1 :
無名武将@お腹せっぷく :
03/08/30 22:29
2 :
率直にいうよ? :03/08/30 22:32
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄
3 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/30 22:37
No.
4 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/30 22:37
敵がいないと国内がまとまらないから無理矢理でしょ。 今の朝鮮と同じ。
姜維の自作自演だった
6 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/30 22:41
姜維の北伐=長篠敗戦後の勝頼
7 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/30 22:46
姜維は諸葛亮の意志を継ぎ、 漢を再興するために北伐を行った。 その為には魏を滅ぼすことが先決だった。 これだけでも十分有意義なことだったのでは? でも夏候覇が帰順したからといって すぐに北伐を行ったのはあまりいただけないが。 呉と手を組んで北伐に望んでも良かったんではないかな。
無駄
かっこええ
>>7 姜維に好意的に解釈するとそうなるな。
でもやっぱり国民にとったらたまったもんじゃないけど。
孔明みたいに全権握って、政治もやる、戦争もやる。
おまいらにも苦労させるが俺も同じだけ苦労する、
ってんならまだ良いが、姜維は疲弊させる一方だったからな・・・
蜀の国力は魏の半分以下だったので 単純に考えて魏の兵隊が1人殺せばいいものを 蜀の兵隊は3〜4人殺さなきゃならない
>>7 夏侯覇の帰順は249年、姜維はその前から出兵を行ってますから、
夏侯覇の帰順が北伐開始の原因とは、自分には考えられませんが。
姜維は、漢王朝の再興という理想の元に戦ったのか?
あるいは単に功名心に駆られただけの私的な戦いだったのか?
自分は半々だと思っています。
魏からの降将という世知辛い立場もあったろうしな。 しかし蜀が滅びた後にまで鍾会を利用して立ち回ろうとした辺り、 その執念には敬服する。
>>10 蜀に対し目立った功績も上げておらず、
魏にいた時も実績があったわけではない彼が、
果たして全権の掌握など出来たでしょうか?
やらなければならない立場ではありましたが。
少なくとも北伐路線でいく以上は、
何か大きな功績が無ければ全権の掌握は難しいと思います。
>>15 ああ、別に俺も姜維が全権を握るべきだったとか、
それが出来る立場だったと言いたかった訳じゃないんだ。
ただ軍権しか持てなかった姜維が北伐を強行した結果、
国が疲弊しきってしまったからな。
政治的な面でのサポートがなかったのはまずかったと。
>>16 そうでしたか。理解できずにすみませんでした。
政治的な面でのサポート、難しいでしょうね。
当時の蜀全体が、打倒魏でまとまっていたわけではありませんからね。
漢中と成都はあまりにも遠すぎたって事でしょうか。
18 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 00:24
>>10 そうでしたか。
私には国民としての立場から考えるという
ことが足りませんでした。
>>12 なんと。
既に北伐をしていた時に帰順したんですか。
勉強不足でした。申し訳ありません。
冷静に考えてみたら呉の兵も全然戦っていないし
老練な将というのも丁奉ぐらいしかいませんね。
蜀も同じことで、とっさに北伐といっても
兵もあまり鍛えられていないし、人材も残っていない。
今北伐は無駄だったと姜維を批判しても、
人も何も残してくれなかった蜀では
姜維もさぞつらかったでしょう。
姜維の北伐は、無駄であるない関係無しに「漢から帝位を奪った 魏を討ち漢を再興する」という蜀の成立した理由を示すために 必要だったのでは? ただ、政治的なバックアップがなかったのと、まともな人材が 張翼、廖化、夏侯覇くらいしかいなかったってのは姜維(蜀) にとって、やばかった。
馬謖みたいなもんじゃねーの 孔明の人材を見抜く目が足りなかったつーこと
実は後継者には指名されてない姜維
いや、姜維は指揮官としては結構有能だろう。 馬謖は謀臣としてはそこそこだったっぽいけど。 当時の蜀における人材で良将と言えるのは・・・ 張翼 廖化 羅憲 カクヨク ケ芝くらい?あと宗預とか董蕨くらいか・・・
末期の呉よりは多いじゃないか>良将
前スレにもありましたが、いきなり倉曹掾に任命され、 孔明存命中は元より、死後も順調に出世し続けています。 後継者云々に関わらず、孔明に期待されてたし有能であったのは事実でしょう。
なんか韓信のイメージがダブる
>>25 >>なんか韓信のイメージがダブる
こういう意見は初耳です。
良かったら理由をお聞かせ願えませんか?
>いきなり倉曹掾に任命され って、そんなに劇的な抜擢か?
>>27 倉曹掾は丞相府付きの糧秣管理担当官です。
兵糧の管理が杜撰では、軍は満足に戦えません。
降ってすぐの人間を任命するには十分すぎる程に重要なポストだと思います。
降伏した敵将を厚遇して2匹目3匹目の泥鰌を誘うのはそう珍しいことでもないとおもうぞ。
>>29 それだったら、適当な雑号将軍職でもあげれば充分じゃねー?
そもそも、姜維一人で大量の糧秣を魏に運べるはずが無いな。 ボブ・撒布だって無理。
33 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 07:56
age
三沢さんだったらいけます。
27さんの通りだとわたしも考えます。 実際孔明も確か北伐二回目以降は自分でも勝ち目は薄い。 しかし蜀の存在理由は漢を虐げた魏を倒し劉家の正当性を示さなければ、蜀漢の意義が無くなると考えたらしいです。 立派かもしれないですが国民としてみれば関係ないですよね。 後漢末期からこんなことをし続け人口が激減し漢民族国家衰退の足跡が聞こえてきました 姜維はその路線を踏襲したかもしれませんが孔明ほど蜀全体の権力を握れず悲しい結果になったのでは。 私は個人的には判官びいきなので姜維は好きです。呉の末期よりは劇的ですね
36 :
うまい棒をたべようよ :03/08/31 10:30
姜維は 連戦連敗の無能指揮官 国中の反対論無視して北伐を強行して国家を疲弊させた張本人 兵士を無駄死にさせた挙句、国防上最重要拠点の漢中から兵力を引きぬいて 結局魏軍の侵入を許した国家滅亡の第一級の元凶
>>28 諸葛亮ん時から兵糧のやりくりに苦労してばっかりだったが
結局魏を潰すチャンスは 赤壁後数年だったな 魏の損害はともかく 魏が引いた=呉が快勝 の宣伝効果で攻めあがれた思うが
>>38 そう、兵糧の問題には苦労してましたよね。
だからこそ倉曹掾の重要性も高まると思います。
>>37 結果だけで判断すればそうなるでしょう。
ですが物事全てを結果だけで測るのは、あまりにもつまらない事だと思いますけど。
蜀好きの自分は、姜維が憎らしい 劉備・関羽・張飛・四相以下が必死に支えてきた国を潰した張本人
必死だったか?
43 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 13:41
>>37 姜維だけのせいではない。
蜀の国力が弱まっていたのも原因。
当時の皇帝が劉禅だったことも原因の一つだ。
国を支える有能な文官が費イぐらいしかいなかったのも原因。
自分が姜維の立場になって考えたことがあるか?
姜維だけのせいにするな。
>>41 それでもアンタは蜀好きなのか?
魏が滅ばない限り蜀漢の再興は成し得なかった。
その為に姜維は北伐を行ったんだ。
そんなことも知らないで蜀好きを名乗るなど100年早い。
姜維が有能だったとか言う奴は、どの辺が有能だったのか 正史での事例を挙げて説明して欲しいな。
45 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 13:55
>姜維が有能だったとか言う奴は、どの辺が有能だったのか >正史での事例を挙げて説明して欲しいな。 ↑ アホ丸出しだなw
一々突っ込むおまいも尻が青いな。
俺には、何故そこまで姜維を凡将だの無能だのと貶めたいのか分からないんだが。
姜維は魏延レベルだろ。それなりに有能な人物。 当時の蜀の中では頭一つ抜けてるんじゃねーの?
蜀後期の名将TOP3は、魏延 王平 姜維 この3人じゃないかな。 ケ艾や陸抗クラスには劣るだろうけど、それでもかなり有能な将軍だと思うな。
姜維を無能と考えてる人間は、やはり大澤の本を愛読してるのだろうか?
>>51 大澤厨はみっともないね。
頼むからちゃんと自力で歴史を読んでくれと言いたい。
あ、でも大澤氏は嫌いじゃないよ。
彼の独自の解釈は面白い。文章力は凡庸だけど。
>>52 大澤厨なんてのが現れるほど大澤って読まれてるのか?
十年くらい前は正史を重視した文献や小説って珍しかったような。 だから当時の俺にとって大澤氏の書いた記事はかなり斬新だったけど。 その頃の俺は爆笑三国志を読むようなリアル演義厨だったなあ。
>>54 10年くらい前か。小学生だったから大澤なんて全く知らなかったよ。
自分より前の世代の人は結構読んでたりするんですか?
まあ、何だ。この世のあらゆる事象は無意味ではないと仮定すれば キョウイの北伐は有意義たり得るかもしれん。
>>54 ただたんに、お前がログイン読者だっただけだろう
呉懿、張嶷、馬忠の三人も及第点ではないか?
59 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:00
>43 あ〜、何度書いてもこういう考え多いね。 姜維の最終的な職務は大将軍・録尚書事。生前の費イと同格な訳で、国政も見なきゃならん職務なんだよ。 戦争したいから戦争だけしてれば良いと言うポジションじゃぁない。 有能な文官云々いうけど、当時の士大夫階級は文武の区別なんてないの。 両方やるってのが普通。まぁ戦時ってことで、軍務が多のは確かだろうし、魏延とか王平とかの叩き上げは軍務中心だろうけどな。 そんでも、張翼は尚書もやってるし、馬忠も平尚書事を勤めてる。 それに蜀の国力が弱くなったのは姜維の北伐が原因だろう。 黄皓が・・・、とか言うだろうけど、黄皓が権力持ったのは258年以降で、姜維の北伐で国力が疲弊してきてる後なんだよね。 しかも、黄皓自身の「悪事」ってのは具体的記述はほとんど無い。羅憲を左遷したくらい。 蜀漢滅亡の原因の多くは姜維の北伐だった、って言って間違いない。ということは無謀だった、って事。
ほとんど成都にも戻らない人間が実際に「録尚書事」してたと思うかね?
61 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:10
>60 どう言う意味? 実際に「録尚書事」に任命されてる訳だが。 それとも、遠征ばっかりしてる人間に「録尚書事」の仕事が出来るわけが無い、って事? 後者なら、出来る出来ないじゃ無くて「こなさなきゃならん立場」だったって事。 蒋エン、費イだって、かなり成都を留守にしてるよ。
前者がないぞ?
>>59 姜維うんぬんとは直接は関係ないかもしんないけど・・・。
「録尚書事」って具体的には何をするものだと思ってるの?
それが問題だと思うけれど。
どう思われているのか興味あるので。
64 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:15
>>43 国力が弱まってるなら尚更北伐とかじゃなくて
国力をたくわえていればいいのに
勝てる見込みもなく無駄な戦争を進めたのはどうかと思う
無能とは思わないがあの蜀で北伐成功できる程の人材では無いと思う
演義色濃い思想だな〜w
>>50 同感
あの時代は郷土意識が強かったらしいから(蜀は変わってる)
地元にかえりたかったんじゃないの?
最近は劉禅はそこまでカス君主じゃないな〜と思ったりする
だって補佐する人さえ優秀だったら基本的には任せっぱなしで
自分を出してこないじゃん
晩年の孫権みたく暴君とかに比べればましかと
劉禅が親政をおこなったのは費イの死後って感じの話をどっかの本で読んだぞ。
66 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:21
>63 上手く伝わるか不安だが、簡単に言えば行政府の最高責任者だろ、録尚書事は。 国政の責任者だと俺は認識してるけど。 厳密に、って言われりゃ詔勅の起草だとか何とかってんだろうけど。
67 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:23
>65 蒋エンの死後だよ。
あっそ
>>59 ほぼ同意だが二箇所ツッコミ。
>王平とかの叩き上げは軍務中心だろうけどな
王平は蒋エンの下で事務を担当してる。
>黄皓自身の「悪事」ってのは具体的記述はほとんど無い
姜維が陽安関・陰平橋の守備を固めるよう上表した時、これを取り上げなかったのは悪事じゃないのか?
もちろん、これが通ってたら蜀は滅びなかったとか言うつもりはないが。
72 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:39
>70 王平に関して言うと、蒋エンの大司馬府の事務だから主に軍務じゃないの。特に対魏戦の為に漢中に出張った時の事だし。 と切り返してみる。 黄皓の件は、後主が実際に黄皓の進言を取り上げたのか不明なんだよね。 姜維伝だと「姜維の進言を取り上げないように、言上した。」ってのみで、実際劉禅がどう決断したか不明。 後主伝だと、張翼らを派遣して防がせた、って記述があるのみ。 実際はどうだったんだろうね。 まぁ、それ以外はほとんど「悪事」って無いでしょ。 宦官が権力持つのは清流派系統の官僚からすると非常に反発するのが常だから、実際黄皓がどれほど権力もってたかは分からないね。 多少は持ってたんだろうけど。
73 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:43
>71 当然、既読です。 その上で書き込んでるんだよ。 ほかの国家の宦官に比べると悪人度が低いって事。 特に後漢の中常侍とかと比べるとね。 細かい点については>72に書きました。
>>60 孔明も北伐開始以後成都にも帰らないで丞相として国政を統括して国家を破綻させず
あんだけ遠征を繰り返しながらも国民に慕われつづけましたが
連戦連敗の無能指揮官という点では一緒だったが姜維程度とは比較にならん人物だったけど
>>74 孔明は自分の息のかかった人物を成都に置いていただろ。
>>75 信頼できる同志・僚友・幕僚・部下を持てるかどうかも人間の器量の一つだろ
>連戦連敗 ではないだろう。勝っても無いが負けてもない。大きな被害を出したのは最初のやつぐらいだ。 姜維とはそこが違う。
>>76 よそ者の姜維には難しいだろ。そんな器用な男だったら蜀になんか来るか
79 :
無名武将@お腹せっぷく :03/08/31 23:57
>78 難しくても、やらなきゃならん立場じゃないかな、姜維のポジションはさ。 よそ者、って言っても順調に昇進してる訳だし。
>>72 スマソ、軍務って
>>59 でも書いてたな。
漏れは、姜維の北伐を止めたのは黄皓の力だと思っている。
黄皓が権力を握った後、姜維の北伐は起こっていない。
これは黄皓が止めさせたか、姜維が自発的に止めたか以外に、理由が思い当たらない。
それだけ黄皓は劉禅の側近となっていたんだろう。
>>75 それでも諸葛亮は大半の人材を吸い出している。
むしろ姜維の場合は自らと意見を同じくする人材がいなかったと思われ。
>やらなきゃならん それができなかったから、このスレや大澤に無能扱いされることになったんだよ
82 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:05
>80 いえいえ、長文だと読みにくいから。 どうだろうねぇ。 262年に1回出撃してるけども。 黄皓が反北伐だったのは事実みたいだから、成都の重臣連中も同意見で、姜維の北伐に反対し、姜維自身も、基本的に敗戦が多い事実の中で成都の意向を無視できなかったんじゃないかな。 当時の蜀漢の国力考えると反北伐って方針の方が正しいから、黄皓の意見は良識ある考えって事になるね。 と言うことは黄皓は良臣!?(笑)
雁喪もそんなことを言ってたね
84 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:09
>81 出来なかったんじゃなくて、やらなかったんだと思うよ。 姜維は有能だと思うけど、あの北伐についてはかなり無責任だったと思う、ってのが俺の考え。
>>82 >と言うことは黄皓は良臣!?(笑)
黄皓がそこまで大局的視野を有していたかは疑問だけど。
全く成果なかったわけじゃないじゃん。 魏だって数万単位で戦死者出したり住民拉致られたりしてんだし。 まぁもっとも蜀はそれ以上に疲弊してしまったみたいだが。
87 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:18
>82 >>>と言うことは黄皓は良臣!?(笑) は、あくまでも冗談だけどね(笑)。 結果論としては黄皓の反北伐って考えは正しかったってんじゃないかって事。
88 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:19
>86 差し引きで自国の方が疲弊したら、成果とは言えないんじゃないの?
>反北伐 ってほんとにそこまで考えてたかね?ただ姜維が気にくわなかっただけじゃねえの?
90 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:25
>89 あくまでも結果論だから。 姜維憎しで反対してても、それが正しければ国としてはOKでしょ? 政治責任って、動機が不純でも結果がよければ賞賛されるし、逆なら貶されても文句は言えない。 そういうもんでしょ。
よければな。結局滅びちまえば同じことだ
>>88 そうなんだけど、なんかね完全否定する人いたから。ちょっと擁護的になってしまった。
完全否定する奴って、なんか厨臭くて好きになれないんだよなー
93 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:29
90の追加。 姜維憎しで反対してても、反北伐ってのが成都の世論の支持を受けたのもまた事実。 >91 釣り?それ言ったら議論も何もないね。さよなら。
94 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:30
>92 俺も姜維は結構好きなんだよ。有能だし、清廉だし。 だから余計、無謀の北伐が悔やまれるんだ。
率直な意見を言ったら別れの言葉が返ってきた。 じゃあ、さよなら。
96 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:39
>91 ばいばい、今日からの学業に勤しんでくれ。
ところでもう一つ。 誰に対してとかじゃないんだけど・・・。 無駄な北伐とか言われているけれど、 北伐をしなかった場合は蜀はどうなったと皆さん考えているのでしょうか? 国力とか内政とかに専念すれば蜀はどうなったのでしょうか?
>94 人柄は結構よかったっぽいよね。 そのへんはゲキセイも擁護してたし。 姜維の北伐見てると、なんかすごい焦ってるような感じする。 やっぱし、益州人と上手くやれてなかったってのが遠因になってるんだろうね。
99 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 00:48
>97 ん〜、姜維の北伐が無ければ、あと数年、場合によっては呉と同じくらい生き延びたかもね。 264年に晋王・司馬昭が死んで代替わり。で、晋建国って流れだから蜀征伐なんぞやる暇なしだろうし。 その上、国内守備に徹してた、ってなると中々手出しは出来ないだろうね。 そんでも、北国(ifだから晋とは言い切れない)に飲み込まれる運命、ってのは変わらないと思う。
暇ぐらいあるだろ。 グッチョリネッチョリと陰険な計略で弱体化させられたうえ、内部崩壊したところを一気に・・・ てな感じだな
黄皓は権力を皇帝に戻したかったんではないでしょうか? 成都よりも漢中の意見が優先される蜀漢そのものに問題があったのかもしれません まぁ・・劉禅がそれに反対したかどうかは知りませんが だから反北伐でも反姜維でもなく漢中府の力を皇帝に持たせたかっただけかと そんな事をすれば対立が起こるのは当然なわけである意味視野の狭い行動と取れます 劉禅に対する忠義心はあったかもしれません
>>99 ありがとう。
それで少々感じたのだけど、
近い内に飲み込まれる運命なら、
北伐せず内政と守備とやらに専念する事こそ無駄って事にならないか?
あんがい晋がなにもしないうちに李氏に乗っ取られたりして
>>98 益州人って言うより成都の人間との確執があったんだと思う。
成都の人間は、漢中で実際に姜維の仕事ぶりを見ている人間ほど姜維を評価してはいなかったろうし。
だから自分は、最初の頃の出兵は、自分の本当の実力を、
成都の連中に示すためにやったと思ってる。
それで示すことが出来ずに、成都からは益々低く評価され泥沼になっていったんだと思うんですが。
防衛ラインを後退させてあぼーんだから、ほんと泥沼だったのかもね。
106 :
43と同一人物 :03/09/01 17:50
>>59 >>64 なるほど。
自分の三国志の知識は
ほとんど横山三国志と
三国志サイトのテキストで
構成されてるから
どうも姜維を好意的に考えて
しまうようです。
両人の意見とても参考になりました。
107 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/01 20:13
age
>>106 好意的に考えるのは悪い事じゃないよ。
演義と正史のギャップからか分からないけど、
必要以上に姜維を責める様な意見もあるし。
好意的否定的うんぬんじゃなく、
史書を読み込んだ上で自分なりの意見を持つ事が重要だと自分は思うからね。
109 :
106と同一人物 :03/09/02 17:05
>>108 ありがとうございます。
もっと色々な書物を読んで考えを深めます。
>>97 しばらくは生き延びるだろうけど、つぶされるのは時間の問題。
向こうが自滅しない限りこっちの勝利はない。
どうせ潰されるなら自分でやれるところまでやってみようというのが
姜維の考えでは?
あとは、攻め込まれたら負けは確実なのだから、
常に攻めつづけていよう、そしたら攻め込まれないだろう
って考えもあったのでは?
ゲームのやりすぎかな
>>110 民には愛されないわな、その考え方は。諸葛亮は民に愛されたわけだが。
無理せず相手の自滅を待つという手もあったのだが、それができなかったのは姜維の限界だろうな。
能力だけではなく、立場や個人の自負や思想も含めて。
ところで、このスレでは結構有能だと評価されている姜維だけど、皆さんはどの程度に評価してるんだろう。 例えば、光栄風に表したらしたらどの程度になりますか?(厨っぽくて申し訳ない) おれは用兵85 くらいの評価してます。ちなみにケ艾は100 魏延は88くらいかな
コーエーに用兵の項はありません
>>113 うん、だから光栄「ふう」って言ってるんだけど・・・揚げ足取らないでくれよ
ゲーム風っていえばいいじゃん 光栄にこだわったのはなんか理由があるんだろ?
三国志のゲームっていうと、光栄くらいしか思い浮かばなかったから。
コーエー三国志風味だと 武力 87 知力 70 政治 51 魅力 72 この辺かな。
>>112 諸葛亮が、馬良や李永南を引き合いに出してるぐらいだから、
少なくとも行政処理に関しては能力もあったと思われる。
だから、
武力 84
知力 80
政治 73
魅力 79
ぐらいかね。
やってみると確かに厨っぽいな。
>>118 鐘会には夏候玄や諸葛誕以上とも言われてたね
ケ艾にも、戦勝に酔っての言葉とはいえ 「当代の英雄」と評された事実もあるし。 陳寿も軍勢を軽々しく扱った事を責めてはいるが、その才能は認めていたようだからね。
姜維は『ほぼ』文武両面の才を備え・・・ってあるね。言い得て妙な評価だと思います。
どんなに才能があっても、役にたてられなきゃ無能とたいして変わんないけどね
無能じゃないけど国を背負って立つほどの才能はなかった 俺の主観だけど
124 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/02 21:23
滅びゆく国の最高責任者としては、同時代では陸抗がいる。 結局両国とも滅んじゃったけど、境遇も大体似ているし、政策や軍事行動について 姜維と陸抗を一つのモデルとして比較するとなかなか面白いかも知れない。
状況把握が問題。
宦官が権力を握ったのは両者とも同じだが、 劉禅は暴君でなかった分だけ孫皓よりはるかにマシ。
128 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/02 22:29
>125 陸抗は無茶な戦争してない上、相手からも「陸抗が健在なうちは攻められん」みたいに評価されてる。 姜維よりは人物のスケールが1枚も2枚も上だと思う。 比較出来んだろ。 当時、陸抗は諸葛亮に擬せられた様だし。
陸抗は呉の名門だからな。 軍隊を手放したら明日の命も危ういような姜維と比べれば上なのは当然だろう。 行動に余裕があるよ。
そうですね。 片や名門陸家の人間、片や一介の降将では地盤は全くちがいますね。 必然的にとれる行動の幅も変わってくると思います。
北伐無駄は共通の結論なのに、姜維が失脚しなかった理由がわからない。 郤正が言うには、「いいひと」だったから? 人材が居なかったにしても、無駄な事する奴よりはマトモなのがいそうじゃん
132 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/02 23:59
>>129 やっぱりそれはしょうがないですよね。
陸抗は陸遜の息子ということで
呉の人民・家臣からの人望も厚かったでしょうが、
姜維はもともと魏の人だから
人民や家臣でも不信感を抱くものが多かったことでしょう。
それに北伐反対派が多かったのは
魏の降将という偏見もあったからでは?
そんなことを思うと姜維はよく頑張ったと思いますよ。
姜維だって趣味で戦争をやってたわけではないんだし。
話ずれちゃいましたね。すみません。
もともと魏の人、という言い方は誤解を招くぞ
>>131 政権にとって都合がよかったからだろう。
政治的には無能(といってイイくらい)で野心もなさそうだし
仮に野心を抱いても同志を集められなくて頓挫するのがオチだし。
下手に諸葛瞻なんかに軍権を預けると部下に煽られてクーデター起こしそうじゃん。
姜維が無駄な北伐で漢中の力を消耗するのはむしろ成都の権力者連中にはありがたかったんじゃないかね?
255年の朝議の席では、反対したのは張翼だけだったな。 やはり成都の連中は漢中の力を削ぎたかったのだろうか? 134氏の言うように。 だとしたら、奴らはかなり腐敗してるな。 政局の安定の為に国家を疲労させるなど、本末転倒な気がするよ。 成都がそんなんじゃ、姜維が成都と連携するなど、元から無理な話だな。
そんなもんだろ政治なんて、魏や呉のほうがもっとえげつないことしてるし。
>>136 そんなもんなのか。
姜維が北伐に走ったのも分かる気がするよ。
姜維に政争とか向いてなさそうだし。
>>131 一応劉備の生涯の旗印であり孔明の遺志であり国家の建国の目的だからな>魏打倒
正面きってそれを否定はできないから
さすがに北伐不要論も高まって姜維を更迭しようとする動きもあったが姜維の方が
それを恐れて成都に戻らなくなったし
軍事と政治うまくできんのな。やらなくちゃならん立場なのはわかるが、 むずかしすぎ。
>>139 でもそれが出来てる奴が歴史上、三国志上にもいくらかはいるわけで。
それが出来ていないから歴史家からの評判は悪い。
142 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/03 07:16
>134 政権ってのは姜維政権じゃないか、当時は。 劉禅は時の政権担当者のすることに口挟まなかったから姜維は戦争出来たんじゃないの? 成都の重臣連中は劉禅がそんなんだから姜維の北伐に「あ〜あ」って思いながらも258年くらいまでは強硬な反対はしなかった、ってのが実情じゃないかな。 >下手に諸葛瞻なんかに軍権を預けると部下に煽られてクーデター起こしそうじゃん。 これもありえないと思うんだが。 ってか、当時国内軍の指揮権は諸葛瞻にあった訳だし。
>劉禅は時の政権担当者のすることに口挟まなかった 挟まなかったのか、挟めなかったのか、どう解釈するかには個人差があると思う。 劉禅がポリシーをもって姜維に一任していたのか、別にやる気もないから放っておいたのか。 俺は後者をとったってことで。 >「あ〜あ」って思いながらも258年くらいまでは強硬な反対はしなかった もしそうなら、のんき過ぎるな。ってか、成都の連中無能すぎってことになる。 >国内軍の指揮権 もし実際に姜維を解任して諸葛瞻に漢中をまかせたらって仮定の話
>もしそうなら、のんき過ぎるな。ってか、成都の連中無能すぎってことになる。 それで身を滅ぼしたのであれば、の話だな。
滅びたじゃん。
姜維同様、外征によって国内に怨嗟を生じさせたまでは同じだが、 それが要因となって非業の末路を遂げた人物が呉にいる… あの、丞相の甥っ子にあたる香具師だけど… 比較するなら、陸抗よりもこっちだろう
>>147 諸葛恪の事?
敗戦は多いが蜀滅亡まで高位にいた姜維と違って、
一度の敗戦で殺される羽目になったな。
まぁ、それは内情の違いのせいかもしれないが。
諸葛恪は戦績が負けなしだったから驕ったんだろうな。
不利な状況を認めず、撤退の決断が出来てない。
逆に姜維は、不利と見れば躊躇無く撤退してる感じだ。
蜀滅亡時にもまだ抗えるだけの戦力を残していたし。
149 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/06 12:01
一族を押しのけて権力を掌握しすぎた結果が 諸葛恪の末路ですよ。 結局調子こきすぎたってことですね。
>>148 >>27 において姜維が倉曹掾の官にあった話があるが、呉の諸葛恪も、
節度の官を与えられた時期がある。
でも伝え聞いた諸葛亮が、陸遜への書翰で諸葛恪の性質では不相応
だと忠告したようだな…しかも間をおかずに異動されたようだし…。
あ、節度っていうのは、孫権の呉王即位時に設置された官で、姜維の
倉曹掾よりも上位ではある。
どうも諸葛恪というのは才気走ってる感じで、細かい実務には向かない、
どちらかといえば名ばかり先行して実の薄い人物のようだ。
そのあたり、姜維が保身のために前線に駐屯した一件と、諸葛恪の
末路を比較するとよくわかる気もする…。
>諸葛亮が、陸遜への書翰 諸葛亮と陸遜って文通してたのか。
152 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/07 22:44
>151 あの時代、士大夫同士が国の枠を超えて文通してたのは結構普通。 魏の王朗らと許靖とか、かなり頻繁だったらしい。 諸葛−陸あたりだと、文通ってよか外交的な文書だろうけどね。 諸葛亮は五丈原の陣中から、呉の歩シツに手紙送ってるね。
>>151 この時代でもあるくらいだけど、古代をみればそれが当然だとわかる。
国を跨いでの貴族間のつながりは多いよ。
ageとこう
亮ちゃんと遜ちゃんはペンフレンド。
age
∧維∧
/( ´ー`) 諸葛亮の後継者、姜伯約が華麗に157getです!
lニニニニニl=====⊂/\__〕 ノ
/丶7 |m;
/ //7ゝ〇 ノ\
/ (_///⌒γノ/___)
/ /// ///ノ//
// |/ ///◎)
/ / / //
// V ノ
私は後継者 私は後継者 私は後継者
I am a successor I am a successor I am a successor
費
>>1 ウダウダ言ってねえで兵士よこせや
>>5 ウ
>>5 ウ 玉無し野郎逝ってよし!
夏侯
>>8 てめえは道案内してりゃいいんだよ(プ
>>10 艾 邪魔すんじゃねえ地図フェチのどもり野郎が
>>11-635 大漢復興の為に氏ね!
諸葛
>>1000 息子なんだからもうちょい頑張りなさいよ
節度の官は書類の処理が繁雑であったらしく、 姜維の倉曹掾も同じような官なので、書類の処理は当然繁雑であったと思われる。 それを、節度は諸葛恪では務まらないと忠告し、軍事の最も重要な要と言っていた諸葛亮が任命したのだから、 姜維はやはり思慮綿密であり、諸葛亮からの信頼も厚かったのだろう。 保身の為に成都に帰らなくなった件といい、政治的な判断力に欠けているとも思いがたい。 軍事にしても中監軍、右監軍と、戦況の分析や報告、戦術の献策を行う官に就き、 最終的には大将軍にまでのぼり、軍事畑をかなりの早さで出世してる。 諸葛亮の贔屓や、西方の地理・風俗を知っているというだけでこうはいかないと思う。 やはり彼は、文武両面に当時一級の才能を有していたのではないだろうか? 敵を侮り、無理な北伐を強行してしまったが為、こうも評価が分かれてしまったんだと思う。
159 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/08 16:12
>>158 なるほど。
出世の早さなどの面で見るとやはり決して只者ではないですね。
いい意味でも悪い意味でも只者ではなかったのだなぁ
剣閣から巴に退いた時に4〜5万の兵力を残していたらしい。 応援の張翼、廖化、董厥らの兵を差し引いても2〜3万程は残してた事になるな。 大敗を喫したと言われる段谷でも、ケ艾伝を読む限り死者は数千。 逆に王経が姜維と戦った時には、王経は数万の死者を出してる。 北伐でも、実際に軍勢同士がぶつかっての負けは段谷と侯和ぐらいしかなく、どちらも相手はケ艾。 用兵の巧みさは疑いようが無いと思う。 だが、相手に動きを読まれた事は度々あるし、司令官が不向きとまでは言わないが、 どちらかと言うと部将として働くのが合ってるとは思うな。
162 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/11 22:40
いくら戦術指揮能力が高くても、戦略面が馬鹿じゃ意味ないもんな。
>>162 同意
さらに作戦面もお粗末
麹山などでも作戦立案および実行能力の無さがはっきりと分かる
>>163 大した兵力も与えられず、補給も困難な土地なんだし、お粗末と断じるのは性急すぎるかと。
1万で漢中から雍・涼州を攻めて勝利を収めるなんて、古の名将でもきついんじゃないだろうか。
しかも、郭淮、陳泰、ケ艾と、姜維を阻み続けた奴らが揃って守ってたんだし。
>>164 その不利な状況を理解してなお攻めようなどとと考えるあたり、
一国の軍司令官としては不適格であると言わざるをえない。
>>165 そうだけど、戦術レベルで使えない奴と決め付ける理由はないと思う。
>>164 一万の兵でありながら、わざわざ分散して各個撃破され
自らの部隊は、何も出来ずに退却
また、兵数の不足を補うために異民族を扇動するのはよいが
ろくに連携をとらないために、異民族の軍団も各個撃破されている
戦術レベルでは、敗戦を見極め退却にも問題ないし
戦闘に至れば、それなりの戦果もあるので、戦術が劣っているとは思わないけど
戦略作戦面となると、やはり良い評価を与えることは出来ない
169 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/12 16:42
>>161 以降のレスがとても勉強になりました。
でもたった一万の兵で攻めたのは、何故でしょう?
夏候覇がいたから少し思い上がりも入ってたのでしょうか?
ていうかその時夏候覇は生きてましたか?
>>169 夏侯覇は生きていましたが、彼の存在と兵力は関係ありません。
姜維自身は数万の兵を欲しましたが、費イがそれを許さなかっただけですから。
中途半端な出兵する意味なんかあったかな?
>>171 順当に考えれば、武勲を立てる為ではないかと。
彼は、評価は高くとも、それを裏付ける実績に乏しかったわけだからね。
降将なんだし、自身の地位を固めるためには何らかの功績を上げなきゃならない。
>>171 逆に小規模出兵ならコストもかからないし、
失敗した時のダメージも少ないわけで、費イ的には
「成功したら御の字」という感じの出兵だったのでは?
>>167 兵力の分散は確かに常道からは外れてるが、結集したとて敵の兵力は数倍、
作戦によっては分散もありだと思う。
現に麹城は、補給を絶たれてやられはしたが、正面からなら大軍の攻撃にも耐えうる堅固さだったようだし。
羌族も遠征の度に協力はしているが、積極的な協力はしていない感じだ。
そもそも、密接に連携が取れる程に友好的では無かったんじゃないだろうか?
俺もそんなに良い評価を与えられるとは思ってないが、凡庸よりは少し上では無かろうか?
>>174 そうだね。「常道」で行っても敗北は必至だしな。
176 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/17 23:07
>174 つっこむ様で何だが、城砦ってのは根拠地になる訳だから、補給を絶たれたら立ち枯れするようなトコに建設しちゃいかんだろ。
177 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/17 23:15
これは結果論だけど結果的に姜維の北伐は魏の国力を下げて 司馬一族の台頭させたんだから魏を亡ぼすという意味では 成功といえるのでは
178 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/17 23:21
>177 そりゃお前、10万出して、宝くじかって300円しか帰って来なかったのに、当たった!!って騒いでるようなもんだぞ、と釣られてみる(笑
>>176 そりゃそうだろうな。
でも思うんだが、補給を絶たれても大丈夫な場所なんてあるのか?
180 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/17 23:22
>179 言葉が足りなかった。 補給を絶たれても大丈夫な場所じゃなく、補給を絶たれないような場所、って事。
>>180 補給を絶たれにくく、且つ寡兵で敵を防ぐことが可能な場所か。難しいだろうな。
ところで、麹山ってのはどういう場所にあったんだろうか?
運送路と城外の流水を断ち切らせたとあるが、そんな容易く補給を絶たれてしまう地形だったのかね?
182 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/17 23:43
>181 まぁ、補給をたたれにくく、守り易い場所なんて、そんなに無いだろうねぇ。キ山とかは堅固だったみたいだけど。 麹山の戦いは、姜維が西平に出撃した時だっけ? だとすると、西方山地だから、普通に考えれば、守り易い様な気はするんだけどね。 ただ、蜀漢国境から遠いような場所に造った城砦じゃ、主力部隊の援護が無きゃどんな城砦でも陥落するだろな。
>>182 姜維は、敵も兵を分けて自分の方にも回してくると思ったんじゃないだろうか。
実際に諸郡を荒らしまわってるのは姜維率いる主力なわけだし。
麹山も決して補給を絶たれやすい場所だったわけじゃなく、
郭淮が予想以上の兵力を麹山に向けてしまった為にああなったとか。
184 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/18 00:06
>182 結局、姜維の見通しが甘かったって事だだね。 基本的に蜀軍の方が兵力が少ないのだから、魏軍が兵力を分散してたとしも、魏軍の方が多いのは予想できる。 それに、守備側が有利な状況だしねぇ。 分散してなきゃ、少なくとも2人に将軍が降伏するような事にはならなかったろうし。
>>184 姜維は軍事の才能を持っていると自負していたし、
諸葛亮だけじゃなく、色んな奴からも評価されてただろうから、
敵を過小評価してしまいがちだったんじゃないだろうか。
だから必然的に見通しも甘くなってしまうんじゃないかと。
186 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/18 02:48
過小評価はしていないと思う 偉大に思っていただろう諸葛亮さえ攻略不可能だったんだし 相手が圧倒的だということはわかっていたと思う やっぱり攻めつづけなければ結局滅ぼされるから しかたなく「防衛的北伐」でうまく勝ちを拾えれば 御の字という考えだったんだと思うよ
国力・戦力の差はいかんともしがたいレベルだからなあ。 俺は姜維や諸葛亮に同情的だけど。 彼らを防いだ魏の将軍たちは過大評価されてるような。 だって、圧倒的に有利な状況じゃん。
戦略もしくは作戦面では魏の将軍たちのほうが優秀だった。 特に過大評価されてるとは思わない。
魏の将軍が余程無能でないかぎりは蜀と魏の国力の差は埋めがたいだろうな。
だからどう状況を考えても勝ち目なんてなかったんだから 戦争なんてしなきゃよかったんだよ。 勝てない戦なんか国にとっては損害のほうが多くなるわけだし。
191 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/18 15:53
BS-2で新三国志完結編やってるね。スーパー歌舞伎だからクセありすぎるけど。 メインが姜維と夏候覇なのは面白いな。
歴史にたらればは禁句だというのは承知だが、あえて、 ケ艾さえいなければ姜維の北伐は成功したんじゃないか、などとほざいてみる。 要所要所でケ艾に防がれてしまった印象がある。 郭淮ごときなら姜維の敵じゃないだろう。
四行目意味不明
>>193 郭淮の大将としての能力はかなりのものだと思うぞ。
陳泰やケ艾らの部下を上手く使いこなしている。
並みの奴なら、いくらケ艾や陳泰を部下に持っても使いこなせず姜維に負けてただろう。
196 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/18 21:27
うむ。郭淮は諸葛亮にこそ歯が立たなかったが 姜維には負けたことはない。 だからこそ魏の中堅戦力が山のようにいる中で 名を馳せることができたと思う。
鍾会のバカヤローーーーー。 貴様がクーデターに失敗したせいで姜維はーーーーー。
>>196 郭淮は、人に使われるより人を使う方がその能力を最大限に発揮出来る人物だと思う。
郭淮の能力を疑う余地はないと思うが、
ケ艾や陳泰という優秀な幕僚陣が居てこその功績ではなかろうか?
なるほど。生半可な知識で語ったらやはり怪我をするということですな。。(w 柴練三国志だと「姜維vsケ艾」をライバルに仕立ててクローズアップしてて、 郭淮は無能な指揮官という描かれ方だったもんで。 勉強さしてもらいました。
実戦指揮官と後方指揮官の違いだな
>>199 優秀な部下も、それを使う人間が無能では力を発揮できませんからね。
陳泰、ケ艾の進言を的確に取り上げて勝利する郭淮は、やはり有能ですよ。
さらに柴練の後半は姜維マンセーだし
>>203 柴練読んだ事ないんだが、そんなに姜維マンセーなのか?
でも姜維を諸葛亮に重ね合わせようとはしてる。
>>206 別にある程度重ね合わせるのは良いんじゃないか?
姜維の北伐も、全てが功名心でできていたわけじゃないだろうし。
姜維が劇中で諸葛亮の正当な後継者ということになってるし。 敗け戦では途中で姜維に一騎打ちをさせてその超人っぷりを描き、うまく敗戦をごまかしてる。 結構優遇されてるよ。
物語だからな 魅力的な人物とした方が書き手にも読み手にも幸せだ
>>208 でも、それは演義を基にした小説は大体そうじゃん?
>>203 が言うみたいに特に柴練が姜維マンセーというわけ
ではないんじゃないかと思うんだが…?
ショウ周は腐れ儒者呼ばわり ショウエン・ヒイは孔明との能力差に絶望して悶死 でもってキョウイだけが孤高の英雄だもん柴練
>>191 の言う歌舞伎では、郭淮がすげー嫌な奴に描かれてるな。
それでも日本で唯一くらい、 諸葛亮死後も物語を続けている点は評価したい。
姜維好きって、郭淮とか陳泰とかはどう思ってるのかね? 小説とかは、大抵は姜維VSケ艾の図式になるけどさ。 俺は、姜維、ケ艾、郭淮、陳泰の4人ともかなり好きなんだが。
別に嫌う理由もないが、積極的に好きってわけでもない。 時代で言えば官渡あたりが好きだ。 姜維もそのころに生まれていれば曹操の下で活躍出来たかもね。
>>215 ”いれば”もなにも、そのころの生まれだと思いますが?
ごめん。では30年早く生まれていれば、に訂正。
218 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:37
姜維は202年生まれだっけか、確か?
219 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:41
うん?俺は208だったと思うのだが・・・ そうだとすると 剣閣で剣を岩にたたきつけたときにもう61か。 当時としては長生きだよな。
220 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:44
>219 正史みて確認したら、228年頃に27歳って書いてあるから202の様だよ。 ただ、ちくまの正史だから間違いがあるとも限らんがw
221 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:47
外様だった割りに、36年と孔明より長く蜀を守ったわけだ。 やはり姜維は名将だな。
222 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:51
>221 兵権を握ったのは253年だから実質10年でしょ。 しかも、守ったって言うより、すり減らしたって感じだしw
223 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:54
>>222 じゃあ234〜253は誰が兵権を?
どちらかといと演義厨なのであんまし真実は知りません。
すみません。
224 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 18:57
>223 234年〜244年まではショウエン(死去は246年。病気のため、244で事実上引退)。 244年〜253年までは費イ。 で、253年に費イが暗殺されてから姜維が好き放題したと。
225 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 19:03
>>224 あんがと。
だちらかというと、前者の二人が内政で、
キョーイは軍事だと思ってた。
ショウエンは水軍でケイ州に攻め入ろうとした話は聞いたが。
226 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 19:05
>225 いいえ、どういたしまして。 軍事、内政って分けて考えがちだけど、当時は戦乱期で軍事=政治(またはその逆)だから、分けてかんがえるのは無意味。
227 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/24 20:18
>>190 亀レスだが、そうでもないよ。
例えば、孫子の「三軍疲楚」の策、
国家レベルの長期に渡るゲリラ作戦みたいなものだが、
それが成功して呉は国力が数倍上の楚を滅ぼした。
でも、魏と蜀の国力差は呉と楚のそれより大きいし、
姜維に孫子と同じレベルの戦術と戦略能力を求めるのも無理だしな。
>>226 というより、三国時代は文武の別が余り徹底されてなかったようだ。
>>227 まあ、歴史を概観しても大国が必ずしも勝利してるわけじゃねーからな。
姜維の時代には魏も内乱が頻発したりして、国としての消耗は明らかだったし。
孔明〜姜維まで国家の指導者的立場だったんだから、 軍事も政治も司るで普通かと 姜維は、前線に出たまんまだったけどな
230 :
卯ン児 ◆xq8hIDo1E. :03/10/25 04:39
国力低下はすべて宦官にあり 姜維は孤軍奮闘した有能な者 我による最終判断
黄皓のせいで蜀が滅んだと言えなくも無いが、少なくとも国力低下は黄皓のせいでは無い。
黄皓を滅亡の要因にしてる香具師は「演義」に毒されすぎ
陳祇の死後、黄皓は黄門令から中常侍・奉車都尉に昇進し、権力をあやつって、ついに国家を転覆するに至った 董允伝より
234 :
卯ン児 ◆xq8hIDo1E. :03/10/25 17:11
国力低下はすべて宦官にあり 姜維は孤軍奮闘した有能な者 我による最終判断
姜維の「陽安関と陰平橋の守備を固めるべし」という進言を揉み消した以外、黄皓の悪行は具体例が無い。 滅亡の原因となった可能性はあるが…。
羅憲を左遷したのは?
>>236 悪行ではあるが、蜀滅亡に影響を及ぼした訳でもないでしょう。
むしろ、太子舎人・宣信校尉→巴東太守って左遷なの?
中央から遠ざけられてるのは確かだけど、太子舎人・宣信校尉じゃさして権力も無いし…。
藤井総裁みたいな香具師だったんじゃないかね>黄皓
現代との比較は意味をなさないと思う。
ネタボケにマジに突っ込む239に萌え〜
241 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/26 18:30
黄皓に関して言うと、あまり悪事を働いてないね。 人を謀殺した訳でもなきゃ、人民から搾取した、って記述もない。 羅憲の左遷も236氏の言うとおりだし。 235氏の件も、巫女の言葉を信じ援軍を送る必要は無い、って進言したってだけで、進言が入れられたかは不明。 以前にも書いたんだけど、宦官が少しでも権限をもつと、後漢末からの清流派官僚の系統に属する人々は激しく反発するのが常。 黄皓については少し割り引いて考えないといけないんじゃないかな。
大赦連発は?
243 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/26 21:59
>242 大赦は諸葛亮の死去後に増えてるね。 費イの頃はかなり頻繁。 姜維時代は、相次ぐ戦争で減少した兵力補充の為に大赦を連発したらしいね。 別に黄皓がどうの、ってんじゃないよ。
244 :
P−GAWA :03/10/26 22:12
有能な人間が少なすぎた
黄皓は滅亡の原因ではない。 それどころか姜維を排除して国を救おうとした善の宦官。 のわきゃねーな・・・
右車騎将軍にまで昇り、姜維が出兵する度に頻繁に用いられた廖化だが、 そんな高位につき重用されるほどの人間だったのかねぇ? 活躍した記述が全くといって良いほど無いんだが。 明帝紀に出てくる、王贇、游奕を撃破した廖惇は、廖化なのかもよく分からんし。
>>246 派手な武功を立てている人物だけが「有能」と見るのはどうかと思うが・・・
248 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/27 00:14
>246 廖化、馬鹿に出来んぞ。 関羽が敗死した荊州戦役、劉備の東征、諸葛亮の北伐、姜維の北伐。 あの戦乱期に、記録に残ってるだけでこれだけの大きな戦争に参加して生き残ってるってのは、ある意味有能さを示してるかもしれないよ。
>>247 確かにそうだが、白水の件とか成重山の件とかで失態も晒してる。
時期的に、明帝紀に出てくる廖惇は、成重山の時の廖化みたいだし、
248氏の言う様に幾多の戦争に従軍し生き残ってるんだから、ある程度の実力はあったみたいだが。
250 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/27 01:48
ただのビビリかもしれんぞ。
251 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/27 11:34
中国にはこういう諺がある。 「蜀中無大将、廖化作先鋒」 意味はそのままでもわかるんだろうが、つまり人材がないから廖化如きが先鋒 を勤まるようになるんだって。史実はどうだったか知らないが、 中国ではあんまり評価されていないらしい。
武力 85 知力 80 政治 73 魅力 80
でも、諺として使われているよ。 「擒賊先擒王」とかみたいに。
う〜ん・・・
257 :
P−GAWA :03/10/27 21:06
ごめんなさい、廖化ってただ長生きしてるだけかと 思ってました。でも強いっつーわけじゃないんじゃないの?
258 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/27 21:37
三国志に詳しい人とかは、それなりに廖化に対して評価できるかもしれんけど、一般の人は長生きな人、ってイメージだろうね。 諺みたいな感じでさ。
259 :
P−GAWA :03/10/27 21:59
「老黄忠」とか?あっ諺じゃねー
260 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/27 23:41
>259 黄忠の年齢は不明なんだけどね〜(笑)。 関羽が「老兵」って言ったのは事実だけど。 まぁ、戦歴が古いだけの成り上がりめ、って意味かもしれんが。
>>258 遥か後世の漢詩なんて何の参考史料にもなるまい。
同時代人の評価
「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」(華陽国志)
262 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/28 07:10
>261 別に参考にも、資料にもしてないよ。ただ単に、廖化の一般的イメージは「長生き」ってんだろうな、って言っただけだが? それに>>三国志に詳しい人とかは、それなりに廖化に対して評価できるかもしれんけど、 って書いたんだけど。
>>262 長生きなのは演義での話だろ?
黄巾残党という設定は演義だけなんだから。
で、演義の廖化>正史の廖化なんだから、廖化を長生きだと認識してる香具師の評価の方が上だろ。
姜維 武力 85 知力 85 政治 70 魅力 75 廖化 武力 75 知力 60 政治 50 魅力 65 張翼 武力 70 知力 65 政治 40 魅力 60 王平 武力 70 知力 65 政治 55 魅力 70
黄忠 武力 95 知力 70 政治 55 魅力 80 関羽 武力 95 知力 70 政治 60 魅力 90 黄皓 武力 15 知力 60 政治 75 魅力 10
266 :
つかさうま ◆SIBAlB/q2k :03/10/28 14:21
このスレでは滅亡の原因が姜維や黄皓という意見が多いようですが ある程度確立された組織の滅亡の原因を ある個人のみに帰結するのは早計だと思うのですがどうでしょう? むしろ、ウチは滅亡の原因は諸葛亮時代から蓄積されてきたものの 集大成であって、姜維の行動、黄皓の行動、 それらもそういった背景によって起こされたものだと考えるのですが。 そういう意味で、蜀漢の政争史、派閥関係は突き詰めて調べていくと面白そうですよね。
>>266 結局は劉備が国を興さなきゃよかった、とか言わないよね。
黄皓なんか普通じゃないの、宦官だったから物欲が強いのはしょうがないとして。
あらゆる点で魏に対して不利だっただけじゃん、諸葛亮はそれを補うほどすごかったんでしょ。
補った?
あ、これゲームの能力値じゃなかったんだ。
5区切りだろが
孔明死後は何もしなくても人身が離れていく状態だからな、 残された人は大変だったろう
273 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/28 20:55
>262 黄巾出身が演義創作なんてのは百も承知です。 正史でも生没年は明記してないけど、宗預の発言から190年前後の生年ってのが想像できるでしょ。 そうすると、73,4歳くらいで亡くなった事になるから、当時としては長生きじゃない? 演義の廖化は登場回数が多いけど、他の大物と比べるとイマイチ。 正史の廖化は演義に比べると地味に活躍って感じじゃないかな。
274 :
P−GAWA :03/10/28 22:02
この時代の魏将と見比べても廖化や王平は特別見劣りしている わけではないと思う。姜維かてケ艾と同等以上の能力を持って る(と思う)から、やはりもともとの国力の差と内政面の不安要 素(黄皓)の存在が滅亡の原因。と、かってに結論づけてみる。
>>273 それは漏れに対してのレスなん?
>>274 だから黄皓が政治面で何をやったかは分かってないんだって。
あと、姜維はケ艾に三回ほど計略を看破されてるよ。
276 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/29 07:00
姜維の方がケ艾より上だと思ってるヤツがいるとは思わなかったなw
277 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/29 16:05
滅亡は呉との共闘関係を維持できなかった時点で決まってた 姜維1人、諸葛亮1人がどうこうってもんじゃない 諸葛亮はだましだましでちょっかいかけて 魏の内紛を期待していたんだろう(魏延はガチだからつっぱねられらた
ケ艾は三国時代通しての名将の1人だろう 姜維もそれなりに優秀だろうが、ケ艾と比べてしまうと見劣りが激しい
279 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/29 18:49
>277 呉との共闘関係は蜀漢滅亡まで続いている訳だが。 まぁ、蜀漢滅亡時に、火事場泥棒的なコトはしてるが。
>>279 荊州をめぐる紛争のことを言っていると思われ。
281 :
無名武将@お腹せっぷく :03/10/29 19:03
>280 建国以前のコト持ち出したら、建国したのが原因なんてコトにならんか?
あきらかな失政があれば、そこを切り出せるが、 孔明死後は特に目立った失政はないように思える 姜維の失敗続きの外征くらい?
283 :
P−GAWA :03/10/29 21:46
どうやら僕はこのスレで語るには知識が 足りないようなので退却いたします。
姜維は若武者なイメージがあるが、実際に大暴れした時期は結構なじいさんに なってからなんだよな。 ゲームの顔グラはもっと渋い老人顔にしてくれ。
285 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/04 23:54
>284よ、そんなことしたらゲームしかしてない、厨房が疑問を抱いてしまうだろう。
4の時は髭のおっさん顔だったな。>>姜維 それ以前では知らんけど。
8はめちゃ若かったよ。二十代くらいに見えた。
\ 姜維と言えば? /ナンダココハ コワイモナー ヒイィィィッ \ ∧_∧ ∩剣閣だろ! / ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ また出陣だって \ ( ・∀・)ノ______ / ( ;・∀・) (; ´Д`) (´Д`; ) ∧ ∧\ (入 ⌒\つ /|. / ⊂ ⊂ ) ( つ ⊂ ) ( ⊃ ⊃ (゚Д゚ )_\ ヾヽ /\⌒)/ |/ 〉 〉\\ 〉 〉 く く //( ( / ̄ ̄∪ ∪ /| .\ || ⌒| ̄ ̄ ̄| / (__) (_) (_.)(_) (_) (__) /∧_∧またですか・・・\ ∧∧∧∧ / 『姜維』 / (;´∀` )_/ \ < 姜 ま > 天水の麒麟児と呼ばれた蜀の大将軍 || ̄( つ ||/ \< > 諸葛亮亡き後は我が身と国力を省みず || (_○___) || < 維 た > その生涯を北伐のみに費やす ――――――――――――――― .< >――――――――――――――――――――― ∧_∧ 宦官に < か > ∧_∧プッ ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ;´∀`)翻弄されてる… ∨∨∨ \ ( ´∀`) (´∀` )<北伐組必死だな(藁 _____(つ_ と)___ ./ \ ( )__( ) \_______ . / \ ___ \ムホン / ∧_∧ 大\∧_∧ ∧_∧  ̄ ̄ ̄/.//| .<\※ \____.|i\___ヽ.ムホン ./γ(⌒)・∀・ ) 将 \ ;) ( ;) / ┃| | ヽ\ ※ ※ ※|i i|.====B|i.ヽ /(YYて)ノ ノ 軍 \↑ ̄ ̄↑\)_/ |__|/ \`ー──-.|\.|___|__◎_|_.i‐>/ \  ̄ ̄ ̄ ̄\め \張翼廖化 | | ┃  ̄ ̄ ̄ ̄|. | ̄ ̄ ̄ ̄| / ||ヽ|| ̄ ̄ ̄ ̄|| ! ! \ .|_)
290 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/15 03:17
あげ
でも、姜維の登場年数が遅いから黄巾あたりのシナリオから始めると本当に若いんだよね。 年とともにグラフィックも変わればいいのに。
姜維はケ艾や郭淮と比べると見劣りするけど鍾会よりかは上かと思ってるの俺だけ?
>>292 鍾会と郭淮と姜維じゃ、それぞれ得意とするところが違うと思う。
大将としてなら郭淮のほうが姜維より上だと思うが、
兵を直接率いて戦う部将としてなら姜維のが上だと思う。
鍾会は、部将としても大将としても二人に及ばないが、謀臣としてなら上かと。
ケ艾を含めて4人で考えると、総合トップはケ艾か。
>>294 サンクス、いままで鍾会の事を逢紀と呂布を足して二で割った奴だと思っていた。
鍾会は密謀を担当するのが専らで、自ら兵を率いたりは討蜀が初だと思う。 記録に無いだけで率いてるのかもしれないが。 作戦立案や謀略は得意そうだから、姜維と組めばお互いの欠点を補えて良かったかもな。 反乱は失敗したけど。
297 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/16 15:22
魏 延 だ け は ヤ オ
298 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/16 15:49
魏 延 だ け は ヤ オ イ
299 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/16 15:58
魏 延 だ け は ヤ オ イ ジ ュ ン イ チ
300 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/16 16:27
UFO! ちゃらら ちゃっちゃっちゃ ちゃらら ちゃっちゃっちゃ ちゃらら ちゃっちゃっちゃ ちゃらら ちゃっちゃっちゃ
>>237 羅憲は黄皓に左遷されたのを劉禅が巴東太守に任命したって
どこかのサイトでみたけど・・・。
302 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/17 06:57
>301 太子庶子・尚書吏部郎、宣信校尉から巴東太守だな。 羅憲が黄皓に同調しなかったので、腹を立て巴東太守に左遷したんだよ。 でも、太子庶子・尚書吏部郎、宣信校尉→巴東太守ってけっして左遷じゃないと思うけどね、官位的には。 まぁ、中央政府の皇太子付兼人事担当兼対呉交渉担当から遠くに飛ばされた、って意味じゃ左遷だけどね。
303 :
無名武将@お腹せっぷく :03/11/17 07:34
三国志はあまり詳しくはないんだけど、このキョウイという奴は 本当に凄いやつだと思った。 史実かどうかは知らないけど、国家の最高司令官である人間が 最前線で真っ先に突っ込んで槍を振り回してるのはアセったよw 軍略を練るのも、全軍を指揮するのも、一騎打ちも全部自分一人でやってた。 よく滅亡まで生きていたと思ったよw そういえば、こいつが全軍の総司令官の身で真っ先に突っ込んだ時 相手も総司令官が迎え撃ってた気がする・・・・ 確か司馬師だったっけかな??? 国家の最高司令官同士がぶん殴りあって戦ってるんだから 2000年前の戦争は凄いよな〜〜
消防、乙
>>304 いやネタだろ?
縦読みしようにも、できないのがつらいけど…
クッソー
幻の巨竜 クッソー を知っておるとは、貴様只者じゃないな?
漏れも知ってるぞ! ∧_∧ ∧_∧ (´<_` ) ウソつけ。 ( ´_ゝ`) / ⌒i / \ | | / / ̄ ̄ ̄ ̄/ | __(__ニつ/ FMV / .| .|____ \/____/ (u ⊃
保守
このスレ終了ケテーイ ∧_∧ ∧_∧ (´<_` ) 流石だよな俺ら ( ´_ゝ`) / 威 ⌒i / 覇 \ | | / / ̄ ̄ ̄ ̄/ | __(__ニつ/ 夏侯家 / .| .|____ \/____/ (u ⊃
終了5秒前
313 :
無名武将@お腹せっぷく :03/12/09 13:33
・・・このスレを全力で私は復活させる!・・・ まず蜀がなぜあるかと言うことからはじめる 「漢から帝位を奪った魏を討ち漢を再興する。」というのがあるが別に漢が政治をやんなくてもいいというのがわたしの意見 歴史は動くのである!もはや蜀の時代ではなくなっていたのである。
314 :
無名武将@お腹せっぷく :03/12/09 14:44
☆ Merry |\ Christmas! ∴∴∴ (´・ω・`) (;;つ□O; L,,,,[:],,」 (__)_)
>>313 このスレを救う人がいるとは。でも、「別に漢が
政治をやんなくてもいい」ってのが意味がわからん。
てゆうか板違い的な内容。
・・・結局誰もレスを返さないこの板に乾杯。
>>316 もう姜維だけでは限界なんだろうな。人気がないって事はないだろうから、語り尽くされたと見るべきか。
>>313 も姜維の事は語ってないし。
姜維の北伐、個人的には優秀な作戦参謀の欠如が問題だったのかと思う。
正史の記述を見ても、姜維一人でやってたのかって思うほど、
他の奴が何かしたりとか献策したりとかってのが無いし。
>>317 >他の奴が何かしたりとか献策したりとかってのが無いし
おいおいw
>>317 >他の奴が何かしたりとか献策したりとかってのが無いし
おひ……
>>318-319 すまん。言い方が悪かったな。
俺が言いたかったのは、作戦立案の面などでの有効な献策無いって事。
張翼が進攻せずに留まるべきだと言ったり、
張嶷が李簡の降伏を間違いないと主張したりとかしかないと思うんだが。
そりゃ北伐の全てを一人でやってたなんて思ってないが、
魏の郭淮であれば、姜維と相対する時には陳泰やケ艾の存在がちらついたが、姜維にはそれが無かったと思う。
俺が読みこぼしていたりしているだけかもしれないから、何か知ってたら挙げてくれないか?
このスレにレスしてる人に聞きたいが、五丈原以降の物語、というか 資料が詳しく載ってる本を教えて欲しい。小説でも歴史の解説本でも、 234年以降の話が載ってる本って(漏れの探した中では)全然なかった ので。このレスがスレの雰囲気乱したらスマソ。
>>321 ちくまの正史の訳本ぐらいしかしらないなぁ。
柴練の小説は孔明死後も書いてるらしいが、読んでないから詳しくは分からない
羅貫中の演義は五丈原以降も書いてあるはずだが。
そうだな。小説なら普通に演義でいいんじゃないの?
>>313 「漢から帝位を奪った魏を討ち漢を再興する。」
「漢から帝位を譲り受けた魏を討ち漢を再興する。」
魏に対する反逆は漢に対する反逆だと思うんだがよ。
やっぱ蜀は漢の逆賊じゃないですか
姜維最後に反乱するけどアレも戦略的にみてなんだがなぁと思う。
状況を見渡す広い視野が無かったんでしょうね。
個人としてはなかなか優秀だったんでしょうけど。
釣りとしては弱いなあ。
姜維は、「政治・戦略・戦術」の三要素のうち、戦術しか持ってないんだろ? 孔明は、戦略・政治を持ってたから、自分にない要素をもつ姜維が輝いて見えたと。 まぁ、この三つを高いレベルで持っていたのが、曹操ぐらいしかいないし、 あとは仲達ぐらいなもんか。 張翼は蜀の地元の軍部に勢力を強く持つ人間だから、無視できんわ。
戦術でも諸葛亮のほうが上だったように思うけど、大体そんなところだろうな。
姜維の怒涛の出世の理由はなんでしょう? 何を評価されて出世したんでしょうね?
>329 初め 孔明「あ〜あの魏延とか言う奴、好かんわ。玄ちゃんが、夷陵で殆ど武将駄目にしちゃったし、どないしよ? 地元の人間は出来るだけ使いとうないしなぁ〜。お、涼州に生きのいい若いのがいるやないけ!どや?蜀に来て将軍なってみーへんか? 何、ワイが一言いえば、スグやスグ。それに才能全く無いのとちゃうやん、ワレ」 その後 孔明「あかん…ワシ死ぬやん。政治は公[王炎]もおるけど、軍部にロクなの居れへんわ。魏延はみんなと仲悪いし、王平は字読めへんって馬鹿にされるやん。 馬謖切らんとけば良かったわ。いや、駄目か。結局役立たずだったし。あ〜そや!姜維にしとくか。見た目はイイし、公淡なら抑えられるやろ」 でもって 文偉「北伐北伐五月蠅いなぁ……。公[王炎]は絶対駄目って、官爵だけあげてたケド、適当に兵隊あげれば大人しくなるんだしイイじゃん、それで。 それにホラ、「亡き丞相の〜」なんて言われると、僕もしんみり来ちゃうしさ。」 夏候覇「見てろよ〜仲達。蜀の皇帝と我が家は親族なんだからなぁ!……ちっ!臆病者しかいねぇのかココはっ!ん?何、姜維、アンタも戦いたいの? よし、行こう。二人でいけば兵も出さざるおえないだろうよ!」 最後は 陳祗「あ〜姜維?いいのいいの、戦争させとけば満足なんでしょ?え?責任?そんなん大将軍なんだから自分で取るでしょ。諸葛公もそう思うよねー?ホラ。 しっかし、羅憲の奴生意気だなぁ。巴郡に飛ばしちゃうぞ!エイッ!」 こんな感じかと。
>>331 本人がおもしろければそれでいいじゃない
良くは無い
うん、自分でもおもろくないと思った。 >329 そんなに怒濤いう程の出世かな? 軍部には、王平、句扶、張翼、張嶷の四将がいるし 軍権は、蒋エン、費イが握ってた。 費イがちょくちょく甘やかして姜維に兵隊上げたのと、 皇族・夏候覇の存在 漢中の守将・王平が死んだあたりからじゃない? 魏延が考えて、王平が継続していた漢中の防衛法を変更して、 ピンチなってる姜維、明らかに戦略眼が欠如している。 軍隊の動かし方は上手い(蜀の中では)から、“将軍”の器じゃないんだよねぇ……
夏侯霸
>>334 降将の上、魏でも州の従事でしかなかった事を考えれば怒涛と言っても良いかと。
>>334 あと実際北伐の頃はじーさんだけど
横山とかでいつまでも若いイメージがあるから一気に出世したイメージが強いのかも
怒涛の出世といっても30歳やそこいらで軍の実権を握ったとかではないし、 むしろ蜀に仕えて30年、叩き上げの軍人ってイメージなんですけど。 決して諸葛亮のお墨付きだけであそこまで出世したとは思えない。 降将でありながらも努力して勝ち取った地位、と考えるほうが 個人的に姜維に対して親しみがわくのだが。 脳内妄想ですまん。
>>338 姜維の出世の理由を、諸葛亮のお墨付きだけと考えるほうが無理があると思う。
諸葛亮死後もかなりの早さで出世を続け、何の地盤も無いのに40歳そこそこで鎮西大将軍、
50前に衛将軍・録尚書事にまでなってる。
諸葛亮以外からも、その実力をかなり評価されてた事が伺えるし、努力も相当な物だったはず。
でも姜維以外が力不足だったと?
ていうか、絶対的な国力の差だろ。
>>340 従軍してる人材の方でいえば、張翼や廖化の将才は悪くないと思う。
なんせ、時には張翼の方が姜維よりも……
>>342 王経撃破後に退けって言った事か?
俺は、あの時の姜維の判断は悪くはないと思うが。
王経は狄道に立て籠もったものの兵糧は無く、陳泰の素早い救援が無ければ落ちていた。
しかも、ケ艾を含め、魏陣営の論者の多くは様子を見るべきだと主張していたしな。
もし陳泰が彼らの考えに同調し救援が遅くなれば、
城は落とせたし、その勢いで隴西を分断できた可能性もある。
あれは敵の領土を切り取るには千載一遇の好機だったんじゃないかと。
それに失敗続きの姜維にとってみれば、名誉を挽回する為にも、
あれしか選択肢はなかったんじゃないか?
>>342 戦術面で姜維、張翼、廖化は名将だと思うけど、
やはり攻め入るよりも守る方がやりやすいってこともあるかと。
補給や士気に影響出るし。
実力で敵将に劣っていたとは思わない。
事実、孔明でさえ徹底的に守りに出た仲達には結局勝てなかったが
孔明の方が仲達より格下という意見はあまりない。
廖化はわからん。そんなに戦術面で優れた記述があったか? 後期の蜀を代表する将ではあったが、名将と呼ぶには抵抗があるが。
>>345 明帝紀には郭淮の派遣した二人の将軍を打ち破った記述があるな。
山に陣取った廖化を、郭淮が兵を分けて挟撃しようとした所を逆に各個撃破したらしい。
使えない奴ではないし、人材の乏しい蜀では貴重だったんじゃないか?
>344 >孔明の方が仲達より格下という意見はあまりない え?えぇ?? 充分格下な気がするケド…… 仲達は、公孫淵討伐でその戦略眼と戦術面の確かさを証明してるし。 蜀で名将と言ったら、王平かなぁ……やっぱり。 個人的には政治家だけど、羅憲も好きだが。 廖化は年の功って感じだ。 張翼は前にあったように、益州軍部に強い影響力を持ってる重石的存在。 句扶って誰?だし。 姜維の出世の理由は、本人の能力以外に あまり地元の人間に高い位をあげたくなかった荊州派閥で構成された蜀政権っていう一面があるんじゃないかと
>>347 俺は諸葛亮が司馬懿より格下とは思わないがな。
第一次北伐の戦運びは見事としか言いようが無く、
結果は伴わなかったもののその実力は否定できないと思う。
馬謖が命令違反せず、張コウに大敗を喫したりしなければ、涼州一帯を奪えてたはず。
両者の軍才を比べても、格下と呼べる程の差はないんじゃないか?
第一次北伐は孔明vs仲達ではないけどね。 仲達は、神速の用兵で孟達を攻め落としてるし。 張コウは名将だし、ガチで勝負したらどうなったか見てみたいが。 第一次北伐の戦運びは見事……というよりは“妥当”に近い気がするケド。 無論、孔明の実力は否定しないが、馬謖という人間を見抜けなかった事自体が総司令官の器の人間じゃないことを示してるんじゃないかな? No.2で内政やってた方がいいんだよ孔明って。蕭何や耶律楚材、劉基が軍率いるのはやっぱ無理だろって話で。 逆に仲達は、あの時代一つ頭抜けてた感じのする人物だと思うよ。後漢末期の曹操みたく何やらせても凄い。
調べてみると撤退戦では鬼のように強いな、孔明。 局地戦レベルではほとんど不敗じゃないか?
>>350 そのとおりかと思われ。
陳倉は陥とせなかったけど、それ以外での戦術レベルでの敗戦は
無いと思う。
陽動も巧妙だし、一般にいわれるほど将才の低い人物ではないと
思うな。
ほう、そうなのか。 ……単に勝てない戦いはしない主義だったりしないか?
>>352 。もう少し勉強しろよ。史料にあたりもせずに適当なことをいうな
>>351 その陳倉にしたって、諸葛亮はあらゆる手だてを使ってるように思える。
陳倉の敗退は、諸葛亮の実力不足というより、単に郝昭が凄かっただけだと思う。
>352 ん〜、俺は唯の一般人だしねぇ。 三国志だけってものね。他の時代の方が面白い人物が沢山いるし、近代も忘れたらあかんし、 中国史は手広く勉強しとるよ。受験生だけど。 一つの時代に詳しくなると、歴史的な見方を忘れやすくなるし。 資料見ようが、意外と孔明が戦術上手い実例があろうが、やっぱ仲達の方が上だと思うし。
>>355 >>ん〜、俺は唯の一般人だしねぇ。
>>三国志だけってものね。他の時代の方が面白い人物が沢山いるし、近代も忘れたらあかんし、
こういう言い方は気に障るな。
それと、よほどの差がないと人物の実力の上下なんて決められないと思うんだが。
戦の勝敗にしたって、大将の実力だけで決まるわけじゃないし、
それこそ様々な条件や運が絡んでの結果なんだから、安易にどっちのが戦が上手いなんて言えないだろう。
そこまで仲達のが上だって言うんなら、はっきりとした論拠を示した方がいい。
最も、ここは姜維スレだし、そんな事はスレ違いではあるんだがね。
長文スマソ
俺もスレ違いだと思うから、軽い感じの文体にして流しやすくしたんだが…… 気に障ったか。ゴメン。ってゆうか誤字だ。他の時代”も”って打ってたつもりだった。 人物の上下は、見方にもよる。戦上手ってだけなら岳飛や郭子儀、三国時代に近い所だと祖逖みたいな魅力溢れる人物もいる。 ただ、歴史ってのは結果だから。 遼東から朝鮮北部に勢力を誇っていた公孫淵をあっさり倒した仲達はハンパじゃない。 何か軽く書かれてるけど、重要だからね。魏にとっても、その後の朝鮮史にとっても。 戦争って手段だし、結果を残すべきだとも俺は思うわけだ。 戦術ってレベルに搾っても、先に挙げた公孫淵や孟達を攻め落とす用兵は“妙”の一言だし、三国志知ってる人なら誰でも知ってる。 知られてるって事は後世の人間達も認めたから、仲達の用兵の巧さを示すのはこの二つで充分だと思う。 いっとくケド、蜀も孔明は好きだよ。うん。
「得意なのが撤退戦」というのは少々ネガティブだよな
>>357 その後の歴史への影響力という観点で見れば、確かに仲達のが孔明よりも上かもしれん。
しかし、公孫淵討伐と孟達撃破だけでは、
やはり孔明の将才とどちらが上かなんて判断できないと思う。
孔明は、国力で圧倒的に劣る上、補給の困難な場所への遠征を強いられていた。
更に、敵は曹真、張コウ、郭淮ら、名将揃い。
第四次、五次で司馬懿と相対した時だって同じ事だ。
あらゆる面で圧倒的に不利な遠征にも関わらず、街亭以外では殆ど損害を被っていないし、
撤退時には、逆に追撃してきた王双や張コウを撃破している。
ついでに言えば、第四次では祁山において、司馬懿自ら率いてきた軍勢を打ち破っている。
この北伐だけで孔明の軍事面の才能が尋常で無い事は伺えるし、
司馬懿と比較して下であるとも断言できないと考えるが。
360 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/07 07:02
諸葛亮の話題で盛り上がってるとこ悪いけど、 きょう維のことで聞きたいのだが。 きょう維が軍事才能優れていたという話は聞くけど 戦術の他に一騎打ちとかも強かったの? 横山とかはガンガン戦ってるけど、正史では さすがに一騎打ちとかはしていない?
362 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/07 10:44
363 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/07 11:55
姜維は本当に微妙な存在だよな。 資料に於いて孔明が彼に遺志を託したなんていう話は全くと言って良いほど無いし。 そして国力調整の伴わない無謀な北伐という現実。 確かにやる必要はあったのかも知れない。蜀の存在意義が問われるから。 それでも事務能力に長けていた孔明には及ばないし人望も無い。 この男ほどイメージと現実のギャップが激しい奴も居ないな。不細工義経よりギャップがある。 一騎打ち?集団戦では無意味な行為。そう仕向けたのが曹操であり、それを吸収した蜀、呉の軍ではないか。 宝島では完璧に扱き下ろされていたし、やはり報われないな、こいつ……。 孔明に人材観察能力(武将)があったならこんな中途半端軍人なんか……。
>>359 ほぼ同意。
でも司馬懿の軍略における優秀さは、諸葛亮の死後の対呉戦略でも
証明できる。
司馬懿の軍事面での事績は、とかく孟達討伐と北伐、遼東遠征に
眼を向けがちになるけど、呉との戦いでも司馬懿の能力が確かなのは
はっきりとわかる。
でもやっぱりいずれが上下かは断言できないな……
>>363 諸葛亮の観察眼・人物評価は、たしかに軍事が絡んでこないと悪くないな。
>>364 俺が言いたいのはそういう事です。
司馬懿の能力は疑うべくもないが、諸葛亮より上か下か断言できるものじゃないって事です。
>>363 イメージとのギャップのせいで過小評価しすぎてないか?
実力だけで見ても、当時の蜀で魏に当たれたのは姜維ぐらいだと思うが。
少なくとも宝島での評価は不当に低すぎる。何か怨みでもあるのかと思うほどだ。
>>364 >諸葛亮の観察眼・人物評価は、たしかに軍事が絡んでこないと悪くないな。
軍事以外でも褒められたものじゃないよ。
南征後、任命された太守が(馬忠を除く)ことごとく殺され叛乱されまくったという事実は
諸葛亮にとって大きな失点だよ。
姜維と北伐について 姜維が北伐を一切しなかったらどうなったのだろうか? ヒイが言った「保国治民」に徹してより能力ある者を待てば望みがあったのだろうか? これは少々あやしいと思う。 何故なら、魏と蜀の国力の差は、刻一刻と開くばかりだから。 蜀は、後漢末の戦乱の悪影響をあまり被らなかったからこそ、 戦乱で荒れ果てた地を治める魏に対抗する勢力になれたのだ。 ものすごく俗な表現をすれば、魏は最大HP300のところ現在のHP80、 蜀は最大HP80で現在のHP60、という感じなのではないだろうか。 両者が最大まで回復したら、蜀に勝ち目は無いのだ。 そんな中で蜀が魏を倒すには、回復を待たずに攻撃を加えるしかない。 蜀の疲弊、損害もかなりあっただろうが、 何もしなければどの道回復した魏が近いうちに攻めてきて滅ぼされるのだ。 可能性は低くても、早めに攻撃しておかなければならないのだ。 守りを固める、などというのはこの場合真に長期的な展望を持つ考え方とは思えない。 蜀は限界点が低いのだ。 魏が攻めに転じる余力を持ち始めたら、 一度や二度撃退されてもまた攻めに来る。 その消耗に耐える力は蜀には無いだろう。 というように思うのだが、どうだろう?
>>371 守りに徹しても長期的に見れば滅ぼされるってのは同意。
涼州辺りは奪っておかないと、魏が本気になった時点で終わってただろうな。
曹爽の時は防げたものの、同じように防げ続けられるとは思えないし。
>>371 いや、守りに徹してる内に魏が内乱や北方異民族の侵入等で
疲弊した可能性はある。まあ、攻めに出るにしても守りに出るにしても
博打だったのは間違いない。姜維を一方的に非難するのはおかしいというのは同意。
じゃ、腹の立つ言い方をしよう。 攻めといて、撤退戦が上手くてもしょーもねぇじゃん、孔明。 >373 >魏が内乱や北方異民族の侵入等で疲弊した可能性 蜀の滅亡が263年。 劉淵が、司馬穎に愛想尽かして匈奴の兵を率いて独立したのが304年。 慕容カイが鮮卑大単于を称したのが307年。 李特が流民集団をまとめて成都を攻め出したのが301年。 結構厳しいものがある。 無論、外征を行わない事でどれだけ蜀が長生きできるか? 司馬氏は予定通り魏を乗っ取れるか(多分できる)? 司馬炎の前半の名君ぶりもどこまで続くか? 八王の乱は起こるのか?という疑問も残る。 姜維の問題点はやっぱり、高官にあったのに陳祗を野放しにしたことだと思う。 ヒイも、ちょくちょく姜維の北伐の要請に受けてやるから、魏も涼州辺りの防衛に力を入れ始める羽目になった。
陳祗をどうにか出来る権力なんざ、姜維には無かったって。
陳祗をどうにか出来るってのは無理。 出来たとすれば、その時はもう蜀は姜維政権。簒奪寸前。 あと、魏は蜀の動向に関係なく涼州・雍州を固め、漢中・蜀攻めを進めるだろう。 むしろ、姜維がそれを邪魔して遅らせたという側面は考えられないだろうか。 曹操は関中を平定すると漢中を攻め、 漢中の張魯を下した後にはそのまま蜀を攻めようとした、とされている。 諸葛亮死後に涼・雍方面が静かになったらそれの再現になったかもしれないのでは?
所詮軍人か… 諸葛瞻がもっとしかっりしてればなぁ……
>>374 別に撤退戦だけが上手いわけじゃないと思う。
第三次は武都・陰平の2郡を平定できたし、これは一応勝利と呼べるだろ。
勝てなかったのも、丞相という立場から、
博打を打ってまで勝ちにいかなかっただけの事じゃないだろうか?
下手なことをして軍全体がガタガタになれば、魏につけ込まれるしな。
撤退時に敵を撃破してるのは、損害を出さないから撤退時にも軍勢は健在であり、
敵の追撃部隊にも余裕で対処できてるだけだと思う。
所詮軍人というか、それが正しい姿だ 悪人、無能だったとしても、皇帝が取り上げた高官を一存で首飛ばすなんて、 三国志の時代で言えば長安遷都後の董卓とか、司馬昭くらいの存在ってことだ。 要するに権臣が国権を握り、混乱寸前の状態ということになる。 そしたら混乱に乗じて攻められてサヨウナラ。 即ち、姜維に陳祗をどうこうしろってのはお門違い。
きつい言い方をすれば、魏からみれば蜀は地方の一軍閥といっても いい規模だなぁ。 諸葛亮はまだしも、姜維の北伐は兵力・作戦などをみてもまさにそんな感じ。 とにかく後背地からの補給が確実に続かないわけだけど、王経を撃破した あたりの展開をみてると、補給の不利を軽兵での機動力で補ってる観がある。 結局、王経を破ったまではよかったものの、ケ艾によって段谷で惨敗を 喫するわけだけど……姜維は戦果を急ぐあまり、諸葛亮までは求めない までも、慎重さが足りない感じ。 といっても、対蜀戦線に投じられた魏の将領が良材揃いだったのも、姜維が 勝利し得なかった原因だろうけど。 そういえば、263年の蜀への遠征って、賛成していたのは鍾会くらいだね。 司馬昭やケ艾ですら、時期尚早の見解みたいだし。 なんか無常……
>>374 ちゃんと読んでくれよ。
>攻めに出るにしても守りに出るにしても 博打だったのは間違いない
って書いてあるでしょ。
国力差を理由に当時の蜀にとって「守りに徹する」という選択肢では成算が
全くなかったという意見に対して、必ずしもそうではないだろという話。
382 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/09 13:16
当時の蜀は末期のガン患者。 余命一年と宣告された。 生き方は二つ。 大金払い成功率一%の手術に挑むか、 奇跡的に良い治療法が見つかるのを祈って延命を図るか。 そんな感じの状態だったと思う。 姜維が手術に挑んで失敗したからといって、 彼だけを責めたり、弱い奴とバカにできるだろうか?
でもやりすぎだよね。 ただ彼一人の問題でもあるまいて。
385 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/09 18:57
姜維の墓参りまた行きたいなー。一番好きな武将だしなー。
調べたら姜維の墓は四川省剣閣県剣門鎮にあるってさ。
そうなのか。 でも姜維って剣閣で死んだ訳ではないけどね
剣閣って、県だったのか。
俺は周倉の墓を見たい
じゃあ俺は関索の墓を
393 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/13 20:04
この人、頭は良かったらしいけど実際には武芸とか腕力は 強かった方なの? 演義では弓矢を手でつかんで打ち返して殺したり 暴れ回ってるけど、やっぱし題材になった正史で武芸が優秀だった ことを裏付ける記述とかあったのかな? それとも普通の頭脳派の指揮官タイプ?
趙雲と一騎うちして互角だったんだっけ?
>>393 正史には、特に武勇を示すようなエピソードはありませんよ。
>395 レス、サンクス。 てことは、なぜ彼はあそこまで自ら槍をかざして 突っ込むタイプに描かれてたんでしょうかねw 無謀な北伐ばかりしてたから、皮肉を込めて 最前線で大将自ら暴れるような無謀なキャラにされたのかな? 彼が演義でやってる合戦は三国無双の戦闘そのものだよw とても国家の戦争とは思えない。
演義はね、関羽だの張飛だのが暴れまわるのも話のキモだったわけさ。 んで、五虎将軍だのが死んじゃうと暴れ役がいなくなっちゃった。 そこで終始戦争に出ている姜維が暴れ役にされたんでしょう。 彼の演義の戦闘をそう言うと、関羽だのの活躍も全部「国家の戦争とは思えない」で 終っちゃうですよ。演義はそういう娯楽ものなんです。 今で言えばジャンプのワンピースとかそんな感じ。
最後のあたりはもう意地になってるという感じだな >姜維 自分の功名と国益(姜維はそう思っている)がごっちゃになって収拾がつかなくて、益々泥沼にはまっている。 巻き添えになった人民はいい迷惑だったろうな。
>>398 俺は、意地になってると言うより後に引けなくなったって感じがするが。
専制と派閥作りへの足掛かりとしての北伐が、相次ぐ敗戦で逆に自分の立場を悪くし、
国力も低下させる結果になったと。
無論中央での発言力も低下し、何か大きな戦果を上げられるまでは終われなくなった。
自分はそんな感じに考えているがね。
しかし北伐しなければ建国して歴史も浅く、しかもいくつもの派閥が入り乱れていた蜀は求心力を失い、裏切り内乱続出で史実より早期かつ悲惨に終わっていた可能性もあるのでは?
それはない
派閥があるのは魏や呉も同じだよ。 外敵の侵入に対しては国民は団結するものだが、自分から仕掛けていく戦いに関しては必ずしもそうではない。 確かに一時的には盛り上がるが、成果が出ないと必ず不満が出てくる。諸葛亮の偉いところは国民からそういう不満を出さなかったし出たとしてもちゃんと対応できたこと。 姜維はそれができていない。
>姜維はそれができていない ていうか、姜維はそもそもそういう地位にいないじゃん。 立場的に単なる将軍だろ。
>>403 姜維は録尚書事。
政治の上でも、最上クラス
単なる将軍が、幾度と外征を実行できると思われるのですか?
>>402 つーか、それに関しては諸葛亮が凄すぎるという話も。
>>404 それは最終的な官位では?
そういう立場になったのはかなり後でしょう。
>>406 247年に衛将軍録尚書事になった
同年に費イも録尚書事となっている
みなさん、蜀の主権者(最高権力者)は皇帝である劉禅ですよ。 劉禅の意思に反する、あるいは劉禅が難色を示す外征であったならば 姜維は出征できませんよ。 皇帝が親政している状態なのだから、 姜維が人事や民政まで全て決定するわけにもイカンです。 上奏して意見を述べたりはしましたが、 国政全てを取り仕切っていた訳ではない。 録尚書事はこの時は日本の関白みたいな感じでしょうが、 関白だって常に最高権力者だった訳ではないでしょ。 諸葛亮は先帝から幼い(=親政できない)皇帝を代理、摂政していたからこそ ほとんど全権を握っていたかのような存在だったのです。 劉禅はもう成長して親政しているので、姜維には諸葛亮のような 権力・権限は無いですよ。 だから、そこをとらえて「(諸葛亮のように)できていない」というのはお門違いでしょう。
権限が無くても上奏、助言くらいはできるんじゃないの。劉禅は聞く耳持たない暴君じゃないんだから。 それに国力が疲弊していることや国民から不満が出ていることがわからないようではそもそも国事を司る者としてはダメでしょう。 一時的に北伐を休止するなり、国力を増す方法(農業振興とか)を提案するのも一つの手段。でも姜維はあくまでも北伐を続けた。
いくら蜀でも、朝廷には山ほど大臣がいましたぜ。 おそらくですがそこに書いたような事を提案したやつだっていたでしょうよ。 その中でも劉禅は姜維に北伐をさせていた。 北伐自体は、姜維の一存じゃなくて国家的なプロジェクトなんスヨ。 姜維が反対すれば他のヤツがやるだけかも。 あと、蜀に篭ったまま「国力を増す」のはあまりにも困難だったと思われます。 蜀は「戦乱の影響をあまり受けずにいた」ことで桃源郷のような状態を保っていたのです。 つまり平和な時の「国力」との差が少ないのです。 しかも新しく開拓するような場所も、山に囲まれた蜀では得られない。 魏との差を考えるとジリ貧になる一方ってこと。
>>407 費褘の録尚書事就任は延熙六年(243)、姜維は同九年。
なお、同七年に馬忠が平尚書事になっていた。
>>411 訂正アリガト
自分は姜維伝だけで書き込んだから
後主伝に
243年:尚書令の費イを大将軍。この年、蒋エンが漢中よりフに帰還
246年:蒋エンが死亡
費イ伝に
蒋エンが漢中よりフに戻ると、費イは大将軍録尚書事となったとあります
姜維伝は
247年:姜維は衛将軍に昇進、大将軍の費イとともに録尚書事を与えられたとあります
軍事の中心が漢中にあったので、休廷と意思疎通が取りづらかったというのもあるでしょ 軍部は一種の独立勢力みたいな感じになってしまってるし
結局、諸葛亮はもっと長生きしておけよってことで、FA?
>>414 諸葛亮の指名した後継者二人の時はそれなりに上手くいっていたので、
それはあたらないだろう。
むしろ、宴席でも気を抜くなと。
いや、費イなんかは漢中と成都を何度も往復してるし、 暴走しがちな姜維と成都の調停を取りなすのに苦労してたんじゃない?
そりゃ上に立つものは苦労くらいするだろ。 破綻しなけりゃOKよ。
419 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/16 22:05
魏延が儀式の邪魔をしたから死んじゃったんだよ
420 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/16 22:05
きょーいは焦り過ぎていたな
421 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/16 22:37
でも魏との国力差は7:1ぐらいだし私的に諸葛亮が生きてても互角が限界じゃないか? それに姜維の時代に蜀に良い人間になかったしね。
夏候覇マンセー!
423 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/17 00:21
魏は、蜀側から攻めなきゃ相手してないでしょ? 曹爽の征蜀は個人的功名心からで、魏の廷臣のほとんどが反対してる。 また、その父の曹真の征蜀にも兵站補給の難しさから魏の廷臣のほとんどが反対してる。 魏中枢の思考は「蜀のような辺境はほっておけ。苦労してまで獲るトコじゃない」って感じだと思う。 263年の蜀攻めは、姜維の度重なる侵攻で、関中以西の統治が不安定化するのを避けるために蜀を攻めたんでないかな。 対症療法じゃ根治出来ないから、仕方なく戦争を仕掛けて根治を目指した、ってのが実情じゃない? 蜀漢側が無駄な出兵(挑発)をせず要害をしっかり守り、内政をしっかり行ってれば魏が攻め込む可能性は少なかったと思う。
>>415 費イの暗殺ってのは衝撃的だよな。
演義ではてんで無視されてるけれど、蜀にとっては大打撃だった。
郭循は魏の刺客で投降は偽りだった可能性がある。普通なら連座して罰せられるはずの妻子は後日褒賞までされてるし。
姜維は内心ほくそ笑んだんじゃないのか?邪魔な存在が消えたんだから。
425 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/17 00:28
>424 内心ほくそ笑んだと言うより、俺は姜維が差し向けたんだと思うけどね。 なんせ、姜維が連れて帰ったんだし。
>>425 確かにそれは考えられるな。
姜維が自害を強要したけれど郭循は応じなかった。気骨のある奴だみたいな感じで意気投合するうち郭循の計画を知り、これ幸いと利用した。
さらに他にも気脈を通じる者がいて、費イに必要以上に酒を飲まて泥酔させといたのかもな。
呉を滅ぼす時も反対論が根強くてなかなか実行に移せなかったし、ましてや蜀みたいな 辺境にそれも漢中みたいな難攻不落の要害攻め落として蜀に攻めようなんて気は 魏にはほとんどないだろ その蜀最大の要害を無力化して魏の侵攻を招いたのがキョウイ本人なんだけどね
んな訳ない 魏が侵攻に否定的だったのは、「時期尚早」だったというだけ。 本当に蜀をどうでもいいと思ってるなら、「得隴望蜀」の故事は生まれないよ。 で、蜀が本当に閉じ篭ったら、魏側は邪魔されずに関中の鎮撫と再建に取り組める。 そうなると長安やらを機能させ、大挙軍勢を蜀へ送り込むことになるだろう。 どっちにしろ、魏にも司馬昭や鍾会のように功名心からだとしても蜀を狙うヤツは現れるよ。 引き篭もったら、魏により万全な体制で攻め込まれるんだって。 攻め方に問題はあっても、蜀が打って出たのは当然。
蒋エンの水運を利用した作戦が実行されていたら・・・と思ったけどじつはこれ一番危険な策なんだよな 進むはいいが退くは困難。じつはギャンブラーだった?
>>429 ギャンブルを仕掛けねば蜀に勝算はないという判断はある意味で正しい。
姜維の連年の出兵が可能だったことからも分かるように、
諸葛亮死後10年の民力の休養で蜀は相応の力を蓄えていたはずだし。
>>430 敵国が乱れるまで待てれば良かったんだろうがねえ。
なかなかそうも行かないわな。
国内の統率に長けていた諸葛亮ですら出兵しなければいけないという側面もあっただろうし。。
対外戦をしないで国内をまとめ、じり貧覚悟で時を待つのは難しい。
その貯金を姜維が大部分使い果たした。
蜀が打って出ても、魏にとってはさほど大きな損害ではない。なんかうるさい奴が時々突っかかってくるからあしらっておけ程度の認識だったろう。
そのうち疲れ果ててヨタヨタしてきたらガツンと叩けばいいわけだから。
>>429 蜀の朝廷では反対意見が圧倒的だった。確かに奇襲戦法としては面白いけどね。仮に先制攻撃に成功しても限られた兵力でどこまで持ちこたえられるか。
蒋エン自身は成都の留守番役で軍事にかかわった経験が無いに等しいし…。
>>428 司馬昭や鍾会以前に、曹真や曹爽が蜀征討の大軍を興していますが、そこらへんは?
434 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/17 11:31
>430 それが、蓄えられないんだよ。 蜀漢と言う国の劉備が連れてきた連中てのがほとんど官僚・軍人か兵隊だから生産力が無いんだな。 諸葛亮自身「数十年の間に集めた四方の精鋭にして、1州の所有にあらざるもの」って言ってる。 攻勢をかけるのに相当国力を損なうのは当然だけど、通常な時でも相当、安全保障に国力を割かなければならんのよ。 蒋エン・費イ時代に諸葛亮時代の国力低下分を取り戻したとしても、貯金ってほどじゃないと思うよ。やっとトントンでないかな。 その収支バランスを姜維が崩した上、さらに攻勢に兵力を振り分ける為に劉備時代からの漢中防衛システムを解体してしまい基本的な防衛能力を喪失してしまったのが263年時の状態じゃないかな。 それを見逃さずに魏が侵攻して来たと。
つまり蜀という国がすでにある程度限界が見えていた国家なんだよな 選択肢自体が少なく、そしてそれを選ぶ人材も原理主義的な強硬派しかそこそこなのがいなかった
荊州を失った時点で、諸葛亮の立てていた「両面作戦」が頓挫したわけだからな。夷陵の戦いで大損害を受けたのも痛かった。 劉備の死後、呉と友好関係を深めて協力を得ようとしたが、呉は積極的に協力する意志など無いからこれもダメになった。 ジリ貧状態だな。
437 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/17 12:00
諸葛亮タンは軍師としては司馬いタンに劣るというけど 圧倒的な国力差があるのに領地に踏み込ませなかったんだから 諸葛亮タンの方が上。
選択肢 攻める→可能性は低い、国力低下を招く 守る→いつまで守り通せるか分からない 「魏が攻めてこない」という可能性は、 蜀が帝位を返上して魏に従属でもしないかぎりありえないよ。 そして、蜀に拠った公孫述も李氏も結局は攻め滅ぼされる運命。 で、守ったら最終的に生き延びる=勝利する可能性は0に近いが、 攻めれば0ではない。となれば、攻めるしかないんだよ。 あとは曹操が迫ってきた時の江東の多数派意見のようにさっさと降伏するか。
>438 専守防衛じゃいずれ滅びる、攻めれば成功する可能性が0%じゃないから、攻めよう、攻めるしかない。 それは軍事的浪漫主義だとおもうけど。 為政者としては、当面の国家の存続が大問題なはずで、両者(攻勢・守勢)の選択の当面のリスクを考えて行動しなきゃならん。 諸葛亮は国の維持とのバランスを取りながらの攻勢であったし、蒋エン・費イは専守防衛・社稷の存続を目指した。 姜維の場合、闇雲な攻勢って感が否めない。 費イ死去後の政策が攻勢一辺倒でなければ263年に滅亡しなかったんじゃないか?と言うこと。 蜀漢の国是が「天下統一・漢朝復興」だけど、それは建前で、現実問題としては国家の維持が大問題。 そう言った意味で費イが姜維に言った「国家を維持し、社稷を守り、有能な人材を育成し天下の変事を待つ」ってのが正論だと思うけど。
諸葛亮は軍師としてどうかはともかく、軍事政治双方をみる事実上の皇帝全権代理としては優秀だった だけど、かえってそれが姜維にみなくてもいい夢を見せてしまったのではないだろうか? つまり「丞相のやり方をもっと強く踏襲すれば魏を崩すことがきっとできる」と 実際に蜀の情勢で政軍のバランスを維持するのは至難の業で、それができない以上破綻は自然の流れだった 諸葛亮の立場からすれば「北伐は魏の大攻勢を未然に防ぐために攻勢防御だ」と考えてはいても公言はできなかっただろうし。士気にかかわる 姜維も出兵するなら慎重に長安にじりじり圧力をかけるぞ、という姿勢で進み、魏の体制を防御的にさせる程度のものがよかったのではなかろうか
>>439 浪漫じゃなくて、魏(というか中原王朝)は蜀をいつか滅ぼすべき存在としてみなしてる。
停戦するとか和睦するとかいうことはありえない。
(唯一の例外が降伏)
「こっちが攻めなければ、または戦をやめれば向こうも止める」
という関係ではない。
そして専守防衛といっても、中原王朝の地力で猛攻を加えられたらいつまで耐えられるか。
また現状を見ると、まだ涼州、雍州は付け入る隙が少しはある。
だが時間を置いた時にどうなのかは分からない。復興してしまう可能性が大。
となれば、早いうちに攻めることが血路を開く唯一の道。
といっても、そういった攻め方自体がバクチ的であることは否めないが、
これは姜維一人の焦りなどではなく、
蜀という存在自体の断末魔、最後のあがきだったのだ。
前にも書いたけど、魏中枢は蜀攻略に消極的だったと思うよ。 中原さえ維持できれば、辺境の小国なんぞほっておけ、ってスタンスでしょ。座して相手の自滅を待つ、みたいなさ。 中原王朝としての義務を強く自覚していれば、劉備の死去直後に攻めてると思うけど。 魏が蜀に侵攻した理由としては、中原王朝としての天下統一を考えてたと言うより、ちょっかい出して来てウザイから叩き潰す、って感じでしょ。 連年の姜維の侵攻で蜀の国力が底を着いてた、ってのもあるだろうし(座してたら、ホントに自滅してくれたって感じだ)。 実際、40数年って言う時代の中で蜀が魏に出兵したのが10数回に対して、魏が蜀に攻め込んだのは263年の時を含めても3回程度。 しかも、そのうち2回(曹真父子の出兵)は重臣連中の大半が反対してる。 魏が受身だったのは明白でしょ。
結論。全ての元凶は関羽
444 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/17 13:26
漢帝国復興と言っても魏から見れば蜀が逆賊だしな。 魏は献帝から受け継いだ国と言っているし。 大蜀の皇帝劉備は本当に皇帝の子孫かが疑われる。 でも司馬炎が晋立てるとき「魏は漢を奪った逆賊だから晋が取り戻す」 って言ったらしいから一応漢は姜維の北伐は意味無かったな。
要は内政で国力を充実させつつ、攻勢に出て、さらにそれを国防にも反映させる。これが最良。 これができれば文句なかったのだろうが、 いかんせん諸葛亮だから可能な方法なんだよ。 438、441の言い分もわかるが、攻めるにもまず国内の政治、財政がしっかりしていることが大前提かと。 蒋エンはまずは内政、その上でチャンスを見て攻勢に出る、というスタンスだし、 費イは内政と外征の両立が(諸葛亮以外)無理と判断して、内政重視で外に出て行かない方針だった。 両者ともまずは内政、という考えで一致してる、というかこれは当然のことなのだと思う。 諸葛亮だって南方を平定して、国内をうまく纏めてから北伐を開始したし。 姜維の外征はこの大前提がすっぽり抜けているというのが問題なんじゃないか? よく「姜維は国内での立場が弱かった、姜維が内政面で何とかするのは難しい」的な 話が出るけど、はっきり言ってそんな状態にもかかわらず外征なんかする方が無謀だよ。
>>442 攻めた回数はあまり問題にならないと思うけど
魏のは要するに横綱相撲。
一気に寄り切れる体勢だと判断するまで待っていたようなもの。
もし蜀がまるで攻めなければ、関中は平穏になるんだし、
魏は体勢を整えて自分から攻めるだけのことだ。
むしろ、諸葛亮以降の蜀の攻勢こそが魏を消極論に傾けさせていたかもしれない。
「蜀が攻めているのでこちらの体勢が整わない。整うまで待とう」という意味で。
>>443 元々の計画に荊州は不可欠だったし、
荊州を失った事で全てが悪循環している。
確かに荊州を取り返せなかった時点で蜀の運命は決まった。
可能性は極小でも関中に攻めてゆくか、
いつ来るかわからない征蜀軍を待ち受けるか。
諸葛亮〜姜維までの一連の軍事行動は関羽の失敗を補うために行われ果たせなかった結果だ、と極論した本を見た覚えがある たしか三国志じゃなくて歴史上の戦争全般を扱ってたやつだった
448 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/17 13:39
弔い合戦の時呉と和睦していたら荊州も取れたし二つの国もそんな損害がなかったと思う。 この荊州問題の前に劉表から受け継いでいればいいが蔡家がトップだからそうはいかないよな。 蜀と呉が上手く同盟結べば良かったかも知れないが呉は劉備の大義なんてどうでも良かったと思う。 伏龍鳳雛を取れば勝てると演義で入ってるがどちらも死んでは姜維でも無理だな。 蜀の兵士はあまり攻められると言うことが少ないから兵の力も弱かったと思う。
費イが蜀という国の現状を一番理解していたような気がする。 攻めていっても国力の低下と兵の犠牲を増やすだけ。局地的な勝利は得られても魏に大きなダメージを与えるような勝利はできない。戦が続けば民衆からは不満が出る(だから恩赦をたびたび行って人心の安定を図ろうとしている) 劉禅は必ずしも明君とは言えないし、それを支える家臣の人材も乏しくなっている。 もうこの国は長くはもたないと内心思っていたんじゃないかな。
姜維は降伏軍人だからな 蜀という土地に愛着も無かったから、専守防衛なんて考えはなかったんじゃね? むしろ、故郷に帰るためにも関中を攻め取る必要があるし
>446 魏の方針は諸葛亮が北伐にあたり、漢中に出張った時に決定してるよ。 諸葛亮の漢中駐屯を魏に対する軍事行動の前触れと見(当たり前だが)、明帝は逆に魏側から漢中攻撃を考えたが、側近連中に「蜀は座して滅ぶのを待つべきでこちらから積極的に攻めるトコじゃない」って言われ受身に立つ事を決めている。 明帝自身は積極的な思考だったようだけど、魏中枢の考えは消極的だった。 その後の曹真の南征も明帝1人が賛成なだけで重臣連中は反対してる。密かに賛意をしめしてたのは劉華くらいだけど、彼も「二枚舌を使うヤツ」と朝臣に排絶されて発狂して死んだくらい。
曹操も蜀攻略できなかったし、それどころか漢中から退いてるからな
>>451 だがそういう魏首脳部の動きを蜀が掴んでいたのか、掴んでいても信じたのか。あるいはそれを承知でなお最悪のケースを考えて攻勢で主導権だけでも取って行こうと考えたのか。そこらへんはどうだろう?
蜀の桟道があり輸送量に限界もあるので、国力蓄えてから北伐ってのもあまり意味無いんじゃない?
将棋やチェスで言えば、 蜀はあと1手で詰むような状態。 でもこっちからは王手を掛けることが出来、 王手を掛けている間は魏もそれを対処するしかないので延命できる。 それに魏が応手を誤ればこっちが逆に詰める可能性だって0ではない。 こんなもんだと思ってくれ。 魏の消極的姿勢ってのは、ずっと続く事はないよ。 元はといえば漢の一州であり、同じ中華の皇帝を名乗っている以上、 専守防衛して攻めて来てなくても何時かは滅ぼすべき存在としてみなしているはず。 公孫淵や異民族とは違う。 そして専守防衛といっても、現に攻め込まれればどうなるかなんて分かりはしない。 ・魏はいつかは攻めてくる ・守りに徹しても抜かれる可能性はある 攻めずにいればもう少しは命脈が延びていた可能性もあるだろうけど、 それも分の悪いバクチには変わりない気がするんだけどな。
こんなもん…… 本気か?
>>455 また、同じ主張か…もう飽きた
まず、君の理屈では、蒋エン費イの時代、約二十年間はなかったことになってるようですな
なぜ姜維の時代に急激に蜀の国力が衰え、一度の攻勢にすら耐えられなかったか?
よく考えてみてください
>魏が応手を誤ればこっちが逆に詰める可能性だって0ではない。 実際の歴史とゲームとは違うよ。どう考えても逆転不可能。
しかし、ケ艾はかなりイレギュラーだと思うよ 輜重を切り捨てて進軍してるわけだし
魏延がやりたくてもできなかった急進策か>ケ艾 しかも正攻法での侵攻とセットだからたまったもんじゃないな
>>457 蒋費時代については無かった事にした気はなかったよ。
確かに何も言わんかったけど。
姜維の北伐に関係なく魏の側は国力が増してゆくこと、
(二十年の間に蜀と魏の間の差は開く)
姜維の北伐に関係なく蜀は征蜀軍にさらされる運命だったこと、
姜維の時代になって(北伐で)急に弱体化したのでは無いこと、
が主張したかったのだ。
>>458 例えが悪かった。
調子に乗って自説をしつこく繰り返したのは悪かった。
スレ汚し失礼。
姜維と蜀の再評価をしてみたかったんだが、また考え直してくるよ。
「専守防衛では国力差は広がるばかりだから、 相手に体制を立て直させないように攻撃を続ける」っていう主張は、 戦争中も自国の国力をある程度維持できることが前提でしょ? 姜維みたく国力を省みない戦争は、相手の国力増を抑えるものの、 結局自国の国力を極端に疲弊させるわけだから、 守りに徹するよりもむしろ逆に立場が悪くなるように思うけどな。 大体、数パーセントの低い確率で仮に戦争に勝利できたとしても 兵力、財政、補給が続かなければ次につながらないわけだし、 国力疲弊、住民怨嗟を積み重ねて手に入れる局地的勝利では 失うものが大きすぎる。 ただ戦争に勝てばいいってわけではない上に、さらに その戦争の勝利確率すら低いんでは、ちょっと評価できんな。 諸葛亮のように国政も十分にできる人でないと、(北伐を実行することは)難しい。
蜀の場合、守りやすいってのは即ち攻めに行きにくいってことだもんな 諸葛亮も補給で散々苦しんできたし、遠征しても国力の消耗は魏より蜀の方が激しく 大きい。攻めれば攻めるほど国力差は広がるばかりだろ。
ドリキャスが売れるたびに損害が増えるみたいなもんか
前にドリキャスがあまりに売れなくて、苦肉の策で安売りしたが、 そのせいで一台売れるたびに損害をこうむった、という話を聞いた ことがある。うろ覚えなのでまちがってるかもしれんがスルーして。
シェアを広げるため、と称して原価を割って販売したからな。 あれはさすがにヴァカ杉だった。
いりょーで軍人、いや、人材そのものが死にすぎた。 結果きょーい位しかまとも(そこそこ将才がある)な軍人がいない
消防、乙
医療の戦いが終わった後でも趙雲、魏延、馬岱など「まともな軍人」は いると思うし、スレタイにも微妙にあってないし。 さて、姜維の北伐って魏にどのくらいの被害を与えたの? と新しい話題をレスするテスト
蛍の寿命くらい
それはすごい
>>470 あれだけ多くの将帥が死んでいるのだから、
「まともな将軍」の卵たちも数多く死んでいるはず。
そういうのが中長期的な人材難を招く一因となったんじゃなかろうか。
ちなみに、馬岱は正史では何もしていないぞ。
ところで、冬に桟道超えて行軍した例はあるのか?
姜維は知らんが、孔明の北伐は春の雪解けを待ってからの進軍ばかりだ 劉備の漢中進行の際、曹操は長安まで進んだが、そこから先になかなか動かなかった 反乱がおきたのもあるけど、冬になってしまい、軍を進めることが出来なくなったのだと思われる というわけで、冬季は遮断されてしまうんじゃないの?
なぜこのスレはレスのつきぐあいに偏りがあんだ? つーことで保守あげ
478 :
無名武将@お腹せっぷく :04/01/28 17:32
剣閣って写真で見たけど、あの山を登れと言われても 困るよね、正直。 あの山と山の狭間に城があるけどマジであの方面からは そこしか蜀への入り口ないの?? ロッククライミングでもあの山はキツイと思うのだが・・・ というより守備兵もあそこに立ったら足すくんで戦えない 気もするが。
正史の諸葛亮は劉備死亡まで軍政・内政の一部以外にはほとんどタッチしてない 急に軍事まで全権を仕切り、さらに人材発掘育成までやれってほうが無理 結局劉備時代からの人材不足(領土の人口過疎も含む)がある限り何やっても駄目
>>478 トウガイみたく輜重を持たずに進むのなら他のルートもある
普通は剣閣を抜けるか、長江をのぼるか
長江ルートが一番楽だろうな。 劉備の入蜀もこっちルートを絡めてだし。
ちなみに長安−漢中の秦嶺山脈越えより、 漢中−成都の大巴・米倉山脈越えのが厳しいらしい
>480 そうなんだ。 あれは本気で守られたらマジでお手上げだよw 蜀があんなに凄まじい土地だとは知らなかった。 三国志だと攻めてばっかのイメージだったから。 でも、あそこに独立国家を作って、とりあえず軍閥として力を蓄える ってのは悪くない考えだと思う。 国力1対7だとしても、とりあえず維持はできるだろう。 この国力差なら本来ならそれで満足してしかるべきなんだけどねぇ・・・ 滅亡しないだけ有り難く思ってなきゃならないのに 自ら苦労して山越えして乗り込むとは…
まあ蜀という国のグランドデザインの差ということだろう。中原志向を残すか否か。 一方で軍事も無ければ国が成り立たないわけで、その成り立ちからして軍事国家である 蜀にあって、宦官らの跳梁跋扈に引きずられる形での非戦派の台頭に危機感を持つのは 軍人として止むを得ない。姜維が自分の立場を維持するために北伐を繰り返したというこ と自体は決して褒められないが、追い詰めた側にも責任はある。 ただ、諸葛亮の読みの中で、劉邦と同じく「蜀・漢中からでれば、天下の万民は諸手を挙げ て云々」などということをどこまで本気で思っていたか。根本的な問題だが、魏が項羽のよう な暴虐な悪政を敷いたわけではなかったのだから、これはもう、単に情勢の読み違いかと。 まあ、軍事的には荊州を失うことは考えていなかっただろうが。
陵中策だと、益荊の2州で兵を養って、中央で変事があれば、だ 2州を確保していても、それでも積極攻勢をかけようとは言ってない
「中央での変事を待つ」はヒイの策と合致する方向性だろうな
荊州もあるという余裕があればこそ、変事も待てるというもんだ
戦って領土を広げるだけが軍人としての任務じゃない。国を守り固めることも必要。特に蜀のように国力・兵力で劣っている国ならば。 姜維が北伐を繰り返したのは自分の立場を蜀内で上げたいための功名心。運良く中原への進出という蜀のモットーを錦の御旗にすることもできたし、後世の小説家たちは彼のことを「諸葛亮の後継者」だということにしてあれこれ脚色してくれた。 姜維のイメージってほとんど演義とかゲームによって作られてるようなものでしょ。
>自分の立場を蜀内で上げたいための功名心 そこがポイントで、演義での主張は、武なくして存立があり得ないのに軍事を縮小していこうとする 宦官どもに対して旗を揚げざるを得なかったと言うところが悲劇的であり、後三国志のテーマ。そん な単純ではない。
巧妙心だけじゃないだろ 降将という立場、望郷の念、取り立ててくれた人への恩義、己の才を試すetc 姜維は小説の人物ではなく、普通の人間なんだから、そんな簡単に割り切るなよ
本当の悲劇は展開の見えない戦争に駆り立てられたり税を搾り取られた蜀の兵士や民衆だよ。 姜維は自分の気持ちに正直に生きられて満足だったかもしれんが。
人民革命ではないもの、一般民衆が幾ら不幸になろうと仕方ない
望郷の念なんてほとんど無いだろ。母親から帰郷を促す手紙が来ても、こちらでは厚遇されてるし将来の見込みもあるから故郷に帰るつもりはないって返事を書いてるんだから。第一、そんな理由で兵を起こすのならそれこそ公私混同。 姜維は若い頃から功名を立てたいと願っていて決死の士(義勇兵みたいなものか?)を養ったり、庶民のするような仕事はしなかったというから人一倍功名心はあったのだろう。 まあ諸葛亮とか劉禅に対する恩義は感じていただろうから、役に立ちたい、忠誠を尽くしたいという気持ちはあったと思うけど。
私財はなかったとあるよね 孔明でも出来なかったことをやったと言う、実より名が欲しかったのかな
個人的には、自分が国家の総指揮官として采配を振るい 思うままに戦うということは物凄い快感だと思う。 キョウイが単に好戦的、「突っ込め」とか大衆に命令したがりで 戦争が大好きってことはないかな?さすがにw
姜維=上杉謙信の劣化版みたいに思えてきた
>>491 実際の人物だからこそ、恩義より功名心の方が強い、と感じるのだが。
チャレンジ精神で兵を扱う愚か者とは思えんし。
>>492 んな事言ったら、大方の「英雄」がそれに当てはまるのだが。
自分の気持ちに正直に生きた人生、とは思えんが。侵略してきた敵国に
連れられて戦の人生に明け暮れたあげくに異境の地で果てたのだし。
姜維は戦争そのものが好きなのではなく、戦う事によって「故郷に錦を
飾る」事を望んでいたのでは?
>姜維=上杉謙信の劣化版 ワロタw でも、謙信が三国時代にいたとしたら、誰ぐらいになるんだろうね。日本なら一応最強?だけど。
イメージとしては孫策?
孔明の北伐も意味なし
そういえば三国志って武田信玄タイプの君主っていないような
武田信玄タイプってどういうタイプだ?
>>503 ・智将・謀将・内政家
・古典趣味
・英雄的
・現実家
さらに付け加えると
・実は病弱
・親追放、子自害に追い込む
とか
こんな感じかな?
いちいち比較対象を探す意味がわからないんだが……
>>504 そこまで細分化すると、中国のどの時代にもいないんじゃないか?
>>506 基本的な部分で該当する奴もいないんじゃないか?
武田信玄=袁紹 名門。大勢力。死後息子たちが玉を担いだ新興勢力に滅ぼされた。 新興勢力というのはあくまで言葉の綾と思ってください。
北伐あげ
>>504 孫権?
内政っていうか、地元の豪族手懐けるのに苦労してただけみたいだけど
曹ひでもある。
そうだな。袁紹にあの騎馬軍団の練度と家臣団がいれば、天下取ってただろうな。 ・・・・・でも相手が曹操ならわからんか。
>>513 炎症は意外に戦上手な方。
異民族騎馬兵も持ってるし配下も粒揃い
外交手腕も包囲網作るなど中々の腕前
足りないとすれば決断力かねやっぱり
これが明暗を分けたとしか・・・・
ていうか、武田信玄ってそんな特別に強かったとは思えないし。
>>514 決断力っていうか、部下の派閥をまとめられなかっただけだろ。
あの時代だから子供作り過ぎとは言っちゃいけないけど、
末っ子を寵愛しちゃったのがまずかったね。
517 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/15 21:01
age
518 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/15 23:37
>>515 武田信玄の場合、勝てる相手に勝つことがとてもうまかったわけで、
同レベルの相手の場合引き分けが意外に多い。
519 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/15 23:46
魏からの降将という立場だから夏侯覇の帰順は彼に心強かったと思う 同様に戦死は愕然としただろうなー
対象を探すなら戦より、策謀使って南信を取った信玄と黄州を取った袁紹と言うとこだろ
521 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/15 23:51
>519 夏侯覇は戦死か自然死かはっきりした記述はないね。 259年に張翼らが夏侯覇の後任の左右の車騎将軍になってるから、その頃に死去したと思われるけど。
夏侯覇が降ってきたころには姜維はすでに蜀に来て30年近くも経ってる上に、 要職にも付いているわけだかられっきとした蜀将であって、 もはや国内でも降将扱いはされてないだろう。さすがに。 それでも姜維の立場が微妙だったのは蜀国内での縦横の繋がりが薄かったことが原因。 かたや夏侯覇は魏からの亡命者ではあるが蜀皇室との繋がりを持っている。 両者の立場は少し違うが、いずれにせよ微妙な立場ではあるよな。
夏侯覇が蜀皇室とつながりがあるってマジなの? こじつけだと思ってたが。
無双厨は帰れ
>>523 張飛が夏侯淵の姪を連れ去った話は正史の注にはっきりと書いてあるぞ。
淵の姪の娘が劉禅に嫁いだ。
523は元々の血の繋がりを問うておるように見えるんだが…
問題は魏略の信憑性がそんなに高くない事
>>528 でも裴松之が批判せずにひいたところを見るとそれなりに信憑性があるんじゃない?
>>529 裴松之は事実の是非云々のまえに、とりあえずたいていの文献は
ひいているけど、批判するのはその文献の記述が他と矛盾していたり、
あきらかな撞着のある場合が多い。
夏侯覇の一件に関しては、たしか『魏略』以外には記述無かったと思うから、
そのまま採用したんじゃないかな。
まぁ、たしかに『魏略』は雑多で信憑性を疑う部分もあるけどね……。
531 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/25 19:26
age
532 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/25 19:37
なんか姜維が糞に見えてきました
533 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/25 23:44
とりあえず宝島の姜維評価を投下する。多分一番最近彼の評価をした文章。 諸葛亮亡き後、軍事方面の後継者を自認し、その志を継ぐべく北伐を行った。 志は立派だが実力が伴わず、魏に脅威を与える事ができないばかりか、敗北を重ね蜀を衰退させている。 特に段谷の敗北は深刻で、蜀の民はみな彼を恨んだという。 真に国を危うくするのは、内政の乱れではなく、無謀な軍事であるというよい例であり、 姜維の北伐は百害あって一利もあるものではなかった。 蜀を滅ぼしたのは劉禅の愚かさでも、宦官の専横でもない。姜維の無謀さである。 『戦略』 漢中には劉備の代から置かれた防衛軍があったが、姜維はこの軍に手をつけ北伐に使った。 のちに魏軍が蜀を攻めることができたのは、この防衛軍がなかったからである。 この記述を見ると、『軍事は国家の大事である……』の一節を思い出してしまう。
534 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/25 23:45
こいつが強いか弱いかどうかはともかく 勉強嫌いだったっていうのは本当なの? 演義では「学を好み、古老も舌を巻く程」とか言われてたが・・・・ 実は劉備タイプ?
>>533 昔の一般的な「蜀の滅亡は劉禅の暗愚さと宦官(黄皓)の専横のせい」って意見を
をぐるっと一回転させただけじゃん
536 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/26 00:17
>>535 だって、劉禅擁護論が活発になっているから。同書で宝島は「凡庸な名君」と劉禅を評価している。
実際、この男の遠征は確実に蜀を蝕んでいたと思うよ。
投下しておいて何だが、確かに全ての元凶とするにはひどすぎる。
しかし、かなりのウェイトは占めていただろうと思う。
>>533 俺には 真珠湾を攻撃した日本が悪い と言っているのと同意に見える
キョウイが魏の郭准?を弓矢で射殺したシーンを中国中央電子台の三国志で見て興奮したなぁ。
姜維が無能な軍人で国家を滅ぼした元凶なら、それに権力を与え野放しにした香具師の責任を問わないと
北伐は国家的・また国民の精神的にも必要で、結果として負けてばっかりだったってとこか。
541 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/26 02:19
段谷の戦いってどれほど深刻な被害だったの? その前までは異民族を服従させたり 王経を破って数万殺して降伏兵を自軍組み入れたり、 徐質を破って住民を拉致して綿竹に移住させたり 結構、戦果あげてなかった? いい感じで暴れてたと思うけど・・・・
「暴れる」っての、いい表現だがw 問題は、姜維自身がそれをわかっていたかどうかということ。先帝や孔明の遺志で国是でもある 中原の回復というのは、国力から見てもいきなり出来るはずはないのだが、どうも姜維は焦りす ぎのような気がしてなあ・・・。はじめから戦略目標を暴れてかき回す、そのことで情勢を動かす、 程度にしとけばよかったかも。まあ、どっちにしても魏が本気でくるのはやばいけどねw 本当に賢かったら、全く動かず魏を油断させるというのもあるけど、それだと三国鼎立の利を生か せず、呉からの信用も得られないから、難しいなあ・・・。
>>541 国力が違うからねえ。
五回の勝利も一回の敗北で帳消しのような戦力差だから。
この辺は日米戦の日本の悲しさにも共通することでもあるな。
>>541 思うに、太平洋戦争でいうところのミッドウェーの敗北に近い損害だった
んではないかな。
段谷の戦いに先立って、たしかに姜維は狄道で王経に大勝してる。
でも、「魏書」によると、この時期に姜維の率いていた軍勢は軽兵で兵力も
数万に過ぎず、輜重も十全ではなかったらしい。
進軍路をケ艾に看破された挙句、姜維は僚軍の胡済が合流してこなかった
ために惨敗したみたいだけど、たぶん、狄道の攻囲を解いた時点で魏蜀の
兵力差が逆転してたんじゃないかな。
それまでは魏軍も寄せ集めに近かったみたいで、勝勢にのってる蜀軍との
正面決戦を避けてるふしがあるし。
ついでにいうと、姜維が漢中の防禦施設を変更するのに、この敗北から
あまり間をおいてなかったりする。
もしかしたら、主力となる野戦軍の不足を、これで補おうとしたのかも。
>>541 劉備の最大の敗戦の亥陵の戦いに匹敵するとまで言われている
あれで蜀は首都成都ちかくの反乱でさえ手がつけられないほど弱体化した。その時は
孔明の必死の奮闘によってなんとか立て直したが段谷の戦いの場合孔明はいなかった
梅毒ってなんか梅と関係あるんですか?
ケ艾伝によれば、段谷における死者は数千、負傷者も合わせれば1万を軽く越えるはず。 国力の小さい蜀にとっては相当の痛手だな。 それまでもそれ以後も、姜維は直接的な戦闘で大敗を喫した事は無いからな。やはりケ艾は凄い。
魏って戦場で討った賊軍の数を×10するんじゃなかったっけ?
姜維伝に多大な戦死者のため「人々はそのため非常に怨み、隴以西の地でも騒乱が起こり不安定になった」ってある。 相当な被害だろうな。
みんなの話を統合すると、滅亡を決定的にした敗戦なのは 間違いないね。 しかし547さんの1万ってことはないんでないの? 1万くらいは普通に死ぬのでは? しかし、力が弱体化すると反乱すぐ起きるねw 反乱も鎮圧できていないし、また、する力もないのに それ以後も出兵してたよね? 段谷まではそれなりに順序を考え、地道に戦略立ててた気がするけど。 目の前のことを片付けてもないのに・・・おまりの失意に気が狂った??
一万も死者が出たら、蜀はすぐ滅亡しただろうよ。 動因兵力が数万の国でっせ?
>>550 ケ艾伝にある、段谷の戦いの直後に出された詔勅に、「四桁にのぼる首をとった」とある。
誇張することはあっても、わざわざ戦功を隠す事は無いだろうから、万の死者は出ていないだろう。
それと、反乱を鎮圧してないとか、する力も無いってのは何の事だ?
四桁の死者が出たら、それを倍する負傷者と逃亡者が出たことは間違いなく その被害は尋常ではなくなるよ
>550 滅亡を決定づけた、ってほどじゃあないと思うよ。 段谷の役が256年で滅亡が263年。その間にも大規模な出兵をしてるし。 姜維伝指揮下の兵力は4,5万ほどの様だから、1割の被害だとしても相当なダメージだろうけど。
555 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/27 12:18
イラクやイスラエルのテロリストみたいなもんかねえ テロで10〜20人殺したところで本国からすぐに補充されておしまいみたいな
>>555 どゆこと? 話の流れに合っているようには見えないんだが…
ムダでは無いと思う。 根拠は、上記に記載されている事だ
蜀晩年は段谷の戦いの敗戦の埋め合わせの功績を立てる為に出兵してたような気もするけどな。 でも兵がいないから漢中の防衛ラインから兵を引っこ抜いた
>>554 数千人も死んだら壊滅的敗北と言っていいよ
560 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/27 21:52
>>559 関ヶ原での西軍の死者が四千人程だからな。
>>552 まあ、そういう戦果は誇張して伝わるものだとは思うが。
イリョウの時も近衛を永安の守備隊に当ててる 同じようなもんじゃない?
キ山で蜀が魏を破ったときは、3000の甲首、5000領の玄甲、3100の弩となってるな
姜維もトウスイの戦いで魏の兵を五桁斬ったって書いてあるぞ
中国の史書ってのは結構大袈裟に書くからなあ
たしかに、「国淵伝」にははっきりと記述がある。 当時の戦果は十倍に水増ししての報告が慣例のようだ。 段谷での蜀の損害の実数はわからないけど、信用できる諸史料をみても 蜀の動員力が10万を大きく越えていたとは思えないし、なにより姜維が 掌握していた兵力が数万であったことや、国民の怨嗟を買ったこと、隴西の 状勢にも影響をあたえたこと、敗戦から僅かの後に漢中の防禦施設を変更 したこと、などから鑑みても、これまでの損害を大きく上回ったと考えるのが 妥当に思える。 万に達した、という結論はあながち間違ってないんじゃなかろうか。
原文では
>斬將十數,馘首千計
となってるだけで万に達したってのは
>>547 の推測だぞ
>562 夷陵の時は永安に皇帝・劉備が居たのだから、近衛軍が守備するのも当然では? >567 直接の戦死者が千余りでも、負傷者や降伏者、逃亡者等を含めれば被害は万に届いたかもしれません。
それも、負傷者の数が一万、だったね。
段谷での被害が万を大きく超えたわけではないだろう。 だが、その直前、洮水の地で王経の軍勢を破り万を超える首を斬ったにも関わらず、 国民がこの敗戦を非常に怨み、隴西も不安定になった。 小国の蜀では、敵にどれだけ被害を与えようと、味方にも被害が出るようでは駄目なんだな。 馬謖の起用などの失敗はあれど、やはり諸葛亮は正しかったのか。
万の敵兵の首取っても結局これと言った戦果も無く撤兵しちゃってるもんな
>>571 戦果か、狄道を奪えていれば違ったかもな。
涼州に拠点を持ってるか持ってないかで、戦略の幅も違ったろうし。
そう考えると、冷静に状況を判断し、狄道城の即時救援を決めた陳泰の功績はでかいな。
573 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/29 11:03
通常でも1万死んだら国も滅びるぐらいの打撃。 しかも蜀の場合、桟道や兵站など非戦闘員比率も高いので、あとの撤退も困難を極めただろう。 段谷の危険さに気づいていたのかどうかわからないが、結果的にそういった戦術的敗北を喫する ことで国力まで傾けたという結果が、姜維の歴史的評価だろうな。まあ、すでに55歳、前線で成果 がなければ更迭、最悪軍事部門の放棄という状況だったし、魏では人材が涌いてくるから、姜維個 人の評価にするには気の毒だが。 まあ、狄道を抜けなかったのはしょうがないにしても、救援のくるのを見越して10日の間にそれなり の備えをしておけば、その方が姜維自身にとっても後のことがやりやすかったと思うが、そのような 政治的発想が弱かったんだろうな。狄道城にこだわったのも、長安まで一気に・・・なんて、あり得な い妄想を持ってしまったようだしw 漏れとしては、無口で口べた、熱いが主観的・・・な姜維像があるけど、おまいらどうよ?
574 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/29 11:25
姜維と武田勝頼ってキャラがかぶってる
>>573 >通常でも1万死んだら国も滅びるぐらいの打撃。
>>564 >姜維もトウスイの戦いで魏の兵を五桁斬ったって書いてあるぞ
((;゚Д゚)ガクガクブルブル
ところで、姜維のあと軍事の大権を握るのは誰だったんだろう
やはり、閻宇?
姜維が目をかけていた人物はいなかったんだろうか
>>568 近衛のいくらかは劉備死後も永安に止まって守備を続けてるよ
単に守備兵が足りなくなったからだろ
姜維のあと黄皓が軍事の大権をにぎったら笑える
>576 姜維の後任って、一時的には閻宇だろうね。 その後、諸葛瞻かな。263年の段階で、行都護・衛将軍・平尚書事だからねぇ。
諸葛瞻・・・。ショボ・・・。
黄皓の息がかかった閻宇で妥当じゃない? で、漢中府は廃止 宮廷と軍部の通りが良くなって、こっちのがいいかもなー しかし、姜維無しで鐘会防げるとは思えんが
583 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/03 13:59
姜維がめざましい出世をしてしまうほど蜀の人材が不足してた。 魏で生きたら姜維の名は一生聞くことはなかったろうな
584 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/03 14:35
((;゚Д゚)ガクガクブルブル
もしも蜀が内政や国防に専念し、魏打倒の機会を窺っていても、司馬氏に乗っ取られた魏に討たれていたのだろうか?
586 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/03 22:35
梁山泊の思いっきり強化版みたいな感じになって 手がつけられなかったと思う。 世界でも稀に見る地域だ、あそこはw 山梨県とは訳が違う。
>>586 人がついてくればね…
誰も人外のままでいたくはないでしょ
>>533 その本、2がでてるよ
叩いてる事には変わりないけど
もう少し詳しく書いてあった
つか、戦闘指揮官として姜維を褒めてるじゃん、その本
宝島チャンネル、また誤植か。艾ケって誰だよ
欧米読み。
>>585 呉スレでは八王の乱勃発まで粘れば希望が無いわけでもない、という観測も多い。
>>592 統一から八王の乱までまで20年か、晋も統一して24年で、って粘れば粘れない事もなかったような?
晋の武帝が290年だから、ここまででも粘ればとも思ってしまう。
大国が攻めて来て打ち破りその攻めた国が滅びた例と言えば、隋と高句麗だね。
魏や蜀をこう言う風に当て嵌まる状況とは違うけど。
呉蜀が残ってるうちは司馬炎も馬鹿やらんだろ 騎馬民族はどうだかしらんが
北方異民族の南下が始まれば、魏(晋)が相当苦しいことになったのは間違いなかろうな。
しかしそこまで生き延びても何の意味があるのか?という気もするがな…… 全く現実に即していない夢想家の考えではあるが 姜維の北伐があったからこそ蜀という国が輝いているように見えるのだよな このスレに趣旨には反しているがな
所詮、我々は歴史としか認識できないからな 蜀の人民がどんなに喘ごうが知ったことではない 面白けりゃ、なんでもいいよ
蜀がもっとがんばって三国の安定状態を保ってれば 八王&永嘉の乱で中国の人民が喘ぐこともなかった まあ五胡十六国も面白いからいいよね
でも、だらだらと三国鼎立が続いたらいちばん かわいそうなのは呉だと思う。
600
>姜維の北伐があったからこそ蜀という国が輝いているように見えるのだよな それはそうなんだよな。もしいなくて、宦官や劉禅のぐだぐだだけが後三国志だったら、 あんまりだったし。つうか、孔明しんだら三国志自体打ち切りだったろうな。講釈師も熱 弁の振るいようがないし。
>601 禿道。姜維の北伐がなかったら三国志という物語に オチがつかないな。ん、ちょっと過大評価かな?
陸抗も頑張ったぞ、地味だけどな
>>603 >>596 >>601 >>602 が言いたいのは、あくまで「演義」なんじゃない?
たしかに「演義」では蜀サイドを主役として扱ってるから、物語の展開上、
呉の陸抗の見せ場がほとんど無いのも仕方ないと思うよ。
そうか 姜維と陸抗が手を結んで魏を倒しちゃうようなifものとかみたいなぁ
呉と言えば、本気で魏に侵攻していれば、蜀も楽になったんだが。
>>606 結果的には戦果は無いにも等しいけど、別に手を抜いていたというわけでも
ない気がする。
諸葛亮の北伐の時期を前後しては司馬懿が対呉戦線にあったし、司馬懿が
中央に戻ってからも王昶や王基、満寵や牽招、毋丘倹、田豫といった名将が
存在し、尚且つ戦争に際しては魏軍に地の利を扼されたり、策戦を看破されて
いたりという感じで、作戦に問題があったからで、初めからやる気が無かった
わけでもないと思うよ。
それよりも呉は、天災や叛乱、山越の討伐などに忙殺されてて、日和見を
きめこんでるようにみえるけど、楽ってわけでもないよ。
>>607 五丈原の時も粘ってればって諸葛亮も期待してたってのも。
退くのが早いってのも。惜しいなぁ。
うーむ、ところで蜀と呉の共同軍で荊州攻めって案はなかったのかな?
ちょっと前に夷陵で殺しあった軍隊が仲良く共同作戦するのは無理だろ。 そもそも蜀と呉の連合軍で荊州と奪取したとしてどっちがどこを統治するかの 領土問題に発展すれば、また関係がこじれる恐れがある。
うんにゃ、元より利益の為の同盟だし、天下取ったあとどう魏の領土を山分けするか、決まってた。 だから交渉を詰めれば、決まるのかと。
>天下取ったあとどう魏の領土を山分けするか、決まってた。 その計画は呉が徐・豫・幽・青。蜀が并・涼・冀・エン州を領有しようってだけで はなから荊州は呉の所有物って認識だろ。 仮に共同作戦で襄陽・南陽と攻め落としても全部呉の領有じゃ、それこそ一文の利益にならん。
そこで交渉と言ったんだ。 仮に取れなくともクリミア戦争の時にサルジニアが英仏に協力して、好意的になって貰おうとした場合みたいに恩を売っておけばいい。返してもらう前提で。
返すわけないだろ、呉が。
じゃあ、同盟の意味が無いし、そう持ってくよう交渉するのが、仕事なんだけどね。
同盟っていっても近代の国際社会の枠組みのなかで行なわれるそれとは違って 「天に二日なく、民に二王なし」が理想の姿の国がたまたま内乱で3つに割れてるだけだからな。 呉あるいは蜀が同盟を一方的に破っても魏が喜ぶだけで、他に干渉してくれる国はないんだから。 関羽の時がそうだろ。蜀が煮え湯を飲んだだけで、最善の方法は泣き寝入りだった。 実際は戦争になったけど。
関羽の時は同盟自体が無実化してたから。 それに呉と蜀は一応唇歯と言われてなかった?
嘘でも何でも取りあえず同盟して魏を倒し、その後はまた雌雄を決しようというんじゃないの?
まず魏を倒すのが不可能だからなぁ 関羽の時だって目標どおり涼州→長安→洛陽とトントン拍子に侵攻できれば荊州に拘る必要はそれほどない。 でも実際は無理なんで手元にあるモノの取り分をめぐって争うことになったわけで
呉は蜀との国境線にも随分と神経をつかってたようだから、蜀が荊州の 領有を主張するのはせっかく築いた盟約を破綻にする危険性大じゃないかな。 呉蜀が同盟を結んで後、蜀が東方の国境守備兵を増員した際、ちょっとした 外交問題に発展して、蜀から使者を遣わしてる事実があるし。
でも、仮に共同で攻めるとするなら、荊州を通過しないといけないんだよなぁ。 分散で敵を迎えるより、一箇所に固めていくのも一つの手かな? ショウエンの漢水ルートだっけ?あれは通らないんだっけ?
大国同士が大軍をある程度の限られた戦域に投入するってのは、 諸問題が生じやすくて、逆に相手につけいる隙を与えやすい気がする。 統帥権の問題がそうだが、作戦や兵站なんか、歩調をあわせるのは 一国の軍事行動よりも非常に難しいはずだし、戦後処理や功罰の面でも 相互の主張が食い違えば、それだけでも国交にひびが生じる危険性もある。 なにより敗れようものなら、双方が敗因を相手にもとめる場合があるし。
同時期に二正面から攻め込めればいいんだけどね 情報伝達が未発達だし、長江やら桟道やらで、隔絶されてる地域で、共同戦線はるの難しいわな
戦には戦機というものがあってな。圧倒的な兵力を持っているなら自分から動けるが、呉も蜀も 両方あわせても劣勢なんで、完全にシンクロした攻撃は不可能。
孔明自身の北伐は無駄だったのか?についての議論もしたいな
>>625 無駄では無い、という結論が出てるものと思うけど?
諸葛亮の北伐→無駄ではない 姜維の北伐→無駄もしくは無謀 しかし話のネタになるのでスレ的には有意義
>>628 ま、時期が時期だからなもうちょい早けりゃトップクラスの脚光浴びてたかもね
>>627 度合いこそ違うが、諸葛亮の北伐も無謀であることに変わりはないと思う。
無謀でも孔明のは勝算があった 姜維のは自棄糞
何度も言われてるが諸葛亮はあれだけの北伐を敢行しつつも 国家財政を破綻させなかったというのが重要だな 姜維は少なくともそれが無かったからな… 役職としては内政も見なければならない立場だったんだろうが、 姜維の変わりに政治を一任できるような人物はいなかったのか
>>630 それを言ったら蜀が魏に対抗する事事体が無謀
カクみたいにベストタイミングで降服するしか手は無い
孔明は国を破綻させずに民にも慕われた 姜維は国を破綻させて民にも恨まれた この差はでかい。孔明の方が神業に近いんだけどね
でも、姜維好きなんだけどね
自身の中になんか確固たる信念があるのがいいよね。善し悪しは不問で。
姜維って軍事も政治も両方やらないといけない立場だったんだっけか? いや、国力の疲弊の原因が姜維の北伐にあることは分かるんだけど その責任は姜維だけにあるわけじゃないんじゃないかと思ったので
638 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/10 13:17
>636 確かに信念と執念の男だった。 ある意味カッコイイw
>>637 姜維は大将軍でもあるが、録尚書事というあらゆる政務の統括をする立場でもあった。
降将だし、諸葛亮の子飼いみたいなもんだったからやりにくかったかもしれないが、立場上責任は生じる。
あの、話を戻すようでわるいが、史実的に蜀が呉と共同軍で魏の荊州領を攻めたり、共同軍そのものや、孟達の前後を含めて、上庸から宛方面への進撃策ってのはあったの? 呉が認めるとか認めないじゃなくて、案そのものが存在したかどうか今のところの研究や語録で。
>>639 む、そうだったのか
なんだって姜維をそんな役職につけたんだろうか
ヒイ亡き後って蜀には有力な文官っていなかったのか……
ああ黄皓か
>>641 姜維が録尚書事に任命されたのは247年、費禕存命時だ。
それ以前の出世の状況からして、彼の実力が認められての結果だと思う。
それと、黄皓は関係ない。
黄皓が政務に参画するようになったのは、董允死後の陳祗の時代になってから。
更に言えば、政治的な権力を握ったのは258年の事だ。
成都と漢中を往復するのマンドクセ
たとえ政務に実質参加しなかったとしても 国力と軍事のバランスぐらいは考えるべき立場だったわけで
>>640 共同軍は無いが同時侵攻作戦はあった。
でも作戦計画書が魏の手に渡ったので、呉側の作戦は中止。被害出る前にさっさと退却した。
姜維の時代じゃないけどな。
公明ではあるが国を顧みず、無謀な戦争を繰り返す人と、 民から搾取して私腹を肥やすが、自己保身の為もあって戦争反対の人、 どっちがいい?
>647 どっちもやだな。
649 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/19 22:47
age
650 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/28 22:14
age
651 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/30 00:46
( _,, -''" ', __.__ ____ ハ ( l ',____,、 (:::} l l l ,} / \ ハ ( .', ト───‐' l::l ̄ ̄l l │ ハ ( .', | l::|二二l | ハ 上 .| ( /ィ h , '´ ̄ ̄ ̄`ヽ | ハ げ │ ⌒⌒⌒ヽ(⌒ヽ/ ', l.l ,' r──―‐tl. | ハ ろ │  ̄ ', fllJ. { r' ー-、ノ ,r‐l | ! よ │ ヾ ル'ノ |ll ,-l l ´~~ ‐ l~`ト,. l | 〉vw'レハノ l.lll ヽl l ', ,_ ! ,'ノ ヽ ____/ l_,,, =====、_ !'lll .ハ. l r'"__゙,,`l| )ノ _,,ノ※※※※※`ー,,, / lヽノ ´'ー'´ハ -‐'"´ ヽ※※※※※_,, -''"`''ー-、 _,へ,_', ヽ,,二,,/ .l  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `''ー-、 l ト、へ
諸葛亮が魏延・王平らを率いても成功しなかったのを 姜維は自分がやれると思ったんだろうか? 軍人としての実力はどんなもんなの姜維って
653 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/30 01:23
きょういの能力をはかるには、きょういを誰か別の人物と 入れ替えて考えたらどうでしょう?私は戦歴だけできょうい<とうがい とすることが納得できません。
もし姜維が関羽と入れ替わっていたら・・・ いきなり敵中に突撃して郭准あたりの首とって北伐大成功
655 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/30 03:03
だれと入れ替えても蜀は結果的にほろびる。 きょういに責任は・・・ない
>>655 曹操だったら・・・これはいくら何でも反則か
>>655 だからそんな誰がやっても実現不可能な北伐をむりやり実行して
国の経済を破綻させたことが姜維の責任だと何度言えば・・・
そもそも諸葛亮と姜維の北伐を同義と考えている時点でおかしい。
姜維の頃って、有能な蜀の将軍ってどの程度いたっけ?
660 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/30 15:14
>>659 王平・張翼・張ギョクぐらいか?北伐からの生き残りがほとんど
新世代の武将で有能と言えるレベルは対呉方面の羅憲ぐらいか・・・
霍弋、董厥。
>>660 王平は姜維が北伐を始めた頃には歿してる。
他に将軍としては胡済や廖化くらいのはず。
羅憲は将軍位ではないし。
姜維の頃=ヒイの死後? なら王平はいないな
664 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/30 16:23
廖化何年いきてるんだ?
>>664 少なくとも七十歳以上
黄巾の乱がどーのとかアフォな事は言い出さないように
張翼・張嶷・廖化・胡済・董厥と、あと宗預くらいか(霍弋なんかは南のほうで忙しいから除外ね)
楊戯や尚充・来忠なんかもいるけど将軍とはちょっと違うかも
こーしてみるとほとんどは反姜維なんだよなぁ…
キョウイさん、涼州にこだわってたみたいなんですが そこって、そんなに魅力ある土地なんですかね? 教えて!地形に詳しい人!
あれ、宗預って将軍だったんだ なんか孫権に気に入られてたとかから文官と思ってた
宗預は将軍位にあったけど、対呉交渉の責任者ってのが実情で実戦経験はほとんど無し。 董蕨も蜀漢滅亡時に援軍を率いてはいるが、緊急事態だったからだろう。実際の職務は中央政府の長官。実戦経験は宗預同様ほとんど無し。 張嶷は万単位を率いる将領ではない。 残るのは張翼・廖化・胡済で、さらに実戦経験が豊富な将軍っていうと姜維時代は廖化・張翼だけだな。 後期の蜀漢は軍官僚としては優秀な人材が多いが、将領としてはイマイチな人材が多いな。
まあ蜀という国の軍事活動自体がパっとしないから 歴史上に名を残してないってのもあるんだろうけど
670 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/30 19:39
>>666 魅力なんてない。単に辺境で魏の防備が比較的薄く、攻め易かったから
元々の出身地近くだから地理に通じてたって自身もあったんだろうが
魏延>>>>>>姜維 姜維はヒイから一万貰って戦争してもはかばかしい成果を上げられず 魏延は第四次北伐に先立って同じ一万程度の兵力で北上した際、魏の名将郭准の挟み撃ちに遭ったが逆にこれを撃破
>>671 総兵力1万で涼州に侵攻する事と、
諸葛亮が後詰として控えてる中、先陣として侵入する事を同列には語れないだろ。
大体、挟撃にあったのは郭淮の方じゃなかったか?
>>672 本隊とは遠く離れた別行動(実際、戦闘後諸葛亮は慌てて撤退を指示してる。本隊はいまだ漢中で準備中だったから)
挟撃にあったのは魏延のほうで間違いない
>668 官僚は諸葛亮がキチッと育てておいたからね。 姜維は自分の派閥とか後進とか思い至らなかったのかなぁ…
戦場での純粋な戦術眼では魏延の方が上だったと思うな。もともと王道では関中を制することなど 不可能だったにもかかわらず、孔明があくまで正攻法を採用したために魏延と対立したわけで、演 義で作られた変幻自在という孔明のイメージはやはり正史とは大きくかけ離れているようだ。
>>669 それは間違いなくあるだろうな。
軍人が歴史に名を刻むためには
戦勝が必要だが、戦勝がないからなw
>675 魏延の長安急襲策は戦術と言うより戦略面の建策だと思うけど。 そう言った部分では孔明の方が遥かに上だと思う。 戦場における指揮に関しては魏延の方が上ってのは同意。
>>677 要するに部隊単位での用兵ってことな。
>戦場での指揮
では大きな語弊がある。
679 :
無名武将@お腹せっぷく :04/03/31 22:43
戦略的不意打ちである第一次北伐の劈頭に、しかも馬鹿殿夏候楙が守将であるタイミングで奇襲するしか長安は落せない 魏延の献策がまだ勝率はあっただろう。僅かだとしても
>679 守将が無能でも幕僚・属将がしっかりしてりゃ、守りきれるんでは?魏からすれば所詮、5千から1万程度の部隊だし。 馬鹿守将が魏延の想像通り逃げ出したりしてりゃ、逆に配下の将が守りきっちゃうかもなw まぁ、それ以前に、長安到達前に魏延軍の動向が少しでも察知されれば、子午谷の長安側出口に1万人ほど軍を展開するだけで頓挫すると思うけど。 蜀側は動員兵力が10万程度の国力で5千〜1万の兵力を博打に使えない。
北伐自体がそもそも博打みたいなもんでは…
>>679 万が一ね。万が一奇跡的に長安を落としても、すぐに取り戻されるのがオチ。
「長安を落としたことが後に云々」言うやつもいるけど、正直もうそんなネタ振ってる場合じゃないし。
長安に皇帝がいて、討ち取れる可能性があるってんならまだしも(それでも時機を逸しすぎてるけど)、
ただ単に都市を取るためだけにそんなでかい博打は出来んでしょう。
そもそも諸葛亮は蜀の主ではない。
もし君主だったらちょっとは考えも変わってたかもしれないけどね。
>>682 政治的効果を考えると馬鹿にできんと思うが
何しろ魏は孔明が出征しただけで大騒ぎになるほど(正史に「震撼した」と書かれている)
それに漢の正当性を主張する蜀が、首都だったこともある長安を抑えたら反魏分子が跳梁しはじめるのには十分な材料だと思うが
>>683 それは諸葛亮の威名に驚いたのではなく、蜀が劉備の歿した後は
大きな軍事行動を起こす事もなく、また軍事に精通した人物もいないと
いう認識が濃かったせい。
雍州では刺史を筆頭に巡察の最中に蜀軍の北上を察知していて、それが
驚きに拍車をかけたともいえる。
漢中は遠い。長安はもっと遠い。 漢中にいてなお成都の反勢力への対応に四苦八苦してた諸葛亮が、長安まで呑気に出かけられるとはとても思えない。 かといって諸葛亮以外に長安を抑えられそうなやつはいないし。 じわじわ領土を広げたほうがよっぽど賢明に思うけどな。 ていうか魏延の具体的な長安急襲策って『魏略』の記述なんだよな? そもそも北伐における諸葛亮軍の勝利って何?
本来、蜀の北伐は荊州と益州からの大規模挟撃作戦だったはず ところが関羽が単独で北上し始めて大敗(なぜこの時に劉備本隊は動かなかったのか?また、関羽はなぜ益州の活動を待たなかったのか?がよくわからん) 荊州は失陥し、国力の面では魏はおろか呉にすら劣るようになった そうなると、別の根拠地を奪取する必要がある 北伐の狙いはあくまで魏西方への勢力扶植だった?
というより、そもそも関羽の樊城攻撃が、誰のどのような戦略や許可で始まったかということ だと思うが。確かに荊州の北部だが、同時に許都にも近く、いってみれば魏にとって柔らかい 下腹になるから、当然曹操も本気で取り返そうとする。・・・なのに、兵糧が不足して、呉の蓄え を分捕ったから格好の口実を作ってしまった。その方面の準備すら弱かったわけだ。 一方の蜀の本隊だが、成都から荊州北部までは大軍なら1ヶ月はかかる。更に、関羽の後詰 めすら編成した気配もないのは、結局の所、北上が関羽単独の判断であったことを示している。 こんな重要事を前線司令官が勝手に決めてしまうところに、すでにして蜀の弱さが露呈してい ると漏れは思ってしまうのだが・・・・・。
688 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/01 22:33
>>687 ほんとに謎な行動だね。
関羽の戦略能力の低さは折り紙付きだけど
益州と荊州の2面攻撃を念頭においての攻撃だったのか
それとも蜀の方で同僚が活躍を尻目に見て自分も何か功績を立てたいと思ったのか
漢中失陥と都での不平分子の反乱に曹操の後継者争いなどで魏の動揺を見越して の攻勢だろうけど、黄忠が自分と同格に並んだり魏延が漢中都督になったりする情勢 に焦りを感じてたのもあるだろう
アレだけ関羽が呉に対する背信行為をして後ろがら空きにさせるなんておお馬鹿者 戦略眼の無さは関羽はキョウイに似てるかもね 所詮は叩き上げの軍人で一国を担える人材じゃない 蒙ちゃんが蒙ちゃんのままで一国になってるようなもんだ
つか、流浪の傭兵集団・劉備軍にいて戦略眼が養えるわけない
姜維 無謀な北伐で蜀を滅亡させる。 関羽 無謀な北伐で荊州を陥落させる。
関羽の部下・王甫は呉への警戒や、人事の不備を説いたのに、それを聞かなかった屁垂れ上司
関羽の北上自体は時期的に見たらそれほど悪い策じゃないと思うんだけど、 結局徐晃に敗れるあたりがおそらく関羽の軍事能力の限界なんで、 仮に後顧の憂いがなかったとしてもどこまで勝ち進むことができたかどうか・・・
>>694 徐晃に敗れた時期は、その後顧の憂いが炸裂してた時だろ(関羽伝を素直に信じるなら)
五分ならどうなったか・・・
戦場では戦上手の曹仁を幾度も上回ってるし
ただし、戦略は無能もいいとこ。有害
>>695 確かに徐晃と戦っている最中に呂蒙に江陵を落とされているけど、
関羽が敗れたのはその情報が伝わる前。
戦術では徐晃の方が一枚上手だったと思う。
関羽は徐晃よりも圧倒的に勇名を馳せていたけど、
序盤は弱小劉備軍で戦わざるを得ず、蜀制圧、漢中制圧では
留守番していたりと、どうも樊城攻撃までに大規模な軍事行動の
経験に乏しかったことが悔やまれる。
同郷の誼を持ち出して戦闘を遅延させようとした関羽 公と私は別だ、と戦闘を開始した徐晃 この差はなぁ・・・
>>693 関羽の人格をよくあらわす話かもしれないけど、王甫は荊州で関羽に従軍は
しておらず、夷陵で戦死してる。
>>694-697 どう考えても、単独で行動している関羽は戦力不足ではない?
樊、襄陽の二城を攻略できないうちに魏の増援の南下を許してしまった事が
関羽の勝算をかなり低下させたと思える。
北上した関羽の軍勢って、推測するしかないけど、多く見積もっても三、四万
くらいだと思うのだけど、どうだろう?
これが動員力の限界だとしたら、襄・樊の二城を攻略できないうちに南下して
きている徐晃らの増援に備えなければならず、もちろん攻囲戦力を後方に残さ
なければならないし、あきらかに戦力不足。
事実、徐晃を迎撃した関羽の兵力は歩・騎五千にすぎないし。
徐晃に備えた関羽の作戦は、悪くはなかった気がする。
関羽は偃城まで北上して駐屯し、さらに幾重にも防禦施設を構築して兵力差を
補おうとしてると思うけど、痛いことに、そこから先で戦歴の差がでてる。
陽動と機動戦で徐晃に翻弄されっぱなし。
用兵でいけば徐晃の方が一枚どころか数枚は上なんだろうね。
まあ関羽は荊州全てを任せられるほどでは無かったってことだな 首脳陣はもう少し荊州に人材を送ろうとか思わなかったのか それともやはり漢中奪ったばかりで余裕が無かったのか
んーでも例えば(生きていたとして)ホウトウ,法正あたりを荊州に送り込んだとしても 自尊心の強い関羽が素直に言うこと聴くとは思えない。 とはいえ劉備軍に関羽以外に荊州のトップに置けそうな人材もいないしなあ…
701 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/02 15:50
荊州に魏延を送り、関羽は劉備が直接コントロールしやすい漢中に配置転換すれば・・・ 無理か。関羽が拗ねるどころのさわぎじゃなくなるな
関羽って能力はあるのに面倒臭いやつだな
かろうじて関羽と同格なのは、関羽と同時期に 四方将軍に収まっている張飛、馬超、黄忠だろうか。 どうも関羽の代わりにはなりそうもないな。 関羽を補佐させるために副官として誰かを送ろうものなら、 「俺一人では信用できないのか?」とか中央に対して難癖をつけそうだし。
副官というか、後詰を送らなかったのが 荊州失陥の最大の原因じゃないのかな? 後詰をきっちり送ってれば 関羽が敗北しても荊州失陥だけは避けられた可能性もあるし 呉への牽制にもなる。 連年の出兵で後詰も送れないほど疲弊してるなら 関羽の北上を許可するべきではないだろ。 関羽単独の責任というより 劉備の責任だよな。 それともやっぱり関羽の独断なのか?
初めて演義読んだときも関羽のところは疑問に感じた あれだけ神がかりな孔明が呉と魏が結ぶって予測もできないし なんらかの予防策も打たないことに子供心には不思議に思ったものだ
益州の劉備軍は、まだ支配間もない地域でしかも曹操本隊とガチやった直後 しかも、その戦いの最中に魏の大兵力に対抗するために根こそぎ動員かけたから(正史・楊洪伝)しばらく大規模に軍勢を分派できる状態じゃなかったはず 関羽北上は、おそらく魏で親劉備勢力の反乱が勃発したタイミングをはかってのものだろうが、独断の可能性が強い ただし、劉備はこれを追認したようだ(出陣と前後して、全権委任の証・節鉞を与えている。計画的なら以前から与えるはずだし、だめ出ししたなら与えないで撤退命令出したはず) 蜀全体の、戦略・外交諜報能力の欠如が問題の根幹だな
一つの方法として、孟達を漢中の兵と入れ替えて、そのまま漢水を下るという方法も あったとおもうが・・・。まあそれも、漢中にどれだけの兵糧が残っているかにもよるが。 五斗米道で蓄えたものがなかったのか? ・・・・・まあ、いずれにしても、人事上あれほど益州派と荊州派のバランスに苦慮したの に、その根拠の荊州を失ってしまっては、それも水泡に帰してしまう。その後の劉備の ぶちきれも、実はその荊州を奪還するためには当然であり、やはりその原因を作った 関羽の大敗の罪は大き過ぎる。地理的に言えば、襄陽までは防衛線として十分可能だ ったので、樊城包囲をほどいて、洪水が引かない内に、早い目に襄陽攻撃にしぼり、同 時に早い目に長江を下る援軍を迎えれば、何とか持ちこたえられたのではなかっただ ろうか。 いずれにせよ、神と祭られた関羽だが、実際の戦略、外交、人格、それに実戦上の戦術 まで、一流と呼ぶには少々厳しかったのではないだろうか。
呉との同盟が万全であれば関羽の北上自体はそれほど無謀とは思えん。 むしろ、呉との同盟関係を維持できなかった劉備陣営の外交手腕に疑問を感じる。
しかしあの同盟は破れざるを得ないものだったから(ry なんつーか蜀の勝つための方法が見えてこないんだよなー 荊州所有+呉との同盟が不可欠なのに荊州所有と呉との同盟は両立できない どうにかするには荊州を所持できてるうちに呉よりも大きくなってしまうことか そうすれば荊州を呉に渡してもまだどうにかなる
711 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/02 22:55
>>708 最後に言うと蜀と呉の同盟決裂は関羽の責任が大きい
関羽は呉での反乱を画策し、婚姻の使者を無礼に罵しり
兵糧を奪う為に呉に攻めいって兵糧を奪い、一方的に呉への敵対関係を作っていった
このスレ的にまとめると姜維も関羽も戦術的にはそこそこ優れた将だったが
圧倒的に広い視野が欠けていたということでFA
>>711 実際、その辺りの行動は誰が見てもムチャクチャとしか思えないしなあ。演義でさえフォローできてない。
関羽って晩年はやたら問題が目立つね。老害ってやつか?
潘濬がいたのに・・・
やはり歳とっても冷静だった趙雲を軍司令官クラスに引き上げておけば・・・
趙雲は本当に有能だったのか怪しいところもあるからなぁ ちょっと贔屓されてるっぽいし
李淵が突厥から兵を借りたように、荊州失陥後の呉攻めの際に対立のいきさつを捨てて劉備が魏から兵を借りて呉を攻めればってのはどうよ。
>>714 阿呆、馬鹿、オタンコナス、キチガイ、身障
すれ違い、あぁすれ違い
>>716 そうなると蜀政権の存在理由が根本から崩れるわけで
趙雲は有能だろ。正史の記述から見ても 演義のせいでかえって変なアンチが発生してるだけで
>>718 存在理由ねぇ、勝てば官軍じゃないかなぁ。後漢自体滅びてるし。民にとっては暮らし易い国であればいいわけだし。
そもそも李淵だって隋の将として戦ってた突厥から兵を借りたわけだし。
で姜維の時代の匈奴って魏に牽制されてたんだっけ?
>>720 魏が兵を貸すわけない。すでに夏侯淵クラスの魏首脳をぶっ殺してるわけだし
長年魏に敵対してきた経緯もある(劉備は一時期曹操の腹心と呼べるほど重宝されていたが、短期で裏切った)
蜀が完全降伏して魏に併呑されるなら話は別だろうが
>後漢自体滅びてるし 献帝、まだ生きてるけど・・・・・。 それと、趙雲ってほんとに有能だったの?・・・だったら、例の街亭の責任者を任されたと思うけど。 関羽の敗北と並ぶ、蜀の失敗の双璧だろ?
>>721 それはどうかな、曹丕の時代だし、それに唐の例もあるし。
>>722 魏朝になった時点で歴史上王朝としては終わってるよ。
というか蜀では劉協は殺された事になってたんじゃなかったか?
>711 呉との同盟決裂は蜀が荊州を領有してる以上、関羽の行動云々以前に避けられないものだよ。 自国の上流部で、地政学上の要地をいつまでも他国に委ねておけない。 たまたま、同盟が決裂したのではなく、狙ってたところに関羽が隙を見せた、ってトコでしょ。
むしろ曹丕のほうが兵を貸しそうに無い なんかすげー好き嫌い激しいじゃん 干禁を憤死させたり、若い頃金を貸して貰えなかったから曹洪いびったり・・・ 記述が本当なら相当ガキっぽい性格してる
>723 魏から兵を借りるってのはあり得ない。 蜀と魏が共同して呉を滅ぼす。→その後は蜀が圧倒的不利。荊州失陥どころな状況じゃない。 魏が蜀に援軍を送る。 →蜀が勝とうが負けようが、魏になんのメリットもない。
大抵、感情と国益は別なのだが。 >727 呉を滅ぼし、天下一統を期す、劉備。 魏にとって蜀と呉、どっちの方が料理し易い?
>728 魏側からすりゃ、蜀VS呉の間に介入できりゃ一番良いだろうね。実際、劉ヨウも進言してるし。 でも、それだけに蜀側に魏から兵を借りるって選択肢は無いって事じゃないかな。 劉備の東征伐の目的自体ハッキリしてない訳だけど、感情で突っ走ってた場合、魏の介入によって目が覚めた可能性もある。 ま、その辺りはなんとも分からないけど。
もし街亭であのまま劉備が呉を打ち破ってたら魏に対抗できる国力になるか? なんかそれでも魏に負けそう
>>722 そもそも趙雲は陽動やってて街亭にはいなかったんだが・・・
>730 街亭?オウ亭だろ。 それ以前に、夷陵の役で勝利しても、呉全土の征服は無理じゃないの?
唐の例と全く違う 唐と突厥は、主体的に支配を試みる地域がバッティングしてなかった 魏と蜀は中国の支配権を争う関係
劉備の東征の時点では魏呉の連携が続いてるわけで、 そんな状態で魏が蜀に手を貸すわけがない。 蜀VS呉なら傍観か、呉に手を貸すかのどちらかだろう。 その上魏が蜀より数段有利な立場であるから、 蜀の方から外交で魏交渉が出来るわけがない。
姜維が実権得る頃、つーか姜維が蜀に降った頃からすでに勝ち目は無かったんじゃねーの?
>735 って言うか、建国当初から勝ち目は無かった感じ。
劉備の東征の際は、魏は微妙な立場にあった 形式的に呉は降伏して援軍を要請したが、肝心の人質は送ってこない かといって呉を見捨てれば劉備が天下二分、とまではいかなくてもまた魏を脅かす勢力を盛り返す危険があった しかし、劉備の率いた兵力は実際には弱体で(演義では誇張されてるが、四万あればいいほう。しかも馬超・魏延といった上級武将は魏を警戒して残留)結局陸遜に撃退され、魏は労せず圧倒的第一位の座を保ったわけだが
>737 微妙ってか、結構楽な立場だよね。 三国の中で、自国以外の二国が争ってくれるんだから。高見の見物って感じか?
勝つことより生き残ることを考えようぜ
関羽が暴走しなけりゃ生き残れた つまり、関羽と誰かを入れ替えればいい 関羽が納得し、かつ呉との外交情勢を把握し、さらに軍事的に魏とやりあえる人材を選出できれば
せめてホウ統が生きてれば・・・ 少しは関羽の暴走を止められたかもしれないのに つか蜀は人材いねーな。土地が広いと維持しきれない 萠越とかがいればなー
暴走を止めてくれるなら この際簡雍でもいいよ。
いっそ関羽いないほうがマシだったかもしんない…って言い過ぎ?
老害になってしまったな
張飛しかいないだろ。代わりになるのは 趙雲は位階が低いし、晩年まで大部隊指揮官はやった事が無い(最大で北伐陽動作戦時の一万程度) 黄忠は関羽が納得しないし、内政外交能力は未知数(正史では軍職しか歴任してない生粋の軍人) 馬超は頭悪杉だし、西涼方面への影響力を考えると益州から引き離せない 魏延は既に漢中に駐屯
746 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/03 02:26
「蜀の名将は関羽だけ」というのが曹丕即位前後の魏の衆論だったらしい ネームバリューで代替できる人材はいないだろ。蜀じゃ
「蜀の名将は関羽だけ」→「蜀の名将は関羽だけだった」
そのワリには関羽がいない漢中でいいようにやられてますな。 司令官は切られるわ、漢中は奪取されるわ・・・・・
>>748 その方面には蜀最強の猛将・劉備がいただろ
>>737 呉が劉備を破った後、魏も陸遜に撃退されてるけどな。
>>740 −746
潘濬を忘れるな!
ぶっちゃけ外から見れば劉備・関羽(張飛)・諸葛亮以外(ギリギリで馬超)は雑魚以下 その辺は魏や呉の官僚の会話や上表からも読み取れるし てか、やっぱ歴戦の将軍がいないのが痛すぎるんだろうな まともに戦をこなしてきたのは関羽・張飛くらい。趙雲は女性の面倒とか見ちゃってるし 馬超は涼州のレベルの違う戦いをだらだらやってただけだし、黄忠も劉表のトコにいたせいで小競り合い程度 頼りになるはずの親族は全くいないときた 蜀志見ると大方が荊州以降に手に入った人材ばっかなんだよなぁ
荊州が最終的に呉のものになったのは 呉の柔軟な姿勢によるんだろうな いざとなったら魏に臣従までするんだから…… ハナから魏と敵対の蜀とは違って 仮に関羽が荊州を守りぬけたとしてどうなるだろう? 呉との関係はこじれたままだから荊州から迂闊に北伐の軍は出せない 益州軍だけでは北伐は不可 その上(結果論だけど)曹操が病死しても魏はそこまで乱れない
>733 意味自体は敵だったものを味方にするって事、それに突厥は隋の将の李淵に援兵を送り其の一因で唐朝が誕生している。 敵が味方になり天下統一の一因と言えば、清朝誕生時の呉三桂の場合。 蜀が呉を討つ→魏としては組み易い蜀の方が討ち易い。 関羽、荊州を主とした奪還→呉討伐 と利害が一致。 ところで姜維そのものの北伐自体の抗する要因の一つかと考えるのに反司馬勢力を司馬氏が短期間に征伐してしまったのというのもあるのではと考える、ゆえに魏朝の権力体制は司馬氏へと変遷していたが、魏朝の国家国力そのものは総じて減退が激しいものではないと考える。
しかしまぁ、何年も前から同じ議論で盛り上がるよな。 はっきりいえば、荊州を維持する上で最も確実な人物は劉備本人しか考え られない。 「関羽に変わる誰か」とか、「法正やホウ統がいれば」とか、出てきてるけど、 あまりに矜持の高い関羽にとってみれば、法正もホウ統も、黄忠・馬超と同じ。 要するに実績を目の当りにしてもいないし、古参という感情が先行しすぎて いる以上、誰が関羽の側にあっても制御する事は不可能だろうね。 呉蜀間の荊州分割協定の際には劉備は自ら大軍を率いて出向き、素早い 対応を示しているし、関羽の北上は独断であった可能性も高い。 もちろん、漢中に絡んだ魏との状勢の推移を等閑にしては語れないけど。
>>753 その敵を味方に変えるための基本条件が全然違うだろ
突厥に唐が与えたような利益を蜀が魏に与えられるか?
>>755 だから今挙げたのは基本条件の話じゃないって、意味自体の話。
757 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/03 12:58
法正が長生きしていれば・・・
可能性が無さ過ぎねぇ、だったら李淵も呉三桂も足利尊氏の件も無くなるんじゃ? どちらも諸条件が違うって言うんじゃね。 只言える事は、其の当時の人間で無いから通り百篇唱えてもあるなしはどうかと言うことだろうか。
>>761 例に挙げたの全てと蜀・魏では状況が違いすぎるだろ
魏と蜀の間では大義名分・支配を狙う地域がことごとく対立している上、手を組んだ場合のメリットが蜀に偏りすぎてるし
魏首脳部全部が劉備シンパに急に入れ替われば話は別だろうが
呉三はもう祖国が滅びてるし、その仇を討つという名分が無きにしも非ず まあ結局降伏に等しい形だし 本題に帰って姜維が北伐をせずに益州に引きこもっていたらどうなったろうか 果たして司馬一族の専横ってのはありえたんだろうか
>>763 蜀は中央から忘れ去られる
人材はどんどん中国に帰っていく
↓
終了
蜀が蜀である意味がなくなって豪族・官僚の反発を食うのがオチ
別にこの時代ぐらいの人は基本的に劉備に義理があるわけでもないし、魏に積極的に敵対してた歴史があるわけでもなし
765 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/04 11:01
「蜀が天下を・・・」スレから転載。 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ━━━━━┓─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀│蜀┃魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┗━━━┓─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀│蜀│蜀│蜀┃魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┃─┼─┼─┏━━━ 蜀│蜀│蜀│蜀│蜀┃魏│魏│魏┃呉│呉 ─┼─┼─┼─┼─┣━━━━━┛─┼─ 蜀│蜀│蜀│蜀│蜀┃呉│呉│呉│呉│呉 ─┼─┼─┏━━━┛─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀│蜀┃呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉 ─┼─┏━┛─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀┃呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉
766 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/04 11:02
ここから荊州を失うと、こうなる。 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ━━━━━┓─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀│蜀┃魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┃─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀│蜀┃魏│魏│魏│魏│魏│魏│魏 ─┼─┼─┃━━━┓─┼─┼─┏━━━ 蜀│蜀│蜀┃呉│呉┃魏│魏│魏┃呉│呉 ─┼─┼─┃─┼─┗━━━━━┛─┼─ 蜀│蜀│蜀┃呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉 ─┼─┼─┃─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀│蜀┃呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉 ─┼─┏━┛─┼─┼─┼─┼─┼─┼─ 蜀│蜀┃呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉│呉 全然ダメポ・・・・・。
そもそも天下三分が間違ってたと言ってみるテスト
面積比以上に人口というか生産力は差があるしな 江南が豊かになるのはまだ先だし
蜀の累代の将は皆優秀。 そもそも広大な領土を支配したからとて何になる。 蜀は堅牢強固な天然の要害、 中原がどうなろうと知ったことか。 後の五胡十六国時代を考えればひたすら守備を固め 国力を蓄積するべきでした。 もちろんコレは後出しじゃんけんだから言える訳で、 やっぱ山奥は鬱っすよ。 ビックになってやるーと言って、 東京を目指すイナカモノをどうして責められましょう。 文明の味を知ってしまった以上 そこから離れて自然の境地に遊ぶと言うわけには行きますまい。 魏将の中に老荘にハマル連中がいたのは皮肉ですな。 本当の自然は鬱だぜ厳しいぜ。
>>768 でも、黄巾以来の戦乱で黄河周辺は荒れまくってたはずだぜ。
>>770 そこで屯田ですよ。
まあ、疲弊・荒廃しきった中原はすぐには回復しないし、
その間に黄巾などの戦乱に巻き込まれにくかった土地(荊州・益州)を
取って国力の上で優位に立つのが狙いだったのかも知れんが。
晋書に、280年での戸数統計があり、河南郡の戸数は蜀郡の2倍以上あったと
聞いたことあるが、これマジ?
まあ戦乱の時の戸数調査はあまりアテにならないものだが それでも呉は人口不足に苦しんでたのは定説だよな? 蜀はあまりそういう話を聞かないが
773 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/04 18:44
何かで見たけど、人口比が魏:呉:蜀(荊州つき」)=2:1.2:1だったかな? 当時は呉の領土は未開発&未組織で、広大な割に人口も文明も中原に与すべくもなかったとか。 一方、荊州が人口の最稠密地帯で、人材も沢山流入していたので、戦火がなく、古代から意外に 高い文化を誇った益州と合わせれば、立派な天下三分だったそうな。 ・・・・・まあそれもこれも、荊州防衛を最優先課題にしなかった?時点でダメポだが。 もしかすると、関羽の北上と漢中攻めとは呼応する意味があったのかもしれないが、「鶏肋」の土地 と、許都まで数百キロしかない襄陽とは重要度も魏側の動員も全く違うから、漢中攻撃よりさらに多 くの軍団が必要だったはず。もちろん兵站その他も。どうも、荊州の重要性を軽く見過ぎたとしか思え ないのだが。
蜀や呉は領土広すぎなんだよ 輸送通信手段が未発達な時代では、領土が広すぎるのはネック
マジで、漢中の部隊を漢水を下らせる方針ってなかったのかな?襄陽から上は急だから、三日も あれば下れたろうに。
>>775 それが蔣琬の計画だったんだよ。そのための軍船も建造させてた
が、撤退が困難だからって理由で中止
糞スレをageたのだが、大正解だったな(・∀・)
>>774 呉はともかく蜀の領土はそんなに広いかな?
>>778 広いのと実利があるのとは意味が違うが、十分に広い
780 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/05 22:51
しかし蜀末期って本当に新世代の将軍が育ってないよな 劉備存命時代からの武将が第一線部隊でがんばらにゃならん状態
781 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/05 22:56
>>779 昔楚なんて(始皇帝が天下統一する少し前辺り)
秦の領土よりも少なかったが一年で秦の10年分の収穫を得られたって話しだしな
>>781 といっても、それは秦の方の開発が水準以下に遅れていて、鄭国渠を
はじめとした灌漑施設の整備や新規の農業地の開発が進行して、後には
絶大な収穫をあげるようになってるね。
項羽の失策のひとつは、それを放棄して東に遷ってしまったこと。
秦の場合は、組織の制度疲労と兵士の勤続疲労が大きい。 元々貧しい関中だからこその侵略性と攻撃性だったが、中原を制してゆるんだということもあった。 三国の呉も人口が少なく、九州までもひとさらいにきたらしいが、関中はそれ以上に貧しく、蜀が 長安をとっても決定的なことにはならなかったかもしれない。
>>783 >九州までもひとさらいにきたらしいが
日本に来てたの?まじ?
>>784 夷(い)州、亶(たん)州は、それぞれ台湾と種子島に(筑摩正史では)比定されている。
その後に続く亶州の説明を読むと、会稽郡と定常的に交易を行っていたふしがあり、
亶州を琉球、もしくは九州島に比定する説もある。
786 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/06 17:25
一方で、例の吉野ヶ里遺跡は、何故か海側(有明海)からの攻撃を想定したように、3重の V字溝に囲まれている。もし邪馬台国なら、熊曾は南東方向からの攻撃になるし、また邪馬 台国や奴国が太宰府、博多湾岸、あるいは国東半島などにあったとしても、やはり防御の 方向がおかしい。何よりも、最盛期の紀元1〜3世紀の最盛期は相当大規模の攻撃が想定 された壮大な構えになっており、人口規模からしてもいささか大きすぎ、またそんな強大な敵 が海から押し寄せるということは考えにくい。 このことから、呉国が実際に攻め寄せるか、それに近いことが実際に起こったのではないか と考えられている。古代、我々が考えているより遙かに中国の情勢は周辺諸国に激震をもた らしていたようだ。
残念。 人口比、経済力比はもっと大きい。 だからこそ荊州の保持は必須、少しでも差を詰めるための南方開発(交易) だったのだが・・・ 西方諸部族と連携しようとしたのもそれ。 馬一族の登用もそれを意図してのこと、 同じ脈絡の中に西方系の姜維の登用もあったのだろう。 孔明の北伐は「攻勢防御」とよく言われるところだが、 姜維の場合はどうか? 経済的構想が無い時点で無駄と言ってもいいだろう。 むしろ左遷された司令官(李なんとか?)あたりの方が 孔明亡きあとの総司令官としては 適役だったかもしれない。 人口も少なく、軍事国家になりがちであるからには、 経済的感覚が逆に必要だ。 蜀滅亡時の生産人口と軍事関係者の比率はおそるべきアンバランスになっていた。 軍事負担に耐えかねて、生産人口の流出等も起こっていたと思われる。
>>787 たしかに。
人口に較べて官吏の数がバケモノなみだものな。
>>787 >李なんとか?
…もしや李厳のことか?(´゚д゚`)
李平だろ。
李平に改名すると全能力が1ランク下がります
ここは思いきって李広に改名しよう
>>792 晩年の凋落っぷりでいったら、たいしてかわらんての。
李豊
少なくとも三人いるけど?
じゃあ懐かしき李儒でどうよ
李儒って、少帝殺したくらい?
李粛も忘れるな。
やっぱ、李典だろ。
いや、李逵だな。
李自成&李秀成
李曼成
陰溥 インポ
李[イ寉]
805 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/18 09:53
共産主義になった翌日、私は近所に住む田中君とともに学校に向かった。 もう冬だというのに木は青々としている。 子供たちの表情は希望と活気に満ち、広場で遊ぶ女の子の額から流れる汗が太陽光を反射していた。 「人間が憎しみあう時代は終わったのだな」 昨日までとある私立中学に通っていた斎藤君が、ほっとしたように僕たち二人に言った。 「そうだ、これからは人が人を支え合う時代なんだよ」 普段は滅多に話に加わらない田中君が、斎藤君の肩に手を置いて優しく言った。 「人という字を思い浮かべて見ましょう。二本の線がお互いを支え合っているでしょう」 ちょうど出勤してきたばかりの髪の長い中年教師がそう言って微笑んだ。 小学校高学年の子は長年使ってきた参考書をブックオフに売り、真新しいサッカーボールを購入した。 「詰め込み教育はもう不要だ。これからは日本中に元気な声を響かせよう」 少年らしい生き生きとした表情で男の子は言った。 青空のなかををツバメが横切っていった。
李湛
むむむ・・・ 姜維と李厳ってどっちが有能かな?
保守
810 :
無名武将@お腹せっぷく :04/04/29 22:10
age
李厳って孔明と同じ時期に死んだんじゃなかった?
>>811 そう。孔明が死んで自分の復帰が叶わないと思い、病気になって死んだ。
それじゃ
>>787 の言う李なんとかって李豊か李恢しかあり得んな
>>813 しかし李恢も李豊も左遷なんかされてないし、司令官クラスになった事もないんだよな。
しかし李厳も面白い香具師だな。 愛弟子すら叩ッ斬った孔明が許すわけもなかろうに。
1、精神を相当病んでいた 2、そんな孔明だと分かっていながら、心服させてしまうと言う、 孔明の株を上げるためのプロパ
諸葛亮は「李厳はおだてた方が良い」と考えてたらしい。 だから諸葛亮の李厳評はかなり水増しされてる事だろう。 逆に魏延は「厳しくした方が伸びる」とでも思ってたんじゃないかな。 けれど現実は魏延の方が繊細だった。 だから魏延はある日キレた。それが祈祷(試合)当日…以下略
820 :
無名武将@お腹せっぷく :04/05/06 12:22
>>817 諸葛亮が李厳を大きめに評価していたのは事実らしいね。
でも亮の人物評価って当てになるの?
何かあの人、調子に乗ってる感じがするんだよね。
>820 全国の諸葛亮ファンには悪いが、 蒋琬・費禕・ぎりぎりで董允、以外はホント当てにならない。 まあ、この三人を見出しただけでも凄いっちゃ凄いんだが…。 馬謖起用が相当なマイナスになってるからなぁ…。
>>822 姜維だって、暴走しすぎちゃった感はあるが才覚は十分だと思うが。
>>822 蜀視点でみると、潘濬を失ったのはどうでもいいことなのか?
>>824 潘濬って諸葛亮の人物評価と何か関係あったっけ?
いや、書き方が悪かった。 諸葛亮の人物評価と直接関係はないな。スルーよろ
致命的だよなあ>馬謖 あんな大事な場面で実戦経験に乏しい参謀を主将に据えること自体考えにくい。 いくら人材不足と言っても普通に誰か武将に任せておけば、そうそう攻めにくい 布陣を敷くことは可能だしそれを見れば、向こうの方で戦略転換を図ってくれた だろう。 自分みたいなタイプってそうそういる訳じゃないって自覚が足りなかったようだな。
>823 そりゃ、姜維も無能じゃないが、『全軍総司令官』は務まらんだろ。 姜維を評価するんだったら、『武将』として俺は評価したい。 この辺は諸葛亮の評価と関係ないが。 >824の潘濬が惜しいのは同意。 >827 任せられるのは、推薦された魏延と呉懿以外だと、 作戦遂行能力では趙雲とか。 でも、別に呉班とかでも問題ないと思うがな。 むしろ王平だけが守将でもいいよなぁ。 何でよりによって、馬謖みたいな参謀職のヤツを据えたんだろ。
>>828 自分は総司令官としてみても、当時の蜀じゃ姜維に代わる人材はいなかったと思うが。
足りなかったのは参謀だと思う。
司令官としても傑出していて、自ら優れた作戦を立案できた諸葛亮とは違うので、
作戦面で補佐してくれる人物が必要だったかと。
鍾会と姜維で上手くそれぞれの穴を補えてただろうから、
反乱が成功してたら面白かっただろうな。
馬謖に成長を促したかったとかー 張コウを防げたら、馬謖も武将としてレベルアップしたんだろうけどねー
もし馬謖が山登りしないで 孔明の言いつけどおり街道に陣を敷いていたら 勝てたのだろうか…いや、勝つまで行かなくても防ぎきれたのだろうか?
防御戦の名人、俺様に任せろ 馬謖?張コウ?雑魚はすっこんでな
兵力は1万対5万と言われている。馬謖の考えたように自分から攻め潰すのは困難だが、 街道を封鎖すれば無理に通るのは壊滅のリスクを負う。そのような消耗戦の間に本隊が ろう西諸郡を落としてしまえば、10万でも突出するのは難しくなるので、戦略的には勝ち だった。それに、魏が嫌でも大軍を投入して奪還する必要が生じるので、有利に迎撃戦を 遂行できるし、呉との同盟も機能し始める。 ただし仲達が出てきたら、王平、或いは馬岱や趙雲でも破れたかもしれない。まことに第一 次北伐は絶妙のタイミングであり、流石孔明!であるとともに、最後の大チョンボと合わせて、 以下の言葉を進呈したい。 孔 明 自 作 自 演 で つ か ?
諸葛亮、馬謖に実績のひとつでもあげさせてやろうと思ったのかな。 参軍に過ぎない馬謖をいきなり一軍の将に抜擢………いささか情実人事の きらいがあるし。 上ケイで孤立しかけの郭淮や西方の徐バクあたりの討伐軍に編入するくらい ならまだしもね………。
新人投手を開幕戦先発にもってくるようなもんで、 勝てば勢いがつくが、負けると無謀と批判される。
>>835 そのうえその新人が人並みの活躍もできなかったんだから・・・
敬遠の指示が出たのに勝手に勝負して逆転スリーランホームラン打たれた感じ。
送りバントなのに勝手にヒッティングにしていってゲッツー取られた感じか
馬謖が上手く行けば、実戦指揮官として功績大 子飼いの武将がいるから、魏延にもうでかい面させないよ、とか
<蜀4−7魏> 蜀 2 0 0 0 1 0 1 0 0 4 魏 0 5 1 0 0 0 0 0 X 6 【蜀】 ●馬謖(0勝1敗)、王平、諸葛亮 【魏】 夏侯楙、○曹真(2勝1敗)、郭ワイ、司馬懿 【本塁打】張合β31号(魏)、カク昭2号(魏)、魏延27号(蜀) 魏が7得点で蜀に勝利した。2点先制された後2回に張合βの3ランを 含む5点をあげて逆転。その後は得意の継投策で逃げ切った。 曹真は今期2勝目。蜀は魏延のソロ本塁打などで追い上げたが及ばず。 二回5失点の馬謖の乱調が誤算。 [234/8/17/22:09]
馬謖の性格では、更に大きな局面でいずれは失態を演じた可能性大。 実直とか謙虚とかとほど遠い感じなので、実戦司令官としては不向きかと。
>841ワラタ 姜維の北伐編キボン
<魏11−5蜀> 魏 0 1 0 0 1 0 0 4 5 11 蜀 0 0 0 1 0 0 2 1 1 5 【魏】 郭ワイ、王経、司馬望、○陳泰(8勝1敗)、鍾会 【蜀】 蒋エン、費イ、陳シ、●諸葛瞻(1勝3敗)、閻宇、黄皓 【本塁打】王平17号(蜀)、ケ艾26、27号(魏)、姜維24号(蜀) 魏が15安打11得点で蜀に大勝した。2−1でむかえた7回、 姜維の適時打で逆転されると、8回にケ艾の勝ち越しの3ランで 再び逆転。9回にも5点をあげ勝負を決めた。ケ艾は4安打5打点。 陳泰は中継ぎで8勝目。蜀とのゲーム差は今季最大の11.5に広がった。 蜀は蒋エン、費イ以降の救援陣が奮わず、今季の自力優勝が消滅した。 [263/10/02/23:48]
つうかコールド負けだろw
<魏 22-3 蜀> 魏 0 3 0 1 0 0 0 3 15 ..22 蜀 1 0 0 1 0 0 0 1 0 ..3 【魏】 曹真、司馬懿(3回)、郭淮(6回)、陳泰(8回)、○鍾会(8回、1勝) 【蜀】 諸葛亮、蒋琬(4回)、費褘(6回)、陳祗(8回)、●姜維(9回、1勝3敗)、 諸葛瞻(9回)、閻宇(9回)、黄皓(9回) 【本塁打】 【魏】 張既3号ソロ、曹真12号2ラン、ケ艾5号3ラン、ケ艾6号ソロ、ケ艾7号満塁、 鍾会2号ソロ、諸葛緒1号2ラン 【蜀】 諸葛亮5号ソロ、姜維10号ソロ くらいじゃん?
あ、勝ちは司馬懿につくのかな。鍾会にはつかないよね。シクった。
<曹操8−12劉孫連合軍> 曹 5 2 0 0 0 0 0 0 1 8 連 1 1 0 0 0 0 0 8 × 12 【曹】 荀攸、サイ瑁、●黄蓋(1敗)、程イク 【連】 劉備、諸葛亮、○周瑜(6勝)、魯粛 【本塁打】 【曹】 張遼7号2ラン 許緒14号ソロ 【魏】 趙雲11号ソロ 張飛16号ソロ 周瑜1号ソロ 甘寧9号3ラン 初回、曹軍は先発劉備から連打で5打点をあげ、続く2回も張遼が2ラン。5点差とした。 これで一気に勝ちに乗れるかと思われたが、その後は諸葛亮、周瑜の前に追加点を取れず。 一方の連合も趙雲、張飛のソロ以降は得点を上げれず、反撃の機会を伺う。 試合が動いたのは8回裏。つい先日移籍したばかりのベテラン中継ぎ、黄蓋がまさかの大炎上。 ピッチャー周瑜の第1号ソロアーチを皮切りに、連打連打の8得点。その後は抑えの魯粛に繋ぎ、見事に勝利をおさめた。 なお、9回表代打曹仁の放った痛烈な打球がピッチャー周瑜の脇腹を強打。全治一か月のケガとのこと。 [208/11/27/22:28]
850 :
無名武将@お腹せっぷく :04/05/11 19:35
演義だろ・・・
黄蓋がまさかの大炎上ってなんだよw
854 :
無名武将@お腹せっぷく :04/05/12 20:40
負け投手どう考えても曹操だろw
855 :
無名武将@お腹せっぷく :04/05/12 20:45
埋伏の黄蓋が炎上したってことだろw
姜維主役の小説読みたい・・・
858 :
無名武将@お腹せっぷく :04/05/14 22:36
>>857 柴練の「英雄生きるべきか死すべきか」の下巻は姜維主役といってもいいよ
Q.孔明死後の姜維の北伐は無駄だったのか? A.確かにその通りでしたが、結果として晋の建国自体が無駄でした。 魏が蜀や呉と和睦して、北方の守りを固めていれば、五胡の侵入は ありませんでした。
>>858 もっと創作色強いやつないかなー
費イの暗殺は姜維の差し金だったとか
ホモは嫌だなー でも、江森くらいホモ以外の部分をしっかりしてくれるならいいか
結果として蜀の建国自体が無駄でした。
結果としてこのスレ自体が無駄でした
魏の蜀征討戦において、ケ艾の奇襲が失敗したとすると、鍾会率いる主力軍は、 未だ数万もの兵力を擁していた姜維の眼前での撤退を強いられたはず。 一般に撤退戦は困難とされるが、仮に魏軍がこのような状況に陥ったとして、 姜維らは漢中を取り戻すことが出来ただろうか?
陽平関で防がれて終わりなんじゃない
>>866 やはりそんな風になるのが落ちなのか。
陽平関は堅牢だからなあ。
蜀滅亡の最大要因は、あの一戦に限って言えば蔣舒なんじゃないかと思ってしまうな。
陽平関という要衝を任されていながら、援軍も待たずあっさり降伏、信じられん。
陽平関が落ちずにいれば、姜維も急いで引き返さずに諸葛緒を破る暇があったかもしれんし。
漢城と楽城は包囲して進軍したけど、すぐに降伏しちゃったんだっけ? 籠城してたなら、やりようがあるかもな
>>868 落ちてはいないと思う。少なくとも楽城は陥落してない。
鍾会は楽城を李輔に包囲させたが、楽城が陥落しない内に陽安が落ちたので
楽城を放っておいてそのまま進軍した。
漢城も、守将の蔣斌が鍾会のもとに出頭したのは劉禅降伏後だから多分落ちてない。
鍾会の率いてた魏の主力は、陽安を落とし兵糧を奪ったが、 それでも剣閣で兵糧不足を起こしたからな。 陽安さえ守れていれば、蜀に勝機はあったかもしれん。
一時的に局地戦で勝利したところで大勢は覆らないよ。 二次・三次と蜀の征討戦が起こるだけ。
一時的に局地戦で勝利したところで大勢は覆らないよ。 二次・三次と蜀の征討戦が起こるだけ。
>>872 そりゃ大勢は覆らないだろう。
だが、そんな事言ったら、蜀に独力で大勢を覆せる余地なんて初めから無いと思うが。
敵主力を追撃して大きな損害を与える事ができたら、魏も征討軍を送るのは躊躇うんじゃないか? 蜀に対して、多大な犠牲を払ってまで奪う程の価値を見出してはいないと思う。
大きな損害を与えなくても、小さな利を積み重ねてゆけば、いずれ大きな益となる。
蜀まで支配下にしないと中華の統一王朝とは言えないだろ 実ではなく名として
>>874 本気で言ってる?
蜀を制すれば長江上流を扼せるうえに大船建造の効率化や資源獲得にも
大きな利があると思うけど?
もちろん、鼎立状態にある中の一角が崩れれば政治的な影響・脅威も
大きなわけだし、呉が単独で軍を北上させる機会や状況も少なくなるとみて
間違いないと思うよ。
ただでさえ呉は南方や国内の叛乱に忙殺されて国力の漸減を強いられて
いるうえ、孫権崩御の後は政情の安定を大きく欠いてもいるから。
>>877 そりゃそうだが、
「蜀が頼みとしてる姜維は本国を離れてる上、国家も疲弊してるから確実に併呑できる」
として20万近い軍勢で攻めたのに、多大な犠牲を払って蜀を併呑する事も出来なかった
なんて結果になれば、少なくとも数年は出兵を見送ると思うが。
鐘会を左遷するいい理由ができていいんじゃねーの
880 :
無名武将@お腹せっぷく :04/05/31 00:08
age
鐘会の失脚は間違いないだろうね。 あれほどの大遠征となれば、戦費その他の負担も大きいだろうから 決して盤石とは言えない魏の体制でそう何度も大規模遠征を繰り返せたとは思えないな。
姜維が内政を充実させないまま北伐を繰り返したことは確実に失点だけど、 魏討伐軍をおこさないまま守りを固めていては早晩のうちに魏に飲み込まれるという見方はやはり正しいと思う。 なぜなら、他ならぬ諸葛亮が専守防衛政策を採らずに、北伐を選んでいるから。 蜀は国力の充実を図って積極的攻勢に出るべきではないというのであれば、 諸葛亮時代とて同様に北伐をするのは危険ということになり、 諸葛亮の北伐も責められるべきものとなってしまう。 ただ、必要だったのは「国力を養いながら打って出る」ことだったのに、 費イは「国力を養う」ことのほうに力を注ぎすぎて、攻勢に出ることを躊躇いすぎた感があるし、 姜維は国力を養うことに失敗しながら「打って出る」ことに固執し過ぎたきらいがある。 諸葛亮はそこのところを絶妙なバランスで乗り切ったが、 姜維は基本方針は知りながらもバランスを崩してしまったというところではないだろうか。
段谷の敗戦で民や羌族が非常に怨んだってのは、それまでの姜維への期待の表れだと思う。 それまでの姜維の働きぶりから、民や羌族ももしかしたらって期待してたが、 段谷の敗戦でその期待感が損なわれ、それまでの重税にも耐え切れないようになったと。
884 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 17:55
ところで姜維の北伐に王平は参加してたのか?
>>884 王平の従軍は無いと思うぞ。
従軍してたら廖化に先鋒なんてさせないだろうし、北伐を費禕死後として見るなら王平も死んでる。
王平に漢中を守らせて、姜維には北方へ向かわせるってのが当時のやり方だと思う。
費イ死後の大規模北伐時も存命だったら従軍してたんだろうけどな。
王平従軍の機会があったとすれば、蔣琬を大将とした大規模北伐が実行された時かと。
888 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 13:11
確かに姜維の軍事的才能はあったと思うけど 蜀の民衆にとっては対魏のイデオロギーなんかどうでもいいことだし 姜維の軍事的才能の細かい分析なんてしないから 単なる生活を苦しめる人くらいにしか思っていなかったんじゃないかな。
姜維に限らず、民衆が将軍の細かい分析なんてするはずがないと思うが。
890 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 19:46
891 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 19:51
全くの無駄 帰ったら失脚が待ってたからやらなきゃならなかったとか言うけど 国が滅びる要因を作ってどのみち失脚なんだからやらない方がマシ
劉備の入蜀時には豊かだった蜀の国庫も最後はほとんど空っぽだったらしいしな。 まあ、漢中に膨大な兵数をはりつける事自体は劉備が決めた事だが、姜維がその 軍隊を使って何をしたかといえば、蜀を貧乏にして魏との国境地帯もほとんど無人 の荒野を産み出しただけ。 劉備の場合は直接曹操の暴虐も目の当たりにしてるし、反曹操の世論のバックアッ プもあった。もちろんメンツもあっただろうが、姜維が何でそこまで大義名分論にこだ わったのかよくわからない。漢王室がそんなに立派なものだったかw (勿論蜀漢も)
>>892 領戸二十八萬,男女口九十四萬,帶甲將士十萬二千,吏四萬人,米四十餘萬斛,金銀各二千斤,錦綺綵絹各二十萬匹,餘物稱此
漢中の防衛軍は、姜維が解体する前で3万弱。 蜀征討戦時で、漢・楽に5千ずつ、陽安がそれより少ない事はないだろうから守備隊の全兵力は2万程度だろ。 そうなると、姜維が外征軍に取り込んだのは1万程度か。 多いとみるべきか、少ないとみるべきか?
895 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 21:47
>894 漢・楽二城の守備隊がおのおの5千で、陽安関に主力を置くってのが姜維の表向きな意見だったけど、どうも、姜維の計画は自軍に漢中守備軍の大部分を取り込むためって見るのが妥当だな。 遠征方針を撤回して、自軍(姜維軍)は陽安に駐留します。だから漢中周辺の諸囲から撤退しても大丈夫ですよ。撤退した部隊は陽安に集中して下さい、とね。 でも実際は陽安を留守にしてて漢中盆地への敵の侵入を許してしまった訳だが。
降将の姜維が何の後ろ盾も無い蜀で地位などを守るには軍事力が必要 軍権を維持するためには敵が必要で孔明の遺志を継ぐってのは絶好の口実 成都に拠りつかなくなったのも粛清や更迭を恐れたから
>>895 段谷の敗戦後すぐ、諸葛誕の反乱に乗じて数万で出兵したとあるが、
この時点で漢中の守備隊の解体は行ってたのだろうか?
行ってないにしては兵力が多いし、行っていたとすると、
解体による遠征方針の撤回というのは有り得ないと思うが。
単純に成都と漢中が離れすぎてるというのもあるけどな
899 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 22:30
>897 895だが、段谷の敗戦は256年で漢中守備軍の解体は258年頃。 姜維の北伐で大規模なものはご存知だろうけど費緯の死去後からだが、段谷の役までの間に3回ほど、漢中防衛軍解体までに1回、その後滅亡までに1回くらい。 段谷の敗戦が相当影響してるんじゃないかな。で、無理して駱谷に進出したけど撤退に追い込まれ、そこで息切れしたんで防衛軍に手をつけたんじゃないかと思ってる。 遠征方針の撤回を表向きの理由として、自軍に守備部隊を吸収したんじゃないか、と考えたんだが。姜維の本心はあくまで遠征だった、と。
>>899 確かに257年の北伐から、次まで5年も空いてはいるな。
姜維伝での漢中守備隊解体の記述の位置からすると、
解体は沈嶺での対陣以降とも考えられる。
黄皓の台頭もこの頃だし、成都との関係が悪化し遠征の実行も難しくなってきたのか。
そこで方針転換の意向を示しながら力を蓄え、262年に出兵するも、
ケ艾が出てきた為に勝てず、漢中への帰還も難しくなり沓中で屯田。
そこをつけ込まれ蜀征討戦が勃発って事か。
>黄皓の台頭もこの頃だし、成都との関係が悪化し遠征の実行も難しくなってきたのか 張翼さえ反対する状態だったからな。もう庶民の怨嗟の声が相当に大きくなってきたん だろう。
>>901 張翼が反対したのは255年の朝議の席でだから、あいつはだいぶ前から反対派だったんじゃないか?
結局、外征派と守勢派、漢中府と成都の対立が起きてからもう駄目だったって事だな。 魏の将たちに対抗できる将軍が姜維のみで、その姜維が外征派の筆頭だった。 守勢派の連中は、当然姜維の外征にはあまり協力したくない。 こんな状態じゃ滅亡は目に見えてるな。
>900 おそらく、駱谷からの撤退後、相当自軍が消耗してたんで、やむなく成都に帰還したんじゃないかな。兵力の補充等の調整のために。 成都では、段谷の敗戦により姜維に対する風当たりが強かったんだろう。その時に漢中防衛変更(実際は解体)の上奏をしたのだと思う。 本心は別として、遠征は中止します、って公式表明させられたんじゃないかな、上奏ってカタチで。 その変わりに、再び大将軍に任命してもらい、軍の指揮権も保障してもらった、と。 反戦派との取引じゃないかな。大将軍として軍の総指揮を執るなら、遠征は中止しなさい、って感じで。
905 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 23:36
>903 よく、漢中府って言葉をこのスレとかでよく見かけるんだけど、当事漢中府なんてのはないはず。 漢中都督の事だとすると、諸葛亮の死後は、呉懿→王平→胡済で、姜維時代だと胡済。 胡済は費緯と親密だった事から、外征派ではありえない。(その辺りが段谷の敗戦に影響してると思う。実際、姜維は敗戦の責任を取って降格してるが、胡済は処分無し。ってか昇進してる) 結局、中堅以下の指揮官クラスは別として、外征派ってのは姜維1人でないかな?
>>904 そこまでしなければならない程に漢中府は弱体化してたのか。
そして漢中府の権力回復の望みを賭けた最後の遠征が262年の侯和の戦いって事か。
結果は敗北、それにより守勢派は更に外征派の権力を削ぐ事に努め、
両者の対立は修復不可能なまでに深まり、張翼・廖化派遣の上表も容れられず、
蜀を守りきる事も出来ずに終ってしまったわけだな。
外征派VS守勢派ってなんか○セクロみたいだな
>>905 自分は。外征派は漢中に集中してただろうからって理由で、
便宜的に漢中府って呼んでるだけだけどね。
あと、外征派が姜維一人って事は無いと思う。
そこまで孤立してたら、いくら大将軍でも出兵は出来ないだろうし。
909 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/10 23:53
895=905だけど、そんでも、外征派には人がいないんだよね、特に伝が立ってる人って・・・・。 姜維と共に北伐した人材で、姜維と反対意見の人物(張翼・廖化)、姜維を見下してた人物(楊戯)とかはいるんだけど。 伝が立ってないけど、有名な人物では夏侯覇くらい? 姜維が指揮してた兵力がおそらく3〜4万。費緯の時代も1万は率いてたようだから3万程度は姜維1人でなんとか運営できたんじゃないかと。5万程度になると、張翼・廖化あたりの協力が必要だったんだろうけど。 魏の張コウも街亭の時に5万率いてるし。(まぁ、国力が違うが)
>>909 態度からすると張嶷は外征派であったように思える。
それと、伝が立ってないだけで、それなりにはいたと思うよ。
いくら姜維が衛将軍や大将軍であっても、姜維一人のゴリ押しで北伐の許可が下りるとは思えない。
911 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 00:07
第一、横の人脈がなきゃ、どれだけ能力があっても 出世は出来ないよ
>897=910 あ、張嶷がいたね。そんでも、姜維の北伐が調子良かった頃に戦死してるからねぇ。段谷後まで生存してたらどうだろう。 姜維の北伐は段谷の敗戦の前(まぁ、段谷直前になると累積する国庫への負担増から批判も出てきたろうが)までは結構結果を出してたから、賛成も反対も無かったんじゃないかな。 最高責任者の姜維が企画して、後主が許可してるから、OKだと。ある意味、無関心。 その後、国庫への負担が大きくなると大多数が反戦に回ったんじゃないかな。もちろん、段谷の敗戦の影響も大きい。 段谷後の遠征は数年の間に2回しか行ってないのは897さんが指摘した通り。これは、姜維が批判を無視出来なくなった証拠だと思う。 それでも、2回遠征したのは、卑見だけど、防衛軍を自軍に編入出来た事、後主が無関心で全面委任だったからだと思う。 幕僚・部下として姜維に忠実に仕えた人材も多かっただろうけど、外征派ってまでハッキリした人材は、幹部クラスにはいなかったと思うよ。 長文すみません。
姜維の忠実な部下と思われるのは、来敏の子の来忠や、向寵の弟の向充とかか。 向充は尚書だから、幹部と言えなくも無いな。 いずれにせよ、段谷以降は姜維に対する風当たりは強かったろうな。
遠征して連戦連勝だったら守勢派が多かろうが さほど風当たりも厳しくはなかっただろうに
連戦連勝なんて不可能だろうがな。 なんてったって、魏の対蜀戦線にはケ艾がいたんだから。
いつでも出撃可能な姜維指揮下の数万の兵が漢中にあったのか? 北伐のたびに動員令を出すのではなくて
917 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 01:42
姜維って北伐でどれくらいの結果出したの? 孔明の場合 武都、陰平の領土拡張と張コウ討ち取る金星あるけど、 姜維の場合は王経討ち取った以外の戦果ってあったのかな。 連戦連勝どころか結果として無勝のような気が・・
王経討ち取ってない 王経逃げてる
919 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 01:50
徐質だった・・w
>>917 戦果を上げる事ができたのは、
254年の、徐質を斬り河関・狄道・臨洮の三県の住民の拉致をした時と、
255年の、王経を撃破し敵に万単位の被害を与えた時の2回だね。
無勝ではないが、勝率は低い。
やはり姜維の天敵はケ艾だよな。 ケ艾さえいなければそれなりの戦果を挙げる事も出来たろうに。
農政家将軍ケ艾は強い偉い
923 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 01:58
地形が勝敗を決める場所で地形に精通してるのは強いね
姜維も涼州方面の地理に明るいからという理由で、そっちに出兵してたんじゃないの? 地味に活躍、王平なんかも郷道やってなかったっけ
・249年、姜維の再度の侵攻を予測し、兵を分ける事を郭淮に進言。 更に廖化を使った姜維の陽動作戦を看破し、来襲した姜維を防ぐ。 ・255年、論者が反対する中、ただ一人、姜維の再来とその侵攻ルートを予測。 その後段谷において姜維を打ち破る ・257年、沈嶺の長城で姜維を防ぐ ・262年、侯和において姜維を破る ・263年、魏軍主力が頓挫する中、奇襲を敢行し劉禅を降伏させる 姜維は悉くケ艾に防がれてるな。 ケ艾の唯一の判断ミスは、王経が狄道に包囲された時の事だけだな。
>>924 ケ艾は地形に詳しいだけじゃなく、農政家としての経験を軍事に活かしてしまう様な奴だから。
927 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 02:19
でもなんでその程度の戦果で北伐継続できたんだろう。 反対派押さえてこれた理由はなんだろう。。 有力者とできてたとか憶測したくなる。
孔明が漢中に権力を集中しすぎた為に、孔明死後も 漢中軍閥の暴走に成都は無力だったんじゃないかな 姜維の暴走はある意味、孔明の蒔いた種とも言える
929 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 07:36
>928 諸葛亮の時は丞相府が漢中にあったから、権力集中は仕方ない。 しかし、その死去後中枢権力はほぼ成都に戻ってると思う。 諸葛亮死去後から姜維の北伐までの間、約20年は秩序は維持されてた訳だから。 結局、その時の最高責任者の姿勢だと思うよ。
漢王朝復興が蜀のスローガンなんだからその手段である北伐を否定することは できねえだろうなあ
>>929 秩序が維持されてるとは言っても、孔明死後すぐに、
小規模ながら出兵はし続けた訳だから、そこまで成都に権力が戻ってるとは思わないな。
蔣琬が死んだ辺りから、じわじわ切り崩されていったんだと思う。
段谷も負けたってだけで細かい戦闘の経過はないが、 胡済が来てたら少なくとも大敗には至らなかったと思う。 そうすると胡済は、後々まで禍根を残す事になった段谷の敗戦の要因を作ったって事になる。 それでも胡済には処分は無かったみたいだし、守勢派が姜維を嵌めたとも考えられるよな。 そう考えると、たまに見る、「姜維は段谷で…」って敗戦の責任を姜維のみに押し付け、 姜維を貶めようとする意見は妥当とは言えないと思うんだが。
933 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/15 22:43
>932 段谷の役は詳細が不明なので憶測になるが、胡済との共同作戦は胡済側(漢中都督)との合意が得られてなかったのでは? 姜維に厳しい言い方をすると、全く協議の無かった作戦を一方的に合同作戦として、胡済側の了承を得ずに発動したとも考えられる。いきなり「何時に上ケイで合流!!by姜維」みたいに。 逆に弁護すると、胡済が230年頃の李平(厳)の様に色々理由を付けて出征しなかっただけかもしれないが。 ただ、胡済の主要職務は漢中防衛な訳で、いきなり出征しろと言われても、防衛体制との兼ね合いで無理かもしれない。 また、出征出来たとしても、防衛軍に余裕があるとも思えず、大勢に影響は無いと思われるが。 その後の処分経過をみると、姜維降格、胡済昇進(時期不明)な訳で、蜀漢中枢の一般的な捉え方は前者の様な気がする。
934 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/15 22:48
まぁ 兎に角、姜維の最期は悲惨 ナマスの様に切り刻まれて・・・
>>933 しかしながら、姜維伝にも後主伝にも約束を違えて、とあるんだよな。
姜維伝には、「更整勒戒馬、与鎮西大将軍胡済期会上邽、済失誓不至」とあるし、
後主伝にもそう書かれてる。
936 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/15 23:24
>935 確かにそうなんだけど、詳細が不明なんで、また憶測になるけど、姜維側からの成都への報告は胡済との合同作戦だったんじゃないかな。 胡済側は了承も納得もしてない状況でも。 この頃、蜀漢の軍事行動は姜維が専らにしてたから、成都等への作戦計画はほとんど事後承諾に近かったと思う。あるいは僚将に対しても。 で、公式記録に残ったのは姜維作の姜維&胡済の合同作戦だった、って報告だけだった、と。実情はともかくね。 姜維降格、胡済昇進、ってのをなにげに載せて、実情をほのめかしたんじゃないかな、陳寿は。
>>936 陳寿が姜維をそこまで慮る必要があったのかなあ?
胡済昇進でほのめかすなんて事しなくても、
ストレートに「姜維が作戦を通達してきたが、胡済は動かなかった」とか書けば良いんじゃない?
胡済の昇進は時期が不明で、この征伐が影響したかは不明だろ。 むしろ、政治的な意図による昇進かもしれんわけで。 胡済昇進を以て推測を進めるのはちょっとどうかと思うが。
939 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/15 23:52
>937 陳寿自身の姜維評はかなり的を得てると思うよ。 有能だけど、兵事を弄び過ぎた、と。 段谷の件は、やっぱり不明な点が多い。 普通、胡済の責任が大なら街亭にならって姜維降格、胡済斬罪くらいやりそうなもんだけど、実際は姜維の降格だけ。 胡済を処分しない理由があったんでしょう。姜維自身は過ちを認めて降格を自ら求めてるんだし。
940 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/16 00:08
>938 ま、そうなんだけどね。 ただ、段谷の責任が胡済が主で姜維はその被害を受けた的な意見があったので。
941 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/16 00:24
姜維のホントの責任は段谷での敗北後漢中の防衛部隊再編成して 防衛力弱めたことにあるんだがな・・
>>940 段谷の責任の多くが胡済にあると言ったつもりは無かったんだが。
そう感じてしまったのなら、俺の文章が稚拙だったって事だな。スマソ
自分は、守勢派が姜維の力を削ぐために何か仕組んだ可能性もあるんじゃないかと思っただけ。
あとは、段谷の敗戦を以って姜維を批判する人の多くが、
胡済については触れないように感じてたから、それもおかしいんじゃないかと思ってね。
姜維の後釜に据えられる予定だった閻宇ってすごいのか?
>>943 次々と馬忠の後任を務めたが、風格、功績ともに馬忠には及ばなかったとある。
姜維ほどの能力はないんじゃないか?
軍政家っぽいな 戦績ってあるのでしょうか?
まじめな奴だったのは間違いない>閻宇 ただ、抜群の能力があるなら姜維以上に出世していたはず。
>>945 具体的な戦績は、少なくとも三国志と斐松之の注の中には無い。
948 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/16 07:35
呉が混乱した時に呉の重臣の要請で永安の兵力増やした時に永安都督に任命されてんな、閻宇。
将として有能かどうかよりも、攻勢派の漢中軍閥を抑える為に 中央と息の通じてる閻宇を姜維とすげ替えようとしたんじゃないかな
950 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/16 12:34
>>933 さん
胡済とは「約束した」「しめしあわせた」と正史には記載されています。
素直にこれを解釈すれば、事前連携はしていたということではないでしょうか。
胡済が一方的に通告だけされて対応できなかったorしなかったと
無理に本文を捻じ曲げるのはかえって真実から遠のくのでは?
それと、当時の胡済は督漢中ではなく鎮西大将軍ですね。
それにもし、真実がそうであったにせよ936さんがいっているように、
陳寿が姜維を憚って、正史の記載を捻じ曲げなければならない理由が見当たりませんが。
それに胡済の昇進問題に関しては、いつ昇進したか不明。
正史を読めば段谷の敗戦はその責任は胡済にあるとしていますので、
段谷後の昇進はあり得ないのではないでしょうか。
もし、それ(姜維降格、胡済昇進)が蜀本営の見解だったのであれば、
なおさら大っぴらに正史に「姜維の独走により、段谷にて敗北」と記される類のものでは?
あるいは、段谷での敗北の同年の立太子の恩赦で、
斬罪されるべきところを助かって降格というパターンで
その後恩赦の嵐で姜維の大将軍昇進と同時に昇進という流れかもしれないし。
あれだけ人材が枯渇していた蜀では、胡済を斬ることはできなかったんじゃないでしょうかね。
>950 姜維との連携および処分・昇進については、俺の憶測なんで、950さんの意見に対してもなんら反論はありません。 ただ、当事胡済が督漢中だったと思う。 蜀漢の職務制度は詳細が不明の場合が多いけど、ライ降都督と漢中都督だけはかなりはっきりした流れがある(両者とも重要だからでしょうが)。 漢中都督について言うと、諸葛亮の北伐中(と、蒋エンの漢中出陣中も?)に中断したくらいで、空位だった時期が無いので、王平の死去後、時間を置かずに胡済が任命されていると思う。 おそらく、督漢中・鎮西大将軍だったんじゃないかな。 それと、胡済の昇進の時期だが、おそらく259年でしょう。 この年前後に漢中防衛システムの解体があったこと、259年に張翼らが左右の車騎将軍に任命されているので。 張翼らと胡済は年齢・閲歴が相当近いこと、防衛システムの解体は大規模な人事異動に繋がるだろう、と言う理由からです。
>>951 昇進の時期はその辺りだろうな。
姜維もその頃大将軍に返り咲いたし。
段谷での胡済の動きに関しては
>>950 に同意。
やはり陳寿が記述を捻じ曲げる理由が見当たらない。
953 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/16 22:46
防衛システムの解体は段谷での敗北で多数の死者と負傷者、逃亡兵が出た事による 攻撃兵力低下を補う意味もあるがそれ以上に中級指揮官を多数失った事による 人事的な再編成の意味合いも大きい。 恩赦の嵐は多数の逃亡兵を呼び戻すための対策で段谷において死者以上に逃亡兵 による損害が大きかったのを示している。 この時代の戦いというのはそもそも戦死者はごく一部であって農民に毛が生えたような 兵士が逃亡することによって決着がつく。 全滅とはすなわち兵士が皆ちりじりに逃げ誰もいなくなったことを指す。 段谷においてそれでも多数の死者が出たことは逃亡兵のことを考えると計り知れない 被害があったであろう。
>>953 ケ艾伝によると、段谷で斬られた将は二桁にのぼるとあるな。
それだけ斬られりゃ再編も必要か
>>954 でも「国淵伝」にあるように、戦果でことに魏は水増しが多いとされているから、
それほど酷すぎる人的損失でもなかったのかも。
国淵伝の、10倍に水増しするのが習慣って記述に当てはめると、 段谷で斬られた兵は数百、将は数人って事になるな。 高貴郷公紀の詔勅には斬殺・生捕り合わせて5桁とあるから、 10倍としても生捕りを含めると4桁にはなる。
そこを踏まえて考察すべきなんだろうけど、正直にそれを当てはめると 逆に損害が軽微すぎる気がする。 諸葛亮の北伐においても、祁山での司馬懿との戦いでの戦果が明確に 記載されている部分があるんだけど、これもどう解釈するか、ってのがある。 「蜀書」では少なくとも三千ほどの戦果であるとあるのに、「晋書」では 「亮宵遁、追撃破之、俘斬万計」とあって、魏軍の戦果が斬首と捕虜を 合わせて万にも達したとあって、これはあきらかに魏の水増し。
段谷での死傷者の魏の水増し記録は当然。 しかしながら逃亡兵による損害において 行事があったわけでもないのに恩赦を連発したのは そうでもしないとどうしようもない状況に陥ったことを示す。 通常歴史学において、数字的な部分の記録は正確さに欠くことが多いので 戦争による損害を量るにその戦争後のその国の政策に注目する事が多いが この段谷においては一目瞭然、防衛部隊ひっくるめての再編成に加えて ありえない大恩赦までくりだしていることは その損害が大きかったことの証明である。
てゆうか田続が蜀にいたら余裕で長安とれたし
段谷後に三年連続で大赦を行っているし、人事の再編もあった事などから、 段谷において、戦闘での直接の被害はそうでもなくても、 全体の被害が小さいもので無かったのは確かだな。 姜維が悪かったのか、ケ艾が凄すぎるのか、胡済の背信が悪かったのかは分からないが、 歯車が完全に狂ったのが段谷の敗戦って事は確かだな。
961 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/18 07:39
958でとどめさされたな姜維派 まさにここが姜維派にとっての段谷
>>961 姜維派だとか、蜀将スレの下らん争いをこっちに持ち込むなよ。
ところで、姜維の目指した涼州の魏からの分断、これが成功したとしたら、
魏蜀の差はどれだけ縮まったんだろうか?
参考までに諸葛亮没後の蜀の大赦一覧 234年:大赦 237年:大赦 243年:大赦 246年:大赦 249年:大赦 251年:大赦 254年:大赦 256年:大赦 257年:大赦 258年:大赦 261年:大赦 263年:大赦
964 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/18 22:50
というより、涼州を獲ることが戦略的に位置づけられているかどうかということの方が問題。 涼州自体はその頃はあまり価値はなかった。生産力も低かったし、異民族が跋扈していて、 直接的支配と柵封体制の併用的な統治の仕方。 孔明は、第一次北征に顕著だが、明らかに関中以西が魏に背いたというアナウンス効果を 狙っていた。ようやく治めた涼州が一遍に蜀にひっくり返るのは、当初から孔明が意図して いた劉邦の再現として最大限の効果を見込める。それには街亭の隘路を押さえることが最 重要な戦略的課題であった。ほとんど落ちていたろう西を完全に押さえるまで魏軍を押さえ る事が出来ないと、そのような戦略的な効果が霧散してしまう。 姜維の場合、果たしてそのような戦略的な意味での構想があったかどうか、かなり疑わしい。 たとえば住民を移住させるのも人口の少ない漢中では意味があったのかもしれないが、その 土地を荒廃させる訳だから、孔明が企図したような意味とは逆になってしまう。羌人などの異 民族に期待しすぎて痛い目に遭っているし。対する魏にとっては、仮に蜀を不利に追い込める なら、涼州を放棄してもさして国力には響かない。
>>964 孔明も第一次北伐では住民の移住を行ってたはず。
呉だって海を越えてまで人狩りに行くくらいだから、
そういった行為は当時としては普通だと思うが。
それに姜維自身が隴西の分断を語ってた様だから、方法の是非はどうあれ、
戦略目標として涼州の分断を考えていたのは確かだと思うが。
966 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/19 00:47
姜族巻き込むのが狙いだからそれを狙ったのに関しては 姜維の狙いは普通にいい狙いだろ
967 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/19 11:02
>965 孔明の場合、街亭の敗戦後の撤退の時だけで、その理由も周辺住民が敗戦軍である自軍を襲わないようにするための人質的な部分もあったようだ。
定説はそのようだな。 姜維の場合あやしいのは、関中西部緒郡を恒久的に占領する意志があったのかどうかが 問題だろう。自領にするのは相当に困難だが、それを実現するための手だてがあったのか どうか。
969 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/19 12:57
屯田の準備してないから戦争目的の戦争だろ
>>969 屯田の準備をしてない=戦争目的の戦争、なのか?
そんな理屈では、孔明の北伐も五丈原に屯田した時以外は戦争目的の戦争になるような。
屯田といっても諸葛亮の北伐時に失敗したという前例があるから、 姜維があまり有効性を見いだしていなかったという考えもできる。
972 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/19 16:26
姜維は短期で攻めきれる自信があったのかな そもそも孔明が体力尽きてなかったら五丈原はどうなってたんだろ
屯田失敗したから撤退しかなかった。蜀から持参の穀類が育たなかった。
孔明の失敗をその目で確かめていたからこそ、軽装の兵による機動戦という方法に賭けたのかもな。 涼州に拠点を持つ事が出来た唯一のチャンスは、王経を狄道に包囲した時か。 結局陳泰に阻まれたが。
>軽装の兵による機動戦という方法に賭けたのかもな まあそれでも蜀の国力では大変な浪費なんだが・・・。
涼州→長安と、漢中→長安じゃ兵站維持の困難さが違うと思う。 漢中からの侵攻では地に足がついたものになれないから、 まずは羌族と協力しつつ涼州に拠点を築くってのは悪くないように思う。 そうなると方法だが、姜維が北伐を開始した時点で涼州をひっくり返す にはどのような方策が必要だったろうか?
涼州から長安まではもの凄い距離があるよ・・・・・。
>>977 距離はあっても桟道を使った補給をする必要が無い分楽になると思うんだが。
それに、涼州に拠点を持てば、漢中・涼州の二方面からの侵攻も可能になると思う。
少なくとも戦略の幅は広がるんじゃ。
馬超の暴れっぷりをみると、涼州からの方が姜維の機動力戦術が生きると思う。 やはり間に秦嶺山脈が挟まれる漢中―長安間では進軍、撤退、補給共に 困難だしね。 ただ、涼州が奪われたとなると魏も本気を出してくると思うし、漢中みたいな 天嶮の要害がないから逆に魏の大軍の攻撃をモロに受けやすい。 むしろ涼州は郭淮の十八番としてる地域でもあるわけだから、 姜維が戦術を駆使して戦って局地戦で勝利しても、戦略的に追い詰められ、 結局敗れて益州に撤退、ということにもなりかねん。特に姜維以外の人材が いない状況では涼州まで間口を広げるとリスクが高そうだ。 涼州―長安間は攻めやすく守りづらい地形だと言えるが、漢中から長安を 攻撃するよりは当時としてはまだチャンスがあった、のかな?
一方向しか攻め手がないのと 複数の攻め手があるのとでは立てられる戦略の幅が全く違うだろう どちらかを囮的な役割にさせたり多方向から同時に進軍したり。 涼州―長安間が有効というよりは選択肢があることが有効というべきかな むしろ長安とったあとの維持が大変だな キョウドやセンピに呼応して南下して貰わないと大兵力で長安こられたら ひとたまりもない。 そこで姜族以外の遊牧民に顔の利く人間がいたかというとどうなんだろう なんかいないっぽい よってだめぽ
ケ艾の話によると、姜維は王経を破った時は水路によって進軍してきたらしいが、 漢中―隴西間に大軍が移動できるような川ってあったっけ?
イ水?
白水だっけ、益州を南北に流れて長江に注ぐ川。 あれを遡ったのかな?
昔に比べれば、姜維の評価も上がっては来たのか? 俺が正史なんて読んでなかった頃だが、ネットでの姜維評ってかなり酷かった記憶がある。 何処のサイトかは忘れたが、「インテリに取り入るのが上手いだけの無能」とか、 「姜維はガラス玉、価値が無いのに光って見える分たちが悪い」とか散々だったような。
演義とのギャップに驚いて極端に走る香具師が多かったとは思う。 ちょっと反論するとボロクソに叩かれたからな、その頃はw
986 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/22 07:05
イヤむしろ下がってるだろ
評価が具体的になった分、否定しづらいからな。