1 :
美麗島の名無桑 :
02/07/09 23:27 善かれ悪しかれ、その後の台湾の運命を変えた日本の植民地統治。 その時代と風物・文化・生活・出来事などをマターリと語り合いましょう。
2ゲット 早くも良スレのヨカーン!
ついにやった3げっと。
4 :
美麗島の名無桑 :02/07/09 23:56
黒松ジュースってどんな味のジュースだったのだろうか? プラッシーの仲間?
と言うよりむしろ プッシーの仲間と思われ。
6 :
美麗島の名無桑 :02/07/10 00:07
太平洋戦争末期には、台湾人の所得は日本人の9割にまで迫っていた。 植民地期全般を通じて食糧は豊かで、政治的に圧迫されていたとはいえ 海軍の支配下にあって思想的には開明。 多くを望まなければ日本本土より暮らしやすかったと思う。
7 :
美麗島の名無桑 :02/07/10 00:24
プッシーの味ってどんな味?
9 :
美麗島の名無桑 :02/07/10 04:39
黒松小姐のジュースの味だろ?
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ ,――――-ミ
/ / / \ |
| / ,(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < プッシーなわけねえだろ!
| / \__________
/ \
\\ l\\ ズバシュ・・・
|\\ | \\ Λ_Λ Λ_Λ Λ_Λ ‥
/ \\ | \\ ( / ⌒ヽ‥∵/ ⌒∵ (/ ⌒ヽ∵
| \\ | ヽ 二二二二| |
>>5 二二 | |
>>5 二二| |
>>7 二二>
| |─┬\\ ∪ / ノ∵‥∪ / ノ∵:∪ / ノ∵‥
| | | \\ | || | || | ||
| / │ | \\ ∪∪ ∪∪ ∪∪
/ / | | \\
/ / | | \\∵∴___
/ / | | ΛΛ \\:
>>7 ヽ〜
∪ ∪(゚Д゚ ;),∴\|∪ ̄ ̄UU
あげ
父が統治下の台湾で生まれました。 このスレの行くへが楽しみです。 ご挨拶まで。
温泉がたくさん開発されました。 北投なんかには日露戦争での傷痍軍人の 療養所があったとか。
14 :
美麗島の名無桑 :02/08/06 16:40
台湾が日本統治下になった経緯を教えてください。 韓国の方は大雑把に頭に入っているけれど、 台湾に関しては知識が全くない。
15 :
美麗島の名無桑 :02/08/06 16:47
>14 時代は忘れたが、 中国が戦争に負けて、 台湾を日本に割譲した。 あれで、台湾が日本の殖民地となった。
17 :
美麗島の名無桑 :02/08/06 23:43
お互い様です
>>14 日本が日清戦争に勝利した結果、中国から日本に割譲されました。
元々堅く鎖国して海に乗り出さなかった清にとっては台湾島は
化外の地に近く、日本に譲渡してもあまり惜しくなかったようです。
19 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 11:53
割譲された台湾に日本はどのような政策をとったのですか?。
20 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 14:02
日本は台湾を植民地として搾取したのでしょうか。それとも朝鮮に対して行ったのと 同様に、日本の一部として開発しようとしたのでしょうか。当時の台湾住民を日本人 として扱ったのか、被支配民族として搾取したのかによって大きく違ってくると思い ます。知る限りでは、朝鮮人は国政への参政権など一部の権利を除いて、内地の国民 とほぼ同等の権利を与えられ、台湾人も朝鮮人よりは制限は多かったものの、被支配 民族としてではなく、準日本国民として待遇されていたと思います。 とすれば、朝鮮に対するのと同様、同化政策を取りながらも、地方色もある程度尊重 するような政策が取られていたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 日本が台湾を植民地として支配したというのは誤りで、日本領に吸収して統治した、 というのが正しい表現ではないでしょうか。さらに朝鮮のように独立国を併合した のではなく、中国(清)のしかも実効的には支配していなかった一地方を、日本が譲 り受けたわけですから、清の名目的支配から日本による実効支配に移行した、とい うことであり、その点からも植民地支配という言葉は当時の状況を正確に表現して いないように思います。
21 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 14:06
>台湾人も朝鮮人よりは制限は多かったものの、被支配 民族としてではなく、準日本国民として待遇されていたと思います。 プッ!
22 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 14:10
>>19 そのときの日本政府がとった政策は、列強の植民地経営とはまるで逆の政策でした。
というのも、列強は愚民化政策をしたのに、日本は台湾に学校を建てて台湾人に対して教育を施したのです。
皇民化政策の名の下に日本語教育をしていたそうです。 ですから台湾の年配の方は日本語の読み書きができる人が多いのです。
主なインフラは日本が整備しました。病院・警察・道路・鉄道・上下水道。かつてはともに歩んでいた時代があったんです。
>>21 屁でもこいたか?躾が出来ていないな。
言いたいことがあるなら、正々堂々と言えばよかろう。
言うべきこと、またはそれだけの頭がないなら黙っておれ。
24 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 14:33
25 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 15:16
>>24 君が屁しかこけないへたれであることは良くわかった。
欧米の植民地政策(布教と搾取)ではなかったようですね。 ただ、差別(区別)は有ったようです。 しかし、日本国内においても、地主と小作人では差別されていましたから、 そのレベルで考えると、「差別はなかった」ということになります。
27 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 17:51
プッ! 必死だな(W
「悲情城市の人びと 台湾と日本のうた」著・田村志津枝 晶文社 ¥1,900 「台湾人と日本人 基隆中学Fマン事件」著・田村志津枝 晶文社 ¥2,000 これ、いいですよ。やはり植民地という苦しみが伝わりました。
29 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 20:35
いいか、台湾スレってのは *日本は台湾に、いいことしかしてない。 *台湾は中国とは違う存在。 *台湾人は日本人大好きで、今でも日本統治を 感謝している。 この3点を年頭に置き、これに異論のあるものは 射殺対象とするから、そのつもりで。
30 :
美麗島の名無桑 :02/08/07 20:54
わらった!
>>29 そおゆうローカルルールが・・・
年頭に決まったんですね。念頭に置いときます。
>>29 台湾スレってどのスレよ?
年頭っていつの年頭よ?
あっちはあれでいいでしょ。浅見と同様、変なのはどこにもいるしね(藁 日本に限らず。 探求心を忘れちゃいかんよ。w せえのっと。( たらいまわしにされなきゃいいが。あ、仕事で 来月台湾に行く予定。(藁
35 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 00:28
知り合いの父親は、台湾で生まれ、高雄中に進学した。んでやっぱし裕福な、 日本人は、台湾人をバカにしていたそうな。「でも、あいつらにも優秀なやつ はいたなあ」 その人は、台北大学を失敗。師範学校に。そこで砲兵隊に、 入隊。大砲の横で、着弾点の計算をしたそう(三角関数を使って) 台北大学にいった優秀な連中は、(日本人も台湾人も)、早くに戦死したそう。 「死んでは、いかんやつから死んでしまうんだよなあ」
36 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 00:32
>35 第2次世界大戦と台北大学???? 第2次世界大戦のとき、台北大学はないと思うけど?????
台北帝国大学のことでしょ
>>37 そうです。
39 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 02:31
>37台北帝国大学のことでしょ 台北帝国大学ではなく、 台湾帝国大学です。 今の台湾大学です 現在、台湾では、別に台北大学がある。
40 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 02:59
>39 ? 台北帝國大學=現国立台湾大學 台北帝國大學が日本時代台湾唯一の大學。 現台北大學は台北市立では?
41 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 03:04
>40現台北大學は台北市立では? 国立台北大学です。 台湾の大学は、国立と私立しかないと思うよ。
42 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 04:02
43 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 04:10
45 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 07:50
いいか、台湾スレってのは *日本は台湾に、いいことしかしてない。 *台湾は中国とは違う存在。 *台湾人は日本人大好きで、今でも日本統治を 感謝している。 この3点を年頭に置き、これに異論のあるものは 射殺対象とするから、そのつもりで
47 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 11:15
ややこしい。 いま、台北大学ちゃんとあるから、 台北帝国大学って言わないと、 誤解を招くでしょ。
48 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 11:47
父は台北帝大卒で、台湾精糖入社し、所長代理の時に大学に呼び戻され(収入半減) 南方人文研究所勤務で敗戦、軍属として仲間の世話をして最後の引揚船で故郷に戻 りました。母は、小学校の音楽教師でした。両親は、再び台湾を訪れる機会が無い まま亡くなりました。数年前、初めて仕事で台北に行った時、大学を探しましたが 時間切れで果たせませんでした。 当時は特権階級だったらしく、両親の現地人への別け隔ての無い対応にかなり批判も もあった様ですが、敗戦後の混乱期も周囲から厚く保護され危険は無かったそうです。 台北(帝大)生まれの私も58才、暇に成ったら、生まれ故郷をゆっくり旅行したいです。
↑ 改行が見苦しくてスマン。 大事な事を書き忘れた。 >1 へ 両親は、戦前の台湾で先生だった訳だが、統治はしても決して植民地ではないぞ。 決定的に違うのは、日本と同等の教育をし、インフラ整備し、搾取はしていない。 威張り散らした日本人も居たらしいが、所詮は人徳の問題でしょう。
私は日本は台湾を植民地にしたのではなく、あくまでも日本の一部として統治した、 インフラ整備も教育も行った、と考えていますが、決して何一つ恥じることのない 統治を行ったと言うつもりはありません。ただ当時の台湾がおかれていた、実効支 配は受けていなかったが名目上清国の一地方という状況、世界標準から考えると、 日本の台湾統治は台湾の独立を奪ったものではないし(独立していなかったのだから 当然)、開発のためのインフラ、経済活動、教育などに対する投資も十分行ったと思 うし、その果実を内地人のみによって搾取しようとしていたわけでなく、被統治地 域の住民(台湾人)の待遇も自国民に準ずるものにすることで、統治側/被統治側の両 方で享受する用意もあったと思う。 その意味からも当時の他の列強の植民地政策と、日本の統治政策とは全く別の物であ ったと考えている。台湾人が差別された部分も勿論あったと思うが、国策/政策とし て行ったものではなかった。 台湾人の意思で統治したわけではないので、日本の統治に感謝しろと言うつもりも ないが、歴史上の一時期を共有したという共感が持てれば素晴らしいと思う。 国民党の人々がこういう考え方を受け入れられないのは当然だと思うが。
ひょんな事から、この掲示板にLinkして、思わず書き込みしてしまった。 何か場違いなロートルが首を突っ込んだ感があるが、参加させて欲しい。 別に両親の自慢をするつもりは無いので誤解しないで欲しい。 統治時代、古き良き時代に気概のある(当時としては普通だったと思う) 日本人が、誠心誠意で台湾の発展の為に、搾取など毛頭なく情熱を燃やし て働き、敗戦により追われる立場に成っても、最後の引揚船で帰国する迄、 温かく台湾人に守られた話を聞かされている。戦後、何十年も教え子から、 毛筆書きの手紙が届いていた。特に、当時の日本の状況からすれば、差別 は無かったと聞いている。客観的に、20の意見には全面的に賛成する。 さて、両親は余り台湾の事は話さなかった。余程、敗戦で裸一貫になり、 財産の全てを置いて引揚げ、人生が狂ってしまった事を忘れたかったのだ ろう。それでも、台湾の人に尊敬はされても、恥ずる事は一つもしていな いと言外に含めてエピソードを話してくれた。 結論は、統治時代は、政府レベルでも民間レベルでも台湾人には決して 搾取でなく、民度の向上であり不利益等は無かった」である。 機会があれば紹介したい。
ヤッサン、試すようでワリィ 漏れは爺様が台湾に居たんだけど、最後の引き揚げ船って何時だい? 別にあんたをロートル扱いする気はないけど、留用者なのかい? 2.28は3歳だろうが、知っているのかい。 いろいろ知ってたら、教えてけろ。
>最後の引き揚げ船って何時だい? 悪いが、年月ははっきりと聞いていない。遺品を捜せば、赤ん坊で病気だった私を 助けてくれた引揚船の船員の写真(唯一の持ち帰り写真)に姓名、住所、ひょっと すると、年月も書いてあったかも知れない。これだけでも、当時の日本人の心意気 について語れるかも。 >留用者なのかい? 親父は、敗戦時は台北帝大の研究所員で軍属だった。相当なステータスだったらし いが、同朋の送り出しの為、自分の意志でギリギリまで残ったと聞いている。多く は語らなかったし、小学生の頃に数回しか話さなかった。 >2.28は3歳だろうが、知っているのかい。 台湾のことは、(防空壕の中で)蛙と遊んだ記憶だけがあるだけだ。歴史は自分で 本を読んだが、(学校では教えなかったと思う)知ってる訳は無かろう。 親の話と私を取り違えているのかな? >いろいろ知ってたら、教えてけろ。 嫁さんの両親(台北で薬種問屋だった)や、両親の統治時代の話で良ければ。 何か、酔ってるんで重複してますね。 容赦願います。
56 :
美麗島の名無桑 :02/08/08 23:28
ヤッサンの話、もっと聞きたいなあ。
むしろ私は、知らない、という点で信じますが。
ヤッサン、おはよう。
>>57 うん、さいごの10%を埋めとこうと思っただけ。
ヤッサン、気を悪くしたらゴメンよ。
俺の親父は、昭和2年に台北で生まれた。
その親父は早くに死んだが、養父と共に総督府の役人だった。
当時の台湾の生活をまとめて置きたくて、台北工業の友人に原稿依頼している。
でも、パソコンはできんわ、ネットはないわで難儀している。
古い写真が出てきたので、今デジタル化している。
どちらもまとまったらうpの予定。乞うご期待。
ヤッサン、Machiさん期待してます。 不謹慎な言い方かもしれませんが、当時のことを知る生き証人が一人でもご存命のう ちに、貴重な生のお話をお聞きしておきたいものです。 今後の日台友好のためにも、ひとつでも多くの事実を拾っておくべきだと思います。
60 :
美麗島の名無桑 :02/08/10 21:28
いいか、台湾スレってのは *日本は台湾に、いいことしかしてない。 *台湾は中国とは違う存在。 *台湾人は日本人大好きで、今でも日本統治を 感謝している。 この3点を年頭に置き、これに異論のあるものは 射殺対象とするから、そのつもりで
62 :
美麗島の名無桑 :02/08/12 12:54
>>60 はあっちこっちでこんなこと言ってる厨房。放置放置。
あっちこっちで散々言ってる割にいつまでも「年頭」においたまま(w。
台湾に9年暮らして9歳で内地に帰って、私はしばらく「なにか物足りない」 気がしていました。後になって、それはどこを見てもどこに行っても日本人ば かりだ、ということに原因があったことに気がつきました。 私の最初の生活の原風景は、台湾人(本島人)と日本人の二重構造の社会でし たが、それが内地に帰って、日本人だけの単一構造の社会と対面することに なったことによる戸惑いだったのです。 そして、二重構造のなかの台湾人は、日本人より下の階級、存在だったのです。 日本の台湾統治を考えるとき「台湾の人々のため」という言葉を、私の体験か ら素直に受け取ることができません。 日本は台湾人のために、膨大な資産と教育の成果を残したといわれても、私には それは「台湾人のために」といったエモーショナルなものではなく「日本人が去 ったあとに資産と教育の成果が残った」と事実としてしか認められません。
>>63 >日本の台湾統治を考えるとき「台湾の人々のため」という言葉を、
確かに、本島人を差別していたと思いますが、それは国内の例えば
小作人との差別などとは違ったんでしょうか?
実際は3重構造だったようですが・・・
また、台湾のためというより、日本の一部として投資したのではないでしょうか。
これは「植民地政策」とは別物と考えています。
どちらにしても、記憶の許す限りお話を聞かせていただけませんか。
65 :
美麗島の名無桑 :02/08/12 20:24
射殺ってのは風流にかけるなあ こんなのはどうだい いいか、台湾スレってのは *日本は台湾に、いいことしかしてない。 *台湾は中国とは違う存在。 *台湾人は日本人大好きで、今でも日本統治を 感謝している。 この3点を年頭に置き、これに異論のあるものは 高砂族の出草(首狩り)対象とするから、 肝に命じるように。
>>65 出草が首狩とは知りませんでした。
「年頭」が変わってないのは、ネタですか?
肝臓は弱ってますが、命令すますた。
×: 肝に命じる ○: 肝に銘ずる
68 :
美麗島の名無桑 :02/08/12 23:51
69 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 00:01
戦後国民党は抗日が自己の存在意義であり統治原理であった はずですが? 韓国ばりの反日教育で育った世代が社会の中核をなしていますが?
昭和の初期、幼少年時代を台湾で暮らした私の「台湾経験」その1 当時の台湾の主要な乗り物は「人力車」でした。それを曳くのは 台湾人で、日本人にこの仕事は許されていなかったようです。 私が内地(大分)に帰って日本人が人力車を引いているのに驚き、 日本人の人力車に乗るとき心が痛んだことを覚えています。 人力車を曳く台湾人はすべて裸足でした。彼らの主食は愛玉に白 砂糖をかけたものといわれていました。私も食べましたが、なか なか美味でした。だがこれが主食とは思えません。 市街地の四つ角に人力車のプールがあり、20台ほどがたむろし 「トーチャー(人力車)」と呼ぶと、3、4台が駆けつけていま した。登録による背番号がついていて、各家庭で特定の番号の人 力車を指定してひいきにしていました。自家用車のようなもので す。私の家では18番と54番を指定し、子供たちが一人で乗る ことを許していました。 ヒゲもじゃの大尉がこのプールに行くと、人力車の車夫はみん な逃げていました。彼を乗せると「急げ急げ」とサーベルでたた き連隊(現台南成功大学)に着いたら、料金を値切りうまくいか ないと衛兵に車夫を追い払わせるからだそうです。 これは母からきいたことですが、このとき母は「台湾人がかわい そう」ということよりも「そういうことをする日本軍人がけしか らん。情けない」ということに重点を置いていたようでした。 父も軍人でした。戦後住んだ私たちの家の隣が人力車の家庭でし た。台湾時代を思い感無量でした。台湾ではこうした住宅関係は ありえないからです。
71 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 13:32
>>70 すごいすごい、もっと聞かせてください。
内地で喰い詰めて台湾で車夫になる日本人がいても良さそうなもんですが、
それが許されなかったというのは、一種の差別だったんでしょうか。
「そういうことをする日本軍人がけしからん。情けない」というのは、恥を知
る日本人として自然な感情のように思います。「台湾人がかわいそう」になら
なかったのは、当時内地には日本人の車夫がいたので、職業差別を受けてる
というふうには感じておられなかったからなんでしょうね。
このあたり、内地と台湾とに微妙な温度差があったようですね。
他のお話も是非聞かせてください。
72 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 13:49
おおっ!神降臨!先祖降臨! 実は私のばあさんは台北で薬屋をしていたそうですが、 当時は流行っていたのでしょうか?
73 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 14:56
祖父が新竹で教師をやっていたそうだが、亡くなったから話も聞けないな。 残念
台湾経験その2 信じられないかもしれませんが実際にあったことです。 私たち家族が離台する最後の陸軍官舎は台南駅から西に 伸びている成功路にありました。毎日3人の兵隊さんが 来て当番兵として、官舎の庭掃除や父の靴を磨いていま した。 そんなある日、私の家の台所から台湾人の老人が天秤棒 を担いで出てきました。休憩をしていた兵隊の一人がそ れを見て「おい、ちょっと待て」といつて、天秤棒に下 げてある籠をひっくり返したところ、なかから数個の木 炭が転がり出ました。 それを見てその兵隊は「貴様、盗んだな!」と怒鳴り、 いきなりその台湾人の老人を殴り倒し蹴りつけ、老人が 転がって泣いても許さずに蹴り続けました。見ていた私 は怖くなって急いで母を呼びにいきました。母が駆けつ けてその兵隊を「やめなさい!なんて事をするの」と叱 り付けるまでその制裁は続きました。小学校4年の私は、 胸がどきどきしてものも言えませんでした。 このことをなぜか母は父には言いませんでした。ただ私 に「あの兵隊はよくあんなことをする。困ったものだ」 といっただけでした。 今の台湾の人々は、このことをどう思うのだろうか、と 考えることがあります。
↑また、貴方なの・・ 何者? 年齢的に疑問。どこかの政治的策略なの? 年寄りが2ちゃんをやってるのが疑問。
76 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 18:00
漏れのばあさんも戦前一年間台南にいた。子どもの頃学校への不満を言うと「共産 党みたいだねえ」なんて言うようなばあさんだったが、それでも「日本人がいばって いた」といってた。 あと、漏れが台湾に行くと行ったら「山のほうに近づくな」といってた。霧社事件 の数年後だったからなあ
77 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 18:10
>>76 貴方のネタはそれだけですか(藁
17 名前:美麗島の名無桑 投稿日:02/07/11 12:12
漏れのばっちゃん(今は故人)は昭和8年頃、1年間ぐらい台南にいた
が漏れが台湾に行くときに「山のほうに近づくな」と行ってたなあ。
78 :
美麗島の名無桑 :02/08/13 18:51
kaupo君は大分合同新聞社の社員かな?メアドが…
>78 後が聞きたいから実メアドの詮索は止めましょう。 最後の出撃に乗艦しなくて助かった大和の元軍医殿(義父)にも教えとかなきゃ。 何せ、年配者のInter Net は無防備で、律儀にメアド書いちゃうからハラハラ。 >kaupo さん ウイルスメールの危険がありますから、メアド掲載しない方が吉と思います。 使うなら、すぐ捨てられるHot Mail等の無料メールの利用がお奨めです。
高雄市立博物館で「歴史台湾系列 日治時期台湾近代化的軌跡」という特別展が 10月6日まで開催されております。 パネルの案内文は当然中国語ではありますが、展示物は当時の新聞・書類・写真 などが主で、ほとんどが日本語です。 個人的には日本統治時代についてプラス面もマイナス面も客観的に時系列で展示 されているという印象を受けました。 台湾を訪問される際にお時間のある方は、入場料も無料ですので足を運んでみて はいかがでしょうか。
↑以下のとおり訂正します。 ×高雄市立博物館 ○高雄市立歴史博物館 です。
>>82 資料として欲しいし、残しておきたいところですね。
探してみますか。
>>79 そうですよね。探すことはしても晒しちゃいけないと思う。
>>kaupoさん。私からも誤りますから、再登場お願いします。
メアドなしでいいんですよぉぉぉぉぉっ!!!
84 :
コギャルとHな出会い :02/08/16 11:13
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全国エステ&ネイル情報あります。
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86 :
参考:歴代台湾総督 :02/08/22 03:01
1. 樺山資紀 1895.05.10 - 1896.06.02 2. 桂 太郎 1896.06.02 - 1896.10.14 3. 乃木希典 1896.10.14 - 1898.02.26 4. 児玉源太郎 1898.02.26 - 1906.04.11 5. 佐久間左馬太 1906.04.11 - 1915.05.01 6. 安東貞美 1915.05.01 - 1918.06.06 7. 明石元二郎 1918.06.01 - 1919.10.26 8. 田 健治郎 1919.10.29 - 1923.09.02 9. 内田嘉吉 1923.09.06 - 1924.09.01 10. 伊澤多喜男 1924.09.01 - 1926.07.16 11. 上山満之進 1926.07.16 - 1928.06.16 12. 川村竹治 1928.06.16 - 1929.07.30 13. 石塚英蔵 1929.07.30 - 1931.01.16 14. 太田政弘 1931.01.16 - 1932.03.02 15. 南 弘 1932.03.02 - 1932.05.26 16. 中川健蔵 1932.05.27 - 1936.09.02 17. 小林躋造 1936.09.02 - 1940.11.27 18. 長谷川 清 1940.11.27 - 1944.12.30 19. 安藤利吉 1944.12.30 - 1945.10.25
いいことした人たちリスト。
88 :
美麗島の名無桑 :02/08/26 12:47
>>86-87 全員が良いことしたのか、良いことだけしかしなかったのか、何もしなかった人も
いるのか、そのへんはわかりませんが、台湾総督には海軍系の人が多く、海軍は陸
軍に比べてリベラルだったので、総督府の台湾統治も比較的緩く、そのせいで台湾
には未だに親日感情を持つ人が多い、というような話を聞いたことがあるのですが
本当でしょうか。
↑ X(新日感情) ○ 親日感情
91 :
美麗島の名無桑 :02/08/27 10:06
>>89 有難うございます。 3-4代目はなんと日露戦争の英雄、乃木将軍と児玉参謀長なんて
バリバリの帝国陸軍ですね。
陸軍か海軍かなんてのはあんまり関係なくて、結局は人、ということなんでしょうか。
92 :
2チャンねるで超有名サイト :02/08/27 10:07
>いや、食べるのに精一杯で教育に手 >が回らなかったのが実態だろう。 さて食べるのが精一杯だった俺らの爺さんたちも 同じだったでしょうか?
>いや、食べるのに精一杯で教育に手 >が回らなかったのが実態だろう。 国府の台湾接収から数年間は戦時中を上回る食糧不足が発生したが、 元々石高1000万石の宝島。貧しくても食い物だけはあったはず。 清廉さは日本の黒潮文化圏みたいなもので、朴訥な原住民との混血により 漢民族では欠けがちになる倫理性が強くなったんじゃないか。(推論)
95 :
美麗島の名無桑 :02/08/27 18:07
私は混血より日本の教育のおかげだとおもいますよ。
>93さん,94さん >両親が子供に盗むなと教えていない。いや、食べるのに精一杯で教育に手 が回らなかったのが実態だろう。 ↑大陸の事ですが、やはり国民性の問題の方が影響大ですかね。貧しくても、 教育熱心な親を持った子供は、親の背中を見て育ちますもんね。
97 :
美麗島の名無桑 :02/12/01 14:19
今、自分のルーツを調べてたら2ちゃんに行き着くとは(;´Д`) 漏れは石塚総督の親戚(・∀・)
98 :
萌国主義者 ◆Orwl8kHb4M :02/12/01 14:28
>>94 大戦末期、神奈川の高座台湾少年工の人たちも
日本に来て食糧事情の悪さにびっくりしたようです。
心配した親御さん達が台湾から食料を送ったらしい。
99 :
美麗島の名無桑 :02/12/01 19:08
戦前の台湾は極樂浄土 まさに南海の蓬莱島 桃源郷だった
100 :
美麗島の名無桑 :02/12/01 22:30
>>98 うちの母は戦時中は台湾に住んでたんですが
食べ物に困った記憶は全く無いと言ってました。
(1946年4月に帰国)
父と話が全く合わないらしい。
101 :
美麗島の名無桑 :02/12/01 22:32
>>99 その桃源郷にしたのは日本じゃないの?
清朝時代は見捨てられた土地だったらしいから。
102 :
美麗島の名無桑 :02/12/02 03:47
ここは日本人のオナニーサークルか? めでたいめでたい。
真珠湾攻撃の時の暗号「にいたかやまのぼれ!」「新高山登れ!」 この新高山は台湾の玉山の事です。 この山は富士山より高く標高3952mあります。 当時の日本で一番高い山だったので、にいたかやまと名付けられました。 真珠湾戦争っていう国家の存亡を賭けた開戦の文句に 植民地の山の名前を付けるのは非常にナンセンスだと思うので、 やっぱ接収とはいえ、日本の領土として考えていたんだと思います。
104 :
美麗島の名無桑 :02/12/04 18:55
台湾に長く住んでいたうちの祖母の話からすると 確かに憲兵さんは威張っていて、住民特に台湾人には 嫌われていたそうです。 台湾人を日本人より一段下にみる風潮はあったようですが 下に見る原因としては人種差別よりも生活水準と 教育の格差だったようです。 祖母が台湾人に対して差別的な言動をすると、 いつも祖父に厳しくたしなめられていたと言っていましたから 日本人と台湾人は平等という考え方を持っている人も 多かったのだろうと推測されます。 その祖母にしても帰国後も台湾人の人と仲良くしていたので 嫌悪感のようなものは持っていなかったようです。
105 :
甲種幹部候補生 :02/12/04 20:33
外地で横暴傲慢な振舞をしたのは、多く朝鮮人でした 然も、内地人を装って狼藉を働いたのです 天人共に許さざる不逞鮮人であります
106 :
美麗島の名無桑 :02/12/05 01:18
僕の祖母、台湾生まれで28才くらいまで台湾にいました。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/taiwan/994084255/586 当時、福建人(と祖母は言っていた)の友達がいて、福建人にとって
内地人の友達がいることは光栄なことだった、とのことでした。
福建人の友達の家に行くとたいそう歓迎されたそうです。
祖母はあっけらかんとした性格だし、ただの商家の娘だったので
差別とかそういう意識は全くなかったんだと思います。けど
在台内地人(?)全体ではそういう雰囲気があり、その雰囲気の中で
福建人の上記のような反応があった、と僕は解釈しています。
けどあからさまな差別があったのであれば、友達の家で歓迎される
という事実はありえなかったのでは? と僕は考えています。
実は祖母は、僕の叔父(長男)と同居していて、叔父の奥さんの母親も台湾生まれ。 つまり祖母の長男の、義理の母(以下、叔父の義母)も台湾生まれだったのです。 この叔父の義母のお父さんは国鉄の職員だったらしいんだけど、祖母と叔父の義母、 生活水準が全然違ってたらしい。商家>>>公務員だったらしいです。 だから祖母は台湾での日々がまさに桃源郷だったみたいで当時の話を何度もするけど、 叔父の義母はあまり思い出したくない過去みたい。 それと、祖母は内地に帰ってきてからの話はあまりしないので、やっぱり、台湾での 方がよい暮らしをしてたんだろうなあ、と解釈してます。
108 :
731部隊 :02/12/05 04:20
>>105 外地で横暴傲慢な振舞をしたのは、多く内地人でした
然も、朝鮮人を装って狼藉を働いたのです
天人共に許さざる鬼畜、東洋鬼であります
台湾人の不逞の輩の子孫が裏盗鬼、や、菌媚隷盗です。
109 :
萌国主義者 ◆Orwl8kHb4M :02/12/05 07:49
110 :
美麗島の名無桑 :02/12/05 08:58
>>107 うちの母方の祖父も台湾で公務員だったんだけど、
話を聞くとそれほど豊かな生活をしていたようには思えません。
住んでいたのは官舎だし、海軍将校だった祖父の弟から
軍の使い古しの物資(服とか)を分けてもらって使っていたそうですから。
111 :
106=107 :02/12/06 00:06
>>110 おおっ、やっぱりそうだったんですね。民間人の様子などはあまり
活字にならないし、あんまり縁がない叔父の義母から直接話を聞いた
訳ではなかったので、祖母がそういう歴史のなかにいた、という
実感がわきました。
公務員もいろんな仕事があったと思うのですが、どんな仕事を
されていたんですか?
112 :
美麗島の名無桑 :02/12/06 09:17
>>110 祖父は小学校の教員です。
日本にいる頃には師範学校の付属小学校(たぶん国立)の
教員をやっていたので国家公務員としての転勤だったと思われます。
(祖父母は既に他界していますので詳細は確認できません。)
なので30前後にもかかわらず台湾では教頭・校長をやっていたそうです。
当時、台湾ではお風呂が珍しかったので、台湾人の用務員さん
(学校敷地内の官舎に住む校長一家の面倒もみてくれたらしい)の子供が
いつも風呂に入りに来ていたと言ってました。
戦時中の台湾では内地より物資が豊富だったらしく、戦後内地に帰って
来てからが苦労したようです。
>>112 なるほど、学校の先生は、ばりばりの公務員ですね。
お風呂がめずらしかったとは、初めて聞きました。
今度祖母に確認してきます。
114 :
長江壱條龍 :02/12/08 08:33
108は大嘘吐き 〉然も、朝鮮人を装って狼藉を働いたのです 史實を擧げよ
115 :
美麗島の名無桑 :02/12/08 23:24
皆さん、穏やかに 話せばわかる‥‥かも知れない で、朝鮮人軍属や人買商人は悪質だったみたいですね
116 :
美麗島の名無桑 :02/12/10 21:13
朝鮮総督府の統治だって、とても良かったですよ 客観的に見て、大成功!
117 :
美麗島の名無桑 :02/12/11 23:06
昔は朝鮮も親日だった
北白川能久王は2回も台湾征伐を明治政府から命令された。挙句の果て、台南 でマラリアで病死。なにしろ明治維新で東京台東上野の寛永寺で彰義隊を率い 大村益次郎と戦ったのが裏目にでたからだ。鹿港あたりで上陸し彰化あたり で市街戦を演じたらしい。そのころの台湾ときたひには化外の地。とんだ 悪役でした。戦死より戦病死のほうが多大でした。よくもまあコレラ チフス マラリアの蔓延ってる地に行く勇気がありますヨネ。といわれてました。 つまらないからサゲ
(^^)
↑ 最後に日本人として、戦った方々です。歴史の生き証人ですし、 戦った方々の黙祷をいたしたいです。
(^^)
(^^)
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
保守
130 :
美麗島の名無桑 :04/05/29 14:31
日本時代は台湾史上最良の日々!
131 :
美麗島の名無桑 :04/05/29 14:45
『日本人はとても素敵だった』楊 素秋著
本シリーズは、現在の誤った日本観、日本人観を正し、日本人が
戦後失ってしまった正しい価値観や歴史観を取り戻そうという趣旨
で企画されました。
シリーズ第一弾である本書は、日本統治時代の台湾に生まれ、
終戦まで日本人として生きた台湾人女性に、当時の様子を書き
綴って頂いたものです。この中で著者は、日本統治を懐かしみ、
日本がいかに公正な統治を行なったか、どんなに良い社会だっ
たかを語り、出来うることなら日本人に戻りたい、と述べています。
また、「日本人は何も悪いことはしていません、堂々と胸を張って
前に進みなさい!」とエールを送ってくれています。
http://www.sakuranohana.jp/book_suteki.html
132 :
美麗島の名無桑 :04/06/02 15:24
。 暴 ∧_∧ /〜〜〜/ 支 ○( ´∀`)/ ● / 膺 ヽ |つ〜〜〜/ 懲 | |(__) (__)(`ハ´⊂⌒__フ """"""""""""""""""""""
133 :
美麗島の名無桑 :04/06/07 11:02
台湾総督府礼賛
134 :
美麗島の名無桑 :04/06/13 22:09
無敵の第三航空隊、台南航空隊を知らんか! __.... ...___ (´ ` ' 、r i^, \ 、 ,r'"´`"'i, '{ ii, , -─- 、 \ _,, -r= ,==- 、 |i / ,|~ i, i } ', __,,,,,,,,,,,,............,,______///l''''T'''TT `i!`'┤、. ,-/. ,|__ i ', i',,´_ ':::::::::::::::::::::ヽ_,,`^,_/ 」 i! i!.i .i___i__`i 'yー- 、、....,,,,,____ ノ | | ,-'‐'''テv "´`):::::::::::::::',  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,,,,, ヽヽ ̄` " ' - .. !___.! ( :::::::ィ'´,、 ´::::::::::::=iニュ ,il||||||li i i `ゝ、 `┐;;;;;ノ .::::::::::::::::::::=iニュ _ ,,,, ... ... ,,,_. '|||||||||! .| | <´⌒`""'''ーr、.´ iト、'.....::;:;:;:;:;:;:;:::::;=rュ r' " ´ `"' 、 `'''''" _ノ_,ノ.、、- ` ' 、 \ |l `  ̄"""'i|lテ_,,.ノ ゝr、 `'.、──'''''"" 、. \ !| `´ `'' ;; `'.、 `"''ー- ´ ` ━=´、r 、 γ  ̄ ' 、 `'.、 `'' 、 ゝ、 ) `'.、 `'' 、 ` ー ´ `'.、 `'' 、 `r=、 `'' 、 `'.、  ̄ ̄`'' 、_ 〉
うちの亡くなったばあ様も台湾にいた。 大正時代にオートミール食べて自転車に乗ってたと言ってた。
136 :
美麗島の名無桑 :04/06/17 00:13
不潔極まる支那大陸の 中に丈夫、美少年 これは如何にと眺むれば 胸に日の丸、日章旗
137 :
すしぎらい :04/06/17 20:04
日本が台湾を占領してた時、日本のような汚い性教育のやり方してたのでしょうか? 日本から多くの教員が行ったと聞いておりますが。
>>137 日本の戦前と戦後とでは教育が違うだろう。日本の戦前教育について調べたら
このスレに戻ってきてください。調べ終わるまでレスしないで下さい。
139 :
すしぎらい :04/06/18 19:07
>>138 いやです。日本は戦前から汚い性教育のやり方をしてるのです。台湾や世界のように
共学になるのに、20年もかかると言われております。50年も支配されてもの悪影響を
受けなかった、台湾を尊敬して下さい。日本人の50歳の連中では死んでも性教育の
共学はできませんよ、しかもできない事実を認めないのも卑怯な現実です。
( ´,_ゝ`)プッ
141 :
美麗島の名無桑 :04/06/18 20:21
143 :
美麗島の名無桑 :04/06/24 13:36
共学は性の乱れを誘います
144 :
美麗島の名無桑 :04/07/15 15:29
宮城も茨城も別学
145 :
美麗島の名無桑 :04/07/18 06:02
最近呂秀蓮の発言で、先民「矮黒人」(わいこくじん)のことが台湾で話題になってます。 いまの原住民の賽夏族・泰雅族なども、元は侵略者であって、 それより前に矮黒人が台湾にいたんだそうです。 滅ぼされた矮黒人についての言い伝えは、台湾各地の原住民の民話に残ってるんだそうだ。 今でも矮黒人の慰霊祭を二年に一度行なってる部落もあるとか。 台湾ヤフーのニュースより
146 :
美麗島の名無桑 :04/07/24 10:26
先住民問題をうやむやにしやうとする陰謀
147 :
美麗島の名無桑 :04/07/28 15:35
こちらで語れ
148 :
美麗島の名無桑 :04/07/28 15:36
149 :
美麗島の名無桑 :04/07/29 00:00
台湾人の嫁の実家に行った時のこと。 祖父がオイラと日本語で話すのを楽しみにしたので色々話した。 そんな話の中で、祖父曰く「戦後、中国人が来てから台湾は悪くなった」と嘆いていたよ。 また、その隣にすむおばあちゃんが「何十年ぶりに日本語が話せる」とやってきて色々話したが、きれいな日本語で同様な事を言ってた。
150 :
美麗島の名無桑 :04/08/08 09:56
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>>139 |
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151 :
美麗島の名無桑 :04/08/09 18:04
よく聞く美談だね
152 :
美麗島の名無桑 :04/08/10 00:12
>>145 フィリピンとかにいるネグリートと似た人たちだったのかな?
153 :
美麗島の名無桑 :04/08/16 22:12
みんな忠良の臣民だった
154 :
美麗島の名無桑 :04/08/16 22:26
>>149 ちょっとネタっぽい話だね。それとも実家ってどこにあんの?
台北や高雄では、台湾人どうしが日本語で話すのに何回かでくわした。
友愛会(日本語で話す会)なんてのもあるし、なんで何十年も日本語を話さなかったのだろうか?
156 :
美麗島の名無桑 :04/08/17 00:53
そりゃ門外漢の思い込みだよ 日本語排斥政策で、一般に会話の機会は無かった
157 :
美麗島の名無桑 :04/08/17 11:12
>>154 台中ですが何か?
疑うのも結構だがこういう現実もある。
答えは、156さんの書いたとおり。
158 :
美麗島の名無桑 :04/08/17 19:21
159 :
美麗島の名無桑 :04/08/17 21:45
まあ、2ちゃんねらーは豚だということだけは、台湾の方には認識しておいてもらいたい。
>>156 ,
>>157 門外漢の漏れでも、国民党による日本語の排斥があったことや、149で書かれたような現実があるのは承知しているが、149で書かれたことは、あまりに典型的なぐあいに書かれていたので、少し眉につばをつけてみたんです。
さて、156さんは一般に会話の機会はなかったというけれど、1950年代や60年代でも、家庭内などごく限られた範囲では、日本語を使うことは、これまたよく見られたことでもあったようです。
たとえば、50年代後半に生まれた漏れの知人は、名前に「徳」の字がつくことから家では「ノリちゃん」と呼ばれ、両親のあいだでは、しばしば日本語が使われていたそうです。
このような家庭が多数派だとは漏れも思わないけれど、さほど少なくもなかったことは、何人もの知人から聞いたことや、いくつかの新聞雑誌の記事などによって明らかだと思います。
また、ほかにもさまざまに日本語にふれたり日本人と出会ったりする機会はさまざまに考えられると思います。
また、「隣にすむおばあちゃん」が何十年も日本語を話さなかったということは、現実なんだろうけど、きれいな日本語を維持していたのは、どのようにして可能だったのか、という疑問はわいてきます。
「おばあちゃん」は、日常生活では台湾語で考えていたはずですよね。
149さんの書いたことがウソだというよりも、どのようにして可能だったのか、という点についてご存知なら教えてください。
台北であったおじいちゃんは、流暢な日本語を使っていましたが、台湾人や日本人の友人と話すことで、日本語を維持していたと聞きました。
161 :
美麗島の名無桑 :04/08/18 12:02
歴史学者か言語学者にでもなるのか知らないが、 いちいちネット上で聞いてないで、自分の足で全島回って聞いて歩けば? 160は、若いでしょ? 金も時間も惜しんでは良い情報は得られない。 がんばれ。
俺の大家さん、日本語と台語しか話せないよ。 大体、今の70歳以上の人(本省人ね)はそういう人が多いらしい。 大家さん、台北帝国大学出身なんだけど、二等国民だから、 どんなにいい成績をとっても1番にはなれなかったらしい。 いつも二番だったけど、同級生の日本人には一目置かれていたといっていたなぁ。 今でも言っているよ、私は日本人だったって。 大家さんが望むから、いつも日本語で話するんだけど、 植民地時代の話聞くとなんか切なくてね。
質問ですが、日本統治時代の金銭は日本から持って来ていたのでしょうか? それとも台湾で製造していたのでしょうか? 教えてください。
日本統治時代の通貨です。すいません。
165 :
美麗島の名無桑 :04/08/20 11:45
>>160 民法でも日本のドラマとかやってるじゃん。
だからじゃないの?
確かに年配の人で北京語ダメで日本語と台湾語だけって人多いらしいね
166 :
美麗島の名無桑 :04/08/20 12:47
>>165 テレビで日本のドラマが放映されるようになったのは、1994年か95年ごろでしたが…。
167 :
taiwanboom :04/08/20 16:04
日本統治時代の通貨は一部紙幣は「台湾銀行券」だったと記憶しています。 兌換券はありません。 台湾から内地に帰えるとき、母から聞きました。 小学校の教科書も一部台湾総督府が編纂していました。 内地の小学校に転校したとき、教科書が違っていて苦労したことがあります。 小学校の先生には制服がありました。 日本海軍将校の服に似ていました。帽子には庇がありました。 背広など私服を着ている先生はほとんどいませんでした。
一部ということは日本人が使う通貨と台湾人が使う通貨が区別されてたということ ですか?
170 :
taiwanboom :04/08/21 13:49
日本統治時代に台湾では「人力車」がたくさん走っていました。 引っ張るのはすべて台湾人です。 日本人はこの職業に就くことを禁止されていたとか。 少年時代に内地に帰って、人力車を日本人が引いているのを奇異に感じました。 これに慣れるまで、乗るときは「すみません」と心の中でつぶやきました。 差別感覚でしょうね。 いまの台湾人と日本人の親密さをみると、ふと日本時代の台湾人と日本人の 関係に思いがいたります。 いまの台湾人は、日本時代の台湾人とは別の民族のようにみえます。 いまさらこのころのことをを蒸し返しても意味がないのかな、とも思います。 数年前、日本時代の台湾人の情況を、保私の経験を元に具体例をあげて 詳細にまとめたことがあります。 在台の日本人研究者(夫は台湾人)の依頼で作成したものですが、好意を もって受け入れられませんでした。 この私のレポートについて、彼女は現在まで一言も触れません。 現状とあまりにも、かけ離れていたからかもしれません。 日本時代の台湾をみるとき、社会制度などで総括的にみるのではなく 個々の台湾人の実例を明らかにすることが、いまの日台関係を 歴史的に正しく把握することになる、といいますが、現実はなかなか 難しいものです。 168さま 台湾銀行券は、使う人に対する区別ではありません。 硬貨と50銭紙幣は日本銀行券でした。 その上の1円、5円、10円、20円の紙幣は台湾銀行券だったと記憶しています。 100円券と200円券がどうだったかははっきりしません。この2つの高額紙幣は 日常活ではめったに御目にかかったことはありません。 なにしろ大学卒の初任給が70円の時代ですから。 それに小学校4年の記憶ですから。
171 :
美麗島の名無桑 :04/08/21 18:25
最近の台湾の親日感情は、 いくつかの民族からなる台湾を1つにまとめるためには、 「日本統治」を美化するのがいちばんよい、という理由もあると思う。 今の台湾政府も、それをよく理解しているはず。 まさに今、「国家」が形成される過程にあるわけだ。
172 :
美麗島の名無桑 :04/08/21 18:29
それに対して、韓国は、混血を忌み嫌う朝鮮民族だけによる国家であり、 日本を侵略者として位置づけると、どんな独裁体制も正当化できる。 だから、韓国の歴代政権は、反日感情をあおってきたし、 それは国内統治に限れば、一定の成功を収めてきたわけだ。
173 :
美麗島の名無桑 :04/08/21 21:52
台湾の発展に頑張った日本人の話をよく聞くが、 当時の台湾が日本の一部だった事実を忘れてはいけない。 当時の日本人の感覚からして見れば外国に投資すると言うより 国内に投資すると言う感覚だったのだろう。 当時の日本地図は台湾と朝鮮が日本と同じ色で塗られていたし。
174 :
美麗島の名無桑 :04/08/21 22:11
>>170 そのレポート見てみたいです。どこかホームページ上で公開されるご予定など
はないのでしょうか?
175 :
taiwanboom :04/08/22 12:31
174様 このレポートは私の少年時代の台湾での体験の記憶を9項目に分け、A49枚に まとめたものです。 日本人と台湾人との現状とあまりにもかけ離れているので、ここに書いては非難を 受けることを恐れています。 以下のような概略を述べるにとどめたいのです。 (0)なにかがおかしい…日本人ばっかり 小学校4年で多層社会の台湾から初めて内地に帰って、単一社会に接した ときのカルチャーショック。 このショックは初めは、町に出て「なにかがおかしい」といったていどの ものだった。 私の生活の原風景が「多層社会」だったことを認識するには若干の月日が かかった。 (1)台湾人をなんと呼んでいたか 「台湾人」ではなく「本島人」と呼んでいた。日本人は「内地人」。 「チャンコロ」は台湾人ではなく、蒋介石の中国人を指していた。 (2)台湾人と日本人の接触 私の体験では、意外に少なかった。 花蓮港で日支事変の南京陥落を台湾人とともに町をあげて祝った。 私の目の前で兵隊が台湾の老人を激しく殴り、私が母を呼んで 止めたことがある。老人は血を流していて、母が薬をつけた。 母によると、この兵隊は台湾人を殴ることがあるそうだ。 (3)学校生活 日本人学校の台湾人は上流のもので、台湾人地区の台湾人とは別の「人種」 だった。 私が通学するとき通る台湾人地区の台湾人とは別の「人種」だった。 (4)創始改名 教室で授業の前に先生が唐突に、台湾人生徒に強引に日本名をつけた。 (5)人力車 日本人はこの職業には就業禁止だった? ただ乗りをする日本人がいた。 (6)メイド 日本語が上手な台湾人のメイドを自慢する。 洗濯専門の女性が纏足で通っていた。 (7)当時の台南の街 (8)カルチャーショック
是非拝見いたしたく存じます
>>175 とても正確な話だね。
造りではないような気がする。
台湾人はあくまで植民地住民、
協力的かつ、教養の高い台湾人(李登輝はじめ、
今の日本精神系の人々はほとんどこの層、地主階級などが多かった)
がようやく2等国民扱い。
残念ながらこれが真実。
でも差別がなければ、植民地統治なんて絶対出来ないがね。
178 :
美麗島の名無桑 :04/08/22 15:28
その在台の日本人研究者は日本統治時代を美化したいという観点から、 175氏のレポートを受けいれられなかったのだろうか?
179 :
美麗島の名無桑 :04/08/22 16:25
台湾で日本の高校野球(甲子園)がかなり人気らしいけど現地在住の人詳細を!戦前は台湾の高校が準優勝してるよね。
180 :
美麗島の名無桑 :04/08/22 18:41
日本のもとでは、台湾のすべての民族は平等。 国民党のもとでは、外省人が支配階級、少数民族は蔑視対象。
>>180 そういうこと言っていると、
教養レベルが知れるぞ・・・・
大陸から、相当に流入があったんでしょ?
184 :
美麗島の名無桑 :04/08/23 17:22
>>183 無理じゃない。
「日本精神」本を喜ぶような人たちは、
この手の本を左翼の捏造だと思っているから。
新書のたぐいをすべて読み込むだけでも
台湾=親日(レベルにもよるけど、概して対日感情は悪くないと
思うけどね)
というのが、浅薄な見方だとわかるけど。
185 :
美麗島の名無桑 :04/08/23 18:46
>>184 台湾独立建国連盟の黄昭堂さんも「差別はありましたよ、イヤでしたね」と
言っているしな。日本軍の中の半島出身と台湾出身の出世の仕方を見れば
むしろ台湾のほうがより差別されていたと思う。
186 :
美麗島の名無桑 :04/08/23 19:01
★預金封鎖のうわさ絶えず 11月の新札発行 財政悪化、終戦直後と酷似 政府・日銀否定に躍起 日銀が十一月一日に発行する新札(一万円、五千円、千円)をめぐり、「発行を機に現在の 紙幣が使えなくなる」といったうわさが一部でくすぶり続け、政府・日銀は「ありえない話」と 打ち消しに躍起になっている。うわさの背景には、巨額の借金を抱える国の財政悪化があるようだ。 「新札が出たら、古いお札は使えなくなるのか」「預金封鎖が行われるというのは本当か」。 日銀本店への問い合わせは、一日二十件にも上る。日銀も放っておけなくなり、福井俊彦総裁は 先の会見で「新券発行後も現在の銀行券は引き続き完全に有効だ」と完全否定。誤解を解くため PR冊子も百万部印刷し、本支店で配布している。 歴史をひもとくと、一九四六年に預金封鎖が実際に行われた。終戦直後の悪性インフレを 退治するため、政府は新円切り替えを行って、旧紙幣を強制的に金融機関に預金させ封鎖。 新紙幣は生活に必要な最低限の額しか払い出されず、資産家には財産税も課された。 高齢者の中には、当時の苦い経験が頭をよぎる人もおり、昨年来、新札発行に伴う預金封鎖を 警告する一部の書籍がベストセラーだ。国、地方で七百兆円以上の借金を抱える財政危機は終戦 直後と似ているとしたうえで、封鎖した預金に財産税などをかけて事実上、国民の資産を没収、 借金返済に充てるとの筋書きだ。 これに対し、政府・日銀をはじめ、識者の多くは「荒唐無稽な話」(第一生命経済研究所の 熊野英生主席エコノミスト)と口をそろえる。 ただ、家庭に眠っている「タンス預金」(全国で二十三兆円)の一部が国債にシフトする兆候も 出始めており、熊野氏は「預金封鎖を信じる人たちの行動が今後、不動産、金などの市場に飛び火 する可能性はある」と指摘している。
187 :
美麗島の名無桑 :04/08/23 20:47
当時の在台日本人の意識は、日本に進駐してきた連合国将兵の意識に近い。 絶対に脅かされない特権的地位を与えると、虎の威を借って威張り散らすくだらない 人間が必ず出てくる。これはどんな社会でも避けられないことで、 今でも在日米軍基地で働くと上の話にあった台湾人車夫のような境遇が味わえるよ。 「権力は腐敗する 絶対的権力は絶対に腐敗する」という格言は正しいと思うよ。
188 :
美麗島の名無桑 :04/08/23 20:55
「国民党統治より日本の統治の方が遙かにマシだった」 と 「日本の統治は素晴らしかった」 との間には、かなりの距離があるわけだが。
>>183 でも、著者が田村志津江だから、読む気になれん。
190 :
美麗島の名無桑 :04/08/24 16:56
日本統治時代の台湾を題材にした小説ってあるのでしょうか?
191 :
美麗島の名無桑 :04/08/24 17:21
>>183 >>18 4
実業家の蔡焜燦氏(よしりんの台湾論に出ている人)が書いた本
「台湾人と日本精神」の中で「当時の台湾は差別はあったが日本の教育の
おかげで現代の台湾発展の基礎となった。」と書いてある。
また、「航空整備学校奈良教育隊に入校したが差別は無く、上官は温かく接してくれた。
朝鮮人の間では北と南朝鮮の中が悪くしばしばいささかを起こした。」と書いてある。
この本の最後の章では、現代の日本人に胸を張りなさいと書かれている。
日本の統治時代を批判している左翼どもにいろいろ語る資格等無い。
>>191 あの連中の著書は、ある程度嫌台のフィルターを通したほうがいいと思うが
193 :
taiwanboom :04/08/24 18:12
私は台湾に10年間住んで、昭和15年に小学校4年で内地に帰りました。 転校して10日ほどして先生が、国語の時間を始めるときに、その時間に 教える箇所を私に朗読させることにしました。 私としては、その分の予習を必ずしなければならないので、いやでいやで たまりませんでした。 「なぜ先生はボクだけに読ませるのか」と不思議でした。 母も「転校してすぐから読ませるなんて、他にも同級生はいるのにね。でも自分の 勉強にもなるんだから」というだけです。 こんなこといつまで続くんだろう、と思っていたら3か月ほどで取りやめとなり、 ホッとしたが、ちょっぴり物足りなくも感じました。 20年前に戦後初めて台湾に行きました。 台南市の私が住んでいた官舎で、60歳ほどの女性に会いました。 やせて上品な人で、流暢な日本語を話します。 その日本語の綺麗なこと、方言のアクセントもなく東京弁でもなく、聞いていて 「これぞ日本語!」という感銘を受けました。 声が若々しく綺麗だったことも、助けになったのでしょう。 ひの女性は「久しぶりに日本語を話すの。懐かしいね」と喜び、以来台湾に行く たびに会って日本語を話しました。 というより、彼女の日本語を聞くことを楽しんだといった方がよいでしょう。 彼女は台南の公学校(台湾人の小学校)をトップの成績で卒義して、日本人の 小学校の給仕として勤めました。いつも日本語だけを話していました。 このことは彼女の弟から聞きました。 台湾の日本語が「綺麗な日本語」であったことは間違いがありません。 彼女だけが綺麗な日本語を話していたとは考えられません。 彼女に日本語を教えた先生も綺麗な日本語を話していたはずです。 長い期間、10年20年も日本語を話さないと、綺麗さが失われヘンな アクセントになってしまうのです。 言葉は日常使って常に「修正維持」をするのです。これをまったく途絶するとヘンな 言葉になってしまうのです。 それもあまりひどくないときは、話しているうちに記憶を呼び起こし「自己修正」を して、かなり回復することが出来ます。 台湾の老人と日本語で話していて、初めはおかしな感じがしますが、長いこと話して いると、かなり「回復」することがあります。 彼女のように「久しぶり」に日本語を話しても、完全な日本語を話す人はまれです。 彼女の日本語を聞いているうち、台湾時代には私自身もこのような綺麗な日本語を 話していたのではなかろうか、ということに気がつきました。 そこで、国語の時間に先生が私に朗読をさせたナゾが解けたのです。 先生が私の「綺麗な日本語」を聞いて、朗読をさせることにしたのでしょう。 この朗読が3カ月ほどで取りやめになったのは、私が「方言」を話すようになり、 アクセントが「綺麗」でなくなったからでしょう。 子供の環境順応力はたいしたもので、方言の言葉を覚えるだけでなく、自然に アクセントを身に付けるのです。 3カ月で私にこの順応現象が起こったため、もはや「綺麗な日本語」が期待でき なくなったことで「お役御免」となったのでしょう。
194 :
taiwanboom :04/08/24 18:14
私は台湾に10年間住んで、昭和15年に小学校4年で内地に帰りました。 転校して10日ほどして先生が、国語の時間を始めるときに、その時間に 教える箇所を私に朗読させることにしました。 私としては、その分の予習を必ずしなければならないので、いやでいやで たまりませんでした。 「なぜ先生はボクだけに読ませるのか」と不思議でした。 母も「転校してすぐから読ませるなんて、他にも同級生はいるのにね。でも自分の 勉強にもなるんだから」というだけです。 こんなこといつまで続くんだろう、と思っていたら3か月ほどで取りやめとなり、 ホッとしたが、ちょっぴり物足りなくも感じました。 20年前に戦後初めて台湾に行きました。 台南市の私が住んでいた官舎で、60歳ほどの女性に会いました。 やせて上品な人で、流暢な日本語を話します。 その日本語の綺麗なこと、方言のアクセントもなく東京弁でもなく、聞いていて 「これぞ日本語!」という感銘を受けました。 声が若々しく綺麗だったことも、助けになったのでしょう。 ひの女性は「久しぶりに日本語を話すの。懐かしいね」と喜び、以来台湾に行く たびに会って日本語を話しました。 というより、彼女の日本語を聞くことを楽しんだといった方がよいでしょう。 彼女は台南の公学校(台湾人の小学校)をトップの成績で卒義して、日本人の 小学校の給仕として勤めました。いつも日本語だけを話していました。 このことは彼女の弟から聞きました。 台湾の日本語が「綺麗な日本語」であったことは間違いがありません。 彼女だけが綺麗な日本語を話していたとは考えられません。 彼女に日本語を教えた先生も綺麗な日本語を話していたはずです。 長い期間、10年20年も日本語を話さないと、綺麗さが失われヘンな アクセントになってしまうのです。 言葉は日常使って常に「修正維持」をするのです。これをまったく途絶するとヘンな 言葉になってしまうのです。 それもあまりひどくないときは、話しているうちに記憶を呼び起こし「自己修正」を して、かなり回復することが出来ます。 台湾の老人と日本語で話していて、初めはおかしな感じがしますが、長いこと話して いると、かなり「回復」することがあります。 彼女のように「久しぶり」に日本語を話しても、完全な日本語を話す人はまれです。 彼女の日本語を聞いているうち、台湾時代には私自身もこのような綺麗な日本語を 話していたのではなかろうか、ということに気がつきました。 そこで、国語の時間に先生が私に朗読をさせたナゾが解けたのです。 先生が私の「綺麗な日本語」を聞いて、朗読をさせることにしたのでしょう。 この朗読が3カ月ほどで取りやめになったのは、私が「方言」を話すようになり、 アクセントが「綺麗」でなくなったからでしょう。 子供の環境順応力はたいしたもので、方言の言葉を覚えるだけでなく、自然に アクセントを身に付けるのです。 3カ月で私にこの順応現象が起こったため、もはや「綺麗な日本語」が期待でき なくなったことで「お役御免」となったのでしょう。
195 :
美麗島の名無桑 :04/08/24 21:29
>>191 お前、月刊ムーの記事を信じるタイプだろ。
196 :
美麗島の名無桑 :04/08/24 22:14
>195 191だけど月刊ムーっていう本なんか読んだ事ねえよ。 そんな本興味ねえよ。
197 :
美麗島の名無桑 :04/08/24 22:17
>>195 191だけど月刊ムーっていう本なんか読んだ事ねえよ。 そんな本なんか興味ねえ。
>>196 >>197 半角小文字で「>>数字」だよ。
taiwanboomさんは昭和5年生まれなのかな?ご自身のホームページとか作ったら
どうでしょうか?私も最近戦前の台北に興味を持っているので、大変興味があ
ります。
199 :
taiwanboom :04/08/25 11:20
198様 ホームページをつくらないかとは、よく勧められますが、いまいち踏ん切りが つきません。 日本時代の台湾経験といっても、私は台南、花蓮、台東の3つの都市に住んだ だけですから…。 それに、小学校4年までの幼少年時代の経験しかありません。 戦後は昭和58年から現在まで40回台湾に行っていますが、一回が長くても 5泊6日なので、このスレに登場する「台湾在住」の方や「台湾人」には、 情報量が及びません。 こんなわけで迷っているのです。 実はここで私は「台湾人」と書きましたが、これには抵抗感が付きまとうのです。 「台湾人」とぶちきりに書くより「台湾の人」と書くほうが、抵抗感がありません。 [台湾人]には差別感が潜在しているように感じるのです。 これに「人」が加わると、差別感がぐっと薄らぐのです。 差別感は優越感かもしれません。 みなさんはいかがですか。
200 :
美麗島の名無桑 :04/08/25 12:26
台湾人のいまの世代は明らかに大陸人寄りの性癖を持っていますね。 一言でいうと、「奥ゆかしさがなくて自分勝手」 かな。 当時の回顧からすると、こんな性癖は以前は無かったように見受けられます。
台北の菊元デパートはどんなデパートだったか知ってる方はいますか? 回想録希望。
202 :
美麗島の名無桑 :04/08/25 17:56
>>191 小林を「よしりん」と呼んでいるところを見ると
コヴァか
・・・・・・・・・・・・pu
>>199 台湾人、台湾の人とどちらも使うけど、彼らが自分達で台湾人と名乗っている
のだから、台湾人と言ってあげたほうがいいと思う。それに差別意識は全くな
い。大陸人や韓国人にはあるけどね。
204 :
美麗島の名無桑 :04/08/25 21:46
ビビアン・スーは台湾のおばあちゃん(彼女の祖母)と 話す時は日本語で話す、と言ってたのをここを読んでふと思い出した。 ビビアンは台湾語が話せない。祖母は北京語が話せない。 で、二人の間の共通語は日本語なんだそうな。 最近の台湾の若者は台湾語話せない人が多いんだってね。
ビビアンのおばあちゃんは原住民じゃなかったか?それで、中国語も 台湾語もわからない。ビビアンは台湾語できると思うよ。
206 :
美麗島の名無桑 :04/08/26 01:05
17年くらい前に初めて台湾に行った時、 現地ガイドのおじさんに「台湾の人は英語でTaiwanese?」と聞いたら、 すごい剣幕になって「we are all Chinese」と怒られたのですが・・・ これって「台湾人」じゃなくて「中国人」と言いたかったのでしょうか? それとも「中華民国人」という感じだったのでしょうか?
207 :
美麗島の名無桑 :04/08/26 08:18
李登輝以前だからじゃないの?
208 :
taiwanboom :04/08/26 11:18
15年ほど前、高雄から台東のバスに乗ったとき、原住民の青年と隣り合わせ になり、いろいろと日本のことを訊かれました。 とくに三島由紀夫の「自決」に興味を示していました。 この青年はなかなかの日本語を話すので、どこで日本語を勉強したのか、 と訊いたら「特別に勉強したことはないが、祖父母がいつも日本語で話すので いつの間にか話すようになった」ということです。 蒋介石が台湾に来て北京語を強制したが、祖父母は「いまさら苦労して北京語 を憶えることはない」と、日本語のまま押し通してきたのです。 日本が台湾を倭領有することになったとき、種族ごとに言葉が異なる「高砂族」 の共通語として日本語を普及させた結果でしょう。 でも最近はそんな原住民が少なくなったと聞きます。
209 :
美麗島の名無桑 :04/08/26 13:10
惜しまれることです
210 :
美麗島の名無桑 :04/08/27 15:57
taiwanboomさんに質問。 台湾には薩摩揚げ(てんぷら)がありますが、戦前の日本人は鹿児島出身の人が 多いのでしょうか?また、鹿児島以外にはどこの出身の人が多いのでしょうか? ご存知でしたら教えてください。また、淡水の阿給は元は日本のどこか郷土料理 なのでしょうか?
211 :
taiwanboom :04/08/27 15:58
台湾の経済発展の歴史的要因について、1988年に文部省調査団が台湾の企業と 個人を対象に調査した結果は次の通りでした。 @長期にわたる基礎教育の普及……………………47.4% A日本植民地統治後期の工業化基盤………………22.6% B日本植民地統治下の近代農業の発展……………12.6% C早い時期からの近代的社会制度の導入…………12.1% D清朝末期以来の商業的農業の発展基盤………… 2.6% 上位の4項目は日本時代に形成されたものです。 日本が設備、建物などのインフラだけでなく、教育や社会制度などのソフトの面でも 多くのものを残し、これが役に立っていることが分かります。 インフラのハード面では次のようなデータがあります。 台湾省政府が終戦による台湾接収の翌年1946年に発表した、日本の接収財産は 次のようなものです。(土地の評価額は除く) 公的機関……………29億3850万円 企業財産……………71億6360万円 個人財産…………… 8億8880万円 合 計…………109億9090万円 終戦前年1944年の日本の国家予算は198億7195万円です。 この予算は戦時の人口1億人に対する予算ですが、台湾に残した日本資産は 人口600万人に対するものです。 日本が台湾に残した資産がいかに膨大なものであるか…。 これらを基盤にして台湾は戦後の発展を遂げたのです。 開発途上国のような新興国家に比べて、台湾の戦後の発展いかにが有利だったか 推察できるでしよう。 このことをどのように受け止めるか、人によって分かれるところでしょう。 李登輝さんの時代の1998年に改定された教科書「認識台湾・歴史編」のような 見方もあります。 私としては、台湾の植民地時代に対する日本の功罪のなかの「功」について、 日本人が強調することには抵抗を感じます。
212 :
taiwanboom :04/08/28 13:07
210様 私の記憶では、台湾では九州からの人が多かったようでした。 なかでも福岡、熊本、鹿児島の人が多く、ついで大分、宮崎、佐賀といった順でしょうか。 日本時代の台湾駐屯軍も同様でした。とくに、南部を管轄していた第二連隊は九州人が 多かったようです。 これは戦後の台湾軍の戦友会のメンバーからも推察できます。 付け加えますが、台湾軍は中国大陸、フィリピン、インドネシアを転戦し、終戦を 悲惨な内戦の末に独立した「東チモール」で迎えました。 薩摩揚げ(てんぷら)は台湾ではとくに「薩摩揚げ」にこだわってはいませんでした。 「てんぷら」といって、どこにでもありました。 一枚が2銭くらいだったと記憶しています。 いまでも台湾のあちこちにありますが、とくに基隆の屋台の「てんぷら」が有名です。 巻き寿司やいなり寿司と同様に、テンプラも日本の食べ物が戦後残ったものです。 ところで「薩摩揚げ」のことですが、私の母が薩摩出身なので戦時中に母の実家から 送ってきていました。鹿児島に帰って食べたこともあります。 そのときの「薩摩揚げ」は、現在のものとはかなり異なっていました。 「薩摩揚げ」の代表は、中に人参が入ったものです。 ナマの人参は硬く、煮るとやわらかくなり、どちらもそのままではテンプラの中に 入れるわけにはいきません。 当時の人参はナマではありますが、ほどほどにやわらかくて回りのコロモに なじんでいます。その調和はいま思うとなかなか微妙なものでした。 「薩摩揚げ」のノーハウでしょうか。 コロモの部分の魚のすり身はいまのように白くてきめ細かではありません。 黒っぽくてきめが粗く、形も手作りのため不ぞろいでした。 いまの大量生産のための機械作りで、形がそろっているものとは別のものの ようです。 私は鹿児島の人に会うたびに、昔の「薩摩揚げ」のことを話しますが、 知らない人がほとんどです。 地方の名物が「全国的」になって、大量生産されると「元祖」とは別のもの のようになってしまう例はいくつもあります。 よいことか、悪いことか、私には分かりません。
213 :
taiwanboom :04/08/28 13:58
いまの台湾では料理以外にヘビに出くわすことはあまりありませんが、 私がいたころはヘビは「日常的」でした。 台湾コブラ、台湾ハブ、百歩蛇、アマガサヘビなどですが、百歩蛇に 出くわしたことはありません。 このヘビは噛まれると百歩も歩かないうちに死んでしまう、といわれる 猛毒のヘビです。 アマガサヘビはかなりの距離を飛び掛ってくるとかいわれていました。 台南の私の家の周りは草が生えて、遊んでいてよくヘビに出くわした ものです。 そのときは棒切れで遠くからへっぴり腰になって頭を叩いたものです。 コブラとハブがほとんどです。 ある日自宅の縁に腰掛けていたら、床下の通風孔からハブが頭を出しました。 そっと立ち上がって見ていたら、ズルズルと床の下から出てきました。 「お母さんヘビがいるよ」と叫んで、棒を持ってきて叩きました。 コブラは止まって頭(鎌首)を15cmほど持ち上げ、頭から首の部分を シャモジのように平たく膨らませ「グーッ、グーッ」と唸り声をあげて 私をにらみつけるのです。…そう思った? そこで膨れた頭の部分を横殴りに叩いたら「シャモジ」を元に戻して鎌首を 下ろして庭の方へ去っていきました。 母が「危ないから追いなさんな」というので、縁から降りて追うことは しませんでした。 花蓮港にいたとき、夜中に母が私をそっと起こしました。 母が指差すところに、ハブがのらりのらりと這いまわっていました。 父は大陸に出征して、母と私と姉の3人で寝ていたときのことです。 母が姉を起こそうとしたが、ハブが姉のそばに近寄ってきたので、 そのままにしました。 姉のそばをハブが這いまわるのを、私は「姉ちゃん、動かないで」と 祈りながら見つめていました。それ以外になにもできません。 私が小学校1年、姉が2年のときのことです。 このときのハブの結末…。 ハブが姉のそばを離れたとき、私が縁側のガラス戸を開けて、朱塗りの 衣紋掛けの棒でハブを外に追い出しました。 母は姉を抱きしめていましたが、このことを姉はまったく覚えていないのです。 まだまだヘビとの遭遇体験はありますが、長くなるのでここで止めます。 なお、こんなにヘビによく出会うのに、遊びに行く私に母が 「ヘビに気をつけなさい」と注意した記憶はありません。 そのかわり、原住民がヘビに噛まれて、自分の蕃刀で傷の部分を切り 取ったとか、日本人が物置で木炭を取ろうとして、かごの中にいたコブラに 噛まれたとかいった話はよく聞かされました。
214 :
美麗島の名無桑 :04/08/28 17:04
↑ 台南に住んでいたということですが、戦前台南にあった「日本旅館」について ご存知ありませんか?
215 :
taiwanboom :04/08/29 12:49
214 様 台南で私が知っている日本旅館は1軒だけです。 台南駅前の成功路の入り口にありました。駅を背にして左の角のあたりです。 現在は「台南大飯店」が建っています。 この旅館は台南で最高の旅館で、台南に来る「エライヒト」が泊まっていました。 大きな旅館でしたが、名前は思い出しません。 その隣に、これも大きなすし屋の「すずめ寿司?」がありました。
216 :
美麗島の名無桑 :04/08/29 13:33
>>206 仕事で台湾人と英語で話す機会があるが、
彼らはTaiwaneseと言ってる。
taiwanboom 様。 小生は、戦前台南にて銭湯と小料理屋を営み終戦を迎えることなく 日本へ帰国し、一切台湾時代について語ることなくこの世を去った 祖父母の足跡を尋ねんと、訪台を重ねている若輩者であります。 親類には花園小学校(公学校?)に奉職していたものもいるようです。 祖父は生前、よく卵とトマトの炒め物を作り小生に食べさせてくれました。 「年寄りにしては珍しい料理を作ってたな・・・」と思っておりましたが、 台湾では昔からの普通の家庭料理と知り、「確かに祖父は台湾で生活していたんだ・・」 と最近になって納得したりしております。 貴殿のご記憶に台南の銭湯についての情報はございますか。 花園小学校(公学校?)についてお聞きになったことはございますか。 小生の浅薄な知識では、暗中模索の訪台を重ねている現状で まことに情けない限りです。 もし何かご存知の点ありましたら、ご教授いただければ幸いです。 私的な質問をこのような板に書くことを皆様にお詫び申し上げます。
218 :
taiwanboom :04/08/30 11:53
淡水暮色 様 私は昭和10年代に台南の花園小学校に通っていました。 この学校は正式には「花園尋常高等小学校」といい、尋常科と高等科がありました。 当時は義務教育は小学校6年間となっていましたが、中等学校に進学しないものは 「高等科」に2年間に行かなければなりませんでした。 入学試験があるので、中等学校に進学するものはクラスの10%ほどでした。 私は昭和11年に花園小学校付属幼稚園にはいり、半年で台東に移り台東小学校で 新一年生となり、10日後に花蓮港小学校に転校、13年に台南の花園小学校に転校 しました。「里帰り」のようなもので、幼稚園時代の友達がいました。 花園小学校は15年の9月までで、内地に帰りました。太平洋戦争開始の前年です。 花園小学校は日本人の小学校で、台湾人は裕福な家庭の子供が少しばかりいました。 私のクラスには4人の台湾人がいました。 会社のオーナーやお医者さんの子供です。勉強もよく出来ました。 日常では同級生として、差別感などまったくありませんでしたが… ある朝、授業が始まる前に担任の先生が「このなかで今朝ニンニクを食べてきたもの がいる。だめじゃないか」と叱ったことがあります。 このとき私は思わず台湾人の同級生の方を見たことを思い出します。 いま振り返ると、こんなときに「差別感」が出たのでしょう。 位置は「台南公園」と道路を挟んでいます。 現在は「台南市立公園国民小学」となっています。 当時は2階建て赤レンガの堂々たる校舎です。 現在も本館が残って現用されています。私が台南を去るときに学んでいた教室は、 いまも教室として使われています。 校舎は立派なものだったが、なぜか講堂は木造、スレートぶきという「バラック」に 近いものでした。 ことし訪問したときは、講堂は取り壊されてテニスコートになっていました。 校門を入って右にあった、太平洋戦争の空襲で破壊された校舎が、日本時代のものと 同じデザインで新築されていました。しかも3階建てになっていました。 教室の両側に廊下がついています。校舎内でも靴をはいたまま授業を受けました。 内地に帰って木造の校舎で靴を脱がねばならないのに驚きました。 本館を中央にして高等科の校舎と講堂で「コの字型」になって校庭を囲んでいました。 校庭の向こうに先生の官舎がずらりと並んでいました。この官舎があったところには 今ではマンションが建っています。 男子用の便所は仕切りがありました。内地の小学校にはトイレに仕切りがなくて、 初めの内は抵抗がありましたが、すぐになれました。 現在の「公園小学」は昭和57年に「世界少年棒球(野球)大会」で優勝しました。
翁、素晴らしい勉強になる書き込みをいつもありがとうございます。 また色々ご教唆くださいませ。
taiwanboom 様。 花園尋常高等小学校の話。ありがとうございます。 実は小生は今、非常に感慨に浸っているのです。 >現在は「台南市立公園国民小学」となっています。 2年前に初めて一人台南を訪れ、祖父母がかつて生活していた土地に降り立ち 祖父母の足跡の一端でも解かれば・・と台南の市内を歩き回りました。 もとより、日本時代の名残を一介の日本人が台湾人に直接聞くという勇気も 持ち合わせず、とにかく歩き回ったことだけ覚えております。 当時宿泊したのが「首相飯店」でした。 ホテルの近くを散策し、見つけたレンガ造りの小学校、 「祖父母、親類、こんな小学校に通ってたかな・・」としばし感慨にふけったものです。 そう、それが「台南市立公園国民小学」なのです。・・・ 何のめぐり合わせでしょうか・・小生はほかならぬ「花園小学校」を 訪れていたのですね。・・・・ あまりに偶然過ぎて自分でも驚いております・・偶然過ぎて・・・・ 親類は女性教師として花園小学校に奉職し、薙刀等も教えていたと聞いております。 叔父は台南時代の海軍とのふれあいから、内地に帰り海軍経理学校に進んだと聞いております。 台湾時代を語ることなくこの世を去った祖父母ですが、 いろんな思い出が詰まっていたであろう台湾について、これからも勉強したいと思います。 すばらしい貴重なお話ありがとうございました。 小生これにて「名無桑」に戻ります。 貴殿のご多幸を心よりお祈りいたします。いつまでもお元気で。 本当にありがとうございました。
221 :
taiwanboom :04/08/31 11:52
淡水暮色 様 台南の「首相大飯店」に泊まられたそうですが、私も泊まったことがあります。 このホテルの場所は私がいた頃は原っぱで、のちに陸軍経理部の建物(木造)が できました。 このホテルの裏に私が台湾を去る直前に住んでいた家があったのです。 「原っぱ」は草と砂で起伏があり、兵隊ゴッコに最適でした。よく遊んだものです。 それにしても、首相大飯店に泊まられたとは運がよかったんですね。 ホテルの前の道を少し歩くと「花園小学校」かあるのですから。 この道路は現在は「公園路」といっています。 昔は鳳凰木の並木がずらりと並んでトンネルのようになっていました。 季節になるとこの木に深紅の花が咲き、長さ30cmほどの太刀豆のお化けのような 実がなります。 この実が枯れて硬くなり、チャンバラゴッコの剣にもってこいです。 この硬い実が道路に落ち、それを自動車が轢いたとき「パリパリ」と乾いた音を たてます。当時は車が少ないので、この音はめったに聞かれません。 花園小学校の前の道路も同じです。 小学校の公園の角に20台ほどの人力車が、客待ちのためたむろしていました。 面白いので下校のときこれに乗って帰って、母から「子供は勝手に乗っては いけない」と叱られたものです。 日本時代の名残を訪ねて一人で台南市内を歩き回ったということですが、昭和58年 戦後初めて台南にいったときも同じでした。私も一人で歩き回りました。 以前住んでいたとはいっても、記憶が薄らいでいるうえに、町の様子があまりにも 変わってしまっていたから、興奮と戸惑いの探訪でした。 一昨年淡水暮色さんと同じように、両親が住んでいた台南を訪ねる方から、BBSを 通じて情報提供をたのまれ、高雄の「金典大酒店」でお会いしたことがあります。 泊まるホテルが同じだったので、時間と場所を打ち合わせて会いました。 「淡水暮色」を捨てるということですが、淡水の日没はすばらしいです。
ゲッツ!
223 :
美麗島の名無桑 :04/09/01 20:21
現在の台北は雑多、混沌の坩堝だが、もし日本の支配がいまだに続いていたら 内地の地方都市と大して変わらなくなっていたのかな?
224 :
美麗島の名無桑 :04/09/01 23:08
戦後の中国人統治の日数は、日本統治より長いから。
226 :
美麗島の名無桑 :04/09/02 14:34
taiwanboomさん歓迎!
227 :
美麗島の名無桑 :04/09/02 16:14
小生も歓迎致します。
taiwanboomさん 私は20代の台湾人留学生ですが、 ここでお話を聞けるようになって本当に嬉しいと思います。 家の曾祖父は漢医で、 当時三峡で日本公医の先生の一人といい友たちになったらしいです。 (公医が直れない腎臓?の病気は何故か草薬で治ったから) でも曾祖父なくなった時は祖父はまだ小さいので、 それからも色々あるから、 今はこの話と公医の先生の苗字は「野部」ということしか分かりません。 もしかして誰がどこでそのときの公医さんの資料を調べることがわかったら 是非教えてください。
229 :
美麗島の名無桑 :04/09/02 20:32
矢部ではないですか?
230 :
美麗島の名無桑 :04/09/02 20:40
探偵ナイトスクープにお願いするしかないだろ。
231 :
黄昏的故郷 :04/09/02 21:49
taiwanboom様 貴重なお話いつもありがとうございます。 唐突で誠に恐縮ではありますが、常々確認したいと思っていたことがあるのです。 訪台を重ねること十数回になります。 ほとんどが一人旅なのですが、一番最初だけツアーで参りました。 その時の年配のガイドさんが、ふと漏らした言葉が気になっているのです。 私、日本にも台湾人つれてガイドでよくいくんだヨ。そう田舎もね・・ ○○へ行った時ネ、懐かしいものあってネ、一緒行った台湾のトシヨリみんなバスから 降りてネ、「懐かしい、懐かしい」ってネ・・並んで写真撮ったんだヨ・・・ 懐かしい物。何だと思われますか?私も意外な物だったのでびっくりしました。 「ポスト」なんです。昔よくあった(今も田舎ではありますね)赤い、丸いポストです。 もしそうなら、戦前日本のポストが、台湾の街角に(朝鮮にもあったってことかな) 立ってたってことですよね。・・当時は日本ですから当然といえば当然なんでしょうが・・ 何か、当たり前のことが新鮮な驚きでいまだに覚えています。 taiwanboom様、教えていただきたいのは当時のポストの御記憶についてなんです。 あのガイドさんの言葉が本当なら、何かすごいことのような気がするのです。 日本と台湾が日常レベルで確かに同時進行してたって言うか・・確かに日常を共有してたって言うか・・ 御光臨されてから一度お聞きしたいと思っておりました。 珍妙な質問で誠に恐縮ですが、御記憶にあればご教授いただきたいと思います。 よろしくお願い申し上げます。
233 :
美麗島の名無桑 :04/09/03 00:31
日本時代は台湾の栄光
>>229 日本にいるから、父が私の代わりに祖父に聞きに行ったとき、
祖父は「野部」公医と漢字を書いて教えてくれた。
235 :
taiwanboom :04/09/03 12:05
黄昏的故郷 様 「赤い郵便ポスト」は、日本時代の台湾にもありました。 直径50cmほどで高さ1.5mほどの円筒形でした。 てっぺんに帽子のような蓋(キャップ)がついていました。 色は鮮明な赤で、鋳鉄製だったと思います。鉄の鋳物なのです。鋳鋼だったかも…。 叩いても石を叩くようでした。これを破壊するのは大仕事でしょう。 大切な郵便物を守るため国家の責任として作ったものですから。 土台はコンクリートで、そのなかにしっかりと取り付けてありました。 当時はブルなどの建設機械がなかったので、ポストに「挑戦」することは まず不可能だったことでしょう。 ポストの中央より少し下がったところに、郵便物を取り出すための 正方形の穴があいて、カギのついた扉がついています。 この扉は鋼板で作ってあり、鋳鉄製の頑丈な本体に比べて少し弱いような 感じがします。扉を押すと少し動くのです。 台湾のどこで見たかといわれても、ポストは日常的な風景の中に溶け込んでいるので、 答えることは出来ません。 記憶に残っているのは、花蓮港の郵便局(本局)の入り口にあったポストです。 現在も郵便局(郵局)です。 この郵便局の入り口で殺人事件がありました。 昭和12年で私は小学校1年でした。 私の家が近くだったので、走って見に行きました。 人だかりがしてあまりよく見えなかったが、なぜか赤いポストの印象が 残っているのです。 航空便だけを入れるポストもありました。 明るいブルーでした。空の色ですね。 このブルーのポストが台湾にあったかは自信がありません。 いまは日本では「赤いポスト」は廃止になったと聞きました。 趣味で庭に飾っているヒトがいるそうです。 台湾でも、いまはこの「赤いポスト」を見ることはありません。 日本時代の台湾のヒトにとって、赤い郵便ポストはその頃の思い出の中で 鮮明な存在となっているのでしょう。 ポストに郵便を投函すると、間違いなくあて先に届くには、国家のシステムが しっかりしていなければなりません。 「赤いポスト」は日本国家の信頼のシンボルということかもしれません。 台湾の人々の、無意識のなかで…。
236 :
黄昏的故郷 :04/09/03 19:41
taiwanboom 様 早速のご回答ありがとうございます。 単調な質問に対して、風景や匂いまで伝わってくるような描写の ご回答、いつも感服いたします。 私の住んでいるところは、凄い田舎で御描写にあるような鋳鉄製の頑丈なポストが まだ使われているんです。(郵便局が意図的にレトロを演出してるのかもしれません 一応、門前町といわれてるところなので・・・)郵便屋さんみたいなポストと呼んでます。 あれとおんなじポストがやっぱり台湾にあったんですか・・そうですか・・・。 ところで私が最近聞いた話ですが、中国語・台湾語・韓国語・日本語をまった話せなくても 日本人・台湾人・韓国人の間で大体の意思疎通ができる人たちがいるそうです。 聾唖者だそうです。 日本時代の聾学校で教えていた「手話」が残り、基本「単語」は大体同じという・・・ これも日常を共有していたことの名残の一端かもしれませんね。 私としては大変感慨深いことと思っています。 ご回答ありがとうございました。台湾に立っている赤い丸い「郵便屋さんのポスト」が おぼろげながら頭に浮かんでくるようです。
>>228 見つけるの難しいし、常識的に考えて生存していないでしょ。どうしても探したい
なら、金をかけて探偵に頼むしかないんじゃないの。
>>228 日本医師会あたりに聞いてみたらどうだろう?
うちの祖母の遺品に、当時の婦人雑誌の付録の日記帳みたいな ものがあったんだけど、それに郵便料金表がついてたなあ。 内地と外地で料金が違ったよ。届く日数の目安も違った。 だけど、もちろん同じシステム内のことで。 今でいえば、宅急便の離島は別料金みたいな感じかな? あとは、昭和初期のレコードもあるのだが、それには 「日本帝国のライセンスによる製品です。日本、朝鮮及び 台湾以外での販売を禁ず。」っていうようなことが 英語で書いてあった。 ダイレクトに台湾の話ではないけど、日常の共有って いっぱいあったんだろうなあと思って。
>>240 マジで?レコードのことだよね?
郵便料金、今見直したら普通郵便は外地も値段一緒だったよ!
勘違いしてた。小包とか飛行郵便は外地行きは割高だったみたい。
>>239 販売地域を云々してるということはポリドールですね。
戦前のレコードは物置から出てきても、汚いとか再生装置が無い、
こんなの聴きたくないといって捨てられるのが現実..
処分方法を相談されることがあるけど、せっかく残ってるんだから
持ちつづけないかと薦めてみても考え直す方は皆無なのが悲しい。
243 :
美麗島の名無桑 :04/09/04 19:19
にほんだもん
244 :
美麗島の名無桑 :04/09/04 21:13
台湾の教え子、能都へ 戦争中学んだ恩師の米寿祝いに 太平洋戦争中に幼少期を過ごした台湾の国民学校の卒業生十四人が五日、 恩師である能都町鵜川、高宮孝一さん(88)、ふき子さん(88) 夫妻のもとを訪問する。高宮さん夫妻の米寿のお祝いと同窓会を兼ねての来日で、 夫妻との再会は約二十年ぶり。高宮さん夫妻は当時の写真を眺めながら、 「教え子たちの成長ぶりが楽しみで、昔話に花を咲かせたい」と 到着を心待ちにしている。 能都町で教師をしていた孝一さんは一九四一(昭和十六)年夏、 台湾彰化県渓湖(しょうかけんけいこ)国民学校に赴任、一年後には、 ふき子さんも台湾に渡り、同じ学校で教壇に立った。 戦後、高宮さん夫妻は能都町へ戻り、消息を求めていた教え子が八〇年に 夫妻の健在を知り、交流が始まった。八二年と八五年の二回、台湾に夫妻を招き、 同窓会を開いたほか、教え子たちも八三年に能都町を訪問している。 その後は、互いに顔を合わせることはなかったが、先月二十五日に突然、 米寿祝いに来日することを告げる手紙が夫妻のもとに届けられた。 今回来日するのは、ふき子さんが四二年に担任した当時の四年生十四人と その妻子九人の二十三人。当時は、孝一さんが召集で戦地に赴いたため、 子供たちが「日本語を教えてください」と自宅を訪ね、 一人不安なふき子さんを励ましていたという。 一行は五日、高宮さん方に立ち寄った後、夫妻とともに三泊四日の日程で、 山代温泉や北陸三県を旅行し、旧交を温める。教え子は既に七十歳を超えているが、 高宮さん夫妻は「教え子たちは、いくつになっても私たちのかわいい子供 お土産を用意し、歓迎したい」と話している。
ソースはどこ? 読みたい。
246 :
美麗島の名無桑 :04/09/04 21:20
今日の北国新聞HPを見て。 北国新聞は八田与一技師の故郷石川の新聞だよ。
247 :
美麗島の名無桑 :04/09/04 21:21
>>247 あっ、すみません、御礼忘れました。ありがとうございます。
新台湾人政策以来、台湾人を自称してゐますね でも、高砂、本省と外省で意識はかなり違ひます
↑ 研究者?
252 :
taiwanboom :04/09/06 16:17
214様 日本式のホテルではありませんが、台南駅のなかに「ステーションホテル」がありました。 子供の時には、ロマンチックなホテルのような感じがしていましたが、いまの台南駅の 建物を見て、このなかのどこにホテルがあったのか、どうしてもナットクできません。 この駅舎にホテルがなるようなスペースがあったとはとても思えないのです。ホテルが あったにしては、台南駅の建物は小さすぎるのです。 台北駅のステーションホテルは、現在の「新光三越」の位置にありました。これなら ナットクですが、台南のステーションホテルはナゾです。
253 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 11:46
台湾人の「身分」に関わるメモ書きですが 戦前はご案内の通り、日本人と台湾人は全然対等じゃなかったんです。 それが戦後「中国」に支配されて、“日本とは対等”になった。 台湾人が日本人と対等になるということは、 戦前の苦難を経験してきた台湾人にとっては、 それもまあ、ある種のステップアップにはなったわけだ。 しかし次には、“中国人との関係”に関わる問題があった。 しかしそれとても、自ら「中国人である」とすることで、 自分を中国人に同化させれば良いだけのことだった とも言えるんではないかと思う。 (文化の違いも、日本とのものほど違わなかったわけだし。) 我々は、台湾で生まれ育った中国人である。とすれ万事オッケーだったはず。 実際問題、中国からやってきた兵隊さんたちと、 戦前からの台湾住民との間には、 日本人と台湾人ほどの身分の違いはなかったんじゃないでしょうか? (恩給などは確かにあんまりなんでしょうけど) 特に、中国人は日本人みたいに厳しい礼儀を要求しませんしね。 さしあたり支那語を話していれば殴られることもなかったんでしょう。 日本人って、よく殴ったからね。戦前は。 殴ることは身分差別だとも思ってなくて殴る。 身分の低いものは身分の高いものに殴られて多くを学ぶ、 みたいな信仰で生きてきたのが戦前の日本人でしょう? まったく異文化の台湾人にはそんなものが通用したはずもない。 それでも受け入れざるをえなかったのが台湾人の悲哀だったんでしょう。
254 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 11:52
あと、中国式の礼儀のルールって、 日本式みたいに主観的だったり感覚的だったりしなくて、 もっと客観的に説明や習得のしやすいものでしょう? 蒋介石!と言われたら3回お辞儀をすればオッケー、みたいな。 その点、中国支配の方が、小狡く生きて行くには楽だったはず。 日本支配だと精神だなんだ、得体の知れない(親が日本人で日本的に 育てられてこないとわからない)ものが習得困難で、それだけでも えらく苦労したはずだよね? どうでしょうね?
255 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 13:29
明治時代の日本統治初期に比べれば、昭和初期には台湾もかなり日本に同化されていたので、 日本の文化や習慣を受け入れるのにそれほど困難ではなかったようです。 日本統治時代の日本人と台湾人は対等の立場とは言えないでしょうが、 戦後の国民党支配でもやはり対等ではなかったはずです。 228事件の発端は大陸から来た中国人がたばこ売りの台湾人を殴ったことと言われていますから。 国民党の時代は白色テロで台湾人は怯えながら暮らしたそうです。
256 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 13:32
257 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 13:40
>>255 >同化
同化をうまくやった台湾人ほど戦後は苦労したわけです。
つまり日本人と接する機会の多かった比較的恵まれた台湾人です。
258 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 20:59
沖縄はアメリカに「同化」する前に返還されて良かったですよね。 アメリカ人みたいに英語ぺらぺら喋って本土の者を小馬鹿にするように なっていたらと考えるとぞっとしますから。 台湾の話に戻れば、異文化を異文化として尊重するなんて、 まあ日本人には無理だったということでしょう。
259 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 21:15
本当に「日本精神」とやらが台湾人に受け入れられていたら、 いくらなんでも、今のような台湾であるはずないですからね。 「小狡く」生きられるのは、圧政に苦しむ人々に共通のものであって なにも台湾人だけの話ではないでしょうけど、 台湾人が戦前、本当に同化していたというのならば、 日本の敗戦をみんながもっと悲しんでいたはずですよね。 しかし実際は、「中国」に戻って喜んだ。(←もちろん最初のこと) つまりちっとも「同化」なんて成功していなかった、 というか、台湾人は誰も望んでいなかったということでしょう? 皇民化政策で和服来ていた台湾人も、単なる軽薄なステイタスとか、 そんなレベルでしかなかったんですよ。
260 :
美麗島の名無桑 :04/09/07 21:27
>>259 「台湾人と日本精神」の中で著者蔡 焜燦さんは航空機整備学校に入学した時、
改名しないで蔡 焜燦のままで通したけど、朝鮮出身の人間はほとんど改名して
いたと書いてあった。
ひょっとしたら朝鮮人の方が事大主義に囚われていて民族的にも主体性が無くて
一見大人しい台湾人の方が強い民族的な個性があるんじゃないかと思った。
261 :
美麗島の名無桑 :04/09/08 07:16
>>255 >>昭和初期には台湾もかなり日本に同化されていたので、
↑「熱狂的台湾ヲタ」の台湾認識ってせいぜいこんなもん。
262 :
美麗島の名無桑 :04/09/08 09:26
国民党による白色テロも、日本の「同化政策」が原因の半分になってますね。 欧米みたいに「同化」なんて端からやらずにいたら 戦後「中国」に戻っても「中国人」ともっとうまくやっていけたのかもしれません。 もっともその場合、日本の国益になるかどうかはわかりませんが、 「同化政策」が台湾人を本当に幸福したかどうかは大いに疑問です。 私はかえって不幸にしたんじゃないかとさえ思います。
実質的には、日拠時代にはそれまでのシナ風の道徳形式・行動様式が 当時の日本人の要求するものに修正されていったのは事実(どこまで 本心から受け入れていたのかは不明ですが)でしょう。 しかし、国府と共にやってきた外省人の中国風(時間にルーズ、口先ばかり、 契約や約束を遵守しない、カネに汚い、自己中心・家族や一族中心等)に 伍して生きていくためには、正直者がバカを見るようなそれまでのやり方を 捨てる必要もあったのでは(当然モデリングもあり)。 あるいは、元来日本的な道徳観念よりも中国風が性にあっていたとも言えるかも しれませんが。
昨年、出張ではじめて訪れた台湾で統治時代を知る70代の男性とプライベートで 話す機会を得ました。取引先の内省人の方のお知り合いだったんですが、 「日本人の客が? ぜひ会いたい」とおっしゃったらしく。 小1時間ほどでしたが、その男性の経営するお店で、おいしいお茶をいただきつつ 統治時代のいろいろな話を流ちょうな日本語で語ってくれました。 「学校の先生に会いたい、今も尊敬している」 「日本精神って知っていますか、自分に誇りを持ち他者を尊重する精神を 我々の世代は日本人から学んだんですよ」などなど。 久々に日本語を話したくて仕方ないという感じで、こちらが恐縮するくらい日本を 懐かしみよい印象を語ってくれました。おもてなし半分としても、 コヴァの台湾論を読み、「またそんなこといってるよー」と思ってたのに まさにその通りの光景が繰り広げられ、いろいろ考えさせられた経験でしたねー。
265 :
美麗島の名無桑 :04/09/08 21:37
「日本精神」の優れた点を理解し、体得した人は確かに多い。 しかし多数派ではなかった。 その証拠が、今の台湾です。 どんな文化にも、長所と短所があります。 誰にだって長所と短所があり、結婚するなどして長く付き合えば、 短所ばかり目に付くことも多い。 あとは相性の問題。 日本と台湾との相性と、台湾と支那との相性を較べたら、 当然、後者の方が相性が良いでしょう。
266 :
美麗島の名無桑 :04/09/08 21:47
日本人の目から見たら、日本的道徳を身につけてこそ正しいと映ります。 しかし、台湾人から見たら、日本的道徳を身につけたからといって、 台湾的道徳を身につけていなければ評価に値しないものなんですね。 台湾人と接していて、 「あなたにメンツを潰された」などと言われる局面があると思いますが、 私たち日本人は、ただぽかんとして、なぜなのか理解できなかったりします。 異文化とはそういうものですが、 そういうものだと理解できていないままに 日本の道徳を優先させろと強いることが、 台湾人に幸福をもたらすとは言えないはずなのです。
267 :
美麗島の名無桑 :04/09/09 05:19
また「内省人」か…。 それを言うなら「本省人」だよ。 勘違いしてる人多すぎ。
268 :
美麗島の名無桑 :04/09/09 06:45
「「日本精神」の優れた点を理解し、体得」 というか、台湾人にとっては一つの教養に過ぎなかったと思います。 あくまでもそれは、教養としての「日本精神」であって、実践課題。 日本人が子供の頃から自然と身に着ける公共心等とは別次元でしょう。
269 :
美麗島の名無桑 :04/09/09 07:18
アメリカ生活が長かったりする人が、 日本の礼儀の習慣を煩わしく思ったりするのと似ているのでは? 年上か年下かによって言葉遣いの違う日本社会が アメリカ社会に較べてひどく面倒で古くさく、劣っていると感じ アメリカ流を持ち込もうとするが、当然、日本では嫌われる。 もっとも、大事なのは皮相的な礼儀ではなくて その奥にある自由闊達で平等を重んじる「精神」なのですが、 そこにも台湾における「日本精神」と同様に、 “異文化経験”というものがあるわけです。 しかしいくら経験して啓蒙されたからといって、 それが本当に板に付くか、 さらには家庭にも根付いて子孫にまで伝えうるかと言えば、 そのレベルまでは行きません。 だからアメリカの優れた「精神」を持ち込んで 実践を努めてもなかなか…ですし、 台湾で「日本精神」といってもなかなか…ということになります。
でもさ、日系の店に行ったら、女の店員が携帯電話で話しながら、飯を盛り付けて るんだよ。日本精神とか以前のマナー、常識からしてどうかと思う。
271 :
taiwanboom :04/09/09 13:20
日治時代の台湾での生活をを振り返ると、日本統治時代の台湾人は @日本人とかかわりをもつことが多い台湾人。 A日本人とほとんどかかわらない生活をしていた台湾人。 の2つに分けられるように思います。 @は比較的豊かな台湾人で、日本人の学校に通ったり日本人と仕事や商売を したり、役所や日本人の会社などに勤めていた台湾人です。 この人たちは一見日本人に近い立場にいるようですが、それだけ差別を身を 持って感じていたのではないでしょうか。上級学校進学のときの台湾人への 差別や公務員の差別など、口惜しい思いをしたことは否定できないのでは…。 だから、このグループの人たちは日本の敗戦を台湾人の解放と受け取って 歓迎したのではないでしょうか。 その結果が「親日」か「反日」になるかは、その後の国民党政権がからんで きます。李登輝さんや蔡昆?燦さんなどは「親日」となりました。しかしその 一方で改めて「差別」を強く再確認して「反日」になった人もいるでしょう。 Aのグループの台湾人についてはこれまであまり触れられていません。 台南で私が小学校に行く途中に「台湾人の住居地区」がありました。そこには 台湾人の家が密集し広場には泥水のたまりがあり、アヒルやガチョウ、七面鳥 ニワトリなどを放し飼いにしていました。 子供たちは裸足で汚れた服を着て前と後ろに穴があいたズボンをはいていました。 これならどこででも用便ができるなと思ったものです。子供らは家の入り口の 敷居に座ってどんぶりをかかえて匙でご飯を食べていました。 地区の道路は狭くて曲がりくねっていました。あちこちにゴミがあり、犬が ウロウロして纏足の老婆が歩いていました。 喧騒と線香や汚れた匂いのする町でした。こんな地区があちこちにありました。 戦後この地区を訪ねましたが、すっきりした町になっていました。 これらの人々は日本人と日常的に接触することはなく、差別を実感する機会は 少なかったことでしょう。日本人は支配者ではあるが、雲の上の別社会の人と 受け取っていたことでしょう。 @の台湾人に比べて「差別感」は少なかったのではないかと思います。 終戦によって日本の地位が一転しても、@の台湾人ほどの開放感はなかった でしょう。そして蒋介石政権の弾圧に会い、改めて日本時代を懐かしみ、 その日本人と対等になったことの喜びが沸いてきたのではないでしょうか。 これが「親日」となることになったのでしょう。「教育勅語」などの教えを 改めて思い出したのでしょう。 台湾で日本時代を懐かしんで日本語で話し掛ける台湾人の多くは、このAの 台湾人だった者が多いのではないでしょうか。 これらの台湾人はいまは70歳を超えています。だからこの私の勝手な分類は 現在の台湾の親日と反日を考えるお役に立たないかもしれません。 でも、いまの台湾人の(本省系)の父母や祖父母にこの体験を持った人がいる のです。これがいまの台湾人にどのような影響を与えているか…。
253=254,257,258,259,261,262,265,266,268,269 taiwanboom様 > 台湾で日本時代を懐かしんで日本語で話し掛ける台湾人の多くは、この(2)の > 台湾人だった者が多いのではないでしょうか。 > これらの台湾人はいまは70歳を超えています。だからこの私の勝手な分類は > 現在の台湾の親日と反日を考えるお役に立たないかもしれません。 > でも、いまの台湾人の(本省系)の父母や祖父母にこの体験を持った人がいる > のです。これがいまの台湾人にどのような影響を与えているか…。 日本人と対等に話ができることを喜んでいる、ということはあるでしょう。 日本語を半世紀ぶりに話して思い残すことはない、みたいな、 満足そうな表情を見せる老人は少なくありません。 また、今の日本人に「忠告」を与えてくださる方々というのも、 そうできる立場に今あることが、きっとかけがえのない喜びでもあるのでしょう。 確かに、戦後国民党の行った恐怖政治は許せないことです。 しかし、それと相対的に見た台湾人から 「日本人はまともである」と、今になって評価されたからといって、 そこから短絡して「日本の植民地政策は欧米より正しかった」などと結論するのは 愚か以外のなにものでもありません。 異文化理解という義務を怠り、自文化の強要のみ行ってきたのが日本人です。 たとえそれが「純粋な誠意」であったにせよ、 自分たち日本人が台湾人にとっては所詮「異文化の民」であるという自覚を 一切持ってこなかったという“重大な過失”が、日本には確かにあったのです。 taiwanboom様がご意見下さったように、 日本人と関わりの少なかった台湾人がむしろ「親日」になったのだとした場合、 現地の人々とは全く別の、「雲の上」から支配をおこなっていた方が、 つまり、欧米のような植民地政治をおこなっていた方が、 余計な犠牲は出なかったのかもしれません。 欧米諸国には常に、「所詮は異文化」という自覚があったはずですから、 彼らは日本のような“重大な過失”を犯してこなかったのかもしれません。
253さんは大学で台湾のことを研究されてるんですか?中島力男さんについては どう考えているのか、ご意見を聞かせてください。
新天地で大活躍をした日本人がいたからと言って、 これまで私のおこなってきた考察への反証とはならないでしょう。 台湾に住んでいたころには、大ホテルなどで、 かつての恩師を日本から招いて同窓会をされている人たちを見かけたものですが、 それはもう、皆さん嬉しそうで、涙の対面などされているようです。 そんな場面がたくさんあることは、救いだと思います。 台湾の人々には、心から感謝したいものです。
マターリと語り合いましょう。
先生「合格おめでとう。」
生徒「ありがとうございます。これもみな、先生のおかげです。
本当にありがとうございました。」
さて先生はその後、生徒の合格は自分のおかげだと思い込んだ。
自分の指導力もまんざらではなかったことを改めて自覚した。
そうだ、私の指導力は大したものだったのだ。これからも自信
を持って生徒たちを指導しよう。最近落ち込んでいたからこれ
からは以前のようにがんばろう!!
そしてこの先生は、合格した生徒の両親にこう言った。
「私は最近自信をなくしていたのですが、あなたのお子さんが
私の指導力によって合格したので、また以前のようにがんばり
たいと思います。」
そして両親はこう言った。
「そ、そりゃあもう、先生のおかげですから。自信をお持ちく
ださい。先生がおられなかったらうちの子供が合格するなんて
到底無理でしたからね。」
先生はそれに答えてこう言った。
「到底無理?う?ん、きっと無理だったでしょうねえ。」
さて、この先生に「日本精神」はあるのでしょうか?
「日本精神」があったのは、謙譲を美徳とし、先生に感謝して
いる生徒や生徒の両親であって、先生には「日本精神」のかけ
らもないと言えないでしょうか???
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/opinion/&mode=sel&startHtml=./BoadNaiyou.html&mode=sel&targetid=15562
277 :
フォルモさん :04/09/10 00:54
taiwanboom様 はじめまして。 いままでの話の流れから、taiwanboom様は日本統治期台湾で生活をした経験があるとのこと。 ひとつ、質問したい事があります。 台湾で生活していた時、台中・霧峰の林献堂氏の名前は聞いたことはあるでしょうか?? 家族や近所の人の噂話や、新聞などのメディアから得た情報でも結構です。 当時の台湾在住の人々にとって、林献堂氏はどのような人物と捉えられていたのかを知りたいので。
林献堂は大実業家だよね
279 :
フォルモさん :04/09/10 18:58:14
はい、大実業家であり且つ、土着系地主階級と知識人階級が推進した「台湾人」権利獲得運動の象徴的存在であったという話はよく聞きますよね。
翁、いつもありがとうございます。とても参考になります。
281 :
taiwanboom :04/09/11 15:21:22
フォルモさん 林献堂氏についてはまったく知りませんでした。 その頃は小学生だったのですから。 日治時代に台湾の財力豊かな文化人として林献堂氏が、台湾人の権利の獲得に 尽くしたことは、戦後になって台湾についていろいろ調べて分かりました。 ご期待にそえなくてすみません。
282 :
taiwanboom :04/09/11 16:39:10
>>274 台湾人が日本時代の小学校の日本人の恩師を招いて、盛大な謝恩会を開く話は よく聞きます。 それはそれは至れり尽せりの歓待です。 その歓待は台湾人(本島人)だけの公学校の卒業生に多いようです。 日本人小学校に在学した台湾人による「謝恩会」はあまり聞きません。 公学校の日本人教師は生徒がすべて台湾人なので、日本人と差別をつけるような 情況にないので、台湾人の生徒から見ると差別をしない公平で熱心な先生となる のでしょう。事実公学校の先生には台湾人の教育に情熱をもって取り組んだ 方が少なくありません。 私の知人に公学校の先生だった方がいますが、教え子の「歓待」を生き生きと 話してくれます。 私が通っていた台南や花蓮港の小学校の台湾人の生徒が、とくに恩師を慕うと 言うことはあまり聞きません。 こんな見方はひねくれているのでしょうか。
283 :
taiwanboom :04/09/11 17:13:36
>>272 昨年司馬遼太郎さんの「街道を行く・台湾」に「老台北」としてたびたび登場する 蔡焜燦さんに招かれて2時間ほど会食をしました。 その2時間は蔡さんの「独演会」でした。 日本時代のことや現在の日本のことなど、蔡さんは尽きることなくユーモアをまじえて 洒脱に話し続けました。 私たち一行10人はただ拝聴するだけです。 最後に昔の日本の唱歌と軍歌を、蛮声を張上げて斉唱しました。 このときの蔡さんの思いを推察すると、次のようなものだったのかもしれません。 戦前の日本には地主と小作人がいました。小作人の生活は楽ではありませんでした。 終戦によって農地が解放されて、小作人が土地をもつ自作農になり、土地を収奪? された地主の中には、没落するものが少なくありませんでした。 自作農となって「成功」した「小作人」にとって、かつての地主と対等に話すことが 出来るようになったことの意味は大きいものでしょう。 地主を招いて「対等」に会食して、昔話をすることは小作人にとっては優越感を伴った 満足感でいっぱいだったことでしよう。 蔡さんの気持ちが、こんな次元の低いものであると言うのではありませんが、ふとそう 思ったのです。 日本時代に差別を受けることなく「日本人」だったと蔡さんはいいますが、制度としての 「差別」がなかったとは言えないと思います。 この思いが私たち日本人を招いての「独演会」となったのではないか、蔡さんの潜在意識 の中にこんな思いがあったのではないでしょうか。 だからといって、これで私の蔡さんに対する尊敬と親近感が損なわれるというものでは ありません。 家内にこのことを話したら「そんな失礼なこと、人前で話しなさんな。あんたはひねく れもんよ」と言われました。 家内は戦前の台湾をまったく知りません。
284 :
美麗島の名無桑 :04/09/11 19:30:22
蔡さんの実家は貸家を持っていた資産家のようだからそんなことはないと思う。 敗戦時には社会に出る手前の年齢だったわけだし
戦前の台湾人、特にホーローや客家は、 中華民国こそを祖国と信じ、大陸にいる支那人を同胞と思ってきたんです。 なにも戦後の国民党教育がはじまりではありません。 ところがその「祖国」がろくなものではなかった。 失望し、狼狽しつつもなんとか折り合いをつけててやってきたのが戦後です。 日本の皇民化運動(同化政策)が成功したと思っているのは、 台湾を知らない証拠です。
台湾でテレビを見ていたら、台湾における肥料の歴史をやっていた。 無論日帝時代からの歴史だが、彼らには日帝時代を語ることに抵抗はないようだね
287 :
美麗島の名無桑 :04/09/11 22:06:12
↑ はあ? 「日帝時代を語る」って、その時代の何を語るかが問題なんですけど?
進歩の歴史だろ
289 :
フォルモさん :04/09/11 23:23:11
taiwanboom 様 返答有難うございます。 小学生では、記憶に無いのは無理無いですね(^_^; では、当時台湾で小学生でも知っているような有名人って誰でしたか?? 「台湾人」「日本人」限らず。
291 :
フォルモさん :04/09/12 01:14:29
>>290 私の稚拙な文章で不愉快な思いをさせてしまっていたとしたら、謝罪します。
申し訳ありませんでした。
292 :
美麗島の名無桑 :04/09/12 07:21:48
293 :
taiwanboom :04/09/12 13:58:16
>>284 蔡焜燦さんは昭和2年(1927年)生まれで、台湾人のための「公学校」に入りました。 昭和17年に台湾人の志願兵制度が実施されましたが、際さんは年齢不足で志願できません でした。そこで、昭和20年1月に少年航空兵を養成する「陸軍航空学校」に入りました。 18歳のときです。入学のため台湾を出発する前夜、蔡さんは友人に次のように語っています。 チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ。しかし俺は日本という国が好きだ。 だから俺、立派に戦ってくる。 蔡さんが入校したのは奈良市の「岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊」で現在の「奈良教育大学」 です。パイロットでなく整備の方のだったのです。 ここでの生活は「差別」を感じることのない充実したものだったようです。 終戦を迎えたときは18歳でした。 18歳といえば、社会にたいしてかなりの認識がある年齢ではないでしょうか。 私も日本陸軍の学校で終戦を迎えたのです。14歳でした。それでも社会や政治に 対する認識があり、戦後勃興した共産主義運動に「復員学生」として、いろいろ 抵抗しました。 「チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ」という蔡さんの言葉は、 当時の台湾人の心情を示しています。
294 :
taiwanboom :04/09/12 14:30:53
>>284 蔡焜燦さんは昭和2年(1927年)生まれで、台湾人のための「公学校」に入り、 昭和17年に台湾人の志願兵制度が実施され、40万人という志願者が殺到しました。 年少だった蔡さんは少年兵募集に応募し、少年航空兵として陸軍航空学校に入学を 許可されました。日本への出発の前夜、蔡さんは友人に次のように語っています。 チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ。しかし俺は日本 という国が好きだ。だから俺、立派に戦ってくる。 昭和20年1月に蔡さんが入ったのは奈良市の「岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊」 で、現在の「奈良教育大学」です。パイロットでなく整備の方に回されたのです。 終戦のときは18歳でした。社会に対する理解と認識はかなり出来る年齢でしょう。 私が終戦を迎えたのは14歳で陸軍の学校ででした。戦後の政治に関心が深く戦後 起こった共産主義運動に「復員学生」としていろいろ抵抗しました。 18歳の蔡さんも社会や政治に対して、とくに蒋介石政権に対してまた日本の植民地 支配について理解し批判することが出来たと思います。 蔡さんの「チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ」という言葉はいまの 蔡さんの心にどのように残っているのでしようか…。
邱永漢は確かに捻くれた見方をしていたね あれは東大だから
taiwanboomさん 当時の台湾経済についておききします。 台湾人の企業活動とか商売とか内地人と比べてどうでしたか?
297 :
美麗島の名無桑 :04/09/12 16:52:14
298 :
美麗島の名無桑 :04/09/12 19:02:21
林献堂 大東信託株式会社 250万(資本金 台湾製麻株式会社 140万 三五実業株式会社 50万 南洋倉庫株式会社 80万 その他 一族の会社有り あとこの二人が目立つ存在 顔国年(基隆軽鉄、台湾興業信託その他 林熊徴の一族(華南銀行その他)
>>217 初めてこのスレを読んだものですが生前に祖父が「卵とトマトの炒め物」をつくって
食べさせてくれたのですが西洋料理だとずっと思ってました。
台湾料理だったのですね。
祖父は台北に10年以上戦前に住んでいましたからその時に覚えたのでしょう。
祖父は戦前に砂糖関係の商社に勤めていたのですがその時の同僚の台湾の方達と
戦後も親しくしておりました。
昨年、初めて訪台し戦前の祖父の家と思しき近辺を現地の古老に案内していただきました。
自分より日本語がきれいで聞きほれましたが。
>>296 taiwanboomは小学校4年の時に内地にもどったと読まなかったのか?よくレスを
読んでから質問しろ。
>>299 ひさびさのほのぼのしたレスだな。今の住所でいうとどの辺ですか?
>290 偉そうな書き方ってのは>290とか>300のことを指すと思うんだけどなぁ…。 脱線スマソ
302 :
美麗島の名無桑 :04/09/13 00:23:17
フェルモさんは別に偉そうじゃないと思うが・・・
台湾人学生は受験競争が激しくて社会問題に関心が薄かったと思うな
あなたこそスレ汚しじゃないんですか? いくら名無しとはいえそういうのみっともないよ。
306 :
taiwanboom :04/09/14 11:42:08
蔡焜燦さんと会食したことを書きましたが、その2日前に李登輝さんに会いました。 そのとき会見の前に秘書から「李登輝先生には日本統治時代についてのお詫びは絶対に 言わないでください」と厳しく言われました。 その理由についての説明はなく、こちらも尋ねませんでした。 会見は一行10人と和気藹々で予定の30分を大幅に超えて、秘書をやきもきさせました。 会見は成功でした。もちろん「お詫び」はしませんでした。 それにしても、李登輝さんの「お詫び拒否」は気になります。
聞き飽きたから聞きたくないということでしょう
親日になっても何にも良い事が無いじゃないか! 反日になると(日本が)大事にしてくれるのに! (byコウヘイチン台湾行政院副委員長) チャンネル桜の週刊ほめ殺しより。 もう少し台湾を大事にしましょう日本政府。
>親日になっても何にも良い事が無いじゃないか! >反日になると(日本が)大事にしてくれるのに! >(byコウヘイチン台湾行政院副委員長) 激しく同感
310 :
taiwanboom :04/09/15 11:59:15
フォルモさん 林献堂さんの「霧峰郷」に行ったことがあります。 かつては「台湾省議会」がありましたが、「省」が廃止された後どうなっている のでしょうか。 ここのメインストリートは、看板のサイズを統一しています。店頭に掲げている 看板はすべて同じ形で同じ寸法です。 台湾独特の色とりどり千差万別、きらびやかといった雰囲気はまったくありません。 お行儀のよい町筋です。活力がありません。バイタリティーがなくて、台湾とは 別の町に行ったようです。
311 :
萌国主義者 ◆Orwl8kHb4M :04/09/15 14:28:55
>>252 台南駅2階がステーションホテルでした。
現在は内装がだいぶ朽ちていますが、往時を偲ぶことができます。
「台灣七大經典車站圖集」という本に写真があります。
高くて大きな本なので、台湾へいらしたら本屋か図書館で見てください。
312 :
美麗島の名無桑 :04/09/15 22:23:07
前に台南に行ったのですが中山路を真っ直ぐに行った所にある 民生緑園というロータリーに銅像があったのですが日本時代は 誰か他の人の銅像が立ってたのでしょうか? また脇に消防署があってどうも日本時代からあるような外観だったのですが これは古いものなのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください。
313 :
taiwanboom :04/09/16 11:28:49
>>312 台南の民生緑園にあった銅像は「児玉源太郎総督」だったと記憶しています。 この緑園は当時は「大正公園」といっていました。直径が現在より20%ほど 広かったようです。 いまは立ち入り禁止になっていますが、当時は自由に入れました。現青年路にあった 私の家から近かったので、よく遊びに行ったものです。 銅像が立っている台座の周囲は池になっていて、台座にライオンの顔がついていて、 その口から水が出ていました。池に魚がいたかどうかははっきりしません。 いろいろな木々が木陰をつくり、いつも多くの人が来ていました。涼しかったが 芝生はありませんでした。 緑園を取り巻く道路の幅はいまよりはかなり狭く、車もあまり走っていません でした。緑園を削って道路を拡張したのでしょう。 当時の一般の乗り物は「人力車」で、台湾人が引いていました。日本人は引くことを 禁止されていたようです。 タクシーはほとんどが米国製の大型車でした。後部客室に補助席がありました。 運転席の背もたれの背面に組み込まれていました。 私はこれが気に入って、タクシーに乗ると必ず補助席を引っ張り出して座ったものです。 これに座ると父と向き合うことになるので、これも楽しかったのでしょう。 昭和15年に日産から「ダットサン」が発売され、そのちっちゃな可愛さが話題に なりました。この年に台南にダットサンのタクシーがデビューしました。 米国車に比べて子供のような小さな車体なのに、4ドアセダンと一人前の姿を していました。なぜか運転手はすべて女性でした。 女性の運転手の襟足に乱れかかる髪の毛の色っぽさを、今でも忘れません。 ついでに思い出を書きました。
314 :
美麗島の名無桑 :04/09/16 17:41:38
今小林よしのりと金美齢って仲悪いの?
315 :
美麗島の名無桑 :04/09/16 19:02:14
<台湾の声ニュース> 2004.9.16
陳大統領:台湾の国連加盟を訴える
陳水扁大統領(総統)は台湾時間の15日夜、台北の総統府からアメリカ・ニュー
ヨークの国連プラザホテル(UN Plaza Hotel)の国連記者協会とテレビ会議方式で
演説した。
陳大統領は、台湾の国連加盟問題について、国連2758号決議では中華人民共和国
の国連代表権問題を処理しただけで、中華人民共和国は国連の関連組織中で台湾人
民の権利を代表しておらず、台湾は台湾であり、台湾は中国代表権を争うことはで
きないし、争うつもりもない、と強調した。
1971年、台湾の「中華民国」が国連を追放されたのは、当時の「中華民国」の国
民党政府が、国連の「中国代表権」にこだわり、中華人民共和国の国連加盟を阻止
しようとしたばかりか、「中華民国」が台湾の代表であることも否定していたから
である。今回の陳大統領の発言は、台湾は「中国」の代表権を争わず、「台湾」の
代表権を要求したもので、中国は台湾を代表しておらず、中国が台湾を国際社会か
ら排除しようとする不当性を世界にアピールした。
国際パラリンピック委員会、台湾の団長を意図的に排除か
ギリシャ・アテネで体に障害を持つ人々のスポーツ祭典であるパラリンピックが
17日から開かれる。台湾パラリンピック選手団の団長は、陳水扁大統領夫人の呉淑
珍氏だが、国際パラリンピック委員会は台湾(中華台北)チームに対して団長を換
えるようにと不合理な要求をしている。
呉淑珍団長は、政治テロとみられる事故によって下半身不随となり、車椅子生活
を送っている。呉団長は台湾のパラリンピック委員会の名誉会長を務めていたこと
から団長を任された。ところが、国際パラリンピック委員会は、団長はその国のパ
ラリンピック委員会の委員長または秘書長でなければならないとして、台湾の団長
の変更を求める通知を出した。国際パラリンピック委員会は呉淑珍氏の団長用の
NPCカード(呉団長はすでに発行を受けている)を取り消し、来賓用のGTカードを
改めて発行する方針だという。
しかし、実際にそのような規定があるかはっきりせず、もしそのような規定があ
るのなら台湾だけでなく、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、メキシ
コ、ドイツ、チリ、ナイジェリアなども規定に合致せず、団長を変更しなくてはな
らない。台湾だけが団長の変更を求められていることから、中国が圧力をかけたも
のと見られている。
17日のパラリンピック開会式に呉団長が団長として参加できるかどうかは、まだ
予断を許さない。
『台湾の声』
http://www.emaga.com/info/3407.html
316 :
美麗島の名無桑 :04/09/16 21:08:36
台湾て当時の日本からすれば植民地っつーより領土としてとらえてたんじゃないの? アメリカのテキサスとかニューメキシコみたいな感じで 帝国大学やらインフラ整備やらしたり台湾人の将校までいたんでしょ?
317 :
美麗島の名無桑 :04/09/16 22:21:32
>>316 台湾人は結局、陸軍士官学校にも海軍兵学校にも入学できなかった。
朝鮮人は併合前から陸軍士官学校への入学も許可されていたし、戦争前に
将軍になった洪中将や、当時の最新兵器である戦闘機のパイロットや将校まで
いた(当然彼等は志願兵)。
当時、日本人は朝鮮人の方に対して同朋意識をもっていたふしがあるし。
台湾・朝鮮の徴兵が19年9月開始と敗戦まで一年切ってからやっと行われた
という原因もあると思います。
李登輝前総統は一応将校でしたが、ポツダム少尉という扱いでした。
318 :
美麗島の名無桑 :04/09/16 22:25:35
>>312 「台湾人と日本精神」によるとその児玉源太郎の銅像が蒋介石がえらくお気に入りで
銅像の児玉源太郎の首を自分の首の像に挿げ替えていたとか。
頭だけ蒋介石で身体は日本軍の大礼服というある意味彼と台湾を象徴するような銅像になってしまったらしいです。
319 :
美麗島の名無桑 :04/09/16 23:32:55
台湾施政50周年にあたり廃止された保甲制度
保甲制度は日本の隣組を強化したような組織である。細目については以下。
http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1891/113.html 日本は、台湾を統治するにあたり、保甲制度という一種の治安維持を目的に組織を作らせた。
それが保甲制度である。
しかし、時を経るに従い、日本人との差別待遇と目されるようになり、
台湾施政50周年記念日に廃止された。
台湾に自治を容認する発言-安藤利吉大将(兼最後の台湾総督)
塚本誠憲兵大佐に語った言葉
「台湾の人には戦争で大きな協力を強制している。戦争の結末がついたら台湾人に自治を認めなければならない」
安藤利吉大将は戦後上海の米軍拘禁所に収容されたが、到着時に青酸カリで自決。
資料 ある情報将校の記録 塚本誠
320 :
フォルモさん :04/09/18 00:23:02
taiwanboom様 そうなんですか!ありがとうございます。 私も省議会跡はどうなっているのかすごく気になるところです。 ところでtaiwanboom様は、どんな交通手段で霧峰まで行かれましたか? 日本統治期は、台中―霧峰間は鉄道が敷設されてたという噂を聞きましたが。 現在は台中からバスが出てるみたいですね。
321 :
312 :04/09/18 15:13:25
taiwanboom様 318様 どうもありがとうございました。 この間日本時代の台南の絵葉書を見たのですが今よりずっと 発展していたように思われました。
322 :
美麗島の名無桑 :04/09/18 18:32:59
高橋ユニオンズ=livedoor
323 :
美麗島の名無桑 :04/09/18 18:35:00
324 :
美麗島の名無桑 :04/09/18 21:23:45
>>300 正確な現住所は知りませんが中正橋(旧蛍橋)のほとりに今も残ってる
日本料亭の建物から5分くらい歩いた所です。
325 :
taiwanboom :04/09/19 15:11:34
>>321フォルモサさん 霧峰郷には1992年と1998年の2回行きました。 92年のときは霧社へ行った帰りに寄りました。台中のホテルからボーイの車(ホンダ) で行きました。料金はタクシー並で1時間400元でした。 2回目の98年のときは、台湾省の省都である南投県の「中興新村」に行った帰りに 霧社を回って立ち寄りました。 台湾省の廃止が決まったので「省都」を見ておこうと、旅行社と契約して通豪大飯店から 車を提供してもらいました。 鉄路、空路がないところへは原則としてバスを使うことにはしていますが、面倒なときは タクシーをチャーターします。 乗って面白いのはバスですね。
326 :
美麗島の名無桑 :04/09/19 18:31:13
327 :
美麗島の名無桑 :04/09/21 11:41:51
総統バス
328 :
taiwanboom :04/09/21 13:17:06
>>312 追加 台南の民生緑園のそばにある消防署は日本時代の1938年(昭和13年)に完成した 「台南市消防署」です。 その隣にあるギリシャ時代の神殿のような立柱が並んだ建物は台湾土地銀行で、 日本時代の「勧業銀行(1937年完成)」です。 この銀行と道路を隔てて立っている5階建てのすすけたビルは、日本時代の 「ハヤシデパート(1932年完成)」のなれの果てです。いまでは無人のビルの ようになっています。 「台南市消防署」にも遊びに行ったことがあります。 緊急出動で消防士が階下にすばやく滑り降りるための真鍮の棒があったことを 記憶しています。 この建物が出来た昭和13年は「日中戦争」が始まった翌年で、物資が潤沢で なくなったのでこれまでのような「荘厳」な建物にすることが出来ませんでした。 一見して薄っぺらに見えるのはそのためです。 デザインとしては水平の横線を強調しています。 それまでは縦線が強調されていました。 近くにある「台南市政府(1916年完成)」や日本陸軍第二連隊兵舎 (1912年完成・現成功大学)台南駅(1936年完成)などは 堂々としたデザインです。 台南には日本時代の官公庁や学校などの建物が多数残っていますが、この消防署と 嘉南ダムを管理する事務所のビル(1940年完成)の2つはそれまでの 「豪華荘重」といったデザインは見られません。
329 :
美麗島の名無桑 :04/09/23 23:37:20
330 :
美麗島の名無桑 :04/09/24 14:19:12
台湾は旧領
331 :
フォルモさん :04/09/24 17:19:29
taiwanboom様 ありがとうございます、毎度大変参考になります。 霧社にも行ったことあるんですね。私も霧社の日本人墓地は一回見に行ってみたいです。
332 :
美麗島の名無桑 :04/09/24 23:29:52
台湾人は旧同胞
333 :
333 :04/09/25 11:17:02
ゲッツ!
334 :
美麗島の名無桑 :04/09/26 11:05:31
朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト 宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト、深厚ナリ 我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆 心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ、我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源、亦實ニ此ニ存ス 爾臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ、朋友相信シ 恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓發シ 徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ、國法ニ尊ヒ 一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ 以テ、天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ、獨リ 朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ、爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ、我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 之ヲ、古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ、中外ニ施シテ悖ラス 朕、爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ 咸其徳ヲ、一ニセンコトヲ庶幾フ
335 :
taiwanboom :04/09/28 14:04:16
日本時代の遊びについて。 インドゴムの木は台湾ではあちこちに見られます。桃園の中正国際空港にもあります。 日本でも観葉植物として普及しています。 この木は「ゴムの木」と言うとおりゴムが取れます。 台南の成功路の私の官舎の隣に直径3mを超えて見上げるような「インドゴムの木」が ありました。根元から枝分かれして蔦や木根が垂れ下がって「ガジュマル」のようでした。 この木の幹の皮ににキズをつけると、ミルクのような汁がたくさん出てきます。 これが乾くと「乾く」とゴムになります。不透明な白っぽいゴム「生ゴム」です。 この汁をこの木のウチワのような大きな葉っぱに塗ると、広いゴムの膜が出来ます。 これで物を包むことが出来ます。 木の幹を伝って流れ出た汁が乾いてできた、長い「ゴムの紐」を丸めて野球ボール のような「球」を作ります。 生ゴムのボールで、かなり弾みます。 ただし表面がでこぼこして不整形なので、イレギュラーバウンドをします。 紐もゴムですからよく伸びます。 ところが、お風呂の中でこの「ボール」で遊んでいたら、ボールがだんだん水に溶けて来る ことに気がつきました。 これを利用してボールの表面の凹凸をなすことが出来ました。 が、溶ける分も多くて油断が出来ません。 台湾から内地に引き揚げる船中で風呂に入って、お土産に作った「ボール」と遊んで いたら溶けてボールが小さくなって、お土産の迫力が減ってしまいました。 当時のゴムの生産地はマレーシア(マレー半島)でしたが、ここの「ゴムの木」は インドゴムの木とは別の種類です。インドゴムの木は大規模ゴム園には適さないようです。 台湾では世界大戦末期にこの木からもゴムを採取するようになったと聞きました。 大きな幹のあちこちに白い汁が数十本垂れ下がっている情景は迫力があります。 でも、いま思い出すと「インドゴムの木」に対して残酷な感じがします。 」
336 :
taiwanboom :04/09/28 14:08:07
>>335 初めから5行目の「木根」は「気根」の間違いです。 指先のミスです。
337 :
美麗島の名無桑 :04/09/29 23:38:28
>>329 今日の日テレ「時空警察」はすごかったなあ・・・・
台湾総督にして帝政ロシア打倒の功労者・明石元次郎
を極悪人扱いして。
>>336 榕樹のことですか?こういう遊び方は知らなかったです。
339 :
美麗島の名無桑 :04/09/30 06:32:02
340 :
taiwanboom :04/09/30 13:20:26
>>338 「榕樹(ガジュマル)」と「インドゴムの木」とは別のものです。 現在一般にみられる「インドゴムの木」は、すっきりした幹にウチワのような 大きな葉っぱがついています。とても大木とはいえません。 ところが日本時代に私がゴムを採取したのは、まさにガジュマルのような複雑 でまがまがしい姿の大木でした。あれ以来台湾でもこのようなインドゴムの 「大木」は見たことがありません。 この木も戦後に台南の成功路を訪れて探しましたが、すでに伐採されていました。 その跡には「頼外科医院」が建っています。
>>340 ご説明ありがとうございました。家に帰ったらちょっと親に確認します。
植民地時代、福建省から苦力が季節労働者として台湾に出稼ぎに来ていたという 台湾から日本に出稼ぎに行ったという話を聞かない。 台湾は豊かであったのだなあ。
うちのひいじいさんも爺さんも出稼ぎにいってましたが。。。
台湾人ですか? しかし朝鮮人の4分の1の人口ですから 在日朝鮮人の4分の1いてもおかしくない 日本でも賃金差別があったし、台湾人の賃金は日本人の6〜七割(朝鮮人は4〜5割 だから進んで出稼ぎに行きたいというほどでもなかったのではないでしょうか。
345 :
taiwanboom :04/10/05 10:49:04
>>342 そういえば私も台湾時代に、台湾人(本島人)が内地に出稼ぎにいく話は聴いたことが ありません。内地には「留学」のために行く台湾人のことはよく聞きました。 内地に帰ってからも、出稼ぎの台湾人に出会ったことはありません。 これに引き換え、朝鮮人の出稼ぎの人は珍しいことではありません。 私の町内にもいました。 彼らは戦後はいわゆる「朝鮮人部落」として固まっていました。 終戦直後は東京や神奈川などでは戦勝国の「第三国人」として、元気を出していましたが、 私がいた地方都市では、その反対で相変わらずの「被虐の民」でした。 ときどき警察の手入れを受けて、密造酒などが摘発されていました。 台湾人には、戦後日本におけるこんな苦労は無かったようです。 このあたりに、現在の両国の対日観の違いの原因の一つがあるのかなと思います。
346 :
taiwanboom :04/10/05 13:13:08
<纏足> 私がいた昭和10年代の台湾では「纏足」は珍しいことではありませんでした。 50歳以上の女性に多く見られました。 布でぐるぐる巻きにした小学生ほどの小さな足でした。この「布巻き」が直接 靴になっていて、踵に小さな木製のヒールがついていました。 布を解いてなかの足をみたことはありません。 着ている物は、黒じゅすのロングドレスで織り模様がありました。 ボタンはチャイナ式の紐を丸めたもので、別の紐で引っ掛けるようになって いました。これが横に縦にずらりと並んでいました。 歩くときはお尻をふって、少し前かがみになってよちよち気味でした。 私の家で雇っていた「洗濯ばあさん」が纏足でした。 大きなタライのそばにしゃがんで、洗濯板で衣料をゴシゴシ洗っていました。 纏足だからといって、姿勢がとくに不安定ということはありませでした。 しゃがんでいるため、お尻の部分の布がパンパンに張り詰めていました。 こんな窮屈なものを着て不便ではないかな、なんて思ったりしたものです。 頭髪は一つにまとめて、後頭部の少し上に球のようにして載せていました。 頭髪はあまり洗髪をしていないようでした。 我が家では「纏足」が話題になったことはありません。 ごく日常的なものだったからでしょう。
347 :
美麗島の名無桑 :04/10/05 15:38:31
348 :
taiwanboom :04/10/07 12:59:40
「創始改名」 台湾の皇民化政策として「創始改名」が行われました。 台湾人の姓名を日本名に変えるのです。 昭和15年、私が台南の花園尋常高等小学校4年のときのこと…。 朝授業をはじめる前に担任の先生が突然、台湾人のクラスメートの名前をあげて 「いまから君たちに日本の名前をつけてあげよう」といいました。 これを聞いたとき、私はなんのことかよく分かりませんでした。日本人の級友も キョトンとしていました。 台湾人の級友がどんな顔をしていたか、まったく覚えていません。 先生が台湾人一人一人の「台湾名」を呼び上げ、次に「さてどんな名前がいいかな…」 といって、いろいろ考えて日本名を言い渡しました。 「”王”君は日本にもある姓なのでそのままでいいだろう。読むときは”おう”だよ」 「”翁”君も字はそのままでいいが”おう”と読むのはへんだね。”おきな”と読もう」 続いて名前のほうも決めましたが、プライバシーにかかわるので省略します。 このようにして台湾人同級生4人の「日本名」が決まりました。 いま振り返ると、先生は出来るだけ「台湾名」を残すように配慮したといえます。 日本陸軍にいた台湾人の「日本名」は、元の「台湾名」とは似ても似つかないまったく 別の名前になっていることから考えると、この先生の「配慮」は評価されます。 そのせいとは限りませんが、この年の4月の異動で先生は小さな台湾人の小学校(公学校) に左遷?されました。 戦後、日本の植民地統治政策で非難の対象になっている「創始改名」のまさに「現場」に 私は遭遇したのです。 このとき日本人の同級生たちがどんな態度をとっていたか。騒々しい雰囲気だったことは 憶えていますが、たいして気にとめていなかったかもしれません。 改名後も台湾人の同級生に対する呼び方は、改名前とまったく変わりませんでした。 先生もそれを咎めませんでした。
349 :
taiwanboom :04/10/07 15:19:50
訂正 「創始改名」を「創氏改名」に訂正します。 PCで出たままのうっかりミスです。 慙愧!!
でもあれは許可制でかなり厳しい条件をクリアしなければ できなかったのではなかったのですか?
351 :
taiwanboom :04/10/08 11:18:28
「創氏改名」は強制的というほど厳しくなかったのかな。 日本語を使う台湾人の家庭には、食糧配給などで優遇措置がとられたという。 日本名への変更もそうだったのかな。半強制的奨励というところかな。 私たちは台湾人の友達の名前を呼ぶときは、台湾の漢字名を日本語読みにしていました。 台湾語読みではありません。 陳水扁を「ちん すいへん」と日本語の読み方でいうのです。 当時家庭では台湾語を話していたものが少なくなかったので、彼らは自分の名前を 台湾語読みと日本語読みの二通りで呼ばれていたことになります。
352 :
美麗島の名無桑 :04/10/08 20:37:15
taiwanboomさん 朝鮮では日本人地主が進出して不在地主として相当の面積の田畑を所有していましたが、 台湾ではどうだったんですか? 日本人農業者はどれくらいいたんですか?
>>253 今、清華大学原子力研究所最高顧問の孫観漢博士『病める中国人』
を読んでいるんですけど、
「殴る」習慣は中国人も日本人も同じと思ったな。
354 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 11:08:18
|:::::::::::::::::::::ヽ、 |リ:,リ,::/::l:ハ::::::ヽ |;.'-、リ'リノ |:リ;;::::| |(::ノ _リl',ノ:,ノ | , (:ノ)r';:ノ |、 - _..ノ|::|' ……そうかな |`,:::::<i::リ::|:|::| |/:::::::::`!;::|.|:::|
355 :
taiwanboom :04/10/12 13:19:39
台湾では「生水」は絶対に飲まないようになっていますが、私が住んでいた昭和10年代の 台湾ではそんなことはありませんでした。 学校で水道からガブガブ「生水」を飲むことは、当たり前のことでした。 なぜいまの台湾では「生水」は飲んではいけないのですか。 おなかを壊すから、とか言いますが、私の台湾時代に「生水」を飲んでおなかを壊した ことは一度もありません。 台湾ではどんな小さなビルにも、屋上に「水タンク」があります。 友人に訊くと「政府がバカだから自分たちで水を確保しなければならんのだよ」といわれ ました。 ビルやマンションの屋上に林立する「水タンク」は「失政」の証拠なのでしようか。 台湾の家の窓には、必ずといってよいほど鉄格子やネットを張っています。 高層マンションのベランダにネットを張っているのを見ると、鳥小屋を積み上げて いるようです。 泥棒の侵入防止のためだそうです。 台北のマンションのオーナーの友人は、門に3つの南京錠をつけ、エレベーターの 扉にも3つのカギをつけ、部屋の扉は二重になって複数のカギがつけてあります。 奥さんはそのキーをネックレスのようにして首に掛けています。 「さんなにドロボーが心配なら、マンションでガードマンを雇ったらいいのに」と いったら「そのガードマンが危ないのよ」と言われました。 日本時代とはずいぶん変わったものですね。
356 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 13:24:57
台湾は病んでる
357 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 13:37:35
台湾人のガードマンが、平気で裏切るんだよね。
358 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 13:59:43
裏切り君ハッケン!
359 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 14:02:38
親台厨が嫌台スレに現れないので あちこちのスレに現れる嫌台厨。 これって新種の荒し???
360 :
アメリカ人 :04/10/12 14:05:50
>>355 日本に統治され続けなかった台湾に、運がなかったってことですよね。
日本が統治し続けてアゲテいたら、もっとまともになっていたでしょうね。
361 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 14:09:03
日本も屋上に水タンクってありますよ。 と言うとまた・日本も〜とかツッコまれるかな。
362 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 14:12:28
>>361 日本の場合は、ただ単に、水圧のことか、皆が一斉に水を多く使う時間
にちゃんと供給できるようにだろ。
363 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 14:15:06
自分で自分の首を絞めてる独立派 (藁
364 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 14:25:51
>>355 それは台湾人が変わってしまったということ?
外相人の仕業?
365 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 14:42:24
>>364 変わってしまったというより、台湾人の本性が出ただけじゃないか
366 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 15:05:28
>>364 taiwanboom翁にケンカ売るとはたいした度胸じゃ。
>>366 いやいや真剣な問いじゃよ
鉄格子を窓にはめるからには
そうしなければ泥棒がはいるということじゃ
その泥棒は台湾人かの?
368 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 17:11:32
外省人
369 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 17:19:05
台湾人同士で、醜い泥棒のし合いをして、街の景観まで醜くしてしまう。 そして、外国人に笑われる。 馬鹿なヤツラだ。
370 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 17:23:05
台湾自体に、鉄格子を汁!
371 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 18:06:00
在日外国籍市民の参政権を考える連続講座 第3回 演題:在日韓国・朝鮮人と国籍 講師:李敬宰さん >講師 >ただ、在日が日本国籍をとるということになると、天皇制の問題を どうするのかという人がいますが、 外国人がたくさん日本国籍を取ったほうが、 早く天皇制は潰れると思います。 というのは、この先もどんどん外国系市民が増えます。 ある統計では、一〇〇年後には五人の内三人が外国系になるといいます。 そうなれば、日本で大和民族がマイノリティーになるのです。 だから、私はあと一〇〇年生きて、なんとしても日本人を差別して死にたいです。 これが夢です(笑)。そういう社会が来たら、その時に天皇なんていうのは 小数民族の酋長さんみたいなものになります。
372 :
美麗島の名無桑 :04/10/12 23:51:00
,′ _ , -r/`ヽ十/`ヽ ヽ. _/ l|/, ゛、 /:/ 爪! l| il| | ヽ /:::/ | l l``` "´| ト、 l ゙、 . !::::l /|.lヽ! リ }ハ_ i 好きです、日本の兵隊さん! l::::| l/l|二、 ,二., l i l |::::l i l,/_j::、 _j::、ヽl i ! ! l::::| l l! _ヒ」 ヾ┘ j l | | l::::i! i l l ; //l j i ! !::::lヽ!、ヽ'、 、__, ノ'// /// . j::::::!::::::ヽ゛、 ///!'´ i::::::::i::::::::::i::`}' 、 _ _,. 'l::::/'::i::::| !::::::::::!::::::::::!ノ !:::::::::::!::l j::_,,-ヽ:::::::ヽ iヽ:::::::::ヽ!
373 :
taiwanboom :04/10/13 11:07:48
>>364 365 台湾で日本語を話す古老が私に次のように言ったことがあります。 日本時代の台湾はドロボーなんかいなかった。外出するのにカギをかける ことはなかった。「教育勅語」のおかげだ。 窓に格子をはめることもなかった。いまでは高層マンションでも屋上から 侵入するから油断がならない。 高雄の「寿山」には昔はサルがたくさんいたが、大陸からやってきた者に 食べられてしまった。 大陸からやってこなかったら、台湾はこんなにはならなかった。
374 :
檳榔で吐血 :04/10/14 17:58:39
自分が台湾に行ったときに泊った宿の婆さんも言っていたな。 戦時中、空襲警報が鳴って戸を開けたままで逃げても、帰ってきたら 何一つ無くなっていなかった。鍵の必要が無かった。 今は違う。鉄格子はめなければ安心できない、と。 しかし鉄格子はまった窓は防犯にはいいかもしれないが、火事の時は悲惨だな。 脱出できず、そのまま焼け死んでしまう・・・
375 :
美麗島の名無桑 :04/10/14 19:55:44
自分で自分の首を絞める台湾人さ
376 :
美麗島の名無桑 :04/10/14 20:11:38
タイワニーズ カコイイ!
taiwanboomさん 日本人学校と台湾人の通う公学校は校舎や設備はどう違いましたか? やはり公学校はみすぼらしかったのですか?
378 :
美麗島の名無桑 :04/10/18 13:20:08
, ‐ ' ´  ̄ ̄ ` 丶、 / 丶 , ' r、'´ _ _ ヽ / /ヽヽ__ ' ´ _____,, イ ヽ ,' ,' {_r'‐'',ニ二、ー===-‐'|l 、`、 iヽ i // '´  ̄`ヽヽ l| l i ,' ヽ l / 、>‐=、、 =ニヽ ! l l ,' /⌒ l | ´ /(__,!゛ `、! | ! 大日本帝國は最高よ! ,' ! '^> |! i。_oソ , ニ、, ノ 丿 ,' ヽ ヽ ` ─ '⌒Y, ' / / |`T 、 j /}´ ,'^! / l l i iヽ i` ーァ /ノ / / / | | i i ! \ l_/ ノ | {ヽ / / ,' | | i iノ 丶、 __ , イ | | l } 〃 二ヽ ,' r| | '´\_ / ,' ,′ | | |└'{_/ ,─`、 ,' , --─/ l | ─ 、 `X´ト、 ,′ | | | '-イ_ィ、 〉
379 :
taiwanboom :04/10/18 13:36:24
>>公学校の校舎 私の記憶では公学校の校舎などは日本人の小学校と大差無かったようです。 花蓮港の私の官舎の前が「公学校」でしたが、私が通学している日本人小学校の 校舎とほとんど同じでした。 ここでは「夜間部」があり、夜の9時まで賑やかでした。母が「本島人の子供は 昼間に働く子が多いので夜学が大切になるのよ」と言っていました。 台南の赤嵌楼の近くの小学校(公学校)は、赤レンガ3階建ての堂々とした校舎です。 数年前、この近くの「天下大飯店」に泊まったとき、この校舎を見て「日本時代に これが台湾人の公学校だったとは思えない」ほど立派なものだと改めて感じました。 実はこのあたりは少年時代私の遊ぶ「領域」で、この公学校をいつも見ていましたが、 当時はとりたてて「公学校としては立派だな」なんて思ったことはありません。 学校が立派なのは「小」も「公」どちらも当たり前だったのでしょう。 当時はこのように「公学校」だからといって差別をつけなかったのではないでしょうか。 ただし先生が公学校に「異動」になったときは「左遷」されたと受け取ることはありました。 校長や教頭などの役つきにならないときに、とくにそのようにいわれていました。 植民地統治の根幹の記養育にかける台湾総督府の姿勢がこのような「平等」な校舎を 作ったのでしょう。 台南の日本人の「一中」と本島人の「二中」の校舎も差別はありません。 どちらも現在では史跡に指定されてもよいほどです。 しいてあげれは「一」と「二」の順番の差別ぐらいです。 そのためか、戦後になって「一中」と「二中」の校名が入れ替わりました。 日本時代の「一中」を「二中」に変えたのです。 台湾政府の屈折感の表れですかね。
380 :
taiwanboom :04/10/18 13:46:01
>>374 ご心配のとおり、マンションの火災でこの「格子」のため屋外に脱出することが できずに焼死する例がありました。 台湾の新聞で見たことがあります。 最近は「格子」が少し少なくなったように感じますが…。
台北だと1,3,5が日本人 2,4中が台湾人だったそうで、別に卑屈になるような話でも ないんでしょうけどね 台湾の学校費用は総督府から出ていたのでしょうか、それとも住民負担の学校収費が あったのでしょうか 台湾は官業収入が豊富だから朝鮮と違って予算から出ていたのでしょうかね
382 :
美麗島の名無桑 :04/10/19 03:14:16
転載
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■申し込み先 日本李登輝友の会
〒102-0075 東京都千代田区三番町7-5-104号
TEL 03-5211-8838
FAX 03-5211-8810
E-mail
[email protected] URL
http://www.ritouki.jp/
383 :
美麗島の名無桑 :04/10/19 11:44:41
え?台北に5中なんてあったの?知らんかった。
384 :
taiwanboom :04/10/19 11:47:12
>>381 台北での奇数Noが日本人中学だったことは、日本人の「奇数を貴し」と する心情が絡んでいるのかもしれません。 戦前の官立の高等学校に番号が校名になっていたいわゆる 「ナンバースクール」なるものがありました。 当時はその中でも「奇数蕃校」がよいといわれていました。 第一高等学校(一高・東京)第三高等学校(三高・京都) 第五高等学校(五高・熊本)がその高等学校です。 台湾の教育は大学など上級学校については知りませんが、 小学校、中学校(現高校)などは総督府の予算でまかなっていました。 台湾経済はかなり早い時期から「独立採算」が出来るようになったと 聞いています。 本国政府に「上納金」まで納めるようになったとも聞きます。 教科書は国語や修身など基礎学科以外は、総督府の教科書でした。 このため私は昭和15年、内地に帰った当初は、教科書で苦労しました。 ただし小学校では「授業料」を家庭が負担していました。 私が花蓮港小学校のとき毎月封筒に入れた「50銭」を、授業料として 学校にもっていっていました。 初めは「50銭銀貨」でしたが、昭和13年2年のときから「50銭紙幣」 となったことを憶えています。 このお札をじっくり見つめて「隠し文字?」を見つけたりしました。 極小文字で「日本銀行」とありました。 当時は台湾の紙幣は台湾銀行が発行した「台湾銀行券」だったので、 いま思うと「50銭紙幣」は日本銀行券だったことになります。 他の百円などの高額紙幣が「台湾銀行券」だったかどうかは憶えていません。 百円券は現在の「50万円券」のようなもので、私がこれをはじめて見たのは 昭和15年小学校4年、内地に帰る船の船室で母が見せてくれました。 脱線してすみません。
台湾の商店経営は台湾人が多かったですか? 日本人がおおかったですか? 亭仔脚のメイン通りの商店街は台湾人経営と日本人経営とどちらが多かったですか? 扱っている商品や規模は日本人と台湾人で違いがありましたか? メインストリートの購買客の民族別割合はどんな感じでしたか?
387 :
taiwanboom :04/10/20 14:16:53
>>386 当時小学校だった私に、この質問に答える資格はないようですが、あえて思い出を 書いてみます。 当時はほとんどの日本人は、台湾の商店街のお店の経営者が台湾人(本島人)か 日本人(内地人)かを気にしたことはなかったようです。 日本の銘菓や和菓子を売る店は日本人の店がほとんどでした。 その他の店は店内の飾り付けが「中華風」であれば、台湾人の店と推察できます。 しかし台湾人の店でも、主人や店員がなかなかの日本語を話すので、まったく 違和感がなく台湾人の店かどうかは気になりませんでした。 とくにメインストリートの商店では、その感が強かったと思います。 購買客の分類については私はまったく「無知」です。 当時はいわゆる「御用聞き」がさかんで、私の家にもよくやってきたものです。 野菜屋さんや魚屋さん、それに雑貨屋さんなどです。 そのときの言葉が「ヘン」だったので、母に訊いたら「あそこは本島人の店よ」と いわれたことがあります。 お菓子屋さんの「御用聞き」もきました。 重箱の二倍くらいの広さの容器に5cm角の升目を切り、そのなかにお菓子の サンプルをいれています。これを6、7段重ねて皮製の黒いかばんに入れて あります。サンプルとはいっても本物のお菓子です。生菓子類はありません。 この容器を玄関や縁側にひろげて注文をとっていました。 私がそのサンプルをつまんで食べて、母からものすごく叱られたことがあります。 「このお菓子屋さんはよその家にも行くんだから、だれが触ったか知れないのに。 おなかをこわしたらどうするの。もうお菓子は買ってあげないっ!」と手厳しく 言われました。 いま振り返ると、このときの「御用聞き」は台湾人で、母の心の中に「本島人が 触ったかも…」ということがよぎったのかも知れません。 呉服屋さんの「御用聞き」もきました。 和服で角帯をしめ白足袋をはいた日本人です。 大きな葛篭(つづら)に反物を入れて大風呂敷で肩に背負っていました。 母はこの人は座敷に上げていました。日本人だからでしょうかね。 反物の巻物をいろいろ広げて、あれやこれや話しながら選んでいました。 近所の人を呼び集めることがあるそうですが、母はしませんでした。 いちど「蛇皮」の「御用聞き」が来たことがあります。 台湾人だったのでしょう、座敷ではなく縁側に回ってもらいました。 大きな箱からなめしただけで加工していない長い蛇の皮を縁側にずらりと並べた ときは驚くほど迫力があり、美しいがちょっと気味の悪い感じもしました。 台湾コブラの皮でも幅が20cmもありました。ニシキヘビの皮は30cm以上も あります。 私はこのニシキヘビの皮を体に巻きつけて、家の中を「俺は南洋の土人だあー」 といって走り回り、このときも母からものすごく叱られました。 「やめなさい! 蛇の皮は高いものよ。もし足で踏んで破ったらどうするの。この人が 心配しているではないのっ!」 当時は私たちは自分の小遣いで買い物をすることがあまりなかったので、台湾の商店に ついての知識はそれほどありません。 内地に帰ってから小遣いで買うようになり、台湾でもっと買ったら楽しかったのに と思いました。 台湾の商店のほうが賑やかで、品物がいろいろあったからです。 それでもいまの台湾のような「ド派手」な看板はありませんでした。 またまた脱線してすみません。
他の所に書いた奴だけど、こっちにも貼っておきます。 台湾にあった陸軍航空廠の嘉義空港の話。 1940年だか41年にあった地震の後に空港に行ってみると 格納庫の前に並べてあった飛行機が全部行方不明になっていた。 地震の揺れでどっかに転がって行ってしまったのだ。 皆で手分けして探すと敷地の端の方にあった。 重爆が手前にあってその間に戦闘機、というように重なっていたそうだ。 「サイドブレーキとか無かったの?」 「今の飛行機ならともかく当時の飛行機には無かった。」 「車輪止めは?」 「一応有ったけど発進の時に使うぐらいでそんなに数が無かった」
台湾プラスチックの王永慶って植民地時代は丁稚奉公から始まって 精米業で成功(ただし戦時統制経済で廃業させられ転業 彼のような台湾人中小商工業者が多数いたのだと推されます
390 :
美麗島の名無桑 :04/10/30 09:13:38
3年前台湾に旅行したとき、昭和10年に治政40年を記念して制作された 台北市内鳥瞰図の復刻版の地図を買った。 郊外の富田町に帝国大学、本郷町に高等学校があった。 今の台湾大学医学部は台北医院となっていたので奇妙に思って調べたら、 台北帝国大学は内地の帝国大学と違って、医学部が基幹とはならず、 文政学部、理農学部で発足し、その後、予科と医学部を増設したとのこと。
391 :
美麗島の名無桑 :04/11/01 13:24:03
版元と書店教えて!
392 :
美麗島の名無桑 :04/11/01 20:24:02
1994年元月 複製出版 南天書局有限公司 362-0190 台北市羅斯福路三段283巷14弄14号 定価500元でした。
393 :
美麗島の名無桑 :04/11/01 23:18:53
まだ売っているかな?
394 :
美麗島の名無桑 :04/11/03 23:10:42
あの鳥瞰図はいいねえ。他にも戦前の複製地図売ってたな。
↑ここでの蔡焜燦さんはありのままに語っておられますね。
398 :
美麗島の名無桑 :04/11/14 13:55:27
心のそこから大日本帝國が好き
399 :
& ◆fGly4r4aEE :04/11/18 00:31:04
↑知障
401 :
美麗島の名無桑 :04/11/21 23:06:28
| | ∧,,∧ _,___|_ロ_ミ,,゚Д゚彡 <迎え撃て!!  ̄ ̄'┬‐;!宀宀丶,, .O[く===く l‐‐‐ヽ `''‐:;,,,,,._______________.,,,,,,,,,,,,,.______________ ____,,;-------;,=ヽ==ヽl__________,彡_;(】┴‐‐‐┴‐‐‐┴---┴‐‐┴‐┴┘ .>-/====!ニニ!.|========i========i======='i--ヽ ヾ‐‐‐--:;;,,.____|_|_大日本帝國陸軍支那派遣軍______|,,,,メ "ヽ(@)γ⌒''γ ⌒''γ ⌒''γ ⌒''γ ⌒''γ ⌒'(@丿 ヽ、,, ゞ_ノゞ _ノゞ _ノゞ _ノゞ _ノゞ_ノ/ キュラキュラキュラキュラ
402 :
美麗島の名無桑 :04/11/22 10:13:18
東○書籍の歴史教科書とか読んでいると 頭に南京虫が湧くよ。
台湾を訪れた日本人が「日本の植民地時代の台湾は・・・」と話したところ、 台湾人の方が「台湾は日本の植民地になったことはない。失礼だ。 日本統治時代というべきだ。」と言われたとのこと。 これってどういうことなのでしょうか。
404 :
美麗島の名無桑 :04/11/24 10:11:13
// , - ' ', ', ゙、 ,:' // , , | !l ', ', ゙, ', ,',' l/ , l ',', ゙、 ',',', ',| | 皇軍将士にご武運あれ! {{ | { { |',', _',',ゝ-゙===‐- | | ! ll | ',', _',='´ ,,;==,、 | |r‐、 l {', ', ゝ",;=、 " ';:ヽJ';゙| | ) ! ', ゙,/!、 ヲ';ヽJ; '、_゙゙ノ ! ', ノ ', l ヽ '._゙゙ノ | ',. ', ,-、 | ゙、 ゙、-┐ | ', ', ゙、 ヽ i、. '-' / | ':, ゙, ', ', | `i ‐ 、_____, -'-‐‐' ', ':, ゙, r-‐‐、 ,-、 ! ヽ r| ', ヽ. ':, ノ -ュ‐´ } |ヽ/´/ / ':, \ ':, { 、_ `''i7'" }_,ィ´ ,' / ゙'ー-、 ヽ ':, i´ __ `Y /{ヾ , ,' / _,;;;===\ ) ':, ゙、 ゙'''"、 / ∧ ヾ,,{ / ,;=",,-‐ ' ' ゙  ̄ } / ':,
405 :
美麗島の名無桑 :04/12/02 01:12:16
台湾が植民地だったといい張る基地外は、根拠を示せ
まず植民地とは何ぞやという定義からですかな。
小泉を「グッドマン」と言った経緯がわからなかったが、田中康夫
はこう書いている。
ジョージ・W・ブッシュとの共同会見の席で、「貴方は依然として
ブッシュのプードルを演ずるのか?」と質問を受けたイギリスのトニ
ー・ブレアは微苦笑の後、「いや、コイズミこそ私以上にグッド・マン
だぜ」と最大級の“敬意”を表して逃げ切りました。
http://www.gendai.net/contents.asp?c=025&id=16838 これが本当ならなんと情けない日本の首相だ。笑いのダシにされ
ている。
408 :
taiwanboom :04/12/02 13:15:38
記者会見で、イギリスのブレア首相が「貴女はブッシュのプードルか」との質問を 受けました。 日本のマスコミで小泉首相にこんな質問が出来る記者がいるでしょうか。 日本のマスコミの「衰退」は目を覆いたいほどです。
台湾人日本兵の回想
台北国際放送
http://www.rti.com.tw/realaudio/temp/japan/jpnb06.ram フォルモサ便り
30分頃から
ビルマ戦線で戦った台湾兵のお話
日本政府の歴史認識と戦後の対応に憤っています。
○私は国を守る為家族に内緒で日本軍に志願した。
○なぜ歴史教育で日本が戦争するに至る経緯を教えないのか
○日本はアジアの民衆に白人と戦う勇気を与えた
○シンガポールに踏み込んだ時、識字率は10%、高官の子弟しか教育を受けられない
一方、台湾は初等教育87%普及、多大なものを日本に建設してもらい文化を向上させてもらって当時17歳の私は感慨無量だった
>>408 直接には聞かないけど、紙上では非難の嵐で愛国心のかけらも感じられない。
411 :
美麗島の名無桑 :04/12/03 19:09:36
409 チャンコロって言葉はいつからあったんだろう。60年前の日本人が使ってたとおもうと新鮮だ
実は朝鮮より台湾の日本人の方がより差別的だったのではないかとも思う。
413 :
美麗島の名無桑 :04/12/03 19:50:09
>>412 台湾ブームさんの話きいているとそう感じるな。
中国というフィルターを通すから草の根では区別をつけない輩がでちゃうんだろうな。
そのフィルターがないぶん朝鮮はよかったんだろうな。
事大主義って最悪だよ、満州事変で親日派に転向したチョンと日本敗戦で手のひら返したしたチョンが=で結ばれるんだろ?
414 :
美麗島の名無桑 :04/12/04 00:02:25
>>409 感動した!!ショウキンブン先生に会いにいこ。
415 :
taiwanboom :04/12/04 14:36:15
>チャンコロって言葉いつからあったんだろう。 私が台湾で物心がついたときにはすでにありました。昭和10年ごろです。 でもこれは「支那人」に対する蔑称で、台湾人(本島人)に対して使った記憶は ありません。 元日本兵の台湾人はいまでも中国人を「チャンコロ」と言っています。 支那(中華民国)との間でトラブルが起こるようになった1920年代から 「チャンコロ」が使われ始めたのではないでしょうか。 その国や民族に対する激しい敵意がないとこんな「蔑称」は生まれないものです。 語源ですが、私は勝手に次のように理屈をつけています。 中華民国の独裁者「蒋介石総統」の「蒋」を「チャン」と読み、 これに「犬コロ」「ジゴロ」「コロチャン」などの「コロ」をくっつけた ということです。正誤のほどは分かりません。 日本内地に初めて帰って「コリヤン」という朝鮮人に対する「蔑称」を知りました。 そして、この朝鮮人が私たちの身辺に珍しくないことに驚きました。 「朝鮮人部落」なんてものもありました。 同じ植民地なのに台湾人は、内地ではほとんど見かけませんし「台湾人部落」 もありません。不思議でした。 感覚としては、私は朝鮮人よりも台湾人に好感をもっていました。 朝鮮は国王のもとにあった「独立国」であり、それを植民地としたことは「国家」 の破壊であり、民族としての権利の収奪です。当然反抗は激しく根強かった。 台湾はご承知の「化外の民」として、清朝政府から見放され放棄されたのです。 領台直後に日本は台湾人に対して、2年間の猶予を与えて「大陸に帰る選択」 をさせました。 形式的かもしれませんが、この措置の結果台湾人は自らの意思で台湾居住 を選んだのです。 朝鮮にはこのような選択は、変えるべき「本国」がないので不可能でした。 この両者の違いが、現在の台湾と朝鮮両民族の対日感の差異となっている のかもしれません。 話がそれましたのでここでやめます。
夏目漱石の満州朝鮮旅行記『満韓ところどころ』(1909年)の中に、支那人を 「チャン」「チャンチャン」 と呼ぶ箇所が既にありますので、蒋介石由来の説はいささか難があると思われます。
417 :
美麗島の名無桑 :04/12/04 16:57:33
チャンコロの語源はzhong guo ren(中国人)だそうで。
清国人 QING GUO REN の説もあり
張(zhang)はどうだろう 張三李四という言葉もあるほどありふれた姓のようだし それが中国人の代名詞化したとか
420 :
かさば ◆1KWe/Jkuxs :04/12/05 08:07:17
チャンコロとはシナ人の蔑称です 私の祖父母も使っています。 語源は「清国奴」のホーロー語読みからです。 「張三李四」は「誰かさん」の意味で、蔑称ではないと思いますが・・・? (日本の山田太郎さんや田中花子さんみたいなもんでしょうね)
421 :
taiwanboom :04/12/05 14:45:38
>蒋介石由来説はいささか難がある… そうですね。私の「稚説」は撤回します。 戦後の思いつきですから。
422 :
美麗島の名無桑 :04/12/06 05:15:59
>>415 朝鮮半島は植民地ではないし、併合を頼んだのは朝鮮側から。
併合時もこれといった抵抗も無し。
反抗が根強かったのは、むしろ初期の台湾の方でしょう。
貧乏で教育が普及しなかったから日本人になりきらなかった。 でも確かに朝鮮にも少数日本人になりきった人がいた。
424 :
美麗島の名無桑 :04/12/08 01:09:15
422の指摘は正しい
425 :
taiwanboom :04/12/13 13:05:55
かさば様 今度の選挙で台湾に行きましたが、気になるので台北の専門書の店主に 「チャンコロ」について訊いてみました。かなりハイインテリの人物です。 彼も自信たっぷりに「清国奴」からきた言葉だと答えました。 かきばさんと同じ意見でした。 どうやらこの説が強いようですね。
426 :
美麗島の名無桑 :04/12/18 12:30:40
さうだったのか 中國人の音だと思ってた
427 :
日語& ◆1odsyxrK/A :04/12/18 16:54:08
ところでカサバさん曰くは「清国奴」のホーロー語読みだそうですが どんな発音になりますかね。
428 :
フォルモさん :04/12/27 09:53:39
taiwanboom様 日本統治期、本島人の警察官はどのくらいいたのですか?
429 :
美麗島の名無桑 :04/12/27 10:43:38
台湾人は他国に支配されて喜ぶような情けない人間ばかりなのか?
430 :
美麗島の名無桑 :04/12/27 12:56:08
>>429 少なくとも「自分たちでは統治できないので併合してください」などと言う
どっかの半島のような人間はいないと思うけど?
本島人の警察官は6分の1 朝鮮は二分の1
432 :
美麗島の名無桑 :04/12/28 02:28:38
>>177 正確じゃないだろ!
創始改名は任意だった。勝手に名前をつけられるのはおかしい。
そいつのいってることが嘘じゃないなら、記憶ちがいだよ。
台湾の老怪童 ありのままの話が聞けるからいいやね
435 :
美麗島の名無桑 :04/12/29 08:31:50
>429 ポルトガルやスペインや大陸に支配されていた頃は人間扱いされてなかったが、 旧日本は教育したり、少なくとも人間扱いはした。
436 :
美麗島の名無桑 :04/12/29 08:38:34
台湾はオランダの悪辣な東インド会社にも支配されてる。 外資が日本にスパイを放って腐敗させ乗っ取りしている現在の日本の現状は、 当時の東インド会社の支配方法に酷似しているな。 (半島の儒教思想では、中国が兄で、日本が弟だという通説になっている。 中国に改名しろと言われて素直に従い現在に至っている。)
沖縄って台湾より貧乏だったの知ってるか? ありゃ建設の仕様がない。 水利かんがいがなくて米も看水田、砂糖も大したことない。 内地から離れすぎて工業も駄目 台湾は砂糖、樟脳、米二期作、パイン、バナナ、茶、林業、農業だけでやっていける。
438 :
美麗島の名無桑 :04/12/30 16:58:45
どうでもいいけど台湾は創氏改名じゃなくて 改性名だろ。
米軍が沖縄ではなく台湾上陸してたら対日感情が変わっていた可能性はあるよな。
440 :
美麗島の名無桑 :04/12/30 17:28:00
>>439 日本人は過酷な地上戦を押し付けたあげくに最後には見捨てたってことになる。
日本統治時代の解釈についても、民族を奴隷化しようとしたものとなるだろう。
つまり半島と沖縄がそれぞれに日本(本土)に対して抱いてる感情をミックスしたようなもの。
441 :
美麗島の名無桑 :04/12/31 08:07:53
台湾に上陸して欲しかったな。
442 :
美麗島の名無桑 :04/12/31 13:59:29
443 :
美麗島の名無桑 :05/01/01 11:16:16
台湾に上陸してくれれば沖縄の人はあんなに死なずに済んだのに。
444 :
美麗島の名無桑 :05/01/01 11:22:37
445 :
美麗島の名無桑 :05/01/01 11:37:11
>>442 べつに米軍が上陸しなくても、
民国政府が亡命してきて君臨していなければ、
台湾は中華人民共和国の一地域として普通にウルトラ反日です。
邱永漢は東大経済学部だから 能力に比して就職もままならない給料も安いと言う悲哀を感じたわけだ。
448 :
美麗島の名無桑 :05/01/02 14:13:31
丘永漢と同時期に、つまり日本敗戦前の台湾で文学活動をしていた作家の卵たちの話を読んだことがある。 かれらの使う言葉は日本語。日本語に磨きをかけながら作家になることを夢みていた。そして光復。公用語は北京語になり、日本語は敵国原語になった。 大学時代の我が恩師は、中国近代史の研究者だったけど、台湾の人の使う日本語を「奴隷の言葉」と仰せられた。わたしは台北にほんの数ヶ月だが居たことがあるので、この言葉を聞いてひどく悲しくなった。 何で日本の研究者までが台湾の事情を貶めて見るのだろう?
449 :
taiwanboom :05/01/02 21:45:37
>>432 正確じゃないな。創氏改名は任意だった。勝手に名前をつけられるのはおかしい。 そいつのいっていることが嘘じゃないならね記憶ちがいだよ。 手厳しいですね。 今度の立法院選挙で渡台したとき、その「創氏改名」をされた台湾人の同級生に、65年ぶりに 会うことが出来ました。積もる話の中でこの「創氏改名」のことをたずねてみました。 「そうだった。あの日教室でねー。はっきり憶えているよ」ということで、授業開始の直前に担任の 先生が「勝手に」つけた3人の日本名を思い出して、私の記憶と「照合」しました。 結果は見事に「一致」しました。そして彼らのその後に話が及びました。 3人の内の1人はアメリカでこの「日本名」で開業医として、なかなかはやっているということが 分かりました。なぜ日本名を捨てないのか、その友人に尋ねたところ「そんなことより、こいつが アメリカで、あのときの日本名を使っていることが愉快だよ」と答えにならない答えでした。 「それにしても、あんたはよくも3人の日本名を正確に覚えていたね。記憶力抜群だね」とお褒めの言葉を 賜り、彼はたいそう愉快にしていました。 このお話は「真実」ですが、いまそれを「立証」することは私にはできません。 世の中には、ましてや古い昔には、いまの常識では理解できないことがあるものなのです。 たとえば、公然たる「蓄妾」や「徳政令」などです。地球が丸いということも 「そんなはずはない」と裁判にかけられました。 「そんなはずはない」から脱却するところに、社会の発展があるのです。 これからも台湾について「そんなはずはない」ことを書くかもしれません。 「嘘」と決め付けずに受け止めていただくとありがたいのですが。 実は私の仕事は「そんなはずはない」にこだわっていては、一歩も進みません。 因果な仕事です。
450 :
美麗島の名無桑 :05/01/02 22:37:17
>>449 おそらくその三人は蕃人、原住民の出身ではないか?
学校に通っていた蕃人なら差別防止対策として日本名をもらっているはずだ。
451 :
美麗島の名無桑 :05/01/03 01:02:46
そういえば、以前下関の日清戦争講和記念館に行ったんですが、 隣の春帆桜の人の話だとあそこには台湾人が多く来るそうです。 これって、日本統治を高く評価してるって事かな?
452 :
taiwanboom :05/01/03 16:16:09
>>450様 日本人小学校で私のクラスにいたの3人は、原住民ではありません。 本島人(台湾人)です。 2人は医師の息子で、一人は会社のオーナーの息子です。 3人とも裕福な家庭です。 私が会った彼は、純日本風のすばらしい家に住んでいました。 2人は現在アメリカで医師となり、友人は技術者として成功しています。 当時は台湾人は上流家庭で成績優秀な者しか、日本人の小学校に入学できませんでした。 私が会った友人は家庭でも日本語で育てられたので、いまでも日本語が「母語」だそうで きれいな日本語を話します。 会社のオーナーの息子は、学校では日本語を使いますが、家庭では「台湾語」だったようです。 当時の私のクラスに本島人以外に原住民と台湾人のハーフが一人いました。 こんど会った友人に私がこのハーフについて「原住民ではないかと思っていたが…」と尋ねた結果 分かったのです。一見して原住民の特長であるすばらしい目に気がついて、在学中から気になって いたのです。 彼は「よく気がついたね。あのころは日本人の小学校に原住民が入ることはたいへん難しかった」 といって、なぜ入学できたかを話してくれました。 その理由を書くと、プライバシーに触れるかもしれませんので割愛します。 私が理解している「創氏改名」は台湾人の悲劇のはずですが、現実は必ずしもそうではない ということを知らされました。 ただし「創氏改名」を積極的に受け入れたり、日本語を「母語」のように話すこと、 そのことだけで、あの「228事件」で「弾圧」の理由になったそうです。 私のクラスにいた本島人と原住民の4人のなかで、いまも台湾に住んでいるのは私が会った 友人だけで、他の3人はすべてアメリカで暮らしています。 日本時代の上流階級の台湾人に対する戦後の「迫害」の影響かもしれません。 このことを「彼」に指摘したら「それもあるけど、私の受けた迫害もたいへんなものだったよ」 といっていました。
453 :
taiwanboom :05/01/03 16:29:08
>>451様 日本の統治時代がよかった、ということは否定できませんが、 それは「比較」の結果ではないかとも思います。 戦後の「蒋介石時代」があまりにもでたらめで、台湾人がテロに苦しんだので それに比べて日本時代の評価が相対的に高くなり、それが日本時代への「懐旧」 となっているのではないでしようか。 台湾に渡って長期間台湾を支配した外来政権の蒋介石政権が、日本時代以上に 台湾人を丁寧に遇し「善政」をしいたら、台湾人は今ごろは中国人のように めちゃくちゃな論理で「日本嫌い」になっていたかもしれません。 たとえ私の「第二のふるさと」であっても、そんな台湾には以降とは思いません。
少年倶楽部、少女倶楽部読んで講談社の所在地まで記憶していた台湾人が 反日にはならないだろう。
455 :
美麗島の名無桑 :05/01/07 09:12:27
(-ゝ-) 日本最強 .ノ^ yヽ、 ヽ,,ノ==l ノ / l | """~""""""~"""~"""~"
韓国は日本統治に協力してた上流階級がそのまま建国したようなもんだけど、あの有様。 実際終戦後引き上げ時点まででは半島南半でも日本人に対する 集団的な迫害行為はあまりない。個別犯や嫌がらせ程度なら台湾にだってあった。 やっぱりその後の状況次第ではいくらでも強力な反日台湾になりえたのでは。
457 :
美麗島の名無桑 :05/01/15 17:12:29
しかし台湾には、朝鮮の三一事件のような、大規模な独立運動が無かったな。 霧社事件は、事件そのものは凄惨だが尻すぼみに終わったし。 日本敗戦後も日本人慰霊碑は残っていたが、「日中国交正常化」によって壊された。
台湾は独立国じゃなかったしね。 各種運動の中心は自治権獲得運動だったし。
韓国人の言ってるのは 朝鮮人を馬鹿にするなというナショナリズムだよ。 創氏改名も日本語教育もそういうこと。 朝鮮人に日本人の名前をつけるのは生意気だというんだよ。 日本人はそこがわかっていない。 台湾は国民党が来なくても反日になんかならんよ。
460 :
美麗島の名無桑 :05/01/16 18:54:02
そうだね 国民党にこじつけるのは左翼の屁理屈だ
461 :
美麗島の名無桑 :05/01/19 10:28:47
国民党以前からの親日
独立以前は親日だったかの国と同じだな
463 :
美麗島の名無桑 :05/01/21 12:42:51
そのとーり 日韓併合時には大勢走り出てきて叙爵し、貴族院議員に叙任した
464 :
美麗島の名無桑 :05/01/21 13:00:24
受爵を拒否した者も多かったよ。 別に韓国側の要望で行われたわけではない、単なる懐柔策。
465 :
美麗島の名無桑 :05/01/21 13:04:51
>>457 初期には漢族の抵抗運動が頻発してたでしょ。
この過程での死者数も台湾のが多い。
466 :
美麗島の名無桑 :05/01/29 11:01:02
阿弥陀講といって、女性だけで月一回集まって、長ぁーい数珠を繰りながら南無阿弥陀仏を念じ、女人往生を祈るサークルをやってます
467 :
美麗島の名無桑 :05/02/02 23:27:14
今年は日露大勝100周年
468 :
美麗島の名無桑 :05/02/02 23:30:37
去年だよw
469 :
美麗島の名無桑 :05/02/05 04:08:45
>>468 よく嫁
去年なのは「日露開戦 100周年」!(w
470 :
朝鮮征伐 :05/02/11 18:53:39
┌─┐ │●│ 勝った!勝った! └─┤ _ _ ∩ ( ゚∀゚)彡 ∧_∧ ┌─┬⊂彡 ☆)))Д´> アイゴー |●| パーン └─┘ パーン
471 :
美麗島の名無桑 :05/02/18 02:16:35
ばかばっかし
472 :
美麗島の名無桑 :05/02/21 09:29:20
台湾ブーム師の書き込み読みたい
473 :
taiwanboom :05/02/21 11:58:04
>472様 なぜか、PCで長文を打つと「心悸高進」を起こすようになりました。 「不整脈」の持病があるので用心して、BBSは当分見るだけにしています。 自信が回復したら、またお目を汚しますからよろしく。 見るだけでは寂しいものです。
いつかは裏切られる
それで半角に・・・
478 :
美麗島の名無桑 :05/02/26 14:40:55
今日は226事件の記念日
479 :
美麗島の名無桑 :05/03/01 09:12:13
/ ,,,,,,,,,,,;;;;; \ /''''',,,,;;'''' ,,,,,,,,,,,,,i; ;i,,,;;''' ,,,,,,,;;;'''''''' l; .;i ,,,,,,,,;;;''''''' ,,.-,,.''' . i; ;i,,,,,;;'''' ..i;粘;i;,,,,,;;;''''''''''''''''''''=i; !;;;;.,ヽ .,,,;;;iiiiiiiiiiii;i.着i;iiiiiiiiiiiiii;;;,,, / ,,;;;;! iiiiilll|||||||||||||||||||||||IIII||||||||||||||||||||lll,,;;!iiiii _______ iiiii|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||iiiiiiiiii / | `|||||||||||||||||| ● ||||||| ● ||||||||||||||||||" | >>464 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||| .| お前、 .| .((i|||||||||||||||||||" `||||||||||||||||||||)) / 馬 鹿 だ ろ | ((i||||||||||||||||||  ̄ ̄ |||||||||||||||||||ノノ  ̄|______/ __,,,;____.__ i|||||||||||||||||||iiiiiiiiiiiiiii|||||||||||||||||||||i__________,__ iii"卍卍卍卍iii||||ii||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||ii||||卍卍卍卍卍`iiii ii||||卍卍卍卍ii |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||卍卍卍卍卍i;||iii i||||卍卍卍卍i|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||卍卍卍卍卍i;|||iii
480 :
美麗島の名無桑 :05/03/09 07:40:01
taiwanboom さんのご快気をお祈り申上げます
481 :
美麗島の名無桑 :05/03/09 08:51:59
戦前、食堂(ヒカル食堂とか)のメニューはどういうものがあったんの でしょうか?
482 :
美麗島の名無桑 :05/03/15 15:58:32
483 :
美麗島の名無桑 :05/03/15 16:11:18
484 :
美麗島の名無桑 :05/03/16 05:09:47
>>465 独立運動と見るのは
多くの場合難しい。
本土復帰を掲げたり場合もあるし。
485 :
美麗島の名無桑 :2005/03/31(木) 00:08:42
土人の蜂起に過ぎない
486 :
美麗島の名無桑 :2005/03/31(木) 00:32:35
>>482 高雄港站の建物、一部現用と同じに見えるのは目の錯覚だろうか?
487 :
美麗島の名無桑 :民國94,2005/04/02(土) 14:34:48
台湾人は日本時代の名残を大切に保存してゐる
488 :
美麗島の名無桑 :2005/04/07(木) 10:57:29
總督府からして日本の遺産
489 :
美麗島の名無桑 :2005/04/11(月) 23:44:43
旧同胞の本土復帰運動を支援しませう。
490 :
美麗島の名無桑 :2005/04/15(金) 19:36:42
大東亜戦争従軍記章を!
491 :
taiwanboom :2005/04/20(水) 13:10:58
>490様 「大東亜戦争従軍記章」は終戦の1年ほど前の昭和19年9月21日に、 勅令第17号「大東亜戦争従軍記章令」によって制定されました。 戦時中のため材料の銅が不足して「錫」となり、デザインも少々お粗末でした。 大阪造幣局で製造しましたが、実際に授与する前に終戦となり、進駐軍によって ほとんどが溶融処分されました。 いくつかを進駐軍の兵士が持って帰ったものが、ときどき市場に出ることがあります。 国内に本物は出ていません。 ところが、この記章の金型と仕様書が日本に残っていたので、それにより最近かなり 精巧なものが複製品としてつくられています。 値段は1〜2万円だそうです。 ヨコレス失礼しました。
492 :
美麗島の名無桑 :2005/05/04(水) 09:46:26
興味深いお話ですね
493 :
美麗島の名無桑 :2005/05/07(土) 06:45:43
494 :
美麗島の名無桑 :2005/05/12(木) 08:28:10
↑ばか
495 :
美麗島の名無桑 :2005/05/12(木) 21:15:35
八田與一技師の慰霊祭行きました。 國民黨嫌いで日本好きの爺さんが澤山ゐました。
496 :
美麗島の名無桑 :2005/05/12(木) 23:52:12
よしのり本ごときで台湾ヲタとは言わんやろ
497 :
美麗島の名無桑 :2005/05/13(金) 22:19:44
498 :
taiwanboom :2005/05/17(火) 10:38:13
日本統治時代の台湾について私の体験を連載で書きます。 生後6か月から小学校4年までの幼少年時代の体験です。 日治時代の台湾を研究している在台日本人研究者(夫君は台湾人)の依頼でまとめたものです。 いまの台湾人と日本人のふれあいでは、想像できない現実があります。統治者と被統治者の関係です。 不評なら今回限りでやめます。 植民地時代の日本人と台湾人(1) 台湾人をなんと呼んでいたか 台湾人を「本島人」、日本人を「内地人」ト呼んでいた。 私は台湾人に対して「台湾人」という言葉を使ったことはほとんどなかった。当時の台湾では 台湾人は常に「本島人」であった。「あのお医者さんは本島人…」とは言うが「あのお医者さんは 台湾人」とは言わない。 「ちゃんころ」は台湾人を指す言葉ではなく、大陸の「支那人」を指し、台湾人自身も支那人を 「ちゃんころ」と蔑称していた。台湾人は「ちゃんころ」を自分たちへの「蔑称」とは受け取って いなかった。事実そうだった。これには異論があるかも? 日中戦争の1937年(昭和12年)11月中華民国の首都南京ガ陥落したとき、私は花蓮港街 (現花蓮市)の小学校に通っていたが、南京陥落を祝う提灯行列で街をあげて夜遅くまで興奮していた。 台湾人も日本人もいっしょになって「ちゃんころをやっつけた」と喜び、私の周囲に「祖国が負けて悔しい」 と言う台湾人は一人もいなかった。 かつて日本兵として太平洋戦争を戦って帰ってきた台湾人は、いまでも大陸の中国人を「ちゃんころ」 と言ってはばからない。戦後彼らは国民党政府から大戦中日本軍の兵士となって「祖国に銃を向けた」 として迫害を受けてきたため、日本人以上に中国人に反感を持っている。これが「ちゃんころ」という 言葉に集約されているのかもしれない。
499 :
美麗島の名無桑 :2005/05/17(火) 12:22:57
その貴重な体験を自費出版されることをお薦めします。
とても勉強になります。 老花蓮の日記として出版できそう。
501 :
taiwanboom :2005/05/17(火) 14:18:09
植民地時代の日本人と台湾人(2) 日本人と台湾人の接触(上) 日本人と台湾人の居住区域が区別されていたとは聞いていないが、なんとなく分かれていたようだ。 日本人の居住区の方が官舎などのように集まっていた。台湾人街というものもあった。 商店街は台湾人の店と日本人の店は混在していた。買い物などは台湾人の店ですることが少なく なかったが、台湾人と日本人が日常的に接触(交際)することは少なかったようだ。 野菜、果物、魚、雑貨などは台湾人の御用聞きが、家に来ていた。玄関ではなく台所に来ていた。 「奥さんきょうはチヌタイおいしいよ」と、ちょっとヘンな抑揚で言っていたのを覚えている。 この言い方をまねして、その台湾人の御用聞きをからかっていたから。 言葉はすべて日本語で、日本人は不自由することはなかった。 台湾に9年もいて、私が覚えた台湾語は数詞のほかは「カッキン」「ベッサイ」「ライライ」「リー」 「ゴワ」など、いま思うと「命令調」のものがほとんどだった。 当時の台湾人と日本人の関係を示唆しているようだ。 台湾の日本語は綺麗な「標準語」だった。東京弁ではない。 私が内地に帰って小学校の国語の時間に初めて教科書を読んだら、以後授業の冒頭に私が教科書を読む ことになった。このためには予習をしなければならず、おおいに不満だった。 15年ほど前台南で会った老婦人の日本語が素晴らしかった。私も当時はこのように綺麗な日本語を 話していたのだ。内地の小学校の先生が私に教科書を読ませたナゾが解けた。 台湾人街にはよく遊びに行っていた。先生からは行かないように注意されていたが…。 台湾人街は実に面白かった。目の前で動物などを作り上げる飴細工、竹を半分に割った中でコオロギを 戦わせる賭博、鶏を殺すところなど、いつまで見てもあきなかつた。日本人の同級生に密告されて先生に 叱られたものである。 台東街(現台東市)では原住民(当時高砂族)が、上半身裸体に腰みのをつけ蕃刀を腰にして街の中を 歩いていた。わが家にきて百日紅の木を蕃刀を振るって薪につくっていた。すさまじい切れ味に見入った ものだ。冷やかすと曲芸のように蕃刀を使って見せた。 蕃刀は鞘を縦に割っているので、なかの刀身が見える。刀身が落ちないように鞘の途中数箇所を針金で くくっていた。鞘を割っているのは、刀身の血糊が鞘にたまらないためだそうだ。 彼らを怖いと思ったことはなかったし、母も別段注意しなかった。 高砂族の中で本島の西部に住んで蕃風を捨てたものを「熟蕃」といい、東部で蕃刀を腰にしているものを 「生蕃」といっていた。高砂族への行政対策を「理蕃対策」とかいっていた。 原住民の女性を見た記憶はあまりない。
502 :
taiwanboom :2005/05/17(火) 15:25:34
植民地時代の日本人と台湾人(2) 日本人と台湾人の接触(下) 台南の私の官舎の近くに台湾人の集落があった。 広場を囲むようにレンガ造りの家がくっついていた。すべて平屋だったと記憶している。 この広場の中央に直径10m足らずの泥の水溜りがあった。そこにアヒルや七面鳥それにガチョウ などを放し飼いにしていた。 七面鳥をからかって怒らせると羽を毛羽立てて、くちばしの上の突起を伸ばしてそれがだらりと たれさがる。面白いので棒などでからかった。 ただしガチョウは二つの羽を地面にこすり付け、嘴を突き出して襲ってくる。小学生だから ガチョウの嘴が、顔の高さにくる。怖いのでガチョウは敬遠することにしていた。 周囲の台湾人は、この私たちのいたずらを初めのうちは黙ってみているが、いつまでもやっていると 日本語で「コラッ」とどなる。この声で私たちは逃げ散っていた。これがまた面白かった。 ここにいる台湾人の子供(学齢前)はほとんどが、長いパンツ(クーズー?)をはいていた。 そのパンツの股の部分は大きくくりぬいてあった。パンツをはいたまま用便ができるようになっていた。 (この型のパンツがいま中国で育児用にはやっているとか) この子供たちはいつも裸足で家の入り口にちょこんと腰掛けて、ドンブリを抱えて匙でご飯を食べていた。 衣服は支那服だった。ボタンが紐の固まりになって並んでいた。 この地域は鳥の糞のにおいと、料理のにおいがごちゃ混ぜになった猥雑で不潔だった。 このような風景は、いまの台湾では見かけることはできないが、当時の台湾ではこれが普通のの風景だった。 そのそばを通って私は小学校に通っていた。台南市の現在の成功路である。 この成功路の官舎の庭に3本の大きなマンゴーの木があって、たくさんの実をつけていた。この実が台風のため 落ちて庭一面に散らばった。踏み場もないほどだった。 そこへ2人の台湾人が訪ねてきて「マンゴーの実を拾わせて」というので母が承知したら、たくさんの子供が 門から入ってきた。台湾語でわいわい騒いでいるうちに、マンゴーの実はきれいになくなってしまった。 台風になると、これはこの官舎の前住者以来の「年中行事」となっていたそうだ。 私の官舎には毎日3人の兵隊が来て、草をむしったり父の靴を磨いたりしていた。おわると木陰て一服し私たちを からかったりしていた。 そんなある日、わが家の台所から台湾人の老人が天秤棒の前後に籠を下げて出てきた。 それを見てK一等兵が立ち上がって「おいこら、ちょっと待て」といって、籠を開けたところなかに木炭がいくつか入っていた。 とたんにK一等兵は「貴様、これ盗んだな!」と怒鳴り、拳を固めてこの老人を殴りつけ、倒れたところを蹴りつけた。 老人は鼻血を出して泣きながら転げまわるだけ。あまりの怖さに私は母を呼びに台所に駆けていった。 母が駆けつけて「やめなさいっ!」というまで、この暴行は続いた。 老人が可哀想でならなかった。父に話そうと思った。ところが母は「このことは誰にも言いなさんな」といい、 父には話さなかった。 K一等兵をかばったのか、母には聞かないままになった。
503 :
taiwanboom :2005/05/17(火) 17:13:35
植民地時代の日本人と台湾人(3) 学校生活 小学校は日本人(小学校)と台湾人(公学校)に分かれていた。二つは同格と言われていたが、小学校から公学校に転勤する場合、 教頭や校長などの「昇格」出なかったら「左遷」とみられていた。 台湾人でも裕福な家庭の子供は、日本人の小学校にいっていた。台南花園尋常高等小学校の 私のクラス(総員50余人)には、3人の台湾人がいた。 医師の家庭2人と鉄工所のオーナーの家庭の子供で、日本人よりも身奇麗にしていて勉強も よくできた。 あの不潔な台湾人街の台湾人とは、まったく別の台湾人だった。 同級生は彼らをまったく差別しなかったし、先生も平等に扱っていた。 私がこの台湾人とけんかをしたとき、先生は理由を尋ねて正しい裁きをした。 どちらが悪かったかはもう忘れたが…。 彼ら台湾人の同級生と、通学途中に通る台湾人街の汚れた裸足の台湾人とが同じ台湾人と 思ったことはなかった。まったく別のものとして受け止めていた。その「格差」を気にすることはなかった。 ただひとつ、台湾人の同級生の一人がニンニクを食べてきた日の朝、日本人の同級生が「ニンニク臭い」 といったことを思い出す。このとき初めて「ニンニク」を知った。 台湾人の公学校には「夜間部」があった。花蓮港街の私の官舎の前の公学校の夜間部は、夜9時までだった。 夜の運動場で台湾人の生徒が、にぎやかに体操をしているのを、見るのではなく家の中で「聞」いていた。母が「ここの生徒は昼は 家のために働いて、夜に学校で勉強する。日本では中学校に夜間がある」と話していた。 中学校(現在の高校)は「第一中学校(一中)」が日本人、第二中学校(二中)が台湾人となっていた。 校舎はどちらも鉄筋コンクリートの堂々たるもの。 私のクラスの台湾人は全員「一中」を受験し、二人が合格した。 最近台湾人の同級生の0くんに聞いたところ、当時は台湾人の「一中」の「枠」は2名だったという。 差別はあったのだ。彼が一人の台湾人の同級生に「一中の台湾人の枠は2名で、きみは成績がいま一歩だから 一中には通らんよ」と言ったが、それをあえて受験して落ちたと言う。 戦後は一中が「二中」に、二中が「一中」に校名が入れ替わっている。 花園小学校の教師はすべて日本人で、事務職員も日本人だったと記憶している。 給仕が台湾の若い女性だった。林さんといい、綺麗な日本語を話した。 心持顎が張った台湾人らしからぬエキゾチックな顔立ちで、いつも派手な化粧和をしていた。 彼女が通り過ぎると香水がにおった。私はそのたびに深呼吸をしたものだ。 結婚して私の官舎の近くに新居を構えた。 この新居は亭仔脚がついた鉄筋2階建で、入ったところのフロアーはコンクリートで、幾何学模様がつい た30cm角のタイルがちりばめてあった。 突き当たりに人の背丈ほどの鏡台「スタンドミラー」があった。その鏡の周りはお札で作った花や蝶、鳥、 木の葉などで飾られていた。お札は50銭札から1円、5円、10円だった。100円札はなかった。 当時の10円札は現在の3万円以上はしていた。 100円札なんて見たことがなかった。 この飾りのお札は結婚のお祝儀でもらったもので、お客に見えるように一階の鏡台を飾ったのかな。
504 :
美麗島の名無桑 :2005/05/17(火) 22:57:32
>鉄工所のオーナー 台湾の資本主義はこの時代に始まったのだ
taiwanboom様 生の貴重な戦中台湾話を聞けて光栄です。 最近では、戦中のお話を聞かせて頂ける方がめっきりへり、寂しい思いをしていたのですが 2chでこのようなお話を伺えるなど思ってもおりませんでした。 今後も是非お聞かせ頂ければ幸いです。 台湾での生の生活が見えてくるようで楽しみにしております。
506 :
美麗島の名無桑 :2005/05/18(水) 00:20:06
同感です taiwanboomスレを立てたいくらいです
taiwanvoom翁のすばらしい体験談の連載中なのに ちょいと割り込みますね。 自分学生時代に台湾の留学生とお付き合いしていたのですが、 彼女がよく「私のおじいさん、日本人なの」と言ってました。 彼女の祖父は都内某所に住んでいたのですが、両親は 台湾。その時は?とは思いましたが、複雑な家庭事情が あるのかと思い、その話に突っ込むことはできませんでした。 でも、聞くべきだったと後悔してます。 興味を持つべきだったと思います。 彼女や親は台湾名なのになぜ祖父は日本人だというのか? カギとなる彼女の祖父に会って話を聞くことができたなら・・・ でも、本当に祖父が日本人ならしきりに話題にするだろうか? 実は「日本統治時代の本島人」だったのではないだろうか? 親とは北京語で話すが、祖父とは日本語で話していたというから いつだかのビビアン・スーと祖母との関係を思い出しました。 ・・彼女とは別れ、今となっては真実は知る由もないですが・・・
taiwan「v」oom翁なんてとんでもないタイプミス 失礼しました。
509 :
taiwanboom :2005/05/18(水) 10:40:21
>507様 留学生の祖父が日本人であることは、当時としては十分ありうることです。 戸籍上の夫婦でなくて日本男性が、本島人女性に子供を生ませることは、それほど珍しいことではありません。 数年前に高雄で乗ったタクシーの運転手が「私の父さんは日本人で、いま福岡にいるそうだが戦後会ったことは ない」と言っていました。 恋愛関係もあるし、いわゆる「日本人が手をつけた」といった関係もあります。 原住民対策で山地の駐在所に勤務した日本人警察官は、治安対策もあって原住民の頭目などの子女と結婚をする 例が少なくありませんでした。「現地妻」です。 昭和5年の霧社事件で登場する日本人警察官も、原住民と結婚していました。それをめぐる戦中戦後の悲劇を 書いた本がいくつも出版されています。 真面目な恋愛で結婚しても、終戦による日本人の強制帰国によって裂かれた男女もあります。 私はこのような例にいくつか出会っていますが、不思議なことにこの人たちから「日本人の父」に対する恨みを 聞いたことはありません。 それでも悲劇であることに変わりはありません。
510 :
taiwanboom :2005/05/18(水) 12:16:18
閑話休題 ちょっと疲れましたので話題を変えて、台湾の「蛇」について書いてみます。 確かに台湾にはヘビが多い。台湾コブラ、台湾ハブを代表にアマガサヘビ、百歩蛇など毒蛇が多士済々。 いまでは台湾の日常生活でヘビに出くわすことはほとんどないそうだが、私がいたころはヘビは珍しい ものではなかった。 ヘビに噛まれたことは新聞記事にはならないが、原住民がヘビに噛まれて、自分の蕃刀でかまれた部分を 削り取って助かった「勇気ある蕃人」の記事を見たことがある。物置にある木炭の袋に手を入れて噛まれた ことも聞いた。 私の官舎の庭に出てきて鎌首を立てて唸る「台湾コブラ」を、遠くから旗竿でたたき殺したことがある。 花蓮港街で父が大陸に出征して留守の夜、我が家の座敷に「台湾ハブ」が這い回った。寝ていた姉のそばを ゆっくりと這い回り、それを私と母が「姉が動かないよう」念じながら見つめていたときの恐ろしさは、 いまでもはっきりと思い出す。戦後母はこのときのことを「もしものことがあったら戦地のお父さんに なんといってお詫びすれば」と、そのことを思っていたと話した。 同じ街で下駄を川に流して、それを岸沿いに追いかけているとき「台湾コブラ」を踏んで、必死になって逃げた。 このとき、ヘビは人間の通った後をたどって追いかけてくるということを思い出し、怖い中をジグザグに走った。 高雄の澄清湖の「九曲橋」の原理と同じだが、あの恐怖の中でこんな迷信?をよくぞ守ったものだ。 私は台湾でいろいろな官舎に住んだが、いずれも近くに川や丘、草むらなどの自然の「緑」があった。それだけ ヘビに出会う機会が高いことになる。事実たびたびヘビに出会った。しかし遊ぶときはヘビの心配をしたことは なかつた。よくぞ噛まれなかったものだ。 犬はヘビに敏感なので、わが家でも飼っていた。それだけが目的ではないが…。この犬が吼えるとよく庭にヘビが 出ていた。見つけたら必ず攻撃していた。犬ではなく私が。 わが家がヘビに囲まれたことがある。台南の台南公園の近くの官舎でのこと。 玄関と台所の入り口、それに庭に何匹かのヘビがたむろしていた。怖くて一歩も外へ出られない。 じっと待つうちに、掃除当番の兵隊さんがやってきた。台所の入り口で母に挨拶和にきたので、 母が「たくさんのヘビがいますよ」といつたが、兵隊さんは「そんなものはいません」て返事。 ほっとして庭に出てみたら一匹もいなかった。逃げたんだな。 ところが、お風呂の排水口から空気を噴くような唸り声が聞こえる。兵隊さんが「コブラです。 こんなとこにもぐりやがって」と言って、棒で突付いたが出でくる気配はない。そのうちに 父が帰ったきて「作戦」に加わった。 熱湯を風呂場から流したがダメ。そこでたぎりたった油を流すことにした。こんどは 出てくるだろうと、排水口にロープを輪にしてたらして待った。 作戦的中、大きな「台湾コブラ」が首を出しロープに絡めとられた。これから先は ヘビとはいえ残酷なシーンが続くので割愛する。 隣の中隊長が「食べる」と言って、皮をはがれ背骨と内臓を抜かれても、まだビンビン しているコブラを、草履の箱に入れて持って帰った。 その名のとおり、噛まれたら百歩も歩かないうちに死ぬ、と言われる台湾最高の毒蛇 「百歩蛇」は見たことはない。周囲でも見たと言うことを聞いたことがない。
511 :
taiwanboom :2005/05/18(水) 16:46:31
植民地時代の日本人と台湾人(4) 創氏改名 「改姓改名」ともいうらしい。台湾人の姓名を日本人の名前に変えることである。 台湾人を日本人に同化するための「皇民化政策」である。強制的だったかどうか はっきりしないが、ほとんどが「改名」したのではなかろうか。これに日本語の使用を 加えて、協力した家庭を「日本語家庭」として、いろいろ優遇したと戦後になって聞いた。 昭和14年台南花園尋常高等小学校4年のある朝、授業を始める前に担任のM先生が、 3人の台湾人同級生の名前を日本名に変えると言った。具体的にどのような表現をしたかが 重要だが、残念なことにはっきりした記憶はない。 M先生は3人に次々と日本名を付けていった。結果は3人とも「姓」はそのまま残し 「名」だけを変えたことになった。 その間、教室内はざわざわしていた。なかには日本名のアイデアを出すものがいた記憶がある。 M先生がこの3人の「姓」を変えずに守ったことは、いま考えると評価されるのではないか。 戦時中日本軍の兵士として戦った台湾人の日本名は、台湾名とは似ても似つかないものである。 李登輝前総統の日本名も「岩間正男」だったと記憶しているが、台湾名とはなんのつながりもない。 M先生のことは評価されるのでは…。 この改名を台湾人自身はどう受け止めていたのか。昨年60年ぶりに会ったその一人のOくんは、 別に気にしなかったという。 そして、もう一人の同級生は医師となり、現在米国でこのときの日本名で開業してはやっている、 と話してくれた。彼はこのことを「あいつはあのときの日本名で開業してやがんの。もうけてるん だって」という言い回しをした。彼は日本語が「母語」だという。 彼の家は裕福な医師家庭で、家は完全な日本式の家屋で、白木の柱に畳敷きだった。遊びに行って 驚いたものだ。両親が彼を完全な日本人にしようとしたという。 このために、あの「228事件」では徹底的に虐待され、家も仕事も失ったという。 だから徹底した「国民党嫌い」である。 ついでにM先生のことを書く。 先生は台湾人と日本人の差別をまったくしなかった。ところがなぜか私をいじめた。この先生の体罰は 肉体的暴力ではなく、精神的なものであった。 私を教壇の前に座らせてバケツをかぶせて、それを同級生に棒で叩かせた。机を取り上げて、教壇の前に 座らせてひざの上に教科書を広げて勉強しなければならなかったことがある。音楽の時間に私をピアノの 椅子の下に押し込めた。連弾用の長椅子である。授業が終わったら講堂の廊下に立たせたまま、同級生は 教室に引き上げ、残された私は屈辱のあまり気が狂いそうだった。 昨年このことを初めて出席した小学校の「同窓会」で話したら「バケツをかぶせられたのはあなただったの。 覚えているわ」といわれたときは、嬉しいようななんともいえない気分だった。ほかの同級生はまったく 覚えていないと言う。 ところがM先生は乗馬が趣味で、なぜか私をその乗馬にたびたび連れて行ってくれた。このことを同窓会で 話したら「M先生はSMだな」と言って笑い話になった。 4月の異動でM先生は台湾人の公学校に転勤となった。一般教員で昇任ではなく、左遷とみられた。 なぜ左遷なのか。 私以外にもう一人軍人の子供がいて彼もやられていた。その彼が思い余って父親に告げたので、圧力が かかったのだろうという噂が立った。 このM先生は侍従武官した高名な陸軍大将の甥だそうだ。それなのになぜ軍人の子供を虐待したのか…。 この虐待については私は両親に話さなかった。あまりにも屈辱だったから。戦後話したら母は、M先生から 「お宅の坊ちゃんは落ち着きがない。なにか騒動があると決まってその中心にいるといわれたのよ」 ということで、私の自業自得といまでは思うことにしている。 これに引き換え、内地に帰ってからの小学校の担任は、すさまじい暴力教師だった。 叩いて倒れないと逆上しますます暴力をふるう。叩かれて鼻血が出たぐらいでは許してくれない。 父兄会の参観授業でも暴力を振るったことがある。クラスに校長の子供がいたがおかまいなしでぶん殴る。 卒業後30年間この先生を許せないとして、同窓会を開かなかった。 話が横道にそれました。すみません。次は本道に戻します。
翁、久方の本格ご復帰、重畳に存じます。お待ちしておりました。また勉強 させてください。 折角ですので、これまでの貴跡を一纏めにしてどこかのHPにアーカイブとして ご掲載されては如何でしょうか。翁の御経験に基づく御尊見は大変貴重です。 抛っておけば散秩してしまうおそれがあります。当方は残念乍らHP作成も ブログ等も全く苦手で、このような提案をいたしながらどのようにこれまでの 御尊見を収集するかも纏めてアーカイブ化するかもよく解らず心苦しい限りですが、 一度御検討いただければと思います。
taiwanboom 様
日本時代の台湾のおはなし、非常に詳細で、具体例に富んでおり、
若い台湾人にとっても貴重な資料です。同志である台湾人編集部
員が興味をもち、私も拝見しました。すでにまとめられている文
書もあるということですが、ぜひ、台湾の声にて、発表、あるい
は、ネット公開のお手伝いをさせていただきたく、お願い申し上
げます。申し遅れましたが、弊誌は、インターネットメールマガ
ジンで、台湾のこと(とくに建国を目指す台湾人の声)を日本社
会に知らせるために、在日台湾同郷会顧問(当時会長)の林建良
が、創刊したもので、ボランティアで運営されています。
http://www.emaga.com/info/3407.html
514 :
美麗島の名無桑 :2005/05/19(木) 11:52:21
当時、街に銭湯はありましたか? 韓国には現在も残ってますけど、台湾はどうだったのでしょうか?
515 :
taiwanboom :2005/05/19(木) 11:59:03
植民地時代の日本人と台湾人(5) 人力車 台湾にはタクシーもあったが、主要な乗り物は「人力車」で、台湾人の車夫が引いていた。日本人には この職業は許されていなかったようだ。このため、内地に帰って日本人が引く人力車に乗ることに抵抗 があった。 昭和15年ごろ日産の「ダットサン」が、タクシーとしてデビューした。600ccの可愛い車で、なぜか 女性(日本人?)が運転していた。彼女の襟足のほつれ毛が印象に残っている。 料金1円の「円タク」に対して、これは50銭だったと記憶している。 人力車の車夫は白い法被のようなものを着て、白い半パンツに笠をかぶって走っていた。 笠は江戸時代の侠客の三度笠か台湾独特の竹の皮の笠だったかはっきりしない。 ほとんどが裸足で走っていた。背中に番号を打ったアルミのプレートをつけていた。 鑑札のようなものだろう。 市内の交差点などに20台ほどが客待ちをしていた。台南市の私の官舎の近くで 花園小学校の角にフールしていた。 「トーチャ」と呼ぶと、2、3台が競争して駆けつけてきた。下校するときにこれに乗って、 母から「贅沢なことをしなさんな」と叱られたことがある。 私の家では特定の車夫(18番と54番)を決めていた。「自家用車」のようなもので、 18番は青年で54番は老人だった。この2台に限って子供だけで乗ることを認めていた。 官舎を移ってもこの2台はその近くの溜まり場に移ってきた。わが家の「専属」のようになっていた。 母がときどきプレゼントしていたようだが、確認したことはない。 台南公園の近くの官舎にO大尉がいた。この大尉は連隊(現成功大学)に通勤するとき人力車に乗る。 乗るとサーベルで車夫の肩を叩いて急がせる。連隊の営門で降りると料金を値切る。うまくいかないと、 衛兵を呼んで車夫を追っ払う。 だからO大尉が溜まり場に近づくと、車夫は一斉に逃げていたそうだ。 O大尉は顔面を髯でおおった豪傑のようだったが、子供は弱虫で私たちのイジメの対象だった。 ときどきO大尉が子供をかばって「コラーッ」と、私たちを怒鳴ることがあった。 車夫たちはドンブリに入れた「愛玉」に砂糖をかけて匙ですくって食べていた。これが主食だと言う人もいた。 台湾を引き上げる直前に母がこれを作ってくれた。予想外に美味しかった。いまの台湾の愛玉は水っぽくていただけない。 東京上野の谷中の墓地の近くに愛玉の専門食堂があるが、愛想がよくない。
516 :
taiwanboom :2005/05/19(木) 13:24:03
>>513「台湾の声」編集部員様 私は毎日メルマガで「台湾の声」を拝読して、台湾問題の研究に活用いたしています。ホットで貴重な 情報をありがとうございます。 今回私が書き込んだ「台湾経験」は、台湾の人にとって不快感を与えるのを恐れて公表しませんでした。 その心配がないようなのでほっとしています。 「台湾の声」のメルマガに拙稿を利用していただければ、こんな嬉しいことはございません。 このほかに、現在の台湾の人々とのふれあいを、ある地方の月刊誌に2年間連載したこともあります。 一部を東京の「駐在事務所」に送りましたが、関心を引かなかったようです。 私は昭和58年(1983年)から、現在まで台湾に43回行きました。ほとんど家内同伴で、主要な選挙はすべて 直接見て、ビデオに収めてきました。 台湾は私の「第二の故郷」で、将来を心配しています。とくに2008年の北京オリンピックまでに、中国が台湾問題に 一応の決着を付けるのではないかと気が気でなりません。 なお私は「李登輝友の会」の会員です。
taiwanboomさんの話は私のような若い台湾人にとっても
とても貴重な経験談です。「台湾の声」だけではなく、是非漢文に
訳して「與媒體對抗(
http://socialforce.org/ )」でも掲載して
いただきたいと思います。
(拙訳で宜しかったら私がやります。是非ご連絡してください。)
518 :
美麗島の名無桑 :2005/05/19(木) 16:09:04
516のTAIWANBOOMのお多桑の文章(エッセイ?)、 当時の生活がいきいきと描写されているその文面。大好きです。 それらをまとめて、本にしてくれたら私は絶対買いますよ! 「台湾はなぜ懐かしいか」にも劣らない内容だと思います。 (私としては庶民の生活が活き活きと描かれている、taiwanboomさんの方が好き。) 台湾の声サンも頑張って下さい、お願いします。 期待してます!
519 :
taiwanboom :2005/05/19(木) 16:16:34
植民地時代の日本人と台湾人(6) メイド(女中さん) 日本人の家庭では10歳代の台湾人女性をメイドとして雇っていた。 彼女らは「ねえや」と呼ばれ、日本人家庭の間で日本語が上手な「ねえや」を自慢しあっていた。 台南市の官舎で隣の家のメイドは22、3歳のなかなかの美人で、綺麗な日本語を話していた。 雇用主も彼女に「梅子」と日本名を付け、和服を着せて「おうめさん」と呼んで自慢していた。 彼女が台湾人であると気づく人はほとんどなかった。台湾人と知らされて、みんな羨ましがっていた。 私の家では昭和6年の渡台当初は、日本から日本人の女性を連れて行った。日本人女性を雇う家庭は 少なかったが、20歳代前半の母が2人の年子を抱えての台湾での生活を考えて、内地から連れて 行ったそうだ。 当時は昭和の大不況のため貧しい農家の子女が女中として外地に出て行くことが少なくなかった。 彼女が渡台前の内地のわが家に来たときは、古い着物に帯はなく腰紐だけだったという。 雇うときに、勤め上げたら柳コオリいっぱいの着物を作ってあげると約束したそうだ。 彼女は私が3歳のとき母と姉と内地に一時帰国したときにつれて帰って、親元に届けた。 戦後母が「あのときの着物は親が売ってしまっただろう」と言っていた。 日本人の女中がいなくなったあとは台湾人の女中を雇った。住み込みでなく通いだった。 給金は月に2円から3円というところで、日本人の女中に比べると格段に安かった。 食事は昼食だけ。朝夕食は自宅で食べていた。 出入りの商人などに頼んで雇っていた。給金は世話をした人か親元に支払っていた。本人には別に小遣いを あげていたようだが、確認はしていない。 食事は家族とは別にとっていたが、日本人の女中のときもそうだった。内地で雇った女中も、家族の食事の給仕 をした後で、別に台所で食べていた記憶がある。 私たちはあまり彼女らと親密にはならなかった。といって差別をしていたような記憶はない。空気のような存在だったかも…。 一人の台湾人の女中は、なかなか活発で私たちの遊びによく口を出していたが、母がそれを叱ったことはない。 日本人とかわらない日本語でやりとりをするので、こっちも本気になって口論になることがある。だから彼女が叱られた記憶はない。 彼女の服装は台湾の支那服だったと記憶している。母はいつも和服だった。 洗濯だけをする台湾人がいた。「洗濯ばあさん」といわれ、年配の女性だった。 午前中に官舎にきて、風呂場にしゃがんで洗濯ダライでごしごし洗っていた。 洗濯機がない時代だから、洗濯は大仕事だった。 纏足に黒い支那服(繻子生地)を着ていた。服の生地はつや光りして、織り模様がはいっていた。 洗濯をしているとき、この服のおしりのところの生地がぱんぱんに張っていたことを思い出す。 洗濯しながらビンローを噛んでいて、口の中が真っ赤になっていた。毎日通っていたようだが、 彼女と話したことはない。 纏足の女性は当時は珍しくなかった。ビンローはその当時は流して売り歩いていたような記憶がある。「ビンローえ、ビンローえ」の 売り声で流していたようだが、確信はもてない。
520 :
美麗島の名無桑 :2005/05/19(木) 16:58:47
台北国際放送でやってる日本語世代の老人へのインタビューも活字にしてもらいたいものだ。
521 :
美麗島の名無桑 :2005/05/19(木) 17:22:25
>>514 王永慶の伝記(謝雅梅訳)
「大華僑伝」を読んで見れ。
王永慶は戦前、精米業をやっていた。
ライバルの大資本の日本人精米業者が仕事後に毎日銭湯で体を洗っていたのに対して
小規模経営の王永慶は仕事の後の風呂にいかず経費を節約していたそうだ。
522 :
美麗島の名無桑 :2005/05/19(木) 18:24:31
王永慶氏はオレの証婚人の親戚だよ。オレは全く面識がないけどね。
523 :
美麗島の名無桑 :2005/05/19(木) 19:00:34
>>170 >在台の日本人研究者(夫は台湾人)の依頼で作成したものですが、
台湾人の夫もしかして「許X麟」?
彼女はザイニチだけど。
>> 516 taiwanboom様 お返事ありがとうございます。友の会の会員でいらっしゃるんですね! どこかでお目にかかっているかもしれませんね。 作品は、この掲示板で発表されるということですよね。 ここから転載させていただきます。よろしくお願いいたします。 また、ぜひ編集部に一度メールをいただければ、今後、メール で連絡を取らせていただきます。 「駐在事務所」は代表処のことでしょうか。「台湾の声」は、 同処関係でもご紹介いただいていますが、まったく別の組織で す。taiwanboom様の連載記事も日台交流に関わりま すので、台湾の声だけでなく友の会でも興味があるだろうと思 います。 >> 517 オアはんちーさん、こんにちは。 そういうことになったら、ぜひ、ここでも、 掲載先を教えてください。
525 :
taiwanboom :2005/05/20(金) 11:56:17
>>524様 「駐在事務所」は代表処のことで、記事は代表あてに送付しました。 貴メールのアドレスが分かりません。よろしく。
526 :
taiwanboom :2005/05/20(金) 12:09:13
>>523様 私にレポートを依頼した日本人女性の台湾人の夫の名前は知りません。 彼女には会ったことがありますが、ご主人にはありません。 このレポートが彼女の気に入らなかったというのは、私の想像です。 レポートを彼女に渡した後、これについて彼女がまったく触れないので、 気に入らないんだな、と思っているのです。私のほうから感想を聞くことは していせん。いまでは彼女とはメールの交換もなくなりました。
>>525 taiwanboom様
編集部のメールアドレスは、
[email protected] です。
この投稿(書き込み)の「台湾の声編集部」というところをクリックして
いただいても、あるいは、メルマガ「台湾の声」に「返信」していただい
ても同じところに届きます。よろしくお願いいたします。
528 :
taiwanboom :2005/05/21(土) 12:10:21
日本植民地時代の日本人と台湾人(7・完) 補遺(上) 臨海道路 台湾の東北部は台北から花蓮まで鉄路でつながっているが、日本時代は鉄路は蘇奧(二すいに奥)までで、そこから花蓮までは道路で結ばれていた。 この道路を「臨海道路」と呼んでいた。花蓮の旧駅前から蘇奥まで、定期バスが走っていた。 途中に断崖を削って道路を走らせているところがあり、スリルいっぱいのドライブができた。いまでは「清水断崖」と呼ばれて観光のポイント になっているところだろう。 私は戦前この道路を3往復した。カーブを曲がるとき窓から下を見ると、はるか下の海面が眼下に見えるようで怖かった。5年ほど前、ここを通ったがスリルはまったくなかった。 全線の舗装はしていなかった。一部には、バスの車輪が通る箇所だけを帯状に舗装していた。簡易舗装だろう。 工事をしている現場を通ったことがある。10人ほどの台湾人が働いていた。バスが現場にあった大きな竹篭を、後車輪で引っ掛けてそのまま 走った。窓から見て気になっていたが、景色が移り変わるのでいつのまにか忘れてしまった。蘇奥で降りて母に「あの籠は本島人に戻ったのかな」 と尋ねたことは覚えているが、母の返事は覚えていない。 日本人の中には、花蓮を出発するときはタクシーか車に乗って、太魯閣の入り口の「新城」でバスに乗り換えるものがいた。見送られるときにバスに乗るのは格好が悪いから。 私たちも花蓮から台南市に転勤するとき、この手を使った。不思議に思って母に尋ねたら、タネ明かしをしてくれた。 原住民とメンソレターム 台東街の官舎に原住民が来て薪を作っていた。蕃刀の切れ味がすごいので、ほめると曲芸的な刀使いで百日紅を切りまくる。調子が出すぎて自分の左足の脛に切りつけた。 ものすごい出血に驚いて母を呼んだ。母は切り口をカーゼで拭いてオキシフルで消毒して、メンソレタームを塗り包帯をした。 それから10日ほどしてこの原住民がやってきた。正常に歩いていた。 彼は母にお礼を言って「この薬はすばらしい。みんな驚いているので、分けてくもらえないか」という。そこで母は薬の名前を言って薬屋で買うように薦めた。念のためメンソレタームの ケースをあげて「これを見せるとよい」と言った。 高砂青年義勇隊 昭和12年支那事変が始まった年に、花蓮港街で「高砂青年義勇隊」の出征を見送ったことがある。この名称は正確でないかも…。 いまの「中信花蓮大飯店」のあたりで、日本人の婦人会など大勢が見送った。原住民の家族も来ていた。私は学校を遅出にして母についていった。 どんな行事があったかは忘れたが、青年たちに元気がなく、家族にも沈んでいたものがいた。母にきいたら「戦争するのではなく、弾運びをするんだから危険はないのにね」 と言った。 そんなことにおかまいなしに私は元気に「バンザイ」を叫んだ。帰りは小学校に通じる吊橋を、軍歌を歌いながら渡った。 「高砂義勇隊」は太平洋戦争では活躍したとなっているが、支那事変に出動したとは戦後聞かない。
529 :
taiwanboom :2005/05/21(土) 14:26:25
日本植民地時代の日本人と台湾人(7・完) 補遺(下) 銭湯と屋台 台湾には銭湯はないものと思っていたが、>>521で銭湯があることを知った。台湾人は儒教の影響で 他人の前で肌を見せないので、銭湯に行かず、海水浴にも行かなかった、と台湾にいた日本人から聞いた ことがある。不明を恥じます。 私は内地に帰って銭湯が珍しくて面白いので、家の風呂に入らずもっぱら銭湯に行っていた。母は「ヘン な子」と笑っていた。 こま遊び 台南市の清水町(現青年路)にある「城皇廟」は、巨大な算盤があることで最近観光ポイントの一つに あげられるようになった。 私がいたころはこの廟の前の広場で、寄生虫駆除の薬を飲ませていた。台湾人が中心だった。 「海人草」といって回虫の駆除に効果があった。見た目はウXコのようで、なんともいえない味がした。 飲むのは苦痛だった。 その近くにある広場で、独楽遊びをした。台湾の独楽は芯棒が棒状でなく、平たくて鑿のようになっていた。 この刃先を研いでほかの独楽に当てて削る遊びだった。 いつも10人ぐらいで遊んでいた。台湾人も混じっていた。そのなかで少し年上の台湾人がすごい独楽をも っていた。 水牛の角で作ったもので、少々当ててもびくともしない。黒光りのその独楽を見ると戦意を失う。母に買っ てくれるように頼んだが「そんな贅沢なものはダメ」ととりあってくれなかった。一度借りてみたが、 ずしりと重くて感激した。羨ましかった。 この遊びでは日本人対台湾人ということにはならず、もっぱら個人プレイだった。 インドゴムの木 台南市の成功路にあった官舎の庭にインドゴムの木が立っていた。直径70cmほどで真っ直ぐの幹の枝に 大きな葉を付けていた。 この幹に傷を付けると白い牛乳のような樹液がだらだらと出る。これが乾くと「ゴム」になる。これを 幹から引き剥がしてぐるぐるに巻いてボールを作っていた。しかしこれでは幹の樹皮などのごみがくっつ いているので汚い。そこで樹液をこの大きな葉っぱに塗ることにした。 乾くと平たい半透明の白い綺麗なゴムができる。これを細く切ってぐるぐる巻いてボールを作った。 少々不整形なのでイレギュラーバウンドをする。 水の中でいじっているとだんだん溶けて小さくなる。工業工程ではこの水溶性を防ぐため硫黄を加える。 隣の官舎には幹が直径2mもあるインドゴムの巨木があり、枝が錯綜して気根がすだれのように垂れ 下がっていた。これに上ってゴムを取っていたが、この木の下に台湾人が集まるようになった。 初めのうちは、官舎の庭にあるマンゴーや龍眼の実をあげていたが、それでは面白くないという ことで、これらの実を抱えてインドゴムの木の高いところに登り、そこから下の台湾人をめがけて 投げつけるようになった。 台湾人は面白がって、この実を避けながら拾っていた。結構騒がしかった。 いまの成功路の「頼外科医院」があるところである。 この話は書きたくなかったもののひとつである。 (おわり)
530 :
taiwanboom :2005/05/21(土) 16:44:20
日本植民地時代の日本人と台湾人(補) だらだらと長い拙文を読んでいただいた方に感謝いたします。厳しい「2ch」にもかかわらず、 とりたてての批判がなく、安心しています。早合点かもしれませんが…。 とにかく、肩の重荷を下ろしたようでほっとしています。 内容があまりにも現在の日本人と台湾人のふれあいと異なっているので、公表することに 踏み切れませんでした。 それに「体験」といっても、たかが小学生の体験ですから、どれだけ事実を把握し理解して いるか、自信がありません。 当然のことですが、台湾にはいろいろな生活をした日本人がいます。それぞれが私のような 「体験」をしているはずです。 ここに書いた私の「体験」は、少年のほんの一部分の「体験」です。この点をご理解していた だき、間違いがあればご寛恕のうえ、ご指摘してください。 私が台湾から内地に帰ってきたのは昭和15年の9月でした。帰った当初はなんだか「ヘンな 感じ」がするのです。最初はその原因が分かりませんでしたが、そのうちにどこへ行っても 「日本人ばかり」ということに気がつきました。 台湾にいたときのように、日本人でない人、つまり支那服を着た台湾人が一人も目に付かない ことです。ここに「ヘンな感じ」の原因があったのです。 台湾ではどこへ行っても必ず台湾人の姿が目に入っていました。はっきりとは意識しなくても、 私の心の中には常に台湾人が存在していたのです。一種の潜在意識としての台湾人の存在が あったのです。 この二重構造の社会が、台湾における私の生活の「原風景」だったのです。 日本内地は日本人以外の人種は、社会階層として存在していません。単一社会なのです。 二重構造の社会から、単一構造の社会への転入が、私を戸惑わせたのです。 その当時は「日本人ばっかり」という戸惑いのまま順応していきましたが、最近になって このように考えるようになったのです。 ついでに内地に帰ってからの「カルチャーショック」をあげてみます。 @日本人ばっかり A学校の校舎に入るのに靴を脱ぐこと。 B教室に綿入りのちゃんちゃんこを着た生徒がいて、袖が鼻水でぱりぱりになっていた。 Dわら屋根で畳が一枚もない農家が珍しくなかった。「貧乏」に驚いた。 E小学校なのに長ズボンをはいていた。わら草履を履いてくる子もいた。 F担任の先生のものすごい暴力。中学校でもそれに近かった。 G市街地の道路が狭く人が多いこと。家と家が近い。日本家屋で二階建てが多い。 H電車が走っている。 I人力車を日本人が引いていた。 これまでに書いたことは、私のレポートにかなりの加筆、削除を加えています。
531 :
美麗島の名無桑 :2005/05/21(土) 17:50:57
在台日本人の裕福さは外地加棒があるからわかりますが 台湾農家より貧乏な農家が日本にありましたか?
532 :
美麗島の名無桑 :2005/05/22(日) 23:40:53
東北を中心にイパーイありました
貧乏の比較以前に台湾に冷害や不作はあったのか? 大東亜戦争末期、内地は食料配給制度だった。 台湾は数千万石の米がありながら 内地へ運ぶルート(沖縄周辺)は米軍に押さえられ 運ぶ船すらなかったそうだ。
534 :
美麗島の名無桑 :2005/05/23(月) 15:54:03
舟の有無ではなく海路の遮断 潜水艦による封鎖作戦だ
535 :
美麗島の名無桑 :2005/05/23(月) 21:07:23
私の母方の祖母は桃園にいたけれど、後に台中近くに移ったと聞きました。 近くに軍の基地があったとか…(亡き祖父は軍人だったようです) やはり戦局の悪化が原因なのでしょうね。 今まで詳しく話を聞いたことが無かったので、今度いろいろ尋ねてみようと思います。 皆さんだったらどのような質問をされますか?
536 :
美麗島の名無桑 :2005/05/23(月) 21:11:11
陸海軍の別 兵科 階級 軍歴 学歴 所属部隊 戦歴 戦地事情
537 :
美麗島の名無桑 :2005/05/23(月) 21:34:53
台湾に朝鮮人の淫売は沢山いたのですか?
538 :
美麗島の名無桑 :2005/05/23(月) 21:44:47
【ゴールデンレス】 ∩ ・∀・)∩∩ ´∀`)∩ このレスを見た人はコピペでもいいので 〉 _ノ 〉 _ノ10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。 ノ ノ ノ ノ ノ ノそうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ し´(_) し´(_) 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
539 :
美麗島の名無桑 :2005/05/23(月) 23:28:43
ゐません
540 :
北斗星 :2005/05/23(月) 23:42:19
taiwanboom翁のお蔭で素晴らしい良スレになりました。 ただ、仰る高砂青年義勇隊は単なる軍夫にて、大東亜戦争中の戦闘員たる 高砂青年義勇隊とは異るものではないでせうか
>>530 taiwanboom様
興味深いレスですね。楽しく拝読しました。
ところで内地にお帰りになったその先は内地のどのあたりでしょう?
都道府県レベルと(当時の)市部か郡部かだけでもお聞かせいただけないでしょうか?
大日本帝国の殖産経済政策は外地優先、内地後回しという
当時の列強の政策の中でもかなり特異なものだったようで、
外地よりも内地の辺境(東北・沖縄・九州の一部など)のほうが
ずっと貧しかったと聞いているのですが、その真偽を確かめたいと思いまして。
542 :
taiwanboom :2005/05/24(火) 10:56:05
>>541様 私が帰ったのは九州の県庁所在地です。 私の小学校は商農サラリーマン家庭の混在校区でした。生活レベルはピンからキリまで ありました。 豊かな家庭の子供は「ぼっちゃん」といって、ときにはいじめられていました。豊かでない 子供に「実力者」がいて、遊びを取り仕切っていました。 一応小学生の制服を着ていますが、お下がりか古着でぼろぼろになったものもいます。 冬はその上に、久留米がすりの綿入れの「ちゃんちゃんこ」を着ていました。先生は とくに文句は言いません。 寒いのに靴下を履かず、霜焼けやヒビ、アカギレで手足を腫らせているものもいました。 私も小学校を卒業するまで、ヒビとアカギレには苦労しました。 鼻水をたらすものは珍しくありません。それどころか、紙を使わずに「手鼻」をかむ ものもいました。 手鼻で鼻水を飛ばす距離を競う遊びまでありました。わたしも参加して、かなり飛ばし たものです。勝つために家の庭で「手鼻」をかむ練習をこっそりしました。うまく飛べば よいが、切れが悪くて鼻水が鼻から垂れ下がって服につくこともありました。母に見つかって 「そんなことをしていると、大人になって鼻が曲がってしまうよ」と言われました。 「孤児院」からの子供もいました。当時の孤児院は悲惨なもので、衣服は古着で寸足らず、 破れて垢まみれ、可哀想なものでした。でもイジメはありません。 特産物をもっている農家はかなりの暮らしをしていましたが、小作農には悲惨なものが ありました。一間しかなく畳もない農家もありました。弁当に梅干一個の「日の丸弁当」は 珍しいものではありませんでした。 私の祖父の農地の小作人の家に事情があって、厳寒の夜突然泊まることになり、朝目を 覚ましたら、老婆が蚊帳をかぶって寝ていました。冬のさなかに、びっくりしました。 私たち家族が「飛び込んできた」ため、寝具が足らず「厄介者」の老婆が蚊帳をかぶって 寒夜を震えることになったのです。畳もありませんでしたむ。 この小作の家族は私たちの親類で、この話はいつまでも私と母との間で話題になりました。 台湾でこんな悲惨な生活を見聞したことはありません。ただし、この「見聞」は台湾の 日本人についてで、台湾人の生活との比較ではありません。 台湾時代には私は農家をまったく知りませんでした。稲がたわわに実った姿を初めて見たのは、 小学校4年、内地に引き上げるとき、台南郊外を走る汽車の窓からです。 台湾の日本人が悲惨な貧困生活をしている姿を見たことはありません。 同級生の家に行ったとき一間しかなくて、床の高さが10cmしかないのに驚きました。 でも彼の家には素晴らしい日本刀(短刀)がありました、これを見るために道草をしたのです。 植民地統治者として日本人の恥を防ぐために、内地人に際立った貧困を生み出さないための施策が あったのかもしれません。 日本の東北地方の悲惨な農家のことはむ、戦後知りました。これがあの「226事件」の要因に なったといわれています。その貧困さは映画でしか知りませんが、九州の冬季がほどほどの寒さ であることが、東北のような悲惨さを防いでいるのかもしれません。
543 :
美麗島の名無桑 :2005/05/24(火) 17:10:08
朝鮮も台湾も大半は総督府関係だから本棒に 判任官6割、高等官4割の加棒あり 民間企業も日本人には加棒つけたから貧乏人はいない。 一旗組みで旗が揚がらなかった連中でも役所の小間使いに雇ってもらえて加棒をもらう。 ド貧乏はいない。 沖縄は貯蓄率の比較で台湾より低いという資料をみたことがある。 あそこは台湾より貧乏だったはず。
544 :
美麗島の名無桑 :2005/05/24(火) 17:25:23
小琉球=台湾 大琉球=沖縄 台湾は昔から民度が低いので中国からも軽んじられていた。 その中国と一緒にはなりたくない気持ちはわかる。
545 :
美麗島の名無桑 :2005/05/24(火) 18:32:58
>>544 民度が低いのではなく、大陸から見ると辺境の地
だから実質支配が行き渡らなかった。
546 :
美麗島の名無桑 :2005/05/24(火) 22:39:43
台湾は明治時代にまで首狩り族がいたような土地 よほど大陸で食い詰めない限り台湾になぞ渡らなかっただろ
547 :
taiwanboom :2005/05/25(水) 12:15:08
>>536様 トビはずれかもしれませんが、日本時代の台湾の軍制について書いてみます。 台湾軍は陸軍が1個旅団6000名の兵力が駐屯していました。2個旅団で 1個師団です。1個旅団は2個連隊で構成されていました。 台北市に第一連隊、台南市に第二連隊の本部がありました。 第一連隊は現在の「中正紀念堂」にあり、これに「山砲隊」が隣接していました。 台湾北部が守備範囲です。 第二連隊本部は現在の台南市の「成功大学」にありました。連隊本部の建物は現存して 史跡に指定されています。守備範囲は台湾南部です。 一個連隊は3個大隊で構成され、そのうち2個大隊は台南市の本部にあり、一個大隊が 東部に派遣、花蓮港街(現花蓮市)に本部を置き、さらに玉里と台東街(現台東市)に 一個中隊づつを派遣していました。 一個中隊は兵員250名で、4個中隊で一個大隊を構成していました。 台湾の南東部には一個大隊(四個中隊)つまり1000名の兵力が展開していた ことになります。 支那事変が始まるとこの全部隊が大陸の長江流域にに出征しました。父は花蓮港の 中隊長として出征しました。 そして間もなく戦死者が続出しました。戦史によると、事変当初の戦いは支那軍が 善戦して日本軍は大損害をこうむっています。 隣の中隊長は出動してすぐに戦死しました。中隊長が戦死することは、かなりの 苦戦だったことを示します。 相次ぐ戦死者で、母は毎日葬儀にでかけ、官舎全体が暗い雰囲気に包まれました。 支那事変で「勝った、勝った」という、雰囲気ではありませんでした。 そのなかで私の父だけが無傷でいることが、私としては気が重くて 「お父さんも戦死しないかな」と心底から思ったものです。 事実母は葬儀の席上で「偉い人は死なない。兵隊は損だな」と戦死者の親戚から 皮肉を言われ、夜家に帰って泣いているのを婦人方が慰めていました。母は29歳でした。 私は寝たふりをして聞いていたのです。そして、戦死しない父は卑怯ではないか、 と気になり、父の「戦死」を願うようになったのです。 そして希望通り?父に関する「公報」が届きました。ところが「戦死」でなく 「負傷」だつたのです。 これを知らされたとき私が「なーんか、戦死じゃないんか」とがっかりし、 それを聞いた母が驚いた顔をしました。我が家の台所でのことで、いまでもよく覚えています。 父の「死」を願うなんて、子供としては「異常」な体験です。 またまた、脱線してしまいました。お許しを…。
548 :
535 :2005/05/25(水) 14:03:31
>taiwanboom様 毎回興味深く拝見しております。 今度祖母に会う時に、taiwanboom様の書き込みを印刷して読んでもらおうと思います。
549 :
taiwanboom :2005/05/26(木) 13:10:55
>>535様 私のスレ、呼んでいただいて感謝しています。 祖母様のご意見を待っています。
550 :
535 :2005/05/29(日) 11:10:01
>taiwanboom様 母から聞いた情報と、今年の正月に私が祖母から聞いた情報を書き込みます。 ・桃園神社(現在の忠烈祠)で結婚式を挙げており、その写真が現存します。 (母曰く、外の景色は写っていなかったようです) 母の一番上の兄は昭和18年生まれだそうなので、台湾で生まれているかも知れません。 ・taiwanboom様のスレと地図を確認しました。 私の記憶違いで、台中ではなく台南近くのようです。 1人親戚がいたとも聞きました。案外、引っ越したのはこの親戚のことかも知れないです。 (台北旅行にいく前に、なんとなく聞いただけだったので…) 母から「新竹」の地名も聞きました。 この辺りも直接祖母に聞こうと思います。 祖母と母からは良く「高雄」の地名を聞きましたが、大都市だったようですね。 ・祖父は義眼を入れていたそうです。支那事変で負傷したのかもしれません。 引き上げ後に癌で亡くなったと聞いています。
551 :
541 :2005/05/30(月) 21:17:54
>>542 taiwanboom様
ありがとうございます。レスがはげしく遅れてすみません。
九州ですか。
九州は、今でも同じ傾向が残っていますが、
ピカピカの最先端とボロボロの最後尾が同居すると言う
緊張度の高い社会の傾向が基本的にあるようですね。
豊かな家庭の子どもが子ども社会で上に立つのではなく
苛められていたり、代わりに貧乏人の子どもに
「ガキ大将」が出たりするところは非常に西日本的ですが、
(東日本の場合、地方名家の子息が
子ども社会でも人望を集めてしまう傾向があるらしいです。
社会全般の特質の反映だと思われます。)
でも全般的な生活水準の低さなどは
京阪神周辺などとは明らかに違うだろうなあと感じますね。
ともあれ、丁寧なレスをありがとうございました。
552 :
taiwanboom :2005/06/02(木) 11:41:39
>>543・551様 日本時代の植民地の軍人と官吏には、いろいろな優遇制度がありました。 給与の加算と恩給年限の加算などですが、そのほかに全員が官舎に住んでいました。 内地では連隊長でも借家住まいでした。台湾では階級に応じた官舎でした。 といっても、中隊長までは官舎の格差はほとんどなく、大隊長になってぐんと格差が ついていました。 連隊副官以上大隊長からは通勤は馬か自動車で、官舎の敷地内に馬つなぎ場がありました。 私はこの馬で乗馬を覚えました。父に隠れて練習したのです。当時の道路は馬で走っても 問題ありませんでした。のんびりしたものです。 夫人の世界でも主人の階級が生きていました。連隊長夫人が将校婦人会の会長で、副官の 夫人がその秘書のような役割をしていました。 ところが、子供の世界にはこの「階級」は通しません。下級将校の子供で力のあるものが ガキ大将になっていました。台南にいたときは、連隊長の子供がおとなしくて、ガキ大将は 士官学校を出ていない下級将校の子供で、これでまとまっていました。台東では父が中隊長で トップでしたが、ガキ大将は私でなく父の副官の子供でした。私は小学校入学の前後でしたが そのガキ大将には喧嘩が強い兄貴がいて目を光らせていたので、どうしようもありませんでした。 官舎の世界で遊ぶことが多いので、この子供の「序列」は無視できません。 夫人の世界でも、このガキ大将のお母さんは夫の階級を超えてかなりの実力を振るっていました。 ところが、とくに頭がいい子供はガキ大将も、別格扱いにしていました。私がその子供と遊ぶ ときはガキ大将は干渉しません。頭のいい子供は、グループを作ろうとしないので、ガキ大将も 気にしないのでしょう。 当時の陸軍は植民地へは、家族全員で赴任することになっており、将校の単身赴任はほとんど なかったと記憶しています。また任期も一箇所に2年が最長でした。私は台湾で4年生までに 3つの小学校を転校しました。 日本植民地時代の軍人生活の一端です。
553 :
美麗島の名無桑 :2005/06/03(金) 15:03:47
Taiwanboom様、教えていただきたいことがあります。 お父様が中国で戦っていらしたことについての記述などで、 中国のことを「大陸」と呼んでいらっしゃいますが、これは、 当時は、現在の国民党の用語のように、ただ「大陸」と言えば 中国を指したということでしょうか? よろしくお願いいたします。
554 :
taiwanboom :2005/06/04(土) 10:31:34
>>553様 当時台湾では中国のことを「支那」と呼んでいました。「大陸」と言う言葉はまったく 使いません。現在の人が分かりやすいと思って「大陸」としたのです。支那大陸という 言葉はありましたが、中国大陸とはいいません。 中華料理は、当時は「支那料理」でした。「中華」や「中国」という言葉は使ったことは ありません。 国民党政府軍を略して「国府軍」といっていた記憶はあります。
555 :
美麗島の名無桑 :2005/06/04(土) 18:37:16
taiwanboom様 553です。 当時の日本語では、シナはシナ、台湾は台湾ということが はっきりしていたわけですね。ありがとうございます。
556 :
美麗島の名無桑 :2005/06/07(火) 14:49:17
, ‐ ' ´  ̄ ̄ ` 丶、 / 丶 , ' r、'´ _ _ ヽ / /ヽヽ__ ' ´ _____,, イ ヽ ,' ,' {_r'‐'',ニ二、ー===-‐'|l 、`、 iヽ i // '´  ̄`ヽヽ l| l i ,' ヽ l / 、>‐=、、 =ニヽ ! l l ,' /⌒ l | ´ /(__,!゛ `、! | ! 大日本帝國は最高よ! ,' ! '^> |! i。_oソ , ニ、, ノ 丿 ,' ヽ ヽ ` ─ '⌒Y, ' / / |`T 、 j /}´ ,'^! / l l i iヽ i` ーァ /ノ / / / | | i i ! \ l_/ ノ | {ヽ / / ,' | | i iノ 丶、 __ , イ | | l } 〃 二ヽ ,' r| | '´\_ / ,' ,′ | | |└'{_/ ,─`、 ,' , --─/ l | ─ 、 `X´ト、 ,′ | | | '-イ_ィ、 〉
日本も、企業単位では相当な利益を、上げていたと、思います。 たとえば、当時の財閥、鈴木商店は、日本の銀行から、融資を受け入れず、 台湾の、銀行から融資を、受けていました。 なんか、自国の金を、使わないのが、って、話を、聞いたことが、あります。
558 :
美麗島の名無桑 :2005/06/07(火) 15:14:56
559 :
美麗島の名無桑 :2005/06/07(火) 19:03:30
朝鮮では資金の流れが日本からきていた 銀行の預金はほとんど日本人の預金、朝鮮殖産銀行債権、東洋拓殖債権 等の大蔵省預金部引き受けによって資金調達、朝鮮の銀行は貸しだし超過のオーバーローン 定期預金の利率が内地より高く、内地人の大口の預金があったとか(これは政策的なもの)。 このように朝鮮の資金はほとんど日本からきている。 台湾も程度の差はあれそういうことはあったと思う。
561 :
美麗島の名無桑 :2005/06/09(木) 10:20:50
,′ _ , -r/`ヽ十/`ヽ ヽ. _/ l|/, ゛、 /:/ 爪! l| il| | ヽ /:::/ | l l``` "´| ト、 l ゙、 . !::::l /|.lヽ! リ }ハ_ i 好きです、日本の兵隊さん! l::::| l/l|二、 ,二., l i l |::::l i l,/_j::、 _j::、ヽl i ! ! l::::| l l! _ヒ」 ヾ┘ j l | | l::::i! i l l ; //l j i ! !::::lヽ!、ヽ'、 、__, ノ'// /// . j::::::!::::::ヽ゛、 ///!'´ i::::::::i::::::::::i::`}' 、 _ _,. 'l::::/'::i::::| !::::::::::!::::::::::!ノ !:::::::::::!::l j::_,,-ヽ:::::::ヽ iヽ:::::::::ヽ!
>>560 他人のサイトの情報を引用したいのなら、そのサイトのトップのページのリンクも
併せて載せるくらいのことはすべきでしょう。
南京事件143枚の写真
ttp://www.geocities.jp/pipopipo555jp/ サイトの説明文:
写真が語る残虐行為が真実なのか、この本は噛めばかむほど味が出てきます。
1回目は著者の主張にうなづき、2回目は少し疑問が生まれます。3回目には日本兵が撮影した
写真であることに気がつき、4回目にもなると、『撮影工作』による捏造なのか中支派遣軍による
大虐殺なのか、検討の真価が問われます
興味のある方は、上記のサイトのトップページから自分自身で読んで判断してください。
このサイト自体は、南京事件の写真とされるものについて、「否定派」の主張が正しいものかどうかを
考察しているサイトです。いわゆる「否定派」がどのような主張をしているのかは以下のサイトが
参考になる思います。
『南京大虐殺はウソだ!』インデックスページ
ttp://jpn.dyndns.ws/~nanking/
563 :
美麗島の名無桑 :2005/06/12(日) 22:56:23
「日本人はとても素敵だった」と「帰らざる日本人」を読みました。 出版社に感想を送った時、丁重なお礼のメールをもらいましたが、 統治時代に生きた人たちは高齢で、どんどん亡くなっているそうです。 当時を知る人たちの掘り起こしを地道に続けているようですが、 使命感でやっております〜、という言葉が非常に印象に残りました。
564 :
美麗島の名無桑 :2005/06/13(月) 22:28:31
台湾川柳会主催 李ていしょうさん この爺さん面白いと思う。 本にしてもらいたい
565 :
美麗島の名無桑 :2005/06/15(水) 09:16:47
俺が韓国であった御老人たちも、日本時代は素晴らしかった、日本統治を実体験していない連中がありもしない幻の非道を恨んで罵るのはけしからん、と言っていたな
566 :
美麗島の名無桑 :2005/06/16(木) 00:08:40
567 :
美麗島の名無桑 :2005/06/16(木) 02:47:38
568 :
美麗島の名無桑 :2005/06/16(木) 23:14:40
569 :
美麗島の名無桑 :2005/06/20(月) 09:02:15
/ / _,-':::::::::::::i. l . / / /~ヘ,-''^~ヽi.,: | i / / i:::: | . i / ./ l::: | i / / .|::: | . i / / |:: | i / /-―===-;. ;.'==ー-l::::: | . i ./ メ=;テ'=ニ.' ;=;テ'=;'.l|:::: | i /l / ~. ̄ i  ̄ ~ .l|:::: | . i l ./ l l|::::: | i y'i | ,'|::::: i . i / .l;;l l ,'ヽ'、/ i/ .ll:l.| '^ ' ,.':::::::l.| . |', |\ ./ |::l.|. -;=ニ=ニ;'. ,'::::::::/l.| 気持ち悪いアカばっかり . | \| ./ i |:::|.|ヽ, ~"='~ /:::::/ l.|
あるスレで 「うちのじーちゃんぼけてしまって、台湾語すっかり忘れて 日本語しかできなくなっていた」 とあった・・・・ 身内が突然「外国人」になってしまう 「悲しい」という言葉だけで割り切れない かなり深いものを感じさせらる。
高砂族の読みは「たかさごぞく」で良いのでしょうか?
572 :
美麗島の名無桑 :2005/06/29(水) 09:25:18
良い
573 :
美麗島の名無桑 :2005/07/05(火) 04:15:45
574 :
美麗島の名無桑 :2005/07/06(水) 23:17:24
良スレあげ
575 :
美麗島の名無桑 :2005/07/07(木) 05:53:37
576 :
美麗島の名無桑 :2005/07/07(木) 11:13:52
義愛公はすばらしいね。
577 :
美麗島の名無桑 :2005/07/14(木) 04:41:32
>>566 貴重なものをありがとう。
とりわけ、林玉鳳さんのお話は生々しく、目前に映像が浮かびました。
578 :
美麗島の名無桑 :2005/07/14(木) 21:25:51
579 :
美麗島の名無桑 :2005/07/24(日) 02:07:16
え。なんで一ヶ月以上止まってんの?Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)
582 :
美麗島の名無桑 :2005/12/16(金) 15:56:12
朝鮮では内地人と朝鮮人を共学させると、必ず喧嘩がおこるので 別の学校に分離されたそうですが、台湾ではどうだったのですか。
583 :
taiwanboom :2005/12/18(日) 13:43:15
>582 台湾でも原則的には分離していました。 台湾人が通う小学校は「公学校」といって、日本人の「小学校」と間別していました。 ただし、台湾人でも上流家庭のなかには、日本人の小学校に子供を通わせていました。 私のクラスにもいましたが、医師や会社オーナーの子女で、成績もよく日本人よりも 身奇麗にしていました。 クラスでは、ほとんど差別することはなく、対等に遊びけんかをしていました。 先生の態度にも差別を感じたことはありません。しかし… ある朝、授業開始の前に先生が「この中で今朝ニンニクを食べてきたものがいる」 といったとき、かなりの生徒が台湾人の同級生の方を見たことがあります。 差別感はあったのかもしれません。 またこれも授業開始のときですが、先生が突然「いまから日本語の名前に変える」 といって、台湾人のクラスメートの姓名を次々に日本名に変えていったことがあります。 その間、私たちは別になんにも思わず、中には日本語名のアイデアをいうものもいました。 台湾人も別段苦渋の気持ちになっていなかつたようです。 一昨年その台湾人の同級生に60年ぶりに会ったとき、この「改名」のときのことを 尋ねたが、苦痛だったとはいいませんでした。 米国で医師として成功している同級生が、このときの日本名をそのまま使っている、 といって笑っていました。 なお日本時代には、台湾人は「本島人」といい、日本人を「内地人」といっていました。 「台湾人」ということは絶対になかったといってもよいでしょう。 だから今でも私は「台湾人」と書むくときは、いささかの抵抗があります。
584 :
美麗島の名無桑 :2005/12/19(月) 17:43:33
>>583 ありがとうございます。「内地人」も「本島人」も日本人に変わりはないという理屈が
どちらにも受け入れられていたのでしょうね。
585 :
美麗島の名無桑 :2006/02/06(月) 19:05:54
>>583 それって「この中で朝イモを食ってきたやつがいる」って言ったら
北海道の人を見る感覚でしょうかね?w
586 :
美麗島の名無桑 :2006/02/06(月) 19:31:18
この中で今朝キムチを食べてきたものがいる
587 :
美麗島の名無桑 :2006/02/06(月) 19:44:36
>586 ワラ
>>585 北海道人の事はあまり話さない方が良いと思う。
30代の人でさえおやつが芋だったり、甘味が牛の飼料に
振り掛ける糖蜜だったりした連中が沢山いる。
「俺はまだマシだった一斗缶に入っていた水飴だった...。」
なんて真顔で言う奴がいる。
台湾人はすごく恵まれいたと思うね、「つい」最近の北海道人とは
比べ物にならないくらい恵まれてたと思う。
589 :
美麗島の名無桑 :2006/02/06(月) 23:11:07
>>588 ごめん…俺、道産子で芋が大好物なもんで(´・ω・`)
そゆことに配慮できなくて本当すまn
590 :
taiwanboom :2006/02/11(土) 15:58:39
ふかしたジャガイモにバターを付けると天下一品の味でした。 九州ではジャガイモをふかしても、水っぽくていただけません。 北海道のものが、いまでは最高です。 昭和20年代には、米国の援助物資のトウモロコシの粉に小麦粉を つなぎに入れて蒸して、マントウのようにして食べたものです。 ほかほかした黄色のマントウで、かんばしくてなかなか美味でした。 後に、このトウモロコシの粉はアメリカでは、家畜の餌だったと聞きました。 それでも、敗戦国民はおいしく食べました。
クズとはいえ、天然素材をそのままつかった動物の餌と、 添加物農薬まみれで見た目はキレイな人間のエサ。 動物も食わないようなものを、現代人は食ってるわけだが。 特に中国からの輸入食材。
592 :
美麗島の名無桑 :2006/02/28(火) 14:23:49
日本が統治した朝鮮、台湾では統治期間の30年に人口が、三倍に膨れあがったのは 何故か?日本人 はこれらの国を欧米の行う植民地化(現地の富や資源の略奪)はせず 、日本国と同じ意識で国造りに邁 進したからである。 日本統治を求めたのは当時の朝鮮の最大政党である。 あまりにも貧しい自国の将 来を憂い、欧米列強と互角に渡り合う唯一の黄色人種でありアジアの盟主であり、最先進国の日本に統治 してもらい、朝鮮を豊かにしたかったのだ。中国においても全く同じ事が言える。朝鮮、台湾に日本人が 日本国内で働いて貯めた膨大な国家備蓄の富(税金)をつぎ込み、これら世界の最貧国に日本と同じ数の 学校を建て、教師を育成し、病院を建て、灌漑用水を作った。そのおかげで疫病に悩まされる事無く、文 字が読めることで機械を扱え、用水が確保出来た事で作物は10倍以上作られるようになり飢饉に飢える 貧民が激減し人口が増えたのだ。その国の国民を自国民と対等に扱い身銭を切って近代国家にさせるとい う人道統治を日本はアジアでやってのけたのである。
593 :
美麗島の名無桑 :2006/02/28(火) 14:24:41
当時の欧米列強の植民地政策としての侵略は凄まじいまでの富の収奪であった。米国がフィリピンを 植民地にしたときは、独立を叫ぶフィリピン人を皆殺しにした。それもただ殺すのではない。捕虜の尋 問では魔女裁判を真似て「泥水を五ガロンも飲ませ、膨れた腹の上に米兵が飛び下りた。彼は口から六 フィートも水を噴き上げて死んだ」(米上院公聴会の証言)。サマール島の民が米兵を殺すと「報復に その島と隣のレイテ島の住民すべてを殺した」「三年かけて二十万人を殺した頃やっと島民の抵抗がや んだ」 フランスが植民地にしたベトナムでは「住民には人頭税のほか、結婚税や出産税も取った。村 々には阿片専売所を置いて、麻薬でもうけた」「重税に抗議するデモには仏戦闘機が容赦なく機銃掃射 を浴びせた。死んだ者を弔うと徴税吏が飛んできて葬式税を取り立てた」オランダはインドネシアでも っとひどいことをやった。ある農場では女の使用人が粗相をしただけで裸にして鞭打ち、傷口と局所に 唐辛子をすり込んだ記録が残る。ミャンマーのシュエダゴンパゴダの土産物屋に刃先がない鎌が売られ ている。英植民地時代、ビルマ人にそれを抵抗の武器にさせないための処置だった。 日本はそこに進出して彼らを追い出し、刃先のない鎌しかもてなかったビルマ人に銃を与え、自分達の 軍隊をもたせた。 インドネシアでは彼らの軍隊ペタをつくった。朝鮮統治でもオランダ人と違って日 本人は唐辛子をすり込むようなことはしなかった。 参考資料:HP、恋愛manual→f u n w a k a論 より。
594 :
美麗島の名無桑 :2006/02/28(火) 16:56:43
595 :
美麗島の名無桑 :2006/02/28(火) 20:56:43
Oh My God! LOL
596 :
美麗島の名無桑 :2006/03/02(木) 14:08:57
>588 自分は40代前半ですが、確かに子供の頃の甘味というと「一斗缶の水あめ」っていうのがありました。w 今ではちょっとした笑い話と思い出になっています。 昭和30〜40年代の日本は中央と地方毎の違いというのは顕著にあったんでしょうね。 ところで、台湾統治時代に関していうと、熊本出身の父親の叔父(祖父の弟さん)が台湾銀行で働いていたそうです。 父親の持っていた、引き上げてきた大叔父さんからもらったという台湾銀行の発行したお札というものを見たことがあります。 あと、大陸から台湾銀行に持ち込まれた乾隆通宝とかいうものを持っていたようです。 父親からの又聞きですが、台湾も外地という日本国内ではあるが未開発地域として位置づけられて、せっせとお金をかけて日本化させようとしていたらしく、熊本などよりよっぽど都会らしくなっていると大叔父が言い放っていたそうです。 父親は「台湾のくせに生意気だ」と子供心に思ったそうですが、自身が北海道で暮らすようになって、外地を発展させるということがどんなことなのかを理解したそうです。(苦笑)
597 :
グリーン中山 :2006/03/02(木) 16:10:19
『最近の台湾の教科書について』
慰安婦の記述
近隣諸国(主に韓国・中国など)と日本で、歴史認識の違いで議論になる事柄のひとつに、
慰安婦などに関する事柄があると思われますが、
日本では、慰安婦について、職業婦人だとか業者が行なったことだとか
いろいろに論じられていますが、
最近の、台湾の教科書でも、2社3種類の教科書に慰安婦についての
記載がされています。
以下に國中(9年一貫の7,8,9學年)の検定教科書の
内容を紹介しています。
( 翻訳は大体ですので、原文の画像もご参考ください。
http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrent/FREKISHI_B031 Bar HISTORIA(フリートーク)
)
598 :
taiwanboom :2006/03/10(金) 16:48:30
<596> 日本の台湾に対する植民地政策は、欧米の方法とは異なっていました。 白人は植民地を原料供給地としてしか評価しません。インドではイギリス紡績 業の綿布の消費地としても考えてはいました。 このため、植民地人にとりたてて教育をほどこす必要はなく、一次産業だけで 十分なのです。二次産業の製造業はあってはならないのです。 イギリスはインドを綿布の大消費地にするため、インドの機織業をつぶす目的 でインド人の機織職人の腕を切り落としたとさえ言われています。 日本は台湾を原料供給地としての価値のほかに、工業基地としても考えたので す。 このためには、台湾人の教育が必要です。 それに台湾を独立経済圏として、国家に財政的な寄与をするべく考えていまし た。 この目的を達成するために「職工」とその中間管理職まで、台湾人が受け持つ ことにしたのです。 このためには、かなりの程度の教育が必要でした。 さらに、それらの生産を安定して行ううためには、社会の秩序がなければなり ません。 このためには、道徳や社会的な近代化が必要です。 台湾での社会教育が進んだのはこのためです。 こうしたことで、日本の台湾統治はこれまでの欧米のものとは、異なる知的な ものとなったのでしょう。 その政策は効果があり、大正になってほどなく台湾は独立経済となり日本内地 に「上納金」を納めるまでになりました。 さらに重要なことは、こうした成果は日本が欧米の植民地先進国に対して、み せなければならなかったとでもあったのです。 日本の台湾統治は、アジア人が「植民地統治」をする初めてのケースでした。 これは欧米から見ると「身の程知らず」のことをやろうとしている、とうつっ たことでしょう。 「お手並み拝見」と、冷ややかな注目をしていたのです。 日本の台湾統治は「失敗」するわけにはいかなかったのです。 また植民地統治を進めるためには、同じアジア人でも日本人は優れた民族であ るということを、植民地人に知らせなければなりません。 このために、学校や官庁を日本内地では考えられない豪華なものにし、素晴し い都市計画を実施したのです。 台湾の日本人に対して、人力車のような「賎業」につくことを禁止しました。 こんな社会に住んでいた私は、昭和15年に内地に帰って、町がせせこましく 貧乏な人があちこちにいるのに驚きました。 台湾の小学校のクラスメートでは見ることがない、貧乏な服装の生徒がいまし た。県庁所在地の学校なのに、絣の着物を着て洟をたらして冬でも裸足でいる ものがいました。 道路も狭く、家がくっついてせせこましい感じでした。
599 :
家族を殺されたくらいで、英霊を侵略殺人犯と言えるのか? :2006/03/10(金) 18:01:44
600 :
美麗島の名無桑 :2006/03/10(金) 18:05:58
台湾嫌いwきもいw
601 :
美麗島の名無桑 :2006/04/25(火) 16:11:43
永六輔もwきもい
602 :
美麗島の名無桑 :2006/05/11(木) 01:46:59
世界中にアーリントンの母とか貧民烈士の母とかイパーイいるが、普通戦争反対を叫ばない。 六輔説だと世界中の親が不気味とゆうことになり、破綻する。
603 :
美麗島の名無桑 :2006/05/15(月) 23:20:37
樺太・朝鮮・台湾は、昭和20年4月1日の選挙法改正で衆議院普通選挙区になりましたが、 (ただし敗戦によって選挙は行なわれず) 当時の台湾人は、どのように受け止めていたのでしょうか?
604 :
美麗島の名無桑 :2006/05/16(火) 11:33:01
去年何人かで台北に行ったんだけど、爺さんに「日本人ですか?と」日本語で話しかけられた 「そうですよ」というと二二八紀念館に連れてっていろいろと話を聞かせてくれたよ 入場したらパンフレットと一緒に「教育勅語」をくれたw 彼曰く、「心は今でも日本人」だそうで何十倍だかの倍率を潜り抜けて兵隊になったことを 自慢げに語っていた 「一旦緩急あれば国家のために戦うのは当たり前です。私は死ぬつもりだったしその事に 誇りを持っていましたよ」と涙ながらに熱弁され思わずもらい泣きしてしまったよ 最も彼は二二八事件で弾圧されたそうだから、その反動も多少はあるのかもしれないな
台湾はじめ、戦中の外地は日本より豊かだったんじゃ? 漏れの母方の爺さんは満州育ちだが、満州で食い物に不自由したことはなかったらしい。 ロシア人から教えてもらったタンシチューを食っていたそうなw(孫の漏れも何度か作ってもらった。) ちなみに父方は実家が岐阜の農村だったが、東京から疎開してきた親戚を何家族も受け入れていた。 食い物にはそれほど不自由しなかったが、着るものがなかったとか言ってた。 ただ、ほとんど魚が食えなくなったのがつらかったとか言ってた覚えも。
606 :
美麗島の名無桑 :2006/05/27(土) 15:36:16
>>605 内地人に限っての話じゃない?
植民地の本国人は植民地人をこき使える立場にあるから
豊かになりやすいとオモ
608 :
美麗島の名無桑 :2006/07/26(水) 11:36:48
日本もアメリカの植民地になって グローバリゼーションに向けて開発してもらわなきゃ!
609 :
美麗島の名無桑 :2006/07/28(金) 19:25:54
ここの書き込み読んでると、 「グローバル化できるなら、アメリカに支配してもらったほうがいい」 と主張する某学者の意見とダブって見えるね。
>>609 そいつはアホ過ぎるし、台湾みたいに成功していれば、そんな議論はないだろうけど
経済発展に失敗し、内戦の止まらない国の中には、「独立しなかった方がある意味まし」
なところは沢山あるぞ。実際問題。
611 :
美麗島の名無桑 :2006/08/03(木) 10:45:13
>>610 コヴァ風に言うと、結果論?
コヴァは「台湾論」で、
「英語を第二公用語にしようという売国奴は死刑にすべき」
と言ってたけど、これを台湾に適用すると、
「近代化できたから日本の植民地にされて良かった、と言う奴は死刑にすべき」
となるのでは?
まー、台独派はヘタレの集合だから・・・
612 :
611 :2006/08/03(木) 10:54:32
>>592 日本が統治した朝鮮、台湾では統治期間の30年に人口が、三倍に膨れあがったのは 何故か?日本人
はこれらの国を欧米の行う植民地化(現地の富や資源の略奪)はせず 、日本国と同じ意識で国造りに邁
進したからである。 日本統治を求めたのは当時の朝鮮の最大政党である。 あまりにも貧しい自国の将
来を憂い、欧米列強と互角に渡り合う唯一の黄色人種でありアジアの盟主であり、最先進国の日本に統治
してもらい、朝鮮を豊かにしたかったのだ。中国においても全く同じ事が言える。朝鮮、台湾に日本人が
日本国内で働いて貯めた膨大な国家備蓄の富(税金)をつぎ込み、これら世界の最貧国に日本と同じ数の
学校を建て、教師を育成し、病院を建て、灌漑用水を作った。そのおかげで疫病に悩まされる事無く、文
字が読めることで機械を扱え、用水が確保出来た事で作物は10倍以上作られるようになり飢饉に飢える
貧民が激減し人口が増えたのだ。その国の国民を自国民と対等に扱い身銭を切って近代国家にさせるとい
う人道統治を日本はアジアでやってのけたのである。
こういうの読むと、「沖縄はアメリカ信託統治領のほうが良かったのか」と思えてしまう。
また、「日本をアメリカ信託統治領にせよ」という意見に反論できないよなw
>>598 >その政策は効果があり、大正になってほどなく台湾は独立経済となり日本内地
>に「上納金」を納めるまでになりました。
>また植民地統治を進めるためには、同じアジア人でも日本人は優れた民族であ
>るということを、植民地人に知らせなければなりません
特に附記すること無し。植民地主義者の主張はここに尽きる。
613 :
美麗島の名無桑 :2006/08/06(日) 01:12:33
>>612 >こういうの読むと、「沖縄はアメリカ信託統治領のほうが良かったのか」と思えてしまう。
>また、「日本をアメリカ信託統治領にせよ」という意見に反論できないよなw
はぁあああ?
もう少し、戦後の沖縄の歴史を学習せよ。
「当時の琉球=現在の沖縄地方」ではない。
614 :
美麗島の名無桑 :2006/08/06(日) 01:14:05
あの乃木将軍が見捨てた唯一の奴ら。 それが、ワンコロ。
615 :
美麗島の名無桑 :2006/08/09(水) 06:59:40
私の祖父は台東で、神主をしていたそうです。 父は台湾で生まれ、台東中学校というところを出ていると聞いたことがあります。 祖父は私が生まれる前になくなり、父も他界しているので、 今は詳しい話を聞けませんが、 現地の人たちと交流がかなりあり、父も地元の台湾の子供たちと楽しく遊んだそうです。 ただ引き上げて来るときは、オンボロ船にのり、それ以前に結核性胸膜炎をわずらっていた父は 日本まで持つだろうかといわれるような状態だったそうです。 一度、台東を訪れてみたいのですが、どうやったら安全にいけるでしょうか。 そういえば毒蛇が家の中にも入ってきたことがある、なんて父が行っていました。 何か怖いですね(笑)。
616 :
美麗島の名無桑 :2006/08/09(水) 12:44:42
>>616 数年前だけど、台湾大学の教員宿舎(日本家屋、庭付き)に行ったときに、
そこにお住まいの方が、時々蛇がでるんでね〜と言ってました。
やはり数年前、東海大学の教員宿舎の前に台湾コブラいました。
結構、普通にいるらしい。
今年、台北に行って、復興南路の道ばたの自転車に蛇が絡んでるの見ました。
↑ 蛇を見たら毒蛇と思え…が台湾なので、とりあえず。 毒蛇かどうかは、不明。
619 :
美麗島の名無桑 :2006/08/12(土) 11:43:53
台湾で蛇に包囲された(上) 昭和10年代、幼少年時代に台湾にいたが、そのときのヘビとの遭遇の 思い出を…。 台湾には台湾コブラや台湾ハブなど、いろいろな毒蛇がいた。 ヘビに噛まれても新聞には載らないが、かまれた箇所を自分の蕃刀で 抉り出して助かった「勇敢」な 高砂族(原住民)の青年の記事を見たことがある。 当時の台南の官舎が草ぼうぼうの原っぱにあったため、 たびたびこれらのヘビに出会った。 なかでも官舎がヘビに囲まれたことは、いまでも忘れらない。 日本内地から呉服のセールスマンが我が家に来たとき、 玄関の溝にオトナの腕ほどの太さの 大きなヘビを見つけて、棒でつついが動かない。 私は玄関のそばの出窓からその様子を見ていた。 和服を着て足袋をはいたセールスマンが、腰をかがめて棒を使っていた。 男のくせに、白い「腰巻き」をしていた。 とにかく大きなヘビだったが、種類は分からなかった。 そのとき、裏の庭につないでいた愛犬が突然吠え出しした。 台湾では「犬が吼えると、きっとヘビがいる」といわれていた。 縁側に出てみたら案の定、かなりの大きさのタイワンハブがのんびり 這い回っていた。 ふと廊下の下の床下の空気孔を見下ろしたら、なんとここにもヘビがいた。 タイワンコブラで、 孔から50cmほど這い出してきた。 棒を持ってきて叩いたところ、鎌首をもたげてプシュップシュッという 声を上げて向かってくる。 頭の付け根が、杓文字のように平たくなって、黒い舌をチョロチョロ出していた。 そのとき、母が台所から「ここにもいるよっ!」と叫んだので駆けつけら、 台所の勝手口のそばのフロの焚き口に 、タイワンコブラが這いこもうとしていた。 持っていた棒で追い出した。 玄関と裏庭に勝手口と、我が家はヘビに囲まれてしまった。 家の中には幼稚園から帰った私と母の二人だけ。 姉はまだ小学校から帰っておらず、父も連隊から帰っていない。 二人だけで、戸締りをしてじっとしていた。 心細かったが、スリルもあった。 1時間ほどして、当番の兵隊さんが数人官舎の掃除のためにやってきた。 勝手口を開けて「奥さんただいま参りました」という声にびっくりした。 扉を開けるとヘビが入ってくるかもしれないからだ。 そこで母があわてて「そこにヘビがいるから気をつけて…。家の周りに ヘビがいますよ」といった。 ところが兵隊さんから「ヘビなんていませんよ」の返事が返ってきた。 ほっとした。我が家を包囲したヘビどもは退散したのだ。 安心して外へ出たところ、たしかにヘビはいなかった。 ところが、兵隊さんたちが風呂の排水口のなかに棒を突っ込んでいる。 「ここにヘビが入っていったようです」という。 なんだ、ヘビのヤツまだいたのか。 でも姿が見えないので怖くはない。(つづく)
620 :
美麗島の名無桑 :2006/08/12(土) 12:04:11
621 :
美麗島の名無桑 :2006/08/12(土) 12:33:29
台湾で蛇に包囲された(下) (承前)兵隊さんが、蛇がもぐりこんだ浴室の排水口に棒を突っ込んでいるとき、 父が帰ってきた。 母から蛇の事を聞いて、父は下着姿になって兵隊さんと排水口の「ヘビ退治」に 取り掛かった。 日本陸軍の「ヘビ退治作戦」開始だ。 棒でつついても出る気配はなく、奥のほうで唸り声のようなものが 聞こえるだけ。 そこで熱湯を風呂場から流してみた。 それでも出てこない。きっとコブラだろう、根性がある。 次に、食用油を沸騰するほどに加熱して流すことにした。 こんどこそは出てくるだろうと、排水口にロープを輪にして吊り下げて待機。 頭を出したところで、一気に締め上げようというわけだ。 作戦成功!。 コブラの頭が出てきたところを、ロープで締め上げて引っ張り出した。 ズルズルと引っ張り出された台湾コブラは、幼稚園の私の背丈よりも長い。 大物だ。 ここから「捕虜の処分」で凄惨なシーンが展開さる。 兵隊さんが靴でコブラの頭をつぶして、そばのタイワン松の枝にぶら下げて、 一気に皮を剥ぐ。 それでもコブラは、びゅんビュンとのた打ち回っている。 内臓が見える。 次にその内臓を抜き、背骨までとってしまった。 筋肉だけになったが、それでもくねくねとうごめいている。 「筋肉」だけのコブラを丸めて、草履の空き箱に入れた。 蓋をさわるとなかでうごめいているのが分かる。 父は「さすがコブラだ。あとは任せる」といって家に入ってしまった。 そこへ隣のY中隊長が、騒ぎを聞きつけてやってきて、箱の蓋を開けたりして しばらく見ていたが「これいただこう」 といってコブラを持って帰ってしまった。 兵隊さんは残念そうにしていた。 コブラは精力がつくといって食べることがあるからで よその中隊長に「獲物」を取られたのだ。 これで我が家の「対ヘビ作戦」は終結した。 いま振り返ってみて、なんと残酷なことをしたものかと思う。 私がいた頃の台湾は、ヘビは珍しいものではなかった。 遊びに行ってもヘビに出会うことがあり、犬がヘビをくわえて くることもある。 だのに、母からヘビについての「注意」を受けた記憶はまったくない。 いまの台湾では日常生活でへビ出会うことはほとんどないそうだ。 現地の人の中には「大陸から逃げてきた国民党のものが、ヘビを捕まえて 食べてしまったのでいなくなつた」という人がいる。 同様に、高雄の忠烈祠がある「寿山」のサルも、日本時代にはサルがいたが、 彼らが食べつくしてしまったという。(おわり)
支那人が一番こええよ
623 :
美麗島の名無桑 :2006/10/06(金) 23:12:05
ガクブル…
624 :
美麗島の名無桑 :2006/10/08(日) 13:46:35
http://jplan.thm.gov.tw/JVList.aspx 2.南進台灣(馬是兵器,要鍛?愛惜)
:恐らく戦時中の映像。
3.台南州
:戦意高揚のために製作されたのであろうフィルム。
8.實寫全台灣
:台湾の色々な風景が出てきます。
9.南進台灣
:台北市の紹介フィルム。
10.南進台灣系列
:阿里山の林業が紹介されています。
11.記?
:台北市内の様子。
14.台灣勤行報國青年隊
:「台湾勤行報国青年隊」誕生の経緯など。
625 :
美麗島の名無桑 :2006/10/16(月) 19:48:48
626 :
美麗島の名無桑 :2006/11/14(火) 19:06:59
627 :
美麗島の名無桑 :2006/11/15(水) 00:20:04
総督府の辺りに「かばやま」町という地名があって、 そこの池でエビが捕れたそうです。 今の地図で総督府周辺の池を探すと、 どうも1箇所しかないなぁ。 地図にない池があるかも。 あと、古地図で「かばやま」町が見つかるかも。
628 :
美麗島の名無桑 :2006/11/16(木) 18:04:39
台湾人はやっぱり日本に対して怒っているよ。 中国みたいに度が過ぎた反日じゃないけど、 彼らの複雑な心境は理解してやる必要がある。 台湾は親日なんだろってな目で台湾人には近寄らない方がいい。 それは東南アジアに対しても同じ。 ただ、もし仮に台湾人から何か文句でも言われようものならこういってやれ。 「李登輝みたいな奴が独立のために日本右翼を利用しているから、 日本人は台湾人=親日だと勘違いするんだ」とな。
629 :
美麗島の名無桑 :2006/11/17(金) 16:20:00
基地外左翼↑
630 :
美麗島の名無桑 :2006/11/25(土) 11:37:25
反李登輝は大陸の主張 普通の台湾人は圧倒的に李登輝支持
631 :
美麗島の名無桑 :2006/11/26(日) 22:58:00
/i _,.r-. ,-/r' 」'ー-'〈 ,r'゙' '゙';,'゙';., /: :::;;゙;' ヽヽ ,.;'゙'゙` ` ´`゙;, / ;' r=, i ,.;;' , : : :_: : : . . ';, i :: `';,,....;.--='⌒'゙''i.;.,:,, ;: | -.,__,シ' `'; ; f゙' .,_ _,. - ' ハヽ i, i ,.; ; ゙i l ,.:;;' ;: ;: ;;;'' :; i ,..,,.;:'゙ ;: ' ,. ''゙゙´ ;; :; l ,, ノ ,..;: ー〈´ `' ';:, :; ヽ, ;;, ;, /,. ''゙´ ヽ、 `' ;. i i `'r'゙゙ / `'-., ヽ、 ヽ | i, i ヽ iヽ ゙'., | li ,i i | \ i | l.i / /,_ノ ヽ l ノ ノi゙ / `´゙ ! i r-' ノノ . / 'ーー' ゙'^ー゙ノ / 日本統治下で有名だった忠犬ハチ公。わん! (w,i.ノ
29 :美麗島の名無桑:2006/10/13(金) 15:15:37 チーリンはおしっこなんてしないよ 30 :美麗島の名無桑:2006/10/18(水) 08:15:34 チーリンのシューシュー音立てておしっこするぜ? 31 :美麗島の名無桑:2006/10/27(金) 19:41:13 チーリンのおしっこは目を覆いたくなるような黄色。 鼻をふさぎたくなるようなアンモニア臭。 彼女に夢を描いてた人はおしっこを見てみんな失望する。 32 :美麗島の名無桑:2006/11/06(月) 19:40:48 チーリンのおしっこは全然臭くないよ。 33 :美麗島の名無桑:2006/11/06(月) 21:12:58 チーリンは無理でも、普通に台北の街を歩いている女性のが欲しい。
633 :
美麗島の名無桑 :2006/11/27(月) 11:08:53
内地の人はもてる
634 :
美麗島の名無桑 :2006/11/28(火) 19:13:21
外省人の子らしいのが小便垂れながら人混みの中を歩いてる 危うくかけられるところだった
今週上野の国立図書館に行ってきた いまでは明治風の外装になって。「国際児童 専門書」の所収の図書館となっている 2階がアジア地区の児童向けのになってるが 私は残念な事に日本語しか読めない でも少年少女向けの本なので、英語 漢文 の幼年少年のは少しは意味が分かった。中に台湾向けの最近書が少数ばかりあった。 戦後の反日時代のモノだろうか。序文に日本人が台湾人の首をしめたという様な 文章がのってたのも。然し大方は親日的という風に受け止めた。あと多くは、活字 が現地風なので絵本から、アジアのことが得られなかったのは残念だった。
636 :
美麗島の名無桑 :2006/11/30(木) 00:22:55
愚かなことを・・・・ 現地風なのは戦後日本の略字であるのに・・・
637 :
美麗島の名無桑 :2006/12/07(木) 09:08:37
632は支那人の工作員
638 :
美麗島の名無桑 :2006/12/12(火) 19:03:27
こんにちは! 中井俊已です。 お元気ですか?
このメルマガが、今日もガンバルあなたの「心の糧」となりますように・・。
栗野浩二郎
http://www.t-nakai.com/[ソースチェック] (天国の友人)
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000141254 [ソースチェック]
勤務先アドレス
http://www.seido.ed.jp/[ソースチェック] す、すみません。
ちょっとびっくりされましたか、今日の言葉。
「明日は阿南慈子さんの言葉」と昨日お知らせしていましたが、
後でご紹介する読者のお便りに触発されて、勝手ながら予定を変更しました。
今日の言葉「ハハハッ!(^^)」は、昨年7月に海難事故で一足先に天国に
行ってしまった親しい友人の言葉です。 よく笑うヤツだったんです。
天国の彼が、「割り込んで申し訳ないですけど、ちょっと僕にも一言いわせて
もらっていいですか」というもので・・・。
今日は、特別出演です。 栗野浩二郎、彼は私の学校の同僚でした。栗野浩二郎は広島大学の学校教育学部のOB
栗野は巨人ファンだったニダ・・・
溺れる児童を救うために海に飛び込んで、そのまま逝ってしまったのです。
すごいヤツでした。 私よりも一回りも年が下でしたが、尊敬していました。
教師としても、人間としても・・・。
彼が生きていれば、どんなに素晴らしいことを成し遂げ、
どれだけ多くの人を幸福にできたのだろうか、と時々考えます。
彼はよく豪快に笑いました。 困った時も、苦しい時も、 「ハハハッ!」と笑い飛ばしました。
その声と笑顔でどれだけまわりの人が元気づけられてきたことか・・・。
いえ、いまも私は彼の笑い声に励ましてもらっているのです。
「ハハハッ!中井さん、先に行ってごめんなさいね。
中井さんには、まだやらなきゃいけないことがあるんですから、
僕の分までよろしくお願いしますよ!
ハハハッ!じゃっ、またいずれ天国でお会いましょう!(^^)」
【事故】波にさらわれ児童と教師死亡 長崎
http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1057849098/ 10日午後0時50分ごろ、長崎県三井楽町(五島)の高浜海水浴場で、
海水浴をしていた長崎市三川町の私立精道三川台小学校(白根聖矢校長)の6年生13人が沖に流された。
引率の教諭2人が救助に向かい、一人ずつ近くの岩場に押し上げたが、
児童の村田寛容(ともひろ)君(12)=長崎市西坂町=と、教諭の栗野浩二郎さん(31)=同県長与町高田郷=
が行方不明になった。2人は45〜70分後に海面に浮いているのを発見され、病院に搬送されたが、
午後6時半過ぎに相次いで死亡した。保護者からは、以前から、梅雨の季節の不安定な時期に
海水浴を体験させることは危険として反対者が多く、
水泳体験の修学旅行自体に疑問視する声が多かったのにもかかわらず、
学校は強行的に反対者を押し切って修学旅行を行った矢先の
出来事だっただけに、学校側の重大な責任が問われることは必至である。[毎日新聞7月11日] ( 2003-07-11-01:30 )
◆私は長崎の私立小中学校で22年間教師をしながら執筆活動をしている者です。
これまで、おかげさまで、
『元気がでる魔法の口ぐせ』などの魔法の言葉シリーズ(PHP)
『「ありがとう」で運は開ける』などの天使のメッセージシリーズ(グラフ社)
『思いやりを育てるしつけ51のヒント』などの家庭教育51のヒントシリーズ(学陽書房)
など17冊の本を出版し、多くの方々に読んでいただいています。
◆今日の言葉は、昨年10月に列福されたマザー・テレサの言葉にしました。
昨年10月に『マザー・テレサ愛の花束』(PHPエディターズ・グループ)
という本も出しています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569631320/ [ソースチェック]
◆「大切なのは、……どれだけ心をこめたかです」を胸に、
これからこの小さなメルマガを、書いていきたいと思っています。どうか、これからもよろしくお願いします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
発行者: 中井俊已(なかいとしみ)
http://www.esky.jp/nakai/ [ソースチェック]
ご連絡先:
[email protected]
639 :
美麗島の名無桑 :2006/12/14(木) 12:56:43
日本海軍は國民の誇り 日本陸軍は愛す可き子弟兵
640 :
空の英雄 :2006/12/15(金) 11:09:52
641 :
美麗島の名無桑 :2006/12/15(金) 16:47:28
「多桑」見た?
643 :
美麗島の名無桑 :2007/01/05(金) 17:54:29
宮前町
644 :
美麗島の名無桑 :2007/01/07(日) 01:02:37
けど、敗戦当時の台湾を考えて、一番不幸なのは、 言葉の問題。犬が去ってブタが来たら、そのブタ語が全然理解できず。 そして知らぬ間に、学校の教育でも、日本語台湾語禁止、ブタ語のみ。 今まで勉強は日本語、生活は台湾語で育って来た世代は、 どれだけ困っただろう、今までの知識も生かせずに、ブタの言いなりになるしかなく 逆らえば殺された。ブタ語を理解できないだけで殺された人もいた。 日本時代、下手な地方都市よりよっぽど近代化の進んだ台湾の人達は どれだけ悲しんだろうか。そして旧宗主国による救済をどれだけの望んだのだろう。 これを考えると、元同じ国民を見捨てた日本にも、多大な罪を感じ、 反省を求める。
645 :
美麗島の名無桑 :2007/01/07(日) 01:22:38
台湾人は最初シナ人を歓迎して受け入れたんだ その時点で台湾人にも責任はあるだろ
そのせりふ、特に日本語世代の前で堂々と言えたら おまいは神。怖いもの知らずだな。 特亜の連中に謝罪と補償は無用だが 台湾同胞に対しては「戦争に負けた」事を謝罪し 元帝国軍人、軍属への補償は行って当然である。
>>646 >元帝国軍人、軍属への補償は行って当然である。
台湾の資産を接収した中華民国政府にその義務があるんだよ。
中華民国の国民になった以上、対日請求権はその資産を横領した中華民国政府に
対して行使しなくちゃならんの。
648 :
美麗島の名無桑 :2007/01/07(日) 11:40:12
気持はわかるが、法的には一寸無理 中華民国が敵国軍人の面倒は見ないよ
649 :
美麗島の名無桑 :2007/01/20(土) 20:07:34
こっちでみよう。 これはこれで利点がある。 日本軍人厚遇。 支那軍人悲惨。 →次も日本軍人になろう!
650 :
taiwanboom :2007/01/23(火) 13:40:12
>631 忠犬ハチ公の秋田犬のイラスト、実によくできていますね。 秋田犬の理想的な特徴をバッチリつかんでいます。 とくに、腹部の締りなど、ほれぼれします。 眺めているだけで、楽しくなります。 秋田犬をこのように描く人は、ほとんどいません。 彫刻でもお目にかかりません。 ただし、実際の「ハチ公」は、これほど立派な秋田犬では ありません。 その方が、味があるかもしれません。 本格的な「名犬」だったら、物語が面白くないかもしれません。 東京渋谷の「ハチ公」の像をみると、そう思えます。 この方がよいのだと。 実は、私は30年以上前に秋田犬に凝って、理想の秋田犬を求めて 展覧会に出して競っていました。 現在は年をとって、秋田犬の運動ができなくなったので、秋田犬の 飼育はやめています。 それまでに、30頭ほどの子供をとりました。 このイラストが、私が理想とする秋田犬そのものなので一筆しました。
犬が去ってブタが来た 支那人(台湾人)にとってブタは犬よりも縁起のいい動物。
652 :
美麗島の名無桑 :2007/01/27(土) 20:09:56
653 :
美麗島の名無桑 :2007/01/27(土) 20:23:30
654 :
美麗島の名無桑 :2007/02/23(金) 23:49:44
655 :
美麗島の名無桑 :2007/02/25(日) 18:09:37
戦友としての台湾も忘れてはいけない。 また叩かれるか。
656 :
美麗島の名無桑 :2007/02/27(火) 04:22:12
657 :
美麗島の名無桑 :2007/02/27(火) 14:03:41
尊敬するよ、この人、さすが老台北だ。偉い!
658 :
美麗島の名無桑 :2007/03/03(土) 15:09:49
まったくだ。戦後台湾で頭脳流出が続いたのは、すべて国民党の悪政のせい。
賠償して欲しいな 日本人
謝罪して欲しいな 日本人
ここは、チョン板ではありません。
662 :
美麗島の名無桑 :2007/05/11(金) 23:49:54
664 :
美麗島の名無桑 :2007/11/11(日) 20:53:27
明石元次郎のお墓参りに台湾に行きたいです
668 :
美麗島の名無桑 :2008/02/27(水) 22:30:59
いあいあ、興味深い話をいろいろ聞かせてもらい感謝です。 おいらの祖父は戦前から終戦間際まで台湾で商売をしていて、 戦後の昭和20年の末に引き上げるまでの20年近く台湾が生活の要でした。 おいらが物心つく頃には祖父は死んでたんで、昔の台湾のようすを 知ることが出来ないのが残念。台湾で生まれたオヤジは終戦時で7歳。 自分が通ってた学校の名前すら忘れてた人間なので全然役に立ちませぬ。
669 :
名無的発言者 :2008/02/27(水) 22:45:24
.
空気を読まずに投下。 日本統治時代に台湾語が抑圧されてきたと教えられてきました。 しかし、インドネシアや韓国でのインドネシア語やハングルについての扱いを知って、 台湾語の扱いが単純に抑圧と言えるものだったのかどうか、 疑問に思い始めました。 そこで、本当のことを知ろうと思ったのですが、 調べてみても、中立の立場で書かれた解説がなかなか見つからない…。 これらを知る端緒になるような情報とか本はないものでしょうか。
672 :
美麗島の名無桑 :2008/07/23(水) 13:27:16
673 :
蓬莱峡の徐淑娟 ◆m68dVLRBiQ :2008/07/24(木) 15:32:01
空気読まずに軽い返答。
>>671 台湾語を日帝が抑圧?
...如何でしょうか...「公用語」として,日本語/生活用語として’ミンナン語(台湾語)
と使い分けていた”と想いますよ。
674 :
美麗島の名無桑 :2008/08/04(月) 09:55:29
昔の台湾島の人民は 小倭鬼子の虐殺をもっと証拠出すべき
675 :
美麗島の名無桑 :2008/08/04(月) 10:11:13
×日治時代(日本統治時代) ○日據時代(日本占拠時代)
676 :
蓬莱峡の徐淑娟 ◆m68dVLRBiQ :2008/08/04(月) 12:14:26
◎日治時代(日本統治時代) △日據時代(日本占拠時代)
677 :
美麗島の名無桑 :2008/08/23(土) 20:03:32
678 :
旅浪人 :2008/08/25(月) 11:24:16
私は良心的に言う、もし台湾が中国の一部分と主張すれば、中国の5000年の歴史の中に初めての民主選挙は゛李登輝゛からです、中国の歴史に記念すべきの人物と思います。
679 :
美麗島の名無桑 :2008/10/16(木) 16:54:06
日本統治時代は興味深いよね。
680 :
美麗島の名無桑 :2008/10/16(木) 17:17:52
明石元二郎総督
681 :
美麗島の名無桑 :2008/10/20(月) 09:11:48
樺山資紀総督
682 :
美麗島の名無桑 :2008/10/20(月) 11:20:52
児玉源太郎総督
683 :
美麗島の名無桑 :2008/10/20(月) 14:23:30
後藤新平民政長官
684 :
美麗島の名無桑 :2008/10/20(月) 16:25:40
桂太郎総督
685 :
美麗島の名無桑 :2008/10/20(月) 20:48:32
佐久間左馬太総督
686 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 03:03:51
Came Back 日本
687 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 10:44:36
田健治郎総督
688 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 12:06:05
689 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 14:19:43
長谷川清総督 長谷川仁政
690 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 17:08:33
乃木希典総督
691 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 19:23:40
南弘総督
692 :
美麗島の名無桑 :2008/10/21(火) 22:38:45
下村宏総務長官
もうくだらないからやめてくれよ
694 :
美麗島の名無桑 :2008/10/25(土) 20:35:19
台湾で出会ったおじいさん、私は昔日本人だった。そのころが懐かしいって
695 :
美麗島の名無桑 :2008/12/09(火) 18:53:06
ノスタルジックな時代だね
某博物館で案内してくれたお父さん、日本は100年経っても壊れない建物作ってくれました。日本人は台湾好き、台湾人も日本が好きでした。でも国民党来て滅茶苦茶になりました。 っと言ってました。
697 :
美麗島の名無桑 :2008/12/09(火) 20:38:25
698 :
美麗島の名無桑 :2008/12/13(土) 20:51:36
八田与一
699 :
美麗島の名無桑 :2008/12/14(日) 02:07:30
漏れの知り合いの台湾本省人のご両親は、今でも日本人だったことに 誇りを持っているとおっしゃってるそうだ。お元気な内に、当時のお 話を伺ってみたいなぁ。
700 :
美麗島の名無桑 :2008/12/14(日) 12:09:16
700
701 :
美麗島の名無桑 :2008/12/15(月) 14:26:03
蓬莱米
702 :
美麗島の蓬莱桑 ◆m68dVLRBiQ :2008/12/16(火) 12:05:20
>>697 「大話新聞”愉快愉快!」とか書けよ
マジ推薦。^^
703 :
美麗島の名無桑 :2008/12/17(水) 19:57:26
うちの婆ちゃん台湾人だけど戦後なんの保障も無いまま帰国せざるを得ない日本兵たちはとても可哀想だったってさ
704 :
美麗島の名無桑 :2008/12/17(水) 20:07:06
心やさしい台湾人と卑劣朝鮮人をどうしても比べてしまうな
705 :
美麗島の名無桑 :2008/12/17(水) 20:48:32
海角七号に出てくるような戦時中の日本人と台湾人の間の恋愛って 本当にありえたのでしょうか
無いと思うほうが不自然。
707 :
美麗島の名無桑 :2008/12/18(木) 01:46:51
>705 そんなあなたに。
YouTube - 金美齢女士 於 靖国神社
http://jp.youtube.com/watch?v=ALfu0RWGG84 …そして、私は街に出る度に、日本の兵隊さんに何かとお世話になりました。
当時、交通機関がかなり減っておりましたので、軍用トラックにしょっちゅう
乗せてもらって、自分の家から街の中心に出て、また街の中心から自分の疎開
した北投にまで行くのに、軍用トラックを利用したもんです。
その時、兵隊さんたちは、あの軍用トラックから降りて、小さな娘である私
を乗せてくれたんです。親切に、とても優しく親切に、私たち台湾人を保護し
てくれました。それが日本の兵隊さんです。もちろん、その同じ兵隊さんが、
敵地に乗り込んでいけば、死ぬか生きるかの戦いになれば、当然戦って相手を
倒すこともあるでしょう。しかし、私たち、当時日本人であった台湾人にとっ
ては、兵隊さんは私たちを守ってくれる存在だったんです。
知り合いの台湾老女が口癖のように言う言葉 『いろはにほへと』の時代は良かった・・・・・・
709 :
美麗島の名無桑 :2008/12/19(金) 15:34:04
>>663 自身が植民地人として差別待遇される中でも試験を突破してきたことから
敗戦で「三国人」と化した在日台湾人が一般の日本人に暴力をふるい出すところまで
率直なところを書いていて面白かった。
>>697 の「大話新聞」でも見るも良し〜
同じ「三国人」で,何も在日朝鮮人の横暴があまりにも激しかったからと
いって...
>>663 の邸永漢さんにファンレターでも出しなよ
>>709 まーいいよ’台湾料理の第一人者*程一彦さん*も「大阪・梅田で惨めな敗戦
国民,日本人に石投げてしまったよ。今想うと無条件降伏で落ち込んでいる
日本人にすまない事をしたね’まだ少年だったし...」って言ってましたし...
終戦のドサクサなので不届きモノの台湾人も少なからず居ても不思議ではない
ですね。
せっかくの
>>707-708 の「エエ話」が...><
711 :
でも、チョンが嫌い :2008/12/19(金) 16:39:34
朝鮮兵について
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/tyousenhei.html 「台湾人と日本精神」〜日本人よ胸を張りなさい〜より
急な日本の敗戦で、私は心の切り替えが出来なかった。
日本兵の軍服で汽車に乗っていた私は、周囲からは敗戦で消沈した日本人に見えたのだろう。
8月15日から急に横暴になった朝鮮人に嫌がらせされた。
座席に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれた。
取り返そうとすると、「お前はなんだ!朝鮮人を侮蔑したな!降りて来い!」と、たちまち数人に囲まれてしまった。
一人と多数・・・勝てない・・・。
「ごめんなさい。私の勘違いでした」と謝り、ピンチを逃れる事しか出来なかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間・・・朝鮮人は執拗に私と日本人乗客を苛め続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、「次の駅で窓から降りろ!」と命令し、苛めていた。
朝鮮人の酷すぎる情けない行為を、私は内臓が沸騰するような怒りを感じながら眺めていた。
黙って見ているしか出来なかったのだ・・・。
(中略)
佐世保のキャンプで私は面白い場面に遭遇した。
あの朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章を着けた我々にお世辞を言いながら擦り寄ってきたのだ!
それは中華民国が連合軍の一員であったからだ。
弱者には傲慢で、強者には媚びる・・・。
そんな朝鮮人の極端な習性を私は目撃したのだった。
712 :
美麗島の名無桑 :2008/12/19(金) 21:44:55
>>710 「善かれ悪しかれ」だから別に構わないでしょ。
スレ開けたら上の方にあったのを読んだら面白いと思っただけなんだけど。
>神奈川県の高座にある海軍工廠に台湾から徴用されてきた、まだ二十歳にもなっていない一万人近い少年工たちは、
>学問や教養と無縁だったせいもあるが、外人用の車輌の中でそっくりかえったり、
>プラットホームで気に入らない日本人に片っ端から暴行を働いて、人々のひんしゅくを買っていた。
この程度の冷静な記述で神経質になられてもな。
植民地人ってだけで憲兵隊に狙われ捕まってもそこで台独を思いつくQさん面白すぎ。
李登輝みたいに国民党内部からひっくり返すような離れ技をやらかすのとは比較にならないが
植民地人インテリになり損なって外省人相手に苦労した世代の青春というのはそれぞれに興味深い。
713 :
美麗島の名無桑 :2008/12/19(金) 23:41:22
植民地ではなくて、統治。ちなみに統治という概念は欧米にはない。
714 :
美麗島の名無桑 :2008/12/19(金) 23:46:49
>>18 > 中国から割譲された
間違い。
清國から割譲された。
当時「中国」という概念はなく、清國(満州族)に漢民族が支配された状態、それが
当時の姿でした。中国≠清國
都合の悪い事は清国。 香港割譲も、日清戦争も、八カ国連合軍の北京占領も、 清朝の残虐刑もわしゃ知らん。 今は満州人も中国人
716 :
美麗島の蓬莱桑 ◆m68dVLRBiQ :2008/12/22(月) 12:09:19
>>712 別に神経質になってないよ。
当時,日本人扱いだった’朝鮮人も台湾人も『敗戦国民指定』を逃れた事実を確認
するとする。
でもしかし,今でも日帝の被害者面を歴代の大統領が恥ずかしくもなく’表明して
しまう韓國と一緒にされると,さすがの温厚な台湾人も複雑な心境で,真剣に怒る
日本語世代も居られるでしょうよ。
>中国≠清國
中國55年の歴史乙。
なので,清朝が日清戦争で日本に呆気なく敗北し,勝手に台湾割譲の歴史を冷静に
振り返ってみると,現在の中共政府が声高に叫ぶ♪「台湾同胞よ,同じ北京語が
公用語なんだろ!?所詮,台湾省なんて中国の一部じゃねぇーか!!」と,まるで
中学停学程度の低脳チンピラヤクザみたいな呪文しか唱えられない中国政府の虚しい
苦悩を確認するとする。
717 :
美麗島の蓬莱桑 ◆m68dVLRBiQ :2008/12/22(月) 13:19:58
>>712 姜尚中と同じだわ...
295 :美麗島の名無桑:04/09/12 15:28:24
邱永漢は確かに捻くれた見方をしていたね
あれは東大だから・・・
718 :
美麗島の名無桑 :2008/12/23(火) 15:48:52
姜尚中って最近、あまり見かけないね
719 :
美麗島の名無桑 :2008/12/23(火) 18:20:34
毛主席に敬礼!
720 :
美麗島の名無桑 :2008/12/23(火) 23:45:06
朝鮮人は卑劣な民族
721 :
美麗島の蓬莱桑 ◆m68dVLRBiQ :2008/12/24(水) 12:17:03
722 :
美麗島の名無桑 :2009/01/04(日) 13:37:56
姜尚中wwwwwwwww
723 :
美麗島の蓬莱桑 ◆m68dVLRBiQ :2009/01/05(月) 15:03:35
姜尚中さん〜 たとえ一行レスでも放置されてません^^
724 :
美麗島の名無桑 :2009/01/26(月) 14:23:05
age
725 :
美麗島の名無桑 :2009/01/27(火) 12:17:20
後藤新平の伝記を読むと戦前の日本人の偉大さがわかった
726 :
美麗島の名無桑 :2009/01/27(火) 18:29:52
われらを導く毛主席
727 :
↑ :2009/02/11(水) 23:39:22
導くのは破滅に向けてだけどな。
728 :
美麗島の名無桑 :2009/02/16(月) 02:25:21
>忘却の
>>228 事件,台湾の前途に不安あり。
了解了。
730 :
美麗島の名無桑 :2009/02/23(月) 20:51:36
>テーマ 第一部 「忘却の二二八事件 台湾の危うい前途」 > 講師 伊原吉之助 先生(帝塚山大学名誉教授) 伊原吉之助って、30年前は蒋介石マンセーしてた輩なのにw
731 :
美麗島の名無桑 :2009/02/23(月) 20:57:12
当時の台湾では、うっかり山に入ると高砂族に首を狩られたそうだなw
733 :
美麗島の名無桑 :2009/02/28(土) 07:43:24
去年仕事で中国にいったとき、公園歩いてたら「あんたら日本人か?」って 爺さんに呼び止められて「そうだけど?」って答えたら、突然握手されて深く頭を下げられた。 「反日活動の全ては自分の利益しか考えていない政治家と、そいつらに騙されている 一部の民衆がやっていることで、多くの中国人は日本が大好きだから、 テレビだけ見て中国を嫌いにならないでほしい」 みたいなことを言われた。 たまたまその爺さんが親日なだけかと思っていたら、ホテルや食堂で働いている 若いスタッフにも同じようなことを言われた。 向こうの出版社にそのことを話すと、中国のごく一部で行なわれているカルト的な活動が、 まるで中国の常識のように日本で報道されていて悲しいと語った。 (反日運動の話をするとき、「ごく一部の地域」という単語がやたら出てくる) ネットやニュースを鵜呑みにしてたから、中国なんて行きたくなかったけど、 行ってみなきゃわからないもんだと思った。 作り話だと思うだろうけど、本当に全部作り話です。
736 :
美麗島の名無桑 :2009/06/03(水) 17:52:47
>>735 その一部の地域の中国人が、一斉に連絡しあって日本大使館や領事館、日本料理店を破壊し何万という統括の取れたデモを行う?
その一部の地域の人が歴史捏造を南京記念館を作りあげた?
その一部の地域の人が、開戦もやもうえず!なんて言いながら、突然尖閣諸島の領有権を言い出し軍隊を派遣する寸前までいった?
一部の地域の人が中国共産党であり?一部の地域の人がチベット残虐したり?一部の地域の人が?w
738 :
美麗島の名無桑 :2009/06/06(土) 17:34:39
弁当の漢字はなんで日本と異なるようになったんだろね。
740 :
美麗島の名無桑 :2009/07/08(水) 20:54:14
ノスタルジック
>>739 ええ〜っと、どう書くんだったっけw!?>弁〇
こないだ
台湾の番組を見ていた、ウチの昭和一桁生まれの爺さん(日本人)が
その台湾の《弁当って字》を普通に読み上げたので、何故知っているか聞いたら
昔の日本でも普通に使われていた《古い字体》なんだと教えてくれたよ(^_^;)
今度
台湾旅行にウチの爺さん、連れてくよ!向こうの日本語族の爺さんと同じ日帝時代に教育を受けた者同士、どんなコミュニケイションになるか楽しみだw
便當
743 :
美麗島の名無桑 :2009/07/27(月) 21:22:03
日本人の警官や教師と台湾人の交流って面白いよね
744 :
美麗島の名無桑 :2009/07/28(火) 17:26:17
真面目な警官や教師がたくさんいたから、台湾は親日家が生まれる土壌になったんだな
745 :
美麗島の名無桑 :2009/07/28(火) 19:28:22
七士先生?
746 :
美麗島の名無桑 :2009/07/28(火) 19:36:06
はぁ? 「六士先生」でしょ
747 :
美麗島の名無桑 :2009/07/28(火) 20:07:02
シーン・・
748 :
美麗島の名無桑 :2009/07/28(火) 23:09:20
フリーズ・・
台湾人は漢民族ではない―知っておきたい隣国の真実
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-644.html ■台湾人は漢民族移民の子孫ではなかった
上記の研究結果が発表されるや、台湾の学者である沈建徳氏は「自由時報」(一月二十五日)に一文を寄せ、
「台湾人(※本省人)は南島語族であって中国人ではない。外国人にはわかっているのに、
自分たちには先祖が原住民であることがわかっていない」と主張した。
次のように語る。
――― 一八八五年、劉銘傳(※清国の台湾巡撫)は「台湾の沿海八県の地(台湾西南部の人口密集地域)では、
番が六割で民が四割を占める」と上奏した。「番」とは番(原住民)で、「民」とは漢化された番のことだ。
――― 一八九六年、日本の学者、伊能嘉矩が士林(※台北の地名)で観察したところ、
山地のケタガランの平埔族と街中の「漢人」は体格も顔立ちも変わらなかった。
――― 一九四七年に二二八事件が発生したとき、
英紙が「六百万の島民の圧倒的多数は中国人で、中国による合併を歓迎した」と報じたところ、
英国外務省(一八六 ○年ごろから台湾で公館を設け、台湾の「漢人」が「番」であることをよく知っていた)は、
直ちに「台湾人は中国人ではない。それは中国人が言っていることだ。実際には圧倒的多数の台湾人は原住民で、
明国時代以来、中国の支配をほとんど受けていない」
と糾している。
沈建徳氏はこれまで、統計学の観点から、台湾の人口の歴史的変遷を克明に調査し、
台湾の「本省人」が清国統治時代に同化(漢民族化)させられた原住民の子孫であり、
移民の子孫とするのは古文献上の記録の政治的捏造であることを突き止めた人物。
その研究成果の正しさは、医学界での住民のDNA調査でも裏付けられているのである。
750 :
美麗島の名無桑 :2009/07/31(金) 18:37:48
新高山登れ!!
751 :
美麗島の名無桑 :2009/08/03(月) 17:33:26
新高山登る!!
【台南県(台湾南部)大谷麻由美】金沢出身の八田与一技師(1886〜1942年)が
日本統治時代の1920年から10年がかりで台南県に建設した烏山頭ダムの世界
遺産登録を目指す署名運動が22日、台南県六甲郷の嘉南小学校で始まった。台湾は
国連とユネスコ(国連教育科学文化機関)にも加盟していないため単独で世界遺産への
登録申請はできない。署名運動を盛り上げ、日本の協力を求めたい考えだ。
署名運動は台湾大学や台南芸術大学など約20団体からなる推進連盟が進めている。
同小学校は、ダム建設のため台湾に来た日本人技術者らの子供たちのために建てられた。
烏山頭ダムは当時、アジア一の規模を誇り、ダムと網の目に広がった給排水路の
かんがい施設は干ばつに悩む嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変え、農業文化を
発展させた。現在も飲料水、農業用水、工業用水の供給源となっている。
http://mainichi.jp/select/today/news/20090723k0000m030048000c.html
753 :
美麗島の名無桑 :2009/08/12(水) 13:00:45
台湾統治時代といえば後藤新平でしょう!!
754 :
美麗島の名無桑 :2009/08/12(水) 14:25:21
台湾統治時代といえば霧社事件でしょう!! 南無
755 :
美麗島の名無桑 :2009/08/12(水) 14:34:13
それも統治時代の出来事だね それで?
いろんなとこ見ててどこに書きこんでいいかわからんからここに書かせてもらう ちょっと長くなっちゃうかもだけど、先謝っとくすまん。 誰かに言いたかったんだ。 昔、俺は制作の仕事してた。 んで、アジア各国の番組作ることになったんだ。 始めてPとしてできる仕事。気合い入ってた。 んで台湾任された。固めのドキュメンタリ。 現地にロケに行く前に色々リサーチして 現地の人取材である程度返ってくる答えを予想して どんな内容にするか大筋を日本で組み立ててから 大体取材に行くんだが 当時俺は日本人はアジアの人みんなに嫌われてると思ってた。 戦争でひどい事したんだから反省すべしって。 小学校、中学校でもそう習ってたしね。 うちの親父は戦前産まれで軍事オタ。 親父と仲良くなかったから、その反発もあったのかもしれない。 まあ、一部の国の謝罪要求にはいつまでこいつら言ってんだとは 思ってたけど、日本人は嫌われ者だしひどい事したんだから しょうがないと思ってた。 同行のDは父親が教師でやっぱり俺と似たような考え。 だから行く前は、相当現地の人から責められるんだろうなって 行く前は思ってたんだ。
>>756 続き
現地で戦争と関係ないネタを取材した後
初めて戦争体験者の人と話す機会ができた。
俺もDも覚悟してたし
台湾にくる前に答えも予想してて
日本が植民地にして、自国の文化もめちゃくちゃにされて
その後自分たちの文化を立ち上げて
前向きに生きてる台湾の姿っていう方向の番組になる予定だった。
でも、最初にあったじいさんに
「日本人にひどい事はされてない。むしろ感謝してるくらいだ」
っていわれて、俺たちポカーンとなったんだ。
予想外。今までアジア人みんな日本嫌いだと思ってたから。
そう習ってたし。
日本人好きって言ってるやつらは金目当てだろ?
買い物して欲しいし援助ほしいから
戦争で憎く思ってても悪い事いわないんだろ?くらいに思ってた。
まてまて、そんな答えじゃ予想と違うし番組の方向性も変わる
ひどい事したって言ってくれないと・・・って思ってさ
「でも日本軍は・・・」
ってじいさんに色々食い下がったんだよ。
そしたらさ。じいさんに本気で怒られた。
なんでそんな事言うんだ。
お前らは当時を知らんかもしれないが
私は知ってる。
お前らは何を知ってるんだ。
って、日本語と現地語混じりで本気で怒られた。
現地通訳入って通訳してもらってたけど
まあ内容はそんな感じ。
俺とDは泣いた。よくわからんかったけど。
じいさんにその場で説教されて泣いた。
他にも戦争体験者に話聞いたけど
俺たちが予想した答えは聞けなかった。
758 :
756 :2009/08/12(水) 17:11:53
>>757 続き
日本帰ってから色々話した。
番組どうするかって。
うまく言えないんだけどやっぱさ。暗黙のタブーっていうのが
マスコミにはあってさ。
叩かれそうな事は取り扱わんってね。
どこに処罰されるかどこが叩いてくるかはよくわからんけど。
なんとなくこりゃやばいなっていうのは
少ない経験からでも肌で雰囲気はわかる。
結局台湾の文化と台湾は親日国ですっていう無難な作りになった。
戦争云々部分は取り扱わなかった。
変な話だよね。
日本は悪い事しました。っていうのは作っても大丈夫な気するのに
当時の日本を支持してる人がいますっていうのを
現地で取材して来たにも関わらず
それ取り扱ったらまずい気がするっていうのは。
それから色々しらべたよ。
他の国もやるから各国色々ほんと調べた。
物事は一面から見ちゃだめだね。
ほんとそう思った。
俺は日本軍が侵略戦争したって思ってた。ずっとずっと思ってた。
確かに一部から見ればそういう一面もあるかもしれない。
でも、別の側からみたら違った面が見える。
現在の価値観は戦後作られたものでもあるし
保障の面にしてもね。
ほんと俺たちが知ってた事は
一面からの価値観で語られた事なんだって思った。
759 :
756 :2009/08/12(水) 17:24:44
>>758 続き
ほんとうまく言えないですまん。
戦争で人がたくさん死んだのは事実だし
人が死ぬのは悲しい事だ。
でも、日本人はすげぇ悪い事戦争でした。ほんと全世界の人ゴメンナサイ。
俺たち嫌われ者です。
って、それまでずっと思ってた俺にさ。
じいさん怒ってくれてほんと感謝。
台湾でじいさんに会えて良かったと思ってる。
おかげで知らなかった事別の側面も知る事ができた。
その後俺は制作の仕事やめた。
この事きっかけじゃないけどね。
スポンサーや誰を気にしてるかわからんが
子供が真似するからとか
分けらからん自主規制が多すぎるから
Pになるまですげえ苦労したけど、やりたい事できないなら
やめてもいいと思った。
俺、子供まだいないけど
子供産まれたら子供には教えるつもり。
どっちが悪いどっちが悪くないじゃなくって
両面からみた事実をね。
どっちがどうとかは本人が判断すればいい。
ただ一面しか知らないのは本人にもいい事じゃないからな。
ほんと俺がそうだったし。
台湾のじいさんありがとう。
マジ感謝してる。
んで、ここに長文書きこんですまん。
台湾のじいさんに怒られた事で
色々知るきっかけができて感謝してる事
誰かに言いたかったんだ。
760 :
美麗島の名無桑 :2009/08/12(水) 18:06:38
ええ話や〜
日本は台灣を植民地にしたのではなく、統治した。植民地と統治の違いは大きい。 その後、日本の「統治」のモデルは世界的に評価され、その後の信託統治のモデルになった。 と、同時に欧米列強のいわゆる「植民地」政策に批判が及ぶことになったために、 面子を潰されることになった英国、フランス、スペイン、ポルトガルは戦後しばらく 反日の態度を取らざるを得なくなった。
762 :
美麗島の名無桑 :2009/08/13(木) 11:37:48
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0712&f=national_0712_003.shtml 【韓国ブログ】ドイツ映画に描かれた日本の姿
2009/07/12(日) 13:12
海外の映画で描かれることの多い日本、そのイメージの代表的なものと言えば富士山
や桜、着物姿だろう。外国人のフィルターを通して改めて自国の姿を見た時には、一種の
違和感と新たな発見が生まれるものだ。
韓国人ブロガーのタルは、ベルリン国際映画祭では最優秀プロデューサー賞、最優秀
男優賞を受賞して話題になったドリス・デリエ監督によるドイツ映画「Kirschblueten−Hanami
(英題Cherry Blossoms、邦題HANAMI)」と、そこに描かれた日本を紹介した。この映画
は小津安二郎監督の「東京物語」にヒントを得た作品でもあるという。
「韓国では『愛の後に残したものなど』という題名で上映されたこの映画は、大部分を日
本で撮影したという。映画のワンシーンでは烏の声が時々聞こえ、桃色の桜の花で画面が
美しく満たされた。日本の富士山、着物、食べ物や舞踏など日本の文化が美しく崇高に描
かれている」とコメント。
「韓国人の姿は不法滞留者として描かれ、韓国のイメージは開発途上国のようだった。
日本の美しいイメージと比較し、それをとても羨ましく残念に思った」と述べ、「子どもを育て
上げた後の老夫婦が、死を迎えるまでの時間をドイツと日本を舞台にして繊細に感覚的な
映像で見せてくれる。 先に亡くなった妻が生前に成し遂げられなかった夢を、夫が成し遂
げる過程が限りなくて美しい。映画を観終わった後には、桜の花びらが散るように涙がこ
ぼれた」と書き記した。(編集担当:李信恵・山口幸治)
763 :
美麗島の名無桑 :2009/08/13(木) 11:57:24
>ドイツ映画 今は亡きノムタンはドイツ訪問の際、日本の悪口、散々喚き散らし、おもいきり 顰蹙買ってたね...「我徳國で、かつての同盟国叩きをぶちまけている、koreanの リーダーがいるぞ^♪」って笑われてやんの^^
764 :
美麗島の名無桑 :2009/08/13(木) 12:04:18
>>793 続き
韓国はww2時、オーストリアとドイツ以上な強固な関係だった日本との
結びつきを、ドイツ政府関係者が知らないとでも思ったのであろうか...?
当時の主な枢軸国=ドイツ/日本/イタリア
765 :
美麗島の名無桑 :2009/08/13(木) 12:15:09
>>756 よ、
ご苦労さん、辛苦了♪
君の投稿をNHK/濱崎PDに紹介したい気分だよ。
もしかして、濱崎さん?
766 :
美麗島の名無桑 :2009/08/13(木) 15:12:52
大日本帝国下の台湾人や朝鮮人は優秀な人も多かったね・・・ 朴元大統領や李元総統も大日本帝国下に生まれた傑出した政治家だったよ
767 :
美麗島の名無桑 :2009/08/13(木) 15:27:29
一等国民、朝鮮人と二等国民、台湾人の微妙な違い 朴元大統領=旧日本陸軍士官学校出身 ← 蒋介石も〜 李元総統=京都大學在籍中に学徒出陣〜少尉どまり。
768 :
756 :2009/08/13(木) 16:17:43
>>765 残念ながら違うんだ
例の番組の件もあって
現地でじいさんに説教された事書いたのは事実だが
例の件について元ドキュメンタリ作ってた人間として言わせてもらっていいかな
またちっと長くなっちゃうけどさ
前に書いた事と重複するかもだけど
番組作りっていうのは、ロケ行く前にさ
ある程度もうあらすじを決めて方向性決めて
ロケってのはそれに沿った内容を撮影しに行く事なんだよね
インタビューはあらすじにそった答えを撮影して
事柄の信憑性や視聴者により納得してもらえるように
するんだわ。
怖い事にさ俺が前書きこんだように
俺たちは一面からの知識や見方
戦後の価値観で育ってるから
やっぱ事前にさ当時起こった事とか調べて
ついついそっち方面の構成に行く前にはなっちゃうんのは
仕方ないとは思うんだ。
悪い事したんだ→現地の人が日本人嫌いはなず。俺たちは反省すべきだ。
みたいな心境にね。
日本人はMなのかな?反省しやすいのかな?
だからさ現地の人からのインタビューも番組の構成上
「日本人にひどい事された」っていう答えを期待してして
直接弁解や謝罪する機会が欲しいって思っちゃうんだよね。
嫌われてるって思ってるから
今の俺たちはそうじゃないっ謝るからもう許してくれって
現地の人に謝りたいって思っちゃう。
でもさ、実際台湾いくと違うからびびるんだよな。
たぶんNHKも取材してさ
事前の構成にある様な答えは台湾の人から取れなかったと思うんだ。
俺達も取れなかったし
769 :
756 :2009/08/13(木) 16:35:12
>>768 続き
番組のテーマに沿った答えを
取れなかったとこで番組をどうするか
っていうのがさやっぱ大事だと俺は思うんだよね。
インタビューはさ前にも書いたけど
事前の構成にそった事柄の信憑性を高めるものだから
番組にあわなきゃバッサリカットしちゃってもいいんだわ。
俺達みたいにさ
今まで自分が知らなかった事が現地の人の多数の意見として聞けてさ
それ使いたいって思っても
事前に決めた構成と合わないインタビュー使うのならさ
構成また立て直さないといけないし
内容によっては全部構成立て直ししなきゃいけないからすげえ大変。
今回の件もさ
事前の構成に沿った内容つくっとけば
仕事的には問題ないし
現地の人の主観をいれないで
事実としてあった事柄を事実としてつたえて
視聴者の判断にまかせる様に作りましたっていう
NHKの言い分も俺はわかるんだわ。
でもな、ちょっと現地の人からの意見とか聞いて
いろいろ調べればさ
俺が台湾行く前に思ってた
「日本人ほんと嫌われもんです。ほんと悪者です」
って思うようになった経緯の情報の偏りっていうのが
解るとは思うんだよな。
だからこそ
一般的な世論の意見や今までの番組と違った意見も入れて
両方の意見入れてこその本当の中立だと思うんだわ。
ドキュメンタリ創る人間としては中立であるべき
って俺も思うしね。
まあ、今までとは違った意見取り扱うと
誰に言われるんでもないが
なんか圧力かかるんじゃないかって個人で自主規制かけたくなっちゃうがな
今まで自分たちが習ってきた事と違うからな
NHKなんだからスポンサー気にするわけでもなく
最悪放送の予定もなんとかなりそうだから
構成ひっくり返してやるくらいの気合いは欲しいよな。
770 :
756 :2009/08/13(木) 16:43:33
>>770 続き
まあNHKは俺は嫌いだ
制作費も多いし制作期間も長い
制作費多いからさ海外に取材に行くと
現地の相場じゃあり得ないくらい金まくんだわ。
金いっぱい払えば現地取材やりやすいし
撮りたいものとれるからな。
でも現地相場は守ってくれ。
後から俺達行くと
「前きたテレビ局はこんだけ払ってったから
同じくらい払わないと取材させねー」
ってありえん額請求された事何回もあったわ
ま た N H K か
ってなw
まあ 見えたものも見ないふりして
作りたいものも作らないで穏便に。
っていうのがどこの会社でもそうだと思うけど
テレビもそうなんだわ。
そこを割り切るか俺みたいに割り切れないでやめてくか
それともそんな事にも気付かないで続けるか
そんな奴らが作ってるのが今の放送。
ほんと何度もすまんな。
長々と。
今はテレビだけじゃなくってネットで多方面からの意見が拾える。
テレビは信用しないで適当に見とくのが正解だ
771 :
美麗島の名無桑 :2009/08/19(水) 22:25:09
276 :蓬莱 ◆m68dVLRBiQ :2009/08/19(水) 17:23:56
鈍間な馬くん,渾身の大謝罪♪
【馬総統が台風8号災害対応で陳謝】
http://www.naruhodo.com.tw/ 馬英九総統は18日午後、台風8号の被害について内外記者を対象とした記者
会見を開き、「国家指導者として責任を負わねばならない」などと救援の
遅れにより被害が拡大したことを謝罪した。
会見には蕭万長・副総統、行政院の邱正雄・副院長、中央災害対応センター
トップである毛治国・交通部長らとともに頭を下げた。
馬総統は被災地の復興支援を最優先して、政府関係者の責任問題については
9月初めまでにまとめると述べた。
>>275 角川が『孫文』作ったよ♪超楽しみ♪
http://www.kadokawa-pictures.co.jp/
773 :
美麗島の名無桑 :2009/08/27(木) 09:27:28
本当に台湾の人達は謙虚だよな。つくづくそう思う。
日本の植民地は軒並み豊かに変貌したろ? 教育も含めて、台湾人に感謝されているのは俺のじいちゃんばあちゃん(日本人な)が生き証人だから、俺は疑ってない。 あと、今回失われた台湾の道路はたまたま川の氾濫流域にあったから流されたのであって、 日本統治時代の山道の方が土木が優れているとか、今の台湾の土木が劣っているということではないと思う。 今の日本の川の堤でも、流される心配してるところはいっぱいあると思うよ。
場所に寄っては大型戦艦の艦砲射撃や1t爆弾の雨霰にも耐えられる仕様になっている。 日本が直接統治した場所は常に大規模戦闘を想定した建造構造物が多い。 余り物頑丈差に米軍が匙を投げる程にねw
777 :
美麗島の名無桑 :2009/09/10(木) 03:33:41
台湾は何故韓国を嫌うか?
http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10016781024.html 1972年、日本は中国との国交正常化を図るため台湾との断交を行いました。
この時、「旧友への裏切り行為だ」と当時の韓国メディアは一斉に日本批判を行いました。
しかし、日本は台湾との断交に際しても政府間レベルでの協議を続け、台湾側と断交後の政治的交流が途絶されても民間交流は続けるとの約束を行い、実際にその約束を両国は履行してきました。
ところが、その韓国自身も1992年に中韓国交樹立を図る事になりますが、驚いた台湾政府はこの中韓国交樹立の直前に韓国が台湾と断絶するのではないかと察し、韓国政府と幾度となく交渉を行ってきたが韓国側の答えは「断交などあり得ない」というものでした。
その上、韓国は断交を阻止したいと願う台湾の弱みにつけこんで、国際市場で人気がなく売れなかった韓国車を五万台も台湾国民党政府に脅迫まがいに無理やり買わせるという、ゆすりたかりを働きました。
にも関わらず、韓国は全くの「不意打ち」「だまし討ち」で突如、台湾との断交に踏み切ったのです。
韓国は1963年、はじめて経済開発五ヵ年計画を開始したときも、まっさきに資金援助したのは台湾だったのに。
このときの韓国メディアの論調は恥知らずにも「我が国(韓国)の見事な作戦により台湾にその意図を察知されずに断交が行われた」などという記事を誇らしげに掲載していたのです。
さすがにこういった韓国のやり方にハラワタの煮えくり返った台湾議員達が韓国のやり方を暴露し、世界に韓国と言う国の人の弱みにつけ込む「ゆすり・たかり」の体質を明らかにしたのです。
韓国の台湾に対する「いじめ」はこの後もエスカレートしていきます。
アジアスポーツ大会の主催国争いにおいて、台湾が韓国に権利を譲らなければ大会から台湾を追放すると恫喝したり、国際会議では「台湾は国家ではないので参加させない」と台湾の大学生を閉め出すなどの行為をおこないました。
また中国政府の支持を受けて、国連やIMFなど台湾の国際機関への加盟に反対します。
さらに、経済失政の元で韓国がIMF管理下にはいると、なんと台湾に対し「両国間の国家改善のため」というあまりにも自分勝手恥知らずな理屈を理由に100億ドルもの資金援助を求めているのです。
もともと、韓国と台湾の関係はそれほど悪くはありませんでした。
かつて、韓国人の台湾留学生は1000人を超え、台湾外国人留学生の半数以上を占めていたこともあったのです。
しかし、韓国の台湾いじめがあまりにも非情だったため、韓国人ジャーナリストが台湾のタクシーで韓国語を話しただけで降ろされたりする事もありました。
台湾人は、この韓国人ののぼせ上がった弱者いじめに対して、逆襲に出ます。
台湾南部の高雄市議会は与野党が全員一致で、姉妹都市の釜山市と絶縁を決めました。
それが台湾市議会にも波及し、同措置を取ることになりました。
与野党の対立が激しい台湾で、このような全員一致の決議は、非常に珍しいことです。
食道楽の台湾ですが、韓国の台湾いじめの最中には、韓国焼き肉店はつぶれてしまう店も続出しました。
韓国人は、台湾人がもっとも苦悩を抱えているときに、その弱みに乗じて恫喝してくるのです。
778 :
美麗島の名無桑 :2009/09/10(木) 20:51:24
台湾の統治時代の建物には興味あるな
台湾にも日本時代の建築物多いけど、大陸・大連の街にも多かったな。
782 :
台湾人 :2009/10/22(木) 01:13:39
どのような理由にせよ、日本人は侵略者だった。 曽祖父も祖父も父も日本人は嫌いだった。
783 :
美麗島の名無桑 :2009/10/22(木) 03:16:24
あんたら漢民族も原住民からしてみりゃ侵略者だよ よく心に刻んでおけ。
784 :
美麗島の名無桑 :2009/10/22(木) 06:13:34
アジアの鬼畜日帝が何を言うか! お前たちの悪行三昧こそ心に刻め!このけだもの!
785 :
美麗島の名無桑 :2009/10/22(木) 12:04:34
またいつもの基地が出てきたな
786 :
美麗島の名無桑 :2009/10/22(木) 12:23:14
>>784 自分らの過去の悪行を日本を持ち出して相対化しようとしたって無理。
お前らが原住民に何をしたか過去の歴史を学びなさい。
787 :
美麗島の名無桑 :2009/10/22(木) 12:25:54
そもそも、本省人外省人問わず、台湾という土地に漢民族がいること 自体おかしい。 日本人は台湾に居を構えても後にそこから完全に退却したが、 漢民族は今でも主人顔して原住民を虐げ、人様の土地にわがもの顔で 居座ったまま。 生まれたときからお前らは罪を負っている。
台湾の遊漁船『フォルモサ酋長2号』拿捕事件。今回は台湾人の反応です。
http://ansan01.blog121.fc2.com/blog-entry-291.html 我想我們應該要開始在釣魚台附近海域部署大量水雷
(台湾は釣魚台(尖閣諸島)付近の海域に水雷を設置すべきだろ。)
如果馬英九會實現承諾 可以準備開戰了
(馬英九が言葉どうりにするなら、開戦の準備だよな)
不惜一戰!
(『日本と一戦も辞さない!』だよな。)
不惜一戰 快戰暑x!
(一戦も辞さない。早く始めろ!)
鐘p快宣戰暑・..
(早く宣戦布告しろよ・・)
我們有13億人挺,不怕小日本
(オレ達には13億人の応援もあるぞ。小日本なんか怖くねえよ。)
日本狗看到中國就嚇傻了 只敢欺負台灣
(日本の犬は中国見たらビビリまくるくせによ。台湾だけはイジメに来やがる。)
漁民偷啥? 分明是日本狗欺人太甚
(漁民が何を盗んだよ?明らかに日本犬どものやりすぎだろうがよ。)
清醒一點所・処ン沒非法越界人家沒事來補処ン幹麻
(目覚ませよ!不法に越境してなかったら日本が何で逮捕までするんだよ。)
日本鐘・梔苞�抓人 還有人庶サ他們說話?
(日本が台湾領土に入って来て逮捕までしてんだぞ。まだ日本を庇うヤツがいるのかよ。)
日本對我的心態完全是用殖民地的態度面對,超級績掰的
(日本の台湾に対する態度は完全に植民地に対する態度と同じさ。)
開幹了暑・!!!!開槍!!!開槍!!台灣硬起來
(とにか戦争だ!戦争!!台湾よ立ち上がれ!)
開砲了暑x!!! 飛彈快射過去 我們的"幻象"2000暑M 快起飛暑x!
(ミサイル発射しろ!台湾のミラージュ2000も早く飛ばせよ!!)
建議先拿下與那國島,給小日本顏色看看
(まずは与那国あたりを占領して、小日本に目に物見せてやれ。)
怎沒直接打藷齒ャ日本
(直接小日本を沈めちまえばいいだろ。)
不管如何 跟中共買個百來顆飛彈 對準日本好了!!抓一次 就射一次
(とにかく中共から100発ぐらいのミサイル買って日本に照準合わせとけ。そして日本が台湾漁船を捕まえる度に一発ずつ発射してやれよ。)
日本什麼最軟,就是外交官僚最軟,馬不應該讓步
(日本の最大の弱点は外交官僚たちだ。一番つけ込み易い。馬英九は絶対譲歩すべきじゃない。)
至於民間的台日友好~很抱歉~朋友不是永遠的
(民間の日台友好支持のみなさん。すみませんね。友情とは永遠の物ではないんだよ。)
いろんな人がいるさ。それでいいじゃん。
790 :
美麗島の名無桑 :2009/10/26(月) 05:57:17
戦時中の日本人は鬼畜 それだけは確か
チョッパリは昔から残虐な民族 原爆落されたのも頷ける
過去に薩摩、博多と頻繁に日本を侵略し、捕まった日本軍 朝鮮軍に斬首された。実話 ←朝鮮人怖い
793 :
美麗島の名無桑 :2009/11/05(木) 09:58:11
のんびりした時代だよな〜
794 :
美麗島の名無桑 :2009/11/05(木) 11:15:54
チョンみたいに、民族まるごと反日どころか 日本でこんなに世話になり続けてる在日まで 反日だなんて異常性は、台湾にはないからな。
台湾人ですが、日本人は大嫌いです。 研修が終わったら帰国します。 こんな国に居たくありません。
796 :
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :2009/11/05(木) 11:38:58
■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■ ■■ ■■ iiiiiii iiiiiii iiii __ __ iii ii / \ ii | | | | | \ / | / _ _ _ _ \ | | | | | | | | \ / | __/ ● ● \__ | | ______ | | \ / | | \ / | | \/ | \_______________/
日本人は鬼畜 日本人はきもい 日本人は狡猾
798 :
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :2009/11/05(木) 11:43:58
■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■ ■■ ■■ iiiiiii iiiiiii iiii __ __ iii ii / \ ii | | | | | \ / | / _ _ _ _ \ | | | | | | | | \ / | __/ ● ● \__ | | ______ | | \ / | | \ / | | \/ | \_______________/
799 :
美麗島の名無桑 :2009/11/05(木) 12:04:21
ワロス
800 :
美麗島の名無桑 :2009/11/05(木) 12:12:18
800
801
必死だな
チョッパリ必死
805 :
美麗島の名無桑 :2009/11/07(土) 11:03:38
普通の日本人はチョッパリなんて使わないなあ
日本豚 ww
807 :
美麗島の名無桑 :2009/11/20(金) 10:27:30
キムチって激臭いよなww
808 :
美麗島の名無桑 :2009/11/20(金) 10:38:06
日本語でチョッパリ必死とか書いてるのがかわいそうだなw 母語も話せないかわいそうな人たち。
809 :
美麗島の名無桑 :2009/11/20(金) 10:39:11
母語→母国語
そういう間違いってするって808って日本人じゃないのか。。。 あんまり信じてなかったけど本当にわざわざこんな台湾板までくるんだね。
日本豚 www
812 :
美麗島の名無桑 :2009/11/29(日) 21:10:54
ブタキムチ
またチョンに荒らされたか・・・
814 :
美麗島の名無桑 :2010/06/02(水) 22:24:46
あげ
815 :
美麗島の名無桑 :2010/06/14(月) 00:26:16
816 :
美麗島の名無桑 :2010/06/15(火) 15:39:51
ええ話やん
817 :
美麗島の名無桑 :2010/06/20(日) 21:15:14
____ / \ / ─ ─ \ / (●) (●) \ ゆっくりしていってね!!! | :::::: (__人__) :::::: | \. `ー'´ /ヽ (ヽ、 / ̄) | | ``ー――‐''| ヽ、. | ゝ ノ ヽ ノ |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
台湾は日本人が嫌い
819 :
美麗島の名無桑 :2010/06/21(月) 21:47:17
なんか、キムチくさいわぁ
台湾の畳文化の発祥時期
821 :
美麗島の名無桑 :2010/07/05(月) 22:48:15
ここは統治の功罪の罪を語る場か… と思ったけど荒らしに荒らされてるな
822 :
美麗島の名無桑 :2010/07/06(火) 05:19:04
いつものこと
823 :
パイナップルケーキ :2010/07/06(火) 22:51:57
素敵な時代やん♪♪
824 :
美麗島の名無桑 :2010/07/07(水) 13:40:39
灌漑やサトウキビ栽培の成功でかなり豊かだったんでしょ?
825 :
美麗島の名無桑 :2010/07/07(水) 18:17:06
湯水のように資本と人材をつぎ込んだんだから豊かにならなきゃウソでしょ まぁ台湾以上に資本をつぎ込んだ某地域ではそれを「過酷な搾取」と呼んでいるらしいけど
826 :
美麗島の名無桑 :2010/07/07(水) 19:02:56
厚かましいよね。 統治後もまだ金せびって よその金まで使い込んで 挙句、漢江の奇跡だって
支那・チョン・台湾とその手下である共産党・右翼・保守などの反日が原爆のことにつべこべ文句を言う理由はただひとつ 世界最強の軍事プレゼンスを誇る日本國およびその属國・雇兵である亜米利加軍の2500発を越える水爆ミサイルは 反日國にあまりにも不埒なふるまいがある場合、15分で是を完全制圧できるからだ。 支那・チョン・台湾に日本転覆を狙う邪心がなければ核兵器などなにも怖くないし、悪口を言わぬはずだ。 原爆投下をみとめない者は、すべて反日なのである。
828 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 08:00:38
あげ
829 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 11:24:24
プライドがある民族とプライドのない半万年属国の乞食民族の違いなんだろうね
朝鮮人(天皇陛下)に利用され大量に死んだ日本軍。朝鮮人(天皇陛下)に半万年支配された日本。天皇が朝鮮人というのは仁徳天皇陵を掘ればわかる
831 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 12:18:23
毎日よく飽きないな 馬鹿チョン
832 :
マンゴー大好きさん :2010/07/08(木) 13:39:56
児玉大将伝
833 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 14:54:49
日本の植民地は、その後、全て経済発展した。
私は、アメリカの大学院で指導教授たちに言われた、次の言葉を、忘れることができません。
「日本の植民地は、その後、全て経済発展した。結論の出ている問題を、今更、何故に
研究するのか」米国の名門ラトガース大学のダン・ローデン教授は、私が博士論文の主題に
ついて日本が朝鮮半島を植民地支配した時代の、教育と女性問題について研究したい計画
を説明すると、このように反問しました。
「文明のシステムを、日本の植民地主義は朝鮮半島に導入したのではないか。スペイン
やアメリカ、イギリスは日本のように、本国と同じような教育システムを植民地に導入しな
かった。当時の朝鮮半島の人々は、文明のシステムを独自の力で導入するのに失敗した。
日本の植民地主義を経ずに、あれほど早く文明の世界システムに入れただろうか」
私は、この発言に怒りが込み上げ、懸命に反論しようとしたが、頭の中が真っ白になり、
感情だけが高ぶったのを覚えています。そんな論文を書いたら、韓国に戻れなくなると、
不安が一瞬、心をよぎりました。論文の相談をした別の経済学専攻の教授は、
「植民地化された国家の中で韓国と台湾ほどに発展した国家は、他に無い。アメリカや
イギリスの植民地で、台湾や韓国ほど発展した国があるか?」とまで言うのでした。
私の不満そうな表情を見たローデン教授は、次のようにも問いかけました。
「日本の植民地支配を非難する韓国人の留学生の一人が、自分の父親が東京帝国大学
出身であると自慢げに話した。これは、暗黙のうちに日本が導入した文明のシステムを、
評価していることになる。本来なら、東京帝大を卒業した父親を、非難すべきではないか」
このように言われてみると、確かに東京大学はもとより京都大学、早稲田大学、慶応大学
を卒業したことを誇りにする韓国人は、多いのです。当然韓国の側に立ってくれると思った
第三者のアメリカ人学者の発言は、ショックでした。
クリスティン・リー女史
アメリカ・ポートランド州立大学教授。
1960年生まれ。梨花女子大卒業。
米国に留学、ラトガ−ス大学で博士号取得。
教育学を専攻後、教育哲学に転向した。
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=4&nid=3238878
日本をつくったのは朝鮮人(天皇陛下)
835 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 15:12:41
台湾と比べると朝鮮人の賎しさがよく分かるな
毛沢東は中国人。 管直人は日本人。 天皇陛下は朝鮮人。
837 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 15:23:18
日本の誇らしい文化→アトピーとソープランド。
839 :
美麗島の名無桑 :2010/07/08(木) 15:53:25
化粧板であんだけボコられてて ここでこそこそ喚いてんのか 不治の病の火病民族
最近taiwanboomさんの書き込みが見られないのだが、 まだこのスレを見ていらっしゃるのかな? 花園小学校や竹園町のお話しをもっと聞きたかった。
841 :
美麗島の名無桑 :
2010/07/22(木) 16:49:34 taiwanboomさんの書き込みを読んでいると 相当のお歳じゃないか? だいたい大正末期から昭和初期の生まれじゃないかと・・。 と、したら85歳前後。 もしかしたらもうこの世には・・・・・。 まだご健在ならスマヌ。 しかし、その歳で2chへ書き込みをするとは・・・。