714 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 08:25:55
>東京シューレは、貴戸氏の研究を「フリースクール運動の成果」と捉えることはできなかったのだろうか・・・・。
(゚Д゚)ハァ? この人、話の水準を全部ごっちゃにしてるよ。
てか、貴戸氏の本は「フリースクール運動の成果」なのか?単に取材対象になっただけなのにね。
>「不登校擁護運動ゆえに、このようなたくましい当事者も登場し得たのだ」と。
むしろそう受け取って、社会的に責任ある一文筆者として認めているからこそ、他の専門家に対
してきたのと同様に、訂正を求めるべきところにはきちんと訂正を求め、反論をすべきと考える点
には公式にはっきり反論する姿勢を示しただけとも言えるだろうに。
それに、当事者というけど、この本を書いた人物は、不登校経験の有無に関わらず同時代の誰よりも
学校社会に順応してきた個人の一人でもあり、その意味ではむしろ学校社会の側の当事者の立場に
身を置いているんだよね。
その意味でこの本が論拠にしようとしている「当事者」像と著者とは社会的に言って対極にいるわけだが。
しかもね、「当事者」というのを常套句としてその論拠に利用しようとしたのはこの著者自身であるだろうに。
715 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 08:33:17
>>713 情報提供ありがとう。やはり常野って思ったとおりの思想をしているね。
そういやアドルノが、十数年前の権威に反抗していた奇妙なギムナジウムのお友達が
予想通り熱心なファシストになった、って書いていたのを思い起こすね。
用は、父に反抗できない。つまりエディプス・コンプレックスが解消していないんだ。
抑圧の深い保守的なしばりの強すぎる家とか、長老支配の強い社会ではこうなりがち。
今の日本は先鋭的な晩婚化・長老社会だから、
今から2〜30年前のカウンタ−カルチャ−に染まっているヤツも
同じようにファシズムの傾向が強くなるものとオモワレ。
716 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 08:35:36
> > 1980年代前半のこの状況に対して、東京シューレ的な言説は登場していたと思う。
1980年代前半の状況に限定したいみたいだけど、90年代には風の子学園事件
も起きているしね。似たような発想にもとづく不登校への風当たりや抑圧的状況は
綿々と続いてきた面も否定できなくあって、それら重大な事件になったものは氷山の
一角でしかなかったりするんだよね。
斎藤氏をはじめとする昨今の稲村復古的キャンペーンで、そうした類の人たち(引き
出し屋と呼ばれることもある)も再び勢いづいているようだし、むしろ上山氏のいう
80年代の前半に再び逆戻りしつつある状況を当事者の一人として強く感じさえする。
不登校を矯正扱いするそんな世の中のなかの風当たりのなかで、当事者は家族にも
社会にも受け入れられず疎外感をますます強めていかざるを得ないわけで、いわば
以前のマッチポンプ的な循環構造が再びつくられてきていると思うね。
>>713 どうしようもないな。
なにヤケクソ的な諧謔を真に受けてんだか。
君も貴戸みたいに真面目すぎるのかな?
718 :
713:2005/05/29(日) 10:27:08
常野と共著の貴戸本を読んでないだろ、常野の言ってることは同じだから。
「ヤケクソ的な諧謔」にも本音はにじみでるゼ。
719 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 11:23:15
>東京シューレ的な言説
なんじゃそりゃ。
>>691 > > もしNさんが貴戸本人だとすれば、上野に対する面従腹背の可能性もある。
> もしそうだとしなくても、その可能性は高いですよ。
上野氏が『サヨナラ、学校化社会』(太郎次郎社)を出して憂えていること
からすると、それも想像に難くないかもね。
http://axel69.269g.net/article/278336.html このブログのコメントを読んで、やはりなと思った。
どうやらこの一見にコメントする人は、しばしば貴戸氏の著作のみを読み、
それだけを鵜呑みにして、貴戸氏の著者が物語化したフリースクール像や当事者像
をもってこの一件を理解してしまっているように思われる。
上記URLのブログでは、例えば、「働けることがまともなことだ」的な発想が東京シューレ
側のものであるかのごとく理解されてしまっている。
貴戸氏が自著のなかで引用している当事者の声やフリースクールの言説とされている箇所も、
著者の主張する「物語」によって選別されているということをも注意して読む必要があるだろう。
722 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 15:40:47
O女史を講演会などに呼ぶ団体だからといってそういうのがすべてO女史マンセー、T狂シューレマンセー
かというとそういうわけではない、ということだね。
O女史を講演会などに呼ぶのは単なる人集め、人寄せパンダということだったり、O女史を呼んだ
その団体の箔付けに過ぎないことのほうが多いと思う。
貴戸理恵のO女史への姿勢・視点って、なんか非常識で屈折したものを感じる。
723 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 15:43:41
724 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 15:46:47
725 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 15:57:57
そういえば渡辺位さんが講演で言っていた。子どもの学校ばなれが問題にされている。
しかし実際には子どもが学校にあわせすぎて過剰適応になってしまう
子どもの「自分ばなれ」のほうが深刻な問題です、と。
いわゆる離人症をうむ学校教育的環境の問題を指摘したんだね。
上記の話って貴戸さんに一番極端に当てはまる。
登校・不登校を問わず、もっとも学校に過剰適応してしまっているもの。
ある意味貴戸理恵は、人一倍不幸な人なのかも。
726 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:01:54
気取り絵、気取り枝
727 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:07:42
>もっとも学校に過剰適応してしまっているもの。
>ある意味貴戸理恵は、人一倍不幸な人なのかも。
「魂の殺人」で凶悪犯罪者の子ども時代を精神分析して、教育は子ども時代に受けたしうちの復讐だと喝破した
アリス・ミラー。彼女は、ムチャ抑圧的な家や学校教育で育った子が、
長じて得意な能力を発揮するようになる例をヒトラーなどを例に主張しました。
貴戸さん、さらに言えば師匠の上野、同じ東大相関社会学のいじめの社会学者・内藤朝雄なども
こういったタイプの人間なのでしょう。
現役の十代半ばのころ、そのときの権威に反抗せずに、あとになってから十数年前の権威を叩く者は
銃数年後には熱心なファシズム支持者になった、というアドルノの述懐とともに考えさせられます。
たとえば京大の吉田寮あたりで60年代〜80年代のサブ・カルチャーにハマっている
どこか幼稚でお花畑的な人々にも共通するものを感じます。
リベラルに見えて根本的にはファッショなんですよ。
かといって徹底的に伝統的・保守的であるゆえの軸の確かさもない。
そうすると、いまどきの権威・ネオコンを批判できない。
表面的には批判しても部分的・表層的・一時的な批判に終わってしまう。
貴戸さんもその傾向はありますね。
つまり彼女は反抗しているつもりの超よい子ちゃんだということです。
728 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:10:05
>同じ東大相関社会学のいじめの社会学者・内藤
お見苦しい。訂正を。
→東大相関社会学出身のいじめの社会学者・内藤
729 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:11:29
何度言ったら分かるんだ。
キドの師匠は上野膣子ではなーい!
730 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:20:45
731 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:23:40
シューレの連中らが、マジでキドを裁判に訴えたらオモロイな
732 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 16:31:36
じゃあ、気取り絵のD論指導委員会メンバーは
主査 瀬知山角
副査 佐藤俊樹
上野千鶴子(人文社会系研究科)
小熊英二(慶應義塾大学総合政策学部)
内藤朝雄(明治大学)
って感じか?でも、他研究科、他大の審査員は合計2名までに
なっていたような気がしたけど。
でもこの人、もう今の思想では不登校研究できんやろ。
理論研究に徹するのならともかく、フィールド調査はむりやろうな。
研究テーマを、思いっきり不登校から別のものに変えるしかないな。
まあ、その辺は、オグマなり、他の教官らが、手取り足取りやってくれ
るんだろうけど
733 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 19:16:56
734 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 19:18:23
735 :
名無しさん@社会人:2005/05/29(日) 19:31:29
D論出せるの?
修論を出版してそれがこうしてトンデモ本認定されて、一番恥をかいたのは
いい加減な指導ぶりがあからさまになった大学の研究科と修論の指導教員だ
ろうに。
>>714 > その意味でこの本が論拠にしようとしている「当事者」像と著者とは社会的に言って対極にいるわけだが。
既成の制度化された学校化社会に既得権益をもつ著書に対し、そのインタヴューの対象になっている
著者のいう「当事者」像は、学校化社会の既得権益から最も外れた存在ということになるわけですね。
つまり、不登校経験者という同じ当事者のなかでも前者と後者は違う。その点が強調される。
前者はいわば既成の学校制度にもっとも再順応したタイプで、その意味では不登校経験者のなか
でも学校順応者にもっとも近い当事者像をあらわしているんですよね。
貴戸氏の観点は、貴戸氏自身が前者の当事者像に合致するために、後者を臨床対象にしながら、
後者に対する眼差しとか、そこでの問題設定からしてすでに、前者の価値基準から後者を裁断する
という解釈図式に全面的に依拠しがちであることは否めないし、実際そうなっている。
結果的にそれが、旧文部省をはじめ、従来から存在した不登校病理観が担ってきた言説空間のそれ
に必然的に円環してくる傾向もなんら不思議ではなく、要するにその最新版でしかないんですよね。
ですから貴戸氏の観点からは後者は不登校の負の面として排除されつつ再病理化されることになる。
実はこれは稲村博氏がかつて「暗い登校拒否」という言葉を用いたときの言説のスタンスとまったく同じ
ものなんですよね。
貴戸氏を支持する人たちの言論のなかには稲村氏支持の考えが垣間見えますけれど、これは決して
偶然ではなく、実はそれらは地続きに綿々と繋がっている言説線なわけです。
ここで注意しておかなければならないのは、一見、この人たちは上記にいう後者の不登校当事者の
代弁者であるかのごとく主張していますけれども、当事者という観点からみれば、どうやらその中心に
いて発言しているのは前者であるということです。それがまず一点。
それから、その後者の立場にある不登校当事者のことを一見肯定するかのような物言いをしつつも、
よく読むとどうもそうじゃないと思われるところが引っかかります。これらの事情をあまり知らない第三者
が貴戸氏の本だけを頼りに読んだらだまされてしまいます。
737 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 02:49:14
>727
同意
きどちゃんは茶髪であることからも分かるように、一見、黒髪という保守的価値観とは異なるリベラルな価値観を持った人間であるかの如く、見えるが、ただの今の日本女の流行でしてるだけのお花畑で、本質的には、本に書いてあるようなナチス的思想の持ち主なんだよね
739 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 02:56:17
内藤氏はニートバッシング批判は目を見張るものがあった
ただ、気になるのは弱肉強食の市場経済を無批判に肯定してる点だな
740 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 02:56:53
>>735 確かに、相関の指導教員は総じて指導がいい加減だからな。
そのくせ、ヘンなケチばかりいっちょ前につけてくる傾向。
741 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 03:00:01
いちゃもんと指導は別だよな
日勤教育みたいなもんだろ
742 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 03:06:09
743 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 03:09:45
>>743 738と739とを同一視すんなよ。739は738が書いたものじゃないぞ。
>>739 弱肉強食の市場経済(学歴市場もふくめ)を無批判に(或いは結論的に)肯定して
いるのは実は貴戸の側。
>>742 同意。
その点はシューレも同じです。不登校によって被る差別(不利益)を社会的に問題にし、
批判してきたのは彼らだったのではないでしょうか。
ただ、貴戸や苅谷や田中といった類の社会学者に見られるレトリックはもう少し巧妙で・・・
>>745 貴戸はその問題を当事者の側の選択(自己決定)の問題(責任)に
押し付ける、従来の不登校悪玉論がとってきたのと同じレトリックを使う。
750 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 07:52:35
まぁ、いずれにしてもキドは駄目なんだよな
学問的にもジャーナリスティックな意味でも駄目なものが
ゲーム脳のように流布されて広まっていくことがあるからね。
稲村の本もデータの誤用とか用語の濫用とかいろいろ指摘されて
いたんだけど、世間的には流布していたから。
752 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 12:54:40
稲村非難スレでもつくったら?
貴戸は悪くないとおもうけど、稲村は悪いと思うよ。
明らかにまっ黒な稲村ではなくて、近親憎悪と妬みで「ちょっとシニカルにひねった」だけの貴戸に集中するのが、
こいつらのダメなところだ。
日本の社会運動って、いつもこうなるから最低だよ。
愚民ども、矛先は稲村に向けろ。
そして、おおいに反省しろ。
753 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 13:00:48
あと、齋藤環氏がかつての師と同じ見解であるとはかぎらない。
ああいう世界は、面従腹背が普通だから。
師がひどいから斎藤氏もひどいというのではなく、斎藤氏には、稲村氏についての見解を質問するのがいいと思う。
フォンテで斎藤氏にインタビューしたらどうだろう。
ひょっとして、今なら医者の世界のしがらみから自由に、師に離反する爆弾発言をしてくれるかもしれないよ。
たしかに稲村はめちゃくちゃやっておった。生きている人たちにも、過去の発言に対する謝罪を求めてもいい。
>>752-753 ハァ〜、まだなにも知らないでこんなこと言っている人がいる。
稲村の本を読んで言っているのかな?
755 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 13:31:32
756 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 17:23:15
宮台・内藤らがアングロサクソン有利のネオコンに批判的かどうかはわからない。
どうせ批判するなら今から10〜15年前から批判してなきゃニセモノだとも思う。
貴戸がリベラルとネオリベの区別のあいまいなヤシだということは
著書を見るに確かだと思う。
いまどき茶髪はアメリカナイゼーションの象徴。みどりの黒髪こそ
なんでもアメリカ流の“単一の世界”への抵抗勢力。アジア主義の主張。
ただし、日常的なミクロの領域においては、上の世代の保守を中心にして
いまだに茶髪への道徳的取締りが観察される。そのへんはよじれている。
ただし、貴戸の髪の色がなんであれ、彼女の言論が差別的な偏見の再生産である
ことに変わりはない。抗議をしたシューレは、妥当な行動をとったと言える。
757 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 17:27:07
ヒント:改行位置
758 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 17:46:45
>内藤は10代のころにすごい反抗をしてるぞ
あの〜、ここは貴戸理恵のスレですよ。
内藤の抵抗も、すでに上の世代のものとなりつつあります。
彼(ら)の唱えるアメリカを中心とするアンヅロサクソン文化の移入を
若い世代は享受しつつも疑問や反感や違和感を持っているのではないでしょうか?
伝統文化・芸能の見直しも、アメリカ主導のグローバリゼーションと距離をとる行為と解釈することもできます。
彼の東郷型ファシズムへの批判は充実したものであり、目を見張ります。
ただし、いまどきの一桁・十代・二十代くらいの人たちのかかえる最重要課題とは
むはや無関係になりつつあるのではないかと考えるものです。
むしろ、日本においては、経済的には個人主義、文化的には集団主義がキツすぎて、
両方の世界のバランスをとるのが大変なのではないでしょうか?
たとえば会社からリストラされるときには個人主義。
しかし、会社では買い物も趣味のサークルも旅行や引越しや冠婚葬祭も
すべて会社ぐるみ・会社がらみ。だからクビになると日常生活にも事欠き
アイデンティティや居場所がない。といったように。
いまどきネオコン反対を唱えても、日常生活感覚からして十数年遅いです。
それでもやらないよりはマシなのかな。
about-hって気取絵?
761 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 19:41:15
諧謔であれば何を書いても許されるのか?
「シニカルという複雑な感情表現を理解・使用できるのは自分(たち)だけ」
といった偏狭なエリ−ト意識のなせるワザだろ?
それが常識的に見て失礼であること、人を傷つけつらい思いをさせる可能性については無頓着だな。
それじゃ言論の自由ではなく言論の放縦だ。自由には責任もともなうよ。そんなことも考えないなんて程度が低すぎる。
ちゃんとした人は相手にしないよ。
だって、それがきっかけて自殺とか心中とかする不登校の本人や家族がいたらどうするんだ?
ところで常野って昔の全共闘みたいなサヨクの隠語が好きなようだね。いかにも時代錯誤で幼稚で思考停止っぽい。
政治セクトのメンバ−みたいで印象悪いよ。
762 :
名無しさん@社会人:2005/05/30(月) 19:54:33
>学歴・学校化否定が逆プライドになっている(だからこそ「選択」の物語にすがりつかずを
>得ない)不登校のエリート
ヘンな話だね。自分と周囲がプライド病の患者ばかりだからといって、他のグル−プにまで
それを適応・投影するミスを犯したね。
むしろ不登校の子は自己否定・自己嫌悪がキツくて自信・プライドがなさすぎるのが問題だと
奥地圭子・渡辺位・内田良子などが繰り返し唱えてきた。それに対する「当事者」側からのイエスという発言もあった。
貴戸は先入見が強すぎて素直に現実を観察・表現できていないのでは?
(ま、これも斉藤環の亜流といえばそれまでですが。)
>>762 > むしろ不登校の子は自己否定・自己嫌悪がキツくて自信・プライドがなさすぎるのが問題だと
> 奥地圭子・渡辺位・内田良子などが繰り返し唱えてきた。それに対する「当事者」側からのイエスという発言もあった。
異論というわけでは全くありませんが、その点について若干補足しておくと、不登校の子またはその家族が
際限のない自己否定・自己嫌悪に苦しまなければならない、或いはそうしなければ許されない(自己肯定
したら叩かれる)ような状況があって、それらをも全部ひっくるめて、この問題を深刻に受け止めなければ
ならないのではないか、という問題意識ですね。