1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/24 22:16
知力91〜100に選ばれた十五人
魏晋
曹操、荀ケ、荀攸、賈ク、郭嘉、程c、董昭、司馬懿
蜀
諸葛亮、ホウ統、法正
呉
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜
惜しくも、知力91〜100より落ちた人物
劉曄、ケ艾、沮授、田豊、逢紀
その他、候補に挙がった人物
満寵、陸抗
上記の七人は80台の上位するのが好ましい
また実際にエディターを使うときは本人の裁量を最優先としる
3 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/24 22:16
政治90候補
魏:王朗・高柔・荀ケ・鍾ヨウ・曹操・曹丕・曹叡・陳矯・陳羣・杜畿・盧毓
蜀:諸葛亮・蒋エン・費イ
呉:顧雍・張昭・潘濬・陸遜・魯粛
晋:賈充・司馬懿・司馬師・司馬昭
曹叡、杜畿、魯粛が脱落した
4 :
公孫3 ◆SANaqJXUds :03/05/24 22:44
公孫伯珪が3ゲットだ!
追加 ハータン魅力102
魔力81
特技 がんばり屋、挙手
今だ、6get!
という訳で、前スレ6です。
新スレ乙カレー
いやぁ、ドキドキしますたw
9 :
一騎 ◆Ak19z4SexA :03/05/24 23:06
>>8 みなさんがこの新スレを確認してからの方がいいと思いますんで、
控えております。
宜しければ、もう少しお待ちくだされ
あぁぁぁーーー! 10を取ってしまった…(__;)
鬱だ…
13 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/24 23:09
田豫の能力値を+12ずつせよ
>>13 前スレを読んでから、時機を見て再度来てくれ。
まだその話にいくには早いので。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/24 23:12
田豫の能力値を+12ずつせよ
>>11 気になさらないで
以後、12を名乗るから
前スレからの皆さんも、そう言うことで、よろしくお願いします
では前スレも埋まった事だし、そろそろ再開しませう。
>>前スレ987
>素人考えでは、例えば「妥当に法を適用」「学者の奨励を進言」程度は、
>ここの候補にあがるぐらいの人物なら誰でもやってそうな気がしてしまうのだ。
考えられなくも無いが、少々根拠が弱いように思える。
いかに「誰でもやってそう」とは言え、他の人物にそういった記述が無く、高柔にそういう記述がある以上、評価しないというのはやはりおかしいと思われ。
>ここでやってるのは、まさに「ふるい落とし」=「ふるいの目をだんだん粗くしていく作業」であるのだから、
>“たとえ持ち玉15個でも全部直径1の玉なら全部落ち、たとえ持ち玉1個でも直径1.1の玉ならギリギリ残る”
>という選定方法もなくはない、と思う。
やはり事績として評価できるものである以上、微量であっても切り捨てるのはどうかと思うんだが・・・。
>>18 わかりますた
では前スレの、一騎さんの
>>984-986に答えて
俺が陳矯を最終的に残す方に選んだ理由は
曹丕の相続の際、王位即位の進言をしたこと、即位の準備を整え実行したこと
これらの行為が政治が90台でなければ出来ないことと考えたんだ
同じように、潘濬と陸遜を残した理由の「呂壱の件」も
政治力が90台なければ出来ないことだと…
高柔は、事績も多いし、これだけ多い事績が残る人物だから政治力90はあるだろう
しかし、最終的ふるいを掛けるとき
彼の事績一つ一つは政治力85以上でも可能なのではと…
なんか俺、今になって新しい評価法を持ち出したけど
あくまで、最終的にふるいを掛けるためですので、ご容赦下さい
さて、前スレも埋まったようですし
無事にスレ移行進んでますね
今スレ1と名乗るのはおこがましいので、このレス番で今回の名前決めます
前々スレの1は王朗の政治89だってさ。
>>19 なるほど、納得が行った。
皆がこの評価基準で良いなら漏れもこの基準に従うよ。
ただ、この基準だと高柔以上に、司馬師が微妙に思えてきた・・・。
とりあえず、陳矯に変えて司馬師、潘濬に変えて盧毓を落選候補に推しておく。
>>21 あぁおかしいよ、認めるよ。
でもこのスレを通じて漏れも勉強させてもらってるんで勘弁してくれw
新スレ乙。
前スレ6氏の賈充の検証がまだではありますが、私は晋代の人物として張華を推してみたい。
張華(茂先、232-300)
晋の司空、壮武公。魏の魚陽郡守(太守か?)、張平の子。
・若くして孤貧となるが自ら牧羊を行い、同郷の盧欽(盧毓の子)に評価される
・同じく郷人の劉放に見込まれ、その娘を娶る
・まだ無名だった頃に『鷦鷯賦』なる文章を著作し、これを読んだ阮籍が「王佐の才である」と褒めた。
これにより名が知られ始める(知)
・郡守である鮮于嗣の推挙により太常博士となる
・盧欽が司馬昭に推薦し(?)河南尹丞となるが任官する前に著作郎に転じる
・さらに長史となり、中書郎を兼ねる。朝議に上奏し、その多くが採用された(政)
・晋王朝が成立すると黄門侍郎を拝し、関内侯に封ぜられる
・知識と記憶力に優れ、武帝司馬炎の諮問に「応対すること流れる如く」、時の人は子産に比した(知)
・中書令を拝し、散騎常侍を加えられる(政)
・羊コの呉討伐案に群臣が反対する中、ただ一人強硬に賛成した(知)
・呉の滅亡後、詔してその功績を顕彰し、廣武県侯に進封された
・当時荀勗が名族であることを自認して台頭しており、張華を疎んじて外地にとばそうと目論んだ
(荀勗が呉討伐反対派の筆頭・賈充のシンパであった事も影響しただろう)
・張華はその後任を司馬炎に尋ねられ、帝弟の斉王司馬攸を推薦したが容れられず
・持節都督幽州諸軍事、領護烏丸校尉、安北将軍に左遷される(282年)
・東夷諸国を服属させ遣使するもの多く、幽州の地をよく治めた(政)
・彼の任期中、東夷諸国の遣使は東夷29国(282年)、東夷11国、馬韓等11国(286年)などを数える
・中央に召還されて太常となったが、太廟の屋棟が折れたために免官となる(289年か?)
続く
張華続き
・恵帝(司馬衷)が即位し、太子少傅となる(290年)
・賈后による楊皇太后(誅殺された外戚・楊駿の娘で司馬炎の皇后の一人。ただし恵帝の生母ではない)
の廃立に反対したが廃太后は強行された
・衛カンや司馬亮を殺害した楚王司馬[王韋]を誅殺するのに功があり、
右光禄大夫、開府儀同三司、侍中、中書監、金章紫綬を拝する(開府は固辞した)
・賈一派の賈謐(賈充の外孫)から参政への要請を受け、裴[危頁](ハイキ、裴秀の子)の勧めで彼と共に応じた
・帝室に忠を尽くしてその任にあたり、
「闇主虐后の朝に当たるといえども海内晏然たるは張華の功なり」と称される(政)
・賈皇后も張華を敬い重んじた
・壮武郡公に進み、死去した下ヒ王の司馬晃に代わって司空となり、著作の官を領する(296年、政)
・賈后は腹違いの子である皇太子を廃そうとするが張華は反対する(政)
・趙王司馬倫(司馬懿の子)とその腹心・孫秀の暴虐を知ってその排斥を企てるが怨まれる
・武庫において火事があり、その隙に変事が起こることを恐れた張華はまず守りを固めてから
救出に向かったが累代の宝物が皆焼失してしまった
・その際、ひとふりの剣が屋根を破ってどこかに飛んで行くのを見たという(※1)
・張華の封地の桑の木が柏に変わり、また彼の近くで妖怪が現れた。
彼の子は(災いを避けるため)引退を勧めたが、張華は「天道は玄遠であり、
ただ徳を修めてこれに応じるのみだ」と従わなかった(『怪力乱神を語らず』の心意気か? ※1)
・司馬倫からの賈后廃立の相談を受けるが簒奪への目論見と見て拒絶し、
裴[危頁]らと共に三族皆殺しにされた(300年)
・のちに詔勅が下されて名誉が回復された
・人物を好み、陸機・陸雲兄弟や陶侃など優秀な人物を多く見出した(政)
・文筆家でもあり、『博物誌』などの作品を著した(知)
※1 この手のネタが平気で本伝に入っているので、「晋書は内容がダメだ」と酷評されるらしい。
三国志で言えば陳寿が切り捨てたが裴松之が註として拾ったようなレベルのネタのこと。
もっとも、だからといって晋書全体を否定しないでホスィ。漏れのお願いでつ。
ややひいき目かもしれないが、この人は90ギリギリくらいはあげても良いのではないか?
先見の明に優れ、実務、人材登用、著作にと広く活躍し、
中でも290年代中の政治を宰相としてまず平穏に司った手腕は評価すべきだろう。
なお、張華が賈后に協力したことを責めるよりは、
彼らを見出してよく政治を委ねた賈后の見識を「その限りにおいては」認めるべきだと思う。
>>22 ってまだ司馬昭が残ってた・・・。
潘濬に変えて司馬昭、に訂正。
>>25 張華事績うp乙でつ。
ただ、事績の数・質共に、90代候補に挙がってる面子と比べて一歩劣る気がするのですが・・・。
ぬるぽ
事績に現代的な評価を持ち込めないとするなら、
当時の位でもって判定するよりほかなし。
それでは、漏れも前スレ987へのレスを。
漏れもこの考え方に近いかな。
記述は記述として評価に直結させず、かつ官位を能力値に置き換えることも辞さない。
というのも、価値がないとは言わないまでも、細かい事績はあくまで細かい事績で
あって、事績を積み重ねても能力評価に積み重ねるべきではないだろう。
また、寵愛や血縁等を除けば、功績があるから人は昇進できるのであって、
官位をそのまま能力値にフローバックさせても何ら問題はないのではないか。
(この考えがそのまま漏れの孫邵や華キンらに対する評価へ繋がっているわけです)
例えば高柔で言うと、
曹叡が御陵での狩猟を罰しようとしたときの彼の行動は昇進には全く繋がっておらず、
竇礼の脱走疑惑についても全く同様のことが言えます。
また、23年もの長期にわたって廷尉に就いていたとも取れますが、
逆に、昇進するに値するものが無かったとすることも十分可能でしょう。
「彼は事績は多いものの、反面功績は少なかった」と言えなくもありません。
(実際は彼の能力というよりも、直言を辞さない性格に問題がありそうですが、
当時の政治の在り方からすると、それも政治と見なしていいと思われます)
ただ、こうした考えの持つ危険性も重々承知しています。
例えば、曹叡に寵愛された孫資と劉放を高く評価するのも難しいだろうし、
かといって要職についた彼らを無能にするわけにもいかない。
また、具体的な数値の議論になると基準が官位になってしまいやすく、
100段階の意味が薄れてしまう…etc。
こうした危険性を重視しながらも、
記述を記述として認識するに留め、官位をそのまま能力値に置き換えることも構わない。
以上が漏れの意見でつ。
現在、賈充の伝に取りかかっております。
用事があるのですぐにとは参りませんが、宜しければ気長にお待ちくださいw
>寵愛や血縁等を除けば、功績があるから人は昇進できるのであって、
>官位をそのまま能力値にフローバックさせても何ら問題はないのではないか
これも新たに議論すべき評価基準である。
漏れはこの基準を導入しても構わない。
これが導入されるなら衛臻・崔林らも再評価する必要があると思うのだがどうか?
>23年もの長期にわたって廷尉に就いていたとも取れますが、
>逆に、昇進するに値するものが無かったとすることも十分可能でしょう
曹叡の代になっても、衛臻・崔林と比べて昇進が遅かった事は確か。
ただ、上位職から最上位職に昇進できなかった事を「功績が無かった」とするのは行き過ぎかと。
>>31 > ただ、上位職から最上位職に昇進できなかった事を「功績が無かった」とするのは行き過ぎかと。
同意。昇進は運もある。
いくら功績があっても、上位陣がのうのうと居座っていたら、いつまでも上に上がれないこともある。
逆に、自分より上位の者が降格されるか、早く死ねば、功績がなくとも昇進できることもある。
ただし、前者の場合は、それを 前任>>>後任 と見ることも可能ではある。
しかし、後者の場合は、昇進の理由と功績との照らし合わせが必要であろう。
>>29-32 三人共に正しい言い分、難しい問題ですな
出世や、出世に至った変遷も一つの事績と考えるのは如何でしょう
そして同じ出世でも、三公より丞相になったことの方が優れた事績であると言えるから
出世という事績に関しては、官位の上下で評価する
当然、身分によって出世のスピードも違いますし、七光りもありますから、その辺も考慮すべきと思います
問題は
名門の丞相と、寒門の九卿、どちらを優れた事績とするか…こういった比較が難しいところです
一方で基準の話もしつつ、別路線で政治90代の決定に戻る事を提案してみるテスト。
曹丕:○64 ×1・6・12・13
蒋エン:○64 ×1・6・12・13
費イ:○6 ×1・12・13・64
司馬師:○12・13・64 ×1・6
司馬昭:○64 ×1・6・12・13
高柔:○1 ×6・12・13・64
陳矯:○1・6・12・13 ×64
盧毓:○1・12・13 ×6・64
潘濬:○1・6・12・13 ×64
↑が追加・意見修正を含めた、これまで出ている支持不支持の一覧である。
12氏が出した
>>19の基準に従うと、高柔ら以上に司馬師・司馬昭が微妙に思えるんだが皆様はどうだろうか?
64さんはどこへ行ったんだ
曹丕を擁護しなければ、ならないだろうに
それはともかく
>>34 この表では、多数決なら決着がついてるが…
取り敢えず、今のところ擁護者がない蒋エン、費イをバサリといきましょう
擁護する方は、お早めにお願いします
>「12氏が出した
>>19の基準に従うと、高柔ら以上に司馬師・司馬昭が微妙に思えるんだが」
自分で基準を出しておきながら、確かにと思わされました
少なくとも司馬昭は、落としても良いと思うよ、司馬師も、知力次第で落としても良いように思う
と言うことで、現時点での俺の落選候補5人
曹丕、蒋エン、費イ、司馬師、司馬昭
この5人に変更するよ………俺って、君主を冷遇してるなぁw
でも正史は紀伝体だから、いいかな
>>35 > 取り敢えず、今のところ擁護者がない蒋エン、費イをバサリといきましょう
> 擁護する方は、お早めにお願いします
では難しいとは思えど、あえて。
>>33の12さんの言をお借りすると、
“名門の丞相と、寒門の九卿、どちらを優れた事績とするか…こういった比較が難しいところです”
というのと似たような問題として、
「小国の丞相と、大国の九卿、どちらを優れた事績とするか」ということが上げられる。
この点、同じく12さんの言をお借りすると、
“同じ出世でも、三公より丞相になったことの方が優れた事績であると言える”
さらに
>>19の12さんの評価法を用いると、事績の量より事績の質が問われる。
とすると、仮にも丞相職につき、任務中に変事を来たさなかった蒋エン、費イの評価も
あながち軽くは見られない、ということになりはしないか。
ということで、高柔・盧毓あたりとの比較を再考されたい。
・・・とは言え、費イの方は彼の死自体が変事とも考え得るので、どちらか落とすとしたら
費イかなと思うが、この一件をもって 蒋エン > 費イ とするのは酷に過ぎるだろうか。
>>36 まことにもっともな言だと思う。
しかし、蒋エン・費イの事績から考えると、その評価は政務・統治能力に限られてしまう。
つまり前スレで64氏が言った「オリジナリティ」の面で、彼らはどうしても劣ってしまう。
だから漏れは、彼らを90代から落とさざるを得ないと思うのだ。
高柔・盧毓がオリジナリティに長けるとはとても言い難いが・・・。
なお、盧毓は司馬師出征の際、その留守を任されている。
期間の差はあれど、魏蜀の国力差を考えれば政務・統治の面でも盧毓が劣るとは言い難い。
曹丕擁護
張繍伝
理由1 魏略である
理由2 これは張繍の小心さ、厚顔さを示すエピソードであって
必ずしも曹丕の政治力には係わりはない
曹洪伝
理由1 これは曹洪のケチブリを示すエピソード
理由2 曹丕は無実の罪で処刑しようとしたわけではない
他伝ではあるが、曹洪は処罰されてもやむなしと思っていた
ホウ伝
理由1 処罰されてではなく罪を悟って自殺
理由2 曹丕は憤慨しながらも言を入れている
理由3 曹丕は常にホウを重職に置いていることからもわかる
実の所、前半は曹丕の明君ブリを示しているエピソード多し
盧毓伝
理由1 これはなんの批判なのだ?人材配置の巧さを示すエピソードばかりだ
理由2 故郷を繁栄させるのはどの王朝でもやっている事である
楊俊伝
理由1 あのような後継者争いをした微妙な時期に対抗者を誉める
楊俊こそが政治力の低さを示すエピソードでしかない
総じて曹丕は果断であり、決めたことを覆さない型の君主である
平和な時は問題なのだが、戦乱が収まらず、易姓革命を行った時期には
必要な性格であると言える
39 :
64 ◆Kwu0p51cCg :03/05/26 11:16
私が蒋エン>費イとしたのは
諸葛亮が後継者に蒋エンを任じたという部分を重く買った為である
ただ、蒋エン、費イ、姜維は80台が力を合わせて頑張ったという
イメージもあり、無理には蒋エンを押さないが考慮はしてほしい
>>38 儒学的にやっちゃいけないことばかりじゃn
儒学的とかは能力と関係ないと思うが。
>>31-32 勘違いの起きないように明示したつもりだったんですが…
「昇進できなかった事を『功績が無かった』とする」のではなく、
「昇進するに値するもの(功績)が無かった」と言いたかったのであり、
これは「彼は事績は多いものの、反面功績は少なかった」として補足しておいたつもりでつ。
概ね、お二人と論自体の違いは無いと思います。
>12氏が出した
>>19の基準に従うと、高柔ら以上に司馬師・司馬昭が微妙に思えるんだが皆様はどうだろうか?
漏れはどちらも除外候補にしていますので、意見は少し控えますが、
司馬兄弟は推すに足る業績が少ない気がします。曹操だけは別格だと思いますし。
ところで、
>>36さんは=
>>32でしょうか?
宜しければ、番号だけでもお報せください。何人いるか判らなくなってきますので^^;
初トリップ成功w
>>38 う〜ん、ちょっと擁護としては弱いかな
張繍について
これは当時、跡継ぎである曹丕が、投降した諸侯を冷遇したと言うことで、非常に問題である
君主である曹操が、張繍への恨みを飲んだのである
であるのに後継者たる曹丕が、恨み言を言って張繍に不安を覚えさせるのは、政治的にも宜しくない
曹洪について
満寵伝などに、曹洪の関係者の罪が書かれていますし、曹洪自身も素行が良くないです
しかし、死罪となる罪はありません。しかるに怨恨によって曹洪を死罪とするのは
君主自ら法を曲げ、法を蔑ろにし君臣の関係を傷つける行為と言えます
鮑クンについて
まず鮑クンは自殺でなく処刑だよ
しかも廷尉らは「死刑判決」など下しておらず、曹洪の時と同じように法を曲げたわけである
しかも鍾ヨウ、華キンら名だたる名臣が諫めても、処刑を断行した
盧毓について
盧毓は、困窮したショウの住民を思いやって上奏したのである
それを恨みに思い左遷に及ぶというのは、君主としての器量を疑うべき事績である
楊俊について
正直、過去にライバルを誉めたからと言って、些細なことで逮捕するなど、まさに小人の所行
>総じて曹丕は果断であり、決めたことを覆さない型の君主である
>平和な時は問題なのだが、戦乱が収まらず、易姓革命を行った時期には
>必要な性格であると言える
物事には節度というものがある、まして怨恨によって名士を害するという行為は
明らかに度を超した行為であり、またそのために君主自ら法を曲げるなど、
政道を蔑ろにした行為と言える。これらのことで政治力を下げるのは、当然と思われます
45 :
64 ◆Kwu0p51cCg :03/05/26 20:31
帰ってる途中に読んでて間違ったと理解
鮑クン訂正、何かと混じった
もうツッコミされてるけど
これは曹操の孔ユウと同じとしたい
他は後日
>>26 そうでつか… 幽州時代や290年代の実績を明らかにできれば説得力が増したかな?
「闇主虐后の朝に当たるといえども海内晏然たるは張華の功なり」
はなかなかの褒め言葉かと。鵜呑みには出来ませんがね。
280〜290年代の情勢というのは三国の頃とはまた変わっているわけで、
そんな時代の宰相格ということでプッシュしてみました。
確かに、90以上に人数制限を設けている以上そこに食い込めるかは微妙です。
でも、ゲームの知力80、政治76は低いと思ったわけであります。
それと、まとめ氏さん私の追記要望反映サンクス。
>>34 個々への反論は、12氏が
>>44で反論し尽くしているので控える。
ただ一つだけ、ほぼ全員に当てはまる内容で言いたい事がある。
それはこれらの人物が処刑された事が、諸将・名士の反発を招いた事だ。
しかもこれらの人物には、死罪に当たるほどの罪は無かった。
曹丕は個人的感情で法を曲げ、更に多くの者の反発を招いたのである。
つまり、漏れが挙げた「諸将・名士の反発を招いた」という点と、
>>40で挙げられている二つの点で、曹丕の行った事は失策であると言わざるを得ない。
蒋エンは64氏もあまり強く推していないので、ほぼ落選決定として良いだろう。
とりあえず一人だけ落選決定にしてもどうしようもないので保留としておく。
というわけで次は、6氏による費イの擁護・64氏による司馬昭の擁護をお願いしたい。
もちろん、他の方の今からの投票(?)・擁護・意見・批判も歓迎致すw
賈充(217-282 晋建国の元勲。皇族に次しながら、百官に慕われた英邁の士。
(魏の豫州刺史・賈逵の子。晩年の子で、これで充分という意味から充と名付けられた
・尚書郎→黄門侍郎→典農中郎将(汲郡)(政)
・大将軍の軍事に参画し、景帝に従って毋丘倹・文欽を楽嘉に討った
・景帝が病に陥ると許昌に戻り、彼を留め置いて諸軍事を監督させた(政)
・文帝の大将軍・司馬となり、また右長史に転じた(政)
・諸葛誕の下に遣わされた。以下諸葛誕伝と重複
・帰ったのち、文帝に告白して諸葛誕を召し返すことを進言し、帝は之に従った(知)
・平定すると、文帝は先に洛陽に帰り、彼は後事を任せられた(政、統)
・廷尉に移ると、彼は法理に明るく長じており、それは道理に適ったものであった(政)
・中護軍に移った時、高貴郷公事変が起きた(知、統)
・常道郷公が即位すると、城外の諸軍を率いることになり、散騎常侍を加えられた(政)
・鍾会が蜀で謀反すると、彼は節を持って、関中と隴右の諸軍事を都督した(政、統)
・帝は甚だ彼を信用・重用し、裴秀・王沈・羊祜・荀勖らと同じく腹心として働いた
・法律を定め、金章を仮された(政)
・五等(公侯伯子男)を初めて建てたとき、臨沂侯に封じ、晋の元勲と為した。
見識は深く、寵愛は特別で、俸禄は常に群官の上をいっていたという。
・文帝が司馬攸に位を伝えようとすると、彼は武帝を推した(政)
・文帝が病に倒れると彼に後事を託した。武帝に曰く「汝は賈公閭を知っておれば良い」(政、統)
・司馬炎が王位を継ぐと、晋の衛将軍・儀同三司・給事中となり、臨潁侯に改封された
・禅譲が行われると、大命を負って車騎将軍・散騎常侍・尚書僕射に移り、
魯郡公に更封され、母の柳氏は魯国太夫人と為された。(政)
賈充第二部
・新しい律を所定し、天下に公布するに当たって、百姓に之を通達をした(政)
・彼の子弟のうち一人が関内侯となり、絹五百匹が与えられた
・裴秀に代わって尚書令となり、車騎は元の通り、常侍は後に改めて侍中された(政)
・母が病み、職を去ることを願ったが、詔が下され、黄門侍郎が慰問することとなった
・政務を執ると、農業を奨励し、無駄を無くし、官を併せ、無駄な職を省いた(政)
・諸辺の兵を少なくすることを求め、羊祜の出鎮にも異論を唱えた
・必要に応じて職に任じ、賞罰は適ったものであった。士卒を愛し、士卒から愛された(政、統)
・帝の舅である王恂が彼を貶めようとしたとき、彼は更に進んで王恂を褒め称えた(政)
・テイや羌が謀反・謀叛したとき、侍中の任トが、彼を関中に出鎮させよと請うた。
詔が下されて出発することになったが、荀勖らと相談して太子との婚姻を画し、
さらに関中が二尺にもなる大雪に見舞われたため、出兵は取りやめとなった。(知)
・鍾会謀叛失敗後、司空に移り、侍中・尚書令、領兵は元の通りだった(政)
・帝が病に臥せったとき、彼は斉王・司馬攸や荀勖らと看病を続けた
・この時、河南尹の夏侯和が彼に司馬攸擁立を暗に訴えたが、之を聞かなかった
・後に帝の耳に入ると、兵権を奪われたはしたが、位や待遇は代わる所が無かった
・太尉・行太子太保・録尚書事に移された(政)
・咸寧三年、日食が三日にも及んだために位を譲ろうとしたが、許されなかった
(概ね晋では日食による譲位・辞職は無かったらしい)
・河南尹の王恂が司馬攸を弾劾すると、これを弁護した(政)
賈充第三部
・呉征伐に際して、使持節を与えられ、黄鉞を仮され、大都督となって六軍を総統した(統)
・彼は慮り、大功を挙げるのは難しいとして上陳して断ったが、
「君が行かぬなら、私が行くまでだ」と帝に言われ、渋々襄陽に進駐した
・王濬が武昌を落とすと、彼は再度上表して撤兵と張華の腰斬を願ったが、受け容れられなかった
・戦後、従孫二人が亭侯になり、弟と従孫らを関内侯とし、さらに増戸した
・282年四月、六十六歳で薨じた。葬儀は公式に太常と大鴻臚が執り行った(政、統)
・諡は武。さらに、幼くして亡くなった子・黎民が魯殤公を追贈された
彼の婦人は郭淮の姪でしたが妬み・恨みの強い人で、二人できた子も彼女によって
精神をきたし、死んでしまったそうです。彼女の姓名は郭槐ですが、「槐から初めよ」
とは全く関係ありません。w
なお、賈充の死後、郭槐は外孫の韓謐を黎民の子とし、賈充の跡を継がせています。
いやぁ、賈充長い!w
彼の女運はともかくとして(笑)、政務能力はやはり立派だったと思います。
呉征伐反対にしても、彼らなりの信念があってやっていたことで、
武昌陥落後の上陳や、(ここには書いていませんが)戦後の軍縮など、
なるほどな、と思わされます。
彼のコラムを書くなら、表題には「汝は賈公閭を知っておれば良い」を
採用したいところでつね。w
崔林(?-244 崔エンの従弟
・従弟の崔エンからは評価された
・ウ県の長→冀州主簿→冀州別駕→丞相エン属
・魏が建国されると御史中丞となった
・文帝が践ソすると、尚書に移り、さらに幽州刺史となった
・呉質が河北の軍事を束ねていたが、媚を売らなかったために河間太守にさげられた
・大鴻臚に昇進し、他国からの来朝による出費を削減する対策を練る
・明帝が即位すると、光禄勲・司隷校尉となった
・政務は煩わしさを欠き、かつ誠実であったために領民から常に慕われた
・劉劭の法案を煩雑すぎるとして批判
・237年、司徒と司空が欠員になったとき、孟康から推薦されたが適わなかった
・翌年、司徒に昇進した衛シンに代わり、司空となった
・魯の相が孔子を祀ろうとしたが、孔子だけ遇するべきではないとして批判
・244年死去。諡は孝。
張華については漏れも候補に加えてもいいと思われ。
で、このように崔林を調べ直したところ、曹丕らによる左遷が無ければと考えると、
やっぱり崔林も加えて良い気がする。(ただ、衛シンは知力重視でいいと思う)
そこで提案があるのでつが、枠をもう少し増やしてみては如何でしょう。
前スレでも指摘がありますたが、9の設定値でも政治90は15人に留まらないし、
20人くらいに増やしてやっても構わないと思うのでつが、みなさん、如何でしょうか。
プレイに関係なく、賈充と張華という大物を最後の最後に得て悦に入りたいだけかもしれんけど。w
なお、費褘の弁護についてはまた…
>>49-
>>53 賈充&崔林うp乙ーw
賈充・・・正直ここまで凄いとは思わなかった。
長々と訳をお疲れ様です。
枠拡大案に関して、漏れは反対です。
途中で基準を変えては知力を15人まで絞った意味が無くなります。
それに数値が変わっても順位まで変わるわけではないのだから、90代とも取れる人物が80代であったとしても、特におかしいとは思いません。
>>53 6さん
賈充、崔林の事績ご苦労様
>>53-54 俺としては、本音で言えば20人に増やしても良いと思う
でも、90台は実のところ、91〜100の事なので、80台にも政治90が存在することになる
80台に落ちた人物で、どうしても90にしたい人物も、個人の裁量で政治力90として救済できる
だから15人でイイよ
>>44 いや、節度があれば漢朝簒奪などと大それた事は出来ない。
その性格があってなお、あれほど鮮やかに簒奪出来たということは
政治力の高さを示しているのではないか?
今ひとつにそれらの行動をしたからといって生産性が下がった
何々が反乱したというエピソードはない。
逆に人材が魏に身を寄せている。何故か?
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
>>56 諸将はともかく、名士の反発は内から起こっていく問題であるため、その場で何が起こると言うわけでもない。
そういう物事の積み重なりが、君主権力の弱体化・名士権力の増大を招くのではなかろうか。
それに、曹丕は個人的感情で動き、名士の反発を招いたのである。
例え理由があって名士を処罰したとしても、それが人望のある人物ならば他の名士の反発を招くであろう。
ましてそれが個人的感情であるならば、はっきり言って弁護のしようはないと思うが・・。
ちなみに漏れは、最もまずかったのは鮑クンの件だと思う。
簒奪にも名士が荷担してるだけで、そいつらと敵対するような真似してる時点でだめぽ
荷担してるだけで→荷担してるわけで
61 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/29 22:20
age
62 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/30 00:06
思うんだが、
もしも20年前、コーエーが三国志というゲームを出してなかったら、
いまだに大多数の三国志を語る人間が
劉備>>>>>>>>>曹操
だと思っていたのではないだろうか。
能力を数値化したコーエー(当時光栄)の功績は大きいね。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/30 00:11
もしそうなっていたら、この板でも
【乱世の】曹操>劉備だと思うがどうよ?【姦雄】
1 無名武将@お腹せっぷく New! 03/05/24 22:15
なにげに能力(才能)的には曹操のほうが劉備より優秀だと思います
2 無名武将@お腹せっぷく New! 03/05/24 22:16
また夏厨かよ...
3 無名武将@お腹せっぷく New! 03/05/24 22:16
糞スレ立てんな>1
4 公孫3 ◆SANaqJXUds New! 03/05/24 22:44
公孫伯珪が3ゲットだ!
5 無名武将@お腹せっぷく sage New! 03/05/24 22:53
毎年この時期になると基地外な曹ヲタが出るなあ
氏ね
>>1 のようなことになっていたでしょう
ならない、そもそも三国志・戦国板自体が存在しないから。
懐かしテレビ板に人形劇三国志のスレだけ立つ。
66 :
一騎 ◆Ak19z4SexA :03/05/30 06:54
評価基準に付いての議題提案。
>>前スレ987、
>>19で挙げられた事績の質重視案(仮)と、
>>29で挙げられた官位重視案(仮)は、陳矯を評価する点・事績の重要さに欠く人物を批判するという点では一致しているものの、普通に考えれば全く異質の基準である。
この二つの基準をそれぞれどれだけ取り上げるのか、というのを決めたほうが良いと思われ。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/30 07:00
>>62 蒼天航路が出るから大丈夫??
ま、曹操びいきは昔からいるからそんな事にはならないと思うよ。
孫子に註釈を付け詩歌で文学史に名を残し中華の半分を切り取った
人間が劉備に劣ると思う香具師のが少ないだろう・・・
私は賈充は余り評価しませんね。彼の生涯は貴族のゴキゲンを伺うことに終始し、なんら政策の方針らしいものがない。
彼のような人間が晋で高官に座ってしまった辺りが、晋の悲劇だろうと思います。
>・諸辺の兵を少なくすることを求め、羊コの出鎮にも異論を唱えた
ここがまずダメですね。北方騎馬民族が勢力を拡大していたのに辺境の軍縮を求めてしまったというのは、状況認識が甘いと
謂わざるを得ない。彼の政治家としての限界を感じます。これはめぐりめぐって晋滅亡の端緒になっていくわけですから、
非常に重大な減点ですね。孫権の後継者選び失敗と同レベルの国家的失策でしょうね。
僕ならこの一項だけで知力を80程度まで下げますね。
>・テイや羌が謀反・謀叛したとき、侍中の任トが、彼を関中に出鎮させよと請うた。
詔が下されて出発することになったが、荀?らと相談して太子との婚姻を画し、
さらに関中が二尺にもなる大雪に見舞われたため、出兵は取りやめとなった。(知)
これは益々ダメですね。 テイや羌は後の五胡十六国で活躍した力のある異民族ですが、それを軽視していたことになる。
ここでテイや羌を叩いておけば、西晋滅亡はなかったかもしれないのです。
彼は基本的に状況の認識が極めてへたくそな政治屋的人間で、異民族統治という国家的重大事よりも
自分の娘を皇后にして政権を握ることを優先していたわけです。僕はここで知力を70位まで下げますね。
>・王濬が武昌を落とすと、彼は再度上表して撤兵と張華の腰斬を願ったが、受け容れられなかった
ここでも現状認識を誤っています。
彼が高官についたのは、ひとえに貴族の家柄だったからでしょう。彼の場合、官職は能力値勘定するときの
参考にならないと思います。
69 :
島田新六 ◆89LYwifxfU :03/05/30 08:23
あともう一つ。
ここのスレに書き込んで居られる諸賢に共通していえることは、「中国中世史の基礎知識を全く欠いている」
ということではないでしょうか。1960年代以降、宮崎市定・谷川道雄といった先賢が中国中世の貴族制に
関して膨大な研究成果を挙げて居られ、それが文庫や新書といった手に取りやすい媒体で配布されているにも
関わらず、読んで居られないようです。
そう言った書物を読めば、能力を評価するときに官職重視するなんて馬鹿なことは、
少しでも当時の官制に知識が有れば口が裂けてもいえないですよ。
この当時は仕事を全くしない官僚でも家柄さえ良ければ高官に登ることが可能であった時代です。
高官が政務に励むと馬鹿にされる時代です。そういう傾向は魏末〜西晋に於いて現れ、
東晋〜劉宋にかけてほぼ確立します。そういう知識を持った上で議論するべきではないでしょうか。
ちなみに私の上で謂ったことのソースは宮崎市定『九品官人法の研究』(中公文庫)です。
>>68 晋書分からん漏れに言える事はほとんどないが一つだけ言える事がある。
それは今話してるのは政治についてであるという事だ。
賈充の知力に関する論議はまだw
>>69 あと一時間位したら図書館逝くので探してみる。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/30 12:00
三国志\の本スレってどこなんですか?
孔明は死んで神になったの?
>>69 魏末ってのは曹叡以後あたりだと思う
それ以後は大きく評価されている人物は居ないと思うのだが
どのアタリを見られてそう思われたのだろうか?
司馬一族は自分たちの為に能力を駆使して乗っ取りを指揮していた以上
無能では務まらないと思うのだが。
今ひとつに私見で失礼ながら
貴族制が色濃くなったのは、曹丕、曹叡が若死にした為だと思っている
皇帝の基盤が確立する前に崩御すれば貴族は力を持ち始める。
類似として呉が上げられる
この二人以前は貴族の力はまだそれほど大きくはないのではないか?
一応、費褘について纏め中なんだけど、書いておきますか。
>これは益々ダメですね。 テイや羌は後の五胡十六国で活躍した力のある異民族ですが、それを軽視していたことになる。
ダメというのは簡単ですが、事実確認をしてほしいですな。
任トが彼に出鎮を請うたのは、単純に彼を貶めようとしただけであって、
実際に羌などを妥当して欲しいと願ったわけじゃないですよ。
それに羌などの討伐はその後に繰り返されています。
>ここでも現状認識を誤っています。
張華の腰斬を司馬炎に願った件についてですが、
彼が本当に「張華の腰斬をしてほしかったのか」は分かりません。
単純に自論の展開上、晋呉の対立という図式を推移させたかっただけだと思います。
>「中国中世史の基礎知識を全く欠いている」
と仰る割には初歩的な文庫をソースに挙げられるのですねぇ。
貴族などと言うのは簡単ですが、例えば陳矯などはどうなりますか。家柄だけであの昇進はありえませんよ。
また、幼くして父を亡くしていた賈充もどう評価すれば良いのでしょうか。
郭淮の姪を娶ったからですか? 父は既に亡くなっているのですから、彼の家柄だけとは言えないはずです。
あまり簡単に貴族性だとか「仕事を全くしない官僚でも家柄さえ良ければ高官に登ることが可能」だとか
言って欲しくはありませんな。
一応、貴族的な氏族を挙げときますか。
潁川の荀氏、
陳郡の袁氏、
沛の夏侯氏、
泰山の羊氏、
潁川のユ氏…
それに瑯邪の王氏などがありますが、
三国時代以前からの有力氏族は荀氏、袁氏くらいだと思います。
ユ氏や王氏が有力になった時期なんて、三国時代も末期に至ってからですよ。
貴殿の仰りたい意味はよく分かりますが、
そういった通史的な事例を簡単に嵌め込むことは市定先生もなさらなかったはずです。
>>69 貴重な意見ありがとう御座います
貴方が推薦された書を、読んでみますた
ただ読んだのは、このスレに関連のある魏晋時代で、特に呉滅亡前についてです
確かに、宮崎先生は、九品官人による貴族主義の弊害を述べておられますた
ただ、顕著に現れるのは東晋の頃のようです
確かに、東晋以降に官職重視での能力評価は馬鹿な真似と思います
「銭神論」や「計りごと己に在らず」などは、有名ですから…
しかし三國志に関しては、必ずしもあたらないと思います
まして、事績のない人物は、官職を頼りに能力を推し量るしか方法がありません
例えば、演義にて大活躍する「関興」は、正史において事績と言っても
「関羽の息子である」「諸葛亮が評価した」「二十歳で侍中・中監軍となった」「若死にした」この四つです。
で、何を元に評価を下そうかと言うと、やはり官職しかなく、その上で出自やらを考慮するのが妥当と思います
また、事績ある人物でも官職を、事績の一つとして評価するのは悪くないと思います
要は、名門と寒門を同列に論じなければ良いのであり、出自も事績の一つと考えれば何とかなるように思われます
さらに重要なのが「家柄のみで出世し仕事を全くしない官僚」などは、「三國志9」にそれほど登場していないことです
しかも「家柄のみで出世し仕事を全くしない官僚」こんな官僚は、高官であっても好評価する気は毛頭ありませんし
あと最後に、我々は前スレ、前々スレにおいて、事績ある人物の能力評価は、あくまでも事績優先で評価してきました
官職を優先させようと思うのは、事績のない人物だけです(勿論、出自は考慮しようと思います)
77 :
島田新六 ◆89LYwifxfU :03/05/30 21:47
私の乱暴なレスに皆様丁寧にレスを付けて頂いてありがとうございました。
やや勇み足が多かったようです。
>一騎(74)さん
>それは今話してるのは政治についてであるという事だ。
賈充の知力に関する論議はまだw
すいません、何か勘違いしていました。申し訳ない。
>64さん
>魏末ってのは曹叡以後あたりだと思う
それ以後は大きく評価されている人物は居ないと思うのだが
どのアタリを見られてそう思われたのだろうか?
おっしゃるとおりです。私が説明不足でした。曹操は能力主義で貴族を余り重視しない任官を行っていますし、
曹丕あたりまではその傾向が強いです。
>6さん
>任トが彼に出鎮を請うたのは、単純に彼を貶めようとしただけであって、
実際に羌などを妥当して欲しいと願ったわけじゃないですよ。
そうでしょうか?「任トが彼に出鎮を請うた」のではなく「任ト・ユ純が賈充を憎んでいたから司馬炎に賈充を討伐に
やることを勧め、司馬炎が『秦・涼の二境は比年しばしば敗れ、胡虜暴をほしいままにし、百姓荼毒す・・』から始まる詔書を下して有能で軍事能力に優れた
賈充に平定を任せた」というのが『晋書』賈充伝に書かれているこの件のいきさつです。
司馬炎は実際に騎馬民族を平定させようと思っていたのではないでしょうかね。
>張華の腰斬を司馬炎に願った件についてですが、 彼が本当に「張華の腰斬をしてほしかったのか」は分かりません。
それは確かにそうなのですが、腰斬という残酷な極刑(人間を切り刻む)に処すように上奏するというのはやはり
相当怒っていたことを意味するとしか思えないのですが。
>例えば陳矯などはどうなりますか。家柄だけであの昇進はありえませんよ。
・・陳矯は初任官が郡の功曹という地方官ですし、陳矯の父の名前も伝わっていません。貴族とはいえないと思います。
広陵の陳氏というのは家柄としてはあまり高くないように思いますが、どうでしょうか?
>また、幼くして父を亡くしていた賈充もどう評価すれば良いのでしょうか。
賈逵のような偉大な功績を残した人物の子供と謂うことで、『晋書』に「父の爵を襲って侯と為る」とあるように、
父の地位をそのまま受け継いでいます。彼の孝行ぶりを褒め称えてということですから彼自身の努力もありますが、
それ以上に父の功績を上乗せされていますよね。やっぱりそういうことから考えて親の七光りも勘定に入れて評価せざるを
得ないんじゃないでしょうか。初任官が尚書郎ですが、この官位は庶民出身の官吏が終生頑張ってもなかなか就きにくい官位です
(相当頑張ってもその下の尚書令史までが限界)。
・・ただ、賈充はわざわざ『晋書』に「刀筆の才有り(=小役人のような実務能力があった)」と書かれている人物ですから、
政治能力はやはり高かったのでしょう。実務にタッチしなかったと謂うことはないみたいですね。
知識と元気のある方が増えて議論が活発になるのはROMとしても嬉しい。
皆様、これからも期待しております。
>>76 あっ、今更ながら間違いを見つけてしまった
>ただ、顕著に現れるのは東晋の頃のようです
確かに、東晋以降に官職重視での能力評価は馬鹿な真似と思います
この部分、間違えてマスタ
「東晋」 でなく「西晋」ですた…スマソ
まだ島田氏が言われた本を読んでなくてアレなのですが、どうもまとまらなさそうなので・・・。
漏れの意見としては、12氏の挙げられた
>>19の基準を第一に推します。
で、事績の質をベースに、事績の量や官職なども考慮して評価していく、と・・・。
如何せん曖昧ですがこんな所でいかがでしょうか?
>>81 一騎さん、そう言ってくれるのは嬉しいけど…自分の意見を自分で推すと言うわけには…
と言うわけで…
最初の段階である…「候補」を選ぶ際には、質、量、片方だけでもOKで
第二段階である……「最終選考」の際には、一騎さんの仰られているように
事績の質を第一に、量、官職などを考慮するのがよいかと(官職は出自も考慮する)
初期選考(候補選び)
事績の質、または事績の量が優れている人物、または質量のバランスがとれた人物を優先する
最終選考
事績の質を重視。事績の量は勿論、官職は出自も考慮する
つまり、一騎さんの意見の通りでよいと思われ
>>81 >>82 同感です。
圧倒的に量が多いというだけでも、もちろん優れている証しです。
が、どうしても優劣つけないといけないときは、質を重視したいですね。
「抜け出ている」感がポイントと見て。
どちらもすごい「数十冊からなる大百科事典」と「聖書」を無理に比べるようなかんじでしょうか。
あんまり良い例えじゃありませんが。
島田様、こちらこそ勇み足でレスしてしまいました。
それでは、日を置いたところで、改めてレスをさせていただきます。
なお、余談のせいで少し長くなってしまったので分割で投稿しますが、ご容赦ください。
>賈充と任ト
仰る通り、司馬炎はあわよくば征伐に赴いてくれれば、と考えていたと思いますよ。ただ、
私が言ったのは「任トが羌の打倒(前回誤字でした。スマソ)を願っていたかどうか」なのです。
任トらは賈充を憎んでいたため、賈充を征伐に行かせることで政権から遠ざけさせたいと
願っていたことでしょう。仮に征伐で失敗すれば、それを理由に弾劾も可能ですしね。任トら
からすれば、彼を政権から遠ざけられれば羌征伐でなくても良かったと思いますよ。
余談ですが、司馬炎からしても賈充は信頼できても信用の置けない人物だったと思います。
この時期の彼は、司馬炎の最も懼れる弟の岳父であり、その後見人でもありました。父の遺
言であり、社稷の臣でもあったために輔弼の職に在りましたが、主君からすれば失脚してくれ
ても何ら問題は無いと考えられていたことでしょう。
だからこそ、荀キョクの進言が正しかったのではないでしょうか。主君の政敵の後見人であ
った彼が、主君に信用を得る手段とは何か。主君の直接の姻戚になることだったのだと思います。
>張華の腰斬を直訴したこと
私が思うに、
無駄な軍事行動を起こすことは人民を血に染める行為であり、国家を疲弊大いに疲弊させる
ため、国家騒乱の罪に当たります。当時の法令からすると、その行為を償うためには処刑、
しかも残酷な処刑法を用いることになるでしょう。それが偶々、腰斬だったのではないでしょう
か。彼は征呉の非を訴えたかった、起きてしまった大動員を原因である張華を罪して止めたか
った、その罪を償うためには腰斬が適当だと思われた、張華を腰斬すべしと上奏するに至った…
どうでしょうか。個人的には道理であると思うのですが。。
>爵襲と昇進と能力
これはどちらかに断定はできないのですが、
「切欠に関しては仰る通り。ただ、昇進の理由まで父の遺産にすることには疑問」です。
中正制度がありましたから昇進の限界があったのは確かでしょう。とはいえ、夏侯淵の長子・充
など、名臣の子で重用されなかった者も多くいました。賈充は彼らに比べて恵まれていたとは
言えませんが、果たして百官を統べるに至っているのですから。
また、親の七光りも勘定に入れる、という点に関して言えば実に同感です。実は、前
のスレで陳矯に話題が移った際に「陳登の部下だったという外様の身で…」などと書か
せていただきました。賈充に関しても同様に、立場を変えて考えているつもりです。その
とき、島田さんはおられなかったのでご存知ないかもしれませんが…
>>81-83 漏れも異論無しですよ。^^
早く費イを擁護しないと選考に間に合いませんね…
曹丕:○64 ×1・6・12・13
蒋エン:○64 ×1・6・12・13
費イ:○6 ×1・12・13・64
司馬師:○13・64 ×1・6・12
司馬昭:○64 ×1・6・12・13
高柔:○1・12 ×6・13・64
陳矯:○1・6・12・13 ×64
盧毓:○1・12・13 ×6・64
潘濬:○1・6・12・13 ×64
それでは選考を再開しませう。
>>48でも言いましたが、6氏による費イの擁護・64氏による司馬昭の擁護をお願いしたい。
既に投票を行った方の意見変更や、他の方からの投票・擁護・意見・批判も歓迎致す。
参考: その他の政治90候補(ほぼ確定?)
魏:王朗・荀ケ・鍾ヨウ・曹操・陳羣
蜀:諸葛亮
呉:顧雍・張昭・陸遜
晋:賈充・司馬懿
「
>>87から5名ふるい落とす」と同時に「>>87から4名選ぶ」という見方もできますね。
(人数はあくまで上記11名が「確定」であればの話)
確定メンバーについては異論ないですな。
と、いうことで個人的には四名選ぶと考えたほうが選びやすいな。
では、漏れ的に四名。
高柔
陳矯
盧毓
潘濬
かな。四名の中でも 陳矯・潘濬は確定。
バランスを考えると高柔→費文偉という案も捨てがたいが、
ここはあえて偏りも止むを得ないということで。
それでは、費イの弁護を。といっても弁護になるか自信ありませんが^^;
主観ではありますが、費イが蜀の最高権力(の代行)者として最も調和を重視していた
人だと思うのです。魏延と楊儀の仲裁を初めとして、呉蜀の外交・調停、大司馬・蒋エン
と蜀朝廷の折衝…
政策にもそれは現れており、最高権力者でありながら一頭独裁をせず、数多く重臣に
引き上げています。大将軍へ昇進するに先立ち、まず蒋エンや馬忠と協議して姜維を涼
州の刺史に推挙しており、また、王平・ケ芝・馬忠らの四鎮将軍や車騎将軍への昇進に
も関わっていたでしょう。他にも、董允の死後、独裁できたにも関わらず、すぐに尚書令に
陳祗を据えています。
このような調和のとれた国家体制を実現できたのは、彼自身の性格を含めた人望と手
腕によるものでしょう。諸葛亮の存命時には、府の属官が国家を担うほどに権力を偏ら
せていたため、公平とは言い難い状況でありました。これを是正できた彼の手腕を評価
したいところです。
もちろん、こうした分権を調和と採るか、それとも牽引力の無さと採るか、微妙なところ
では有りますけど、彼の行動からすると調和ではないかと私は思うのです。
また、その諸葛亮の死後、疲弊した蜀漢が再び出征を開始できるようになったことも、
彼によるところが大きいとも思います。
最後となりますが、黄晧との関係について。黄晧は陳祗が尚書令となった(251)後に権
力を握るようになったと董允伝にありますが、華陽国志だと費イの没後に…と書かれて
います(253)。たぶん、関係ないんじゃないかなぁ…と…
分権しすぎた弊害とも考えられますけど…
いやぁ、書いてて苦しい…(笑) 他国と比較できないですし…
漏れも
>>87から四名選びましょ。
費イ、陳矯、潘濬、高柔
崔林と高柔、張華で悩みますたが、
スレの流れもありますし、高柔で。
あぁ、、華キンを推したいんですが、ダメでしょうか。
宜しければ高柔に替えて華キンにしたいでつ
華キン、陳矯、潘濬、費イ
>>90 当然の事ながら、費イと最も比較しやすいのは蒋エンでしょう。
蒋エンの国政と費イの国政、どちらが優れているかというのは人それぞれです。
でもここでは蒋エンの国政を肯定する立場から、費イの国政を批判する事にします。
蒋エンの国政は独裁による北伐抑制でした。
費イは主権者となった後、姜維・王平・馬忠らを昇格させています。
これは逆に言えば、蒋エンはこれらの優秀な人材を抑えてまでして、独裁による北伐抑制を断行したと言えます。
それに対し、費イのこの登用は、6氏の言うとおり調和による国政を目指したものであったと思います。
しかし姜維らの任用によって、北伐抑制の力は弱まりました。
費イは姜維の軍事行動を抑えていたとは言え、蒋エンの代には無かった軍事行動が、行われるようになったのです。
また、蒋エンは他の人物(主に北伐推進派)を抑えつける事によって、独裁を行いました。
他の人物を抑えつけなかった費イには、独裁は無理であったと思います。
北伐推進派の動きが強まった中で、漢中と成都、双方の権力を一手に握るのは不可能でしょう。
費イは漢中で姜維らの北伐を抑える必要がありました。
だから董允や陳祗に、成都の政務を任せたのではないでしょうか。
費イは肯定の立場で見れば調和の取れた国政を行いました。
しかし否定の立場でみれば、単に牽引力が無いという問題に収まらず、蜀の分裂を招いた、という事にもなると思うのです。
もちろんこれは極端な見方ですが、費イの取った国政はこのようにも取れる、といった意味で、長々と書いてみました。
>>92 華キンの政務能力と徳性は確かに魏に大きく貢献したと思います。
しかし高柔の残した事績が、貢献度の面で華キンに劣るとは思えないのですがいかがでしょう?
打開策の提案です。
私は盧毓を90代に推していますが、他の人物と比べて結構微妙です。
費イや華キン等、他の人物を強力に推す声があれば、盧毓を落としても良いと思っています。
潘濬・陳矯・高柔とあと一人、というのが漏れの希望なんですがどうでしょう?
他に譲歩案あれば是非お聞かせ下さい。
>>93 武将ファイルからの抜粋ですが、
・蒋エンも詔により北伐の計画は立てていた。(が、呉が動かないから行動を起こさなかった)
・姜維に北伐を任せるよう奏上したのは蒋エン。
前者より、蒋エンは北伐抑制派だったかもしれませんが、否定派・反対派ではなく、
積極的な抑制派でもない(結果論として抑制された)ようにも見えます。
また、後者より、費イの独裁を最初に邪魔したのは蒋エンということにもなります。
費イは、独裁権をとりもどす力量はなかったが、
諸将の昇格等あらゆる手(政治的術策)をつくして国をまとめた、とも見れるのではないか。
とすると、それは孔明とは別のスタイルでの統治であるともいえ、
ここに(蒋エンにはない)費イのオリジナリティーを見いだすこともできるのではないでしょうか。
>>94 華キン<高柔の点、同意です。
ただ、よく見かえしてみると、高柔の事績も政務と言うよりは徳行に近いものが多い気がします。
>>95 「資料まとめ」のページを見て、私は高柔より盧毓を上と思いました。
下記の「その他の事例」だけを比べてみると、盧毓の方が大規模なことを実際に自ら
やってのけた(進言だけでなく)ような印象を受けたのですが、いかがでしょうか。
共通事例
・特定人の死刑に反対 「徳行」
・同僚を援護・擁護する進言 「徳行」
類似事例 (高柔vs盧毓)
・法の公正についての進言(適用段階vs立法段階) 「政」
・宮廷の?秩序維持に関する立法についての進言(「密告奨励法廃止」vs「勤務評定制定」) 「政」
・妥当な統治(妥当に法を適用vs恩恵を施し、教化を行き渡らせる) 「政」
・人材論(学者の奨励vs・性質、品行を優先して選抜) 「政」
高柔のその他の事例
・退散した官吏を許し、帰還させる 「政」「徳行」
・趙達らに群臣を監察させる曹操を諌める 「政」
・三公を朝政に関与させるよう進言 「政」
・宮殿の造営と、後宮の女を増やす事を諌める 「政」
・密告を受けて劉亀を投獄した曹叡に密告者の名を求める 「政」
・脱走の疑いが掛かった竇礼が、焦子文に殺された事を判明させる 「知・政」
盧毓のその他の事例
・ショウの住民を梁に移住させるよう進言 「政」
・移住民を統率し、美田を選んで住まわせる 「政」
・孫ヨウらを侍中に推薦 「政」
・韓キらを司徒に推薦 「政」
・司馬師が征討に出た際、後の事を取り仕切る 「政」
・王観、王祥を司空に推薦 「政」
そこで私的には、
前任者のレールに乗ったといえなくもない曹丕、蒋エン、司馬師、司馬昭の4人以外のうちから、
潘濬・陳矯 : エポックメイキングな功績を讃えて。
費イ : それには及ばないがオリジナリティーを感じられる者として。
(良くも悪くも前任者のレールに乗れなかった者として。)
盧毓 : 残った高柔との比較でもあるが、真に質・量を備えた者として。
の4名を選びたいと思います。 以上、長々とすみませんでした。
なお、
>>42の6さんのご要望にお応えして、今回は番号を一部w晒してみましたが、
私には首尾一貫した意見を述べられるほどの力量がありませんので、
今後はまた名無しに戻って、思いつくまま口を挟ませて頂ければ幸いに思います。
ちょっと前に吊し上げられてた賈充や
あまり触れられてなさそうな王朗などに
付け入る隙はないだろうか。
高柔がんがれ。
曹丕においての批判は全て人材のスポイルだと思われるが
その方法が魏朝が傾く要因に成り得ていない。
貴族の反発を買ったというが(買ったのか?)、
皇帝の力を見せつける効果の方が大きい。
曹丕時代は司馬一族も大人しい。
そして失敗と比べて功績の方が多大である。
人材のスポイルはどんな明君ですら行っている行為でもある。
曹操もマタ行っている。
歴史を見れば曹丕ほど懸命な二代目は少ない。
これほど功績を挙げて90台に及ばないのはあまりだろう。
ところで読み直して私も賈充には疑問があるな
>>100 だからよりによって味方を殺してんだよ。
しかも皇帝の威勢を示すのと暴君の暴走とは全然違う、
過激な政治を行った秦が二代続かなかった例を見ればそれは明らか。
皇帝の権力を強化するならば有力な豪族を切り崩していくべきで、
法令を逸脱してまで自分の気に入らない家臣を処刑するのはただの馬鹿。
現実に曹丕はこれらの行動を利用して何も魏朝に+になることをしていない、
個人的感情で気に入らない家臣を何度も処刑するような皇帝に90与えていいのか?
もう一度言うが、曹丕のこの行動は全く魏朝にとって+になってない。
潘濬、陳矯は確定で良いんじゃないでしょうか
それで高柔、盧毓、費イの三人から、あと二人を選ぶ形で…
で、俺は
高柔、盧毓を推します
事績の質は、甲乙つけがたかったため、量で決めますた
…しかし蜀での、諸葛亮の優秀さが際立つなぁ
(64さんは曹丕を推しておられるが
正直64さんの
>>100での言い分では、政治90台にする必要性を感じない…)
>>96 まず、蒋エンを独裁による北伐抑制派であるとしたのは私の誤りでした。
申し訳ありません。
>姜維に北伐を任せるよう奏上したのは蒋エン
蒋エンの意図の理解に苦しむ事績です・・・。
慎重派の蒋エンが積極派の姜維の任用を上奏する理由が分からないのです。
蒋エンは姜維が積極派である事を知らなかった、という方が筋が通ると思うのですがどうでしょうか?
>費イの独裁を最初に邪魔したのは蒋エン
姜維が鎮西大将軍・涼州刺史に任命された時、政治の実権は費イに移っていたと思います。
蒋エンの代には官位の低かった王平・馬忠が、姜維と共に破格の昇進をしているからです。
但し、費イは初めから蒋エン程の政治権力を持っていなかった、という可能性もあります。
それならば姜維ら積極派の台頭を許したのは費イの責任ではなく、むしろ董允や陳祗を任用して積極派を抑えた事は評価に値します。
>諸将の昇格等あらゆる手を尽くして国をまとめた、とも見れるのではないか
これは私(大本は6氏)の言う「肯定の立場で見た費イの国政」ですよね?
>>97 私は盧毓の方が、事績の質という点で一歩劣ると思います。
「盧毓のその他の事例」において、まず初めの二つは地方寄りの事績です。
盧毓の行った「推薦」は、官吏の中から適任者を選んだというものであって、特別に見出したというわけではありません。
一方の高柔は、進言とは言え、国政・政治体制に関わる事績を残しています。
(群臣監察への反対・三公の朝政への参与)
また、官位の面で高柔の方が勝っている事も、多少加味しても良いと思います。
もっとも、盧毓は一度左遷されているので、あくまで多少ですが・・・。
>>100 >魏朝が傾く要因に成り得ていない
>>58をもう一度参照あれ。
その場で傾けなければOKならば、陸遜を憤死させた孫権にも罪は無かった事になる。
>皇帝の力を見せつける効果の方が大きい
>>101の意見に同意。
>曹丕時代は司馬一族も大人しい
司馬一族の台頭は曹叡の死後である。
別に曹丕時代から権力を持っていたわけではない。
>失敗と比べて功績の方が多大である
それは誰とて同じ、それだけハイレベルの争いという事。
>人材のスポイルはどんな明君ですら行っている行為でもある。
>曹操もマタ行っている。
どんな明君であってもマイナス面はマイナス面。
曹操による崔エンらの処刑も、マイナス要素である事に変わりはない。
考える時間も含めて一時間以上・・・さすがに疲れたw
蒋エン・費イの議論で分かった事、それは蜀末期の考察は楽しいという事・・・。
蜀末期が好きになりますた。
>>一騎様
丁寧なレスをいただきありがとうございました。無駄にお手間を掛けさせるようで気がとがめていましたが、
>>106のように言っていただけて幸いです。なお、以下は回答と補足です。
>>103 > 慎重派の蒋エンが積極派の姜維の任用を上奏する理由が分からないのです。
> 蒋エンは姜維が積極派である事を知らなかった、という方が筋が通ると思うのですがどうでしょうか?
ありえますね。役職に就いたとたん性格が豹変する人っていますしw
あるいは費イは後方任務が多く軍事的経験に乏しいから、という単純な判断かもしれません。
前後も踏まえて正史を読み込んでみたいと思います。
> >諸将の昇格等あらゆる手を尽くして国をまとめた、とも見れるのではないか
> これは私(大本は6氏)の言う「肯定の立場で見た費イの国政」ですよね?
おっしゃるとおりです。
あえて付け加えるなら「否定的にではなく肯定的に見たい」という意思表示であり、それは
孔明−蒋エン路線とは異質な「費イの手法」を肯定的に見るための前提、ということです。
それと、追加になりますが、蜀の宰相職(特に孔明)は実質上、皇帝職に等しいものがあり、
他国の宰相とは性質がやや違う、という点は考慮に値するのではないでしょうか?
>>104 >>97で理由を挙げてませんでしたので、遅ればせながら補足です。
盧毓の初めの二つは地方よりの事績ではありますが、実際に指揮実行している点が評価に値するかなと思いました。
でも、今思ったのですが、これは(特に後者は)「統率」の範疇に入りうるかもしれませんね。
それから、『・司馬師が征討に出た際、後の事を取り仕切る 「政」』というのを、単なる進言以上の価値と捉えました。
が、あくまで、印象です。実際にどこまでの権限をもって何をしたかを理解したうえでの価値判断ではありません。
それと、官位の点は私の考慮からは漏れていました。「取り仕切る」という記述から安直に丞相的に考えてました。
ちょっともう、今の私の力量では「甲乙つけがたし」としか言えないというのが正直なところですので、
申し訳有りませんが、あとは諸賢のご判断に委ねたいと思います。(私見は一応
>>98のとおりとします)
いやぁ、このスレは勉強になりますね。改めて自分が勘違いしていたことが判りますた(笑)
さて、色々書く前に、彼の履歴を概略で書いてみたいと思います。
190年 尚書郎だった。朱儁を助けて董卓に異を称える
212年末? 尚書令(漢)となり、御史大夫(漢)のチ慮の副官となる
217年 丞相府軍師となる(尚書令との兼任だろう)
同年 丞相府軍師から御史大夫(漢)となる
220年 御史大夫(漢)から相国(魏王国)となる
同年 陳羣に推されて文帝の補佐役となり、司徒に移る
こうした転任履歴を見ると、彼が曹操の補佐役を負っていたということがよく分かると思います。
尚書令を荀ケから継いだのも勿論、漢の御史大夫に転任して丞相・曹操の補佐を務めました。
彼が御史大夫であった当時、鍾ヨウや王朗ですら魏王国の臣下に過ぎず、また、夏侯惇を漢の
将軍に留めることで名誉としたこともあります。曹操は自らの右腕という破格の待遇を彼に対して
行っていたのでしょう。
彼はこうして五年程に渡って漢王朝の事務を取り纏め、また昇進して副丞相・御史大夫となり、
事実上百官を取り仕切っていたことでしょう。こうした彼が魏王国に降下することで、漢魏禅譲が
誰の目にも明らかになったと云えると思います。
政務において、魏臣では誰よりも彼、華キンを評価するべきだと思うのですが、如何なものでし
ょうか。
なお、彼が任官を受けた御史大夫が、魏官ではなく漢官であったことは後漢書献帝紀に明記さ
れていますた。実は私、今まで魏官だと思ってますたw
蒋エンと費イについては、また。
>>108 彼って、華キンのことれす… 大変スマソ…
>>107 >蜀の宰相職(特に孔明)は実質上、皇帝職に等しいものがあり、 他国の宰相とは性質がやや違う
>『・司馬師が征討に出た際、後の事を取り仕切る 「政」』というのを、単なる進言以上の価値と捉えました
これらの見方ももちろん分かります。
というより、私も初めはこういう見方をしてました。
ただ、独創性・貢献度という観点から見ると、これらの事績はそこまで高くは評価出来ないと思います。
>官位の点は私の考慮からは漏れていました。「取り仕切る」という記述から安直に丞相的に考えてました
この言を受けて調べてみました。
司馬師が征討に出た二五五年、盧毓は尚書僕射・光禄大夫・侍中、高柔は司徒の官に就いています。
位だけ見れば高柔の方が上ですが、しかし後事を取り仕切ったのは盧毓・・・。
司馬師が盧毓に後事を任せたのは、「三公には実権が無かった」「高柔が老齢であった」などの理由も考えられますが「盧毓の方が政務に優れていた」からという理由も十分考えられます。
先の反論と相反するようですが、盧毓>高柔とも取れますね・・・。
>>108 その官職の流れから、華キンが相当に優秀な政治家である事は分かります。
しかしその事績から考えると、政治90代に値するとまでは行かないと思うのです。
見方を変えれば華キンは90代にもなる存在だとは思いますが、事績の質重視であれば一歩劣るのではないでしょうか?
一人決まれば楽なんだが・・・混戦だなぁ。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/06 16:34
ケ艾の評価が低すぎる。
陸遜に匹敵する名将だぞ。
>>112 流れを読め。どのみち大政治家ではありえないから政治20傑には入らんが。
吃音(どもり)だったから魅力は低いが、才能的には鬼才の域。
測量して軍営設置場所を即座に図形で示す事ができたとか、ケ艾以外には居なかっただろう。
「済河論」を著して開墾と屯田制と運河の必要性を説いたり。
シバイはケ艾の意見を多く取り入れ国は潤ったという。
軍事面でも地形を読むのがうまくキョウイも退けてる。
諸葛センを破ったり、戦果も大きい。
いわゆる悪知恵や華キンや鍾会のような出世欲(野望か?)は足りなかったが、
才能だけを考えると群を抜いてると思うね。
実務能力だけならシバイより上。
というか実質ケ艾がいないと蜀を落とすのは5年延びてたよ。
曹否とか曹エイ、司馬師はないだろ。
官職的には高いかもしれんが。
武官でいう曹休や曹真と同じ扱いでいいよ。
華キンはむしろ謀略、讒言だ。
ケ艾は大政治家ではないが武官じゃないぞ。
シバイと同様、文官上がりだ。
最初は農耕関係の下吏、次に尚書郎。
あまりにも才能がありすぎて軍事面に利用されただけ。
まあ大政治家というのは、振りかえってみると悪法ばかりってのが多いですけどねw
現代ではケ艾みたいな人物こそ評価されるべきだし、今振りかえっても、
実質ミスらしいミスはしていない。
司馬師とかって父の遺産で食い繋いだ感があるから1ランク落ちると思うんだが。
呉征伐にも失敗してるし、権力争いに必死でクーデターを企画した
張シユウ、カコウゲン、李豊らを抹殺、一族皆殺しはやりすぎだろ。
まあそこまでやらんと権力を保持できないんだから仕方ないと思うけど、
権力争いに勝ったのは知力だろ。
大政治と言えるわけ?
司馬昭は兄が呉征伐に敗北したら身代わりに自分の爵位を返上したり、
キョウイの入冠を防いだり、諸葛誕を討ったり、まあどちらかというと統率系という感じがするが。
あと蔡邑はオレだったら確実に政治90以上は付けるね。
候補に挙がってる顧雍より下ってことはないだろ。
後漢末の大学者で琴の名手、顧擁に学問と、琴を教えた大人物だぞ。
霊帝に、腐敗した権臣を除いて清廉な者を登用するよう建言して宦官に睨まれたが、
聞き入れられれば(ありえないわけだが)後漢の崩壊は遅れていたはず。
ちと代えさせて貰う
魏:曹叡・杜畿・陳矯・高柔
蜀:蒋エン・費イ
呉:魯粛・潘濬
晋:賈充・司馬師
盧毓を再評価、読み直して考え直してみると
上奏が為されず困窮している都市で富ませたりと
中央、地方の業績は面白い。
高柔は儒者の知なのであまり実務能力とするのはどうだろう?
陳矯もまた、補佐する業績(決まったことを円滑にやる)なので
90台はどうだろうか?(王位進言は多数の人が行っている)
潘濬・費イを見ると魏の太守クラスのようにも思える。
潘濬・費イ・賈充・司馬師で悩む
>>105 >>58を読んで、君たちの主観であるように思う、実例がない
言わせて貰えれば、たかだか数名の部下を殺した所で
円滑に王朝が動いているのであれば問題ない(代わりが居る)
それと曹叡以後の皇帝を見れば部下に妥協的で柔和だ
つまるところ妥協的な態度は部下を増長させる要因にしかならない
特に王朝初期はそうだ。
あと陸遜が殺されたから孫家が滅びたわけではなく
もしもココで孫権のマイナス要因があれば後継者選びに失敗したこと
陸遜の進言を聞かなかったことである。
陸遜があれ以上長生きしたからといって呉の飛躍的発展はありえない。
時代を区切って見れば繁栄にどれほど君主の力量が問題であるかがわかる。
何度も言うが君主、君主代理は失敗が表に出やすい。
だから曹丕が殺したのは織田信長が前田利家殺すようなもん、
光秀いびって致命的な叛乱招いたの忘れたか?
信長は極端な政策を取ったからこそ評価されてる、始皇帝もそう。
曹丕はただ中途半端にやっただけ、古い因習を打破したのでも
伝統を守ったのでも無い、気に入らない家臣(しかも刑罰を覚悟して諫言した忠臣)を
処刑、アフォ。
同じことをやってもそれをうまく利用してれば評価される、曹丕は利用してない。ただ暴れただけ。
追記だが、そうやって忠臣を処刑して諫言するものもいなくなり国が衰退していった例は多い。
>潘濬・費イを見ると魏の太守クラスのようにも思える。
(´Д`)/先生! 規模だけなら諸葛亮なんて所詮一州牧の知力政治80台武将です!
曹叡と司馬師の90以上はありえない。
魯粛は外交政策をどう評価するか。
潘濬もオレだったらあり得ない。
>>120 >陳矯もまた、補佐する業績(決まったことを円滑にやる)なので、90台はどうだろうか?(王位進言は多数の人が行っている)
取り敢えず、陳矯伝を読もう。官をそろえ儀礼を整え、一日で処理した、とあるだろう
決して進言だけじゃないんだよ
>潘濬・費イを見ると魏の太守クラスのようにも思える。
潘濬は太常、費イは録尚書事、共に中央の官職で重職
それに、例え支配する地域が一州規模であっても国家の体をなした組織である
一州の刺史や一郡の太守とは比較にならない職責がある
潘濬や陸遜は荊州に留まったため誤解されやすいが
武昌は呉の副都とも言うべき場所で、太子の孫登が預かっていた時期もある
陸遜は孫登の輔弼の任にあり、潘濬は文書を司っていた
費イの録尚書事については、上のほうで諸賢が議論されているので参考にされたし
>>114 実務能力・地方政治での才はもちろん承知しているが、このスレでは国家規模の政務重視になってしまってるからな・・・。
例えばケ艾を評価すると、韓浩・棗祗・倉慈なんかも同様に評価される事になる。
よってこのスレでは90代からは除外の方向でお願いしたい。
>>119 それはある程度の人物なら同じ事を思っていたのではなかろうか。
もちろん聞き入れられてたのなら話は別だが・・・。
九品官人廃止の進言を退けた衛カンの例もあるので、ここは90代からは選外とさせて頂く。
>>120 まず・・・何故10人出てくるの?
あと、曹叡とか魯粛を今更出されても混乱するし、華キンなども出て来てるのでもう少し流れを読んでほすぃ。
>高柔は儒者の知なのであまり実務能力とするのはどうだろう?
儒者の知であろうと、時宜に見合った法律関連の進言をしたのだから、その功は取り上げられてしかるべきと思われ。
>数名の部下を殺した所で円滑に王朝が動いているのであれば問題ない
>陸遜があれ以上長生きしたからといって呉の飛躍的発展はありえない
そういう事を言ってるんじゃなくて、名士を殺した事自体が王朝の内部を揺るがしたって事を言ってるんだ。
例えば、孫権が陸遜を憤死させた事で呉を見限った名士も多い。
つまり、一人の名士を殺害した事が、他の名士にも影響を与えた、という事。
129 :
一騎 ◆Ak19z4SexA :03/06/06 21:21
まことに勝手ながら決を取らせて頂く。
支持の強い陳矯・潘濬は当確、逆に支持の弱い蒋エン・司馬師・司馬昭は落選とします。
その上で、曹丕・費イ・高柔・盧毓・華キンの中から「1位○○、2位××」と言った感じで二人を選んで頂きたい。
1位が同列で二人だと思ったらそれでも構わないし、2位が同列で二人だと思ったら3人選出しても可。
また、このスレ常駐のコテハン以外の方は、理由も添えて投票して下され。
漏れは、同列1位で高柔・盧毓に投票致します。
漏れも
盧毓、高柔かな
ところで、次の統率の件だけど
6さんと前スレの808さん、後漢書と晋書の事績、お願いできないでしょうか?
袁紹、皇甫嵩、朱儁、杜預、王渾、王濬で90台有りそうだと思われる人物をお願いします
すでに完成している人物
夏侯惇、夏侯淵、夏侯尚、曹彰、曹仁、曹洪、曹休、曹真、張遼、張コウ、徐晃、満寵、田豫、牽招
郭淮、陳泰、毋丘倹、ケ艾、張繍、(呂布、三國志呂布伝)
劉備、諸葛亮、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲、李厳、魏延、馬忠、王平、張嶷、姜維
孫堅、孫策、周瑜、魯粛、呂蒙、程普、黄蓋、韓当、蒋欽、周泰、甘寧、リョウ統、徐盛、潘璋、丁奉、太史慈
今後の予定、楽進、于禁、李典、李通、臧覇、文聘、徐バク、王昶、王基、朱然、朱桓、陸遜、陸抗、全j
他に事績の必要な人物はありますか?(曹操のは作る気はない、それと後漢書、晋書以外)
途中からで過去スレを知らんので政治はノーコメント。
統率は諸葛キンやカク昭とかも事績があると良いのでは。
鍾会、陳登……まではさすがにいらないですかね。
一応、諸葛均じゃなくて諸葛瑾の方な。
カク昭も郝昭で。
>>111 事績の質という点で言えば、それも問題ないと思いますよ。
尚書令から御史大夫に遷ったとき、尚書令には荀軍師が据えられました。そして桓階、
陳羣と令は受け継がれています。実務能力に長けていたのは間違いがないと思われます。
また、御史大夫の際に中丞には陳羣がありましたが、後、陳羣が曹丕から輔弼の臣を指
名されたとき、「華キンと長年仕事をやってきましたが輔弼に足ることが判った」とあ
り、彼が信用に足る能力と人柄であり、信望も厚かったことが窺えます。
付け加えて言えば、彼の家柄は全く無名なんですよ。高唐県で検索してみましたが、同
県の人士自体が全くいないようです。
荀ケを度外視してしまえば、私としては、彼が政務能力ナンバー1です。
実際、私のでも1位になっていますが…
とりあえず費イはそんなに推すつもりは無いので、華キン1位のみの投票でお願いします
>>130 もう作られていたのですか、スゴッ! いや、お疲れ様です。
>袁紹、皇甫嵩、朱儁、杜預、王渾、王濬で90台有りそうだと思われる人物
まず皇甫嵩でしょう。黄巾の乱は彼なくしては語れないほど、彼の双肩に委ねられるも
のが大きかったですから。他にも王国討伐、
少し直言に過ぎ、身を滅ぼしてしまいましたが、彼のおかげで彼の子孫が活躍できたの
も、また事実だと思います。彼も叔父と父によって注目を浴びたのは間違いありません
けど。
追加でいうと、徐栄はどうでしょう? 趣味で調べてみますが、まず何も出ないよな(笑)
それにしても一晩でレスが進みましたねぇ。今から読み直してきますw
前スレ808でつ。
統率の定義はこのゲームにおけるものとして、
太守の選定順、軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援 (テンプレより)
などに関連する事績を中心に洗えばよろしゅうございますかね。
一応先に断っておきますと、「実戦経験の場数」という点においては晋書の時代になると事情が異なるので、
曹操やなんかの頃の人物とは単純に比較できないと思いまつ。その点ご了承下さい。
李儒
統率0
武力0
知力0
政治0
関索
統率0
武力0
知力0
政治0
とりあえず、晋書立伝者中で統率の評価対象になりうる奴ら。
12氏の
>>130のラインナップを見ると、
主に実戦に絡んだ事績から選んでいるようなのでそれに倣ってみた。
司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬望、司馬[イ由]
陳騫、王渾、王戎、羊[示古]、杜預、王濬、周浚、唐彬、石苞、馬隆、胡奮
陶[王黄]、滕脩、吾彦(呉からの降将)
羅憲(蜀からの降将)
当然、統率90台の候補となるとこの中に一握りいるかいないか。
また、最初から杜預、王渾、王濬に限定はできないと思われる。
正直、王渾と王濬は頑張っても80台のような気が… 杜預は考慮の余地有り。
それ以外の奴らについてもない知恵絞って考えてみまつ。
>>135 李儒は実在。架空キャラは関索以外にも周倉や孫尚香他多数。
最初は全部1にしたりしてたけど、最近はさすがに諦めたyo
138 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/07 10:45
張角は90以上あるだろ。
陳登も統率は高いと思う。
孫策がついに北進できずに終ったのは彼がいたせいだし。孫権も負けてる。
孫策より戦下手という事は無かろうかと。
>>93 >費イ政権下での漢中と成都の関係
漢中にあった期間は意外に短く、243年11月〜253年正月という10年余りの執政期間で、
248年五月〜251年夏の3年ほど。これは7年半/13年余りの諸葛亮、5年/9年の蒋エ
ンと比較して、かなり少ないのです。
費イは最初から独裁を行おうとはしていなかったと考えてよいのではないでしょうか。
>姜維の涼州刺史就任
これは蒋エンが発案し、諸葛亮在世中に同僚だった馬忠、尚書令の費イと共に話し合っ
て決議したようです。
>蒋エンの代には官位の低かった王平・馬忠が、姜維と共に破格の昇進をしているからです
王平は元々漢中太守・督漢中でして、前時代の魏延などとほぼ同じ責務を負っていまし
た。馬忠は以前に丞相府で蒋エンの次官をしていたことがありました。共に、安漢将軍
、安南将軍などで留まっているべきではなく、蒋エンが昇進を半ば不当に止めていたと
も考えられます。王平は大将軍府事となっているので止められていたとするべきではな
いかもしれませんが。
また、蒋エンによる大司馬府の属官を見ると、府事・王平、司馬・李福&姜維、東曹エ
ン・楊戯など。この中で王平を別格として、涼州刺史姜維の昇進も必然とも考えられま
す。姜維は、大司馬司馬の時から羌討伐などしていましたし。
>>129 改めて、議長の役を務めて頂いて有難うございます。
正直、一騎さんじゃなかったらココまでレスが伸びなかったろうし、
私もこんなにレスはしなかったはず。なんか、統率100を一騎さんに進呈したくなってきたぞw
>>130 前回の補足ですが、後漢末に統率というカテで皇甫嵩の右に出る者はいないと思いますよ。
袁紹が辛うじて違うタイプの統率でしょうか。陳蕃も李膺も出てないですしねぇ。
朱儁は列伝で並んでいますが、黄巾で手間取ったり、李カクらに敗走させられたりで、
非常に推し難いんですよね… という訳で、皇甫嵩の事例を次に纏めてみます。
皇甫嵩(字を義真、安定朝那の人
(度遼将軍皇甫規の兄の子で、父の皇甫節は雁門太守であった
・陳蕃と竇武が辟召したが、従わなかった
・霊帝が公車で召し寄せたため議郎となり、北地太守に遷った
・黄巾の乱が起こると、党錮の禁を解く事、公金を大いに拠出して軍士に分け与える事
を上奏し、受け容れられた(政)
・朱儁と別々に潁川の黄巾を討った時、朱儁が波才に敗れたため彼は長社を固守した(統)
・波才が長社を囲むと、波才が草原に陣を敷いているのを見て焼き討ちを敢行(武)
・このとき、朱儁と曹操が合流し、協力して波才を撃ち破り、数万人を殺害した(武・統)
・波才を陽テキに追い、彭脱を西華で撃ち、共に破った。これによって三郡を平定(武・統)
・東郡に進んで卜巳を倉亭に撃ち、生け捕りにした(武・統)
(盧植と董卓が張角を討ったが、戦果を挙げられなかった)
・張梁と対峙したが容易には勝てなかったので暫く様子を見たが、敵が戦意を喪失した
のを見てとり、明け方に出撃。夕暮れまでに大破させて張梁を斬り、三万人を殺害、
五万人が河に溺れて死んだ(武・統)
・張角が既に死んでいたため、死体を晒し、首を京に送った
・また、郭典と共に鉅鹿の曲陽に張宝を攻め、之を斬った。また十余万人を斬った(武・統)
・左車騎将軍・冀州牧に昇進
・上奏して冀州の田租を一年免除することを請い、受け容れられた(政)
・閻忠が韓信の例を挙げて幾度も独立を説いてきたが、従わなかった(忠)
・辺章が隴右で謀叛を起こすと、これを討った
・趙忠と張譲に賄賂を贈らなかったため、車騎将軍を取り上げられ、食邑も削られた
・王国が陳倉を囲むと、董卓を率い、其々二万を指揮して対応した(統)
・董卓が陳倉に向かおうとすると、これに従わず、陳倉の険固さを頼みとした
・王国が80日の包囲の末に撤退すると、董卓の反対を押し切って之を追撃。大いに敵を破った(武)
・董卓の下で議郎から御史中丞となり、董卓が誅殺されると征西から車騎将軍、太尉と昇進した
・流星(日食?)によって罷免され、光禄大夫に転じて更に太常に移った
・李カクが乱を起こした頃、逝去して驃騎将軍を追贈された
[いいひと]
・士卒を慈しみ、部下からも信頼されており、将兵が食事を済ませてから漸く食事を採る有様だった
・部下の中で賄賂を受け取ったものたちがあると、彼は更に金品を与えたため、
その役人たちは恥じ、ある者は自殺してしまった
・董卓による誅殺を息子らに救われた後、董卓と会ったとき、「義真、まだ服従いたさぬか」と声をか
けられたが笑って之に会釈したため、董卓はわだかまりを解いたという
・献帝春秋による異説は、山陽公載記として三国志に記載されている(鴻鵠云々…)
・上奏の際には手書きで草稿を書き、草稿は世に広めなかった
・身を低くして士に遜り、人材を重用した
・華キン曰く、「功を誇らず、汝南での戦功を全て朱儁のものとし、張角を討った手柄
を盧植のものとした。天下で非常に重要な名声というもので争うことをしなかったの
で、彼は禍に遇わなかったのだ」
まだ統率にいっていないのに皇甫嵩をうpしてしまいましたが、
今後の指針としてくださると非常に有り難いです。
この人が野心と時に恵まれていたら、曹操も出る幕が無かったかもしれない。
>>136 >主に実戦に絡んだ事績から選んでいるようなのでそれに倣ってみた
はい、その通りです。「太守の選定順」を重視して90台にするのは…さすがに…
>当然、統率90台の候補となるとこの中に一握りいるかいないか。
>また、最初から杜預、王渾、王濬に限定はできないと思われる。
>正直、王渾と王濬は頑張っても80台のような気が… 杜預は考慮の余地有り。
>それ以外の奴らについてもない知恵絞って考えてみまつ。
はい、その辺りは、23さんや6さんの判断にお任せしようと思います
一つだけ注文というか…
戦争においての主従関係をハッキリさせていただけないでしょうか
三國志9の場合、大将の統率が部隊の強さで、武力は戦法の強さです
ですので、基本的に
指揮官の評価は統率重視、部将(部隊長)は武力重視、と言う風になります
>>141 6さん、皇甫嵩の事績、ご苦労様です
ちょっと、話がそれているので(俺のせいだが…)
一騎さんの
>>129での提案を貼っておきます
>>129 まことに勝手ながら決を取らせて頂く。
支持の強い陳矯・潘濬は当確、逆に支持の弱い蒋エン・司馬師・司馬昭は落選とします。
その上で、曹丕・費イ・高柔・盧毓・華キンの中から「1位○○、2位××」と言った感じで二人を選んで頂きたい。
1位が同列で二人だと思ったらそれでも構わないし、2位が同列で二人だと思ったら3人選出しても可。
また、このスレ常駐のコテハン以外の方は、理由も添えて投票して下され。
現在の有効票
盧毓:2
高柔:2
華キン:1
1位曹丕
2位華キン
>>146 > このスレ常駐のコテハン以外の方は、理由も添えて投票して下され。
だそうですよ。
>>139 孫策自身が指揮した兵ではなく
孫策が派遣した兵を破ったんだから
一概に同列には語れないのでは
過去ログ全部読んできますた。
2位 高柔・盧毓
正直、91以上に推すには弱い……。
1位でなく2位なのは、その辺の心情の表れでつ。
まあ、あくまでランク付けということで、相対的に評価。
なので、消去法で。
政策の内容を見れば曹丕は派手でわかりやすい。
宦官や婦人、宗教の政治介入を抑えた点は、過去の失敗をきっちりと踏まえている。
むしろ、以下のマイナス点がなければ文句なく曹丕を91以上にします。
ただ、如何せん失策が目に付き過ぎる。
インフレもそうだし、中正官を地方の実力者に任せた点も痛い。
これでは郷挙里選と変わらんです。
同族への弾圧が皇族勢力の衰退となり、九品中正法と合わせ技で貴族の大幅な政治介入を許した、というのもあります。
華歆は、同じ三公として上記2名と比べた際、事績の質・量に劣り、具体性もイマイチかと。
費禕も判断し得るだけの資料がほとんどないので強くは推せません。
長い上に読みづらい文でスマソ。
>>130 お、お疲れ様です^^;
統率の第一候補選抜は12氏にお任せしても宜しいですかな?
>>133 私の言う事績とは、何かを成し遂げたという具体的な功績の事、官位と他者からの評判だけでは、政務能力しか見出す事は出来ません。
その点で、事績が弱いと独自性・貢献度という面で一歩劣ると思うのです。
>>136 ヤバい・・・結構分からん。
出来るだけ予習をしておきたいが、賈充の事績すらネット上にはほとんど無かったからなぁ・・・。
>>140 身に余る賛辞、誠に光栄です。
でも既に1スレ目で、統率-100の値を頂いておりますのでw
>>149 これまたお疲れ様です。
数日このスレに来てないだけで、ログを読むのが大変だったりする事もありますからね・・・さぞ大変だった事でしょう。
age
内政特技が欲しいなーと、劉馥を新武将で作成しながら切に思ってみる。
15傑からも漏れたし、もう\では日の目は拝めそうにないな
・゜・(つД⊂)・゜・
>>150 大任をですが、全力を尽くしましょう
一騎さんは知力、政治の85以上の人物をお願いします
86〜90は20人、81〜85は25人がちょうど良いと思いますが、如何でしょう?
>>152 その気持ち、よく分かります
俺も、前スレでコーエーに文句言いましたよ
個性は軍人だけのものじゃない、と…
1位曹丕
魏の建国と王朝の創始者
禅譲の見事さと、国の安定感への功績
2位盧毓
難題解決能力の高さ
中央官庁での識見
華キンというよりも尚書などについて重点的に補足しておきますね。
ただ、華キンを外すなど、私には天地がひっくり返っても考えられないことなのです。
高柔が尚書郎に昇ったとき、郎の上官である令から更に昇進したのが当の華キンです。
尚書郎は別名尚書郎中といって、魏官では定員23人(のち25人)でした。さらに幾人かの郎
中を五人の尚書が管轄していたといいます。参考までに魏の九品でいうと、令や尚書が三品
、郎中が六品。この尚書台は三公や百官、州郡、軍事全てを統べており、諸官の中で最も重
要度が高く、規模も他と比べて非常に大きなものです。実質、三公などより政務能力を問われ
ていたことは言うまでもありませんし、もっと極端に言ってしまえば、上公もしくは尚書令や録
尚書事の官に就いていない者は国家全体の職務を背負った事は無いだろう、と言えます。
こうした尚書台の長官が、庶務に負われて他に手を出す暇が無いのは当然ではないでしょ
うか。例えば荀ケや陳羣なども、尚書令に就いた際の具体的な事例などありませんし、呉でも
平尚書事となった劉基や顧雍らの事績もかなり少ないですよね。こうした点からも、彼に具体
的な事績が少ないことも当然と云えましょう。また、逆に言えば尚書台を統べたことを事績とす
るべきではないでしょうか。
補足すると録尚書事は趙温から曹操に移っていましたから、尚書令は当然その腹心兼代理
人ということになりますよね。
また、チ慮と華キンの御史大夫は、前後の司空とは職務が多少違ったようです。208年に曹
操が三公を廃止し、丞相が一手にこれを統べ、御史大夫はそれを補佐する形を採っていまし
た。飾りだけの三公ではなく、皇帝の代理人である丞相の代理人であったのでしょう。だからこ
そ御史大夫という丞相の副官を置く価値があったのですから。いらなければ省いても何ら問題
はなかったはず。それをしなかったのは、彼が非常な信用を置くことができ、かつ職務に応ず
る信頼をかけられる人物だったからでしょう。
確かに記述が無いからといって気楽に評価を補完してしまうことは危険だと思います。ただ、
彼の就いた官は、他に比類なきものであることは明白なのです。諸事情があったとはいえ荀
ケから尚書令を受け継ぎ、以降、曹操の腹心で在り続けた。曹操の前半期が荀ケの時代だ
とすれば、後半期は華キンの時代といってよいでしょう。彼の政務能力を疑うのであれば、自
然と最も重要な尚書令や御史大夫を任せた曹操の人材鑑定力を疑わなくてはならなくてはな
りません。また、こうした業績もあったからこそ、曹丕代を通じて三公の座を任され、鍾ヨウや
王朗と肩を並べていました。彼の評価を落とすのであれば、当然鍾ヨウや王朗も除外すべき
でしょう。
以前、賈充について纏めましたが、彼が真に凄かったのは尚書僕射から尚書令になってか
ら。律を所定するといったことは尚書だからできたことで、尚書僕射のような重職に在ったか
らこそ任された事例です。先ほど尚書には暇が無いと書きましたが、裏を返すと常に重要な
職務をこなしていたんです。
なお、最初の例で補足。高柔と華キンの年齢差は10歳ほどで、かつ高柔はこのとき既に40
歳を超えていました。場合によっては費イのように若年ゆえ昇進が遅れていた可能性もありま
すが、高柔の場合は難しいでしょう。
少し断言じみた表現もありますが、どうぞご容赦ください。おそらく皆さん、尚書や御史を勘
違いなされておられる。魏で華キンよりも先に論じられる人物は後にも先にも二人、荀ケと鍾
ヨウだけでしょう。それも後者を推すには少々無理があります。
>>155-156 内容は凄くためになっているとは思うんだが、文章が少し痛々しく、かつ挑発的になってきてるぞ。
>>157 そぅ… ごめん。
そうならないように気をつけたつもりだったんですけど…
だとしたら本当に御免なさい。
>>155 内容に対しての異論はないのですが、正史の行間を読む作業ってのはどこまでするべきでしょうか。
これを厳密にやっていけば、蔣琬もまた話は変わってくるでしょうし。
諸葛亮の一頭独裁であった蜀だから尚更です。
一頭独裁ということは逆に諸葛亮、及びその周辺にかかる負担も大きいわけで。
それこそ華歆と同様の考え方もできませんか。
手元に資料がないので、推論も少し混じってます。
的外れなことを言ってたら申し訳ない。
ただ、陳矯がランクインなら華歆もアリかとは思ってたので、空位にしてた1位は華歆に進呈しまつ。
上の人とは
全然関係ないけど
漏れも陳矯がランクインしているのは
?がつく
>>128 ありゃ?8人を決めるのは落とす人間では無かったか?
10人にしたのは後半四人が飛び抜けていないと感じたから
あと名士を殺して内部が揺るがいた事柄を挙げて欲しい
なんか暗殺さわぎとか反乱未遂とかあったか?
全然無いのだが
>>160 お前ってほとぼりが冷めると途端に強気になるな。
>>121 >だから曹丕が殺したのは織田信長が前田利家殺すようなもん、
というのは誰の事?曹丕が殺した人物で古参の人物って居たか?
>曹丕はただ中途半端にやっただけ
何を根拠に?処刑アフォ?????好き嫌いって事か?
それで衰退したのか?魏は?いや、真面目に知りたいのだが
てっきり二代若死、曹叡の金遣い、後継者の優柔だと思ったのだが
>>125 陳矯伝は読んでそう思った。
威容を整えたりと諫言もだが儒者のそれに思われる
本当に儒者かどうかはちょっとわからないけども
実務としたら?が付くけど
>一州の刺史や一郡の太守とは〜
そこまで思っていてなんで君主は軽んじられるのだ?
あの二人は重責だとは思うのだが、魏の太守クラスでも
同じ功績を出来るように感じたって事だな。
出来ないかもしれないが、メンバーからは落ちるように思った
>>161 暇な時期にどばーと書き込みするからかね
>それで衰退したのか?魏は?いや、真面目に知りたいのだが
1つの致命的な失敗には1000の注意行動が混ざるって意味、わかる?
健康な生活をしているのと不規則な生活とでは寿命がたいぶ違う
無用な争いを避け王朝を安泰に導く名君と
気紛れで家臣を処刑し忠臣をないがしろにする暴君とは違う
曹丕が後者だとは言わないが、後者とも取れる行動を繰り返して無闇に
周囲との軋轢を生んだのが問題。
何かを証明するのに具体的かつ重大な出来事が絶対必要だと言うなら
水掛論になるから言うことは無いよ、大体今は『投票』やってるんだが
>>162 >あの二人は重責だとは思うのだが、魏の太守クラスでも
>同じ功績を出来るように感じたって事だな。
………
出来る分けないでしょう
まず陳矯から説明するが、曹操という偉大な存在の死は、魏にとって一大事なのは言うまでもないだろう
曹彰、曹植は野心があり、彼らが付け入る隙もなく曹丕が相続を済ませ、王位を継承できたのは陳矯の働きによる
この国家の大事を、一太守が何をするというのだ?相続に関わることで失敗した連中を思い返すと言い
次に潘濬だが、呂壱の事件は、丞相の顧雍ですら災禍を被った。まさに呉の一大事
潘濬、陸遜という荊州のトップ2が雁首揃えて、幾度となく諫言した末、やっと孫権を説き伏せたのである
さて、この事件の後、孫権は自身の過ちを認めた後
諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱らを責め、自身の及ばないところを正すよう求めている
顧雍、諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱といった重鎮が対処できなかったことを
一太守にどうにか出来るというのだろうか?
>そこまで思っていてなんで君主は軽んじられるのだ
曹丕のことを言ってるのだろうが…
全人物中、一握りである君主で曹操がすでに90台に入っている
曹丕は、優れた人物であることは認めるが、マイナス面がかなり大きい
五銖銭の復活は、最たる物の一つだろう
そう言ったマイナス面があるため、曹丕が90台である必要はないと思う
>それで衰退したのか?魏は?いや、真面目に知りたいのだが
曹丕の在位は7年だよ、7年で衰退させたら、それはもう暴君暗君の類だよ
だれも曹丕が暴君だとは言ってない、政治90台の15人に入るかどうかで議論(投票)している
>>156 6さん
そんなに力説されると気持ちが揺らぐよ。・゚・(ノД`)・゚・。
もう、投票すませたのに…
魏の三公(鍾ヨウ、華キン、王朗)は張昭と同じくらい好きなんだよなぁ
こういう威厳ある人物って、なんか惹かれるんだよ
>>160を見た限り、
>>159にて少し語弊があったように見えたので補足。
別に陳矯が他より劣るから外すべき、と考えているわけではなく、絶対評価として91以上に?というだけのことです。
そもそも自分で91以上と思しき人物をリストアップしたら10人足らずしか名前が挙がらなかったので。
相対的には陳矯に関して何も異論はないです。
>>155>>156 事績の質を最重視するという事は、その人物の行った政策の独自性とその貢献度を最重視するものと漏れは思っています。
そしてそれが中核であり、官職(とそこから推測される政務能力)はあくまで考慮に加えるべき対象です。
評価の中核を成すものを持たないという事は、その分評価を落とさなければならないと思うのです。
まとめサイト更新と
漏れは64擁護になるかもしれんが
1位曹丕
やっぱ資質は高いと思う
殺された奴らも韓非子の見地から言えば諫言が下手な奴らに思える
それらの処刑が致命的失敗というほどでは無いだろう
2位盧毓
盧毓は高柔と迷ったけども、曹丕の無理難題に良く応えている
そういう性格と才覚がなんとなく気に入ったから
>>164 64には陳矯は曹丕も誉めているって言ってやればいいんでないか?(w
ただ、華キンとそれほどの能力差があるとは思えないのだが(方や当落線上、方や当確はどうか?)
64とは違うが潘濬・費イは魏にくれば太守(2000石)クラスだとは思う
魏の太守って主だったので誰がいたっけ?
魏の太守クラスと言っても、潘濬とつりあう太守クラスを示さないと説得力ないし。
魏郡太守・陳矯
>>168 まとめサイトの更新、本当にご苦労様です
>64とは違うが潘濬・費イは魏にくれば太守(2000石)クラスだとは思う
う〜ん、この辺の判断は難しいですよ
確かに潘濬、費イと言わず顧雍、諸葛亮でさえ魏にいれば太守に甘んじたやも知れません
逆に許靖なんかは、名声がある分かなりの所までいけたやも知れません
しかし、魏の太守が呉や蜀で、潘濬や費イのような職責を担えるか…
と言うと、それもあり得ないと思います
小国といえども大国魏と渡り合うには人材が必要です
諸葛瑾、董允クラスならともかく
潘濬、費イらは魏の三公、九卿クラスと見るべきと思いますよ
政治90台では以下の人物が確定し
魏晋が
曹操、荀ケ、鍾ヨウ、王朗、陳羣、司馬懿、賈充、陳矯
呉
張昭、顧雍、潘濬、陸遜
蜀
諸葛亮
華キン、曹丕、盧毓、高柔、費イが残り2枠を争ってる
比率的にも三国のバランスは採れていると思いますよ
>>171 ( ´∀`)<じゃあ、俺も…挙げてみる。豫章太守華キン、会稽太守王朗
誰か、俺が首を吊ってるAAキボン
∧||∧
( ⌒ ヽ 鬱だ氏脳
∪ ノ
∪∪
>>173 これで満足か?
あ、169って数字ハン入れ忘れた……>174
逝ってくるわ……
刺客に襲われて死んだ孫策と費イの共通点を探って欲しいと言ってみるテスト
突っ走って列から飛び出た孫策と
人を信じすぎた費イ、ってところではなかろか
スピード違反と
飲酒運転
何気に巧いかも
180 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/13 16:49
1位盧毓
2位華キン
現在の有効票[1位−2位]
盧毓2−3(1−0)
高柔2−1
華歆2−1(0−2)
曹丕2−0(1−0)
コテハンなしは理由を含め投票……とあるが、どうするんだ?
結構無効票があるぞ?
まあ、現状、盧毓は91以上にノミネートで良さそうだが。
確かにうまいが・・・「共通点」か?
事績の記述(の多さ)を重んじるならば盧毓・高柔が有利
官職(の裏に事績を読み込む)を重視していいなら華歆・費イが有利?
曹丕はいずれにも有利・・・なはずが、記述が多すぎて粗が、粗がァ・・・
盧毓7、高柔5、華キン4、曹丕4
1位を2ポイント、2位を1ポイントとして集計、但し常連以外で理由無しの投票は除いた。
この中で盧毓を確定とし、残りの三者で再度投票を行いたいと思う。
ただ、1位のみの投票とすると横一線になりそうなので、再投票も1位・2位二人への投票としたい。
漏れは、1位高柔、2位曹丕に投票しまつ。
面倒臭いかもしれんが、このまま高柔も確定とすると遺恨が残りそうなので・・・。
相変わらず勝手な寸断スマソ、お許しあれ。
別に盧毓と高柔でいいと思うのだが。
投票で決まったわけだし。
納得のいかない人間は、自分でプレイする際に適当に融通を利かせればよいだけで。
まあ、言っても詮無きことなので
1位華キン、2位高柔
しかし本当に遺恨残る気がしないでもないぞ。
>>186 漏れもそう思う。
書き表しづらいんだけど、う〜ん、どう言えばいいかな。。
俺は大丈夫だと思う。
2度にわたる決選投票の上で決められたことが、誰かのごり押しではありえない。
それが、たまたま主催者の意向に沿った結果になったとしてもね。
ま、急いで決着をつける必要もないから、投票が出そろうのを待ちましょう。
またーり統率の話でもしながら。
決選投票か…
う〜む悩む
正直、華キンと高柔で決めかねるので
華キンと高柔、双方に1ポイントと言うことにします
て言うか、ごたごたを起こさないための15人枠だったのでは……
曹丕は、曹操が後継に選ぶのに迷うほどのものであり、親兄弟から「曹丕しかいない」と
指名されるほどの、ずば抜けた才覚は持っていなかったと思われる点で90台は怪しい。
華キンは、荀ケの後継でありながら、官位のほか具体的記述に乏しく、
むしろ「曹操の魏公就任に反対した荀ケの後継」であることを鑑みれば、
徳行・識見に優れるといった能力的な面もさることながら、「反対派に回らない安全な人物」
としての価値を見いだされていた可能性があり、90台といえるかどうかは定かでない。
高柔は、3者の内では小粒感が否めないが、その政治に特化した事績の量には一目置くべきところもある。
よって、個性付けのためと言ってしまうと身も蓋もないが、高柔に0.1ポイント贈呈したいと思います。
現在
高柔4.1
華歆3
曹丕1
小数点が微妙だ
高柔と華歆3の一騎打ちか?、曹丕の追い上げなるか?ってとこですな。
投票者はあと、常連4〜5人?プラスROM有志、ってとこかな。
1回目の決選投票も1週間ぐらい待ったから、今回も最低、日曜いっぱいぐらいまで待つのがいいかもね。
で、後の方の人のプレッシャーになりかねないので、以後、中間発表はちょっとガマンしませんか?
うずうずするけどさw
>>193 後の方の人のプレッシャーになりかねないので
あー、スマソ。そこまで考えてなかった。
以後、自粛するわ。
全然別の話ですいませんが、投票の合間ということで・・・
統率における軍隊の強さって、個人的には「整然とした強さ」というイメージがあります。
武力の強さは、圧倒的な、怒濤のような強さで、破壊・侵略・勝利のイメージ。
しかし、守勢に入ると打たれ弱い面がある感じ。敗北・逃走・瓦解のイメージ。
対照的に、統率における強さは、静かだけど圧迫感があり、悪霊を退散させる法力のような強さ。
秩序・安寧・守護のイメージ。守勢に入っても打たれ強く、不敗・撤退・反攻のイメージ。
なので、「太守等として、長らく前線に止まった将」=「統率の高い将」というのは、
個人的には、すこぶるイメージにマッチするのです。
「一軍の将として前線を任された将」が、これに追随するでしょうか。
相手をうち破る必要もあるため、武力ではこちらが勝るかもしれません。
もちろん、統率も武力も、「強さ」以外の要素もあるわけですが、
せめて統率系・武力系の分類の一助にでもなればなぁと思い、うpしてみました。
武力=戦術・指揮能力。
統率=軍の運営。ロジスティクスや情報収集・把握・分析。軍運営に関わる人事問題。
みたいな感じで考えてました。
それだと文若タンの統率がうんと上がってしまわない?
>>196 三国志9での統率は、もうちょっと直接的な効果があるように思えます。
>>195に基づいて、あまり考えずに有名どころを分類してみました。
僅かに統率>武力: 関羽、趙雲、魏延、曹操、曹仁、張遼、張コウ、司馬懿、呂蒙、陸遜
僅かに武力>統率: 呂布、劉備、張飛、徐晃、孫堅、孫策、周瑜、甘寧
やや統率に特化: 皇甫嵩、諸葛亮、曹真、満寵、李典、カク昭、魯粛
やや武力に特化: 馬超、黄忠、楽進、于禁、ケ艾、太史慈
ネックは、武力が一騎打ちのパラメータも兼ねてるところにあると感じましたので、
それはもう無視してしまいました・・・。
基本的には全部統率にしといて、曹仁みたいなわかりやすい功績だけ武力に加算していけばよいのでは?
一騎討ちはほとんど記述がないから判断のしようがないし、ある程度無茶があっても仕方ないかと。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/18 20:10
>>198 呂布は「やや武力に特化」か「僅かに武力>統率」の方が相応しいと思う。
出遅れてしまいましたが、曹丕さんに1票を。
>>191 >曹操が後継に選ぶのに迷うほどのもの
これは単に曹操が「自分の息子を見る目」が
欠けていたというだけのことでしょう。
大体、曹操は「政治的才幹」などではなくて、
詩才とか別の要素で弟を買っていたようにも思えます。
「親に気に入られること」を「政治力」とするなら
ダメであるともとれるでしょうけど、
最終的には後継者争いを制しているわけで、
その指摘も当たらないのではないかと思います。
親が健在だった時はその才を発揮するチャンスに
恵まれていませんでしたが、皇帝としての曹丕は
十分に「政治に長けていた」ことを示していると考えます。
以上、長文すいませんでした。
同意見の人が居るウチに書き込み
曹丕に一票
こうしてみると皆、後継者選びってのは曹植の能力が
高いという前提は無いわけだ(笑
一応親が健在の時に副丞相になってる
曹操が無能な人物を自分の副には置かないだろう
曹操が生きている間だの功績は曹操に吸い取られてそう
168の2位を変更
盧毓→華キン
華キンが選ばれてなかったのに気付かなかったので
もう遅いけど
潘濬が太守クラスと言ったけど中堅クラスに変更
カキ、トキ、蒋斉、劉ヨウ、盧毓、高柔、?劭、張既、温恢等アタリ
これらの人物より突出して高いとは思われない
むしろ、正史だけみれば彼らの方が高い印象を受ける
そう言えば\って固有のマスクデータがあるんだっけ?
一騎討ちだと数字以上に強いとか。
誰がそうなのかは知らんのだが。
馬超とかだっけ?
で、その辺りまで考慮するのか?
205 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/19 20:10
なんで陳羣が入っていない?
>>202 2位にも投票する気があったら、追加投票して下さい。
>>204 マスクデータはあるけど、今のところそこまで考えてはいません。
一騎打ちは武力だけでスキルは無し。
逆に、もし一騎打ちのスキルが自由に付け外しできるなら、一騎打ちに囚われることなく
武力値を決めることができるんだがなあ・・・。
日曜日が終わりますた…
一騎さん、そろそろ政治91以上の決着を付ける頃かと…
それと
出来れば…ですが、次の統率は、武力と一緒に進めたいのですが、如何でしょう?
てかお前ら、上位は良いとして
まったく政治に関する実績の無い武官の政治力はどうやって決めるんだ?
まあ政治「1」でも良いけど、それだとゲームバランスが大きく崩れる
さあどうする?
211 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/23 05:47
>>196 お前の言う統率って全部プレイヤーが考えることじゃん
????
214 :
一騎 ◆Ak19z4SexA :03/06/24 01:20
集計結果
高柔4.1、曹丕5、華キン4
というわけで政治100〜91の面子は、次のメンバーにケテーイ致しますた。
魏:王朗・荀ケ・鍾ヨウ・曹操・曹丕・陳矯・陳羣・盧毓
蜀:諸葛亮
呉:顧雍・張昭・潘濬・陸遜
晋:賈充・司馬懿
散々論争してたけど、まとめて見るとやはり超一線級のメンバーなんだなぁ、というのが個人的な感想。
あと、高柔を推してた人間としては、盧毓一人だけ入るとなんか浮いてるなぁ、と思ってたり。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/24 01:21
チョウロはだんだん能力が下がるなー
昔は魅力が高くて天変を使える、いかにも宗教のトップって
感じだったのに・・・
>>209 良いと思いますよ。
>>210 記述の無い人物は官職から推測するつもりですが・・・さてどうなることやら(苦笑)
217 :
12 ◆9mY8cUadF2 :03/06/24 21:31
遅くなってすみません。昨日今日と忙しかったので…
それでは統率と武力の91以上候補を挙げてみます
後漢書、晋書は6さんと23さんが頼りです
統率、武力で、他に90台に相応しい人物がいれば是非、挙げてください
統率91以上候補
漢
皇甫嵩
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、曹真、張遼、張コウ、徐晃、満寵、郭淮、ケ艾
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗
蜀
劉備、諸葛亮
晋
司馬懿
田豫、牽招、郭淮で悩んだけど、郭淮にしますた
田豫、牽招は知力や武力で勝利している場合も多かったためです
武力91以上候補
正史
曹彰、夏侯淵、曹仁、張遼、楽進、于禁、徐晃、張コウ、典韋、許チョ、孫策、甘寧、趙雲、呂布
演義
夏侯惇、ホウ悳、ケ艾、太史慈、関羽、張飛、馬超、黄忠、魏延、姜維、顔良、文醜
結構な数を挙げましたが
武力の場合、演義の一騎打ちを考慮せねばならないため、演義の人物も挙げたためです
正直、演義の一騎打ちをどうするかで、全く評価が変わる人物もいます
また曹操、周瑜なども一騎打ちを無視すれば90台に相応しい武力を持っています
統率と武力の区別は
まず大将か、部将かで区別しました
ゲームでも大将の統率が部隊の強さですので…
大将での戦功は統率、部将としての戦功は武力を優先的に評価しました
ただ大将でも、武勇が明らかな戦功は武力でも大きく評価しています
また輸送、建築は統率、個人的武勇は武力として評価してます
ちょっと、雷が鳴り出したためパソコンを切ります。また後で…
しまった…
>>219の武力91以上候補から太史慈を抜きます
どうも、すみません
武力91以上候補
正史
曹彰、夏侯淵、曹仁、張遼、楽進、于禁、徐晃、張コウ、典韋、許チョ、孫策、甘寧、趙雲、呂布
演義
夏侯惇、ホウ悳、ケ艾、関羽、張飛、馬超、黄忠、魏延、姜維、顔良、文醜
>>218 無理に20人に絞らずとも、田豫なども入れといていいと思われ。
20人考察するも21人考察するも、ここまでくれば同じこと。
>>222 それもそうですな。では手直しします
統率91以上候補
漢
皇甫嵩
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、曹真、張遼、張コウ、徐晃、満寵、田豫、牽招、郭淮、ケ艾
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗
蜀
劉備、諸葛亮
晋
司馬懿
演義の一騎討ちは考慮に入れないのでは?
スレタイにある通り、あくまで正史を基にするわけで。
その結果、曹操が一騎討ちに強くなっても仕方ないかと。
その場合は最前列におかないよう各人の裁量でプレイするとか。
あと、麹義を武力91以上の候補に推したい。
以下、功績を挙げてみる。
・反董卓連合から離反した於夫羅軍を撃破(これは統率か?)
・韓馥に対し叛乱を起こす。最終的には麹義に袁紹からの後押しが入るが、それまでも麹義は優勢だった。
・寡兵にて界橋の戦いに勝利。公孫サンを撃破。厳鋼を討ち取る。
・鮮于輔らが公孫サンに敵対した際、劉和とともに公孫サン軍を撃破。
……麹義は凄い人と漏れが勝手にイメージしていただけらしい。
かなり功績少ないし。
とは言え、詳しい資料が手元になく、半分記憶を頼りに書いているので、追加や修正があれば頼みまつ。
>>224 麹義の事績に関しては、俺も131さんが挙げておられる事くらいしか知らないんですよ
ですから俺としては、統率80台、武力80台と考えていますた
>演義の一騎討ちは考慮に入れないのでは?
スレタイにある通り、あくまで正史を基にするわけで。
その結果、曹操が一騎討ちに強くなっても仕方ないかと。
その場合は最前列におかないよう各人の裁量でプレイするとか。
そうですねぇ、俺も正史のみでと考えたこともあったのですが…
一騎打ちを避けて、武将を後列に置くと兵法発動率が下がってしまいます
と言って前列に置くと、一騎打ちに巻き込まれる可能性もある
ですから、武力において演義の一騎打ちを考慮するか、他の皆さんの意見をお聞かせ下さい
このスレでは正史の一騎打ちのみ考慮すればよいと思います。
有り得ねぇw
そもそも三国時代には大将同士が一騎打ちを申し込まれ→受ける
という習慣がほとんどなかったんだよな。
どんな国のどんな時代にもそんな風習は無いってw
関羽が顔良を斬ったのもかなりの特例
しかも不意打ち説まであるし
個人武勇のエピソードなら
典韋、許チョが強すぎて呂布をはるかに凌いでしまう結果になるが
>>231 どこだよw
「大将同士が一騎打ち」するんだぞ?
武力:攻勢時の強さ
統率:守勢時の強さ
みたいな感じでよいのでは?
馬超は攻めているときは大活躍で
守勢に入ると一気に瓦解したから
武力>統率と判断と
>>225 漏れは131サンと同じで、麹義の武力91以上は必要。
正史にもしっかりと戦法の強さが描写されてるし。
事績の少なさを考慮しても武力91以上は必要かと。
曹彰や趙雲に劣ると言うのはなー・・
↑
麹義の武力91以上は必要だと思う だ・・。
麹義は武力100で構わないとさえ思う
>>233 いや、あくまで三国志\に依るべきでしょう。
普通に交戦してる間は攻めも守りも関係なく統率。
武力ってのは、まあ基本的に
>>1に書いてある通り。
具体的な例を挙げれば、寡兵で敵の包囲網に突っ込み牛金を救出した曹仁や上記の麹義など。
これらが所謂ところの「戦法の強さ」でしょう。
曹仁なら騎兵系、麹義なら弩兵系の戦法として考えられまつ。
にしても、わかっちゃいるが、夏侯惇の統率が90を割りそうなのは寂しい限りだ( ´Д⊂ヽ
軍団の統括や留守役、土木工事も好きそうなところで、統率高いとは言えるが、
戦闘指揮の方はさっぱりだね、惇兄。
例を見る限り、戦場での指揮を重視してるようなんで夏侯惇が候補に挙がることは無いでしょうな。
>>223>>237 武力と統率ですが、完全に分けると事績が少なくなる…と言うか
ゲームのように綺麗に分けることが出来なかったため、
基本的に、戦闘行為は統率、武力ともに評価しました
その上で、その戦争において
総大将、もしくは軍団クラスの指揮官の場合、統率を武力より評価し(大将の統率が部隊の強さなため)
一部将の場合、武力に統率より評価しました
さらに、大将の場合でも武勇優れた功績(ゲームでいうところの戦法)は、武力の評価を上乗せしました
例として曹仁の事績を挙げます
「統率>武力」などの不等式は、どちらを優先的に評価したか、と言うことです
曹仁の事績
出身:沛国ショウ
出自:曹操の従弟、曹参の後裔
官位:大司馬、大将軍、都督荊揚益州諸軍事、広陽太守
・弓術、馬術、狩猟を好んだ。「武力」
・豪傑が蜂起したとき、千人余りを集め淮水あたりで暴れた。「統率=武力」
・曹操が袁術を破った際、捕虜にした数や斬った数が多数であった。「武力」
・別軍を率い陶謙の大将、呂由を破る。「統率>武力」
・曹操と合流して陶謙軍を撃破。「武力>統率」
・曹操のもとで費県、華県など四県を攻めた。陶謙が救援を派遣すると騎兵を率い撃破した。「武力>統率」
・呂布討伐の際、別軍を率い句陽を攻撃、大将の劉何を生け捕る。「統率=武力」
・曹操が黄巾を討伐し天子を迎える際、手柄を立てる。「武力>統率」
・張繍討伐の際、別軍を率い近接の県を襲って住民三千を捕虜にする。「武力=統率」
・曹操が張繍に敗れた際、将兵を叱咤激励し獅子奮迅の働きをした。「武力と知力(鼓舞)」
・官渡の際、袁紹が派遣した劉備を優れた判断によって攻撃するよう進言。「知力」
・劉備に騎兵で攻撃、撃破した。「統率>武力」
・袁紹の将で別働隊の韓荀を撃破。「統率>武力」
・史渙らと袁紹の輸送車を奪い、食料を焼く。「統率=武力(焼討)」
・曹操が壷関を包囲した際、降服につながる策を献策。「知力」
・江陵で包囲された牛金を数十騎で救出、とって返し残された兵達も救い出した。「武力>統率」
・一年以上、周瑜の包囲から江陵を守った。「統率>武力」
・曹操の馬超討伐の際、諸将の総司令として潼関を守備、渭水の南で馬超を破る。「統率>武力」
・楚伯らが叛乱したとき七軍を率い討伐。「統率>武力」
・宛で侯音が叛乱を起こしたとき諸軍を率いて、これを破る。「統率>武力」
・関羽が攻め寄せた際、将兵を激励しこれを守りきる。「統率>武力と知力(鼓舞)」
・徐晃が関羽を攻撃すると、包囲を破った。「武力=統率」
・孫権の大将、陳邵が襄陽に籠もったとき徐晃と、これを討伐した。「統率>武力」
・濡須で朱桓に敗れる。「統率マイナス」
事績を見れば分かる通り、曹仁は統率、武力ともに大変優れています
武力と統率の合計では最強かも…
>>237>>238 夏侯惇…悲しいけど仕方ないです
夏侯惇のように演義より低い評価を受ける者もいれば
曹仁のように演義より、遙かに高い評価を受ける者もいますし…
魅力があれば、夏侯惇には別の評価もあったのだろうけど…
さすが曹仁というべきか、物凄い戦歴だ。
改めて列挙されるとよくわかる。
統率と武力に関しては12サンのやり方で良いかと。
確かに明確に区分しきれるものでもないですからね。
それにしても、これだけの事績を何十人分も纏め上げるのはさぞや大変だったことでしょう。
12サン、ホンマに乙です。
俺は演義も考慮して決めてるが、このスレでは考慮しなくいいかと。
ところで、正史に書かれてる評価はどうするんだ。
考慮するとしたら関羽・張飛はかなり評価が変わってくるが。
統率と武力についての個人的な考えです。
武力:戦功(突撃・奇襲etcの表記がある場合プラスα)・個人的武勇
統率:戦功など、部隊の統率力
つまり、「〜を打ち破った」など、単純な戦功に関しての表記は武力と統率の双方で判断してはいかがかと。
武力に関しての表記は少ないかもしれませんが、統率に関しては戦功以外でも結構表記があるので、区別できると思います。
また、あくまで正史の記述のみから判断したいので、演義の一騎打ちは考えないで頂けないでしょうか?
関羽・張飛ですら評価が低くなりそうなのは、漏れとしても違和感を感じるところですが(苦笑)
>>243 関張は1万人に匹敵する云々ってやつ?
無視とまでは言わなくとも、かなり嘘臭い記述だし、
さほど考慮しなければならないほどのことではないと思うが。
実際、関張がそういう評価を受けたとき、
二人ともまだなんら実績をあげてないわけだし。
文聘は選外ですか?
主な事蹟が防衛戦ばっか、てのはやっぱマイナス?
>>245 何故閑張+ポイントを意図的に外そうとする?
ここのスレでは有名人は意図的に能力値を
下げなければ正史を読んでない事になるからです
>>247 「1万人に匹敵する」という根拠が郭嘉や程立の発言にみられないから。
だがあくまで正史に書かれてるのは確かなので、その真偽のほどは置いておくというのならそれはそれで構わない。
それでも「郭嘉が1万人に匹敵するって言ってるんだから武力90代だろ」という意見には賛同しかねる。
あくまで重視されるは評判より実績であるべき。
実際、政治の能力値付けの際もそんな感じだったと思うが。
>>249 しかし、評判が立つということは何らかの事績があったと見るべきではないのか?
>>250 そういう考え方も出来るので完全に否定は出来ない。
とりあえず関羽の事績でもうpしてみたほうが早そうだな。
・劉備が兵を集めると張飛とともに護衛官となった
・劉備が平原国の相となると別部司馬となった
・劉備が高順に撃破されると劉備らとともに曹操の下へ逃げ込んだ
・下ヒの包囲に加わった
・劉備が曹操に謀反を起こすと下ヒ郡太守に
・劉備が曹操に負けると何もせず降伏
・白馬にて先鋒となり顔良を討った
・漢水にて楽進、文聘に撃破された
・続けて漢津にて徐晃、満寵に撃破され、荊城の水軍の一部を焼かれた
・江陵にて曹仁の退路を断つために北道に派遣されるが、李通により曹仁は救出される
・江陵が孫権より譲渡されると江陵を任された
・孫権により派遣された荊南の三郡の太守を追い返した
・魯粛と対峙している際にレイに救援に向かったが、孫規に撃退された
・上流から精鋭五千を率いて渡河しようとしたが甘寧に対岸を塞がれ果たせなかった
・孫狼の叛乱に通じ武器を支給した
・劉備が漢中王になると前将軍に任命された
・漢水の氾濫で于禁軍が水没したのに乗じ于禁を攻め、捕獲した
・船を使い樊城を包囲、襄陽には別将を派遣
・人馬の急増に兵糧が追いつかず、湘関から奪取した
・包囲中に徐晃に大敗を喫した
・孫権の降伏勧告に応じるふりをして夜逃げ
今、正史が手元にないので正確さは欠けるかもしれません。
あとは、楊戯の評などの、「武勇に優れて勇猛果敢だった」といった記述か。
郭嘉に万人の敵と評されたのは呂布から逃げてきた際。
その時点では何も功績はない。
仮に「万人の敵」と言われるほどの活躍があったとすれば黄巾討伐か反董卓連合ぐらいか。
とりあえず統率はかなりガタガタっぽいです。
武力は白馬と呉からの奪取でしょうか。
実際、万人の敵との評を加味しても91以上になるとは思えませんが、どうでしょ?
つーかねー
クソ真面目に正史の記述だけを採って能力値を決めたら
もともと有利な曹操軍がさらに有利に
もともと不利な劉備軍は(ry
シナリオが進めばその傾向はさらに顕著に・・・
結果真性マゾ蜀プレイヤーしか劉備を使わなくなる
>>252 正史の評で「部下から慕われていた」というのがあったと思う。そういうのは無視?
131さん
あんまり偏ったことばっか言ってると
あなたの意見が採用されなくなりますよ
「ああ、またこいつか」みたいな感じで
むー、関さんの評価が辛いですね
張飛はいかがか?
長坂橋での殿軍、蜀取りでの活躍(厳顔を帰順させたり)
漢中制圧戦で張コウを破ったことなどは高く評価できませんか?
まあ目下の者に対する態度なんかで統率マイナスも多そうだが
>>244 一つの戦功において武力、統率を同等に評価すると
武力、統率ともに、上位には同じ人物が並んでします
また、「〜を打ち破った」などの戦功と比べると
建築輸送、戦法などの功績は格段に少ないので、大将と部将で区別することにしました
>>254 申し訳ないが、正史のどの辺に、その様なことが書かれていたのだろう?
探してみたが、まだ見つからない
張飛伝に、「関羽は士卒を善く遇した」とあるけど…
>>255 正直、俺は131さんの意見が偏っているとは思いません
例えば正史、朱桓伝に、朱桓が敵国(魏)に恐れられていたと、ありますが
これは曹仁らを撃退したことによって威名が鳴り響いたと推測されます
張遼が、呉に恐れられたのも合肥で優れた武勇を示したためです
>>251の関羽の事績を見るに
131さんの、「万人の敵との評」を考慮しても91以上になると思えないと言う意見も、もっともと思います
>>256 俺としましては、関羽も張飛も、統率、武力ともに80台くらいに思います
どちらかを91以上とするなら、武力の方ですが…
曹仁とか五大将などが抜群の戦歴、武功を誇っていて候補とするには少々物足りないのです
>>246 文聘の事績を挙げます
文聘の事績
出身:南陽郡宛
官位:後将軍、江夏太守
・曹操に帰順した後、曹純と共に長阪に劉備を追撃した。「武力>統率」
・江夏太守として国境の守備を任された。
・楽進と共に、関羽を尋口にて討伐。功績があった。「武力>統率」
・関羽の輜重を漢津にて攻撃、形状で船を焼いた。「統率=武力(焼討)」
・文帝即位の後、仮節を与えられた。
・夏侯尚に従って江陵を包囲した際、別にベン口、駐屯の命を受け
石梵で敵と交戦となり、これを破った。「統率>武力」
・孫権率いる五万の大軍に石陽を包囲されるが、固守し
二十余日に孫権は包囲を解いて退却した。文聘はこれを追撃して撃破した。「統率=武力」
・文聘は江夏にあって数十年、威光と恩愛があり、名は敵国に恐れられた。「政治」
優れた人物であることは言うまでもありませんが…
五大将や、呉の都督クラスに、少し劣っているように思われます
正史には得物(武器)の重さの記述はありませんか?
もし重い武器を使ってるとしたら、膂力が強いと見て、
武力をプラスする材料になるかなと思ったのですが。
あと、体格が良ければ、それだけでもプラスの材料に
してもよいと思われます。微増でしょうけど。
漏れが反論すべき内容は全部12サンが言ってくれてるんで書くことがないw
>>254 話の流れから武力・統率に関係しそうなものだけを挙げましたので
>>255 そんなに蜀バッシングをしてるように見えましたか?
まあ、そう見られたなら仕方ないというか。
だからと言って意見を変えても仕方がないわけで。
>>256 スマソ。張飛は今資料がないんで事績を挙げられない。
武力91以上の武将に関してですが、
正史からの候補が14人しか挙がってないんで、
もう少し幅を広げた方が良いのでは。
>>244を見る限り、演義の候補をそのまま使うのには無理があるかと。
>>260 そうですね、この際、演義は忘れます
と言うわけで、正史のみで評価し、一騎打ちを殆ど無視した武力91以上候補です
武力
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、張遼、楽進、于禁、張コウ、徐晃、李通、許チョ、典韋、田豫、牽招
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、甘寧、リョウ統
蜀
劉備、趙雲、張嶷
その他
呂布、麹義
趙雲は、趙雲別伝での人並み外れた活躍を考慮しました
意外なことに、張嶷の武勇が凄かったので候補に加えてみますた
于禁の事績
出身:泰山郡鉅平
官位:安遠将軍、左将軍
・鮑信の募集に応じ、黄巾討伐に従う。「武力」
・曹操の命で、徐州の広威を攻撃、これを落とした。「統率>武力」
・濮陽の呂布討伐に参加、別軍として城の南の二陣営を破る。「統率>武力」
・別軍を率いて、須昌で高雅を破った。「統率>武力」
・曹操に従い、寿張、定陶、離狐の攻撃、雍丘の張超包囲、それら全てを破る。「武力>統率」
・劉辟、黄邵らの討伐に従う。黄邵らが曹操の軍営に夜襲をかけると
于禁は麾下の兵士を率いて黄邵らを斬り、その軍勢を降伏させた。「統率=武力」
・苦における橋ズイ包囲に参加、橋ズイら四将を斬った。「武力>統率」
・曹操が張繍に敗れても、于禁の部隊は乱れることがなかった
青州兵が混乱の中、略奪を働くや、于禁はその罪を責めた、そのため青州兵は曹操の元に逃げ込み
于禁を訴えたのであるが、于禁は背後に賊(張繍)が迫っているため
それに備えるのが先決であるとし、塹壕を掘り陣営を固めた。「統率=武力」
・曹操の穰における張繍征伐に参加。「武力>統率」
・下ヒでの呂布包囲に参加。「武力>統率」
・曹仁らと共に射犬でスイ固を破る。「武力>統率」
・歩兵二千で延津を守り、袁紹を防いだ。「統率>武力」
・曹操が劉備討伐に赴いた際、袁紹が攻め寄せたが、于禁は堅守した。「統率>武力」
・楽進らと、袁紹の別陣営を攻撃、汲、獲嘉の二県の三十余の屯営を焼き払った
首級数千、捕虜数千に袁紹の将軍、何茂ら二十余人を降伏させた。「統率=武力(焼討)」
・別軍を率いて、杜氏津にある袁紹の別陣を攻撃、これを破った。「統率>武力」
・曹操は陣営を連ね土山を築いて、袁紹と相対していた
于禁は土山の守備を任され力戦したため士気が高まった。「武力>統率」
・夏侯淵と共に昌キを攻撃、これを降伏させた。「武力>統率」
・法に基づいて昌キを斬罪の処した。「政治」
・臧覇らと梅成を討伐。「統率>武力」
・陳蘭と相対す、張遼らへの兵糧輸送を担当した。「統率」
・七軍を率いて曹仁救援に向かうも、漢水の氾濫のため関羽に敗れ降伏する。「統率マイナス
>>262 事績が示す通り、于禁の戦歴は、最後を除けば非の打ち所がありません
ただ、どちらかと言えば大将としてより部将としての方が優れているように思われます
とは言え、統率において于禁を考慮することに異存はありません
…五大将と夏侯淵、曹仁は反則的凄さ…
>>263 最後って統率マイナスなのかな?
運が悪かっただけだと思うんだけど。
寧ろ、知力のマイナスっぽい気が・・
まあ五大将と夏侯淵、曹仁の凄さは反則的だけどね(笑)
>>261 ついでに武力91候補に、潘璋を入れて欲しいです。
あと満寵も。
>>261 何か魏が圧勝するだけのつまらないゲームになりそうだね。
馬超とかどうよ? 劉備に帰順した後は活躍ないけどさ。
そもそも、事績の頭数を列挙するだけだと、
史官がいなかったwという蜀将は明らかに不利だと思うのだが、どうだろうか?
>>261 呉で朱桓はだめかい?
268 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/27 21:30
age
運が悪かった出片づけるのかよ
このスレも終わりだな
>>270 運勢のステータスがまだあれば良かったんだがな(藁
「ああ、またこいつか」w
お久しぶりです。
私用により、7/9頃までほとんどPCをする暇が無くなりそうです。
たまに覗いてみたいとは思っていますが、それでも統率・武力決めに参加できるかは微妙です。
個人的には大変残念ですが、私に構わずどんどん話を進めて下さいm(_ _)m
まてまて、一騎打ち無視なら、スレタイの三国志\の意味がなくなるだろ?
関羽の場合は戦力差もあるので、
局地戦での敗北の多さ→武力マイナスとするには少し無理があるだろ。
少なくとも顔良を斬ってるという武勇は事実なわけだし。
実績の無い顔良を弱くすれば済むこと
だか、そうすると正史準拠じゃなくなっちまうがな。
正史準拠なら、後世の作り話だろう?なんて議論は出しちゃいけないだろ?
http://homepage3.nifty.com/mos/shishi/kannu.htm ↑曲がった推測、左翼思想家が右翼的な発想をしてるに過ぎない。
・本籍からタク郡に出奔した。塩の密造?
・劉備が兵を集めると張飛とともに護衛官となった
・劉備が平原国の相となると別部司馬となった
・劉備が高順に撃破されると劉備らとともに曹操の下へ逃げ込んだ
・下ヒの包囲に加わった
・劉備が車冑を殺害して除州を手にすると、下ヒに駐留して太守の事務を代行(統率+政治+)
・曹操が劉備を征伐、劉備逃走、沛県に取り残した妻子は捕縛され、
下ヒに駐屯していた関羽も孤立し降伏
・曹操は関羽を捕虜としたが、編将軍の位を授けるなど厚遇
・天下統一を目前にした袁紹軍の先鋒を任された顔良を斬る。
大軍の中を掻き分けるだけでも一苦労だろうと推測(武力+)
・劉j降伏を受け逃走、友軍を待っていたが、漢水にて楽進、文聘に撃破された
・続けて漢津にて徐晃、満寵に撃破され、荊城の水軍の一部を焼かれた
・劉備から荊州を任され統治、運営(統率+政治+)
・孫権により派遣された荊南の三郡の太守を追い返した(政治−)
・諸将の前で肘を切開しながら酒を酌み交わす(武力+)
・魏の救援軍(于禁・[ホウ]徳)を撃破(武力+統率+)
・曹操は許からの遷都を考慮したが、司馬懿・蒋済に諌められる(武力+)
↓魏の司馬懿・呉の呂蒙、陸遜らの謀略により挟撃作戦スタート↓
・船を使い樊城を包囲、襄陽には別将を派遣
・敗走の最中、 朱然と潘璋を派遣して関羽の退路を断たせ、
関羽とその子の関平を臨沮で斬り殺させた
・春秋左氏伝を諳んじていた(知力+)
>>263 >最後って統率マイナスなのかな? 運が悪かっただけだと思うんだけど。
確かに、そうですね。「統率マイナス」は無かったことにして下さい
>ついでに武力91候補に、潘璋を入れて欲しいです。 あと満寵も。
満寵も潘璋も、武力91以上には物足りない気がします
>>264 >何か魏が圧勝するだけのつまらないゲームになりそうだね
言いたいことは分かりますが…なにぶん史書に記されていることなので…
>馬超とかどうよ?
馬超ですが、事績を洗い直してみますた
すると野蛮で攻撃的な事績が…でも武力はかなりの物と思います
>>267 >そもそも、事績の頭数を列挙するだけだと、
>史官がいなかったwという蜀将は明らかに不利だと思うのだが、どうだろうか?
全く以てその通りです。ですから蜀の人物の事績は、魏書呉書などからも探していますが…
それでも少ない人物は本当に少ない
>呉で朱桓はだめかい?
濡須で曹仁と渡り合った時は、優れた武勇を示していますが
意外な事に派手な武勇はこれだけで、その他の戦は普通にこなしています
朱桓は、どちらかと言えば統率の方が優れているように思います
満寵、潘璋、馬超、朱桓の事績を挙げときます
満寵の事績
出身:山陽郡昌邑
官位:太尉、征東将軍、都督揚州諸軍事
・李朔らを取り締まる。「政治」
・張苞が贈収賄を行い郡の行政を混乱させると、これを逮捕した。「政治」
・曹洪の食客で法を犯す者を逮捕した。「政治」
・楊彪を公平に取り調べ、罪が明確でないことを理由に釈放した。「政治」
・汝南太守の頃、五百人を率いて二十余の砦を攻め落とした。「武力=統率」
・降伏していない指導者、十余人を殺害し汝南を平定した。「武力」
・曹操に従い荊州を征伐。「武力>統率」
・曹仁と共に関羽に抵抗した。「武力>統率」
・于禁が敗れたとき、曹仁に樊城での持久を主張した。「知力」
・徐晃の攻撃に乗じて力の限り戦い勲功を挙げる。「武力>統率」
・江陵において呉を破る、この事に功績をたてた、とある。「統率>武力」
・南方征討で、敵の焼き討ちを予測する。「知力」
・諸軍を統率し、伏兵を用い焼き討ちをかけてきた敵を破る。「統率>武力」
・孫権が西陽を襲うと予測、それに備えた。「知力と統率」
・曹休の敗北を予想する。「知力」
・孫権の来襲に備え諸軍を召集し、これを防ぐ。「統率>武力」
・孫布の裏切りが罠であると見抜く。「知力」
・廬江に向かった陸遜に対し、軍を整えて陽宜口へ向かう。それを知った陸遜は退却した。「統率」
・合肥新城の建設を献策する。「知力と統率」
・攻め寄せた孫権に対し、伏兵の策を立案。「知力」
・伏兵を持って攻撃、数百の首を斬る。「統率=武力」
・再度攻め寄せた孫権に、義勇兵数十人を用い
火によって攻城兵器を燃やし、孫権の弟の子を射殺した。「知力と武力=統率」
・敵の屯衛兵を、長史に襲撃させ穀物を焼き払った。「統率」
武力も優れているが、統率や知力の方が優れているように思う
また政治も優れているため、大変バランスの良い人物と思う
関羽オマケ
・呉の縁談の使者を罵倒する(政治−)
・陸遜のへりくだった手紙に慢心する(知力−)
・樊城攻めの援軍、補給を要求するが全て断られる(統率−政治−)
・孫権の挑発行動に手紙で行き過ぎた恫喝をする(知力−)
・呉との国境線にある倉から無断で兵糧を持ち出す(政治−)
・程イクに兵一万に匹敵すると称される(統率+武力+)
・周瑜に勇猛無比の将と高く評価される(統率+武力+)
・廖立に思い込みのみで突進するから何度も負けると酷評(統率−武力−)
潘璋の事績
出身:東郡発干
出自:貧家の出
官位:平北将軍、襄陽太守(遥任)
・孫権の命で兵士を募集し百余人集まると、これを与えられて部将となった。「統率」
・山越を討伐し功を挙げる。「統率>武力」
・呉の市場を取り締まると、盗難などがなくなった。「政治」
・劉表は、西安県で略奪を行っていたが、潘璋が県長になると、境界を犯さなくなった。
・建昌で叛乱が起こると、すぐにこれを平定した。「統率>武力」
・合肥で張遼が攻め寄せると、宋謙らの兵は逃走しだした。
潘璋は後方より駆けつけ、兵士二人を斬って残りの兵士達を戦場に戻らせた。「知力(鼓舞)と武力」
・朱然と共に関羽の退路を断ち、部下の馬忠が関羽と関平、趙累を捕らえた。「統率>武力」
・夷陵にて陸遜と共に劉備を防ぎ、部下が馮習らを斬り、多数の兵を殺傷した。「武力>統率」
・夏侯尚らが南郡を包囲すると、彼らは浮き橋で三万を中洲に渡らせた。
このとき潘璋は「まだ戦うべきでない」と主張し、魏軍より上流へ行って筏を作り
火をつけて下流に流そうとしたが、夏侯尚はこれに気づき、軍を引き上げた。「知力と統率」
・潘璋の兵馬は数千であったが、常に一万の如き働きを見せた、とある。「武力」
・軍の管理する市場を開いて、他の軍は潘璋の市場で不足を補った、とある。「政治」
潘璋は、統率も優れ、知力もある良将ですが
武力91以上とするには少々物足りない気がします
朱桓の事績
出身:呉郡呉
出自:呉郡朱氏(四姓の一つ)
官位:前将軍・仮節、青州牧(遥任)
・余姚県長の時、疫病が流行り飢饉のため穀物などが値上がりした
朱桓は、良吏を選んで指図し、医薬を手配し炊き出しを行った。「政治」
・盪寇校尉の時、兵二千を与えられ、呉郡、会稽郡で烏合の兵士を集め
一年ほどで一万余の兵士を得た。「統率」
・丹楊、ハ陽で山越が蜂起し、城を攻め長官を殺したりした
朱桓は部将達を指揮し、各地を周り、全ての叛乱を平定した。「統率>武力」
・曹仁が濡須に攻めた際、曹仁の策にかかり、兵を分けて羨渓に向かわせた
・曹仁が濡須に向かっていると報を受けると、兵士を呼び寄せたが間に合わなかった
敵の大軍に恐れる部将達を、鼓舞した。「知力」
・朱桓は、軍旗を立てず戦鼓を鳴らさず、敵に弱いと見せかけ曹仁を誘い込んだ。「知力」
・曹仁が攻め寄せると、油船を拿捕し、別に常雕を攻撃させ、自らは曹泰と対陣
敵陣を焼き、常雕の首を斬り王双を生け捕った。「統率=武力」
・曹休が攻め寄せた際、陸遜に献策をしたが、すでに陸遜に策があったため採用されなかった。「知力」
・陸遜総指揮のもと、全jと共に左右の督として、曹休を破った。「統率>武力」
・呂習の偽投降に呉が呼応した際、偽投降が露見し退却することになった
朱桓は殿を務めた。敵将、李膺は朱桓の節や蓋があるのを見ると追撃を戸惑った
朱桓も、潘璋と同じく知勇に優れた人物だが、武力91以上とするには少々物足りない
>>281 確かに何か足りない気がするね
まあ関羽を捕らえた馬忠はほとんど特例みたいなもんで
関羽捕縛は潘璋個人の手柄でもいいんだけどね
後、捕らえずその場で斬ったという説をとれば90台でも文句ないかも
ちなみに個人的には呂岱と賀斉を薦めたい
>>283 ああっ、忘れてますた
ご指摘、感謝します
平北将軍の後、孫権が帝位に就くと右将軍に任命されてます
馬超の事績
出身:扶風郡茂陵
出自:祖父・馬平は蘭干県尉、父・馬騰は征西将軍、馬援の後裔
官位:驃騎将軍、左将軍・仮節、涼州牧(遥任)
・鍾ヨウに従って郭援らを討伐した。「武力>統率」
・典略に、矢が足に当たったが袋で足を包んで戦い郭援を破った、とある。「武力」
・馬騰が都に上ると、その軍勢を統率した。「統率」
・韓遂らと兵を挙げる。劉雄鳴が従わなかったので、これを破った。「武力=統率」
・武帝紀の曹瞞伝に言う。渡河しようとしている曹操軍を襲撃。「武力>統率」
・同じく曹瞞伝に言う。曹操軍が渡河するたびに、馬超が騎兵で突撃し
陣営を築くことが出来なかった。「武力>統率」
・韓遂らと潼関まで軍を進めたが、賈クの計により仲違いする。「知力マイナス」
・そのため曹操に敗れる
・逃走して諸蛮族を配下におさめた、とある。「統率」
・隴上の郡県を攻撃し、これを呼応させる。「統率>武力」
・「キ県」で韋康を包囲し、これを斬る。「統率=武力」
・韋康の救援に来た夏侯淵を破る。「統率>武力」
・歴城を襲撃し、これを落とす。捕らえた姜叙の母に罵倒され、これを殺す。「武力=統率」
・楊阜らと城を出て戦うも、これを敗ることが出来ず、さらに隙をつかれ梁寛らに城を奪われる。
・再び挙兵して、祁山を包囲したが、夏侯淵らと交戦する前に退却した
・劉備の元に走り、兵を与えられ成都を包囲した。「武力>統率」
武勇に優れるのは言うまでもないが、統率もなかなか
すげえ!
馬超って夏侯淵を破ってるんだ・・
馬超は許チョに睨まれて体がすくんで動けなくなったから
武力は許チョ>馬超は確定だね
馬超は閻行と打ち合ってボロ負けして殺されかけたから
武力は閻行>馬超は確定だね
統率
漢
皇甫嵩
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、曹真、張遼、張コウ、徐晃、満寵、郭淮、ケ艾、田豫
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗、賀斉
蜀
劉備、諸葛亮
晋
司馬懿
武力
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、張遼、于禁、張コウ、徐晃、許チョ、典韋
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、甘寧、リョウ統
蜀
劉備、関羽、張飛、趙雲、黄忠
その他
呂布、麹義、馬超
張嶷は歴史群像シリーズで1ページ割かれてるぐらい事績はあるんだろうが、
張嶷を入れるんなら賈逵なんかも入っちまう。俺的に。
満寵の評価は光栄より高くてもいいと思うが…
>>274 確かに最大限考慮に入れるべきではあるのですが、
いかんせん事績が少ないので判断しかねる部分が多いんですよね。
だが、まあ候補に挙がってる面子を見れば、
一騎討ちが強くてもそんなに違和感のない連中が多いですが。
>>277 スマソ。確かにその通り。
華キンの時もそうでしたが、行間はあまり読まないほうがいいみたいですな。
で、思うのですが武力化統率が91以上だと思う人間を挙げる際、
この人物よりは上だろう、という意見も交えて言ったほうが考察しやすくはないでしょうか?
絶対的に能力値を付けるより相対的に付けた方が簡単ですし。
そのための叩き台でもあるわけで。
>>286 馬超は演義よりも正史の方がすごさがあるよね。
対抗していた当時の曹操の勢力の大きさを思えば、なおさら。
追加。でも演義よりさらに馬鹿っぽいよねw
寝返るコネのない呂布って感じだ。
勝手に呂岱の事績
・呂合、秦狼ら5県の不服従民の反乱を討伐する(統率・武力)
・軍を進めて荊南の三郡を奪取する(統率・武力)
・4県の役人が共謀し人を集め陰山城に立てこもるが攻撃し瞬く間に降伏させる(統率・武力)
・長沙に留まり鎮撫した(政治)
・反乱を起こした中郎将の袁龍を攻撃し難なく捕らえ斬った(統率・武力)
・歩シツに替わって交州刺史となる、高涼の異民族が降伏を申し込み受諾する(政治)
・鬱林の異民族が郡や役所を包囲して攻撃を仕掛けたが、これを打ち破った(統率・武力)
・桂陽一帯の叛徒王金が反乱を起こすがこれを討伐し王金を生け捕る
この討伐で斬首あるいは生け捕られた者の数は1万余人にのぼった(統率・武力)
・交州を分割し広州を新設、広州刺史に任じられる(政治)
・命に背き兵を動かした士徽に急襲を主張し士一族を斬首した(統率・武力・知力)
・士徽の配下の武将が呂岱に攻撃を仕掛けるが反撃し散々打ち破った(統率・武力)
・広州を平定し、もとどおりの交州を復活させた(政治)
・九真を討伐する、斬首及び捕虜にした数は何万にものぼった(統率・武力)
・南方の扶南、林邑、堂明に役人を向かわせ呉国の教化を宣べたところ
各地の王たちが貢物を献上してきた(政治)
・南方が安定したので長沙へと召され、潘濬と武陵の異民族を討伐し平定する。(統率・武力)
・廬陵、会稽、南海で同時に蜂起するが呂岱の知略と武略により見事に平定され治安が大きく向上した(統率・武力・知力・政治)
・潘濬が死去、荊州の公文書の決裁を引き継ぎ、陸遜と蒲圻の駐屯軍の指揮をする(統率・政治)
・廖式が反乱を起こし零陵、交州周辺が不穏になる、呂岱は上表して自ら討伐を起こし
1年かけて廖式や彼が派遣した臨賀太守費楊を打ち破り、その部下を自軍に組み入れた(統率・武力)
・80歳になるが質素な生活の中で仕事にはげみ、自ら職務を処理した
・皇太子孫登、奮威将軍張承らに行いを賞賛される(主に政治)
・吾粲と共に山越討伐を行う(統率・武力)
・軍事の最高職大司馬に就任する
・陸機が弁亡論にて行政手腕を賞賛する(政治)
96歳で死ぬまで軍事と政治の中で活躍し続けた名将
呂岱はどっちかというと統率・政治に秀でたと言うべきかな?
統率の90台は候補として考慮してみてもいいと思う。
賀斉や張嶷あたりは中原での戦歴に欠けるきらいがあるので80台後半が無難だと思う。
魏延わすれてなあい?
忘れているのか、恣意的なのか。
まだほとんど決まってないんだから
コテに頼らず、自分が思う候補者の事績や戦歴を書いていけば?
魏延は意図的に外してるんだけど。
俺の中では。
魏延も
>>300の理由と同等なんじゃないの
北伐の指揮官は孔明なんだし
魏延が関羽、張飛、趙雲、黄忠より劣る …の? 意外だ...
正史準拠なら確実に五虎将トップの扱いになるって……どのパラメータかはわからんが。
正史準拠でも評価は高くならないと思う。
魏延を高く評する人は子午谷の件だと思うが、
同じ発想で長安を落とそうと軍を進めた馬超が
一時的に潼関まで軍を進めたが、
その後どうしようもなかったなかったのをお忘れなく。
例え奇跡的に陥とせたとしても、軍を維持はできないだろうし、
魏延の指揮下では賊軍としてしかみなされなかっただろう。
しかも周りを囲まれてはどうにもならない。
ましてや自軍を統治できないものに、長安を統治できただろうか?
馬超は曲がりなりにも韓遂と連合、楊秋・李堪・成宜らとよしみを結ぶぐらいの器量はあった。
諸葛亮の描いた西方から軍を進めていく安全策は間違いではなかったのでは。
郭淮・費瑤らを西方で破ってる事を含め、叩き上げの軍人として武力80台後半〜90前半というところだろう。
漢中争奪で張コウを破った張飛、夏侯淵を斬った黄忠みたいな手柄が魏延にはない
北伐自体がいつもほどほどなせいだけど
正史準拠なら、魏延が張飛より上ってことはないだろう
そうなると、魏延が破った郭淮、郭淮に振り回された姜維、と考えると、
郭淮や、姜維を物ともしなかったに過ぎないケ艾らは90以上にならないよね。
武力と統率を混ぜこぜにしているというのは確かだけど、
後期の人物を辛く評価しすぎに思えるよ。
>>309 子午谷〜の建策に対する評価は知力に含めるべきでは?
実際に動いてないわけですし。
あと、楊秋らと誼をという点では、諸葛亮の北伐で安定など三郡が寝返ってますし、
概ね以前の馬超と同じような展開を辿ったと考えられませんか?
>>311 だからそれは諸葛亮の名声による功績が大きい訳で。
ケ艾はバリバリの90以上だよ。
魏延より実戦指揮官として劣る姜維〜は関係なく。
>>311 思うに、郭淮は成長している。
ケ艾の武勲は姜維に対する防衛戦だけではない。
後期の人物といえば、統率で司馬師・司馬昭はどうだろう?
あと、ドヨとか王シュンとか。
でも、晋書の武将は難しいのかな。このスレ的には。
統率91以上ほぼ確定
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、張遼、張コウ、徐晃、満寵、ケ艾、司馬懿
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、陸遜
蜀
諸葛亮
候補者
曹真、郭淮、田豫、牽招、陸抗、呂岱、朱桓
劉備、魏延、馬超、姜維、関羽、張嶷、皇甫嵩、呂布
武力91以上ほぼ確定
魏
夏侯淵、曹仁、張遼、許チョ、典韋
呉
孫堅、孫策、呂蒙、甘寧
蜀
関羽、張飛、馬超、趙雲
その他
呂布
候補者
曹操、于禁、張コウ、徐晃、周瑜、リョウ統、呂岱、周泰、丁奉
劉備、黄忠、魏延、姜維、張嶷、麹義
統率:太守の選定順、軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援、
武力:一騎打ち、戦法(奇襲、突撃など)の強さ、訓練、焼討、奪取
を忠実に再現する事を念頭に置こうよ。正史のスレは別にある訳だし。
統率は魅力や政治、知力の要素も入ってるわけで、
そうすると夏侯淵の統率は80台後半が無難。
http://www.geocities.jp/mudai55/ton_ennenpu.html ↑を見ると寧ろ負け戦の多い夏侯惇は俸禄の多さ(太守の選定順)、
徴兵力、救援等で勝ってる事から夏侯惇の方が上でいい。
こう言う風に検証してはどう?
例:関羽
◎太守の選定順、○軍隊の強さ、×計略に対する耐性、○改修、○徴兵、○建設、○救援
◎一騎打ち、○戦法(奇襲、突撃など)の強さ、○訓練、△焼討、○奪取
※関羽は荊州古城を建築している。
例:曹仁
◎太守の選定順、◎軍隊の強さ、○計略に対する耐性、△改修、○徴兵、△建設、◎救援
○一騎打ち、◎戦法(奇襲、突撃など)の強さ、◎訓練、○焼討、○奪取
例:魏延
○太守の選定順、○軍隊の強さ、×計略に対する耐性、△改修、△徴兵、△建設、△救援
○一騎打ち、◎戦法(奇襲、突撃など)の強さ、○訓練、△焼討、△奪取
例:諸葛亮
◎太守の選定順、○軍隊の強さ、◎計略に対する耐性、◎改修、◎徴兵、◎建設、○救援
×一騎打ち、○戦法(奇襲、突撃など)の強さ、○訓練、△焼討、×奪取
基本的に武将タイプ、馬超、魏延、呂布、張遼、于禁もどちらかといえば武力に偏ってた方がバランスが取れる。
張遼も小隊を率いての武勇が多いだけに…武力型でいいと思う。
張コウ、徐晃あたりは晩年の事があるので今から考察していこう。
呂蒙は年によってタイプが違う(武力→統率)だけに微妙だが…両方90台前半というところか、
もしくは統率のみ90台前半というところだろう。
満寵
◎太守の選定順、◎軍隊の強さ、◎計略に対する耐性、◎改修、○徴兵、◎建設、○救援
○一騎打ち、◎戦法(奇襲、突撃など)の強さ、◎訓練、◎焼討、◎奪取
呂岱
◎太守の選定順、◎軍隊の強さ、◎計略に対する耐性、○改修、◎徴兵、◎建設、◎救援
○一騎打ち、◎戦法(奇襲、突撃など)の強さ、◎訓練、○焼討、◎奪取
>>316 まだ議論は始まったばかりだろ。
関羽、張飛 は武力80台って人が結構居た。 現に俺もそう思う。
あと楽進は武力候補にも挙がらないのか?
俺は楽進の武力は92くらい欲しいところだ。
>>320 俺が
>>261で武力候補に入れているよ
後で事績も挙げるよ
>>317 先ず、ゲームでの太守の選定順ですが、これは官位が第一条件であり
統率は官位が同等の場合のみ影響します
つまり選定順に対する統率に影響はかなり低いのです
また選定順のために、戦の強さが逆転するのは好ましくないと思われます
少なくとも、夏侯惇>夏侯淵になるほど「太守の選定順」を評価することは出来ません
>>318 >こう言う風に検証してはどう?
>例:関羽
>◎太守の選定順、○軍隊の強さ、×計略に対する耐性、○改修、○徴兵、○建設、○救援
>◎一騎打ち、○戦法(奇襲、突撃など)の強さ、○訓練、△焼討、○奪取
>※関羽は荊州古城を建築している。
この案は正直、採用が難しいと思われます
まずゲームにおいても、正史の記述においても
比重は、「部隊の強さ(戦争行為)>その他」なのです
つまり「部隊の強さ」とその他の要素は、決して同等ではないのです
でないと劉馥などは、かなり上位になります
また、改修、徴兵、建設等は全ての人物に記載があるわけではないので
能力の評価に、大きく推測が入り込みます
一騎さんを始め、他の方々や俺も
事績を纏める際、能力に影響しそうなことは出きる限り集めてますので
事績の質量を中心で話を進めたいのです
楽進の事績
出身:陽平郡衛国
官位:右将軍
・曹操の命で兵を募集し千余人を得た。「統率」
・濮陽の呂布攻撃、雍丘の張超攻撃、苦の橋ズイ攻撃
上記、三戦で曹操に従い一番乗りの戦功を立てる。「武力>統率」
・安衆における張繍征伐、下ヒでの呂布包囲で曹操に従い別将を破った。「武力>統率」
・曹仁らと射犬でスイ固を破る。「武力>統率」
・曹操に従い、沛で劉備を破る。「武力>統率」
・于禁らと黄河を渡って獲嘉県を攻める。「統率=武力」
・官渡の戦いに参加し、力戦する。「武力>統率」
・黎陽での袁譚、袁尚攻撃に参加、大将の厳敬を斬った。「武力>統率」
・別軍として黄巾を討ち楽安郡を平定。「統率>武力」
・ギョウ包囲に参加。「武力>統率」
・南皮での袁譚攻撃に参加、先登で東門に突入した。「武力>統率」
・別軍として雍奴を攻撃し、これを破る。「統率>武力」
・別軍を率いて高幹を攻撃したが、高幹は壷関に籠もり
曹操と合流して壷関を包囲陥落させた。「武力>統率」
・曹操の命で、李典と共に管承を攻撃、これを破った。「統率>武力」
・襄陽に駐屯、関羽らを敗走させる。「統率>武力」
・臨沮の杜普、旌陽の梁大を討伐、これを大破する。「統率>武力」
・曹操の孫権征討に参加。「武力>統率」
多くの戦いで先陣を務める、勇猛さもさることながら、統率もかなりの物
これだけ多くの戦を経験していながら、失敗がないのは立派である
>まずゲームにおいても、正史の記述においても
>比重は、「部隊の強さ(戦争行為)>その他」なのです
それはどうかな?
俺はそう思わないな。現実問題として正史でも、
誰が率いても同じ結果になった事の方が多いと思う。
兵力差とか戦況が明記されてないと参考程度にしかならないわけで。
部隊の強さなんてのは、実際は兵力差と国勢、戦況がモノを言う方が大きいわけで。
ゲームはまあリセッターならそうかもしれんが。
第一、改修・徴兵・建設等は全ての人物に記載があるわけではないならば、
戦績等も全ての記載があるわけじゃないでしょう。
記載がある人だけ特別に評価していくという分には変わらない。
ならば建設、改修、その他に明記がある分には、それを評価に組み入れるべき。
等価値だと思いますけどね。
>>325 基本的に同意。
>>324 まあ、そうだな。
曹操軍の将なんかは官渡以降は兵力的に優位な
状況での戦闘が圧倒的に多いわけではある。
>>324 >俺はそう思わないな。現実問題として正史でも、
>誰が率いても同じ結果になった事の方が多いと思う。
>兵力差とか戦況が明記されてないと参考程度にしかならないわけで。
>部隊の強さなんてのは、実際は兵力差と国勢、戦況がモノを言う方が大きいわけで
こんな事言ったら、評価なんて出来ないよ
戦力、地勢、士気など戦争における要素が、必ず正史に知るされているわけじゃないのだから
そもそも「誰が率いても同じ結果になった事の方が多い」なんて事を如何に判断するのです?
取り敢えずそれを証明する手段をお教え下さい
>第一、改修・徴兵・建設等は全ての人物に記載があるわけではないならば、
>戦績等も全ての記載があるわけじゃないでしょう
統率:太守の選定順、軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援
の中では、「軍隊の強さ(戦争行為)」が正史の中で最も多く記されてますよ
建設などと等価に評価するのがおかしいと言うくらい、記された量に差があります
出来れば、建設などで、部隊の強さ(戦争行為)以上に統率を評価すべき人物をお教え下さい
それらの人物を検討してみます
とりあえず各部門、80以上と思われる武将の正史をできる限り記述・羅列していきましょう。
どの道、決定したものでも参考として考える人が多いでしょうし。
>>328 それは政治とか知力のことを言っておられるのですか
それとも
「統率:太守の選定順、軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援 」
これらのことを言っておられるのですか?
軍隊の強さというよりは戦争行為だね。
軍隊の強さ≠戦争行為
勝った負けた≠軍隊の強さ
だと思う。
あとはいろんな書籍におよその兵力なんかは載ってるけど。
例えば張遼などのように寡兵によって生き延びたり、
負け戦が多くても勇名が轟いてたり、そういうのがあると正史でも分かり易く評価されている。
武力という点では分かり易いが、
軍隊の扱いの上手さとなるとちと難しい。
立場によっても違ってくると思われるし。
手駒としては優秀だとしても、手駒じゃない場合、
もし手駒が君主になれたらどういう傲慢な鼻持ちならない将
例えば関羽が妻として要求したらそれを曹操に横取りされるとか、そういう人物相関図を背景にして、
手駒として扱えない人物だが、if関羽が傲慢では無く手駒になれる人物なら、
そういうifがゲームには盛り込める。
なぜならゲームはデジタルだから。無理がある事をするという前提に立ったほうがいい。
むやみに透明感を求めるより。
どーでもいいですが、魏延は漢中の囲の提案してなかったっけ?
だったら、改修○だと思うが
つーか、関羽の改修とか何を例に取ってるんですか?
イメージ?
318の案は却下されました
戦をサッカーの試合と考えた場合
選手個人の成績が武力、監督の采配が統率となるのだろう
しかるにココで評論している人々は試合を見ず
新聞のスポーツ欄のみを読み、点数を付けようとしている事になる
間接的記録しか存在していない場合、もっとも注目すべきは
当時の選手同士の感想、その場に居たハズの記者の評価こそが
重要視されるべきであるはずなのだが、それは鑑みないらしい
フランス戦に置いて負けはしたが善戦をしたと褒め称えられた日本
それは戦力差というものを鑑みた評価であるのだが
このスレッドでは戦力差というモノは評価の対象として存在せず
翌日新聞を見た個人の感性を最重要視する
もちろんそこにはマニア嗜好があり、マイナーな武将こそを
褒め称える判官贔屓でなければ「通」では無いと
意見は却下される傾向にある
>>333 プロ野球のゴールデングラブとベストナインは
記者投票だけどかなり糞だよ
>>333 色々と言いたい事があるので列挙していくぞ。
初めに。おまい、ほとんどサッカーやったこと無いだろ?
逆にやった事あったら、見る目が無さ過ぎるぞ。
また、サッカーにおいて選手間の感想はあまり当てにはならない。
サッカーに限らず、より高いレベルのスポーツであれば、現場の人たちは皆、
正しく判断できるのは高いところから見ている人、という程度のことを知っている。
サッカーもその例に漏れないよ。
あと、先日から考えていたことではあるのだけど、
他人からの評価はあまり大きく取り上げないことになっていたのではないのか。
で、最後に。曖昧に書きすぎて、否定したいだけにしか見えんよ。残念だったな。
>>335 >他人からの評価はあまり大きく取り上げないことになっていたのではないのか
え、そうだっけ? 反論されて、そういうのも参考材料にしようということになったんでは?
>>297とか
>>280で他人からの評も入ってるし。
確立した総意になったわけじゃないから、基準が曖昧なのは確かなんですけど。
例えば、前スレ985での一騎氏のレス
>どちらにしても、あくまで他人からの評価なのでそれほど重要な事績とは言い難い
同じく、
>>160-167などでは双方の見方が示されていますね。
俺も一騎さんと同じで
基本的に、「他人よりの評価」が史書に記された事績や実績より重要とは考えていません
まして64さんの言うように
>間接的記録しか存在していない場合、もっとも注目すべきは
>当時の選手同士の感想、その場に居たハズの記者の評価こそが
>重要視されるべきであるはずなのだが、それは鑑みないらしい
などとは、考えていません
>>167 を基本にして考えていけばいいと思う。
胡散臭いのは関羽や董昭、法正のように検証していくという事で。
多少の煽りや推測が入らないとつまらないし、それに対してはスレが流れを作るでしょう。
良くも悪くも仕えてる盟主によって、人の使い方、戦況、外交動向なんかも変わってくるわけで、
曹操が偉大なのは当然としても、それによって曹操の幕僚が上底ブーツみたいになるのを危惧するわけで。
于禁と比べると楽進は地味で、実際曹操の評価も途中までは于禁>楽進なんだよな〜。
于禁は知力−で統率と武力に秀で、楽進は武力に偏る人物像が浮かび上がる。
個人的には于禁>魏延>楽進かな。
>>338 実績軽視は危険だけど、評の軽視も同様に危険だと思われ。
高く評価されるということは評価されるだけの事績があったと見るべきだろうし。
また正史にすべての事績が書かれているわけでないのは言うまでもないわけで。
前にも書いたけど、史官不在で記録が乏しかったという蜀将なんかは
他者や陳寿の評なども大きな参考資料になるのではないかと思います。
まあ、大切なのは両者のバランスということで。
>>340 >高く評価されるということは評価されるだけの事績があったと見るべきだろうし
その考え方は分かります…
しかし、それでも「優れた事績」より「他人よりの高い評価」が同等とは考えられません
まして「評価されるだけの事績」があったとするには抵抗を感じます
と言うのも、これを良しとすれば人物の評価に、推測が大きく入り込み、最後には人気が物言う可能性があります
>また正史にすべての事績が書かれているわけでないのは言うまでもないわけで。
これに関しては、さすがに正史準拠ですから…としか言いようが…
>前にも書いたけど、史官不在で記録が乏しかったという蜀将なんかは
>他者や陳寿の評なども大きな参考資料になるのではないかと思います。
これに関しては、ある程度同意します
蜀の人物の少ない事績を補う形で、他者や陳寿の評を参考にすることは良いと思います
ただ、「他者や陳寿の評」が人物評価において支配的になることは避けたいのです
340とは別人だが、
封邑や身分、風評、重要拠点を任される等などの背景である程度穴埋めしていこう、ということかと。
>これを良しとすれば人物の評価に、推測が大きく入り込み、
>最後には人気が物言う可能性があります
ここは堂々巡りでしょうね。
人気が出るからには出るだけのものが・・・とも言えますし。
個人的には正史に簡明に書いてある事績からの推測と
正史に紹介されている同時代人達の評からの推測には
それほど大きな差はないと思いますが。事績にしろ評にしろ
その人物の「歴史」として残すのに陳寿が適当だと判断したもの
なのでしょうから。「正史を基にして」考えようというこのスレの趣旨にも
合致するのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
>これに関しては、さすがに正史準拠ですから…としか言いようが…
ああ、そういう意味じゃなくて、正史に載ってる事績の「頭数」だけを
過度に重視しすぎるのは違うんじゃないかなということです。
>「他者や陳寿の評」が人物評価において支配的になることは避けたいのです
支配的にしろなどとは言うてません。
一つの参考材料としては十分に有用なのではないか?と提言しているだけなのです。
長文失礼しました。
ちょっと思ったんですが、個々の武将の事績の下に参考として
>>318のような評価を
加えてみてはどうでしょう?
もちろん、比重は各項目がイコールではなく、「部隊の強さ(戦争行為)>その他」
となるでしょうが、仮に部隊の強さ(戦争行為)が互角のときなどには、
複数の武将を比較する資料として役立つと思います。
比較の際、どの項目を高く評価するか等は別に議論する必要があるでしょうけど・・・。
例:
楽進の事績
出身:陽平郡衛国
官位:右将軍
(事績省略
>>323を参照してください)
統率 戦争行為:◎軍隊の強さ
その他:△太守の選定順、−計略に対する耐性、−改修、○徴兵、−建設、△救援
武力 戦争行為:◎戦法(奇襲、突撃など)の強さ
その他:○一騎打ち、△訓練、−焼討、−奪取
記号の例
◎:特に優れている(戦争行為:事績6以上、 その他:事績2以上)
○:優れている(戦争行為:事績2〜5、 その他:事績1)
△:一定の評価には値する(戦争行為:事績1〜0、 その他:事績0)(0=事績からの推測))
−:記述ないため評価できず。(評価的にプラスマイナス0)
×:劣っている(マイナス事績1〜2)
●:絶望的(マイナス事績3以上)
注)戦争行為につき、統率>武力は統率の事績として、武力>統率は武力の事績として算出。(武力=統率は双方0.5)。
注)個々の事績で、特に評価すべきものは、任意にポイント加算可(ただし、加算の旨および理由を開示のこと)。
注)上の評価はかなりいい加減なので12さんに再評価していただけると幸いです。
正史じゃなくて史実に近づける、にすれば良かったのにな。
正史ならば12 さんの言う事が正論になる。
董卓はどうよ?
蒼天は行き過ぎとしてもそれなりの器だったと思うが。
董卓は孫堅より下だな
348 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/03 20:22
>>343 >個人的には正史に簡明に書いてある事績からの推測と
正史に紹介されている同時代人達の評からの推測には
それほど大きな差はないと思いますが。事績にしろ評にしろ
その人物の「歴史」として残すのに陳寿が適当だと判断したもの
なのでしょうから
とすれば、廖立は龐統と互角で90台もしくは80台かたいな
陳到は趙雲に次ぐわけだから武力は90はかたいか…
また曹冲は、曹丕より曹操の評価が高かったわけだから、政治、知力ともに高得点か
激しくインフレだな、90台15人ではとうてい足りないな
諸葛亮より優れていた上に尚書を任された劉巴を忘れるな!
曹操陣は兵隊の質よかったからかってあたりまえだたんじゃないの?
他人の評価ほど当てにならないものはないわけで。
>>348 ほんと融通効かんやっちゃな。分かって言ってるんだろうけど。
廖立は諸葛亮に煽てられたあげく調子に乗って勘違いし干された馬鹿。
李厳も一緒。おそらく彼なりの政治的な意図も含まれてるだろう。
陳到は記述があまりにも少ないし重要な官職にも就いてないので良くて80台だろう。
廖立や陳到は判るけど、李厳も一緒にしていいのか?
李厳は張遼クラスだと思ってますが!
>>352 結局、他人からの評価より、故人の事績の方が優先すべきと言うことだな
関羽とて、程cらから受けた評価を事績で証明できていないわけだ
裏を読み出したら再現が無く、廖立や李厳、関羽に好評価をする人もいるだろうが
逆に低い評価をする人もいるだろ
ある人物の他人からの評価は、最大限評価して
ある人物の他人からの評価は、歯牙にもかけない、なんてこともあり得るわけだからな
こんなダブルスタンダードが実際にあれば、納得できない人も多いだろう
>>355 それは完璧に違う。
論語読みの論語知らずだ。
文の前にまず人が生きた時の流れがある。
もうちょっと立体的に見てみ。
例えば何故関羽があそこまで出世したか。
廖立や李厳のように自国内での身の振り方を間違えた訳でもない。
最後は戦場で死を遂げている。
ほとんどの史実家の評価は一様に高い。
それに比べて李厳や魏延、廖立は必ずしも高いとは言えない。
つまり、文面通りの減点査定では全く事実は掴めない。
平面的でしかね。
>例えば何故関羽があそこまで出世したか。
何故あそこまで出世したの?w
>>357 それだけ周りを納得させる功績・器量・名声があったと見るのが無難だろう。
プライドの高い奴らには目の上のたんこぶだろうけどね。
他人の虚栄心を捌く事が苦手だったんだろ。
>>358 一つ良いでしょうか?
>それだけ周りを納得させる功績・器量・名声があったと見るのが無難だろう
この推測は、統率と数値にすれば、どのくらいとお考えなのでしょう?
>>359で誤字が
>この推測は、統率と数値にすれば、どのくらいとお考えなのでしょう?
ではなく
この推測は、統率と武力、数値にすれば、どのくらいとお考えなのでしょう?
どうも、すいません
>>358 とすると、関羽は
>身の振り方を間違えた
には当たらないの? それとも、「自国内」でなければ構わないの?
キツイことを言うようだが、漏れの目にはこれもダブルスタンダードと映ってしまうよ。
>>348 正史文中の評「だけ」で評価しろなんて一言も言ってないよw
まあ、わざと言ってるんだろうけどさ。
事績「だけ」というのはどうなのさ?と言ってるだけでしょ。
例えば、陳到なんて究極レベルの「評だけ」男なんだから、
そんなに高く評価できるわけもない。それもヨーギ一人が
他の人物を評価したついでに評価している一文があるだけ。
陳寿は伝も立ててないどころか、他の人の伝でも事績がない。
これに高い数字を与えるわけにはいかないじゃん。
まあ、基本的には「正史準拠」で考えるというスレなわけだから、
著者である陳寿の評はある程度尊重するべきだとは思うけど。
>>360 それは多数決なのでは。
個人的には彼の欠点は外交能力の著しい欠如と見る。
統率よりは武力型でしょうね。
何故なら外交能力が欠如している為に計略に対する耐性が低くならざるを得ない。
大局観にも欠けるし。
>>361 他人を評するのは簡単だが実際に戦場で指揮をふるうとなると…
敵と戦わずして味方に負ける、
生きて健在な内に周りと自分の評価とのギャップを生み出す。
また関羽にもそういう部分があったのだろうが、実際には引き摺り落されてはいない。
間接的に自分への害を生み出したやもしれんが。
関羽の場合は武人としての本望の部分であったと見る。
費偉やトウ之、李厳らも権力を巡っていろんな逸話があるが、
関羽のような威圧感は無かった、逆にそれが関羽の空気の読めなさ、
欠如を生み出す悲劇だったのでは。
ある程度距離感のある程立や周瑜には実害が無いので素直に評価されたと見る。
遠くから眺めるにはいいが、近づくとプライドをズタズタにする剛直さと見た。
>>364 申し訳ありませんが、多数決で数値を決める気はありません
知力の時もそうでしたし、政治の時も殆どの人物は、正史に準じた議論で決定しました
ただ政治は後、三人というところで、議論に収まりがつきそうになかったので、仕方なく多数決となりました
>他人を評するのは簡単だが実際に戦場で指揮をふるうとなると…
>敵と戦わずして味方に負ける、
>生きて健在な内に周りと自分の評価とのギャップを生み出す。
>また関羽にもそういう部分があったのだろうが、実際には引き摺り落されてはいない。
>間接的に自分への害を生み出したやもしれんが。
>関羽の場合は武人としての本望の部分であったと見る。
>費偉やトウ之、李厳らも権力を巡っていろんな逸話があるが、
>関羽のような威圧感は無かった、逆にそれが関羽の空気の読めなさ、
>欠如を生み出す悲劇だったのでは。
>ある程度距離感のある程立や周瑜には実害が無いので素直に評価されたと見る。
>遠くから眺めるにはいいが、近づくとプライドをズタズタにする剛直さと見た。
正直、推測が入りすぎているように思われます
さすがに、これを正史準拠の能力に反映させることは無理と思います
まして一人一人の「他人よりの評価」を、この様にして推測していくのは無理があると思いますし
正史に記された事績と同等に評価するのは、かなり抵抗を覚えます
>>364 少なくとも、麋芳が簡単に降伏したのは「実際に引き摺り落された」と見るべきかと思われ。
麋芳がそれまで手を出せなかったのも、主上との縁故ゆえでしょ。
彼個人の能力として評価するには事跡が足りなくありませんか?
>>277と
>>280に列挙された件で、他からの評価と腕力ネタ、太守・荊州督を除くと、
・魏の救援軍(于禁・[ホウ]徳)を撃破(武力+統率+)
しか残らないように思えます。
それに、この点でもスレ内で評価が別れているようですし。(
>>263-265など)
とまあれ、まだ基準設定段階で、誰も全く評価しないとした訳ではありませんので。
漏れは武力90候補ってとこかな。統率はノーコメントw
>正直、推測が入りすぎているように思われます
同意です。
>一人一人の「他人よりの評価」を、この様にして推測していくのは無理がある
正史に明文化されているものを純粋に読みとるだけで良いかと。
張飛>劉備>>関羽
まあ正史の戦績だけならこうなるんだろうけど、
普通のデッサンを描ける人なら考えられんわな。
仮にも入蜀以前から荊州を任され維持してたわけだから。
全部事績を挙げた人が決めればいいじゃん。律儀にupしてるんだから。
全部候補にするだけで決定する必要は無いと思うけど。
政治とか知力も俺は認めてないよ。
ぶっちゃけゲームなんだからゲームで操れる部分は見逃せる訳で、
都合のいい解釈もできるし。
例えば荊州の外交事情を操ったりもできるわけで。
340は何がやりたいのか分からん。
君を曹豹と名付けよう。
>>369 何で?
俺は単に事績の頭数「だけ」で決めるのはおかしいと言ってるだけ。
正史本文中の「評」は参考資料として十分に有用であると言ってるだけ。
>>371 すまん。
せっかくだから、三国志を久々に本棚から出して誰かの事績でもUPするよ。
12さんがやってる形式をコピペして使えばいいのかな?
とりあえず、
正史に書かれている以上は事績の羅列も他人の評も考慮。
その上で武将ごとに事績や評の優劣を背景や官職なども絡めながら決めていく。
といった感じ?
>>372 おけおけ。
どんどんupするよろし。
じゃないと盛り上がらない。
夏侯淵(字:妙才)
出自:夏侯惇の族弟
官位:征西将軍
・曹操挙兵時、別部司馬・騎都尉。陳留・エイ川太守
・袁紹交戦時に督軍校尉代行。
・エン州・徐州・予州の兵糧を取り仕切る。絶えることない輸送業務を実行(政治?統率?)
・昌キ攻めで苦戦する于禁を救援。十余りの屯営を攻め落とし、降伏に追い込む(統率・武力)
・典軍校尉。黄巾の残党・徐和らを討伐。散々に撃ち破る(統率・武力)
・行領軍。反乱者・雷緒を攻撃。撃破(統率・武力)
・行征西護軍。賊徒・商曜攻撃を指揮。商曜を斬る(統率・武力)
・朱霊を指揮して、テイ族を平定(統率)
・曹操に従って、楊秋攻めに参加。これを降伏させる(特に功績なし?)
・行護軍将軍。南山の劉雄を攻撃してこれを撃破し、さらに梁興も斬殺(統率・武力)
・博昌亭侯。馬超に攻撃された涼州刺史イ康の救援に向かうも、間に合わず。
・そのまま馬超と交戦するも、敗北。テイ族の反乱を招く(統率・武力マイナス)
・キ山を包囲した馬超に対して、諸将の慎重意見を廃して進撃。馬超は戦わずして退く。
・韓遂は戦わずに撤退。これを敢えて追い詰めず、転じて長離のキョウ族屯営を攻撃
・屯営を焼き払い(焼き討ち?)、大量のキョウ族を殺害し、生け捕った(統率・武力)
・長離救援に来た韓遂と交戦して、撃破。さらに千万を逃亡させ、高平・屠各をも撃破(統率・武力)
・それより以前(いつだ?)には宋建を撃破。河西にあるキョウの諸部族は尽く降伏(統率・武力)
・曹操は孔子を引用して特にこれを賞賛。三百戸加増して八百戸に。
・長安帰還後、下弁のテイ族・キョウ族を攻撃。テイ族の穀物十万石以上を奪う
・行都護将軍。張コウ・徐晃を指揮して巴郡攻撃。成功せず
・征西将軍。漢中守備を任される。陽平関に進出した劉備と長期に渡って対峙
・劉備の襲撃を受けて戦死。漢中は失陥。ビン侯。(統率・武力マイナス)
魏略によれば、夏侯淵は急襲を得意として、いつも敵の不意を突いた。
このため、「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で千里」と軍中で賞賛された。
曹操は戦勝を続ける夏侯淵に対して「指揮官たる者、臆病な時も
なければならない」「勇気だけを頼みにするな」などと苦言を呈していた。
戦略目標であるイ康救援が失敗に終わったにもかかわらず、
そのまま勢いに乗る馬超と交戦して敗れ去ったという話
などからも、そういう彼の特性がうかがわれるかもしれない。
夏侯淵の武勲の量は文句なし。評価は正史に明記されている
2つの敗戦をどう評価するか次第か。三国鼎立を決定付けることになる
漢中失陥につながった最期。また、いわゆる「大物相手」での大きな武勲が
ないことをどう評価するかも意見が分かれるかも。それでも武力91以上は固いでしょ。
夏侯淵は文句ないね、戦績も多くてはっきりしてるからわかりやすい
死因も押されてた張コウに兵を分けた隙を突かれたんだから
少しは同情の余地もあるかな
>>376 夏侯淵の事績、ご苦労様です
俺も、
>>377さんに同意です
夏侯淵は、統率武力共に91以上が相応しいと思う
夏侯淵の二度の敗戦は統率マイナスと思うが、それ以上に功績が優れています
ところで、そろそろ統率、武力を15人に絞る作業に入りましょう
さすがに候補とされる人物が多数揃いましたから
現在候補に挙がっている人物
統率
漢
皇甫嵩
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、曹真、張遼、于禁、張コウ、徐晃、満寵、田豫、牽招、郭淮、ケ艾
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗、朱桓、呂岱
蜀
劉備、諸葛亮、関羽、張飛、馬超、魏延
晋
司馬懿
その他
呂布
武力
魏
曹操、夏侯淵、曹仁、張遼、楽進、于禁、張コウ、徐晃、李通、許チョ、典韋、
呉
孫堅、孫策、周瑜、呂蒙、周泰、甘寧、リョウ統、丁奉、賀斉、呂岱
蜀
劉備、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲、魏延、張嶷、姜維
その他
呂布、麹義
かなり多数ですが、多数決ではないので理由も書いていただけるとありがたいです
>>377 夏侯淵は全体の総司令官だったんですから、
張コウの支援に兵を出した所を突かれて敗死したなら
それは司令官としての失策であることは間違いないかと。
まあ、劉備側が巧みだったということでしょうけど。
黄忠はあまりにも事績が少なくないでつか?
夏侯淵を討ったという点をどこまで評価するかってことでしょうが、
それだと同じ様な武将が多々いそうですし。
それとも漢中であったということを評価すべきでしょうかね。
ところで後漢書・晋書に記載されている人物はどうするんでしょうか。
>>379 お疲れ様です。多いですね〜。これを15人ですか。
統率は30人なので、15人削除。
武力は32人なので、17人削除ですね。
>>381 司馬炎とかは統一後の印象が最悪ですが、
誰も成しえなかった統一事業を成したことは評価してもいいかもしれませんね。
個人的には「統率」で杜預を推したいです。
統率では
魏は張遼、呉は朱桓、蜀は劉備と諸葛亮以外、呂布
武力では
魏は李通、呉は周泰、賀斉、呂岱、蜀は張飛、馬超を以外全員・・・
はこのメンバーなら取りあえず落ちると思います。
個人的に「武力」に陸遜を推したいです。
あと、甘寧の事績教えていただけませんか?
劉璋に敗れたことは何がマイナスかな・・?
統率
夏侯淵
封邑がなにがなんでも少なすぎる。
曹操の評価も決して高くない。
戦況を見誤る事が多い。
張飛
魏延を漢中太守に任命したのは信用されてなかったということ。
兵卒や目下の者に対しての意識、モラルに欠けたと思われる。
魏延
ヨウギと仲が悪く味方も少なかったので死んだ。
武力は
曹操。
背が低い。祖父が宦官ということで頭が抜群に良かったんだろう。
黎明期は董卓討伐で単独出陣し敗北。
後半では主に後方で戦略を練る指揮官で実戦指揮官とは言い難い。
楽進
曹操指揮下が多い。背が低い。
単独での戦功が少ない。
于禁
降伏した時点で武力は落ちる。
頭を使うタイプだったんだろう。
あとは統率に夏侯惇が入る。
俺の場合。
>>385 理由のほとんどが推測やん
夏侯淵の封邑が少ないからって統率減ってひどすぎだろ、どう考えても曹操に信頼されてたし
それに曹操と楽進の背が低いって…それでも武勇を示してんじゃん
楽進の理由にある曹操指揮下が多いってのも
ゲームでの部隊の攻撃力は大将の統率だろ、武力に関しては曹操指揮下でも問題ない
夏侯惇って、官位の高さが主な理由なんだろ、位が高いだけで統率が90台って
それなら諸葛瑾や張悌、蒋エンなんかも軍を率いたこともあるし80台はあるな
いくらなんでも、こんな理由ありなのか?
こんな理由がありなら、評や官位などで評価するのは反対だ
丁奉
・戦闘の中でいつも抜群の手柄を立て、きまって敵の大将を斬り軍旗を奪い
身には大小の傷を受けた(武力)
・東興の戦いにて自軍の遅さに危惧し自分の配下三千のみで速攻をかけ奇襲し
敵の前衛の陣地をさんざんに打ち破り、さらに呂拠と合流し魏軍を潰走させた(統率・武力)
・高亭の戦いで、馬に乗り矛を持つと、敵の陣中に突入し、数百の首級をあげ、
敵の軍器を奪い取った(武力)
・諸葛誕の反乱時に突撃隊長となり積極的に戦って功績をあげた(武力)
・孫チン抹殺計画の立案者に推薦され、計略を用いて孫チン抹殺を成功させた(知力)
・多くの軍団を指揮して蜀の援護をしようとするが、蜀が滅亡したため引き上げた
・合肥攻めにて晋の大将石苞に計略を仕掛け、石苞を前線から外させるのに成功する(知力)
・人々を指揮して除塘を修理し、そこから晋の穀陽に攻撃をかけたが
住民が去っていたためなにも手に入らなかった
小部隊の隊長から大将軍にまで出世した猛将
結果のない行動も目立つが、戦があれば突撃し
武勇を奮い必ず功績を挙げた面は評価したい
首級を挙げた数は多そうだが大軍を統率しての戦績は微妙かな
>>387 >ゲームでの部隊の攻撃力は大将の統率だろ、
武力に含めた。
だからさ、決定する必要なんかないんだってば。
みんなの参考になればそれでいいじゃん。
曹仁>夏侯淵かな。
正史なら、曹仁は曹操時代最高の武将だろ
>>380 確かにそれは淵の失策だが、
それでマイナスするならば統率ではなく知力だと思うがどうだろうか。
>>385 何故降伏したら武力がマイナスになるんだ?
また淵の封邑は他に比べ多いとは言えないが、
それを十分に補って余りある事績が残っていると思うが。
>>389 あくまで基準は9に依るんだから、
曹操指揮下で挙げた戦功は武力にプラスすべきだろ。
>>390 別に決めたい香具師が決めればいいんじゃねえの?
そこまでする必要がないと思えば無視っとけばいいだろ。
15人に絞るからと言って参考にならなくなるってわけでもないだろうに。
あと、田豫のあげた功績は統率よりも知力による部分が大きくないですか?
彼の統率が高いのは当然だとは思いますが、
知力を決める際に田豫が歯牙にもかけられていなかったので、
異民族討伐は中原での戦歴より評価が低いのかと思っていたのですが。
>>384、甘寧の事績、挙げるよ
甘寧の事績
出身:巴郡臨江
官位:折衝将軍
・呉書に言う、侠気によって殺人をし、亡命者を匿ったりした。「武力」
・呉書に言う、劉表の失敗を見抜き、呉への亡命をたくらむ。「知力」
・黄祖を孫権が攻めると、殿となって黄祖を逃がした。「武力>統率」
・その際、リョウ操を射殺した。「武力」
・孫権に長江流域を支配し天下を二分するよう延べ、先ず黄祖を討つよう進言した。「知力」
・周瑜の元で、曹操を烏林に破る。「武力>統率」
・南郡攻略の際、夷陵の奪取を進言。「知力」
・自ら、夷陵を攻め奪取した。「統率>武力」
・曹仁が五千の兵で城を包囲すると、千人で援軍が来るまで守り抜いた。「武力=統率」
・魯粛の指揮下で、益陽にて関羽を防いだ。
上流で渡河しようとしていた関羽を、八百の兵で釘付けにした。「統率」
・皖城攻めで、先頭に立って城壁を登り朱光を捕らえた。「武力>統率」
・合肥で孫権を守りきる。「武力>統率」
・濡須で、敵先鋒を攻撃し首級数十を挙げて、退却させた。「武力>統率」
・劉焉伝の英雄記で登場。扈瑁に呼応して劉璋に反逆、失敗、荊州に逃亡(どう評価しよう)
とにかく勇猛で、先陣のさらに先陣を務めることが多い
特に、魯粛存命時の荊州攻略や皖城、濡須での武勇は大変優れている
「他人からの評価」は挙げてないけど、誰か補完をお願いします
>>393 知力の時、田豫はちょっとだけ話に出たはず
いま思い返すと知力は戦術より、戦略を優先した人選ですね
91以上はたった15人ですし…
俺としては、田豫の知力は85以上はあると思う。また武力、統率も85以上は確実かな
逆じゃない?
戦略より先述を優先したと思うけど。
暗殺や唆し、内紛への介入など、長期的な戦略を考えていたとはとても...
×先述 → ○戦術 御解りと思いますが一応。
>>396 申し訳ない
読み辛かったようですね…
>>2にある、知力91以上の15人は
どちらかというと戦術より戦略を優先して決定されたという事です(15人全員というわけではない)
後、俺も田豫の知力は戦術的知略が多いと思っています
>>393 >何故降伏したら武力がマイナスになるんだ?
他のエピソードを含めてその人物像から判断した。
個人的に過去于禁スレを2回立てた事あるほどだが、
冷静に人物像を推し量って統率80台後半、武力80台が当て嵌まる。
>曹操指揮下で挙げた戦功は武力にプラスすべきだろ。
だから楽進はどちらかと言えば武力に組み入れるべきで、武力にプラスにしても80台後半。
統率も80台。
>于禁・楽進
理由を詳しく言って呉れ
>>399=
>>368=
>>385=
>>390 降伏なら、君の大好きな関羽や、武勲抜群の張遼もしているんだが…君の大好きな夏侯惇も虜囚になっていたなぁ
そもそも冷静に推し量って…とは一体どの様な物なのだ?
過去に于禁スレを立てたからなんだと言うんだね?
夏侯惇を統率90台と言ったり、
>>368で
>張飛>劉備>>関羽
まあ正史の戦績だけならこうなるんだろうけど、
普通のデッサンを描ける人なら考えられんわな。
仮にも入蜀以前から荊州を任され維持してたわけだから
なんて、妄想を丸出しの意見を開陳したり
自己中心的に人物を解釈して妄想を膨らませた意見は、いい加減にしてもらえんかね
これまで、知力や政治でも事績中心で話が進んでたんだよ。いきなり出てきて自分ルールを押しつけんじゃねーよ
だいたい喪前は
>>390で
>だからさ、決定する必要なんかないんだってば。みんなの参考になればそれでいいじゃん
なんて事、いってんじゃねーか。このスレに粘着する理由なんてねーだろ
どうでもいいけどコテと名無しの使い分けやめろや。どっちか一つにしろ。
気持ち悪いから。
軍の経理文書を扱う仕事を扱ってた、体が小さい、でも武勇に長けるいう人物像。(80台後半)
曹操指揮下が多い、同年を比べた場合、于禁より戸数が少ない、(80代後半)
これが歴史を預かる者とすれば常識的な見方だろ。
羅列なんかは記録が残っている書物が多ければ多いほど残るわけで。
書物自体も書く人の人間関係に左右される。
だいいち陳寿やシブサワコウにしてもお前らより蔵書は深いんだぞ。
単純に粗探しや宝探して悦に入ってても何の魅力も感じないよ。
正史厨が自分だけのオナニーしてるとしか思えない。
>>401 (゚Д゚)ハァ?何妄想膨らましてるの?
違いますけど。
>>402 >軍の経理文書を扱う仕事を扱ってた、体が小さい、でも武勇に長けるいう人物像。(80台後半)
>曹操指揮下が多い、同年を比べた場合、于禁より戸数が少ない、(80代後半)
漏れは通じて七誌だけどね。最近だと400くらいかな。
それはともかく、上の内容は判るが、数値が解らんのよ。
明らかに説明不足だと思うが、「常識的」といきなり断言されても。
あと、最後の捨て台詞3行は必要ないよな?
討論しているつもりがあるなら、使う言葉を考えた方がいいぞ。
>>402 いい加減にしろよ
>軍の経理文書を扱う仕事を扱ってた、体が小さい、でも武勇に長けるいう人物像。(80台後半)
曹操指揮下が多い、同年を比べた場合、于禁より戸数が少ない、(80代後半)
じゃあ、甘寧はどうなる?周瑜、魯粛、呂蒙の三者の指揮下で抜群の武勲を挙げてきたが、90台に相応しくないのか?
>これが歴史を預かる者とすれば常識的な見方だろ。
羅列なんかは記録が残っている書物が多ければ多いほど残るわけで。
書物自体も書く人の人間関係に左右される。
だいいち陳寿やシブサワコウにしてもお前らより蔵書は深いんだぞ。
単純に粗探しや宝探して悦に入ってても何の魅力も感じないよ。
正史厨が自分だけのオナニーしてるとしか思えない
だったら、このスレからでてけよ
このスレは「三国志\の武将能力値を正史を基にして変えるスレ」だ
戸数が少なかったり、軍経理文書を扱ってるからって、何故それが武力のマイナス要素になる
喪前の勝手な解釈だろうが、それでいて大した武勲のない関羽や夏侯惇は、統率90台ときた
妄想の上、ダブルスタンダードか?
>>405 頼む、おまいも煽りかえさんでくれ。(´・ω・`)ショボーン
>>405 2ちゃんで報われようとするな。
私心を捨てろ。
>>406 ごめん、つい熱くなってしまった
ただ、スレタイを無視した書き込みの数々や
それまでのスレの活動を無にするような発言が許せなかったんだ
>>408 気持ちは分かるよ。
ここは香具師が具体的な説明をするまで待つ可し、待つ可し...
一応確認しておくが、今は絶対的な能力値を決めるのではなく、
相対的に能力を数値化してるわけでだな。
仮に楽進の事績が武力90以下と思われるものであっても、
楽進以上の事績を残した人間が15人いなければ楽進は91以上になるわけで。
その辺をもう少し考えた方がよくないか?
411 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/05 23:02
一日働いて、「レスいっぱいだ〜」と思ったら、こんなんかいw
>>393 >それでマイナスするならば統率ではなく知力だと思うがどうだろうか。
もちろん、知力マイナスの項目でもあるのかもしれません。
ただ、兵を動かしての失敗なら、統率マイナスではないかと思うんです。
そうじゃないと、「敵を撃破」の項目を逐一「統率プラス」で数えてるのに
「敵に撃破された」の項目はまた別基準というのもどうかな?と思ったんですが。
夏侯淵の場合は攻勢に出た劉備軍を支えきれずに敗死してるわけですし。
関羽なんかは、それで知力だけでなく、統率マイナスという結論(?)も
上の方で出てますし。同じ重要拠点を巡る争いに敗れて、死亡。
その拠点を喪失したという意味で「統率マイナス」というのは妥当なのでは?
もちろん、131氏のおっしゃりたいことも良く分かるのですが・・・。
>>410 >仮に楽進の事績が武力90以下と思われるものであっても
>楽進以上の事績を残した人間が15人いなければ楽進は91以上になるわけで
まあ、これは心配ないと思う
と言うのも、候補に挙がっている人物で91以上に相応しい人物は、少なくとも15人はいますから
むしろ15人以上いるから、いつも最後の選別で議論が盛り上がったと思うんですよ
>>412 >「敵を撃破」の項目を逐一「統率プラス」で数えてる
一応、「敵を撃破」などの事績は一つ一つ統率プラス、武力プラスなどで評価してますが
その全てが同等というわけではないです
政治の時でも、知力の時でも問題になっていましたが
基本的に、先ず事績の「質と量」を重視して選別、ラスト数名を絞るときは「質」を重視する事になった
実際、法正、ホウ統は、事績の数が少ないけど、最後で質を重視され知力91以上に残った
事績の質の検討は難しい物ですが、やはり、ずば抜けた武勇を示した戦や、兵力差の大きい戦争での勝利を評価しないわけにはいきません
勿論、詳しい内容の分からない事績ももありますが、分かる事績は考慮してきましたよ
>もちろん、知力マイナスの項目でもあるのかもしれません。
>ただ、兵を動かしての失敗なら、統率マイナスではないかと思うんです
俺は、
>>378で書いてるように、統率マイナスでも良いと思う
それでも夏侯淵の統率が優れていることには変わりないと思いますし
政治家の官職重視は説得力ないが、
武将の官職重視は説得力がある。
官職じゃなくて将軍位だな。揚げ足取ってるようだが、結構重要。
_, ._
( ゚ Д゚) あと、夏侯惇や関羽が
( つ O. 前将軍になったことも踏まえて、
と_)_) 重視してくれよな!
>>416 う〜ん…
でも将軍位を主な理由に、統率91以上の15人に加えるのは躊躇われます
俺は、関羽は80台と考えてます
80台でも、数多い武将の中では上位なのですし
>>394 甘寧の評。とりあえず、甘寧伝から。
・弓を射ることに巧みであった(武力)
・黄祖の都督の蘇飛は早くから甘寧を重く用いるべきと進言していた
・東呉亡命後、周瑜や呂蒙はこぞって重用するように推薦した
・蘇飛への恩義逸話(義理)
・雨のように城内へ矢が飛んでくる危機的状況でも甘寧だけは楽しげに談笑していた(勇猛)
・江表伝。孫権「あなたの肝っ玉を見せてもらった」
・同上。「孟徳には張遼がいるが、私には興覇がいてちょうど釣り合っている」と評す。
・粗暴ですぐ人を殺したりしたが、あけっぴろげな性格で将来への見通しを持ち、
物惜しみをせずに有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士たちを養い育てた。
このため、兵士たちも彼のために喜んで働いた。
・少数兵でいた孫権を張遼が急襲。大ピンチ。この状況で甘寧は大声で
茫然自失の軍楽隊に「なぜ音楽を鳴らさぬのか!」と叱りつけた。
かっこいいエピソードだが、能力値的には何もないかもw
・呂蒙のもとに逃げ込んだ料理版を騙まし討ち(知力?w)
・甘寧が死ぬと、孫権はその死を痛惜した。(特にこういう記述がある呉将は多くない)
武力トップクラスは堅いでしょうね。寡兵での勲功、多すぎ。
大軍指揮の経験に乏しいので、統率はそれほどでもないでしょうけど。
>>417 スマソ、言葉少なだった。
「夏侯惇や関羽が前将軍になることだってあるんだから」という意味ですた。(´・ω・`)ショボーン
ところで、上の二人は統率80必要?
話すのは今じゃなくてもいいけど、漏れは疑問だがや。
>>418 ×料理版
○料理番
恥ずかしい・・・。
>>414 >基本的に、先ず事績の「質と量」を重視して選別、
>ラスト数名を絞るときは「質」を重視する事になった
たしかに「質」は大事ですよね。
その意味でも甘寧は文句なしだと思います。
>>412 確かに統率マイナスと見ても問題はないと思いますが、
その原因が知力による部分があるならばそちらも最大限考慮すべきではないかと。
逆に統率のプラスポイントでも、
知力による部分が大きいと思われる人物として田豫も挙げています。
あとは、知力と統率をどの程度の割合で考えるかということではないかと。
上手くまとまらんかった……
読みづらくてスマソ
甘寧は孫権の評価が高いからね。
>>419 う〜ん
これは難しい
関羽は、なんだかんだ言っても于禁を破ってますし…80はあっても良いかと
夏侯惇は…80も厳しいかも…魅力がないのがイタイ
>>418 甘寧の他人からの評、ご苦労様です
実は、夏侯淵の評や甘寧の評を見て思ったんですが…
他人からの評で、事績で結果として表れてる物も多いですよね
曹操が夏侯淵にした注意なんかは、夏侯淵の敗北に表れてますし
甘寧の勇猛さを評価した発言も、合肥や濡須、皖城での事績で示されてますし
他人よりの評の大半は、事績によって裏付けされた評価が多い…
この場合は、敢えてプラスやマイナス評価にしなくても良いように思います
>>420 ええ、あくまで事績の内容が分かる範囲ですが…事績の質は重要と思います
>>419 下手すりゃ80未満ってこと?
90未満は賛成。
夏侯惇(字:元譲)の事績
出身:ハイ国ショウ県
出自:夏侯嬰の後裔(前漢建国の功臣)
・十四歳の時、自分の先生を侮辱した男を殺害(激しい気性)
・曹操の挙兵以来、ヒ将として征伐に付き従う
・司馬、ついで折衝校尉。東郡太守。
・トウ謙征伐に際して、ボク陽の留守を預かる。
・張バクの反乱において呂布と交戦し、騙されて虜囚になる(知力マイナス)
・呂布征伐戦で流れ矢に当たって眼を負傷
・建武将軍を加官・高安郷侯・陳留&済南太守
・蝗と旱魃による危機。築堤工事を指揮して功績(政治)
・河南イン。河北平定戦においては、軍勢の後詰をつとめる
・伏波将軍。前後に渡る功績を賞賛され、千八百戸を加増(計二千五百)。
・216年の孫権征伐に従軍。帰還の途中、二十六軍の総司令として居巣駐留(統率)
・前将軍。諸軍を指揮して寿春へ。文帝即位時、大将軍。数ヶ月後に死去(忠侯)
・性格は清潔で慎ましやか。余分の財貨は全て人々に分け与えた。
・文帝は夏侯惇の功績を重んじ、子孫全てを侯とした。
・曹操は特別に親愛と尊敬の情を各所で示す
留守居役が多かったようで、目立った武勲はない。
それでもNo.1の出世。築堤のエピソードに見るような
地味で地道な功績もあったのかもしれない。
重要地の太守職を歴任していることから、むしろ行政手腕にも
長けた武人という一般的イメージとは違う姿が見え隠れしているような…。
人望もあったようだ。これだけ要地を重ねて任されているわけだし、
「統率80」は普通にあってもいいのではと思うのですが、いかがでしょう?
統率は軍隊の強さも含むからなぁ
関羽は于禁を討った際の大雨をどうするかでしょう。
天運に助けられたとするなら80未満でしょうし、
于禁の能力値をマイナスして考えるということもできる。
勿論、関羽の大幅なプラスポイントともとれるわけですが。
とりあえず、他の80台候補が出揃わないと比較も出来ないし、
まだそこまで考えなくてもいいでしょう。
ちなみに90は割ってると思う。
>>423 >他人よりの評の大半は、事績によって裏付けされた評価が多い…
>この場合は、敢えてプラスやマイナス評価にしなくても良いように思います
確かにそれはありかもしれません。
やっぱり問題は評だけの人間たちですね……
夏侯惇はもっと負け戦のイメージがある。
他の奴の伝に散っているのかもしれないと思い、探し直し。
・呂布戦で高順と戦い、敗れる(統率・武力マイナス)
・劉備の葉県攻め。李典の進言を無視して進軍し、伏兵に遭う(知力マイナス)
・ウ禁とのコンビで博望で劉備と交戦。策にはまって、敗北(統率・知力マイナス)
>>429 最後のは于禁の事績で抜けてたように思うので、追加お願いします。
>>427 >統率は軍隊の強さも含むからなぁ
そうですね。ゲーム的にはやっぱダメかもw
>>430 >最後のは于禁の事績で抜けてたように思うので、追加お願いします
忘れてた。スマソ
他にも、この様な抜け落ちがあったら補完してください
夏侯惇
・揚州で兵隊4000人を集めるが帰還途中反乱が起こり兵隊の数が500人になる
・陳留太守の頃、暴挙に反対した部下を逮捕する
夏侯惇
・呂布軍に身柄をたてに財宝を強要されたが韓浩に助けてもらう
>>432 下のは衛シン伝ですね。やってしまった過ちを正すことを恐れず、
衛シンのような有能な人物を登用した逸話とも思います。
上のは出典が分かりませんでした。ご教示いただければと思います。
>>434 俺は
>>432さんじゃないけど
たしか武帝紀にあったと思う
曹操に従って揚州で兵を集めたはず
その後、兵士の反乱が起こり500に減ったけど、1000人収容して河内に駐屯した
取り敢えず、15人に絞る作業を再開しましょう
俺が91以上は確実と思う人物を挙げてみます
統率
曹操、曹仁、満寵、ケ艾、孫堅、呂蒙、陸遜、司馬懿
武力
夏侯淵、曹仁、張遼、張コウ、徐晃、許チョ、典韋、孫策、甘寧、呂布
以上の人物は、ほぼ確実と思うんですよね
事績を見ても、本当に優れていますし
微妙なのが
統率
夏侯淵、曹真、張コウ、郭淮、孫策、周瑜、陸抗、劉備、諸葛亮
武力
楽進、于禁、孫堅、周瑜、呂蒙、劉備、馬超、趙雲
これらの人物は91以上と、自信を持って言えない…検討が必要と思う
司馬懿と典韋以外なら、一応事績を挙げることが出来ますので…
司馬懿はまとめのサイトの方に、6さんが作った事績があります
他の方も、確実と思われる人物を挙げてみてください
統率で。孫堅が入るなら、皇甫嵩も確定では?
個人的に劉備は候補から落選だと思う
漢中での強さは認めるけど
呂布や高順に何度も打ち破られてるし
賊軍や張純のような小物にもいくつか負けている
強さに関わる統率、武力のトップ15には
相応しいとは思えない
孫堅の事績
出身:呉郡富春
出自:おそらく孫武の後裔…との事
官位:破虜将軍、豫州刺史(遥任?)
・十七の時、海賊を、さも兵士を指揮しているように見せかけ追い払った。「知力」
・海賊を追いかけ、首一つを斬った。「武力」
・許昌の叛乱の際、勇敢な者を募って千余人を得た。「統率」
・州や郡と共同して、賊を破る。「統率>武力」
・江表伝に言う、三県の丞を歴任し、どこでも評判良く、吏も民も親しみを持った。「政治」
・黄巾の乱の際、朱儁の司馬となった。孫堅は淮水あたりの精兵、千人位を集めた。「統率」
・朱儁と力を併せ、奮戦、敵を撃破した。「武力>統率」
・賊が逃亡して宛の城に籠もると、自ら攻撃に当たり、先んじて城壁を登り
士卒達が後に続き、賊は大敗した。「武力>統率」
・韓遂討伐の際、張温に軍法に照らして董卓を斬るよう進言する。「知力」
・山陽公載記に言う、周慎に金城攻略の策を進言する。「知力」
・長沙で区星が叛乱すると、計略を施して一月も経たぬうちに破った。「知力と統率>武力」
・長沙郡に入ると、良吏を任用し
民を良く遇し、公文書を正しく処理し、賊を太守に引き渡すよう命令した。「政治」
・周朝ら討伐した。「統率>武力」
続き
・董卓打倒の兵を挙げ、荊州刺史の王叡を殺した。「武力」
・南陽に至った頃には数万の兵が集まっていた。「統率」
・南陽太守張咨を義勇軍を引き留めた、として斬った。「武力」
・董卓軍の騎兵が、酒宴の最中にやって来たが、孫堅は酒宴の席で談笑し
兵達に隊を整え乱れないよう命令した。
孫堅の兵が少しも乱れないため、董卓の兵は城を攻めずに引き返した、とある。「統率」
・梁東で董卓の大軍に攻撃を受けた。数十騎で囲みを破り脱出した。「武力」
・その後、兵を纏め陽人で董卓軍と合戦し、これを大破し華雄を斬った。「統率>武力」
・袁術が兵糧をケチった際、袁術を説得して軍糧を出させた。「政治」
・董卓が洛陽を焼き払うと、軍を進め洛陽に入り陵墓を修復した。「政治」
・荊州に攻め込み黄祖を破った。「統率>武力」
・襄陽を包囲したが、矢に当たって死亡。(その他の説もあり)
孫堅は、統率武力ともに優れるが、どちらかと言えば統率の方が優れているように思う
黄巾、各地の叛乱、董卓、その全てに優れた戦果を挙げている
孫堅の他人からの評価を挙げてませんが、特に必要ないと思います
武力も別に確定でいいんじゃないの?
武力に麴義がいない...
12よ、勝手に仕切るな。
関羽も武力確定だろ。何故意図的に外す?
まぁ、この程度は許しとけw
コテが代替わりしたのか、このままでは一介の駄スレになっちまう
15人てのが意味不明だが一応、
統率
曹操、夏侯惇、周瑜、曹仁、曹真、ケ艾、孫堅、呂蒙、陸遜、司馬懿、皇甫嵩、諸葛亮、司馬昭
武力
孫堅、関羽、曹仁、張遼、張コウ、徐晃、張飛、夏侯淵、黄忠、許チョ、孫策、甘寧、呂布
統率
夏侯淵、曹真、張コウ、郭淮、孫策、満寵、諸葛恪、陸抗、劉備、諸葛亮、于禁、羊コ
武力
魏延、徐盛、楽進、孫堅、周瑜、呂蒙、朱桓、劉備、馬超、趙雲、典韋
>>444 よく
>>251や
>>277の事績を読んで欲しい
>>280の他人からの評価を考慮しても、俺には関羽が武力確定と自信もって言えない
>12よ、勝手に仕切るな
そう言わないで欲しい、一騎さんが今いないんだから…
>>446 >15人てのが意味不明だが一応
過去ログを読んで欲しい、前スレで91以上は15人と決まったの
15人は91以上の最終確定モードな。
お願いだから、ログ読み直してくれんかな。
内容に問題があるわけじゃなくて、ね。
449 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/06 03:24
俺は諸葛亮の統率が70とかでも驚かないぜ
>>447 候補にも入れないところが私怨で動き狭量ぶりを示しているな。
楽進や于禁ですら入っているのにねぇ。
からみうぜえ
典韋
・容貌は立派で、筋力は人並み外れて優れ、固い節義の持ち主だった。(武力)
・獲物は八十斤の双戟(武力)
・知人の仇敵の家に乗り込んで匕首で刺し殺し、追跡する者が数百人いたが、
脱出することができた。(武力)
・長い戟でもって右に左に撃ちすえ、戟の刃がつき入るごとに十余本の敵の矛がうちくだかれた。(武力)
・牙門(大将の軍門)の旗は高く大きく、持ち上げることのできる者はいなかったが、
典韋は1本の手でそれを建てた。(武力)
・夏候惇の軍の配属され、度々軍功をあげ司馬に任命される。(武力)
・曹操の護衛を勤め、呂布との戦いでは劣勢の中、短戟投げで多くの敵を倒し、威名を挙げた。(武力)
・曹操の親衛隊長となる。
・曹操、宛に進出。宛城のは降伏するが、十余日後、は挙兵し曹操軍を襲撃する。曹操は大敗し、曹昂、曹安民、典韋らが戦死し、曹操も負傷する。
典韋は曹操を身をていして守り退却を助けた。(武力)
・曹操は典韋の死を聞くと、彼のために涙を流し、彼の遺体を盗みとってくる者を募り、
自身告別式に臨んで泣き、ひつぎを襄邑に送り届けさせ、子の典満を郎中に任命した。
みくるまが〔戦死した場所を〕通るたびに、中牢(羊と豚)のいけにえを捧げて祭った。
太祖は典韋を思い、典満を司馬にとりたてて、身近に引き留めておいた。
武力が一騎打ち重視なら確実に選ばれる。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/06 04:21
とりあえず明日正史買ってきて読んで来い。
黄忠はあまりにも記述が少ないので80台というところか…。
しかし夏侯淵を死に至らしめるという実績と比べると同じ活躍期間の短い典韋より活躍度としては同等以上。
また年齢も不詳であり典韋のように勇猛であった可能性も残されている。
>>453 正史持ってるよ。
他の文献もたくさん読んでるし。
その上で偏ってるって言ってるの。
麹義といい記述が少ないだけで80台という論調はなんとかしてもらいたいものだが
正史の記述数で能力を決めるスレでもないでしょう
ちょっと待って。今テンプレ作ってる。
おおよそ、みんな認めると思うんだけど。
もち、訂正・追加などありありで。
現時点での総意だと、こんな感じ? 順番は後漢魏呉蜀晋ネ
【確定ナノ?】
統率
曹操、曹仁、満寵、ケ艾、呂蒙、陸遜
武力
曹仁、張遼、孫策、甘寧、呂布
【候補デスカ?】
統率
皇甫嵩、麹義、呂布、
夏侯惇、夏侯淵、曹真、于禁、張コウ、郭淮、
孫堅、孫策、周瑜、朱然、朱桓、諸葛恪、陸抗、
劉備、諸葛亮、関羽、黄忠、魏延、李厳、
司馬懿、司馬昭、羊コ、杜預
武力
皇甫嵩、麹義、
夏侯淵、楽進、于禁、張コウ、徐晃、李通、許チョ、典韋、
孫堅、呂蒙、徐盛、周泰、賀斉、潘璋、朱桓、丁奉、
劉備、関羽、張飛、馬超、黄忠、魏延、趙雲、姜維
(独断で省いた者)
統率 田豫、牽昭
武力 周瑜、呂岱
候補はいくらあってもいい筈なので、じゃんじゃん挙げちゃってください。
ただし、2行程度の理由付きでよろ。
纏めは、新たに10人程度加わったときか、追加依頼が暫く出なかったとき、ということで。
あれ? 統率に周瑜入ってよくね? ちくしょ...
ところで、文鴦ってどうなんかなぁ。あんまり記憶ないんですけど。
完顔陳和尚とか
ヲイヲイ、纏めた途端、レス止めるなよ〜w
ゆるめた?
まとめた...
へびめた
東めた。。。
メタメタのギッタギタ
ところで、戸数で思ったのは李典なんかは、
最初から強力な地盤があったから、下賜された領地少なかったの?
>>460 これ以上、候補を増やしてどうするんだ?
よく見ろ、田豫と牽招を外して諸葛恪なんかが入ってるんだぞ
一体どういうつもりなんだ?
候補を増やすのは構わんが
本当に15傑に入ると思って書き込んでるのか?
これからは自分が推す新しい候補者等は事績も書いてほしい
諸葛恪はあり得ないな。
大目に見て知力80台。
>>472 そういうときは事跡をあげないと荒れる。
>>473 そのとおりだな
だが問題は事績をあげても納得しない奴がいるってことだな
夏侯惇なんかは、事績もあがっていて検討されているのに、いまだ候補に入っている
少しずつ絞りたいので個人的意見
皇甫嵩は落選だと思う
反乱討伐と黄巾討伐は孫堅以上かもしれんが
董卓と和解してからいい所がない
その点、孫堅は董卓を恐れさし快進撃を続けている
後、事績の出た麹義、朱桓、潘璋、夏侯惇も他の候補を押しのけ15人内に残すには
難しいと思う
>>471-472 >>473-474が仰る通りなんですよ。
武力の周瑜、呂岱、統率の田豫、牽昭はとてもではないが理解できないけど、
諸葛恪は推す理由となるれっきとした事跡があるから。
>>474 夏侯惇は統率に加えましたよ。漏れは外したいけど。
黄忠
劉表により中郎将に。
曹操により裨将軍に。
益州への侵略戦では三軍筆頭の勇猛さ。
定軍山で夏侯淵を討ち取る。
その功で征西将軍に。
漢中王になった劉備により後将軍に。
さらに関内侯の爵をたまわる。
主な事績はこの辺ですが、討ち取った相手と場所を考えれば、
事績の質より量を重視するという点で91以上もありかと。
>>476 田豫もれっきとした事績はあるが……。
まあ、それでも80代後半でいいとは思うが。
とりあえず、人物を挙げる際は同時に事績を挙げるのが筋だと思われ。
なんか俺
>>450で人格攻撃されてるけど
関羽を「事績や他人よりの評を検討した結果、武力91以上と自信を持って言えない」
というのは、私怨が入り狭量なことなのでしょうか?
せめて、事績に基づいて反論して欲しかった…
後、
>>436では15人に絞る作業を再開しようと言うことで、俺が確実と思う人物と微妙と思う人物を挙げただけだよ
>他の方も、確実と思われる人物を挙げてみてください
って、ちゃんと書いてるでしょう
>>477 131さんも出来れば、確実と思われる人物を挙げてみてください
(俺一人だと…
>>450みたいな攻撃に受けるようなので…)
>>476 周瑜、田豫、牽招の事績を挙げます
諸葛恪の事績はないので、誰かお願いします
周瑜の事績
出身:廬江郡舒
出自:同族の周景と、その息子周忠は太尉、父・周異は洛陽県令
官位:都督、偏将軍、南郡太守
・孫策麾下に入り横江と当利を陥落させる。「武力>統率」
・長江を渡り秣陵を攻撃、サク融と薛礼を打破。「武力>統率」
・その後、曲阿まで進入(劉ヨウは逃亡)「武力>統率」
・孫策と共に皖を落とす(二喬を得る)「武力>統率」
・さらに尋陽まで軍を進め劉勲を破る。「武力>統率」
・袁術の失敗を見抜く。「知力」
・江夏を討伐し返す刀で豫章と廬陵を平定、巴丘に軍をとどめる「武力>統率」
・孫策の死後、張昭と共の全ての事を取り仕切る(具体例がない)「政治」
・孫権に、曹操に対して人質を送らないように進言する「政治」
・孫瑜らの軍の目付として山越の依る麻屯と保屯を討伐、その後、宮亭の守備にあたる「統率>武力」
・黄祖の部将、トウ龍の柴桑侵入の際、これを追撃、生け捕る「統率>武力」
・江夏討伐の際、先鋒の指揮官を務める「統率>武力」
・曹操南進の際、降服論に対し徹底抗戦を主張。曹操の弱点を指摘、孫権に開戦を促す(魯粛に同調した)「知力」
・疫病に苦しむ曹操軍に対し、まずは初戦に勝利する「統率>武力」
・黄蓋の火計を用いる(黄蓋が実行)「知力」
・南郡攻略の際、甘寧に夷陵を占領させる「統率」
・包囲され救援を求める甘寧を、呂蒙の計を用いて包囲を解く「知力」
・その後、曹仁と交戦、怪我を負う、周瑜が臥せっていると聞いた曹仁が迫ると
それを聞いた周瑜は、怪我を押して軍営を謁見、兵達を奮い立たせた。
(これを見た曹仁は退却)「知力(鼓舞)と統率>武力」
・劉備が京に来た際、劉備を警戒し留め置いて骨抜きにするよう進言(孫権、聞き入れず)「知力」
・孫権に天下二分の計を献策する「知力」
・魯粛を推挙した。「政治」
・甘寧を推挙。「政治」
・曹操の意を受けた蒋幹に対し、その弁舌に動かされることなく応対した。「知力」
周瑜を武力でも挙げた理由は、ゲームでの部隊の攻撃力は統率のみで
部将は戦法のみにしか影響しないからです
周瑜には孫策指揮下で優れた武勲があるので武力の候補に加えました
田豫の事績
出身:漁陽郡雍奴
官位:衛尉、使持節護匈奴中朗将、并州刺史、太中大夫
・王門が攻め寄せたとき、王門に声をかけ退却させた。「罵声?偽報?ともかく知力」
・鮮于輔に、帰順するのなら曹操であると進める。「政治」
・易水の北で宿泊中、蛮軍の騎兵が攻撃を仕掛けたため軍が乱れた
その時、地形を利用し、見せかけの兵士、車の円陣などで敵を退却させた。「知力と統率」
・その後、蛮軍を追いかけ、これを大破した。「統率>武力」
・南陽太守の時、逮捕されていた盗賊五百人を善導し郡内を平穏にした。「政治」
・北方の蛮族が力を合わせないように、互いに争うようし向けた。「知力」
・精鋭を指揮し敵地深くに進入したが帰路を断たれた。その時、牛馬の糞を燃やし
そこに止まっていると見せかけ、その隙に退却した。「知力」
・その田豫を、蛮軍が追いかけて馬城まで来て、城を幾重にも包囲した。
鼓や笛を鳴らす歩兵、騎兵を南門より出し敵を引きつけ、自らは精鋭を持って北門より出陣
陣太鼓を騒がしく鳴らして行動した。双方が攻撃、不意をついた。「知力と統率>武力」
・さらに追撃し、倒れた死体が地面をおおった、とある。「武力>統率」
・百余騎を連れて骨進の部落に入り、出迎えた骨進を左右の者に斬らせた。「武力=統率」
・賊の高艾が幽州、冀州を荒らしたとき、鮮卑の素利を誘って高艾を斬らせた。「知力」
・孫権が公孫淵と結ぼうとした際、孫権の船団が帰路にあって成山へ向かうと予想。「知力」
・孫権が合肥新城を攻めた際、防衛策を献策する。「知力」
・再度、呉が攻めたとき、これを防いだ。「統率>武力」
田豫は、実にバランスの採れた人物と思う
特に戦術的知略と用兵が優れている
知力、武力、統率が80台は確実で、統率、武力91以上は微妙なところ
牽招の事績
出身:安平郡観津
官位:使持節護鮮卑校尉、都督青徐諸軍事、雁門太守
・袁紹の舎人が禁令を犯したとき、これを斬った。「武力」
・曹操がギョウを包囲したとき、袁尚の命で軍糧を監督し輸送に携わった。「統率」
・高幹に、兵力と地理的要因を理由に袁尚を迎え入れるよう進言。「知力」
・烏丸が、袁譚を援助しようとした時、その場にいた公孫康の使者、韓忠を斬ろうとした
その上で峭王と会見し、理を持って説得して兵を引かせた。「知力と武力」
・曹操の烏丸討伐に随行した。「武力>統率」
・漢中討伐に付き従った。「武力>統率」
・東莱の賊を攻撃し大親分を斬った。「武力>統率」
・辺境の住民や鮮卑に、恩愛と信義を施し迎え入れた。「政治」
・鮮卑族の十余万の部落を懐柔して呼び寄せた。「政治」
・雁門太守の時、敵が国境を犯すたびに、その度に兵を指揮し撃ち破った。「統率>武力」
・その上、離間策を用いて敵同士、猜疑し合うようにした。「知力」
・裏切ってきた泄帰泥らを指揮して軻比能を討った。「統率>武力」
・河西の鮮卑、附頭らとよしみを通じた。「政治」
・上館城を修理し、守備兵をおき内外の押さえとした。「統率」
・才識ある者を太学に通わせ、帰国すると互いに教授させ、学校が盛んになった。「政治」
・水源を掘り水路を開通し、水を城内に引き入れた。「政治」
・田豫が軻比能に包囲されたとき救援に赴き、田豫の軍を勇気付けた。「知力」
・一隊を敵の通路の要衝に送り、敵を恐慌に陥れ離散させた。「統率>武力」
・軻比能が再び騎兵を集合させ来襲した時、密かに行動を起こして討伐した。「統率>武力」
・刺史の畢軌に蛮族攻略の方策を述べる。「知力」
牽招も、田豫同様バランスのとれた人物
ただ、あらためて事績を見ると統率91以上はないかも…80はあると思う
田豫も牽招も、中央じゃあまり活躍してないんだけどなぁ。
盗賊の討伐程度だったら、前出てた王祥もしてたよね。共に知力80あれば充分だと思う。
333が粘着して煽ってるんだろうな
リクがあったので一応確実と考えている人物を
統率
曹操、曹仁、ケ艾、孫堅、周瑜、陸遜、司馬懿
武力
呂布、夏侯淵、曹仁、張遼、許チョ、典韋、甘寧
異論があまり出ないと思われるのはこの辺でしょうか。
これに次いで、徐晃、張コウ、于禁、楽進、満寵など。
趙雲などは『趙雲別伝』次第でしょうか。
凄く微妙なのが孫策の武力。
太史慈との一騎討ちを考えると、孫策の武力を上げれば、
その分太史慈の武力も上がってしまうところが痛い。
田豫と牽招は、以前も言いましたが91以上はなくてもいいかと。
487 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/07/06 15:32
みなさま、はじめまして。
世界史スレから出張してやってまいりました。
こちらでは統率が「太守の選定順、軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援」ということみたいですね。
それなら、諸葛亮も統率91候補に入れても問題ないと思います。
彼は戦争では負けましたが、野戦ではあまり負けていません。
あれだけ国力差があれば、姜維のように負けて当たり前なのに、
曹真・司馬懿・張郃といった名将を相手にあそこまで戦ったというのは、かなり評価していいと思います。
陳寿が諸葛亮に欠けていたとする「応変の将略」は統率ではなく、知力のような気がします。
>>487 ……
失礼を承知でお聞きします
…
本物ですか?
トリップが違うのですが…
「V9k1yZSe4M」 これが永遠の青さんのトリップの筈…
内容も厨房すぎないか?
彼が数値を語ったの見たことないし、姜維を持ち出すのも記憶に無いよ。
>>489 世界史板の姉妹スレでは彼がメインで数値化しているし
文章も似ている。トリップが違うから別人かもしれないけどね
つうかさ曹操軍ははやくから兵のしつよかったんだからさあ
そのへん考えてよ
492 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/07/06 17:26
>>488 本物ですよ。
板が違うと、同じ文字列を使ってもトリップが変わってくるみたいですね。
既に経験済みですので、大して気にはしなかったのですが。
>>489 世界史板のスレにリンクが貼ってあったので、やってきました。
物量が少なくて、戦略的にも効果的な手が打てない上に、
司令官の能力が劣っていて、しかも敵地で戦ってたら、
普通はもっと悲惨な結果になります。
それは長い戦争の歴史に共通することです。
別に諸葛亮伝から典拠を引いても一向に構わないのですが、
面倒なのでやめておきます。
>>492 漏れが前に試したときはトリップは変わらなかったのだが
494 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/07/06 17:59
てすと
漏れは変わってない…
でも、時間的に本物だろう
何で、一方は変わって一方は変わらないんだろう?
ともかく、疑ってごめんなさい
ただでさえ関羽やらで揉めてたので、
賛否が分かれそうな諸葛亮はとりあえず触れてなかったのですが……w
諸葛亮が統率91以上ってのは漏れも賛成でつ。
本物云々以前に、何故「荒れるとわかってる」諸葛亮ネタを持ち出すのか理解できない
499 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/06 18:33
それをさらに煽るような言動をする
>>498が理解できない
>496
hobbyのような新しい鯖はトリップキーによっては化けるよ。
化けないのもあるが。
>492
板ではなく鯖単位です。
つまり、本物の青が厨房だと証明されたわけだ
諸葛亮ネタはスルーしましょう、むしろマイナーな連中から確定させていくべきです。
と私は思いますが如何でしょうか?
青氏はこのスレ参加してまもないのだからさw
彼(彼女 は博学だから議論も面白くなるしいいものができあがると思うよ
それはそうなのだが、スレ住人が苦心して荒れがちな議論スレを荒れないようにと
避けている諸葛亮ネタを持ち出すのは雰囲気を読めないとしか…
そのあたりを気を付けて欲しい。
閑羽の統率90代候補はとりあえず外してもいいかと
>>494 本物とは…
青さん、誠に申し訳ないです
>>496 >>507 いえいえ、結構です。
>>498 >>505 状況がつかめなかったもので。
申し訳ないです。
>>503 了解しました。
>>506 史書を読む限りでは、関羽はずば抜けた武勲であの地位を得たというよりは、
古参の中で最も有能で信用が置けるから、あの地位に就いたような印象を受けます。
徐州で反旗を翻した時、劉備は自分で前線に立って、関羽に本拠地ともいうべき下邳の守りを委ねています。
また、曹操の南征の際には、別に水軍を率いて河を下っています。
それに武勲に関する記述がそれほどありません。
曹操陣営における夏侯惇と同じような位置にいた人物ではないかと思います。
戦上手の名将ではなく、リーダーシップがあって、信頼できる片腕という役割です。
>>486 武力を評価するのに
数少ない正史の一騎打ちを重視しないのは
いかがなものでしょうか。
ゲームの中で武力が一騎打ちに反映しないのなら別ですが。
牽招は辺境での仕事が多すぎる。牽招が入るなら張嶷、賀斉、呂岱も当然入ることになる。
もともとなんで候補に入ってるのか分からなかった。80台。
>>509 ゲームでは兵法の威力=一騎討ちの強さですが、
実際にはそうはいかないわけでして。
孫策と太史慈はゲーム中では
兵法の威力 孫策>太史慈
一騎討ちの強さ 孫策=太史慈
としたいわけですが、実際には無理なわけですよ。
だからどちらかを優先するとすれば、
よほどの事績でない限り、
一回こっきりの一騎討ちよりは兵法の威力を重視すべきかと思うのですが。
皇甫嵩は統率には入るだろ。
張コウ、于禁は武力より統率に入れたい。
じゃないとバランスが取れない。
とりあえず、現状で誰からも異論が出ない人たち。
統率
曹操、曹仁、ケ艾、陸遜
武力
呂布、曹仁、張遼、甘寧
ここまでの流れを見て、さほど異論が出てない人たち。
統率
満寵、孫堅、呂蒙、司馬懿
武力
許チョ、典韋、孫策
まずはこの辺から確定させていった方が良くないか?
ボーダーラインに近い人間から決めていくより楽だと思うんだが。
>>512 皇甫嵩は関中の反乱鎮圧に失敗してるし事績の相手も微妙
数だけなら呂岱とそんなに変わらんし、現時点で確定が決定するほどとは思えない
ケ艾を統率で90台に入れるのはなぁ…
単純な事跡云々よりは、他に挙げられているメンバーの名前を見てそう思ってしまうわけだが
>>511 兵法の強さは、錬度でカバーでいいんでない?
統率の司馬懿は確定だろう。
張コウの件は政治的な意図か、
張コウの方が実戦馴れしてたというべきだろう。
司馬懿が91以上なら、張コウは… 95は確定?
>>518 それは武力との兼ね合いでバランスを取るべき問題だろう。
バランスが肝心。統率だけを見ても武力だけを見てもバランスが悪くなる。
例えばゲームでは武力90以上で統率70台(逆もまた然り)の武将より
統率80台武力80台の武将の方がありがたかったりするわけで。
張コウの事績
出身:河間郡バク
官位:征西車騎将軍、特進
・募集に応じ黄巾を討伐。「武力>統率」
・袁紹の校尉として公孫サンを防ぐ。公孫サンの敗北は張コウの功が大きいとある。「武力>統率」
・淳于瓊が曹操に敗れることを予測、救援することを主張。「知力」
・曹操に従いギョウを攻撃、これを落とす。「武力>統率」
・張遼と共に先鋒として柳城を攻略。「武力>統率」
・東莱に遠征、管承を討伐。「統率>武力」
・張遼と共に陳蘭らを討伐。「武力>統率」
・曹操に従い馬超、韓遂を破り楊秋を降服させた。「武力>統率」
・夏侯淵と共に賊徒梁興と「テイ族」を討伐。「武力>統率」
・夏侯淵と共に馬超を討ち、宋建を平らげた。「武力>統率」
・張魯討伐の際、諸軍を指揮し「テイ族」の王、竇茂を討伐した。「統率>武力」
・巴東巴西の二郡を降ろすが宕渠で張飛に敗れる。「統率マイナス」
・劉備が攻め寄せたとき、劉備が張コウを急襲し白兵戦になるも負けなかった。「武力=統率」
・夏侯淵死後、郭淮の言葉に従い敗残の兵を纏めた。「統率」
・曹真と共に盧水胡と東羌を討伐し。「武力>統率」
・夏侯尚らと江陵を攻め中洲の砦を奪う「武力>統率」
・曹真に従い諸葛亮の北伐に対し、街亭に派遣され馬謖を破る。「統率>武力」
・諸葛亮に呼応した三郡を、曹真と共に破る。「武力>統率」
・二度目の北伐の際、諸葛亮の兵糧不足をを見抜く。「知力」
・再度の北伐の際、諸葛亮を追撃するが戦死。
ゲームでの部隊の強さは、大将の統率であり部将は兵法のみに影響する事を考慮すると
張コウは武力91以上は確実と思う
曹操、夏侯淵、曹真、夏侯尚らの指揮下で抜群の功績を挙げているからです
また統率は微妙だが、91以上あっても良いと思う
>>513 俺も、そこに挙げられた統率8名、武力7名を確定と見なすのに賛成します
知力の時や政治の時も、91以上が確実と思われる人物が先に決定しましたしたから
張コウに異存はないよ。
水をさすようで恐縮なのだが、高順なんてどうだろうか?
麹義が候補なら決しておかしいとは思わないのだが。
事跡も一応挙げるつもりだが。
言っとくが
>>517の意味は司馬懿の命令に反対して、
結局司馬懿の指示通りに動いて負けた張コウの件という意味だぞ。
誤幣を招く書き方だったのかもしれんが、正史を読んでるくらいならそれくらいは知ってるだろう
と思って書いたんだが。
つまり命令は政治的な意図が隠されていたか、
もしくは張コウが実戦馴れをしていたかどっちかだという事で、
司馬懿の統率に対する擁護論として先に書いておいたわけ。
張コウの武力は漏れも異存ナシでつ。
>>516 >熟練度でカバー
それだと少し無理がないですか?
熟練度は意識すればすぐに上がるし、
能力値が同じならあまり差をつけられないと思うのですが。
ケ艾
・都尉学士となったがどもりのため幹佐(文書を扱う各部局の補佐官)となれず、稲田守叢草吏となる。
・典農綱紀・上計吏となって都に使者として赴き、大尉司馬懿と出会い、
評価されて掾に任命され、尚書郎に昇進する。(政治)
・田地を拡大し、穀物を蓄える計画が立てられ、陳・項以東寿春までの地域の視察に派遣される。(政治)
「済河論」
「良質の田地であっても、水が少なくては十分に土地から利益を上げることはできない。運河を開通するのがよい。
水を引いて灌漑し、大いに兵糧を蓄積することができる上に、水運の道も通ずる。」
・運河か開通し、大軍の通過、食糧の備蓄、水害の防止が成る。(統率・政治)
・参征西軍事となり、南安太守に昇進する。
・郭淮とともに蜀の姜維の侵攻を防ぐ。引き返してきた姜維を撃退し、その功によって関内侯、討冦将軍となる。(統率)
・異民族対策について上奏し、司馬師によって採用される。(知力)
・汝南太守に転任する。
・諸葛恪が合肥新城を包囲するが、退却させる。エン州刺史、振威将軍となる。(統率)
・カン丘倹の反乱が起こり召還されて長水校尉、方城郷侯、行安西将軍となる。
・狄道で包囲されていた雍州刺史王経を救助し、姜維を退ける。(統率)
・安西将軍、仮節領護東羌校尉となり、姜維を破る(統率)
・長城で姜維を退ける。征西将軍となり、加増を受け合計6千6百戸となる。(統率・武力)
・侯和で姜維を破る。(統率・武力)
異論のある人が多そうなので一応挙げてみた。
他にもエピソードはたくさんあるがほぼ政治を基に置いた戦略で勝っていった稀有の将軍。
諸葛亮が魏に仕えていればこういう人材になってたと思う。
蜀は人口も国力も10分の1以下だしね…。
個人的には曹仁・陸遜より統率においては評価が高い。
高順の事績
出身:不明(呂布と同郷か?)
官位:都督
・攻撃した相手を必ず打ち破ったため、陥陣営とあだ名が付けられていた。
・張飛と曹豹の大混乱中の下ひ城を攻撃して、劉備の妻子を捕虜にした。
・カク萌が反乱を起こした際、呂布の話を聞いてすぐにカク萌と見抜いた。
・その後即時に兵を武装させて、下ひの役所に突入させ、一斉に弓や弩を射掛けて遁走させた。
・琅邪の相だった蕭建を襲撃して物資を奪った臧覇を攻撃しようとした呂布に対して、失敗したら名声を損なうから、
軽々しく出兵すべきではない、と諫めた。
・沛にいた劉備を敗走させた。
・救援に来た夏侯惇を打ち破った。
・ふたたび劉備の妻子捕虜にし、呂布に送った。
>>513 異論なしです。
統率の孫堅、呂蒙、司馬懿も。満寵はどうかな。「質」の点で。
武力の許チョ、典韋、孫策も異議なし。
統率、劉備はどうでしょうか?
>>513 一つのやり方として、各自が統率・武力の自分ならこれという
15人ずつを列挙してもらって、殆どの人で重複しているという武将は
「確定」ということでどうでしょうか? あくまで一案ですが。
なんだかんだで各10人くらいはそれで確定できちゃいそうな気がします。
>>480-481 孫策指揮下での戦いは、周瑜はどっちかというと物資調達、諜報、分析など
軍師としての役割を果たしていたんじゃないかな?
孫策と全く同じ戦跡をたどっているのだから単独で軍を動かしたわけじゃないだろう。
この事例で周瑜を武力90台にするのならば、同じように孫策の江東征伐に
付き従って多大な功績をあげ、賊に囲まれた孫策を救出するなどの武勇伝をもち
曹仁を敗走させたこともある程普は当然90台にしなくてはならない。
というか、程普は普通に90台に加えてもいいかと思う。
↑
武力についてです
張コウの両方90台に異論はそれほど無いけど、
どっちか落とすと言えば武力だと思うよ。
張飛にも巴西で負けてるし、攻めに転じるより下準備をして勝ち戦に勝つ戦略指揮官という印象。
先に挙げた司馬懿との件に置いても戦略的な見地に置いては間違ってない。
司馬懿の方が間違ってただろうと思われるが、
だいたいもう戦局がもう見えた段階だから、司馬懿としては古参で発言力が強く自分の息がかかってない
張コウが邪魔だったと思う。だからあえて戦死させて取り除きたかったという政治的な意図と俺は取ってる。
巴西の件は判らないことが多いなぁ。
降ってきた巴や漢の豪族、巴の夷の王、そして張魯との関係が不明瞭ですし、
張飛と衝突したのは張魯確保のためにすぎない、とも採れるわけで。
>>533 「確実に91以上だと思われる人物」を漏れも含め5人ぐらいが挙げていたので、
その際全員が挙げ、同時に今まで異論も出なかった人物が上記7名です。
539 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/07 11:05
>>514 >皇甫嵩は関中の反乱鎮圧に失敗してるし事績の相手も微妙
皇甫嵩が関中の反乱鎮圧に失敗したのは宦官の讒言にあったため
けど、倒した相手は確かに相手は微妙
董卓が献帝擁立したときは確かそのまま長安あたりに駐屯してたはず
反董卓連合時に動かなかったのがマイナス要因か?(能力的には政治?)
関中征伐のこと挙げるなら
張温指揮下(185か186〜188?)で大した功績挙げてない孫堅は?
>>539 孫堅は参謀として参加し董卓を斬るように言って
評判になったし議朗に出世してる
反董卓連合に参加してないことは能力的にマイナスとは言えないけど
孫堅は参加して最大の戦果を挙げている、反面
その間の皇甫嵩は董卓の下風に立ち晩年の李カクの乱にも何もできなかった
この間の差は大きいと思うだから孫堅が確定なら皇甫嵩も無条件に確定ということに
反対なわけ、別に皇甫嵩を15人の中から外せって言ってるわけではないから
>>540 ということは董卓は80代くらいかな?
他の人物との兼ね合いで皇甫嵩・孫堅の統率90代は微妙なラインかなーと思ってるだけ
逆に孫策・周瑜はアリだと思う
徐栄を武力の方で推してみたい
今思ったんだけど、統率に陳登は駄目?
>>526 挙げてみたが、陥陣営という名にふさわしく常勝ということに気づくと思う。
このスレの基準なら武力91以上はあると思われるがどうだろうか?
>>543 高順は、確かに優れた武勇ですね
問題は15人と、厳しい数字ですね。すぐに結論は出ないと思う
>>542 陳登はどうかと聞かれれば、微妙としか言いようがない…
でも優れた人物ですよ
陳登の事績を挙げます
陳登の事績
出身:下ヒ国淮浦
出自:父・陳珪は沛の相、その伯父・陳球は太尉、陳球の子・陳ウは呉郡太守、その弟・陳jは汝陰太守
官位:伏波将軍、広陵太守
・先賢行状に言う、東陽県長の頃、老人や孤児を養い民をいたわった。「政治」
・この頃、民は飢餓に苦しんでいた。陳登は、土地を巡り調べ堀を掘り灌漑し
その利を活かしたため、稲が豊かになり蓄えられた。「政治」
・劉備に、陶謙の後を継ぐように進言する。「政治」
・呂布の命で曹操の元に使者として赴く、そして曹操と気脈を通じ呂布を滅ぼすよう進言する。「知力」
・先賢行状に、広陵太守の時、賞罰を明らかにし威光を宣布し海賊一万余戸が帰順した
一年も経たずに、教化に功があり民衆はこれを畏怖し慕った。「政治」
・先賢行状に言う、曹操の呂布討伐に郡兵を率い先駆けを務めた
呂布に、弟たちを人質にされたが、これに屈せず包囲を強めた。「武力>統率」
・孫策が軍を派遣し匡キ城を攻めた。数倍はある敵に対し城門を閉じ、鳴りを潜めた
のち城門に登り形勢を確かめ好機を知って、夜間に武具の整備をさせ
夜明けに南門より敵陣背後を襲撃した。敵は混乱した
陳登自ら陣太鼓を鳴らし、これを大破、追撃し斬ったり捕虜にした数は万単位だった。「統率=武力と知力」
・次に孫権が攻め寄せた。陳登は、先ず陳矯を曹操の元に送り援軍を請い
自らは、密かに城より十里の至る所に軍営を作り、柴や薪で山を作り、縦横に列をなし聚
夜に、一斉にこれを燃やした。城中で喜びの声を挙げ大軍の到着と見せかけた。
敵は、火を見ると驚き乱れ、陳登は追撃し首級一万を得た。「統率=武力と知力」
・陳矯を功曹として取り立てた。「政治」
・徐宣を取り立てた。「政治」
・江表伝に、孫策西征の際
密使を送って厳白虎の残党に印綬を与え、孫策の後方の撹乱を計った、とある。「知力」
一流の太守ですな。四つの能力全て80台でも良いと思う
陳登の挙げた武勲は知略、統率、武力ともに優れているが
どれかひとつを91以上にするより全ての能力を80台にする方が良いと思う
徐栄の事績
出身:遼東郡襄平の人
官位:中郎将
・公孫度を遼東太守に推薦した。
・けい陽で曹操を破った。
>>541 いくらなんでも少なすぎないか? 武力80台だろう。
曹真は91以上に入んない?
統率の上位は総大将クラスを並べるだけでいっぱいいっぱいだからいいけど、
下位の方になるにつれて、大将・中将とか、あるいは別働隊を任されたとかいうのも
官位ほどじゃないにせよ考慮の対象にせざるをえなくなるでしょうね。
とすれば逆に、上位の方でも、最後はそういう部分の判断に立ち入らざるをえない
かもしれません。
ま、言ってることは結局、事績の「質」をどう判定するか、ってことですね。
曹真
最高官位:大司馬
・曹操の従子
・幼くして孤児となり曹操に育てられる
・狩猟で虎を射殺した
・虎豹騎を率いた
・霊丘の賊を討ち霊寿亭侯となる
・偏将軍として下弁の劉備の別将を撃破し中堅将軍となる
・中領軍となる
・夏侯淵死後に征蜀都護となり、徐晃を指揮して高詳を撃破する
・曹丕即位後に鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事・東卿侯となる
・張進が反乱すると費耀を派遣して撃破させた
・上軍大将軍・都督中外諸軍事となる
・孫権征伐で牛渚の陣営を撃破した
・曹叡即位後に大将軍・邵陵侯(?)となる
・諸葛亮の北伐に対し派遣され、張コウを派遣して馬謖を撃破する
・安定・天水・南安の3郡を平定した
・諸葛亮の進行ルートを読んでカク昭・王生を派遣して陳倉城を修復させた
・諸葛亮が陳倉を抜くことが出来なかったので加増された(2千9百戸)
・大司馬となる(皇帝の前で帯刀・普通に歩くことが出来る特権を与えられる)
・蜀進行を司馬懿らと行うが長雨にあって退却(戦死した部将がいるので各個撃破された模様)
・病気となり洛陽へ帰還。その後病死
曹真伝に記載されている事跡をつらつらと。
統率に関する事跡ばかりなのでかなり高い模様
武力で典韋が確定なら、関羽、張飛も確定だろう。
>>551 典韋伝と関羽伝、張飛伝を読み比べてくれ
むしろ戦術能力と個人武勇を同列にしている能力値にも違和感を感じる
なんで特殊能力「一騎討ち」(一騎討ちレベルでも可)を作ってくれないか? 光栄
ってこれはスレ違いか
李通
・侠気があったので江・汝地方で名を知られていた。 (武力)
・黄巾の大帥呉霸を生け捕りにした。 (武力)
・李通は家財をなげうって施しをし、兵士と糟糠を分け合ったので、
みな争って彼のために用事をし、そのため盗賊たちも敢えて犯そうとしなかった (統率?)
・軍勢を連れて許で曹操に帰服、振威中郎将を授かり、汝南の西境に駐屯した。
・劉表が兵を遣して張シユウを助けたので、太祖は戦いに不利であった。
李通が兵を率いて、夜になって太祖の元に駆け付けたので、太祖はふたたび戦うことができた。
李通は先鋒となり、大いに張シユウ軍を破った。裨将軍を拝命し、建功侯に封ぜられた。(統率・武力)
・袁紹は使者を派遣して李通を征南将軍に任じようとし、
劉表も密かに李通を味方にしようとしたが、李通はいずれも拒絶した。
・郡の賊の瞿恭・江宮・沈成らを攻撃し、彼らの軍勢を殺し尽くし、その首を(曹操に)送った。(武力)
・賊の張赤らが五千余家を桃山に集めていたが、李通はこれを攻め破った。(武力)
・劉備が周瑜とともに江陵城で曹仁を包囲し、別働隊として関羽に北道を分断させた。
李通は軍勢を率いてこれを攻撃し、 馬を下りて鹿角(さかもぎ)を抜き、
包囲陣に入っては戦いながら突き進み、曹仁軍を救った。その武勇は諸将随一であった。(武力)
曹真はギリギリありかな?微妙だな
マイナス要素に街亭は張コウ、陳倉はカク昭と活躍のほとんどが派遣武将
他には無駄だった漢中攻略と少数の朱然を攻略できなかったこと
557 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 00:33
李通は良くて丁奉レベルだな
strangeworld
560 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 00:36
名前が3文字の武将って何人知ってる?
厳白虎、諸葛謹、諸葛均、諸葛亮、がつとつ骨
561 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 00:39
くたばれ・消えろ・失せろ・潰れろ・馬鹿・あほ・間抜け・ドジ。
ポンコツ・トンチキ・ガラクタ・クズ・ゴミ・カス・最低以下の下劣・下等種族。
劣等種族・下衆野郎・腐れ外道・邪道・外道・非道・ウジ虫・害虫・ガン細胞。
ウィルス・ばい菌・疫病神・病原体・汚染源・公害・ダイオキシン・有毒物質。
廃棄物・発ガン物質・猛毒・毒物・アメーバ・ダニ・ゴキブリ・シラミ・ノミ。
毛虫・蠅・蚊・ボウフラ・芋虫・掃き溜め・汚物・糞・ゲロ・糞虫野郎・ほら吹き。
基地外・デタラメ・ハッタリ・穀潰し・ろくでなし・ごろつき・ヤクザ者。
社会の敵・犯罪者・反乱者・前科者・インチキ・エロ・痴漢・ゴミ・シデムシ。
ゴミ虫・毒虫・便所コオロギ・詐欺師・ペテン師・道化師・危険分子・痴呆・白痴。
魔物・妖怪・悪霊・怨霊・死神・貧乏神・奇人・変人・毒ガス・サリン。
ソマン・マスタードガス・イペリット・クソブタ・ブタ野郎・畜生・鬼畜・悪鬼。
邪気・邪鬼・ストーカー・クレイジー・ファッキン・サノバビッチ・シット・ガッデム。
小便・便所の落書き・不要物・障害物・邪魔者・除け者・不良品・カビ・腐ったミカン。
土左衛門・腐乱・腐臭・落伍者・犯人・ならず者・チンカス・膿・垢・フケ・化膿菌。
放射能・放射線・鬼っ子・異端者・妄想・邪宗・異教徒・恥垢・陰毛・白ブタ。
ケダモノ・ろくでなし・VXガス・ヒ素・青酸・監獄・獄門・さらし首。
打ち首・市中引きずり回し・戦犯・絞首刑・斬首・乞食・浮浪者・ルンペン・物乞い。
放射性廃棄物・余命1年・アク・精神年齢7歳・3審は必要なし。
不良品、規格外、欠陥品、不要物、埃、掃き溜め、吹き溜まり、塵埃、インチキ、居直り。
ふてぶてしい、盗人、盗賊、残忍、残酷、冷酷、非情、薄情者、ガキ、クソガキ。
ボロ、妄信。狂信者、有害物質、毒薬、猛毒、発ガン物質、誇大妄想狂。
他人の悪口は山ほどほざくが反省は一切しないガキ根性野郎、腐れ根性。
腐って歪んだプライドの持ち主、狭量、ボケ、ボケナス、アホンダラ、たわけ。
怠け者、無能、無脳、思考停止、アメーバ、単細胞、蠅、蚊、カビ。
確定
統率
曹操、諸克亮、司馬懿、陸遜、ケ艾、孫堅、周瑜、曹仁
武力
呂布、張遼、徐晃、関羽、曹仁、夏侯淵、許チョ、馬超、張コウ、張飛、典韋、甘寧
>>546-547 徐栄追加
1.孫堅が豫州諸郡の兵で董卓を討とうとすると、董卓は徐栄や李蒙らを繰り出して対抗させた。
徐栄は梁で孫堅と遭い、戦って孫堅を破り、潁川太守・李旻を生け捕った。
2.董卓の死後、李カクらが長安に攻めてくると、王允は元董卓の将・胡軫と徐栄を派遣した。
新豊において戦いが起きたが、徐栄は戦死、胡軫は彼らに降ってしまった。
根っから董卓の配下では無かったんでしょうね。
彼らが李カクらに従わなかったのも、縁自体が無かったんじゃないかな。
>>562 どこで確定したんだ?
あと、諸克亮は勘弁してくれ。
事績の質・量ともに重視するけれども、(質・量ともに文句ない者を除いて)最終的にはどれか、
と言われたらまず、「エポックメイキングな質」を重視するのが「政治」決定時の議論でした。
それを踏まえて言えば、時代の節目を「戦で」形作ったときの総大将が統率で、
その戦を決定づけた武将が武力で、高評価を得ることになるのではないでしょうか。
曹操の河南平定・河北平定
孫策の江南平定
周瑜の赤壁
劉備の益州平定・漢中奪取
呂蒙の荊州奪取
ケ艾の蜀征討
杜預の呉征討
など。 周瑜の赤壁・呂蒙の荊州奪取は「戦で」と言い切れるか微妙かもしれませんが。
>>565 呂蒙の荊州奪取は、それに続く劉備の逆侵攻〜夷陵で終わるまでを
一連の流れとして捉えれば、間違いなくエポックメイキングな質でしょう。
杜預より羊コの方が実質的な貢献度は高いと思う。
>>538 なるほど。失礼しました。
>>542 陳登は名将でしょうが、後漢末〜三国時代の
「トップ15」かと言われると疑問が残ります。
>>556 25人と言われればありだと思いますが、15人となると厳しいかと。
>>567 空前の多方面からの大規模侵攻作戦を指揮・統率し
それを「破竹の勢い」で実践することは並大抵のことではないと思いますが…。
別に羊コを否定する気はないですが、「統率」という意味では杜預ではないかと。
それにしても、政治や知力では全然集まらなかったのに、
武力だ、統率だ、となるとウジョウジョと...
なんか呂蒙の話が出たので、呂蒙の事績を挙げます
呂蒙の事績
出身:汝南郡富陂
官位:都督、南郡太守、虎威将軍
・姉婿、ケ当の元にいた役人を斬り殺す。「武力」
・赤い服を、自分の兵士に着せ目立つ様にし、兵士達は良く訓練されていたため
孫権は呂蒙の兵士を増やした。とある。「知力と武力(訓練)」
・丹楊討伐に加わりいたるところで戦功を挙げる。「武力>統率」
・黄祖討伐の時、先鋒として敵の都督、陳就の首を挙げる。「武力>統率」
・逃走した黄祖を兵達が追って捕らえる。「統率>武力」
・周瑜や程普と共に曹操と戦う。「武力>統率」
・南郡攻めの際、凌統に留守を任せ、自分と周瑜で甘寧の救援に向かう事を進言。「知力」
・その後、敵の敗走する道に障害物を置いて馬を手に入れる。「知力」
・長江を渡り曹仁と交戦を続ける。「武力>統率」
・魯粛に関羽への警戒を促し五つ(三つ)の策略を献じる。「知力」
・魏の謝奇が皖において屯田を行い、その屯田兵が呉の辺境で略奪を働いた。
そのため呂蒙は隙をねらって襲撃した。「統率>武力」
・曹操進出を濡須でくい止める作戦に参加し、しばしば優れた計略を進言した(どんな計略か不明)。「知力」
・濡須に堡塁を築いて曹操軍を防ぐよう進言。「知力と統率」
曹操の河南平定・河北平定
孫策の江南平定
周瑜の赤壁
この3つは別格だろう。
形勢的に考えると。
続き
・皖の田地が肥沃であるため、早期に奪うよう進言。「知力」
・皖城攻めの際、諸将が「攻城兵器の数を増やすべき」と勧告したのに対し
「皖城を堅固ではないので敵が防備を整える前に一気に攻めるべき」と進言。「知力」
・その策を自ら実行、早朝に太鼓とばちを持ち兵達は勇躍して城壁を上り、朝のうちに敵を敗退させた
指揮下に甘寧とリョウ統がいた(張遼がカンに救援に向かったが間に合わなかった)。「統率>武力」
・さらにリョウ統らと西進し、三郡を奪取した。「統率>武力」
・甘寧伝の呉書に言う、甘寧とリョウ統の剣舞に、楯を持って割ってはいる。「武力」
・誰も鎮圧できなかった廬陵の反乱を鎮圧。「統率>武力」
・長沙、零陵、桂陽を策を用いて帰順させる。「知力」
・合肥において孫権を命がけで守る。「武力>統率」
・曹操が40万で濡須に攻めると督に任命され、7万を指揮、先に築いた保塁に依って防いだ
兵数は江表伝の数字で誇張があると思われる。「統率>武力」
・敵の先鋒が陣を築き終わる前に撃破した。指揮下に甘寧がいたと思われる。「統率>武力」
・徐州は守り難い地であるとして、徐州を攻めるよりも関羽を討伐して荊州を取るべきと進言。「知力」
・荊州攻略の際、病気を名目に建業へ帰還し、関羽の兵力を襄陽へ向けさせる 。「知力」
・建業に帰還する際、孫権の勘気を被っていた虞翻を、連れて帰り、罪が許されるよう計らう。「政治」
・その後、精鋭兵を船に隠し商人の振りをして関羽の領内に進入。関羽は気付かなかった。「統率と知力」
・民衆を慰撫して関羽の兵の士気を削ぐ。「知力」
・甘寧を推挙。「政治」
呂蒙は統率は間違いなく91以上と思う
と言うのも、荊州奪取において陸遜、朱然を始めとする名だたる将を使いこなし包囲を完成させ
曹操軍40万(誇張ありと思う)相手に、督として濡須を守りきっている
統率に関しては、同じ呉の都督である周瑜より上と言えると思います
陳登の事跡に
・史上初、寄生虫が死因。「??」
575 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 01:42
『涼月』菊水作戦時のエピソード
爆弾が命中、艦首をもぎ取られた涼月は、必死の応急作業を行いつつ、
後進で佐世保に帰投しようとします。
(前略)
佐世保まで9ノットで18時間。その間を、後進で、逆向きに、人力で舵を操りながら、
爆弾の破口からは、まだ煙を出しながら、すこしもくじけず、元気な360人が、
「フネを沈めるな」を合いことばに、がんばった。
とうとう涼月は、佐世保に着いた。
「入港用意」のラッパが涼月で鳴った。先着の冬月、雪風、初霜がそこにいた。
再び見ることはあるまいと覚悟を決めていた故郷の春の緑が、涼月の乗員達の目にしみた。
しかし彼らには、それを見つめる余裕はなかった。ブイにつなごうとしたとき、
急に、船脚が深くなりはじめたのに気付いた。艦が沈みかかっている!
港務部や、工廠から、曳船が、サイレンを吹き鳴らしながら、全速力で駆けつけてきた。
そのうちの一隻は、Uターンして、ドックの扉をあけに戻った。
一分一秒が貴重だった。船が精根つきかけていた。3隻の曳船が、1隻は艦尾を、
2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉を開けたドックに引っぱりこんだ。
涼月がドックにはいるやいなや、すぐ扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめたが、
涼月は、もうそのときには、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出される
わずかな時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。
>>575 無理矢理マルチスレ荒してんの、おまえだな? 恥を知れ! クズが! ここにも来んな!
もうダメだな、このスレも
578 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 05:37
579 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 08:52
●●●マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その7A●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1004/10049/1004950940.html 915 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/01/20 12:40 ID:FHCYQpiB
今度は、インターネットで犯罪を告発している人自身を直接攻撃することを
彼らは考えるだろう。彼らはインターネット上の告発者が誰かということは
自分達自身が嫌がらせをしているのではじめから知っているのである。
彼らは、NTT等の通信事業者に働きかけて告発者のインターネット接続を
あらゆる方法で妨害をしはじめるだろう。
もちろんこれは、れっきとした犯罪であるためあからさまにやると、
今度は告発者に訴えられたり脅迫されたりされる危険性がある。
そのため、彼らは法律に触れない程度で告発者を妨害する方法はないだろうか?と考える。
そこで出てくるのが....
-虚報戦術-
いくつかの事実といっしょに実体のない噂を山ほど流す。
そのため(情報の)受信者は事実と噂を見分けることが出来ない。
アルビン・トフラー著 「パワーシフト」より
真実の情報を隠すために、偽の情報と真実の情報を混ぜ
どれが真実の情報かわからなくさせる情報工作というものがある。
彼らは自分達が行っている、いたずら電話、脅迫電話、盗聴、盗撮、
ストーカー、住居不法侵入等の真実の情報を誤魔化し閲覧者が混乱するようにするために、
「思考盗聴、透視、遠隔操作」などの誰も信じないような、偽の情報と織り交ぜて
マスメディア関係者が組織的にホームページや掲示板を通じて自分で被害者を演じ
インターネット上で自作自演を行っている可能性がある。
われわれはこういった盗聴犯罪者の馬鹿げた自作自演に気をつけなければならない。
>>562 武力に関羽、張飛が入るのなら楽進、于禁も入れてクレ。
関羽張飛が確定ならこの2人も確定だろ?
>>580 言っておくが、
>>562のはまとめでも何でもないぞ
話の流れを読めばよく分かると思う
現在、確定候補は
統率
曹操、曹仁、ケ艾、満寵、孫堅、陸遜、呂蒙、司馬懿
武力
曹仁、張遼、許、典韋、孫策、甘寧、呂布
以上、統率8名と武力7名だよ
漏れとしては上記の人物は確定でよいと思う
>>581 スマソ 勇み足ですた・・
漏れも上記の人物は確定でいいと思いまつ。
ただ、統率の確定候補に孫策がいない。
それは殆ど決定事項だと思うんだけど・・・
>>582 まあ孫策は事績もまだだし、これから検討されるんだと思うよ
軍才に重きを置いてるようなので駄目かもしれないが
統率で韓遂・諸葛誕なんかどうだろう?
>>81 名無しが勝手にまとめてもね。コテハンにまかせなよ
武力に、張コウを入れても良いと思う
確定候補
統率
曹操、曹仁、ケ艾、満寵、孫堅、陸遜、呂蒙、司馬懿
武力
曹仁、張遼、許チョ、典韋、孫策、甘寧、呂布、張コウ
取り敢えず張遼、徐晃、孫策の事績を挙げます
これで五大将の事績が出そろいます
張遼の事績
出身:雁門郡馬邑
官位:前将軍、征東将軍
・武力が人並み外れていたため丁原の従事となる。「武力」
・呂布の将として、高順と共に小沛の劉備を破る。「武力>統率」
・魯国の諸県を平定した。「統率>武力」
・昌キを降服させる。「知力」
・関羽と共に、先鋒として劉延を攻撃し、これを撃った。「統率=武力」
・関羽と共に先陣として顔良を斬る。「武力>統率」
・楽進と共に陰安を落とす。「統率>武力」
・曹操のギョウ攻略に参加。「武力>統率」
・常山を落とし、黒山の孫軽らを降服させる。「統率>武力」
・袁譚攻撃に参加。「武力>統率」
・別軍の将として沿海部を攻略、遼東の賊柳毅を破る。「統率>武力」
・別軍を率い江夏の諸県を平定。「統率>武力」
・柳城の袁尚攻略の際、蛮軍と遭遇、これを破り単于トウ頓を斬る。「武力>統率」
・荊州征伐も前、軍中の混乱を押さえ軍中の反乱者を斬る。「武力と知力」
・張コウらを指揮し陳蘭らの首を取り、その軍を捕虜にした。「武力=統率」
・合肥に孫権が迫ったとき、状況を考慮し一戦交えることを主張。「知力」
・合肥で孫権軍に突撃、孫権に迫った。「武力>統率」
・包囲する孫権軍から脱出するが、引き返し取り残された部下を救出。「武力」
・退却する孫権を追撃、孫権捕縛に後一歩まで迫る。「武力=統率」
・曹休らと共に呂範を破る。「武力>統率」
張遼は言うまでもないと思う
やはり合肥がずば抜けて優れている
徐晃の事績
出身:河東郡楊県
官位:右将軍
・楊奉に従って賊を討伐。「武力>統率」
・李カクらによって長安が荒れると、楊奉に天子と共に洛陽に戻るよう進言。「知力」
・巻、原武の賊を打ち破る。「武力>統率」
・呂布征伐の際、別軍を率いて趙庶らを降伏させた。「統率>武力」
・史渙と共に河内でスイ固を斬る。「武力>統率」
・曹操に従って劉備を撃ち破った。「武力>統率」
・顔良を撃ち破った。「武力>統率」
・曹洪と共に賊、祝臂を撃ち破る。「武力>統率」
・史渙と共に袁紹の輜重を攻撃、最大の戦功を挙げたとある。「武力>統率」
・易陽の韓範を矢文で降伏させる。「知力」
・曹操に従って袁譚を破り平原の反逆の徒を討伐。「武力>統率」
・荊州征討の際、別軍として中廬、臨沮、宣城を討伐。「統率>武力」
・満寵と共に関羽を漢津に討伐(ただ武帝紀、満寵伝、先主伝、関羽伝に記事がない)「武力>統率」
・曹仁と共に江陵を守る。「武力>統率」
続き
・大原の反乱者を討伐し、大陵を包囲、賊の商曜を斬る。「統率=武力」
・韓遂らが関右で叛乱を起こすと、河東を鎮撫した。「統率>武力」
・潼関で黄河渡河の策を曹操に献策する。「知力」
・塹壕などを作成中に梁興が攻め寄せたが撃退した。「武力>統率」
・夏侯淵と共に「テイ族」を平定。「武力>統率」
・夏侯淵と共に「フ」で夏陽の残余の賊を平定、梁興を斬る。「武力>統率」
・張魯征討の際、「山テイ族」を討伐、降伏させた。「統率>武力」
・張純の包囲を解く。「武力>統率」
・陳福の屯営、三十余箇所を攻撃、撃ち破った。「統率>武力」
・劉備が漢中に来襲した際、馬鳴閣で陳式を撃ち破る。「武力=統率」
・関羽来襲の際、塹壕の道を作り背後を断つかのように示した(関羽は退却した)。「統率と知力」
・囲頭を攻撃すると偽り四冢を攻撃。関羽を誘い出す。「知力」
・出てきた関羽を迎え撃ち、追撃、包囲陣まで入り撃ち破った。「武力=統率」
・夏侯尚と共に上庸で劉封を撃破。「武力>統率」
・司馬懿らと共に襄陽を攻めた諸葛瑾を防ぐ。「武力>統率」
徐晃も張遼や張コウに負けず劣らず、優れた武勇を持っている
武力91以上は確実と思う
孫策の事績
出身:呉郡富春
出自:父・孫堅は討逆将軍、母舅・呉景は丹楊太守
官位:討逆将軍、会稽太守
・呂範や孫河と共に呉景の元に身を寄せ、兵士を募り数百人を得た。「統率」
・陸康を攻め、その城を抜いた。「統率>武力」
・兵千余人で呉景らの加勢に赴いた、歴陽に達する頃には五六千に鳴っていた。「統率」
・長江を渡り、牛渚を攻め兵糧と武器を奪った。「統率=武力(奪取)」
・秣陵の南を攻め、サク融が兵を出すと、これを破り五百余の首級を挙げる。「統率=武力」
・次に薛礼を包囲し、薛礼は逃走した。「統率>武力」
・樊能らが牛渚を奪うと、兵を返してこれを破り男女一万余を生け捕った。「統率=武力」
・サク融の部将、于茲を陽動と伏兵で破り、首級一千余を得た。「統率=武力と知力」
・劉ヨウの別将を海陵で破り、転じて湖孰や江乗を攻め、降伏させた。「統率>武力」
・太史慈と一騎打ちを行った。「武力」
・美しい容姿、談笑を好み、闊達で良く意見を聞き、善く人を用いた
そのため士も民も会ったことのある者は、命を懸けても孫策のために働きたいと思った。「政治」
・江表伝に言う、劉ヨウが逃亡すると寛大な布令を出し
十日ほどの間に二万余の兵と千余の馬を手に入れた。「統率と政治」
・会稽を根拠地にし東冶城を落とす。「統率>武力」
・烏程、王晟らが、それぞれ数千から一万の兵を集めていて、孫策は兵を率いて討伐した
王晟のみ父孫堅との誼で見逃し、他は族殺にした。「統率>武力」
・厳白虎討伐の際、死者の厳輿を斬った。「統率」
・その後、厳白虎を攻めて撃ち破った。「統率>武力」
・袁術の皇帝僭称に手紙を送って避難し関係を絶った。「政治」
・劉勲と同盟を結び、この頃、豫州の宗民が江東にいて、これを奪うよう薦めた
劉勲が行動すると、軍を進め昼夜兼行で廬江(皖城)を攻め、これを落とした。「統率>武力と知力」
・西塞山で劉勲と黄射を破った。「統率>武力」
・夏口にて黄祖と戦い、これを大破した。「統率>武力」
・呉録に言う、高岱が人心を得ているのを良く思わず、これを殺した。「政治マイナス」
・軍隊を派遣したが陳登に敗れる。「統率マイナス」
孫策の武勲は、その殆どが江東平定の物である
兵数的には少数だが総大将なので
ゲームでの「部隊の攻撃力は大将の統率」に乗っ取ると統率もかなりの物になる
また史上稀な一騎打ちをした君主でもある(呂布が郭シとしている)
張遼・徐晃は統率・武力共に選出されても不思議じゃないと思う
統率なら魏の都督諸軍事になったことある人物を挙げてみてはどうか?
とか言ってみる。…曹爽もそうだっけ?
>>592 そうですね
張遼、張コウ、徐晃は統率91以上でもおかしくないとは思いますが…微妙でもあります
すでに、
>>240の曹仁(都督荊揚益州諸軍事)、
>>279の満寵(都督揚州諸軍事)
>>530のケ艾(都督隴右諸軍事)、
>>550の曹真(都督中外諸軍事)、まとめのサイトに司馬懿
の5名の事績が挙がってます
しかも、その内、4名が統率91以上確実候補
後、統率91以上の可能性がある都督諸軍事は郭淮くらいかと…
郭淮の事績も挙げておきます
郭淮の事績
出身:太原郡陽曲
出自:祖父・郭全は大司農、父・郭ウンは雁門太守
官位:車騎将軍・儀同三司、都督雍涼諸軍事、雍州刺史
・夏侯淵死後、張コウを主将に推し軍中を纏めた。「知力」
・その翌日、陣営に劉備が攻め寄せた。その時、防衛策を進言する。「知力」
・曹真、張コウと共に山賊や蛮族を平定した。「武力>統率」
・文帝即位の際、奉賀に遅れ曹丕は、その罪を問い質した。
これに郭淮は、見事に受け答えた。「知力」
・安定の羌族が叛乱したとき、これを破り降伏させた。「統率>武力」
・諸葛亮北伐の際、列柳城の高詳を撃ち破る。「統率>武力」
・また隴西の羌族を撃ち破る。「統率>武力」
・建威にて諸葛亮を前に退却する。
・陽谿で魏延に敗れる。
・蜀が鹵城に進出した際、威光と恩愛で羌族を帰順させ
穀物を確保し輸送に当たらせた。これにより兵糧が充足した。「政治と統率」
・諸葛亮が斜谷に出陣すると、蘭坑で田作を行った。「政治」
・司馬懿に諸葛亮に対する、備えの策を進言する。「知力」
・その後、塹壕を作成中に来襲した蜀兵を撃ち破る。「武力>統率」
・諸葛亮の陽動を見破る。「知力」
続き
・姜維が隴西に攻めた際、軍を進め追撃し退却させた。「統率>武力」
・羌族の迷当を討伐。「統率>武力」
・「テイ族」を鎮撫し関中に移住させた。「政治」
・涼州、休屠湖の梁元碧ら二千余家を移住させ住民の砦とするよう上奏した。「政治」
・夏侯玄の蜀征討に従ったが、形勢不利と判断、軍を敵地から脱出させた。「統率」
・餓何らが蜀に呼応した時、姜維の行動を予測、夏侯覇を救援し姜維を退却させた。「知力」
・その後、餓何、焼戈らを討伐し、これを斬った。「武力=統率」
・蛾遮塞らを、陽動を用いて攻撃、これを破った。「知力と統率>武力」
・治無戴を敗走させる。「統率>武力」
・令居の蛮人を討伐。「統率>武力」
・姜維が石営二出陣した際、姜維の行動を予測する。廖化を破る「知力と統率>武力」
・陳泰の策を用いて句安を降伏させ、姜維を退却させた。「統率>武力」
郭淮も、また優れた人物です
統率91以上の候補に相応しいと思います
やっぱり、15人というのは難しいですね。
陸抗も統率91以上いけるのでは?
全員魏将で埋めちゃおうよ
>>596 陸抗イイ!!
と言うことで陸抗の事績を挙げます
陸抗の事績
出身:呉郡呉
出自:父・陸遜は丞相、叔父・陸瑁は議郎選曹尚書、同族の陸凱は左丞相
官位:大司馬、荊州牧
・諸葛恪と任地を交換する際、元の任地を去る前に、城を立て直した。「統率(改修)」
・諸葛誕が叛乱すると、寿春に赴き魏の牙門将や偏将軍を破った「統率>武力」
・都の行政に問題が多いと情報を得た際、時務に対しての方策十七箇条を提唱する 「政治」
・宦官が政治に口出しするようになると、諫言を行った。「政治」
・蜀滅亡に際し、歩協の救援として羅憲を攻めるも、これを破れず。
続き
・歩闡が寝返ったとき西陵の守備の堅さから攻撃が不利であるとし陣地を固める
ただし、西陵の守備が堅いのは陸抗が施したものである。「統率(建設)と知力」
・羊コが江陵に向かったとき、江陵より西陵を優先させた
これは防衛策として江陵と西陵を知り尽くした上での好判断。「知力」
・堰堤を築いて平地を水浸しにし敵の侵入と離反者を防止する。これも知力と思われる
・羊コが水がせき止められているのを利用し船で補給を行うとしたとき
策を見向き堤防を切り、補給に多大な力を割かせた。「統率と知力」
・その後、羊コらが攻めてくると巧みに将軍を配置し、これを防がせる。「統率」
・西陵を包囲した時、敵将が自陣の弱点が異民族の部隊であること知っていると見抜き、これを利用
夜の内に異民族を移動させ、その場所を古参の部将に守らせた
その後、陸抗の読み通り敵が来訪、これに大打撃を加えた。「知力と統率>武力」
・敵将である楊肇の退却に際し、力を蓄えた歩闡を避けるため策を用いて追撃し、これに大打撃を与えた。
この策は、太鼓を鳴らし敵に追撃していると思わせ恐慌状態に陥らせた。「統率=武力と知力」
・この後、西陵城を攻め歩闡を捕らえた。「統率>武力」
・薛瑩が投獄されると、春秋や尚書を引いて助命を嘆願した。「政治」
・この頃、軍事行動が続き百姓は疲弊していた。易経や左氏伝を引いて諫言した。「政治」
・重病になった際、呉の地勢的弱点と、その対策、国家の取るべき道を進言する。「知力」
とにかく西陵の戦いが素晴らしい。一つの戦争における質では最上級と思う
陸抗は統率91以上の候補であると思う。政治、知力も優れる一級の人物
郭淮は、後半で能力値伸びるタイプだと思うな
自作自演ご苦労様
まあがんばって
有力候補か?
■統率
魏晋:曹真、于禁、張コウ、徐晃、郭淮、杜預、郭淮、羊コ
呉:孫策、周瑜、陸抗
他:皇甫嵩
■武力
魏晋:夏侯淵、張コウ、楽進、徐晃、張コウ
蜀:馬超、関羽、張飛
呉:孫堅
他:麹義
微妙な候補か?
■統率
魏晋:田豫、牽招、夏侯惇、文聘、司馬師、司馬昭、陳登、諸葛誕
蜀:劉備、諸葛亮、魏延、関羽、劉巴、李厳
呉:朱桓、呂岱
他:韓遂
■武力
魏晋:曹彰、李通、田豫、牽招、閻行、于禁、満寵
蜀:劉備、張嶷、趙雲、黄忠、魏延
呉:周瑜、呂蒙、リョウ統、潘璋、周泰、丁奉、賀斉、徐盛
他:徐栄
ログをナナメ読みして拾ってみた
漏れ、ミス、ダブりとかあるかもしれんが、勘弁
すみません、呂布の事績って、うpされてましたっけ?
呂布は誰かの元にいても、麾下として働いていない風もある気がして、
ただでさえ評価しづらいなぁ、と思って。
本日より復活・・・どこまで付いていけるか分かりませんが。
では早速呂布の事績投下。
呂布 最高官位:左将軍
・弓術と馬術に優れる 「武」
・涼州の人間に怨恨を抱かせる 「−知・−政」
・李カク軍に敗れる 「−統」
・郭と一騎打ちを行い勝利 「武」
・敵陣に突進して張燕を撃破 「統・武」
・将兵が掠奪を行うなどして、袁紹に恨まれる 「−統・−知」
・張楊に自分を受け入れさせる 「政」
・曹操軍を撃破するが、後に敗北(±0と判断)
・張飛から丹陽郡を奪取 「統・武」
・戟を弓で射当てる 「武」
・陳珪の説得を受けて袁術との同盟を破棄 「−知?」
・高順の説得を聞かず、臧覇を攻めるが敗走 「−統・−知」
・妻の諌めを受けて計略を取りやめる 「−知?」
・配下を疑心暗鬼にさせ、裏切りに遭う 「−統・−知」
・高順を疎んじて魏続を重用 「−知?」
あと、武力で董卓を推してみる。
個人的武勇だけでなく、指揮官としてもそこそこ優秀。
典韋・許チョが入るなら、彼も90代に入ってよいのではないだろうか。
董卓 最高官位:太師
・羌族の顔役と交わりを結ぶ 「政?」
・武芸に秀で、類まれな腕力を持つ 「武」
・并州討伐に付き従って功を挙げる 「武」
・部下に恩賞を分け与える 「統」
・羌族を討伐 「統」
・黄巾に敗北 「−統」
・堰を切って羌族の追撃を逃れる 「知」
・盗賊の取り締まりに当たる 「政?」
・騎兵を指揮して胡を撃破 「統」
・何苗、丁原を殺害して軍権を握る 「統・知」
・白馬寺戦法 「知」
・少帝を廃し、献帝を立てる 「政」
・厳しい刑罰を用い、僅かな恨みにも報復 「−政」
・住民を殺害し、宮女や公主を暴行 「−政」
・伍孚の暗殺を剛力で退ける 「武」
・洛陽を焼き払い長安に遷都 「−政」
・ビに砦を築く 「統?」
・貨幣価値を暴落させる 「−政」
・富豪に罪を被せて財産を没収 「知?・−政?」
・蔡ヨウの進言に従う 「政」
・呂布に誅殺される 「−知」
>>600 西陵の戦いは、国内屈指の大要塞を包囲しながら、
外からやってくる援軍(しかも、司令官は名将羊祜)という、
絶望的な状況で勝ってしまったというのは、珍しいことですよ。
普通なら、援軍が来た時点でさっさと兵を退いていても、
「機を見るに敏」とほめてもらえるぐらい、ヤバイ状況でした。
>>608 一騎さん、お久しぶりです
呂布と、董太師の事績、ご苦労様です
>どこまで付いていけるか分かりませんが
と言うか、一騎さんがいないと困ります
>>609 ええ、俺もそう思います、西陵(夷陵)は呉の要衝で、陸抗自ら強固な砦にした場所ですから
歩闡の裏切りは国家の危機だったわけですし…
>>599 西陵での功績は特筆ものですが、
于禁のように小さな事績をコツコツ積み上げてきた人物と大きな戦に勝った人物、
どちらを上とするかでしょう。
このスレだと後者が優先されるようですので、陸抗は十分にありではないかと。
>>607 候補としてはありだけど、即座に当確はだせそうにない事績ですね。
ちと議論の必要があるでしょうか。
>>608 こちらも少し苦しいかと。
さすがに典韋とは比べるべくもないか。
膂力だけでノミネートするには事績がもう少し欲しい気がします。
>>611 >候補としてはありだけど、即座に当確はだせそうにない事績ですね。
>ちと議論の必要があるでしょうか。
事跡見てたら武力80代+騎兵兵法全部でもよさそうな気がしてきた
一番の戦果はエン州奪取と袁紹・曹操が手を焼いた黒山賊征伐だと思うが
前者は結局曹操にゲリラ戦でやられ、後者は数はともかく相手が張燕なのが評価し辛い
というか張燕・臧覇あたりってどう?
臧覇なんか統率で結構イイ線いきそうな感じ
>>610 それに歩一族は呉でも屈指の軍閥ですからね。
西陵の要塞と、歩一族の兵力がそっくりそのまま晋の手に落ちていたら、
あと何年かは早く、呉は滅亡していたでしょう。
これだけの危機を乗り越えても、9年後に呉が滅亡したというのは、悲しい話ですが。
>>611 >于禁のように小さな事績をコツコツ積み上げてきた人物と大きな戦に勝った人物、
>どちらを上とするかでしょう。
戦争の勝利には、上位の指揮官の能力、彼我の兵力比、敵将の強弱、兵站の長さなど、
様々な条件が重なっていますから、一概には言えませんね。
個人的には、小さい勝利を積み重ねてきた常勝将軍よりは、
記録されている戦績が少なくても、
強敵相手に決定的な勝利をあげた将軍の方が高く評価されるべきだと思います。
>>612 >というか張燕・臧覇あたりってどう?
臧覇は武将としては文句なしに有能だと思いますが、
統率90に値するかどうかと言われると、無理ですね。
五子と比べると、一ランク落ちるような気がします。
赫々たる武勲よりは、複雑な生き方の方が興味深い人です。
張燕は、袁紹軍をどう評価するかによって変わってきますね。
袁紹軍の将軍が統率力の低い将軍だらけなら、
それを苦しめた彼の統率力もそれほど高く設定する必要はありません。
しかし、袁紹軍に統率力の高い将軍が多いとなると、
それを苦しめた張燕の統率力も高くなるでしょう。
ただ、彼は河北を制覇した袁紹の勢力圏のど真ん中でもしっかり生き残っていて、
曹操が冀州に侵攻するまで、軍勢を維持し続けています。
黒山軍を結成する際にも、多くの盗賊団を吸収合併しているので、
知力や政治力に長けた策士としての性格の強い人物だったのかもしれません。
気になるんだけど、公孫サンは・・?
>記録されている戦績が少なくても、
>強敵相手に決定的な勝利をあげた将軍の方が高く評価されるべきだと思います。
これなら漢中で勝った劉備もオーケイ?
劉備は決定的な敗北も喫しているからイーブン
>>610 身に余る光栄・・・。
>>611 個人的に、武力で最も優先されるべき事績は個人的武勇だと思うのです。
一騎打ちでの強さは、他でまかなえないものですから。
で、その個人的武勇の点で、董卓(呂布もだが)は典韋・許チョ辺りに次ぐ存在ではないでしょうか。
12と一騎いらない。NGワード登録しますた
>>603 夏侯淵や馬超などの新たに書き込まれた事績はUPしないのですか?
>>603 ガンガレ
漏れはまとめるの疲れたよ
引き渡した
ソロソロ、ページ分割しなきゃいけないとは思うけど
出来れば魏晋呉蜀で分けて置いた方が親切かもしれないね
>>617 確かに兵法や熟練度では補えないですから膂力に比重を傾けるのはありかもしれませんね。
ですが、それは典韋の宛城での活躍のようなものでないと91以上とするには厳しいかと。
郭との一騎討ちはそれに準ずるものだと思うので呂布は91以上候補だと考えました。
伍孚の暗殺を剛力で退けた董卓は……微妙なところですねぇ。
改めてみてると91以上でいいような気もします。
ですが、ボーダーラインで董卓と例えば楽進のような人物のどちらを残すかということになれば楽進を推します。
>>619 スマソ。順次挙げていくからちと待ってくれ。
結構疲れるんだ、これが。
>>621 引き渡された。
漏れは五十音順で分割するつもりだったんだが、
後漢魏呉蜀晋とわけたほうが見やすいかな?
閻行の扱いは……
>>622 まさか読みが分からない奴はいないだろうから
50音順がよいと思われ
>>623 武力を個人武勇重視にするなら閻行も外せないだろうな
あと別伝採用すれば趙雲
高順は?
高順のは部隊戦闘力
なので 624 には入れてない
個人的には高順入ってもいいと思うが、それだと殆どの能力で
呂布>(or=)高順
とかなりそう
それだと呂布も立つ瀬がないよなー
>>626 心配しなくとも呂布が張遼に勝てる能力値は野望だけだと思われ
>>622 確かに董卓と楽進であれば、事績量の差で楽進の方が上になりそうですね。
ただ、董卓と呂布の差ってほとんど無いと思うんです。
楽進>董卓なのであれば、楽進と呂布は同格、もしくは楽進の方が上になると見て良いと思います。
満寵の事績を調べていて思ったのですが、伏兵というのは統率寄りの分類に入るのでしょうか?
戦法というのは、ここぞという時に兵を動かして強烈な攻撃をするもの、と思っています。
そういう観点からすると、伏兵は武力寄りの方が良いのではないでしょうか。
また、同様に焼討(火計)の事績も武力寄りの方が良いと思います。
>>622 まとめのサイトご苦労様です
早速見てきました
一つ気が付いたのですが、周瑜の事績に劉曄の事績が混ざってるように思います
>>631 >伏兵というのは統率寄りの分類に入るのでしょうか
普通は、武力なのですが満寵は総指揮官のなので統率=武力としたんですよ
>同様に焼討(火計)の事績も武力寄りの方良いと思います
満寵の事績の焼き討ちは、実に迷ったんですよ
満寵が長史を指揮して焼き討ちさせたので、単純に武力として良い物か…と
でも、武力の方が良いかも知れませんね
>>630 董卓は蒼天がうまく描けてるなあと感心した。
俺ならあれほど思いきった描き方はできない。
蔡ヨウの話も実話だし。
少なくとも宦官よりは一部の知識人に歓迎されてたというべきか。
お前ら臧覇の事を忘れていませんか。
臧覇は都督青州諸軍事ですな。
>>632 あ、満寵の場合は派遣したものが多かったのか・・・。
完全に失念していました、まことにスマソ。
焼討も統率寄りの方が良さそうですね。
むしろ武力に+がいらないかも・・・。(自身は動いてないのだから)
曹操はホモの毛があるな。宦官の孫だしな。
もっとキモいキャラだったはず。
誰かを主人公にすると誰かが犠牲になる。
蒼天の描き方は曹操、孫権、あたりが過大評価。
張シユウ、皇甫嵩、孫策あたりが過小評価。
あとは朱桓、徐盛あたりは魏との過酷な最前線で活躍した訳で、
三国の戦況、戦力バランスから考えてもっと評価されるべきだろう。
特に朱桓は5千で曹仁の数万を散々打ちのめし、部下の王双を捕虜にし、
撃退してるわけで、曹仁が90台なら〜?とオモテしまう。
臧霸
・黄巾の乱が起こると、臧霸は陶謙に従って賊を撃破し、騎都尉の官を拝した。(武力)
・徐州で兵を募集し、孫観・呉敦・尹礼らとともに軍勢を集め、臧霸は総帥となって開陽に屯した。(統率)
・曹操が呂布を討伐、臧霸たちは兵を率いて呂布を支援した。
・呂布が捕らわれると臧霸は身を隠したが曹操は公募して臧霸を探しあて、青州と徐州を分けて臧霸に委任した。
・臧霸はしばしば精兵を率いて青州に入ったので、曹操は袁紹のことに専念することができた。(統率)
・海岱地方の乱を平定。(統率)
・于禁とともに昌キを討ち、夏侯淵とともに黄巾賊の残党徐和らを討った。(統率・武力)
・曹操に従って孫権を討伐したとき、先鋒となって居巣を攻め、これを破った。(武力)
・韓当を破った(武力)
・孫権は臧霸の軍が舒にいると聞いて逃げ帰った。(武力)
・曹休とともに呉の賊を討ち、呂範を洞浦で破る。(統率・武力)
・孫権を濡須口で対峙したとき、張遼とともに先鋒となったが、
途中で豪雨となり、大軍は先に及び、水位が高まって賊の船が段々と進んで来たので、
将士はみな不安になった。撤退命令の出ないまま張遼は撤退しようとしたが、
臧霸は引き留めた。その後撤退命令が出て張遼の面目躍如。(知力?義?)
・軍事問題が起こるたび、曹丕はいつも彼に質問した。(統率・知力)
注目すべきは当初は曹操直属の部下というより、
少し離れた所に別部隊として働いてたという印象。
一応挙げたけど李通と同じく、90台としては物足りない。
でも魏が強かったのは李典や張コウにしてもそうだけど、指揮官の組み合わせが巧みな点と、
こういう人材を曹操が黎明期に組み入れ自軍の肉にしていった人材マニアの面が大きいと思う。
東方のエキスパートとして統率、武力80台、知力70台後半といったところかな。
曹操・劉備・韓遂など何度か追い込まれても立ち直った群雄なんかの
しぶとさも評価してもいいんじゃないかな、
統率…ではないような気もするが
劉備 主な戦い
189 ○黄巾賊討伐
●高唐の令の時、賊軍に敗れる
●張純の反乱鎮圧に失敗
194 ○淮陰で袁術戦
196 ●呂布に襲撃される
○楊奉・韓暹戦
●広陵で袁術に敗れる
198 ●小沛で呂布に敗れる
●小沛で高順に敗れる
200 ●小沛で曹操に敗れる
●許都周辺を荒らすが、曹仁に敗走
○汝南で蔡陽戦
201 ●曹操に敗れ、劉表の元へ逃走
○博望で夏侯惇を破る
208 ●長坂の戦い
○赤壁の戦い
209 ○荊南四郡制圧戦
211 △張魯と対峙する
212 ○綿竹侵攻戦
214 ○ラク城包囲戦
219 ○定軍山の戦い
○漢中攻防戦、漢中を守る
222 ●夷陵の戦い
後半は強くなってるが統率91以上にしては負けが多すぎるかも
>>640 214年のラク城包囲だって、龐統が戦死するといった被害があるからなあ。
戦闘に限れば、難しいと思われ。
>>643 むしろ劉循が優秀だったと解釈すべきでは?
ホウ統、法正は推理に推測を重ねて知力90台
関羽、張飛は正史に書かれていないから論外
可哀想だな、特に関羽
メージャーは辛いな
>>644 私もその説を採ります。
劉備軍は黄忠、魏延、法正、龐統といった立伝されるクラスの将軍・謀臣が何人も従軍している上に、
連戦連勝で士気が大いに上がっており、しかも荊州から援軍が送り込まれてきます。
逆に劉璋軍は連戦連敗で、前線に腹心の護軍李厳と親族の費観の軍を送り込んだら、二人揃って戦わないうちに降伏してしまい、
父以来の軍の重鎮である中郎将呉懿も、戦って負けたのか、あっさり降伏したのかは不明ですが、とにかく降伏してしまっています。
(護軍・中郎将は、州牧が任命できる軍の官職としては、ほぼ最高位です)
劉循は、こんな悲惨な状況で、援軍のあても無く、雒で一年も抗戦し続けたのですから、
相当な統率力を持っていたとみていいと思われます。
>>645 ……
ウソを言わないように、ホウ統も法正も事績の質を優先されている
よく前スレを読み返してください
>>646 そうですね
劉循は、立派なと思います
ただ劉備の統率も上々と思われ
彼は、作戦戦略が苦手たったと思うのです、と言うのも
ホウ統、法正と言う作戦立案に優れた人材が左右にいるときは優れた戦果を挙げています
一方、そう言った人材がいない時は、それこそ壊滅状態に追い込まれたりもします
そんなわけで劉備の事績を挙げます
劉備の事績
出身:タク郡タク
出自:中山靖王劉勝の後裔、祖父・劉雄は東郡范の令
官位:漢中王、左将軍、豫州牧
・鄒靖に従って黄巾討伐に手柄を立てる。「武力>統率」
・安喜の尉の時、督郵を縛り上げ杖で二百回打ち据える。「武力」
・毋丘毅に同行し、下ヒで遭遇した賊相手に奮戦、軍功を立てた。「武力>統率」
・高唐の令の時、賊軍に撃ち破られて公孫サンの元に逃亡。「統率マイナス」
・英雄記にいう。曹操と沛国に戻り兵を募集して軍勢を糾合したとある。「統率」
・公孫サンの元、田楷と共に袁紹にあたり戦功を立てた。「武力>統率」
・魏書にいう。外には暴徒を防ぎ内に対しては恩恵を与えた、とある。「統率>武力と政治」
・徐州に袁術が来襲すると、淮陰でこれを阻んだ。「統率>武力」
・楊奉、韓暹を迎え撃って、これを斬った。「統率>武力」
・小沛に入り、兵を一万余人集めた。「統率」
・小沛で呂布(高順、張遼)に敗れ、曹操の元に身を寄せる。「統率マイナス」
・高順に敗れる。「統率マイナス」
・下ヒに戻った後、朱霊が帰還すると刺史の車胄を殺害した。「武力」
・曹操は劉岱、王忠を派遣したが劉備に勝てなかった。「統率>武力」
・曹操が自ら来襲し、これに敗れる。「統率マイナスでよいのだろうか?」
・袁譚を茂才に推挙した。「政治」
・袁紹の命で、劉辟らと汝南を荒らす。「武力>統率」
・その後、曹仁に敗れる。「統率マイナス」
・再び袁紹の命で「キョウ都」らと合流、曹操の派遣した蔡陽を破る。「統率>武力」
・その後、曹操に敗れる。「統率マイナス」
続き
・博望で、夏侯惇らを逃走と見せかけ陽動、伏兵で撃ち破った。「統率=武力と知力」
・曹操の烏丸征伐に乗じて、許を襲撃するよう劉表に説いた。「知力」
・当陽で曹操に追いつかれ民衆や輜重を捕獲された。「これは仕方ないだろう」
・周瑜、程普らと力を合わせ、曹操を赤壁で破る。「統率>武力」
・上表して劉キを荊州刺史にした。「政治」
・荊州南部四郡を降伏させる。「統率>武力」
・京城に赴き、孫権との誼を深める。「政治」
・殷観の策に従い孫権の蜀進出を妨害、中止させた。「知力」
・法正の策に従い益州に入り、劉璋と会見した後、葭萌に入り、恩徳を施し人心を収攬した。「政治」
・劉璋と不和になると楊懐を呼びつけ、これを斬った。「武力」
・黄忠、卓膺らと共に「フ」に至り、城を占拠した。「統率>武力」
・冷苞、張任らを破り緜竹まで退かせた。「統率>武力」
・諸将を派遣し、属県を平定。「統率>武力」
・軍を進めて「ラク」を包囲し、これを落とす。「統率>武力」
・李恢を派遣し馬超を帰順させた。「知力」
・成都を包囲し、劉璋を降伏させた
・定軍山に陣を築き、黄忠に命令して夏侯淵を討たせた。「統率>武力」
・漢中に攻め寄せた曹操相手に要害に立てこもり、これを防いだ。「統率>武力」
・成都に役所を置き、魏延を抜擢し漢中太守とする。「政治」
・諸葛亮を丞相に、許靖を司徒とし百官を置き宗廟を建立した。「政治」
・馬良を派遣して五溪蛮を味方に付ける。「政治」
・陸遜に敗れ諸将を失う。「統率マイナス」
・孫権と和睦する。「政治」
探せば、他にも事績があるかも…
さすがは一代の英傑、波乱に富んだ人生。演義の劉備からは想像できないほど逞しい
若い頃は、用兵よりも武勇が先に立ち、年老いてからは優れた補佐を得たので
曹操とも渡り合える人物となった。
統率は補佐する人物に依存する部分が多い上、負けも多いが80は確実と思う
武力も80台は確実と思う
また、細かく知恵が働き、政治、知力共に、そこそこ期待できそう。オール80以上も有りと思う
>>647 質の発言も推測に満ちた発言と思われたがな
哀れ関羽、曹操は節穴だったのだ
>>651 不満があるなら具体的な事例を出して、みんなを納得させろよ。
>>650 晩年の功績は、良い補佐の臣に恵まれた面も大きいかと思います。
先主伝を読んでいると、どうも知力が高いようには思えません。
前半生の失敗は、知力の欠如によるところが大きいように思われます。
高唐での敗北については、何とも言いようがありません。
圧倒的な賊の大軍に押し潰されたのか、まともに戦って負けたのか、分からないからです。
ただ、明らかに名将を相手にした場合以外はだいたい勝っていて、
しかも自分でいつも軍を率いているので、蜀の建国期の将軍の中では、
屈指の統率力を誇っていたのでしょう。
武力と統率力を80台、知力50台、政治力70台が妥当ではないかと思います。
>>650 そうそう、劉備の事跡に、豫州刺史時代の副官だった別駕陳群(本当の字は違うんですが、どうしても出せませんでした)の、
「徐州を取ると、絶対袁術との戦争になるからヤバイよ」という進言をシカトし、
痛い目にあったあげくに、ドサクサの中で陳群を曹操に取られちゃったことも入れといてください。
(進言を取り入れなかったことを後悔して、陳群を茂才(国家公務員一種相当)に推薦してやる辺りは、さすがに大物ですが)
>>653 俺も、劉備は蜀において優れた将と思います
後
>武力と統率力を80台、知力50台、政治力70台が妥当ではないかと思います
さすがに知力50なんて事はないかと
ゲームでの能力ですので、他の人物との兼ね合いもありますし
知力の事績がない人物の大勢いますから…
>>654 補完ありがとう御座います。陳羣伝の記事ですね
131さん、誠に申し訳ありませんが、まとめサイトに乗せるときに
劉備の事績に
・陳羣の諫めを聴かず袁術と戦い、呂布に下ヒを奪われた。「政治マイナス」
・陳羣を茂才に推挙。「政治」
を加えてください。よろしくお願いします
>>655 >さすがに知力50なんて事はないかと
>ゲームでの能力ですので、他の人物との兼ね合いもありますし
兼ね合いを考えた上での50台です。
軍の指揮や政治に関してはともかく、単独で知力を発揮したエピソードはあまりぱっとしないのです。
実は三国志\のシステムは全く知らないのですが、良い謀臣を付けないと、
自滅はしないまでも、ニッチもサッチもいかなくなるタイプと判定しました。
そうそう、深く信任していた田豫(後の魏の衛尉)と、
豫州刺史になって公孫瓚から陶謙から鞍替えした時に離れ離れになったエピソードはどう評価します?
別れる際に劉備が「君と一緒に大仕事が出来なかったのが残念だ」と泣いた事、
田豫が帰郷後も公孫瓚の部将として働いていたことを考えると、
どうも複雑なものを感じるのですが。
田豫タンは「ママンを置いて行けないよ」って言って別れたんだから、地元の方で働く分には問題ないんじゃない?
そのあと?ママ死んだんじゃないの?
90台が15人なら80台・70台は何人なんだろ?
登場人物が約650人で
能力値10毎に5ずつ定員を増やすと
11〜100までの累計が375人
能力値0〜10までが約275人も…
うお、弱肉強食コエー!
って定員もう決まってるの?
ところで、荊州の民が劉備にゾロゾロ付き従ったのは、政治、統率?
やっぱ魅力がないのは痛いなー
>>658 90以上を決めてるだけ、とにかく指標が必要だから。
>>656 劉備の知力が50台なら能力の低迷化を及ぼすと思うんですが。
80は無理としても70台は必要だと思います。
結構気を見るに敏なんだし、50台ならば、曹操から逃れられず何処かで殺されてると思うんですが。
>>661 まぁそれも指標として50、或いは70だという人の意見があると言うことだろ
確かに機を見るに敏+人物鑑定眼というのは知力評価を受けてもいい要素だと思う
>>656 知力が50台なら、90台相手からの謀略は、殆ど喰らってしまうと思われます
また50台では、相手に謀略を仕掛けても殆ど成功しないと思われます
50台の知力では、乱世を君主として渡ってはいけない…
ゲームにおいて50台とは、そんなレベルです
そもそも、ゲームには劉備のような重要人物から
卞喜…誰それ…って感じの人物まで登場しますので…
劉備を50台にすれば大抵というか殆どの人物が50以下になってしまうのです
>>658 前スレで区分の提案があったので参考までに。
ちょっと中盤に比重が寄っていると思うので、80代は30人で行こうと思うのだがいかがなものか。
I15 H25
G50 F80
E110 D130
C100 B70
A50 @20
80台の議論はやめとけ、今決めようとすると主旨が来るって破綻するから。
後で決めても遅くは無いよ。
>>659 安定した劉表の治世で暮らしてきた民衆にとって、
戦闘集団の曹操軍が攻めてくるというのは、マジで怖かったからじゃないですか?
その辺の不安を、劉備や反劉j派が煽りまくったからでは無いかと思います。
>661
>劉備の知力が50台なら能力の低迷化を及ぼすと思うんですが。
いや、申し訳ないです。
どうも、三国志オンリーで考えるのは久しぶりなもので。
インフレよりは、低迷化の方がいいとは思ってるんですが、
行き過ぎるのは良くないですね。
>結構気を見るに敏なんだし、50台ならば、曹操から逃れられず何処かで殺されてると思うんですが。
その辺りも、やはり知力に入るのでしょうか?
世界史板での基準なら、迷うことなく知力に入れるのですが。
>>663 >知力が50台なら、90台相手からの謀略は、殆ど喰らってしまうと思われます
>また50台では、相手に謀略を仕掛けても殆ど成功しないと思われます
実際、自分で謀略を仕掛けてもあまり成功はしていませんからねえ…。
ただ、夏侯惇を伏兵で破ったりしてますから、
50台は確かに低すぎるかもしれませんね。
>50台の知力では、乱世を君主として渡ってはいけない…
>ゲームにおいて50台とは、そんなレベルです
三国志\のシステムが良く分からないのですが、
謀臣がいても、君主の知力の低さを補うことは難しいのですか?
>劉備を50台にすれば大抵というか殆どの人物が50以下になってしまうのです
謀臣・智将として活躍した人物、あるいは智謀にまつわるエピソードを持つ人物、
特筆すべきエピソードも実績も無くても、激しい謀略戦を渡り歩いてきたと推測される人物以外は、
みんなそうしてしまっても一向に構わないような気もしますが。
あのさ、9を買っていないで発言するのはどうかと思うよ。
漏れにとって、内容への疑問よりも、そちらの疑問の方が強いな。
せめて、yo7のトコで公開されてるデータくらいは見た方がいい。
ゲームにおける知力50って金旋とか趙範と同レベルだしな・・・
>>664 658です
見てなかった。ありがとやんす
0〜11は20人か
底辺の武将決めるのも面白そうなので白熱の予感!?
まとめページを少し更新。
前任の名無しはこんな面倒な作業をよくあれだけの人数分こなしたもんだ。
>>664 96〜100が各ひとり、91〜95が各ふたりなわけだから、
86〜90が各三人ずつ、81〜85が各四人ずつの35人が妥当だと思われ。
とりあえずそんな先の話は置いといて、
統率
曹仁、曹操、司馬懿、孫堅、陸遜、呂蒙、満寵、ケ艾
武力
曹仁、張遼、張コウ、夏侯淵、典韋、許チョ、甘寧
この辺は確定でいいのか?
また、孫策が上記のうちに入ってないですが、
彼はまず確定とするなら武力より統率だと思うのです。
9で考えれば、平定戦では常に孫策は指揮官だったわけですし。
太史慈との一騎討ちもあるので、
別に武力でも孫策が91以上に選出されるのに異存はないですが。
>>667 禿同。
曹仁の武力には疑問符がつくな。
統率だけでいいと思うが。
90台だとしても前半だな。
>>670 まとめのサイトご苦労様です
>この辺は確定でいいのか
さすがに、その人物達は確定でよいと思います
孫策の争点は、どちらの91以上にするかでしょうね
俺としては両方も有りかな…と思っています
>>671 さすがに曹仁は武力91以上でしょう
江陵で「真天人」と感嘆された働きは凄い物ですよ
じゃあ朱桓は90以上だね。
正史に500で数万を破ったとあるんだから。
5000での訂正。
関羽戦で篭城したのも、李通に救われたのも、
負けてはいないが積極的に攻めて勝ってはない事も考慮しようよ。
>江陵で「真天人」と感嘆された働きは凄い物ですよ
こんなんで90台なら関羽・馬超は余裕で90台。
>>674 >関羽戦で篭城したのも、李通に救われたのも、
>負けてはいないが積極的に攻めて勝ってはない事も考慮しようよ。
いや、他にも武力や統率を示す事績があるんだよ
>>603のまとめのサイトで是非確認下さい
>こんなんで90台なら関羽・馬超は余裕で90台
これは、どう言うことかよく分かりません
曹仁が真天人と呼ばれたのは
・江陵で包囲された牛金を数十騎で救出、とって返し残された兵達も救い出した。
と言う働きがあり、その働きに陳矯らが驚いて「将軍は真天人だ」と感嘆したんですよ
関羽や馬超にこの様な武勲があったのでしょうか
もし、あったのなら当然武力91以上の候補として考慮されるべきでしょう
確かに曹仁が大将となって軍を率いることが多いために統率だけが目立ちますが、
武力もそれなりの事績は残ってるかと。
とりあえず確定を出すのはまだ早そうですね。
劉備は統率91以上の候補から落選でもいいと思います。
状況はどうあれ、敗戦をあれだけ重ねて91以上はないかと。
思うんだが、李通は汝南の太守に任じられていて、
袁家討伐に参戦していないことを考慮したほうがいいと思うのだが
それと、42歳で死んでいることも忘れるべきではないと思う。
孫堅は統率よりは武力の方に入るような気がする(黄巾・董卓戦)
部隊長としてはともかく、大将としては大した功績が無いんでない?
678補足
>大将としては大した功績が無いんでない?
大将として戦った相手にここで挙げられるほどの名将が
いなかったのではないか? という意味
>>675 そんなものはとっくに見てる。
事績もケ艾・典韋・臧覇・李通を挙げている。
関羽伝には
・関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に笞打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、
その首を斬って引き返したが、袁紹軍の諸将のうちでも敵対できる者はなかった。
・関羽の威勢は華夏(中原)を震わせた。曹公は許都を移転させて、その鋭鋒を避けようと動議したが、
司馬宣王(司馬懿)・ショウ済が「関羽が(荊州一円知行の)志を得ることを、
孫権はきっと願いません。人をやって彼の背後を追跡するよう孫権に勧め、
江南を分割して孫権に封ずることをお許し下さい。さすれば樊の包囲は自ずと解けますぞ。」
と主張した
とある。これは比較しても遜色ないどころか武勇伝としては上回る。
馬超伝には劉備に降伏した、これに恐れを抱いた劉樟は劉備に降伏した。
とありその勇名は蜀にまで轟いていた。
>>680 >関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に笞打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、
> その首を斬って引き返したが、袁紹軍の諸将のうちでも敵対できる者はなかった
これは確かに、考慮に値すると思います
>関羽の威勢は華夏(中原)を震わせた。曹公は許都を移転させて、その鋭鋒を避けようと動議したが、
>司馬宣王(司馬懿)・ショウ済が「関羽が(荊州一円知行の)志を得ることを、
>孫権はきっと願いません。人をやって彼の背後を追跡するよう孫権に勧め、
>江南を分割して孫権に封ずることをお許し下さい。さすれば樊の包囲は自ずと解けますぞ。」
>と主張した
こちらは微妙なのではないでしょうか。後に徐晃に敗れているわけですから
>馬超伝には劉備に降伏した、これに恐れを抱いた劉樟は劉備に降伏した。
>とありその勇名は蜀にまで轟いていた
この馬超の事績は、評価が難しそうです…如何様に評価すべきでしょうか?
関羽はいいとしても馬超はその武力を示すエピソードが
「勇名は蜀にまで轟いていた」だけでは・・・
具体的な活躍をキボンヌ
馬超はどちらかというと武力よりだとは思うし、かなり高いとも思うが、
単に個人武勇だけを語るなら閻行に完敗してるし、許チョ・典韋には及ばないと思う
関羽、馬超は武力91以上だと思うけど
やたら強引に決めようとするヤシにはかなり萎える
曹仁は張遼ですら武勇では一歩譲ると言われるほどなのに
朱桓を推すために関羽・馬超を出したんだよ。
朱桓は5000で曹仁の数万を破った事実があるわけ。
あの時期の過酷な対魏最前線で活躍した呉の将を評価しないと、
三国の戦況と戦力バランスが取れないだろ。
>>685 ちくまの朱桓伝には
曹仁は曹泰の後衛となり、朱桓は曹泰と対陣したとあり
そこで戦死・溺死した者は1000余人とある
つまり、息子が敗れただけであって、
曹仁本人の率いた大軍が背走したわけじゃないってところだね。
とはいえ、漏れも曹仁の武力にはちと疑問が残るけど。
武力の候補止まりでいいんでないかい?
>>686 >>687 別働隊の諸葛虔や王双らも敗走させてる。
王双は生け捕り。
他にも常彫の首を切ってる。
事実上完全勝利で撤退させたと読めるが。
>曹仁は曹泰の後衛となり、朱桓は曹泰と対陣したとあり
>そこで戦死・溺死した者は1000余人とある
これは曹泰と対陣した時の被害状況ね。
よくもまあ、あれだけ負け戦を続けられた、劉備の徴兵能力を高く評価したいと思った。
>>688 将軍の常彫が諸葛虔や王双を率いて、だろう。
諸葛虔や王双は、常彫の部下であって将軍ではないと思われ。
あと、後衛の曹仁が一万であることを踏まえると、常彫が率いた軍は五千ほどでは?
それでも、朱桓が常彫を破った軍は数千に過ぎなかったはずだけどねw
それに、焼き討ちをかけて退陣した、ということは、
曹仁の援軍が届かぬうちに退陣しようとした、ということではないかな。
曹泰や常彫の評価を下げるなら分かるけど、
曹仁の評価には、あまり影響しないんじゃないかな。
大軍・諸軍を率いるのが苦手だった可能性は残るけどね。
じゃあ統率を下げる?
中洲でも蒋済の諌めを聞かず敗れてるし。
それなら知力じゃないですか?
9の統率は
>>1にもある通り、軍隊の強さ…etcだから。
計略に対する耐性が低いとも考えられるけど、
漏れは、この場合は計略ではないと思われ。
のぶやぼだと統率に値するかな、とも思いますよ。
う〜ん、確かに此処は大いに考えるべき点かもしれませんね。
纏めて一個の「曹仁軍」とも言えるし、
各個別と考えて、「曹泰軍、常彫軍などを含む曹仁の大軍」とも考えられるし。
前者で考えると、曹仁の評価を下げる必然性が出てきますものね。
みなさんはどう考えるかな。
評価を下げるにしても、それによって統率90台から落ちるか
どうかが今回の問題なわけで。
個人的にはそれでも曹仁は統率90台はあるとおもうが、どうだろう?
念のために言っておくと、90台かどうかは、トップ15に入るか入らないか、だから。
個人的な上げ下げのみの考慮は、不要とは言わないが、あまりしてもしょうがない。
評価を下げた結果、「それでもトップ10には入る(から確定)と思う」とか、
「誰それより評価が下になる(からまだ確定とは言えない)と思う」という議論をしないと、
また話がすれ違うよ。多分、そう言いたかったんだろうとは思うけど。
「90台に残してもいい」という候補を20人くらい残して、
そこから議論すればいいとは思う。まずは絞込みを
これだけ異論が出るんだから、曹仁の武力確定は
早すぎではあるのだろうね。個人的には
>>670の確定リストの
統率に孫策を足して、武力から曹仁を省くのでいいと思うが。
>>693 総司令官だったんだから、前者ではあるんだろう。
曹泰や常彫の軍勢をどう運用するかを考え、実践したのは曹仁なんだろうし。
紛れもない減点材料ではあるんだろうけど、90以下になるかはまた別問題。
>>682 事績UPされてるじゃん。それを読むべし。馬超は結構凄いぞ。
あの大勢力の曹操を相手に関中の軍閥を曲がりなりにも糾合して
数年に渡って戦い続けたんだから。一度は長安も落としてるしね。
678で孫堅の統率90台に疑問を持った者だけど
他に同意意見が出てないようなんで聞いてみたい
統率の現候補の中で順位付けするとしたらどうなるの?
俺はこんな感じなんだが
低い←→高い
孫堅<満寵<ケ艾=呂蒙<(孫策)=陸遜<曹仁=司馬懿<曹操
>>699 待って下さい
気持ちは分かりますが、細かい順位付けをすると
初代スレのように纏まらなくなるかも知れないので、この場ではご勘弁を
馬超は
>>288,
>>290でマヌケすぎる
劉璋伝では降伏も馬超が来たからあわてて降伏したようには見えない
>>700 すんません。先走り過ぎました
孫堅は90台ギリギリで、他の人との兼ね合いで80台に転落する可能性があるのでは?
ということが言いたかっただけです
>>701 劉璋のマイナス印象になるから伝には書かなかっただけでは?
成都包囲が1年経ち、恐らく内部では降伏論も出ているかもしれない状態(ここ憶測)で
北を蛮勇で荒らしまわった馬超が包囲軍に加わるということで降伏した。とも取れる
馬超伝のある蜀書6巻の掲載順は関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲で、
少なくとも陳寿は、夏侯淵を斬った黄忠より蛮勇を奮った馬超の方を評価しているのでは?
武力のまとめ
よく名前があがる人物として
呂布、許チョ、夏侯淵、張遼、典韋、曹仁、甘寧、孫策
関羽、孫堅、徐晃、張コウ、馬超、麹義、朱桓
他候補は
楽進、于禁、張飛、趙雲、李通、董卓、高順、黄忠、閻行
魏延、太史慈、周泰、潘璋、丁奉、曹彰、文聘、張嶷、徐盛
リョウ統、曹操、満寵、呂岱、牽招、田豫、周瑜、程普、劉備
呂蒙、賀斉、徐栄、姜維など
他に候補者はいない?
>>696の言うようにそろそろ20人くらいに絞ってみるのがいいかも
>>703 二十人に絞るより、確定とする人物を一人二人決めていく方がよさげ
>>670の人物に、加えていく方が上手にまとまると思う
>>704 うん、そう思ってたんだけどさ、
許チョ、夏侯淵、張遼、典韋、曹仁、甘寧以降の確定者がなかなか決まらないし、
無理に確定者を決めようとすると荒れ気味になるから先に候補を絞ったほうが
いいと思っただけ。
670に付け加えるなら徐晃を希望。曹仁に関しては疑問の声が上がってるが
漏れはそのままでいいと思う。
武力だけど
許チョ・典韋なんかは個人武勇で挙げられ、夏侯淵、張遼なんかは兵法の強さで挙げられている
この辺の選出ガイドラインをきちんと決定してから絞っていった法がよいと思われ
「率いた軍の強さ」
というガイドラインがはっきりしている統率の方から
決めていけば?
>>706に三聖。
そして、孫堅統率91+には漏れも疑問。
孫堅はいくらなんでも部隊長クラスの活躍で
董卓軍を打ち破って行ったわけでもないだろ
小軍閥なのに最大勢力の2袁と劉表に並び評されていたのは
率いた軍隊の強さがどの群雄よりも抜きん出たからだろう
地盤の無くなった孫策に孫堅譜代の家臣が離れず多くついてきたのも
孫堅が築き上げた孫家の威名に拠るところも大きい
ゲームの特性上、個人の武勇も兵法の強さも同じ土俵に上げなければいけないわけでして。
だが典韋と甘寧のどちらが上かなどは比べようもない。
だからこそ15人枠で決めていくことが有効になるし、
相対的な評価ではなく絶対的な評価による確定もいくらか必要になる。
その際に、個人の武勇のみで確定でもいいと考えられたのが許チョ・典韋の二名。
そういうわけでやはり何名か上位は確定させて、
その後に少しランクを下げてまた何名か確定させる、という方法でいきたいのですが。
実際、20人程度に絞るにしても、下から削っていくと上から削っていくより荒れやすいと思いますし、
誰もが納得する人間が最上位で何名か決定することでそこから比較しながら考察できるため、
そこから先もいくらかやりやすくなると思いまつ。
>>709 同意です
その方が、確実の枠が減っていきますからね
すで、多数の事績も出そろっているわけですから、確定させて数人は良いと思います
また武力の話ですが
仮に、個人的武勇>兵法になれば
閻行>馬超になる事もありえます。俺としては、さすがにそれはないんじゃないかと、思うわけです
ですから、131さんの
>ゲームの特性上、個人の武勇も兵法の強さも同じ土俵に上げなければいけない
に同意します
要するに、突撃などの"戦法"と"腕力"で別々にランキング取ればいいだけだろう。
いきなり"武力"を決めようとするから、無理が祟るんだよ。
面倒だが、納得はしやすいはず。
なんとか劉備までの事績うpし終えますた。
>>711 別途にランキングを作ったとしても、
最終的にはそれらをとうごうしなければならないのであれば同じことでは?
それに、武勇もしくは兵法「のみ」で評価する人物が全てではないので、
完全に分けてランク化すると、どちらでも事績があり総合的に武力91以上と思われる人物が、
どちらにもランクインせず90以下になってしまうことも考えられます。
>>710 実際の膂力や純粋な個人レベルでの「強さ」なんてのは
年齢によって大きく変わるはずなわけで、
数少ない事績から読み取ろうという方がナンセンスでは?
>>708 >孫堅はいくらなんでも部隊長クラスの活躍で
>董卓軍を打ち破って行ったわけでもないだろ
この場合は確かに単独軍なので統率評価要素
実際打ち破った指令官で名前がある出てるのは(部将の呂布が非協力的な)胡軫
都尉の華雄を討ち取ったときはその前に(同じ軍かどうかは不明)奇襲受けて逃げてるので
戦績的にはイーブンか(2度目は自軍の兵士の方が減ってるはずだから)プラスか?
>小軍閥なのに最大勢力の2袁と劉表に並び評されていたのは
>率いた軍隊の強さがどの群雄よりも抜きん出たからだろう
劉表攻めたときは袁術閥の一角として派遣されてのはずだが、
2袁や劉表あたりと並び評されたというソースは何?
>>714 読んでますが?w
曖昧な膂力メインではなくて、戦法等を重視しようと言ってるだけだろ?
>>712 あとで統合するから納得できるんじゃないか。
例えば、漏れが「孫堅は有り得ないからカット」と言ったら、どうするよ?
納得できんだろう? 理由が書かれていないから問題外だよな。
それと同じことだよ。
何人もが、脳内で「武勇もしくは兵法」を比較し、考えた結果だけアウトプットしたら、
誰が納得できるよ? ただの多数決に成り下がるぞ。
あと、「武勇もしくは兵法」以外に参考にする事柄なんてあるのか?
「どちらかに事績があり総合的に武力91以上と思われる」なんて有り得ないだろ。
全く別のジャンルで比較せねばならないんだから。
混合して考慮する必要など無し。
>>708 威名を挙げたというだけでは、90代確定というわけにはいかないだろう。
90代というのは、全人物の中でもトップクラスなのだから。
>>713 一騎打ちがある以上無視というわけにはいかない。
典韋や許チョが弱かったら萎えるだろうw
>>715 孫堅伝注によると、董卓が警戒していたのが二袁・劉表・孫堅。
>>717 意味が違わないか?
例えば武勇20位・兵法20位の人物が上位15人に入らないとも限らんだろう。
>>718 レスありがと。ちくま調べたところ、
2袁は脅威の対象として妥当、孫堅自身も涼州征伐の折に
董卓に噛み付いたことを思えば考慮に入れてもいいかなと思う(けど2袁と同列はどうかと…)が、
この頃の劉表って荊州に派遣されたばかりで右往左往してたんじゃなかったっけ?
出典が裴松之の胡散臭いとしている山陽公載記というのがどうも…
>>717 悪いんだが、事跡うpも纏めもしない名無しが今更議論変更提案しても無意味。
現実の会議でいきなり議場に乗り込んで会議を中断させる右翼や左翼電波と同じ。
やるなら議論変更に必要なデータを集めてから提案しろ。
>>716 確かに膂力は曖昧になりがちですが、
それでも典韋のように確固たる功績が残っている人間もいるわけでして。
膂力と兵法のどちらを重視するかというのではなく、
難しいですが両方に折り合いをつけながら決めていくべきかと。
>>717 ちと書き方がまずかったか。少し誤解があるようで。
例えばの話、孫策は総大将としての事績が中心だから兵法としては武力90以下だということになったとします。
また、武勇の点でも太史慈との一騎討ちがありますが結果として引き分けですし、その他に個人の武勇を示す事績がないのでこれも90以下だとします。
ですが、これらを合わせて考えれば武力91以上になるのではないか? となった場合でも、
個別にランキング付けしてしまえば孫策の入る余地がなくなるわけです。
「総合的に武力91以上」というのはこういうことが言いたかったわけです。
また、個別にランキングをつけたとしても、
統合する際に両グループのすり合わせ作業が必要になります。
そのすり合わせ作業は今やっていることと何ら違いません。
例えば武勇にて15人、兵法にて15人、それぞれ選出されたとします。
これを統合し半数を削る際、武勇で選ばれた董卓と兵法で選ばれた楽進、
どちらを落とすべきかといったことを議論する必要が出てきます。
ならば、現段階からその作業を並行しつつ15人選出したとしても同じことではありませんか?
>>721 それで考えると、典韋や許チョはかなり低くなるぞ?
それでもいいなら、俺は止めんが。
>>718 そういう訳だから、貴方の言ってることには矛盾があるぞ。
典韋や許チョと、武勇20位・兵法20位の人物が同時に91以上になることは有り得ないだろう。
>>720 徐栄他を挙げたけど?
>>722 典韋には武勇の面でみて91以上に値するだけの事績は残っていると思われます。
これに異論があるならば、また議論を展開すればいい話です。
また、別に各人物について武勇と兵法の平均を取ろうというわけではありません。
ですから、兵法に関して記述のない典韋がそれを理由にマイナス評価を受けるものではありませんし、
武勇20位・兵法20位の人物が武勇15位・兵法30位の人物より上位と考えられることもありえます。
あと、
>>721の後半にて私が書いたことに対しては触れられていませんが、
これは私の解釈で間違いないということでしょうか?
だとすれば、貴方の仰る方法をとったとしても、
結果として典韋や許チョはかなり低くなることになりやしませんかね?
>典韋には武勇の面でみて91以上に値するだけの事績は残っていると思われます
「武勇の面でみて」ってのは何が基準?
また、その「武勇」を「戦法」とどう噛み合わせるのですか?
これらの基準を説明せずして、規定せずして、
両方のランキングを統合することなど出来ないでしょうが。
それとも、個々人の基準をバラバラに決めるの?
俺が「"戦法"と"腕力"で別々にランキング」と言った真意は、
これまでの話で、統一された比較基準が全く無いのはどうよ?ってこと。
>あと、
>>721の後半にて私が書いたことに対しては触れられていませんが
「それでもいいなら、俺は止めんが」と書いたはずだけど。
ついでに言っておくと、
>>721の最後の「15人選出」なんて俺は一言も言ってないぞ。
>>724 決めてから考えようとは思わないのか?
何故一旦走り出したものを今更変えるのか?
このスレに限らず実質的に議論に入る前に選考方法だけで空中分解した例を知らんのか?
異論があるなら一旦これを確定させてからやり直せばいいだけのこと。
>>724 気持ちは分かる。しかしまあ、いまさらやり直すのも何だしな。
おっと。似たようなこと書いてる人と重なってしまった。スマソ
議論の止まぬ武力よりも、まだサクッと決まりそうな統率に戻りませんか?
>>725 既に、これ以前から空中分解しかけてるじゃないか。w
関羽、馬超、劉備、曹仁、孫堅… 決めようとする度に、次々と反論が出ている。
「今更のやり直し」を何度繰り返すんだよ?
>>724 >「15人選出」なんて俺は一言も言ってない
あー、やっぱりそこに食い違いがありましたか。
この点は私がスレに来る遥か前に決まっていたので、
当然の前提として考えていました。
後から来て文句をつけるものでもないでしょう。
>「武勇の面でみて」ってのは何が基準
武勇を示す事績の多さが他の人物より多い点や、
親衛隊長という職の性質から武勇に優れていたことが推測される点。
また、各事績も一人の人間の武勇を示すものとしては優れていると考えたためです。
>また、その「武勇」を「戦法」とどう噛み合わせるのですか
完全に噛み合うことはありません。
それは9のシステムによる限界です。
ですので、折り合いが必要とも書きました。
>「それでもいいなら、俺は止めんが」と書いたはずだけど
逆に、貴方の方法をとれば上記の二名は91以上として考えうる、と主張しているように私には見えたためです。
ですが、最終的に統合するなら、例としてあげた孫策のような武将が選外になる可能性という点を除けば
私の提唱している方法も貴方の仰った方法も結果は同じであると考えられたため、
私の方法をとれば二名の武力が低くなるという貴方の意見に疑問を感じたためです。
以上、「折り合い」というものの明確な基準がない点などが指摘されるのでしょうが、
前提として15人枠というものを外す考えには賛同できませんし、
この点で食い違いがある以上どこまで言っても詮無きことと思います。
貴方は武勇・兵法それぞれで何名か選出し、それらを比較することなく全て91以上とした上で、
結果として91以上が15人でなくても構わないという立場からの意見を仰っているのでしょう?
ならば、どこかで武勇と兵法の折り合いをつけなければならないと考えている私とは水掛け論になるだけかと思います。
>俺が「"戦法"と"腕力"で別々にランキング」と言った真意は、
>これまでの話で、統一された比較基準が全く無いのはどうよ?
ですが、実際この比較基準は定めないと議論が最終的に纏まらないと思われます。
私はこの点に対する案を持たないのですが、誰か良い案があればキボン
>>731 諸葛亮ネタと同様後回しでOK
議論したって水掛け論になるんだから確定させられるものからやっとけ。
>>730 >結果として91以上が15人でなくても構わないという立場からの意見を仰っているのでしょう?
これ、俺の言葉のどこを類推したのか、よく判らんのだけど。
おそらく、貴方は能力値に囚われ過ぎているんだよ。
91以上=上位15人と決めた以上、崩す必要など無いって。
最初に俺が提起した
>>711の方法で話すと、
例えば、「武勇」と「戦法」の重要度を2対3と決めると仮定する。
そして、「武勇」6人、「戦法」9人を上位15人として選抜すればいいだけ。
こうした重要度の決定を比較基準と呼ぶんじゃないの?
「武勇」と「戦法」を混合して順位を採ると、難しいことになる。
例えば、同じように重要度を決めたとしよう。
その時に(武勇85×2+戦法70×3)÷5などという数式が必要になってしまうんだよ。
順位では到底決められない。これじゃ、面倒にも程があるよね。
だから、比較基準が破綻するんじゃないか?と言ってるわけ。
重要度を決めようとすればまたどちらの比重をで揉めるじゃん。
いいかげんにして武力は無視してくれ、諸葛亮の悪夢を二度と持ち込むな。
まあ、「まず統率から」というのは一案ではあるな。
>>733 >俺の言葉のどこを類推したのか、よく判らんのだけど
『(91以上の候補が)「15人選出」なんて俺は一言も言ってない』と勘違いしました。
申し訳ありません。
>例えば、「武勇」と「戦法」の重要度を2対3と決めると仮定する。
>そして、「武勇」6人、「戦法」9人を上位15人として選抜すればいいだけ。
確かにわかりやすく、揉めることも少なそうですが、
そうすると比重の点でやはりこれから揉めると思われますし、
そのどちらでも選出される、またはそれに近い評価を受ける人物の扱いで微妙な点も出てきます。
武力と統率は同時に、という意向もありましたが、
やはりここは統率から決めていきましょう。
とりあえず、現時点で異論が出ていない人物
曹操、陸遜、呂蒙、司馬懿
ここまでは確定しても良いでしょうか?
また、一度だけ疑問符が付きましたが、その後特に反論もないケ艾、満寵もここで確定させたいと思います。
上記六名について異論があればお願いします。
>>736 僕は異論ないと思いますね。 彼らはいなければ可笑しいですしw
あと統率と言ったら、孫策と周瑜を推したいところですね。
>>736 その六人に関しては問題ないでしょう。
統率確定者
曹操、司馬懿、陸遜、呂蒙、満寵、ケ艾
他候補
曹仁、孫堅、孫策、于禁、郭淮、皇甫嵩、周瑜、諸葛亮、徐晃、張コウ、杜預、羊コ、陸抗、公孫サン
夏侯淵、曹真、臧霸、張燕、呂岱、朱桓、魏延、関羽、田豫、牽招、司馬師、司馬昭、高順
陳登、諸葛恪、諸葛誕、朱然、黄忠、劉巴、李厳、韓遂、劉備、夏侯惇、文聘
この辺から残り九人を決めましょう。
漏れは曹仁、陸抗を希望。
個人的意見です
周瑜、曹仁、孫堅、孫策、張コウ、除晃、諸葛亮は有力だと思う
この中で2人推すなら周瑜、曹仁です
>>738 >漏れは曹仁、陸抗を希望。
同意。+皇甫嵩・張遼で。
同じ事績でも、「統率」として評価するか、「武力」として評価するかにも明確な基準がない。
武力の事績でも、「武勇」の評価と「戦法」の評価との重要度についての基準がない。
となると、単に事績の数が多いものが「統率」「武力」の双方を占めることになりそうです。
それはそれで、このスレの趣旨でもあるし、充分妥当ではあるでしょう。
しかし、それではいささか面白味に欠けるので、いっそのこと、
「統率」15名
「武力」のうち「戦法」10名
「武力」のうち「武勇」5名
については、別々に検討し、同一武将が重ねてランクインできないとしてみてはどうでしょうか。
中には「統率」「武力」両方当然91以上でないとおかしいという武将もいるかもしれませんが、
いたとしても極少数でしょう。
それに、80台・90台というとインパクトがありすぎますが、このスレでは91以上というのは、
単なる「上位15名」に過ぎず、「16位」と評価されても「15位」と大きな差があるわけでは
ありませんし、また、「90」をつけるという個人的救済措置も残されています。
「一騎打ち」もゲームの華である以上、それに特化した武将にも上位を占めさせる必要が
あると考えれば、やむを得ない措置だと思われますが、いかがでしょうか?
俺も概ね胴衣。
孫堅には徐栄に敗北した件で疑問が残るが。
この板の中国の歴史人物を登場させようスレと、
世界史板の歴史上の人物をコーエー風数値化するスレでは、
サクサク能力値決まってるのに、なんでここの奴らは一人分も決められねえんだよ。
能力を上位から決めてくってのが、そもそも間違いじゃねえの?
>>743 順位から数値を決める、という妥当な手段を採っているから。
他のスレは基準無くして数値を決めているからスパッと決まるが、
納得できないヤツも多いだろ。ここは一応、民主主義だから。
ま、要するに性質の差だよ。
孫策…2代目は出来が悪いのが多いが、孫氏に限っては2番目が最高の英傑だったと思う。短期間で兵1千(演義では3千)が何十倍にも膨れ上がる。
徐晃…目立った負け戦がない。関羽との戦いでは関羽伝によると相愛の仲だったとある。だから勝てたと思う。
常に冷静で私情で動かず、曹操曰く、「周亜夫の風格だ」。長い期間活躍した。
孫堅…董卓を震え上がらせる。あの頃の群雄では間違いなく一番輝いてた。当然曹操より強かった。軍隊の強さ、徴兵力。
>>741 反対
>>743 ハゲドウ
よし、曹操と孫堅を破ったから、徐栄はケテーイだな。
>>741 一応、統率と武力の差には明確な基準が存在します
再三、書いてきたのですが、もう一度説明します
三國志9における部隊の攻撃力は、「大将の統率」に依存します
また、武将の武力は、「戦法の威力と発動率」です
そのため、誰かの指揮下での武勲は基本的に武力となります
また戦法に属する場合も武力となります
統率は、総指揮もしくは独立した部隊を率いている場合が該当すると見て良いと思います
>>741 このスレの主旨が「正史準拠で能力値を付ける」ことにある以上、
個人武勇と戦法の巧みさを同列の判定材料とするべきではないだろう。
だから「武勇」枠と「戦法」枠を分ける必要は無い/
「正史準拠の能力値」を追究するなら、「同一武将が重ねてランクイン
できない」なんてルールも必要無い。
まあ、多少は議論が円滑に進むようになるかもしれんが。
>>748 >>741の言いたいのは、
奇襲を成功した場合にどちらをどれだけカウントするのかが曖昧、
ってところじゃないのか?
>>750 >奇襲を成功した場合にどちらをどれだけカウントするのかが曖昧
なるほど、この判断は
まず奇襲を成功させた武将の立場によると思われます
「総指揮もしくは独立した部隊を率いている」
この場合、ゲームでは「大将が戦法を発動させた」に該当するため、統率と武力双方で評価すればよいと思います
「誰かの指揮下」
この場合、ゲームでは「部将が兵法を発動させた」に該当するため武力を優先させるべきと思います
こんな所でしょうか
>>747-748 715・740だけど、後漢書まで調べて反董卓連合時の孫堅の事跡をまとめた
●徐栄+李蒙(副将か?)…遭遇戦で敗北。
・率いていた兵が予州の兵で、これは捕らえられた潁川太守李旻が率いていた可能性がある。
○?(場所は陽人)…勝利。
・都尉華雄を斬る。
○胡軫+呂布(胡軫に非協力的)…勝利。
・場所は陽人で戦っている。胡軫と呂布が仲違いし、兵士が混乱したところで追撃する。
どうも後漢書には2番目の華雄という名前が無いため、2番目と3番目(陽人の戦い)は同じ戦闘と考えたほうがよさそう。
兵力云々は見当たらなかったので省いた。
上記の孫堅・董卓軍の部将は両者とも独立部隊扱いなので統率、陽人の戦いに関しては武力換算してもいいと思う。
どちらにしても相対的に統率:徐栄>孫堅となるので孫堅が90台なら徐栄も入ることになる。
>>752 まあ、武力と統率どっちでもいいけど、それは武力でバランスを取ればいいと思う。
徐栄の武力を80台後半にすれば最小限の変更に収まる。
曹操だって負けてるんだし。
張コウや曹仁、関羽にしても言える事。
>>748 基準が明確だとおっしゃる割には、いつまで経っても「統率=武力」なんて評価がまかり通ってますよね。
また、「武勇」については触れられていませんが、単に「誰かの指揮下での武勲」という評価でしょうか。
それは、つまるところ、ゲームにおける一騎打ちの強さはあまり考慮しないということでよろしいでしょうか。
>>749 >個人武勇と戦法の巧みさを同列の判定材料とするべきではないだろう。
>だから「武勇」枠と「戦法」枠を分ける必要は無い
1行目と2行目は矛盾しませんか?
同列に判定できないなら、分けて評価せざるを得ないのでは?
それとも「個人武勇」<「戦法の巧みさ」という主張でしょうか?
それは、つまるところ、ゲームにおける一騎打ちの強さはあまり考慮しないということでよろしいでしょうか。
>「正史準拠の能力値」を追究するなら、「同一武将が重ねてランクイン
>できない」なんてルールも必要無い。
確かに、追究の結果が妥当であれば、おっしゃるとおりです。
今は同じ事績を「統率」にも「武力」にも都合良く解釈する途が残されている点で、若干、妥当性に疑問を感じます。
>>748、
>>749のお二方のように「ゲームにおける一騎打ちの強さはあまり考慮しない」というコンセンサスが
スレ住人に取れているなら、私の言は無視して頂いて結構ですが、現段階では、まだ充分ではないように見えます。
孫策って武力も統率も確実に91は超えると思うんだけど・・・
江東討伐ってそんなに評価されないことだろうか?
事跡をみたらわかるように短期間であれだけの城を落とした将って
曹操ぐらいしかいないし、
決して力攻めではなく華麗ともいうべき戦法をとっているのだけどなぁ。
例えば
・秣陵の南を攻め、サク融が兵を出すと、これを破り五百余の首級を挙げる。「統率=武力」
・次に薛礼を包囲し、薛礼は逃走した。「統率>武力」
・樊能らが牛渚を奪うと、兵を返してこれを破り男女一万余を生け捕った。「統率=武力」
・サク融の部将、于茲を陽動と伏兵で破り、首級一千余を得た。「統率=武力と知力」
の部分は
サク融の名が2度出ていることから、一旦、撃破したサク融を放置して
薛礼を急襲したということを示している。
一度敗れて警戒し守りを固めている敵には無理をして相手にすることなく
まだ前線に味方がいると油断している本営を叩いたわけで
この決断力に並ぶ者はそういないはず。
>>753 いや、曹操は確定だし、
関羽とかの揉めそうな話はここでは止めるとして孫堅のことを。
孫堅が従軍した大規模な戦といえば
黄巾の乱・涼州の乱・反董卓連合
が挙げられ、その中でも実際指揮官として統率選出対象となるのが反董卓連合しかないわけで、
そういう観点から「戦法」としての武力はともかく、統率は90台に満たないのでは?ということ。
他に90台候補がいなければ繰り上がりで90台になると思うが。
>>754 俺も(そもそも正史での能力を算出するという時点で)一騎討ちはどうでもいいという考えだが、
それでは武力を低く見積もられた許チョとか出ても雑魚武将と変わらず、それではあまりにもせんないとも思う。
>>756 だから曹操も負けてるんだから〜という疑問を解消する為には、
徐栄が曹操に勝てそうなのは武力でしかないわけ。
徐栄の武力を孫堅と同じくらいにすれば、孫堅も曹操も武力で負けたんだなと、
整合性が取れると言う事。
>>757 なるほど。
曹操との場合も孫堅と同じく遭遇戦とあるから、
もしかしたら徐栄は伏兵とか機動戦とかの達人だったのかも知れない。
そう考えると武力:曹操<徐栄かな?
事跡の多少や後の歴史への影響力にもよるが、1つの勝ち負けに拘るのはよくないと思う。
そうなると武力:夏侯淵<黄忠というトンデモないことになってしまう。
>>757 横槍スマソ。
ちょっと辻褄合わせが過ぎやしないか?
武力は「個人的武勇」と「戦法」、統率が「軍隊の強さ」。
奇襲で勝ったとされていない以上、
統率で徐栄が上回ったとするか、兵力に差があったとするべき。
兵力云々に触れないのであれば、徐栄はカウントされていいはず。
そういや、単独で公孫サン四万を1800で破った麹義はどこいった?
於夫羅を撃破したり、公孫サンを再び破ったりしてるんだけど。
>>224-225にもあるが。
>>758 敗走する曹操を深追いして仕留められなかったのは、徐栄のミスだと思う。
この戦いで曹操は孫堅とは比べ物にならないほど惨敗を記され、流れ矢を受け、馬を失い、曹洪の差し出した馬に
乗ってなんとか生き延びると言う負け方。
そういう点を考慮していくと、徐栄は一介の武将で、統率型ではなく、武力型だということになる。
>>759 奇襲もそうだが、率いた武将の採った戦法が特に勝敗を分けた場合は、
寧ろ武力よりの裁定になるのでは?無論、麹義も同じく。
>>760 当時、無官の曹操なんて目に入らなかったんだろう。
そうでなくても長安へ撤退中だったのだから長く戦場に留まる愚はおかさないで正解なんじゃない?
>>761 戦死させられなかったのをミスとは酷いよ、さすがに。
可能性は大いにあろうが、そんなモン狙ってできるものじゃない。
戦死させられなかったからといって、責任を負った大将を聞いたことある?
君たちせめて統率の候補をあげながら議論してくれよ…
話が進まないぢゃないか。
さらに孫堅を武力ではなく統率で推す理由として、陵墓の修復が挙げられる。
統率には改修、徴兵、建設とあるわけで、これで名を馳せたから、
孫策の江東での自立の際に、人心収攬に役だったと思う。
つまり徴兵能力としての評価。
>>761 ぉぃぉぃ、徐栄がいつ奇襲をしたことになったんだよw
後漢紀では「孫堅の衆・数万」となってるし、いきなり奇襲と呼ぶには苦しいのではない?
麹義も、戦法が正しかったこともあるだろうけど、
それ以前に抜群の統率力が無ければ、1800で四万を破るほどの戦功は挙げられないよ。
それに公孫サンを「数回」破ったのだから、「軍隊の強さ」も抜群だと思われ
>>764 スマンスマン。
麹義と徐栄だと、司馬懿やケ艾かな。
彼らに匹敵するだけの事績は充分持ち合わせて思うよ。
曹操は軍隊以外にも考慮する面が多いから、難しいかもしれんけど。
>>765 徴兵能力なら
ちょっと前に挙がった劉備の徴兵・人身収攬能力がズバ抜けていることになるが…
そういったええかっこしぃでの孫堅→袁術閥への政治効果を狙ったのだとすると
政治判定となるし、まとめページでも「政治」ってなってる。一応評価されてるって事だが。
>>766 752でも書いてるとおり、兵力云々の記述が見つけられなかったのでそこは許して。
「武力よりの裁定」と書いてるだけで統率を全然評価しないということではないので。
それにしても潁川太守軍の残党+自前の軍で数万か、凄いな。
>>768 劉備の場合は軍隊の強さに問題があるから、バランスを取らないと。
その点、孫堅は軍隊の強さにもそれほど疑問符はつかない。
>>769 バランスの話だけで言うなら、知力を下げておけば兵法・計略耐性が下がるから、
軍隊は強いがよく負けるという表現は可能。ってことでムリに統率を下げる必要はない。
>>768 「南陽に至る頃、衆は数万人に」という表現だから、確かに凄いと思う。
牽引力といい、徴発能力といい。ただ、9で徴兵能力って10くらいじゃ差がないしね。
>>770 負け続けても軍隊は強かったって変じゃない?
劉備の場合、統率そこそこ、知力そこそこが適当だと思うけどな。
>>768 あれ?
「潁川太守軍の残党+自前の軍で数万」じゃないですよ。
潁川太守の李旻は孫堅の部将で、孫堅が敗れた時に戦死したんです。
よくよく考えてみると、この後に孫堅は胡軫を破るわけでしょうが、
その時の胡軫の兵力は五千だったわけですよね。しかも胡軫は呂布を配下にしていた。
徐栄は五千を超えない兵力だった可能性の方が強いかも。
除栄って微妙だね
曹操や孫堅を破ったって言っても
徐栄軍はかなりの大軍みたいだし
最期も李カクと戦って戦死してるし
ここでは少し過大評価になってきてる
>徐栄軍はかなりの大軍
そうなんだよなぁ、破虜伝には「大軍」って書いてあるんだよな。
孫堅軍が「数万」(2〜3万)で、呂布付き胡軫軍が「五千」で、徐栄軍が孫堅から見て「大軍」か。
胡軫と徐栄は後に李カクに攻められただけに、共に外様であることは事実なんだけど、
胡軫軍<<徐栄軍でいいのかな。呂布が同行してる胡軫軍の方が寡勢ってのは変だよね。
あぁ、もうワケわかんねw
>>773 一応言っておくと、
最後、李カクらに負けたのは兵力差が余りにも歴然としていたため。
李カクらの軍勢は「十万余り」で、
それに対抗した徐栄らの軍は「数千」。(共に後漢書董卓伝)
これで勝つなんざ、まず不可能でしょうよw
>>771 > 負け続けても軍隊は強かったって変じゃない?
> 劉備の場合、統率そこそこ、知力そこそこが適当だと思うけどな。
ちょっと推測めいた話になるが、
なんでもそこそこなヤツが頭角を現すのは難しいのでは。
やっぱ何か衆に秀でたものがないと。
それが、劉備は「統率」だったと思う。
戦力差で圧されることが多く、計略にも弱いため負けが多いが、
勝ち馬に乗ったときは強い。
実際、少なくとも荊南・益州・漢中と攻略してるわけだし、
孫策の江南攻略に勝るとも劣らない活躍だと思うが。
>>775 さすがに新豊の戦い時に10万もいないだろう
西進した時は数千人なんだから
まあ除栄は統率91以内に入らんからどうでもいいけど
>>777 スマン。十万は長安に入ったときだった。
ただ、朱儁を破ったときも歩騎数万だったわけだから、
五万はゆうに越えてたんじゃないかな。
ところで、「除栄」ってのはいつ直すつもり?
おいお前等話がずれはじめてますよ。
『議論のやり方を議論』しかけてる、そろそろ機動修正しつつ統率だけ議論しとけ。
武力と統率の評価方法
>>195 武力の強さは、圧倒的な、怒濤のような強さで、破壊・侵略・勝利のイメージ。
しかし、守勢に入ると打たれ弱い面がある感じ。敗北・逃走・瓦解のイメージ。
対照的に、統率における強さは、静かだけど圧迫感があり、悪霊を退散させる法力のような強さ。
秩序・安寧・守護のイメージ。守勢に入っても打たれ強く、不敗・撤退・反攻のイメージ。
>>220 大将での戦功は統率、部将としての戦功は武力を優先的に評価しました
ただ大将でも、武勇が明らかな戦功は武力でも大きく評価しています
また輸送、建築は統率、個人的武勇は武力として評価してます
>>233 武力:攻勢時の強さ
統率:守勢時の強さ
みたいな感じでよいのでは?
>>244 武力:戦功(突撃・奇襲etcの表記がある場合プラスα)・個人的武勇
統率:戦功など、部隊の統率力
>>317 統率:太守の選定順、軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援、
武力:一騎打ち、戦法(奇襲、突撃など)の強さ、訓練、焼討、奪取
>>748 三國志9における部隊の攻撃力は、「大将の統率」に依存します
また、武将の武力は、「戦法の威力と発動率」です
そのため、誰かの指揮下での武勲は基本的に武力となります
また戦法に属する場合も武力となります
統率は、総指揮もしくは独立した部隊を率いている場合が該当すると見て良いと思います
>>768 >「潁川太守軍の残党+自前の軍で数万」じゃないですよ。
>潁川太守の李旻は孫堅の部将で、孫堅が敗れた時に戦死したんです。
戦死したけど、じゃあその指揮下の兵(予州の兵)はそのまま散っていったのかと、李旻の死後に袁術指揮下になったとかなら納得。
郡太守2人(孫堅・李旻)分の外征軍の兵力だと2〜3万くらいだと思うが、緒戦で敗れたのでかなりの人数が減っているはず。
そこを纏めて戦前と遜色ない兵力にしたというのなら孫堅はかなりのカリスマの持ち主ということになる。
書物の成立年が
三国志→後漢紀→後漢書
で、後漢書は後漢紀を下敷きにしている。
にも関わらず後漢書に兵力記述がないということは間違ってるととって不採用にしたのでは?
注・集解などで言及されてないので分からないが。
スレタイが「正史」なので正史以外の書物は参考程度に留めないと話が進まなくなるよ。
話変わるけど、華陽国志の記述を持ち込んじゃだめかな?
正史じゃなくて野史だけど、現存する数少ない三国時代に関する史書なんだし、
蜀書の記述不足を補えると思うんだけど・・・?
>>781 よく見たら、後漢紀以前に破虜伝にも載ってた。<衆数万
後漢紀は雑国史。そんじょそこらの書とは訳が違うよ。
紀伝体ではなかったから正史に認められなかっただけでしょう。
今回の件を別にして、それでも「正史」に拘るならそれはそれで構わんけど。
>>782 漏れは入れるべきだとすら思うよ。ただ、統率と武力に関しては期待できないかも。
>>781 私的には正史であれば注も後漢書もありとしたい。
もちろん偽だと思われる記述は除く。
その辺はアバウトで良いと思われ。
785 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/13 15:01
やはり、統率と武力は、知力や政治よりも定義が難しいな。
下がりすぎてるのであげ
>>785 つーか、明確な基準を求めるのが、そもそも無理と思われ
>>780にあるように
>三國志9における部隊の攻撃力は、「大将の統率」に依存します
また、武将の武力は、「戦法の威力と発動率」です
そのため、誰かの指揮下での武勲は基本的に武力となります
また戦法に属する場合も武力となります
統率は、総指揮もしくは独立した部隊を率いている場合が該当すると見て良いと思います
これを基準にするしかないと思われ
あくまで三国志\の能力値なんだから、ゲームに併せるしかないと思われ
>>783 書いてるね。スマソ
孫堅が荊州刺史を殺して南陽に到達するまでに数万、南陽太守を殺してるからもう少しいるかもしれない。
その後袁術と合流したため、ここで兵の増減があったかも。
部下の公仇称に兵を預けて荊州に戻らせたりしているので若干数減ってるような印象がある。
董卓は孫堅に当たらせるために徐栄に数万の兵を率いさせているので、両軍とも兵力差はあまりなかったととれる。
とすれば統率選出要素となる。(奇襲を受けたような記述もあるが、数十騎が先行して陣に進入したとあるだけで、判断がつかない)
なので事跡数のことを考慮して統率:孫堅=徐栄、勝ち負けに拘るなら統率:孫堅<徐栄でもいいかも
けど数値差としては1・2程度だと思う。どちらも良将。
>>782・784
そこにしか記述の無い事柄については当然参照した方がいいと思う。
複数の書物に載っていることについては今回のように情報あったりなかったりするので
色々見比べてみるのがいいと思う。…恐らくは三国志が一番信用できるんだろうけど。
>>787 の補足
俺の印象では孫堅・徐栄とも80台中〜後半あたり
統率確定者
曹操、司馬懿、陸遜、呂蒙、満寵、ケ艾
俺の個人意見は740にあるとおり
+曹仁・陸抗・皇甫嵩・張遼
の10人
他に候補が挙げられないなら孫堅・徐栄を足してもいいのかもしれない
>>788 一つ聞きたいのだけど
明徳出版社の後漢紀を買おうと思うんだけど、実際のとこ買う価値あるんだろうか?
>>789 価値はあると思うけど、中華書局のを買っちゃうと参考程度になっちまうんじゃないか?
金額に見合うかは微妙。
>>789 いや、俺は後漢紀の記述を挙げたヤツではないので分からんが、
同じ明徳出版社の後漢書(訳者・藤田至善)は持ってるが
後漢書自体が(多分)三国志と後漢紀を下敷きに書いてると思われるので記述自体に大した違いは無いと思う。
ただ今回のように一方にはあり、一方にはない。とかいうことがあるかもしれないので、どうしても気になるなら買ったら?
訳者も中林史朗・渡邉義浩なので問題ないだろう。
>>790-791 ありがとう
取り敢えず、訳本の方から買うかな
物足りなくなったら中華書局のを買うとします
>>791 別人だったとは…申し訳ないです
>>791 後漢紀と後漢書の本紀で結構食い違いはあるから、
「後漢紀+三国志⇒後漢書」とは言い難いんじゃないかな。
紀と書は、底本が似たようなものだったと思われ。
>>792 715,719,740,752,756,761,768,781,787,788,791
です。一連の流れで孫堅について詳しくなったなぁ
>>793 そうなんだ。俺も買おうかな…
なんかチャットみたい
>>788 曹仁と皇甫嵩に関しては上でも色々と議論になっているので、
いきなり確定者に入れるともめそうだから、とりあえず保留しよう。
まずは議論不足の印象が強い張遼と陸抗について考えてみたい。
2人については事績を見る限りは堂々たるものではある。
個人的に異論はないので、逆に「異論あり」という人がいたらその意見を聞きたい。
劉備軍はよわっちい軍隊でがんばったんだからもちょっと評価したげて
孫堅が微妙なら張遼も微妙だな
軍隊の強さは文句ないが大軍を率いる才能は
確定にするにはもう一つ・・・
と言いながらどちらも個人的に充分資格はあると思う
陸抗は異論ないからついでに周瑜を推す
張遼・・・彼の強さは武力に還元されるべきだと思うよ。
もちろん統率にも十分優れていると思うので孫堅と同じように
枠が残れば入れたい、という感じ。
あと前の確定者からは漏れてしまった曹仁だが、
残りの面子を見るとやはり彼が頭ひとつリードしている気がする。
>>798に同意。
陸抗もアリかとは思う。
が、できれば羊コの事績がほすぃ。
漏れは晋書を読んだことがないんで自信を持って推しきれない。
また、何度か確定候補に入りそうになりながらも、
特に批判されることもなく議論されることもあまりなかった孫策はどうよ?
統率の候補としては十分だと思うのだが。
>>799 晋書は手元にあるんですが、日本語訳されてないやつなんですよ。
それで、羊祜伝は重要な部分だけ要約しても、頭に来るぐらい長いんですよね。
自分では訳したくないので、原文を全部アップしましょうか?
( ゚д゚)
( ゚ д ゚)?
>>800 それは止めろ。そんなスレじゃない。
いいかげん空気を読め、ということすら判らんのか。
>>798 同感。統率よりも強襲(→戦法→武力)の事績が多いよな。
烏桓にしても、合肥にしても。
>>799−800
正直、羊コより杜預の方が統率91以上に相応しいと思います
討呉の実質的司令官として、あの壮大な計画を実行したからです
晋書は、詳しいわけでないので、断言は出来ないのですが
晋書の人物(三國志関連)で統率91以上に相応しいのは、司馬懿を除けば杜預くらいと思います
>>800 出来れば事績を列挙して欲しいです
(後、このスレには関係ないけど世界史板の方…まだかな)
>>800 原文をうpされても訳せないんで遠慮しておきまつ。
>>805 羊コの名をあげたのは、陸抗を判断する材料としてあってもいいかもと思ったからです。
特に羊コを91以上の候補として推挙したわけではありません。
陸抗と羊コを比べるときは、統率より知謀なんじゃねーの?
>>800 何でお前はそんな物を持っているんだ?
ハッタリか?それともマジで持ってるのか?
>>808 青じゃないが、漏れも持ってるぞ。
というか、ネットで公開されてる、というヲチ。
>>807 確かにそうかも。
とりあえず簡単に現状を纏めると
皇甫嵩、麹義、徐栄
曹仁、張コウ、徐晃、皇甫嵩、張遼
孫堅、孫策、周瑜、陸抗
劉備、諸葛亮
杜預
あたりが確定の6人に続いて名があがっているが、
そろそろこの辺からの絞りに入ってもよくないか?
あと、個人的な意見としては、于禁や郭淮も候補に入れたい。
>>806 そうでしたか…申し訳ないです
あと俺も、陸抗は統率91以上に相応しいと思いますよ
陸抗は羊コの事績待ちとはいえど
反対意見がなく、確定に一番近い男。
孫策は肯定的な意見が多いね。
周瑜は意見があまり出ていないみたいだけどどうなの?
>>810 >あと、個人的な意見としては、于禁や郭淮も候補に入れたい。
賛成。于禁は関羽に敗れるまで五大将内ではナンバー1だし
そこに挙がってる中では孫策が江東平定の実績から見てもダントツだと思われるがどうか?
杜預は…よくわからない。スマソ
どこかに蜀滅亡後の勢力範囲のってるサイトないですか?
>>810 于禁は昌キ如きに苦戦してるし、名将相手の大きな武勲なしが痛い。
劉備にも負けてるしな。そこに列挙されてる武将と比べるとちょっと・・・という印象。
名将ではあると思うが・・・。
朱桓も推されてなかった?
>>815 >于禁
于禁は主に対袁紹での戦功を評したのだが、
敗戦もそこそこに見られるしボーダーライン付近の人物だとは思う。
>朱桓
一応、上記の人物を挙げる際に、
確定組が6人決まった後のレスから拾っていったもので。
それ以前は朱桓を推す声も多かったし候補には入ると思われ。
後漢書、晋書に主な記述がある三国志\登場武将をまとめたのでうpしときます。
・後漢
何進 皇甫嵩 朱儁 盧植
・晋
衛カン 王渾 王戎 王濬 王祥 王沈 賈充 何曾 吾彦 司馬懿 司馬炎 司馬師 司馬昭 司馬ユウ 司馬孚 司馬望 司馬攸 周浚 荀 荀勗 石苞 張華 陳騫 陳寿 杜預 羊コ 羅憲 劉寔
>>818 お疲れです。
統率・武力に関係しそうなのは
・後漢
皇甫嵩
・晋
王濬 司馬懿 司馬炎 司馬師 司馬昭 杜預 羊コ
というところでしょうか。
おねがいします誰か蜀滅亡後の勢力範囲のってるサイトしりませんか?
>>819 90代ということであれば皇甫嵩と杜預だけで良いかと。
ただ80代になるとかなり入ってくると思いますが・・・どうしよう?
(現在、知力80代候補調べ中)
>>818 9に登場しない人物でも構わないってことだったと思うのですが……。
実際、盧毓なんかは登場しないし。
まあ、登場しない人物で90台候補なんて思いつかきませんが。
>>823 三国志に伝のある人物のみ、\に登場しない人物でも考慮します。
後漢書、晋書まで追加するとキリがないので。
統率確定
曹操、司馬懿、陸遜、呂蒙、満寵、ケ艾、陸抗、孫策
特に異論が出ていないようなので、6人に陸抗と孫策の2人を追加。
有力候補
漢:皇甫嵩、麹義、徐栄
魏:曹仁、張コウ、徐晃、張遼、于禁
呉:孫堅、周瑜、朱桓
蜀:劉備、諸葛亮
晋:杜預
>>812 周瑜は個人的には相応しいと思う。
事績も豊富だし、赤壁での決定的な武勲もある。
>>826 付いていくだけで必死だが異議無し。
更にもう一人、赤壁で曹軍を破った周瑜は、やはり統率90代たる人物だと思うのだがいかがなものか。
他の有力候補と戦功のスケールが違うと思われ。
誰も期待してない何進の事跡
・黄巾賊が蜂起すると大将軍となり、近衛軍を都亭に駐屯させ京師を守らせた「統率」
・馬元義が洛陽で蜂起しようとするが(唐周という男の密告で)未然に防ぐ「知力?」
・ケイ陽で賊が蜂起すると弟の何苗を派遣して平定させる
・西園八校尉の新設で蹇碩は兵権を抑えたが何進を恐れて辺章を討たせて中央から遠ざけようとするが、
袁紹に募兵させて出兵を延期させた「知力」
・蹇碩に暗殺されかかるが蹇碩の司馬潘隠が知らせたので免れる(魅力要素だが反映できない)
・宦官側からの密告で蹇碩を逮捕「統率?、武力?」
・何太后の嘆願で宦官誅殺を躊躇する「知力マイナス?」
・袁紹の進言で各地の有力者を洛陽に呼び寄せる(知力増減判断つかず)
・再び宦官誅殺を躊躇「知力マイナス?」
・十常侍に暗殺される(宦官に殺されたので)「武力マイナス」
小ずるいが、ただ小ずるいだけ
知力は案外60台でもいいかも
黄巾討伐の三将は、功績だけを並べると皇甫嵩>朱儁>盧植
って後漢書の人物軽ーくスルーされて鬱
周瑜に対しては反対はなし。ちゅうか残りメンバーから考えると
至極妥当か。
統率確定
曹操、司馬懿、陸遜、呂蒙、満寵、ケ艾、陸抗、孫策、周瑜
他は魏の四将+曹仁or諸葛亮あたりか。
>>828 周瑜については、その存在すら危ぶまれる赤壁よか、
曹仁破ったことを評価すれば?
孫策、陸抗、周瑜は異論なし。
残りの候補に郭淮を入れたいが、肯定も否定もない模様。
諸葛亮や姜維の侵略を防いだ点をどう捉えるかで、
ボーダーラインを超えるか否か、微妙なところだとは思いますが。
>>829 乙。ってか需要が全くないだろ、それはw
おいおい、あまりにも決めるの早過ぎないか?
考える時間をもっと取らないと、また後で厄介なことになりかねんぞ。
前は3〜4日程度の余裕を持っていた進行していたはずなのだが。
諸葛亮の「統率」に値する事績って、北伐以外にありましたっけ?
南征は諸葛亮の事績じゃなかった気がするし。 (間違ってたらごめんなさい)
とすると、北伐が高く評価できるとしても、勝ち戦が無い以上90台は過大評価。
せいぜい80台後半レベルじゃないですか?
蜀で「統率」で評価できるとすれば、諸葛亮よりは、まだ劉備がましだと思います。
一応、何進も事績うpしといたw
>>834 確かにペースがだいぶ上がってる。
とりあえず一息入れよう。
確定
曹操、満寵、ケ艾、陸遜、呂蒙、司馬懿
確定候補
孫策、陸抗、周瑜
その他、候補に挙がっている人物
漢:皇甫嵩、麹義、徐栄
魏:曹仁、張コウ、徐晃、張遼、于禁、郭淮
呉:孫堅、朱桓
蜀:劉備、諸葛亮
晋:杜預
とりあえずこの状態でもう少し意見が出るのを待とう。
>>833 俺も郭淮を推薦したい
郭淮の武勲の一つ「麹山の戦い」が素晴らしい
作戦その物は陳泰が考えた物であるが、実行に移したのは都督である郭淮だった
麹山の戦いは、戦闘らしい戦闘をせずに姜維を退却させ、句安を降伏させた(軍事行動がない訳ではない)
作戦面においては、曹操の官渡の戦い、陸抗の西陵の戦い、呂蒙の荊州奪取にも並ぶ物と思う
孔明の統率は、戦場指揮より、組織統率の意味合いが強い気がするな
大功はあるが事績の量の不足
麹義、徐栄、朱桓
統率と武力の兼ね合い
曹仁、張コウ、徐晃、張遼、于禁、孫堅
評価が難しい
皇甫嵩、劉備、諸葛亮、杜預
諸葛亮は「軍隊の強さ」という点においては、
曹仁を始めとする魏の諸将には一歩劣ると思われ。
それ以外の部分での評価をどうするか。
>>836 ありがと。いや、別にUPしなくてもよかったのにw
孫策・陸抗については過去反論もなかったと思うので
暫く待ってみてそのままだったら確定でよいのでは?
>>834 スレの前半で判断基準および候補者の事績うpが随分と出揃ったことで
後半はより評価しやすくなったからすばやく決まりだしたんだと思うよ。
このスレの流れを見て何事も下準備が必要だとわかった。
でも一息つこう。
>>839 知力・政治の際の、質重視の決め方から考えると、「大功〜」の三人が輝いて見える・・・。
正直甘く見てた。
思ったのだが、袁紹の軍て事跡が少ないので評価しにくいな
挙がってる麹義と(一応所属していた)張コウ以外にも
顔良・文醜・袁譚・袁尚・審配・沮授・高覧・淳于瓊とか候補はいそうだが
麹義について少し。
界橋の戦いにて主に彼が公孫サン軍と戦うわけだが、
これは一応袁紹指揮下、つまり武力になるんじゃないですかね?
例えば、街亭なんかはどうするの?
グローバルに見れば、孔明指揮下の一部隊が負けただけど、
もう少しスケール落とすと全くの別部隊で馬謖の責になる。
9的には、砦作ってそこに馬謖の別部隊を派遣したが、負けたという感じっぽいけど。
>>845 袁紹が戦っていない以上、事実上麹義が大将扱いだろうから、ずばり統率でしょ。
しかも、張遼が孫権を破った時とは違って公孫サン軍を瓦解させているため、
「軍隊の強さ」として評価するべきだと思われ。
仮に統率を下げて武力を高くするとしたら、
莫大な兵力差を跳ね返すほどの評価になるだろうし、
数値にしたら振り切れるほどの値が出てしまわないだろうか。
>>846 マイナスは知力だけでいいと思うな。
>>838の組織統率と、郭淮・王双らを破ってる事から、諸葛亮は漏れとしては推したい。
ただそうすると今度はカク昭が・・・。
>>846 身も蓋も無いが、街亭の地形がわからないとどうしようもない。
俺が以前見た中国のドラマでは険阻でもなんでもない禿山だったし。
そんな地形なら守護は不可能だから諸葛亮の失策、逆に護れる地形なら
馬謖のミスで諸葛亮の鑑識眼が落ちる。
>>846 漏れは、大軍を率いた諸葛亮と曹真と同じように、
別働隊としての馬謖と張コウと捉え、知力−と共に統率−も加味したい。
陣配置も「軍隊の強さ」の一つだと思うし。
郭淮は魏延と姜維にも負けてるぞ。
明かに80台だろ。
>>853 姜維には勝ってないか?
それも二回程。
>>854 トウ水で夏侯覇と共に負けてるよ。
しかも1万しか与えられない情況で。
>>853 候補に挙がっている人物の中でも、
張コウや孫堅のように敗戦の記述がしばしば見られる人物はいるわけで。
>>856 郭淮伝では
トウ水の西で戦ったとき事は、郭淮が姜維を逃走させたことになっているよ
張コウや孫堅、陳泰、賈逵と比べても落ちると思うよ。
曹丕に殺されそうになって機知で斬りぬけたり、まあ波の大きいムラのある人物ではある。
>>855 行動の予測は知力の範囲かもな
郭淮は知力と統率80台のほうが郭淮っぽくていいと思うが。
>>856 郭淮が来たので敗走し、降伏した治無戴だけを連れ帰っただけかと。
むしろ他に反乱を起こした羌族は郭淮に討たれている。
>>859 論拠を示して発言して欲しい。
>>856 さらに姜維伝では
郭淮、夏侯覇と交戦した。胡王治無戴の部落を降伏させた
との記事があるだけで、姜維が勝利したとはないよ
しかも治無戴は蜀に呼応して魏に敵対したのであるから、姜維の勝利ではないはず
>>860 麹山の戦いは、統率91以上に推すだけの価値があると思いますよ
スマソ。どっかで一回負けてた記憶があったんだけどな。
今手元に書物全部ないから、負けてないつーことでいいや。
また主な戦功が他の将の指揮下であることが多い徐晃や張コウよりも、
大将としてあげた功が多い郭淮の方が統率は上だと思う。
>>863 負けがあるのは事実だよ、姜維には負けてないだけ
建威で諸葛亮に退却させられ、陽谿で魏延に敗れたことがある
いずれも諸葛亮が存命中のことで
郭淮は、都督としては敗北がないはず
いまもう一度郭淮の事績読んでみたけど、正直見くびっていたらしい。
かなり優秀。860の意見を撤回します。
しかし五虎将+魏延はその人生に一回は魏の名将を破ってるんだね。
趙雲は………(;´д⊂
諸葛亮は229年春に戦役を興す。陳式を先鋒(の主将)として武都・陰平の二郡を攻略させた。
そして自らは後詰めとして建威に進出、陳式の出撃を確認して迎撃に出てきた雍州刺史・郭淮に当たる。
郭淮は陳式と諸葛亮に挟撃されることを恐れ、そのまま撤退した。
これはどう取る?
>>867 俺の判断では
それは、単純に諸葛亮の統率を評価するだけでよいと思う
負けは負けだけど、危機を認識して退却したのだから
郭淮の統率と武力にマイナスは不要と思いますよ
>>868 うむ、一応尋ねてみただけで同じ考え。
スレの空気が一方向になると面白くないもんで。
誰も推さないのが不思議なぐらいなのだが、李通とか高順といった負けなしやつらはどうなのか?
少なくても武力91以上候補に入ってもおかしくないと思うが。
劉備の将の敗戦って結構どうしょうもないのが多いような気がするが。
どう考えても魏将は有利だよな〜と正史を改めて見て思った。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 03:45
>>871 三国を統一したのは魏ではなく引き継いだ晋だということ、
賈逵→賈充を見ても晋は魏を引き継いだとみていいだろう。
これはもちろん魏の積み重ねてきたものがあったおかげだが、
魏の時代では果たせなかった事もまた事実。
呉蜀の孫権、劉備健在の時代はよく互角に戦っていたと言えると思うよ。
引き継ぎゆえ、魏の記録が多く残り易いと推測でき、実際に収めれられてる人物の記録が多い。
結局武将云々より、献帝を擁していたという戦略勝ちの部分が大きいんだよな。
魏を中心にして動いたのはまぎれもない事実だろうが、
演義やゲームでの魏の武将に対する評価の低さに対するリバウンドは避けたい。
呉蜀の武将を少ない事績でも質で判断して評価を上げないと、当時の状況は再現できないと思う。
晋が建国される前に魏の圧倒的な強さで統一されるゲームになってしまう。
>>872 第三者だが匿名だからといって書いていいことじゃないぞ。
ちゃんと反論して書けよ。書くにしても氏ねにしろ。
シャレにならんから。排他的なスレにするのはやめようや。
それに徐栄が入るなら李通・高順も検討の余地はあるだろう。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 06:57
>>874 死ねといった理由
ちゃんとスレを読んでいない。
李通と高順を推した人は他にもぎょうさん居る
スレの流れを読んでいない。
どう考えても今話してるのは統率についてだろう
まとめページの高順が高柔になってるよ
劉備の敗戦については検討したいと思う。仕事終わって元気だったら…
877 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 09:58
個人的には皇甫嵩は統率91以上に相応しいと思いますが、
コーエーが三国建国時の武将に焦点を当てているため
後漢末の武将や晋建国期の武将はどうしても
点数が辛くなりがちになってしまうと思います。
ゲーム中では当時の武将の数値を下げ、
相対評価で彼らの実績を考慮していると思いますが、
皇甫嵩や徐栄、孫堅などは活躍した年代の違いから
実績よりも低い評価を受けているようで少し不憫に思います。
ただ…数値の15人枠そのものが実績の絶対評価ではなく、
他の武将との相対的な評価によって決まりやすいことを考えると、
正直、かなり微妙かな…と思いました。
活躍した時期が違っても話題に上るってことは
その当時、比類ない実績をあげているって証明にもなるんですけどね。
そこでスレのみなさんの意見を聞きたいです。
・残された実績を判断して普遍的な評価を下す。
・三国県立期に焦点を当て、他に微妙な修正を加える。
光栄が後者の姿勢を取っているため、
個人的には前者が好ましいんですけど…
ゲームとしてみた場合、後者のほうが作りやすそうですよね。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 10:19
だから「軍略」を用いろと散々俺は・・・
880 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 10:21
このスレって引き篭もりが随分いるな・・・
一応、高順と李通を統率の点から。
李通はその戦功のほとんどが他の将の指揮下であり、
統率として扱うと思われる事績は賊対峙ぐらい。
高順はまともな戦は対劉備と夏侯惇ぐらい。
とても判断に困る相手だが、他の候補と比べると一歩届かない気がする。
で、皇甫嵩は主たる功績が黄巾討伐なのをどう考えるか。
漏れは正規軍同士の戦より少しランクを下げて見ているが……。
>>877 >>878 孫堅なんかは普通に高評価されてると思うが。
ましてや張角なんか統率90台だw
>>873 この流れだと、蜀なんかは一人も91以上がいないことになりそうだからなw
もっとも国力がないのに人材も最悪となれば、あっさり滅亡は必至。
ゲーム的にもおかしいが、史実的にも劣勢の状況下で建国から
半世紀近く粘ったことを思えば、おかしな話だよな。
>>883 それだけ蜀が、諸葛亮に依存していたって事だろ
だいたい蜀に90台が少ないからって、そりゃ仕方ないだろーよ
史実的に見ても魏呉より人材が劣るのは事実なんだから
愚痴ったところで、どうしようもあるまい
それとも、蜀にだけ手心を加えろとでも?
そんなことしたら、魏呉のファンが黙ってはいまい
>>884 蜀の歴史は諸葛亮死後の方が長いぞ?
> 蜀にだけ手心を加えろとでも?
そこまでは言ってないw
>>883-886 ゲームのマップには蜀の桟道がないからね
「大兵力の行軍がおそろしく困難+兵站の管理も大変+会戦する場が限られている」
というのがちゃんと表現できてれば蜀軍に90台がいなくても、防衛するのには問題ないと思うがゲームだと…
(実際曹真のときにエラい目にあってからケ艾+鍾会が南征するまで魏側からのまともな攻勢はない)
だからといって蜀将を贔屓するのはどうかと思う
第一、魏延・張嶷・馬忠・姜維・廖化・王平あたりは統率80〜70台はあると思う
>>886を見て、いや、曹爽による興勢の役があるじゃないかと思い、
そういえば王平を強く推す人はいなかったなと、事績を洗い直す。
王平(字:子均)
出自:巴西郡トウ渠県
官位:前監軍・鎮北将軍?
・杜コらと共に洛陽へ赴き、校尉。
・漢中の戦いに従軍し、劉備に投降。牙門将・ヒ将軍。
・第一次北伐で馬ショクに従軍。馬ショクを何度も諌める(知力)
・街亭で馬ショクは大敗したが、王平指揮下の千人だけは踏み堪え、
張コウの追撃を避けることに成功する(統率=武力)
・散っていた諸陣営の兵を収容しつつ、退却に成功(統率)
・帰還後、街亭の諸将は処分を受けたが、諸葛亮は王平には特別な敬意を払い、参軍の官を追加
・また、五部の兵を預かる。「華陽国志」によれば、五部の兵とは南中地方の
強い兵卒や
青羌族万余家を蜀に移住させ、五部の軍戸を編成したもの。向かう所敵無く、飛軍と称されることになった
・231年の北伐に従軍。張コウと戦って見事に守りきる(統率>武力)
・最後の北伐に従軍。魏延の反乱を鎮めたのは王平の功であったとされる。
・後典軍・安漢将軍に昇進し、漢中太守を兼務。
・237年には安漢侯の爵位を拝し、漢中方面の(つまり対魏戦線の)総司令官となる。
・238年にはベン陽に駐屯したショウエンの幕府を前護軍として仕切る。
・ショウエンが病になると、改めて前監軍・鎮北将軍として漢中方面の指揮を任された。
・244年。興勢の役。大将軍・曹爽が歩騎10万余の大軍勢で漢中へ侵攻。
漢中の守備兵は3万に満たなかったが、要地のみを固めて撤収すべしという意見を排して、抗戦。
見事に費イらの来援まで持ちこたえてみせ、曹爽撃退に成功(統率>武力)
諸葛亮の死後、魏の侵攻を許さなかったのは王平の功績によるものが
大きいことは正史に明記されてる通り。
演義での地味な扱いのせいか蜀ファンでも推す人がいなかったようだが、
事績を改めて見る限り、相当なものであろう。敗戦と呼べるものもないし、
興勢の役は諸葛亮死後における最大の危機だったはずだが、
王平は数万単位の兵を率いて、この魏の大軍と渡り合って見せているのも
大したものである。個人的に、蜀では唯一統率91以上に堂々と推薦できる
武将ではないかと思うが、どうだろうか?
>>887 ごめん、陳式って主な事跡覚えてない
ぐぐってみたら、まだ陳寿の父親だっていってるサイトが多くて萎えた
>>887 そういや曹爽も攻めてたね。従軍部将を覚えてないけど
そういえば霍峻がいたよ
数百の兵だかで、数千(万?)の敵から城を守ったとかいう事跡があった
…息子のほうだっけ?
>>890 普通にググると「陳式太極拳」とかいうのがたくさん出てくるんだなw
それは霍峻だね。1万の兵を数百の城兵で1年近くに渡って凌ぎ、
遂には逆に相手の隙を突いて攻撃して敵将の首をとって、撃退している。
賊討伐を三度行っていずれも成功しているが
ところで131さん、関羽の包囲網を打ち破って曹仁を救出したのは武力だろうか? 統率でもいいような気がするが
それと、武勇は諸将第一であった、という記述はどう解釈する?
宜しければ私見を伺いたいのだが
とりあえず、関羽が包囲網なんて敷けたはずがない、というのを指摘しておく。
道路を封鎖しただけでしょ。
>>892 誰のことか書いてませんが、李通のことでよろしいのでしょうか。
曹仁への援軍からの一連の事績は統率でいいと思います。
ただ、援軍としての働きは統率でしょうが、
「武勇は諸将第一」という評価は言葉通り武力だと思います。
またゲームでは騎兵系兵法で捕まった味方を救出することがあるので、
包囲などを破り誰某を救出したという記述は武力としても見ていいのではないかと思います。
確かに読み返してみれば賊討伐以外にも統率として考えられる事績はありますね。
ですが賊討伐などは他の人物でも頻繁に見られるため、
それだけでは決定打にはなり得ませんし、
曹仁への援軍の件は朱桓や麹義ほどの大功とするには物足りないかと。
あと、まとめページの「武力」とか(統)などは、
ほとんど私が付けたものではなく、
ここにあげられたものを写しただけです。
その辺は御容赦を。
蜀の四名将というと王平、霍峻、張翼とあと一人誰だっけ?
896 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 17:30
王平は、統率91以上とするにはちょっと物足りないような。
個人的には85前後という気がします。
>>895 正史には「先に 王平 句扶あり、後に 張翼 寥化 あり」ってありますね
>>893 たしかに、関羽の包囲網じゃあなくて劉備・周瑜の包囲網でした
131さん
なるほど、自らさかもぎを引っこ抜いて包囲陣に突入した人物ですが、ちょっと事績が足りないかな〜という気がしますね。
ほんと、袁家討伐に参加していないうえに、四十二歳で早死にした分事績が少ないのがマイナス点ですな
ちなみに騎馬系戦法だけでなく歩兵系戦法でも救出できますので。
>>896 もう少し具体的に言っていただかないと、反論のしようがありません。
>>883 統率90台がいないのはゲーム的にそんなに大きなハンデでもないだろ
統率が91以上の人間はゲームを通して15人だけにしてるんだから。
武力や統率80台の将なら蜀にだってそれなりにいると思うし
人材は他に劣るとも最悪とまではいかないだろう
そう簡単に滅亡するとも思えない
>>896 句扶、張翼、廖化には、興勢の役ほど華々しい戦歴はないんだが。
国運賭けた戦いの総指揮をとって勝利した男と、
普通に有能な将軍を一緒にするな。
>>正史には「先に 王平 句扶あり、後に 張翼 寥化 あり」ってありますね
>>900 >>896は「正史に書いてある」って言ってるだけじゃん。
………なんだか怖いぞ、王平ファンはw
>>901 >>900と一緒にされるのはちょっとつらいぞw
>>896の文章の出典は正史本文ではなく、華陽国志。
注で引用されている。「蜀の四名将」という表現は初耳。
少なくとも、正史にそういう表現はない。
>>901 だって、「先に 王平 句扶あり、後に 張翼 寥化 あり」ってのは、
ただその時代で優秀な将軍を並べて讃えただけじゃん。
魏の五子だって並び称されてはいるけど、戦歴の華々しさはだいぶ違うぞ。
一応注釈つけておくと、『華陽国志』では「先に何・勾あり」となっています。
「何」が旧姓・何の王平、「勾」が勾扶。三国志・裴注では、勾扶を句扶としている、というわけ。
俺もそう思うよ。
だから文句は正史だか華陽国志だかにつければいいわけで、
なんで
>>896に噛み付くかなぁ、と思ったんだよ。
は い は い 、 発 展 性 の 無 い 無 駄 な 会 話 は こ こ で 終 わ り で す よ ー
↑
903へのレス
王平が曹爽を撃退できたのは、漢中の囲という堅固な防御システムが
予めあったこともあるだろ
興勢の総指揮官は費禕
そもそも、撃退… ですか?
だから、900に絡むなよ・・・
>>909 >漢中の囲という堅固な防御システム
それを言うなら、赤壁は長江という天険があったからとか
司馬懿が諸葛亮に勝てたのは蜀の桟道のおかげとか幾らでも言えてしまうぞ。
まあ、別に無理に王平を推薦しようとは思わん。
光栄ベースのこのスレでは後期の武将を余り評価しないというのは理解しているし。
でも、統率80代を考える時は忘れないでやってくれw
絡んでるのは900ではなくて、おおもとの
>>888だと思われ。つまり、貴方。
てか少し前まで杜預とか郭淮とかについて議論していて
その流れで王平も話題にしているというのに、賛同が得られないとなると
「このスレでは後期の武将を余り評価しないというのは理解しているし」
とか言い出すし。わけわかんね。
曹仁レベルの将だって数回否定的な意見が出ただけで候補止まりに
なってるのに王平がろくに議論もされずに確定にされるわけないだろ
だから、どうでもいいって。
で、事績も出揃ってきた感じなので、
>>839で名前の出てる武将+郭淮について論点となりそうな部分を整理すると
徐栄
「曹操・孫堅という英傑と戦って勝利。しかし、他の事績がないことをどう見る?」
「最後は李カクらと戦って戦死。これを重く見るか否か」
麹義
「事績自体が少なく、大軍を指揮しての武功ではない。『武力候補では?』という声あり」
曹仁
「南郡を奪われたことを良く守っていたと評価するか、守りきれなかったと見るか」
「濡須で寡兵の朱桓に敗れたことをどの程度重く見るか」
朱桓
「濡須の武功は文句なしに凄いが、他の事績は今一つという点」
徐晃
「武勲は実に豊富。一方で『誰かの下での武勲が多いので、統率より武力では?』という意見あり」
張コウ
「対張飛の敗戦、王平相手に勝てなかったこと、追撃戦で戦死という最期をどう評価するか」
張遼
「大功あり、大小武勲ありだが、大軍を率いての武勲には乏しい」
于禁
「彼も大軍を率いての武勲に乏しく、また
>>815のような消極意見が根強い」
孫堅
「徐栄相手の敗戦や戦死した最期などのマイナス材料はどう考えるか?」
「大した相手に対する武勲ではないとしてプラス材料自体への疑義を示す声も」
皇甫嵩
「事績は豊富で見事なものだが、主な武勲が黄巾相手という点をどう評価するか」
劉備
「漢中などの戦勝もあるが、敗戦も多い点をどう見るか。特に夷陵は三国時代最大級の敗戦」
「他方、負け続けても踏ん張る『徴兵能力』という点から統率を評価する声あり」
諸葛亮
「
>>840で指摘されているように、『軍隊の強さ』では劣るが、それ以外の点をどう見るか」
杜預
「呉を周到な準備の遠征で撃滅した大功あり。
>>816に事績の一部と意見」
徐栄がこんなに評価されているスレは他にあるまい。
>>916 一応皇甫嵩擁護を。
後漢書の皇甫嵩伝読むと実は別に実践豊富じゃない
出仕したのも霊帝(168即位)が招いてのことなので、結構おっさんになってからだと思われる。
黄巾より前に北地太守になってうからここで異民族と小競り合いでもしたのかもしれない。
黄巾討伐の際は朱儁とあわせて4万を率い、長社城を囲んだ「大軍」を火計で破る。(曹操の救援もあった)
囲んだ兵数ははっきりしてないが、南陽城に篭った黄巾軍が最大10数万まであるのでかなりの数では?
そしてその後東郡で7千人、黄巾軍の本拠広宗では張梁を斬って黄河に追い詰め殺害・溺死などで計8万殺す。
その後下曲陽で張宝を斬り10余万殺して南方に京観を築く。
皇甫嵩の兵力だが張宝の時に鉅鹿太守の助力があるので、その都度地方軍を吸収していたのだろう。
何がいいたいのかというと、敵対する兵数が異様に多いこと。
農民軍とはいえ、たえず自軍より多い軍を1年間かけて相手してたことを評価したい。
あと事跡としては辺章とかに始まる涼州反乱もあるけど、とりあえずここまででどうだろう?
>>918補足
後漢書にある数字をそのまま書いてるので多少(場合によってはかなり)の
誇張はあると思うが、相手は農民なので「たえず自軍より多い軍」というのは確かだと思う。
>>漢中の囲という堅固な防御システム
>それを言うなら、赤壁は長江という天険があったからとか
>司馬懿が諸葛亮に勝てたのは蜀の桟道のおかげとか幾らでも言えてしまうぞ。
地勢を生かすのも軍略の一つ。そういう地形で戦うことは侵略側も覚悟していたろうし、
勝てる算段を踏んでの出兵では?
>>918 皇甫嵩はマイナス材料らしいマイナス材料が乏しいんですよね。
結局は他の武将との比較になると思うので、その点は優位かと。
>>915 自分で書いておきつつ徐晃を擁護。やはり、関羽撃破は大きな武功。
大軍の于禁軍が不慮の事態で壊滅し、当時は深刻な危機であった。
まあ、関羽を凡将と見る場合は引きずられて徐晃の評価も下がってしまうかもだが…。
劉備について一言。
いかな魏の名将でも、蜀の建国はできなかったと思われる。
これは少なくとも「大功」ではないのか?
このような芸当を他の誰が成しえたか?
他の統率90台の候補者を当てはめてみると良い。
演義ではこれを人徳の賜にしているが、正史ではそうではあるまい。
ましてや、このゲームにおいては、それをいかに表現すべきか。
知力・政治の後ろ盾を得た直後、劉備は連戦連勝、瞬く間に蜀を建国する。
これは劉備に不足していたのが知力・政治であることを想起させる。
夷陵でも、直接軍勢がぶつかった時点では蜀が押していたはず。
敗因はやはり、知力の欠如によるものではなかろうか。
長江沿いの僅かな陸地に延々と補給のために陣を張る
これは、統率なのか、知力なのか
どこまでを統率の範囲とするの?
「軍隊の強さ、計略に対する耐性、改修、徴兵、建設、救援」のどこに劉備を当て嵌めるんだ?w
ウザイよ、ループ厨
武力、知力、政治、統率すべてに渡って劉備は最も評価が難しい人間。
統率に限らず、すべての能力値付けを後回しにしたほうが無難か。
麹義、張遼、于禁あたりで大軍を率いた経験の少なさが挙げられているが、
軍の規模と統率は関係ないと思うのだが。
負け戦=軍隊の弱さ=統率のなさ、では必ずしもないでしょう?
敗因がどこにあるかは個別に検討を要するはずです。
軍隊が強くても、計略にかかったり、油断したりして負けることもある。
それは、予見能力(知力)の低さや、怠慢・集中力の欠如(性格?)が原因と言える。
負けがそんなにダメなら、曹操だって、最初はよく負けたし、
劉備には為し得なかったほどの大敗(赤壁)があることをどう考慮するのか。
まあ、このスレの評価基準が分かっている人には、「一応このスレの評価基準に基づいた
発言である」と分かって頂けていると思いますので、これ以上あえて何も説明致しません。
また、劉備が91以上に当選しなくても、このスレを荒らしたり、自分とは意見が異なるという
だけの相手にウザイとか厨とか言って貶めるようなことは致しませんのでご心配なく。
一応やってみる
劉備の戦歴
スレの中にあった劉備の戦績(勝手に使いますスマソ)
184 ○黄巾賊討伐 「武力>統率」
※○何進の募兵軍に同行し、遭遇した賊軍に勝利 「多分、武力>統率」
●高唐の令の時、賊軍に敗れる 「統率−」
●張純の反乱鎮圧に失敗 (先主伝では見つけられなかった。注の典略の負傷した云々の話だと、後に武功を立てて安喜県の尉になってる「武力」?)
☆曹操と共に募兵
196 ☆飢民数千を自軍に組み込む
☆徐州到着後に丹楊兵四千が与えられる
○淮陰で袁術戦 (勝ったり負けたり)
○楊奉・韓暹戦 (先主伝では見つけられない)
−呂布に襲撃される (劉備が戦ってないのでノーカウント)
●広陵で袁術に敗れる 「統率−」?(散った兵を再編。でも本拠落とされてたので士気低いだろうな)
☆小ハイで1万募兵
198 ●小沛で呂布に敗れる 「統率−」(奇襲っぽい)
☆曹操から兵が与えられる
●小沛で高順に敗れる 「統率−」(陥陣営強し)
−袁術討伐は戦前に袁術死亡
長文を書き込むくらいなら、まずログを読んでからにして頂きたいものだな。
200 ○劉岱・王忠を破る 「統率」
●小沛で曹操に敗れる 「統率−」?(曹操の出師旗を見て逃げた。とあるので実際戦ってなかったのかも)
●許都周辺を荒らすが、曹仁に敗走 「統率−」
○汝南で蔡陽戦 「統率」
201 ●曹操に敗れ、劉表の元へ逃走 「統率−」
☆劉表から兵を与えられる
○博望で夏侯惇を破る 「統率+武力」(伏兵で破った、とあるので)
208 ●長坂の戦い 「知力−、政治」(戦闘せずに逃げており、非戦闘員の農民十余万を引き連れていることは政治宣伝としての評価)
○赤壁の戦い 「統率?」(周瑜・程普らと共に戦ったとある)
209 ○荊南四郡制圧戦 「統率」
211 ☆劉璋から兵を与えられる
△張魯と対峙する
☆劉璋から兵を与えられる
212 ○綿竹侵攻戦 「統率」
214 ○ラク城包囲戦 「統率」(1年かかる)
219 ○定軍山の戦い 「統率」(夏侯淵を斬る)
○漢中攻防戦、漢中を守る 「統率」(曹操とは戦わない徹底ぶり)
222 ●夷陵の戦い 「統率−」(これは決定的)
☆は前半〜中盤までの募兵・またはそれに準ずる事跡を書いてみた
>>926 挙げてみて分かった。劉備の能力分からないね
保身・機転・人物観察眼などを知力に置くならかなり高く、政略まで踏まえた軍略としての知力は駄目な人。
しかし自分より弱い相手には自軍の力さえあれば必ず勝ち、
自分より強いと認めた相手とはテコでも戦わない。徹底してる。
>>927 俺もそれは気になってた。兵数と統率は無関係では?
そりゃ、寡兵で多勢を破ったというのなら+評価はあると思うが。
929・931は俺ね
930,932は俺宛?スマソ
>>933 > 保身・機転・人物観察眼などを知力に置くなら
通常は知力か政治の範疇でしょうが、
劉備に関しては、「武人の本能」めいたもののように感じてしまう・・・。主観でスマソ
劉備に関しては前半の負けを軍師不在のためとし、
蜀への侵略からの連勝はそれが補えたからだとするなら、
逆に評価されるはそれを補った軍師、つまりホウ統であるとも考えられる。
実際、ホウ統が知力で91以上となったのはそのためだろうし。
当然、劉備の部隊に知力の高い人間が加わったことで計略に対する耐性が上がったため、
劉備本来の統率が表れた=劉備の統率を評価と考えることもできるが、
当落線上で比較する際はいろいろと推測の入る余地がある人物を落としていくべきかと思う。
↑なんかちょっと日本語が変だ……。
とりあえず孫策、陸抗、周瑜の三名は
確定候補に挙がって丸一日経ったけど、
もう確定にしちまっていいのか?
性急過ぎるってんで時間を置いたが、
全然反論の出る雰囲気がなさそうだし。
:::::::::::/ ヽ ヽ::::::::::::
:::::::::::| つ じ 君 i::::::::::::
:::::::::::.ゝ わ つ は ノ:::::::::::
:::::::::::/ ぁ に イ:::::::::::::
::::: | あぁ ゙i ::::::
\_ あ ,,-'
--、..,ヽ__あ_,,-''
_/ヽ__/)ノ _,,...-
::::::::::::::::\ ∠_::::::::: ヽ
,-‐‐ ‐‐-、:| ‐‐-ヽ|::::::::: つ
_(o)_,: _(o)_,::| _(o):::: |, -、:: わ
::> ::::| ゚r ー':::::6 |::| ぁぁ
/( [三] )ヽ/,.. 三]ヽ:::::::'- あぁ
`ー‐--‐‐―'(__ ) ヽ 、 ああ
====( i)==::::/ ,/ニニニ
:/ ヽ:::i ./;;;;;;;;;;;;;;;;
>>937 確かに日本語が変だよ…。
推測の余地があるから落とすというのも妙な話じゃないか?
>>927 大会戦の指揮を総司令官として執った人物というのは歴史を左右するほどなわけで、
そういう戦いを任されたことがある人物の方が評価が上がりがちという意味では?
(任されてない人物は下がりがち)
>>922 >瞬く間に蜀を建国する
劉循相手に一年かかっているのでそうとは言い難い。
徴兵能力は確かに随一だが、他に負け戦が多い以上、上位15傑に入るかは疑問。
>>936 負けをなくす要素を補っただけでは、「負けなくなる」だけ。「勝つ」能力とは別。
謀略で奪ったわけでなく、軍師の働きのみを評価する事績でないことは明らか。
実際勝利した結果があるのに誰も統率の評価を受けないような事績の読み方は偏りがあると思う。
この場合、周瑜の助言を得ながら戦ったであろう孫策と同じと思う。
周瑜も評価すべきだが、だからといって実際勝利した孫策の評価が下がるわけではない。
また、「これらの勝利が三国時代を形成した」ことの重要性を等閑視しすぎているきらいがある。
「大功」とは「劇的な大勝利」のみを指す言葉ではないと思うのだが・・・。
個人的には「エポックメイキング」という表現に戻した方が誤解がなくてよいと思う。
>>944 劉備の入蜀に射おける統率を評価するのは良いけど
>この場合、周瑜の助言を得ながら戦ったであろう孫策と同じと思う。
>周瑜も評価すべきだが、だからといって実際勝利した孫策の評価が下がるわけではない
この意見は疑問です
確か、孫策の参謀は張紘と張昭だったはず(張昭は政務も担当していた)
張紘伝の呉書に、そう記されていたと思う
>>943 一騎さん、新スレお願いできないでしょうか?
初代スレの1さんですし
あと、テンプレ貼っておきます
>>943 >
>>922 > >瞬く間に蜀を建国する
> 劉循相手に一年かかっているのでそうとは言い難い。
比喩的表現のつもりでしたが、誤解を招く表現であったことは認めます。
「あれよあれよという間に」とでもすべきでした。
言いたかったのは、
「他勢力が伸び悩んでる中、比較的短期間で、一大勢力を成すに至った」という趣旨でした。
>>949 では、よろしくお願いします
後、テンプレのどこかに、これを加えてください
ゲーム三國志\においての武力と統率の違い
軍隊(部隊)の強さ:部隊の大将の統率に依存
戦法の威力、発動率:武将の武力に依存
12の魏オタぶりには飽きれるな。
学校行けよ。
だろ?w
>>944 確かにちと偏ってた。
だが負け戦を全て知力の低さだけに還元することも難しいかと思う。
極端な話だが、他の人物も負け戦の度に知力が高ければ勝てたのかという検討が必要になってしまうし。
ってか、こういう発言はもう次スレでしたほうがいいか。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
たまにこのスレで愚痴ってる香具師がいるが、なんとなく蜀ヲタって気がするな。
埋め
梅
鵜雌蛇手
禹目他手
誰も埋めねえのな
umetate
梅
膿め
うめ
海
ウメ
実に微妙な埋め立て速度だ。
yめらtr
びみょん
だれも埋めないのかよ!
埋立てのために能力値上位じゃなくて下位の奴の考察をしてみるとか。
埋立てのために能力値上位じゃなくて下位の奴の考察をしてみるとか。
なんで呂蒙>関羽なんだよ
あそこで負けたのは呂蒙と陸遜という
当代一流の策謀か二人の競演によるの計略であって
統率勝負じゃねーだろうに
普通に戦ったら勝てねーからの行動だろ?
と見えないところで粋がってみるテスト
資料の少ない蜀は不利、ということであきらめろ。
史実じゃなくって正史がネタなんだから。
史実でも同じだけどな。プ(w
武力最低の奴なんてどう決めたらいいのかもわからんしね。
戦場に出たこと無い奴なんてたくさんいただろうし。
個人的な意見だけど、9なら
武力は劉禅と曹奐が1、統率は劉虞が1ではどうだろう。
正史だったら厳シュン(呉)が武力最弱だろう。
孫権がためしに馬に乗せてみようとしたところ
鞍から落ちてしまったという逸話があるくらいの運動オンチだ。
↑に限らず、馬に乗れないとか、足が不自由だとか、病弱とかの
記述がある人物は少数ながらいるので、武力下位はそこから
選べるからまだましな方だ。
統率は難しそうだな。
>>980の言うように軍を率いてない香具師は多いからな。
>>983 軍を率いているからこそ、劉虞が最低だと思うけど。
十万という大軍を率いながら数百の公孫瓚に負けたのだから。ヤツは凄すぎ。
知力最低のが難関では
この際、知力は曹豹でいいよ。
政治も難関だな。
政治最低は教養のなさそうな黄巾賊や白波賊の人たちでいいのでは?
いいと思うんだが、明太祖のような香具師もいなくもないかもしれないわけだし、考慮に入れる必要があるかどうか少々疑問と言わざるを得ないといったところだと思うのだが、いかがだろうか。
張兄弟とかは明らかに教養あるけどな。他の参加者も地方の名士がいる。
でもさすがにベン喜とかはダメだろw
>>990 張兄弟て張角兄弟のこと?張角自体は名士らしいな
知力最低ラインは宗教に盲目的についていった黄巾&米賊の連中と思われ
あと独断と偏見でシャマカ
それと架空武将はオール1だっけ?
架空武将って周倉や関索とかのこと?
オール1は痛々しいな。せめて一般兵卒並の能力はあげてやれよ
一般兵卒並の能力てどのくらい?
漏れ基準だと
武力50
知力30
政治30
統率40
くらいかなぁ。…いつのまにか残り5だ。このスレとももうお別れだな
9って武系能力がインフレしまくってるからな。残り4
今や70以上が当然という風潮になってるのがよくない。
衆に優れたものが少ない武将はみな60以下でいい
残り 3
998
>>996 確かにインフレだよなあ。
武力一桁台ばかりというのも、それはそれで萌えるか(w
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。