民主主義の現在・過去・未来を考えるpart2

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493476:04/11/18 23:12:11 ID:0oEcuw5I
>>491
>行為ではなく言葉の意味にお互いの了解があればそれでいい。

 逆なのではないか?片方が勝手にオナニーとか子供を作る意志がないとか
思ってるわけで、お互いの了承のない単なる行為に過ぎないとおもう。
494476:04/11/19 01:15:09 ID:4siH5sRr
>>478
>疑う事は出来ても証明する事は出来ないと言う事。

 証明できもしないのに疑ってるわけだ。その疑いの根拠はどこにあるんだ?
 リックがれを健常者と見ていない(疑ってる)ことにクオリアはどこにあるんだ?

 よみかえしたら>>467でリックは「れが健常者であるかどうかは俺が決めることでも決められることでもない。 」をクオリアの成立しない「そこに」と
みて反論しているよーだ。が、俺は「ック・ドキュソはれを健常者と見ていない。」ことに突っ込みを入れてるわけで、そのことが察せられれば成立しない「そこ
に」はどれをさすのか解るだろ。

 りっくは議論ができない。頭は悪くないがゆえに脳内のお花畑ができてしまった典型だなw このままじゃりっくもやがてれの二の轍を踏むぞ。思想の
違いこそあれ、視野が狭いのは一緒だからな。

>>359
 ここで既に一つ世界統一の真理があると言える。

 りっく派よ。ついでにこのカルトの宣伝文句がクオリアであるということを証明してくれw
495右や左の名無し様:04/11/19 08:23:23 ID:???
セックスとはこの場合「性交」を意味する。
それ以上叉はそれ以下の意味付けをするのは心理システム。
現実に性交してはいないのに他人に対してあれはセックスだったから責任を取れとか
実際に性交したのにあれはオナニーだから俺には責任は無いとか言い出すのは
人格傷害の疑いがある。

>>494
破たんしていて読めない。
496右や左の名無し様:04/11/19 17:06:20 ID:???
流石にれも書き込まないな。
お勉強しているのか逃げたのか。
お勉強しているなら結構面白いコテハンになると思う。
497れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/19 17:17:21 ID:???
>>496
何を書き込ませたいか知らないけれども、書かなければならんような
レスはないわけだし、いつまで続けてもおんなじでしょ。
498右や左の名無し様:04/11/19 18:31:05 ID:???
>>489
>行為というものの意味付けは、人間観にかかわることで、人間観が異なればその意味の
>間主観的了解は無意味なのではありませんか?と言っているのですが・・・。

■目の前で行われている野球のゲームを考えてみます。社会システム理論は、
これを内部的作動により境界の維持(自己維持という)を行うシステムとして記述します。
一見、行為を要素とする関係が、複雑性の低い状態を自己維持する態様を記述すれば足りそうです。
■ところが、行為がその行為である、行為と行為の関係がその関係である、といった要素や関係の同一性は、
物理的な記述によっては与えられません。物理的なシステムにはあり得ないことです。
例えば火星人が地球に降り立って野球を観察する場合を想定してみます。
■火星人には個体の物理的な行動や個体間の行動連鎖が見えます。
ある個体から球体が投げ出され、別の個体が棒状の物体で打ち返し、右方向に走り出す。
こういう記述を幾ら積み重ねても眼前の野球の記述になりません。火星人が行動の「意味」を知らないからです。
■すなわち社会システムの要素や関係の同一性は、物理的ではなく意味的なものです。
だから社会システムの秩序──確率論的なありそうもなさ──とは、「有意味な行為の間の有意味な関係」が本来ありうるよりも
ずっと少ない場合の数しか取らないということです。
■火星人が眼前の野球ゲームを記述できるようになるには、時間がかかります。
火星人は、言語の習得と似たプロセスを辿りつつ、行為の意味や、行為と行為の関係の意味を掴めるようになります。
かくしてようやく社会システムとしての野球ゲームの記述に至るのです。
■社会システム理論では、同一性が物理的に観察されるものを行動、同一性が意味的に記述されるものを行為と呼びます。
社会システムの要素は行動でなく行為です。行為の意味的同一性は、野球なら野球のゲームを、
内側から生き得る内的視点に対して与えられます。
■すなわち火星人が眼前の野球ゲームを記述できるようになるとは、プレイヤーが何をしているかが分かるようになることであり、
プレイヤーの視点を取れるようになることです。
野球を例にしましたが、家族を、企業を、教団を、記述できるようになる場合も同じです。
ということかな?

499れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/19 19:19:49 ID:???
な?>>496君。>>498のように無意味な記述を書いてくるだろ?

社会システムの要素と言うのは行動ではなく行為だといっているわけだね。
で「行為の意味的同一性は、野球なら野球のゲームを、 内側から生き得る内的視点に対して
与えられます。」と「行為の意味的同一性」というものを想定しているわけだよね。

そうすると「野球ゲーム」のように明確な目的があれば(とはいってもヤキューとベース
ボールは違うとガイジンは言っているわけだけれど)ともあれ、社会と言うものを観察するとき
その行為の意味と言うものは「ヒトはこういう目的で行動する」という前提に基づいて
推測されるに過ぎないわけでしょ?つまり「人間観」というものが介在しているわけですよ。
で、その人間観が異なるなら「意味的同一性」の「同一である」という合意が、成り立たないと
言うか、崩れるでしょ?と言っている私に、
>ということかな?
と書いているところが痛々しいわけで、レスなんぞする気が失せるわけですわ。

 
500右や左の名無し様:04/11/19 20:46:27 ID:???
>>499
■均衡システム概念を採用していた70年代まで、社会システムの要素は行為だとされました。
ところが定常システム概念を採用するようになるにつれて、社会システムの要素はコミュニケーションだ、
社会システムはコミュニケーションから成り立つと言われ始めます。
■誤解されがちですが、こういう意味です。行為は別の行為との意味的な関係でしか意味を持ちません。
投球という行為は、打撃という行為を後続させうる限りにおいてのみ投球です。逆に打撃という行為は、
投球という行為を先行させうる限りにおいてのみ打撃です。
■社会システム理論に限らず、システム理論では、選択と選択との時間的な接続をコミュニケーションと言います。
人文諸科学でコミュニケーションというと、メディアで繋がれた送信機と受信機を挟む二人の間でメッセージが伝わることを言いますが、
違う概念です。
■システム理論のコミュニケーション概念を使えば、行為は必ずコミュニケーション(選択接続)において
意味を与えられるということになります。ロビンソン・クルーソーのように一人ぼっちの離れ小島で摂る食事はどうか。
結論的にはやはり同じことになります。
■ハイデガーの用在性の概念がヒントになります。バットがバットという用在(道具)なのは打撃行為を潜在させるからです。
同じく一人摂る食事が食事なのも「食休みしてから運動しろ」といった忠告などを(本国に帰れば)後続させる可能性を潜在させるからです。
■社会システムの要素たる全行為は、潜在的な(先行的・後続的)選択接続の可能性の束によって有意味性を与えられます。
社会システムがコミュニケーションから成り立つとは、選択接続の潜在的可能性によって同一性を与えられる行為を要素とするという意味です。

【意味の機能とは何か】
■これを踏まえて「意味とは何か」を機能的に記述します。第一に、意味は「示差的」です。
それゆえに第二に、意味は「二重の選択性」を与えます。それゆえに第三に、意味は「否定性」を帯びます。
それゆえに第四に、意味は「選び直し」を可能にします。
501476:04/11/19 21:52:37 ID:SbH3gqBd
>>495
>現実に性交してはいないのに他人に対してあれはセックスだったから責任を取れとか
>実際に性交したのにあれはオナニーだから俺には責任は無いとか言い出すのは
>人格傷害の疑いがある。

 性交したことが証明されたら責任は問われるし、したことが証明されなければ責任は問われない。行為そのものの責任であって「性交」と言う言葉の意味
の了解(性交のないセックスはセックスか、オナニーはセックスか)の上で発生する責任じゃないだろ。。。
 逆に言えば、証明できるものは純然たる行為のみであり、それ以上のお互いの了解は証明できない。
 その「それ以上の了解」についておまいは証明できないのにそれをして「人格障害」と言い切っている。なぜならそこにはクオリアが成立するからだという。
 俺は証明できないのからそこにはクオリアは成立してないと言ってる。成立してるのなら証明してみろよと。証明できないのに疑うことにクオリアは成立するのか?

 >>498「行動」と「行為」の違いではない。
 しかも野球と言う最初からルールが成立してる球遊び(クオリアの成立が前提)から行為の意味を導きだしてるところが痛い。究極的にはルールを知らない火星人が行動としてしか理解できなかったように、行為というものもクオリアが成立してないと証明できない。
502なごみ ◆WkIINgKQD6 :04/11/19 22:41:03 ID:???
れたそ

 ちょっと野暮用があって暫く見てなかったが、>>416の結果は残念だな。最初はいい感じだったのにね。
 ざっとしか見てないが(長いよ)、れたその日本人観以外は概ね同意だよ。
503右や左の名無し様:04/11/19 22:44:43 ID:???
>>501
>性交したことが証明されたら責任は問われるし、したことが証明されなければ責任は問われない。
それなのに 現実に性交してはいないのに他人に対してあれはセックスだったから責任を取れとか
実際に性交したのにあれはオナニーだから俺には責任は無いとか言い出すのは人格傷害の疑いがあると言う事。

>その「それ以上の了解」についておまいは証明できないのにそれをして「人格障害」と言い切っている。
誰も言い切っていない。疑いが有ると言っているだけ。
疑う事は出来てもクオリア(主観的体験が伴う質感)は証明出来ない。
証明できるものは純然たる行為のみであり、それ以上のお互いの了解は証明できない。
また、何故疑いを持ったかもクオリア(主観的体験が伴う質感)なんで証明出来ない。

っていうかクオリアの意味を逆に捕らえているだろ(w
お勉強しようね(w
ttp://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html

後、携帯電話で書き込むのは良いけどちゃんと改行しようね。
504Santi ◆R3KhrW2i86 :04/11/19 23:52:24 ID:???
なごみタンは海外出張にでも行っていたのかな?
505476:04/11/20 00:36:28 ID:???
>>503
>人格傷害の疑いがあると言う事。

 人格障害にしろその疑いにしろ、「赤」と同様に質感として皆が同じものとして認識できているのかということ。赤は光学的には定義がある。そこから共
通の質感が導きだせる。しかし、人格障害には科学的な定義付けがどれほどのものでしかもそこからどれほどの共通の質感が導きだせるのか?
 「赤」には「これ」といった質感があるが、人格障害にはそれがない。質感がないものにクオリアがあるのかということ。

>何故疑いを持ったかもクオリア(主観的体験が伴う質感)なんで証明出来ない。

 クオリアを証明しろと言ってない。人格障害がクオリアとして成立してるかということ。
506476:04/11/20 00:47:45 ID:???
>疑う事は出来てもクオリア(主観的体験が伴う質感)は証明出来ない。

 だからなぜ疑うことができるんだ?お舞いの勝手な妄想か?

>証明できるものは純然たる行為のみであり、それ以上のお互いの了解は証明できない。

 だったらなおのこと「現実に性交してはいないのに他人に対してあれはセックスだったから責任を取れ」とか「実際に性交したのにあれはオナニーだから
俺には責任は無い」とか言う人の人格についてはとやかくいえまい。人格は行為ではない。
507右や左の名無し様:04/11/20 01:00:10 ID:???
>>505
>は光学的には定義がある。そこから共通の質感が導きだせる。

人がその対象を見るとき、自己の肉体を媒介としてしかその対象を捉えることが出来ないからそれは無い。
極端に言えば、私が赤と認識している色が他人にとって同じように見えているとは限らない。
色盲の人間には緑色や灰色に見えているし個人個人で彩度や明度等質感は異なる。
ただ単に同じ対象に対して、赤という言語上の記号を与えているに過ぎないと考えることが出来る訳。

リンク先をちゃんとカラーの画面で見たかな?
ttp://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html

>>502
それって >>406とか>>454とか>>456>>483でひっくり返されている。

>>499
> で、その人間観が異なるなら「意味的同一性」の「同一である」という合意が、成り立たないと
>言うか、崩れるでしょ?と言っている私に
■例えばカメレオンの皮膚は、置かれた環境次第で色が変わる。しがし、色が変わりやす
いという性質自体は変わらない。同じく尻軽女は、絶えず男を取り替える。しかし、男が
変わりやすいという性質自体は変わらない。つまり変わりやすさが変わらないということ。
■生物の構造という場合、骨格や臓器配置などの比較的変わりにくいものを指すのですが、
「それに比べるとカメレオンの皮膚の色は変わりやすい」などと素朴に言うのは明らかに
ミスリーディング。そこで、構造とは関数のことだという理解が拡がっていったわけです。
■諸変数の値は変わっても(1)諸変数の変域や(2)諸変数の間の関係は変わらない。カメレオ
ンの色が変わっても(1)変わり方の幅や(2)どんな時にどう変わるかは変わらない。これを構
造と呼ぶ。骨格も内臓配置も結局は、要素の絶対位置でなく位置関係を構造と呼ぶのだと。
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=38&catid=7
個人個人の人間観が違っても人間としての構造は変わっていないんで「同一である」という合意が成り立つ。
508れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/20 09:36:47 ID:???
>>502
日本人観なんか書いたかなぁ?
おかえり。サンチャンがさびしそうで哀れだから、お相手をしてやってくれ。
509右や左の名無し様:04/11/20 10:34:13 ID:u62MpTyh
>>508
>日本人観なんか書いたかなぁ?
なごみから見れば日本人観かもよ(w

人間としての構造が
>「ヒトはこういう目的で行動する」という前提に基づいて
>推測されるに過ぎないわけでしょ?つまり「人間観」というものが介在しているわけですよ。
と同列の視点でしょ。

目的は違ってもそこに同じ構造が見えてくる。
行為の意味と言うものが相互において了解されている必要が有る領域を外から見ると
社会システムの要素たる全行為は、潜在的な(先行的・後続的)選択接続の可能性の束によって有意味性を与えられているという構造が見える。
「ヒトはこういう目的で行動する」という前提に基づいて推測される訳では無く
「目的を人が持つのはこういう構造である」ということを「人々の多種多様な目的に基づいた行動」を前提に
統計学的な視点で論理的に推測する訳であり個人の「人間観」というものが介在する事は許されない。
510れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/20 11:44:09 ID:???
>>509
個人の人間観が介在する余地が有るなんて議論をしていないんだけど・・・。
と言うかその程度の読解力しかないようなので・・・。

ついでに>>507の色盲のヒトの知覚の認識は間違っているから調べなさい。
>色盲の人間には緑色や灰色に見えているし
と言う断定は間違いと言うか、誤解だよ。一般的な症状としては「赤」に対する
知覚が弱いから「緑の中の赤」を判別しにくいわけで「緑に見えている」わけで
はない。
511右や左の名無し様:04/11/20 12:15:09 ID:u62MpTyh
>>510
>個人の人間観が介在する余地が有るなんて議論をしていないんだけど・・・。

>>499
>で、その人間観が異なるなら「意味的同一性」の「同一である」という合意が、成り立たないと
>言うか、崩れるでしょ?と言っている私に、
と言っているが?

>社会システムも人格システムも、行為を要素として成立させようとしているですよね。
これは行為の同一性から人格システムが同一で普遍的であると言う事が導きだされる。
>>486
>その普遍的要素がどのようにして創出されたかと言うことを提示しなければ普遍性は検証できないでしょ?
とは逆。
その普遍性を支える有機体論的な枠組である定常システムが存在し
さらにその上に別のシステムが存在する。
もちろん上位のシステムが崩壊すれば下位のシステムの普遍性も失われる。

システムの定常性とは、無限波及的均衡に達すれば得られるものではなく、複雑性の内外落差を維持するという永続的な課題に答えるべく
内部的作動を永続させる、あるいは内部的作動を永続させるべく複雑性の内外落差を永続させるという、
ありそうもない動的メカニズムの中で、辛うじて浮かび上がってくるものだということなのです。
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=47&catid=7

>「赤」に対する知覚が弱いから「緑の中の赤」を判別しにくいわけで
それは色弱。
赤緑色盲とは違う。
512右や左の名無し様:04/11/20 12:28:21 ID:u62MpTyh
あれ?
赤緑色盲と色弱は同じなのか?
私は目を擦ると茶パツの人が緑色の髪の毛に見える時がある。
513れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/20 12:57:20 ID:???
>>511
ある社会学論内部においての疑義と、その社会学における論を構築する前提への疑義
の区別がつかないの?

で、視覚障害に関しては多少デリケートであるから、どうしてもその例示でなければ
説明が困難な場合以外、避けるのが賢明だろう。
514右や左の名無し様:04/11/20 15:06:15 ID:u62MpTyh
>>513
社会学の場合、社会関係がもたらす社会的属性、あるいは社会的属性がもたらす社会関係に
全てを還元する科学だから論を構築する前提である「人間観」が異なれば
「意味的同一性」の「同一である」という合意が、成り立たないと言う事かな?

社会システム理論の場合「人間観」自体が有りそうも無い状態である事を示すのが基本スタンスで
社会学とは違う物ですよ。
全体は部分の総和をこえるとする思想はアリストテレスに遡り
システムが内側から世界を体験するという思想はドイツの動物学者ユクスキュルに遡り
均衡システムの状態を連立微分方程式の解として記述する思考はニュートン力学に遡り
エネルギーや物質の流れの中に生じる定常性(を維持する定常システム)という思考は1950年代以降の生物学に遡り
目に見えない物が見える物を規定するという潜在性の思考はフロイトに遡り
ロボットと違って全体が死滅すると部品も死滅するオートポエイシス的システムについての思考は70年代以降の生物学に由来する様に
社会学の外側に多くの源泉を持ち社会学論内部に修まる物では無いです。
515れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/20 16:34:57 ID:???
>>514
えー「一般理論」の適用範囲は、どこまでですか?と聞いているわけで
べつに、システム論なり社会学が無効だと言っているわけではない。

何処の社会にも秩序があり、と言うことは「観察されるべき意味をもった行為」が
統計的に可能な程度の要素に分類される同一性をもって存在はしているでしょう。
516右や左の名無し様:04/11/20 20:38:55 ID:u62MpTyh
>>515
>>486
>観察可能な・・・と言う場合、一体誰がどのような視座で・・・と言っているわけだよ。
は?

>そういう疑義・懐疑と言うものを私は述べている。西欧のそういう分類や要素提示や創
>出は、西欧の人間観に基づいて行われているわけで、其れを検証しないまま普遍という
>とき、多分間違うと思うよ。
これもどう言う事?

>>489
>その行為を要素に分類しながら観察することで、その行為の意味として同一であろうという

>>499
>で、その人間観が異なるなら「意味的同一性」の「同一である」という合意が、成り立たないと
>言うか、崩れるでしょ?と言っている私に

それらに対する否定として
基本的に社会システム理論は地域に根付いた人間観に基づいたものでは無いと言う事を>>514で説明したわけです。
たまたま両者がどこかで偶発的に同じシステムの中に入った為に意味は噛み合っていなくても
行為は噛み合っている為に同一に見えるだけと言う事まで言及するのが社会システム理論です。
社会学の場合西欧の人間観に基づいて発達してきているので決して普遍的と言えない部分が有ります。

だから
>えー「一般理論」の適用範囲は、どこまでですか?
社会システム理論は「一般理論」の適用範囲以下でも以上でも無いです
517れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/20 20:59:26 ID:???
>>516
いや、だからさー、これで最後にするけど
>>514で示したそれが、なぜ普遍的であると確信できるのかと
聞いているわけで・・・。

というか、何階言っても理解できないぐらいに、あなたは「確信に満ち
ている」わけだが、其の自覚もないの?
518右や左の名無し様:04/11/20 21:30:45 ID:u62MpTyh
リックはアノミーを「無規範・無連帯」と訳していた所に問題があるような。

■デュルケームは、自殺の原因は一般的にアノミーすなわち「どうしていいか分からない
状態」に由来すると見なしたが、「金持ちが急に貧乏人になるケース」と「貧乏人が急に
金持ちになるケース」とでは、直面するアノミーの種類が違うと考えた。
■五十年後、社会学者ロバート・K・マートンが、前者を「機会のアノミー」、後者を「目
標のアノミー」と名づけた。機会のアノミーは「手段のアノミー」とも言うが、金持ちが
急に貧乏人になると、今まであった機会(手段)が失われ、追い込まれることに相当する。
■目標のアノミーは「目的のアノミー」とも言うが、こういうことだ。貧乏人はいつも金
持ちになりたいと思い、何か問題があると自分が貧乏だからだと考える癖がある。それが
急に金持ちになると、目標が失われ、問題の帰属先も失われて、追い込まれてしまう──。
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=50

基本的に人は本人に自覚が有ろうと無かろうとアノミー(どうしていいか分からない状態)
により重力に引き付けられるように人間の本能の側面側へ追い込まれる。
リビドーとは生への本能(性の本能)であり、結びつける力を意味し、何かをしようとする力となる。
デストルドーとは、無への本能(死への本能)であり、破壊する力で規範も連帯も破壊する。

リビドーとデストルドーが均衡を保っている常態が生き物にとって自然常態とすれば
この均衡常態がアノミー(どうしていいか分からない状態)によってリビドーの何かをしようとする力が消滅し
デストルドー側に傾いて行くのを止められない事によって規範も連隊も破壊して最後には死に至る。
だから間接的にはアノミーは「無規範・無連帯」とも言える。
でもそれは自爆テロを起こす本人がアノミーを引き起こしていても全く「無規範・無連帯」と言う訳では無いと思う。
人間はもう少し複雑に出来ている。
519右や左の名無し様:04/11/20 22:02:53 ID:???
>>517
>>514で示したそれが、なぜ普遍的であると確信できるのかと
誰も膨大な社会システム理論が地域性や人間観が影響する事は無いとは言ったが普遍的であると確信しているなんて言って無いが・・・・・
そうであるなら議論しようとする意志さえ浮かばない。
私が普遍的だと言ったのは人格システム。

■例を挙げると、私たちが日本社会と言うとき、可能な行為(コミュニケーション)総体を、
日本社会に属し得るものと属し得ないものとに差異化します。
私たちが宮台真司と言うときも、可能な行為総体を、宮台真司に属し得るものと属し得ないものとに差異化します。
■この差異化を、認識する私たちが勝手になすものと言うより、日本社会自身が日本社会に属し得る行為とそうでない行為を境界設定し、
宮台真司自身が宮台真司に属し得る行為とそうでない行為を境界設定するが故のものと見做すとき、システム概念が適用されます。
■宮台という人格(パーソナリティないしキャラクター)が宮台に属しうる行為の総体だとして、行為がそこに属しうるか否かを
(他者や自身が)境界設定する場合にエンパセティカル(同感的)に想定されるのが、「心」、すなわち、心理システムという実体です。
■社会学者の中にも人格システムと心理システムを混同する向きが多いのですが、人格システムは社会システムと同じく、
行為という観察可能な要素からなる可能的な纏まりですが、心理システムつまり「心」には観察可能な要素が皆無で、完全に想像的なものです。
■内側からそこに属するか否かを境界設定する働きを示すのがシステムです。
私たちが日本社会と言うときにそういう働きが想定されているので、社会システム概念が適用されます。
宮台真司と言うときも同じ働きが想定されるので、人格システム概念が適用されます。
520右や左の名無し様:04/11/20 22:13:17 ID:???
■その意味で人格概念(ないし人格システム概念の適用対象の存在)は普遍的ですが、
しかし「心」の概念(ないし心理システム概念の適用対象の存在)は普遍的ではありません。
コミュニケーションの中で「心」なるものが一切主題化されない社会があり得るわけです。
■例えば臨床心理学や精神医学が取り扱う「心」という概念はさして自明ではありません。
部族共同体からなる原初的社会では、一つのものを誰もが同じように体験し、同じように体験するがゆえに同じように行為する、
という慣れ親しみ的な信頼(第11回)があります。
■そうした社会では、たまに予想外の振舞いをする輩が現れると、狐が憑いた・神が降りた等と理解され、儀式的な共同行為を行って、
俗なる時空から聖なる時空へと切り離す形で無害化します。そうした社会には人それぞれに「心」があるという観念はあり得ません。
■ところが社会が複雑になると、コミュニケーションの相手が予想外の振舞いをしがちになります。
期待外れの頻度が高まると、一方で「宗教からの法の分出」が起こり(「法とは何か」で詳述)、
他方で「人それぞれに違った心がある」という帰属処理が始まります。
■かくして「心」という概念が生まれます。社会の複雑化がさらに進むと、
コミュニケーションは一層不透明になって期待外れの頻度が上昇し、他人ばかりか自分の行動も自分自身の期待から外れがちになります。
こうした段階で歴史的に誕生するのが「個人性」です。

ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=128&catid=7

だんだん民主主義の話に戻ってきた(w
521右や左の名無し様:04/11/20 23:09:08 ID:u62MpTyh
>>519
>誰も膨大な社会システム理論が地域性や人間観が影響する事は無いとは言ったが普遍的であると確信しているなんて言って無いが・・・・・
しまった
一瞬不変と不変を混同してしまった。
社会システム理論に修まらない地域性や人間観の文脈があれば普遍性は疑われる訳だけどそうではない。
またその他の科学的理論に社会システム理論を覆す物が有れば普遍性は否定される訳だけれども
基本的に人類学、宗教学、民俗学、心理学、精神医学、社会学、物理学、哲学、科学哲学、物理学、工学、
といった実験や調査、計算、統計をくり返してきたいろいろな科学が隣接する学問と交流する中の一つのグループとして
社会システム理論が出てきた訳でそれをひっくり返す様な物が出てこない限り消極的に普遍的だと言える。
522Santi ◆R3KhrW2i86 :04/11/20 23:25:16 ID:???
>>508
その心配には及ばないよ。
れ氏との不毛な議論をしなくてよくなって、せいせいしているぐらいだから。
それに私生活でも最近は結構忙しいし。
また、他の板でもナナシの身分で遊んでいるから。
523右や左の名無し様:04/11/21 05:43:17 ID:???
年間5回程の重要政治議案の国民参加制度を
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1099084593/l50

代議制を残しつつ主権在民を考えている制度。
もしこのスレと趣旨が違っていたらごめんなさい。
524れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/21 09:42:23 ID:???
しかし「一般理論」という言葉の概念からすると
「あるサンプルから統計的に検証される事象」は「何かを一般化できる」という
前提があるわけだよね。だから「学問」であり「理論」であるんだろ?
525なごみ ◆WkIINgKQD6 :04/11/21 17:25:19 ID:???
れたそ
>>508
>日本人観なんか書いたかなぁ?

 >>332。日本人には特有の価値観があると言うのには同意だが、それが「和の思想」であると言うのには同意しない。
 まだりっくたそ?とやり合ってるみたいなので、最後までおながいね。俺は諦めた。

>サンチャンがさびしそうで哀れだから、お相手をしてやってくれ。

 何から再開したらよいのだろ。
526れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/21 18:33:08 ID:???
>>525
あぁ、そこのこと?どうも妥当な表現ではなく誤解を生むなぁ、そりは。
修正しておくよ。

日本人の根本的人間観が和の思想「を示した17条憲法の第十条の」それで
あったからである。人間は皆凡夫で あり、それゆえ誰も自己の正義や価値観
を他人に押し付ける権利をもたない、
また他人の意見が自分と違うからといってそれを排斥してはならない、むしろ、
皆和して衆議によって得られる理によって共同体を運営せよ、というあの十七
条憲法の和の思想「の根拠となった17条憲法の第十条の示す」日本人の根本
的人間観・社会観であったからである。

「人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われ非とす。
われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。
是非の理、たれかよく定むべけんや。
あいともに賢遇なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきごとし。」(10条より)
つまり、誰も特別な存在ではないとしたわけだな。

で、しかしながら「特別な存在と見えるものは現実社会で稀に発生はする」わけで
其れを神とし、あるいはダークサイドを怨霊として御霊化する神道が其れを補完し
「ヒトは皆特別な存在ではない」ということを維持すると言う関係になっていると
私は思っている。ここに天皇の霊的権威と価値観の象徴・・・と続くとすれ違いで
ある。

サンチャンについては、とりあえず、
http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1100709075/l50 な状況であるから、
ヨロピク。
527右や左の名無し様:04/11/21 21:24:57 ID:???
将門を首都の鎮守とする神道の心を支那がわかったなら
九段の廟への閣僚公式参拝に異議など唱えられないわな

靖国の森の近くにもビルの谷間に将門を祀る築土神社が
528476:04/11/21 22:54:43 ID:???
>>507
>人がその対象を見るとき、自己の肉体を媒介としてしかその対象を捉えることが出来ないからそれは無い。

 光学的には、空間を飛び交う電磁波の波長で色は捉えられる。「赤」は約700nm。測定器でこの波長が出たらそれは「赤」である。
 自己の肉体以外も対象を認識することは可能。

>私が赤と認識している色が他人にとって同じように見えているとは限らない。

 その他人にしても「赤」は「赤」だろ。「赤」と決定するのはおまいの肉体ではない。リックと同じこと言わせるな。
529なごみ ◆WkIINgKQD6 :04/11/21 23:15:47 ID:???
れたそ
>>526
 その「和の思想」自体に同意しかねると言っているんよ。まお主とはいつ
でもやりあえるからねぇ。
 それよりもりっくたそに専念した方がいいよ。彼、重症だわさ。
530476:04/11/21 23:17:57 ID:???
>>507
>色盲の人間には緑色や灰色に見えているし個人個人で彩度や明度等質感は異なる。

 色盲は最初からクオリアが成立してない。彩度や明度は光学的基準。個人個人ではそれらを意識せずそれを当たり前のこととして認識する。「赤」は「赤」。
 自己の肉体以外で捉えることができないと言いながら、個人個人の違いの説明に自己の肉体以外の基準を持ってくるところが痛い。
 そういう説明が不可能と言ってたのはおまいじゃなかったか(プゲラ

>ただ単に同じ対象に対して、赤という言語上の記号を与えているに過ぎないと考えることが出来る訳。

 同じ対象からは同じ質感が生じる。記号を与えてるのはおまいではない。
531右や左の名無し様:04/11/21 23:20:58 ID:???
スレ主の亀タンがどうして出てこないんだ?
532れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/22 10:10:40 ID:???
>>529
保守的な思想のヒトとの議論はやってみたいよね。
輪の思想に同意をする必要性はないんだけれども、仏教思想という別体系の思想を
学んだ時期に、その仏教思想と全く異なる人間観が提示されていると言うことは
つまり「日本独特の価値観」が自覚され、表現されたものだとおもうよ。
したがって日本における伝統的な価値観を形作る人間観は「第十条の其れ」では
ないかと仮定して考えると、神道や日本仏教とつじつまが合うんだよね。

>>531
ヤフーの掲示板は「すれ(トピ)主」という概念があるらしいが、2chでは
スレを立てたヒトが誰であるかは問題にしないらしい。つまり「スレ主」という
概念がない。みんなで使うみんなの自由な掲示板。

>>530
人間の肉体的基準から「普遍性を導き出す」という試みと言うのは、言語とか文化
にかかるそれぞれの特殊性を均そうとすることだと思うのだが、均そうとするこ
と自体が、何らかの誘導を意図していると私は思う。
533右や左の名無し様:04/11/22 12:30:53 ID:ePxq5E5R
>>530
クオリアが成立してもそれを実感出来ないということでしょ。
別に何も否定していないよ。
534右や左の名無し様:04/11/22 13:25:37 ID:ePxq5E5R
>>532
普遍性を導き出せばそうでない部分も明らかになるので
言語や文化にかかわる特殊性も導きだされますが何か?
で国家が共同体ではなく間共同体的な公空間にある
国民とその財産(文化も含む)システムっていうことは解ったよね。
535れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/22 14:45:20 ID:???
>>534
いや、だから、その「導き出されます」という確信の根拠を
散々聞いているんですけど・・・。というか完全に回廊に入っていますよね。
特殊性を考慮されるとき、その特殊性というものは、一体何によって
特殊であると判定され、何によって一般であると判断するんですか?との問い
と考えていただいても結構なんですが。

>システムっていうことは解ったよね。
そう主張されていることは理解しましたが、あなたがそう確信できる根拠は
示されていませんよね。というか国もいろいろだと思いますよ。
なぜ国家が独立を維持しなければならんのかは、その国ごとに動機は違うわけで
動機が違う一体のものが、そういう定義を同一にするという確信は、一体何処から
でてくるんでしょうね。

はっきり言えば「人間と言うものはこういうものだ」という確信から導かれる論理
ジャないでしょうかね。違いますか?
536右や左の名無し様:04/11/22 15:02:08 ID:ePxq5E5R
>>520に書いた。
それと植民地化を避けるために明治維新ご近代化のために
西洋の価値序列を輸入して国民国家化した話はリックがしたが
どうかしたか?
537れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/22 15:17:46 ID:???
>>536
質問の意味がつかめないようなのですが、
>西洋の価値序列を輸入して国民国家化した
と言う話をりっくタンがしたことが、何か関係が有るのでしょうか。
西洋の価値序列を輸入したとたんに「国家とは何か」が決定されるんですか?

まぁその静養の価値序列とはいかなるもので、其れを輸入した証拠は何かを
語っていただければ「輸入なる概念」の正体は分かるでしょうから、それを
お願いできますか?

で、>>520に書いたとおっしゃいますが「慣れ親しんでいるがゆえの信頼」は
日本においてどのような事象で説明できますか?
538右や左の名無し様:04/11/22 15:51:30 ID:ePxq5E5R
国家(ステイツ)というシステムと国民(ネーション)をあわせて国民国家。
これが西洋から輸入された価値序列をだが。
国家(ステイツ)の運営方針である憲法と
国民の共同体(ネーション)を運営する法律
と分化されていることからも客観的にみて同じ物では無い事は解る。
ところで普遍性のみつけかたは理解出来たかな?
539れ ◆r0FmiN9ADk :04/11/22 16:02:37 ID:???
>>538
それって、どこが「序列」なんだ?
で、国民国家という価値を輸入したと言うことは、日本国のどういう事象
をして証明できるわけ?「帝国憲法の発布」かな?
というかレスNoのアンカーさえもない上に「追求されまいがための」
極めて曖昧な抽象だけ書いていたんでは、誰に対するレスかもわからんなぁ。
最終段の質問にも回答はないし。

540右や左の名無し様:04/11/22 16:35:02 ID:ePxq5E5R
序列は間違いでした。
ところで現代の日本の国家が共同体ならその根拠は?
現代の日本の国家が機関でない根拠は?
過去では無くて現代だよ。
541右や左の名無し様:04/11/22 18:03:58 ID:HLFbd+br
ステイトは「機構としての国家」、ネーションは「国民の共同体(生活や文化を含めた相続財産)」です。
近代の国家 は「国民国家」と言って国家が、国民の共同体(生活や文化を含めた相続財産)を
守るために存在しています。
国家の体制、国家のあり方を定めたものが憲法です。
国家権力の在り方、意思決定の為され方、国民に対して行使されうる権力の限界、
国家と国民との関わりについてなどのとりきめです。
これは、わが国はこのように国家を運営するのだという、国全体としての意思表示であり、
このように運営される限り国民は政府の用いる権力を正当なものとして受け入れるという証であり、
このように運営される為に国民は不断の努力によって公権力を維持・制御するという表明です。
542右や左の名無し様

>>537
> で、>>520に書いたとおっしゃいますが「慣れ親しんでいるがゆえの信頼」は
■かくして、単純な社会の「信頼」は、面識圏でのコミュニケーションの履歴が与える「自
明性=慣れ親しみ」を基礎とするのに対し、複雑な社会の「信頼」は、違背可能性を先取
りした「分化した予期構造」を基礎とする、と連載第八回で述べた意味が明確になります。
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=88&catid=7

■生活世界は信頼に満たされています。信頼は根拠のない循環です。自分は刺されないと根拠なく信頼し、知らない人に文句を言う。
偶々刺されなかった「ので」再び刺されないと信頼し、また知らない人に文句を言う。その繰返し。信頼に出発点の合意はありません。
■現に信頼は時折破られます。それを誰もが知っていて、でも信頼する。そこには法的メカニズムも効いています。
もし何かあってもたいていは(!)強大な物理的実力に支えられた法システムを呼び出せると、我々は信頼する。
むろんこれとても確実ではありません。
■問題は、根拠のない信頼が、いつ何どき人が信頼しなくなるかも分からないのに、曲がりなりにも継続するための、絶えざる条件です。
信頼は偶々破られなかったという事実性と共にあります。出発点で譲渡したり合意すれば信頼が担保される…わけがありません。
■信頼が典型ですが、私たちのコミュニケーションは、コミュニケーションの中で確認していないどころか、
そもそも論理的に確認できない前提に支えられています。 この前提が如何に維持されるか。
それが「社会秩序は如何にして可能か」への、今日的な答え方です。
■自然権譲渡や共有価値を持ち出し、出発点で課題を解決する、均衡システム理論的「合意モデル」から、
永続的に解決することのない課題を抱えながら、不確定性の中で辛うじて自己を維持する、
定常システム理論的「信頼モデル」への転換の意味がそこにあります。
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=25&catid=7