暫定順位
位 曹操(決定)
2位 司馬懿(決定)
3位 ケ艾(ほぼ決定)
4〜7位 曹仁
張コウ
張遼
徐晃
8位 于禁
9〜12位 夏侯淵
楽進
臧覇
満寵
あれほど揉めてたケ艾がようやく3位に落ち着いたと思ったら
今度は功績や能力やらの問題で曹仁派とアンチ曹仁による抗争勃発
建国期の評価、能力重視か功績も含むか等、まだまだ揉めそうな予感
乙
武将一覧
1.序盤〜官渡、北方平定まで
曹操 > 于禁、楽進、曹仁 > 徐晃、張遼、李通、陳登 >夏侯淵、李典、曹洪
2.荊州征討から関中平定及び対呉戦〜関羽征伐と漢中争奪戦まで
曹操 > 曹仁、夏侯淵、張遼、張コウ、徐晃 > 臧覇、朱霊、于禁、楽進 > 曹純、ホウ悳
3.曹丕、曹叡の対呉、対蜀戦
司馬懿、張コウ、曹真、満寵 > 文聘、曹休、夏侯尚 > 田豫、牽招、カク昭
4.遼東征討、毋丘倹・諸葛誕の乱、姜維の北伐、蜀征伐
司馬懿、ケ艾 > 郭淮、鍾会、王昶、王基、司馬昭、陳泰 > 毋丘倹、諸葛誕、胡遵
5.別枠特別功労者
夏侯惇
順位がいらないなら今まで何を議論してたんだ?
順位を決めるのが無意味という結論に気がつくための
議論であった。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 13:45
曹仁
最高位 大司馬・陳侯 領邑3500戸 忠侯
張遼
最高位 前将軍・晋陽侯 領邑2600戸 剛侯
張コウ
最高位 征西車騎将軍・特進・バク侯 領邑4300戸 壮侯
徐晃
最高位 右将軍 領邑3100戸 壮侯
あとさ前スレの
>>5>>6>>7>>8とかにある
将の事績列挙してあるやつもよろしく
あれ比べるのは分かりにくいんだが
事績調べるのには役に立つ
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 13:57
曹仁
最高位 大司馬・陳侯 領邑3500戸 忠侯
・豪傑がいっせいに蜂起したとき、千人余りを集め淮水あたりで暴れ回った。
・曹操が袁術を破った際、曹仁が斬り殺したり生け捕りにした者はかなりの数にのぼった。
・別軍を率い陶謙の大将、呂由を破る。
・曹操と合流して陶謙軍を撃破。
・曹操のもとで費県、華県など四県を攻めた。陶謙が救援を派遣すると騎兵を率い撃破した。
・呂布討伐の際、別軍を率い句陽を攻撃、大将の劉何を生け捕る。
・曹操が黄巾を討伐し天子を迎える際、たびたび手柄を立てる。
・張繍討伐の際、別軍を率い近接の県を襲って住民三千を捕虜にする。
・曹操が張繍に敗れた際、将兵を叱咤激励し獅子奮迅の働きをした、かくて張繍を打ち破る。
・官渡の際、袁紹が派遣した劉備攻撃を進言、劉備を騎兵で攻撃し撃破した。
・袁紹の将で別働隊の韓荀を撃破。袁紹はこれにこりて二度と別軍を出撃しなくなった。
・史渙らと袁紹の輸送車を奪い、食料を焼く。
・曹操が壷関を包囲した際、降服につながる策を献策。
・江陵で包囲された牛金を数十騎で救出、とって返し残された兵達も救い出した。
・周瑜軍と正面からぶつかり周瑜に重症を負わせた。
・一年以上、周瑜の包囲から江陵を守るが江陵城から撤退する。
・曹操の馬超討伐の際、諸将の総司令として潼関を守備、渭水の南で馬超を破る。
・楚伯、田銀が叛乱したとき七軍の総司令官として討伐、これをうち破る。
・宛で侯音が叛乱を起こしたとき諸軍を率いて、これを破り、首を斬る。
・関羽に包囲され、食料がつきかけるが将兵を激励しこれを守りきる。
・援軍に来た于禁軍が水没するし、窮地に陥ったが徐晃が外側から関羽を攻撃したので、包囲を破った。
・濡須で朱桓を誘い込むのに成功するが裏をかかれ撃退される
・孫権の大将、陳邵が襄陽に籠もったとき徐晃とこれを討伐した。
・傅子に張遼の武勇は曹仁の次に位すると記述。
・223年、逝去、子の曹泰は鎮東将軍・仮節にまで官位が上がり、ネイ陵侯に国替えされた。
>>12 でもあれ書いた人、ほとんど本人の伝からしか抜粋していないよ?
それほど高い材料にはならない気もする。
>>14 いやたまにあるよ本人の伝以外のやつ
前見つけたんだけどなんだったかは忘れた。
張遼
最高位 征東将軍 領邑2600戸 剛侯
・武力が人並み外れていたため丁原の従事となる。
・魯国の諸県を平定した。
・昌キを説得し降服させる。
・関羽と共に、白馬に先鋒として出陣、劉延、顔良を攻撃しこれを破った。
・楽進と共に陰安を落とす。
・常山を落とし、黒山の孫軽らを降服させる。
・袁譚攻撃に従軍。
・別軍の将として沿海部を攻略、遼東の賊柳毅を破る。
・別軍を率い江夏の諸県を平定。
・柳城の袁尚攻略の際、蛮軍と遭遇、これを破り単于トウ頓を斬る。
・荊州征伐も前、軍中の混乱を押さえ軍中の反乱者を斬る。
・張コウらを指揮し陳蘭らの首を取り、その軍を捕虜にした。
・合肥で孫権軍に突撃、孫権に迫った。
・包囲する孫権軍から脱出するが、引き返し取り残された部下を救出。
・退却する孫権を追撃、孫権に後一歩まで迫る。
・曹休らと共に呂範を破る。
・孫権に警戒される※
張コウ
最高位 征西車騎将軍 領邑4300戸 壮侯
・黄巾討伐に参加
・袁紹の元で公孫サンを破るのに大きく貢献。
・淳于瓊が曹操に敗れることを予測、救援することを主張。
・曹操に従いギョウを攻撃、これを落とす。
・張遼と共に先鋒として柳城を攻略。
・東莱に遠征、管承を討伐。
・張遼とともに陳蘭・梅成らを征討。
・曹操に従い馬超、韓遂を破る。
・安定を包囲し、楊秋を降伏させる。
・夏侯淵と共に賊徒梁興と「テイ族」を討伐。
・夏侯淵と共に馬超を討ち、宋建を平らげた。
・張魯討伐の際、諸軍を指揮し「テイ族」の王、竇茂を討伐した。
・巴東巴西の二郡を降し住民を漢中に移住させた。
・進撃して宕渠に布陣したが、山道が狭く前後助けることができず張飛に撃破された。
・劉備の精兵一万が張コウを夜襲、張コウは親衛兵を率いて格闘し、劉備は勝つことができなかった。
・漢中の戦い。張コウの部隊が劉備の攻撃で劣勢に陥り、夏侯淵はこれに救援の兵を回して戦死する。
・夏侯淵死後、郭淮の言葉に従い敗残の兵を纏めた。
・曹真と共に盧水胡と東羌を討伐。
・夏侯尚らと江陵を攻め中洲の砦を奪う。
・長江の中洲(百里洲)を攻めて守将の孫盛を攻撃、孫盛は瞬く間に退却に追い込まれた。
・朱然を六ヶ月包囲するも落とせず。
・司馬懿と共に、孫権の別将劉阿を破る。
・曹真に従い、街亭に派遣され馬謖を大いに打ち破った。
・諸葛亮に呼応した南安、天水、安定を平定。
・二度目の北伐の際、諸葛亮の兵糧不足をを見抜く。
・王平を攻めるも、破ることが出来ず。
・司馬懿の追撃命令に反対するが聞き入れられず追撃し死去。
・劉備、諸葛亮以下、みな張コウを恐れ憚っていた。
徐晃
最高位 右将軍 領邑3100戸 壮侯
・車騎将軍楊奉に従い功績を立てた。
・巻、原武の賊を打ち破る。
・呂布征伐の際、別軍を率いて趙庶らを降伏させた。
・史渙とともに河内でスイ固を斬った。
・曹操に従軍して劉備を撃破。
・さらに従軍して顔良を撃破し、白馬を陥落させた。
・進軍して延津に行き、文醜を撃破した。
・曹洪と共に賊、祝臂を撃ち破る。
・史渙とともに袁紹の輜重車を故市で攻撃し、最大の戦功を上げる。
・易陽の韓範を矢文で降伏させる。
・別軍として毛城を攻撃し、伏兵を設けて襲撃、三つの屯営を打ち破った。
・曹操に従って袁譚を破り平原の反逆の徒を討伐。
・トウ頓征討に従軍。
・荊州征討の際、別軍として中廬、臨沮、宣城を討伐。
・満寵と共に関羽を漢津に討伐。
・曹仁とともに江陵で周瑜を攻撃した。
・大原の反乱者を討伐し、大陵を包囲、賊の商曜を斬る。
・韓遂らが関右で叛乱を起こすと、河東を鎮撫した。
・潼関で黄河渡河の策を曹操に献策する。
・塹壕などを作成中に梁興が攻め寄せたが撃退した。
・夏侯淵と共に「テイ族」を平定。
・夏侯淵と共に「フ」で夏陽の残余の賊を平定、梁興を斬る。
・張魯征討の際、「山テイ族」を討伐、降伏させた。
・張順への包囲を解き、賊の陳福らの三十余りの屯所を攻撃し、これらを全て打ち破った。
・劉備が漢中に来襲した際、馬鳴閣で陳式を撃ち破る。
・関羽来襲の際、塹壕の道を作り背後を断つかのように示した
・囲頭を攻撃すると偽り四冢を攻撃。関羽を誘い出す。
・出てきた関羽を迎え撃ち、追撃、包囲陣まで入り撃ち破った。
・夏侯尚と共に上庸で※劉備を撃破。※伝には劉備とあるが、上庸で戦ったのは劉封なのでは?
・司馬懿らと共に襄陽を攻めた諸葛瑾を防ぐ。
ケ艾
・郭淮とともに姜維の侵攻を防いだ。
・廖化と対陣し、渡河する気配がないため陽動であると察知、
夜に密かにトウ城へ直行し、のちの姜維の進軍から城を守る。
・毋丘倹の乱では敵の攪乱目的の使者を斬り、通常の倍の速度で
進軍し、楽嘉に浮橋をつくり根拠とした。
・敗北した文欽を追撃し、呉に逃亡させる。
・肥陽から附亭に陣を移し、諸葛緒らを指揮して孫峻を敗走させる。
・狄道で包囲されていた王経を救出。
・武城山に立てこもって姜維を防ぐ。
・段谷で姜維を大いに撃破、二桁にのぼる将を切り、四桁にのぼる首を斬った。
・長城において姜維を防ぐ。
・侯和において姜維を破る。
・楊欣を派遣し、彊川口で姜維を破る。
・無人の地を七百里に渡って進軍、江由に到着し蜀の馬バクを降伏させる。
・ケ忠、師簒を派遣して諸葛瞻を撃破し、諸葛瞻と張遵を斬る。
・蜀を降伏させる。
・鍾会の陰謀によって捕らえられ殺される。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 14:10
>16>17、写しじゃん。もうちょっと自分で追加しろよ。
親族武将って血縁で信頼できると思われるから高位についたのか
能力に相応しい待遇なのかが判然としないな
夏侯ボウみたいなのならどちらかは一発でわかるんだが
于禁最強伝説
創業期、官渡までの中原での軍功比較表 ■単独の軍功 □従軍しての軍功
于禁 曹仁 夏候淵 その他の五将
対陶謙 ■広威を陥落 □4県を攻める □従軍? なし
■呂由を撃破
■陶謙の救援撃破
対呂布 ■2陣営を陥落 ■句陽を陥落 □昌キ攻めに従軍 ■徐晃が趙庶を撃破
■高雅を撃破 □定陶攻撃 □楽進が濮陽攻めに従軍
□寿張陥落 □金巨野攻撃 □楽進が下ヒ攻めに従軍
□定陶攻撃
□離狐攻撃
□雍丘で張超を包囲
□下ヒ攻め呂布捕縛
□射犬でスイ固を斬る
対張繍 □穣攻め □全般に従軍 特になし □楽進安衆で従軍
対袁紹 ■延津を防ぐ ■遊軍の韓荀を撃破 □張遼、徐晃白馬に従軍
?先鋒で敗北 ☆楽進、烏巣攻めに
■汲、獲嘉両県 ■劉備を撃破 に従軍、淳于瓊撃破
を攻める □徐晃、延津で文醜撃破
■杜氏津を陥落
コピペ乙
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 14:21
曹仁の紹介記述で二行程変更・追加しましたが・・・疲れた!
28 :
26(惇派):04/08/20 14:45
夏侯惇・元譲
最高官位・大将軍 爵位・高安郷侯
・十四歳の時、自分の学問の師を侮辱した人を殺害した。この一件により気性の激しい人として有名になった。
・曹操挙兵時から征伐に付き従った。董卓討伐の際は太守職を兼ね白馬に駐屯。
・呂布との戦いの時、一時捕虜となる。呂布征伐に従う。この頃左目を失う。
・太守として飢饉対策に精を出す。主に大軍の後詰めとして働いた。
・曹操が北伐したとき全権を代行した。
・216年二十六軍の総司令官として居巣に駐屯。
・文帝が即位すると大将軍となったが数ヶ月後逝去。
・・・疲れた。急いだので結構抜けてます。すみません。
>>22 おお、乙。
前スレの979を書いた者だが、どうにも2chでの表作成が苦手で…。
>前スレの990へ
于禁伝では単独と書かれずに、寿張・定陶・離狐の攻撃と雍丘で張超を包囲に参加して、
って書かれてる、少なくとも単独ではなかったようだ。
武帝記には定陶と雍丘しか書かれてない、おそらく省かれたと思われ、
定陶への通り道みたいなもんだし。
テンプレがバラバラだ…
混沌の中にこそ真実がある
全てが混沌だからな
夏侯淵の評価が低いのは、黄忠に討ち取られた最後が原因?
切り取った領土、活躍範囲で言えばトップクラス
一年で東西南北を駆け回ってことごとく勝利したこともあるまさに機動と攻撃の男なんだが
>>22 あと于禁の対袁術における橋ズイ包囲して撃破したのも記載されてないなあ
袁術は巨大な勢力だったので重要と思われるが....
でも袁術攻めは記載が少ないけど記載のない将は参加してんのかわからんな
>>33 皆はどうか判らんけど、俺が高く評価していなのは速戦を好んでいたから。
つまり、戦術等よりも戦略で勝った、もしくは相手が弱かったから勝った印象が強く、
実際に攻撃したのが彼、夏侯淵でなくとも打倒できたように思えるからです。
>>33 あの時の漢中は誰が守備しても守りきれるものではなかった。
ただ、夏侯淵はその性格ゆえに戦死することになった。
戦死したことがマイナス査定になっても、漢中失陥自体はそれほど大きなマイナスとは思えない。
于禁は袁術の代表的な四将の橋ズイ、楽就、李豊、梁綱を
一回の戦で全員斬ってるよな。
>>36 速攻を不得手とする将が代わりの任務に付いたとしたら、
あれほど短期間で掃討出来たとは思わない。
あるいは馬超あたりがしぶとく生き残った可能性もある。
>>39 だから、ゲームでいう知謀や知力に相当する能力を評価してますよ
ごめん、
>>34と思ったけど、前スレ見てきたら惇については998〜1000で語り尽くされてた
>>40 速攻が可能になったのは、ゲームでいう知謀や知力ではなく、
統率力だと思うのですが・・・
速攻で相手の不意を突くのは兵法の極意のひとつ。
ただ、バカのひとつ覚えという気がしないでもない(w
それでも勝ちまくったのは事実だから、充分名将だと思いますが。
掃討するまでは手際いいが
漢中の守りは適任ではなかったな
これはむしろ曹操にたいする言葉かな
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 15:33
という事は夏侯淵は攻めの将軍という事だな。
漢中の守備を論者の言うとおり韓浩を置いていったらどうだったろうな。
>>45 撤退に追い込まれはしたが、大将の戦死は避けられた。
しかしカクが涼州軍閥連合グチャグチャにしたからな
ちょうど今のスレのテンプレのようにw
あいつは恐ろしい奴だ...
>>45 漢中の険しい山岳を一面の田園風景に変えていたはずだ(w
拠点防御 拠点攻撃 機動戦
このスレの場合どれか一つに特化している武将とどれも平均している武将と
どっちが上になるの?
拠点防御などの経験が無い武将はそのような戦場は苦手と判断していいの?
>>49 どれも平均して80点くらいつけられる武将とほとんど60点くらいだがある一点においては100点をつけられる武将だったら後者の方を上に置くかな?
60ってのはひっかかるとこだな。
オールマイティーに高い奴の方が総合点としちゃ優秀だな
全部90くらいの奴がいりゃ文句ないだろう
>>49 大規模な籠城や城攻めは土木関係の人脈(有能な職人や人夫)と土木に関する知識
が重要に思う。墨家的な学問体系の習得も要するので
指揮官はそれらの要素を会得してないとね。
機動戦というか野戦(小規模な陣営争奪戦含む)に関しては普通の兵法やら実戦経験が必要
騎馬戦術やらも重要なんじゃないかな
これらは必要な能力がかなり違うと思われ
籠城や城攻めにかんしては劉ヨウは中国で最初(多分世界初)に発石車
使用してるし袁紹配下の審配なんかも優れてるね
徐晃の拠点防御は何点?
張遼 張コウはオールマイティーに高い気もする
上に挙げてる連中はみんな機動戦は得意だな
徐晃は拠点防御あんまりやってないみたいだから未知数かな
一応、漢中防衛戦で劉備軍を防いだが
これは劉備軍の封鎖部隊を積極的に攻撃して大勝する、という積極防御だから(その功績で仮節を与えられている)
>>42 統率力って、具体的にはどんな能力のことですか?
徐晃も張遼も張コウも拠点防御はほとんど経験がないな。
防御するにしても野戦で迎え撃つ要員だから。
そもそも役割が違う
徐晃に関しては機動や陽動の方に能力を発揮してる。
馬超との戦いで長躯して蒲坂津を渡河した事や、関羽との戦いでの機動と陽動は
優れた手腕や戦術眼とみてもいいはず。
それに慎重を期したうえで無理な戦闘を避ける反面、可能とみれば積極的に攻勢に
でるようだし。
こういった人材は防衛にも用いれるだろうけど、如何せん実績は少ないし、もともと
時事によって四方へ転戦する遊軍的な役割みたいだし。
>>58 人を纏め上げる力。
規律正しく組織を運用する力。
>>58 戦争に求められる能力として、作戦術や用兵はもちろんだけど、麾下の軍勢を
自在に運用するための様々な手段を総合して統率といわない?
軍規で士卒を律する事や、戦場での動揺を沈静させ自壊を防ぐ事などなど。
>>42の言う様な事柄も含まれるけど。
話を切る感じで悪いんですけど、
前スレ終盤で(たぶん二人の住民が)揉めてた、曹仁の句陽攻撃の時期云々の問題、
この際だからと思って、呂布の挙兵から徐州への逃亡までの流れで年表にしてみたよ。
(俺が勝手にやった事だし、正確かも疑問なんすけど)
俺は前スレの二人ではないけど、いちおう載せた方がいい? 少し長いけど……。
張遼は拠点防御あるだろ。
徐晃張コウは拠点防御が苦手と判断されたか
拠点防御の能力もあるがそれ以上に遊軍としての野戦能力が高いため遊軍とされたか
もし前者であるなら若干順位に変動があるな
まあ両方の理由からだろうけど
>>61 人を上手く纏め上げ、規律正しく組織を運用できる人が、速戦を得意とは限らないのでは…
もちろん下地として組織運用力は問われるでしょうが、実際に立案し行動に移したのが夏侯淵
であるわけですし、高く評価すべきは策謀や決断力ではないでしょうか。
>>65 いや、だから統率力がないと立案出来ても実行には移せないんだって。
兵卒を脱落させずに速攻かけるのは。
神業だから、夏侯淵は称えられたの。
>>65 喩えるなら、柳城討伐の郭嘉と張遼。
軽装の兵で速攻奇襲を提案したのは郭嘉だけど、
実行したのは張遼(と張コウ)だし。
63があまりに不憫だ・・・
>>63 乙
載せてくれ
ここって順位さえ着けなきゃかなりの良スレなんだな..
順位着けるの止めるか、ランキング2つ(功績と能力)にするかしかないと思うな。
>>69 順位を意識するからスレも活発化するのも事実。
ただ順位付けはあくまでレスを呼び込むための呼び水くらいに受け取っておく方がいいと思うけどね。
蜀スレなんかある程度ランキングに同意が出たら沈黙しちゃったし……
順位自体にまったく意味を感じない、つーか永遠に平行線。多数派に見せかけた自演なんざし放題だし・・・
そもそも時期、状況、条件、役割、立場など違うものだらけなのに何を比べられるかって話だな。
>>70 煽りレスしか呼び込めなかった呼び水か?
結局、功績=能力に賛同するもしないも憶測にすぎないし、
悪く言えばどっちも妄想
しかしどちらの言い分も間違っては無い、と思ったが。
>>68 ありがと。可笑しさとありがたさで涙でるね。
いや、前スレの話題で時期を過ぎたかな…とも思ってたんで。
じゃあ、
>>68さんのお言葉に甘えて。
●194年
1、夏、呂布がエン州を席巻し、東阿へ陳宮を、范へ氾嶷を派遣。
曹操、甄・范・東阿の三県のみを保持。
(甄を荀ケと程cが固守し、范には県令・[革斤]允、東阿には県令・棗祗)
2、荀ケ、濮陽に駐屯する東郡太守・夏侯惇に甄へ急行すべく要請。
3、程c、范へ赴き令・[革斤]允を説得。会見の末に氾嶷を刺殺。
程c、次いで騎兵を派遣して倉亭津を切断して陳宮の進軍を阻止し、自身も東阿へ。
(曹操帰還後、程cは東平相として范に駐屯)
4、曹操が徐・青州征伐から反転し、呂布は甄へ侵攻し、中途で濮陽より甄へ急行
するさなかである夏侯惇の軍勢と遭遇戦。
5、呂布は甄を攻めるも降せず、軍を返して西進し、濮陽に駐屯。
(夏侯惇が呂軍の(一時的)捕虜となったのは、この時期か?)
6、豫州刺史・郭貢、数万の軍勢で甄へ来援するものの、降せずとみて撤退。
7、曹操は、呂布が東平を根拠とし、亢父・泰山の街道を遮断して曹軍を邀撃しない
事実から、進撃を開始。
8、曹洪・于禁、東平(寿張)・范を確保し、曹洪は輜重を曹軍へ輸送。
9、濮陽の戦い
(呂布、騎兵を展開させて青州兵を圧迫。曹軍先陣は楽進。于禁も従軍。
劣勢の末に曹軍撤退し、以後、膠着)
10、百余日のあいだ対峙し、蝗害と糧秣の欠乏で両軍ともに撤退。
(この間、濮陽西方の屯営を攻撃(典韋が従軍)し、呂布直率の援軍と戦闘。
また于禁は別軍を率いて濮陽南方の呂軍の二陣営を撃破)
※于禁、次いで須昌で高雅を撃破。‐@
11、九月、曹操は甄城に帰還。呂布は乗氏に進駐するものの李進に撃破され、
東進して山陽(昌邑)に駐屯。
(乗氏で薛蘭・李封が叛乱を起こした時期は、呂布決起の当初か?)
※曹仁、句陽を攻略。呂軍の将・劉何を捕獲。‐A
12、十月、曹操は東阿へ進駐。
●195年
13、春、曹操、定陶(済陰)を襲撃(于禁従軍か?)。済陰太守の呉資、呂布を撃退。
14、夏、曹操は乗氏に進駐し、鉅野に駐屯する薛蘭と李封を攻撃。
薛蘭を撃破し、援軍である呂布は撤退。
(曹操、荀ケの提言で再度の徐州遠征を翻意し、糧秣を確保)
15、呂布、一万の兵力で東?から来援し、曹操、伏兵を用いてこれを大破。
(兵力では、曹軍が劣勢)
16、曹操、定陶を攻撃し、これを攻略。軍勢を分遣し、諸県を平定。
(曹洪、東阿を拠点に済陰(定陶)・山陽・中牟・陽武・京・密ら、十余県を奪回)
17、呂布は徐州(劉備)へ遁走し、張超が雍丘に篭城。
18、秋(八月)、曹操は雍丘を攻囲(于禁が従軍。離狐攻略はこの際か?)。
19、冬(十二月)、雍丘が陥落し、張超は自刃。袁術へ援軍要請に赴いた張?、横死。
20、曹操は東方へ進軍し、陳を攻略。
※‐時期不明瞭
@Aについて。
曹仁の句陽攻略(A)をあの時期としたのは、呂布が乗氏を掌握できず、濮陽や
甄を確保した段階で外線を拡大し、乗氏と連結できるのではないか、という為。
前スレで、濮陽戦と同時期では、呂布は句陽を背後に抱えたまま乗氏に進軍した
事になり背後を危険に晒すため不自然、という意見があったが、たしかにそう
考えるほうが自然に思える。
ただこの時期、陳留・済陰の過半・山陽といった地域はまだ呂布領であるはずで、
後背地の兵力や物資が微少であったとしても乗氏を掌握できないまま更に東進
して山陽(昌邑)に駐屯する事も不可解に思える。
これは、山陽(昌邑)が戦略的価値の高い事と、北上して鉅野に駐屯する薛蘭
李封と連繋し、曹操の後方を脅かすためではないかとも思われる。
(ほどなく曹操の拠点が東阿に移っていることからの逆読みに過ぎないけど……)
Bに関しては、須昌は東阿・范・東平を結んだ三角形のほぼ至近に位置し、
少なくとも濮陽戦の後である事と、物資の供給点である三県の安全を企図した
ためではないか、という事(これも根拠の薄い推論だけど……)。
ひとつだけまったくわからなかったのが、「徐晃の趙庶・李鄒を撃破」って点。
たぶん徐州に移ってからの事だとは思うけど。
えらい疲れますた。なにやってんだろう…長いし……。
乙
茶でもどうぞ つ日
順位の意味って要は擁護派否定派に分かれて議論することで場が白熱する、ということ
立場をはっきりさせて語り合うと、見てても参加しても面白いものになる
やってる方はなんとか論破したいからかなり真面目に持論を展開するし
順位を置く事のメリットはでかい
まあ目も当てられないのも来るけどね
>>79 それができて無いからな。とくに曹仁の時は
>>79 議論よりもランキングの方に必死な者の耳には入らんだろうね
>>75 まとめ乙。
前スレで曹仁の攻撃は濮陽の後ではないか?と主張した者だけど、意見を言わさせてもらいます。
まず于禁の須昌攻略は11・12の間ではないかと思う、10と11の間だと、
濮陽の時だと呂布対陣してるさなかに、しかも劣勢なのに兵力を他に割くという行為を行ったことになる。
おそらく残った自領の中でも、拠点となる東阿を固めるために須昌を落したんじゃないかな?寿張以南の備えとして。
そして曹仁の攻撃は13・14の間ではないかと思う。
曹操が定陶を攻撃してる間、もしくは鉅野で呂布と戦ってる間に曹仁を西進させた、という方が無理が無いように思える。
11・12の間では呂布は濮陽〜離狐〜句陽〜定陶〜山陽一帯のラインを脅かされた事になり、
如何に呂布でも曹仁を放っては置けない状況になっただろう、乗氏は定陶を有してる以上、
濮陽〜山陽へのラインを断たれる心配は無いとして、地盤固めのために東進したと思われる。
順位まじえて話すのならやはり意味不明の煽りは控える
もしくは意味不明の煽りに対して肯定派も否定派もまともに議論してる人は
注意する気風とかないとな。
あと寿張の于禁だけど、従軍と正史にもあるが途中からちょっと于禁だけ
分かれて于禁単独での攻略ではないかね?
曹操伝に寿張だけないのは省略されたんじゃなくて曹操自身は行っていないって解釈
で、むしろ于禁伝のほうが細かい経緯省略してまとめて従軍って書いているという...
寿張だけちょっとルートからはずれたところにあるから不自然じゃない?
むかしこういう意見がなんかの本に書いてあったんだよなー
寿張と定陶はほぼ同時に攻撃...
>>66 同じ事を書いたはずだけど…
速戦を実行して戦った相手、状況はそこまで分が悪くなかったということ。
気に入らない意見を意味不明の煽りにしないことも大事だね。
>>87 なにを根拠に発言してるのかは判らないが、
中小軍閥の散らばる関中・関西は(カクの策略でバラバラになったとはいえ)
速攻で叩き潰さねば、彼らの再結束を促し、より困難な状況を生み出す可能性がある。
それを速攻で叩き潰した夏侯淵は充分名将の風格があると思うが。
つまらない戦いで命落とした奴はどうでもいいよ
>>86 いや、ルート的にははずれてる訳では無いよ、寿張は須昌の下にあるし。
俺が推測する曹操の進軍ルートは、
東阿から出発→寿張を経由して南下し須昌を攻略→これにより東阿〜范〜甄城のルートを堅固にし、
東阿〜寿張〜須昌〜范というルートの構築(防衛線の構築でもある)
→そのまま甄城を経由し定陶を攻撃(おそらくこの時に濮陽・離狐の切り離しを狙い曹仁に句陽を攻撃させる)
→定陶で呂布を撃退、東進して鉅野で呂布を撃滅(呂布逃走)→再び定陶に戻り定陶を陥落させる
→そのまま西進して離狐を攻略→諸軍に各地を平定させつつ自身は南進して雍丘を落す、これにより南西部を制圧しエン州の再平定完了。
こんな感じだと思う。
意見は意見。煽りは煽り
まあ煽りと判断されるのは根拠がない場合だろうね
まともに話してれば煽りか根拠ある意見かなのはすぐにわかるところ
つまらない戦いって?
夏侯淵でなければ成しえないことってなんだ?
>>90 話してるところで丁度いい例が出てきたが
例えばこういうのが煽りといえるでしょ
俺は淵を特に擁護する者ではないがこれこそ煽りの代表と思いました
わかりやすすぎ(笑
>>94 他に例がないから判断の仕様が無い。
というか、夏侯淵ほど、速攻に特化した将はいないし。
曹仁に比べりゃどうでもいい存在だってことだ
1年で徐州・揚州・并州・雍州間を往来転戦し、ことごとく勝利をおさめることができるのは夏侯淵だけだろう
風土地形の違う場所で連戦連勝なんて真似は生半可でできるもんじゃない
>>94 あるいは他の将でも出来たかもしれん。
けど、実際に夏侯淵の名を出せば異民族がビビるほどの戦果を挙げたんだから、
これを評価しないで一体何を評価する?
>>97みたいな根拠なき肯定と根拠なき否定を同時にしちゃう人は
煽り専門家とすらいっていいとおもうなあ。
あの掃討戦て配下武将の役割も相当大きかったと聞くが
その点はどうなんだろうな。分析の必要はあるかな?
>>97 曹仁派がゴネてるだけなのか、
あるいは反曹仁派が曹仁派を貶めてるのかよく判らん。
夏侯淵は、官渡ではエンショウ側の妨害を排しつつ、複数の州にまたがった食料確保と輸送を成功させている
速攻の武将と言われるが、後方支援も人並み以上にできたようだ
そっから一方面の司令官まで跳ね上がったのはそれなりの理由があるのだろうか。
淵は黄忠に〜だからダメー
ってのは根拠ある否定なのか?
>>103 兵站の確保こそ、名将への第一歩。
兵卒の統率力が、それで認められたんじゃない?
曹真や曹休が古参の将を押しのけて総大将になれる理由と同じ
淵自体古参なので実力を考えなくても方面司令官は当然な人事
兵站の重要性は言うまでも無いが将の将の才とはまた別だ
>>107 総大将を勤められる地位に上がるのはともかく
東奔西走するような起用をされたのは実力だろう
他に武将がいたのに夏侯淵でなければ、と休息する暇もないような連戦に投入された
曹仁などが一地方に貼り付けられたのに対して見ればどちらが上かは明白
>>107 おいおい・・・いくら親族でも実力も無しに司令官になれるかよ。
夏侯某は劉備が死んで蜀に対して油断してたからなれたんだけども・・・
この際比較の問題だろう 彼に実力がないという人間もいないだろうし
>曹仁などが一地方に貼り付けられた
は?
曹真や曹休だってとりあえずはある程度の実績を積んでからの
司令官起用だったのにな
なんでもいいけど曹真と曹休一くくりかよ?w
離れた地点で敵軍の攻撃や反乱が起これば、手元の武将や、地方司令官を差し向ければいい
にもかかわらず遠くの敵と戦っていた夏侯淵をわざわざ曹操が投入するあたり、やはり実戦での強さは凄まじかったんだろう
曹休は晩年に周魴の計略にひっかかり呉軍に負ける以外は勝利あるいは勝利への貢献で軍歴を飾っている
曹真も天候不順で蜀攻めが失敗したくらいで、あとは対蜀司令官として勝利し続けている
まぁ負けが少ないことではくくれるけど
若い頃は共に曹純みたく虎豹騎を率いていたということでくくれる
つまり彼らは他の魏の臣より優秀だったと、こういうことですか?
119 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 22:41
曹休は一度の敗北が命取りとなったな。
ところで対呉戦線の指揮官は張遼〜曹休〜満チョウでいいのか。
曹真や曹休は家族同様に育てられたからな。
曹操と言えども、身内は重要だったんだろ。
だけど、ポストに見合う実力がないと長続きしないもんだ。(例・夏侯某)
彼らはそれなりに有能だったと思うぞ。
夏侯淵の戦死が魏に与えた影響と于禁の降伏が与えた影響ってどっちが大きいんだろう?
>>91 伝にない以上曹操が于禁を派遣したという可能性は否定は出来ないと思う。
実は寿張一帯である東平は一度曹洪に占拠されてるんだよね
で一度離反した。それを于禁が再び占拠した。
須昌で高雅を破ってるので寿張に近いのはむしろ于禁の別軍では?
直後に合流としたほうがあり得ると思うんだが
あと曹仁についてだけど呂布を攻めた際って表現しかないので判断がつかないが
定陶自体は呂布を攻めた戦いではない。
定陶を攻め救援に来た呂布を撃破した戦いなので定陶攻めた時期に
曹仁が句陽を攻めたという表現ではないような気がする。
濮陽か鉅野、でも鉅野ではすでに離狐攻略済みなのでやはり濮陽なんじゃないのかね?
維持が難しいという面はあることはあるがね。
すまんすっかり話題移ってたのね...
>>121 ダメージでいうと于禁の降伏の方がでかいんじゃないか?
魏の精鋭である7軍が全滅だもんな・・・
演義での印象が根強く残るせいかもな >曹休
>>119 張遼が呂範を撃破した頃には、張遼は曹休指揮下に入ってるね。
満寵大活躍は石亭以降だし、曹休死後に対呉の責任者に
なったのは間違いない。
張コウがいたお陰ってのもある
>>124 しかし領土でいうと長期的に見て漢中失った方が遙かに大きい
128 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 22:51
東方が曹休で西方が曹真、決して無能では無いが演義での印象が強すぎて・・・
彼らの再評価が必要だな。
漢中は蜀に攻め込むためには必要な領土
攻め込む必要がなければただの陸の孤島
失うことも考えて住民の移住もすすめていたようではあるが・・
曹休や曹真を司令官にしたのは曹操でなく曹丕だべ
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 22:58
夏侯淵とか曹真とか、魏は親族武将もすごいよな。
こいつらベスト7に入らないからってそこそこの議論しかしないっていうのは勿体ない。
いっそ別に親族専用ランキング作らないか?
于禁好きなんだがあのとき失った七軍は後に関羽の捕虜という立場から
開放されたとは思うんだが呉に吸収されたのかな?
魏は特にその年大赦もしてないようだし、呉に降った七軍が脱走するなりして
魏に戻ったとしても再び魏軍として参入されたかどうか...
まあ七軍の兵卒は裏切ったわけではないので大赦の必要なく魏に戻れたのかもしれないが..
司馬家が入るならばトップ3独占しそうな
夏侯惇親子はそこでは何位ですか?
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 23:05
今こそ惇の出番だ。まあ親子だと凡愚な子のせいでランクが落ちるな。
徐晃の救援で開放されそのまま魏に戻ったんじゃないの?
なので七軍自体は失われてないと思われ
>>131 親族をわけて考えすぎ
出世に必要な要素というのは
同郷であったり名門であったり多種多様
それらは乱世である三国時代ですら厳然と存在するし
一兵卒からの出世者の方が珍しい。
>>136 于禁の身柄が呉に渡った以上、七軍も一緒に後方に移されたんじゃないか?
・・・で呉の占領を受けると。
孫権が于禁を何かと庇ってたのも、七軍を意識して・・・と考えすぎか?
あれそういえばハン城って結局だれのものになったんだっけ?
あと呂城の守ってた襄陽城も・・
呂城→呂常
141 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 23:22
魏だよ。呉はその後の襄陽を攻めてるからね。まあ全部撃退したけど。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
l ∨∨∨∨∨ l
| \()/ |
(| ((・) (<) |) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ⊂⊃ | / お前のモノは俺のモノ!
| .| ⌒ \.l/ ⌒ | | <
/ |. l + + + + ノ |\ \ 俺のモノは俺のモノ!
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|ししl_l ( | |
|(_⊂、__) | |
\____/ | |
とすると于禁と関羽が呉に捕まったのってのは
関羽は于禁つれて麦城に逃げ込んだということかな?
七軍の行方は??
>>122 >伝にない以上曹操が于禁を派遣したという可能性は否定は出来ないと思う。
武帝記に無い、ってだけで于禁伝には従軍して、って書かれてるから。
ひょっとしたら曹操以外の人が于禁を率いた可能性はあるけど、
于禁が完全に別働隊を率いたのは無理がある。
>須昌で高雅を破ってるので寿張に近いのはむしろ于禁の別軍では?
>直後に合流としたほうがあり得ると思うんだが
須昌から寿張は一連の作戦ではないと思われる、分けて書かれてるからね。
曹操も一回東阿に退いて体勢を立て直してるし。
>定陶自体は呂布を攻めた戦いではない。
呂布征伐だから、呂布の領土を奪う戦いでもある。定陶に呂布が居る居ないは問題ではないのでないし、
定陶攻めは呂布征伐の一環で呂布を倒す作戦行動だから。
>濮陽か鉅野、でも鉅野ではすでに離狐攻略済みなのでやはり濮陽なんじゃないのかね?
鉅野の時点では離狐はまだ落ちてない、記載を信じるなら順序は寿張→定陶→離狐で、
定陶は鉅野の戦い以降に落ちた。前にも書いてるけど濮陽の戦いでは呂布の行動に不自然な点がありすぎる。
なんか既に周りは他の話題に移ってるので心苦しい。
改定版
間違いや抜けがあったら訂正してくれ
創業期、官渡までの中原での軍功比較表 ■単独の軍功 □従軍しての軍功
于禁 曹仁 その他の五将
対陶謙 ■広威を陥落 □四県を攻める なし
■呂由を撃破
■陶謙の救援撃破
対呂布 ■ニ陣営を陥落 ■句陽を陥落 ■徐晃、趙庶、李鄒らを撃破
■高雅を撃破 劉何生け捕り □楽進、濮陽、雍丘に従軍
□寿張陥落 すべてにおいて一番乗り
□定陶攻撃. □楽進、下ヒに従軍
□離狐攻撃 別将を討ち取る
□雍丘で張超を包囲
□下ヒ攻め呂布捕縛
対張繍 □穣を攻める □近接の県攻略 □楽進、安衆に従軍
対袁術 ■橋ズイ包囲 □かなりの数の敵を. □楽進、苦に従軍、一番乗り
四将軍を斬る 斬り殺したり生け捕り
対袁紹 ■延津を守る ■劉備を撃破 □張遼、徐晃、従軍し劉備、顔良撃破
■汲、獲嘉を攻める 諸県を取り戻す 延津で文醜撃破
■杜氏津を陥落 ■遊軍の韓荀を撃破. □徐晃、輜重を攻撃
□輸送車を奪い. □楽進、烏巣で淳于瓊を斬る
食料を焼き払う
その他 □射犬でスイ固を斬る □射犬でスイ固を攻撃 □楽進、射犬でスイ固を攻撃
□黄巾賊劉辟・黄邵ら □楽進、沛で劉備を撃破
を斬り、降伏させる □楽進、黄河を渡って獲嘉を攻撃
どうでもいいがずれすぎ
つーか蜀に比べて魏晋は人材が豊富すぎ
君主の親族連中だけでもかなりのものだし
諸葛亮の後期が哀れだ・・・・
どっかからゴピペ
これの元ネタってなんなんだろ・・。
于禁は戦うだけの将であったようだ。総合力の優れる将なら、秋の長雨を有る程度まで承知していたはずであろう。
いったん本格的に降り始めたらなかなか止まず、しばしば大河が決潰するのを計算に入れておかねばならない。
また戦場か作戦行動範囲に河川があった場合、騎兵を派遣して朝夕の水位を把握しておくべきだ。
危険水位に入ったら、いかに有利な布陣をしていようが、低い地帯にあったらそこを速やかに放棄する。
周辺で一番標高のある地点へ全軍を移し、食料と水を確保して洪水に備えるわけである。
河川の水位よりわずか十メートルか二十メートルほど高くても、水害というものは直接の被害を避けられるのだ。
だが于禁にはその知識が欠如していた。幕僚にも一人として進言するものがいなかったようである。
>>145 従軍してってのをそのまま受け止めて
伝にないことにいくぶん想像力を働かせるとそうなるね
伝にないことをそのまま受け止めて従軍してってところにいくぶん想像力
を働かせると別軍の可能性も出てくる
寿長は有数の穀倉地帯であるので荀或の進言による食料確保と
于禁の寿張攻撃は密接に関わってると思う。そうすると
須昌に駐屯してた高雅を破る
そのまま于禁は駐屯(その地帯の確保のため、一度曹洪が一帯を確保したがほっといたら敵に占拠されたので)
刈り入れ時に近所である寿張を攻撃 食料ゲット(このとき曹操は定陶に再出兵中、合流)
って思う。まあこの辺の時系列は断定は誰も出来ないと思うのだがね
なんか凄ネタ満載の野史でもあれば別だが。
あとは曹仁だが呂布を攻めるという表現をそのまま受け止めると
濮陽以外には考えにくいと思う。
他の伝には呉質を攻めるという表現も成されているし。
確かに一連の行動だが伝は作戦としての一連の行動を作戦として見ず、
個々に記述する傾向にあるから。
それと当時の呂布の行動に何ら不可解はない。
戦線膠着中に乗氏近辺を固める軍事行動もかねて占拠し
敵への牽制をはたしたと見るのに無理はない。
濮陽の戦線膠着中には于禁の別軍の2陣営攻撃もあり曹仁の句陽攻撃が
それにも連動してる事に不思議はない。
あと鉅野のときに句陽を攻めた可能性をはっきり否定する要素は濮陽の時と同様ない。
しかし寿張、定陶、離狐の羅列のされ方は順番でなく時期は前後してるという見解。
寿張に関していえば俺の考えは于禁の件で述べたとおり。
それとこの時期曹仁は徐州に再び目を向けるべき状況もあり
(陶謙の死、劉備が後を継ぐ)
少し前の陶謙攻撃が曹操以外だと曹仁が中心であったことから
対呂布からは離れて対徐州に備えはじめてる可能性もある。
まあこれもそちらの意見も断定は出来ないのと同様こちらも断定は出来ない。
可能性の追求(悪くいえば妄想)にすぎないからね。
心苦しいのはお互い妄想でしかはなせないのもあって同じなんだが
まあそちらの意見もわからんでもない
ちなみに違う話題の方はスルーでよろしくです。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 21:19
スレタイの名将良将には、いわゆる兵站部門で活躍した武将ははいるの?
それともそちらは文官扱い?
将のまとめ役(らしかった)夏侯惇は別枠扱いみたいだけど
主に用兵能力に力点を置いているから
兵站オンリーだと順位は高くならない。
>>156 はいはい分かったから
兵站能力の高かった「将」をあげてね
夏侯淵が官渡前後で兵站を担当し、能力を示したのは既出だけど
全体的評価の主眼はその後の機動と攻撃の武将としてのものだからなぁ
兵站なら鍾ヨウあたりか
対袁紹戦時に軍馬二千余を供給するなどしている
>>152 >あとは曹仁だが呂布を攻めるという表現をそのまま受け止めると
呂布を攻めたなら俺もそのまま受け止めるけど、呂布を征伐した時、と書かれてるから、
呂布そのものを攻める、ではなく、呂布をエン州から追い出した作戦行動を指しているのだと、
俺は思っている、まあこれは語感の問題だけどね。
>伝は作戦としての一連の行動を作戦として見ず、個々に記述する傾向にあるから。
作戦行動を一纏めにして簡潔に〜征討と書くときあるよ、武帝記だけとっても、
曹操の劉表征討とか。
>戦線膠着中に乗氏近辺を固める軍事行動もかねて占拠し敵への牽制をはたしたと見るのに無理はない。
戦線は膠着してるものの曹操は敗勢、その状態で乗氏を固める事に意義を感じないし、
そもそも呂布が乗氏で敗れたのは、李進という無名の人物に敗れるという全くのイレギュラーで、
曹操が乗氏を維持する気があったとは思えない(自身は東阿に退くことになるしね)
>濮陽の戦線膠着中には于禁の別軍の2陣営攻撃もあり曹仁の句陽攻撃が
>それにも連動してる事に不思議はない。
于禁の攻撃は呂布との対陣中の事であり、曹仁の句陽攻撃は兵を割いての他方への拠点攻撃、
同一視する事はできないし、濮陽での戦況が芳しくないのに、反対方向の東南へ兵を向わせるのも牽制としては薄い気がする。
あと、曹操が退いた後に呂布は乗氏を攻撃してるが、この時に濮陽と乗氏の間に存在する、
句陽を攻撃した記述は無い、仮に曹仁が句陽占領し維持していたなら呂布との戦闘は必至、もしくは曹仁が退去したいう事になる。
それにこの時の戦いは曹操には利が無くと書かれており、もし曹仁が劉何を生け捕り句陽を落としていたら利が無いとは言えないと思うよ。
うお、順序が逆だorz
>そのまま于禁は駐屯(その地帯の確保のため、一度曹洪が一帯を確保したがほっといたら敵に占拠されたので)
>刈り入れ時に近所である寿張を攻撃 食料ゲット(このとき曹操は定陶に再出兵中、合流)
ここまで功を挙げていたら流石に省略されないと思う。
まあやっぱり俺の推測に過ぎないけどね。
曹仁の補足
>少し前の陶謙攻撃が曹操以外だと曹仁が中心であったことから
>対呂布からは離れて対徐州に備えはじめてる可能性もある。(陶謙の死、劉備が後を継ぐ)
これは逆にチャンスだと思う、劉備は足場固めの必要があるからそう迂闊には動けない。
曹操もその後はしばらく徐州を放置してるし。
それにそれでは曹仁が句陽が攻撃したこと自体がおかしくならないか?
徐州とは全然遠いよ句陽、徐州の防御を固めるような場所じゃないし。
スレがスットプ気味なのがよけに心苦しくなってきた…、
まあ歴史を語るのは半分妄想みたいなもんでしょ。
ちょっと兵站を誤解してる人がいるけど、官渡戦で兵站を統轄したのは荀ケでしょ?
許から前線へ可能な限りの供給を続けたわけなんだし。
現場での人材でいえば、袁軍の妨害を阻止するために、輜重を複数列にする事で
重厚な防衛措置を施した任峻なんかになると思うよ。
>>162 許一本じゃないでしょ
夏侯淵は戦域周辺から軍料を切り取ったし、ショウヨウは司隷方面からの供給だし
許の生産備蓄能力がどの程度だったか判然としないけど、兵站ルートが一本だったっていうことはまずないでしょ
164 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 14:59
こうしてみると、魏後半〜晋にかけての武将があんまり出てこないね
順位をつけた場合の上位食い込みは司馬イ・トウガイぐらいか…
鍾会とか文鴛とかは?
165 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 16:51
ヨウコさん
166 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 18:09
san9の文鴦カコイイ
文鴛は部隊指揮官レベルでは
「趙雲に比せられる勇将」って凄い微妙な誉め言葉だと思う
武勇だけは有名だったんだろうさ
人いない…
夏侯楙について語っちゃうぞ…
どうぞ
夏侯楙のすごいところ。
・夏侯惇の息子
親は自分で選べないので、持って生まれた才能ですよ
・嫁が曹操の娘
きっと有望株だったのでしょう
おわり
誰か彼のすごいところを教えてください…。
曹丕の夏侯楙の使い方をみてるとちょっとな。
曹操も親族武将を同じように優遇していたのかなと勘ぐってしまう。
曹・夏侯一族派の俺としては惇・淵・仁・洪は何だかんだで優秀だったと思いたいのだが・・
夏侯楙のばかぁ・・
夏侯楙は魏の元勲の息子である以上、
ある程度は厚遇(儒教上ののモラルとして)しないと成らないわけで・・・
それ以上に本人がアレだったんだよな。
親族武将といえば、曹爽
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 16:49
いや、親族武将と言えば曹真・曹休だろ。
つまり曹純はスルーと
正史じゃ曹真は親族じゃないでしょ
曹姓は与えられたけど
179 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 17:16
曹純は曹仁の弟君だったな。彼が死んだ時、曹操はずいぶん悲しんだとな。
>>173 一族の中でも特に優秀だったからこそ、選ばれたんだろ。
曹操程の人が、ただ親族だってだけで重要な地位につけたりはしないだろ。
>>160 陶謙が死に劉備に変わったのは195年
濮陽の戦いは194年の夏なので全然余裕あるよ
定陶以後だと丁度重なるので無理。
状況の変化に対してなんの手も打たないのは考えにくいので
曹操自らはほっとくとしても曹仁に備えだけさせとく可能性は高い(前陶謙戦の経緯から)
まるでほっとく方が考えにくい。
それと本隊対陣中にこそ別隊による作戦は行われると思う。
曹操が不利な状況打開の手を打たないのも考えにくいので。
対陣中だから別隊派遣しないという論理は成り立たない
あと曹仁は曹操と一緒に退いてると思う。
于禁に関していうと荀或の進言による食糧確保の行動が曹操の伝には
触れられておらず諸将の伝を探してみたが有数の穀倉地帯である寿張近辺の
軍事行動は于禁のみ。(見落としてるのはあるかもだが)しかもその行動の記載は2回。
須昌に駐屯してた高雅を破る
寿張攻撃
関連がないと考えるのは無理がある。
高雅の須昌の駐屯目的は寿張の食料(麦)を守るためとしか考えられない
先にも述べたが曹洪による穀倉地帯(東平)の確保が何らかの理由で呂布側に奪い返されてるので
高雅を破った後はそこの確保をする必要がある。なので
>須昌に駐屯してた高雅を破る
>そのまま于禁は駐屯(その地帯の確保のため、一度曹洪が一帯を確保したがほっといたら敵に占拠されたので)
>刈り入れ時に近所である寿張を攻撃 食料ゲット(このとき曹操は定陶に再出兵中、合流)
この流れが成り立つ根拠は多いといえる
伝にこの作戦における食料のことがのってないのは曹操も同じ。というより実行者と思われるどの将の伝にもない。
なので于禁伝に食料についての具体的記述がないのは不自然ではない。
曹操の伝は大抵他の将より詳細な状況が記されているのにこの件について
記載されてないことの方が不思議。
まあ気が進まないなら反論しなければいいと思うよ
(この議論がめんどくさくなってるのはこちらも同じ)
ちなみに違う話題の方はスルーでお願いします。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 20:00
>この議論がめんどくさくなってるのはこちらも同じ
はぁ?
>>180 一族だけではなく、将の中でもそうあったと思いたい・・。
無能なら実戦・実務で淘汰されて、有名無実の職に祭り上げられる方向にいくでしょ
186 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 21:40
曹一族について知りたいんだけど、曹操との関係を知りたいです。
曹仁
曹洪
曹休
曹真
地位と同じで、能力も五将より上であったと思いたい…。
>>181 >陶謙が死に劉備に変わったのは195年
陶謙伝、武帝記では共に194年です。
>定陶以後だと丁度重なるので無理。
だから重ならないし、むしろ絶好のタイミングで死んでくれてる。
曹操に大敗した後の領主交代、とてもじゃないが遠征出来る状況に無い。
その後には(195頃かな)袁術に攻め込まれてるしね。
>まるでほっとく方が考えにくい
上に加え、この時の徐州と曹操の拠点とは大分離れてるから、そこまで警戒する必要があるかは疑問。
>対陣中だから別隊派遣しないという論理は成り立たない
ただ対陣中だけな訳じゃなくて、敗色濃厚の戦況でわざわざ兵を割き、
句陽という濮陽に牽制できるとは程遠い所に派兵する事に理を感じない。
>荀或の進言による食糧確保の行動
そもそも荀或の進言は鉅野で薛蘭・李封を撃破した後の進言。
俺は記載されている順に拠点を攻略したと推測しているので、
曹操が定陶に達した時は既に寿張は既に攻略済みなので、刈入れに軍事行動は必要ない。
>そのまま于禁は駐屯(その地帯の確保のため、一度曹洪が一帯を確保したがほっといたら敵に占拠されたので)
>刈り入れ時に近所である寿張を攻撃 食料ゲット(このとき曹操は定陶に再出兵中、合流)
麦の刈入れは夏期に行われる。(荀或の進言からも伺える)。
そうすると曹操が定陶どころか鉅野で薛蘭・李封撃破するまで于禁はずっと寿張に居た事になるし、
曹操軍に参加したのはその後の定陶攻略の時からになりかねん。
それに荀或の進言の後(刈入れ期)に寿張を攻撃して、麦が無事だとは思えない。
第一曹操は10月には東阿に退いてる、東阿と寿張の距離は近く、攻撃するのに支障は無い。
わざわざ刈入れ期に襲撃しなくても余裕もって攻略した方がよほど安全。
>曹操の伝は大抵他の将より詳細な状況が記されている
長くて事績が多いからそう感じるだけで、細かい事績は結構書いてない。
あくまで大要と重要な事だけ書いてる。
実際曹操の業績の中では寿張の占領は小さい出来事、
他にも曹仁の別働隊の派遣や、離狐攻略も武帝記には記されていない。
>この議論がめんどくさくなってるのはこちらも同じ
別にそうは思ってないよ。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 22:04
>>186
曹仁(曹操の従弟) 父は曹シというが曹操と、どういう関係かは不明
曹洪(曹操の従弟) 曹洪の父は不明、伯父の曹鼎は中央で高官になってる。
曹休(曹操の族子) まったく不明
曹真(曹操の族子) 父の秦伯南が曹操の身代わりとなって死んだので曹性を与えて教育した。
曹操の父曹嵩は夏侯家からの養子なので、曹操と曹家の血のつながりはないよね。
曹家と夏侯家は婚姻を繰り返していたらしいから、多少はあるのだろうけど。
曹仁に関しては曹仁の祖父が「曹褒」で曹操の祖父である「曹騰」ではないから
俺たちが思う従弟(いとこ)じゃないよね。
曹休と曹真は曹一族の子供で、「曹丕と一緒に育てた」って事だから養子みたいなものかな。
ちくまだと「従弟(いとこ」「族子(おい)」「族弟(いとこ)」って仮名ふってるけど、
実際は又従兄弟とか遠い親戚くらいってことかな。
夏侯惇=従父兄弟(曹操の父曹嵩が夏侯惇の叔父)
夏侯淵=夏侯惇の族弟
ということは、曹操と濃いめの血のつながりがありそうなのは、夏侯惇だけってことか?
曹節
┌─┬────┤ 夏侯氏
│ │ 騰 ├───┐
│ ? │ ┌┴┐ │
不明│ 嵩←養子←嵩 ? 不明
│ ? │ │ │
│ ├─┐ 曹操 夏侯惇 │
│曹仁 曹純 ├─┬─┐ │
│ ミ 丕 植 夏侯淵
曹洪
>>192 おおわかりやすい!
でもこれ見ても混乱してきた。。。w
>>191 確かに夏侯惇が一番濃ゆい血になりそうだけど。
曹操に弟はいなかったのか? 親父が殺されたときに一緒にやられたのかな
>>193 おおお…父上!!鉄!休!!
みたいなのが曹操にもあったとですか
はっきり弟と記載されているのは、
・曹安民の父
・孫匡の妻の父
・曹嵩とともに殺害された曹徳
くらいかな・・?
曹徽の叔父、労陵の哀侯曹玉も弟かも。
俺の記憶にあるだけだから、もっといるかもしれんけど。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 13:17
198 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 14:35
>>188 195年というのはこちらの間違いだったが194年の夏以降に徐州の虐殺
があったのでその後の事績からして陶謙の死は194年末の出来事と考えられる。
曹操と一緒に194年秋に一度退却した曹仁が194年末ー195年年始から対徐州にあたった
(呂布攻略がメインのため念のため背後を守る役割を担った)としても
時間的な間違いはない。
曹操幕僚には劉備を危険視する声もあがりはじめ領土を得た劉備に念を押しての守備は
なんら不自然ではない手段といえると思う。
そもそも状況が変わった徐州に対してまったく危険がなかったという考えは結果論にすぎないと思う。
距離が離れてるから警戒不要というのも無理がある。
離れていると言っても接しているのは確かで軍事行動の範囲内。
それと乗氏近辺を抑えることは呂布にとって痛いところで、対陣中にこれをされると
動いたら本隊の戦力減少、動かなければ乗氏を固められるという状況になり、
劣勢の曹操だからこそ対陣中の場所に関わらず非常に有効な牽制になる。
相手の痛いところをつくのが戦術というものなので
距離の近いところを攻撃するのが戦術ではない。
もう一つつけ加えるとこの戦いにも参加してる李典は乗氏であり(もしくは深い関係)
同族とみられる李進の行動が全くの突発というのも考えにくくないか?
ただ李整と李進の関係がよくわからんが・・
199 :
198続き:04/08/24 14:36
于禁の寿張攻撃に関しては
>それに荀或の進言の後(刈入れ期)に寿張を攻撃して、麦が無事だとは思えない。
思えないといっても進言の後食料を手に入れたのは事実なので刈り入れ時に攻撃して
手に入れたとしか言いようがない。刈り入れ期がもっとも奪い取る好機ってもんですよ?
ただし于禁は駐屯していたという考えなので
それほど純軍事的な攻撃ではなく刈り入れ時の襲撃は略奪にちかい軍事行動と思う。
俺は寿張、定陶、の羅列の仕方は攻撃した順番とは関係ないという意見。
順番の前後する羅列はいくらでもあるからね。
そもそも2回目の定陶攻撃やその他この時期の他の攻撃自体も刈り入れ時を狙っての攻撃と考える
べきでこの辺の軍事行動はほぼ同時
(雍丘を包囲したのが8月秋なのでその前の軍事行動は夏と考えられ
これが刈り入れ時期と同じなのは偶然とすると無理がある)
そもそも定陶以外は軍勢を分けて諸県を平定したとあるので寿張攻撃の記載がない
曹操が直接これを行っているとは考えにくい。
加えて
>ここまで功を挙げていたら流石に省略されないと思う。
>>161 という大きな事績にもかかわらず曹操の伝に記されてないということになってしまう。
たしかに曹操が参加してない別軍の派遣などは武帝記に記されないことが多いが
本人の参加した作戦に関しては記される方が多い。
この呂布との一連の戦いは兵站の確保こそが勝敗の分かれ目であり
君の意見はややこの兵站の確保に関して軽視してる面があるように思える。
兵站の確保のためお互いが本隊以外の別軍で収穫地をめぐって牽制し合ってた
という状況把握なしで語ってるような・・
PS 気が進むのであればどうぞ反論してください
分析しながら知らなかった新たな事績とかも発見しはじめていて
面白くなってきたので。
まあ議論の行方自体は水掛け論なんだが。(于禁に関しては結構事績は多いので判断はつくかも)
200 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 15:43
>>気が進むのであればどうぞ反論してください
この言い方はなんだよ!しかも話題まで変えおって。
>>200 変わった物言いだよねw
煽ってるんだか、丁寧なんだか、よう判らん。
というか、人間性を疑うよな
204 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 17:59
もうみんな必死だな。
議論も進んでないし・・・煽りもいるし・・
ここはお前らの日記帳じゃ(ry
>曹操幕僚には劉備を危険視する声もあがりはじめ領土を得た劉備に念を押しての守備は
>なんら不自然ではない手段といえると思う。
代替わりした領土で、しかも余所者が領主になる、はっきり言って劉備は遠征出来る状況にない。
そもそも曹操自体はまだ劉備にさほど警戒しておらず、そこまでするのは疑問。
>曹仁が194年末ー195年年始から対徐州にあたったとしても時間的な間違いはない。
徐州征討からの流れで徐州に備えるなら、まずは最も危険な退却時でしょ。
>そもそも状況が変わった徐州に対してまったく危険がなかったという考え
徐州の状況は良好になった訳ではないし、劉備は袁術と争い始めてる。
まったくの危険が無い訳ではないが、そこまで警戒していたかは疑問。
>離れていると言っても接しているのは確かで軍事行動の範囲内。
接してるって、曹操が拠点とした范・東阿・ケン城と、
劉備が拠点にした下?とはかなりの距離があり、それに呂布の領土を飛び越えねばならない。
>それと乗氏近辺を抑えることは呂布にとって痛いところで、
別に大して痛くもないと思うけど?呂布の背後には領地があり、さらには敗勢の曹操が乗氏を固めたところで何の問題も無い。
>対陣中にこれをされると動いたら本隊の戦力減少、動かなければ乗氏を固められるという状況、
戦力減少は曹操も同じ、さらには乗氏を固めたところで大した意義はない、
事実曹操との対陣中、呂布は動きを見せず、結果として曹操は北に退いている。
君の言うような牽制があったとは思えないが。
それに劣勢なればこそ位置に関わらんでどうするよ。
>相手の痛いところをつくのが戦術というものなので距離の近いところを攻撃するのが戦術ではない。
距離の問題ではなく位置の問題だれも距離は問題にしてない。また上にも書いたけど痛い場所でもない。
>同族とみられる李進の行動が全くの突発というのも考えにくくないか?
いかに李家が乗氏で有力な家だったとはいえ、エン州の大半を所有した
呂布の軍勢を撃退出来たのは、偶然でしょう、李進も李典伝には名前もみられず、
ただ、県の人、としか書かれてないから、それほど有力な人物には見えないし。
>思えないといっても進言の後食料を手に入れたのは事実なので刈り入れ時に攻撃して
>手に入れたとしか言いようがない。刈り入れ期がもっとも奪い取る好機ってもんですよ?
まず荀或伝では刈入れに軍事行動を必要としたと思える記載はなく、わざわざ刈入れ時に攻撃するリスクの高い作戦を選択しなくても、
寿張に近い東阿に駐屯している曹操が寿張を前もって攻略すればもっと安全に食糧を確保出来る。
>回目の定陶攻撃やその他この時期の他の攻撃自体も刈り入れ時を狙っての攻撃と考えるべきでこの辺の軍事行動はほぼ同時
一回目の定陶攻撃は春で、曹操が鉅野で薛蘭・李封を撃破したのは刈入れ期の前、
この後の呂布のと戦いの間に、荀或の進言を取り入れて食糧の補給を行っている、
特に二回目の定陶攻撃は麦の刈入れ期を狙ったとする方が無理がある。
>そもそも定陶以外は軍勢を分けて諸県を平定したとあるので寿張攻撃の記載がない曹操が直接これを行っているとは考えにくい。
定陶以外ではなく、定陶を陥落させた後(この時呂布との決着は既に着いている)
曹操は軍を分けて諸県を平定した、俺や君の主張では、少なくとも寿張攻略はこの前。
省略されない、と言ったのは于禁が君の言ったとおりに食糧の調達を果たしていたらの話、
俺が主張しているのは、寿張での収穫は軍事行動が必要ない、
という主張だから、曹操にとっては名のある人物が居た訳ではなく、
本隊をもって食糧地帯の一つを確保しただけ、曹操の業績でみたら省略されるのも無理ないでしょう。
>君の意見はややこの兵站の確保に関して軽視してる面があるように思える。
俺から言わせて貰えば君の方こそ軽視してる気がするけど?上にも書いたけど、
食糧地帯の近辺に曹操軍本隊が駐屯して寿張攻略には問題無い位置にいながら、
わざわざ刈入れ期を待って、別働隊で略奪というリスクの高い手段で食糧調達したいう主張は。
>兵站の確保のためお互いが本隊以外の別軍で収穫地をめぐって牽制し合ってた、
曹操の定陶攻め以後は呂布は常に後手で、別働隊で収穫地を牽制なんて出来てないが、せいぜい李乾を薛蘭・李封が殺した位。
がんばって二つに収めようとしたら、かなり見難い文章になってしまった…orz
正直スマン。無理せず3つに分ければ良かったかな。
>>208 日記にこんなこと必死で書くような香具師はいない
賢い意見だ
他人が見てくれる日記帳には必死になるかもしれない
ブログでも有り得ない
219 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 22:14
変な疑問というか質問なんですが、三国志の列伝の順番はどうやってきめたのか。
まあ陳寿が気分で決めた様ではなさそうだが
>>219 俺もちょっとそれ気になってた。
単純に序列って感じでもないよね。
「惇・淵・仁・洪」にしても、序列でいくと夏侯淵>曹仁なのか?
五将に関しても同じ疑問を抱いたりする。
基本的には夏侯氏の方が曹仁の一族より優遇されてたようだし、
お偉いさんの順番では夏侯淵>曹仁になるんじゃないかな?
曹操は夏侯氏の流れの方が強いし。
帰りの電車の中でぼんやりと惇・淵・仁・洪の子供のコト考えてたんだが、
淵の子供以外みんな小粒なん?
なんかちょうどいい流れになってるし。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 00:02
そーだね。まあ夏侯淵は子供が大勢いたと考えても淵の子供達はいい要職に就いてるな。
惇の子孫は最終的に爵位の継承のみだからね。
>>219 序列に拘ってる部分もあれば、拘ってない部分もある。
しかし、列伝の筆頭は概ねグループの中でbPとみていいと思う。
とはいえ
程c>郭嘉、劉曄
とか
李典>臧覇、文聘
とまでは言えないから、筆頭が必ずNO.1とは思えない。
順序なんかにこだわってもあんま意味なし。
程cは筆頭でいいと思うが、それでも必ずNo.1とは確かに言えないな
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 09:27
> 順序なんかにこだわってもあんま意味なし。
こだわっても仕方がないけど、無視もできないよな。
序列順でないなら、陳寿が何らかの評価をした順番なのは間違いないだろうし。
序列プラス何かなんだろうけど、何を評価しているのかは気になるな・・。
ところで、魏の序列ってどうなの?
前スレで「惇>>于禁・楽進>淵・曹仁・張遼>張コウ・徐晃」とあるけど、そうなのか?
他の将はどうなんだ?
>>227 序列順、時代順、手元にある資料順・・・
この三つが入り混じってるから難しい(w
229 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 10:28
>前スレで「惇>>于禁・楽進>淵・曹仁・張遼>張コウ・徐晃」とあるけど、そうなのか?
まあこれが絶対という訳ではない。惇は別格なのでランクには入らないが、もしランクに入るとしたら
上位に入るのは確実(というか絶対)
魏の武将の功績などを検討し、ランクずけをするのがこのスレの目的ですよ。
安易にランクを決めると、いろいろ揉めるけど・・
>>229 227だけどこのスレのランクとは関係なく、魏の偉い順はどうだったのかとの疑問だよ。
単純に魏の序列は正史の順番かと思っていたので、違うならばどうだったのかなと。
前スレでは「惇>>于禁・楽進>淵・曹仁・張遼>張コウ・徐晃」が将軍位からとあるけど、これが偉い順でいいの?との確認。
誤解させてしまったなら申し訳ない。
このスレでのランクが、将軍位の序列からではなく能力や功績でのランクってのはもちろん理解してるよ。
ただ、議論が拮抗してくると、「夏侯淵>曹仁」「張遼が五将筆頭」のように序列が出てくるから、
正確な序列を知りたいと思っただけ。
俺は
>>225と同意見。
ランクなんかに拘ってるけど、(形骸化したといっても)漢王朝の封建した王制下での
官職や秩禄・領邑・爵位と、完全な帝制に移行してからのそれを同次元で比較して
序列なんてつけようとしてもあまり意味なんてないと思うよ。
それだと楽進は下位も下位ってことになるし、満寵なんかは上位でも問題なくなる。
>「惇>>于禁・楽進>淵・曹仁・張遼>張コウ・徐晃」
に意味や価値を見出せるとは思えないよ。
ひとつの目安としてはいいだろうけど、官職・秩禄・領邑・爵位で比較なんてのは、この
スレでは無意味じゃない?
1回もそういったものの纏めが出ていないのであれば、
一つの指針として纏めておくことも必要じゃないのかな。
完全に不要ではないんだろうけどね。
でもへたに纏めると固定概念化してそれに捉われる人間がでてくるものだし。
管制というか制度に関してあまり関心の無い住民もいるからね……
戦績に対する封侯・加増ぐらいかな、目安になるのは
魏国内でどれだけ評価されてたか、の考察材料になる
>>233 へたに纏めると、ということは上手く纏めれば必要ということではないのかな?
>>227>>230が言う序列はただの官職の位
ちなみに、「惇>>于禁・楽進>淵・曹仁・張遼>張コウ・徐晃」は、
「後漢の伏波将軍>>魏王国の四方将軍>魏王国の四征将軍>魏王国の雑号将軍」
夏侯淵が斬られる前あたりの官職(将軍位)での序列。
>>231が言うランク(序列)は官職・秩禄・領邑・爵位の総合
「序列」が何であれ
>>227>>230>>231を含め、皆が「目安程度」って思ってる事は間違いない。
纏めに関しては、
>>231の総合で序列を考えるとおもしろそうだが結構大変だな。
時期を合わせる必要があるしな。
そもそも当時の将軍職って、今の軍隊の階級みたいに固定で個人に与えられるものじゃないでしょ
今の軍隊の階級を知らんなぁ
将軍位と官職の両面からみていかないといけないね。
>>239 個人が軍務を重ねることによって佐官→将官などに出世していく「階級」じゃなくて
「〜隊司令」など必要に応じて与えられる権限職責が将軍職だということ
征東将軍→前将軍となった張遼みたいなケースもあるし
>>241 征東将軍よりも使持節都督〜諸軍事・征西将軍の方が遙かに偉いって事か。
曹丕以降になるとすごいことになっちゃうしな。
曹操時代ならば、そんなでもないんだけど。
> 征東将軍→前将軍となった張遼みたいなケースもあるし
単純に官職制度が変わったから、今までと同じ地位に横滑りしただけじゃないの?
個人的には
>>9みたいなテンプレはるなら、
5将と親族4人ぐらいは纏めてもいいような気がするけどな…
ちょっと調べただけだと、意外にも親族有利にならない感じだ(惇は除く)
243 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 16:12
<242
すまん。<9は俺です。
一応、将軍位のランク付けの目安ね
五品の雑号将軍クラスは
数千人の兵で作戦行動をしてて郡太守を兼ねたりしてるな
郡レベルでの局地戦の指揮官ってとこ
四品だと軍事拠点の駐屯軍って感じ。「前将軍」とかそのへんの連中ね。
三品の「征北将軍」とかだと、数万人を動員できて州単位の方面軍クラスかな。
四品の将軍位で「領×州諸軍事」ってのは聞いたことないから
やっぱり一州の軍事を仕切るのはおおむね三品以上。
二品の「車騎将軍」とかは「蜀討伐軍」みたいな国単位の軍事行動ができるはず。
朱シュンや皇甫嵩が黄巾討伐軍を編成したときはこの辺の官位もらってる
…まー「九品」自体、魏に入ってからのランク付けだし
これで単純に分類できるとは思ってないけどね
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 22:31
すっかり寂れたな。一応保守
>>210 うーん君は否定するのに一生懸命になるあまり論理に矛盾と無理が生じてきているなあ
その点を挙げてみると
・それだけ重要な食料調達の功があれば伝にも記されるはずと言っておきながら
ちがう件の否定になると重要でないから記されていないとなっていること。
・乗氏がそれほど重要でないというやや無理ある否定根拠
・李進と李典と乗氏の関係についてのやみくもな否定
・曹仁の劉備に備えたという可能性の否定をするのに退却時の備えを持ち出すと言う点
徐州退却時の備えは今問題になってないような。
・それと劉備は袁術といざこざ起こすだけの力があるわけで念を入れてもおかしくはない。
・念を入れなくても不自然ではないが念を入れてもおかしくはないというところ。
これは否定の根拠にはならないでしょう。
・最初に言っていたのは于禁の寿張、定陶、離孤の攻略は同じ作戦の中で行われていた
といっていたのに、寿張が先でそのあと定陶を平定し、そのあと軍を派遣してその他を平定した
という流れに変わってしまっている。この流れだと寿張と定陶とそれ以降は区切りがあると言うべきでしょう。
・それと東阿に陣する曹操が軍事行動なしに寿張の食料を調達したというのなら
その後の于禁伝の寿張攻略の記述そのものも否定することになる。
攻略済みの所を攻略したと伝に記載されることの矛盾。
・最も基本的な点として飢饉により食糧の備蓄がそこをついた状態で
刈り入れ期に、穀倉地帯を占拠することの重要性について理解していない点
刈り入れ期のまえではまだ熟しておらず、刈り入れたあとでは分配がすまされてしまうので
刈り入れる直前を狙っての軍事行動が最も有効。夏はちょうどその時期なわけです。
呂布が別働隊で牽制できてないと言うが曹洪が一度占拠した東平を(寿張一帯)
呂布は再び取り返している。つまり食料をめぐっての激しい攻防戦がなされていたと言うこと。
それをこちらの説で言えば于禁が再び取り返しているというわけで。
呂布が後手なのは同じ意見だがだからといって何もしてないわけではないよ。
それと思い出して欲しいのは君の説もこちらの説もはっきり断定できる裏づけは
ないということ。推測の根拠があるのみ。
ウザイので、コテとトリップをつけてください。
順位はいらないと言うのがこのスレの意向のようだが
ここまで議論してやめると言うのはあまりにも中途半端なので
能力部門と功績部門に分けて再開しないか?
勿論ランキング重視じゃなくて議論重視で魏将を語りながら
あくまで順位はおまけみたいな感じで。
すごく…難しいです…
つかもう長レスすぎて理解できん
自分ら何か?教授か史学専攻?すごいよ
単に文章を短く纏める能力に欠けるだけだ
長レスがいかんとは言わんが
長レスしか書かかないやつは間違いなく電波
長文に事細かくレスしようとすると
自然とレスも長文になる。
つまりこの長文連発の戦犯は最初に長文を(ry
速くスレが流れる時に限って単発一行の煽りや駄レスが多いんだし、
俺は長文でも文句はないな。
そのかわり改行等に気をつかって読みやすくしてくれないと困るけど。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 16:22
@
/ /
./ / i
| i ●|
|●i 張|
| i 遼i
\_ヽ_,ゝ ∧∧(゙
" (,,゚Д゚)゙) ハァ....
/ つ目
,〜,,_,,)
,..、
/ i'
,/ .i'
/ ( ゚Д゚) <最強の武ならだれか忘れてないか!?
γi⌒(ノ _,.i⌒ヽ、
i i /~`i'遼i`ヽ、i
ヽi_ノ\_ヽ_,ゝ ~
U" U
│ヽ
││
@ │ノ
/ / . @
./ / i ‖ミ
| ( ゚Д゚) .‖ < さぁ、最強の武である俺を讃えれ
|(ノi 張|つ‖
| i 遼i ‖
\_ヽ_,ゝ ‖
U" U .‖
バナナより強かった曹仁マンセー
張コウ>曹仁=張遼
257 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 21:14
張コウ>曹仁>バナナ>徐晃>于禁
っていうかなんか長文はなにか悪いのか?
議論するうえで長文になるものはしょうがないだろ
不必要に長いのはアレだが
259 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 21:24
最終的な魏の対呉の水軍責任者って誰?
呉と戦うにはかなり水軍指揮に長けた人間を用意しないと
無理だと思うんだけど・・・。
長けた人がいなかったから攻略できなかったんじゃなかろか
>>259 独立した「水軍」がなかったんじゃないか?
太平洋戦争時代の日本軍って「空軍」って統一組織がなくて
「陸軍航空隊」「海軍航空隊」にバラけてたけど
それに似た状況だったかもしれん
各軍団や輸送部門が勝手に自分達の艦船を持ってるみたいな
262 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 11:31
夏侯淵の最後は減点対象にならない。
蜀軍団の精鋭が総力を挙げて遂行された漢中争奪戦に、単独でよく戦った。
勝ったとはいえ、その後の対曹操戦も含め、劉備軍の消耗も激しく、勝者のない戦い
だったとも言われるぐらいだからな。
いや、自分が殺されたかどうかは関係なく
漢中を守りきれなかったのが減点なんだろ。
夏侯淵が司令官じゃなければもっと蜀軍を消耗させれたな
よく戦ってないやん 過疎化してるから釣りもいいけどな
>勝者のない戦いだったとも言われるぐらい
どこのだれがそう言ったんだ?
>>263 夏侯淵は戦死したのが問題なのであって、
漢中を守りきれなかったのは問題ではない。
元々漢中に大軍を置く余力もないし、輸送も困難。
撤退を視野に入れて住民の強制移住も進めてた。
夏侯淵の最後って諸説ある(正史でも別人の伝によって微妙に違う)んだけど
本当はどれだろう?
施設補修に総大将が出て斬られたってのはちょっとなぁ…
夏侯淵は勇気にまかせることしか知らない
漢中を蜀に対して長期にわたって守りぬくなんて地形的に無理なのは確かだがよ、
蜀を攻略するための前線基地じゃねえかよ。
せめて曹操がたどりつくまで持ちこたえるのが与えられた義務だ。
わざわざ曹洪まで援軍に出してやったというに。
まあ、自分じゃ無理だと思ったら被害が出る前に撤退するべきだがな。
>まあ、自分じゃ無理だと思ったら被害が出る前に撤退するべきだがな。
そういう思想って当時にあったのかなぁ?
当時の情報処理能力でそこまで可能なのか?
死んでもその土地を守るって思想のが強そうだけど?
これは思想の問題じゃないと思う 武士じゃあるまいし
土着意識の強い連中でも撤退くらいするよ
夏侯淵柔軟性なさ杉
夏侯淵は戦死したから最後の一敗を叩かれる
ウ禁・曹仁とかが敗北を必死で弁護されてたのと対照的だな
東西南北で連戦連勝した将軍の扱いとしては酷いな
別に話題にでなきゃ叩かれることもないじゃん>淵
最近、肥三国志でも夏候淵強くなったね!
淳よりも使い勝手良いし。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 22:19
やっぱり淳兄ですよ。
>>246 食糧調達について
・まず第一に、麦の刈り入れに軍事行動が必要なかった、というのは、
略奪という手段を用いる必要が無く、普通に収穫した、という事である。
さらに、曹操が食糧を補充したのは195年の夏、鉅野での事であり、
麦の刈入れに軍事行動が必要無いのは別に矛盾ではないし、寿張攻略を否定するものではない。
つまり定陶を攻撃する時には寿張は既に攻略済み、という前々からの主張そのままである。
・そして俺が言った、『功績が多大』なのは
“于禁が麦の収穫期に寿張を攻略し、そこで手に入れた食糧で曹操軍の食糧を充足した”場合である。
つまり、収穫と攻略は時期が違っていると主張しているし、
>>210にも似たような事は書いてある。
・君の言う食糧確保は略奪に重きを置きすぎている、食糧確保で大切なのは確実に手に入る事であり、
先に食糧地帯を確保して、計算できる食糧を手に入れる事こそが大事と俺は考える。
・呂布の別働隊云々は、>210に定陶以後、と書いた。曹洪は濮陽以前の事。
軍事行動について
・何か誤解をしているが、俺が主張する、同じ作戦とは呂布征討(エン州奪回)の中の作戦であり、
東阿出発から始まり、雍丘で張超を討つまでの軍事行動を纏めて同じ作戦としている。
この曹操の進軍ルートの予想は
>>91にも書いた。(今見たら一行目の寿張と須昌逆だった)
徐州について
・徐州退却時を出したのは、>少し前の陶謙攻撃が曹操以外だと曹仁が中心であったことから
という君の前の発言を受けて、その中心だった曹仁は徐州撤退に備えた様子も無いし、
君の主張では、そのまま曹操に付き従い濮陽まで来ている、との事。
だから徐州征討の流れで曹仁が対徐州に備えたと言うのはおかしいのでは?と聞きたいから。
・袁術といざこざは劉備が袁術の攻め込まれた、という受動的なもの。
荀或伝の中に、曹操がこの時期の徐州へ食指を動かしたらしい記載もあり、
それほど警戒すべき敵とみなしていた様には思えないが。
乗氏
・前にも色々書いてるけど、敗勢の曹操は結局北に逃げてる。
そして呂布は別に対陣中に目立った動きをした記載は無い。
この結果を受けて、乗氏を固める事は呂布にとっては痛かった、とするのは無理があると思うが。
・李進と李氏の関係をむやみに否定などしていない。
>>210にも書いてるが、
李氏の力は呂布に敵対できる程のものでなく、また李進もそれ程有力な人物には見えない、
と書いている、逆に李進がそれ程有力な人物であるという根拠が聞きたいけど?
そろそろスレ違いの域に達してると考え、これで最後にするため纏めて書いてみた。
後、この議論が推測で成り立っているのはもちろん承知しているよ。
曹操・司馬懿・ケ艾・曹仁・五将・夏侯淵までは散々語りつくされたのでそれ以下、つまり11位以下の面子について考えてみたいと思う。
とりあえず夏侯尚・曹真・曹休の一族武将の3人では夏侯尚>曹真>曹休だと思うのだがどうだろう?
>とりあえず夏侯尚・曹真・曹休の一族武将の3人では夏侯尚>曹真>曹休だと思うのだがどうだろう?
どうせなら理由も書いてほしいな。スレ参加者がみな同じだけの知識があるとは限らないし。
そもそも、どういう能力を論じているのかワケコンブ
286 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 15:20
曹真・夏侯淵がトップクラスだろ
いい人比べでは。もっとも夏侯淵の息子にはいい迷惑だったかもしれんが
将としての能力だから、武官的な能力じゃないのか?
文官としての才覚も入ってたりするん?
武官的な能力、ってそんな曖昧な
戦略に戦術 部隊指揮能力統率力実行力
機動戦の能力 拠点防御攻略の能力及び功績で総合的に評価
このスレでは軍政に関する能力は別扱いだと思う
>>284 この3人を上げたのは活躍した時期や権能が似ているので比較しやすいだろうと思ったから。
曹休が一番下なのは石亭での敗戦のイメージが悪いため。
夏侯尚と曹真に関しては微妙だが夏侯尚の方が荊州牧の時の事暦で大局観があるように感じたため。
あくまで叩き台としてのおおざっぱなランク付けなので異論とか出してくれると嬉しい。
>>285 このスレ的にはあくまで戦略眼や部隊指揮能力などの軍事的な能力の比較です。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 18:41
征南将軍って司令官のこと?
>>291 一応はその方面の司令官であることを意味してるけど他の職との兼ね合いで必ずしも総司令官であるとは限らないといったところじゃない?
燃料投下の意味もこめて書かせてもらいますわ。
俺の判定は、曹真>夏侯尚>曹休
まず曹真については、親族ゆえの高位に恵まれたとはいえ、漢中や対呉戦、河西の
叛乱や対蜀戦での戦歴と戦果、それに陳倉での戦いに先んじての布石などから、
戦績の多寡・戦術眼においては三者の中では僅かに勝ると評価。
ただし、斜谷での趙雲の陽動、子午の戦役における侵攻計画の甘さ等、その能力を
疑問視すべき点もみられる。
殊に子午の戦役に関しては、曹操の先例と陳羣の論理的な反対があるにも関わらず
兵站に難の生じやすい子午や斜谷といった険阻な桟道を用いた侵攻を再度にわたり
主張したあたり、戦略・作戦術の面で失点は否めない。
夏侯尚は上庸侵攻と江陵攻囲戦が主な戦歴だけど、どうも進撃に対しては果敢では
あるものの、いささか功に逸る傾向に感じる。
董昭が言う様に江陵での戦いでは際どい作戦を用いるあたり、積極果敢ではあるが。
ひとつ疑問なのは、「魏書」では曹丕の命で撤退とあり、「呉書」では夏侯尚自身が
危険を察知して退いたとある点。
これは双方の記述を照らして考えると、前者が真実で後者は一方的見解に基づいた
結果論的なところか。
総じて言えば、ひとたび成功すれば大きな戦果は挙がる反面むこうみずなところがあり
司令官という程の器ではない。
長いんで分けますわ。
最後に曹休。
曹休は三者の中でも最も戦歴に乏しく、下弁での陽動を看破した戦術眼は見事だが、
洞口での戦果は曹休個人の才幹に拠るほどのものでもなく、大きな評価はし難い。
最も減点されるであろう石亭の戦いに関しては、満寵や賈逵・朱桓の言葉から察せ
られるように、狭隘な地を進む危険にありながら退路を確保せずに一本槍な進軍を
行った点は確かにまずい。
大軍を擁したが為の安心もあったろうが、せめて皖に至るまでは分進合撃の形態を
とって、危機に瀕しても相互支援を行えるくらいの柔軟性が欲しい。
結局、彼も三軍を統轄できる器ではなく、歴戦の将領に較べれば劣るのは否めない。
最後に、面白い共通点としては三人とも中領軍であった経歴がある事。
これは曹操の最古参であった史渙が就いた事で有名なわけだけど、ここからみても
当初は三人とも中軍の近衛軍の指揮官的な位置づけ。
とはいえ史渙に較べれば三人共に実戦経験の不足は否めないし、実際、三者が三者
ともに、その欠点を露呈した経歴がみられる。
親族ゆえに一足飛びに高位高階に昇格してしまう為の悲運といえなくもないけど。
長くなって悪いけど、新たな叩き台として貰えれば幸甚。
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>>293 他にも夏侯尚は曹彰の烏丸討伐に参軍として参加してるね。詳細は分からないけど。
でもう一度、夏侯尚の事跡を見直してみる。
上庸奪取に関しては比較的楽な状況だったといえる。
(徐晃や孟達を従えた上、上庸の守将は劉封。しかも元々魏側だったが仕方なく降伏していた申耽が再び寝返るというおまけ付き)
ただ眼の付け所は良かったと思う。
また江陵包囲戦にしても渡河作戦自体には多少無茶があったが結局は無傷で撤退させてるわけだし、援軍の諸葛瑾は撃ち破った上に江陵を6ヶ月に渡って包囲してる。
よってそれほどマイナス評価にはならないと思う。(これがベスト3とかベスト5を選べというのだったら大きくマイナスになると思うけどね)
あくまでイメージだが智の夏侯尚・武の曹休・バランスの曹真って感じ。
>>294 > 最後に、面白い共通点としては三人とも中領軍であった経歴がある事。
これは推測だが三人とも親族であるが、世代的に曹丕と同世代であり父親が曹操に仕えていたわけではないことが影響してると思う。
つまり彼らが曹操と同世代だったら曹仁や夏侯淵のように別軍を率いる機会があったろうし、また父親が仕えていたら代替わりした際にその兵を継いだであろう。
しかしそのどちらでもないが親族でありまた見所があったので曹操がてづから育てたということではないだろうか?
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 22:40
こちらの都合によりあげさせて頂きます
正直曹休は夏侯淵と同レベルだと思ふ。いろんな意味で。
勝たなくてもいい戦いで勝とうとしたとこなんか特にね。
>>299 夏侯淵が曹休と同レベル?
釣りであると思いたいけど、本気で言ってるなら、あんたは軍事に対しての
理解も基本的な知識すらも無いんじゃない?
素直にROMってることをお勧めする。
夏侯淵は功績だけ。能力だけなら普通。
寂れると変なのがよりつくのかな?
>>300 その言葉、そのままアンタにお返しするよ。
そもそも曹休なめすぎな人多すぎ。曹休は普通に士官としてはそれなりに優秀だよ。
それは夏侯淵もね。ただ両方とも司令官としての器ではない。
戦術面だけなら定評はあるけど、戦略的思考に大きく欠け、
戦略的リスク以上に戦術的勝利を求める辺り、思考レベルとしても充分同等レベルだね。
まあ結局両方とも前線司令官としてはたいしたことないってこと。
>>301 おいおい・・・夏侯淵の電光石火の用兵を無視してそんなこと言うのか?
兵を制御する指揮能力が、際立って優れてたからこそ可能だった訳だが・・・
夏侯淵が戦略的リスク以上に戦術的勝利を求めた実例ってどれよ?
曹休にしても唯一にして最後の敗北をそう断定できるもんなの?
>>305 定軍山も石亭も用兵見れば明らかに長期的な戦略的目標の達成以上に
勝ちにいった結果負けた戦だとすぐ分かるでしょ。
特に定軍山の用兵は明らかにそうだね。あれでもし戦略的に損害を最小限に
抑えようとした結果の用兵ならば、よっぽど夏侯淵が無能だったことになる。
逐一説明するのはめんどくさいから、もう一度定軍山と石亭についてよく観察してみな。
特に定軍山は動きをまとめるのが大変だけど、よーく観察すれば分かる。
それで分からないならもう一度軍事の知識を1から勉強しなおすべき。
そういえば曹操も夏侯淵のそういった所についてはしっかり指摘してたよね。
やっぱりこの人の人物観察眼についてはただものじゃないなあと思う。
>>306 何を言ってるやら判るような判らないような。でも要約を作れないので、やっぱり判らない。
>>306 俺はあんたの言いたい事はよくわかる。
定軍山での件はたしかに評価として厳しい。
ただ、曹休と夏侯淵が同程度って言い方は少し乱暴。
戦歴の差があるからいちがいに納得できない人間がいるのも踏まえて
言ってもいいよ。
曹休と夏侯淵、ベクトルが同じであっても、レベルまで同じとは思えん。
曹休はレベル(戦績)不足のまま司令官になって失敗したタイプだし。
司令官として大功を挙げた夏侯淵とは同列には語れん。
戦略眼の不足には同意するが。
曹休は戦績不足だったか? 夏侯淵と同じような功績を挙げていると思うけど。
>>306 定軍山の用兵って?
正史の記述も伝によってまちまちなんだけど?
>>312 夏侯淵は隴西から涼州にかけての地域を切り取ってるよ。
これに匹敵するぐらいのどでかい武勲が曹休にあるか?
活躍した時期が違うので一概に比べられないが切り取った領土に関しては明らかに夏侯淵>曹休。
曹休(字:文烈)
曹操のもと、虎豹騎を率いる。
曹洪の参軍として対蜀戦線に参加。指揮を任され下弁に駐屯する蜀将呉蘭を撃ち破る。
張魯降伏後に中領軍、曹丕が後を継ぐと領軍将軍に任命される。東陽亭侯。
夏侯惇逝去後、鎮南将軍・仮節・都督諸軍事。
暦陽の呉軍を撃破。また蕪湖にある呉の屯営を焼き払う。
征東将軍・揚州刺史・安陽郷侯。
222年、征東大将軍。張遼らを率いて洞口方面に侵攻。
暴風のために混乱した呉の呂範率いる水軍を洞浦において撃ち破る。
ただ呉の援軍が来たため洞口自体は落とせなかった。
また臧覇を派遣して徐陵を攻撃させる。
揚州の牧。
226年、明帝即位、長平侯。
呉将審悳が皖に駐屯してくるとこれを撃破、審悳を斬る。
大司馬に昇進。
228年、明帝の命を受けて尋陽に侵攻、敵将を撃ち破る。
同年、呉の周魴の偽りの降伏に皖までおびき寄せられ大敗。
この敗戦を気に病んだか悪性の腫瘍のため病死。
積極的な性格で部隊を率いて功を上げたがその逸る性格は周りから危惧されていたようだ。(複数の他者の伝に危惧する旨が記述されている)
そして最後はその性格を逆手にとられ大敗を喫することになったようだ。
317 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 19:01
淵は優秀だが、征西の時に強い相手は馬超と韓遂ぐらいだったからなあ。曹休より
は能力的に上だろうけど、劉備戦も征西の大成功があったから、相手を少し嘗めていた
可能性は否定できないと思う。それまで、反乱をことごとく鎮圧もしてるから、
たかが劉備ごときが調子に乗りやがってという感情はあったかもね。
夏侯尚(字:伯仁)
218年、代郡の烏丸討伐に曹彰の参軍として参加。
220年、曹丕が後を継ぐと平陵侯・中領軍。曹丕が皇位につくと平陵郷侯・征南将軍・荊州刺史・仮節都督南方諸軍事。
221年、上庸の奪取を建言、徐晃らとともに侵攻し上庸を奪取。
222年、呉への多方面からの侵攻の際、南群(江陵)方面を担当。
江陵の守備は朱然、藩璋・諸葛瑾が救援。
張コウに中州を渡らせる策を取ったが、これは藩璋に目論見を見破られ撤回。
諸葛瑾の軍は撃ち破る。6ヶ月間に及び包囲したが孫権が曹丕に下手に出て和解を申し入れたため撤退。荊州牧。
荊州の国力回復に尽力、成果を上げる。
224年、昌陵郷侯に転封。
225年、妾の問題から気を病み病没。
事績はやや少ないか?
222年の江陵攻めではやや無謀な作戦を立てる面もあるが、忠告を聞き入れ大怪我をする前に撤退させるあたりは曹休より上か?
さてはりっくんの評価を更に上げようとしてるな・・
ううむ
>>317 韓遂はともかく、対馬超は結構微妙な気がする。
勢いに乗じるのが得意な淵を涼州近辺の掃討+領土拡大に用いたのは曹操の功績
所詮それだけの武将を拠点司令官として防衛戦をさせる結果にしたのは曹操の失策
脇に手堅い将軍達をつけたのは流石のフォローだし、忠告もしてるから
全部が全部責めるというわけにはいかんが
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| 電波が強すぎます。. |
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どかーん! _
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((;";从.")と )) ))つ
`;Y ;"、 Y ノ ノ ノ
(_ノ、_ノ
要するに今は夏侯淵と曹休及び曹真、夏侯尚の順位を比べてるのか
夏侯淵の相手の涼州と曹休の相手の呉を一緒にして考えるのは納得いかんな。
仮に夏侯淵が曹休の立場だったとしたら、涼州のときのような活躍をすることが
できたであろうか?いやできない(反語表現)
夏侯淵も曹休も下に有能な歴戦の将がいたけど、
夏侯淵の方が相手的にも地理的にも恵まれている以上、
曹休が呉の領土を切り取れなかったからといって、
夏侯淵に対しての減点材料にはならないと思われ。
>>324 夏侯淵に対しての減点材料にはならないとは思うけど、
夏侯淵が涼州を切り取ったことは、加点材料にはなると思う。
曹真(字:子丹)
曹休とともに虎豹騎を率いる。
霊丘の賊を討つ。霊寿亭侯。
218年、曹洪のもと対蜀戦線に参加。中堅将軍。
219年、夏侯淵が劉備に敗れ戦死したため漢中に派遣されると徐晃を指揮し劉備の別将高詳を陽平で撃ち破る。
同年、曹操が漢中より引き揚げると陳倉に駐屯した。
曹丕が後を継ぐと鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事。東郷侯。
220年、張進らが酒泉で謀叛を起こすと費曜を派遣しこれを平定する。
(文帝紀には酒泉の黄華・張掖の張進が謀叛、金城太守の蘇則が張進を討伐して斬るとある)
221年、叛乱を起こした治元多・盧水ら蛮族を討伐する。
222年、上軍大将軍・都督中外諸軍事。夏侯尚らとともに孫権討伐に派遣され、別軍を率い牛渚の軍営を撃ち破った。
223年?、中軍大将軍・給事中。
226年、文帝の遺命を受け明帝を司馬懿らとともに補佐。大将軍、邵陵侯。
228年、諸葛亮の北伐。先鋒の馬謖に対し張コウを派遣、これを撃ち破る。
諸葛亮が撤退すると北伐に呼応した南安・天水・安定の三郡を平定。
今後の諸葛亮の侵攻に備えて陳倉の守備を強化。これにより翌年春の諸葛亮の侵攻は頓挫した。
230年、大司馬。建言し司馬懿とともに蜀に侵攻するが長雨の影響で行軍が困難となり詔勅を受け撤退。
231年、死去。
魏での序列では曹休が常に上だったようだが、司令官としての実績は曹真の方が上のようだ。
派手な戦功こそないが事態に対して常に的確な手を打つ手堅い名司令官というイメージ。
夏侯尚よりも実績が多い分、上に置いた方が妥当だったかも。
>>316 > 張魯降伏後に中領軍、曹丕が後を継ぐと領軍将軍に任命される。東陽亭侯。
219年、漢中戦の後に中領軍、曹丕が後を継ぐと領軍将軍に任命される。東陽亭侯。
に訂正。でも間違ってるかも。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 10:40
どうやら誰もいなさそうなんで曹休でも語るか・・・
語って
331 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 14:34
ガルルぅ
332 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 17:34
曹休ネタじゃないけど五大将軍の子供たちってあまり高官に就いてないな。
だいだいは爵位の継承のみ。
逆に曹仁・曹休の子供たちの方がそれなりな将軍職にも就いてるし、知名だね。
今だ!333番ゲットォォー!!!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
>>332 あの頃になると曹一族と名士出身が軍部の要職占めるようになるからね。
叩き上げの武人(やその子孫)が立身できる余地は少なくなってたんだろうね。
329が曹休のことを語ってくれるのを待っているのだが……
俺も待ってる
俺のほうが待ってる
待ってるといっても俺ほどじゃあるまい
おれはおまいらを待ってる
来てやったよ( ´∀`)σ)Д`)
もういい。帰って
342 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/08 20:01
曹休と曹真はどっちが優れてたのかな。お互い曹操に認められ、文帝・明帝の時に
出世してますが・・
子丹
344 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/08 21:58
曹操配下といえば関羽だろ
連邦VSジオンのノリで
「後漢末戦記 官渡の戦い 曹操VS袁紹」
とかあったら関羽は曹操側で、
劉備と張飛は袁紹側なんだろうな。
どうやら誰もいなさそうなんで曹洪でも語るか・・・
寂れてるんで釣られる。
>>342 曹真・曹休ともに、戦術・作戦術の面でいえばけして無能ではなく、評価に足る
事績も散見できる。
ただ、北伐での陽動や子午の無理な立案、石亭においての単一化され無警戒な
行軍をみても、戦略的な勝利を要求するうえでは不可欠な、戦争における決勝点
を洞察する視野や思考に欠ける事実は拭えない。
さらに子午・石亭における戦略的敗北が瞭然としながらも戦術的な勝利で挽回
しようという点はいただけない。
三軍の総帥という見地でみればたいして優秀とはいえないが、可能な限り史料から
覗える(あくまでも”一手の”だが)将としての能力・事績の多寡でみれば、曹真に
一段上の評価を与えてもいいんじゃないかとは思う。
曹真と曹休の評価が綯い交ぜになってるように読み取れるのだが
>>348 子午の部分の事とか?
総合的にみて、なんだけど、子午の役では有効な打開策や対処もなにもないまま
対陣を続けて命令によって撤退、って運びでしょ?
失敗がはっきりしてるのに退かないってのは、曹真に自責の念があったとしても
まずいと思ったわけ。
350 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 20:06
二人とも敗戦が相当ショックだったんだろうな。無残に負けて帰還したあとすぐ死んでるし。
彼らにとってはあの戦いは乾坤一擲の勝負だったのか。
北伐での陽動って、当時の曹真の兵力ではどうしようもないのでは、
劉備が死んで数年蜀とは戦争が無かったんだし常駐している兵も減らされていたのでは?
本隊と別働隊の両方に対処するだけの兵力が無かったのでは?
仮に陽動を無視して諸葛亮の本隊の迎撃に出たら趙雲に背後を遮断されてしまうし
軍を二つに分けて対処したら総兵力では劣っているのだから各個撃破される可能性が高いだけだし。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 15:36:20
誰か曹洪語ってやれよ。上に書いた奴かわいそうだ。まあおれも曹洪嫌いだけど
曹洪については
>>346が語ってくれるまでじっと待て
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 17:05:10
曹洪はどの本見ても扱いが悪い。正史読んでもそこまで功績ないし
おいおい、曹洪は本では駄目でもアニメ横山三国志では曹操の弟として大活躍だぞ。
正史よく読んどけ。
356 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 18:55:28
仁や淵と比べると、圧倒的に戦功ないだろ。まあその二人と比べるのは可愛そうかな。
みんな曹洪嫌いなのか…orz
要するに天下に曹洪がいなくともさしつかえ(ry
軍事的能力とかとは全く関係ないんだが曹洪つながりで質問。
曹丕が若い頃曹洪に借財を申し込んだが断られたのって、いつぐらいの時で何の為?
360 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 11:43:59
河北を平定した前後ではないか。曹丕もその頃は二十代だから遊んでたのでは。
あ、でも妻を娶ってからも遊んでいたんじゃマズイから河北平定以前の線もある。
さらに考えると後継者争いの資金集めで金を要求したのかも・・
yukiのところでまだ横浜が那須野指名確実になってるな・・
誤爆スマソ
363 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 12:07:13
淵は広げた領土は広いが、相手が弱いから、能力で見るとやや低くなるかもな。
もともと急襲が得意だから、遊撃隊のほうが合ってる感じがするよ。司令官なら、
張コウと曹仁を俺は推すね。曹洪は司令官になったことってないよな?
364 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 12:23:26
曹丕が曹洪を殺そうとしたのは恨みだけじゃなくて使えなかったからかな。
曹洪は都督職もないし、持節などの処罰権もない。
功績は否定しないが、官位が上がったのは挙兵以来の親類武将だからとみていいと思うが。
曹操すくった功績だ
たけしの明大卒証と同じだ
366 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 19:57:14
寂しくなったな。このスレ・・・
みんなどこにいったんだ・・
367 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 21:07:09
曹洪のせいじゃん。あいつが出ると、話がつまらなくなるな
367=曹休
>>363 馬超と張飛を下弁から追っ払った時、
総司令じゃなかった?
まあ実質に指揮を取ったのは曹休だけど
370 :
曹純:04/09/11 21:28:42
お前ら俺を褒め称えろよ
>>370 君は確かに優秀だ
漢の高祖は、蕭何を人の功、諸将を犬の功に喩えた
差詰め君は、犬の牙、犬の爪と言ったところだろう
372 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 22:12:27
魏の太祖と漢の高祖は性質が異なる。
なぜ、高祖が喩えたことをそのまま、曹純に言えるのか。
まあ<<371の言い様も変だが・・
>>372 ちょっと勘違いされているので弁解
あのね、漢の高祖は、後方で諸将らが働けるように物事をつくすことを人の功と喩え
前線で敵と戦うことを犬の功に喩えたわけよ
なら、指揮官曹操の精鋭たる虎豹騎は、敵を切り裂く牙に当たるわけ
曹純は、優秀な猟犬の鋭利な牙…そう喩えることがそんなに可笑しいかな?
374 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 22:41:51
>>373 激しく誤解してました。犬とかっていうから、てっきり低い扱いかと・・
375 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 00:21:32
初めてこのスレ来たんだけど夏侯惇って10位すら入ってないの?
>>375 夏侯惇は名将というより軍政家。
軍事的功績は皆無に近いので(一部で愛されつつも)別枠で除外。
過去スレあさって読むような暇人はいないだろ。
●持ってる人だって限られてるし。
●って何?
ウンコクエ!( ・∀・)つ●)`Д´(●ヽ(・∀・ )ソウダクエ!
ウンコか,ってなんでやねんヽ(`Д´)ノ
ガ板でルクダル氏にhtmlミラーを作ってもらったり
にくちゃんねるで読めたりするけどな。
>>381 ●はともかく、専用ブラウザも入れてないのか?
●と専ブラってなんか関係あるのか?
(多分全ての)専用ブラウザは、メ欄も普通にテキスト表示
かちゅはデフォの設定だと表示されない。
まあ俺はかちゅ以外は知らないが。
>>378 5スレくらいだったら
流し読みで読むべき所だけチョイスすれば良いから、
一時間ちょいくらいあれば読めるじゃん?
暇人じゃないと読めないとは全く思わないな。
俺的にはわざわざこのスレのために1時間もかけたくないと言ってみるてすつ。
正直1時間もあったらなんか別の事に時間使うよ。
過去スレ全部dat落ちしてるよ
391 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:22:12
あのーー・・・
もうそろそろ話しをスレタイに戻しませんか。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:32:34
>>392 もともとこのスレは魏の武将を語るとこでしょ。
久しぶりに来てみたらこんなになったるし・・
>>393 それは禁忌に触れることになるのかもしれないんだぞ
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 21:32:20
>>394 すまぬ。禁忌とは?あまりそういう事には精通してないので。
>>395 _
/,.ァ、\
( ノo o ) ) 空
)ヽ ◎/(. 気
(/.(・)(・)\ . 嫁
(/| x |\)
//\\
. (/ \)
ランキングは廃止?
>>397いや。そういう訳では無いよ。
最近、あまり議論が活発でないんでね。ようは寂しくなってるわけだが・・
上位10名については散々語りつくされて全員が納得したわけではないが一応暫定的ながらも順位が出たからね。
それ以下になると熱烈に推す人がいないから盛り上がらないのは仕方ない。
一応283でネタを振ってみたが五将や曹仁・ケ艾ほどには盛り上がらなかった。
ところで夏侯尚・曹真・曹休では曹真>夏侯尚>曹休でいいかな?
283では夏侯尚の方が上かと思ったけど事歴を上げてみて考えを変えた。
>>399 曹真>夏侯尚>曹休で良いよ。
それはともかく上位10名の暫定順位って出たっけ?
曹仁肯定派と否定派の論争もうやむやのまま終了したし
8〜10位の3枠も于禁、夏侯淵、楽進、 臧覇、満寵、曹真と
候補は挙がりながら何も決まってないし。
于禁・楽進は曹操古参の将だし、曹操が魏国を建国した際には左右将軍にもなってるから、なんとか十位内にはランクイン
して欲しいけど、満寵とかも捨てられないから難しいな。
夏侯淵は擁護派と否定派がそれなりにいるから、10位以内か以外で結構揉めそう
淵をランク外にするのはマズイ気がするな。
戦死という形で亡くなったが、魏の西方の大小の豪族を一掃したのは淵の功績が大きい。
(まあ、張既等も尽力を尽くしたが・・)
満寵も曹洪の一件で名を上げて、曹仁と共に関羽を防いだし、合肥では孫権をよく防いだ。
功績は十分だろう。子孫が事件で平民に落とされたけど、彼の功績に影を落とす程ではなさそうだな。
夏侯淵の場合、「彼でなければ」という感じが全くしないんだがなぁ。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 15:39:53
李イ 文ペイ 李典 カクショウ 郭ワイ 曹純
の功績を順を教えてください
カクショウの最下位は確定
407 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 15:55:14
あまり名前が出てない
20位ぐらいにでそうな連中だ
たしかに、夏侯淵を十位圏内に置く事には、俺も疑問をもってる。
夏侯淵の雍州平定には、麾下に張コウや張既といった属僚が揃っていたし、
それまでに鍾ヨウが築き上げたバックボーンも影響してるだろうから、夏侯淵
ひとりの功績に比重をおけるか、というと言い切れない。
それに、馬超や韓遂ら関西の軍閥は渭水の戦いで敗北して軍事力の多くを
喪失して恒久的基盤を失っているに等しくて、伐つといっても残敵掃討に
近いうえ点の奪い合いに過ぎないんだよね。
馬超を漢中に駆逐する原因となった戦いでも、それ以前に楊阜ら抵抗勢力の
計画が実行に移った事に乗じたわけで、独力での戦果ともいえない。
たしかにその際の手際、涼州方面への長距離行軍は悪くないけど。
漢中の件に関して言えば、これは曹操の人選に問題がある。
陣地戦や拠点防衛の経歴に乏しく機動戦を得手とするうえに、曹操自身が認識
済みの突出傾向の強い性癖である、夏侯淵を将帥に起用したのはまずい。
西方経略の延長としての継続的な人事としてみるには、安易といわざるをえない。
俺は漢中失陥に関しては夏侯淵を評価するうえでの決定的過失とは思わないし、
そもそもする事自体おかしい。
>>404 淵を擁護する訳ではないが、人材豊富な曹操時代の魏では夏侯淵に限らず他の将だって
「彼でなければ」なんて感じない。
暇な人、ランキング教えてください(*´艸`)お願いします
>>409 合肥の戦勝は張遼以外に考えられませんが・・・
雍州平定は、速攻で回復させる暇を与えずに平定した点が、
急襲を好む夏侯淵ならではの大功かと。
雑魚を蹂躙するのだけは得意な将だな
>>411 合肥は曹操の指示あってだし曹仁でもいけないかな・・?
雍州平定だって張遼、曹仁でも同じか近い結果は残せないかな・・?
「もちろん、こいつはあの時ここを守っていたから無理〜」とかって言うのはなしで。
替わりに持ち出す例を五指に入るような名将にしてどうする
>>414 なぜ?
五指に入るような名将の中でも「彼でなければ」って言えるかどうかじゃねぇのか?
・・つまり今は淵を10以内に入れるべきが入れないべきかを考えてるのか?
他に候補が色々いるので迷うところではあるのだろう
于禁が10位以内は決定だろ
よって残り2枠
「淵が10位に入るか」と「魏将で『彼でなければ』と言える将はいるか」は別の話だよ。
ところで、久しぶりに人が多いね。
>>410のリクエストにお答えして
1位 曹操(決定)
2位 司馬懿(決定)
3〜7位 徐晃
曹仁
順不動 張コウ
50音順 張遼
ケ艾
8位 于禁
9〜12位 夏侯淵
楽進
臧覇
満寵
順位はこれで、今は夏侯淵が10位以内か討論中ってことでよろし?
優しき
>>419様、ありがとうございます。
臧覇ってのはびっくりしましたw皆さん詳しい・・・
でわ名無しに戻りますノシ
>>419 ケ艾は3位で決定したはずなのでこんな感じだと思う。
1位 曹操(決定)
2位 司馬懿(決定)
3位 ケ艾(決定)
4〜7位 張コウ(4位最有力)
曹仁
順不動 徐晃
張遼
8位 于禁(有力)
9〜12位 夏侯淵
楽進
臧覇
満寵
9〜12位 夏侯淵
楽進
臧覇
満寵
自分は9位が満寵、10位が楽進・臧覇で12位が夏侯淵なんだけど
どう思いますか。
>>421 艾3位で決定したんか?
なんか一人が頑張ってゴリ押ししたような気がするけど…
けどまぁそれを言うとまた出て来て荒れそうだからもうそれでいいや
李典はどうなん?
>>423 李典は人格は非常にいいけど、なにせ若死にしたから功績が少ないな。
さすがに10位内には入らないから10位から二十位の圏内だと思われ。
成長株だったのにな。
しかし、もし夏侯淵が10位以内に入れないってなると、
それで総司令官って曹操ちょっと駄目じゃね?
魏の序列も夏侯惇の次だったよな、確か。
親族への信頼ってそれほどでかいのか、曹操の評価がこことは違うのか、
単に曹操の判断ミスなのか、それとも総司令官ってのは名将じゃなくてもいいのか…謎だ。
で、13位〜20位候補に曹真、夏侯尚、曹休、曹洪、李典などって感じかな?
>>425 さらにその下に
李イ 文ペイ 李典 カクショウ 郭ワイ 曹純
がいるってことか
スゲー人材だ
>>423 功績の大きさと能力で艾以上の将は居ないということで、
艾3位確定した時、特に異論は無かったが。
>>なんか一人が頑張ってゴリ押ししたような気がするけど…
自分と異なる意見を一人に集約して異端視するのはどうか?
異論があるなら論理的な反論すればいいだけだし。
ケ艾が三位なのはみんな承知だろ。俺は四位は張コウで決定していいと思うが。
夏侯淵の司令官としての能力は、対韓遂戦を見ると判りやすい。
城に篭った韓遂に対し、
敵軍の分析(敵には羌族が多いと知る)、
誘導(羌族の集落を攻撃して、韓遂軍を城から出撃させる)、
撃破(得意な平地戦で勝利)
と、的確に行動して勝利を収めていることから、夏侯淵は司令官として
求められるであろう一定水準以上の能力は有していたと考えられる。
西部戦線の司令官として、夏侯淵は申し分のない人選だったと思う。
ただし、だからといって夏侯淵を過大に評価するつもりもない。
漢中戦のような、防衛戦でのより難しい判断が必要になる局面では
対応できずに敗れている。おそらく司令官としての的確な判断力という
点では満寵の方が上だろう。
また、曹操陣営の将としての実績、功績でも于禁の方が上だろうし、
相対的に見て9、10、11位あたりが妥当だと思う。
>>422 楽進は大好きだが、このスレでは上位指揮者をより評価する傾向があるのでソウハの方に軍配が挙がると思う
ソウハって魏の東方平定最大の立役者だろ。
なのになんであんなに評価が低いんだ?
高官に昇ったのも兵を取り上げて干すためだし。
一体彼は何をやったんだ?
俺は逆にスレの一時の臧覇フィーバーに流されて
皆やや過大評価ぎみな所があると思うが。
臧覇は名将良将よりも豪族名士に近いかも。
あるいは劉備麾下時の馬超的か。
ちょっと言葉が見つかんないけど…
ともかく10位以内は誉め過ぎでは?
陳寿によれば、満寵は楽進に劣る様だね。
時代は被ってるのに、5将からもれたから(伝末尾の評参照)。
暫定的に史家に媚びて
楽進>満寵
として置きたい。
張コウ4位に全く異論無し。戦歴長い!
>>433 どう考えたも活躍時期は重なっていないが…
216年以前が主な活躍時期の楽進に対し、
満寵は219年以降が本領発揮の時期。
そもそも満寵は持節や仮節を与えられた者として伝を立てられたのであるから、
五将らと併伝されずとも何ら問題なし
いい感じに盛り上がってまいりました
曹操>司馬懿>トウ艾>張コウ>曹仁>張遼>徐晃>于禁>夏侯淵>楽進>満寵>臧覇
と言ってみる
>>432 いや、評価が低いってのは魏の待遇がさ。
配下の兵のことは口実に過ぎないだろうし、
何か干されるようなことをしたのか?
張コウ4位、于禁8位に反対意見もないようなので
>>437 >>431 > ソウハって魏の東方平定最大の立役者だろ。
東方平定は臧覇一人の功じゃないし、比較級でいえば最大かもしれないが他の将と天地ほどの差があったわけではないということでは?
臧覇っていちおう、張遼の後任なのかな。張遼が前将軍に就任した後、
曹休が征東大将軍で臧覇が鎮東将軍になって二人とも都督職に就いている。
張遼が前将軍になった時から死去するまでの数年、三人は同じ方面指揮官だったのか。
>>436 満寵や臧覇が夏侯淵より下っていうのはありえないと思う。
特に戦略的機知にも戦術的機知にも優れている満寵が
戦略的機知に乏しく応変の才に乏しい夏侯淵より下ってのはまずないだろ。
>>441 満寵の全盛期が鼎立しだして守成を主としているのに対し
夏侯淵の全盛期が創業時の拡大なのにそこまで単純には言い切れないのでは?
どんなに戦略面で優れていても守成の人間が創業に勝るとか、
創業の人間が守成に勝るなんてのは言いにくいと思うんだが
>>441 俺もはやい時期から主張してたけど、このスレじゃ創業期の功臣ってだけで
有利になる傾向が強くて、ほんと閉口してたよ。
おまけに満寵は参謀だとか言い出すやつも涌いてきて、一時期はそれが公認
される始末。
ま…そういった軍事オンチの輩が、いまどうしてるのかは知らないけど。
んなもんだから、戦略的視野と柔軟な作戦術を示した人物でも、後期の人物は
ほとんどが初めから十位圏外だからたまらない。
>>443 つーかそういった人間が自分なりの基準でランキングを示せば?
解説つきでな
>>443 つまり君の主張に納得しない人間が多かったわけだ。
それは君の言うように聞き手が軍事オンチだったからなのかもしれない。
しかし君の主張が説得力に欠けるものだったのかもしれない。
そういうことを棚に上げてとりあえず聞き手を批判するのはどうかと思うぞ。
>>441 戦略的云々はともかく、
応変の才に乏しいってのは何故?
>>444 >ランキングを示せば?
>解説つきでな
やってますよ、過去に幾度と。
そのたびに、「そのネタはもういい」だの、
>>442のような意見になし崩しにされて、
かといって否定する連中が理論的な意見を吐いてるかといえばそうでもない。
最近になってほぼ決まった、ケ艾、張コウ、曹仁、張遼のランクなんて、俺は1スレ
あたりから主張してたけど、当時はほとんど相手にされなかった。
別に俺の意見が曖昧だったとかじゃないよ、5〜6スレあたりで定着した考証と
それほど大差なんてなかった。説得力に欠けたという事でもあるだろうけど。
……くどくどとごめん。ちょっと喚きすぎたね。
満寵ネタとか結構初期から何度か出てるけど・・・。
確かに論理的におかしくもないし、結構正しいこと言ってるとは思うんだが、
だからといって即上位に持ってこようと思うほどでもないんだよな・・・。
・・じゃあ、軍事オンチじゃない人から見て、少なくとも
こいつは10以内に入れてしかるべきって武将達を挙げて欲しいな
できれば正確な順位も欲しいけどそれだと難しいかもしれんので
というより軍事オンチじゃない人間の判断基準を教えてくれれば皆やりやすいと思うが
俺は自分が軍事に詳しいなどとてもいえないので。
俺は、死に様や末路・出処進退に殊更に言及して、マイナス評価にしようとする
意見に呆れてた。
ケ艾や于禁や夏侯淵がそうだけど、張コウまで持ち出す連中には開いた口が
塞がらなかったね。
ケ艾や張コウはともかくとして
于禁や夏侯淵はしょうがないだろう。自分の敗戦が原因なんだし。
なるほどそれで区分けができるか
まぁとりあえず、
10位からもれても名将は名将だ、
という考えは持とう。
例えば12位がそのボーダーラインでも良い訳で。
数字の語呂の良さに捕われててもしょうがない。
たとえば于禁。
曹仁にしても全くの無警戒だったにも関わらず、この件で曹仁を批判する意見には
ほとんど目にかかった憶えがない。
現地を担当していたのは曹仁である以上、于禁よりは天候の変化に通じているはず。
それに場内外の連絡とてとれないはずはないにも関わらず、曹仁が于禁へ警告を
発した形跡もみられない。
ついでに夏侯淵。
これは曹操の人事にも少なからず問題がある。
大局観に欠け、戦略的敗北から漢中失陥を想起した夏侯淵の作戦も過失ではあるが、
魏から見て陸の孤島に等しい漢中の防衛を、大動員をかけた蜀の攻勢に対して
中原から有機的な支援も得づらい地にあって恒久的保持は難しい。
夏侯淵を評価するのなら他の事績で量るべきであって、この件での夏侯淵の失態は
単独ないし少数での突出による戦死、要するに戦術レベルに限る方が妥当に思う。
漢中失陥による戦略的過失の全てを夏侯淵に背負わせるのは酷すぎ。
>>455 曹仁だって于禁の件(というかあの攻防戦全て)で責められてるぞ
淵には同意。とはいえ最後の失態は戦術レベルであっても
減点ポイントにされるのはしかたがないと思う
もともと単独で淵が漢中を守りぬくなんて曹操は求めてないだろう。
もし攻められたとしても援軍がたどりつくまでは守りきることを期待してたんじゃないのか?
1位 曹操
2位 司馬懿
3位 トウ艾
4位 張コウ
5位 曹仁
6位 張遼
7位 徐晃
8位 于禁
8位まではこれでほぼ確定?
5〜7は議論の余地あり
>>458 たしか前スレでいったん順位確定した時、
仁は遼・晃の下だったハズだが・・・
創業期の功績云々の見解の違いのまま平行線のままなので
この議論再開と共に見直せばいい。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 22:28:01
この三人はみな五位でいいだろう。ただ能力じゃないが、人望で曹仁がやや二人よ
り上じゃないか
曹仁は結構戦歴も長めだし
乗り越えてきた現場の障害も多いし
俺的には5位の最有力かな
曹叡ってどう?
曹叡なんか完全却下スペシャルだろ
一つ質問!!ジュンイクは?
あれは将じゃないだろ。
功臣スレでも立てれ
保守
後期の人物はあまり詳しくないので誰か語って下さい。
| ̄``''- 、
| `゙''ー- 、 ________
| ,. -‐ ''´ ̄ ̄`ヽ、_ /
|, - '´ ̄ `ヽ、 /
/ `ヽ、ヽ /
_/ ヽヽ/
/ / / / / / ヽハ
く / /! | 〃 _/__ l| | | | | | | ||ヽ
\l// / | /|'´ ∧ || | |ー、|| | | l | ヽ
/ハ/ | | ヽ/ ヽ | ヽ | || /|ヽ/! |/ | ヽ
/ | ||ヽ { ,r===、 \| _!V |// // .! |
| || |l |ヽ!'´ ̄`゙ , ==ミ、 /イ川 |─┘
| ハ|| || | """ ┌---┐ ` / // |
V !ヽ ト! ヽ、 | ! / //| /
ヽ! \ハ` 、 ヽ、__ノ ,.イ/ // | /
┌/)/)/)/)/)/)/)/)/)/)lー/ ` ー‐┬ '´ レ//l/ |/
|(/(/(/(/(/(/(/(/(/(/│|| |\ 〃
r'´ ̄ヽ. | | ト / \
/  ̄`ア | | | ⌒/ 入
〉  ̄二) 知ってるが | | | / // ヽ
〈! ,. -' | | ヽ∠-----', '´ ',
| \| | .お前の態度が | |<二Z二 ̄ / ',
| | | _r'---| [ ``ヽ、 ',
| | | 気に入らない >-、__ [ ヽ !
\.| l. ヽ、 [ ヽ |
ヽ| \ r' ヽ、 |
そのAA使いたかっただけだ罠
ケ艾以外に後期の将で10位圏内がいると言う
>>443に熱く語ってもらいましょう。
オレは443でも475でもないが郭淮あたりはいいとこ行くと思う。
訂正:×443でも475でもない→○443でも473でもない
後期活躍の人物は晋建国の功臣とかぶる。
そして彼らの伝は晋書に記載される。
そして晋書は日本語訳されてないので読めない人多数。
→後期(末期)の人物は語られにくい
>>472の指す後期がどのへんかは知らんけど。
前期(曹操)、中期(曹丕・曹叡)、後期(以降)だろうか。
まあそういうのもあるな・・・。
俺なんか「後期」って言われてイメージしてたのは蜀攻略の頃までだから。
>>478 それもあるだろうし、「演義」の余波をうけてて、三国時代後半への意識が
希薄な人間も多いと思う。
後漢末〜三国の過渡期といえる動乱期の方に興味が多くて、どうしても
史料をあたるにしてもそのあたりの記述に目がいってしまうのかも。
俺は諸葛亮が歿してからがいちばん好きだったりするけど……
481 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 11:30:54
そうだね。
純粋に正史を読んでて三国後期が好きになるのと
ことさら三国後期が好きだとか言って
「俺は演義知識だけのミーハーとは違う☆ミャハ」
って自己陶酔に浸るのとは全く別物なのだよ
483 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 11:54:15
ふむ。で?
魏好きで曹操嫌いって居る?
>>484 魏ヲタだけど曹操大好き
蜀好きだけど劉備は嫌い
俺は敵役を気に入る傾向にあるみたいで、
曹操は横山三国志読んでるときから好きだったな。
逆にその頃は劉備とか見てても
ハウス名作劇場のクソ真面目で面白味のない主人公を見てるようで、
見ててイライラしてたよw
正史読んだら劉備好きになったけど。
うむ、劉備に関しては正史から入りたかったな
イメージ払拭するのに時間かかったような気がする
おまえらスレ違いだ
元々脳死状態のスレなんだから
スレ死んでるみたいなんで、明帝死後(239)〜魏終焉までに四征将軍以上に
就任した人物を書き出してみる。()は就任年。
征東将軍 王凌(240)・胡質(241)・胡遵(252)・諸葛誕(255)・王基(258)・石苞(260)
征西将軍 趙儼(240)・夏侯玄(243)・郭淮(249)・陳泰(255)・ケ艾(257)・司馬望(?)
征南将軍 夏侯儒(241)・王昶(243)・王昶(250)・王基(259)・陳騫(261)
征北将軍 程喜(249)・劉靖(250)・何曾(255)
撫軍大将軍 司馬師(251)・司馬炎(264)
衛将軍 孫資(245)・司馬昭(254)・胡遵(255)・司馬望(263)・司馬攸(264)
驃騎将軍 趙儼(241)・劉放(245)・孫資(250)・王昶(255)・司馬望(264)・石苞(265)
車騎将軍 王凌(241)・郭淮(250)・孫壹(255)・陳騫(265)
大将軍 司馬師(252)・司馬昭(255)
( 「征○大将軍」は「征○将軍」に含める )
>>491 乙
有能な人が揃ってるけど、手堅く実績を重ねた人ばかりで、
破格の武勲を立てたのはケ艾ぐらいだな。
あと、戦場叩き上げの将軍がほとんどいないね。
文官職からシフトした人や、名誉職で将軍号をもらってる人ばかりだ。
天才の時代から秀才の時代に移り変わったことをマジマジと感じさせられるな。
組織のしっかりした大国ってのはこんなもんなんだろうか。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 18:05:53
郭淮、陳泰、王基は頑張った
494 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 03:15:20
(,,゚Д゚)∩ 「黄鬚児」曹彰は20位くらいには入りますか?
チン☆⌒ 凵\(\・∀・) 497まだぁ?
牛金
498 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 08:32:20
はいらねえ
( ´゚д゚`)えーーー
ホウ徳
( ´_ゝ`) 匹夫の勇
あいかわらずスレ死んでるみたいなんで、曹操魏公就任〜明帝崩御までに四征将軍以上
に就任した人物を。
征東将軍 張遼(215)・曹休(222)・満寵(238)
征西将軍 夏侯淵(217)・張コウ(227)
征南将軍 曹仁(214)・夏侯尚(221)
征北将軍
衛将軍 曹洪(220)
驃騎将軍 曹洪(221)・司馬懿(226)・曹真(230)・曹洪(231)
車騎将軍 曹仁(220)・公孫恭(221)・張コウ(227)・黄権(238)
大将軍 夏侯惇(220)・曹仁(221)・曹真(226)・司馬懿(230)・曹宇(238)・曹爽(238)
その他、第二品の大将軍
上軍大将軍・中軍大将軍 曹真(222)
撫軍大将軍 司馬懿(225)
鎮軍大将軍 陳羣(226)
特徴
・曹操〜曹丕の時期までは、四征将軍以上の大きな権限を持つ役職に
就任する者は少なかった
・曹操魏公就任〜明帝崩御の曹・夏侯氏就任率が60%なのに対し、
明帝崩御〜魏終焉までの曹・夏侯氏就任率はわずか5%
・叩き上げの軍人が四征将軍以上の役職に就任するケースは少ない
実戦指揮官は出世しても四方将軍までであることが多いようだ
安定期に入って以降の、強い権限を持つ方面司令官の増加とそれに対する
曹・夏侯氏で強い権限を持つ人物の減少が、曹氏政権の弱体化を象徴している。
叩き上げね 張コウは納得できるとこだけれども
黄権・・? なんか政治的配慮がありそうだな
蜀でも魏から降伏してきた夏侯覇が車騎将軍になったわけだし、
降伏者を寛容に扱うのは政治的な配慮としてよく見られる
ケースなのかね。
魏では他にも孫壹(孫懿)がそれにあたるな。
みんな車騎将軍になってるのは何か意味があるのだろうか。
車騎将軍は降将に与えることが多かったみたいだね
511 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 05:03:46
黄権は河南尹を経て車騎将軍に昇ってるね。
河南尹は三品官で首都圏長官だから、降伏した人に与える名誉職じゃないな。
蜀の鎮北将軍という閲歴を考慮して、最初から高い官位を得られたんだろうけど、
相当信頼されてたんだろうなと思う。
降伏後に忠義だかを認められてなかったっけ。
蜀にも魏にも。
ちんぐん大将軍 ちんぐん ??
514 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 17:03:55
曹洪は四天王で一人だけかなり遅れをとってるな。年齢的に、曹叡時代ぐらいには、
大将軍になってもおかしくないのに、なってないから、そんなに戦はうまくないん
だろう
>>514 正気? 大将軍は戦巧者に与えられるような単純な武官職ではないんだが?
>>515 知ったかぶりですか?
ク ク || プ / ク ク || プ /
ス ク ス _ | | │ //. ス ク ス _ | | │ //
/ ス ─ | | ッ // / ス ─ | | ッ //
/ _____ // / //
. / l⌒l l⌒l \ )) ____
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ / ____ヽ
/ ̄/ ̄. ー'●ー'  ̄l ̄ | | /, −、, -、l ))
| ̄l ̄ ̄ __ |.  ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 ||
|. ̄| ̄ ̄ `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6. ー っ-´、}
ヽ ヽ 人_( ヾ ヽ `Y⌒l_ノ
>〓〓〓〓〓〓-イ /ヽ 人_( ヽ
/ / Θ ヽ| /  ̄ ̄ ̄ ヽ-イ
>>511 司馬懿にも高く評価されていたしな。
同じ蜀からの降将で、曹丕に気に入られていた孟達とはその点で違うな。
>>514 四天王?
ああ、蒼天航路から入ったんだ。
大将軍は全軍を統括する役職だから、いくら武勲があっても、
政治力や軍政の能力、人望もなければなれないんだよ。
食客がやりたい放題やっててケチで知られてて、
あまり大軍を指揮したことが無い曹洪には任せられないよ。
なんというか正気まで疑われるのにワラタ
>>516 論理的な意見を返せないとAAにはしる行為って慎んだ方がいいよ。底がしれる。
放っておけ。こういうヤツが使うAAは限られているのだから。
曹洪は破廉恥のままで良かったと思う。
一日あまり経って釣られるなよ…
1日くらいだた。すんまそ。
>>517 黄権・孟達の両者とも蜀からの降者だが、孟達の行動は自身の利益本意に
動いたし、降伏後も蜀との国境の守備に当っていたから司馬懿は注意を
払ったのでは。一方、黄権は魏に降りつつ、蜀を慕い続けた忠臣たる姿に
なにも咎める事など無かったからな。
叩 か れ て 釣 り 宣 言
>>517>>526 孟達の投降に際して、当時の魏の評価は軒並みといっていいほど高かったよ。
懸念し未来を予見したのは劉曄と司馬懿くらい。
なぜここまで、孟達が厚遇されたのかな。基本的に魏は降伏者に対しては
とても好感的で、官位とかは破格の待遇だな。
政治的配慮ってのもあるんだろうが・・・
孟達も黄権も無能ではないし
もともと投降した人物を厚遇するというのは古代から慣例ではある。
君主の徳量を示す事にもなるし、政治的な意味合いや宣伝効果も大きい。
「隗よりはじめよ」の故事じゃないけど、偉材が集まり易いという利点もあるかも。
呉の降者の孫壱なんかは晋に降ってけど、呉が平定されると降格されてるな。
やっぱり、「我が国は降伏者に対して優遇しますよ」ってな感じの
アピールも含まれているようだな。
>>532 孫壱や孫秀は名誉職っぽいからね。
実務にタッチしていた孟達と黄権は蜀が滅んでも降格はされなかったんじゃないかな?
さすがに車騎将軍への昇進は無かっただろうが。
名誉職といえば、三公九卿も実は名誉的な要素が有るとかって聞いたな。
例えば、夏侯儒なんかは、戦の対処で賛否両論となり結局太僕に実質的には
昇進してたり。
>>534 三公九卿は名誉職と、実務に携わる人の両方がいたみたい。
廷尉高柔や鐘イクはちゃんと仕事してたみたいだし。
夏侯儒は二品の征南将軍から三品の太僕だから、実質左遷でしょ?
>>534 三公よりも、太傅や太保ら上公の方が名誉職。
三国時代で問題なのは、むしろ尚書の独立と台頭じゃないかな。
もとは少府の属官でしょ?
>>536 尚書の台頭は後漢末から既に起きていた。
三国時代はそれを確定化させたに過ぎん。
録尚書事っていうのは基本的に加官なのかな。
あと侍中と散騎常侍、尚書令と尚書僕射は各々どっちが皇帝に近いにかな。
539 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 23:24:43
録尚書事は基本的に最高権力者への加官。
侍中は皇帝の顧問官。散騎常侍は侍従官。仕事はあまり変わらないらしいが、侍中の方が格は上っぽい。
両方とも加官の場合がある。
尚書令は尚書の筆頭で、尚書僕射は尚書令の次官。
録尚書が加官、なんてどこで得た知識だ。
録尚書事は漢代では幼少の帝が立つと置かれる摂政職でした。
魏晋期以降は最高権力者が就任するようになったようです。
>>541の補足
晋書職官志には、「自魏晋以後、亦公卿権重者為之」とあり、
公卿の中でも権力の重い者が録尚書事に就任するようになったとあります。
実務のトップである尚書令をも上回る職権を持っており、
録尚書事=宰相という認識が出来上がったようです。
魏で司徒が相国になってた時期があったけど
それって、司徒=相国なのか相国>三公のどっち?
いつの話?
>>544 司馬昭の時代です。たしか、相国・晋王だったような。魏が漢から禅譲
された当初は相国があったような。
>>545 司馬昭が相国だった時期には、鄭沖・鐘会・何曾が司徒に就任しています。
相国>三公で間違いありません。
>>546 呼称の問題だけで宰相よりも相国のほうが上の地位。実際の権限は変わらない。
>>547 そうでもない。丞相と司徒がおおよそ同格の場合はあるけど、
相国だけは一線を画していることが多い。
丞相の権力分散を目的として、三公九卿が設置された訳だな。
司徒が政治、司空が土木建築、太尉が軍事。司徒が三公の中でも一番権力を
持ってるように見えるのは俺だけか。
普通そう見えると思うが…
魏の官職は宦官が政治を牛耳らないようにしてある以外は後漢の制度を
踏襲したものと思える。呉や蜀は丞相を設置して権力を一極化してるな。
>>551 呉は丞相を置いてますが、必ずしも一極化した権力を持っていたわけでも無いようです。
基本的にはその時々に応じて、高位の将軍や君主の寵臣らと権力を分け合う体制になっていました。
蜀の丞相には諸葛亮しか就任していませんが、権力の集中も諸葛亮一代で終わってますね。
諸葛亮の後継者たちも独裁権は振るえませんでした。
蜀は大将軍が政治の実権を握るという事態になってたな。
北伐を実行するにせよ、しないにせよ、軍権を一挙に握ってた方が
国内を統治し易かったと思う。
魏は政権中堅幹部が将軍職の高位に転任して、三公にスライドする場合がよくあるな。
>>549 漢は初期から丞相(宰相。民政担当)、御史大夫(副宰相。監察担当)、太尉(軍事担当)の三頭体制ですよ。
三公制は丞相を司徒、御史大夫を司空に変更し(ついでに監察から、丞相の管轄だった水利土木に職掌変更)、
明確に序列のあった三人を同格にしただけのことです。
あと、九卿も東漢建国期から存在していましたね。
↑間違い
東漢ではなく、西漢でした。
丞相は司徒になって権力を削がれた、御史大夫の監察職が御史台に移行したわけだな。
官吏の弾劾・監察は御史台を設置することで専門職にした訳か。
>>554 太尉は丞相>御史とは別関連の序列ってことでいいのかな。
あまりそうは読めないんだが。
>>554 東漢の太尉は非常設の職ですが、丞相よりは明らかに格下だったようです。
周勃のように太尉から丞相に昇った例もあるので、位階では御史大夫と同格ぐらいでは無いでしょうか?
言ってる意味が全然伝わってないようだけども…
「明確に序列のあった三人」ってのは三者全ての間に序列の別があったわけではないのでは?
と言いたかった。
ちなみに、丞相・相国・太尉はそれぞれ金印紫綬で、御史大夫は銀印青綬なので、
太尉の方が御史大夫より格上のはず。御史大夫が金印…になったのは成帝綏和元年。
改めて調べてみたんだけど、西漢では御史大夫と丞相の繋がりがあまり無いんですね。
御史大夫から丞相等へ昇進した者がほとんどいなかった。韓安国が丞相に任ぜられ
たものの断ったくらいかな。思った以上に皇帝の懐刀的存在だったのだろうか。
あっと、金印…になったと書いたけど、このときは御史大夫の改称された大司空のとき。
正確に言えば、名称が一時的に戻された哀帝建平二年か。
561 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/24 16:00:47
>>559 失礼いたしました。改めて調べたところ、私のほうが間違っておりました。
表を見る限りでも一番左が丞相、その次が太尉・大将軍・大司馬枠、その次が御史大夫となっておりました。
御史大夫から直接丞相に昇進した人は、
西漢では張蒼、申屠嘉、陶青、劉舍、?綰、公孫弘、李蔡、石慶、王キン、楊敞、蔡義、魏相、丙吉、黄霸、
于定国、韋玄成、匡衡、薛宣、朱博、平當、王嘉、孔光らがいます。
太尉から丞相になったのは周勃、灌嬰、周亜夫ですね。
西漢の丞相の五割くらいが御史大夫からの昇進組。後は九卿やその他重臣・諸侯からの抜擢組ですね。
当時の平均寿命を考えると、御史大夫でキャリアを終えてしまう人も少なくなかったみたいですから。
>御史大夫から直接丞相に昇進した人は…
わ、そんなにいたか。調べたり無い上に無知とは… スマソ…_| ̄|○
魏は地方戦線で、長い間功績があると、都に召されて三公になったりするね。
一種の兵権剥奪にも使えるな。
諸葛誕、ケ艾、鐘会はモロにそのパターンですね。
満寵や王凌、司馬懿のように三公でありながら出鎮していた人もいますが。
書き間違い。満寵は召還されてから太尉になってました…。
太尉司馬懿は名誉職にも関わらず軍を統率できたのは節を持していたし、
都督中外諸軍事も兼任してたからね。
司馬懿って、大将軍〜太尉〜太傅だっけ?
そう
なんで曹爽は司馬懿の持節・都督を剥奪しなかったんだ。
曹爽伝に見られるように、大司馬・太傅にしたら完全な名誉職だと思うが
>>568 剥奪しちゃうと、軍事に通じて無い自分が軍権を全部握っちゃって、大きな戦争を指揮しなきゃいけなくなるから、
戦争用に司馬懿の持節・都督を残しておいたんじゃないでしょうか?
曹爽は宮廷政治では完全に自分のほうが上と思ってたぽいし、
中央軍と尚書を掌握しておけば最高権力は握れますし。
持節・都督・仮節ってどういう意味なんですか?
>>570 使持節=二千石以下の官吏を自分の判断で処刑できる。
持節=官位に無い人を自分の判断で処刑できる。
仮節=軍規に違反した人を自分の判断で処刑できる。
都督=指揮の及ぶ範囲を表す。都督○○諸軍事の場合は○○方面司令官。
都督中外諸軍事は国軍総司令官ということになります。
補足です。節は処罰権、都督は指揮権ということで、どちらも軍を指揮するには欠かせないものです。
ですから、いくら高位の将軍でも節を持たず、都督でもなければ名誉職。
節と都督を持ってれば、あまり高位の将軍でなくても指揮権を持つことが出来ます。
例えば、魏の呉質は北中郎将というあまり高く無い官位でしたが、使持節都督幽并諸軍事を帯びることによって、
幽・并ニ州の軍権を掌握することが出来ました。
>>571 持節に関してだけど、戦時下に限っていえば使持節と同等の権限を有して
いませんでしたか?
良スレハケーン。
勉強になるわ。
匈奴中郎将とか、烏丸校尉とか辺境地域の対異民族の職は皆、節を持しているから、
任地で異変が起きた場合、朝廷の意を待たないで独断権を行使することができるな。
反乱の頻発する州の牧、といった感じで捉えたらいいんでないかな。
州牧レベルなのか郡太守レベルなのかは差等があるけど。
>>576 異民族を管理するのですから、異変が起きた時に独断で動けなければ困ります。
やり過ぎたら更迭されるだけのことです。
匈奴中郎将や烏丸校尉のことではありませんが、曹叡の時代に使持節・都督青徐諸軍事の桓範が
個人的なトラブルから、使持節の権限を使って徐州刺史鄭岐を処刑しようとして、免職されたことがあります。
刺史ってのは州の監察官だけど、牧ってのは州の政治・軍事を握る重要な
ポストだな。刺史の場合、州からの視点だと郡国が政治を監督する分権だが、
州牧の場合は中央政府からの視点から見ると、地方分権ですね。
>>579 三国時代になると州牧に就任した人はほとんど重臣クラスですが、
だいたい他に高位の将軍位や都督を帯びてる場合が多く、
漢末のように単独で巨大な権力を持ちえるポストだったかどうかは疑問です。
そもそも前線の州牧や州刺史は、前線の最高司令官が兼任しちゃうか、
その指揮下におかれる場合が多いんで、地方分権度は州の長官が牧でも刺史でも大して変わらないと思います。
魏とかの官僚はよく「地方に出て〜の刺史になった」とか「外に出て衛尉になった。」
とかっていうけど、それは左遷なんですかね?それとも経験を積むという点で
刺史や典農になるのですか?
>>581 能力を見込まれて地方に出る人もいるし、中央から追い出されて地方に出る人もいます。
地方で無能と判断されて中央に召還される人もいますし、功績を上げて中央の良いポストに栄転する人もいます。
ですから、人によって違うとしか申し上げられません。
刺史・太守止まりの人もいれば、そこからコツコツと出世して宰相クラスに至る人も少なくありませんので。
そういえば、夏侯惇・淵や曹仁・曹休などの跡継ぎはみんな小粒なのかな。
夏侯淵の一族は太守や九卿で将軍職はいないな。
ある時期を境に一族と政権が切り離されたと考えていいのかな。
>>583 彼らの子孫で高位の将軍を列挙してみます。
>夏侯惇
次男の夏侯楙は安西将軍ですが、関中諸軍の指揮権を与えられていましたので、
高位の将軍に匹敵すると言って良いですね。
>夏侯淵
次男の夏侯覇は右将軍まで昇っていますね。
>曹仁
長男の曹泰は鎮東将軍まで昇進しています。
弟の曹純の子の曹演は領軍将軍まで昇進しています。
>曹休
長男の曹肇、曹肇の弟の曹簒は武官でしたが、官位はあまり高くありません。
ただし、曹肇は明帝の側近として官位以上の権力があったらしく、
一度は燕王曹宇とともに後事を託されています。
曹洪の子孫は官位に就いた記録無し。
夏侯尚の子の夏侯玄は中護軍、征西将軍を歴任。
曹真の子孫は言うまでも無いでしょう。
子の代まではそこそこ高い将軍職に就く人もいましたが、軍部の重鎮と言って良かったのは夏侯玄ぐらい。
孫の代となると、将軍になった記録は残って無いですね。
>>583 >ある時期を境に一族と政権が切り離されたと考えていいのかな。
明帝期までは曹真、曹休と言った一族が軍の中枢におり、他の一族も側近で権力を持っていました。
最初に明帝に後事を託されたのは、燕王曹宇・領軍将軍夏侯献・武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎将軍秦朗でした。
秦朗は曹操に養育された人物なので、曹一族扱いです。
このように一族勢力は中央軍や皇帝の側近を固め、政権と密着していました。
しかし、明帝の寵臣だった劉放・孫資の謀略で曹爽以外は失脚してしまいます。
曹爽一族は権力を独占するようになりましたが、この一件で他の一族勢力は権力の中枢から切り離されました。
後に司馬懿のクーデターで曹爽一族が滅亡し、完全に一族勢力は政権と切り離されてしまいます。
ケ艾・鍾会は家柄に関して言えば、雲泥の差だけど司馬氏との関係は濃い。
彼らが非業の死を遂げなければ晋の賈充・何曾のような元勲になった可能性もあるかな。
それとも使い捨ての駒に過ぎないのだろうか。
>>584 長々書いて乙だが、その程度の内容をそこまで長く書く必要あるか?
いつも同じこと繰り返すなよ。
>>587 禿同
>>584の青タンはちょっと走りすぎだな。
知識があるのは分かったから、も少し簡潔にな
>>587-588 暫くの間はそうとうな寂れようだったんだし、つまらん一行レスが続くよりも
よほどいいと思うけど?
それに
>>584だって十分に読み易い範囲だし、長文っていうほどでもないと
思うんだがな。
>>589 いや、その程度ってのはありえないだろ
俺も自分にあんな知識も表現力もないのが悔しいとは思うが。
そんな程度を基準にされたら、語ることすら覚束ないような…
長々語れば、なんか知識あるみたいに見える
長々書かれてるもなにも
事実を列挙してるだけなんだから別に構わないだろ
興味無い人はスルーすれば良いだけ
まったくだ
あの時の時点で書き込みしてたのは。青さんと自分でしたからね。
彼には結構、お世話になりました。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/29 22:05:19
最近、ランク決めが盛んじゃないけど、どうなってるの?
曹仁・張郃・張遼のランク決めはどうですか。
いらないよランク決めなんて
もう流行ってないし
一番近いところでは
>>458で確定 >ランキング
蒸し返す理由は?今更ひっくり返すには、相当な根拠がいると思うが。
>>586 いずれにせよ、蜀滅亡の功労者などという大きすぎる功績から、いずれははめられて抹殺される運命だっただろうな。
だから、その後の話はあんまり考えても意味無いような・・・・・。
ケ艾・鍾会は勿論懐刀だが、それも蜀という目の上の2つのこぶの内のひとつが消え去ったんだから、後は乱世に力
を発揮する異能の才は不必要になったわけで。とくにこの二人が合体すれば司馬一族にも対抗できるだけの経綸と軍
事の能力を十分持っているから、マズーな罠
もう、司馬氏にとっては軍事はどうでも良かったんだよ。家康と一緒で、寝て暮らしてれば棚からぼた餅が落ちるんだか
ら。まあそのあげくが西晋の軍事力軽視から早々の滅亡に繋がるわけだが。だから、二人とも、いや、少なくとも鍾会は
自分の末路について予感があったと思う。だから蜀を取って独立しようと。
>>600 そうこう言う前にまず改行を覚えろといいたい
まったくだ
何のブラウザで書いたら、こんな変な改行になるんだ?
ふつーにギコナビだが何か?
おまいら携帯かよ。うるせえな。
>>603 改行入れなさすぎなのが問題なんだろ。
ちなみにOpen Jane αだ。
いや、改行する箇所がおかしいんだろ
なんでそんな中途半端な位置で改行するんだ
>>602 一行106バイト、53文字程度のようだ。
秀丸でも一行で収まらん。
インジャネ?
ランキングはつまんないんでそれで終了
>>586 >>600 平呉戦役後、功労のあった将軍は皆褒賞を受け、その後も用いられています。
最大級の功績があった杜預・王濬らは不遇な晩年をすごしましたが、それでも粛清はされていません。
彼らの不遇は悪い意味での政治力が弱かったからに過ぎません。
司馬一族は司馬懿以来の伝統として政敵には容赦しませんが、功臣には手厚く報いています。
功臣粛清体質もありませんでした。
鐘会は政争に強いから冷遇はされないだろうし、
魏を乗っ取ってから晋を建国し、呉と戦っていくにはまだまだ彼の才能が必要とされたでしょうから、
反乱さえ起こさなければそのまま晋の上公クラスまで進めたでしょう。
ケ艾は相当な高齢だったので、鐘会の讒言に始まる混乱が無ければ、
穏やかな晩年を過ごせたのではないでしょうか?
鐘会は反乱で死ぬ時の年齢は40歳代だったな。鐘会は蜀征伐直前に鎮西将軍に
任ぜられているから、中央からのお目付け役としての役割も兼ねていたと思う。
ふと考えると鐘会が蜀から一時退却してたら、綿竹関を攻撃中のケ艾は孤立すると
思うのだがそこら辺は大丈夫だったのかな?
それはケ艾を見殺しにしたと言うことで、立場が相当悪化する。
それに、鐘会はすでに腹に一物もっていたと思われるから、やはり退却はあり得ない。
確かに司馬氏にはそういう面もあるが、一面冷徹なリアリストでもある。そこがその他の
同時代の群雄との違いであり、仲達もじつは綱渡りのような権力闘争だったが結果的に
勝ち抜けたのもそのような面があったから。
蜀攻略の成功は、やはり鐘会が反乱を起こすには格好のエサであり、司馬にすれば想
定内だったのではないか。野心を持たないなら鐘会が上り詰めることもなかっただろうし、
この辺り飛び抜けてしまった人間の宿命というものを考えさせる。ケ艾も気の毒ではある
が、やはり三国の緊張関係のバランスが魏=晋に大きく傾くという激変にあっては色々な
事が起こるのは当然で、それを予測できなかった田舎官僚の弱さが政治面で出てしまった。
すると、ケ艾の強行軍は友軍との連携を断っての奇襲だった訳だな。
鐘会も眼前の姜維に対しながらもケ艾の奇襲成功が妬ましく思っただろうな。
同列の将軍を2人立てる事自体、2人の仲違いとかを狙った動きだろ
政権中堅幹部と地方指揮官なんていかにも仲悪そうだな。
そーいえば、途中で都に召還された諸葛諸ってなにげに晋でそれなりの官位に
就いているな。都に召還されたのも鐘会の讒言だったから特に失態とは思われなかった
のかな。
諸葛緒って牢屋の諸葛一族か?
多分、晋書とかに彼の伝があると思うのだが、諸葛誕や彼の一族出身かは不明。
呉にも諸葛直と言う、夷州へ行った人物がいるが、彼も陽都県の諸葛氏と関係があるかは不明。
>>616 『晋書』にも伝は立てられていないし、記述は少なめ。
昇進の過程は、泰山太守 → 雍州刺史 → 太常 かな。
最後は九卿に列してるから、それなりの位階には登ったとみていいでしょう。
太常は礼儀、祭祀、皇帝の行う行事を司っているようだな。
刺史と言っても対蜀前線の雍州だから、征西将軍の補佐とか後方支援を担当したと
思われる。
>>618 魏の前線の刺史なら、都督の下で普通に軍を率いている場合が多いですが…。
620 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/07 02:23:02
ケ艾・鍾会の蜀攻略の際には諸葛緒が別軍の司令官になってる
>>618はおそらくこの記述を見て発言したんだろ
けど「三少帝紀」景元四年条だとこんな感じ
「今征西将軍ケ艾ヲシテ諸軍ヲ督帥シ、甘松・沓中ニ趣キ以テ維ヲ羅取セシメ
雍州刺史諸葛緒ヲシテ諸軍ヲ督シテ武都・高楼ニ趣カシム」
これ見ると明らかにケ艾の指揮系統に入ってるわけじゃなく
ケ艾とは別の軍団長として勅命を受けてる。「補佐」が適切かどうかは…
けど都督じゃなく直接諸葛緒に勅命が下りてきてるから、
独立した軍団長って感じが強そうだ
そんなわけで
>>618も
>>619も合ってるといえば合ってるし、間違ってるといえば間違ってる
まーどっちにしろ、あくまで一つの戦役でこういう作戦行動があったって話であって
これだけで「魏の前線の刺史の任務は…」なんて一般化できないと思うけどね
なんか「将軍の職務を一般化するのは…」って論議みたいだ罠
622 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 17:17:57
突然だが、魏の征北将軍って実務は無いと聞きます。その場合、任地で何を
するのだろう。対異民族も護匈奴中郎将とか烏丸校尉とか対応してるから
本当にすることが無さそうだと思うが。
623 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 21:37:48
>>622 征北将軍になると都督河北諸軍事、または都督幽并諸軍事がオプションで付いてくるから、
実務は無いどころかたくさんあります。護匈奴中郎将や烏丸校尉も当然指揮下に入ります。
「話」ではなく「噺」としているのは、やはり皮肉なんだろうか?
ここで態々「はい」と答えるか、それが問題だ
>>624 よせよ
ここはソースを一切出さずに、思い込みで語り合うスレなんだから
誰しも知識はなくたって、脳内で思い描いた「三国時代像」を語ってみたいじゃん
その突っ込みは野暮なだけ
ソ ー ス は ど こ ?
|三|
, -ー‐‐─-、 ,-ー─‐‐-、 /_____\
| | i. ,! | | |三| |ギコーマン|
‐-------‐!ニ!‐-------‐ /_____\ |___醤⊂ヽ
i/ ̄ ̄丶.i::;三;::i../ ̄ ̄ヽi |ギコーマン|彡>:::(,,゚Д゚)ノ
卩||(゚д゚,,) | i::;三;::i | (,,゚д゚)||Ψ |_醤油___| 彡.:(ノ::: ::: |
⊂||中濃 ヽ)::;三;:::::(ノ中濃||⊃ (゚Д゚,,)::< |:::::::::::::::::|
 ̄ ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(ξ';;::;;) (ξ';;::;;)
誰もいなさそうだな・・・節や都督職を持してない将軍ってのは
独断では軍を動かせないのか?
私兵ぐらいだろうな。
近衛兵や警備兵を統括してるような人なら
独断で動かせるだろうけど。
四鎮、四征、四安とかいわゆる二品の「方面軍指令官」は
都督持節とセットだったようだ
二品で都督も持節もない将軍職もあったみたいだが
いわゆる「××大将軍」とかいう連中だから、逆に実際に軍を動かすことはないでしょう
都でふんぞり返ってそうだ
三品以下の将軍は師団長クラスだから軍兵はそれぞれ持っていたでしょう
ただ三品将軍で中二千石だから
独断で軍を動かしたりしたら、使持節を持ってる都督に速攻でブッタ斬られてしまう
各州の駐屯地でおとなしく都督の指令に従っていたんでしょーな
都で車騎将軍とか衛将軍に任じられてる高官は皆、特進など大臣待遇の連中だな。
彼らがもし軍を動かす時が有る場合は勅令によって出動するのかな?
634 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 23:54:46
寂しすぎるのでAge
保守
文聘
明帝即位時によく孫権軍を防いでくれた。
(赤β)昭
陳倉でよく諸葛亮軍を防いでくれた。
., -、,. -─- 、⌒〉
{ } ヽ_ r'⌒)
ヽ、 ,,-‐‐ ‐‐-、 iヽ、 J
{ 、_(o)_,: _(o)_ヽ/ ヽ/∪
! >:: } / 丶
l /( [三] )ヽノ‐''> < つわぁぁぁああああ!
i⊂}__ `二´‐'´__/__ はちみつだと思ったら精液だった〜
ヽ ‐- 、二`ヽ/〉⊂ニニ⊃)
| // ̄ ̄)j~U^∪ヽ
ノ ` ‐-L!--‐''(´ )
`i''ー----‐ ''"´ ヽ、__/
! } ` }
!. , -‐- 、. ノ--─ '
ヽ、_{. `ヽi'⌒i
`''‐- 、.. __,!
過疎スレとは言え、こんなAAを貼られてしまうなんて・・・
張遼=騎馬軍団論争が懐かしい…。
まったく、いつの頃の論争だったけね。
今更ながら気がついたけど、合肥の奇襲は歩兵800だったんだね。
数は文献によって変わるがな
孫権を討ち取る寸前だったと言うが、歩兵じゃ無理か。
張遼は騎馬だったのか?
なんで兵の種類が変わってるんだ
やっぱり歩兵か・・・
いや、実際歩兵だったのか騎兵だったのか歩騎混合だったのかは分からないが、
記述されている兵の実数を疑うのと編成を疑うのではだいぶ重みが違うな、と
歩兵800じゃ万単位の孫権軍を撹乱デギンのとちゃう?
孫権の陣が手薄になったところを奇襲だろ?
別に孫権軍全体が撹乱されたわけではないでしょ
649 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 23:01:15
削除です
なんで削除する必要があるんだ?
反応すんな
652 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 05:34:06
諸葛亮がなんだかんだ悔やんでも、
徐庶は結局かなりのところまで出世したと見ていいんだよね?
(つまり、かなり有能だったと)
それでも表舞台(司馬イの様に)にでれなかったのは、
名門の出でなかったこと、蜀と比べて人材が豊富にいたことが
原因だと。
孔明は、徐庶ほどの者でも
あれぐらいの地位にしかなれなかったのかって感じなことを言ってるし、
悔やんでるわけではないっしょ。
まあそれでも普通に見れば凄い出世だったわけだけど。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 10:36:17
>>653 >孔明は、徐庶ほどの者でもあれぐらいの地位にしか
>なれなかったのかって感じなことを言ってるし、
「蜀にいれば、もっと要職に就けただろうに、
魏は徐庶の才能を見抜くことができなかったから、
あれぐらいの地位しか与えられなかった」
っていう意味で諸葛亮が言ったのだと理解していますが?
つまり徐庶の才能が生かされる地位になれなかったことを
悔やんでいる。
理解の仕方が間違ってますかねえ??
>>654 間違ってると思うな
それだと諸葛亮は暗に魏を馬鹿にしてるから諸葛亮が無能ってことになる
魏の他の人がヘボイと言っているんじゃなく、
徐庶個人の能力を評価してるんだと思いますが?
徐庶個人の能力として、役不足の地位しか与えられなかったと。
それでも暗に魏を馬鹿にしてるってことになりますか?
何にせよ、徐庶の地位によって敵対する魏の人材の層の厚さを感じ、翻って我が国の状況に
思わず暗澹たる気分になったというあたりが、この言葉の要点なんではないかと思うんだが。
徐庶は正当に評価されていない、彼の能力なら魏でももっと出世できるはずだと言ってる
わけではないだろうね。
そもそも孔明が悔やむようなことではない。徐庶からしたら大きなお世話だよな。
原文読んだことないけどちくまだと
「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか。」だよね。
> 徐庶は正当に評価されていない、彼の能力なら魏でももっと出世できるはずだと言ってる
この考えであってると思う。
「あの二人が用いられない程、魏に徐庶、石トウに勝る人物が多いとは思えない。」ということでは?
> そもそも孔明が悔やむようなことではない。徐庶からしたら大きなお世話だよな。
禿同
フツーに考えて敵国から無理矢理引っ張った人物を
重要な役職に付けるか?
元から居る奴らだって面白くないだろうし。
ゲームじゃないんだから能力だけで決められないよ。
>>660 御史中丞は重要な役職でしょ?
普通なら十分に評価されていたと考えるのでは?
孔明からすればそれでも足りないというだけの話だと思う。
孔明も世に出る前は隆中に引っ込んでて、
出たら出たでずっと劉備軍だしで視野が狭かったんじゃないの?
徐庶なんて俺の次くらいに優秀なのに!! と思ってたとか
魏の優秀な連中をよくしらんかったとか鼻からバカにしてたとか
663 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 17:30:46
魏には自分より優れた人材がたくさんいるんだろうかってとこじゃない?
徐庶を基準に考えた対比論で。
>>662 そんな人が国を治められるとは思えないがw
>「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか。」
なんでこの文から
>> 徐庶は正当に評価されていない、彼の能力なら魏でももっと出世できるはずだと言ってる
>この考えであってると思う。
なんて考え方ができるんだろ?
こういう考え方すると662みたいなことを孔明が考えてたってことになって
諸葛亮が自分はバカですと喧伝してることになるだろうに
> 徐庶は正当に評価されていない、彼の能力なら魏でももっと出世できるはずだと言ってる
これについては、間違っていると思う。
実際それ以上出世できてないんだから。
「魏でももっと出世・・・」というよりも、
「彼の能力なら仕えるところが違えば、もっと才能を発揮できる要職につけただろうに」
くらいじゃないか?
才能があっても、それに応じた要職すでに埋まっているからつけなかったことを
惜しんでいるんだと思う。
では徐庶が呉に行ったとすると・・・
>>665 まず、諸葛亮がどれだけ魏の人物を知っていたかという考えから入ったんだが
文通するくらいだからある程度は知っていたと推測。以下、妄想
「魏はとりわけ人物が多いのだろうか」←この疑問は諸葛亮の中で答えが全く分からないわけではない。
「どうしてあの二人は用いられないのだろうか」←この疑問は諸葛亮が本当に分からない事。
二つを合わせると「あの二人が用いられない程、魏に徐庶、石トウに勝る人物が多いとは思えない」
になるわけです。あまり深く突っ込まないでくれ。
> 徐庶の地位によって敵対する魏の人材の層の厚さを感じ、翻って我が国の状況に
> 思わず暗澹たる気分になった
こうだったとすれば
「どうしてあの二人は用いられないのだろうか。魏はとりわけ人物が多いのだろうか。」
になると思うわけで、だから原文の話をしたんだけどね。
>>666 > > 徐庶は正当に評価されていない、彼の能力なら魏でももっと出世できるはずだと言ってる
> これについては、間違っていると思う。
> 実際それ以上出世できてないんだから。
だって世の中は諸葛亮の思い通りじゃないですから。読み違えてるかな?
なんか香ばしい人がいますね
670 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/19 08:39:15
孔明にしてみりゃ徐庶を持ち上げとくに限るだろ
一応知り合いの中じゃ頭のキレる奴だし
ましてや敵国に居るわけだからな
まぁ魏にとっちゃ扱い難い存在だわなw
母ちゃん人質にした手前、もう殺すわけにもいかないし
かといって低く扱えば能力主義に反するし
おまけに対蜀戦で心底信用して使え無い
徐庶を持ち上げた孔明の真意は正に、
良い役職に付き親孝行出来るようにし
さらに持ち上げる事によって間違っても
敵にならないように保険をかけた。
徐庶と魏(ソウソウ)の心理を見事に捕えた情報戦略だな。
なんて香ばしいんだろうw
つまり王監督が「小久保を取り戻す」発言をすることにより、小久保の
巨人での年俸を上げてやろうという親心のようなものですね
>>652 諸葛亮より少し上の年代で右中郎将・御史中丞(四品官の中の出世コース)なら、
十分政治の表舞台なんですが…。
常勝将軍田予は七十を過ぎるまで現役で、極官がようやく衛尉(三品官)。
元袁紹の将で、曹操以後魏の三代に仕えて多大な軍功があった名将牽招の極官は、
皮肉にも徐庶と同じ右中郎将でした。
名門出で無かったこと、史書に特筆されるような勲功が無かったことを思うと、大出世です。
魏の時代に編纂された魏略では、徐庶は立伝されています。
同時代の魏の人々からも、一流の人材とみなされていたらしいです。
>>654 「自分がこの年で丞相なんだから、徐庶ほどの男なら国政の中枢にいてもおかしくないはずだ」
そう単純に思ってたんじゃないんでしょうか?
董和伝によると、諸葛亮は旧友の中で徐庶を特に高く評価していたみたいです。
>>660 敵勢力から降り、魏で三公や高位の将軍にまで栄達した人物は何人もいますが。
徐庶も長生きしていたら、そこまでとは言わずとも、
三公や高位の将軍に次ぐ地位にまでは昇れたのではないかと思います。
>>666 この当時の高位の文官人事は、ごく一部の情実人事を除くと、
後漢時代の早い時期に出仕し、曹操時代から年功を積んだ
名士出身者がポストをビッシリ埋めていました。
具体的な年齢の記述が無くとも、後漢時代から事跡が始まっていて、
「かなり高齢なんだろうな」と思われる人々ばかりでした。
わりと年功序列に近い状態だったのではないかと思います。
徐庶は明帝の代に亡くなっているので、諸葛亮よりやや年長と考えると、
50代後半から60代前半にかけての時期に亡くなったのではないかと推測されます。
魏の出世コースを考えると、70近くまで生きていたら最低でも九卿。
うまくしたら尚書系の高官を経て三公を伺えたのではないかと思います。
まぁ、中学の同級生で成績優秀だった友達を「こいつ凄いんだぜ
今頃、社長とかになってるんだろうな」と自慢してしまうような心境だな
明らかにずれてる
678 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/27 00:32:30
やっぱり天下の名官吏靴賈逵、充親子は捨てがたいよ。
そのほかでも司空になった孫礼、陳羣、泰親子も捨てがたい。
さすがに賈充は晋にならないだろうか
裴潜、裴秀親子はまだギリギリ魏だと主張してみる。
官僚の話だとスレ違いか。
スレタイ話がさっぱり盛り上がらんのだから
スレ違い話するより仕方ねーじゃん
別スレで話しゃいーじゃん
683 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 04:04:40
武将じゃないけど、鐘ヨウってエイ川の名士だったの?
なんか他のスレで、この時代高位高官になるものはある程度出自のはっきりした
地方豪族や名家の出身者が多かったなんて話があったけど。
鐘ヨウは最終的には太ふにまで登ったし、やっぱり三代前は後漢の中央政府高官とかやてたのだろうか?
>>683 >潁川鐘氏
郡の著姓と言われる大豪族で、鐘ヨウの祖父鍾皓は、
後漢書に立伝されているほどの大名士です。
中央に何度も招聘されましたが全て断ったため、極官は郡の功曹までしか昇りませんでしたが、
在野の清流派知識人として活動しました。
>なんか他のスレで、この時代高位高官になるものはある程度出自のはっきりした
>地方豪族や名家の出身者が多かったなんて話があったけど。
読み書き学問が出来なければ、実務が勤まりません。
この時代、読み書き学問を子供に学ばせることが出来る資力があるのは、
地方豪族や名門だけなので、高位高官に至る人物の多くは、
そういう家の出身なのです。
> 読み書き学問が出来なければ、実務が勤まりません。
それを考えると、中央の高官とは同列には扱えないにしても蜀の王平は破格の出世だな。
『通史』氏族略によれば、秦末に鐘離昧って名前の将軍がいて、
その二子が九江とエイ川に移り住んでそれぞれ鐘氏を称したのが起源だってさ。
どーでもいいことでスマソ
>>684 >>686 詳細な解説ありがとうございます!!
実は私は三国末期の名将鐘会が好きなので、彼のご先祖が気になってました。
なるほど、潁川の大名士、大豪族でしたか。
それと、鐘氏のご先祖に鐘離昧がいたというのは初耳でした。
かなり興味深いお話ですね。
あのAA
↓
ナ ゝ ナ ゝ / 十_" ー;=‐ |! |!
cト cト /^、_ノ | 、.__ つ (.__  ̄ ̄ ̄ ̄ ・ ・
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⊂ニニ ⊃ ⊂ ニ )-- 、
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謀臣ではあると思うが、名将って・・・
正史で他人にケチをつけてることくらいしか書かれてない程喜が
征北将軍にまで登っているのも豪族とか名家だったからかな。
・・・マイナーすぎるか
書かれてないような地味な勲功があったのかもよw
>>688 詳細ねえ…全文載せとくけど、決して面白いもんではないよ
「鐘氏―――晋の伯宗の後裔。伯宗は晋の賢者であった。
郤氏の讒言を受けて殺され、子の伯州犂は楚の邑である鐘離に出奔した。
今(唐代)の濠州である。その子孫は邑の名を氏とし、「鐘」とも「鐘離」とも称した。
(戦国時代の)楚に鐘儀、鐘建、伯牙と親友であった鐘子期、そして項羽の将に鐘離昧がいた。
鐘離昧には二子がいて、長男は九江に移り住み今まで通りの姓を名乗ったと言われ
次男は潁川郡長社県に住み続け鐘氏となったと言われる。」
>>686で二子とも鐘氏を名乗ったって書いたけど、間違いです。すんません。
これ見る限り、楚にも昔から鐘氏がいたみたいだけど
鐘ヨウの籍貫は潁川長社だから、鐘離昧の子孫の方の鐘氏で間違いないでしょう。
>>696 dクス
張翼とか祖先が有名人って結構多いんですかね?
祖先が有名じゃないのに出世できるのはごくわずか
つーか、先祖が有名人だから出世できるみたいなとこもあるし
実際に貧民階級の出自でも、誰々の子孫と名乗ることがおおい。
正真正銘の名門って誰だ
鐘会でしょ
袁紹
>>696 >決して面白いもんではないよ
春秋・戦国期の方から入った俺にしてみれば、そうとうに面白い話ではある。
>>699 後漢末においてという限定付きなら、弘農楊氏なんていかが?
袁氏と並ぶ四世三公の家柄だ。
>>705 弘農楊氏は隋代くらいまで残ったんだっけ?
手元に資料がないから確かめられない…
だよ。
煬帝が弘農楊氏の楊元感を謀反のかどで梟首した際に梟氏と改めさせたらしい。
ちなみに弘農楊氏は叔向の末裔だってさ。
羊舌氏が滅ぼされた際に弘農に逃れた一族が楊氏を名乗ったんだと
随分、歴史の古い氏だったんだな。
でも系譜は嫡流が残てったのか?それとも分家に威勢が移ったりしたのか?
日本の藤原北家みたいに何百年も権力の中枢にあった名門ってないの?
日本と中国じゃ事情が違いすぎるからね
中華と呼ばれる辺りの土地を支配したいろんな民族の歴史が中国の歴史
日本は大和朝廷が確立して以来、大和民族内部での権力争いという様相
孫子だっけ?名将ってのは勝って当然の状況を作るから
目立つ功績がないとかいう話。つまり夏侯惇最強。
と流れをぶった切った上に電波を飛ばしてみるテスト。
>>711 「善く戦う者は勝ち易きに勝つ者なり、故に善く戦う者の勝つや智名も無く勇功も無し」と言う言葉だね。
こういう将軍は勝ったところで「どこどこで誰々と戦って勝った」とそっけなく記されるだけって事。
勇将とか、智将とか言われることは無いけど、勝ったという事実は残る。
残念ながら、前線で負けた記録が多く、勝ち戦の記述がほとんど無い夏侯惇は、
この条件には該当しないね。
夏侯惇は曹操の留守や、要所の押さえを良く任されてる。
これは能力より信頼性が求められる仕事。
彼は敵に勝てる武将じゃなくて、後ろを任せられる武将だったんだと思う。
三国志の名将ベスト30を決めるスレとか立てたら魏から何人くらい入ると思う?
20人くらい
>>714 「魏しかいねーじゃんこのアニオタどもめ」とかって訳の解らない文句を言われて
「じゃあ呉と蜀の人をもう少し増やしましょう」とかなって、結局魏からは14人くらい。
蜀から参戦濃厚
劉備 諸葛亮 関羽 魏延 姜維 張飛
呉から参戦濃厚
周瑜、陸遜、呂蒙、陸抗 孫策
このぐらいか・・・
>>717 その他の呂布や魏の十二位未満の連中に押し出されて入ってこれなそう
んな、あほな
呉スレの順位が落ち着いたらやってみるのもおもしろいかもな
721 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 19:01:47
やろうよ
魏呉蜀その他の順位を書いてから
討論しよう
分かるひと立てて下さい
まだ正確に順位決まってない状態なのに
今ひっくるめたらさらに訳わかんなくなるだろーが
でもひっくるめてやってみたいな。
ここも沈静化してきてるし。
とりあえず立ててみようかな
ランキングは付けてなかったが、似たようなスレがあったような。
確か、「三国志上最も軍事的能力の高い人物考察スレ 」みたいなの。
今は無いみたいだけどね。
>何故か?曹操に輪をかけて人気がない彼。これだけ有名なのに、
>司馬懿人形は中国のどこを探しても売ってない。ゆかりの名勝古跡
>もあんましない気がするぞ。だいたいなあ、首がぐるぐる回った
>り(狼顧の相)、食べ物をびちゃびちゃこぼしてボケ老人のふりし
>たりと、聞いてて気分悪くなるような話が多すぎるんだよ!あんたは!!
ネットで探してたら見付けた司馬懿の紹介文なんだけど
なんかワロタ
とりあえず >458 で8位までは固定にして
15位くらいまで決めない?
たぶん三国志名将スレやっても半分強魏になるだろうから
下準備としては良いと思う
(問題は人が集まるかどうか・・・)
名将ランクなんて一昔前に流行ったものを
いまさらやらんでも・・・
>>723 粘着がスレを占領しそうだから辞めとけ
魏オタ同士でも揉めるのに蜀呉まで加わったら・・・
それを見物するのが面白いんじゃん
毎回、「よくもまあ、こんなくだらないランキングにムキになって…」
と思いながら楽しくヲチさせてもらってる
>>723 とりあえず立ててもいいんじゃない?
別にそのスレが荒れようが誰も困らないし
お前が立てろデブ
つーかやめとけ
順位とかもううざいだけ
事実としてだけど、順位などと言い出すと明らかにレベルが下がるね。
レベル下がったほうが参加者は多くなるけどね
そんなレベルの低い議論でおまいが満足すると言うなら止めはせんが
レベルの高い議論なら史板でしてくれって気もするが。
最近の規制云々とか見ると気楽に話ができる板であってほしい。
739 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 21:42:59
夏侯惇ってもしかして曹操とウホッな関係だったりして
戦場で負け続けてるのに厚遇されるのはそこにあり。
なんて電波を飛ばしてみる。
(;´Д`)ハァハァ
>>739 惇なんて年中孟徳ハァハァしてたらしいよ
ああエロい。実にエロい
このスレ、レベル高ぇー!
召惇常與同載,特見親重,出入臥内
(曹操は)惇を召し寄せて常に同じ與(腰)に乗り、特別な愛情と尊重を見せ、寝ながら(尻)内を出入りした
やぱこのスレ、レベル高ぇー!7
筑摩のは誤訳かw
軍才も野心も並みの惇ちゃんは
ナンバー2としては最適
床上手の惇ちゃんは
ナンバー2としては最適
てすと
752 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 19:42:32
そもそも無能な人間とは、その全てが失敗で凝り固まっている訳ではない。
ただ一度だけ失敗を犯す事によって、数々の功績をみな駄目にしてしまうものである。
夏候淵に、もし定軍山で一度の失敗が犯したならば、それ以外の功績を評価してやる必要など無いのだ。
曹真や曹休といった連中の事は、論ずるにも足らぬであろう。
(裴松之『孫和伝』をネタに引用、後、曹家用に改変)
>>752 すると、夷陵でボロ負けした劉備や、性格で自壊した関羽、部下に暗殺された張飛、
晩年にもうろくした孫権や、戦死した孫堅、暗殺された孫策、憤死した陸遜なども
論ずるに足りない無能者ってことで?
裴松之は完壁主義者だからな。
あれほどの功績が無くても負けの無い夏候淵のほうが評価が高いんだろうさ。
>>753 裴松之の人物評は基本的に極端な減点式だから、信用するな。
99勝しても、1敗を許せない男なんだ。
あるいは、100勝しても道徳的じゃない奴は大嫌いなんだ。
賈詡への罵倒ぶりを見れば良く分かる。
失敗を犯したことが無い奴なんているか?
成功した事例くらいしか事績が残っていないような一発屋
>>756 歴史に残らない程度の失敗しか犯さなかったから、
失敗した記録が残ってない奴ならいくらでもいる。
>>754>>755に同意。
裴松之は武官に点が辛い気がするよ。
荀ケ・荀攸なんて全体的にべたほめトーンでなんか不気味…。
南朝貴族の端くれなんだろうから、下賎の武官なんかには辛いんだろうよ
裴松之って失敗を犯した奴には厳しいのか?
この人って孔明大好きなのに?
孔明は儒者の鑑だからな。荀ケ荀攸がべた褒めなのもそのせい。
荀氏については、子孫どもからの批難を浴びたくなかったんだろうな、と言ってみる。
裴松之は武官でも蜀将なら好き
呉は孫堅だけ例外で好き
765 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 23:13:03
>>763 その理屈でいうと、孔子の子孫を低く評価なんて怖くて出来ないな。
>>767 手元に史料ないのでうろ覚えですが…。
荀勗が陳寿の昇進にストップをかけたらしい。
(荀勗の曽祖父は荀爽。母方の祖父は鐘ヨウ。)
おらよ晋書陳寿伝
張華将挙壽為中書郎、荀勗忌華而疾壽、遂諷吏部、遷壽為長廣太守。
張華は陳寿を推挙して中書郎にしようとしたが、
荀勗が張華を忌み嫌っていたので陳寿をにくみ
吏部に讒言して陳寿を長広太守に左遷した
いまさらだが張[合β]の策を退けて
張[合β]を死なせてる司馬懿の評価が高すぎるんじゃないか
張コウが自分の地位を脅かす恐れがあるとして
戦死に見せかけた謀殺ともいうけど、どうだったんだろ。
>>770 歴史は最後の勝者に甘いから、仕方が無い。
対蜀戦線では防衛の任をしっかり果たしたし、遼東征服の功もある。
孟達反乱の処理も見事。荊州方面でも諸葛謹撃破、樊城救援などの武勲がある。
こうして見ると、防衛戦での功が圧倒的に多いな。
魏は大国だからリスクを負ってまで自ら攻める必要ないしな。
司馬懿自身世に出たのが勢力の大勢が決した後だし、その辺は仕方がない気もする。
だからこそ遼東の制圧が光るんだよな。
遼東討伐は何故か満足な軍備が得られない中での戦いだったし。
>>770 宣帝紀では戦自体は圧勝してるから張郃死んでもいいんじゃない?
将の生死なんて半分運みたいなもんだし。
>>774 良くないだろw
張郃は三国通じてこの時点で最高の名将の一人なんだし
張郃自身追撃するのは兵法に背くって感じで批判してるんだし
張郃の提案退けたのって、正史もそうだったけ?
だいたい張郃自体、何度か追撃戦は行ってるだろ
追撃したら必ず敗れる状況だったわけではないし、
軍がぼろぼろにやられて、手勢数名の状態に陥ったのちに死亡ならともかく
ああいう戦死は実際、運みたいなもんだろ
>>776 素直に張郃の進言に従っていれば張郃を失わなくてすんだんだし
劉備も夏侯淵なんか比じゃないみたいに張郃を評価してた
それは諸葛亮も同じで、魏にとってあまりに大きな損失だったのは間違いない
だから張郃の死を運でかたずけるべきじゃないだろ
追撃に関して張コウに現場の指揮者として相当の判断余地があったことを考えれば
成功、失敗は兎も角としてその死までを司馬懿の責任にするのは行き過ぎだろう。
もっとも張コウの能力(もしくはボケ具合)を司馬懿が測り間違えたといえば話しは別だが。
>>778 >相当の判断余地があった
司馬懿は張郃の直接の上官だったのでは?
張郃は諸葛亮が攻めてきたときも兵糧不足なの見やぶってたり
衰えはまったくない上に経験も豊富
指揮官への進言は当たり前でも命令違反は出来ません
司馬懿が張郃の進言を無視して追撃の指示出してるんだから
司馬懿の責任だろ
>>779 横レスすまんが、778が言いたいのは、実際に現場で指揮してたのは帳コウだから、
伏兵が出た時点で、追撃の継続か撤退の判断は当然張コウが出来たということじゃないのか?
というか本当に追撃はしないほうがいいと進言したんなら
伏兵がいるのは予想していたってことだろ
伏兵に対応できるように進軍しながら追撃することもできるだろ
司馬懿が追撃戦で万単位破ったんだからいいだろ
張郃は運が悪かったんだよ
運って万能だな。愛と同じぐらい
司馬懿に愛がなかったってことか。
実際、一兵も失わず戦うのなんて無理なんだから
兵が一人でも死んだら、責任を問われるってのもどうかと思うが
兵卒が死ぬのと将が死ぬのなんてそれほど差があるとも思えん
無理に追撃させて軍に被害を出したのは司馬懿の責任だが、張郃の戦死自体の責任は無いよな。
何も張郃に対して「孔明に殺されろ」とは命令してないんだし。
現場の判断で伏兵を避けられると思ってる奴等のあまりの多さに閉口。
相手が口をあけて待っているところにワザワザ飛び込んだら、何をどうやっても助からんだろ。
伏兵にぶつかった時に生きて帰れるかどうかはまだまだ張郃の力の及ぶ領域だろうよ。
ああそうだね
ゲームだと伏兵のところに行っちゃうと無条件でボコられるもんね
さすがゲーム脳の>787は言うことが違う
>>787 戦争のプロは伏兵にやられると、速攻で逃げて態勢を立て直すそうだ。
そのあたりの段取りがうまく出来たら、普通は伏兵のほうが数が少なくて軽装だから、
逆に撃退することもありうる。
伏兵を避けられるか避けられないか、と言われれば避けられる。
張コウが極めて優れた将帥であったなら避けられたって事か。
しかし、張コウの進言はまさに「君子は危うきに近寄らず」的な物であり、あの時は
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という事をしてまで勝たなければならない状態じゃなかっただろう。
大勝利を望んだ司馬懿が張コウに追撃命令を出した為に張コウを失ったなら、
やはり司馬懿の責任は大きいのでは?
それほど意表を突いた所から見事に伏兵を決められたんだろ。
張コウの戦死が
・敗戦は敗戦だったがたまたま流れ矢に当たった程度のレベルの討ち死に
・文句無しの大敗の上の討ち死に
どっちだったかによるな
蜀のホウトウみたいな感じで
それこそ不慮の事故レベルだったんじゃまいか
>>793 戦果の具体的な数字の記述が無い事を思うと、大敗ではなく
前者に近いんじゃないかな?
>>793 張郃伝でも、諸葛亮伝でも、
「交戦したら、矢に当たって死んじゃった」と書かれてるんで、
たまたま流れ矢に当たっただけと思われ。
張郃が大敗したら、殺した側の諸葛亮伝では、
「交戦して大破し、張郃を射殺した」と、
鬼の首を取ったかのごとく書かれるだろうよ。
宣帝紀って信用できるの?
兵卒が死ぬのと将が死ぬのに大差がないって言ってる奴がいるのか
釣りなのか?
それこそ張郃は兵1万に匹敵するような将だぞ
運で済まされる問題じゃないだろ
まあちょっとした敗北程度じゃないのかね
運悪く矢に当たって死んでしまったけど。
と、いって運が悪かったねー、だけじゃ済まないだろうけどさ
大将の居るところに矢が飛んでくるってことはね。
張コウも年だったからな。あたり所が悪かったせいで、怪我が悪化して死んだんだろ。
>>801 戦場で死ぬ確率のことだからな
そりゃ前線で戦う兵のほうが死ぬ確率高いが
将ならなかなか死なないというわけではないだろ
>>801 兵数万を斬り捕虜にしたんだから兵一万に匹敵する将なら問題なし
スレ違いって言われるかもしれんがみんなの意見が聞きたいので頼む
もし呂布が殺されず張遼同様曹操配下に入ったら
どれぐらいの戦果をあげられただろうか?
張遼の配下にされて
怒って足を引っ張る
飼い殺しにされるだろうな
馬超と同じ運命だな
>>806 張繍と同じ扱いじゃね?
官位と爵位だけは無駄に高いけど、実質は曹操の手元で数千の兵を率いるだけ。
そこそこの武勲を立てて、魏建国時に衛将軍あたりにしてもらって、
しばらくしたら特進・光禄大夫を授かって引退かな?
その後また反乱とか起こして失敗して誅殺されると思う
>>810 まて、あの時代に数千を直率できたのなら十分戦力を保持していると言えないか?
二、三千の兵力で反乱起こすほど馬鹿じゃないだろ
馬鹿なんだって
恐らく信頼を得られたからだろうが
張繍はかなり扱いがいい方だと思う。
呂布に同じ扱いじゃまだ危険かと。
呂布に数千。考えただけで嫌になるな。
でも曹操のことだから呂布に惚れ込むことも考えられる。
その曹操の癖を見抜いて「呂布を殺せ」と言った劉備は曹操の命の恩人だな。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 22:27:53
>>818 戦略眼ゼロの劉備ですら呂布の危険性を熟知していたのに処刑を躊躇うなんて、
やはり曹操は一世一代の英雄としてはワキが甘いところがあるよな。
朱元璋とか劉邦だったら即座に殺しているんだろうが。(或いは、服従させた後、謀反疑惑とかでっち上げて謀殺)
曹操は喜んで四征将軍とかに任命してそうだもんな・・・。(その後、劉備とか劉表にそそのかされて反乱)
>>819 陳宮も許そうとしてるしな。
陳宮&呂布をコンボで残したらまた謀反されるの確実。。
曹操はちょっと感情的過ぎるっつーか人を好きになりすぎ
>>819 ワキが甘いってゆーか目前の事に気を取られるタイプだな。
戦にも自分で行ってしまうし。猪突猛進とは違うんだけど。
だから荀ケみたいなのが必要なんではないかと。
感情豊かなんだよ。詩人だし。
823 :
曹植 ◆qDAY7.nyqI :05/02/13 22:56:47
このスレの結論はオレのこと?
確かに曹操はなんだかんだ言って
感情的なトコが多い気もする。
>>819 >曹操は喜んで四征将軍とかに任命してそうだもんな・・・。(その後、劉備とか劉表にそそのかされて反乱)
漢の高祖の気風ありとされた劉備にはそこはかとない薄気味の悪さを感じるんだが、
曹操の場合は「あ、曹操ならやるかもナ」と納得してしまえるところがある。
ぶっちゃけ劉備ってほんとに漢室の宗親なの?
ぶっちゃけ、俺は違うと思う。
そうであってもおかしくはないけどな
景帝から300年以上、世代にして15世代近くの隔たり
何十万以上の傍系が存在するわけ
その中で王族として家を保ってない家系なんて実際、価値なんてないと言える
ただ、光武帝の先例もあるから高祖の末孫なら皇帝を名乗れると拡大解釈してるだけ
>>819 スレ違いだが劉備の戦略眼がセロって言うのは言い過ぎだよ。
単に曹操が上回ってただけ。
>>826 劉備が先祖と称する中山靖王劉勝は前漢景帝の庶子で、劉備が生まれる二百年前の人。
酒と女に溺れた一生を過ごし、子供を百二十人も残した性豪。
その劉勝系の中山王家は四度断絶し、四度復興。前漢滅亡と共に歴史から姿を消した。
後漢を建国した劉秀の先祖は、劉勝と同じく前漢景帝の庶子である
長沙王劉発の子である舂陵侯劉買の子孫。
本物の劉勝の末裔としても、前漢時代に分かれてるので、
後漢皇室とは完全に別の家。
もはや宗室を名乗れないぐらいの遠縁。
劉備って献帝が死んだと誤報が入ったから
皇帝に即位したってのも胡散臭い
832 :
劉備:05/02/14 18:54:26
よっしゃ、献帝謀殺キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!
ウソツキ人生だな。劉備
>>831 胡散臭いっていうか、食感では「誤報→大食皇帝即位」のコンボは
献帝健在が判明してからタブーになってたはず。
見切り発車してしまったことが、大食の大儀をあいまいにしてしまった原因だと思う。
どうりで弱いわけだ蜀
ある本では、「真偽に関わらず、献帝殺害の報は劉備の即位を助けた」という。
また「誤報だろうと分かっていたから即位を急いだ」とも書いてあるが、こちらは疑問。
俺は誤報を流したのは蜀自身だと思っているのだが・・・
どっちにしても民衆は漢の復興なんて
期待しても夢見てもいないわけで、
劉備としてもただの名目が欲しかっただけ。
それは捏造でも誤報でも何でも良かったのでは。
その辺、呉は潔いな。
漏れが読んだ本では「誤報を受けて即位した時点で蜀の大義は失われた」ってなってた。
まあそれはその本を書いた人の個人的な解釈と感想かと。
そもそも不忠な人間とは、その全てが不義で凝り固まっている訳ではない。
ただ一度だけ不義を犯す事によって、数々の功績をみな駄目にしてしまうものである。
于禁に、もしハン城で一度の離反が有ったならば、それ以外の功績を評価してやる必要など無いのだ。
陳Qや張バクといった連中の事は、論ずるにも足らぬであろう。
(裴松之『孫和伝』をネタに引用、後、降将用に改変)
誤爆スマソ
ぶっちゃけたところ芝居の軍事・采配能力ってどうなの?
天舞・三国志正史(スーファミ)では
武勇3 采配12 策謀15 外交13 政治14 人望9
になてる。
確かPC98版では采配が14で策謀がも少し低かった気がする。
軍を率いて正面から戦うのにおいては諸葛亮にはかなわないけど、
守りに徹して打って出ず相手の自滅を待って勝利したことから
采配よりも策謀が高い方が合ってる気はする。
なるるー。
ちなみに
諸葛亮 武勇1 采配10 策謀13 外交14 政治16 人望15
荀ケ 武勇1 采配11 策謀12 外交14 政治15 人望11
柴木は「諸葛亮こそ天下の大才」とか言ってたけど、ぶっちけると諸葛亮に匹敵する人材って結構いるよね。
荀攸 武勇1 采配13 策謀15 外交10政治10 人望8
郭嘉 武勇1 采配10 策謀15 外交11 政治13 人望7
賈ク 武勇1 采配8 策謀16 外交9 政治10 人望9
鐘? 武勇1 采配8 策謀10 外交13 政治13 人望12
カクの智謀がマックス16なのがすごい。
周瑜 武勇9 采配15 策謀13 外交5 政治6 人望13
魯粛 武勇6 采配6 策謀10 外交16 政治12 人望9
呂蒙 武勇11 采配13 策謀12 外交8 政治7 人望8
陸遜 武勇2 采配15 策謀13 外交9 政治12 人望12
ろしゅくの外交がまっくす。
りょもうは文武両道。
>>845 遼東戦役での戦いぶりが光る。
敵が河川沿いに敷いた防衛線を陽動で突破。
その後、連戦して敵の野戦軍を粉砕。篭城に追い込む。
悪天候のために補給が難渋し、作戦が頓挫しかけたが包囲を続け、
ついに本拠を落とした。
遼東軍は、朝鮮半島の諸王国や塞外民族と連戦を重ねてきた精鋭。
しかも、内紛があったわけでもなく、篭城後も粘ったことから分かるように、
相当結束が強く、結束を失って自壊して滅びた蜀や呉とは事情が違う。
長雨に苦しみながらも、これを滅ぼした司馬懿の実力は、
かなりのものと言える。
そいえば、昔なるほどと思ったのは
「政治とはまとめる力」「策謀とはバラす力」ってやつ。
有為な人材や建策を受け入れ、国をまとめ上げるのが政治力。
逆に相手の力を分散させたり、人材を離反さてたりして国をバラしていくのが智謀。
正史か演義かで、あまりに話が違ってくるんで、
芝居のや公明の能力はどうこう言えなさそうだけどね。
>>850 >悪天候のために補給が難渋し、作戦が頓挫しかけたが包囲を続け、 ついに本拠を落とした。
包囲ってただ取り囲んでワイワイやるだけだから楽かと思ったら意外大変なんだね。
誰にでもやり遂げられるってわけじゃないのか。
>>850 公孫淵は相当のDQNで、挙兵までになだたる臣を皆殺しにしていた気がするが…
>>850 しかも遼東征伐は何か司馬懿を追い落とす動きがあったからなのか、
軍備をケチられて兵力差も遼東軍のが上だったんだよな。
山東から遼東にかけての海上勢力を取り込んだからという説もあるそうだけど。
>>853 包囲も包囲で簡単じゃないんだよ。
・補給が尽きると包囲陣が崩れるので、補給線の確保に力を入れる。
・包囲を突破して脱出しようとする敵、包囲を突破して敵を助けようとする外部からの援軍への備えを怠らない。
・包囲陣内外の敵が放つ使者・スパイへの警戒。
長いこと厳戒態勢を敷かにゃならんから、兵士の緊張感、規律が乱れてくる。
だから、包囲軍が兵士が弛んだ隙に乗じられて、包囲を破られたり、
秘密の使者を取り逃がしたり、物資や増援を外部から持ち込まれたりと言う事は珍しくない。
包囲の維持には高い統率力と、敵が状況を打開すべく打ってくる手に対処する機略が求められる。
857 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 21:44:46
軍隊って中央で召集されたのをそのまま連れて行くの?
それとも鎌倉時代みたいに道々あの部隊、この部隊と馳せ参じてきて
段々と人数が揃っていくものなの?
>>856 なるるー。
なんか包囲に対する認識が変わった。
マンガなんか読んでると絵の印象で鉄桶包囲ばかり想像しちゃうけど
意外と攻めてる側にも不安がいぱいあるんだね。
>>854 反乱に反対した将軍綸直、賈範らを殺してはいるが、
名だたる臣を皆殺しにしたというわけでもない。
こいつらは反乱に反対して殺されたという一点のみで史書に名を留めてる程度の連中。
公孫氏の重臣としては、降伏の使者を務めた相国王建、御史大夫柳甫、
防衛戦の指揮を執った将軍卑衍、 楊祚、
反旗を翻すに際して、魏に送りつけた文書に名を連ねている
長史郭マ、参軍柳浦(御史大夫柳甫と同一人物と思われる)などの名前が史書に見え、
「名だたる臣を皆殺しにした」と言うほどの状況では無い。
>>859 ふむ。つまり公孫淵は単なる井の中の蛙や勘違いのDQNではなかったというわけか。
なんかこのすごくスレ面白い。
つーかゲームに出てくる部下のほとんどを殺したってことで
名だたる臣下を殺したって図式じゃないことを祈るばかり。
興味の無い武将に対する知識なんてそんなモンでせう。
魏とは関係ないんだけど、元蜀主の劉障って刑州に送られた後どうなったのかな。
刑州陥落時にやぱ捕虜になったりしたのかしら。
>>864 監視付きだろうけどそれなりな生活をしたんじゃないかな。
でも確か江陵陥落した年に死んでるよね。
因果関係はあるんだろうか。
>>864 荊州陥落時に呉に降伏。
その後、呉から益州牧の官位を貰って、再び荊州に駐屯した。
>>857 この時代は徴兵はあまりなさげ。
もとは異民族の集団だったり流民や盗賊上がりだったり豪族の私兵(食客や農奴)だったり。
身分もほぼ固定されてて、死んだら弟や子供が補充される感じだったようだ。
ほとんど奴隷兵士だが、三国時代以降はそういう兵が中心。
>>860 歩騎数万の兵を動員できるだけの実力はあった。
魏の首脳部にやる気が無かったら、なし崩し的に自立できてたと思う。
司馬芝伝に、司馬芝が豪族劉節の子分王同を徴兵しようとしたが、
劉節が妨害したので、代わりに劉節を徴兵してたというエピソードがある。
公孫一族はゲームで何であんな弱小勢力なんだろうな。
半島の大半を牛耳ってて物凄い勢力だったのに。
公孫度の頃から50年近くもほぼ独立状態だったんだから
それなりの勢力だろう。
下手に王を僭称して逆らうことがなかったら晋の時代まで
存続して面白いことになっていたかもしれんのだが。
ゲームは糞!
ちまちまデータ増減させてるだけで、
俺は全く英雄気分に浸れない。
ゲームって英雄気分になるためにやるものなんだろうか。
まあプレイスタイルは自由だが。
人口も産業もほとんどない地域を支配していた勢力を
物凄い勢力と呼ぶ厨がいるスレはここですか?
人口はそこまで多くは無いだろうが、産業についてはどうだろうな。
賢者
>>874 その伝でいくと、北方に大勢力を築いた匈奴とか鮮卑とか突厥とか契丹とか
女真とか蒙古とかはどうなるのかね?
秀吉のとき朝鮮全土を800万石と計算したそうな。
というか8人の武将に恩賞として分けて1人頭を百万石としただけだったような。
いまの北朝鮮にあたる地域は武将2人分、二百万石。
当時は日本の大名で250万石なんてのもいたから、あまり大した領土ではない。
三国志の時代となると、さらに貧しく悲惨なわけで
たしかに現代の独立国家に相当する領土を漢の1貴族が私有してたわけだから
物凄い勢力といえなくもないが
秀吉や曹操からみると、まさに一貴族の領地に適当な小ささだったわけ
ちなみに明代の中国の総兵力は200万だったらしい。
辺境の守備についてたりしてたから、実際直ぐに動けるのは10〜20くらいだったらしいけど。
日本は当時1200万石くらいだから30万くらい動員できたのか。
中国は約七倍の動員力だから8000万石か。すごいな。
同時代とはいえ日本と社会制度がちがう国で兵士数から石高を割り出せるわけはない。
一万石につき兵が何人というのは織田信長が勝手にきめたもので
織田のやりかたで征服地がひろがり、徳川の継承により決まったもの。
ちなみに四国の土佐は20万石で計算では数千しか動員できないが、長曾我部は数万の
兵士をひねりだした。これは国の治めかたが織田と違ったため。
明は秀吉と戦ったことで、国家経済が破産して滅亡に至るのは有名。
いっぽう秀吉は九州の大名をこき使っただけで、大阪城は黄金の山で床が抜けそうだった。
同じ戦争をして、破産状態の明と、カネがうなってた日本。
どこで8000万石などという気楽な計算になるのやら
>>880 単純計算すれば8000万石になるとしても、
それだけ広大な領地を中央集権制で統治するのにどれだけコストがかかることか、
>>879は知らないんだろう。
封建制なら領内統治、地方軍の整備は大名に丸投げすれば良いが、
中央集権制なら全部国費で賄わなければならない。
あの広大な領地と国境に警備兵を置くのも、全部国費。
そりゃ、財政難にもなる。
官僚国家といえば宋が凄かったらしいな。
高給取り役人天国で名高い。皇帝が官僚をいじめたり殺しちゃいけない決まりもあった。
おかげで後世の歴史家の評判は上々。(これが狙いか)
日本も公務員が多すぎるな。十人に1人は公務員だっけか。
兵隊なんてほとんどいない国だが、高給取り役人天国で既に破産状態。
いくら経済力があっても役人天国の国は破産するという好例だ。いまの日本は。
いまの中国なんて兵隊が何百万いても給料ほとんど払ってないからコストはゼロにひとしい。
>>882 日本の総公務員数は人口の0.9%。実は先進国の中で最も少ない。
ちなみにアメリカは2%、フランスは3.8%
しかも、日本の公務員は、民間の大企業と比べると大して給料が高くない。
高級官僚はその分を天下りで補ってる状況。
日本に公務員が多すぎると言うのは、マスコミの虚報。
>>883 きみ公務員だね?
日本人で10人に1人は公務員か、関連の仕事というのは良く知られた事実で
その話がネットででるたびに打ち消すのは公務員。
だいたい何かの統計で1%が本当だとしても家族を入れると5%じゃないか。
蒸し返す感じで悪い気もするけど、司馬懿の軍事能力を疑問視する人って
時々見かけるね。
戦術・用兵では緩急両面を巧みに織り交ぜるし、戦略的効果を企図した場合
には戦術的なリスクをある程度顧慮しない果敢さも持ち合わせてるし、兵站に
対する認識もかなり深くて、俺は三国時代でも最高峰の名将だと思うんだけど。
>>884 883じゃないが・・・
>だいたい何かの統計で1%が本当だとしても家族を入れると5%じゃないか。
この言い返しがどれだけが的をはずしているか、
一度読み返してみたら?いってることがわけわからん。
ま、これ以上はスレ違いだが。
>>885 司馬懿の評価を落とす原因の一つに判官贔屓があるだろうね
どうしても国力の差があり勝って当然の戦いになるし、活躍が鼎立後だから大躍進が見られない
呉みたいに防衛戦が派手にならないからそういった比較もあるんだろ
なんにせよ判官贔屓が三国の将スレに蔓延しているのは蜀スレを見れば明らか
でなきゃ戦争の目的も果たしてない戦いを評価して名将呼ばわりするヤツなんて出ないだろう
>>887 戦争目的が達成されたかどうかのみで将の能力を計ろうとするなら議論なんていらんだろ。
指揮官の能力を考える場合、勝利や敗北の数だけでなく、
勝利にしてもどの様な状況でどの様に勝利したか、敗北にしてもどの様な状況でどの様に敗北したかをみるのは当然。
例え最終的に敗北したにせよ、敗北までの過程で評価すべきところは評価すべき。
それを判官贔屓の一言で切り捨ててしまうのはどうかと思うぞ。
それと勘違いしないで欲しいが、俺も司馬懿は三国時代屈指の名将だと思ってるから。
>>886 マスコミはそういう詭弁で、今まで国民を欺いてきた訳だな。
>>884はそれを鵜呑みにしてきた被害者だね。
>>888 立案する立場にいる人間なら目的を果たしたかどうかが重要になってくると思うんだが?
>勝利にしてもどの様な状況でどの様に勝利したか、
>敗北にしてもどの様な状況でどの様に敗北したかをみるのは当然。
勝利すれば目的達成じゃなく、敗北しても目的未達成とは限らないと思う
部隊ではなく軍を率いる将ならそこを重視して評価すべきではないだろうか
司馬懿にしても戦術的に敗北とまで行かなくても諸葛亮に押される場面はあったものの
防衛という最大の目的は果たしている
出兵して戦闘に勝利したは良いが、その後拠点も取れず後背地は奪われるような勝利に意味はあるのだろうか?
結局は「勢力の差があるから勝てない」ってのをプラス査定にしてしまっているように見える
>>889 いや、誤解しようが無いんで…
>>891 司馬懿は何度か荊州攻めに参加してるがこちらはいずれも目的を達して無い。
蜀攻めも一度行ってるが、こちらも天候的な要因があって失敗してる。
攻め取らなければならない立場と何とか守りきればいい立場では同列に語れない。
>>891 将帥の能力を見るうえで、戦役の過程を評価する事も重要だって事だよ。
ロンメルはアフリカ戦線において、英軍を完全に駆逐するには至らず
最終的には撤退を余儀なくされたが、名将である事に変わりはないし。
>>893 こういうスレで近代の戦争とかローマとかを例に出す奴多いけど
ここは三戦であんまりその方面に知識ない奴多いからやめたほうがいいぞ
諸葛亮>司馬懿
司馬懿>諸葛亮
さてあなたが君主であったら、ご注文はどっち。
正直、どっちも怖いよ。
迷い子の
>>893を
軍事板に帰らせてあげてください
漏れは魏将なら鐘会が一番好きだな。
何と言っても蜀を滅ぼした名将だし。
鐘会の印象深いポイント
・1週間精神集中
・阮氏の引きたて役
・夏侯玄への友達押し売り逸話
・叛かれても平気、平気と司馬昭にいわれてしまうとこ。
司令官は鐘会だったかも知れんが、滅ぼした将っていうと
ケ艾のイメージが強いけど。
ちなみに俺は三国志の末期の武将ではケ艾が一番好き。
>>902 司令官は司馬昭。
将軍位はケ艾が上、でも動員兵力は鐘会。
仲間割れは起こるべきして起こった・・・
ケ艾と鐘会の死に方は于禁より間抜け
天下の英雄とまでは行かないな。
>・阮氏の引きたて役
これって阮籍のこと?
確か阮籍の噂を聞いて会いに行ったらシカトこかれて、キレた鐘会が
ある事件に無理矢理阮籍を連座させて処刑されるように仕向けたんだよね。
ちーと、訊きたいんすけど、
三国志って始めの頃は君主が直々に遠征軍の指揮を採ることが多かったけど、
後半になると減ってくるよね。
特に魏は炎症破ってからも、曹操は刑州、西涼、漢中とあちこと遠征してるのに
その後は君主親征が減ってきたように思うんだけどなして?
単純に曹操が戦争好きだったり、何より彼自身が一番優秀な指揮官だったからなのかな。
他人に兵権渡すのを嫌がる君主は多いから
漢高祖劉邦なんか皇帝になってからも自分で反乱鎮圧にあちこち出歩いてたし
ま、春秋戦国時代の名残ともいえるが、
社稷の化身たる君主自ら兵を指揮することで兵を慰撫したり
また戦は神に捧げるものなので君主自らが執り行うという思想とか
曹丕以降は帝位についたんで、皇帝自ら戦地にほいほい出て行くもんでは
ないってことなんじゃないの?
>>907 魏の場合は曹操が行かないと勝てなそうな戦も多いしね
敵方が曹操来たってだけでビビってくれるから、心理面でも圧倒出来る。
あと、やっぱ曹操が自分で前出たがる性格だったってのもあると思うけど。
>>907 曹丕即位以降は魏の国家機構、とりわけ明確化された軍管区の構築と
軍事面でのシステムが完成されているため、三国でも国力で筆頭にある
魏にしてみれば、たとえ呉蜀が侵攻を試みようとも、○州諸軍事に代表
される各地の司令官により迎撃できる機構が整ってたって事もある。
むろん、呉蜀が総力を挙げての侵攻ともなれば、中央軍の増援や国家
レベルでの兵站支援、皇帝親征などもありえるけど、基本的に魏は長安・
江陵・合肥の三点を最重要防衛線と認識して優秀な司令官や精鋭を駐屯
させており、呉蜀も地勢の面から考えてもこれらいずれかを攻略しない事
には魏を戦略レベルで動揺させる事はできず、結局のところ達成もできな
かったわけだけど。
>>906 許允の奥さんで二人の息子を司馬昭の命を受けた鐘会から守った話がある。
もっとも、その話は鐘会の優しさかもしれないけど。
誰か鐘会が主人公の小説か漫画か書いてくれないかなあ。
三国志の人物の中でもけっこう逸話は多い人だし。
才気走り過ぎであまり人間的な魅力は感じないからなぁ
自分で書いて補完するのがいいかと
やぱ名門の家系から優秀な人材が出てくるもんだね。
門閥の弊害ってのはむしろ少ないのかしら?
名門じゃないと、学問できないし…
少々、才がある農民がいたところで出世できるわけじゃないし
>>915 そもそも、教育制度が未発達なんで、高等教育を受けるには大金を積まないといかん。
だから、高等教育を受けた人材の大半は、金を持ってる名門出身者。
当然、その中で優れた人材も、名門から出て来る率が高い罠。
なるるー。
当時って現代みたいな体系的な教育ってなかったんでしょ。
なんつーか、要点や原理を掴んであとは勝手に応用してちょって感じだったのかな。
八荀とか馬良兄弟とか、それこそ鐘会兄弟とか、兄弟で優れた評判の人物って多いね。
>>901で挙げられてる鐘会の精神集中後の司馬昭の面接とかでは、一体どういったことを
論じて、評価することになったのとか気になる。
>>920 体系的な教育ってゆうと洛陽太学って、三国志の人物ではどれくらいの人が行ってたんだろう。
三万人くらいの学生がいたとすると、結構なマンモス校だよね。
>>921 諸葛瑾はいたと思った。
考廉のシステムとどう連動していたのかが疑問。いつか調べようとは思ってるけど。
ただ、家塾が開けるような家の人はいかなかったのでは?鍾・陳・荀氏とか。
曹操って通ってたの?<洛陽大学
そういや曹操って蔡ヨウと親しくしてなかったっけ。
とりあえず、ググッたら(素人なんで勘弁)
鄭玄、張紘、何[禺頁]、陶謙は洛陽太学へ行ってたらしい。
若い頃、洛陽にいて様々な人と親交を結んだとか書かれている人も
やっぱり太学へ行ってたのかな?
ついでに、太学での2年に一度の射策という試験で成績が良いと
茂才への推挙があったり、郎中になれたとか。(ホントかどうかは知らん。)
洛陽太学の入学資格をぐぐってきました
@18才以上で、太常から選ばれたもの
A郡大守・国相が可としたもの
B六百石以上の官吏の子弟
20歳で考廉に挙げられてる曹操は通ってなかったんじゃないかな
蔡ヨウは曹操の恩師の一人じゃなかったっけ?
>>926 dクス。考廉は人口比だから、
そこでは救い上げれ切れない人って用途もあるのかな。
考廉・茂才は学業以外でも良しだから、学業メインの学士養成の意味あいもあったかも。
>>926 >B六百石以上の官吏の子弟
この六百石って日本の石高と同じに考えていいの?
岩波の三国志演技の注にこの官は一千石、あの官は二千石みたいに書かれているけど
中国古代の石というのがどういう単位なのかいまいち分からないから、禄高もいまいちピンとこない。
高校を卒業した人間が人口の1%以下なら
どんなDQN高校のどんなDQN生徒だったとしても残りの99%の底辺の人間と比べれば名士
字が読めるだけでも貴重な人材だぜ
>>930 曹操はそれが嫌で唯才令を出したんだろうけどナ。
でも改革も腐れDQN儒者どもに旨みを与えて協力させなきゃ出来なかったし、
案の定、曹操が死んだ途端に力をつけた名士どもが九品中正を作ってしまった。
世の中ままならぬものよ。
>>929 石の読み方は「せき」が普通。
ちなみに、「六百石,錢三千五百,米二十一斛」。
>>929 違う。漢の官吏の石高は、ただの年俸額。
「年収1000万」みたいなもの。
>>932 21斛ってどのくらいかと思って計算してみたが、350kgぐらいなんだな。
だが計算してみたものの、これがどのくらいの価値なのかよく分からん。
とりあえず、おいらは米24キロあったら、一年米には困らんな。
>>935 それだと一日に半合も食わない事になるぞ。
そもそも米が基準なの?
北中国は米飯より麦中心だと思ったが。当時は更に雑穀の率も
高かったのでは?
三国志は食貨が入ってないんだよね…。
939 :
暴走曹:05/02/23 05:11:10
940 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 07:53:50
米=脱穀した穀物 だよ
いわゆるコメじゃあない
三戦の過去ログから
顔師古曰く、漢制,
三公は萬石と号し,月俸それぞれ350斛穀。
中二千石は180斛,
二千石は120斛,
比二千石は100斛,
千石は90斛,
比千石は80斛,
六百石は70斛,
比六百石は60斛,
四百石は50斛,
比四百石は45斛,
三百石は40斛,
比三百石は37斛,
二百石は30斛,
比二百石は27斛,
一百石は16斛。
訳分からんね。^^;;
電波な書き込みにしか見えない俺は
逝っとくべきなんでしょうか。
>>848のような武官系と文官系の区別の印象って結構強い。
当時の豪族にとって、剣術というのは一般的な嗜みだったのかな?
弓術は狩とかで身につきそうだ。
曹家や夏侯家の人達は剣術をそれなりに心得てそうだけど
陳家、荀家、郭家、鐘家、司馬家の人達って剣を振りまわしそうにないよね。
徐庶のような人が剣術を心得ていたとして特筆されていることからすると
やはり、当たり前のことではなかったのかな。
剣術っていうても、この時代の剣なんて
そんなにいい武器でもなかったんじゃねの?
棍棒とかとそんなに大差ないし。
武芸ってそれこそ、槍とか棍とか劇とかの
間合いの長い武器の方が役に立ちそうだしな。
どうしても日本人は武士のことよく知ってるから
剣術が武芸の中で中心にしちゃうんだろうけどさ。
>>947 「遊侠」にかぶれる?と武芸に走るのではないのかな…。
普通の士太夫(って言葉はこの当時なかったかも)的な常識だと
武芸は不要で学問・徳目が重要視されただろうけど、
「豪侠」「遊侠」「侠」の世界に足を突っ込んだ人は剣を持ちそうだ。
地方の豪族とかでは牛車も使われていたようだから、馬に乗れない人も
いたかもしれない。
>>949 曹丕は思いっきり剣術自慢しているし、曹操も張譲屋敷の逸話とかあるから
良いところの豪族も、個人的趣味として身につけることはあったかも
よく考えるとこの二人はすごく例外的な存在かも。
曹操はいうまでもなく、曹丕もおはじきの腕を誇るような人だし。
>>947 三国時代には豪族出身の将軍、名士出身の将軍も多かったから、
護身術程度には嗜んでたんじゃなかろうか。
>曹丕もおはじきの腕を誇るような人だし。
曹丕かわいいよ曹丕w
ちなみに当時の官僚の給料は半銭半穀。
半分は現金でもらっていた。
三国時代はまた違うけどね。そもそも現金の流通が少なかったし。
>>953 丁儀・丁ヨク・楊俊・曹洪・鮑の前で言えたら褒めてやる。
張繍もな。
于禁を忘れるな
夏侯尚もね。
曹丕被害者の会が結成されました。
甄氏、曹彰、曹彪も入会
曹丕被害者の会
丁儀氏・丁ヨク氏・楊俊氏・曹洪氏・鮑氏・于禁氏・甄氏、曹彰氏、曹彪氏入会
曹植は
963 :
曹丕:05/02/25 02:51:52
9人の無能より1人の司馬懿
曹丕は好き嫌いが激しすぎるんだよな。
それさえなけりゃもっと後世にいい評判も伝わったのに。
会長 曹植
CEO 曹彰
役員 曹洪 于禁 丁儀 丁儀 丁ヨク
会員 曹彪 楊俊 鮑畏
特別顧問 甄氏
丁儀が二人居ないか?
会長と特別顧問がデキてるとの噂が・・・
曹丕に馬の鞍にどくろを結びつけられた王忠
会長 曹植 (詩で曹丕を罵倒。)
CEO 曹彰 (虎を素手で狩る。武と食料調達係り。)
役員 曹洪 于禁 丁儀 丁ヨク (曹洪と于禁は武将。丁儀 丁ヨクは事務。)
会員 曹彪 楊俊 鮑畏 その他総勢5万2千3434人
特別顧問 甄氏 (会長、CEO、一部役員の性欲処(ry
曹洪がケチなのは認めるが、なんで金貸さなかったんだろうな。
頂戴って云ってる訳ではないのにね。
ここで、気前良く貸してやってれば、鐘ヨウみたく、印象大幅アップだったのに。
そして、曹操からの小遣いが足りていたのかが疑問。
為政者になろうって人間が遊ぶ金欲しさに人から金借りるってのは…
それに貸せという言葉は状況によってはくれという言葉の隠語になるし
小学生並みの社会経験しかない
>>970にはわからないか
>>971 2行目までの理屈にはもっともなところもあるけれど・・・
曹洪は真性のケチ人間だったんじゃなかろうか?
なんか、調査したら曹操より金持ちだったって話がなかったっけ。
そもそも曹操は金持ちなのか?
いや、私的になんの遠慮も無く使える金が
そんなにあったのかなって事で。
あの時代の人って、なんか家に無駄な財産蓄えていないことが美徳っていうところあるよね。
曹操なんかは名声へのこだわりがあるから、そのへん気にしそうだ。
でも、将軍とか、軍を率いる人物だとあまりそうでもない?
曹操の場合、晩年には自分の死後における、遺子や妻妾への気配りや生活上
の生計などまでの配慮を細かに記した文献が残ってたはず。
曹操って演義だと派手なイメージあるけど、実際はかなり質素な生活してた
らしいし、あまり執着は無さそうだな、、
>>976 沓の飾りを作って生計をたてて・・・みたいなやつだっけ
陸遜の孫が「英雄らしからぬちんけな悩み」って文句つけた
夏侯惇なんかも余分な財貨は他人に分け与えてたとか
息子はアレだが
淵の息子は良いんだけどなぁ…惇はorz
最近、曹植か曹丕のどちらかが、劉備の元へ産まれていたら……と思う漏れ。
元々惇は将軍としては大した才能でもないから……
いや、将才はともかく曹操と一番親しい人なんで
財に対する価値観やライフスタイルなんかで通ずるものがあるかも
と思ったんで挙げてみた
魏の元勲の割りに戦果の面で漢中攻略(?)意外は記述することが
無かったんで、気の毒に思った陳寿が倹約ぶりや兵に混じって働いた等の
人情話をわざわざ掘り起こしたってことは有るんかな?
清流派系の名家の人達に比べると、華々しい戦歴をもつ人達にはそういった
財について誉められてる人が少ないような気がする。
そのあたり、惇が倹約を称えられているというのは前者の人々の影響を強く受けていたせいか?
それともやっぱり惇の乏しい戦績のせいなんだろうかねえ。
983 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 01:58:42
ところで、正史においては、顔面被弾事件って失敗談だよね?
演技では矢を引き抜き眼球を食らって将兵を叱咤鼓舞し、
なおかつ射手を切り殺しているから武勇譚になったけど、
実際のところは、劣勢になっていたので前線指揮を執っていたら被弾、
急いで後方に担ぎ込まれて、多数の部下や衛生兵がなんとかして引き抜いたものの
眼球を裂傷しており失明。顔もグチャグチャ。意識は混沌。
大将が矢に当たって後方に担ぎ込まれるという緊急事態で指揮系統はバラバラになり、
雑兵は大将が戦死したと思って我先に逃げ出し、
敵将を討ち取ったと思った敵軍は勢いづいて掃討戦に入り、結局助かったものの、戦争自体はいつものように大敗。
鏡をみたらぶち投げたというのも、相当顔が気持ち悪くなっていたのか、当時のことを思い出したからか。
こんなかんじじゃないんだろうか。orz
将が流れ矢に当たるぐらい
そう珍しいことでもないっしょ。
985 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 02:11:24
【日本】人権擁護法=言葉狩り=2ちゃん書き込み規制 【大ピンチ!】
Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<=( ´∀`) < 生粋の日本人である僕が人権擁護法で差別と叫ぶ。
( ) │ それで目障りな2ちゃんねらーの野郎を訴えて
| | | │ 裁判でぶっ飛ばしてやるニ・・・ぞ!
〈_フ__フ \__________
この法律には「差別的言動禁止規定」が含まれている。
外国人犯罪やハンナン食肉偽装事件を批判する正当な言論は2ちゃんねるにある。
これは、その2ちゃんの書き込みした人を次々に罰する法律だ。
在日外国人などがヒステリーを起こして「差別だ」として叫ぶと、
書き込んだ人をもう好き勝手に弾圧できるようになる。
第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。
二 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として
前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをする意思を広告、
掲示その他これらに類する方法で公然と表示する 行為
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
↑これ「2ちゃんねるでの在日外国人批判書き込み」という意味
みんなの2chがカスどもに取り上げられようとしています。
力を合わせて敵をやっつけよう みんなの力が必要です。
お願いします。 頼みます。張ってください。
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1109169724/l50
>>982 夏侯惇は、ちょうど軍人と名士の中間にいる人種なんじゃないかな。
そんなに戦はうまくないけど、一応軍の指揮と政務の両方が出来て、
勇猛な気性が軍人に、清廉な面が名士に受けて、
軍人と名士の両方に人望が有り、しかも絶対に裏切らないから、
安心して後ろを任せておけるみたいな。
>>986 なるほどそういう人って、国政が安定するためには不可欠な存在だよね。
曹操の徐州遠征の際とか、夏侯惇は留守番役として荀ケ、程cと協力して
三城を守ったりしてることだし、そういったところから名士達との付き合いも
深かったのかものねー
誰か次スレよろ〜
俺は無理だった…
↓990頼む
俺は無理だった…
↓991頼む
俺も無理だった…
↓992頼む
mumumu
ビーバ ビバ サンバー♪ マツケンサンバー♪
人
(__)
(__)
(^( ・∀・) 埋めーーー!
[, ヽy/○,)、
ヽ__〉=ロ=|\,ゝ
フハハハ。
魏の人材力は三国一ィイイイイイ!!!
.∧__,,∧
(´・ω・`) もうすぐ店仕舞いしますよ。お茶だけでも飲んでってねー
( o旦o )
`u―u
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| アパム!アパム!弾!弾持ってこい!アパーーーム!
\_____ ________________
∨
/ ̄ ̄ \ タマナシ
/\ _. /  ̄ ̄\ |_____.| / ̄\
/| ̄ ̄|\/_ ヽ |____ |∩(・∀・;||┘ | ̄ ̄| ̄ ̄|
/ ̄ ̄| ̄ ̄| ̄| (´д`; ||┘ _ユ_II___ | ̄| ̄ ̄| ̄ ̄|
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人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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