本能寺の変を毛利軍が知ったとき、まだ秀吉軍は毛利軍の射程内でした。
この時、毛利軍はどのような予測やシナリオを考えて
秀吉軍を追撃しなかったのでしょうか?
その後、秀吉が電撃的に天下人となったのは毛利家にとって棚ボタにすぎず、
別のシナリオを考えていたに違いないと思います。
毛利家がこの時天下を狙う気が無かったというのは、
決定的理由では無いはずです。
この時の毛利家は、秀吉軍にいいようにやられた直後なので、
天下人の器でないことは承知していたはずなので、
1.最優先に毛利家の安泰。
2.次にできる限りの勢力拡大。
で考えていたとして、間違いないはずです。(両川も)
そして、勢力拡大が目的としても、秀吉軍追撃には
十分なメリットがあります。
1.備中の宇喜多軍が離散または毛利に寝返り
2.うまくいけば播州の制圧(秀吉軍壊滅)
下手すると大友軍に周防・長門の一部を奪われるかもしれませんが、
十中八九は版図が増えたはずです。
何故、毛利軍は秀吉軍を追撃しなかったのでしょうか?
2 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 03:45
222222222222
人生ではじめての2ゲット!
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 03:50
・元就の遺言
・小早川の反対
・輝元やる気無し
>・元就の遺言
天下を狙っていないのは分かってるってば
毛利家は元就没後も勢力拡大してきてるんだから。
>・小早川の反対
だから、その理由が知りたいんだって。
>・輝元やる気無し
これは、少し理由になるかもしれないけど全く決定的ではない。
小早川が追撃賛成なら、輝元も追撃せざるをえんからね。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 04:21
目先の領土よりも織田家の分裂を狙っていた。
そのため、秀吉を倒せば光秀の相手が減ってしまうと考えた。
>3
誤解の無いように、
毛利家にとってのせりよく拡大は、毛利家を安泰にするためという意味に近いです。
毛利家繁栄かつ毛利家安泰のための勢力拡大で、天下取りのためのものではないはずです。
中国大返しの時点では、追撃にあまりリスクが無いと思われるので、
毛利は勢力拡大に動いておかしくなかったはずと思います。
(その後、中央で勢力争いするかどうかは別として)
話がずれますが、厳島の戦いも
やらねばジリ貧で毛利家は滅ぶ確率が高いと
元就は考え、実行したんじゃなかろうかと思ってます。
>5
あぁ、それっぽいっすね。
こんなに早く俺の腑に落ちる回答が来るとは...
ありがとさんです。
ってゆーか眠いので寝ます。じゃ。
8 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 04:24
肝心な時に動けないのが輝元だよ
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 06:13
>>1が納得したので終了です。
短い間でしたが有難う御座いました。
毛利はデカい癖にいつも詰めが甘いな
輝元になってからは、「その時」と言うよりは「どの時も」と言うべきだろ。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 13:46
毛利の厳島合戦は元就の明確な勝機ありという計算と野望の産物
はっきりいって陶の属将でもやっていけたと思う
小早川隆景の方針は間違えてないと思う
あの時期の毛利は織田大友との連戦で疲弊しきってた
それでも大毛利の地盤をバッグに天下取りのキャスティングボード握り勢力拡大させたことはスゴいと思う
輝元はアホは否定しようがない
秀秋や広家も含めて
「その時、歴史が動いた」のネタスレかと思ったら違ったのか
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 11:04
「その時、景勝も動かなかった(奥州大返し編)」
1600年9月。家康西上へ動くが…。その絶好のチャンスに、
景勝・兼続主従は。
東西で迷い合う二人の二代目武将を、NHKには、是非取り上げ
ていただきたい。
「その時、隆信は動けなかった(沖田畷編)」
天正十ニ年(1584)三月二十四日 龍造寺を離反し、
島津に誼を通じた有馬晴信を征伐に三万の軍勢を興すも
湿地帯の沖田畷で大軍を展開できずに惨敗。
なぜ彼が討たれたのか?どのくらい太っていたのか?
隆信の体脂肪率や血圧はいかほどか?NHKには是非取り上げて頂きたい。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 12:34
∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | クマ──!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_)
戦国無双でミニスカ阿国でプレイ中。壁際で前転を繰り返す。
阿国のふんどしを見てテンションの上がってきた俺がパンツを下ろした瞬間、
部屋のドアが開いた。母だった。
― その時、歴史が動いた
なんと、母も裸だったのだ。
― その時、歴史が動いた
その日、泥酔した彼は、タクシーにたった一人で乗り込みました。
運転手の態度に腹を立てた彼が足を振り上げたその時
― その時、歴史が動いた
今夜のその時は、私ことキック松平の、タクシー運転手泥酔殴打事件です。
むしろ「―その時、時が止まった」だな
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 18:04
「その時、家康は脱糞した(三方原編)」
家康秘蔵ビデオ(VHS60分)
制作:NHKエンタープライズ
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 18:39
毛利家はとっくに経済的に破綻していましたが何か?
秀吉が天下に君臨するのを見越して、
ここで恩を売って(追撃しないで)おいて安泰しようって考えでなかった?
>>25 んじゃ、人を見る目っていうのは存在しないと?
当時なら誰だって「この人はいずれ天下人になるだろう」とかあっただろうよ
だから信長に付いていった人、秀吉に付いていった人、家康に(ry がいるだろうし
明確ではないけど、人の器量など見て予測をたてることくらいしてただろう
>>26 信長の最盛期や、関が原直前の家康なら、そう思うだろう。
しかし、あの当時の秀吉が天下人になるだなんて考えた奴はいないと思う。
仮にそう思ったのなら、追撃して秀吉を倒した方が毛利のためになるぞ。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 06:58
毛利輝元は、「天下人」の背中を2回(山崎+関ヶ原)押してあげたわけで、
人が良いにも程がある。まるで、主人に寄り添う忠犬ハチ公状態。
大体、わらわらと備中高松で「和議」を結び、中国大返しをかける秀吉は
隙だらけで、背後から追撃をかければ、どうなったことやら。
(吉川家文書「天下則時に御存分に任せられるべきところを…」)
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 07:46
輝元は天下人の器ではない、と重臣に思われていたのが大きかった(特に小早川隆景と吉川広家)。
天下人になるには当然家臣の協力が必要だが、
逆に、そうならないように家臣に仕向けられてはどうしようもない。
毛利は、この時の成功体験のせいで、
関が原の時も通用すると思ったんじゃないの?
だったらわざわざ総大将に成って大坂に入らないだろw
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 11:11
仮に光秀が勝っていたら
織田に奪われた旧領を奪還
織田の残存勢力と宇喜多氏を併合もしくは絶滅させ長宗我部、島津可能ならば遠く北条、柴田と盟約を結び明智征伐する
秀吉は隙が無さすぎた
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 11:15
仮に光秀が勝っていたら
織田に奪われた旧領を奪還
織田の残存勢力と宇喜多氏を併合もしくは絶滅させ長宗我部、島津可能ならば遠く北条、柴田と盟約を結び明智征伐する
秀吉は隙が無さすぎた
毛利に明智征伐の大義名分なんてないわけだが。
あとチョウソ壁と毛利は仲悪いよ。
旧領奪還と宇喜多処理して終わりだと思われ。
もしかしたら義昭入京のお供くらいはするかもしれない。
そして成り行きで義昭政権の一翼を担う。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 12:54
安国寺エケイに追撃を反対されたのと、織田トラウマが原因。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 17:11:24
本能寺の変をネタだと思ってた
インターネットの時代でも事実を書いたら「ソース出せソース!」とわめく奴がいるのに
そんな紙切れ一枚で「信長死んだ」と言われても信じるわけねーじゃん
動かなかった では無く 動けなかった
というのが真相だろう。巨大な領国を守るのがやっとで領土拡大なんて無理
元就が25歳若けりゃ天下は違ったな。
元春 ・・・ 追撃すべし
隆景 ・・・ 追撃は無意味
輝元 ・・・ ?(まだ若いので、多分この時あまり発言権が無かった、する気が無かった)
どうも、皆さん毛利が動かなくて正解という意見のようですが、
元春は何を考えてこの時追撃しようとしたのでしょうか?
武辺一辺倒の猪武者だったんかな?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 01:22:32
PSゲーム「毛利元就・誓いの三矢」をプレイしてみようぜ。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 01:30:18
お父様の三本矢の遺言のせいだろ
みんなの意見がまとまるまでは行動するな
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 20:26:06
明智はもう一人の主筋である信長を暗殺した人物ですよ。
まして戦後はその功績で政権にのさばるのは当然。
となるとそのうち義昭との軋轢は又出てくるであろうし
その際に毛利がつけこむ余地は多分にあったでしょ。
しかも当時は小早川吉川の両川はバリバリ健在
しかも毛利は本願寺などとの関係もある。
で毛利は幕府なんぞより幕府を利用して
まずは大友征伐そして島津掣肘、そして博多を確保して
海外交易の利権を掌中にする。
(毛利は天下より博多と海外交易の方が優先順位が高いと思われ)
瀬戸内の制海権を磐石に統べく毛利とは敵対の因縁ある長曽我部の制圧
に専念しつつ中央には深く関与しないでしょう。
>>44 んじゃ、人を見る目っていうのは存在しないと?
当時なら誰だって「この人はいずれ天下人になるだろう」とかあっただろうよ
だから信長に付いていった人、秀吉に付いていった人、家康に(ry がいるだろうし
明確ではないけど、人の器量など見て予測をたてることくらいしてただろう
>>45 本能寺の変直後に農民出身の秀吉が天下人になるなんて誰も予想できるはずない。
後付けの結果論だよそりゃ。
>>46 まだ秀吉を農民出身なんていう馬鹿がいるなんて・・・
三戦板はレベル低いな。
やるかやらないか迷ったらやらない方がいい
それだけ
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 18:22:56
織田家の跡目争い次第では五カ国割譲の条件はほごにできると思った。
跡目争いをウオッチしつつ、疲弊した自国の建て直しをはかる方が良いとふんだ。
また、秀吉が京に戻る際に堤防を決壊させたため、素早く追撃することができなかった。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 18:32:20
/ ̄ ̄ ̄\
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|,彡 ┃ ┃{.i| ))
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ノリ i `フ i´il l| ))
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>>1 ∩___∩ | , '´l,
| ノ\ ヽ | , -─-'- 、i
/ ●゛ ● | | _, '´ / ヽ、
| ∪ ( _●_) ミ j iニニ, "● ∪ ヽ、
彡、 |∪| | iニニ、_ ',
/ ∩ノ ⊃ ヽ 〈`'ー;==ヽ、〈ー- 、 !
( \ / _ノ | |
なるほど、なっとく。
>>40 元春は大局的な視野がないほど猪武者ではないと思うが、義と利がぶつかれば義を重んじるタイプかと。
騙し討ちのような形で宗治の首を討たれたのを許せるタイプの人間ではないと思われ。
騙し討ちを行った秀吉に出仕したくないから、直後に隠居してるし。
隆景は自身が謀将であり、秀吉の立場なら同様のことをするだろうと考え、謀略は已む無しと判断。
と同時に宗治の直接の上司であり、戦いに臨むにあたり宗治の決死の覚悟は理解していたから、追撃をして宗治の死を犬死にするのではなく、
宗治の命により毛利が救われたという名誉を残し、死に花を咲かせてやるつもりだったのでは?
とはいうものの、隆景の場合、静観しつつも秀吉が勝てば恩を売り、流れ次第で討って出ることも考えてたかもしれないが。
結局、天下への野心がない以上、傍観ってのが最良の選択だったんじゃねーかな?
討ってでて万一畿内をとるようなことになれば、毛利にその気がなくとも、天下を狙う他の大名は毛利を意識せざるおえなくなるだろうし。
宗治って「血の繋がってない妹」みたいな感じだよね
跡取りの景治はれっきとした毛利家臣みたいだけど
55 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 01:12:03
江戸時代末期の1864年、高杉らは功山寺で決起するが、数日後、萩で正義派の毛利登人ら数名が投獄、又は斬られ、正義派の代表として謹慎していた「清水清太郎」は萩の上屋敷で切腹させられた。
1865年一月、萩政府軍と騎兵隊などの正義派軍が激突し、流れは正義派に移ってゆく。結局、藩存続の危機感などから、藩内にも沈静化を求める動きが起こり、三月には正義派が主流となって、事態は収拾された。
光市史には、清太郎の切腹は高杉らを震え立ち上がらせたとあり、また清水家は2度にわたって主家を救ったのであると記されている。わずかな日の差で切腹させられたところは、宗治と酷似していて不思議である。
また、清太郎の父は、第2騎兵隊の長で光市に陣取っていたと聞いた。光市に清水家のお墓が奉られている「正義霊社」という神社があり、正義派との深い関わりがあることがわかる。切腹した清太郎に子供がいなかったため、父(親春)が再び家督を継いだと言う事である。
明治になり、長年の功績から清水家は男爵の位を与えられた。
56 :
774:05/01/29 00:59:45
・第一次月山篭城戦、大江七曲で身代わりとなった渡辺
・備中の変における清水
・第二次月山城篭城戦後の尼子
いづれも幕末まで続いていますが、やはり毛利氏は義理堅いのでしょうか?
>58
人の話の一部だけ勝手に抜くなよ。
恵瓊の手紙はそもそも予言ではないからな。
ただの人物評に過ぎない。
60 :
:無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 15:46:39
>>1 最優先は秀吉の中国進入で受けた打撃と毛利の信用の回復。それに大友が進入してきたら
’ただ’ではすまない。少なくとも門司あたりは押さえときたいし。うまく立て直した上で
策を案じたほうが無難。それにこの際抑えきれない領地を切り捨てたいとかもあったのかも。
61 :
:無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 15:57:02
>>53 宗治は譜代でもないにもかかわらず、自分の利点のみ考える外様衆の中命がけで毛利に尽くした。
元春は多少の領地よりこの宗治の心意気(とそれを裏切ることにより他の家来の不信感)の方が
大事と強く主張した。恵瓊はこれを無視したわけだが・・・。
62 :
:無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 16:05:42
>>53 元春は義に厚い武将だが、毛利のためなら義を捨てることくらいできたろ。
もちろん隆景のようにははっきり割り切れないと思うが。まあ太平記に影響され
てるからだと思うが。確かにプライドが高き故のこともあるが、一人の人として
も優れた男だと思うが。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 20:55:16
動かなかったのではなくて、動けなかったという説がある。
信長本軍との決戦を見越して出てきた輝元の本軍の兵力はわずかに1万。
長年の織田との戦いで毛利家に余力は残されてなかった。
>>63 輝元本軍は一万超だが、両川と城兵含めると3万超えるぞ。
秀吉軍は宇喜多含めても一万〜一万五千しかも半数は現地調達の混成集団。
織田の旧領全て切り取るつもりなら別だが、秀吉討って畿内に出るくらいは可能かと。