【虚構世界内存在の】理性・真理・虚構【思惟の道】

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1虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
ここでは、虚構世界内存在の思想を記述する。
しかし、限界に達しているため助力を望むものである。

まずは簡単な自己紹介から始める。

【立場】
●超越論
  →超越論的懐疑主義
●非超越論
  →非超越論的構成主義、非超越論的反実在論、非超越論的唯名論、非超越論的プラグマティズム
●共通
  →反超越論的実用主義、反超越論的プラグマティズム、反超越論的歴史主義、反超越論的右翼、反超越論的左翼、反超越論的新右翼、反超越論的新左翼、反超越論的民主主義、反超越論的社会主義、反超越論的資本主義、反超越論的共産主義、反超越論的自由主義

【基本的な考え方】
わたしは正当性を最も重視している。
わたしが、根源への問い/根源的問いを行う、すなわちいわゆる理性を以って人間や人間社会を評価するときには、正当性以外の指標は用いない。
ここで、わたしの言う正当性は、理論の正当性と実践の正当性に細分化することができる。
理論の正当性においては、ある信念または命題が正しいということを正当化することができるかということを、
実践の正当性においては、一方である状況において自らが持っている信念を正当化しているにもかかわらず、他方で他の状況においてそれと矛盾する言動をとっていないかということと、
一方で他者にある信念を持つ、あるいはその信念に基づいた実践を行うように要求しているにもかかわらず、他方で自らはその信念を状況によって放棄する、あるいはその信念に基づいた実践を行わないといったことがないかをそれぞれ基準として設定している。
また、実践の正当性に違反し、かつ自らの考えや主張に正当性があると考えたり、主張したりするか、他者の自己中心性ならびに/あるいは矛盾を非難する、さらにはその非難を正当化するという状態を重層的矛盾と言う。
なお、最近では理論の正当性についての基準を緩くしている。
具体的には、自らが抱いている感覚や感情、あるいは自らの帰属集団や準拠集団において共有されている感覚や感情を直ちに正当化していないかどうかとしているが、これは、誰も絶対に正しいと言える理論を打ち立てることができていないと思われるためである。

・虚構世界 本拠地
http://www11.plala.or.jp/schicksal/
・虚構世界 深部
http://pub.ne.jp/lewd_mistress/
2虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:24:56
>>1の続き
【業績】
▽著書(入門書)
『現代荒らし界の冒険者たち1 −北条クポッ!:荒らしとは何か−』
『現代荒らし界の冒険者たち2 −ゆかり:荒らしに抗して−』
『現代荒らし界の冒険者たち3 −上級厨房:騙りの限界を経験することは可能か−』
『現代荒らし界の冒険者たち4 −k3:荒らしの構造−』
『現代荒らし界の冒険者たち5 −aaa.com:どうして荒らしてはいけないのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち6 −XG:荒らしと煽りの融合−』
『現代荒らし界の冒険者たち7 −ヨノイ:何が荒らしの行為を説明するのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち8 −北条com.com:超越論的荒らしの徹底−』
『現代荒らし界の冒険者たち9 −奇襲荒死:荒らしの新たな可能性を求めて−』
『現代荒らし界の冒険者たち10 −darkdark:荒らしの原理−』
『現代荒らし界の冒険者たち11 −Mother Fucker:荒らしの謎について考える−』
『現代荒らし界の冒険者たち12 −keny:荒らし行為の快楽−』
『現代荒らし界の冒険者たち13 −偵察部隊:何のために荒らすのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち14 −御堂岡:荒らし行為−』
『現代荒らし界の冒険者たち15 −ガスパール:荒らしは意味を持てるか−』
『現代荒らし界の冒険者たち16 −濡鬼.com:荒らしの脱構築−』
『現代荒らし界の冒険者たち17 −たか@工房:荒らしの不可逆性−』
『現代荒らし界の冒険者たち18 −黒幕:存在と荒らし−』
『現代荒らし界の冒険者たち19 −魅:荒らしと自由−』
『現代荒らし界の冒険者たち20 −$2:批判的荒らし主義−』
『現代荒らし界の冒険者たち21 −かーん:荒らしの時空−』
『現代荒らし界の冒険者たち22 −たん将軍:荒らしと無限後退−』
『現代荒らし界の冒険者たち23 −天使の使い:荒らしは過去の奴隷なのか−』
『現代荒らし界の冒険者たち24 −dj-tukanoma:「荒らし」なんて存在するのだろうか−』
3虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:25:40
>>2の続き
▽著書(高級書)
『荒らし史講義』
『荒らし学史講義』
『古代形式荒らし学』
『運動としての荒らし』
『荒らしの眼差し −荒らし学的認識論のために−』
『荒らしの形而上学 −北条クポッ!とその時代−』
『荒らしの現象学 −ゆかりを中心にして−』
『理性・真理・虚構 −虚構世界内存在の思惟の道−』

▽論文
「ゆかり「新年あけまして」を巡って」,『荒らし界』,2003年,第28号,12〜70頁

▽コルムン  # この表記法は一貫性を持たせるためのものである。
荒らしバカ一代(『ARS』連載)

▽作詞
ドットコム三兄弟(歌:aaa.com、bbb.com、com.com)

▽作曲
ドットコム三兄弟(歌:aaa.com、bbb.com、com.com)
4虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:26:36
次に立場の変遷について記述する。

●第一段階:論理的決定論/宿命論
中学3年生のときに思いついた考え方であり、当時は運命論と呼んでいた。

●第二段階:「根源への問い/根源的問い」の原型
高校生に入って急速に変わり始める。
そして、高校2年生のとき、アホでマヌケな日本のマスゴミやろうとその取り巻きによって「17歳」という年齢の人びとが攻撃対象となったことがあった。
そのとき同じ(満)17歳だったわたしは、今ほど言語化することができなかったものの、そいつらには矛盾と欺瞞があるということを感じ取っていた。
それで、通っていた高校で毎年3回行われる小論文試験において、高校2年生のときにちょうど少年法について出題されたので、悪というものについての見解を述べたのである。
詳しくは忘れたが、ビデオ・ゲーム(video game)と犯罪との因果関係がないことと、悪の評価基準には「度合い」と「性質の悪さ」の2つがあり、後者のほうが重要であるということを述べたような気がする。
その「性質の悪さ」を測定する指標のうち、もっとも重要なものが「批判の回避可能性の程度」で、
これは、多数者であれば、少数者がそれを行った場合に攻撃対象となる行為をしても、批判を免れることが多いというもので、まさに一般人が実践の正当性を欠如していることを言い当てたものだった(もちろん、今よりもずっと拙い議論だったが)。
また、このときは(今も田舎という点では変わらないが)、住んでいたところが田舎だったことと、インターネット(internet)の世界で遊んだことがなかったことから、
「2次元的」虚構作品と親和性の高いこと、およびそうした特性を有する者に対する社会的排除や社会的抑圧を感じたことが1度もなかった(そもそも、オタクやコミック・マーケットという語を知らなかった)。

●第三段階:相対主義と論理的非決定論/非宿命論
これは、大学2年の終わりか、大学3年の始まりぐらいのときに至った考えである。
後者の名称については後になってから知った。
5虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:27:24
>>4の続き

●第四段階:懐疑主義
大学4年の終わり(2005年1月末)か、大学5年の始まり(2005年4月)ぐらいに開始して、2006年8月に完成した理論(最初は、一般人は絶対化できないことをも安易に絶対化しているのではないかという疑念から出発した)。
ピュロンのような、たとえば目の前に湖があるように見えるが、これは思い込みであるかもしれないとして、そのまま湖に落ちるといった、実践上の懐疑ではなく、
またヒュームのような、どうして正当化が起こるのか、あるいはどのようにして正当化するに至るのかといった、心理学や脳科学の分野で行われるような研究でもなく、
本当に正しいと言えるかという、正しさを追究するための懐疑なので、デカルトの懐疑に近い(でも、たぶんデカルトのものとも少し違う)。
また、そうした理論における正当性の追究とともに、実践の正当性を監査するという、「根源への問い/根源的問い」を開発することになる。
なお、ヒュームは懐疑主義を4つに類型化したらしいが、あとの1つは知らない(思いつくのは「一般的な懐疑」ぐらい)。

●第五段階:構成主義的反実在論/構成主義的唯名論
第三段階に至るまでに思いついた(2005年3月27日)が、忘却してしまっていたのでここ(2006年9月17日)に位置することになった。
社会言語学やグッドマン(Nelson Goodman)のような考え方だと思う。たぶんローティ(Richard Rorty)の非超越論的プラグマティズムもこれと関連性が強い。
未完成である。
6虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:28:22
次に、>>5において記述した第四段階と第五段階について詳述するが、その前に超越論と非超越論という語についての思い込みを退けるため、両者の相違について簡単に記述する。

超越論と非超越論の相違は、何が正当性を担保すると考えるかによって決定づけられる。
超越論では、人間やその社会は人間の意識や言語と関係なく存在することができる(あるいは存在している)と考えるため、あることについての正当性を担保するのは人間社会を包括する何かであり、たとえば一神教ならば神が、一般的には世界がそれに当たる。
超越論の代表格としては、一般的な感覚でもある素朴実在論を挙げることができるが、おそらく現存する(とされている)ほとんどの立場が超越論に属していると思われる。
これに対して非超越論では、すべては人間が人間の言語によって形づくっている、言い換えれば人間社会がすべてであると考えるため、正当性を担保するのは人間社会であるとされる。
この領域に属するものの代表格は、理論上は法や道徳であるが、どういうわけか、それらについての正しさは多くの超越論者によっても非超越論的な仕方で主張されている(超越論者が非超越論を用いてなお正当性を保持できると考えているのか……)。
7虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:29:18
●超越論(0→1)
超越論は根源への問い(あるいは根源的問い)から開始される。
根源への問いとは、「なぜ〜という信念が正しい、あるいは反対に誤っているということを正当化することができるのか」〔なぜ、〜が正しいという信念、あるいは反対に〜が誤っているという信念を正当化することができるのか〕、
あるいは「〜という信念が正しい、あるいは反対に誤っているということを正当化することはできるか」〔〜が正しいという信念、あるいは反対に〜が誤っているという信念を正当化することはできるか〕という形式の問いを、
それ以上問うことができない地点まで繰り返すことをいう。

根源への問いの基本的な過程は次のとおりである。
(1) すでにある信念や命題に対して根源への問いを行う。
  →(2a)あるいは(2b)へ
(2a) 対象となる信念や命題が(1)によって解体されるならば、それらは正当化することができない。
  →(3)へ
(2b) 対象となる信念や命題が(1)によって解体されないならば、それらは正当化することができる。
  →(5)へ
(3) (2a)によって、絶対主義下にある理論(=「〜という信念あるいは命題が正しいということを正当化することはできない」)が打ち立てられる。(理論の正当性の確認)
  →(4)へ
(4) (3)によって、実践においては相対主義を採用せざるを得ないことが分かる(その信念を保持するかどうかは各人のかってということである)。
  →(5)へ
(5) (1)において根源への問いの対象となった信念や命題を主張する者が、それらと矛盾した言動をとっていないかを検討する。(実践の正当性の確認)
  →(終了)

また、対象となる信念や命題を唱える者が、(5)において矛盾しており、かつ日常的に他者の自己中心性を批判している場合、(5)が終了した際に、その者の自己中心性が立ち現れ(自己論駁的矛盾)、
したがってその者は実践の正当性を二重に欠いていることになる。(重層的矛盾)
8虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 00:30:11
>>7の続き

わたしが、まず問いを立てることにしようと考えた主要な動機として、
一般人による「独断の多用」〔自らが抱いている感覚や感情、あるいは自らの帰属集団において共有されている感覚や感情を直ちに正当化する=不当な正当化をすることの多用〕と「自然主義的誤謬」に対する違和感がある。
前者は、たとえば、「〜はおもしろくない」、「〜は気持ち悪い」といったような信念を論証なしに正当化する行為である。
他方、後者は、「犯罪者を個人的な感覚や感情から、集団になって攻撃する」という行為について正当性があると主張することなどに見受けられる。
たとえば、「自分が気持ち悪いと感じる何か」や「……という行為をした者に対して攻撃すること」が人間であれば回避することのできない(と科学的にされている)物理的/生理的なこと〔自然なこと〕であったとしても、
そのことと、それを正当化するという心理的な行為とは直結していない〔懸隔がある〕ため、直ちに正当化することはできない。
9虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 02:52:21
>>8の続き

両者に懸隔があるという論拠は次のとおりである。
科学によって人間の脳について完全に説明することができるようになり、たとえば特定の条件を満たした者を「攻撃したくなる」ということが判明したとしても、
それによって直ちに「攻撃してもよい」という信念、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」という信念を持つことが正しいということを正当化することができるようにはならない。
というのは、科学によって解明されること、あるいは科学が説明しようとしていることは「仕組み」であるからにほかならない。
言い換えれば、(この例において)科学は、せいぜい人がどのようにして「攻撃してもよい」という信念、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」という信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、
したがってそうした信念を持つことが本当に正しいかどうかは分からないのである。
もっと言うならば、仕組みの解明は正当性(ここでは、攻撃を行う正当性、およびその攻撃を行ってもよいという信念を持つことの正当性)の担保になり得ない。
人間社会がすべてであると考える非超越論では、人間社会が正当性を担保するために特定の攻撃を正当化し得るとしても、
人間社会よりも大きな何かが正当性を担保すると考える超越論では、人がその攻撃を行う仕組みが判明することと本当にその攻撃を行ってもよいかということとは乖離しているのである。
また、実際にこの考えを実践することができている者の存在も物理的/生理的な要因と心理的な根拠が乖離していることを示唆している。
たとえばわたしがそうである。
わたしは、インターネット(internet)上でよく見かけるような、ある一般的な意味での趣味を持っている者を、ただそれだけで誤っているとして排除するようなことはしない。理解できない趣味があるにしても、それを理解できないままにしておくのである。
10名無しさん@社会人:2007/01/01(月) 02:54:36
どうでもいいけど学問板妙に重くない?
11虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:17:46
>>9の続き

人間が起こす対立には、同次元のそれが多いように思われる。
たとえば、「芸術はすばらしい」という主張と「芸術はくだらない」という主張の対立においては、両者ともに単に感覚ならびに/あるいは感情を報告しているに過ぎない。
そして、こうした対立においては、よく証明や論証なしの正当化が行われ(つまり感覚や感情が直ちに正当化されているということである)、またほとんどの場合において多数者の主張が機能するようになる(しかし、機能するほうの主張が正しいと言えるとは限らない)。
これと似ているが異なる対立もある。
たとえば、宗教と科学という対立においては、
超越論であり、かつその対立に登場するもの以外の立場(すなわち宗教と科学を除く何らかの立場)を取り得る可能性があるにもかかわらず、
「相手のこういう点が誤っていることから、相手の考え方は隘路となっているので、自らが正しい」という論じ方がよくなされるが、こうした仕方は誤りである。
あるいはまた、右翼と左翼の場合も、非超越論的議論でない限り、同じである。
一般に超越論によって維持されていると考えられている学問である数学で考えてみればよい。
「1+1の答えは2と3のどちらか」というところから出発し、2の相手である3を採用した場合にどのような不具合が起こるかなどといったことは検討されないのである。
それは、たとえ1+1が3でないことを証明することができたとしても、それだけで1+1が2であることの証拠にはならないからにほかならない。
12虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:18:32
>>11の続き

こうしたことから根源への問いの重要性が理解される。
根源への問いは対立する両者に等しく自らを絶対評価することを要求するので、根源への問いによって消滅させられずに残ったほうが絶対に正しいということになる〔正当化することができる〕のである。
むろん、両者ともに敗れ去ることも十分に考えられるが、その場合、「〜という信念または命題が正しいということを正当化することはできない」という結論
(たとえば、右翼と左翼の対立について言えば、「右翼的考えは正しいという信念が正しいということを正当化することはできない」、ならびに「左翼的考えは正しいという信念が正しいということを正当化することはできない」となる)が得られることになり、
そうであればいずれの信念を持つか、あるいはどちらの信念も放棄するか(右翼と左翼以外の立場もあるので、判断停止には陥らない)ということについては、各人の感覚や感情に依拠するほかなくなるのである。
すなわち、理論が絶対主義であるがゆえに、実践においては相対主義にならざるを得ない、もっと言うならば原理的には決着がつかないのである(理論の段階で相対主義を採用している一般相対主義と混同してはならない)。

なお、根源への問いの結果、対立する2つの立場のいずれもが正当化されないという結論が得られた場合、判断停止に陥るのではないか思われるかもしれないが、それはない。
というのは、たとえ対立する2つの立場以外の立場がない場合であったとしても、
対立する2つの立場のいずれもが正当化されないということが意味するのは、答えがない(真偽が判明しないということではない)ということであって、信念を捨て去らなければならないということではないためである。
たとえば、「太陽は明日も昇る」という信念が正しいということを正当化することができないとしても、誤っているということを正当化することができない限りにおいて、「太陽は明日も昇る」という信念を保持することは矛盾ではない(反対に捨て去ってもよい)。
究極的に言って、あらゆる信念や命題が正しいということ、ならびに誤っているということを正当化することができないということが分かれば、どのような信念を持つことも(それを正当化しない限りにおいて)各人に委ねられるのである。
13虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:20:00
>>12の続き

例証:理論の正当性

「人を殺してはならない」という主張は、実用主義に基づけばよく分かる。
実用主義は多数者に有利な立場なので当然である。ところが、この実用主義に基づかなければならない理由が分からないので、「実用主義は正しいという信念が正しいということを正当化することができるか」とまず問うのである。
それで、「実用主義に基づかなければ人間社会を維持することができないからだ」などと返答してくれば、「人間社会を維持しなければならないという信念が正しいということを正当化することができるか」と問い、
それに対してさらに「それでは人類が滅びてしまう」と反論してきた場合には、「人類が存在し続けなければならないという信念が正しいということを正当化することができるか」と問うのである。
法律や道徳についてはだいたいこれで解体することができる(しかし、少なくとも現代の法律は非超越論に依拠していると思うが、超越論的に捉える者は多い。また、超越論者が法律を肯定するのは矛盾している)。
14虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:20:57
>>13の続き

例証:実践の正当性

すべてかどうかは知らないが、最終的には、あることについてはただ1つの結論が事実とされるようになる。
しかしながら、超越論的には、それ以外の結論が事実であり得る。たとえば、裁判長がある者を犯罪者と判定したからと言って、超越論的には、裁判長が全知全能でない限り、その者が本当に違法行為をしたとは限らない。
言い換えれば、全知全能でない裁判長がある者を犯罪者と判定しただけで、直ちにその者が犯罪者であるということを正当化することができるのは、非超越論においてでしかあり得ない。
特に言語に基づく非超越論の場合には、人間社会がすべてであるから、超越論的にはその者が犯罪者でない可能性があると言える場合でも、彼は犯罪者であるということを正当化することができる。
それは、人間社会がすべてであると考える言語中心的非超越論においては、現実は人間社会(分けても多数者)によってつくられるとされるためである。
ところが、先ほども述べたように、超越論では人間社会がすべてではないと考える以上、裁判長が下した判決であろうと、多数者が支持した考えであろうと、ただそのことによって正当化することはできない。
そして、大部分の一般人はほとんどの場合において超越論に依拠しているのであるから、裁判において犯罪者と規定された者を直ちに犯罪者であると捉えるのは矛盾しているということになる。
15虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:21:48
>>14の続き

補足

他者に対して「法や道徳に違反している」という批判をすることは、一般人が法や道徳を守れと騒ぎ立てていることを受けて、おまえら自身が守っていないじゃないかと言っているのであって、これが実践の正当性についての批判になっている。
だから、わたしが法や道徳を重んじているがゆえにそういう批判を行っているということでは決してない。
この点について勘違いをされる可能性があると思ったのは、以前『たかじんのそこまで言って委員会』で共産党の元幹部らしい筆坂という人が初めて出た回において、たしか民主党の人が、これに酷似した勘違いをしていたためである。
その人は、「(何かの委員会で)共産党の人が自民党の政策に対して誤った資本主義だと批判していた」という趣旨のことを言っていた。
前後の文脈とその人の言い方から、その人は、共産党であれば共産主義に基づく批判をすべきだと言っていたのだと思う。
ところが、わたしからすれば、その共産党員が行ったという批判の仕方は、まさに相手に実践の正当性が欠如しているということを示すものにほかならない。
つまり、「あんたの立場では今のようなことをやっていると、あるいはこういうことをやらなければ矛盾することになるだろうが?」と言っているだけなのである。
これと、共産党の掲げる(べき)理論とは当然別のものになるが、この状況は矛盾ではなく、単に批判方法には(理論についてのものと実践についてのものの)2種類あるというだけのことである。
わたしも2ちゃんねるの哲学板で指摘されてから修正したのであるが、理論と実践を分けて考えないと、両者がごっちゃになってしまいおかしなことになる。
実感としても、その指摘=「どいつもこいつも理論と実践を混同している」というような指摘を受けてから、うまく言語化できないという悩みの1つが解消された。
なお、「自己中心性」という論点についてもこれに含まれる(一般人の自己中心性それ自体を非難しているのではなく、一般人が他者に対して自己中心性を非難しておきながら自らの自己中心性については無視していることに対する非難となっているということである)。
16虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:23:22
次に、超越論にまつわる2つの難問を記述する。

■第1の難問
他の何にも依拠しない、したがって無根拠の状態では、思考することができない。
このことは、左記の文章に含まれる語句や左記の文章全体が何を意味するか、さらには意味とは何か、「〜とは何か」とは何かといったことが何も分からない、言い換えれば言語を喪失した状態を想定すればよく分かる。
(2006年9月27日−再び非超越論に至った日)

■第2の難問
超越論において正当性を担保するのは人間社会を包括する何かである。そして、その一般的な形式が世界である。
つまり、世界が何かを根拠づけていると考えるのである。
しかし、そうであるとすれば、世界が人間社会を包括したように、他の何かがその世界を包括しなければ、人間社会を直接的に包括する世界の根拠づけがなくなることになる。
そうすると次に、人間社会を直接的に包括する世界を包括する世界を包括する世界が要請される。
こうしてわたしの言う超越論は無限後退という隘路に入っていく。
あるいは、人間社会を包括する何かを神=唯一絶対の存在とする場合には何らの問題も生じないのだろうか?
(2006年12月15日)
17虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 03:24:29
●非超越論(1→0)
デカルト(Rene Descartes)は「絶対確実なものを知るためにいったんすべてを疑ってみる」という方法的懐疑によって、「疑っていることを疑うことはできない」というところに辿り着いたということである。
しかし、それ以前に、「絶対確実なものを探究するためにいったんすべてを疑う」ということは、少なくとも形式的には絶対確実なものがあるかどうかは分からないというところから出発するはずであるが、
そうであれば「疑う」という語がいったい何であるかということが最初の時点ではまだ確実でないということになる。
そうであるにもかかわらず、デカルトは、「疑う」という語、ひいては「絶対確実なものを知るためにいったんすべてを疑ってみる」といったような文が何であるかを独断して議論を進めている。
なぜ、そのようなこと、すなわち自明でない何かを前提にして議論を展開することは正しいという信念が正しいということを正当化することができるのであろうかということである。
結局、無前提では、出発することも、終点に行き着くこともない。
つまり、言語の制約を受けているんだったら、言語と切り離して何かが存在するとか、成立するとかいったことはあり得ない。
すべては人間が人間の言語によって規定・設定したり、構築・制作したりしている(しかも、そこでは、よく想定される人間社会の内側と外側などというものは単なる幻想に過ぎず、
ただ人間社会=人間の言語しかない)んだから、正当化は人間社会においてなされるものであるということなる。
こうして、すべての超越論は失敗し、非超越論が正しいということになる。
したがって、たとえば法や道徳について言えば、それらは一般に超越論的に正当化されているが、社会が正しいと設定しているから正当化されるという非超越論的正当化へと変更を余儀なくされるし、
数学にしても、実用性/有用性があるという妄想が共有されているから正当化されるという認識を持たざるを得ないのである。
18名無しさん@社会人:2007/01/01(月) 04:00:33
新年あけまして、思想塾壊滅祈願(^o^)=V
19虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:09:12
>>17の続き

なお、なぜ超越論に不可能性があるからと言って直ちに非超越論が正しいということになるかということであるが、
これについては、「超越論(0→1)」で用いた、「1+1の答えは2と3のどちらか」という問いを「1+1の答えは2か2でないか」という問いへと変形させればよく分かるであろう。
ただし、「1+1の答えは2と思うか2でないと思うか」という問いの場合には様子が違ってくる。もっと言うならば、あることについてA対非Aという信念対立があるときであっても、それら以外の信念もあり得る場合がある。
たとえば、「焼きそばが好きか好きでないか」といったような、個人的な感覚や感情によって評価する場合である。この場合、「好き」という立場と「好きでない」という立場以外に、「好きな部分もあるが嫌いな部分もある」という立場もあり得る。
また、より進んで「焼きそばと焼きうどんのどちらがより好きか」という問いに対する答えについても、「決めがたい」といった反応があり得るため、それについての信念は2つ以上あり得る。
しかし、いずれにせよ、ここでは感覚や感情ではなく、「本当に正しいと言えるかどうか」を問題としているため、A対非Aという信念対立における信念にはAか非Aのいずれかしかない。

  補足

非超越論では「物自体」すらないと考える。つまり、言語によって認識されたものがすべてである(言語で認識する→できごとなどが存在する)。たとえば、虚構作品について言えば、記述されていない部分の存在を想定しないということである。
20虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:10:29
次に、非超越論にまつわる2つの難問を記述する。

■第1の難問
「圧倒的多数者(たとえば人類の99%)と少数者(たとえば人類の1%)が同一あるいは同質の矛盾を犯した場合において、
多数者が少数者を批判するにもかかわらず、自らのそうした矛盾については修正しないときであっても多数者が正しいということになるか」、言い換えれば「少数者の矛盾はすべて誤っていて、多数者の矛盾はすべて正しいと言えるか」ということである。
これが正しい場合、インターネット(internet)上か否かを問わず頻繁に行われていると思われる、他者への攻撃(直接的に身体を攻撃する種類の攻撃ではなく、誹謗や中傷、信頼関係のない者に対するからかいなどの間接的に身体を攻撃する種類の攻撃を指している)は道徳、
そして場合によっては法と矛盾するが、多数者のそうした行為については許容されるのであろうか(いや実際に許容されているが。たとえば、犯罪者、あるいはそれ以前の容疑者に対する攻撃など)。
さらに、上記の文における「同質」を「同一」と置き換えることのできる事例もあり、こちらを乗り越えることはさらに困難である(次の書き込みを参照のこと)。
(2006年11月1日)
21虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:12:38
>>20の続き

>>20の最後の部分については、
「ワレザー」と呼ばれていた者たちの違法行為の現場(著作権は親告罪なのでこの時点では犯罪ではない)を荒らしていたSDK(チームサムデコを潰すために立ち上げられたチームサムデコキラーの略称)のガキという者を晒し上げるウェブサイトの記録から分かる。

発言1
「ガキ君!! 掲示板荒らしは犯罪です!! しかもメール読ませてもらったらアカウントハクもしてますね!」
「そのハクしたアカウントを御堂岡にメールで教えたりしてますね(´ヘ`;) これは立派な犯罪です!」

発言2
「SDKメンバー『ガキ』のログ抜いてソシャルしたよヽ(´ー`)ノ 愛人のアカだったので時間かかたけど(´ヘ`;)」
「サーバーハクしてメールもいっぱい読ませてもらたよ(激爆)」

この2つの発言から分かるように、「ハク」なる行為を犯罪であると認識し、それを行った者を非難し、挙句の果てにその非難には正当性があるということを論証もなしに暗に主張する者が、自ら行った「ハク」については無視しているぞ。

そもそも、「その当時、掲示板荒らしが犯罪であったのか」という疑問が残る。
これに対して、犯罪であるかどうかはここでは重要でないとの反論を行うならば、それは直ちに反射される。
すなわち、著作権無視ならびに(ガキという者の)肖像権無視は権利保有者が申告しなければ犯罪でないが、
「掲示板荒らしは社会的にしてはならないことである」と主張するならば、
著作権無視ならびに肖像権無視もまた社会的にしてはならないと設定されているのであるから、
掲示板荒らしに対してそうした非難を行うえば矛盾するということである。
22虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:14:46
>>21の続き

■第2の難問
わたしが言うところの超越論では、人間社会よりも大きな何かが正当性を担保する。
他方、これもまたわたしが言うところの非超越論では、人間社会が正当性を担保する。
そこで、便宜的に人間社会よりも大きな何かを世界という語によって代表させると、超越論では「世界⊃人間社会」であって、「世界⊇人間社会」ではないのであるから、人間社会は世界の構成要素の1つに過ぎないということになる。
ということは、超越論以外を表す語である非超越論において、正当性を担保するものを人間社会に限定するのは誤っているのである。
つまり、人間社会以外の1つあるいは2つ以上の、世界の構成要素もまた正当性を担保するものになり得る(これに対して、非超越論では、人間が人間の言語を使用してすべてを形づくっていくと考えるため、
たとえば「世界は人間社会よりも大きい何かである」という考えが一般的である場合、人間がそのように言語によって規定し、維持しているのであると理解することができる)。
これを受けて、非超越論を反超越論という語に改めたとしても、世界と対立する世界構成要素は人間社会以外にも存在する可能性があるため、適切であるとは言えない。
それ以前に、人間社会は世界の構成要素であるから、世界と対立する概念ではないと言える可能性も十分にある。
23虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:17:34
>>22の続き

たしかに、超越論と非超越論という語は学術における定義と違い、虚構世界内存在が自らの考えを説明しやすくするために便宜的に用いている語であるが、それだけでこの問題を回避することはできない。
というのは、感覚や感情以外の信念や命題の正当化について考える際には、Aか非A以外の立場はあり得ず、
かつわたしが問いたいことは、「超越論と非超越論のいずれを正当化することができると思うか」という感覚ではなく、「超越論と非超越論のいずれを実際に正当化することができるか」ということであり、
したがって上で見たように超越論=Aと非超越論=非Aのほかにも立場がある場合、超越論の失敗が非超越論の成功の唯一の条件ではなくなるためである。
つまり、すでに超越論の不可能性は確定しているため、
後は非超越論という語の規定を超越論以外の立場のすべてを包含するように変更するか、非超越論という語の規定を現行のままにしておき、その代わりに現行の意味での非超越論以外の立場(これには超越論を含めない。
その理由はすでに述べたとおり、超越論の不可能性は確定しているためである)の不可能性を論証しない限り、現行の意味での非超越論を正当化することはできないということである。
あるいは、事実認識と価値判断のいずれかを欠いたままで成立するものごとはないという信念が正しいならば、「〜であると思う」対「〜でないと思う」という信念対立や「〜が好き」対「〜が好きでない」という信念対立以外の場合、
つまり感覚や感情以外の信念対立であっても、ある事態についてAか非Aのほかに立場が存在する可能性がある。
ここでは、超越論対非超越論という、感覚や感情の対立ではないと思われていた信念対立においても、感覚や感情が入り込む余地があるかもしれないということである。
その場合、非超越論が超越論以外のすべての立場の総称であるとしても、
超越論対非超越論という信念対立において完全には超越論とも非超越論とも言えない他の何らかの立場が存在し得るということになるため、超越論の不可能性の論証に成功しただけでは、非超越論を正当化するには至らない。
(2006年11月26日)
24名無しさん@社会人:2007/01/01(月) 04:18:27
>>18の続き
今年もよろしく、宮台信者絶滅祈願d=(^o^)=b
25虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:19:51
26虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/01(月) 04:20:56
持続可能な淫乱投票システムもよろしくお願い申し上げます。
http://cgi43.plala.or.jp/schicksa/lvs/voting.cgi
[1] 下記のどの問いが佐藤ゆかりについての正しい問いになり得るか?
・佐藤ゆかりはどのようにして性的公衆便所になったか。
・佐藤ゆかりはなぜ性的公衆便所であるのか。
・佐藤ゆかりは性的公衆便所であるか。
[2] 以下の3つの類似した語のいずれがもっとも好ましいか?
・淫乱肉便器
・淫乱肉奴隷
・淫乱牝奴隷
[3] 次のどの行為がもっとも興奮するか?
・貝合わせ
・下のお口でご奉仕
・紅葉合わせ〔ポンパドゥール方式〕
27虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/02(火) 10:44:04
28名無しさん@社会人:2007/01/02(火) 21:43:48
なんか学問板全般、ずっと重いね。
29虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/03(水) 05:46:50
謹んでおage申し上げます。
30名無しさん@社会人:2007/01/03(水) 12:41:39
31虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/04(木) 17:37:24
スペシャル・アタック(special attack)
32虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/10(水) 14:33:34
最後のage
33虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/17(水) 23:34:58
復活age
34虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/18(木) 14:24:26
35虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/19(金) 16:23:48
【ウェブサイト構成】
●探究:もっとも主張したいことであり、かつ正当化していること(た)こと
  →超越論(0→1)
  →超越論にまつわる3つの難問
  →非超越論(1→0)
  →非超越論にまつわる2つの難問
●試論:正当化しておらず、かつ冒険している文章
  →哲学
  →原因・理由・目的
  →性的脈絡におけるフェミニズムに対する批判
  →オタク概念の整備
  →オタク概念の整備 要約
  →2次元対3次元
●覚書:質的かつ量的に試論以前の文章
  →同質
  →共生志向の欺瞞
  →厳罰主義に対する疑義
  →制作者と制作物
  →18禁ゲーム一元論
  →「2次元的」な性的メディアに対する不当な弾圧に抗して
  →公教育についての要点
●一般人論駁:一般人と同じ土俵に立ち、実践の正当性という観点からの一般人の主張を検証
  →「一般人論駁」の概要
  →受け手の問題
  →対象選択の恣意性
  →他者に対する態度
  →誤った比較の仕方
  →コミュニケーション偏重症候群
  →いじめ
  →livedoor騒動にまつわる矛盾
36虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/19(金) 16:25:21
>>35の続き
●説明 一:虚構世界内存在が使用している用語の、独自の説明
  →「説明 一」の概要
  →超越論と非超越論
  →懐疑論
  →構成主義
  →反実在論
  →唯名論
  →プラグマティズム
  →実用主義
  →一般人
●厭未死記録之書 一:????
  →虚構世界内存在信念集
  →変遷と課題
37虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/19(金) 16:26:21
>>36の続き
●説明 二:虚構世界内存在が使用している独自の用語の説明
  →可能的限定的超越者
  →淫乱肉便器と淫乱肉便器候補
●厭未死記録之書 二:一般人批判
  →誘惑と猥褻
●厭未死記録之書 三:ネタ
  →「『バファリン』の半分は優しさでできている」という言明に対する適切な論駁の仕方
  →みのもんたとミノタウロスの同一性言明
  →可能世界
  →淫乱肉便器/淫乱肉奴隷/淫乱牝奴隷に100の質問
  →似非解釈学(1)  『暴君ハバネロ』
  →似非解釈学(2)  『月とランデブー』
●厭未死記録之書 四:雑文
  →同一性
  →貸金業
  →消費者向け金融業者対策
  →実用的でない詐欺対策
  →対決!花火族
  →税金
  →アマゾン・ジャパンのカスタマー・レビュー用の雛形
  →『yours −堀部秀郎 ART WORKS−』
  →実姉
●超越的記録:内容を問わず、まとまっていない考えや雑記を時系列的に並べたもの
  →2006年11月
  →2006年12月
  →2007年1月
38虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/19(金) 16:27:29
>>37の続き
●資料:他の文章に資する資料やそれ以外の資料
  →仮想書架
  →虚構作品ノート
  →淫乱肉便器の紹介
  →翠星石との会話
  →業績一覧
  →『Ever17 -the out of infinity-』独和対訳
  →独語ノート
  →2003年度における荒らし界の諸勢力
  →反一般人プログラム
  →反倫理論
   →反倫理論の失敗
  →日商簿記2級ノート
●遺産:2005年6月に開始したウェブログ以前のウェブサイトに掲載していた消費期限切れの文章
  →『幻想水滸伝III』キャラクター化
  →マーケティング統合論の帰結
  →消費者志向と顧客志向の相違
●抄訳:外国文献の一部分を選択した翻訳
  →IMC: Using Advertising and Promotion to Build Brands
39虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/19(金) 18:28:27
「ものすごい勢いで広告・宣伝を報告するスレ99」における失敗
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1167966692/624-630n
40虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/20(土) 19:47:08
疲れた
41名無しさん@社会人:2007/01/21(日) 00:33:39
何をしてるの?w
42名無しさん@社会人:2007/01/21(日) 01:26:25
哲学板には単独スレないんだなw
本物の哲学と比べたら陳腐すぎて勝負にならないのを自覚してのことだとしたら、
小賢しくて電波としても中途半端だと思うなぁ。
43名無しさん@社会人:2007/01/21(日) 04:43:29
44虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/21(日) 11:20:17
>>42
哲学に限らず、どうも各種学問との間に壁を感じる。
何かが足りない。
これまでわたしのウェブサイトやウェブログの文章を読んで肯定的だった者もわたしと同じように受け取っているようであった。

ちなみに、哲学板には可能世界論のスレッドがあるが、可能世界論について誰も教えてくれないというのが現状である。
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1134829889/l50

# わたしは電波ではない。
45虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/21(日) 18:46:05
ぁゃιぃ理論

●インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%C6%A5%EA%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%C7%A5%B6%A5%A4%A5%F3?kid=128298
http://www.worldtimes.co.jp/special2/id/main.html

  →三浦俊彦による判定
「IDは私もずいぶん読みましたから知っていますが、きわめて幼稚な思考にとどまっており、あんなものでダーウィニズムをどうこうできるなど、学問をナメるにもほどがあります。
『心理パラドクス』問044や、『現代思想』誌1月号pp.21-23に述べたことで十分なのですが、幸い日本の学界はアメリカの学界ほど幼稚ではないので、IDを真剣に論破するなどという無駄な仕事に手間取らずに済みます。
ちなみに、いま私が必要上読みつつあるファインチューニングとIDの関係を論じた本は、↓です。」
http://www.amazon.co.jp/Improbability-God-Michael-Martin/dp/1591023815/
46虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/21(日) 18:47:28
>>45の続き
●不連続的差異論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%CF%A2%C2%B3%C5%AA%BA%B9%B0%DB%CF%C0
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913
http://ameblo.jp/renshi/
http://antares2.seesaa.net/
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/
http://blog.kaisetsu.org/?cid=24553
ドゥルーズを起点に、プラトン、アリストテレス、フッサール、ニーチェ、スピノザを統合しているらしい。
「不連続的差異論について、簡単にご説明しますと、これは、純粋な科学ではありません。数学と哲学がベースになっている文理統一理論(仮説)で、その証明のために、現代物理学等に準拠します。
この理論は、プラトンのイデア論のポストモダン的進展と言うべきもので、今日の物質主義的科学とは全くことなる考え方をもっています。
イデアである不連続的差異を前提としています。」だって。
「不連続的差異論を、超ひも理論やペンローズのツイスター理論と比較検討することで、最終的に、不連続的差異論は、文系、理系の分化を超克した絶対的超統一理論として完成すると考えられる」らしい。

│(発展したらしい)

●プラトニック・シナージー(Platonic synergy)理論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%d7%a5%e9%a5%c8%a5%cb%a5%c3%a5%af%a1%a6%a5%b7%a5%ca%a5%b8%a1%bc%cd%fd%cf%c0
http://theory.platonicsynergy.org/
「不連続的差異論が、不連続的差異としてのイデアないし差異の創造によって、ポストモダンないしポスト構造主義の欠点を克服した、脱構造主義としての差異論であると考えられる。
それに対して、本理論は、不連続的差異・イデアの零度共振シナジーの様相に着目した点で、さらに進展したものと考えられるのである。
不連続的差異の零度共振シナジー様相は不連続的差異の共立するダイナミックな様相であり、本質的に創造的ないし共創造的な領域である。」らしい。
「鈴木大拙氏の即非の論理がもっとも明快・明確に、差異共振シナジー様相を説明するものと考えられる。なお、ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』の「第三の論理学」も、これを説明するものと考えられる。」らしい。
47虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/21(日) 18:48:33
48虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/21(日) 18:58:56
「超越論(0→1)」と似ている理論に「感情自己責任論」がある。
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1167575534/l50
49虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/22(月) 18:05:36
age
50虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/25(木) 12:29:50
2nd age
51虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/28(日) 12:14:49
3rd age
52虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/01/28(日) 12:21:48
おすすめ2ちゃんねるを用いてこのスレッドを汚しているのは誰だ。
53名無しさん@社会人:2007/02/07(水) 00:26:59
必死にマルチしてんなよ
うぜーから
54虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/02/25(日) 10:04:58
ようやく見れるようになった!
なぜ一部の書き込みが削除されているんだ?
http://pub.ne.jp/
lewd_mistress/
55名無しさん@社会人:2007/03/06(火) 15:14:43
松山大学?
56虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/10(土) 11:51:31
平成19年3月9日金曜日午前5時、敗北確定――。
そして、新たなる伝説が始まる。

…………

「言語ゲーム@虚構世界」!!!
http://jbbs.livedoor.jp/game/36649/

"game"カテゴリーを選択しているが、ここでは"game"の意味を広くとることによって、掲示板の名称の一部である「言語ゲーム」と調和させることに成功しているのである。
また、自らの名称を記入せずに投稿した場合、「虚構世界内存在」と表示されるように設定してある。
これは、虚構世界内存在の元となった「世界内存在」に込められている意味に近似させようとして行ったことである。
57虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/10(土) 11:57:11
>>56の意味が分からない人は、
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E8%B6%85%E8%B6%8A%E7%9A%84%E8%A8%98%E9%8C%B2%E7%B2%BE%E9%81%B8%22&lr=lang_ja
精選→【2007年3月6日 (1)】 矛盾・自己中心性・社会性
58虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/10(土) 11:59:47
>>55
5年かけて卒業した。
59虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/13(火) 21:13:40
終焉

■矛盾・自己中心性・社会性
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E8%99%9A%E6%A7%8B%E4%B8%96%E7%95%8C+%E5%86%86%E3%81%AE%E7%B4%8B%E7%AB%A0%22&lr=lang_ja
の最初にある「案内」という文章のなかの「矛盾・自己中心性・社会性」をクリックしてください。
■言語ゲーム@虚構世界
http://jbbs.livedoor.jp/game/36649/

■オタク概念の整備
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%82%AF%E6%A6%82%E5%BF%B5%E3%81%AE%E6%95%B4%E5%82%99%22&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
●2次元対3次元
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%222%E6%AC%A1%E5%85%83%E5%AF%BE3%E6%AC%A1%E5%85%83%22&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
●18禁ゲーム一元論
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%2218%E7%A6%81%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96%22&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
●超越的記録 精選
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E8%B6%85%E8%B6%8A%E7%9A%84%E8%A8%98%E9%8C%B2%E7%B2%BE%E9%81%B8%22&lr=lang_ja
  →現実・「2次元的」虚構作品・「3次元的」虚構作品(【2006年12月31日 (3)】 )
  →虚構作品に対する態度(【2006年12月31日 (2)】)
  →「2次元的」虚構作品に対する態度(【2007年3月7日 (1)】)

●淫乱肉便器と淫乱肉便器候補
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E6%B7%AB%E4%B9%B1%E8%82%89%E4%BE%BF%E5%99%A8%E3%81%A8%E6%B7%AB%E4%B9%B1%E8%82%89%E4%BE%BF%E5%99%A8%E5%80%99%E8%A3%9C%22&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
●実姉
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%AE%9F%E5%A7%89+site%3Apub.ne.jp&lr=lang_ja
●淫乱肉便器の紹介
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E6%B7%AB%E4%B9%B1%E8%82%89%E4%BE%BF%E5%99%A8%E3%81%AE%E7%B4%B9%E4%BB%8B%22&lr=lang_ja

■持続可能な淫乱投票システム
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E6%8C%81%E7%B6%9A%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%81%AA%E6%B7%AB%E4%B9%B1%E6%8A%95%E7%A5%A8%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%22&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
60虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/04/01(日) 02:52:39
http://anime2.2ch.net/test/read.cgi/otaku/1175353688/
新たにスレッドを作成したことをお知らせいたします。
61名無しさん@社会人:2008/04/13(日) 16:41:00
フンヌー
62名無しさん@社会人:2008/06/05(木) 01:30:59
fgh
63名無しさん@社会人:2008/07/21(月) 23:56:57
あげ
64論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/02/19(木) 04:21:02
最新のウェブサイト
http://erosion.tsuchigumo.com/
65名無しさん@社会人:2009/02/19(木) 17:48:13
結局、放棄か?

書いても書いても結論は出ず、出たと思い読み直すと懐疑主義が頭をもたげて来る。
猿のセンズリだな。

結局、幽霊とお化けはどちらが本当にいるのかって事か?
どっちが存在として正しいのかって事か?

デカルトの“疑問”を何だかんだ書いてたけど、それ持ち出したら、結局此処で使った“文字”すら正当性を失うのと違う?
そしたら、詰まる処“無”になっちゃうんとちゃう?
主は思考を重ねる毎に自分が“無”である事を論証し、結論として“自分が無意味”である事を見出だしたのかな?

66論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/02/28(土) 07:48:02
↑現代の論理的意味論をやって出直して来いボケが。

さて、「懐疑論とその限界」と「実践上の矛盾を巡って」が完成した。
http://erosion.tsuchigumo.com/investigation/skepticism.html
http://erosion.tsuchigumo.com/investigation/inconsistency.html
67名無しさん@社会人:2009/02/28(土) 08:15:55
おっ、久しぶりに虚構の人だ
今なにしてるの?
哲学の大学院?
68論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/02/28(土) 20:38:26
やぁ。
零細規模税理士事務所正社員約3ヶ月→中小企業経理事務正社員約1年1ヶ月→無職(2ヶ月)
来月硫化水素自殺予定。
69論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 03:41:12
70論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 03:49:56
71論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 03:53:41
最新は>>66だ。
>>1-23は忘れてくれ。
72懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:02:25
  ここでは懐疑論について述べるが、ここで言う懐疑論とは、絶対確実に正しいことを探求するための、あるいは絶対確実に正しいこ
とについての探求を補助するための方法論である。前者と後者とでは若干の違いが生じるが、基本的には誤謬に陥らないようにするた
めに、対象を徹底して解体していく作業を指すと考えてもらえればよい。したがって、無謬主義の立場をとることになる。
  さて、理想的な懐疑の過程は下記に示すとおりである。

  (1) 提示された立場ならびにそれと相反する立場のほかに採用し得る立場の有無を検証する。
   ⇒ここでは真偽決定不能という立場はとりあえず措いておく。
  (2) 案出された(真偽決定不能という立場を除く)すべての立場に対して、自説以外のすべての説が誤っていることの論証を通した、
自説の間接的な正しさの確認のみならず、自説の正しさの直接的な論証を要請する。
   ⇒前者の、自説の間接的論証のみでは不十分である。これは、自説以外のすべての立場が絶対確実に誤っていることが、自説が
絶対確実に正しいこと、あるいは自説が絶対確実に誤っていないことを必ずしも保証しないからにほかならない。非Aが反Aのみから構
成されているとは限らないことを考慮に入れるならば、2つの立場しか検討しない場合には特に注意を要する。また、実際には、(1)で
無視した、真偽決定不能という立場が考えられる場合もあるかもしれないのである。
  (3a) (2)によって消滅せずに残った立場が絶対確実に正しいと判明する。
  (3b) (2)によってすべての立場が消滅した場合には、真偽が原理的に決定不能であることが絶対確実に正しいと判明する。
73懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:03:48
  私が、まず問いを立てることにしようと考えた主要な動機として、一般人による「独断の多用」と「不用意な自然主義」に対する違
和感がある。
  前者は、自らが抱いている、あるいは自らの帰属集団において共有されている感覚や感情(たとえば「〜はつまらない」、「〜は気
持ち悪い」といったような信念)を論証抜きに正しいと信じたり、主張したりすること(ただし感覚報告や感情報告を除く)である。
言い換えるならば、論理的根拠の代わりに心理的根拠を用いて自説こそが正しいと断じることである。他方、後者については、「私的
な感覚や感情から、集団になって犯罪者を攻撃する」という行為には絶対確実に正しいという趣旨の主張などに見受けられる。たとえ
ば、「特定の条件を満たした者を攻撃したくなる、あるいは攻撃すること」が人間であれば回避することのできない物理的/生理的な
ことであるということが科学によって保証されていたとしても、それが当該行為(ここでは攻撃すること)が正しいことの論理的根拠
にはなるまい。言い換えるならば、両者には懸隔がある。それは、科学によって解明されること、あるいは科学が説明することが「仕
組み」であるからにほかならない。
先の例においては、科学は、せいぜい人がどのようにして「攻撃してもよい」、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」とい
う信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、したがってそうした信念を持つことが正しいということを保証し
ないのである。
74懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:04:52
  また、人間が引き起こす対立には理論上の身分が同等のものが多いように思われる。たとえば、「芸術はすばらしい」という主張と
「芸術はくだらない」という主張の対立においては、両者ともに感覚ならびに/あるいは感情を報告しているに過ぎない。そこでは、
互いに自らの側の感覚や感情を直ちに正当化するのに終始しているのである。これと似ている、別の種類の対立もある。たとえば、一
神教と科学あるいは左翼と右翼という対立においては、それらの対立に登場するもの以外の立場を取り得る可能性があるにもかかわら
ず、「相手のこういう点が誤っていることから、相手の考え方は隘路となっているので、自らが正しい」という論じ方がよくなされる。
しかし、これらはいずれも誤りである。数学について考えてみればそのことがよく分かるであろう。数学においては、「1+1の答えは2と
3のどちらかというところから出発し、2の相手である3を採用した場合にどのような不具合が起こるか」などといったことは検討されな
いのである。それは、たとえ1+1が3でないことを証明することができたとしても、それだけで1+1が2であることの証拠にはならないから
にほかならない。
  こうしたことから懐疑論の重要性が理解される。懐疑論は対立する両者に等しく自らを絶対評価すること〔自らの正しさ直接的に論
証すること〕を要求する1ので、懐疑論によって消滅させられずに残った立場が絶対確実に正しいと言えるようになるのである。あるい
は、両者ともに消滅するという事態も十分に考えられるが、その場合、「〜という信念または命題が正しいということを正当化するこ
とはできない」、「〜という信念または命題が誤っているということを正当化することはできない」という2つの、互いに矛盾しない結
論が同時に成立することになる。これは、言い換えるならば、真偽を決定することは原理的に不可能であるということである。(なお、
「真偽が決定不能である」とは「真偽はない」ということではないことに注意してもらいたい。)
75懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:05:21
  また、懐疑論は別の論理的根拠からも要請される。それは、多くの人びとがそれぞれ独断的に前提している基礎的立場〔世界了解〕
のいずれが絶対確実に正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しないためである。
このことは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。
しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論
証なしには成り立たない2。(これについては、建築とのアナロジーで考えれば分かりやすい。すなわち、基礎工事を行わずして1階部分
をつくったり、土台と1階をつくらずして2階部分を空中でつくったりすることは、論理的にはともかくとして物理的にはできないのである。)
76懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:05:56
  ここで、この部分についてもう少し踏み込んだ議論を示すことにしよう。

  ◆ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に対して
   ⇒「おまえが被害者になっても同じことが言えるということだな。さっさと同じ目に遭え。」

  (a) 前半部分について
  彼が同様の状況に陥ったときに同じことが言えないとしても、そのことと彼による加害者擁護言明の真理値に関連性はない。もしこ
れに関連性があるならば、たとえば下記2点のような事態が起こり得る。
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていないことのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていることのみから『1+1=2』が正しいことが帰結する」

  (b) 後半部分について
  自らの、あるいは自らが属する共同体に共有されている感覚や感情、およびそこから帰結する規範を盲目的に正しいと信じ、その押
しつけを行っている。この種の者は、そうした感覚や感情に合致するか否かで何ごとかを判断するので、自らの言うことは必ず正しい
という主張を含んでいることになる。したがって、たとえばある事態について酷いという感想を持たない場合には、(ある事件の加害
者とされる者を擁護する言明に噛み付いた場合とは違い)その事態について酷いという感想を持って不満をぶつける者を否定する。
77懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:07:18
  ◆ある事件の加害者とされる者に対する量刑に不服がある場合
   ⇒「裁判官は遺族感情を無視している。」

  繰り返しになるが、感覚や感情によってあることが正しくなるならば、その感覚や感情と相容れない感覚や感情に依拠した立場もそ
れ以外の根拠を持ち出さなくとも正しくなるはずである。しかし、こうした事態は(無)矛盾律に反するために成立しない。
  また、 直接的被害者の被った害を受けて苦しむ(すなわち間接的に苦しむ)という行為に対しては、当該行為者の主観によってそ
の苦痛は消滅もしくは軽減されるという考え方とシステムによって決定されているのであるから間接的に苦痛を感じる行為者の自由と
いうわけではないという考え方の2つが想定されるであろう。しかしながら、いずれを採用したとしても、その仮説に基づく世界了解に
おいては、間接的被害者の立場に立脚したと一般に判断されるような見解は誤っていると言える。なぜならば、前者の考え方によれば、
犯人が加害者であるがゆえに攻撃を受け、したがって被害者に転じるという、犯人の自己認識が退けられる代わりに、第三者が間接的
被害者と判断する何者かもまた被害者足りえず、後者の考え方によれば、間接的被害者なるものが実際に被害者であることがシステム
的に決定されているのと同様に、自らが加害者であるとともに被害者であると判断している犯人の主張もまたシステム(により決定さ
れているという仮説)により正しくなるからである。それゆえ、「遺族感情を裁判に持ち込まねばならない」といったような言明は誤
っていると帰結することができるであろう。
78懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:08:13
  しかしながら、これまでに述べてきた議論には3つの欠点がある。以下で、それを洗い出すことにする。

  (1) 懐疑論においては、人間や人間社会は人間の意識や言語から独立して存在することができるという前提、したがって正当性を担
保するのは人間社会を包括する何かであるという前提が採用されている。そして、その一般的な形式が世界である。すなわち、世界が
他のものやことを根拠づけていると考えるのである。しかし、そうであるとすれば、世界が人間社会を包括しているように、他の何か
がその世界を包括しないならば、人間社会を直接的に包括する世界による根拠づけは、心理的根拠と同様の独断と化す。したがって、
人間社会を直接的に包括する世界を包括する世界が要請される。しかし、これについても同じことが言えるため、無限後退という隘路
に入っていくことになる。要するに、懐疑論において正当性を担保すると想定されているものは、独断か、または無限後退のいずれか
の誤謬の所産なのである。

  (2) 懐疑論によれば、まず何よりも基礎的立場の正しさの確定が必要であるということになるが、この考え方には2種類の疑問が生
じる。1つは、基礎的立場の確定に必要な議論においては、基礎的立場が確定していない以上、より上位の議論を参照せざるを得ないが、
他方で基礎的立場が確定していない段階におけるより上位の議論が空虚になると考えるのであれば、そうした独断的前提を採用した議
論を参照して確定される基礎的立場にもまた独断が入り込むことになるというものである。(ただし、矛盾律と否定的背理法/消極的
背理法からのみ何かが導き出されるならば、この問題は解消される。)そしてもう1つは、基礎的立場の正しさを確定することが必要で
あることを論証する際に利用されていた背理法が正しいならば、「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されている
ことになるというものである。また、仮に同一視するのが正しいとしても、その論理的根拠はどのようなものであろうか。
79懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:08:59
  (3a) 懐疑論は論理学に依拠して進められる。しかし、論理学は、前提や結論、さらにはそれらの文を構成する各要素(主として語
彙や文法)については何も述べず、推論と呼ばれる過程/関係性しか扱わない。ところで、前提の正しさや前提を構成する文の各要素
の使用法の正しさを論証しようと思うならば別の前提を持ち出さなければならなくなる。こうして必ず完全性がない部分が現れ続ける
という無限後退に陥るか、または循環論法3が生起するようになるか、そうでなければどこかで独断的に基礎を決定せざるを得ない。

  (3b) 懐疑論は徹底的に懐疑することを標榜している。そして、徹底的な懐疑は、結局「〜とは何か」という問いに収斂する。むろん
他の種類の問いもあるが、1つずつすべてを疑っていくという立場では、その疑問文で扱われているすべての語が分からないという前提
のうえで議論が開始されるはずであるから、結局は左の問いの形に落ち着くことになる。しかし実際には、「何」という語、「〜とは
何か」という文法、さらにはそもそも「疑う」という語、「分かる」および「分からない」などの、懐疑論の出発点において必要とな
ってくる基礎的な語についても分からないのである。したがって、他の何にも依拠しないという無根拠の状態からでは、思考を開始す
ることができない。すなわち、懐疑することができるには少なくとも「何」を初めとするいくつかの語やそれらの語を使用するための
いくつかの文法を独断的に前提せねばならない。このことから、言語は「独断の共有化」、「共有された独断」によって成立している
と言える。
  これは(3a)とも密接に関係しているが、問題は日常言語がどこまで効いてくるかということであると思う。より具体的には、日常言
語が独断から逃れられないとするならば、演繹という語が日常言語である以上、演繹それ自体もまた独断により成立しているというこ
となのか、それとも演繹という語とその語によってわれわれが想起している関係性それ自体〔論理的関係性〕は独立に存在することに
なるのかということである。また、後者の考え方がただ1つの立場からのみ言われるもの(具体的に想定しているのは真理の対応説)で
あるかどうか、さらにはそもそも具体的にいかなることを言っているのかも分からない。
80懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:10:46
  以上より、「すべてを疑おうとする者は疑うところまで辿り着けない」という、ヴィトゲンシュタインによる懐疑論論駁が導出され
る。結局、無前提では、出発することも、終点に行き着くこともないのである。すなわち、言語の制約を受けている以上、言語と切り
離して何かが存在したり、成立したりするということはあり得ない。すべては人が人の言語によって規定・設定したり、構築・制作し
たりしている。それも、しばしば想定される人間社会の内側と外側などというものは単なる幻想に過ぎず、そこにはただ人間社会=人
間の言語しかないのであるから、正当化を担保するものは人間社会=人間の言語であるとする構成主義的立場が正しいと言える。
  しかし、本当にそうだろうか。その場合、すべての語について、有象無象の独断的議論に見られるように、感覚や感情による規定を
行い、根拠づけが成功すると考えるならば、それは他者(たとえばこの私)がそれとは異なる(しかも相容れない)感覚や感情により
規定、根拠づけを行うことによって、両者の理論上の身分は同等になるという、すでに述べた懐疑論からの議論が再登場することにな
る。あるいは、これもすでに見たように、「すべての人間が『1+1=2』が誤りであると信じていることのみから『1+1=2』が誤りである
ことが帰結する」などといったように、「正しいこと」と「正しいと信じること」が同一であるということになってしまう。
  それでは、いくつかの語などについては独断を無視するほかないという立場はどうであろうか。この立場の問題点は、なぜそのいく
つかの語などについて独断が許容されて、そのほかの語などについて独断が許容され得ないのかというものである。そこにいかなる基
準があるのかということについて論証することができない限り、先に挙げた、すべての語について独断を許容する立場と同じ隘路が待
ち受けているのである。(しかし、この立場を徹底すると再び懐疑論が論駁されることになる……。
81懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:12:11
  注  釈

1 懐疑論は対立する両者に等しく自らの正しさを直接的に論証することを要求する。
  しかし、相対主義の場合には注意が必要である。真性の相対主義者は、相対主義の主張を他者に押しつけないし、その必要性もない
〔そのようにしなくとも相対主義は成立する〕と考える。相対主義は、それを主張する者にとってのみの真理なのであり、それ以外の
者にとってどうであるかということは問題でないのである。したがって、「生きる意味」について、「個人的には〜というのが生きる
意味だが、それをほかの人がどう思うかとか、それが普遍的なものかどうかとかはどうでもいい」という主観的な見解のみを持ってい
る人と同質であると言うことができる。言い換えるならば感覚あるいは感情の報告と同質であり、そこには議論が成立する余地はない。
この見方は、相対主義を採用すればコミュニケーションが成立しないとする、おそらく一般的であろう見解と軌を一にしているため、
こうした理解の仕方をしてよいと思われる。
  ということは、相対主義こそが正しい考え方である〔相対主義を採用せざるを得ない〕という立場を採用した場合、そのほかの立場
とは異なり、自身以外の立場の不可能性を論証することによってのみ自身〔相対主義〕こそが正しいということが判明するということ
になる。(これに対して、相対主義以外の立場をとる場合には、相対主義の不可能性を論証する必要があるほか、自身の正しさの直接
的論証が要請されるということはすでに見たとおりである。)要するに、同じ非明晰主義であるとは言え、超心理学、神秘主義、心霊
主義、東洋思想等々とは異なり、どうやら相対主義の場合には「正当性の探究をしているにもかかわらず、自身が正当化している考え
を論証することができない、あるいはそれ以前に論証しようとしないこと」が「不当な正当化を行っていること」にはならないようで
ある。
82懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:12:53
  なお、ある立場が絶対確実に正しいと言えるためには直接的論証が必要であると述べたが、ここでのある立場には「ある立場を批判
するという立場」は含まれない。単にある立場の誤謬を指摘することに終始する場合には、自らが積極的な主張を行っているのではな
いため、彼の採用している立場はないと考えられる。(より厳密には、判断留保という立場であるが、これは消去法の結果として立ち
現れる〔懐疑論を遂行する場合に必然的に採用することになる〕種類のものである。)

2 もっとも基礎となる立場をまず決定せねばならない。
  なお、基礎的な議論が終わった次に待ち受けているのは、その枠組みのなかにあるどの枠組みが正しいかという議論である。たとえ
ば、絶対主義が正しいということになったときには、実在論が正しいのか、観念論が正しいのか、それとも……となる。さらに、実在
論が正しいとなれば、素朴実在論が正しいのか、科学的実在論が正しいのか、それとも……となる。さらに、科学的実在論が正しいと
なれば、……。そしてようやく最後に、より具体的な個別の問題について、正当化することのできる枠組みに依拠すればどのような解
を与えることができるのかと考えることができるようになるのである。
83懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:13:24
3 循環論法
  たとえば、AからZという、互いに異なる言明があり、AからはBを、BからはCを、CからはDを、……YからはZをそれぞれ演繹的に導き
出すことができると仮定した場合、それら隣接する言明同士の繋がりやAとZとの繋がりなどは絶対に正しいと言える。しかし、Aという
言明はいかにして正当化されるのであろうか。この問いに対して、ZからAを演繹的に導くことができると仮定したときに循環論法〔論
点先取り〕が生じる。(そのような仮定を行わない場合には無限後退に陥り、さらに無限後退を回避しようとすればAの正当性を独断す
ることになる。)それは、ZがYによって、YがXによって、XがWによって、……BがAによって論証されるといったように先ほどとは逆の
流れを辿っていけば理解することができる。その結果はAの正当性はZによって保証されるということになるが、最初の仮定ではAがZの
正当性を保証していたのであった。また、そうした体系をαとし、それとは別の体系βからAを演繹することができるとしよう。しかし、
体系βにおいても、上記で示した、体系αにおける問題と同様のことが生じるため、結局はせいぜい循環論法止まりで、悪くすれば無
限後退や独断に陥る結果となる。(この種の循環論法で構成される体系あるいは体系群を支持するのが全体論あるいは外在主義的整合
主義と呼ばれる立場であろうか。)
84実践上の矛盾を巡って ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:14:03
  以下に、かつて私が批判していた「実践上の矛盾」を巡る顛末を述べる。なお、私が実践上の矛盾であるとしていた具体例について
は、省略する。

  ◇実践上の矛盾と私が呼ぶものは、行為間の整合性の有無によって判定される、言い換えるならば批判対象が採用している理論を基
準として彼の行為を裁定するので、理論とは独立に成立する。
  ◇しかしながら、行為の観察には独断がつきまとう。
  ◇この独断をすべて排除するには、認識論と存在論についての絶対確実に正しい回答が要請される。
  ◆したがって、実際には理論に依存しているということが帰結する。
  ◇また、私は、その過程〔すべての基礎となる認識論と存在論についての結論〕を迂回したうえで、批判対象がどのような行為を行
っているかを判断していたのであったが、他方で私が行っていた提唱は、「すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しく
なることはない」1というものであった。
  ◇ということは、独断を批判していたはずの私こそが独断に陥っているということになり、したがって私もまた実践上の矛盾を抱え
ているのである。
  ◇実は、ここに重要点がある。それは、私が実践上の矛盾に陥っていると判断できるのはただ私のみであるという点である。
  ◇なぜならば、他者が私のその行為について判断したならば、先ほど私が他者の行為について判断したのと同じできごとが生じるた
めである。
  ◆それゆえ、実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのであるということが導か
れる。
85実践上の矛盾を巡って ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:14:33
  ○というのが「実践上の矛盾」を巡る議論であったが、上で見たようにこの方法が理論に依存すると言うならば、懐疑論へと繋がっ
ていくことになる。
  ●したがって、下記の注釈1の最後の疑問が生じ、さらには「終わらない独断」(「懐疑論とその限界」で取り扱っている問題)か
ら抜け出せなくなる。
  ●また、後者を言い換えるならば(私が批判していた「独断の多用」ではなく)「独断という概念の多用」と呼ぶべき誤謬に陥ると
いうことになろうが、そうであるならば「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることな
のである」という批判もまた、言語という公共的なものを使用しておきながら、それを私的な使用法へと改変している点で成功しない
議論であると言うことができる。
  ○なお、先述したとおり、「実践上の矛盾」についての批判は理論ではなく、実践に対して適用されるという考えに支えられていた。
  ○しかし、たとえ「ある信念や命題が絶対確実に誤っている」(理論が誤っている)としても、そのことのみから「その信念や命題
を絶対確実に正しいと主張すること」が絶対確実に誤っている(誤った理論を実践しようとすることは誤っている)と結論づけること
はできない。
  ○言い換えるならば前者は一階に属しており、後者は二階に属しているために、一階の結論を他のいかなるものも媒介せずに直ちに
二階の結論として再利用することはできない。
  ●ここからも、「実践上の矛盾」にまつわる問題が、単に行為間の整合性の問題で完結するものではなく、理論(ここでは一階と二
階の対立)の問題になるということが分かる。
86実践上の矛盾を巡って ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:15:10
  注  釈

1 すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しくなることはない。
  この部分については、すでに2009年2月22日の「スマイリーキクチ事件要論」でも述べたとおりである。すなわち、どの世界了解が正
しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しない。これは次のことから導かれる。A
という立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。
したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない。
  しかしながら、この議論からは「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されているのではないか、同一視するのが
正しいとしてその論理的根拠は何かといった疑問が生じる。
87論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 08:15:42
88論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:48:53
  「論理ではなく感情が重要」論者、(自らにとって都合のいいときだけ)「人は論理だけで行動しているのではない」論者に対する
論駁の要点は以下のとおりである。

【主要】感情による正しさを主張する者は、その感情に対して、さらにはその感情が正しいという考えに対して「それは正しいか?」
と問うことができるということに気づいていない、もしくは無視している。
【補助1】ある感情を持っている(と思い込んでいる者)が自らの考えが正しいと主張したとしても、それとは異なる(しかも相容れな
い)感情を持っている(と思い込んでいる)者が、彼と同じように自らは正しいと主張した場合、両者の理論上の身分は同等となり、
原理的な決着はつかない。
  ↑を戦術的に活用すれば、ある感情を持っている者が自身の正しさを主張するのに対して、それが気に入らないという感情によって
反対意見を表明するだけで、両者の理論上の身分を同等にすることができる。
【補助2】「正しいか誤っているかはどうでもいい」と言う者は、「「正しいか誤っているかはどうでもいい」ということが正しい」と
暗に主張しているため、結局正しさを問題にしている。
【補助3】「感覚や感情が共有され得る」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情こそが正しいのである」という信念、「多
数派に共有されている感覚や感情に従わねばならない」という規範(この規範の背後にあると思われる、「機能すると自らが思い込ん
でいること」が事実としても、価値としても正しいという信念、および「人類は存続せねばならない」などの規範を含む)はすべて独
断である。
【補足】「人は論理だけで行動しているのではない」という信念に含意される規範は独断である。
89論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:49:45
  上述のような指摘を行うと出現するのが、動機を探ろうとする者(そして、魔術的な仕方で動機を発見し、嬉々として攻撃を加えて
くる者)である。
  しかしながら、ある考えや理論にとって、それらを提唱している者の動機こそが重要であるという考えは、「1+1」の答えが「2」で
あってほしいという動機によって「1+1=2」が成立するという考えを支持することになる。
  彼の考えが正しいとするならば、先述した【補助1】という袋小路に迷い込み、抜け出せなくなるだろう。
  したがって、動機によって正しいことが誤りになったり、誤りであることが正しいことになるなどということは決してない。(その
者の動機が何であれ、正しいことは正しいし、誤りは誤りである。)
  私には、実際に「1+1=2」というのが正しいかどうかは分からない。
  しかし、もし「1+1=2」が正しいならば、「1+1=2」であることを論証する(しかも公理のような独断を排除して!)ことに成功した
者が「1+1=3」という感覚を持っていたとしても(そして「1+1=2」という感覚を持っている者がただの1人もいないとしても)、
「1+1=2」は絶対確実に正しいと言える。
  動機の囚人となっている者は、感覚や感情の段階と理性の段階を区別せず、俗流心理学を奉ずる、誤った論者である。
90意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:20:09
  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタ
ンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。
この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン
1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボ
タンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の
条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な
理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あ
るボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、か
つ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っている
のかを理解していないということになる。
91意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:20:53
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かって
いない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、
そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に
決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析
は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何
かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容であ
る対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかとい
うことが明晰ではないというものである。
92意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:21:31
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然
「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可
能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するという
ことは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を
指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正
しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に
成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」とい
う言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
93意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:22:50
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲーム(television game)である。そのゲームでは、園
崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何
度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向し
てきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、
それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園
崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。
94意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:23:12
  備  考

前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音


解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)


# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそ
うなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記
の考え方はすべて独断になってしまうか……。
95現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:24:10
▽現実本位


◇批判:虚構作品は現実的でない。

◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
  →虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はど
こにも見当たらない。

【カテゴリー2】 原理的
  →両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如して
いると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的
にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
  →対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
  →(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
  →↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの
世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
  →「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測
選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。
96現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:24:47
▽虚構本位


◇批判1:虚構作品に理論は不要である。

◆応答1:
  →学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、
何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信
念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾
であると指摘することができる。

◇批判2:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。

◆応答2:
  →その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚
になる。

◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。

◆応答2b:
  →背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないと
いう状況も可能であるという点が問題なのである。
97論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:25:12
「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」


  ダウンロード販売により購入した商品を販売することに対する私の解釈は以下のとおりである。(現行の法律と異なっている可能
性はある。)

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入
したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooです
ら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能
性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考え
る。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはなら
ないことであるという可能性はある。)
98論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:26:31
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」
と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダ
ウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、
そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべ
てを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を
他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版が
オリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記
録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」
ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したと
ころ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、
彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性
を維持することができない。
99論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:27:11
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパ
ッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許
容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、
2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルート
で購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そし
て、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売
すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有
の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては
使えないと思う。
100論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:27:42
  要約版

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、
マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為から
ファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売する
ことが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭
に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、した
がって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版で
あるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。
101論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:28:50
102論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:33:26
103論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 20:36:44
104名無しさん@社会人:2009/03/02(月) 03:09:55
サラリーマンしてたのか
自殺とかしないで大学院に行きなよ
あとテレビゲームはvideo gameですよ
105論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/02(月) 05:40:16
106論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/02(月) 05:42:11
>>104
>あとテレビゲームはvideo gameですよ
最近どこかで同じことを言われたような気がする。
丸括弧に英単語・英熟語を書くのは昔の文章の名残で、訂正しようと思うたびにし忘れてきたものだった。
ので、削除した。
107論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/02(月) 22:00:39
飽きた。
108.hack//増殖 ◆vWilh8Qklc :2009/03/14(土) 02:21:20
109真相究明編 ◆vWilh8Qklc :2009/03/26(木) 18:52:53
110真相究明編 ◆vWilh8Qklc :2009/03/26(木) 18:55:41
111名無しさん@社会人:2010/02/16(火) 19:39:41
112名無しさん@社会人
G氏の匂いがする。。。