1 :
無名武将@お腹せっぷく:
美濃を落とした後の業績を考えると、
あまりにも時間かかりすぎじゃね?
斉藤氏ってそんなに手強かったのか?
2 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:17
信長=ホモ・うんこ
強かったんだろ
あと天然の要害もあるぽ
↓このスレが糞スレとなるか良スレになるかは君にかかっている
>>3 と言う事は、信長を一番苦しめた斉藤氏は戦国大名の中でもかなり強い部類に入るのか?
6 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:30
信長を雑魚と考えることは出来んのかね?
>>6 雑魚がどうやってあそこまで支配領域を広げる事が出来たんだよ
8 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:37
3のいうとおりだと思いまーす。天然の要害がでかいっしょ
13 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:54
みの一つだに取るぞ難し
14 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:55
ってゆーか、今までの農業と足軽を一緒にやってた体制から
傭兵軍団に変えるのに時間かかったんじゃないの?
小牧に移転したりしてるし。
それと傭兵軍団は土地に縛られないと言う点でいつでも戦ができるという
強みは大きいんだけど戦局が不利になるとすぐ逃げちゃう(雇われモンだから)
ってのもあったんじゃない?強いけどもろい部隊みたいな。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:57
ゲームでも始めてから内政充実させて戦争するまでは時間かかるだろ?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:58
美濃の兵が強かったのと尾張の兵が弱かったのもあるんじゃね?
尾張は三河と違って商業が発達してたからそこに住んでる香具師らも
利にさとくて力あんま強くなかったんじゃ・・・?
>>15 ゲームに限って言えば、
美濃なんて2年以内で確実に落とせる。
やり方によっちゃ開始1ターンで落とせる。
全然参考にならんがな。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:01
19 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:01
やっぱり無能な家臣団のせい?
滝川一益は伊勢だし、お猿さんは身分低いし森・前田・丹羽あたりは
まだ一軍率いるほど年食ってないし。
佐久間・柴田は年は食ってるけど猪だし。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:03
ゲームなんてCPUがウンコなんだからそんなモン全く関係ないし。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:04
ゲームで語るなよ・・・
22 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:05
美濃を制した時に、なんかコツを掴んだんだよ。
どいつもこいつもわかってねぇなぁ。
尾張50万石+美濃50万石=100万石(2倍)にするのに7年
濃尾100万石+近江・越前100万石=2倍にするのに6年
合計200万石+近畿200万石=2倍にするのに8年
つまり2倍程度にするのに7年程度かかるってことでいいじゃない
美濃がそんなにすごいなら
なんで斉藤氏は領地広げられなかったの?
>>25 偉大な父が下克上だったり、それを殺したりと、
まずは家を固めなきゃって時に、
当主は早死にするわ、織田は攻めてくるわで、
とっても大変だったから
27 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:15
そもそも美濃攻める前に伊勢にもちょっかいだしてた。
徳川とも武田とも婚姻結んでた。浅井にも市姫押し付けようと工作してた。
美濃三人衆に内応工作もしてた。
禁裏にも寄付金送ったり将軍家の使者とも会ったり。
斉藤家は義龍が死んだり竜興は放蕩してたりで放っておいても落ちると見て
地固めをすっかり終えてから美濃攻略にかかったんだろ。
浅井とか
だめですか?
たしか美濃は道三時代に朝倉と敵対して攻められたりしたから、
行くのなら、浅井朝倉方面に行くのかもな。
しかしあちらも強敵で、まともじゃ勝てそうにない
32 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:20
信長と義竜は因縁が深すぎるからなぁ
義父の仇と父親に将来馬をつなぐと言われた相手
33 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:21
どれ、国盗り物語でも読み直してみよう。
道三に悲哀を感じてしまう俺は変なのか?
道三時代なら、浅井と結んで南近江を攻めて、
そのあと三好と決戦して将軍奪回、
信長は伊勢方面に手を出すってのもアリかも
竜興時代は絶望的だな。信長の進行を食い止めるので必死
36 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:26
>>23 信長は実はそれまで、水準レベルの一群雄に過ぎなかったんだよ。
でも、苦労したおかげで、兵の動かし方とか、こうすれば戦に勝てるとか
なんかいろいろ掴んだんだよ、角度とか
<
) 〜〜ッ!!!!!
<
//⌒∨⌒∨⌒∨⌒
@ノノハ@ ∧_∧
ノ(.*´_ゝ`)、<_` ) < あ、姉者・・ハァハァハァ!!
.____/´`ヽ/⌒(:⌒)⌒)/⌒ ヽ_
_l`=、! \イ" "゛`}/ ./---====------
|::::::|、 ヽ、,:=/ / /----- パン!パン!パン!パン!
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|::::! .l:|と/,/ /丿----====--\
ノ::〈 ヾ.ヽ/ ---====------------ \
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'´ / // ::/ _______丿
38 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 02:35
誤爆???
39 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 02:53
ムチャクチャ乱暴に単純化して考えると、最初は尾張一国(1)対美濃一国(1)
=ほぼ同等の国力で戦うので苦戦、時間がかかる
美濃を制圧した信長の力は1+1で2になる
尾張・美濃(2)対近江(1)で2対1=1対1の時よりは楽で短時間に終わる
尾張・美濃・近江で合計国力は3。次の相手はさらに楽勝で仕留める事が
可能になる…こんな感じ?
>>39 そんなに各個撃破出来る馬鹿ばかりではないだろ
>40
その通り、つまりこの簡単な算術で補えないところを外交で補う。
「武田さんどうかこっちこないでください」みたいな。
で、この後領土が広がるにつれ、出会う相手がいきなり5とか6の力を
最初から持っていたり(毛利など)信長も戦力を分散して複数の
攻略作戦を同時に進めたりで計算はどんどん難しくなっていく。
逆に言えば親父共が一生かけてたものを7年で落としてるわけだが。
美農の豪族国人衆の説得や尾張国内の足固めもあるだろうし、
国が大きくなれば説得または脅迫も行いやすく、それによって
勢力地域も順次拡大できた。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 06:58
>>24 >>39 >>42の意見が正解
勢力拡大というのは基本的に足し算ではなく掛け算で考えるべき。
つまり自分が弱いうちはちょっとずつしか勢力拡大ができず、強くなるに従って雪だるま式に拡大できる。
そもそも信長が美濃を取るのに十年近くかかった事を責めるのは無謀。
そんな事言ってたら、信濃一国取るのに20年かかった信玄なんてどうなるんだか。
さらには武田信虎、上杉為景、島津貴久は地元の国を取るのに一生を費やしてるし、
織田信秀、長曽我部国親らは半国取るのに一生かけてる。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 07:06
>>17 実際の勢力拡大なんてのはゲームと全然違う。
信長が異常に早いだけで
普通は一国取るのに十年二十年、時には五十年のペース。
しかもこれでも武田、上杉、北条、毛利クラスのかなりの大名の話しで、
普通なら勢力拡大どころか一進一退程度。
名将、朝倉宗滴ですら越前北部・加賀の一向一揆との激戦にほぼ一生を費やしてる。
しかも勢力維持できてる大名・豪族はまだマシな方で他の大名や一向一揆、謀反などの餌食になるケースも多かった。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 07:13
むむむむ
∧∧∧∧∧∧∧∧
| ___ ____|
| | `´ |
| / \ / |
(∂|_/ 〔 ・〕 〔 ・〕 |
ヽ| "| 〉" メ|
| u ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ /__/ / < やっぱ信長はすごいぜ!
/ヽ /\ \_________________
家康は本能寺までで取ったのは旧今川領くらいだっけ?
信長凄すぎだな
48 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 14:30
>>47 対武田の槍衾みたいな時期が長かったからな、家康の場合は。
>>31 龍興が朝倉の客将として越前で最期を迎えた事を思うと、なんとも浮世の転変は
早いものですな
50 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 15:45
美濃三人衆がいたから
>>47 あえて釣りにのってやるが、武田抑えただけで精一杯がんばった。
ってか、武田が本気でなかっただけだけど。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 16:41
美濃じゃなくて伊勢を攻めた方が良かったんじゃね?
>>52 長島一向一揆のため攻略しても、すぐに反乱が起きる
(収入が入らない)上、軍勢も止めて(維持費がかかる&
手持ちの兵力が薄くなる)おかなければならない。
つまりうまみがなさ過ぎるのでしょう。
攻め易い場所は攻められ易い場所でもあるわけだ
55 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 09:30
伊勢を攻めると相手は名家の北畠だからなあ。
北畠敵に回すとかなりキツイっしょ。
美濃と尾張の国力差がそんなになかったからだろう。
互角の国力なら相手の城主や武将を自軍に引き込んだり、
墨俣の話は本当かどうかはわからんがああいう感じで拠点をつくったりして、
自軍に有利な状況を少しずつ作っていくしかないな。
むしろ尾張1国の信長が美濃を7年で落としたのは早かったぐらいだろ。
>>53 長島一向一揆はこのころどうしてたんだろう?
美濃を押さえてからしばらくして伊勢も攻めてるからこのころはそんなに一向一揆は
激しくなかったと思うのだが、どうなんだろう?
57 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 09:51
一向衆と大名家がお互いに不可侵の約束を守れば
そうそう一向一揆も起こらなかったのかもな
58 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 10:01
信長信者必死すぎw
>>51 の家康信者の必死な弁明も笑えるw
このスレ意外とおもしろいんじゃねー??
61 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 12:00
東美濃って武田家の秋山信友に取られたんだよね
62 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 12:13
お前たちは何も分かってないな!!
>1
七年しかかからなかった
64 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 12:21
畿内って土着っていうか、地域に根強く勢力を張ったやつが少なかった
んだろ?表現しづらいけど、安定してどっかり構える余裕が無いほど
色々な勢力がひしめき合っていた感じか。土地に執念が無いから、
信長の怒涛の攻めに簡単に屈したということじゃないですか?
でも大大名になっても、波多野攻めに3年もかかってるしな〜
別所も1年半ですか?播磨の東半分しか制していない大名に
兵糧攻めとはいえ時間掛けすぎ
そうだ!そうだ〜
>武田が本気でなかっただけだけど。
この辺りで武田信者だとわかるがな。
結論としては必死な
>>58が1番わらえるな。
信長が攻略できたのは道三の息子ではなく孫の代になってからです
息子は意外といい武将だったので攻略できなかった
孫は酒色におぼれまくって家臣団が総離反した
そのおかげで美濃攻略がなったわけです
>65
波多野を攻めていたのは織田家全戦力の何分の一だい?
別所攻めは背後の毛利攻めの一環と考えないと苦戦の理由が見えてこない。
同時多発に荒木村重の離反、上杉謙信の蠢動、石山本願寺の抵抗
毛利の援軍、勝頼の跳梁とか
別所単体なら兎も角毛利が後詰についてるわけだから
そうそう簡単にいかないとおもわれます。
>>71 うむ。中国方面に秀吉もってきたのは配剤の妙ではある。
播磨に猪の柴田、北陸に秀吉を持ってきていたら、どうなってたっすかねぇ。
>>72 柴田に秀吉並みの懐柔と切り崩しが出来たかどうか
ともすると黒田勘兵衛が柴田についたとき
天下は柴田の手にはいっていたか?
ただ小寺氏の被官であるものを重用するとは思われないなぁ・・・
逆に光秀の山陰道(昔はこちらが表ですが)方面が
延びて、尼子氏の再興もなったやも知れない。
秀吉のほうはどこいっても大丈夫そうですね。
もともと豪族の集合体の上杉氏のほうが切り崩しやすかったかも。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 15:33
そもそも多正面作戦ってどうなのよ
傀儡将軍を生かさず殺さず上手く使ってまず畿内を平定(本願寺攻め)して
後はなんくせを付けて、討伐令を出して一番攻めやすい方面に全軍を投入していれば
ずっと効率が良かったではないかと
75 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 15:46
>73
確か織田軍って上杉軍に野戦で大敗してるんだよね
諜略と物量作戦が得意な秀吉には荷が重かったのでは?
>>74 義昭を傀儡として使えてたらとっくに使ってます
77 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 17:20
>76
いや信長が副将軍やらの任官を受け入れて義昭を適当におだててれば良かった
なにせ義昭には自前の兵力は無く実力は皆無、
そのくせ担いでさえいれば、大義はつねに自分の側にある。
実力のない物に頭を下げるのは屈辱的だが、その効力は絶大だったはず
だいたい中央から版図を広げる事自体ムズい
九州みたいな背後に海しか無い土地なら積極的に攻勢に出られるけども
79 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 17:49
中央にはガチガチの保守勢力がいぱーいあるからなー。
比叡山とか石山本願寺とか興福寺とか朝廷・将軍家もいるし。
ただあまりに辺境の地にあったとしてもちょっとな。
つーか、背後に海があってガンガン攻めてたら海から侵入される罠。
話に割り込んでスマンのだけど、
秀吉って実際どれくらい
美濃攻略に貢献したの?
>>77 義昭が官領就任などを勧めてくるのは
組織の一員にして動かしたい、信長に命令したいってことでしょ
受け入れたら信長も制限される
83 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 17:54
>>74 ん?いちおう朝廷を使って、
比叡山や朝倉浅井と和議を結んで、
体制が整ったら再度開戦とかしてるが
信玄と戦うときは朝倉をひかせて、
本願寺と本格的に戦うのは、浅井朝倉を倒した後とか、
それなりに多少面作戦は避けてないか?
>>75 手取川合戦のことかな
信長自身がが戦場にいたわけではないし、
秀吉がその後勝手に引き返すという事もあり
織田軍が負けたというより柴田軍集団が
負けたといえるのではないでしょうか?
またこの戦い後に謙信が夭折していて、
魚津城を落とし、今度は柴田軍が勝っています。
これが一年後の話なので手取川ではそれほどの
大敗ではなかったのではないでしょうか。
また魚津城のあとは越後に入り込むかという
ぐらい勢いがあったそうですが実は本能寺の変があり
引き返しています。このへんは秀吉が三木城陥落
とおもしろいシンクロシティを感じます。
後秀吉はよくよく野戦は下手といわれますが
私が知ってる武将の中では負け戦が少ない
(しいて言えば小牧長久手ぐらい)毛利相手にも
引けを取らず、ましてや金ケ崎で大事な殿軍を
信長が任すようなことをするでしょうか?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 18:31
そんな事どうでもいいや。
手取川合戦なんて無い
87 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 20:02
それよりも何故濃姫との間に子が出来なかったのかが問題だ
産めない体だったんだろ
89 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 21:07
好きじゃなかったんだろ。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:04
>>84 手取川合戦は無かったというのがこんにちの説です。
正確に言うと七尾城救援にむかった織田軍が七尾城陥落の報を聞いて一戦もせずに退却したらしいです。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:11
>>74 他正面戦線だからこそ信長は効率良く領土拡大できました。
ていうか貴方の言い方だとまるで信長が失敗したみたいな言い方だが、
信長が死ぬまでに築いた版図は三十数ヶ国、石高では八百万石にも達してます。
信玄、謙信、元就でもせいぜい四、五ヶ国で百数十万石。
北条家は五代百年かかって関東のほとんどを制圧した程度などの比較を考えればいかに信長の版図拡大がすごかったかわかります。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:15
多正面戦線ね。
>>87 微妙にスレ違いな気もするけど、
多分、信長は政略結婚の濃姫を好まなかったのかも。
>>84 長久手の戦いは秀吉は出陣しなかったしね。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:23
そういや秀吉って負けた戦無いな
94 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:28
あろこまでデカくなったら戦するよか懐柔策の方が速いだろう
>>77 義昭が適当におだてておけば傀儡で満足していたという点に根拠がない。
むしろそうではなく「実権」を望んだからこそ信長と対立したみるべき。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:41
>>94 信長の命令で見捨てさせられたわけでガチでは戦ってない
98 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:45
天正6年
3月 秀吉、上月城を攻略。
尼子勝久を城に入れる。
4月 吉川元春、小早川隆景が上月城を包囲。
6月 秀吉、1万の兵を率い三木城から上月城へ救援。
上月城の東、高倉山に着陣。
6月21日 毛利軍が城下で秀吉軍を破る。
6月26日 秀吉、高倉山から三木城に戻る。
7月 3日 尼子勝久切腹。
7月 5日 上月城開城。尼子氏滅亡。
山中幸盛、毛利方に捕らえられ護送中に殺害される。
>>1 つか、戦国時代ってのは色んな勢力が均衡して成り立ってるんだから
そこから抜け出るのが大変なのよ。
一旦抜け出ればある程度は雪だるま式に。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:48
中国地方東部は毛利の力を恐れて服属してたわけで別に毛利に忠誠を誓っていたわけではないから、
秀吉の調略はかなり有効だったろう。
東部の調略って、あんまり効いてない気もするが。
色々反発されたし、清水宗治ら外様も凄く抵抗してたし。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 22:57
風雲録では稲葉山に鉄砲100で篭ったらイゼルローンが再現できる
103 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 23:01
104 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 23:06
自分で直接率いた軍隊の戦果のことじゃないのか?
総大将・指示者としてだけでいいなら、千石とかの九州入りでも一敗とカウントできるし
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 23:19
最初から通して読むと、どんどんスレ違いになっていくのがわかるな
だってスレタイ結論出たし。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 00:11
最初のスレ通りだと間が持たないから
109 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 07:27
信長が美濃を攻略するのにたったの七年しかかからなかったのは、
美濃土着の土岐家が斎藤道三によって攻略され骨抜きにされてしまったからでしょうね。
その結果、家臣を調略しやすくなりたった七年で信長は美濃を取る事ができたんでしょ。
斎藤道三ほどの男が生涯かけて(親子二代説の方が有力ですが)取った国を信長が美味しくいただいたというわけです。
道三よりも、"はんか"こと義龍の急死の方が嘆かわしい
111 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 08:26
ここにきてきゅうにはんかくさくなった
112 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 08:48
>>110 義龍は「急死」でも何でもない。
若い頃から、らい病でいつ死ぬかもわからぬ身だった。
むしろあれで結構もった方。
自分が長くない事がわかっててヤケクソになってたからこそ、
父を殺す反乱のような真似ができた。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 09:06
義龍の死を待ってたら意外と長生きしてしまったって事か。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 09:19
手取川合戦は兵力の消耗を最小限に保ったまま退却した織田軍を
上杉軍が勝手に手柄として捏造しただけだろ。
肉を切らせて骨を断つという老獪な戦略が田舎侍にはわからんらしい。
歴史家やってるわけじゃないから大敗したのが本当かどうかなぞ知らんが
退却したんだからだから織田軍が負けたには違いない
それより戦力温存程度で老獪とは笑わせる
116 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 11:14
尾張兵は美濃兵より弱かったのか?
117 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 11:38
>>115 退却 = 敗戦 とは!(プ
太平洋戦争でクソ意地はって玉砕した方ですか?
まんまとおだてられて小島に分散させられて、補給に苦しんだ後
大軍に各個撃破されてあぼーんされてください。
織田軍のとった戦略はまさにアメリカ軍のそれ。
野戦で勝てないと判断したから上杉軍の兵力分散や補給の難をついた。
退却も戦術のひとつってことを学ぼうね プププ
118 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 12:00
越中で上杉軍が兵力分散したの?
119 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 12:17
越中と能登支配に戦力の5分の4を持っていかれて
それ以上進めなかったってのは事実だな。
>117
退却が敗戦と異なると主張するためには、
敵の戦略線が延びきった後にきちんとバックハンドブローをかまさにゃならんわけで。
実際はそんなこと出来なかったワケだから、
「手取川の戦い」(かぎかっこつけてることに留意)を織田の勝利と呼ぶには無理がある。
そんなのが勝利だってんなら、
旧式戦艦を沈められただけで肝心の空母と重油タンクは守れた真珠湾攻撃はアメリカの大勝利だ。
>>117 藻前も、俺より知識等がしたなんだから
もっと学ぼうね プププ
とつぜん
いちが
やってきた
>>117 退却は局地戦では敗北だろ。
長期的な戦略の見地からすれば戦術の1つだ。
要するに、
>>115と
>>117は何から何までかみ合ってない。
それ以前に、手取川の話はスレタイにかみ合ってない。
第一期の60レスを消費するのに12時間かかった
第二期の60レスを消費するのに24時間かかった
信長は領地を2倍にするスピードが約7年毎
尾張50万スタートから推測できる天下統一年月は1595年
信長62歳のころ。
このスレが1000までいくのは12時間の16.7乗
>>1は何歳になるのだろうか・・・。
信長なら七年かかるところも、俺なら二週間だから
>>125 あいや、またれい。
正確には12時間×(Σn=1 to 16.7 2のn乗)でござるな。
Σ以下はほぼ2の17.7乗で近似できるから、
計算どおりならば291年ほどかかるでござそうろう。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:14
>信長は領地を2倍にするスピードが約7年毎
>尾張50万スタートから推測できる天下統一年月は1595年
>信長62歳のころ。
何で織田家分裂して柴田と戦ったり徳川と戦ったり無駄な時間費やしてた
秀吉より統一が遅くなるんだよ。
>128
秀吉の統一は「同盟統一」
この計算による統一は「征服統一」。
>>128 信長は目障りなやつや欲しい場所は一つ一つ潰していく方法でしょ。
だから秀吉が宇喜多を味方にしたとき怒ったと言われてるし、
降伏しても八上城のように許さず潰したりした。
秀吉は統一を急いで、とりあえず頭下げてくれるなら、無理に潰したりしない。
だから家康などを母を送ってまで臣従させたり、
戦の後も降伏したら長曾我部や島津のように許した。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:49
信長は秦の始皇帝
秀吉は漢の高祖劉邦
なんちってーーー
132 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:53
>>131 んな訳ない。
劉邦は始皇帝打倒だろ?。
秀吉は信長の自称後継者だから合わない。
むしろ秀吉=光秀の方がよい。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:57
そう言う意味ではないのだが・・・・・
134 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:23
島津なんてかなーりギリギリまで粘ってなかったっけ?秀吉の討伐喰らった時。
信長が滅ぼしても光秀でも残して事後処理任せれば別に時間そんな変わらないと思われ。
あと毛利は備中高松の戦で撃破できたんじゃないか?
信長死ななきゃ信長直卒+光秀軍が秀吉に合流するワケだし。
海賊は元々日和見チックなとこあるからさっさと寝返ってきたでしょ。
まあ戦っても鉄鋼船に勝ち目ないし。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:28
長曾我部に対しても丹羽長秀+神戸信孝の遠征軍既に整ってた。
あれで充分制圧できたでしょ。
小田原北条に対しては滝川一益が既に関東にいた。
あれだけで北条倒せるとは思えないけど
島津・長曾我部・毛利叩いた後にじっくり潰せばいいだけの事。
だから秀吉の統一より遅くなる事はないでしょ。
>>135 秀吉より早いかどうかの問題じゃなくて、
信長は実際に地道に確実に潰してきたから
>信長は領地を2倍にするスピードが約7年毎
>尾張50万スタートから推測できる天下統一年月は1595年
という仮定の数値が出てきただけ。
つまり”それまでこうだったから、結果はこうだろう”という話。
秀吉は、計算してないけど、その数値が7よりも小さいって話なんだよ・・・
137 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:39
中国・四国地方を制圧したら、九州諸侯は降伏続出じゃないかな。
で、関東・北陸を制圧したら、東北は小勢力が多いから、ほとんど全面降伏でないの?
138 :
(・∀・):03/11/13 18:41
(・∀・)イイ!!
139 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:45
降伏すれば旧領は安堵してやる→秀吉
全領地没収→信長
没収されるくらいなら、小勢力でも連合して抵抗するだろ
140 :
(・∀・):03/11/13 18:48
∧ ∧
〃⌒ ・∀・)イイ!!
/ rノ ;
Ο Ο_)***
141 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:49
しまぶー
>>137 そもそも信長だって殲滅作戦しないのなら
”7”以下の数値になったかもね・・・
わかる?
143 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:59
>139
最初から全面服従の相手には信長も所領安著してるでしょ。
ちょっとでも抵抗すれば許してもらえんだろうけど。
144 :
(・∀・):03/11/13 19:00
/⌒ヽ⌒ヽ
Y
八 ヽ __________
( __//. ヽ,, ,) /
丶1 八. !/ < イイ!!イイ!!イイ!!イイ!!イイ!!
(・∀・) \
| ! i 、 |
| i し " i '|
|ノ ( i i|
( '~ヽ ! ‖
│ i ‖
| | | |
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| ! | |
_ | | ‖
145 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:17
>143
確かに信長も東北の端っこまで馬を出す気にはならなかったかもしれないが
九州はどうかな?
現に秀吉には抵抗している訳だし、そうなれば窮鼠猫を噛むではないが
錦江湾まで追いつめられ死兵とかした戦国最強の島津兵がどんな戦をしたかな?
織田家重臣、次々討ち死になんてね
のぶちんが南蛮渡来のカノン砲を大量生産
錦江湾沈没
秀吉だって信長方式でやってた毛利討伐時代は
時間かけて城を一つ一つ潰してたんだよね。
信長軍が全部一度に攻めれば鳥取が10倍早く落ちたかどうか疑問だし。
結局、九州攻めでも島津の外様が寝返ったからと、
信長が全て許すとも思えないし、
一度許さないと決めたら殲滅するって方法でやっていけば、
島津の城一つ一つが鳥取城になるかもしれない。
まだまだ信長は石高では全国の三分の一しか取ってないんだし、
その後も殲滅作戦なら10年かかると言っても不思議ではないだろ・・・
148 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:25
信長は高転びに転ぶのじゃよ
つか10年でも納得できないって思う信長ファンってのも凄いな。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:34
>>145 島津は成り上がりの秀吉と違い信長には一目おいてたらしい。
島津家久が京都に遊びに来た時、信長一行の行列を見物して「これがあの信長か」と感心したみたいな事書いてる。
もっとも、この時、信長は居眠りしてたそうだが。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:41
島津はそんなとこあるかもしれんね
名門意識もすごいだろうし
はァ
153 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:44
島津ってそんな名門だっけ…
島津は名門だけど、秀吉は日輪の子ですよ?
155 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:48
>150
元々大名の生まれで桶狭間などの武勇もある信長に一目置くのは理解できるね>家久
お歯黒塗るくらいだから凄いんだろ
157 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:52
九州の大名じゃかなり格の低い方じゃないの?まぁ島津なんてどうでもいいが…。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:55
島津忠久の系譜でしょ
頼朝の子とかは嘘にしても、それなりなんじゃないの
159 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:55
>157
おれは島津厨嫌いだけど、それは間違っているよ
島津は奥州藤原よりまだ古い。室町期でさえ古豪だよ。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 19:57
傍流が嫡流食いつぶしたんだっけ?
>>159 そんな古いのか。大友より上なんだな。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 20:00
>傍流が嫡流食いつぶしたんだっけ?
それも織田家と一緒か
162 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 20:07
それで結論としては、信長が7年で美濃を取れたのは
父 信秀のおかげだと
>>159 頼朝の落胤(と名乗っている)家が、何で奥州藤原氏より古いんだ?
美農陥落の諸因子別年数
美農陥落 1567
斉藤家と婚姻 1548
信長家督相続 1551
道三敗死 1556
桶狭間 1560
墨俣 1561or1556(?) 66年が有力
家康と同盟 1562
小牧城築城 1563
犬山攻略 1564 尾張の統一
実際の美農を攻略を念頭に置き始めたのは
家康との同盟から犬山攻略以降ではなかろうか
墨俣は美農攻略を念頭に置いたものでは
166 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 20:32
>163
名乗りより家の方が古い例は多いんだが。
というか戦国期の新興大名家はほとんどみんなそうなんだが。
源平藤橘じゃなきゃ大名としての家格が無いって言う風潮が室町後期あたりから
出始めて、いつの間にか日本中がこの4家出身になってしまったんだが。
実際、公家近衛の臣下だった惟宗忠久が島津姓の祖なんだが
彼が頼朝の庶子だなどというのは後世島津が源氏姓を名乗るための
方便に過ぎないわけで、そういう方便の上に成り立っている虚構だという事を
理解しないと日本史はさっぱり理解できないわけだ。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 20:37
>164
犬山は誰の城?信友じゃないよね
美濃攻略を念頭に置いたからこそ家康を味方にしようと思ったのでは
桶狭間後に美濃を攻めて失敗した後、後ろを固めてからと思ったのなら、
その頃で良いんじゃない?
島津氏が秀吉の九州征伐をうけたのは
大友氏との間に作った信長の和解案と
その後の島津氏が切り取った領地の開き
が秀吉の仲裁案に盛り込まれていなかった
為に引き起こったもので、秀吉の九州情勢の
情報が新しいか島津氏の外交努力で回避でき
た可能性はある。
1551−58 内部抗争時代 犬山の信清は味方だったので事実上の尾張統一への時代
1560−62 桶狭間で今川を退けるも、美濃・三河両方に手を出し失敗、三河を味方にする。
1562− 美濃攻略本格化
1562−64 犬山離反、討伐(尾張統一)
こんな感じでないの?
>>166 だから、その「虚構を作った時期」が問題だろ。
奥州藤原氏の場合、京の藤原氏に献金を行って、自分が藤原氏の系統
だという虚構を作っている。
明らかに頼朝よりも古い時期だ。
何で、奥州藤原氏よりも、島津が古いという話になるんだ?
島津と大友は自分たちで兄弟だと言っていることにどう思ってたんだろ?
173 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 22:36
>>166は高度な知識をひらかしてるつもりかも知らんが、
ハタから見るとトンチンカンなレスしてるねえ。
源平藤橘 その他皇裔 武蔵七党
菅氏 越智氏 渡来人皇裔
176 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 22:43
おれって信長の野望プレイする時、決まって開墾と商業をMAXまでもってく。
その俺が思うに、上総殿は尾張を磐石にすることを最優先にしていた。
美濃に攻め入ったのは斎藤に対するけん制だった。若い血が騒いだ。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:22
別に若さに任せて攻めかかっていったわけじゃねえだろ。
徐々に斉藤家の力を削いでいったんだろ。
斉藤家の足軽は(まあ、斉藤家じゃなくても普通は)秋には家に帰って収穫しなくちゃいけない。
そこを頻繁に攻めて来られると武将連は兵をかき集めるのさえ一苦労。
武田勝頼や諸葛亮・きょーいは対外遠征しまくって国力疲弊させたけど
こっちの場合は何度も動員させられまくって国力疲弊させられたわけだ。
一方織田家の方は傭兵軍団だからいつ戦争しかけてもおk。
長期戦でこの差はでかいだろ。美濃を取ったら一気に中原進出できるように
周辺諸国と外交交渉して万全の体制を整えつつ戦もしてた。かなり合理的だね。
だんだんと
25000で上洛できるかよ武田信玄スレ
に似てきた気がする。
何はともあれ、アンカーをつけたまへ
5五角から7四桂で落ちます(意味不明)
考えてみるに、家督相続から7年も経たないで芦名を併呑した伊達政宗
は、かなり凄い事をしたんだな。
石高からいっても、信長が斉藤を併呑したのと、ほとんど同条件だし。
>>181 簡単に凄いとは言えないような気がするが。
まず秀吉の天下になってた時代だし、摺上原では何故か佐竹の動きが悪かった。
それにあの頃の芦名は、義重次男が入嗣したばかりで結束力に欠けてたし。
そういう要素を含めても凄いのかもしれないけどね。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 02:19
いや、凄いだろ。簡単に言えるだろ
184 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 05:20
すごいことはすごいが
生まれが早かったとしても天下を狙えるとも思えない
東北からでは厳しい
と言うか政宗は、単なるクッキングパパと化してしまった晩年が・・・。
ある意味、あの時期が人生で一番天下獲りに近かったのに。
はァ?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 09:17
美濃大垣城は、信秀の代に取っているはずだけど
その後どうだったんだろう
取ったり取られたりしたんだろうか?
>>184 貴方も簡単に「凄い」と言ってるでしょw
190 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 09:54
尾張国内でさえ侵食されまくってるのに美濃に領土持てるわけないだろと
小一時間。。。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 10:41
>尾張国内でさえ侵食されまくってるのに美濃に領土持てるわけないだろと
尾張が今川に浸食されはじめたのは信長の代になってからじゃないの
信秀の代には三河安城を取ったり、竹千代を人質に取ったり
逆に他国を浸食してたんじゃないか?
192 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 10:51
だいたい信長は過大評価されすぎなんだよ
たかが美濃とるのに7年もかかって
頭わるすぎ
俺だったら戦国群雄伝シナイオ1で1563年くらいまでで
美濃とっちゃうよ?ん?
193 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 11:02
シナイオじゃなくてシナリオだぞ無双厨
信秀って凄いよなぁ
もしかして信長よりも凄かったりしてね
195 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 11:54
信長は秀吉がいなかったら
美濃とれなかっただろうな(藁
196 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 11:54
どこが必死なのか分からん。
必死だな、とさえ書けばよいと思ってるのか。
それは私のオイナリさんだ
199 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 12:17
なんでもかんでも
信長を褒め称える風潮やめろよ糞が
信長だって人間だったから失敗ぐらいするだろ
斉藤龍置倒すのに7年もかかったのは
明らかにダメだろ、信長のしっぱいのひとつだっての!!
200 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 12:21
ゲームで語るなよ・・・
202 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 13:04
>>197 どこが必死なのか分からん。
必死だな、とさえ書けばよいと思ってるのか。
この辺が必死。
↓「必死」という単語を使わないで相手を罵倒してみよう
必ず死ぬぞお前
そんなに顔真っ赤にしてどちたんでちゅか
見ないで、、、恥ずかしい、、、
208 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 15:06
>>191 そのかわり信秀は尾張の一部しか持てなかった。
半国以下だよ。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 15:12
信秀の代はそこまでだったんでしょ
守護代の家老なんだし
信秀は二郡だったかな。
お前らどっちもどっち
ここは必死について語るスレでは無い
文句を言う前に信長について語れ
信長の美濃攻めについて驚くべきはむしろ信長ではなく
道山殺害以降の家臣団をがっちりまとめて追い払った義龍
度重なる信長侵攻を食い止めついに死すまで抑え続けた
家臣団のシステム上不利という条件でも勝ちを収めた義龍は名将。
でも早世
で美濃陥落
やっぱ運の強い奴が最強なんよ
212 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 15:24
信長ってことごとく強運な気がするけど
義元軍宴会開き始めるとか(これは信長が酒を用意させたらしいけど)
義龍急死とか信玄病死とか
暗殺とかの手段だったんだろうか
義龍は以前から病んでたってこのスレに書いてなかったか?
214 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 15:33
>208
でも尾張国内には敵対勢力は居なかったんでしょ
主筋であったり同門であったり
その共同体の中で最大の戦力を持ち発言力もあった
尾張一国の領主とは言えないが盟主的な地位にはあったのでは?
215 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 15:42
最上義光が相続した時みたいだったんじゃないの
惣領制みたいな
各家がそれぞれの利権があって
全然まとまらずに
信秀も家格が低いから大して発言できずに
力はあったから単独で戦したりで
織田家てんでバラバラ
尾張の中にも美農の軍勢を引き入れるやつもいるから
状況はかなり悪い。他の織田氏の城を落としては自分の
息のかかったものか血族を入れるを繰り返しやっと
国内を安定させた。
>>213 義龍は病死だが
それにしても不自然なほど幸運続き過ぎる
運を引き寄せる為の何らかの工作はあったと見るべきでは?
>>217 信長が運があったんじゃないよ。
あったのは秀吉。
日輪の子だからね。まさに天命の子。
だから秀吉が織田に入った桶狭間直後くらいから、信長も運が向いてきた。
秀吉に危機が迫ると、義龍も信玄も、ついには信長までアボーン。
すべて天命です。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 17:04
実弟信行が謀反したり、義弟の浅井長政が寝返ったり
不運もあたけどなー
220 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 17:08
信行のは予測してたかもだけど
新興勢力の浅井長政の朝倉寄りは見誤りなんだろうな
その日輪の子の子、日輪の孫は哀れだな
秀吉の子供じゃなく、赤の他人だからだろうね。
種無いからね、太閤様
224 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 18:22
>>214 守護代の信友も一目置くほど信秀の力が強かったが
それを継いだ信長がウツケ者と評判の若造なので
言う事をきいてなどくれなかった。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 18:28
とりあえず
秀吉がいなかったら
信長は天下とれたかどうか
怪しいということが判明したな
このスレのおかげで
ひゃっほー
226 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 18:31
半兵衛のおかげでした
227 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 18:31
織田家で傑物と言えるのは
信秀、信長だけ。
なんて無能な一族なんだろう・・・
津島の商人に顔がきくようにした信秀の父が発端だろ
3代目でようやく開花したんだな
はげしく遅レスで申し訳ないんだが
別に193=197じゃないだろ。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 18:45
>>227 二代続くなんて滅多にないと思うけどな。
毛利だって元就・吉川元春、小早川隆景親子くらいじゃん。使えるの。
無能かどうかは分からんが
実績を残してないのは確かだな。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 18:57
織田有楽がいるでねーかー
関ヶ原で石田家の家老を討ち取ってるぞい(←たまたまだけどな)
信忠
信定-津島に商業利権を苦労して確保
信秀-金銭面に苦労なく戦でき武名をあげる
信長-一族根絶やしにして尾張統一をする
この流れがあったから信長は活躍できた
ようは金集めの仕組みを作った信定から始まってるんよ
235 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 19:09
信定もまさか、孫が上洛して覇を称えるとは予想してなかったろうな
「信長」が偉かったわけでなく
「結果を残した信長」が偉かったのよ
237 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 19:29
これで見たら毛利元就なんかの方がすごくね?
これで、って何よ
239 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 20:28
濃姫もさぞ気をもんだ事でしょう
信秀は今川義元の弟の那古屋城を奪って熱田の利権も握ってさらに東尾張に勢力を伸ばしていた
松平清康が死んだすきに東尾張から西三河の一部まで勢力を伸ばしたんじゃなかった?
西三河といっても矢作川以西だけど。
そして美濃で道三が土岐氏を尾張に追いやると土岐氏を支援して、朝倉なんかと手を組んで
美濃に攻め込み大垣を奪う、でもこの頃が最盛期で道三との戦いで大敗したあとは、それまで
一応協調体制を取っていた守護代なんかとも争うようになり大垣を取り返され今川とも三河で争う
といった状況に、濃姫との結婚で道三と和睦するけど国内に手間取ってる隙に今川に安祥を奪われ
三河の拠点を失う等といった状況で死亡したわけだ。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 21:26
秀吉のおかげでした
ちなみに信秀が死んだ直後に鳴海城主が裏切り大高を奪い知多半島で信長領は
分断され機動兵力に制限が出ることになる。
一応海路で知多半島南部や西三河との水野氏と繋がっているから、後詰は可能ではあるが。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 21:35
山口何とかって奴か
さっきから必死に秀吉ネタで釣ろうとしている香具師がいるので敢えて釣られる
ここは信長スレです
失せろ
まあ伊勢攻略では力攻めで勝てなかったんだけどな
和睦→養子押しつけ→暗殺
246 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 17:18
若く経験の浅い家臣団と圧倒的に弱い尾張兵で、そこそこ強い美濃兵と戦っていた。
美濃併合後は、その強い美濃兵も使えるし家臣団も経験をつんで強くなった。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 17:29
結局天下取り競争は、国内を制して二カ国目を取るまでの速さで決まったよな
信長は速いほうだろう
248 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 17:39
信玄とか元就とかは自領民化(内政の均一化)みたいなことをしようとしたから
侵攻速度が鈍ったんじゃないのかな
信長は結構いいかげんにしてたんでしょ
その土地の制度で数揃えさせて闘うから、すんなり戦できたんじゃない
249 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 17:50
このスレ読んでるとあらためて信長ってすごいね
250 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 18:31
人口密度って要因もありそう
尾張半国28万石→尾張一国57万石→美濃尾張2国111万石
甲斐一国22万石→甲斐信濃2国62万石→甲斐信濃駿河77万石
やはり位置は重要
信長の幸運の一つだな
義龍が長生きするor龍興が凡愚じゃなかったら美濃は落ちなかったかもね。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 20:09
しかし尾張はともかく美濃は今ではどうでもいい場所になってしまったな・・
甲斐・信濃はそれなりに観光客呼んでるし。
美濃は「日本の中央、日本のへそ」とかいう理由で、
首都移転に名乗り出ていただろ。
もしかしたら、一発逆転も・・・・・
256 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 21:00
だからあ、
信長が遅いとか言ってたら信濃攻略に20年もかかった信玄はなんなんだよ?
だからあ、
もうそんなことだれも話してないって
258 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 21:15
義龍と信長の必死に奪い合った土地も今では
のぞみがひかりを追い抜くためにある「岐阜羽島」が玄関口という悲しさ・・
信玄の不運は戦キチガイの謙信に睨まれてたこと
>>259 そしてその戦キチガイが弱ければいいんだがべらぼうに強かったこと
262 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 22:33
結局信玄は膨大な金を使って豪族を手なづけても、
常備軍を編成したりといった発想はできなかった
いくら全軍を引き連れて出撃しても、冬になれば甲斐に戻ってしまう
結局、
信玄はあくまで中世封建社会の前提の上に成り立った武将
その前提を打ち破って近世を切り開いた信長とは違う
なんで信長は常備軍って発想に至ったんだろうか?
ところで常備軍の発想はどこの戦国大名が最初にしたんだろ
皆兵制や常備軍とかというと、近代的な感じもするが、それ自体は昔から普通にある発想。
隣の明国での国が出来た当時、兵制をどうするかという議論の中で
・常備軍は弱い・維持費が高い、訓練や出動・管理はしやすい
つーことで、ちょこっとだけ置いとこうという話になったと思う。
結局は寄食者だからな。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 22:59
>>265 >訓練や出動・管理はしやすい
しかし、これが信玄と信長の決定的な差だったんだろうな
267 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 23:00
関所の廃止も結構画期的だよね。
いつでも戦争がしたいけど自軍が弱すぎる→常備軍が欲しい→維持費がかかる→維持費を確保したい
↓
一年中戦争←維持費確保&常備軍確保←楽市・楽座令とか関所の撤廃とか←領内の商業活動を活発化させて税収を多くする
↓
天下統一(゚д゚)ウマー
って発想なんでしょうか?
269 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 23:02
>>263 信長が常備軍を編成できたのは、
経済力があったからじゃない?
信玄も黒川金山とかの経済力があったけど、
それは旧体制的に豪族を手なずける事には使っても、
自由に動かせる軍を編成するという考えは出来なかった
ところで信長の常備軍ってよく聞くけど、
ソレホントにあったの?
信長と信玄の常備軍の比率など知らんが、
たいした違いはなかったんじゃないか?
あるとしたら総兵力に比例して上がる実数の違いだと思うけど、
信長も信玄も主力は農兵でしょ。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 23:06
>>270 いちおう資料があって、
生産力が高い近畿などの信長の領国では、
農民率が70%から80%
甲斐などでは90%、東北では95%とあるらしいから、
職業軍人の比率は信長軍の方がかなり高かったとは想像できる
あと戦国最強とか呼ばれてる甲斐や越後や薩摩や三河の兵は本当に強かったのか?
>>271 それは、兵役が課せられない工人や商人などの比率が高いだけの話じゃないか?
つまり農民率が信長支配地域で80%、信玄のとこが90%でも、
兵役(それ以外の雑役も含めて)がかからない庶民を除いただけの話で、
それが職業軍人の話にどれくらい関わるのか疑問だ。
ここで言う職業軍人って、信長は無職無財産のものを金で雇ったって話だろうし。
>>272 豊かな国の兵は弱く、
貧しい国の兵は強いというのが、
古今東西を問わず一般的だから、
いちおう強かったんじゃない?
信玄って信虎の改革邪魔したアンポンタソだからな
信虎が改革に成功してれば勝頼が得た領地ぐらいは
いけたんじゃないか
277 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 23:55
いみわからん。
信虎って改革してたの?
信虎は専制しようとしてたから反発くらったじゃん
280 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:05
>279
そんな山梨弁で力説しなくてもいいよ
281 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:07
勝頼の養育係って誰よ?
馬場・高坂・内藤・真田あたりに任せとけばもちっと知恵付いたんじゃない?
彼らが後ろ楯になってくれれば信玄死後も安泰だったろうし。
士卒に本来弱い者はいない。もし弱い者がおれば、それは本人が悪いのではなく、
大将が励まさないことに罪がある。もしわしの方に来て仕えれば、どんな者でも大剛の者にしてやろう
とは道雪の言葉
山梨弁なのか、福岡に住んでるオレにとっては普通の文章にしか見えんが。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:08
勇将の下に弱卒なし
信玄の人選ミスとは思わんのか
286 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:10
>281
内藤と馬場でしょ?
287 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:13
結局、信玄は守護大名クラスなんだよね
ただ負ける戦をしなかったので威光が増したんじゃないの
289 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:20
担いでもらわないと移動できない癖して生意気だな
担いでる奴の頭を軍扇でド突いてただろうな
「右じゃ、右ってゆーとろーがっ!!」とか言いながら
>>289 落雷で下半身不随ってのも一説によるとネタらしい。
ただ単に高い所に立ってた方が戦場全体を見渡せたから輿を使ったとかなんとか。
それでも、「右じゃ、右ってゆーとろーがっ!!」って言いながら軍扇でドついてたかもしれんがw
291 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 00:27
大谷吉継も「右じゃ、右ってゆーとろーがっ!!」って言いながら軍扇でドついてたのかな?
292 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 01:59
なぜか左折しかできない担ぎ手を
軍扇でド突くスレはここですか?
293 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 02:16
>>290 ネタでもいいぢゃないか!
戦場に輿ごと置き去りの竜造寺よりマシ。
竜造寺は太りすぎ?だったんでしょ?
龍造寺はマジデブ
295 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 02:37
>289-292
ワロタ
296 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 08:12
道雪は輿を捨てて逃げても良いと兵に言っていた。
竜造寺は実際に捨てられた。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 08:54
神輿やねんから〜
298 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 09:55
っていうか信長以外は天下統一なんて考えてなかったんじゃないの?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 10:02
>296
その逸話っていつの話だっけ?
潰走してるときに「儂を捨てて逃げなさい」つっても担ぎ手はみんな
必死で道雪護るって話
300 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 10:07
>>281 元々は諏訪の跡取りにするつもりだったのだから諏訪系の家臣なのでは。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 10:40
結論
秀吉雇ってなかったら
美濃は取ることすら出来なかった信長
>>298 少なくとも信玄は考えていたと思うぞ。
でもそれくらいだな。家康は信長の勢いが盛んな時はずっと従ってたし
朝倉は興味なし。毛利も元就の遺言守ってたし。
上杉も将軍の権威を取り戻せばいいくらいにしか考えてなかっただろうし。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 11:45
だから伊達政宗だって。
22,3で葦名撃破だぞ。鈴木元信が式目作ってたみたいだし。
武田信玄・上杉謙信・北条氏康・毛利元就といった名将連は死去してるし。
あの若さで奥州の雄。しかも遣欧使節送るくらい周り見えてるし。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 11:46
上杉景勝か北条氏政と組めば敵ナシだろ
305 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 12:11
306 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 12:15
荒らしてるのは武田厨
>>302 考えてないね、
少なくとも信長が上洛して天下に号令し始めるまでは考えてない。
そうでなかったらもっと早い時期に美濃方面への進出しようとしていたはず。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 12:58
>>302 考える云々の前に位置的に実行不可能に近い
上洛は天下取りというよりむしろ信長潰しと考えるべき
ヽ(`Д´)ノウワァァァン!!ムシすんなー
>>302 そもそも武田が本気で上洛すると思っていたら大間違いじゃないのかな。
信長包囲網の一翼としての限定的攻勢と考えるのが普通じゃないのか?
信玄は上洛はしたかったんじゃん?
将軍家・三好、六角の残党・浅井・朝倉・本願寺・毛利・加賀、紀伊門徒衆と信長包囲網作ってたし。
年齢と越後の戦闘マニアと地の利の悪さのせいで無理だったけど。
限定攻勢ならわざわざ東海路を信玄自ら出馬せんでも
東美濃から侵食してりゃよかったんじゃ?
信玄遠征中に死ぬくらい重病だったわけだしさ
>>303=312
だって政宗は勝ってたけど負けも多いからなぁ
一番惜しまれるのはやはり生まれるのが遅すぎたことかな
東海道でも裏東海道でも途中で織田の支城ピケットラインに引っ掛かる訳だが・・・
徳川撃破したからって2万5千で上洛戦ちょっと無理ぽ。
賢明な信玄がその程度の事は理解していたはず、いずれは引き返すつもりだったんじゃないのか
信玄その他が上洛を目指してないってのは、
義輝が殺され、信長が義昭を担ぐまでは、無理してまで上洛しないほうが良いって
思われてたって事じゃないかな。
義輝が三好を制限しようとしたように、行動を制限されると嫌だし、
あくまで将軍は将軍だから、粗略にもしてはいけない筈だって事で。
で、義輝が殺されたり、義昭がかなり利用されてるのを見て、
こんちくしょーそれでもいいんか俺にも将軍よこせー
って感じになったんじゃないかな。
伊達政宗の頃は、家臣が「上洛して天下を取り」と普通に考えてるくらいだから、突飛でもなくなってそうだし。
>>317 信長や信玄だって若いときはたくさん負けてたよ
そんなのをひっくるめて
信長がやるまで、誰も積極的に上洛を考えなかった
と言われてるんだと思う
2万5000たって、諸豪族が参陣してくるでしょ。
浅井・朝倉・願証寺勢等、同盟軍も合流するし。
信長の上洛はコロンブスの卵って奴
謙信だって関東管領に就任してちょと満足ぢゃ!
要するに伝統的戦国大名は半独立国家の構築ができればそれで良し!と考えていたんじゃないか?
あくまでも、あわよくばってのはあっただろうけどさ。
ん?大内義興上洛してただろ?
上洛の内容が違うと思うよ?
326 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 17:38
前から思ってたんだけど、
謙信が越後から加賀の敵地を通っての上洛って凄くない?
大内やら三好らの上洛は、あくまでお手伝いと幕府内での発言力強化でしょ
ちょっとでもきついこというと将軍ってば逃げたり反抗したりするし
信長みたいに「命令は俺が認めたものだけな」ってまで束縛できるなら、
長慶は既に義輝を殺してる
信長が包囲網の中で動けない間に
遠江・三河をなんとかしたかったのでは。
上洛するにも、信長と対決するにも徳川の戦力は
無視できないはずだから、織田徳川の連絡線を
切り、立ち枯れにさせて徳川をつぶすというのが
目的だったと思います。
でも信玄達は上洛して権力握りたかったんじゃないの?
天下を取る為というよりゃ自分の思い通りに政治を牛耳ってみたいって感じなんじゃ?
信玄は同じ源氏だから征夷大将軍になれると思ってたんじゃないの?
よく知らないけど
徳川潰したかったんなら三方ヶ原の際に浜松取ってたんじゃない?
>>329 権力は握りたいだろうさ
だけど将軍家も簡単には譲らないし、
それも当然だと思われてた時代でしょ。
松永みたいに堂々と将軍を殺したりは出来ないと思うよ。
信長だってそこまで出来なかった。
信玄なら
将軍「副将軍になって俺を支えてくれ〜」
信玄「がんばりまっす!謙信黙らせてつかーさい」
って程度でしょ
枝葉の城なぞ放っておいてさっさと家康の本城叩き潰してたと思われ。
野田城でもたもたしてなくてもよかったでしょ。
家康おびき寄せの可能性は低いと思うけどね。
徳川は、暫く信長が出てこないなら武田川に寝返るとも思われてたんじゃない?
重臣どもにプッシュすれば良いし
>>330 時間こそ信玄の敵だったと思うよ、徳川は当初は篭城案を決め込んでいたのだから
武田軍としては安全な連絡線の確保と篭城戦による時間の浪費を考えて、あえて野戦に引きずり出したんじゃないのかな?
>>322 それでも微妙かと
農兵が多い為秋には遠い領地に返さねばならず往復に消費する時間もかかる
ましてや時間稼ぎの籠城作戦を取られればそこで時間を喰うし状況からそうなる可能性が強いだろう
普通なら距離からみて無理と判断し上洛の前に
信長攻撃の名目で家康領と美濃または尾張を侵略する
上洛を目的と考えるより信長潰し自勢力の伸長という方が自然では
>>331 うーむ・・・。
まぁ、確かに地に落ちたと言えども将軍は将軍。まだまだ権威あっただろーけど。。。
武田だって別に徳川に恨みつらみがあるわけじゃないし、
寝返ってくれたほうが一番だろうしね。
徳川だって織田が援軍を出さないまま黙ったら、寝返りも非難されないだろうし。
囲んでほっときゃ、酒井あたりが家康の首を持ってきてくれるかも
>>334 三方が原の直後に攻めれば短時日で落ちたんじゃないか?
>>335 自勢力の伸長が目的ならやっぱり浜松取ってたって。
あそこ取れば三河と遠江を遮断できるし。
酒井忠次は徳川四天王だしそりゃねえだろ
浜松落として家康の首を挙げれば徳川家あぼーんじゃん。
信康まだ若かったし。
>>338 確かに
しかし上洛目的は無理がある
とすれば上洛の前準備のようなものだったのかも
徳川が降伏さえすれば織田家は孤立無援
そこから切り崩すつもりか
前準備にしては三河まで侵攻していくなんて頑張りすぎじゃん?
>>339 徳川はもともと結束高くないでしょ。
何代も続けて家臣に殺されたり、勢力も酒井も松平と同等以上だった。
駿府時代も三河代理統治の大物で、
家康独立後も「上様(家康)か忠尚様(酒井)かというほどの威勢」(三河物語)
ちなみに忠尚は三河一向一揆のトップにもなり、帰参後もまた兵を挙げたりしてる(その後は逃亡)。
それでも滅亡などさせられない酒井家。
家康があくまで織田につこうとし、家臣団が武田になびいたら、
家康の首を取るのは酒井家の役目だと思うよ。
344 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:06
>>338 >自勢力の伸長が目的ならやっぱり浜松取ってたって。
>あそこ取れば三河と遠江を遮断できるし。
三方ヶ原の合戦には本来は岡崎城を守り西三河衆を率いる石川数正も
吉田城を守り東三河衆を率いる酒井忠次も参加していた。
つまり徳川の主力の全てが浜松に集結していた。
この状態で三河に進めば三河は比較的容易に落とせるわけだ。
主力を東に集めさせておいて西三河を落とすのが目的だっただろう。
そうすれば浜松なんぞは自落する。せざるを得ない。
なぜなら、ほとんどの武将の本貫地が西三河にあるから。
結局徳川が敗走して混乱状態の軍勢の再編に取り組んでいるうちに
岐阜あたりに侵攻するぞと姿勢を見せて他の戦線の圧力を軽減したかったんじゃないかな。
信長が倒れてしまえば、東海は切り取り放題だしね。
346 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:08
今川 上杉 北条 斉藤
に囲まれてりゃ天下狙う気もおきんでしょう
もし上洛目指したとしたら
今川攻略あたりかな
>>343 そうなのか。知らんかった。
結束固いイメージあったからな。
>>344 確かに参加してたけど戦争後に元に戻してなかったけ?<酒井とか
信康や平岩は岡崎にいたし。
勝利に乗じて城攻めは定石だったんじゃない?
例えちょっと手こずったとしても主将を討ち取れれば
あとは雪崩を打って降伏してきたと思うけどな。
>>346 織田家も斉藤・今川・北畠と囲まれてさらに内部にも敵がいたけどな。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:17
うーむ。。。
野田城を囲むメリットは何だったんだろうね?
他の戦線の圧力軽減のため?
でも家康が立ち直る時間的余裕を与えちゃうよね。
>>349 ?何がないの?
北畠は伊勢の名家じゃん。
信長の3男を養子入りさせるくらいに。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:22
>>351 せいぜい南伊勢では大勢力という程度の北畠が、どうやって織田に
睨みを利かせるんだ。北伊勢すらまとめられていないのに。
名家名門であることとは別問題じゃて。
353 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:26
牽制にはなるんじゃない?
355 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:26
>>350 長篠(もしくは古宮)から戦略ラインを南に伸ばすため。
補給を容易ならしめるのみならず、吉田と岡崎を分断できる。
信玄が野田城を囲んでいる間、家康は吉田城までは出てきたが、
それ以上は何もできなかった。
野田攻略後は岡崎だっただろう・・・
>>353 一族から総スカン喰らってたし
林佐渡・美作、佐久間、柴田ら重臣連中からも疎まれてたじゃん。
357 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:29
佐久間は一貫して信長派。
「一族」で敵対したのは信勝だけ。
織田信清
織田家として信友
なんか内容が「2万5千で上洛できるかよ」スレと化してるな。
んだんだ
(* ̄- ̄)ふ〜ん 佐久間信盛が一貫して信長支持って初めてしったよ。
>>361 さすがにスレタイだけじゃ話題が・・・
364 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:40
つか、信玄スレですか?ここは
信玄厨は氏んでください
少しばかり頭を冷やすために一休さん
>>338 三方が原で勝利しても夕方ごろから
始まった戦闘で決着がついたのが夜。
地理が不案内な侵攻軍にとって夜間追撃
は戦果が拡大できなく、谷や川に落ち、
少なからず損害を出している。
(援軍に来た織田勢も平手汎秀が道を失って
討ち取られている)
だから少なくとも5000以上の兵はまだ浜松に
残っている現状で信長の出陣を煽るような、
またかなりの出血を覚悟しなければならない
城攻めを選択する余地はあっただろうか?
あと城兵に降伏や裏切りを誘う場合、
すでに切り取ってから領地の安堵を約束するのと
空手形で離反を誘うのではどちらのほうが
効果的かということも一考するべきでしょう。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:48
信玄振ったのは
信ちゃん厨でしょ
信ちゃんの偉大さを示すために
天下狙えたのは秀吉のおかけで信ちゃん
ただの性格悪いオッサンでFA
フリーエージェント禁止
信ちゃんって誰?
真里谷信保でいいの?
いや、長坂信政かな
信玄も人の子
ボケちゃったんです
一気に糞スレ
373 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 19:12
今川も上杉も武田も大内義興タイプの上洛にすぎなかったと思われ。
あくまで幕府の中で権勢を延ばしたいにすぎかった。
ちなみに信長もそんなに大差なかった。
足利義昭を追放したという話しも嘘で義昭から出ていった。
374 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 19:14
>373
出てったというか逃げてったというか。
いたたまれなくなった
いてもたっても居られなくなった
掘られそうになった
むしろ掘られた
379 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 21:55
むしろ掘った
モウダメポ
381 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:00
クソスレにはウジが沸く。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:05
槙島城で降伏した義昭は、枇杷荘に向かう途中、落武者狩りに遭い身ぐるみを剥がされ、
金品を奪われ、「貧乏公方!!」と罵られたそうな。
>>382 身ぐるみ剥いで金品奪っときながら「貧乏公方」と罵るのはこれ如何に?
384 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:30
持ち物が少なかったんじゃないの?
>>373 >足利義昭を追放したという話しも嘘で義昭から出ていった。
ソースは?
確か歴史群像にそう書いてあったけどまさかアレじゃあないよね?
信長は尾張守とか美濃守になってるの?
387 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:01
義昭を若江城に送ったのは信長。護衛したのは秀吉だな。
護衛がついていたのに襲われて身ぐるみはがされたとは変な話だw
信長にしてみればこれで将軍という手駒を京都という政治の中枢からは
遠ざけつつも、自分の目の届くところに閉じ込めたという思いであった。
だが義昭は信長の監視をすり抜けて紀伊へと移ってしまった。
そしてさらには鞘へと。しかも将軍の地位を保ち幕府の要員を引き連れて。
従って「将軍・義昭を京都から追放したのは信長だが、その後義昭は
自分から信長の下を出て行った」というのが正しい。
室町時代には将軍が敵対勢力に追われて京都を離れ、別な勢力の力を
借りてまた京都に戻るなんてのはざらだったからね。
義昭にしてみれば、もう一度そうしようとしただけのこと。
かつて義昭も信長の力を借りて三好を追い出したように、毛利と本願寺の
力を借りて京都に返り咲こうとしたわけだ。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:03
>387
秀吉ってほんと何でもやってるよな
しかし将軍職に就けたまま解き放つってのも、よーやるなぁ
将軍職をど根性で奪うということは出来なかったのだろうか・・・
奪うって、剥奪ね。
その後はしらん
391 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:05
将軍職は朝廷が任ずるから、だめなんじゃないの
392 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:06
>>387 だから・・・「枇杷荘に向かう途中」と言ってるだろが。
それに懲りて義昭が信長に頼み、秀吉を護衛につけて若江城に
向かったんだよ。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:07
>>391 つーか唯一に近い朝廷の権限でしょ、それって。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:08
出てけと言われた人物に頭下げて頼む将軍萌え
395 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:09
>>389 将軍のまま若江城でおとなしくしていてくれれば、信長の目論見通り。
ところが、逃げられたw
逃げられた後で罷免できないのか、つーと・・・
義輝だとか義教みたいに殺された奴を除くと、地方に逃げた歴代将軍を
罷免できた例ってのは無いんじゃないかね・・・
信長なら朝廷に圧力かけて前例を覆すことはできただろうが、
それをやっても意味が無いと思ったんだろう。自分の評判が落ちるだけで。
>>388 木綿ですから
光秀もそんなタイプだけど、そういうのがストレスとなって
本能寺につながった一因かね
397 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:10
なのに織田の領内を出た途端、信長を倒す算段を目論むんだから・・・
398 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:14
>>392 どうでもいいが、枇杷荘ではなく枇杷庄な。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:15
>398
安アパートが目に浮かんでそれはそれで趣があった。
これは失敬
401 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:18
信長って、将軍宣下の打診受けたとき、鼻で笑って取り合わなかったような
記述が信長公記になかったっけ?
関白宣下だっけ?
402 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:28
義昭の行動をまとめてみた。
1573年7月18日
槙島城陥落、義昭、枇杷庄に逃げる。
『兼見卿記』によれば道中で一揆の略奪にあったらしい。
同日若しくは翌日には、信長は義尋を人質に取り、秀吉を護衛(もしくは監視)
につけて若江城に送らせた。(『信長公記』『
7月24日
義昭、密かに毛利家に支援を要請。京都を追い出されたばかりなのに
もうやる気まんまんである。
11月5日
義昭、さりげなく堺に移動。
11月9日
義昭、堺を出発、紀伊に移る。信長、義昭に逃げられる。
11月16日
三好義継、義昭を逃がした罪で佐久間信盛に攻撃されて自刃。
1574年3月20日
義昭、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の和睦を斡旋しようとする。
4月14日
島津義久にも書状を書く。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:34
義昭に乗せられちゃう毛利もね・・・
404 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:35
毛利はいつだって歴史上の重大な選択に関わるくせに貧乏くじを引いている。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:36
貧乏公方に貧乏くじ・・・
毛利は最初は乗り気なくて、離れた場所に放置してたんじゃなかったっけ。
でも織田と対立深まって、そのぶん義昭にも優しくなっていったとか
407 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:38
鞆かどっかに屋敷を与えてとりあえず放置・・・だっけ?
>>402 >11月16日
>三好義継、義昭を逃がした罪で佐久間信盛に攻撃されて自刃。
義昭のとばっちりで殺されたのかよ。
哀れすぎんぞ。
409 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:39
『甲陽軍鑑末書』によれば、武田信玄の政権構想では、義昭は
石山本願寺に監禁しておくことになっていた。そして信玄自身は
執権として政治を執る。
義昭が死ぬか引退した後ならば、あらためて堂々と武田家の後継者が
将軍になることができる。
だが現職将軍を罷免したり殺したりするのは、どうやら難しいらしい。
たぶん、信長も同じ様なことを考えたんだと思う。
京都には置いておけない、だけど近場に閉じ込めておけばコントロールは
容易い。そして然るべき時(義昭が死ぬ時、もしくは自分から引退する時)
が来たなら、信忠あたりを将軍にしてやろうと。
史実では義昭は、秀吉が関白に就いてから3年後に自ら引退した。
信長が義昭を若江城に閉じ込めたまま天下を取っていたら、
さてどうなっていたであろうか・・・
410 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:39
>>408 やっぱ預けられたのに逃がしちゃマズイでしょうな・・・
411 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:40
とりあえず嗣子を断って無嗣断絶に追い込む、に一票
>>409 義昭は最後まで将軍だったんじゃないの?
義昭専用サイトにそう書いてあったのだが。
>>408 まあ、義昭の兄貴で将軍をぶっ殺してるから因果というべきか
414 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:45
>>412 いや、将軍位を返上して隠居して(させられ?)いるぞ。
415 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:46
>>412 「公卿補任」によれば、将軍として書かれているのは1588年までで、
1589年の分には出家して辞職したとあるよ。
416 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:50
准三后というから、それなりの名誉は与えられていたわけだが・・・
死後、その所領は収公され、嫡男・高山が還俗して相続を願い出たけど
果たせなかった。
んーよくわからんが、そうなのか?
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiy9889/top.html 天正16(1588)年1月13日、義昭は出家して昌山と称します。
この日、秀吉とともに内裏に参内した昌山は、准三后の待遇を与えられました。
関白となった秀吉は、昌山に儀典官のような役割を期待していたようです。
昌山の新しい住居は大坂にありましたが、私邸として、
かつて信長に対して挙兵した槇島城を使用していました。
文禄元(1592年)昌山は秀吉の肥前名護屋出陣に従軍しました。
いまだ「征夷大将軍」の称号を棄てていない昌山にしてみれば、武家の棟梁として、 ←ココ
国を挙げての外征に参加するのは当然という気持ちだったのかも知れません。
慶長2(1597)年8月28日、昌山は腫れ物を病んで、
大阪で死去しました(『細川家記』では鞆滞在中と記されている)。
葬儀は足利家の菩提寺である等持院で、
槇木島昭光をはじめとする家臣達によって行われました。
もしかして本人は捨てると宣言してないけど、
事実上もうだめぽって周りから烙印押されたって事かな?
419 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:54
しかし、棺桶職人に悉く棺桶作りを断られたらしいな
>>417-418 公卿補任よりも信頼できるソースがあるなら、義昭が死ぬまで将軍だった
ことにしてもいいよw
だって義昭くんがそう言ってたんだもん
・・・・その話はもうやめよう・・・・
うぃうぃ、話の腰を折ってスマンカッタ
424 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 00:12
身の程知らずだが野望家で陰謀家の義昭タン萌え〜
425 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 00:31
しかし、ググッてみると「1573年室町幕府滅亡」説ってホント多いな。
京都を追われたくらいで滅亡してたら、室町幕府なんて何度滅亡した
ことやら・・・
では美濃に七年を引き続き語りませう、、、、
それ以前は京を追われても戻れたからで、
二度と戻れなかった義昭はLast Of Asikaga Shogun
になってしまうのは致し方ないことかと
429 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 00:43
>>428 まあそれも結果論だよね。
当時の感覚で言えば、「ああ、またか」ってな感じで(笑)
「まだ帰って来ないけど大丈夫かねえ?」くらいのモンでしょ
現実に朝廷は何もアクションを取っていないわけで。
>>430 そう言われると納得。
徳川が新田を名乗る意味も分かりやすいな。
>>432 織田って凄くないようだけどやっぱり凄いし
まぁ秀吉も凄いわけで
手取川は負けともいえないようだし
そもそも信長は殲滅作戦で時間かかってるのだが
そう考えると義龍って凄い
信玄は強いけど旧型で
輿に乗って上から指図し
正宗も凄いけど
三方が原って微妙だし
義昭もねばってるよな
七年の謎が少しずつ確実に解き明かされつつあるスレだな
俺の意見じゃなくて、このスレどこまで進んできたかの概略な
439 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 01:29
>>438 そこだけつなげて読むな
縦につなげると織田の信輿くんが隠れてるんだぞ
すごいだろー
443 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 01:37
なんか変な方向に動き出したね・・・
スレタイが限定すぎるしな
445 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 02:14
信輿じゃなくて信興だろ?
Σ(゚д゚lll)
447 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 03:26
(;´Д`)<腰を振ってるの蘭丸に
448 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 03:59
信長は美濃をとるのに7年(義龍との戦いも含めりゃもっと長い)
信玄は信濃をとるのに10年(その後謙信と泥沼の抗争を10年TT)
なぜそんなにかかったのかと言えば、短時間に押し切れるほどに
力の差が無かったからということに尽きる。
ということでこのスレはほぼ終了なのでは・・・・
449 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 10:24
>>409 そんな胡散臭い資料出されてもね。
現代の説では信玄の最後の遠征すら何を目的としたものか確定してないのにさ・・・
>>449 別に信玄の政権構想を語るためのスレではないはずで・・・
当時の人間の考え方として、現職将軍を罷免するという発想が
なかなか難しいという事を言いたかったのであって、だな。
まあ信長と対決姿勢を打ち出した以上、最後の遠征はさて置いても
長期的にはやはり政権構想を持っていたと思うがね・・・
まああと『甲陽軍鑑末書』を単純に胡散臭いと断じているのも
どうかとは思うがね・・・
451 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 10:41
おふぁよう七年スレ!
美濃攻略は具体的にはどんな感じだったんだろう
秀吉よりの話とかだと、墨俣一夜城とか、竹中や美濃三人衆諜略など
すべて秀吉の手柄みたいに描かれてるけど
実際にも稲葉山城だけ孤立した状態になったんだろうか?
>>451 墨俣一夜城=95%嘘なので論じない。
竹中半兵衛=美濃衆のうち、秀吉が寝返らせた者は、そのまま秀吉の
与力に付けられていた形跡がある。逆算して竹中半兵衛もそうだろう。
美濃三人衆=こちらはその後信長に属している。よって何とも言えない。
だが何でもかんでも一人の手柄というこた、無いよな・・・普通・・・
>実際にも稲葉山城だけ孤立した状態になったんだろうか?
斎藤家で最有力の家臣である美濃三人衆がまとめて寝返ったため、
他の連中も斎藤家に愛想を尽かした。そういう意味では、最後は孤立した。
だがその直前までは、ほとんど変わらぬ勢力を保ったと言ってよい。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 11:17
海外の連中とのつながりは?
454 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 11:28
>>198 変態仮面キターーーーーーーーーーーーーー
455 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 11:33
>斎藤家で最有力の家臣である美濃三人衆がまとめて寝返ったため、
>他の連中も斎藤家に愛想を尽かした。そういう意味では、最後は孤立した。
>だがその直前までは、ほとんど変わらぬ勢力を保ったと言ってよい。
この状況だと七年が長いとか短いとか全然言えないんだね
尾張衆には支城を落とす武力も無かったってことだよね
墨俣一夜城
1 もともと墨俣に城砦がありそこを一日で落とした。
2 実際に城を作った。
2-1 なぜ作ってるときに見つからなかったのか?
2-1-1 土地のものを手なずけているため通報が遅れた。
2-1-2 周辺豪族が寝返り、見てみぬ振りをした。
2-1-2 上手く偽装した。
2-2 完成までにだまし続けられるものか?
2-2-1 測量や縄張りをあらかじめしておき、杭等を入れる穴を
作っておく。
2-2-2 尾張より(建物や柵などの)組み立てキットを運び、墨俣で
組み立てる。
2-3 他勢力を使い墨俣から関心をはずし、その間に作った。
3 野戦陣地をそのまま強化拡大していった。
森部の戦いより墨俣が信長の勢力範囲になっていることや
墨俣の二辺が川によって自然の堀となっているためかなり
地形的に防御力が高かったと事をあわせて、もともとあった
陣地を強化したと思われます。
前野家の古文書からは昼間は馬柵で斉藤家の攻撃をしのぎ
夜のうちに資材を組み立てたとあります。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 12:05
城といっても石垣は無い、掘っ立て小屋
というのが深層海洋水
459 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 12:14
要は戦略拠点だよね。砦って表現も多いと思うけど
いつの間にか一夜城っていう呼称になったよね。
その方が聞こえがいいからだろうけどね。
大方江戸期の講釈士が・・・
>>456 前野家文書は、触れるだけで論理の信用性を低くする。
無名の秀吉を出世させるには
それなりの手柄があったと見る
463 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 13:35
>>450 政権構想?
もってなかったろ。
大内義興タイプの上洛か
せいぜい、室町将軍家を第二の朝廷として担ぎ、
朝倉、浅井、本願寺などとの合議政権ってとこか。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 13:41
>>450 信長ですらああなので、
武田とか上杉みたいな考え方の古い室町幕府の権威にかしこまってしまうような連中には
自分の家が将軍家になるなんて考えはなかったでしょう。
ただ、足利将軍家を第二の朝廷のような形式的なものにして自分が実権を握るくらいならありえるかも。
美濃三人衆はなんで寝返ったんだ
基本的には、信長が尾張を平定し、東美濃を制圧したから。
それに加えて、龍興のだらしなさと信長の誘降工作などもあるだろね。
467 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 14:41
美濃三人衆にも家臣はいるし養っていかなきゃならないし、
何より、仕えている家によって自分の命さえ危うくなるしね。
武家の倫理とか忠義っていうのは、江戸時代初期に出来たものであって、
戦国まっただ中の時代では、主家退転したからって不義だの不忠だのは
いわれなかった(そりゃ裏切られた方は泣き言言うだろけど)
実際問題、大多数の合戦では開戦前に調略が終わっていて、
さほど死者もでなかったと思われるよ。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 15:56
君主の器でないと見捨てられるんだね
馬鹿ノ介はバカだなぁ〜
469 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 16:28
器じゃないのに跡取りに生まれた人も可哀想だろう。
織田信雄はバカ呼ばわりされることが多いが、没落して小大名に
なってからの彼は、いい治世をして慕われていたらしい。
信雄をのぶおを読むとバカさ倍増
>>469 信長の死後に織田の関係者が軒並み殺された現状を見ると、
小大名として家をちゃんと残した信雄は優秀だろう。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 16:45
織田信長って、ラッキー珍右大臣だろ。
1572年の時点では、どう見ても
武田=後北条=上杉>織田>徳川>羽柴
武田信玄の信長包囲網で、織田は滅亡寸前だったけど、
武田信玄が早死にしちゃったから、ラッキーで生き残っただけ。
領地が京に近かった上に、天敵の武田信玄が早死にしちゃったから、
ラッキーで領土を500万石まで増やし右大臣になる事ができた。
ついてる奴には、かなわないな。(ワラ
473 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 16:47
実力で言う、真の戦国最強は、武田と、その武田と互角に戦った後北条・上杉。
逆にラッキーで天下統一ができた戦国珍トリオが、織田・豊臣・徳川。
(織田は完全に天下統一はしていない。
これだけ好条件がそろっても、なかなか天下統一をできない事から、その力量がわかる。)
織田→領地が京に近かった上に、天敵の武田信玄が早死にしちゃったから、
ラッキーで領土を500万石まで増やし右大臣になる事ができた。
ラッキーで右大臣になれたから、ラッキー珍右大臣。
豊臣→織田の家臣の明智光秀が本能寺の変で織田信長を暗殺した為、
その後、織田信長が築きあげた勢力図をそのまま、そっくり横取りし、
ラッキーで天下統一と、関白・太閤への就任ができた。
ラッキーで太閤になれたから、ラッキー珍太閤。
徳川→史実では、たまたま後北条(推定250万石)が豊臣に臣従しないで、領地没収になっちゃったから、
ラッキーで後々、将軍になれただけ。
後北条が残っていれば、徳川は将軍には、なれなかっただろう。
ラッキーで将軍になれたから、ラッキー珍将軍。
※競馬でラッキーでGTを勝ちまくった馬の事を、ラッキー珍馬と言う。
つまんね
475 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 17:14
>471
いやな見方をすれば、あふぉだから生かしておいても大丈夫だと思われただけかモナ
のぶおをバカにするな
半兵衛の乗っ取りってのは本当にあったのかね。あれの実状が案外重要だったりして。
実は結構な規模の内乱だったとか。
472=473
君に学問はいらない、良かったね
もしまだ学校とかに通っているのなら今すぐ辞めるべきだ
教えられることは君にとって益にならず時間の無駄になるからだ
479 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 17:23
そや、そや
で、
なぜ、のぶお(wは明智と戦わなかったのか
>>479 準備して出て行ったら、もう終わってたんじゃないか
>>477 まぁ家臣にションベン引っ掛けるような君主にはついていこうとは思わん罠。
482 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 17:37
>>478 さっそく、織田厨が食いついてきたな。(ワラ
織田・豊臣・徳川が、武田・後北条・上杉より、力では一枚も二枚も下だったのは明白。
前者が天下統一をする事ができたのは運が良かったから。
これを見抜けない奴は、凡人。
>>481 家臣にションベンひっかけたとかは、主君の寵臣の誰々って話じゃねーか?
スルーよろ
485 :
諸葛亮孔明:03/11/17 17:44
竹中半兵衛は十七人で城を乗っ取ったことは事実です。
半兵衛は凄い器量ですね!小泉がそのぐらいの能力をほっていたら・・・。
十七人は半兵衛の手のものの最初の侵入者で
制圧は叔父さんの兵とか借りたんじゃなかったかな
487 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 17:52
>>471 織田の関係者がほとんど殺されただあ?
信忠、勝長、信孝だけじゃん。
あ、津田信澄もいたがこいつは信孝が殺したんだし。
>>485 軍略と政治力は違うだろ
>>482 運も実力のうち
結局滅ぼされた武田勝頼・北条氏政は負け組み。
大体氏政なんて一発変換できねえし。
勝頼
忠信
秀頼
ウジマサ
ウジサネ
・・・・・
忠信は信忠な
しかしよく出てくるなぁ
うじ関係は出てこないのかな
氏康は出るが・・。
直江過熱グ
494 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 18:28
のぶおワラタ
運以外にも勝つための努力はしてるはずだし
努力しなかったものは脇役に成り下がるしかない
そしてその努力を語らずに運の一言で済まそうと
するのは説得力がないし、よほどの怠け者。
さぁ皆さんこの時代の武将たちがどんな努力をしたのか
聞かせてください。
496 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 18:32
織田一門スレより
>46 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:03/10/31 04:50
>
>普通じゃない人というのは例えば?
>信雄の末裔はどっかの会社の会社員やってるって書いてあるのを見たことがあるが。
>ただし信雄の嫡流(柏原藩主)じゃなく信雄の三男の天童藩主の末裔だが
あぶない、あぶない、
希代の英傑のぶお(wさまを馬鹿にすると名誉棄損でたいーほされちゃうぞ
信雄は、のぶおでも、のぶかつでも出るな。
のぶおは一昔まで普通に使われてきただろ。
最近はのぶかつって一本化されたんか?
聞こうとするだけのアナタもよほどの怠け者。
>新人物往来社の『戦国人物事典』だと「のぶお(のぶかつ)」
だってさ。
その後は知らん
500 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 18:37
>495
はい!先生
信長公は子作りに努力されました
501 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 19:18
>499
まじすか、漏れの脳内では10数年ノブカツで固定されてたから新鮮な驚きだ
>>482 実 力 が あ っ て も 発 揮 出 来 ず に 死 ん で し ま え ば 周 り は 誰 も 認 め ま せ ん
運も実力の内 どうだろうと結果を出せなければ駄目ぽ
ましてや戦国の時代だし
「本当は何々出来る力がありました」なんて情ない話は通用しない
>>501 でもノブカツが一般的じゃない?
俺はノブカツで行くぜ
かこうじゅんとかこうとんみたいなものか
505 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 19:35
俺は今日から「ノブオ」と奴の事を呼ぶぜ
ノブオって書くと漫画ドラゴンヘッドの奴を思い出す
マジな話、どちらも呼ばれる。
当時の手紙とかで仮名で表記したものは無いのかな?
それとも仮名の表記も両方あったとか
昔の人って名前に愛着あったのかな
なにかあるとすぐ名前変えるし
信長が秀吉に宛てた手紙は秀吉が読めるように全文仮名で書いたって聞いたが。
滝川一益もかずますorいちますなのかー!!
513 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 20:11
信長って繊細だよね
>>510 何気にいい話だな・・・
>>512 それは かずます だろ
いちなら いちえき とか いちやく としないと
音訓という点で変になるんじゃないか?
金子信雄
516 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 20:46
>510
それは秀吉宛じゃなくて秀吉妻おね(ねね)宛ではなかろうか
517 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 20:50
>>516 寧々に書いたという手紙は情愛に満ちていてなかなか良いよな。信長の意外な一面を
感じさせる。
>>514 >それは かずます だろ
なんでもその議論だけでスレの一つや二つ潰せるらしいぞ。
よく知らないけど。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 21:30
昔の人の名前の正しい読み方は、誤記されてる史料を見るのが参考になるらしいね。
2chでわざと誤変換してるのも後世の歴史家にとって貴重な史料になるのやもしれん。
ンとソを間違う人が多かったと思われたら嫌ずら
いまの時代についての古文書はHDDになるのだろうか
未来の学者A「過去の人たちはウィンドウズなるOSを使用していた」
未来の学者B「きっと忍耐強かったと思います、あんな不安定なものを
使い続けていたなんて」
>>464 あまりに根拠の無い自信が素晴らしいな。
530 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 09:29
信長が本拠地を次々移動していったってのは、
同時代の他の大名には見られないんじゃないかな?
名護屋→清洲→蟹江?→岐阜→安土→・・・
例えば今川義元も本気で上洛を志すならいつまでも駿府にいないで
浜松あたりに本拠地を移動したほうが良かったのではないだろうか
蟹江って小牧山?
532 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 09:56
>531
sore
>>530 馬廻が領土尾張のまんまで単身赴任して怒られたのも有名な話。
身代の小さい馬廻にゃ代官雇う余裕も無いのに。
信長は直轄地の中で好きな場所に城を建てたというだけの話だ・・・
別に好きな土地に城を移していくだけじゃないだろ。
動員・集合場所・政庁などという役割を考えても、真ん中あたりがよい。
真ん中じゃなくても、より便利なところがよい。
そういう意味では今川も前進させても良いだろうし。
ま、他に適地というのもあまり見つからないが。
>>530、543
今じゃ
桶狭間は義元が上落をもくろんだものではないって説の方が有力だし
今川、武田にしろ中核戦力が出身地の在地領主なのでそう簡単に本拠を移すわけにはいかん
戦国大名といえども配下に対して独裁的な無制限の権力を振るうことができたわけではないので
土地に根を張った部下を残して自分だけよそへ移れないし
部下に土地の移住を簡単に促すこともできない。
特に今川、武田は戦国の混乱期を守護という立場から土豪をまとめているからなおさら
536 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 11:47
>桶狭間は義元が上落をもくろんだものではないって説の方が有力だし
仮に尾張を制圧していたとしても、相変わらず駿府に帰ったような気がするんだよね
>戦国大名といえども配下に対して独裁的な無制限の権力を振るうことができたわけではないので
なるほどね、信長にそれが出来たのは下克上でのし上がった大名だからなのかな?
同じ下克上大名でも関東の北条家が北関東まで領域を広げても
小田原から動かなかった例もあるし、色々難しい面がありつつも移動していった
信長は評価していいと思うのだけど
537 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 12:35
毛利も島津も動かなかったな。
今川が上洛するとしても敵対勢力を駆逐しながら上洛していくのか
それともあらかじめ下地を作った上で上洛するのか。
大内氏の上洛を見ると存外自国に他国の軍勢が通ることは
許容の範囲だったんでしょうか
上洛あんま意味ないね
単に堺抑えたかっただけでしょ
メリットは朝廷を自国に持ってくる面倒がないだけ
540 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 14:06
>>539 ・・・・・・・・・・・・・・面倒どころの話じゃないだろ
>>536 古くからのしがらみがないこともさることながら
尾張という地域は河川交通をおさえて商業的に経済基盤が発達していたため
土地という農業に不可欠なものから観念的に自由だったという説もある
後北条氏の場合、
伊勢長氏時代は韮山が本拠でそっから小田原に移ったともいえるし
駿河支配者とたびたび手切れになっていることから小田原が前線から近い時のほうが多かったこと
小田原城以上の巨大城郭を北関東に設けていないことから開発技術が備わっていなかった
などが考えられ小田原に居座る合理性はあったと思われる
>>538 大内氏は前将軍を押し立てての上洛だからねぇ
建前上は公方様をお通しするという名目があった
つうか、今川や武田が上洛するつもりだったって話は何がソースなんだろう
543 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 14:47
>つうか、今川や武田が上洛するつもりだったって話は何がソースなんだろう
従来の一般的な説だからソースはいらんだろう。
上洛ではなく違う目的だったとする最近の説もそれはそれでいいし
>>543 いやいや、従来の一般的な説だから出所が気になるんですよね。
単なる推測なんでしょうかね
起請文とか日記、手紙にかいてあったんでないかい?
546 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 15:23
今川は以前あったスレからすれば一度失った熱田利権を奪い返しにいったと
見る人の方が多かったよね
桶狭間がもしなくて熱田利権と尾張へ影響力を確保した状態で義昭が頼って
来ていれば上洛もあっただろうが当時の状態では上洛する政治的意味もなし
上段で散々言われているが足利以外がたとえ一門衆であろうとも将軍職に
任じられるわけもないので京都までたどり着いてもスタンプラリーくらいしか
やることはなかったと思われ
547 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 15:23
地方企業が、いずれ東京本社を作りたいっていう
無邪気なあこがれに近いんじゃない?
正直当時は、日本は思うより狭かったよ。
武田や島津なんか日本中に飛び地持ってたし、
飛び地に引っ越すと家同士の関係は希薄になるようだけどね。
そういう感覚で考えると、上洛という行為自体はさほど特殊なものじゃないけど、
武門の棟梁が上洛するときには、通った地域を鎮撫しながら行くっていう
イメージがあるんだと思うけど、結局そのイメージがあるから
その土地その土地で戦になるんでさ。
548 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 15:30
上洛に関して言えばほんの数十年前まで当たり前のように軍勢率いて
畿内まで往来があったわけで
敵勢力をいかに畿内に入れないようにするかということで苦心した結果
戦国模様になったわけで
549 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 16:58
斎藤龍興って大体何歳くらいだったのかね?
親爺の義龍が早世っだったって事だとそうとう若かったのか
暗君と言うよりも単に未熟だっただけでは
う〜ん・・・上洛か〜確かに、難しい推理だな。
何か、みんなの意見を聞いてるととても勉強になるな!
まず、今川の軍勢が2万だか3万だか動員して尾張方面に
向かったのは事実だよネ!?
もし、従来の説の【上洛】が目的じゃないとすると・・・
なぜ、そんな大規模な軍勢を動員したのかな〜?
まさか、尾張平定の為?美濃平定の為??
何か今川スレみたいになってしまうけど非常に興味のある常呂だ・・
スマンが誰か教えてクレィ(´・ω・`)モキュモキュ
551 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 17:33
>>550 あの軍事行動単体での上洛はムリ というかありえないというのが旧今川スレ
での結論
ただし畿内に事ありとなった場合、尾張は押さえておかないと畿内の政変に
参加できないわけで、そういう意味での野心はあったと思われる。
洋泉社新書だかの「歴史if十番勝負」みたいなの本の中で、
「桶狭間に失敗してそのまま今川の傘下に加わった信長」
ってのがあったけど、このifだときっと信長のことだから、
今川上洛後はちょうど三好における松永のような動きをしそう。
553 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 18:05
>552
桶狭間に失敗していたら信長は生きていないよ。
今川がどうとかいう前に、家中の圧力でね。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 18:23
それはどうかわからんぞ、信長が敗戦ぐらいでおちおち死んでやるか?
>>554 当時の信長はまだそれほど有名では無い
むしろ、暗君とまでは言わないが、という評価だろう
その上国内内乱でかなり恨まれてる
家が滅亡したなら担ごうとする人間は少ないかと
今川からすれば織田家を組み入れる場合その時点で信長は追放するだろうし
まぁ所詮ifですんで適当に
「大内義興型上洛」とは、
なかなか絶妙な用語(概念)だと思う。
558 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 21:06
陸路で行ったのかな?
この前NHKの「そのとき歴史〜」の日野富子で大内やってたけど
カコ悪かった
官位剥奪されて国に戻れないから帰れなかったとかで
官位もらえたらさっさと帰ってやんの
>>558 室町時代の大名って、ろくなヤツがいないと思う。なんかみんなかっこ悪い。
後北条初代は?
>>560 その手の成り上がりの人には魅力的なのが多い。浅井亮政や朝倉孝景あたりもいいね。
かっこ悪いのは大勢力を誇ってたような連中。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 21:59
朝倉義景とか?
確かに成り上がりはカッコイイ奴多いな
信念持ってるみたいなのはなお良し
戦国時代が終わってみれば成り上がりだらけだったという
565 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 22:15
司馬遼太郎の小説でも
太閤記のようなサクセスストーリーのほうが関が原等より面白い。
太閤記は猿を美化しすぎで普通に反吐がでたけどな。
天下取るまではそれなりに良かったと思うが
568 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 22:26
>>565 それは単に大阪人司馬遼が秀吉を美化して関東の家康を貶めてるだけだろうが。アフォウ。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 22:38
それは司馬自身が認めてるし。
同時期の人気作品に山岡荘八の徳川家康もあったわけだし、いいんじゃないの?
バランスとれててさ。
アンチ秀吉とアンチ家康は余所でやっとくれよ
前に、アンチ秀吉とアンチ家康の醜い抗争をみて、アンチどもが嫌いになった
>>570 今更何言ってんだ?三戦が出来た頃からそうじゃないか?おまえ今まで何処にいた?
572 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 22:48
一番の人気者は氏真だけどな
歴史ネタは前の事よか今を見ろ
>>568 どっちかっつーと成り上がりに感情移入してるだけじゃないのか?
成り上がりモノは三戦とわず現代劇とかでも一定の人気あるしな。
いい加減スレチガイなのでやめるが。
575 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 12:38
もともと殆どすれ違いねただからな
スレタイに戻るが(w
美濃攻略当時の織田家の主要武将って誰だったんだろう
何は無くとも、五郎佐
権六
578 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 16:18
犬
580 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 17:47
猿
雉
吉備団子
583 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 18:34
鬼
雉が居ないなぁ
586 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 20:05
信長ってほとんどの戦いは相手方に比べ
比率で言うと3:1とか2:1といった
少数の兵で戦っているね。
この辺は戦に関して相手を見下してるか
よほどの自信があるのかな。
弱音を吐くようなキャラじゃないし、多分両方だろうな。
信玄からも戦上手と関心されているし。
587 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 20:16
尾張だけで50万石以上なんだから
出発地点で一歩リードしてるわけよ
.,. -─‐''ヘ
/:: -、 ヽ
( (:::) i
ヘ、.ノ 、 、 (::)`ノ
〈゙ >' -ー>、..,゙' /
/ / ー' , i´´
/ / / ノ ,!
//r' ,ノ" ノ
,:' ;.' / / ,-!―ヽ.
/ ' ノ ,ノ ''" )
! l゙ / . /
゙、,_ト!、|,! / ノ
,! ゙̄〉-‐r' ノ、
!、_,/ !、_,/
尾張の一部しか領有してなかったんだし
それに信秀が子供産みまくったせいで一族もやたらいたんだから
かなーり遣り繰り大変だったろ。
>>586 信長はほとんど大人数で少数の敵を攻めてたと思うけどな。
桶狭間は例外中の例外
592 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 21:49
>>586の補足
美農併合前の話ね
稲森や森部とか。
信長公記にも7〜8百でたびたび優勢の敵を
打ち崩したとある。
まぁ桶狭間に比べたら全然有名でない戦いの話だけど
そういうやり方をやめたから天下をとれたわけだが。
>>593 とすると ( ゚∀゚ )にも天下の可能性がある
595 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 23:55
596 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 00:04
>>588 いや、俺の乏しい知識では信秀は一人も子供を産んでいない筈だが…
597 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 00:23
>>596 つくった。まあそう細かいところをつっこむなよ。父親でも「産んだ」
の方がふさわしいかも知れない。
「お前は俺の産んだ子だ」の方が
「お前は俺のつくった子だ」より感動的だし。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 01:50
すっかり屁理屈ツッコミスレ
599 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 02:38
/⌒\
( )
| | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| |< お前は俺の産んだ子だ
( ・∀・) \_____________
) (
(__Y_)
>>588 六角攻めの前はほとんど少数で戦っている、大軍で圧倒するようになるのは
美濃併合以降。
それでも時折少数で戦うようなことをしている、信玄のほうがむしろ常に大軍を
率いている。
信長の場合上洛後の最初の正月、雪の中わずかな人数で京に救援に行ったり、
天王寺だかどこかで光秀が本願寺に囲まれたときも馬廻りだけで助けに行ったりしている。
両方とも光秀のためなのに何故に本能寺で裏切ったんだ?
あと73年の朝倉攻めでも先頭に立って攻め込んだりして、謙信に似たエピソードが多い。
>>600 繊細な男なんだよね信長
彼の下で働くのは大変そうだけどヤリガイはありそうだよね
602 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 04:08
>>601 常に危機感に駆られるような・・・まあ、どこの大名でも一緒か・・・
氏真の配下なんかはのんびりできそう
ただ失業しそうだけど
信玄なんか生涯かけて信濃とれなかったよな
さすがキモデブ
7年殺し
信玄はデブじゃないYO!
デブは政宗だブ〜
痛風が痛いブ〜
政宗って太ってたの?初耳なんだが
609 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 09:09
>>608 若いころは痩せていたが
晩年は外交や接待の宴会のための連日の美食で太ったうえ、
栄養の取りすぎのため様々な病気にむしばまれたという。
伊達政宗は晩年は天下を狙ってたなんて伝承もあるが、
実際の彼の晩年は伊達家存続のために奔走していたというのが真実。
いつぞやのNHKの「そして歴史は動いた」からの受け売りだけどね。
家康もブタっぽいよなブヒブヒ
三方が原のときは痩せてるみたいだが
うむむ・・・
ここは、みんな熱く語る良いスレですね
>>609 そりゃあ、彼の晩年と言えば家光の時代だからな。
あそこから天下狙えるわきゃない罠。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 10:07
>600
信長もそんな戦い方してて、よく弓鉄砲に当たって死ななかったな
よっぽど移動が速かったんだな(w
614 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 10:42
>>597 ただの揚げ足取りに、屁理屈にもなってない俺理論で返すお前って一体…
615 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 11:35
尾張より美濃の方が兵力も多く国も大きかった(石高)んだから当たり前
名将といわれた父親でさえ美濃には完敗してたわけだし。
1万の兵力で2万の兵力に勝つには時間はかかるだろう
普通は勝つことさえできないで野望は終了だからね
616 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 11:48
>>615 確か太閣検地では
尾張の石高は57万石
美濃は45万石だったと思うが(うろ覚え)。
豊かな濃尾平野を持つ尾張は非常に豊かな土地だ。
ただ、これはあくまで太閣検地時の時の石高だという事と
尾張統一がなかなか完成しなかった事も考慮すべきだが。
ゲームみたいに、一国一国が
どこも一枚岩じゃないんですよ
そそ!
619 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 12:37
>>616 ただの野原だった江戸が百万都市にに変ったこと思えば
信長の尾張統一から太閤検地までにかなりの人の流入は
あったのでは無いでしょうか。また検地で新ためて登録
される田畑もあるでしょうし、動員している兵力から
尾張統一時は20〜30万石位ではないでしょうか?
620 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 12:45
>>619 不思議なのは濃尾二国の領主にすぎなかった信長が何故上洛戦の時に三万とも言われる大軍を送れたかが不思議。
東西物流の拠点としての尾張
濃尾100万石なら5万人はいける。
そのうち2万が濃尾の守備でも、3万はいける。
たぶん。
たぶんってなんだよw
>>620 上洛して畿内周辺を征圧した後、義昭を置いてさっさと岐阜へ戻っているから
織田軍ほぼ全軍を投入していたのでは
濃尾2国を総動員すれば3万人はかせげるだろうし
石高を基本として兵数を類推すると
不思議になるけど、金で兵を整えた
とする理由だと納得できる。
通常家臣や国人豪族に対して石高に応じて
兵を割り当てるけど、傭兵をつかえば
一時的または恒久的に石高以上に兵数を
整えることが出来る。
示威のみの兵数でよければ、信長ならそこら辺の
流民などを兵に仕立てることぐらいしそうです。
>>624 上洛軍は信長ならではの技では
機動力に優れ高速で移動が可能だからこそ防備を薄くしてでも三万の大軍を出したのでは?
つか信長は美濃攻略時にも15000は出してるし、
美濃を取れば倍増しても別に不思議ではないかと
>>626 だろうな
この後浅井離反から浅井朝倉滅亡までの信長包囲下で延べ人数にしたら膨大な兵力をあっちこっちへ動かしているしな
>石高を基本として兵数を類推すると
>不思議になるけど、金で兵を整えた
>とする理由だと納得できる。
に同意。
それに信長だけじゃなくて浅井・徳川・北畠も援軍出してなかったっけ?
630 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 13:26
尾張1万5千
美濃1万
浅井・徳川・北伊勢 計5千
こんなもんでいかがでしょう
徳川は兵出したか?
美農は義龍と道三の戦いのとき
義達17000前後・道三2000前後だったな
633 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 13:46
634 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 13:47
>631
盟友の上洛だ、家康が守備の為に出られなくても誰か代理をいかせたろう
635 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 13:47
>>631 TENKA FUBU信長では出してたなあ。
野鳥の会がいれば正確な数(略
637 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 13:56
>633
50%offでも約1万だ(w
638 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 13:58
大体おまいら何万人っていう集団みたことないだろ?
思い出せ、学校の集会なんかのときにたかが数千人単位でもぱっと見わかんねーだろ
ぞろぞろ人があるいててこれ3万人ですっていえば3万人いるように見えるって
>>631 家康は出陣してないけど一族の松平信一を出してた筈
コミケに行けば何十万の大軍というのを目の当たりにできると聞いたぞ
>>638 僕は東京ドームで5万人の集団を見たことがあります。
本当に5万人かどうかは分からないけど…
642 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 15:26
桶狭間のときは2〜3千だったとすると
ものすごい膨張ぶりだな
有明冬の陣・夏の陣
645 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 16:11
>>638 コミケの入場前一般列で鍛えてある俺には分かるんだよ
648 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 17:00
ラッキーセブン狙ったんだろ?
649 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 17:02
おまいらそろそろ閑話休題ってことで、
650 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 18:18
信長の美濃侵攻は非常に手際の良さが目立つ
義龍の死亡は偶然にしても血縁もあるわけで大義名分も立つし、できれば子供
がいてその子に家督を。。。というのが理想だったがいないにもかかわらず
大部分が織田家に傾いたのはすばらしい手腕としか言いようがないね。
他国を侵略するなら内乱に乗じて、というのが見事に実践された例だね。
そもそも何万の兵ってのが昔流の誇張なんだろ?
数字を真に受けて、日本全国の人口を割り出すと、当時の世界全体の人口よりも
多くなってしまうんじゃなかったっけか?
652 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 18:35
>義龍の死亡は偶然にしても血縁もあるわけで大義名分も立つし、できれば子供
>がいてその子に家督を。。。というのが理想だったがいないにもかかわらず
すまぬ、この部分分かりづらい
義興が家をついで何度か信長と戦ったことは?
654 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 19:30
>>651 戦だけがすべてではないのね
情報合戦てのもあるわけよ
長篠とか武田がボロ負けになっているが
織田方の被害もかなりでかった
武田は有力家臣を失ったのは痛いが
世代交代のためには丁度良く
滅亡に繋がるほど打撃は無かったかもね
問題は
織田が最強武田騎馬隊を鉄砲で壊滅させた
と半デマ情報を全国にばら撒いて
織田軍の強さと武田の堕落を
強調して宣伝したが最大の決め手
情報網は乏しい時代なら
情報操作でやりたい放題できるわけよ
まあそれが難しいわけだが
656 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 19:44
信長が家臣や息子に、秋田や筑前、日向などの官位をあたえたのは
西国には、織田家が東北まで制したのかと錯覚させ
東国には、織田家が九州まで制したのかと錯覚させる策略だったという
話を聞いた事がある
657 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 19:49
竹中半兵衛、織田軍を壊滅させる
でも城主クラスが何人も死んでいたらならば
だめだめだよね
将官級の喪失は5年10年で埋めきれないし
ましてや雑兵とでは替えように無い
この辺が武田家には残念だったな
何が言いたいんだ
勝頼の専制政策が進めば
立つ瀬がないって思った重臣が
死に場所だとおもったんじゃないの
しょせん甲斐の田舎侍
661 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 20:10
昔ながらの侍が名もない鉄砲足軽に撃たれて死にたいとはおもわんのじゃないか
>>661 つうか、大将が鉄砲で撃たれて死んだって言うのもデマみたいなもんだよ。
野糞してる際中に竹槍でブスリだな
別に他意はないが
勝頼の自刃から3ヵ月後に本能寺が起こったことを考えると
長篠の大敗が無ければ武田家もドゥなっていたかなと
あれだけの重臣がいれば篭城戦だって一城につき3ヶ月
ぐらいは持たせるんで無いかな
勝頼自身に求心力が無かったんだろ
難しいと思うがな
本能寺にしても武田アボーンで
西を平定しようとした信長の悲劇だろ
関が原まで生き残っていたらたぶん西軍だろうな。
家臣ほとんど東軍で(T_T
武田が潰れない限り信長は本能寺で寝泊りするような隙は見せないだろ
>>667 というより武田が滅亡しないと光秀は前線勤務継続だし
というと勝頼が死ななければ信長は死ななかった
つまり信長=勝頼いや信長は勝頼、勝頼IS天下人
むしろ武田家が日本を制したといっても過言では無いなっ
これで山梨方面のかたは喜ぶかな
な、なんとー
そういう事だったのか!!
はぁ
672 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 23:14
何度止めても聞かない馬鹿国王代理に
「突撃せよ。せねばワシが首を切る」
とまでいわれて、家臣一同集団ヒステリー状態で、
完全防備でしかも馬も進めないようなぬかるみを、
堀と馬防柵で護られた鉄砲隊に向かって
全員で突入したわけさ。
勝頼殺して信勝擁立しておいた方が、武田家としては安泰だったろうけど
実より名を取ったわけだ。
信玄は実を取るタイプなのに
674 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 23:20
この話に信玄は関係ないんだが、もしかして長篠の戦いは
信玄だと思ってる?
いや、そうでなくて
武田もかわったなぁ と
あほぅ
ってか、いつもいつも「信玄公は偉かった」だの
「信玄公ならこうされた」だのグチグチ言われてる方からするとたまんないでしょ。
「何だコノヤロー」と高天神落としても誰も褒めてくれないし。
皆、信玄の息子としか勝頼を見てくれなかったんじゃない?
だから1人で頑張って積極策を取り続けて老練な信長や家康にやられちゃったんじゃ。。。
信勝だって人間だからな。
周りから一々信玄の話出されたら勝頼みたいに反発しちゃってたかもよ?
まだ15,6だし。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 23:41
>679
つうか勝頼はそもそも跡取りじゃないからさ。
あくまで信勝の後見人であって。
なのに、国政に口挟むからああなっちゃったわけでさ。
プチトリビア
長篠といえば織田徳川の馬防柵に三段射ち
ですが、武田軍もそれなりの野戦築城をしていた。
また三段射ちというのは実際は陣地が”三段”に構築、
鉄砲で”射つ”というのが合わさって三段射ちと
なったそうです。
図にするとこんな感じ
┃ ┃ ┃
──┐ ┌──┐ ┌──┐ ┌─────
└─┘ └─┘ └─┘
683 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 23:57
>>680 後世の島津久光みたいに、信勝の後見人としてうまくやればよかったのに。
重臣「信勝さま、信玄公はもっとこうされました」
信勝「何を、この」
勝頼「まあまあ、ここはひとつこうしたらどうであろう」
ってさ。
折衷案というのは長所削って短所だけって
言うことになるからよっぽど優れた見識と
説得力がないと危ういですね。
何で信玄は信勝を跡取りにしようとしたん?
勝頼が無能だと思った?
それとも諏訪の勝頼であって武田家の勝頼じゃないと言う事?
家臣から見りゃ「信玄公は〜」と諏訪ネタが勝頼を叩く材料
なんで勝頼って出張ってたの?
信玄は合議制主体の人だから諏訪に反感のある家臣が多い中
勝頼を跡取にはできなかったんだろう
武田家はつくづく跡目については駄目な家系だな
信勝で思い出したけど、
いつごろから信長の弟「信行」→「信勝」が主流になってきたの?有名な資料?
正直、蒼天禄で初めて知ったんだけどね、えへ。
毛利元就は月山富田城を落とすのに何故四年もかかったのか?
北条早雲は新井城を落とすのに何故二十年もかかったのか?
692 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 01:06
>685-688
武田は仮冒じゃない筋目の源氏だったというのが不幸の始まりだったと思うよ。
やっぱり家中には、降伏した諏訪家の血筋を好まないモノも多かったし、
たとえ一時でも、諏訪四郎になった者を、跡目として引き取る事は
出来なかったって事だよね。
勝頼は、自分が出来る奴だって見せたかったんだろうけど、
結果として家をつぶしたわけだし、そういう意味でも、家督を継がせなかった
重臣たちの目は確かだったんだろうね。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 01:27
なんか勝頼とカツノリがだぶって見えるんだよな
>>692 予め協力する気が無かっただけで勝頼の能力自体は大将たる器ではないかな?
信勝では重臣の言いなりだろうし
まぁ、秀吉に対する毛利みたく絶対恭順以外長篠敗戦以降の武田家は
誰が当主でも同じ運命だったのでは
>>681 勝頼はちゃんとした武田の当主ですよ。
陣代だなんだなんてのは捏造です。
恭順しても
信長だったら武田は潰されてるだろ
北畠みたいな感じで
>>685 信玄が信勝を跡取りにしようとしたってのは、確たる裏付けも無い話です。
偽造の疑いの濃いぁゃιぃ手紙ぐらいしか根拠がありません。
勝頼の発給文書を見る限り、普通に武田家の当主として文書を出しています。
諏訪だからイカンとかいう議論になるのであれば、
清洲会議も起こり得ないでしょうね・・・
698 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 02:04
>695
陣代の初見は甲陽軍鑑だと思うけど、甲陽軍鑑自体の信憑性が
問われているのは知ってるよ。
でも、陣代の話が捏造だっていうのは、誰がどのように証明したの?
699 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 02:19
たとえば、信玄存命中に、温井常陸なんかを信勝付きの
「御曹司衆」にしているわけだけどさ。
御曹司っていう単語がこの場合どういう意味で使われたのかは知らないけどさ、
勝頼は少なくとも、信玄にとって「御曹司」ではなかった事はこれで伺えるんだよね。
むろんそういう疑問にもきちんとした答えが出たからこそ、
勝頼は陣代ではなく御曹司だった、って事になるんだろうけどさ?
だったら、信勝の御傅役を中心にした「御曹司衆」てなんだったのか?
とかさ。そういうのを知りたい。
701 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 02:43
普通に義信の死から
勝頼を跡取りにさせるには
短すぎるわな
信玄が強引に隠居したら解決したかも
702 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 03:19
>>697 >諏訪だからイカンとかいう議論になるのであれば、
>清洲会議も起こり得ないでしょうね・・・
意味がわからん。
解説してくれないか?
ここは武田スレですか??
>>699 「御曹司」には色々と意味がありますが、この場合は源氏の嫡流で
独立していない子息の敬称でしょうね。平家の場合には「公達」に
なります。
かつて信玄が勝頼に八人の武将を付けて独立させたように、
今度は武王(後の信勝)の独立の準備を始めたんですね。
ま、この時点では独立も何も若すぎるんで、将来の跡継ぎの、
お付きの家臣を定めたってところですね。
で、武王の元服は信玄の死後、ずっと後の天正七年ですね。
俗に言うような、16歳で元服して家督を継ぐというような
状況には全くなっていません。13歳で元服しているし、
16歳になっても家督を継いでいませんから。
勝頼はこの年(天正七年)、武王の官途を奏請しています。
ただどんな官途が与えられたかは定かではありません。
故に信勝は一般に太郎信勝と呼ばれていますね。
信勝は最初から「信勝」と決められていたかのように語られる事が
多いようですが、実際に「信勝」になったと確認できるのは、この
天正七年ですね。俗に言う、信玄が「信勝」と定めていたというのは、
胡散臭い話だと思います。
ちなみにこの時点では勝頼はすでに独立しているので「御曹司」とは
呼ばれないのですね。
ですから、武王が「御曹司」だから勝頼が跡継ぎではないというのは、
やや的外れの議論でしょうね。
信玄→勝頼→信勝と継いでいっても、信勝は嫡流であり、「御曹司」
になりますから。
>>701 笹本正治氏の意見を借りるとしますと、
信玄は自分が父親を追い出して家督を継いだ身であり、
また義信が自分を追い出して家督を継ごうと画策していたこともあり、
早々に跡継ぎを決めることを恐れるようになったのではないか
というのが私には一番しっくりきましたね。
本来なら、義信の廃嫡、もしくは義信の死の時点で考えて、跡を継げるのは
勝頼しかいないわけです。
となると、1571年に勝頼を甲府に呼び寄せ、勝頼が武田四郎勝頼の
名で信玄と共に政務を執るようになるまでに、やはりブランクが
空き過ぎていると思うわけで。
やはり、跡継ぎを定めるのを先延ばししたかったとしか思えない。
とすればその理由は・・・ってなところですね。
706 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 06:07
勉強になるなあ。
織田スレなんだよう・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
709 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 09:36
七年・・・七年なんて、長い、長すぎるよ
710 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 09:40
であるか
711 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 10:32
そもそも、なんで斎藤家が美濃を支配してたんだ?
712 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 10:37
714 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 11:24
おいおい斎藤の歴史の講釈もいるのかよ!
そもそも美濃には土岐氏というのがいてな、応仁の乱では結構活躍したわけだ。
その土岐さんからじわりじわりと実権を奪い取ったのが道三。
これを下克上というのだ!
どうやって実権を奪い取っていったかについてな↓が解説してくれる。
>>711 /\___/ヽ
/ ::::::::::::::::\
| __,,,,,.ノ ヽ、,,,_ .:::|
. | 、_(o)_,: _(o)_, :::|
| , 、_:< __,、 .::|
\ /\i_i_i_/ヽ ::/
/`ー‐--‐‐―´\
716 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 11:44
道三は蝮
相変わらず身の無いレスばかりじゃのぉ
↓ おい、お前!実のあるレスを
>>717に見せつけてやれ!
だが、それがない
こ こ は 生 け る 屍 の よ う で す ね
721 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:00
おい >711をこけにしてるもまえら
もまえらも>714以上の知識がないんだろう
714乙
723 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:27
甲斐の武田氏が甲斐信濃を平定するのにどれだけの歳月を費やしたか
考慮してから発言しているのか
>>1よ。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:30
>>714 道三は2人いたという異説もある。
京の油問屋から美濃に下った人物と美濃で勢力を伸張し
土岐氏から実権をうばった人物とは別人とする説で、
近親関係にある(親子と考えるのが自然)だろうが、1代で
美濃を掌握したとするのは苦しいか。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:35
>>705 義元が敗死した時点で今川から嫁をもらった嫡子の義信より
信濃の豪族の血も併せ持つ勝頼が国内の家臣団を纏めるのに
適したと信玄は判断したということ。
信玄死亡後、幾多の戦いを経て武田家臣団は瓦解し、離反して
いくが勝頼の器量が予想より低かった故の事柄であり、
今川敗死時点での義信をきった判断は間違ってはいない。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:38
>>704 太郎信勝.
八幡太郎義家を念頭において命名したのだろう。
甲斐源氏の総領として立つべく信玄が孫に期待したのだろう。
彼が誕生した時点では明らかに勝頼系が武田の総領となる
ように路線が引かれたのだろう。
まあ勝頼はいわば伊東監督につなぐ為の伊原監督のような
ボジションだろうか。
727 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:40
>>709 織田氏は本願寺と10年戦争をやっている。
上杉や武田は関東制圧を図ってついに目的を達する事が
できなかった事を考慮するとまずまずだろう。
>>725 諏訪衆を束ねるために勝頼を高遠に置いたのに必要も無いのに甲府に呼び寄せれば
諏訪衆と甲斐国人との摩擦をわざわざ作り上げるようなもんだよ。
729 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:45
諏訪衆と甲斐源氏双方の血統を引く勝頼を甲府に呼ぶのは融和に
つながると震源が判断したんだろう。
義信は自刀したし。
>>729 義信擁立派を排除しながら諏訪衆と甲斐国人が融和できるなんて甘い思想を信玄が抱くとも思えんけど
すでに高遠で当主やってた勝頼の取り巻きのことを配慮しなかったとは思えんし。
勝頼を能動的に選んだというより消去法だろ
731 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 13:14
>>730 だから
>>725で説明したように
今川義元が死んで3国を要する今川の先行きが怪しいくなった
時点で今川を切って3国を狙ったほうが得策だと考えたという事。
義信だけ男子がいなかったというのなからともかく、勝頼もいる。
太原和尚も物故し、義元が死んだ時点で空白地同然と化した
3国の領有を狙える機会を見逃す手は無い。
放置しておけば遠からず北条も信玄同様に触手を伸ばしただろうし
敗死した時点では徳川の台頭は予想できなかった。
北条との戦闘もあるが、信玄の皮算用では駿遠三一挙に
制圧する事もできると踏んだのだろう。
現実には駿河一国すら早期に落とせなかったのは誤算だったし、
独立した徳川が西三河を制圧し、
732 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 13:19
一向宗で国を2分したものの、武田につけいる隙を与え無かった事も
予想外だった。
氏真も器量不足であったが、当初の予想と異なって意外としぶとかったのも
災いしたがあくまで結果論。
義元が死んだ時点で3国掌握の算用の誘惑が勝ったという事。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 13:34
>704
御曹司についてはなるほどだけど、貴方の存念ではなく
「陣代ではなく勝頼自身が後継者」という論文のソースが欲しいのよ
>>731 勝頼もいるからってのは結果論だと思うがな
他国攻めるために国内の派閥争いを放置できるほど戦国大名は冒険的ではないし
まず家臣団を含めた利害一致がないと戦国大名といえどもそう簡単に動けない
それを無視すればどうなるかは自分が旗頭にされて父親を追い出したことで信玄には理解しやすいはず
また、義元が死んだときは第4回川中島もおきていないし西上野の領有もしていない
つまり信玄にとって南や西に力を割く余裕が無い時期だ
おまけに氏真では駿河が弱対したというのは結果としてわかったことで
義元が死んだ時点で空白地同様というのはむりがありすぎる
現実に駿河侵攻したときは家康は三河をほぼ平定している時期で予想外どころの話ではなく
遠州方面の侵攻では徳川勢に頼ってるんだが
735 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 14:15
おまいら武田スレみてから書け。
信虎が国内完全掌握を狙っていたのに豪族に担ぎあげられた信玄が信虎を追放
したわけだ。
織田厨にわかりやすく言えば信長が信行に追い出されたものだと思えばいい。
よって信玄の権力基盤は有力豪族の合議制にならざるを得ないわけだ。
後継者選びだって当然信玄が単独で決めれるわけもなく信濃族に推された勝頼
に決まるわけだろ。
大体甲斐の歴史を見れば尾張を制圧し主導権を握りたった7年で美濃まで併合
してしまった信長の実力に脱帽すると思うよ。
>>732 今川はあっさり武田にやられたイメージがあるが、
実際はそうでもないんだよな。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 14:58
朝比奈とか気張ってるからか?
>>735 取り敢えずここは信長スレなので武田を語りながら織田厨という発言をするならば立ち去るべき
739 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 15:08
>>734 そうとも限らん。
信玄のライバルである謙信も関東攻略する一方で国人衆になやまされている。
だが、対外戦争をしかけるべきと判断した時はいっているんだから。
国人衆などの領地内の政策と領土拡張策は多元的に思考するものだろう。
人が多数あつまればどうしても利害が出るのは必然。
配慮ばかりしていてたら天下は狙えない。
現に信玄は義信を自刀においこみ今川と事を構え、北条とまで開戦している。
ここまで情勢変化を起こす間に三国同盟を破棄する事に対し家臣からも
そうとう反対があったと思う。
だが、信玄は決断した。
>>725や
>>730での信玄の判断のプロセスでほぼ信玄の心中が
明らかだと思うのだが。
※無論、最善の策と主張するわけではない。
信玄も名将であったが、駿河獲得に手間取った事、徳川の台頭、
今川の遅滞戦術に苦心した事などは見込みが甘いが、義元と
太原雪斎を欠いた今、東海道を制圧する絶好のチャンスと
捕らえたのではないか。
義元が死んだ時点で考えてみよう。
素っ破や探索方からの情報を信玄は得ていただろうが、
織田はどう考えても桶狭間の遭遇戦で奇貨を得たにすぎぬ。
三河の被保護国=徳川が独立した。
取るに足りないだろう。
恐れるのは北条ぐらいで駿遠三のうち駿遠をとれば三河や尾張攻略の
目もある。
740 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 15:09
姉小路家はどうなったのさ
美濃高山だよね
741 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 15:09
何より京を目指すには険峻な要害の地にいる遠山家を
通過せねばならない斉藤一族は到底抜けない。
大軍を通すなら東海道を押さえる。石高も甲信越と比較にならず
街道も整備されている。信玄はのどから手が出るほどほしい。
そんな土地が義元の死で今川家が動揺している・・・。
そう判断すれば義信を切ってあまりあるものがある・・・そう考えたの
ではないかな。
無論現実には信玄の思惑通りには行かなかったのだが・・・。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 15:14
>>734 信玄は用意周到に準備してから戦を仕掛ける。
これが信長と異なる。
上杉や北条など入念に背後を固めてから侵攻するので
当初の情勢が変化してしまうのだな。
駿河攻略は義元が死んだ時点で即進入すれば
駿河とれたと思う。
むろん北条とも即開戦だろうが、三国を併合する為に
事前準備に時間をかけすぎ。
即進入、駿河奪取しておれば徳川が三河を制する前に東海に
覇を唱えられていただろう。
743 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 15:25
>>742 信玄に限らずどこの勢力だって戦を仕掛ける前にはちゃんと用意周到
な準備をしてからかかってるさ。
だからスレタイのように電光石火のイメージが強い信長だって美濃併合
まで7年もかけてるんだし。
信長が家臣の出来を見るため、あえて時間をかけ
大体のめぼしい人材を確認してから突如領土を拡大した
と見るべきかも
>>742 今川攻めは危険な掛けだな
北条上杉同時に攻められたら
やばいでしょ
上杉攻略に専念した方が
良かったかもね
後々今川と協力して織田に当たった方が
面白いが自国の金山枯れかけたのが
今川攻めの理由かな
>>735 信濃族って何よ?
信濃の豪族のことか?
だったら信玄に制圧された信濃の豪族に、
後継者決めるような権限があるわけないだろ。
747 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:06
>>742 むしろ氏政の限界を見た思い。
氏康なら三国を武田と分割して2国同盟に切り替える発想の転換
できていたと思われ。
武田との三国同盟を今川との義で破った事で上杉・武田・北条が
互いに抗争する事になってしまったんだよね。
雪斎の努力も灰燼に帰したわけ。
この和睦が崩れた事で誰に利があったか?
ほかならぬ織田氏なんだよね。
三国同盟が解消されなければ信長は美濃攻略の余裕が無かっただろう。
松平定知じゃないが、今川義元が死んだ事で「歴史が動いた」のは
実感としてあるな。
振って沸いた義元の死で三国の結束が崩れて各勢力の伸張の動きが
いずれも相互対立に向かい、今川・武田共に対織田どころではなくなった
のだからな。
信玄は後悔しただろうが後の祭り。
歴史にIFは無いが、信玄は義元亡き後の今川を攻めずに
むしろ竜興が家督相続直後に美濃攻略すべきであった。
藤吉にできて内応を得意とした信玄にできぬはずがなかったのにな。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:18
上杉攻略とか美濃進出とか出てるけど、地政学的に無理でない?
本拠地・甲州から遠い地方を一時的に得たとしても、叛乱続出で返って自家の力を減退させちゃうんじゃないかな。
当時の武田家にとって、本拠地から近く、比較的に統治しやすい駿河進出は現実的な選択だったと思うけど。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:27
>>747 訳分からん。
なぜ、氏政の限界なんだ?
氏康まだ生きてるだろ。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:27
勝頼を高遠城に配置したようになんらかの手を打ったと思うが。
信長は武田対策に美濃港略語は遠山氏と婚姻を結ぶなど
散々配慮している。
逆にいえば信玄が本気で美濃攻略をかんがえれば遠山氏を調略する事は
火を見るより明らか。美濃三人衆も元々は土岐氏譜代の臣下であって
斉藤氏譜代ではない。
道三本人には忠誠をちかっていただろうが、義龍反乱時に道三を再度
裏切り、さらに織田氏に流れている。
美濃は攻略不可能でなかったと思う。
むしろ駿河は朝比奈らが頑張っていて結局遠江を断念して
徳川と2分しなかればならなかった。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:29
上杉は国人衆にとにかく悩まされた。
新発田氏や高広らすぐに裏切るじゃん。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:37
そんでも、東美濃までじゃない?実際東美濃には勢力を伸ばしたわけだけど。
その先の濃尾平野の豪族連中は遠い武田と近くの織田等、どっちを選ぶかだと思うけど。
選ぶとしたら、近所の織田家じゃないかな。
道三VS龍興の混乱に乗じて一時的に勢力を伸ばせても近隣諸国が傍観しているとも思えず、結局東美濃止まり、って感じじゃないの?
754 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:40
IF話だけど、今川を攻略せずに三国同盟を維持したまま大きなリスクを
追わずに勢力を拡大するなら美濃あるいは越後攻略のどちらかに
専念すればよりベターだったのではないかという事。
まあ歴史にIFはないし、神の視点であることも承知だが、ようするに
信玄は他勢力に付け込む隙があれば大局をみずに目先の利益に
入ってしまう嫌いがあったのではという事。
信長は今川義元を葬った事で三国同盟崩壊の遠因をつくったが、
信長の台頭を許したのは信玄が三国同盟を崩壊させて互いに抗争すると
いう元の木阿弥状態にした事もおおきいなと思う。
事実、7年も美濃攻略に専念できたわけだし、徳川も一向宗対策や
今川対策で織田と同盟を組む以外に選択枝無かった。
この件で一番おいしかったのは信長だという事。
>>747 甲州中心に領地を広げたい武田軍団にとって美濃を制圧しても大した利益は無いだろう
天下取りを視野に戦国大名の行動を判断するのは信長登場による過剰評価だと思うが
756 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:43
>>753 信玄の最大の失敗は美濃に橋頭堡を築いておかなかった事。
之絶対信玄自身が後悔している事だと思う。
あれほど織田が巨大化する前にどうして東美濃だけでもとって
織田権勢のみならず京を伺う下地をつくらなかったのかと・・・
これができていたら織田は巨大化できなかった。
そりゃそうだろ。天下統一どころか常に武田の軍事的プレゼンスがあるんだから。
信玄西上のときは馬場隊が別働で
遠山氏のとこだけ切り取っていたっけ
>>748 本拠地より遠いと維持できないというのは
天下は遠いですな
むしろ後背が襲われなければ信玄としては今川存続でも
良いが、将来徳川北条に取られるぐらいなら武田で取るという
考えでは
信玄スレ逝けや
759 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:46
∧_∧ ∧_∧
(・∀・∩)(∩・∀・)
(つ 丿 ( ⊂)
( ヽノ ヽ/ )
し(_) (_)J
信長 信玄
>>754 >信玄は他勢力に付け込む隙があれば大局をみずに目先の利益に
>入ってしまう嫌いがあったのではという事。
つうか結果論として状況にめぐまれた信長がチャンスを物にしただけで
戦国大名としてはごく常識的な行動だと思うが
武田信玄があの時期信長と争って美濃を狙っても大局的になんの意味があるの?
武田家の兵站や軍事組織で中央政権を狙うというのは無謀だが
761 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:48
>>755 逆。信玄の関心は上杉、北条、今川の三家に主にあったせいだが、
他勢力の伸張に対する予備的な軍事行動
この場合美濃に対して攻略をすすめなかったのは不思議。
信長なんかまさに武田をおそれていたから散々苦心して
機嫌とり続けている。
信玄ほどのヤシが懐柔されすぎ。
なんで織田に懐柔されるかなぁ。
762 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:52
>>760 織田の勢力伸張防止。
2国とれば実力が倍加するだろ。
信玄ほどの男が北条・今川・上杉に目くばりいく一方で
正直見落としていたのだろうと思うが、探索をはりめぐらせていたのに
何処でみやまったのかな。
信玄最大のミスだと思うが。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:56
>>760 意味というか三国同盟が維持された場合
今川は徳川対策に専念。
北条は対上杉に専念。
信玄は美濃を目指し近江を突破して京を目指せる。
>>761 だからさ、当時の戦国大名にとって周辺勢力の均衡もしくは制圧が生存第一条件であって
他勢力の伸張前に予備的にたたくなんてゲーム的な思考はしてないんだよ。
不思議でもなんでもなく利害が密接に関わって弱い所からつぶしていくのが目的にかなってる
上杉、北条と均衡し今川制圧するまでは信長を牽制する利点が無いんだよ信玄には
そもそも信玄の生涯の行動は周辺勢力の切り崩しにしか過ぎないんだが
何で、信玄に天下取りさせなきゃならん
765 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 20:57
>>760 ただ単に信玄が上洛しようなんて露とも思ってなかっただけじゃないの?
美濃以西に勢力伸ばすつもりがなきゃ、あんまり関心持たないでしょ。
織田家が濃尾二国を得たとしても、信州進出を図るとも思えず、仮に攻めて来たとしても、信濃国境の山岳地で充分防衛出来るだろうし。
1582時点の織田家だったらともかく、濃尾二国じゃねぇ。
もともと信玄は京を目指してなかったんだね
>>753 >道三VS龍興
こりゃ道三勝ってるかもな
768 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:01
>767
すまん、義龍だったっけ。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:01
後年徳川を攻めたときに物故して軍を返した事でその辺が論争に
なっているよね。
京を目指していたのか?それとも単なる徳川制圧戦か?
道判断するかでぜんぜん変わってくる。
>>762 あのね
何で他の競合大名無視して美濃奪取前の信長だけに狙いを絞らなきゃいかん
状況によっちゃ逆に斉藤や今川が尾張を併呑する可能性があっただろうに
その理屈で言えば義元の桶狭間につながる尾張制圧で今川家の勢力が4カ国になるのを警戒して
桶狭間前にさっさと今川をつぶしておかなきゃいかんぞ
771 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:03
>>764 織田は美濃とった時点ですでに美濃を岐阜に解明し、岐山を意識した
命名をして当代の殷たらんと天下を意識しているが。
772 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:04
>769
どっちなんだか判らないけど、信長が「天下布武」を標榜しだしたし、北条、上杉らとの煩わしさから解放されてた1572頃には織田潰しを兼ねて上洛する事を考えたのかもね。
信長は天下を意識したが
信玄はしなかったんだね
>>771 美濃を岐阜じゃなくて
井之口を岐阜だろう
信長は中央進出する条件が整ったから天下を意識しても不思議ではないが
信玄が中央進出する位置にはとてもいないからそういう比較は無意味
775 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:08
信長はすくなくとも信玄は京を目指していたと判断したと思うけどな。
事実、信玄は朝倉が敵前撤退したときも散々義景をなじった文をおくっているし。
足利義昭が信長包囲網を考案したが、実行すべくうごいたのは信玄なん
だから。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:10
でも謙信も信玄あぼーん後、京めざしているじゃん。
777 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:12
秀吉が天下の趨勢をほぼ征した時代でも独立を維持しようとしていた
北条はともかく、信玄と謙信は京めざしていたんじゃない。
でなきゃ足利義昭と連携しないでしょ。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:14
>>775 信長の考えと、信玄書いた手紙って繋がらないと思うんだけど。
779 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:14
やっぱり信玄上洛は文字通り上洛だろ。
信長の岐阜城を制すべく別働隊をおくっているんだし。
そもそも信長と敵対する意図なかったら、秋山を派遣してまで
美濃攻勢していないじゃん。
それは信長が勢力を拡大したから
781 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:15
つながるだろ。
信長包囲網は朝倉が撤退したら何の意味もないんだから。
782 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:16
>776,777
上洛して、畿内を治めるのと、ただ単に織田家を潰すために上洛を目指すのでは全然意味が違うと思うよ。
783 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:17
信長も武田対策に遠山氏を厚遇したのはどういう意味かわかると思うが。
遠山ぬかれるか攻略されたら岐阜城に武田の軍勢が殺到し、
尾張と岐阜が分断されるんだから。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:20
>781
信長のこう考えたんじゃないか、って証明するには、信長自身の考えを表明した手紙なりが必要であって、信玄の思考や手紙ではないでしょ?
歴史云々じゃなく、文章的にさ。
まぁ、進行中のレスには関係ないかもしれんけど。
785 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:20
>>782 謙信は関東攻略時に領地に執着しなかったといわれているが、
謙信が動いたとき、七尾城などつぎつぎに陥落して支配下にいれながら
手取川に至っているが。
畿内の治世も十分考慮したと思うが。
謙信1人の発案ではなく、兼続がいろいろ策を練っていたと思うし
抜かりないと思うが。
信玄も謙信も
織田を討って上洛を目指したけど
天下を意識してなかったんだね
787 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:21
>783
ゲームじゃないから。
殺到しないよ。兵站とか考えてみ。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:23
>>786 していたと思うが。2人とも上洛時に後顧の憂いを片付けてから
上がっているだし。
>>777 遠交近攻論から言えば京を目指していなくても敵の敵と連携するのはごく当然
790 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:27
>785
手取川に至ったのが、畿内統治考慮にどう繋がるのか理解できないのだけど。
北国街道沿線〜越前進出とも見れると思うけど。
直江兼続の評価は人それぞれだから言わないけど、彼がいるってだけで上洛を考えたんじゃないか、ってのはどうだろう。
>>785 単に戦国大名の価値観に目覚めただけとも考えられる
それに加賀まで制圧しただけで畿内制覇を考えていたとするのはちょっととっぴでは
>>779 美濃攻勢や西側の反信長陣営と連絡してたのは
家康つぶすまで信長にちょっかい出されたくは無かったとも考えられry
793 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:32
信長は美濃を落とすのに何故七年もかかったのか?
794 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:32
散々言われてるけど信玄にしてみたら美濃にいく必然性がないんだよね。
義昭が包囲網のお誘いをしなければ京都なんてめざしてなかったろ。
上のほうに今川の例が出てたけど武田家が上洛しても政治的にはもつかれって
レベルだろうしな。
先人たちの歴史もあって長く本拠地を空けたくもなかろう。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:32
加賀制圧、越前進出で矛を収めれば織田が止まるとでも思っているの?
織田は諸将が揃って勝家以下やる気満々。
どうかんがえても全面戦争で行き着くところまでいくしかない情勢だが。
謙信が倒れなければ越前征したあと京まで指呼の距離なのだが。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:34
必然性ないかな?
甲信は金山の収入が下降気味で下がる事はあっても伸びが期待できない。
美濃は甲信より断然豊かなのだが。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:36
>>796 全然ないね、三河と遠州の方が取り易かったろう
見た目に隣国とはいえ交通の便から言えば信濃→美濃よりも駿河→遠州のが
圧倒的に楽だしね
798 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:37
そもそも謙信の軍勢と手取川であたる時に勝家と意見の相違で抜けた
秀吉以外各方面から軍をかき集めているのにそれでも敗北しているの
だが。
ちょっとやそっとの軍勢では謙信軍はないし、単なる小競り合いというより
天下に向けて号令する意図があるとみるべきでは。
799 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:37
あまり言われてないが枯れ気味の金山対策は飛騨にちょっかいかけてる
結果はやはりあまり知られていないがグズグズになっちまったがな
だから散々出てるように、仮に信玄の上洛が成功してても、
いわゆる「大内義興型上洛」に終わったんじゃないかな、と。
>>795 それは周辺勢力としての織田との摩擦の話で
上洛志向の説明にはなってないが
越前征すればって簡単に言うけど謙信が死んだ状態で加賀すら完全に制圧してないのに
おまけに手取り川でさえまともな合戦が起きたか疑問視されているぐらいだ
また逆に織田北陸軍を撃破して北陸が制圧すれば信長も謙信と争ってばかりもいられないのだが
毛利も武田もまだ存在している状態だよ
>>798 そもそもが間違ってるよ。
君が考えているような手取川はなかったってのが一般的でしょ。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:39
三戦板ですら 上洛=天下取 ではないことが常識化されようとする昨今
大名がすべて天下取りを考えていたなんて講釈みたいな話はそろそろ
やめにしてくれないか?
804 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:39
>>797 そうかな。
三河遠江の要の要害である高天神城は信玄ですら落とせなかった
要害なのだが。
逆に美濃は秋山レベルで橋頭堡きずいてる。
当然織田が美濃を本拠地にした後の話だし。
頭首になってから死ぬまでの領地拡大の速度を考えると、織田はすげぇと思うな。
この基盤が無ければ羽柴の超躍進もなかったわけだし。
なんつ〜か、今まで織田は評価が低すぎて、武田は美化されすぎてるっつ〜の?
>>798 謙信は信濃の小競り合いにも相手に合わせて大軍を繰り出しているけど
807 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:41
>>803 そんな事は主張していないが。
ただ信玄と謙信の軍事行動は客観的にみても天下取りの方向として
判断できるという話だよ。
808 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:43
>795
戦争中だから、行き着くとこまで行かなきゃ、なんてのは飛躍しすぎじゃないかな。
兵站の事、季節の事も考えれば、若狭・越前・近江国境辺りで睨み合いでしょ。
>>807 信長相手にしたことが天下取りの意志だったというのも乱暴だと思うが
810 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:43
>>804 秋山が築いた拠点に集結して織田と大規模軍事衝突を美濃で行ったと
してもやはり退却時にはかなり不利になるね。
811 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:44
>>805 今日のレスの前半部分でも言及したが、信玄が三国同盟を破棄して
上杉・今川・北条とぐずぐずの戦いに戻したので東からの脅威が
織田氏に消滅した事が大きいと思うのだけど。
ある意味信長の天下取りをサポートしたのは逆説的だが、信玄と
いえなくもない。
812 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:47
>>805 尾張兵は弱兵とされているけど六角などは瞬時にあぼーんしているよな。
2国とって上洛した効果はさように凄いものかと思わざるを得ない。
信玄は先見の明が無かったってことか・・・
814 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:47
ぼちぼち、なんで7年掛かったの?に話もどさねぇ・・・。
そろそろ、謙信公は軍神だから最強、とか信玄公の騎馬軍団は無敵とか言い出すヤツが来そう・・・・。
815 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:47
単純に考えて関東管領職の謙信は上洛したとしても天下は取れない
武田家にしても足利を源氏の氏長者から引きずりおろしてからでなけ
れば将軍職など望むべくもなく、当時ですでに源氏の主流血統でなかった
わけで武田幕府の可能性はほぼない。
義昭死後に新田系を名乗って源氏の氏長者になった家康はタイミングも
流行血統という意味でもまさに天下取りだな。
816 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:49
>>815 秀吉のように関白職を襲名するなど幾らでも手はあると思うが。
信長自体将軍職は眼中に無かったしな。
権威は実力があれば自然とついてくるものだが。
817 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:50
確かに信長が現れるまであそこまで版図を広げた武将はいなかった・・・よね?戦国時代。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:50
>>814 俺的には美濃に7年かかったことより設楽が原から武田家滅亡までの
8年の方を語った方がわかりやすいと思うが
>>813 当初は信長のヨイショにご機嫌だったからな
820 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:51
信玄も謙信も氏政も驚愕しただろう。
自分たちが抗争している間に京でとんでもない化物ができていたのだから。
821 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:54
そんなに化け物とも思ってなかったろ
直前まで三好が畿内を牛耳ってたし、その程度の認識と思われ
822 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:56
>>817 大内氏もやりようによっては天下を掌握できたと思う。
だが、信長のような「ビジョン」が無かった。
岐阜を命名した時は上洛後どううごくかおぼろげながら
青写真ができ、足利が寄ってきたときにはっきりと形に
なったのだろう。
823 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 21:58
機内勢力が予想と異なって飛んでもなく弱かったのもあると思われ。
いくら京に上洛したといっても、あっさりやられすぎ。
見る見る間に勢力が膨張し朝倉と事を構えたときにはすでに大勢力。
あの時点で武田らと国力逆転してる。
824 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 22:01
実際に立地的にみて尾張・美濃までは畿内の政変に直結して動けるが
甲斐やら越後の場合は関東の掌握の方がメインになってしまうわけで。
この時代限定で話が進むとまるで京都が日本の中心だったかのように
思われるが室町中期あたりから関東でたびたび起こる異変ってのがあって
関東こそ武家の中心地みたいな考え方もあったんだよ。
825 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 22:12
関東でたびたび起こる異変
大半が下克上話だと思うが。
早雲による茶々丸殺害など、権威があれば考えられないだろう。
鎌倉公方なんぞ義持から義教の時代にかけて反抗していたけど
結局滅ぼされているし。
古河公方や古弓公方 なんて権威ないでしょ。
あったら攻められていないはずだし。
826 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:09
>>825 茶々丸がどういう理由で討滅されたか知ってる?
>古河公方や古弓公方 なんて権威ないでしょ。
>あったら攻められていないはずだし。
「小弓」ですのであしからず。
それはさておき、北条家も氏綱、氏康の時代には古河公方の「権威」を
利用して勢力拡大を図っていたのも事実。
それゆえ晴氏、義氏の室に北条家の娘が送り込まれているのが何より
の証拠。しかも、晴氏に至っては正室・梁田氏を離縁させてまで強引に
実行している。
それは衰えたとはいえ依然、利用すべき「権威」があったから。
それがなくなった時点、すなわち北条家の関東支配がある程度確立し
た時点で古河公方を無嗣断絶にした。
そもそも古河と小弓の争いも、その権威をもって正当性を主張する大名
家の存在があればこそ。「権力」はなくても関東の武士団が無視できな
い「権威」は存在したということ。
>>821 三好舐めたらいかんよ
義輝に対する甘さ・晩年のグダグダ度は酷いが
”天下を獲った”と言ってもイイほどの勢力だったんだから
もっと評価されるべきだよ
織田軍と謙信軍が激突した手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか
疑わしいのだ(?_?) なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が「歴代古案」に
収録されている謙信の書状ただ1つだけなのだ・・・(@_@) 完璧に正確な記事を記
載している「信長公記」をはじめ・・・当時の北陸の書状や記事に全くと言っていいほ
ど手取川合戦の記述がないのだ(>_<) と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴
田勝家軍との間に大規模な合戦など無かったと思われる・・・なのだ(・_・)
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは柴田・謙信軍
共に物見部隊(偵察)などが手取川で投石などを繰り返していたかもしれない・・・
なのだ(?_?) 手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく・・・
実情は手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な戦闘
であると見たほうがいいのだ(・_・)
手取川合戦については上杉謙信の書状の他に「北越軍記」に記載されています・・・
なのだ(@_@) しかし「北越軍記」は俗書なので信憑性は低いと思われます・・・
なのだ(;_;) 「信長公記」の作者 大田牛一は当初は信長の親衛隊を経て・・・
信長の秘書又は記録係を務めた人物です・・・なのだ(・_・) 地方で起きた事件でも
大小関わらず正確に記録されており・・・信憑性は高いと思われます・・・なのだ(・_・)
「信長公記」は織田家のプロパガンダと言うわけではなく、織田家の記録書と見るべき
だと思います・・・なのだ(・_・) 従って織田家が敗北した戦闘のことまでもキチンと
記録されています・・・なのだ(・_・) もし「信長公記」が俗書の類であれば織田家の
マイナスになるようなことは記述されていなかったでしょう・・・なのだ(゜_゜)
その他に北陸の寺社による記録書や日記、又は京都のお公家さんの日誌などに
手取川合戦の記述がなく・・・謙信の書状だけにしか記録がないことを考えると・・・
上杉家による宣伝か例え宣伝でなくても謙信が数十人程度の勝家軍の物見部隊を
大部隊による正規軍と誤認してしまった可能性も捨てきれません・・・なのだ(;_;)
また謙信の心情はわかりませんが・・・当時の新潟県の経済的状況を考慮すれば
謙信による京都への進撃は不可能だと思われます・・・なのだ(+_+)
謙信は上洛してるかもうする気は無いんじゃないんかな
関東にご執心の様子だし
832 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:28
>>827 久秀が内部から侵食していなかったら三好は信長にみすみす
畿内を侵食されなかったろうか?
正直弱いとされた尾張兵よりも畿内兵の方が弱すぎる印象だが。
833 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:30
>>813 あったと思う。信長が予想の斜め上を突っ走る人物だったという事。
東ばかりなんで西に話し振るけど
毛利のには上洛する気があったかどうか?
もし荒木村重の離反時に播磨の秀吉が孤立
状態でこれを撃滅できていたならば一気に
前線は摂津河内まで進み京とは指呼の距離
になるわけだが
>>832 そもそも三好の全盛期は信長が上洛してくる以前の話であって
兵の強さとかそんな問題ではないのでは
全盛期ならそう易々とは侵攻出来なかったでしょ
>>834 無いというのが一般的且つ正解じゃないの?
836 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:23
元就が遺言か何かで京への進軍はやめるようにいわなかったか。
837 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:25
>>834 輝元や小早川に何を期待しているんだ。
関が原でも周囲にながされる一方だったじゃねえか。
関が原のときには元春も隆景もいなかったからな。
839 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:41
関が原は異説あって毛利や黒田は漁夫の利を得て天下をうかがう
隠れた第三勢力説があるそうだな。
毛利が積極的に動かなかったのはそういう事なんじゃないの。
流されているようにみえて腹に一物あったが、合戦自体は一日で
終了したからどうしょうもなかったのでは。
黒田孝高も1日では中央の動静を動かせられないし。
兵力温存か?
しかし、関ヶ原がうまく行っても徳川には秀忠一行がまだ残ってるからなぁ・・・
841 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:47
∧_∧
( ;´∀`) <今度は関ヶ原かよ
人 Y /
( ヽ し
(_)_)
田原坂まで続けますよ
843 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:49
ポツダム宣言受諾まで続きまする!!
844 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:49
関東の名族を次々に滅ぼし殺し、特に関東公方の者を殺した大悪人の
子孫が公方擁立しても皆うさんくさがると思うが。
>>839 黒田は行動起こしてたからまぁいいとして
毛利はどのように漁夫の理を得ようとしたって話しなの?
846 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:50
意外と大河スレになってまいりました。
>>845 たぶん歴史は動いたにでもかぶれたんでは?
以前毛利が動かなかったのは吉報は寝て待て的な解釈を垂れていた
記憶がある。
山河燃ゆもやるのか?
山河もゆ好きだね。
歌舞伎役者で有名な松本幸四郎と西田敏行の名演が光ってたね。
850get
851 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:58
>>796 >>799 『甲斐国志』には黒川金山の最盛期は慶長年間であると記されているが。
その他の金山でも発掘の結果、江戸期まで採掘が行われていたことの
分かった金山もいくつかある。
勝頼の頃に金山が枯渇してしまっていたと決め付けてしまうのは
どうかな。
また金山の収入が武田家にどれほど入ったかは疑問視する向きもある。
>>800 そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。
信長だって義昭と仲がこじれなかったら、逆にどうなっていたかも
分からんと思うよ。
なんでもいいが田原坂は白虎隊で会津藩主役をやった松平容保も
演じた里見浩太郎が演じたが、西郷隆盛と松平容保ってぜんぜん
反対の立場じゃん。
薩摩人、会津人とも不満がのこるだろう。
なんで黄門様や赤影で木下藤吉郎役やった里美なんだ?
>>847 かつての前田みたくって事かな?
ただあの布陣で毛利は重要な位置を占めていたわけで
毛利が動けばかなり勝率は上がっただろうに動かなかったって事は
ヤッパリ東軍勝利を予想してたからじゃないの?
実際会戦当初は宇喜多隊・石田隊の健闘と東軍の出鱈目とも言える突撃で西軍有利だったんだよね?
それなのに一切動かなかったって事はそんな考えは無かったって事じゃないの?
毛利ってあの位置から午前中の西軍有利ちゃんと把握できてたのか?
>>851 大久保長安によるところが大きかったんじゃなかったっけ?>金山
>>854 大凧に乗った部下が上空から偵察していたと思います!
東軍の勝利を決定付けたのはどうでもいいような男
小早川秀秋
そうか信長あぼーん後、飛騨忍者一行は毛利に鞍替えしたのか。
牧冬吉に黙祷。
結局は後世の評価であってどうでもいいような武将は当時居なかった
860 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 10:10
小早川秀秋は関が原後次々に家臣が小早川家を辞去した。
秀秋を世間がどうみていたかよくわかるな。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 10:11
862 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 11:15
>>818 美濃攻略に7年も信濃・甲斐攻略に8年もそれほど不思議でもないね。
両者ともいざ侵攻となったときにグダグダになってしまったのをみれば時期を
待っていたということだろう。
ただじっと待ってたんじゃなくて内応を誘ってみたりいろいろいちゃもんつけ
るためのネタを探してたりしてたんだろうね。
>852
「さらば」で電波論理でカミカゼ肯定演説をぶった人と
「銀河英雄伝説」でその対極の思考回路の怠惰提督の人が同じくらいなんですから、
それくらいたいしたことじゃない。
>>863 つうかそれ以前に852はまちがってるけどな
里見浩太郎が白虎隊で演じたのは西郷頼母だし
865 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 11:47
今更だが、謙信に上洛して天下を取るとかいう思考はなかっただろう。
手取川の戦いも俗説だし、
最後に上洛のための大動員をかけたというのも俗説で
実際は関東遠征(ただし大がかりなものではあったらしい)のためだし。
あと、そもそも謙信は二度も上洛している。
一回目の上洛は小人数だが二回目は五千もの大軍を引き連れてだ。
で、やった事は将軍様に膝まづいたり、お寺に参拝して回ったり公家と遊んだりしただけだが。
>865
上洛するつもりはあったかもしれんが、どっちにしろ上杉幕府を開く気は毛頭なかったわけで。
関東管領に就任しちゃったらそんなもの開けるわけがない…
867 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 12:11
そもそも大軍引き連れての上洛の目的自体が
将軍への上杉家への改姓と関東管領就任の認可と挨拶のためだったそうな。
古いよねえ。
幕府開かなくても
鎌倉幕府みたいな感じで権力
もてたと思うけどね
869 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 12:23
武田が去ったと思ったら今度は上杉か
上洛と一言でいっても様々な政治的意図があるわけで、新しいも古いもないと
思うわけだが。
上杉が関東管領の認可を求めに上洛するというのは非常に明確な目的意識が
あるじゃないか、関東の覇権を争う上でこれ以上ない大義名分を得にいって
いるわけだ。
870 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 13:27
そろそろ徳川厨が来る頃だね。
871 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 13:30
ここか、祭りの場所は・・・
872 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 13:30
徳川最強ですがなにか?
873 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 13:32
しかし関東管領を取得したから天下を伺う意図が無いとは言い切れないが。
現に家康は江戸幕府開いているし、鎌倉北条氏にいたっては執権政治という
独自の手法で国を治めていたわけだし。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 13:39
>>873 徳川家って関東管領職に就任したことありましたっけ?
875 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 13:45
>>873 「現に家康は江戸幕府開いているし」の部分が前の文章のどういう理由付け
になっているのかわかりません。鎌倉北条氏の部分はわかるけど。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 15:17
室町幕府における関東管領ってのは基本的には室町幕府関東支社長みたいなも
ので関東八州と甲斐と伊豆を管轄する責任者なわけだ。
関東管領に就任したからといって天下への野望がないという理屈は合わない
かもしれないが関東ローカルな役職であって別に他地域の大名にとっては
あまり影響のないことを考えればこの段階で天下へ号令がかけれるわけでは
ないということになるわな。
まずは関東、そうなるのは必然かと。
878 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 15:17
徳川が始まる前にこのスレが埋まるな。
ただ、次スレはいらんよ。
単発ネタでスレ乱立するなっつーことだ。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 15:19
自作自演と決め付けたがるレッテル厨うざっ
880 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 15:21
徳川家、というか家康が若い頃は謙信が関東管領だったし。
年食った頃には室町幕府というもの自体がなくなってたんじゃないか?
ゆえに
>>873の不思議な文章はよくわからんが。
関東にいたからといって天下が取れないわけじゃねーぞ
といいたいのかもしらんがな。
ふぅむ
>>880 >関東にいたからといって天下が取れないわけじゃねーぞ
これ自体はまあ間違ってないだろうが
家康に関しては関東や江戸のことより関西の中央政局に関わってたときのほうが長いよな。
たぶん鎌倉のことを言っているのでは?
もしくはその後の新田義貞や足利尊氏の関東で蜂起
京へ上洛みたいな、関東にいても上洛できる先例が
あること指しているのかな。
いい加減、本人が語るまで待てんのか、クズども
885 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 17:54
本人てだれだよ?(笑)
886 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 18:29
ぶっちゃけ
北条泰時と比べたら信長カスだよ
作りが違う
887 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 18:38
>886
泰時乙。
北条泰時なんて知名度低すぎ(C ゚,_ゝ゚)プヒッ
889 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 19:22
神武は日向から天下をとった
雄略は越前から天下をとった
天武は関が原で近江朝廷を破った。
京からの遠近で天下のとりやすさはかわらんわっ
>>889 >神武は日向から天下をとった
神話
>雄略は越前から天下をとった
とったというより迎え入れられただけ
>天武は関が原で近江朝廷を破った
すぐ近くじゃん?
まあ京都に限定することはないけど、
政治的中心地域からの距離は重要だわな絶対ではないけど。
891 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 20:04
これだけは言える
東 北 か ら は 天 下 は 獲 れ な い
892 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 20:13
足利は関東からじゃなくて九州からだろ、天下は。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 20:15
>>891 平将門公はそれを知っていたから親皇と名乗り、新たな天下を作ろうとしたんだな。
894 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 21:35
>>891 北畠顕家に今少しばかりの大軍があれば尊氏などっ!
895 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 21:37
いや、無かったし・・・
896 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 21:37
>>890 薩摩人が天下をとったのはスルーしておるな。
明治政府は文字通りの薩長幕府
897 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 21:41
>896
幕府?ばくふ?ばばばばばくくくくくふふふふふ?
>>894 兵力無いということは
人口無いということで
やっぱ東北だめジャン!?
義経+奥州藤原だったらどうっただろうか?
義経は戦術家だったから、
戦略家の頼朝にはかなわない。
仮に奥州で粘っても時間の問題。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 22:19
義経に対して嫉妬がなければな
901 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 22:21
義経はジンギスカンとなって孫のフビライが日本を征服しにやってきたんだよ。
元からの使者を切り捨てたのは源氏を滅ぼした陰謀を弾劾したからなんだよ。
>>891 確かにあそこから天下とれたらもう人間じゃないな
日本史板向けになってまいった
次スレは
「僻地から天下を盗める可能性」
でいく?
905 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 23:10
よしそれでいこうどうせ単発スレだし迷走するならとことん行こう
天下とはなんだっ!
907 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 23:24
自分の属する文化圏の土地人民を自分あるいは自分の属する集団
あるいは血族の意思の元に統治を行える状態にすることを
「天下を取る」と定義してみるテスト
かぁさん、天下って・・・なンだろな
征夷大将軍になること?
無敵の戦闘軍団?
類まれなる政治力?
巨大なる領土?
たぶん答えは
わがままを言えること
だろうか?
909 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 23:28
早い話が特定の個人あるいは特定の血族ないし徒党が自己の文化圏を
自己の意思が届くように統一することを「天下をとる」という。
これは「王」と言うことである。
そして自己が属する文化圏以外の周辺文化圏を含む複数の大規模集団
ないし文化圏に影響を行使しえる人が「皇帝」ということである。
910 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 23:30
信長は朝廷から下された官位に興味なかった。
織田こそが絶対である。
織田こそが世界の意思である。
そうした発想を持つ第六天魔王が好んだのは地球儀を回し
世界に思いをはせる事。
信長の「天下」とは!
ザ・ワールド!
911 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 23:34
征夷大将軍は天下を取るための手段にすぎない
関白も手段に過ぎない執権も手段に過ぎない
所詮は既成の権威にすぎぬ!
北条が堕落した足利の権威を嵩に威を振るおうが、
謙信が管領をめざそうが、信長は意に介さない。
下郎が!そんなものはくれてやるっ
信長がめざすのはそんなちっぽけなものではないわっ
猿や家康には決してわからぬ夢っ
それはなんだかわかるかっ
下天はしょせん夢。
夢の中で人臣を極めたところで所詮天皇の下につぐにすぎぬっ
そんなものをめざしているのではないっ
わがままを押し通す事かな
何で人は人に従うんだろうか。逆らえない状況というのはどのようにして生まれるのか。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 00:06
天下は一人の天下にあらず
天下の天下なり
[呂氏春秋]
915 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 00:10
やきいもは一人のやきいもにあらず
やきいものやきいもなり
犬もリーダー犬の方がストレス貯めやすいらしい
918 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 00:59
オマエのものは俺のもの
俺のものは俺のもの
[剛田剛]
さからうものは
死けい!
アハハ。
いい気もちだ。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 01:06
尾張統一すんのに何年掛かったんだろか。
921 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 01:18
信長は尾張半国からスタート
信玄は甲斐一国からスタート
信長は尾張半国今川撃退美濃征服浅井同盟京都上洛三好姉川本願寺
松永武田上杉毛利本能寺と天魔か神か、
信玄甲信2国獲得数十年要約上杉北条今川長野徳川卒中死亡
と雲泥の差
戦国大名になったのは厳密に言えば信長だけでしょ
他は家臣団との力関係が微妙
>>922 いやその微妙なのが戦国大名なのではないかと
信長のほうが異端でしょ
924 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 01:24
信長は明らかに天下を意識していたというか
西洋の絶対主義にちかくねえこいつの考え方って
王権がここまで強化されたら講もなるかって感じ。
つか、信長と信玄を比べるのは間違え。
あんな山猿と一緒にすんなや
926 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 01:35
むしろ虎なんだが。
>>921 美濃尾張だけで
100万超えてるわけ
それと地理的に恵まれすぎね
この二国抑えるだけで一歩リードどころの
話ではないね
てか
尾張だけでも今川と対決するだけの力はあったでしょ
928 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 04:29
>927
ねえよ。
あんなもん、本当に幸運が重なった奇跡のような闇討で義元討ち取ったってだけで、
そのことを信長が一番よく知ってたんじゃねーか?
もし朝倉義景が上杉謙信みたいな戦の天才だったら信長も大変だっただろうな。
そうだね。周辺の豪族を勝手に勘当したり、
手懐けに苦労した挙句に武力抵抗され、それを鎮定できなかったり。
とばっちりが大変だったろうよ。
もし信行が(ry
933 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 06:08
宗滴一人有効に使いこなせない殿じゃなあ。
934 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 07:03
>>927 尾張の石高は太閣検地では確かに60万石もあるが、
それが桶狭間当時の石高とはかなり離れていたと推定される。
まず尾張は信長が統一し倒れるまで平和であったし、その後も大きな混乱はなかった。
そのため、土地が荒れる事も人口が激減する事もなく発展に有利であった。
正確には徴兵はあったがそれで失われる人員は全体数から見てたいしたものでもなかったと思われる。
それと信長も地盤である尾張の開発にはそれなりに熱心であったと思われる。
短期に石高が上昇する事も多く、桶狭間当時の尾張は数割程度差し引いて考えた方が良いと思われる。
935 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 07:05
桶狭間の段階で信長が尾張統一している国持大名だと思いこんでるんじゃないの?
936 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 07:55
937 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 08:01
>>927 >尾張だけでも今川と対決するだけの力はあったでしょ
なんて言ってる時点で怪しいだろw
痛いところを突かれたみたいだな
939 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 10:29
竹中半兵衛が十数人、数時間で岐阜城自体は落としているのだから、
7年はやはりかかりすぎでは?
940 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 10:42
岐阜城落としただけで美濃が取れるならね
岐阜城を落とせたのなら、ね。
>>939 その話しってやはり常識的に考えて胡散臭い。
仮に数十人っで城を取ったにしろ、その後の守備はどうなんだか・・・
いくら半兵衛でも千人も兵を連れて来られたらどうしようもないや。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 11:04
クーデターは身内がやるから成功するのであって、
いきなり見知らぬ奴がやってきて乗っ取るのとでは
難易度に雲泥の差があるぞ
944 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 11:12
>>927 やはり信玄は信長ほどの器量はなかったと認めるんですね?
945 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 11:17
織田も武田も島津から見たらカスだけどね。
島津最強
946 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 11:20
>>945 ああ、DQN度では信玄も信長も尻尾を巻いて逃げるね。
信長や信玄は後世で非難を受けるような事でもちゃんと理由があってやっているけど
島津は本能に任せたやっただけだからなぁ…
947 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 11:25
>>946w
何を言っても、速攻で落ちぶれた家なんて論外
早漏野郎は所詮女に嫌われる罠。
島津の殿に暗君なし
で、300年後に倒幕成功!! 本当に神だな
マジレスすると本当に倒幕したのは毛利であって
薩摩は途中から便乗しただけ。
949 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 11:51
>>948 プゲラッチョ
維新の元勲の顔ぶれを見ろよ。
何時始めたかではなく、誰が完結したかだろ?w
家康とか好きそうだな
951 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 12:07
おまえら本当にバカだな。日本史しらなすぎ。
952 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 12:07
>>950 プゲラヲス
島津って言ってるだろ?
まぁ ヘタレ武田&織田よりはマシだけどな。
しかし大久保が死んだ後の主要人物はみんな長州勢だよな。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 12:17
900に入って一気にレベルがさがったな
他の大名と比べたがるヤツが多いがどこの大名とて権力基盤は様々だから
似たような権力構成の大名はあるが同じ権力構成の大名はなかろう。
織田家は信秀から引継ぎがあまりうまくいかなかったことで信長が若い頃から
苦労している、その後も国内のゴタゴタなどあるわけだが外部からの侵攻を
防いだ事、さらに美濃併合を成し遂げることによってやっと権力基盤が安定
するわけだが。
似たような、というと武田信虎かもしれん。
信虎もあまり良い状態で跡は継げていない、外部からの侵攻も度々防いで
信濃に侵攻しようとするわけだが、信虎の場合は信濃を併合できず、国内の
反対派に息子を担ぎあげられてしまい追放されてしまった。
信長だって一歩間違えれば信虎の道をたどることになったわけで。
そういう意味ではたった7年でよく結果を出したとほめてやってもいいのでは
ないかと思うわけです。
具体的な内容がゼロだから全く参考にならんな。勝手にほめてろ。
薩摩は、蛤御門の変など長州が征伐喰らってた時は幕府側に立って長州いじめてた癖に
時勢が長州に有利になると長州に肩入れしだした。
第二次征長戦争では武器弾薬は回したものの援軍を出す事はしなかった。
長州の勝利に終わるとさも初めから長州の味方だったような顔して京都に乗り込んできやがった。
鳥羽・伏見の戦いでは温存してた精鋭で幕府軍を破り討幕派の旗頭として我が物顔に振舞った。
いやぁ、小早川秀秋並みに最悪ですね。薩摩の芋は。
>>949 倒幕と維新をごちゃ混ぜにしているかなり恥ずかしい奴。
958 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 13:31
NHKにまでアンチキャンペーン張られるほど嫌われてるのに
気付けない島津は空気読めてないよね。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 13:37
島津のこと嫌いじゃなかったけどこういう連中見てると嫌いになりそうだ
実は島津厨装ったアンチ島津だったりして
961 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 13:51
次スレ(゚听)イラネ
次スレは
島津は倒幕するのに何故三百年もかかったのか?
ですか?
桶狭間の時、信長自身が影響力発揮できたのは8万石程度だったらしい
次スレはその辺に転がってるくそスレのっとればいいんじゃないか?
長州には長州力があるけど、薩摩には桜島がマグマだな
966 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 14:47
島津に殺された琉球の人々のいのちをかえして!
967 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 15:00
968 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 15:24
969 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 15:36
このスレで祭りやってたやつは
・どうすれば北伐が成功したか
・2万5千で上洛できるかよ
・手取川はなかった
・もし今川が上洛していたら
これらのスレで活躍されていらっしゃった方たちですか?
>>966 うむ!
いのちを返してやりたいから連絡先を教えてくれ!
一刻を争うので大至急頼む
971 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 15:46
いのちをかえせないのですね。
でしたら、できない事を強要する島津よりも
尚氏がたたかいのない世界を選んだ平和主義者ということです。
やまとんちゅは野蛮人のあつまり。
972 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 15:50
薩長に殺された会津の人々のいのちをかえして!
973 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 15:52
薩長に謀殺された孝明天皇のいのちをかえして!
975 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 17:47
たてるなっていったろ、短小
自演?w
977 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 17:50
信長は美濃を落とすのに何故七年もかかったのか?
もしも騙された人が居たら、2ちゃんのためにも専用ブラウザを使ってあげようね
980 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 18:13
竹中半兵衛がいたから落とせなかった
で、ファイナルアンサー
斎藤竜興が半兵衛の策を受け入れないので不正解
落ちない城はどこにも無い
2回ともひっかかってしまった_| ̄|〇