>>931 太平道や五斗米道などの道教の源流になる宗教を大陸東側沿岸を中心に広めた始祖。
とりあえず于吉(ウキツ)と干吉(カンキツ)という2人がいるようだけど、
これは同年代に同じ道教の教祖であることから同一人物と見ていいらしい。
順帝(在位125〜144)の時に、弟子の宮崇が太平清領書を朝廷に献上してる。
受理されたとも、如何わしいから拒絶されたとも言われてるけどな。
桓帝(在位146〜167)の時に他の人物によって再推薦されてるから、どうやら拒否されてたっぽいけど。
どちらにしても125〜144年の間に、朝廷に自分らの教えを採用するよう持ちかけていることから、
当時にしてかなりの勢力と影響力を持っていたと考えられてる。
ということは始祖である于吉は、その頃すでにかなり大きな宗教団体の指導者になれるほどだったわけで、
一番遅い144年に少なく見積もって40才だったとしても、孫策に殺された200年頃には100才弱、
そう考えるとどこまで本当か分からなくなる人物。後漢書に出てる。
軍事や政治とは切り離された思想集団だったから、史書には記述が少ないんだよな。
これぐらいでいいか?
正史の孫策の死因は暗殺じゃなかったかな。
それが、「一代の英雄孫策が暗殺じゃあ格好つかない」という心情から助かったあと
仙人に呪い殺されるエピソードが加わったとか。
暗殺に倒れるのと仙人に殺されるのとどちらが格好つくかは、現代の日本人と近代以前
の中国人とでは違うんじゃないかな。
>>934 許貢だっけ?
小覇王って評したのがこいつだった気がするんだけど
936 :
935:2005/04/07(木) 09:07:49
項羽に比すって評した
小覇王の元ネタってことです
于吉はエロイ人だったんですね。
さらしはげ
于吉は殺したけど死因は暗殺。
それに孫策は演義では猛将だからな。
一時代を築いた強い人間が
簡単に暗殺されてあっけなく死んでしまうのは
話的に面白くないと思ったのかも。
それか後の時代は道教が隆盛を極めるし、
それの源流となった伝説の人物を斬ったんだから、
そういうことすると相応の報いがありますよって
ことにしたかったのかも知れないな。
そこにしびれるぅ!あこがれるぅ!!
>>934 933に対して言ってるなら、もう一度良く読んでみれ。
孫策の死因については何も言ってないぞ。
あくまで于吉が孫策に殺されたと言ってるだけで。
孫堅ってもし本当に玉璽見つけていたなら、何に使おうとしてたんだろう?
まさか袁術のごとく皇帝僭称なんてやらんだろうが、
ある程度勢力拡大して信望を得た時にここぞとばかりに取り出してなんか名分に使うとか
荊州取って北上して、
洛陽(宮廷)に入る大義名分として使うんじゃね?
だいぶ前も同じような話があった気がするけど。
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 23:47:53
漢王室に返却して、漢王室への忠烈心を世間に示す
だれだよ
玉璽井戸に捨てたのは
てか、一緒に身を投げたのは
そもそも井戸になんか捨てるはずねーじゃん
強奪したのを「井戸にあった」とウソついただけだろ
>>947 強姦されたくない宮中のやんごとなき女性が井戸に身を投げたんだよ…。
演義のこの洛陽でのくだりは長坂破でのビ夫人との対になってる。
演義よく読め(;´д`)
演義の話だったの? そもそもの元ネタは韋昭の「呉書」にある話で
そこには「井戸にあった」と書いてあるけど実際は…? っていう話じゃないの?
井戸の中ではなく、宮殿の梁の上に玉璽があったという説も存在する。
演義ばかりでなく、いろんな資料もよく読め(;´д`)
>>948 >演義よく読め(;´д`)
スレタイよく読め(;´д`)
遷都した跡になんで玉璽があるんだ?
あんなもん勝手にもちだしたり
孫堅軍が横領したりできるのか
怪しい話だと思うけどなあ
いくらあわてて遷都したからって、持って行き忘れていい物と悪い物があるだろうに
玉璽を紛失しましたなんて言ったら、皇帝の象徴うんぬん以前に
実務の方で大変だよ。勅令文書作れないんだから
あれは実務に使うものじゃないんじゃない?日本で言ったら三種の神器みたいなもんでしょ
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 14:06:52
実務に使う皇帝の六璽と伝国の璽は別物だよ
孫盛だかが誤解してたな
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 19:45:44
伝国の璽って始皇帝が作らせたやつの方でしょ?
そんなの実務に使えるほど耐久性ないんじゃない
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 19:58:59
でもずっと受け継がれたことになってるよ。
紙に判を押すくらいの作業なら、素材が金だから大丈夫だと思うよ。
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 20:32:39
伝国の璽の素材は玉だぞ
そして即位儀礼みたいな時しか持ち出されなかったらしい。
事務用に別の璽があったんだよ
あと当時の判の使用方だが、木簡を綴じて封印するときの封泥に押していた
間違い杉
板違い気味ながら質問
戦国時代の楚と三国の呉の領土って同じようなものですか?
実務に使う皇帝六璽と国伝璽は別物らしいよ
皇帝行璽:皇族、功臣を封じたり論功行賞を行うときに用いる
皇帝之璽:恩赦、聖旨を下すときに用いる
皇帝信璽:召集、動員の時に使う
天子信璽:対外動員、外夷召集に用いる
天子之璽:祭祀に用いる
天子行璽:外夷を封じ、賞を行うときに用いる
以上が皇帝六璽で実用品、対して国伝璽は
天子の位に正当に着いているというしるしで、もっているだけ
(秘本三国志から抜粋)
>>965 一口に戦国時代の楚って言われても・・・
最盛期は漢中の辺りまで行ってたみたいだし
呉と違ってそこまで南方へまでは進出してないから、結構違うもんだと思う。
楚は呉より北西まで領土がある代わりに南に狭いって感じでしょ
そういえば楚もなんか王族とかの自己主張強くて国内がまとまってないこと多いような・・・
南方人の特性なんだろうか?
コメ文化の特性だ。
水の多い地方は水利も集落単位だから、集落の独立性が強いのだ。
>>964 どうも
「呉が積極的な攻勢に出られなかったのは人口不足が原因」みたいなのを見て
その割には楚はやたらと積極的だったなぁと思ったもので
領土がそもそも違うんですね
戦国時代の楚は徐州も領してたな
>>967 まあ
>呉が積極的な攻勢に出られなかったのは人口不足が原因
これがそもそもおかしいような
秘本か何かの「蜀の人材不足、呉の人員不足」ってやつが元ネタか。
孫権が皇帝になった頃にはそれほど深刻な人員不足はなさそうだが。
創業期は笑っちゃうくらいの人員不足だけどな。
人口不足でないなら、何でわざわざ夷州まで人狩りに行くんだよw
三国時代で戦線が膠着して、
中原が戦乱に晒されることがなくなったから、
揚州方面に疎開してた人が帰ったり、
交州に逃げてったんだっけか。
呉は内部に異民族問題抱えてたからとかで。
次スレってもうたってるの?
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 12:22:41
孫権が掌握する人口が少ない≠呉の人口が少ない
980踏んだ人が次スレ立てれ
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 19:28:19
978
後漢の戸籍調査だと呉の領土になる場所の人口は結構少ないしね。
人口はやはり少なかったでしょ。
終了
後漢の戸籍調査はアテにならん