1 :
無名武将@お腹せっぷく:
孔明ですよ!
3次までいったんか。凄いねぇ。
姜維は機動戦を専らにしたようだが、その戦い方としては、
「機動から停止する事無く戦闘に移行し、敵の布陣を待たずに急襲する」
って感じなのかな?
無駄の前になにか有益だったのか、アレ
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 23:14
劉備・孔明「とりあえず蜀に天下を!!」
>>8 あなたのサイトはたまに行ってますよ。
興味深い内容が多く、いつも楽しませてもらってます。
後漢書の翻訳の方も頑張って下さい。
ところで、その後の戦略にも大きな影響を与えた段谷の敗戦、
あれが決定的な戦闘であったと思うが、胡済が来ていればあの敗戦は防げたものなのだろうか?
戦闘経過がよく分からないから、どうだったのか自分には分からん。
>>9 仮想になっちゃうんでアレですが。防げたかどうかは、やっぱ分からないです。
ただ、胡済が来なかったことが蜀軍に与えた動揺の大きさはどれくらいだったんだろう?とか
そしてまたその結果、不利な戦力比で戦いになってしまったことがどれくらい影響したか?とか
考えると、段谷の敗戦で姜維に辛くあたるのも酷な気がします。
寧ろトウ艾よくやった!と魏側を誉めるべきかな。
一つ指摘したいのは、姜維が目論んだ、第一会戦で大捷したあと、蜀から大部隊を後続で迎えて
最初の会戦時の蜀戦力を想定して補填されてくる魏軍を(魏の想定外の戦力で)続けて
第二会戦で更に破り、魏の雍州支配を瓦解させると言うのは、
蒋エンが漢水下りを諦めた時に、
費イ(と多分姜維)が代替案としてまとめた戦略に基づいて行ったのだろうということです。
費イはもう段谷の時には死んじゃっていませんが、かつて立てた戦略はずっと生きていて、
姜維はそれに従って行動していたようなのです。
段谷の戦い直前の状況こそ、費イが立てた戦略を現実のものとして
実行できそうな状況であったということです。
>>10 つまり、あれは蜀にとっての決定的な敗戦になってしまったが、
同時に決定的な勝利にもなり得たかもしれないと。
そうなると「一州を喪失していた」という王経の言葉どおりになったかもしれないんだなあ。
最大のピンチに最大の戦果を挙げたケ艾はやはり凄いな。
段谷での会戦で、胡済の軍勢は戦力として想定され、
その配置や胡済の部隊の使用方法もなども考慮していたはず。
ところが胡済が来ず、姜維は戦場の選定や布陣の再構築をさせられる事になったわけだな。
姜維自身はもちろんの事、部隊全体にも動揺が走ったろうし、
対陣した際の布陣や戦術を急場で考えようとすれば、それが十分なものになるわけがない。
そりゃあ大敗だって喫するな。
段谷の時には陳泰が全く出てきていないが、この頃には既に中央に戻ってたのか?
>>13 戻ってました。
でもって、段谷の時(256年八月)には丁度呉方面で孫峻が軍事行動を起こしたため
中央からそっちへ対処すべく派遣されています。
魏志の陳泰伝には時期が書かれてませんが、呉志の三嗣主伝に孫峻が256年八月に
入って軍事行動を起こした旨書かれてますので判るわけです。
なお全くの余談で私の勝手な解釈になりますが、
ちくま文庫のトウガイ伝ではトウガイの「我が方は将軍が交替し(云々)」という発言中
ちくまの注がかっこ書きで[王経からトウガイへ]と入っていますが、
これは寧ろ西征将軍の陳泰から臨時の安西将軍から正規の安西将軍になったトウガイへの交替
と見るべきではなかろうかと思っています。
>>14 確かに雍州刺史と安西将軍では交代とは呼べないような気がする。
諸葛恪の北進に呼応し南安を包囲した時は、姜維は重装備の兵で侵攻したが、
王経を破った時は軽装の兵で侵攻してる。
姜維の軍勢はどういう陣容だったんだろうか?
「誠非輕軍遠入,維之詭謀倉卒所辦」という、王経の救援を決めた時の陳泰の言葉を考えると、
姜維は策士の様に見られていたのではないか?
廖化を囮とした迂回急襲を試みた事がケ艾伝に載ってるが、姜維というのは、
機動力を活かした用兵を基本としながら、所々にそういった奇策を弄してくる戦い方を
とっていたんじゃないだろうか?
>>18 いや、基本的にそれでいいんじゃない?
姜維ってのは機動戦をしばしば用いて長躯侵入する戦い方を好んでるような
ところがある。
ただ、兵力の不足と兵站の不備で持久性に欠けるものだから、それを魏軍に
衝かれて退く傾向が多いと思う。
だから局地的な勝利を維持・発展させて戦略的勝利に帰結させられないんだろうね。
>>19 兵站が繋がらないのは、漢中からの侵攻である以上宿命みたいなもんだからなあ。
羌族の協力と敵からの奪取じゃ限界がある。
しかも、敵からの奪取に関してはケ艾のせいで完璧に読まれてるしな。
6年に亘って姜維の北伐を防ぎ続けた陳泰が、姜維を策士として見ていたんだから、
色々策を弄するタイプではあったんだろうな。ケ艾も「賊有黠數」と言ってるし。
まあ、ケ艾の言葉の方は「小ざかしい悪巧み」みたいな意味になるんだろうけど。
策士ではあっても、劉備の伏兵が陸遜に読まれたように、姜維の策もケ艾、陳泰には
読まれてしまう事が多く、それで事が成就できなかったんだろうな。
段谷の時に胡済と合流するってのもその奇策の一つだったんだろう。
これは読まれるとかの以前に、胡済が来なかったせいで成功しなかったが。
なんか過疎スレだけど静かに盛り上がってまいりました
>>21 >段谷の時に胡済と合流するってのもその奇策の一つだったんだろう。
>これは読まれるとかの以前に、胡済が来なかったせいで成功しなかったが。
この部分だけど、この時期の姜維は統計的にみても出征期間が長い方で、
隴西まで出陣していたうえに長期対陣で越年しているから、必然的に兵站と
兵力に不足を生じたんじゃないかな。
それを補うには安全な補給線まで後退して兵力・物資を補強するか、現地調達の
応急的処置で乗り切るかになるから、ここをケ艾に看破されてしまったんだろう。
張翼や廖化は局地的な戦術的勝利に過ぎないと撤兵を勧めたんだろうけど、
功名心の高い姜維には了承できなかったんじゃないかな。
「姜維伝」をみても、姜維の功名心の高さがうかがえるし、なにより侵攻距離だけ
みると諸葛亮をはるかに越える長距離であることもしばしばだし。
>>22 功名心が高いからというより、将としての大胆さを備えていたんじゃないかと。
いかなる時でも攻勢に出ようとするというのは、古今東西の名将たちも奨めている事だ。
防御の本質は敵の戦術行動の破綻を狙うものであり、敵部隊の撃破ではない。
また、ロシアの名将スヴォロフが、「敵の退却は失敗である」と語ってるように、
敵軍を大いに撃破し、その武威を以って敵地を我が物にするという事が重要。
実際、狄道包囲解除後の姜維の再侵攻を読んでいたのはケ艾だけであり、
彼がいなければ、碌に備えもしていなかった魏軍は大いにやられ、
姜維に涼州を蹂躙されていたかもしれない。
姜維が漢中の防衛軍を解体し、自軍に組み込んだ事を悪く言う人が多いが、
実際解体せずにいて蜀を守りきれただろうか?
漢中の守備隊は精々3万、蜀討伐で鍾会が10万もの兵で侵攻してきたが、3万程度では漢中守備隊は
拘束されてしまい、自由に行動できないのではないか?
その間に別働隊が陰平経由で漢中の脇を抜け、逆に巴蜀への侵攻を許してしまうと思うのだが。
守備隊をそのままにして、有事の際には中央からの援軍に他の要所を固めさせようにも、
姜維の上表が容れられなかった事を見ると、それが実現する可能性は低い。
ならば、漢中の防衛軍を解体してでも、姜維が遊軍として大きな兵力を擁していた方が
守りやすいと考えるが、どうだろうか?
>>24 姜維によって戦力を集中された漢・楽の二城は、鍾会の分派した軍勢に
包囲されたまま拘束され、そのまま成都降伏まで防衛拠点としての機能を
果たしてないよ。
その間に鍾会の本隊の進出を許してしまっているし、もともと戦力で劣勢に
ある以上、各囲に守備戦力を配して相互支援を行わせた方が、攻勢軍を
それだけ拘束できるし、確実ではないだろうけど敵戦力を漸減できる。
姜維は大きな戦果を欲して防衛施設を変更したけど、もともと大きな戦力差が
仇になった感じ。
>>25 いや、それはそうなんだが、そういった場合に、
漢中を経由しない敵への対処はどうすれば良いのか?って事なんだよ。
>>26 そうなった場合、陰平に戦力を集中させて中継点とし、時事に応じて漢中や
武都・沓中への後援を試みるしかないのかも。
もともと政争の危機を感じて沓中へ進駐した姜維だけど、まさか魏の大規模な
侵攻に際して、中央の対応が鈍いとまで想像できなかったんじゃないかな?
陽安へ張翼・董厥し、陰平へ廖化を派遣する、という姜維の判断そのものは
間違っていないし、早期に対応がとれてれば十分に魏の侵攻を阻止できた公算
が高いと思うよ。
多くの人が言っているほど、蜀は滅亡寸前まで衰微していたとは思えないし。
>>27 姜維に大軍を率いさせ、防衛時には機動防御が可能な体制にしつつ、
いつでも攻勢に出れるようにしておくよりも、漢中を固守する体制を残しつつ、
有事の際には中央との連携によって守る方が良いという事か?
自分は、姜維が中央にあまり期待をしていなかったからああいう体制を取ったと思ってるが。
確かに、中央の対応を信じるならば、後者の方が守るには適してるけどね。
>>28 姜維が漢中の兵を動かしたのは段谷で大敗北を喫した分の兵力の補充と単に方針として守りより攻めを選んだからっぽいけどね。
>>28 >姜維が中央にあまり期待をしていなかったからああいう体制を取った
ああ、そうかもしれないね。
姜維が漢中の防衛施設を変更したのには、胡済の存在もあるのかも。
上ケイで合流を果たさず姜維の大敗に少なからず影響を及ぼした胡済は
督漢中であったけど、変更後は後方の漢寿にうつされてる。
もともと武都を経由して隴西まで長躯侵攻していた姜維にしてみれば、
直率の戦力不足を痛感していたとも思うし……どうなんだろう。
姜維が守りより攻めを選ぶというのも当然のような気がする。
段谷での敗北による兵力不足により、有事の際に万全な防衛体制を築く事も難しくなり、
更に周りを見渡せば、自分の死後に蜀を守っていけるだけの人物がいない。
加えて自分は既に60に手が届くほどの年齢に達し、いつまで現役でいられるか分からない。
こういった状況にあって、閉塞感と焦燥から、自分の生きてる内に涼州を切り取って
おかなければならないと感じていたのではないだろうか?
>>31 概ねは同意だけど、段谷での大敗で防衛にまでに影響を招いたかといえば疑問。
というのも、督漢中・胡済の軍勢が合流しておらず、損害も被ってはいない
だろうから漢中の防衛力そのものは減少していないはず。
問題が生じたのは姜維が出征に際して動員する野戦軍だと思うよ。
この構成に対して、どの地域の戸口で賄っていたかがわからないけど……。
>>32 自分も、そこの所はちょっと強引かなと思いながら書いたんだよね。
そこは、姜維亡き後、しっかり中央と連携を保ちつつ、有事の際に漢中だけじゃなく、
他の方面からの侵攻にも気を配れる人間がいないだろうって事を考えて、「万全な防衛体制」としてみた。
姜維死後の面子じゃ、
>>27のプランみたいな事は実現できないんじゃないかと思ってね。
>>34 そうだよ。
と言うか、振り返ってみると、このスレの大半が俺のカキコのような気もする。
蜀将スレでは盛り上がる事があるのに、本スレが放っておかれてるのは見るに忍びなくて。
姜維単独では盛り上がりにくいのだろうか?
姜維の話題になると、好きだという側は蜀末期の悲壮感やらからくる感情的な
意見が多いし、否定派は無謀な出征を繰り返して滅亡の原因を招いた、くらい
しか言わないのが多いもの。
時代背景や姜維の展開した作戦の内実、国内の情勢あたりの考察って、どうも
あまり試みてるスレも住民も少ない気がする。
いつも出てくる話題は、北伐をおこなえば敗戦ばかり、とか、人材不足云々、とか
に偏ってる。
>>36 姜維が好きなら感情論ではなく、論理的な考察によって姜維の名誉を回復させようとは思わないのかな?
俺は正史読んだ時に姜維が負けてばっかりなのに驚いて、更にネットでもボロクソに言われてたもんだから、
なんとかして「姜維は名将だった」と言いたくて、姜維に関する記述を読んで色々と考えたもんだが。
何が姜維をあれほどまでに駆り立てたのかね…。
色々読んだり見たりしてみたけど疑問は尽きないよ
陳泰が狄道に押し込められてる王経の救援に急いだ時、陳泰伝には、
姜維の虚を突いた行動であったとありながら、姜維は伏兵をおいていたともある。
斐松之にも指摘されてるけど、これは実際のところどうだったのかな?
来ないと思っていながら慎重を期して伏兵をおいていたのか。
それとも、姜維自身が敵の救援をある程度予期していたのか。
>>17でも書いたが、段谷の件で胡済が処分されなかったのは、
やはり、来なかったのではなく、来れなかったからではないか?
姜維は、胡済と合流しつつ魏への再侵攻を企てたものの、胡済の作戦準備が予想外に遅く、
このままでは魏に侵攻を察知されると判断し、胡済にその旨を伝えつつ侵攻を開始。
姜維は7月に侵攻を開始し、遅くとも9月には破られてる。
この程度の期間では、胡済が間に合わない事も十分考えられる。
そして中央は、姜維の独断による先行が敗北を招いたと判断し、
段谷では胡済の責任を問わなかったとか?
更にこの事で、姜維は中央に対する不信感を募らせると共に、
諸将の作戦行動が迅速さに欠けると判断し、漢中方面以外からの侵攻への対処と、
遠征軍の維持を兼ねて漢中の防衛部隊を解体、自軍に組み込んだのではないだろうか?
>>40 「来れなかった」という推論は面白いかもね。
諸葛亮の北伐をみても、諸葛亮が整備した蜀軍は装備や火力の向上を図っては
いても、北伐では機動力を用いた長躯侵攻をおこなっていない。
これは諸葛亮自身が兵站の維持が困難である事を悉知していたためでもあるけど、
蜀軍そのものが機動戦に習熟していなかったためかもしれず、後方(漢中)の支援
を得ようにも、諸葛亮とは対極的に速攻をおこなう姜維の動向に対応できなかった
という仮説もたてられるね。
陳倉城攻囲戦や祁山を軸とした侵攻戦や五丈原での対陣をみてもわかるように、
諸葛亮は常に兵站線の維持を念頭においた作戦に拠って兵を動かしてる。
姜維のように唐突に涼州深くに兵を進める作戦に対し、漢中駐屯軍が対応できな
かったという考えも完全な妄想ではないかもね。
>>41 そういえば、諸葛亮時代は機動力に欠けていたね。
来れなかったとか言っておいて、その事まで頭が回ってなかった。
胡済の未着や、魏の蜀侵攻における廖化や張翼の鈍重さも、
実は諸葛亮時代の蜀軍の戦術に起因してるのかもしれないな。
姜維自身の兵は、機動戦に対応できるよう訓練された精鋭だったんだろうが、他は分からない。
そうすると、段谷の敗戦後、正確には沈嶺の後だが、次の北伐まで数年のブランクがあったのは、
自軍に組み込んだ漢中の兵を、機動戦に対応させるべく数年間訓練をしていたからかもしれない。
>>42 練度の向上というよりは、長く継続していた既存の軍制からの再編に時間を要していた
のかもしれないね。
それにその数年は蜀書をみても注目すべき事項が多いように、人事の改変が多い。
それまで出征一辺倒だった姜維も、さすがに国内の動向に注視せざるをえなかった
ということと、大敗による国内の世論を憚っていたのかも。
>>43 国内世論や中央の圧力による影響も当然あったろうね。
その事は上の方でも議論してたから触れなかったけど。
更に付け加える理由として兵の練度の向上などもあったのかもって事だね。
姜維が256年の魏への再侵攻を決めた理由として、陳泰の不在ってのも大きいかも。
ところが、その陳泰を超える傑物が残っていて、結局勝利どころか大敗を喫してしまったと。
>42
機動力に欠けるのは、諸葛亮の軍が大軍で、かつ優れた機動力を持つ曹魏軍に
寡兵であるショク軍がまともにぶつかっても敵わないので、機動力に劣っても
連ドや長槍・刀、重装鎧などでの大火力と打撃力をもって確個撃破する戦術方針をとったため、
とも言うわれています。
武田騎馬軍団に対して馬止めと鉄砲の織田軍と言う所でしょうか。
一方で姜維の得意は機動戦術で、兵力がまだ充分あるうちは対抗できても、少
しでも消耗すれば圧倒的兵力差の前ではどうしようもなかったことでしょう。
武田の騎馬隊ねぇ・・・
>46
もののたとえですよ。
他にイメージするのによさそうな例が思いつかなかったんで。
まさかモンゴル騎兵隊とマケドニアのファランクスフォームともいかんでしょ?
武田の実態は〜云々は受け付けませんよ?
主功正面への打撃力に対する柔軟性を有した機動力、という観点なら
ファランクスとレギオンでもいいのかな
レギオンは少し違うような。
モンゴル騎兵とスペイン方陣とかはどうだろうか?
>47
いや、武田の騎馬隊なんぞ無いって事。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 15:10
だから例えだって言ってるんじゃないの?
つーか下がり過ぎなのでage
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 18:21
北伐する事で精神的満足感は得られるね。無駄じゃない。
>>38 降将だったからみたいね。なんかの本に書いてたよ。
実際、母親から故郷へ帰ってきてくれとういう手紙にも
大業を成すまで帰らんと返事してるし。
俺がたてたスレがいつのまにか3スレ目に突入してるとは…。
姜維は確かに狭視的な機動と言う点については秀逸だと思うんだが、それがキャンペーンとして成り立ってないような感じなんだが。
つまり、行き当たりばったり・・・。
戦術的な勝利を求めて、全体構想が無い。勝っても次に繋がらない。
手段が目的化してしまってるような気がする。
諸葛亮の場合、五丈原の役以外は戦略性を感じる。特に第一次北伐は馬謖の失敗が無けりゃ相当な成果が揚がったと思うが。
蜀将討議スレでもさんざん言われてたね。
まぁ、その通りだと思うよ。
姜維の北伐はあまり賢い方策ではなかった。
まったくの無駄と切り捨てるわけにも行かないだろうけど。
三国志"演義"の終演を花々しく飾ったという点では意味はあるかな。
おいおい姜維信者の総本山でこの有り様か!!
悪い所に目をつぶってマンセーするより
姜維という人間像が見えてきていいと思った<蜀将討議スレ
あげ
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 20:49
超良スレ!!!
>>53 ショクにいれば将軍
魏なら一役人にしかなれない
とも言ってなかったか?
魏に戻れば、じゃなかったっけ?
そんな話は初耳だが。
何に書かれてるんだ?
「三国志の迷宮」(文春新書)という本では
北伐には関中・関西方面から人や物を奪う攻撃的防衛の意味があった
(端から長安・洛陽まで進む気が無い)というような説が説かれていた
魏との国力の差を埋めるためには常に攻勢でなければならなかったのでは。
姜維は成都に不信をもっていたようだが
成都側からの不信もかなりのものだったんだろうな
特に姜維が罷免の動きを避ける形で屯田に入ってからは事実上決裂に近かった気がする
魏侵攻に対応した建言が受け入れられなかったのは、その辺に原因があるように思えてならない
姜維がただでさえ独占状態だった軍力を完全に掌握に動いたんじゃないか…とか思われてたのかも
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 06:36
姜維の立場って、諸葛亮死後に魏延が軍権握ってるようなものだね。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 00:16
>>66 攻勢防御説というのはよく聞くけど
逆に魏の大規模攻勢を誘引する可能性もあったわけで
実際に曹真が大軍を催してきたりしている(天候のせいで撤退)
もし本当だとしても危険な賭けには違いない
「攻勢防御」なの?
「守勢攻撃」って気がする。
蜀は国の成り立ちからして常に魏と戦わなくてはならないってのもわる。
姜維が兵を進め続けた雍州西部ってのは、実際どんな地形だったんだ?
地図を見ても山がちだって事ぐらいしか分からない。
数万の兵力を展開するとして、戦闘正面が数km程度はないと、戦術的な機動、
例えば、広く展開する敵に対し、縦陣を取りつつ敵右翼へ機動、
そこから陽動の兵そのまま右翼へ向かわせつつ主力を敵左翼へ方向転換、
見たいな感じの事も行えないと思うが。
それとも正面に全軍を展開するのではなく、急峻な地形を利用し、戦力の一部で敵を拘束、
別働隊を迂回させて包囲するなどの戦術を採っていたのか?
機動戦といっても、実際にどんなものだったのかよく分からないからなあ。
涼州や雍州の詳細な地形が分かるようなものってないですかね?
ここでも蜀将スレでも再三書いたが、また祁山侵攻作戦について書かせてもらいたい。
祁山侵攻に当たって、張翼か誰かに陽動として南安方面等への侵攻をさせ、
自身は主攻として祁山に侵攻するなどの作戦を採れば良かったのかもしれないが、
この軍事行動は、前年の狄道包囲戦から考えると、姜維にしてみれば異例とも言える長さ。
姜維が兵站を捨ててしまっている事を考えれば、羌族からの援助があったにせよそろそろ限界だろう。
そうなると、祁山の奪取は迅速に行わねばならない。
そこで魏がこちらの侵攻を予期し、祁山に多少なりとも防衛の兵を送れば、
別将を助攻として派遣したによる攻略の遅れが作戦失敗に繋がりかねない。
その様な状況下では、下手に陽動を行うよりも、こちらの侵攻を秘匿しつつ、
迅速な機動で一気に祁山まで進攻、攻略する方が成功の公算は大きかったのだと思う。
しつこいようだがもう少し
この祁山侵攻戦に関して、魏の対応を考えると以下の四つがあるのではないかと考える。
一つは、多くの論者がそうであったように、姜維の侵攻は無いと考え何も備えをしないというもの。
二つ目は、ケ艾がしたように四つの経路の内の一つに絞り、そこを固めるという方法。
三つ目は、兵を四箇所に分散して姜維に当たるというもの。
そして四つ目としては、少数の兵を哨戒部隊として各拠点に送り姜維の動向を監視させ、
本隊は中央に援軍を要請しながら、姜維の侵攻路が分かり次第救援に向かえる態勢を整えておくというもの。
恐らく、この対応策の内、姜維の侵攻を防げたのはケ艾の採った方法だけではないだろうか。
備えをしない、兵の分散は問題外として、即時救援できる態勢にしておくというのも、
姜維の侵攻路の察知、それを後方の将に伝える、というプロセスを経て初めて救援に向かえる。
姜維の勢いと機動力を考えると、このタイムラグによって、救援軍の到着前に祁山が陥落する可能性は高い。
続き
祁山を落とされ、そこを姜維に固められたら、奪回は非常に困難だろう。
更に救援の軍は、祁山の前で拘束されている間に、雍州に到着した胡済によって、
その背後を襲われるかもしれない。
そして前後より挟撃を受けて魏軍が壊滅し、姜維がその武威で雍州諸郡を降伏させるとともに、
更に進軍して要害を固めて中央からの援軍も撃退した、なんて事になったら隴西は蜀の領土となったのではないか?
そしてケ艾のように一つに絞って守る場合も、防衛成功率は25%であり決して高いものではない。
実際、あの作戦はかなり優れたものだったのではないだろうか?
>73=75
祁山は諸葛亮の北伐から戦略上の要地と認識されているから、ある程度の防衛体制は整っていたのでは?
231年の北伐では援軍が来るまで蜀漢軍の包囲をしのいでるし。
>>76 どうだろう。
前年の王経の大敗北で、雍州の兵力がかなり減ってた事を考えると、
祁山に十分な防衛体制が整っていたのかは疑問に思える。
それに姜維とて、侵攻前にある程度の諜報活動はしてたはずだから、
祁山の様子もある程度把握してたと思う。
その上で祁山侵攻を決定したんだから、祁山の防衛体制は
全軍で突けば援軍到着前に陥落させる事が可能な程度のものだったんじゃないだろうか?
史料が乏しいから妄想混じりの推測しかできないのがつらいな。
それともう一つの理由として、当時の祁山に援軍到着まで持ち堪えられるだけの防衛体制が整っていたとするなら、
ケ艾がわざわざ諸軍を引き連れて祁山に行く必要はなかったんじゃないだろうか?
もしケ艾の読みが外れ、姜維が祁山以外に侵攻したならそれこそ窮地に立たされてしまう。
祁山の防衛体制が整っていたなら、南安や狄道にも救援に行ける地点で待機してたほうが危険が無い。
>77
王経が率いてた兵力が雍州の諸軍を根こそぎ動員したのならともかく、ロウ西の戦略的重要地である祁山の兵力は動員してない、と見た方が良いのでは?
だとすると、諸葛亮の頃からの要地である祁山は通常でもかなりの防衛体制であったと思うんだけど。
兵力的に大兵力では無いとしてもね。
王経軍の損失は祁山救援の速度に少なからず影響はあると思うけど。
>>79 王経が動員してなくても、王経の大敗で失った数万の兵力の補填の為に祁山の兵が割かれた可能性もある。
ケ艾の言葉を借りれば、当時の雍州は「殆ど危機滅亡の状態」だったわけだから。
>77=78
前後したけれど、防衛体制が整っているから、救援を要しない、と言うはどうかな?
いくら防衛体制が整っていても、全く救援が無ければ不測の事態に陥った時には対応出来ない。
ケ艾があえて祁山を救援したのも、その重要性を認識したからじゃないかな。
祁山を無視して他所に侵攻したとしても、戦線は延びるだけだし。
蜀軍にそこまでの機動力があるんだろうか
魏の判断が遅れても、蜀軍がそれにつけこめなければしょうがない。もともとの配備兵力・兵站能力が違うんだし
姜維は蜀末期の攻防戦で剣閣→成都へ向う時などに高い機動力を示したが、それは国内の交通路を把握していた強味のお陰という公算が高いと思うが
>77=80
王経の損失補填にあえて、最前線の兵力を抽出するかは疑問だな。
それが重要地であればなおさらじゃないかな。
>>81 自分は救援を要しないとは言っていないけど。
ただ姜維の行動に先んじて祁山に行くのは、他の拠点に侵攻された時の事を考えるとリスクが大きい。
だったらそんな方法を採るよりも、姜維の動向を注視しつつ他拠点へも向かえる場所で待機した方が良いじゃないかって事。
>>83 王経の連れて行った軍が何処からのものか分からないのが厳しい。
ただ損害の大きさを考えると、狄道や南安、隴西など、他の最前線の拠点にも影響が出たと思う。
祁山にだけ潤沢な兵を置いて、他の拠点を蔑ろにするってのもおかしいとは思う。
うーん、駄目だ。結局よく分かんないな。
>77=84
ああ、そう言うことか。
逆説的な言い方なんだけど、今回の姜維のキャンペーンは祁山を確実に押さえちゃえば潰える、という選択肢の少ないものだった、って事じゃないかな。
祁山以外の場所に進出しても、少々暴れ回れても撤退するしか無くなる、と。
ならば、姜維の行動を注視するまでも無く、祁山に向かえば良いわけだし。
>77=85
祁山に限らず、重要地点の軍事力はあまり削いで無いと思う。そのあたりは、後年、漢中防衛システムを解体しなきゃならなかった蜀漢と魏との底力の差かと。
ただ、祁山と狄道・南安・隴西を比べると祁山の方が重要地としての重みが大きいと思うけどね。
諸葛亮の時も祁山を相当重視してるし、明帝も祁山の重要性に言及してるから。
>>86 しかし、祁山以外の拠点でも、姜維に押さえられたら蜀は魏侵攻の橋頭堡を得る事になると思う。
そうなると、これまでの様に堅く守ってれば兵糧不足で撤退するという風にいかなくなるんじゃ。
羌族との連携も取られやすくなるだろうしね。
祁山ほどではないにしても、やはり危険なんじゃないかな?
>77=88
単純過ぎるかもしれないけど、蜀漢本国との距離が祁山以外の諸要地は遠すぎる様な気がする。
例えば漢中(あるいは陰平周辺)が策源地だとすると、祁山を越えて狄道・南安・隴西ってのは無理があるんじゃないかな、兵站がね。
陰平を策源として狄道を根拠地ってのは祁山を確保せんでも不可能じゃ無いだろうけど、やはり補給線は長すぎる。分断される可能性が高い。
羌族との連携は期待できるにしても、あくまで期待であって、確実に兵站を長期的に維持出来る保障が無い限り、主力部隊を敵地の深奥に進出させるのは危険だと思うよ。
>>89 遠いってのは自分でも書いてて思ったんだよね。
やはり祁山を落とさなきゃ魏への本格的な侵攻は無理なんだろうか?
ただ、狄道陥落そのものより、狄道陥落による魏へのインパクトを考えるとどうなんだろう。
前年の敗北に重要拠点の陥落を加えれば、もしかしたら雍州諸郡を降伏させられるかも。
そして狄道を陥落させ、更に胡済と連携してそのまま祁山へ攻撃を掛けるとか。
>77=90
当事の情勢としては隴西地域進出に祁山の確保は不可欠なんじゃないかな。
諸葛亮が祁山にこだわったのもその点だろうし。
狄道他の諸地陥落は一時的に隴西諸郡に動揺をもたらすにしても、降伏までは行かないんじゃないかな。
前年の蜀漢の大勝利にしても、王経が姜維の作戦行動にお付き合いした結果であって、局地的な勝利に矮小化されてるからねぇ。
狄道他が陥落したとしても、魏側は戦線の再構築が充分可能なバックグランドがあるし、胡済との連携が取れたとしても、胡済が姜維以上の人材じゃ無いって事を考えると・・・。
なにしろ、蜀漢は兵力・兵站の点で広範囲にキャンペーンを起こせない点でかなり難しい立場にあると思うよ。
>>91 やはり隴西を降伏させるには、再度の大勝利が必要不可欠か。
やはりと言うか何と言うか、もともとこの祁山侵攻戦の考察?も、
「姜維には戦略性が感じられない」という意見への反論として、
「姜維にも戦略性が感じられる」という結論ありきで論理を組み立てていたから、
どこかで無理が生じる論理だったのかもしれないな。
ただ自分としては、あの情勢の中、前年の洮西の役からこの祁山侵攻戦までの
一連の軍事行動を企図したというだけでも、「姜維にも戦略性が感じられる」とは思う。
>77=92
再度の大勝利を求めるのが間違いだって(苦笑)。
戦略性のあるキャンペーンの結果、大勝利がおまけで付いてくる場合もあるけど、戦闘はあくまでも手段だから。
特に人的あるいは兵站的に動員能力に限界がある蜀漢としては損害は出来るだけ抑えなきゃならんし。
つまり、決定的な会戦によって結果を求めるのは危険だと言うこと。
姜維の戦略ってのが大勝利を目指したものだとしたら、手段と目的を取り違えてると思うよ。
俺の考えでは、たまたま王経が姜維に付き合ってくれた結果大勝利になったんで、翌年のキャンペーンを思いついただけだと思うけど。
みなさん想像力が豊かですね
>>93 当時の状況を考えると、決定的な戦闘に持ち込むという
軍事的な賭けにでも出なければ隴西の切り取りは難しいとは思うが。
それと、祁山侵攻戦が大勝利を目指していたとは思ってないよ。
祁山を奪取し、魏侵攻の橋頭堡を作るのが主目的だったと思う。
あわよくば、その後の展開で魏軍を大敗させ雍州を引っ繰り返そうとは思ってたろうけど。
>77=93
軍事的冒険主義は一国の指導者としてはもっとも忌むべき事だと思うが。
蜀漢の国是云々もあるにしても、国を滅亡させちゃ国是も何もあったもんじゃないし。
祁山が確保出来れば、戦略的な選択肢が増えて、姜維の長所である機動性が生かせたかもね。
まぁ、姜維の軍事的思考は結局、会戦に行き着いちゃう様だから、魏側も対応が楽だろうが。
>>96 姜維が会戦を願ったのは、それが最も得意だったってのもあるだろうけど、一番の問題は兵站だと思う。
だから、祁山の確保ができればまた違ったかもしれない。
姜維が一国の指導者としては不適格だったってのはあると思う。
姜維は良くも悪くも軍人だったんじゃないかな?
やっぱり姜維は一軍人であるべきだったよな・・・。
蜀は軍閥の寄り合い所帯。
遊牧民の出の姜維は農耕民とは補給の感覚がずれてたんじゃないのかな。
……。
>99
ネタだよな、遊牧民って・・・。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 00:05
姜維だけに姜族の出だと思ってるんだろう。
姜姓の人間が羌族の血を引いてると言われているという点までならビンゴ
99はそれを勘違いしてるんじゃないかと。
関西って半農半牧畜ぐらいじゃないのか
半農半牧畜と遊牧民は大違いな気がするんだが
一瞬、大坂人は半農半牧なのかと思ったよ。
>>93 思うんだが、この場合の大勝利はあくまで戦術的なものじゃないか?
姜維が王経を撃破した時は、姜維は王経の前軍を叩く事によって、
本来持久戦を行うべきの王経本隊を狄道城から誘引して決戦に持ち込み、
その後、どうやったかは知らないが王経を大敗させ万単位の首級を挙げている。
この場合の姜維の戦略は、王経誘引成功までの事を指すんじゃないのか?
「ある戦闘正面に展開した敵をどのように撃破するか」まで戦略と考えるなら、
王経戦の大勝も戦略によるものと言えるが。
俺はそうは思わないけどね。
つまり、持久戦を求める敵を決戦に持ち込めるだけの戦略と、
その敵に大勝できるだけの戦術があるならば、戦術的な大勝利を求める事も間違いじゃない。
諸葛亮の第一次北伐の時と違って蜀が侵攻してきたというだけじゃ隴西は降伏しないし、兵站だって繋がらない。
そんな状況で、決戦に持ち込まずに隴西を切り取る方法があるとは思えないし。
段谷の敗戦ってのも仕方の無い面があると思う。
武城山でケ艾に勝てなかった後、渭水を渡り、上邽で胡済と合流してケ艾を迎撃しようとした。
この判断自体は悪くないと思う。胡済が信用するに足る人物ならね。
ところが胡済は来なかった。この影響は凄まじいものがあると思うよ。
まず、食料を羌族の援助や敵からの奪取に頼っていた事を考えると、
上邽に到着した頃にはそれも殆ど底をついていたはず。
恐らく胡済には、援軍以外に食料の輸送も要請してたろう。
兵糧の枯渇に加え、援軍も来ないとなれば、将兵の士気は著しく低下していたはず。
そのような中での撤退中にケ艾ほどの将に追撃を受けたら、軍の崩壊は目に見えてる。
本来なら潰走には至らない数%の損害でも、軍が恐慌状態に陥ってしまうだろうからね。
兵糧の枯渇と援軍の不着、撤退戦である事と、追撃して来る将が名将であるという事。
これらが組み合わさった上での大敗だから、段谷を以って単純に姜維<ケ艾とは言えないと思う。
その戦術能力についてはね。
>108
胡済軍が来援しなかった影響が相当大なのは当たり前だが、期日になっても来援しない軍を待ちぼうけて、むざむざ大敗を招く、ってのはどうかな。
合流するまで、胡済軍の動向が全く掴めないハズはないし、合流期日近くなれば、連絡等も行うハズ。
その辺りで、作戦上の齟齬が生じたのに、敵地深くで現状維持ってのはどうなんだろ。
視野の広さ、状況に対する柔軟性等を考えると、戦術においてもやっぱりケ艾>姜維でないかな。
>>109 あの戦闘は、姜維が祁山に兵を進ませてから段谷で破られるまでの期間は、長くとも2ヶ月しかない。
それに上邽から段谷まで40km程あり、少なくともそこまでは撤退できていた事を考えると、
上邽に到達し胡済との合流が不可能と分かった時点で撤退を開始していると思う。
夜陰に紛れて東に向かったとは言え、ケ艾にそれを気付かれるまで長くて半日だろう。
それでも段谷までは到達できたんだから、撤退の判断が遅れたという事は無いはず。
/^l
,―-y'"'~"゙´ |
ヽ; ・ ⊥・ミ
ミ ヾ q ミ;.,
ミ ゙ .,_,)⊆口⊇ソ
モフモフモフ〜 i ミ ;,., ; |\ ヽ、
C c ┌\ヽ.,_,,.) \ \_i
◎┘  ̄ ̄ ̄ ̄◎
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>110
段谷まで到達出来たとしても、結局、ケ艾に捕そくされてるんだから、撤退時期を誤ったって事になるんじゃないか?
>>112 いや、食糧不足による疲労の上、来援が無い事による兵の動揺を抑えながらの撤退である事と、
胡済の状況などを確認するだけの時間が必要だった事を考えると、撤退時期の誤りとは思えない。
撤退時期を誤った上で段谷まで到達できたとしたら、姜維の統率力と機動力が尋常じゃなくなる。
>113
食料不足&疲労に至る以前に撤退を決断出来なかった事が問題になるんじゃないかな。
もし、撤退段階で補給難だったとすると、作戦スケジュールの時間的な部分でかなり進行していた事になり。
だとすると、やっぱり姜維は敵地でぐずぐずしてた事になる。
それに仮に胡済と合流出来たとしても、すぐに補給難にならんかな?(胡済が糧食を補給したとしても限界があるし)
>>114 そう。自分も南安から上邽に向かった事が敗因だと思う。
当初の目標である祁山の奪取が出来ず、作戦の変更を余儀なくされた上、
ケ艾の粘りによってそれも完遂できなかった。
渭水を渡る前に結構ギリギリな状況になってたと思う。
しかし、魏の雍州支配を瓦解させるには、前年の勝利の効果を活かしたこのチャンスをものにする以外はまずない。
その状況を鑑みて姜維は賭けに出たんだと思う。
上邽で胡済と合流して、追撃してくるケ艾の精神的均衡を破壊し、そのまま決戦に持ち込んで撃破する。
そして短期間に2度にわたって敗れた事による動揺を突き、そのまま返す刀で隴西を制圧する、という風に。
胡済が来ない時点で姜維の敗北は決まってた。劉備が陸遜に持久戦を取られた時点で敗北が決まったようにね。
>>114 一つ聞きたいんだけど、このスレで今までも何回か議論してる人?
自分は、たまにこうしてここで姜維弁護論をぶちまけてるんだけど、
相手してくれてる人がいつも同じなんじゃないかって気がしてきたもんで。
間違ってたらスマソ
>115
君が>77なら、多分俺だと思うw
もう少し言うと、胡済が約束を破ったとすれば、姜維はその可能性をどれだけ認識していたのか。
胡済が何らかの事情で来れなかったとすれば、その胡済の状況をどれだけ把握していたのか。
こういった事が分からないと、姜維の落ち度がどの程度であったのかは自分には量りかねる。
例えば、正史にあるように、胡済が約束を違え、意図的に援軍に来なかったとして、
更に姜維が胡済を信用しきっていたとすれば、姜維の政治的な能力の欠如が問題になると思うし、
逆にあまり信用せずに作戦を実行したとすれば、可能性の低い賭けに出た姜維の無謀さが問題になると思う。
>>117 やはりそうか。思った以上に住人の少ないスレなんだな。
それともう一つ思った事は、これは前回思った事なんだが、
蜀将スレでも同じような事を議論をしなかった?
戦略についての議論なんだけど。
多分、それも俺だと思うよ。
お互い長文だから分かるのかね。
>>120 なんとなくね。
議論の展開が蜀将スレの時と同じような感じだったし、文体からもそんな感じがしてた。
そうなると、ここの議論は蜀将スレの参考にできるだろうか?
最近は進行速度も遅いし話題も変わってるけど、何か能力でも魏延>姜維とされそうだったから、
ここで議論しながら、姜維>魏延だと皆を納得させられる様な論を完成させたかったが、
このまま議論し続けても同じような展開になって今の弁護論と変化しない気がする。
>115
その辺りは不明だね。
ただ、段谷の敗戦後、姜維責任を取っては3階級降格してるが、胡済の処分は不明。
しかし、258年頃の漢中防衛体制の変更の時まで督漢中だし、最終的に右驃騎将軍まで昇進してるからねぇ。
まぁ、姜維も大将軍に復帰してるけども。
姜維の見切り発車的な作戦だったと思ってるんだけどね、俺は。
胡済には作戦計画伝えたけど、詳細な詰めを行わないまま、出征したんじゃないかな。
そもそも、督漢中の胡済の指揮する部隊が遠征に対応用の部隊じゃ無い訳で(胡済の職務も遠征は範囲外だし)、無理のある作戦だったんじゃないかな。
>>122 そういや、姜維の見切り発車だったってのも前に、確か前スレだかで話したなあ。
このスレ、よほど住人が少ないんだな。5人もいないような気がする。
>121
魏延・姜維は簡単に比較出来ないなぁ。
姜維は最高司令官を務めた実績があるけど、独りで勝手に激しく踊りまくってただけだし。
個々の機動・戦術には見るべきものはあるね。
魏延は最高司令官の経験は皆無だけど、戦術単位の指揮ではかなりの手腕。姜維より鮮やかなイメージがある。
でも、正史の記述で、長安急襲作戦をずっと主張し続けた辺り、状況の変化を視てない感じで猪武者の感も強い。
どちらも、視野の広い上席指揮官の下で手腕を発揮するタイプでないかな。
そう言う意味では同等だと思うよ。
>>124 自分もそう簡単に比較できない事は分かってるんだよね。
ただ、それを比較するのがあのスレだからね。
あのまま行ったらズルズルと流されて魏延>姜維の烙印を押されそうだったから、
姜維好きの自分にはそれが耐えられなくて。
あと、自分は魏延の戦術的な手腕が姜維より鮮やかだって思った事無いから、
どの辺りからそう思ったのか聞かせて欲しい。参考になるかもしれない。
>115=125
俺も姜維は好きだが、魏延も好きなんでね。
魏延の場合、最後まで最高司令官のような立場に立てなかったので、可能性を感じさせるんだろうな。
その点、姜維はある程度手腕を振るえたわけで、底が見える分、低評価されちゃうんだろう。
魏延の手腕は具体的なものではないよ。
ただ1回、呉懿と西北に進攻した際、郭准を一蹴してるから。
かなりの距離を踏破してる上、羌族も魏側に回ってる中で、勝ってるからね。
郭准も相当な将領であるのは間違いないし。
記述が1行程度、ってのが逆に手腕の鮮やかさを示してるような気がする。
ま、イメージも強いけど。
>>126 陽谿か。
自分の場合、具体的な状況が分からないものを大きく評価しないから、
陽谿会戦でそんなイメージがわかないんだろうな。
魏延が姜維ほど好きじゃないってのも大きいだろうけど。
陽谿で郭淮が敗れたのは、諸葛亮の動きも結構絡んでるように思える。
魏延ほどの将を相手にすれば、郭淮であっても勝利するのは難しい、
そこに後方から諸葛亮が向かってるとの報を聞けば、郭淮は撤退せざるを得ない。
しかし魏延を前にして易々と撤退できるはずが無く、魏延の追撃の前に大敗した。
自分はこんな感じだと思ってるんだけど。どうなのかな?
>127
概ねそんな感じじゃないかな。
魏延軍の帰還途上に郭淮がそれを阻止しようとしたんだろう。
魏延軍は行軍を止めず、迎撃体勢の郭淮と激突、あっさり撃破ってイメージ。
まぁ、魏延軍の方は兵站の関係からも行軍を止めて会戦する余裕は無いだろうけど。
後主伝にも記載されてるから、中々派手な勝利だったのかもしれない。
>>128 姜維は郭淮と直接衝突した事が無いからなあ。
作戦を看破されての敗北はあっても、直接の戦闘が無い。
姜維に郭淮と決戦した事があれば、その事で比較できそうなんだけどな。
まあ、今となっては、別に蜀将スレで姜維より魏延が上と評価されても構わなくなってるけどね。
他の人がどう考えようと、自分が姜維の方が上だと思ってりゃそれで良いかなと思う。
住人の少なさを嘆いているから足跡を。
俺も姜維は好きな武将だ。
と言っても演義でのイメージなんだけれどね。
魏延は演義でのイメージが悪すぎたが
最近になって見直していた。
#ただ、無双の魏延が・・・
#片言だし動きが怪しいし・・・
嘆いていたって程のもんでもないけどね。
いくら住人が多くても、つまらん煽りばっかり入るようなら、
普通に議論できる分だけ今の方がよっぽど良いしね。
とりあえず、議論は楽しく読ませてもらっているよ。
好きだけど欠点は認めるって言う
今のスタンスで続けて欲しいな。
本心から言えば認めたくは無いんだけどね。
自分は、欠点に対して何とか弁護できないかと試行錯誤してるが、これが結構難しい。
史料が足りないから仮説に仮説を重ねていくしかなく、穴だらけの論になりがちだし。
金と時間があれば、中国まで行って実際に地形とか見てきたいんだけどね。
>>134 それは俺です。
あなたとの議論も結構参考になったんで感謝してますよ
ついでに、
楊戯を庶民に落とした件、蜀将スレだと、その事で姜維の人格面が叩かれていたが、
時期を考えると、嫌っていたから庶民に落としたとも言えないと思う。
あの時は段谷で敗れ、翌年の出兵も成果が無く、姜維を疑問視する声も高まっていた。
そんな中、楊戯が中央で姜維について色々触れ回ったり、まかり間違って出世なんかしたら、
姜維更迭の動きが活発になるのは目に見えてる。
それに単に嫌っているからというだけなら、もっと早くにそれを行っても良いはずだしね。
あれは保身の為の行動として見るべきだと思う。
保身のために他人を貶めるのはやっぱり人格的に誉められたものじゃないと思うな
罷免を避けるため軍隊を抱えて屯田したことも、蜀全体からみれば内乱予備ともとれるし
姜維は敗戦続きで精神の余裕がなくなってたんだろうか
演義のイメージで言えば
「今蜀を救えるのは自分しかいない!」という使命感からの行動と取れるんだけどね。
史実の姜維から考えると功名心がメインっぽいよな。
まあ俺はそんな姜維は嫌いじゃないけど。
楊戯のことに関して言うと、姜維は我慢ならなかったんだろうな。
批判するなら面と向かって言えと。酒の席で冗談めかして批判されるってのは姜維じゃなくても嫌悪すると思うけど。
酒席で常にこんな調子じゃぁね。
保身とかじゃなく、単純に我慢の限界に達したためだと思うけど。
>>137 誉められたものじゃないのは分かってるよ。
ただ、この事が姜維の人格を極端に貶めるものではないと思うって事。
失脚の原因となりそうなものを放置して置くなんてのは、政治的な無能さの証明になってしまうし。
魏が、姜維を防ぎ続ける事で蜀の国力低下を待っていたのは事実だろうけど、
それと同時に蜀攻略最大の障害が姜維である事も認識していたと思う。
蜀攻略の詔勅でも、姜維が本拠地を離れてる事を強調してるし。
もしかしたら、魏は国力低下以外に姜維の失脚も待っていたのかも知れない。
そういった魏の思惑を姜維が察知していたならば、保身に蜀の為という側面も存在する。
まあ、これは姜維贔屓過ぎる考え方だろうけどね。
沓中での屯田はどうなんだろうね。その事を魏に付け込まれてるし。
ただ、あの時点でも中央との連携がしっかり取れていれば守りきれた事を考えると、
姜維もまさか援軍要請を蹴られる程に信頼されてないとは思ってなかったのかも。
>137
少なくとも、沓中の屯田はまずかったんじゃないかな。
姜維が漢中防衛体制を改変した際に強調してるのは陽安関(関城)に主力部隊を駐留させる事。
本来は陽安関でガッチリ魏軍の作戦行動を拘束し、撤退に追い込む構想なのに、その主力が外出してちゃ・・・。
そんなんなら、防衛体制を変更しない方がよっぽどましだろう。
>>141 自分は、哨戒活動の為に沓中にいたと思ってるけど。
単なる保身の為だけなら、魏蜀の国境である沓中まで行く必要は無いと思うしね。
沓中で哨戒活動を行いながら、何かあったら本国に援軍要請をし、
自分は陰平方面の敵に対処するつもりだったんだと思う。
姜維の誤算は、援軍派遣の遅れと、陽安守将の突然の降伏だろう。
割り込んでいいかな? 楊戯が免官されたことについてなんだけど。
これ、多分、陳祗が死んだことで、姜維に権力のお鉢が回ってきたことを現してるんじゃないの?
蒋エンが権力を握ったときも、似たようなことがあったしね。
もっともその時は蒋エンが国内の安定を第一に考えて慎んだために何もなかったようだけど。
姜維と一所に蜀に降った人たちが高官に登っていたのもこの時期じゃないかと睨んでいる。
陳寿の書き方だとその連中は蜀が滅ぶより先に亡くなったってあるだけで、イマイチ時期を
ぼかされてるわけだが。
あ。姜維と一所に蜀に降った連中は、次の官職に就いてる
・梁緒:大鴻臚(諸侯及び帰服した蛮族を司る→封侯されてる人物の動向を掌握)
・尹賞:執金吾(宮中の警備を司る→皇帝確保)
・梁虔:大長秋(後宮を掌握→後宮経由での(皇帝の私事に絡めた)上奏などを阻止)
こうして見ると、姜維が陳祗亡き後一旦権力を握ったと思しきことは明かだと思う。
楊戯の免官は個人の恩讐という視点で見たり解釈したりすべきではなく
姜維の権力掌握を象徴する出来事と解釈すべき。
>>143 そうか。陳祗の死の時期とも重なるんだな。となると、そういう解釈も納得できる。
そういった事は考えてもみなかったよ。
ただ、姜維排斥の動きが出てきて、それがもとで成都に帰らなくなる辺り、
権力掌握は失敗したと見るべきなのかな?
>140
蜀漢が当事動員出来た兵力は9万。
そのうち姜維が5万前後の野戦軍率いてる。本来なら、陽安関か涪あたりに駐留してなきゃならん兵力。
それを遊兵にしちゃって、援軍要請ってのは虫が良すぎるような気がするが。
と言うか、張翼等を派遣してもらっただけでも、良い方だろうな。なんせ予備兵力がほとんど無い訳だから。
その辺を考慮すれば、沓中でもどこでも良いけど、本国巴離れてたのは大きな失策だろう。
で、もすこし続けるけど、
姜維は259年から262年に侯和に出兵するまで、軍事行動を起こしていない。
これは権力を掌握してしまったために、あらゆる国事(政務)が姜維に集中し、
姜維自身が身動きできない状態になっていたことを示しているのではないかと見ている。
ここから先は更に推測を重ねることになるが、
その過程で姜維の権力掌握に貢献していた涼州出身の仲間達が次々に没したために、
権力基盤が危うくなった。(アンチ姜維派の暗躍と台頭)
その結果、侯和で敗戦すると、成都に帰還することができないようになった。
で、263年、滅亡の年へ続く。(のでは?)
>>145 5万ってのは降伏時の姜維の兵力だから、援軍も含んでると思うんだけど。
>>146 姜維の軍事行動の空白期間は、段谷後に補充した兵力の練兵の為の時間をとってたのと、
国内世論を受けての事だと思ってたけど。
そういう見方も納得できる。
>143,ニセクロ氏。
涼州系の人材は確かに高官に昇ってますが、どれも九卿同等官で、当事としては名誉職に近い職務じゃないかな。
もし、姜維が権力を握ったとしたら、陳祗の後任の尚書令などの実権のある部門に登用すると思うのだけど。
九卿だと、遠くから降伏してきた者を礼遇した、って宣伝的な意味の方が強い様な気がする。
>147=140
宮川尚志氏の本だと5万になってるんだよね。
ま、はっきりとした兵力は不明だが、少なくとも3〜4万は下らない兵力を率いてたのは確かだろう。
>>150 どうかなあ?
降伏時に4,5万の兵力で、姜維が沓中で率いていただけでそれと同等の兵力とも思えないが。
廖化が陰平で諸葛緒を迎撃しようとした事を考えると、
廖化の援軍は3万の諸葛緒を拘束できるだけの兵力があったんじゃないか?
だとすると、姜維が率いてた兵力は極めて少なくなる。
常に数万率いてたのは確かなんだから3万以上は最低いたんじゃないかな。費緯の頃は1万でも少ない、って騒いでた訳だし。
人的資源の少ない蜀漢としては相手がどうの、では無く、派兵出来る範囲で派遣したんだと思うけどね、廖化等の場合は。
しかも、緊急事態な訳だし。
>>148 諸葛亮も、劉備逝去後は南中の叛乱を暫く放置して権力基盤を固めに入ってるし
(もっともこれは劉備の喪に服すという名分もあったが。)
蒋エンも、諸葛亮没後は自分の足元を固めている。費イはちょっと変則的だけど。
>>149 陳祗の後任は董厥。彼の後は樊建。
この二人はどちらも義陽出身。派閥としては蒋エン派に属すると思う。
しかし姜維自身が蒋エンの(後主への)推挙を受けているので、姜維自身はその人事で
自分の足元を固めたつもりだったんじゃないかと思う。
>>152 自分は、姜維3万、廖化・張翼がそれぞれ1万ずつくらいかなと思ってるんだが。
>143=148 ニセクロ氏。
俺は蒋エン派とかあまり、派閥単位の人事が行われてたとは思わないんだよね。
結局は諸葛亮の遺言通りの首脳人事に終始しただけだと思うけど。
董蕨にしても、諸葛亮が見初めた人物だし。
尚書令・陳祗が亡くなれば、次官の董蕨が昇進するってのは極めて普通な人事だと思う。
確か、董蕨はかなり長く僕射を勤めてた様な気がするのでね。
俺も間違えたw
>143=153、ニセクロ氏。
です。
>155=140
どっちにしろ、本来関城辺りに駐留してなきゃならん部隊だと思うよ。
>>156 ああ、そうか。そういえば尚書僕射だった。董厥。>さんくすです。
俺は、姜維って、これまで内政に関るような政務をずっとしてこなかったから、
権力を握ったものの、ちゃんと政治をやれずに、周囲に振り回されて、
結局、政権を失ったように見えるんだよね。
段谷の敗戦後の処置は、色々不公平な感じしてるけど、姜維に政治力というものが
まるで亡かったとするなら、ああなるだろうなって気がしている。
>>158 別に俺も沓中にいるのが最善だったとは思ってないけどね。
それに、もしかすると3万もいなかった可能性もある。
姜維は遠征には数万を率いていたが、廖化や張翼を引き連れての事だし、
沓中に屯田した時は、それより少ない自分の直轄兵力だけだった可能性もある。
それに、俺は姜維の遠征兵力自体、5万にも達しない、多くても4万程度だと考えてるし。
段谷の敗戦までは漢中の防衛隊3万に手を付けてなかったんだから、5万も捻出は出来ないと思う。
>159=143
確かに陳祗が亡くなった年か、翌年姜維は珍しく成都に帰還してますね。
陳祗死去後の政府首脳人事に関してでしょう。
俺は、陳祗の死去で初めて尚書令が後任を得ないまま空位になってしまったので、(それまでは、尚書令が死去してもかならず上位者(費緯)がいた)
律儀にも後主が姜維の意向も聞こうとしたんだと思う。本来なら姜維が決めても良い職責いるわけだけど、姜維本人も周囲も姜維が費緯と同じ立場(最高指導者)の人物とは考えてない。
で、そんな政治向きの事はとんと苦手な姜維は、尚書僕射の董厥を昇進させる普通の人事と、国民的人気のある諸葛膽を組み合わせるサプライズ人事で後主&世論を納得させ、早々戦線へ旅立った、って感じじゃないかな。
苦手と言うか、関心が全くなかったと言うべきか。
>160
漢中防衛の兵力に手をつける前は3〜4万だろうね。
その後も段谷の影響もあるだろうから、やっぱり3〜4万か。
で、沓中の時は侯和で負けてるから3万くらいかな。
確かに5万は無理だね。
>>162 で、侯和の後、姜維に遠征させない為に、廖化や張翼をある程度の兵力と共に成都に留め置いたとすると、
沓中の姜維は2万程度以下の兵力だった可能性もあると思う。
それに、廖化らの派遣を遅らせた理由が、姜維の上奏を遠征の口実と考えていたなんて話もあるが、
姜維に3〜4万も兵力があれば、廖化らの派遣に関わらず遠征できるだけの兵力を持ってる事になるし。
それともう一つ、陽安の兵力が敵の侵攻に耐えられる程ではなく、
且つ姜維が大軍を擁していたとするなら、魏の侵攻を察知した時点で何らかの行動を取っていたと思う。
陰平と陽安を固める事が重要なのは上奏でも述べてるし、
沓中に大軍を張り付けておくなんて事はしないんじゃないかな?
蜀軍の全兵力は降伏時の軍籍によれば、10万程度
豪族武将の私兵や、蜀に服属あるいは協力的な異民族兵を含めない正規軍のみと仮定しても、姜維の手元に半分も配属されるとは思えないな
少なくとも南方及び東方の抑えには2万から1万を貼り付けてただろうし
リョウ化・張翼が2万程度・諸葛センが2万程度の予備を引き出したと仮定するとますますその数字は低くなる
多分諸葛センが率いた部隊は対呉方面から閻宇が帰還したさい引き上げさせた兵力だと思うけど
まぁ仮に5万あったとしても、姜維はトウガイ・ショウ会から挟み撃ち喰らう形に早々になってたから陽安方面で能動的な活動ができるとは…
>>135 そうでしたか、その節はお世話に。
少し遡ってしまうけど、
>>127にある陽谿の戦いで、諸葛亮が後援として魏軍に
対して圧力をかけたって記述、ありました?
それ以前の、陳式による武都・陰平攻略に際しては、諸葛亮が支援として建威へ
進出して郭淮を牽制しているけど、陽谿の戦いに関しては、あくまでも費曜と郭淮を
撃破したって事のみで、そういった形跡はみられなかったものだから……。
あ、でも独力で魏軍を撃破したからといって、俺も魏延>姜維とは思ってないです。
この戦闘に先立って曹真に率いられた魏軍が漢中へ侵攻している事から、雍・涼州
への蜀軍侵攻に対する危機意識は濃厚とはいい難い気もするし。
直接関係ないけど、この時の蜀の作戦はそれほど実を挙げていない気がする。
翌年の北伐では郭淮が羌族からの食料供出を成功させてしまっているし、魏延は
機動性を発揮する点では優秀ではあったろうけど、宣撫工作にかけてはそれほど
でもなかったのかな…と勘繰ってしまう(大元をただせば諸葛亮だろうけどね…)
>164
当事、陽安関の防衛力はそんなに高くは無かったと思うよ。
守将の1人が出撃したまま降伏してるけど、専守防衛を主張した傳僉がいたし。
鐘会も「別将を派遣して」攻撃した、ってあるから、そんなに兵力を送ったとも思えない。
当事の状況は、要地である陽安関は、上奏した様な防衛体制には無く、しかも、姜維は魏軍を防げる兵力を率いて居なかった、って事かな。
しかし・・。
野戦軍が機能しなくなってると言うのに、漢中・陰平・武都方面の防衛体制も整えてなかった、ってのはどう言う事だろうな。
姜維自身が上奏して、蜀漢の安全保障体制を変更してるのに、それが全く瓦解してるってのは・・・。
姜維が漢中から引き抜いた兵力すら北伐で磨り潰したから
機動兵力は勿論防御兵力だって質量ともに不足していた
それを補填できずにずるずると…
>>守将の1人が出撃したまま降伏してるけど、専守防衛を主張した傳僉がいたし。
傳僉がいたし。じゃなく、居たが、簡単に陥落してるのは防衛力が高くなかった、って事の証左じゃないか。
に訂正します。
やっぱり漢中の防衛システムを変えたのは間違いだったんだろうな
3万を備えていた王平の時でも決して楽勝じゃなかったのに、多く見積もっても1万程度じゃ
ショウブ・王含は漢城・楽城に封じ込められたまま何もできなかった
短時間で突破されたため、陽安を固めるべき張翼軍は間に合わず
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.147.401.html ↑
自サイトで検証してるけど、鍾会に攻め込まれた時の蜀の対応がぶっちゃけ不味すぎ。
まず、陽安(関城)を落とされるのが有りえない。
なぜかというと、第一陣として廖化が姜維の掩護に向かってるんだが、
彼は陰平で一カ月待機している。おめー、そんな暇あるなら、陽安に麾下の部隊を分けて
増援を送れって。といいたい。
いくら姜維への増援部隊だったといっても、事態の緊急性が違うだろう。判れよと。
それからヒキコモリっぱなの蒋斌・王含。
彼らを包囲していたのはそれぞれ倍の1万の軍。
それぐらいの兵力差なら、王平などの叩き上げの指揮官なら夜襲など用いて
包囲軍を崩そうとするだろう。
戦力比二倍程度なら、不利ではあっても無理ではない。試みる価値は十分ある。
漢、楽、どっちかが包囲軍をくずせば、魏の兵站線を脅かすことになる。
それだけで魏の侵攻は頓挫した可能性が大きいのに。
それから第二陣の張翼らの動きがもどかしいくらい遅い。かなりもたついてる。
急いだけど間に合わなかったと言うレベルじゃない。
上記三点の内、一点でなんとかなっていれば、魏の侵攻は頓挫した可能性が高いと思う。
漢中の防衛システムを変えたことの是非を論じる以前に攻めこまれた時の
蜀の対応がかなりマズーだった。
お、石合戦すらしたことない現代ッコどもだ。
>>171 確かに張翼はとろすぎるね。漢寿なんて、剣閣にすら達してない。
侯和の敗戦でいよいよ立場の無くなった姜維、廖化らは成都に置かれ、兵すらも取り上げられる。
そしてこのままではまずいと感じ、元凶である(と思っていた)黄皓の排除を行おうとするも、
劉禅の態度から不可能と判断。
危険を感じて自身の直轄兵と共に沓中へ向かい、保身も兼ねつつ魏に対する諜報活動をしていた。
そして魏の侵攻を察知するも、現状では防ぎきれないと判断し、急ぎ廖化らを送るよう上奏。
しかし朝臣は姜維の言を信じず、侵攻の報を聞いてからやっと派遣が開始された。
派遣の遅れに加え、他将の対応の悪さが重なり、姜維の力ではどうにもならず、蜀は降伏に至ってしまった。
こんな感じか?自身の身から出た錆とは言え、随分絶望的な状況だな。
蒋斌・王含はしょうがないだろ。
倍の兵力に囲まれてるんだから。
姜維が散々負けまくったせいで貴重なベテラン兵が減少したのが蜀末期の各軍鈍さの原因かも
で、自分だけは精鋭を抱え込んでいた
最後の成都への行軍が異様に早かったのは彼らをリョウ化張翼軍に組み入れたからだ…とか
はい妄想です
>>176 何が言いたいんだ?
倍の敵に勝てるわけないだろ、普通は。
元々、漢中防衛システム改変で漢中駐留軍の任務は敵の進攻阻止から誘引・拘束に変わっていた
そんな中で博打を打てば、(当初の想定通りなら)後から来る機動軍の援軍と呼応する前に殲滅されると判断したんだろう
>>177 倍程度なら勝てなくは無いと思うぞ。
野戦においてだって、兵力劣勢な側が勝利した戦例は少なくないし。
隙を見て奇襲でもかければ、包囲軍を撃ち破る事もできたかもしれない。
>>178 敵主力が陽安を抜けた後なら、包囲を崩した後に殲滅されるという事も無いんじゃない?
>>179 魏軍が警戒心もなく突っ立ってる人形の集まりだとでも思ってるのか…
倍程度をひっくり返した例がよく歴史の本に出てくるのはそれが稀少だからだよ
数に勝るほうが勝つ。これが当たり前
>>179 なんにしろそこまで責められることじゃないだろ>引き篭もり
少なくとも廖化 張翼と同列に語ることは出来ないと思う。
>>180 君とは分かり合えそうも無いな。
自分は兵の多寡が勝敗を決する最大要因とは思ってないし、今後もそう思う事は無い。
>>181 別にそこまで責めてる訳じゃないよ。
蒋斌と王含は、少なくとも敵軍の内2万を拘束する事だけは出来てるんだし。
自分は単に、包囲軍の撃破は不可能では無かったと言いたいだけだから。
>>174,177
俺も179と同じく勝てなくはないと思ってる。
野戦の正面決戦という状況でもないしね。
鍾会が攻め込んでから蜀が滅ぶまで一季節弱。
蒋斌と王含が状況を一変させ得る猶予は一月ないし一月半と考えられる。
それくらいの時間があれば何か手を打てたんじゃないかな。
勿論蒋斌らにはかなり無茶なことを言ってるとは思うけど、王平あたりなら…と思うとね。
この漢、楽にそれぞれ倍(一万)程度の兵を割り振っただけで先に進んだ鍾会はかなり度胸あると思う。
俺が鍾会の立場なら、ちょっと怖くてできないし、包囲を軍の指揮官に任じられるのも腰がひける。
一度奇襲を喰えばそれで瓦解しかねないギリギリの戦力比だと思う。
>>178 誘引・拘置が目的なのに、鍾会軍の殆どは、そのまま先に進んでしまった。
つまり、元々の目的を達成できてないってことになる。
それだけじゃなく、蒋斌・王含は鍾会麾下の荀ガイ・李輔らに逆に拘置された状態になってる。
鍾会軍を足止めするには、蒋斌・王含のどちらかが荀ガイ・李輔のどちらかを破り、
行動の自由を得て、魏の兵站を脅かさなければならなかったのだけど、それが出来なかった。
高いハードルを要求してると言うのは分かってるんだけど、でもなぁ。
もしもはもしもでしかないんだけど、もしもこっちに羅憲が赴任してたらどうしてたかなぁ…。
171で指摘した3点の内、一番ダメなのが廖化。次に張翼・董厥。
蒋斌・王含は上手くやってくれたら良かったのにって期待込みのもの。
鍾会が自分たちに対してかなり絞った戦力を置いただけで主力の殆どを先に進めた時点で
鍾会の意図に気づき、なんかリアクションして欲しかったなぁ、残念だなぁと言う感じのね。
>>182 二倍の敵に城の中に押し込まれて何をやれってんだよ
だいたい2万を拘束じゃなくて2万で封鎖されて、本軍は自由に活動してるんだぞ
>>179 俺としては引き篭もって一万の軍に包囲させた時点で
その役目を果たしたと思うんだけどな。
それにやはり兵力の多寡は重要な要素だよ。
倍の相手、しかも1部隊に過ぎない一万に勝てるかね?
或いは勝ったとしても、魏の兵站線を脅かす程の活動は出来ないと思うが。
張翼・董厥がもたついたのは、兵力を抽出して再編成するなどに時間を取られたからだろう。
しかしそれならそれで、編成が終わった部隊から次々に派遣するって手を打てなかったものなのか?
ってのが、張翼・董厥を俺が責めてる理由。
二人が一緒に漢寿に辿りついてるあたり、部隊の編成を終えて戦力を整えてから全員で一緒に出発して
きましたって感じに読めるんだよね。
例えば関羽に中原をつかれて于禁軍を失った曹操は、編成を終えた部隊から次々に戦場へ派遣している。
徐晃伝とか見ると、なりふり構わず準備終えた部隊から続々増援を送り込む曹操側の動きが良く分かる。
それを見た上で蜀滅亡時の張翼・董厥の動きを見ると、ぬるいことやってんなぁ、って感じに見える。
廖化がかなり早く陰平へ到達してるのは、
もともと漢寿あたりに置いてあった予備戦力をそのまま使ったからでじゃないかなーとか思ってる。
(だからこそ、廖化の行動が一番ダメってことにもなるわけです。)
>>184 包囲されたまま黙ってるしかないとでも言うのか?
そもそも防御と言うものは、逆襲と攻勢転移を伴うべきものであって、
それが攻撃の失敗する最大要因となっている。
それに本軍はとっくに先に行ってると思うが。
>>185 確かに兵力の多寡も重要な要素だが、それが全てではない。
危険は伴うかもしれないが、倍程度なら奇襲によってひっくり返すことは可能だと思う。
5倍も6倍も相手の方が多いって言うなら別かもしれないけど。
>>187 兵力の多寡
地勢
兵 将の資質
周囲の状況
そういうの全部考えてもあの状況は勝てないだろ。
よしんば勝ったとしてもあっさり潰されるのは目に見えてる。
>>187 包囲兵力が二倍で、包囲された側は本軍が移動したことを把握できるぐらいの情報網が担保できていたのか?
だいたい、無茶をうって5千しかない兵力を霧散させた挙句、敵の側背をみすみすがら空きにしたらそれこそアホじゃん
>>185 一番簡単なのは、桟道を焼くこと。
それに漢、楽、どっちかが遊軍になれたら、魏の兵站線は脅かせたと思う。
官渡の戦いでもそうだったけど、兵站線を脅かした部隊の規模はかなり小さいよ。
あと、建威の防御陣地は諸葛緒に壊滅させられたけど、
姜維が設置した他の哨戒拠点の兵は(無視されて)残されたまま、死に兵になってたんじゃないかな。
全部の哨戒拠点と連絡とることは無理だけど、近くの拠点の兵たちを遊軍の中に繰り込むことができたら、
兵站を脅かす力ももう少し付くだろうと思うけど。
いや、五千の兵で一万の兵を退けるなんてことを言う時点でダメなのは分かってんだけどさ。
でもね、廖化とか張翼・董厥のダメさをフォローするにはもうファインプレーしかないじゃん?
そもそも戦略上の失敗を現場のウルトラCでひっくり返そうなんて発想自体が…
連年の北伐→大敗コンボによる国力軍事力の疲弊に対処しない限り豊富な戦力を抱える魏には対抗できんよ
まあ確か後は現場に期待するしかないわな・・・。
てか魏の方ではケ艾がある意味ウルトラCを決めてるからな
>>188 勝てないかなあ?
本軍は先に行っていないわけだし、不可能と言うほどでもないと思うけど。
将兵の資質がどうなっていたのかは自分には分からないから、そこは何とも言えないけど。
>>189 包囲の軍勢が倍程度しかなく、周囲に大軍の姿は無い。
これを見た時点で本軍の移動くらいは予測できたんじゃないのか?
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 21:21
決して、兵力の多寡が勝敗を決する全てとは言わないが、
それでも「兵多きは勝つ」は兵法上よく知られた真理だ。
孫子も「小敵の堅は大敵の擒なり」といってる。
ただ、囲城戦では攻める方に城方の5倍の兵力が必要であるとはよく言う。
ケ艾のウルトラCは、蜀軍主力を拘束しつつこっそり一軍を山岳迂回させられるだけの、兵力のバックボーンと兵站能力があってこそじゃないのかな
>>193 そんな憶測混じりで勝てそう〜とかいわれてもね…
単に「倍の敵に勝つ」なら出来たかもしれない
だけど「倍の敵に勝ってなおかつ兵站を断つor乱す」のは難しいんじゃないだろうか
兵站が生命線である以上魏もしっかり守ってるだろうし。
>>189 そんな高い情報網の担保は必要ないと思う。
その時点で奇襲や夜襲を仕掛けた時に相手になるのが目の前の軍だけ(である可能性が高い)
と判断つく程度でいい。
将官は蒋斌には護軍の荀ガイ、王含には前将軍の李輔があたってた。
晉書読んでないから荀ガイの将としての資質って分からんのだけど、どうだったのかな。
ともかく勝って遊軍化してしまえば、こっちのものって考えもある。
わざわざ再度敵にぶつかる必要はなく、敵の兵站線をめちゃくちゃにしてしまえばいい。
片方の城が敵を破って遊軍化すれば、かなり絞った戦力で包囲している魏軍は、難しい対応を迫られるだろう。
>>195 やっぱりウルトラCを決めるには決めるだけの理由があるよな
>>196 両軍の全貌が分からない以上、憶測が入るのは仕方ないと思うが。
あと、何度も言うけど、自分も彼らを責めてるわけじゃないんだって。
派遣が遅れたにもかかわらず、ちんたらやってた張翼らとか、陰平で無駄な時間を過ごした廖化の方が悪い。
何より、魏の侵攻を招いたのは姜維なんだし。
姜維の防衛システムが理想的に働いていた場合、漢中の軍は援軍がきて進攻軍を殲滅するための一翼でしょ
独断でつっこんで補給線破壊に持ち込むような戦術的柔軟性なんて用意されてもいなければ実施も不可能だったんじゃ?
>>201 そこはちょっと違うと思う。最後は指揮官に係るものだよ。
曹爽が漢中に攻め込んだとき、王平は諸葛亮が遺した作法に従わず、
劉備が遺した興勢囲の防御施設に拠って抵抗し、魏軍を退けた。
戦術の柔軟性は指揮官の柔軟性と決断力に拠る。
蒋斌・王含は何か手を打つべきか、このまま耐えるべきか悩んだろうなぁ。
んで蜀が滅んだとき、何かやるべきじゃなかったのかと煩悶したろうなぁ。
こういうドラマって、誰か描いてくれないかなぁ。
>>202 指揮官が優秀だからって兵士の能力が向上するわけじゃないだろう
王平が前進防御を選択できたのは、あらかじめ拠る施設が存在したこと・3万とそれなりに豊富な戦力があったので持久のメドがついたこと等の要因があったからで
5千しかない防御専任部隊の指揮官の采配ひとつで情勢がひっくり返るか?
>>203 防御専任部隊って。防御しか出来ない部隊だって思ってるわけじゃないよね?
戦力が劣勢側が優勢側に勝つ率って、二割から三割ある。
状況が正面決戦ではない以上、単純な戦力比で勝敗を計算するのは難しい。
きちんと作り込まれた城に立て篭もる五千の兵を拘束するために野戦城を設けて監視する一万の兵。
兵力的には優勢でも楽観できないし、万一城の守備兵が夜陰に紛れて伏兵してしまったらと思うと
監視にも神経つかうと思うよ。
劣勢な側は火計とか使って焼き討ち奇襲に来るだろうから、風とか出たらドキドキものだと思うけどな。
>>171 そんなあっさり劣勢の側が勝てるんだったら苦労は無いわな
>>204 無茶したら拘束するという当初の計画どおりであり、また優勢な相手軍に対して取れる一番確実な対処が御破算になるだろ
だいたい包囲下に置かれるほうが防備に恒常的に割かなければならない兵力神経だって攻撃側に劣るもんじゃない
防御が任務の部隊で、しかも兵力を引き抜かれた後の残置部隊には冒険できる余力も無くまたその合理性も低い
満足な火薬も無い時代に、柴でも刈って用心されれば急な火攻は無理ではない?
>>171 重要なのは包囲軍一万に勝つことじゃないだろ?
一万に勝利したとしても、その先兵站を乱せるかが問題なわけで。
そもそも蜀末期の防衛システム自体が欠陥品でしょ
相手を引きずり込んで撃滅、といえば聞こえはいいけど
封鎖戦術を取られたら圧倒的に劣勢な漢中軍はもともとの任務性質もあって封殺されて
肝心の機動軍は動く前に別方面から侵入したトウガイ・諸葛諸軍への対処で手が回らず
蜀が予備戦力を運用できる戦況はせいぜい一方から魏が馬鹿正直にやってきた場合のみ
>>206 拘束していると言っても、敵軍のほんの一部であって、本隊は先行している。
更に陽安の防衛体制の不備と、援軍の遅れを知っていれば、陽安陥落の可能性が高い事も分かるはず。
頼みの綱である姜維は、開戦当初は沓中にいて、普通に考えれば間に合わない。
敵本隊が益州盆地に殺到してしまう可能性も予見できたんじゃないか?
そのような中で、目の前の1万を拘束し続ける事が最善の対処とは思えないが。
国が滅ぶかどうかの瀬戸際なんだから、冒険する事も選択肢の一つとして考えておくべきだと思う。
ケ艾のウルトラCが無かったら
もう少し長期戦になるだろうと思われた。
そうなった場合、敵軍を釘付けにしたのが活きてくると思うが。
>>210 ほんの一部ですら漢中蜀軍の二倍だよ…無茶言い過ぎ
ショウブがヤン・ウェンリーで、王含がアレックス・ハンじゃないといけなかったという主張だと思う
>>208 遊軍化できればそれが出来る。遊軍化するためには、包囲を瓦解させなければならない。
だから、目先の一万の軍に勝つことが重要なことになる。
>>205 「戦争学」で松村劭が過去605件の戦例からデータとってまとめてんだけど、
理論戦闘力優勢側の勝率は56%、劣勢側の勝率は36%、
劣勢側が優勢側に攻撃を仕掛けたケースが27%でその中で勝利か引き分けに持ち込んだケースが56%とある。
優勢だからといってもちつけるわけじゃない。
>>206 そういう被包囲側の負担を減らすための(ちゃんとした)城なんだし。
ショウブじゃなくて蒋斌<しょうひん>だったな
>>213 ちゃんとした城でも兵力不足なら突破されて落城するだろ
魏軍側だって陣屋構築ぐらいやってるだろうし
>>212 2倍と言うのは必ずしも勝てない戦力差ではないと思う。
相手にもよるが、少なくとも稀代の名将が必要な状況ではない。
つか、孤立した漢・楽二城にどれくらい戦況情報が入ってたんだ?
「オレ達を必死で攻撃してて、攻めあぐねたから包囲に切り替えたようだ。もう少し粘っていれば援軍がくるぞ。持久だ!」と最後まで考えていた気がする
>>212 五千で十万に立ち向かえと言ってるわけじゃない。
五千で一万の包囲軍を崩せなかったのかとしているわけ。
包囲している魏軍からすれば、遊軍化されることが一番困る。
二城にそのまま引きこもってくれていた方が、兵站線を維持するのに楽。
一つに逃げられて一つが城に篭っていると、包囲軍をはずせないまま、
へたすりゃ残る一万の軍で広い漢中を舞台に鬼ごっこだよ?
複数カ所の兵站線をまもりながら。
この議論、結局はどこにたどり着くの?
>>216 勝てない戦いを避けて、兵力を保全しつつ敵を拘束
これ以上どう孤立した漢中軍の二将に求めろと?
>>218 つまり二倍の敵軍を、孤立した情勢下で蹴散らしなお敵がどこにいるかもわからない漢中で補給線寸断を試み
ついでに自分とこの重要拠点を放棄するような兵力移動をやれと…
笑うところでつか
>>217 確かにその可能性はあるよね。で、戦争終わって出頭したあと全容を知らされて>>orz_ or2_
>>219 飽くまでも不可能だったのか、それとも難しいけれど可能性はあったのか。それだけ。
降水確率じゃあるまいし56%で戦争できるかね
>>224 それぞれが勝てると思い、なんとかなると思い、やれると思って戦った。
その結果が56%と言う数字として残った。それだけ。
単純に確率だけでやれば出来るからやれよ、とは言えないものだと言うのは分かってるよ。
%持ちだしたのは、数の優劣があるから無理だろ、ってのは、この%見ればとは言えないでしょ?
ってことを言うため。
>>221 この場合、魏の攻囲軍を拘束したというよりは、蜀の守備戦力が無力化されたと
みるべき。
魏軍本隊が四川盆地に突入すれば最悪を想定してもいいはずながら、二城の
守備軍はなんら有機的な防衛作戦も展開できず終始にわたって沈黙してる。
これは戦力差二倍とはいえ責任の一端を担ってるといわざるをえない。
二倍では勝てないというけど、野戦軍同士の対峙でもなく二箇所の拠点に拠って
いた以上、蜀の地勢と兵站の重要性を忘失でもしていたのか、蒋斌・王含の能力
にも疑問符がつきそう。
>>220 自分は勝てなかったとは思ってないし、孤立無援ならそれこそ固守する事に勝機が見出せないはず。
>>221 ニセクロ氏の言う様に、桟道さえ焼いてしまえば漢中経由の補給は寸断できる。
そのぐらいなら城兵総出でやらずとも、少数の工作部隊だけでも出来るんじゃないか?
それに、障害物や凹凸などを無視すれば、地表より20mの高さに視点があると、16km先まで見渡せる。
城兵も、包囲軍以外に周囲に敵がいない事ぐらいは分かるように思える。
少ない兵に城を包囲させておきながら本隊が漢中に留まっているとは考えにくいし。
桟道を焼けばというが魏の方だって守備隊ぐらい置いていたんじゃないの
そもそも、よほど勢い良く焼かなければすぐに修復されるのでは?
>>229 漢、楽の軍を1万の包囲軍によって拘束しつつ、
複数ある桟道それぞれに数千以上の兵を置いていたとは考えにくい。
多くても1000程度だと考えるが。
少数は言い過ぎたかもしれないが、1000〜1500あれば成功したのでは?
よく考えたら、そこまでの将でもない蒋斌らでは無理か。
こういう事は迅速に行わなければならないし。
そうすると、魏の桟道守備兵の数と、それを指揮する人間の力量にもよるが、
やはり数千を集めねば無理か。
随分流れが速いのでびっくり。
既出だろうけど、漢・楽二城に対したおのおの1万の軍勢は城攻めを命じられた訳じゃないから、逆に城側からの攻撃は難しいと思うよ。
攻囲築城は当然していただろうし。城から出撃しても陣城に篭られたら、諸葛誕が寿春で乱を起こした時と同様だろうね。
蒋斌・王含らは漢・楽二城を守るのが職務であって、それ以上を求めるのは酷。
なんせ、両城の名がついてる護軍・監軍だからね。それを消極的と見るか、職務に忠実だったとみるかは人それぞれだろうね。
絶望的な状況の中で降伏せず、職務をまっとうしたと見るか、臨機応変な将略に乏しかったとみるか。
今、すべての結果を知ってるから言えることだろーな
実際、その立場に放り出されたら、彼らの決断が理想的な決断にみえたりね
今みたいに通信が発達してないから、どうしても情報不足。唯一確かなのは自分の見てる光景のみ
色々想像して対応するも、トウガイは常識を超えたウルトラCをやってくれたと
だから漢・楽の二将がハンニバルとナポレオンならよかったっていいたいんでしょ?
>>234はハンニバルとナポレオンしか知らない悪寒
↓で世界の名将列挙
つまらん茶々ですまんが
年齢層高いのかな?
ウルトラCって今時大した技でもないな。
つか、蜀正規軍総数と、ショウ会が率いた蜀攻略三軍のうちの一軍の総兵力がほぼ等しいんだから
小手先でどうこうできるわけないだろ
姜維のハイペースの北伐と敗戦の連続で、蜀軍は数を減らした上内実もぼろぼろだったんだろう
熟練兵は一旦失えば補充はきかない。戦略的に追い込まれ戦術的にも柔軟性が劣れば勝てるわけない
兵力差が勝敗を決めるのは古今東西の鉄則
差を埋めうるための地形や防御施設は蜀にあったことはあったんだが
肝心の蜀軍本隊がぼろぼろじゃあ
むしろショウカイ本隊の攻撃を受け止め、封鎖戦術やむなしに切り替えさせただけでも楽・漢二城の将兵は奮戦したと思うがな
どのみち漢中である程度相手の動きを止められたとしても、さらに魏軍は別に二路の大軍を用意してたわけだし
剣閣を写真で見た事がある。
はっきりいって兵の質云々を問う以前の問題で、凄まじいまでの要害。
たとえ姜維直率の軍勢が質的劣勢であっても、それを補えるほどの
防衛力を有しているといっていい気がした。
ここに篭れば後方への迂回侵入の可能性を忘失するのも頷ける。
現に鍾会は撤兵を一考してもいるし、ケ艾が迂回する作戦を想起しなければ
十余万もの魏軍はいずれ兵站に停滞を生じたはず。
蜀はなにも絶望的でも敗勢必至だったわけでもないと思うよ。
実際、剣閣で足止めしてる以上かなりの長期戦になるはずだった。
そこをケ艾が間道越えで成都強襲→降伏であっさり決着。
長期戦になってくれば、城を死守していたのが活きてきたと思う。
どうせ蜀の国家財政・経済はぼろぼろ
そのうち自壊したんじゃないの?
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 15:33
姜維の北伐は無駄だった
無駄どころか防衛戦力すら不足させた点からみれば有害だった
わざわざageて、だった、なんて断定しちゃって、随分と痛々しいですね
何を言おうがあんたがこれまでの議論も何も無視した
ただの空気読めてない人間である事実は動かない
脳内にどうあっても動かしたくない結論があって
それにあわせて、良い方に良い方に考えての議論されてもなー。
姜維の北伐は攻勢防御としての役目すら果たしてないからなぁ
魏軍は蜀に大軍をもって進攻してきたし、迎撃システムはぼろぼろ
せめて漢中軍引き抜きぐらい我慢しておけば…
漢中なくても剣閣ある
大丈夫大丈夫ってみんな思ってたんじゃね?
蜀降伏時、政権管理下の倉庫に穀物は四十万斛しか残ってなかった
仮に剣閣で防ぎつづけたとしても、そのうち兵糧不足で壊滅したんじゃないの
姜維軍はじめとして各軍がどの程度携帯していたかわからないけど
魏軍が引いても次に待っているのは飢餓…
>>251 漢中の守備兵にまで手をつけなきゃならんほど疲弊しきっていたと思うべきでは?
窮余の策って奴で
>>241 蒋斌・王含は、別に鍾会の本隊による攻撃を受けたわけじゃないと思うよ。
城に籠もる5千に対し、1万の軍勢しか与えなかった時点で、
李輔らに与えられた命令は城の陥落ではなく、包囲による2城の軍勢の拘束と見るべき。
漢・楽が落ちなくても巴蜀に入る事は出来るからね。
鍾会は、時間をかけた為に陽安や剣閣を固められる事を恐れていただろうから、
ギリギリの軍勢で漢・楽を包囲させ、残りで陽安に向かい迅速に漢中を突破しようとしたんだろう。
蒋斌・王含の評価は、彼らが何を考えていたかによると思う。
敵の意図が包囲のみである以上、無理な事をせずとも城が落ちる事はないからね。
魏が最も恐れていたのは、城側からの攻撃による包囲の瓦解であり、そこを最も警戒していたと思う。
だから、蒋斌・王含は、攻撃の機会を狙いつつも隙が見つからずに達成できなかったのか、
それとも鍾会の意図を読みきれずにただ守っていようと思ったのか、どちらだったのかで評価が変わると思う。
降伏しなかっただけでも一定の評価は与えられるだろうけどね。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 22:17
>>254 いや、鍾会は蒋斌(漢城)→王含(楽城)の順でそれぞれ本軍で攻撃してるよ
蒋斌の時なんか手紙のやり取りをしてるんで、犠牲を厭わぬ苛烈な城攻めだったのかは疑問だが
どちらも落せなかったんで監視兵1万を置いて先行した
つか、楽・漢城将兵の超人的活躍等に期待するより、陽安関のただでさえ少ない兵力の半分を持っていって降伏したショウ舒(?)をなんとかすればよかったんじゃない?
>>255 鍾会は駱谷経由で来た。駱谷なら楽城を通り、漢城を経て陽安に到達する。
漢を攻撃した後に、その東にある楽を攻撃するなんて事はしないはず。
攻撃したのではなく、漢城に到達した時に手紙を出しただけだと思う。
もしかしたらそれで降伏してくれるかもしれないしね。
楽・漢は蜀降伏まで持久したんでしょ?
姜維式防衛システムの「敵軍を誘い込む餌」の割にはよくやったじゃん
陽安関が落ちなければ二城が健在だった場合の価値は計り知れなかったわけだし
もっとも攻防双方で一番重要な陽安関が一番脆かったんだけどね…
>>258 そう、陽安があっさり陥落した事が一番悪いね。
降伏した蒋舒、陰平でぼーっとしてた廖化、行軍のとろ過ぎる張翼らの方が遥かに責任が重い。
まあ、一番の問題は、中央との信頼を損なってた姜維なのかもしれないが。
姜維が信用されてれば、もっと早くに廖化らを派遣してただろうし。
傅僉が一番とばっちりだなぁ。ただでさえ敵は有能な将帥に率いられた大軍なのに同僚は降伏、援軍はこない
親子二代で討ち死に……
261 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 23:27
蜀にとって姜維が脅威で狂意の戦争ばかりです。天才?孔明も無理な北伐戦争だったのですから。
それにしても、傅僉は何故蒋舒の提案に同意したんだ?
漢・楽の包囲軍2万を差し引いても、敵は8万を超える大軍。
どう考えても勝てるわけない。
胡烈の率いていた先鋒が大軍ではなく、先鋒を撃破する事による恐慌の伝播でも狙ったのか?
まあ、例え胡烈を撃破出来ても、鍾会ほどの男なら即座に混乱を収拾するだろうけど。
>262
傅僉は専守防衛を主張したが、蒋舒は「篭ってるだけってのは良策じゃない」って言って出撃。
姜維の防衛案(上奏)だと、陽安関に主力軍が駐留するはずだったから、本来は彼ら(傅僉・蒋舒)の上の指揮官(多分、姜維)がいるハズだったんでないかな。
だとすると、傅僉・蒋舒は同格の将領だった可能性が高く、傅僉が蒋舒の行動を制止できない。
これだよ。これ
↓
>「戦争学」で松村劭が過去605件の戦例からデータとってまとめてんだけど、
>理論戦闘力優勢側の勝率は56%、劣勢側の勝率は36%、
>劣勢側が優勢側に攻撃を仕掛けたケースが27%でその中で勝利か引き分けに持ち込んだケースが56%とある。
>>263 やはり止めなかったのではなく、止められる立場ではなかったと見るべきか。
何にせよ、もう少し耐えてくれれば姜維が到着したんだけどな。
>>264 その本は自分も持ってるから知ってるよ。
ただ、3倍以上の兵力差で行われた野戦は戦例自体が少なく、しかもその多くは、
状況判断の出来ない劣勢側の指揮官が決戦を命じた時らしい。
しかも、そのような時に劣勢側が勝利する確率は極めて低い。
だから、敵の兵力が3倍以上なら、決戦ではなく持久戦に持ち込むのが正しい。
陽安の守備兵が、敵軍の3分の1以上だったとは思えないし。
てかね。本当に劣勢なら勝てるわけ無いんだよ。
兵力で劣勢でもどこか勝ってる部分があるから勝てるんだよ。
思うのだが、姜維の北伐が全く無ければ
蜀は弛緩しきって防衛ラインも形骸化して
やっぱりあっさり滅ぼされたんじゃないかな。
南北朝時代の南朝をイメージしてくれれば
解ってもらえると思う。
>>267 まぁ弛緩した挙句ロクに戦わず降伏したのなら、まだ助かる人命は多かっただろうがね
>>264 それ数字のマジックじゃん
敗率で出してみな。ついでに劣勢側が仕掛けた戦闘27パーセントのうち勝利か引き分けに持ち込んだパーセンテージが高いからって全体の勝敗率が動くの?
どうあがいても劣勢側は不利
>>269 敗率で出してみなって…
優勢側の勝率が56%なんだから、劣勢側の敗率も56%だろ。
>>267 無意味な出征を繰り返し国力を疲弊させ民衆に塗炭の苦しみを味あわせた上に
あっさり降伏したが悪あがきでさらに混乱を助長させるのとどっちがマシな選択だ?
>>671 君の主観が多分に混じった質問に答える気は無い
姜維の北伐は有害だった
としか言いようがないな…
人命を助けるために
何もせずにあっさり負けろとは
蜀建国を否定する話だな。
建国の理念がどうあがいても実現不可能なんだからしょうがない
お前ウザいよ。
ここまでの議論も何も無視していきなり断定口調。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 16:39
蜀の人口は九十万程度
なのに将兵は十万人・官吏四万人
穀物の備蓄は僅か四十万斛ちょい
魏は人口だけで四百万いってるし
ショウ会の関中諸軍だけで蜀全軍に匹敵している
これでどう逆転しろと…
漢中盆地に入られた時点でアウト。
桟道といえば魏延と楊儀が争った時に、
魏延が橋を次々焼いて成都に向ったが、楊儀も昼夜兼行して橋を修復して成都に向った、
という話があるが、その後南谷口で両軍が戦ってるし、あまり時間も掛からなかったようなので、
それほど足止めになるかは疑問。
>>279 楊儀らも数万の兵力を有していただろうし、それが昼夜兼行で工事をするんだから、
ある程度迅速な修復も可能だと思う。
それに、その時のルートは斜谷であり、駱谷や子午に比べて桟道部分も少ないし。
まあ、桟道を焼いたとしても、魏が大規模な増援を送り修復工事をさせたら厄介だろうね。
思い切って漢中を都にすべきだった。
軍隊というのは、敵性勢力を討つための矛であると同時に、自国を守る盾でもある
姜維は盾に回すべき資源兵士まで矛に回しながら、結局局地的に大勝をたまに博す程度しか成果を上げられなかった
これは一国の大将軍としては困った話だ
傍に冷静な参謀なり相談役なりはいなかったんだろうか?
>282
張翼が朝議で反対意見をはっきりと表明してるな。
その他、蜀漢の重臣連中で姜維の軍事行動に危惧の念を抱いていた人物は多いよ。
姜維に冷静な相談役が居なかった、と言うより、姜維がそう言った意見を採用しなかった、と見るべき。
[言焦]周もそうだし、廖化だって積極的賛成ではないからな。
そんな状況で首脳陣は姜維を止めようとしなかったんだろうか
>>285 制止しようとしても、姜維は主力軍を握ってたわけで。実際に罷免にかかったら屯田名目でやっぱり兵士を抱えてでてっちゃったからなぁ
黄皓って宦官嫌いの陳寿に悪くかかれているけど
実際は武断派でしかも中央の統制を無視しがちな姜維の被害者
もし閻宇が軍権を握っていれば蜀はまだもったよ
>>287 >実際は武断派でしかも中央の統制を無視しがちな姜維の被害者
は、ともかく
>もし閻宇が軍権を握っていれば蜀はまだもったよ
は希望的観測
>285
で、張翼や、譙周あたりははっきり言ってるけどな。
それでも、姜維は戦争を継続したんだろう。
魏からの降蒋だった姜維にとって強硬路線をとるのは保身というのもあったんだろうな
>290
どうかな。
姜維が蜀漢に降伏してから軍権を握るまで25年ほど経ってるからね。
人脈もその間に培う事も可能だったと思うし。実際、蔣琬あたりにはかなり重用されてる。
やっぱり、西方の風俗に詳しかった事と、自分の軍事的能力に対する自負心が主な理由だと思うよ。
比較的経過のはっきりしてる、249年の麹山の戦いについて検証しようと思うのだが、
各拠点や軍勢の位置関係がよく分からない。
姜維は牛頭山を出て陳泰と対陣するが、陳泰はその後郭淮に進言し、
自身は白水を渡って東に進むから、郭淮には牛頭に向かい姜維の退路を絶つよう言っている。
それで、郭淮が洮水に来た所で姜維は逃走してしまう。
対峙している姜維を無視して、牛頭山の南にある白水を渡るなんて出来るのだろうか?
それに白水を渡り、水路に沿って東に進むと、陽平関はおろか剣閣の辺りまで到達してしまう。
郭淮が洮水に到達したからって、武都方面に向かえば姜維は逃げられるわけだし。
大体、麹山の位置も把握できない。
誰か雍州の地理に詳しい人はいないのだろうか?
姜維
>292
白水は(陳泰が言う白水が剣閣沿いの河川と同じだとすれば)、上流部がいくつかの支流に分かれていて、最上流部が臨洮の南西まで遡る。
この辺りの渡河を指すのであれば、おかしな話ではないと思うよ。
郭淮が洮水に来た段階で撤退してるなら、洮陽周辺〜ロウ西辺りが戦域でないかな。
そもそも、姜維の北伐はほとんど西北方面を指向し。
陳泰の作戦については、部隊の展開や、兵力によっては可能だろう。
よく知らないけど、陳泰自身は当面、姜維と対陣し拘束してる間に郭淮が洮水方面に進出する。
姜維が後退するようであれば、陳泰も白水を越えて、郭淮と連携して姜維を包囲。
姜維がそのまま対陣を続けるなら(そんな間抜けな事はしないだろうが)、郭淮が兵站を絶ち、姜維を立ち枯れに追い込む、って作戦も考えられると思う。
>>294 臨洮の南西と言っても、ミン山を越えなきゃならない。
洮陽周辺から白水に抜ける道でもあったんだろうか?
牛頭山周辺での対陣なら、姜維さえ後退すれば白水を渡れそうだが。
でもあの辺りは魏蜀の国境付近だからなあ。
やはり麹山の位置が分からないと、姜維の行おうとしてた作戦が分からないな。
麹山が関中と隴西を結ぶ街道にあり、そこで魏軍を拘束しつつ、隴西に圧力をかけるとかってものなのか?
郭淮伝には句安らを翅の辺りで降伏させたとあるから、麹山は為翅周辺にあったのだろうか?
しかしながら、自分はその為翅の場所すら分からないからなあ。
この撤退後に、白水の南北で廖化とケ艾を対陣させ、その隙に洮城(洮陽城?)を奪おうともしてる。
その際に、洮城がケ艾の陣から東にあるとあったから、やはり白水最上流域が戦場か。
羌族の反乱に呼応した247年の戦いや、洮西の役での王経の進言を考えると、
為翅ってのは枹罕や狄道などの隴西拠点と関中とを結ぶ街道にあるのだろうか?
そうすると、麹山に城を築き敵の足止めを行いつつ、姜維は洮陽周辺に進出し圧力をかけた。
しかしながら、麹城は堅固とは言え兵力は少なく、包囲に全軍は必要な為、
郭淮らは麹城を包囲し糧道を断ち切らせつつ、陳泰に兵を与え、東より救援に来る姜維と対陣させる。
その後、郭淮は陳泰の進言を容れ、洮水を通り狄道方面へ迂回して姜維の背後に回ろうとするが、
その動きを見た姜維は、退路を絶たれるのを恐れて白水を渡り南に逃走。
こんな感じか?牛頭山が全然関係なくなってしまうな。
☆★☆★★☆ルッキーレス☆★★☆★☆
⊂⊃ .☆.。.:*・゜
(\ ∧_∧ /
(ヾ (,, ・⊥・)/ このレスに出会ったあなたは超ルッキー。
''//( つ £ つ
(/(/___|″ 近々ルッキーが舞い込んでくることでしょう。
し′し′
☆★☆★★☆ルッキーレス☆★★☆★☆
>292=297
調べてみたけど、牛頭山なんて、中国じゃ剣閣近くで観光地になってるな・・。
実際は洮水方面だと思うよ。
麹山にしてもはっきり分からない。
多分、洮水と白水(上流部)の間の山間地だろうね。
姜維伝に249年に西平に出陣、ってある。このキャンペーンは西平方面に進出する目的だったんじゃないかな。
あるいは、西平方面に進出する地盤固め。
西平進出への橋頭堡として、麹山に城砦を築いたとすれば、麹山の位置は概ね、洮水近辺で洮陽城の西辺りと推定できる。
ここに城砦を築いて、羌族と連携し本国との兵站線をガッチリ固めた上でさらに西平方面に圧力を加える。
こんな構想だと思うけど。
費禕伝に248年、費禕が漢中に出陣、ってある。
出陣って表現は魏に対する軍事行動の為だろうから、姜維のキャンペーンが成功すれば、費禕自身も後続部隊を率いて出征する可能性も考えられる。
後主伝を見ても、費禕の漢中〜成都往復の際の表現で、出陣ってのは今回だけだと思う。
蔣琬が漢水下りを考えた時も出陣、って表現だったし。
>>299 確かに出陣って表現になってるね。
後詰としてバックアップするつもりのくせに姜維にはたったの1万か。
羌族の協力があるにしても、1万で麹山を守らせつつ西平へ圧力をかけるなんて無茶だな。
牛頭山、自分は祁山の南西、羌道の辺りにあると思ってたが、それも違うのかな。
あと、洮西の役の時の事だが、この時の姜維は一旦枹罕に出てから南下して狄道に向かってる。
漢中からの進軍路として、岷山山脈南麓に沿って直接涼州に出る街道がありそうだ。
白水上流から岷山山脈を越えて隴西に出る街道もありそうだな。
やはり現代のでも良いから、甘粛省と四川省の詳細な地図を持ってたほうが良いのかもなあ。
>292=300
費禕自身の出馬に関しては最近思いついただけなんだけど、今回のキャンペーンが、蔣琬が涪に駐留する際に上奏した内容に酷似してるんでね。
247年に魏軍との交戦後、西北の異民族が降伏して来てるから、蜀漢の勢力がかなり羌族の住地に及んでたのではないかな。
その状況で姜維が羌族と連携し、1万前後で麹山周辺を押さえて、費禕の本体が祁山方面に進出すれば、魏の方も対応が難しくなるんじゃないかな。
特にこの時期、魏の国内はかなりゴタゴタしてるしね。
まぁ、その状況を作る前に対応されてしまった訳だが。
このキャンペーンは後の姜維のキャンペーンとはかなり異なってて、実際よりもう少し大きな構想があったように思える。
(後の)姜維の場合、249年の状況に兵力を増強しただけのキャンペーンって感じだからね。
牛頭山の位置は>292=300さんの思ってる場所より、もう少し北西だと思うけど、大体そんなもんだと思うよ。
>>301 247年から248年にかけての、羌族の反乱に呼応した遠征で、翌年のこの遠征の下地を作っていたわけか。
247年に羌族の呼びかけに答えての遠征では、郭淮によって撤退させられたが、
これは漢中までは戻ってないだろう。
その後の郭淮の反乱鎮圧において、郭淮が羌族の人質を奪取するのに先んじて成重山に収容してるし。
247,8年の一連の軍事行動は、蜀が隴西を確保すると言うよりも、羌族に協力し、反乱を助長する事が目的に思える。
それにしても、費禕は大軍で漢中に駐屯しておきながら、姜維の援護はしなかったのか?
費禕の行動如何では、句安らが降伏に追い込まれる事もなかったような。
羌族を誘い入れ隴西を確保しようと言う姜維の言葉と、費禕のこの消極性を考えると、
蔣琬が上奏した姜維を先鋒とする涼州確保の戦略は、姜維主導で纏めていたのではないかと思える。
孔明死後、蔣琬、姜維、費禕の三者を中心に北伐の戦略を議論していたのだろうが、
そこでは、蔣琬は漢水下り、姜維は隴西確保を主張し、費禕は両者の間でリスクや推測される戦果の大きさなどを考えていたとか。
で、蔣琬の計画は群臣に反対され、代替案として姜維の主張する隴西確保が基本戦略になった。
その後、姜維はこの戦略に基づき行動し、249年、羌族の協力を取り付けると隴西確保の為に動き出す。
同時に費禕に後詰を要求するも、もともと北伐に乗り気でない費禕は、漢中に駐屯するだけで姜維に積極的に協力する事は無かった。
こんな感じだったりしてな。
>292=303
247年以降の軍事行動は羌族に対する影響力を大きくするのが目的だろうね。
費禕自身の北伐に対する考えはよく分からない。
でも、蔣琬の上奏によると、隴西の重要性を指摘してるのは費禕ら、ってなてるから、費禕も軍事行動を起こすなら隴西方面、って考えていたんじゃないかな。
費禕は諸葛亮の北伐に参加してるし、興勢の役も経験してるから、蔣琬より軍事に関しては明るかったと思う。
で、今回のキャンペーンだけど、姜維軍がある程度成功したら出陣するつもりだったんじゃないかな。
全軍挙って出撃となると、補給の負担が大きくなる。特に羌族住地〜洮陽方面進出の場合、本国との補給線の確保が難しいので羌族からの援助をあてにしなきゃならんから、大軍だと、より厳しい。
したがって、姜維の別軍、1万程度は羌族の援助下で行動し(もちろん、本国からの補給も行うが)、費禕の主力は比較的補給が容易である、祁山方面に進出する。
兵站の面で、費禕率いる主力は姜維軍への直接的な後詰は難しかったんじゃないかな。
>>304 直接隴西へ支援しなくても、故道を経由して隴関の辺りを押さえて郭淮の退路を絶つとか、
祁山を狙うそぶりを見せるとか、何かしらあったと思うが。
郭淮らは、関中から少なくとも数万は連れて姜維に対処してるんだから、費禕が動けば郭淮らも
動かざるを得ないと思う。魏の底力を考えると、それでも尚堅固な防衛体制だったのかもしれないが。
句安らは秋に出撃して、雪の季節までは麹山で粘ってたんだから、対処できないほど時間が無かったわけじゃないし。
それに、隴西の重要性を考え、その奪取を狙っていたにしては、姜維に与える兵が少なすぎる。
羌族の協力があるにせよ、たった1万じゃ成功する公算は低い。
その気になれば、魏は関中からの援軍の他に、涼州からも数万を持って来れるんだし。
隴西の守備部隊に加え、関中などの援軍も現れる中、1万で、少なくとも橋頭堡を築けってのは無茶だ。
あと、上奏文、あれって隴西の重要性の指摘を費禕がしてると読むものなの?
「輒与費禕等議、涼州胡塞之要、進退有資、賊之所惜」
自分は漢和辞典片手に大まかな意味を調べる事ぐらいしか出来ないが、
これは費禕らと議論した事は言ってても、費禕が主張してるとは言えないように思える。
でもまあ、実際、退路を絶つのはあまり効果は無いな。
姜維を潰してから、東西の軍を集結させて攻撃ってのも可能だし。
郭淮を関中方面に引っ張ってくるには祁山攻撃が1番か。
>292
姜維の部隊は先鋒であるけど、あくまで主力は費禕の部隊なんで、費禕が漢中で待機してれば、魏軍は隴西に主力を向けない、と考えていたのでは?
魏軍が隴西に向かえば、費禕が祁山方面に進出する。向かわなければ、姜維が隴西方面を確保する。あるいは、橋頭堡を築く。
隴西諸郡や、涼州の守備部隊は、統一指揮できる将領がいなければ野戦軍としては機能しないだろうから、姜維の機動戦には対応出来ないと思うよ。
魏の対応(郭准ら)が早くて、費禕が出撃する隙を与えなかったのかもしれない。
長くなるんで続き。
句安らは秋に出撃して雪の季節なら、そんなに時間は無いんじゃないかな。
9月初旬に出撃したとしても、隴西地方は山間部の上、雪が早い地域。11月上旬には積雪があると思う。
そのへんを考慮すると、費禕としては城塞まで築いているから、もう少し粘ってくれるモノと思ってて出撃が遅れたんじゃないかな。
諸葛亮の影響をもろに受けてるだろう費禕としては、開戦当初に躓いたキャンペーンを、変化してる状況の中で進めて行く自身が無かったのかもね。
自身のコト以外には何事にも慎重な費禕としては、成算が極少になったキャンペーンを続けるのは無謀だったんじゃないかな。
で、上奏文の件だけど、蔣琬、費禕、姜維が協議した結果、隴西方面を目標にした方が良い、って結論に達したって事だろう。
蔣琬自身は上庸方面への出兵を以前は主張してたのだから、上記の案(隴西方面案)の言いだしっぺでは無いのは確か。
では誰か、と言う事になると、費禕か姜維しかいない。
そんな中で議論の部分で名前が出てくるのは費禕なんで、少なくとも費禕は隴西方面の作戦の方が比較的良いと判断してたんじゃないかな。
費禕が隴西方面は作戦に反対なら、わざわざ名前を出すとも思えないし。
>>308 姜維の遠征の時期を考えると、敵の刈り入れの時期を狙う為、7月か8月に出撃する事が多い。
恐らくこの遠征も、秋とは言っても、遅くても8月初旬には出撃してると思う。
そうすると、期間としては3ヶ月強程度はあったと思う。
郭淮の対応の早さを考慮すると、少なくとも1ヶ月半程度は包囲されてたんじゃないかと。
それに、句安らの降伏理由は、姜維の撤退によって救援が見込めなくなった事だったと思う。
疲労困憊してる上、姜維は撤退し、漢中も動いていないとあらば、降伏するしかないからね。
その間、漢中で何もせずにじっとしてるってのはどうかと思う。
足の速い部隊を分けて麹山の救援に向かわせるなりなんなりすべきであったんじゃないか?
郭淮が関中の諸軍を引き連れて隴西に向かったのは分かってるんだから、姜維の1万だけに任せるのはどうかと。
隴西の確保は諦めるにしても、麹山で包囲されてる句安らの救出くらいはやってほしかった。
隴西確保を狙っていたのだとしたら、その慎重過ぎる点や、流動する事態への対処の遅さは致命的。
費禕の軍事的才能を疑ってしまうな。
>>309 費禕が、漢水よりは隴西確保のが良いと判断したのは間違いないと思う。
ただ、費禕が隴西確保の発案者とは自分には考えにくいんだよな。
諸葛亮の北伐に随行したとは言っても、費禕自身は隴西に詳しいわけでもないし。
費禕の名前が出ていたのは、守勢派代表とも言える費禕も納得しているという事を
示す為のものだったとは考えられないだろうか?
>310
まぁ、理想(句安らの救出)はそうなんだろうけど、現実問題として、費禕が足の早い部隊を持っていたのかどうか。
そう言った部隊は姜維が率いてた可能性が高い。もし持っていたとしても、万単位の部隊とは思えないから、救出部隊としての役割を果たせたかどうか微妙。
仮に一部の部隊を増援に送れたとしても各個撃破される可能性が高いし、増援軍の救援に次々と部隊を送って、そのたびに撃破じゃ人的資源に限界がある蜀漢としては最悪の状況。
じゃぁ、全軍こぞって、と言うのも兵站的に無理だし、行軍速度が落ちるから救援の意味を成さない。
その辺を考えて、現場の姜維に事態収拾を任せたんじゃないかな。
冷たい言い方だけど、姜維軍が無事に撤退できれば、句安らは見捨てる、って事だけどね。
費禕の軍事的能力に関して言うと、安全保障政策等は相当優秀だろうけど、実戦指揮に関してはそんな高く無いだろうね。
軍事に対する見識と実戦指揮の能力は別ものだろうから。
慎重な性格、流動的状況への対応の遅れ等は諸葛亮の様だね。
>311
俺も、発案者だとは思ってないよ。隴西により詳しい姜維の考えが中心だろうね。
ただ、費禕は諸葛亮の北伐全てに従軍してるから、隴西についてはかなりの知識はあったんじゃないかな。
俺も以前、費禕は守勢派だと思ってたんだけど、頑ななまでの守勢派とは思えないんだよね。
姜維の様な戦争一辺倒じゃなくて、無謀な戦争はしない、って言う立場じゃないかと思う。
>>312 救援もかねて祁山奪取を行うのはどうだろうか?
そうすれば、郭淮も祁山救援に動かねばならず、そうなると、
兵力的に姜維の拘束と麹山の包囲を続行するのは難しいと思う。
ただ、郭淮ほどの男なら、麹山の包囲は続けさせながら、
涼州の軍勢を南下させて姜維に対応させる、などの事はするかもしれない。
そうすると、姜維がどれだけ早く麹山の包囲を解けるかが鍵だな。
最悪、祁山の防衛能力を信じて、涼州への援軍要請と共に、自身は可能な限り姜維にあたる。
そして、涼州からの援軍到着か、姜維撤退を待ってから祁山へって事も出来るかも。
費禕の軍容とかも分からないし、救援できる状況じゃなかったのか、救援しなかったのかは分からないか。
>>313 守勢派と言ってもどの程度だったのかってのは確かに分からないね。
自分は、漢晋春秋の、能力のある者の出現を待ってからってくだりの印象が強いから、
費禕は北伐自体に反対していた様に思えてしまうんだろうな。
>314
祁山に進出するってのは当初の作戦行動(あくまでも妄想だが)のうちであり得るのかな、とも思うけど、状況が全く違うからねぇ。
蜀漢側の当初の思惑通りなら、主導権を握れて良い方向に向かうだろうけど、この状況じゃぁ、祁山進出は麹山の包囲を解く為の行動って、すぐにバレると思う。状況が状況だし。
まして郭准だからね。彼なら、祁山は少数の増援に留めて、麹山の包囲を続けるんじゃないかな。
費禕の方も、予定通りの出兵なら本気で祁山攻めを行うだろうけど、麹山の包囲を解く為の出兵じゃそんなに祁山方面に脅威を与えられないんじゃないかな。
結局、費禕の軍事に対する見識の高さが救援を断念させたんだと思うよ。
これ以上軍事行動を継続すると被害が大きくなる、ってね。
>315
か。俺もそれ見て守勢派だと思ってたんだけど。
でも、249年の出兵(今、議論してる戦役)の不成功で魏に対する積極的な軍事行動をあきらめたのかな、と感じる。
費禕は251年まで漢中にいる訳だが、250年も姜維が西平方面に出兵して、不成功に終わってる。これで完全にあきらめたんだと思う。
で、費禕が帰還するに当たって、帰還するなら、自分(姜維)の兵力を増強してくれ、って求めたんじゃないかな。
以前からも求めてたんだろうけどね。
それに対して費禕が249年〜250年の結果から、漢晋春秋の発言になったんだと思う。
実際、正史の姜維伝ではそんな流れを感じる。
費禕が姜維に制約をくわえた、って記述が249年〜250年の戦役の記述の後に載ってるあたりはね。
陳寿はうやむやな感じで色々匂わすから。
>317
あれ、消えてる・・・。
上の最初は、漢晋春秋の話か、です。
>>316 祁山がどれだけ堅牢だったかにもよるか。
諸葛亮の第四次北伐では、即座に援軍が来たとは言え、三ヶ月の間凌いでるし。
費禕の包囲にも数ヶ月凌げるようなら、祁山進出で句安らの救援は出来ないな。
少数の増援って事は、包囲解除というよりは、援軍による祁山防衛部隊の結束を狙うって事か。
確かに、祁山の部隊が結束を保てれば、姜維撤退まで時間を稼ぐのは可能かも。
慎重な費禕は、句安らの救出より、被害の拡大を確実に抑止する事を選んだのか。
>319
そうそう。
この状況で句安らの救出に向かった場合のリスクを考えたんだと思うよ。
>>317 そう言われると結構納得できてしまうなあ。
自分の中の費禕像を改める必要があるかもしれないな。
それにしても、この遠征の話になってから、また人が消えたな。
いつもの人と、いつものように話してるだけになってしまった。
>>320 どうでもいいが、慎重で、リスクが大きくなるのを嫌うってのは、俺の理想の軍人像とはかけ離れてるなあ。
やっぱり、果敢にリスクに挑戦し勝利を収める、ってのがかっこいい。
ハンニバル然り、ロンメル然り、名将は大胆じゃなきゃなと思う。
まあ、この場合は、敢えてリスクに挑戦する価値が、その先にあったようには思えないけど。
成功しても精々句安らの救出止まりだからね。
そう言えば、興勢の役の時、姜維は何処で何をしてたんだろうか?
蔣琬は病気だし、費禕も大将軍になってたから、蔣琬は涪から動かず、費禕が救援に行くのは理解できる。
ただ、姜維の姿が見えないんだよな。
鎮西大将軍なんだし、漢中にいたなら何らかの記述があっても良いと思うんだが。
費禕には随行せず、まだ涪にいたんだろうか?
>>321 正直、地形を含めた地理が分かりづらいので口を挟みづらいのよ。
>>324 自分もそんなに分かってるわけじゃないんだけどね。
ログ読めば分かると思うけど、拠点の位置すら正確に把握できてないし、
当時どのような街道が何処を通ってたとかも分からない。
漢中から関中へ抜ける主要な街道程度なら分かるんだが。
>323
興勢の役の時は蔣琬がまだ存命してたしので、その幕僚として涪に駐留してたんじゃなかな。
242年に蔣琬に先立って涪に駐留してるから。
まったく登場してないトコをみると、興勢の役には参加してないと思う。
>323
前後したけど、ハンニバル等は名将中の名将だからねぇ。
こういった人物と比肩できる人物はそうはいないよ。
こと、指揮官としては諸葛亮ですら遠く及ばないだろうし。
ただ、そういった名将達をマネして大失敗した人物も多いからね。
自分を知る、って点で費禕は姜維より上なんだろうな。
費禕が名将だとは全く思わないけど。
でもハンニバルって結局は敗北してるんだよな
大スキピオは戦術と統率力ではほぼ無敵のハンニバルを無力化するため、周辺騎馬民族に政治工作攻勢をしかけたり、脆弱なカルタゴ本国のほうに圧力をかけたりと
リスクを取るより、寝技を交えて確実に強敵を屠るほうが理想的な軍人だと思うな
>>327 当時の三国時代を考えたら、魏に対して有効で決定的な政治工作なんてほとんど
無い様に思えるし、大規模な内訌でも期待してそれに巧妙に乗じるくらいしかない気も。
ハンニバルの時代、カルタゴは前戦役で制海権を殆ど失っていたし、カルタゴ本国が
ローマに較べて、ほとんどハンニバルを支援できていないし、環境や条件の面での
有利・不利があるんじゃない?
ハンニバルが出てきた途端に厨房化したな
>>326 やはり涪だよな。それが一番自然だし。
話が戻るが、句安らが降伏しても、敵の油断を突いて洮陽城を奪おうとする辺り、
姜維の勝利への執念はかなりのものだな。
郭淮は隴西を更に越えて涼州まで行っちゃったし、これが成功してれば結構面白かったんじゃないかと思う。
姜維の洮陽城奪取を見て、費禕が予定通り祁山侵攻、関中はがら空きだし、
郭淮は洮陽の姜維、祁山の費禕の両方に対処しなきゃならない。
戦局が面白くなってくるな。
そう考えると、再侵攻を読んだケ艾、まともに陽動できなかった廖化の存在が悔しくなる。
>292
どうだろう?
洮陽城を落とせたとしても、全体的な構想の中の動きではないから、費禕が上手く連携できるかどうか。
郭准軍が姜維なりにかかりきりになったとしても、陳泰軍が祁山に向かう可能性もある。
そもそも、この段階での費禕の祁山進出は句安らの救出が目的であって、本格的な軍事行動に切り替えるのは対応が難しいと思う。
結局、洮陽城を落とせても、一時的な成功に終わる可能性が高いんじゃないかな。
このキャンペーンは、蜀漢軍が終始主導権を確保し続けないと成功の可能性は低い。
キャンペーン当初に躓いた事で、羌族等の動きも鈍くなってるだろうしね。
魏側に主導権が移ると姜維軍の局地的な勝利程度では逆転は難しい。
>>332 陳泰って郭淮と一緒に涼州に行ったんじゃないのか?
それに、姜維だって侵攻前に費禕に自分の行動に合わせて連携してくれるよう要請するんじゃないか?
いきなりじゃ動きにくいかもしれないが。
あと、250年の遠征って、これの事じゃないかと思うんだよな。
姜維の撤退は冬だし、準備期間を考えると250年になってしまう可能性が高い。
>333=292
句安らの降伏が249年中なんで、てっきり俺は249年の戦役について議論してると思ってたんだけど。
句安らを救援しなきゃならん状況での軍事行動についてね。
250年の話だとすると、全く別な話になると思うよ。
>>334 この洮陽城攻撃は、俺も249年の戦役の中に含まれてると思ってたんだが、よく考えてみると、
句安らが降伏したのは既に雪の季節に入っていたわけだし、この最侵攻は郭淮が涼州に
羌族討伐に行ってから行われたものだから、必然的に翌年の行動になるんじゃないかなと。
曲がりなりにも出撃してるんだから、どの伝にも何も記述が無いのは変化なと思ってたし。
それに、洮西の戦役の翌年の祁山侵攻戦、あれもケ艾伝だけ読むと255年の事のように思えるが、実際は256年だし。
この洮陽城攻撃も、翌年の事と考えても良いと思う。
>336=335=292
洮陽城攻めの時期が250年にずれ込んでたとしても、それは句安らの救援作戦からの撤退途上に行われたのか、後主伝に記載されてる250年の西平らへの出兵なのかで随分違うと思うんだけど。
前者なら、費禕は対応しきれないと思う。
後者だと結局、洮陽城を奪取できるかどうかだったんだろうな、費禕の出馬は。
ただ、249年の段階とは大きく状況が変わってるだろうからね。前年の敗戦で羌族の支援等も鈍ってるだろうから、より慎重になるだろう。
>>337 自分は後主伝にある250年の出兵だと思う。
ケ艾伝には、この時のケ艾の軍勢は少数だったとある。
句安らが降伏した後、そう間を入れない出兵なら、郭淮もそう遠くにいってないはずだから、
ケ艾救援に動かないのもおかしいと思うし。
恐らく、姜維はしばらくは何の行動も起こさず、
郭淮が蜀の再出兵が無いと判断するのを待ってたんじゃないかと。
この出兵の後、もう一度同じ年に出兵するってのも考えにくい。
羌族の支援の鈍りを考えると、249年と同等以上の規模の出兵じゃなけりゃ、
勝利する公算はまさに0に等しい。
249年と同等以上の規模なら、郭淮伝や陳泰伝に防いだ記述が載ってると思うんだよね。
姜維も一度だけ狄道を手に入れた事があるんだよな。
李簡が降伏した時の事だが。
この時、狄道を陥落(と言うのも変だが)させた後、襄武まで侵攻し徐質を破ってる。
だが、その後は何故か住民を連れて帰還するだけ。
狄道が蜀の手に落ち、(恐らく陳泰の派遣した)徐質が敗れたにも関わらず、魏書にはこの事について載ってない。
斉王紀の注にある、「世語」、「魏氏春秋」に、司馬昭が姜維征伐の為に都まで呼び戻された事が載ってるだけ。
狄道のみでは維持が難しく、戦略的な価値が見出せないとした姜維は襄武へ侵攻。
陳泰は徐質を派遣し姜維に当たらせるがあっさり撃破される。
姜維はそのまま襄武を包囲するも、司馬昭の大軍が中央より派遣され、陳泰と合流して援軍に来る事を察知。
援軍到着までに襄武を陥落させる事が不可能であり、襄武を包囲しつつ援軍に対処するだけの兵力もないと判断した姜維は、
敵の来ない内に住民を連れて撤退。
こんな感じかな?
で、この遠征の経験が、翌年の狄道包囲戦での「敵は大軍の集結を待ってから来援する」
と言う判断に繋がったのではないだろうか?
>>339 まぁそんな感じなんだけどね、姜維の戦略は概ね点を巡っての戦いと確保に
過ぎなくて、面はおろか点と線を繋いでいく事すら等閑な感じなんだよね。
一足飛びに狄道まで進出しても、それでは軍事行動を継続するうえでの制約が
多過ぎて、僅かな綻びで簡単に作戦が破綻してしまう。
機動には兵站という桎梏がついてまわるから、魏の司令官連中にしてみても
姜維の行動・目的が俄然、読み易くなっちゃうんだろうけど。
>>340 姜維の対処については、堅固な要害に籠もり撤退を待てばそれで終わりだからなあ。
王経が敗れた時の陳泰の言葉が全てを物語ってる。
やはり、兵站も繋ぎやすく、分散と集中という基本原則が行いやすい中原辺りで戦わせたかった。
機動しようとすれば兵站が繋がらず、分散しても集中できない地形じゃ機動の効果がない。
魏の蜀征討戦、あれで姜維が大軍を擁し、且つ敵の作戦の概要を知ってれば結構面白かったかも。
案外、ナポレオンのガルダ湖畔の戦いのような結果になったりして。
>292=338=339
250年の出兵が249年の出兵と関連性がある(つまり、連続性ね)とすれば、姜維の単独出兵だろうね。
無論、勝手に出兵した、とは言わないけど。郭准の隙を突く形での出兵だろう。
費禕の主力まで連動するのは>337で書いた通り、対応が難しいし、主力の行動の秘匿は難しいから。
狄道の件は概ね同意。
ただ、俺は狄道が手に入る様なので主出兵したら、確保出来たんで、さらに侵攻したけど、徐質を破ったところで魏の大軍の来攻で撤退しただけだと思うよ。
元々、李簡の降伏した棚ボタ的な出兵なんで、隴西諸県の住民を拉致した事でOKって事だったんじゃないかな。
>340
中原でもどうかな。
そもそも分進・合撃ってのは山岳戦の対処方として発展して来たものだから。
>>姜維が大軍を擁し、且つ敵の作戦の概要を知ってれば結構面白かった
兵力と情報って言う二つの重要要素を持ってれば、よっぽどバカな将領じゃなきゃ、適切な対応をすると思うけど。
>>343 それは知ってる。ブルーセの時代の話だっけか?
ただ、漢中〜関中へ蜀が進軍する場合、数少ない街道を進軍するしかないし、その半分以上は桟道。
更に兵力が圧倒的に違うので、分進しても合流する手立てが無いから使えない。
桟道からの進撃さえ防げば背後連絡線が脅かされることもないし。
中原では広すぎて逆に適していないかもしれんが、ガザラの戦闘のロンメルのように展開できる可能性もある。
ただ、その場合は、姜維に巧妙な偽騙が出来るかどうかが問題になってくるが。
あと、概要と言っても、分進合撃だって事ぐらいで十分なんだけどね。
開戦当初、ケ艾軍の行動しか把握できてなかったってのがどうも。
漢中方面の情報収集能力が足りてないように思える。
>>342 前後したが、狄道の件、概ね同意って事らしいが、自分の意見との違いがよく分からない。
援軍への対処が不可能だとかってのは考えてなかったって事?
>344
確かに、漢中〜関中方面へは、どのルートも限られた桟道を使うしか無いから、分進・合撃は難しい。
ただ、武都・陰平方面から洮水・隴西だとどうだろう。
漢中〜関中の峻険な山々と比べれば街道は多いし、山並みも(比較的だが)穏やかだから、機動と言う点からは使えたんじゃないかな。
まぁ、どちらのルートを使っても兵站がネックになるのは確かだろうけど。
漢中〜関中はルートは短めだが、桟道が険しく長期の兵站の維持が難しい。
武都・陰平方面〜洮水方面は大軍の機動はしやすいが、兵站距離が長いので、分断されやすい。
続き。
で、姜維は機動戦を指向したから、あえて、兵站を捨てて(羌族の支援をあてに)、洮水方面に軍を進めたんじゃないかな。
諸葛亮のキャンペーンとは全く逆だね。
>345
>>狄道のみでは維持が難しく、戦略的な価値が見出せないとした
そこまで、姜維が深く考えてたと思えないだよ。
李簡が降伏すると言うのでとりあえず出兵した。
上手いこと狄道を確保できた。しかも、狄道には思ったより物資が豊富だった。
で、もう少し戦ってみたけど、やっぱり無理(徐質は破ったが)だったんで、拉致に切り替えた。
くらいかな、と。
>>346-7 姜維が機動戦を指向したから隴西に出兵し続けたってのは同意。
李簡の降伏に際した狄道への出兵については、姜維が何を考えていたかまでは分からないから、
肯定も否定も出来ないけど。
しかし、考えれば考えるほど、蜀が雍・涼州を確保するのが難しいのが分かる。
「羌族と協力すれば隴西の確保は容易い」っていう姜維の考えは楽観的過ぎるな。
ましてや魏を打ち倒すなんて。
姜維最後の出兵となった侯和の戦いの後、廖化と張翼は成都にいたみたいだが、
一体いつ成都に行ったんだろうか?
あと、廖化ってあの遠征に従軍したのかな?
侯和の戦いに際して言った、「知謀も武力も敵に劣ってるのに…」って言葉、
あの言葉からは廖化が従軍してるような印象を受けない。
>348
妄想を述べれば、諸葛亮の北伐の時に、250年頃の姜維のような将領が助けたならば・・・、ってのはあるな。
馬超が存命だったら、と言うべきかな。
馬超が洮水・隴西方面、諸葛亮が祁山方面って感じで。ま、妄想に過ぎないけど。
263年に魏が蜀攻略に乗り出した時に姜維が成都に張翼・廖化の派遣を要請してるから、姜維と同行してないんじゃないかな。
張翼より、目的地への到着が早いようだから、涪辺りにいた可能性もあるが。
また、宗預伝に廖化が都護の諸葛贍に挨拶に行こうと誘ってるとの記述がある。
諸葛贍が都護になったのは、おそらく261年なんで、この頃に張翼・廖化・宗預あたりは第一線を引いて成都に居たんじゃないかな。
何せ、70歳くらいだからね。朝廷での相談役くらいはしてただろうけど。
蜀漢滅亡時は緊急事態だから、彼らも第一線に復帰したのかもしれない。
基本的に士大夫の引退は七十歳だしね。
>>349 やっぱり同行してないと考えた方が良いのか。
それに廖化の方が早かった事を考えると、確かに成都より涪にいた可能性の方が高いね。
しかし、そうなると引退した奴らに指揮を執らせなきゃならんほど人材が育ってなかったって事か。
やはり人材の層が薄すぎるよな。
あと気になったのは、ケ艾の迎撃になんで諸葛瞻が出撃したのかって事。
閻宇が戻ってきてるんだから、閻宇に指揮させりゃ良かったんじゃないかと思って。
>>351 間に合わなかったからじゃない?
予想以上にケ艾の進撃が早かったから、永安の兵が成都に到着してなくて、
仕方なく諸葛瞻を出したんじゃないかと。
>>352 間に合わなかったとしたら、成都の連中は何故降伏したのかって事になるような。
数日の間耐え抜けば閻宇の軍勢が到着すると言うのに、あっさり降伏した事になる。
それとも、閻宇の召還は自分の考えてる以上に遅かったのだろうか?
ケ艾が陰平から侵入し、江油に到達した辺りになって初めて閻宇に使者を送ったとか。
それだと到着にかなり時間がかかりそうだな。
姜維なら永安からでも間に合いそうなもんなんだがな。
>>353 >ケ艾が陰平から侵入し、江油に到達した辺りになって初めて閻宇に使者を送ったとか。
巴東の兵は上庸方面の魏軍に備える役割があったから、
「首都が危ないから前線をがら空きにしてでも死守しなければ」と言う状況になるまで
動かせなかったんじゃないかと思う。
>>354 上庸から大巴山脈を越えて巴東に侵攻できるルートがあるの?
巴東の都督の役割って、対呉の備えだけかと思ってたが。
>>355 呉の朱績が魏に備えて永安の兵を増強するように、蜀に要請したという記事が朱然伝にある。
これからすると永安の兵は対魏の役割もあったっぽい。
>351
魏の侵攻を受けた直後に諸葛贍成都の諸軍を率いて涪に向かったんじゃないかな。
で、ケ艾の奇襲に際して、一番近い涪に居たので、諸葛贍が迎撃したと。
諸葛贍の立場は国内軍総司令官代行だから、漢中方面が危機に晒されれば、交通の要地である涪に駐屯するのも不思議じゃない。
閻宇にしても、漢中が落ちて、こりゃ一大事だ、って頃に召還されたのかもしれない。
それなら、間に合わない可能性も高い。
>352=356
巴東の兵力は直接的に魏に対すると言うより、魏が呉を攻めた時に対応する為だと思うよ。
上庸から巴東は攻め込めない事はないけど、側面の呉を無視して侵攻するのはちょっとキツイ感じがする。
>>356 自分も294氏と同意見だね。
大巴山脈は1500〜2000mの山脈で、主峰でも3000mを少し越えるくらいだから、
険しすぎるわけじゃないが、数万の大軍で越えるってのはやはり難しいと思う。
それに荊北の兵を遠征に回すと、呉への備えが難しくなるし。
ただ、上庸の南を流れる漢水の支流を遡り、そこから長江の支流に入って行けば、
巫県の辺りに到達できる。こういったルートがあったなら或いは、とは思う。
>>357 ちょっと見てみたが、永安から成都まで直線でも550kmあるみたいだ。
これは開戦当初に召還しなきゃ間に合わないね。
姜維ってのは、機動戦を指向したとは言っても、戦闘における戦術的な機動が主であるように思える。
基本的には決戦を指向していて、間接アプローチではなく直接アプローチを好んでる。
この点はナポレオンやハンニバルに近いね。
王経や徐質なんかには決戦を強要できてるし、決戦になった時の強さはかなりのもの。
しかしながら、敵に決戦を強要する手管に欠けている、とまでは言わないが、
相手の方が上手で、大抵の場合は決戦まで持ち込めていない。
やはり、どんなに考えても、戦略・作戦面で魏の一線級の将領に勝ってるとは言い難い。
戦略・作戦面はトップクラスだが戦術がいまいちな鍾会とのタッグは、結構面白かったかも。
>341=359
姜維の場合、間接・直接のどちらを好む、と言うよりも、直接アプローチにしか思考が行ってないと思うよ。
会戦に勝っても、それが以後の自軍を有利に導く訳でもなく、局地的なものに終わっちゃってるし。手段の目的化だな。
ナポレオンの場合、絶対戦争時代で戦争の勝利要因が敵国の占領より、軍事力の破壊なるので、会戦を指向せざる得ない。
つまり、目的が敵軍事力の破壊。したがって、会戦指向=直接的、とは言えない。
また会戦に向けた流れの中で間接的手法を用いているしね。
ま、ナポレオン自身、性格的に会戦は好きだったろうけど。
ハンニバルについては詳しく知らないのだけど、ローマ側の方が当初は安易に会戦を求めて、それに対応して会戦が起きてる感じだね。
ローマ側の動きを詳細に掴んで会戦では絶対負けないような状況に持ち込んでる。この辺りはかなり間接的な動きだと思う。
また、ハンニバルの目的もローマの占領とかでなく、ローマ体制の解体だったから会戦の勝利は重要だけども、手段に留まる。
カンネの役の後、ローマが軍事的空白だったにも係わらず、進軍してないのはその証拠だろう。
後年、ファビウスらのキャンペーンで自身が不利になると、直接的になったようだけど。
>>360 姜維については、蜀将スレの時から散々言い合ってるから、
今更意見をどうこうしようって気はない。
ナポレオンは、絶対戦争時代ってのももちろんあるんだが、
彼の個人的な嗜好が決戦にあるように思えてならなくてね。
ハンニバルについてはそうかもしれないね。最初はローマの方から求めてたかも。
ハンニバルは会戦による圧倒的勝利でイタリア南部の離反を誘った所から、
勝手に直接アプローチ好きなハンニバル像を作ってたのかもしれない。
話は変わるが、沓中に屯田してた頃の姜維の兵力ってどの程度だったのだろうか?
自分には、芒水に出陣した時より、かなり少なかったように思える。
自分としては2万程度って予想なんだが。
その理由としては、事前に魏の出兵を察知し、鍾会が大軍で長安まで来ている事を知り、
陰平と関城の防衛を献策しながら、開戦まで沓中に留まっていた事だね。
ここからは妄想で、結構無理もありそうなんだが、芒水で何の戦果も挙げられなかった事で、
自身の立場がいよいよ危うくなったと考えた姜維は、翌年、威圧の為の兵を連れて成都に帰還する。
兵力を背景に黄皓の追い落としと、姜維排斥の動きの封じ込めを狙うも、姜維は予想以上に孤立しており、
反姜維勢力の政治攻勢によって、威圧の為に連れてきたはずの兵も取り上げられ、姜維罷免も現実化しそうになる。
慌てた姜維は、漢中防衛計画の変更を具申すると、足早に漢中に戻っていき、
防衛兵力を自身の直轄として兵力を回復し、成都を離れる事で保身を図る。
その後、なんとか権力の回復を試みようと、洮陽に出兵し武勲を挙げる事を目指した。
が、それもケ艾に阻まれ失敗したと。
個人的にはこんな感じだと面白いかなと思う。
>341=362
ナポレオンは戦争も戦闘も大好きだったみたいだよ。その嗜好と時代が合ってたんだろうな。
ま、スレ違いだからこの辺で。
沓中の時の戦力か。俺は、ある本の影響でずっと5万前後だと思ってたんだけど、ここの議論から、多くて3万程度と感じる。
しかし、費禕の死後から侯和の敗戦以前の出兵で5万前後の大軍(蜀漢としては)を率いて結果が出なかったのに、なんで侯和の時はより少数だったのかな、と疑問もある。
姜維は軍事力の対外的な行使には性急ではあったけど、朝臣としては誠実・謹慎だったんじゃないかな。
蜀漢滅亡直前は連年の出兵で朝臣連中から良く思われていなかったと思うけど。
郤正の論文からも、淡々とした人物象が想像できる。
そう言う人物が兵力で、自国を威圧するとは思えない。
それでも、成都を離れたのは軍権を取り上げられない為だろうけど。
続き。
で、兵力だけど、単純に蜀漢の兵力は10万ほど。
漢中の守備兵力はシステム変更後、漢・楽二城で1万。
それと、隴西方面への防御陣と陽安関の兵力が計1万弱。(全く妄想)
巴東・南中に合計で2万前後。
成都に2万前後。(諸葛贍が1万ちょいくら率いて行った)
残りは4万弱くらいか。
張翼・廖化・董蕨の援軍の兵力が不明だけど、先行できた廖化は成都の正規軍で、遅れた張翼・董蕨の部隊は緊急動員した兵力かもね。
その編成で遅れたのかも。
>>363 ニセクロさんが来てた時でしょ。多分3万って言ってたのは俺だと思う。
ただ、その後考えて見ると、3万でも姜維なら一部の兵を分けて陽安に急行させると思うんだよね。
ケ艾の軍勢の兵力もある程度は掴んでたろうし、防御陣地に拠れば多少兵力が少なくても防御できるはず。
とすると、漢中への侵攻も心配される中、3万のままケ艾を迎撃するとは思えない。
でも姜維が兵を分けたような記述は無いから、分けたら陣地に拠っても防ぐのが難しい程度、
2万ぐらいだったんじゃないかなと。
で、2万ってのは漢中の守備隊から引き抜いた分と同程度だから、ちょっと妄想してみた。
あれについてはあくまで妄想なんで、深くつっこまれても困っちゃうが。
まあ、確かに郤正の論文を考えると、兵力で威圧ってのもおかしいような気はする。
>341
諸葛贍の率いた兵力、張翼らの援軍等を考えると2万前後が妥当だと思うよ。
それに、ケ艾・諸葛諸の兵力が各々3万ってのは姜維軍が2万って事を魏側が掴んでれば、3倍の圧倒的な戦力で唯一の有力部隊(つまり姜維)を潰すには最適だし。
ただ、ならなんで侯和に出兵したんだ、って事になるんだよね、上でも書いたけど。
>>366 相手が3倍以上で決戦しても、勝つ可能性が限りなく低い事は、戦史が教えてくれるからね。
この遠征の兵力の使い方は理に適ってる、さすがは鍾会、と言ったところだね。
そう、侯和への出兵が不可解なんだよね。
廖化の言葉を見るに、あれも手柄が欲しかった故の出兵らしいから、
自身の失脚を恐れて、何が何でも武勲を立てたかったとかって考えるのが妥当なのかな。
>>366>>367 割り込んでしまうけど、いいですか?
「晋書」の「文帝紀」に、「蜀の戦力が総計9万、成都や諸郡の戦力を併せて4万、
であれば残りは5万を超えないだろう」ってありますよね。
晋(魏)側の推測だけど、おそらくこの5万というのが、姜維直率と、漢城と楽城、
陽安といった前線の戦力の合計なんじゃないかな?
他に戦力を匂わせる記述は、「蜀書」の永安に残された戦力が2千という事くらい
だけど、対呉線の戦力が僅か2千という事からも、国内の防衛戦力が如何に不足
してたか、ってのが覗えるとは思うけどね。
他に想像できる余地として、李球が率いていたという羽林の兵力、それに蜀の官制
で確認できる虎賁中郎将もあるけど、羽林・虎賁ともに多くて数千人ってとこかな?
まぁ、この二つは明らかに近軍で、これを戦線に動員するとなると敗勢濃厚なのは
あたりまえなんだけど。
>>367 > 自身の失脚を恐れて、何が何でも武勲を立てたかったとかって考えるのが妥当なのかな。
もし蜀が滅びなかったら姜維の末路は諸葛恪のようになってたかもな。
ただ姜維は朝廷内においては諸葛恪ほどには中心とはなってなかったから誅殺までは行かず軍権を取り上げられ左遷くらいまでかな?
>>368 分かってる分で漢中の1万くらいだからね。
あとは、陽安と隴西方面の防御陣地の兵力をどう考えるかって事だね。
自分は、294氏とは少し違って、陽安単独で1万、防御陣地合計で数千と考えてるから、
やはり姜維の兵力は2万を大きく超えるものではないと思う。
>>369 恐らく、「異同記」にあるように、軍権だけ取り上げて益州刺史にってところじゃないかな?
>368
成都の連中もそれなりに危機感を抱いていたんだろうね。
諸葛贍旗下に近衛軍動員してるんだから。
蜀漢の官吏が4万って記録されてるんだけど、滅亡直前はこいつらも動員されてた可能性もあるのかな。
>369
後主の性格の長所であり短所でもあるんだけど、執権を信任して疑わない、ってトコがある。
姜維に対する朝臣連中の不信任は随分前から、かなり高まってたけど、結局滅亡まで最高位にいたからね。
結局、姜維を信任してずるずるじゃないかな。
>370
俺も2万〜3万くらいだとは思うけど。上記>364の総兵力を>368氏の通り、9万とすると、姜維の戦力は2万くらいになるから。
で、3万場合1万を陽安に急行させる、ってのはどうかな。
分割して自軍を弱体させるはめになるし、当時の蜀漢に1万からの兵力を指揮する将領もいない。
陽安関の兵力が戦力として機能するのは姜維あってこそだろうから。
>>371 将領か。姜維の旗下に有望な人間くらい何人かいたように思えるが。
いなかったのなら兵を分けても意味は無いのかもしれないな。
下手に抜擢して馬謖と同じ轍を踏む可能性もあったし。
ただ、ケ艾のおおよその兵力が分かっていて、援軍が遅れてる事も分かってれば、
兵を分けるという選択肢も考慮すると思う。
これが魏の本格的侵攻であるとするなら、鍾会の大軍が漢中に向かってる事は予測できる。
目前のケ艾に対し多少不利になっても、軍を分けて敵の主力に備える事も馬鹿な事ではないかと。
待っていれば援軍も到着するしね。
ただ、蔣舒の体たらくを考えると、蜀の人材層は俺が思ってる以上に薄いのかもなあ。
姜維は、鍾会の漢中侵入を聞いてから撤退し、関城に急行してるんだよなあ。
という事は、自分の到着までは耐えてくれると思ってたって事になる。
実際、蔣舒が降伏しなきゃ耐えられたろうしね。
そうなると、軍を分けないという判断の方が良かったのかも。
これが魏の本格的侵攻なのか、ケ艾単独の侵攻なのかを見極めてからでも間に合うとの判断か。
姜維は自分の機動力に絶対の自信でもあったのだろうか?
沓中から関城まで、直線でも250km近くある。行軍距離にしたら300kmは越えるだろう。
鍾会の漢中侵入を察知し、姜維にその報告があるまでのタイムロスや、
撤退戦もやらなきゃならない事を考えると、とても間に合わないように感じるんだがなあ。
>341=372
蜀漢の将領の中で、張翼・廖化ら有名所を除くと上位に来るのは漢・楽二城の守将が最上位のようだ。漢城護軍の蔣斌の弟の蔣顕は九卿格の太僕(あるいは太子僕)だから、蔣斌は少なくとも、それより上だし。
彼らが指揮してたのが5千だから、それ以上の兵力を指揮できる将官はいなかったんじゃないかな。
そうだとすると、5千人以下の部隊をいくつか陽安関に派遣する事になる。そうなると、陽安関は同格の将領の数ばかり増えて指揮系統が混乱するだろう。
やっぱ、万単位を率いる将領はいなかったんじゃないかな、姜維の旗下には。蜀漢で万単位を率いる将領となると、姜維・張翼・廖化・閻宇・霍弋・諸葛贍クラスじゃないかな、階級からは。
>341=373
陽安関の防御体制については、以前にも書いたけど、蔣舒が裏切らなくても陥落したと思う。
蔣舒は出撃を主張したけど、もう一方は専守防衛を主張してたから、それなりの対応を取っていたハズなのに、鐘会の先鋒(別働隊)が攻めただけで落ちてるから。
それと姜維自身は陽安関に向かいたくても動きが取れなかったんじゃないかな、ケ艾に拘束されて。
ケ艾は諸葛諸と連携して姜維軍を壊滅出来れば最高だけど、最低でも鐘会が漢中入りするまで姜維軍を拘束するれば、成功とも言える。主力は鐘会の部隊だからね。
>>374 動きが取れなかったって事は無いと思う。
姜維が撤退を決めたのは鍾会の漢中侵入が理由だからね。
鍾会の漢中侵入の報が入った時も、ケ艾とは対陣中だったし。
それに、段谷の前、武城山での対陣の時に、姜維はケ艾に気付かれる事無く渭水を渡ってる。
同じような事が出来ないとも思えない。
>>374 陽安について、姜維は陽安陥落の報を、恐らく白水を越えた辺りで聞いてる。
鍾会伝に、「退いて白水に向かい」とあるから。
白水に到達していないとすれば、「方向を変えて」とかって表現になると思うんだよね、祁山侵攻戦の時のように。
とすると、遅くてもあと2,3日で関城に入れたと思う。
蔣舒が降伏せず、将兵が結束して守れば、姜維到着までは持った可能性もあると思う。
>341
でも、結局ケ艾に一月ぐらい後に撃破された後に撤退でしょ。
で、鐘会が漢中に入った時は対陣中。
魏の作戦は姜維を包囲・壊滅するか、鐘会の主力が漢中を押さえるまで拘束すること。
だとすると、ケ艾らは最低でも拘束を図る訳だから、なかなか対陣から解放してくれないだろう。
一月後に姜維が撃破されたのは、追撃も覚悟で撤退を強硬したのかもしれない。
>376
蔣舒が降伏したにせよ、鐘会軍の一部に落とされたんだから、蔣舒がおっても落ちたと思うよ。
逆に考えれば、二心を抱いていた、蔣舒がいない方が本来はしっかり守れると思うけどね。
専守防衛を考える将領に指揮が一本化される訳だから。
陽安関を維持するには、姜維自身が駐屯するか、最低でも張翼等を当初から貼り付けておくしかないんじゃないかな。
この時期の蜀漢の防衛体制は、とにかく陽安に主力を置いておく事のはずだから。
>>377 あの時の流れは、ケ艾と対陣中に鍾会の行動を知る→隙を見て撤退→彊川口で捕捉される
→会戦→撃破される→諸葛緒を察知→2度の迂回による陽動で突破→関城に急行
って感じだけど、鍾会の行動を知って即座に動いたように書いてある。
恐らく、「とにかく敵の動向を見極め、鍾会も動いてるようなら多少の被害を被る覚悟で関城に急行する」
ってのが姜維の考えだったと思うんだよね。
あと、陽安は蔣舒の降伏で兵が半数になり、更に動揺してる所を奇襲され陥落したわけだが、それでも数日の差だった。
蔣舒に降伏する気が無く、あくまで陽安を固守するつもりであり、将兵一丸となって守れば、
胡烈率いる先鋒に落とされる事はなかったろうし、鍾会が主力投入の判断を下すまでには姜維も間に合ったように思える。
>378
>>蔣舒に降伏する気が無く、あくまで陽安を固守するつもりであり、将兵一丸となって守れば、
↑って、もっとも良い状況でしょ。楽観的と言うか、あまりに蜀漢(と言うか姜維?)に有利な状況に考え過ぎだと思うけど。
蔣舒が降伏しない、陽安関は専守防衛で意思統一、指揮が高い。三つながらに状況を入れ替えちゃうのはどうかと。
>>379 いや、別にそこまでじゃなくても持ったと思うよ、自分は。
それは確実な例として出したまでだし。
陽安陥落の報を聞いたのは、遠くても2,3日の距離だったろうし、
胡烈の奇襲さえ失敗させれば何とかなったと思う。
鍾会の本隊は恐らく陽安口にいただろうから、こっちも1日か2日くらいかかるだろう。
それに、これは別に仮想戦記とかを考えてるわけじゃなくて、姜維自身、
間に合うと思ってたのかどうかって事を考えてるだけだから。
実際に落ちようが落ちまいが関係はないんだよね。
遺伝子的にも優秀な韓民族の孔明と劣等民族の出身の姜維を比べること自体が間違い
この人、簒奪するつもりだった人でしょう?
「無駄だった」ではなく「失敗だった」じゃないの?
>382
簒奪って、何か勘違いしてないか?
新手の釣りだな
>>383 384
誰かの伝に書いてあったと思うが
386 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 15:22:16
誰だよ
387 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 13:25:20
\ 姜維と言えば? /ナンダココハ コワイモナー ヒイィィィッ
\ ∧_∧ ∩剣閣だろ! / ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
また出陣だって \ ( ・∀・)ノ______ / ( ;・∀・) (; ´Д`) (´Д`; )
∧ ∧\ (入 ⌒\つ /|. / ⊂ ⊂ ) ( つ ⊂ ) ( ⊃ ⊃
(゚Д゚ )_\ ヾヽ /\⌒)/ |/ 〉 〉\\ 〉 〉 く く //( (
/ ̄ ̄∪ ∪ /| .\ || ⌒| ̄ ̄ ̄| / (__) (_) (_.)(_) (_) (__)
/∧_∧またですか・・・\ ∧∧∧∧ / 『姜維』
/ (;´∀` )_/ \ < 姜 ま > 天水の麒麟児と呼ばれた蜀の大将軍
|| ̄( つ ||/ \< > 諸葛亮亡き後は我が身と国力を省みず
|| (_○___) || < 維 た > その生涯を北伐のみに費やす
――――――――――――――― .< >―――――――――――――――――――――
∧_∧ 宦官に < か > ∧_∧プッ ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ;´∀`)翻弄されてる… ∨∨∨ \ ( ´∀`) (´∀` )<北伐組必死だな(藁
_____(つ_ と)___ ./ \ ( )__( ) \_______
. / \ ___ \ムホン / ∧_∧ 大\∧_∧ ∧_∧  ̄ ̄ ̄/.//|
.<\※ \____.|i\___ヽ.ムホン ./γ(⌒)・∀・ ) 将 \ ;) ( ;) / ┃| |
ヽ\ ※ ※ ※|i i|.====B|i.ヽ /(YYて)ノ ノ 軍 \↑ ̄ ̄↑\)_/ |__|/
\`ー──-.|\.|___|__◎_|_.i‐>/ \  ̄ ̄ ̄ ̄\め \張翼廖化 | | ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄|. | ̄ ̄ ̄ ̄| / ||ヽ|| ̄ ̄ ̄ ̄|| ! ! \ .|_)
ざっと読んだが、軍事面からに議論が偏ってるな。
政治史の面から見ると、北伐は全くの無駄というか、勝算は皆無。
後漢末の混乱の要因は曹操がある程度答えを出し、文帝以降は形は違ったがそれを継承してる。
中原じゃ漢の復興は望まれてなかったし、蜀漢は全土に通用するような政策を持ってたわけじゃない。
基本的に、後漢末の動乱の背景にあったのは、大土地所有によって力を付けてきた豪族(名士)層による
農民の収奪とそれによる農村の疲弊、流民の発生。
で、外戚と宦官と名士による権力闘争が宮廷で行われ、政治的に有効な対策が打てなかった。
収奪された農民は最悪餓死するか流民化するかということになり、治安も悪化する。
それが行き着いたのが黄巾の乱。
で、それに対して曹操は対策として民屯(典農部屯田)を行った。流民に土地を渡して耕作させる。
この農民は通常の通常の戸籍に登録されず、群県の支配を受けない。
典農中郎将などの典農官が所管する。
収穫物を官民五対五、官牛を借りた場合は六対四で徴収したが、この政策によって流民は定着し、
国庫が潤うことになる。
宮廷に関しては、求賢令に代表されるような法家的手法(恐怖政治に近い)を用いることで、
政治闘争に勝利し、政策の一元化に成功してる。
もっとも、名士層の反発を招いたために何度も暗殺事件や反乱が起こり、
文帝の代には路線を変更して九品中正制(九品官人法)を施行、豪族の子弟の高位登用を既成事実化し、
さらにそれが司馬懿が州大中正を置くと家柄で固定されるようになり、
門閥貴族制の成立を促すことになったんだが。
ま、少なくとも、魏に変わるものとしての蜀漢は期待されていなかったんだ。
別の民族・文化圏との戦争と違って、同一文化の中での戦争では民意を得ないと天下は取れない。
魏や晋に問題が出ない限り北伐なんて無理。
要約をつけてくれないかな
北伐=無謀は承知の上での軍事面についての議論だからな。
ぞろ目
初代スレの頃から、北伐が無理な事業だってのは散々言われてきた事だしな。
だから姜維の北伐を軍事面で議論してたんだろ。
>>389 蜀漢は後漢末の混乱を収めるだけの政策を出せなかったアンチテーゼとしての地方政権
>>392 何故無理か政治史から見たレスは無かったと思うぞ。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 10:30:55
「政策を出せなかったアンチテーゼ」の意味が訳若布
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 18:08:04
北伐はいわば将棋でいう
「形作り」だったんだよ
来るべき滅亡の前に少しでも
抵抗したってことを示すための
「形作り」はいつから「抵抗したことを示すための」ものになったんだ?
暴走族の集会みたいなものだ。
それはかなり違うと思われ。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 15:02:14
まあ、確かに蜀がこれ程早く滅亡したのは、演義から
見れば都合はいいだろうな。
あんまりだらだら100年以上蜀が続いてたら、
物語にはしにくかったろうし。
会社を継いだ三代目のぼんぼんが不渡り出しただけ
401 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 21:03:13
うちの会社やんけ!
402 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 10:29:44
そういや、上の方で
「ボーっとしてた廖化が一番悪い。」
て言われてたけど、「動かなかった」じゃなくて、「動けなかった」ってのは無いの?
例えば、諸葛緒の足止めとか、老齢のための病気とか。
(当方、廖化好きなので擁護したいが、知識が無いのですよ……。)
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 17:46:49
結局姜維が蜀を滅ぼしたようなもんだ
>>402 諸葛緒が廖化足止めの為の何らかの策を弄したような記述はないし、
例え何かやっていたとしても、その状況を積極的に打破しようとしたような記述もないから、
廖化を評価する事はできないように思える。
病気というのも、全く指揮が執れないほどの重病なら、成都も廖化を派遣しようとは思わないだろう。
あえて擁護してみると、諸葛諸軍の侵攻ルートが読めなかった為に、手前に留まってた、ってトコじゃないかな。
それに、諸葛諸軍3万に対して、廖化軍は1万には届かなかっただろうから、下手に動きたくなかったって部分もあるだろう。
なんせ、負ければ亡国って状況だしね。
良い意味で取れば堅実だけど、悪い意味では無策。
結果論的にはボーっとしてた、って感じになるね。
廖化は、諸葛緒が建威に向かっているという報告を陰平で受けたわけだが、
この報告を聞いた時の諸葛緒の位置が重要になってくと思う。
建威の目前にまで迫っていれば、いくら急行しても武都の救援は難しいと思うが、
まだ祁山の辺りにいたなら、急げば武都を救援できたかもしれない。
何にせよ、諸葛緒が武都から孔函谷経由で沓中に向かった事を察知した時点で何か行動を起こして欲しいものだ。
姜維の巧みな機動で突破できたからいいものの、あの時点でケ艾と諸葛緒の挟撃は半ば成功してたし。
歴戦の武将だけど、都督の経験が無いから、
位階のわりに独自の判断で動く機会が少なかったのかもね。
レスありがとうございます。
>>404 急性的なものとかかも……。軍を率いて急行したらバタッ、と。
……はい、すいません妄想です。
それは置いといて、
>>405殿の言うとおり、やはり兵力差で手を出せなかったのでしょうか?
もしくは姜維軍・張翼軍なりが援軍・後詰をつとめる予定があったのでそれを待ってたとか。
後者の場合は、私でも「なんかやれよ。」って気がしますけどね。
>>406 諸葛諸軍が仮に建威の目前にまで迫っていたとして、
廖化は急行したけども間に合わず、兵がへばった、とかはありえますかね?
そのため動けなかったとか。
熟練兵が段谷・侯和で壊滅して、新兵だらけだったらそれもあるかと思ったのですが……。
>>407 蜀って大軍率いることができるの少なそうですもんね。
>402=408
廖化の兵力は不明だが、1万未満だったのは確か。で、諸葛諸は3万。
一般的な軍事的見識のある指揮官であれば、諸葛諸軍の進路が判明するのを待っちゃうんじゃないかな。
何せ前にも書いたけど、廖化指揮下の1万未満の部隊が軽率な行動を取るだけで亡国って状況だから。
その状況で「何か」するってのを求めるのは、廖化に姜維以上の将領である事を求めることになる。
廖化が姜維に及ばないのは廖化も他者も十分に承知してることだろうから、無いものねだりになるかもしれんね。
>>408 建威の目前に迫っていたなら、いくら急行しても恐らく間に合わないよ。
建威から武都までは約50km、建威の防御陣地や武都の防衛戦力を考えても間に合わない。
そのまま孔函谷経由で姜維の背後に行かれるか、景谷道から白水を経由して剣閣に向かわれてしまうだろう。
>>409 確かにあの状況では、諸葛緒の進路が分からないと下手には動けないね。
ただ、諸葛緒が姜維の退路を断ちに行った後も動いてないように思える。
せめて姜維の撤退の援護くらいして欲しかったんだが。
まあ、下手に動いて諸葛緒に撃破され、陰平から剣閣に直行される事を危惧したのかもしれないが。
なんかまた寂れてきてしまったな。
王基伝なんか読むと、段谷における姜維の敗北は士卒の飢餓による所も大きいのが分かるが、
あの作戦はどの辺りから破綻してたんだろうな。
それまで撤退に関しては判断を誤る事の無かった姜維が、あの時だけは強引に、
どれだけケ艾に先手を取られても代替案に切り替えながら侵攻を続けたってのが気になる。
諸葛亮同様輜重を持たなかったんだから、前年の作戦からの長期に亘っての軍事行動で、
食料の問題が浮上しないはずが無く、姜維もそれくらいわかってたはず。
やはり以前考えたのと同様に、前年の勝利の効果の活用や、その勝利による増長とかと考えるべきなのか?
胡済が約束を違えなければまた変わったのかも知れないが。
胡済に関しても、その任務内容やその発令時期、何故来なかったのかとか、分からない事が多すぎるなあ。
閻宇伝や胡済伝なんかも欲しかったな。
特筆すべき人材でなかったのかもしれんが伝が立てられていれば蜀末期の軍事関係の様相がもう少し詳しくわかるのだろうに。
閻宇、胡済、呉懿、呉班、高翔、袁琳、輔匡辺りのちゃんとした伝記もあっていいようなもんだけど。
保守
相変わらずスレが過疎化したままなので、保守もかねて久々に妄想を一つ。
姜維は軍権を握ってから六度の北伐を敢行したが、その前半四つについて。
まず第一次、二次は、隴西地域の確保までは考えていなかったと思われる。
第一次においては、諸葛恪に呼応したものの食糧はあまり持たず、さっさと撤退している。
第二次も基本的には李簡の軍資を当てにした出兵であって、本格的に侵攻する気があったのかは疑問だ。
この二戦役については、あわよくばという考えはあっても基本的には大戦果が目的なのではなくて、
姜維自身の威名を隴西に轟かす事、つまり隴西諸郡に対して
姜維への恐怖心を植えつける事が目的だったのではないだろうか?
第一次北伐に関して、記述自体はあっさりしているが、その直後に督中外軍事の加官や
李簡の降伏の申し入れがあった事を考えると、南安包囲に至るまでの緒戦において
それなりに勝利を重ねており、示威行動としては成功していたのだろう。
続き
そして迎えた第三次北伐、狄道包囲戦こそが、隴西確保を狙った初の軍事行動だったのだと思われる。
雍州諸軍の内の前衛部隊を叩き、州刺史を誘引、決戦に引き擦り込み撃滅する。
その後、それまでの二戦役で得た威名と、この戦勝の武威を合わせて隴西諸郡を威圧、
そのまま祁山方面へと侵攻し、隴西へと通じる街道を抑えて救援軍を迎え撃つ。
これが姜維の描いた画だったと考える。
すぐに祁山方面へ向かわず狄道を包囲した理由としては、王経は未だ1万の兵力を有し狄道に籠もっており、
その押さえとしては最低でも2万を要する。
総兵力推定3〜4万の姜維軍がそれだけの兵力を割けば、敵の救援に対処できずに作戦が失敗する公算が高くなる。
更に第二次北伐の結果を鑑みて、「魏は確実性を求めて兵力を集結してから対処する」と考えたことも理由の一つだろう。
それと姜維は、王経誘引は成功すると見ていたと思う。
前二回の戦役で隴西は姜維の良い様に荒らされており、この上更なる侵攻があれば、
よほど冷静な人間でなければ雍州刺史としては姜維に対応せざるを得ないだろうからである。
第四次については過去ログを参照して下さい。祁山侵攻戦については今まで何度と無く書いたので。
ニセクロ氏が段谷までの考察をするようなので期待してるんだが、8月の北伐再考以来続報が無いのが残念だ。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 23:59:17
保守になってないって。
>保守【ほしゅ】[名・他スル]
> スレッドの「dat落ち」を阻止する目的で書き込むこと。
>長期間書き込みがなかったスレッドでも、何らかの理由でそのスレッドを掲示板上に残しておきたい場合になされる。
>書き込みたい内容が特にない場合は、「保守」と書き込まれる。age書きされる場合(保守age)と、
>sage書きされる場合(保守sage)の両方がある。
>後者の場合、メール欄だけでなく、本文も「sage」とだけ書かれることがある。
>なお、「dat落ち」か否かの判定は、最終書きこみ日付にもとづいているので、保守だけが目的ならばageる必要はない。
保守だけが目的ならばageる必要はない。
419 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 18:15:34
漢室を復興できるのは、
姜維先生だけ!!
420 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 20:30:42
漢室復興だなんて誰も望んでないよ。あれは蜀建国のための建前。
姜維先生の次回作にご期待ください
422 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/19 22:59:29
姜維ごときでケガイの相手は務まらない。
郭淮がちょうどいい相手。
>>422 あやまれ!
郭淮にあやまれ!(AAry
郭淮に失礼だぞ
夏候威ぐらいで充分
425 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/19 23:47:44
>>423>>424 郭淮は確か諸葛亮、姜維の北伐も防いでいたけど、
なんか目立たないんだよ。
李典と一緒で知勇兼備だとは思うけど、
司馬懿とかケガイの後ろに隠れているから。
>>425 郭淮は建威の退却と陽谿の敗北以外では、ほとんど失点らしい失点は無くて、
作戦参謀と実戦指揮官の才を兼ねた優秀な軍人なんですけどね。
曹操の諸将のように創業の功があったわけでも無く、
司馬懿やケ艾のような超弩級の武功があったわけでもないから、
今ひとつ強いイメージを与えられないのでしょうね。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 23:42:35
通好みの武将
郭淮、賈逵、王昶、司馬望、李通、王濬
王雄とか
429 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 17:30:29
試しに姜維より王平の方が名将と言ってみる
姜維はうまくいっているときも魏の党均による黄皓懐柔策にはまってる。
そこらへん(宮廷内情勢)はどうだったんだろうね。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 23:41:43
>430
そりゃ演義の話だな。
厨と叩かれる前に謝っとこ、スマソ
けど外で姜維が内で劉禅が暴れてたのに蜀の国民はよく暴動を起こそうとしないなと思う。
案外孔明の政治が残ってたのかも
>>432 別に劉禅は内政的には特に酷いことはしてないから国民が暴動を起こすようなことはないでしょ。
兵役の比率が高いことに不満はあったかもしれないが。
まあこれらも孔明の置き土産といえば置き土産だが。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 01:16:23
姜維が北伐で成果を挙げられなかったのは
費禕が兵権を削ったからではないのか?
すでに大将軍になったときにはケ艾が指揮を執ってたし。
>>433 不満はともかく諦めムードは漂っていたと思う
信玄死後の武田家みたいな
436 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 01:49:15
費禕が制裁したのは、兵力であって、兵権ではない。
蜀漢の場合、兵権は時の執権が司る。
費禕が兵力を抑制したと言っても、1万ほどは姜維に与えていた訳で、これは蜀漢の全兵力の1割にあたる。
小国の蜀漢にとって1万の兵力は大きいよ。
そもそも、姜維の北伐は費禕死去後の数年はそれなりの結果は出てた。
それが、256年の敗北以降は全くダメ。
その辺考えれば、姜維の軍事行動の結果に対する責任は姜維にある。
ケ艾は名将だが、彼が総司令官になった事は無く、各方面で色々な人物が対姜維戦に従事していたので、ケ艾云々だけではないよ。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 03:20:07
北伐が無駄だったとか言う前に、諸葛亮が死んだ時点で蜀は滅亡していたとおもう。
君主は劉禅だし、内と外で叛乱を起こして政治的にも軍事的にも腐敗していた。
しかも蜀最後の名将ともいえる姜維に兵力を少ししか与えなかった。
そんな状態が続く中で魏は政治、軍事的にも増強していき、さらにケ艾や鐘会などの名将も軍事面に加えていた。
そこから北伐できる状態に持っていけたのは姜維の実力だと思う。
久しぶりに場違いなレス登場
劉禅は名君だ!
440 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 03:55:57
なぜに名君?
441 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 04:37:37
下手にあがくより、あっさり滅亡してよかったんじゃないかな。
勝海舟の江戸無血開城みたいに
劉禅話はもうお腹いっぱい
443 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 09:14:19
まったくだ
444 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 15:33:39
>437
諸葛亮死去後、約20年にわたって蔣琬・費禕時代の比較的安定した時代があったのは無視かい?
政治の腐敗と言うが、黄皓の事だろうけど、黄皓自身の具体的な悪事は少ない(と言うかほとんどない)。
しかも、黄皓が政治権力を握ったのは蜀漢滅亡までの5年ほど。
姜維は費禕の死去後にトップに立ってるわけで、厳しいことを言えば、黄皓の専横を防ぐ(もし黄皓が諸悪の根源ならば)責任もあったはず。
トップにたった後は自分の思うように兵力を動かしてる訳で、決して少ない兵力ではない。
贔屓し過ぎだね。
445 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 17:09:54
まったくだ
姜維はうんこ
劉禅は南中に逃亡したかったそうだ。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 23:41:29
>>444 その責任は劉禅にあるのではないか?
黄皓、閻宇をはじめそういう小人輩は権力を握るために
他人を追い落として、外戚のように振舞うだろう。
そういう小児病的な人間を信頼してしまった責任は重いだろう。
449 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 23:42:37
まったくだ
>>448 劉禅の責任は当然だろうけど、姜維は別に排斥されたわけじゃない。
姜維の立場が弱くなったのは姜維自身の責任も大きいよ。
451 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 00:05:11
>448
既出だが、黄皓の「悪事」には具体的なものは少ない(と言うか、無い)。
正史・著者の陳寿等の後漢末からの清流派士大夫からすると、宦官=悪であり、善悪以前に宦官が若干と言えども政治に関与するのを拒絶する立場。
その辺りから、蜀漢亡国の責任を黄皓に全て負わせてる部分がかなりある。
劉禅自身、戦乱時の統治者とせいての自覚に欠ける部分も多くあるが、その統治姿勢は執権を信任して疑わない、と言う部分では賞賛できる(丸投げ批判は出きるが)。
諸葛亮〜蔣琬〜費禕は信頼しきっていたようだし、姜維にしても、256年の大敗後、更迭を求める声も多かったが、姜維を続投させている。
費禕死去後、蜀漢政治をある程度自由に動かせたのに、国力を省みず軍事行動を繰り返した姜維の責任は大きいよ。
確かに蜀末期の政権に関しては特に腐敗といったものは感じないな。
清新かどうかというのは別にして。
姜維の北伐に意義はなかったとは言わないが、反対派が多い中で強引とも取れる北伐を続けた姜維の方により責任が大きいと思う。
特に最末期の北伐はある意味保身ととれなくもない。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 00:22:43
まったくだ
454 :
451:04/12/30 00:22:50
黄皓の「悪事」に関して反論が出ることを予想して・・・・。
1.羅憲を地方に左遷した。
これは、呉の要請で巴東の兵力を増強した時に行われたのだが、巴東都督は対呉交渉の責任者を兼ねており、以前、呉に派遣されたことのある羅憲を巴東都督の
補佐役兼対呉交渉の実質責任者として派遣することは、当事の蜀漢の人材を考えると妥当と言える。
2.蜀漢滅亡時、巫女の言葉を信じて援軍派遣をとどめたこと。
正史には援軍派遣をとどめるべき、と後主に進言した、とあるだけで進言が実行されたかは不明。
援軍要請&黄皓の進言は「群臣は誰も知らなかった」と正史に載っているのに、なぜ陳寿は知っていたのか?と言う疑問も出てくる。
結果論的に援軍到着より前線崩壊がはやまって蜀漢が滅亡した全責任を黄皓に負わせようとしている感じもする。
455 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 00:25:41
まったくだ
456 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 00:25:48
龐宏が軍師になっていたら姜維の北伐は成功した
すべては陳祗の責任
451
|
|
∩___∩ | ぷらぷら
| ノ _, ,_ ヽ (( |
/ ● ● | (=)
| ( _●_) ミ _ (⌒) J ))
彡、 |∪| ノ
⊂⌒ヽ / ヽノ ヽ /⌒つ
\ ヽ / ヽ /
\_,,ノ |、_ノ
>>454 1.魏軍の動きについての姜維の上表を軽視したため対応が遅れた。
2.漢中を突破された。(姜維が防御体制を変えたことが一因)
3.本隊とは別ルートで進軍してきたケ艾に対して戦闘に諸葛瞻を当てた。
4.学者連中の進言をいれてケ艾に降伏。
蜀滅亡の軍事的要因に関して黄皓の責を問えるとしたらせいぜい1くらいかな。
対応が遅れるというのはある意味致命的でもあるが、それが一番の要因だったとは思えない。
459 :
451:04/12/30 00:45:29
>458
援軍派遣の速度に関しては、以前にもここで意見を交わした事があるのだけど、蜀漢の兵力規模えお考えると、
姜維が前線でどれくらい兵力を保持してたかで変わってくると思う。
姜維の兵力が少なく、成都に予備兵力がある程度いたなら、早めに援軍を派遣出来たと思うが、姜維が主力の大部分を率い、漢中方面に貼り付けてたとすると、
元々成都方面の守備兵力と緊急動員した兵力を派遣する事になり、前線に派遣出来る部隊に編成するだけでも時間がかかるからね。
なかった
(連語)
[一]〔形容詞「ない」の連用形「なかっ」に完了の助動詞「た」の付いたもの。中世後期以降の語〕
(1)過去の事物・事態などについての打ち消しを表す。
「ここのところずっと大火事が―た」「そんな目にあったことは一度も―た」
(2)打ち消しのための補助的な用法。補助形容詞「ない」の過去形。
「この絵はもとはこんなにきれいでは―た」「心配で心配で、気が気で―た」
[二]〔打ち消しの助動詞「ない」の連用形「なかっ」に完了の助動詞「た」の付いたもの。近世江戸語の幕末期以降の語〕過去の動作・作用・状態などの打ち消しを表す。
「これまでは酒も飲ま―たし、タバコも吸わ―た」「この山は、私の知る限り、一度も噴火し―た」
461 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 00:53:53
>>454 そりゃ胡亥と趙高のような関係とはいわないけど、
やっぱり亡国の時って皇帝としての責務を果たしてない
から滅びるという印象がある。
やつが台頭してきたのも董允や蒋琬などが死んでからだし、
悪事を働いていないといっても宦官に権力を持たせていては
皇帝としての権力が失墜する。(孫皓や霊帝もそうだが)
>>461 劉禅が皇帝としての責務を果たしていない。
これに対して異論ある人はいないと思うが、黄皓に全責任を帰すのは変だという人はいる。
そういうことでは?
463 :
451:04/12/30 01:02:33
>461
黄皓を弁護する気も、宦官が政治を司るのを善しとする気はないけどね。
後主は滅亡したからバカ皇帝、ってのはどうかと。
即位から30年近くは執権に丸投げとは言え、安定した国政を行ってたわけだし。
ついでに言うと、黄皓が政治に強く介入してきたのは258年以降。陳祗の死去後。
>執権に丸投げとは言え、安定した国政を行ってた
「丸投げ」では「行ってた」とは言わないだろう。
465 :
451:04/12/30 01:12:47
政治の実権をだれが握ってたとしても、皇帝として統治していたのは後主なんで、「行った」と言う言葉を使ったんだけどね。
枝葉の論議になるけど。
>30年近くは執権に丸投げとは言え、安定した国政を行ってた
>皇帝として統治していたのは後主なんで、「行った」
>国力を省みず軍事行動を繰り返した姜維
>皇帝として統治していたのは後主
>その責任は劉禅にある
467 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 01:31:35
まったくだ
468 :
451:04/12/30 01:37:21
妙に拘ってるようなので・・・。
統治者として、蜀漢滅亡に対して後主の責任が無いとは言わない。と言うよりも、戦乱時の統治者としては不適任ですらある。
しかし、諸葛亮以下、蔣琬・費禕を信任し、実質的な統治を彼らに任せたのは、才能のある宰相を妬み、抹殺してしまう皇帝も数多い中、自身の親政より、彼らに任せた方が良いと言う自覚があったかどうかは別として賞賛できる。
そう言った部分を無視して、統治者だから責任がある、と決め付けるのは暴論だろう。
状況を無視し、費禕以前の時と同様に丸投げしたのは無責任ではあるが、信任を良いことに外征に明け暮れると言うのも無責任。たとえそれが、漢室復興と言う大儀名分があったとしてもね。
簡単に言うと、蜀漢滅亡の原因は幾つか重なりあっており(短い期間ではない)、その状況の中で、国力を省みず外征に明け暮れた姜維の責任は大きいと言うこと。
>自身の親政より、彼らに任せた方が良いと言う自覚があったかどうかは別として
それが、わからないのにどうして賞賛できる?
信任、といえば聞こえは良いが、単に皇帝に実力が無くて手も足も出なかっただけかもしれない。
劉禅はただ終始一貫して「丸投げ」していただけなのに、
そこに勝手に「信任」だの「状況を無視」だのといった飾りを付けてるだけに見える。
劉備・孫権・曹丕>曹叡・司馬炎>曹髦・孫休>劉禅・曹芳・曹奐・孫亮>>>>(超えられない壁)>>>>孫皓
471 :
451:04/12/30 10:55:30
>469
後主、ただ賞賛できる皇帝だとは言ってない。
自分が言いたいのは、亡国時の皇帝=亡国の責任が皇帝だけにある、と言うことでは無いってこと。
それと、自覚があったかどうかは確かに判らないが結果的にそれが国政の安定をもたらしたとすれば、政治は結果責任が大きいので、良責となる。
逆に後主が良いと思った政策を実行しようとして、執権と主導権争いを起こし国政を不安定にしたりすれば、動機は立派だとしても、政治的には失策となる。
まぁ、人の言葉を使うより、自分の考えを述べてください。
スレが伸びてると思ったら、今までと全く違う流れになってるな。
でもまあ、正直、責任云々なんて議論してて楽しいとは思えないな。
正史から「姜維の責任は小さい」なんて結論を導き出そうとすれば、それこそ詭弁に近い論説が必要になる。
そんなことまでして姜維の弁護をしても、楽しくも無ければ嬉しくも無いと思うんだが。
俺も以前は責任云々も色々考えたりしたが、つまらないからやめたよ。
北伐の是非ではなく、その中身の考察によって姜維の軍人としての能力を検証する方が楽しいからね。
と言っても、
>>416以降何も思い浮かんでないんだが。
暫くぶりに覗いたらちょっと荒れてるw
451の意見が正しいかはともかく持論の展開を見てるのは楽しい。ガンガレ!
つまらない揚げ足取りはみっともないとおもふ。
「考え方」の話をしているのに揚足取り扱いかよ。。。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 00:21:39
>>451 劉禅は無能ではなかったかもしれないが、劉備の存在が大きすぎた。
また、劉禅は劉備の作ったレールに乗っただけで苦難を経験していない。
これらの点からして、劉禅に皇帝としての器量をもとめるのは無理という
ものである。
それと姜維云々もそうだが、軍事に関して法正や龐統のような智謀の
臣がいなかったことが大きいと思う。
馬謖がそうだったかもしれないが、彼では無理というもの。
劉禅は放浪時代の劉備の子供としてかなりの苦労をしてる
即位直後にはやはり国家の危機で苦難
で、どこが苦労知らずなのか
477 :
451:04/12/31 01:30:50
>475
劉備の存在感と、皇帝としての器量は別になるのでは?
まぁ、劉禅が劉備に遠く及ばないのは当然のことですが。
また、姜維に関しては、姜維以前の諸葛亮も軍事において特別、智謀優れた人材が補佐してる訳ではないが、外征を繰り返しても、
国政を破綻させなかった。
蔣琬・費禕は(蔣琬に関しては病気もあるが)自身の能力で外征は不可であり、また自身以外の蜀漢の人材でも北伐は出来ない判断し、対外軍事行動を控えると言う判断を行った。
姜維に智謀優れた補佐役がいなかったとすれば、蔣琬や費禕のように、外征を控え、蜀漢の継続を目標に出来たはず。
姜維が自分自身を量れなかったのが一番の問題でしょう。
>>476 苦労と言うのは自分の力で乗り越えなければ意味が無い。
>>478 ここでは、「苦労した経験があるかどうか」を問うているのであって
「経験を活かせたかどうか」ではないのでは?
劉禅自身は若い頃は父親の放浪で流れて、落ち着いたと思ったら数えで16(だっけ?)
で主力軍は壊滅して国内(南方)では反乱が起って外では魏とも呉とも敵対状態な国を
背負うことになったのだから。
この状態から30年も安定した政権を維持したのだから、十分評価してよいと思う。
歴史をみても、平和な時代の名君は君主個人の才能よりも登用した重臣の手腕によって
運営されるものだし(そして時代を築いた評価は君主のものとなる)
唐の玄宗、北宋の仁宋など。つくづく生まれる国と時代を間違えたな。
単に諸葛亮とかに実権を握られていただけ。
あの状態を評価するなら、実権を握り国政を事実上運営していた諸葛亮や蒋エンらを評価すべきだろう。
>>480 蜀においては皇帝はお飾りで、重臣が実権を握っていたと
蜀安定の功績が諸葛亮やら姜維やらにあるというのなら、
蜀滅亡の責任も劉禅ではなくて彼らが背負うべきだよな
>>481 蜀末期において実権を握っていたのは姜維じゃないよ。
まあ姜維の場合、立場が弱くなったのは自身の責だけど。
>>482 「姜維じゃないよ」じゃなくて「姜維だけじゃないよ」の間違いだろ。
陳祗、黄皓、姜維のスリートップ。
なんで孔明は劉禅を戦場に連れて行かなかったの?
やっぱ桟道越えになって、万が一の退却が難しいから?
連れてっても役に立たないから。
逆に危険だし、一応皇帝だから一々お伺い立てたりしなければいけないし。
487 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 19:56:46
姜維は諸葛亮の後継者としての自負が強すぎただけ。
彼は魏延と同じで英雄豪傑型であり、
生まれる時代が群雄割拠の時代であれば花開いただろう。
三国鼎立時では彼の個性は生かせないと思われます。
488 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 23:25:23
>487
姜維と魏延じゃ全然違うでしょ。
姜維は士大夫階級出身で、魏延は出自が明らかでない。
魏延は英雄豪傑型かもしれんけど、姜維は典型的な軍人タイプ。
魏延はそれで良かっただろうけど、姜維に求められるのは軍務だけでないからねぇ。
>>486 諸葛亮が戦地に赴いている間、劉禅が漢中に駐屯するとかってあり?
490 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 23:53:10
蜀が滅亡した要因の中に
姜維の対外戦略をあげる人が多いけど、
それに加えて蜀再興を鍾会に謀反させて
後兵権を奪取するっていうことは
100パーセント無理。
でもそこまでする彼の執念はすごいと思う。
鐘会も鐘会だよな。姜維に乗ったかどうかは別として本当に謀反が成功すると思ってたのかな?
これが姜維の言に乗って故の事なのかは分からないが、鍾会は魏の諸将を閉じ込める事はした。
馬鹿なのは、彼らを殺す事を躊躇うばかりでなく、あろう事か従卒を中に入れる事を許可してる。
大きな博打を打とうとしてるのに、その成功の公算を自らの手で小さくしてしまってる。
結局、その事が閉じ込めた諸将の猛烈な反抗を呼び、反乱が失敗に至ってしまったしな。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/01 00:41:40
それって、韓信が鍾離昩の首をもって劉邦のもと
へいって捕らえられたのとどっちがおろかですか?
加藤紘一的な詰めの甘さ
「謀に遺漏無く」という評判の割に、ここでは本当に詰めが甘すぎる。
この詰めの甘さ、蜀攻略による慢心や、ケ艾の排除成功による安心から来たものなのかね?
司馬昭だって鍾会の反逆心を知っていて蜀征伐に赴かせたのでは?
所詮、若造の鍾会は老練な司馬昭に見事に嵌められた訳だな。
蜀征伐が成功すればその功績は下手すれば主君をも凌ぐものだし、
失敗すればいい口実
最後の最後でボロを出してしまうあたり、線の細い天才型みたいなイメージだ
>>497 主君と言うか司馬一門ね。確かに鍾会は司馬氏のいい部下だったが・・・
別に主君でも問題ねーだろ。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/02 00:38:58
魏後期及び晋における司令官クラス
司馬師、司馬昭、ケ艾、鍾会、王濬、王渾、羊祜、杜預、
呉後期における司令官クラス
陸遜、諸葛格、丁奉、陸抗、
蜀後期における司令官クラス
姜維、諸葛瞻
501 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/02 02:18:08
>500
蜀、終わってるねw
まさに姜維頼み。
彼もさぞや暴れがいがあった事だろう・・・
やりたいようには出来たよな
ちょっと味方が思い通りに動いてはくれなかったりしたけど
503 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/02 09:04:33
黄皓は実は魏のスパイだった説っての聞いたことあるんだけど。
魏の中でもトップシークレットで、
鍾会しか知らされていなかったってやつ。
事が成就したら2人とも口封じ(w
司馬昭だったらその位の陰謀やりかねないぞ。
姜維では見抜けまい。費禕ならば見抜いていたかもしれんが・・・
見抜いていたからこそ、刺された可能性もあるし。
>>500 陸遜は前期から中期。
諸葛格や丁奉はどうみても2流。
鐘会も参謀としては優秀だが司令官としては並。
諸葛瞻はアレは司令官といえるのか?
姜維と同じようなレベルの人物って魏では鍾会、呉では諸葛恪かな?
レベルというか野心が高すぎる奴だな
鍾会はもっと優秀だと思うが、諸葛恪ほど役立たずでもないだろ
呉の丁奉、魏の諸葛誕、母丘倹くらいじゃないかな。
508 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/02 12:36:27
諸葛格はもともと優秀な部類だと思う。
ただ、曹操や孔明は一度の失敗でくじけなかったが、
彼と鍾会は一度失敗すると奈落の底まで落ちていっただけ。
要するにプライド高すぎ。
違うと思うな、鍾会は野心の為に限界を超えて行動したから転落したけど
諸葛格は、機知はあるけど頭の回転が速いだけで能力は無い
趙括みたいな奴だと思う。
>500
魏晋:司馬孚、司馬望、石苞、陳鶱、司馬冑、司馬駿、衛瓘、王昶、王基、
諸葛誕、(毋)丘倹etc…
呉:孫峻、孫綝、施績
511 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 14:08:19
諸葛瞻は亮の爵位を継いだのになんで隠棲してたんだ。
司令官としてケ親子を2度撃退してる程なのに。
きっと孔明に劣らない能力を有していたのだろう。
>>511 別に隠棲してないだろ。
中央政府で要職を順調に経験していったろ?
>>511 緜竹での戦いは、蜀も寄せ集めとはいえ、相手は強行軍で疲労困憊していた。
それに2度も撃退してない。最初の攻撃を防ぎきっただけだろ。
指揮官として少なくとも無能ではない、という事ぐらいは言えるけどな。
大体、あんな局地戦では、司令官としての能力は到底計れるものではないし、
黄崇の進言を躊躇して聞き入れず敵を平地に入れてしまうばかりか、みすみす涪まで明け渡してる。
益州における交通の要衝、涪城の重要性も分かってない辺り、父には到底及ばないよ。
514 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 16:35:55
孔明死後の北伐は無駄というより、
関羽が荊州を失った次点で、天下取りは
無理だよ。
その中で北伐は繰り返されたけど、
そうなるとそれ自体が無駄だったということだね。
諸葛瞻だって初陣が蜀最後の決戦だろ。大変だな。
みすみす緜竹まで魏軍を進軍させてしまったのは結果的には大きなミスだな。
まさか、涪城まで補給線が続かない訳でも無いし。
516 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 19:00:46
諸葛贍の場合、初陣だったのは
>>515氏のおっしゃる通りだと思います。
おそらく、蔣琬の駐留以降、涪は蜀漢の軍事・政治交通上の要地という事から、国内軍の総司令官格(行都語)として諸葛贍が魏の侵攻に伴い駐留したものと思われます。
ケ艾の陰平道経由の侵攻に対して、姜維以下の蜀漢首脳も予想すらしておらず、諸葛贍も、まさかケ艾と対戦するとは想像していなかった事態でしょう。
実戦経験が皆無であろう彼としては、黄崇の建言通り山岳地の要衝を押さえると言うのは理解は出来ても、実現性に自信が持てなかったのでは?
魏軍より早く要衝を押さえる事が出来れば良いのでしょうが、予想外の進路を取った魏軍の進軍速度を判断しかね、要地を押さえられなかった場合、遭遇戦なる事を恐れたのだと考えます。
実戦経験の無い者としては避けたい事態でしょう。結果、敵の動きを見てから動く事となり、撤退と言う判断につながったと考えられます。
517 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 19:53:05
総括的には無駄ではないと思う。
確かに北伐が蜀にもたらした負担は大きいけど。
>>514は結果論。
現代の自分達の価値観ではなかなか理解しがたいけど、
人の遺志に命を賭すって言うのは諸葛亮や姜維なんかにとっては
凄まじい意義があったんじゃないかな。
その為に彼等は不可能を可能にしようと奮闘したんだろう、多分。
それをひとくくりに「無駄」って言うは、彼等が昔、自分達と同じように
生きていた人間だった、って事が認識されて無いんじゃないのかな…。
孔明の北伐は国を維持するの攻めの戦略だよな。
諸葛贍は涪を捨ててどうするつもりだったんだ?
例え緜竹でケ艾の進軍を防げても、涪を押さえられては圧倒的に不利な状況に陥る。
姜維が鍾会を撃退して援軍に来るとでも思ってたのか?
それにしたって、涪を抜かれては姜維も諸葛贍の支援に急行せざるを得なくなり、
そうなっては姜維は鍾会を追撃できず、漢中は取り戻せずに終わってしまう。
やはり最善はケ艾を平地に入れない事だと思う。せめて涪を渡すのは防いでもらいたかった。
逡巡した挙句に涪を放棄し、更に負けてしまったのでは少なくとも有能とは言えないなあ。
初陣で大役を任されて可哀想だとは思うし、局地戦の指揮官としては無能では無かったんだろうけどね。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:12:33
>>517 いいこというな。
514の論法では、われわれ自身の人生も結局意味がないというのに等しい。
蜀が攻められるとしたら必ず北から攻めてくる
蜀の勢力範囲に接する北側は抑えたい
だから北征する、人の遺志に命を賭す戦いをしてるわけではない
522 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:39:19
蜀が滅んだのは孫休の援軍が遅れたからだ。
しかも蜀が滅んだどさくさに併合しようとしていた。
これだから後世に呉は人気ないんだよ。
諸葛亮の内心は判然としないが
蜀の国是としては魏との共存はありえなかったからな
戦争で求心力を一定に保つ必要もあっただろうし
524 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 00:59:04
*****************************
結論・・・
北伐は無駄ではなかった。
その時の文化、文明に応じた最善の方法だった。
*****************************
南北戦争で、南部が負けるのが分かっていながら、
あえて合衆国から飛び出したのと同じことだなw
>>525 例えが分かりづらいぞ。
解放されるのが分かっていながら黒人奴隷が合衆国から逃げ出したって事か?
それにしてもなんか違う気がするが
>>517 諸葛亮や姜維はそこまで無能ではないと思うが‥
もし、人の遺志に命を賭したのだとしたら蜀の将兵にはいい迷惑
それよりは時間が経てば国力差が広がる一方なので
勝負を掛けたと見る方が自然じゃないか。
>>528 文化、文明てw
漫画やゲームじゃないってのw
531 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:22:13
>>529 「文化、文明」から、「漫画、ゲーム」としか発想できないくらい
頭が偏ってる、寂しい人ですね。
532 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 17:12:31
===================================================================
こ の ス レ は 完 了 し ま し た
===================================================================
こ の ス レ は 完 了 し ま し た
===================================================================
こ の ス レ は 完 了 し ま し た
===================================================================
534 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 18:34:08
>>516 陰平道経由の侵攻、予測していた人が1人だけいるらしい。
とは言っても侵攻当時、その人はこの世にいないからどうしようもないけど・・・
535 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 23:28:23
せめて司馬昭がくたばるまで、持ちこたえていればな。
その後鮮卑が反乱起こして呉は20年近く持ったし。
まあ、結果論か。
司馬昭が死んだ所で大局が激変する訳でもないからな。
つか、姜維の国内での立場も危ういままじゃん
もっと悪くなるかもしれんし
危ういなら引退するかもしくは魏に亡命するか
539 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 22:36:56
とどのつまり、
姜維には韓信、衛青、霍去病の才はなかったということですな。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 22:54:25
蜀にも漢の軍事力は無かったしな
541 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 23:06:22
姜維は政治を省みることが無かったから駄目だよ。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 21:13:51
公孫淵の謀反のほうがもっと無駄。
無駄>>>破滅
保守
545 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 16:53:20
ほしゅ
姜維の遠征は誉められてもんじゃないが
姜維がいなかったらもっと早く蜀は魏のものになってたんじゃね
正直、孔明死後の蜀って姜維一人で持ってたようなもんじゃん
小円なんかすぐに死んで、ヒイもあぼーんだし、殿様は腹黒高校LOVEだし
547 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 18:57:00
>546
蔣琬が10年、費禕が10年で残りの10年余りが姜維だが。
蔣琬、費禕のときはまだ周りに人材がいたからな
姜維のときは本当に姜維一人という感じで可哀想だった。
549 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 21:08:43
姜維1人ってのは、ある意味同意だが、1人なら無理しなきゃ良いような。
自分自身に自身を持ち過ぎたのかも。
姜維が魏にちょっかい出さなきゃ、魏も蜀攻めを実行しなかったかもしれん。
連年の姜維の北伐は、魏に脅威を与えはしなかったけど、辺境が落ち着かないってコトでウザイし。
ワロタw
551 :
549:05/01/31 21:19:07
>550
すまん、>>自身を持ち過ぎたのかも。
自信な。
>>548 そもそもショウエン・費イの時は北伐に大して積極的じゃなかった。
人材という点ではショウエン・費イの時と姜維の時とで大差はないよ。
553 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 23:12:46
蜀討伐戦で敵方として戦った、魏の司令官、鐘会は回想記のなかで、こう記しています。
「かつて北伐を繰り返した姜維軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、
ささえるものは不屈の精神力だけであった。
姜維軍は討伐戦において、ついに敗れたが、そこには何かが残った。
それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。
すなわち『もし、蜀について、神が使命を与えたものだったら、
それは強権をわがもの顔の曹操を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」
(鐘会『蜀戦線の大逆襲』)
座して死を待つより自分から動いて勝負するという姿勢は姜維も孔明も一緒
なのになぜか姜維だけが叩かれる・・・・理不尽やな〜
費イもかなり悪いと思うよ
彼は確かに事務処理能力に優れていたけど、問題を先延ばしにし続けた
そんでぽっくり逝きやがった
すべては諸葛亮の負の遺産
姜維以外にケ艾とやらしてみてーな
姜維は北伐に行ったら行ったで叩かれるし
国内にいたらいたでなぜ座して死を待ったんだ
孔明を見習え、自分たちの置かれてる立場分かってるのか
と叩かれたんだろうな
>>559 > 孔明を見習え、自分たちの置かれてる立場分かってるのか
> と叩かれたんだろうな
それはないだろ。
最末期の景耀年間において姜維を除くほとんどの首脳が魏への積極的な侵攻に批判的だったんだから。
むしろ防御に徹しつつ国力を高める方向に行った方が国内的には支持を集められたろう。
その結果が蜀にとって吉と出るか凶と出るかは一概には言えないけどな。
>>555 日本の歴史家が、無謀だ、馬鹿だ、無駄だった等とボロクソにこきおろしている
「インパール作戦」について、日本軍と戦ったイギリス軍大将が語った言葉。
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/A03_4.html 「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、
ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、
そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。
すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の
西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」
(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)
ボロクソに叩かれている姜維の北伐について考えていたら
インパール作戦をふと思い出した・・・ただそれだけっす。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 23:45:23
ヒイってすごい奴だよね?これって全員一致だよね?姜維の北伐、肯定派も否定派も
でもヒイは魏延をはめた張本人だぞ
ヒイはね「北伐したいのー!丞相の無念はらすのーー!!」って言い張る姜維くんに
「しょーがないなー、ちょっとだけだよ」って言って小出しに兵隊さんをあげて
「蜀の奴何回も何回も、ウザイなー。よし、警備強めるぞ」って魏が思うようになったの
うん、姜維が悪いな
いや、甘やかすヒイも悪い
最近多い駄目親並
ヒイと姜維がトップの国なんて滅びて当然だな
北伐してなかったとしても自滅してたね
そのとーりー
晒し上げ
ソノトーリー
571 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 00:53:10
姜維が魏の内間だって説は既出?
既出
573 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 19:44:23
艾が早く生まれてたら孔明と退陣してたかな?
>>573 生まれが早くても出世は遅いだろうので、今度は司馬懿と争う事になり、
名士でもないトウガイは方面軍司令官ではなく地方の太守のままで終わる。
でFAかと。
575 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 23:08:00
>573
130年頃の生まれだと、対戦する事もないかと。
姜維の事を語ろうにも特に話題も無いので、蜀征討戦時の姜維の行軍速度でも考えてみる。
姜維の沓中から剣閣への撤退劇は、踏破距離約360km、標高差約2000m。
魏が蜀征討の軍勢を起こしたのが8月、10月に開始されたケ艾の奇襲に先立って、
鍾会による第一次剣閣攻撃が行われた事を考慮すると、姜維が剣閣に入ったのは遅くとも9月中。
この間、姜維はケ艾と1ヶ月余り対陣し、彊川口で会戦も行っている。
姜維が行軍に費やせた時間は、2週間程度だろう。
そうすると、1日当たりの行軍距離は約26km。
歩兵の通常行軍速度を4km/hとして、約6時間の行軍。
山道であり、街道もそこまで整備されていなかった事を考慮すると強行軍と言える。
分からんのはこの時の諸葛緒の行動だね。
姜維は、白水から一度関城方面に進路を取ってるにも関わらず、9月中に剣閣に到達している。
諸葛緒が鍾会に合流できたのは、早くても10月上旬。少なくとも1,2週間の差がある。
諸葛緒は挟撃に失敗するという失態を犯しているにも関わらず、姜維を捕捉しようともしてない。
これでは「怖気づいて前進しない」と言われても仕方ないような。
諸葛亮に比べたら、皇帝からの信頼度が薄かったし
国内での派閥が弱かったから、都よりも前線都市や遠征に行きたがった。
姜維の支持者は軍部の数割と、諸葛亮の信奉者の一部ぐらいじゃ無かったのかな。
でも姜維からは政治の才覚が臭って来ないのでやっぱり軍に身を置くしかなかったのでは。
北伐はせずに、前線都市で睨みを聞かせておけば国内での反戦論もそんなに高まらなかったんじゃないかなー。
>>578 北伐しないんだったら、反戦論も何も無いんじゃないか?
存在しない戦争に反対できる奴なんていないだろうし。
580 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 03:37:22
ほほ・・・ageますわい
陳泰伝の王経救出の時の陳泰の言葉を読んでて思ったんだが、
「櫟陽に蓄積された十分な穀物を拠り所とし…」とあるが、
櫟陽ってのは長安の北東にある万年の事だろう?
この時点で陳泰は襄武にいるのだから、姜維が櫟陽の穀物を得る事は出来ないと思うのだが。
もっと前の事だとしても、王経撃破以前に陳泰は陳倉まで兵を進めてる。
そもそも、姜維が対蜀戦線の本営である長安を抜く事を危惧するのはおかしいような。
それとも隴西にも櫟陽という場所があるのだろうか?
ない
また陳泰伝を読んでいて気付いた事なんだが、王経救出の際の、
「姜維は涼州に引き退いたが、軍は金城を通って南に向かい…」のところ。
漢籍電子文献で見ると「維退還.涼州軍從金城南至沃干阪」とある。
これはちくまの誤訳じゃなかろうか?
「姜維は陳泰と交戦し引き退いた。涼州の軍勢は金城を通って沃干阪に到達した」
と分けるのが妥当だろう。
これを踏まえると、この時の姜維の動きは、まず河水を船で下って枹罕に到達。
王経旗下の部隊を攻撃して本隊を誘引、撃破した。
その後、船団に洮水を遡らせて、共に狄道に向かいこれを包囲。
包囲を解きに来た陳泰と交戦し、勝利できぬまま双方退いたが、そこで涼州の軍が沃干阪に到達。
陳泰は涼州の軍に姜維の帰路を断たせようとし、それを察知した姜維は洮水を遡って逃走、鍾提に駐屯した。
こんな感じの流れだと思われる。
このスレはおまえの日記帳か?
過疎スレなんだから別に良いんじゃね?
過疎スレになってるから、保守もかねて姜維の北伐について考えた事を書いてるんだが。
そんなに気に障るかね?
無駄じゃない戦争なんて無い
それは言い過ぎ
確かに戦によって歴史は型作られてはいるけれど…
口減らしの手段として有効なので無駄じゃないでしょ
>>563 費イは魏延をハメたというより楊儀にハメられた。
諸葛亮の後釜を狙っていた楊儀にとって費イの存在は目障り。事務処理能力は抜群だし諸葛亮に目をかけられているのだから手強いライバル。
楊儀はあわよくば二人一緒に始末しようと、諸葛亮の死後魏延のところへ費イを派遣した。魏延が撤退に反対することなどわざわざ確認しなくてもわかってることなのに。
案の定魏延は撤退に反対し費イを味方に抱き込もうとした。下手に逆らったら殺されるから費イはひとまず従うふりをして、何とか嘘をついて逃げ出した。
後に費イは人事に不満を持ち蟄居させられてた楊儀を訪ね、彼の不平不満を朝廷に報告して死に追いやる。人望も無く落ち目になった楊儀など放置しても大して害にならないのにわざわざそうしたのは
ハメられそうになったことへの復讐だと考えられる。
>>589 土地が余ってるのに口減らしする奴は馬鹿
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
野村克也
我が人生に一片の悔いなし
ラオウ
594 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 18:09:05
ほしゅ
>>590俺はこんなイメージだと思ってたんだけど
∧楊∧
(-@∀@) .| | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >_∧∩
_/し' //. V`Д´)/ 「俺を殺せる香具師などいない! 」
(_フ彡 /
「オマエは用無し」
∧ヒイ∧
( * ゚∀゚ ) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >楊∧
_/し' //. V XД@ )
(_フ彡 /| / \
596 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 22:06:44
呉に蜀はまだ魏を倒す気充分だってところを形だけでも見せておかないと呉蜀同盟ピンチだったんじゃないの?
保守もかねてまたちょっと書き込ませてもらう。
狄道を包囲した第三次北伐について、姜維が王経を破り狄道を包囲したのが8月2日、
司馬孚の派遣が8月19日、陳泰らの狄道到着が8月22日となっている。
しかし姜維が撤退したのは翌月の25日、陳泰到着から実に1ヶ月以上経っている。
陳泰伝だけ読むと、陳泰到着後あまり間を置かずに姜維が退いた様に思えるが、実際は1ヶ月以上対陣してる。
つまり、陳泰の接近を知った姜維は、狄道の包囲を続けつつ兵を分けて陳泰迎撃に動いたが、
陳泰伝にあるように1度の会戦で退いたわけじゃなく、襄武狄道間の狭隘な地形を利用して陳泰を阻み続ける事に成功したのだと思う。
しかし陳泰も負けておらず、涼州の軍を南下させ姜維の後背を襲わせる姿勢を示す事で状況を打破したのだろう。
>>598 しかし姜維の行軍は凄まじいものがあるな。
報われなかったのがなんとも。
>>599 普通にレスしてくれてありがd
また、お前の日記帳(略、とか言われるかとも思ったが。
姜維は会戦には滅法強く、不測の事態に陥った時の対処にも見るべきものがある。
しかしながら戦略を構築するという点において名だたる名将たちには及ばなかった。
というのが色々考察してきての個人的な感想だね。
将帥としては、完璧と呼ぶには一歩及ばずという感じ。
>名だたる名将たち
とは具体的には誰?
>>601 蜀では諸葛亮とか。あとは普通に曹操やケ艾、司馬懿とかもだね。
戦略のみなら鍾会や陳泰にも及んで無いと思う。
姜維は全てを一手に引き受けなければならなかったイメージがある。
自分と同等以上に並べる相手がいればもっと色々戦略も練れたんじゃないかと。
>姜維は会戦には滅法強く、不測の事態に陥った時の対処にも見るべきものがある。
同時進行で別場所で姜維並に対応出来る武将が蜀にいなかったんじゃないだろうか。
練りに練った戦略を上手く発動させるには、不測の事態に対応出来る武将がいる。
それこそ姜維並に。
それを思うと晩年の姜維周囲にそれだけの仲間がいなかった様に見える。
だからこそ、ケ艾や陳泰達がいた魏の方が姜維の計画を上回る事が出来た。
・・・と、姜維スキーが呟いてみた。
>603
姜維と同じくらいの将領がいたとしても、結局、戦略を構築出来ない、と言う部分は補完されない。
結局、花火1発が2発になるだけで情勢を変える事は出来ない。
逆に、姜維全盛の頃に諸葛亮のような視野の広い上官がいたら、姜維もより能力を生かせたんじゃないかな。
または、諸葛亮の時代に姜維が全盛期だったら、って思うよ。
>>603 全てを一手に引き受けなければならなかったのは諸葛亮も同じ。
それだけ蜀は人材に乏しかったということだと思うけど?
諸葛亮時代に、法正・ホウ統がいれば・・・みたいなのを
他スレでもよく議論されてたのと同じことだね。
*****************************
結論・・・
北伐は無駄ではなかった。
その時の文化、文明に応じた最善の方法だった。
*****************************
>605
諸葛亮の時に全盛期の姜維の様な将領が存在してたら、諸葛亮も随分楽だったと思うよ。
その役割は存命であれば馬超だったんだろうけど。
姜維は全戦域に目を配される程の将領じゃないし、諸葛亮は戦争全般の計画・構成・後方支援等は凄い力量の持ち主だけど、前線での状況の変化に即応出きる人物でも無い。
ま、無いものねだりだけどね。
姜維の不幸は役不足の総司令官になった事だろうな。
司令官に郭淮、参謀に陳泰、前線指揮官にケ艾を用意できた魏は
なんともゴージャスですな
その役不足はどっちの意味合いでとればいいんだ(;´Д`)
前も書いたかもしれないが、俺の考えている姜維の戦略を少し。
姜維の採った戦略はハンニバルと同様のものであると考える。拠点の奪い合いではなく、
決戦によって敵を撃破し、派手な戦果を宣伝しつつ諸郡の離反を誘うというもの。
更にその武威を十分に生かす為には、自国と敵国を往復するのではなく、敵領内に留まり勝利し続ける必要があった。
姜維の目は、旧漢陽郡の半分を占める南安に向いていたように思える。
雍州の中でも豊かな旧漢陽郡の地域を手に入れる事で、比較的長期間滞在するだけの物資を得ようとしたのだと考えられる。
そしてその物資を拠り所としつつ、奪還に来る魏軍を撃破し続ける事で雍州を動揺させようとした。
天水郡を狙わなかったのは、諸葛亮の度重なる北伐で既に相応の防衛体制を築かれていたからだろう。
更に言えば、天水郡では南安郡に比べ羌族との連携が取りづらい事も理由の一つだと思う。
ただこれは陳泰に完全に看破されており、決戦をさせずに持久戦を敷く事で簡単に破られている。
次いで姜維の戦術、というか戦闘教義について。
姜維が機動力の高さを活かして、敵の準備の整わぬ内を襲って
勝利する事を考えてたというのは、ニセクロ氏も言及してる。
これは自分も同じ考えだが、詳しく言うと、その機動力で半ば奇襲に近い形で敵軍を強襲し、
敵の一部を突破させてそのまま包囲へと移行していたのではないかと考えている。
これによって、敵は迎撃準備が整った頃には包囲され為す術が無くなっていたのだろう。
だから、姜維は基本的には縦陣を用いていたのだと考えている。
これが最も活きたのが対王経戦。
前軍の救援に出た王経は、姜維の突然の来襲に狼狽し、慌てて布陣し迎撃を行おうとしたが、
整った頃にはすでに翼が崩壊し、姜維の軍によって包囲されつつあった。
この包囲によって王経は指揮していた兵の大半を失い、命からがら狄道に逃げ込む羽目になったのだろう。
まあ、なんだかんだ言っても所詮は妄想に近い内容なんで、
深く突っ込まれたら応答に困ってしまうけどね。
あまり関係ないけど、ニセクロ氏の北伐再考の続きが載っかったなと思ったら、
姜維の所はまだだったのが残念だね。
自分が姜維の北伐を再考して、その軍事的能力を再評価しようと思ったのも、
ニセクロ氏のテキストを読んだ事が大きく影響してるからね。
決戦思想で動いていたとしたら、やっぱり危ないな
勝てればいいが、リスクが大きい
それに勝ったとしても勝者側にも被害は出る
勝ったからといって連戦すれば損害・疲弊・軍需物資消耗に見舞われるのは明白
どう動けばベストなの?
姜維が取りうる方法としてはあれがベストだったんじゃないかと思う。
何だかんだ言っても魏との国力・人材の差は埋めきれない。
せめて費イが生きていた頃なら、費イのバックアップも可能だったのかもしれないが、
その時代でも前線武将陣としては人材不足。
かと言って北伐を諦めきってしまうと蜀漢という国の存在意義も無い。
費イが「新たな人材を待とう」と言ってもそれまで蜀が保つのか謎。
あの時代、あの国であれだけの人材だった以上、姜維にはどうにも出来なかったんじゃない?
姜維がそう考えたと思うと、得意の機動力を活かした戦法を重視したのも頷ける。
時代が進むにつれて蜀と魏の人材の差が大きくなっていく以上、
姜維が焦ったとしても仕方ないと思う。
自分以上がいなかった中、それでもどうにかしようと足掻く事は大変だったんじゃない?
北伐をしないからと言って、蜀が力を蓄えるまで魏が何もせずに待っていたとは思えないし。
天然の要害に囲まれていると言っても、実際に姜維が剣閣に篭もっていた間に成都は急襲された。
成都陥落のどさくさに紛れて呉が出兵して来た。
呉方面・魏方面に渡って防御を続ける事が難しいなら、
呉との同盟を維持する意味でも北伐は有効だっただろうしね。
>609
姜維では役不足って書けばよかったね。申し訳無い。
>615
前にも議論したね。
姜維の取りうる選択肢としては、基本的に守勢。ただし、西北異民族に対する影響力保持の為の限定戦争であれば可。
大将軍として無難に国務を総理して、社稷を維持。姜維が引退、あるいは死去した後の事は後進が責任を負えば良い。後進に道を譲る段階で、国政が健全に運営されている事が前提だけどね。
魏が263年に蜀漢侵攻を行ったのは、蜀漢が力を蓄えるのを阻止するためでなく、蜀漢の国力が衰微したから、と言う事が大きい。その上、有力かつ唯一の野戦軍と蜀漢随一の将領(姜維)は、ほとんど国外と言う場所にいた。
曹操も含めると魏の3度に渡る蜀漢侵攻は、天候等の影響もあったが、基本的には失敗。特に曹操の場合は、陽平を保持している状況でさえ、再奪取を失敗してる。曹操ですら、だからね。
その辺りを考えると、北国は蜀漢がよっぽど隙を見せなきゃ侵攻と言う選択はしないような気がする。
ヒイのバックアップって微妙なんだよなーコトナカレ主義な感じがして
ショーエンが長生きしてたらなー
まあ、守りに徹すれば魏が侵攻するって事はまず無いだろうな。
それでも雍・涼州奪取に動く辺りが姜維の魅力でもあると思うが。
姜維は決戦に持ち込むに当たって、敵拠点を攻撃し、
救援、又は防御に来た敵軍を強襲するという形を好んだのでは?
多分狄道を包囲した時も、陳泰率いる救援軍に対し撃破を試みたのだと思う。
陳泰の接近を知った姜維は急ぎ駆けつけ強襲したが、敵より少ない兵を更に分けた事、
敵の指揮官が陳泰であり、更にケ艾らと合流して戦力が増強されていた事などもあって撃破はならなかった。
そこで方針を変更して隘路に拠り、陳泰の進軍を阻んだのだろう。
姜維が山に沿って突撃してきたって文章は、姜維が隘路に拠る前に急襲してきた事を表してるんじゃないだろうか?
王経も、狄道陥落を聞いて陳泰に派遣された徐質も、救援に来た所を急襲・撃破されてるしね。
619 :
618:2005/03/24(木) 20:09:03
>>616 多分
>>609氏は役不足か役者不足かってのを聞いたんじゃない?
あと、
>>615氏を俺と勘違いしていないか?
以前蜀将スレかなんかで
>>615みたいな主張をして、
>>616の様なレスが返って来た事があったような。
まあ、ただ俺が自意識過剰なだけかもしれないが
三国志のことばっかり考えてて飽きない?
>>625 そういうツッコミをいれる人間は往々にしてなにもかも中途半端だったりする
623 :
616:2005/03/24(木) 20:36:14
>609
役者不足だな、うん。すまんね。
訂正&解説、ありがとう。>619
624 :
616:2005/03/24(木) 20:39:41
>619
いや、多分自分。
自分も姜維好きだから、客観的には守勢が良いとは思いつつ、守勢に回った姜維は想像できない。
と言うか、守勢に回ってたら、今知っている姜維と同じような捉え方は出来ないだろうからね。
結論・・・
姜維はやはり魏にとって脅威だった。
>>622 つっこみはできませんでした…
626 :
615:2005/03/24(木) 21:21:31
スマソ、最近ここに流れ着いたものだから、以前議論された何て知らなかったんだ。
蜀将討議スレは流れが怖くてあまり覗いてないし。
もうちょっと流れを見てる無名になってるわ。
騒がせてスマンカッタ。
ただ自分、姜維は守勢に回ると姜維じゃ無い気がする。
むしろ守勢になると、ぼろぼろになりそうな印象なんだ。
蜀の崩壊が早くなりそうな感じ。
ではノシ
627 :
618:2005/03/24(木) 21:23:03
>>624 多分今より遥かに地味に扱われていただろうから、興味を持つ事も無かったかも。
姜維は北伐したからこそ輝いているように思える。
628 :
618:2005/03/24(木) 21:29:46
>>626 いや、積極的にレスしてくれればスレも活性化するし、
姜維に関して何か思う事があったら書き込んでくれていいと思うよ。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 11:04:03
しかしさぁ、よく魏の武将だったのにここまで頑張ったよな
私だったら無理だ…。よって名将だと思う
スマン、あげちまった_| ̄|〇
>>629 剣を叩き折って悔しがった事や、鍾会に投降した時の描写を見ても、忠臣というイメージしか湧かない。
魏の人間だったって事を全く感じさせてないのが凄いな。
蜀という国や劉禅という主君にそこまでの魅力があったんだろうか?
>>631 神様( 孔明 )が私を( 姜維 )認めたから[ 弟子に ]。
に尽きる
キョウイは漢中閥とでも呼ぶべき派閥の長だからな
既得権益を失うのだから当然だ
>>632 それは演義での話だろ。
諸葛亮は姜維の才能を買ってはいるが自分の弟子とか後継者にとは考えていない。
新参者ほど忠誠心や才能を表立った行動に出したがるもの。そうしないと組織の中で認められないのだから。
やがて組織に忠義を尽くす自分自身に酔っていく。
>>631 中郎・郡の参軍から、将軍・亭侯に取り立ててもらい、
丞相から激賞されたんだぞ。
これで感激しない方がおかしい。
個々の性格によるだろうけど、姜維の場合、元々自身の能力には自信があったけど、魏じゃ州の高官が限界。
蜀漢に移ったら、いきなり亭侯&将軍。
その後も軍の高官を歴任し、最終的には最高司令官。
自分の能力を生かすには、こっち(蜀漢)って考えてたんだろうな。
20代で中朗ってことは魏でももの凄いスピード出世だぞ
中郎って何品
>637
アレは、姜維の父親が名誉の戦死を遂げたのが基になってるからねぇ。
保守
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:27:51
保守
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:34:51
既出かもだが、北伐の意味はしょくの存在理由と=。魏を倒して漢朝再興こそが存在意義なんだから、意味があろうが無かろうが北伐はしなければならない。成都があんなかんじじゃ焦るのも無理はない
どうでも良いが、姜維の北伐って、その中身まではあまり興味を持たれてない気がする。
第三次北伐で、姜維は祁山、石営、金城の三手から攻めると宣伝したが、この虚報の真意は何なんだろうな?
羌族との連携を取り易くするため、その障害となる涼州駐屯軍の早期排除が目的だったのか?
>>642 国家のレーゾンデートルなんて時勢によって変容して然るべき筈
現在の政情無視してすでに現実的な意味を失った大義に拘る時点で
視野狭窄・思考硬直の謗りは免れないと思うが
無論、それすら覚悟の上で諸葛亮や劉備の遺志に殉じようとしたのであれば
それはそれで別側面からの評価は受けて然るべきことだとも思うけど
大義が「すでに現実的な意味を失った」と言い切る根拠は?
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 07:17:47
>645
姜維が兵権を握った253年頃は漢王朝が魏に禅譲して30年以上経ってる。
魏の権威・体制が対外的に確固としたものになってるし、費禕の言葉から蜀漢にも人材が少ない状況。
表向きは漢室興復を掲げても、現実的な政策に反映させるの無理がある、と言う事では?
だいたい北伐したがってるのは劉備・諸葛亮ら侵略者で、地元人にとってはいい迷惑
そもそも、易姓革命を王朝の根拠として認められてる中国では、
曹丕の即位は禅譲によって執り行われた正当な王室交代劇に過ぎない。
漢室復興が大義たりえてたのは、漢室が存続しているのにそれを無視して
諸侯が権力争いに明け暮れ国が疲弊していたからであって、
漢室自体が失くなって魏の手に統治と国土の再興が委ねられた後では、
そんなの中国の伝統的な思想を無視した戯言でしなかったんじゃないだろうか。
実際、劉備も諸葛亮も、自分たちが逆賊の烙印押されることを恐れて
「漢室の後継」を名乗っただけで、現実問題として自分たちの立場が
歴史的正当性を持ったものであるなどとは考えていなかったと思う。
つーか、そこまで馬鹿だったと思いたくないってのが正直なところなんだけど。
+反魏親漢の人も集められると思ったんじゃない?
田舎の方がそう言う権威は残り易いから
大体、蜀建国のきっかけが、曹丕が献帝殺して皇位簒奪したって勘違いしたからだもんなあ。
だから魏は逆賊で蜀こそ正統な漢朝の後継者って無茶も主張できたけど、実際には
正式な手続き踏んだ禅譲だったわけだから、劉備も諸葛亮もアチャーって感じだったろうな。
でも建国しちゃった今さら勘違いでしたじゃすまないし、諸葛亮も後に引けなくなって
あんなに北伐にこだわったんじゃなかろーか、とか思ったり。
勘違いじゃなくてわざとだろ
相手が皇帝になったらこっちも皇帝にならないと権威で負けるからな
それに対抗して孫権までも登極しているだろ
それだと、劉備は献帝生きてるの知ってて喪に服した上に諡までしたってことか?
・・・サイコーだぜ劉備、心が震えるような腹黒さだ。
蜀漢の諜報機関は無能じゃないぞ
劉備は腹黒いんだよ
だから益州を乗っ取ったんだしな
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 12:55:52
玉璽だって偽造してるし、劉備は全てわかってて即位してるよ。
北伐はそれとは別に、地方の独立政権はほっとけばいずれ滅ぼされる運命だと知ってるからこそ続けていたと見るべきだと思うよ。
諸葛亮はきちんと国力整えて勝つための算段考えてたけど負け続け
姜維は何も考えずひたすら出撃し続けてただけだから負け続け
そんな印象
まあ姜維がほんとに漢の再興を考えてたかはしらんが、諸葛亮の意志を継ごうとしたのは確かなんじゃない?費いが人材がいないとゆってるなら、いよいよ俺が北伐わりとげなきしょくは終わりだ、みたいな。
あ
姜維って、略奪や羌族の援助を当てにしての出兵だった割には、食糧不足は殆ど起こってないんだな。
諸葛恪の侵攻に呼応し、大した準備も無いままの遠征であった第一次北伐ぐらいだ。
遠征期間が短かったからかとも思ったが、第二次は6月から冬にかけて、第三次から第四次は1年以上の期間、
第五次も少なくとも数ヶ月は遠征地にいた。
補給に気を遣っていたとも思えないし、現地調達でそこまでまかなえるものなのか?
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 03:16:24
良スレ
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 12:51:43
>>659 その「現地調達」も失敗の理由だろ。
現地は災難だったろうな。
ましてや、諸葛亮すらやらかさなかった、ほぼ連年の出兵・・・。
てか、諸葛亮すら成都を長期留守にすると不信任で召還されて北伐をパアにしたことがあったのに、
それを知っているはずの姜維があれじゃあ、十分なバックアップを得られるはずも無く。
蒋エン・費イにももっと学ぶべきだった。
だが、
そのいたらなさがイイ!
>>661 現地調達はなにも兵法の忌むところではなく、完全な誤りではありませんが?
>諸葛亮すら成都を長期留守にすると不信任で召還されて
これはなにを指して言っているので?
延喜式
演義だよ
諸葛亮の撤退の理由は
第一次 街亭を奪われた
第二次 兵糧が底を尽き、敵の援軍が到着したため
第三次 武都・陰平の二群を攻略するにとどまる
第四次 李厳がやらかしたため
第五次 五丈原にして死す
だよ
第二次北伐での姜維の出兵は、6月となってはいるが、6月上旬とかじゃなく、6月末あたりだろう。
姜維の方針である、敵方からの食糧の略奪を行うには、刈り入れ時が一番都合がいいからね。
期間は6月末〜10月中旬程度だと思われる。
そう考えると、陳泰の元に姜維の狄道入城の報が入ったのが7月上旬。
陳泰は姜維が更に侵攻してくる事を予測し、徐質に2,3万の兵力を与えて姜維を防がせると共に中央に援軍を要請。
自身も主力を率いて進発したが、上ケイ辺りに駐屯中、先鋒の敗走と徐質の戦死を知る。
事態を重く見た陳泰は、中央に更なる援軍を要請しつつ、要害を占拠してこれ以上の姜維の侵攻を阻止せんとした。
これが7月末辺りまでの流れだろう。
その後姜維は2ヶ月ほど襄武を包囲したが、関中に十数万の戦力が集結している事を知ると、
襄武陥落を諦め、隣県を攻略して住民を連れ帰ったと思われる。
襄武・南安の辺りは屯田が行われており、食糧がある程度は充足していて、
更に城内には城兵+先鋒残存戦力が存在していたので、襄武は早急に落ちるものではない。
また、姜維に下手に野戦を挑んでは撃破される恐れがあり、最悪の事態を招く可能性がある、
という陳泰の判断があったのだろう。
横山の漫画しか読んだことない者ですが、姜維の副官を務めた夏候覇について質問させて下さい。
横山漫画の展開で、姜維は彼を案内役にすることで北伐出兵を決断しているのですが、史実や他作品ではそのような立場に立っているのでしょうか?
同漫画では孔明北伐の迎撃にも参加しており、また皇帝の血族であるなど、クーデターが起きたとはいえ姜維の部下になるのは虫が良すぎるし、仮にそうだったとしても姜維が負けまくったことから案内役として戦力になったたかは微妙…もちろん私はそんな夏候覇が大好きです。
夏侯覇は身一つで蜀に逃亡しているため
高官でありながら魏としては裏切られても何にも痛くなかったり
蜀としては何の兵力も持たない人間のためにポストを一つ空けなければならなかったり
要するに、あんまり大勢に影響を与える存在じゃなかったってことです
夏侯覇は夏侯淵の息子で父が殺された後は打倒蜀に燃えていた。
しかし曹爽の失脚と司馬懿の台頭により、曹・夏侯一族だった夏侯覇は追い詰められた危機感を覚えて蜀へと亡命する。
(その直後、同族の夏侯玄も殺されている)
夏侯覇が来た事をきっかけに姜維が北伐を希望し、劉禅が許可を出した。
夏侯覇は魏皇室の縁戚であると同時に蜀皇室の姻戚でもあった為、蜀に受け入れられた。
(劉禅の皇后=張飛の娘 、 張飛の妻=夏侯覇の従姉弟)
打倒魏というより、打倒司馬と書かれている事が多いと思う。
おまけ:演義の五丈原で諸葛亮の祈祷の最終夜、攻撃してきた魏の将軍は夏侯覇。
おまけ2:魏から蜀への亡命の時、秦嶺山脈で迷って死にかけた。
こんなもんで良い?
>>669 夏侯覇の来降が北伐の直接的な要因にはなったわけではないと思うよ。
羌族の反乱の助長が目的ではあったが、来降の2年前から出兵してるし。
夏侯覇の来降した年の出兵も、規模は前年とそう変わらない。
そもそも、本格的な北伐はその4年後、費禕が死んでからだしね。
それとも、演義とかの話?
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/27(水) 20:58:02
Hit!!
>>666 「兵糧は、侵入した敵地からの略奪で賄えばいいや」と?すばらしい軍隊だな。
さすが、名目でも漢王朝の正統後継者を自認して簒奪した逆賊魏を討伐せんと
するヤツらは違うな。
………「貧すれば鈍する」って言葉が思い浮かんだよ。
>>672 現地調達=略奪ですか、そうですか
諸葛亮だって麦刈り取ったりしてるけどあれは略奪なの?
略奪
でも兵法の基本とされる孫子では略奪こそ最上の補給とされている
中国周辺は基本的に全て略奪ok
>>672 何が言いたいんだ?
奪えるなら奪ったほうが良いに決まってる。
漢朝の後継者だから道義に反する事はしない方が良い、とでも思ってるのか?
それに、収穫時季は普通に考えれば敵城の備蓄が最も減ってる時だろう。
包囲期間も比較的短くて済むんじゃないか?
王経を破って狄道を包囲した時も、狄道内の備蓄は少なかったようだし。
潔癖症なんだろうw
略奪じゃなく戦利品と呼べ。
678 :
669:2005/04/28(木) 01:49:07
>>670 演義系で書いたつもりだった。解りにくくてスマソ。
夏侯覇ってあまり正史ネタ無いからさ。
正史ネタも正史ネタで書いた方が良かったか?
ちょと面倒だったんだ。
司馬氏の専横のころ、魏の忠臣たちは
司馬氏に憤りを覚え、打倒曹氏ではなく、
打倒司馬氏を掲げて謀反を起こした
三国志演義の夏侯覇はそういう一派の印象を受けた
正史でも、司馬氏が国を乗っ取ろうとする事を憂慮してたんだろうか
でも漢の高祖は略奪より後方輸送に頼って勝ったんだよな
ショウカは偉大だ
ハイハイ
そりゃ略奪じゃ兵士は減りこそすれ増えはしないからな
高祖の場合、兵の補充は後方から受け、兵糧は敖倉などの戦場にある備蓄を活用してたようだ
ニセクロ氏も言ってるが、姜維の頃には祁山周辺の防備がガッチリ固められていて、
姜維は隴西郡方面への進攻を余儀なくされていた。
そうなると、孔明の時代より長い距離と高い標高差を持つ兵站線を維持しなきゃならなくなり、
本国からの補給に頼るのが難しくなる。
だから兵站の負担を極力軽くしようという考えもあったんだと思う。
257年から258年にかけて行われた駱谷経由の遠征では、羌族の補給に頼ることなく
半年程度の期間対陣を続け、且つ兵站の問題も起こってない。
やはり進攻した場所の問題も大きかったと思うよ。
穀物はまだいいが、野菜類は現地調達だろ
あの当時に栄養バランスがどうのなんて概念はなかった
腹さえ脹れればいいだけの食事
だから野菜類なんてものはなくても大丈夫
無駄じゃなかった!!…と、信じたい。
後世の三国志ファンからしてみれば
最後をあっさりにしてくれたから物語的には大感謝だな
これで三国鼎立があと3、40年も続かれたら物語としてダラダラしすぎる
劉備で始まり姜維で終わるから蜀が人気になったんだろうね
劉備⇒諸葛亮⇒姜維、っていう構図が分かりやすいから(実際はこんな単純なモンじゃないが
逆に呉は人間的逸話は多いが、正直やっぱり面白くない
このへんは国策の違いもあるんだろうけど
呉は自分がシミュレーションの君主になったつもりになると非常に面白い
呉も張梯で締めでいいじゃなーい
姜維って何かとだぶると思ったが霍去病だ
いや霍去病は成功者だろう
しかも姜維とちがって早死にしたし
成功したかどうかじゃなくて戦のやり方が、だろ
兵站を軽くして、敵から略奪することで軍隊を維持し遊牧民族以上の機動性を確保して、だったっけか?>去病
待ち合わせの人が来ない辺りもか
霍さんはそれでも自力で何とかしちゃうけど
ああ、性格は悪いよな
アレキサンダーが、
「政治家は栄達を、財界人は栄華を、軍人は栄光を追う」
というような事を言っていたらしい。
姜維はやはり軍人なんだな。彼は栄達や栄華より、栄光を望んでいただろうからな。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/14(土) 00:50:45
<結論>
蜀という国の位置づけからいうと、けして無駄ではなかった。
だが、やりすぎだった。
廖化や張翼からも眉を潜められ軍内で孤立しつつあったのにやめようとしなかったってのがなー
無駄だろ
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/14(土) 00:59:35
でも、誰が姜維を責められよう。
誰が諸葛亮を責められよう。
彼らは、託された夢を追い続け、その先にある国を信じて戦った。
志半ばで死んで行った主君や仲間の為に、その志を一身に背負って。
それも一面の見方ではあるが、
時勢を読めずに無駄に国力を疲弊させ自国の滅亡を早めたって一面もある。
勝ち目のまるでない戦争何十年も続ける部下を持てば、
劉禅様だって何もかもに嫌気がさして宦官寵愛するってなもんですよ。
諸葛亮を姜維と一緒にすな
少なくとも諸葛亮は、防衛を犠牲にしてまで攻勢に出なかったよ
あの頃の姜維は単純に耄碌してたんだと思う
蒋延の死後から陳祗が権力掌握するまでは劉禅親政の時代があったわけだから、
劉禅様だってやる気満々の時代はあったんだよ、意外なことに。
やる気満々すぎて空気読まずに後宮充実させようとしたりもしちゃったけどさw
後宮の充実は始皇帝も曹操もやってることだから劉禅様もちょっと真似したくなったんだろうな、きっと
弱小とはいえ一応皇帝なんだし、それくらいは許してやれよ
費禕って魏延騙して楊儀に内通したり楊儀の失言密告したり、結構黒いんだよな。
劉禅が駄目になったのって費禕の影響もあるんじゃないかって最近思い始めた。
諸葛亮って本当に人を見る目がないよな・・・
ないわけではない
能力を見抜くことはできるが性格を見抜くことができないのか、あるいは性格を気にしないのか。
でも、後者だったら性格が能力に翳りを落とすってのを理解できてないってことだからなあ。
諸葛亮 政治家として非常に有能、軍事面では常に慎重な行動を心がけ
高定・孟穫の反乱を鎮圧、孟達を寝返らせようと画策したり
司馬懿に着物を送るなど謀を弄する一面もあった
法に厳格で平等なさまは、民や兵の信頼を得たが
馬謖や楊儀を重く用いたり、魏延を制御出来なかったりと
人材面登用面では劉備に劣った
姜維 諸葛亮の遺志を継ごうと意気込んだは良いが、内政には詳しくないのか
明らかにハードなペースで、かつ勝ち目薄い戦いを繰り返し
国力衰え、内部に反北伐派を増やす原因ともなってしまった
蒋エン 荊州出身の、政治手腕に優れた男で
諸葛亮亡き後大将軍となった(演義では丞相)
病に倒れ、惜しくも亡くなってしまう
費イ 蒋エン亡き後の蜀を支えた男。北伐をしようとする姜維に
まず内政を安定させる事の大事さを説明した。
楊儀を失脚させるなど、腹黒いのではという説もある。
大臣職をそつなくこなす一方で博打や宴会をやるなどして
配下に好かれたが、張嶷の助言を無視して刺客に殺されてしまう
董允 政治手腕に優れた大臣で、劉禅の暴走を止める男でもあった
費イ亡き後、博打や宴会をやって好かれた彼のやり方を真似してみたが
とても出来るものではなく、費イの能力に感嘆したという。
劉禅が遊興にふけったり、黄皓を寵愛しようとした時
強く諫言して止めるので、彼の存命中は黄皓も悪さが出来なかった。
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/14(土) 18:31:29
キョウイは蜀の辛い料理が嫌だったんだよ
それは・・・師匠と同じか?
あれ?諸葛亮が甘いものが好きで辛いものが
苦手だった説はどこで見たのか思いだせん
717 :
715:2005/05/14(土) 20:21:01
蜀のジメジメしたところが嫌いだった
山に囲まれてる息苦しさが嫌いだった
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 11:01:40
日照時間が1250hの土地に標高5000級の山から水引いて
十万の兵を動かすだけの備蓄ってできるのかな?
諸葛亮が雲南の粟蒔いた時は不作だったんだろ
教えてえろいひと
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 13:02:46
>>719 五丈原の事か?
あそこは水のない台地だったのだよ
諸葛は作物出来なくて兵士に謝ったらしいし
湿潤で米作の四川のやりかたを乾燥した麦作の北方中原に持ち込んでも、そりゃ失敗するだろ。
諸葛亮
「よし、この地で農作を行おう。成功すれば
いつまでもここで粘る事が出来るぞ
姜維
「さすが農民出身の丞相、見事な妙計です。
王平
「これに成功すれば、漢王朝復興も果たせましょう。
-----四ヵ月後
諸葛亮
「すまん…この土地では稲作が出来なかった…
王平
「丞相…
諸葛亮
「うっ、一昼夜軍務やら農政やらばっかりやってて
目眩が…我が命もここまでか…
姜維
「やはり兵糧は、敵から奪うのが上策か…
魏延
「肉食いてえなあ。
724 :
720:2005/05/15(日) 22:48:41
後、四川野菜は良質の蛋白質を多く含んで栄養満点だよ
だから蜀の中だけなら育ちさえすれば問題ないかな
ちなみに五丈原で植えたのは栗みたいだよ
雲南栗だ
l..:.::::::::::::::::::::::::::::イ = =
|.:::::::::::::::::::::::::::::: | ニ= 馬 そ -=
|:r¬‐--─勹:::::| ニ= 謖 れ =ニ
|:} __ 、._ `}f'〉n_ =- な. で -=
、、 l | /, , ,ヘ}´`'`` `´` |ノ:::|.| ヽ ニ .ら. も ニ
.ヽ ´´, ,ゝ|、 、, l|ヽ:ヽヽ } ´r : ヽ`
.ヽ し き 馬 ニ. /|{/ :ヽ -=- ./| |.|:::::| | | ´/小ヽ`
= て っ 謖 =ニ /:.:.::ヽ、 \二/ :| |.|:::::| | /
ニ く. と な -= ヽ、:.:::::::ヽ、._、 _,ノ/.:::::| | /|
= れ.何 ら -= ヽ、:::::::::\、__/::.z先.:| |' :|
ニ る と =ニ | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|'夂.:Y′ト、
/, : か ヽ、 | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::_土_::| '゙, .\
/ ヽ、
726 :
719:2005/05/15(日) 23:24:26
>>720 諸葛菜か?輸送に耐える食料の備蓄はムリポ
そうすっとキザンに出たのは必然だね
ロウセイの麦に西方との交易(特に馬)屯田国家である魏の一番弱い時期だし
/ 地 .布 山 ヽ
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1 | 形 .陣 頂 |
. ゙、::::::::-‐''""" ̄"'i | じ す に |
. :V;;||:::: '~ニ=ッ, r='| .| ゃ る |
. i!f !::::: ゙、i | な よ |
. i!ゝ!:::: ‐/リ ヽ い う /
_ト::、 /''ii'V トr-、_ \ な /
, __. ィイ´ |:|: ヽ"''il|バ''〃 `i,r-- 、_  ̄ ̄
〃/ '" !:! |:| :、 . .: 〃 i // ` ヽヾ
/ / |:| ヾ,、` ´// ヽ !:! '、`
! |:| // ヾ==' ' i i' |:| ',
| ...:// l / __ , |:|::.. |
とニとヾ_-‐' ∨ i l ' l |< 孔 ヾ,-、_: : : .ヽ
と二ヽ` ヽ、_::{:! l l ! |' 明__ -'_,ド ヽ、_}-、_:ヽ
五丈原で作物作れないのはいんだけど、輸送の方は改善されてたんじゃないの?
少なくとも孔明が死ぬまで6ヶ月は布陣してた訳で
>>728 後の姜維も、秦嶺を越え、芒水で6ヶ月間魏軍と対陣してるしな。この時は屯田してない。
少なくとも、数万の軍勢が屯田なしで半年から1年の間駐屯できる
くらいの糧秣は確保できていたのだろう。
730 :
720:2005/05/16(月) 12:43:22
>>729 問題は、食料じゃなくて輸送なんだよね
改善されても安定してる訳じゃないから完全に手に入るように現地生産にしたみたいだよ
それに蜀は野菜とかが中心だからな〜大変だったんじゃないのかな?
腐らないように運ぶには
まあ〜野菜じゃなくて米とか栗だったのかも
冬期の秦霊山脈越えってどうなんだ?出来るの?
>>731 姜維の時は間に冬を挟んでいたが、食糧が不足したという記録は無い。
だから、少なくともこの時は冬期も滞りなく輸送できていたと思う。
四次元ポケット持ってたんじゃない?
北伐で蜀の財政が傾いたって言うし現地で略奪だけでなく金払って購入してたりしてな
姜維は第三次北伐に先立って、三路から攻めるという虚報を流したが、
これにはどんな意味があったのだろうか?
やはり分散させて各個撃破するという構想だったのだろうか?
この時の姜維は、全軍で枹罕に向かっている。
この事から、分散させた魏軍の内、涼州方面に展開した軍を狙っていた事が分かる。
察するに、敵の分散という事だけでなく、涼州の軍勢を南下させる事が姜維の狙いだったのだろう。
涼州に駐屯している軍勢を蹴散らせれば、羌族との連携は遥かに取り易くなる。
そうして後方の安全を確保した後、長安又は上ケイより派遣される軍勢と雍州で大会戦を催して勝利し、
その武威を根拠として隴西確保に動くつもりだったのではないか?
四次元ポケット持ってたんじゃない?
llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll
lllllllllllllllllllllllll/ ̄ ̄ヽllllllllllllllllllllllllllllllll
lllllllllllllllllllll / ヽllllllllllllllllllllllllllll
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 北 そ あ .iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiii| 伐 .こ き |iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| 終 で ら |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| 了 め |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;| だ .た .|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;;:;:;:;:
;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;| よ ら |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;;:;:;:;;
:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ、 /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
:. :. :. :. :. :. :. :. :‐‐--‐‐':. :. :. :. :. :. :. :. :. :.
: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ,.‐- 、 : : : :
廴ミノ
///¨' 、
y':;:;:;:/⌒i!
J:;:;:;:};:;:/;},
;il||||li' t`'---‐';:;:;:l
,.r'"''、,┘ 7;:孔明;;:;「
ノ姜維(⌒i .}:;:;:;:;:;:;;/
/..,__彡{, | `i:;:;:;:;:;}
( .ミi!} l、 .」:;:;:丿
クュ二二`Lっ) `==='
悪魔の囁き?
だいぶ昔の話だが249年の戦役について、やはり牛頭山と麹山の位置は一般的に知られてる場所で良いと思う。
牛頭山は孔函谷から隴西に抜ける途上の山岳地、臨洮を経て狄道に抜ける道と
石営を経て祁山に抜ける道の交わる地点にあったのだろう。
対して麹山は、牛頭山から祁山に抜ける道の途上、石営の西約40km地点にあると思われる。
やはり以前の議論の通り、魏侵攻の橋頭堡作りが目的だろう。
麹山からなら南安・祁山に大きな圧力を掛ける事ができる。
堅固な麹城で祁山方面からの魏軍を防ぎつつ、自身は牛頭山で狄道方面からの魏軍に備えると共に、
羌族の援軍を待つ。
軍勢が集結したら、改めて費禕と共に侵攻作戦を開始するという事だろう。
段谷の敗戦で喪失した遠征兵力補填のため、漢中の防衛兵力を引き抜いた、
と言われるが、どうも腑に落ちない点がある。
まず、段谷の翌年にそれまでと同程度兵力によって遠征を行っている事。
これは防衛体制変更の建議より前に行われた事だから、まだ防衛兵力を引き抜いていない。
建議は258年の秋か冬、遠征は257年。
それと、変更後の兵力は、漢・楽に5千づつ、陽安にも5千から1万程度いただろう。
更に、華陽国志後賢志柳陰伝によれば、彼は黄金囲を守っており、
黄金囲以外の要害にも将兵が駐屯していた事もうかがえる。
これらを考えると、変更後も漢中だけで2万程度の兵力はあった事になる。
また、姜維は防衛体制変更後、隴西方面に多数の防御陣地を構築しており、
それらの兵力を漢中から割いたとすれば、漢中から引き抜いた兵力、というのは更に少なくなる。
少なくとも、万単位の兵を引き抜いたという事は無いのではないだろうか?
もう飽きたよ
>>740 北伐の時、一万程度の別働隊も魏延に率いさせることはなかった。(魏延伝)
244年の駱谷(興勢)の役の時、漢中の守りは3万に満たなかった。(王平伝)
233年、曹真が侵入してくると李厳に2万人を率いさせ漢中に赴かせた。(李厳伝)
最後はあまり関係ないが、元々漢中の押さえは多くても4,5万くらいだったのでは?
兵を幾分か(おそらく1,2万くらい?それでも半数は十分大きいか?)動かした影響も大きかったろうが、
それ以上にそれに伴う守備体勢の変更の影響が大きかったのかな?
だから飽きたっての
>>743 誰もおまいには訊いてませんが?
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
ROMってるだけのダメ人間ですが勉強になるのでなにげに楽しみにしてます
良スレsage
>>742 恐らく、段谷は大敗とは言え、被害は逃亡も合わせて数千、多くても1万には届かない程度かと。
高貴郷公紀の詔勅でも数千だし、魏では水増しが慣例化してた事を考えると、
やはり万単位の兵が四散したとは考えにくい。
それでも蜀にとっては大きな被害であり、姜維の責は大きいが、遠征が頓挫する程ではなかったのだろう。
姜維の防衛体制変更の建議は、目的として遠征兵力補填も幾分かあっただろうが、
メインは哨戒を目的とした隴西方面の防御陣地の構築だったのかもしれない。
大きく見積もって、遠征兵力に5千程度、7ヶ所の防御陣地に合わせて5千程度だろう。
結果として漢中の兵力が減り、興勢や黄金などの要害に割ける兵力も減ったので、
漢・楽と陽安の3ヶ所に兵力を集中させる方針になったのだろう。
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/07(火) 00:30:28
飽きage
良スレage
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつなんだろうけど
あらあら
呉の四天王わかるひといたら教えて下さい。
呉桓、呉覇、呉敦、呉蘭、
まあ、堅牢な陽安関で蓋ができる漢中方面の兵力を削り、
隴西方面の哨戒に当てるというのも分からなくはない。
下手をすれば、下弁や陰平辺りまでは迅速に突破される可能性も高いし。
それと、魏の蜀平定戦における廖化の位置は、やはり白水関辺りなんだろうか?
諸葛緒を待ち受ける為に動かなかった事と、その諸葛緒が陰平橋頭に駐屯した事を考えると、
陰平橋より少し下がった場所で、且つ敵軍を防ぐ事ができる場所にいた事になり、白水関になると思う。
>>753 > それと、魏の蜀平定戦における廖化の位置は、やはり白水関辺りなんだろうか?
廖化は諸葛緒の軍に備えていたのは陰平だと思うよ。
姜維伝によると廖化は陰平まで来た時とあるし、沓中から撤退してきた姜維と合流したのも陰平とある。
鍾会伝には
> 姜維は沓中から引き返し陰平にたどりつき軍勢を集結し関城へ駆けつけんとしたが、
> 到着する前に漢城が既に敗れたとの情報を得、退いて白水へと向かい、
> 蜀将張翼・廖化らと兵を合わせ剣閣を守備して鍾会に抵抗した。
とあるし。
ちなみに姜維によると張翼・廖化が合流したのではなく、姜維・廖化が張翼と漢寿で合流したことが分かる。
>>754 いや、記述自体は知ってるよ。
ただ、陰平に駐屯していたら諸葛緒に退路を断たれてしまうし、場合によっては
剣閣の方へ進軍され、四川盆地へ入られてしまう可能性だってある。
それよりは、ある程度の防御施設が整っており、諸葛緒を遮断できる白水関にいたと考えた方が自然。
陰平橋に到着した辺りで諸葛緒の動向を察知し、そのまま待ち受けたが、
諸葛緒の兵力が大きかった為、退いて白水関にて諸葛緒を待ち受けたのだろう。
その後、姜維は諸葛緒をかわし白水に到着、廖化を留めおいて諸葛緒らの対処にあて、自分は関城へ急行した。
しかし関城が陥落した為、白水まで退いて廖化と合流、そのまま南下して剣閣に到達した。
剣閣に到達すると、張翼らが漢寿まで来た事を知り、剣閣まで呼び寄せて揃って固守したのだろう。
>>755 白水まで下がったら今度は姜維が前線で孤立してしまうよ。
あえて白水まで引き返して陰平を敵の手に委ねるのはデメリットが大きすぎる。
廖化は陰平まで来た時、諸葛緒の動向を知り、「留まって」これを待ち受けたと記述されてるし。
仮に諸葛緒が本来の役割を放棄し梓潼に進軍したとしても、廖化は張翼らの援軍と挟み撃ちに出来るわけだし。
流れとしては沓中から退却してきた姜維と陰平で合流し、それから諸葛緒の軍を抜いたと取るべき。
位置関係としてはケ艾−姜維−諸葛諸−廖化−張翼というラインではなく、ケ艾−姜維−廖化−諸葛諸−張翼。
>>756 姜維と廖化の兵力を合わせても3万に届くかどうかって所。
ケ艾の3万、諸葛緒の3万に挟撃されるような状況に自らを置くかね?
逃げ切れたとは言え、たった1日の差だったわけだし。失敗してれば倍以上の兵力に挟撃されていた。
あと、張翼と廖化で挟撃できると言うが、剣閣到達時の張翼の位置を考えると、
廖化が陰平に到達した時にはまだ動いてなかった可能性も高い。
それに、四川盆地に入らなくとも関城を裏から襲うという選択肢も諸葛緒にはあった。
関城が落とされれば鍾会の主力がなだれ込んできて、例え張翼が間に合ったとしてもどうにもならなくなる。
>>757 陰平で守るのも白水まで引くのもどちらもメリット・デメリットがある。
そういった状況にあるのに記述を無視してはダメだよ。
>>758 白水関を明け渡すデメリットの方が大きいと思うがな。
まあ、記述を優先すると言うならそれで良いけどね。
俺は自分の主張が絶対だなんて思ってないし、納得しないならそれはそれで構わない。
保守
保守
お馬はポコポコ
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/10(日) 20:48:45
どうせ飽きたっていうよりは、もともと考える頭もないやつしかいないんだろうけど
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 14:47:22
魏の方が国力が大きかったから、何もしないでおくと、蜀との差がひらくいっぽうだったのでは?
無駄じゃないよ。
>>764 だからといって正面からぶつかって勝てる相手でもない
費禕の死後は暴走としか言いようのない無謀っぷりだ
そりゃあ諸葛瞻や黄皓だって姜維から軍権剥奪しようと画策しますよ
>>766 姜維はなにも闇雲に正面決戦を挑んでるわけではないんだが
もうちょい搦め手使えやってことでしょ
搦手というけど、姜維は諸葛亮の様な正面からの侵攻は殆ど行っていないよ。
専ら涼州方面へ軽装で深く侵入しているし、自身に都合のいい状況で決戦を
強要する作戦が主。
その分、諸葛亮ほど兵站が十全でないため継戦能力は落ちる事と、それらが
複合的に災いするかたちで作用して作戦の幅をせばめてるところはあるけど。
俺たちのような凡夫では思い浮かばないような手段さ
>>767 正面からぶつかってってそういう意味で言ったんじゃないよ
つーか半分ネタのつもりだったんですが
完全に止まったスレだと思ってたのにマジレス帰ってくるとは・・・ゴメソ
要するに準備が万全に整っていない(というか整えることがもはやできない)状態にも関わらず
孔明の遺志を継いで自ら魏に出兵を繰り返しているのが馬鹿正直すぎるってこと
もっと蜀内部での自分の権力基盤を磐石にするべく立ち回り
前線は子飼いの部下に任せるような狡賢さがあってもよかったと思う
少なくとも黄皓に国政壟断されるよりは蜀の命脈も長続きしたと思うし
>>772 準備を整える事ができない状況って、いつ頃の事だ?
少なくとも、257年に秦嶺山脈を越えて関中に出た時は、数万の軍勢を滞りなく長期間運用できている。
準備を整えなかった出兵は、急遽諸葛恪に呼応する事となった第一次北伐と、
失脚を防ぐ為に、兵力も集められないまま出兵した侯和の戦いしかないと思う。
あと、姜維の性格からして政争には向かないと思うし、姜維以外に前線を支えられる将がいたと思えない。
>>773 兵力よりも人材だな
貴方が最後に言っている通り、姜維以外にろくな武将がいない状態で出兵するしかなかった
数万規模の軍勢を抱えていても採り得る戦術の幅はこれでは大きく狭まらざるを得ない
某所で閻宇が実は一角の武将であると聞いたがどうなんだろう
姜維の性格からして政争には面かないのは承知の上
その政争に向かない性格を惜しんでいるのだからそんなことを言われても困るな
>>774 狡猾で政争の上手い姜維ではなく、実際の姜維が採り得る、権力基盤を固める早道は、
やはり軍功を挙げる事だろう。
そういう点では、失敗したとは言え、権力固めにも最善を尽くそうとしたんじゃないか?
閻宇は馬忠の後任として各任地で功績を挙げた、とあるだけだからな。
蜀の軍部において主柱となり得たかと考えると、少し厳しいとは思う。
少なくとも、姜維に取って代われるほどの人材ではないだろう。
横レスですまんが、軍功を立てることを政争の延長としていたのだとすれば、
姜維が成都を空けている間にまんまと陳祗と黄皓にしてやられたわけで、
要するに実際の姜維ではダメだったってことでは?
まあだからといって陳祗や黄皓と政争したからといって上手くいったとは思えないけどね。
むしろ譙周あたりに完全に警戒されてもっとひどいことになりそうだ。
姜維や閻宇もいいですが、
たまには柳毅のことも思い出してあげてください
>>776 陳祗らに実権を握られたのは、ずっと外にいた上、大きな軍功も立てられなかったからだろう。
例えば、北伐が成功して一時的にせよ隴西を勝ち得た、なんて事になれば、
裏ではどうあれ、陳祗ら反姜維の連中も表向きは従わざるを得なくなるんじゃないか?
>>775 姜維が最善を尽くしたのはわかってるよ
最善を尽くしても駄目だったからこそのIF妄想なわけで
閻宇はやっぱ無理か・・・
本当に人材薄いよな、蜀って・・・
>>776 譙周って政治的影響力あったんだっけ?
蜀でも高名な学者で無血開城がこいつの発案だってことぐらいしか知らん
>>777 ・・・誰?
ぐぐったけど唐の時代の人か公孫度配下の武将しか出てこなかった
>>777は多分柳隠
華陽国志にしか登場しない人物だがかなりの名将だったみたいよ
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 10:16:43
姜維はがんばったよ。
頑張ったけど負けたと考えるか
負けたけど頑張ったと考えるか
それはその人次第
そうだね
口語にしてみると多分わかりやすい
「確かにあいつ頑張ったけど、結局負けてんじゃん」
「結局負けちまったけど、あいつはよく頑張ったよ」
全然違うでしょ
787 :
張良:2005/07/14(木) 13:30:04
後者だな
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 14:21:00
姜維一人でよくがんばったな
負けたら意味ないけどな
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 18:20:10
なら、皆に問おう
あの時魏延が生きてたらどうなってたの?
敵をバッタバッタ?
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 18:25:47
?
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 18:28:47
魏軍全滅
局地的な戦闘の勝率はさらに跳ね上がるだろうが
国力の疲弊も倍になると思われるので滅亡がもっと早まったかも
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 22:48:08
>>793 やっぱり?
只魏延は兵士とか育てるのうまいみだから
もしかしたらって思ったが
兵士を育てればどうにかなるような国力差とも思えないからなあ。
蔣琬や費禕じゃ魏延を制御できないだろうし、
坂を転がり落ちるように自滅の道を歩む気がする。
ただ、もし仮に五丈原で魏延が軍権を掌握して戦闘を継続していれば、
もしかしたら司馬懿の首をとることはできた・・・かもしれない。
そうなればその後の展開は全く違ったものになるだろうからわからんね。
俺は頭悪いからそこまで壮大なIFは構築できない。
魏延は、名前と顔が悪いから。
孔明から陰湿ないじめにあっていた。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 00:03:20
姜維が戦わなかったら逆に司馬懿が大軍で攻め込んで持久戦して疲弊しまくっただろうよ
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 00:03:54
>>797 だからといって姜維が国力を疲弊させたという事実は消えないと思うぞ
たとえ結果が同じでもそこは無視しちゃイカン
勝率が跳ね上がるって程変わるとも思えんけど。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 00:18:28
そもそも荊州を呉に取られたバ関羽が悪い
ホウ統が流れ矢なんかで死ななければなあ・・・
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 00:49:33
劉備がホウ統に会った時に小柄で不細工だったから軽視したらしいけど
これは上に立つ人間としてはトンデモな話だな
曹操も小柄で不細工だったらしいけど
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 00:51:03
関羽←間違いなくA級戦犯だろ
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 01:21:22
軍事面で卓越した才能を持ちながら、
意を同じくする協力者に恵まれなかったという点にクローズアップすると、
魏延と姜維、両者の境遇にはどこか似た雰囲気がある。
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 01:55:53
そのような雰囲気はない!
>>805 いや質が違うだろ二人とも
魏延は完全に軍人だけど姜維は違うよ
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 06:55:45
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 08:50:35
話変わるけど孔明死後の魏って吉野ヶ里と戦う邪馬台国に相当数の軍派遣してるはずなんだけど
時期的にみてこの軍は司馬氏の専横から逃れてそのまま大和朝廷立てちゃったんじゃ…
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 09:05:39
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 09:13:49
魏延は十分すぎるほど司馬イに勝てるぞ
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 09:14:44
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 09:42:51
魏延が司馬懿なら韓玄最強だな
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 09:45:07
ところで魏延と黄忠って本当は親子だったりして
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 10:14:33
>>814 まさか(iдi)
姜維と魏延ならドッチかが誘導隊に出来ると思うけど
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 13:48:54
孔明にできなかった事が姜維にできるわけがない。
終了
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 13:51:25
何いってんの
そこを考えるんだろ
818 :
超漁志望abcddfghijklmn:2005/07/16(土) 13:52:57
魏が強すぎたからね。韓信みたいな武将がいたらもしかしたらだね。
孔明は実戦経験が無かったんだよ( ^∀^)ゲラゲラ
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 13:53:44
孔明にできなかった事が姜維にできるわけがない。
孔明はAB型 姜維はA型
器が違いすぎる
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 13:56:43
822 :
超漁志望abcddfghijklmn:2005/07/16(土) 13:56:53
>>820 血液型は関係あるのか?ちなみに君はAB型じゃないだろうな?
だとしたら、君は器が……
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 14:05:45
孔明にできなかった事が姜維にできるわけがない。
終了
824 :
大元帥:2005/07/16(土) 14:07:35
再開
机上の空論しか出来なかった孔明に郝昭を破れるわけないだろう( ^∀^)ゲラゲラ
826 :
カツヲ ◆g6inFbM64o :2005/07/16(土) 14:18:22
諸葛亮
エラの張った四角い顔をして人を見る目が厳しいく
自分に好都合の人を選ぶのがうまく閥を作り易いのです。
趣味や特技への傾倒度が大きく収集癖があります。
親との縁が薄く金銭の苦労もあります。人気家業に向き
失敗や貧困を人一倍恥と考えます。気位高く清潔好きで見栄っぱりですが
まじめな努力家なのです。技術系、アイデア商売で才能発揮。順応性大きく成功します。
順調な繁栄をする家系で一族の団結強く女性を中心に繁栄します。よい収入源を得て金運、子供運、
仕事の実績運強く内外の信用は抜群で生活は堅実、一時的損もすぐ取り戻す事ができます。
独創性豊かで温和にして文芸文学、技術に秀で、手先が器用で
人の技術や極秘のポイントを盗みとり自分のものにするのが得意です。
まじめに一歩一歩努力して扶養義務も平気でやってのけ自分の信用を築いていき
地位、名誉、財産を得るでしょう。健康面では、腰部(痔病、座骨神経痛婦人病)や
胃腸の部分が弱いので気をつけてください。開運法は、師と仰ぐ人を探すとき
日本一、世界一の実力者、尊敬できる人に会うことが最高の開運法です。
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 15:12:05
孔明の話ではない
828 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 15:16:47
でも姜維は結果的に魏を滅ぼした原因では無かろうか?
元々蜀将じゃないのに敗戦後まで諦めずに反乱画策した姜維は凄い
結局趙雲が長阪で阿斗を救出しなければ良かったんだ全部趙雲のせい
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 17:55:21
何いってんの
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 17:56:47
何いってんの
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 19:15:31
このスレよりは無駄じゃないよ
関羽が荊州失陥しなければ姜維も蜀に投降することはなかったかもしれんな
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 02:23:58
>>832 しつこいな、こいつ。蠅取り紙なみの粘着力やな。シネや。
関羽が失策したおかげで姜維が来てくれたんだからまあいいジャンって意味かと思った
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 10:43:48
そもそも、何故魏の降将である姜維や夏侯覇が最後まで粘ったのかが不明。
特に夏侯覇なんて、蜀に居続けるよりも呉に寝返った方が確執がなくて幸せだったと思うんだが。
>>835 張飛の妻の夏候氏と関係があったからさ。
あれって魏略の話だしあんまり信用できないんだけど
良家の娘が薪拾いしてるのも不自然だし
一回裏切った人間はもう外では信用されない。魏に戻れないのは無論、呉にしても、孫権の性格からして扱いは理解できる。
魏からの流れ者が蜀で奮戦したのは、他に行き場がないから。
839 :
親漢文王 蕎序 ◆g/NeWOnF.. :2005/07/17(日) 11:21:17
魏略は劉禅拉致事件っていう前科があるからな
蔣琬の死後、劉禅が蜀の国政を直接執ったって記述もうーん?って感じだし
魏国内以外のことに関してはあんまり信用しないほうがいい
良家とは言うが夏侯氏の娘が張飛にさらわれたのって官渡の勝利前でしょ
あそこ以前は曹操陣営ってそんなに金持ちじゃないし十分ありえるんじゃない?
家の財産全部投げて曹操についてたとしたら奴隷とかもそんなに飼っておけないしさ
軽い家事の手伝いくらいはするかと
あとdは物貰っても部下ににら撒いて足りない場合は役所から支給を受けたって言うじゃん
そのせい?で息子守銭奴化してたよね
淵もそんな感じで色々ばら撒いてたとしたら家には余計な資産なくて娘も家事手伝いくらいはするかもしれん
まあ魏略だからと全部疑うのは勿体無い
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 13:17:52
話が違う
官渡の決戦目前に控えて男衆はほとんど戦に出て人手足りてなかっただろうし
三国時代は女が薪拾いするのは普通だったのかもしれんし
夏侯淵の姪っても劉備の家だって劉備親子は赤貧だったけどおじさん金持ちで
おじさんの女房は「家計は親族でも別にするのが普通」とか言ってるし
まあ薪広いがそんな不自然とは特に思わんかな
>>837 『礼記』を読みましょう。
たとえ貴門の子女であっても仕事はあります。
というよりも家の中、特に士階層以上の場合では父母舅姑の存在や命令は
絶対的なもので、子女は細部にわたり過怠なく勤める事とされています。
また、女は外出時には必ず顔を隠すのがしきたりです。
呉は状況によっての日和見だったからな。
他国からの降将なんかその国との国交がヤバ気になったら送り返されたりしたしね。
夏侯覇としたってそこまでヤバイ橋は渡れなかったんだろう。
あの頃は呉も二宮の変とかでごたごたしてたしなー。
張飛の奥さんが夏侯淵の埋葬を希望したのって出典何だっけ?
費イは郭循に刺されてるし、残った魏の降将は余計に頑張っちゃうとか
今いたらかなりキティに見えるだろうなぁ
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 21:18:21
アメリカン
849 :
837:2005/07/18(月) 01:29:21
>>840 >蔣琬の死後、劉禅が蜀の国政を直接執った
個人的にこれは結構興味深いと思う、
というのも蔣琬の死後、費イが完全に国政を統括してたかというと、
かなり微妙なところがあると思うんだよ、
246年に劉禅のお目付け役であるの侍中董允が死去し、
新しく侍中になった陳祗の台頭が始まる、元々陳祗は費イが引き上げた人物ではあるんだけど、
251年の呂乂の死去で尚書令、さらに鎮軍将軍の官位が加えられるなど、
248年から費イが漢中に赴任してる間に出世していく様子が分る、
そしてその251年には成都に帰ってきた費イが「宰相の位が無くなってる」
と再び漢中に帰ってしまうんだよね。
魏略も間違いというよりは、こういう政治背景があって、
それを劉禅が国政を直接執ったって表現になったのではないかと思う。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 00:35:59
他のスレでも聞いたが、いまいち解決しなかったので、ここで質問させてもらう。
姜維が中郎の官を賜った後、光禄勲府にも出仕せず、州にも残らず、
天水郡で軍事に携わったのはなんで?
>>852 光禄勲府に属する中郎の官じゃないから。
>>853 他に中郎の官があるんですか?
できれば具体的にどういう官職だったのか教えてもらいたいです。
>賜維官中郎,參本郡軍事.
は中郎の官位で本郡の軍事に与れ。という命令じゃないかな。
>>855 つまり、中郎は名目だけで、実際には中郎の仕事はさせずに、
「天水郡に戻って軍事に与れ」という命令が下ったという事?
「名目だけ」というより「中郎待遇」ってことだと思う。
州の従事であるが父親の縁があるので郡に出向させられたってところかな。
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 19:12:41
中郎となれば、中央政府の官僚扱いだろうから、地方叩き上げと比べれば雲泥の差って事で名目ってよか、名誉って感じかな。
将来の昇進の可能性も含めて。
そんで、天水郡の軍事に参与せよ、ってのは故郷に錦を飾る、ってのに近いかと。
いちいち功績を残した地方官の子弟を中郎にして中央に上げてたらキリが無いし。
形式的には中央官僚で、実際は地方官扱い。その後良績であれば、中央への招致の可能性もあるよ、と。
860 :
金正日 ◆VykG4Xiupo :2005/08/04(木) 19:16:23
:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:..:.:.:.:
.:.:.::.:.:.:.:.:.:.:.:...:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
.:.:.:.::.:..:.:.:.:..:.:..:.咥:..:..:.::.::.:..:.:.:.:..:.:.:.:::.
.:.:.:..:..:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:..:..:.:.:
.:..:..:..:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.::.:.:..:.:.:..:.:.:.:.:..:.:.::.:
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 23:46:11
今、天下三分し、益州疲弊せり・・・
_,,. -‐‐‐‐‐‐- 、
lヽ ヽ ヽヽヽ ヽ
ノ::::゙、 ヽヽヽヽ ゙、 = =
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1 ニ= 孔 そ -=
゙、::::::::-‐''""" ̄"'i. ニ= 明 れ =ニ
V;;||:::: '~ニ=ッ, r='|'〉n_ =- な. で -=
、、 l | /, , i!f !::::: ゙、i,|ノ::|.| ヽ ニ .ら. も ニ
.ヽ ´´, ,i!ゝ!:::: ‐/リ|ヽ:ヽヽ } ´r : ヽ`
.ヽ し き 孔 ニ. /|{/:、 :::、 /''ii'V |.|:::::| | | ´/小ヽ`
= て っ 明 =ニ /:.:.::ヽ、 \ "''il|バ'' |.|:::::| | /
ニ く. と な -= ヽ、:.:::::::ヽ、._、 _,ノ/.:::::| | /|
= れ.何 ら -= ヽ、:::::::::\、__/::.z先.:| |' :|
ニ る と =ニ | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|'夂.:Y′ト、
/, : か ヽ、 | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::_土_::| '゙, .\
/ ヽ、
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 23:48:10
/ 時 .開 ま ヽ
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1 | 間 .始 だ |
. ゙、::::::::-‐''""" ̄"'i | じ す 北 |
. :V;;||:::: '~ニ=ッ, r='| .| ゃ る 伐 |
. i!f !::::: ゙、i | な よ を |
. i!ゝ!:::: ‐/リ ヽ い う /
_ト::、 /''ii'V トr-、_ \ な /
, __. ィイ´ |:|: ヽ"''il|バ''〃 `i,r-- 、_  ̄ ̄
〃/ '" !:! |:| :、 . .: 〃 i // ` ヽヾ
/ / |:| ヾ,、` ´// ヽ !:! '、`
! |:| // ヾ==' ' i i' |:| ',
| ...:// l / __ , |:|::.. |
とニとヾ_-‐' ∨ i l ' l |< 孔 ヾ,-、_: : : .ヽ
と二ヽ` ヽ、_::{:! l l ! |' 明__ -'_,ド ヽ、_}-、_:ヽ
結構前だったと思うけど、能力値スレで姜維の政治力の話になった時にちょっと振ってみたが、
議論されずにそのままスレが流れていったので、こっちで少し話をしようかと思う。
こっちなら荒れないだろうしね。
姜維は録尚書事という、国政のトップに、それも費イと並ぶ形で就任してるけど、
これはどういった経緯で行われた人事なんだろうか?
時期的に見ると、蒋エンの死の直後だから、やはり蒋エンの後任としての役割があったと思う。
これは単なる妄想なんだけど、蒋エンをトップとした外征に積極的な派閥と、
外征には懐疑的で、国力の充実に努めようとした守勢派、更にその中間にあって、
両者の間を取り持っていた費イらを中心とした派閥があったのではないだろうか?
本当は費イも守勢派としたいんだが、以前の議論を考えると、それはやはりしっくりこないので。
蒋エンの死の少し前辺りから、実権が費イに移っていったが、費イ自身北伐に理解を示しているとは言え、
そのスタンスはどちらかと言えば守勢派に近い。
そのまま行けば、外征派は切り崩され北伐は完全な中止を余儀なくされる。
それを憂いた外征派が、なんとか国政の中枢に外征派の人物を送り込もうと、
持てる政治力の全てを結集して姜維を録尚書事に就任させたのではないだろうか?
姜維は文武両面に明るく、蒋エンの片腕として外征派のNo.2に納まっていたし、
蒋エンの後任としてはピッタリだったろう。
自分自身、よく考えが纏まってなく、上の文章も思い付きで何を言ってるのか分からない所もあるが、
とにかく、それまで軍事畑を歩いてきた姜維が録尚書事に就任した事について、色んな人の意見が聞きたい。
>863
まず、前提として蜀漢政府あるいは蜀漢全体の共通した認識として諸葛亮の後任者は一人で努められるものでは無い、そして諸葛亮路線(北伐の実施等でなく人事面)の継承ってのがあったんじゃないかな。
諸葛亮の後継者は表面的には蔣琬だけども、大将軍・録尚書事の蔣琬&尚書令の費禕の連立政権的な意味合いが強い。つまり二人で一組って感じ。
で、蔣琬が病気で費禕が事実上トップに立つ訳だけど、蜀漢全体の共通認識が二人で一組的なものだとしたら、費禕に誰かつけよう、と言う事になる。
その中で選ばれる基準は、諸葛亮の引きがあったもの、階級的序列、蔣琬政権から費禕政権への引継ぎをに担える等があると思う。
その辺りから、姜維が選ばれたのではないかな。
姜維なら、全ての項目にある程度の合格点は与えられる。
まず、諸葛亮の幕府から出た人材であり、当事の階級では上位であり、年齢的にも高齢でもなく若すぎず費禕に対してバランスが良い。で蔣琬政権では幕僚長的な位置におって、費禕政権への引継ぎにも適任。
蔣琬政権の政策が費禕政権で改められる部分がある場合、前政権の構成者(つまり姜維)が居った方が政府内での引継ぎがスムーズに行われる。
しかも、諸葛亮も評した通り軍事に通暁している。
あくまでも費禕が政権の主催者だが姜維がそれを補佐する形であれば適任ではないかな。
外征派・守勢派とかでなく、当事の政権構成者の状況でなるべくして成ったと言う部分が大きいと思う。
後に費禕が想定外の急死をして序列上、姜維が政権を主催したのは蜀漢にとっても姜維にとっても不幸だったかもね。
>>864 確かに二人で一組ってのはあるかもしれないね。
後の人事では、諸葛瞻と董厥が共に平尚書事になってるし。
二人一組だと考えれば、蔣琬政権の重要人物だった姜維が選ばれるのも当然で、
派閥闘争的な意味合いは薄いのかな。
やはりまだ考えが浅かったかもしれないな。
>865
そうそう。後の諸葛贍&董蕨の場合は上に姜維がいるけど、この頃(261年)以降、姜維は政権運営を事実上投げ出しちゃってるからね。
結果論的に外征派VS守勢派みたいな取り方が多いけど、蜀漢末期の姜維の外征政策に対する異論・批判が多いのであって、派閥的なものは少なかったのではないかな。
蜀漢の国是として中原回復の御旗は降ろせない以上、状況が許せば外征を行うのは当然でしょう。
ただ、姜維の場合そういう状況であったかどうか。
>>866 事実上投げ出していたのは確かだけど、自分は、諸葛瞻らの就任によって、
政権運営を投げ出さざるを得なくなったと思うんだよね。
258年末に行われた漢中の防衛体制変更の建議が、あっさり承認された事からも、
陳祗の死の直後は、政治権力は再び姜維の手に戻っていたと思う。
ただ、批判の噴出し続ける外征路線を、いまだ強行しようとした為、
政権内での孤立をますます深めていき、諸葛瞻らの平尚書事就任や、
黄皓らの姜維更迭の動きを呼び起こしてしまい、成都への帰還すら出来ない状況になったと。
つまり、政権運営は、姜維が自発的に投げ出したわけではなく、秦川への出兵以降、
姜維の外征路線に反対する面々との間で行われた政争の中で、放棄せざるを得ない状況に追い込まれたんだと思う。
多数派である反対派を抑えて外征路線を続けるほどの政治力は、姜維には無かったって事かな。
>867
その辺りは人それぞれの見方なので否定も肯定もできないけどね。
俺の意見では、陳祇の死去の頃の258年、姜維は成都に帰還してるよね。
おそらく、陳祇の後任人事の為に帰還したんだと考える。
その頃の姜維に事実上、国内政治No.1である尚書令を決める実質的な権限が残っていたか、なんだけど、まだ残っていたと考える。
その理由としては、陳祇死去後の蜀漢に重要人事を司る事の出きる人材が姜維以外にいない、と言う逆説的な理由で。
256年以降、姜維の外征の顛末から批判は強かったろうけど、また姜維以上の能力と言うと変だけど人物は不在。
で、258年の人事は長らく陳祇の次官であった董蕨を尚書令に、諸葛亮の遺児で蜀漢の重望である諸葛贍を後のトップ含みで尚書僕謝に、ってある意味順当な人事。
その後、姜維は成都に帰還せず、ほとんど自身の職務を野戦軍の指揮官に限定してしまってる。
少しでも成都に帰還してれば中央での影響力も残ったかと思う。それが出来なかったか、しなかったのかは一行目の通り。
姜維が国内を省みない以上、少なくとも国内における責任者を置かねばならず、諸葛贍が後のトップたる位置にいたとするなら、諸葛贍・董蕨体制を構築したんだと思うんだよね。
この流れは、董蕨と諸葛贍の位置が逆転するけども、尚書令&尚書僕謝が平尚書事に就任すると言う意味ではおかしな人事ではない。
その流れを258年の段階で姜維が創ったとするなら、政争的な意味の人事では無いと思う。
ただ、結局蜀漢に良かれ悪しかれ姜維以上にイニシアチブ取れる人物が居らず、姜維に批判的であっても姜維を頼らざるを得ない体制ってのが一番問題だと思う。
当事の蜀漢に人物が居なくて、姜維を批判しても実行に移せる対案を示せるだけの人物が居なかった、って事でしょうね。
でも、姜維が成都に帰らなくなったのは、華陽国志によれば、262年の秋以降で、
少なくとも262年春の時点では成都にいた。
諸葛瞻らの人事が行われれた261年の段階では成都にいたのだから、
姜維が責任を放棄してしまった為に諸葛瞻らが平尚書事に就任した、と言うのはどうかなと思う。
自身の後任に董厥らを指名したのが姜維自身だとしても、少なくとも261年の段階では、
政権を彼らに手渡す気は姜維には無かったんじゃないかな?
彼らの人事が行われた翌年、262年の春に、政治を矯正する為、黄皓を除こうとした事からも、
姜維が未だ中央政治に関心を寄せていたのが分かると思う。
ああ、262年まで居たか。
でもね、261年人事を姜維が主導したとしたら、国政の最高責任者たる尚書職の総責任者を諸葛贍らに委ねると言うとは政権を事実上放棄した、という部分の補強にもなるんではないかな?
262年まで成都に姜維が滞在していた事で姜維自身も直接人事に関われる可能性が高い以上、消極的・積極的は別として、この人事は姜維が推進した可能性が高い。
少なくとも国内政治と言う部分では諸葛贍らに委ね、自身は軍事のみと限定してしまったのだと思うよ。
黄皓を排除しようとしたは、黄皓の存在が姜維の外征の邪魔になると考えたか、近い将来訪れるはずの名実共に整った諸葛贍政権への置き土産か、その双方でないかな。
姜維も諸葛亮系の士大夫である以上、宦官が国政に影響を与えるを好しと考えるハズは無く、自身の影響力が行使出きるうちに排除を企てたのかも知れない。
この辺は士大夫階級の思考や思想の問題であって、国政への関心以前の問題と考えるけど。
諸葛贍以下の諸葛亮の育成した士大夫連中も黄皓がでかい顔するのは、好ましくはなかっただろうし。
れ〜んど〜 れ〜んど〜
γ´⌒ヽ たっぷり れ〜んど〜
| ( ゚д゚) in 剣閣
| 姜 |
l 維 l
〉 j
'⌒Y⌒Y⌒ (__,ノ
>>870 レスが遅くなりました。何と返そうか迷っていたもので。
黄皓の政治への参与を良く思わないのが当然と言うのは、確かにその通りだと思う。
全体としても強く反論できる所は無いんだけど、少し意見を言わせてもらえば、
蜀政権内において北伐反対派が主流派となっている状況で、政権運営を諸葛瞻らに委ねてしまえば、
例え軍権を手放さなかったとしても、北伐の挙行が政権委譲前に比べ困難になるのは目に見えてる。
加えて、黄皓の排除に失敗した直後に行った侯和への出兵が、以前と比べ小規模だった事を考えると、
当時の姜維に動かせる兵力は大きく減っていたと考えられる。
この時の政権運営を姜維自身が行っていたなら、この遠征での兵力をもっと大きくできたのでは?
そう考えると、政権運営を放棄した場合、自身の仕事を軍事に限定したとは言え、
その仕事に足枷を着けられた状態になってしまう。
そういった状況を姜維が進んで構築したか、と考えると、やはり少し納得がいかない。
自分の主張が推測を多分に含み、満足な信憑性が得られるものではない、というのは分かってるんだけどね。
874 :
873:2005/08/29(月) 01:38:45
それと話は変わるが、やはり胡済という人物は二人存在したと考えるべきなんだろうか?
三国志集解では二人いたという可能性も指摘されているようだし。
華陽国志をよく読むと、偉度の方は248年に驃騎将軍に昇進し、王平に代わって督漢中となっている。
その8年の後、姜維が鍾提から祁山へ向かおうとした時に出てくる胡済は、
驃騎将軍ではなく鎮西大将軍であり、258年の時点で督漢中は胡済。
督漢中はそのままで驃騎将軍から鎮西大将軍に落とされたにしても、降格の記述が全く無いのは変だし、
段谷の大敗の一因となっていながら、何の処罰もされず督漢中を続けているのも変だ。
>>874 華陽国志はわからんけど、三国志の注では胡斉は右驃騎将軍まで昇ったとされてる。
この記述を信じるなら蜀における驃騎将軍の分置時期がいつか?ということで結論は変わってくる。
ちなみに車騎将軍の分置時期がおそらく259年のことであるのだが、
車騎将軍より序列が一応上の驃騎将軍がそれ以前に分置されたということは考えにくい気がする。
ただこの右驃騎将軍という表記にしても同時期に左驃騎将軍にふさわしい人物が見当たらないので
もしかしたらなにかの間違いの可能性もあるのではないかと個人的には思う。
また249年頃は蜀において驃騎将軍は不在(大将軍費禕、車騎将軍ケ芝、衛将軍姜維)なので
この時期胡斉が驃騎将軍に就いていた可能性も大きい。
であれば胡斉2人説はかなり有力。
ただし、低いながらも高翔か呉班が驃騎将軍に就いていた可能性もある。
高翔の場合、大将軍の座に就いたのが費禕の前か後か?
呉班の場合、いつまで生きていたのか?
が問題になる。
まあいずれにしても材料少なすぎ。
あと段谷の敗戦の件だけど胡斉にそれほど非は無かったからという可能性もある。
合流できなかったのにはやむを得ない事情があると認められたりとかね。
だからその後も漢中を任されていたのではないかな?
まあ政治力学の結果という可能性もあるけど。
ただその2年後、姜維が大将軍に復帰すると漢中から漢寿に下げられてるので姜維には含むところがあったのかもね。
ネタスレかと思って覗いてみたらすげえレベル高くてびっくりした
勉強になります
>873
丁寧な返答、ありがとう。
また繰り返しになっちゃうけど、その辺りは、個々の考え、捉え方の差でどっちが正しいとは言えない、ってのが正直なところ。
例えば、尚書職の総責任者は諸葛贍らに委ねた件についてだけど、諸葛贍らに委ねる事で姜維自身が、自分の権限が制限されると考えていたかどうか。
国内政治を委ねる事で煩わしい事項が減ると考えたかもしれない。
姜維に全く政治的センスが無くて、尚書職を他者に委ねても、足枷になるなどと全く考えて無かったのかもしれない。
逆に遠征反対派との妥協の産物で、生まれた人事かもしれない。
ただ、私見を述べさせてもらうと、一般的に蜀漢内で反戦派と呼ばれてる派閥には人物がいない。
おそらく、実際は姜維(戦争)VS反姜維的(反戦)な尖鋭な対立には無く、反対派と言われている人々も姜維がトップであること自体に反対ではないし、戦争も不可ではない。
ただ、外征一辺倒では困りますよ、と言う程度でなかったかな。
その辺から、261年人事に関して、姜維自身、そんな深く考えていなかったと思う。
将来の最高指導者は諸葛贍と言うのは当時の蜀漢では共通認識だったろうから、姜維が国内の厭戦気分を感じていたなら、この人事を積極的に進めた可能性もある。
諸葛亮人気は高かったからね。
侯和の兵力が少なくなっているのは、蜀漢の人的資源の問題も大きいのではないのかな。
蔣琬時代の10年弱、若干平穏な時期があったけど、劉備の入蜀以来、戦争に次ぐ戦争だからね。
建国以来の人的資源の限界が表面化した、って部分もあると思うよ。
特に姜維時代は軍事行動が大きいわけだから。
878 :
877:2005/08/29(月) 19:29:46
続き。
胡済については同一人物と考えてます。
右驃騎将軍になった胡済の経歴は、費禕と同世代の人物(180年代後半〜190年代後半の生まれ)ってのが推測できる。
だとすると、段谷の役の時(256年)は60代半ば。現役の将軍であってもおかしくない。
蜀漢の官職の位階で鎮西大将軍は相当な顕職だから、相応の年齢だろうし、それ以前に全く記述が無い「胡済」より費禕と同世代で諸葛亮の幕府出身である、驃騎将軍になった胡済と同一人物である方が自然だと思います。
おそらくだけど段谷の頃鎮西大将軍で、259年前後(張翼等が左右の車騎将軍になった頃)に右驃騎将軍になったのではないかな。
張翼等も左右の車騎将軍になった段階で事実上の退役状態だったろうし、胡済も右驃騎将軍になった事で現役を離れたのではないでしょうか。
つまり、259年前後の漢中防衛システム改変に伴う人事異動で、胡済を右驃騎将軍に昇進させるから(花道的昇進)、引っ込めって感じで。
この頃、胡済(偉度)、張翼・廖化らは70歳前後なので引退の時期だったんじゃないかな。
ただ、滅亡時に張翼らが駆り出されてるのは国家滅亡の危機だったからでしょう。
漢寿に遷され〜の記述以降、胡済が全く登場しないのは、蜀漢滅亡までに死去したか、病身だったんじゃないかな。
二人目の胡済がいれば、どっちも顕職だったから、滅亡時にどちらか登場しそうなもんなんだけど。
華陽国志はたまに時代をすっ飛ばす時があるので注意を。
永安都督も陳到から宗豫に繋げちゃってるから。
呉班、高翔の可能性も
>>975さんの言うとおりゼロではないだろうけど、五丈原の頃に50代前半以下(おそらく60近いか越えてたかも)の年齢だった可能性がほぼ無い二人が250年以降に存命してた可能性は・・・。
ただ、全体的に
>>975さんがおっしゃる通り、史料が少なすぎるから別人だった可能性も否定は出来ません。
長々、すみません。
879 :
873:2005/08/29(月) 19:30:52
>>875 華陽国志の記述に関しては、劉後主伝の所を読んでもらえば分かる。
ttp://www.chinapage.com/big5/big5.html 原文はここにあるし、後主伝ならネット上に訳もあったはず。
そこの記述によれば、248年に王平が死んだ後、中監軍の胡済を驃騎将軍・假節領兗州刺史とし、
王平に代わって督漢中事としたとある。
このスレの最初で、「胡済は約束を破ったのではなく合流できなかった」と主張したのは自分だから、
罰さなかったのではなく、それほど大きな罪ではなかった、と考えるのも分かるんだが、
二人いたとした方がしっくりくると思うんだよね。
まあ、いずれにせよ判断材料が少ないと言うのはあるけど。
>>877 厭戦気分が広がっていたので、国内で人気のある諸葛瞻をトップに据えた、というのはあるかもしれない。
姜維の政治的センスに関してはどうなんだろうね。
姜維更迭の動きをいち早く察知した事や、陳祇の死後権力を素早く自身の手に戻した事を考えると、
人並み以上はあったと思うけど。
まあ、あなたの言う通り、結論は出ない事だと思う。
880 :
873:2005/08/29(月) 19:35:15
>>878 >>華陽国志はたまに時代をすっ飛ばす時があるので注意を。
>>永安都督も陳到から宗豫に繋げちゃってるから。
そういう点は見落としてた。
やはり一人なんだろうか?
ちくまの訳本では二人説を採ってるみたいだね。
自分も、「二人なら段谷の件で処罰されて無い説明がつく」というが先にきちゃったかもしれんね。
881 :
873:2005/08/29(月) 21:34:52
どうでも良いような話なんだけど、
陳泰が王経に対し、兵力の集結を待ってから姜維に当たるべき、とか、
城を固めて姜維と矛先を交えるな、というような指示を出してる。
ニセクロ氏も言ってるように、これは姜維に当たる場合は全くもって正しいと思う。
それで、陳泰が姜維に対してこういう方針を確立したのはいつ頃なんだろうな、
とボーっと考えてたんだが、これはやはり、254年の戦役の後だと思う。
それ以前、麹山においても、253年に姜維が南安を包囲した時にも、
姜維と魏将はまともに会戦してない。
254年に徐質が大敗を喫した時が初めてだったと思う。
この時は陳泰自身も姜維の将器を計り切れておらず、
徐質に大きな兵力を預けて当たらせるだけで事足りる、と軽く見てたんじゃないかな。
徐質の大敗を以って、姜維とまともに会戦するのは危ない、と考えたんだと思う。
882 :
877:2005/08/29(月) 22:32:16
>>873=879=880=881
状況証拠的なモノなんだけど、蜀漢の場合、時の最高指導者(諸葛亮・蔣琬の場合)が漢中にある程度の期間駐留している場合、漢中都督を置いてないんだよね。
諸葛亮の時は魏延が異動し、呉懿と王平の間は蔣琬。王平死後は王平の死去直後なんで費禕が出張ったのかもしれんけど、以前にここの
>>299前後で書き込んだけど、この費禕の漢中駐留もある程度大きな軍事行動(予定)だった可能性もある。
大本営的なものが前線に存在してるから前線司令部は大本営に吸収されてたみたいな感じだったんじゃないかな、蜀漢の場合。
だから、胡済の督漢中就任は費禕の成都帰還前後だと考えるけど。
王平の死去と胡済の督漢中の間には陳到〜宗預のような間があったんじゃないかな。
確かに、都督人事だけをみれば、華陽国志は間違いじゃないけどね。
胡済の約束破りは不明ですね。
俺は姜維の見切り発車的な作戦発動で胡済と詳細な作戦のすり合わせを行ってなかったんじゃないかな、と想像してるけど。ま、妄想の類。
姜維の政治センスは、蜀漢に他に人材がいないので相対的に姜維がトップになるだけで、人並み以上って事は無いんじゃないかな。
蜀漢だけに限れば人並み以上かもしれんけどね。
883 :
877:2005/08/29(月) 22:40:56
>873=881
魏の蜀漢への対応は諸葛亮時代に確立したんでないかな、基本的には。
要所を堅守して、撤退を待つ。どうせ兵站が続かないのだから。って感じで。
姜維の場合、基本的には同じなんだろうけど、諸葛亮に比べてはるかに運動量が多いから、諸葛亮の北伐以来、約20年ぶりの本格的な対戦で対応が遅れたのかもしれない。
魏の方も諸葛亮時代に軍歴のあった人物も少なくなってただろうし。(ってか郭准死去後じゃ高級将校は皆無かな?)
魏は追い払えば良い訳なんで、姜維への対応と言うより、蜀漢が侵攻して来た場合の対応、って事になるかもしれない。
884 :
873:2005/08/29(月) 22:55:25
>>882-883 胡済に関しては、どれだけ考えてもこれという結論は出ないだろうね。
そういう説もある、という程度に止めておいた方がいいんだろうな。
蜀への対応は、確かに諸葛亮時代から変わってないね。度忘れしてたみたいだ。
諸葛亮時代には、明帝自身がそういう指示を出していたってのに。
徐質もよく分からんね。夏侯覇の後任として討蜀護軍に就任し、長年対蜀戦線で頑張り、
郭淮や陳泰も信頼も厚かったろうに、姜維との会戦ではボコボコにされ戦死する始末。
陳泰の人を見る目が曇ってたのか、姜維が強かっただけなのか。
885 :
877:2005/08/30(火) 18:27:11
>873
徐質もそれなりに有能な将領だったんだろうけど、やっぱ本格的な戦闘経験が少なかったんじゃないかな、対蜀漢において。
254年以前も姜維がちょくちょく出張ってるけど、兵力1万前後で、本格的な対戦の前に魏軍が来ると撤退しちゃう感じだ。
費禕の死去直後に数万で来てるけど、やっぱり魏の主力が到着するか、しないかの段階で兵站が続かず撤退。
254年の時に初めて大規模な会戦になったけど、諸葛亮時代のマニュアルで対応してたら、姜維の方は諸葛亮よか積極的で、対応しきれないうちに大敗、戦死って感じじゃないかね。
しかも、討蜀護軍の徐質の指揮兵力は1万くらいだろうから、3万は下らないと思われる姜維軍相手は分が悪い。
隴西諸郡の兵力も率いていたかもしれないけど、この部隊は地方軍で野戦軍としてどれほど機能したかは微妙だしね。
886 :
873:2005/08/30(火) 19:08:39
>>885 うーん。
確かに普段討蜀護軍が指揮していた兵力は精々1万程度だろうけど、
魏軍も姜維軍の陣容について大よそ把握していたと思われる状況で、
たった1万で姜維に当たらせるとは思えないなあ。
司馬孚の提案で雍州全体で2万5千程兵力が増強されてたし、陳泰もある程度
まとまった兵力を徐質に預けてた思う。
だからこそ陳泰は、徐質が敗れた後にしばらく動けなかったんじゃないかな?
諸葛亮時代でも3,4万程度は動かしていたようだから、
この時代は5,6万程度なら蜀軍の迎撃に動かせたんじゃないだろうか?
887 :
873:2005/08/30(火) 19:20:23
この時の事と思われる記述が、晋書文帝紀にあったんだけど、
蜀将姜維又寇隴右,揚声欲攻狄道.以帝行征西将軍,次長安.
雍州刺史陳泰欲先賊拠狄道,
帝曰:「姜維攻羌,收其質任,聚穀作邸閣訖,而復転行至此,正欲了塞外諸羌,
為後年之資耳.若実向狄道,安肯宣露,令外人知?今揚声言出,此欲歸也.」
維果燒営而去.会新平羌胡叛,帝撃破之,遂耀兵靈州,北虜震讋,叛者悉降.以功復封新城郷侯」
司馬昭の言葉の、「穀物を集め邸閣を作り終えている」って所から後が分からん。
大意としては、「実際に狄道に向かわずとも、行くと宣伝だけしておけば良い」
という事だろうと思うんだけど。
888 :
877:2005/08/30(火) 19:24:02
>873=886
確かに、関中以西の魏軍は諸葛亮時代以後増強されて、総数は10万前後にはなっていたろうね。
で、迎撃軍も上ケイ方面への運河の構築で隴西へ5,6万は兵站の問題も無く送れたと思う、総数はね。
しかし、姜維の作戦行動は諸葛亮の時よりさらに西。
(諸葛亮時代の様な)天水郡治辺りなら極端に単純化すると5万の軍を5万のまま蜀漢軍に当たらせられるけど、さらに辺鄙な西方となると・・・。
やっぱり遠いし地形が険阻だから兵站の問題が出てくる。
5万前後の軍を有効に動かせる事の出きる兵站を構築するには時間がかかる。
でも、それを待っていたら、姜維が西方異民族を懐柔して蜀漢側の兵站問題の一端を解決させて、姜維を優位にさせてしまうかもしれない。
なら、とりあえず動かせる軍だけ投入しよう・・・。って感じじゃないかな。
そうなると、対蜀漢用の野戦軍である討蜀護軍がまず投入されちゃうんじゃないかな。
その後の陳泰の動きの遅さも、徐質が早々に撃破されて、数万の軍を動かせる状況(つまり兵站)をつくる時間が無かったのかもしれない。
889 :
873:2005/08/30(火) 19:29:26
「邸閣を作り、穀物を集め終えている」だな、間違えた。
いずれにしても、姜維が狄道に向かうと聞いた時点で司馬昭がいるのは少しおかしいと思う。
司馬昭がいると言う事は援軍が到着していたと言う事で、徐質のみを派遣した理由が
ますます分からなくなる。
890 :
873:2005/08/30(火) 19:37:41
>>888 兵站構築の為の時間か。確かにそれはあるかもしれないな。
でも、兵站が大きな問題となるのも運河の続いてない上邽以西だろうから、
とにかく上邽までは兵を進め、姜維に圧力を掛けても良いように思える。
姜維を放っておいて、祁山や上邽などの隴西での最重要拠点を落とされでもしたらまずいだろうし。
しかしながら、陳泰は長安から動いた様子も無いんだよな。
姜維にそこまではできないと読んだのかもしれないが。
891 :
877:2005/08/30(火) 19:40:58
>889=873
三国志と晋書で食い違う部分もあると思うけど、魏軍は以前の軍事行動(張既だったと思う)でも西方への軍事行動は先行軍に後続軍が追いつかない場合も多々あるので、今回も似たような結果では?
司馬昭のいた位置は何処か不明だけど、後続軍に居たのではないかな。
姜維に当たろうとした軍は徐質から陳泰、司馬昭等まで多々あったけど、実際に姜維と対戦したのは最も先行した徐質だけだったとかね。
892 :
877:2005/08/30(火) 19:49:23
>890==873
この時、姜維は襄武だか洮陽方面だよね。
この位置に進出するにあたって、特に魏軍と交戦した様子が無い。
漢中から祁山・天水方面、さらに襄武・洮陽に魏軍と交戦せずに抜けることは諸葛亮時代以降、祁山の守備が強化されている事から無理。
だとすると、陰平方面から北西に向かって迂回したんじゃないかな。陰平付近から洮陽、襄武へ。
このルートだったなら、祁山・上ケイ方面は魏軍にとって後方にあたり、姜維の圧力は受けないと思う。
上ケイ辺りに軍は集結してたか、集結しつつあったんではないかな。長安方面からの部隊はね。
893 :
873:2005/08/30(火) 19:57:46
>>891-892 そういや一旦狄道に入ってから襄武に向かったんだったか。
だとすると、武都から孔函谷を通り、沓中から北上するルートだな。
建威から石営を通るルートではないんだな。
そっちだと上邽の辺りは姜維の後方を脅かせる位置になると思うけど。
やはり記述は無くとも上邽に集結中だったのかね。
そうすると、位置関係としては、徐質が襄武、陳泰が上邽、司馬昭が長安の辺りかな。
894 :
873:2005/08/30(火) 20:05:50
>>892 また話が変わって恐縮なんだけど、以前、句安らが包囲されてる間
費禕が動かなかった事について少し話したと思うけど、その事について。
これは無双後期伝スレでもちょっと話したことで、また晋書文帝紀の記述。
そこに、この時、司馬昭が持節安西将軍として関中に駐屯していたが、
郭淮がなかなか句安らを破れないので、司馬昭は長城に赴き、
そこから駱谷を通る振りをしたので、姜維はそれを恐れて撤退した、という記述がある。
これはどう考えるべきだろうか?
895 :
877:2005/08/31(水) 07:02:28
>873=894
そりゃ、明らかに司馬昭を持ち上げるための記述じゃないかな。
>>郭淮がなかなか句安らを破れないので、司馬昭は長城に赴き、
これは、郭准、陳泰が鞠山の城が堅固なこと、水道が脆弱な事から、力攻めは不可と判断したためであって、ある程度の長期化は当然。
駱谷方面から、侵攻は曹爽の大軍での侵攻があっさり頓挫したことからも判るとおり、急遽計画された1軍で駱谷を抜く事は難しい。
鞠山の戦役ですら、司馬昭の功績が多大であった、って事にするためじゃないかな。
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 09:48:48
>>887拙訳でよければドゾー
蜀将の姜維は又も隴右を寇そうとし,声を揚げて狄道を攻めんと欲しているとした.
そこで帝(司馬昭)を以って行征西将軍とし,(彼は)長安に次いだ(到着した).
雍州刺史の陳泰は賊に先んじて狄道に拠らんと欲したが,
帝は曰く:「姜維は羌を攻め,其の質任を収めた,穀を聚めて邸閣を作るのは訖えている,
而して復た転じ行きて此に至った,正しく塞外諸羌に了(解)させて,
後年之資と為さんと欲しているだけだ耳.
若し実(まこと)に狄道に向かうのなら,安んぞ宣露(それを暴露するのを)肯んじ,
外の人に知られるよう命令するだろうか?
今声を揚げて出る(出撃する)と言うが,此は帰ろうと欲しているのだ也.」
姜維は果たして陣営を焼いて而して去った.
新平の羌胡が叛く事態となり,帝は之を撃破すると,遂に兵を靈州に耀(かがや)かせたため,
北虜は震讋し,叛いた者は悉く降った.
その功を以って復た新城郷侯に封じられた」
897 :
873:2005/08/31(水) 19:52:43
>>895 費禕に対する牽制の為の行動かなとも思ったが、
確かに司馬昭の一軍を以って漢中に侵入する事は難しく、さほどの影響は無いな。
司馬昭を賛美する為の記述で、信憑性は無いかもね。
>>896 司馬昭の台詞の、最後の所の声を揚げるってのは、司馬昭のではなくて姜維の行動を指してたわけか。
その文章のところが前後と繋がらなくてさっぱりだった。
やはり漢文の知識もなく、辞典のみによって訳すのは厳しいかな。
晋書の訳本を何処かが出版してくれるとありがたいんだけどな。
折角訳してもらったのに、いまいち分からんなあ。
この戦役に関しては、魏書に全くと言って良いほど記述が無いから、
これが分かれば新たな考察が出来るとも思ったんだが。
新平の羌族らの反乱が本当だとして、姜維の撤退が冬、
この直後の記述である高貴郷公の即位が10月だという事を考えると、
この反乱の勃発が姜維の出征中、または撤退直後であり、
姜維の北伐が影響しての事だというのは分かるが。
肝心の司馬昭の方がどう考えて良いのか分からない。
899 :
877:2005/09/02(金) 23:29:37
>>898 >>896氏の訳の通りに司馬昭が考えていたとすれば・・・。
姜維はすでに西方異民族を懐柔し、食料物資を確保しているから、(陳泰が)狄道に向かえば食料・物資も潤沢にある姜維軍と姜維に懐柔された異民族に挟撃される恐れがあります(誘い出された事になる)。
実際には確保した食料・物資等は後の軍事行動で利用するつもりであり、今回は狄道に進むぞ、と見せかけて実際には撤退するつもりでしょう。
↑こんな感じかな?
で、新平の羌胡ってのが姜維に懐柔された異民族かどうか分からないけど、もしそうなら司馬昭は、姜維軍と一体になってる異民族よりも、姜維軍が去った後に異民族を討った方が容易だと考えていたんではないかな。
>>899 でも、やはり撤退に合理性が無いように思える。
姜維本来の意図は撤退ではなく誘引後の挟撃で、それに失敗したから撤退したと考えた方が自然か?
いずれにしても、三国志の記述と整合性が取れるように合わせるのは難しいな。
これが姜維の出陣前の事だとすれば、姜維は実際に狄道に向かってて司馬昭の言と矛盾する。
襄武包囲後であれば、狄道は既に降伏済みだから、例え陳泰が向かっても先に占拠するのは難しい。
この記述をなんとか自然に挿入できないものだろうか?
901 :
877:2005/09/03(土) 00:37:16
>873=900
晋書の事だから三国志と整合性が無くても仕方がないと思うし、実際の姜維の動きと、司馬昭等の情勢判断が合致するとも限らないからねぇ。
ただ、この時の姜維伝を読むと、「兵糧が尽き」とか「退路を絶たれる恐れ」で撤退したのではなく、徐質に大勝し狄道等の数県を攻略し住民を拉致したことで満足して撤退したようにも読める。
徐質は姜維に向かわせたが、この段階では狄道が降った一報が届いておらず、姜維が狄道に向かっている、と言う情報だけが魏側に伝わっていたのかもしれない。
で、陳泰も狄道に向かおうとしたが、上記の司馬昭の発言と言う流れ。
まぁ、これも司馬昭がこの戦役全体を早くから正確に把握しており、結局、司馬昭の言った通りになりました、みたいな記述かもしれないけどね。
実際、陳泰は名将だったんだし。
>>901 無理に三国志と合わせて考えない方が良いかもね。
あと、この時攻略した県なんだけど、狄道と臨洮は撤退の途上の県だから良いんだけど、
河関なんていう遠方まで攻略し、その住民を連れ出す余裕があったのかが疑問なんだよね。
903 :
877:2005/09/03(土) 00:57:53
>902=873
そそ。三国志も魏側の受け取り方(把握していた行動)、蜀漢側の受け取り方(把握していた行動)で記述が違う場合もある。
実際の戦場では現在と違ってリアルタイムで情報は届かないから、魏側が受け取った情報(記述された事)は、蜀漢側では数日前の行動って場合も多々あるでしょう。
河間ってどこだっけ?
涼州の辺境なら、魏延が西平の向こうまで行った事があるから、あながち有り得なくは無いと思うけど。
特に異民族の協力があれば。
>>903 河関は西平の南東約100kmの地点だね。
自分も、ただ城市を落とすだけなら十分有り得ると思うけど、
住民を引き連れのろのろ撤退して、魏側に全く捕捉されずに済むってのがどうも。
姜維の本隊は、住民の国境への連れ出しを終えるまで魏軍を抑えてたって事か?
905 :
887:2005/09/03(土) 01:20:04
>904=873
この戦役は魏側の動きが鈍いと言うか、姜維ペースですすんでるからねぇ。
姜維が魏軍を押さえるまでもなく、住民を移動させる事が出来た可能性もあるよ。
狄道は自ら進んで降った訳だから、もしかしたら、その影響で比較的早く、河間も降伏した可能性もあるよね。
それに、隴西の特に辺境の諸県だから、住民も姜維に懐柔された異民族の系統だった可能性もある。
だとすると、住民とは言え騎馬民族だろうから移動手段(つまり馬)もあったのかもね。
まぁ、これは妄想に近いかもしれない。
>>905 確かに行動が鈍いな。
この翌年は、強行軍だったのかもしれないが、陳倉から1ヶ月以内に狄道まで兵を進めてるのに。
この時は姜維が6月に出兵して冬に撤退する数ヶ月の間、ろくに動いてないように思える。
よく分からないが、河関を降伏させてその住民を移住させた事は間違いないだろうから、
姜維にとってそれが可能な事だったんだろうな。
263年の蜀平定での両軍の配置を、地図に書き込んで眺めてたんだが、
当然の事ながら、蜀の防衛線は中央が極端に薄くなってる。
対して魏の方は、鍾会の率いていた左翼が10余万(通説じゃ12万)で、全体の7割近い兵力。
中央の兵力は右翼と同じく3万だが、ここを増強しておけば、
もうちょっと柔軟な対応が取れたとは考えられないだろうか?
長安から上邽を経て前線に繋げる兵站線で、どれだけ支えられるかは分からないが、
3万が限界って事も無いだろうし。
率いているのが諸葛緒ってのが不安だし、中途半端な戦力増強は意味無いだろうけど、
増強できる戦力によっては、そういうのもありかなあと思った。
>907
隴西方面の魏軍は3万&3万で6万でしょ。
ケ艾と諸葛諸で。
だとすると6万で、隴西方面では精一杯でないかな。蜀漢が侵攻して来た場合で兵站の負担が少ない状況でも5,6万規模で対応してるでしょ。
魏が蜀漢に侵攻する場合、地形的な問題から、鍾会軍ほどで無いにせよ兵站問題もあるからね。
上ケイ以西の3万&3万は分けてはあるけど、連携もしていた訳で、隴山以西の軍として考えた方が良いかもね。
長安から駱谷、斜谷方面へ侵攻する難しさは曹真父子が証明しているけど、蜀漢の弱体化、隴西方面からの援護等があれば正攻法でも上手く行くだろうと考えたんだと思う。
やっぱり10万単位の軍をはるか隴山の西に派遣してから侵攻するのは兵站問題が大きかったんじゃないかな。
それなら、主力軍は最短ルートを取ろう、と。想定困難さ(曹真父子の時の様な)は隴西からの援護、蜀漢の弱体化で克服できる、と。
>>908 ケ艾の3万の兵站に関しては、涼州に拠る部分もあったと思うが、
それでも諸葛緒の兵力を大きく増強するのは無理だろうね。
俺の発言も、「大きく増強できれば」という仮定付だから、
恐らく当時採れる最善の作戦は、鍾会の立てたそれだったんだろうな。
それでも尚、ケ艾の奇襲に頼らねばならなくなったあたり、蜀攻略の困難さと
姜維の諸葛緒突破の功績の大きさが分かるな。
この作戦を通じて、蜀なら自立できる、という鍾会の考えは益々深くなったんだろう。
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 13:01:51
いいや
姜維。
。
ほす
久々、と言うほどでも無いが、またちょっと考えたので書き込ませてもらう。
姜維の指揮した会戦の中で、最も大きな戦果を挙げた洮西の会戦について。
この会戦で分かってる事は、
・会戦の行われた大よその位置
・王経は数万の被害を出した
・洮水で溺れ死ぬ者も多かった
という事だが、姜維が王経の前哨?を叩いた故関は、狄道の北西約20kmの所にある。
従って会戦は、故関から狄道の間の洮水沿いの平地で行われたと考えられる。
ここが当時どのような地形であったか分からないので、正確な位置は不明だが、
狄道からかなり近い場所、少なくとも視認可能な距離の所で行われただろう。
また、王経が洮水を渡った事や、「洮西の会戦」と魏から認識されている事を考えると、
姜維は洮水沿い幅数kmの平地に、洮水を左に見る形で布陣したと考えられる。
会戦の推移までは流石に分からないが、王経の被害の大きさや洮水での溺死を考えると、
姜維は戦力を右翼に集中し、これを破壊するとそのまま包囲に移り、洮水を左に見て、
コの字の形で王経を包囲・殲滅したものと考えられる。
洮水での溺死や数万の被害が、追撃戦で生まれたとも考えられるが、
張翼の進言を考えると、本格的な追撃に移る前に王経は狄道に入ったと思えるので、
王経側の被害は会戦によって与えられたものと考えている。
915 :
914:2005/09/18(日) 23:38:22
「これを破壊」ってちょっとおかしいな。
「敵の左翼を破壊した」という意味ね
916 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 10:04:24
姜維は無能。それを見抜けずに起用した孔明にも大きな罪はある。
まあ最初の出会いで姜維に負けたのが余程精神的ショックを受けてしまったのだろう。
いつもの孔明なら姜維の無能さを見抜けたはずなのだが。
いきなりどうした?
ここスゲー
皆研究熱心ですね
何か書き込んでも大抵反応が無いので、殆ど俺の日記帳状態のスレだが、
たまにスレの感想が書き込まれるって事は、実際読んでいる人はそれなりにいるのかな?
また妄想みたいなもんだが、思いついてしまったので書き込んでみる。
官渡にしろ夷陵にしろ五丈原にしろ、この時代の戦争は、軍隊同士が衝突しても
会戦によって勝敗を決するのではなく、両軍とも戦場の各所に防御陣地を設け、
その奪い合いに終始する形が一般的だったように思える。
小部隊を率いて活躍した人物の伝を見ても、誰の陣を落としたとか、
陣を幾つ落としたとかそういう記述が多いし、先述した戦争でも、
陣地を設けて長期対陣したような記述が見受けられる。
従って、陣地の奪い合いをしながら、敵の後方連絡線を脅かしたり、
偽退と伏兵などを駆使して兵を叩いて、敵の撤退を誘うのが、
野戦軍が衝突した時の戦い方だったのでは?
そんな中で、平地での会戦によって敵野戦軍の撃滅を狙っていた姜維と言うのは、
この時代にあって特異な指揮官であり、初期の北伐においては魏もその特異さを
理解し切れておらず、徐質や王経の大敗を招いたと考えるのはどうだろうか?
(´・ω・`)知らんがな
>>919 姜維が会戦を志向したのは、特異というよりは極言するなら最も確実だからです。
徐質や王経の敗因は(勝算があったんでしょうが)わざわざ姜維の望む展開を提供
してしまったせいでしょうね。
どの程度の規模の戦力による戦闘を会戦と定義するのかは微妙ですが、会戦は
双方がある程度の勝算をもっているか、双方が予期し得ずに遭遇する様な状況で
なければ起きません。
それほど会戦はハイリスクハイリターンです。
三国時代に限らず、戦争では先に要所を扼して陣地を構える事で会戦を回避
できますし、その間に情報を駆使して退路なり輜重なりを断つなりすればカタは
つきます。
わざわざ正面きって戦わずとも、その後で追撃をかければいいからです。
誰しもこれを踏まえているから、
>>919の7〜12行目が普通なんです。
これに該当せず、戦意が旺盛でありすぎたり、会戦での勝利で一挙に挽回を
狙ったのが、界境の戦いや五丈原の諸葛亮や祁山の司馬懿や姜維です。
特に蜀は持久戦を択ばれればどうにもなりませんから、ある意味で最も効果的
です。
徐質・王経の場合、戦力差か戦術で敗れたというべきでしょうが、魏にしてみれば
拠点を守っておくか攻めあぐねている蜀軍を背後から脅かせば撤退に追い込める
わけですから、野戦での姜維の強さがある程度は脅威となったかもしれませんね。
>>921 そうなのか、って言われても確証は無いから答えられないよ。
>>922 いや、そういう事は分かってる。
石原莞爾の説によれば、時代によってその時代の戦争が、
持久戦争が主体になったり決戦戦争が主体になったりしてると言う。
前者が7年戦争や第一次世界大戦、後者がナポレオン戦争だったりね。
それを踏まえ、三国志の時代は持久戦争の時代であり、殲滅戦略ではなく消耗戦略を採り、
会戦によってではなく機動によって勝利を収めるのが戦争の通常の形態であった中で、
会戦、それも決定的な勝利を望む決戦に拠ろうとした姜維は、十分特異な存在であったのでは?
という事だ。
>>922 一つ言い忘れていたが、会戦そのものはハイリスクハイリターンという程のものではないと思うよ。
歴史上、会戦の戦例は無数にあるが、殆どの場合は会戦そのもので敗軍に大きな被害は生じない。
そういった例はカンネやロイテンなど勝者の戦術がよほど上手くいった時。
普通は、会戦に勝利した後に行われる追撃によって戦果は拡大されるものだから。
>>923っていうか
>>919っていうの?
なんか初めから自分の答えを用意しておいてレスを欲しがってるだけじゃんよ。
それで、そうなのかって訊かれてるのにすっぱりじゃあ単なる独りよがりの構って君と
かわらんじゃん。
これじゃ寂れるのも道理だな。ツマンネ
>926
>>普通は、会戦に勝利した後に行われる追撃によって戦果は拡大されるものだから。
逆に会戦して敗北した場合、追撃される可能性があるわけで、そこで大被害を受ける可能性があるってことだよね?
だとしたら、その可能性が十分にある会戦を行うこと自体、十分にリスクは高いと思うけど。
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/28(水) 21:44:06
淡路島
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 14:33:17
姜維イイね!
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 20:45:41
ファミコン
保守
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 07:55:03
補充
姜維たんちゅき(^^)
本屋で「早わかり三国志の常識100」とかいう本を見かけて立ち読みしてみたが、姜維の項は酷いもんだな。
「姜維の北伐は準備不足による後援の貧弱さが目立つ上、
北伐の回数も諸葛亮より多く、国力をすり減らすばかりで功罪の罪の部分が大きい」
とかあった。
姜維の北伐で補給の失敗によって撤退したものは最初の1回だけで、割合や数で言って
諸葛亮のそれより少ないし、北伐に従事した期間は諸葛亮より長いんだから回数が多いのも当然。
功罪の罪の部分が大きいというのは分かるし同意するんだが、適当な内容で批判するのはやめて欲しいね。
載ってた北伐図も適当だったしな。漢中から上邽に直接進軍したように書いてあったりして。
巷に三国志本が氾濫してるが、姜維の所が面白い本って殆ど無いように思える。
やはり孔明死後の話ってのは、人気が無いせいで等閑になりがちなんだろうな。
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 01:27:22
姜維ってどの作品でもそんな扱いな気が…
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 07:04:25
無駄無駄
939 :
麦飯LION:2005/11/09(水) 11:35:25
無駄ではありません。後世の人々に感動を与えてるのですから…
孔明「無駄ですね。」
姜維が無能だったんじゃないの?
三国融和政策でよかったのに
魏延の軍才と諸葛亮の思想って感じかな
いや、思想的にも魏延で、決意だけ諸葛亮、かも
魏延の思想って何だ?
危険を孕んでも勝ちに行く、って奴かな(長駆的進行とか会戦志向ね)
諸葛亮の負ける前に退くってのもあるだろうけどね
まぁ思想と言うほど深いもんではないね、
性格じゃなくて趣向じゃなくて何て言えば良いのかわからん……
思想が一番伝えたい事に近いかと思うたでな、忘れてくれw
取りあえず、軍人としては最高クラスの戦巧者じゃない?
あれだけマイナス要素(官、民、帝)背負ってて魏軍と渡り合うなんて、中々できないと思うぞ
うん
君は何もわかってないのがわかった
>>945 攻撃精神というやつかな。
とは言え、攻撃精神も戦略思想の内である事には変わりないから、
思想としてもおかしくは無いと思うよ。
攻撃精神に関しては、魏延は確かに強烈なものを持っていただろうね。
ただ、その攻撃精神の強烈なあまり、やや視野狭窄になりがちのようだが。
姜維が隴西の奥深くへと侵攻した事は、当時の魏の防衛線の構築状態や戦力配置を考慮すると、
彼の性質によるものと言うよりは、戦略的な必然性によるものと言えるかもしれない。
しかしながら、勝機を逃す事無く、果敢に攻撃を行うという面も読み取れるので、
攻撃精神という点では諸葛亮より魏延に近いだろうね。
それ故に攻勢限界を超えてしまい、敗北に追い込まれてしまう事もあったが。
全体を通して見れば、冷静に判断して勝敗分岐点を見極めている事が殆どなんだけどね。
純粋に軍人として見た場合の姜維は、少なくとも蜀にあってはトップクラスの人材だろうね。
その辺も同意する。
>946
ま、待てw今正史勉強してる所だから
>947
ありがとう!俺が言葉足らずなあまりに
あなたに説明してもらう形になり申し訳ない
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 22:25:42
姜維最強の結論が出たようだな。
最強なんて存在しないよ
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 23:19:39
姜維の男気には誰しもかなわんな。
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 23:35:22
はいはいわろすわろす
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 23:50:55
知勇兼備といえば、まずは姜維だよね
臧洪だろ
>>947 が上手くまとめてくれたけど、
姜維は蜀漢において、軍人としては最高クラスの人材であったが、最高指導者としては不適格、って感じかな。
姜維の北伐については、蜀漢の国是を再認識させ、後世に感銘を与えた部分もあるが、基本的には無駄であった、と。
軍人としても農政家としても超一流のケ艾が同時代にいたのが最大の不幸
確かにケ艾がいたのが不幸だな。
姜維の北伐を防いだという点では、郭淮や陳泰にも功があるが、
姜維に決定的な敗北を与えたのはケ艾のみだしな。
あれがなければ、姜維存命中に蜀を攻略するのは不可能に近かったろう。
蜀攻略を計画させるに至った事、蜀攻略の戦役、双方に多大な功がケ艾にはあるな。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 17:24:19
寡兵で良く戦った姜維最強って事だな、うん。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 17:58:01
どうやったら国力差が埋められたかを考えるべきだよな。
例えば、人さらってくるとか
その辺は漢中で先の先を取った曹操と張郃を誉めるべきだな
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 03:46:07
960はシンガンス?
金八先生だか金三角だか知らねえが、勝負させろ。
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 15:26:02
孔明だって孫権だって人攫いしてますよ。
もともと、このキョウイ君も攫われた子供ですから。
>>961 漢中から多数の住民を組織的に移住させたのは張既。
三輔はおろか雍州の広域へ移民させてる。
>959
253年以降は兵権を専らにしてるから、姜維が動かしてた兵力はけっして寡兵ではないよ。
相手より少なければ「寡兵」だろ
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 20:29:16
民を想い降伏した劉禅様こそが王の中の王。
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 20:41:54
じゃあ長引かせずに皇帝即位直後に降伏してください
969 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 20:45:32
白帝城の戦いで劉禅皇帝も意地を見せたからな。
はいはい星彩星彩
>966
姜維は262年頃までは常に5万前後動員してる。
隴西方面に動員された魏軍も大体5万前後。ほぼ同数だね。
状況によっては、蜀漢軍の方が多かったケースもあったろう。
いよいよこのスレも残り僅かになってきたが、果たして次スレはいるのだろうか?
もう、議論は尽くした感があるなぁ。
考察スレが軒並み倒れていくなぁ〜、と
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 21:15:49
しかし語り尽くしたのに新スレを無理やり立てるのもな〜。
それではネタ系の振る舞いと変わらない。何か新鮮な題材無い?
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 21:19:32
このスレじゃないが、閻宇の右大将軍が
右将軍+大か右の大将軍(左は姜維?)なのか議論したのも、むじんが詭弁を弄したのも、今では良い思い出だ
そういえばむじんのサイトが変になってから随分経つな
>>975 個人的な意見だけど姜維の北伐に関しての考察は俺にとって新鮮だった。
このスレも、明確な話題を持って立てたわけじゃないからな。
立てた後で何かしら話題が出てくる可能性も無いわけじゃない。
かと言って、迂闊に立てるのもどうかなとは思う。
立てるだけは立てとけば、とは思う。
ネタがなければ勝手に落ちるだろう。
ここで立てないと永劫立たない恐れがあるし。
あればあったでそこそこ便利>考察系スレ
>>977 そうだなー、ずいぶん更新してないし。。
>>979 使えそうな立て逃げスレを順番に使い回そうよ。
>>982 姜維関連の考察に使えそうな立て逃げスレなんてあるか?
そう言えば、このスレも初代から数えてそろそろ3周年だな。
>>983 無い。とりあえず燭将討議スレに集まればいいと思う。
向こうが消えると元も子もないし。
スレの歴史で言えば、蜀将スレよりこっちのが長いんだが、
取り立てて話題が無いなら、確かに蜀将スレに行ったほうがいいかもな。
「落ちていたので立ててみました」→糞コテ大集結だけはカンベン。
989 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 00:24:14
魏なんか落ちっぱなしだもんな
かなり不人気だ
>>988 いいんじゃない?しかしこの板大丈夫かな。
991 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 00:43:35
胸囲
一時は結構賑わってた後期無双スレも、今では見る影もないしな。
専門化を望んだ結果なんだろうけどね。
専門化されれば過疎る。
それでも気分よくスレが進むから俺は構わないんだけど。
まあ、姜維の話だけじゃ5スレも10スレも行かないって事だな。
やろうと思えば、漢中の戦力配置変更について深く掘り下げたり、
当時の姜維に可能な、隴西攻略の為の戦略を論じたりとかできるんだろうが、
如何せん史料に乏しく、内容の殆どが推測になってしまう上、その推測を行う事すら困難だろう。
姜維に関する質問に答えるという程度なら、別にスレを立てなくてもできるしな。