1〜4位 周瑜、陸遜、呂蒙、陸抗 「別枠」 孫策 魯粛
周瑜、呂蒙、徐盛、丁奉、程普、韓当、黄蓋、朱桓、朱異
沈瑩、賀斉、陸遜、陸抗、唐咨、甘寧、太史慈、朱然、蒋欽、潘璋、凌操、凌統
董襲、陳武、全j、全端、全懌、鍾離牧、呂範、呂拠、呂岱、周泰、吾彦、厳圭
追加
朱治、歩隲、朱拠、朱績、諸葛恪、留略、于詮、孫権
967 :無名武将@お腹せっぷく :04/08/10 01:21
これまでの流れをまとめて見ると1位は陸遜と周瑜が大体同じ程度に有力。
少し遅れて呂蒙。孫策は見方によって結構変わるから除外。
陸抗を1位という人はあまり見ない。4位でまとまりそう。
支持者の数で言えば、陸遜≧周瑜>呂蒙>>陸抗って感じ。
まさか多数決で決めるわけじゃないだろうけど一応。
別枠孫策は決定事項?
γ⌒/^^/^-_
,ゝ`/~ /~ /~ /⌒ / ̄\
_〈(_)| |~ |~ |~ |~ /^ \_
(丿 /~ /~ /~ /~ /~ /~ /~ /^\
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へ^〈,|,,、,,|,,、,~|、、、|~,,,,,,,,|~,,,,、〈~,, 〈~ 〈~ |~ | /⌒|ヽ
\ (●) ・・ |,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
\ ,-'ニニニニニヽ \
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| | ̄.. | | | | |〜
ヽ.\{_ | | | | |
\\/. | | | | ,,,,,,,,,, |
\_ヽ. | | | | ./ \ \,,,,
ヽ. | | | | | / \
\ | | | | | ( (●) )〜
| | |〇〇〇〇〇| | | (_____)〜
| ヾニニ二二二ン | `````````
ヽ\ |
l `ー-::、_ ,,..'|ヽ.
:人 `ー――''''' / ヽ
_/ `ー-、 ,.-'" \ー-、
,.-'" \: \ .,.-''" |
/. \ ~>、,.-''" |
周泰は入らないの?
こいついなかったら孫権あぼんぬですよ
護衛はまた別物だろ。
魏スレでも典韋なんてベスト10どころか話題にすら出ちゃいないだろうし。
>>2 別枠は孫策単独にすべきだな
魯粛は直接兵を率いてないので
ここで議論されてる将とはちがう。
別枠じゃなくて該当しないとみるべき
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 07:39
age
>>3>>5は単なる呉将を並べただけだし
周泰は入るでしょ
濡須という要所の督を任されてたほどだし
純粋な親衛隊の典韋とはあきらかに別物
>こいついなかったら孫権あぼんぬですよ
>>9は周泰の護衛としての功績を上げて周泰を推したから典韋云々が出たのだと思われ
そう
呉の人物って癇癪持ちのDQNが散見されるよな。
甘寧とか朱桓とか。ちょっと違うが張昭もそうか。
さすがに部下に寝首をかかれた張飛には負けるがw
>17
カンヌも張飛と同じ様なもの。
よって一番のDQNは蜀
>>17 それも呉の武将達の魅力の一つだと思うけど
んだね
そんな荒くれ者と堅物が共存してる江東風土萌え
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 12:18
age
金持ち襲うとか料理人射殺とか上司に反抗的とか、ちょっと笑えないけどな
味方同士で仇打ちも笑えないな
笑えるのは丁奉の態度ぐらいか
主君のヒゲ触りたがる朱桓も笑える
こういうわけわからんのは、ちょっと他の二国では考えられない…
いや、魏にも男に膝枕してもらおうとして拒否られてる奴ならいる
蜀では男が女に変わる事件すらおきている
>>26 呉では死んだのが生き返ったり
誰かの妻が妖怪に・・・
面白いなら記述してしまおう、それが呉の気風
数量自体はともかく変人や珍妙な事件はどこにもあるもの
呉は陽気なので
髭さわらしてヨーとか君主と臣下でそういうふざけた雰囲気が
なりたつんだよ うん きっとそうだw
?
陸抗は親父より凄いと思う
保守
誰もいないようだから俺が決めてやる!
1 周瑜
2 陸遜
3 呂蒙
4 陸抗
5 朱然
6 甘寧
7 童襲
8 全粽
9 徐盛
10 賀斉
だって好きなんだもん…。
周瑜が主役のIFノベルで董襲活躍してるのあるな。
『蒼龍伝』だったかな?
>>34 董襲は俺も好きなんだけど、7位ってのや、徐盛が9位ってのは無理がない?
丁奉・朱桓が入らないってのは……
丁奉の略歴。
丁奉(字:承淵)
甘寧・陸遜・藩璋らの指揮下で活躍。偏将軍。(部隊長レベル?)
252年、孫亮が即位すると都亭侯。冠軍将軍。
魏が多方面から侵攻してくるとその一軍で東興方面担当の胡遵・諸葛誕の軍を諸葛恪の指揮下で一軍を率いて活躍。この方面では軍功第一。都郷侯。滅冠将軍。
255年、魏で毋丘倹とともに反乱を起こし敗れた文欽が呉に投降。丁奉は迎えに行き魏の追撃軍を撃ち破る。
257年、魏で諸葛誕が反乱。呉はその救援に向かう。丁奉は一軍を率いてそれなりに活躍。左将軍。
258年、孫休即位。孫リン誅殺の計をたてた功を認められ大将軍に昇進。左右都護。
260年、徐州の牧。仮節。
263年、魏の鐘会が蜀に侵攻、丁奉は牽制を目的として寿春に向かうが劉禅が降伏したため軍を引き揚げる。
264年、孫晧即位。右大司馬左軍師に昇進。
268年、呉は各方面から晋に侵攻、丁奉は諸葛セイとともに合肥攻撃。偽情報を流し晋の大将石苞を陥れることに成功するが結局は撃退される。
269年、晋の穀陽に攻め入るが住民があらかじめ退避していたため特に得たものがなかった。
271年、死去。
戦術眼は優れてるが大軍の司令官としては普通くらい?
丁奉は呉の人にしては珍しく
演技の方が活躍してるね。
徐盛(字:文嚮)
柴桑に駐屯し黄祖及びその息子射の侵攻を防ぐ。
臨城の山越を討伐。
213年、曹操の濡須攻めに対して孫権に従軍。
215年、孫権の合肥攻めに従軍、張遼の急襲になすすべなく敗走。牙旗を失う。
217年、横江を攻めてきた魏軍を他将とともに撃退。
220年前後?、建武将軍・都亭侯・廬江太守。
222年、夷陵の戦役においては陸遜指揮の下活躍。
223年、魏が3方面から侵攻。その一軍の曹休・張遼軍と洞口で呂範・全jらとともに応戦。戦場で大風の影響もあり一度は撃ち破られたが、その後は残った兵をまとめて何とか守りきる。
224年、曹丕自ら軍を率いて攻めてきたが徐盛の詭計に引っかかり軍を還す。
228年までに死亡。
活躍は部隊長レベル?思ってたより微妙。
もうちょっと有能さをあらわす記録が残ってるかと思ってた。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 18:56
演義マンセーのリバウンドで過大評価しすぎだろう
すまん。ここに来たばかりなんだが、
孫策が別枠扱いなのはなぜ?
過去スレも見れんし……。
やんちゃすぎたから
大人しく袁術の将軍やってたらどうなってたんだろう。>孫策
あの状況で将軍職まかされるなんて相当信頼されていると思うんだが。
やんちゃすぎるからそれはない
確かに、有り得ないにもほどがあるIFだったかも。
スマソ(笑)
諸葛瑾伝の註として引かれてる「呉録」の記述に
「諸葛瑾は、鷹揚せまらぬ性格から、ものごとの道すじを考え、計画を十分に立てたうえで行動に移し、臨機応変の戦術を取らなかったため、兵役はなかなからちがあかず」
とあるが、このあたり諸葛亮との血のつながりを感じさせてなんか微笑ましい。
このスレ呉の人物を語れの次スレ扱いにしないか?
住人もランキングに固執してないようだし
寂しいスレだな・・・・・
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:28:25
よし、あげるぞ!みんな元気だせ
呉将を個別に調べようと検索すると、
同盟ばかりひっかかる。
呉の名将も草葉の陰で泣いてるぞ多分
孫河は大丈夫だったぞ
つーか、尹孫河でユンソナって読むんだな・・・
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 18:42:46
孫河もまた中途半端な死に方だな
董襲しかり陳武しかり・・・この二人よりはましか
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 19:05:05
>42−43
徐盛とか丁奉とか潘璋あたりのチンピラはむしろ演義に感謝しなけりゃ
ならない立場かもしれんな。本来話題になる事さえ有り得ない雑魚だし。
呉といえばやっぱり孫瑜だろ。
雑魚ねぇ〜
仮にも功を以て伝を立てられた人物を、雑魚呼ばわりとは…
>>57 雑魚は言いすぎだとは思うが、周瑜や陸遜らと比べるとランクが落ちるのは否めないな。
勇猛である程度有能な部将だとは思うが替えがいないというレベルではないわな。
江南の虎将って評されてるじゃないか
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 22:03:50
いいんじゃん、蜀なんか全員いなくても替えがいるレベルの奴ばっかだし
>>61 蜀ファンとして言わせてもらいますが、
例の三兄弟なんかは替えがいませんよ。
あのDQNぶりは真似出来ない・・・・・・orz
失礼な事言ってるね…
これは蜀スレと呉スレを争わせようとする魏スレの策謀だ
司馬懿か!
芝居とかけました
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 17:41:24
丁奉は晩年の呉の名臣では
偉くなるにつれ、態度もでかくなったからな
人間的にはどうだろう・・
長生きしただけじゃないか?
>>67 権力闘争には関与してるが名臣とは言えないとはいえないと思う。
隠れた名将の詳しい情報を載せているHPってあるか?
同盟と腐女子と孫○こ抜きで、列伝の無い人物。
晒せとは言わないから人物名を教えてほしい・・
>>70 すまんw
> 権力闘争には関与してるが名臣とは言えないとはいえないと思う。
↓
> 権力闘争には関与してるが名臣とは言えないと思う。
>>71 少しは自分の力で調べようという意識はないの?
クレクレと大差ないよ。
71は遠巻きに話題を振っているように見えるけど……
呉将だと無双以外の人物ってあまり見かけないよね
漠然としすぎて答えようが無いだろな
孫河は名将だろ、と言ってみる
仲異
孫河は名将というより忠臣のイメージが強い。
息子(3男)と甥はじゅうぶん名将?
賀斉じゃだめか?
異民族対策でかなり功績があったっていうが。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 13:32:04
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 13:44:49
キャーりっくんがんばってー!>_<イヤァァ!かわいい!
>>81 ジム・キャリー?誤爆か?
賀斉は中堅どころってかんじじゃないかな
いまひとつ地味っていうか
賀斉って地味っていうか、対外的には無名に近いんでなかった?
たしか、国内の賊伐・異民族征伐が主な任務でなかったっけ。
>>83 洞口の戦いがあるよ。
呂範の船団が嵐で大損害を被ったところにかけつけ、もともとあらゆる軍装を
壮麗絢爛に施してるもんだから、魏の軍勢の進軍を思いとどまらせてるはず。
>>80 >>71の隠れた名将についてのレスのつもりだったけど、
アンカーつけなかったから解りづらかったな。
>>82-83の言う通り地味な印象があったから賀斉をあげてみた。
あまり有名どころと絡まないし。
>>86 賀斉はその活躍がほぼ対山越、対不服住民征伐に集中してるからなー。
地味な印象なのはやむなし。おかげで演義も完全スルー。
孫権からの信頼度とか、出世度でも徐盛や凌統を上回り、
武勇、知略でもその上を行くと思われるのだが、
やはり通好みの武将という域を出ないな。残念だ。
孫権の信頼度はリョウ統、呂蒙、朱然じゃないか?
朱然は入ってたっけ
陸遜はりっくんって呼ばれているのか・・・・
また一つ余計な知識が増えた
今こそ出番だぞ!園田陸遜
↓
川
ミミ川川ツ
ミミ:::::::::::::::::彡彡
ミミ::::::::::::::::::::::::::彡彡
ミミ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡彡
ミミミミミ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡彡彡彡彡彡彡
ミミミミ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡
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ミ;;;;| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、;;;彡彡彡
i`|( ,,,;;;;;;;;,, ,,;;;;;;;;;,,, ) Y^ヽ彡彡
ヽ! "ゝ-゚ イ⌒ゝ-゚-イ" d/彡
i´ ,;(´__);,, Y彡
l ,;;,;;;;;;;;;;;;;;,;;;,,, | < そろそろ園田陸遜の出番ですね?
,ィ<ヘ ,,,;;;`ー―‐'";;;,, ノ>\_
イ^ゝ ゝ、__,,,,;;;;;;,,,,,____,イ/ / ``ヽ、_
"'''''''""
キャーりっくん
ステキー
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 11:41:13
陸遜さまさま
陸遜って呂蒙と組んで荊州を奪取した件と夷陵の戦役で蜀軍をチンチンにした件以外で特筆すべき戦功ってある?
曹休を嵌めた件はなんか戦略的な意味がよく見えないし……
>>94 領土も拡張したし魏の重鎮で対呉の総司令官をほぼ戦闘不能にしたことは
充分じゃないのか?曹休だってそれまでほぼ不敗の名将だったし
>>94 派手な戦果にしか目を向けてないのかもしれないけど、陸遜は地方の叛乱征圧に
よる軍籍の確保、という事で大きな成果をあげてる。
もともと江南一帯は面積に反して人口の乏しい地域だから、呉は常に兵力の不足と
供給源の確保に苦しんでた。
国内の安定を図らなければ大規模な外征は難しいし、無用な国力の低下を生む。
陸遜というと、荊州・夷陵・石亭にばかり目をむけられがちだけど、国内での叛乱の
鎮定や兵力の拡大にも大きな事績を残してるよ。
>>95 いやそれによって何か変わったか?ということ。
曹休を撃破したことによって領土を拡張できた?
その後、魏の対呉戦線は弱体化した?(こっちは結果論っぽいが)
戦争に携わるものとしては見事といえるのかもしれんが、陸遜ならもう一つ上のレベルの戦略は立てられなかったのか?という気がするんでね。
自分の中で過大評価しすぎてたのかな?
>>96 いやそれはわかる。
ただ国内平定に関しては賀斉や呂岱、潘濬といった連中も功績を挙げてるんでね。
陸遜の功だけを特筆できるかなと思っただけ。別に軽視したつもりはなかったがそういった形のレスになってしまったね。すまん。
>>97 要は陸遜の能力ならもっと大きな戦略を立てることができたのではってことか?
陸遜は軍人気質というより政治家としての一面も強いから
まずは自国の強化を優先したと思う、蜀に比べ土地が広く防衛ラインが伸びてる
呉は蜀に比べて頻繁に魏の侵攻を招いている、この状況からは大きな戦略を立てるなら
まずは最低自国の安定だけは確実にしてからって考えになるだろうし
99 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 22:29:23
息子の陸抗の方が優秀じゃないの?
実績は、多岐に渡る活躍を見せた親父の方が上。
能力は知らん。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 22:39:13
陸抗の方が頑張ったよ。孫休が死んだあとの呉を一人で支えていた。
どっちもよく頑張ったよ・・・泣ける
そういや陸遜って呂蒙や朱然と違って演義であんま被害受けてないな
劉備を打ち破ったり、関羽殺しの共犯だったりするのにねえ。
演義だと呉の孔明って感じだ。なんとなく敬意を感じる。
孔明と伯言だけ特別の伝たてられてるしな
>>103 石陣で孔明の罠にはまって
一矢報いられた形になった
あそこで死ぬ・・・・・って流石にそれは出来ないわな
あと演義では憤死してないね
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 18:29:42
諸葛格がもっと謙虚ならばよかったのにねえ
凌操は名将じゃないか?もう少し高評価されてもいいはずだが
祖茂ってそもそも何をした人物だったかな
凌操の何を評価しろと
つっこむべきはそもそもじゃないの?
というか二行目を書きたくて、一行目は誰でもよかったんじゃないかと……
祖茂って一応四天王の1人だよな…
まあ地方政権黎明期の将の記述なんて
特記事項がなければこんなもんだよな。
もそもそ
祖茂すいません
凌操の息子はヤオイのプリンスらしいぞ
りっくんといい、呉将にも困ったもんだよ
呉将の真の敵は腐女子である!
名将って文官は抜きでか?線引きの難しい人物もいるが。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 11:41:31
孫権のバーカ
呂蒙のバーカ
陸遜は天才。
諸葛瑾に萌える
諸葛瑾もある意味名将かもしれないな
あまり戦は上手ではないようだが、人柄がいい
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/07 15:32:01
俺がソンチンを斬る〜♪テイテイホーテイテイホー♪
ソンチンがアレに見えただろバカ
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/07 23:56:11
かんがんの唄です
朱然!!!
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 14:45:37
三国志演技では三国鼎立後、呉は諸葛謹や呂範が戦線に出てくる
こいつら文官じゃなかったっけ
>>131 いちおうマジレスしておくけど、この時代、文・武官の明確な職掌は曖昧でもあり
兼任もあり、純粋に軍人か官僚か、といった区分はできないよ。
それに諸葛瑾や呂範は文官じゃないよ。
孫権の皇帝即位に伴い諸葛瑾は大将軍に昇階しているし、呂範は史実では
孫策の時代から戦場での事績が豊富。
もっとも、”大将軍”という官位には政治的な意味合いが濃くて、単純な武官職と
してみてはいけないけどね。
呂範の大司馬も武官の官位だしな、印綬はうけとれなかったが…
ただ、すくなくとも経歴から判断すると呂範は武官でしょ
逆に、呂範が文官であるという理由を聞きたい
>>133 いや
>>131は、「演義」で、と言っているじゃない?
「演義」での呂範から武人としての匂いは感じ取れない気がする。
という俺も「演義」関係は横山三国志しか知らなくて悪いけど……
呂範は占いをしていたからな
虞翻と印象が似ている
ゲームの影響じゃないの?
おれも諸葛謹や呂範は文官のイメージが抜け切れない
137 :
131:04/10/13 03:12:12
三国志演義だと呂範は孫策からいたわりには戦線に出ず劉備への使者などをしていたから夷陵のあといきなり曹休を撃破ときたからビックリ
肥も戦闘評価低いからね
呉は人材不足で学徒動員をかけたのかななんて思ったよ
総大将は後ろから指示するだけでもいいんだろ?
文官でもできるんじゃね
>>138 それは言っちゃいけない
ぶっちゃけ、文官も軍を指揮すりゃ武官の仲間入り
三国志って、まさに、そんな時代なのよ
無理矢理色分けする必要もないと思うけどな。
つーか、武官を文官が指揮するのが建前なんだよな。
中国では。
武家社会だった日本とは違うんだよな
じゃあ名将は文官の中にいるのかな
つか、文官のイメージが強い奴の方が出世してるキガス
>>143 だから、文・武官の明確な区分は必ずしも正確じゃないんだって。
位階の高低でいえば、文東武西が根底にある意味を考えればわかること。
文東武西??
つまり、現場は出世しないってこと?それじゃ警察みたいだけど
>>145 いかに三国時代といっても、功績次第でどこまでも累進できるというわけじゃないよ。
門閥や有力な在地勢力、血胤、出自といったものが昇進に影響をあたえるし、呉は
三国の中ではその色あいが濃い方。
事績の多くを戦場での軍功で占めている(韓当、潘璋、周泰といったような)人物の
官位は、将軍位と主要軍事施設の督にあるものがほとんどで、公卿クラスとして
高位に昇り、中央での国政に関与する顕職には就けない。
というのも、呉は孫氏を筆頭にした在地豪族の連合体、という特色性があるから、
万機において独裁を行えるほど君主の威権は強大というわけでもない。
人事をみても、名士層の大きな支持を得ている有力な氏族の影響力はけして無視
できないし、そのためか”叩きあげ”に分類される上記の様な連中の昇進にも限界が
あるってところだと思うよ。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 13:36:24
学問できない豪族出身の者が出世した事例って三国志にあったかな。
豪族は学問を修めるのが普通だよね。
文官とか武官とか以前の問題だと思うなぁ。
三国志でもっとも出発点が不利な中で
一番出世したのがカンタクってあったな
カンタックンは長生きだからな
ホシツはどうなのよ?
貧乏の出は早死にが多い?
栄養バランス悪かったのかね
豪族は生まれつき良いもん食ってそう
カンタクって長生きだっけ?
リックンぐらい生きてる
俺も名家に生まれたかった
ないものねだりだな
>>153 学問ができなきゃ穀潰しで家名を落とすだけだぞ。
10歳そこそこで「詩経」や「論語」、「左伝」なんかを学ぶ気がある?
しかも時と運に恵まれなければ、自分に何の非が無くても命が無くなる。
援軍はまだかっ!!
『援軍は来ないのか!』
『あぁ、仲謀だからな。』
『仲謀じゃあ、仕方ないな( ´∀`)』
羅憲が憎いぃぃ
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 05:33:54
age
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 09:53:05
カンタク=243年没
リックン=245年没
ホシツ=246年没
だったような・・・
どうした?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/19 10:59:01
敵将、劉備討ち取ったりいいい!!
劉備は病死じゃないか?
165 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/19 12:13:19
病死だよ。
あぁ、ネタだったのか・・・
ネタか?
劉備なんてもってこなくていいよぉ
1ヶ月近くレスがない・・・
age
呉将に興味あるやつ少ないのか?
オレオレ!
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 00:57:25
呉が好きな人って実際は蜀とか好っぽい希ガス
んなこたぁない。
魏が好きだ
住人同士、好戦的にならんと盛り上がらんよ
マッタリ進めようとした結果がこの淋しい有様
魏・魏・魏!魏が好きなんだヨォォォォ!!
呉も好きよ。
>>176-179 純粋な呉ファンはいないのかよ!
漏れは呉が好きだ。魏蜀はどーでもいい。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 02:42:15
俺は呉好きだよ
特に、陸抗が好き
呉ヲタはマターリが基本、の希ガス
ちょっとマターリしすぎだ
おれも呉が一番好き
三国志が好きだから
魏も蜀も興味ある
>>178 蜀、魏名将系スレが盛り上がったのも
信者同士の煽りあい、評価の上下に対する執着が
異常だった
呉スレはああいった状況を避けようとした結果
勢いがなくなった
まあいいじゃん
ほとんど読んでないけど蜀魏はベスト10決まってたんだな
蜀スレはなんだか凄いマニアックな展開になってるw
世界史板のコテが登場しただけ
蜀スレの今の流れって好きだなぁ。
ひと昔前の感情むきだしの不毛な議論が続いていた時期よりよっぽどいい。
制度や門地あたりをまったく考慮しない意見が多かったし。
いや、呉スレも大好きですって。
とはいえあの流れは三戦的じゃない。
半可通でも議論に加われるってのが三戦的な流れだろう。
で、呉将ネタマダー?(AA
1位周瑜
2位孫策
3位陸遜
4位呂蒙
5位陸抗
>>192 都督以上のレベルだとベスト5はやはりそれか。
せんりゃく 【戦略】
長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法
戦略の具体的遂行である戦術とは区別される
せんじゅつ 【戦術】
個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法
普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する
839 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/08/01 18:03
周瑜を1位に推す主な理由は建国、防衛、領土拡大
すべて軍事行動で大きな功績があるってとこだな
陸遜はその点ではどれも劣る
だけど戦争での用兵の凄さ等は周瑜よりも陸遜の評価が
上と見る人間は多い
840 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/08/01 18:11
でも総合的な能力でみると周瑜のほうがやや上かも
陸遜が周瑜を上回るのは用兵や作戦の妙。
統率力とか指導力とか陸遜は周瑜には及ばないだろう
加えて功績でだいぶ劣る。
でもなにげに孫策がトップな気がしますけどね。
841 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/08/01 18:16
>>839 能力そのものの差はともかく残した実績の豊富さでは確かに周瑜が上だな。
842 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/08/01 18:48
戦術的な能力においてしばしば是非を問われる周瑜ではあるが、
呉のホープはみな周瑜の指揮下で育ったっつーことも忘れちゃならん。
陸遜の下では呂蒙は育たん気がする。
孫策 君主自ら偵察に行って一騎討ちをしちゃったり、1人でウロウロして殺されちゃったり軽率。
周瑜 江陵滑落させんのに手間取った。その時に呂蒙の策を参考にした。(どちらも擁護できるもの)
呂蒙 孫権の評で周瑜の下っぽく書かれてる。周瑜、陸遜に戦略眼で劣る。
陸抗 城を落とせなかったりと攻勢は防御より良くない。
陸遜 領土拡大においては周瑜、呂蒙らに劣る
724 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/22 13:33
孫策の軍事能力に関しては全く欠点はない
長江を抑え数万の兵力を擁してる劉繇軍に
全戦全勝、他の群雄にも全勝で生涯引き分けもなく不敗
19歳で独立してから26歳で死ぬまでの期間
ほとんど勝利と領土拡大の活躍
この若さと短期間でこれほど活躍した人物は
三国志では孫策だけ、曹操も短期間で領土を広げたけど
反董卓に群雄の一人として世に出た時点で35歳
この頃は除栄に敗れたり揚州で失敗など出だしは良くなかった
まあ最期には覇者になったから孫策より格上になったが
676 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/20 21:47
呉に利益をもたらしたという点では周瑜が1歩抜きん出ていると思う。
出兵直後で寡兵の孫策に貴重な援軍(周瑜自身も含む)や物資を提供し、
建国戦に当たっては孫策の補佐及び後方の備え等に動き、
魯粛などの有能の士を推挙し、君主になり立ての孫権に孫策同様に扱い緩んでいた君臣の法を正し、
曹操からの人質要請にも的確な助言をし、赤壁では曹操軍の弱点を冷静に分析し敗走させ、
荊州を切り開いた。
663 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/20 17:59
周瑜を推してる人もいる。
俺的にはとりあえず1位を陸遜、周瑜に暫定して孫策、呂蒙、陸抗、(朱然)辺りの3位移行の
上下を決めて欲しい。それから不満があれば3位の将も入れて三つ巴。
666 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/20 18:07
>>663 呂蒙は加えるべきと思う
荊州では兵法の極意ともいえる「戦わずして勝つ」を実戦してた上で領土拡張しているし
濡須などの危機的状況にて司令官として実績を残している。
陸遜、周瑜と比べて見劣りする人物ではない
668 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/20 18:31
〉663
公瑾は事を名さんという大きな気概を持ち、
胆力、才略は人に勝り、(中略)その気宇の大きさにはなかなかに及び難いが、
あなた(陸遜)が今、それを継いでおられる
ただその申し述べる意見に壮大さと鋭敏さが欠けるという点で
公瑾に及ばなかったに過ぎない。
身近で見てきて、かなり的を射ていると思われる孫権の評も参考にしたのだが、マズったかな?
後続を決めてから、2+1で上下を決めればいいんじゃないかと思ったんだけど・・。
672 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/20 19:42
陸抗も孫晧への上奏内容を見る限りだと、当時の情勢と呉の採るべき適切な
処置というものがよくわかっている。
西陵の戦役のような広大な戦域での作戦術は見事というほかない。
防衛戦略・戦術でいえば、周瑜・陸遜・呂蒙の三者以上にも思える。
攻勢面ではあまりいいところがないみたいだけどね。
703 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/21 15:52
陸抗の西陵は、攻守同時に行った感があるなあ。
攻→西陵に立てこもる歩闡を粘って落とした
守→羊コら晋の侵略を鮮やかに捌く
まあ、西陵は自分の築いた城でよく熟知してたのはあるかもしれんが、
こういう不測な事態で冷静に対処っつーのが得意だったのかもね。
704 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/07/21 16:17
>>703 西陵の戦いは、戦力で劣勢なうえに長大な防衛線を保持しなければならない
にも関わらず、攻勢軍に主導権を握らせなかったところが凄い。
西方から徐胤の水軍、江陵には羊[示古]の本隊、西陵では歩闡の叛乱と
楊肇の解囲軍と、三方からの侵攻に少ない戦力で適切に対処してる。
しかも同時に呉将の離反にも遭遇していて、それすら乗り切っているあたり、
単純な一城の攻略や野戦軍の撃破などで得る軍功とはわけが違うね。
246 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/06/04 12:10
周瑜は死ぬのが早過ぎたから評価が難しいね
生きてれば東晋の桓温みたいな活躍を見せたかもしれないが
どうしてもたらればになってしまう
やはりNo1は断トツで陸遜じゃなかろうか
250 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/06/04 14:53
>>247 質の点で陸遜
周瑜は結構てこずったり、呂蒙を始め緒将の助言に助けられてる局面が多い。
その点陸遜は計画通り事を進めることが出来てる。
253 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/06/04 23:09
>>252 単純に相手の陣容や面子を比較するのもどうかと思うよ。
陸遜が軍権を握った時期の魏は赤壁前後とは別物。
双方が大国に発展した結果、戦争では多面的な軍略が要求される。
ただ正面の一城や一軍を攻略すればいいわけでもないし、そんな
戦い方もできない。
鼎立以前は、面よりは単純な点をめぐった戦いが多いもの。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/28 22:39:57
孫策入れるなら孫策一位は確定でしょ。
次点は周瑜か陸遜か。でも一位を孫策にするなら周瑜。
三位陸遜。四位呂蒙。五位陸抗。
鼎立以前は面より点の戦いが多いというけど、
それでも基本的には多面的な軍略が求められる。
孫策と周瑜は状況の多面性を突き崩すのが巧いし、
さらに孫策は一点化した戦局を攻略する天才でもある。
周瑜は点の攻略においては呂蒙や陸抗にも劣る感がある。
呂蒙は点の戦いでは最高の功績を挙げているが、
戦略眼については純粋軍人に過ぎるきらいがある。
陸抗は西陵の戦いは素晴らしすぎるが、巴東を落とせなかったのは痛い。
これは周瑜の江陵戦よりも大きな減点対象になると思う。
陸遜はどんな状況でも多面性を維持するという意味ではスケールがでかい。
ただ、呉は真の意味で多面的な攻勢を仕掛けられるほどの国力を持っていなかった。
陸遜が魏の将であったならばもっと大きな功績を挙げられたかもしれない。
見方を変えれば陸遜が一位になってもおかしくはない。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 01:27:00
呉の名将は馬忠だ。
上司の潘璋のせいで影に隠れているが、
関羽を捕らえることは並大抵ではない。
陸遜は叔父の陸康が孫策に殺されてるのに
よく孫家につくしたと思う。
陸抗が巴東に派遣されたのってだいぶ後じゃん
総指揮でもない感じだし
名将なら戦場での実績だけ考えればいいんじゃない?
白起や韓信といった名将も戦略を考える人は別にいたし
というわけで2位に呂蒙を推してみる
なんつーか
呂蒙って戦略がだめってイメージを持たれてるようだけど、
呂蒙の戦略は天下二分論で、周瑜や魯粛と大差がない。
呂蒙がだめなら周瑜や魯粛もだめって事になるんだけど。
それに陸遜って周瑜や呂蒙や魯粛のように、明確に戦略を提示したことがない筈なんだけど、
何故か戦略家として、さも呂蒙や周瑜と同列に語られている。どうにも解せない。
>>206 呉の戦略の大本は多分、魯粛の天下二分だと思う。
それに肉付けしたのが周瑜の天下二分論。
2位に推しといて言うのもなんだけど呂蒙の場合はそれを受け継いだという形だと思う。
やはり孫権の「その申し述べる意見に壮大さと鋭敏さが欠ける」という指摘がネックかな。
陸遜については大体同意だけど、足元をしっかりさせようという戦略?は示している。
後は夷陵後の行動とかかな?魯粛、周瑜よりは劣ると思う。
>>207 実は、殆ど同意見。
陸遜は明確に戦略を提示してないけど、
魯粛、周遊、呂蒙の戦略を受け継いで、戦略の維持発展に努めたし、
少なくとも周瑜や呂蒙より明確に劣ってるとは考えてない。(若干、周瑜等の方が上と思う)
ただ明確に勝ってるとも思えないし、
検証もされずに周瑜等と同等の評価は、虫が良すぎると思ったので疑問を呈してみた。
私見を述べれば、周瑜の天下二分は、魯粛の天下二分を実行すべき時期に至ったため、
魯粛のそれより肉付けされているのだと考えます。
ただ、「馬超との同盟」、「曹操が行動できない状態」とか、希望的観測に依った部分が減点材料と思う。
もし周瑜の戦略に益州攻略の具体案が盛り込まれていたら、
自分は、周瑜を単独で呉最高の名将に推していたでしょう。
呂蒙の方は、荊州攻略の具体案が盛り込まれたが、益州についての言及が少なく、
周瑜の戦略から贅肉をそぎ落としたような戦略で、まさに孫権評の通り壮大さなどに欠けると思う。
呂蒙は、この戦略を述べる折、呂蒙自身や孫権の没後の事を危惧しており、
呂蒙の戦略は同じ天下二分でも防衛優先のものと考えます。
>>208 周瑜の下にいたホウ統が後に劉備の益州攻略を立案したのだから、
周瑜の天下二分にも具体案がなかったわけではないんじゃないか、という。
馬超との同盟にしても、劉備はいささか機を逸してしまったとはいえ馬超その人は得ているんだし。
呉の名将といったら輔国将軍・王表に決まっておろう。
>>209 ホウ統については考えが及ばなかったです。
確かに、周瑜は具体案を持っていたやも知れませんね。
馬超との同盟は、成立する保証もないものですし、
この時の馬超の勢力に対する分析等を周瑜は言及してませんでした。
涼州の勢力は、霊帝の頃には既に流動的でしたので、希望的観測としたわけです。
私は減点と書きましたが、周瑜の戦略の骨子は、
益州の奪取と、それにより可能となる二方面作戦でしょうから、大した減点ではないと考えてます。
陸抗の対羅憲の擁護として
・打ち破られたのは援軍前の歩協
・撤退の主な要因が呉国内での叛乱
・陸抗は総指揮でもなく援軍の将の一人に過ぎず攻略を立案したわけでもない
ここから巴東攻略の失敗を陸抗の大きな減点とは思えない
主だった将として参加してるから減点なら
陳倉戦での魏延やら江陵戦での除晃とかも
叩かれる風潮になるけど
ほとんどないよな
>>212 陸抗が到着してからどれくらいの期間戦ったのかは判らないが、
包囲戦そのものは半年から一年近くは続いたとされる。
また晋書羅憲伝の記述でも「胡烈が救援に来たため“陸抗は”退却した」とあるし、
総指揮官でも立案者でもなかったからといって脇役だったという印象はない。
まあ、あくまで「周瑜の江陵戦よりも」ということであって、
巴東攻略の失敗によって陸抗の能力にひどくケチをつけるつもりはないが。
>>211 ホウ統にしても馬超のことにしても、何の根拠もないことなんですけどね。
ただ後の展開を見ると「ああ、このこと?」って思える戦略じゃないですか、周瑜の天下二分計は。
だから、希望的観測ではあったけれど的を射ていた、とは言えるんじゃないかなぁという程度の擁護です。
呂蒙やリョウ統の使い方を見ても、周瑜は細部を(良くも悪くも)有能な若手に任せる傾向があるのは確かだし。
歴戦の猛将曹仁相手にハタチ前後の凌統をあてるなんて
周瑜は決断力もあったんだろうな、普通心配だぞ……
>>215 そういう人の使い方も周瑜の魅力の一つに思える。
もし長生きして蜀遠征が実行されたならば、
対袁紹戦での曹操と荀攸の関係ような感じで、
細部をホウ統に助言を貰い周瑜が決定という方向で
機能しそうな気がする。
政治と軍事の総合なら陸遜が1位だと思う
>>219 陸遜ほど政治で実績あげた奴はいないんでは?神君って言われるぐらいだし
憤死も丞相の立場からの当然のことをしただけで
処罰も孫権の一時的な感情からきたもの
若い頃は内政面でも評判がよかったけど、その後は基本的に軍人。
軍事を統括するようになってからも国政に的確な助言をしているし、
そういう意味では政治感覚も優れているといえるが、政治家ではない。
呉の内政は顧雍が長いこと丞相を務めて支えていたわけで、
陸遜が丞相になったのは死ぬ直前のほんの数年間だけ。
さらに言いがかりをつけると、二宮の変を有力豪族の権力抗争と考えた場合、
陸遜は丞相としてこれを処理できなかったことにもなる。
と、横レスしてみる。
むしろ、二宮の変を豪族の権力抗争ととらえるなら、陸遜はむしろそのまっただなかで一方の派閥に属していた訳で。
処理できなかったというか、むしろ抗争に破れたというべきかもしれない。
>>224 そうね。いずれにせよ、
「二宮の変は単なる孫権の老人ボケによるもので孫和派は正義を貫いただけ」
なんてのは物語チックすぎると言いたい。
陸遜の政治家としての力量はここでこそ発揮されるべきだったのに、ダメじゃん、と。
いや、なんかじゃなくて相当薄っぺらい…
そもそも孫権による陸遜の「流罪」は誤訳ではないかとの疑問が既に提示されているし、
「憤死」についても「志半ばにして死す」との意味もあるといった指摘がなされている。
それに
>>223-225では二宮事件を「豪族の権力抗争」と言っているのに、
>>226のサイトでは「孫権の豪族弾圧か否か」をテーマに考察しているのだから、参考にもならない。
>>226 ぶっちゃけ、ただ事実を羅列して、最後にいきなり結論が来ているように感じる。
これは俺の読み方が悪いのか。
しかも論旨を左右するものでないにしろ、ちくまの誤訳そのままっぽいのは大減点。
太子派、魯王派どっちも処分されているから孫権が怒りに任せて君主権を乱用しただけ、ねえ…
だいたい二宮の変は陸遜の個人的な政治力の問題じゃないだろ
陸遜はもともと軍事司令官と荊州の統治が役目で中央から離れ武昌に赴任していた
それから丞相に任命されても軍事司令官も兼任しているから武昌から離れられなかった
跡継ぎ問題を武昌から上訴しても聞き入れられず建業に行きたいと行っても許可されない
一方の孫覇側の孫魯班らは孫権のすぐ側から讒言し放題、孫和のブレーンをあっさり排除
陸遜が言ってることはまぎれもない正論だし、孫和、孫覇問題は陸遜が丞相になる前から火種はあった
顧雍、潘濬が死んで中央に良識派の政治家が死んだのが惜しまれる
後継者問題みたいな宮廷劇みたいなもんまで内政能力になんのか?
>>231 内政能力ってのはよく分からんが政治力であることは確か
ただ
>>218の言ってることは間違いではないと思う
でもスレ違い
建業で行政を動かしてたのに跡継ぎ問題を処理できなかったら
陸遜の責任も大きくなるけど、荊州の管理職みたいな地位から丞相に任命されて
建業に入ることなく名士争いに巻き込まれたわけだしなあ
後、陸遜が積極的に名士争いに参入したら建業は孫覇一派に抑えられてるから
司馬イみたいにクーデターを起こしたかもしれんな
ここまでの流れを読むと、政治と軍事の総合は出来ていないという印象を受けるが。
荊州統治のレベルでは問題なくても、丞相としてはチグハグになっていたということか?
もっとも、どっちにしても陸遜の責任ではないのだろうけど。
陸遜は憤死って言ったってもうかなりの歳だったんだからどっちにしてもすぐに死んでただろうけどね。
軍事的才能も政治力も周愉に比べて若干劣るって感じだな。
周瑜の政治力と陸遜のそれはまったく質が違う感じだ。
たとえば赤壁前の柴桑会議をまとめたことなんかは一種の政治力と言えるし。
国家戦略と軍事作戦の統合という意味ではやはり周瑜が抜きん出ている気がする。
陸遜の場合、政治家としては名刺史レベルのように思える。十分凄いけど。
周瑜は政治というより統率力だな
陸遜が周瑜より政治力が劣るとは到底思えない
若い頃から農耕と養蚕、山越対策で大きな成果を出し
荊州攻略時には蜀に逃げた豪族を帰順させるのに成功して
数万人を得たり、有能な士人の登用にも積極的に動いてる
荊州の治績の手際よさは陸遜の能力によるものが大きい
この功績で下位の撫辺将軍から一気に鎮西将軍まで出世している
正史で政治に関して記述されてる数も並みの文官より多い
曹操、曹丕、曹叡、孫権、劉備
三国の名君主の臣下で軍事と政治の頂点を同時に兼任したのは陸遜だけ
239 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 22:36:22
周瑜と陸遜の違いは、発言力以外は大差なし。
周瑜は孫策とのつながりがあったから、
発言力が大きかった。ただそれだけ。
それが重要なんだろ
名士だとかそういうので、組織を纏められるならあった方がいい
そういうの含めての政治力なんじゃねーの
242 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 23:23:20
呉の武官で政治力・戦略眼No1はやっぱり魯粛だろ。
ぶるん
支那は色々と大変だ
魯粛も議論に入れようよ
あげ
age
孫堅も
確かに魯粛の蜀呉の方向性というか
外交の核を握ってた政治力というものはあなどれない
ただこのスレは軍事と政治の総合評価を議論するスレだっけ?
軍事的才能、戦績、戦略、戦術
他国への影響力、後世の評価、自国への貢献度
251 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 11:49:39
魯粛を語る時、決定的に欠けるのが戦術面での功績だよな。
巧拙を語る以前にそういう場面自体の記述が無いわけだし。
でも陸口を当時の国防の最重要ポイントに定めて一旦、荊州確保のために
攻勢戦略から守勢戦略に切り替えながらも荊州の獲得を見据えた関羽との
互角の小競合いを演じるあたりは極めて微妙なパワーバランスを
見事にさばいていると思う。 外交で荊州半分を獲得したわけだから。
周瑜死後、呂蒙が名将として完成するまでの間、魯粛の外交戦略は不可欠だった。
魏のように名刺史の統治下に猛将を派遣すれば何とかなるってのとは大違いだ。
だから呉の名将を語る上では、政治力というか遠征軍指揮官としての戦略性が重要になる。
>>251 外交で荊州半分獲得というのは違うかと
呂蒙が荊州南部を落とした後で零陵は返してるんだから。
その判断と外交は見事だと思うけど。
江陵も取り戻せなかったし名将いうカテゴリーでは厳しいでしょ。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 14:01:45
なんだかんだ言って張昭、張コウに政治、貢献度で勝る者はなし!
他国への影響力はやはり周瑜、呂蒙あたりで、
戦績、戦略は黄蓋、甘寧でしょ!
地味度ナンバーワンは譚雄あたりかな。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 14:46:57
戦略じゃなくて戦術だろうと思う
>>254は演義準拠なのか?
>>255甘寧は戦略も素晴らしいよ。多分に私情が混じっているけど・・・・
>>253 名将ではないよなー
魯粛自身が自分の軍才をまるっきり信じてないし。
名司令官ってとこか。
まあ自分の実力を正当に評価して得意分野で勝負するのは
当たり前なようでなかなかできることではないよな。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 21:46:18
当時はそもそも軍事にせよ内政外交にせよ国家運営に耐えうる人材が少ない
二役三役は当たり前の状態ではなかったろうか
>>259 内政の人材は少なくない。
軍事に関しても、国家運営というレベルならば不足はない。
曹操陣営に対する攻守の他に劉備陣営とも渡り合わねばならないからこそ名司令官が必要になる。
要は人材を二倍必要とする状態にあったということ。
君主が孫策であれば、対曹操の攻勢にも戦果が期待できて、
周瑜魯粛呂蒙のように苦労することもなかったはず。
>>256 甘寧は大戦略から小戦術にぶっ飛んで、中間が抜け落ちてる。
そこにシビレルあこがれるわけだが、名将っぽくはないな。
>>260 呉は建国初期は戦乱を逃れて移住していた北の知識人が
国政運営の上で大きな貢献をしていたが
三国鼎立が完成し戦が少なくなると文化の高い北に戻っていったため
人材不足に陥ったと本で読んだような気がする
また、南国の風土病も人口減少に拍車をかけたとか
>>261 夷陵の建策や関羽の足止めといった活躍は中間に当たると思う。
名将っぽくない(イメージ的に)というのは同意だけど・・・
個人的にはTOP5の下、朱然の上だと思ってる。
役割が違うから比べるのはナンセンスかな。
>>262 多分、
>>260が考えている時代が違うと思う。
その本は読んだこと無いけど呉から魏への寝返りが多くなるのは夷陵後。
それでも二宮の変が無ければそれなりの人材は残ったんじゃないかな?
甘寧は性格や素行で名将のイメージじゃなくなってるよな。
>>263 関羽の足止めは中間かな。
漢中の情勢を踏まえて関羽が無理な渡河はしないと見切っていたのか、
千三百の兵で関羽の精鋭五千を蹴散らす予定だったのかは定かではないが…
でも夷陵占拠はふてぶてしさ爆発のヤバイ作戦だから小戦術の部類に入るのではないかと。
十倍近い兵力に攻め立てられても平然と談笑する甘寧はカッコ良すぎるが、普通は落ちると思う。
主君に国家戦略を語るほどの地位にありながら、いつも数百人の手勢で突撃。
甘寧好きです。
戦略、戦術を両方備えた呉将
1.孫策、2.呂蒙、3.甘寧
>>265 談笑できる程、周瑜・呂蒙を信頼していたんでしょうね。
呉のアクの強い人達の中でも一際インパクトのある人物だと思いますね。
>>266 漏れもそう思います。
対凌操が8百、対曹仁が千、対関羽が8百、対曹操が百余人
ゲームで寡兵で強くなるスキルがあったら
甘寧に持たせたいな。
ここでいちいち細かな根拠を挙げられるほど博識ではないが、個人的には
1〜3位は周瑜・陸遜・呂蒙で確定かなと思う。
入れるとするならだけど1位孫策は確定だと思う。
次が
>>271の3人+陸抗(+孫堅)。7位が朱然or甘寧。
あとはお好みで朱桓、程普、黄蓋、韓当、賀斉、徐盛、呂岱、丁奉辺りから選べばいいじゃン
1位〜3位候補
孫策、周瑜、陸遜
4位
呂蒙
5位
陸抗
6位〜9位候補
孫堅、魯粛、朱然、甘寧
10位候補
朱桓、賀斉、徐盛、呂岱、丁奉、潘璋
陳登にやられた孫策が第一の名将だなんて随分しょっぱい国だよなwww
>www
とか、打ってて虚しくならないのかな……
呂布なんて別にそんな凄い名将でもないと思うけど、
まだ兵力とか国力とかそういうの考えると弁護のしようがあるじゃん。
孫策は圧倒的な兵力で攻め込んで寡兵の陳登にボロ負けしてるんだから弁護しようないぞ。
兵糧が切れて退却とかじゃないから、諸葛亮がカク昭に負けたのともわけが違う。
>>277 孫策自ら圧倒的な兵力で徐州に攻め込んだなんてどこにも書いてないよ。
うろ覚えだったから久々に調べてみたけど、万単位が戦死するボロ負けだってさwww
退却のときに追撃部隊をボコりまくってる諸葛亮とかとは比較にならんね。
孫策とか正直弱い奴にしか勝ってないし。
こんな奴が第一の名将なんてやっぱり呉は知能が足りない奴らが応援するような
しょっぱい国なんだなw 引き籠って守るのはできないけど、攻める時には三国になってからは
だまし討ちでしか成功してない国。こんな糞国家だから後世になっても
曹操や諸葛亮の魏や蜀と違って全然話題にならないのな。
>>278 もしかしてその軍隊は孫策自身が率いてないとかいうの?
大軍率いる場合は他のが率いてたなら司令官の名前ぐらい書いてあるのが普通。
ましてや魏側の史書なら当然書いてあるに決まってる。
でも孫策以外書いてないってことは孫策が率いてたにきまってんじゃんwww
呉ヲタは頭が悪いですねwww
>>280 孫策伝の本文にあるように孫策が許都襲撃を画策していたとするなら、
曹操と袁紹が相争う好機に数万の大軍を徐州へ差し向ける意味はまったくない。
また、もし官渡の戦いの最中に孫策の大軍が徐州に攻め寄せたのだとしたら、
それを防いだ陳登の功績は尋常ならざるものであり、陳登伝の本文にも武帝紀にも、
他の伝のどこを探してもその戦功が見当たらないなんてことはあり得ないはず。
このあたり、曹操が孫策の進出を気にかけていたという数々の挿話とまったく噛み合ってない。
さらに陳登伝の注にある「陳登が陳矯を派遣して援軍を要請した」という記述は、
陳矯伝の本文では孫権が出兵してきた際のことになっている。当然本文の方が信憑性が高く、
陳登伝注にある陳登の二度の勝利のうち、二度目の相手が孫権であることは間違いない。
そうなると「孫策の」陳登討伐という話は孫策伝の注と陳登伝の注にしか記述されていないことになるが、
孫策伝に引く『江表伝』では孫策は陳登と鉾を交える前に死んだことになっている。ますます怪しい。
大体、大軍率いて陳登と戦っていた孫策が許貢の食客とばったり出くわすなんてのも変だ。
陳登伝における『先賢行状』の引用はこれだけ信頼性が低い。
>>282 そもそも一回目のも派遣じゃないの?
陳登伝の注にも「孫策遣軍攻登于匡g城」とあるみたいだけど?
>>283 某サイトでは陳瑀討伐に派遣された呂範と徐逸の軍のことではないかと指摘されてる
三戦板も正史考察をやるようになってきたのに
にわか正史厨丸出しで煽っても自分が恥かくだけのに
陳登が伏破将軍に就任したのが199年
孫策が劉勲、黄祖との戦いが終結したのが199年12月11日
その後に豫章の平定のために豫章に駐屯
200年1月に徐州支配が劉備から曹操に変わる
そして孫策が許都襲撃の途中で死ぬのが4月
だから200年の2月から4月の短期間に2度も大規模な遠征
(陳登討伐と許都襲撃)が行われるのは不可能な話
たまに見る呉を異様に煽ってる文章の大半は280なんだろうな文体がよく似てる
孫策暗殺の裏で陳登が糸引いてたって可能性はあるな。
どうも陳登は曹操とは無関係に独自で江南にちょっかい出してたくさいから。
陳登の事績が魏書でも指折りの曖昧っぷりなのは、独断で動いてたからなんじゃなかろうか。
陳登は、孫策に圧勝するほどの卓越した軍才を持っているとは思わないけど、
かなりの異才の持ち主であることは確かだな。呂範くらいには勝てそうだ。
劉備に高く評価されてるってのも大きい。劉備の人材評価はかなり的確だから。
ギョウチュウで死んだのもすげぇ。
ちょいとお前ら釣られすぎですよ。
ここの人は2chブラウザを使ってない人が多いのかね?
水を差すな愚か者め
周瑜のウィークポイント:戦術面で見劣り
呂蒙のウィークポイント:敵将で見劣り
陸遜のウィークポイント:戦績で見劣り
陸抗のウィークポイント:敵将+戦績で見劣り
というわけで5位は陸抗でお願いします。
>>293 >呂蒙のウィークポイント:敵将で見劣り
納得いかない。
軍事的才能でいえば孫策がトップにくると思うが
孫策は『名将』という肩書きがどうも合わないと感じる。
守勢面での評価ができないせいかな…
ところでスレ違いだが正史三国志の考察サイトで
お勧めのところがあったら是非教えてほしい。
有名どころの呉書見聞・ニセクロ・三国統一誌は知ってます。
呉の人物を語れ落ちたな
三国統一誌 ってとこは俺はしらんな。ググってもみつからん
孫策1位は決まりっぽいですね・・・
2位に呂蒙を推したいがどうでしょう?
問題は孫権の評価くらいですが将としての比較なら些細なことだと思います。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 13:23:38
まず孫権の評からまとめてみると
周瑜は気概は大きく胆力・才略は人に勝る。魯粛は張儀を超える策謀の持ち主。呂蒙は大胆かつ優れた計略の持ち主。
三者を比べると呂蒙は周瑜より意見の壮大さと鋭利さで及ばず、積極的な計略で魯粛には勝る。
個人的に勇敢さと思慮深さ、視野の広さと堅実さのバランスでは呂蒙が一番だと思うのだが、孫権は周瑜の覇気の方を
買ってるらしいな。
軍事能力ランキングなら1位孫策、2位呂蒙でもいいと思う
ただ名将ランキングだと欠点が少なく攻守、統率力全般に実績のある
周瑜が1位なんではないだろうか
孫権は赤壁で文官らに降伏を迫られたから
それを一掃した周瑜に対しては思い入れが強いそうだ
孫策は勇敢さでは呉随一で機転も利くし計略も壮大、部下に信頼され適材適所に配置するなど群雄としてはぴか一だけど
恨みを引きずったりちょこちょこ奇襲を受けたり単騎で外出したりと細やかな配慮にやや欠けてると思うので名将と言えるかは
疑問。
>>301 > 呂蒙は周瑜より意見の壮大さと鋭利さで及ばず
赤壁前や天下二分の記述を見ると分かる気がします。
ただ上でも書きましたが王佐の才とかだったら比較対象にもならないでしょうが
将として比較した場合、それ程重要ではないと思うのですが・・・
306 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 13:50:01
孫権は曹操に息子を人質に出すように言われた時も、自分は送りたくないと思っていたが文官がはっきりしないので
周瑜に母と一緒に相談した時も周瑜は送るなと言ってたから馬が合ってたんだろうな。
>>305 赤壁で「勝てる!」なんてぬかすのは周瑜と魯粛ぐらいのもんだよな。陸遜や呂蒙ならまた別の結果になったでしょう。
陸遜はどうなんだ
戦績の数は少ないけど
戦の駆け引きは一番では?
>>307 呂蒙は生粋の軍人だから徹底抗戦でしょ
陸遜も持ち前の冷静な判断力で大丈夫
まあ、この二人の赤壁時の身分ではどうにもならんが
周瑜は部下も優秀だった点と若くして死んだ点が判断を難しくしてる。対曹仁戦は甘寧や呂蒙の活躍の方が目立つし。
周瑜に言わせるとあれだけの勝因があったわけだからあの二人でも勝てただろうね。
>>310 部下の優秀さ活躍度に関しては
周瑜の戦での判断力と人材の使い方の上手さの賜物
どんな優秀な献策も大将が孫権や曹ヒみたいな戦オンチの前では
ほとんど機能されることもないでしょ
>>308 戦の駆け引きでは呂蒙と同等と見ています。
ただ戦略・戦術・戦績で比較すると呂蒙が上だと思っています。
周瑜と陸遜は甲乙つけ難いです。
>>309 呂蒙だとしたら説得しきれないというのはありそうです。
陸遜は大丈夫だと思いますが当時の情勢と彼の出身を考えると
降伏派になる可能性も捨てきれないと思います。
>>310,311
部下を上手に使うのも将才の内だとは思いますが
凌統含め皆地力のある人達というのが難しいですね。
呂蒙は課題を残して死んだのはどうなんだ
呂蒙の死後の呉、荊州は困難の連続で
陸遜がきれいに処理したからいいようなもんだけど
周瑜
・機略才略の鋭さは随一。かなり積極的。
・高い名声。
・弁舌巧み。
・赤壁で曹操の大軍を破る
・曹仁を退ける
・孫策の進軍を支えた
・若く死んだため、戦績がやや少ない
・優秀な部下に支えられた面もあり
呂蒙
・勇敢かつ思慮深い
・優れた企図計略を立てる
・叩き上げで多くの戦績をあげる
・他人への気遣いが行き届いてる
・関羽から荊洲を奪う
・周瑜の曹仁撃退に貢献した
・荊洲攻略は陸遜の力もある
・壮大さは周瑜にやや劣る
呂蒙も魯粛も陸遜も陸抗も、孫権とう下でこそ活躍できた存在で
周瑜だけは、誰かの下としてだけではなく、群雄としても器用を発揮できる存在感がある
だから別格に感じるのかな
陸遜
・視野が広く計画は周到
・長く呉の国土を守り続ける
・国のために他人を貶めない
・山越討伐を成功させる
・劉備の大軍を破る
・曹休を破る
・(前二人に比べ)やや消極的
・裴松之に少しケチをつけられてる
3人とも殆ど欠点が無く甲乙つけがたい。
>>・裴松之に少しケチをつけられてる
少しじゃないな
裴松之の呉に対する注自体少ないのに
陸遜に対しては異様に批判的な注が多い
悪行が災いして三代で滅んだなんてとんでもないことを
言うぐらい明らかに不当に評価してる
でも最後のまとめをみると陸遜をかなり評価してるようにも見えるんだなこれが。
相対的に高い評価であっても、絶対的な評価としては不当に低いかもしれん罠
>>319 最後のは陳寿の評でしょ
陳寿の評はほぼ満点
裴松之に嫌われると裴注で酷評される仕様になってる
陸遜の裴注が細かく批判的なのは
諸葛亮との差別化だろう
独立した伝同士で明暗をはっきりさせたい
意図があったんじゃないか
孫盛のゴタクよりは裴松之のケチの方がマシ
陸遜はその功績や能力より、終わりでケチを付けられている気がする。
陸遜は自ら攻勢に出たときの結果は決してかんばしくないんだよね。
満寵とかに普通に負けてるし。
満寵を侮らないでください。
満寵に普通に負けたって一戦もまみえず
退却しただけじゃん
330 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 22:09:49
満寵ってたしか魏スレトップテン候補だったはず・・・
陸遜の場合は廬江まで進軍したところで
満寵の完璧なる防御陣を見て「こりゃあかん」と
そのまま撤退したわけで。
孫権みたいにそのまま攻撃を開始して
親族の孫泰が戦死するほどの大被害をくらってる
わけではない。
なんでこれが普通に負けになるんじゃい
撤退したら負けかなって思ってるわけですか?
要地を先に抑えられて退却せざるを得なくなっちゃったんだから普通に負けでしょ。
しかしこの戦いで陸遜が負けたというのは間違いじゃか無いか
>>334 戦というのは戦闘に入る前の段階から既に始まっているわけですよ。
制限戦争時代の欧州の戦とか、補給切られたから一戦も交えずに退却とか普通にあったし。
被害の大小はあっても、戦争前の作戦目標を達成できなかった以上、
負けであることには変わりはない。
>>335 そんなこと言ったら曹操の南征は全敗とか
天候などであきらめての撤退も敗北になってしまうよ
>>336 そうだよ、そういうことだよ。防衛側がが防衛という最低限の作戦目標を達成し、
攻勢側が戦時に立てていた作戦目標を達成できなかった。
この時点で明らかな防衛側の勝ち、攻勢側の負け。
もちろん、どっちの勝ちとか負けとか一様にいえない戦争もあるけど、この場合は勝敗が明らか。
あと、付け加えておくと、戦争で攻勢をかける為の兵の動員や武器の用意、遠征時の食糧
の用意など、国家にとって多大な負担がかかるわけだ。孫子にもあるでしょ。
それで自分から攻めておきながら、戦果全くなしに帰って来た。
これがどういうことかわかるでしょ?
>>338 石亭の戦いで江陵に進軍した司馬懿と張郃が
凍った長江を渡れずに撤退したのは負けになるんか
>>338 三国時代の戦争だってこと理解して書いてるか?
>>338 >>あと、付け加えておくと、戦争で攻勢をかける為の兵の動員や武器の用意、遠征時の食糧
>>の用意など、国家にとって多大な負担がかかるわけだ。孫子にもあるでしょ。
>>それで自分から攻めておきながら、戦果全くなしに帰って来た。
>>これがどういうことかわかるでしょ?
それは孫権の責任。
軍事行動を起こす、起こさないの決定権が陸遜にはないから
曹操、諸葛亮と同等に語るのはアンフェアだ。
解釈の一つということで。
ただこの説を受け入れる奴は少数だと思うけど
>>339 あのね、立場が違うでしょ立場が。その長江を渡ることが魏の司令部のその戦争での
根本的な作戦目標だったの?まあ、石亭はどっちにせよ魏の明らかな敗戦だし、
狭義の意味では司馬懿も張郃も敗軍の将であることにはかわりないけどね。
>>340 そりゃ当然。あのね、いつの時代だってゲームみたいにホイホイ戦争行えるもんじゃないの。
兵の動員だけでどれだけ国家運営や民衆の生活に影響でるかとか考えてごらん?
当時は完全な兵農分離はまだ達成されてなかったんだから余計ね。
>>341 それこそ、与えられた兵力で勝った場合、陸遜の功績として、
負けたときだけ孫権のせいにするのもアンフェアだと思うけど。
>>341 >>それこそ、与えられた兵力で勝った場合、陸遜の功績として、
>>負けたときだけ孫権のせいにするのもアンフェアだと思うけど。
そうではなくて戦争における財政負担・損失とかに関しては、
実際に開戦を決定した孫権にその責任がある、と言っている。
敗戦に対するリスクを考慮したうえで実際に指示を出したのは
孫権だし。陸遜には国の負担を敗戦の可能性を考えて
「出兵自体を取りやめる」という選択肢がないわけだから。
別に負けが陸遜の責ではないと主張してるわけではないよ。
陸遜は孫権の出征について反対していることもあるから
廬江や襄陽の時は反対しなかったんじゃないかな。
ただ勝ち負けで判断すれば負けなんだけど、軍を率いる者が考慮すべきは勝ち負けではなく
どのように勝つか、出撃したあとに勝ち目が薄いならどれだけ損害を少なくするかでしょ。
どれだけの勝算があって出征したのかは分からないけど
陸遜は損害を最小限に抑えているわけだから責められる点はないと思う。
不成功と敗戦はイコールじゃないよ。
天下二分の計の周瑜といい、関羽殺してまで荊洲攻略した呂蒙・陸遜といい、
呉って赤壁以後、そもそも蜀と共存していく意思ってあったのかね?
3人ともこのへんは一貫して好戦的な感じがする。
個人的には、蜀と友好関係を保ちつつ北へ領土拡大を狙うほうが
マシと思うのだけど、このへんをどう捉えるかで、前3者と魯粛の評価
って変わる気がするなあ。
>>347 周瑜魯粛呂蒙の戦略は殆ど一緒
陸遜だけは明確ではないけどあんま変わらないと思う
この手の質問は関羽討伐スレのほうがいいんじゃない?
関羽討伐って落ちた?
北へは何度も攻めてる。でも失敗ばかり。
呂蒙が荊州攻略を上陳した時に孫権が徐州を攻めてはどうかと尋ねているけど
容易く勝てるだろうが守りきれない。関羽を破り、長江全域を支配する方がいいといっている。
これは周瑜魯粛の戦略が元になっていると思われる。
その後を見ればこの献策は正しかったと見るべきでしょう。
関羽討伐は1000まで行って落ちた
>>345 禿同
名将討論での陸遜のマイナスになるようなことではないかと
兵の動員だけで負担が云々とか言ってるのはアホとしか思えない。
三国鼎立という状況における国家運営には防衛ラインを脅かす軍事行動が不可欠であって、
そのバランス感覚がきわめて優れていたことによって孫権は名君、諸葛亮は名宰相とされる。
ある意味、「ゲームみたいな戦争」こそが三国中期の軍事といえるし、陸遜はそれを担う将帥の代表格だ。
完全に守勢にまわった孫休の死後、孫策待望論から孫晧が帝位に即いた経緯とか理解してんのか?
>>302,304
名将ランキングと軍事能力ランキングの違いが分からん
呉起、白起、韓信だって軍事以外で欠点はあったが間違いなく名将でしょ?
知将ではなく猛将でもなく名将と呼ばれるんだから将として完璧に近いものであって欲しいみたいな。
>>344 個人的にはあくまで最終決定権は孫権にあるけど、作戦や軍事計画の立案には
全く関わってないわけじゃないんだから、全く責任がないわけではないと思うけど…。
まあ一番責任があるのは孫権であるってことは同意。
>>345 そうだね、あくまで負けではあるけど、責めるべき点は皆無とはいえないけど少ない。
国力とか地勢面とかも考えればね。
>>346 ほらほら論点をずらさない。あくまで俺が言ってるのは兵を動員するだけで
それなりの負担がかかる、だから動員したからには基本的に将は何かしらの戦果を挙げて
帰ってくるべきであるということよ?ゲームみたいにってのは、1月攻めてみたけど、
状況がよくないから退却して二月にまた攻めようとかそういう動員の負担を全く
考えない戦争はありえないって話。これをアホとしか思えないってことは、
威嚇含む軍事行動が全く国家の負担になっていないとかいう暴論を振るうってことになるけどw
魏スレみたく主要人物の実績列挙しておかないか?とりあえず俺から試しにやってみると
周瑜 最高位・編将軍 下雋・漢昌・劉陽・州陵を奉邑される
・孫策が長江を渡ろうと歴陽に軍を進めていた時、手紙をもらい兵を連れて駆けつけた。
・そのまま配下に入り横江と当利とを攻撃、双方ともその町を陥落。
・さらに秣陵を攻撃し筰融と薛礼を撃破、曲阿まで進んだ所で孫策に丹陽を任され丹陽に戻る。
・袁術に勧誘されるがこれを見限って脱出を計り、孫策みずから出迎えられる。
・その時権威中郎将に任命される。兵士二千と騎馬五十を貰い牛渚の守備に派遣され、後に春穀県の長に。
・孫策の荊州奪還に中護軍として参加、孫策と共に皖を落とす。
・尋陽で劉勲を破り、江夏・豫章・盧陵を平定。
・孫策死後、張昭と共にすべての事務を取り仕切る。
・孫瑜らの目付けとして山越の居る麻屯と保屯の討伐に参加、一万余人を捕虜にする。
・黄祖の部下トウ龍が柴桑に侵入するのを追撃して撃破、生け捕りにする。
・孫権の前部大督として江夏征伐に参加。
・盧粛と共に対曹操交戦論を展開
・魯粛・程普と共に三万の兵で赤壁に布陣、劉備軍と当時疫病の発生していた曹操軍を最初の交戦で破り長江の北に引かせた。
・黄蓋の策をとり火計を成功させ、曹操を撤退させる。
・程普と共に南郡にて曹仁と対峙、甘寧に前もって夷陵を占領させる
・甘寧が包囲されるが呂蒙の策を用い、呂蒙と共に甘寧を救出する
・曹仁と正面からぶつかり合い流れ矢で重傷を負うが、曹仁が迫るのを知ると軍を奮い立たせて曹仁を撤退させる。
・劉備の危険性について献策するが用いられず。
・情勢をみて天下二分の計を献策し用いられ、その準備の最中に死去。
孫策生前はむしろ孫策の実績の気もするが。本人の伝からの抜粋なので修正よろしく。他にも陸遜・呂蒙あたりのも頼む。
>>356 乙
実績列挙はいいと思うんだけど軍事関係だけでいいのでは?
陸遜が大変そうだし
呂蒙伝から抜粋
・孫権に従い丹楊討伐に参加、いたる所で戦功を上げる
・孫権に従い先鋒として黄祖配下の陳就の首級をとる
・周瑜・程普らと共に赤壁で曹操を破る
・さらに曹仁を南郡に包囲し窮地の甘寧救援を献策し成功させる
・盧江の謝奇を襲撃し略奪を止める
・濡須で曹操を防ぐ作戦で優れた計略を献言、また堡塁を作るよう献策し曹操を撤退させる
・孫権に皖城攻めを上陳し、甘寧とともに皖城を落とす
・盧陵で反乱が起きると軍を進めて首謀者を誅殺
・長砂・桂陽を帰順させ郝普をペテンにかけて零陵を奪取
・合肥で張遼から孫権を命懸けで守る
・濡須で曹操の先鋒を破り、退却させる
・荊州攻略を計画し先鋒として南郡を降服させる
陸遜
・山越で賊退治
・[番β]陽で賊退治
・丹楊郡で賊退治
・関羽を油断させて呂蒙とともに公安・南郡を落とし宜都に入る
・荊州で李異・謝旌らに命じて蜀将を生け捕ったり打ち破ったり
・夷陵で劉備退治
・石亭で周魴の策によって誘きだされた曹休を退治
・盧江を攻めようとするも撤退(多分損害なし)
・襄陽を攻めようとするも撤退(同上)
・帰り道で石陽などを襲撃
・[番β]陽・豫章・盧陵で賊退治
359 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 14:26:48
>>357>>358 乙。
そう言われりゃそうなので修正
周瑜
・孫策の配下に入り横江と当利とを攻撃、双方ともその町を陥落。
・さらに秣陵を攻撃し筰融と薛礼を撃破、曲阿まで進んだ所で孫策に丹陽を任され丹陽に戻る。
・孫策の荊州奪還に中護軍として参加、孫策と共に皖を落とす。
・さらに尋陽で劉勲を破り、江夏・豫章・盧陵を平定。
・孫瑜らの目付けとして山越の居る麻屯と保屯の討伐に参加、一万余人を捕虜にする。
・黄祖の部下トウ龍が柴桑に侵入するのを追撃して撃破、生け捕りにする。
・孫権の前部大督として江夏征伐に参加。
・魯粛・程普と共に三万の兵で赤壁に布陣、劉備軍と当時疫病の発生していた曹操軍を最初の交戦で破り長江の北に引かせた。
・黄蓋の策をとり火計を成功させ、曹操を撤退させる。
・程普と共に南郡にて曹仁と対峙、甘寧に前もって夷陵を占領させる
・甘寧が包囲されるが呂蒙の策を用い、呂蒙と共に甘寧を救出する
・曹仁と正面からぶつかり合い流れ矢で重傷を負うが、曹仁が迫るのを知ると軍を奮い立たせて曹仁を撤退させる。
陸抗
・永安攻めに途中参加したけど撤退(多分大した損害なし)
・西陵で神
>>361 いや西陵を簡潔にまとめる文才は漏れにはない
西陵で神
ワロタ
その通りだ
しかし呂蒙は凄いな
やっぱり軍事能力だと呂蒙が頭半分くらい抜けてる気はするな
三国鼎立前と後で比べるのも難しいけど周瑜が陸遜の上か?
戦の中身を見ると微妙だなあ
陸抗はやっぱり数が・・・・
で、軍事行動を中心に決めるの?
おれも
>>353みたいな完璧に近い将がいいと思うんだけど
>>365 孫策は大将なのに軽率だったというのがあるけど呂蒙は特に欠点が無いように思う。
完璧に近い将というものの具体像が見えてこないので
今のところ評価してるのは戦略・戦術・戦功なのかな。
将として評価する以上は軍事行動が最も重要じゃない?
欠点がないのは周瑜、陸遜も同じ
赤壁がなかったら後の呉はなかった
夷陵で、西陵て負けたら呉に未来はなかった
そもそも孫策がいなけりゃ呉を起こせなかった
歴史の重要性というか、大舞台に立ったこの四人と比べるとどうしても呂蒙は見劣りするよ
>>368 濡須で呂蒙が負けていたら、呉に未来はないと思うが…
3人共欠点は無いからあとはどれだけ+があるかじゃない?
周瑜は大きくは赤壁と対曹仁戦があるが、細かく見るとあんまりないな。もしかして一発屋?
周瑜は生まれもプラス評価だろう
そりゃ、呂蒙が逆立ちしても手に入れられないものだけどさそういうのも含めて強さだよ
信長が尾張という京に近すぎず遠すぎない地に生まれたように
>>371 周瑜の出自は評価できるが、
徒手空拳に近い状況から群雄となった孫策や、
兵卒から都督になった呂蒙も評価すべきと思う。
周瑜は曹操や劉備も評価してたこともプラスになる?
赤壁、呉の最大の危機
濡須、曹操の南征で最大の兵力動因
夷陵、赤壁より困難な状況
西陵、もっとも難易度の高い戦い
>>373 なる。特に、劉備の人物眼は三国一ではなかろうか。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 23:17:42
陸抗こそ一発屋代表だと思うんだが、一発が凄すぎてどう評価していいかわかんない。
>>370 孫策存命中は「名将」ってもんがいらんかったということでしょ。
孫策の軍事行動は基本的に一点集中の電撃作戦で、孫策自身が統率するから、
周瑜に限らず程普や黄蓋の戦績もぜんぜん目立たない。
俺が周瑜について最も評価するのは天下二分の構想かな。
現代なら大河を越えての侵攻が極めて難しいということが中国の過去二千年の例から
容易に推測できるがこの時代にそれに気がついていた将は極めて少ない。
歴史的な事例を根拠にせずして的確な予測をたて得るのは
類い希な戦略眼と実戦経験を併せ持つことの証明と思う。
あの曹操でも大河を越えての侵攻を選択したのだから、
周瑜の戦略的な先見性はこの時期では群を抜いている。
孫策
・陸康を攻め落とす
・劉ヨウ配下の討伐のため長江を渡って各地を転戦、全戦全勝する
・会稽を根拠地に東冶城を落とし、そのあと厳白虎たち呉人(各々一万余人)を打ち破る
・劉勲を計略で謀り盧江を攻め落とす
江表伝・呉録を合わせるともっと詳しく書けるがそっちの方がよかったかな?
なるべく細かく事績をあげたほうがいい
孫策の劉繇攻略も実は神だしな。
陸遜 最高官位 丞相 謚号 昭侯
・長年捕まえることのできなかった山越の頭領の潘臨を討伐
険阻な土地を討ち平らげ、向かうとこすべてを降伏させる
・不服住民を降服させ、自軍に編入
・ハ陽の不服住民の首領尤突を討伐する
・丹楊郡の不服住民の首領費桟を討伐
寡兵を率いながらも、太鼓を打ち鳴らして不服住民を蹴散らす
・東方三郡で軍を編成し精鋭数万の兵を得る
・謙下の計で関羽の警戒を解かせる
・関羽討伐進言し、関羽を虜にする要点を述べた
・呂蒙とともに公安・南郡を落とす、さらに陸遜は別働隊を率いて宜都を攻め落とす
・李異・謝旌らを指揮して蜀の武将セン晏、陳凰を攻撃し
セン晏を打ち破り、陳凰を生け捕りにした
・房陵太守のケ輔と南郷太守の郭睦に攻撃をかけ、これを打ち破った
・シキの豪族の文布やケ凱らを謝旌を指揮して打ち破った
・蜀に逃げた文布らを帰順させることに成功し数万に得ることができた
・劉備が攻めてくると大都督に就任、古参の将の反発する中
劉備の伏兵を見破り、持久戦に持ち込み劉備軍を疲弊させる
・一度、攻撃に失敗するが、その時に打ち破る術を見出す
・火攻めで陣地を陥落させると総攻撃をかけ四十余の陣営を打ち破る
・劉備が馬鞍山に登ると陸遜は諸軍を叱咤激励し四方から攻撃して蜀の陣地を崩し数万の死者を与えた
・蜀軍は張南・馮習・沙摩柯・馬良・傅ユウ・程畿・王甫・趙融・李朝らが戦死
杜路・劉寧は呉、黄権・ホウ林は魏に降伏した
・孫桓を救援せず劉備を撃破して包囲の兵を退かせることに成功する
・夷陵の戦いの計略の大部分は陸遜によって立てられたものであった
・白帝城に逃げた劉備への追撃の上表を反対、魏の進行を予知する
・石亭に曹休を誘いこみ三方向から攻撃、曹休の伏兵を強行突破し夾石まで軍を進めた
・廬江に向かうが、満寵が軍を整えて陽宜口へ向かったので退却した
・襄陽を攻めるが使者が捕まり孫権が退却したので襄陽に一度攻撃をかけて
敵があわてて城内に逃げたのを確認してから諸葛瑾の兵船へ乗り込んだ
・石陽襲撃、生け捕った者を手厚くいたわると周辺から続々と帰順を求めてきた
・江夏太守で軍権を一手に握り呉に損害を与えていたロク式を偽手紙で失脚させる
・ハ陽で徴兵を行おうとする周シを諌めるが、これに従わず徴兵を行ったため、反乱が発生
反乱を起こした呉キョ、彭旦らを討伐、三つの郡を平定し精兵8千人を手に入れる
劉ヨウ討伐について
・牛渚の軍営を攻めて倉庫にあった武器と兵糧を全て奪う
・サク融と戦い野戦五百余の首級を斬り、城に退却させる
・薛礼を攻めて逃走させているうちに樊能と于糜に牛渚を奪われるが兵を返して打ち破り、男女一万余人を生け捕り
・再びサク融を攻めるが流れ矢に当たり退却。それを聞いたサク融が于茲を派遣してきたのを伏兵で打ち破り首級千余りを挙げる。
・サク融が守りを固めたので無視して劉ヨウの別働隊を海陵で破り湖熟と江乗を攻めて降服させる
・結果、劉ヨウに軍勢を棄てて逃亡させる
呉人討伐について
・烏程の鄒他と銭銅、嘉興の王晟らが各々一万余あるいは数千の軍勢を集めていたが、全て打ち破る
・厳白虎が守りを固めたまま出てこないで勇猛で知られた厳輿を和睦の使者として送ってきたので会見の場で撃ち殺した
・おじけずいた厳白虎軍を打ち破る
劉勲討伐について
・皖城の劉勲が少人数で自ら海陵向かったと聞き、孫責と孫輔に彭沢で八千人を待ち伏せさせる
・自身は周瑜と共に二万で皖城を攻め即座に降服させ、工芸隊や楽隊など三万余、劉勲の妻子などを手に入れる
・孫責と孫輔が彭沢で劉勲を打ち破り、流圻城に撤退させる
・流圻城の劉勲を黄祖から劉勲への援軍で黄射率いる水軍五千と合わせてこれを打ち破る
・そのまま黄祖を攻め、劉表からの援軍の劉虎と韓晞率いる兵五千と合わせてこれを打ち破る
おまけ
・丹陽で数百の部下を集めるが祖郎の襲撃で全滅に近い被害を受ける
江表伝・呉録に合わせてこれを追加しておいてください。
>>377 兵力を分ける余裕も無かったと思う
>>378 周瑜の天下二分にはロマンは感じるけど実効性は疑問に感じる
それが問題とは思わないがオリジナルは魯粛だろうし、呂蒙も天下二分の構想をもってたしね
結局、名将の定義はどうなってるの?
>>385 実効性はあるだろう。
張魯を降して漢中ゲット、バカ馬超とは仲良く同盟、
能無し劉璋を成都強襲でブチのめして蜀もいただき。
皇族の孫瑜を蜀に残して周瑜自身は襄陽から北に攻め上る。
この周瑜の構想こそ最も現実的で有効な対魏構想だ。
劉備はチンタラやってたせいで成都の防備を整えられて持久戦にもつれ込み、
おまけに張魯と馬超も曹操によって滅ぼされて漢中で総力戦をやるハメになった。
しかし逆に言えば張魯は簡単に倒せたし、馬超は対魏同盟者の足りえたということ。
さらに関羽の北伐を見れば襄陽方面からの侵攻がきわめて効果的であったことも解る。
劉備が邪魔だけど、周瑜は劉備の身柄を京城に確保しておくつもりだったのだから問題なし。
一見すると無茶な飛び石作戦に思えても、実は防衛ラインの要所を確実に押さえた完璧な作戦。
そしてこの方法は孫策の江東攻略を模倣したものでもある。泣かせる。
俺も386氏と同意見かな
周瑜がロマンティックにみえるのはその実現より
大幅にはやい時期に死んでしまったのが理由とおもう。
しかし後の歴史を紐解くと呉に位置する王朝(またはその逆)が
最も効率的に中原に進出する戦略と全く同一であることに驚かされる。
その事実を西暦200年ぐらいで(過去の事例が少ないという状況で)
気がついてるのはやはり群を抜いてると思う。
その辺が孫権らに絶賛される所以なんだろうがこのスレ的には考慮されんのかな?
>>385も言ってるけどまずこのスレの「名将」統一見解を決めておこうぜ。そのほうがきっと議論もスムーズに行く。
ていうかうだうだ話してるのでいいんじゃないの?
キッチリ決めて話すとろくなことないような・・
蜀スレのようにな
強いて言えば「立場を考える」ってことだけは決めておいた方が良いかもな。
孫策は相手が弱かった、周瑜は戦術レベルで部下に頼っている、呂蒙は魏を利してしまった、
陸遜の撤退は敗戦でしかない、陸抗は西陵だけ、朱然はチビ、等々はナンセンスな気がする。
>>386 劉備を飼い殺しにするというのに無理がある。
関羽・張飛と引き離すことにそれ程意味があるとは思えない。
その状況で荊州をすんなり統治できるかも疑問。
一瞬でも隙を見せれば何をやらかすか分からない。
蜀を攻めるにも劉備の様な手は使えず長江を遡っていく一手しかない。
劉璋も対応しやすく劉備よりは時間がかかるでしょ。
それでもスタートの差を埋めるほどではないと思うが
ただ周瑜がどんなに急いでも既に馬超の勢力は弱まっているだろうし
張魯も孫権が脅威になれば曹操にすんなり降伏する可能性が強い。
せめて蜀攻めの具体的な策があれば・・・
1つ疑問なんだが周瑜が準備していた遠征軍は何処にいったの?
>>392 いや、蜀攻めと漢中攻略に関してはほぼ問題ないと思われる。
いわゆる「ホウ統の上策」こと成都急襲作戦ならそれほど時間はかからないはず。
対応しやすいという点では劉備の方がよほど警戒されていたわけだし。(劉璋本人除く)
曹操の張魯討伐は211年開始、張魯の降服は215年。周瑜の大作戦開始予定は210年。
機先を制されればヤバめだが、周瑜の侵攻が先なら「すんなり降服」を恐れるのはむしろ曹操の側。
馬超らが本格的に動くのも曹操の漢中侵攻に対応したためで、周瑜死後のこと。
周瑜の作戦は時期的にこれ以上ないくらいの最高のタイミングで開始されるはずだった。
問題はやはり劉備。
同族だからなどとほざいて劉璋の救援に向かい、そのまま益州を譲り受けるとか、
劉璋陣営の残党をもりもり吸収して凄まじく膨張するとか、とにかく危険がいっぱい。
対曹操戦を始めるまで足留めできれば、あとは道義的にも背かれる恐れは減るんだが。
反曹の旗印として劉備を奉戴する気だったのでは?という「呉書見聞」の推測も面白い。
しかしホントに劉備はくわせものだ
土地基盤ももたずにあそこまで色々かき回したのは驚異的。
劉備という不確定要素さえなければ十分可能性のある作戦だと思う。
だが裏を返せばその一番の問題である劉備をうまく処理できない
ままだと成功は難しいだろうな。周瑜も色々と画策してたようだが。
劉備軍を解体するとか呉に組み込むとか・・・
周瑜が長生きしたとしてもそこまでできたかどうか。
>>394 成都急襲作戦のルートは孫権が使えるものではない。
そもそもこの作戦が本当に成功したかも分からないし。
劉備陣営でいう諸葛亮らのルートで行くしかないと思うが。
劉備は北と南から挟み込むかたちで攻めて約2年。
諸葛亮らは大した抵抗も無く成都に至るが
これが一方向からの進軍だったとしたら簡単にいくとは思えない。
張松を味方につけるという動きはなかったのかな?
張魯が一軍閥に過ぎない孫権にすんなり降伏することはないでしょ。
> 反曹の旗印として劉備を奉戴する気だったのでは?
流し読み程度だけど、劉備の危険性を認識しておいて
名目上のトップにするというのはありえないと思うのだが。
でもそのサイト面白そうですね
劉備が袁紹や劉表の下にいた時みたいに扱えばいいんでは?
なんとか劉備を手元に置き兵権を切り離す方向に持っていくか?
あえて劉備の配下に多くの将兵を送り込んで自由な動きを封じるか?
どちらかでも実現させるのは結構難しいと思う。
>>398 劉備はわざわざ要害を突き進んでるから二面作戦の意味はあまりなかったと思う。
劉備の蜀攻略は、あらかじめそこに駐屯していた連中の意地で苦戦させられた感じ。
たとえば劉璋陣営が兵力を適宜移動・再配置させたかというとそんなことはない。
そもそも長江を溯って北方に出るのであればホウ統作戦も使えるし。
(蜀・漢中を併呑するという言から察するに、おそらく諸葛亮ルートは使わない)
張魯に関しては、馬超との同盟が成立すれば二面作戦も可能。
ただ、諸葛亮=陸遜体制の蜀呉が共同作戦のたびに足並みが揃わなかったことを考えると、
周瑜は遠方との同盟ってものを甘く見すぎている感がしないでもない。
名将の討論に話を戻すと、やはり江陵戦での一年が周瑜にミソをつけている。
兵力の不足、荊州における劉備の脅威、曹操による漢中侵攻のタイミング、馬超の疲弊、
益州攻略作戦を遂行するにあたっての不安要素は、いずれも江陵戦での苦戦に端を発している。
戦略性を名将の要因として評価するとしても、戦術レベルでの問題が影を落としていることは否めない。
まあ戦術でいうと呂蒙あたりに一歩おくれを取ってはいるかもね。
まあそれでも戦下手とは到底言えないと思う
高いレベルでの差でしょう。
ただ周瑜が遠方との同盟について甘く見ていたというのはどうだろう。
周瑜の戦略は構想段階であり具体化の前に死去している。
細かい現実的な各論に入る前の段階。
戦略が常に計画どおり上手くいくとは限らずむしろほとんどの場合
未知の障害によって抵抗を受けるもの。
それらの抵抗を巧く乗り越えられるか否かはその場の司令官や将の能力や対応力
によって決まって来るものだ。
戦略としては最前なのは後の歴史が証明しているからね。
むしろ周瑜の天下二分で評価されるべき点は、呉が中原に進出する方法としては
それ以外には考えられないという戦略について最も早い段階で気がつき
おおまかな方法論を練り上げたことにある。
それが呉の基本方針となり陸抗などに受け継がれていくわけだが
陸抗の時代には蜀がまとまっちゃっていたり羅憲君が頑張っちゃったり
実現は難しかったということじゃないかな。
陸抗もそれには気がついていたと思うけどね。
>>402 上二つは同意
最後の段落
天下二分を構想したのは魯粛が先。
陸抗の時は蜀はまとまってるどころか滅びてる。
>>404 魯粛案と周瑜案はだいぶ違うぞ。
魯粛案は、「長江流域を全て制圧すれば防衛に関してはほぼ完璧になります。
孫権様は若いんだから魏の弱体化をのんびり待ちましょう。」という意味合いが強い。
周瑜案の凄さは、魯粛案を下敷きに「襄陽から攻め上ればいい」と気付いたことにある。
他のルートでは中原に食い込むことはできないと後々証明されるが、この時期に気付くのは天才的。
魯粛案は国力を拮抗させるための天下二分、周瑜案は軍事力を拮抗させるための天下二分。
そして魯粛案は、呂蒙の関羽討伐から陸遜の時代に至るまで呉の基本方針として受け継がれていく。
ただ、曹丕曹叡と魏にそれなりの名君が続いたことで魯粛のこの構想は綻びてしまったといえる。
唯一曹叡死後こそが魯粛の見据えた好機だったはずだが、悲しいかなこの時の侵攻作戦に陸遜の名がない。
>>403 だめじゃないと思う。
戦略的には陥落必至の江陵に最強曹仁を送り込んだ曹操は凄い。
当時の孫呉には襄陽から北に攻め上る体力はなかったから、曹操が江陵を死守する意味はあまりないはず。
ということは、江陵を曹仁に守らせたのは中原ではなく益州・漢中方面を守るためだったのかもしれない。
事実、周瑜死後の曹操の行動は天下二分の芽を摘み取ろうとしているかのようにポイントを絞っている。
合肥をがら空きにしてでも張魯・馬超を抑えるというのは、ちょうど周瑜の戦略と呼応するかたちだ。
結局、戦略の相手が曹操、戦術の相手が曹仁、政略の相手が劉備ってのはキツすぎるということかもしんない。
そりゃ寿命も縮まるよ、という。
>404
陸抗は蜀が滅びた際に命を受けて攻め込んだわけだが、(この時が羅憲)
それまでは蜀としてまとまっていたでしょう。そういう意味。
つまりそれまででも西陵の城を要塞化し蜀をにらんでいたが、
結局、周瑜前後の時代よりも勢力の集中が進んでいる状態なので
つけいるすきがなかったということだよ
それと国家外交戦略としての魯粛の戦略と
軍事侵攻ルートに重点を置いた周瑜の戦略とでは
意味合い自体がちがう部分が多いと思う
405サンとだいぶかぶりました。スマソ
>>407 陸抗が蜀をにらみはじめたのは蜀の弱体化が深刻になってきてからだと思う。
孫綝のバカさ加減にちょっぴりビビった朱績が白帝の守備を増強するよう蜀に依頼したように、
三国鼎立の基本システムが健在ならば荊州を孫呉が抑えている限りわざわざ益州を狙う必要はない。
問題は劉禅の降服があまりにも早かったことで、もう少し粘ってくれるか、
あるいは巴東方面への逃亡を図るなりの延命策を選択してくれていれば、
蜀の残党を吸収して鍾会を攻め潰し天下二分を再現することも不可能ではなかった。
あんまり素早く降服されたもんだから蜀への救援を蜀侵攻というかたちに変えねばならず、
それが羅憲の気に障って決死の抵抗という最悪のシナリオに結びついてしまった。
>>409 二つ目の文章の蜀への侵攻の機についての論は完全に同意。
一つ目に関していうと陸抗はかなり早い時期から西陵の強化に関わっていたから
もちろん弱体化の機会を狙ってはいたと思うが
それ以前に準備はすすめていたのでは?
>>393 ずいぶん亀レスだが孫権と張昭で仲良く無駄遣いしたんだとおもう(w
江陵戦は曹仁以外に副将に除晃
他にも李通、牛金、陳矯
こいつら相手に援軍抜きで短期決着なんて不可能
孫策→周瑜(→魯粛)→呂蒙→陸遜→陸抗。この流れが呉の名将の歴史だと思うが随分うまいことばらけたな。
実績
孫策≧周瑜≒呂蒙≒陸遜>陸抗
奇略
呂蒙≧陸遜≒陸抗≧孫策>周瑜
指揮
呂蒙≒孫策≒陸抗≧周瑜≒陸遜
孫策
−補正 軽率
周瑜
+補正 大略
なんとなくだから石投げないで。
全部揃ってたらすげぇよ。
孫策が襄陽方面から北伐開始。
周瑜は漢中攻略、呂蒙は成都攻略にあたる。
手薄の濡須に曹操の大軍が侵攻、しかし陸遜が寡兵で防衛。
荊州南部四郡を基盤に劉備が叛乱、江陵に押し寄せるも陸抗が撃退。
呂蒙は計略によって瞬く間に成都を陥落させ、漢中救援に赴く。
周瑜は漢中を降し、呂蒙を後に残すと長江を下って孫策の援護に。
孫策&周瑜のタッグで許都に攻め入り、献帝を保護。ハァハァ
周瑜が漢中から北伐、呂蒙が襄陽から、孫策が濡須から進行する
三方面作戦が妄想としてギリギリか
魯粛は濡須の督として防衛の司令官、若い陸遜は山越対策
それが可能なだけの兵力が呉にはねーよ
蜀を制圧した後の劉備にも曹操を攻撃するくらいの兵力は
あったんだから、蜀を制すれば大丈夫だ。
まあ結局は全て妄想だけどな。
>>405 襄陽を落とせるかどうかが問題だと思うが
襄陽からの北上ってそんなに実績あったっけ?
北上で中原に食い込むっていわれると朱元璋くらいしか分からないけど
>>418 俺は405ではないんだけれどもちょっとレスしてみます
>>407で
>>405にほぼ同意の意を示したが実はそこが少し疑問ではあったわけで
周瑜の魏への侵攻作戦のメインは襄陽からの北上ではなく2方面作戦の一環としての
襄陽でありこのルートは漢中方面のルートのの陽動であり援護の意味合いが強いと思う。
すなわち歴史で証明されている効果的な北上(または南下)のルートというのは
あくまで蜀経由だということ。
襄陽はこれと組み合わせてはじめて効果的なルートだね。
蜀経由ではないでしょ。
北上はともかく南下は江陵からが上策。
杜預は襄陽から、王濬は長江を下って、それぞれ江陵に向かった。
鍾会の蜀討伐が戦術の天才・ケ艾の異常なまでの強行軍なしではキツかったのと比べ、
王濬・杜預らの南下は長江の活用と襄陽〜江陵ルートの進軍によって簡単に成功している。
裏返せば、長江を使った兵力の移動と江陵〜襄陽間の攻防はきわめて効果的ということ。
実際に関羽の北伐は局地的には成功しかけていたし、呉も襄陽城を落としたことがある。
漢中ルートの代わりに蔣琬が練り上げた策も長江を下っての荊州からのルートであり、
そしてそれが中央によって握り潰された時点で蔣琬はあっさり北伐を諦めている。
漢中、合肥(濡須)は地勢的に魏呉蜀のいずれにとっても防衛拠点であって攻撃の要ではない。
この二つのルートからの大攻勢が寡兵でもって防がれたことが幾度かあることからもそれがわかる。
しかし杜預も王濬も蜀の地をおさえての侵攻であって
それではじめて効果を出してると思うけどなあ
関羽の北上も結局、状況的に単独の侵攻になってしまったがために失敗している
ショウエンの漢水下りも蜀発のものであるし、歴史上襄陽単独の侵攻は
上に行くにしろ下に行くにしろ成功例は極めて少ないよ。
それこそ朱元璋くらいなもの。
>>419 周瑜の案では漢中からの出征は無さそうだけど。
そこら辺は臨機応変でいくと思うが。
>>420 南下は江陵からが上策というか長江上流を押えることが最重要であり
呉討伐も長江上流を押えたことと呉の怠慢によって簡単に江陵を落としてる。
歴史的に見ても北の勢力が長江の水際で撤退させられることは多い。
関羽の北伐は水害という幸運に恵まれながらもあの結果。
呉の場合は魏が捨てたのを占領しただけですぐに取り返されてるし。
>>421 朱元璋は三国時代でいうと徐州方面じゃない?
ちょっと議論が高度すぎてついて行きかねるんだが、俺なんかは進軍・補給に困難を極める蜀からの北上ルートより
交通の整備された荊洲からの北上ルートの方が簡単なように思える。
>>419 当然蜀方面からの進撃もありだと思うがそっちが援護・陽動かと。周瑜自身が孫権と共に襄陽からの北上を計画
してたはずだし。
>>421 関羽の北上は呉の不意打ちで失敗したのでは?呉・荊洲・蜀を単独で押さえている以上同じ失敗はしないような。
朱元璋の場合は特殊でハン陽湖の戦いで長江下流ー中流域全般を掌握したことと
元そのものの支配体制ががたがたになっていた事と併せて北上が容易とまではいわないが
不可能ではなくなった要因となっていると思う。
呉の場合、赤壁で魏を撃退してもそこからさらに北上が難しかったのに対し
朱元璋の場合は長江の北岸を広域にわたり手に入れてしまったので
北岸にキッチリ軍事的基盤を準備でき補給などに支障が出なかったということ。
>>422 南京ー徐州から襄陽までまとめて手に入れってしまったとでもいうべきかな
>>423 関羽の北上は徐晃によって破られている。
不意打ちの影響は皆無ではないが呉が動かなくても結果は変わらない。
蜀との連携がとれていれば局地的には成功していたかもしれない。
>>424 南から攻めるには北の勢力が弱ってないと無理でしょ。
まして襄陽から単独では・・・・
呉としては天下二分の状態を保ち北の騒乱を待つというのが最善だと思うが。
300年まで保てれば面白いけどまあ無理かな。
南から北に勝つのは可能性は限りなく低そうだけど
揚州、荊州だけだと何も変わらんからなあ
朱元璋については
>>424に賛成。加えて、大都と許都の位置。
>>423の言うとおり荊州ルートの方がラクであるのに加えて、許都は南部戦線からやたらと近い。
で、関羽の北上について参考にすべきはむしろ戦術的な面。
襄陽付近で襄江・漢水を利用する水陸戦は孫呉の得手。魏の拠点間の連携はうまく機能していない。
(関羽はどうやら最初から船団を用意していたみたいだし、于禁水没も完全な偶然とは断言できないと思う。
大体、水害説を完全に信用するとなると、呉の「強風が吹いて船が沈んだから撤退」はどうなるのか)
さらに記述を見ていくと、どうも関羽の兵力は多くなかったように思える。
徐晃が勝ったのはおそらく関羽本隊を潰すだけで軍勢が瓦解すると見抜いたからで、
包囲されながら長躯して攻撃というムチャな戦術もこのへんに凄みがあったはず。
いずれにしても関羽軍は蜀の最大兵力を動員した大規模なものではなかった。
すなわち、単独作戦。あるいは漢中侵攻と連動した二面作戦。
これに対して周瑜の策は本陣を荊州に置くというものであって、主力は襄陽ルート。(陳寿の本文に記載)
つまり関羽の北伐を下敷きに考えた場合、関羽の小軍勢でイイとこまでいった作戦を大規模に行うことになる。
許都を落とせるのならば、もはや局地的な勝利ではない。北伐の成功を意味する。
問題点はまず、大勢力でも襄陽付近の拠点攻略に苦労する可能性。
その場合、周瑜様が関羽に劣るということになるが・・・
次に、孫権がまたしても合肥に兵力を割こうとする可能性。
これは大いにあり得る。 この場合、おそらく関羽と同じように失敗する。
最後に、劉備が江陵を狙ってくること。
もし江陵を取られると、北伐軍は逃げ場がなくなり壊滅するというおまけがつく。
もっとも、「天下統一」を狙うなら孫策の許都襲撃が最後のチャンスだったと思う。
よしんば許都を陥落させられても、河北を制せられた後では第二・第三の赤壁に繋がるだけ。
長文スマソ
荊州からの北上は天下分け目の関が原のような大決戦を招く訳で。
孔明の北伐ルートのほうが、負けた時に痛くないんだよなぁ。
長江以南を押さえ、呉蜀を合わせた国力を持つ呉なら、
孔明より数段マシな状況で北伐を行える。
というか誤解してる人がいるのだが
周瑜の戦略は蜀を攻略することが大前提にあるのが
最も重要なポイントだよ
そもそも蜀を攻略せずに襄陽を北上しても勝ち目はないことを理解してるからこそ
蜀を取って(長江の上流をおさえて)
さあ北上だ二方面作戦だというのが天下二分の意味です。
そしてこれこそが北上する上で最も効果のある作戦ということ。
>>427 関羽討伐の議論を繰り返す気か?
>>428 陸遜は襄陽攻めで殆ど無傷で撤退してるから
そんなことにはならないと思われ
段々呉の北上を考えるスレみたくなってきてるなw。これはこれで面白いんだが。
>>430 多分発端は周瑜の戦略と魯粛・呂蒙の違いを考えようということだから
襄陽からの攻めが注目されてるのだと思う。
1〜4位 孫策・周瑜・呂蒙・陸遜
5位 陸抗
孫策が入るならここまでは確定。呉にまだ名将と呼べる人間がいるかな?
程晋はどうだろ 検討の余地はないのかな
ない?そうか・・ないk
朱然は絶対入る。
>>435 孫堅時代から曹仁攻めまで一線で戦ってるし単独で賊討伐もしている。
戦績だけでいえばトップクラスでしょ。
個人的には10位以内に入ると思ってる。
まあ漏れだけかもしれないが・・・・
程普は戦略家でない上に戦術の記載もないというのが痛い。
北方出身であること、および「功績があった」等々の記述から察するに、
おそらくは騎馬隊を率いて軍の中核を成していたのではないかと。
丁奉 朱桓 朱然 甘寧あたりが有力じゃないか?もはや良将レベルだが。
吾彦を忘れるな
程晋は曹仁を攻めるときに甘寧が突撃する折に
戦術的に慎重な意見を述べてたところを見ると
さすが古参だけに手堅い将だなという印象を持った。
>>439 その連中は、魏の名将良将とも堂々と渡り合ったのだから名将の範疇と思う。
(良将でもいいけど)
後、潘璋もいい線いってると思う。
孫堅が6位get
甘寧、朱然、丁奉、朱桓、徐盛、賀斉あたりは名将でいいんじゃないか。
潘璋はいい線いってるけど、なんとなく良将どまりのイメージ。淩統も。
あとは程普、黄蓋、韓当、呂岱、孫皎、孫韶、孫桓、朱績、鍾離牧。
個人的には朱異も推したい。
潘璋はしばしば不法を犯したりするので名将と呼びたくはないな。
丁奉が名将か?
蜀でいうと黄忠ぐらいは活躍してるだろ
孫堅は〜?
俺としては6位に朱然か賀斉、8位に呂岱か孫桓、10位に呂範か全jか蒋欽か程普か丁奉だな。
甘寧や周泰や徐盛や丁奉や凌統はどちらかと言えば使われる方の人間だと思う。
6位は朱然か魯粛が濃厚では?
8位以降は賀斉、呂岱、丁奉、甘寧、潘璋、朱桓の混戦になりそう
孫堅を入れるなら6位かな
魯粛は将といえない
程普・・・威厳ある現場指揮官タイプ(捜査一課長型名将)
呉にはこのタイプが少ないから、そういう意味では重要。
孫桓を朱桓に直して一番下の丁奉を消してくれ。
程普、黄蓋、韓当それぞれどういう差があるのかよくわからない・・
程普・・・・最年長で諸将の代表格といった所
他の伝でもよく名前が出る
祖郎に敗れた時に孫策をかばって敵中突破
黄蓋・・・・赤壁で火攻めを進言
韓当・・・・曹真の南郡攻めまで現役、戦歴は一番長い
黄蓋・韓当は
>>449でいう使われる方の人間
将として比較すると戦術面での功績がある黄蓋が有利か?
呂蒙:卑怯者。卑怯な手で江東平定や関羽討伐で大活躍。曹操の次に戦功を
多く挙げたことも有名だがほとんどが卑怯な手のため、後の中国人に
嫌われた。そして日本人正史中と呼ばれる人の間では神の存在となる。
孫権:呂蒙が戦略的卑怯者ならこいつは政治的卑怯者。曹操、曹ヒに相次いで降伏、そして裏切る。
呉の寿命を延ばすことに成功。とにかく政治的なことでは劉備を超える卑怯者である。
孫堅
・1人で海賊を撃退
・官兵と共に許昌の乱を鎮圧
・黄巾の乱が起きると朱儁配下として連戦連勝
・宛城に一番乗りし立て篭もった黄巾賊を大敗させる
・凶星の反乱を一ヶ月で鎮圧、呼応した周朝、郭石の反乱も鎮圧
・酒宴の最中に董卓軍が襲撃をかけるが孫堅の軍勢に乱れがないのを見て撤退
・梁の東部で董卓の大軍に敗れる
・陽人で董卓軍を破り華雄らを斬る
・荊州へ軍を進め黄祖を破り襄陽を包囲するが矢に当たり死去
対象になるか知らないけど一応書いてみた
武力一本で成り上がり董卓を一番脅かした男
孫策同様に軽率な行動が多く、不慮の死を遂げたのが悔やまれる
俺は呂蒙は好きではないが卑怯者という表現はどうかと。
だまし討ちやら相手の弱点や隙をつくのが巧いとかでいいんじゃないの?
それと孫堅や孫策の軽率とかいう表現も無意味。
いい加減その手のくだらないあれはやめましょう。
程晋、黄蓋 、韓当は参考になりました。
でも黄蓋って赤壁のときはずーっとトイレで過ごしてたりするw
>だまし討ちやら相手の弱点や隙をつくのが巧い
これってやっぱたたき上げだからかなぁ?
>孫堅や孫策の軽率
そうするとこれも成り上がりの家の当主だからそういう危機感に欠けていたのかも
周瑜が人の使い方が上手いのも生まれながらの貴公子だからかな
>>459 > それと孫堅や孫策の軽率とかいう表現も無意味。
どう表現すればいいの?
彼らが大将として軽率であったのは事実でしょ
戦死や暗殺死は乱世の常でしょ
そんなこといったら早死した将とか
「健康管理が将としてなってない」
「体の丈夫さが将としては足らん」とかそういう話ですな
周瑜は健康管理と体の丈夫さでで将としてはマイナスポイント
呂蒙は丈夫なんだからホントはもっと長生きできたはずなのに41才で死ぬとは
これまた健康管理が将としては出来ていないのでマイナスポイント。
よしじゃあ30才以下で死んだ者はマイナス2ポイント
45才以下で死んだ者はマイナス1ポイントにしよう!!
おお黄蓋はずーっと戦場にいたのに長生きだな!!
将として必須の健康管理ボーナス2ポイント!!
こういう低いレベルの話ですよw
>>463 孫堅は襄陽包囲戦の最中に単騎通行してるところを狙われた
孫策は敵将と出会ったときに部下がいるのに敵将と一騎打ちを演じている
襲撃された時も単独で外出していた
戦死や暗殺を全て一緒くたにして語るべきではなく
その状況をよく考察すべきだと思うのだが?
このスレで軽率さが議論の対象になるのかは分からないが
軽率という言い方が嫌なら危機意識の欠如でもいいけど
>>464 じゃあ将としての健康管理面での危機管理はどうなるの?
同じ論法でいくと
呉の明日をになう人間に健康管理は必須って話になるでしょ
>>465 記述があるなら考慮してもいいんじゃない?
繰り返すが軽率さがこのスレの議論の対象になるかは分からない
ただ2人に軽率な面があったのは確かでしょと言いたいだけ
>>466 記述はなくても早死してたら大酒飲みだったとか仕事しすぎとかなんかあるでしょ
理由が。。それだって軽率と表現できるからね。
じゃあ大酒飲みと記述にあったら健康管理の欠如=危機意識の欠如としてマイナスにするかw
正史に酒をよく飲んだとある将はマイナス1ポイントか、
よし探そっとw
曹操も劉備も孫権も若い頃は軽率だよ。
曹操が徐栄にボコられた時なんか、たまたま死ななかっただけ。
孫堅は運の悪いことに、たまたま死んでしまった。
彼らは当時漢帝国の一将軍に過ぎなかったのだから、
一国の君主としての用心深さなどは必要ないはず。
孫策の場合も同じ。一国の君主としては軽率だったかもしれないが、
それを言うなら若くして江東を制覇した事実をもっと高く評価すべき。
戦死=軽率
早死=軽率
こういうのは戦う人間を評する基準とはならないな。
ある意味、戦うということ自体を否定してる。
>>468 孫策も孫堅も高く評価してるよ
孫策は1位、孫堅は5,6位だと思ってる
曹操の徐栄戦は戦闘中であり同じような危機に陥ることは
劣勢な軍を率いるものにはどうしても付きまとう
問題にしてるのは戦闘中ではないときに災いを招いてること
>>470 では戦闘中でないときに危機を招くような行動
●一人で月を眺めたくなって出歩く(孫策が月を見に行ったかどうかは解らんが)
●体を顧みずに酒を食らう 大酒飲み
●体を顧みずに働きまくる 仕事の鬼
●体を顧みずにイイ女とやりまくる 女好き
こういうのをマイナスポイントにするって言うのかい?
>>471 おまいはちょっと黙ってろ!
>>470 26歳の若者が、単騎外出したくらいで軽率とされるのはあんまりじゃないか?
敵陣に近いわけじゃないし、刺客に襲われたわけでもない。
劉備が京城に出向いたことの方がよほど軽率ではないかと。
そういうのを減点したらきりがない しかもナンセンスだな
徳川家康だったか豊臣秀吉だったか(ちがう人かも)天ぷらがあまりにも旨くて
食いまくったところそれがあたって死んでしまった。
まあ彼等は長生きしたけどね
でも若い頃にてんぷらに出会っていたら・・
将たるもの天ぷらを食いまくるな!減点だ!
・・て馬鹿なはなしになるよな
>>472 ハ-イ じゃあだまってます。
そのかわりキッチリ説得してくださいね
>>472 太史慈の件もあるし
張紘も孫策に軽率な行動をとらないようにと諌めている
確かに若気の至りという部分もあるが
許貢の食客に襲撃される前から軽率さはみてとれる
>>471 いやだからマイナスポイントとかはどうでもいいんだよ
刺客に狙われるような立場なら一番上は軽率でしょ?
下3つはそれぞれの行為にたいする理由付けがなく
またそれによって明らかに健康を害したのなら
軽率かどうかはともかくとして問題でしょ?
期限が一週間の仕事を3日3晩徹夜して終わらせたけど過労で死んでしまった
これは問題のない行動か?
孫堅・孫策の場合、単騎で動くべきではなく、護衛をつけるべきだった
そうは思わない?
>>454 程普:
軍部の最長老。官位は周瑜とほぼ五分。
立派な容姿と切れる頭を持ち、気前が良くて人付き合いを好む紳士ながら、
矛を持っての白兵戦から、前線の軍司令官までこなす歴戦の雄。
孫策の江東平定戦では、主力軍の副将格として活躍。
孫氏の経験した大きな戦いには、ほぼ皆勤。
黄蓋:
キャリアのほとんどは地方官。治安の悪い地域に軍政を敷き、異民族を潰すエキスパート。
目下の人間の扱いがうまい。大きい戦いに参加したのは、意外にも赤壁の時だけ。
韓当:
主力軍の一翼を担うこともあれば、
地方長官として、治安の悪い地域を安定させることも出来る器用な人。
はみ出し者の多い呉軍には珍しく、法律に忠実な職業軍人タイプだったらしい。
ちょっと一人で便所にいったりしない将なんていないよ
暗殺ってのはだれにでもある隙を狙うもの。
戦死も運
>>476 おいおいじゃああなたは本気で
一人で出歩く
大酒飲み
仕事のしすぎ
女とやりすぎ
などの要素を将としての評価に考慮するというのか!?
もの凄い低いレベルの議論になること必至だぞ
こういうスレで語られるマイナスポイントだの減点だのって話は
ほとんどがこういうくだらないレベルの話。
いい加減やめましょうよってのが俺の意見。
・・と黙ってられませんでした。
こんなアホな話はもうしたくないし、
そういう意味のない意見はなしにしよう。
あまり語られてない程普 黄蓋 韓当のはなしした方が建設的。
>>475 太史慈は騎兵一騎、孫策は十三騎(含む黄蓋・韓当・宋謙)を従えていたとあるぞ。
この時、孫策のボスは袁術、太史慈のボスは劉ヨウ。
同じ一軍の将と考えれば、太史慈の方が軽率じゃないか。
張紘の諫言も、丹楊攻略戦という時期を考えるとどこかおかしい。
ただの指揮官が陣頭に立っちゃいけないなら、曹仁や張遼はどうなるんだ。
あの挿話は張紘が袁術を無視して孫策を主君に戴いていたという意味じゃないのか?
張紘の言葉の端々に孫策を王侯なみの貴人として扱う様子があらわれている。
もちろん額面通りの意味もあるだろうが、それだけだと伝の最初にあの挿話を置く意味がない。
孫策は軽率ではなかったというつもりはないし、欠点の一つではあると思うが、
討逆将軍・会稽太守に過ぎない孫策を君主として軽佻だとする陳寿の記述は、
孫策を王、その子を侯にしか封じなかった孫権への批判と呼応するレトリックでもある。
つまり陳寿は孫策も皇帝扱いしているのであって、これを踏まえなければ軽率という批判も意味を薄くする。
>>478 >>476の一番上の行を読んでくれるかな
言いたいのは孫堅・孫策が軽率だったってことだけ
それをこのスレで考慮しろなんて一回も言ってないんだが・・・
程普・黄蓋・韓当については
>>455でも書いたんだが
なにしろ書かれてる事績が少なすぎる
皆三代に仕えそれぞれに功績があったけど
その内容が分かるのは祖郎戦の程普と赤壁の黄蓋だけだと思う
指揮官をソツなくこなした程普と赤壁で計を建てた黄蓋
個人的にはどちらも捨て難い
>>480 じゃあそういう点は考慮する必要はないって事で解決だな
程晋に関しては血気盛んなのが多い呉将を
止める立場にあるのがところどころ見られることから
慎重な歴戦の将という気がする。
史書に詳しく書かれてないが戦争に参加した回数がやたら多いのと
その地位から来る責任の重さを考えると
やはりそれだけの能力があったのではとおもう。
黄蓋・韓当はそれに準じるんじゃないかな。
>太史慈は一軍の将ではなくて偵察係だよ
そうすると一軍の将たるもの単騎で偵察なんて行くもんじゃないという
危険回避能力欠如の論法が成り立つわな
やはりあほらし。
>>483 ん?
一軍の将ではないと書いたつもりだが
ついでに一騎じゃなくて二騎な
一騎と二騎だと危険回避能力減点も差があるってか。。
アホらし。。
まあいいよ
この手の減点話がもうないんならそれでよしと。
程晋なんだが朱然とか賀斉とか呂岱、丁奉、甘寧、潘璋、朱桓とかとどうも
比べようがないってのがあるな。
実績が「〜で活躍した」とかそんなのばっかりだから。
なんか議論のレベルがバラバラだな
つーか今思ったんだが
程晋ってひょっとして負けなしか?
程晋の伝には敗戦がないようだが
他の魏のだれかの伝にはあるのかな?
あれだけたくさん戦してて負けなしだったら凄いかも
程普
>>487 直接、指揮する軍隊が破られた=敗戦
だという解釈ならそうなんでは
上のほうで言ってた、負けなくても任務が達成できない=敗戦
なら違うんじゃないの
>>489 負けなくても任務が達成できない=敗戦
そんな解釈はクソだという結論が出たはず
>>488 失礼。
その程普なんだが任務が達成できなかったというと
孫堅のときの黄祖戦か・・
戦自体は勝ってるんだけどね
単に勇敢と軽率は紙一重というだけの話しでしょ。甘寧クラスなら美徳と言える。
基本的にギリギリの作戦でも成功すれば評価されるんだから不覚をとったらマイナス評価されてもしょうがないと思う。
ただあくまで名将を討論するスレなんだから日頃の健康管理なんか全く関係ない話し。なにをそんなに必死になってるんだ?
孫堅も孫策も敵中に突っ込みすぎるのは悪い癖だと思うが、
陣頭で戦わなければ、この二人の神がかった強さも有り得なかっただろうとも思う。
>>493 必死なのはそっちそっち
もうこの話は結論がでてるよ
>>485 終了
ていうか程普ってすごくないか?
魏でいう曹仁、いやそれ以上かも。
陸抗より上な気がしないでもない。
褒めすぎかな?
周瑜も曹仁に矢をもらってるがそこから盛り返した。
>>485 朱然・賀斉はそれぞれ独立した武功を立ててるはずだけど。
孫策や孫堅に軽率なことがあったのは確かだけど、
だからといって他の人の健康だとか
無茶した話と比べたりしても無意味。
どうせ熱くなったやつが粘着してるだけだろうし、放置で。
張紘なんかの諫言は、ワンマン勢力だったわけだし、
君主が先陣を切ってもしものことがあったらということで、
より安全な督戦をしろって話だと思うけど。
>>495 凄そうだと推測は出来るけど、具体的な記述が少ないのがな…
個人的には夢のある武将ってことで落ち着いてるw
>>495 別の人間と勘違いしている気がするが・・・納得してるならそれでいいよ。
あと程普はいくらなんでも評価でかすぎでしょ。どこを読んでそう思ったの?
程普は常に軍部の中心に居続ける管理職みたいなものだから
特殊状況での輝くような活躍ってのが出にくいのでは。
>>495 こいつからはずっと釣りの臭いしかしない。
結論がでた後もいつまでも同じ話にこだわる人こそ放置だな
しかし具体的記述はなくともその地位と戦歴から
ある程度導き出せないものかね?
名将ってことばだけでいうと実は一番ぴったりな気がする程普。
六位は朱然と孫堅でガチ?
>>499 確かに今までの流れから行くと全く注目されてない程普ではあるが
たしかに派手な戦績がない。
しかしその数々の戦績が孫堅や孫策、そしてそれ以降のトップを
中核となって支え続けたことが高い評価を受けないのは腑に落ちない気もする。
全部隊の指揮を孫堅・孫策がして、程普はその指揮下で
何部隊かあるうちの一番主力の部隊を担当、くらいの位置づけだから
職業軍人、現場指揮官としてはトップクラスかもしれんが、
戦術戦略を含めた名将ランクならそこまで上には入らんと思う
>>505 派手な戦績というか独立した戦績がないんだよな。
>>506 まあ確かにそうではあるな
戦歴こそ少ないものの陸抗は戦術も戦略も両方優れている。
しかし程普みたいな将についての評価基準をなんとかしないとな
戦略に携わったのは呉将でも数人なわけだし
程普の評価で難しいのは最古参で最年長であること
立場的には関羽に似ていると思う
特筆すべき戦功がなくても昇進できた可能性はある
程普が大将格となって戦ったのは三郡討伐、楽安討伐、赤壁くらいかな?
赤壁では周瑜が最終的な決定を下している
というわけで判断が難しい
程って名家?
>>510 名家ではないと思う
孫堅に仕える前は州や郡の役人をしてた
名家でなければ出世は実力でという気がしないでもない
まあでも呉はそういうの多いか...
つーか本当に全然記述がないのにどう考察するつもりなのか。
蜀の名将スレはどうやって決めたんだ?
いや具体的じゃないんだが
戦歴の記述自体は多いでしょ
孫策に付き従ったどの戦いでも多大な武功をあげた
みたいな表現は戦歴が多いだけじゃなく他の将を上回るような
記述のされ方をしてると思う
>>509 程普は孫策時代以降の重要な戦いには必ず参加してて、
その時の官位は総大将と同じぐらいか、総大将の次ぐらい。
大事な戦いの副将的な立場で、地道に功績を重ね続け、
大きな失敗をしなければ、かなりな地位にまでなれるだろう。
「程普を使えば大戦果が見込める」と言うより、
「程普を使えば間違いが無い」と言う理由で重職にいた将なんじゃなかろうか。
>>511 州郡の役人になれるのは、ある程度の豪族。
史書に名前が出てくるレベルでは名門じゃないが、
庶民レベルから見たら、結構な家柄ではあると思う。
>>512 仮に土垠程氏に力があったとしても、
程普は思い切り遠くに行ってしまってるので、
一門の後援は受けられないと思われる。
>>509 職業軍人って意味だと趙雲の砲が近くない?
>>516 それどころか南方では浮いてたんじゃないか。
程普・韓当は北方出身であることが気になる。
北に進出した後のことを考えて北出身のを重宝した
って考えすぎw
>>517 趙雲と比べるとさすがに地味な程普でもその戦績は数倍派手w
どんだけ地味なんだっつーの趙雲..
朱然・呂岱・全j・賀斉・丁奉・程普・孫堅・甘寧
誰かこいつら以外を6位に推薦する人いる?
>>520 程普は、孫権が皇帝を名乗るまで生きてられたら、
大将軍や大司馬になっててもおかしくない男だからな。
そこまで行かなくても、驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍はガチだな。
主君が皇帝になっても、鎮東将軍までしかなれなかった趙雲よりずっと格上。
>>521 6位に推薦はしないが10位内なら朱桓・呂範も考慮すべきだと思う
6位孫堅、7位朱然を推す
孫堅が黄巾や董卓に挑む際、北の地に馴染みのある人間を中核に据えたというのは
全く考えられなくもない。というかその線が強いのでは
朱然はどっかの城の防衛戦しか思いだせない・・・誰か朱然・呂岱・全j・賀斉あたりのテンプレ書いてくれないか?
賀斉
・孫策時代に配下に
・反乱平定、異民族討伐のエキスパート
・曹休を撃退
・超派手好き
呂岱の事績
・呂合、秦狼ら5県の不服従民の反乱を討伐する
・軍を進めて長沙・零陵・桂陽を奪取する
・4県の役人が共謀し人を集め陰山城に立てこもるが攻撃し瞬く間に降伏させる
・反乱を起こした中郎将の袁龍を攻撃し難なく捕らえ斬った
・歩シツに替わって交州刺史となる、高涼の異民族が降伏を申し込み受諾する
・鬱林の異民族が郡や役所を包囲して攻撃を仕掛けたが、これを打ち破った
・桂陽一帯の叛徒王金が反乱を起こすがこれを討伐し王金を生け捕る。
この討伐で斬首あるいは生け捕られた者の数は1万余人にのぼった
・命に背き兵を動かした士徽に急襲を主張し士一族を斬首した
・士徽の配下の武将が呂岱に攻撃を仕掛けるが反撃し散々打ち破った
・広州を平定し、もとどおりの交州を復活させた
・九真を討伐する、斬首及び捕虜にした数は何万にものぼった
・南方が安定したので長沙へと召され、潘濬と武陵の異民族を討伐し平定する
廬陵、会稽、南海で同時に蜂起するが呂岱の知略と武略により見事に平定され治安が大きく向上した
・廖式が反乱を起こし零陵、交州周辺が不穏になる、呂岱は上表して自ら討伐を起こし
1年かけて廖式や彼が派遣した臨賀太守費楊を打ち破り、その部下を自軍に組み入れた
・吾粲と共に山越討伐を行う
96歳で死去、最後は大司馬にまで昇進、ちなみに劉備と同じ年に生まれてる
朱然
・山越の不服住人を討伐
・曹操が濡須に軍を進めると防備にあたった
・呂蒙に後継者として指名される
・劉備が宜都に攻撃をかけると陸遜と共に劉備の進出を防いだ
・別働隊となり劉備の先鋒に攻撃をかけてこれを打ち破り、その退路を遮断したので
劉備は打ち負かされ逃走した
・曹真・夏侯尚・張郃らが南郡に侵攻し、曹丕が背後から加勢した
朱然軍は孤立無援、疫病、内応の悪条件の中、、隙を窺って敵の陣地を2つ打ち破った
・夏侯尚らは朱然を6ヶ月包囲したが、どうしても城を落とす事ができず撤退した
この江陵城攻防戦によって朱然の名は敵国までなり響いた
・227年、孫権の殿をつとめ敵を食い止めた
・241年、樊城を包囲、司馬懿が援軍できたので退却
(晋紀には司馬懿の追撃により死者・捕虜併せて一万余りの被害がでたとある)
・242年、柤中侵攻、魏の部将蒲忠と胡質がそれぞれ数千の兵で挑んできた時
朱然は兵8百で迎え撃ち、これを撃退した
・246年、柤中に侵攻、千余人を斬首、捕虜にした
(晋紀には魏は万人を失ったとある)
・魏の部将李興らが6千の兵で朱然の退路を断ったが、朱然は夜襲をかけ魏軍を打ち破った
↓全jを頼む
全jといえば臧霸撃破
沈瑩
>>530 演義で趙雲に一撃でやられたってのはあまりにもかけ離れてるな。
劉備を取り逃がした程度で殺されてしまってはたまらんな。
演義は劉備、関羽の死に関わった呉の将を
孫権と陸遜以外はほとんど強制的に殺してる
1〜4位 孫策・周瑜・呂蒙・陸遜
5位 陸抗
6位 孫堅
7位 朱然
8位〜 呂岱・全j・賀斉・朱桓・甘寧・呂範・徐盛・丁奉・吾彦・程普・蒋欽・潘璋
脱落するのは誰か?
呂範は洞口の戦いで暴風で見せ場が
作れなかったのが痛い
寡兵でも実力を発揮した全j・賀斉・徐盛らと比べると
1つランクが下がる印象
やっぱ一番に脱落するのは孫堅
後漢の名将であって呉の名将にするのはどうかと
あとは程普
魏の夏候惇、蜀の関羽と同じく直接的な軍事面での評価をするのはどうかと思う
もちろん個人的な感想だが
吾彦もなしかな
羅憲みたいなポジションだけど
それだけって感じ
>>536 1位ー4位まではその順番のままでもいいような気も
あと孫堅と朱然の6位7位はどうなんだろう
孫堅はなんとなくランク外じゃないかな 呉将とはどうもね。
朱然に関してはぼろ負けもあることだし成果(領土拡張)自体がなにげに少ないような。
程普は俺としては6位7位に食い込むと思うけどな。
程晋の場合は夏候惇のように政治に関わってないし関羽のように盟友というわけでもない
あくまで一人の将としての実績を積み重ねてる。役割が大夫ちがうよ。
どちらかというと于禁とかなんじゃないかな。
創業期の領土拡張に軍事的な面で大きく貢献しているのと
将としての敗北らしい敗北がない。戦いの量を考えるとこれも凄いし。
朱然の時代に攻勢時に功績をあげるのは
時代背景的には評価高いんじゃないかな
樊城戦で追撃されたのも晋書では大被害だけど
当時の朱然の部下の朱異は出世したりするから
晋書のような大打撃をくらったとは思えない節もある
朱然はどちらかというと呉の組織の成り立ちという観点からみて
従来の呉の有力者たちの勢力図に変化をもたらしたところに
功績というか重要なポイントがあると思う。
これはやはりその人柄や孫権と勉を友にしたつながり、もちろん戦で見せた
実力も含めてが要因と思う。
ただあの敗戦はやっぱりあったんじゃないかな。
朱異が出世したからってのは晋書を否定する根拠にはならないような。
朱然は防衛戦が結構素晴らしい。程普に負け戦が無いのは孫策や周瑜が優秀だったからでは?
>>541 >1位ー4位まではその順番のままでもいいような気も
その4人は比べにくい部分もあるのでそのままでいいと思う
誰が上とは言い辛いよな。
俺は呂岱のほうが程普より完成された将だと思う
>>545 朱然は防衛戦はいいんだが長江越えての侵攻を試みたところを見ると
それが限りなく難しいということに気付いてない節がある。
これは戦略という観点から見れば愚策でいってみれば孫権並。
それと長江をはさんでの防衛戦は実は失敗した将のほうが少ない。
そういう点が朱然を高く評価できないんだよなあ・・
人格、統率力、機転申し分ないのだが呂蒙の後継にしては広い視野に欠ける。
まあ呂蒙もそういう節があるのだが、周瑜、陸孫、魯粛あたりとそういう面で
比較するのは酷かもね。
>>548 根拠をいおうよ
俺的には呂岱は反乱鎮圧がメインで魏や蜀との戦いの接点がなく
死地には居なかったとの印象が強い。
ただし蜀と比べると呉は山越などの反乱分子の危険が大きかったために
その役割は蜀の張巍などと比べると重要だったとは思うが。
賀斉・甘寧は落ちるな。特定状況で強い能力特化型であり
あくまでも部将レベルの使われる側。
>>545 程普に負けがないってのは大将格のときの話でしょ?
まあ数が少ないからあまり参考にはならないかもしれないが
祖郎戦では負けてるしおそらく董卓戦にも参加してるはず。
赤壁に関しては周瑜が優秀だったからというのはあるけど・・・
賀斉は孫策時代からずっと独立した指揮権のもとで南部の王郎残党や不服住民討伐に功績をあげてるはずだが。
この時の功績はかなりのもの。俺は逆に頭一つ抜けてると思うが。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 21:40:20
残党狩りや反乱分子の鎮圧は対巍や対蜀その他国家規模の戦いと比べて
優位な兵力や組織力でプチプチつぶしていくようなもんだから
甘い戦いばかりではなくとも厳しさに劣るのは否定できないな。
たとえ呉はそういう分子が多いお国柄だとしてもね
>>550 迅速で的確な軍事行動、卓越した統治能力、将としての事績の多さ
国境最南端の交州や九真は呉の影響力も
揚州にくらべて薄いから、叛乱もよく起きるし
影響力の高い士一族の存在など、充分、危険な要素は高い
交州・九真討伐は山越ほど点を潰すような容易さだとは思わない
後、魯粛と呂岱が反乱討伐した時
魯粛は軍を突破されて取り逃がしたけど
呂岱はなんなく敵将を捕らえ斬ったという
事績からも将として非凡なものを感じる
>>555 俺も全てが容易とはいってない
でも国家対国家の戦いに比べればその危険度はいわずとわかるでしょ。
まあこのての将は蜀スレや魏スレでも評価を高くは出来なかった
もちろん反乱鎮圧も国家において、特に呉では重要な役割だけどね。
>>549 合肥の重要性は魏の対応を見て分かると思う。
中原を狙う上で合肥を攻めることが戦略上の愚策とは思えない。
確かに落とすのは難しいがだからといって
攻めるべきでないというのは違うんじゃないかな?
襄陽攻めだって難しいことには変わりないし。
晋書に重きを置くなら大きなミスを犯したことになるが・・・
どの道、比較対象は周瑜・呂蒙・陸遜では無いから
孫堅が対象外とするなら6位は妥当だと思うけど。
張雅と・彊の時は敵に勢いがあり味方の兵が少数という状態で、両者を内部分裂させた後討ち取ってる。
洪明・洪進ら五人の時もそれぞれ一万を指揮する大軍で官兵の方が少ないことから、深入りを避け退路を確保した
上で打ち破った。
さらに二万を率いて四面が切り立った山に篭り刀を使えないほど細い道の上から石を落としてきて攻撃できなかった時は
自ら山を一回りし見張りのいない死角を見つけた上で少数の身軽な兵士に山をよじ登らせて四方から太鼓をならさせて
敵を混乱させてその隙に攻め落としてる。
厳しさに劣ると言えるだろうか?
合肥は重要なんだが単独で攻めるのは全くの無駄ということだな
それは襄陽も同じ。攻勢防御ぐらいの意味はあるが被害だしたら無意味。
なぜなら単独で(蜀、長江上流方面)からの援護なくしての北上が
成功した例は歴史を見ても朱元璋の特殊な場合のみ。
孫権はそれを繰り返して兵力を消耗させた。
朱然も同じ。
まあ孫権ほどそれが読めてなかったとは思わないけどね。
朱然の樊攻めは呉の多方面攻撃のひとつでしょ
孫権の指示で攻めたわけで
このスレでは三国志よりも晋書の方が信頼高いの?
>>562 このころの呉が盛んに行った長江越えての魏への攻撃は
まさに孫権の愚策だな
つまり歴史上ほとんど成功したことのない作戦をアホみたいに繰り返しただけ。
これは確かに多方面攻撃であった場面もあるんだが、
蜀をとってからの攻撃とは根本的に成り立ちがちがうよ
朱然に決定権がなかったとはいうもののその方針に反対した様子も見られない
逆に積極的だったでしょ。
朱然伝を見る限りだとそれらしいことは「病気が発生したから攻勢に出る前に撤退」の部分しか見つからないが。
>>563 本人の伝には負け戦が記載されない場合がある。
で晋書にはキッチリ記載されていた。
しかも呉の伝・・
言わずもがなだとは思うけどね
ただし多少大げさだとは思う。
でも大きな被害を受けたのは確かじゃないかな。
>>564 中国史全般にはあまり詳しくないんだがそんなに成功の見込みの低い作戦だったの?他にどのくらい失敗例が
あるのか教えてくれないか?
>>566 単独の侵攻の反対や蜀を取ってからの方がいいというような意見がないでしょ。
で朱然の伝には全部見回してもこのへんの戦略論についての考えが見えてこない
>>567 晋書の書かれた年代や全体的な信頼性を考えると・・・
>>568 それは自分で調べてよw
おれは逆に成功例を朱元璋の特殊な場合しかみつけられなかった。
>>424をみてね
>>569 確かな戦略論をもっていなかったのでは?
といいたかったわけで
>>564の下2行への反論です
>>573 朱然の能力に対する意見で歴史上殆ど失敗しかしてないような作戦に反対しなかったから戦略的に疑問が残るって主張
してるんでしょ?じゃあその失敗例ってどんなのがあるの?って聞かれて自分で調べろはないと思わない?
>>574 横からスマンが俺今まで呉の伝を元に議論に参加してたんだがそんなに信憑性低いかったの?
>>576 まあおちついてくれ
わからないことがあったら自分で調べて反論するべきじゃないのか?
>>574 少なくとも小説を引用しているとかはないでしょ
呉書は確かに三国志の中では信頼性は低いけど
全体的に見て晋書より信頼性が低いということは無い
朱然については分からないけどね
>>576 成功した例が朱元璋しかないと言ってるんだから
成功した例を見つけて反論すれば?
>>580 時代が違うし勢力的な差もあるが呉王夫差は魯や斉の討伐に成功しているよ
むしろ朱元璋が成功してることはわかってるんでしょ?他に反証がなければ成功する確率があるってことになると思うんだが。
明の朱元璋しか成功してないなら
その前の時代の将はだれも攻略法を知らんってことだよな?
歴史上ほとんど成功したことのない作戦をアホみたいに繰り返しただけ。と言うだけの根拠は?って聞いてるだけなんだが・・・
その根拠を疑問に思うなら俺が自分でそれを探してこなきゃだめなわけ?
>>581 そういえばあんま詳しくないが呉王夫差の北上は
確かに成功例の一つかもしれないな
ただ魏のように中原がまとまっていたわけではないけどね
>>584 根拠は朱元璋しかいないといってるんだからそれに反論するんであれば
>>581のように「いや誰それは成功している」というのが議論の流れでは?
ちょっとまて、長江越えて軍を進めることの難しさは
中国史の常識では??
襄陽ってだいたい北朝が支配してるもんだったの?
呉以降の南朝は襄陽の攻略は確立されてたの?
合肥攻略作戦の成功率を、長江を越えての作戦が殆ど成功してないから低いって主張してるわけでしょ?
でも現に朱元璋が成功してる。呉王夫差は魯や斉の討伐に成功している。じゃあ低くないのでは?
まあおちつけって
たぶん君はその作戦の成功率が高いと主張する類い希な人物だわな・・
つーかみなさん中国史勉強してくれ・・
長江が戦略的にどういう役割を果たしてきたのか
勉強してから物を言おうw
>>586 朱元璋が成功してることが合肥攻略の可能性が殆ど無いとする主張の根拠にはならないでしょ?
むしろ当時の呉と同じような状況の国が攻略に失敗した話しを出さなきゃ根拠にならないジャマイカ。
でも探せばいっぱいありそうだけどね。
だから
>朱元璋が成功してる。呉王夫差は魯や斉の討伐に成功している
この二つは(特に朱元璋は)特殊も特殊な例なんだってば
中国史における南朝の北伐なんて成功したためしなんて殆どないし(単純に勝つならともかく、領土が維持出来ないし)
>>587 というより三国時代以降に常識になったといった方がいい
長江を越えて北上という点では項羽も成功してる
>>590 状況が違うというのが一番大きいかな
これは周瑜の天下二分の襄陽からの攻めを議論している時にも気になったが
夫差のときは北の勢力は群雄割拠していてそれほど強大ではなかった
項羽・朱元璋のときは各地で反乱が勃発し北の勢力は衰えていた
魏が普通の状態では北上は難しい
だから漏れは魯粛の天下二分を一番評価してるんだが
朱然にしても陸遜にしても殆ど勝ち目は無かったと思う
つーかこれは常識だぞW
それとも俺は何か常識を越えた中国史の見解に遭遇しているとでも言うのか!?
>>596 まあおまいのwの大きさも常識をこえてるんだがな
>>568 マジレスすると勢力が固まってる相手への長江越え攻撃は、
どっち側から攻めても圧倒的に不利。
相手勢力が崩壊しつつあるか、出来て十年以内ぐらいじゃないと、
なかなか成功しない。
>>573 南から北に攻めて、敵を滅ぼした例としては、他に蒋介石の北伐がある。
ただし、どちらも相手の内部が乱れてる時に仕掛けてる。
>>588 東晋は襄陽を抑えてる。符堅が本気で江南征服を考えたのは、襄陽を攻略してから。
あと、時代は違うが南宋も襄陽を抑えてた。
>>595 周瑜の天下二分にしても蜀を取ってからの北上の話だから
襄陽から単独でのぼる、もしくは長江上流おさえずして長江こえるなどというのは
周瑜とも魯粛ともちがう愚策。
それがまさに孫権の北上策w
つまりあの頃の魏はまだ磐石であり、基本的に成功例はみな相手の内部の乱れに乗じてるわけだから、長江越えは
無理だっただろうということですか?
朱然6位確定はなしでもいいけど
だれを6位候補にしたいんだ?
朱然に戦略的な非があったかどうかはこれまでの話しだけでは決められんと思うが・・・
そんな俺は賀斉を推すが。
>>599 何もしないわけにはいかないだろ
あの時点で蜀を攻めることが良策だと思ってるの?
賀斉はありえんな
反乱鎮圧だけじゃだめ
程普だな
朱桓か徐盛だな
>>604 いたずらに消耗せず守ってればよい
その間西陵なりを整備して蜀の隙を狙うのが上策だろう
徐盛は偽の城壁の計はよかったが名将と言える活躍をしてるか?
>>601 朱然を越える功績を残してる奴がいなければ朱然でいいんじゃないの?
>>600 そういうこと。逆に魏が長江を越えるのも難しかっただろうね。
晋が呉を滅ぼしたのは、長江上流支配、
長年の悪政による制度疲労、郭馬の反乱の三つのフラグが立ったからだよ。
そんな決め方をするもんじゃないだろう...
じゃあ朱然の功績とはなんだろう?って話。
>>613 それはもう見飽きたでしょ
ほとんど伝の羅列にすぎないし
何とどう関わってどういう功績を挙げそこからどんな能力が見えるのか
他の伝や書とくらべあわせてそういうのを多角的に考察しよう。
順位決めるよりも考察がメインな訳で。
>>611 だね。
司馬懿や曹仁といった魏の名将も大した成果上げられてないからね。
なんでこんなに盛り上がってるんだ?(;´Д`)
そうすると朱然が長江の戦線で渡河してくる魏軍をふせいだのも
朱然の能力というよりも長江のおかげという理論が成り立つな
まあ逆にいうと攻めて破れたのも長江に破れたともいえるのかな?
朱然の功績を考えてみる。
長江ラインの防衛は完璧。名将相手の苦しい戦いも良く凌いでる。
戦略的に重要な戦いを落としていないのは立派。
長江越えない限りは最強クラスの将軍だ。
でも、戦略レベルで何かしら建言したり、構想練ったと言う事跡には乏しいね。
「戦略レベルでの構想力を欠く呂蒙」と言った印象だな。
最強クラスの将軍・・
それは国家戦略を任されていなかったも原因の一つだろうね
呂蒙ほどに抜け目なくはないなあ。。
>>617 そうは言っても、並みの指揮官に防衛任せると、
敵方の名将に一時的にラインを突破される恐れはある。
最悪、皖城を落とされた朱光や、一時的に襄陽を落とされた魏の誰かさんのように、
重要拠点失陥するかも知れん。
曹仁は襄陽落とされてないけどな
もの凄いマイナーな将(名前忘れた)が守りきった
襄陽の城の近くにそのときの将を称えた石碑が今も残ってるらしい。
呂常
朱然の防衛戦は孫盛が大いに足を引っ張ったことも見逃せない
>>624 呉の陳邵が、一時的に襄陽を占拠してた事がある。
曹仁にすぐ奪還されたけど。
>>628 それは魏が捨てた廃墟を占拠しただけで落とされた誰かさんは存在しない
朱然の戦略眼についてけちつけた者だが
よくよく考えると長江越えの難しさについては
あの曹操ですら認識が甘かったんだよな。
この時代にそれに気付けという方が無茶かもね
逆に気がついていた人間は素晴らしい戦略眼ということになるんだが
気がつかないからといって完全ダメだしは酷かもとやや意見の軌道修正。
一晩で大分盛り上がったみたいだな。
朱然 批判的な意見もあるが推す意見も多し
程普 肯定と否定が半々ぐらい
呂岱・賀斉 推す意見もあるが反乱鎮圧は評価しにくいと
甘寧・丁奉 使われる側なので他の候補より評価は低いという意見あり
朱桓・徐盛・潘璋 全jは特に意見なし
今日は人集まらんな・・・
これが普通だし
全jの評価が難しい
かなり地味くさい将なんだけど
洞察力は優れてるし司令官としての戦績もある
洞口戦では曹休・張遼・臧覇相手に不利な状況ながら
相手を撃破するなど光るものもあるし
>>635 呉の名将は荊州戦線に集中してるけど、
この人は主に揚州戦線で活躍した武将だな。
戦略眼と指揮能力を併せ持った良将だ。
武将としての失点は芍陂で王凌に負けた時ぐらいかな。
性格は卑劣で嫉妬深くて権力欲が強くて、最悪なのにね。
>>636 糞みたいな性格のくせに全j伝では人格者なんだよなw
ホウ統に知力がないって評されたけどそれは当たってないと思う
悪知恵IQは相当高いもんな
朱然はいろいろ意見があったけど
6位は固いでしょ
江陵防衛戦は悪条件が重なりながら6ヶ月も
ほぼ独力で魏の名将らから守りぬいたんだし
>>637 残虐非道とか、協調性なさすぎって意味で性格悪い良将はたくさんいるが、
ただひたすら汚くて卑劣って良将は珍しいよなw
>>639 そうだな。呂岱・賀斉も結構苦しい戦いやってるが、
正規軍の名将を相手にした数では、朱然に劣るかな。
>>637 ホウ統に批評された当時はまだ大したこと無いやつだったけど、
長年活躍した将だけあって、徐々に自力を付けて行ったのでは、
と思っているよ。
妄想の域を出ないけどw
そこはあれですよ。
出世する毎に厳しくなる世の風を浴びて
少しずつ逞しく育っていったわけですよw
6位は朱然か程普だな
やや朱然有利
>>645 いっぱいありすぎるんだが
対董卓(陽人)
対劉ヨウの際の最上級の功績の表現
対魏(烏林で対曹操、南郡で対曹仁、赤壁では周瑜と並んで司令官)
このような国家規模の戦いに数多く戦功があり
呉が国家を形成する段階での軍功の量と質は周瑜と互角。
加えて反乱平定なども行い、功績のバランスがいい。
さらに失策らしい失策もなく人格面での問題も記述が見られない。
まあ俺も程普の伝なんて興味もなく、見たこともなかったが
見たら驚いたという感じだな。
戦略面での意見の記載は見られないがそれは朱然も同じだったりする。
実行官に過ぎないというには立場が重要すぎるし
実行能力の高さというのは名将という観点から極めて重要。
そんなわけで程普はいちおし。
>>646 まあよくよくみると戦略発案以外はほぼ何でもこなす将ではあるな 切り込み隊長から司令官まで
周瑜の陰にかくれた演義とだいぶイメージちがう
>赤壁では周瑜と並んで司令官
これだけは頂けない、もちろん程普自身の評価には影響しないが
>>646 程普の問題点としては具体的な記述が少なすぎるところと
単独での戦功が見劣りするところかな
対董卓は黄蓋
対劉ヨウでは韓当との差が感じられないし
対魏では周瑜に決定権があった
対厳白虎と反乱平定のほうが重要だと思う
人格面での問題という点では双方の問題だとは思うが周瑜との軋轢があげられる
朱然との比較は難しいので何ともいえないけどね
>>648 右督だから左督の周瑜と立場上はほぼ同じくらいでは?
>>649 董卓のときは程普、韓当、黄蓋 たいしてかわりないが
劉ヨウのときは韓当は征伐に従軍したというようなことしか記述がないのに対し
程普は全ての戦いにおいて多大な成果を上げたというようなことが書かれているよ
韓当との差が感じられないっての記述自体を見落としてるような・・
周瑜との軋轢に関していうと周瑜の時は論じられてないし
程普の人格とは関係ないな。立場上の問題だし解決している。
> 人格面での問題という点では双方の問題だとは思うが周瑜との軋轢があげられる
これは孫権の任命の仕方が一番悪かったと付け加えときます
>>650 それが問題、どう考えても司令官が二人はおかしな陣容
むろん程普は悪くない
話はずれるが韓当は特殊工作部隊の長なんだよね
敢死軍もしくは解煩軍を率いる場面が多い。
趙雲ぽい役割かな。
敢死軍も解煩軍も直訳するとそれぞれ、あえて死ぬ軍、煩いを解決する軍
となる。
>>651 スマン読み違えてた
韓当は三郡の討伐の功で先登校尉と兵2千と騎馬50
程普は対劉ヨウで兵2千と騎馬50、対厳白虎で呉郡の都尉をそれぞれ授かってる
会稽の分だけ程普のほうが戦歴は少なく、褒賞はほぼ同じ
その分程普が活躍したとはいえるかな
>>646 呉が国家を形成する間の功績に限るなら周瑜の比じゃないと思うが。その後の赤壁・南郡を含めるとわからないけど。
人格面においては若い周瑜を度々侮辱したと言われるが、そもそも人格はあんまり関係ないと思う。
ただ常に孫策・周瑜の指示を受ける立場にあったことから司令官としての力量は測りがたいのはあるかもしれん。
程普は縁の下の力持ちとかナンバー2での働きっぽい印象がある
甘寧、朱桓のような豪胆な武将と比べると小さくまとまってるように思えるので
個人的には10位か11位ぐらいの将と見てる
>>657 たしかに。
俺も程普は名将というよりは重鎮という印象。
>>657 >>658 印象論だけで根拠がないね
演義の印象が強いと思われ。
>>656 呉の形成段階でこそ周瑜と役割が近い。
赤壁、南郡においてこそ周瑜が戦略を担った分リードしているんだが。
ただし赤壁では程普は右督として二分する軍の一方を統括していた。
戦略は周瑜が担当し立場は同じ。
そして烏林では独立した軍として曹操を打ち破っている。
それと韓当との差はそれぞれの伝を見比べれば明白。
ちゃんとよく読もう。
韓当に関していうとやはり役割は工作部隊的なものでこれはこれで重要。
まあ劉ヨウ戦あたりまでは昇進自体に差はないが程普はその後責任の重い地位にて
戦功を重ねている。
戦略と戦術の両方に優れた将が6位以降はほとんどいないので
実行力できわだち、高い地位と重責を担って失敗らしい失敗のなく
軍功の多い程普はこの6位近辺はかたいとおもわれ。
そもそも赤壁は周瑜が程普とともに全軍指揮したのは確かとしても
一大会戦で火計によって魏軍に大打撃を与えたってのも
相当うさんくさい。
赤壁もあるし、烏林もある。
いくつかの戦いをまとめて赤壁と呼ぶのが正しいと思うんだがどうでしょう?
赤壁はあった。火計もあった
しかし数ある戦いの中で火計も使われたという程度で
赤壁の場所は諸説ありそのうちのいくつかが魏と呉が戦った戦場だと思う
石頭関の赤壁山近辺
黄岡城外の赤磯山
浦圻県西北
このへんが有力
魏の記録に赤壁自体がないのはやはり敗戦の記載がどうのこうのなったんだと思う。
伝には敗戦の記録が記載されにくいの法則
>>659 赤壁に入る前の周瑜の功績は程普に及ばないと書いたつもりなんだが。その後の赤壁と南郡を含めると抜かれるかもしれないと。
>>646 対董卓の陽人戦において指揮を取ったのは孫堅で、それについては身に手傷を負ったとあるだけでこれといった活躍・功績は
わからない。この時はむしろ黄蓋の方が手柄が大きかったように思える。
劉ヨウの際の際にはそれぞれの戦いで功績があったとされているが下賜された褒美も韓当と同じだしほぼ同じような功績だったはず。
陽人の時の逸話から考えても程普も韓当と同じように孫策指揮下の武将として手柄を挙げたと見るべきでは?
韓当が工作部隊的なものとするのはなんで?
あと程普伝を見るに烏林では周瑜と協力して事に当たったはずで独立した軍として破ったわけではないのでは?
戦略的に失敗らしい失敗がないのは立場上あたり前という感じもする。孫堅・孫策・周瑜の伝を見ても程普からの
献策自体がないし。実行力で際立ったのは劉ヨウ戦だけで後は取り立てて優れた記述はないはず。
ただ戦術面において失敗がないのは立派。646の例に加えて劉勲戦、孫権の江夏征伐にも参加し単独で楽安も落としてる。
良将なのは間違いないが他の良将と比べてずば抜けた能力は感じさせないが。
>>662 失礼
ならそのへんは一致してます。
周瑜は戦略に携わった分赤壁以後の功績はとても大きい。
俺は赤壁以前の周瑜の功績も大きいと思うので赤壁以前でも同程度と思うが
ほぼ同じ意見。
今調べたら劉ヨウ戦の際呂範も同じような褒美だったがそこまで活躍したと書いてないので、褒美が同じだから同じような活躍という
のは乱暴だったかもしれない。失礼。
>>664 周瑜が赤壁以前に行った具体的な功績は食料や軍勢を集めて孫策の進撃を助けたことと黄祖の部下を生け捕りにした
ぐらいしか分からないけど、孫策死後の軍権を任されたことを考えると縁の下の力持ち的な働きが大きかったのかもね。
>>663 対董卓戦で差がないのは前に述べている
劉ヨウのときは昇進こそ同じだが
韓当は従軍したとあるだけなのに対して
程普は全ての戦いにおいて「多大な」成果を上げたと記載されている
もちろん韓当も充分活躍してると思うが表現に差が見られるのはわかるとおもうよ。
韓当が工作部隊的な役割ということに関しては
>>654で述べたとおり。
献策がないのは朱然も同じと前にも述べた。
烏林に関しては孫権は周瑜に一万、程普に一万の軍勢を分け与えている。
全体の作戦自体は周瑜がたてたろうが立場がが周瑜と程普で同じ以上(右督、左督)
各々の軍の指揮系統は独立しているということ。
俺もなにも3位とか4位に推してるわけではないのでたしかにずば抜けた能力は感じていない
しかしなにも能力とは才気とかそういうものだけでなく与えられた
責任をこなすという能力もあり、実は最も重要。
呉の創業の主力となりその責任を完全に果たした堅実な能力と大きな功績が
6位以下候補の将より総合的に見て上回ってるという意見。
諸将を統括する立場から野戦指揮まで幅広くこなせて失策がなく戦歴も多い将って
6位以下だと誰がいるかな?あえていうと朱然ぐらいじゃないか?
となると程普は6位近辺が妥当って話
>>667 黄蓋の方はちゃんと功績があったとされてるが程普は無い。董卓戦においては差があると言えるのでは?
敢死軍もしくは解煩軍を率いる場面が多い。ってのはどこに書いてあるかわからないので教えてもらえると幸いです。
俺も程普の与えられた任務をこなす能力に疑問はない。ただ諸将を統括する立場で活躍したことは無いのでは?
赤壁はそれに近いものがあるが主導権は周瑜にあった。
6位以下の呂範・呂岳・賀斉・朱然などは条件を満たしてると思うが。しかも呂岳・賀斉・朱然は卓越した能力を感じさせる
活躍もしてる。朱桓・全jも挙げた功績では程普にひけはとらないと思うし。
>>668 対董卓戦では、程普より、黄蓋や韓当の方が功績立ててるっぽいな。
だが、孫策の時代になると、程普は郡都尉→中郎将・領郡太守。
黄蓋は県令。韓当は校尉。
孫策の時代に、程普の官位は叩き上げ軍人の中の筆頭格になったみたいだね。
江東平定戦で特に功績が顕著だったんだろう。
江夏太守、南郡太守を領していた時は、郡内の諸軍を統括する立場ではあったと思う。
話しが逸れるとあれだから前もって断っておくと
>>667が挙げた条件を呂範・呂岳・賀斉・朱然の方がより満たしてると
言ってるわけじゃないから。むしろ言いたいのはその条件を満たしてるから即他の将より上とはならないことの方がいいたかった。
>>668 対董卓の時は黄蓋が3人(程、韓、黄)ではリードしてるかもね
でもその後があまり冴えない 赤壁では便所だかなんかで死にそうになってるし
右督は諸将を統括する立場。作戦で主導権を握ったのが周瑜というだけで
与えられた軍の指揮権はそれぞれにある。
敢死軍、解煩軍に関しては原文参照
台湾のサイトとかに原文そのままのってたりするよ
まあ俺的にいうと呂範はちょっといい線いってる 朱然も有力と思う
賀斉なんかはやはり反乱鎮圧がメインなので計れないな。
反乱鎮圧メインと言うが張雅と・彊の時は正規軍で勢いがありかつ人数も多かったし、洪明・洪進ら五人の時も大軍。
合肥や曹休戦にも参加して活躍してる。優れた作戦で敵を破ったこともあり十分評価に値すると思うが。
>>674 評価には値するが局地的に過ぎない。
他の将も呉は反乱分子が多いのでそれぐらいのことはしてるしね。
他の将もやってるから評価しないってことじゃないよね?賀斉のようにこちらより多い万単位の反乱軍を相手にした
将はそう多くないはずだが。
程普って自分の裁量で行った戦闘は楽安ぐらいしかないよね?
とりあえず程普10位以内キープで決着させるか?
後、ほとんど話題にならないけど朱桓が10位以内に
ランクしないと思う住人はいるのか?
まだ呂範・賀斉・呂岱等を上回ってるとは言い切れないから決着はまずいかと。
評価するっていってるんだけどな
ただ国を成す軍功や他国の侵略を防ぐ軍功に比べると
反乱鎮圧はモグラたたきの感が強い。
反乱は組織力、補給などの面で成功する確率の方が低い。
トップクラスにはキツいんじゃないかな
というか程普と朱然の比較でいいのでは?
俺も六位とかそれぐらいの能力と軍功があるとおもうけどな
賀斉は10位入るか入らないかじゃないか?
>>672 右督は諸将を統括する立場で指揮権はそれぞれにあるというが魯粛伝にも総指揮は周瑜がとったとある。
作戦の主導権が周瑜にあるだけという意味でなく周瑜が総大将で程普は副将という立場だと思う。
賀斉と呂岱はやはり難しいな。反乱平定が正規の国家規模の軍との戦いより
難しいとは証明できないからな。
程普と朱然ならやや朱然かなとも思う
>>681 その一般論が当たらない戦いに勝ってるからこそ優秀だと主張してるんだが。
それを言うなら程普の活躍はどうなんだ?劉ヨウの戦いこそ手柄を挙げたと書いてあるが他の戦いでどれだけ活躍して
賀斉や他の将に比べてどれだけの力があるか証明できるの?
>>684 ただし軍が分けられている以上それぞれの軍の指揮権はそれぞれにあるということだよ
>賀斉や他の将に比べてどれだけの力があるか証明できるの?
そんなもの証明できたら歴史学なんてなくなるだろw
一万の軍勢を指揮したことに異議があるんじゃなくて諸将を統括して戦ったと言う点に異議があると言ってるんです。
統括してたのは周瑜でしょ?と。
まあまあおちつけって
このスレは急に伸びるよな。
>>690 いやそれぞれの軍に所属する諸将を右督、左督それぞれが統括したと言うことだよ
命令系統っていうのはそういうもんだよ
感情的になってあら探しや言葉尻捉える落とし合いになりつつあるぞ
とりあえず落ち着こう。
>>694 あの戦いには周瑜・程普を始め魯粛・黄蓋・呂蒙・甘寧らが参加してるわけだが彼らは全員周瑜の指揮のもと戦ってる。
軍に所属する直属の部下を指揮するのと諸将を統括して戦うというのは別物でしょ。
程普はトップとして実力を発揮した戦いがないのがまずいんだと思うんだが。
それは統括という言葉の捉え方の問題だな
>>696 軍が同程度に分けられてる以上部下の将を指揮することは
その軍を統括してるといえるでしょう
周瑜と程普の右督と左督は後々呂蒙がダメだしてなかったか?
あれは異常な人事なんだからそこまで語る必要ないと思うが
話しがそれすぎですよ君たち。
>程普はトップとして実力を発揮した戦いがない
ないということはないな。それほど多くない。
しかし領土拡大や最大級の防衛戦に関わっている。
しかも防衛戦では一方の軍を率いている。
まずいことはなにもないでしょ。
というか朱然と程普はとりあえず候補としておいとけば?
その他の候補を論じてみよう
>>701 参加した戦いの大きさじゃなくてどれだけ活躍したかが大事。
トップとして抜群の判断力を見せたとか、劣勢でも高い統率力を保ちつづけたとか、広い視野を感じさせるとか。
まず名将の定義から決めとくべきだって。
烏林の攻撃に参加した将ってだれだっけ?
>>705 周瑜・程普・韓当・魯粛・黄蓋・呂蒙・甘寧・呂範
>>703 それはそうだが大きな軍の指揮能力を計るのに
そういった描写なくしても判断できるからな。
>>706 周瑜は烏林まではいってたか?
そこにあげられた将のほとんどが烏林まではいってないような
>>707 程普の場合はそれが微妙なんじゃない?
赤壁では大きな軍の指揮能力というのは計れないでしょ
烏林と赤壁は同じじゃないのか?
>>709 1位-5位までの将に比べれば微妙
その他の将と比べれば充分。
逆にそういう大きい戦いを指揮したことない将は判断のしようがない分
足りない面があるといえる。
>>710 まさか三戦版で結婚とは思わなんだ。
>>709 大軍の指揮とゆうより司令官としての実力でしょ。周瑜や孫策や孫堅の指揮下にあったからこその活躍なんじゃないかと。
おいおい烏林と赤壁はちがうよw
烏林は曹操の駐屯地だよ
赤壁は長江の沿岸
烏林はその内陸部(とはいってももの凄く離れてるわけではない)
>>714 場所が違うことは分かってる
戦いとしては一緒ということね
へぇ〜。
魯粛伝とかに烏林(赤壁)とかあるから同じ所かと思ってたよ。
ホントにわかってたの?
ていうか基本的なことから覚えたほうがいいような
話がかみ合わない理由がわかったよ
最後に烏林を攻撃したのは
二軍に分けられたうちの一方の程普の軍なんだよ
>>712 自分で状況判断して作戦を考え軍を動かすという意味でのトップ。
いや赤壁には諸説ある。
烏林が赤壁そのものだという人もいるが少し長江から離れている
現在の見解で最も主流なのは浦圻県西北、この説によれば別の場所。
烏林が赤壁そのものという説によれば
>>706の将はみんなで攻めたことになるが
別という意見の方が多い。
>>717 周瑜伝・程普伝等を読んだがそこまで詳しい記述は無かったはずだが・・・
どの資料に書いてあったの?
>>717 筑摩の地図に分けて書いてあるし
>最後に烏林を攻撃したのは
>二軍に分けられたうちの一方の程普の軍なんだよ
赤壁の後の掃討戦という以上の意味は無いでしょ?
周瑜らは追撃し南郡まで到っているのだから
その中途にある烏林近辺は当然通ってる筈
>>720 いや それぞれの伝だよ
程普伝にのみ烏林で曹操を破るというようなことが記載されている
他の将で烏林の攻撃に参加した将がどんな感じかはは調べている途中
他の将は赤壁と記載されている
つまり水上における戦いだな
723 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 00:08:48
>>722 俺の筑摩の訳本だと程普伝には烏林(赤壁)と書いてあった。
>>721 それは曹仁との江崚戦のことなんだが・・w
呂蒙伝における記述は?
江崚=江陵
まちがえたw
周瑜・程普と共に烏林(赤壁)で曹操を撃破、とあるが。
ちょっと待ってくれ原文見るから・・
多分烏林のことを( )で赤壁と一緒にしちゃってるか。
赤壁のことを烏林と一緒にしちゃってるかどっちかだろう。
すまない お気に入りに入れといた台湾のサイトが消えている。
つーかネットのどっかに台湾のサイトの入り口があるはず。
三国志のHPのどこかにね
自分でも探そう。俺は今日はつかれた。
それか明日図書館にでもいくべしw
ただひょっとしたら呂蒙は程普の指揮下だったのかもしれないな。
てことで寝る
733 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 00:40:11
烏林と赤壁を別の戦と考えるからおかしくなるのでは?
凌統伝では周瑜らと共に烏林(赤壁)で曹操を撃破とある
赤壁は戦の詳細も場所も分からないけど
もし別に烏林で戦があったとすると程普が赤壁に参加していないという事になる
一方で他伝の記述から周瑜は両方に参戦
これはおかしくない?
最初、南下する曹操軍を赤壁で周瑜が撃退する
それで曹操は長江北岸の烏林にまで引き上げそこに布陣
周瑜は南岸に布陣、それから周瑜が烏林の曹操軍に火攻めを行い
程普軍も共に烏林の曹操軍を攻撃、曹操は北方に逃げ
曹仁と除晃を南郡に残す、周瑜と程普は南郡まで軍を進め曹仁と対決する
>>734 烏林(赤壁)という表現がちくまオリジナルということだ
烏林と赤壁はあくまで別の地
最終的に曹操が南下を諦めて敗走した地が烏林であることから
一般的に原文では赤壁の戦いのことを総括して[曹公於烏林]と表現している
周瑜の原文には赤壁の文字はあるが烏林の文字はない
程普の原文には烏林の文字はあるが赤壁の文字はない
つまり前にも述べたがいわゆる赤壁の戦いというのは一つの大きな一大会戦ではなく
いくつかの決戦の集合であるということだ
周瑜の作戦のもと
大きく二つに分かれた軍において作戦は進行し
周瑜の軍は長江上の最も重要な海戦を制し
程普の軍は烏林で最終的な決戦を制した
その後二つの軍は合流して江陵の曹仁と相対した
各々の将が周瑜の軍に属していたか程普の軍に属していたかは
完全にはわからない
少なくとも韓当と黄蓋は周瑜の軍に属していた
ということだな
>周瑜が烏林の曹操軍に火攻めを行い
そんな記述はどこにもない
数ある攻撃の一環として火攻めは船に対して行われた
わりと詳しい描写のある周瑜伝にほとんど水上戦の事しか書かれておらず
烏林を攻めた記述がない以上周瑜が直接烏林を攻めたとはいえない
ちなみに岸の陣営=烏林でもない 烏林は岸ではない
劉禅・劉理・劉永ですね
739 :
孫権:05/01/23 14:39:11
赤壁の戦いはいいですね。とくに火攻めのところが
>>737 >烏林を攻めた記述がない以上周瑜が直接烏林を攻めたとはいえない
呂蒙伝と凌統伝にある
>>735の説は聞いたことあるが
>>736の程普が決戦を制したってのは聞いたことが無いんだが
>>740 >>735は根拠がなにもない
聞いた事あるというのは根拠にならないね
呂蒙伝と凌統伝にあるような表現は烏林をいわゆる赤壁の全体像として
総称して表現していること
「一般的に原文では赤壁の戦いのことを総括して[於烏林]と表現している」
ここでも述べたよ
程普が決戦を制したという表現が気に入らなければ曹操の本陣である
烏林に攻撃を加え最終的に敗退させたという表現でもいい
言葉尻を捉えるつまらない反論
もちろん赤壁で曹操は被害が大きく周瑜の功績が最大であるのはいうまでもないけどね
>>740 そういう意見も皆無ではないがかなり呉書の信憑性を疑う意見ですな。
まあ呉書は実際疑わしい事この上ない場面は多いのだが。
>>741 甘寧伝より「後随周瑜拒破曹公於烏林」
周瑜も烏林に行ってるよ
>>743 周瑜も烏林にいっている
それは当然
なぜならその後江陵を攻撃するために烏林で合流しているから
甘寧伝のその表現は江陵を攻撃するために周瑜について行ったという表現だよ
>>744 何でそんな訳になるんだ?
「後に周瑜に従って烏林で曹操を防ぎ破った」だろ
> なぜならその後江陵を攻撃するために烏林で合流しているから
これは誰の伝から?
わかりやすく言うと
「又与周瑜 程普等西破曹公於烏林」
というような文章は一般的に言う赤壁の戦いに参加したということを指すということ
ちくまはお節介にもわかりやすく烏林(赤壁)と訳したため
烏林と赤壁が別の場所であるということすら
読者に混同させる結果になってしまったわけだな
>>745 失礼
こちらが言ったのは直訳ではなく
後随周瑜拒破曹公於烏林
の意味するところ
烏林が赤壁全体を示しす意味で使われていることから
「甘寧は周瑜に従って赤壁に参加して曹操を打ち破った」
直訳でなく文意を見て訳するとこうなる
合流して云々に関してはどっかの伝にあったな ちと忘れた
原文からも考察している人もいれば、片やちくまのいささか拙い訳文のみで
考察してしまっている人もいるようだね。
>>747 そこで烏林を赤壁に置き換えておいて
何故、程普の場合は烏林のままなんだ?
貴方の主張は周瑜が赤壁で曹操軍を破り程普が烏林で曹操軍を破る
赤壁と記述されている者は周瑜、烏林と記述されている者は程普に従った
というものだと思っていたのだが・・・
単に烏林が赤壁の総称だというだけなら程普を特別扱いする理由が分からない
>>747 程普に関しては周瑜と共に右督になって烏林で曹操を破ったというようなことが書かれており
表現の方法がちとちがう
周瑜と立場が同じだから、他の将とやや表現の仕方がちがうのか
程普に関しては烏林の攻撃自体を指しているのかについては確信は持ちにくい
ただしわりと細かい周瑜の伝に烏林がなく、史書においても土地の伝承にも
烏林での戦いが存在した以上、呉軍は周瑜と程普に大きく分けられてるので
程普が攻撃したとしか考えにくい
まあこれには解釈上の異論があっても不自然ではないのだが
赤壁の候補地が多数あり、烏林の戦いも存在した以上赤壁は
いくつかの戦いの総称であり
二つの軍が有効に使われて勝利した戦いといえるのではと思う
まあここまで論証しなくとも呉の赤壁に参戦した将の伝において
[周瑜と程普に従って]とある以上周瑜と同じく諸将を統括する立場にあり
大きな軍をまとめる統率力を発揮していたと普通に言えるんだけどね
まあちくま盲信に気付いてもらえただけでもよしということ
それと750の
>>747 は
>>749の間違い
>>750 つまり貴方が言いたいことは周瑜伝には烏林の記述が無い
よって周瑜と共に烏林で曹操を破ったというのは一連の戦のこと
程普だけは周瑜と共にという記述が無いため烏林の戦と考えられるってこと?
私の考えは
>>737と同じなんだけど記憶では烏林は岸辺なんだが・・・
> 土地の伝承にも烏林での戦いが存在した
これは知らないので教えてもらえますか?
>>752 上海に旅行[出張兼]したときに、三国志が好きなのでそれにまつわる
いろんな関係のパンフレットやら本やらを見まくったときに
烏林の資料館の本があったんだがそれに載っていたのが魏のなんたらかんたら
駐屯地跡みたいな石碑の写真があった
で略地図でその場所を調べると村の北のはずれ[村の中なのかは解らない]に位置しており
北岸からは大夫離れている場所だった
申し訳ないがその何キロかまでは覚えていない
ただしこの地には伝承がやたら多い[資料館には信じがたい物語的な見せ物もあった]
この地にも赤壁という場所があるにはあるが現在ではこの場所でないとの意見が主流
烏林とは離れた沿岸にある ここの赤壁よりさらに西
こちらの意見はすでに述べている 君の文章で表現されると誤解を招きやすいので
それは否定しておこう 繰り返しまた書くのめんどくさい
それと
>>735によると周瑜の伝は赤壁での記述のほとんどが嘘ということになるが
それについてはどのように考えてるのかな?
こちらは一度その考えが正しいと思ったこともあるのだが、
呉書が極めて胡散臭いとしてもそこまで大嘘は記載しないだろうと思い
その考えを改めた
程普は失点がない于禁みたいなもんかな
753の最後の三行につけ加えると本当の赤壁がここではなくさらに西にある
という説が納得がいく説であるのでこの
>>735の意見の難しさの理由として
呉書に嘘が記載されすぎという理由につけ加えておく
その説に関しては自分で調べてくれ めんどくさいから うるるん見てるし
むしろ失点のない于禁と楽進を足して2で割って
江南補正かけた感じ
>>757 周瑜伝の記述では赤壁後の地名は記述されていない
「引次江北」ここが烏林であれば問題はない
すまんがどこが嘘になるのか分からん
烏林の場所についてだが「元和郡県志」にこの北岸は烏林であるという記述がある
資冶通鑑にも似たようなのがあったと思う
これらが唱えているのは
>>735の説と同じもの
>>759 資冶通鑑の赤壁、烏林と元和郡県志の赤壁、烏林とでは場所がちがうんだが。
ちくまを非難しまくってる香具師がいるが
結局烏林を赤壁の総括として表現してるのなら
ちくまの烏林(赤壁)は文意を見て訳したってことじゃん。
つまり何がいいたいかというと
漏れは原文なんて読めねーから参加できねーんだyp!ワケワカラン!
>>757、
>>759で早くケリつけてください _| ̄|○
じゃあ 終了って事で。
ていうか順位決めなくていいんじゃないの?
順位決めて盛り上がったのは昔の話
今はもうはやらんよ
別に流行り廃りでやってるんじゃないんだけどなあ
もはや名将を討論するスレなんだし
まあ前から言われてる通り、はっきりと順位を決める必要は無いと思う
孫策・周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗たちが同時にいたとしての
北伐の作戦とかだらだら話してる方が楽しいよな
たまに討論ぽくなればそれはそれでいいけど順位に細かくこだわると
永遠討論が続くし
>孫策・周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗たちが同時にいたとしての北伐の作戦
それ考えるの楽しいな
>>767 こいつらが全員揃っていても、率いさせる兵力が足りない罠。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 11:48:24
魏を恨む海賊と合流して山東から不意打ちだ
海戦なら呉の方が強い
公孫の内乱も煽っとく
天下二分なんて時間かかってしょうがねーべ
まずは魏からヤッチマイナー
770 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 13:39:45
陸遜
あー、たしかに原文を考察していくのは楽しいことだけど、
はじめっから自説を根底に据えて解釈しようってのは誤訳とほとんど変わんねーやな。
優れた三国志考察サイトが、誤訳は誤訳、自説は自説とはっきり弁えてるのとは大違いだ。
それにしても、呉スレはものすげぇ寂れてたり凄まじく盛り上がってたり、
たまに見に来るとそのたびにハラハラするぜ。
>>766 曹操が軍勢を挙って濡須に攻め入る。
これを防ぐ呂蒙・朱然は策をもって濡須の地を乾坤一擲の戦場と擬す。
魏の耳目が揚州に集まるを好機とし、孫策・周瑜が襄陽を上り許都を狙う。
濡須と連動し漢中を陥落せしめんと目論む夏侯淵を陸遜・陸抗が寡兵で翻弄。
やがて許の不備を補わんと軍を割き兵を還す曹操その人を、数百の精鋭をもって甘寧が襲う.
ほとんど孫呉版『反三国志』だが。
劉備を南朝の皇帝として擁立して
孫策が呂蒙、甘寧、関羽、張飛を配下に魏を滅ぼす
「呉漢三国志」民明書房より
>>771 自説最初にありきってのは主張する者も否定する者も同じ
その分原文から考証するのは俺としてはマシに見える
まあそれらに対しては非難しないが蒸し返すのはいただけんな
つうか劉備が皇帝でそれで呉といえるのか?
おまえらそれでいいんか?
江南魂はいずこ?
>>777 いいわけないし
孫策が納得するわけもないし
関羽、張飛なんか足引っ張るだけで邪魔以外の何者でもないし
一度皇帝になったら徐々に江南派閥の締め出しにかかるだろう。
そして漢を名乗ること間違いない。
劉備は危険。
危険の芽は早めに摘んどいた方がよい。
そこで弓腰姫ですよ
朱然・呂岱・賀斉・朱桓・程普
↓このメンバーで↑のグループに加わりそうな将を選ばないか?
全j・甘寧・呂範・徐盛・丁奉・吾彦・蒋欽・潘璋・鍾離牧
韓当・黄蓋・朱異・諸葛恪・凌統・董襲・周泰・太史慈・魯粛、その他
司会進行ウザ
>>778 まあ、呉漢三国志は孫策死亡が前提だな。
孫策が生きていたら献帝を保護するだろう。
つーか呉漢三国志のあらすじが知りたい
劉備じゃ傀儡の皇帝に祭り上げることは無理だろ。
>>785 幽閉でもしない限り無理だな。
外と連絡が取れそうな場所に置いといたら、
絶対何かやらかすぞ。
劉備を擁立するぐらいなら、劉基あたりを擁立したほうがよろしいかと。
劉備の「中山靖王の子孫」を否定するつもりはないけど、もっと筋目のいい
劉氏がいっぱいいたはずだから。
>>787 確かに。人柄が良いし、劉備よりも筋目が良いから傀儡皇帝にはぴったりだ。
血筋の確かさよりもむしろ名声や能力が重視されてたっぽいぞ。
諸侯王や宗室が山ほどいた中で劉虞が擁立されそうになったのから判断すると。
じゃあ、劉表を擁立しよう。
名声も能力も折り紙付きだ。
劉備の勢力をどう取り込むかが問題なのに
なんで他の劉氏を擁立するんだw
ちょっと時代が下るが、劉璋父子なら傀儡にできたかもね。
って全然スレ違い。
>>791 劉氏を擁立したら、劉備から荊州士人を切りくずせんかね?
いくら諸葛亮でもジュンイクとは違うんだから、士人の流出を防ぎ得ず
劉備陣営あぼーんの展開になりそうなもんだが
>>793 無理でしょ、そんな求心力のある劉氏を擁立なんて。
あきらかにスレ違いだよな
スレ違いというか呉ヲタがこんなに夢見がちの人々とは思わんかった。
>>796 呉ヲタは色々夢見れるよ〜
もし孫堅が死ななかったら・・・
もし孫策が死ななか・・・
もし周瑜が死・・・
もし呂蒙が・・・
もし孫登・・・
まだまだ蜀オタの足元にも及ばんな
もし曹操を暗殺できたら
もし徐庶がいなくならなかったら
もし龐統が死ななかったら
もし関羽が死ななかったら
もし劉備が死ななかったら
もし馬謖が命令違反しなかったら
もし孔明が死ななかったら
もし劉禅が名君だったら
もし蜀漢が天下統一するなら
うむ
孫策の許都襲撃と周瑜の蜀侵攻は語る価値はある
みんな生きてて北伐するとか陸親子が活躍とかは・・・
突然スマンが
呉の弱点というか(逆に強みになった場面もあるだろうが)
土着豪族のパヲァーを廃しきれず魏や蜀などのように効率的な軍の編成が
出来ていなかったような気がするのだがこれについてどう思いますか?
豪族の力を弱めて中央集権化をもっと進めていれば呉はもっと大きな軍を
動員できたはず(豪族の私兵なども呉軍に組み込むなど)
そういった国家の仕組みそのものを改革できる人
(魏では曹操だったり蜀では孔明だったり)がいなかったのは
国の有力者である陸孫なども結局は豪族であえて自分の利権を侵害する
政策なんてしたくなかったのかな?
そういう意味では劉備など外部の人間にカルロスゴーンのように
改革してもらった方がよかったのかも
>>801 曹操でも劉備でも無理でしょ
劉備が豪族を排除できるほどの政治能力をもってるなら
劉表の死後、荊州を乗っ取るぐらいやってないとな
>>802 劉jもいるしすぐに赤壁で時間的余裕もない。
能力の問題ではないだろう。
劉表没と曹操の荊州討伐までにかなりの年数があったらどういう展開になったかな?
孔明は上手いこと口実つけて蜀の豪族を貶めていったよな?
劉備単独ではあれだが孔明のようなブレーンがつけば出来そうな気も
それとも蜀の豪族と呉の豪族ではわけがちがうかな・・
>>803 どうもならない、サイボウやカイ越らの地方有力者の支持を得てないんだから
>>805 そうじゃなくて魏と呉の関係がどうなっていたかということ。
まあ呉は江夏攻略、江陵攻略と乗り出すだろうけど
劉jが曹操を呼び込んで結局、同じ展開になりそう
>>804 君主が門に蓋をしたら
中から蓋を仕返すようなヤツらですよ
まぁ、やっぱり周瑜の(実力を伴った)絶大な名声は呉にとって必要不可欠なもので
それが無くなるのが早すぎたのは確かだと思う
張昭の爺は特殊な検体だろ
というか張昭は呉の豪族じゃないし・・・
蜀の有力な豪族って誰なんだろう?
劉備が漢中王に即位したときの上表にも蜀出身の人物がいないような・・・
劉璋時代の反乱でほとんど力が無くなっていたのではないかと思う
陸家、全家、顧家辺りに匹敵する力を持っていた豪族っていたのかな
>>811 巴蜀の大物は劉焉・劉璋父子の時代に勢力を激減させてるな。
南中は董和の穏健政策のおかげで、
孟氏、爨氏、雍氏など、強力な豪族勢力が温存されてた。
町賞は徐州マンだな
李厳って蜀出身じゃなかったっけ?
あー豪族ではないのか..
>>814 李厳は荊州南陽郡の人。劉表配下で県令をしていたが、
曹操の南征時に蜀に逃げ込んで、劉璋に仕えた。
>>815 そうか勘違いスマス
もうひとりなんか孔明に左遷させられたようなのいたような
いなかったようなもう眠いねるお休み
成都県の大姓なら柳、杜、張、趙、郭、楊氏だったらすい。
南中でのやり方だと孫呉と変わらん。
やはり呉は豪族とうまく付き合っていくしかない。
中原に進出できたり再び争乱が起これば別だけど。
そういう意味では孫皓はおしいとこまでいった
>>819 孫晧は中央集権化を推し進めていたのか、
それともただのキチガイだったのか、
いまいち判然としないところがある。
中央集権化を推し進めていたキチガイ
>>820 中央の文官ばかりいじめてるから、中央集権にならない罠。
孫皓たんは懐古主義の改革論者
キチガイのやってたことが結果的に中央集権を進めることになっただけかもしれない
儒教がすべてに影響していたとはいわないが
文章を書く人間にとってその影響力ははかりしれない
豪族=名士の抑圧は悪者として筆調に現れざるを得ない
始皇帝が極悪人扱いだったのと同じように..
つか、ここらへんで今ンとこ候補に挙がってる将をあげませう。
(司会進行系スマソorz)
あ、漏れの推挙は周瑜で。この方の影響力は凄い。
Because彼がもしもっと生きていたら
三国志はかなり違ったものになるんじゃないかと思ったから。。。
時代を変える力、って感じじゃん、あの美人さん。(いや皆そうか)
孫皓タソ…やっぱりキちゃってるのか、と思う。劉禅と同類になるのか?
器がちっさかったんだな。陸抗に同情…。ってか孫皓の首級挙げたいよ。
えーと・・・何これ?
ま、とりあえず
孫権と張昭の寿命を周瑜と孫登にわけてやりたかったな
堅と策のほうがいい
たまに思うんだが、孫堅が戦死せずに荊州を手中に収めて
群雄化した場合、その後天下を窺うくらいの大勢力に
なっていたのだろうか?
孫堅なら劉表破っても荊州に留まらずに
中央に進出してるんじゃないかな。
孫堅だと曹操に帰順したりって有り得ないの?
うーむ
意外と孫堅の性質って見えてこないところあるよな
誰と手を組むのかが分からないけど
3年で洛陽まで行ければ面白いな
その後は曹袁連合との対決か、邪魔な袁術倒すか、董卓の残党倒すか
・
・
・
なんか董卓みたいになる気がしてきた
孫堅の性質は反董卓で一貫してるんじゃないか。
董卓死後の方針はおそらく荊州統一だろうけど、着手してすぐに死んだからよくわからん。
ただ、もし生きていたら曹操と同じく献帝を迎えようとしたかも。
いずれにせよ、帰順を考えにゃならんほど曹操が成長する前に、正面切って戦うことになりそうだ。
袁紹 袁術
曹操 VS 孫堅
だな
831の言うように孫堅は劉表を破ったら上洛して、
董卓もしくは董卓残党を叩いたんじゃないかな。
劉表破るのに何年も掛からなかったなら、
曹操はまだ弱小勢力だし帰順する必要性がないよ。
玉璽返還を名目に朝廷入りして、中央を抑えることとかできるんじゃないかな。
董卓や李カクの専横に悩んでた朝廷にしてみても、
ある程度の武力を持った孫堅が来てくれれば大権を与えて排除を要請するはず。
董卓死後ならそれもやりやすいだろうし。
このぐらいの年代までなら中央さえ抑えて善政を施せば
大きなアドバンテージを得られる頃だから、
中央さえ抑えれば、後は確執のある袁紹だけが相手になりそう。
後は荊州戦で共同戦線を張ってた袁術がどう出るか。
当時の孫堅は袁術のサポートなしには戦線を継続できない。
一度は洛陽まで進出したものの、袁術と不仲になったら
そのまま董卓を追撃することができずに本拠地に帰っている。
だから荊州を地盤に抑えて、まず袁術から経済的に独立する必要がある。
中央進出はその後だろう。
だが曹操の屯田政策のような真似ができるとは思えないし、
劉表のような豪族融和政策による荊州統治もできる気がしないので、
荊州を地盤に力をつけるのすら結構時間がかかると思うのだが・・・
中央で脅して官職貰えばいいじゃん
どっかの牧でも
あとはお得意の血なまぐさい解決法で
>>839 それだと董卓と変わらん。
つーか孫堅も下手に長生きしたら悪名垂れ流しで
のたれ死んでたかもな。
>>838 孫堅が健在なら袁術は宛に留まれるかな?
もし史実通りに寿春に逃げたら孫堅は見限るような気もする。
孫堅の政治力は確かに未知数だなあ。
蔡瑁、蒯越あたりを味方にできればいいけど断られたら殺しちゃいそうだw
孫堅に協力した江夏太守劉祥は、
太守殺害に荷担した事を恨んだ南陽住民の反乱で殺されてる。
いやというか孫堅が健在なら呂布と孫堅従えて袁術の天下だろう
曹操は噛みつく余裕はない というか台頭出来なそう
後は呂布と孫堅共食いさせて天下統一おめでとうございますってとこだ
あ袁紹忘れてた
つーかこのスレおもしれーな
やはり自分としては孫堅・孫策は早死にで良かったと思う
孫権のしたたかさこそが呉が台頭できた理由だろう
もちろん、この二人が居ないと孫権は箸にも棒にもかからないが
周瑜・孫登の延命>孫堅・孫策の延命
が孫呉の益になると思う
周瑜か魯粛は呉の中原進出には必須ではあるな
>>843 勢力拡大した孫堅を袁術が従えられるかなあ?
しかも193年に曹操に敗れて寿春に落ち延びてるし。
もし袁術が従えられたとすれば
196年頃に曹操・袁紹連合軍vs袁術・孫堅・公孫瓚・呂布連合軍か?
なんか妄想しすぎでわけわからなくなってきた。
ずっとは無理かも でもしばらくは盟主のように扱う他はないからなー
袁術側にしてみれば孫堅を韓信のように使いこなせば
やすやすと曹操にも破れんだろ
呂布がどっち転ぶかだが袁紹、曹操側にはつきそうもない
呂布がエンを奪ったあたりからどういう情勢になるか頭がこんがらがる..
無理だろうけど
劉表撃破後、北上して
董卓軍の名将除栄と再戦してほしかったな
いや劉表撃破後、北上って結構あり得るんじゃないの
孫堅の考えとしては董卓との決戦というか漢朝の再建でしょ?
袁術が障害になるかもしれないけどその時は撃破して北上
対董卓ということなら他に障害はなさそうだが・・・
孫堅の統治能力次第では
伝国の璽を私有してた奴が漢再建?
自分の王朝を立てる気と思う。
袁術が邪魔というが邪魔とかそういうレベルじゃなく
袁術には従わざるを得ないよ
当時の袁術の勢いは凄い
下手したら最大勢力だからな
袁術に従ってどう立ち回るかが問題だよ
孫堅がいくら戦に強くても、それだけじゃどうにもならない。
勢力としては脆弱すぎる。
袁術の勢力はピンポイントの戦争でいくらでも切り崩せるから、
とりあえず荊州に地盤さえ作ってしまえば大して恐くはない。
袁術の部下として制圧、独立して統治。孫策と同じことやるだけ。
そうすると時期的にも袁術と対立せざるを得なくなって、
袁紹 袁術
VS VS VS
曹操 孫堅
↑こんな状況になるかと思われる。
漢王朝を吸収するのが誰かってのが余計に重い意味を持ちそう。
問題は統治者としての孫堅の魅力ではないかと。
孫策は二張や虞翻から熱狂的に支持されるような側面を持っていたが、
孫堅はただ強いってだけのままで死んでしまったし。
猿が偉そうにしてるのも、パパが南陽明け渡したからなんだけどな
黄祖とか味方につけたいな
パパが殺されないならあんま恨みもないわけだし
カイ越は欲しいな。
黄忠は?
劉表の配下とは違ったんだっけ?
無知でスマソ
861 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 13:10:00
劉表配下だよ。
862 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 13:11:50
>>860 配下ではないんじゃないかな。
支配下というよりは指揮下という感じがする。
>>863 意味がわからん
それいうなら黄祖だろ 群雄の一人だが緩やかな劉表配下
でも黄祖は要らない…
パパにはもっと上品な人材が必要だ
なんかあったら取りあえず殺せばいんだよ
で、その後に悩む
黄忠なら孫堅の下でそれなりに活躍しそう
黄蓋・韓当と同じようなタイプかな
でも黄忠より文聘キボンヌ、しばらくすれば甘寧も来るね
>>865 韓嵩・蒯良は?
>>866 孫堅の常套手段ですな
その後に悩まず突っ走ってそう
そうだよ、文聘忘れてたよ。
むちゃくちゃ美味しい人材じゃないか。
だが荊州に籠もると二張や呂蒙、陸遜が傘下に居ないことになる。
劉磐忘れるな
文聘や黄忠では戦力的に大きな変化がないぞ
荊州出身の費イ、蒋エン、トウ艾を全力で発掘だ
荊州に地盤を固めた場合の将来的な話だろう。
あとは李厳とか伏龍や鳳雛も荊州出身だけど、
でも血の気の多い孫家が荊州に居座ったら、
劉表の文学サロンに集まったような人材は荊州から出て行く気もするな。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 21:58:33
そもそも荊州に地盤を固められない
荊州の豪族にやられて終わり
そこで黄祖ですよ
有力者を味方につけて足場固めましょう
孫策はキティだからな
荊州の士大夫に顔が広く籠絡の手段も豊富にありそうなカイ良、カイ越
土地や兵力基盤のある劉勲、黄祖、婁圭
このへんの取り込み具合が地盤を固められるかどうかの鍵だな
蔡氏が一番欲しいのだがこれは劉表を裏切りにくい
>>876 袁術の将も孫策には心酔してたらしいからな
妙なカリスマの持ち主
豪族にそっぽを向かれる可能性の方が高いだろうけど、
もしかしたら蔡瑁などは保身のために積極的に接近してくる
かもしれない。そういうしたたかさを持っている。
881 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 23:55:47
陸家は当時ロコウにいなかった?
孫堅が荊州抑えたら帰順するかも
魯粛、諸葛謹はいずれ来るだろ
陸遜、諸葛瑾はそうかもしれない。
魯粛の場合は、周瑜が居巣県長にならないので
周瑜と交友を結べない。魯粛は祖母の死後そのまま北へ行って
曹操に仕えることになるだろうな。
魯粛は時期的に孫家に身を寄せないかもな。
自分の野心から弱小勢力についたって面もありそうだから。
つーか、その頃は杜襲とか趙儼が劉表のとこにいなかったか?
かなり美味しい人材だと思うが。
豪族と中央集権の潤滑油として趙儼はいいかも
しかし最も重要なのは名士にいかに顔効く人間か
もしくは有力名士又は豪族そのものだろ
才能から見る人材というよりは土地基盤、兵力諸々セット
の人材確保の方が先決だろ
>>882 諸葛瑾のほうが難しそうじゃない?
魯粛は名声があったから交友を結べないってこともないと思う
でも孫堅がもし忠烈の士だったとすれば魯粛は殺されてもおかしくない
>>883 荊州にはいたけどヒッキーだからなあ
孫堅が献帝を奉戴すれば出てくるだろうけど・・・
というか孫堅が死んでいなかった場合の人の流れはシュミレーションできるもんではないな
というか孫堅が何を考えていたのかが分からない
野心家なのか忠義ある男なのか
三度の飯より人殺しが好きな後先考えない野心家
人殺しは好きだが大義名分の使い分けはできるタイプじゃないかな
漢への忠誠はかなり薄いと思う
ifシリーズの中では、孫権が耄碌しなかったら。
の時が最も夢があるぜ…と言ってる俺は陸遜ファン。
>>891 二宮の変はそんなに大きな失態かな?
孫権が晩年に耄碌してようがしてまいが大勢に大きな影響を与えたと思えん。
>>892 相当大きい。
魏がいちばん弱まったときに何も出来なかったのは痛い。
ただ、耄碌というよりはやる気なくしてただけのようにも見える。
孫登が死んだ時点で大なり小なり内部分裂が起こることは確定してた。
そういう意味では大勢に大きな影響はなかったといえるかもしれない。
孫登さまが生きていれば、申し分ない人格者だし、頭良いし、
夫人は周瑜の娘だし、後の孫和派孫覇派双方に人脈持ってたし、
諸葛恪をはじめ太子四友が分相応に活躍出来ただろうし、
あらゆる点でハァハァしちゃう状況になったのになー
>>893 > 魏がいちばん弱まったときに何も出来なかったのは痛い。
うーん、どうかな?
孫策の評どおり、元々そういった方面の才能は余り無かったような気がしてたまらんのだが……
地歩を固めていくことに関してはかなり有能だったと思うが。
>>894 孫権が魏の隙を衝くといっても、
合肥、合肥、また合肥しつこく合肥で何処までも合肥だろうので。
その危惧は良く分かる。
というか合肥、襄陽を攻める以外に当時の呉ができたであろうことを
誰か俺に教えてくれ
ついでに二宮の変で、孫権がすべきだったことも
>>896 上は漏れも知りたい
下は太子と魯王の待遇をふさわしいように差別化すればよかったんじゃない?
>>896 Q:合肥、襄陽を攻める以外に当時の呉ができたであろう事
A:司馬懿が軍権を失っており、魏将は小物ばかり。
攻めれば良いんだろうが、何処を攻めれば良いやら。
Q:二宮の変で、孫権がすべきだったこと
A:ちゃんとご飯を食べる。食べるまで粛清やめる。
愛妾の息子である孫覇と娘の孫魯班とをムッコロス。
浅学の俺ではこの程度しか思いつかんな。
>>896 > というか合肥、襄陽を攻める以外に当時の呉ができたであろうことを
> 誰か俺に教えてくれ
それ以前に魏が多少弱ったところで長江を渡って大規模侵攻できるような才能があったかどうか疑問。
結果論かもしれないけどね。
> ついでに二宮の変で、孫権がすべきだったことも
皇太子孫和と魯王孫覇に明確な差をつける。
孫権には孫権で何かしらの思惑があったという穿った見方をする人もいるだろうがこれに尽きると思う。
>>898 >>魏将は小物ばかり
んなわけない。むしろ呉、蜀にとってはその層の厚さは脅威だろう。
>>900 魏の全時代を通じてならそうだろうが。
あの時代の東方は局地的な過疎状態だ。
配置図とか思い返せ。
二宮の変がもたらしたのは、その後の権力抗争およびそれに伴う人材の払底。
孫権死後のことではあるが、たとえば諸葛誕の乱における呉の対応は最悪だった。
諸葛誕の乱の際に必要だったのはずば抜けた軍才でも並外れた政治力でもなく、
ごくごく当たり前に国を動かすための体制、ただそれだけだったはず。
それが出来なかったのは二宮の変で陸遜・顧譚・顧承・吾粲・張休・朱拠あたりが死んだのが原因。
もちろん二宮の変さえなければ幼帝孫亮が即位することもなく、のちに孫チンチンが実権を握ることもなかった。
>>901 あの時代って大体いつ頃だよ。
とりあえず満寵が死んだ242年付近から
司馬懿がクーデターを起こす249年くらいまでか?
「太子孫登が死なない」のIF=231〜241。
「二宮の変が起こらない」のIF=241〜249。
と、とりあえず分けてみる。
【231〜241】
司馬懿は孔明にかかりきりで、他に孫権の侵攻を止められるのは明帝しかいない。
これは、将帥の能力などでは魏に分が有るが、皇帝の新征でしか兵力の動員は見込めない。
239年に明帝が死去し、後嗣の曹芳は柔弱。ここは非常に狙い目だが、
234年に侵攻に失敗しているので、この間での侵攻成功はありえないだろう。
【241〜249】
司馬懿を抑えた曹爽が実権を握り、244年に無謀な蜀討伐を始める。
都を守るのは司馬懿で、この間、司馬懿と同等の軍権を持った人間は呉には当たれない。
孫権に対応できるだけの軍権を持った人物は揚州に赴く事は出来なかった。
よって、ここが狙い目であるが、史実ではここで二宮の変が起こり、軍事行動は起こせなかった。
と、愚見を述べる。
あんま狙い目じゃないだろ
あえていうなら魏と一緒に蜀討伐しちゃえば良かったジャン
ガッピとかはどっちにしても無理
むしろ一番のチャンスは孫休、リクコーの時
なんで羅君はあんなにがんばるかなー
しかし諸葛誕の乱って13万でしょ?
呉が3万で司馬師が26万
魏の兵動員数半端じゃねえよ
>>906 240年〜250年の対呉戦線の総司令官は
征東将軍・仮節都督青徐諸軍事の胡質。
内政・統治に能力を発揮した。
呉では朱然と対戦経験があり、魏と呉で記述が異なるから微妙だが、
レベル的には朱然と同等か若干朱然に劣ると言ったところか。
まあ、勝機はあると思うが魏の対応次第だな。
勝機なんかないよ
長江越えて北上でまず無理
動員兵数の差で無理無理
またそれか
>>909 胡質も有能だとは思うが、朱然にはだいぶ劣る。
>>907 歴史を知ってる我々は、永安が落ち無いのを分かってる訳で…。
それと、呉が仮に蜀をとっても、漢中が手に入らないんじゃ戦略的展望は薄いんだよね…。
>>909 故質はあえて名を上げるほどの武将じゃないと思ったんだが、
朱然とやりあってるそこそこの将なのか。まぁ、呂岱・全ソウ・陸遜と生きてるんだから、
何とかなるのでは?この時ばかりは孫権も合肥のようなお遊びはやらないでしょう。
また兵力・国力で論を停止するつもりか。
特に、動員数を真に受ける必要が何処に。
呉=実際の戦場の数 魏=輜重隊も含む。とか素敵なオチが付きそうだぞ(;´д`)
胡質も朱然もたいしてかわらん
>>913 漢中は後で頑張ればいいでしょ
永安近辺抑えて天下二分とまでは言わなくとも天下五分の二分ぐらいにまで
持ってく
蜀の滅亡の時期がもう少しずれてればの仮定だから
二宮の変がなかったらの仮定と同じ話
魏の動員兵ってどんなもんだろ 曹爽が10万(20万だっけ?)連れてってるが
遠征のための動員兵数は意外と少ないが防衛戦力だけで呉を大幅に上回ってるような
そのへんの兵力がこれこれこういう理由でこういう根拠でたいしたことないから
長江越えて補給が大変で、兵力が劣っていても
中原全土を支配する魏を制圧できるって話を聞きたいなあ
>>915 >中原全土を支配する魏を制圧できるって話
そりゃ無理だべさ。
ピンポイントで切り崩していけば少しは展望が開けるというだけでしょう。
ただ、曹叡死後から司馬昭体制が確立するまで、魏には内部分裂の可能性が少なからずあった。
半ばやけくそにでも拠点を切り取っておくことは無意味ではない。はず。
王リョウ、毋丘倹、諸葛誕、ケ艾、鍾会、文欽
こいつらがもっとがんばってくれれば
長江の向こう側に半端な拠点作っても維持がさあ・・
>>918 そいつらは、呉がもっと協力してくれればなと思ってたに違いない
遼東半島の奴と組もうとしたのは
膠着した長江戦線の孫権なりの打開策だったんだろうな、
といまさらながらそう思った。
あれが拙かったのは、遼東なんて遠くの勢力と結ぼうとした
ことではなく、公孫淵が小者であることを見抜けなかったということだな。
>>909 おい、241年から車騎将軍・仮節都督揚州諸軍事をしていた王凌を忘れるな。
全jを打ち破った男だぞ。
意外と遼東方面って着目点は悪くないと思う
管承とか魏にとってやっかいな海賊もうようよいそうだし
>>924 管承は遼東出兵より30年以上前に平定されてますが。
この頃になると、青・徐の賊はほとんど息絶えてる。
戦略的考慮に入る相手じゃないな。
明末の倭寇のように、数万の大軍で大都市を攻略するぐらいの勢力だったら、
考慮に入れる価値はあるかも知れんが。
蜀との共同作戦を練り上げたほうが効率いいな。
>>925 そりゃ管承自身は平定されてるさ
しかし海賊のようなものが息絶えることはないよ
管承も結局の所、大海原に逃げ込んでとどめをさされていない
逃げ込む場所はいくらでもありこういった不安定要素は
完全に除去しきれるものではない
まあこれ単独で戦略に大きく影響するかといえばわからないが
こういう諸々をいくつも重ねて影響させていくのが戦略であるともいえる
山東半島以北の沿岸は絶えず
海賊やら海上勢力がのさばってたんじゃかったっけか。
公孫一族の影響力も強かった地方だったはずだし。
>>929 反乱に失敗して護送されてる時の賈逵の廟の前での行動見る限り味方とは思えんのだが
呉の造船技術ってどうなんだ?
海越えられるのか?
操船は得意かもしれないが・・
>>931 現存する資料を見るに、外洋に乗り出す力は無いとおもわれる。
そもそも羅針盤が無いしな。
羅針盤なんて渋滞のもと。
>>932 これこれテキトーな事を言うでない。孫権は1万人の兵に倭の調査をさせている。
大規模な船団もいけるということだ。
>>934 1万人派遣してどれだけ帰ってきたのかね。
そして、日本のどれだけを征服したというのだね。
外洋を調査探検できるかどうかと、外洋に乗り出して版図を広げられるか。
そこには天と地ほどの開きがあるぞ。
単純に考えましょう。
1万人を船で運ぶことが可能=大規模な渡航がある程度可能。といえる。
調査目的なので日本の征服とは別の話。
呉の造船技術で海が越えられるかどうかの話をしている段階だからね。
それより君の「現存する資料を見るに」が気になる。
どんな資料を見たんだろう?呉書だけなんでみなかったのかな?
全く話がかみ合って無いな。
国策としてそれが使えるかどうか。それが重要なのだろう。
で、質問に答えてないが。
一万人のうち、どれだけ帰ってきたのかね。
運べるかどうか、というのは、どれだけが向こうに辿り着き、
どれだけが帰ってこれるかどうか、だ。
送り出すだけじゃ話にならんのだよ。
おまえら呉スレで喧嘩とはいい度胸だな。
呂蒙のママ呼ぶぞ。
>>937 疫病にかかって多くが死んだわけだが造船技術とは違うだろう
航行は可能であった。
しかし疫病により船員が多く死亡した。ということ。
航海中の疫病なんてものは17世紀ぐらいになっても日常茶飯事。
それにより船員が半数以上死ぬことも多い
君は
>>932において羅針盤がないのを挙げている。
つまり航行する技術そのものがないという言い方をしているわけだ。
で現存する資料をみて大規模な航海自体が出来ないとおっしゃられた。
では現存する資料とは何を見たのですか?と質問しているんだが。
要はソースを示せと。
その辺詳しくないから知りたいのですよ(笑
次は逃げないで示してくれよ
喧嘩じゃないでしょ 議論
呉の大規模な航海能力の話題だから結構面白い
しかし
>>931の提起から
現存する資料(現在存在する全ての資料)を調べ終えて
>>932に書き込むまで約1時間30分・・
相当に博学で三国志だけじゃなく中国の造船などの技術史にも
詳しい人なんだろーなー
もしそうでないのならいい加減なこと言っちゃいかんよとも言いたいわけで。
というわけであなたの調べ上げた「現存する資料」を挙げてください。
阿呆くさ。
人の質問には答えないし、自分のソースは出さずに人のソースは要求するし。
―現存する―なんて仰々しい言い方をして悪かったよ。「後漢書」「正史三国志」と、
そこらへんに転がってるテキトーな三国志本と造船技術の本だけだよ。
小林多加士「海のアジア史」とか、万震の「南州異物志」な。
知ってる限りを簡単に説明しよう。
三国時代には主に「蒙衝」「楼船」「闘艦」「走舸」などが軍船として使われ、
細分化すれば十数種類の軍船が存在しているが、何れも「ジャンク」に分類される。
船の強度を保たせる「竜骨」が存在しないため、非常に強度的に問題があった。
そのため、ぶつける衝角戦法は行えず、主に射撃または切り込みで戦っていたと思われる。
「艦」については春秋戦国から発達し、三国時代においては呉が越南に船を出すなど、
外洋に乗り出す船として使われた。この時の船の排水量は260t、乗員は600〜700人。
また構造的な問題では、竜骨が無い他に、
帆は、初歩の横帆ではなくラグスル式の縦帆だった。
船体は、隔壁構造であり、複数の帆を立てることが容易だった。
いずれもこの時代では非常に画期的なことだ。
食料の保存技術に関しては、樽が存在していないので推して知るべし。
ここまで書いても、外洋に乗り出した記録があったとしても、なお呉の船の構造と航海技術が、
外洋に乗り出すに適しているという事を断ずる事は俺には出来ない。
技術には再現性が必要だが、その記録はなく、当時の技術が外洋に乗り出すに相応しくないから。
どうぞ浅学な俺に、教授してくださいまし。もう以後はROMるけどな。
931じゃなくて932な。
>>943 おおーーー
結構驚いた。ラグルス式とかわけわからん・・
テキトーに言ってるだけだと思って追求しちゃいました。スマソ
こちらのソースは最初に述べている三国志正史の孫権伝のみ。
ただし大規模な航海は徐福によって(数千人)400年も前にも為されているし
このときは疫病もなく(現地に住み着いた者はいた)帰還している。
多分他にも結構あると思うぞ
言えるのは大規模な航行自体は倭までとかある程度可能であるということ
戦いに向いてるか否かでは敵方の船もそれほど差がないことを考えると・・
しかし孫権が一万人(数万?)の船団を倭に派遣したというのは
>>943の説明によれば一隻700人として150隻近く!!
どんな大船団なんだよ・・
失礼 除福は帰還していない 住み着いたっぽい。
三戦坂で知識をひけらかして
>>932も、
知識も無いのに知ったかで叩こうと必死な
>>945も、
両方とも三戦坂には合わない池沼だな(プゲラ
ついてけなくて僻むのにプゲラだな
>>943の親切さに驚いた。やさしすぎ。
945に代わってお礼申し上げます。ありがとう。
>>945 てか、孫権は倭まで行ってなくね?
945は人間として終わってる。
孫権の人狩り部隊が辿り着いたのは
海南島とか種子島とか台湾とか諸説あるらしいな。
そもそも孫権が派遣した先は倭だったっけか?
倭も分裂していたからな
魏の親倭政策に対抗する意味もあり派遣したが場所的には諸説ある
倭までいってるとしたら海流の流れに逆らって進めることになるので
遠洋航海とまではいかないが航海能力は結構高いということだ
手漕ぎ動力がメインだから
というかそれ以前に前漢の武帝がインドシナを軍隊で制圧してるぞ
小学校の時に図書室で読んだ卑弥呼の漫画では、
邪馬台国に魏が、クナ国に呉が援軍を出して日本で戦ってたw
そんなことよりお前ら、吾粲の事績をまとめてくれ。
>>952 衛温、諸葛直を遣わせて甲士万人を率いて外海に出、
夷州・亶州を求めさせたってあるな。
夷州については説明がないから良く分からないけど、
亶州は海中にあって始皇帝が徐福を遣わせた場所っぽい。
ただ呉の人狩り部隊は夷州から数千人を得て帰ったとあるだけで
亶州には辿り着けなかったぽい記述になってる。
呉はその後も8000人を渤海に送ったりもしてるし、
航海力はなかなかのものだったんジャマイカと想像する。
孫権の大遠征も、
島伝いに航海をするのと、陸地の見えない場所で船を動かす、
というのは全く技術レベルが異なる訳で。そこら辺どうなんだろうね。
まあその辺は渤海は成功、人狩りは失敗、で分かるっしょ。
諸説あるようだけど、亶州は徐福が弟子なんかとともに移住した地で、
島とあるから日本列島の九州か四国あたりの島らしいな。
上で前漢の武帝の話があったけど、
漢代には外海に出れる大型艦がすでにあったそうだから、
外海に出られる造船技術が呉にあっても不思議ではないと思う。
ただ亶州の場所を正確に把握してたわけでもないらしいから、
造船技術以外の部分で頓挫したと考えてもそれほどおかしくはないはず。
1万の大軍では補給の問題もあるし、長い航海は無理だしな。
亶州は種子島だか沖縄あたりの南方諸島だかじゃなかった?
>>962 それも諸説あるんだなー 論説戦国時代みたいになってる・・
学者が結論出せないでいるのだから2チャンネラーには到底無理ぽいw
黒潮海流が日本の太平洋側を北上している
で分岐して日本海側を対馬海流が北上している
これらの海流にのれば日本上陸は技術が低くても簡単なのだが
やっかいなのはこの流れによって九州の西、朝鮮半島の南西に
南下する逆の海流が発生している。この海流が日本を他国の侵略から
防いできたといってよく航海技術の一つの壁になっている
完全な帆船なら海流の流れに風の力で逆らえるが
この頃はまだ人力と帆が半々の動力であると思われるので難しさはある
ただし帆船は天候に影響され不安定で危険 人力の方が安定してる面もある
呉に日本征服をといえば呉の造船技術が発達していたとしてもその成功率は
呉の兵力と航海技術、海路の確立を併せて考えると高いとはいえない。(ただし不可能ではない)
しかし南下する海流の内側を北上するのみならば例え外洋でもそんな難しいものではない
つまり海流に逆らうもしくは横切るのはいけるかいけないかという技術レベル
海流を迂回する渡航は普通にいけるというレベル
すなわち呉が海を北上して魏のどこかに上陸するという作戦自体、兵力的な問題で
実現されなくとも航海技術的には難しい話ではないということ
日本上陸の難しさ=徐福の渡倭、孫権の遠征(造船技術と言うより正確な目的地未確認が原因とする
>>961の意見に同意もするがその他疫病への対応の未確立など様々)
倭から中国への使者の帰還率がとても低い(行きはなんとかなるが帰りが・・)
近海への渡航=越南との交流、呉-渤海への航海、前漢武帝の四海征服、
始皇帝の海路による中国東北の遠征、その他諸々
余談だが八重洲群島の海底に日本の文化とは明らかに異なる(中国とも違う)
巨大神殿(!!)(ただし自然物との意見の方が有力)
が発見されていて古代の中国と倭の歴史に大きな影響を及ぼす可能性もあるが
余りに突拍子もない発見なので学者が扱いに困っている
失われた超古代先進文明かよwって・・
当時日本列島は統一国家ではなかったし、
むしろ弥生末期から大和時代にかけては大きな戦乱があったようだから、
突如外海から1万もの外敵が来襲したら
結構あっけなくやられていたかもしれないな。
少なくともいくつかの国ぐらいは征服できそうな気もする。
漢代から通商だとか朝貢とかで何度も行き来があったから、
渡航だけなら問題ないレベルではあったらしい。
大軍団ともなると話は別なんだろうけど。
これも流行の諸説ある話ではあるけど、
呉は田豫の公孫一族討伐に対して海から援軍送ってたって説もあるみたいだし、
渤海や山東半島への大軍の渡航は現実的な戦略にもなりうるレベルではないにしろ、
可能な範囲ではあったかもしれないと想像(妄想)できる。
妄想だな
>>968 アホ丸出しとは聞き捨てならんな。
曹丕よりはマシだ。
どっちも性格悪い皇帝で仲良くしとけ
性格悪い皇帝は孫皓だ
奴は基地街
曹丕=性格悪い
孫権=性格悪いときとキチガイのときがある
孫晧=キチガイ
どれも「呉の名将」でないのは気のせいか?
>>973 そいつらと比べれば劉備は素晴らしい皇帝
孫晧はともかく夷陵を起こした劉備が孫権よりすばらしい皇帝とは思えんな
劉備は個人の治績とかどうなん?
あまり統治や政治に関しては話がないよね。
孫権はそういう話もわりとあるけど。
曹丕も政治家としてそれなりに優秀だと思う。
いくらなんでも孫晧なんかと並べないでくれ。
>>978 曹丕はそれなりというかかなり優秀でしょ。
軍才だって致命的なひどさと言うわけではない。
でも、変な言い訳するせいで実質以下の印象を与えてしまう。
やはり性格悪いのが弱点といえる。
孫権と曹丕を並べるな
孫権の外交術に丸め込まれた曹丕とは器が違う
孫権は卑怯っぷりに才能を発揮して政治的な危機を乗り切った。
天才だ。他の武将よりも天下統一できる才能があったのに。
劉備は徹底的に卑怯になれなかったのが敗因だ。
民に慕われてたかどうかは知らんが。
孫権は劉備の凶悪な卑怯っぷりに育てられたようなもの。
したがって天才というよりは努力型の人間といえる。
劉備の敗因は、孫権を乱世の二世君主だと思ってナメてたこと。
呉の君主はそれぞれ孫堅一世、孫策一世、孫権一世だったのに。
曹丕は有能は有能だけど、やっぱり曹操二世なんだよなー
>孫権は劉備の凶悪な卑怯っぷりに育てられたようなもの。
???そうでもないと思うぞ
荊州は劉備が制圧してたんだから、孫呉が所有権を主張するのは微妙なこと
だが劉備は借用なんて言ってしまったばかりに後にうまく取られてしまうからな
天才型かどうかはわからんが劉備に育てられたとまでは言えないと思う
荊州借用はほとんど価値が南郡に集約されるんだから
南郡の所有権を得るためには荊南四郡程度は
口約束で借用を認めるでしょ
でもそれが外交上の時限爆弾。
先延ばしの天才・魯粛様の計略が炸裂したわけですよ。
魯粛の発想は本当に行き当たりばったりでカッコイイ。
「そのうち何とかするさ」という姿勢が大物だ。
少なくとも魯粛は、色んな発言を見る限り孫権の成長を勘定に入れてたくさい。
卑怯なら劉備も相当なものだぞ
救援するふりをして
同族の劉ショウから土地を分捕ってるんだからな
>>986 周瑜の益州攻略の時は「おんなじ名字だからヤダ」とかほざいたクセにな。
ゲスヤローだ。でもそこが好き。ゲス大好き。
>呉の君主はそれぞれ孫堅一世、孫策一世、孫権一世だったのに。
>曹丕は有能は有能だけど、やっぱり曹操二世なんだよなー
これいい表現だね
いちいち躓くたびに一からやり直さなきゃならないのか……
結局孫権二世に相当する君主が出なかったしな
孫休はまあそこそこ良かったんジャマイカ。
孫登が若死にしなけりゃな。
>>991 孫綝を抹殺して政治を一新したところまでは良かったが、
安定軌道に乗ると、アフォの濮陽興と張布に政治を任せてしまったので、
あまり良いとは言えない。
変な字を開発してるしな。
「んなくだらねーことやってっから子孫が皆殺しにされるんだ」
という裴松之のツッコミがキツくて笑える。
やっぱ読んでて面白いのは呉書だなぁ。
8巻がマニアックでいい
ゲームに出たら強そうだ