_,,....,,_
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/:: _;: ,_, i ふぅ、ちょっと疲れたので休憩をさせてもらいますよ。
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ゝ:: / | 茶 |
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.と::__丿::__丿 U .U
9 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/24 02:48
前スレで織田・朝倉・上杉・北条・武田・毛利の戦略、意図、構想と比較したんだな。
前スレで織田は美濃を掌握した時点で明らかに天下とりに向かって
おぼろげながら形をとりはじめた。
朝倉が義昭の上洛要請を蹴り、織田に流れたとき信長はこれを奇貨と
して浅井と同盟し六角をもみつぶし上洛し三好一党を追放し大勢力へ
のし上がる基盤を築いた。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/24 02:54
過去に上洛した大名は古の大内氏、しばらく前の長尾氏が織田氏より
以前に上洛したが彼らは将軍を傀儡にした上で自勢力の伸張を図る
発想がなかった。
細川・三好・松永がややもすると畿内を勢力基盤においたゆえに
全盛期を誇った時もあったが、全国を席巻するには至らなかった。
守護大名が戦国大名に移行した嚆矢は北条早雲が茶々丸を殺した
時であろうか。
分国法が各地で盛んになったが、彼らは天下を目指したわけでなかった。
彼らは尊氏や頼朝のような気宇壮大な政治家足り得なかった。
いわば地方のボス猿にすぎず、応仁の乱後権威が失墜した京に
かわるべく各地で騒乱がつづいたというはまったくのフィクションに過ぎない。
そんな時代に彗星のごとく登場した異端児。
それが織田信長であったのである!
ネタフリは
「美濃取るのに7年もかけてるよ(プ」
「25000で上洛できるかよ(プ」
のような素朴さが大事なのではないか
まろをいつまで待たせるつもりじゃ!!
1日もはやく上洛の準備をいたせ!!
13 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/24 10:56
この寂れ具合、悲しいからわけわからん話でもふってやる
そもそも畠山とかの跡目争いに大内家と細川家が介入して応仁の乱に発展して
いくわけだが、それ以前から勘合貿易の主導権をめぐって大内と細川は対立
していて結果大内が勝って博多は対中国貿易拠点として発展したわけだ。
話がそれそうだから戻すが。
大内も細川も対立するにあたって多数派工作をするわけで、畿内に10万とも
言われる軍勢を引き入れ争いを繰り返したわけだがそこで下克上の下地ができ
あがるわけで、その下地もたとえば西軍、東軍の代理戦争みたいな形で地方の
対立を煽った場合もあり、中央政権が麻痺したため問題解決能力を求めて担ぎ
上げられた場合もあり、中央にて武名が轟きその国を代表する形で担ぎ上げら
れた場合もあり様々な形態で国主以上の力を発揮する人物が出てきたわけだ。
その結果ほんの数十年でものすごい勢いで分国化されていくわけだ。
天下を取るということの定義は必要となるかもしれんが、この分国化の流れ
の中、細川家の陪臣である三好家が幕府を事実上運営していたが義輝を殺し
義栄に将軍を強引に変えてしまう、自分こそ将軍にふさわしいと思う義昭が
納得がいかず畿内でも武名の高い朝倉家に飛び込んだが朝倉家は北の一向衆
を畿内に入れないために必死でそれどころではなく、あせった義昭は美濃を
併合した織田家に接触、三好(義栄勢力)と織田(義昭勢力)の対決となり
織田があっさり義昭を奉じて上洛してしまったため15代将軍に義昭が就任
よって織田家が事実上幕府の運営者として実権を握った形での天下取りが
行われたとされている。
この織田家が将軍を奉じて上洛、をなにを勘違いしたかしらんが上洛さえ
すれば天下が取れると思い込んだ人たちによって様々な憶測が飛ぶわけである。
>>13 当時の人々が上洛=天下取りとしたのはやはり足利の権威が原因
将軍京に上る→幕府回復=室町の世が戻ったor戻ると錯覚→地方大名帰服
しかも信長の領地はかなりのものときている
>>12 上洛するからその前に一曲『ワインレッドの心』を歌ってくれないか?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/24 17:08
>>13 三好と織田の対決というが織田が義昭を連れて上洛するころは三好ももう松永
にボコられたあとだろ。
三好が義栄を担いで上洛しようとしたが松永がそれを阻止、もし義栄が上洛
できていたのなら三好の世になっていたかもしれんが実際には上洛させること
ができず織田が義昭を連れて上洛したために室町幕府が復活したと見るべきでは?
将軍のバックについて権力を握るというのは信長当時ですら
ありふれた発想だからなあ。
信長と義昭が喧嘩しなかったら、信長も独自政権なんて発想自体が
生まれなかった可能性が高いだろうね。
逆だろう。
信長に独自政権という志向があったからこそ義昭が火遊びをして両者が険悪化
義晴みたいにお飾りで満足な将軍の方が多いから。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 11:06
信長に独自政権という構想があった根拠を聞きたいね
もしあったのなら義昭なんぞ担がなくてもよかったんではないか?
独自政権とは違うかもしれないが、
政権独占はしたかっただろうな。
じゃないと義昭をあそこまで制限しないだろう。
それに既に京都には別の将軍も権力者も居たんだし、
義昭を担がないまま京都に進軍すると、そのまんま謀反人と呼ばれかねない。
義昭がいるから正当性も互角に出来たわけで。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 11:16
しかしながら将軍交代を全然考えてないよね
義輝みたいに殺してしまえば次に都合のいい将軍を担げるってもんだが
それをしなかった
結構真剣に幕府中心の政権を考えていたんじゃないか?
しかし将軍が仕込んだ包囲網を撃破した瞬間に将軍の権威も同時に失墜
してしまい、結果幕府を中心に据えた政権構想が壊れてしまって
どういう政権にしようか迷っている間にあぼーんっぽいが
義昭は幕府というようなものすら開かせてもらってないんじゃないか?
単に将軍に就いて、身近な者に名ばかりの名誉を与えられるくらいで、
幕府といえるような組織すら作らせてもらえなかったんじゃないか。
幕府中心政府を本気で作ろうとすると、自分が幕府の中枢に就いて、
義昭−信長−信長家臣 という命令系統を築かなければいけなくて、
そんな組織を信長が作ってくれるのなら、別に義昭も満足なわけで。。
今川義元だって将軍の権威を(自分の領土においては)否定・拒否するくらいなんだし、
将軍の権威を借りて織田なりが自分の利益の保持を図るというのは、まず無理だと思う。
やっぱり戦国時代・力の時代だよ。
しょせんはその力を飾る名目的な冠にしかならないと思う。
そんな時代で、信長が本気で足利将軍−幕府の建て直しをしようとすると、
それこそ義昭に忠誠を尽くして、義昭に信長あり・将軍に力ありと誇示しないといけない。
やっぱりそんなことをしてくれるのなら義昭はもとから反発などしないでしょ。
最初から足利将軍を捨てるつもりだったかどうかは疑問だが、
最後まで義昭幕府を中心にしようと考えていたというのも疑問だ。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 11:50
将軍の権威を全国に適用するのはムリだよ
畿内限定で語らないと
キチンと将軍を担いでいたころの三好は畿内の覇者だったわけだし
次はだれだというときに義昭を担いで乗り込んできた織田家が優位に
たてたのもそのため
しかしもう地方には幕府の威光はほどんど効かない
それはのし上がってきた信長自身もよくわかってたことだから義昭が
将軍になっても地方遠征しまくってるじゃん
義昭がちょうど良い感じに敵と味方をはっきりと分けてくれたし(わら
信長は藤原から平にしたんだよね。
これって源平交代で足利将軍の次は俺だって意味だなどとよく言われるけど、
もしかしたら素朴に「俺は幕府を堅持するぞ〜北条得宗家を目指すぞ〜」
って意味とも取れないかな?
だめ?
形ばかりの将軍家に威光はなくても大義名分はあるんじゃないか
29 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 12:10
>>27 いろんな意味があると思うからそれもありかもね
自分で足利将軍を擁立しておいて自分でそれを否定はできないから
ある時点では執権政治を目指していたとしてもおかしくないしね
30 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 17:25
自己の権力基盤が固まるまでは足利将軍家を擁すつもりだったんじゃないの?
特に諸勢力が入り乱れてる畿内の掌握には将軍家の権威は有効だったんじゃないかな。
信長って、合理性の固まりみたいな人間じゃないか。
だから、はじめは「将軍は使える」って感じで、
使えないからポイ捨てってな感じでどうだろう。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 23:11
使えないからポイってのが簡単にできないから担ぐのに困るんだろ
そんなにポイ捨てできるなら将軍名乗らせたまま追放とかしねーってばよ
とっとと言うこと聞く将軍に変えてるって
33 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 00:32
>>22 足利義栄は将軍にはなっていない。
だからこそ三好三人衆が義栄に将軍の宣下を受けさせるか
誰かが義昭を担いで上洛するかという状況が成り立つのであって、
そうでなけりゃ義昭を担ぐ意味なぞ無い。
>>24 幕府としての組織も作ったし領土も権力もあった。
明智光秀や細川藤孝などは幕府から領地を受けた幕臣だった。
(光秀は信長からも領地を受けていたから君主を二人持っていたことになる)
>義昭−信長−信長家臣 という命令系統を築かなければいけなくて、
>そんな組織を信長が作ってくれるのなら、別に義昭も満足なわけで。。
信長がただの取り次ぎ役に徹するならそれで満足したかもしれんが、
ほとんど自分の意見を通さないフィルターだったからなあ・・・
34 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 00:34
信長は梅雨時に鉄砲で戦さをすることにリスクを感じていなかったのでしょうか?
長篠城が追い込まれたのでやむを得ず腰を上げたのでしょうか。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 00:59
陣地を築いて籠る分には陣幕でもなんでも張ればよかろう・・・
36 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:12
>>35 いや、鉄砲隊全員を屋根の下ってわけにいかないだろうし、
火薬や火縄が湿ったら撃てないじゃん。
そのへんどう考えてたのかな、と。
>>33 足利義栄は将軍にはなっていないの?
その時期はまだなっていないってこと?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:13
俺は全然詳しいわけでもないんだけど、ちょっと疑問。
信長のうつけ時代ってさぁ、なんか敵見方をを振り分けるためだったとか、、敵を油断させるためだったとか、地理を知るためにやっていたとか、意図的にやっていたってのが定説みたいになってるけど、
あれは絶対に違うと思う。
そういう事言ってるのって、学者や小説家みたいな引きこもりがちの常識人でしょ。
多分、信長を自分達と同じ常識人として考えるために無理やり、意図があったことにしただけのような気がしてならん。
十何年もバカの「フリ」なんてできる訳が無ぇ。
あれは、単に信長の合理主義からで、形式や行儀にこだわらなかったからああいう行動になっただけじゃなかったのか。
それを当時の行儀や形式にうるさい常識人達が見て、理解しきれずに馬鹿だとしただけな気がする。
逆にそういうことを少年期にやっていたから、形式や常識にとらわれない合理主義者になれたのかもしれないしね。
まぁ、素人の戯言ですわ。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:15
>>38 >そういう事言ってるのって、学者や小説家みたいな引きこもりがちの常識人でしょ。
>あれは、単に信長の合理主義からで、形式や行儀にこだわらなかったからああいう行動になっただけじゃなかったのか。
>それを当時の行儀や形式にうるさい常識人達が見て、理解しきれずに馬鹿だとしただけな気がする。
君と同じ事言ってる小説家や漫画家をたくさん知っています。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:19
>>39 そか、やっぱりいるのね。
スレ汚しゴメン。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:19
>>33 >>37 義栄は確かに1567年11月には将軍宣下の要請を却下され(w
ている。
でも翌年2月には将軍になったはず。
まあその年の10月には死んだけど。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:22
>>39 いやいや、素人なのに洞察力があるという事をほめてんだよ、きっと。
>>39 は。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:23
義栄ってついに京都に入れなかったんだよね。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:26
義栄が死んだ10日後に義昭が将軍になったんだよな。
義栄が都合よく死ななかったら、義昭は将軍になれなかった??
45 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 01:27
>>42 俺は
>>39じゃないからわからんが、
それはたぶん違うだろう。
>>38が「引きこもりの常識人である小説家」の見方に反対しつつ、
結局は多くの「引きこもりの常識人である小説家」の意見と同じことを言っている、その枠から出ていない、
ということを言いたかったんじゃないの?
それも結局は信長という桁外れの人間を測る味方としてはあまりにありきたりだよ、と。
鳴かず飛ばずの故事は知らんのだろうなぁ
信長を壮王に例えるかw
いや、僕もその故事は知ってるけども、良くドラマや小説で見る信長の性格から見て、17、8歳の頃にそんな自分を偽ってまで敵味方を分ける程の器量があったとは思えない。
というか、そんなことできるのは、童門冬ニの小説に出てくるような超人的なイメージにされた、偉人だと思う。
どこまで行っても人は人で、人の領域を超えることはないでしょう。当時の人口確率から行っても、現代の方が天才が生まれる確率が多いわけだけども、そんな小説に出てくる信長のような超人が、産業界にも政治界にもいない。
その壮王の故事でも、故事としては都合のいい話だけども、本当の話かどうか分からないのではないでしょうか?
49 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 05:02
自分の命がかかっていれば、
たとえ12才でもそのくらいの才覚を見せるよ。
自己と他者の認識が始まり、比較力と適応力、そして
社会性を身につければ、もうそれ以降は大人と何ら変わらない。
問題は経験と知識の不足による行動の浅さだけど、
その辺は学問でいくらでもカバーできる。
>当時の人口確率から行っても、現代の方が天才が生まれる確率が多いわけだけども、
>そんな小説に出てくる信長のような超人が、産業界にも政治界にもいない。
「古代や中世では超人的な人が活躍するが現代では彼らが活躍する場は
少ない」
とかいうことをフランスの哲学家か歴史家のおっちゃんが言っとりました。
あと精神的に破天荒な人について
「常時では我々が彼らを批判するが、動乱、戦乱の時代になると彼らが
我々を支配する」
あの時代は戦国時代と後に呼ばれているのも頷ける動乱の時代だから
現代の産業界、政治界と比べるのは適切かどうか疑問に思う。
それに人生五十年の時代でもある。
偉人というのは若い内に何か偉業を一つ二つ行っていることが多い。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 09:55
義栄は将軍にはなれたが京都には入れなかった
義栄の後ろ盾は三好三人衆を主体とした三好義継
義継と対抗していた松永がガチでぶつかってしまい畿内大乱戦
その間に信長が上洛してしまい松永は信長に降伏
そのまま織田家は三好義継討伐モードにはいってしまい義栄はその後すぐ死亡
義昭が将軍になる
という流れ
信長のうつけってのはあれはただ単に「最近の若いもんは」って奴じゃないの?
その後天下統一一歩手前まできたから「若いころから奴は他の連中とはちとちがっとった」みたいに言われただけで。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 10:34
信長=うつけ(若いとき)は自然に受け止められるよ
規定概念に捕らわれいたら改革者にはなれないもの
最初の改革者は見本が無いから、失敗が多いけども
それでも、それを跳ね返すバイタリティーもあった
54 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 11:20
信長を先天的革命者と見るのは危険
権威を全部否定して新しいものを作ろうとしていた形跡などありゃ
しないよ
既存の権威が反抗してきてそれに対し冷静沈着に対処撃破した結果
それらの権威がなくなっただけ
しかし一番困ったのは自分の担ぎ上げた義昭が煽りまくった包囲網を
撃破したときだろう
多分それまでは幕府を利用して権力基盤にしようと思っていたはずだ
が撃破してしまった瞬間に自分自身で幕府を否定してしまった
この後別の統治機関を考えている間に信長自身が死んでしまって秀吉
や家康のその後の枠組みについてはかなり苦労したわけだし
今日葬式だったが、あの雰囲気の中でメチャする信長は先天的無法者
56 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 17:20
無法者age
>>55 きっとその頃までは「ガキ」だったんだよ。
分別がついてからもそういうことをする人間は
どんなに偉大な業績を残そうとも尊敬できんな。
おれとしては。
かぶいて候
59 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 09:27
今週の週間新潮「ワイド特集 歴史は変わる」で、
「長篠の戦い 『鉄砲三段撃ち』はウソだった」てのが出てるね。
それから桶狭間は奇襲ではなかったとか。
正面突撃説は小室直樹くらいしか知らなかったど、同様の意見があるようで。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 11:53
なんか某国営放送のその時歴史が動いたのまんま受け売りみたいだな
まー歴史を色々検証するのは悪い事じゃない
62 :
うさぎ ◆4xLZ.gsETk :03/11/27 13:05
>>54 旧勢力を屁とも思っていなかった点で賞賛に値するぴょん。
平和のために寺から金を搾り取るのは信長しかできない事ぴょん。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 14:52
葬式の時の抹香投げつけ事件ねえ。
あれは確かに普通ではない。
65 :
平手@お腹せっぷく:03/11/27 15:03
信長ぬっころす
66 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 15:51
平成の今になってそんなに新事実が出るものじゃない。
その時歴史が羽子板も、けっこう捏造ある。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 15:55
もまえらワタスの桶狭間仮説を聞いてくれ
今川軍は、1万そこそこの兵力で、その内数千は織田方の砦数カ所を攻撃をしていた
つまり敵前で兵力分散していた
織田軍は5千程度はいて、落ちかけている砦を救援せず見殺しにして
義元本体5千程度と対決し運良く撃破、首を取る
こんな感じじゃないと勝てる気がせん
68 :
うさぎ ◆4xLZ.gsETk :03/11/27 16:07
兵力比がありえないぴょん。
2倍しかいないなら兵力分散させないぴょん。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 16:32
2万5千が総動員数として、そのうち雑務で半分取られて戦闘部隊で
1万2千程度が戦闘部隊というのはあながちありえないわけではないだろ
逆に信長本体って2千とか3千とかじゃなかったっけ?
兵力分散というより各方面の砦で攻防が行われていて通常であれば
信長本体も篭城しか選択しないような戦況で打って出たわけで。
いろんな説があるみたいだけど、今川本隊ではなくて他の砦を落とした
部隊だと思って攻撃をしかけたら本隊だったという遭遇戦説というのが
個人的には面白いと思いますが。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 16:33
うさぎにだめだしされた、エーン
兵力比が2倍で野戦をすれば、確実に多い方が勝つとどこぞの歴史家は言っていた
これが常識として定着していれば、
信長が清洲に籠城して出てこないと今川方が想定して、
効率よく尾張を平定するために兵力分散してもおかしくないと思った
大体、主力同士の戦いが短期決戦で終わらなければ、
織田軍は2倍の兵に包囲され壊滅するか、がら空きの清洲を落とされ崩壊する
危険性も帯びていた
ただ、義元本体は精鋭ではあったが駿河兵中心の遠征軍でしかも油断があった
これに対して決死の意気込みの織田軍は以外に強く、義元の首まで取ってしまった
71 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 16:39
>69
フォローどうもっす
織田軍5千と言うのはワタスの仮説っす。
通説の2〜3千だと、まだ義元本体の半分でとても勝てるとは思えないッス
>>71 いや、今川義元が不慮の戦死を遂げたのが
合戦の初期段階だったとすれば十分に有り得る。
73 :
うさぎ ◆4xLZ.gsETk :03/11/27 16:56
>>69 常識では篭城する所を敢えて打って出る信長が支隊に攻めかかるとは思えないぴょん。
>>70 士気の違いはあっただろうけどねえ・・・ぴょん。
雨中+奇襲だからまぁ、2000で5000くらい破れるかもしれないぴょん。
大将討ち取れば終わりだし・・・ぴょん。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:05
>>73 信長公記によると信長は鷲津砦を落とした相手と思い込み
相手が疲れてるから疲れていないこちらが有利だと判断し正面攻撃
に出ておりますが?
信長アホぴょん。
桶狭間の合戦では半数の兵が清洲を守っていたのはわかってる?
77 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:12
>72
つまらん仮説に付き合ってくれてありがとう
確かにそれなら数の問題ではないですね
ワタスが織田軍5千と思うのは、尾張半国程度持っていれば
妥当な数ではないかと思うわけで、
実際それ以下の領地しかなかったかもしれませんが
多勢の今川軍が自兵力を多めに吹聴して相手の戦意を喪失させようとしたのは
容易に想像できる事で
逆に織田方は相手を油断させるために過小に見せかけていたとか
78 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:15
>76
それは初めて聞いた。逝ってくる
79 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:22
桶狭間がなんで起こったか考えてみ
鳴海が今川側について織田側はそれを囲むように砦を配置したんだよ。
この時点で3つの砦への配備と知多半島の兵は鳴海に付きっ切りだね。
今川側は鳴海開放戦ということで各砦の占拠を目的として出てきてる
わけだからそれなりの兵力を揃えて各砦へ兵を進めるのも規定路線でしょ。
実際にものすごい勢いで砦が落ちているわけで、順当だったのなら
ほんの数日で作戦は成功、鳴海が開放されれば尾張南部は今川のものに
なってたかもね。
徴兵は農民の15〜60ぐらいの男を徴兵するわけだがその半数ぐらいは
40〜60ぐらいの老兵(戦国時代では)でその老兵たちは留守を守るのが戦国時代の
ならわしらしい。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:29
>79
いろいろ勉強になるよ
鳴海って山口なんとかの城?
82 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:36
そだね、山口さんのお城
83 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:37
>79
漏れは各砦があっさり落ちていることから
各砦の守備兵は100くらいの少数かと逆に思っていたが
84 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:42
>>83 逆算していくとそれくらいになっちゃうかもね
尾張半国といっても実際には鳴海を持っていかれているし残りの領地も
寺社勢力が強くて完全に支配下というわけにはいってなかったみたい
だし。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 18:32
尾張は寺社勢力はあまり強くは無いぞ、むしろ信長は尾張の寺社勢力が彼の基盤の一つとなってるぞ。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 18:43
当時の寺社=金融機関
87 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 18:49
信秀葬儀の時に九州から僧呼んだって本当?
本当なら陶と毛利の戦の事とか聞いたんだろうか
なんかその僧だけ信長マンセーしてただろ
88 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 19:06
桶狭間はラッキーとしか言い様がないけど、一つ大きな運でない要素がある。
それは今川義元が肥満して馬に乗れず御輿で指揮をとってたことだな。
結果、軍が崩れると逃げられず死亡・・・
似たような例に沖田畷で討ち死にした龍造寺隆信もいる。彼も太っていて4人担ぎの御輿に乗ってた。
実際、大将や武将がピンチになる事は多いが
そうなっても馬に乗れれば後方に逃亡できるんだよね。
長篠の戦いの時の勝頼とかそういう例は多い。
しかし馬に乗れない武将だと一回の敗戦が致命傷になる事が多いんだよね。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 19:23
北畠も輿乗りでデブデブだったろ
今川、北畠の輿乗りは官位がすごく高いからなんだけどね
90 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 19:42
>>59 正面攻撃説は藤本正行氏が唱えたものです。
>>84 桶狭間の段階で尾張半国だと言い張る人もいますが、前年に岩倉織田家を
滅ぼしているので、今川や斎藤についている分を差っぴいても
尾張七割ぐらいでしょう。
>>89 剣豪なのに・・・
91 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 20:02
>>90 >尾張七割ぐらいでしょう
まあ、そんなところでしょう。犬山以外滅ぼしてるはずだから、
ただ蟹江城は今川の手に落ちてるし、木曽川沿いの服部も反信長、そして
知多半島は鳴海城で南北に分断されたため三河や知多半島南部は戦力には使えない、
斎藤家の押さえも必要。
そしたら機動戦力として使えるのは3000ぐらいになっても無理は無い。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 20:18
>>91 別に兵力を論じているわけじゃねえでよ。
攻め込まれているのだから、各城に守備兵を割けば、
清洲には5000も残らんでしょう。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 20:26
今川は短足で馬に乗れないんじゃなかったか?
94 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 20:27
面白そうに育ってきたね
位置取りをみるとなんで今川は中島砦を無視してすすんでいるんでしょうか?
95 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 20:32
今川の輿は身分の高さの象徴だよ
96 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 20:39
97 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 21:56
戦国期はまだ、お互いに陣揃えをして、朝から名乗りあいをして
ホラ貝や陣太鼓を合図に戦い始めないモノはみんな奇襲でいいんじゃないのか?
98 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 22:00
そうでもない。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 22:16
戦国期っても東北や関東はまだまだでしょ
>97
その定義で言ったら、東北はすべての戦闘が奇襲になってしまうんじゃないのか?
>>97 その定義で言ったら、東北は全ての一人エッチが奇襲になってしまうんじゃないのか?
>97
その定義で言ったら、東北はすべての存在が奇襲になってしまうんじゃないのか?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 07:04
>>90 正面攻撃説もしくは正面奇襲説はもはや定説だぞ。
それに兵の動員というのは滅ぼしてすぐの地域から簡単にできないと思われ。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 07:48
>>105 >正面攻撃説もしくは正面奇襲説はもはや定説だぞ。
最初に唱えたのが藤本正行氏。
「もはや定説」とか関係ないと思うが?
>それに兵の動員というのは滅ぼしてすぐの地域から簡単にできないと思われ。
美濃を手に入れた翌年に上洛したのはどこの誰・・・
107 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 10:55
滅ぼしてという表現がわらた
尾張国内で従わない勢力を攻撃して従うようにしただけだからすぐにでも動員
はかけれるでしょ、士気が高いかとか寝返らないかとかいう心配はあるけど
当時の戦なんて殲滅戦は滅多にないからね
上層部の首を挿げ替える作業だよ<戦
108 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 11:03
藤本 正行
信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学 講談社学術文庫
講談社 ; ISBN: 4061595784 ; (2003/01)
偽書『武功夜話』の研究 新書
洋泉社 ; ISBN: 4896916263 ; (2002/04)
戦国合戦の常識が変わる本
洋泉社 ; ISBN: 4896913698 ; (1999/02)
信長の戦国軍事学
洋泉社 ; ISBN: 4896912942 ; 新装版 版 (1997/12)
戦国合戦・本当はこうだった―逆転の日本史 洋泉社MOOK
洋泉社 ; ISBN: 489691273X ; (1997/08)
信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 歴史の想像力
JICC出版局 ; ISBN: 479660555X ; (1993/01)
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うそつき ヽ(`Д´)ノ
109 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 11:07
ワタスの仮説でスレが多少でものびて嬉しいッス
そもそもは、正面攻撃して2千の兵で2万の兵を破れるのかと言う事です
111 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 11:24
ここまでのまとめ
・25000人と言われていても実戦部隊は約半数の可能性あり
・各砦へ攻撃隊を出しているので本隊はそれほど多くなかった可能性あり
・信長隊は多くても3000人程度だが今川本隊も同数程度かもしれない
・無謀とも思える正面攻撃は信長の勘違いによるものらしい
・3000以外の尾張兵は守備に取られている
普通に考えて、今川本隊が中島砦の方向を正面として布陣したわけで
もないんでしょ?
ってか確認ができんだろうが。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 11:26
何があっても守られるべき総大将の不慮の戦死って、、、、
>>111 一応中島砦に対して、本隊から前哨部隊を出してるっていう説もあるよね?
一体、義元はどの時点で信長本隊が到着した事を知ったんだろ?
114 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 11:49
もし今川本隊が中島砦に対し正面を向いていなくて
中島砦に信長が到着したことをしらなくて
行軍中の織田軍を大雨で発見できなければ
今川からみれば奇襲となるな
まあこれらを検証していかなきゃならんけど
115 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 11:50
信長がいきなり清洲を飛び出し、後からバラバラ家臣が追いかけったってのが事実だと
今川が放っていたであろう忍者なり通報者が誤認して
信長出撃の連絡が遅れた可能性は十分にあると思う
116 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 12:44
信長出撃の連絡が遅れてもそれほど問題ではなくない?
>>116 いやかなり関連が深いぞ
出撃時にキチンとその情報を確認していれば東海一の弓取りとまで呼ばれた男が
そう簡単に首を取られる訳がない
というか信長に勝機自体ないだろうし
>>116 >>117 その辺は前出の藤本氏も一つの義元の目標が変更した
として論点としてるね。
信長自身の現場到着によって、義元側の目標が
鳴海城救援だけでは無く信長を討ち取る事も
含まれるようになったと。
(ちょっと端折ったんで誰か補足キボンヌ)
119 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 13:55
信長が清洲を出たときの情報よりも中島砦に着いたときとか中島砦から
出撃したときの情報の方が重要なんじゃない?
信長公記には中島砦から出撃しようとする信長に
「殿、ここ見晴らしいいからバレバレですぜ」
と家臣が忠告してるわけだし。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 15:33
>「殿、ここ見晴らしいいからバレバレですぜ」
敵軍から目視出来る場所まで行動を隠せれば御の字では
敢えて言ってみるが、1人当りの兵士の能力とか志気も
検討材料に入れる必要はないか?
というのも、
「信長は義元の隙をつかなきゃ倒せなかった」っていうのは
あくまで双方の「兵力差」からくる発想だよね?
いや、なぜこんな事言い出すかと言えばよく
ヤンキーの武勇伝とかで真偽はともかく
「一対数十人でも最初の数人倒すと相手が浮き足立って逃げる」
みたいな話を聞くから。
実際、義元側が勝利を確信してる様な状況だったら
兵士達は戦後の事を考えて死なない事が優先事項に
なると思うんだが…
義元が陣を張ったとき元康が丸根の砦を落とし朝比奈泰能が鷲津の砦を落とし
更に善照寺の信長勢を撃ち破ったという報告が届いたそうだ。
このとき近所の寺社の僧侶や神官が酒や握り飯を持ってきて酒宴を開いた。
ちなみに義元が陣を張っていた場所は田楽狭間しいい周囲100M程の低地で周りは丘に囲まれており
収容できる兵力は5000ぐらい更に兵たちは酒宴のため武装を解いていた。
対する信長は3000の内1000は善照寺に300は鳴海攻撃に向けた為兵力は1700
信長が1300の兵力を裂いたのは信長本隊が田楽狭間には近づいていないと思わせる作戦だった。
これなら1700対丸裸の5000なので充分勝機はあったと思われる。
>>122 でも、それって近年では覆されつつある説だよね?
「信長公記」に義元は「おけはざま山」に陣取ったとあるし。
>>122 酒盛り云々は信頼できる史料にはないぞ。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 17:12
敵前で酒盛りして裸踊りしてりゃー、そりゃー負けるだろうけど
今川義元がそんな事したとは信じられない
126 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:20
信長家臣の「相手にバレバレ」は原文読むと中島砦自体がもう目視対象に
入ってるっぽいね
だから今川からしてみたら信長が動きだしたのが見えてたはず。
しかし何故気がつかなかったかというと、大雨が降ったんだってさ。
しかも織田軍側から今川軍側に向かってかなりの大雨が降っていたらしく
今川側からしてみたら雨がやんで見たら目の前に織田軍がいたという状態
らしい。
あれ雨の降った方向は逆じゃなかった?
信長公記には東からって書いてあったような…
128 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:24
あれ?逆だったっけ?
ごめん
129 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 19:02
信長公記の記述は淡々として味気ない。
もっと吉川英治みたいに書きやがれ。牛一のばかやろう。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 19:03
桶狭間へ行った。義元公本陣が二つあった。いったいどっちなんだぁ〜
>>130 それが所謂「おけはざま山」と「田楽狭間」
合戦地が田楽狭間という説の出典って何だっけ?
武功夜話と信長記。
>>127-128 「大雨が降って、木が東に倒れた」だから、雨は西→東に降っていたらしい。
ところで、このスレには「信長公記」を読んだ人はどのくらいいるの?
>>134 全部は読んでないが、桶狭間関連部分は全部読んだ。
>>133 おぜ保安は太閤記といい、後世に与えた影響は多大だな。
内容は出鱈目だが、面白いからな。三国志の正史と演義みたいなもんかな。
信長公記と信長記の関係は。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 23:16
今ちょうど信長公記の桶狭間の部分読んだ
なんか俺の持ってたイメージとだいぶ違ってた
派手な演出がないからかもしれんが通常言われてる奇襲説の方が夢があるな
実は桶狭間の真相は氏真公の陰謀だったのれす
親父殿が頻繁に戦争して困ってたのれす
そこで信長の山猿と手を組んだのれす
まあ、奇襲って側面とか正面とかは無意味だよな。
虚をつけば全て奇襲だし。
>>36 土砂降りで無い限り鉄砲は打てるよ。
雨天用の火縄とかあるし
140 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 01:33
>>108 『信長の戦国軍事学』よりも前に、
『別冊歴史読本特別増刊 織田信長 その激越なる生涯』(91年、新人物往来社)
なんかでも発表してるよん。藤本氏。
ピンで本が出せるほど大物になったのが遅かったんだよ。
そもそもはさらに以前の論文だったはずだし・・・
141 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 01:56
火縄にゃ雨火縄はあるけど、火薬は水一滴でも致命傷。
陣笠を利用して雨をかぶらないように撃つのはなかなかの熟練の技。
>>140 誰も書かんので書くけど、
彼は著書の中で「70年代頃から学会にそのテの論文は出していた」と書いておったぞ。
彼って誰?
小室?藤本?
144 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 10:38
桶狭間終了後そのまま今川領を切り取りにいかなかったことを見るとあまり
余裕なかったのかね?
145 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 10:41
まだ義龍も生きてるんだから背後が不安じゃないか。
まあ実際は出兵もしたし家康と小競り合いぐらいはしてるんだが。
でもやっぱり、背後が不安で本格的に攻勢に出られるほど兵を
出せないってのが一番なんじゃないの。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 11:44
あ、家康と小競り合いしてるんだ
てっきりすぐに同盟結んでたのかと思った
>>146 んなこたあない。家康にしても今川家が義元死後も
動揺してないようだったら、そのまま今川方にいたんじゃないか?
ふと疑問に思ったのだが、
信長が勝つ為にはどの程度の奇襲だとしても本隊に近づくまでは露顕させてはならない訳だろ
とすると軍を分けた等のフェイントをまじえたとしてもかなりの雨が降っていないと発見されてしまう
ならばその時は土砂降りと言っていい程の雨が降っていた訳だから
桶狭間では鉄砲全く無しでの戦だった?
149 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 16:22
鉄砲使用はなかったのかもしれないね
信長は雨が上がってから攻撃を開始したんだけどね。
>>148 結構山がちな森林地帯だから、雨でなくても見つからないかも。
全く無いと言うことも無いと思われる。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 18:35
153 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 18:42
現在の”桶狭間”を歩いてみる。
当時をしのばせるものは何もない。
おけはざまやま?そんな山はない。土地の古老に聞いてもわかんない。
しかし、老人いわく学園隣あたりの高いとこだろう、とおっしゃった。
丹下、善照寺、中島の各砦跡はなんも残ってない。寺か公園か個宅だった。
善照寺砦から今川方の根古屋城までは500mもない。案外近いとこでにらみ合ってたわけだ。
どんどん宅地化が進み旧跡がわからなくなってきているが、今の状況を信長が見たらびっくりするだろうな。
市街地でゲリラ戦。ビルの屋上から義元を狙う織田家の狙撃兵。
今ならきっとこんな感じだな。信長の出番無しで。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 18:57
信長は軍長であり指揮官だから安全な戦闘指揮車両に乗ってケータイで母ちゃんに連絡か?
156 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 19:00
>土地の古老
いくらなんでも443年前の事は知らんだろう・・・
157 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 19:20
桶狭間地区はね、水はけがあまり良くないよ。
”おけはざまやま”なんて山はないよ、あんなとこに高い山なんざありゃせんわい。
よってのぶなが公記桶狭間の記述、信憑性は低いわ。時代は桶狭間戦より前になるが、
岩崎合戦で奇襲戦法をとった丹羽勢に負けた記述なんて一つもないし。
大田牛一の本、ありゃ七実三嘘だわい。
桶狭間の真相、今川義元の「おい小僧、攻めれるもんならせめてこんかい!」
と義元がわざと高地際まで接近を許したのがいかんかったんだわい。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 19:23
桶狭間もいいけど・・・
安土城の話題しましょうよ。発掘調査の話とかネ。
どうぞ?
藤本氏の説は信憑性高いの?
彼の本、まだ読んでいないのでこんな質問するのは失礼なんだけど、気を悪くしないで。
俺は英語専門の仕事なんだけど、定説を覆したといわれる本を出す人の中には
とんでもな人もいるわけで。あえて名を出すなら副島(そえじま)とか。
知ってる人いる?かなりやばい人。英語界の毒。
ドコの分野にもいるよ。
中国関係にはヒラセっていう猛毒デムパが・・・
>>160 藤本は極めて真っ当な史家だよ。
もちろん、その説の全てが正しいなんて言う気はないけど、
きちんと丁寧に史料へ当たる良い歴史家です。
>>157 だれも高い山だなんて言ってないのにw
>>160 「田楽狭間」に「迂回奇襲」よりは信憑性が高いと思います。
ありがd。近所の本屋で手に入るものから読んでみるよ。
>>162 俺も藤本氏の出版した書籍をかなり持ってるけど、
「極めて真っ当な史家」かどうかは疑問だなぁ。
研究してる分野も狭いし、目を見張るほど史料に当たっているようにも思えない。
信長公記の読了くらいは当然だし、郷土研究家と同じ程度じゃないかな。
信長公記なんて明治時代から出版されてんのに、
参謀本部は駄目だなあ・・・
それに疑問も抱かなかった歴史家どもも消えたほうがいい。
>>167 適当な暴言を簡単に行ってしまう君に乾杯
>>160 つうより、日本史のいくつかの事例の定説のいかがわしさが目立ってきたってとこなんでは
170 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 00:22
明治陸軍測量図によると旧東海道から東南側に分布する丘陵に三角点がある。旧鎌倉街道と開幕以降の東海道が
ほぼ一致するならば今川義元公がこの三角点に布陣するのが自然と思う。
場所は名古屋市緑区桶狭間古戦場と豊明市の義元本陣跡のちょうど中間地点の高地。
しかし現在の地図では三角点はもちろんない。実際行ってみたが鳴海方面は見えず。
>>153 しょぼい公園に石碑と変な資料館しかないよね。
172 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 10:17
>164
あなた信長公記、信長公記とおっしゃるが、どこまで真実かわかりませんよ。
牛一は都合の良いことばかり記述してますからね。信長の負け戦なんぞなんも書いてもせん。
ま、太田さんは信長に一番近いところにいたのでしょうし、実際いろんな事をメモしておったのでしょうが
義元が言ったとされる「我矛、天魔・鬼神モ構イナシ」なんて太田牛一がなんで知ってるのでしょうか?
>信長の負け戦なんぞなんも書いてもせん。
まずこの時点で嘘だけどなーw
読んでないことバレバレw
全部が全部信用できるとはもちろん言わないが、
とりあえず読んでから批判しろよw
全然読んでないのに、よくココまで書けるね。
呆れるよ、ホント。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 10:36
水掛っぽくなってきたから話題変えよう
桶狭間から徳川と同盟、美濃侵攻までの間で。
氏真は家中を掌握して織田に反撃できる機会がなかったのかと。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 10:49
>>175 一応家督は譲られていたのだし、相続のごたごたもないはず。
(例えば勝頼が家督を継げたのは7月だった・・・)
氏真でなければ可能だったかもしれない。
氏真でなければ家康も今川に付き続けたかもしれない。
氏真でなければ・・・
氏真・・・「真」の文字と金吾のイメージのせいか、鈴木一真に演じさせたくて仕方ない
178 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 11:53
>174
信長公記?信長公記なんざ穴があくほど呼んだわ。信長はな、信長公記記述以外にも
ローカル合戦いっぱいしてんだよ。信長記がどうのと言う前に太田牛一以外の古伝
とか研究してから物を言え。図書館行きゃそれなりに揃ってるんだよ。
おまえは現代語訳とか口語訳しか読んだことなかろう、受け売り坊やめ。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 12:12
義元がもしああいう死に方をしなくても氏真で決まってたんだよね?
ってかもう家督は氏真が継いでたんだっけか。
まあ権力を持ってたのは義元だったんだろうけど。
撤退してきた勢力はそのまま氏真体制に協力的だったとは思うのだが
家康だって独自路線を歩むまでには数年必要としてるわけだし。
その後も苦労しまくってるわけだし。
>>178 で、誤記ばかりして何を言いたいの?w
信長が信長公記の中で生きたわけじゃないんだから、
他にも合戦してるの位は誰だって知ってることだろうに。
178は174の煽りを受け流せない方が悪い。
174 :無名武将@お腹せっぷく :03/11/30 10:32
全然読んでないのに、よくココまで書けるね。
呆れるよ、ホント。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 12:49
尾張兵はなぜ弱兵と言われるのですか?(謎
183 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 12:57
>182
信長期の兵の集め方が傭兵方式に転化したためでは?
推測ですが・・・
商業的な考え方が浸透し損得勘定に長けているため、
主家のために死んでも戦う精神性が
純朴な田舎の兵に比べて乏しかったのでは?
185 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 15:11
最近では傭兵も他家と比べて多かったわけではないといわれてますね
商業的な考え方といってももっと商業が発達していた畿内の兵士が弱いと
言われたこともあまりないし
186 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 16:07
畿内は保守勢力圏で商業が活発というと必ずしもどうかな
つーか、信長公記には信長の敗戦がテンコ盛りじゃん。
仮に信長に都合がいいことしか書いてないとしても、
桶狭間のような信長の人生の花で嘘を書く理由がないし。
誇張しやすかろう
信長の兵士って、今で言う職業軍人なんじゃなかったっけ?
最初は乞食みたいのが主流だったから弱い弱いといわれてたんだったっけか?
強みは、他の大名の軍隊と違って、種植えや収穫の時期に関係なく召集できる点とか。
>>189 最近では別にそうでもなかったって言われてるらしい。
191 :
うさぎ ◆4xLZ.gsETk :03/11/30 16:41
普通の徴兵では兵士は農地を田舎に持ってるから逃げても後でばれちゃうぴょん。
信長の兵士は金で雇ってるから別に逃げても問題ないぴょん。
だから負けそうになったらさっさと逃げちゃうぴょん。
>>190 じゃあますます信長が勢力を拡大できた理由が分からんのだが・・・。
>>191 だからこそ信長軍という風土には鉄砲という
熟練を要す専門職でありつつ前線での斬り合いより危険が低い兵器が合ったのだろうか
194 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:19
戦国時代といえばまるで戦だけですべてが決まっていたかのように思えるが
基本的には政治闘争なわけで、政策をはっきり掲げて後ろ盾に武力があれば
強烈な対抗勢力がいないかぎり物事がスムーズに進むものさ。
織田は義昭を将軍にするといって京都に入ってきてその時点で対抗すべき義栄
派の三好三人衆が対抗すれば泥沼になっていただろうが意外にも連立政権を
作ってしまったわけで。
室町幕府15代目の将軍様は織田・三好・松永の連立政権だったわけだ。
>>193 信長の鉄砲足軽の多くは指揮官の指示なしには弾も込められなかった素人集団だときいたが?
196 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:26
>>195 長篠スレでいろいろ議論がなされたが、
少なくとも長篠のときには梅雨時にまともに鉄砲が撃てたのだから、
それなりの練度があったのではないかという意見が多かったと思う。
まあ、あのときは他所(筒井とか)からの借り物も多かったから、
信長直属の鉄砲足軽がそこまで上手かったかどうかはわからないけどね。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:37
>>182 「尾張兵恐るるに足らず」みたいなのは、それを指揮していた人間を
ひっくるめた表現のはずで。
福島正則が清洲城主で尾張兵率いていた時代に、
正則に向かって「尾張兵恐るるに足らず」と言う奴はいないのでは。
>>183 憶測ですね。
>>189 嘘です。
>>191 信長以外の「後進的」な「農兵」使ってるはずの地域でも
「裏崩れ」だの「共崩れ」だの兵が逃げ出して負ける話なんざ
ごまんとありますがw
198 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:48
要するに兵士は負ければ逃げるでしょう。
死ぬの嫌ですから。
ただ傭兵というのは古今東西「あんまり当てにならない」ことが多いと思いますが。
それに比べると農民兵は、特に自国の防衛戦の場合は強いのでは?
負ければ農地も家族も失うわけで。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:51
この時代は2割負ければ
今の時代の全滅と同意ぐらいのインパクトでしょ
鉄砲より弓のほうが熟練が必要な気がするんだが。
>>194 細かい訂正。
信長に抵抗しなかったのは三好義継と松永だろ
三人衆は抵抗しまくりだぞ
201 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:51
>>197 ちなみに私は愛知県人ですが、今もなお、
「尾張の商人、三河の百姓」と言われます。そういう気質があるということです。
まんざら
>>183の言うことは憶測だとばかりは言えませんよ。
兵個人の強弱はその人間の気質によるところ大なわけで。
もしかして煽り?違いますよね?
203 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:56
結局のところ、「〇〇という場合もある」というだけでは
なかなか意見にはなりにくいのでは・・・・・・
204 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 17:57
>>201 >まんざら
>>183の言うことは憶測だとばかりは言えませんよ。
>>183が憶測じゃないんですね。
じゃあ傭兵を使ったという「裏付け」ある「根拠」を教えてください。
すなわち、どんな「史料」で確認できますか?
205 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:00
>>204 おや?
信長が兵農分離を大々的に進めたというのは教科書で読んだことで通説だと思っていたのですが?
違うのですかね。
あれはまるで「資料」の裏づけのない「憶測」なのですか?
学界で市民権を得ていない説が教科書に載るとは思いがたいですが。
織田=傭兵
誰が言い出したことやら。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:02
>>205 俺もそう思ってたんだが・・・・・
違うのか。
>197ってなんか臭い。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:08
>>204 ちなみに織田家が傭兵を使わなかったという「史料」はあんの?
傭兵を使わないのがスタンダードだから、史料に記載がなければ傭兵は使わなかったってことになんの?
210 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:08
最近の研究ではですが
信長の軍には確かに農民が少ないそうです
武田などでは9割近いのに織田では8割程度しかいないそうです
しかしこれは召集をかける土地の国民の平均的な人口分布なのではないかと
いうわけです
甲斐・信濃ではほとんどが農業に従事していて尾張・美濃他ではそれ以外で
生計を立てているのではないかということ
同じデータを使っても研究が進めばとか時代がかわれば見方が変わるものな
のですよ
211 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:11
>>210 つまり、織田領には例えば商人や職人(とにかく農民以外の職種)の割合が多く、
彼らを徴兵した場合は「農民兵」ではない、と?
彼らは土地にしがみついている必要はないわけだから、戦争にそこまで入れ込むことがないだろうということかい?
>>209 「織田の傭兵」が「特別な事」であるならば、記録に残るだろう。
特別でないならば記録には残らないかもしれないが、
それならば傭兵は普遍的に使われていたもので、織田軍の特徴だった
ということにはならない。
>>210 誰の、どんな研究よ?
人口に対する職業構成を研究した奴はいたと思ったが、
兵隊の職業構成を研究した奴がいるのかね?
213 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:12
つうか、1割や2割じゃ「長期動員」だの「本拠地移転」だの、
これまで一部の人間が「兵農分離の根拠」と言ってきた事例は、
どれ一つとして説明できないんだがw
215 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:16
>>214 どちらの事例も農兵だろうが傭兵だろうが説明できるけどね。
兵農分離は1570年代半ばからだよ
>>212 いやいや、そうじゃなくて。
もし織田が傭兵システムを使わず、他と同じように農民を召集してたとすれば、
それは珍しくも何ともないから記録には残らないだろうな、と。
傭兵が一般的だったんじゃなく、あくまで農兵が一般的で、
織田もご多分に漏れなかったということかと思ったわけ。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:17
>>216 というのは何の「史料」に根拠をもつのかという突っ込みが来そうだぜ?
史料を挙げたもん勝ち、みたいなところがこの板にはあるからね。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:19
>>213 そうか、了解。
ただ史料云々はともかくとして、織田家の兵隊は本当に弱かったの?
上杉や武田に比べると「弱そう」なイメージはあるけど。
それも「憶測」?
220 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:21
>>217 農村を検地して軍役衆を定めてたりする例は武田だの北条だので
あるわけで、これを「戦国一般」と仮定しよう。
これが全国的に広まっていた所に、織田家が勢力を拡大していって、
しかも従来と全く違う方式で動員をかけていたのなら、相当数の
動員に関する史料が残ると思うんだな。
ところが、そんなものは、ない。
怪しげな状況証拠なるものを掲げる御仁もいるが、
それもこの仮定を否決し得る材料としては弱すぎる。
故に仮定を否決できんので、「織田家も含め基本は農兵動員」
ということで良いのだと思うな。
じゃぁ信長の異常な速さのの領土拡大は地理的要因以外に何があったの?
日本史の中では、信長みたいに短期間で覇を唱えられて武将っていないよね?(領土数含む)
222 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:24
>>218 >>216の言う「兵農分離」ってのは、武士や大名の転封が秀吉によって
盛んに行われるようになったってことを言いたいんじゃないかね。
しかし秀吉や家康がやったような転封ってのは、あくまでも領主層に
代わりの領地を与えて移転させるって事なわけで。
農村に住んでて軍役で動員されて足軽やってたような一般人の層が
一緒に引っ越ししてたわけじゃないもので。
まぁこれだけは言える。織田信長がいなかったら、乱世はもちぃ〜と長引いただろう。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:25
>>220 よく言われる「織田家の傭兵」というのは、いったいどんな人を「雇って」いたのかね?
イメージとして大阪の陣で豊臣方が浪人を金で招きいれたみたいな感じ?
だとすると、そういう浪人の少なそうな、農民の多そうなところでは、
織田家は大々的な(つまり従来のやり方を超えるような)徴兵をしなかったということは考えられない?
225 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:26
良スレ
226 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:27
>>221 農繁期にも戦さが仕掛けられるのが織田傭兵軍団の強みだったとよく言われるが、
実際、織田家はそれをやったのかな?
例えば長篠の合戦は梅雨の頃だよね?すなわち農繁期に当たる。
その時期にあれだけの大軍を動員しえたというのは、この理屈の根拠にならない?
227 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:30
>>226を見てちょっと思ったんだけど、
いわゆる「農繁期」「農閑期」っていつ頃を言うんですか?
228 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:34
止まった
農繁期→田んぼを働かせる時期。
農閑期→田んぼを休ませる時期。
>>226 相手の武田も農繁期に遠征してきてるのはなんでだろう〜♪
231 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:47
・・・田んぼが働くのか?
232 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:56
>231
しらんかったのか?
つまり農閑期って冬?
234 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 18:59
>>221 だから将軍擁立だってばさ
あと織田単独政権ではないってどこぞの人が書いてたろ
235 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/30 19:10
秀吉とかが、長浜で大名になるまで、秀吉の領地がどれくらいか不明だそうだ。
つまり、秀吉は大名に抜擢されるまで、領地でなくお金で雇われていた可能性もある。
譜代の柴田とか佐久間とか以外は、給料制のサラリーマンだった。
将軍にそれだけの領土拡大助長機能があるなら
義昭以前の将軍を擁していた勢力は
もう少し頑張ってないといけないのと違いますやろか?
237 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:13
戦国大名は既得権益者の権益を剥ぐようにして奪っていったから
前の将軍擁立者が下地を作ったのではないか?
じゃ、よく秀吉は信長の天下を簒奪したといわれるが、
実は信長も松永と三好の天下を簒奪したのだな。
239 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:24
>235
>領地でなくお金で雇われていた可能性もある。
やっぱ田畑だと思います。長浜城主直前まで秀吉一党が給料制ならば信長も莫大な賃金を
払う必要があると思います。。濃尾近の三国は一族と譜代だけの領地とは考えにくいですが・・・
信長は破産宣告しなければなりませんね。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:25
>239
信長は破産宣告?しらんかったのか?
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:28
>240
何!? 数社から借りていたのか?
>>236 むしろ信長の天下取りの速さは信長自身の合理的革新性が
行政・軍事に対し多大な影響を及ぼした為
そして特筆すべきは軍事より行政面だと思う
それにしても信長は機動戦多いな・・・
前期はともかく、やはり後期は職業軍人は多かったと見るべきか
243 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:31
>241
部下の給料を空手形で発行したり、
それが原因で謀反されて死んだり、
大変だったらしいぞ?金無くて。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:35
与力システムというのは画期的と考えていいのかね?
245 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:36
ご利用は計画的に
246 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:37
最後の頃の信長は自己肥大してたよな
弱小大名だった頃の武田の強さが強烈だったせいで
武田破った俺最高!みたいな気分で
実際島津やらと戦ったら
どうなってた事やら
247 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:37
そうか、伊勢神宮造営に気前よく銭を投資したからだな・・・
法華宗からもらった黄金も気前よく前線兵士に与えたり・・・
何だな、今の勃興企業の走りか、織田社は。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:48
>247
部下に無理矢理口座創らせて、そこから借入させて巻き上げたりしてたからな。
信長は。
>>246 晩年の信長の版図を考えれば、
ほとんどの大名は恭順を考えるんじゃないのか?
徹底抗戦を考えるなんて北条と毛利くらいのような気がする。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:50
正直、壺とか褒美が茶会を開く権利っていうのは詐欺だと思う
251 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:51
252 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:52
>244
与力とはどんな仕事してたんですか?
253 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:53
>250
信長が破産状態という空気を読めた家臣が
名物や粋筋をほしがる事で、暗に信長の懐具合を気遣い
そのために信長に感じ入られたわけだ。
滝川一益や秀吉とかな。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:55
あれでしょ
柴田についてった前田みたいな役目でしょ
ちゃんと仕事してるかどうか見てる役
光秀にはなんで斎藤なんかつけてたんだろう
あれも与力だったよね
光秀配下だったっけ?
目付
256 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 19:58
信長は天下掌の後、フェラーリを買った事だろう。
F1参戦も夢見たのだろうな・・・
257 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:01
天下統一後は、うまい棒大人買いだろ
258 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:02
>257
いや、うまい棒工場を子会社化。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:03
うまい棒で俸給
260 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:06
信長、阪神の監督に!!
261 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:08
信長、道頓堀でダイブ!!
262 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:09
信長、ハリウッドに進出!
263 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:11
信長、大相撲新弟子検査!
信長、身長が足りないため頭にシリコンを入れる。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:13
>>230 でも武田は数が圧倒的に少ないでしょ。一万三千?
いかに織田より領地が少ないからと言って動員能力はこんなもんじゃないはず。
やはり農繁期であったことが影響しているのでは?
266 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:14
何でネタ話になっちゃったんだ?
>>251 それでも元々の国力差が隔絶してるからなあ
確固撃破でどうしようもないな
伊達辺りは外交戦略で信長に抗戦はやらなそうだが
268 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:15
結局、農繁期と農閑期って何月とかでいうといつ頃よ。
>>265 勝頼が国自体をまとめられなかったというのもあるが一万三千というのは少な過ぎだな
270 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:16
>268
田植え終わると暇になるよ。雑草刈るまでの間は。
だから一概にいえない。
残るは北条という時になってようやく秀吉に頭を下げに来た伊達が
果たして晩年の信長相手に膝を屈してくるだろうか?
信長は最終的にはどうするつもりだったのだろうか?
恭順は認めずに全国の大名を一つ一つ完全に殲滅させていくつもりだったんだろうか?
それだったら統一までに恐ろしく時間がかかりそうだが。
滅ぼされた家の連中もゲリラ化しそうだし。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:18
>>269 でしょ?「最強の自信があったから一万三千で」なんてありえないし。
出張してるのは武田の方だから自国の備えに残す分があったとして、
それにしても少ない。
農繁期ってことは織田に比べればかなり影響していると思うのだよ。
こう考えると、やっぱ織田には農業に関係しない傭兵が多かったんじゃないかと。
>>265 農繁期だから武田も織田も少なかったってことで。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:18
その頃の信長の評価しだいだろ
戦上手で無敵信長なら黙って恭順だろうし
277 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:19
信長は絶対王政目論んでたんだろ
278 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:20
>>272 サンクス。つーと長篠は農繁期に当たるわけね、バリバリの。
>>275 そうかなぁ。連合軍は三万五千とか言うでしょ?
そのうち徳川軍が一万いたとして、織田軍が二万五千。
信長の領地がどれぐらいあったかわからないけど、武田よりも多くの敵を抱えて
兵を分散させていた信長にすれば、二万五千はかなり気張った数じゃない?
279 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:21
信長はでぶでぶでお歯黒・白粉になったんだろうか・・・・・・
>>271 信長から秀吉までのタイムラグの間に伊達はどこまで版図を広げたんだ?
それによるのでは、と
でも秀吉の場合は協調路線だったから直に攻めるより時間がかからんかったし
この場合信長次第だな
281 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:22
>>273 いくら何でもそこまでは・・・・・
郡国制みたいな形になったんじゃないかな?
282 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:23
1万石で兵250人を動員できるっていう基準は戦国期に当てはまるの?
283 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:27
>>278 防衛戦なのだから徳川は割り増しにしても織田は多いな
多くの敵を抱えている以上この兵数はやはり職業軍人が多いと見るべきか
>>283 と、俺は思ってるんだけど。
みんなはどうかな?
286 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:32
今川2万動員ってのもそれが根拠の一じゃないの
石高制について詳しくないので申し訳ないがはっきり答えられないんだ。
ただ何かの本で一応の目安はこう、と読んだことがあるよ。
戦国時代の本だったので戦国期の話だと思う。
ただ、この割で行くと100万石で2万5千でしょ。ちょっと少ないかも。
川中島なんか明らかに当てはまらないっぽいし。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:34
その時点では多かった
かも
>>287 それは僕らの参謀本部が便宜的に作った試算だよ。
まあ、こんなもんだろって。
>>285と俺283は別人なのだが、この場合はどうなるのだろう・・・
騙りとすべきか?それとも俺の言を借りたのか?
前者はあまりに早計だし無礼だし騙りというほどの物ではない
後者ととるのは文面が微妙だし
ひょっとしたら俺の中にもう一人いてそいつが書き込んだのかという妄想が俺の中でどんどんと膨らんで
そんな疑問を抱えつつ俺は早くも今から寝ますおやすみなさい
292 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:44
>>289 参謀本部か。
いろいろやってたんだね、彼らも。
そんな暇があったらリアルでもうちょっとましな作戦を立てろと小半刻
小田原の戦いの時の軍役は百石につき4人。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:13
100石で4人→1万石で400人。
やっぱ参謀本部のはちょい控えめだね。ありがとよ。
>>293 っつーことは、一万石あたり400人か。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:15
で、問題は織田家が傭兵制を採用していたかどうかなのだが。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:19
信玄の三河侵攻のときの兵力が2万5千で長篠のときが
1万3千ってのは少ないように感じるけど、
信玄のときは謙信は一向宗に抑えてもらっていたからね、
単純にその違いなんじゃない?
それに信長軍3万強ってのはそれほど多くないでしょう。
当時の信長の領地は尾張・美濃・伊勢・近江・越前・大和、
加えて京都周辺に堺とか大阪あたりの一部も抑えてたよね、
石高は尾張美濃で100万石強、近江は一国で同じく100万石近く、
大和や越前も数十万石はあっただろうし総計で300万を超えると思われる、
7万や8万は動員できてもおかしくはないでしょう。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:23
領土が広けりゃ守備隊もいるじゃん
>>297 豊臣
漏れの持ってる資料には、織田徳川連合軍18000武田軍6000となってるんですが間違いでしか?
302 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:24
>>298 いろいろ基準は出てるが、
300万石→10万人ぐらい?
だとすれば3万ぐらいは長篠へ連れてこられたのかな。
単純計算で武田の3倍近い動員能力だから。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:25
>>301 何の資料?
そこまで少ないのは初めて聞いたよ。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:26
武田信玄が迫って来た時はどれくらい動員できたの?対武田に
>>296 今のとこ、
当時は一般的に農民兵で、信長軍だけそうではなかったことを示す資料は無いんで
信長軍も同じだったんじゃない?って感じか。
信長軍は農民兵の割合が少なかった(それでも8割は農民兵)という研究もあるが、
それは単純に支配地域の農民の割合が少なかったからじゃないかって意見もありましたな。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:27
傭兵・・・
各国の国政によって全部とは言えませんが諸大名も結構傭兵していたのでは?
織田軍部も必要に迫られたときに募集したりして。期間工みたいに。
専門スキルのある者は正式な武士に取立てたりとか(力士等)。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:28
>>305 そうそう。
農民の割合が少ない→相対的に商人や職人(農民以外)が多い
ってことでしょ?
彼らに徴兵かけた場合は傭兵とは言わないよね?
傭兵ってのはあくまで戦争専門の職業軍人なのであって。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:30
>>299 それでも3万くらいはいけるでしょ、
武田軍が敵領内に侵攻してるのに対し、信長は同盟国内を通るだけだから、
兵員の移動もそれほど負担にならないだろうし。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:32
信長の支配領域って、今で云うプーがイパーイいたんじゃないの?
滅ぼされた小大名の多い地域なら浪人も多いし。
力だけ有り余ってるそういう連中を金で雇ったってのはありうると思うがにゃ。
310 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:35
>>309 ふむ。
そうだとすれば、そういう地域を押さえてることは信長にとってメリットだな。
農繁期に百姓を駆り出さずに済めばそれに越したことはないわけで、
単に数だけから傭兵の有無を割り出すのは無理かも。
311 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:36
>309
失業者対策ですか・・・
国政を握るものにとって痛い問題でもありますな。
当時は俺も手柄を立てて!という人も一杯いたでしょうからね。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:37
>>304 当時は北近江に浅井、越前に朝倉がいてそれぞれ敵対していたし、
京の義昭も反信長だったからかなり少なくなるかと。
それでも、徳川への援軍3千は少なすぎかな、
やっぱり徳川を捨て駒にして武田の補給線がのびきったとこで叩くつもりだったのか?
日本の国土で補給線って概念は有効なのか?
>>311 いや、失業者対策というほど立派なものじゃないけどw
ただ、土地を分けずに金でそのつど雇える戦力を放っておくのはもったいないかなと。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:41
>>313 そりゃ有効なんじゃない?
どこの軍隊もそれで苦労してたでしょ、遠征のときは。
316 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:41
関ヶ原の黒田だな
317 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:42
>>309 そういうのは経済が発展して余剰がある地域には結構いたでしょう。
そして信長以前から金で雇われて使われているはず、
堺の町衆が雇ってたっていうのはそういう連中なのでは?
318 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:44
>>317 ただ、例えば武田の領内にはあんまりいないでしょ、そういう人。
信長がそういう連中に目をつけるのはごくごく自然かと。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:44
オールスターゲーム関ヶ原。
義経も正成も信玄も信長も一度は主将になってみたかった事でしょうネ?
320 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:45
日本軍が危ない?
321 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:46
仕事(資金)さえあれば、全国から人材が集まってくると思う。
どこの地方でも。
案外、ボーダレスで人材は自由市場だったと想像してみる。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:48
いずれにしろ信長軍の編成が他と大きく違っていたって資料は無いんでしょ?
単純に人口が農民ばっかのとこは兵隊も農民兵ばっかだし、
農民の割合が少ないとこは農民兵の割合も少ない、
浪人が多くいて金で雇えるとこは当然金で雇ってた。
信長もそれぞれの地域に合わせてその地域で一般的な方法で、
兵を集めていたってだけなんじゃないの?
323 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:49
たとえば、美濃出身?の明智光秀が越前朝倉に雇われたり、
将軍家にアプローチしたり、毛利の面接も受けたらしい。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:51
>>322 とするといわゆる「兵農分離」ってのはいったい何なのでしょうね?
私は、戦争があればいつでも動かせる人員の確保、と定義していたのですが。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:52
光秀は土岐系だから優遇されるとか勘違いしてたんだろ
結局、名門バカで終わったし
326 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:54
>>323 なるほど。
ただ、東海・近畿というのはもともと人口の多い地域。
信長はそれをやりやすい状況にあったんじゃないかなと。他と比べればね。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:54
兵農分離は農民に武器を持たせない事だろ
四方海で海渡ってクソ田舎攻めようっていうオカシナ奴以外
敵がいないんだから
328 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:54
>>324 つまり信長の段階で、
いわゆる兵農分離は起きていなかったってことなんじゃない?
兵農分離は基本的に秀吉の刀狩がはじまりで、
徳川時代に身分制度として完成したってことで。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:56
ある程度の規模と経済力があれば、自然と兵農分離システムに移行すのではないか。
武田とか上杉は全盛期でもそこまでのレベルではなかったということだ。タブン
マニアルの大企業とアナログの中小企業の違いみたいなもの。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:56
>>327>>328 なるほど。戦闘員の確保ではなく、むしろ農民を専業の農民たらしめるところに意義があったと。
勉強になりました。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:59
農村でも兵役つけば年貢免除で全部自分の食い扶持になるってやつ
を村単位でやったのかな?
村単位でやれば兵農分離になるかな?
信長は(教科書では知らないが)本城移動などをすることによって
将兵分離を進めたとか言われるから、それの勘違いなんじゃない?
つまり将を彼らの土地に張り付かせるのではなく、織田の本城に張り付かせるアレ
333 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:59
やっぱり金があるところが強いのですなぁ。
少数精鋭というのは天下規模では通じない。ふむふむ。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 21:59
>>321 ここでいってる傭兵ってやつだと、
一回の戦闘で金がもらえるだけで、土地付きで雇ってもらえるわけじゃないんでしょ?
だったらわざわざ遠くまでは出向かんわな、少なくとも近くに需要があるうちは。
光秀みたいに高禄で召抱えてもらえる(と思ってる)奴は別だろうけど。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:01
336 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:01
どこの国も富国強兵はするからねぇ。
兵農分離という言葉と定義で縛られるからそれに振りまわされる気がしてきた。
>329さんの意見はもっともだと思う。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:02
338 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:05
>>337 屯田兵のイメージ
戦国期にも村で数人はそういう人がいたらしい
339 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:07
>337
兵役免除の者がする。
不毛の時代では働き盛りの男はいつも兵隊にとられる。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:09
>>338 それは屯田兵っていうのかな?
あれは兵隊が行った先で自給自足するためにやるもんじゃないの?
普段農民で、戦争があると行くというなら、普通の農兵スタイルだと思うけど。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:11
>>339 不思議なことに戦国時代は高度成長時代で人口も収穫高も倍倍に増えた。
逆に、平和な徳川時代は低成長時代で、日本人は栄養失調気味で背も縮んだ。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:13
前に見たテレビで行ってたんだけど、
信長は身長161aらしい。まーじーでー?
>>341 江戸時代は全世界的に天候の悪いことが多い期間だったからな。
>>235 >>239 秀吉(の初期)の話は、堺谷が同じようなことを言ってたな。
領地を貰っているが、その土地は治めている形跡はないだとか。(もちろん最初の一例だけの話)
別に給料性と言っても、江戸期の蔵米制みたいな意味だと思うので、破産は関係ないが。
345 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:16
農民のなかにも
専業者、半農半兵(年貢あり)、半農半兵(年貢なし)
があったらしい
半農半兵(年貢なし)なら全部自分の可処分所得だし
イメージ的には屯田兵が近いと思ったんだけど
346 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:16
>>342 南蛮人の宣教師が信長は中肉中背と言ってるので、
たぶんその時代は西洋人もその程度だったと思われる。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:19
>>235 蔵米だとかを支給されて仕える「サラリーマン武士」の
存在は、北条家などでも明らかになっています。
でもそれはまだ小身のうちね。
ある程度出世すると領地持ちになり、さらに部下持ちへとなっていく。
秀吉の場合、初期に文書で確認されるのは吏僚としての活躍ですが、
六角攻めの頃には既に一軍を率いる所までなっていますから、
美濃攻めの頃に功績があって領地持ちになったって所じゃないかと。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:22
>>298 『甲陽軍鑑』などは上杉への備えとして一万の兵を残したと書いていますが、
調べてみるとなるほど、前年の東美濃攻略や高天神城攻略は、
いずれも上杉謙信が春日山城を空けている時期に行われています。
また連年の出兵で一部の国人層が負担がキツクなり、従軍拒否を
申し出た時期でもあります。
長篠の時は、北への備えと経済的に厳しい部下の休養のために
兵力が少なくなったと言えるでしょう。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:24
とりあえず、
兵士の編成については他と同じようなもんで、
信長が革命的に変えたことは無かったってことでいいのか。
ただ、地理的経済的に有利な場所を押さえその有利さを最大限活用していたって感じで?
350 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:25
>>307 明智光秀の軍役など見ると、織田家であっても部下に対して石高を基準に
動員を課していたことは明らかなのですが、
石高基準という時点で商人だの職人だのが多い少ないというのは
あまり関係が無いような気もします。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:28
宣教師が書いたと言われる木炭画の信長像をみたが明治の古写真みたいだ。
桶狭間も長篠も安土城も謎が多いがこの写真だけはリアルだ。
一応、他との違い、信長以前との違いを示す資料がないなら、
そう判断せざるを得ないと思うけど。
状況証拠も結局決定的なのは出てきていないよね。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:30
>>349 そんな感じかな。
たぶん、いわゆる「傭兵」の割合が他勢力より高くて、
農繁期にも比較的容易に編成ができたであろうと。
別にそこまでドラスティックなことはしていないであろうと。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:30
>>318 武田家には「牢人衆」があって、まさに浪人を編成して一部隊を
作っていたことが明らかですが、
信長の方はあまりそういう例を聞きませんね。
もちろん、全く無かったとは思いませんが。
何千何万の単位の浪人が巷にあふれる状況ってのがそもそも、
関ヶ原以降、大名家そのものの取り潰しが恒常的に行われるように
なってからだと思いますし。
356 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:31
>>351 鼻がスッとしてて
いわゆる今のバタ臭い男前顔でしょ
>>350 石高基準ていってもそこで取れる米と農民しか勘定に入れてないわけではないし
軍役の石高ってのは軍役を申し付けるためにとりあえず設定しただけでその領地の生産高を直接反映したわけではない
358 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:33
>>328 ただそれは「兵農分離」というよりは「士農分離」という身分の区別に
過ぎないし、刀の二本刺しなど「武士としての形式」に抵触する行為が
禁じられただけで、農民が武器を持つことそのものが禁じられたわけじゃ
ないようですよ。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:34
>356
そうそう。大河ドラマ「徳川家康」で織田信長役の役所公司みたいな感じ。
教科書で見た信長公像とはえらい違い。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:34
361 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:35
>>355 武田家ではそれが珍しかったために有名になったのでは?
逆に織田軍ではそれが一般的だったから特に「浪人衆」なんて名前がつかなかったのかも。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:37
>>359 そう?有名な信長像って、あれはあれでけっこうイケメンではないかと。
・・・・・信玄なんかに比べると。
信玄のは偽物
いずれにしろ他もやってたってことだよね。
当然地理的に信長のほうがやりやすかったのでは?
ってことは推測できるけど。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:39
>>361 一般的と言う割には明智光秀は普通の軍役を課していたようだが。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:39
本物っていわれてる信玄の方はもっとブサイクだw
367 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:43
>366
それでもお前よりは女にモテたろう。
368 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:44
中井ピーチ似のハンサム
>>366 不細工っていうか覇気が無い、なんかなよなよした感じ。
でも武田二十四将図のは鬼瓦みたいな顔してるよな、
ってあれは後世の想像で肖像画ではないか。
370 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:45
明治の初めに行われた人口調査だと、江戸時代において武士階級は
人口の7%ほどだったと考えられる。
5人に1人が青壮年男子だとすると、江戸時代において、軍役に就ける
武士は一万石あたり150人ほどしかいなかった計算になる。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:45
日本の肖像画にそんなリアリティ求めるなよ・・・
>>371 そりゃそうだけどそれくらいしか参考にできないし・・・
どうでも良いが源頼朝のはかっこよすぎじゃないか。
絵師の腕か?
>>369 信玄は何か病をずっと患ってて、いつも下痢だったそうだから痩せてたという話を聞いた事がある。
ああゆう、いかつい猛将というイメージではないらしい。
374 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:50
>>370 江戸初期に不要になった武士を相当気張って生産者階層に戻したんでしょ。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:51
信玄はそもそも詩歌を吟じる文学青年であり、慎重派の人間であり、
イカツイ猛将というイメージじゃおかしいと思うんだよね。
武士階級と言っても、そんなの江戸の徳川でも15,000人くらいしかいないんだぞ。
これは江戸期の調査や明治政府への提出のための調査で明らか。
しかし軍役に付くものは陪臣や農兵などで八万旗にまで膨らむということで。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:52
>>374 いや、江戸時代の軍役でも一万石あたり250〜350人ぐらいは
課しているから、足りない人数はどうしてたんやろね、という話さ。
信玄、12か13歳くらいでガキ作ってるからなw
379 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:53
>>372 神護寺所蔵のあれでしょ?
あれは「伝」源頼朝像というぐらいで、そもそも頼朝を描いたものかどうかもわからんちん。
380 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:54
381 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:54
源頼朝も違う人の可能性有りだろ
何枚かあったうちの1枚で
ぐちゃぐちゃになってしまってどれがどれやらで
これだろうでなったとか
382 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:58
よかったなぁ、常盤貴子。
娘に会えて。
>>377 連れてきた兵隊の内突、槍もって突撃するのは半分もいないから問題なし。
残りは雑用小物兼輸送部隊兼現地土木作業員
384 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:00
>>383 そういった連中はやっぱり普段別に仕事してるんかねえ・・・
385 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:04
そういうのは小物だろ
>>379>>381 そうだったのか、
でも絵としてかなり気合はいってる感じだよね、
写真で見た限りでは。
つーかスレ違いスマソ
>>370 明治に認定された武士階級ってのはなんらかの家禄をもらっている人のことだから
武家に関わっている人間の割合ももう少し多い
>>384 禄高も得てないから平時は武家の使い走りとか開墾地の耕作とか町の浮浪者
389 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:14
死のうは一定
士農は一定
391 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:24
しそうのうろうは痛てえ
392 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:32
>>391 もしや「一定」を「いってい」と読んだのでは・・・・・?
393 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:35
兵質
尾張→50 甲斐→80 越後→90
いちじょうですよ。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:37
>392
いやネタにマジレスされても・゚・(ノД`)・゚・。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:39
いちじょうですよ。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:40
398 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:40
>397
システムソフト
399 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:42
>396
一条姫ハァハァ
一条零
88版全国版の一条兼定は凄い
402 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:46
>401
脱いでも?
さてそろそろ話を戻すが
信長の兵が他と変わらないとすると、信長の十八番とも言える機動戦はどうなのだろうか
土着の兵ばかりだとひどく動きづらいのではと思うのだが
404 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 00:09
まずその機動戦の具体例を挙げれ
信長の十八番の機動とは
信長「出陣じゃあ!!皆のものおいおいついてこい!」
という勢いのことじゃないのか
これは兵制とかとはあんまり関係がないとは思うが
機動戦と言うよりはスウィング戦略か。
多方面に戦線のある大名ならどこでもやってそうだが。
具体例以前に、具体的にどんなことを「機動戦」と言っておるのだ?
>>406で良いの?
408 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 00:35
403はトンズラか
いやつまり多方面に対し戦線を抱えるというのは、同時に将の移動が激しい訳だ
んで当時の兵制では将が与えられた土地ごとに徴兵する、と
信長の兵制が他大名と変わらないのであれば
兵は全て将が従来の形で徴兵したのだから無論将が異動になればついていく
だがこのように移動の激しい環境では農閑期に兵を返すというのは距離的に不可能という状況も出てくる筈
だがその場その場で徴兵など非常に不便
そういう時に移動を嫌がらない傭兵部隊があれば非常に有効
信玄の軍に傭兵部隊があるのはやはり戦略上必要になったからだろう
領地の大きな大名というのは多方面戦線を抱える可能性が高いのだから普通はそういう部隊があればと思うのでは
つまり信玄でさえ持っているのなら信玄以上に領地が大きく戦線を抱えている信長は傭兵部隊を持っていたと見るべきでは
すまんちと言葉を間違えた
機動戦というのは少し語弊があったな
要は「兵の移動」
そういう部隊があればと思うのでは
↓
そういう部隊があればと考えるのでは
遊撃戦力を抽出して重要戦線を補強?
それとも兵数が集まらなくても邀撃すること?
傭兵を今の戦闘の専門職と捉えちゃダメですよ。
そういうのは陣借り武者。
家臣が自領の奴らで組織したのではなく、
大名が自腹切って集めた直卒の兵力、程度に考えといたほうが無難。
たぶんね。
そもそも農繁期は兵が出せず、農閑期だけだせるという認識がおかしいのではないか。
せいぜい、農繁期ではあんまり出せないという程度のもの。
そして敵も同じなので、それでも互角となる。
で、総領地が多い>総兵が多い>自由に動かせる兵が多くなる>多方面作戦もやりやすい
つまり例えば与力として兵を500ずつなどを応援として出しやすいというだけの話でしょ
同じ雑兵でも自分の領地からつれてきた
農民兵と金で雇った浮浪者まがいの流民兵
とどちらが頼りになるだろうか?
多分従来の大名たちは前者を信用し、
信長は後者を使い続けてのだとおもうが
どうだろうか?
416 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 00:54
農村は共同で田植え・稲刈りだから
ある程度まではカバーできただろうね
地方出身混成部隊だから弱いとかいわれたのかな
なんでそんなに信長=傭兵多用にしたいのか、それが謎だ。
とくにする必要もないと思うが。。
>兵は全て将が従来の形で徴兵したのだから無論将が異動になればついていく
そうなのか?
>>417 いや特にそういうつもりも無いのだがどうも腑に落ちない感じが・・・イメージか
>>417 小説風な説明だと非武士階級などの兵を使用して
在野にうもれてる才能を見出そうとした、とかいえますね。
たぶん非生産階層ならばいくら損害でても領地経営に
影響が出ないという現実的な考えかもしれませんね。
取り敢えず
・信長の兵は環境等から傭兵がいた可能性があるが確証を得られるほどの証左が無い
が結論?
農民兵だといったん解散させたあとに
再度召集するのに時間がかかるに比べ、
常雇していれば迅速に対応できるメリットがありますね。
デメリットしては戦が無くても雇用賃金が出るのと犯罪増加?
でも京都での犯罪はすくなかったっけ、信長上洛時。
>>420 んー、傭兵=金で雇われた無職者は、そりゃあ死んでも構わないような存在だと思うけど、
そんなのを持ってること自体が大名経営に響いてくると思うよ。
維持費が高すぎる。
そんなのが各大名に多少居ても不思議ではないけどね。。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:09
>>422 そりゃ、あんた信長公は平気で自分の言うこと聞かない奴は
家臣であろうと撫で切りする人でっせ
もしも「多少でもいいから常駐兵を持ってたい」と思えば、別に金で雇わなくとも
各農村に「兵役2年を課す。各村から10人ずつ出せ」って集めればいいだけでしょ。
防人みたいに。
426 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:15
>>425 農村から人間をとっていたんじゃ収穫に響くから、
浪人とかを傭兵に雇うんじゃないのかい?
べつに歴史的裏づけは無いが
毎日の炊き出しなどで領地に一定の
浮浪者や流民をつないでおいて
戦になればそれらの中から希望者を
兵として連れて行く。
手柄を立てれば士分として取立て、
または褒美を約束しやる気を出させ
戦が終わればすぐに解散させるという方法であれば
すごく安く兵力をプールできると思います。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:19
>>423 農村から兵隊をとって収穫を落とすのと、
とりあえず農業に従事していない人間を傭兵として雇うのと、
どっちにもメリットがありデメリットがあるわけで。
金を稼ぐ方法は他にあっても、米を作る人間がいなくなったらおしまいだからねぇ。
そのへん考えると、とりあえず人がいるなら傭兵として雇うというのがよさげに思えるが。
>>426 もしも、その代わりに金で雇うなると、その資金は主に農民の税でしょ。
あんまり総負担という点では変わらない気もするが。
もちろん領主・大名などがポケットマネーで傭兵を少し雇うとかなら分かるけど、
多方面作戦での主力とまで沢山雇うと、大名家がパンクするんじゃないか?
430 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:20
>>427 兵士に志願せずにタダ飯食ってる奴はどうするの?
431 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:22
>>429 総負担で計算すれば同じかもしれないけど、
米と金って異質のものだと思わない?
農村の荒廃は国の荒廃、立て直すのは大変ですよ。
もちろん全部を傭兵で補うのは無理でしょう。そもそもそれだけの人間がプーでいるかどうかわからんし。
>>427 そういうのは単に陪臣や家の子の者などじゃないか?
普通に居ると思うが。。
あと炊き出しなども女房子供の軍役でもあるしな
>>431 確かに荒廃はあるかもな
朝鮮出兵時などのように。
しかし、朝鮮に行った兵を、傭兵とはいわないだろ。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:27
>>433 いや、だから農村からとったのは職業軍人じゃないから傭兵じゃないですよ。
私が言いたいのは、他に本業があるわけじゃなく、戦さがあると雇われて出て行くのが傭兵だろうということ。
そして上手くそれが使える状態であれば、
@農繁期にも多数の動員が可能。
A農村は充実したままで収穫も期待できる。
というウマーなことになるのではないかと。
傭兵のリスクももちろんいろいろありましょうが。
>>429 緊急に兵が必要なときにある程度の戦力を常備する
と考えでいけば、雇っているほうのメリットがあると思うが
時は金なりといいますしね。
>>430 兵士になりそうなやつだけに振舞うとかに対象を絞りますか
まぁ兵にならなくても人が集まればなんらかの生産力が上がる
わけだからそういうことをして国の総合力の底上げになれば
十分利益になります。
>>435 その考え方には賛成で砂。
人も資源ですから遊ばせていてはいけない。
傭兵というのはとりあえず定職を持っていない(遊んでいる)人間を、
戦国期として最も有効に活用する手段ではないかと思います。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:31
そう言えば、結論は、
「傭兵や農兵はどこの勢力でも混在していた。
ただ織田家では前者の割が多かっただけ」
ということになったんだよな?
438 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:31
官兵衛がさ、関ヶ原のとき金ばら撒いて浪人やとったじゃんか
あんな感じじゃないの
手柄があったやつだけ、あとで何かやるにしても
基本的には戦が終われば即解散だろ
>>434 結局、程度の問題でしょ。
多少居る分にはまだしも、主力として多方面作戦の主力となるまで雇うってのは無理ってこと。
一時的に金で雇うってのは、また別の話でしょ。
今の話での傭兵は、金で雇われる常備兵だとおもうが。。
一時的に雇うのなら紀州の鉄砲兵などの話になるんじゃないかな。。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:35
>>439 結論はそうなりそうだよね。
どこの殿様だって、ひまそうにぶらぶらしてるひげ面の浪人がいれば、
「小遣いやるから戦さ行かないか?」
ぐらいは思いつく。
要はそれをどれだけの規模でやったか、であって。
442 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:36
>>440 尻啖え孫市?
あれは「一時雇われを専門にするプロの傭兵集団」だよな。
根来の坊さんたちと一緒で。
>>437 それで間違いないと思います
寄子とか寄親とか制度はあったわけだし、
野田城救援のときは動員待ちだったことから
解散させた農民をまた集めてると推測します。
結局流民も農民だし、主兵も農民であると思います。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:39
今のイラクとかアフガンとかと一緒で
闘った事の無い人間なんて存在しない世の中だったんだから
ある程度は即製でもいけるんだろう
明智が謀反起こしたのは領地が中国切り取りに
なったからといいますが、そうすると兵は旧来の
領地から挑発した農民兵では無いということにはならないか?
446 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:42
どうなんだろう。
結局のところ、経済が農村に依拠していた時代は、
完全な職業軍人軍団を作り出すことは難しかったということだろうか。
>>445 なんのことだ?
たとえ旧領召し上げ敵地切り取り勝手といわれたとしても、
連れて行くのは領地から挑発した農民兵だろ。。
それで、領地変えられたら、もちろん農兵は返して、新たな土地で軍役を課すと。
農村からの徴発といえども装備によっては
賃金が違うんだよね
449 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:44
>>445 兵隊だけは今までどおりの連中をくっつけたんじゃないの?
いきなり配下の部隊をごそっと変えられたらロクに闘えないでしょう。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:45
>>448 無知ですまぬが、戦国時代は武器まで自前だったの?
もちろん刀や槍のレベルならいいけど、弓矢、鉄砲、馬となると・・・・・?
>>445 それって証拠がないんじゃなかったけか?
452 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:46
自前
>>447,449
寄子としたら自分の殿様でなくなるわけだから
戦意は上がらないよね。
454 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:48
弓矢
馬
鉄砲
訓練がいる武器
専門職
455 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:48
>>453 それもそうだし、金で雇った兵隊を適当に寄せ集めてくっつけられたんじゃ、
西国の土着豪族を相手にしなきゃいけない光秀が切れるよ。
・・・・あ、切れたから本能寺なのか。
>>451 もし傭兵集団だとしたら、そういう配置換えも容易
に行えたかなとおもって
457 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:49
結論
織田家の兵農分離は嘘
装備は武家・大名が貸す制度もあるし、配下に「槍10人鉄砲3人出せ」と言いつける制度もあるし、
農民を動員して刀だけ持たせて突撃させるとかもあったんじゃない?
459 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:50
刀 主に首切り用
槍 主力武器
460 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:51
>>457 嘘とまではいえないでしょ。
傭兵というシステムを織田家が他勢力より大々的に活用したことは想像がつくから。
ただそれは特別に斬新なシステムではなかったと。
ちょうど「鉄砲三段撃ち」が画期的な新発明じゃなかったみたいに。
>>450 長槍いくら
具足いくら
馬いくら
とあったらしい
そういえば織田だけは武器を支給していたって思ってたんだが
それも嘘?
463 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:54
>>461 そうなのか。
いや、だとすると武器や馬の日常管理も農村に任せられてたわけでしょ?
それってかえってマイナスのような気がしたんで。
忙しく田畑を耕してるうちに武器が錆び付いたとか馬が痩せたとか。
日常管理は侍が城でやってる方がいいのかなと思った。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:55
おまえらバカだなぁ
戦国時代の傭兵は自衛隊だけだって
信長がよく言われるのは、武士(将校)を城下に住まわせることを促進し、
管理を進めたってことじゃないか?
信長=傭兵ってのは、あんまり言われないと思う。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:57
>>465 そう?
俺は高校の頃、信長は兵農分離で農繁期にも迅速な軍隊編成を可能にした、
みたいな話を習った覚えがあるよ?
468 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 01:58
>460
じゃあ言い方変えれて
織田家が躍進した要素のとしての兵農分離は嘘
これでいいか?
私案ですが大名の領地というのは結局
自分の領地であって領地で無いわけですよね。
配下のもの領地として分け与えたりそこにいる土豪と
取引で自分の勢力化に置いたり(もちろん人質とか取りますが)
信長の場合獲得領土が多く直轄領も増えたと思います。
そこで自分の直属の兵士(武器防具などを支給し)を創設し
それを各戦線に振り分けられたのでは無いかな?
信玄の場合直属が500ぐらいだったと思うけど信長の場合
それが万単位とか、どうでしょう?
>>466 それは
兵(武士)農(農民)を分離し、武士が直接農村を支配する豪族の集合体制から、
豪族の支配権を弱めて、豪族の農村の支配は名目的なものとする大名の管理社会を促進し、、、
とかの話じゃないかな?
472 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:02
>>469 しつこくてごめんよw
これは単に俺の理解だから、聞き流してもらっていいんだけど、
織田家が躍進した要素として、やはり傭兵制度を大規模に展開したというのは
なかったわけじゃないと思う。
農繁期にも大きな戦さができるし、農村の荒廃を避けられるからね。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:04
>>471 あー、そうかもしれないね(曖昧でごめん)。
君の理解だと、要するに中間勢力の排除って事だよね。
郡国制から郡県制へ、みたいな。
ただそれだと、農繁期の出陣も可能ってことにはならないんだよな・・・・・
その部分はけっこうはっきり記憶に残ってるんで。
もしかしたら単に先生が口を滑らせただけかもしれないんだが。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:05
>>473 どっちが?
農村での管理?侍による管理?
>472
>農繁期にも大きな戦さができるし、
川中島はほとんど農繁期だったと思うけど。
他でも特別農繁期に軍事活動の規模が縮小されてた傾向ってないっしょ?
477 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:08
>>476 川中島って9〜10月だっけ?
それはともかく、謙信なんかは春日山にかなりの兵を残してるね。
あれは単に一向一揆対策?
478 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:12
>>476 実際どうやってたかははっきりしないけど、
農村から農繁期に男手を借り出したら困るのは明らかだよね?
農繁期といったって、時期によって作業の難度も変わるだろうから、
厳密に見てみれば本当の農繁期には動員が難しくなるのは理屈からして当然だと思うんだけど。
農閑期と言っても、農民は生きるために一年中仕事をしているわけで、
農閑期だから暇で、農繁期は手が放せないというのは、しょせん程度の問題でしょ。
それに根こそぎ動員するわけでもなく、名主に出させる人数を割り当てたりする程度だろうし。
村には動員されない男も、女房子供も残ってるんだし。
なせばなるのさ。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:18
程度の問題なのはそうだろうと思うけど。
なせばなる、か。あんまりそんなことばっかり言ってると百姓一揆が起こるぞ?w
三成が淀の葦の運上金で兵を揃えて秀吉に
褒められたという挿話があるが、
結構金で賄うってあったんじゃないかな
ただ信長時代はそれほどじゃなくても
例えば北条家なんて、それこそ男子は根こそぎ動員ということをして、
しかも周りの城も攻められて、城というのは攻められたら女房衆が炊事などのために動員されるし、
城攻めのために農村も焼かれたりと、それこそ農耕どころじゃないだろうけど、
別にそれで関東の農村が死滅したわけでもないでしょ。
それに比べれば、たとえ大名が農繁期にちょこちょこ人間を出させたとしても、
まだ何とかなる範囲でやってるのさ
483 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:21
>477
夏場にもやってたはず。
兵を残してたのはどうだろね、もしかしたら農繁期ゆえのことなのかもしれない。
けど、その証拠はないし・・
>478
生産力の低下などの弊害はあるだろうけど、不可能じゃないし、当時特別なこと
でもなかったのでは?
そもそもスレの流れからして、織田家に他より専業兵の割合が多かったことは事実
かもしれないが、それは領土の広大さ・経済力の違いが原因、みたいな方向でしょ?
それを考慮すると躍進の要素になったとは思えない。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:24
>>482 何とかなる範囲はそうだよ、そりゃ。
ほんとに根こそぎ動員して農村がすっからかんになったら食うものなくなるから。
ただ、「何とかなる範囲」が農閑期に比べて農繁期には狭まるのはどう考えても事実でしょう?
私はそれを言ってるだけですよ。
あまりに戦争したので今年は収穫が上がらず
年貢を免減してくださいという話があったと思うが。
それと狂歌かなんかである母や親が夫子供を兵に取られ
還ってこないの恨みに思うというのもあったような。
>>486のように
免減をしなければ一揆に発展する可能性はあるが
信長の場合領土が広範囲にわたるわけだし、すべてにおいて
動員するわけでは無いからここは免減して他からの収入で
帳消しみたいなことをして、無理を押し通せたんじゃないかな?
488 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:29
>>484 俺が読んだのは海音寺の「天と地と」、新田の「武田信玄」あたりだけどね。
小説がソースじゃ不足かい?
小説以外に史料の名前が挙げられない限り意見として成立しないというなら
また水掛論になりそうだが。それをお望みかい?
小説の作者だって、少なくとも俺たちよりはよく勉強してると思うんだけど。
何の根拠もなくいきなり「三万の兵を残した」とか書かないでしょ、普通。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:32
>>487 いや、だから
>>486が言うように、特に農繁期に徴兵かけると農業がおろそかになるのは当然なわけじゃん?
もちろん「何とかなる範囲で」徴兵するんだろうけど、
その「範囲」は当然農閑期に比べればかなり限定される。
農村が比較的暇なときなら男手を多く駆り出しても大丈夫だろうけど、
農繁期に同じだけとったら農業の方がダメになるでしょ。
それを言ってるだけなんだけど、納得できない?
>488
言葉が足りなかったかな。
証拠がないってのは兵力を残した原因が農繁期だったということね。
資料は小説でも講談でもいいと思うよ。
あとはそれを出しての説得力というか、周りを納得させるかの話でしょ。
それが三戦風
492 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:36
>>490 いや、言葉が激して申し訳ない。
実は昨日も史料云々の話になって、「史料名が挙げられないなら歴史学じゃない」
みたいなこと言われてね。
それきり話も聞かないような相手がいたんだよ。それに懲りててさ。
ごめんごめん。
つーか、
>>489などの話が
動員力は 農繁期<農閑期
ならば、誰も否定はしとらんのじゃないか
ただし各大名はその中で戦争しあうし、
別に傭兵に頼らなくてもやっていったってだけの話でしょ
494 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:38
で、その小説によると、謙信は三万近い兵を本拠の春日山に残していたらしい。
おそらく城に三万もの兵を残していたというわけじゃなく、
動員可能な兵がいまだ三万ほど残っていた、ということだと思うけど。
有名な(何次だっけ?)川中島の合戦は、時期的に秋のころだと記憶してるんだが・・・・・
詳しく知ってる人はいないかな。
>491-492
わかるわかる。
2chだとどうしても妙に背伸びしたヤツ多いからな。
496 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:39
そもそも秋は農繁期なの?
497 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:40
>>493 うん、それを前提にしてなんだけど。
傭兵を多く雇える大名は、上手くすれば農繁期にでも農閑期と同じかそれ以上の動員力を確保できる。
いずれにせよ、傭兵を確保できていない(程度の問題だけど)大名に比べれば、
少なくとも数の上で有利に戦さができると。
言いたいのはとりあえずそれだけなんだけど。
498 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:43
>>495 今日は大変なのと当たらなくてよかったw
で、川中島。
信玄が妻女山の謙信とにらみ合ってるときに重陽の節句(9月9日)
を迎えたという記述があった。
これは旧暦の話だろうから、新暦に直すとどうなるのかな。
499 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:46
この時代の戦は殲滅戦じゃないからな
>>496 刈り入れをして、もみをほぐさなければならない。
しかも手作業で!後家さんなどは貴重な収入源で、
後年籾をほぐす機械が出来たんだけど後家殺しといわれたらしい
501 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:49
>>500 となると、収穫が完全に終わるまでのけっこう長い期間が「農繁期」となるわけだ。
川中島がそれに当たることにはならないかな。
傭兵を多く抱えるかどうかは、別に金だけでもなく、金も食料も必要でしょ。
逆に言えば、金はなくとも、食料があれば雇えるわけで。
そうなると、総合的に豊かな大名なら、誰でも雇うほどの余裕はあってよいんだし。
しかしそういう話なら、信長が始めたとかの話でもなくなりそうだ。
また、寄食の限界というのもあって、一人の無職者を養うには多くの人間が必要で、
どちらにしても雇える数というのは限界があるわけで。。
503 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 02:52
>>502 要するに、経済力のある大名ならたくさん雇えたし、貧乏な大名はだめだったと。
まあそこまで言えば傭兵も農兵も同じだけどね。
>498
晩秋か?ちょっと微妙だけど。
でもいきなり対陣したわけでもないしね。それと上杉の余剰戦力3万は流石に
多すぎるような・・
まあ川中島に固執するのはスレ違いだろうから、このスレに合った例でいけば
それこそ桶狭間でも夏場かその直前でしょ?
505 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 03:00
>>504 そうね。桶狭間や長篠はそんなころかな。
今で云う5〜6月。
桶狭間の今川軍は2万だという。当時の国力からしてこれは多いかどうか。
農繁期にしては、ということだけど。
金があれば買えばいいし
米があればうればいい。
ただ米が無いところでいくら金があってもしょうがないし、
米が安いときに売れば損をする。経済を知悉して無いと
最後まで戦えないないし、当時大半の大名は商人を侮蔑し
けして経済を知ろうとしなかったんじゃないかな。
ある武将が「わしは金銀に縁が無く、生まれてこの方触ったことも
ない」と金勘定をしたことが無いと自慢するがこういう
武士階級が一番徒食者だったりするわけだ。
507 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 03:09
立花宗茂のことですか?
>505
三・遠・駿でほぼ70万石。
それほど目減りした兵力とは思えないなぁ。
流石にもう寝ます。乙でした。
上田宗箇ですね
他にも直江兼続に政宗が小判をわたそうとし
「金は下賎が扱うもの」と手に取らなかった
はなしがありますね。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 04:40
348 :無名武将@お腹せっぷく :03/11/30 22:22
>>298 『甲陽軍鑑』などは上杉への備えとして一万の兵を残したと書いていますが、
調べてみるとなるほど、前年の東美濃攻略や高天神城攻略は、
いずれも上杉謙信が春日山城を空けている時期に行われています。
また連年の出兵で一部の国人層が負担がキツクなり、従軍拒否を
申し出た時期でもあります。
長篠の時は、北への備えと経済的に厳しい部下の休養のために
兵力が少なくなったと言えるでしょう。
いろいろと難しい話をしてるおまいらには悪いですが、
信長んとこに傭兵が多かったのは信長がけちだったからですよ。
一人当たりに払う額を少なくして多くの兵隊を雇ったんですな。
武田家に傭兵が少なかったのはたくさん金払ってたからなんですよ。
て言うような話は昔どっかのスレで出てたと思うけど。
実際は武田と織田では一貫あたりの石高が違ってどうたらこうたらとか
反当収量がどうだとかいう言う難しい話だったけど約すと今書いたようなことでした。
>>511 そりゃあ動員・軍役の違いだろ
例えば武田なら村の石高100石あたりに2人出させて、織田は3人出させるとか。
こんなん金で雇う傭兵の話とはまた別だろ。
似たような話に、上杉などは軍役帳などで「最低でもこれだけ出せ」を決めているが、
織田は「状況次第で出せるだけいっぱい出せ」というやり方だから、
そういう点で動員・軍役の違いが出るのかもしれない。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 05:28
>>488 確かに『甲越信戦録』あたりじゃ「春日山には二万の兵と一年分の矢玉が
あるから大丈夫」などと書いていたが、
残念ながら後世に適当な数字を出したとしか言えないな・・・
小説家は面白いことが第一だから、史料の信憑性なんぞ気にして無い
わけでね。
例えば織田信長で言えば『武功夜話』とか面白いから散々ネタに
されてるけど、「史実」とは認め難い話ばかりなわけだ。
>小説の作者だって、少なくとも俺たちよりはよく勉強してると思うんだけど。
>何の根拠もなくいきなり「三万の兵を残した」とか書かないでしょ、普通。
小説家は歴史家ではありません。面白ければいいのです。
小説が根拠では目も当てられない・・・
>>488にあげてる小説家は分からない部分は確かに
推量で書くほか無いかもしれませんが、それでも面白ければ
捏造してありえない位の数値を提示するということ無いと思われます。
また武功夜話にも真実はあり、信長公記にも間違いがあり、
その他の文書や記録により真偽を推測する点においては歴史学者と
小説家に差は無いと思われます。
歴史学者が嘘と分かっていることを著書に堂々と書くことはないが
小説家は好きなように書いてよい。
差があろうがなかろうが小説に書いてあるから根拠があるだろう、
なんてことはありえない。
516 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 05:59
>515
歴史学者の方がむしろ、嘘とわかっている事を大仰に書いて
「これはこれこれの史料から捏造史料だと判明してる(フフン」
てやってるとおもうぜ?
ま、それが商売だと同情もするがな。
>>513 そのくらい放っておいてやれよ、まったく。
無知な人間をいちいち潰すのが趣味なのか?
それとも、人類60億全員教化させる気かね。
『上杉家文書』に留守中の守りに関する謙信の指示が残されており、
越中への出兵に触れていることからある程度の兵がまだ残されて
いたことは想像に難くないが、二万だの何だのという数字は明らかに
江戸時代以降の軍記等にしか見られぬ後付のもの。
巷の小説家も確かにいろいろな文献に当たっているかもしれないが、
真偽の判定は彼らの仕事ではない。
真偽が残ってない以上、その判定は我々の仕事であるので、
ソースが小説だろうが妄想だろうが、かまわんだろ。
2万がおかしいと思うのなら、それに反論すればよいだけで、
ソースがソースだけに考慮にあたらないでは、思考停止に近い。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 06:37
>>519 >真偽が残ってない以上、その判定は我々の仕事であるので、
「その当時の記録に残されなかった数字を、後世の人間が突然正確に
分かる訳が無い」ので「あきらかな偽」でしょ。
「個人的に推測」することはできるが、その為に利用する根拠
ぐらいは小説以外のものであって貰いたいものだw
>ソースが小説だろうが妄想だろうが、かまわんだろ。
発言するのは勝手だが、「根拠が無い」と断じられても
逆ギレしないように。
>>520 そう怒るなよ。反論するための推測の数値も出せない程度なのか?
2万なら2万に反論すればいいんだよ。
>>519の言うとおりだな
大体小説家の言うことは信じられないといっている方が
もっと信じられないのだから・・・
小説家が言ったことを証明する義務は無いし、
第一だれが全くの嘘と証明する?明らかな嘘であれば
ソース付で返せばいいことだし、
異論があるなら反対論をあげればよいのであって、
真偽で話をすりかえるのは良くないな。
その当時までになんらかな文献や覚書、口伝があり、
それら裏付けるものが遺失して現代に伝わらなかった
可能性があるだけで嘘と断じるのは早計。
もし反証するならソース付で具体的な数値を出せばよいでしょう。
524 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 06:58
>>522 >小説家が言ったことを証明する義務は無いし、
誰も小説家にんなもん求めてないだろ。
>第一だれが全くの嘘と証明する?明らかな嘘であれば
>ソース付で返せばいいことだし、
>異論があるなら反対論をあげればよいのであって、
>真偽で話をすりかえるのは良くないな。
根拠の無いものを根拠が無いと断じる事も我慢ならんとw
「根拠が無い」とはすなわち、「嘘」「適当」の類であろう。
そして自分もまた「真偽」の問題で語っていることに気付いたらどうだ?
525 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 06:59
・謙信書状などで見る限り、留守役の兵力は不明(『上杉家文書』)
・具体的な数字を挙げているのは軍記などのみ(『甲越信戦録』など)
・天正三年軍役の総兵力が5514人
以上の事から「二万三万という数字に根拠があるとは言えない」
つか、上杉は8000だろ(軍役帳では6000)。これが武士の数。
徳川幕府は15000しかいないわけで、それが陪臣などを含めて8万だか4万だかにまで膨らむ。
つまり上杉も動員総数も4万から2万くらいであってもよいので、
川中島?に一万出して二万守備ってのも、別に不思議というほどの話ではないと思うが。
軍役帳だけの数字を見るなら、
川中島に1万出して、春日山に1万残したといわれても、
「ええっ!軍役帳の4倍もいないよ!」って話になりそうだな。
しかし15000ぽっちで頑張った徳川幕府は偉いねw
あおり口調になるな
もちつけ
529 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:15
>>526 >つか、上杉は8000だろ
確かに、それは良く言われるね。誰が言ったか知らんけど。
>(軍役帳では6000)。
5509人ね。
>これが武士の数。
軍役帳の5509人ってのは、旗持ちだの手空きだの長柄だの
あらゆる装備の連中をひっくるめての数字だよ。
武士階級はその数分の一しかいないんじゃないかな。
騎馬の人間も566人しかいないし。
「徳川幕府の15000」と比較できる数字じゃないでしょ。
530 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:16
つか、越後一国で3万だなんだって数字になって
天領600万石で4万だの8万だのでは
おかしいだろ・・・
531 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:19
では、アホ計算。
大阪冬の陣の伊達軍において、馬上・鑓・鉄砲・弓の合計が5400人。
その他が12600人である。
上杉家の天正三年の軍役帳において、伊達家軍役と同様の項目を
抜き出すと、鑓3604、鉄砲311、弓5、騎馬566で
4486人である。
戦闘要員と非戦闘要員の割合が伊達家と同じなら、上杉軍は
10467人となる。
「軍役では5509人しかいないが上杉軍は8000だ」説の人のために、
5509→8000で書き漏らしなど含めて1.45倍になるとすると。
上杉軍の総兵力は15120人になる。
532 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:21
>>527 軍役帳には陣夫だ中間だ小者なんだといった、従軍してるけど戦闘要員では
ない連中ってのが数字として載らないからね。
>>529 んー、確かに徳川のとそのまま比べるのは、時代も制度も違うだろうし、
そーいえば徳川15000は軍役数じゃなくて、武士の数だったな。
徳川の軍役はそのまんま道具持ちなども規定してたから、
動員は800万石(400万?)×一万石あたり250人=20万から10万ってとこか。
しかし、どちらにせよ、上杉の戦闘人数には戦闘者しか載ってないので、
総動員ははるかに膨らむと思うよ。
2倍3倍は不思議じゃないでしょ。
534 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:24
越後が37万石とすると
100石につき2人で7400人
100石につき3人で11100人
100石につき4人で14800人
100石につき5人で18500人
100石につき6人で22200人
535 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:25
536 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:26
7掛けぐらいが妥当なとこか?
537 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:26
>>535 じゃあ
越後が39万石とすると
100石につき2人で7800人
100石につき3人で11700人
100石につき4人で15600人
100石につき5人で19500人
100石につき6人で23400人
多くても100石5人くらいとすべきだろうか
しかし隣国にちょろっと行くだけなので、6人でも逝ける?
>>524 ソースつきで語りたいやつはソース付で語れといってるだけ
いままではそれは嘘だとかありえない、もしそういうことを
言うのならば信じられるソースを出せとなり、嘘というほうは
なぜ嘘かを説明しない&代わりの論を展開しないので話がとまって
興が冷める。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:28
>>538 そんなぁ〜殺生なぁ〜
これ以上男手とられると
541 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:29
>>539 根拠が無いなら嘘と言われてもしょうがないだろ。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:30
>>531 >>537 から動員は100石あたり3〜4人、上杉家の兵力は1万2千〜1万5千
ということにした。俺の心の中の真実はこれで決まった。
文句のある奴は信じられるソースを出してみろw
ま、やっぱり15000くらいが適当だろうか?
適当に纏めてるが。
織田だって犬山攻略前の美濃攻めで15000くらい出したって聞くし。。。
544 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:32
動けて暇な奴メシ食わしてやるから来いやぁ!
ってのもあったかもな
545 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:33
>>544 隊列を組んで戦うことを普段から仕込んでおかねば
ただの足手まといでは。
会津征伐のときの軍役で100石3〜5人
そのときの上杉の石高120万石
天承3年の領土ははそれよりも少なかったか?
547 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:35
この時代はちょこっとでも負け戦になると逃げ出しちゃうんだろ
すげぇ適当なんじゃないの
548 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:37
今朝の結論
上杉は1.5万くらい。
しかし小説では3万。
これにより、富んでた春日山は浪人雇いまくりだった。織田どころではない革命者だった。
という結論になりますた
天正だったな
後は危機度によって動員を変えるでしょ
551 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:39
あのころの雑兵は一日一キロ米食ったんだよな。
で、30日分が手弁当として持って行かねばならない割当量だったので
一人30kgはかついでたわけなんだな、これが。
なんて重労働だったんだろうなあ。合戦って。
552 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:40
実際の戦国の戦ってどんなんだったんだろ
百姓なんかは領主が変わるだけとか思ってたんじゃないのかな
553 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:41
「加賀100万石」とかも、検地の結果からはどう計算しても
100万石無いしね。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:41
1食2合半だっけか
おかずがないから仕方ないかもしれんが
>548
天正3年ごろで越後越中上野北信濃の一部かな
556 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:43
途中で酒造って呑んで
その辺の家から食いもんかっさらう
>>549 それはあなたの結論であって総論ではないことに注意しなよ
558 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:46
真実は心の中に
559 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:51
>>553 上杉120万石・伊達52万石・最上57万石・・・と足していくと
陸奥と出羽の石高オーバーするもんねw
検地だって最上・上・中の段階わけだったでしょ
しかし、越後は貿易とかで結構もうけてたんだろ。
尾張織田よりよほど「浪人を雇って」などの話が出てもよさそうなものだが
562 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:55
加賀100万石は昔から言われてたの
伊達も新田開発で江戸の米需要まかなったぐらいだし
江戸以降はどうかな
563 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:57
564 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 07:59
利家のときから加賀100万石宣伝してたんなら
利家が、かぶいたのかな?
長尾家自体の直轄地が少なかったのでしょ、
豪族の集まりだもの越後は。
北にいくほど従わないし、扱いにくいのよ。
566 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:01
信玄もそうだったしね
信長は権力集中が尾張統一戦でできたのが良かったのかな
前田本家と一族・分家を合算してたのでは
能登・加賀あわせて百万石
569 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:10
甲斐・越後の兵が強兵だったのは、土着性が強かったからだと思うよ。
同じように、土佐・薩摩の兵が強かったのも、土着性と血縁の強さに由来すると思う。
そうした地域の特性として、たとえ有能な将官であっても、
流浪してきた新知者には、ちょっと冷たいというか他人行儀な所があって、
いわんや傭兵団の類はあまり好まれなかった形跡が
甲陽軍艦なんかにもエピソードとしてあったように思うんだよな。
570 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:18
信長の城下町に住まわせたのは土着性の廃止が目的だもんね
大名直結支配をしたがってたような
軍事がからっきしだめな武将にそれらの兵を
任せても強かったと評価されるかどうか。
指揮する将の優劣に帰するのではないかなと思います。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:27
>>570 どこの戦国大名でも城下に配下武将の屋敷があるでよ。
573 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:29
>>568 能登+加賀では
太閤検地で56万5570石
寛永検地で55万9461石
越中が意外とでかい
佐々成政もいっぱい動員しちゃうほど
575 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:33
>>572 そうなんだけどね
安土の時に土地に人のこしてきた奴が咎めを受けたんでしょ
単身赴任じゃなくて一族郎党じゃないといけなかったわけで
前田家って80万石から120万石に30万石加増じゃなかったかな
577 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:35
>576
80から120だと40万石じゃないの?
578 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:36
ワラタ
生暖かく見守ってやれ
太閤検地も従来より狭くなってるはずだしなぁ
倍層や3倍層でカウントしてるんかいの
そら40ふえとるがな
参謀本部のアレでは、
83.5+36=119.5となってる
司馬遼太郎が
前田のひとに120万石だといったら「123.5万石です!」と言われるんだよな〜
などと言ってるし、あとからもちょっと増えたの?
581 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:39
しかし関係ないが参謀本部ってよほど暇だったんだな。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:39
>>575 城下の屋敷ってのは、本来は人質として家族を置く為なんだよ。
家族が国許にいたんじゃ、あべこべなんだな。
その上失火までやったんじゃ、信長でなくても怒る罠。
ちなみにその話は小身の馬廻の話だから、一族郎党と言うほどの身代が
無い連中なんだな。
むしろそこそこの身代があって一族郎党を抱えるぐらいの連中だったら、
部下に地元を任せて城下に家族を置けるんだな。
信長が安土に引っ越したのに、自分も家族もそれについていったら
領地を経営する人がいねーよという問題が解決されていなかったわけだな。
>>576 835000石から1195000石ですな
584 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:43
越中+能登+加賀だと
太閤検地で94万5868石
寛永検地で109万5498石
ん?越中って他に誰かいなかったっけ。
585 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:44
>>582 ほぅ、ということは微禄な者は俸禄米にしたかったってことかな
586 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:46
587 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 08:46
>>585 蔵米侍というやつはどこの家にもいたんだが、
やはり一度領地を与えてしまうと、そう簡単には戻せんでしょうなあ・・・
サラリーマンより地主の方が各が上っぽいしw
越中富山藩 越中百塚藩
加賀金沢藩 加賀野々市藩 加賀小松藩
加賀大聖寺藩
越前丸岡藩 越前松岡藩 越前勝山藩
越前大野藩 越前木本藩 越前東郷藩
越前福井藩 越前吉江藩 越前葛野藩
越前鯖江藩 越前高森藩 越前鞠山藩
越前敦賀藩 こんなの?
七尾藩 前田利政 21〜24万
下村藩 鳥居忠英 1万
西谷藩 水野勝長 1万
能登3つらしいです
ますます怪しくなる「加賀百万石」・・・
>>585 信長は尾張の家に放火してまで追い立てたっちゅう話だけど、
その後領地をどうこうしたとは聞かないねえ・・・
まぁ、前田はあとからでも100万越えたからいいだろ。
もともと通称なんだし。
姫路百万石宰相みたいなもんよ。
薩摩って72万石だっけ?
>>593 島津77万石は「籾高」らしい。
一般的な玄米換算の石高では半分ほどに・・・
595 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:06
島津の場合、意図的に石高を低く抑えて報告していた節があるしな。
石高に応じて様々な出費を幕府から強要されるというのも一つの、
そして一番大きな理由だと思うけど。
実際の石高と収入は、100万石を優に超えていたと思う。
ただ、借金も莫大だったようだけどね。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:07
島津の場合は米でなくてイモだろ
イモ食い侍(プップノプ〜
薩摩芋が江戸期の貧乏潘をどれほど救ってあげたかについて語るべし
598 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:11
芋は石高に入らなかったからね。
石高はあくまで米本位なんで。
薩摩の場合、米は外貨として使う事も多かったし、
地方によっては稲作が全く出来なかったという事情もあるしね。
それでも人民を養ってきたんだから、サツマイモというのも偉大な食い物だよ。
島津が芋といわれるなら、
松前藩あたりは鮭とか昆布とか言われるのだろうか・・・
600 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:14
>>598 秀吉以降の「石高」には畑や家屋敷も入ります。
島津で100万石超えてるわけないと思うが。
桜島の灰とか滅茶苦茶すげえぞ。反当収量低いし。
そのかわり魚はうまいよ。いっぱいいるし。
この前釣り糸垂れてたら蟹が引っかかったってくらいいっぱいいる。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:19
>600
それは初耳だ。それどころか俺の中で徳川幕府の通貨制度が音を立てて崩れだしてる。
それまじ?
徳川家は、豊臣時代の貨幣制度や商本主義を残らずつぶし、
完全米本位政策で進んだため、石高=米 と認識していた訳なんだけど。
また、エタヒニン部落というのは、米がとれない=石高に反映されない、というわけで
無為だと見なされていたんだと思ったけど、
畑や家屋敷まで入るのだったら、ちょっと違ってくるよね?
>>602 石高=米の値段でのGNP
米が1万石(の取れ高)・畑ものが3万石で、その畑物の価値が米の半値なら
1+1.5=2万石、ってことじゃないのか?
計算違い
1+1.5=2.5万石
でしたな
松前あたりの数万石なんて、それこそ名目だけのものじゃないかな
605 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:26
>603-604
なるほどなるほど。
でも、米以外の流通物で石高を修正した藩って皆無じゃない?
名目経済じゃなくて実質経済での話だけどさ。
606 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:26
だれか、606を解説して・・・
>>606 眠いのであんまし思考がはたらかないだけかもしれんが
これは屋敷の面積はいくつだから総面積から引きますよ
といってるのではないか?
609 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:34
松前は特例だったんじゃない
まったく米取れないから
>田畑と屋敷の「石盛(こくもり)」=等級別の反当たりの生産高を決定して、
>年貢負担者と土地と年貢[税]の基準を
のあたりかにゃ?
1石は屋敷だから云々
21石は百姓の家だから云々というところかな
612 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:47
>>608 田・畑・家屋敷とそれぞれに面積を測っているのに、
そんな計算をするわけないでしょう・・・
基礎控除のようなものですよ。「引方」は。
ちょっとキーワードでググッてみたら
等級には1段あたりの標準生産石高としての石盛{こくもり}が決められていた。石盛は段あたり何斗と示すので斗
代ともいう。上田は1段あたり1石5斗(1石6斗のところもある)、中田は1石3斗、下田は1石1斗、下々田は9
(8)斗となっていた。面積と等級に見合った石盛を計算してその田の石高が出される。石高は、生産高を玄米の収穫
量で示したものである。
畠(畑)も4等級に分けられ、米で換算した。上畠は1段あたり1石2斗、中畠は1石、下畠は8斗、下々畠はその
時に応じて決められた。屋敷は一律1段あたり1石2斗がかけられた。このため住む屋敷を小さくせざるを得なくなっ
た。大きくなればそれなりに税金の支払いが多くなる。畠では野菜などの副産物を作っているが、それを売って得たお
金に対して、屋敷には税金をかけた。原野の中や山の中の畠にも算定した上で石高をつけ、特産物・日常作っているも
のにも小物成として年貢を決めた。
↑は秀吉のときのもののようだが、つまり畑物や建物も入るようだ
しかし江戸のように急成長した都市など、換算しなおすのだろうか・・・(直轄領だからいいのかな)
蔵には税金がかかったと聞いたことがあるが
615 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 09:55
>>613 検地帳は農村を単位に作られていたものだし、都市は別かもね。
商工業の組合ごとに上納金を払っていたけど、あとは無税に
近かったとか聞いたような・・・
しかし、その前の時代の貫高制とやらは、普通に金銭評価高だったんだろ。
それが米基準になるってのは、なんだか凄いな。。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 10:00
ウチは天領出身な上に、維新後早々に棄農した家系だからなぁ。
こういう常識全く備わってないや・・・・
天領は、よっぽど取られて五公五民で、その年貢になると不平がたまったらしいし、
四公六民程度のユルい生活だったから、
「天領育ちは塩気が足りない」とか江戸期にも馬鹿にされたりしてたし。
秀吉の頃の大坂の町内風景は
道┃家畑 畑家┃道
路┃家畑 畑家┃路
というようになってて、裏庭で日用の野菜は作っていたそうな。
これなどは流石に無税かな?家屋税に含まれるのだろうか・・・
619 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 10:20
>>595 いや定説ではまったくの逆だな。
多くの藩が石高は抑えめに申告した中で
薩摩は多めに申告している。
72万石といっても他家の基準で言えば半分くらいだろ。
鹿児島の痩せた火山灰質の大地だからね。
何故、彼らが石高を高めに申告したかというと彼らの見栄っぱりとか
石高を高く報告した方が有利と勘違いした考えがあったんだと思う。
620 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 10:25
町は町衆から銀何千枚とか巻き上げてたからねえ。
農村の検地帳は見たことあるけど、町ではやってたんだろうかねえ。
そういえば江戸の町も畑が多かったらしい。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 10:29
で、結局、信長の兵制は、
他と比べて革新的と言われえるほどのものではなかったってこといいんだよね。
信長はそこはかとなく革新的なのでありんす
>>622 議論が遠回りしすぎて忘れちゃいましたw
>薩摩藩では人口の5人に1人が武士であった。
凄いなオイ。
薩摩芋じゃ駄目なのか?米の10分の1くらいの価値に算定されてるんじゃないか?
もしそうなら収穫物の総カロリーと言うのはそう悪くない気も駿河。。
626 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 11:37
大体人口が倍増している時期に多少死んだからといって農業生産力が落ちると
か現代基準で考えるから空回りするんだよ
627 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 11:45
>>625 それについて説明だが
まず薩摩は唯一、徳川の自由にならなかった地でもあり、武士と農民の違いがはっきりない。
つまり戦国期以前の半士半農の形態の武士がほとんどなわけだ。
戦国期はよっぽど上位の武士でないと専業武士はいないわけ。
武田家でも寄親クラスのかなりの中級上級の武士でも普段は農村にいて農作業に従事するのが普通だったし、
「利家とまつ」で仮にも城待ちである尾張時代の前田家が農作業をしてたのはリアルなんだな。
薩摩藩では結局そういう戦国期のしかも旧い形態の社会だったわけ。
それが結局幕末まで続いた。
628 :
◆2011TWOdso :03/12/01 11:46
テスト
629 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 11:47
>>625 薩摩芋とかほかの収穫物については
私は良くわからんな。
他に詳しい人いたらレス譲る。
630 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 11:58
江戸時代に各藩が経済的に窮したのは
一揆防止のため半士半農と農民がはっきり分離して多くが専属武士になってしまったから。
そうやって農業を放棄した武士たちは結局、藩で公務員のような非生産的な仕事をするわけで、藩の経済を逼迫させた。
薩摩藩は例外だ。大久保・西郷も半士半農だし。
他に江戸時代にそういう形態の藩といえば
土佐藩がそう、もと長宗我部の家臣たちを「下士」として農業義務を課した。
他に米沢藩でも上杉鷹山が借金地獄の藩の財政立直しの切り札として下級武士の農作業を義務づけた。
631 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 12:12
人口の5人に1人が武士ってありえない話しだろうが。
女はどうなるんだ?
老人は? 病人・不具者は? 子供は?
しかも昔の人口比率ってピラミッド型だから、
仮に成人男子全員が武士でも足りない気がする。
多分「5人に1人」は「全人口の」という意味ではなく制限つきの表現だろう。
「5家に1家が武士の家」というくらいならありえるとは思うが・・・
632 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 12:40
信長の時代の軍制とか経済が当時は他家と同じだったとしても構想
ぐらいはあったんでないのかな?
秀吉の太閤検地も秀吉オリジナルというより旧信長家臣の中で常識と
いうかこういう手順で統治しようみたいのがあって推進されたとか。
検地は戦国大名の常識
取り敢えず今の所俺の中での結論
・傭兵部隊は他家よりは多いのだろうが取り上げるほどに多かった訳ではない可能性が非常に強い
・信長の兵農分離は、そう呼ぶよりはむしろ「将農分離」だった
635 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 14:27
傭兵って書くと欧州なんかの傭兵団を思い出させるからいやだね
君らの議論には実感が無くて困るね。
要するに農家の次男坊やら三男坊が兵隊としていつでも出れるように待機
してたかどうかってことをいいたいのじゃないのか?
それを専門の兵隊だとか農民だとかいろんな表現を使ってあらわそうとして
ただけだろ?
. . .... ..: : :: :: ::: :::::: ::::
Λ_Λ . . . .: : :
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . ::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: やっちまった・・・・・・・
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l .
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄
639 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 15:05
>>635 その次男坊三男坊を徴兵したらそれは常備軍ではなくて農兵だわな
そうじゃなくて職業軍人として。。。というか明治を迎えるまでそう
いう職業軍人などいないわけだが、そういう存在がどれくらいまで
織田軍に占めていたのかを問われてるわけだ。
徴兵
大名→支配豪族国人衆家臣→各村の名主→農民
大名が支配している豪族国人家臣に対していつまでに何人
装備はこのようでといった風な軍勢を用意するように命ずる。
命じられた豪族国人家臣は領地に対し大名の要求に満たす
兵を集めるよう徴兵官に命じる。
徴兵担当官は村の名主と兵の供出に関して協議・折衝する。
名主は徴兵官と折衝協議した内容に見合う人数をそれぞれの家
に対して課す。
メリット:寄子と寄親の関係は安定した質と量の供給が見込める。
デメリット:動員開始から終了までに時間がかかる。
雇い兵
大名が現金・米などの支給により戦闘・非戦闘に使われる兵。
巨大化した軍隊の兵站に使われたり土木作業に従事。
または信玄の石つぶて部隊などがこれか?
陣借り武者
一人また複数で契約や合戦での手柄に応じて褒賞をもらう人
・集団こちらのほうが本当の意味で傭兵か?
100石って今でいう畑何haぐらいなの?
642 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 17:26
兵農分離はむしろ武田信玄だろ
時代・場所により変化
時代が下るにつれ狭小化
1石=1年間の人が食える量
鉄砲一つ5〜10石程度
どうでもいいが良スレ
しかしスレタイが全く機能してないのでテメェら戦国を語ろうぜ!とかでいいんじゃねの?
645 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 17:51
>>644 いや、もともとは「信長の傭兵制採用は事実か?」というスレタイに沿った話だったのよ。
それが発展してえらく本格的な話になったと。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:16
話の途中で恐縮ですが、みなさんに提案です。
このスレでも
>>513〜
>>524で話題になっていますが、三戦板全体において、
「意見のソース(情報源)」をめぐる対立が散見されます。
もちろん歴史を語る上で避けては通れない問題ですから看過はできませんが、
他方、こうしたややもすれば感情的になりがちな議論が周期的にみなさんのエネルギーと時間とを奪っているのは残念な事実です。
そこで、この問題を専門的にとりあげ、三戦板での議論のあり方を模索するスレというのを設けてみてはどうでしょうか。
もし賛成してくださる方がおられれば、ぜひスレ立てをお願いしたいと思います。
私も立てようと試みたのですが、規制にかかっているようで・・・・・
いかがでしょうか?
水攻め・付け城・陣城・要道整備のための人手が必要で
通常賦役(無料?)などで賄うが、織田軍団は金払って
雇用を確保したのであって、実際は後方支援のため
土木作業用の大量傭兵だったのではなかろうか?
>>646 そういうのはまず、自分自身でホームページを作成して
叩き台として公開しるぐらいの気概が無いと削除対象。
>>648 兵士としては逃げやすいし弱いし怪しいから
後方作業させるならってか?
それって、一時的なものなら、秀吉とかが金を撒いて
道中の補給などを有料でさせた(おにぎり出させたとかのアレ)みたいなもんか
651 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:26
>>647>>649 いかにも私は2ちゃん初心者ですが・・・・・
どうもあまり歓迎されない提案だったようですね。
出すぎた真似をして失礼致しました。
【マヨラー】ソースはお好き?【ケチャップ】
議論についてソースの提示は必要か、またその真偽を
立証する必要はあるか?
妄想空想個人的考えは議論に値しないのか?
歴史学者が言った事以外は信用できない?
かぁさん、ソースとってくれ
>>651 うむ、そう謝られても困る。ごめん。
まぁ、話は
>>539みたいなもんでいいだろ。三戦は。
逆にがちがちに決められたら不自由じゃん。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:36
土木工事でふと思った
墨俣城を作ったといわれる蜂須賀党て金で雇われた集団ってことなんか?
この板では義経=チンギスハーンくらいのつもりでいい
656 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:40
>>653 いえ、こちらこそ失礼しました。
私は
>>491さんのような考え方に賛成してこの話を出しました。
おそらく
>>539さんも同様の趣旨かと思います。
ガチガチに決めると言うよりは、一度各自の意見を吐き出すことで、
「こういう考え方もある。だからお互いに尊重しよう」
という合意に至る一つのきっかけになればいいかな、と思っていたのですが・・・・・
いずれにせよ、完全に私個人の思いつきで言い出したことです。
ご不快でしたら平にご容赦ください。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:42
2ちゃんで合意は無理だろ
蜂須賀党は地盤というものはあるので、金で雇われても傭兵とかとは違うような。
大大名の狭間であっちに付いたりこっちに付いたりする小土豪ってもんじゃないかな。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:43
2ちゃんねるにあるまじき礼儀正しい進行
ここでついでにネタ振ってくださいな>656さん
>>659 いや、私は歴史も2ちゃんねるも初心者ですので、とてもとても・・・・・
みなさんの議論を横で拝見して、ただ「ためになるなぁ」と頷いているばかりの役立たずですw
昨夜からの「信長傭兵制」に関する問題など、目から鱗の場面が何度もありました。
今後もちょくちょくお邪魔しようと思います。
661 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:53
蜂須賀党もねえ、語ると深いよw
斯波氏と今川氏との争いの頃から語ってみる?
スレ違いだからどうでもいいけど。
662 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 18:57
>>655 そりゃあ楽しくていいな。
「根拠は?」と聞かれたら「ごめんなさい」だけどw
663 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:17
>>661 スレ違いだけど、ついでに蜂須賀にまつわる小ネタをひとつ。
明治になってから蜂須賀侯が明治帝に拝謁したとき、テーブルの上に菓子があった。
明治帝がちょっと席を外したとき、蜂須賀侯はその菓子をぱくり。
帰ってきた明治帝は目ざとくそれに気付き、おかしそうに言った。
「蜂須賀、先祖は争えぬのう」。
どっかで聞いたような小ネタなんだよな。
菓子か煙草か他の何かかって、どっかででもやってたな。
それはともかく、蜂須賀党って、小六の前のトップは別の姓の人だったよね?
あそこは自治会みたいなもんか?
666 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:28
後日談で、「俺は盗賊の子孫じゃないYO!」って家系図引っ張り出して弁明したんだっけ?
668 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:41
>>641 >100石って今でいう畑何haぐらいなの?
畑換算かよ・・・
まず秀吉以前では1反=360歩だったのが、秀吉によって
1反=300歩に改められた。(1歩はおよそ1坪である)
その上で、畑を上中下と階級分けし、1反あたり
上畑=1石2斗、中畑=1石、下畑=8斗
として計算するのが一般的であった。
そこで。
平均して畑1反を1石と仮定すると、100石とは畑100反。
1反はだいたい990平方メートルに相当するから、
100反は9万9000平方メートルに相当する。
よってヘクタールに直せば9.9ヘクタール。
「100石」はだいたい「畑10ヘクタール」と思えばよかろう。
669 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:41
>>667 マジ?それは知らなかった。
蜂須賀侯の「盗賊じゃないYO!」を生で聞きたかったw
きっと痛切な叫びだったんだろうな。
671 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:44
>>654 蜂須賀の一族は尾張の蜂須賀郷を領有する地侍ということになっているな。
「墨俣一夜城」の真偽はまた別の機会に論ずるとして、
時期的には信長と被官関係にあって秀吉の与力に付けられていた
といったところだろう。
いくらでもいた土豪の一人でしょ。
673 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:53
1反は人が1年間食う米が取れる面積じゃなかったっけ
確か、東北になると広くなるんだよね
674 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:54
675 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:56
676 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:57
おいおい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
677 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:01
昔の単位ってのは人基準だかんね
1反=1石=年間消費量
678 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:04
大阪夏の陣のころ、東軍の兵士は一日に五合(茶碗に軽く十杯)の米を食っていたらしい。
大学の講義で聞いたことなんで、たぶんそれなりの根拠があると思うが。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:09
>>677 だからいつの時代よ・・・
北条家の検地で360歩=1反=500文(一律)
信長の検地で360歩=1反=1石5斗(一律)
秀吉の検地で300歩=1反=1石5斗、1石3斗、1石1斗(上中下)
(いずれも田の場合)
戦国期以降は完全に「まず面積ありき」ですよ。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:10
>>678 史料によって差異はあるが、一日あたり米5合〜1升程度を
支給していたらしい。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:12
>>680 一升というと十合ですか?
うーむ、いくら戦場でもそれだけ食ったら吐きそうだ・・・・・
682 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:14
ところで、信長は地域ごとに方面軍みたいなもの作ってほぼ同時に侵攻してたわけだけど、
あのまま天下統一してたらその方面軍みたいな組織はどうなったんだろうか。
そのまま各方面軍司令官がその地域を支配するってことになると、
(秀吉が山陽、勝家・北陸、滝川・関東甲信とか)
それぞれが巨大勢力になりすぎて安定しないと思うんだが。
信長存命中はともかくその後は・・・
かといってその方面の指揮官だった者を他と同じ程度の一大名としてしまうのは、
それはそれで不満が出るだろうし。
信長は配下を信頼していなかったというけど、
むしろ配下の有力武将に強大な権限を与えすぎだったような気がする。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:16
>>679 東北地方と畿内とで1反の面積が違ってたのは御存知ですか?
米は給料みたいなものなので、食えないなら売ればいいし。
酒作ってもいいし(これはよく禁止されているが)
それって給料も入ってんじゃないの?
687 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:17
>>682 申し訳ありません!ありがたく4回に分けていただきます!
>>683 そんなこともあるので、北陸の柴田などに
「おまえの権限は一時的なもの。配下は俺が出した与力。俺を神と崇めよゴルァ!」
とかって必死に言ってるんじゃないかな
信長必死だな
>>683 その後は朝鮮出兵で勲功武将を討ち死にさせ
生き残っても敗戦責をとうて誅殺。
行かなかった武将も粛清によって亡き者に
さすが信長やることがひでーぜ
691 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:23
>>684 「1歩」の算定方法が地方によって違うからね。
>>688 しかし、与力っていっても前田とかは信長死後はしっかり勝家の配下になっちゃってるし、
秀吉についてたのなんてもっと顕著だよね。
そほど効果はなかったような・・・
それに権限が一時的なもので、
戦役が終わったら権限が取り返されてしまうのが明らかだったとしたら、
各指揮官の心理は微妙だったんじゃないかな、
上へ上へと目指すようなタイプの香具師なら、
どんなにがんっばってもこれ以上はないっとことが明らかだとやる気が出ないっつーか、
むしろ、それないいっそ自分に権限がある内に謀反でも・・・
と思ったりせんかな。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:30
佐久間→本願寺攻め終わったら追放
このパターンで行くと、有力な配下は適当な所で追放&処刑だな。
漏れは諏訪神社の屋根板はがして焚き火の薪にしてたら上役に怒られたけど、
信玄公がかばってくれたYO・・・・・
>>688 柴田が上杉を征服できたとすると、
越前府中の菅屋長頼が越前全体をを担うことになり、柴田が越後に入ることになったんじゃないかな。
これは秀吉なども同様で、つまり順送りで方面軍指揮官は地方に飛ばされていく、ということ。
696 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:34
>>691 「1歩」の算定方法が地方によって違うんじゃなくて
同じ収穫量(年間消費量)にすると逆算で
「1歩」の算定方法が違ってくる
>>693 >佐久間→本願寺攻め終わったら追放
これのせいで信長配下の有力武将は全員疑心暗鬼に陥っていたって、
むかしNHKの歴史番組でいってたな。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:36
林はこれの後?
>>692 与力は、軍団解散して独立させて権限与えれば、柴田支配から出るからいいでしょ。
織田家における柴田党程度の影響力は持ち続けるだろうけど。
家中の地位だけじゃなくて、官位や石高なども働いた分は増やしてくれるんだから、
遣り甲斐は維持されるんじゃない?
そもそも家中の地位なんてどこでもそんなに変化するものじゃないし。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:38
>>697 佐久間だっけ、林だっけ?
「無駄飯ぐらいの図々しい奴」とか言われて追放されたの。
そりゃ家臣は気が気じゃないわなァ・・・・・
羽柴筑前とか日向守とかあるじゃん。
あれを基準に考えると、譜代の重臣達は殺すまでしなくても遠隔地に飛ばす予定だったんじゃない?
702 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:42
>>701 あれは適当につけてたんじゃないの?
「わが軍が天下統一した暁にはそなたにはこの国をやろうぞ、はははは」
みたいな壮大な夢を君臣ともに見ましょう、みたいな。
別に将来の左遷を暗示してたわけじゃないと思うが。
というか、そうだとすれば、そんな名前をもらった時点で謀叛ケテーイでしょ。
704 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:44
>>703 武田家の板垣信方なんか「駿河守」だよ。
当時武田家は仮にも駿河の今川家と姻戚関係にあったのに。
今川義元から「てめえ何考えてんだコラ」とか抗議が来てたりしてな。
>>699 でも高い官位と石高持ってって、
且つ家中に派閥をもっているような状況もかなりなものなのでは?
統一後の信長は上手く有力家臣の力をそぐ必要があったのではないかと思う。
って、それを統一前からやり始めたのが林や佐久間の追放か。
ああいった位は実際の支配地とは関係ないのでは・・・
707 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 20:48
林って活躍したの?
信行謀反の時ぐらいしか知らんのだが
>>700 うーん、
光秀に限らず他も謀反を起こしてもおかしくない状況のような気も・・・
709 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 21:00
>>700 それ林でしょ
佐久間は本願寺攻めの失態だったでしょ
林は生まれだけでぼーっと暮らしてたのか
林は林の謀反を抑え続けてきたんだよ
「雑兵物語」によると1人に対して1日水一升、米六合、塩10人で一合、味噌10人で二合渡されていたそうです。
712 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 21:11
米以外食うものも少なかったしね
この量でもすごいと思うのにさらに傭兵となればもっと支給するわけ
でしょ、あまり雇えなかったでしょうなあ
それぐらいしないと集まらないって。
いのちがかかってんだし。
腹が減っては戦はできんからな
715 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:34
あのころは今みたいな社会保障制度なんてないから、
「今のままじゃ餓えて確実に死ぬ」→「戦争行けば飯は食える。死なずに帰れるかもしれない」
ってことで、だったらいっそのこと兵隊にでもなるか、みたいな決断をする人が多かったかもね。
失業を恐れて必死に戦う傭兵とか強そうだ・・・・・
716 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:39
このスレどうしていきなりレス止まってんの?
717 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:45
クルマはやっぱトヨタに限る。
なるほど。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:48
あれだろ、
チンコが痒いからってキンカン塗ったらえらいことになる、みたいな。
720 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:48
???
721 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:53
安土城のボンサン石ってどうなった?
築城中の蛇石はどこにあるの?
おせえてくらさい。
722 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:56
信長陣営外交のプロはやっぱ細川かな?
723 :
来夢だょ〜☆:03/12/01 22:58
簡単だょ〜!織田家は美濃を攻略するためには3つ条件をクリアしないと攻略はできない状態であった!
まず1つ目は三河松平家の背後を守る事である☆これはすぐ清洲同盟ですぐかたはついたけど〜
2つ目に北近江の浅井と甲斐の武田のたいようである☆もし美濃勢が浅井と武田の三国同盟を結ばれたら織田家滅亡は間違いなかったであろう☆
それは婚姻で武田と浅井を結びそれにて終わった☆
最後はやっぱ稲葉山党略の拠点と美濃三人衆である☆墨俣築城は織田軍もかなりの被害が出ていたけど1夜城にて築城して〜3人衆は説得して美濃は攻略されました☆
724 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 23:00
>>723 げ・・・・・・・見てはいけないものを見てしまった。
もう寝よう。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 23:04
じゃ、俺も寝よう
726 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 23:06
俺と寝よう
>>696 1反=1石なんて律令時代の考え方だよ。
秀吉は京間6尺3寸四方で1歩と定めたはずで。
江戸時代は結構バラバラだが。
>>728 江戸時代の検地帳を見ると、基本的に
1.検地する田圃の面積を測る。
2.一歩分だけ収穫し、収穫量を量る。
3.一歩分の収穫量に面積を掛け合わせる。
4.その田圃の収穫量が推定される。
という手順で検地を行うので、面積の基準にバラつきがあっても
計算される収穫量はそれなりに正しいことになるので
問題ありません。
長州藩などのように、無理に高い石高を出そうと小細工をする
所もあったようですが。
730 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 00:03
糞スレage
>>721 「盆山」は室内で楽しむためのオブジェだからねー
・安土城が焼け落ちた時にぶっ壊れた。(お盆の上に石やらを並べただけなので)
・安土城が焼け落ちた時に盗まれた。
・織田信雄など、誰かが保管した。
・宇宙人が持って行った。
といった可能性があるでしょう。
蛇石に関して、現在は安土山でそのようなものは見つかっていません。
安土城の建材は八幡山城を築く際に転用されたことが分かっていますので、
そちらにあるのかもしれません。
あるいは宇宙人が(ry
732 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 00:55
>>727 はぁ?大前提そうでしょ
1反から1石以上取れなければ1反じゃないわけだから
米の話なんてどうでもいいよ
おまえら根っからの農民だなw
734 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 01:01
>>732 はぁ?そんなことないよ。
江戸時代の検地で下々田とかだと1反あたり1石切ってるし。
近世の1反はあくまでも面積の単位だよ。
畑も屋敷もそれで評価しなきゃならんのだから。
735 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 01:02
はぁ?とかやめとけって。また話が感情的になるから。
余計なお世話スマソ。
ここ数日のこのスレの伸びは素晴らしいですね。
スレタイは忘れ去られているがな
でも米が国力の換算法になるって凄くね?
こういうのって日本だけなんだろうか?
フランスのシャンパーニュ地方15万石とか聞かないし。
西欧じゃ租税の徴収って昔から金なのかな?
人頭税とかじゃないの一人頭いくらとか
十分の一税とかって誰が1年間の収入かぞえてるのかな
不動産にかけるのが一番ごまかしが利かないよね
741 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 02:20
>739
日本だけのはずだよ。
どうせなら貫高制の話しろよ。
知行はこっちで計算されてる場合のほうが多いんだし。
思うに信長の所領には町奉行だの港湾奉行だの
道路奉行だの吏僚が多くいたと推察できる。
これは他の大名に比べ常勤の武士が多くいた
ということであり、これらはいざ合戦になれば
戦場に赴く戦闘集団だった。このことが常設の
戦闘軍団を持っていたということになったのでは
あるまいか。
信玄の場合躑躅が崎にいたとしても平時50人ぐらい
織田家は平時でもめっさ働いてる気がしたので、どうだろ。
2行目までと3行目以下の関係が謎
与太話だから聞き流してくれてかまわないが、
平時はなんあらかの役職で働いても合戦になれば
武士として働く官吏兼兵士(指揮官)だったわけで
地方大名に比べこの数が飛び切り多かったので
常設軍団ということになったのかなと。
普通の武士は何も無ければ働かない事の方が多いわけでしょ?
>>745 そりゃあ総数・支配国が多いんだし、実数というのも多くなるわけだけど、
程度と言うものがあるでしょ。
それに奉行衆などは戦時でも留守を守る大事な要員だし、
無理して突撃させなくていいじゃん。。
武井夕庵「陣触れじゃあ!出陣じゃあ!」
松井友閑「おおうっ!我ら奉行衆の名にかけて、いざ、突撃〜!」
なんつーのが戦場に数百人来ても、なんか違う気がする。。
つか、それくらいなら、農兵を集めなくて、武士とその家臣だけで出したほうがいいんじゃないか?
その家之子・家臣・陪臣というのは、平時でも武士の家にいるんだろうし。
>>746 >なんつーのが戦場に数百人来ても、なんか違う気がする。。
万見千千代の二の舞だなw
そう突っ込んでやるなよ。
推察する、とか気がする、とかの話なんだし。与太話だ。本人もそう書いてる。
なんで良スレになってんだこんちくしょう
今気付いた。仙千代ダヨ・・・ 吊ってきます
751 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 10:38
信長マニアの方には申し訳ないが織田家が特別先進的なシステムや思想を持って
運営されていたわけではないのです。
上の方にも書かれておりましたがもし義昭があそこまで露骨に反抗していな
かったら、もし包囲網があれほど惨めに破られなかったら、歴史にもしは
禁物なのはわかりますがあえてこのもしにチャレンジしてみれば信長は室町
時代によくありげな一時的な権力者として生涯を終えたことでしょう。
三好長慶と同じような、といえばわかりやすいでしょうか?
やはり室町幕府の権威を徹底的に貶めてしまったのは義昭の包囲網失敗であり
その包囲網を突破してしまったころで織田家自体がどこのポジションにいる
べきか迷ってしまい手を尽くしたところに後の権力構造ができあがったように
思います。
結果信長の時点では結論らしきものがでなかったので後世の我々には朝廷さえ
もつぶして自ら国王になろうとした権威の破壊者のようなイメージで語られ
夢を与えられているわけですが。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 10:54
実際の所、もし「複数以上の文献でマッチ」かつ「物証」という条件で抽出された
戦国時代の歴史のみを史実としようとすると、9割以上の戦国史が消える。
本当はナイショだけど(戦国史家が失業するので)、
日本の戦国史とは、そういういい加減なモノだったりする。
ナニが本当でナニが間違っているのかを論じるのは、だから無意味に近かったりする。
>>752 無意味な事を論じるのもまた楽しいのでは?
とりびあじゃよとりびあ
754 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 10:59
戦国時代ってあれだろ?
秀吉が自分の出自を隠すために徹底的に事実を破壊し詐欺みたいなのを
押し付け、家康がさらに簒奪を隠すために同じようなことをしてかなり
事実がねじまがって現代に伝わってるんだろ?
信長がハートマン軍曹を雇ったから農民の職業軍人化が進んだとか言ってみる。
>>754 ある程度はしょうがないっす
時代は全然違うけど井伊直弼とかも対外的な死因は「病死」だったはず
「勝家!弾持ってこい!!」
758 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 12:59
大名っていっても結局は豪族連合だったってことだよね?
そう。んでノビーは大名の権力を大きくしようとして譜代筆頭の林や佐久間と言った連中を追い出したところ
それを見て不安になった明智に闇討ちと。なかなかうまくいかんもんですな。
760 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 13:09
信長って中央集権に成功したんじゃないの?
761 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 13:45
家臣に寝首を掻かれたけどな
>>761 中央集権過ぎて失敗したものと思われ
部下はマジで手足だもんなぁ
>>745 やはり理解されにくいですか
行政に携わっている文官=いくさ働きする武官
京など治安のために駐留する部隊もいたことから
(駐留する部隊は交代制だと思われるので絶えず
軍隊が出入りしてるように映った)
「織田さんのところは、他所にくらべて
ようけお侍さんがはたらいとるげなぁ」といった見方が
一人歩きし、「織田さんのところはいつも兵がおるぞな」
から「織田はいつでも軍勢を起こせる様になっちゅーぞ」
といった常設軍団という幻想が生まれたのではないかという
推測です。
実際一年中(織田領内で防衛線や他方へ侵略などの)どこかで
戦があった事実からも常設といったイメージですが、
ローテンションで徴兵した兵を使いまわしているだけで、
内容とすればほかと変らない農民主体の軍隊であるが
イメージによる「織田常設軍団」というブランが出来上がった
のでは無いでしょうか。
764 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 17:20
>>763 というか、単純に周囲敵だらけで上洛後は戦争しっぱなしだからそういう意味
での常設軍なのかと思われ。
実態は散々議論されているように農民主体軍だったのではないかと思われて
おります。
>>753 なんかこうしてみると
>>1のアオリ文が意外とうまいな。
>>信長メインに史実を踏まえちゃったりそんなこと無視したりしながら、
>>ifだの分析だので楽しく語る
要するに何でもありってことなわけで。
しかし信長と秀吉の失敗から学んで学んで学びまくった家康は超絶スゲー奴なんだと心から思う。
信長が関所を置かなかったため謀反によって殺されたのを手本にして関所をちゃんと置いた。
768 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 21:18
家康はクラウンロイヤルサルーンが似合う。
>>766 秀吉が外様大名に大きな権限をわたしたせいで、
死後滅ぼされたのを手本に外様には権限与えなかったりね。
>>767 でも信長の頃の関所って
寺社が非合法に作った料金所だったからな。
民衆の支持を得るには
どーしても撤廃する必要があったんじゃないんかなあ
参勤交代は足利幕府の制度の改良かね
772 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 22:18
室町にそんな制度あったっけ?
773 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 22:30
いつの時代も中間マージンはあるのね。
物価がぶっきらぼうに高いのはいやなのね。
関所イヤイヤ。
現代の関所、高速自動車道
>>770 民衆つーか、商人じゃないかな。
信長の力の源泉は、津島湊や熱田湊から上がる収益だったといわれているわけで。
信長は商人階層の利益代表者であって、そう考えれば関所撤廃、楽市楽座、道普請大好きも説明がつく。
室町→守護は京都に永住→守護代おく→下克上・戦乱→マズー
江戸→大名は領地と江戸に交互に居住→ある一定の幅で安定→ウマー
領地に永住だと幕府に楯突くかもしれないし、返さないと
支配権が乱れて戦乱を招くし、半分にすれば支配権が
弱くなっても帰ったときに強くなって安定した頃に江戸に戻る
という風なことですな。
しかも各藩で国許と江戸の中間管理職が派閥争いして内紛が起き→(゚д゚)ウマー
いや、本当そうだし、TVカメラつけて犯罪者通過しないか見張ってるし
Nシステム?
781 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 00:49
このスレの住人的に1572〜1573の織田陣営を分析せよ
信玄死ななくても武田に勝てた?
そーいえば25000信玄上洛スレはもう建たないんだな
流石にネタ切れか
まあ、このスレもあそこまでは続かないだろ
あのスレはいろんな意味で異常
また立てるヤツいるかもだが
784 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 01:06
信玄が出てきたら毛利も何かしらアクションしてきただろうし、
軍のまとまりで言えば武田のほうが有利。やっぱり生まれた場所や
時代とか運に左右される部分も多いよね。伊達正宗だってあと20年
早く生まれていたら、どうなっていたかわかんないし・・。
785 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 01:11
あの時って滝川一益とかも伏兵として東海道に派遣されてたんだっけ?
786 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 01:38
信長が動くとすれば
・武田が深追いした時
・徳川がもう耐えきれないと判断した時
・動かせる兵力を考慮して数的優位が確立できると判断した時
武田信玄があそこであぼーんしなければヤバかったと思うよ。
まー、確実に織田があぼーんとは言わんし、武田軍がそのまま濃尾まで
やってきたとは思えないけど。家康つぶされるとかなり痛い。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 02:54
>>784 伊達政宗公による自演です。ありがたく拝見しましょう。
野田城付近で一戦あったかもなぁ
ifすると
武田軍と対峙した信長は前面に強固な陣を
を構築したが時間がたつにつれ、信玄の
巧妙かつ老練な采配に押され劣勢な状況で
唯一望みを託したのは浜松城の押さえである
武田別働隊を破ってを出撃した家康が一刻も
早く信玄の背後に現れることであった。
時間は誰にも平等に流れ、両者の命運は家康
にかかっていた。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 03:37
>>767 一応突っ込んでおくと、信長が廃止できた関所はごく一部。
信長でもそうそう手をだせない権利関係が色々とあったんでね。
で、京都の各入り口を固める七口の関は廃止していない。
だから「信長は関所を廃止したから殺された」は完全な誤解。
井沢元彦の妄想。
だが、関所はあっても信長の腹心である光秀の軍勢を止める理由が
無かったからスルーしたわけだ。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 03:39
>>770 信長が確実に廃止できたのは、国人領主層が勝手に設置したものだけ。
寺社や貴族が設置した関所には、手を出せないものも多く。
(ここら辺の権利関係に踏み込んだのは、秀吉)
792 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 03:40
そう言えば、野田城で信玄が撃たれて死んだという話は誰が言い出したんだ?
笛の音に誘われて、というやつ。
そもそも狙撃事件は本当にあったの?
793 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 03:41
やっぱり信玄の存在は大きいのかな。
信玄ありせば信長もあるいは・・・・・みたいに思ってる人が多いみたいだし。
勝頼は気の毒だな、偉大すぎる親父の跡を継いで。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 03:51
勝頼にしても、信玄が3年早く死ぬか3年長生きするかすれば、
何の問題も無く天寿を真っ当できただろうに。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 04:20
勝頼がどのくらいマクロな物の見方をしてたかだなぁ
昔日の栄光にひきつられ無理に拡大路線を行えばやはり
織田徳川にぶつかり、そこで無理な戦を行えばやはり長篠の
ようなことは十分ありえるわけで、やはり信玄の時代を
清算したら結構な負債だったということかな。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 04:23
>>795 信玄の遺言を守ってれば絶対勝てたとはもちろん言えないけど、
長篠はやっぱり早まったのかな。
ただ臨んだ戦さに勝つだけでなく、どこで戦さをするかという「マクロな物の見方」
が大事なんだろうね。
それが天下とりの戦略というわけか。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 04:25
江戸時代から使われる勝頼の弁護の仕方だが、
「あの状況では例え信玄でも滅んでいただろう」と。
結局、これに尽きるね。
ここぞという時に数ヶ月の空白を作ってしまったがために、
絶望的な差がついてしまった。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 04:28
>>797 それは気になるシミュレーションだね。
ただの勝頼弁護なのか、本当にそうだったのか。
信玄でもダメというのは、武田ファンとしてちょっと寂しい話だけど。
織田スレなのに
戦の勝敗は時の運にかかわることだからどちらが勝つかは
いえないけれども、仮に勝頼が勝ち続けてほどほどのところで
引けるかどうか、ここがマクロ的なものの見方で後方の北条上杉が
増大する武田に対する不快感から背後から襲うということも
ありうるわけだから。
腹いっぱい食べても消化する時間が無ければボディブロー
一発で食べたものをすべて吐き出すようなことになりかねないのです。
まずマクロの前にミクロのレベルで勝てないのでしょうがない・・・
活よりはだめだめクンに見えるけど戦に関してはまず一流
でもそこまでは武将の域でさらに上の大名のでの手腕は
どうであったかというと・・・
少なくとも長篠の時点ではマクロ的に見えて無いでしょう。
徳川と戦ってもいいけど信長相手にするにはまだまだと思います。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 04:59
>>802 結局そういう結論になるんでしょうね。
軍人としての才能は信玄から十分に継いだが、
軍政家としてはちょっと、と。
単に若いせいもあったのかもしれませんが。
長篠スレはまだあるのに・・・
そもそもそう選択肢が無い中で生きてたからそう見えるだけで、
誰より優れてるとか誰より劣ってるとかいう問題では
ないと思うんだけどねえ。
劣っているのは確かだね
論理的ではないな。
また、信玄か・・・
武田派の力侮りがたし、
やっぱ上洛できっかよスレは立てといた方がいいんじゃない、
この板のためにも。
隔離スレか・・・
810 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/03 09:48
信玄=豪族連合体の神輿
勝頼=豪族連合体からの脱却を試みてそっぽむかれた大将
信長=自身で豪族を屈服させたので尾張国内では強力な指導力を発揮できたがそこから先に行こうとして失敗
秀吉=すでに肥大化した旧織田家臣群の力削ぎに没頭し外様を巨大なまま残してしまった
家康=先人たちの努力により築き上げた封建制度の上で旧秀吉領をほどよく分配、外様にもいちゃもんつけてそれなりに力を削ぎ安定政権を築く
>>808 この板で織田でスレを絞り込んだら10スレッド。
これも充分重複していているのだが、武田でスレを検索絞込みしたら13スレッド。
やはり恐るべし武田厨。
>>810 江戸幕府はそれまでの封建制度より画期的なものだぞ。