島津義弘について教えて!!!

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1無名武将@お腹せっぷく
島津奔る
と言う本を今読み終わったとこです。感動覚めやらぬ想いです。
ほんとにカッコええ方ですな。
どなたか詳しい方、この方を評してみてください。
もっといろいろ知りたいんです。
教えて君ですみません。
2無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:33
朝から2ゲト!
3無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:36
島津奔るはいい本だな。漏れも学校の図書室で読んだよ。
4無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:39
でしょ!!>>3
薩摩から主君の危機に兵卒が駆けつける場面でジーンと来ちゃったよ。
5無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:42
まさに義弘公の人徳の成せる業ですな
6無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:48
しーまんず
7無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:49
関が原のあと、少数で敵中に突っ込んで引き上げた逸話、いろんな小説に出てくるけど、
ほんとかなあ。
8無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:50
>>7
真偽は定かではないけど、人徳のある方だったことは確かだね。
9無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 11:53
信長の野望だと、頑固一徹九州男子な顔ですな。
10無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:02
「島津奔る」島津義久が悪く書かれすぎのように思われる。
11無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:05
>>10
義弘マンセーですから


12無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:08
>>7
最高に胸のすくシーンだよね!
13 :02/07/21 12:13
島津奔るは普通に面白いんだけど、パパとおじじのことが皆無なのが残念。
あと、弟の家久の死を小一郎による暗殺と断定しているところも・・・

まあ、とにかくあれ読むと義弘好きになるよね。
14無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:21
>>13
1ですが、まさしくこの本で義弘好きになりましたよ。
以前から津本陽の小説とかでかっこよく書かれているので気になってはいたんですが。
15無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:22
>>14
日本語おかしいぞ。
16無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:23
逆に島津たいしたことない調の本って見たことある?
17無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:24
>15
そうでしたね。すいません。
18無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:34
韓国でのシーマンズの評価はどうなんでしょう。
やっぱり加藤清正の類でしょうか。
19無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:48
「小説 立花宗茂」童門 冬二(どうもん ふゆじ)著 学陽書房刊 
この本だと島津は強かったが、立花は島津よりもいっぱい上手だった。
って、感じだったと思うが。 
20無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 12:55
>19
主人公は強いと言うことで。
家康は弱く弱く書かれること多いけどね。
21無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 13:01
>>20「島津奔る」に対して「遁げろ家康」・・・
22無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 13:22
逃走していく連中が格好良いわけがないんだがな
23無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 13:29
やっぱり大大名とはいえ、辺境も辺境だから、
家康がそれほど気にかける存在でもなかったのかもね。
島津家が伊勢あたりにあったらとっくに滅びていたと思ふ。
あ、その前に信長に、だね。

といってみたが、書けば書くほどナンセンス・・・
24無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 13:33
東軍の突撃の前に無様に逃走する島津(w
25無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 13:40
実際そんなところだったのかも>24

26無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 14:14
・・・・・でごわすな。
27無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 14:21
肥後もっこリ
28無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 14:38
ボキももっこり
29無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 23:48
前にしか逃げ場がなくて自暴自棄になっていたとか
30無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 00:08
>>16
たいしたことなさそうにみして300年後につなげてる
『群雲、関ヶ原へ』岳宏一郎
豊久の行動は涙なしでは語れん。
32無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 02:47
井伊もほっときゃよかったのに・・・
33無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 02:59
1は島津の結束の秘密を知ってるのだろうか
知ってしまったら幻滅するだろうな
>>33
結束の秘密とは、なんのことを指しているのでしょうか?
軍法のことかな。
違うのでしたら教えてくだされ。
35無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 06:49
ホモ行為
>>33
神風特攻隊へとつながる厳格な教育のことですか?
まあ悲劇ともいえますね
37無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 11:39
知らぬが仏だな。
38無名武将@お腹せっぷく :02/07/22 12:00
関ヶ原の退却戦、
徳川方も結構なダメージをうけてますな。
井伊たん然り、松平忠吉たん然り・・・。
>38
実際は東軍全体の戦死者が少ないことから考えても
深追いした騎乗の士のみがステガマリで返り討ちにあったようです。

ところで忠吉はNHKの葵のドラマでは撤退時に狙撃されたという話になってました。
講談や小説では、松井三郎兵衛が一人で切り込んで井伊隊を追回した後、
撤退時に忠吉と一騎打ちをして重傷をおわせた後に家人に討たれる
という話が多いですが、実際は直正だけでなく忠吉も銃撃で負傷したらしく、
松井の活躍そのものがなかったらしいです。
徳川が松井の首を手に入れてないというのもアレですし。
40無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 22:13
九州最強の武将は義弘?道雪?宗茂?
41無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 22:20
>>40
家久か紹雲
42無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 22:24
>>41
家久か義弘か紹雲だろ。光栄ゲーでいう知力No.1は歳久ね。
>>33
>>1は島津の結束の秘密を知ってるのだろうか
>>知ってしまったら幻滅するだろうな

34だけど、秘密って結局なんなの。
「我が将の首級を敵に委ねるべからず、
もしかなわざる時は全軍討ち死にせよ」
このことを言っているのかな……と言うか、これしか思い浮かばない。
これじゃないのなら教えてほしい。

九州最強武将は、義弘を破った志賀親次に一票。
ちと、あまのじゃくでした。スマソ。
>>43
35が答えてるよ。ギャグと思ったか?
この作者、なんか官僚に恨みでもあるのかっていうくらい石田三成を叩いてたね。
34、43です。
郷中教育の男色のことを言っていたわけか。
あれは江戸時代を通して行われていたと認識していたため、戦国時代
においての男色行為が島津の結束に繋がっていたとは知りませんでした。
勉強不足でした。
>>35>>44
ありがとう。
すきっりしました。
「島津奔る」は読んでないけど、
松平忠吉の負傷についてはどう書かれてました?
48無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 01:24
>>47
肛門裂傷
直政とともに追撃の先頭にあった松平忠吉も、この狙撃を受けて重傷を負い、
直政ともども士卒の介抱をうけて後送された。
「島津奔る」本文より抜粋。

松平忠吉はステガマリの狙撃で負傷となっていて、描写自体は簡潔です。
自分のせいとは言え、早いところ男色云々から離れたいなぁ。
>>46
○すっきりしました。
51薩摩隼人:02/07/23 02:21
牛を犯れるようになったら一人前でゴワス
52維新入道:02/07/23 13:56
島津奔る。 最後に宇喜多秀家が薩摩にいた逸話あたりを
入れて欲しかったな。
なんか最後があっけなかった。
義久の解釈が納得いかない。
それとも、実像はあんな感じなのか?
54無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 14:36
義久はちょっと逆説的な解釈で面白さを出そうとしたんだろうね。
最大の領土を得た当主があんなに情けないこともないだろうし。

島津の義久、義弘両頭並び立つリーダーシップってちょっと特殊だよね。
元就の3兄弟とも全然違うし。
あれこれ想像も膨らむってもんでしょう。
家康の解釈は面白くて良かった。
「遁げろ家康」は笑ったYO
56無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 15:04
うん。 家康はただの小心者で周りの野心に満ちた家臣に担ぎ上げられて気がついたら
天下が目の前に・・・というような話、最近結構読むんだけど、他の武将の勇ましさが
際立っていいね。
57無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 15:05
義弘も際立った。
58無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 18:40

戦 場 で も 標 準 語 を し ゃ べ る 惟 新 萎 え

弟 に 嫉 妬 し ま く る 小 心 者 の 龍 伯 萌 え
今日が誕生日らしい

1535年7月23日
島津義弘が貴久の次男として伊作城で生まれる。
60無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 23:37
旧暦云々とかはないよね。
とりあえず、おめでとうage
61無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 01:09
甥っ子死なせて自分だけ生還してなにか言われなかったのかなあ?
あと最初東軍につこうとしてたくせに態度でかくない?
まあ戦上手だったのは認めるけど。
62無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 01:10
東軍につくってそれは島津の後付けの言い訳だよ
63無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 01:12
鶴丸城マンセ一
そんな風にみるひともいるわけか…。
65無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 01:18
そんな風もなにも島津本国でも立派の西軍に加担してるけどね
6664:02/07/24 01:48
>>61
>>甥っ子死なせて自分だけ生還してなにか言われなかったのかなあ?

おれが言いたかったのは、上記の文章についての感想。
レスが少し遅れてしまったようだ。
それと説明不足だった。スマソ。
67無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 01:59
甥っ子って言っても所詮は家来の一人だ罠。
義弘にとっては、豊久は身内の中でも別格だと思うけど……小説に
毒されているかな。
69無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 02:15
>>68

>>46は一門の間でも例外ではない
これでも豊久が座禅陣を組み義弘を逃がした理由が分からないか?


70無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 02:18
>>68
漏れはその小説とやらを読んだことはないけど、豊久のことを
えらく信頼してたって聞いたことはある。家督を譲るとかなんとか・・・。
それはともかく、その甥を死なせて義弘はさぞかし落胆しただろうが、
他人からは文句言われんだろ、たぶん。
>>69
「我が将の首級を敵に委ねるべからず、
もしかなわざる時は全軍討ち死にせよ」
この非情な軍法のことかな?
46からの引用だとすると、ふたりは関係アリと読み違えしそうだ。
ふたりの交流を辿ってみれば、親子に近い関係だと言えるだろう。
豊久の捨て奸が、ただ軍法ゆえの行動だと言うのは、ふたりの内面
の感情を無視しているようで、ちょっと受け入れがたいな。
72無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 08:20
島津義弘って、本当は島津家の当主じゃなかったんでしょ?
>>72
(゚д゚)ハァ・・・?
74 :02/07/24 09:39
>>73
島津義弘は島津家の当主にはなっていないよ。
有名だから当主だと勘違いしてる人が多いけど。
7573:02/07/24 09:46
いや、知ってる。当然のごとく。
だからこそ>>72にハァ?と。
76無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 10:03
糞すれ
77無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 10:17
一応、表向きは第17代当主にあたるはずです。
実際上の実権は、義久との危うい均衡のうえで成り立っていたと
解釈しますが…。
78無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 12:51
確か家督継いでたと思うぞ。継いでなかったって説もあるそうだが。
もともと後継ぎがいなく、秀吉に降伏後ほとんどヒッキー状態だった義久に代わり
義弘が家督継承、関ヶ原絡みで実権を失い、戦後処理は義久主導。で、義弘の子
忠恒が家康から一字拝領して家久に名を改め、家督相続が認められて
戦後処理が終了、でなかったっけ?
79無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 13:22
>>77,78
だから、そっちの説の方が古くさい説なの。
80無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 13:25
>>79
あ、そうだったの?スマソ。
81無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 13:39
島津奔るなんて、
最近の島津研究の成果を無視し古くさい話しを書き連ねただけの今更の小説のような気がするが。

島津及び、島津義弘の最近の説は・・・

まず、朝鮮の役で八千で二十万の明軍を破ったという話しも誇張があるし(実際は戦意に乏しい敵兵が四万くらい)
李瞬臣を倒したのも基本的には鉄砲のマグレあたり。
伏見城の入城拒否の件も戦後、徳川との関係を考慮しての全くの創作だし、
最初から島津義弘は三成シンパのバキバキの親豊臣の西軍派。
義久・忠恒とは対立してて親豊臣派の彼の女婿、伊集院忠棟を庇い開城を説得したりした。
関ヶ原でも島津軍は石田隊の二番備えであって参戦拒否していたわけではない。

などだ
82無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 13:48
>>81
良いんじゃねーの?
ツキや誤魔化しも実力のうちだろうし。
83無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 14:17
小説としては最近の歴史小説では最高に面白いほう
84無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 14:20
厨房向けの本だな ありゃ
85無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 14:23
いずれにしろ戦巧者
木崎原で十倍の伊東軍を撃滅 その他戦勝数知れず
86無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 19:14
義弘と言う名前はカッコいいと思う。
義昭から一字拝領したときの「義珍」のままだったらこんなに人気出たかな?
87無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 19:53
義珍!?
88無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 20:05
なんて読むんだそれ?
「よしちん」か?
89無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 20:09
「摩利支天の再来」
これほどカコイイあだ名はないと思われ
90無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 21:34
確か義平って名乗ってたこともあったよな。
やつの改名遍歴分かる人いる?
91無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 22:30
>>90

又四郎→忠平→義珍→義弘→惟新斎自貞
92無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 22:52
なるへそ〜 義珍ってのは初耳だったな。
次男なのに将軍から一字拝領したのか。
>>79>>81
どこかにかソースはないですか?
94無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 23:45
>>81

そうだね。
義弘は戦術指揮官としては有能なんだけど、
領主としての力量は義久に及ばない。
最たるものが関が原の時は義久が伊集院の謀反を理由に
断固として主力を送らなかったこと。
非情な様に思えるけど、
先を見越して兵力を温存することに成功し
地道な外交術を展開し、
主だった大名の中では唯一領国維持に成功できた。
同じ事をして転封+削減された佐竹氏と比べたらもう・・・。
95無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 23:46
実は関ヶ原で義弘は所領没収になった罠。
96ともチャン:02/07/24 23:50
>>94
>同じ事をして転封+削減された佐竹氏と比べたらもう・・・。

なかなかいいところをつくな。
ただ佐竹の場合は領国の場所が場所だっただけに
あれだったといっておきたいのです。
97無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 00:14
>>51
牛とやるのは三河じゃなかった?
司馬遼の小説でみただけだが
>>79
そうすると17代は家久となるのですか?
島津家は29代忠義で幕末を迎えるわけですが、本当は28代で終わる
のが正しいのかな。
なんか混乱しる。
99無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 00:19
>>97
土佐もそう、薩摩以外でもけっこうあったらしい
100無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 00:24
>>97
司馬遼の『戦雲の夢』(タイトル忘れた。長宗我部盛親のやつ)では
土佐の連中が牛とやってたよ。「牛試し」とか言って。
>>81
最近の説とやらが必ずしもすべて正しいとは思わないが、
こちらの方だと池宮史観の義久とはまったく逆の義久像が
生まれるな。
むしろ、こっちの方がしっくりくる。
実際、三州の太守があんな体たらくでは萎えまくりだ。
102無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 04:13
>>81
確か伏見城入城拒否の嘘と関ヶ原で最初から西軍と義弘が決めてた
というのは確かいつぞやのLOGINにも書いてあったね。
義弘は国元に援軍を要請したが親徳川というより中立を
主張した義久の妨害にあったとかも書いてあった。
ウロ覚えでスマソ。
103無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 04:17
まあ、義弘が最初は東軍に付こうとしたという話しよりは
親しい石田三成や宇喜多秀家や小西行長と共に西軍で戦ったという方がしっくりくるね。
104 :02/07/25 05:48
ていうか、石田三成は島津家にとっては大恩人なのだが。

秀吉と正面きって戦っておきながら家が存続したのは三成のおかげ。
小田原に来なかっただけで潰された東北の大名家の立場は??
他に開墾の技術援助などもしてもらっている。
105無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 06:58
>>104
まあ、その通り。義弘の西軍参加はそういった理由からだ。
ちなみに大阪の陣で豊臣が各大名家に援軍要請した時、
他の大名家が豊臣の使者をロクに話しも聞かず門前払いにしたのに対して、
島津は豊臣家への報恩は関ヶ原で済ましていると使者に説明したとか。
島津萎え
107無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 13:07
おれ島津義弘の家の隣に住んでるぜ






ただの同姓同名なんだけどね
義久を題材(主役)にした小説を読みたいなぁ。
誰か知りませんか、短編でもいいのですが。
109無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 06:20
龍伯age
110無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 10:12
島津義弘軍が李舜臣を討ったことについては鉄砲の「マグレ当たり」という表現を目にすることが多いがそれはちょっと違う気がする。
足軽の武器であり、武士の武器ではないというが当時の鉄砲運用の常識だったそうだ。
また鉄砲は弾幕として運用していたそうだ(つまり多対多の戦術)
対して島津家では鉄砲を武士の武器として使用、鉄砲を弾幕としてのみ使用していたのではなく積極的に狙撃用兵器として使用していたそうだ。
このような鉄砲運用の違いが李舜臣の討ち取りという成功につながったと考えるならばただのマグレ当たりとは言えないと思う。
関ヶ原の撤退戦でも徳川方の指揮官が狙撃され、東軍は島津の追撃に失敗している。
島津追撃隊が少数だったから指揮官の怪我が多かったのではという意見も目に付くが、これも島津の鉄砲運用が戦いのプロである武士に指揮官が効率的に狙撃されたためであろう。
島津家の鉄砲運用は雑賀党と同等かそれ以上に巧みだったのではないだろうか
111無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 11:01
>>110
まあね。
ただ、敵将討ち取りと言っても沖田畷の龍造寺隆信とか桶狭間の今川義元とか、
あるいは小牧、長久手の池田恒興とかの例のような。
我々の普通、思っているようなイメージ、
つまり、敵軍を圧倒し、あるいは追い詰めて敵将を討ち取ったというわけでもないからね。

まあ、島津の積極的かつ濃密な鉄砲運用があのような幸運を呼んだんだろうね。
112無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 11:17
しかし、言われてみれば日本の合戦では
勝ち負けもろくについてない段階で武将が流れ弾や流れ矢にあたってコロッと死ぬってことは少ないね。
なんでだろうね。
113無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 11:19
>>112
あの時代はまだ日本に限らず鉄砲の射程距離が短かったせいで
流れ弾の戦死者が少ないんだと思う
114無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 11:24
>>113
しかし、時には見当外れな長距離を飛ぶ事があるのは弾丸の常識。
大阪城で淀君を脅えさせて講話させるきっかけになった、
本丸まで届き侍女を殺した砲弾なんかは有名。
115無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 11:53
薩摩隼人って一人一丁鉄砲装備だったんでしょ?
116無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 12:02
ちぇすとおおおォォォォォォォォォォーーーーー!!!!
117無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 12:05
>>115
一人一人の腕もかなりのものだったらしい
118嫌薩厨房:02/07/28 12:24
◆つい50年前まで、足が象のように腫れる奇病が流行っていた国
◆つい50年前まで、インドシナの密林のようにマラリアが流行っていた国
◆日本国内で遺伝性鎌形赤血球型貧血症とA型肝炎が蔓延してる劣等種の国
◆地方交付金を都市部から吸い取っている寄生虫みたいな国
◆人の足下をすくう武士道とはほど遠い卑怯な剣法を平気で教えている国
◆「ステガマリ」「釣り野伏」という、勝ちを盗むような卑劣な戦い方をする国
◆県全体が被差別部落そのものの国
◆米が育たないから芋しかとれない国
◆郷土料理に犬料理がある野蛮な国
◆その昔、南方からわたってきて「山鬼」と呼ばれていた未開人種の国
◆藩主が相模の国の士族から系図かっぱらってきて居座ってた国
◆関ヶ原でなにもしないで傍観してたマヌケな領主のいる国
◆関ヶ原敗戦後、保身のためだけに明と軍事同盟結んだ売国奴の国
◆江戸時代揖斐川の治水で奴隷労働させられた使い捨て劣等人種の国
◆江戸時代にニセ札つくって国内の経済をガタガタにした国
◆江戸時代、江戸市中の犬をかっぱらって鍋やってた国
◆それまで平和にくらしていた沖縄の人々を蹂躙し支配した国
◆江戸時代禁制の密貿易をおこなって不当な利益を得ていた泥棒みたいな国
◆江戸時代商人からの借金を一方的に踏み倒したヤクザみたいな国
◆幕末に京都市内に放火しまくったテロリストの国
◆見方だった藩を裏切って、敵だった藩に味方する誰とでも寝る国
◆四境戦争で長州を煽って幕府と一緒に自滅させようとした国
◆外人相手に排外テロやって、外国と戦争して、幕府にその尻拭いさせた国
◆それまで無名だった天皇をスリかえて、自分の都合のいい君主に作り替えた国
◆乞食や部落出身者が「明治の元勲」として威張り腐ってる国
◆自分の郷土の民謡を脚色して一国の国家に強制した国
◆「分け隔てなく国家に殉じた者を祀る」神社に土方・河井を祀らない不寛容の国
◆日本政府に反乱を起こして焦土にされた我々とは違う考え方をもった国
◆声だけバカでかくて中身からっぽのペテン師の首相を排出した国




119嫌薩厨房:02/07/28 12:30
昔、奄美諸島が薩摩藩の支配下にあった。
薩摩藩に黒糖を税として取られ、
食べ物がなかった離島の人々は
猛毒のソテツの実を何度も干して、毒抜きをして
食していた。
黒糖を少しでも食べようものなら、即刻拷問の上死罪。
女子供、老人、病人であろうとも容赦のない拷問が
くわえられた。
幼い子供が黒糖を食べたと、百叩きの刑にあったりなど。
少しでも容姿の美しい娘はてごめ、こんな話もあります。
薩摩役人のてごめにされるのを拒んだ娘が、
陰部に焼きごてを入れられたと。
そのほか、おぞましい悪行を薩摩藩は離島に
行ったのです。

>>118
>>119
福島の方ですか?
板違いなので、消えてください。
義弘は17代当主だったと思います。
>>119
こっちは沖縄?
123無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 12:41
鹿児島人って日本人離れしたやつらばかりだと妄想していたんだが、
はしのえみとか福留孝介も鹿児島出身なんだよね。
今では全然他の所の人とかわらないんだな(当たり前かw)
124嫌薩厨房:02/07/28 12:42
∫    ∫     ∫

          ∫     ∫
鹿児島名物でごわす
         ____            _   ◎−◎
        /      \        / @ (∴д(∴) ウマー
       /●  ●    \      //   義弘
      /    ;  Y  Y |   //
      | ▼        |  | |  //   ◎−◎
    _|_人_      \/_//_  (∴д(∴) ウマー
   〔_..\___________/______〕  SATUMA
     (                .:.:.:.:.)
     ( 城山観光ホテル   .:.:.:..:.:.:. )   ◎−◎
      (______.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.)    (∴д(∴)ウマー
       \___ _____/     島津
     __〔 ∬ ∬ ∬ ∬ ∬ 〕___
     |           【○】    |
     |___元祖エノコロ鍋____________|


125無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 12:46
∫    ∫     ∫

          ∫     ∫
別府名物です
         ____            _   ◎−◎
        /      \        / @ (゜Д゜) ウマー
       /●  ●    \      //   
      /    ;  Y  Y |   //
      | ▼        |  | |  //   ◎−◎
    _|_人_      \/_//_  (゜Д゜) ウマー
   〔_..\___________/______〕  SATUMA
     (                .:.:.:.:.)
     ( スギノイパレス   .:.:.:..:.:.:. )   ◎−◎
      (______.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.)    (゜Д゜) ウマー
       \___ _____/     島津
     __〔 ∬ ∬ ∬ ∬ ∬ 〕___
     |           【○】    |
     |___火災保険鍋____________|
126無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 12:55
ハア・・・疲れるなあ・・・島津の話なると必ず出てくる、こういう低能アラシは逝ってくれよ・・・
とりあえずsage進行で、お願いします。
128無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 13:01
つうか島津義弘個人に対して恨みを持っている人なんていないだろうなあ
低能アラシにしても島津家久に占領された沖縄の人か幕末薩摩に敗れた福島の人なんだろう
島津義弘のスレまで荒らさないで欲しいよ
別府ですか・・・
130無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 14:12
スギノイパレスってよく火災で炎上してるよね
131無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 14:38
島津義弘と家久、共に島津最強と称される両者が同じ条件(兵数や軍備、地形など)で戦ったら
さあ、勝つのはDOCCHI?
>>131
ラベリング効果や威厳などを考えて義弘だろ。
>>132
この場合のラベリング効果とは?
134無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 23:52
耳川の戦いで総大将を務めた島津義久が実は一番戦上手だったりして
135無名武将@お腹せっぷく:02/07/28 23:57
総軍の司令官としてなら義弘の方が上だけど、白兵戦なら家久
136無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 00:01
「釣り野伏せ」の囮部隊の指揮官としてなら家久は天下一。
137無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 00:05
>>136
釣り野伏せは島津以外使わないので天下一でなく薩摩一にしろ
138無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 00:12
島津義弘は指揮能力が優れている以上に人を心服させる人柄、カリスマがある。
単なる司令官を超えた英雄である。
139無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 00:24
四兄弟の仲でもっとも人望と名声を集めたのは家久(とくに秀吉・隆景からは激賞されてる)
ただ壮年期に死んだため政治的評価がしづらい
140無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 00:32
>>139
秀吉による毒殺説もあるね
臣としての家久の気骨・才幹は気に入っていたが、将来豊臣の禍根になることも恐れていたとか
毒殺は、島津家(義久)によるものという説も
ありますな。
病死だと思うけど…。
142無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 01:53
俺の好きな歳久の話もしてくれ(泣)
143無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 02:03
>>142
ちょっと、影がうすいかなぁ…。
144無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 02:25
語尾が「ごわす」なのはカコワルイ
時代や地域によって言葉は変化すると思うのだが、
実際のところ戦国時代の薩摩大隈あたりは「ごわす」
とか言ってたの?
板違いスマソ。
146無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 07:03
>>140
秀吉や秀長が家久ごときわざわざ毒殺するわきゃないだろ。
秀吉・秀長より義久が怪しいという説は賛成。
でも、まあ病死だろうね。過労死かもしれんけど。

>>142
その悲惨な最後は印象的だな。
九州征伐のさいに秀吉の陣に鉄砲を放ったんだった?
その時点で秀吉が腹を立てて歳久殺せと命令しても良かったんだが、
その場は政治的配慮から怒りをこらえたようだが、その恨みは後年に口実をつけてはらされたようだな。
147無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 07:12
義久との外交姿勢の差とか、合戦に明け暮れた人生とか、これほど大河ドラマ向きのキャラはいないと思うんだけどなあ……。
やっぱ、沖縄&チョソが文句言うのかなあ?
148無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 07:16
>>145
方言に忠実な翔ぶが如くでも言ってたから、
言ってたと思う。
「釣り野伏せ」ってどーゆー戦術?教えて。
150無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 07:39
鬼石曼子だから、無理ポ。
避けては通れない場面だからな。
あと、琉球侵攻もあるしな。
今回の利家とまつの行方いかんでは
無理でもないんじゃないの?

都合悪そうなトコは今回みたいにやらないなり、捏造するなりで・・・
なんか何でもありっぽくなってるみたいだしね、大河。
152 :02/07/29 09:19
平和的に温かく琉球の王者として迎えられる島津公がみられるのか。
153無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 12:00
1です。 久しぶりに見てみたら沢山レスがあってうれしかったです。
そうかー大河は無理なのですか。結構泣ける場面が作れそうなのに惜しいなあ。

とにかく、いま海外にいてこの本を読んだわけでして、日本男児としてがむばって行くぞ
という気力がわいてきました。 単純ですね。
>>153
>>単純ですね。
そんなことない、がんばってくれ。
155無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 12:13
あの小説の信憑性は・・・・・だけど、
義弘は相当の武将だったとは思うよ。
関ヶ原も義弘如何で、結果が逆になった可能性も無いとは言えないかも。
>>155
あの兵数ではねぇ…。
「薩州勢五千召列候はば、今日の合戦には勝つものを」
義弘の、この台詞の真偽のほどはともかく、たしかに五千の兵が
あれば大局の推移に絡むことはできたと思う。
157無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 13:37
>>149
少数部隊が囮になって敵をおびき出し、伏兵でこれを討つ戦法

伏伏伏
伏 ←囮 ←敵敵敵
伏伏伏

158無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 13:45
釣野伏せって敵将の死亡率が高いよな
>>157
ちょっと違う。囮部隊が反転して敵を叩くのが重要なんだと思う。
>「薩州勢五千召列候はば、今日の合戦には勝つものを」

それもどーだか。
あそこにいたのは朝鮮陣参加のメンバーとは別の
「義弘のためなら死ねる」藩中屈指の強豪猛者ぞろいの1500人だからな。

ただ数が多ければ負担は減るし、躊躇わずに最初から参戦はできたと思う。
161160:02/07/29 14:07
適当に5000ほど動員した場合との比較ね。
162無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 14:10
>>159

反撃の主力は伏兵だろ?
囮はあくまで囮
163無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 14:19
>>158
罠だと気づいたときには敵陣深くまで引きずりこまれ退路も断たれた状態
四方八方から包み込むように襲ってくるんだから生きて帰るほうが難しい
164無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 14:21
最強の釣り師か・・・
みんな、こう言う話は好きなんだな。
166無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 14:29
>>157>>163
ガクガクガク((゚Д゚;))))ブルブルブル
167無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 16:34
モンゴル軍も釣野伏せみたいな戦法使っているよね
168無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 18:04
>>140
子飼いの七本槍達が一番の禍根だった罠。
豊臣思うならなりふりかまわず徳川を潰すべきだったな・・・
石田はその後でどうにでも出来たし。

空気違いすまん。
169無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 18:11
>>168
正則たちは三成を毛嫌いしてたうえ三成による政権簒奪を恐れて徳川についた
>>豊臣思うならなりふりかまわず徳川を潰すべきだったな・・・
>>石田はその後でどうにでも出来たし。
結果的にはそうだったかも



170無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 19:57
豊臣秀長との会見の直後に急死したんだから、ヤパーリ家久は豊臣に毒殺された疑いが強いよね
171無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 19:58
おまいら全員ふざけるな!
島津は戦国最強なんだよ!
島津義弘軍団は当時世界最強だったんだよ!
織田兵5人でやっと島津兵1人分なんだよ!
科学的には25,000×5=125,000で信長はそんなに兵力集められないから
余裕で義弘公の勝ちなんだよ!
義弘がひとたび上洛すればみんなひれ伏すんだよ!
あと3年で島津府が天下統一してたんだよ!

このスレは科学的に正しい歴史の見方ができる人のためのスレです。
できない人は糞スレに逝って下さい。
172無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 20:11
秀吉からして家康をどうにかできるうちにどうにかしなかったし。
あの時秀吉が一番警戒してたのは如水だったし。
>171
あのスレそのものが面白くない。君の改変も。
174無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 20:36
>>170
ん? 豊臣に家久を殺す理由なんてないよ。
武勇を恐れてなんてのは島津オタの身びいき。
そもそも家久は義久・義弘より早く豊臣に恭順してるので、
彼を利用されるのを恐れた義久たちが毒殺したという説の方が説得力があるのだが。
でも、まあ、病死だろうね(激務による過労死とかストレスから解放されたから、あのタイミングで死んだというのはありえる)
175無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 20:54
>>174
ほぼ間違いなく豊臣が毒殺したと思うね。
その後の豊臣家が島津家撹乱のために義弘を重用したり
伊集院を利用したりと策しているのを考えると家久毒殺もあるだろう
裏を返せば豊臣家をしても島津家は怖い存在だったということだと思うよ
176無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 20:54
これ単行本?ハード?探したけど売ってなかったな〜
とりあえず、ハードだけしか出てないはず
もし、単行本が出てたらスマソ・・・
178無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:06
179無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:08
今年の初めくらいに単行本で読んだけど

とりあえず小説だとしても無視できないような曲解が多過ぎ、、、
180無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:09
>>177-178
どうも
ハードか〜
図書館で借りるかな
181無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:13
島津の団結の強さは衆道の契りによるものだそうだが、
島津義弘の具体的相手は誰だったんだろうか?
薩摩の昔の慣習から察するにいろんな武士を掘りまくってたと思うけど、もしかすると豊久も相手か?
彼は甥だけど衆道の世界に近親同士はいけないとかいう思想はあったのかな?
182無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:19
>>181
すぐにそっち方面に話を持っていきたがるヤシがいるな(藁
183無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:29
良いんじゃねーの。
四兄弟や貴久もそうだけど島津家の者って、当時の戦国大名たちと比してやたら妻妾や子供が少ない印象があるんだが、
やはり男と多量にやってたのが原因なんだろーか?
184無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 21:31
>>181
関ヶ原の合戦のおり、
徳川の陣中に突っ込むのが、三成の再三の出馬要請に関わらず、戦いの終盤だった。
それまでの間、義弘が豊久を堀まくってたという、うわさがある。

鹿児島では今でも盛んなのだろうか。
186無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 22:21
>>181
こういうことらしい
>>69
薩摩では衆道は友情・臣従の延長とされていたそうだから近親かどうかは関係なかった
187無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 22:26
要はアナラーズだったと。
188無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 22:33
>>183
でも、信玄、政宗、信長といった男大好き大名たちも多数の妻妾と子供も十人くらい居たはずだが。
思うに彼らの「男好き」というのはまだまだ甘くて女色5:男色5程度だったのだが、
島津の場合、女色2:男色8とかいう次元だったのかも。
189無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 22:35
要は真性だったと。
薩摩隼人、(;゚ロ゚)コエエエエエエ!!!
191無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 22:39
ちなみに牛を掘ったら一人前
192無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:03
>>181 >>183-184 186-191
お前こそ真性だろ(藁
そっち方面に興味ありすぎだろ
193無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:14
>>192
おいおい、俺はそこにいくつか書いたけど、単独じゃねーぞ。
194無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:18
豊臣による家久毒殺説なんて、島津側から見ても、豊臣側から見ても不自然すぎる

なのにどーして、ほぼ間違いないとか断言出来るんだろうか?
終いには豊臣にとって島津は怖い存在だったとか、日射病にでもやられたか?
>>195
夏だから
196無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:22
>>195
なんで自分に対してレスするんだ?
夏だからあんたがボケたのか?
197195:02/07/29 23:24
195の >195 は >>194 な

暑さにやられたのは俺だったか・・・
吊ってくるよ
198無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:25
>>195
自分が夏厨だと白状したのか(ワラ?
>>194
怖い存在という表現は人によって取り方が違ってくるだろうな
ちょっと表現をミスしたかと思っていたよ
豊臣にとって島津家は侮り難い存在、何とか弱体化しておきたい家だったことは確かだろ?
繰り返しになるが、豊臣家は島津家弱体化を狙った策謀をしまくってる
199無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:25
>>194
島津オタは八千で二十万の明軍を撃破したとかいう話しを本気で信じてるぐらいなんだし、
その程度の話しを信じこむのは簡単だろ。
200無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:28
200get
201無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:29
ついでに毒殺か病死かは謎だからわからんけど
家久が秀長に従って秀吉と会見する際に、
秀吉から体調崩してるようなので無理すんなって書状が来たようで
家久は、それに対して大丈夫ですって返書してるのが残ってるね
202無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:32
>>198
長宗我部・島津は弱体化させるで済んでいる点を考えれば、
見せしめ+しつけという感じでは無いだろうか
侮りがたいなら滅ぼされるのでは、北条みたいにさ

そんな漏れは、北条厨
203無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:33
>>198
家久が死んだ時は、九州征伐直後で仕置の最中なんだが
その当時に弱体化を狙うほど危険を感じてるなら、潰してるよ

弱体化を図ったのは、その後の話だろうに
204無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:34
>>199
それは義弘ヲタ
島津ヲタと違い義弘だけを過大評価する


205無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:34
>>201
へー、初耳だ。そんなやりとりがあったんだ
206無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:35
>>198
あ、それと194で日射病にやられてかとか言ったのは言いすぎでした
ごめんなさい、スマソ
207無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:37
>>202
長宗我部・島津は呆条と違い臣従しました
208無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:38
>>202
たんに北条は島津の時よりも時期が悪かったためでは?
全国で秀吉の敵はほぼ北条家ただひとつだからな
時期が遅くなればなるほど条件が悪くなるのは当然
徳川よりも島津の方が分が悪いし、島津よりも北条の方が分が悪いのは当然だと思う

それから島津義久がうまく秀吉の心を捉えたというのもある
209無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:41
>>208
義久の政治力というよりは石田三成の助言と援助が大きかったんだが。
210無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:43
>>207
それはちょっと違う。
結果的に臣従したのであって、降伏したという行動自体は変わらない。
臣従可能・不可能を決めたのは秀吉。
>208のいう通り、タイミングが悪かったのというのはその通りだと思う。
211無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:44
>>209
義久が自ら頭を丸めて、自ら赴いた事も大きいと思うぞ
212無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:45
>>209
石田三成の助言と援助が秀吉の九州仕置き(戦後処理)に影響したとは思えんが
確か石田三成の助言は検地関連だったと思ったが
213無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:47
確かに時期だろうねぇ
島津や長曾我部の時とは、時勢が違いすぎてるからねぇ

それと島津の降伏が認められたのは、秀吉の「唐入」が関係してると思うんだけど
秀吉が島津征伐で博多に居た際に宗氏に対して朝鮮へ内裏への出仕を求める書状出してるし
214無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:51
三成の影響は大きいと思われ

義弘が単独で抵抗してる時に秀吉への取次ぎの交渉するのに
三成を介してやってるからね
義久の場合は伊集院忠棟と秀長かな?書状でも忠棟の詫状で秀吉が機嫌が良くなったとか
秀長に感謝するようにとか書かれてるから
215無名武将@お腹せっぷく:02/07/29 23:55
>>212
そうか?
私の読んできた本では石田三成の力が大きかったと書かれてたし、
島津義久・義弘も感謝して彼を讃えたそうだがな。

>>211
そのくらいの控えめな書き方なら良いし賛同もできるんだが。
どうも島津オタは島津の成功は島津の者のみの手腕と力だと思いこむとこがあるんだよな。

島津(特に義弘)と三成や西軍派諸将の関係も無視されがちだな。
島津の朝鮮役後の加増も実際は徳川ではなく三成の奔走のためなんだけど。
216無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 00:00
>>214
そうそう。
それにひきかえ、当初から豊臣への臣従を主張しながら、
秀吉の陣に鉄砲を打ち込んだり、一揆を扇動した歳久は言われてる程の賢者とも思えないぞ。
217無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 00:02
島津と三成、なんか正反対のイメージなんだけどどうして三成は島津の肩持ったの?
218無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 00:02
>>201
どんな理由で家久は体調を崩してたんだろうね。
219無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 00:02
>>215
島津の朝鮮出兵後の加増ってあったっけ?
義久の大隅が没収されて、久保の所領も合わせて義弘に薩摩・大隅と日向の一部が宛がわれたのでは?
220無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 00:03
島津義久の豊臣秀吉をおちょくった手紙を細川藤孝に送ってる。
こんな事書いておいてよく島津家は生き残れたよなと感心する

http://isweb14.infoseek.co.jp/novel/rekiju/tegami/simadu.htm
なんか、いきなりレスが伸びてる。
で、いきなりレスが止まってる・・・
223無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 21:05
>>216
歳久は薩摩の不満分子を一掃するために自分の命を犠牲にしたんだよ
224無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 21:09
>>217
わからん。でも案外、島津義弘は教養があるので三成とウマがあったんだろうな。
三成と仲の良い武将は直江兼次とか小西行長とか大谷とか長束とか
武力のある無いは別として教養のあるタイプばかりだしな。
225無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 21:12
>>224
「案外」とは義弘タンに失礼ではないか(ワラ
226無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 21:22
>>225
ああ、そうだなスマソ。
しかし、武将の相性とは面白いもので、島津義久はわりと豊臣と相性が悪いんだな>>220の手紙でもわかるよ。
毛利の小早川隆景が豊臣と相性が良くて、吉川元春が悪いというのと似ている。
227無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 21:58
朝鮮の役で島津義弘は自軍に夥しい犠牲を払ってまで小西行長を助けたが
島津義弘と小西行長は仲が良かったのかな?
それとも特別な理由が何かあったのかな?
文庫出てるよ(新潮社 ; ISBN: 4101408165)。

個人的には仮想戦記の出来そこないみたいでイマイチだったけど、
家康のキャラクターは結構好き
>>228
>>個人的には仮想戦記の出来そこないみたいでイマイチだったけど、

仮想戦記よりひどいかな?
独特の池宮史観は賛否両論あると思うのですが、小説の中身自体は
なかなか完成度が高いと思いますけど。
230無名武将@お腹せっぷく:02/07/31 04:20
島津義弘の伏見城入城拒否の件、私もたしかに全くのウソだとは思うけど、
良く考えたら鳥居元忠にしてみれば、義弘と西軍諸将の関係を考えれば警戒して拒否するに決まってる。
もしかすると義弘は伏見城を内部から陥落させるための計略だったりして。
231無名武将@お腹せっぷく:02/07/31 06:06
>>224
>わからん。でも案外、島津義弘は教養があるので三成とウマがあったんだろうな。
>三成と仲の良い武将は直江兼次とか小西行長とか大谷とか長束とか
>武力のある無いは別として教養のあるタイプばかりだしな。

島津はともかく、ほかの連中って教養あったのか?あんま聞かんが。
>>231
そりゃ小西や直江に失礼だろ。
233無名武将@お腹せっぷく:02/07/31 07:42
なんで失礼なんだ?
234無名武将@お腹せっぷく:02/07/31 08:10
>>231
聞かないのではなく知らないだけだろ。
自分に都合よく言葉をすり代えるのは感心しないな。
235無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 02:29
>>234
で、彼らは教養人だったの?

言葉をすりかえるって言ったって、>>231は教養が無かったとまでは言ってない罠。
236無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 03:27
直江はかなりの教養人で書をよく好んでいた。
小西も商人あがりで茶道に造形が深かった。
それで俺はむしろ、島津義弘が教養あったって話を知らない。
237 :02/08/02 03:49
>>236
醫學に精通していて負傷兵の治療をしてますた。
238無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 03:52
>>237
なるほど、九州っぽいね。
書をいくつか残すくらいだから、教養はあったのでは?
和歌や茶の湯のたしなみもあるし。
240無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 04:50
ちょろりと検索してみますた。
直江兼続が教養人だという根拠は見当たらず。
前田慶次郎が教養人だということはよーく分かった(藁
小西行長もそれらしいのは見当たらず。茶のことも分からん。
ていうか当時茶に手出してたやつなんぞ腐るほどいるシナ。
島津義弘が茶や医術に通じてたってのはちょっとあった。
が、義久の古今伝授の方が目についた。
241石慢子:02/08/02 12:34
ちぇすとー
そもそも、何をもって教養人と定義すべきなの?
243無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 21:12
>>236
島津義弘は和歌を詠むのが好きだった
島津忠良の影響がきわめて大きいと思われ…。
245無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 23:09
烈風伝の島津義久は「時計」を家宝として持っているぞ
時計の意味がわからなかった織田信長よりも現代的な御人だったようだ
246無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 23:20
>>245
>時計の意味がわからなかった織田信長
地球儀を見せられて地球が丸いことを理解した方は知っているけど
その話知らないわ
247無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 23:23
>>246
たしかフロイスが贈った時計を「意味のわからないものは要らん」と言って返したらしい
248無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 23:24
烈風伝でも信長は絶対に「時計」だけは受け取らないそうだ
249無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 23:55
>>245
適当に持たしといただけだったりして
>>247
おれの知っている話と、ちょっと違うなぁ。
信長は、故障しても直すだけの材料や技術がないから、と断ったとか…。
真偽のほどは定かではないですけど。
スレ違いですね、スマソ。
251無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 01:50
どっかの宣教師が貴久に時計献上しなかったっけ?
ザビエルだったような・・・。
252無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 01:51
>>250の話のほうが正しい

ルイスフロイスの日本史参照
253無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 21:05
島津義弘様、悪いチョンをやっつけてやってください

http://ime.nu/www.geocities.co.jp/SiliconValley-Sunnyvale/4734/chogin.html
254西郷隆盛:02/08/03 21:49
このヂゴロが!
255無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 22:43
>>246
日本には別に宗教上の制約はなかったので、地球が丸いことを受け入れたから革新的と言うことは特にない
256嫌薩厨房 :02/08/03 22:48

◆つい50年前まで、足が象のように腫れる奇病が流行っていた国
◆つい50年前まで、インドシナの密林のようにマラリアが流行っていた国
◆日本国内で遺伝性鎌形赤血球型貧血症とA型肝炎が蔓延してる劣等種の国
◆地方交付金を都市部から吸い取っている寄生虫みたいな国
◆人の足下をすくう武士道とはほど遠い卑怯な剣法を平気で教えている国
◆「ステガマリ」「釣り野伏」という、勝ちを盗むような卑劣な戦い方をする国
◆県全体が被差別部落そのものの国
◆米が育たないから芋しかとれない国
◆郷土料理に犬料理がある野蛮な国
◆その昔、南方からわたってきて「山鬼」と呼ばれていた未開人種の国
◆藩主が相模の国の士族から系図かっぱらってきて居座ってた国
◆関ヶ原でなにもしないで傍観してたマヌケな領主のいる国
◆関ヶ原敗戦後、保身のためだけに明と軍事同盟結んだ売国奴の国
◆江戸時代揖斐川の治水で奴隷労働させられた使い捨て劣等人種の国
◆江戸時代にニセ札つくって国内の経済をガタガタにした国
◆江戸時代、江戸市中の犬をかっぱらって鍋やってた国
◆それまで平和にくらしていた沖縄の人々を蹂躙し支配した国
◆江戸時代禁制の密貿易をおこなって不当な利益を得ていた泥棒みたいな国
◆江戸時代商人からの借金を一方的に踏み倒したヤクザみたいな国
◆幕末に京都市内に放火しまくったテロリストの国
◆見方だった藩を裏切って、敵だった藩に味方する誰とでも寝る国
◆四境戦争で長州を煽って幕府と一緒に自滅させようとした国
◆外人相手に排外テロやって、外国と戦争して、幕府にその尻拭いさせた国
◆それまで無名だった天皇をスリかえて、自分の都合のいい君主に作り替えた国
◆乞食や部落出身者が「明治の元勲」として威張り腐ってる国
◆自分の郷土の民謡を脚色して一国の国家に強制した国
◆「分け隔てなく国家に殉じた者を祀る」神社に土方・河井を祀らない不寛容の国
◆日本政府に反乱を起こして焦土にされた我々とは違う考え方をもった国
◆声だけバカでかくて中身からっぽのペテン師の首相を排出した国
257無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 11:50
豊臣政権が固まる前に徳川、島津、長曾我部、北条、織田信雄、伊達が連合し大攻勢をかければ面白かったのにね。
秀吉に各個撃破されるのは火を見るよりも明らかなんだから、必ずしも無理な話でもないように思えるが
この場合誰が主導権握っても室町幕府のような弱体政権になるだろうけどね。
258無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 12:14
島津は血統が良いんだよ
鎌倉初期からの武家の出なんだよ
全国各地の荘園の守護や地頭を出してきた家柄なんだよ
そんな血統の良い島津が乞食坊主の出の家康やら、どこの馬の骨の出かわからない北条ごときと同盟するわけがない
259無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 12:29
>>255
当時の日本では地球は地図状のものだと思われていた
260無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 12:34
そんな血統の良い島津←はぁ? ダ薩摩劣等人種 氏ね!!
261無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 12:44
大河で島津の十字幟を持った軍勢が勇壮に戦うシーンを見たいものだ
耳川の合戦、沖田畷の合戦、泗川の合戦、関ヶ原の合戦
かっこいいだろうなあ
262無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 13:55
釣り野伏せ戦法に萌えますなぁ
263無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 01:38
鹿児島では島津って人気あんの?
山梨の信玄や新潟の謙信みたいに
東北での伊達政宗みたいなもん?
264無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 02:07
age
265無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 14:50
>>263

人気は、高いよ。
少なくとも本土で島津が嫌いという人はかなり少数のはず。
奄美諸島とかは、ちょっと分からないけど
「島津に馬鹿殿無し」
は、鹿児島県人の誇りだし、伊集院町周辺の小学校では学校行事で妙円寺参りが今でも行われてる。
ただ鹿児島には、西郷隆盛とか大久保利通みたいな明治維新の功労者や東郷平八郎などの日露戦争の
英雄がたくさんいて人気が分散しているのでそれしかいないで山梨の信玄や新潟の謙信、東北での伊達政宗と
比較すると支持率は低いと思う。
266無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 14:53
>>263
一番の人気者は西郷どんですタイ!
俺は名門が好きだから西郷や大久保のような成り上がりは嫌いだな。
豊臣の猿なんかも大嫌い。
268無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 16:01
>>267
名門ねぇ…
ほなら一条兼定・今川氏真・上杉憲政なんかも好きなのか…
物好きだな…
269無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 16:14
>>267は、まろヲタ
270無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 16:18
>>267
どんなのが好きなの?
<<263
戦国大名の県内での支持率を比較すると
上杉>武田>伊達>前田(石川)>毛利>島津>織田>徳川>長曽我部・・・
こんな感じか?
毛利や長曽我部ははっきりいって分からん。
北条や浅井なんかも県内では支持されてそう。
272267:02/08/05 21:39
>>270
坂之上おじゃる丸でおじゃる。
上の方で島津と三成ってちっともウマが合うとか言ってるが
ちっとも合ってないと思うんだが・・・
274無名武将@お腹せっぷく:02/08/05 22:01

                                     |
                                    _|_
   【 鹿児島の夏の風物詩でごわす】            , -´  `- 、
                                ( _................_ )
                                `ー-|-一´
                             //        |     チリーン
                          //         |
          ◇□△○           //         ノ
         / ̄ ̄ ̄ ̄\         //         ノ
       / 〃   〇  〇、       //        / ̄7   ◎−◎
       |Y  Y 〃     .\   .//         /冷/   (∴д(∴)義弘ウマー
       | |   |        ▽ |  //         /  /
       | \/   //    _人| //         /し /
   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|       /  /
   |   丶   ∪     ∪    |       /犬/
    \ ∪    ダサツマ名物  /      /ノ/    ◎−◎
      \____  ____/             (∴д(∴)島津ウマー
                |  |
                |  |
                |  |                  ◎−◎
                |  |                 (∴д(∴)satsumaウマー
         __/  \__
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
        
白くま食べたい。
276無名武将@お腹せっぷく:02/08/06 21:18
>>273
島津が関ヶ原で動かなかったというのは間違いだったらしい
実際は石田隊の2番隊として島津隊は編成されていたらしい
2番隊の働きは勝敗を決する時に一気に攻撃する部隊なので兵を温存していた
しかし関ヶ原では島津隊が動く戦機が来る前に小早川秀秋の裏切りで決着がついてしまった
というわけで関ヶ原の動きだけで見ると島津義弘と石田三成の仲が悪かったという証明にはならないよ。
277無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 01:26
優秀なのはわかるが弟にするなら小一郎や信繁みたいなタイプの方がイイ。
278無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 02:38
>>276
三成が自ら島津の陣に救援を求めにきたってのはどうなの?
2番隊云々と言うが、戦況が不利になった時点で動くはずだろ。
負けちまったら元も子もないんだから。
関ヶ原以前はともかく、開戦前のごたごたで義弘が
愛想をつかしたとか。
>>278

>三成が自ら島津の陣に救援を求めにきたってのはどうなの?

既に金吾が裏切った後だったので西軍の敗北を悟り、生き残って関が原を脱出する事を最優先目標に
切り替えた為という説があるよ。
281無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 08:49
>>280
だったら島津の陣なんぞで油売っとらんで、
なんもかんも捨ててトンズラすりゃよかったじゃん。
あの時だったらまだ逃げのびれただろう。
  島津 義弘 の姓名判断
 
 島津 義弘
 ●● ○○
 1010 13 5
 総運38○ 才能あるが頭領の器ではない。個性を生かす職業が○。家庭を大事に。
 人運23◎ 人が良く損しがちだが、それを帳消しにする行動力で活躍。努力家。
 外運15◎ 家庭も人間関係も円満で楽しい人生に。幸運に恵まれます。積極的に。
 伏運41◎ 実力を養う運数です。
 地運18○ 行動、忍耐、強引運。事件注意。
 天運20△ 大望を持ちそのために苦労する家柄。
 陰陽 □ 悪くはない配列です。

283無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 22:01
>>281
つうか史実でも逃げのびてるだろ?
284無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 22:13
つかまったじゃん。
285無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 22:14
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286無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 22:18
おいおい、島津義弘は関ヶ原の戦場から離脱後、さらに大阪城の妻を助けて出して九州まで逃げ切ったはずだろ。
287無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 22:24
>>286
三成のことを言ってると思われ…
288無名武将@お腹せっぷく:02/08/07 22:26
>>287
ああ、そうか。
スマソ。勘違いしていた
島津家は良質の資料が多く残っているわりに、
なんか不明瞭な部分が結構あるなぁ。

290無名武将@お腹せっぷく:02/08/08 07:21
なんだか、このスレを見ていると島津の優秀性を強調したいせいか石田三成を悪く言う人が多いね。
三成は相当良い奴だし、その行動の間違ってはなかったはず。
それを信じてたから直江、大谷、小西、宇喜多秀家、島津義弘ら良い奴が彼に手を貸したんだが。
特に島津にとって三成は恩人みたいなものだから関ヶ原で手を貸した義弘の行動はむしろ、すがすがしいと思うよ。
兄の義久も別に中立派であって親徳川とかいうわけではないのだしね。

後の大阪の陣で豊臣が豊臣恩顧の大名に救援を求めた時、ほとんどの大名がロクに豊臣の使者と話そうとすらせず、門前払いを食わしたのに対して、
島津は豊臣の使者に豊臣家の報恩は関ヶ原で済ましていると説明した逸話は印象的だ。
291無名武将@お腹せっぷく:02/08/08 07:25
>>289
基本的には>>81のようなのが正しいんだろうけど、
江戸時代に入ってから都合の良いように資料を改ざんしてるからね。
292無名武将@お腹せっぷく:02/08/08 08:19
島津にとっては基本的に徳川に政権が移るよりは
緩やかな豊臣政権のままだったの方がよかったのでは?
もっとも、江戸時代になってからも島津は独自に琉球を占領したり、
「島津領に入った隠密は生きて帰れない」と言われるほど独立色が強かったんだが。
293無名武将@お腹せっぷく:02/08/08 20:46
>>290
良い奴ってなんだよ(w
白くまage
さつまage
296無名武将@お腹せっぷく:02/08/13 17:28
>>282出家後

島津 惟新 の姓名判断
 
   島津 惟新
 ●● ○○
 1010 1113
 総運44× 特異の才能を持つが、精神構造も特異。築き上げたものを失いやすい。
 人運21◎ 抜群の行動力を持ち、仕切り屋でリーダータイプ。
 外運23◎ 人より抜きん出る活力を持ち、地位財産を1から築きあげる。
 伏運45◎ 災難や事故を切りぬける強さを持つ運数です。
 地運24◎ 幸運、才知、財産運。
 天運20△ 大望を持ちそのために苦労する家柄。
 陰陽 □ 悪くはない配列です。
297無名武将@お腹せっぷく:02/08/21 00:33
保守
298無名武将@お腹せっぷく:02/08/21 12:05
某社の経理部長が、島津義弘か、島津義久だった記憶がある。
先輩と、「最強の経理部長だな」と話してました。
299無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 05:26
>>298
名前が?
300無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 08:09
300
301298:02/08/22 12:41
>>299
そうです。

請求書の差出人欄に、
○○会社
経理部長 島津義弘(久?)
と書いてあり、力強いはんこが押されておりました。
ゴム版で名前があったのですが、得も言われぬ力強さを
感じました。
302無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 20:45
電話帳ソフトで検索したら
島津義弘さんは全国に15人いらっしゃいました。
島津義久さんは1人だけ。
ちなみに徳川家康さんも1人。
武田信玄さんは5人。
303無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 20:49
>>302
義弘、義久、家康はまだ分かる。
だが信玄はかなり痛いな。出家してるんですか?(ワラ
304無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 20:56
因みに
武田晴信さんは15人。
武田信虎さんは1人。
上杉謙信さんは0人。
長尾景虎さんは1人。
案外上杉謙信という名前は人気が無いですねぇ
305無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 21:07
306無名武将@お腹せっぷく:02/08/27 01:08
品川駅構内に、「薩摩屋敷」という居酒屋があって
島津の丸に十字の家紋もあるけど、
あれって島津家に許可とってるのか?
>>306
商標権でも取ってない限り、やりたい放題なんじゃない?
今も家紋とか別に何でも使用できるみたいだし。
正式な菊紋(天皇家)とかは使えないみたいだが。。
308306:02/08/27 01:19
http://r.gnavi.co.jp/g364800/
ここだな
薩摩揚げが(w
309無名武将@お腹せっぷく:02/08/27 16:04
>>303
「のぶはる」と読むかもしれない罠
>>309
???
311無名武将@お腹せっぷく:02/08/29 14:02
俺はやっぱり島津義弘は最初は西軍親派だったが
堅物の石田三成に愛想を尽かして当日は動かなかったという説を支持するな。
それでも、東軍に寝返らずに最後まで関が原に残って敵中突破をしたところは
やはり義弘の武士としての意地を感じるな。
>>310
人名としての訓で「はる」はポピュラー。
漢和辞典でも名付け(人名)の欄にはちゃんと載っとるよ。
>>311
わからんなあ。たかだか三成とケンカしたくらいでウジウジと不戦するのは最低だと思うが。
そもそも三成と義弘だけでなく、死力を尽くして戦ってる西郡の仲間がいるのだがな。

二番備え説の方が義弘の品位を落とさない説だと思うけどね。
314無名武将@お腹せっぷく:02/08/30 00:57
戦局が不利になっても動かなかったんだから、二番備えは無いだろう。
>>314
時期を逃した
もう少し詳しく言うと西軍が一気に戦況不利になったのは小早川の裏切りが原因。
それで三成の出陣要請があったの小早川の裏切りのあった後だったという。
その段階で西軍に積極参戦というのは無理な話。
317無名武将@お腹せっぷく:02/08/30 11:35
ていうか三成がバカで義弘の奇襲策をとりあげなかったんだろ?
318無名武将@お腹せっぷく:02/08/30 11:52
>>317
それが原因でヘソ曲げたとか。
319無名武将@お腹せっぷく:02/08/30 19:51
島津が西軍のために戦う意義が薄かったと思うんだよね
いきさつを考えると島津家は豊臣に恩義なんて感じないのが普通だと思うし
たんに上方にいた島津義弘が西軍に巻き込まれてやむなく西軍に参加したけど
出来ることなら無駄な戦はしたくなかっただけなんじゃないのかな?
320無名武将@お腹せっぷく:02/08/30 23:23
>>316
不利になったのなら尚更加勢すべきだったのでは?でも加勢しなかった。
最初っから傍観する腹積もりだったんだろ。二番備え説は無理がありすぎ。
321無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 08:21
>>320
だから小早川が裏切ったから西軍の負け確定と見て
自分たちの生き残りに作戦を変更したんだろ。

それに島津が参戦の意志があろうがあるまいが、
東軍に攻撃されていたら即刻参戦せざるおえなかった。
実際、宇喜多隊の二番備えの小西隊は早期に
田中吉政などに攻撃されてしまって参戦してしまってるし、
島津が参戦しなかったのは彼らの意志というより
攻撃されなかったからにすぎないのだが。

戦争では攻撃側も守備側も必ず予備部隊を用意する。
つまり、西軍は作戦当初は石田隊が非常に堅固な野戦陣地を構築してた事でもわかるように、
当初は東軍の攻撃を守戦で受けて消耗させ、頃合を見て攻勢予備隊の小早川・脇坂・島津らを一気に投入し、
あの西軍必勝とまで解析された鶴翼型の陣形から敵を包囲して勝つ作戦だったのだが、
小早川の裏切りによって作戦がついえてしまったというわけ。
島津も小早川が参戦したら猛攻に転じていた事は間違いない。
反・関ヶ原というIF小説では小早川が参戦しても島津は意地を貫いて参戦せず国元に引き上げたがそんな事はありえない。
322無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 08:38
>>319
もしかすると二条城の件を本気にしてるの?
あれは幕府を配慮しての江戸時代に入ってからの創作だよ。
島津義弘は最初からバギハキの西軍派の親豊臣、
ただし、中立派の義久に国元からの出兵を妨害されたのは事実だが。
それと石田三成への恩義や小西、宇喜多といった義弘と親しい武将との縁もあった。
なんせ義弘は小西を救うために朝鮮水軍と戦ったほどだったしね。

>>317-318
石田はそれほど関ヶ原での作戦に自信を持ってたんだろ。
確かに作戦としては完璧だったし、小早川が裏切らなければ確実に勝っていた。
島津義弘は小早川らの裏切りの気配に気づいてかどうかも今ではわからない。

あと、島津が夜襲反対などの件でで完ぺきにやる気を無くしたとも思えないな。
一応、関ヶ原の戦いの時も真っ只中に配陣するという事自体「傍観」を決め込んでたとは思えないし、
あんな場所に配陣した以上、島津の意志が傍観だろうと攻められれば参戦せざるやおえない位置だろう、
島津の武名を恐れたためか石田隊が憎まれすぎたためかは知らないが好運にも攻められなかっただけ。
本当に全く傍観するつもりなら毛利や長宗我部や小早川のようにいかにもな場所に配陣してるだろ。
それをあそこに配陣したという事は西軍の作戦には乗ってたものと思われる。
323無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 10:17
なんだか、関ヶ原で始めから西軍必敗を前提としたようなレスが続くな。

こちらを参考に
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1028390529/l50
>>322
小早川秀秋が参陣する場所には本来毛利輝元が陣取る予定だったらしい。
で、金吾は番兵を追っ払って陣取った。だから、最初から内応してたのでは・・・。
>>324
最初から小早川が内応してたというのは新説すぎ・・・
どちらでも好きな方に攻めかかる予定だっただけだ。
326無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 17:31
>>321
島津って参戦してなかったっけ?といっても攻めてくる敵を迎撃するだけで
積極的に動かなかったようだが。
三成の「参戦要請」も島左近が負傷して石田隊が苦しくなったあとで、西軍が崩れるよりも
前のこと。二番備えだったから「参戦」しなかったのではなく、また小早川が裏切ったから
西軍の負け確定と見て自分たちの生き残りに作戦を変更したと言うわけでもなく
最初から独自の動きをする腹積もりだったのでは?

ついでに言うと、関ヶ原の航空写真を見れば分かるが、小西の陣は最前線で宇喜多の陣よりも
むしろ前。そんなところに布陣している部隊が二番備えであるとは思えんが・・・。

>>322
どうでもいいが・・・
>もしかすると二条城の件を本気にしてるの?
あまりにもひどすぎ。

>本当に全く傍観するつもりなら毛利や長宗我部や小早川のようにいかにもな場所に配陣してるだろ。
これもめちゃくちゃ。ひょっとして釣りでもやってるの?
327無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:11
なんだ、あんた古い説にしがみついているだけで、人を小馬鹿にするような文章、書くなよ。
あんた、只の島津オタだろうが。

まず、関ヶ原の二番備え説については私の創作ではなく、西軍の動きや書簡から検証された、
定説になりつつある説なんだがな。

二条城の件については全くの虚偽で、
江戸時代になってから島津が幕府に配慮して創作した作り話しだというのはもはや、常識だけどね。
鳥居元忠らが死んだから死人に口無しというわけ。

傍観するなら、そりゃ敵の攻撃の受けにくいとこに陣取るに決まってるだろうが、
どこがメチゃクチャなんだか、
あんた、島津のロマンにひたりたいだけの島津オタだろうが。
328無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:14
>>327
いや二条城ではなくて伏見城の間違いだと指摘してると思われ
329無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:16
二条城で島津が門前払いを食らったなんて話しは
江戸時代に入ってからの島津の怪しい文書にのみ登場してくる話しで論じるに値せんのだな。
島津義弘は関ヶ原のほんの二ヶ月前に石田三成に家康打倒への共闘の強い意志を現す書状を書いている。
島津義弘が前後の状況から見て伏見城に入ろうとする説明は全くつかないんだよね。
330無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:17
>>328
うげぇ!!!!
すまん、一本取られたわ。
単なる思い違いだ。
またな。
331無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:19
>>329
そんな文書があるなんて知らなかったよ
現在どこにある文書?
332無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:20
しかし、参戦要求が小早川裏切りの後だという話しは確かなんだよね。
それが二番備え説のキモなんだししさ。その点は>>326の思い違いだよ。
私も言葉が悪くなってすまん。ここはロマン板でもあるし、もう退出するよ。
>>329
それって確か家康の島津融和策があった後に三成に「徳川キモイ」という文書送ったってだけの話しじゃなかったか?
俺らは親徳川じゃないぞと抗弁しただけじゃねーの?
>>327
いや、討論を続けようや。
伏見城入城拒否については誰も反対してないよ。
例えば、ここでも認めてるしさ。
h
ttp://www.ayu.ne.jp/user/mar/oniheru/jinbutsu/sekigahara/shimadu_yoshihiro.htm

問題は島津が関ヶ原本戦での意向だ。
積極参戦拒否だったのか?
予備隊(二番備え)だったのか?
どっちかという事だ。
335無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:51
二番備え説について解説してるサイトも探してみた。

h
ttp://ww3.tiki.ne.jp/~yang/c-5.htm

さて、どうなんだろ?
336無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 18:56
仮に二番備えだったとしても、それが島津が参戦しなかった理由にはならないとおもう。
へそを曲げていたから苦戦する友軍を見捨てたと思われ。
337無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 20:29
兵数考えろよ。
わずか1500だろ。
それだけで小早川に横腹つかれ崩壊しかかっている西軍に義理立てして戦闘に参加したら
全滅は、目に見えてる。
少なくとも義弘にとって関ヶ原は、己の命を捨ててまで戦う場所じゃなかったって事だろ。
もし義弘が10000ぐらい率いていたなら別の選択肢も有ったろうが。
338無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 20:37
>>337
それよりも西軍の総大将として挙兵すればよかった。
加藤清正を味方に付け、小早川と三成を追放し、
15000ぐらいの精鋭鉄砲隊を率いて、自ら関ヶ原に出陣すれば
西軍は勝ってたかもしれぬ。
339無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 20:39
それはさすがに電波がすぎるというものだぞ
340338:02/08/31 20:43
>>339
どーいうことですか?

341無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 21:36
確かに島津が一万も関ヶ原に連れてくれば西軍、楽に勝ってたぞ。
342無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 21:39
>>337
そんな状況になる前に参戦すべきだろ。そもそも二番備えと言うものは
敵にとどめをさすためと言うよりも味方の支援をするための予備隊。
三成が寄ってたかって攻められているのにその支援を行わなかったんだから、
最初っからやる気なかったんだろう。

ついでにいうと、三成の支援要請って午前中、西軍の崩壊前だろ。
343無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 21:53
島津程度が西軍総大将やれるわけないじゃん。
344無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 21:59
いっそのこと小早川秀秋を総大将に祭り上げればよかったんだ!
名案じゃない?
345無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 22:05
>>342
もう、あまり言いたくないが、小早川の裏切り前に参戦要求があったというのは、
あなたの勘違いか古い間違った資料を鵜呑みにしてるんだよ。
新しめの説の二番備え説を主張する資料には全て、裏切り後だと書かれてる。
あと、守備側の予備部隊ってのはあるけど、
攻勢予備部隊ってのもある、ナポレオンや第二次大戦なんかの作戦を見てればわかるよ。

最後にもしも三成とケンカしたくらいで
つむじを曲げて参戦拒否なんて事をしたのなら
島津義弘は情けない最低の男だと思う。
サッカーチームの監督とケンカしたから試合には出ても傍観を続けるようなもの。
あるいは野球チームのキャプテンとケンカしたから自分のポジションの守備範囲にフライが来ても捕らず、
全打席、わざと見送りの三振するようなものだ。
命を懸けて戦っている味方を見捨てて、個人的な感情のもつれからネチネチと陰険な傍観を決め込む義弘は女々しすぎるよ。
346無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 22:09
小早川が裏切るまでは西軍有利だったはず。
347無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 22:14
>>345
俺もトランプのナポレオンしてて、副官とケンカしたら、
副官にわざと手を抜かれて負けた事があったな。
あれは頭きたわ。
まあまあ、マターリと行こうよ。
しかし"攻勢的予備"とは戦国時代においても高度な戦術が使われてたんですね。
言われてみれば、朝鮮役のヘキテイカンの戦いでも攻勢予備の投入が適切だったから大勝できましたよね。
349無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 22:36
池宮は電波だな。「本能寺」読んで確信したよ。
買わんで立ち読みにして正解だったよ。
350無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 22:45
まあ落ち着けよ(w  そういきり立つなって。

>もう、あまり言いたくないが、小早川の裏切り前に参戦要求があったというのは、
>あなたの勘違いか古い間違った資料を鵜呑みにしてるんだよ。
>新しめの説の二番備え説を主張する資料には全て、裏切り後だと書かれてる。
いちおう記憶違いかと思ってちょろっと調べてみたが、参戦要請が午前中だったってのは
ぼろぼろ出てくるぞ。新しいからって正しいとは限らないだろ。
そもそも二番備えかどうかなんてどうでもいいの。問題は島津勢が動かなかった理由は
なんなのか、なんだから。仮に島津勢が二番備えだったとしても島津が最後まで動かなかった
理由にならん。

>あと、守備側の予備部隊ってのはあるけど、
>攻勢予備部隊ってのもある、ナポレオンや第二次大戦なんかの作戦を見てればわかるよ。
戦国時代の日本の話をしてるんだが。それに合戦と言うのは展開によって攻撃側、守備側が
入れ替わるものだが。で、ナポレオンや第二次大戦なんかの攻勢予備部隊とやらは
味方がどれほど苦戦してても傍観し続けるのか?
351無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 04:08
島津が千五百ってのはウソで実際は八百くらいだという話しを聞いた事あるな。
千五百というのはハッタリらしい。
352無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 05:01
漏れは千三百と聞いたぜよ。
>>349
小説に文句つけてる、
354ニセasd:02/09/01 06:56
ウチの実家は日向なのに城主が島津家久だったりしてた。
355最後にします。:02/09/01 07:07
二番備え説も島津傍観説もここで論議してもお互い確定するはずのない事象なので、
自説は曲げないにしろ議論はぼつぼつ終わりにします。

さて、まず島津が少なくとも小早川が裏切るまでは味方を救援しなかった理由は
「西軍は苦戦してなかった(優勢だったかもしれない)」からだな。
まず、西軍左翼についてはもはや、数的にすら東軍に勝っており問題ない。
では、石田隊というと激戦ではあったが、苦戦などしてなかった。
石田隊が苦戦したという根拠は黒田、加藤、細川ら三倍の部隊に攻められた点と島左近負傷の件だが、
まず、島左近は攻め込まれて討たれたわけではなく、攻めかかろうとした所を鉄砲一斉射撃によって負傷しただけて、石田隊苦戦の根拠にはそれほどならない。
それと石田隊奮戦の理由は三成がこの時のため金で集めた勇士・猛将の活躍と大砲などもあるが、
近年の発掘調査で大がかりな野戦築城の形跡があり、ここで敵軍を撃退し続けたのだという。
それなら島津の小勢が援護する余地はあまりない。
そもそも石田隊が崩壊したのは大谷、小西、宇喜多が敗走したあとで、
それほど部隊の士気は高かったのだ。

島津が石田隊に加勢しなかったのは小早川が裏切るまでは必要が無かったからで、それ以降は生き残りのためと思われる。
島津義弘は小早川裏切りまで勝利にかけていたものと思われ、
唯一の西軍左翼の予備隊の自分たちが動いたら勝ちが薄くなると踏んでいたのとも考えられる。
>>335のリンク先にも書いてあるが、島津は石田隊に軍議のために部下をさしむけようとした所を小早川寝返りがあったという。
傍観なら、そんな事はしないはず、島津は石田にさっさと小早川・脇坂・毛利らを動かせ、そうすれば自分たちも攻勢に加わり一気にカタがつくと言いたかったのではないだろうか?

では、このへんで、もう少し調べたりします。
356一つだけ追加:02/09/01 07:13
そもそも、島津は「参戦拒否」というものをしたかという事すら疑問。
島津は石田の最後の出陣要請にすら、
「今は各隊が死力を尽くして闘うのみ、他隊をかえりみる余裕はない」と答弁しただけだ。
これを遠回しに断っているとも解釈可能だが、
口ぶりから島津隊はすでに小競り合いに巻き込まれていて少なくとも「石田隊の救援」はできなかっただけとも解釈できる。
357無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 07:55
ここの人?
石田隊が十倍の敵と戦ったとか随分、ドキュソな事が書いてあるな。

ttp://www.asahi-net.or.jp/~gr3t-tkhs/profile/column/ishida.html
358無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 09:16
島津義弘がやる気が無かったとしても不思議はないと思う
三成は豊臣家のために挙兵したのだろうが、肝心の豊臣家が日和見を決め込んで
西軍についていない。
これでは西軍に参加して敗戦した場合、謀反人の汚名を着せられてしまう
これでは命をかけて戦えないと思う
戦国大名は第一に自分の家の存続が大事。
裏切り大名が続出したのも無理はないと思う。
その中で島津義弘の行動は最後まで裏切らなかった西軍大名の中で
島津家だけは領地を削り取られないという奇跡のような戦後処理につながったのだと思う
裏切りもせず(名を汚さず)、滅びもせず(領地削減もなく)という西軍についてしまった
島津家としては最高の結果になったと思う。
359無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 09:24
>>322
九州の覇者の座を横からしゃしゃり出てきた豊臣に引きずり落とされたのだから
豊臣家に恩義は感じてないだろう。
島津義弘が親豊臣に感じられるのは、島津義久と比較すればどちらかというと
親豊臣というのに過ぎない。
島津義久の島津家独自路線政治が過ぎると豊臣家に睨まれるので島津義弘が親豊臣路線になることで
バランスを取っていただけだろう。
>>357
だまれゲーム厨。
361無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 09:30
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/
↑ここの人がいるのか?石田三成がそんな凄い武将なわけないじゃん。
362無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 09:40
石田三成はすごいよ。だって俺と同じ名字だからスゴイに決まってます・・・ 氏ねって言いたいんでしょ?ハイハイ解りますた氏んできます
>>358
スレ違いになってしまうが、
豊臣秀頼を連れてくればねえ。
364無名武将@お腹せっぷく :02/09/01 11:03
>>359
結局、実権は義久にあったんだね。久保も国元にいたんだから
義久にすればどっちにころんでもよかったんだろうか?
365無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 11:34
石田隊は最初から最後まで崩れなかったからね。
あと大谷隊も何度も押し返す見事なもの戦いぶりだった。

攻撃されたら、あっけなく崩されたどこぞの軍団とは違う。
>>364
揚げ足をとるようで申し訳ないが、久保でなく忠恒では?
367無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 12:21
>>365
大谷吉継が1900の兵で1万の秀秋を2度も押し返したのは凄いね。
368無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 15:45
薩摩には石田三成の所領があったんだよね。当然もとは島津領。
秀吉が与えたとはいえ、島津としては自分の領地が三成に奪われたようなもの。
関ヶ原の戦いの時の三成の使者、八十島某の態度もいくら緊急時であったとしても
甚だ無礼。石田の連中は島津を見下していたのでは?
島津は何かと石田の世話になっていたが、内心では相当鬱憤が溜まっていた、といってみるテスト。
369無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 16:30
>>368
所料を持ってたというだけで見下してたとかいう事はないのでは?
細川幽斎も島津領に持ってたし、島津も播磨、摂津、山城に持ってたはず。

関ヶ原戦後の逸話だが、
戦後に柳生宗規が捕縛された三成の態度を軟化させるため、黒田長政に三成をねぎわせようとしたが、黒田は最も三成を憎み毛嫌いしている人間。
それで、柳生はどう黒田を説得したかというと、関ヶ原での黒田、細川、加藤らを相手に一歩も引かぬ勇戦ぶりをした点を指摘したという事、
その言葉に諭され黒田は三成に会って「そちは一方の大将として恥じぬ戦いをした立派であった」と慰めたという。
他に福島正成も三成に面会して「自らの野望で戦を起こしてこのザマか?」と言ったところ、
三成は「わしは秀頼様のためを思って戦ったのみ、そちらこそ太閣の恩義を忘れた不忠者」と言われて言い返せなかったとか。
そもそも、家康からして戦後に三成をねぎらう発言をしてたりする。

思うに、三成と戦った東軍諸将は卑怯者と蔑んでいた三成が自分たち相手に一歩も引かず奮戦したのを見て、
隆慶一郎ふうに言えば同じ「いくさ人」としての共感のようなものに打たれていたのかもしれない。
370無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 18:11
伊集院忠棟の討伐と伊集院忠真の反乱について詳しい人解説きぼんぬ。
これも三成かかわってたんだよね?
三成がかかわっていたうんぬんは
陰謀くさくて事実ではないと思われる。
豊臣治世のいろんな怪事件に三成が
かかわっていた事にされてるからね。
372無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 20:55
>>369
その柳生宗矩の話って実話なの?
某作家の小説「柳生宗矩」にも出てきたが。
>>372
史実、具体的には忘れたが史書に載ってる話し。
374無名武将@お腹せっぷく:02/09/02 19:01
しかし三成も驚いただろうなあ、自分の事1番嫌ってる黒田長政に
ねぎらいの言葉をかけてもらったんだから。
三成の話しはスレ違いかも。
ただ、島津のファンは島津の優秀性・独自性を示したいせいか
三成を悪人か愚物のように描写する人が多いんだよな。
376無名武将@お腹せっぷく:02/09/03 06:44
結局、毛利を動かせず、豊臣一門の小早川にさえ裏切られた三成は、無能と言われても仕方ない。
いくら戦闘で奮闘しようともな。
三成が島津オタに悪く言われるのは
三成=豊臣という決めつけがあるからかも、
しかし、実際は三成は島津に秀吉のなだめ方や処し方を助言したり、
朝鮮の役も小西らと共に反対派で島津の意見近かったりした。
晩年、秀吉や淀君の言うがままとかではなく、豊臣政権の内部では賢い存在だったんだよな。
むしろ、そういう部分を島津は頼りにしたんだが。

>>376
皮肉な話しではあるが上記のような理由で、かえって一部の豊臣恩顧武将の反目を食らってしまったようだ。
>>366
どーもすみません、いまいち覚えがわるくて
この二人がこんがらがってしまう
久保→朝鮮で死亡
忠恒→家久
であってるのかな?
379無名武将@お腹せっぷく:02/09/03 09:17
>>377
島津の中にも親三成派(親豊臣派)と反三成派(独自派)に
別れていたらしいから島津と一括りには語れないんじゃないかな。
親三成派が義弘−伊集院忠棟のラインで反三成派が義久−忠恒ラインかと。

>>368
島津領の検地の新知打ち出しの際、かなり所領変更が行われているからね。
その前の細川の仕置きの時にいい目にあった島津家臣も反三成派だろう。
三成の代官である安宅秀安も自分が敵視されていることを書状で義弘に
訴えてる。
380379:02/09/03 09:23
>>378
それで良いと思う。
忠恒は久保の死後、義久の娘であり、久保の未亡人である
亀寿を娶って後継者としての地位を固めてるね。
381379:02/09/03 09:33
島津領の検地に中央政権の介入を許した
(というよりむしろ、親豊臣派が中央政権の力を借りて
領国支配体制の立て直しを図った)ことから考えると、島津家の
家中統率はあまり強固なものとは考えにくい。
徳川氏や毛利氏が行った天正期の検地と比べて、島津などが
行った文禄期の検地は、大名権力の弱い大名が中央政権の力を借りて
領国支配体制の整備のために行ったものだと言われているし。
領内での反乱の発生(梅北の反乱)、朝鮮の役での動員数不足、
伊集院の誅殺、関ヶ原での動員を考えても同様。
関ヶ原までの島津家は一般的なイメージほど結束が強かったとは
思えない。
382無名武将@お腹せっぷく:02/09/03 11:01
>>379
そりゃ、関ヶ原以後はともかく、
それ以前までは現に「豊臣政権」であった以上、
なんらかの形で豊臣との関係を持たないわけにはいかないだろう。
しかも、島津は豊臣に征伐されて降伏している以上、
豊臣期においても「島津は自主性を保っていた」なんてわけがない。
383379:02/09/03 14:16
>>382
何らかの形で豊臣との関係を持たざるを得ないのは確かだが、
やはり島津家中にも当然豊臣との親疎はある。
検地に賛成する義弘の義久宛の書状が残っているが、それに対して
義久は色よい返事を返していない。
また、文禄四年六月二十九日付の秀吉の島津領の領地朱印状の宛先は
義久でなく義弘。
ついでに、実際に設定された領地も義久の領地が大隅に多く
設定し直されたのに対して、鹿児島は義弘に与えられた。
この後、義久は濱の市に移っている。
この辺りの扱いを見、その後の伊集院に対する処遇などから考えても、
島津家中の豊臣政権へのスタンスに違いがあったと考えた方が
妥当じゃないかな。
384無名武将@お腹せっぷく:02/09/03 16:51
>>383
豊臣期に秀吉に対してそんな態度を取るなんて自殺行為だな。

なんだか世間では親豊臣の義弘が愚かで中立派の義久が賢いみたいな事言われてるが、
そりゃ、秀吉の死後にたまたまそうなっただけじゃないのか?
もしも、秀吉存命中に義弘・伊集院がが親豊臣姿勢を取ってなければ島津は秀吉に潰されてたかもしれないわけで、
義弘の親豊臣、義久の中立主義、両方あったからこそ島津が生き残ったんだと思う。
385無名武将@お腹せっぷく:02/09/03 16:53
>>383
豊臣期に秀吉に対してそんな態度を取るなんて自殺行為だな。

なんだか世間では親豊臣の義弘が愚かで中立派の義久が賢いみたいな事言われてるが、
そりゃ、秀吉の死後にたまたまそうなっただけじゃないのか?
もしも、秀吉存命中に義弘・伊集院がが親豊臣姿勢を取ってなければ島津は秀吉に潰されてたかもしれないわけで、
義弘の親豊臣、義久の中立主義、両方あったからこそ島津が生き残ったんだと思う。
386384、385:02/09/03 16:56
うう、二重カキコスマソ。

それで、これが義久の秀吉をなめた手紙
おそらく、義弘がいなければ島津は秀吉存命中にぶっ潰されてた事は間違いないと思う。

http://isweb14.infoseek.co.jp/novel/rekiju/tegami/simadu.htm
387379:02/09/03 17:25
>>385-386
>もしも、秀吉存命中に義弘・伊集院がが親豊臣姿勢を取ってなければ
>島津は秀吉に潰されてたかもしれないわけで

その危険性はあったと思う。
ついでに言えば、石田三成が島津の取り次ぎを担当しており、
義弘−伊集院ラインと繋がっていたのも豊臣政権下での
島津の存続に大きな役割を果たしていたと思う。
ただ、その分の反発が当然あったわけで、それが秀吉死後、
伊集院忠棟の誅殺という形で噴出したと思う。
あと、親豊臣−独自路線の対立以外にも、朝鮮在陣−国元間の
立場の違いもあったわけで、国元において検地を行い、豊臣政権
との橋渡し役を務めていた伊集院忠棟に反感が集中したということも
あると思う。
388379:02/09/03 17:30
>>386
ただ、その手紙はどれくらい問題なのかは少しわからない。
榊原康政も小牧・長久手の戦役でかなり挑発的な高札を出しているし。
それより、朝鮮への軍役の人数不足や領内の仕置き不行き届きで
改易の危険性の方が高かったように思う。
大友義統の領地没収や織田信包の改易の例もあることだし。
389無名武将@お腹せっぷく:02/09/04 18:57
改易された大名って織田・豊臣時代に成り上がって大名になった者がほとんどなんじゃない?
よくは解らないのだけれど天下人・秀吉でも自分に借りのある者は改易にするけれど
島津氏のような大物大名は改易出来ないコンセンサスみたいなものがあったんじゃないかな?と思う
大友氏の場合も古くからの大名家だけど実質的には島津氏に滅ぼされて、豊臣家の力で再興されたようなものだし
>>389
意味がよくわからないな。
大物大名が古くからの大名のことなのか石高の大きな大名のことなのかも
よくわからないし。
改易された大名以前に、そもそも豊臣期の大名の多くは織豊期に
成り上がった大名だと思うが。
石高の大きな大名でも改易・減封はされている。
家康のように得体の知れない自称”名家”の人間を旗本に取り立てた
わけでもないし。
個人的には改易は名家を残すような好みの問題ではなく、
政治的理由が多かったとは思うが。
391無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 17:53
>>390
ごめん、わかりづらかった?
大物大名は古くからの名門大名という意味です
石高については書いてないのでそんな風に捉える人がいるとは思わなかった
392390:02/09/05 18:10
>>391
大物=名門故に改易されないのであれば、
大友の例がおかしいだろう。
名門が存続させられるという主張ならば、改易された大友を
例として取り上げるのが腑に落ちない。
もし名門の維持という理由で実質的に島津に滅ぼされた大友が
存続したなら、大友を改易しないだろう。
覇者である自分に頼ってきた大名だから政治的理由で存続させ、
朝鮮出兵中の不手際で政治的判断で改易されたと思う。
393無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 19:01
>>392
いや、だからさ、織田家や豊臣家に借りのある者は由緒ある家でも改易されるんじゃないかと書いてあるのだが・・・
よく読んでくれ
まーちょっとした思いつきだから何ともいえないが
394390:02/09/05 19:07
>>393
なら島津が改易されなかったのがおかしいな。
豊臣家に征伐を受けたのに許されたのは借りじゃないのか?
それともなにか? 
敵対した島津より助けを求めた大友の方が借りが大きいのか?
貴方の論理は正直よくわからんよ。
何が改易の決め手になるのかもう一度整理して教えて欲しい。
395無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 19:11
>>394
そりゃあ助けられた方が借りは大きいだろう?
そー思えないの?マジで?
敵対して戦に負けて領土削られたのに豊臣に借りがあるなんて島津家は思うかな?
396無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 19:14
毛利家も徳川家に領土削られて、許されたので徳川家に大きな借りがあるな(藁
毛利家当主は江戸には足を向けて寝られないよ(藁
397390:02/09/05 19:21
>>395

豊臣家に大きな借りを感じている。
これは大名側からの観点だろう?
なんでそれが豊臣家が大名を改易するのに関係するんだ?

俺は貴方の考え方を誤解していた。それは認めるよ。
豊臣家が大名を許す。
豊臣家の観点からすれば大名家への貸しなわけだ。
それが大きければ改易、小さければ許す、と貴方が主張していると
思ってた。
豊臣の観点からすれば、征伐した相手を助けてやった。
貸しは島津>大友。
だから貴方の考えがよくわからないと思っていた。
しかし、それは間違いだった、と。

で、本題に戻ると、貴方自身が「まーちょっとした思いつき」と
述べているように確たる根拠もないようだから、これ以上
私がこの件で書き込むのは止めにする。
私の考えでは大名の改易は政治的理由だと思うがね。
相手してくれたことに感謝。
398無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 19:35
>>397
「許した」と簡単に言うが、一寸の領土も削り取らなければ完璧に許したと言えるだろうがね。
だいたい大名側の視点の借りの大きさと豊臣側の視点の貸しの大きさはそれほど相違は無いだろう
大友家は滅亡寸前だった→それを豊臣の軍勢が血を流して救ってやった
これは大友家の視点でも借りは大きいし、豊臣家の視点でも貸しがあると思えるだろう
島津家の場合はまったく違う。
そもそも島津家が豊臣家に征伐されなければならないような悪い事やったのかね?
こんな事言っても詮無いことなんだけどさ(藁
さて、どうしたもんかね・・
400無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 20:52
「世の中には二人の馬鹿モノがいる。
一人は、こんな遠国まで大軍を率いてきたわしじゃ。
そしてもう一人は島津義久じゃ。
地の利を生かしてもう少し粘れば勝てたものをあっさりと和睦しおって…。わしは運が良かっただけじゃ。」
秀吉はこんな事を言っている。
さて島津家は粘れば20万の豊臣遠征軍に勝機はあったのでしょうか?
401無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 21:31
ない。終了。
402無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 21:32
397 名前:390 :02/09/05 19:21
>>395

豊臣家に大きな借りを感じている。
これは大名側からの観点だろう?
なんでそれが豊臣家が大名を改易するのに関係するんだ?

俺は貴方の考え方を誤解していた。それは認めるよ。
豊臣家が大名を許す。
豊臣家の観点からすれば大名家への貸しなわけだ。
それが大きければ改易、小さければ許す、と貴方が主張していると
思ってた。
豊臣の観点からすれば、征伐した相手を助けてやった。
貸しは島津>大友。
だから貴方の考えがよくわからないと思っていた。
しかし、それは間違いだった、と。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


398 名前:無名武将@お腹せっぷく :02/09/05 19:35
>>397
「許した」と簡単に言うが、一寸の領土も削り取らなければ完璧に許したと言えるだろうがね。
だいたい大名側の視点の借りの大きさと豊臣側の視点の貸しの大きさはそれほど相違は無いだろう
大友家は滅亡寸前だった→それを豊臣の軍勢が血を流して救ってやった
これは大友家の視点でも借りは大きいし、豊臣家の視点でも貸しがあると思えるだろう
島津家の場合はまったく違う。
そもそも島津家が豊臣家に征伐されなければならないような悪い事やったのかね?
こんな事言っても詮無いことなんだけどさ(藁

403385:02/09/06 08:16
少しばかり私の言いたい事と話題がずれたので発言する。

私が言いたいのは世間では
島津義久 先見の明がある、賢い、老かいで、時勢を読むのが得意、政治力あり
島津義弘 義理堅く戦に強いが政治力や時勢を読む力に欠ける

と判断されているが、それって違うんじゃないか?
って事だ。

まず、世間では島津義久が秀吉死後に時勢を豊臣衰退、徳川反映と読み、
徳川に接近し徳川派として、関ヶ原でも徳川方につくようにした。とかいうふうに思われてるけど。
第一に義久は「徳川派」などではない「独自路線・中立主義」であって関ヶ原でも不参加を主張しただけだ。
第二に>>383氏の書き込みにもある通り、独自路線は秀吉が死んでから打ち出されたものではなく、
秀吉存命中から主張していたものであって、秀吉死後に巧みに時勢を読んで路線変更したわけではない。
ただ、秀吉が死に島津家の義久派(独自路線)が勢力を増し、義弘派が減退したというだけの話しだと思う。
しかも、秀吉存命中の独自路線や抵抗はかなり愚かしいもので、それこそ改易の原因になりかねないものだった。
それを救ったのが義弘・伊集院らの親豊臣路線であったと思うのだ。
勿論、義弘にも秀吉死後にも親豊臣派的な行動を取るなどの愚を犯してはいるが、
少なくとも、秀吉存命中の島津は
義弘・伊集院=賢い
義久=愚かしい
の状態であったと思われる。
404379:02/09/06 08:43
>>403
>>395氏の世間に評価に対する異議に大筋で同意。
あと、補足させてもらうのであれば、
義久の政治的立場は時勢を読んだ結果ではなく、大名としての
在り方から来る制約の結果、あるいは妥協の産物だと思われる。
細川幽斎仕置き後の文禄二年八月二十八日付の三成家臣安宅秀安から
島津義弘宛の書状では、
「義久が家臣に対して弱腰であることを家臣の方でも知っているので、
今度のように主人に一度も申し入れることなく知行を山分けし、その上、
知行や代官職を好き勝手に入れ替えて取ったりするのです」
と、義久の統率に対する批判を述べている。
家臣団の統率ということに関しては、信長が確立した独裁権を引き継ぐ
豊臣政権と島津では大きな違いがあり、それを国元の家臣は
理解していなかったと思われる。
そして、多分に担がれた大名としての性格を有していた義久の立場では、
大名権力の強化して中央政権と強く結びついて奉公を果たす、という
親豊臣路線は取れなかったと考えられる。
それに対して、上洛して島津の窓口を務めることが多かった義弘や
伊集院らは中央政権としての豊臣政権の在り方と島津の存続の危険性を
理解して、親豊臣路線という立場を取ったと思われる。
405379:02/09/06 08:53
義久の独自路線についてさらに付け加えれば、義久は家康の
将軍就任後の慶長九年二月二十二日、同年年末と上洛の要請を
受けているが、結局慶長十六年正月二十一日に没するまで、
ついに上洛せずに過ごしている。
これらのことから考えると、義久が終始一貫して中央政権から
距離を置いていることがわかる。
その代わりに、徳川政権下では忠恒が参勤を務めている。
従って、義久自身はその立場と本人の中央政権への理解不足などから
終始一貫して独自路線をとり続け、それを豊臣政権下では義弘が、
徳川政権下では忠恒が窓口となって補っていたと考えられる。
従って、義久が時勢に対して先見の明を持ち、機敏に対応したという
評価には私も同意できない。
406379:02/09/06 09:03
>404 >405の間の書き落としについて補足

関ヶ原の合戦後においても、義久は一貫して上洛を拒否し、
義久の家臣(富隈衆)も上洛を主張する忠恒を留めようと
している。義久自身も忠恒上洛に反対したらしく、
忠恒は次のように訴えている。
「昨日、誓詞の草案をお目にかけたとき、何事も気に入らず、
上京することは忠孝に欠ける行いだという仰せを受け、
驚き、嘆息しております」
関ヶ原後に上洛をここまで頑なに拒否するということから考えて、
義久は中央政権の命の重さや性格についての理解が欠けていたとも
考えられる。
結局、忠恒が富隈衆などの反対を押し切って上洛している。
407無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 12:52
島津義久が驚異的な政治力を持ってるわけでなく、
日本最南端という位置と頑固な対応がたまたま征服者の事情などもあって効を制しただけなのね。
まあ、徳川の場合は島津の強兵ぶりを警戒したというのもあるだろうけど。
島津義久はそういう難しい計算はしてなかったと思われ。
408無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 13:45
なんかフロイスによると秀吉兵糧切れでピンチだったとか まあ宣教師は秀吉の事悪く書いてるけど
409無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 14:12
>>408
確かにありえない話しだね(w)
>>408
フロイスは自分の気に入らない人物はボロカスに書くからね。
これだから宣教師は。。。。
411無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 23:08
島津義久と島津義弘の豊臣政権への対応の違いは真田家の関ヶ原の際に
東軍と西軍に分かれたのと同じ考え方が根底にあるのでは?
どちらが勝っても島津家は残るというような
412379:02/09/07 02:52
>>411
それは考えられない。
>>404-406で具体例を挙げて述べたように、義久は豊臣政権、徳川政権と
一貫して中央政権から距離を置いている。
その距離の置き方も、太閤検地や朝鮮出兵消極的(軍役の人数、補給など)、
関ヶ原後の講和交渉で家康起請文提出後の上洛要請にも消極的、と
改易の危険性を孕むものであった。
前者は御恩(知行安堵・新恩給与)−奉公(軍役・賦役の履行)という
武家の契約関係を危うくするものであり、後者にいたっては講和の否定
と取られかねない行為である。
どちらが勝っても島津は残るというよりは、義久だけであれば島津家は
改易されていた可能性が大きいと思われる。
413379:02/09/07 03:11
>>412補足
さらに付け加えるのであれば、関ヶ原の合戦において真田信幸は
秀忠勢に属して、父方の城である戸石城を攻撃・後略している。
義久は関ヶ原の合戦において徳川のために積極的な行動を
起こしていない。
従って、政治的判断でどちらが勝っても家が残るようにした、
という考えには賛成できない。
414無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 03:19
三国志みたく人口みたいなのがあって。
またその人口が分かれていて、
商業2000人、工業5000人、農業30000人、浪人300人、
(シムシティーみたいだけど)にわかれていて
太閤立志伝みたいに人心掌握度があってそれによって仕事の能率が変わるとか、
税率を設定できてそれで人口変動。
そして兵はどの階層からどれだけとりたてるときめられる。
またいままでは金100とか小さな単位でしか開発できなかったけどこんどは上限なしにして
弱小大名でも十分開発できたり。徴兵した土地によって地形の得手、不得手や、
兵種の得手、不得手、が武将の値に加算されたり減ったりするのは。
そして産業奨励ができて、例えば鉄砲なら雑賀の鉄砲衆から人材を引き抜いてきてその産業を発展させる。
また商業なら商業人口が一定になったら町ができて常駐商人ができるとか。
もっと全国的に動きを見れるようにしてほしい。

415無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 03:20
それは、意外な言葉だった。この俺が軍師候補に?一瞬、戯れかと
思ったが、張宝様は戯れ言を好んで言う様なお人ではない。
だが、何故、この俺が?正直言って、戦術や陣形の考案等は、人並みに
出来ると思う。だが、あくまでも人並みなのだ。とても軍師の器等では
無い。きっと、他に適任者がいるはずなのだ。

しかし、俺は、ここで重要な事実に気が付いたのだ。
黄巾軍で、知力のトップはこの俺だったのだ。これはある意味衝撃的
事実だった。確かに、黄巾にも優秀な将は多い。周倉や、程遠志の様な
猛将もいる。だが、そういう人材を、自由自在に操る事の出来る「知将」
が存在しないのだ。だが、俺はもちろん軍師の器では無い。
だが、「しかし」だ。黄巾の中で、俺が1番可能性があるというのなら、
引き受けるしか無いのだ。これから、優秀な人材は増えてくるはずだ。
それまでの「繋ぎ」と考えれば、「軍師」の肩書きもそれ程、重荷では
なくなった。何より、張宝様の期待に答えねば。

俺は、知識を増すための猛勉強を開始した。市場で「易経」も買って
読破した。約2年後、俺の知力は70を超えていた。
そして、俺は、若干19歳で黄巾軍の軍師に任命されたのであった。


416無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 03:22
諸葛亮(大仏?)

         / ̄ ̄ ̄\
        (______)
         |      |  
     ,,――┴―──┴──‐、
    /               \
   |   _________  .|
   |  l´             `l  |
   | l´              `l |
   | |  ,-―‐-、   ,-――-、 | |
  (^Y | '___,;;   /___ ` .| Y^)   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   `川| `ー`'´‐',;  l::`‐`'´‐´   | リ/  < 天下三分の計です!
   川リ!        |:::      !川ヾ   \_____
   川リ|      、_|:::l      |ハリヾ
   リリリ |   ┏     ┓    |' リリリ
   リリ ヘ   ┃ ─── ┃   /  リリ
   リリ  ヘ  ┛  ー― ┗  イ   リ
      ,| ヘ____リリ____/ |、
    /( \      リ     / )\
        `ー――リ――‐'´


417無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 07:59
>>411
スレ違いではあるが、そもそも真田の「真田二分の計」自体史実ではないんだが、
真田昌幸、信繁、信幸が密談して、どちらが勝っても生き残れるように分かれたという話しは小説の中の話し。
実際は何の連絡もなく自然に別れただけ。まあ昌幸の頭の中では計算されてたかもしれないけど。
418無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 08:07
>実際は何の連絡もなく自然に別れただけ。

どちらにつくかで親子で大喧嘩をしたという話を聞いたことがあるんですが
これも創作なのかな?
>>418
「犬伏の別れ」ね。
有名な逸話ではあるが、史実かと聞かれると自信がない。
日本史板の質問スレで聞くとわかるかも。
いずれにせよスレ違い。
まあ、大ゲンカしたにしろ、自然決別したにしろ、
ドラマに見られるような真田二分の計や密談の話しが
嘘だったというのは変わらんね。
そもそも両天秤かけるというのが政治的判断としては下策。
本当に政治的な判断や進退が巧みなら、家中一丸となって勝ち馬に
乗り続けるものだと思われ。
藤堂高虎や鍋島直茂の方が真田などより余程世渡りが上手い。
島津スレに戻れ。
423無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 15:04
>>421
鍋島は西軍についたはずだが
>>423
その後東軍に鞍替えして柳川(立花)攻めて本領安堵。
当時の人間の行動基準が、理詰めの物でなく
現代人より多分に義理人情などが入り込んでいるので
むつかしいだわさ
最初から勝ち馬についたのが藤堂高虎。
上手に馬を乗り換えたのが鍋島直茂。
鍋島の場合は秀吉に誼を通じたのが早かったことも評価できる。
>>425
家が存続するかどうかの瀬戸際の政治的判断は打算だろ。
島津の場合は家の存続のために歳久を犠牲にしてるわけだし。
428無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 15:52
>>427
島津オタには悪いが、
実は歳久はほかの兄弟との仲はわるい方だったんだが。
>>278
 話を戻すようで悪いんだが、三成が自ら島津の陣に救援を求めにきたってのは本当?
 たとえピンチだったにせよ大将自身赴くなんて危険極まりないことをするだろうか?
>>429
三成の使者だよ。
>>428

歳久の自害について義久のこんな書状が残ってる。
「今度晴蓑(歳久)進退のことは、御朱印差下、幽斎老拙者同前、
去十六日拝領致し訖。
さて兄弟之列堪え難きといへども、上意により、外には勘気を顕さず、
内には悲涙に沈み候。」
(兄弟の間で自害を命じるなど耐え難いことだが、上意なので外見は平気な
顔を保ち、心中では悲しみの涙に沈んでいる。)

また、宮之城に立てこもった歳久の遺臣達にも歳久の孫の袈裟菊、歳久の妻、
袈裟菊の母から家臣に至るまで面倒を見るという起請文を書き、袈裟菊の助命を
幽斎に申し出て幽斎も誓詞を書いている。

こういう事例を見る限り、義久にとって苦しい決断だったと思われる。
仲がどれくらい良かったか悪かったかはわからないがね。

その反面、佐土原城を差し出して単独での投降をを計った家久を島津側が
謀殺したという説もある。(原昭午 「兵農分離と幕藩制」)
一般的ではないが。

いずれにせよ、兄弟仲とは別に家の存続のために打算による政治判断が
行われることは珍しくもなかったと思われる。
>>429 >>430
小早川寝返りの後、まず三成は八十島助左衛門を島津豊久の陣に使わし、
前線に出るように命じた。
豊久は「委細心得候」と返事をしたが動かなかったため、重ねて八十島を派遣。
しかし、馬上から口上を述べたため、島津の家臣が討ち取ろうと詰め寄ったため、
八十島は駆け戻り、代わりに三成が単騎で訪れ、
「敵勢相掛け候間、跡へ押し寄せられ候へ」と命じたが、豊久は
「今日の儀は、面々切りに手柄次第に相働くべく候、御方も其通り御心得あるべし」
と要請を断り、三成は「近比能くござあるべし」といって力無く帰陣した。
(「山田晏斎覚書」『惟新公関原御合戦記』などに記述あり)
433無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 17:56
ここはこの板の知識人が集まるスレだな
>>431
歳久の件は弟殺しは体面が悪いから、外聞をはばかってのポーズの可能性もあるね。
それと家久謀殺説も豊臣側が家久の武勇を恐れて殺したうんぬんよりは信じやすいね。病死だとは思うけど。

>>432
少なくとも三成自身が現れたの小早川裏切り後だし、
生き残りのために仕方あるまい。
もっとも、口ぶりからしてすでに島津も戦闘で動けなかったかもしれないし。
435無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 20:01
>>434
三成は小早川が裏切ったあとも勝つ気でいたんだろうか?
436無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 20:18
さもしい欲望のために兄を殺した長曽我部に見習わせてやりたい言葉だ。真意であればだけど。
>>434
>外聞をはばかってのポーズの可能性もあるね。
確かにその可能性は否定できない。
家中の統率や宮之城に籠もる歳久の遺臣の対応にも影響することだし、
もし遺臣の反抗が広がるようでは中央の受けが悪くなり、島津自体が
危うくなる可能性もある。
ただ、その場合もやはり政治的判断が優先されたというわけで、
いずれにせよ家の存続のためには個人的感情に囚われない対応が
必要だということだと思われる。

家久に関しては、謀殺説の真偽は兎も角、
家久が義久降伏以前に人質を出して佐土原の居城を明け渡し、
秀長について上方に上って自分に似合いの扶持を受けたいと
申し出たこと、そして、それによって秀吉から佐土原を安堵された
ことについて義久は容認できなかったようで、
天正十五年五月二十六日付の書状で上記の家久の処遇が秀吉から
義久に伝えられたが、同日付の義久から家久宛ての書状に
「是非公界を背かれず候様、能々分別肝要に候」という文言が見える。
この場合の”公界”は島津の置目(きまり)を指すと考えられており、
義久の行動が島津の家の規律を乱すものだと義久が認識していたと
思われる。
>>435
最後の瞬間まで出来るだけのことをするのが将帥の務めだと
思っていたと思われ。
その場で自害せずに、再起を考えて落ち延びた。
負けを潔く認めて腹を切るような思想はなかったと思われ。

>>436
個人的感情と政治的ポーズが入り交じっていたのかも。
そうだったとしてどれくらいの比率だったかはわからないが。
439無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 20:29
>>437
最後の方で「義久」と「家久」書き間違えてるね。
440437:02/09/07 20:32
>>437訂正
>天正十五年五月二十六日付の書状で上記の家久の処遇が秀吉から
>義久に伝えられたが

天正十五年五月二十六日付の書状で上記の家久の処遇が秀吉から
義弘に伝えられたが
441437:02/09/07 20:34
>>439
指摘感謝。申し訳ない。

>義久の行動が島津の家の規律を乱すものだと義久が認識していたと
>思われる。

家久の行動が島津の家の規律を乱すものだと義久が認識していたと
思われる。
442無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 21:45
なんか上のほうでもいろいろと論じられてるようだが、石田の島津への支援要請は
午前11時ごろだよ。
>>442
断言はできないのでは?
この三成の支援要請が小早川裏切り後だったという話しは最近の切の二番備え説のキモだし、
彼らとて何らかのソースを持っているのだろう。

それと、三成自らの支援要請が裏切り後って事だったのだろう。
それ以前は自分たちが唯一の左翼の予備であった事から作戦上、自重してたとも考えられる。
444無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 06:22
>>442
>石田の島津への支援要請は午前11時ごろだよ。
その説の根拠を希望。
>>442-444
二番備え説と軽い支援要請が11時頃だったというのは両立するのでは?
島津家の記録では小早川の裏切りの前に部下を軍議のため、
石田の陣に派遣しようとした矢先に小早川が裏切ったとある。
つまり、島津は自分たちが小勢であるので小早川・脇坂らが戦闘に参加しようとしてから参加しようと考えてたのだと思われ。
三成自らの要請は少なくとも裏切り後だ。

なお、島津義弘の兵は実際は数百程度(多くとも八百くらい)で簡単に戦闘参加できない状態だったと言われる。
>>445
成る程、そう考えると筋が通るね。
447無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 08:39
このスレ読んで思ったのは
島津義久ってそんなに無能だったのかな?
ということだ。
448無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 08:46
>>447
無能ではなかったが、豊臣⇒徳川への流れに影響を及ぼすほどではなかった
449無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 10:25
>>447
本人の資質とは別に長く続いた家故のしがらみなどもあったと思われ。

信長や秀吉と違い、義久が独裁権を行使できたわけではないことも
考慮する必要がある。
家臣の反対を押し切って何かを行えるほど独裁権を確立できていたので
あれば、領内の仕置に幽斎や三成の手を借りる必要など無かっただろう。
450無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 12:59
豊臣秀吉への降伏は義久のほとんどの家臣の反対を押し切って独断で行ったって聞いたけど
違うのかな?
451無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 13:32
>>450
その説の根拠を希望。

天正十五年五月八日の義久降伏以前、四月十七日の日向根白坂の合戦後に
島津家久、伊集院忠棟は降伏済み。
出水城主島津忠辰も四月二十七日に秀吉が薩摩出水に至った後に降伏。
(島津忠辰は薩州家で義久の婿)

「樺山紹剣自記」によれば、義久は秀吉が泰平寺に着陣した(五月三日)
ことを聞いた際、
「今は別の才覚これ無し。向かう敵に懸け合わせ一命を極むべし」
(今はもう考えることもない。向かってくる敵と合戦し、死に花を
咲かせよう)と述べたが、重臣達が、
「天下殿江御礼御申し候て然るべく候」(秀吉に降伏するべきである)
と説得した、とある。
「勝部兵右衛門聞書」によれば、先に降伏した伊集院忠棟も日向から
薩摩に帰っており、義久の供をして泰平寺に出頭している。
伊集院の説得も義久の降伏に大きな役割を果たしたと考えられる。
あと>>404で挙げた通り、義久の家臣統率には外部から弱腰との
批判が出ている。
ついでに言えば、この時点でまだ義弘は降伏していない
(五月十九日秀長の陣に出頭)。
以上の点から考えると、独裁権を持ち、家臣を厳しく
統率できていたとは考えにくい。
452無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 15:00
なんだか>>451さんの知識量は凄いね。
次々と島津オタのドリームを壊してくれる。
史学科の島津の研究を専攻してた人なんだろうか?
私も史学科出だけど、とても太刀打ちできない・・・
453451:02/09/08 15:31
>>452
とんでもない。
あたしゃ一次資料なんぞ見たこともない単なるDQNです。
近世大名としての島津家に関しては、東大の史料編纂所に
所蔵されている『島津家文書』を始めとして『薩藩旧記雑録』など
という包括的な編年史料が残っているため、色々と研究されてまして、
あたしゃそれを摘み読みさせてもらってるだけです。

しかも、本屋でたまたまネタ元になりそうな本を見つけてたので、
これ幸いと無断で内容を引用させて頂いたDQNです。

興味のある方は、
『島津義弘の賭け』 山本博文 中公文庫 2001
ISBN4-12-203909-6
(『島津義弘の賭け―――秀吉と薩摩武士の格闘』 山本博文
 1997 読売新聞社刊 を文庫化したもの)
をお読み下さい。主なネタ元です。
著者は『島津家文書』の整理と目録作成を行った方であり、
大名権力による伝統的体制の改革という観点から島津家を
扱っているので、政治向きの話に興味があるならお勧めです。

では、ネタばらしをしたので消えます。 
454無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 19:56
>なお、島津義弘の兵は実際は数百程度(多くとも八百くらい)で簡単に戦闘参加できない状態だったと言われる。

にゃるほど。
455無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 20:44
197年4月(城内)
袁術「朕を滅ぼそうと曹操、劉備、呂布、孫策が攻めてこようとしておる
紀霊、お主は汝南太守として遊軍となり曹操に備えよ」
紀霊「はは」

(市場)
紀霊「曹操に備えよとか言われても二万の兵と俺1人しか汝南にいねえし
何もできるわけ無いだろあの猿・・・なんか民が話しかけてきたぞ」
張ガイ「貴公は紀霊殿ではありませんか私は張ガイと申します」
〜紀霊と張ガイは意気投合し長くまで話し合いました〜
(兵舎)
紀霊「もうすぐ曹操が攻めてくるからな俺のために気合いれろよ雑兵ども」
周倉「貴公は紀霊殿では?私は周倉と申します」
紀霊「何所かで聞いたセリフだな、まあこれからも宜しく」

197年5月
(自宅)
紀霊「今月もやることねぇし張ガイと周倉の顔でも見に行くか」
(飯店)
紀霊「よお張ガイ武芸について話しでもしないか?」
張ガイ「紀霊殿はそのような事に興味があるのですか」

紀霊「周倉武芸について話しでもしようぜ」
周倉「おお!興味がありますな」

行動力の余りで略奪をするが失敗する

456無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 21:00
>>454
兵が数百あれば参加できると思うが。
457無名武将@お腹せっぷく:02/09/13 22:34
保守
革新
459無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 00:20
蒼天禄の義弘公の顔グラ、あれは酷いと思わない?
さいとうたかおの脇役キャラの顔だろ?
どうせならゴルゴ13の顔にした方が迫力あって良かったのに
460無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:16
義弘と直接関係ないのですが。
鹿児島に秀頼の墓ってのがありますよネ。秀頼の鹿児島伝説です。
大阪夏の陣で秀頼が大阪城を脱出し、島津に匿われたというあの話です。
秀頼は、最後大阪城の山里曲輪に篭りました。死体は爆発の為確認できず。
ただ、大阪城に秘密の抜け穴というのが見つからず、
単なる伝説にすぎなかったという事で終わってるんじゃなかったですかね。
でも、今年の正月番組でやつていた、義経や光秀のトンデモ説より
現実味あるのではと、思います。
どなたか調べた人いません。



461無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:33
>>460
ああ、俺の実家の近くだったらしいよ、鹿児島市谷山ってとこ。
たしかに秀頼伝説あるんだけど、な。
それによると、秀頼は薩摩流遇後、飲んだくれになって
女遊びに興じたらしいぜ・・・

まぁ、聖人君子でなかったってところが逆に信憑性はあるわな(笑)
    ちなみに信じちゃいないぞ、俺は。
462460:02/09/15 22:56
>>461
そう、その話です。飲み食いしても金を払わなかったそうです(笑
私も本気で信じてませんけど、この話面白いし。
第一なんで鹿児島にそんな伝説かあるのか、不思議じゃありません?
463無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:57
反徳川だから。
464460:02/09/15 23:08
>>463
カタルシス。
それで、墓まで作った?
ま、そういうのもアリで面白いですね。いや、マジで。
465無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 00:06
後れ馳せながら漏れも島津奔る上下読んだ感動した。それからというもの池宮氏の本を読むようになった。にげろ家康はイマイチ。
池宮はDQN。
『四十七人の刺客』で終わっていれば良かった。
特に経済関係の考察が駄目駄目。
思いこみも激しいし。
>>460
>でも、今年の正月番組でやつていた、義経や光秀のトンデモ説より
>現実味あるのではと、思います。

同種だよ。英雄不死伝説という奴だ。秀頼が英雄かどうかは知らないがね。
真田にも西郷にも同様の話はあるんじゃなかったかな?

秀家を匿っていたから秀頼も……という願望なんだろうが、関ヶ原後と
大坂の陣後では落ち武者詮議の厳しさや幕府の姿勢が違うから、
秀頼生存説はトンデモだと思う。
井沢元彦によれば、英雄生存説は怨霊鎮魂の一種らしいが、そういう解釈は
まだ一般的ではないわな。
468無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 09:46
しかし大阪びいきの地域の伝説ならそういう意味(単なる願望)で信用できないだろうが
薩摩で伝説が残っているというのは、特に豊臣びいきの地域だけに信憑性があるよな
薩摩には秀頼の子孫を名乗っている人もいるはずですよね、たしか?
469無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 09:49
特に豊臣びいきの地域だけに→特に豊臣びいきの地域ではないだけに

の間違いでした
470無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 09:52
>>467
まあ秀頼生存説よりは光秀生存説の方が可能性あるだろ。
それと、義経生存説に関しては
単なる「義経は衣川で死んでいなかった」と「義経はチンギスハーンになった」というのが
あまりにも落差がありすぎるからであって、
前者の方は幾分、可能性はあるんだけどな。
>>468
子孫を名乗っていることなんて何の信憑性も持たんよ。
系図を信じれば源平藤橘の子孫だらけということになる。

薩摩にもあんたみたいな人間が多かったんだろうよ。
もっとも、非業に死んだ人間に何かを感じる、というのは
えびす(水死体)信仰を始め、日本中にあるらしいから、
実は生きていた「伝説」を生む余地も日本中にあったのかも知れん。
赤穂浪士に関する伝説も各地に残っているし、人間は
信じたいものを信じたいように信じる生き物なのさ。
寺坂吉右衛門で調べてみな。墓があちこちにあるから。

>>470
うーん、あまり興味がないんでどっちが可能性があるかはわからない。
義経生存説のうち、前者は義経北行説だったかな?
まあ、誰それが生きていた……という伝説は多いが、あまり歴史の
流れには関係ないので興味は薄い。
生きていたにせよ、政治的には死んでるわけだし。
それに、生き延びていたなら光秀にせよ、秀頼にせよ、身内を
犠牲にしておめおめと生き延びたろくでなしということに
なるような気もするな。死ぬべき時に死ぬのも武士だろ。
秀頼は生き延びようとするくらいならさっさと徳川に屈服していれば
良かったと思うよ。個人的にはね。
>>464
墓を作るくらいはなんてことはない。

七人の吉右衛門
著者:江下博彦 1999年 叢文社刊 

大正7年福岡県生まれ、医学博士・精神鑑定医である著者が、
寺坂吉右衛門を始めとする数々の「忠臣蔵」の謎と争点を検証した作品。
赤穂四十七士の一人・寺坂吉右衛門 には全国に七つの墓がある。
著者は、七つの墓すべてを回り終えたが、目標とする吉右衛門の
檢証を果たすことはできなかった。
この解明は「あとにつづくを信ず」と書かれている。
数々の文献を集め、検証し、若干の文学的創作を加えるあたりは、
いかにも医学論文を書きなれた医者らしい文章。
忠臣蔵の謎に一歩近づくことは出来た。
討ち入り300年の今年ならではの本。

473無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 23:50
>>471
えびすって水死体のことだったのか?
オレは奇形児のことだと思ってたよ

>身内を犠牲にしておめおめと生き延びたろくでなし
あっさり死んでしまったら例えば義経を助けるために文字通り命をかけた弁慶が無駄死にとは思えないですか?
秀頼も光秀も殿様の命を守るために命を投げ出した家臣たちが大勢いる
そんな命なのに自らあっさり死んでしまうことのほうが正しいのかね?


474460:02/09/17 00:10
秀頼伝説についてのご意見 サンクス
光秀の生存説については非常に説得力がありますが
最後に南光坊天海になった で爆死でした

さて皆さんの考察によると 反徳川、親豊臣の風土が この伝説を生んだ
という事ですが ここが納得できないところなんです
関が原の時 島津はどちらかと言えば 親豊臣といった程度
決して豊臣マンセーではありません
しかも関が原戦後 西軍についたにも関わらず 異例の処分無し
これで 親豊臣 反徳川の精神が培われていったとは思えないのですが?

>>472 その墓なら 実家の近くにも在ります

475460:02/09/17 00:36
連続カキコ スマソ
とは言え 江戸期に確かにイジメは受けてますね
濃尾治水工事とか‥
>>473
>そんな命なのに自らあっさり死んでしまうことのほうが正しいのかね?
光秀にせよ、秀頼にせよ、家臣のことを考えるのであれば、まず他に
取るべき道があったはず。
謀反を起こしたり、公儀に弓を引くことを選択した以上は、
死ぬべき時に死ぬのが潔さ。
自分のエゴで事を起こしておいて家臣を弾除けにしておいて
生き残ろうとするのは見苦しい限り。
義経については触れてなかったが、義経についても同様ね。
奴は政治的な感覚が無さ過ぎ。

「えびす」信仰については、記紀神話のヒルコ(蛭子)のことをえびすと
呼んでそちらとの繋がりもあるから奇形児というのもあながち間違いでもないと
思われ。
477471.472.476:02/09/17 04:19
>>474
>さて皆さんの考察によると 反徳川、親豊臣の風土が この伝説を生んだ
>という事ですが ここが納得できないところなんです

少なくとも、俺はそうは主張していないが。

平戸商館長コックスの日記に、
「本日将軍様(秀忠)死したりとの噂しきりなり、また秀頼様は生存し、
大名の彼に加担するもの多しとの風聞あり」
家康は大坂落城の時、城を脱出した落ち武者の詮議を厳しくしたこと、
名だたる将士の遺死はいずれも首が切り取られ、そのため識別は困難だが、
特に秀頼の遺骸だけはついに発見されないので脱走したのではないかと
信じるものが少なくない、等と記している。
秀頼生存説は大坂落城の直後からあった。
薩摩以外にも秀頼生存説は存在してたらしいな。
文献的な裏は取れなかったが、高野山の僧になったなどの違う話も
あったらしい。

これらのことから考えると、「非業に死んだもの」を特別視し
「その人物が生存したと信じる」あるいは話題の中心であるものについて、
地元が関係あるような伝説が生まれる、などの文化は日本中にあり、
その中の一つとして秀頼生存説も位置づけられる。
特別に薩摩が秀頼伝説を生んだとは考えにくい。
ただ、その後幕府の締め付けが厳しかった余所ではあまり大っぴらに語られる
ことなく、肉付けも出来なかったのに対して、薩摩領内は幕府の締め付けが
比較的緩く、独自性を保てたために伝説が生き残り、発展する余地が
あったのではないか、と考えられる。
478無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 18:58
>>476
>謀反を起こしたり、公儀に弓を引くことを選択した以上は、
死ぬべき時に死ぬのが潔さ。

三成は公儀に謀反も起こしていないし、公儀に弓を引くようなこともしてないね。

>死ぬべき時に死ぬのが潔さ。
自分のエゴで事を起こしておいて家臣を弾除けにしておいて
生き残ろうとするのは見苦しい限り。

それは単なる貴方の美意識の問題じゃないですか?

ぜんぜん論理的じゃないですよ

オレとしては処刑場に向かう途中でも柿は毒だから食わなかった三成の方が
論理的な感性をしていると思う
最後の最後まであきらめないのが本来の戦国大名の生き方だろう
479無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 19:16
読売新聞社「島津義弘の賭け」山本博文
国書刊行会「秀頼脱出」   前川和彦 はどうよ。
>>478
俺は>>476じゃないが、確かに切腹せずに最期まで
豊臣家を守るために生き延びようとした三成は素晴らしいと思う。
ただ、前のレスにもあるように秀頼が仮に逃げ延びたとして
薩摩で遊びほうけていたとしたらあんまりだと思う。
481476:02/09/17 20:36
>>478
>三成は公儀に謀反も起こしていないし、
>公儀に弓を引くようなこともしてないね。
何でそこで三成が出てくる? あんたの方が非論理的だと思う。

>最後の最後まで諦めない
明確な目的があればな。三成のように。

秀頼の目的は何だ?
家の存続ならとっとと徳川に屈するべきだろ?
屈するより名誉を選んで挙兵したんじゃないのか?
だったら死ぬのが名誉を保つ方法だと思うぞ。
まさか本気で徳川に勝つつもりだったのか?
自分は出馬もせずに? それなら正真正銘の馬鹿だな。
もし、生き延びたのであれば馬鹿かヘタレのどっちかだろう、奴は。

>>479
前者は既出。(現在は文庫版も出てる)
482無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 21:32
>>481
ああ、アンタが光秀って書いたのを三成と勘違いしただけだわ
ともかくアンタは非論理的だな
自分の美意識に屁理屈で包んでるだけだろ?
483476:02/09/17 21:46
>>482
だからあんたは論理的=合理的という意味で使っていると思うが、
合理的というのは目的に対して合理的かどうかで判断される。
目的合理性って奴だ。

論理的というのは構文が論理規則に則っているかどうかによって決まる。

もし(1+1=4)であるなら、(1+1=4)である。
()内が何であれ、この文は常に論理的に正しい。トートロジーだからな。
ペアノの自然数の公理には沿っていないがね。

で、秀頼の行動が合理的だったかどうかというのは秀頼の目的と
行動によって判断される。
だから秀頼の目的を考えて、実際の行動と照らし合わせているわけだ。

秀頼が生き延びることが目的なら、プライドも何も捨てて徳川に
屈服すればいい。それで潰されても最大限の努力をしたことになる。
家臣だって死なずにすむ。
徳川に勝って政権を取るつもりなら、余計な金を使わずにもっと
軍備を整えて勝負し、冬の陣の和議にも応じるべきでなかった。
夏の陣でも自身が出撃するべきだったしな。
秀頼の行動は中途半端なんだよ。だから滅んだんだが。

ついでに言えば、あんたは簡単に本来の戦国大名の生き方、というが、
戦国大名にも色々いる。
生き方もそれぞれ。家を残すために必死になる武将もいれば、
大谷刑部のように友情のために命を捨てる武将もいる。
信仰のために日本を捨てた高山右近みたいな大名もいる。
戦国大名として、なんて一括りでは考えられないと俺は思うよ。
484476:02/09/17 22:06
>>483補足
論理的について
例として文の論理性を取り上げたが、もちろん主張全体の論理性というものも
存在する。
その場合は、前提や結論を導く過程に矛盾や飛躍がないかどうかが問題となる。
そっちの意味で「論理的」という言葉を用いていたなら、俺の議論の
どこが論理的でないか、例文を引いた上で論理的に指摘してくれ。

具体例を挙げてくれないと俺はあんたが自分の気に入らない意見に
「非論理的」というレッテルを貼っているようにしか思えないんで、
具体的な指摘をお願いしたい。
485476:02/09/17 22:15
>>483
さらに補足。
秀頼の目的。
名誉を重んじるなら、家が潰れた後、生き残るのは不名誉だと思う。
最後になって目的が生き延びることに変わったのであれば、やはり目的が
首尾一貫してない信念を持たないヘタレということになる。
ついでに言えば、中途半端な行動を取ったんで豊臣家はああいう形で滅んだが、
徳川に屈服しても家を長く保てたかどうかはわからん。
個人的には1万石程度の小大名か、高家扱いの旗本になれば家は続いたと思うが、
あのままの封地では危険視されて家は保てなかった様な気がする。
まあ、それでも家臣の命が大事なら耐えるのも大名だわな。
毛利も上杉も頑張ったんだ。
486無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 23:01
いや秀頼公の行動が論理的かどうかをのべたのではなく
アンタの言動が論理的じゃないと言っただけなんですけど・・・。
>光秀にせよ、秀頼にせよ、家臣のことを考えるのであれば、まず他に
取るべき道があったはず。
この文から
>謀反を起こしたり、公儀に弓を引くことを選択した以上は、
死ぬべき時に死ぬのが潔さ。
この結論に至るは飛躍し過ぎだろ(w
死んだからって戦で死んでいった家臣たちが浮かばれるわけもなく、否むしろ
なんの為に死んでいったのか?
それこそ無駄死だろーよ
潔く死ぬなんてのは、トップに立つ人間の論理じゃないんだよね
トカゲの尻尾切りって言葉はあってもトカゲのアタマ切りなんて言葉は無いんだよ
わかるかな?この意味が?
487476:02/09/18 00:15
>>486
しつこい厨房だな。もっと勉強してから出直しな。
>>476さんは、戦国武将はこうだ、とひとくくりに考えすぎなのでは?
だいたい「家」だ名誉だのと言いはじめたのは、江戸時代になってから。
それまでは藤堂高虎をはじめ、主君をいくら変えても平気だったわけだし。
後継ぎも、ころころ変わるし、勝つためには秀吉・家康のように手段を選ばないし。
秀頼に関しては、大坂の陣の頃は腑抜けになっていて、全て家臣におまかせ、
我関せずで通してきたのに、いざ滅亡となったとき
生き恥なんか考えずに、宇喜多秀家のように逃げたかもしれないな、と思うが。
大内義隆など英邁だった君主が堕落した先例もあるし。
489476:02/09/18 04:46
>>486

>いや秀頼公の行動が論理的かどうかをのべたのではなく
>アンタの言動が論理的じゃないと言っただけなんですけど・・・。
>478
>オレとしては処刑場に向かう途中でも柿は毒だから食わなかった三成の方が
>論理的な感性をしていると思う

武将の論理性について述べているのか、俺の論の論理性について述べてるのか
こっちにはよくわからなかったので、両方について立論した。

>この文からこの結論に至るは飛躍し過ぎだろ(w

あんたが勝手にその二つの文を結びつけて考えてるだけ。
「だから」などと前の文を根拠に後の文を俺が述べたか?
「それと」などを使って並列であることを示した方が親切だったとは思うがね。

>潔く死ぬなんてのは、トップに立つ人間の論理じゃないんだよね
>トカゲの尻尾切りって言葉はあってもトカゲのアタマ切りなんて言葉は無いんだよ
>わかるかな?この意味が?

あんたの考えで行くと、城兵の命を救うために腹を切った別所長治や清水宗治は
どうなるんだ? 単に自分がものを知らないだけだろう。
「今はただ、うらみもあらじ、諸人の、いのちにかはる、我身とおもへば」
部下のために命を捨てるのもトップの資質なんだよ。
あんたには縁がない考え方だろうがね。

それに、武士にとっては「名こそ惜しけれ」という鎌倉時代の伝統もある。
490476:02/09/18 05:05
>>487
人の名前を使うのは勘弁して頂きたい。

>>488
俺宛のレス番号なので返答させてもらう。
>戦国武将はこうだ、とひとくくりに考えすぎなのでは?
戦国大名の行動の多様性については>483で触れているつもりだが、
何処を読んでそう感じたのか教えてもらいたい。
>生き方もそれぞれ。家を残すために必死になる武将もいれば、
>大谷刑部のように友情のために命を捨てる武将もいる。
>信仰のために日本を捨てた高山右近みたいな大名もいる。
>戦国大名として、なんて一括りでは考えられないと俺は思うよ。

>だいたい「家」だ名誉だのと言いはじめたのは、江戸時代になってから。
これは貴方の認識不足だろう。
「名こそ惜しけれ」武士が名誉を重んじるのは鎌倉時代の伝統だよ。
命が最優先という考え方が一般的なら、もっと降伏する武将が多かったろう。

それに「家」は所領の基本だから、養子を迎えて家が無くならないように
したり、家督相続でごたつくわけだ。「家」を重視するのも武家の伝統だよ。

勝つために手段を選ばない場合は確かにある。
だが、武偏や武家の面目のために死ぬ場合だってある。

「浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して」
清水宗治の辞世の句だ。秀吉に下れば命は助かったが、名を惜しんでそれを拒否し、
城兵のために腹を切った。

「彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉がすべてである。」
ザビエルの印象。
491476:02/09/18 05:20
>>489追記
・吉川経家と書状

去る七月十二日、羽築取り詰め候。夜白二百日余り、堅固に相抱へ、
今に於ては兵糧相縮まり候条。一人悴腹に及び、諸人恙なく相助け候。
其の仕合はせ、御一門の名誉たるべく候。恐惶謹言。

さる7月12日に、羽柴筑前守が攻めて来た。それ以来、
昼夜200日以上にわたって城を守って来たが、今はもう兵糧が尽きている。
私一人が腹を切り、全ての城兵を助けることにした。
そうすることによって、吉川家の名誉にもなると思う。

吉川経家の場合は、自分の城でもない鳥取城に援軍として派遣された。
相手の秀吉も山名の家臣である、森下道与、中村春次を自害させ、
経家を助けようとしたが、
経家は「私は山名の人間ではないが、鳥取城の指揮を任され、
派遣された大将である」と言って腹を切った。
「式部少輔一人可替諸士命」という言葉には信長も感じ入ったという話だ。
492476:02/09/18 14:56
・武将の生死について

>478氏は一貫して
「戦国大名は部下を犠牲にしても生き続けるのが本来の生き方」
と主張しているが、この「本来の生き方」という部分は個人的に疑問。
武将の生死は一般論で評価されるべきものではなく、ケースバイケースで
評価されるべきものであると私は考える。

そこで、478氏が主張するように、武将が配下を犠牲にしてでも
生き続けるのが評価できるのはどんな場合なのか考えて見た。

1)その武将の死がある勢力(率いている勢力)の崩壊に直結する場合
2)明確な目的を持ち、その目的に向かって一貫して行動している場合

こういった場合、武将が配下を犠牲にしても生き延びるという行動は
個人的に高く評価できる。
例:金ヶ崎の信長、既出だが関ヶ原後の三成

あと、付け加えるのであれば、3)生き延びた後の武将の行動
も評価の対象となると考えられる。
特に、部下が無駄死にであったかどうかは、
その武将の目的(何のために生き延びたのか)、そして実際の行動
(何を行ったのか)という点から判断されるべきだと私は考える。

そして逆に、武将が配下のために死んでも、私は評価できる場合があると思う。
具体例は>489-491で既出。
493無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 19:52
おい、お前ら島津義弘公の話をすれ!
>>476
もういいから消えろ。誰も貴様のオナニーなんざ見たくない。
495476:02/09/18 19:56
>>494
別に貴方のために書き込んだわけじゃない。
嫌なら見なければ良かろう。
もっとも、スレ違いの話題なのは確かだから、こちらからこの話題を
発展させるつもりはないがね。
496無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 19:59
>>495
ぐだぐだ言ってないで早く消えろ
497476:02/09/18 20:02
>>496
お前にそんなことを言われる筋合いはない。
498無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 20:42
476はオナニーを他人に見せるなんて露出狂かしら・・・
499476:02/09/18 20:48
>>498
もう少し内容のある批判を希望。
以降、特に内容がないと思ったレスはローカルルールに
従って無視させてもらう。

一、荒らしは徹底無視の事。無視しない者も荒らしと見なしたるべし。
500無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 20:53
476って常駐してるのかしら・・・
501無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 23:50
>>476

ここは島津義弘についてのスレである。
ここはおまえのスレではない。

これでいいか?
502476:02/09/19 04:38
>>501
良くない。

スレ違いの話題だという事を批判するのであれば、>>493氏のように
主張するのが筋だろう。筋が通った批判なら受け入れるさ。
議論やってる最中に、俺だけを名指しで批判されて、はいそうですかと
納得できると思うかい? 

それから自分がどのレス書いたのか指定してくれ。
いきなり>>501のようなレスつけられても、その前のレスがどれなのか
わからん。
503島津義弘:02/09/19 21:08
スレ違いのけんかしたいんだったら、他所でしろ。
止めるなら、良識ある方が相手を無視ちまえ。
ない方はひとりで勝手に暴れてろ。

これ以上続けるんだったら、アラシと同じだぜ。
504476:02/09/19 21:13
>>503
筋の通った意見に感謝します。
私がいると荒れるもとになるようですし、進行中の議論にレスが
付かなかったので、私はこれで消えます。

>諸氏
お騒がせして申し訳ありませんでした。
505無名武将@お腹せっぷく:02/09/19 21:31
結局476はアフォだったと。
506島津義弘:02/09/19 22:43
>>505
そう言う、厨房カキコ止めたら。
507無名武将@お腹せっぷく:02/09/19 22:52
>>506
おまえもなー
>>506
厨房ってのは476みたいのを言うんだ。自覚がないから対処のしようがない。
>>468
本当に秀頼の血をひいているかどうかは証明できないけど、徳川家に敵対した人物の末裔を名乗っている
人が鹿児島にいるということが重要ではないかと。
鹿児島にはそういう雰囲気とか、気分があったということは証明できるのではないかと思いますがどうでしょう?
とりあえず、sage。
510無名武将@お腹せっぷく:02/09/20 23:42
島津ハシるを読んだあとのイメージだと義弘は老いて尚
屈強で大柄な男だと想像してたけど葵徳川三代では「おじいちゃん」って感じ
の役者さんだったね
豊久役の山口さんはよかった
511無名武将@お腹せっぷく:02/09/20 23:52
関ヶ原の時の義弘は何歳だったの?
家康よりも年上だったの?
512無名武将@お腹せっぷく:02/09/21 00:15
よしひろ66
いへやす59

だったとおもふ。ちゃったらスマソ。
513無名武将@お腹せっぷく:02/09/21 00:37
66才の爺様が伊勢街道抜けて堺までたどり着けたのってすげーな
そもそも維新義弘も竜伯義久も80過ぎまで生きてるし忠良も長生きしたよね

島津走る以外で高校のとき義弘の小説読んだけど
朝鮮の戦いはかなり省かれて関ヶ原の中央突破がやたら長かった
ちぇすとぉー!!って何度も義弘が叫ぶ小説だったけど作者が思いだせん
514無名武将@お腹せっぷく:02/09/21 00:52
515無名武将@お腹せっぷく:02/09/21 13:22
>>513
ただし輿に乗っていたと言う罠
「チェストー!」
これっていつ頃から叫んでたの?
>>516
俺の記憶ではイナズマンが最初
518460:02/09/22 08:33
>>509 それについて
秀頼伝説の要因は 真田幸村と島津義弘にあったと思われます

伝説のもとネタは 真田英雄伝説に基づく生存説にあると考えます
幸村生存説は 大阪の陣の時 幸村が島津義弘の手助けを得て 秀頼を守って
薩摩に落ち延びた というもので この話が最初に 起きたのは
上方なのかあるいは薩摩なのかは  今となっては解りません
大阪夏の陣を観戦した島津家久は 幸村を「日本一の武将」と絶賛しました
この話が薩摩に広がり 密かに幸村ブームが起こった事は間違いありません
また 秀頼の生存説が巷で ささやかれておりましたから
そこで薩摩で 我らが義弘公が 幸村・秀頼を密かに匿っておられる
という噂が誠しやかに流布されても 一向に不思議ではありません
...続く
519460:02/09/22 08:35
↑続き
この話が 上方で起こったとすれば こういう事のできる人物としては
加藤清正はすでに亡く 福島正則等は完全に牙を抜かれた状態
後は 老将 島津義弘しかいないと考えられたものと思われます
ここに 当時の人々の義弘に対する評価が現れており 面白いと思います
この話が 単なる伝承に終わらず パワーを得る事になったのは
江戸期に 幕府が薩摩藩の力を恐れて 過酷な政策をとった為に
薩摩で次第に反徳川の気風が高まり 明治維新に至った経緯にある
と 言えます
そのパワーが 墓や地名・先祖を名乗る人たちを生み出したと思います
幸村生存説には 後藤又兵衛・木村重成・真田大助なども生存者
に加える者など様々ありますが 言うまでもなくこの中で秀頼以外は
全員の遺体が確認されており 生存する可能性はゼロでした
‥続く
520460:02/09/22 08:37
↑続き
その為 生存の可能性の僅かに残る秀頼生存説だけが 
色濃く残った という事でしょう
これが 幸村英雄伝説が原因で
皮肉にも英雄でもない 秀頼伝説が生まれた真相
ではないかと 考えているのですが いかがでしょうか

521無名武将@お腹せっぷく:02/09/22 23:34
関が原のあと豊久の佐土原城は安堵されたようですがその知行はそのまま
豊久の嫡子(いるのかしらんが?)に譲られたのでしょうか?
522無名武将@お腹せっぷく:02/09/23 00:24
>>521
戦国武将覚書
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_si.htm
戦国浪漫
ttp://www.m-network.com/sengoku/busyo/busyo-shi.html
によると島津以久(しまづ もちひさ)が佐土原藩初代藩主らしいな。
系譜でいくと島津4兄弟の従兄弟(貴久の弟・忠将の子)となるらしい。
523無名武将@お腹せっぷく:02/09/23 20:04
>1には申し訳ないけど、「島津奔る」はいまいちだったような。
義弘が戦国期の経済状況を「水泡」に例えて家康に語る辺りなんか、
今年のNHK大河をみてるような気分になれました。
かなり熱いお話なのは認めますが。

それにしても、池宮先生は官僚に恨みでもあるのでしょうかねぇ。
>>523
『義、我を美しく』でも、酷評してるね。
525無名武将@お腹せっぷく:02/09/24 00:20
>>460さん
でもって、秀頼が鹿児島に来た可能性ってどのくらいあんの?
526無名武将@お腹せっぷく:02/09/24 00:24
真田大助>>>>>真田幸綱
幼名で書くなよな
527無名武将@お腹せっぷく:02/09/24 08:46
大助って仮名とちゃうの?
     島津義弘公ご切腹!
         ∧_∧
         (´Д` )
         /  y/  ヽ   あぼ〜ん!
    Σ(m)二フ ⊂[_ノ
        (ノノノ | | | l ) 
529460:02/09/24 23:27
>>526 真田幸隆こと幸綱がなんでココで出てくるの??
大助じゃなく幸昌もしくは信隆にしろって言うのなら解かるのだが‥
どうせこだわるなら 真田幸村ではなく真田信繁にしろと指摘して欲しかった
もっとも 信繁じゃ みんなピンとこないだろうけどね (笑

>>525 その可能性も限りなくゼロに近い
秀頼は千姫らと最後に山里曲輪に篭ったことが確認されており
ここから脱出するには 抜け穴以外に考えられない
徳川方も馬鹿じゃないから 戦後 抜け穴調査は徹底的に行った筈
あの状況で抜け穴を完全に隠蔽するのは不可能だと思う

ま、あとはどっかのテレビ局が 検証してくれることに期待したい
530無名武将@お腹せっぷく:02/09/29 22:19
関が原後島津が存続できたのは、どうしてだろう。
1.戦後外交でうまいこと立ち回った。
… 多少はあるのかな
2.攻めつぶすには強そうだったからやめた。
… 少しでも警戒しているのならやっちゃったのでは?他の有力大名の干され方みてもそう思う。
3.後に逆らったにしても国力、ロケーションからたいしたこと無いと思った。
…僕はこれだと思う。

どうです?
531無名武将@お腹せっぷく:02/09/29 23:06
>>530
設問が甘いと思う
関ヶ原後存続できたのはなぜか?
ではなく関ヶ原の戦後処理で領土を削られなかったのはなぜか?だろう
存続だけならば西軍の総大将の毛利家も存続できたわけだから、別に珍しいことではないだろう。
逆に長曾我部が存続できなかったのは何故か?の方が語ることが多いかも知れない。
532無名武将@お腹せっぷく:02/09/29 23:23
>>530
巧みな外交だと思う
533無名武将@お腹せっぷく:02/09/29 23:46
島津義久が日明貿易のルートを握っており、島津家の領地を削った場合は
そのルートを潰すと家康を脅したとの説がありますね
534無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 11:07
>531 なぜ長曾我部家はとり潰しになったの?しかたがなく西軍についたのに。南宮山において不戦状態だったのに何故?勉強不足でスマソ。
535531ではないです:02/09/30 11:54
長曾我部家の場合は、東軍大名に恩賞に与える領地があんまりなくて家康が
困っていた時に、家老の久武が盛親の兄を殺害してしまい、お家騒動だと思われ、
体よく不届き千万ということでお取り潰しになってしまったそうだ。なんか
このほかにあれば教えてプリーズ
536無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 12:03
島津の場合は、領土を少しでも削るのであれば徹底抗戦すると砦まで作る
態度をとったことと、これにまだ帰服してない上杉が呼応して徹底抗戦を
主張したら石田以上に難しい戦になると家康が思ったこと、あとは井伊直政、
本田忠勝、松平忠吉が必死になってとりなしたらしい。
537534です:02/09/30 17:39
>535  盛親の兄って信親のほかにいたの?では何故家督を継がなかったの?厨房みたいでスマソ。
538無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 17:50
>>537
香川親和(?〜1587)
土佐・長宗我部元親2男。元親に降った讃岐・香川信景の養子となる。長兄信親戦死後、父が溺愛する弟盛親に跡を継がせたいとしていたことから、これを気に病み、元来体の弱かったこともあり、若くして病死した。

津野親忠(1572〜1600)
土佐・長宗我部元親三男で、土佐七雄の一つ津野氏を継ぐ。朝鮮の役で功があった。長兄信親戦死後、父の溺愛を受け跡を継いだ弟盛親と不仲となった。
関ヶ原の合戦時、盛親より、国元において謀反(>>535で言ってる部分)の嫌疑を受け29歳で自害した。親忠切腹の地は、今でも交通事故多発地帯で、親忠の呪いとも…。

ttp://www.geocities.co.jp/HiTeens-Penguin/9210/motochika-tyosokabe.html
539無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 17:55
>>516
ずっと後の話だが、沖縄戦で自決した牛島満が大陸で連隊長をしてた時、銃剣突撃をする時の掛け声がそれだった
なんせ、牛島を含めた連隊の兵士のほとんどが鹿児島出身者だったから
540無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 19:31
島津の家久ってちかい時代に2人いるよねー何故同じ名をつけたのか疑問。佐土原城主(豊久の父)と後の家久。
541無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 19:32
島津征伐軍は実際に組織されて薩摩に進軍していたが
途中で家康の島津征伐中止命令が出されたというような内容の文章を何かで読んだのだけれど
これって史実ですか?
542無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 19:34
>>540
後の家久は家康から一字もらったか、それとも叔父の名前をもらったか
のどちらかだろうね
543松平アナ:02/09/30 19:44
NHK
10月23日
その時歴史が動いた
「関が原の戦い、島津決死の脱出劇」
ぜひご覧ください
544無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 19:51
>>543
マジでやるの?
面白そう〜、だけど信じられない
545無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 20:00
石曼子か。シーマンズ(・∀・)イイ!!
546曹操:02/09/30 20:04
\ │ /
                 / ̄\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               ─( ゚ ∀ ゚ )< さいたまさいたま!
                 \_/   \_________
                / │ \
                    ∩ ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま!
さいたま〜〜〜!   >( ゚∀゚ )/ |    / \__________
________/ |    〈 |   |
              / /\_」 / /\」
               ̄     / /


547540だけど:02/09/30 20:52
>542  漏れは前者と思われ。
548無名武将@お腹せっぷく :02/09/30 22:41
むかーしNHKの歴史番組シリーズで1度島津をとりあげたことがあるよね。
1991年の夏だったかな。3週連続で関ヶ原SPの第三作目で取り扱われていた。
(1週目は三成挙兵のエピソード・2週目は関ヶ原合戦の説明)
漏れは当時小学5年だったもんで、覚えていることは、
●処分なしの背景には海外(琉球・明)貿易が絡んでいた
●義久の肖像画が一枚も残ってない
●序盤の島津の敵中突破のシーン(徳川家康の使いまわし)
これぐらい。

>>542
慶長11年、家康から賜っとります。

>>543
ゲスト解説員・池宮彰一郎に100000000ガバス。
549無名武将@お腹せっぷく:02/09/30 23:16
やっぱり島津義久の政治力のなせる技だったんだ!
550無名武将@お腹せっぷく:02/10/01 02:45
>>548
ゲストが池宮彰一郎だったら義久は
ただの嫉妬深い兄になってしまうのだろうか・・・

松平「義久が援軍を送らなかった理由を
解説していただけませんか?」
池宮「兄弟の確執があったんですね。弟の
名声をねたんでいたためだと思います」
やだな・・・
551無名武将@お腹せっぷく:02/10/01 04:33
島津奔る読んで義弘ファンになった奴は多いらしいな・・・
義弘の評価を高めるために義久の人物を歪曲した池宮はクズ
552無名武将@お腹せっぷく :02/10/01 05:11
義弘が当主扱いになってるのは後世の人がそうしたと聞いたんですが
あくまで島津家内部では、義久から家久へ宗家の家督が譲られたと・・・
そこのところどうなんでしょうか?
まあ島津家が当主って言ってるんだから17代当主でいいんだろうけど。
553無名武将@お腹せっぷく:02/10/01 06:19
口説いようだが主人公だし小説なんだから大目にみれ
551へのレスね
555石曼子:02/10/01 06:22
義久公が援軍を出さなかったからこそ島津氏は改易を逃れることができたのだぞ。
義久公を暗君と呼ばわりする奴は氏ね
556丸に十の字:02/10/01 06:24
島津奔るかPHPの島津義弘かわすれたけど多分PHPで敵方を呪殺する家臣がいて日向の伊東攻めでももちい、関ヶ原では家康を呪いころすためその家臣が陣の後方の沼に沈むというのを読んだが、確かに島津の布陣した後方に沼があるが本当に島津は呪殺をもちいたのか?
557無名武将@お腹せっぷく:02/10/01 13:15
重豪のような性豪になりたいもんじゃ
558無名武将@お腹せっぷく:02/10/03 22:11
その時歴史が動いた放送日まで保守あげじゃ。
559無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 18:25
弟には負けておられんでごわすあげ
560無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 18:28
義久や歳久もスレを
561無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 18:29
数年前死んだ島津の皇太后は美智子妃をよく苛めてたらしいね
562無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 18:31
>>561
粉屋の娘は嫌いだったようで・・・
563無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 18:33
身分制度の名残で平民の娘が気に入らなかったんだろな!
564無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 23:57
島津の皇太后?宮家出身じゃなかったか?
565無名武将@お腹せっぷく:02/10/06 00:00
↑東久に家じゃ
566無名武将@お腹せっぷく:02/10/06 00:25
なるほど。>>561−563はボケてると。
567無名武将@お腹せっぷく:02/10/06 00:33
>>561
苛めてたというか、美智子皇后は皇族になってからも
なかなか一般人の感覚が抜けなかったのを、きつく
注意しただけらしいよ。
御友人と聖書の読書会を開こうとした、という伝説をもつ美智子皇后だから
苛めたくなるのもとうぜんか?
568無名武将@お腹せっぷく:02/10/06 16:19
島津家は日本の誇り
ウリナラの誇りニダ!
570無名武将@お腹せっぷく:02/10/08 21:51
この前鹿児島観光したとき市内のタクシーを利用した。島津交通orタクシーだったので運ちゃんに聞いた。「島津家と関係あんの?」そしたら運氏「〜代当主島津〜久というのが社長だって」
571無名武将@お腹せっぷく:02/10/09 19:02
2002年ノーベル化学賞

スエーデン王立科学アカデミーは2002年ノーベル化学賞を“生体高分子の同定および構造解析のための
手法の開発”に対し、その半分を“生体高分子の質量分析法のための穏和な脱着イオン化法の開発”に対し
て、ヴァージニア・コモンウエルズ大学(米国、リッチモンド)のジョン・B.フェン(JOHN B. FENN) お
よび島津製作所(日本、京都)の田中耕一の2氏に、残り半分を“溶液中の生体高分子の立体構造決定のた
めの核磁気共鳴分光法の開発”に対してスイス連邦工科大学(ETH)(スイス、チューリッヒ) およびスクリプス
研究所(米国、ラホヤ)のクルト・ビュートリッヒ(KURT WUTHRICH)氏に贈ることを決定した。


<島津製作所由来>
戦国時代末期、時の島津の当主・島津惟新入道義弘は、当時秀吉から拝領していた播州姫路領を検地した折に、当地に住んでいた井上惣兵衛茂一から多大な世話を受けた
義弘はその御礼として茂一に島津の姓と家紋を贈り、井上の子孫は以後、代々「島津」姓を名乗ることとなった
その茂一の13代子孫が創業者・島津源蔵である
田舎の一大名じゃん!なんでこんなに熱くなる?
島津が天下統一??ゲームの中だけだろ?

幕府軍がなんで薩摩如きに負けたか、判らん。
舐めすぎたか?

前の職場で、
鹿児島大卒の先輩が、
東大卒の俺よりもかなり優秀で、俺をパシリ扱いした。
だから、鹿児島なんて大嫌いだ!!
573無名武将@お腹せっぷく:02/10/09 23:03
↑高千穂大学商学部卒だろ
574572:02/10/09 23:07
>>573
はずれ。

東亜大学卒だ! 驚いたか。がっはっはは‥
575572:02/10/09 23:42
>>574
勝手に名乗るな。
東京大学工学系研究科修士課程修了だ。
だから、如何って事はないが、、、

薩摩野郎なんて、新撰組に斬られて、
その肉片を芋焼酎に漬けてやる。
576573:02/10/09 23:50
>574
なるほど島津義弘のよさがわからんはずよ。
577572:02/10/10 00:58
わからネーよ!
島津なんて、所詮は、九州の田舎モン
頑張ったって、たかが知れてるよ。

ダイエーホークス今年何位?

今年優勝 巨人 西武
去年優勝 ヤクルト 大阪近鉄

結局は田舎モンには勝てないって事だ。
大阪近鉄も田舎臭いが、、、、
578無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 00:59
そのくだらんレスを読めば、572が無能なのがわかる。
579無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 07:07
>578  禿同だ。高卒だな。ウ゛ァカだ。
580572:02/10/10 09:02
>>575
そっちこそ、勝手に名乗るな。
島津スレにダイエーの話持ち出す電波男逝ってよし!!

俺様の東亞大学は、邪馬台国はエジプトで、卑弥呼はクレオパトラだった事を
見事に立証して学会を呆然とさせた実績があるんだぞ。
島津義弘は関ヶ原の時、南宮山で一日中焼肉弁当食ってた大飯ぐらいだ。

よく知ってるだろ。がっはっは‥‥‥(以下延々と笑い続ける)
581無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 09:56
>577.580
おまいらがどこの大学卒だなんて嘘は
どうでもよい。高校中退なのだから。そ
れより本題に入ろうか。それと577はマ
ジでウザイので他の板へ逝け!ここは
島津義弘公をしのぶ板だ。
582無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 10:16
もうなにがなにやら

まぁ俺はマサチューセッツ工科大学卒なんだけどな
583無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 11:04
>>577
言っとくけど、ダイエーで盛り上がるの九州じゃ福岡だけだぞ。

宮崎なんぞはダイエーより巨人マンせーだし。
584無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 11:11
>>572如き無能なスレを旧帝大生がたてるわけなかろう。
585572:02/10/10 11:13
とにかく、
田舎者がイキがっているのが気に食わないんだよ!
東京出てきたら、田舎者らしくおとなしくしてろ。

何で、都内の一等地に西郷何某というブタ野郎の銅像がある?
焼酎飲みながら、芋や大根でも食ってろよ!
江戸を救った英雄は勝海舟だろ!
586572:02/10/10 11:37
元を正せば、島津なんて、相模の秦野か何処かで、
食い詰めて、仕方なく、日本の最果てまで、落ち延びたのが起源だろ?

それを頼朝公の御落胤なんてデマ流してサ、
中央に対するコンプレックスの塊。みっともないよ。
旧帝大を出てもバカは所詮バカ、大学と頭のよしあしは関係ないってのは常識。
東大出るくらい勉強してもバカの治らなかった連中が
永田町あたりで何やってるかみんな知ってるだろ?(藁
588無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 12:54
アズマが馬鹿という良い見本だな。
島津は、武家の最高峰だ。
島津家が最後の華族会総代を勤めた公爵家だという事も知らないんだろうな。
589無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 13:02
>>587 
>旧帝大を出てもバカは所詮バカ、大学と頭のよしあしは関係ない
たしかに立花隆氏や、養老孟司氏等の非常に頭の良い且つ、
東大教授並みの人が言ってたな。
590教えて厨:02/10/10 18:02
島津というと義弘、義久、家久、歳久、貴久、斉彬、久光が漏れの汁島津です。他に偉大な業績を残したかたはおられますか?ちなみに漏れは私大中退です。
591無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 18:27
石曼子製作所
592無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 18:38
島津忠久・・・初代
島津重豪・・・11代徳川将軍の外祖父にあたる人
は有名どころなんじゃないの?
593無名武将@お腹せっぷく:02/10/10 18:39
島津重豪・・・11代徳川将軍の外祖父にあたる人
は間違いだった。11代将軍夫人の父だった
594無名武将@お腹せっぷく:02/10/11 00:24
>>571
><島津製作所由来>
戦国時代末期、時の島津の当主・島津惟新入道義弘は、当時秀吉から拝領していた播州姫路領を検地した折に、当地に住んでいた井上惣兵衛茂一から多大な世話を受けた
義弘はその御礼として茂一に島津の姓と家紋を贈り、井上の子孫は以後、代々「島津」姓を名乗ることとなった
その茂一の13代子孫が創業者・島津源蔵である
あまり、詳しくはないのですが、島津製作所の由来は、関ヶ原の戦いのときに、京から薩摩への帰路に船を用意して、
それにより、島津姓を賜ったと、島津製作所の方から聞いたことがあるのですが、
そのあたりは、どう思われますか?
595無名武将@お腹せっぷく:02/10/12 04:23
>592

重豪って薩摩藩を破産寸前まで追いつめたといわれる人なんで、
名君なのかなぁ〜。
義久もそうだけど、薩摩に暗君なしって言われる割には名君なんのか
暗君なのかはっきりしない当主がけっこういるね。
596無名武将@お腹せっぷく:02/10/12 04:25
595追加

当主じゃないけど久光は明らかに暗君だよね(バカだし…………)。
597旅庵:02/10/12 09:51
義弘公がすんなり伏見城に入城できてたら城は陥落せずにすんだか。または陥落し、義弘公は討ち取られたか。
598無名武将@お腹せっぷく:02/10/14 02:59
島津家最大版図を築いた義久が暗君なわけないだろ
599無名武将@お腹せっぷく:02/10/15 01:08
>>590
忠良(愚谷軒日新斎)…貴久の実父。島津家中興の祖。はどう?
600!ゲト
そういえば、重豪って時代劇じゃ悪役に描かれること多いよな。
重豪は風雲児たちではかっこよく描かれていたなぁ
602無名武将@お腹せっぷく:02/10/15 22:57
重豪と斉彬は性格が似てない?
603播磨隼人:02/10/15 23:41
島津義弘は確かに戦上手だ!でも武田信玄の方が上ではないだろうか?
604旅庵:02/10/16 00:21
>>603播磨隼人殿
采配が違うが、武田騎馬軍団は長篠で鉄砲に潰滅させられてんのやで。
やってみんとわからんが義弘に軍配だな。
605無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 00:39
>武田騎馬軍団

( ´,_ゝ`)プッ
606無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 00:57
>>602
重豪は、斉彬可愛がってたしねぇ。似るかも。
607無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 10:55
重豪1

薩摩藩八代藩主島津重豪は、藩主当時から幕府の許可を得て長崎出島のオランダ商館を訪問するなどし、「蘭癖大名」の一人に数えられていた。
天明七年(1787)、43歳で隠居したのち藩政を後見するいっぽう、蘭学を研究してオランダ語を習得し、秘密を要する書面にはローマ字を用いた。
文政九年(1820)、76歳の重豪は、次男で豊前中津藩主となった奥平昌高・曾孫の島津斉彬とともに江戸へ参府するオランダ商館長一行を大森に出迎え商館医シーボルトと会見し、西洋医学その他について質問している。
重豪は天保四年(1833)、89歳でこの世を去った。
608無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 11:13
重豪2

ところで、長溥(福岡藩11代黒田長溥。1811〜1887)を生んだ母親と重豪の出会いは、どういう次第だったのであろうか。
重豪は若い頃からの酒豪であったが、歳をとっても酒量は衰えず、どの邸でも重豪の酒の相手に閉口していた。
あるとき孫娘の婿である大久保加賀守の屋敷に招かれ、重豪は例によって長っ尻の大酒となった。相手は辟易して、一人去り二人去って、やがて誰もいなくなった。
重豪の機嫌はだんだん険悪になる。そこで重豪の酒の相手に選ばれたのが、大酒飲みの下女チサだった。
チサは急いで身なりを整えさせられ、酔った重豪の前に出ると、老酒豪はチサを見て、愕きの目を見張った。相撲とりのような、大女だった。
重豪の大杯を受けるや、チサはひと息に飲み干した。大杯で差しつ差されつ話がはずむ。重豪はチサの人柄に感じ入る。頭も悪くない。重豪はチサが気に入り、側室に望んだ。
大久保家ではやむなくチサを小普請組支配・牧野内匠頭の養女ということにして、重豪の求めに応じた。
重豪の側室となった牧野千左は、やがて長溥を生むのである。
609無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 11:17
重豪3

長溥の幼名は桃次郎。島津斉興の子である邦丸と一緒に育った。
邦丸はのちの島津斉彬で、重豪の曾孫。したがって桃次郎は邦丸の大叔父だが、年齢は桃次郎の方が2歳年下だった。
>>607-608とこのスレの出典は「歴史読本スペシャル・大江戸おもしろかなし大名たち」1991年2月)
610無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 11:18
>>600
お由羅騒動の原因を作ったしね
611無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 11:26
重豪については↓も参考に
ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/4754/report/shigehide.html

あと、まあ頼朝の墓を今のような形にしたのも重豪らしい
612無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 11:33
島津は汁
613無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 11:42
ステップ1  薩摩統一戦
ステップ2  大隈・日向・肥後侵攻
ステップ3  九州統一戦
ステップ4  関白秀吉軍との決戦
ステップ5  朝鮮の役
ステップ6  関ヶ原
ステップ7  琉球遠征の立役者


       これほど様々な敵と戦った人物は義弘公ぐらいだろう。
614無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 15:33
>>613
島津にとって大隅(おおすみ)と日向は侵攻というより
統一のほうがしっくりくるんじゃないか?三州統一ね。
615無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 16:25
http://cgi2.nhk.or.jp/sonotoki/yotei/yotei.cgi
よいよ来週っす。地方戦国大名では信玄・政宗についで3番目ですなー。
616無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 19:58
>>615
お!そうなんだ
島津義弘も大河になるのは近いな
617無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 21:59
来週だね
楽しみだな
島津義弘の孤独な戦い、カックイイ!
618無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 22:01
来週の『そのとき歴史が動いた』は島津義弘の敵中突破!
619無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 22:03
NHK次回予告
「兄との確執、援軍を送らない国許」って・・・

義久の扱われ方が・・・
やな予感・・・
620無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 22:04
>>619
義久は目くそだ。
621無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 22:06
>>619
実際関ヶ原で義久は・・・
622無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 22:11
当初の島津義弘も上杉討伐のために兵を送ってくれって国元に要請したんだよね?
島津義久は上杉討伐にも兵を出したくなかったのかな?
623無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 23:14
朝鮮出兵にも兵と船を出し渋った義久
>>613
|
|⌒競
|冫、)   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|` /  <  ステイゴールドもすごいぞ
| /     \______
|/
|

|
|⌒馬
|冫、)   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|` /  <  馬だけどな(w
| /     \______
|/
|

|
|  サッ
|)彡
|
|
625無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 02:07
来週凄い楽しみだなハァハァ
まあどうせNHKの特集なんて旧説ばかりを寄せ集めたものだろ。
627無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 11:18
>>626
そうでもない
628無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 11:28
最近は新説も取り上げてること多いし、
ワクワクするような構成になってる気がするのだが。

スタッフが換わったのか?
629無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 13:41
だな
630無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 15:05
「島津家文書」国宝かよ!
国宝だろ!
632無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 17:42
義久を責めるなよ
薩摩兵を何の益も無い戦に参加させたくなかっただけなんだから
633無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 18:02
         国   民   無  双 

             ━━━
               ●
             ●  ●

           長     州
 
634ss:02/10/17 18:04
ss
635どれだけでるかな?:02/10/17 18:32
大衆小説以外では既に事実
・戦った明軍は20万ではなく4万未満

新説
・関が原に集まったのは実は800人に満たない(これはどうかな)
・脱出以前に大半が応戦中に戦死していた
・義弘は最初から親西軍
・島津隊は二番備え(このスレの目玉)
・松平忠吉は実は島津の大剛の士と格闘などしていない、負傷も直正と同じ鉄砲の狙撃

ここや日本史板で見ただけでもこれだけある。
NHKに期待してみる。
636無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 19:23
>・松平忠吉は実は島津の大剛の士と格闘などしていない、負傷も直正と同じ鉄砲の狙撃

これは「葵 徳川三代」でもこういう流れになってたよね
637無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 19:29
説は飽くまで説だべさ
638無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 20:49
義弘役は誰がやるんだろうね
639無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 20:58
>>638
葵三代をそのまま流します。
640無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 20:59
義弘役は麿赤児。
641播磨隼人:02/10/17 23:05
武田家の流れを組む真田幸村を島津義弘の嫡男家久が‘真田日本一の兵なり‘と
いってたことからすれば、信玄の方が上なんじゃないかなと思うのですが・・・
まあ、こじつけですけど。
642無名武将@お腹せっぷく:02/10/18 08:40
>>640
あの麿の義弘は、伊集院駅前の銅像によく似ていたな
ttp://isweb24.infoseek.co.jp/travel/yoroiou/kizaki02.htm(これでは顔が見にくいが、どうせ来週のオンエアではっきりとした顔が見られることでしょう)
643無名武将@お腹せっぷく:02/10/18 15:35
>>641
地理、時代的背景・状況の違う二人を比べるのは無理なんじゃないのか。
どーせ、両症の人間がいがみ合う結果になりそうだから、
できたらそういう議論提示はやめてもらいたい。

あ、あと徳川軍も武田流を採用してるのは知ってるよな。

>>642
さっすが、甲冑業者が地元にあるだけのことはあるな。
悪いけど他県の甲冑祭りと違って作りが本格的だよ。
つーか、戦国島津家って実際のところ、テンパン・トウセイより
アナログ式の糸嚇の甲冑に拘ったんだがな。
644無名武将@お腹せっぷく:02/10/18 16:28
>>635
正直、あまり出ないと思う。
5年ほどのNHKの歴史番組で桶狭間の奇襲はいかに成功したかという特集してて、地図まで使って図解してたのに
やっと一年前くらいになって「新説、桶狭間は奇襲では無かった!」ときたもんだしな。
645無名武将@お腹せっぷく:02/10/18 21:47
話変えて悪いんだけど、>>323のリンク先のスレにあった、あゆの改造バージョンに
死ぬほどワロタ。
もっとこういうの無い?
646無名武将@お腹せっぷく:02/10/19 21:25
肖像画の島津義弘、哀川翔に似てる。
647無名武将@お腹せっぷく:02/10/20 09:33
「あやつ(家康)を殺せば、この世は再び乱世の世になってしまう」

by義弘
648無名武将@お腹せっぷく:02/10/20 09:40
>>645
あゆ発言改造専用のスレがどこかにあったはず。どの板かは忘れた。
649無名武将@お腹せっぷく:02/10/20 13:02
>643
というか、義弘は前線で戦う奮戦力闘型の「戦国武将」。
武田信玄は後方で采配を振るう「戦国大名」。
タイプどころか役割も違うんだよね。
本田忠勝とか、立花道雪とか、吉川元春とかが比較の対象なんじゃないかな。

>644
たぶん間違いなく出る新説は「義久はなぁーんもしてない」って事じゃないかな。
よく徳川との和平は義久がやったと言われているけど、近年の研究で実際は義弘、
家久ラインで和平交渉は行われたということがわかってきた。
義久はただ駄々をこねてるだけ(実際は『島津奔る』よりひどい)。
関ヶ原では出兵しない事で協調していた家久も、やっと和平が成り、義久に
島津家代表として家康に恭順しに行って欲しいとお願いしても、行きたくないの
一点張り(義弘はこの時点で隠居蟄居という事になっていて、国外に出られない)。
さすがに家久も呆れ、家久自身が行くことで何とか和平はなったものの、一歩、
間違えれば、薩摩本国に戦火が及んでいた可能性がある。

とにかく、秀吉恭順後の義久の外交音痴ぶりはひどすぎる。
650無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 00:49
鹿児島弁で語尾に「〜たい」なんて付けないぞ!
鹿児島弁で「ばってん」とか言わないぞ!
そりゃ熊本とか福岡だろ!鹿児島が本土最南端の田舎だからってばけすんな!
>>645
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1028390529/-100

>>649
その時点ではすでに島津家の実権は義久でなく
義弘・家久(忠恒)にあったの?
652前衛社 ◆WE7QmhAn86 :02/10/21 08:10
>>651
あたりまえだろ。
653無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 09:46
>>650
おいどんもそう思うでごわすな。
654無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 09:53
>651
いえ義久はその当時も相当な力を持っています(というか、まだ、家督を
譲っていません)。
だからこそ、義弘の出兵要請を拒否できたのです。
さすがに家康との和平の重要性はわかっていたので義弘と家久にやらせていた
のでしょう(ただし、自分は頭を下げる気はない)。

また、出兵拒否はこれが始めてではありません。
朝鮮出兵時も義久は出兵を拒否。
義弘は大慌てで自前の少数の兵で名護屋の秀吉の元に行くという騒動を
起こしています(有名な「日本一の遅陣」)。
なんかえらく関ヶ原の状況に似ている……………というかあの時よりひどい。

649でも書いたけど本当に秀吉降伏後の義久はトラブルメーカーです。
655無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 10:23
そのせいで、龍伯には銅像も肖像画もないのですね?
656無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 14:47
>>655
いや、あったんじゃないか?
後の薩英戦争や西南戦争で焼失した可能性もある。
657無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 20:32
>>654
でも義久が関ヶ原直後にのこのこ江戸まで出かけていったら
領地を完全に安堵されなかったっぽいと思うが、どうでしょう?
やっぱり義久は読みが深いすごい人なんじゃないのかなあ?
658無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 20:48
>>657
それにしては最後まで一貫して行くなと言ってたから違うと思うな。
単に読みではなく徳川に頭を下げたくなかっただけ。
まあ、その頑固さが偶然、良い方向に作用し、忠恒が彼の制止を振り切って上洛したから島津は救われた。
659無名武将@お腹せっぷく:02/10/22 00:13
>>658
歴史解釈は人それぞれだが、お前はまるで実際見たように語るな?
657は「義久は読みが深いすごい人なんじゃないのかなあ?」と考
えているが
お前は「徳川に頭を下げたくなかっただけ」と断定してるな。
根拠も書かれてない。推測にすぎない。「違うと思うな」なんて書
きたきゃもっと調べろ!

660無名武将@お腹せっぷく:02/10/22 00:16
島津はタダの武闘派ヤクザ
661無名武将@お腹せっぷく:02/10/22 00:19
660が658よりまだましだよ。だってヤクザなんだよ!?すんげえくだらないじゃん?
662無名武将@お腹せっぷく:02/10/22 20:55
戦国島津家の歴史は日中戦争〜太平洋戦争の頃の日本の姿を見るようだ

大友家=中国
豊臣家=アメリカ
島津家=日本

役割が完全にダブってる
663無名武将@お腹せっぷく:02/10/22 20:57
まあ大友の方が先に島津家に手を出したのを除けば大方
当てはまると思う。

ハルノート=秀吉の九州国割り案
664無名武将@お腹せっぷく:02/10/22 21:06
それ考えたら>大友が先に島津に手を出したこと
大友ってすげえマヌケだよな〜
島津をやっつけるつもりだったのに、逆に自分の国が滅びる寸前まで追い込まれて
最後には秀吉に泣きついて、、マヌケでしかも卑怯者。
前半に比べると、レスの質が下がったな。
666無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 08:37
今日「島津敵中突破」放送日age
667前衛社 ◆WE7QmhAn86 :02/10/23 19:17



いよいよ今日か。
待機age
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1035372869/
↑その時歴史が動いた実況スレ
670前衛社 ◆WE7QmhAn86 :02/10/23 21:14
そろそろ始まる!
671無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:16
今NHKみろよ!
672無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:16
見てるよ!
673無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:17
イイ始まりだな(・∀・)
674無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:17
おお!始まったか
675無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:18
その時歴史が動いたage
676無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:22
忠良変な顔...
677無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:24
義弘強ーい!
678無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:24
とりあえずすげーな
葵の映像でるかなぁ
できれば台詞も使って欲しいなぁ
うーん、釣り失敗。
つまんね。
680無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:27
681無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:28
義弘は謙信タイプの武将なんだな
682無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:42
その時歴史が動いた観てるけど・・・。

漢だぜ・・・って感じかな。義弘かっちょえー!!
683無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:50
やっぱ、かっこいい!
684無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:52
熱いな
これできる武将はなかなかいない
春秋の 花も紅葉も とどまらず
686無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 21:57
野口キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━━!!!!!
萌えまくりだよ・・・
688前衛社 ◆WE7QmhAn86 :02/10/23 22:01
琉球侵攻の立役者ってこと一言も言わなかったね。
689前衛社 ◆WE7QmhAn86 :02/10/23 22:03
にしても敵中突破のシーンはやはり『葵三代』使ってたね。
690無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:04
できれば台詞も欲しかったけどな
691無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:05
もし島津の敵中突破で家康が討ち取られていたら?
692無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:06
新・戦国自衛隊
693無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:07
>691
真田幸村が出番失って悔しがる?
>>689
敵中突破中に振り向いた豊久の顔が佐々だった(w
695無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:08
>>691
戦国時代に逆戻り
696無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:08
あの鹿児島大の教授、胡散臭い。
697無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:08
鹿の角が生えた人が追いかけてきますた
698無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:09
家久スレ、閑散としてるな。かわいそう。
699無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:09
感動・・・島津燃え!!
 
なんか触れない部分が多すぎるな。
一時間ないから仕様がないとは思うが、まったく目新しいものがなかったし…。
義久や忠恒の視点とかが欲しかったな。
701無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:09
>>694
あれはワラタなぁ。
702無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:10
ウンコが漏れそうだから凄まじい勢いで駆け抜けたんだよ。
703無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:10
退陣スピードが鈍って義弘戦死
突撃・退却時に誰も鉄砲を持ってなかったのはなぜ?
最終的には捨てて逃げるんだろうけど。
705無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:11
1000人
  ↓
 80人
          
706無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:15
明軍二十万云々は別にして、朝鮮の役で島津が活躍したことに全く触れてなかったねぇ。
放送コードなのかな?
707無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:16
相手が朝鮮だから気使わないといけないからねえ
708無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:18
>>706
常識です。
709無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:20
朝鮮出兵を放送してたら、戦国好きが萌えただらうな。
710無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:20
これで島津大河の道が開けた
朝鮮と琉球はさらっと流せば島津が大河になるのもノー問題だな
711無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:20
>>697
忠勝だしょ?
712無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:21
チョン征伐を放送してくれ!!!!!!!
713無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:21
さらっと流したら、たいした話にならないような・・・
714無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:22
供養塔にキムチ供えたりしてな
715無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:22
>>710
李舜臣をとっちめたところを大々的に放送してほしい。
そして癌国が難癖つけてきたら面白い。

それはそうと、島津製作所が出てこなかったな・・・。
716無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:22
>>713
いやその分、九州統一戦と関ヶ原に力を注ぐ
717無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:22
>710
そしてほとぼりが冷めた頃に『加藤清正』…
718無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:24
在日団体は今も朝鮮の耳塚で供養してあらためて日本の
卑劣さを再確認してるだろな!!!!!
719家久スレより:02/10/23 22:24
>>716
そして、沖田畷や戸次川を大々的に取り上げ、家久全国デビュー。
720無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:40
島津義弘すごいね
木崎ヶ原の戦い、泗川の戦い、関ヶ原の戦い
義弘は圧倒的な多数の敵に快勝あるいは作戦成功させている
721無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:45
島津家って、義弘の子孫が継いだの? 義久の子孫はどうなったの??

722無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:48
義久には子供がいなかったそうだよ
723無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:49
見逃したよ〜・゚・(ノД`)・゚・。 再放送ありますかね?
724無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:49
それで、義弘の子が継いだんだ…
ありがとう。
725無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:50
みんなお願いだ。聞いて下さい。
学校の宿題で短歌作ることになったんですよ。そんで作ったんだけど先生に直されまくってダサくなってしまった。
そこでこれを改良してもらいたい。

「家康に すぎたるものと 評された 本多の名槍 見に行きたいな」
726無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:50
NHKだから再放送あるよ
確か土曜日にやるんじゃなかったかな?
727無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:51
>>720
木崎が原って、義弘だけの戦功って言っていいの?
728無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:52
しかし、長男のみならず、次男にまで「義」の字を使うのって不思議。
なんで??

落ちぶれたとはいえ、足利将軍家に代々伝わる「義」の字を使うには
相応のお金もいりそうだし、使っても長男だけじゃない?他の大名。
ただの次男じゃなかったとか。
729725:02/10/23 22:53
頼む。まじで頼む。
730無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:54
実は義久と義弘は同一人物といわれている
一人二役を使い分けて家臣たちをうまく操縦していたんだよ
731無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:55
くだらん
732無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:56
>>721
初代藩主忠恒は義弘の3(?)男。
義久には男児はなし。娘の亀寿が忠恒の正室として嫁ぐが、
2人の間に子供は生まれず。
結果、義久の子孫は残って無いんじゃないかな。
733無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:58
>>732
義久の娘は何人かいた気がする
734無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 22:58
725おまえが考えたんだろ、ださすぎしね
735無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:00
>>725
「信玄に すぎたるものと 評されし
 本多の名槍 いずこやあらん」
736無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:01
忠勝が評されたのであって、槍が評された訳じゃ無いのだが。
737無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:04
島津家かこいい。
騒乱になると必ず出てくる。
738無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:06
>735
マジスレだが、
固有名詞よりも抽象的なものがいいかもしれん。
739無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:06
もしも島津義久がイケイケの性格だったら大きく歴史は変わっていただろうな
740738:02/10/23 23:07
すまそ。
>>725に対するスレ。
741無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:08
>>728
元々は島津忠平(島津忠親の養子)です。
義弘の名乗りは1585年に足利義昭から「義」を頂いたからです。
742無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:12
>>736
家康に過ぎたるものと評された本多忠勝
        の
名槍をみにいきたいな
>>735
ソレダ!相手は歴史しらんだろうしそれにします。ありがとう!
743無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:13
>>738
例えば?
744無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:16
おいおい宿題がどーとかってうざいぞ。
つまらんし、、、
まったくだな どっかいってほしい
746無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:20
だいたいスレに無関係な話題だし・・・
雑談系板にでも行って相談した方が良い返事もらえると思うが
747無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:22
家康に過ぎたるものって・・・



           天麩羅だろ?
748741:02/10/23 23:25
(追加で)
義弘は忠親の養子になったから忠平と名乗ったのでなく、
元服時から忠平であって、1560年に忠平の養子になった。
749無名武将@お腹せっぷく:02/10/23 23:26
うん?

次男なのに「義」の字がついている理由??
まじですまんかった。
751無名武将@お腹せっぷく :02/10/23 23:39
>>741
自称島津オタの漏れでも初耳なんですけど・・・。
申し訳ありませんが、ソースは?
752741:02/10/23 23:43
>>751
そんなことでは自称の域はでられんな。自分で探せ。
>>721>>732
マジレス、既出だったらスマン。
たしか、義久の長女の血筋が残っていたはず。
この系統が家久の妾となって世継ぎが生まれているから途絶えてはいないな。
つまり十九代光久は、兄弟両方の血を受け継いでいることになる。
ちと記憶があやふやだが、確かだと思う。
754741:02/10/23 23:50
1560年に忠平の養子になった。
     ↑
  忠親の間違いや

>>751
ここの11月のところ参照してください
http://www.netlaputa.ne.jp/~house/nenpyo/syokuho/syokuho19.htm
観損ねた〜。ヽ(`Д´)ノ ウヮァァァン!!
番組の途中で買い物に出たのだが録画に失敗してた。ヽ(`Д´)ノ ウヮァァァン!!
757無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:04
最初は「義珍」だよ
「義弘」じゃないよ
758無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:05
それでも義の字使ってるじゃん。 次男なのに。

759無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:06
来週の木曜深夜0時15分から再放送があるはず。
>>757
義珍じゃ格好よさ半減ですな…トホホ
761無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:17
足利義昭から義弘は義の字を拝領し
義久は足利義輝なのでは?

今日のは葵徳川の使いまわし多かったね。
762無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:20
そういうことかぁ…

昭弘にならないところが、足利幕府の力のなさを表してるな。
763無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:30
幕府再興のために『義』を拝領したんじゃなかったっけ?
764無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:33
本名なんてあんまり関係ないんじゃないかなぁ
どうせ竜伯、とか維新で呼び合ってたんだろうし

あとゲームの話でスマソけど竜造寺隆信と松浦隆信も主従関係にありながら
同じ名前っていうのもずっと違和感があった
765無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 00:47
松浦家は1575年に竜造寺家傘下になったわけだし、別に違和感無かろ。
ゲーム中ではそれ以前から竜造寺家臣だったりするんだったっけ?
766無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 08:24
しかし、あの銅像はちとナポレオン入ってる気がするんだが
767その時歴史が動いた:02/10/24 09:25
夜襲を三成に却下された事とか、島津豊久が壮絶な戦死した事とか、
井伊直政と松平忠吉を負傷させた事とか、その直政に取り成された事とか、
宇喜多秀家をかくまって助命嘆願した事とか、
関ヶ原における島津の重要な部分をみんな無視された・・。

ヽ(`Д´)ノ ウヮァァァン!!
768無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 09:33
幕府の船を沈めてみたりとかも無視された・・・
769無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 10:57
豊久って誰の子だっけ? 義久の甥だよね、

家久や歳久の子孫ってどうなったの? 支藩の領主ぐらいになったの??
770無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 13:07
石曼子が大河ドラマに出ないのはなぜだろう・・・。
やっぱり明・朝鮮連合軍を圧倒した奮戦ぶりや李瞬臣を戦死させた張本人。
それに加え義弘公には直接関係ないが琉球侵略など現在の国際情勢には放送する
上で何かと問題あるのかな? 
島津4兄弟(義久・義弘・歳久・家久)・・・ぜひ大河して欲しいのだが。
771無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 13:35
>>769
家久だよ。
772鹿児島出身:02/10/24 13:46
>>770
韓国でもBS見れるから
島津大河だと多分BSでみて
激怒するからと思われ。
>夜襲を三成に却下された事
これはウソみたいよん。実際に夜襲を提案したのは宇喜多くんらしい。

>豊久って誰の子だっけ? 義久の甥だよね、
豊久は、貴久の四男家久の子供です。佐土原を治めます。
774無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 14:17
>>773
夜襲って本当に良い作戦だっのかな?
そうは思えないんだけど
775無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 14:36
>>770
今の日本の世論じゃ拍手喝采だと思うのにね。
朝鮮人の力はどんどん弱まってるし。
776無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 14:39
そもそも、戦国時代で夜襲は一般的でなかったと聞いたが。
川越夜戦とかも後世の創作らしいし。
>>772
利家とまつのように(悪い意味で)無難な方がいいってことか
778無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 16:28
夜戦の場合は同士討ちを避けるため、
少人数しか連れて行けないから、戦果は運次第と聞いたことがあるが。
俺沖縄県民だけど琉球侵略とか放送してもどうでもいいけどなあ
大河島津観てみたい
780鹿児島出身:02/10/24 17:29
やってくれよ。
大河。
もう徳川はいいよ。
(煽るわけではないが)
大東亜戦争末期の特攻兵器考案者は、島津厨な薩人ですか?

でも義弘公カコイイ
782無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 19:07
義弘さまから島津の姓と丸十字の家紋をもらった島津源蔵さんの祖先
が羨ましい!
井上惣何たらだったな。
784無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 19:43
朝鮮出兵がネックか...
李舜臣を準主役級の名将として持ち上げて、南朝鮮から役者連れてきて
それなりに勝ち戦も映してやればなんとかならないかねぇ
785無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 19:46
李舜臣も島津義弘も互いに相手を認め合い、尊敬し合うという演出すればいいかも。
786無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 20:23
>>769

歳久流(日置島津氏)
歳久には男子がいなくて、薩州家島津義虎の二男忠隣(1567〜1587)が
養子に入って日置島津氏第二代当主となる。
忠隣は九州征伐時に戦死。

家久流(佐土原島津氏)
豊久戦死で佐土原は幕府領なったが、のちに島津家に復帰。
島津忠将(島津忠良二男)の子・以久が佐土原領主となる。
787その時・・・:02/10/24 21:40
>723
あるよ。いつの木曜日か知らんが深夜に。
確か1時頃。(日付は金曜日だが)
説明の仕方悪かったらすいません。
788無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 22:44
大河は九州三国志みたいなネタでやってほしい。島津・鍋島・立花あたりを主役にして…

東北(独眼竜政宗、炎立つ)、沖縄(琉球の風)、北陸(利家とまつ)、中国(毛利元就)と
いわゆる「地方」をひととおりやってるので、残る四国と九州、北海道に期待するね。

四国なら長曽我部、北海道なら…わからん。

789鹿児島出身:02/10/24 22:54
前田のように脚色しまくらなくても
史実を追っていくだけで面白いのに・・・・
790無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 22:55
李舜臣に攻め込まれたら日本は負けていたね。
791無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 22:56
>>790
俺も生粋の日本人だけどそう思うよ。
ザパニーズはもっと歴史について勉強したほうが良いよね。
痛いチョンがいますね
793無名武将@お腹せっぷく:02/10/24 23:12
>>788
九州三国志だと話が散漫気味になってしまうので却下。
島津を主人公としたストーリの過程の中で鍋島・立花を描いていった方が良いと思われ。
>>790=791
ご苦労さん。やっぱAA貼るとずれちゃうかい。
794無名武将@お腹せっぷく:02/10/25 00:29
>李舜臣を準主役級の名将として持ち上げて
同じ朝鮮人のヴァカが、権力争いで李舜臣を雑兵に落として大敗して、
困ったら李舜臣を再登用して、無理させて、露梁まで追撃させて李舜臣を戦死させた話を出しちゃうと
猛抗議を受けますなー

李舜臣って不遇の人なんだよねー
795無名武将@お腹せっぷく:02/10/25 02:35
>>794

そう、李舜臣は不遇。というより、何故か文禄の役で活躍した朝鮮の武将は
本国から冷遇されている。陸で義勇兵を率いて大暴れした郭再祐も、
解任されている。
李氏朝鮮の党争は異常だよ、あれは・・

ところで、義弘公が朝鮮出兵の敵味方の慰霊を行っている話はがいしゅつ?
あれで日本赤十字社の国際赤十字連盟加盟が認められたそうだ。
796鹿児島出身:02/10/25 03:10
>>795
なんで400年前のことで加盟が認められたの?
誰か>>796にこたえたって。
赤十字とはまったく関係ないでしょ
島津と関係あるって行ったら十の字くらいじゃない
799無名武将@お腹せっぷく:02/10/25 20:20
age
800無名武将@お腹せっぷく:02/10/25 20:21
800げと
801無名武将@お腹せっぷく:02/10/25 20:24
義弘の朝鮮出兵の敵味方の慰霊行為が日本赤十字社の前身になったっていうのを
聞いたことがある程度。
それ以上のことは知らん。
なるほど
赤十字は島津が起(以下略
803鹿児島出身:02/10/25 22:33
http://www.minc.ne.jp/nisseki/news/h13/h13html/rc-roots.htm
探してきたぞ。
ちなみに家の実家は薩摩藩中国語通訳の家系。
>>803
へぇー、初めて知りました。
ただし一番気になったのは、朝鮮出兵が1552年となっている部分でしたが。
>>803
赤十字といいノーベル賞といい・・・島津は偉大じゃのー。
島津を大河でやる方法→島津はチョン出身、李舜臣は日本出身と言い張れば…
807無名武将@お腹せっぷく:02/10/26 10:30
視聴率スレより
14.9% NTV ザ!世界仰天ニュース
13.0% TX* 女と愛とミステリー
12.6% ANB 相棒
11.9% NHK その時歴史が動いた
*9.9% TBS ウッチャきナンチャき
*9.0% CX* 天才柳沢教授の生活

惟新、とりあえずTBSとフジを撃破
808無名武将@お腹せっぷく:02/10/26 14:16
>>807
普段は「その時」はどれくらいいってんの?
809無名武将@お腹せっぷく:02/10/26 14:43
義弘の行為が日本赤十字社の前身になったというのは言いすぎでしょ・・・
思想的影響を与えた程度ならまだしも・・・
810無名武将@お腹せっぷく:02/10/26 19:40
>>808
ネタ次第だが、前(去年)にやった「伊達政宗の新田開発」が13%ぐらい逝ったんじゃなかったかな
常時10%は取ってるはず
811鹿児島出身:02/10/27 14:02
まんが薩摩義士ものがたり
http://www.omp-serve.co.jp/~osclub/manga/
812無名武将@お腹せっぷく:02/10/28 20:04
>>810
おいおい、いいかげんな事言うなよ
歴史が動いたで2桁取るのはマレだよ
813無名武将@お腹せっぷく:02/10/29 00:00
ごめんなさい。
あやまります @
814無名武将@お腹せっぷく:02/10/30 18:35
あげ
そういや、さっきニュ速からみつけてきました。
http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1035946864/
ガンバレ薩摩。
815無名武将@お腹せっぷく:02/10/30 21:14
>>812
過去の視聴率スレ(テレビ番組板)を見れば一発で分かるんだが
816薩摩の心:02/10/31 10:29
                    ┃
                     ┃
              (ヽ,,     ┃
        __,,,,,,,))))ヽ,i彡   ┃
       (・  |   ◎ 彡ミ  ○
        >イ|      彡ミ | |
         ̄| ̄ヽ_  彡彡ミ | |
          |  /   彡ミ | (十)
          ヽ∠__ 彡ミ ヽ(`д´ )
        彡彡彡彡彡\ミ    |  / )
        /    彡彡彡|   // ./
       /彡彡彡彡彡彡○ ̄  //
       |        ___y ̄ ̄/
   / \ ヽ      (      )
 //\ \|       \ \ ̄ ̄\
丶◆| ̄ ̄ ̄   ノ   と__ヽ    \
   | | ̄ ̄ ̄""\            .|
   | |        ヽ           |ノ⌒ミ
   丶◆        \__|        | )))ミ
                 ヽ     / ((((
                 /    /ヽ    )))
                /   /\ \   ((
                \  \  \ \   )),
                  \ \ //
                  //  ■
                  ■
>>816
伊集院駅前の銅像ですな

東郷重虎(1568〜1611)ってゲームにでてきたこと無いですか?
島津家久の次男なのですけど
818無名武将@お腹せっぷく:02/11/01 14:23
再放送終わった?
見逃した…
島津に関する史跡を見に鹿児島県に行きたいと思ってるんですが
ここは見とけっていう場所を教えてください。
現在、鹿児島を離れているんで詳しくは書けませんが。

鹿児島市内にだとすれば黎明館か尚古集成館です。
黎明館は鹿児島県の歴史を中心、尚古集成館は島津氏中心としています。
黎明館の場所は鶴丸城跡内(西郷隆盛銅像近く)。
尚古集成館は磯庭園内です。

戦国島津氏の史跡、特に鹿児島県内の城跡は、
碑がぽつんとたっているだけのようなものばかりです。
内城跡は小学校が建ってますし、
内城の前にいた清水城は中学校が建ってます。

ちなみに鹿児島県での扱いは
西郷隆盛>>(超えられない壁)>>大久保利通・島津氏
といっても過言ではありません。

ついでに南州墓地にでも行ってください。
島津義弘

天下分け目の関が原の戦いに、
人望不足、金不足から集められた兵隊、僅かに1000人ばかし。
仕方なしに、実家の兄ちゃんに、金の無心をしたが、
日頃の行いが悪いので、シカトされる。
両軍あわせて10万以上の中で、1000人ばかしでは如何ともし難く、
周りの大軍にビビって一歩も動けず。ウンコもらし野郎。
西軍の大将から催促来るも、居留守を使って、逃げ口上。口だけは一流。
後半になって、勝敗が見えると、保身の為に逃走。
しかし恐怖の為に、頭の中、真っ白。方向感覚なし。西も東も分かりませーん。
迷子になって、敵の大軍の中で、袋叩き。
大事な家来を身代わり&見殺しにして、「自分さえ助かればいい」と
ウンコ漏らしながら、なんとか逃げ帰ってきた。

以上から島津義弘を推測しますと、、、
@1000と10万、どっちが多いか分からない。算数0点
A兄弟仲悪し。嫌われ者
Bビビり 小心者
C嘘つき 口からデマカセ
D冷静さ皆無 すぐパニック
E究極の方向音痴
F自己中心 自分が中心に地球が廻っている
Gウンコもらし野郎

これが歴史の真実です。
島津奔る ??? これはお話=西遊記の孫悟空と同レベル

所詮は、日本の片隅の田舎者です。
823鹿児島出身:02/11/02 04:30
>>821
会津出身か?
824無名武将@お腹せっぷく:02/11/02 10:54
江戸のタブー無縁−薩摩藩邸で豚肉食べていた
  −跡地出土の骨展示/東京・港郷土資料館

 獣肉食がタブー視されていた江戸で豚が飼育され、食べられていたことを示す豚の骨が、
東京都港区芝3丁目の薩摩藩邸跡から出土したことが31日までに分かった。
骨には解体痕がついており、港区立港郷土資料館で開催中の「江戸動物図鑑」展に展示してある。
 薩摩藩邸跡のごみ穴から、2千点以上の獣の骨が出土。その6割が豚かイノシシのもので、
歯周病など家畜の特徴が見られ、多くが豚の骨と確認された。獣骨が発見されたごみ穴は多数あり、
年代は17世紀から19世紀にわたっていた。
このことから同館の山根洋子学芸員(動物考古学)は「薩摩藩邸では江戸時代を通して
獣肉食があった」と語る。
 明治になるまで仏教の「殺生禁断」の教えなどから獣肉食はタブー視されていたが、
主に鹿児島と琉球では豚肉食の習慣があった。江戸の薩摩藩邸でも豚肉が
食べられていたことを示す文献も残っている。江戸後期の経済学者・佐藤信淵は
「経済要録」に「薩摩藩江戸邸では豚が飼われており、味が上品」などと書いている。
 さらに、出土した豚の骨は頭から足までそろっているものが多く、
山根学芸員は「薩摩は江戸にいくつかの屋敷を持っていた。少なくとも江戸後期の
いずれかの藩邸で豚が飼育されていたことは間違いないようだ」とみている。
 発掘調査は港区教育委員会が1996年から97年にかけて実施、2001年秋から
整理調査を行っていた。「江戸動物図鑑」展は11月17日まで。

http://www.minaminippon.co.jp//2000picup/2002/11/picup_20021101_2.htm
825無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 01:03
関ヶ原の戦いといい、朝鮮での活躍といい、義弘の采配がどうこうというよりも、
薩摩の武士の闘争本能の凄まじさに恐怖すら感じる。 示現流なんていう、
とんでもない剣術もあるし… (鹿児島県の人、ゴメン)

越後とか、三河とか、兵の勇猛さと忠誠心で有名な地域は他にもあるけど、
薩摩の場合、ほとんど別次元って感じがする。昔から不思議だったんだけど、
何で薩摩人はそんなに強いの?
826無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 01:09
>>825
連中は忠ではなく愛で戦ってるから
827鹿児島出身:02/11/03 02:30
>>825
志に死ぬから。
828鹿児島出身:02/11/03 02:31
>>825
というか、九州での戦いはほとんど義弘・家久の采配あっての勝利ですが。
特に家久ね。
そんなに強かったら特殊な戦術や厳しい軍法の必要なし。
あと金の掛かる鉄砲もね。

ちなみに示現流は薩摩発祥ではなく、東郷重位が上方で習得した後で採用された他国剣術です。
830無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 19:56
エイトウ!エイトウ!
>>829
> >>825
> というか、九州での戦いはほとんど義弘・家久の采配あっての勝利ですが。
> 特に家久ね。
> そんなに強かったら特殊な戦術や厳しい軍法の必要なし。
> あと金の掛かる鉄砲もね。

後半の文章がよく分からんのだが……。
説明希望。
832無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 20:11
兵の強さが際立ってるなら、戦国の島津の特色とされるものは別に必要ないです。
竜造寺や大友など、もっと早く楽にケリがついた。
833無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 21:00
>830
エイトウ!エイトウ!
は、立花 道雪。
834無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 21:12
NHKの放送でにわか義弘ファンになった者ですけど、「島津奔る」はちょっとなぁ。
島津ラブになってしまった私としては、いたるところで史実はどうなの!!
本当に義弘はそんなこと思って行動してたの?とツッコミ入れたくなりますた。
作者自体、幕末→第二次世界大戦への流れや朝鮮戦争を意識してるっぽいし。
まぁ島津もの入門書兼ファンタジーとしては面白かったです。
質問です。
よく耳にする「薩摩隼人」の由来をお聞かせ下され。
836無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 21:54
>>835
もともと薩摩にいた原住民みたいなやつじゃ
なかったっけ?
>>836
そうでしたか。感謝致す。
838無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 00:12
薩摩、薩摩ともてはやされてるけどとなりの
大隈にはへタレしかいなかったとでも?
839無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 00:19
一、歴史上の人物の名前の使用は、なりきりスレ・リプレイスレ以外ではご遠慮願い候。

>>837
氏ねよカス
840お腹せっぷくはいや:02/11/04 01:02
マターリいこうや(´ー`)y-~~
841無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 01:22
マターリ、マターリ
842無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 01:27
PS版の孔明伝をやっているんですけれど、孔明が謀反するというイベントを
見たくて馬謖を街亭で勝利させたんですけれど、孔明謀反の噂が立っても
馬謖が謀反の話を持ってくることはなくて普通どおりにストーリーが進んで
しまいました。一体何が欠けていたんでしょう?教えて下さい!
843無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 01:28
間違いスマソ
早速間違ってしまったか。
>>839
しかしオマエ言い過ぎだぞ。言葉を慎めよ。
845無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 01:35
>>844
まあまあ、マターリいこうや(´ー`)y-~~
>>836
南方から黒潮に乗って流れ着き、住み着いた異民族らしい。
古代期に朝廷軍に降伏したらしい。
      <━━━━━━━━>

     >━━━━━━━━━━<

こうすると下の棒の方が一見長く見えます。これが目の錯覚です。
下の方が明らかに長いぞ(w
ネタか?ちょっとワラタ
849無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 04:19
>834

前の方を見ると書いてある「島津義弘の賭け」が入門編として良いかと。
政治が得意じゃないのに外交音痴の兄貴と無理難題を言う豊臣政権の狭間で
右往左往する情けない姿。
朝鮮出兵中、奥さんに「なんで手紙の返事書いてくれないんだよぉ〜」と愚痴った
お茶目な手紙を送る姿、等が楽しめます。

普段はこんなに情けなくて普通な義弘たんが、一時、戦場に立つと稀代の名将に
なるんですから、人間、不思議です。
850お腹せっぷくはいや:02/11/04 07:53
お前ら島津義弘が凄いというが、
堂ヶ崎の戦いのこと忘れてないか?
852834:02/11/04 10:49
>>849-850 ご親切にありがd。
853無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 12:33
忘れているというより、知らない。
どんな戦いだったの??
854お腹せっぷくはいや:02/11/04 14:24
855無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 20:15
桶狭間のあと、奇襲を避け続けた信長の慎重さを教えてやりたい。
856無名武将@お腹せっぷく:02/11/04 20:17
>>1こと子豚よ・・・いい加減にしたらどうだ(WWWW
お前は今までずっとそうやって生きてきたな(WWW自分にとって都合のいい話しか聞かない豚野郎(WW
不快になる、反論される話は全く聞く耳を持たないんだろ(WW豚きわめりだな(WW
なぜ自分の卑小さを省みず、常にそんな傲慢な態度をふるえるんだ(WW
お前のような豚は、常に自分の精神状態を気持ちよくする事しか考えてないからだろ(WW
この世を自分中心…豚中心(WW豚世界(WWお前が人間と会話する時は、論議するとか、
意味のある話をしようとか、そういうのがまったくない。ただアフォ豚が気持ちよくなれればそれでいい
自己豚満足しか頭に無い、典型的オナニー豚(WWW
まさに幼児豚がする会話。幼稚豚の典型(Wお前の話は、ゴミだよ豚ちゃん(WWW
イカレ豚のオナニーその最もたるは、お前が書いてきたレスだよ。そして自演ことバレ豚芝居(WWW
なぜあんなレスをしかできない?あんなサトラレ豚芝居をする?自分ではわからないだろうな(W
それは、ただ自分が気持ち良くなりたいという豚望の結果ですよ(WWW
真正面から否定する文は、オナニー豚には通用しまい(Wお前は誰にも論破できない(WW
論破できないというよりは、議論自体できない訳ですが(WWW
豚は豚を不快にする文を受け入れられるような理論的人間じゃないからだ。
つまりオマエが豚だからだよ豚野郎(WWW話の通じない狂豚。狂気豚見参(WWW
ハナから戯言と決めつけることによって、どんなことをいわれても豚の精神状態を
安定させようとする。豚に都合の悪い事は見えません、豚目、豚耳、豚口(WWW
豚のお前にしてみれば、豚が不快になる文は、「バカじゃん」「ただのキチガイ」「で?」で済まされてしまうだろう(WWWそんな事をしていては、他人と論ずる事などできる訳がない(WWW論ずる事など元からアフォ豚にはできませんが(WWできる事はコピペと豚芝居(WWW
とどのつまり、豚ちゃんはハナから他人と論ずるだけの脳味噌を持っていないってこと。
そして、そのレスはすべて何の価値も持たないゴミだということだ。
オマエには何にもできないよ豚ちゃん。ネタ職人などと都合の良い冠が欲しいのか?(WWW
857無名武将@お腹せっぷく:02/11/05 23:40
教えてチャンですみませんが
「チェストー」というかけ声の語源ってなんですか?
九州のほうの方って、こういうかけ声叫びますよね???
858無名武将@お腹せっぷく:02/11/06 15:26
既出かも知れないけど「勝手に改蔵」で
引き際オブ・ザ・イヤーに選ばれてた。
他にメタルスライムとかAV女優の愛ちゃんとか・・・
(「ケツまくって逃げた人ばっかっじゃん」て突っ込まれてたけど)
859無名武将@お腹せっぷく:02/11/07 09:42
>>857
チェストとエイトウに関しては、確かに語源が知りたいね
>>857 "九州のほうの方って、こういうかけ声叫びますよね???"
 
        聴 い た 事 ね え よ(藁

    …日常生活ではね。
    時代劇とかじゃ何かとチェストー!!!って血管切れそうな顔して(# `Д´)
    よく叫んでいるけどな(藁
861無名武将@お腹せっぷく:02/11/07 23:49
当方鹿児島県民だが「チェスト」は「オリャー」とか「レッツゴー」みたいな感覚で認識してます。







レッツゴーは無いな
862無名武将@お腹せっぷく:02/11/08 00:38
鹿児島のある駅には受験シーズンにこんな張り紙がされる。
「受験生諸君、チェストいけ!」
ちょっと藁田が、勇気づけられたなぁ…

ちなみに、広辞苑に次のが載ってた。
「ちぇすと」 
詩吟・演説などの高潮した際に、聴衆から発する声援の掛け声。
(主として明治期に使われた。鹿児島地方で使い始めたという)

示現流の試合なんかで「チェスト!」を聞くと、普通に身がすくむよ。
そりゃ農民兵じゃ田原坂で苦戦するわ…
863857:02/11/08 01:19
860〜862さん
レスありがとうございました。
小説ではチェストって大抵カタカナで書かれていますよね。
外国語(九州のほうは本州より外国との交流が早く盛んでしたし)から
きているのか、方言なのか知りたかったもので・・・。
もともと、「うりゃー」とかみたいに意味のないかけ声なのかな???
>>857
だと思う。
あと「チェストー!!!」って叫ぶのは鹿児島だけじゃないかしら。
 


"レッツゴーは無いな" ちょっとワロタ(w

865無名武将@お腹せっぷく:02/11/08 08:46
沖縄戦で自決した牛島満(鹿児島出身)が日中戦争で第38旅団(歩兵第45連隊(鹿児島)・歩兵第23連隊(都城))長だったとき、
命令書の末尾には必ず「チェスト、行けっ!」と書かれていた
以後、第38旅団は「チェスト部隊」と言われるようになった
866857:02/11/08 23:14
>865
本当ですか!
それって、標準語(?)に直すと
命令書末尾に「うりゃ、行け」って書かれていたってことですよね。
会社でそんな書類がまわってきたら・・・・・・ちょっと嬉しいかも。
867お腹せっぷくはいや :02/11/10 23:00
868857:02/11/11 01:57
>867
ありがとうございます。
長年の(?)胸のつかえがとれました。
保守
870無名武将@お腹せっぷく:02/11/29 21:05
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1038369836/l50
の24の質問を26で返したが、自信がない。
誰か詳しい奴、情報頼む。
保守
872無名武将@お腹せっぷく:02/12/11 13:01
島津奔る ってつまんなかったんだけど まじで 
面白い面白くないかは人それぞれ。俺は面白かったし。
874釣野伏:02/12/12 00:22
────────────────────
     @   < やーい、アホアホー!


     凸   < なにィイイ!!
────────────────────
     @   < うわっ、きやがったー!

     凸   < コロス!
     ↑
────────────────────
     @   < ひえええ
     凸   < 捕まえたぞ!
     ↑

────────────────────
     @   < などと怯むと思うたか。ひっかかりおって!
     凸   < うわっ、囲まれた!!
    A  B < それっ、やっちまえ!!

────────────────────
875無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 10:04
上手!
876無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 15:41
釣野伏って隆信と仙石以外に引っかかった奴いんの?
874見るとこんな戦法にホイホイ引っかかるものかと
思ってしまうのだが(笑)
877無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 15:49
>>876
囮の部隊に功名心からつっこんで部隊から離れてしまって
袋にされた例ならいくらでもあると思いますが。
878無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 15:56
朝鮮での有名な戦いもその作戦で大勝したんじゃなかったっけ
碧なんとかの戦い
なんだかんだいっても、追撃戦が一番首を取れたからね
エサが逃げれば追うでしょ
880無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 17:12
>>876

874は、基本形。
更に応用が有るんよ。
例えば、囮部隊には一切、囮だという事を教えず攻めさせる。
囮部隊は、自分の事を囮と思ってないから全力で戦う。
しかし、結局は、敗退して本体に向かって逃げ出す。
敵は、まさか囮部隊が崩壊するまで戦うなんて思わないから相手の先陣だと思い込む。
相手の先陣を崩壊させたらそれに乗じて追撃戦を行い戦果を拡大するのは、常識。
で、追撃戦を行っているうちに伏兵の隠れている地点までおびき寄せられ逆に袋叩きに逢う。
これの難しいところは、囮部隊が崩壊して逃げて来るんで相手の勢いに負けて本隊ごと
突き崩される恐れが有るという事。
また、相手が釣野伏せを知っている相手なら伏兵を二重三重に仕掛けておいて相手が追って来たら
わざと一部の伏兵を見せて
「釣野伏せ、見破ったり」
と思わせる。
相手が安心して現れた伏兵に攻撃を始めた所で更に伏兵で包囲して叩く。
>>878
アレは真田が冬の陣で大勝したのと同じパターン。
ついでに練度不足の敵の自爆付き。
882無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:22
ノーベル賞受賞した田中さん→島津製作所→戦国島津氏
を連想した人はどれくらいいるだろうか?
883無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:28
>>876
大友もひっかかったよ
884無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:41
>>878
泗川の戦い?
あれは明側が不手際で火薬を暴発させて(>>881が言う「自爆」。文字通り自爆したわけである)、それで動揺した虚を突いただけ
ちなみに暴発させた明の部隊というのが、北京の今で言う珍走団みたいな連中を集めた構成された部隊だったようで

>>882
そこの島津は、先祖(伝・播磨の庄屋)が惟新から島津の姓と家紋を下賜された、れっきとした「本物」
885無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:43
>>884
じゃ雛人形つくってる京都の島津は?
886無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:47
自爆したのは島津だったんじゃない。でその爆破に驚いた明軍を
撃破したんじゃないの?
887無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:50
そうそう島津軍が城を占領される前に火薬庫に火を放って爆発させたはずだよね
888無名武将@お腹せっぷく:02/12/12 21:56
>>886
明軍が火砲を使ってる時に砲身を冷やさずどんどんぶっ放したもんだから、
砲身が熱を持ちすぎて爆発し、その火が近くの火薬を詰め込んだ壷の群に飛びこんで大爆発を起こしたらしい

>>885
http://www.kyoto1.co.jp/shimazu/kaisha/index.html
889無名武将@お腹せっぷく:02/12/13 20:39
泗川の戦いは
泗川城が囮の役で泗川新城で敵を痛打した戦略的釣野伏せの形だよ
890禰公:02/12/13 20:41
そろそろ1000ゲットの自作自演
をしてよろしいでしょうか?
891禰衡 ◆5m18GD4M5g :02/12/13 20:51
だめ。
892無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 04:54
>>883
893無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 10:59
ノーベル賞は、島津の戦果の1部。
おお電波スレで終わるのか
895無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 16:43
再来年の大河の九州三国志はめちゃ楽しみだが・・・
竜造寺隆信役のKONISHIKIはミスキャストだろ・・・

>>894
まじで?!
897無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 18:11
>>895
確かに。
愛嬌のあるKONISHIKIでは極悪非道な竜造寺隆信とは味が違うよな
極悪非道が似合うデブな役者って誰だろう?
898無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 19:14
デムパ受信中
899名無し:02/12/14 19:37
>>897
デブと言えるか微妙だが、宍戸錠もしくは力也などはどうか。
900無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 20:08
再来年は新選組です。
>>899
錠はシリコン取ってからちと細めだぞなもし。
902無名武将@お腹せっぷく:02/12/15 07:17
九州挙げ
903無名武将@お腹せっぷく:02/12/17 18:14
島津義弘の鉄砲適正がBなのは納得できない
(未だに烈風伝やってます)
904無名武将@お腹せっぷく:02/12/17 18:24
>>903
3連発できるから、まだ許せるでしょ
905無名武将@お腹せっぷく:02/12/17 18:28
>>904
そうだけど
なぜBなんだろう?
島津家は鉄砲適正Sでいいだろう?って感じするが
Bくらいだと大砲が方向オンチなんだよね
906無名武将@お腹せっぷく:02/12/17 18:33
>>905
Sに直してしまえ
自分はSにしてる
907無名武将@お腹せっぷく:02/12/17 18:34

http://petitmomo.com/mm/

ここがちょっぴりエッチ系のめぐが運営している出会いサイトです。
もしよかったら使ってみて、、、
ヨロシクです。

めぐ(^o^)-☆
>>903
とりあえず、忠平さんが鉄砲の釣瓶打ちをしたのか調べてから言ってたもれ
909無名武将@お腹せっぷく:02/12/20 18:18
ってゆうか何で四兄弟のなかでこいつだけが頭一つ上の評価されてんの?
910無名武将@お腹せっぷく:02/12/20 19:39
天才だから。
島津家は鉄砲伝来の地とされている種子島に近いために鉄砲の大家みたいに思われているが、
それほどのものでもなかった。
装備なら大友・竜造寺の方が整っていた。
島津=鉄砲と言われるのは、比較的泰平の時代になってから、武士全体に鉄砲軽視の風潮が広がっていた頃、
島津家には鉄砲を至上の武器と位置付けていた合田流が広まったため。
ちなみに、将兵全てが鉄砲装備というのも合伝流が広まってからであり、
島津の鉄砲隊が日本最強として知れ渡ったのは幕末に至ってから。
肖像画が残っているから
>>911

戦国期の島津の兵法は、鉄砲を重視した物だったのに江戸時代になって他国の兵法を採用してからおかしくなった。
戦国期の島津の兵法に戻そうと言うのが合伝流採用の理由じゃ無かった?

914911:02/12/21 02:20
>>913
うむむ・・・・自分はその説を聞いたことが無いからなんとも言えないですけど
自分自身不勉強なので恐らくその説があってるんでしょう。具具っても全然でて来ないし・・・
では島津における鉄砲は、、やはりそれなりのモノがあったんでしょうかね?
小説なんかでは島津の兵は殆ど鉄砲に熟練していたなんて書いてありますけど
資料をたどるとやっぱり鉄砲は一部の鉄砲足軽が所持するだけで、後は郷士の槍兵中心のような・・・・・
九州の武将で義弘に楠木正成の現代版だ!とか褒められた
やつがいたと思うんだけどだれか知らない?
>>915
 志賀親守
島津奔るは良作だがセリフを侍言葉で書いて欲しかった
918無名武将@お腹せっぷく:02/12/23 23:56
島津奔る読みました。素晴らしいです。
中馬が叱咤するセリフとかかっこよか
919無名武将@お腹せっぷく:02/12/24 00:07
>>918
中馬が叱咤するセリフって下のリンクのその四「逃避行」?
920919:02/12/24 00:08
>>916
ではなくて、その孫の親次では?
親守−親度−親次
あ、某所では、親度ではなく親孝って書いてあるなぁ。
原資料が違うのかな
池宮彰一郎氏の「遁げろ家康」を絶版・回収age
924無名武将@お腹せっぷく:02/12/30 11:47
どして?
925無名武将@お腹せっぷく:02/12/30 11:54
島津奔るは良作だけど史実に忠実でない部分も多い。

まあ、基本的に島津を「イイモノ」として描いてるんだから仕方ないが。
926あは:02/12/30 11:56
島津家は秀吉や家康の飼い犬です、死んでください
島津は臆病者のアホで有名だからよ、2度と名前出すな!クソ!!
927無名武将@お腹せっぷく:02/12/30 12:37
>>926
沖縄の厨房でつか(あは?
928あは:02/12/30 12:40
おれは徳川家康だ>>927
>>927
この、あはという人物は1年程前に武田スレで激しく叩かれていたリア厨です。無視無視。
>>924
ソースは
http://news.fs.biglobe.ne.jp/social/ym20021225i403.html
2ch内のスレ(日本史版)
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1040806304/l10
930無名武将@お腹せっぷく:02/12/31 11:58
ちぇすとー!
>>926
とりあえず、飼い犬は義弘、ということで。
彼奴は島津一族を示す、"久"も"忠"も棄てて権力に奔った野郎。
あまつさえ、源氏の"義"を名乗りやがった。w
ま、息子も含めて、島津存続に一役買ったのは間違いないけどね…
引っ掻き回したのも事実。
932夜盗うんこびっち伯爵 ◆RRBOzsbzAA :03/01/05 09:32

 はふ〜ん
933無名武将@お腹せっぷく:03/01/05 12:14
オレは義弘武将の中でもかなり好きだが
934無名武将@お腹せっぷく:03/01/05 12:14
義弘武将?
935無名武将@お腹せっぷく:03/01/05 12:55
飼い犬という言い方はどうかと
豊臣政権下で確かに義弘は中央政権よりの姿勢をとっているように見えるが
それは兄の島津義久が他の大名に比べて独自路線の姿勢が強すぎたから
義弘の姿勢が目立っただけなのではないだろうか?
936無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 09:54
島津家は江戸時代どこと結婚してたん?
大名家によって、だいたい相手が決まってたんだよね

937無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 11:11
徳川将軍家とは結婚していたよな。
9381:03/01/06 13:21
すっっっげーーーお勉強になりました。
みんな物知りですねありがとうございます。
新スレできましたので来てくれ

【◆◇】三戦最強軍団遂に遂に決定【◇◆】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1041817376/l50
940無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 17:27

ちぇすとー

朝倉渦中まじうざいなぁ・・・
941無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 17:29
所詮、九州の田舎者。
942無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 17:43
当時の九州は日本で最も先進地域だったはず。
なぜなら当時の先進国である明への玄関口だった
さらにヨーロッパからの船も多く出入りしていたので
戦乱で荒れ果てた京の都よりも文化も進んでいた地域
九州=田舎者という概念は当てはまらない。
943無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 18:44
島津氏は鎌倉初期から十字紋をはためかせ、全国を各地を転戦してきた有力大名だぞ
ひきこもりの田舎大名なんかではないわ!
944無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 22:41
田舎侍丸出しでした>家久
945無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 23:02
>>942
( ´,_ゝ`)プッ 九州は戦乱で荒れてなかったのかい?
>>942
一口に九州と言ってもなぁ……おれの生まれた日向の国は
今も当時も僻地だべ。
947無名武将@お腹せっぷく:03/01/09 18:16

九州三国志

大河でやってくんないかなぁ・・・
>>935
豊臣に取り入って兄と同列になろうとした(国主のことね)のは見逃せまい。

ちなみに、「兄の島津義久が」ってのは、兄弟で役割を分担してたのかな、と思ふ。
義久 長男 島津の棟梁として中央に屈せず
義弘 次弟 兄と中央の仲を取り持つ
歳久 三弟 家中の不穏分子を捨て身で炙り出す(降伏前と後で態度が豹変したことから)

ってとこでどうでしょ? あ、あと忠長も忘れないで欲しいなぁ。ってガイシュツ?
>>948
義弘がどれだけ義久に気を使ってた知らんのか
950無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 21:34
http://mentai.2ch.net/history/kako/978/978325268.html

>>81

ここの180に

>しかし彭信古の兵は皆京城のならず者なり、元より戦いを知らず、
>また火器も良く扱えず。そのため木槓破れ(大砲が暴発)、薬発衝いて起り(弾薬が誘爆す)、
>黒煙は天の半分を覆い、兵は一時的に大混乱に陥った。倭、その隙を突き、前の小門より
>出て、直ちに彭信古の兵に突撃。皆潰走す。
951950:03/01/10 21:42
そのスレの70に

>蔚山に向かう東路軍:明軍二万四千、朝鮮軍五千五百
>泗川に向かう中路軍:明軍一万三千五百、朝鮮軍二千三百
>順天に向かう西路軍:明軍一万三千六百、朝鮮軍一万余

とある。
「中路軍」と「東路軍からの増援」を合わせたものが正しいようだ。
これで38000前後で辻褄が合う。

今までは「東路軍からの増援」という存在を誰も指摘してなかった。
952山崎渉:03/01/11 00:56
(^^)
>>949
どれだけ?
鬼島津で兵1で野戦して、機動力生かして本陣ゲトで2年でエンディング。
あの時は最強の武将だった。
955無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 22:37
幕府の命令で長良川?の普請をしていた島津藩の人達が
幕府の嫌がらせで工事が長引いてしまい、薩摩に帰るためのお金まで
使って普請を終わらせて、切腹した話を聞いた事がある。
泣ける・・・
幕末には、各兵が戦場で鉄砲の弾を自作できたのが強さの一因だった。
西南戦争では、南北戦争で使われた最新式の銃と圧倒的な物量にかなわなかった。
957無名武将@お腹せっぷく:03/01/13 23:28
>>955 >>811参照
958無名武将@お腹せっぷく:03/01/15 10:56
島津は蒲池と一緒で、チョソだったんだよ。
960無名武将@お腹せっぷく:03/01/20 09:14

 島津かっこいい
961山崎渉:03/01/22 14:28
(^^;
962無名武将@お腹せっぷく:03/01/23 16:28
島津強い
963無名武将@お腹せっぷく:03/01/23 19:40
池宮彰一郎氏の著作回収へ
http://www.daily.co.jp/2002/12/25/tp20021225066691.shtml
朝日もどこまでもヘタレだなぁ。
最後まで池宮を守ってやれよ。
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。