足利将軍家総合スレ

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1無名武将@お腹せっぷく
日本史で一番混乱が多かった足利幕府を語ろう。
目立たない人物(義晴とか)目立つ人(義輝、義満とか)を
総合的に
2無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 12:55
!i.                 i,      ! なんと! 明治天皇陛下が>>2getなされました!
i、_           __,,,-- 、 \     !  おまえら全員ひれ伏してください。おながいします。
!、_`'''''-- 、:: :: ,,,,-ー'___,,,,,- 、  i   ノ| !
i ~'ー-- 、ヽi. iヽ __,,-'___,,,,,,,,__  i  /`i.i.!  帝ハ神ナリ。帝ハ神ナリ。帝ハ神ナリ。帝ハ神ナリ。帝ハ神ナリ。帝ハ神ナリ。
i<"弋~゙゙>.i゙ .:゙:::゙<´弋~ノ,-''´  i ! i.  i.i!
i `'ー゙'´´.,i ::::::  `'ー''゙´   .::;ヽ! i ノ i  >>1た垣 退助 お前の命に価値なんかねーよ。自由>∞>お前の命(藁
i      i  :::::  :::::::..   .::;;;;;;;;;゙i,゙i  i  >>3条 実美   お前のようなヘタレが本当に太政大臣なのか?(w
.i,    ,;i  :_,,::::.  ::::::..  ;;;;;;;;;;;!,,,,,,/.  大隈 >>4げ信 てめーの作った大学、お前並にDQNだな(プッ
. i   i.    ヽ::   ::::.  ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,i   西>>5う 隆盛  ガキみたいな喧嘩ごときで下野してんじゃねーよ。(笑
 i.   ヽi!i,__i!!!''゙     ::;;;;;;;::::::;;;;;;;;;;;,i   伊藤 ひ>>6文 おいおい、チョンごときに暗殺されんなよ(禿藁)
 i  /  ,-、 `'-,,       ::::;;;;;;;;;;,i   >>7か江 兆民 アル中で議員やめて、その後の事業ことごとく失敗(プッ
  i/  /"''"ヽ  `'-,    :::::;;;;;;;;;;i    >>8ま県 有朋 維新早々、いきなり汚職事件おこしてんじゃねーよ(藁
/__,,-'´-,,____,,-`'-,,___\  ....:::::;;;;;;;/    大>>9保 利通 征韓論に反対したくせに征台するのかよ、おめでてーな(w
 ̄ ゙i,   / ゙i,      ̄    ,;;;;-'      江>>10 新平   大久保ごときに惨敗すんなんて、お前ホント雑魚だな(笑
立てるとこ間違ってるだろ。義満とか入るならこっちだぞ。
日本史板
http://academy2.2ch.net/history/
4しょうぐんさま:03/08/31 12:59
           _,,..-一=''ー-、.,,
        __,,.;-''´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`‐-、._
       r´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'ヽ、
      (;;;;;;;;;;;;;;;;;;:::::''''''''''''''''::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i、
      `i;;;;;;;;;::'''      .....::.;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i
       ''''''/        .......::::::::;;;;;;;;;;;;;;;l、
        /  ,__ 、___::::::::::;:::;;;;;;;;;;;;;;i
       ⊥ _ f ‐._´`i ̄ ̄ ̄ ::::::: r´ `i,;;;;;;,l
      r´. l_,.,i t, "~’j     ::  ヽ, .l;;;;;;i
      'i、 |'~ノ ,ヾ-‐´       l ィ´, ノ;;;;l、
      `-+イ、,・ .)、       `;- ´ ;;;;;;;j
.       `::ノ ,=--、ヽ         /';、
        `i 、==‐フ        ,/   ヽ--―--、
         `i、"´   ノ    .ィ´    _.ィ´   ,,>ー-、_
          ヽ__, ,ィ"´   ,.ィ´    ,.ィ´ //  /   ''" `i、
        〃´  >- 、  /     /  //  /´   〃彡フ i、
        /   ,ノ ,=、ヽ/\    ,:'´   // /    /    `i、
       /| l ノ’/  Y  \ /   / 〈/  _ .ィ´      i、
      l lィ´イ´ / |    `´   ノ   .ll _.ィ´        `i、
        .| | i.  /   | i,      /   .||イ            i、  

「日帝の将軍など語るまでもない。それより援助が先だ!」と将軍様がおっしゃられていますが…
5無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:03
>>3
ならば8代将軍義政以降ということで・・・
6無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:03
足利は戦国と濃い関係があるから良いと思う。
戦国と絡めていきましょう
>>5
ならば9代将軍義尚以降ということで・・・
>>7
ならば10代将軍義稙以降ということで・・・
とりあえず>>1がネタ振ってくれ!
>>8
ならば11代将軍義澄以降ということで・・・
11無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:09
戦国初心者で義晴ってなんだ?という風に思った人いない?
なんであんな目立たない将軍から義輝みたいな暴れん坊が生まれたか謎
>>10
ならば12代将軍義晴以降ということで・・・
13無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:10
日本史板に似たようなスレ立ってるよ
>>12
ならば13代将軍義輝以降ということで・・・
>>14
ならば14代将軍義栄以降ということで・・・
>>15
ならば15代将軍義昭以降ということで・・・
17無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:12
>>将軍と将軍をかけているのか(w
>>16
ならば16代将軍・・・ふっ、終わったな・・・
>>18
義昭の子供は仏門にはいっています
ならば古河公方と小弓公方を語りましょう。
21無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:16
下馬将軍を語ろうぜ
>>20
賛成
所詮、義澄以降は堀越公方系なんでそっちは排除。
24無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:17
>>19
萌え!
>>19
陪臣になったヤツもいるよね、確か。
>>20-23
まあ一族だからいっか
>>24
こらこら、そんなことで萌え!ていたら足利家なんて還俗したヤツばっかじゃん。
個人的には6代将軍義教の恐怖政治が好きだけど。
殺された将軍多いな。まあ、鎌倉幕府なんか全員だけどw
私は通りすがりの初心者です。
だれか家系図を書いてくれ、頼む。全然、掘越公方と
将軍家の関係がわからない
30無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:24
>>29
ググったほうが早い
31無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:25
>>28
実朝なんて射精もんだろ
>>28
義満も暗殺された説が浮上してるな。
義教、義輝…あとは?
>>28
実朝はほら、あれが・・・・だからさw
34無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:26
「三島由紀夫と足利幕府」
>>33
なんだ?
>>31
詳細キボン
喜連川家も含んでいいのかねえ。
あれって義氏の娘(氏姫)が国朝、頼氏の兄弟食いしてるし、古河、小弓が合流
してるんだよね。
幕府も堀越系の義昭の血脈には何もしていないけど、喜連川家には所領を安堵し
て、家格も大名並みにしてる。何でだろ?
>>34
金閣寺つながり?
39無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:35
>>37
喜連川頼純の娘は秀吉の側室になってる
でもって寝物語に御家再興をおねだりして、娘に与えられた喜連川荘の所領を
そのまま受け継いだ
40無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:36
>>31
そりゃ、射精くらいするだろwww
足利の領地って江戸時代にもあったんですか?
>>40
だ か ら 詳細キボン
43無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:38
>>41
足利家じゃなくて喜連川家として血脈を保ってる
高家扱いだけど
4440:03/08/31 13:41
>>42
俺は>>31じゃないよ。
でも、おまえさまも射精くらいするだろ?しないの?
>>44
俺は男だけど、もし女だったらどうすんの?
4631:03/08/31 13:45
>>42
おれが、ただ単に暗殺事件が興味付深かったってだけ。
表現方法が悪かったよ。
実朝はスレも板も違うし、ごめんよ。
4742:03/08/31 13:48
>>46
胸のつかえがとれました(W
48足利成氏:03/08/31 13:48
やはり我が足利家こそ三戦板の頂点に立つに相応しい家柄じゃ!
49無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:50
>>48
その足で三国武将を屈服させてこいや
50足利政知:03/08/31 13:51
あ、あの〜鎌倉に行きたいんですが、この道でいいんでしょうか?
>>48
その前にせめて関東ぐらいは・・・
52無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 13:58
>>50
はいそうです東北道をひたすら北に行って下さい
53無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 14:00
今でも足利ってひといるけどやっぱり血縁なんですか?
54無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 14:00
傀儡政権age
55堀越駐在所巡査:03/08/31 14:03
>>50
ダメダメダメ!この先は通行止めなんだから
悪いけど迂回してくれる?
56無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 14:08
ウジだらけの家系を語るスレはここですか?
57ウジ:03/08/31 14:12
>>56
俺を引き合いに出すな!
58足利政知:03/08/31 14:25
あ、あの〜迂回して川を上ったら、標識に「甲府」って書いてあったんですけど
大丈夫ですかねえ?
59無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 14:58
>>58
早く逃げて−−−−ー!!!!
60無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 15:06
阿波に14代義栄系の子孫がいる話はきいたことあるね
61足利政知:03/08/31 15:09
>>59
あ、あの〜どっちに逃げればいいんですか?
62無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 15:13
足利正当の血を引く足利銀行が今瀕死の重傷なわけだが。

以前は足利家の家紋をそのまま使用していたのに。
63無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 15:20
所詮、地方銀行だしw
64足利政知:03/08/31 17:42
あ、あの〜標識見たら「佐久」と書いてあるんですが・・・
>>62
足利のどの子孫なの?公方?将軍?
詳細キボン
>>60
平島さんだろ?
67足利政知:03/09/01 03:00
あ、あの〜何か海が見えてきたんですけど・・・
68無名武将@お腹せっぷく:03/09/01 13:34
>>67
ガンガレ政知
応援するぞ
69赤松満祐:03/09/01 13:46
拝啓 将軍様 暑さ厳しき折 いかがお過ごしでしょうか?
さて・・・私事ですが我が家の鴨の雛が孵りました。大変かわいく心癒される日々を
過ごしております。
雛を見にお出ましになりませんか?日ごろの政務の疲れも多少なりと癒されると存じます。
70足利政知:03/09/01 16:06
>>68
あ、あの〜ここはどこなんでしょうねえ・・・「毘」って旗を立てた人たちがたくさん
いるんですけど・・・
政知はやくーーーー!!!^^
72無名武将@お腹せっぷく:03/09/01 20:58
>>69
ワロタ
行ったら即、あぼーんだな(w 
>>69
義教ひとりごちる
「なんだ満祐のやつ、雅の心を解さぬ偏屈者かと思っていたがこれはどうして、
なかなか粋なことをしおるわ。おおかたワシが一族の貞村を可愛がっておることを嫉妬し
己の地位が危ういことを気にかけておるようじゃ。
ははっまあよい、ワシは赤松なんぞ潰そうとも考えておらぬわ。
せいぜい一族が互いに牽制し合い、力を削るのが狙いよ。
ワシはのらりくらりと立ち振舞うが積の山、君臨すれど何の力もないワシに残された
唯一のアガきよ。

ははっ今宵は少し酒が回ったようじゃな。音阿弥、しとねに案内せい。

ところで先日、満祐の屋敷に刀が300振届いたそうじゃが、ワシにくれるのかな(藁」
74無名武将@お腹せっぷく:03/09/01 23:18
>>65
明治時代、足利出身の豪商が勝手に足利家の家紋を使って銀行作っただけ。
島津製作所もカモン仕様を許されただけだろ
76赤松満祐 :03/09/02 13:08
これはこれは将軍様、ようこそお越し下さいました。
ただ今酒の準備を致します故、暫時お待ちを。
77赤松家臣:03/09/02 17:44
ウマが逃げたぞー!!
ウマが逃げないようにモンを閉ざせー!!」
78義教:03/09/03 09:53
義教曰く
「人が楽しんでいるのに不粋な、早く馬を止めろ」
79無名武将@お腹せっぷく:03/09/05 09:17
age
義満が一休ととんち勝負にうつつを抜かしていなければ、
あと6代ぐらいは足利幕府は続いていた。
>>80
・・・おまえよくこの板に居られるな
>>80
さ〜〜すが!!その博学さには驚嘆させられるyo!
>>80
新右衛門が将軍様に目を覚ませと進言すればさらに10代加算
>>80
新右衛門さんがサヨちゃんに手を出したら大内氏が再度反乱して5代マイナス
>>80
ポクポク瞑想する一休さんを新右衛門さんが情け容赦なく切り捨てて+1代加算
86無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 00:48
喜連川家は徳川家の臣下に非ず!!だったらしいね
ホントかどうかは知らんが
氏姫の兄弟食いに・・・(;´Д`)ハァハァ
これ新右衛門、新右衛門はおらぬか
89無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 10:45
喜連川家は江戸時代は10万石の格式を持ってたそうです。
ということは国主格?
90無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 14:08
新右衛門はK1の有名な選手の祖先
91無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 16:21
>>89
石高は5000石くらいでしょ
92無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 16:54
93無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 16:56
5千石 10万石格
外様 無席 陣屋 国主格
>>91
秀吉の側室だった足利頼純の娘・島姫(絶世の美女だったらしい)に喜連川領3千5百石
を与えたのが始まりで、これを国朝、頼氏が相続した。
一方、古河公方・足利家は義氏の遺児・氏姫が古河城に残っていたが、北条氏滅亡後には
鴻巣御所に移り、ここで3百〜4百石を領した。名族の衰退を惜しんだ秀吉が国朝と氏姫
を娶わせ、国朝死後、喜連川領の相続を願い出た頼氏を娶わせた。頼氏は家康の治世下で
1千石程度を加増される。頼氏と氏姫の子・義親は生涯、鴻巣御所にあったが頼氏に先立
ち死去、遺児・尊信が頼氏の死後、喜連川領と鴻巣御所領を併合する形で喜連川に移った。
なお、喜連川藩は高家となり、石高5千石(実高1万石)ながら10万石の家格を以て遇さ
れた。維新後、足利姓に改姓。

とまあ、こんな話だそうな。
95無名武将@お腹せっぷく:03/09/09 23:53
堀越公方系に比べると厚遇されてるな
義昭の子孫なんて陪臣に成り下がるか坊主になるしかなかったわけだし
96無名武将@お腹せっぷく:03/09/10 00:47
>>60
平島公方は細川(持隆)や三好、長宗我部にはそれなりに厚遇(所領3千貫程度)されていたのに、
蜂須賀からは冷遇され、百石程度の捨扶持を与えられるだけで、しかも平島姓を名乗ることを
強要されたようだね。
血脈としては、義維(義冬)―義助―義種―義次(平島姓)―義景―義辰―義武―義宣―義根・・・
と脈々と続いていた。
歴代公方の中には漢詩文などに才を示す者もいて、平島は地方文化の中心となっていたようだが、
その底流には常に蜂須賀家による冷遇に対する不満があり、第9代平島公方・義根が京都の名門
を介して蜂須賀氏に増禄を求めたが容れられなかったため、1805年に阿波から退去し、紀州
を経て京へ帰っていった。なお、平島公方系の足利家は維新後、華族籍に入れられず平民籍に入
れられたらしい。
なんかつくづくお気の毒だけど、形ばかりとは言いながら、江戸後期まで平島公方が続いていた
とは・・・
97無名武将@お腹せっぷく:03/09/10 02:31
喜連川(古河)公方>>>>>>>平島公方>>>>>>>堀越公方(滅亡)

ということでいいのか?
98無名武将@お腹せっぷく:03/09/10 23:38
学者肌だなおまいら
これ新右衛門、新右衛門はおらぬか
100無名武将@お腹せっぷく:03/09/10 23:58
新右衛門さんなら、桔梗屋の所だよ
101無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:06
堀越系がかな〜り劣勢でつね・・・
102無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:18
>>101
小田氏治がいるではないか?
103無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:22
斯波って名字はどうも劣等感感じるね
結婚でもしたら嫁さんの名字なのろうかな
104無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:37
>>102
いてもしょーがない気がするね
105無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:39
氏治タン厚遇しちゃうな・・・あの顔グラが気に入った
106無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:44
いつも人知れず滅亡・・・浪人になってるな>氏治
107無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:46
将星録で撃退し続けて騎馬適性Sになった氏治タンを見たことがあるよ
108無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 15:49
迎撃が基本でしょ
109無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 20:20
義昭をどうしても厚遇してしまう・・・・・・・・鬱
というより、義晴以前の将軍でプレイしたい。
応仁の乱のはじまりから信長の野望を作って欲しい。
いつも北条が関東に居座った状態からしかできない。
山城国に隣接する大名家に討伐令を出したら、2〜3ターン以内で反逆してくるに決まってるだろ!
と思うのだが・・・将軍家さん、大丈夫?
自ら地雷を踏んで滅亡していく将軍家・・・(ry
111無名武将@お腹せっぷく:03/09/12 00:00
>>109
義氏を厚遇してしまう。
堀越系(義輝→義昭)よりも古河系(小弓系)でのプレイだな。
北条にも上杉にもいい顔しなきゃいけないのがな…。でも、古河公方って小大名と
同じ位置づけでいいのか?
権力要らないから権威だけでも与えろっての!
112無名武将@お腹せっぷく:03/09/12 06:29
平島公方プレイかあ・・・
天下統一のシナリオエディタで平島公方独立させたけど
三好に瞬殺されたよ。加賀の富樫並み(ワラ
114無名武将@お腹せっぷく:03/09/12 07:05
信長が義昭を追放した時点で室町幕府は滅亡したと言われてるけど、秀吉政権下で征夷大将軍を
辞するまで依然として義昭は将軍だったわけで・・・
秀吉の「養子にしてくれ」という申し出を敢然と断った義昭って案外凄くない?
115無名武将@お腹せっぷく:03/09/12 08:39
小田政治の顔グラを見て我思う・・・五木ひろしに似てねえか?と。
116無名武将@お腹せっぷく:03/09/12 08:51
小田は堀越系
鎌倉公方の本流はやっぱ古河系だな
>>94
喜連川頼氏の後妻は、徳川家康の愛妾・於六の方なんだね
118無名武将@お腹せっぷく:03/09/12 22:39
>>117
香炉の破片が当たって死んでますね・・・それにしてもネタみたいな死に方>於六の方
119愛亜弥派 ◆lriH5VZGZs :03/09/13 04:28
義植は意外と剛の者だったらしい
120無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 04:29
>>119
何が?
121愛亜弥派 ◆lriH5VZGZs :03/09/13 04:35
刺客を返り討ちにした
122無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 04:40
>>119
「義稙」ですのであしからず。
それにしても京を出たり入ったりして、将軍の座を奪回したりするところが凄いね。
あまりにも目まぐるしくて整理するのが大変じゃない?
123無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 04:41
>>121
「まろは・・・」「・・・でおじゃる」調の将軍様から見れば剛の者かも知れんね。
124愛亜弥派 ◆lriH5VZGZs :03/09/13 04:42
俺のはノ木ヘンのやつ出ないから植でいいよ
125無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 04:46
>>124
人名だからね、一応。
でも、やっぱり足利将軍に剣豪は似合わないな。
盃を傾けながら「おほほほ・・・」とか言ってる公家っぽい将軍の方が
担いであげたい、と思えるね。
126愛亜弥派 ◆lriH5VZGZs :03/09/13 04:49
日野の血が入ってるわりには変種だよね

因みに早乙女貢「悪霊・松永弾正久秀」ではロリータエロ公方として描かれてた。。。
127無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 05:21
>>126
詳細きぼーん!!
128愛亜弥派 ◆lriH5VZGZs :03/09/14 01:20
>>127
刀禰とかいう13〜14歳のヒロインが出てくるのだが
阿波へ都落ちする時も一緒だった
129無名武将@お腹せっぷく:03/09/14 11:47
籤将軍でプレイしたい。
暴君プレイ最高。
130無名武将@お腹せっぷく:03/09/14 16:40
13〜14歳なら当時はロリータじゃないと思うけど・・・
たねっちが阿波へ落ちるときっていうと、晩年だな。
ジジイの身で13,4の少女と・・・
ハァハァ
132無名武将@お腹せっぷく:03/09/15 05:24
き、喜連川家が「創世」でリストラされてる・・・うぅ・・・
133無名武将@お腹せっぷく:03/09/15 16:42
>>125
禿同
やっぱり江戸以前の幕府は蹴鞠や和歌に興じていた方がいい。
134無名武将@お腹せっぷく:03/09/15 17:04
>>132
蒼天録、嵐世記あたりでマターリやるしかないですな
135無名武将@お腹せっぷく:03/09/15 17:40
>>133
見てるこっちに「保護してやらにゃあ・・・」と思わせるのが真の将軍像・・・違うか?w
えー、俺は義稙や義輝みたいな筋骨隆々な将軍様が好きだけどなあ・・・
あと義教みたいな暴君様とかw
137足利義政:03/09/15 19:00
過ぎたるは及ばざるが如し、と言うではないか。
庭園を造るなり、歌を詠むなりマターリするに限るぞよ、おほほほ・・・
138133:03/09/15 21:39
>>135
義輝なんかはなんか保護したくないよな
今川氏真なんかが好まれる理由の一つでもある。
139無名武将@お腹せっぷく:03/09/15 22:11
剣術の稽古してるより、セッセと諸大名に書状をしたためてる方が将軍らしい。
ちなみに「信長の野望」では畿内の大名家でプレイすることが多いが、その場合、比叡山or山城国衆
に一揆を起こさせ、将軍家を近江国・朽木谷館に追い出してから山城国を占拠し、角が立たないよう
にしてる。


140無名武将@お腹せっぷく:03/09/16 09:56
衣冠束帯を着て、有名な風流人と茶を嗜みながら「おほほほ」とか「近頃の右大臣殿は・・・」
とか言っている将軍を擁立したくてたまらない
室町の将軍でそんな余裕があった人って、あまり居ないんじゃないの?
俺は徳川家の将軍はのほほんとしてほしいけど
足利将軍は武人って感じの方がいいな。
尊氏が鎌倉を滅ぼし、上皇から権力を奪って生まれた幕府のイメージがあるから。
143無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 03:09
>>142
初代は尊氏にしても家康にしても武人だけど、代を重ねるごとに華美な生活
に毒されてダメダメになっていくわけで。
まあ、将軍が自ら軍勢を率いていくようではもはやダメ政権なんだけどさ。
144無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 15:39
>>143
そりゃあ初代がしっかりしていなきゃ、幕府は作れないもんね。
・・・・・劉邦は特別
145無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 16:17
将軍ではないが理想は北条泰時みたいな最高権力者になるか
146無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 16:32
>>96
>>60だけど、詳細な説明付け加えてくれてありがとう。

ただ・・・昔、大河ドラマの太平記の後の小紀行みたいな
やつ(大河の終わりにはいつもそういうのついてるじゃん)
で、徳島の回があり、
「ここ徳島にも尊氏の子孫が残っています。OOさんは尊氏から
〜〜代目の子孫にあたります」
などといって、四国の足利姓の人がなかなか由緒ある屋敷と
共に写っていた。
京都に退去した後、もしかして、徳島に戻ったのかもしれないね。

あと、鴻巣御所って埼玉の鴻巣?
何か史跡とかあるのかな?
近いからいってみよか。
147無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 16:36
>>125
稙  手書きパットで書け
148無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 16:36
そういえば・・・
地方の足利系といえば、尊氏の養子直冬系の人が南北朝の末期に
いたという話はきいたことある。

土着して苗字も変えてしまったんだけど、
何という家を名乗ったんだっけなあ。
忘れてしまった。
149無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 16:43
平島公方の話。大学の図書館でいろいろ調べていたんだけど、
義栄が阿波に流れた後、どうやって、蜂須賀の支配下に入ったかの敬意が
どうしてもわからない。

義栄は義昭が京都で15代になった直後に29歳で病死(おそらく暗殺)
してるんだけど、そこで遺児がいたとかそういう記録は
いろいろ調べたけどなかなかない。
仮に10歳ぐらいの男子があったとしても、
そこからの阿波は長宗我部が進出してきたりして
大混乱するから、そこで、公方家を維持することは
大変な困難だったことだろう。

もう少し、この辺りの事情知りたいですね。
150無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 16:54
梓弓われこそあらめ引き連れて人にさえ憂き月を見せつる
将軍義教を謀殺した赤松は直冬の孫を担ぎ出した
151無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 19:06
一度将軍に就任してから、位を譲った後、再び将軍に就任して何代目と区別するのは
よくない。
152無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 19:57
>151
明朝だと正統帝と天順帝は同一人物だけど、それぞれ6代と8代にカウントしてる。
153無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 20:05
>>150
なんかその話はきいたことあるな。
154無名武将@お腹せっぷく:03/09/17 21:33
家臣思いのいい奴・・・それが足利直冬
>149
義栄は平島公方の祖じゃないよ。阿波に逃げる途中、摂津で死去したとも言われてる。
初代義冬(義維のこと)の長男義親が義栄のこと。義親の弟が義助で、実質的に平島庄に在住した。蜂須賀氏に百石をあてがわれたのもこの人。
平島公方は義澄系と対立する義稙系だったので(義冬は義稙の猶子とされる)、同じ人物なのに名前を別にしている。
ちょっとややこしいかも。
156無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 02:58
太平記は仁義なき戦いみたいで面白い。
157無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 05:22
>>149
>>155の言う通り、平島公方は義栄の血統ではなく、弟の義助の血統。
ちなみに細川氏・三好氏もさることながら、長宗我部氏も平島公方家の本領を
安堵している。 むしろ受難は蜂須賀氏が阿波に入ってからだろう。
家臣に組み入れるわけにもいかないので与えたのは捨扶持100石のみ。しかも平島
姓を名乗ることを強要した。
時代は既に幕藩体制に入っており、地侍上がりの蜂須賀氏からしてみれば、平島公方
など前時代の遺物に過ぎず、領内統治という点から見ても、平島の独自の文化的土壌
や土着的権威はむしろ受け入れ難いものだったのかも知れない。
158無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 06:34
>>146
それは屋敷ではなくて寺院では?
公方屋敷の一部が地蔵寺という寺院に移築されて現存しているらしい。

「鴻巣御所」は茨城県古河市。古河総合公園になっていて空堀と土塁が残っている。
古河公方初代・足利成氏が古河城築城前に建てた居館のことで、小田原征伐後、古河城を
退去させられた5代義氏の遺児・氏姫が移されて「鴻巣御所」と呼ばれた。
隣接する寺院に義氏、氏姫、義親(氏姫の子)の墓所がある。
159無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 08:44
>>158
>隣接する寺院に義氏、氏姫、義親(氏姫の子)の墓所がある
正しくは徳源院の跡地
160無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 13:31
鴻ノ巣御所に退いた氏姫に与えられた所領は僅か330石余り・・・し、しどい!
しかも古河城主・小笠原氏の所領の真っ只中に鴻ノ巣御所の所領があるという奇妙な
構造だったらしい
161無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 08:16
流浪の将軍AGE
162無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 08:35
>>160
ええやん・・・バカチン市国みたいで・・・・
163無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 08:55
>>162
居城のすぐ隣に公方領…小笠原もやりにくかっただろうな
164無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 09:02
>>163
まあ小笠原も旧守護大名の血を引いてるからまあなんとか・・・
もし戦国期の成り上がりだったら・・・
165無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 09:12
>>164
平島公方と蜂須賀みたいなケースもあるし。
でも330石なんて中級旗本以下やんけ。それでよく古河公方時代からの家臣を
養えたな。まあ、一色あたりは徳川の直参になってるようだが。
166無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 09:26
>>165
みんな一律90%カットとかやったのではないかと
167無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 10:11
>>162
鴻巣御所では「実物を見ないで似顔絵を描こう選手権」とかやってたのか?
168お知らせ:03/09/19 11:24
現在テレビ朝日系毎週火曜20:00〜20:54の時間には、
『運命のダダダダ〜〜ンZ』を放送中です。毎週テーマ別に
分けて色々な運命を分けたエピソードをクイズ形式で紹介しています。
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169無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 12:18
>>166
秀吉が「古河足利家の没落ぶりを惜しんで喜連川国朝と婚姻させた」ことになってるけど
古河城から氏姫を退去させたのは実は秀吉だったりするんだよね。
喜連川との婚姻も、実は側室・古河姫君の懇請によるもので、古河足利家と婚姻を結ぶこ
とで小弓足利家を庶流から嫡流に転じさせ、古河足利家の所領を併合しようという思惑が
あったんじゃないかと。
170無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 12:33
>>167
バチカンでそんなことやってるの?
171無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 12:34
バカチン
172170:03/09/19 12:37
あっ、バカチンだった・・・
173無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 13:17
徳川家は「源氏長者」になるために源氏の血筋を保護したわけだが、そのわりには
堀越系はほとんど無視だな。
174無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 14:24
足利将軍家と今川家とはどういう関係なんですか?功臣ですか?
175無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 20:37
>>174
まずはググッて調べようね
話はそれからということで・・・
176無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 23:15
>>174
今川は足利の代表的な分家です。
177無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 23:32
正確には吉良の分家。
178無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 23:42
>>177
そうだそうだ。
吉良の本もとの出自は三河でそこから別れたんだっけ?
清和源氏足利流吉良支族今川家?
180無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 23:44
>>179
まあそんな感じ。
武将風雲録では今川と足利は音楽が一緒なのだ。

あとは斯波も足利系。上杉は尊氏の母の実家。
山名は新田系だったかな?

徳川の新田系は・・・胡散臭い。
181無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 02:17
>>180
>徳川の新田系は・・・胡散臭い
胡散臭いのではなく明らかな詐称。
そもそも流浪の遊行僧(おそらく時宗)だった徳阿弥が始祖でしょ。
後々になって三河守になるべく藤原系、ついで源氏の系図を買い求めただけ。
>>181
結局3英雄の中では出自が一番マトモなのは信長なんだよね
信長もたかがしれてるけどさ…
183無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 06:29
一色家も足利家の庶流にあたる
結果的に江戸期まで生き残ったのは、古河公方に仕えた直朝の血統だけだね
藤長の血統は江戸初期に途絶えてるし…
184無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 07:46
>>180
今川家は氏真の子・高久が武蔵国品川に屋敷を置き、秀忠の治世下で高家肝煎に
列せられており、こちらは品川姓。
それと氏真の孫(範以の子)・氏房がやはり高家に。家禄は1000石ほど。
但し、今川家は明治後期に血統が絶えた模様。
185184:03/09/20 07:51
>>184
【訂正】
氏真の孫(範以の子)・氏房⇒⇒⇒氏真の孫(範以の子)・直房
186無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 11:04
>今川家は明治後期に血統が絶えた模様。

庶流は残っているという説がある。

今川って駿河以外に分家はないの?
そういう系統は残っていてもおかしくない気するが。

確か義元の従兄弟か弟が尾張の守護になろうとしたけど、
織田信秀に追い返された話があったな。
187無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 11:37
もし織田信長が今川家を滅ぼしたら氏真を初めどうなった思う?
漏れの予想では、幕府の支流だから(後々困るから)死刑ではなく追放になると思う。
>>186
弟・今川氏豊。実際に弟かどうかは疑問もあるらしい。ぐぐってみそ。
189無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 00:19
遠江の今川了俊の系列であれば瀬名氏、堀越氏がある。
瀬名氏は今川家滅亡により没落したが、後に徳川家康に仕えて500石の旗本に。
堀越氏は花倉の乱で義元派につかずに勢力を失い、氏真に攻められて滅亡した。
なお、堀越貞基の子・氏朝は世田谷吉良家の養子となり、徳川家の関東入府後、子・頼久氏が
上総国に1125石を与えられて旗本となった。三河吉良家に遠慮して蒔田姓を名乗ったが、赤穂
事件で吉良家が改易されると吉良姓に復している。
>>188
消息不明だな・・・氏豊
191無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 07:26
>>179
足利義氏(足利義康の孫)の長庶子である吉良長氏の二男・国氏が今川家の祖
となっている。したがって、足利家の庶流・吉良家のさらに庶流が今川家と
いうことになる。
192無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 08:55
ここまでほとんど語られていない足利幕府…何で?
193無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 10:07
尊満が最強
194無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 12:55
>>183
古河系一色も簗田晴助の弟が養子に入っていた筈。
九州には、今川っていないのかなぁ?
今川了俊や仲秋の子孫が残ってても不思議なさそうに思えるんだけど。。。
九州にいる間、女気無しってのは・・・
196無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 22:48
>瀬名氏は今川家滅亡により没落したが、後に徳川家康に仕えて500石の旗本に。

瀬名って家康の最初の奥さんの家計でしょ?
罪滅ぼしのつもりだったのかな。

>>195
そういうのありそうだよね。
うちは欧州北畠の子孫らしい(うそくせえ!)

197無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 22:49
欧州→奥州

自分で後から見て爆笑しちった。
198無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 23:37
>>193
それを言ったら、外れクジ引いた義承もなかなかの逸材
199無名武将@お腹せっぷく:03/09/22 01:36
>>195
今川仲秋の子・国秋(母は九州千葉氏)の子孫が千葉氏、竜造寺氏に仕えている。
後に持永姓を名乗って鍋島氏に仕え、佐賀藩士となっている。
200無名武将@お腹せっぷく:03/09/22 01:36
200貫GET!!
201無名武将@お腹せっぷく:03/09/22 15:07
義輝には一男一女がいたようだが、この2人はどうなったんだろ?
松永・三好三人衆に襲われた際に一緒に殺されたのか、あるいは寺に入れられたのか・・・
202無名武将@お腹せっぷく:03/09/22 17:32
>>201
女の方は知らんけど、男は、無事逃げ延びどこかの寺に出家して過ごしたらしい
>>201-202
覚山天誉のことだね。
義輝が殺害された際、嫡男・義高(乙若丸)は京の誓願寺に逃れて仏門に入っている。
そこで教山善誉に養育された後、八上城主・波多野秀治に預けられた。
成長した義高は再び誓願寺で善誉に師事し、後年、八上城下に誓願時を創建して、覚山天誉
と称した。天誉は晩年、浄福寺に隠居して自適な余生を送り、1624年に死去したと言われて
いる。
204202:03/09/22 18:36
>>203
補足サンクス
205無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 02:03
>>203
政治闘争の渦中に身を置き、非業の最期を遂げるのもひとつの生き方かも知れないが、
世間から離れ、平穏のままに終わる生き方もあるのだな。
あの時代、足利の血筋で自適な余生を送れた者がどれだけいたことか…
206無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 03:47
>>187
信長に処断or追放される前に氏真が自ら逃亡するのでは?
207無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 09:38
武田滅亡後、家康が氏真に駿河の一郡を与えようと信長に言ったら怒られたらしい。
208無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 09:52
>>207
家康は掛川城攻略の際、「駿河を占領したら氏真殿にお返しする」と約束していた
らしい。
その約定を頼りにしたのか、後年、北条氏政の政策転換により小田原を追われた
氏真は、家康を頼って浜松城へ出向き、僅か数年の間ながら牧野城(旧諏訪原城)
の城主になっている。
>>208
ほのぼのだね。氏真も家康も。
210無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 11:04
横光の漫画では女の取り合いまでしているが、
氏実と家康にはなんらかの親交があったのかもな。

そういえば俺の初恋の人は今川さんだった。

どうしているかしらん
ヒーヒー言わされてる
212無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 15:27
足利義輝はかわいそうだ。
まだガキのとき父親に将軍職を勝手に押し付けられて。
その上、幕府を復権させようと努力させようとした挙句、松永とかに奇襲されて
あぼーんだもんな。
213無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 15:41
>212
戦国時代にはよくある話。
>>206
いや、それは無いだろう。
ゲームで描かれている程、彼は愚かではない。
きっと自分の命を助けてくれるなら・・・・と言って開城するだろう。
まあ、波多野みたいになるだろうけどな
215無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 21:21
松永、三好の兵だな・・・・参れ!!
足利尊氏公より十三代目、清和源氏の末裔、征夷大将軍、足利義輝ぞ!!いざ!!
216久秀:03/09/24 18:48
>>215
上様の名を語る不貞の輩じゃ!者ども斬れっ!斬れっ!斬れーーーーっ!!
       __                                        _,,
      _.ノ, `ヽ                 r、          ,.-、    r、, -'"rァ `)
   ∧,.=、l /      r,       _    く ヽ {,_ヽ_,..、    /`) ,ノ ,r'、  r' ノ,コ ヾー'
   {. r='_ ,'_     /r'.,イ,}  .ノ.〉    l. 〔_,.- '  ,r'  ノヽ'! l'ニ'、.V ノ  `'^_=' r,`ヽ
    ヽ ー' r'   r_´ `ノil ;_/, '   ヾ´ /.ヽ  '‐、   ヽ-1 l_,ヽ`' `,ン   ヽ ニ r /
   く..ク ''_ r’   / ,〈 ヽ,´,r'  ,,   ,>,冫/.ノ } r'   / .iゝ-,ヾ l´     _ーァ ,.. =ヽ
  (`~_ ,. ヽ>\  ` ヽ' .〈_rヽ..ノ }  く_r' .,r',ハヽ/./  く_,r1.lヽ ..コ |.  r‐'´-┐|
  ` /,rァ, {(<ヽ`ヽ、     `ー'    ノ_/  ヽノ      l_} ` ヽ..」  `'´ .、l l
  `ー'ゝ' J `'゙ `~´
218久秀:03/09/24 19:35
「成敗!」
手傷を負った義輝に一斉に斬りかかる足軽たち・・・
219義輝:03/09/24 23:47
ぐお!!む、無念・・・・・
室町も我が代で終わりか・・・・・ぐふ!!
220無名武将@お腹せっぷく:03/09/24 23:50
そもそも足利家は血縁をそれぞれの公方に任命してはいけなかった。
そうすると北条早雲の時みたいにお家騒動でゴタゴタになった所を
攻められるからな。血縁よりも功臣を公方にしたほうがずうと足利家
は栄えた。
221義栄:03/09/25 02:03

   /⌒ヽ
  / ´_ゝ`)次はまろが将軍でおじゃる…ほっほっほ…
  |    /
  | /| |
  // | |
 U  .U
222義栄:03/09/25 02:10

      /⌒ヽ.       
     /    )松永はん?三好はん?
     |    / 誰もおらんのか?なら、まろも逃げるかのう…   
     | /| |  
     // | |
    U  .U
223無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 02:34
>>220
そもそも鎌倉公方なる行政府を設けたこと自体が問題だろね。

>それぞれの公方に任命
古河公方はある意味ではクーデター政権だし、血筋の者が勝手に名乗りを上げたのが
実情だが?
224義栄:03/09/25 02:44
   /⌒ヽ
  / ´_ゝ`)    /⌒ヽ  阿波に行くにはこの道で良いのでおじゃるか?
  |    /    / ´_ゝ`)
  | /| |     |    /      /⌒ヽ  チャプッ
  // | |      | /| |      / ´_ゝ`)
 U  .U      // | |      |    /       /⌒ヽ  プクプクッ      プクプクプク・・・・
          U  .U     二| /| |二-_  -_/_´_ゝ`)二-    - /⌒ヽ= _        _   ッ・・・・・
                  ̄- ̄- ̄    ─  ─  ̄-      ̄- ̄  ̄-
225無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 04:01
>>223
それを言うなら京に幕府を開いたことも問題では?

とは言いながら、情勢的には仕方がないだろうし・・・おかげで鹿苑寺や慈照寺といった
文化遺産が存在してるわけだし・・・京でないと「まろ」なんて公家口調の将軍像が後世
に残らなかっただろうし・・・と一応、自己完結しておく。
226無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 11:48
>>225
確かに京に幕府を開いた事は致命的だった。
京に室町御所があったの為、応仁の乱の戦場が京になったわけで、その際焼けた室町御所を立て直すため、将軍が再建を求めて守護大名
に資金を求めてから、言うことを聞かなくなり、傀儡化した気がする。
227無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 15:23
>>226
頼朝の鎌倉遷都はやはり慧眼だったのかな。
といっても鎌倉幕府も北条氏の専横を許すことにはなったけどね。
これ新右衛門、新右衛門は何処じゃ
229奉公衆某:03/09/25 15:32
新右衛門は安国寺まで出掛けておりまするが何か?
新右衛門も子孫があれじゃ気の毒だね
>>227
あれは遷都とはいえないような。
首相官邸と司法府だけ移ったようなもんでは?
232無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 16:31
笹川御所&稲村御所はどうなったの?
233無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 16:33
>>230
どの信衛門だよ・・・
234 :03/09/25 16:38
>>231
行政権・司法権も武家に限られたものだしな。
その意味ではむしろ、京都周辺に限定されてたとは言え、
武家・公家・寺社を管轄下においていた室町幕府のほうが進んでいたと言えなくもない。
足利義稙と義澄の細川・大内を巻きこんだガチバトルが一番面白いのだが、
なにぶん資料が少ない。前、歴史群像シリーズの応仁の乱にちょっと記述が
あって興味がわいたのだが。
236無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 17:03
幕府を一番開きやすいのは、近江の気がする。
日本の中心であり、京、堺にも近い。
安土城をそこに築いた織田信長は賢い気がする。
九州、奥州探題には家中で忠誠心が厚く、頭の悪い香具師が最も好まれる。
なぜなら、どんな忠誠心を持っていても野心は誰にもあるからで、もしその香具師
が賢かったらもうお終いだな。中華の韓信の場合は事前に防いだからよかったものの
もし謀反を起こしていたら10年で漢は滅亡していただろう
237無名武将@お腹せっぷく:03/09/25 17:06
>>232
持氏と一緒にサッサとあぼーんしたね。
大崎あたりになると、笹川御所や稲村御所など無視して直接、幕府と交渉して
羽州探題の地位を保証させてるし。
238無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 01:22
>>236
そのあたりはフォンゼークト流で。
【勤勉で頭の良い者】  参謀として起用。勝つための作戦を立案できる。
【怠け者で頭の良い者】前線指揮官として起用。生き残りのため的確な指揮を執る。
【怠け者で頭の悪い者】命令された事しかできないが全ての障壁を打ち破る。
【勤勉で頭の悪い者】  サッサと追放する。
239無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 02:34
>238
4番目は「銃殺」じゃなかったっけ?
240238:03/09/26 03:55
>>239
「軍隊から追い出すか銃殺する」だったと思うけど・・・。
241無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 04:23
>>236
それなら石山本願寺の跡地が一番では?
信長が最終的に目をつけていたのも大坂だったわけでしょ。
京、堺に近いという地の利なら大坂も負けていない。
しかも内陸に向かって都市開発ができるうえに、海上交通・貿易の拠点にも
なり得る。
この地に最初に目をつけ、石山本願寺を築いた蓮如ってマジで凄いな。
242無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 08:06
>>236
>九州、奥州探題には家中で忠誠心が厚く、頭の悪い香具師が最も好まれる。
ゼークト流で言えば【勤勉で頭の悪い者】に該当するわなw
こういう香具師は追放or銃殺(この時代なら切腹?)すべきだそうな。
信長は最終的には【勤勉で頭の良い者】に謀られたわけだがw
忠誠心が厚いことと勤勉なことは別だと思うけど
244238(≠242):03/09/26 09:09
>>243
>>242をフォローするわけではないが、ならば「頭の悪い者がなぜ勤勉に働くのか?」
を考えてみればいい。結論は見えてくるはずだよ。
245無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 09:57
素朴な質問スマソ。
石山本願寺ってまさか信長シリーズにあったあんな立派な城じゃないよね?
246無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 10:51
>>245
↓ここで同じ質問してたろ?
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1064223232/21
それにしても「信長シリーズ」とは何のことだ?

それはさておき、現存する東本願寺をベースに考えてみると分かり易いかも知れん。
上町台地の上に阿弥陀堂・御影堂を中心とする御坊(坊舎)を建設。この御坊を平城のように
堀で囲み、さらに周囲を法主や坊官、有力僧侶の屋敷や道場などが取り囲む。そして外側に
御坊を中心とするように広大な寺内町があったらしい。
しかしながら、この構造では防御力が不足するので、寺内町を丸ごと囲むように長大な惣構が
設けられ、土塁や堀をめぐらせていたようだ。
そもそもが本願寺を中心とする寺内町を惣構で取り囲む城塞都市とも言うべき構造である以上、
安土城や大坂城と単純比較はできないが、眼下の渡辺津や寺内の港で交易を行っていたこと
を考えると、水上輸送路さえ途絶えなければ、かなりの長期間、機能し続けた可能性はある。
247無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 12:00
新右衛門さんの本名は「蜷川新右衛門親当」というらしい。
248無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 12:08
>>247
信長の野望に出てくる蜷川親長だよね?
249無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 12:11
>>248
挿すぞw
そもそも時代が全然違うだろ。
まあ、どっかで血縁関係が繋がるんだろうけど。
250無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 12:39
>>247-249
補足しておくと・・・

蜷川新右衛門親当―親孝(大和守)―親順(大和守)―親世(大和守)―親長

という直系の血脈だそうです。
251無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 13:20
京都府の蜷川元府知事は新右衛門さんの子孫でつか?
252無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 14:17
>>246
ありがとございます。
もはや寺じゃなくて最高の軍事的要塞ですね。
253無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 14:38
>>251
虎三はないだろうて・・・
254無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 15:22
蜷川虎三は野中広務くんと犬猿の仲だったんだよね。
255無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 16:10
>>252
かつて大谷本願寺や吉崎御坊、山科本願寺がそれぞれ対立勢力によって破壊された
経験があり、大坂本願寺(=石山本願寺)は必然的に城塞都市化せざるを得なかった
とも言える。
256無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 07:39
>>255
吉崎御坊は行ってみるとわかるけど、小高い山の頂にあるし、降りたところに湊はあるし、
副次的に軍事施設としての機能も有していたことが窺えるんだよね。
そこに信仰的な繋がりを持った門徒衆が結集したら・・・と思うと、領主たちが警戒するの
も分かる気がしたもの。
257無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 08:36
なんか本願寺スレになっとる…
>>251>>253>>254
蜷川虎三は、少なくとも蜷川家の直系ではないらしい。
東京の人らしいし。

ちょっと前の京都市長選だかに出ていた蜷川澄村って人が蜷川家の本家筋とのこと。
まぁ、自分で演説のときに言っていただけだから、真相は知らんが。
でも蜷川澄村って、戦国武将みたいな名前だな。
259無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 11:02
蜷川家は結局、幕臣に取り立てられたんだろ?
260無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 12:15
足利将軍家の家臣の子孫たちはそれなりに遇されてるが、肝心の宗家?は完全に冷や飯
食わされ取る感じだな。
将軍家といっても詰まるところ堀越系だが、足利家の嫡流は喜連川家(古河&小弓の血筋)
に奪われとるし。
261無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 19:34
将軍本家もちゃんとあるんだけどな(w
尊氏がかわいそうだな
262無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 09:12
>>261
将軍本家ってどの血筋のことを言ってるんだ?
義昭の子孫(会津藩士)のことか?それとも平嶋公方のことか?
それらはいずれも義澄の血脈だけどね。

>尊氏がかわいそうだな
基氏の血統が鎌倉公方⇒古河公方⇒喜連川公方として残ったのだから、可哀想と
言うほどのことはないと思うぞ。確かに枝葉の枝葉のまた枝葉という形ではある
が、庶流から枝を繋がないで済んだ大名家の方が少ないはず。
263無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 12:27
>>261-262
義詮の血筋という意味で言ってるんじゃないの?
とすると義晴、義維(義冬)の血筋を包括することになるわな。
264無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 12:36
そもそも足利家はなんで尊を使わず義という字を名前につけたんだろう
265無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 12:37
>>264
源氏の棟梁であることを誇示したかったんじゃない?
266264:03/09/28 12:40
>>265
いや、でも尊氏の尊は下賜された名前だから大切にすると思ったんだよ。
やっぱり北朝南朝の問題が絡むのかな?
267無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 13:03
>>266
尊氏以前の血統を辿ると・・・

源義家―義国―足利義康―義兼―義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏―尊氏―義詮

となる。
足利氏こそ源氏の頂点に位置する家柄である、という意味で八幡太郎義家にあやかり
「義」の一字を以て将軍家として君臨しようとしたんじゃないかな?
「尊」の一字は天皇より下賜されたものであり、やはりそれを捨てることはできなかった
んじゃないかと。
268無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 13:19
関東に赴いた基氏には、義氏以来(家時を除く)の「氏」を名乗らせているし、
以後も鎌倉公方は基本的には「○氏」が多いよね。
まあ、氏満、満兼あたりは義満全盛期だけにその限りではないんだろうが。
高基は・・・???
269無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 13:44
>267
ちなみに鎌倉時代は吉良や斯波も足利を名乗ってた。
室町時代になって、将軍家の権威を高める為に他の姓を強制的に名乗らせた。
270無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 14:13
>>269
姓ではなく名の話なんだが…
271無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 14:33
>>270
資料的にいいし足利家の話だからいいと思われ。
272無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 14:50
>>269
ならば余計に尊氏系こそ清和源氏の嫡流、という名乗りを上げる必要性が
あるわな。義詮という名もそこに起因してるんだろ。
うむ
>268
一時期高氏と名乗ってなかった?
275無名武将@お腹せっぷく:03/09/29 05:53
>>274
詳細キボンヌ
276無名武将@お腹せっぷく:03/09/29 05:54
>>274
ん?もしや足利高氏ということ?
277無名武将@お腹せっぷく:03/09/29 06:03
>>274
ようやくわかったよ、高基ことね。
確かに高基は初め「高氏」と名乗っている。なぜなのかは・・・知らないが。
高基は、山内・扇谷上杉氏と友好路線をとる父・政氏を対立して、下野・宇都宮
に下ったが、1509年に和解して古河に戻り、この際に高氏から高基に名を改め
ている。
高は将軍義高(後の義澄。1494から1502まで義高と名乗る)の偏諱だろうね。
279無名武将@お腹せっぷく:03/09/30 13:55
応仁の乱って実質的にどちらが勝ったんだろうな?
やはり将軍職についた方が勝ちか?
どちらって、誰と誰?
281無名武将@お腹せっぷく:03/09/30 17:21
細川と山名(死んだけどさ)
282無名武将@お腹せっぷく:03/09/30 17:33
細川政元(勝元Jr)と山名政豊(宗全Jr)はさっさと和睦してるんだよな。
283無名武将@お腹せっぷく:03/09/30 17:45
義たねの実子が義冬だと思ってました。正直へぇです
実質東軍だわな。
しかし、乱後細川氏は短い全盛期を迎えてすぐ分裂、山名氏は国人一揆に悩まされて衰亡。
共倒れ〜〜〜〜〜。
両方敗北ってこと
286無名武将@お腹せっぷく:03/10/01 21:20
>>284
それでも政元時代に全盛を迎えた細川とやられっ放しの山名では偉い違いな気もするが。
287無名武将@お腹せっぷく:03/10/01 21:23
>>279
斯波などはかなり悲惨だね。
ほとんど領国を失い、辛うじて尾張に逃げ込んだという感じ。
まあ、足利一門の管領家というだけで、歴史的に見ればほとんど活躍した形跡が
ないわけだし。
288あぼーん:あぼーん
あぼーん
応仁の乱は 幕府構造が敗北しました
>>288
こういう意味が分からんものが最も腹立たしい。
291無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 07:09
あれだけの争乱を起こしてでも将軍に据えたかった義尚が、あまりにもあっさりと
死んでしまったからな・・・
しかも忍びに殺されたとか、酒淫に耽って早死にしたとか、とにかくろくな死に方
してないし・・・
>>1
義輝って目立つか?
「剣聖将軍」の別名と松永・三好勢に殺害された、ということくらいじゃないのか?
むしろ義稙、義澄あたりの方が地味ながら歴史的局面に与えた影響は大きいと思うが。
293無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 13:13
>>287
そして後、織田家に追放されると、
294無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 13:26
>>288
よく見かけるけど、鶏肋はともかく鳥食ってるこの人誰?
295無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 13:42
>>293
しかも、高家として徳川家に召し抱えられることのなかった悲惨な名族・・・
296無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 14:39
>>289
そしてパトロン探しの旅が始まったわけだなw
297無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 15:34
蜷川澄村(足利義澄の家臣みたいだな・・・
298無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 15:44
>>292
まあ人々はその人物の実績より、その伝説を尊重するのさ。
多分、義輝の日本刀を取り出して何十人もの敵兵を斬ったのは誇張で
おそらく2-3人斬ったのが妥当だろう。しかし俺は義輝好きだな。
何人斬ろうが斬らなかろうが、度胸はすごい。
299無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 16:03
>>298
まあ敵兵が倒すのに手を焼いたのは間違いなかろう
俺も好きだ。敵に後ろを見せなかったことに感じるものがある。
300無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 16:04
まだ義輝の時代も将軍の権力は畿内に及んでいたからね
義栄が名君だった…って話は聞かないなw
302無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 16:39
>>300
そうか?
確かに大名間の仲裁をするなど、幕府権力の再生に尽力していたのは事実だし、将軍
としての権威もそれなりのものがあったと思うが、それを権力と呼ぶのはどうかね。
権威と権力は別物と考えねばならないだろうな。

>将軍の権力は畿内に及んでいた
その畿内の三好&松永軍に屠られたわけだが?
義輝自身が及ぼした影響よりも、義輝の死が及ぼした影響って大きいなぁとは思う。
義輝があそこで殺されなければ義昭が次期将軍に立てられる事も無かったし、そのために義昭が流浪しなければ
信長は上洛する名分も得られ無かったから、後の歴史が全然違うものになってたろうなぁ。
304無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 16:55
>>303
>義輝があそこで殺されなければ・・・
「〜たら」「〜れば」を語り始めると限がないわけだが・・・。
義輝の死は、見方を変えれば彼自身が幕府の権力強化を図り、傀儡政権から脱しようとしたことが
招いた悲劇でもある。当然、畿内を席捲する三好・松永がそれを是とする法はないからね。
まあ、義輝が死ななければ覚慶の還俗もなかったはずだから、>>303の言う通りではあるのだが。
>>304
あぁ、確かに"たら・れば"だとキリが無いけど、別にifを語りたかったんじゃ無いのね。
言い方を変えれば、義輝が殺されたからこそ今の歴史があると。
つまり義輝という人の死は歴史に大きな影響を与えたと思うと言いたかった。
306無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 17:23
>>305
あのまま義輝が専制主義を突き進もうとすれば、三好や松永が黙っていたはずがなく
遠からず似たような結果になっていたと思うよ。
義輝の時代には、三好や松永に抗する大名は畿内にいなかったわけだし。
307無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 19:30
>>302
畿内の旧来型戦国大名に衰退されているという意味で畿内に権力が及ぶと言う見方を
したまでです。
308あぼーん:あぼーん
あぼーん
>>302
>畿内の旧来型戦国大名に衰退されているという意味
「衰退されている」という意味がよくわからないのだが・・・
310無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 23:31
そもそも古河公方なる行政機関がちゃんとあるのに鎌倉公方を設ける必要が
何処にある?関東の所有権を争うだけだろ。
足利家の配置は長く栄える配置じゃないよな。
従わない行政機関に何の価値があると?
>>310
何か根本的に勘違いしていないか?
幕府から見た場合、古河政権とは鎌倉公方・足利持氏を討伐した後、逃亡していた持氏
の子・成氏が樹立したクーデター政権に過ぎず、幕府としては足利政知を鎌倉公方として
送り込もうとしたのが実際のところ。(あくまで幕府側から見れば…だが)
したがって、幕府からすれば堀越政権こそが鎌倉府を治めるべき正当な政権だったという
ことになる。但し、成氏もまた、鎌倉公方初代・足利基氏の血筋であり、政権の正当性を
主張できる立場にあったと同時に、古河政権を支援する勢力が存在していたことも事実。
>>310
それを言うのであれば、室町府と鎌倉府という二元政権を形作ったことがそもそもの失敗
であったと言うべきでは?
314無名武将@お腹せっぷく:03/10/03 14:46
>>310
クーデター政権に関東を委ねれば、関東での覇権争いは起こらなかったとでも?
315無名武将@お腹せっぷく:03/10/04 19:01
古河公方といえば氏姫・・・(;´Д`)ハァハァ
316あぼーん:あぼーん
あぼーん
ageてる香具師はsageろ!
10月になってから↑の荒氏がウゼエだろ!
そのうちアク禁になるぞ。
ひどいようだと通報せにゃならんだろ。

>>317
sageで進行してても荒らしに来てる。あまり意味はないかも知れん。
おそらく、専用ブラウザを使っているのだろう。
1日目と2日目と、コピペを投下したスレがほとんど同じだった。
もちろん、IEの訪問済みを利用しただけかもしれんが。
良スレを狙い撃ちしてるな。
321無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 10:16
>>316
っていうか食べてる元ネタなんですか?
322あぼーん:あぼーん
あぼーん
323あぼーん:あぼーん
あぼーん
324あぼーん:あぼーん
あぼーん
325あぼーん:あぼーん
あぼーん
326あぼーん:あぼーん
あぼーん
327あぼーん:あぼーん
あぼーん
328あぼーん:あぼーん
あぼーん
329あぼーん:あぼーん
あぼーん
330あぼーん:あぼーん
あぼーん
331あぼーん:あぼーん
あぼーん
332無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 11:47
小弓公方ってどう思う?
333あぼーん:あぼーん
あぼーん
334あぼーん:あぼーん
あぼーん
sage進行でお願いします
>>332
滅亡したと思われた庶流が、最終的には足利家の嫡流だからね。
まあ、秀吉の側室となった頼純の娘・島姫が寝物語で御家再興を哀願して実現した
というのが真相なのだが、終いには古河公方まで併呑し、明治維新まで家格と血脈
を保ったのは見事だね。
(途中で古河公方の庶流・宮原家から養子が入ってるけど)
337無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 19:38
>>322->>331
これ全部食い物ネタ?
338無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 19:39
>>335
なんで?
ひでぇなこりゃ
340無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 23:41
>>347・・・・・まあ話を戻そうか。
それにしても信長が義昭を殺さなかった理由はなんでだろう?
信長は義昭のために命の危機に瀕したこともあったのに。
信長って世間で知られているよりはるかに温厚だったんじゃないの?
341無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 23:46
>>348
旧足利家臣団(明智・細川)の心情を考慮したに一票

比叡山焼くのと、将軍殺すのでは「反権威的」というのも違うのでしょうね。
好きなスレだからさげよう
>>338
AA荒らしが横行しているから「sage進行でお願いします」と言っている
んだよ。見りゃあ分かるだろうが。
無神経にageまくるからこういう荒れ放題の状況になるんだよ。

>>348-349
申し訳ないけど今後はsage進行でお願いします!
「鶏助」なるAA荒らし対策のため、しばらくの間は「sage進行」でお願いします。
くれぐれもよろしくお願いします。
>>341
なるほど、信長もむやみに人を殺してよけいなトラブルを避けたかったわけですね。
比叡山以外でも、信長の大量虐殺は有名だけどな。
長島、越中、甲斐・・・
降伏してきた波多野兄弟を磔にするのは残酷だよな。
>>345
義昭なんぞ殺そうと思えば殺せたと思うが・・・
しかし、義昭を殺害すれば、義輝を殺害した松永&三好三人衆と大差なくなるしな。

>>346
本願寺に関しては、講和に応じて武装解除し、政治・軍事に介入しない限りにおいて
存続を認めているよね。しかも、時の天皇を担ぎ出し、天皇の名において教団の存続
を保証することで沈静化させている。
敵対する意志がなければ、潰しに掛かることはしないというのが信長の宗教政策なの
では?
そういえば明治になって織田信長に高い位が授けられた聞いたことがある。
皇室に献身した人物を対象とするらしい。楠正成など。
しかし信長は献身だったかな?
>>349
織田家は信秀の代から朝廷への寄進を積極的に行ってきているし、信長自身もそれなりに
経済的な援助をしているからね。
それに京の治安を安定させたわけだし、朝廷を統制する前にあぼーんしたし・・・
上段でAA荒らしが続出しているため、規制が入るまではsage進行でお願いします。
「鶏肋鶏肋」って何だ?
353無名武将@お腹せっぷく:03/10/06 13:19
>352
楊修の早合点。
354あぼーん:あぼーん
あぼーん
355あぼーん:あぼーん
あぼーん
356あぼーん:あぼーん
あぼーん
357あぼーん:あぼーん
あぼーん
1573年の足利義昭の追放を以て「室町幕府滅亡」とするなら、義澄や義稙、義晴
など歴代将軍が都落ちした時点でも「滅亡」ということにならんか?
359あぼーん:あぼーん
あぼーん
>>353
ホント、無神経な香具師だな。
sage進行という言葉を知らないのか?確信犯か?
せっかくレス削除を要請したりしているのに、台無しにしやがって。
二度と来るな!消えろ!このクソッ垂れ野郎!
あーあ・・・・・・・
362あぼーん:あぼーん
あぼーん
363あぼーん:あぼーん
あぼーん
364あぼーん:あぼーん
あぼーん
365あぼーん:あぼーん
あぼーん
繰り返して言うが、AA荒らしが頻発しているのでsage進行で頼む。
でないと↑みたいなことになる。
そもそも一行レスでageる必然性を感じないのだが?
367無名武将@お腹せっぷく:03/10/06 16:23
\`
         , ‐'´  _                    ヽ      | ー十
        ∠ -‐,'´‐' ´                    i       レ ⊂ト
        , ‐'´ _        ,               l
      ∠ -‐'/,.ィ      /|. 、             |
 | ー十    ///     /|/::::l !ヽ. ト、 、        |        / !!
 レ ⊂ト    /" / ./ , /| /、!_::u:ヽ|_,,ゝ!-ヤヽ.        |        \
             ! /l ./l /`l/ 、..」  l|_,,. -‐' ´\l、      |
           l/ i./ l/ ====、 __ :====:::::| |⌒i  ヽ         ・   
  / !!      /   lヽ、.__。,/;:  ゙゙ 、。_ ,ノ::::::| .|ニ!.!.   ヽ
  \             l   ::/;:::::::v     / j:::| ト_l |     `ゝ     ・
                  l /;::::::::::__::) _, ‐'´  ::::|.L_ノ      `‐、       鶏肋鶏肋
   ・            i`ニ---──── '7:::::||    ト、._   ヽ、
            ,.へ〈~ ; ヽ______,.ノ:::/:!     |.  T  ̄``''‐ 、.
   ・    , -‐- 、.._ ヾ、ミヽ〜′___   ::::/:: !.    、!    |``''‐ 、.  ``''‐ 、
     ,.‐'⌒'''‐- 、 )/ヾど! ヽv ̄ ̄::::::::/:::  |    |     !    ``''‐ 、
    / ̄`''‐、.._,ノi"⌒i. |.  ヽ:::::::::::/:::     l    、!.    |
    {,.'⌒'''‐- 、 ノ .l:   ! |.   l ヽ/ |::: U  l    ,! .|.     |
   /   ,、._,.イ__,ノ::  /   !  | .|   ト、.    | ,ィ /  |.    |
.   /  ,ノ::::::::::::/:::::   i.  / レ'W  |  |,','`,ー-‐,レ' W,|   |      |
368あぼーん:あぼーん
あぼーん
369あぼーん:あぼーん
あぼーん
370あぼーん:あぼーん
あぼーん
371あぼーん:あぼーん
あぼーん
気になるんだけどあらしのむさい男の元ネタなに?
>>372
刑六?
それにしても何のスレッドだか分からなくなるような荒れっぷりだな。
話を元に戻そうよ・・・って、何の話してたんだっけ?
>>374

>358 :無名武将@お腹せっぷく :03/10/06 13:24
>1573年の足利義昭の追放を以て「室町幕府滅亡」とするなら、義澄や義稙、義晴
>など歴代将軍が都落ちした時点でも「滅亡」ということにならんか?

これが最後のネタ振りのようだ。
>>375
確かに「将軍都落ち=幕府滅亡」とはなっていないな。
事実上、義昭は晩年に征夷大将軍の位を返上するまで「将軍」であり続けた
わけだし。
つまり、室町幕府の滅亡は1588年と?
 
 
同意。
幕府の定義がなぁ・・・・
379無名武将@お腹せっぷく:03/10/06 21:35
糞荒らしは規制されたのであげるぞ。
しかし気になるのだが、足利義輝はなぜあそこまで幕府再興に情熱を燃やしたのであろうか?
三好と敵対してなんども都落ちまでして普通なら諦めるだろ。
>>379
簡単なことだよ。
それは彼が当時の世において唯一無二の「将軍」だったからだよ。
逆に言えば「将軍」であること以外に彼の政治的価値はなかったとも言える。
だから「将軍」であることに固執し、政権基盤となる幕府の再興を図ろうとした。
>>379
>糞荒らしは規制されたのであげるぞ
どうせ次なる「糞荒らし」が現れるだけ。まあ、あまり上位に上がっている
のはいい気持ちがしないな。
382379:03/10/06 22:13
>>381
そうですか。
では戦後処理が終わるまでsage進行でいきましょう。
>>380
>それは彼が当時の世において唯一無二の「将軍」だったからだよ。
そこが義輝の人気なのかな・・・・・
>>382
征夷大将軍が2人同時に存在することはないわけだし。
今疑問に思ったのだが、何故足利義昭は真っ向から勝負しても勝てぬ織田に
睨まれるような事ばかりしていたんだろう?信長に従っていれば少しは室町が
生きながらえたであろうに・・・・・
>>384
それだけ将軍家に協力しようとする大名、宗教勢力がいたということ。
元亀年間の勢力分布を見れば、義昭が挙兵したくなる気も分からないでもない。
まさか信玄があの局面で死ぬとは思わなかっただろうしね。
>>385
まさに信長には強力な守護霊がついているとしか思いませんね(w
信玄、謙信など強豪が直接対決を目前?にしてあぼーんしたのだから、信長
には相当なツキがあったことになるな。
まあ、直接対決において信長が勝利したにせよ、それなりの損害を負ったで
あろうことは想像に難くない。
やはり物事にはタイミングとツキがあるんだろうな。
>>387
東に苦戦している間に本願寺、毛利が大挙して攻めてきたら一巻の終わりだな
>>388
畿内には三好もいるし、朝倉・浅井連合軍も・・・
>>388
毛利は基本的には無いでしょ
斎藤義龍が若死にしなかったら信長は美濃とれなかったと思う。
>>391
いやそんな事は無いと思う。
父親殺しの汚名をかぶった時点ですでに周辺大名には見放され、とくに義龍は立派な
人物とはいえないので、後に滅亡する事には大差ないだろう。
尾張国中の反信長諸勢力を支援して信長の尾張統一を苦しめたり、
道三存命中に対立していた六角氏と結んで浅井氏を追い詰めたりと軍略家として発揮しているわけだから、
立派な人物ではないとはとてもいえないのだが。

だが義龍健在の頃は信長は美濃を攻略するどころか斎藤勢に尾張侵攻を許しているが?

父殺しをしたが実力があり周囲に威令を発することができた人物と、親族を手に掛けてはいないが力量に欠けた人物では家臣・領民の信用度は全然違うだろ。
戦国であろうとなかろうと、家臣の知行・領民の生活を保障できなければ立派もクソも無い。
よって浅井・朝倉・六角との関係を修復し信長の美濃侵攻を挫き続けた義龍の死が無ければ美濃陥落は無かったor随分と遅れただろうな。

>392
義龍の事蹟をちょいと挙げてみろや。
395394:03/10/07 23:08
しまった!
スレ違いだsage スマソ
396足利義昭:03/10/07 23:25
>>394
スレ違いなど構わぬ。あの憎き信長を叩くためのレスであれば歓迎するぞ。
ほほほ・・・
結果として義昭は、追放されても将軍職を死ぬまで続けていれば最低1598年まで
室町幕府は続いていたわけだ。義昭の子供は将軍職を相続できないであろうが、
捨扶持として毛利から与えられた屋敷を幕府支配地として傀儡にもならんが征夷大将軍を続けていればよかったのに(w
>>397
おそらく義昭の京追放を以て足利幕府滅亡とするのは後世の史観だろうね。
現実に毛利家から備後・鞆に居館をあてがわれて「鞆幕府」を開き、様々な政治工作
を続けていたし、諸大名との交流も継続していた。第2次信長包囲網はその所産とも
言うべきものだ。
義昭の鞆幕府閉鎖は、秀吉が台頭、もはや毛利家が義昭を奉じて上洛戦を展開する
可能性が潰えたことが最大の要因だろう。秀吉に恭順の意を示す毛利家が、領内に
前時代の政治的権威を抱え込むわけにもいかなかったはず。
また、秀吉の側から見ても、関白として武家政権を樹立した以上、征夷大将軍と小規
模ながら幕府機構が存在することは望ましくないわけで、猶子の申し入れを蹴られた
件は水に流し、征夷大将軍の返上(辞任)を条件に槇島に所領を宛がったと見るのが
妥当ではないだろうか。そのあたり名族扱いで済む古河、小弓、平島公方家とは若干
事情が異なってくるのだろう。
義昭としても今度は臣下最高位の関白・秀吉が相手であるから、辞任の要請を断りき
れなかったのかも知れない。
>>398
江戸時代にも関白はいたけど幕府の命令を聞くけどね。
やっぱり「実力を握っている&臣下最高位」と「実力がない&臣下最高位」
の違いですかね?
いくら実権があるからって勅命が下されない限り、義昭から位を剥奪するのは不可能では?
400無名武将@お腹せっぷく:03/10/08 14:05
あげます
三戦板に斎藤義龍を過少評価してるバカがいるとは…
ちなみに義龍は幕府相伴衆にもなった事あるし、あながちスレ違いとは言えん罠
402無名武将@お腹せっぷく:03/10/08 16:56
で実際に義龍は土岐、斉藤どっちの子供なの?
DNAでも調べないと分からんだろうな。
ただ、義龍は道三に勝って家督を継承した後も土岐姓を名乗らず
斎藤姓のままだった事を考えると道三の子だと思ってたんじゃないのか。
404無名武将@お腹せっぷく:03/10/08 18:38
>>402
始皇帝が呂不偉の子かというのと同じぐらいの可能性
(てかその逸話を江戸時代の人が真似たのかもしれん)
405無名武将@お腹せっぷく:03/10/08 20:06
>>403
本人が父親を知る由もないんじゃない?
世間が知っているのは義龍が土岐の子か斉藤の子かわからなくて疑心暗鬼に
なって父親を殺した話だからな。
墓場から骨を拾って鑑定するのが早いだろ。(道三の墓ってあったけ?)
どうでもいいが義龍は本人が合戦に出たこと無いんやね。
あのガタイのせいでゲームでは毎回統率とか高ポイントだが。
実はデカいだけの虚弱体質か?
407無名武将@お腹せっぷく:03/10/08 22:15
>>406
父親殺すときに合戦にでたじゃん
408無名武将@お腹せっぷく:03/10/09 07:48
室町時代の幕府の支配領地は室町御所以外どこにあったんですか?
末期は室町御所だけだけど
409無名武将@お腹せっぷく:03/10/09 16:51
>>領地って公方家も含めてもいいのかな?
>>399
>いくら実権があるからって勅命が下されない限り、義昭から位を剥奪するのは不可能では?
義昭(征夷大将軍、従二位・権大納言)は1588年1月に落飾、昌山道久と号し、准三后の宣下
を受けるわけだが、これには既に関白・太政大臣の地位にあった秀吉による、朝廷への働きかけ
があったと思われる。
そもそも義昭が将軍たり得たのは、義昭を武家の棟梁として奉じる勢力があったからであり、この
点において、人臣第一位にして最大の軍事力、政治力を有する秀吉に実力で対抗できる勢力は
存在しておらず、秀吉による朝廷への働きかけによって将軍位を剥奪される可能性を考えれば、
将軍位を返上し、准三后の待遇及び隠居料1万石を選択せざるを得なかったのではないか。
411無名武将@お腹せっぷく:03/10/10 09:23
>>410
しかし、定かではないが「養子にしてくれ」と秀吉から頼まれた際、
きっぱり断った罠。
412857:03/10/11 09:53
>>410
隠居した後、その領地はいつまであったんですか?
413無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 17:05
>>411
状況が違いすぎる。
養子の申し入れを拒否した時には、秀吉はまだ従一位・関白の座にはついて
いなかったはず。征夷大将軍&従二位・権大納言である義昭にしてみれば、
この時点では官位的に上位にあるわけで、断れるだけの要素がまだ残ってい
たことになる。
しかし、将軍位を返上した1588年1月の時点では、両者の立場は完全に
逆転していたわけで、准三后という待遇と槇島1万石の所領を用意し、将軍
・義昭の名誉が損なわれない形で穏便に返上させたと見るのが妥当だろう。
前政権担当者を寛大に遇することにより、最高実力者の余裕を見せつけると
同時に、政権交代をより円滑に進ませようという狙いがそこにあったのでは
なかろうか。
414無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 17:08
>>412
義昭の死後、無嗣のため収公されたはず。
415857 ◆BedoOy538w :03/10/11 17:38
>>414
ひでえ
416無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 17:46
>>414-415
義昭に美人の姫君でもいれば話は別だったかも知れんがw
小弓の足利頼純など娘の島姫(古河姫君)を差し出したおかげでお家再興が
可能になったわけだし。
417無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 18:31
あれ?義昭には早世したけど男子がなかったっけ?
その人は義昭より先に死んでしまったのか?

もし義昭が関が原後まで生きていたら、
名族好きの家康が、誰かを養子に入れて、
高家にしたりしたりすることはあったかもね。
418無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 18:57
>>417
義昭の子としては下記の3人が存在するようだね。

義尋…大乗院門跡。後に還俗して高山。子孫は僧籍に入り断絶。
義喬…一色藤長に養育され、義喬を称する。子孫は会津藩士。
義在…鹿児島に移り、島津家家臣・永山氏の名跡を継承。

家康は義喬に3万石の知行を与えようとしたが、大坂の陣に間に合わなかった
義喬がこれを辞退し、隠棲したという説もあるそうな。
>>418
一色義喬が堀越系足利家の嫡流に、喜連川頼氏が古河系足利家の
嫡流になっていた可能性もあったということ?

>>417
>名族好きの家康が、誰かを養子に入れて、
>高家にしたりしたりすることはあったかもね
家康は別に名族が好きだったわけじゃない
源氏長者であるために、源氏の血筋を保護する必要があっただけの
話じゃないの?
石の森章太郎の漫画日本史は
義輝が羽交い絞めにされて無抵抗で殺されるから超糞
421無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 21:08
>>420
源頼朝の子・頼家は風呂場でタマタマを握られ、動きを封じられて斬られたな
422無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 21:29
太田道灌も風呂場で殺されたろ?
423無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 22:49
源義朝も。
424無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:06
>>420
実際には剣豪の義輝に手こずり、仕方がないので畳を楯に義輝を押し潰し、
畳の上からメッタ刺しにしたらしいけどね。
425無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:16
畳の上で死ぬならともかく、畳に潰されて死ぬなんて・・・

てか、松永さん矢つかえ。
426無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:17
>>425
畳の下で死ぬ上様・・・
427無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:28
畳の上で死ぬことができた足利将軍とは?
おれ
429無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:32
義満の場合、暗殺説が根強いけど、あれってホントはどうなんだ?
430無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:32
>>428
何代目だよ・・・
431無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 00:05
いいともに出てた足利さんか?
>>425
矢もそうだが、火を使うべき
433無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 01:00
>>429
足利義満は征夷大将軍を辞し、全ての官位を朝廷に返上のうえ、宋に使者を送り
「日本国王源義満」の称号を得ており、同時に後小松天皇の身辺の女性に手をつ
けている。これは義満が後小松天皇の子(実は自分の血を引く子)を皇太子に据え、
後々外戚として権力を握ろうとしていたからに他ならない。
ところが、その義満自身が立太子式の前日に急死している。後小松天皇にしてみ
ればまさに願ったり適ったりのタイミングでの義満の死である。これについては、お
そらく天皇及び朝廷主導による毒殺の可能性が極めて高い。義満の死後、義満の
子とされる者たちが次々と殺されていることからも指摘できるだろう。
434無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 01:21
後小松なかなかのくせものじゃのう。

義満と4代目との確執にも何かかかわっていそうね
435無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 01:23
後小松帝と4代将軍・義持のラインは匂うな・・・
436434:03/10/12 01:29
うぐ。義持の名前が思い出せなかった。

河合のマーク模試の日本史で満点とったことあるわしも
戦場の夜風が身にしみる頃じゃわい。
437無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 01:34
義持は義満の寵愛を受けていた弟・義嗣を殺害し、政治的にも義満の路線を継承せず、むしろ
武家の統制にのみ注力するなど対照的な姿勢を見せている。
義満に疎まれていた義持と、義満の専横を阻止したい後小松天皇の思惑は見事に一致している
わけだし。
仲間由紀恵に「全てお見通しだ!」と言わせたい感じがする。
438無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 10:17
>>437
最後の一行にワラタ。
畳の上で死んだ将軍は尊氏とか最初の将軍だけじゃないかな。
そういや義稙の刺客返り討ちは44歳の時だったな。
1509年といえば大内義興に擁せられて京都奪還を果たした翌年か。
こいつは寂しい最期ながら畳の上で死んだんじゃないか?
440足利義教:03/10/12 12:56
畳の上で殺害されるのは「畳の上で死ぬ」ことにはならないよね?
441無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 14:04
>>438
条件としては「室町御所にて病没」になるのかな?
とりあえず1〜15代まで列記してみると・・・

 1代・尊氏(○)…南北朝の混乱の最中に病没。
 2代・義詮(○)…政権が安定せぬまま病没。
 3代・義満(△)…全盛を極めるが、足利天皇誕生直前に暗殺?
 4代・義持(○)…後嗣を決めぬまま病没。
 5代・義量(△)…実権なく酒淫に耽り病没。
 6代・義教(×)…恐怖政治が度を越し、赤松満祐により殺害。
 7代・義勝(×)…即位後間もなく落馬して死亡
 8代・義政(○)…政治そっちのけで文化活動に勤しむ。病没。
 9代・義尚(×)…女色に耽り、陣中で病没。(暗殺説もある)
10代・義稙(×)…細川高国との対立により阿波に逃れ病没。
11代・義澄(×)…大内&細川勢が義稙を奉じて入京したため近江に逃れ病没。
12代・義晴(×)…細川VS三好の争いにより近江へ逃れ病没。
13代・義輝(×)…松永久秀に御所を襲撃され殺害。
14代・義栄(×)…松永久秀と三好三人衆の対立により入京できず、信長上洛直後に病没。
15代・義昭(△)…将軍位返上後、山城・槙島に隠棲し病没。

となる。
義昭の場合は将軍位を返上したのち、准三后の待遇を受け、隠居料を与えられて隠棲している
ので(△)になるのかな?
義稙以降になると阿波や近江で死んでいるが、どんな生活をしていたのか想像できないことも
あるので、「室町御所にて病没」の条件に沿い(×)かな、と。
442無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 14:26
>>441
鎌倉幕府の頼朝、頼家、実朝に比べりゃあマシなんだろうな
頼朝(初代)・・・落馬による事故死(暗殺説が依然根強い)
頼家(2代)・・・北条政子の指示により殺害
実朝(3代)・・・甥の公暁により殺害(北条、三浦両家の暗躍説もある)
443無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 16:57
>>441-442
江戸幕府の場合、家康、家茂、慶喜を除けば、全員が江戸城で病死している
わけで、やはり長期安定政権は凄い。
しかも家康は隠居先の駿府城で、慶喜は明治維新後に公爵となって東京で死
んでいるわけで、長州征伐従軍中に大阪城で死んだ家茂が唯一の例外事項と
いうことになる。
>>443
表向きは病死でも、実は殺害された将軍もいそうなものだが・・・
445無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 20:41
>443
五代綱吉と十代家治には暗殺説がある。
あと、家治世子の家基にも。
446無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 20:45
家基は暗殺の可能性が非常に高いな。

優秀な人だったらしいし。
447無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 20:50
>>445-446
家治、家基の死が暗殺によるものだとすれば、背後で反田沼の一派が動いていたことは
想像に難くないね。
448無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 20:56
綱吉の死因は「麻疹」ということになってるが、いい年こいておかしい
よなw
449無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 21:13
家基の場合は、一橋治済の犯行説が濃厚。
450無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 21:18
吉宗も怪しいよな。
時の改革者の死というものは常に謎が絡んでいるよね。
451無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 21:25
最大の謎は足利義満の急死だろうな。
やはり>>433-437のあたりで展開されていたように病死ではなく暗殺なのかな?
もし足利天皇が誕生していたらどうなっていたんだろう?
>>451
有力なのは毒殺説のようだが・・・
453無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 21:39
>452
井沢元彦は世阿弥犯行説を唱えてた。
>>453
むむむ・・・世阿弥かぁ?
455無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 22:01
>>454
『天皇になろうとした将軍』(小学館文庫)かな?
確か世阿弥スパイ説を考証した内容だったな。
456無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 22:31
>>453-455
楠木正成の姉or妹と上嶋元成の間に生まれたのが観阿弥。
すなわち北朝側の足利義満に接近しながら、実際には南朝側に所縁を
持っていたことになる。そもそも能楽者という職業が全国各地を自由
に旅することができ、情報活動に適していたことは言うまでもない。
また上嶋家は伊賀・服部家に連なる家系であるし、忍者が全国各地を
旅し、奇術や曲芸を披露する傀儡をその起源としている以上、世阿弥
の一族が南朝側のスパイだった可能性は否定できない。
457無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 22:46
話逸れるけど、義尚が甲賀の刺客に殺害されたという説を聞いたことある
458無名武将@お腹せっぷく:03/10/12 23:51
それにしても足利家は暗殺説が付きまとうほど謎の死を遂げた人が多いよな。
義満なんかは最高権力者になろうとしたからみんな「天罰だよ」っていって
喜んでたんじゃない?
459めぐみ:03/10/13 00:05
460無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 00:08
>>458
もし暗殺が事実なら、公家連中の内心での喜びようはなかったろうね。
表向きは病死だから、喜ぶわけにはいかないし、祝宴を催すわけにもいかない
だろうけどw
461無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 00:12
ううう
義教以降は完全な飾り物だからな
463無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 00:21
使者「義満めが死にましてござりまする。」
公家「おほほほほほ・・・・・遅効性の薬はよう効くの〜」
464無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 00:26
>>463
その頃市中では・・・
庶民A「公方様が亡くなったんだってな」
庶民B「どうも風邪をこじらせたらしいが、僅か4〜5日で亡くなるとはなぁ」
庶民C「まあ、祟りにでも遭ったんじゃないのかい?」
465犬童知遠 ◆tmc8JAPANo :03/10/13 05:09
義満の簒奪が成功してたらしてたで、実は意外と
その後の歴史も大して変わらんかったような気もする。

まぁ、「天皇−将軍」の二重権力が一体化しちゃう分、
後世、信長みたいなのに何から何まで丸ごとひっくり
返される可能性が、ダンチに上がりそうではあるが。
466無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 09:18
やはり日本古来の考え方としてはやっぱり義満は地獄行きなのかな?
467無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 09:46
>>466
それは天皇家に対する態度ってこと?
まあそれは決してよくは思われてないはな
468無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 14:37
義満のそーしきには当時としても珍しい火葬を選んだのも、
なんか含まれる所があるよな。
469無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 17:17
>>468
毒殺だと骨が黒くなるとか、サスペンスでよくないっけ?
火葬だとばれちゃわないか?
>>468-469
証拠隠滅のために焼いちゃえ!ってなことかい?
とすると身内もグルの可能性がさらに高くなるな。義持とか。
471無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 18:36
義満死後の義持の治世下では
(1)朝廷からの『鹿苑院太上天皇』尊号贈呈を即断拒否。
(2)日明貿易の中止
(3)義嗣処断
(4)武家による専制政治の拡大
など徹底して義満路線からの転換を図られている。
朝廷と将軍家の利害が悉く一致している点から見ても、共謀説はほぼ事実
と見て良いかもね。
ここに世阿弥など南朝側勢力の関与がここにどう繋がってくるのか・・・
>>469
真っ黒になるまで焼けば、ばれないんじゃない?
473無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 20:50
>>472
それじゃ炭化やんけw
474無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 22:03
>>473
でも昔の火葬は今みたいに骨をある程度残す機械的な焼き方はできないから
薪がすべて燃え尽きる→義満炭化っていう風になって骨なんか拾えないんじゃないの?
475無名武将@お腹せっぷく:03/10/14 21:04
>>471
そうだな。
父親への恨みが父親を滅ぼしたか・・・・・
476無名武将@お腹せっぷく:03/10/15 02:15
ヒモ将軍・足利義政に憧れるな…単なる道楽者じゃんw
477無名武将@お腹せっぷく:03/10/15 23:10
>>476
そうか?
それなら俺は義教だな。
なんたって籤で決める、いいかげんさとヒステリーなところがいい!
やっぱ5代義量だろw
見方を一つ変えれば、酒飲みたいだけ飲んで、
政治は親父と家臣にまかせっきりでやらなくてイイ(・∀・)!!
こんな楽な将軍は室町幕府見渡しても彼一人!w
479無名武将@お腹せっぷく:03/10/15 23:45
誰だ?籤引きなんて言い出したヤツは!?
まあ、そもそも跡継ぎを決めずにあぼーんした義持に問題があるわけだが…
下馬将軍ならぬ落馬将軍・義勝もなかなか・・・
481無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 00:22
義勝から一字もらったのは細川勝元だけ?
482無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 00:25
>>481
一人のはずはないと思はれ。
483無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 02:01
>>481
年齢的に本人には「一字くれてやった」という自覚はないだろうな
しかも、その自覚がないままあぼーん・・・
484無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 09:26
>>479
ちなみに籤で決めていたのは
畠山満家 斯波義厚 細川持之 山名時煕
と幕府顧問、満済(シ住)后の五名だよ。
485無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 09:37
>484
ただ、この籤は出来レースだったという説もあるね。
NHKは義稙と義澄の死闘を大河に汁!!
487無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 12:36
>>484
出た!没落守護大名!
488無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 12:53
>>486
確かに面白い素材ではあるが、それだけの能力とカリスマ性があるのか?>義稙と義澄
俺的なイメージで恐縮だが、な〜んかパトロンにどんどん貢がせて、bPの座を競い合ってる
ホストたちの熾烈な争いにしか見えんなw
しかも将軍といっても政争の道具であり、飾り物に過ぎないというのが悲しい。
合戦でも手勢は僅か、大半はパトロン軍だし。
489無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 13:50
NHK大河ドラマ
「義栄」
490無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 14:02
NHK大河ドラマ
「足利三代」(義持〜義量〜義教)
491無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 14:06
NHK大河ドラマ
「足利三代」(持氏〜成氏〜政氏)
492無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 15:24
>>491
どうせなら・・・

NHK大河ドラマ
「足利三代」(晴氏〜義氏〜氏姫)

見所は氏姫の兄弟(国朝&頼氏)食いということで。
493無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 16:00
「最後の将軍〜戦国編〜」と題して、
義晴〜義昭までを描くのだったら見る。

この中の誰かいい小説書いてくれ。
494無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 20:14
>>493
スレ立たほうがいいんじゃないか?
495無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 20:31
足袋三足
496無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 20:33
足利三代 政知〜政治〜氏治
>>496
小田氏だっけ?
498無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 00:11
>>496
成氏公は、鎌倉公方・基氏公以来の御血筋じゃ!!



                             …と言い張ってみる
499無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 00:38
南無サンダー!
500サンダー!
502無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 00:53
>>496
小田原城陥落で事実上、命運が尽きたね。
政治の代には領土拡大のため出兵を繰り返すわりには失敗の連続。
氏治の代には佐竹の南下政策と&小田原城陥落で所領を失い・・・最後は
結城家臣だものね。
堀越系って何か知らないけど揃いも揃って没落してるな。
義昭の子孫は会津、薩摩藩士といずれも陪臣に成り下がり、平島家も子孫が蜂須賀家から
僅かな捨扶持を与えられたのみで冷遇され、維新後も華族になれず終い...
504無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 01:23
古河、小弓足利家が合体して高家になったのとはえらい違いだな
義昭がだだこねすぎたからだろ
もっと氏真みたいに世渡り上手なら・・・
506無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 01:47
一応、家康は一色義喬に禄を与えようとしたんだけどね・・・
>>506
家康は義喬に3万石の所領を与えようとしたわけで、義喬に「足利家嫡流」のお墨付きを
与えようとしたのかな?
そのわりには喜連川家を高家として10万石の格式を以て遇しているし、一応、徳川家の
家臣ではなく「喜連川公方」として制外的に扱っているから、やや合点がいかないところも
あるんだよな。
508無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 08:43
室町幕府は本当にしっかりしていない機関だよな。
将軍を(陰謀があったかどうかは知らん)籤で決めたり、妻のわがままを断れず
応仁の乱を引き起こすし、有力大名には都を何度も追われ、室町幕府の力は最初から
弱かったからしょうがないか。
>>503
義昭って、最後の足利将軍のあの義昭だよね?
彼なら子孫は夭折して一人もいないんじゃないの?
511無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 14:37
>>508
そもそも管領たちの存在を抜きにして成立し得なかった政権だしね。
義澄以降の将軍は「征夷大将軍である」ということ以外に存在価値がなかったし、その政治生命
も御輿を担いでくれる者たちの実力次第ということ。
>>511
見方を変えれば、権力のない単なる政治権威に過ぎなかったからこそ
応仁の乱以後も100年以上、将軍家であり得たとも言えなくもないな
>>509
>彼なら子孫は夭折して一人もいないんじゃないの?

頼む、一度でいいから自分でググッてみてくれ・・・
話はそれからということで。
>>508
日本の中世は江戸時代だけという極論も成り立つ国だから仕方ない。
江戸中期以降の発展は凄いけどな。
515無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 23:00
>>508
義教の死で室町政権は実質的に終わったと見てよいのかもね。
516無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 23:37
>>515
禿同。
ヒステリックな性格で一時幕府は巨大勢力にのし上がったが、暗殺という形で
繁栄は終焉を告げ、次の将軍は急場しのぎの傀儡だし。
やはり室町という弱小幕府をまとめるには、ヒステリックな将軍は必要だったのかもしれない。
そもそも応仁の乱とは一体何なんだ?小一時間問い詰めたい。
馬鹿な争いの果てに結局は義政の子が将軍に就任したが結局、義視の子が八代将軍に
なっているじゃないかYO。
517足利義政:03/10/17 23:48
>>516
じゃあ、まろは何代将軍なのじゃ?
518無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 00:40
義満、義教、義輝と殺害された将軍ほど器量を感じるのだが・・・
お前らもっと義詮を評価汁!!!!!!
歴代2代将軍の中でもっとも軍才、政才に溢れる義詮に光を!!
>>519
済まんけど「義詮に光を!!」というなら義詮に関するネタ振ってくれ。
義満は殺害されたとは思わないので置いておくとして、
義教と義輝はそれぞれ暴君・暗君だと俺は思う。
>>521
暗殺は殺害に含まれると思うが?
523無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 07:20
義詮は三上皇を南朝方に奪われるという大失態を演じている。
524無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 09:03
>>521
確かに義教は暴君タイプかもしれないけど、室町の経営からしては少しよくなった
かな・・・・・義輝は何故?
>>522
多分暗殺だと思うけど確証がないからね〜
525無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 11:46
義満は一休に殺されたらしいよ
まじ、ここだけの話
526無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 15:41

   . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
        Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
       /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/;;:   ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
     義満 「またしても一休に頓智で・・・・氏のう・・・・」
>>526
ワラタw・・・ツボにはまってしまうw
>>525-526
一休さんは足利義満の子供(孫?)かも知れない、という異説があるから驚き…
>>524
思慮が浅い 節操が無い 潔すぎる
530無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 17:09
  ||
 Λ||Λ
( / ⌒ヽ
 | |   | ←義満
 ∪ 亅|
  | | |
  ∪∪
   :
   :

 ‐ニ三ニ‐
>>507
喜連川頼氏が「従五位下・左馬頭」に叙任されている点がポイント。
左馬頭は、足利氏の嫡子が初めて任官する際に叙任される官職であり、
他の大名が金品を積んで所望しても叙任されることはなかった。
したがって、叙任を促した幕府も、叙任した朝廷も、頼氏を足利氏の正嫡
として扱っていたことになる。
やっぱり江戸で幕府開いたからかいな
土着権威を祭り上げようとしたのか
533無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 01:03
>>532
はぁ?
源氏長者として源氏の血筋を保護するというポーズだよ、んなモン
534 ◆2011TWOdso :03/10/19 01:33
スレ違いかもしれませんが...
左馬頭、あるいは典厩という漢名があるわけですが、ここで思い出していただきたいのが
「附馬」という官名。(夏侯楙とか...)皇帝の婿に与えられる敬称的な官名であり、
皇帝の御者を意味している点で共通しています。
武家の棟梁が全国に威信を知らしめるのに、皇帝(天皇)の婿(扱い)という
権威が踏襲された名残に転化して、頼朝の官職と合致したんですな。
535無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 01:45
    ||
  Λ||Λ
 ( / ⌒ヽ
  | |   | ←義満
  ∪ 亅|         
   | | |        /⌒ヽ         
   ∪∪       / ´_ゝ`) 鑑識「死後8〜9時間くらい経過してますね      
    :        |    /          他殺の可能性も否定できません」               
    :       | /| |      
           // | |     
  ‐ニ三ニ‐   U  .U               
536無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 02:01
>>535
あまりにタイミングが良すぎる。
足利天皇を阻止する側にしてみれば、タイムリミット寸前でしょ。
しかもあの壮健な義満が1〜2週間でみるみる衰弱していったという
のも考えにくい。やはり他殺だろうな・・・
537無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 03:27
>>533
なんで分家の方が本流に据えられたんだ?
538無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 16:11
>>537
問題は秀吉が足利家をどう見ていたのか、ということだ。
通説では秀吉が名族・古河足利家の衰退を憐んだことになっているが、
実際には、「側室・島姫の懇請を容れた」という要素の方が強いように思
われる。
結果、島姫の弟・国朝(喜連川足利家)と氏姫(古河足利家)を娶わせ、
島姫の化粧料3,500石と鴻巣御所領332石を併合することで古河足利家
の血脈を喜連川家として再興させた。島姫の思惑は、おそらく弟・頼氏の
左馬頭叙任までを含んでいたのではないか。左馬頭とは、足利家正嫡が
最初に与えられる官職である。これを以て喜連川家が足利家嫡流である
ことを既成事実化されたことになる。

一方、前将軍家に対しては、義昭(昌山)に槙島1万石を与えているが、
これは足利家の家禄というよりは、前将軍・准三后の昌山に対する隠居
料という意味合いの捨扶持だったのではないか。だからこそ昌山の死後、
昌山の子・義尋(興福寺大乗院門跡)が還俗、高山と名乗って遺領の相
続を願い出ても認められなかった。
そこには秀吉個人の昌山に対する感情もあったはずだが、「既に足利家
は喜連川家を以て再興されている」ということが楯になっていたのではな
いだろうか。
昌山に美人の姫がいて、秀吉の側室になっていれば多少状況は変わっ
たものになっていたのだろうが・・・
539無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 16:39
>>538
結局、女次第ってことかよ!!!
>>539
現代でも美女は有効な切り札になるよ。
ましてや当時、秀吉に対しては絶大な効果を発揮しただろうね。
>>538
義喬は一色藤長に、義在は島津家に匿われていたわけだが、
そうなるとこの2人の可能性もなかったことになるな。
少なくとも足利嫡流にはなれなかったと。
542無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 19:29
>>538
>昌山に美人の姫がいて、秀吉の側室になっていれば多少状況は変わっ
>たものになっていたのだろうが・・・

「名門」「美女」が秀吉の虚栄心を満たすポイントということだなw
娘に美女がいない場合には、縁者から美女を養女に貰い受けたうえで
側室に入れるという抜け道もあるのかも・・・
かつて穴山梅雪が家康にお都摩の方(下山殿)を差し出したように。
543無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 04:02
>>542
余談になるが・・・下山殿(お都摩)は秋山虎康の娘。
秋山虎康はあの秋山信友の甥にあたる人物で、武田家滅亡後、徳川家に仕えている。
なお、虎康の子・昌秀は1000石の旗本となり、鉄砲奉行を務め、大坂の陣で軍功を挙げている。
544無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 10:22
なんでみな、将軍家を都から追い出すんだろうね?
義昭はしょうがないけど、義晴とか義輝は追い出す必要がないと思う。
545無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 10:28
都落ち経験のある将軍
尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義栄・義昭

義政が経験してないのはある意味すごい
>>544
お前バカだろ!
>義晴とか義輝は追い出す必要がないと思う。
お前、三好VS細川を将軍家内部の争いと勘違いしてるのか?
当時は義維(義栄の父)派の三好VS義晴派の細川が争ってたのは知ってるよな?
どっちかが入京するたびその都度、追い出された方に担がれた足利(義晴・義維)
は一緒に都落ちしねーと自分の身が危険だろーが。
547無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 13:14
>>546
馬鹿で悪かったな。
546も有耶無耶のような気がするが
>>541
「足利義在」「薩摩 永山」でぐぐったらけっこうおましろかったっす
ttp://www.geocities.co.jp/MotorCity-Pit/6791/tisuji/nagayama.html
ttp://www.johokan.net/history/Rekishi/DramaticBlood/contents/ashikaga.html
戦国ネタから外れるけど、サッポロビールにも関係しているらしい永山武四郎ってこの永山家の系統なんかいな?
>>545
都に入れなかった義栄に都落ちの経験があろうはずが無い。
551無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 09:31
あれこれいってもここに来る人は義栄好きな人多いんだな。
552無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 17:19
尊氏・義詮の頃の都落ちは自ら戦い敗れての「敗走」だが、義稙・義澄・義晴・義輝の都落ちは
支援者が敗れ、身の危険に晒されての「遁走」という感じ。
そして「遁走以前」の義栄、「遁走する前に追放」された義昭と続くわけだが。
553無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 20:31
>>538
びみょ〜将軍・義栄すら「左馬頭」に任じられてるね。
554無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 20:52
>>551
簡単なことさ
そこに俺たちを突き動かす「何か」があるからさ!
>>551
・有名な将軍の間で何したのかわからないのが神秘的
・悲劇の将軍への同情論

この辺りが理由だね。
そういえば信長の野望にも出ていないな
時々出てなかった?三好家臣で。
558無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 21:52
>>557
過去作には登場していたようだが、最近はkoeiからも「見放された」
ようだねw
まあ、信長の野望は領土拡大が主眼?だから、将軍家の政権争い
には触れてないし、義昭を連れて山城国に入っても、別に義昭が将
軍になるわけでもない。
そういうイベント組めればいいのに。義栄と義昭だけに発生するイベ
ントとかさ。
559無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 22:34
>>549
義在を高山の子とする説もあるわけね。
560無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 23:08
新しい太閤立志伝で出ることを希望する。
561無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 23:53
>>538
話は逸れるが・・・
梶原景時の子孫は南北朝・室町時代には、鎌倉府奉公衆として鎌倉公方、
後に古河公方に仕え、下野小薬に本貫地として、江戸時代には喜連川藩士
として存続していたらしい。
562無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 00:08
喜連川公方に関するけっこう面白い話
ttp://www4.plala.or.jp/kaseiken/tearoom/tea.htm
を参照。

喜連川藩は10万石の格式(実際には石高5千石)があだとなり、財政
は火の車。そこで大藩の参勤交代の行列を領内の宿場町に留め置き、
秘策を弄して藩ぐるみの旅行業で食いつないでいたそうな・・・
加えて、豊かな藩から養子を入れて持参金をせしめるという涙ぐましい
努力も・・・
563無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 07:18
>>562
大名行列が通る橋の下で釣り糸を垂れる公方様…



                         …想像すると何故だか微笑ましい
564無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 08:47
>>562
まじ面白かった。
俺、喜連川ってあまり知らなかったんだけどよくわかったよ。
565無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 11:49
赤松が担ぎ出した、直冬の 孫って誰?
566無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 17:28
>>565
嘉吉の乱で赤松満祐が擁立したのは足利直冬の孫にあたる冬氏。
冬氏はどうやら僧籍に入っていたようで、系図上には弟?と思われる等珊、等章、
乾桃、乾丘(乾珍)などの名が登場するものもある。
冬氏は満祐の誘いに応じ、将軍に擁立されて義尊と名乗り、播磨・坂本の定願寺
を井原御所として居住していた。
満祐自刃後の冬氏(義尊)の消息については不明。
567くろばなな:03/10/22 19:32
天皇が退位した後再び皇位に就くとそれぞれ歴代として数えられるが、「10代将軍」とされている義稙だが「11代将軍」義澄に追われ後に再び将軍になっている事実を天皇の歴代の数え方を踏まえて考えれば義稙は「10代将軍」と「12代将軍」になっていると考えるべきだと思う・・
>>567
果たして義稙に将軍を退位した自覚があったのかねえ…
都落ちはしたけれど、再び都を奪還するつもりなら、「なに?第11代将軍?んなモン知るか!」
という感じだったんじゃないかと。
ちなみに義稙は二度将軍宣下されたのかい?
569くろばなな:03/10/22 20:09
中身は分かりませんが1508年(永正5年)7月1日に義稙は将軍に「還任」された・・と手元の本に書いてありますわ・・残念ながらこれが通常の将軍宣下とどう違うか分かりません。誰か教えて下さい。
570無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 22:57
>>569
天皇家のような数勘定の仕方で言えば・・・第10、第12代将軍ということ
になるんだろうけどね・・・。
第11代将軍・義澄は細川政元によって起こされた明応の政変(1493年)
の所産だし、言うなればクーデター政権でしょ。義稙が義澄政権を認めて
いなければ、自身が「第10代将軍として政権を奪還した」に過ぎず、第12
代という認識はないことになる。逆に義晴からすれば、第11代将軍・義澄
が奪われた政権を再奪還したわけで、こちらは第12代将軍を名乗ること
が自身の正当性の表れになる・・・まあ、第2次義稙政権が1508〜1521
年の13年間に及んでいるから、やや無理のある解釈だろうけど。
>>561 それって本当?
ウチのばあちゃんの実家が熊本で景時の子孫ってなってるんだけど、その喜連川
藩士の子孫について詳しく教えてください。
ウチのばあちゃんの実家は景時と家紋も一緒で鎧と刀もあるんだけど、何番目の
子の子孫なのか分かんないんですよ。
572無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 00:10
>>571
ググッてみたけどあまりよく分からないな。
古河公方・足利晴氏の支配家に「梶原平太夫」(侍大将)という記載があるのと・・・
それから足利国朝が下野・喜連川に移る際に従った家臣に「梶原平右衛門」の記載がある。
現時点ではそれくらいだね。
>571
熊本だったら先祖は加藤清正に仕えた梶原氏かもしれないなぁ。
通字も「景」のようだから、梶原景時の流れなのかねぇ。
574無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 00:44
>>573
加藤家の船奉行に梶原助兵衛(小西軍との戦いで戦死)という人物
がいたようだね。
梶原姓は水軍衆に多く見られるようだが・・・
西日本なら淡路水軍・赤松水軍(のちに別所水軍)にも梶原氏はそれぞれいるな。
同族意識はあったようで、別所氏に属した梶原氏は三木合戦後に淡路梶原氏を頼って逃れたらしい。
>>574
>梶原姓は水軍衆に多く見られるようだが・・・
それについては「かつて梶原一族の所領が海沿いに多かったから」という説
もあるようだね。真偽の程は定かじゃないが・・・
となると、北条氏に仕えた梶原景宗などもそうなのかな?
577無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 07:36
喜連川国朝と共に下総から下野に移った家臣たちの名前を
見ていたら、おやっ?という姓の人々が・・・

「相馬靫負」 「高修理頭」 「二階堂主計」 「三浦左京亮 」
「梶原平右衛門」 「里見主馬」 「高城左衛門」 「武田一郎右衛門」
「江戸某」 「一色刑部」 「山名豊前守」 「山名采女」 「逸見三郎」

なんとなくそれっぽい姓の人たちばかり。
ちなみに相馬、高、二階堂、三浦氏が重臣クラスだそうです。
578無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 16:04
でも足利家は結局何年も昔将軍家だったということで何百年も長生きできたから
よかったじゃないか。鎌倉北条家なんて南北朝のどさくさで完全に潰れたもんな。
579無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 17:27
>>545
義稙以降は将軍としての体裁すら
ほとんど整っていなかったよな。
辛うじて頑張ったのは義輝・義昭くらい。
しかし、強大な力には勝てず敗北。

もっとさかのぼって考えれば、
義教が実力のある最後の将軍だろう。
義勝は幼少、義政は無気力、
義尚はそれなりに頑張ったけど、
六角すら殺すことが出来ず若死に。
どいつもこいつも悲惨な奴ばかり。
580無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 17:48
将軍家に力がなかったこそ、権力は無いものの300年近く安心して暮らせた。
と言ってみるテスト
581無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 18:56
>>580
応仁の乱以降、権威に徹した?ところが長寿の秘訣でしょ。
>>577
喜連川家の禄高は表向き無高となっているね。
徳川家が知行を与えてしまうと、喜連川家を徳川家の臣下に位置づ
けることになってしまうため、幕府が配慮したらしいけど。
当然、参勤交代も免除されていたとか…

ちなみに喜連川家自体の血統は…
国朝−頼氏−(義親)−尊信−昭氏−氏春(昭氏女婿)と繋がるが、
氏春の子・茂氏が妾腹なので、昭氏女で途切れる。
但し、氏春は古河公方家庶流・宮原家の出身なので、古河公方家
の末裔という点では、その後、氏春−茂氏−氏連(〜1761)まで繋
がることになる…そうです。
583無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 19:29
会津藩にも梶原家がある。
幕末の家老梶原平馬景武。
>>561
>>571-57
>>583
それにしてもすげぇ〜な、梶原ネットワークはw
585584:03/10/23 19:43
し、しまった!
>>571-577だった!
太田資正の次男も梶原性だな。
587571:03/10/23 20:09
たくさんの情報有難うございます。
肥後藩士だったと聞いていますが、一番詳しかった婆ちゃんが亡くなって、
うちに詳しい人がいなくなっちゃったんですよ。
いやぁ、皆さん非常に詳しくていらっしゃって驚かされてしまいます。
>578
一応北条氏綱の時代にも関東の一豪族として北条氏は存在していたけどな。
小田氏出身だが、北条顕家とかがいる。
義輝は本当にたたみに刀突き刺して戦ったんだろうか?
いくら剣豪でも何でも一人で数十人斬り殺すの無理じゃない?
590無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 01:29
>>589
畳に名刀を何本も突き刺して戦ったかどうかは定かじゃないが、苦戦した
松永軍の兵たちが畳を楯にして義輝を押し潰し、上から刀や槍で突き殺し
たらしい。
591無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 12:15
義輝は独自の暗殺団を組織していたようで、天文20年(1551年)4月には伊勢貞孝邸
に刺客・進士晴舎を送り込み長慶を負傷させ、同年5月にも僧侶や富農豪族・萱振氏
を用いて長慶の岳父・遊佐長教を高屋城において暗殺している。
また、6月には筒井順昭が急死しているが、これについても長慶の同盟関係分断を企
図したとする義輝黒幕説がある。
表では剣聖将軍と呼ばれていながら、裏では政敵排除のために暗殺団を組織するな
ど、なかなかに魅力的な人物である。
萱振氏は畠山家臣だな。書状の発給に携わっている。
593無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 17:44
>>591
そんな事してるから自分も暗殺さ(ry
594無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 17:49
義輝は剣豪将軍というより暗殺将軍ってとこか。
595左近:03/10/24 22:41
15や16そこらの歳で暗殺街道まっしぐらかよ
義輝は1536年生まれ。
1551年当時、義輝は数えで16歳。満なら14or15歳。
暗殺大好き中学3年生〜〜
597無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 11:17
>>596
ワラタ。
人を殺すことになんのためらいもないのだろうか?
自分の名前の一字を買わなかったヤツは暗殺
599無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 17:12
>>591
遊佐信教の暗殺には、僧侶だった信教の弟も関わっていたとか。
義輝には「テロ将軍」の称号を与えたいね。
600無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 17:13
600げ〜っと!!
テロに生き、テロに死す
義輝公=アラファト議長
603無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 17:28
>>597
ためらってちゃあ将軍様は務まらないでしょ。
でも、「暴れん坊将軍」の徳田新之助(徳川吉宗)と同様、自分の手は汚してない。
あれだって実際に斬ってるのは御庭番の才蔵たちだし。
遊佐長教暗殺の下手人って、安見直政じゃないの?
状況証拠的に、最も考えられる人だと思うけど。
筒井もそうだが、義輝が暗殺するには如何せん遠すぎる。
>>602
まさにそんな感じだったのかも
>>605
筒井の場合は可能性の話でしょ。
しかし、義輝の暗殺活動が事実なら当然、ライン上に浮かび上がる人物ではある。
>>606
さっきからログずれてるよ
608606:03/10/25 18:18
>>604だな。
だから俺は前から、
三好さんちの人達殺して回ったのは実は義輝だ
って言ってたんだよ。

毎回デムパ扱いされたよ。
610無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:46
軍事力を持たない義輝が唯一採り得る対抗手段でしょ、暗殺は。
現代で言えば、さながらテロリスト集団というところか?
毎度暗殺なんぞしてたら恨み買い捲って自滅するだけ
「えっ?ボクじゃないっすよ〜」ととぼける義輝…





                            …数え年16歳。
でも、義輝って三好義興と親しくなかったっけ?
614無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 23:36
天文20年以降、暗殺部隊が機能したという記憶はないな。
おそらく2つの成功例?はあるものの、現実にはそれに倍するくらい
失敗が多かったのかも知れん。
ちなみに三好長慶に対する暗殺未遂事件の時も、10日くらい前に
チャレンジして失敗に終わり、暗殺を企てた少年が捕まって黒幕が
義輝であることが露見したらしいし。
615無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 08:13
>>611
その時には祖父・義澄、父・義晴から受け継がれた「近江暮らし」という
必殺技があるでしょw
実際、将軍在位の期間だけ見れば、京より近江にいた時間の方が長い
という説もあるし。
>>615
つまり、「近江暮らし」をするような短絡野郎で、自滅も必然というわけか。
617無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 08:42
ムショ帰りが再犯→再収監を繰り返すような生涯。
通算で「近江刑務所」に3回服役。しかし4回目は訪れず・・・
それにしてもムショ暮らしの長い将軍だなw
618無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 09:35
>>558
義栄が出たのは「天翔記」のみ。
原因としては
@正式な将軍在位が1568年の数ヶ月でその年の内に病死していること。
(「覇王伝」では実際に上洛した義昭を将軍とし、上洛の時期を早めた設定にしている)。
A足利領国とされる山城に生涯一度も入ったことなければ、本願寺のように何らかの形で統治した訳でもない。
Bさらに史実に従えば、一生阿波で細川・三好の家臣のままで終わりそうで、「一門衆」として足利家に貢献することもない。
…と思うのですが。

正直、義栄出す位なら一条房家の次男から本家の養子となり、一方で房基・兼定を後見した関白・一条房通(シリーズ未登場)を出した方がいいような気がするな…。

義栄つながりで・・・。

「こち亀」で名前が出たことがある。
両さんが「戦国ものフィギア」で儲けようとして、定番の信長・信玄・謙信あたりを販売したら、他社に真似された。
そこで「かぶらないキャラを」と考えていて、スタッフの一人が「絶対かぶらないキャラということで足利義栄とか」と言っていた。
両さんは「誰だ!それは!」と叫んでいた。

あの両さんに「誰だ!」と言われる義栄って・・・。

オレが思うに、そもそも将軍としてカウントすることがどうかと思うが、将軍宣下はしてた(されてた)っけ?。
620無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 13:55
>>619
俺も似たような発言したがスルーされた。こち亀。
まじ気になってヤフー辞書使って調べたよ。
621620:03/10/26 13:58
>>620
もしかしたらしていないかも知れない。
脳内変換だったかもしれない。
調べて
622無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 21:18
実績がなに一つないからね〜義栄は。
623無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 23:15
義輝の死後、義秋は永禄9(1566)年4月には従五位下左馬頭に叙任されているので、
足利正嫡のラインに乗ったかに見えたが、翌10年12月、三好三人衆の後押しを受けた
義栄が従五位下左馬頭に叙任され、明けて11年2月8日に征夷大将軍(第14代)の宣
下を受けている。(一応、そいうことになっている)
但し、三好宗家と三人衆が険悪な関係にあったため、義栄は周知の通り、京に入るこ
とができないまま将軍宣下を受け、京に入れないまま将軍の座を追われている。
在位僅か7ヶ月・・・
>>623
正確には摂津・富田の普門寺で将軍の宣下を受けている。
参考までに・・・
h**p://tokushima.cool.ne.jp/choukeikouki/settsu-fumonji.html
625無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 00:31
>>622
義栄の実績・・・それは「征夷大将軍になった」ということだけでしょw
626無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 02:30
>>620
どう調べても「こち亀」と「義栄」がつながらん・・・
誰か「こち亀」のコア読者おらんものかな?
>>626
コミックス118巻の「最新ミリタリーフィギュア事情」に出てくる。

義栄、今まで「よしさかえ」って読んでターヨ
628無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 12:09
>>627
読者のために「よしひで」ってルビ振ってやれや!という感じだなw
629無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 19:41
みんなに馬鹿にされる義栄って(w
630無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 22:33
>>629
でも、なかなかなれるもんじゃないよ、征夷大将軍はw
631無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 05:40
まあ、愛されているという見方もできるなw



                    ・・・足利義栄著『愛される理由(わけ)』
ああ、良スレ!
できれば、末期の奉公衆の皆さんもほめてあげてください。
秀吉軍きたぞ!突撃!(山崎にて出陣した人はほぼ全滅)
633無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 18:38
>>630
そういえば将軍になるには、天皇陛下の勅許が必要なんだろう?
一度も都入りしなかった義栄がどうして将軍になれたの?
634無名武将@お腹せっぷく:03/10/30 11:19
>>633
んなことは三好三人衆に聞いてちょ〜よ
635無名武将@お腹せっぷく:03/10/30 15:22
>>633
然るべき支援者が然るべき朝廷関係者にネゴシエーションした結果でしょ。
具体的には三好三人衆が義栄のパトロンにあたるわけだが、その後、信長に簡単に
蹴散らされて逃亡・・・
松永久秀、義輝殺してみたり、義昭支援の信長引き入れてみたり…。
>>636
公卿輔任だと三好義継と松永久通になってるな>義輝暗殺
638無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 05:51
>>636
>義昭支援の信長引き入れてみたり…。

久秀は義輝殺害後、政権を巡って三好三人衆with義栄と交戦状態だったからね。
軍事的には三好義継を降した松永軍が優勢に進めていたが、永禄11年2月に義
栄が将軍に宣下されたことで、政治的には後手に回っていたというのが実情では
ないのかな?
そこで義昭を奉じて上洛を目論む信長に接近し、畿内の情報を逐一提供すること
でこれに降り、信長の圧倒的な軍事力を以て三人衆を駆逐、自らは「九十九髪」
を献上して大和一国の支配権を得たと。
639無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 13:59
>>637
確かに『言継卿記』によれば、足利義輝は三好義重(三好義継)・松永義久(松永久通)に
包囲攻撃されて自刃したことになっているね。
640無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 02:25
>>622-625
義栄の父・義維も三好元長に擁立されて阿波から堺に移り、「堺公方」と呼ばれた
御仁である。
義維は第11代将軍・義澄の子であり、また第10代将軍・義稙の養子でもあるので、
足利家の正嫡を名乗ってもおかしくない人物ではあった。
しかし、子・義栄が攝津・富田から前進できなかったように、義維もまた堺から前進
できず、元長の敗死により入京できないまま阿波・平島荘に戻っている。
義維は後に義栄に同行して摂津・富田に入っているが、この時も義栄の病死により
再び平島荘に戻っている。これ以後、入京する機会は訪れず、次子・義助の子孫が
平島公方家として血脈を保っている。
なお、江戸期に阿波を支配した蜂須賀家から冷遇され、9代目・義根が平島の地を
去ったのが文化2年(1805年)。義根は後に入京したようであるから、義維の宿願?
は大永7年(1527年)の「堺公方」から数え、約280年後に果たされた?ことになる。
>>640
細川氏、三好氏は勿論、その後、阿波を支配した長宗我部氏も平島公方
の居館と所領3,000貫(約7,500〜9,000石相当?)を安堵していたというか
ら、義維や義助の頃は上洛こそできなかったものの、それなりの暮らし向
きだったのでは?と想像してしまう。

だが、蜂須賀氏が阿波に移封になったのが運の尽きで、足利姓を剥奪さ
れ、所領を没収されて、捨扶持100石を与えられるのみと事態は暗転・・・
・・・ったく、不調法な田舎者めがっ!!
それにしても誇り高き公方様が200年以上の長きにわたり、よくそのよう
な境遇を耐え忍んだものです。
642無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 11:18
徳島の片田舎で虎視眈々と天下動乱の機を窺うかつての名門・・・
643無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 21:48
>>641-642
アウトローの土豪上がりが相手じゃ公方様の御威光も通用せんでしょ。
吉良上野介じゃないけど、思わず「この田舎侍めっ!!」と罵っちゃうような
話だなw
>641
マムシ除けのお札を売って生活の足しにしてたそうだ。
「マムシも避ける公方様」ってのが売り文句。
今でも郷土土産であるらしいよん。

一石=一貫の計算式もある。特に西日本。
645無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 05:42
>>644
「阿州足利家」と書かれたお札のことね。
「清和源氏之印」という朱印が押してあったそうで、平島の地で時代から置き去りにされた公方家の誇り
というか意地というか、そういうものを見るような思いがするよ。
ちなみに第4代・義次の時代に、居館の煤払いをしていたら、床下からマムシの死骸がたくさん死んでい
たのが見つかったのが切っ掛けらしいけど、微禄の公方家としては副業というより本業に近かったんじゃ
ないのかな?第4代・義次から第9代・義根まで発行し続けたそうな。
646無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 16:02
>>644
3千貫=3千石ということ?
まあ、そんなに大勢の家臣がいたわけでもないだろうし・・・。
北条氏滅亡後、およそ10万石?あった所領を僅か300石強に減らされた
古河公方の氏姫は、その後、若干の御連判衆を除いてリストラを余儀なく
されたらしいが。
蜂須賀や秀吉もむごいことしやがる。
なんの役にもたたないからじゃないの
648無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 21:02
室町の将軍は例外を除いて、公家みたいな香具師が多いのは何でですか?
>>648
京都在住と言うこと

正妻を公家から迎えてる
と言うところから、そういうイメージが定着してるのでは無かろうかと
・・・
勝手に想像w。
650無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 23:33
平家と一緒で公家になっちゃったな。
やっぱり都は東国でないと・・・と言いながら、虚弱な将軍が多かったけど>徳川家
651無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 23:36
徳川も足利も田舎育ちの癖に都会行きやがって
652無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 23:37
室町幕府跡って今はもう石碑しかたっていないけど、やっぱり立派な
建物だったんですか?
堀の跡もないから陣屋みたいなものだったんですか?
>>651
岡崎→曳馬(浜松)→駿府と上級シフトしたけど、当時の江戸が駿府以上だとは
思えないけどな。発展「性」はあったけど、まだ一地方都市程度だったんじゃない
のかな?
発展「性」…
厨臭w
655無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 00:12
>>652
室町御所というのは、三代将軍・足利義満が居館として造営したもので、東は
烏丸、南は今出川、西は室町、北は上立売という東西一町、南北二町の区画
に設けられていたが、応仁の乱で全焼したという。以後、西軍が陣をおいてい
た地域(西陣)が発展し続けたために、遺跡が破壊され、再建されることもない
まま時代の流れの中に埋もれていったのでは?
656無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 05:28
>>652>>655
足利義昭の「御所」は、斯波氏の館を改修した義輝の「武衛陣第」を後年、信長が再度
修築したもの。
ちなみに足利家って自ら「室町幕府」と名乗ったことはないんだよね。
室町にあった御所(花の御所)で政務を執ったので、世間的に「室町幕府」と呼んだだけ
でしょ。当時は「御所」とか「御上」という呼び方が一般的だったらしいし。
本にさ、足利義昭のために二条城を築きましたとか。書いてあるんだけど
誤植?二条城って徳川がつくったんじゃないの?
>>657
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kansai/Kyouto/KyuNijou/
この城のことかな。二条古城とも呼ばれているらしい。義昭追放と共に廃城。

家康が建築した二条城とはまた別物みたいだよ。
>>658
ずいぶんマイナーな城だな(藁
でも参考になったよありがと。
660無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 13:20
>>657-659
信長が建てたとされる二条城(旧二条城)は、15代将軍・義昭のために、足利義輝の御所
(武衛陣)を拡築したもの。
武衛陣は、斯波(足利尾張家)義将の屋敷のことで、義将以降の当主が左兵衛督に叙され
たことから、兵衛府の唐読みで「武衛」と呼ばれ、その屋敷が「武衛陣」と呼ばれたことに由
来する。後に斯波氏は尾張に下向したまま入京できずにいたため、武衛陣が足利将軍家の
別邸に使用された可能性がある。義輝は近江から入京した後、この武衛陣を修築して御所
としていた。
なお、武衛陣の跡地は現在「武衛陣町」と呼ばれ、石碑が立っている。
661無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 17:04
>>648
何せ「御所様」だからね。
朝廷や公家を統制するどころか、息子を天皇にしようと企むような香具師が
ご先祖様だし。
662無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 17:47
>>660
その後東宮御所になって、本能寺の変で信忠や村井貞勝とともに炎に消えたと思ったが。
>>662
将軍・義昭追放後に二条御所を正親町天皇の皇太子・誠仁親王に与えたという
説ね。しかし、最近の調査では、義昭の二条御所と誠仁親王に与えられた御所
とは別の建物であり、天正4年に信長が二条御所を破却し、新たに自分の屋敷
地に造営したとする説が有力らしいよ。
664無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 18:36
>>663
信長「ええいっ!!あの男の臭いがするわ!!取り壊せ〜っ!!」
とかヒステリックにぶっ壊しそうだね。
まあ、後に秀吉も似たようなことしてるけど。
>>664
そのへん詳しくはないけど、
政権交代を示すセレモニーとして必要な事だったんじゃない?
あえて前の主の建物壊してその跡地に住む事で、
前の主を否定するとともにその後を継いだ事を表す、みたいな。
>>657-665
二条城で話が盛り上がっているので、近所の住人として・・・。

二条城は歴史上たくさんあります。
1)織田信長が足利義昭のために築いた二条城(いわゆる「二条古城」)
2)誠仁親王のために築き、本能寺の変で織田信忠たちとともに消えた二条城
3)徳川家康が築いた二条城
4)徳川家光が3)を拡張した、現・二条城

3)は4)に取り込まれてしまっているので、遺構を見ることは不可能。
1)は平安女学院高校の横に石碑があります。(目立たないけど)
667無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 07:58
>>666
1)がかつて織田家の主君だった斯波氏の居館跡というあたりが歴史の皮肉
なのかな。
しかし、1)の石碑は注意しないと素通りしちゃうよね。
京都で散策したとき見つけるのに苦労したもの。
668無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 09:56
>>666
京都住まいはいいよな〜
戦国好きにはたまらないよね。
669無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 13:20
>>668
夏は意地悪なくらい暑いし、冬は意地悪なくらい寒いな、京都は。
盆地特有の気候を苦にしない人にはいいんだろうけど、俺はあのジメ〜ッと
した暑さは苦手だね。
京都に住んでた頃、「京都で暮らすのってどう?」と聞かれたときの返事。

「夏暖かくて冬涼しい」

地獄じゃ……。
671無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 22:14
そういえば結局応仁の乱って義尚が将軍になることになったけど、
どういう話でそういう結論になったの?
672無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 05:31
>>424

           襖?


673無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 07:43
>>671
確か、東西の将軍擁立候補が途中で入れ替わったことと関係あった筈だが。
674無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 08:44
かつて足利義視を排斥しようとして失敗し、失脚状態にあった伊勢貞親の中央
復帰により、その処遇を巡って義政と義視が対立、最終的には山名宗全を頼り、
西軍の総大将になってしまい・・・って、おいおい・・・
結果、義視は官位を剥奪されている。
となると、将軍義尚を将軍継嗣にする障害は事実上なくなった・・・ことになる。

なお、貞親の復帰直後、伊勢に亡命した義視の御伴衆の中に若き日の伊勢
新九郎がいた・・・らしい。
675無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 08:46
しかし義尚の次の将軍は義視の子供だったりする。
>>675
義稙を擁立したのも日野富子、義澄を擁立したのも日野富子・・・
ちなみに義稙の母は日野富子の妹だったりするので、血統的には繋がりがある
んだよね。
677無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 18:13
>>672
義輝の足を払って転倒させ、無数の襖と障子で義輝を覆い被し、その上から槍で
滅多刺しにして殺害したという説もあるらしい。
まあ、畳だったにせよ障子&襖だったにせよ、尋常な方法じゃないわな。
それだけ義輝の剣の腕が凄まじかったということなのだが。
678無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 18:29
まさに剣豪だな
柳生にやられたかもって言われてる上泉もそんな殺され方だったんだろうか
679無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 19:27
今でも義輝が使った名刀と言われている物があるけど、
刃こぼれ一つしていないよ。多分その切りまくって死んだのは嘘だと思う。
本当は・・・・
家臣「義輝様!ぐ、軍勢が攻めてきまする!おそらくは三好共の襲撃と思われまする!」
義輝「ひいいい・・・まろは死にたくないでおじゃるぅぅぅ!!」
雑兵「いたぞ!!将軍様、お覚悟召されい。」
義輝「ひいいいいい!まろの大切なこの秘蔵の名刀を差し上げるから許してたもれ!!」
雑兵「それが天下の将軍のなさる事か!!ふんっ!」
ザク。
義輝「ギャア!まろは・・・まろは死にたくないでおじゃるううう・・・・・」

やべえ想像したら可愛そうでたまらない。
然るに三好方池田丹後守が子こざかしきやからにて。
戸の脇にかくれて御足をなぎてければ。
ころび玉ふ上に障子を倒かけ奉り。上より鑓にて突奉る。(『足利季世記』)
681無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 23:31
>>679
誰かが戦利品として持ち帰ってちゃんと手入れしてたんじゃないの?
682無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 23:41
>>681
でも名刀といえども、義輝は使い物にならなくなっては捨てて拾ってを
繰り返していたというから、再生不可能では?
683無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 23:48
刀って2、3人切ったらもうダメなんじゃないの
本来は首切り包丁だろ
松永・三好軍に襲撃されたときには逃げようと思えば逃げられた状況だった
らしいが、敢えて迎え撃ったらしい。
剣豪ゆえに・・・ということのようだが「多勢に無勢」「衆寡敵せず」という言葉
知らんかったのかねえ・・・
685無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 00:21
潮時って思ったんじゃないの
生き恥さらしの弟よりはカコイイ
686無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 00:47
>>685
そうか?
やっぱり戦国は、恥じ晒してでも生き残ったもん勝ちだろ。
687無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 01:30
恥じ晒して何かを大成できればそのほうがカコイイが
本流も分家に取られた義昭っていったい
今川氏真は高家になってるからギリギリOKみたいな
688無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 04:52
>>577
遅レスすいません。


プチ室町御所って感じ。
689無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 05:03
>>632
君が褒めてみてよ。
ごめん、よく知らないんだよ。漏れを感動させてよ。
690無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 08:54
>>687
恥晒して大成したやつ=劉邦
>>685
何度も何度も都落ちするのを潔しとはしなかったんじゃない?
後醍醐天皇もそれを嫌がって楠木正成を湊川で討死させたわけだし。
692無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 10:17
>>688
江戸幕府も主従関係を持たせないために無高(5千石・家格10万石)として扱い、
参勤交代を免除した「喜連川公方」様だからね。
一応、本人たちは超ミニ幕府だと思ってた?わけで・・・何だか微笑ましい。
693無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 10:18
>>692
藩主は一人称を「余」と言っていたかもね。(w
694無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 11:04
>>693
公家のような装束と髪型、そしてお歯黒と「まろ」口調は必須でしょ。
しかも、家臣たちは「御所様」とか読んだりしてw
んでも実際の財政は火の車で、東北の大名(特に大藩の仙台藩)が
参勤交代で領内を通過するときはあれやこれやと妨害して
自藩に無理矢理足止め食わせてお金を落とさせていたらすぃ・・・

っ て 既 出 か
いや、それも足利っぽくていいかもwと・・・
>>695
これじゃないの?

>562 :無名武将@お腹せっぷく :03/10/22 00:08
>喜連川公方に関するけっこう面白い話
>ttp://www4.plala.or.jp/kaseiken/tearoom/tea.htm
>を参照。

それにしても「藩ぐるみの旅行業」には笑えるものがあるな。
まあ、当事者にしてみれば必死なんだろうけど、それがかえって笑いを誘う。
697無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 11:50
公家風の足利藩旅行会社にワラタ。
社長(藩主)自ら営業の第一線に・・・
699無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 13:04
チップを渡さないといやがらせをしそうだな。 
「当藩は貧しいのでこの旅館が一番いい方です」とかいって汚い部屋を
通されたりとか(藁
700無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 14:42
>>694
家臣たちは「公方様」と呼んでたそうです。

ついでに700げっと!!
701無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 21:51
前田、伊達、島津といった大藩には「御屋形」の呼称が許されていたが、
喜連川には「御所」の尊称が許されていた。
702無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 21:58
>>701
ちょっと特権あたえすぎだよな。
「一万石のくせに」って他の大藩から苦情はこなかったのだろうか。
かつて中国でも先代までの王朝の末裔を保護して捨扶持あたえてやってた。
例えば晋は殷、周、漢、魏それぞれの末裔を王侯に封じていた。
それに似てるね。
704無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 22:08
>>703
まじ!?
漢までは分かるけど、殷周はやりすぎではないだろうか・・・・・
大体末裔なんて分かったもんじゃないだろう。
ちなみに殷の末裔としては何故か孔子の末裔が封建されてた。
周は前漢途中からずっとなので、そんなに信頼性低いとも限らないかもしれない。
706無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 22:18
ていうと、明治政府は人でなしなんかな
慶喜になんかやったか?
707無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 22:19
>>705
周の末裔は戦国七雄の内の秦と斉を除いた国の子孫から持ってくればいいからな。
708無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 22:20
>>706
爵位が送られて華族扱いだからいい方でしょ。
殷の末裔って、宋のはずだよな…。
710無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 23:54
>>709
そうそう。そうだよ。藁
>>709
儒者がテキトーこいて孔子が殷の王族って事にしたのです
>>707
それはちょっと...
713無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 01:03
>>706
最終的には公爵でしょ。
そのあたり明治新政府も最終的にはちゃんと帳尻を合わせている。
公爵は元老院議員になれるの?
足利さんがひょーばん悪さに耐え兼ねて「利」(かが)に改姓したのは明治以降?
716無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 09:37
>>702
そのあたりは天下の副将軍サマだかんね。
水戸光圀公が「喜連川家の血筋が絶えそうになったら水戸家から養子
を入れろ」と指示したというお家柄。
大名にしてみれば「嫌なのに捕まったな・・・」とボヤいたところで、文句
を言えるはずがない。
むしろコースを変更して領内を通過しなかった大藩に逆ギレして、文句
を言いに出向く公方様・・・ワロタ!!
何か『忠臣蔵』の吉良サマにイメージ被るなw
717無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 13:09
>>715
明治以降も何も、喜連川家が「足利」に改姓したのが1868年だからな・・・
ちなみに近年、血筋が絶えた末裔も「足利」姓だったように思うが
途中で「利」姓から「足利」姓に戻したってことか?
平島公方の末裔も「足利」姓・・・誰だ?「利」姓にしたのは?
718無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 13:28
え?どういう事?足利じゃなくてただ「利」って苗字にしたの?
719無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 13:46
>>718
>>715のレスによると・・・だが、どこからそんな話が出たのやら・・・
>>715>>717-719
足利家の悪評を浚っていたら、こんなものを見つけた。
ttp://www1.ttcn.ne.jp/~adt.ism/hom1/hom2/mirai213.htm
【以下、引用】
>家康も、徳川王朝を大王朝にするには、同じように、先の王朝を極悪の王朝
>に仕立て上げる必要があると考えていた。
>だが、直前の織田信長、豊臣秀吉の二人は、家康が、その二人のお陰で天
>下人になれたことを、まだ誰もが知っている。そこで彼は、その二人はそのま
>ま大切に扱って、その前の足利氏を、日本史上最悪の国賊とすることにした
>のである。
>実は、水戸家から足利家に、そのことを知らせた手紙が、今も足利家に残り
>保存されている。水戸家は、『大日本史』を編纂するに当たり、幕府から、足
>利尊氏を国賊の筆頭にすることを要請されていた。そこで水戸家は、江戸時
>代に一万石の小さな大名で残っていた足利家に、故意に足利家を国賊にす
>ることを陳謝し、更に「それが元で、今後種々の難儀が足利家に及ぶと思う
>が、水戸家が、全力を上げて足利家を擁護する」旨が、その手紙には書かれ
>ているという。
>そのことを発表されたのは、横浜大学の教授をされていた現在の足利家のご
>当主である。なお、江戸時代には、足利家に後継が生まれず、取り潰しの危
>機が何度かあったらしい。その度に、水戸家から養子が行って、足利家は存
>続し続けたそうである。
>そして、そのことを発表された足利教授もまた、水戸家から行かれたご養子
>さんなのである。
721無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 14:25
>>720
乙。
>>720
で、この「横浜大学の足利教授」ていうのがワケワカランのだが
横浜国立大学の間違いかねえ ボソッ
眉につばを付けたくなる話だなぁ
サイトもなんかトンデモ系だし
724無名武将@お腹せっぷく:03/11/07 15:44
>>723
まあ、確かに真偽の程は・・・「?」でしょ。
しかし、『大日本史』の編纂の目的が、徳川政権の正統化(or正当化)にあった
ことは紛れもない事実。その結果、足利家も徳川家も天皇家の臣下に過ぎない
という事実が浮き彫りになり、水戸家に勤皇思想が醸成されていったと。
とは言いながら、徳川家が南朝側に属した新田氏の末裔(勿論、大嘘なのだが)
ということになっている以上、『大日本史』において足利家(喜連川家)に対する
扱いが厳しくなるのも分からんでもない・・・。
そのことに対する配慮かどうかは知らないが、現実に江戸末期には水戸家から
縄氏が養子に入っているしな。
こじつければどうにでもなりそうだが・・・
725無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 09:19
微妙な問題でつね。
726無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 14:40
維新後、聡氏が足利姓に復し、万石以下ながら子爵に列せられているね。
平嶋家はいろいろ策を弄したけど結局、華族にはなれなかったが・・・
結局のところ、他家(足利ファミリー以外)から養子入れずにまっとーに血筋が
続いてる足利一門って、宮原家だけですか?
安房公方はどうなのでしょう。

ココ見ると、なんか足利宮原家には、武田宗家の血も混じっているようですが。
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/miyahara.html
728無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 16:31
>>727
武田勝頼の娘・貞姫が宮原家に嫁いだのは家康の計らいだったらしい。
729無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 16:35
>>727
安房公方って何?そんな香具師いたか?
>>727
平島足利家の末裔がTVに登場してたな。
ちなみに平島公方の系譜は・・・
義維(義冬)−義助−義種−義次−義景−義辰−義武−義宣−義智−義根・・・
と続いてきているが、系図上、どうやら血脈を保ってきたらしい。
捨扶持100石の貧乏暮らしで、マムシ除けの御札を販売して糊口をしのいできた
平島足利家はやはり逞しい・・・
それ以外でも、薩摩藩士になった永山家や、会津藩士になった一色家(いずれも
義昭の血統)もあるからね。
>>729さん
すいません、変換違い。阿波公方=平島さんです。
>>730さん
ありがとうございます。
平島さんは復姓してないのですか?
732730:03/11/08 16:59
そもそも平島姓自体が蜂須賀家から教養されたもの。
しかも○次郎だの、○三郎だのと名乗ることを強要されるわ、所領を没収されて
雀の涙のような捨扶持に与えられるわ、屈辱的な処遇だったらしい。
8代目の義根がついに京都に戻り、その際に足利姓に復したんじゃなかったかな?
733無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 19:02
どこまでもついていないですね。
義栄さんの家系って。
734無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 19:03
江戸時代のキリシタン禁制下、近畿地方における最後の神父・ディオゴ結城(了雪)は、
平島公方の家臣・結城家の出身だそうです。
h**p://www.topics.or.jp/Old_news/n03103106.html
735無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 19:07
義栄=のび太みたいだな
736無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 21:51
阿波公方家は代々、漢詩文に長けたお家柄だったそうで、第8代・義根は京都から
高名な儒者・島津崋山を招いたそうな。
「蝮の御札」だけじゃなかったのね。
ttp://www.town.nakagawa.tokushima.jp/nakagawa/kankou/rekimin/kousatsu/edo.htm
>>734
アドレスを*で隠すのやめてくれや。
専用ブラウザでクリックできないし、コピペの際も面倒くさい。
738無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 05:58
>>737
できる専用ブラウザもあるし、なによりおのれの利便のために、
一個人の書き込み方を強制させようとするなかれ。
739無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 09:34
古河公方の氏姫も秀吉の命令で古河城を退去させられ、そのうえ332石の微禄で
家臣を養わなければならなかったわけだけど、平島公方は僅か100石でしょ。これ
じゃ養いようがないよね。
氏姫の場合は大多数の家臣を他家に仕官させ、残ったごく少数の家臣もその後、
喜連川家に仕えることができたからいいようなものの・・・
まあ、客分待遇だけに軍役を課されることもなかったんだろうけど。
740無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 10:42
氏姫の兄弟食いの故事ってなんですか。
詳細キボンヌ
741無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 11:05
>>727
俺はてっきり義明死後に安房に一時退却している後の喜連川のことかと思った
742無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 18:56
>>740
そそる話だけど、国朝は婚約しただけで死んだので・・・
婚姻といっても形ばかりで、国朝は喜連川陣屋に、氏姫は鴻巣館に居を構える
別居スタイルだったらしい。但し、国朝が1593年に病死しているので、実質的な
夫婦生活があったかどうかについては疑問が残るが・・・
ちなみに国朝の死により、出家していた弟の頼氏が還俗し、国朝遺領の相続を
願い出て許され、氏姫と婚姻を結んだが、別居スタイルは相変わらずだったらし
い。とはいえ、2人の間には義親と姫1人が誕生しているので、それなりにやる
べきことはやっていたようで・・・
おそらく鴻巣館に正室、喜連川陣屋に側室を置き、双方を行き来していたんだろ
うね。
義昭って具体的にはどんな性格の人間だったんですか?いまいち行動パターンがよみにくいです
>>742-743
秀吉により婚姻を命ぜられたのが天正18年(1590年)でしょ。
国朝死去が永禄2年(1593年)だから「何もない」ということはないんじゃない?
仕掛け人の古河姫君(島姫)も何かと事を急いだろうしw
747無名武将@お腹せっぷく:03/11/10 10:13
>>746
ただ貼り付けるだけじゃなくて何かコメントしろよ

>>743
氏姫は生涯、鴻巣御所から動かなかったよね。
嫡男・義親も氏姫と同じく鴻巣御所で暮らし、頼氏死去により孫・尊信が
喜連川に移ったことで荒廃してしまったと。
>>744
たぶん貴方が感じたそのままの御方様だったと思われw
それにしても「最後の将軍」なのに閨閥関係も子供のことも確実に分かっていることが少ない人とは・・・
749無名武将@お腹せっぷく:03/11/10 13:08
>>748
義昭の正室って誰なんだ?
とりあえず実子は高山(彼のみ確実)と義在、義喬などがいるとされているわけだが。
信長によって追放された義昭は、槙島城を出ると山城枇杷荘に向かったが、その途上で
落ち武者狩りに遭って身包みを剥がされ、金品を全て奪われたうえに、「貧乏公方」と罵
られたという。
その後、本願寺の斡旋により河内・若江城の三好義継を頼ったが、その際には信長に頼
んで羽柴秀吉を護衛に付けてもらう始末だったようだ。
若江から堺、紀伊・由良へと移ったが信長との和睦もかなわず、北条・武田・上杉に書状
を送り、上洛の援助を依頼したがこれもかなわず、備後・鞆に下り、毛利輝元に幕府再興
を要請している。この際、妻妾、上野秀政、畠山昭賢、真木島昭光らが同行したというが
妻妾の身元は不明。
なお、入京できない間は鞆に逗留し、毛利家が用意した居館に仮の幕府を置き、この地
で第2次信長包囲網形成のための外交活動を展開したという。
751無名武将@お腹せっぷく:03/11/10 17:30
よく考えてみたら、信長が本能寺で殺されたのは義昭と因縁があるよな。

義昭追放→毛利家逗留→信長怒る→毛利家討伐→秀吉の応援→信長出陣→
本能寺寄宿→あぼーん
752無名武将@お腹せっぷく:03/11/10 22:57
>>751
義昭黒幕説もあったけど・・・どうかねぇ。
仮に秀吉がシロ、義昭がクロだとすると、変後の毛利の消極的な動向がどうにも
腑に落ちない。義昭の要請を受け、信長との直接対決を決意しておきながら、変
後に何らアクションを起こしていないわけで。
義昭が毛利を自陣営に引っ張り込むことに成功したことが、結果的に中央をガラ
開きにさせ、光秀の本能寺襲撃を容易ならしめたのは事実だけど、義昭が果たし
たのはそこまでだろうね。
753無名武将@お腹せっぷく:03/11/10 23:16
>>752
むしろ秀吉がクロ、義昭がシロの方が辻褄合いそうだな
754無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 09:07
>>752
まあ当の義昭はそこまで考えていないと思うけどな(W
755752:03/11/11 09:51
>>755
だから「結果的」と言ってるわけで。
義昭のお手柄は毛利を自陣営に引っ張り込み、第2次信長包囲網を作り上げたところ
まで。しかし、そのことが「結果的」にクーデターを発生させる絶好のシチュエーション
を作り出し、予期せぬクーデターどころか、さらに予期せぬ秀吉の台頭、躍進という事
態を招き、自らの復権と入京などどこぞに吹き飛んでしまったと。
>>755
ログずれてるぞ
757752:03/11/11 10:33
>>754に訂正。
おまいの番号も
お、11111111だw
760752(=755):03/11/11 12:10
うるさい香具師だな・・・

>>754
>まあ当の義昭はそこまで考えていないと思うけどな(W
だから「結果的」と言ってるわけで。
義昭のお手柄は毛利を自陣営に引っ張り込み、第2次信長包囲網を作り上げたところ
まで。しかし、そのことが「結果的」にクーデターを発生させる絶好のシチュエーション
を作り出し、予期せぬクーデターどころか、さらに予期せぬ秀吉の台頭、躍進という事
態を招き、自らの復権と入京などどこぞに吹き飛んでしまったと。

>>758
これでいいのか?
761無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 12:21
>>760
まあ放置しとけ。
しかし義昭が秀吉の養子の件を承知していたらどうなっていたんだろう。
762無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 12:25
承知しないところが義昭の良さ?なんだけどね。
そのモチベーションがなければ、あそこまで執拗に抵抗しないでしょ。
現代で言えば、道路公団の藤井総裁にイメージが重なるなw
763無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 18:05
当時の名門は既得権益にしがみつく抵抗勢力なわけか。
764無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 13:55
名門というだけで個人の資質をかなり補えた時代ではあるな
765無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 23:21
>>764
足利家と、今川家位じゃないか?
それにしても斯波家はかわいそうだな〜
766無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 01:26
血筋的には高家として再興されても良さそうなものだが・・・>斯波家
767無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 02:18
>>766
徳川幕府が保護したのは源氏の支族たち。
足利将軍家や「将軍家と同格」と言われた斯波家は保護対象ではなかったと。
現実に喜連川足利家を足利嫡流にしてるし・・・
768無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 02:43
微妙に外したのかな
家康の狡猾さ?
769無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 03:13
というより、ろくなのが残ってなかった、と見るべきかと。
ささやかでも所領はおろか、家臣団、
つーか「御当主」すらもどうだかよくわからない状態。

本願の土地もどことも言えず、信長期には(全国の斯波氏全て)
およそ壊滅状態。
越前アウト、三河アウト、尾張雲散霧消。あとどこだ?

しょーがねーよなぁ。
せめて畠山滅亡ぐらいの時期まで粘れればよかったんだろうけど・・・。



一色って残ってるっけ?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1010819364/169
によると、高家の中に一色は入ってない

あと播磨屋さんところによると、江戸時代に入って断絶したみたい
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/1siki_k.html
771無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 14:16
>>769-770
関東(幸手)一色家は徳川政権下で生き残ったな。
なお、幸手一色家は鎌倉・古河公方に仕え、天正18年には豊臣方に与し、翌19年
に家康が関東に入府すると所領を安堵されている。

以下は
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/moto.htm
より引用。
>一色家〔武蔵幸手3500石〕
>この一色家の祖直明は、家伝によると足利将軍義量の孫義嗣の次男で一色氏兼
>の子長兼の養子となったとしていますが、義量は早世して子がなく、義嗣はその
>叔父であるので疑わしいと『寛政譜』ではしています。武蔵国葛飾郡幸手庄を領し
>ていましたが、直明の玄孫義直の時に徳川家康に本領を安堵され、5160石を領し
>ました。息子照直は加増され7160石余を領し、交代寄合となりましたが、嗣子なく
>父義直が再仕し、外孫直氏が5160石を相続しました。その子直房は4500石を継
>ぎましたが、病身のため江戸に居住し、交代中絶となりました。子孫は、3500石の
>旗本として存続しています。

上記のほか、古河公方の御連判衆には一色右衛門佐氏久の名があり、足利国朝
が喜連川に移る際に同行した家臣の中にも一色刑部なる者の名がある。
772無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 14:48
大名より旗本のほうが気楽かなぁ
参勤交代とかもないし
>>772
養子などの届出も旗本の方が通り易いんじゃない?
幸手には一色稲荷大明神があるなあ。
幸手の稲荷神社は、一色氏の守り神として「陣屋稲荷」とも「一色稲荷」とか呼ばれているらしい。
明治天皇が行幸の折に立ち寄った知久陣屋跡のすぐそばだったかな?
775無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:06
・足利将軍は剣の腕がいい。
・でも義満はどんくさい。しょっちゅう落馬してた。
・義教はホモ。お相手の男の子に他で取り上げた領地とかやってた。
・義教将軍の首は阪急京都線の崇禅寺にある。
・赤松満祐はびっくりするくらいブサイクだった。
>>775
バイセクシャルじゃないの?
777無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:16
>>775
7代将軍・義勝も落馬したときの怪我がもとで死んだという説があるね。
そのあたりはやはり血なのか?
それにしても満祐に擁立された足利冬氏(義尊)はどこに消えたのやら?
778無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:22
落馬・・・で片付けられる暗殺は日本史には沢山ある。
頼朝が有名だな。
このスレには関係ないけど天智天皇も馬で遠乗りに出かけて沓を残して行方不明・・・
日本では割とポピュラーな暗殺方法なのかも?
780無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:42
>>775
嘉吉の乱の原因は、将軍・義教と赤松家庶流・赤松貞村との男色にあるとされている。
貞村を寵愛するあまり、宗家の満祐の所領を召し上げて貞村に与えるという噂が飛び交い、
疑心暗鬼に陥った満祐が凶行に及んだとされている。
ちなみに満祐は、義持の治世下でも同じような体験をしており、この時は義持の寵童・赤松
持貞(貞村の叔父)の讒言により危うく所領を奪われかけている。
いくら容貌が醜悪だからって・・・満祐にやや同情。
781無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:44
徳川将軍と高家について
征夷大将軍は天皇家の血を引いてないと絶対なれなかった。
徳川(松平)は残念ながら土着の豪族であり、当然将軍にはなり得なかった。
そこで家康は、系図に細工をする。
清和源氏流の足利(新田?)家の何某の流れ、ということにし、見事将軍となった。
そのとき吉良氏(足利系)に系図の細工に多助をうけた。
この背景をうけ、大名並み”高家”には足利家の縁故(むろん吉良家含)が
多い。
782無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:50
>>780
へえ〜、へえ〜。
できればソースもキボンヌ
783無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:53
>>781
新田系でしょ。
それゆえ『大日本史』では足利家を敵役にしている。
784無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 15:54
>>780
勉強になります!
義教ってなんかえぐい。。
>>783
水戸光圀は予め足利家の末裔・喜連川家に「お断り」したうえで
足利家を叩いてます。
786無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 16:01
位の高い人は馬じゃなくて輿?じゃないの
だから馬乗り下手くそも納得できそうなんだけど
787無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 16:07
>>781
そうか
喜連川なんかも援助したんかな
本家筋の義昭ぼっちゃんはそういうの嫌がりそうだもんねぇ
788無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 16:07
>>780
満祐は「三尺入道」とか嘲笑されていたらしい・・・ひどい・・・
789無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 16:09
義教ネタない?
なんか過去の将軍たちの中では政治センスは抜群て評価らしいけど。

>>787
援助とまではいかないが、3千8百石前後だった喜連川足利家に加増(表向きは無高)
し、最終的には5千石(実高1万石とも)を与えている。
無高ということにして臣下とは扱わず、「御所」の名称使用を許し、御三家に次ぐ席次と
10万石の家格を与え、参勤交代を免除していた。
791無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 16:50
>>787
嫌がるも何も・・・義昭の没年は1597年だからね。
なお、義昭の死後、還俗した義昭の嫡男・高山が遺領の相続を願い出たが
却下されているよね。槙島1万石が義昭(剃髪して昌山)の隠居料という認
識であれば、一代限りで収公したのは当然の成り行きなんだろうけど。
徳川幕府も足利高山には何の援助もしていないようなので、高山を召し出し
て新規に禄を与えるより、喜連川足利家に多少加増した方が得策と踏んだ
んじゃないのかな?
その頃には既に頼氏が足利嫡流として「左馬頭」に叙されていたし。
792無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 16:51
¥一休さん間違い¥
・時の”将軍”は義持。
・義満ご隠居は坊主である。
・金閣二階は金箔は貼られなかった。
・蜷川新右衛門は政所公役。寺社奉行は室町幕府にはない。
  (ちなみに、政所執事は伊勢氏。)
 なお、新右衛門親当は義教に仕える。
 また、蜷川家は綱吉時代から旗本の家柄となる。 
・安国寺は四条大宮にあった。山じゃない。
>>789
義教には義満のように天皇家に成り代わろうという意思はなく
義持同様に武家政権として君臨し、勤皇に励むというスタンス
だったらしい。
>安国寺は四条大宮にあった。山じゃない。
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー
。。。実家の近所じゃんw
795無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:01
>>792
へえー新右衛門って高官なんだな。
てっきり町の小役人かと思っていたよ。
直系の子孫が蜷川親長
797無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:05
一休さんってさ
坊主であっても家格がすげーから
普通なら一般人なんかとは喋れない人なんでしょ
下賎と戯れる一休見て身分の高い人はどー思ってたんだろね
798無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:11
実際は大徳寺じゃないの?
>>769
斯波なら大崎、最上がいるよ。
んで、最上は高家でしょ。
800無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:24
追加
・↑一休と義満とは5親等にあたる。
 
       − 紀良子(愛妾)− 義満
 後光厳帝−
      − 後円融帝−後小松帝−一休

・六代将軍くじ引きに、一休は立会い、義円(義教)が引きあてたとき、
 「あーあ、一番おっかないのが引いた、、」と嘆した。らしい。キャー
801無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:26
一休はサヨちゃんや弥生とセクース三昧
802無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:28
今日はよく延びるな。
次スレまでがんばろう。
803無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 17:45
>>799
いや、でもかなーり遠くの親戚でしょう。
それは斯波家とは言わないのでは・・・?
804無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:11
このスレ見てると権力もないのに公方気取りの喜連川家をよく徳川に潰されなかっと思う。
なんか潰せない理由があったんですか?
805無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 18:52
>>768
が正解でしょう。
806ちんちん詐欺:03/11/13 22:12
もしもし、将軍? 朕だけど。
……そう、朕だよ、朕。
ちょっとさー、禁裏の修繕費用が足りないんだ。
悪いけど、三千貫ほど振り込んでくれない?
そう、……OK?サンキュー。じゃあね。
807無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 22:50
>>804
潰さなかったというより「公方のままでいいよ」と認めてあげてたわけで・・・
その代わり『大日本史』で悪役に仕立ててますけどね。
808無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:03
>>807
悪役になってもらう代わりに200年の生活保障が与えられた訳ね。
昔の人なのに羞恥心はないのだろうか?
809無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:05
羞恥心があったら橋の上で釣り糸垂れてないだろうな
810無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:12
>>808
編纂にあたった水戸藩主・徳川光圀はそのあたりを配慮して
「もし喜連川家に何らかの災いが起これば、水戸藩が責任を以て火種を消すように
取り計らう」
と支援を約束。
実際、無嗣断絶の危機にあった喜連川家に、徳川斉昭は我が子・縄氏を送り込ん
で事態を収拾している。養子に入るということは当然、支度金が入るわけで、財政
難の喜連川家にとっては二重に有り難かったと。
811無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:38
>>810
じゃあ足利家の血統は途絶えたわけか・・・
いや〜沢山の大名がお取り潰しにあっている中で公方様ごっこやっているだけで
生活ができて羨ましいよ。
812無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:42
>>811
とりあえず最後の藩主・聡氏は、古河足利家の庶流・宮原家から養子に
入ってる。
宮原家からは5代藩主・氏春が養子に入ってるので2度目になるな。
ちなみに最後の当主は確か水戸徳川家の血筋の人だったような・・・
>>811
問題は「10万石の格式」というところ。
これのせいで何かと出費がかさんで財政は火の車だったらしい。
細川家から養子に迎えた藩主・宜氏(熙氏の女婿?)など嫌気が差して
プチ家出する始末w
(笑い事じゃないか・・・)
結局、早世しちゃったけど。
814無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:53
>>813
という事はもしかしてばか殿のモデルだったりして?(w
それなりに苦労が多かったんじゃない?
特に財政難は深刻だったらしいし、のん気に公方様ごっこをやってた
わけじゃないと思うよ。
816無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 00:27
>>799
確かに斯波家兼から分派したのが大崎家、最上家だけど・・・けっこう無理ないか?
それはさておき、大崎家は小田原参陣が遅れたために葛西家同様に所領没収。
子孫は南部家、最上家に仕えたとされる。
一方、かつて57万石を領した最上家も、元和8年(1622年)、義光の孫・義俊のとき
に内紛のため所領を没収され、僅かに近江・三河国内で1万石を領するのみに。
後年、三河領5千石も収公となり、高家に列して辛うじて家名を残すばかりに・・・
それにしても斯波系は・・・末路が悲惨なのばっかり・・・
817無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 01:10
そういや伊達政宗って最上の子孫だったね。
これでOKじゃ。
818816:03/11/14 01:24
家兼が大崎姓を称し、そこから分派したのが最上家。
訂正しておかないといかんね、スマソ。
819無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 01:47
東北に領地を得たときは大崎とかのほうが
盛隆を誇ってたってことっすか
そりゃ、羽州探題が花も実もある時代もあったわけで
821無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 01:57
>>771
>足利将軍義量の孫義嗣

これが絡むと確かに怪しいよね・・・
ここっていわゆる朝倉の傀儡・鞍谷御所になったのでは?
(現在は「実は斯波氏」説が有力と聞きましたがはてさて)


↑のほうにもあったけど、確かに喜連川の家臣団(プチ幕府)には
一色がいるけど、これだってこんな感じかも。
喜連川御所様「プチばくーふ!」
家臣1「じゃわたしが細川ってことで」
家臣2「ええと、僭越ながら遠縁を辿りましてわたしが上杉ってことで」
家臣3「わたしは御所様の遠縁の分家ですので、今日から”今川”と・・・」
御所様「・・・なんか足りんな・・・」
家臣1「上様、一色役がおりません」
御所様「うーむ・・・足りん、足りんぞぉ。・・・おいそこの!」
家臣4「・・・え?わたしでございますか?」
御所様「そう。お前今日から”一色”。足利宗家命令。お前今日から一色」
家臣4「ええええっ!!?」
御所様「よーし完璧!プチばくーふ!江戸より偉いプチばくーふ!」
家臣一同「ばくーふ!」
御所様「さて、幕府活動じゃ。皆、釣りに参るぞ!余について参れ」
>>816
最上なら、ほれ、水戸家の御家老になっているじゃん。

知らない人へ。
最上義光の4男(だっけ?)山野辺義忠の子孫。
http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/yamanobe.htm
最上改易で池田家預け→水戸が身柄拝領→客員家老として水戸藩黎明期を運営。

TVの水戸黄門見てると、水戸に帰ったときに「御家老」「山野辺さま」
というのが出てきて黄門様を嗜めたり、苦労させられたりしてる。
光圀は「やまのべぇ!」と呼んでいる。
これが最上義光の孫に当たる山野辺義堅と推測されます。
史実では光圀の小姓として、一緒に育ったらしいです。。


なお、子孫は家老として存続したけど無城でした。
(水戸藩の支城は松岡城のみ?)
が、幕末に斉昭と組んでこんなものを構築。晴れて城主に復帰!
http://www.asahi-net.or.jp/~dg8j-hsmt/sukejyo.html
しかし用途は果たさず天狗党により炎上(笑)
823無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 02:14
>>821
一色役・・・激ワロタ!!
>>822
>577 :無名武将@お腹せっぷく :03/10/23 07:36
>喜連川国朝と共に下総から下野に移った家臣たちの名前を
>見ていたら、おやっ?という姓の人々が・・・
>
>「相馬靫負」 「高修理頭」 「二階堂主計」 「三浦左京亮 」
>「梶原平右衛門」 「里見主馬」 「高城左衛門」 「武田一郎右衛門」
>「江戸某」 「一色刑部」 「山名豊前守」 「山名采女」 「逸見三郎」
>
>なんとなくそれっぽい姓の人たちばかり。
>ちなみに相馬、高、二階堂、三浦氏が重臣クラスだそうです。

これのことかな?
基本的には国朝(小弓御所系統)の家臣だけに、直系ではなく遠縁
の人たちばっかりなんでしょう。
あながち>>822の指摘も・・・
825824:03/11/14 02:27
2箇所とも>>822>>821に訂正!!!
826無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 02:49
鴻巣御所の御連判衆にも「それっぽい」人たちがいますな
「一色右衛門佐氏久」「小笠原兵庫頭氏長」「高大和守氏師」「町野備中守義俊」
「梁田右馬助助実」(簗田氏庶流?)「芳春院松嶺」(禅僧)・・・
827無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 08:11
>>821
プチばくーふに微笑した。
>>824
そうそう、そのレス(>>577)のこと。
>>826のもそうだけど、なんかこう「御丁寧に揃い過ぎ」だと思わない?
「なんせ足利幕府ですよ!」って格式付けるために、わざと揃えてる気がする。
大体「高」とか、お前今までどこに居たんだ!?と問いたい。

例えば俺が喜連川御所(藩)から使者が来たとする。
例えばお前が喜連川御所に行ったとする。
その時
「御所から参りました一色刑部と申します」
「供応役の山名豊前ですヨロシク」
って言われたらやっぱり「ぉぉぉ〜すげぇ、やっぱ足利じゃん!感動!」って
思うっしょ?
「一色殿はやっぱりあれ?かの有名な一色の!(子孫?)」
「いやいやまぁそこはせれ、当家は足利宗家ゆえ(子孫役で・・・)」
「おお〜、サインください、サイン!」
って感じ。


いやまぁ穿ち過ぎかもしれないけどさ(笑)
それに宗家様が「お前に足利分家、一色の名跡を継がせる」って言ったら
それが正統って言えば正統で・・・しょうがないかも。
「お前に新しく苗字をやる。”一色”」「御所様それは・・・」「なにも言うな・・・」かも。


>>823
>>827
Thx.    一緒に橋の下へ釣りに行こう。喜連川はのどかないいとこだったよ。
ぅぉぅ、数箇所の誤字失敬。
眠いんじゃスマソ。
830無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 12:07
橋の下で釣り糸を垂れている公方様・・・。
天下はいつ釣れるのやら、(藁
831無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 12:13
http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/japan/asikaga03.html
名家構成員リスト。喜連川家。
すご(・∀・)イイ!!
832無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 12:15
>>831
追記。
足利氏の欄に足利義栄の子、義助なるものがいる!
ヤバイ。足利ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
足利ヤバイ。
まず古い。もう古いなんてもんじゃない。超古い。
古いとかっても
「元亀天正以来?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ永久。スゲェ!麿とかを超越してる。永久だし超古い。
しかも増長してるらしい。ヤバイよ、増長だよ。
だって普通は大名とか増長しないじゃん。だって参勤交代の距離がだんだん伸びてきたら困るじゃん。江戸まで超遠いとか困るっしょ。
東海道が伸びて、元和のときは徒歩10分だったのに、天保のときは籠で半年とか泣くっしょ。
だから大名とか増長しない。話のわかるヤツだ。
けど足利はヤバイ。そんなの気にしない。増長しまくり。プチ幕府とか言っちゃうくらい。ヤバすぎ。
永久っていったけど、もしかしたら大治かもしんない。でも大治って事にすると
「じゃあ、喜連川ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にも分からないなんて凄すぎる。
あと超貧乏。約五千石。家格で言うと十万石。ヤバイ。偉すぎ。迂回する暇もなくぼったくられる。怖い。
それに超何も無い。超ガラガラ。それに超のんびり。仙台殿が来ると平気で釣りとかしてる。仙台殿て。将軍でも言わねぇよ、最近。
なんつっても足利は家柄が凄い。公方とか平気だし。
うちらなんて譜代とかたかだか老中で上手く扱えないから外様にしたり、取りつぶしてみたり、隠密使ったりするのに、
足利は全然平気。公方を公方のまま扱ってる。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、足利のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ足利の悪口書いた光圀とか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。
>>832
義助は義維の子(義栄の弟)という説もあるがな。
>>833
頑張るも何も光圀なんて当の昔に死んでるし・・・
836無名武将@お腹せっぷく:03/11/14 15:30
>>828
ワラタ!!!
でも、>>826に出てくる御連判衆の面々は鎌倉公方以来の譜代なので、
「なりきり」とはちょっと違うんじゃないの?
>>828
何か日光江戸村みたいなことになってるな、喜連川公方w
838無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 02:49
>>828
>大体「高」とか、お前今までどこに居たんだ!?と問いたい。
観応の擾乱から250年前後経過しているわけで、その子孫に「おまえ本物か?」
と言ってもね・・・
観応の擾乱後、高師秋の子孫が鎌倉・古河公方に近習として仕えたようなので、
その1人と見るのが妥当では?
なお、高修理頭は足利晴氏の家老職にも名を連ねているので、おそらく国朝が
鴻巣館から喜連川に連れて行ったのでは?
すなわち、国朝には古河系の家臣と小弓系の家臣が存在しているわけで、前者
と見るべきかもね。里見、高城、逸見、武田あたりは後者なんだろうな。
>>836
>>838
鎌倉公方のほうにもいたんかい、高くん!


>すなわち、国朝には古河系の家臣と小弓系の家臣が存在しているわけで、前者
>と見るべきかもね。里見、高城、逸見、武田あたりは後者なんだろうな。

これももの凄く納得できるね。南常陸〜千葉系人脈ね。
「里見」姓の生き残りもいたんかい、とまた突っ込みたくなるけど。


この高さんち、仮名手本忠臣蔵以降、嫌な気分だったろうなぁ・・・。

840無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 11:25
>>779
応天門の変で放火の疑いをかけられ謹慎していた筈の左大臣・源信もなぜか落馬死。
身体に傷がある暗殺は落馬で
身体に傷の無い暗殺は病死で処理されるのでは、と妄想。
842無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 22:48
>>841
物騒な話じゃ。
・キィィィ(゚皿゚≡゚皿゚)ィィィ!!!!!
844無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 12:51
>>839
>鎌倉公方のほうにもいたんかい、高くん!

そもそもが足利家の執事を務める家柄だから、むしろこちらの方が本職
だったりするわけで・・・
その末裔が江戸時代に「喜連川旅館」の番頭さんになったとw
845無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 14:05
里見義弘は海路、鎌倉に侵攻し、婚約が破談になり鎌倉で尼僧になっていた
足利義明の姫を安房に連れ帰り、正室にしたらしいね。
846無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 14:40
>>839
小弓公方の直臣団というと逸見祥仙など房総勢のイメージがあるが、義明の弟・基頼
が率いる常陸勢もこれに加わっているからね。
小弓公方が滅亡したのが1538年だから、義明の死から50年以上を経過した段階では
里見、真里谷武田、江戸の傍系のそのまた傍系みたいな香具師が家臣団を構成し、
安房に逃れた頼純に細々と仕えていたんじゃないかな。
そして後年、頼純の娘・島姫の画策により御家再興が成った段階で、鴻巣御所(氏姫)
に仕える古河公方の家臣団を吸収したと。
847無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 15:50
このスレ来て初めて地方公方が沢山あるって知ったよ。
一体公方はいくつあるの?
848無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 17:38
喜連川って旧那須領だよな?
849無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 18:20
>>847
とりあえずこんな感じかな?

●鎌倉公方
室町幕府が関東統治のために設置し、足利尊氏の子・基氏が下向。
基氏−氏満−満兼−持氏と続くが、永享の乱において滅亡。
●篠川公方(篠川御所)
満兼弟・満直が奥州統治のため篠川に下向。
永享の乱で持氏と対立。翌年、結城合戦において奥州勢に攻められ滅亡。
●稲村公方(稲村御所)
満兼弟・満貞が奥州統治のため稲村に下向。
篠川公方と対立して鎌倉に復帰。永享の乱において満貞も滅亡。
●古河公方
持氏の遺児・成氏が樹立。成氏−政氏−高基−晴氏−義氏と続くが、北条氏の
台頭により実権を失う。義氏に嗣子がなく断絶させられる。
義氏の遺児・氏姫は引き続き古河城に居住。北条氏滅亡後は鴻巣館に居住し、
鴻巣御所と呼ばれた。
●堀越公方
古河公方を認めない足利義政が弟・政知を鎌倉に下向させるが果たせず、暫定
的に伊豆国堀越に御所をもうける。
政知死後、北条早雲に攻められ滅亡。
●小弓公方
政氏、高基と対立した義明(高基弟)が真里谷武田氏の庇護により小弓城(下総)
を拠点に樹立。古河公方と対立するが、第1次国府台の戦いにおいて義明が敗死
したため滅亡。遺児・頼純は安房に逃れる。
●喜連川公方
北条氏滅亡後、豊臣秀吉の命令により足利義氏の遺児・氏姫が足利頼純の子・
国朝、頼氏と婚姻して再興。江戸期に喜連川公方を称した。
●阿波公方(平島公方)
足利義維(義冬)が阿波勢の支援により上洛しようとしたが果たせず、阿波国平島
に居住したことから阿波公方(平島公方)と称された。
ほとんど滅亡してるのねぇ・・・
851無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 00:43
足利晴直(=上杉憲寛/?〜1551年)はあまり語られていないね。
晴直は古河公方足利高基の次男にして後年、江戸幕府の高家となる宮原家の祖。
上杉憲政が幼少のため、上杉憲房の養子となって憲寛(or憲広)と名乗り、関東管領
に任ぜられたが、成長した憲政によりその地位を追われてしまう。
古河に戻った憲寛は足利晴直と改名、真里谷信政の庇護により上総国宮原に移る。
正室は足利義明の娘。晴直−義勝と続き、義勝が関東に入府した徳川家康に拝謁し
て家禄1140石を与えられ旗本に、義勝次男・義久の時代に高家となる。義勝の嫡男・
義照から宮原姓を称したが、これは豊臣政権下において足利姓を称するのを憚ったた
めの措置とされている。
>>851
実は最もしぶとかったのは阿波公方家と宮原家だったりしてw
>>848
喜連川は”喜連川藩”です。

いいとこだよ。


あ、もしかして喜連川藩成立以前の話?
854無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 02:05
>>848
那須領ではないでしょ。
塩谷氏は宇都宮系のはず。家中が割れたときに那須派に回った
香具師はいただろうけど。
855無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 02:22
>>845
青岳尼のことだろ?
一応、還俗して髪が伸びるまでは「お預け」だったのか?

それはさておき、青岳尼の妹?が>>851に出てくる足利晴直室だから、古河と小弓は
足利氏姫と喜連川国朝の婚姻以前に合体していたことになるな。
まあ、嫡流ではないが・・・
856無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 12:55
う〜ん、尊氏が鎌倉公方なんて置かなかったらもうちょっと生きながらえたかもね。
>>856
公方をおかなければそもそも基氏なんて剃髪仏門で家名存続は有り得なかっただろ
858無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 13:03
>>856
確かに関東の争乱には必ず鎌倉公方、古河公方が絡んでおるしな。
古河公方は一種のクーデター政権でありながら、幕府と講和を結び、存在そのものを
合法化させてしまった。
これじゃあ幕府なんぞ権威もへったくれもないわけで・・・
>>856
まあ、それでも200年以上生き延びたんだし・・・
といっても、後半の100年はほとんど「飾り物」みたいなモンだったが・・・
860無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 13:15
応仁の乱以後、形はどうあれ100年以上も将軍家であり続けた「しぶとさ」はとりあえず
賞賛に値するだろ
>>858
いや、室町の権力が強かったのは義教と義満の時代だけだと思う。
862無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 18:50
尊氏の時代にしてすでに幕府という実体がないと思うのだが。
863無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 21:55
>>862
そうか?漏れは二代目将軍(名前忘れちった)からだと思うが?
義詮くらい覚えろよ…
865無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 23:20
>>861
「義満から義教の時代」と言うべきかと。
実際、室町幕府が一番安定してたのは義持の執政期。

>>862
それは言いすぎ。

>>863
義詮は政治面ではそれなりに頑張ってはいます。
まあ、戦での失態とかもあるんで高評価とは言い難いけど。
866無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 13:48
勃興期:尊氏〜義詮
全盛期:義満〜義教
そして嘉吉の乱後は有力管領の傀儡政権下が進み・・・という感じじゃないの?
しかも、幕府と鎌倉府は常に対立に近い状態・・・
867無名武将@お腹せっぷく:03/11/18 14:02
>>855
さらにそこに武田の血筋が入っている。
勝頼の娘・貞姫が義久に嫁し、家康からは嫡子に宮原家を、庶子に穴山家を
相続させるように内々に指示していたらしい。
だが、結局生まれたのは晴克ただひとりだったので、穴山家再興はならなか
ったと。
868無名武将@お腹せっぷく:03/11/19 13:34
>>847
公方ではないが、永享の乱で滅ぼされた足利持氏の七男・広氏の血脈で
蔭山氏なんてのもいるぞ。
後に子孫が思いがけないところから歴史の表舞台に顔を出すことになる
のだが・・・
869無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 00:37
それを言うと堀越系の小田政治まで出てきちゃうわけだが・・・
870無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 04:49
そんなこと言ったら一色直明(幸手一色家/江戸幕府旗本)あたりも出てくるな。
直明は一色長兼の養子ということだが、タネに関しては足利義嗣という説もあれば、
義量という説も・・・どっちなんだ?
それから義満の御落胤・三淵持清なんかも・・・
871無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 08:37
室町と周が似ているような気がするのは漏れだけですか?
872無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 12:46
>>871
・・・・・・だけではないでしょ、多分
873無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 16:33
>>867
つーことは北条氏康の血も入っていることになるな
874無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 16:47
>>867
諏訪氏の血も・・・
875無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 19:14
人類みな兄弟
>>870
>足利義嗣

またキター!
877無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 02:53
>>876
まあ、ある意味で「言ったもの勝ち」という側面があるでしょ、歴史には。
878無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 03:14
何か次スレに雪崩れ込みそうな感じだな・・・ネタあるんか?
879無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 07:43
よし、みんな次スレの話題をあげろ!
880無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 08:39
>>879
歴代征夷大将軍を語るスレ・・・・三戦板には合わないよな。
足利将軍家と地方公方達・・・・・はどうかな?
将軍を語る(除・徳川以降)
882無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 12:31
>>880
「足利将軍家と地方公方達、そして喜連川家を語る」スレなら
一票。
883無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 15:55
>>880-881
徳川将軍家は日本史板にお任せすりゃあいいんじゃない?
とはいえ、比較論的に登場することはあるだろうが。
鎌倉もねぇ・・・

個人的には
A案:「足利将軍家総合スレPart.2」
でいいように思う。
従来の路線を継承しながら、足利一門に裾野を広げていけばいいんじゃないかと。
その場合
B案:【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】
という考え方もあるけどね。
こうすれば鎌倉時代の足利家を語っても良いことになる。
884無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 16:40
>>883
うーん戦国時代の足利家は語り尽くしたからなぁ〜
では足利家発足から明治までの
【御所様】足利一族総合スレッド【公方様】ってのはどうでしょう?
>>884
「足利一族」と「足利一門」の違いがよく分からんが?

俺は【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】に一票
886無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 17:41
>>885
一門だと家族、近い親戚を指すが、一族だと同じ血統なら疎遠の人でも
含まれるから。
887無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 17:43
これぐらい名門のとこなら
どことでも繋がるのかなぁ
888無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 22:54
>>886
『広辞苑』によると・・・
【一門】
@一家族または同家系の一族。宗族。
A同じ法門のもの。
B流派を同じくする人々。
【一族】
同じ血統または同じ氏の者。同族。

まあ、大差はないが、どちらかというと表現的には「足利一門」という
言い回しの方が多いし、ここは「足利一門」で良いのでは?
889無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 22:58
補足だが
「足利一門」で検索した結果・・・ページ:約215件
「足利一族」で検索した結果・・・ページ:約187件
面白そうなので便乗してみた

足利一家 2件
足利一味 1件
足利一党 6件
足利一座 該当するページが見つかりませんでした。

891無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:19
足利公方家 一件
>>891
けっこう寂しいな・・・っておい、そんな言い方しないだろ
893無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:22
足利銀行 11,700件

桁違い
足利銀行はあちこちにあるからなぁ・・・これも公方の権威?
でも斜陽の公方家同様、屋台骨は傾いとるぞ>足利銀行
歴史とは繰り返す物なのか?
897無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:28
次スレテンプレ

スレ名 【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】

内容   日本史で一番存在が中途半端な足利一門(喜連川家も含む)
     を語るスレです。時代は足利家の発生から明治維新までです。
     
      前スレ     足利将軍家総合スレ
      http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1062302088/

勝手にテンプレを作ってみましたが、変な所があったら訂正等をお願いします。
         
明治維新まで含めちゃうの?・・・まあアリかな
899無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:34
>>898
おまけで喜連川家が、華族になる所のつもりだったのだが・・・
900無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:36
>>899
いや、平島公方家が華族になり損ねたところまでだろ?
>>1-900
レス数が980を超えたら次スレを立てるということで宜しいかな?
902無名武将@お腹せっぷく:03/11/21 23:49
>>897
「室町」「幕府」で検索にかかるようなスレタイが望ましいのだが
>>902
足利家が自ら「室町幕府」を称したことはない、というこの矛盾。
>>902
別にそうは思わんが
905無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 00:09
>>897
おいおい、「喜連川家を含む」はねえだろ。一応、安土桃山以降の
足利嫡流だぞ。
ならば・・・

(スレッド名)
【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】

(本   文)
ひたすら名門意識と権威にすがることで日本史上を彩った足利一門。
その発祥から明治維新に至るまでの栄光?の歴史を、嫡流、庶流を
問わず幅広く語り合いましょう。
●前スレ●
足利将軍家総合スレ
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1062302088/

こんな感じで良いのでは?
906無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 01:00
足利義康(?〜1157)から喜連川聡氏(1857〜1876)まで・・・膨大だな・・・
三戦板なんだから、せめて足利尊氏以降にしない?
足利一派 3件
足利一流に該当するページが見つかりませんでした。


足利一郎 164件
足利一夫に該当するページが見つかりませんでした。
足利一太郎に該当するページが見つかりませんでした。

足利一等賞に該当するページが見つかりませんでした。
足利一番星に該当するページが見つかりませんでした。
足利一和会 411件中


>>906
歴史は一部を見てはダメだ、と正論ふんぞりかえってかましつつ・・・
特にこの一族は、鎌倉時代(や、それ以前)の分家が重要な動きを
したりするし。
908松兵衛 ◆DOQNIC1RWY :03/11/22 02:03
>>906
一応義康の父義国も足利氏の文献がありますよ。吾妻鏡とかに。
909無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 02:45
>>907
全体を見始めたら「日本史板でやれ!」という批判を受けることは必定でしょうな。
(本文)で時期を限定しなければ、スレタイ的には問題ないのでは?
そこまで気にするなら「発祥から明治維新に至るまでの」を省けば大丈夫でしょ。
甲斐姫スレみたく曖昧にしとけば大丈夫。
912無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 08:23
>>910-912
それじゃあ、970〜980くらいになったら次スレよろしく
913912:03/11/22 08:24
これは失敬!
>>910-911に訂正ということで。
914無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 09:41
足利宗家 18件
915無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 15:10
(´-`).oO あしかが・むねいえ なんていたかなぁ
「そうけ」でしょ。
マジツッコミも哀れだな
918無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 18:07
な〜んか知らんが・・・

14代将軍・足利義栄について語ろう。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069480929

なんてスレが立ってるな。
総合スレに対抗して旗揚げするとは・・・やはり義維の系統だなw
話蒸し返してスマンが足利一族に限るのはちょっとネタが少なくありませんか?
他にも斯波とか細川とか足利管領家も含めるのはどうでしょうか?
920無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 19:24
>>919
だから「足利一門」なんじゃないの?
過去のレス見てみな。斯波だの一色だの、吉良だの今川だの、途中で枝分かれした庶流
が登場してきてるからな。それらを包括して「足利一門」と解釈すりゃあいい。
テンプレ案にも「嫡流、庶流を問わず」と明記するわけだし。
どの道、管領家にも話が飛ぶだろうし、お望みの方向になっていくと思うよ。
守護代って任地にいない守護の代わりに政治を行う役職ですよね?
なんで尾張斯波家とかは尾張にいなかったんですか?
>>921
守護自身は京都にいることが多かったらしい。
そこで守護代に実際の統治を任せていた。
しかし、それが裏目に出て実権を握られてしまったと。
斯波なんか遠江守護を今川に、越前守護を朝倉に奪われ、
残った尾張も信長に取られてあぼーん。
923無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 21:55
>>922
何を血迷って守護代なるものを置いたか理解できないな。w
第一京にいるのに○○(地方)守護ってなんだよwww
遥任を辞書で引け、クズども
925無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 22:17
現地法人が次々と乗っ取られ・・・残った尾張に本社機能を移転しようとしたが、
既にそこも織田支社長とその一族に乗っ取られ・・・という感じか?
しかし、斯波氏の場合、本拠地・越前を朝倉氏に乗っ取られた時点で没落決定
という感じだったと思うが・・・
926無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 22:29
>>924
だからどうした?
927無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 22:57
遥任の国司とかと同じって事じゃないの?
わざわざ田舎まで行かなくても地方の家来に仕事させて年貢を納めさせる。
それでもって室町時代中期まではそれである程度うまくいってたんでしょ。
そういう事を考えるとやっぱり戦国時代は発展の時代だったのかな。
尼子みたいに出張っていった例もあるな。
微妙にスレ違いかもしれませんが,,,
JRの車内広告にある喜連川町の温泉付き住宅が気になってます。
歴史オタの端くれとして惹かれずにいられません。

歴史のある街って良いですね。
付近住民の方がいましたら,喜連川の魅力を語って頂けないでしょうか?
930無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 01:54
仕事で行ったことあるけど 住むには田舎すぎると思うなあ
>>929
観光で行ったがのどかでいいところだった。
930と合わせてどうぞ。

しかしどこであろうが「温泉つき分譲地(住宅)」には乗らないほうが・・・
932無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 17:39
喜連川ねぇ・・・
俺は京都に住みたいが。
933無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 19:55
義栄スレなかなか興味深いな。

http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069480929/l50
934無名武将@お腹せっぷく
>>932
景観はいいかも知れんが、盆地特有の気候は厳しいよ。
夏 は 意 地 悪 な く ら い 暑 く 、 冬 は 意 地 悪 な く ら い 寒 い 。