっとでしょ?
>>402で徳川家臣の服部正就の話が出てきたっていうのに・・・それを言うのは尚早ってモン。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 07:01:53
>>403 そう言われるなら……自分でネタ振りしてみません?
406 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 00:08:44
>>404 与力、同心レベルだろ?伊賀者なんて。
最下級の幕臣なら、郷士っぽく土着武士やってる方が良くない?
407 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 04:48:44
>>406 甲賀衆はそれで食い詰めて、幕府に何度も陳情してたわけで、大差はないだろう。
まだ固定給貰えるだけマシとも言える。
ところで、先祖が伊賀や甲賀衆の香具師ってここにいるのかな?
409 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 02:53:40
410 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 04:31:48
>>404 正就は伊賀者を私兵化しようとして反発されたんだよな。
俺たちはおまえの家来じゃねえ!!!!と。
411 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 13:45:57
>>410 新年に社長の家に呼び出されて(もちろん無給で)パシリに使われるようなもんか。
怒るよな、普通。。。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/01 02:12:39
>>411 屋敷の普請を手伝わせたり、まさに「パシリ」状態だったらしい。
413 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/01 19:20:14
>>412 正就って伊賀と全然関係ないしな。
正成の子ってだけで。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/02 12:03:03
>>413 正成ですら地縁はないからね。親父さんの故郷ってだけで。
>>414 浄閑入道の時代に伊賀を離れてるからな。
しかし、一門の中には伊賀に残った者もいるわけだろ?
416 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 04:16:47
>>415 浄閑入道って半三保長のことかい????
417 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:52:23
418 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 01:16:52
>>415 一応、有事の際には共闘するという決め事があったらしいね。
さすがは伊賀者?
>>416 千賀地家のこと?
保長の子とされる市兵衛保元の系譜だよな。
保長―保元―則直(千賀地半蔵/服部半蔵)―元則(保田栄西養子、後に藤堂采女)
という家系だったはず。
420 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:19:27
421 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 05:21:51
増田家改易後は藤堂家。
>>421 藤堂家への仕官は確か家康が斡旋したのでは?
423 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 08:13:50
>>411 オーナー会社ではよくあることだな。。。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 22:54:28
>>423 とはいえ、その場合は反抗しづらいものがあるけど・・・
425 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 01:52:14
>>424 反抗するとこっちがあぼーんされるだけ。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 01:31:41
>>422 他国から入るのだからそれなりに地縁のある家臣も必要じゃないの?
でなければ、ただの進駐軍になっちゃうし。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 06:24:04
服部康成のような例もあるわけだが。
そのあたりはどう解釈するのだろうか・・・
430 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 01:55:02
>>429 都に程近いところにネットワークを持つ康成をスカウトしたのであれば、
彼の使いどころはそこにあったと見るべきだが、家老職にあって藩政を
支えた康成を思うにつけ・・・・
431 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 09:40:38
>>427 豊臣大名などにはその傾向があったようだが?
432 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 08:59:18
>>413 それが反発を招く根底にあったと思うね。
正成は別としても正就は伊賀者ではない、というのが彼らの本音。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 07:22:29
>>432 桑名藩で服部半蔵を名乗ったのは、正就の弟・正重の系譜だよね。
彼もまた大久保長安事件に連坐して改易され、松平定綱に仕えたと。
このあたり何故か服部家って不遇だね。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 07:48:57
>>419-421 保田元則(采女)は増田家に仕官する前、豊臣秀長、秀俊に仕えていたよね。
藤堂高虎は大和豊臣家の家老(紀伊粉河城主)だったから、この時点で知己を得ていたはず。
采女は秀俊の早世後、増田家に仕えたが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、増田長盛が蟄居と
なった際、大和郡山城の接収にあたった高虎と再会し、1601年に藤堂家に仕官している。
なお、大和郡山城接収にあたっては、家老職にあった渡辺勘兵衛や保田采女が高虎に好意
的に接し、武器・弾薬の引渡しが速やかに行われたという。
このことがあり、勘兵衛や采女は藤堂家からスカウトされたとされている。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 15:46:21
>>434 新規召抱えなのにいきなり藤堂姓とはこれ如何に?????
436 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 10:47:12
>>435 伊賀統治には服部家の血筋が何としても必要だったんじゃない?
地侍が点在していた地域だけに。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 11:03:04
采女が重用された理由としては、彼自身の能力もさることながら、伊賀の名族・服部家、紀伊の
名族・保田家の血筋にあたることが大きいと思う。
伊賀上野城代として伊賀の領民を懐柔するにあたっては服部家、圧するにあたっては他国衆な
がら名族でもある保田家の血筋を使い分けさせたのではないか。
服部家の血を引く保田采女を藤堂一門に遇することで、伊賀の土豪・地侍たちの速やかな宣撫
工作を図ったのだろう。
438 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 15:05:14
信長に討伐されて悲惨なことになってたからな。
そのうえ縁も縁も無い為政者が来たんじゃ、内情も不安定になるだろうし。
>>438 何だかんだ言って生き残ってたりはするんだな。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 17:23:29
>>434 渡辺勘兵衛って後に高虎と袂を分かつんだっけ?
441 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 10:23:24
>>440 大阪の陣の時に主従でもめちゃったんじゃなかったかな?
442 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 18:39:12
渡辺勘兵衛 (1562-1640)
阿閉家臣。主家滅亡後は豊臣・中村・増田・藤堂家に歴仕。豊臣秀吉の小田原征伐の際、
伊豆山中城に一番乗りし秀吉から賞賛された。大坂の陣後、浪人した。
特技:収拾 槍衾 攻城
能力:政治9 統率74 知略49
443 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 23:55:29
>>442 伊予今治城の築城を担当したのって勘兵衛だったはず。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 12:14:45
445 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 17:26:27
446 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 12:43:24
わたなべ・りょう?
447 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 10:57:12
この渡辺一文字シリーズって何者なの?
嵯峨源氏だから源融にあやかってるんでないの
直接的には渡辺綱の影響かもしれんが
449 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 14:32:31
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/bu_0013.htm 渡辺姓の武将は多い。
渡辺了の他にも大阪の陣で知られる渡辺糺、秀吉麾下の重−勝、さらに孝−任(浅井家臣)、
勝−通−長(毛利家臣)、信−盛−永(徳川家臣)。 (−は親子)。
やたらに名が一字なのが興味深い。
これは多分、武門の祖とも言える源頼光の四天王・渡辺綱の影響であろうか。
実際、渡辺氏は綱の出自嵯峨源氏から発生したものが多く、上に挙げたいくつかの系統は綱
の末裔と称している。
実際、嵯峨源氏は信、常、明と何世代も一字で名を現している者が多い。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/24 02:00:37
浅井家にも阿閉家にも同族?がいたということは、近江に古くから地縁のある
一門がいたわけ?
451 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 21:47:08
ひょっとして良スレ化の予兆???
452 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 14:34:24
>>451 おいおい、本論からはズレてるだろうに・・・
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 23:44:23
454 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 00:30:02
455 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 12:40:23
456 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 00:18:04
>>455 朽木元綱と聞くだけで萌えてくるのは俺だけ?
458 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 14:07:42
>>457 いや、のぶやぼネタのスレでは必須武将のように思うが?
459 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 18:38:34
>>458 湖畔でひとり天下の趨勢を見つめる元綱プレイはけっこういいぞ。
朝倉軍が来ても「ど〜ぞお通りください」
織田軍が来ても「ど〜ぞお通りください」
だもの。
>>459 近江国内で合戦になっても反戦中立が基本原則。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 01:32:12
朽木と言えば「金ヶ崎の退き口」と関ヶ原での華麗なる裏切りでしょうな。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 04:51:52
鯖街道だろ、鯖街道。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 04:32:27
鯖街道だよ、鯖街道を知らんのか。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 22:34:00
>>463 このスレの住人で鯖街道を知らん香具師はモグリ認定だわな(w
466 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 01:03:21
>>463 http://www.ruralnet.or.jp/rekishi_roman/12/kutugi/kutugi_01.html より引用
>● 歴史と文化が交差した「鯖街道」
>
>若狭の国・福井県、小浜城下から京の出町柳辺りまで、約80kmの街道は古くから「鯖街道」と
>呼ばれてきました。これは13世紀の初期にできた若狭街道のことで、戦国時代から江戸時代
>にかけ、若狭の海でとれたサバがこの道を通って京へ運ばれたことから、「鯖街道」の名で呼ば
>れるようになりました。
>渓流魚の佃煮、鯖のなれずし、栃餅など朽木の自然の中から生まれた品々がこの街道筋で売
>られました。また、奈良時代、朽木谷から「朽木の杣」、材木を東大寺の建築用材として筏で搬
>出した記録や、貝原益軒の『諸国めぐり』に、朽木を材木の名所として記されていることなど、朽
>木は木工品の産地としても昔から知られ、塗物の椀や盆などもこの道を通っていきました。
>このように鯖街道は、京都をはじめ各地へ朽木の産物が流通し、同時に都の文化・技術も行き
>来した歴史と文化の交差点だったのです。
伊賀・甲賀はどこに…?
468 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 01:29:11
司馬の「街道をゆく」では伊賀・甲賀は通ってるのか?
470 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 02:21:47
>>467 朽木は将軍家非難ルート繋がりだね、確か。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 00:26:56
御料所の代官だろ?
472 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 13:32:19
足利将軍家で近江国に亡命したのは義晴、義輝、義昭の3人か?
義晴は伊賀&甲賀には避難してないし、義輝は細川晴元と近江坂本に逃れた後、
各所を転々としながら、2度目に近江に逃れたときは朽木谷で5年余りを過ごし
ている。
義昭は大和に幽閉された後、伊賀経由で甲賀の和田惟政の許に逃げ込んでいるが
朽木谷に入ったという記録はない。
朽木氏には将軍から偏諱を受けた者も多いし、幕府の御供衆にも列しているが、
甲賀の諸氏にそこまでの者はいない。
473 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 19:37:18
>>472 こらこら、足利義澄を忘れるなっての。
しかも、義澄は近江であぼ〜んしてるじゃないか。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html 朽木氏
----------------------------------------------------------
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
佐々木氏の一族。信綱の次男忠信は高島郡田中郷を与えられ高島氏を名乗っていた。
その子頼綱、さらにその子義綱の代になってはじめて朽木氏を称するようになった。
朽木庄は、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれ、安曇川上流の渓谷
に沿う谷盆地となり、京都にも近いということと、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこ
ともあり、早くから開け、交通上の要衝としても重視されていたところだ。
朽木氏は朽木谷一帯を抑え、佐々木氏一族として重きをなした。1528年三好元長が京都
に乱入した時、足利将軍義晴は朽木谷に逃れ、そのころの当主稙綱は義晴を厚遇した。
その功によって稙綱はのち申次七人衆の一人に数えられることになった。さらに1551年に
も将軍義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがあり、山間盆地という地勢が将軍
の避難所としての条件を持っていたことを示している。
朽木氏の歴代にあっては、稙綱と晴綱および元綱が特筆される存在で、晴綱の弟たちも
将軍家に多く仕えている。
たとえば藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆として名がみえ、足利
将軍家との関係の深さを示している。
元綱は、はじめ六角氏に仕え、次いで朝倉氏と結び、さらに足利義昭、次いで織田信長と
転々としているが、近江という政治情勢の変化の激しい地方の小戦国大名としては当然
の身の処し方だったといえよう。元綱はさらに豊臣秀吉、徳川家康に仕えている。関ヶ原
の合戦では、最初西軍に属し途中で東軍に通じている。その結果、減封措置ではあった
が近江高島郡九千石を安堵されている。
しかし、江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名
となった。この稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 19:55:05
>>473 そうだね。
足利義澄は永正8年(1511年)8月、京都に戻る準備を進めていた最中、近江国の
岡山城(滋賀県近江八幡市)で病没している。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 22:47:42
今は幻となった朽木村を偲びつつ・・・・
http://www.biwa.ne.jp/~kutsuchu/kutukihistory.htm 朽木谷をゆく(朽木村の概要)
<現況>
・成 立 明治22年(1889)4月1日、市制町村制施行により成立
・面 積 165,ku ・人 口 2,603人
・村の花=ヤマユリ ・村の木=スギ
・村名の由来 中世の荘名による。
<立地>
〜国境の山村〜
県の西部に位置し、朽木谷の名で知られた広い村域のほとんどが山地である。周囲を取り囲んだ
標高500〜900mの山々に2つも三国岳の名が見えるのは、近江と若狭・丹波・山城の国界によっ
たものであり、さらに小川地先に近江・山城2国の境界石が残存するなど、いずれもその辺境性を示
している。その中を丹波高原の百井峠に源をもつ安曇川(俗称.大川)が北流し、針畑川・北川・麻生
川の支流を合わせ、主邑市場付近で向きを東に変え、隣接安曇川町に注いでいる。大川筋はいわゆ
る花折断層に沿うもので、北陸〜京都を結ぶ間道として早くから利用されたが、ここに開かれたのが
朽木街道であった。気候は、山間地特有の時雨のため天候が変わりやすい。また日照時間が短くて
気温も低く、冬期はしばしば豪雪に見舞われて孤立化することがある。最奥の針畑地区を含む朽木
西小学校区は、僻地指定でも、県内最上位の*5級地になっている。
<沿革>
「原始・古代」
〜森林資源と開発〜
朽木谷にはまだ、原始の人々の暮らしを証明する考古資料(遺跡・遺物)は1つも見つかっていない。
この地域が歴史上で確かめられるのは、せいぜい1,000年ほど前からである。「和名抄」の高島郡
郷名に桑原郷が載っているが、所在について諸説がある。「日本地理志料」などのように、針畑地区
に桑原があるので、それを古い針畑荘(桑原・古屋・中牧・小入谷・荘屋・生杉・能家・横谷・轆轤の9
か村)と古賀荘(上古賀・下古賀・南古賀の3か村)にゆかりのあるものと推定すれば、その範囲はか
なり広いものであったことになる。
奈良期、東大寺の建築用材がこの地域の山作所から、筏などで搬出されたらしい。天平宝字6年(7
62)の「高島山作所漕材注文」(大日古)は、文中の小川津について問題を残しがらそのことを推測
させる。平安期になると、長保3年(1001)中納言・大宰権師平惟仲が、白川寺喜多院に布施した
所領10か所の中に、「高島郡朽木庄」と記したものがある(高野山文書)。この頃国の諸所に荘園化
が進み、先の桑原郷もいまひとつ大きな朽木荘に吸収されたもののようである。
治暦4年(1068)の「大政官符」に朽木谷奥地の針畑地区と、朽木谷に北接する三谷地区の山々が
子田上杣(こだかみのそま)と呼ばれたことが見え、それがやがて藤原頼通の家領となる。都にも知
られた「朽木の杣」で、歌枕にもなった。この谷筋が当初からその森林資源をもとに開拓されたらしい
ことが、その自然環境と照らし合わせて充分うなずける。
「中世」
〜朽木氏登場〜
朽木谷が荘の性格をはっきりさせて登場するのは、鎌倉期に入ってからである。承久の乱後,佐々
木信綱はその功によって、幕府からこの朽木荘の地頭職に新補された。所領は朽木荘以外にもあ
ったが、子孫が次々と分かれていって、それが後に高島七頭といわれた武士団を形成した。朽木荘
を譲られたのはそれらの中で、信綱二男高信の孫にあたる義綱が最初である。弘安10年(1287)
のことで、ここに土地の名をとって朽木氏を称した。しかし、元弘3年(1333)には地頭職安堵の綸
旨を朝廷から得たかと思うと、建武3年(1336)には幕府からこの地域を兵糧取り立ての料所とし
て預けられたように認めてもらったりして、所領確保に苦心している。
〜針畑荘と年貢〜
宮前坊に残る抜塚の伝説は、朽木氏入部に際して行われたこの谷の旧支配層坊村少将などの抵
抗をしのばせるが、当時この地域にどのような村落生活の展開があったかは詳らかでない。「針畑
文書」によると、荘内の針畑9か村が山門(延暦寺)西塔領に属するようになって、それを区別する
ために針畑荘と呼ぶようになったという。やや時代が下降するが、天文23年(1554)の「針畑田地
之事」の文面には、それが上白屋・今井・田中・山本・小入・上中寄・下中寄・下白屋・くほう・滝権寺・
下司・公文・能家上・能家下の14名に分かれ、領主がその名田ごとに年貢を収納したらしい。年貢
は、米・大豆その他山方年貢として四二寸榑(しにすくれ=4寸と2寸角の材木)があったらしい。そ
の四二寸榑をめぐり、永仁5年(1297)に地頭代と雑掌間に争いが起こり、ついに地頭代が解任さ
れる事件があったので、その結果針畑荘では,さらに新たな年貢の負担を申し渡されたりしたことも
あった。
また、この荘の南の葛川荘や、西南の山城久多荘との間で、争いが絶えなかった(葛川明王院文
書)。そのほとんどは山論である。しかし、互いに荘園の区域をこえて共通するものをもち、行き来も
ずいぶんあったと思われる。鎌倉末期に、朽木荘に葛川の上分田がつくられるとか、朽木荘の田地
が葛川明王院に寄進されるとか、あるいは南北朝の頃になると、地頭の朽木氏が明王院へ奉った
戦功祈願の願文があったりする。
〜山の生活〜
朽木・葛川の谷筋には、古くから山にヤマノクチと呼ぶ山の神、川にシコブチと呼ぶ筏神の土俗の
信仰が伝えられてきた。新来の地頭朽木氏も、それらを無視することはできず、宮前坊の旧朽木大
宮権現(邇々桙神社)・野尻の旧山神社(山神神社)を朽木谷の総産土神と崇めたり、葛川の地主
神社の祭礼に何かにつけて関与した。
この頃、京都〜小浜間の交通はようやく開けた。寛元元年(1243)曹洞宗の開祖道元が、北陸下
向の途次立ち寄り、上柏指月谷が宇治興聖寺の地形に似たところから、領主の信綱に勧めてここ
に禅林を創立させたのが、現在の岩瀬興聖寺の起源であるとされている。これが近江最初の禅林
で、代々朽木氏の菩提所となった。以後、朽木村の天台系寺院のほとんどが禅宗に改宗すること
になった。今日朽木領内53か寺のうち、禅宗が37か寺を数える。また、雲洞谷日吉神社の「大般
若経」奥書には、嘉慶2年(元中5〈1388〉)京都の信光寺にあったものを、応永3年(1396)この
地区がもらい受け、さらに康正3年(1457)になって神社に奉納したことを記している。
〜将軍避難所〜
長禄2年(1458)になると、足利義政が朽木貞高に朽木荘を安堵した。それはその翌々年に室町
幕府の御料所として、毎年100貫文を貢納させる下心があったからともとれる。以来、朽木氏は応
仁・文明の戦乱の打ち続く中で、ひたすら幕府に密着して終始した感があった。まもなく、足利将軍
はたびたびこの谷筋に難を避けることになる。享禄元年(1528)12代将軍義晴は管領細川氏の
失政によって孤立すると、はじめ六角氏の援助を求めて近江に来たが、その分流の縁故から朽木
稙網(たねつな)を頼って朽木谷に入り、同4年(1531)までここで政務を見た。朽木氏は居館を朽
木陣屋内に設けて仕えた。さらに13代将軍義藤(義輝)も、三好党に追われて坂本・穴太・堅田を
転々としたが、三好党と六角氏が戦うことになると、天文12年(1543)と同22年〜永禄元年(15
58)の5年間を、2度にわたって難を避けるために滞在している。永禄11年(1568)織田信長が
近江に侵入して六角氏は滅びるが、その分流でありながら朽木氏はこの時も独自の行動をとって、
その所領を失うことがなかった。元亀元年(1570)信長が若狭からこの朽木谷へ入って来た際も
巧みに対応することによって、その支配に従った。このようにして,天正18年(1590)の豊臣秀吉
の天下になると、高島都の蔵入地900石の代官となり、いわゆる太閤検地の奉行などを勤めたり
したのである。
〜鯖の道〜
谷筋の街道には関所が置かれ、高島関といわれたようであるが、今日その場所は明らかでない。
長享3年(1489)幕府は朽木氏を関の代官に任じたが、なぜか朽木氏は断った。しかし,朽木氏
も京都へ出る場合は、関を通過しなければならなかった.延徳2年(1490)・明応6年(1497)・
永正3年(1506)などに、朽木氏の被官人500・馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合、その通
過に差し障りがないようにと、幕府が各関所へ命じている。なお、この街道の往来について、「朽木
文書」の「庄下用帳」は京都へ上京する商人が通るとか、車54台に積んで貝鮑が京へ行くとかいっ
たことまで記している。この街道が俗に「鯖の道」と呼ばれたのは、若狭からの海産物が、盛んに運
ばれた結果であろう。
〜惣村と支配〜
中世末期になると、朽木荘には荒川・麻生・市・村井・椋川・地子原・雲洞谷・栃生といった多くの
惣村が成立した.これらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったが、その下に
は中間と呼ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた。16世紀の初め頃の荘内各惣の10〜4
0軒の家から棟別銭を取り立てた。時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした。永正元年(15
04)に小川惣・平良惣が、椋川惣・荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの祈誓文などが残って
いる。朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが、一方「奥畑炭かま銭」「商人銭」「馬宿銭」と
いったものを課しながら、林業・商業・交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めていった。
しかし、針畑住民などが、能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた。
<近世>
〜谷朽木〜
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に、朽木氏は途中から徳川方に味方をし、その結果さらにこの
谷筋支配を保ち得た。慶長6年(1601)朽木元綱が領有した範囲は、もとの朽木荘29か村をは
じめとして、針畑荘・三谷荘・本荘・広瀬荘・音羽荘・山城久多荘を含めると9,595石であった。
翌7年、村ごとの検地が行われた。この朽木氏を俗に「谷朽木」とも呼んだのは、居所を朽木谷の
野尻に定めたからであった。家の格式は表向き1万右に満たなかったため、交代寄合に位置づけ
られ、その所領も朽木知行所と呼ばれた。しかし、実質は大名に準じて江戸にも参勤交代するこ
とになっていた。そしてその家筋は、いずれも旗本として明治維新に至る。
〜村数と年貢〜
江戸期を通じて朽木知行所内の村高には、なにほどの変化もなかった。あっても100石とか、1
00石以下が大部分を占めたのは、もともと田畑が乏しい地理的条件によったからであろう。この
時代の村数を「朽木文書」によってみると、旧朽木荘(市場・岩神・穴ケ瀬・宮前・坊・野尻・上柏・
下柏・古川・大野・村井・栃生・椋川・麻生・横谷・轆轤・地子原・雲洞谷・平良・小川・荒川)21か
村、旧針畑荘(能家・桑原・古屋・中牧・小林・生杉・庄屋・小入谷)8か村、旧三谷荘(角川・保坂・
途中谷・山中・大杉・轆轤・天増川・梨ノ木・椋川・自在坊・六ツ石・水谷・追分)13か村で、合計
42か村になる。
これらの村々は平地の村とは違い山林関係の生業の割合が強く、この傾向は特に麻生・地子原・
雲洞谷から西の村々で大きいものがあった。年貢は村高の40〜50%に及んだが、自然条件に
災いされることもあったから、川成などで差し引かれることが多かった。その他山方年貢として四
二寸米・川狩米・茶年貢・油草代米・薪代米・みそ米代などがあった。
〜林業と木地屋〜
中世から引き続き、何といってもこの地域を特徴づけてきたのは林業であった。しかし、安曇川を
下る筏は琵琶湖への出口の南船木港(安曇川町)に材木座が置かれ、木材を特権的に取り扱い、
運上・座役銀などの租税・手数料に当たるものを取り立てた。炭焼にも市場・岩神の問屋支配が
あり、これを、仲介しないと炭の売り立ては堅く禁じられていた。
なお、轆轤周辺は麻生木地山ともいった。かなり古くから轆轤師(のちの木地屋)が集結して、朽
木氏の庇護を受けながら椀・盆など木器の木地を生産した。中世〜近世を通じての経歴は、著名
な木地屋根元地と伝承される近江小椋谷の「蛭谷氏子狩帳」「大岩助左衛門日記」などに記録を
とどめている。岩神には数軒の塗師屋もあったが、そこで彼らの木地に漆工したのである。朽木盆
はその製品の中で、黒地に朱で十六菊を描いたものが、特に*「菊盆」*と呼ばれて著聞した。
ついでに・・・
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=685 興聖寺(足利庭園)
安曇川(あどがわ)上流にあります。
鎌倉時代初期、宋から帰国した曹洞宗の開祖、道元禅師(げんどうぜんし)が朽木の里を
訪れたとき、付近の風光明媚な様子が宇治の輿聖寺に酷似していると大変感激して、領
主の朽木氏にこの地に一寺の創建を勧めたのが始まりといわれています。
林のように木々が茂っている中に寺が立っており、境内からは安曇川や上山などの広大
で雄大な景色が眺められます。
閑静な境内には本殿のほか、庫裏(くり)や鐘楼などが立ち並びます。本尊の木造釈迦
如来坐像は、平安時代中期の最澄の名作と伝えられる古式の優美な仏像です。
境内には国の名勝に指定されている美しい庭園、足利庭園があります。
<重文>木造釈迦如来坐像
<足利庭園>
興聖寺(こうしょうじ)の境内にあり、国の名勝指定を受けている庭園です。
もともと、16世紀の半ば、あいつぐ武将たちの反乱に追われた室町幕府の第12代将軍足
利義晴、そして第13代義輝(よしてる)が、朽木氏を頼って数年間滞在した居館の庭園で
す。秀隣寺は、のちに他の地に移され、江戸時代に朽木氏の菩提寺である輿聖寺がこの
地に移されて、現在にいたっています。
作庭は、朽木一族を始め、近隣の大名の協力を得て、将軍を慰めるという目的で意匠を尽
くして作られたといわれています。安曇川(あどがわ)の清流と比良(ひら)山系を借景とし
て、西側の築山に石を利用した滝をしつらえ、屈曲した汀線を持った池に仕上げています。
池には、2つの鶴亀島を置き、楠の化石の石橋が対岸の出島に架けられています。細川
高国(ほそかわたかくに)の代表作であり、旧秀隣寺庭園とも呼ばれます。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 21:00:18
やっぱり独力では厳しかったのね・・
487 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 01:42:15
,. -─- 、
. / ___丶
∠. /´ ,.- 、r‐、`|
. l | | ー | lー | | 朽木ネタでござるか・・・ニンニン。
l. |@`ー' oー' l
(\ヽヽ 〜〜〜〜ゝ
. \.ゞ,>nn‐r=<
( / `^^´`ヽハ)
/`! ー--=≦-‐1
>>487 いや、ここは別に忍者スレってわけでもないんだが……
489 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 03:56:08
>>486 所詮、山間の一豪族だし。
私財だけじゃ足らないでしょ。
490 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 00:52:59
蒼天録では六角陣営だったね。
足利陣営、六角陣営果たしてどっちが整合性があるのだか・・・
>>490 六角氏から独立しながらも友好度アップさせて、対岸から見守るのがいい。
492 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 19:12:12
>>491 他国の軍勢に抵抗しない代わりに、通行料とか取れたら儲かりそうね。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 08:22:15
494 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 04:19:33
そうか・・・朽木村ってもうないのか・・・
495 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 16:49:10
次スレでは雑賀・根来衆も加えて欲すぃ…
497 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 15:54:47
>>494 確か前スレで朽木ネタが炸裂してた頃にちょうど合併の話が出ていたような気がする。
498 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 17:10:00
>>493 そうだね。
甲賀衆と朽木を繋ぐのはやはり六角を置いて他にはない。
>>498 織田の勢力が迫るとサッサと寝返ったけどね。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 21:18:18
>>499 鈎の陣での奮戦とかもう少し評価してよ・・・
501 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 02:27:27
>>500 甲賀衆が足利義尚を討ち取ったっていうのは本当なの?
>>501 義尚の死因って肝臓の病じゃなかったか?
確かに鈎の陣で負傷してるけど。
それに甲賀衆の攻撃で夜陰に紛れてのゲリラ戦だろ?
そんな戦法は地の利を知り尽くした土豪ならば誰でもが採り得ると思うし、
打ち破った相手が幕府軍だったというだけで、そんなに喧伝されるような
ことかいな?
504 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 05:43:52
>>498 伊賀は時に足利領(蒼天録以降)、朽木もまた時に足利領(嵐世記)という繋がりは無視か?
505 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 16:22:28
>>504 信長に観音寺城を追われた後も、六角承禎は近江・伊賀国境付近に潜伏して
ゲリラ戦を指導していたからな。
ま、そういう繋がり。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:11:22
>>505 義治は武田家を頼って甲斐に落ち延びたわけだが・・・両家ってどういう繋がり?
507 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 00:08:17
うんこ
509 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 00:33:35
>>503 伊勢で信長軍を撃破した伊賀・甲賀連合軍も戦術的に特に見るべきものは何も無かったような・・・
忍術はまさに「忍」の業なので一般人には理解すら出来ない。
従って記録もされない。
そんなところでしょうね。
>>509 地の利を生かしてのゲリラ戦で、主武器は弓矢……だったはず。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 04:36:40
>>510 以前に島原の乱に従軍した甲賀衆の話があったけど、実際にはそれほどの戦力にはなってない。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 07:44:28
>>510 じゃあ、俺たちが知る由もないじゃないか(w
>>513 万川集海によって我々も知る事が出来るのですよ。
515 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 06:35:28
516 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 16:30:06
>>514 御上に献上して糊口をしのぐ貴重なアイテム。
517 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 02:54:31
のぶやぼの家宝に出てくる?
518 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 02:03:19
>>517 出てくるとすれば効果は「混乱」あたりか?
>>518 甲賀郷士の献上アイテムだけに「哀願」でも良さそうなものだが。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 18:24:05
521 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:14:42
>>511 しかも敗走する敵を追撃する戦いだったはず。
522 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 05:16:30
>>502 酒淫に耽りすぎてあぼ〜ん。
ある意味、ねらー的には羨ましい最期だったかもw
523 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 12:42:07
手淫に耽る香具師は多そうだが・・・
524 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 15:00:51
525 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 23:40:41
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526 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 01:57:28
527 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 00:17:45
>>504 足利家の領地じゃないよね、伊賀は。
御料所があった朽木谷はまだしも。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 03:34:52
>>527 義昭の逃亡経路にあったような気がするが?
529 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 01:34:42
>>528 大名家の直接支配が及ばない地域ってのがあるからね。
伊賀にせよ甲賀にせよ、そういう地域だったわけでしょ。
>>529 でも一応、守護はいたのだから・・・力はなくとも。
531 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 11:15:12
伊賀守護ネタかいな(w
533 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 13:15:58
のぶやぼに出てくる仁木義親って誰?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 17:55:52
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 19:45:08
>>536 義視と間違ってねえか?とか思うのだが。
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 22:29:33
足利義昭の近習に仁木伊賀守義政という人物がいるね。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 23:57:07
>>539 義昭が朝倉氏を頼って越前入りした際、供奉した面々の中に「仁木伊賀守」の名が見える。
また、義昭が真木嶋に籠城した際(1573年)にも、同じく「仁木伊賀守」の名がある。
したがって仁木伊賀守は終始、義昭に仕えていたので、仮に義昭の下を離れたとしても真木嶋
落城後ということになる。
一方、友梅は信長の後押しを受けて1571年に伊賀に入国、1578年に国人衆によって追放され
るまでは基本的に在国していたようなので、同一人物ではあり得ない。
とすると、結論的に「仁木伊賀守≠仁木友梅」ということになる。
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 07:27:45
仁木義政については系図上不祥な点が多いけど、「仁木殿」「佐々木左馬」と呼ばれた
佐々木義昌と同一人物とされているね。
義昌は佐々木六角氏綱の子と言われていて、河端氏の始祖ともいう。
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 14:28:21
>>542 つーか伊賀に入国した時点で70過ぎのヨボヨボ。
第三次天正伊賀の乱の時には80過ぎのご長寿様だよ。
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 07:23:13
仁木長政はどうなる?
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 10:52:16
>>544 義視の伊賀入国以前から小なりと言えども伊賀国内に勢力を持っていたわけだろ?>長政
>>545 伊賀って戦国期には六角派、北畠派、仁木派、独立派で割拠してたからね。
国内に少なからず勢力を持っていたんだろうね。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 22:29:19
>>546 となると、その4派のうちいずれかが主導権を握るよりも、4派が揃って傀儡を担いだ方が上策とも言える。
あくまで合議制で話が進めば均衡は保たれるわけで。
しかしまあ、反信長という点ではほぼ一致してたな。
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 18:44:39
>>548 しかし・・・その信長の後押しを受けた仁木友梅を入国させたのは何故?
という疑問にもぶち当たる。
,. -─- 、
. / ___丶
∠. /´ ,.- 、r‐、`|
. l | | ー | lー | | 何故でござるか・・・ニンニン。
l. |@`ー' oー' l
(\ヽヽ 〜〜〜〜ゝ
. \.ゞ,>nn‐r=<
( / `^^´`ヽハ)
/`! ー--=≦-‐1
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 10:21:52
>>549 惣国一揆が結成される前の伊賀国内の事情というのもあるような・・・
最初から挙国一致で反信長ということもないだろうに。
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 01:10:09
>>551 惣国一揆自体が信長対策だもの……大丈夫?
なんだかんだ言って外の奴に支配されるのは
嫌だったのね。
そう言えば大和は信長に従ってはいても支配を受けたという
意識は無かったようで、1580年に信長が指出(石高の自己申告)を
命じただけで反乱になったなw
自己申告だけでも駄目なのか・・・・
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 08:36:23
>>553 なのに友梅は入国できたんだな、これが。
555 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 21:50:07
555
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 09:19:33
>>554 惣国一揆の12人の国人衆たちの合議制を前提にした傀儡守護、ということでしょ。
それならば4派の均衡は保たれることになる。
557 :
無名武将@お腹せっぷく:皇紀2665/04/01(金) 00:25:31
>>556 事を構える準備はしておいても、極力戦闘は回避したいからね。
>>557 義視入国の頃は、直接信長に抗戦する必要がなかったとも受け取れるけどね。
559 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 17:03:24
森田浄雲
560 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 23:26:36
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 15:17:20
>>512 江戸期は郷士を名乗るヒモみたいな存在だったしな。
武士=非農業層というのが確定したために
豪農だか武士だかわかんない土着の連中が
郷士になっただけで・・・・
563 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 16:26:46
>>561 金の無心に出向く際の手土産が「万川集海」だしな。
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 03:25:28
>>562 多羅尾家などは代官職にありついてるよな。
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 13:50:05
>>564 伊賀越えの功績ですな。
しかし、実際に仕えたのは倅じゃなかった?
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 18:30:10
足利義尚を討ち取ったのは甲賀衆?
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 01:43:14
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 16:08:04
>>567 女淫に耽ってるところを甲賀衆に襲われて負傷
↓
救援に駆けつけた幕府軍により窮地を脱する
↓
その際の傷が原因で陣没
>>568 しかも、義尚の荒淫ぶりに諸将の戦意が落ち、次々と戦場から引き上げちゃっていたわけでしょ?
真面目に戦っていたのは富樫政親軍くらいだったとか。
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 22:29:41
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 16:01:44
,. -─- 、
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∠. /´ ,.- 、r‐、`|
. l | | ー | lー | | 投票でござるか・・・ニンニン。
l. |@`ー' oー' l
(\ヽヽ 〜〜〜〜ゝ
. \.ゞ,>nn‐r=<
( / `^^´`ヽハ)
/`! ー--=≦-‐1
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 22:28:26
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 00:01:29
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 02:41:50
age
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 15:15:26
578 :
577:2005/04/18(月) 04:02:22
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 00:54:59
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 17:45:31
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tarao_k.html 多羅尾氏
-----------------------------------------------------------------------------
牡 丹
(藤原北家近衛氏流)
近江国甲賀郡多羅尾より起こった。この地は近衛家領であったので、その系をうけるという。
すなわち、近衛経久の男左近将監師俊が高山を称し、のち、甲賀郡信楽庄を領した。その子光教は
多羅尾四郎次郎を称したというが、もとより信じられない。家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、
左京進・和泉守などを称し、永禄十一年に死んだとある。
光吉の子が光俊で、織田信長に属して甲賀郡信楽郡の小川に住した。
天正十年信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。これに先だって、徳川家
康は信長に招かれ安土で響応を受けて、変の時は和泉国を遊覧しているところだった。家康は信長
死去のことを聞くと、ただちに光秀を征伐せんとして京師に馬を進めんとした。しかし、家臣は寡兵の
故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、
海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て
漸く近江路へと落ちていった。
ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、家康とともに和泉方面にあったが、家康主
従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いわば、家康はそれほどに危険な状況に身をおいて
いたのである。
長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広
は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎かえ入れ、このことを、
父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居
宅に家康主従を迎え入れた。
以後、光俊は一族をはじめ、甲賀の士を率いて家康を護衛し、嗣子光太、三男光雅、山口光広らに
従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて伊賀路を誘導し、伊勢国白子の浜まで、家康主
従を無事送り届けることに功をなした。
581 :
580:2005/04/19(火) 17:46:25
その後、光俊は豊臣秀吉に仕え、関白秀次に属した。これが災いして秀次が秀吉によって没落する
と、光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目にあい、光俊は信楽に蟄居した。このとき、
光太も父と行動をともにしている。
慶長元年、光太は家康に召し出されて、近江国甲賀郡のうちに三千八百石の采地を賜った。同五年、
上杉景勝征伐にも随行、下野国小山において、采地の御判物を下賜されている。九月、関ヶ原の合
戦に参加し、その後代官職を務め、大坂両度の陣にも出陣した。
以後、子孫は徳川旗本家として存続、明治に至った。
多羅尾家の家紋は、近衛家ゆかりの「牡丹」紋であった。そのほか、「藤巴」「牡丹菱」なども用いて
いたことが知られている。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 23:24:31
タラちゃんって結構偉かったんですね
583 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 15:20:43
イクラちゃん
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 17:34:14
甲賀衆って望月家もそうだけど、秀吉時代に冷遇されてる場合が多いね。
まあ、秀吉の忍び嫌いというのもあったようだけど。
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 03:16:30
しかし、秀次事件って諸侯にとってもエラいとばっちりだったのね。。。
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 14:18:53
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 00:47:24
>>584 忍び嫌いとかそういう問題じゃ有り得ないだろ・・・・
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 02:54:17
>>587 甲賀衆にはかなりつらい当たり方してるけどな。
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 23:12:42
足利義稙を襲撃したのも甲賀衆???
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 06:04:37
>>590 と言われてるね。
ちなみにこの円珍、時宗の遊行僧だったようだけど、甲賀との繋がりは「?」のようだね。
夜討ちの名手とされていたけど、義稙に8ヶ所ほど傷を負わせたものの、いずれも浅手で
命を奪うことはできなかったそうな。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/25(月) 01:36:41
>>591 当時近江には義澄がいたわけで、そこから甲賀衆を経由して
「仕事」を発注したのかな?
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/26(火) 22:24:52
>>591 暗殺者の素性がそう簡単に明らかになってはかえって問題では?
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 03:56:49
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 11:09:50
>>591 陣僧と呼ばれる人たちは時宗の僧侶が多かったんでしょ?
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 20:35:48
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/03(火) 15:51:41
>>596 死の間際に念仏を授け、往生させる仕事を受け持ったのが陣僧。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/03(火) 23:22:35
女忍者ナンバーワンが決まる 甲賀の里「忍術村」
女忍者ナンバーワンを決める「ミスくの一オーディション」が3日、滋賀県甲賀市甲賀町隠岐の
甲賀の里「忍術村」であり、忍者の衣装を身につけた女性の奮闘ぶりが観客をわかせた。
今年で21回目。全国から110人の応募があり、書類審査を通過した10人が出場した。
殺陣などの後、手裏剣投げに挑戦し、約5メートル離れた的に向かって投げた。当たったのは
1人だけだったが、投げる度に拍手と歓声があがった。
審査の結果、ミスくの一には東京都江戸川区の会社員白崎あゆみさん(23)が選ばれた。
白崎さんは「忍者はあこがれ。わたしより俊敏な人はたくさんいたのに、本当にびっくりです」
と喜んでいた。(京都新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050503-00000029-kyt-l25
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 02:30:58
>>598 江戸川区の会社員って……現地に女忍者はおらんのか!!!!!
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 09:48:45
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 10:29:01
忍者はいないって言ってるアホ共死ね!
クノイチたんは存在するはずだぁぁぁぁぁぁ
くのいちはいるよ・・・・
あなたの心の中に・・・・
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 00:24:04
>>602 俺らが思い描いてるものとはかけ離れてるよって話じゃねえの?
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 01:45:08
伊賀の朱絹と甲賀の陽炎、抱きたいのはどっち?
山田風太郎について語れるスレはないの?
やっぱお吟だね。
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 18:55:11
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 15:55:17
>>605 以前、ここで展開したけどすぐに排撃された記憶がある
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 15:35:33
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/16(月) 07:32:36
>>610 スケベな忍術ってありゃ忍術よりむしろ妖術だろな
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/17(火) 23:33:43
>>611 マムコから泡出したりするってのもな・・・ある意味、萎え。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 00:16:56
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 16:08:33
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/24(火) 12:15:56
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 02:40:19
>>591 身辺警護の連中は何やってたんだ?
義尚の場合と言い、ちょっと甘すぎやしないか?
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/27(金) 00:49:49
>>617 ここは国人衆だからね。
ちゃんと住み分けすればいいこと。
しかし忍者スレでは単なる国人領主と「いわゆる忍者」の
区別も無いようで・・・
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/27(金) 11:56:11
>>616 まあ、当時は流浪の将軍状態だったからね。
厳重な警戒と言っても自ずと限界があるように思うが。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/28(土) 08:01:42
和田サンだろ
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/29(日) 01:35:05
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/29(日) 20:39:18
>>622 ゲームと小説に浸り過ぎだろうな。そもそも忍者(ry
忍者COPサイゾウ
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 01:32:07
服部才蔵
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 23:31:08
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/02(木) 23:41:31
628 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/06(月) 12:11:04
>>625 別名、霧隠れ才蔵じゃなかったか?
時代考証的は大阪の陣のあたりだったよな
真田十勇士?
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/07(火) 12:46:16
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 00:46:53
三好は?
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 11:33:51
眞田十勇士は個人的にかなり萌える。
私的だからスルー汁
入道の片割れは割といろんな作品で女性化されてるよな
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 01:38:54
山中氏、伴氏、美濃部氏(柏木三家)
黒川氏、頓宮氏、大野氏、岩室氏、芥川氏、隠岐氏、佐治氏、神保氏、大河原氏(北山九家)
大原氏、和田氏、上野氏、高峰氏、池田氏、多喜氏(南山六家)
鵜飼氏、内貴氏、服部氏(荘内三家)
小泉氏、倉治氏、夏見氏、杉谷氏、針氏、小川氏、大久保氏、上田氏、野田氏、
岩根氏、新城氏、青木氏、宮島氏、杉山氏、葛城氏、三雲氏、望月氏、牧村氏、
八田氏、高野氏、上山氏、高山氏、守田氏、嶬峨氏、鳥居氏、平子氏、多羅尾氏、
土山氏、山上氏、饗庭氏、長野氏、中山氏
ゲームなんかで出てくるのは、武将じゃ山中、和田、三雲
忍者衆だと鵜飼、杉谷、タラ尾といったところか
現在、地名になってるとなぜか地元にその姓の家がないのはなぜだろう
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 18:54:36
>>635 和田、三雲・・・キャラとしては悪くないな。
637 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 00:15:55
蒼天では朽木谷館の主になってるな、三雲。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 15:46:59
>>637 朽木を独立させる時に六角さんにお返ししてるけどな、俺は。
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 03:25:17
>>638 和田サンがいるといないとではエラい違ってこないか?
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 02:50:02
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 18:27:22
>>635 多羅尾、伴は要人で登場するね。
いざ登用してみると大したことないわけだが。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/18(土) 23:42:46
>>641 特技は大抵、混乱+もうひとつだったりするね。
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 05:20:21
多羅尾光俊
兵種 : 槍 弓
特技 : 引抜 混乱
能力 : 政治34 統率35 知略49 野望44
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 02:28:15
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 03:13:45
>>643 多羅尾家も秀吉にエライ目に遭わされてるよな。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 17:28:09
>>634 「為三」は実在武将の名前だけ拝借。清海入道のほう。
「三好 隆清院」でぐぐれば、清海の正体(?)は良く分かる。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 22:03:26
清海が女で隆清院だとすればこいつは生き残ってる
>>646 確か猿飛佐助と海野六郎のみだったと思う。
650 :
649:2005/06/24(金) 14:16:21
すまん、さっきのは647へのレスな。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 15:18:59
禰津はどうした、禰津は
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 16:45:27
由利はどうした、由利は
653 :
646:2005/06/27(月) 07:31:52
穴山はどうした、穴山は
って、穴山小助とその娘は、伊達家の記録にも「父娘二代
にわたる影武者」として登場するくらいだし。
このへんがロマンのネタなんやろね。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 19:03:23
海野はどうした、海野は
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/30(木) 03:36:09
(´・ω・`) 知らんがな
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 23:07:15
>>653 あれ?討ち死にしたんじゃないか?穴山は
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 22:38:00
.l''',! .r-、 .,、=@ .l''',! ./ー、,,,_ .r-,
.广''''″.¨゙゙! .,,,丿 {,,、、, .v-l゙ .!-r/i、 广''''″.¨゙゙! .!、, l゙ | .} ,,
.゙l---, ぃ" .| .| .| _,,{゙l .ヽ ヽ--i、 .ぃ" .,,,,,,,,二i" .,..-" .ヽl、゙l
r---┘.―'i、 "',! ./ニニニ、  ̄| .L,,,,,゙l,,i´ .r---┘.―'i、 .| :,! | .l .|、
|__ ._,,,,} ノ .| | l゙ ./ ゙'i、 .|__ ._,,,,} "''''ツ ./ "''ト .|゙i、 ||、゙l
.,―-" | .ノ .l゙ `"゙゙゙'" ,i´,〕゙゙^'i、 | .,―-" | ../ `i、 l゙ ,l゙ | |.゙l.,ノ
.l゙ .,,,,,, .\ .l゙ .l゙ ,, .l゙ .|.} | | .| / .,,,,,, .\ ../ .,.i、 | l゙ .l゙ .| .,! .゛
| し,,l゙ .、 ゙,! ,l゙ ,l゙.i".゙゙'''''"! ゙l .″.|.,!'''゛ l゙ | .l゙,,,,l゙ .、 ゙,! ,/`/ .| ."'゙゙l ./ .l゙r┘,l゙
.゙l, .,/`∪ ゙〃 .`ー--丿 .゙'--ヽ{,,,./ .゙l,, _/`∪ .゙l.,i´ .!,_,,,/ .l゙../ | .,i´
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 19:41:53
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 23:38:39
>>656 影武者として突撃して討ち死にしなかったか?
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 23:47:30
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 08:38:12
森田浄雲
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 18:40:13
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 18:44:07
森田浄雲
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 19:39:55
ツマンネ
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 03:51:57
>>665 いつの間にやら服部保長の顔グラが滝野になってるね。
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 03:59:54
そ、
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 17:37:47
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 22:57:58
>>671 服部違いでは?
ちなみに服部康成をお忘れなきよう。
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 04:01:18
>>672 当たらずも遠からず・・・・一門なのか?
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 00:19:03
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 00:32:20
永禄3年1560 5月、桶狭間の戦いが起こる。このとき、二の江(荷之上)一帯(現:弥富町)を支配してい
た土豪の服部左京助(友貞)が今川方として参加するが、義元の討ち死により自領へ引き返している
永禄4年1561 服部友貞、長島城代になる。戸田庄(現:名古屋市)の石橋義忠、信長への叛逆が発覚し、
服部友貞を頼って長島へ落ち延びる。
永禄11年1568 服部友貞、信長の謀略にかかり、悲運の最期を遂げる。
友貞の留守中、信長は弟の信興を大将として、滝川一益の軍に服部党を攻撃させる。
信興、鰍浦城(現:弥富町)、小木江城(現:立田村森川)を築き、服部党、長島願証寺に対する牙城とする。
(長島一向一揆 略年表
ttp://hp1.cyberstation.ne.jp/histry/nagashimanenpyou.html)
友貞は自害の地、員弁郡藤原町米野山蔭涼庵に葬られた。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 00:40:18
服部友貞は伊勢長島城代。
伊勢服部氏は南朝方の伊賀平内左衛門の後裔服部伊賀守宗純を祖する。
後醍醐天皇の孫・尹良親王、曾孫・良王君を奉した吉野十一党のうち、七苗字の武将の一人であった。
永亨七年(1435)十二月、四家七名字の武将は良王君に従い、尾張国津島に移り住み、服部は津島の
南方市江島に居を定めた(浪合記)。
その後服部氏は斯波氏に属したが、おりしも織田家が増長して斯波氏を討ったため、服部氏はこれに
反目、長島におこった一揆に加担、長島城代として迎えられた。結局長島一揆は織田軍のため殲滅し
たが、浪人となった服部氏らは荒地となった旧領を再開発した。
伊賀流の家康への貢献もあり、江戸時代には荷之江の服部家は帯刀御免の大庄屋格に復帰して現
在に至る。 上坂手村(長島町)の名主服部家は津島の地主服部采女正を祖とする(長島細布)。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 03:24:54
お、おい、本願寺スレでやらんか!
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 01:17:12
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 22:33:50
のぶやぼで長島城って登場しないね
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 00:00:35
>>676 ということは友貞の子孫は命脈を保つことができたわけね。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 13:34:25
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 17:17:26
資忠(監物)は、家康の命を受けて鵜殿長照の上郷城攻略に参加、長照を討ち、長照の子二人を
生け捕ったとされている。
その後、資忠信長に仕えていたが、信長の横死後、そのまま秀吉に仕えることになる。
小牧・長久手の役で家康に与した根来・雑賀一揆鎮圧に動員されたが、
その際、水攻め用の堤の普請に不備があったと難癖をつけられ、領地没収の憂き目に遭った。
資忠はやむなく相模に移り、資忠の子・景近は田堵野に住することになった。
後に資忠の子孫である大原数馬が寛政年間に忍術復興を幕府に嘆願している。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 18:36:10
>>683 秀吉は甲賀衆とその旧領を水口城主の下で一元的に管理しようとしたよね。
中村一氏、継いで増田長盛、長束正家が水口城を支配したけど、家康に召し抱えられた
資忠の甥・景春は長束による家康暗殺計画を察知し、家康に通報することで積年の遺恨
を晴らした。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 20:51:23
686 :
破壊王 橋本真也 ◆fTS1qmpsos :2005/07/24(日) 20:54:02
740 :無名武将@お腹せっぷく :2005/07/24(日) 20:25:33
AV男優の永井尚志自殺未遂
AV男優が自殺未遂! 山梨県警富士吉田署に20日午前、警視庁から「男性が七輪自殺を企てている。携帯電話の位置情報から富士山麓にいる可能性がある」として捜索依頼があった。
同署は署員40人を動員して捜索したところ、午後2時ごろ、富士吉田市内のコンビニ駐車場でレンタカーを発見。署員が不明男性であることを確認したうえで、睡眠薬を飲んでいる疑いがあるため、病院へ運んだ。
富士吉田署によると、男性はAV男優の永井尚志さん(34)。
永井さんは19日夜に実家の母親に自殺をほのめかす電話をかけ、心配した母親が警視庁に保護を求めていた。レンタカー内に七輪はなかった。永井さんは平成12年12月にAVデビュー。現在発売中の写真週刊誌に、
プロ野球ソフトバンクホークスの孫正義との交際のもつれから自殺を図ったが、一命を取りとめたと報じられている。
AV男優 永井尚志ならいます
741 :破壊王 橋本真也 ◆fTS1qmpsos :2005/07/24(日) 20:47:04
おっしこらっ永井〜永井〜永井〜
742 :破壊王 橋本真也 ◆fTS1qmpsos :2005/07/24(日) 20:49:15
祝★AV男優10周年記念おめでとう★
>>685 所詮、お仕着せのにわか領主。
誇り高き甲賀衆がそう簡単に従うわけがない。
しかも、豊臣政権自体に恨みつらみもあるのだし。
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 00:50:15
>>687 苦境の時にあえて手を差し伸べる家康の老獪さ・・・
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 12:24:44
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 19:54:13
>>684 少なくとも豊臣家に対しては恩義もへったくれもないからな。
そりゃ、恩義のある家康を利するのは当然。
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 23:27:56
しかし、伊賀越えもフィクションらしいね。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 00:03:16
>>691 おいおい、じゃあ、どうやって堺から三河まで逃げ帰ったんだ?
あと100年くらいしたら半蔵も忍者も存在しなかった事にされてそうだなw
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 23:22:04
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 00:56:16
昔、わらっていいともに半蔵正成の子孫でてたよ。
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:53:04
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 18:08:01
〃'´⌒` ヽ これを見た貴方は、童貞を卒業することができるのじゃー
〈((リノ )))i iヽ これをそのまま5分以内に他のスレにコピペすれば、運命の人に出会えるのじゃー
l从・∀・ノ!リ人 貼らなかったり、虐待したりしたら、結婚した相手との間に
⊂)丕⊂))ヽ) 奇形児が生まれるのじゃー。
〈/_|j_ゝ
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 00:02:53
え?俺風魔忍者の子孫だけど
8代前からは農民やってたけど
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 03:11:43
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 20:51:25
風魔 小太郎 ふうま こたろう
戦国時代、北条早雲の頃から陰で暗躍し、支えてきた乱破。
初代は、飯母呂石念の次男の小二郎。十弥於士(トミオジ)一族の長女であるトコウを妻とした。
筑波山の南、風返峠に棲んで風魔小二郎と名乗った。後に風魔一族は足柄山に移り棲み、相州乱破(ラッパ)と
称された首領であり、後北条氏に代々仕えている。代々、風魔小太郎と名乗るが、いつから小ニ郎から小太郎と
名乗るようになったのか定かではない。「北条五代記」の巻之第九に「風魔は乱破の大将なり」とあり、戦場で
攪乱工作や諜報などをする乱破集団だった事が見受けられる。また、同じく巻之第九の文中に風魔小太郎の
風貌を求めると「それ、風魔は二百人の中にあって、隠れない大男、丈七尺二寸(約218cm)、手足の筋骨は荒々しく
ここかしこにむら有て、眼は逆さまに裂け、黒髭で、口は両脇へ広く裂け牙を四本外へ出している。頭は福禄寿に似て
鼻が高い。声を高く出せば五十町(五・五km)に聞こえ、低く出せば、しわがれた声でかすかである。」とある。
まるで鬼のような化け物としか想像できないが、これは風魔の正体を隠すための作為だと思われる。
また、北条は五代まで続いたため、恐らく風魔小太郎は同名数代を数えると思われる。
北条滅亡後
北条家が豊臣秀吉によって滅亡された後に風魔党は江戸へ出る。
徳川家康が築きつつあった江戸で風魔党は盗賊となり、敵対していた徳川の地で悪行の限りを尽くしたといわれる。
徳川家では懸賞金をかけて取り押さえるのに必死になっていた。同じ頃、甲州素波残党の高坂甚内も江戸で
盗賊をしており、風魔小太郎に遺恨のある高坂甚内は駿河の浮ヶ島の恨みをかえさんとばかりに風魔の隠れ家を
密告し、風魔小太郎は慶長八年(1603)に単なる盗賊として処刑された。その十年後、高坂甚内も処刑された。
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 18:02:48
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 20:38:24
植田光次
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 04:18:28
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 10:33:51
ムソに百地丹波でねーかな…あと伊賀防衛戦キボン
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 14:17:44
いいともの半蔵の子孫はきちんと家系図あったよ。
忍者と盗賊は同じような類らしいね。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 17:32:48
>>706 服部流って帰農してる香具師とかいるからな。
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 17:42:12
森田浄雲
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 18:10:28
.l''',! .r-、 .,、=@ .l''',! ./ー、,,,_ .r-,
.广''''″.¨゙゙! .,,,丿 {,,、、, .v-l゙ .!-r/i、 广''''″.¨゙゙! .!、, l゙ | .} ,,
.゙l---, ぃ" .| .| .| _,,{゙l .ヽ ヽ--i、 .ぃ" .,,,,,,,,二i" .,..-" .ヽl、゙l
r---┘.―'i、 "',! ./ニニニ、  ̄| .L,,,,,゙l,,i´ .r---┘.―'i、 .| :,! | .l .|、
|__ ._,,,,} ノ .| | l゙ ./ ゙'i、 .|__ ._,,,,} "''''ツ ./ "''ト .|゙i、 ||、゙l
.,―-" | .ノ .l゙ `"゙゙゙'" ,i´,〕゙゙^'i、 | .,―-" | ../ `i、 l゙ ,l゙ | |.゙l.,ノ
.l゙ .,,,,,, .\ .l゙ .l゙ ,, .l゙ .|.} | | .| / .,,,,,, .\ ../ .,.i、 | l゙ .l゙ .| .,! .゛
| し,,l゙ .、 ゙,! ,l゙ ,l゙.i".゙゙'''''"! ゙l .″.|.,!'''゛ l゙ | .l゙,,,,l゙ .、 ゙,! ,/`/ .| ."'゙゙l ./ .l゙r┘,l゙
.゙l, .,/`∪ ゙〃 .`ー--丿 .゙'--ヽ{,,,./ .゙l,, _/`∪ .゙l.,i´ .!,_,,,/ .l゙../ | .,i´
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 22:29:23
>>704 調子に乗って酒飲み過ぎて、千鳥足のところを討たれたという
何とも情けない御仁。
一応、家老職にあったのにね。
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 04:04:06
森田浄雲て なにしたひと?
森田将棋の人
はいはいわろすわろす
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 18:32:32
>>713 伊賀の乱に参加したその他大勢のひとり。
708>それは死んだと見せかけて東北へとんずらこいた半蔵のアホ息子が流行らせたのか?
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 22:33:03
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 03:21:23
>>713 俺は百地を大名に、浄雲を家臣にしちゃうからなぁ・・・ってのぶやぼか。
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 19:04:37
>>719 それはけっこう使う手ではあるのだが。
イベント組んでな。
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 05:08:34
>>720 徹底して引き籠り、伊賀国人衆を楯に自治を満喫できるしな。
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 19:58:01
>>721 しかし、いくら土木屋がセッセと治水灌漑に明け暮れても、1国支配では
先は見えてないか?
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 23:45:03
伊賀・甲賀衆と「親密」になってる時って、少々形勢が不利でも何とかなってしまう気がする。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 00:59:07
>>706 俺は地元の者だけど、先輩で服部半蔵の直系の子孫がいたよ。
地元では子孫とか結構有名。
20年くらい前までは弟子とってる上忍とかフツーにいたし。
ウチは残念ながら違ったけど、ダチにも代々領主に仕えてた忍者の子孫とかいるよ。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 01:03:29
はぁ?
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 01:04:53
↑摩邪
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 01:06:22
なりすまし朝鮮人
ウリハ<丶`∀´>ニンジャニダニンニダ
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 03:34:01
>>724 ( ´,_ゝ`)プッ 上忍だってさwww
上忍とかありえんよなwww
ハイ・ニンジャだよ
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 02:42:58
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 03:33:23
俺の先祖はメジャー・ダイミョウだよ
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 09:43:18
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 10:58:14
(´д`)♂〆〓〓〓ヾ(`・∀・´)
735 :
レイホウ:2005/08/07(日) 10:59:15
なぁ〜に…番兵をきってきたのよ!!
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 19:43:05
ただの土豪、郷士たちですって。。。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 21:47:09
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 22:37:34
先祖が伊賀上野市の忍町の出で、城下町に屋敷も有りましたが
私は忍びの末裔でしょうか?聞くところによると藤堂家の家臣
だったらしいですが…
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 13:02:13
おれ現役の忍者なんでよろしく
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/11(木) 14:42:55
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 08:01:09
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| | さあ‥ 逝こうか‥‥ | |
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>>742
リアル忍者だけど質問あるでゴザルか?
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/17(水) 09:03:06
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 09:10:48
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>>746
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 16:47:30
忍者?何でそんなモンを志すのだか・・・よく分からん。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 06:55:51
>>738 伊賀の出身ってだけで忍者?( ´,_ゝ`)プッ
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 08:13:31
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 11:06:17
>>750 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
オレ、超忍者なんすけどゴメン
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/20(土) 10:34:09
>>752 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
>>752 おまえ忍者失格。
「オレ」じゃなくて「拙者」。
拙者は本物の忍者。
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 04:34:58
何かスレタイ無視状態になってきましたね。
そろそろ国人衆の話に戻った方が良いかも知れません。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 17:09:03
和田さん
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 06:14:04
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 14:27:56
自分先祖が信長の家臣です
伊賀のみなさんごめんなさい
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 19:50:26
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 07:33:24
山岡道阿弥
北伊勢の国人は桓武平氏末流が多いけど、伊賀はどうなんだろね。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 11:44:45
>>761 元は園城寺光浄院の僧・暹慶。
僧形のまま足利義昭に仕えて山城半国の守護に。
なかなか面白い経歴の持ち主ですな。
南近江の山岡?義昭を奉じて大津に籠もった山岡や瀬田橋を焼き落とした山岡の一族だろうか。
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 14:20:32
還俗してもう一回出家。
しかし、「〜阿弥」ということは今度は時宗系か?
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 16:52:05
>>764 本能寺の変には瀬田橋を焼き落したのは道阿弥の長兄・景隆。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 17:40:16
>>766 その後、秀吉に仕えて伊勢攻略に参戦してるのに、賤ケ岳の合戦では柴田軍に属して改易・・・
どういうしがらみがあったのか知らんが。
回天艦長
甲賀源吾
静岡藩家老
山岡鉄舟
770 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 08:41:23
>>769 山岡は養子入りしたクチだけどね。
しかも、道阿弥−景以の系譜ではなく、庶流ではないかな?
当時は生家の小野家の方が格式的に上だったわけだけど。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 13:28:27
>>770 道阿弥−景以の系譜がそもそも庶流なんだってば。
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 10:17:29
>>771 嫡流は大島に流罪。
よって残っているのは本来的には庶流のみだね。
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 14:43:57
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 23:34:06
長束と甲賀衆ってのはどういう関係だったの???
仇敵
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 09:37:19
>>774 豊臣家の代理人と相容れるわけがない。
そこを巧妙に突いたのが狸爺さん。
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 10:28:18
関が原の役で家康の依頼に応じ、伏見城に実弟・景光と甲賀衆300余名を送り込んだのが道阿弥。
これに対して、長束正家は甲賀衆の妻子を人質に取り、甲賀衆に内応を呼掛けたため一部が西軍に
寝返り、伏見城は落城することに。
道阿弥は関が原の役にあっては伊勢にて福嶋高明の軍に加わり、長島城を守備している。
関が原の役の勝利後、道阿弥は水口城において長束軍を撃破して正家を自刃させ、正家弟の玄春
を捕縛した後に処刑し、伏見城で討死した甲賀衆の仇を晴らしている。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 18:51:07
>>777 「長束と仇敵」というより「豊臣政権と険悪」と考えた方が良いのかも。
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 23:44:32
>>778 み〜んな所領没収されたり、痛い目に遭ってるからね。
しかし、何で秀吉はここまで甲賀衆に冷たかったんだろか?
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 12:12:06
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 11:57:19
>>777 後に甲賀組として与力・同心に取り立てられたのは伏見籠城戦の遺族たちでしょ?
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 12:24:43
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 13:33:35
真田十勇士ってほとんどが架空の人物だったって本当?
モデルはいる。
でも、巷間語られている話はフィクションですので。
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:19:46
>>785 サンクス
自分でもいろいろ調べてみました
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 11:39:37
>>786 工エエェェ(´д`)ェェエエ工 もう解決したの????
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 22:16:42
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 15:42:44
>>782 帰農した者も多いけどね。
全部が全部ってわけじゃない。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 21:52:23
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 00:01:32
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 16:29:29
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:12:09
>>791 甲賀衆で西軍に内応したのは永原十内、山口宗助ほか18名とされている。
彼らは戦後、捕らえられて粟田口にて磔刑に処せられたと言われている。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 12:51:40
>>794 妻子を殺すぞ、と言われて内通して、今度は裏切り者として処刑される・・・
何か可哀想だな。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 15:53:01
>>795 先を見通して妻子を見殺しってのもきついだろ。
しかし、戦局打開のための人質作戦が悉く裏目に出てるな。
ガラシャたん。。。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 03:24:49
>>796 伏見城は攻略できたんだから成功だろ。
内通者のその後のことなんか知ったこっちゃないってわけで。
>>798 長束は報復を受けて弟は捉えられて処刑され、本人ともう一人の弟も
降伏を許されずに自害させられ、奥方もどこかへ落ちのびようとした
が、だれも匿ってくれず迫害されたので自害。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 08:46:15
>>799 >長束は報復を受けて弟は捉えられて処刑され
>>777で既出ですね。
>本人ともう一人の弟も降伏を許されずに自害させられ
ふむふむ。
>奥方もどこかへ落ちのびようとしたが、だれも匿ってくれず迫害されたので自害。
誰か匿ってやれよ!とは思うのだが、敗将の奥方を匿うほど周囲も余裕はないか。
少なくとも甲賀衆に引き受け手はいないわな。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:34:20
>>801 確かに我が身に降り掛かる火の粉をはらうのに精一杯。
そんな長束ごときの正室など知ったこっちゃないだろう。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 15:03:01
最初から生かしておくつもりはないだろうな。
家康にしても、自分が手を下さなくても山岡と甲賀衆がケリをつけてくれると
思っていただろうし。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 15:26:26
>>803 一時的に無秩序の状態。これは積年の遺恨を晴らすにはもってこい。
805 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 20:47:16
別に道阿弥自身は忍者じゃないんでしょ?
まったくの素人ですが。
山岡氏って甲賀衆だったの?本貫は勢田でしょう?
>>806 母親が甲賀五十三家の和田伊賀守家の出。
808 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:31:31
809 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 16:55:26
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 15:44:49
和田サン
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 02:35:34
>>810 ・・・・・・・・・・・・がどうしたんだ?
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 14:00:07
信長に仕えてからの滝川一益は、甲賀衆の中ではどのような扱いだったんでしょうか?
五十三家の大原氏の家譜から抹消
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 03:05:07
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:38:51
>>814 そもそも甲賀出身というのはFIXでいいのか?
>>815 殺人を犯して逃げ出してきた、という記録がなにかにあった。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 14:31:29
>>817 ということは里を追われた者だったということ?
滝川は伊賀同様甲賀も討伐すべきであると、信長に進言している。
どうやら何か故郷に恨みでもあったのだろう。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 04:16:37
>>819 甲賀は織田に対して恭順の姿勢を示していたけどね。
清洲織田家に滝川家というのが以前から仕えていたわけで・・・・
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 20:01:56
>>821 そこに枝を接いだように入り込んだのかな。
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:57:53
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 15:56:29
一益没後の滝川一族ってどうなったん???
>>822 池田恒興が滝川の甥(一益の兄貴が恒興父)というから、その縁も。
>>824 長男一忠は賤ケ岳後に追放、次男一時が家督をついで、
一時の子一乗は徳川家の旗本になってる。
一忠の子一積も旗本だけど、真田幸村の妹を妻にしてて、
大阪落城後は幸村四女あくりを養子にしてたり。
ちなみに、このあくりは会津蒲生家の重臣蒲生郷喜に嫁いでるけど、
この縁組が原因で、蒲生家のゴタゴタに巻き込まれて、一積は改易になってる。
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 00:03:09
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 17:11:48
一応、旗本として辛うじて存続したのね。。。
828 :
825:2005/09/27(火) 01:31:41
<補足>
一積の子・一明の代の代に旗本に復帰してるが、
一明もその養子・一重も真田家から妻を娶った。
で、滝川一重は真田家臣鎌原外記重俊の子。
一益が関東在任時には、無論真田ともやり取りがあっただろうが、
生涯浪人だった一忠も、意外と真田の世話になってたりするのかも。
真田と滝川に縁があったとはしらなかった
真田昌幸の娘が滝川某に嫁いでなかったか?
>>830 それが825の滝川三九郎一積だよ。
幸村の妹=昌幸の娘。
あと、828の下二行がつながってないな。
間に「単なる上下関係ではなく、良好な仲だったのかも。」
とでも入れてくれ。
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 18:32:41
鳥羽伏見の戦いで竹中某(和泉某の先祖)と一緒に京都へ攻め上ろう
としていた滝川という旗本と、何か関係あるのかな。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 21:48:02
>>832 すまん、そこまではわからんかった。
>>833 大目付の滝川播磨守具挙のコト?
この人は一益の直接の子孫じゃなくて、一益養子の滝川雄利の方の子孫。
途中の代からかつての主家・北畠家の通字「具」を使ってるあたり、
含むところがあったのだと思われる。
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 17:23:31
>>836 そうだよ。
聞かれる前に、略歴挙げてみる。
伊勢国司北畠一族の木造具政の息子。木造長政の弟。
初め源浄院にあって朱玄と号したが、後還俗、
滝川一益の女婿に迎えられて滝川姓を与えられる。
織田信雄の家老を務めたが、小牧の役以後は秀吉に接近。
信雄追放後は秀吉に仕え、羽柴性を与えられる。
小田原の役などに功あり、1590年伊勢神戸二万石を領す。
1595年に秀次事件に連座されて除封。
御咄衆となり三万石を給されて再び大名に列するが、
関ケ原では西軍について伊勢口を守備し、改易された。
しかし1601年秀忠に召出されて御咄衆に列し、1603年には常陸片野二万石を領した。
その子正利は、病と嗣子のないことを理由に、1625年所領返還を申し出て、
二千石のみを受封、その養子利貞の代からは旗本になってる。
で、上の滝川具挙がその最後の当主。
邪推すれば、改易の多い時期だったし、危険回避するために
自ら変更を申し出たのだろうと思われる。
秀次事件に巻き込まれたり、関ヶ原で西軍に着いたり、ミスも多いが、
一益に比べると、立ち回りがマシに思えるな。
長文スマソ。
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 13:13:31
>>837 とりあえず何とか維新まで家名を守ったのね・・・ご立派。
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 19:00:35
>>837 秀次事件に連坐した香具師の中でも復権を果たせたケースはけっこうあるでしょう。
もうだいぶスレ違いではあるが、大名限定で調べた結果挙げる。抜けてたら補足ヨロ
木村重茲(=木村定光?) 山城淀18万 切腹 → 子に木村重成?
三好吉房 尾張清洲十一万二千二百 讃岐配流 → 三人の子は全員先に死んでる
前野長康 但馬出石五万三千二百 子景定とともに中村一氏に預けられ、親子切腹 → 帰農
羽田正親 大和小泉四万八千 切腹 → わからん
木下吉隆 豊後大野三万五千三百 島津に預けられ、切腹 → わからん
服部一忠 伊勢松坂三万五千 上杉に預けられ、切腹 → わからん
渡瀬繁詮 遠江横須賀三万五千 佐竹に預けられる道中自刃 → 領地は家老有馬豊氏へ
明石則実 但馬城崎二万二千 切腹 → わからん
他、浅野長政の長男幸長が一時能登に配流されたり、小早川秀秋も丹波亀山十万石を失領。
マイナーどころでは甲賀の多羅尾光俊とか和泉の淡輪良重も失領。
その後どうなったのかわからんのも多いが、
一回潰れてからの復権なんてさすがにいない気が。。。
田中吉政 近江八幡三万石は?
連座した香具師の中で復権という話だから、田中吉政は除外したのだが。
連座どころか、諫言し続けたことを評価されて逆に加増。
これはなんとなく能力というか性格面のような気もするが、
最終的には筑後柳川32万5千石というのは、文句の付けようもなく立派だと思う。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 15:43:35
>>842 諫言したことをさりげなくアピール???
田中と石田は親友だったらしいから、黒幕は石田?
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 21:03:09
あえてここの住人に聞きたいんだけど、、
【狙撃】ハードゲイ杉谷【フォーッ】
ってスレ立てたら書き込んでくれる?w
あ、それとノコギリ挽き
ネタスレの期待大。
よく観察したらHGスレが2つもあった
立てたらまずいよね
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 19:07:19
つーか何故ここで聞く?
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 19:08:51
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 23:34:55
>851>852がここの住民ではないことはよく分かった。
杉谷て比叡山の僧侶にして甲賀衆だろ?
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 23:47:51
黄金の日日では拓三さんがやってましたね。
俺が生まれて始めて見た大河ドラマの、それも始めて見た回だった。
川谷拓三か、いい役者だったな岡っ引きとかやらせると適役だったよ
ところで杉谷善住坊が捕縛された場所ってどのあたり?
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 01:57:51
鋸引きの刑だっけ?
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 17:08:41
おまいら狙撃の名手と言えば(ry
明智十兵衛
浅野左京太夫
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 00:53:24
岡吉正
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 19:33:04
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 20:21:09
>>860 鋸引きだよね。
しかも竹製の鋸だったらしいよ。
7日間かけて街道を通る通行人に引かせたんだって。
まあ信長の命狙ったんだから仕方ないって言えば仕方ないけど……。
しかし鉄砲の名手・杉谷の銃撃を受け奇跡的に袖と笠に当たり無傷なんて信長の運の強さに驚くよ。
866 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 05:07:02
昔津軽にいたのに伊達苦難スレ見て初めて服部康成の存在を知った私が来ましたよ。
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 19:01:21
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 01:52:28
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 02:25:00
服部半蔵の子孫の俺がきた
ねぶた祭りの起源って坂上説と服部説どっちが正しいんだろう。
このスレ的には服部説なんだが。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 17:27:41
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 18:44:19
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 03:55:17
>>865 大賀弥四郎(徳川家臣)も同様の手段でしたね。
真似したのかな?
それとも当時はけっこうよく使った手なのかな?
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 00:48:33
>>874 築山さんと××しちゃったよね、その人。
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 21:43:08
>>876 とりあえず、大賀と伊賀を強引に結びつければよい訳だな。
大賀の謀反でとばっちりを喰らったのが信康。
築山と一緒に謀反の疑いをかけられ、服部半蔵に首を刎ねられる。
>877
首を刎ねたのは半蔵ではなく天方通綱。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 23:18:11
>>878 介錯後、「家康の心を思って出奔した」ことになってますね。天方山城は。
で、その家康のご贔屓だったのが伊賀者。
ふぅ、繋がった、繋がった。
家康が上郷城攻略に借りてきたのは甲賀衆二百八十人だったのでは?
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 00:12:58
>>880 伊賀と甲賀なんて地理的には隣り合わせだしね。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 02:17:41
雑賀孫市
「何でもいいじゃん。石山本願寺があれば。フォー!」
883 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 23:23:32
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:16:38
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:02:24
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:31:26
>>881 だから六角承禎が伊賀に潜伏し、近江の甲賀衆を扇動することも地理的に可能だった。
善住坊の狙撃も裏で糸を引いていたのは承禎なのだし。
但し、義弼は同行していなかったようだが。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:27:03
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 00:06:19
承禎は1598(慶長3)年に宇治田原にて78歳で没。
義治は1612(慶長17)年,68歳で没。
菩提寺は共に京都府京田辺市の一休寺。
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 00:12:17
ちなみに一休寺とは
http://www.kaiun-goriyaku.com/26t-060.htm >酬恩庵(しゅうおんあん=一休寺・いっきゅうでら)
>
>臨済宗大徳寺派。通称、薪の一休寺。開基、大應国師。文永4年(1267年)開創。
>大應国師が中国から帰朝後、禅道場を当地に創建てしたのを起源とし、康正2年(1456)
>後小松天皇の皇子・一休禅師(一休さん)が再興。妙勝寺から改号し酬恩庵とする。
>京都・奈良地方最古(1506・永正3年建立)の禅宗建築という本堂をはじめ、方丈・庫裏・
>東司・浴室・鐘楼や、一休禅師木像は全て国の重要文化財に、また万丈庭園(南庭)は
>国の名勝に指定されている。また御廟所(墓所)には、文明13年(1481)、88歳で入寂し
>た一休禅師が葬られている。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 02:19:12
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 03:35:33
>>890 子孫はこのまま放っておいたのか?
仮にも佐々木六角氏の嫡流なのに。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 16:08:05
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 17:50:55
>>893 高定の嫡男・高賢は義治の女婿になって豊臣家に仕えていたよね。
一方、次男・高和は高定の家督を継いで徳川家の旗本に。
大坂の陣後、高賢の長男・定治が加賀前田家に仕えたけど、後に両家は訴訟沙汰を
起こしているね。
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 19:46:16
>>894 高定って近江から追われた後、甲斐に匿われていたよな?
恵林寺が焼き討ちに遭ったのもそのせいじゃなかったか?
>>895 とりあえず「逃亡」の特技は与えておきたいところ。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:26:55
六角義治だったかを探すために、
信長は甲斐の恵林寺山門に火をかけて、快川和尚を殺したんだったな・・・・
なんで義治は普通に生き延びる事が出来たんだらうか・・・・
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:51:32
>>897 引き渡せという要求に、義治脱出の時間稼ぎを和尚がしたから、
滝川一益に焼き討ちされた。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 18:09:18
>>899 引き渡してたら当然、義治も佐々木次郎もあぼ〜んでしょ?
で、引渡し後に難癖つけて和尚も恵林寺もあぼ〜ん。
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 23:30:11
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 02:35:35
>>900 その後、高定はどういう経路で徳川家に仕えたのかね?
家康に宇多源氏の末裔である佐々木六角氏を保護する理由というのは特に無いようにも
思えるけど。
>>900-901 そりゃ偏見。義治は殺すために引渡しを要求したのだから別に反対はしないが、
なんでその後で恵林寺も燃やす、になるんだ?
信長は政治的に逆らわない限り寺社を不要に弾圧したことはない。恵林寺への
要求も、あれは「新たな支配者である織田に従うか否か?」という問いかけの
意味がある。
拒否すれば「政治的に逆らった=敵対した」ということで焼く。当時の寺社が
領地も兵も持つ存在であったことに注意。従えば保護も安堵もするでしょう。
わざわざ焼く政治的な理由がない。
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 00:20:46
流れ切ってすまぬが、服部家の子孫は今何処?
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 07:26:22
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 09:26:34
>>904 服部家でもいろいろあるのだが、誰の子孫を語れば良いのか?
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 15:00:52
関係ないかも知れないけど……。
東京・文京区本郷に西教寺ってお寺があるんだけど、やたら服部姓のお墓が多い。
偶然かな?
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 18:54:31
>>907 分かったから服部は服部でも誰の系譜を語ればいいのか明確にしろよ。
横槍だがこのスレ的には半蔵家以外考えられないと思うが
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 23:22:18
>>909 いや、半蔵の兄弟の系譜もある。
服部=半蔵はこのスレ的には通用しないのでは?
911 :
904 ◆H2TCSpqpqE :2005/10/22(土) 00:17:50
福島の方にもいますか?
913 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 03:33:17
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 14:57:34
多羅尾半蔵
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 21:44:26
ギャバンがま八
善九さんは伊原剛志。
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 18:29:17
>>916 おい、奇矯屋。
影の軍団と言えば悦ちゃん(長渕剛夫人)だろ。
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 22:39:13
>>917 エッちゃんはシリーズによって敵にもなったりするんだぞ。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 13:11:59
>>919 準レギュラー的な扱いの時もあったね。
ここ一番だけ出てくる、仕事人で言えば山田五十鈴みたいな。
>>917 何か知らないけど、やけに横柄な態度に好感(w
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 17:22:03
柘植新八は「〜軍団U」だっけ?
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 05:07:34
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 09:16:44
おまいら樹木希林も忘れないでくれ
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 16:30:05
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 00:05:58
俺は幕末編が好き。
927 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 05:49:47
>>925 井伊直弼を桜田門外で襲撃する時に伊賀者が協力するんだっけ?
しかし、それは罠で、駕籠を突いた途端、爆発して味方に被害が出る、そんな話
だった記憶がある。
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 10:23:29
それよりも毎回必ず裸体を拝める「風呂屋」という便利な設定w
>>928 それは「17分視聴率アップゾーン」という説をきいたことがある。
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 02:06:11
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 19:30:11
>>929 オールスター水泳大会にも同じ手法が導入されていたとか、いないとか・・・
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 22:34:13
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 02:24:22
>>925 振り〜返る余裕〜もな〜く〜 斬られた〜自覚〜もな〜く〜 ♪
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 07:05:23
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 15:00:12
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 00:37:26
>>935 隻眼じゃなかった説ありますよね、十兵衛さんって。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 14:22:49
>>937 確かに肖像画などでは両目パッチリですね。
でも、意図的にそうしてるのかも知れませんよ。
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/01(火) 15:10:20
940 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/02(水) 02:52:26
>>939 隻眼(目を瞑っている)の像もあれば、絵像では両眼だったりしますね。
さて、そろそろ終盤なので本題に戻ろうか。
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 05:22:36
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 16:16:19
>>942 では、あとは勝手な話題で1000到達ですか?
944 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 05:06:07
>>935 宗矩が若山富三郎でしたね。
あとは胤栄と宮本武蔵・・・?
>>944 違う、宝蔵院胤舜だっての。
ちなみに
天草四郎…………沢田研二
柳生十兵衛………千葉真一
伊賀の霧丸………真田広之
柳生宗矩…………若山富三郎
宮本武蔵…………緒形拳
宝蔵院胤舜………室田日出男
細川ガラシャ……・佳那晃子
小笠原少斉………鈴木瑞穂
酒井雅楽頭………内田朝雄
板倉内膳正………角川春樹
松平伊豆守………成田三樹夫
村正………………丹波哲郎
>板倉内膳正
ヤク中おじさん出てたの知らんかった。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 13:02:40
>>946 角川作品には必ずチョイ役で出演、がデフォです。
>>947 「犬神家の一族」でも湖から死体引き上げてたしね。
春樹さんは命令出してただけ(刑事役)だったけど。
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 23:24:04
>>945 小笠原少斉ってガラシャ斬った香具師だっけ?
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 10:04:01
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 16:39:39
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 23:25:39
松平信綱まで殺されちゃってましたね。
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 18:12:47
>>952 髪の毛ビヨ〜ン攻撃で首吊り状態。
あれは無いだろ、と(w
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 09:44:28
>>953 >髪の毛ビヨ〜ン攻撃
いや、髪の毛ビヨ〜〜〜〜〜〜〜〜ン攻撃って感じだろ、あれは。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 12:15:46
伊賀の霧丸で辛うじて伊賀・甲賀ネタに繋がってるってことか?
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 11:48:54
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 17:40:25
ガラシャが妙に色情的だったね(w
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 23:10:30
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 13:06:47
くのいちモノもそうだが、エロいシーンが適度に挟み込まれていないと・・
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 19:39:41
で、ここは一体何のスレなんだ?
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 17:51:18
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 22:19:18
>>961 近江の国人衆というのは、前スレでブレイクした朽木ネタを意識してのことか?
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 02:40:55
ほんじゃここらで藤林と多羅尾の関係について語りつくそうか
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 13:30:15
966 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:11:26
967
>>968 あれを見ると染五郎と似てるなぁ・・・と独り言。
970 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 18:11:13
>>962 一時は朽木スレが立ちそうな勢いだったし。
971 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 13:12:33
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 16:01:23
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 16:40:48
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 16:59:52
【甲賀五十三家 @】
山中氏……柏木三家
伴 氏……柏木三家
美濃部氏…柏木三家
黒川氏……北山九家
頓宮氏……北山九家
大野氏……北山九家
岩室氏……北山九家
芥川氏……北山九家
隠岐氏……北山九家
佐治氏……北山九家
神保氏……北山九家
大河原氏…北山九家
大原氏……南山六家
和田氏……南山六家
上野氏……南山六家
高峰氏……南山六家
池田氏……南山六家
多喜氏……南山六家
977 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 17:00:42
【甲賀五十三家 A】
鵜飼氏……荘内三家
内貴氏……荘内三家
服部氏……荘内三家
小泉氏 倉治氏 夏見氏 杉谷氏 針氏 小川氏 大久保氏 上田氏 野田氏
岩根氏 新城氏 青木氏 宮島氏 杉山氏 葛城氏 三雲氏 望月氏 牧村氏
八田氏 高野氏 上山氏 高山氏 守田氏 嶬峨氏 鳥居氏 平子氏 多羅尾氏
土山氏 山上氏 饗庭氏 長野氏 中山氏
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 17:37:13
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 18:20:28
>>978 豊臣時代(秀次事件前)はけっこうな禄高じゃなかったか?
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 18:31:52
>>979 秀吉ってのは甲賀衆に対して冷酷だったしね。
とにかく難癖をつけては潰しに掛かるようなところがあった。
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 19:22:29
>>979 天正11年(1583)、秀吉は織田信孝、滝川一益を攻撃を企図し、浅野長政に京から信楽経由で
伊賀に入り、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。
長政は、多羅尾光俊の四男・光量の和束・別所城を陥して信楽に攻め入ろうとしたが、光量軍の
夜襲に遭い、撃退されてしまう。
長政は、光俊と交戦するよりも和睦した方が得策だとして、自分の娘を光俊の三男・光定に輿入
れさせることを提案し、光俊もこれを了承して和睦が成立。これにより長政は難なく亀山城を攻略
することが可能になった。
光俊もまた、秀吉の重臣である浅野家と縁続きになることで政権への接近を図ることになる。
結果、天正14年頃には多羅尾家は一族で8万石余の所領を有していたとされ、光俊は本拠地・
小川城に、嫡男の光太を多羅尾城、三男・光定を田上の里城、四男・光量を別所城には配して
防備体制を整えた。
982 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 19:23:36
>>979 光俊の嫡男・光太の娘・お万を秀次の側室にしていたことが仇になったと言われている。
秀次は天正15〜17年頃、近江・八幡城を居城にしており、近江国内巡察の折、多羅尾城にて
光俊から手厚い接待を受けた。その際、光俊の孫娘にあたるお万を見初め、側室に迎えること
になったという。
しかしながら、文禄4年7月、秀次が高野山で切腹させられると、翌8月には秀次の5人の子女
と側室34人も処刑され、お万も側室の一人として三条大橋西南の加茂河原において惨殺され
ている。
なお、お万は「いづくとも 知らぬ暗路をまよう身を 導きたまえ 南無阿弥陀仏」という辞世の
歌を残したという。
結果、多羅尾一族は秀次事件に連坐して所領を没収され、伊賀の地に隠遁し、困窮生活を
余儀なくされることになる。
多羅尾っていや藤林と組んで伊賀の乱のとき信長に与力したらしいね
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 20:26:27
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 22:20:03
秀吉没後、家康は多羅尾一族を召し出し、光太にニ百人扶持を与え、直参旗本として取り
立てた。
光太は会津討伐に参戦、関が原本戦においても手柄を上げており、戦後、多羅尾氏累代
の所領であった信楽の地を与えられ、その際、弟の光定、山口藤左衛門(光弘)も直参に
取り立てられている。
慶長8年、正式に徳川政権が開かれると、光太は信楽の多羅尾に知行1,500石が与えら
れ、知行とは別に天領1,500石の支配を任されることになる。また、弟の光定には信楽の
神山・江田に知行1,500石が、山口藤左衛門には柞原・朝宮に知行500石が与えられて
いる。
また改易後、剃髪して「道賀」と名乗り、大光寺に住していた光俊には隠居料として小川
の地に800石が与えられた。光俊は96歳の長寿を全うして慶長14年に没している。
なお、寛永15年、光太の子・光好が代官に任命され、多羅尾の居館に信楽陣屋(一般に
多羅尾代官所と呼ばれている)が置かれることになった。
信楽代官職は特例的に代々世襲され、明治維新まで近江・播磨国内の幕府天領を支配を
担うことになる。
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 22:39:24
987 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 23:06:20
途中、小堀遠州の子が養子に入ってないか?
988 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 00:10:43
埋め
989 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 00:12:01
990 :
無名武将@お腹せっぷく:
多羅尾代官所は江戸にも屋敷を持ち、伊勢・四日市に出張陣屋があったという。
多羅尾氏は歴代、5〜6万石の天領を管理しており、8代目代官である純門の時代には
10万石に拡大しており、全国で40余りを数える代官の中でも最大規模となっていた。
したがって格式も高く、布衣の階位にあった。
これらの待遇については
(1)神君伊賀越えの功績に対する評価
(2)朝廷と関係の深い近衛家の流れを汲む名門
(3)多羅尾地区が近江、山城、伊賀、大和4ヶ国の国境にあり政治・軍事上の要衝であった
ことなどを挙げることができる。