竹束で防げるじゃん。
うぅ打ちまくれ〜っ!
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 04:09
3get
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 04:23
火縄銃とかどうでもいいから↑の3getの意義を知りたい
3get…
火縄銃に関係することで3。もう、分かったでしょう。
そう、長篠の戦いでの三段撃ちの事です。
すなわち、3getとは、三段撃ちなど無かったという
主張が隠されているのではないでしょうか?
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 05:05
かまえ〜い。はなて〜!
音は凄いよ!
値段も凄いよ!
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 07:16
ふんてこわ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 07:35
勝頼は竹束の三段防ぎをすれば天下をとってたのか?
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 08:02
現代の銃でも小口径ライフルだと防げるよ
というか猟友会の講習でも竹林に撃つと兆弾になるから
止めなさいと教えてる
火縄銃に限ったことじゃない
問題はあの重さで肩付け無し、頬付けだけで
撃ってたことが信じられんね
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 08:08
ってかお前ら
火縄銃がどういう仕組みで動いているか本当に知ってるのか?
ここからは歴史というより骨董の領域だからな。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 10:13
てゆーか、一丁の火縄は恐くないが、江戸初期(大阪陣)の頃は数に物言わせ、マシソガソ状態だったらしい。
真田丸の火力は相当らしく、ちょっとでも射程に入ろうものなら、即、蜂の巣になったようだ。
あと三段はうそ八百。射手の熟練度によって装填時間はまちまち、よって発射も皆、同時でないから頼まれなくても、自然に三段攻撃になる。
高コストにも関わらず、火縄銃の実際の普及率が、何よりもその有効性を物語っていると思うが
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 10:45
国友鉄砲鍛冶「んだんだ、おらの鉄砲は日ノ本一だああああ!!馬鹿にしねえでけろ!!」
16 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 10:59
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 11:08
マシンガン状態って・・・
銃身過熱とか考慮なしか?
あの頃の火縄銃じゃまだ銃身の放熱に不備があったはず
相当な量の換えの銃がないと無理だな
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 11:14
>>16 なんで、わいが夏厨やねん!アホな理由のいってくれ!
>>17 だから相当な量の換えの銃があったんだよ!江戸初期ともなれば!それとも「銃身過熱」という単語を披露したくてカキコしたのか?
マシンガン状態って何秒間隔?
野戦での運用にしか目がいっていないひともいるけど、火縄銃の普及で大きな影響を
うけたのは攻城戦の様相や築城様式の変遷にあると思うんだけど。
>>17 1590年代の戦死者の死因は
40%以上が鉄砲ですよ。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 12:26
>>20 つまり、鉄砲の普及により、山城ではなく平城が一般化したことでつか?
>>22 平城が主流になったのは交通の便からだろ?
山城の方が要塞としての防御力は高いわけだし。
>>22 なんたの言ってること合ってるけど、ワタスの意見とどうちがうの?
ワタスがいいたいこと。
「基本的には城は便のいいところに作りたい→でも危険だから山城→鉄砲の登場→念願の街道沿いに城が作れる!ヤター!」
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 13:15
50万位で買えるからとりあえず購入、登録しとけ
猟銃と違って誰でも買える
それから射撃したけりゃ祭り、研究等で許可出れば撃てる
というかその前に腕立てでもやって体鍛えとかないと保持すら難しいだろう
特に此処の脆弱な知ったかな奴らはな
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 13:16
そーゆー喪前は持ってるのかよ?www
50マソもあったら御泊まり4800円のボロラブホなど使うかボケェ!!
もう金ないぽ(´・ω・`)
・・・せめて8000〜10000位のとこ池よ。彼女哀れ過ぎ
正直スマンカッタナw
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 14:13
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1060085577/ 630 :名無し三等兵 :04/07/25 01:16 ID:???
現在「倭城」といわれている城塞遺跡は、
秀吉政権が威信をかけて築造した「仕置きの城」である。
日本軍は開戦当初は朝鮮側の邑城(城塞都市)を一部日本式に改修して使っていたが、
明軍の重火器部隊の前で平壌邑城がもろくも潰え去った経験から、
永久要塞としての「仕置きの城」は純日本式のノウハウを結集した築城となった。
朝鮮の邑城は塁線を一周させただけの単純な構造なので、
巡らせた城壁の一部でも破られると全体が瓦解する脆さがあった。
倭城の大半は、江戸時代初期に多く見られる「平山城」の構造をとっている。
山城部分と平地の居館、港部分を長大な城壁(登り石垣)で連結し、
その城壁内に何万人にも上るであろう将兵を収容できるように、
段々畑のように加工し、たくさんの曲輪(防御された平坦地)をつくった。
防御面での空堀・竪堀の多用も倭城の特徴である。
織豊系城郭では石垣造りが基本であり、
中世城郭の防御施設である空堀・竪堀はあまり見られないが、
倭城では周囲が全て敵という極限の軍事的緊張下にあったため、仕える技術は全て用いた。
日本国内では石垣と竪堀の併用は見られないが、
倭城では石垣の外部に竪堀で二重三重の防御線を構築している。
このほか天守の位置も特徴的である。
日本国内では、城主の権勢の象徴又は司令塔として最後の根拠地となる位置にあるが、
ほとんどの倭城ではその天守が最前線に位置し、いわばトーチカの役割を担わされている。
以上、「秀吉の野望と誤算−文禄・慶長の役と関ヶ原合戦−」(文英堂)より抜粋。
634 :名無し三等兵 :04/07/27 23:05 ID:???
>>630 これじゃ大阪城すら太刀打ちできんな。
防戦で日本側が善戦したのもわかる。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 14:23
なんかでみたが、長篠の戦いはかなり土塁を築いて銃口から
うちまくってたな。ねらいは適当か?
また雨季だったらしいじゃないか。雨鉄砲?
土塁を築きまくってるのに武田は馬で攻めるのか?
よくわからん。
なんか研究でこれは、ってのはないかねえ。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 14:31
鉄砲マンセー厨って中国人サポーターに似てるなぁってなんとなく思った
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 15:23
世界に出回った鉄砲の半分が日本にあったらしいね。
なんかの漫画にも書いてあったけど、たった一挺の火縄銃が僅か五十年で
五十万倍になったんだぜ?日本人って凄いな
>>32 騎馬隊なんてものは無いんだよ。当時は下馬して戦うのが常識。
センターファイアのボルト、自動なら持ってる
火縄は一丁欲しいと思うが骨董品だから「出会い」が必要だね
あっても気にイランとかさ
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 15:51
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 16:10
私の狩猟用銃
火縄は出会いが必要ということかな
銃の初期の形という物にも大変興味あるから欲しいんだが
これだと思う奴に出会わないとね
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 16:14
ああ、狩猟って生計のためでもなくただ動物を撃ち殺して楽しむあれか。
君、撃たないと生きていけないわけでもないのに動物を殺すのは最低だよ
糞愛護は巣にお帰りください
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 17:46
愛護はどこにでもいるなぁw
お前はご大層なこと抜かす前に
目の前の食材に感謝の合掌でもしてから物言え
つーか、火縄銃が普及した最大の理由は必要訓練時間が長弓よりもはるかに短いことなんだが。
動員規模が戦国末期になると万単位にまで増大しているんだから
そいつらを使い物にしようと思ったら簡単な訓練で済む方がいいだろう?
ついでに言えば、実戦での死傷者の7割〜8割はミサイルウェポン(投石、弓、銃)
によるものと推定されるんだから、比較的扱い難いミサイルウェポンをいかに楽に運用できるかを考えるのが普通だろ?
火縄銃はクロスボウよりも貫通力や有効射程が劣っていたのは内緒だ。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 18:28
破壊力は高いと思いますよ
強烈に大きな弾ですし
正確には口径は区々でしょう
銃に合わせた弾の制作のほうが手間だったでしょうね
今撃つときはボーリングし直して口径に合わせて
弾作ります。
後銃身の熱の事書いてましたが
装填に時間掛かりますし代わる代わる撃つなら
問題無いレベルだと思います
ウチ骨董屋だからフリントロック式の短筒があるよ
かっこいいぞ〜!
>>23 防御力=平城<山城
と単純なものではないよ。
鉄砲の普及で山城の優位性が揺らいだのも事実。
忍城なんか散々鉄砲射かけたが堕ちなかったしな
>>35 そういう説があるというだけのことだろ。
一つの説をかたくなに信じ込むなよ。
騎馬隊があったって不思議じゃないと思うがね。
早合を使えば1分間に、4,5発の速射が可能と何か本に書いてあったんだけど、
早合は何時頃から使われるようになったの?
>>49 騎馬隊自体は確かにあったらしいんだが。
ただし、一般的にイメージの強い中世ヨーロッパ式の運用方法は当時の日本
では用いられなかった説が有力らしいです。
まぁ少なくとも、数百、数千騎単位の大規模な集団突撃なんかは無く、
数十騎単位の突撃や荷駄及び移動用だと思った方が確実だと思いまふ。
>>49 >>51 その話は発展すると収集つかなくなるので、
以前同じ話の出た信玄スレでやりなされ。
騎馬隊の話はだめなの?
騎兵突撃戦術がほとんど無かったのは、地形の責?それとも馬の質の責?
>>54 騎馬武者だけの騎馬隊と言うのは無く、
馬に乗れるのは身分の高い者だけだったので、
騎馬武者と徒立の兵が一緒になって戦っていました。
>>54 両方と思われます。
知っての通り日本は山岳地が多く、大規模に数百期単位の騎馬隊なんかを突撃させられるような
平地は当時でもごく僅かだったと思われます。また、馬自体も道産子に近い馬で荷駄用としては
適していたらしいのですが、突撃用には不向きだったと言われてます。
>Mr.56
サンクス。組織構造的な問題だったのか・・・
>>54 戦国時代の軍役帳を見ればわかりやすいと思う。
騎乗できるのは士分でも身分の高い者が多い。
それに編制単位で「備」というものも存在するし、戦国時代の部隊編制は
諸兵科混成が常で、単一兵科の集中運用は不可能に近い。
これは兵士全てが大名の単純な所有物ではなく、個々の家臣が軍役に
則って動員するためでもあり、大名が恣意的に編成を行う事が難しいため。
馬に限った事じゃなく、鉄砲でも弓でもそう。
戦国時代の馬が小柄で、甲冑武者を乗せての戦闘がキツかったのは
たぶん間違いないと思う。
近代の戦争ですら、日本の軍馬は貧相で品種改良がほとんど進んでは
いなかった事実もあるし。
ただ
>>49>>51の言う様に、小規模ながらも純粋な騎兵部隊が編成される
事はもちろんあったみたいだよ。
まあ、戦国末期ともなると騎馬武者に対する歩兵の戦い方が確立され、
騎馬隊はあまり役に立たなくなってしまうのです。
そろそろ火縄銃の話に戻したいと思います。
>Mr.59
またまたサンクス。(ここは勉強になります。)
つまり、無数の豪族のリーダーが武田信玄であり織田信長であるわけですね。
軍記もので頻繁に、”取り敢えず手勢を率いて進軍”という表現が見られますが
支配下にある豪族を動かすのはかなりの手間隙が生じるのが背景にあるためであると。
素晴らしい・・
この話「信玄スレ」でやると騎馬厨とアンチで
必ず荒れるのにこんなにスマートに話がまとまるなんて・・
荒れると思ったのは私の杞憂でした。話のコシを折って申し訳ありませんでした(__)
>all
これだけくわしい、ひとは「信玄です」にちがいない。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 00:58
>61
織田信長は違う
そういや大学のゼミで銃器と刀剣は卒の武器だって教授がいってなぁ。
士分では槍術や弓術を上に見るって。だから江戸期にほとんど進歩しなかったって。
>>64 織田信長は派手に浪人を雇って一族郎党とか関係なく編成したからな
まあ一つの説ですが
駄文スマソ
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 01:32
>>57 ええと、日露戦争の時、秋山隊はまだ品種改良されてなかった
日本馬でロシアと戦ったわけだけど。
ましてや、同じタイプの馬同士での戦いなのだから、馬の質は
問題にならないよ。
編成のせいだろ。
歩騎混成部隊の突撃は「騎馬突撃」じゃなくてただの「突撃」だからな。
在来馬でも土佐駒とかは酷いらしいけどな。
あと日露戦争と戦国では騎乗者(+装備)で重量に差が出てしまいそう。
同じ馬でも差が出てしまうと思う。
まあ、編成のせいなんだろうけど。
鉄砲の話がまるでないな
火縄銃の話題になりませんね…
騎馬武者と徒立の兵で突撃し、一挙に突破して蹂躙するというのが、
武田の得意な戦法だったとも言われています。
成功すれば良いが、負けた時は大敗する。
武田の負け戦の時は、重臣が討ち死にする事が多いのは、
この戦術を多用していたからではないでしょうか。
うお、騎馬隊の話をしてしまった…
71 :
刀と同じ材質の鎧:04/08/10 02:40
>>1 それじゃあ刀を過大評価するとでも?
鎧で防げるじゃん。
何か火縄銃の話題はありませんか?
73 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 03:03
>>70 武田が重臣が死にやすいのは、武将が前線で指揮するからでしょ。
それだけ兵の指揮も上がるし細かい支持もできるから強いけど、
武将も死にやすい。
武田家は「鑓を省略しても鉄炮を持参せよ」といったぐらい、
鉄炮を熱心に装備させた家だよ。
間違っても突撃して蹂躙するのが得意だったなんて事は無い。
そんな戦術が通用する局面は、あまりにも限られている。
『甲陽軍鑑』で陣地も築かずに平地で正面から向き合って決戦した
「真の戦」は川中島と三方ヶ原だけだと書いている。
逆に言えば、戦国のほとんどの合戦は城攻めだったり陣地戦だったり
小競り合い程度で終わったりしていたってことだ・・・・
また三方ヶ原のように開けた場所でも、いきなり馬に乗って突撃したりは
しない、とも言っている。
>>73 「武田の初期の頃は」というのが抜けていました。
村上義清と戦ったあたりまで。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 03:20
>>74 鉄炮が出て来る前は弓矢が使われていただけで、戦術自体が
突然変化したりしないよ。
だいたい、村上義清と戦ったあたりまでで、武田軍が行った
大規模な野戦って上野原ぐらいでは。
上野原合戦での敗北は、先手を任せた板垣が後退する村上軍を深追いした
結果逆に包囲されたからだという。
普段から突撃戦術を好んでいたなら、こんなヘマはしないだろうね。
毎度毎度こんな馬鹿だったら、武田家は1560年には潰れてるだろうし。
長篠の戦い。
実は鉄砲の大量使用はある現象を生じさせた。
それは発射後の白煙で視界が悪くなってしまうのである。
合戦開始わずか数分で視界は白煙にさえぎられ何も見えなくなる。
こうして武田軍は味方が善戦してるものと思いこみ、次々と鉄砲の餌食となっていったのだ。
何も見えないのでは、指揮官は直接戦場に入って兵の動きを把握するしかない。
設楽原は水田であり、前日から降り続いた雨で泥濘の海と化している。
武田軍は丸裸のまま織田軍の防御陣地に近づかなければならなかったのだ。
その上著しく動きにくいこの有り様では、武田お得意の陣形も使えない。
のろのろと匍匐(ほふく)で近づくしか術がなかった。
信長の築いた野戦陣地はまさに「城」のようであり、そこから行われる
すさまじいまでの射撃に、無敵を誇った武田軍も壊滅した。
長篠の戦い(1575年5月)
1万5千の大軍で長篠城を包囲した武田軍だったが、
織田・徳川連合軍は3千もの鉄砲を組織的に使い(世界初)、
設楽原で勝利をつかんだ。織田・徳川の兵は一人も死ななかった。
以後、武田家は滅亡した。
>>78 武田軍が全く前も見えないなら、織田軍も攻め寄せる武田軍が把握できません。
従って迎撃に隙が生じ、あっという間に突破されてしまうでしょう。
正直、名和弓雄はダメダメ。
>>79 日本国内だけでも、信長が野田・福島を攻めた時に紀州の軍勢が
3000挺の鉄炮(『信長公記』)を使っているね。(信長自身ではない)
そしてまた、相手方にも雑賀衆の反信長派である雑賀荘・十ヶ郷の
兵が数千の鉄炮を持って駆けつけているね。
一方で、同じ『信長公記』の語る長篠では、鉄炮はたったの1000ですよ。
「以後、武田家は滅亡した」って、七年も後の話ですが・・・・
「以後」って・・・・
やっぱり名和弓雄はダメダメ。
調子に乗って設楽原に変な復元土塁作ってるし。もう手に負えない・・・・
「設楽原」(設楽ヶ原)という呼び名は、明治以降にそう呼ばれるように
なったものなので、「長篠の合戦じゃない、設楽原の合戦だ!」とか
言ってる人はダメダメです。
江戸時代の文献は大抵が長篠の合戦と呼び、明治時代に書かれた
『大日本地名辞書』では「有海原の古戦場」と紹介しています。
太田牛一もあの一帯を「有海原」と書いています。
長篠の戦い
武田軍は五月十一日に長篠城を包囲した。
十八日に信長軍が到着したのだが、あるみ原で進撃を中止し、馬防柵を作り始めた。
この時、織田軍の主力は武田軍から見えない所に身を隠し、少人数で作業を行っていた。
これを見た武田勝頼は、織田軍は数が少ないからこの勝負は勝てると思い決戦を覚悟し、
二十日にあるみ原に兵を進めた。
そこで信長は別働隊を組織して、迂回させて長篠城を包囲する為に作った
鳶ノ巣砦を攻撃させるようにし向け、二十日の夜に長篠城を解放している。
武田軍は退路を絶たれ、あとは織田、徳川連合軍に突撃するしかなかった。
そこで決戦の日の二十一日、織田軍本隊が姿を現す。
これで武田軍は万事休すである。
しかも鉄砲隊は武田軍に見えないように射撃した。
>>83 弾正山全体に土木工事なんて、少人数でバレないようになんて
出来るわけねーんだが。
武田軍が陣取った場所、最短で500メートルも離れてないよ。
しかも別働隊が鳶ノ巣山を攻撃したのは「21日の」午前八時頃で、
長篠城に入ったのはその後だよ。
もうやめとけば?
>>84 バカ。1はネタを提供してくれてるだけだろう。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 06:49
んじゃ鉄砲ネタ
そもそも飛び道具として弓があったわけだ。戦国時代、弓での殺傷率もっとも高かった
と言われてる。しかし弓は難しい。様は命中率が低かったわけですね。
そこで出てきたのが鉄砲。
>>42さんの言うとおり訓練期間が短く、命中率のそこそこ
しかも弓は空に向けて(落下地点計算)放っていたのに対して、鉄砲は相手の向けられる
威力よりも飛び道具の性能として評価されたようです。
んじゃ鉄砲ネタ
鉄砲の普及によって、鉄砲を持てる大名と持てない土豪との間では、
武力と発言力の格差は大きくなり、家臣団の意見を抑えて、
より専制的な政治を行うことが可能となりました。
鉄砲の伝来と普及がなければ、戦国時代も南北朝の内乱のように、
決定的な決着がつかないまま長引いた可能性が高いかもね。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 07:52
火縄銃製造の苦労話でもいかがでしょうか
銃身の尾錠螺子製作が一番苦労したと何かで読んだ覚えがあります。
たしかネジという概念が日本には無かったはず。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 08:03
朝からすまん!えー!だれだっけ!?関ケ原の折、伏見城で銃が暴発して死んだ武将は!
ここの人達なら知ってそうとおもたから!
伏見城に立て篭もったのは鳥居元忠だよね??確か。
火縄銃が無ければ勝てなかった戦いってある?
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 09:23
茶釜爆発の話マダ〜
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 09:38
ってかお前らネジが何処に使われてる居るのかしってるのかよwwwwww
尾栓ネジじゃん。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 10:14
だから当時どうやって作ったんだろうと思ってね
>>81 甲陽軍鑑に出典されている信長軍の鉄砲数については
千の前に後から三をつけたふしがあるという説があるよ
>>97 八板金兵衛がポルトガルの技術者から聞いたとも言われるし、
国友村の次郎助が大根をくりぬいた時に
雄ねじと雌ねじの理を発見したとも言われる。
>>70あたりから武田の話があるけど、たしか三増峠の合戦では、重臣・浅利信種が
鉄砲で戦死してる。
重臣クラスが戦死する原因のひとつとして、騎乗武者のなかでも高級指揮官は
馬上で戦場を遠望しつつ戦局を把握しなければならないために下馬できず、
それが鉄砲の標的となり易いという事もある。
横列で斉射する敵の陣列へ無防備に突撃するなんてのは、時代が下るほど
ほとんどなくなり、序盤戦は鉄砲に楯・弓の支援を含んだ射撃戦が専らのはず。
>>73の仰るように、野戦でいきなり騎乗突撃なんてものはありえないし。
で、家康も鉄砲よけに着ていた南蛮鎧なんだが、
これってプレートメイルでいいのかな?
マスケット銃
>>47 山城では一般論として以下の点で鉄砲に対応できないことが次第にわかってきたので優位
性が失われた。
1.山城の防御線は地形に左右されるため、効果的に側射を加えられる配置を取りにくい。
2.山城の郭は狭いため、一部を占拠されると相手側がその郭全体を射線に収めることが
できてしまう。
竹束なんて火縄銃より重いしかさばるし武器にならんしロクなもんじゃねぇ
先日爺さんの家から佐藤春夫の「古戦場」を借りて読んでみたが
三段撃ちが長篠の織田の大きな勝因のように書かれていたな
昔「尻喰らえ孫市」を読んで火縄銃に対し
過大な評価を自分の中で持ってしまっていたが
ここのスレ見てると
現実的にはもっとしょっぱい武器だったんだねー残念
火縄銃の性能をライフル銃並みだと思い込んじゃうからな。
実際は有効射程は50〜70m程度で、
その距離では厚さ数ミリの鉄板を打ち抜くことはできない。
小銃の基本型が完成された19世紀末だと、有効射程はその10倍で
400mで厚さ4mmの軟鋼を貫通できるので性能的には全く別物。
それでも、比較的簡単な訓練で有力な弾幕射撃ができるわけで、
金と兵隊さえあれば短時間で軍事力を増大できるのは魅力的。
両者を兼ね備えた信長が覇者になったのが解る。
>>106 18世紀中頃のマスケット銃が小銃の基本形なのではないのか?
英国では洗練された兵士で1分間に4〜5発撃てるような銃が出来てた
と、まぁ 日本のネタじゃなくてアレだな
スルーしてくれ
銃って単語に惹かれて衝動カキコしちまったい スマソ
108 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 02:15
>>98 全くの別人が後から加筆したものである事を藤本正行氏が証明した。
>>106 一匁半の小口径の火縄銃でも、足軽の胴(鉄製)を50メートルの
距離で楽に貫通できるが。
あと、火縄銃で「弾幕」はないだろ。
竹崎季長がてつはうにビビリまくってた時代が懐かしいですよ。
胴を貫通なんて・・・物騒だなあ
>>109 竹崎季長絵詞が漏れのゼミの発表の課題だったのを思い出した。
仮名文書は虫食いの上に主語の省略とかあって面倒くさかった。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 02:34
火縄銃にも第二世代第三世代があるんだよ
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 03:36
火縄じゃない銃ってどうやって火薬に点火させてるの?
火縄銃の次の世代は火打石の火花で火薬に点火する火打石式銃じゃなかったっけ?
114 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 09:11
簡単に発火は
火のついた火縄で点火
フリントロック(火打ち石)で点火
その後様々な点火方式を試行錯誤するもメジャーにならず
村田銃、村田管と発火金つかった雷管使用
薬莢の規格が40番真鍮ケース
その後、現代の雷管になる
点火火薬を発火金と激針で挟むように叩いて発火させる
その火が火薬伝播して弾が出る
村田の頃は黒色火薬、今でも許可取れば手に入る
現在はダブルベースのニトロセルロース系の
火薬を使用する。所謂無煙火薬
間違いあれば指摘して下さい
115 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 09:41
(2004.6.9)
寧夏回族自治区の文物収蔵愛好家がこのほど、元代の銅製火縄銃を手に入れた。
明確な紀年のあるものとしては世界で最も古い金属製筒型火縄銃であることが分かった。
この銅製火縄銃は全長34.6cm、口径2・6cm、重さ1・55`で、花瓶を長く伸ばしたような形をしている。
つくりは非常に精巧で、表面にはまだらに緑青がついている。
この元代の火縄銃の銘文は「銅匠作頭李六径、直元捌年造、寧字二仟伍百陸拾伍号」となっている。
「直元」すなわち「至元」は、元の世祖フビライ時代の年号で、「直元捌年」は西暦1271年にあたる。
通し番号が2565号であることは、当時火縄銃の量産体制が整っていたことを物語っている。
だがその大きさ、形・構造、銘文の内容はこれまで発見された元代の火縄銃と大きな違いがあり、
元代の火器製造、使用に統一的方法や基準がなかったことを示している。
南宋時代に世界で最も早く筒型火器が登場したが、それは竹製だった。
元代になって、世界で最も古い金属火器が現れた。
元代の金属製筒型火縄銃は発射物を制御することができ、しかも長い筒を持っているため、
発射の精度が高まり、射程は100ないし20歩に達し、長距離発射に属する。しかも金属製品だった。
元代の金属製筒型火縄銃は当時の世界で最も進んだ兵器であるとともに、現代の銃砲の始祖となった。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 10:12
まあ爆発を人工的に作れるようになったら、筒で爆発を一点に集中させて
物を飛ばすって考えをするのは誰でも思い浮かぶ事だな。
ただ材質や火薬の量を測るのが凄く難しいわけだが。
小山田の石と鉄砲を比較してみるか
誰でも思い付くっていう程でも無いけどね
およそ発明や発見、新しい発想というのは、後から聞けば自明の事のように思える物だからな
小山田隊の投石
戦闘初頭に、200〜300mの遠距離から無数の投石を打ち込む。
[投石の道具]
もっこ:30cm程の布に石を挟んで頭上で回転させ、布の一端を放す。
おっぱさみ:1m位の竹筒を半分に割り、先端に石を挟み、加速時間を長くして投石する。
[使用した石]
一説には、岩殿山の丸レキ岩を用いたといわれる。
>>102 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
火縄セックス
>>121 一行レスは相手に対して失礼です。
「火縄セックス」と書き込んだからには、その使用方法、効果、危険度なども
正確に説明してください。
>>122 これは俺の想像だが、火縄を攻める道具に使うんだろうな。
コチョコチョしたりこすったり縛ったり。
ろうそくよりハードそぅでつね(;´Д`)ハァハァ
鉄砲が完全に軍備の中心となった天正年間後半〜文禄・慶長年間に、
大名たちが築いた、または改修・拡張した城を見ても、
比高100m以上の山を利用した城は多数ある。
鉄砲による戦術の変化が山城を廃れさせたという事実は無い。
>>120 山城の縄張りや特徴、攻守ともに鉄砲を用いた場合の攻城戦の様相、
陥落した山城の傾向などをみていけば、それなりの結論だと思うが?
それでも否定したいのなら、根拠ある自説なりを伺いたいな。
俺は
>>102じゃないけど。
自分で断りをいれると自演扱いなのか?
w なんて使って、そちらの方が恥ずかしいと思うけど。
”夏だから”なんて言い方はしたくないけど、なんだかな……
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 15:59
>>119 >もっこ:30cm程の布に石を挟んで頭上で回転させ、布の一端を放す。
こういうの、世界中にあるよね。
スペイン蛮軍と戦った、インカ帝国軍も主な武器は
これだったそうで。
こぶしぐらいの石が雨のように降ってきたら、火縄銃もクソもない・・・
>>31 を見よう
>倭城の大半は、江戸時代初期に多く見られる「平山城」の構造をとっている。
平城の防御効果は明らかに劣るというこったね
>>114 当時あった銃としては、歯輪銃もありますね。
バネで鋼製ギアを回転させ、黄鉄鉱にぶつけて発火させる……という
いわば100円ライターみたいなやつ(100円ライターは回転にバネは使わないけど)。
西洋では騎兵が馬上で使うそうで。
南蛮人から秀吉に献上されたこともあったが、まったく普及しなかった……
と鈴木さんの本に書いてありました。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 00:28
137 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 00:31
歯輪銃ってホイールロック式の銃?
もしそうなら、あれは
1:うまく点火されず不発が多かった
2:構造が複雑かつ精密で、単価が非常に高い
って事で兵器としては問題があり、普及しなかった。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 01:56
>>133 >>134 小山田氏の居館はもともと中津森にあり、信有の頃に谷村に移った。
だから「本拠」では無いと思う・・・・
武田家の本拠が要害山だと言わないように。
岩殿城は武田家が築かせた東方の備えだっつー説もあるが、
だとすれば築城は信虎以降で、かつ大工事になっただろうから
その時の記録の一つもあるだろってなもんだが。
>>130 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
遅レス必死
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 10:02
弾幕が薄いぞ。なにやってんの!
火縄銃好きな人は、ハンドカノンからフリントロックくらいまでの流れを概観してみると面白く感じれると思うんだよね。
ライフリングの発明・・・発達といったほうがいいか(結構昔からあったらしいが)、
ミニエー弾の短命さにワラタり、紙薬莢から金属製になるところまでとか。
歴史群像から引用
信長公記に見る山城と平城・丘城の包囲日数
【山城】 【平城・丘城】
包囲開始年月 城名 包囲日数 包囲開始年月 城名 区分 包囲日数
永禄十一年九月 近江箕作 一日 永禄十二年八月 伊勢大河内 丘 十二日
永禄十一年九月 近江観音寺城 一日 元亀四年四月 近江鯰江 平 約五ヶ月
元亀元年四月 越前手筒山 一日 天正二年七月 伊勢長島 平 七十日
元亀四年八月 近江小谷 二日 天正四年四月 摂津石山 平 四年四ヶ月
天正三年六月 美農岩村 約六ヶ月 天正五年十月 大和片岡 丘 一日
天正四年十月 大和信貴山 八日 天正六年二月 播磨三木 丘 一年十ヶ月
天正六年三月 丹波八上 約十六ヶ月 天正六年六月 播磨神吉 平 二十日
天正九年七月 因幡鳥取 百三日 天正七年三月 摂津有岡 平 約十ヶ月
天正八年三月 摂津花隈 平 百四十九日
天正十年三月 信濃高遠 平山 一日
天正十年四月 越中魚津 平 約八十日
天正十年四月 備中高松 平 六十五日
総評として守備側にとって山城は堅牢な構造物(櫓とか石垣)また柔軟な兵力移動が地形によって
制限されたり、死角や孤立した郭を狙われるため山城にとって不利みたいな事がかいってあったぞな。
(´-`).。oO(火縄銃って高いところから下に向けて狙いをつけると込めた弾が落ちるよな・・・
145 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 19:02
>>144 信長自身は、岐阜城、安土城と山城だよ。
>>144 弾に紙を巻くと落ちないと何かに書いてあったような、聞いたような感じ。
鉄砲の真の恐ろしさは鉛の玉にある。
当時の鉄砲は貫通力が低いので大概、
鉛玉や破片がが体内に残り鉛中毒を起こして命取りになる
しかも不衛生な当時のこと、化膿するとまじで命取り
それと刀槍弓で一人前になるには長い修練が必要だけど
鉄砲は操作の仕方とか1ヶ月も練習すれば十分戦力になる。
武勇にすぐれた大将でさえ名もない足軽の鉄砲一発で簡単に倒されてしまう
江戸時代に鉄砲の技術開発、製造、移動が厳しく制限されたのも
造船のことと同様に幕府の安泰のためには絶対に不可欠なものだった
>144
資料をまとめてくれた努力は買うんだけど
その時の年代、戦況、状況、事情によって包囲日数の比較は意味ないような・・
兵の損害を度外視してでも早く陥落させばければいけない場合もあるし
包囲して相手が参るのをじっくり待ってればいい場合もあるわけでなかなか難しい
平城は天守閣、櫓、堀、石垣の技術の発達や城下町の道路の作り方の工夫
要所への寺社の配置、橋、運河など・・城と城下町一帯で敵を迎え撃つ
それらを効果的に活用して城への侵攻ルートを限定させ敵の包囲殲滅、集中攻撃など
守備側に有利な状況に持っていけるように上手に作られてると山城以上に堅固になる
あと、山城の場合、戦闘のときにだけ登って普段は麓の館に住んでるから戦闘のたびに
上るのはめんどくさいし、商業が発達して街の重要度の増加、管理のしやすさからいっても
特に大名の本城や商業地の場合は山城は敬遠されるようになったんだと思う
>兵の損害を度外視してでも早く陥落させばければいけない場合もあるし
>包囲して相手が参るのをじっくり待ってればいい場合もあるわけでなかなか難しい
早く落とせることに越したことは無いと思うが・・・
じっくり待つと言うことは攻めるに相当の損害が出ることが予想される
からで、それは城の防御力の証明になりますね。
あとは江戸期の一国一城令によって戦闘的な山城を作って
幕府ににらまれるよりは平城を作ったり残したりしてのが結果
山城が廃れたように見えるんじゃなかろうか。
>149
確かに早く落とせるに越したことはないけど、時間に余裕があって囲んでさえいればじきに
落ちる城の場合は無理に被害を出してまで攻める必要はないんじゃないかな。
城の防御力といっても厳密に数値化できるわけじゃないわけで
天然の要害、人工の要害、石垣、土塁、堀、櫓などのハード面の防御力と
兵力、兵糧、水、士気、援軍の有無、季節、周囲の状況などのソフト面の防御力があると思う。
いくら堅固な城に篭っていても人の心を攻めれば、いとも簡単に落城する場合もあるし
見た目、要害でもなく、すぐ踏み潰せそうな小城に手を焼く場合もある。
城の包囲といっても戦略的な側面や政治的な側面を含んでるものがあるのは
>144さんの内容を見てもよくわかる
幕府に遠慮したのは天主閣作るかどうかじゃなかったけ?
有名なところだと伊達とか毛利とか・・
あと、江戸時代〜現在に残る城はほとんどが小高い丘のようなところに建てられた平山城らしいです。
山城、平城の定義を疑問に思って調べてみたら、こんなサイトを発見
ttp://www.tky.3web.ne.jp/~ashigal/siro/hensen.htm
151 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 01:19
>>144 銃弾が転がり落ちる事に対しては銃弾を和紙で巻くなどの対策があるが、
高い所と低い所の撃ち合いでは高い所が有利。
何故って射程が伸びるから。
小谷城が二日ってのは恣意的な表現だよな。それまで三年粘ってるし。
信貴山城が八日ってのも落とし方がアレだし。
昔歴史群像で見たような比較だけどw、基本的に作者に都合の良いように
まとめただけの表だな。
武田信玄が山城の林城(小笠原氏の本拠地)を廃して新たに深志城を
松本平の中心としただとか、あるいはやはり山城の葛尾城(村上氏)を
廃して新たに海津城を築いたとか、要害堅固な山城ってのは同時に
政治経済の中心として落第ってのは、あるよな。
152 :
乾燥させた竹:04/08/14 02:39
竹束で防げるじゃん。
兎に角、山城が平城より防御力が劣るなんて有り得ないので、よろしく。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 04:39
火縄銃の影響で平城になったなんて、政宗に対する侮辱だな!
155 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 06:35
ん?
奥平が山城の長篠城で半月もの間、500で15000の武田の大軍の猛攻を凌いだのは
長篠の要害に加え鉄砲の装備率が高かったからと聞くが?
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 06:59
聞き間違い。
>153
城の規模が同じくらいで兵数も同じ、他の条件も同じ
城が山の上にあるかどうかだけの違いならば
山城の方が防御力が高いだろうけど
そうじゃないでしょ?
大阪城はおもいっきし平城だったし、家康も堀埋めなきゃ攻め手がなかった。
山城は地形によって規模が限定される場合が多いし
水が得にくいということで篭城できる人数も限られてくる。
運河や川を掘りに引き入れてる平城に比べて兵糧、弾薬を山城に篭城中の城に
補給するのは難しい。
同じ金と労力を使って城を建てるのになぜ山城を作らずに
平城、平山城を作ったのか・・それなりの縄張り、防衛システムを構築すれば
十分の防備ができるのと政治的支配、経済的支配の重要性が絡んでくると思う。
山城は戦争のときしか利用価値ないしね・・
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 07:44
山城だと必ず銃は打ち上げになると思いますが
火縄銃の射程では厳しすぎます。
普段から鉄砲撃つので単純にそう思います。
平城はそれに比べて狙いやすいだろうと思います
といっても然程の違いがあるとは思えません
別の要因があるんじゃないでしょうか
仮に城に立てこもって外に向けて撃つときは
圧倒的に山城のほうが有利だと思います
拠点防御の際の鉄砲の有効性は非常に高かったのは確かみたいだよ。
火縄銃の影響で城の防御力は飛躍的に向上した→山城を構えるのは過剰防衛→平城に移行ってことでいいんじゃね
162 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 07:54
あと山城だと攻めあがるときに木や草むらがあって隠れることができるけど
平城は故意に遮蔽物をなくしたり道を狭くしたり敵を防衛側にとって
絶対的に有利な地点までおびき出して叩けるっていうのがあるな
長篠は鉄砲がたくさんあって、水の手がしっかりしてる。
攻める道が限られてて士気も旺盛。援軍も期待できる
武田もある時期までは織田、徳川の本隊を引き出す目的もあったと思う
>>162 つまり銃での狙い撃ちには、平城の方が適してるという事か・・・。
>151
>銃弾が転がり落ちることに対しては
そうか、狭間砲とかの防衛戦に使うやつって下ににむけるけど、どうして
弾が落ちないのかなとか思っていたけど。
滑り止めとかで対策してたのか。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 11:46
>>162 山城は特に防衛線周辺では木なんかは初めから切り払ってしまうのだが。
現在の城跡を基準に考えてるのか?
七尾城や春日山城のように山城でありながら広大な敷地面積を
確保できる場所があれば、やはり山城が選ばれたと思う。
戦国末期には戦役が大規模化したから。
ただ、そういう場所が少なかっただけで。
平城も堅固にしようと思ったら相当立地を選ばんといかんけど。
鉄砲は中放しという正座をして腰を伸ばす命中率は高いが行動性の低い撃ち方、
立ち放しという立って撃つという命中率は低いが行動を機敏にできる撃ち方(これが長篠合戦で使ったと思われる撃ち方)
膝台という片膝を立てて撃つという安定感があるために命中率は非常に高いが行動性は低い撃ち方、
逆膝放しという別名つるべ撃ちと言われる下に向かって撃つ命中率の非常に高い戦国を代表する撃ち方などがあります。
ttp://www.bushinavi.com/~mutou/toha.htm
168 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 15:28
基本的に下向けても玉(弾)は落ちないんじゃないでしょうか
弾は銃身との密着度で精度が決まります(現代のスラグ散弾銃のようなものです)
弾を鹿革に刳るんでキツキツにして撃ったと何かで読みました
たしかにそれでないと中らないと思います
現代の火薬使うにしても散弾用早燃性火薬使わないと
多分飛びません。
ただし当時の鉄で今の火薬使うのは危険ですね
当時は黒色火薬、今は無煙のニトロセルロース系の
火薬でパワーが全然違います
五月蠅くなかったのですかね?
密集して撃ったら耳が潰れそう。
狭いと弾込もしにくそう。
やっぱ間隔を結構とってたと思うんです。
実際に戦に投入されたのが千丁だとして
一列あたり約330丁。間隔が1メートルだったら長さ330メートルですよ?
「撃て」の号令がちゃんときこえたのかなーと思った中学生でした。
ヨーロッパとか中国とかはどうなの?
銃火器が発達した後の城って、山の上に築いたりしてるの?
>>169 指揮官近くの声が聞き取れるものから打てば、それを倣って
いいんじゃないか。まぁ声の大きさ、声の通りのよさが武将の資質
の一つって何かに書いてあった気もするし。
330mくらい届くと思われるし真ん中なら170mぐらいだしね。
>>170 火砲が進めば今度は着弾測定など、敵より高い位置が
重要になっていくから高所の取り合いは激しくなるけど
城などの拠点の取りあいよりは、陣地戦に移行してるきがする。
要塞なんかは山に平地に作られてるけどね。
長篠の合戦の補足
実際に長篠の合戦で、織田徳川の使った鉄砲は千丁(上記参照)である。
合戦の実際は鉄砲の一斉発射の後、ひるんだ生き残りや、落馬した者を長槍隊で
襲い掛かるというものだった。
〜例〜
武田の騎馬が突撃してくる → 鉄砲の一斉発射 → 人or馬が驚いて落馬(もちろん、死人もでる)
→ 馬防柵の間から討って出た長槍隊が生き残りを掃討 → また武田の騎馬が突撃してくる
こんな話も最近でてる。
長篠の地形自体、山間の少し開けた場所程度で
雨によって田んぼや畑は軽い湿地状態だっただろうし
当時の戦争は全軍でぶつかり合うのではなく
数部隊が順繰り順繰り攻め寄せる感じだったからなあ
まあぶっちゃけ野戦では火縄は役立たずだったって事だな
一斉射撃が可能だったかどうかも疑問、一発撃った後間隔が空き過ぎるのも問題。
長篠の合戦で、信長はその辺の短所を拠点防衛に徹する事で克服したんだろう。
で、実際どうなわけ?
火縄銃ってヨーロッパの戦争でも主武器になってたの?
日本の特殊な環境が火縄銃に適していたからこそ、こんなに流行ったんじゃないの?
役立たずと結論するのは早すぎる。
長篠の戦で武田の猛将達はほとんど戦死してるんだから。追撃戦で死んだのかもしれんが。
それに、堺や国友など鉄砲の生産地を抑えている信長にとって三千丁ぐらい
かるく集めれる。
どうせお前らの言ってることって信長の業績を疑いたくてしょうがない自称・雑賀衆の末裔の鈴木眞哉がソースだろう。
>信長の業績を疑いたくてしょうがない
いや評価してるって・・・
意味不明なレスしちまった・・・スマソ
180 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 20:51
>>175 信玄ですら鑓を省略しても鉄砲を持参しろとまで言ってるんだが……
もともと勇猛果敢に突入して切り結ぶなんて戦い方は好まれなかったから、
鉄砲は野戦でも陣地戦でも攻城戦でもマルチに活躍した。
野戦で鉄砲と言えば、原田直政が雑賀衆&本願寺を相手に
討死した戦とかが好例かね。
>>173 「一斉」射撃ってのは、非常に高度な技術ですよ。
高度な統率と、狙いも付けずにただ前に撃つという無駄にも思える
教育と、銃兵の密集が何より大切。
兵科ごとの部隊編成すら無い状態では……
せいぜい、敵が間合いに入ったら個々に射撃開始程度では。
>176
俺も信長は大好きだけど、本当に信長のファンなのか?
虚像に飾られてるかもしれない姿ではなく、より真実に近い姿を
知りたいと思うのが本当のファンだと思うがなあ・・
与えられたイメージだけに捕らわれずに通説からトンデモ説までとりあえず耳に入れて
自分の頭で咀嚼してから自分自身の信長像にすればいいじゃないか。
とんでもない説が物事の核心を突いてたりすることは世の中案外多いぞ。
「事実は小説より奇なり」
地球なんか丸かったんだぞ
>>181 明石散人も信長評価してるって言ってるしな
>信玄ですら鑓を省略しても鉄砲を持参しろとまで言ってるんだが……
これって野戦で使うことを前提に言ってるの?
まあ役立たずは言い過ぎだったな
だが野戦で火縄銃を使うのには問題が有り過ぎるのも確かなわけで・・・。
雑賀衆&本願寺はその辺りを克服して、うまい使い方をしてたんだろ。そしてそれを信長が真似したと…。
問題ありすぎるものがなぜ使われていたんだろう??????
長篠での騎馬隊と言うのは柵を引き抜くため少数使われただけかと思う
また鉄砲についても通常大名の持ち物というより個人の持ち物であり
大名からみれば家臣の家臣の持ち物と言う具合で、○○隊には鉄砲何丁
××隊には何丁と言う感じでこれらの隊が個々に鉄砲を運用していたため
集中的に使用するには鉄砲持った者を家臣陪臣問わずに引き抜き、
鉄砲隊として組織しなければならないが、これは引き抜かれた隊の攻撃力低下を招き、
隊の長(豪族や小領主)としてはこうした行為は嫌がるか、下手したら離反を
引き起こしかねない危険であったが、信長は強権を持ってこれに成功した。
こうして長篠の合戦では集中的に鉄砲運用する信長徳川連合軍対竹束を
持って肉薄して少数で鉄砲を打つ武田軍と言う構図が生まれた。
っと妄想してみる)Oo。.(´-`)タノシイナモウソウハ
>>184 基本的に拠点防衛以外ではまともな使い方は出来ないっていうのが、俺の考えなんだが…。
雑賀衆&本願寺は引篭もりだし、長篠もそこから学んだ信長が同じ戦法とっただけだろ。
信玄がどういう使い方してたのかは興味あるな…。
>>186 引き篭もりじゃない連中も装備率が高いんだが・・・。
君の考えが間違ってるんじゃない?
>>186 弓よりも射程が長く威力がある鉄砲が、なぜまともな使い方ができないと言うのだ。
湿度による火薬の特性の変化
天候などから火種の保護
発射時の煙による視界不良
機械的、材質的信頼性
加熱による銃身の磨耗とそれによる射撃機会の制限
調合材料を輸入でしか賄えない
全般的に高価
整備に高度の知識が必要
こんなところだと思うけど、たいしたことないよきっと
>>189 なぜ弓よりも射程が長く威力があると言えるのかと(ry
192 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 02:15
では何で弓は鉄砲にとって変わられたの?
少しは前のレス読もうって気はないのか・・・
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 02:40
読んだけどわかんない。
195 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 02:57
>>183 近代の軍隊じゃないんだから、野戦でも陣地戦でも攻城戦でも
使える装備でなきゃ、「鑓を省略しても」とはならんだろ。
雑賀衆は野戦だろうが何だろうが鉄砲使ってるが。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 03:11
>>187 >関が原のとき使われた鉄砲の総数は諸説あるけど8万丁で
>装備率40%という数字がある。ちなみに槍も同じく40%、ってことは弓が20%かな
東軍7万、西軍8万としても、8万挺あったら装備率もっと
高くなるが・・・
>大坂の陣の伊達家の鉄砲装備率は60%超
伊達軍1万8000人に対して3000ちょいだから、6割も無いよ。
「馬上・鉄砲・槍・弓」だけの合計に対しては6割ぐらいだけど。
関ヶ原の話と並べると誤解されそうだぎゃ。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 03:13
198 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 03:43
↑
だからそんなに便利な弓を減らしてまでなぜ使いづらい鉄砲を増やしたのか、ってことなのだが。
ほんとに使いづらければ、の話だが。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 04:06
191 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 04/08/15 01:43
>>189 なぜ弓よりも射程が長く威力があると言えるのかと(ry
命中精度は、現代のライフル銃と比較して劣ることはありません。
弓よりも簡単に扱えるので、慣れればシロウトでも、すぐに撃てるようになります。
現代人でも訓練すれば、1分間に3〜4発は撃つことができます。
(「国友鉄砲研究会」の方のお話より)
はぁ・・・お前過去ログ嫁よ
弓は使いこなせるようになるために、かなりの訓練期間を要する。
一方火縄銃はコストはかかるものの、弓に比べれば遥かに短期間で養成が可能。
よって、すばやく飛び道具をもつ部隊をそろえる事が出来る。
これってものすごいメリットじゃね?
ちなみにヨーロッパではそんなに普及してない。
射程短い、威力ない、扱いずらいと3拍子そろっちゃ、そりゃ使えないだろ。
本格的に使用されだすのは、ライフル銃を待ってから。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 07:36
>>203 でも野戦では使い物にならん
・・・と175先生はおっしゃっております
だからね、言ってるの
日本の特殊な環境が火縄銃に適していたからこそ、こんなに流行ったんじゃないの? って
地形が複雑だから、引きこもり戦法が使いやすかったんだろ。
っていうか知りたい。引きこもりじゃない連中はどういう運用の仕方されてたわけ?
せいぜい陽動に使えるぐらいじゃないの?
>>203=204=206=175でつ
名無しがいいんだけどなあ…。好き勝手言えるし…。
陣地作って、容易に入って来れないようにして、その中から撃つ。つまり移動できない。
これって野戦では運用にかなりの制限が出ないか?
他の運用の仕方だ有ったのなら、教えておくれ。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 08:12
>陣地作って、容易に入って来れないようにして、その中から撃つ。つまり移動できない。
これのソースは?
どの辺のソースが欲しいの?
移動できないってトコ?
まあ出来ない事はないだろうが、また陣地作り直さないといけないし・・・。
>196
確かに両軍あわせて15万人で8万丁だと計算が合わないように思えるけど
1人1丁ってわけではなく予備の鉄砲の事も考えないといけないと思う。
鉄砲隊300人いれば予備含めて330丁保持なんてのも常識で考えられる
余剰兵器を他の大名や他の部隊に貸したり、あげたりはしなかったと思うし。
伊達に関してはそうですね、装備率といっても何をもっての率なのか
軍勢数にしても純戦闘員だけの数なのか、基準がはっきりしていないけど
結論としては野戦において鉄砲の重要性は高かったのだけは確かだと思います。
>190
>湿度による火薬の特性の変化
火薬は非常に危険かつ重要なものだったので
保存方法や品質保持には細心の注意を払ってる
>天候などから火種の保護
硝石を染み込ませた水火縄が発明されて土砂降りでない限り使用可能
銃身に小さなテントをつけたり、陣笠で雨防いだりいろいろやってる
>発射時の煙による視界不良
煙によって視界は多少悪くなるだろうけど敵の来る方向や気配、騒音
一寸先も見えない状況ではないわけだから許容範囲
>機械的、材質的信頼性
初期の火縄銃ならそうかもしれないけど戦国末期だと製造方法、操作方法等
完成されてて品質も揃い信頼性も高かったはず
>加熱による銃身の磨耗とそれによる射撃機会の制限
加熱した砲身を冷やすために土をかけて冷やしたりしてたし
戦闘の最初から最後まで連続して撃ったわけではなく
敵が寄せてきた時に連続使用したわけで、それほどのデメリットではない
>調合材料を輸入でしか賄えない
確かに硝石、鉛なんかは輸入に頼ってたけど各地の戦国大名は
相場に関係なく争ってこれらを求めてたわけで、利に聡い商人は
あらゆるルートで輸入してきてたと思う。交易は盛んに行われてたし
>全般的に高価
安くてあまり効果のない兵器を買い揃えるくらいなら
多少高くても有効な兵器を少しでも集めるのは常識
>整備に高度の知識が必要
現在の兵器のように複雑ではない。専門の修理工もいただろうし
最低限の整備はすぐに習得できるはず
人間は不便さや改良する余地を見つければ様々な創意工夫をして
使いやすいようにしていく。まして自分の生命や大事なもののためなら特に。
人間を甘くみてはいけない
216 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 14:51
>>202 ライフリングがあるのと無いのとでは、全然精度が違うが・・・・
銃身を完全に固定してさえたかが数十メートルの距離で着弾が
何十センチもバラつくどこが劣らないんだ?
>>204 ライフル?
マスケットはヨーロッパで戦術の中心になったわけだけど。
>>208 横隊戦術ぐらい調べようぜ。
>>202が嘘を書いているのでなければ、「国友鉄砲研究会」の連中って、
脳みそがふがしでできてるに違いない。
>>213-214 >保存方法や品質保持には細心の注意を払ってる
結局扱いづらい
>土砂降りでない限り使用可能
天候に左右されてる
>小さなテントをつけたり、陣笠で雨防いだり
対策によって荷物がかさばっている
>許容範囲
大部隊によるめくら射ちなら効果を得る可能性はあるけど
小部隊による精密射撃にはマイナス
>品質も揃い信頼性も高かったはず
少なくと戦国末期になるまでは粗悪品ということに
>敵が寄せてきた時に連続使用
銃身加熱したときに敵が引いていき、冷えたころに敵が攻めてくる?
敵が攻めつづけてるころには銃身加熱の可能性なし?
>交易は盛んに
戦国初期は大内氏の独占、時代が下っても有力商人の寡占
>多少高くても
サイトなどで調べると初期の種子島で2億円程度、普及モデルで
数千万、大量生産ころにようやく50万程度
>最低限の整備はすぐに習得
製造方法は一子相伝というくらい厳しいもので、ちょとした
故障でもその戦いでは使い物にならなかったんでは
結局火縄銃は手に入れるまでから手に入れた後でも大変な努力が要るわけで
「厄介なしろもの」には違いなかったと思う
一番偉いのは先見性を持って使いつづけた大名であったかもね
なんだかなあ・・・
反論が幼稚すぎる
>一子相伝
それはないだろ。
>>215 有効射程50メートル、発射間隔20秒の火縄銃で横隊戦術?
本当かそれ?拳銃と同じで超至近距離の相手しか狙えないと思うが・・・。
さらに、弓と違い水平発射・・・すなわち前に守備隊を配置出来ない。
むう・・・納得いかん。
>マスケットはヨーロッパで戦術の中心になったわけだけど
繊細キボンヌ
どのような使われ方してたの?
>>219 俺もそう思った。
目先の反論に終始した挙句、結論がスレの流れから遊離してるし。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 16:30
火薬ってどうやって保存してたんだろ。
木造建築の多い日本はめんどそうだな。
石倉とかか?
横隊で精密な狙い撃ちはしないだろ。
マスケット兵は槍隊に守られる形で隊列の中に入れられていた。
最初は槍が主で、時代が下るにしたがって銃兵の割合が増え、
銃剣が発明されると槍隊は隊列の中から姿を消した。
隊列も、槍兵中心のときは方陣(ないしその変形)で、銃兵が増えるに従って横に広がった感じ。
日本の戦国時代とは明らかに運用が違うと思われ。
アメリカ独立戦争の時のイギリス軍はまだ横隊戦術使ってたね
226 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 17:00
>>221 拳銃なんて、50メートルも離れたら使いものにならんぞ。
火縄銃は50メートルなら狙いは付けられる。
>221
ttp://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/keitai1.html 映画なんかだと、敵味方、横数列に並んだたくさんの銃兵が100メートルくらいになるまで
歩きながらゆっくり近づいていく。適当な距離になったら停止。
指揮官の「構え〜」の声で射撃用意
「撃て!!」の合図で一斉に射撃
その場で先込め銃の掃除、玉込め等の射撃準備
再び指揮官の「構え〜」
以下繰り返し・・・
当然、撃たれて負傷、戦死する兵が出る。
空いた戦列にはすぐに後ろの列から兵がでて埋める
大体、数回射撃し合えばどちらかの軍が士気喪失して敗走
確か、こんな感じだったと思う
戦国期での使われ方はまだ少数しかない
ことを考えても狙撃にあったとおもう。
長篠なんかでも攻め寄せる雑兵を狙うよりは敵の指揮官を狙い、
火縄銃自体の性能や射手の資質がよければ少数でよかっただろうけど、
やはり信用が置けないので20とか30を一まとめにして射撃し
指揮官が怪我や死亡して指揮をとれずに
部隊が混乱してるところを長槍などが追い払ったではないかな。
だから煙とかたちこめるとちょっと困ることになるのだけど
海戦なんかでも主砲を打った後の煙で狙いをつけれなくて
視界が開くまで打てないということもあったらしいから、
案外煙を拡散させるために大団扇隊なんかいたりしてね。
そりゃ少しは狙うかも知らんが、普通は一番迫ってきてる奴を撃つんじゃないか。
それに一分間に数発の火縄銃じゃあそこまで濃密な煙にはならないと思う。
>>229俺がへたれ銃士だったらビビッて先頭のヤツ狙うなw
それを敵指揮官だけ狙わせるのは、味方指揮官の統率力とか、護衛的な兵の運用次第かと
>228
確かに乱戦にまぎれて狙撃するのもいただろうけど
鉄砲は高価だったから逆に狙われそうだ・・
売ればいい稼ぎになっただろうし
当然、馬に乗ってたり派手な格好してれば鉄砲の狙撃の的にもなるし
手柄立てようとして敵兵も集まってくるだろうね
大団扇隊がいたっていう話は今まで聞いた事がないけど
そういうアイデアを出してやった人がいてもおかしくはないね
逆に記録に残ってないだけであったかもしれない・・
なんにしろ、そういう発想って好きだなあ。少し感心した
232 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 22:16
>>平筒(スムースボアのライフリング無し)でオープンサイトで
撃った散弾銃の一丸(一発弾、スラグ)と射程、精度は
同じようなもんだと思いますよ
銃身傷むからやりたくはないけど黒色火薬詰めて撃てば
よく似た感じになるんじゃないかと
火縄銃の場合は口径が大きい為反動がかなりあるように思います
射撃の際の銃口の跳ね上がり防止にあんな先の重そうなバランスで
撃ったんじゃないかなぁと想像します。
銃床を肩付けせず頬付けだけで撃ってますが、やはり笠で雨よけるために
顔のそばに火縄が無いと都合が悪かったのかなぁと思います
なんで異人を皆殺しにして、奪わなかったんだろうね。
元々流れ着いた船の船員なんだから、咎める人間も居ないし……
それが日本人さ。
これが某国人なら、そうはいかない。
きっと南蛮人達は皆殺しにされて、略奪されるに決まっている。
237 :
乾燥させた竹:04/08/16 10:51
竹束で防げるじゃん。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 10:56
はて、平戸あたりで略奪してたやつがいたような。
関ヶ原後に九州南部で中国船略奪してたのもいたような。
っていうか、わざわざ外国まで出かけて略奪してたのもいたような。
あ、これが日本人か。なるほど、危険だ・・・。
PROJECT X 種子島〜火縄銃の国産化に挑む
鹿児島の南に屋久杉で有名な屋久島があった。
その隣に南北に伸びた島がある。島の名前は「種子島」
いまから四半世紀前日本全国の大名を魅了した、
画期的な兵器がここでつくられた。
1543年ポルトガル人が乗った船が島の港に漂着した。
この時、島の領主は異国人が持っていた見慣れない
鉄製の筒に興味を持った。
離れた場所に的を据えると、筒を構え、少しの間の後
突如筒から火が吹き、轟音が響きわった。
遠くの的が壊れていた。みな度肝が抜かれた。
領主は言った「ゆずってください」
ポルトガル人は二丁差し出し、対価として一丁につき
千金もの大金を支払った。
二丁の鉄筒を手に入れた領主は島の鍛冶屋に一丁与え
「同じもを作るように」と静かに命じた。
半年後出来上がった鉄砲は数発撃つと使えなくなる欠陥品だった。
「もっと完成度の高い鉄砲を作ろう」
これは未知の兵器を研究し普及させた男たちの物語である。
>>239 教育上よろしくないストーリーになりそうなので却下。
屋久杉より種子島のが有名な気がスんだが
つーか屋久杉って有名なの?聞いたことないんだが
243 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 14:35
>>233 熟練しても機械的な精度で既に劣るんだけどなー
着弾を事前に予知できるとかなら別だけど、銃身を固定してすら
着弾がバラつきまくるのに、どうしてライフルに負けないと
言えるんだろ・・・・
そりゃ的までの距離が10メートルとかなら大した差はでないだろうがw
戦国時代は、火薬の燃えカスがこびりついてしまうために銃身ピッタリの
銃弾はすぐに使えなくなってしまったため、だんだん小さい銃弾に
していくのが射撃の極意とか言ってたんだよね。
口径より小さい銃弾ともなったら、命中精度はさらに落ちるし。
>実際、距離は不明だけど糸で吊るした針や銅銭を百発百中で
>当てた名人も戦国時代にはいたっていう話もあるし
いちいちマジメに受け取ってたらキリが無い。
>常識で考えれば性能が悪い兵器が後年に作られて普及するはずはないんだし
少なくとも、燧石式なんかよりは火縄銃は命中精度は上だな。
発射時の上下振動が少ないから。
>243
>少なくとも、燧石式なんかよりは火縄銃は命中精度は上だな。
>発射時の上下振動が少ないから。
引き金を引いてから弾が発射されるまでの時間が違うから、
実際は燧石式の方が命中精度は良いそうな。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 15:11
バーン
>244
逆だと思う
火縄のほうが発射時は安定してて引き金も軽い
引き金を引くと同時に玉が発射されるのは火縄のほう。
燧石式は発射時の衝撃が強いのと引き金が重いので精度は実は悪い
ヨーロッパでは燧石式が登場した後も火縄銃を愛用した兵が多かったらしいよ
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 15:37
特にヨーロッパの火縄銃は、日本の毛抜き金を使う方式と違って
火縄が本当にポトッって落ちる感じだからね。
>243
ちゃんとレス読んでくれてる?
別にライフルよりも火縄の方が一般的な精度が高いなんて言ってないし
ライフルに負けないくらいの自負があるんじゃないか・・
としか書いてないんだけどなあ。
その負けない距離っていうのもおそらく50mくらいなものだろうし
別に火縄擁護でもライフル批判でもなく
ただ名人芸ってのは目の前でされても信じられないような
驚くべきことをいとも簡単にやってのけたりするから侮れないよ
50mでのグルーピングが50cm・・・
命中率がイマイチとされるAK47でさえ100mで30cm。
このレベルだと撃っても当たらないと言われるのに・・・
兵隊に密集陣形させないと駄目なわけだ。
>>249 マスケットは100メートル離れたら物置小屋に当たるかどうかっつー
話だから、大して驚くことじゃないよ。
だからこそマスケットは横隊戦術で運用されたんだけど。
56センチにつき一人の幅で並ぶ、超密集横隊。
日本の戦国時代はそんな戦術も用兵も無いけど、50メートルで
50センチなら狙撃の役には立つな。もっと近い距離なら。
もともと弓は有効射程80メートル、狙いの付けられる距離30メートル
ってところだから、火縄銃でも役に立つさ。
殺せなくても当たれば怪我するし、一人が怪我したら二人がかりで
後方に連れ帰るから事実上三人減らしたのと同じだし。
その代わり、個人の腕が必要だけど。
火縄銃が長弓に訓練の容易性の点で圧倒的優位があるのはよしとして、
同じく訓練が容易なクロスボウと比較した場合は評価はどうなるんだ?
クロスボウは素人でも簡単に的に当てられる点で火縄銃に勝っているんだが。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 19:24
クロスボウて日本にあったんか?
クロスボウ・ボウガン・・・イシユミとかかな・・・古代はあったよね
なぜ廃れたのかは知らないが
>>252 中国から弩が伝わっていたと思うが。
手元の資料によると、弩の来た当時の日本では射出武器は引きつけて使うのが主だった為、
装填時間がかかり、値段も鎧並で馬鹿高い弩は流行らず廃れてしまったらしい。
なんか弥生時代にはすでに弩は伝わってたみたいだね
元寇の時にも弩の威力を思い知らされ、鹵獲もしたはずなのに
全く流行してないし、ちょっと不思議
篭城戦には威力発揮しそうなんだけどなあ
>256
連発するという点で弓に劣るし、殺傷力では鉄砲に劣るからでは?
日本に弩作る材料or技術が無かったってのはないか?
日本には、洋弓とかモンゴル弓に使われる、強い動物の腱なり金属がなかった(作れなかった)んで
和弓はドデカいサイズの木で作るしかなかったようだし。
弩も作るの大変だったんじゃない?
兵器判定条件として重量、利便性、射程、殺傷力、価格、生産性かな
これで比較すると
火縄銃 弓 ボウガン(弩)
重量 重い 軽い 重い
利便性 簡単 難しい 難しい
射程 長い 短〜長い 長い
殺傷力 ある 射手による ある
価格 高い 安〜高 高い
生産性 難しい 簡単 難しい
弓系は風の影響や狙いのつけ方が特殊なんで
銃器の狙いが直線で良いというのがでかいと思う
後は引きしろに力が要るのがマイナスかな
日本と中国や西洋を比較してもあまり意味ないと思うよ。
そもそもすべての国がすべて、全く同じ編成のもとで運用できるわけじゃないんだし、
それに日本は全ての鉄砲を一箇所に集中させた運用なんか難しいと思うよ。
各々で軍役を課された家臣が個々に運用するのが一般的なんだから。
たとえば西洋などは鉄砲と同時に火砲も普及してるから、その点だけをみても
日本の運用方法とは少なからず隔たりがあるし。
↑意味ないと言う割には、運用方法という点で西洋と日本を比較してるわけだが…
それで結局火縄銃はどのような使われ方してたわけ?
横隊戦術は使われてないんだよね
>>262 武器として使用された。
弾込めて、敵に向かって撃つんだよ。
当たったら結構痛いらしい。
やったことないけど。
ちなみに、ソースは脳内。スマソ
>262
実際に鉄砲の集中使用ができるようになるのは
兵農分離や領地替えによる支配力、権力の強化が関係してるんじゃないかな
それまでは諸豪族の上に座らされてる立場であって、
配下の持つ騎馬、鉄砲を抽出させることは実質不可能だったと思う。
それと当時は金で雇われて全国の戦場を渡り歩く傭兵集団や浪人衆
山賊、海賊などの無頼集団もこぞって戦争に参加してたから
それまでの経歴や鉄砲保持数なんかは高く売り込むためには有利だったのでは・・
とくに鉄砲を扱う傭兵で言えば雑賀衆、根来衆なんかが御存知のとおり有名で
数百人単位の熟練鉄砲隊を各地の戦場に派遣してたのは
よく知られてるし「雑賀を制すものは全国を制す」って言葉なんかも残ってる。
各地の大小の鉄砲集団が戦国後期に各大名に吸収されてそれを核に
したり独自に作りかけていた鉄砲隊に加えたりして専属の鉄砲集団をどんどん
大きくしていったんじゃないかと推測してみる。
ヨーロッパで言うところの横隊戦術はなかったと思う
なんか誤解されそうだから補足しておきます。
横隊戦術の定義を横一列に整列した銃兵が指揮官の号令に従って一斉に射撃して段幕を張る
というものならばあったと思います。
でも、数回の銃撃の後、鉄砲足軽が抜刀して突撃ってことはなかったのではないかと思う
まだ兵種が統一されてなかったのが理由
真の意味での横隊射撃は明治維新の時なのかな・・
ちょっと自信がなくなってきたけど、意見、反論plz
映画の「パトリオット」で初めて横隊射撃を見たんだけど
なんかモッサリした戦い方だな〜ってのが感想
時間のある方は雰囲気がつかめると思うのでお勧めです
長篠にしても、信長が集めたのは有力武将個人の旗本鉄砲であって、
それより下の階級には支配力が及んで無い。だからたったの1000挺。
>>265 >横隊戦術の定義を横一列に整列した銃兵が指揮官の号令に従って一斉に射撃して段幕を張る
>というものならばあったと思います。
横一列ってのがどのくらいの横一列なのか?
戦国時代では小隊ごとの指揮権が強すぎるから、小隊ごとってこと?
それだと横一列にはとてもならんけど。
平地にただ無策に横一列に展開したって、蹴散らされるのがオチだと思うが・・・。
近代式な軍事訓練なんて及ぶべくもない戦国時代じゃ、整然とした行動なんてとても不可能だったろうし。
土塁や馬防柵で敵が足止め食ってるところを、狙い撃ちが基本だったんじゃない?
>>267 >平地にただ無策に横一列に展開したって、蹴散らされるのがオチだと思うが・・・。
そのとおり。
単発式の先ごめ銃で連射のきかない鉄砲という兵科を単体で運用するのは危険
が大きいから、そんな運用はしないと思うよ。
鉄砲も普及が進んでくると普通に軍役として課されるようになる。
そうなると、敵味方ともに、重臣各々に属する各被官麾下の楯、鉄砲、そして支援
攻撃としての弓を装備した各兵が前進しつつの射撃戦を展開し、距離がつまった
ところで順次に白兵戦に移行していくのが基本のはず。
>>266にある
>戦国時代では小隊ごとの指揮権が強すぎるから、小隊ごとってこと?
とあるように、ある程度の足並みを揃える必要性はあると思う。
兵農分離なんてほとんどの地域じゃすすんでいないし、大名どころか重臣やそれに
属する被官連中だって損失は最小限に抑えたいのが普通。
映画やらのように、長大な横列斉射に対して突撃なんて無謀もいいところだろうね。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 12:16
喪前ら一行でまとめてよ
>258
おお、複合弓ってやつか。
牧畜が盛んでないと動物の腱の入手は難しそうだな。
そー言えば、日本のように湿気の多い環境だと複合弓はすぐに駄目になるらしいな。
DQNがカルガモ撃つのに使うよーな、ハンドガンサイズのクロスボウならともかく
射程距離の必要な戦争用の弩弓となると、弦を引くだけでも大変では?
275 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 15:30
兵農分離は実際はそんなに進んでなかったらしい。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 16:25
その分、糞スレ化しやすくなるけどな
存在しなかったとも言われてる三段撃ち戦術について思ったんだが
三人一組で撃ち手がローテーションするよりも銃だけローテーションさせた方が効率的じゃね?
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 16:41
>>278 撃つ人辛すぎ。
火傷に鼓膜やぶれる。
鬼だね。
このスレに書き込みしてて一番重要な事忘れてた
火縄銃の一般的評価とかこのスレの人の評価聞いてなかった
俺は威力はあるけど使いづらい兵器って評価なんで過大評価はしてないです
282 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 20:09
西洋という夢の国から来た新兵器。
あたったらすごく痛くて、鉛玉ひとつで有名武将もコロしちゃうよ!
やはり射程距離の差じゃない?
半弓ならともかく、鉄砲と互角に撃ち合える程の大弓となると
正規の訓練を受けてない人間にはとても扱えないだろう
>281
俺的には
火縄銃の弾に当たるより弓で射られるほうがはるかにマシ
285 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 22:18
現在の信長像は江戸時代に創作されたものがほとんどで結構間違いが多い。
長篠合戦時の合戦屏風絵図も江戸時代のもの。合戦後しばらくして描かれた有海原合戦屏風図がある。
織田家なのか徳川家どちらかに臣従した土豪が描かせたもので従来の長篠合戦とはイメージが程遠い。
馬防柵はあるものの内側には射場などなく交通壕にこもった弓所勢ぐらい。
肝心な鉄砲隊は丘陵に上・中・下の三段に交通壕を開削し壕にもたれかかるように射手を配置した事が伺える。
主将・幕僚は陣城中央くぼみ部分の大安全の場所に指揮所を設営。従来から言われている主力鉄砲戦ではない。
この絵図をみると信長は鉄砲主戦論者ではないような気がする。
>>283 結局はそこなんだよね。
投石にしろ、弓にしろ鉄砲に比べると必要なスキルが高すぎる。
練兵する手間を考えれば 弓 < 鉄砲
威力に関しても鉄砲は射手に左右されることが少ないから戦力として計算しやすい。
また長スレになってきたよ
>>285 かいつまんでどういう内容?読む気おきねぇ
要するに
鉄砲を何よりも重視していた信長像は後世の創作だってこった。
というか、七行くらいで音をあげるなよ・・・。
鉄砲=高価つう事で
鉄砲を沢山持ってる=権威の象徴だったのでは?
弓と比べての戦場での利便性どうこうより、鉄砲鍛冶と大名商人が仕掛けた当時の流行ムだったと妄想してみる
日本刀じゃなくて、長槍が最強じゃないのか?
槍衾を作って前進すれば、相手も易々と近づけないかと。
だから弓や鉄砲で遠くから撃つんだろうっと。
そりゃそうだ
古代から戦争の主役は飛び道具。
飛び道具で逃げる敵を捕捉することはできないけどね。
逃げる敵を追いかける時こそ、安全にチャンバラをやって
手柄を稼ぐチャンス。
何かで読んだけど戦国時代の戦の基本は
矢が尽きるまで撃ち合い→長槍の槍襖で殴り合い→陣形が崩れ、離散して逃げる敵に騎馬で接近&下馬して槍で攻撃
→槍が折れたり、敵の首を斬る際に初めて刀登場
ってな感じだと書いてあった記憶がある。
刀は戦に使うものではなく、護身のための物ってことだな。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 04:39
刀がメインウエポンでなかったのは事実だろうね。
現存する当時の武器で最も多いのは刀だそうな、
それだけ使う機会が少なかったとのこと。
鉛剥き出しの火縄銃は有効射程距離は短く貫通力も低いが、殺傷力は強烈だろうな。
>>298 刀は使う機会が少ないっていうか使う場面が違うんだろ
当時は暗殺やら追い剥ぎやらなんて当たり前の時代だから自分の身を守れる事が重要だったろうからな
槍=戦場での主武器。刀は補助もしくは首斬り用
刀=平時の武装
刀ってのは、今でいえばハンドガンみたいな感じですかね。
開きそうな気もするがきれいにはいかないか。
軍隊の科目に刀剣に関してはなく、
かろうじてナイフ格闘術があるぐらいだから
あながち十徳ナイフが間違いとはいえない。・・・か?
刀として武器の原型をもとめると石器時代をぬかして
青銅器で前4000〜2000年から材質は違えども
武器としての用途は同じ物を使いつづけてる。
銃はというと火薬の発明は紀元前から3世紀くらい
のあいだで黒色火薬が、武器としては
10〜13世紀ころの宋の時代に始まったといえる。
日本の影響元で考えると刀は殷の時代の、
銃は宋の時代のテクノロジーを使った改良版なわけだが
ちょっとあんまりなきがするな・・・
これを超えるテクノロジーは原子力やレーザーになるのかな?
しかしそれなら、なぜ使いもしない刀をみんな携帯してたんだろ。
あれって結構重いんだよね。
戦場って余計なものを持っていける程あまくないんじゃないのか?
持ち物は1グラムでも軽く・・・刀邪魔じゃん。
>308
ズバリそのまま、携帯用の武器だったからじゃないのかなあ
帯に差しとけばいいんだから両手が空くし
>303-304 さんの言うような例えで考えても
持ってるのと持ってないのとでは戦闘力は雲泥の差があると思う
100年も経たない昔でさえ、40kg近い荷物と銃を担いで1日中行軍してた
軍隊もいるわけだから、多少重くても不思議ではないような気がするけど
屋内戦闘や白兵戦、斬る事も突くことも一通りできる一種の汎用武器なわけだし
でも、ふと疑問に思ったんだけど槍隊、弓隊、鉄砲足軽ってどのていどの
刀(太刀、脇差)装備率だったんだろうか
実は案外、持ってなかったりして・・
武士の魂の象徴になった江戸時代以降とは違ったかもしれないな
なんかあまり意識していない人間がいるけど、戦国時代の功名心ってのを念頭に
おいていない人がいる。
戦場での一首一級が昇進に繋がるから、どんな雑兵でも必死になって首を求めるし
そのための刀は持ってたといわれてる。
刀は、甲冑武者には有効性は低いけど、首を掻く際には必須な武器。
だから刀の装備率は高いはずだよ。
現代の戦争とは異なり、当時は現物での物証と書面申告が重要だから、首や鼻・耳を
得ない事には出世にも手当てにも繋がらない。
>310
意識してないわけじゃないですよ
首取りの道具≠武器 かなと・・
戦場の主力武器が遠距離の武器ならば槍、弓、鉄砲を扱う際に太刀を腰に差してると
邪魔になるんじゃないかなと思ったんです。
重傷や瀕死の敵の首を取るだけなら小刀みたいなもんでもかまわないしだろうし
あと、恩賞がもらえるほどの首に一介の雑兵がありつける機会って
かなり少なかったんじゃないかと思うんですよね
何のための小者や太刀持ちかと・・・・
313 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 11:01
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1090124419/ 568 :ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/08/09 00:28 ID:???
>566殿
最小戦闘単位は、武士を中心に、数人の侍と中間・下人といったものになるようです。
武士一人(大抵は自分の馬を持つ。貧乏だと馬無し)に侍が1〜2人、中間・下人が2〜3人という構成
になります。
侍は武士に雇われた(主従関係を結んだ)兵士なので、力のある武士なら、当然侍の数が多くなります。
中間(“ちゅうげん”と読む。武家身分と一般人の中間身分という意味らしい)や下人は、馬の世話や荷物運びをする、
武家そのものや侍に雇われている人間です(武家奉公人)。
ですので、貧乏な武士は侍一人だけしか従者がいなかったりしますが、大体騎馬武者一騎に侍・中間などの従者が5人
ほどいたようです。このうち、武士と侍が武家の構成員(武家身分)で、正規の兵士となります。中間や下人は、身分的に
戦闘員とはみなされず、後方支援が主な任務ですが、当然戦闘に参加することもあります。(武器は自衛用の打刀1本のみ
だったりしますが)。
ちなみに、平安〜南北朝期の頃の身分体系だと、侍も補助兵士であり、あくまで武士のみが正規兵になります。
戦国時代中期以降は逆に、中間も積極的に戦闘員として扱われるようになります。(でも身分的には非正規兵…)
>>310 んにゃ、組織戦が重要視されてくると、
雑兵の手柄は個人の手柄ではなく、組全員の手柄とされるようになったらしい。
功名心のために刀を持っていたのとは違う。
単に首を狩るだけなら小刀なり小柄なりで十分。
刀を持っていたのは単に様々な用途に使える便利ツール+護身武器だったから。
>315
ww2の日本の航空隊と似てるね
それよりも、鎖鎌を戦で使った人っていないのかなぁ?
扱いが難しいのが難点だが乱戦になれば、かなり強そうな気がするんだが
捕縛・捕縄として使うことはあったかもしれないが
振り回されたら味方としては迷惑な話だ
織田軍団さらにそれを引き継いだ秀吉軍団は
鉄砲の数も運用もたいしたことはなかった。
また秀吉軍団には途中から毛利軍団も加わって
各地へ転戦するわけだが、毛利も織田以下の
有数の飛び道具後進国であった。
大大名の中で最も劣る連中で天下統一が成されたのは面白い。
>321
信長が鉄砲をあまり持ってなかった・・という仮説は前にも出てて
ソースもあったけど、秀吉もそうだったの?
時代が違うから素直にうなずけないなあ。
なにか資料とかあるの?
あと、秀吉軍団に毛利軍団が加わって天下統一って
なんか意味がよくわかんないぽ
とりあえず、本屋バイトの身分をいかして
新刊の『戦国鉄砲・傭兵隊』を買いました
798 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/23 13:51
(略)
秀吉はしょせん織田家の陪臣でいればよかったのだ
ちなみに関白秀吉軍の主力は旧織田軍の一部と「毛利軍団」である事実を見逃してはならない
803 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/23 16:05
(略)
対島津戦なんか、その両者が主力だもんね。
主力でない四国勢は別働部隊であぼん。
805 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/23 16:59
>>803 だが、朝鮮出兵では、毛利は秀吉にいいようにこき使われた。
実に全兵力の25%以上を毛利兵が占めていたと言う。
毛利家にとっては厄災だったろう。
そこで仙石秀久と安国寺ですよ
327 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 21:00
>>315 足軽(農民兵)の場合、ほとんどが隊ごとの行動だったろうし、
上からの命令をこなすのみで個人的な功名心やそれを実現する
機会はほとんど無かったんだろうね。
足軽が戦闘で大将首や兜首を取った話を聞かないのもそのためか。
>>320 俺、以前外国の博物館いってサーベルに小銃ついたものを見た事があるよ
追記
>324
秀吉の九州征伐、朝鮮征伐は確かに毛利軍関係が主力だけど
この前者に出兵したのは中国、四国の大名達、後者は西国の大名達
ようするに戦場に近い地域の大名が動員されたってこと
当時の習いで新しく服属した者は犠牲が大きい先手を務めるのは常識だし
秀吉もまさか長宗我部が主力の四国勢が敗れて手こずるとは思っていなくて
太閤の威光に打たれてすぐに降参するか、鎧袖一触で打ち破れると考えてたんじゃないかな
しかも毛利は120万石以上の石高を持つ西国では飛びぬけた存在で、貿易で懐も豊か
石高ごとに平等に兵を出させたとしても全軍の25%は異常な人数ではない気がする。
秀吉が毛利の力を削ごうとした狙いもうかがえる
一方、小田原征伐は東国の大名中心、徳川、上杉、前田が主力で戦ってる
しかも東国の武将は朝鮮征伐にはほとんど渡海していない
331 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 21:40
個人的には長篠から長久手・九州あたりまでは
極端に増えたってことはないと思う。
単なる数量でなく運用とかも考えて。
>331
ちょっと大袈裟な表現になってしまいましたね。すみません
国友、堺の主要な鉄砲の製造地区を信長時代と同様に支配してる点
鉄砲製造能力の増加、交易で輸入される数も考えると
他の地方大名と比較すれば多数の鉄砲を保有していたのは間違いないと思います。
それに信長配下だった鉄砲頭を何人も家来に加えてる上に鈴木重朝など
外部からもどんどん組み込んでる
優秀な鉄砲頭を加えてるということは鉄砲の数も去ることながら
運用の面でもかなりのモノじゃなかったのではないでしょうか
>>331 横レスすまんが、天正9(1581)年制定の明智家軍法では
1千石取りで軍役32人、内鉄砲は5挺用意する旨定められていたらしい。
ちなみに、この軍役率を長篠合戦の通説3万2千人に当てはめると、織田軍の鉄砲保有量は
5千挺という計算になる。
もっとも、これは六年後の数字だから一概には言えないけれど
それでも、もし仮に長篠での鉄砲保有量が1500挺だったとすれば
六年間で鉄砲保有率が2.5倍になっている計算。
長篠は浮いてる鉄砲をかき集めただけで、
織田家・織田家臣の配下にある全ての鉄砲が集結したわけではないよ。
信長公記だと1,000丁、通説だと3,000丁
すべてではないにしろ、可能な限り集めたことは間違いなくて
当然、鉄砲傭兵も雇ったんじゃないかな
>>335 信長公記の記述では、鳶の巣山攻撃に馬廻りの鉄砲5百丁を参加させているから
最低でも1500丁はあったということになる。
家康の鉄砲数は?
>>336のサイトの桶狭間についてなんだけど
大田牛一が書いた信長公記によると奇襲ではなく正攻法で今川義元を討ち取ったと見るのが有力
ってことだけど、いくらなんでも無理がねえ?
いくら兵の訓錬度や士気に差があったとしても逃げる間もなく攻め進めるとは考えにくいんだが。
むしろ、信長公記自体が脚色された部分が多くて歴史書としてはあまり参考にならないんじゃなかったっけ?
多分、奇襲で勝ったと書くより、正攻法で勝ったと書く方が格好良いし、強そうに見えるから
そう脚色した可能性のほうが高い希ガス
勿論全てを鵜呑みにして良いわけではないが、
信長公記は比較的信憑性が高いと言われている。
桶狭間は、正面攻撃が結果として奇襲になったという話だと思う。
「正攻法」が、開けた場所に整然と布陣して向かい合うという意味ならば
「正攻法」ではない。
>>340 でもさ、普通に攻め込むだけだったら、いくら攻め進んでも義元を斬らない限りは敗北だよね
むしろ、敵陣深くに攻め込んじゃった方が帰れなくなって全滅必至になる
だから当然、信長には義元を斬る勝算があったから、攻め込んだということになるよね
となると、迂回したかどうかは知らんけど、信長の意識としてはやっぱり奇襲だったと思うんだよ
まとめると、(迂回しなかったと仮定したとして)結果奇襲になったのではなく
真っ直ぐ攻め込む事が奇襲になると踏んで攻め込んだのではないかと
桶狭間に関しては、明石散人の『二人の天魔王 「信長」の真実』の説が、面白かった。
所謂トンデモ本のたぐいに類するのだが・・・。
彼の説に寄ると、信長は義元に降伏の書状を出しており、桶狭間の奇襲は降伏に見せかけた騙まし討ちだったと・・・。
義元は信長を見て、寧ろ快く出迎えたとか・・・。
事の真相はともかく、信長の特徴を捉えてるとは思う。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 04:45
>>333 1000石なら55人で5挺だぞ。光秀の軍法ちゃんと読んだか?
>>342 数千の軍勢を引き連れて突進してくる降伏者はいねえ。
>323
なんか面白そうだね。今日ちょっと本屋のぞいてみよう。
信長がらみで面白い本を自分も紹介
学研M文庫の「織田信長と明智光秀」 加来耕三著
少し信長の見方が変わるかもしれない。
長篠に関しては従来の説だけど、なかなか良い本
加来耕三、同じネタで本出し過ぎw
347 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 19:43
気になるが、織田が「鉄砲の運用能力」を
他家から恐れられたりした様子とかはあるのか?
>347
ないんじゃないなあ
雑賀、根来の鉄砲傭兵を敵にするとヤバイけど
349 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 21:20
桶狭間といい、長篠合戦といい、信長の戦争は真実がよう分からんのう・・・
>>348 国友での量産がなった際には攻め込まれた
351 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 05:34
>>344 そこに乗ってる軍法にも、ちゃんと100石につき6人と
明記してあるわけで。
1000石なら60人、しかし馬上は二人分と数えるので55人。
装備の規定があるのは32人だが、それで全部ではない。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 00:10
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 12:55
雑賀が攻め込まれたのは、鉄砲の量産とかは関係ないよ
>>355 後半、枠の中の解説んとこが無茶苦茶だな・・・・
>>356 大坂の左右の大将といわれたのは「鈴木孫一」なんだけどな・・・・
雑賀孫市は後世に作られたキャラクター・・・・
思うに火縄銃よりも大筒のほうが過大評価されてないか?
大筒は日本ではそれで戦術が変わったとか歴史が変わったとか築城が
変わったとか言われて無いけど。
大筒は作るのが大変だし鉄砲の何百倍も高価だし。
大砲は青銅で鋳造するノウハウが日本にはほとんど無かったし。
大型火器は結局あまり普及しなかったから、過大評価も何も。
ヨーロッパだと大砲普及後には明確に築城に変化が出るけどね。
雑賀衆て鉄砲なくても強かったんやて
海賊もどきで倭冦的な感じなんやて
確かに、鉄砲伝来以前から方々に援軍に行っているな。
もともとは鑓働きで名を馳せた連中らしい。
で、雑賀衆が三段撃ちしてたっていうのは事実なの?
三段撃ち?それは事実ではないだろうね。
『陰徳太平記』に25×2の50人で小隊を組んで、25人ずつ
交代で撃ったという話はある。
だがまあ一次史料では無いしなあ・・・・
「佐武伊賀働書」には無かったかも。
三段撃ち自体は鉄砲以前より弓でやってるし
秦や三国時代でも弩の発射速度の遅さを補う
ために使用してた。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 15:24
1分間に10回撃てる弓だと、交代するだけ無駄だろ。
曲射できるし。
>>363 同じような事はすで鉄砲伝来以前にヨーロッパでやってたそうで
日本独自の戦略ではなかったらしい。
「三段撃ち」より4人一組で銃の撃つ者と装填係を分けてやってたらしい
これを「烏渡しの法」とか「取次ぎ」とか言うそうな。
>>365 防衛戦とかの場合、同士討ちを避けるために
隊伍の配置には工夫が要ったらしい。
またその用法を銃隊運営に活かしたらしい
368 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 15:31
>>366 >「三段撃ち」より4人一組で銃の撃つ者と装填係を分けてやってたらしい
>これを「烏渡しの法」とか「取次ぎ」とか言うそうな。
練度の底上げが出来んし、普段からやる事じゃないよ。
佐武伊賀守は急場を凌ぐためにやったけど。
369 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 15:36
火縄>前田慶次
多少でも根拠を示していただけると、傍観者としては嬉しいです。
とりあえず
>>369は花の慶次って事でいいですか?
∧∧ コレダカラ
/⌒ヽ); ヲタハ・・・
〜(___)
>355
書いた人の主観がはいってるけどそれほど変な事書いてないと思うけど
どの辺がおかしかった?
>357
サイトの中にも書いてあるけど雑賀集団のなかでの鈴木家で
雑賀の孫一といえば鈴木孫一ってことは周りには周知のことだったんじゃない?
孫一の名前自体が鈴木家の当主代々の名前だったという説が本当なら
納得いくし
当時の大名と同じで絶対権力をもっているわけではなかったわけだし
尾張の織田、尾張の信長でも通じるのと同じこと
君ら『戦国鉄砲・傭兵隊』鈴木眞哉 平凡社新書を読む事を
お勧めするぽ。目から鱗ヨー
火薬、鉛が高価だった頃に無駄玉を使うのは
入手ルートを確立してるところじゃないと無理な気がする。
一発撃つのに当時の値段でどれくらいかかったかわからないけど結構な値段のはず
どうせ使うのなら上手な人に一発必中で撃ってもらったほうが
いいようにも思えるけど
西洋では団体調練が発達したけど
日本ではけっきょく個人で修練する体系の練習だったらしく
全員が熟練者になるというのは難しかったそうな
>374
それ本屋で探したんだけど見当たらなかったんだよね
小さいところだったかもしれないけど・・
作者が鈴木ってことは子孫の人が書いてるのかな
そんなあなたには角川書店からでてる
津本陽の「天駆ける倭寇」上下 をお勧めするぽ
フィクションだけどおもしろいぽ
>>377 2004/8/11発売ですので、注文すれ
>>377 ちなみに子孫ではないみたい。
中央大学卒-防衛庁-神奈川県-作家
歴史、伝記の研究者。著作に
「紀州雑賀衆 鈴木一族」
「鉄砲と日本人」
「刀と首取り」
「鉄砲と騎馬軍団」
等がある。防衛庁勤務という堅さから
妙に信用がおけますw
特に鉄砲の記述や戦略についてw
>379
「鉄砲と日本人」の著者だったのか
防衛庁勤務歴もあるとのことで興味がわいて
少し調べてみたら「下戸列伝」なんて本も・・表紙にもワラタ
まさか公式HPなんてないよな・・と思って調べたけどさすがになかった
某サイトのレビュー記事に、本のあとがきに紀州雑賀国人衆の末裔で
あるとの記述があって、その内容が面白かったって書いてあったぞぉw
煽んなや
>>372 「雑賀孫"市"」は後世の創作。
そりゃ鈴木孫一を「雑賀の孫一」と呼んだ奴はいるかもしれんが、
創作した名前を相手に「孫"市"が誰か分からない」とか言い出すのは
アホ臭いな。
信長公記でも貴族の日記でも鈴木孫一は鈴木孫一だよ。
「鈴木孫一重秀」と署名して本願寺に提出された起請文も
「本願寺文書」にあるしね。
ちなみに雑賀における鈴木家は、対信長戦で活躍した軍事指揮官ではあるが、
政治的決定機関である年寄衆にも名を連ねていないし、そもそも雑賀で
一番の有力土豪は土橋家なんだな……
ただ土橋家は根来寺泉識坊の門主を出している家だし土橋家自体は
浄土宗なので、本願寺への与力の中心は鈴木家になったが。
重秀は後に信長の後援を得て土橋家を滅ぼして雑賀の実権を握ろうとするが、
すぐ後に本能寺の変が起きてそれに乗じた土橋家の生き残りの攻撃で
雑賀から追放されてしまったな……
当世具足の鉄板が厚いと言ったのにはワロタw
>384
当時は文字に対する教育が十分でなかった影響もあってか
名前に当て字使うのはよくあることだったんだよ。
「一」だろうが「市」だろうが「いち」とわかればいいわけで
それほど気にしなかったはずだよ
名前自体よく変えた時代だから、昔の名前をわざと書いたり
知っててもわざと当て字を使うことで暗に意味を含ませたりもできる
>>379 子孫だって言ってたような。鈴木家に伝わる刀があるそうで。
現代に蘇った鈴木氏の亡霊が信長信者に鉄槌を下すって感じだな。
まあ、歴史に関しては素人で、論調も独善的だけどな。
戦国時代の日本刀って江戸時代の細身で美しい日本刀とは全然違うと聞いたことがあるんだが。
>>387 たしかに違うね。
というか時代毎に、特に江戸期にいたってはその中で更に段階的に変化していってるし。
面白いね。
司馬遼の孫市読んでちょっと興味がわいて
ネットで鈴木氏周辺を見た事あるんだけど
あの人達、同じ名前だったり違ったりややこしくて…
結局鈴木家が一度でも味方として協力した事があるのは
本願寺、織田、秀吉、伊達、なのか?
NHKでやってた特番では、光秀から雑賀衆に
協力を要請する手紙が送られていたなんてのもあったが…
全然知識ない自分が雑賀衆の名をなんとなく知ってて
一方根来衆は知らなかった事から
勝手に雑賀衆>根来衆だと思ってたが
ぶっちゃけどっちが有力だったのだろう
仲悪かったんか?
>>385 同意w
戦国武将、自分の名前の漢字もまちまちに書いたりしてたしね
まぁ、かなり文盲率高かったらしいしなぁ
そのための祐筆ですよ
>389
>355-356 にあらかた載ってるよ
鈴木家は本願寺絡みで一気に有名になったわけで
いきなりポッと紀州に出現したわけじゃないから、
昔は細川とか三好なんかにも雇われてたんじゃない?
>>393 微妙wつうか現代の正しい字ではなかったろう
>393
祐筆の絶対条件は達筆ってことじゃない?
読み書きに優れた秘書みたいな感じ
>>395 土台が戦国人だからなぁ〜
一も市も同じなんだろなぁ感覚的に
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 02:03
>>389 どちらも有力。根来寺は紀伊だけじゃなく和泉や河内にも領地を持つ
大地主だし、雑賀衆は海運で富を得ていたし。
一口に「雑賀衆」と言っても、信長に敵対したのは五つの荘郷のうち、
雑賀荘と十ヶ郷だけで、残り3つは信長に味方してたし。
根来寺は基本的に信長に味方していたが、いくつもある坊のうち、
泉識坊は信長に敵対していた。門主が代々雑賀荘の有力者である
土橋家の人間だったからね。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 18:52
>>396 イミナの書き間違いは、まずいのだが、
マゴイチはアザナなので、孫「一」でも孫「市」でも、
音がイチならば、どちらでもいかと。
>>389 ぶっちゃけ江戸以降は、根来のほうと思われ。
江戸幕府の役職の中にある鉄砲百人組の内訳をみても、
「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「二十五騎組」と、
伊賀や甲賀の名がみえるのに雑賀の名がみえない辺りがね。
秀吉の紀州攻め以降、土橋も鈴木もいろいろな大名に仕えているが、パッとした活躍は、
鈴木重朝が伏見城に一番乗りしたことしか聞かれないし。
あと、重朝の息子の重次が水戸徳川家の家老にまでのぼったくらいかな。(なにげに重次は雑賀孫市を名乗ってますな)
たぶん根来と違って、「陰徳太平記」にあるような鉄砲組は、紀州攻めでチリヂリになった後甦らなかったような気がする。
それから、「真田三代記」の中で大阪方に根来衆がいる。
史実では、根来衆はいないものの紀州一揆が大阪方にいることから、
少なくとも「真田三代記」の作者は、紀州惣国一揆の代表は根来、という認識があったとおもわれるし。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 19:16
地元びいき、自分の田舎のことしてか見てない連中にはまずわからん。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 19:19
400
>>398 だが雑賀を名字にして八面六臂の活躍をさせたのは後世の・・・
まあループになるからいいや。
伊賀組や甲賀組があっても、甲賀に住んでた甲賀武士は貧乏してた
ように、同心の鉄砲組と根来寺の勢力はあんまり関係ないぞ。
むしろ往時の勢力なんて影も形も無かったな。
ちなみに雑賀荘があったあたりは、和歌山城になりました。
雑賀衆は散り散りになりましたが、和歌山藩には独自の鉄砲組織の
編成があったらしい。
389ですが勉強になりました。ありがとうございます。
鈴木氏ファンから入った者としては
紀州攻めが雑賀衆にダメージでかかったのは残念でならん
でもバラバラになった後も各地で個人の活躍が垣間みれるのは
なんというか傭兵職のロマンみたいなものがあっていいな
>>398 家老までのぼったってのは凄いね。
孫市の名って最終的に何代続いたんだろう…
鈴木氏の末裔で新撰組を会津の方に迎えた奴がいた
とかいう記述をどこかで見た覚えがあるが
別に孫市名乗ってなかったような
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 22:37
往時の根来寺ってのは、寺を中心とした一つの町でもあって、それはそれは
栄えていたらしいな。
排水口のフタに古い石仏を使っていたのは根来寺だっけか。
西洋の町なら教会を中央に置くが、中世の日本には大寺院を中心とする
町がいくつもあったんだなー。
ま、秀吉の気まぐれで東大寺以外は軒並み勢力を削られたけど。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 01:49
朝鮮の役で李氏朝鮮についた雑賀衆がいるっていう話があったな。
>>405 おお〜サンクス。興味深い。かなり沢山孫市がいるな。
水戸天狗党の名が下の方に出ているが、
まさか芹沢鴨が入ってたアレかなあ?
408 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 04:55
鈴木孫一含め鈴木家は雑賀の年寄衆に名を連ねてすらいないが・・・・
それに鈴木(稲積)孫三郎重朝が「雑賀孫市」なんて名乗った史料も
無いし・・・・
>408
自分も孫市に関しては当然、誇張があるだろうし
真偽入り混じってるとは思うんだけど
否定するにあたっての資料というかネット上のデータを
教えていただけないでしょうか
無いものを見せろというのは無理だからそれを裏付けようなものでもいいんです
資料にないから誤り、資料にあるから真実とは断定できないわけで・・
自分が疑問に思ったのは
そもそも雑賀の年寄衆ってどんな家が務めていたのか
それって普遍的なものだったのか・・
年代によって追加されたりはしなかったのか・・
>408 さんは孫一(市)を誰のことだとお考えですか?
だんだん鈴木スレに趣が。。。.(´Д`)・・・
411 :
乾燥させた竹:04/08/27 21:15
気にすんな!
鈴木眞哉氏の『紀州雑賀衆鈴木一族』を読めば疑問は全て解決ですよ!
でも既に絶版だから古本屋か図書館でドウゾ!
>>410 国友・種子島・堺・紀州(雑賀・根来)・長篠は
鉄砲を語る上でのキーワードみたいなものだからな−
414 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 01:35
両軍ともに3000挺の鉄砲を撃ち合った野田福島の戦いが実は
一番スゴイぞ。
織田側の3000挺は雑賀や根来からの援軍が持ってきたもの
三好側の3000挺は雑賀からの援軍が持ってきたもの
マイナーだが久米田合戦も。三好・畠山の畿内決戦。
鉄砲の狙撃だか流れ弾だかで三好総大将の三好義賢戦死。
実は鉄砲で勝敗が決した最初の合戦か?
416 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 01:41
水府系纂によると、鈴木重朝とその後継者が雑賀孫市をなのったらしい。
言継卿記に出てくる雑賀の孫一とは別人らしい。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 01:41
島津の集中砲火で竜造寺タン戦死。・゚・(ノД`)・゚・。
沖田畷だっけ?
>>414 結局全部雑賀と根来かよ!
水府系纂って編纂の開始が水戸光圀公の頃だべ。
ほぼリアルタイムの記録である言継卿記と並べるなんて!
言継の言う大坂の左右の大将である所の「孫一」、
あるいは『信長公記』で起請文に連署した有力者七人の中の「鈴木孫一」は
『本願寺文書』天正八年三月二十日付け下間頼廉宛て連署起請文
に「鈴木孫一重秀」と署名のある鈴木重秀でほぼ確定だろー
俺の思っていた通り、良スレになったな。
龍造寺隆信は先陣で進撃して、隠れていた島津の鉄砲隊に撃たれたんだっけ?
島津の鉄砲は怖いぞー
徳川の武将も関ヶ原で餌食になってるからな!
井伊直政とかそれが原因で死んだし・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
まあ原田直政をぬっ殺し、織田信長のフトモモも撃ち抜いた雑賀衆は
ネ申だけどな!!
>>419 誰だよ!
修羅の刻にも登場した孫一タン萌え
422 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 02:02
>>417大丈夫! 鉄砲動員率は、九州の方が上だから。
野田福島の織田方についた紀州勢は、約2万なので動員率は約15%
しかし、大友や竜造寺は戦でそれ以上動員しているので、
九州の勝ちだ。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 02:03
>>417 >島津の集中砲火で竜造寺タン戦死。・゚・(ノД`)・゚・。
>沖田畷だっけ?
初耳だな。ソース希望
>>422 それは率いたのが守護の畠山だからだなー
三好についた雑賀衆は、せいぜい数千単位のはずなのに3000挺!
もっとも、大坂の陣の時の伊達軍が総勢1万8000人に対して
鉄砲は3000ちょいだから、1570年頃に2万で3000挺でも
やはりdでもないレベルだが。
双方合わせて紀州だけで6000挺か。
秀吉の頃の堺における鉄砲の生産数が1日あたり5挺ぐらいらしい。
>426
それってほんと?
堺、国友の鉄砲生産量を前々から知りたいと思ってたんだけど
なかなか見つからなくて・・
是非、ソースキボン
428 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 18:02
>>420 馬上筒を大量に装備してたしね。
松平忠吉も白兵戦などせず(←たいていの小説ではここが見せ場になってる)
左腕は鑓傷でなく鉄砲傷が真相だしね。
>>426 ソース出せよ。日本列島には当時、数十万丁の鉄砲があったんだぞ。
輸入だけではこの数字は出せない。
>>428 >松平忠吉も白兵戦などせず(←たいていの小説ではここが見せ場になってる)
>左腕は鑓傷でなく鉄砲傷が真相だしね。
???
じゃあ何で自ら陣頭に立ってたの?
逃げる島津軍を掃討しようとして狙撃されたと思ったんだが。
忠吉は弓鉄砲で追撃してたとでも?
431 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 20:50
>429
数十万ってのは言い過ぎだ
十万丁超えるくらい
1日で5丁ってのはすごい生産力だと思うんだが
堺以上に国友も作ってるだろうし
433 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 23:09
種子島にもたらされた銃って、オスマン帝国産の銃だって本当?
確かにあの頃先進国といえばヨーロッパじゃなくてオスマン・トルコなんだが…。
>433
釣りか?
マラッカ銃だろ
>>430 つまり追いかけたが距離が詰まった時点で撃たれた。
追いすがって派手に渡り合ってはいないということ。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 00:15
>>428 馬上筒では大した威力は出ないと思うんだが。
射程も短いし威力も無いし。
まあ派手に白兵戦おっぱじめてしまったら、味方を誤射しかねない
鉄砲は使いづらいかもな。
Googleで調べると2種類の説があるな。
5年ぐらい前に本で調べまくった時は銃撃説は皆無だった。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 01:57
>>440 そういう意味じゃないの?
「凄まじい白兵戦を展開したことになってるが、実際はなかった」
という主旨だと一発で理解できるはずだが。
428だと「追撃の意思はなかった」「参加する意思はなかった」
とも取れるな。
でも、一軍の大将たるものが組討をしたなんていう
記述が残ってる自体、信憑性高い気がするんだけどな
普通に考えて、家康の御曹司が名もない者と組討になって怪我をしたなんて
有りもしないことを捏造したら幕府体制下だと大変なことになるんじゃないか?
そういう説がまかり通っているってことは白兵戦があった証なのではないかと考えてみる
逆にそっちの方が都合がよかったかもしれない。
松井三郎兵衛は当日その場にいた島津家中でも屈指の豪傑だといわれる。
この話ははっきりしないんだよね。
松井が一人で東軍の前衛を押し戻したから、
それを見た忠吉が挑んだとい話もある(松井最強説)
一方でそれをやったのは指宿忠政という話もある。
そして松井の首を取ることはできなかったという話もある。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 15:08
名のある大将が鉄砲玉に当たって死ぬのは不名誉だから真実を改ざんした説
不名誉じゃないだろ、別に。
長篠戦で死んだ武田部将の立場はどうなる。
江戸初期は知らんが
幕末の彦根藩では井伊直弼の致命傷がピストル弾によるものであることを隠していた
>>448 それ聞いたことある。
最初の一発が即座に致命傷になったとか。
>>447 長篠では、殆んど退却戦で死んだんじゃ・・・
>448
そんな話があるのか〜初めて知った
そもそも江戸時代と戦国時代だと鉄砲の捉え方がだいぶ違うと思うんだよね。
島津や長宗我部が有名だけど1人1銃主義を唱えるほど身分を問わず装備が進んでいたものが、
江戸時代になると一変して足軽などの身分の低いものの武器に位置づけられてる
江戸時代は鉄砲の評価をさげて刀剣のほうに価値を重視させようとしてたから
彦根藩の取った行動もわかるような気がするな
山県も実際は鉄砲で死んだんではないぞえ
山県は23発の弾丸を受けた末についに死んだという。
でも普通はその前に死ぬって!
第一、山県は柵の外で大久保兄弟の部隊と戦っていたわけで。
土屋昌次がリアルに柵に取り付いたんなら鉄砲で撃たれて死んだ
可能性があるが・・・・
ん?山県は鉄砲で腹を打たれて討ち死に、
家来が首を持ち帰ったはずだが。
>>450 退却戦で歴戦の武将が討ち取られまくったりするか?
鉄砲の一斉射撃は相当威力があったと思うよ。命中率は低くてもね。
>>456 します、その方が普通です。威力は竹を束ねたもので防げる程度です。
土屋昌次は鉄砲で討たれてますね。
山県昌影、馬場信房、内藤昌豊、真田兄弟は勝頼退却時に討たれたという説があるので
自分はこちらの方が正しい気がします
前レスで討たれてないと断言してスミマセンでした。
>>455 織田軍が討ち取った武将に名が挙がっている=首実検の場にあった
=持ち帰った伝承は間違い
という説を唱える人もおる。
>>456 退却戦こそ、一般の兵などはとっとと逃げてしまうから、
有名武将がわずかな手勢で残っている可能性があるな。
織田の兵は弱いけど追撃戦だけは特に執拗で
恐れられたって話もあるしなあ
まあ、勝ったほうの織田の勝因といわれる鉄砲のことでさえ
いまだにはっきりしていないくらいだから負けたほうは何が何だか・・
鉄砲がタケタバで防げる程度の威力というのも眉唾物だね。
鉄砲は鎧を貫通するというので、種子島時尭は鉄砲を買ったんだろ。
やはり鉄砲による死傷者が多数でて、武田軍は敗走したんじゃないか。
>>461 防げます。
因みに鎧の種類と当たり所によっては鉄砲は穴を開けることもできません
真田丸で鉄砲に打たれた、前田家の某は鎧のお陰で一命を取り留めました。
実際に其の鎧も現在に残ってます。
鉄砲の打たれた所はかなり、へ込んでますが・・・
>>462 鉄砲の出現により甲冑の改良が進んだってのはどうなんでしょうか。
>>461さんの挙げた事例とは30〜60年ほど開きがありますが。
武田の猛将達が死にまくったんだから、追激戦だけでは説明できないと思うんだが。
火縄銃ってやっぱり至近距離で当たれば死ぬでしょ。
追撃戦銃撃で敵将を殺しまくる織田騎馬鉄砲軍団
>>461 クレしんのあっぱれ戦国〜を見れ。
時代考証はお墨付きだから。
467 :
乾燥させた竹:04/09/01 02:04
竹束で防げるじゃん。
age!
468 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 02:10
>>464 単純に逃げると言っても、馬で逃げても徒歩の兵が走れば、
追いついてしまうんだぞ!
戦国期の馬はそんなものだ。
ってことで、逃げる為には戦いながら逃げるしかない。
だから、退却戦では討ち死にが多いって事。
469 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 02:16
>>461 実際に実験した事だから、疑い様は無いよ。
470 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 02:23
>>460 織田の兵が弱いと言われたのは、儲からない(実の無い)いくさはしないで
さっさと退却したからだろ。
手取川なんかがそうだ。
>>462 遠距離からの流れ弾なら防げる事もあるが、至近で撃たれたら防げない。
江戸時代の鎧職人は、自分の鎧が鉄砲弾を防げる事を示そうと、
鉄砲の火薬を減らして撃って「ホラ通らない!」とやっていた。
ただし、充分に角度の付いている場合は跳弾してしまう事もある。
その事例がどっちかは知らんけど。
>>463 鉄砲弾を直角に近距離で当てて防げるような厚さの鉄板で鎧を作ったら、
まず動けません。防弾チョッキなどよりもカバー範囲がずっと広いから。
局所的に鉄板を厚くする奴はいたかもしれない。
当世具足などはむしろ飛び道具は防げない事を前提にした鎧。
南蛮具足は傾斜を付けて跳弾を狙う鎧。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 02:31
473 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 02:38
具足の薄い鉄板や矢盾用の板と違い、青竹が弾の衝撃に有効なのは弾力があるからじゃなかったっけ?
>>472 鎧の話ね。
>>473 適度に硬く適度に弾力があり、そして身体に装備する事を前提としないからね。
>>463 そうです、甲冑は鉄砲の伝来により大変進化しました。一般に言う当世具足です。
>>456 有海ヶ原では武田1万織田徳川連合軍6千が死んだと言われるほどの接戦でした。(実際は10分の一位でしょうが・・・)
信玄在世中から鉄砲を重視した武田家が無謀に突撃したとは、考え難いです。
というか、当時の戦の常識として崩れてもいない敵陣に突撃するというのは有り得ません。
それに鉄砲の数ですが、連合軍の数は千丁とも千五百丁ともいい定かでは有りませんが
武田家も既に天文24年(1555)年の時点で信濃旭川城に300丁を配備とあるのでそれなりの数は揃えていたようです。(妙法寺記)
このように火力差は伝えられてるほどありません
それでは何故武田家は敗れたかというと答えは単純です。地勢と兵力差で敗れました。
後方の鳶ノ巣山砦が兵力不足から連合軍に奪われると背後に敵を受けた武田軍は平野部に引き出されます
これに対して連合軍は丘陵部に簡単な城塞を築き武田軍を待ち構えます。
寡兵による攻城戦など結果はしれています。
それでも戦死者の数をみる限り、互角の戦いをした武田軍には凄まじいものを覚えますね(余談ですが幕末の勝海舟が武田家伝来の訓練を見て「西洋並」と言った逸話があるのですが納得です。)
このように織田徳川軍は鉄砲の一切射撃で武田緒将を粉砕したというのは全くの迷信です。これは、江戸中期に書かれた信長記を明治陸軍が鵜呑みにしたことが発端で全国に広まりました。(といっても明治陸軍は知っててわざと鵜呑みにしたらしいですが・・・)
>>464 戦国時代の合戦では追撃戦で多量の戦死者を出します、当時の武将達は殿をやるのを皆いやがったというのが何よりの証拠でしょう。
それと武田家にもそれ相応の火力があったので一方的に撃ちまくられるというのは無いと思います。ましてや対鉄砲用の竹束を考案したのは武田家なのですから。
最後に長文すみませんでした。
>>473 板楯も置楯は厚さが一寸ぐらいあるので、50メートルぐらいの距離なら
貫通まではしないっぽい。
大坂の陣で家康、これにさらに鉄板貼ってた。
有海原は退路が伊那街道一本で、しかも作手台地のために極めて
狭まっているので、一度に退却できない。
だから陣立ての後方から順に、つまり穴山隊、勝頼本隊、と退いている間、
前列の部隊は織田軍の猛攻に耐えながら待っている以外になかった。
勝頼が無事に退却できて、前線に居た武将が多く戦死したというのは、
武将たちが勝頼が逃げる時間をキチンと稼いで死んでいったということだ。
もし勝頼を守る気なんてなければ、それこそみんなんで退却しようとして
さらに大変な事になったかもしれない。
『多門院日記』によれば武田の死者は一千、「大須賀記」によれば二千
とあるが、この程度の死者数に対して武田の武将の死者が多いというのは、
退却の混乱の中でも、各武将が最低限の手勢だけを率いて必死の
戦いを繰り広げたということだろう。
>>472 実際当時の鉄砲玉なんざ竹束で防げるんだけど、
(現代の銃弾ですら止めることもあるし)
問題はそんなもん持ち歩いて戦ができんのかってとこだよね。
陣地に据えるなら全く問題ないだろうけど。
>>473 弾力と丸み。関係ないが矢には牛の生革が効果が高かったそうだが
銃弾に対してはどうだったんだろうか。
>>有海ヶ原では武田1万織田徳川連合軍6千が死んだと言われるほどの接戦
この数字のソースって長篠日記だよね?
あの中じゃ織田が三段打ちもどきをやってたり、大筒ぶっ放してたりするらしいけど。
>>478 出来のかって言われても、実際に使われていたんだし。
あのう、騎馬鉄砲隊がどうも解せないんですが??
手綱を完全に放して、打つのでしょうか??
それとも、片手で打つのでしょうか??
さらに火縄銃なので、一発打ったら、玉を込めないといけないと思うのですが、
その間は襲われ放題なのでしょうか??
長篠の戦いの話自体が、間違ってる。
ほとんど、損害が無かったのなら、
どうして信長と家康は、追撃しなかったのか??
名将真田昌幸が参謀役でいたのに、馬防柵に突撃するなど
考えられないし、長篠の戦い絵巻でも、馬防柵の前に鉄砲隊がいる絵がある。
これは、突破されたか、サイドからえぐられたからじゃないの?
>>483 有馬じゃなくて神保だよ。数も600人強だったはず。
>482
追撃戦があったからこそ足軽雑兵が逃げて
直属の家臣団に守られるだけになった武将達が多く討ち死にしたんじゃないの?
あと、昌幸は参戦してないよ。それに勝頼の参謀というよりは信玄の側近だった関係で
勝頼との信頼関係は微妙な気がする。勝頼にも子飼いの小姓、側近集団がいたわけで
武田滅亡の時、勝頼は小山田の方に行ってるし
馬防柵といっても数十メートルごとに隙間(出入り口)があって
進退できるようになってたといわれるし、数段にわたって作られていて
行き止まりがあったり複雑な作りだったという話もある
柵だけじゃなくて本格的な野戦陣地だった説もあるからなんとも・・
突破されたりすると弾込めなんてしてる余裕はないと思う
柵を出たり入ったりして挑発してたんじゃないのかな・・
>484
適当なこと書いてスマソ
訂正感謝です(ペコリ
>486
>>485 そういや、真田昌幸だけじゃなくて高坂昌信も参戦してないね。
馬場や山県がいたのにあの有様なので、
軍議に2人が居ても好戦ムードを変えれなかったと思う。
>>475 >織田徳川軍は鉄砲の一切射撃で武田緒将を粉砕したというのは全くの迷信です。
と言い切るのはまだ早すぎる。歴史学会でも議論中の話題だろうが。
どうせ鈴木眞哉とかいう素人がソースなんだろ。彼は大学で日本史を専攻してさえいない。
あんたは思い込み激しすぎ。頑なに持論を信じて疑わないタイプだな。
信長の側近の太田牛一が書いた信長公期にも鉄砲隊の一斉射撃のことははっきり書いてある。
事実無根のことを一から捏造したと考えるのは不自然だろ。
戦国時代の合戦では飛び道具が主兵器だったと聞いている。
だからたまたま鉄砲を大量使用したところ、効果絶大だったということも考えられるわけだ。
>>489 日本史を専攻してないと駄目なの?
日本史の学士がそんなに凄いとは知らなかった。
>>490 横レスすまんが、反論すべきところはそこじゃないだろ。
その手の話題は泥沼化するからやめれ。
少なくとも支配国の鉄砲熟練者をかき集めて
集中投入して戦果をあげたのは確実
長篠にしろ川中島にしろ参加人数、死傷者共に誇大化されすぎてるのは
間違いないと思う
>>479 ですから実数は10分の1だろうと言われてますよね。
この数字を引用したのは織田徳川連合軍が鉄砲で一方的に勝ったというイメージがあるので実は接戦だったということを
判ってもらいたかったからです。
>>489 はい、思い込みが激しいほうです
ただ信長公記の大田牛一は、有海ガ原に参戦していなかったらしく、この戦に関する部分は他の部分に比べると
今一信憑性が薄いです。(鉄砲数を後に三千丁に加筆したり、ありもしない池田家の活躍を記述、他にも無理な布陣等)
ただ言い切るのはよくないですね。失礼しました。
>>481 馬上筒は銃身が短く片手で扱える、ただし射程と威力は弱い。
敵の備えを崩して白兵戦という槍組や弓・鉄砲組といった複数の兵科が行っていたプロセスを
一斉射撃→突撃・白兵を単体でそれなりに行えるだけ。
鉄砲を揃えて、馬を用意して、馬上射撃という特殊なスキルを必要とするので
大量運用が難しいと思われるので、
奇襲や陽動としては使い道はあるだろうが、決戦兵力にはならないかと。
じゃ、騎馬鉄砲隊は一発撃ったら、
馬上筒を背中や、腰に挿して、刀を持って突撃するのですね。
隊列を乱すのが目的なのか。
ありがとうございます。
>>493 いや、その数字のソース自体がちょっと怪しいものだから(たとえ10分の一にしても)その損害の比率でもって
接戦だったと言いきるのはどうかなってのが言いたかったわけで。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 21:56
長篠の戦に真田昌幸が参戦してないとあるが、
昌幸はなにやってたの?
留守番かね?
>497
記録がないので何やってたか不明だけど
兄二人が参陣してるからおそらく・・おうちでお留守番
真田昌幸は当時武藤家を継いでいて真田家から独立してたんじゃあ・・・
信玄時代は旗本みたいなことやってたから長篠のときも勝頼本陣で遊んでたんとちゃう?
>499
昌幸は甲府にいたらしい。
501 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 23:44
竹の束って言うけど何本くらい集めたら防げるの?
502 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 23:47
貫通するしないって実際にやってみないとわからん罠。
トリビアにでも投稿すれば?
種子島銃は
竹の束で防げる
実際に やってみた
>>501 厚みに関しては太めの孟宗竹一本で十分だと思う。
「受け止める」のではなく「弾く」もんだから。
横には7〜8本は必要ではないだろうか。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 00:08
>>481 もともと曲芸みたいなもんだ。一部の家で極少数が採用されただけで、
戦術的に意味のあるほど採用された事は無い。
伊達家にも騎馬鉄砲隊などいない。
>>483 それをやったのは徒歩の鉄砲隊だ。
>>485 昌幸は勝頼の代でも跡部や原と共に竜朱印奏者を務めている。
>>503 竹束は弾くのではなく受けるものだが。
それに直径一尺から三尺ぐらいに束ねたものを、横に並べる。
一本では、普通に貫通する。
>>482 もともと織田軍に損害の出る理由はあまり無いと思うが・・・・
そもそも長篠城の救援が目的なのだから、無理に深追いする必要は無い。
武田軍の退路が狭かったということは、遠くまで追撃するためには
同じ細い道を隊列を崩して進まねばならん。返り討ちにあいかねないかと。
>>489 その『信長公記』では武田軍の突撃より前に信長から足軽をけしかけたとも
書いてあるし、陣城の外での足軽の駆け引きなども描写されている
わけだが。さらに言えば「一斉」射撃なんてのは書いてない。
攻め寄せる敵を迎撃するのに有効だったことは見て取れるが、
それだけでとんでもない損害を与えうるという状況は考えにくい。
でもって牛一は山県などの全員が織田の陣地に攻め寄せたように書いているが、
徳川と武田の史料では武田の左翼は徳川の陣に攻め寄せて陣の外で
大久保兄弟の部隊と戦った事なども書かれており、一致していない。
>>493 いや、普通に圧勝でしょ。織田の。死んだ面子みりゃわかるじゃん。
太田牛一の地形の描写自体は正確で、藤本正行氏は丹羽隊の一員として
従軍したと考察しておられた。
池田隊の活躍というのは、どの写本のもの?
陽明文庫本や町田本にはないようだけど。
あと「三」の加筆は別人。
>>504 受け止めるんなら何で木じゃなく竹だったんだろうか。
ただ単に止めるだけなら木の板のほうが薄くできたろうし
鉄板と組み合わせればなお薄くなるはず。
やっぱ成長早くて惜しげもなく使えるから?
508 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 00:46
>>507 軍船などは盾板をめぐらしてるが、その厚さたるや三寸から五寸。
竹を多少束ねて銃弾が止まるなら、そっちが軽いのでは?
陸地で人力で運ぶわけだから。
鉄は昔は高価だったから、そんなにたくさん用意でけんやろし。
>>507 武田といえば信玄堤。それこそ腐るほど竹があったんじゃなかろうか。
さらに木を切って板にするより竹切って束ねるほうが楽だし。
ま、木板も青竹も銃弾止められる強度にすれば
重量はかなりのもんだったはず。だったら手軽な竹ってことでは?
乾燥させた竹が一番軽く、銃弾止めの効果もあったって事じゃない?
大阪の陣とかでも竹束だし。
重くてもいいんだったら土嚢でも積んだ方が確実だしな。
軽くて防御効果もあるから竹が良い、と。
>>507 木の板って薄くても銃弾止められるほど堅くないと思う。
生木だと割と薄くても止められるもんらしい。
とはいえ生木で盾は作れまい。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 07:06
長篠の闘いが接戦だったという話しこそ
むしろ胡散臭い記録にしか残ってないよ。
実際は織田・徳川の損害は軽微だったと考えられる。
まともな記録には全て織田方の圧勝と武田の大敗が書かれてるけどね。
これは織田側に有力諸将の死亡がほとんどないのに
武田側の有力諸将の大半が死んでるなど状況証拠でも明らかだけど。
514 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 07:11
>>482 追撃は随分しまくったよ。
勝頼たちは多数の将兵の命と引き替えに
かろうじて甲府に落ち延びた。
朝倉滅亡時みたいに一乗谷まで乱入といかなかったのは
単にこの時点では武田にまだ余力があると見て
深追いしすぎるのは危険とみたからだろう。
竹束っていうくらいで十本くらいを縄などでくくって
使ったんだよ。だから形状的には円柱
それをいくつも並べて少しづつ敵城に近づく
当然、距離があるうちは弾を弾いてくれるけど
距離が近かったり口径が大きいと貫通する
516 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 08:16
だけど1,5mぐらいの竹10本ってかなり重いよ
>>515 10本では全然足りない。一つの束が直径一尺とかあるよ。
大竹束は三尺とかになる。
形状が円のほうが貫通は難しくなるのを利用したんじゃないかな
>>515 直径4、5センチの真竹を何十本も束ねたものだよ。
>>506 池田家文庫本だった気がします。ちょいと調べてみますね^^
>>513 結果的だけを見ると武田家が完敗ですね。ただ野戦としては長時間戦ったことや
追撃戦で多数の有力緒将が討ち取られた事を(自分はこの説が正しいと思ってるので、これを前提に書いてしまってスミマセン)
考えると実際の戦闘は、思われてるような連合軍の圧勝では無いと思います。
こう考えると、やはり自分は武田軍の兵力不足が敗因の1つだと思う次第です
>長時間の野戦
自分には、激戦だったという解釈よりも
攻城戦に近い戦いだったという解釈のほうがしっくりくるけどな。
武田方攻撃→織田方防御に徹する→(長時間)→武田方攻め切れず撤退→織田方追撃→多数の戦死者
長篠の合戦ってさ、確か武田家の重臣連中は開戦後も幾度か本陣に集まったり
してなかった?
つまり(当然といえば当然だけど)延々と攻撃してたわけじゃなくて、断続的に攻勢を
かけつつ最後は限界に達して撤退、って運びじゃないの?
>>522 む、するとこうなるのか
武田方先手攻撃→織田方陣地に篭り撃退→武田方時間を置いて再度攻撃→撃退→(以後各戦線で断続的にこれを繰り返す)
→武田方攻め切れず、また損害も限界に達したためついに撤退→織田方追撃→多数の戦死者
>>521 あっスイマセン
先術したように実際は攻城戦のようです。御免なさい。
自分的には後ろに敵を受けた武田軍はかなり激しく攻勢をしかけたので、織田徳川連合軍にもかなりの戦死者がでたのだと思います。
柵を立てたり堀を掘ったりする程度なら、まだ攻城戦というよりは野戦の部類だと思われ。
>>525 柵や濠の規模次第では城攻めるのとかわらんくらいの手間になる
ってことを言いたいんじゃないのか?
527 :
乾燥させた竹:04/09/03 07:59
竹束あげ。
>>525 勝頼は合戦後の書状で「敵が陣城にこもったので先手が敗北した」と
書いている。
また弾正山には階段状に成形された後が見て取れる。
まさに攻城戦だったのだよ。
勝頼もほぼ同様の構えを築いていたけれども。
『信長公記』によれば信長は自分から先に足軽を繰り出しているし、
勝頼書状などからしても、陣城外での戦闘も行われたようである。
『信長公記』では日の出から午後2時頃まで戦っていたことになっているが、
「大須賀記」では午前11時頃から午後2時頃までと書かれている。
鳶の巣山攻撃開始が午前8時開始だったよな?
ってことは日の出〜午前8時頃までのは陣地外での前哨戦で
鳶ノ巣山陥落を知った武田が本格攻勢を仕掛けて、織田が陣地に篭って撃退したのが
午前11時から午後2時までの戦いって解釈はどうだ?
お互い向かい合って陣を構えた以上、迎撃戦に徹するのがお互い有利。
信長が恐らくは鳶巣山攻撃のカムフラージュのため、武田軍正面に向かって
兵を繰り出したのが日の出頃としても、鳶巣山が攻撃されるまでは
武田軍は静観していたのではないかと思う。
鳶巣山で戦闘が始まったのが午前八時として、一分や二分では落ちない
だろうし、武田軍の意思決定にも時間がかかるはず。
鳶巣山の加勢に行けば背後を織田に衝かれるから、動くに動けない時間が
過ぎていっただろう。
鳶巣山の趨勢が決し、最早信長と雌雄を決するより他は無いという状況に
なり、武田軍が動いたのが午前11時頃ということだろうか。
それから陣城の外に出ていた織田兵を追い込んでいき陣地戦に雪崩れ込み、
結局攻めあぐねて撤退を決めたのが午後2時。これは各史料共通である。
そして午後2時過ぎより夕刻までが、最も凄惨な撤退戦である――
>>530 自軍の主力で敵の主力を拘束。
その後有力な支隊を編成して敵の後背・本拠地を襲撃、
敵の後退もしくは決戦を強いる。
もしこのとおりに推移したのなら戦術の教本に載せてもいいな。
つーかさ、武田も陣城作ってたんだから、引きこもって一部を鳶巣山に救援にいかせりゃよかったんじゃねーの?
鳶巣山を放置した挙句、退路を絶たれて3倍の敵の陣に攻め込むなんて・・・
>530
NHKの番組でそれっぽいこと言ってるの見た記憶がある
鳶巣山を取られることで袋のネズミになる前に
織田の戦線を突破or迂回しようとして攻撃開始(=退却開始?)
>引きこもって一部を鳶巣山に救援
小牧長久手では家康がそれと似たようなことをやって成功してんだけどね。
推論としては、
>>530氏も書いてるように、不用意に兵力を分散できないだろうし。
意思決定に時間もかかるだろうし。あれよあれよと言う間に陥落しちゃったんじゃないかな。
あと、1000人からが篭る砦がたった数時間で陥落するとは思っていなかったのかもしれない。
酒井隊4000(500丁もの鉄砲を装備)に奇襲されあれよあれよという前に
緒砦を落とされたのが現状だろな〜
×前
○間
気づいたら長篠スレになってるな・・・
鳶巣山攻撃隊は、鉄砲装備率の高い少人数の別働隊と言う理想的な編成だった。
後手に回っては救援しきれるものではない。
僕の三枝タン死んじゃうし・・・
長篠に鉄砲が全く無かったら・・・
織田連合の勝ちは動かないだろうけど、
細かい局面はどうかわっただろうか。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 09:14
>>524 あんまり根拠のない思い込みです。
単に相手の堅固な野戦築城に阻まれ攻めあぐみ続けただけと思われます。
>>540 鉄砲だけではなく、弓矢や投石などが相当な効果をあげたと思われます。
なんせ日本の合戦は元々、遠戦主体だったという説も出てきましたし。
鉄砲対策に竹束、当世具足が使われるようになってる時点で
鉄砲がかなり効果がある武器だという認識は当時すでにあっただろうね
関が原合戦絵巻にも野戦築城っぽいものが描いてあるね。
545 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 11:23
>>543 当世具足は刀鑓対策に隙間を減らしたもので、銃弾対策ではない。
弓矢の時代には大きな袖とかクッション性のある構造が有効
だったけど、鉄砲はどうせ貫通するんで諦めたんだっけ?
>>542 そうかえ?
地理的に見て、あながち嘘だと思わんが・・・
てかそうじゃないと、普通3倍の兵力に自分から突っ掛ける馬鹿はいないと思うぞえ。
542さんは、何故武田軍は織田徳川連合軍に突っ掛かったと思います?
それと遠戦主体は説がでてきたも何も、散々昔から言われてる事ですよ。
野戦と言うけれど、戦闘前に堀や柵、陣屋を作る事は
戦国以前平安鎌倉までさかのぼって確認できる。
>>547 >>542ではないが、鳶の巣山など後方の砦を獲られて包囲されたと考えたからでは?
反転して退路を再打通する方法も考えられるが、それでは目の前の主力に追撃される。
ならば、一か八か主力を撃破すれば枝葉の部隊をゆっくり料理できるだろうと考えたと思われ。
便乗で疑問をスマンのだが、この時の武田は自軍の3倍近くも敵が居るって
ちゃんと解ってたのかな?誰か、エロイ人教えて下さいませ。
>>549 包囲されてはいないぞ。
武田は決戦を回避することも出来たはずだ。
決戦回避は厳しい。
狭い退路しかないのに敵前で回れ右するのは危険だ。
それに、織田・徳川の軍勢もただ柵の後ろでじっと待ってたわけではなく、
攻撃前進を行って容易には撤退できないようにプレッシャーをかけていたらしい。
>550
正確な数は分かってないと思うけど
信長自身でてきてる以上、自軍よりは多いのは分かってたと思う。
尾張にいる武田の密偵もある程度はつかんでた筈だし
織田側も実際以上の人数の噂を流してただろうし
>549
俺も同じ考えだな
全てが正しいかどうかはわからないけど通説の矛盾点は
だいぶ解けるよね
>>549 それなら524氏も包囲とは言ってないが背に敵を受けて、信長徳川軍に攻撃をかけたといってるが・・・
包囲というか、鳶ノ巣山攻撃隊の数を過大評価したってのは考えられるかも。
なんせ、自分らは5百人の守備する城を一週間かけて落とせなかったわけで。
1千人の守る砦群を数時間で攻略されたら(ついでに小山田隊2000人も蹴散らされるし)……。
そんなこんなで逆に前面の織田軍を過小評価してしまい、正面攻撃を決断した。とか。
>>556 いや、どうも織田側は武田方に兵力を少なく認識させようと努めていた節がある。
さすがに三倍なら武田側も無理に決戦に応じない可能性もある。
織田・徳川側としてはこの機会に武田主力を確実に撃破したいだろうし、
そもそも実数より多く称するのは、相手の戦意を挫くためなので意図と反するのではないかなぁ。
正面攻撃に合わせて誰それが内応するという偽情報、
というか計略を用いて正面攻撃を誘ってという説を聞いたことがある。
どこで聞いたかはもうよく憶えていないが。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 07:34
>>559 鳶巣山の砦と長篠城を比べる奴がおるかい!
>>560 信長の本来の目的はいかに少ない損失で長篠城を救援するか、でしょ。
積極的に勝頼を倒したいなら、勝頼が長篠城を囲んでいるのに
三キロも離れた所で堅固な構えなんてのはありえない選択だ。
一キロを優に超える陣城を築き、さらに極楽寺や御堂山にまで
布陣して、小勢に見せるというのは無理がある。
勝頼が無視して長篠城を攻撃することはさすがになくても、
とっとと撤退される可能性は捨てきれない。
勝頼が睨み合いながら長篠城を落とす方を取ったから最終的に決戦と
なったが、何も起こらなかった可能性も十二分にあるよ。
>>560 その節ってのを書いてくれないと何とも言えないじゃん。
信長公記には、長篠城の後詰に出陣したと書いてあるね。
武田が決戦に踏み切ったのは、待ち望んだ主力決戦のチャンスだったし、
ここで戦わなくては国力の差が開く一方だとの考えがあったと思う。
勝頼が一人で決めれるわけでは無いので、武田軍全体の総意で決定したと。
564 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 08:00
>>563 最初から主力同士の決戦を望んでいたとは思えないな。
・前年の東美濃や高天神と違い、上杉謙信が春日山にいる
・連年の出兵による経済的負担で、一部国人の従軍を免除
以上の理由から充分な兵力を動員できていない。
しかも、
・信長が大坂方面に出兵している隙をついての出兵
であることから、あくまでも短期的に長篠城を陥とすため、
あるいはせいぜい家康と一戦に及ぶための出兵だろう。
561じゃないけど。
確か、穴山信君が、佐久間信盛を勧誘していたという説は、聞いたことがある。
突撃と共に、佐久間隊が内応するという話。
山県や馬場などが内応不成功との雰囲気を読み、
撤退を諌言したが、勝頼より武田の血筋の濃い信君を、
勝頼が抑えられずに、決戦が決まったとのこと。
566 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 08:10
勝頼もそれなりの陣地を構築していることから、
勝頼の狙いは主力(勝頼)で敵の主力(信長)を拘束し、
その間に支隊(高坂・小山田)を以って敵の戦略目標(長篠救援)
を挫く事にあったのだろう。
そしたら逆に信長が主力(信長)で敵の主力(勝頼)を拘束し、
その間に支隊(酒井・金森)を以って敵の戦略目標(長篠攻略)
を挫く事態となったわけだ。
勝頼の作戦の欠点は、敵が自軍の何倍もおり、主力部隊から
兵を割く事に何の問題も無かったということに尽きるな。
逆に勝頼は後方にこれ以上の兵は割きようが無かったわけだし。
まあ凡庸な将ならそのまま睨み合い続けるかも知れんが、
信長だからな。ちょっとギャンブルだったな。
>>564 >最初から主力同士の決戦を望んでいたとは
そんな事書いてないだろ。
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 08:11
>>567 「待ち望んだ」主力決戦と書いたろ。
少なくとも長篠では信長来援なんて待っちゃいなかったろと
言ったんだが。
>>565 江戸中期の「紀ノ国物語」以降から見られる話で、何の確証も無い。
>>568 わけわからんぞ。
なんたの頭では、待ち望んだ=信長来援を知っていた
って事になるのか?
>>570 待ち望んだ=信長来援を待っていた
と読めたが。
なんで「知っていた」に飛ぶかね?それこそワケワカラン。
少なくとも長篠の時の状況では待ち望むどころじゃねーだろ。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 08:22
勝頼=猪木
「何時でも、誰とでも闘う」
そこに家康がいるから、家康と戦う。
信長が来たなら、信長とも戦う。
火縄銃スレだっつーの。
>>571 長篠に信長が来たから、待ち望んでいた主力決戦のチャンスが訪れた。
って書けばわかる?
これが全ての理由だなんて言ってないし、
ここで戦わなくては国力の差が開く一方だとも考えただろう。
信長に誘い出されたのかも知れないが、武田側にも戦う理由はあったって事。
だから待ち望んでなんていねーだろって。少なくとも長篠では。
手駒も揃ってないのに待ち望んでたら馬鹿だっての。
ま、馬鹿なのかもしれんが。
しょうがないから戦っただけだろ。
>>575 だから長篠で待ち望んだなんて書いてないだろ……
じゃあ長篠に信長が来て待ち望んでいた主力決戦のチャンスが訪れた
というのはオカシイだろ。
もうやめとけ……
580 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 09:23
鳶ノ巣砦が落ちたと知り、
このままでは包囲されてしまうと半ばパニック状態に陥り
前面の敵に突っ込むしかないと思いこんだんだろうか?
なんか川中島の啄木鳥戦法みたいな展開だな。
581 :
乾燥させた竹:04/09/05 09:26
そろそろ火縄銃の話題に戻ってくれ!
もめてまで長篠の戦いの戦術に焦点合わせなくてもいいだろう
長篠の戦いの内容のスレは他にいくつもあるわけだから
鉄砲中心によろ・・
>>580 有海原のようなドン詰まりの地形だと、後方を遮断されてなくても
撤退は大リスクかと。陣地を出て撤退に移っても、少しずつしか
退けないから、どうしても追いつかれて追撃を受ける。
三倍の敵に追撃を受けたら、仮に隊列が整っていても無事では
済まない。
だから遮二無二信長に一撃を加えて信長を退かせる以外に
なくなったんだと思う。
仮にそれで失敗しても、何もしなくても大打撃は必至だとしたら、
確率は低くてもとりあえず正面攻撃に出てみるかと。
>>581 >>582 そやね。
>>576 とりあえず君の日本語はおかしいので勉強しておくように。
585 :
乾燥させた竹:04/09/05 09:41
1466年に日本を訪れた琉球人が、京都で「鉄放(てつはう)」を撃ってみんなをびっくりさせた。
歓待されたお礼の祝砲だったらしい。
1468年の応仁の乱で、ある僧侶が「飛砲(ひほう)」、「火槍(かそう)」を目撃し、日記に書き残している。
ハンドガンの一種だったらしい。
北条氏康(うじやす)は子供の頃泣き虫で、小田原城内から試し撃ちする音に、
「恐れて泣くことかぎりなし」だったと記録されている(1515〜1525年頃の話)。
1542年7月、尼子軍が20丁の鉄砲を持って、敵の攻撃を防いだ、という記録がある。
どこだったか、ハンドガンタイプの火砲が発掘されてたし、
火縄銃伝来前から既に輸入されていたのは間違いないだろうね。
中国では大量に使われていたし。
ただ、朝鮮出兵の時に朝鮮の火砲は威力はあるが命中率が低すぎると
書かれたように、火薬の調達に苦労する日本では「カネの無駄」な
武器だと考えられたのかもしれない。散弾を使う奴がほとんどだったし。
前々から疑問だったんだけど
火縄銃1発撃つのに今の金銭価値にしてどれくらいかかったんだろう
当然、時代によって変わってるんだろうけど
>>585 飛砲・火槍はもののけ姫のアレじゃなかったっけ?
飛砲が弾丸を飛ばす奴で、火槍は火炎放射器タイプの奴。
火薬を大量に使用する割には効果はイマイチだったのであまり流行しなかったとか。
589 :
乾燥させた竹:04/09/05 22:39
竹束で防げるじゃんage!
乾燥させたらダメだろ
>>588 飛槍はその名の通り、筒に槍を詰めて火薬の爆発で飛ばすタイプだと思う。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 04:24
>>588 【飛槍】
火薬燃焼噴射の反動で槍を飛ばす兵器が中国の明(1368〜1644)の時代になって使われました。
これ以前に飛火槍という物があり、前方に火を飛ばすことで敵を驚かせる構造だったようです。
>>590 よく乾燥させたほうが強度も増すし、軽くもなる。
なにがダメなの?
竹の弾性で兆弾させるのが目的じゃないの?
硬くなったら貫通しそうな予感が・・・
>>594 弾丸が竹を貫通して途中で止まるって感じだよ。
だから、竹を何十本も束ねなければいけない。
考え方としてはマグナムの弾丸をタウンページが止めるようなものかな?
衝撃を分散しつつ、幾層にも重ねることで勢いを削いでいく、と。
597 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 17:29
明らかに青竹の方が強度はあると思うが
>>597 何日か乾燥させて水分を取るって事だろ。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 20:54
中筒:最も一般的な銃・六匁筒
侍筒:侍用・十匁筒
このあたりは検索すれば出るので、中筒が一般的と思われやすいが違う。
最も一般的な銃は「二匁」の重量の玉を使用。
太閤と戦った時の北条氏・朝鮮出兵の時の毛利氏はどちらも
二匁の軽量小型の銃が主流で、60%から65%がこのタイプ。他家も同じと思われ。
確か二匁未満のさらに小さな銃も5%程度はあったと思う。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/08 04:58
>>599 毛利氏の記録では、二匁半とか三匁あたりが多くなかったか?
ま、いずれにしろ通常考えられているよりもずっと小口径の
銃が主流であった事は間違いない。
>>600 そうそう。なんせ大昔に見ただけなんで。
なんで小口径のほうがメインになったのかな・・
こういう竹束かと思ったら 本当に束ねたものらしい・・・?
○○○○○○ ○○○
○○○○○○ ○○○○
○○○○○
○○○○
○○○
605 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/08 23:25
>>602 銃も銃弾もデカいし火薬は浪費するし。
一匁半でも鎧は撃ち抜けるし。
>>595 昔の弾丸は球なのですよ
まず表面で滑らせて威力削ぐの・・・・・という説明があったような
水分ある青竹で被弾経始w
>弾丸が竹を貫通して途中で止まるって感じだよ。
↑ただそれだけならば、竹である必然性あまりないし
>>606 竹に油をぬる、染み込ませるとも書いてあるね。
まあ、どんな事をしても近距離だったら、
貫通するよ。
>竹である必然性あまりないし
軽いって事も重要なんじゃない?
あとは、費用の問題かな。
実際に竹束を使っていたんだし。
竹束で防げるとしても一発だけの使い捨てだろう
戦場では二発目が飛んでくるが対策は?
竹束を付けたままで戦え移動できるのか?
一番前の撃たれる奴に支給できるのか?
突撃する時は前衛を竹束で固め突撃が定石にでも
ならないと火縄銃を過大評価しているとは言えない。
>>608 最終的には使い捨てだろうが、一発だけで即ポイではないだろ。
竹束の表面積と鉄砲の弾丸の大きさを考えればその位考えられないか?
あと竹束を単体で運用する場合もあるけど、
ブラインドみたいに竹束を吊した物や、
竹束を何本か横に立てかけた物など工夫もある。
確かどっちも一人二人で持ち運び出来たような。
あのさ、ちょっと調べて来いよ?
たしかに
>>608は想像だけでしかもいい加減かもね。
もともと竹束は攻城戦でこそ希求されたもので、他にも野戦では遠戦で双方が
距離を詰めつつ接近する過程では木楯なんかも使われたのに、そっちの方は
ほとんど話しにのぼらないね。
竹束があるといっても全部の兵士にいきわたるだけの量は無かったんじゃない?
614 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 21:07
>>598 その反論の意味が分からん。
青竹と乾燥竹のどちらの強度が上か自分で実験してください。
論より証拠ってやつですね。
>>614 反論という意味が分からん。
アドバイスしただけだろ。
実験したのが載っている本とか読んだこと無いの?
青竹と乾燥させた竹のどちらの強度が上か自分で実験してください。
論より証拠ってやつですね。
>>616 青竹にこだわっているが、伐ってからどれ位経つと青竹じゃなくなるんだ?
乾燥させる理由が強度じゃないみたいだから重量か?
乾燥させただけでどれぐらい軽くなるか知らないけど
つか、青竹は乾燥しても青いような。
うちの青竹踏みはまだ青いよ。
ちょくちょく お前ら 竹束を過大評価しすぎ!スレ ッぽい感じになるなw
カンケーないけど、イングランドのロングボウの大弓の矢は厚さ数センチの樫の盾板を
平気で貫いたって聞いたんだけど、
竹束と樫の板、火縄銃とロングボウってどっち強いかな? ほんとカンケーなさすぎだけど
竹束と樫の板はわからないけど、威力について弓と火縄は
江戸期にはいっても、どちらが優劣上か結論はつけれなかったそうだ。
後乾燥させる手間考えると、生でもそこらへんに生えてる竹切ったほうが
合理的じゃないかな。
>>620 竹束と樫の盾板(数cm)なら
竹束 > 樫の板 じゃないかな?
竹束は数センチってレベルの半径ではないようだし。
鉄砲かついで走り回るのは大変だろうけど。
竹束かついで走り回るのはもっと大変だろうなぁ。
>>620 西洋式の弓のほうが対人ダメージはでかい。
弓の強さのおかげで連射速度は遅いけど。
火縄銃なら早合を使えば分速4〜6程度(だったはず)
ロングボウの場合熟練者でこれに並ぶらしいが
鉄砲と違い体力の消耗が激しい。
あー、今チラッとぐぐって見たら
分速10発程度から毎分3発ほどと
えらく幅のある結果が出たよ>ロングボウ
熟練に要する時間も大違い。
有名なイギリスのロングボウ部隊の場合は
農家の次男三男を若いころから召集し指の形が変わるほどの訓練を施して
やっと一人前になったそうだ。
>>625 狙いをつけなきゃならんときと、
矢の雨を降らせるときの違いかと。
>>620 数センチって幅ありすぎかと
>>617 具体的な定義は知らないが、
というか、そもそも無いだろうが、
乾燥するに従って徐々に強度は落ちていくよ。
木だと生木の強度は良く乾燥した木に劣るんだが、
竹は違うのかい?
竹も良く乾燥させたほうが強度が増すよ。
おいおい、結局強度は生竹と乾燥竹はどっちが上なんだよ
614と615の実験待ち
この場合の強度とは、弾力によって衝撃に強いって意味なんじゃね?
乾燥竹に鉛玉が当たると縦にヒビが入って簡単に割れそうだが
生竹だと柔軟な竹の繊維質で鉛玉の方ががグニャグャになり一本貫通したとしても
束の途中で止まるとか。
イメージするなら細い竹の両端を持ち、膝に強く押し当てて折ったとする。
乾燥竹ならポキッと折れるか、ササくれ立った裂け目が簡単に出来そうだが
生竹だとグニャーっと曲がるだけで切り離すことは難しそうだ。
強度つうか硬度が上がるってことでは>乾燥
剛性は生の方が強い。…と思う。
名和弓雄著「長篠設楽原合戦の真実」には実験を交えての竹束の記載があります。
それによると、竹だけで丸く縛られたものは、至近距離からの鉄砲に貫通してしまうので、
粘土に小石を混ぜて布で包んだものを竹で覆っていたそうです。
これ本当なの?
>>633-634 ああ、確かに硬度という面では乾燥したものの方が高いのかも知れないね。
さすがに硬度は測ったこと無いが。
ただ、乾燥した竹の方が「もろい」のは間違いない、
明らかに乾燥した竹の方が簡単に折れる。
>>635 至近距離からの鉄砲を竹束で防ぐなどという状況は滅多に起きないと思うが。
>>637 いやいや、大坂夏の陣での伊達政宗の例もある。
突如寝返った憎き神保勢を殲滅する手柄を挙げた際、竹巴が役にたったはずだ。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 07:32:11
>>635 多分、重くなりすぎて使えないかと。
>>637 雑賀衆の「佐武伊賀働書」でも敵を10間以内にひきつけてから撃つとか、
至近距離での射撃が一番良いという考えがあったようだが。
狙いがちゃんと付けられるし。
641 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 11:15:06
おまえら 竹束を過大評価しすぎ!
火縄銃も竹束も過大評価してるってことは、相対的な評価は±ゼロってことだな
643 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 12:33:36
ちょいとそこのお侍さん
どんな竹束も貫ける火縄銃と
どんな火縄銃の弾も防げる竹束はいらんかね〜
645 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 00:17:12
http://comic6.2ch.net/test/read.cgi/wcomic/1094272005/ 241 :無名武将@お腹せっぷく :04/05/23 12:42
小牧長久手の時は確か徳川と同盟結んでたはずだけど、
なにか軍事行動は起こしたんだろうか。
あそこで、徳川に全力で協力してれば違う結果になってたような気がするが…
242 :無名武将@お腹せっぷく :04/05/23 20:17
>>241 下野で佐竹と対陣してたはず。
八万余の大軍での出兵し、沼尻で佐竹方二万と対陣するも、
佐竹方の鉄砲が多かった(国典類抄によると八千挺)ため持久戦になる。
結局決着はつかなかった。
>>646 類推するに、北条関連かな?
一応、関東にそれだけ鉄砲があったーって事を伝えたかったのでは?
と好意的に解釈してみる。
淡竹じゃ一尺に束ねても孟宗竹3本くらいに負けそう・・・。
それは知らなかった 今までの思い込み竹束議論の80%が無意味と化すな
知らなかったのかよ!
大名竹のタケノコは美味い。孟宗竹のタケノコの100倍美味い。
竹の子スレにする気なのかよ!
俺はたけのこの里よりもきのこの山のほうが好きだな
傘のチョコの部分をまず食べて、残りを骨みたいな形だなと思いつつ口に運ぶ
これが通のスタイル
きのこの山ってサイズ的に自分のアソコみたいで食べたいとは思わんな。
>657
たぶん女の子なんだよ
あのCM、決着がついたんだね
661 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 09:30:33
お前ら 火縄銃を過大評価しすぎ! あげ!
>>653-660はふざけんな!
火縄銃の話題を書き込めよ!
俺はアポロチョコのピンクの部分だけ歯で分離した後根元の黒い方を食べるよ
さすがにたけのこの里を太い部分から食べる人はいないのかな?
>665
そんな食べ方をするのは先端恐怖症か変質者のどっちかだな・・
>661
あらかた話題が出尽くした感があるからなあ
なんか新しいネタお願い
霊峰・五葉山(岩手県気仙郡住田町)、ここは藩政時代、
伊達藩直轄の「御用山」として手厚い保護下にあった。
それは当時、巨大鉄砲藩と恐れられていたからである。
古記録によると、伊達藩に献上された火縄は、
年間14,000ひろ(1ひろ=1.5m)21,000mにものぼり、
それが百年間も続いたとされており、江戸時代、
国内最大の火縄の山地であった。
鑑定ミスで捜索受ける 火縄銃購入でとばっちり
「古美術品」として購入した火縄銃が実弾を撃てるよう改造されていたため、
警視庁が購入者宅を家宅捜索、鑑定した岡山県教育委員会がミスを認め
購入者に慰謝料などを支払っていたことが27日、分かった。
県教委によると、火縄銃は岡山県の古美術商が1996年に美術品として
所有できる日本製古式銃砲として県教委に登録を申請。
県教委の委託を受け専門家で構成する審査会が、銃床が古いことなどから
江戸時代以前に製造した「古美術品」と鑑定した。
埼玉県の男性会社員が購入し、2000年にテレビの鑑定番組に銃を出品したところ、
視聴者から改造銃ではないかと指摘があり、警視庁は銃刀法違反の疑いで
男性宅を家宅捜索し銃を押収した。
火縄銃は、江戸時代以前の製造で長さ1・28メートル、口径1・3センチだが、
昭和に入って銃身が改造され実射可能だった。(共同通信)
ア〜ポロ、ポロポロ、アポロチョコ〜
マ〜ブル、ブルブル、マーブルチョコ〜
ベイビ、ベイビ、ベイビ、チョコベビ〜
みぃ〜んな食べたい明治チョコ め い じ♪
ってCMを思いだしますた
城の石垣は銃弾を防ぐためではなかった
室町時代の城は、たいてい土で造られていた。
だが元亀・天正年間(一五七〇〜九二)ごろから石垣造りの城が急速に普及し、
近世名の居城に至っては、むしろ石垣造りが常識になっている。
一方、石垣の普及とほぼ同時期に、鉄砲も普及している。
そこで、両者の普及を短絡させて、従来の土の城では銃弾が貫通してしまうので、
石垣を用いてこれを防ぐようになったとの説が古くから唱えられている。
たとえば、近江の六角氏の居城で、数えきれぬほど多くの曲輪をもつことで有名な観音寺城では、
比較的早くーー少なくとも弘治年間(一五五五〜五八)には石垣の工事が行なわれたようであるが、
これについて『滋賀県史』は、「天文中火器の輸入と共に、その急速なる伝播は
従来の城壁のよく防ぐところに非らざるを以って、この新式の築城を促したるものと思われる」としている。
だが、たとえば旧帝国陸軍の三八式歩兵銃が、厚さ一メートルの土手を貫通できないことが公式実験で明らかにきれているように、
ある程度の厚ささえあれば、土も石と同様に銃弾に耐えるものなのである。
それに、土の城壁が危険であると考えたならば、人体を隠せる程度の石垣を築けばよいのであり、
安土城や姫路城のような広大な石垣など築く必要はあるまい。
現に天文十八,〜九年(一五四九,〜五〇)に将軍足利義晴が京都東山の大嶽に築いた城の壁について、
『万松院殿穴太記』に「ニ重に壁を付て、其間に石を入たり。是は鉄砲の用心也」としているではないか。
銃弾の貫通を阻止するためならば、この程度の工事で充分であり、この方が石垣などを築くよりもはるかに経済的でもある。
それによく考えれば、石垣は鉄砲のなかった古代の城や、鎌倉時代に築かれた元寇の防塁にも用いられているのである。
元亀・夫正頃から石垣が普及したことについては、銃弾を阻止するためなどとするより別の原因を考えるべきであろう。
(「別冊 歴史読本 歴史常識のウソ 300」 新人物往来社 (1991年出版)より、抜粋)
>>670 ああ、石垣を用いるのには、権威の誇示、って意味合いが含まれてるよ。
もともと石垣の運搬には膨大な人手を要するし、石垣に巨大な一枚岩を用いたり
すれば、それだけでパフォーマンスにもなる。
このスレ見て、たけのこの里が食べたくなりますた
石垣の最大のメリットは、その上に建造物置ける事だろ。
銃弾を防ぐ目的って、何処の誰が言い出したんだ?
巨大な天守閣を造るには、石垣は重要かもしれぬな。
「城」という漢字は「土で成る」と分割できるな
石垣を積むというのは技術力がいるよね
安土城は近江の石工等
熊本城は朝鮮、中国の石工
>>673 お前の方が意味不明だ。貴様の勝手な思い込みを書き込むなよ。ソースとお前がそう考えた理由を記せ。
火縄銃なんて役に立たんかった、ということを証明してみせなよ。
>677
俺は673ではないけど、あなたは670?
>670
そもそもその中で引用されている『滋賀県史』が何に拠ってそう書いたのか判明しないと、
石垣は鉄砲を防ぐためか否か、言い合ってもキリが無いと思う。
『滋賀縣史』は昭和初期に編纂されたものだから、特に史料的根拠は
挙げていないと思う。というか、そんなことを書いた史料があるとは
思えないから、単なる推論ではあるまいか。
防弾用に石垣に移行したという説明は民友社系の史論(山路愛山とか
徳富蘇峰)で大正期には行なわれていたみたい。当時の学者や軍人の
研究や、江戸時代の兵学者あたりに起源がさかのぼる可能性もあるけど
俺は知らない(誰か教えて)。
そもそも近世城郭の石垣は盛り土の表層を覆うだけで、石垣の背後に
人がいるわけじゃないから、最初から防弾機能は要求されない。
その意味では
>>670の引用が土の壁で充分とするのも頓珍漢だと思う。
(石垣を胸壁と勘違いしてないか?)
681 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 20:28:27
火縄銃って火縄じゃん!
そうじゃん!
683 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 18:07:47
調べて見たけど、やっぱり火縄銃って火縄じゃん!
684 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 19:58:03
>683
俺も調べてみたら
竹槍は竹だったよ
685 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 20:07:37
>>684 だろっ!
でも竹束って竹を束ねた物だったらしい。がっかりだよ。
火縄銃は3発売ったら火薬がこびりついてアボーン。
撃つ間隔は銃身が冷めるまで、約5分。
銃身が線状じゃないから、真っ直ぐ飛ばない。
飛距離も2町(200m)程度で、弓矢と変わんない。
おまけに今の価格で400万円程だから、
持ち逃げする傭兵には持たせられない。
城攻め、篭城にしか使われなかったようです。
>686
>火縄銃は3発売ったら火薬がこびりついてアボーン。
>撃つ間隔は銃身が冷めるまで、約5分。
冷まさずに十数発連続で撃っても大丈夫。
>飛距離も2町(200m)程度で、弓矢と変わんない。
殺傷力は段違いだがな。
(´-`).。oO(桶に水はって、熱持ったら突っ込めば・・・・?
689 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 23:02:16
>>688 水浸しの銃身になるが? 火薬装填できる(乾かす)の時間かかるね。
それと焼き入れになるんで、次に撃つ時、銃身が割れる恐れあり。
>>687 真っ赤に焼けてる銃身に火薬入れてみ。即アボーンだぞ。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 23:15:15
>>686 江戸時代の砲術書には、だんだん小さい弾に変えていけばOKと
記されている。
それを裏付けるように、微妙に大きさの違う銃弾が発掘されたりしている。
>>689 3発で使えなくなるなんて、日本の砲術書も西洋の軍事史家も
言ってるの見たことないが。
例えばマスケットが3発で使えなくなったら、イギリスの横隊戦術が
存在したはずがないわけだが。
>>690 火皿の元薬(導火の火薬)が詰まるの意味かと思われ。
上薬に火が伝わる火皿の穴は、ミクロ単位の職人芸で開けられたもの。
火皿の穴が大きいと、上薬の爆発力が分散し、弾が飛ばない。
したがって、3発も撃てば穴が詰まって導火しなかったらしい。
撃鉄で薬きょうを撃つと同時に撃鉄が薬口を完全密封してしまう近代銃とは違い、
導火線で花火を炸裂させる原理だから、火縄銃は相当扱いにくかったと思われ。
上薬を銃身に入れる→弾を入れてカルカで叩く→火皿を開いて元薬を慎重に入れる
→火皿を閉じて元薬が零れてないか確認→火縄に点火→再び火皿を開いて、ようやく発射OK!
※火縄の周囲に火薬が零れてたら、即暴発するので注意!
>微妙に大きさの違う銃弾が発掘されたりしている。
弾はやっとこ状の弾型で作っていた鋳物。新品の納品時は職人技の完全な
円球だったかもしれないが、戦陣で足軽が鋳たり、篭城の城内では女子供が
作っていた。たこ焼きの鉄板みたいなのに溶かした鉛を入れて、冷めたら
半球を合わせて出来上がり。たぶんたこ焼きみたいにはみ出した部分もあったり、
楕円だったり、真っ直ぐ飛んだとは思えない。実際、形がいびつなのが多い。
それに、完全な円球でも線状が刻まれてない銃身だから、フォークボールや
ナックルボールみたいに曲がったり落ちたりしたんじゃ?
火種を切らしたり、雨が降ったら終わりだし。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 01:40:56
>>691 >上薬に火が伝わる火皿の穴は、ミクロ単位の職人芸で開けられたもの。
>火皿の穴が大きいと、上薬の爆発力が分散し、弾が飛ばない。
ぶっちゃけ、ミクロ単位の精度なんて意味ないと思われ。
それに火皿に盛るのは、あくまでも口薬だし。
ましてや、三発で詰まったら織田信長は長篠で死んだかと。
「銃身の内部に」すすがこびりついてピッタリの口径の弾が
装填できなくなる問題に関しては言及してる江戸時代の砲術家が
火皿の問題に言及してない理由をどう考えるんだ?
>>691 しかしその欠点だらけの兵器が弓矢を駆逐した現実。
694 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 06:09:19
ようやく追いついた
戦国時代の火縄銃がブレイクした理由については「命中率が高かったから」らしい
もののけ姫にも出てたようにソレまでの日本にには火薬使った銃みたいなのがあった
で日本に漂着した時の火縄銃はジャワ原産(種子島トキアキのやつ)
ヨーロッパの最新のに比べるともちろん旧式
ヨーロッパ人に最新の銃をオススメされたが命中率が悪いとのことではやらなかったみたい
もののけ姫の時に調べた
もしかしたらもののけ姫のパンフに載ってるかもしれないや
長文スマソ
石火矢衆
もののけ姫? プッ・・・。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 07:25:16
>>694 いい情報をありがとう。
そうかあ。日本の火縄銃はその後、当時のヨーロッパを凌駕する性能を獲得する
(確か、ライフル彫ってたんじゃなかったっけ?近江の鉄砲)
と聞いたが、それは、最も原初的な銃の原型から、独自に開発を繰り返した
当時日本の匠たちの、工業技術力にあるんだな。
輸入技術に盲目的に頼らず、自らの技術レベルを上げる、技術革新の真髄があったんだ。
火縄銃の実用性なんかより、遥かに重要なこの国の文化的歴史だとおもう。ありがとう。
(宮崎ハヤオって、確か兵器の下請け工場の息子なんだよね。そういうの、誇りがあるんじゃ)
>たこ焼きの鉄板みたいなのに溶かした鉛を入れて、冷めたら
>半球を合わせて出来上がり。
まんが日本昔話見たことない?
あ、そうですか。
>たこ焼きの鉄板
戦国時代のお姫様が80歳くらいになって当時を振り返った説話物に
そういう記述あったな。討ち取った敵将にお歯黒を塗るとか。
鉛とかした半球を張り合わせって、爆発のショックで確実に割れると思うぞ。
>討ち取った敵将にお歯黒を塗るとか。
これは読んだような気が・・・・
>>697 球形の弾丸だとライフリング彫ってても
かえって弾道が安定しないって聞いたことがあるんだが・・・。
丸きり無関係だが火縄銃の銃身への焼入れをめぐって事件になる話が
水戸黄門かなんかであったような。熱湯に水を差して
「この温度だ!」とかやってたな。
なんで、もののけ姫とか水戸黄門なのか??
704 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 11:19:45
>>697 ライフリングはなかったと思うが。
つーかライフリングは円錐形の弾体の表面を白銅でコーティングしてある
銃弾でないと、充分に効力が出ないかと。
>>702 弾丸の後方が、爆発の圧力で少し潰れて、
潰れた部分がライフリングに沿って回転していくわけだからな。
球形弾丸だと意味なし。
サヤカ(雑賀衆)が漫画になったらしいので新しいネタが出来たかも。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 01:35:52
>>706 今の銃は表面をコーティングしてある白銅の部分が
銃身の口径よりはみ出すようになっていて、そこに
ライフリングが食い込んで回転が生じるけど。
709 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 01:50:56
>>708 ライフル銃の実戦使用はナポレオン戦争の狙撃手用あたりからだ
よね?
710 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 01:55:31
だよねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
711 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 02:59:08
ミニエー弾は鉛の銃弾の底面に木製のくさびがはまっていて、
これが射撃時の爆圧で弾体底部をわずかに押し広げてライフリングに
食い込む構造だった。
712 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 07:25:15
衝撃!
織田軍はマスケット銃を使っていた
>>710 唐沢寿明の味ポンのCMか?
あの老人役の声は、はっきり言ってキモイ。
唐沢は老人役をまともに演じることが出来ない。
利家とまつを見てたら分かるというもの。
その点、武田信玄の中井貴一は良かった。
中井貴一、武田信玄やってたときまだ20代なんだよね…
すごい貫禄だったなぁ
どうせ弓矢が収録の時代だ
個人的 大河ベスト3
役所の信長、渡辺の政宗、中井の信玄
島津あたりやってほしいもんだ
九州一円に観光効果がありそうなんだが
島津は琉球と半島で悪さ(w)しているから、アウツ
720 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 01:50:56
まあ秀吉をやったんだから出来ない事はないだろ。
無難に治めるなら、九州三国志でどうよ?
大友・小弐・大内による北九州の覇権争いから、大友の台頭、三国鼎立、九州征伐まで。
これなら無難にどこからもクレーム無く纏められるよ〜。
たまには個人や家ではなく、地域の騒乱にスポットを当てて欲しい。
>>686 >城攻め、篭城にしか使われなかったようです。
何の根拠があっていってるんだ。このタコ!
鉄砲は便利な飛び道具だ。これが戦争で使われなかったと言う根拠は何?
ソース出せよ。
遅レスでマジギレはカッコ悪いな。
何事かと思ったな。
上のほうで城の石垣の話が出てたけど、石垣の効果というのは
1、土塁では崩壊しやすい急斜面を人工的に作れることと、
2、その上に重量のある構築物を建設できること。
石垣はある程度の高さを作れれば急角度によって人が登る事は
不可能になる。
また、重層の櫓(天守も)は高さがある分投射火力が増える、
屋根と壁がある事で天候の影響を受けにくいメリットがあるが、
狙われ易い分瓦や土壁を使って防御性を高めているために
それまでの井楼櫓と比べて重い。
その為に土塁の端に建ててしまうと崩れる危険があり、
それを防ぐためにはある程度内側に作るか(忍や川越など)
石垣によって塁線の補強、重量の分散化を図る必要がある。
こうした戦う上での必要に671の言う政治的な思惑も重なって
たくさん作られたわけだけど、
>>防弾用に石垣に移行したという説明は民友社系の史論(山路愛山とか
徳富蘇峰)で大正期には行なわれていたみたい。
この辺の人たちは五稜郭のことはどう考えてたんだろ?
瓦は防御性関係ないだろ。威信って奴じゃねーのか。
もともと石垣が寺院の重厚な建築物を支えるために発展したんだから。
あんなもんじゃ銃弾は防げないわけだし。
つーか大筒が普及してたら櫓は意味なくなってたな。
西洋の城塞は大砲の普及後は表向きの外郭である石壁の内側に
防御用に土塁を築いていたな。
いや、瓦にも意味はあるよ。
火縄銃とは関係ないけど、瓦の無いこけら葺屋根に火矢が当たれば当然燃える。
そうなれば戦意の低下や軍事施設としての機能喪失になるよ。
土塁は石垣に比べると、手入れが大変というデメリットがある。
ちょっと放っておけば風雨で崩れるし、
草でも生えようものなら燃えやすいわ、掴まりながら登りやすくなるわ。
全体的に考えれば、石垣の方が機能的。
ただ高い技術と莫大な金が必要になるけど。
あと、石垣の有効性のほかに当時の築城の流行や
近代城郭を持つことのステータスもあったのではないかと推測してみる。
どうせ作るのなら多少高くても良いものを作ろうとするはずだし
他のライバルに先駆けて近代城郭を作るのは優越感もさることながら
それを成し遂げる財力、技術力、支配力があることを内外に示せる。
あんたのとこの本城はまだ土塁なの?ププ・・
田舎者には無理だと思うけど、うちは総石垣なんだよね。プププ・・
なんて言われた日にゃあ大借金してでも手出しそうな予感
鈴木眞哉
↑
こいつだな?根拠のない論文を書いてる奴は。
そしてこの「自称・歴史学者」の論を考えもせず鵜呑みにする馬鹿猿はお前らだ。
>730
いきなりマジギレなわけだが、>722と同一人物か?
過去スレ読めばわかるけど妄信はしてないでしょ
柵に篭る織田軍が鉄砲隊3千人を千人ずつ3隊3段に分けて
時間差で射撃するという戦国史上革命的な攻撃方法によって
無敵の武田騎馬軍団を壊滅させた
ってのを丸ごと信じていいのか?ってことでいろいろな説を出し合ってたわけで
あなた的にはどう考えてるのか興味があるので自論展開よろしく
>>731 丸ごと信じていいんじゃね? だからこそ長い間定説として安定した扱いをされていたわけだし。
それを今頃になって屁理屈並べてほじり起こそうとする鈴木とその信者は池沼。
> 柵に篭る織田軍が鉄砲隊3千人を千人ずつ3隊3段に分けて
> 時間差で射撃するという戦国史上革命的な攻撃方法によって
> 無敵の武田騎馬軍団を壊滅させた
俺には通俗的な説明のおかしなところを寄せ集めて批判しやすい
カリカチュアを作り上げ、それを勝手に定説に認定しているよう
にしか思えなかったのだが…そうでもないみたいだね
>732
軍記ものの記述をそのまま採用しただけだからなぁ。<定説
定説をほじくりかえすこと自体は良いんじゃない?
困るのはそういうのに便乗して明らかにデンパな説を流す輩だ。
鉄砲隊は江戸時代に作られた軍記物語。長篠合戦図屏風みてみ、鉄砲隊なんか
描かれてないだろ。
信長や秀吉の軍役帳を見たら各武将単位、郷村単位の動員なのがわかる。
謙信と信長のみ、現場で鉄砲隊と長鑓隊を編成したという説あり。
>丸ごと信じていいんじゃね? だからこそ長い間定説として安定した扱いをされていたわけだし。
安定して扱われてねぇよ。江戸期の軍学者のいい加減な物語には、同時代の国文学者たちが
何度も異を唱えてるだろ。頼山陽みたく、学者も勝手に歴史を作っちゃうし。
だから今だに史料研究が進められてるわけだ。
>>728 その代わり、土塁は簡単に再建可能というメリットがあるよ。
また良質の石が産出しない東国では土塁でもいくつもの名城が
築かれてるよね。
>>732 そんなものでこの俺様が釣ら(ry
>>737 房総半島の鋸山は?
それに八王子や鉢形など北条の有力者の城は部分的にだけど石垣が採用されています。
石垣作りの城は、全国で見ても少ないと思う。
やはりそれなりの財政基盤を持った勢力でないときついのかも。
>>741 >味方が無抵抗な朝鮮人を虐殺したためこれに怒り、朝鮮側に寝返って日本軍と戦ったらしい。
激怒&自主投降の話は、学会では完全に眉唾扱いされてるらしい。
後ろ指さされずに朝鮮社会で生きていくための嘘を当時の政府も追認したのだろうということだ。
743 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/07 18:38:01
久しぶりの書き込みでうっかりageちまった
すみません・・
745 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/07 19:48:26
サヤカは名もなき人達を合わせた架空の人物
746 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/07 22:40:25
サヤカというからには女の子だろ。
お市タンもびっくりの猫耳激萌え美少女だったに違いない。
_ _ __ ネコミミ!
〈>´ ` くノ ネコミミモード ネコミミモードでーす ネコミミモード ネコミミモード
∩ | i iノノ人)〉 ネコミミモード ネコミミモードでーす ネコミミモード(フニャーン♪ ウニャンニャ?)
))| トゝ゚ ヮ゚イl フルフルフルムーン(キスキス…) おにいさま(キスキス…)
((ノ ⊂)卯lつ や・く・そ・く・よ(キスキス…) 私のしもべー(キスキス…)
(( (く/」」〉ノ ネコミミモード ネコミミモード ネコミミモード ネコミミモードドでーす
` し'し' ネコミミモード ネコミミモード ネコミミモード ネコミミモードでーす
キス…したくなっちゃった…
>>742、743
レスどうもです。うーん、架空の人物なのか…
海外に伝播していった雑賀衆がいた、なんて浪漫あふれる話なんだろうとときめいたんだけどなぁ。
743みたら朝鮮の鉄砲伝来もなんか違うみたいだし。
沙也可のネタって745がいうような降倭たちの事績をいろいろまぜたのかな?
>>746 俺も最初この名前みて女だと思ったw
今更だが>1は武田勝頼
750 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 00:19:08
うーむ、朝鮮を制圧してやがて対峙する満州八旗やコサック騎兵にも勝つと思いきや。
李舜臣に破れ明の大砲にもやられるようじゃな・・・
いや、李舜臣に負けたのはしょうがないだろ。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 01:50:19
むしろ海上では大型火器の不足がネックになったらしい。
お前ら李舜臣を過大評価しすぎ!
まあ評価している資料が島津がらみの資料だから現実はどうだったか怪しいな、
更に明治に有名になったわけだがその明治政府も薩摩の影響強いし。
だいたい日本の城は海岸沿いに港を囲い込むような作りで海上からの攻撃を警戒してるように見えない
実際のところは制海権を掌握するまではいかず輸送部隊をゲリラ的に襲う程度だったのでは?
その位だったと思うよ。
実際、日本水軍は李舜臣にかなり痛い目に遭わされたけれど、
日本本土との連絡は最期まで保たれていた訳だしね。
海上では朝鮮側が主導権握っていたけれど、
攻めきるだけの(組織的・物質的な)実力が無かった、と。
>>735 何の根拠もないね。戦争がじゃんじゃん行われていた時代こそ、集団戦法は生みだされやすい。
>>756 それこそ根拠無しの思い込みではないか。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 16:43:46
どちらも根拠は無いということを前提に。
近代でもフルオート銃登場以前の歩兵隊は、筒先揃えての一斉射撃が最も効果的で有り
制圧力も有ったであろうことが想像に容易いことから、連射性のない火縄銃を集団として使用
することは必然の様に思われ。
因みに捕らわれた三成が藤堂高虎に、鉄砲隊の指揮官はもっと身分の高い者に任せた方が
いいだろうと忠告したエピソードがあるらしい。
この話の信憑性は別として、この当時は既に集団として運用することが一般的であったことを
うかがい知ることが出来る。
>>758 そのエピソードと結論に何の関連性も無いように思うが?
>>759 じゃあ、何か、お前は足軽鉄砲隊など存在せず、鉄砲の集団使用はいっさいなかったと考えてるのか?
イカレテルよ。鈴木何とかとかいう素人歴史家に洗脳されてる。
何でもかんでも疑ってお前は何様のつもりなの?お前はすべての真実を知ってるのかよ。
>>760 批判する相手の説もろくに知らんでよう批判できるね。
君、真性のアホやろ。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 20:50:54
>>759 この時代の戦場に於いて鉄砲隊という一集団がそれなりの重きをなしていた(鉄砲隊は存在した)
という証拠になるかと思ってな。尤もこの話が後世の創作でないという前提で。
身分の高い指揮官だと他部隊に遠慮することなくある程度は己の判断で行動できるため、
メインの白兵戦部隊の単なるサポートだけに留まらず、もっと鉄砲隊を有効に活用(一斉射撃による制圧)
できるという意味と勝手に解釈しました。
集団運用による利点というポジティブな視点も当然あるだろうけど、
ネガティブな視点で考えてみると、身元の定かでない人間に強力な兵器を使わせることは、
支配者にとって脅威であると思われ、したがって積極的に運用する意図がなかったとしても、
鉄砲使いの囲い込みという行為は当然発生すると思う。
鉄砲隊が出自・人格に申し分のない人々によって公式に構成されるようになっていくのは必然でしょ。
馬廻り衆が厳重に大名を警備していても、鉄砲使いの中に敵内通者が紛れ込んでいたら非常に危険。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 10:43:50
集団としての鉄砲隊は本願寺勢が最初。
設楽原で武田を破ったはずの織田軍、
本願寺勢の鉄砲隊にボロボロに負けてるのが根拠。
それ以前は各家臣隊ごとに鉄砲を持参した程度(根拠、
軍役帖がすべてそうなっている)。
上杉謙信も加賀の朝日砦で苦戦してる。
ゆえに、設楽原の織田軍の3000丁も嘘。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 10:46:47
たしかに3段打ちはムリだね、
よくかんがえてみ、
おまえらレベルのやつらが(当時は教育というものがあんまりない農民ばっか)
なのでいちいち12秒間隔できちっとあてるわけがない
火薬いれて弾丸いれていろいろやって発砲、筒そうじして、火薬いれて、、、
を35秒でみんながきっちりできるわけがないのだ
768 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 10:57:39
花の慶次で慶次が警戒してたから強いもん
769 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 12:40:33
大坂の陣の時の伊達家の軍役帳にはすでに鉄砲組があるよ。
>>769 あるね
俺は騎馬鉄砲隊の文字がなくてショボーンですけどね
まぁ、本願寺勢の鉄砲が鉄砲隊として集団運用されたかも
怪しいんだがな。砦の構造物沿いに射手を配置して個々の
判断で狙撃してただけかも知れんし
772 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 13:08:36
鉄砲組があっても一斉射撃とかは無い気もするけどね・・・・
773 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 13:11:42
最初の一発目は一斉でも、二発目からは個人差でばらばらに
なるだろうね。
774 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 14:04:17
一斉射撃も恐いが
要害だと連続射撃も恐いぞ
野戦と違って篭城戦では集団化する必要はないんだろな。
一箇所に留まっていられる分、各自バラバラに打ち続けることが出来るだろうし。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 19:56:02
>>769 君主が直接抱える旗本では原始的な組み分けが見られるね。
騎兵隊のような身分上難しい編成はまだ無いが、
鉄砲は足軽身分でも扱うからある程度の集団化が可能だったんだろう。
信長が細川やら筒井やらから鉄砲を50とか100とか引き抜いたり
別働隊に500を付けたりしたあたり、大名や重臣の旗本の中では
すでにある程度の集団化が進んでいたのだろう。
ただ全体として見れば、まだ大した数ではなかっただろうが。
江戸時代の軍学だのあるいは雑兵物語など見ても、ある程度集団化して
前線に置くところまでは行っていたようだが、射撃の方は個々の力量に
よって行っていたように見えるね。
戦国時代では鉄砲は集団として相手を殲滅するよりも士隊長を狙撃する役割が大きかっただろう。
長篠についてはいろいろ言われているが、3段打ちがなかったとしても鉄砲が重要な役割を果たしたのは確かだろうし、
近畿から雇った鉄砲隊は3段打ちに近いぐらい組織的だったのではないだろうか。
それにしても武田は有名な指揮隊長のほとんどが鉄砲でやられてるね。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 20:21:53
新宿区には江戸時代にたくさん鉄砲部隊の駐屯地があったんだよね。
百人町や余丁町がその名残らしい。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 21:48:16
>>780 一つ残らず全部。
特に「士隊長を狙撃」とか、
「武田は有名な指揮隊長のほとんどが鉄砲でやられてる」
あたりが顕著。
山形あたりは鉄砲でやられたらしいが…。
>>783 まあ小説が根拠かもしれないが、別に間違っていないだろ。
狙撃なんてしたのはほとんどいないし、
普通の兵士じゃあ不可能。
武田の武将も多くは退却の時に討ち取られた。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 23:01:42
そもそも雇ってないし
組織的であることと三段撃ちに関連性が無いし
仮に山県が鉄砲で撃たれて死んでてもそれ徳川の鉄砲だし
788 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 23:14:49
鉄砲名人のはずの杉谷善住坊が20間の距離で信長を
殺し損ねるのだから、機械的な精度が低かったんじゃないか?
今なら口径ピッタリの弾をちゃんと作るけど、
昔だと鉄砲も職人ごとあるいは一挺ごとに差があるだろうし、
弾も発掘されたのは微妙に大きさバラバラだったりするし。
>>786 >狙撃なんてしたのはほとんどいないし、
普通の兵士じゃあ不可能。
馬に乗った士隊長がいて4,5人足軽がいる部隊の士隊長だけ鉄砲で狙えばそれは「狙撃」じゃないのか?
>>武田の武将も多くは退却の時に討ち取られた。
土屋、山県、鳶ノ巣山の守将のほとんど、真田、高坂、原は鉄砲で死んでる。
長篠以外だと典厩信繁、浅利。
まあ甲陽軍艦が偽書だといいたいんだろうが、鉄砲で死んだと捏造する意味なんかないだろ。
長篠後の武田の軍制、軍役は以前より鉄砲を重視する傾向があるし。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 23:41:42
>>789 甲陽軍鑑すらマトモに読んでなさそうですねw
三好実休は、本当に銃弾に当たって死んだんだっけ?
>>788 そりゃ、火縄銃はライフルじゃないですからね。
武田軍団の将兵の多数が退却戦で討ち取られたとする根拠はなに?
命中率の低い火縄銃でも、当たれば死ぬんだよ。鉛玉なだけに、殺傷能力は十分だ。
歴史的事実を疑って勝手な妄想を2ちゃんねるで披露するのが趣味の方ですか?
「三段撃ち」は疑問視されていますが、長篠の戦で「鉄砲を大量に使用した戦法」が行われたのは、学会では疑われてはおりません。
793 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/22 23:58:56
学会を持ち出すなら信長公記が記す通りほとんどの首は
追撃で討ち取ったものである事も知っているのでは。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:05:25
むしろ甲陽軍鑑を信じるなら山県は銃弾を23発受けてやっと
死んだのだから、殺傷能力はかなり低いだろう。
刀や槍でやるより討ち取れる可能性は高い。
>>794 大将首だと思って狙いが集中したんだよ。きっと。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:10:06
>>795 首を取って首実験に供さなきゃ手柄にならんし記録にも残らんけど
従者に囲まれてる武将を狙撃しても首獲れんと思うぞ。
そもそも従者に囲まれてるのに狙撃されるのも変だがw
798 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:12:51
>>794 甲陽軍鑑を信じるなら山県の首は部下の志村が持ち帰ったのだから
織田軍は首実検できずに討ち取った事を証明できんのでは。
そうなると内藤のように信長公記に残らんような。
>>797 >首を取って首実験に供さなきゃ手柄にならんし記録にも残らんけど
従者に囲まれてる武将を狙撃しても首獲れんと思うぞ。
士隊長がいなくなればその部隊の戦闘能力は激減するだろ。
800 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:15:18
「織田軍を追い込んだが陣城にこもられたため先手が敗北した」
と勝頼自身が戦後書状に書いており、武田軍は織田軍の布陣や
築陣や戦術をほぼ正確に理解していたと思われる。
とすれば、陣城にこもる相手を武将が先頭に立って攻めるなんて
ありえんだろうな・・・・
801 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:16:55
>>799 蛮勇馬鹿以外は簡単に撃ち殺せるような位置にいねーだろw
ゴルゴ13級の狙撃手がバナナショットを駆使でもしない事には。
>>800 >>とすれば、陣城にこもる相手を武将が先頭に立って攻めるなんて
ありえんだろうな・・・・
ありえるのが武田なんだよ。
勝頼自身が士隊長時代、城攻めで先頭たって突撃している。
あるいは武田以外でも信長・信忠がやっている。
馬を下りて配下に周囲を固めさせていても狙撃を防ぐことは不可能だっただろう。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:21:40
>馬を下りて配下に周囲を固めさせていても狙撃を防ぐことは不可能だっただろう。
すごい所から撃ってるんですねw
804 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:22:45
合戦のその手の記述をそのまんま信じてたらマンガの世界になってしまうよw
陣頭指揮を取るというのと本当に先頭に立つのとは別問題なんだが
区別の付かん奴がいるようだね。
>>805 鉄砲の射撃距離に入るという意味では同じだろ
いつの間にか高坂昌澄が鉄砲で殺された事になってるな。
誰か独自の史料をお持ちのようだね。
おめでてーなw
>
>>777 過去スレ読め
そこで長篠合戦について語られてるぞ。
810 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 02:16:28
火縄銃なんだから射程からして突っ込んでかない限り致命傷にはなんないでしょ。
陣頭指揮とってるくらいじゃ狙撃されても死なないよ、本当に軍の先頭で陣頭指揮とる奴はいない。
>>802での勝頼は、挙句の果てに城内で一騎討ちかましたって話だな。
信玄の命で城の包囲を解かされ、その上叱責喰らったらしいが。
鉄砲ってそんなに当たるものなの?
813 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 02:25:17
んなこたぁーない
兵の死因が銃の普及に比例して刀傷より銃撃が多くなっていく
十分致命的
銃による負傷者は戦国期では一番多いが、
負傷者の総数は死者の20倍もいる。
そんなに殺傷力や命中率が低い物だったら血眼になって買い付けたり
生産したりはしないよな普通。。。
命中率は弓矢もどっこいどっこいだろ・・・・
達人ばかりの世の中だったらいやだしな。
史実で鉄砲で撃ちとられたとされる武将が多い以上、
>>810は説得力ない。
それとも何、長篠を始めとしてほとんどの武将は本当は鉄砲でやられたんじゃないと言いたいわけ?
>>809 過去スレも何も長篠なんて甲陽軍艦とかにケチつければ仮説は何でもOK状態なんだよ。
通説は言うまでもなく長篠で鉄砲は大きな役割を果たしたってことになっているし。
弓矢より命中率は低いだろ。火縄銃は反動が強く、熟練した者でも
確実に当てるのは難しいらしいぞ。
鉄砲は弓矢と違って鉛弾だから即死しなくても
体の中に残るとそれが原因で死に至るところが怖い
井伊直正は関が原の戦いの時に受けた鉄砲傷が治らなくて死んだらしい。
松平忠吉もな。
>>818 火縄銃は撃鉄式よりもブレが少ないらしいぞ。
命中率が低いのは、銃や弾丸等の技術的な問題。
江戸期に清とロシアが戦争した際、ロシアは日本に鉄砲を大量買付けした。
日本の鉄砲が火縄式の旧型とはいえ命中精度が高かったから。
>>817 実際問題として長篠でほとんどの武将は鉄砲では死んでいないよ。
各武将の死んだ場所というのが何箇所か伝えられているが、
弾上山からはみんな遠いよ。
甲陽軍鑑を鵜呑みにする馬鹿でも山県土屋真田ぐらいしか確実ではない。
久米田合戦にて三好実休義賢殿、流れ弾に当たって戦死・・・とある。
>810 :無名武将@お腹せっぷく :04/10/23 02:16:28
>火縄銃なんだから射程からして突っ込んでかない限り致命傷にはなんないでしょ。
>陣頭指揮とってるくらいじゃ狙撃されても死なないよ、本当に軍の先頭で陣頭指揮とる奴はいない。
まあ火縄銃が人間まとめて10人ぐらい吹っ飛ばすような威力が
無い限りは、至極真っ当な意見だけどな。
陣頭指揮と言っても本当に先頭にいる奴はそういないわけで、
ゴルゴ級の狙撃手が火縄銃の精度でゴロゴロいたらおかしいからな。
>>818 >熟練した者でも確実に当てるのは難しいらしいぞ。
誰が言ってた?同級生の田中君?
>>823 >実際問題として長篠でほとんどの武将は鉄砲では死んでいないよ。
各武将の死んだ場所というのが何箇所か伝えられているが、
弾上山からはみんな遠いよ
追撃戦で死んだ=鉄砲以外で討ち取られた、ではない。
退路が詰まってて鉄砲隊に追いつかれたり、道に迷って戦場に取り残されていたり、
殿で残っていたりする武将だっていただろう。
この戦いの後、武田の軍制がより鉄砲重視になっているんだから鉄砲が大きな影響与えたのは確かだろう。
>>825 森長可は白兵戦に移る前に狙撃され即死している。
首を取ったのはもちろん狙撃した兵と別人。
先頭に立っていなくても、地形に起伏があったり標的が馬に乗っていれば十分狙えただろう。
>>828 それ初耳、奮戦して討ち死にしたと思い込んでた
>>827 武田家は信玄の頃からずっと鉄砲重視ですが?
832 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:29:34
織田信長=革新的
武田信玄=旧弊的
は大間違い。武田信玄もかなり革新的です、いろんな意味で。
竹束。
信玄の頃に比べて軍役における鉄砲の割合が増えたという奴もいるが、
鉄砲の普及が全国的に急ピッチで進んでいるなかで10年も同じ割合
という事は有り得ない。
信玄自身、1555年には旗本に300の鉄砲を抱え、
また鑓を省略してでも鉄砲を用意せよと家臣にも鉄砲装備を奨励している。
長篠において特筆すべき点が多少なりともあるとすれば、鉄砲+障害物の
大規模な運用という事なのであるから、「追撃でも鉄砲で撃たれて
死んだかもしれない!」などと強弁する
>>827はかなりヤヴァイ。
致命的でなくても戦闘能力が低下する
銃は有効なんだよ、えて公
>>835 >信玄自身、1555年には旗本に300の鉄砲を抱え、
妙法寺記の鉄砲300丁の記述は疑問。
いや普通に当たったらヤバイだろ。
そうでなきゃ普及しないし、現存する火縄銃でも鎧ぐらい
簡単に撃ち抜けているわけだし。
江戸時代の鎧師は火薬を減らした銃で自作の鎧を撃って
貫通していない事を自慢にしたらしいが。
>>837 別に武田家の鉄砲重視が変わるわけでもないし。
840 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:44:52
役立たない兵器が普及するわけないだろ、しかも高額で
841 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:45:45
信長が道三に面会した時に鉄砲500挺とか言ってる奴に限って
自説に都合が悪いと無視します。
842 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:49:24
何で日本ではずっと火縄銃(マッチロック)だったの?
ホイールロック(歯車)やフリントロック(火打石)に移行しなかったの?
843 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:49:47
鉄砲があれば槍もカブトも(・∀・)イラネと言ってのける信玄公。
だがだまされちゃいけない。
もともと槍も鉄砲も武田家にとっちゃ大した意味は無い。
主 力 は 騎 馬 隊 だ か ら な 。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:51:15
現代の会社でも社長の考え方が新しかろうが古かろうがコンピューターを導入していない会社は少ない。
武田も織田も一緒。これからの情勢に見合う装備は必ずするはず。頭のいい人はいろんな物に興味持つはずだ。
845 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:54:09
>>842 いろいろあるが、
・鉄砲鍛冶にとって製作が面倒だったから
・火縄がストンと落ちる火縄銃よりも発射時のブレが大きく命中率が
悪かったから。
特に命中率の問題が大きかったと思われる。
欧州では横隊戦術が発展して広く展開して、個々に狙って撃つよりも
全体でできるだけ多くの銃弾を浴びせかけることで解決しようとしたが、
日本では兵科もついに未分化で横隊戦術など不可能だったから。
数で解決できないなら個々の精度で補わねばならないからね。
846 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:54:30
長篠の戦いで信長は多数の鉄砲隊を組織したが
当時の鉄砲技術は未熟で効果的とは呼べなかった
以後日本の合戦に鉄砲隊は重要な存在になった
なんて教科書に書いてあったら意味おかしいだろ
847 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:57:47
長篠の戦は一斉射撃と幅広の配置が良かったと思う
848 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:57:50
歴史の教科書も丁寧な指摘をしないといけない箇所もあろうかと・・・
849 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:58:13
>>846 鉄砲は効果的な武器だったし
永禄年間から既に主要な武器だった。
したがってそれはそもそもおかしい。
850 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:59:35
>>847 まだ一斉射撃なんて言ってるのか・・・・
個々人の精度が命の日本の鉄砲にそんな効率の悪いものいらないよ!
長篠はどうせ結論でないんだから止めよう
弓と火縄銃の威力があまり変わらないとしても、
優秀な弓兵を育てるには長い時間がかかる。
銃であれば、短時間で優秀な弓兵以上の兵が作れる。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 01:11:14
>847
当時の射手は堆土(高く積み上げた土、またはトレンチ穴)に体を預託して命中精度を上げているのは確かだが連続した射撃(俗に言われている三段撃ち)はこの体勢では非常に難しい。
現代の連発が効く銃でもひざ撃ち(すわり撃ち)による射撃での百発百中は大変難しい。
火縄銃の生産が行えたとしても、火薬の調達が問題になる罠。
855 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 01:17:22
だってあれだろ、長篠合戦って旅順攻略戦と同じだろ。陣城に突撃かけていく訳だから。
陣城と永久要塞は全然違うぞ。
織田・徳川軍もずっと柵の向こうにいたわけじゃないらしいし。
もっとも長篠は寄せ集めなので戦術より単に鉄砲の数がものを言ったんじゃないかという気もする。
857 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 01:42:06
当時鉄砲は殺傷能力より銃声のが恐かったらしいよ
後、馬も動揺したらしい
銃声なんてたいした効果ないよ。その程度の音で人は死なん。
微妙に話題がループしてるな。
鉄砲の優位性だったらとっくに結論でてるだろうに
860 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 03:10:49
858は頭が本当に悪い子だなぁ
てか長篠合戦での、織田・徳川連合軍と武田軍の兵力差を比較したら、
武田軍が負けるのが普通だわな。
>>855 戦国時代の領主と乃木大将の違い。
戦国時代の領主は自腹で揃えた兵隊を率いる。
乃木はいくら損害出しても国が補填。
従って戦国時代には、よほどの事が無ければアホみたいな突撃はやらない。
だいたいベトン陣地に機関銃の時代と土塁に先込め単発火縄銃の時代に、
仮に同じように突撃したからと言って同じようにバタバタ殺される
わけがない。
武田の陣所と織田の陣所は最小で500メートルと離れていないのに、
無為無策で突撃をしかけたと考えるのは論理的じゃないな。
>>857 戦闘要員の一割とかが銃を所有する時代に、銃声に慣らさない所は無いよ。
>>842 ずっと戦続きなら技術は発展するが
江戸に入り世の中が安定すると兵器の開発は滞ったから
戦国ではメインウエポンだった槍も江戸に入ると廃れたしな
鉄砲が廃れるのも無理はない
で、携帯武器である剣術だけが栄えたと
>>864 時代的に戦国期には宣教師やらが新型も持ち込んでると思うが。
大坂の陣で徳川方が盛大に大砲を撃ちまくったという話があるが、それ以前の
合戦で砲兵はほとんど出てきていないのに、唐突な感じがする。
そもそも何で戦国時代の日本は世界有数なくらい銃が投入されてたのに、
砲兵は全く発達しなかったのか?
城攻めとかで砲の需要は多いはずなのに。
>>867 普通に信長の時代から投入されている。
ただし、鉄砲と違い大砲の威力はヨーロッパに匹敵するものではなかった。
元亀・天正年間は大友宗麟が所有する大砲が国産で最も径の大きなものだったらしい。
炸裂弾じゃないからあんま活用法がなかったんだろな
大砲一門より鉄砲10丁のほうがよっぽど使い道がありそうだ
大砲はそれこそ城に向かって嫌がらせに撃ち込むぐらいしかない
ヨーロッパの大砲の弾もあの当時はただの鉄の塊だからな。榴弾の威力と比べちゃいかんよ。
>>867 ・火薬の消費量が大きすぎる
・合金鋳造に関するノウハウの不足(寺の鐘レベルでは強度に不安)
・運べない
家康も大砲の運搬はソリとか人力。
拠点攻撃力は大きかったが(というよりそれしか無かったが)山ばかりの
日本では仮に馬車など作っても登り降りに対応できないし。
米1石運ぶのに馬一頭使ってたぐらいで。
大砲=大筒(おおづつ)と大砲(たいほう)
間違って理解してる香具師いませんか?
どう違うの?
同じようなものかと思ってたけど
大筒って時代劇に出てくる持ち運びする一寸大きめの鉄砲みたいなやつのことだと思ってた
今で言うとグレネードランチャー?
大砲だと据え付け型の大口径砲
今で言うと野砲?
こういう認識でいいのかな?
具体的に説明キボン
>>873 戦国的な使い分けをするなら、
大砲ってのは青銅製のブリーチローディング砲の事。
大筒ってのは鉄板を張り立て法で重ねていく巨大火縄銃。
サイズはあまり関係無い。
大筒でも100匁を超えるものは台座に固定して撃つし、
1貫目を超えるもの(口径87ミリ超)まで作られていたから。
大砲は石火矢
鉄砲は手火矢
なんて言ったりもしますね。
>>869、870
となると、あの時代に大砲を使うのは殺傷能力を期待したというよりも
ビビらせ目的かねえ。
野戦で使ったと言うと関ヶ原での石田隊が思い浮かぶけど、
あれも攻めと言うよりも敵の足止めだったんだろうか。
そもそも大砲自体が重い上に発射回転と使用限界が低すぎる
規格化がされてないので玉の大きさが揃えられず無駄が多い
ので野戦向きじゃないことが理由に挙げられる。
城門を壊すぐらいのおおでっぽうもあったし、実際は使われてるんでしょうけど。
関係ないが今「続戦国自衛隊」を読んでいる。
と言うわけで棒火矢を過大評価したい。
880 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/29 07:17:38
なんで棒火矢なんだよwって「過大評価」だから良いのか。
実際の効果はどれほどのもんだったんだろうね。
悲惨な戦いを先日読んだので排泄物を過大評価したい
882 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 15:06:35
排泄物の処理を怠ると疫病が蔓延して戦いどころではなくなるからな。
実際、排泄物を投石器で投げ込むというテロ行為は、
城攻めにおいて割とポピュラーだしな。
逆だろ。篭城側が城壁を昇ってくる雑兵どもに糞尿を浴びせかけるんだろうが。
糞で手が滑って、地面に落ちた時を狙って、弓や鉄砲が飛んでくると。
傷口が化膿
886 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 07:03:57
つまり戦争は排泄物無しには行うことが出来なかったわけですね
887 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 07:10:02
城壁昇ってくる敵を落とすのにどれだけ糞尿が必要なんだか
効率わるい
糞尿は毎日、大量に生産されるから戦闘資材としては無制限に近いよ
>>887 熱した糞尿をふっかけるから、
そこまで膨大な量にはならない、それでも結構な量が必要だろうけれど。
糞尿を熱するのか。
なんか熱している間城内にもダメージが行きそうなんだが。
臭そうだな、攻める方も守る方も。
まあ、他に武器弾薬があればわざわざ使う必要もないが、
長期戦になってそれらが心許なくなったときとかは有効かと。
何せ守る兵がいる限り弾ぎれの心配もないわけで。
>>884 城内で疫病が起こりやすくするためにな。
その他に疫病で死んだ形跡のある家畜の死骸なども打ち込む。
つうか疫病起こったら攻撃側も困らないか?
これから占領するんだろ
全部焼いちゃえばいいじゃない。
いや、実際、城内に疫病を流行らしてでも落したいというなら、
当然その後の処置についてもそれなりの覚悟はしているのだろう。
896 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 19:49:40
糞尿熱しあげ!
とりあえず
火縄銃より熱し糞尿のほうが威力があったということでよろしい?
898 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 02:28:47
>>897 とりあえずベトナムでのアメリカ兵にはそっちの方が怖かった。
落とし穴には竹槍がさかさまに植えてあり
糞尿が満たされている。
熱帯の気候の下、あらゆる雑菌が繁殖している。
少しでも傷つけばもう助からない。
確実に嫌度は糞尿のほうが高いよな。
まぁ火縄銃の弾なら雑菌に勝るとも劣らない鉛毒があるわけだが。
900
901 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 14:51:05
900
902 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 17:05:09
一応スレ違いだが言っておく
尿に雑菌は含まれてません
糞 尿 と書いているだろ。
>>902 排出直後に含まれてなくても
雑菌はあらゆるところに存在するのであるよ。
905 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 15:19:11
話をぶった切って悪いが、世界的に見て鉄砲の有効活用と言えばやっぱり
ヤン・ジシュカ率いるチェコのフス派がその先駆けじゃないのかね?
長篠合戦の150年前に火器と野戦築城(戦車)を有効に
活用して数千の農民軍で、ドイツを中心に全ヨーロッパからはせ参じた
十字軍の数万にも及ぶ騎士たちを完全に撃破。
それも5度に渡って。凄すぎ。
>>903 尿(には)と書いているだろ。
実際に雑菌効果があるのは糞の方という意味なんだが。
>>904 >雑菌はあらゆるところに存在するのであるよ。
当たり前あるよ。
>>905 あの怪物どもと比べちゃあ信長がかわいそうってものだよ。
>>906 で?何が言いたいんだ?
その程度の知識を自慢がしたいなら余所で
たしか、黒色火薬を使用する銃のスス汚れを落とすには、
灰を濃く溶かした水や、濃い石鹸水のほかに人間の尿が使えるそうだけど、
小便の成分って黒色火薬カスを分解するんでしょうか?
アルカリ性のションベンでないと無理かな。
ん、なんか漏れアタマ悪いぞ。
アルカリ性のションベンってなんだよ(汗
でも銃身に小便流し込んでブラシとかでこするなんて臭そうだ。
連続カキコすんません。
912 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 12:18:36
生物兵器の元祖だよな
913 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 16:07:43
竹束あげっ!
流れさえぎってすまんが、火縄銃って重いよね。
あれ持って、走れるのかな?
自分の田舎に古い鉄砲あるんだけど重くてとても持ちあがらないですよ。
木と鉄だから重くて当然なんだけど。
>>914 だから、信長の野望では鉄砲足軽の機動力は低い。
916 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 03:47:18
なんか火縄銃ってマスケット銃ぐらいの命中率あったんでしょ?
命中率はアメリカ南北戦争時の銃と大差無いって話は良く聞くな。
918 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 05:43:56
>>914 俺も精巧なレプリカ品なら持ったことあるけど、肩に担いで行軍する分には
問題なさそうな重さだったけど。長槍や大野太刀に比べれば。
それより一旦戦闘が始まってからの移動は困難だったろうね。
火薬と火縄の両方あるから気遣って、尚且つ両手で鉄砲持っての移動だから
相当難儀したんじゃないかな。
オマエラと昔の人間じゃ、体力が根本的に違うけどな
移動するのは、交代と撤退と追撃の時くらいしか無さ気だし。
920get
921 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 15:52:29
922 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 15:56:45
鉄砲玉は重いの?結構たくさん持ってそうだけど
923 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 17:52:39
結構重い。
西部劇で二丁拳銃の上にぶっちがえで玉付きベルト肩から書けてるヤシなど
あれで銃撃戦など無理w
火薬の保管はかなり面倒そうだな
ビニール袋なんかない時代だからなー
925 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 18:17:36
じゃあ進軍中に雨でも降ったら、鉄砲隊は悲惨だな。ただでさえ鉄砲、玉、鎧があるし、服が水吸って、そのうえ戦で役に立たないなんて。
926 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 19:11:46
防水カバー開発したのが長篠の勝因
長篠では、それほど重要だったワケでもないけどな、火縄銃。
防水マントの下で装填して火縄周りに防水カバーかければ相当な雨量でもOK。
むしろ強い向かい風の方が火皿の火薬が飛び散ったり熱風が顔に来て悲惨。
って本で読んだことあるが、そんなに上手く行くのかな?
戦場だと焦りも出るだろうし、それなりの錬度がいるような気がする。
一箇所に留まってれば特に問題無いんだろうけど戦場はそうはいかんよな
鉄砲が、それなりの役割しか担ってなかったのは同意
ただ日本での方が、土地の起伏が激しい分だけ有用だったかと。
本当に土地の起伏が激しいほうが有効なのか?
>>930 >鉄砲の性能も劣って組織的な運用方法も確立されていない戦国時代は押して知るべしって所だろうと思う。
一人で思うのは勝手だが、引用するHPをちゃんと吟味しよう。
命中率は、火縄式>火打石式。
ヨーロッパの基準で日本を語るべきでない。
また、日本の基準でヨーロッパを語るべきでない。
朝鮮出兵の場合:
日本の白兵攻撃が威力を発揮するのは緒戦だけ。
日本の白兵攻撃が恐れられたという逸話があるが、これは特殊な話。
単に大陸の刀と性質が全く異なる日本刀に関心を示しただけ。
体格で勝る明・朝鮮軍は、日本軍との白兵戦に慣れてくると、
日本が鉄砲援護射撃をできないようにするために逆に白兵突撃してくるようになった。
朝鮮出兵していた島津氏も故郷への手紙で
槍は要らん、鉄砲を送れ。と、催促している。
935 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 02:36:08
まあ火縄銃は最強兵器だったわけだが。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 02:42:18
現に戦国最強兵器だし。
騎馬突撃や歩兵戦で決着が付くのは
弓兵だけで全滅させるのは無理だったのと同じ理屈。
兵器の威力じゃなくて兵器の特性の差だよ。
大量に撤退を始めた歩兵を追いかけながら弾を装てんして
かつ歩兵より早く走れなかったらとどめさせないし。
鉄砲担いでそれは無理。
したがって騎馬とか足軽が最後の決着を決める事になる。
火縄は最強の兵隊削り兵器である。
最強なのは確かだが、弓や石と比べてそう大差無いしなぁ‥
有効射程で見れば火縄銃の方が短いし。
視覚的なものでも鉄砲は強い。
鈍器としても使えそうだね。
あれで殴ったら間違いなく死ぬ。
940 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 01:31:38
941 :
実家は川内:04/12/27 02:54:12
地元、島津では多少、鉄砲戦術に秀でていたらしいです。でも、そのような工夫云々は
全国で行われていた。と考えるのが自然です。
結論から先に言えば、(兵器の選択肢として)弓・石礫が鉄砲に移行していっただけの話
で、戦争形態や運用方法に関しては目立った変化はないのです。南北朝時代あたりから
ずっと遠戦志向で半農半兵ですからね。
●軍忠状にみる戦国前期の原因別負傷者数…矢疵 498名(61.3%)槍疵 166名(20.4%)
石礫疵 110名(13.5%)切疵・刀疵 38名(4.6%)
●軍忠状にみる戦国後期の原因別負傷者数…鉄砲疵 302名(41.5%)矢疵 148名(20.4%)
槍疵 148名(20.4%)石礫疵 50名(6.9%)切疵・刀疵 77名(10.6%)
>>933 >命中率は、火縄式>火打石式。
なんで点火方式が命中率に影響するんだよ
>>941 集計した軍忠状に関してもう少し詳しく教えてはくれまいか?
特に野戦と攻城戦の比率と、攻城戦の場合の攻撃側・防御側の比率について。
というのも、軍忠状は攻城戦の攻撃側のものがやたらに多いような印象があるので。
>>942 どこかで既出だろうけど、火打石式や雷管式は強いバネの力を必要とする為、振動で
どうしても一瞬手元がぶれるらしい。火縄式はただ火種を落とすだけだからバネなど不要。
>>942 「命中率 火打石 反動」
さぁ、ググれ。
鹿児島県の地元の方に是非教えて欲しいことがあります。
朝鮮出兵前後〜関が原戦までに、高性能な火縄銃開発に成功した可能性はないでしょうか?
この時期の島津軍は、まるで、新しいオモチャを使いたくてしょうがない児童のようです。
単に「好戦的な家風だったから」というだけでは、説明がつかないような好戦ぶりなので・・・。
人間は、物理的な裏づけなしに好戦的になれるものなのでしょうか?
バネの反動で命中率が下がるなんて都市伝説みたいなものだって。
948 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 06:48:01
>>947 都市伝説である証拠は?
16世紀の技術水準で双方を比較検証をしたソースとかあるの?
火薬と関係なくバネの力だけで銃全体を跳ね上げるのにどれだけ強力なバネが必要だと思う?
火薬を装填せずに引き金を引いたら銃全体が大きく振れることだぞ。
コック側が固定してあるならまだしも固定してあるのは銃身側だし、
そんな強力なバネだったらそもそも引けないだろ。
強力じゃなくても、確実に手元へ影響があると思うが‥
その振動が命中率に影響するほど強力か?ってことだよ。
火薬でどの道大きくぶれるわけだし、しかも初速の出ない黒色火薬、
玉だって銃身に密着してるわけじゃないし、そもそも玉自体が完全な円形じゃない。
バネの衝撃で大きく銃身がぶれるのならともかく、
どのみち命中率は最悪のマスケットだ、差は出ないだろ。
玉→弾でおねがいします
>>949,951
推論は一切要らないので、参照URLや文献を挙げてくれ。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 10:44:55
そもそも、10%そこそこの命中率でムキにならんでもいい気がする・・・。仮に10%→12%に
なったとこで、それが戦局にどんな影響をあたえるのか?と思います
1000挺*0.02=20、1回の射撃で20人、5回で100人
そこそこ影響がある様な、言うほどの事でも無い様な、微妙やね。
956 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 11:12:26
そんなこと言ってたら、弓なんてもっと大変だぞ
(自分の経験談から)
肩が筋肉痛→サロンパス忘れてきた→命中率下がる(´・ω・`)
昨日彼女とケンカした→集中力下がる→命中率下がる(´・ω・`)
そろそろ弦のツルがゆるくなてきた→命中率下がる(´・ω・`)
ついでお腹もゆるくなてきた→トイレいてきた。でも全身なんとなく
力入んない→命中率下がる(´・ω・`)
だから鉄砲に置き換えたんじゃまいか?
というか>956はサロンパス貼れば命中率落ちないのか?
それ以前に
>>956は鉄炮の命中率低下の原因であってもおかしくないように思うが
それで、>951の参考資料はどうなったの?
>>954 熟練者が早合を使えば一発/十秒位らしい。
百人が一分間うち続けたとして、10%なら60発、12%なら72発。
規模が大きくなればなるほど、1%の誤差が重くのしかかると思うけど。
1%や2%程度の誤差って測定結果のばらつきでしかないような気がするが。
…2%程度か。
そうか、そう思うなら何も言うまい。
いや、本当に2%の誤差ならかなり違うと思うよ。
俺が言いたいのは、それは信頼できる測定結果なの?ってこと。
>>946 鹿児島出身です
昔の話なので詳しく覚えてなくて申し訳ないのですが
どっかの博物館で3連発火縄銃という物を見たことがあります
(鹿児島にはこの手の資料館・博物館がいっぱいあるのでどれだったか覚えてない)
銃身が回転するように出来ていて弾込めの時間を無しで撃てるようにしてあるものです
銃身にはあらかじめ火薬と弾が込められていて
一発撃ったら手動で回転させて次にセットしてある弾を撃つと言うものです
ただし、明確な実戦使用の証拠はなく
製造も戦国末期〜江戸初期と諸説あるようです
>>965 サンクスです。
李舜臣・井伊直政・松平忠吉
思いつく限り、島津軍に狙撃された武将を挙げてみた。
この時期(1590's)の戦果は、なんらかの新技術に裏付けられてるように思えて仕方ない。
薩摩では鉄砲を袈裟懸けに担ぐための紐が鉄砲に取り付けられてたらしいのだけど、
実際はどうだったのでしょうか?
967 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/28 11:14:21
烈風伝の孫一強すぎ
>>947 ボルトアクションの小銃が、自動小銃より命中率が良いということと同じじゃない?
紐の話は知らないですが
短筒をカタナの代わりに腰に差していたというのは聞いたことがあります
銃身を短くしてちゃんとソレ用に作ってあるものだそうです
あと、島津の場合、足軽でなくちゃんとした身分の武士が鉄砲を
使用していたのも大きい戦果に繋がったのでは無いかと思います
一人で5〜6丁持っているという事もあったようです
もちろん本人一人でなく従者数人が持ち運んで弾込をして
主人に渡していって、主人は次々に撃っていくという使用法だったようです
>>967 そんな感じの代物です
私が見たのとは一寸違うけど
(それ鹿児島じゃないし^^; )
あと、鉄砲より大きめの携帯式大筒から
釘等を複数詰めた散弾?を打ち出していたという記述と共に
大筒が飾ってありました
(こちらは明確に実戦使用されていたらしいです)
多分・黎明館の火縄銃資料展みたいなので見たような・・・記憶曖昧でごめんなさい
ところで次スレどうします?
971 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 01:29:59
とりあえず威力的に最強なのは
上杉の雷筒?
972 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 08:32:52
でも映画の戦国自衛隊の鉄砲隊には驚いたよ。
序盤の少数鉄砲と真田鉄砲隊ね。
不意つかれるとマジで焦る。
あそこへ突撃しようとは思えなくなる。
かなり効果あったと思う。
973 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 08:44:26
974 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 09:14:04
弓ならこざかしいわ!とかいって突撃する気もするが、鉄砲だと流石に引く罠
相手が機械だからな。
鉄砲の場合、音とか煙などの視聴覚の効果も相手をビビらセルのに大きい気がする。
>934
>日本の白兵攻撃が威力を発揮するのは緒戦だけ。
>日本の白兵攻撃が恐れられたという逸話があるが、これは特殊な話。
>単に大陸の刀と性質が全く異なる日本刀に関心を示しただけ。
>体格で勝る明・朝鮮軍は、日本軍との白兵戦に慣れてくると、
>日本が鉄砲援護射撃をできないようにするために逆に白兵突撃してくるようになった。
よろしかったら、その話の根拠を教えていただけますか?
私が読んだ朝鮮側の史料には、朝鮮戦役の全期間を通して
日本軍との白兵戦に苦戦する明と朝鮮の様子が記されていますが。
977 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 12:37:53
>>976 同感。
首や耳鼻を削ぎ、死を恐れない武士と足軽に恐れて
常に崩壊、朝鮮の将は真っ先に逃走。
明軍が合流して
補給が無く退却しかかった日本軍に襲い掛かった事しか
活躍で聞いたこと無いw
スペインが世界制覇したのと同じで当時最強・最凶の戦闘DQN国家だからなw
日本でも平安時代刀伊が少数で荒らしに来ただけでも大騒ぎになった。
>>976 そもそも日本国内の野戦で白兵戦が行われるのは
稀じゃないかヨ。
>>979 ”稀”、とか、そこまで極端な話にはしるのもおかしい。
戦国時代はなにも投射兵器で過半が決する戦いばかりじゃない。
文献も史料も読まずに、聞きかじった他人の話をさも事実の様に
語ってるようにみえるんだが。
>>980 憶測で貶められても困るんだけど‥
白兵戦になる様な、突撃を敢行した野戦なんて例外じゃん
割合からいって、主力決戦は滅多に起こっていないのだし。
982 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 15:21:17
>>981 外野だけど少し痛いので、言っておく。
戦国期に野戦で白兵戦なんていわないぞ。
近代戦を例えに言っている事はわからんでもないけど・・・。
主力決戦って?なんですか?
ROM専に向けてさらしageします。
>>982 口論が続いていたので、用語を
>>976に合わせただけだよ
急に難癖付けるのは、粘着してるとしか思えんw
>主力決戦って?なんですか?
主力で決戦することですw なんてね
この時代、全力でぶつかり合う戦は数少ないと思うのだけど。
全体を見れば確かに稀だな >主力決戦&乱戦
稀だからこそ歴史に残るわけで。
そもそも奇襲でもない限り
鉄砲+弓+投石→槍隊(→乱戦)(→追撃戦)が大まかな流れ。
槍隊が崩れた時点で、逃走か陣容を立て直すかの違いはあるが、退くからな。
>976
宇喜多家中の話だが、家中一の力自慢が明国の兵と取っ組み合いになったが相手にならなかったそうな。
江戸時代ほどではないにしろ、日本人と大陸人は体格差が出る。
体格差は近接戦闘では大きな要因になるからな。
日本が明・朝鮮に勝っているのは、将兵全般の凄まじいまでの戦慣れ。
新スレ立てようとしたけどダメだった・・・_| ̄|○
誰かお願いします
>984
少しは、一次史料を読んで自分で考えた方が良いんじゃないかな?
自分の主張に合わない史料は全て虚構だと片づける鈴木氏の本に
頼るのは程々にしてね。
朝鮮の史書で日本兵との近接戦闘の記録を調べれば
「草刈り」という言葉が、頻繁に登場する。
「草刈り」が何を意味するか分かるかい?
>>986 それは異なことを言う、草刈りは日本語ですぞ。
>>986 読んでもいない人の本に頼っているなどと言われるなんてな。
自分の見解にそぐわない意見を全て鈴木氏の資料に頼っている人間と決めつけるのは、
>自分の主張に合わない史料は全て虚構だと片づける鈴木氏
とどう違うのかな?
こういう説があった、だからこう推察した、といったまでなんだがな。
それと、正直剃りならわかるが、草刈りは知らないな。
それで君が俺の無知を嘲弄して終わり?
会話にもならないな、
そんなに自分の高尚な見解を疲労したいなら論文を発表するなり本を出すなりしたら?
986の高尚な見解をキボンヌ。
986!早く早く!
991 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 19:06:00
>>986 朝鮮の史書で日本兵との近接戦闘の記録を調べれば
~~~~~~~~~
あーあーあー
992 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 19:09:35
>>976 緒戦とは、個別の明・朝鮮軍兵士らにとっての話。
また、明の甲冑・小手は鉄鋼でできており日本刀は通らない。
組打ちも体格で勝る明・朝鮮が有利だったのも事実。
日露戦争においても日本兵の抜刀突撃がロシア兵の恐怖の的だったが、
それに慣れてくるとロシア兵から突撃してくるようになった。
また太平洋戦争において、ある島(名前は失念)のイスラム教徒の
白兵抜刀攻撃により攻略中の日本軍が潰走した事実も存在する。
とりあえず軍事板に帰れ
体格が日本人より大陸の人間の方がいいのはあたりまえ
つーか、武士と農民の次男三男の寄せ集めを同列に論じていいのか?
じゃあ何を同列に語れと
語らなければいいじゃんw
梅
↓どうぞ
1000getとか言えばいいのかな?
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。